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2020年4月23日 (木)

武田方・小山田信有VS北条氏綱~八坪坂の戦い

 

享禄三年(1530年)4月23日、江戸城に迫る上杉朝興の援軍として武田信虎が派遣した小山田信有が、北条氏綱八坪坂にて戦いました。

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ご存知、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)・・・しかし、南北朝の動乱もあって本拠である関東から遠く離れた京都にて幕府を開く事になったため、尊氏は、京都にて政務を行う将軍を三男の足利義詮(よしあきら)に継がせ、四男の足利基氏(もとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方)として派遣し、本拠の関東を治めさせる事にしたのです。

一方、尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕(うえすぎしげあき)を祖とする上杉家は、この鎌倉公方に仕えて、関東管領(かんとうかんれい=鎌倉府の長官で鎌倉公方を補佐する・関東執事)を継承する家柄でしたが、最初のうちは事実上の宗家である山内上杉家(やまうちうえすぎけ)が関東管領をほとんど独占していて平穏だったものの、

第4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)が京都の将軍家に歯向かった永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)やら、その持氏の遺児=足利成氏(しげうじ)古河公方(こがくぼう)を自称して関東で大暴れし始めた(9月30日参照>>)混乱等から、はじめは京都にて幕府に仕えていた扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)が、山内上杉家と関東の覇権を巡って内紛をおっぱじめます。

しかし、そんな中でグングンと、関東の覇権を争うもう一つの勢力が・・・伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき=北条早雲)を初代とする北条氏です(10月11日参照>>)

亡き父=盛時の政策を受け継ぐ2代目当主=北条氏綱(ほうじょううじつな)は、大永3年(1523年)の夏頃に、その苗字を伊勢から北条に変えたとされますが、おそらくこれは、鎌倉時代に君臨した政子(まさこ)さんの北条氏(7月11日参照>>)にあやかっての事・・・なんせ、父=早雲の時代は、一応幕府からの承認は受けていたものの、山内&扇谷の両上杉氏をはじめとする旧来からの関東勢からは「他国の逆徒」と呼ばれて反発を受けていましたから、そこを、この先の関東支配を正当化するがの如くの改名・・・と思えるわけです(自称ではなく朝廷に認められた苗字との見方もあり)

もちろん、その改名とともに、関東南部において支配拡大も着々と進めていたわけですが・・・

これに危機感を抱いた扇谷上杉朝興(ともおき)山内上杉家と和睦をして北条に対抗しようとしますが、大永四年(1524年)正月に江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を氏綱に奪われたため、その後は川越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)を主城として武蔵(むさし=東京都と埼玉&神奈川の一部)相模(さがみ=神奈川県)等の失地を回復せんと北条との戦いに日々まい進しておりました。

そんなこんなの享禄三年(1530年)、明けたばかりの正月3日、川越を出陣した上杉朝興が、氏綱の重臣である遠山直景(とおやまなおかげ)が守る吾那蜆城(あがなしじみじょう=埼玉県入間郡)を囲みます。

この時の遠山直景は江戸城代を務めていたとされ、多くの江戸城衆を引き連れており、「おそらく、ここを攻めて来るであろう」朝興の動きを予想した氏綱が、前年の暮れに直景をここ吾那蜆城に配置し、準備を整えさせていたのでした。

しかし、これに気づいた朝興は、予想を超える速さで正月明けにやって来てしまったわけで、吾那蜆城側は未だ配置された人数も、そう多くなく、やや準備不足気味だったため、直景は、やむなく奇襲作戦に切り替え、城を囲む上杉勢を、少数精鋭で以って背後から攻撃します。

しかし、やはり準備不足は否めない・・・ほどなく劣勢となり直景率いる北条軍は敗走し始めます。

勝ちに乗じた上杉軍は、その勢いのまま小沢城(おざわじょう=神奈川県川崎市多摩区)、さらに世田谷城(せたがやじょう=東京都世田谷区)攻略して、江戸城間近まで迫ります。

Oyamadanobuari700a この状況に、当時、上杉朝興と同盟を結んでいた甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)は、配下の小山田信有(おやまだのぶあり)上杉の援軍として、相模方面に派遣したのです。

この小山田信有の小山田氏は、甲斐における有力国人衆(地侍)の一つで、もともとは甲斐守護である武田家とも抗争を繰り返していたのですが、小山田信有の父の時代に武田と和睦して婚姻関係を結び、この小山田信有の母は武田の人(信虎の妹?)と言われます。

そして、この小山田信有さんは、後に武田二十四将の一人に数えられる重臣=小山田信茂(のぶしげ=最後に勝頼に離反しちゃいますが…)のお父さんでもあり、この頃には、もうドップリの武田派・・・すでに家臣団の中でも一門衆として重用されていた人だったのです。

かくして、この小山田信有の動きを知った北条氏綱が、信有率いる武田軍を迎え撃つべく出陣・・・享禄三年(1530年)4月23日、両者は甲斐と相模の境界線に近い八坪坂(やつぼざか=山梨県上野原市)にてぶつかったのです。

残念ながら合戦の詳細については、よくわかっていないのですが『勝山記』には、
「…卯月廿三日 八坪坂ニテ越中殿ト氏綱合戦アリ 打負テ吉田衆致打死候」
と、信有の被官(ひかん=家臣・奉公人)である吉田衆の多数が討死し、信有率いる武田軍が負けてしまった事が記録されています。

一方、江戸城に迫っていた上杉朝興も、それ以上、軍を進める事ができず、根小屋(ねごや=神奈川県相模原市緑区)周辺に放火をして、一旦、川越城へと戻っています。

その後も、何度か氏綱&その息子の北条氏康(うじやす)らと戦う上杉朝興でしたが、北条の勢いを止める事は、なかなかできず・・・そのため、上杉朝興は、ますます武田信虎との結びつきを強めるべく、山内上杉家の上杉憲房(のりふさ)元正室(この頃には憲房は亡くなっていた)を側室として信虎のもとに嫁がせたり、信虎の嫡子=武田晴信(はるのぶ=後の信玄)に自らの(上杉の方)を正室とさせたり、

と、とにかく武田家と連携して北条との緒戦に挑みますが、ついに江戸城を奪回する事ができないまま死去し、その後は、彼の遺志を息子の上杉朝定(ともさだ)が継ぐ事になります。

この一連の戦い=上杉VS北条に終止符が打たれるのは、やはり北条も世代が変った氏康の頃・・・戦国屈指の夜戦と称される、ご存知、河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)での事でした。

ちなみに、この機会に武田晴信に嫁いだ上杉朝興の娘さんは、晴信との仲は良かったものの、お産が難産であったため母子ともども死去・・・その、後添えとして晴信のもとに嫁いで来たのが、あの三条の方(さんじょうのかた)(7月28日参照>>)という事になります。
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