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2020年4月29日 (水)

熊野・那智の覇権を巡って…堀内氏善と廊之坊重盛~勝山城の戦い

 

天正九年(1581年)4月29日、那智制覇を目指す堀内氏善が、廊之坊重盛の守る勝山城を陥落させました。

・・・・・・・

戦国時代初め頃に、熊野水軍という一大勢力を持つ那智山別当家(べっとう=熊野三山を統轄)実方院(じっぽういん)を取り込んで紀伊水道の制海権を握る一大水軍として隆盛を極めていた安宅(あたぎ)に起こった後継者争いを機に、安宅を凌ぐ新興勢力としてのし上がって来た堀内(ほりうち)(11月4日【安宅一乱】参照>>)

やがて、その熊野水軍を、さらに熊野地方周辺の豪族をも次々と取り込み勢力を誇るようになった天文年間(1532年~1555年)に、堀内氏は、その本拠を新宮郊外の佐野(さの)から新宮中心部の金龍寺の境内=新宮城(しんぐうじょう=和歌山県新宮市)に移します。

ちなみに、ここに堀を張り巡らして居所とした事から、「堀ノ内殿」と呼ばれるようになったので、苗字も「堀内」にしたという説もあります。

とにもかくにも、この頃には、従来からのこの地に力を持っていた熊野七上綱(くまのしちじょうこう)と呼ばれる土豪(どごう=地侍)たちをも支配下に取り込んでいた堀内氏でしたが、それは新宮と並ぶ熊野三山の一つ=那智(なち)に対しても同じで、すでに四半世紀前から、そこを支配下に治めるべく、何度か侵攻していました。

それが本格的になって来たのが天正七年(1579年)頃・・・

その頃の那智山には、多くの御師(おし=社寺へ参詣者を案内、参拝・宿泊などの世話をする者)の坊が点在していましたが、それを二分するがの如くの勢力を持っていたのが、塩崎(しおざき=汐崎)廊之坊(くるわのぼう)と、米良(めら=目良)実方院・・・

そんな中で、実方院とは婚姻関係を結んで取り込んだ堀内氏は、やはり廊之坊に対しても婚姻関係をを結んで取り込もうとしますが、堀内氏から送られてきた娘がブサイクだったので突き返し、その代わとして堀内氏の姪にあたる美人の娘を、廊之坊が略奪して連れ去ったために、両者の関係がこじれた・・・なんて話もあるようですが、さすがにこの話は創作でしょうね。

そもそも、両家の関係を結ぶための政略結婚なんですから、ブサイクだろうと美人だろうと、縁を結ぶ事が優先事項なわけで・・・結局は、「廊之坊が堀内の支配を許さなかった」ってとこなのでしょうけど。。。

とにもかくにも、当然ですが、堀内に協力する実方院には、勝利のあかつきには廊之坊の跡職(あとしき=跡目・相続)が与えられる約束が成され、いよいよ攻撃が本格的になって来ます。

Natikatuyamazyou 勝山城周辺の位置関係図
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(背景は地理院地図>>)

廊之坊の本拠である勝山城(かつやまじょう=和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)は、廊之坊屋敷とも呼ばれ、現在の紀勢本線・那智駅近くの小山の上に設けられた、文字通り「屋敷」だったのが、徐々に土塁や曲輪(くるわ=丸)などが整備されていき、この頃には、本格的な城郭となっていました。

この不穏な空気を察した勝山城主=廊之坊重盛(くるわのぼうしげもり=汐崎重盛)は、以前からの堀内の対抗勢力であった古座(こざ)虎城山城(こじょうやまじょう=同東牟婁郡串本町)高河原貞盛(たかがはらさだもり)などと連携して、城の防備を固めます。

もちろん、那智山内にも、廊之坊の味方となる勢はまだまだいたわけですし・・・

これを受けた堀内氏善(ほりうちうじよし)は力攻めする事を避け、勝山城近くに付城(つけじろ=攻撃するために要所に新設する城)を設けて兵糧の補給路を断つ作戦に出ます。

これにより、約3ヶ月に渡る籠城戦が開始されますが、その間、高河原勢が勝山城の包囲を打ち破ろうと警固船=約30隻を擁して那智海岸の浜ノ宮(同東牟婁郡那智勝浦町)の南に上陸したのを、堀内に味方する雑賀(さいが・さいか)佐武伊賀守(さたけいがのかみ=佐竹允昌?)らが、かの付城から突出して矢を射かけて高河原勢を退散させたり、逆に佐武らが、勝山城の出城を攻撃して陥落させたり、等のいくつかの小競り合いが展開されます。

その両方に多くの死者が出た事が記録されていますので、なかなかの激戦が繰り広げられていたようですが、結局は勝山籠城側が堀内の包囲網を突破する事はなかなか難しかったようで・・・やがて勝山城内の兵糧は枯渇していく事になるのです。

かくして天正九年(1581年)4月29日に至って、勝山城は落城するのです。

『熊野年代記』には、
「四月廿九日那智山炎上 廊之坊城落ル 色川衆焼ク(すなわ)チ廊之坊腹切ル」
とあります。

色川衆とは鎌ヶ峯城(かまがみねじょう=同東牟婁郡那智勝浦町)を本拠とする色川盛直(いろかわもりなお)の配下の者と思われますが、この頃の色川盛直は廊之坊重盛と姻戚関係を結んで堀内に対抗していた側であるはずなので、ひょっとしたら、城に火をかけた色川衆とは、その中に潜んでいた一部の内通者だったのかも知れません。

また、一説には色川衆は最後まで廊之坊の味方であったものの、最終段階で応援すべく勝山城に入ったところを、その混乱に乗じた堀内側の者が火をかけたとも言われます。

敗戦の将となった廊之坊重盛に関しても、落城のさ中に城中で切腹したという話と、嫁さんとともに脱出したものの、隠れている所を近隣の百姓に密告されて、翌・30日に討たれたという話とがあります。

いずれにしても、この日に勝山城が落城した事は事実のようで、この後は、那智山の実権を堀内氏善が握る事になり、熊野一帯での、堀内氏の地位はますます万全の物となるわけですが、

一方で、この堀内氏善は中央との関係もぬかりなく・・・

以前の堀内は、あの織田信長(おだのぶなが)が次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)北畠(きたばたけ)の養子に入れて(11月25日参照>>)、まんまと奪い取った伊勢・志摩(いせ・しま=三重県)地方を巡って争う関係だったのが、

いつの間にか近づき、この勝山城籠城戦の真っただ中の2月29日には、信長から、ちゃっかりと熊野神社(くまのじんじゃ=熊野本宮大社〈本宮〉・熊野速玉大社〈新宮〉・熊野那智大社〈那智〉の熊野三山)神領を与える旨の朱印状を貰って、織田の傘下となっています。

しかも、信長の死後は、またもやちゃっかりと、あの山崎の戦いに参戦(6月13日参照>>)し、今度は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の配下として生き延びます。

関ヶ原では西軍についたために、一時は衰退した堀内氏でしたが、氏善の死後まもなく起こった大坂の陣にて、大坂方として参戦していた氏善の息子=堀内氏久(うじひさ)が、豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の正室だった千姫(せんひめ=家康の孫)を守りながら燃える大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)から脱出して徳川家康(とくがわいえやす)の本陣まで届けた(2月6日参照>>)事で、今度は、徳川の家臣=旗本として見事復活しています。

定番の言い回しではありますが、
自らを貫いて、花と散るも戦国・・・
家のため、大樹の陰に寄ってつなぐも戦国・・・
どちらも戦国の生き方であります。
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