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2020年3月11日 (水)

武田滅亡とともに勃発した富山城の戦い~小島職鎮の抵抗

 

天正十年(1582年)3月11日、武田勝頼からの知らせを受けた小島職鎮が、主君の神保長住を幽閉して富山城を占拠しました。

・・・・・・・・・

戦国期の越中(えっちゅう)富山は、主に神通川(じんつうがわ)を挟んで、西部(射水・婦負)に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、神通川東部(新川)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による争奪戦が繰り広げられていましたが、西部の神保を甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、東部の椎名を越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)が支援する代理戦争でもありました。

ところが、そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月、水面下で行われていた信玄の裏工作により椎名康胤が武田方に転じます

しかし、その1ヶ月後、今度は神保長職が上杉方に転じ、越中争奪戦はそれぞれの支援者を交換しただけで、そのまま続行・・・とは言え、ここ越中は、謙信にとって祖父や父の時代から、度々出兵しては傘下に治めたかった場所(9月19日参照>>)なわけで、ここに来て、武田との川中島もこう着状態となった謙信は、信玄が今川攻略へと舵を切る(12月12日参照>>)ように、自らも越中侵攻を開始するのです(4月13日参照>>)

そう・・・この永禄十一年(1568年)という年は、謙信と信玄それぞれが、その矛先を変えた年であり、そして、美濃(みの=岐阜県南部)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)を攻略(8月15日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)が、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)年でもあったのです。

ちなみに、この時、上杉方に転じた父に反対し袂を分かち、能登(のと=石川県北部)畠山(はたけやま)を頼った神保長職の息子=神保長住(ながずみ=長職の息子)は、後に信長配下となっています。

その後、謙信は、元亀三年(1572年)に日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)(6月15日参照>>)を、天正四年(1576年)には富山城(とやまじょう=富山県富山市)を奪い、その勢いのまま飛騨(ひだ=岐阜県北部)へも侵攻し(8月4日参照>>) 、翌・天正五年(1577年)の9月13日にはかの畠山の能登七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)を陥落させる(9月13日参照>>)のです。

しかし、そんな謙信の前に立ちはだかったのが、先の上洛の後に越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月20日参照>>)、残る越前一向一揆をも駆逐して(8月12日参照>>)、事実上、越前を平定した形になっていた織田信長でした。

それは、七尾城を奪われた長連龍(ちょうつらたつ)の救援要請(8月14日の前半部分参照>>)でもありましたが、越前まで領した信長にとっては、越前の向こうは加賀(かが=石川県西部)そして能登があり、信長の本拠である岐阜の隣は飛騨なのですから、この謙信の侵攻を黙って見ているわけにはいかない場所であった事も確かでしょう。

かくして天正五年(1577年)9月18日(23日とも)に、謙信と、織田軍北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)がぶつかったのが手取川の戦い(9月18日参照>>)です。

その時、手取川の勢いのまま、さらに松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)も奪って(9月24日参照>>)能登を平定した謙信は、雪の多い冬を避け、翌年の春に再び出兵するつもりで、一旦、越後に戻るのですが、ご存知のように翌年の3月、春を待たずに亡くなってしまいます(3月13日参照>>)

謙信の死を受けた上杉家では、ともに養子の上杉景勝(かげかつ)上杉景虎(かげとら)の間で後継者争い=御館(おたて)の乱が勃発(3月17日参照>>)して信長どころではなくなり、この間、織田軍に、せっかく謙信がもぎ取った越中深くまで入られてしまいます(9月24日参照>>)

その後、後継者争いに打ち勝った上杉景勝は、ようやく越中へと目を向けられるようになり、そのお家騒動のさ中に黄金で以って味方につけた信玄の後継者=武田勝頼(かつより=信玄の四男)を後ろ盾に、加賀・能登・越中の一向一揆の残党を取り込んで越中奪回を画策し始めますが、一方の信長も、天正八年(1580年)に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市・加賀一向一揆の拠点)を陥落(3月9日参照>>)させ、一向一揆の本拠である石山本願寺との戦いも終わらせて(8月2日参照>>)、まさに天下目前状態。

そんなこんなの天正九年(1581年)2月28日に行われたのが、あの御馬揃え(おうまぞろえ)(2月28日参照>>)・・・この時に、守備強化のため富山城に入っていた佐々成政(さっさなりまさ)や、小出城(こいでじょう=富山県富山市水橋)の神保長住が、この御馬揃えに出場するために京都に向かったスキを突いて、上杉の最前線である魚津城うおづじょう=富山県魚津市)を任されている河田長親(かわだながちか)が小出城を攻めたのです。

この時、小出城だけではなく、富山城も奪うつもりだったと言われる上杉勢でしたが、城兵の踏ん張りと、窮地を知って戻って来た佐々成政&神保長住、そして河田長親の死亡?もあり、上杉勢の思惑は失敗・・・何とか小出城は守られました(3月24日参照>>)

とは言え、その後も、くすぶり続ける越中一向一揆勢とのゴタゴタ(9月8日参照>>)が続いていたわけですが、そんな中の天正十年(1582年)3月、長住父の時代から神保に仕えていた老臣=小島職鎮(こじまもとしげ)いきなり裏切るのです。

それは・・・
ご存知のように、この年の2月から、信長は甲州征伐(こうしゅうせいばつ=武田攻め)を開始しています【2月9日参照>>)

2月20日には、織田方の徳川家康(とくがわいえやす)の説得に応じた依田信蕃(よだのぶしげ)田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城し、3月1日には武田同族内の有力者である穴山梅雪(あなやまばいせつ)までもが織田に降った(2013年3月1日参照>>)事で、その間に武田方の諸将が次々と勝頼を見限り、3月2日には最後まで勝頼の味方だった弟=仁科盛信(にしなもりのぶ=勝頼の異母弟)が、守る高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)とともに倒れ・・・と、つまり実際には、怒涛の勢いで織田方が進撃していたわけですが・・・

ところが、そんな状況下でありながら、富山城には、武田勝頼から?の知らせが届くのです。

『…然るに今度 信長公御父子 信州表に至りて御動座侯のところ
武田四郎節所を抱へ一戦を遂げ 悉く討ち果し侯の聞
此の競ひに越中国も一揆蜂起せしめ 其の国存分に申しつけ侯へ』

つまり
「信長父子が信州に出撃していたところを武田勝頼が一戦を交えて、織田勢をことごとく討ち果たしたので、この勢いに乗じて越中国にて一揆を蜂起させ、君らが越中一国を思い通りに支配すれば良いよ」
と・・・

これは勝頼自身が流したフェイクニュースなのか?
それとも、単なるウワサとして、彼らの耳に入って来たのか?

Toyamazyousicc とにもかくにも、この知らせを信じた小島職鎮は、天正十年(1582年)3月11日唐人親広(かろうどちかひろ=加老戸親広)らとともに富山城を急襲し、神保長住を幽閉・・・城を占拠して、あたりに狼煙(のろし)を挙げ、周辺の反信長派に蜂起を呼びかけたのです。

しかし、柴田勝家以下、北陸方面を守る織田軍は、この勝頼の知らせを、はなから信じていなかったのです。

なんせ、この3月11日は、「もはやこれまで!」と覚悟を決めた勝頼が夫人らとともに自害した日ですから・・・
●【武田勝頼、天目山に散る】参照>>
●【勝頼夫人=北条夫人桂林院】参照>>

もちろん、SNSなどありはしないこの時代ですから、勝頼自害の一報が当日に織田北陸勢のもとに届く事は無いのでしょうが、甲州征伐における味方の動向は逐一報告を受けていたはずですからね。

勝家は、すかさず、信長に向けて
「富山の一揆勢が占拠した城は、その日のうちに我々一同が包囲しましたので、落城まで幾日もかかる事はないでしょう…ご安心を」
という内容の手紙を、佐々成政・前田利家(まえだとしいえ)不破直光(ふわなおみつ)の4人の連名でしたため、彼ら連合軍による攻撃を開始し、またたく間に奇策による富山城奪還を果たしたのです。

2日後の3月13日、勝家のもとに届いた信長の返書には
「武田勝頼以下、重臣や宿老までをことごとく討ち果たして、駿河・甲斐・信濃を滞りなく平定したのでご心配なく…と甲斐から報告が来たので君らにも知らせとくね~君らも越中一揆の鎮圧、頑張ってね~」
と・・・(この手紙のやり取りとみても、「当日」とまではいかないものの、情報の行き来がかなり速いことがわかりますね)

そして、柴田勝家以下北陸織田勢は、この富山城奪還の勢いのまま、次に魚津城の包囲へと向かいますが、残念ながら、その後の魚津城陥落の知らせが信長に届く事はありませんでした。

そう、この魚津城が開城されるのは、この年の6月3日(【魚津城の攻防戦】参照>>)・・・それは、あの本能寺の変(6月2日参照>>)の翌日でした。

本能寺の影響を受けた今後の北陸勢の動きについては、あの清須会議の前日に展開された【前田利家に迫る石動荒山の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
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