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2020年2月11日 (火)

織田信秀が那古野城を奪取~そして名古屋城

 

天文元年(1532年)2月11日、織田信秀が今川氏豊から那古野城を奪いました

・・・・・・・

那古野城(なごやじょう)は、あの「尾張名古屋は城で持つ」の金の鯱(しゃちほこ)で有名な名古屋城(なごやじょう=愛知県名古屋市)とほぼ同じ場所にあった城です。

もちろん、古い那古野城のほうが、かなり規模は小さいですが・・・

最初にこの城を構築したのは、今川氏親(いまがわうじちか=今川義元の父)もしくは、その一族の誰かとされていますが、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)に本拠を持つ今川が尾張(おわり=愛知県西部)に城を??と、ちょっと不思議な気もしますが、

ご存知のように、今川はあの室町幕府全盛の頃からの押しも押されぬ駿河守護(しゅご=県知事みたいな)・・・一方、尾張の守護であった斯波(しば)は力衰えはじめ、守護代(しゅごだい=副知事みたいな)であった織田(おだ)が主家をしのぐ勢いを持ちはじめるものの、その織田家の中での諸将の力関係が微妙で・・・と何やらゴタゴタしてた一時期があったわけで、

どうやら、そんな頃に、今川氏が支配領域を拡大して尾張の東部まで進出・・・この時期に那古野城を構築したらしいです。

・・・で、この那古野城の城主だったのが今川氏豊(いまがわうじとよ)という人物で、あの今川義元(よしもと)の弟だったとされるのですが、そのあたりの話はどうも怪しく、謎な人であります。

ただ、その出自は謎ですが、この天文元年(1532年)前後に那古野城の城主であった事は確か・・・

そこを巧みに狙ったのが、織田家の本拠であった清州城(きよすじょう=清須市)にて清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)と呼ばれる家柄の一人であった織田信秀(おだのぶひで)・・・あの織田信長(おだのぶなが)のお父ちゃんです。

大永七年(1527年)に17歳で家督を譲られ、清洲三奉行の一人の座を継いだ信秀は、現段階では今川に取られた形となっている那古野を奪回せんと、密かに策を練ります。

『名古屋合戦記』『明良洪範』等によると・・・

今川氏豊が大の連歌(れんが)好きである事を知った信秀は、那古野城で開催される連歌会に度々出席し、自分も連歌好きである事をアピールしながら氏豊に接近し、徐々に親しくなっていきます。

何度も通うち、かなり仲良くなって、やがて那古野城に宿泊するほどになり、氏豊から信秀専用の客間を与えてもらえるほどの信頼を得ていきます。

いつ事でしょうか。。。その与えられた客間から本丸に向かって狭間(さま=お城にある鉄砲や矢を撃つための小さな窓の事です)のようにも見える窓を、信秀が勝手に造った時には、さすがに怪しんだ家臣が、氏豊に
「変です」
と進言しましたが、氏豊は、
「彼は風流な人やから、夏の風を室内に取り込むために開けたんやろう」
と言って聞く耳を持たなかったとか・・・

それほど、信秀の事を信頼していたようです。

そこまでの信頼を得た信秀・・・

かくして天文元年(1532年)2月11日、那古野城にて信秀は、病気と称して居城の勝幡城(しょうばたじょう=愛知県愛西市)から幾人かの家臣を呼び寄せて城内の自分の部屋に招き入れておき、同時に、城外に多数の兵を忍ばせて準備万端。

その日、城内で信秀が火を放って騒ぎを起こしたのを合図に、城外の兵が城へと乱入・・・内と外で氏豊らを挟み撃ちにする形で、那古野城を乗っ取ってしまったのです。

ほとんど防戦できなかった氏豊は、命からがら城を脱出し、奥さんの実家である斯波氏を頼って京都(きょうと)へと逃れました。
(奥さんの父である斯波義達(よしたつ)が隠居して京都にいた)

そう、実は、この行動が「氏豊は本当に義元の弟つまり氏親の息子)なのか?」って疑問を呼ぶわけです。

氏親の息子で義元の弟なら、京都に逃げなくても駿河に逃げれば良いわけで・・・

しかも、この5年後の天文五年(1536年)6月には、義元の二人の兄=氏輝(うじてる)彦五郎(ひこごろう)連続急死して、そのすぐ下の弟=玄広恵探(げんこうえたん)と、さらにその下の弟=義元(当時は栴岳承芳)の間で、この今川の家督を巡っての争い=花倉の乱(はなくらのらん)(6月10日参照>>)が勃発(この戦いに勝利したので義元が今川を継いでます)しているわけですが、この今川家を揺るがす一大事に、その下の弟であるはずの氏豊は、おそらく、まだ京都にいて、この争いにまったく関与していません。

ま、晩年には再び駿河に戻って来ているようですので、縁があった事は確かですが、そういう点から見て「どうやら氏豊は、義元の弟では無いのではないか?」との疑いがかけられているのです。

とにもかくにも、ここで那古野城を奪った信秀・・・

Odanobunaga400aこの2年後の天文三年(1534年)に信長が生まれているので、おそらく、信長の誕生の地は、この那古野城だったのだろうと言われています(異説あり)

その後、信秀は、未だ幼き信長に那古野城を譲り、信秀自身は、新しく構築した古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市中区)に移り、そこから、三河(みかわ=愛知県東部)松平(まつだいら=家康の父ちゃんたちです)(12月5日参照>>)やら、今川義元(9月19日参照>>)やら、美濃(みの=岐阜県南部)斎藤道三(さいとうどうさん)やら(9月23日参照>>)戦って、戦国の波に呑まれていくわけですが・・・くわしくは【信長の父ちゃん~織田信秀】のページ参照>>

その後、父亡き後に織田家を継いだ信長が、当時の守護代であった織田信友(のぶとも)から、尾張の本拠である清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)を奪って、そちらに拠点を移した事から、やがて那古野城は廃城となります。

ちなみに、今回の織田が守護代の時代から、信長を経て豊臣秀吉(とよとみひでよし)政権のあたりまで、尾張国の本拠は、この清須城で、あの関ヶ原の頃には福島正則(ふくしままさのり)が、ここ清洲城を拠点に尾張を治めていました。

つまり、この間は、尾張の地に「なごやじょう」という城は無かったのですね。

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「元禄拾年御城絵図」(名古屋城古地図)

関ヶ原直後には、徳川家康(とくがわいえやす)の九男である徳川義直(よしなお)が清須城主として入ったりしてましたが、慶長十四年(1609年)に、その家康が、以前に那古野城があった場所に、新しい名古屋城を構築して、ここを尾張の拠点と定めた事で今に至る・・・というワケですね。(その後清洲城は廃城となります)
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