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2019年12月30日 (月)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2019年総まとめ

 

いよいよ、2019年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 江戸時代初期に描かれたものの、全容がわからないために「幻」とも呼ばれる「盛安本源氏物語絵巻」のうち、ヒロインの一人である夕顔の死を描いた場面の図が、新たにフランスで見つかりました。
源氏物語絵巻で不幸な場面を描いたものは、極めて珍しいそうです。
  中城城跡14世紀前半に積まれたとみられる新たな城壁が見つかりました。
城壁は19世紀末以降に築かれた城壁の内側に積まれていて、城壁修理のために石積みの解体作業中に発見されました。
先中城按司の時代に築かれたとみられる物で、これまで中城城の築城は14世紀後半とされてきましたが、時期がさかのぼり、城の歴史が書き換わることになります。
2月 奈良市にある奈良大が、所蔵する木造四天王像から「行基大菩薩御作 菅原寺」と墨で記された銘文が見つかったと発表しました。
銘文は江戸時代に書かれた可能性があるものの、奈良時代の僧・行基(ぎょうき)が創建したとされる菅原寺(奈良市、喜光寺)で安置されていたという伝承を裏付ける銘文となります。
  江戸幕府最後の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が書いたとみられる書が、「広辞苑」の編者として知られる言語学者・新村出(しんむらいずる)の旧宅(京都市北区)で見つかりました。
書かれた時期は不明ですが、専門家は「劇的な人生を歩んだ慶喜の人物像を知る上でとても貴重な史料」との見解です。
3月 奈良県大和郡山市平城京南方遺跡右京域(西部分)で、京を碁盤目状に整備した都市区画「条坊」と同規格の道路跡が新たに見つかりました。
調査地は、京の南端とされる九条大路にあった正門「羅城門」跡付近(同市野垣内町)で、道路を拡幅した跡があったことから、羅城門やそこから延びる城壁「羅城」と一体的に再整備された可能性が高いとの事。
  豊臣秀吉(とよとみひでよし)が造成した大坂城の三ノ丸跡から、推定100坪ほどの屋敷跡が見つかりました。
石を基礎にして柱を立てた跡があり、一緒に見つかった瓦に刻まれた家紋から、秀吉臣下の大名・佐竹義宣(さたけよしのぶ)の屋敷である可能性が高いということです。
  豊臣秀吉が加藤清正(かとうきよまさ)朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかりました。
横125.5cm、縦21.5cmの朱印状には、「小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」という内容が記されているとの事。
同様の命令書が中国や九州の大名へ広く出された事は推測されていましたが、3月23日付の命令書の実物が発見されたのは初めてだそうです。
4月 四天王寺(大阪市天王寺区)にある亀形石造物は、酒船石遺跡(奈良県明日香村)で出土した亀形石造物と同じ7世紀に造られ、2つの水槽がつながる構造やサイズも同じだったことが分かりました。
酒船石遺跡の亀形石は硬くて加工しにくい石材ですが、四天王寺は軟らかい凝灰岩であることや、四天王寺のほうがより忠実に亀を表現していることから酒船石遺跡よりも古い可能性があるとの事。
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四天王寺の亀井堂(参照>>)
5月 「日本一の石橋群」で知られる大分県宇佐市院内町で新たに4基の石橋が見つかりました。
市道下の地下水路(暗きょ)などに埋もれていたもので、保存状態も良好とみられ、同町で確認された石橋はこれで計79基になりました。
  平安時代後期に勢力を伸ばした平家一門の屋敷の一部とみられる堀の跡などが京都市内の発掘現場で見つかりました。
この付近に平家が拠点を築いたことは記録に残っていましたが、実際に遺構が見つかるのは初めてだという事です。
6月 大坂夏の陣で焼失の後、徳川家が城跡を埋め立てて再建したため(1月23日参照>>)、現在は地中に埋まっている豊臣秀吉が築いた大坂城の本丸周辺の地盤をボーリング調査したところ、天守台北側の地表面と天守台の東西で石垣とみられる傾斜も確認しました。
専門家は「絵図で従来あるだろうと思われたものが確実に存在することを把握できた」としています。。
(姉妹サイト:豊臣大坂城の歴史散歩コース>>)
  戦国武将の三好長慶(みよしながよし)が居城とした飯盛城跡(大阪府大東市、四條畷市)広い範囲を覆う石垣が見つかりました。
発見された石垣約100ヶ所のうち約半数が、長慶が居城した時期に整備されたとみられ、これまでの「築城に石垣を用いる手法は織田信長が最初だ」とされていた歴史の常識が覆る事になりそうです。
7月 アゼルバイジャンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会が、日本が推薦していた「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)を世界文化遺産に登録することを決めました。
日本の世界文化遺産の登録は7年連続で19件目。世界自然遺産も含めた世界遺産は23件目となります。
(姉妹サイト:古市古墳群の歴史散歩コース>>)
  江戸時代前期に描かれた最古の鳥羽城絵図が発見されました。
天守や本丸御殿、石垣、お堀などが克明に記され、鳥羽城が「海の城」と呼ばれた当時の面影がうかがえる貴重な資料となりそうです。
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遠く(左奥)伊勢湾を望む鳥羽城跡
  奈良時代に都があった奈良市の「平城京跡」で、当時の権力者・長屋王(ながやおう)のものと同じ規模を持つ広大な宅地の跡が見つかりました。
専門家は「歴史書に出てくる有名な人物が住んでいた可能性がある」とみています。
8月 国内初の本格的な宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村「飛鳥京跡苑池(えんち)で南北二つの人工池のうち北池から、全長約11.5mに及ぶ石組みの溝と石敷きの遺構が見つかりました。
7世紀後半にわき水を流す流水施設として造られたとみられ、古墳時代から続く「水のまつり」の宮廷儀式を行っていた可能性が高まりました。
  豊臣秀吉から関白職を継承しながらも失脚して切腹したとされる養子の秀次(ひでつぐ)について(7月15日参照>>)死の約3ヶ月前の時点では、秀吉が秀次の息子を要衝である大和(奈良)の「国主」に取り立てる意向だったことを示す新史料が見つかりました。
秀吉は淀殿(よどどの)との間に実子の秀頼(ひでより)が誕生したことで関白秀次と不仲になったとする通説に一石を投じる内容だそうです。
9月 11世紀前半の平安時代の上流貴族の墓跡と墓前に置かれたとみられる石製の笠塔婆(かさとうば)が平安京の墓所「鳥部野(とりべの=京都市東山区)の一角で出土ししました。
笠塔婆は石製として最古とみられ「当時の埋葬の実態を明らかにする史料」と考えられます。
(平安京の墓所について…参照>>)
10月 奈良県橿原市四条町藤原京跡(12月6日参照>>)3棟の建物跡が見つかりました。
中枢部の藤原宮跡から西に2km以上離れた場所で大規模な建物跡が見つかったのは初めてで、貴族の邸宅だったとみられます。
  平安京の玄関口に建てられた官寺「西寺」跡(京都市南区)で、中心建物の講堂跡の基壇が見つかりました。
基壇は造営した平安時代前期の姿をとどめており、同じ時期に築かれた初期平安宮の建物や寺院の解明につながる重要な遺構だとか…
五重塔とみられる建物の跡も初めて見つかり、東寺と西寺の主要伽藍(がらん)が朱雀大路を軸に、左右対称の位置に配置されていた可能性がより高まりました。
(平安京について…参照>>)
11月 世界遺産・東大寺(奈良市)の東塔跡の発掘調査で奈良時代の東門の跡が初めて確認されました。
規模は東西約7.1m、南北約12.7mで、創建当時の全体の規模を知る手がかりになると期待されます。
  京都市右京区嵯峨遺跡から、14世紀中ごろの南北朝時代以降に創業したとみられる酒造りの遺構が出土しました。
天龍寺などの寺院が手がけた僧房酒(そうぼうしゅ)の関係遺構とみられています。
搾りから貯蔵までの工程がわかる遺構としては、これまでは延宝二年(1674年)の旧岡田家住宅(兵庫県伊丹市)が最古とされていたので、その歴史は約300年さかのぼる事になります。
12月 奈良時代に遣唐使として中国に渡り、帰国後に官僚として活躍した吉備真備(きびのまきび)(4月25日参照>>)が書いた可能性の高い『墓誌(ぼし=亡くなった人の伝記)中国で発見されました。
本当に真備の筆であるならば国内はもちろん世界で初めての物で古代東アジアの実像を知る貴重な史料になりそうです。

こうして見ると、今年も様々な新発見がありました。

個人的には、やはり、8月の
「秀次の死の3か月前にも秀吉が秀次を優遇しようとしていたと考えられる史料」の発見ですかね~

私としては、ドラマや小説で、いつも、信長さんや秀吉さんが悪く描かれている事に悲しい気持ちになります。
(来年の大河も光秀主役なら織豊二人は敵やしね~)

信長や秀吉が殺戮や非道を繰り返し、最後に家康が、それらを払拭するように平和な世にした?みたいな?

もちろん、家康さんも嫌いでは無いですし、戦乱の無い平和な300年時代を築いた功績は、日本の歴史上トップクラスの快挙であると認識しておりますが、そこに至るまでにあった何やかんやのアカン部分が無かったかのようになってるのがチョイとね~
(戦乱の無い平和な時代は、一旦、秀吉の時代にできちゃってますし…)

まぁ、「勝てば官軍」「歴史は勝者が書く物」なので仕方ないですが、信長や秀吉のやさしさが垣間見える史料が発見されると、やっぱウレシイです。

あと、伊丹市が「酒造りの元祖の地」みたいな感じで推してるのを、つい最近のテレビで見た気がするので、11月の京都での遺構発見は、ちょっとお気の毒な気が・・・でも、それこそ、新発見で常に歴史は変わっていくのですから・・・
 .

最後に…
今年のニュースとして、やはり真っ先に思い出すのが10月の首里城焼失ですね~

新発見ではなく悲しいニュースですが…何より、保管されていた貴重な宝物や資料が失われた事は、とても残念です。

奈良や京都の寺社に行くと、伽藍や社殿とは別の「宝物館」や「収蔵館」といった博物館仕様の建物に国宝や重要文化財が収められている事が多々ありますが、「そういう事やねんな~」と改めて痛感させられました。

私見で恐縮ですが…
寛文五年(1665年)に焼失した徳川時代の大阪城天守閣は、300年の時を越えて昭和の大阪市民の寄付により再建され(11月7日参照>>)、現在は法令上の「博物館相当施設」として運営されています。

期待を以って遠方から見物に来られた方々には、
「あんなん復元天守ちゃうやん!ただのコンクリートのビルやん」
とボロカスに言われる昭和の天守閣ですが、貴重な文化財を収め展示する以上、そのような仕様の建物にするのがベストではないか?と個人的には思います。
もちろん、それ以前に、そもそもの火の用心が最重要ですが…

・‥…━━━☆

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2019年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年=2020年はいよいよ東京オリンピックの年(麒麟もくるヨ~)・・・今後とも、よろしくお願いします
 .

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2019年12月26日 (木)

平安貴族殺害事件~源政職の最期

 

寛仁四年(1020年)閏12月26日、現職の加賀守である王朝貴族・源政職が殺害されました。

・・・・・・・・

時は平安・・・第67代=三条天皇(さんじょうてんのう)から第68代=後一条天皇(ごいちじょうてんのう)に代ろうかという頃のお話。

ちなみに、三条天皇の先代が第66代が一条天皇(いちじょうてんのう=三条天皇の従兄弟)で、その皇后であった藤原彰子(ふじわらのしょうし)との間に生まれたのが後一条天皇です。

この後一条天皇が即位した時、奥さん=彰子の父であるご存じ藤原道長(ふじわらのみちなが)が、天皇の外戚(母方の祖父)として我が世の春を迎え、
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪
(10月16日参照>>)
の歌を詠んだのが寛仁二年(1018年)なので、まさに道長全盛の頃で、彰子の家庭教師だったあの紫式部(むらさきしきぶ)が雅な恋愛模様を描いた源氏物語の世界の時代なわけですが・・・

実は、その少し前の長和三年(1014年)6月16日の事・・・白昼の平安京を騒がす一大事件が起こります。

当時、加賀守(かがのかみ)という現役の受領(ずりょう=行政責任を負う筆頭者)だった源政職(みなもとのまさもと)白昼堂々と衆人環視のもと拉致されたという・・・

しかも、その状況は政職が、公道(場所は定かでない)で数人の男に取り囲まれ、自分の足で歩いて連行されていくという光景だったのです。

この源政職という人は、その姓でわかる通り、立派な源氏の一門で第58代光孝天皇(こうこうてんのう)の子孫、官位も従五位下(じゅごいのげ)で、ギリではあるものの、いわゆる王朝貴族に分類される人ですから、公衆の面前で徒歩で連れて行かれるなんて事は、本来、あり得ない事で、「前代未聞」「尋常ではない」と、お公家さんたちも大騒ぎです。

なんせ、当時の王朝貴族は、例え犯罪者として連行される場合でも牛車(ぎっしゃ)を使うのが通例でしたから、政職にとってはかなりの屈辱・・・しかも、連れて行かれた先で、殴る蹴るの暴行まで受けてしまいます。

その連れて行かれた場所は、左大臣を務める藤原顕光(ふじわらのあきみつ)の邸宅である堀河院(ほりかわいん)で、この事件の主犯である敦明親王(あつあきらしんのう)の住まう場所でした。

この敦明親王は三条天皇の第1皇子で、親王という事ですから、次期天皇候補でもあるお方・・・敦明親王の奥さんが藤原顕光の娘である藤原延子(えんし)だったので、奥さんの実家である堀河院に住んでたわけです(当時の主流は通い婚なので、そのまま奥さんの家に住んでる事はよくある)

未だ皇太子では無いとは言え、現天皇の皇子が起こした事件は貴族たちを大いに驚かせたわけですが、ここで誹謗中傷の的となったのは、当の敦明親王ではなく、舅の藤原顕光でした。

なんせ敦明親王まだ21歳・・・「若い皇子の日ごろの行動を監督するのは岳父(がくふ=舅)の役目」とばかりに、その責任を追及したのだとか・・・とは言え、顕光さんは顕光さんで、表立って批判した相手を呪詛(じゅそ=のろい)したりなんぞしてますし、2年前には今回の敦明親王とまったく同じような暴力事件を顕光さん自身が起こしてますので、本人にとってはどこ吹く風だったのかも知れません。

ところで・・・
話忘れておりましたが、そもそも今回の襲撃事件の原因は・・・

敦明親王という人は源政職以外とも、別の襲撃事件を起こしている暴れん坊親王ではありますが、さすがに、何も無いのにただただ襲撃しに行ったわけ無い・・・

実は源政職は、 敦明親王の妹である禎子内親王(ていし ないしんのう=母は藤原道長の娘)多額の債務があったのです。

王朝貴族が借金??
と思っちゃいますが、実はこの時代、債務を抱えてる貴族は多くいて、実は先ほど書いた藤原顕光自身が2年前に起こした暴力事件の原因も、とある貴族に対する借金の取り立てだったのです。

それは、この時代、ある程度の官職を得るには、地位のある誰かに推挙=いわゆる口利きをしてもらって任官を得るというのが当たり前にになっていて、当然、それには「口利き料=任料」が発生する・・・しかも、大抵の場合、あの人にもこの人にも口きいてもらってるので、それが多重債務となってしまう事が多々あったのです。
(他にもイロイロあったと思いますが、今日のところは棚の上で…m(_ _)m)

それらをテキパキと返せる財力があれば良いですが、さすがに皆が皆、そこまでの財力あるわけないので、
とりあえずは上位ランクのコワイ人順に返していく
→からの、
途中から返せなくなって来る
→からの、
(貸してる側からすれば)俺てそんな順番下なん?
→からの、俺の事軽んじてるんちゃうん?
→からの、返す気あるん?ウヤムヤにしようとしてない?
となってしまうのです。

こんな感じで、平安時代の雅なイメージとはうらはらに、債権の回収に暴力が行使される事はしばしばあり、中には集団乱闘となった事件もありましたが、大抵の場合は、殴る蹴るの暴行を受けるものの、念書を書かせたり、約束を再認識させたりで落ち着き、命まで取られる事はなかったようです。
賄賂や口利き料の是非については今回は問わない事に…)

今回の政職さんも、この拉致監禁暴行事件の後も健在で、その翌年の7月には、政職の妻とされる少将(しょうしょう=あるいは小少将)と呼ばれる女性の自宅に、禎子内親王の執事(しつじ)平為忠(たいらのためただ)が、検封(けんぷう)=この場合は「差し押さえ」のために乗り込んで来て、家財道具や財産のすべてが差し押さえられたのだとか・・・

Fuziwaranosyousi600a この少将と呼ばれる女性は、藤原彰子に仕えていた女房だったようで、どうやら、この後、藤原道長に泣きついて事なきを得たようですが・・・にしても政職さん、暴行事件の後も、まだ返して無かったんかい!

先にも書いた通り、この時の政職は現役受領であり、現職の加賀守・・・いくらなんでも口利き料を返済できないほどの財力しか持ってないとは考え難いですし、公家の日記によると、この頃の政職は、加賀国へ割り当てられた朝廷への貢納さえも滞納していたようですので、ここまで来たら、この方も、あの「想像を絶するルーズさ」に分類される人だったのかも知れません。

とは言え、この時の拉致監禁暴力事件では助かった源政職ですが、結局この後、非業の最期を遂げる事になるのです。

それは事件から6年後の寛仁四年(1020年)閏12月26日の夜の事・・・自宅に強盗が押し入り、その強盗の槍で突かれて殺害されたのです。

ただし、そこにも噂が・・・
実は、この少し前、加賀の国の百姓たちが、32か条にも及ぶ政職の違法行為を列挙した書状を提出して訴えを起こし、それと同時に、そんな政職の横暴ぶりに耐えかねて田畑を捨てて逃亡する者が後を絶たないというニュースが都まで届いていたのだとか・・・

つまり政職の領国経営に不満を持っていた者も少なからずいたという事。

果たして、源政職殺害事件は、本当に、単なる金目当ての強盗だったのか???
それとも、どこかの誰かが強盗の仕業として処理したかっただけなのか???

とにもかくにも、源政職の最期は、王朝貴族の雅な雰囲気とはかけ離れた凄惨な現場であった事は確かなようです。
 .

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2019年12月20日 (金)

今川と徳川の狭間で~引馬城の飯尾連龍とお田鶴の方

 

永禄八年(1565年)12月20日、遠江引馬城主の飯尾連竜が駿河にて今川氏真に誘殺されました。

・・・・・・・・ 

現在の浜松城(はままつじょう)の場所にあったとされる引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・引間城・曳馬城)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を治めるには重要な城・・・かつて室町幕府政権下で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)であった今川(いまがわ)が遠江の守護でもあったものの、一時は追われて斯波(しば)が守護になっていた事もありました。

それを、その斯波の配下で遠江引馬荘の代官であった引馬城主=大河内貞綱(おおこうちさだつな)を倒して、今川の手に取り戻したのが、北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:氏親の母は早雲の姉もしくは妹)の尽力によって今川家第9代当主となっていた今川氏親(うじちか)でした(6月21日参照>>)

その時、氏親の命によって、その後の引馬城を任されたのが、今川配下の飯尾賢連(いのおかたつら)だったのです(諸説あり)

で、その今川氏親と「女戦国大名」の異名を取る女傑=寿桂尼(じゅけいに)(3月14日参照>>)の息子が、ご存知、今川義元(いまがわよしもと)で、急死した兄=氏輝(うじてる)の後を継いで、やがては海道一の弓取りと呼ばれる大物になるわけですが・・・

これまたご存知のように、1番天下に近いと言われていたノリノリ真っただ中、未だ尾張(おわり=愛知県西部)の一武将であった織田信長(おだのぶなが)の奇襲によって永禄三年(1560年)、桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市&豊明市)(2015年5月19日参照>>)に倒れてしまいました。

Imagawauzizane400 総大将が討ち取られた・・・という事は、当然、その周囲にいた重臣や傘下の大物たちの多くも討ち取られたわけで、これは、急遽、亡き義元の後を継ぐ事になった今川氏真(うじざね)にとっては大打撃!

しかも、この桶狭間のドサクサで今川の人質だった徳川家康(とくがわいえやす)三河(みかわ=愛知県東部)岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)に入って独立(2008年5月19日参照>>)した事で、今川傘下だった西三河が徳川の勢力圏内に・・・

ただ、この家康が、今後も今川と仲良くしてくれるんなら波風立たなかったわけですが、実際には、その逆・・・2年後の永禄五年(1562年)に信長と同盟を結んで(1月15日参照>>)、完全に今川から離反というより、敵対を表明します。

もちろん、それは家康だけでなく、義元というカリスマ大黒柱の急死は、次々と傘下の武将の離反を生んでしまうのです。

なんせ、「今川が駿河と遠江を支配」と言っても、そこには、もとから地元に根付いている国人領主も多くいて、彼らは、現段階で力を持つ今川家に対して「寄らば大樹の陰」で傘下に納まっているだけで、腹の底では今川のやり方に不満を抱えた者もいたわけですから・・・

あの桶狭間の2年後の永禄五年(1562年)には、家康とコンビを組む信長も尾張の統一(11月1日参照>>)を果たして遠江&その西側はは完全にヤバし!ですし、駿河の北には甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん)がいるわけですから、このまま今川に留まるのかどうか・・・皆々悩むところです。

そんな中の一人が、かつて引馬城を任された飯尾賢連の孫で引馬城主の飯尾連龍(いのおつらたつ・ 致実・能房)でした。

一説には連龍の父=飯尾乗連(のりつら=つまり賢連の息子)は、かの桶狭間で義元とともに命を落としたうちの一人だとか・・・連龍が家督を継いだ年数はハッキリしませんが、上記の通り、お父さん亡き今は、まぎれもなく引馬城主なわけです。

で、その連龍が永禄五年(1562年)頃から、どうやら織田&徳川方についたようで・・・

これを知った今川氏真は、早速、今川傘下の井伊(いい)の家臣である新野親矩(にいのちかのり)らに命じて引馬城を攻めます。

これを受けた連龍は、飯田(いいだ=静岡県静岡市)まで出てきて迎え撃ち、かなりの激戦となりますが、勝負は着かず・・・この時、周辺の寺々でも、今川につく者と伊尾につく者に別れて戦闘となり、飯尾派だった頭陀寺(づだじ=静岡県浜松市)では堂舎の多くが焼かれたと言います。

しかし、どうしても飯尾連龍が許せない氏真・・・いや、許せないというよりは、ここをシッカリ押さえておかないと、周囲にも示しがつがないし、さらに離反者増えちゃいますからね。

なので永禄七年(1564年)9月、再び、新野親矩に3千の兵をつけ、引馬城を攻撃させるのですが、これが、引馬城を落とすどころか、飯尾方が放った矢に当たって、大将の新野親矩が討死する事態に・・・(新野親矩の死亡日については、この翌年の開城の時という説もあり)

とにもかくにも、結局、引馬城を落とせなかった氏真は、連龍とは一旦、和睦する事とし、とりあえず、今回の戦いは落ち着きました。

ちなみに、
先にも書かせていただいたように、この時は引馬城だけではなく、同時期に複数の遠江の武将(二俣城の松井や犬居城の天野など)「今川か?徳川か?」で揺れ、各地で合戦が起こったわけですが、この一連の戦いは「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)と呼ばれます。

しかし、氏真は、これで終わりにはしなかったのです。

永禄八年(1565年)12月20日、あらためて飯尾連龍を自身の駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市)に呼びつけ、面会の準備のため城内二の丸に入った連龍を襲撃し、殺害してしまったのです。

氏真の講和は偽りだった・・・これに怒った引馬城内に残っていた飯尾の家臣たちが、そのまま引馬城に籠城して今川に抵抗しました。

あくまで伝説の域を出ない話も含まれていますが、この、主君亡き後の引馬城籠城の中心となったのは連龍の奥さんであるお田鶴の方(おたづのかた=椿姫)であったとか・・・

このお田鶴の方のお母さんは今川義元の妹もしくは義妹の娘という事なので、つまりはお田鶴の方は今川氏親&寿桂尼さん夫婦の孫であり今川氏真とは従兄弟になる完全に今川の人であったわけですが、この時は、亡き夫の遺志を継いて引馬城に籠り、この後、家康が遠江へ侵入して来る永禄十一年(1568年)まで、引馬城を守り抜いていたと言います。

しかし、その永禄十一年(1568年)は運命の年・・・

今川との同盟を勝手に破棄して駿河を狙いはじめた武田信玄が、織田信長の仲介で、家康とタッグを組んで今川領に侵攻し始めるのです。

信玄が12月12日の薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)から、翌13日には氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)して、氏真を掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと追いやると、

同時に家康が、その掛川城を攻撃すべく、井伊谷三人衆を味方につけて遠江に入る(12月13日参照>>)のですが、この時、掛川城へ近づくべく、家康は引馬城の明け渡しの要求をしたのです。

しかしお田鶴の方は断固拒否・・・自ら防戦の指揮をを取って度々撃って出ます。

しかし、所詮は多勢に無勢でどうにもならず・・・最後は、自ら甲冑をまとい長刀を持って敵陣に斬り込み、壮絶な最期を遂げたと言います。

後に、彼女の死を惜しんだ家康の正室=築山殿(つきやまどの=瀬名姫←お田鶴の方の義理の従兄弟)が、彼女の住まい跡に建立された塚に100本余りの椿を植えて供養した事から、このお田鶴の方は椿姫とも呼ばれているのだとか・・・

こうして12月18日に引馬城に入った家康は、そこを拠点として12月27日から掛川城への攻撃を開始し、翌・永禄十二年(1569年)5月にようやく開城・・・敗れた氏真は奥さんとともに、奥さんの実家である北条氏政(ほうじょううじまさ)を頼って相模へ逃れる事になります(12月27日参照>>)
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2019年12月13日 (金)

井伊谷の戦いと徳川家康の今川領・遠江侵攻

 

永禄十一年(1568年)12月13日、武田信玄と連携して今川領に侵攻する徳川家康が遠江に入りました。

・・・・・・・

永禄三年(1560年)、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する海道一の弓取り今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)の奇襲攻撃によって桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)で倒れた事は、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)にも大きな影響を与えました。

去る天文二十二年(1553年)に相模(さがみ=神奈川県)北条(ほうじょう)とともに今川との間にも相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んでいた信玄は、本来なら、義元の後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)を盛り立てていかねばならない立場だったところでしたが、

この桶狭間キッカケで今川からの独立を果たして信長と同盟を結んだ(1月15日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)(2008年5月19日参照>>)が 互いの隣国である遠江を狙い始めた事や、これまで甲斐より北に位置する信濃(しなの=長野県)からさらに北へと侵攻していたものの越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)から川中島(8月3日参照>>)で激しい抵抗に遭って阻まれていた事、

などなどで、信玄はここで一気に方向転換・・・今川との同盟の証として義元の娘と結婚していた嫡男=武田義信(よしのぶ)廃嫡(はいちゃく=後継者から外す事)して幽閉し(10月19日参照>>)今川の領地へと目を向けたのです。

この信玄の転換を察知した信長は、おそらく義信の次の後継者になるであろう信玄四男の武田勝頼(かつより)に姪っ子の龍勝院(りゅうしょういん)を養女=自分の娘として嫁に出して信玄と友好関係を結んだ後、自身の同盟者である徳川家康と連携しての今川領侵攻をアドバイス・・・

かくして永禄十一年(1568年)12月6日、甲府を出発した武田軍は12日に薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)を越えて駿河へ侵入します(12月12日参照>>)

そして、その翌日に信玄は、氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)し、氏真はたまらず掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと避難するのですが、この同じ日=永禄十一年(1568年)12月13日、徳川家康は陣座峠(じんざとうげ=愛知県豊橋市と静岡県浜松市の境の峠)を越えて遠江へ侵入したのです。

その日のうちに中宇利(なかうり)小幡(おばた=愛知県新城市・小畑)まで軍を進めたところ、東三河菅沼定盈(すがぬまさだみつ)なる者が出迎えて道案内を買って出たのです。

実はコレ以前、以前から徳川派だった菅沼定盈の仲介で、家康は菅沼忠久(すがぬまただひさ)近藤康用(こんどうやすもち)鈴木重時(すずきしげとき)の3人=後に井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)と称される事になる3人を味方につけていて、前日の12月12日の日付にて起請文(きしょうもん=神仏に誓って約束する文書)を提出し、その協力に対するそれなりの恩賞を約束していたのです。

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徳川家康起請文(東京大学史料編纂所蔵)

しかし、この時、出迎えたのは菅沼定盈だけ・・・三人衆は来てませんでした。

実は、彼ら三人衆は、家康は海側を通って来ると勘違いしてソチラの道に向かっていたのだとか・・・で、その後、慌てて菅沼定盈は、その日のうちにかの3人を連れて行き、家康に謁見すると、

「この先の道では浜名荘(はまなしょう=静岡県湖西市の白須賀・境宿の付近)後藤(ごとう)が出てくるかも知れないので備えを怠らぬように」
との家康の言葉に菅沼定盈は、
「ヤツらが兵を挙げても、この定盈一隊で蹴散らせてみせます!」
と大ハリキリ・・・

ただし、ちょっと心配なので牧野康成(まきのやすなり)松平虎千代(まつだいらとらちよ=後の康長)を浜名荘に残して、徳川本隊は先に進む事にしますが、心配していた後藤らは、むしろ敵対していた仲間らを説得して徳川に属さんと参上・・・菅沼定盈が大喜びで、その事を家康に報告すると、家康は彼らを定盈の配下の属させて、さらに菅沼隊を強化した後、拓植山(つげやま=愛知県新城市黄楊野付近の山)の奥道を通って、すでに家康に通じた僧の拠る方広寺(ほうこうじ=浜松市北区)に向かったと言います。

しかし、上記の通り、彼ら=菅沼定盈や井伊谷三人衆などは徳川についていたものの、この時、彼らの拠り所であった井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)は、信玄の駿河侵攻のドサクサで、今川氏真の命を受けた井伊家家老の小野道好(おのみちよし=政次)に占領されてしまっていたため、家康は井伊谷三人衆を井伊谷城へ派遣して井伊谷城を奪還・・・敗北した道好は城を捨てて逃亡しました(翌年処刑されます)

さらに、この井伊谷城の他にも刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市)白須賀城(しらすかじょう=静岡県湖西市)などを破竹の勢いで次々と落としていった家康は、12月18日に引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入って(12月20日参照>>)周辺の今川方の武将に調略仕掛けますが、すでに目の当たりにしている徳川方の進撃ぶりや、かの今川氏真の掛川逃避などなどが相まって、もはや周辺の武将は、われ先にと家康に帰属する状況だったとか・・・

翌12月19日、今川から徳川に鞍替えしたばかりの久野宗能(くのうむねよし)船橋(ふなばし=小舟で造った橋)を架けさせて天竜川を渡った家康は、翌20日、掛川城近くへと迫ります。

その後、信玄との約束通り、掛川城の今川氏真を攻める事になるのですが、これが、なかなかに手間取ったうえに、その和睦条件に憤慨した信玄が、やがては織田&徳川と手切れに至るのですが、そのお話はそれぞれのページで・・・

永禄十二年(1569年)1月18日の
【第2次薩埵峠の戦い】>>
3月27日【気賀堀川城一揆】>>
5月17日【掛川城・攻防戦】>>
7月2日【信玄の大宮城の戦い】>>
と…さらには、例の三方ヶ原へとまだまだ続きますが、これ以降は
戦国・安土の年表>>でどうぞ
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2019年12月 8日 (日)

那須七騎の一人~無念の千本資俊・謀殺

 

天正十三年(1585年)12月8日、太平寺に誘い出された千本資俊&資政父子が大関高増らによって殺害されました。

・・・・・・・・・

千本資俊(せんぼんすけとし)千本家は、鎌倉時代から 下野(しもつけ=栃木県)那須郡(なすぐん=栃木県の北東地域)に根を張り、一説には源平屋島の戦いの「扇の的」>>で有名な那須与一(なすのよいち)の子孫(あくまで伝説です)とも言われる那須(なす)の家臣で、「那須七騎(なすしちき)の一つにも数えられる名家でした。

ところが、そんな主家=那須氏の第19代当主=那須高資(なすたかすけ)の時代にお家騒動が勃発します。

そもそもは、先代である父=政資(まさすけ)から息子=高資への交代劇の時も、未だ譲る気のない父と、新当主=高資を擁立しようとする家臣=大関宗増(おおぜきむねます=那須七騎の一人)との間でモメにモメた末の当主交代だったのですが、父亡き後、今度は異母弟である資胤(すけたね)との間に、後継者争いが勃発したのです。

長男の高資の母は陸奥(むつ=福島県・宮城県・岩手県・青森県)大館城(おおだてじょう=福島県いわき市)主の岩城常隆(いわきつねたか)の娘、次男の資胤の母は那須氏家臣の大田原資清(おおたわらすけきよ=那須七騎の一人)の妹・・・この抗争には、当然、それぞれの実家が絡んでいるわけですが・・・

資胤を那須家の跡継ぎにしたい大田原氏は、資胤を大田原城(おおたわらじょう=栃木県大田原市)に招いて高資討伐を進言・・・一方、これをうけた高資側も資胤を亡き者にしようと画策します。

身の危険を感じた資胤は、熊野参詣を理由に一時的に身を隠します。

そんなこんなの天文十八年(1549年)、かねてより宇都宮(うつのみや=栃木県の中部地域)への侵攻を目論んでいた那須高資が宇都宮領内へと侵攻し、喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい=栃木県さくら市喜連川付近)で宇都宮氏当主=宇都宮尚綱(うつのみやひさつな)とぶつかりますが、この戦いで尚綱は討死してしまいます。

しかも、そのドサクサで家臣の壬生綱房(みぶつなふさ)宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)を乗っ取られてしまったのです。

この時、わずか5歳の幼子であった尚綱の息子=宇都宮広綱(ひろつな)は、家臣の芳賀高定(はがたかさだ)に守られて、何とか城から脱出して落ち延びましたが、その2年後の天文二十年(1551年)、その芳賀高定が高根沢(たかねざわ=栃木県高根沢町・栃木県中央東部地域)の領地と資胤の次期那須当主の座を約束に千本資俊に支援を求めて来たのです。

かくして天文二十年(1551年)1月22日、千本資俊は自らの千本城(せんぼんじょう=栃木県芳賀郡)に、主君=那須高資を招待し、泥酔したところを殺害したのです。

高資の死によって、那須家の当主の座が資胤に転がり込んだ事で、千本資俊と息子=資政(すけまさ)は、資胤の腹心として大いに権勢を振るうとともに、資政は大関高増(たかます=大田原資清の息子で大関宗増の養子)の娘を正室に娶り、那須家内の家臣同志の繋がりも固くなったかに見えました。

しかし結局は、千本家と大関家による那須家内の主導権争いは収まらず・・・永禄九年(1566年)には、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)の力を借りた大関高増に攻められ、激しい戦いに発展した事もありました。
(この時に千本城が佐竹側に奪取されたとの話もあり…秋田藩家蔵文書)

ところが、天正十一年(1583年)に資胤が死去し、その息子の那須資晴(すけはる)が当主となって2年が過ぎた天正十三年(1585年)、那須資晴は大関や大田原に対して、「太平寺(たいへいじ=栃木県那須烏山市)にて千本父子を追討せよ」との命令を出したのです。

その理由としては・・・
実は、資政が生まれる前、まだ子供がいなかった千本資俊は茂木城(もてぎじょう=栃木県芳賀郡)に拠る茂木治清(もてぎはるきよ)の息子を養子に向かえ、千本義隆(よしたか)として彼に千本家を継がせるつもりでいたのですが、やがて実子の資政が生まれた事によって義隆がうっとぉしくなり、配下の田野辺重之(たのべしげゆき)に義隆を預けて田野辺隆継(たかつぐ)と名乗らせたりしていましたが、結局、居場所がなくなった彼=義隆は、実家の茂木に戻ったのですが、当然、その心の内はよろしくない

また、もう一人の大関も・・・
先に書いた通り千本資政の奥さんは大関家の娘だったわけですが、これが嫁×姑バトルの果てに離縁となって奥さんが実家に戻っており、那須家臣内での主導権争いに加えて、ますます千本父子は許しがたいわけで・・・

Oozekitakamasu700a で、千本義隆と大関高増が結託して、そこに高増弟の大田原綱清(おおたわらつなきよ)が加わり、主君である那須資晴を味方に誘って説得し、上記の命令を出させたわけです。

なんせその資晴も、後継者争いの末とは言え、千本資俊に先々代=伯父の那須高資を騙し討ちされてますから・・・

さらに千本義隆の実家の茂木も誘います。

はじめ茂木家は、この計略に乗り気ではりませんでしたが、大関高増による再三の説得と、成功のあかつきには大谷津(おおやつ=栃木県芳賀郡市貝町大谷津周辺)の地を与えるという条件により、仲間に加わりました。

かくして、使者によってもたらされた
「那須上庄の家臣が謀叛を企てて奥州の白河(しらかわ=福島県白河)に寝返ったので、まずは大関&大田原が現地に向かいますが、その前にもろもろ相談したいので、急ぎ太平寺にお越しください」
との知らせを受けた千本資俊&資政父子は、天正十三年(1585年)12月8日、従者17~8人を連れて千本城を出立したのです。

途中、千本資俊の馬の前を「白狐が横切りつつ、しきりに鳴いた」という事があり、「不吉だ」として資俊は1度引き返そうとしますが、息子の資政が、
「この季節になるとキツネが鳴く事なんてよくあります。これで引き返したら臆病者と言われますよ」
と言って父をなだめた事から、そのまま一同は太平寺への道を急ぎます。

まぁ、那須資晴から、そんな命令が出てるなんで知る由もありませんからね。

やがて到着した太平寺では、僧が出迎え、千本父子の来訪を大いに喜びますが、「内々の密談があるので…」と供の者たちを門外に留め置いて、千本父子を奥の間へと招き入れます。

そして千本資俊が奥に入ろうとしたところを、福原資孝(ふくはらすけたか=那須七騎の一人)「上意!」と叫びつつ、正面より左の肩先から右胸にかけて斬りつけました。

息子=資政は一礼していたところを大田原綱清が太刀を抜きざまに討ちました。

資政は一太刀で絶命するも、資俊は反撃しようと試みますが、そこを背後から大関高増が斬りつけました。

千本資俊=享年67、千本資政=享年25の生涯でした。

千本父子の叫び声に気づいた従者が、壁を打ち破って寺内に駆け込もうとしますが、そこに大関&大田原&福原の配下の者=数十名が躍り出て、門外にて戦闘状態となりますが、当然、多勢に無勢では勝ち目はなく、一部を除いてほとんどの者が討ち取られてしましました。。。ちなみにかつての一時期、千本義隆を養父となっていた田野辺重之も、この時に討死したと言います。

この出来事を千本城にて聞いた資俊の奥さんは、はじめは自害しようとするものの、家臣によって実家の長倉(ながくら)に戻るよう説得され、川上実三(かわかみじつぞう?)なる者を共に連れて逃避するものの、途中で、その川上が荷物やら何やらを持ったまま逃げてしまい、途方に暮れているところ山里の住人に助けられて近くの庵に宿泊させてもらう事ができました。

その時、病に伏せっていた住人の子供に持っていた薬を与えて助けた事から、感謝した住人たちによって無事に実家に送り届けられたのだとか・・・やがて、敗軍の城となった千本城には多くの浪人や百姓たちが押し寄せ、財宝の略奪行為が行われたとの事なので、奥さん無事に実家に戻れて、何よりでしたね。

奥さんを助けたのも名も無き戦国の人々なら、千本城に略奪に入るのも名も無き戦国の人々・・・平時に持つ人間のやさしさと戦時下に持つ狂気、このどちらもが人が本来持つ姿なのだと感じさせられますね。

千本父子の死によって、再び千本義隆が嫡子となって千本城を継ぎ、その領地は千本義隆や大関高増らによって分配されました。

この頃と言えば・・・
西では、織田信長(おだのぶなが)亡き後に勢いをつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)四国を手に入れ(7月26日参照>>)、東は飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月10日参照>>)越中(えっちゅう=富山県)(8月6日参照>>)にまで手を伸ばした頃・・・

東北では、この半月ほど前にあの伊達政宗(だてまさむね)人取橋(ひととりばし)の戦い(2007年11月17日参照>>)が展開されていたわけですが、それらに挟まれたこの場所で展開されていた彼らの勢力争いも、やがて天下統一の波に呑まれていく事になります。
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2019年12月 1日 (日)

板倉重宗に聞く~京都所司代の心構え

 

明歴二年(1656年)12月1日、徳川幕府政権下において第3代京都所司代を務めた板倉重宗が 、71歳で死去しました。

・・・・・・・・・

天正十四年(1586年)に、徳川家の旗本=板倉勝重(いたくらかつしげ)の長男として駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に生まれた板倉重宗(しげむね)は、幼い頃から徳川秀忠(とくがわひでただ=後の第2代江戸幕府将軍)小姓として仕え、関ヶ原大坂の陣にも秀忠の近侍として共に参戦し、元和六年(1620年)に2代目だった父の後を継いで、江戸幕府3代目の京都所司代(きょうとしょしだい)となりました。

Itakurasigemune700as 京都所司代とは、その名の通り京都の治安維持を任務とする役職与力(よりき)同心(どうしん)いった大勢を配下に持つ、今で言えば京都府警のトップ・・・といっても、後に江戸の幕藩体制が確立されて民政の事やなんやかんやが京都奉行所などに譲られるまでは、朝廷や公家の事、畿内より西に位置する諸大名の事など、あれやこれやを一手に引き受けていた役職なので、板倉重宗の頃は、かなり忙しかったのではないか?と・・・

その重要な役職を30年以上に渡って無事こなし、役職引退後も何かと頼られ、幕府大老(たいろう=将軍の補佐No.2)らにも堂々と物申す立場にあったと言いますから、幕府からも相当信頼されていたデキる人物だったのでしょう。

そんな彼は現役時代に訴訟などの決断所に向かう時、まずは西面の廊下にて伏し拝み、中では自身の前に明かり障子を立てて、傍らの茶臼で自ら茶を挽きながら罪人の訴えを聞いたと言います。

「何なん?そのルーティーン」
と、周りは不審に思っていたものの、相手がおエライさんなので聞くに聞けず、「変でっせ」と言う事もできず・・・にいたところ、晩年になって、その事を尋ねた人がいた。。。

その質問に対する板倉重宗さんの答えが『常山紀談(じょうざんきだん)(湯浅常山・著>>)に書かれています。

・‥…━━━☆

決断所に出向く時、廊下で拝んでたのは愛宕山(あたごやま)の神様(【愛宕神社のお話】参照>>)に対してなんです。

愛宕山の神様は、多くの神様の中でも特に霊験あらたかだと聞いたので、
「今日の案件を判断するにあたって、できる限り私見を挟まないよう努力しますが、もし私が私見を挟み間違えた判断をしてしまったら、どうぞ、この命を召し上げてください。
これだけ長く信心しているのですから、間違えた私を、そのまま生かすような事はしないで下さい」
と、毎日祈っているんです。

また、明確な判断ができないのは心が乱れているからだと…立派なお方は常に心静かだと思いますが、僕は、そんな立派な人間ではないので、心が静かかどうかを、お茶を挽いて確かめております。

心が安らかな時は、挽かれて落ちるお茶が、いかにも細やかなんです。

細やかなお茶が挽けると、
「あぁ、心落ち着いた~」
となって、相手の言い分を冷静に聞けるんです。

あと、明かり障子を隔てて相手の訴訟を聞くのは、人を見た目で判断しなようにするためです。

人というのは、ちょっと見ただけでも、憎たらしそうな奴もいれば、ひねくれてそうな奴も…それこそ千差万別です。

なので、いかにも誠実そうな人の言う事が真実に聞こえて、ワルそうな奴の言う事はウソのように聞こえますし、哀れをそそるような人の言う事は「何かウラがあるのと違うか?」って思ったりしてしまいます。

これらは、その人たちの言い分を聞く前に、自分ですでに判断してしまってる部分もあるわけです。

けど、訴訟の場では、哀れをそそる者にも憎むべき事があるし、憎たらしい者の中に哀れな部分もあるし、どんなに誠実そうに見えても偽りがあるかも知れません。
てか、実際には、そっちの方が多いです。

人の心の内は測り難いです。
顔かたちで決める事はできません。

昔は、質問に答える相手の顔色見て判断する人もいたようですが、僕には、そんな器用な事はできません。

ただえさえ裁判の場なんて普通やない怖い場所に出て来るのに、自分の生き死にを判断する者を目のまえにしたら、大抵の人は震え上がってしまって言いたい事も言えない、こんな雰囲気じゃ~POISON♪ってな事になって、あらぬ処罰を受けてしまう人もいるかも知れない。

なので、お互い、顔を見たり見られたりしないのが1番良いと思って、明かり障子で隔てた場所で対面してるんです。

・‥…━━━☆

と、答えたのだとか・・・

なんとも、スゴイお人です。

父の勝重さんも、かなり評判の良い人だったようですが、後に、「後世にはありがたき賢臣」と評され、庶民には「人を神のごとく敬い、父母のように愛した名臣」と言い伝えられているそうです。

とか何とか言いながら、板倉さん、落語にも興味がおありのようで・・・関連記事【戦乱の世に笑顔を…落語の元祖・安楽庵策伝】>>もどうぞ。。。
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