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2020年4月 8日 (水)

武田滅亡とともに散った軍略家~朝比奈信置

 

天正十年(1582年)4月8日、織田信長の甲州征伐のさ中に落ちた持船城の朝比奈信置が自刃しました。

・・・・・・・・・

駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)に仕えたとされる朝比奈信置(あさひなのぶおき)は、同じく義元に仕えた名参謀=朝比奈泰能(やすよし)(9月19日参照>>)とは別系統の朝比奈親徳(ちかのり)の息子です。

早くから義元の近くにて功績を挙げていたらしく、信置が称した「駿河守(するがのかみ)に因んで、同じく駿河守を名乗っていた武田(たけだ)板垣信方(いたがきのぶかた)毛利(もうり)吉川元春(きっかわもとはる)と並んで「三駿河」の一人に数えられ、義元が尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)と戦った天文十七年(1548年)の小豆坂(あずきざか=愛知県岡崎市)の戦い(3月19日参照>>)でも先陣として走り、大きな功績を挙げたのだとか・・・

また『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によれば、天文五年(1536年)頃に、未だ無名の浪人者だった山本勘助(やまもとかんすけ)の才能を見出し、主君=義元に推挙したのが、この朝比奈信置さんだったらしい・・・

ま、この頃の勘助が今川に仕官したがってたという事もあるのでしょうが、その才能を見抜く眼力は大したもの。

しかし、義元自身が勘助の風貌が気に入らなかった事や、家臣の反対等もあって、結局、この時に勘助を召し抱える事なく・・・ご存知のように、勘助は、この後、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)のもとで大活躍します(9月10日参照>>)

このような出来事があったからなのか?
それとも、戦国の流れが変わったからなのか?

永禄三年(1560年)に今川義元が桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市もしくは豊明市)に倒れ(5月19日参照>>)、その後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)がヤバくなって来ると(12月13日参照>>)朝比奈信置はチャッカリ、駿河に侵攻して来た武田信玄のもとに走るのです。

しかも、この朝比奈信置という名前の「信」の文字は、武田信玄(本名は晴信)から一字を拝領しての信置なのだとか・・・つまり、それほど重用されての移籍だったわけです。

軍略家で軍師的な役割も果たし、用兵術(ようへいじゅつ=軍の動かし方や戦術など)にも長けていた信置は、新参者でありながら武田譜代の家臣たちにも信頼され、先方衆の筆頭を任され、信玄亡き後も、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄四男)に従い、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)の戦いにも従軍し、その後の対・徳川家康(とくがわいえやす)戦線の重要拠点である持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を任されました。

その間の元亀四年(1573年=7月に天正に改元) 、武田信玄死去のニュースを聞いた直後から、家康が、長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)の奪取(9月8日参照>>)を皮切りに、天正三年(1575年)8月には諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)、12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二)「遠江⇔駿河間にある武田方の城を一つ一つ自分の物にしていく作戦」を開始するのです。

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(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この時、信置が守る持船城も天正五年(1577年)の10月と天正七年(1579年)9月の2度に渡って、家康からの攻撃を受けていますが、一旦奪われても、すぐに奪回・・・徳川勢の本格的な侵攻を許す事はありませんでした。

しかし、やがて「その時」がやって来ます。

天正十年(1582年)・・・この年の正月に、勝頼妹=真理姫(まりひめ)の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)が、織田方に寝返ったのを皮切りに始まった織田信長(のぶなが=信秀の息子)『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)の中で、2月20日に田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城させ(2月20日参照>>)、 翌・21日には、当目坂で勝利した勢いのまま駿府(すんぷ=静岡県静岡市)を占領すると同時に、そのまま持船城を囲んだ家康は、23日から攻撃を開始・・・

もはや天下目前の信長を背後にした徳川軍相手に、さすがの朝比奈信置も耐えきれず・・・は27日にやむなく降伏し、29日には持船城を家康に開け渡したのでした。

ご存知のように、その12日後の3月11日には勝頼が天目山に散って(3月11日参照>>)武田は滅亡・・・

そして、武田の残党が逃げ込んでいた恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市)が信長息子の織田信忠(のぶただ)に焼き討ちされた(4月3日参照>>)5日後の天正十年(1582年)4月8日、信長の命により朝比奈信置は自刃・・・享年55の生涯でした。

用兵に長けた軍略家であるなら、おそらく信長も重宝したでしょうから、もし、この時、いち早く武田に見切りをつけていたなら、生き残れたかも知れなかった信置さんですが、一方で「信長の命で自刃」しているわけですので、そこンところは、当事者同志しか解りえない部分・・・

生き残って咲く人もいれば、壮絶に散る人もいる・・・それが戦国という物なのでしょうね。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

>おそらく信長も重宝したでしょうから、

多分、要らなかったんじゃないかな?
この頃なら、軍略より兵力がものを言いそうですから。

それに信長の配下というより、家康の配下になりそうですよね、位置的に。
だから自刃を命じたのかな?なんてね。

投稿: ことかね | 2020年4月25日 (土) 23時40分

ことかねさん、こんばんは~

>多分、要らなかったんじゃないかな?

う~ん、確かに…
信長さんって、自分が好きなな部下は2度3度と裏切られながらも、いきなり首切る事無く「戻って来いよ」と説得したりしてますもんね~

やっぱ、いらなかったんでしょうかね。

投稿: 茶々 | 2020年4月26日 (日) 03時44分

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