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2020年5月28日 (木)

守護代・織田信賢と信長~浮野の戦い

 

永禄元年(1558年)5月28日、美濃の斎藤義龍と通じた岩倉城の織田信賢織田信長を攻撃する浮野の戦いがありました。

・・・・・・・・

天文二十年(1551年)3月の父=織田信秀(おだのぶひで)の死(3月3日参照>>)を受けて、織田家の家督を継いだ織田信長(のぶなが)は、当主交代のドサクサで、以前から信秀と敵対していた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと)に寝返った鳴海城(なるみじょう=愛知県名古屋市緑区:別名=根古屋城)城主の山口教継(やまぐちのりつぐ)との戦い(【三の山・赤塚の戦い】参照>>)や、その今川が織田領内に築いた村木城(むらきじょう=愛知県知多郡東浦町=村木砦とも)にも相対しつつ (【村木城(砦)の戦い】参照>>)

Odanobunaga400a 一方で、清州城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)にて尾張(おわり=愛知県西部)守護(しゅご=今の県知事みたいな?)斯波義統(しばよしむね)を保護していた尾張下四郡守護代(しゅごだい=副知事)織田信友(のぶとも)が守護の斯波に反旗をひるがえした事をキッカケに、その清洲城を攻撃して乗っ取って(4月20日参照>>)尾張内での支配を拡大していき、

弘治三年(1557年)11月には、父=信秀の死後から、その後継者を巡って敵対(【稲生の戦い】参照>>)していた弟=信行(のぶゆき=信勝)を抹殺し(11月2日参照>>) 、斯波義統の後継者だった息子=斯波義銀(よしかね)も追放しますが、未だ、本家で尾張上四郡守護代織田信安(のぶやす=岩倉織田氏・織田伊勢守家)は居城の岩倉城(いわくらじょう=愛知県岩倉市)にて、その勢力を維持していました。

しかし、ここに来て、信安が嫡男の信賢(のぶかた)を廃して次男の信家(のぶいえ)に後を継がせようと画策していた事を知った信賢がクーデターを起こし、岩倉城を奪って父=信安を追放したのです。

Nobunagaukino ←浮野の戦いの位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

しかも、その信賢は、先の弘治二年(1556年)に同じくクーデターを起こして父の斎藤道三(さいとうどうさん)を排除して(4月20日参照>>)実権を握っていた隣国=美濃(みの=岐阜県南部)斎藤義龍(よしたつ)に近づいて、信長と敵対する構えを見せます。

そこで信長・・・永禄元年(1558年)5月28日約2000の軍勢を率いて出陣し、岩倉城の背後へと廻り、足場の良い浮野(うきの=愛知県一宮市千秋町)という場所に布陣し、まずはあちこちに放火しながら足軽たちが攻撃を仕掛けます

対する信賢は「城を奪われてなならぬ」家老山内盛豊(やまうちもりとよ=山内一豊の父)大手門(おおてもん)に配置して守りを強化した後、約3000ほどの兵を出撃させて応戦・・・正午を過ぎた頃から、信長勢は少し南東方向へ移動しつつ、徐々に信賢勢を追い込んで行きます。

この時、信賢方にいた林弥七郎(はやしやしちろう)という武士・・・彼は弓の名手として知られた人でしたが、少々形勢が悪くなり、弓を持って一歩退こうとしておりました。

そこを見つけて追いかけたのが、信長方でも鉄砲の名手として有名だった橋本一巴(はしもといっぱ)でした。

もともと、この戦いはともに尾張に根を張る織田家=同族同志の争い・・・ともに旧知の間柄であった弥七郎が、サッと振り向いて「助けてはやれんゾ!」と言うと、一巴も「重々承知」と答えます。

そこで、四寸(約12cm)ほどもの矢尻をつけたあいかという矢を弓につがえた弥七郎が、すかさず矢を放つと、それは一巴の脇の下深くに食い込み、その命を奪いました(7月12日死亡とも)

しかし、一方の一巴も、同時に二つ玉(2発の弾丸を紙で包んで一つにした物)を込めた鉄砲を肩に当てて正確に放っていて、それが命中した弥七郎もその場に倒れます。

そこを、信長小姓の佐脇良之(さわきよしゆき=前田利家の弟)が、すかさず弥七郎の首を取ろうと走り寄って来たところを、弥七郎は倒れたまま太刀を抜き、良之の左ひじに斬りつけます。

それでも良之はひるまず・・・負傷しながらも弥七郎の首を討ち取りました。

この日、1200を超える死者を出した信賢は、やむなく岩倉城へと敗走・・・信長も清洲へと軍勢を戻しました。

とは言え、信賢の籠城はこの後も続き、最終的に信長が岩倉城を落として信賢を追放したのは永禄五年(1562年)11月1日の事とされ、この信賢の追放を以って、信長の尾張一国の統一が成されたとされています(11月1日参照>>)

また、一豊父の山内盛豊は浮野の戦いもしくは岩倉城落城の際に討死もしくは自刃したとされますが、今回の浮野の戦いが弘治三年(1557年)で岩倉落城が永禄元年(1558年)とする説もありますので、そのあたりは、未だ不明です。

とにもかくにも、信賢の失脚で信長は尾張統一・・・しかも、この間には永禄三年(1560年)5月19日の桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市もしくは豊明市)の戦い
●【一か八かの桶狭間の戦い】>>
●【二つの桶狭間古戦場】>>
●【名を挙げた毛利新介と服部小平太】>>
がありますから、まさにこのあたりから、信長が、地方の深夜枠から全国ネットのプライムタイムへと躍り出る事になるわけです。
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2020年5月25日 (月)

モテモテ光秀の大河ドラマ『麒麟がくる』第19回「信長を暗殺せよ」の感想

 

「信長を暗殺せよ」っていうタイトルなので信長が危ないのか?と思いきや、まさかの義龍ナレ死で驚いた大河ドラマ『麒麟がくる』第19回の感想です。

…にしても、どうしちゃったの?
何なんやろ?

まさかまさかの、スタッフの皆様が本木道三ロスになっておられるのか?

歴代大河ドラマでも久々の名作『麒麟がくる』とは思えないような展開の第19回でした。

そもそも、ご本人が「浪人者」とおっしゃってる長谷川光秀・・・「浪人者」という限りは、朝倉から禄を貰ってる家臣でもなければ客将でもない、ただ、越前に身を隠してる感じの存在ですよね?

しかも、現状を見る限り、ユースケ・アサクラは、さほど光秀を気に入ってもいないようだし、城下の空き家を貸してやっただけ・・・そんな人を、将軍様への使者にしちゃうなんて!

交渉事での代表者もそうですが、こういう場合、差し出す引出物も大事かも知れんけど、それを持って来た使者のランクも大事なはず・・・
(この場合、将軍の側近と知り合いだとか、本人がメチャ優秀だとかは、あまり関係ないかと…)

「上洛の要請に応じて力のない将軍にベッタリとなって、いらん事に巻き込まれたくないから上洛したくない」という考えは良いとしても、一方で「祝い物を出す」という事は「完全なる敵対関係」にはしたくないわけですよね?

だったら、それを持っていく使者は、自らの代わりと成り得る者=身内か重臣クラスでないと、波風立たない対応とは言えないと思うわけで、逆に「ケンカ売っとんのか!」てなりそうな気がしないでもない。
(できれば、使者として向かう家臣の付き添いくらいにしておいて欲しかった…てか、むしろ付き添いの方が「側近の知り合い」という人脈が活きて来る)

ま、そこを普通に受け入れる将軍家も将軍家・・・
「お前、今、越前にいるんだってな」
じゃないですよ!
落城して逃亡してんのに、住んでる場所を京都住みの皆が知ってて、大丈夫なんかいな?

皆が知ってると言えば、今回のタイトルの「信長の暗殺計画」・・・
なんでバレてんの?
どっから、その情報入手した?
どうせ、ここで信長死なへんけど…ウン!殺害するの誰か知ってる
タイトルにするくらいなら、もうチョイ丁寧に描いてもよさげな気がしました。

それにしても、相変わらず長谷川光秀はモテモテやねぇ~

眞島藤孝からは、やさしい眼差し迎えてもらい、
将軍様からも「覚えてる」と言って染谷信長の謁見にまで同席させてもらい、
その信長からも「おぉ」と友達のように接してもらい、
吉田久秀からは、その信長との秘話を楽しそうに聞かせてもらい、

もう、他でこんなにモテてたら、奥さんからの子供ができた報告シーンにもラブラブ感を感じないようになって来ましたわ。

その最たる物が、高政から改名した伊藤義龍からの、またもやのラブコール・・・
いったい何度目のプロポーズ?
そしてまたもやフラれる義龍さん。。。

言っとくけど、
今度会ったら打ち首じゃ→(からの)許される
朝倉の使者で来てんのに勝手に信長暗殺阻止→許される
「コッチにおいでよ」からの「断る」→許される
コレ、全部、義龍がアンタの事を好きで好きでたまらないから許されてるだけだかんね。
ビンタされようがハイヒールで踏まれようが、健気に愛し続ける義龍さんに代って言ってやりました)

なのに・・・
そこにナレ死でトドメを指すなんて、、、
お人が悪い・・・オバチャンびっくりしましたよ~

でも、本当に義龍さんは、ここで退場なんですか?
これまでは斎藤家をあんなに丁寧に描いていたのに?
この先も、信長さんとなんやかんやあるのに?

てか、そもそも、まだ信長さんは守護代の織田信賢を追放(11月1日参照>>)してませんよね?
桶狭間より後のはずやもん…義龍も絡んでるはずやし)
向井将軍に謁見した時、染谷信長は
「尾張統一の報告に…」
てな事言うてはりましたが、諸説あるので仕方ないものの、そこはドラマでは統一した事になってるんですかね?

とは言え、
こんなにツッコミ所の多い展開なのに、普通に楽しく見れてしまうのは、さすがの大河ドラマです。

初回放送の頃は、あれだけキラキラだった画面が、いつの間にやら落ち着いて重厚感あふれる画面になり、
役者さんの演技、目線、仕草の一つ一つに、「やっぱり大河やなぁ」というスゴさがあり、
長い廊下から部屋への動線と、その合間に移り込む庭のある広々としたセット。。。

演者の方含む作り手の方々の力の入れようが垣間見えます。

それだけに、今回のツッコミ所満載の展開は残念でしたが、それこそ、この時点では未だ活躍エピソード0の光秀さんが主人公である以上、ある程度のゴリ推しは致し方ないところなのかも知れません。

来週はいよいよ桶狭間への流れですね。。。
その後、少しお休みになるかも知れませんが、今後の展開も楽しみにしております。

★このあたりの予習復習ページ↓
 ●【義輝VS三好長慶の白川口の戦い】>>
 ●【足利義輝~5年ぶりの入京】>>
 ●桶狭間の戦い
  【今川義元の行軍ルート】>>
  【一か八かの桶狭間の戦い】>>
  【二つの桶狭間古戦場】>>
  【義元を討った毛利新介と服部小平太】>>
  【桶狭間の戦いの時の徳川家康】>>
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2020年5月20日 (水)

江戸幕府の基礎固め~家康のブレーンで足利学校の校長・閑室元佶

 

慶長十七年(1612年)5月20日、戦国の終りから江戸時代初めに活躍した軍師=閑室元佶が死去しました。

・・・・・・・

閑室元佶(かんしつ げんきつ)は、あの関ヶ原の開戦の日取りを決めた軍配者的軍師として知られる僧・・・別号が三要でもあるので三要元佶(さんようげんきつ)とも、後に京都の円光寺(えんこうじ=現在は京都市左京区)を開山する事から円光寺元佶(えんこうじげんきつ)とも呼ばれます。

その生まれは肥前(ひぜん=佐賀県)で、父は、晴気城(はるけじょう=佐賀県小城市小城町)主の千葉胤連(ちばたねつら)で、その愛妾が野辺田伝之助に嫁いでから生まれたというご落胤説もありますが、一般的にはその野辺田伝之助の実子とされてます。

幼い頃に京に上り、円通寺(えんつうじ=京都市左京区岩倉)にて出家して勉学に励んだ後、京都の南禅寺(なんぜんじ=京都市左京区)を経て足利学校(あしかががっこう=現在の栃木県足利市にあった平安か鎌倉時代に創設されたとされる中世の高等教育機関)の9代目庠主(しょうしゅ=校長)となり、足利学校の中興の祖と称されます。

というのは・・・
上記の通り平安か鎌倉の時代に創立した足利学校も、幾度かの政権交代での浮き沈みがあったわけですが、

室町時代に衰退していたのを、その後の室町後半=戦国の時代に関東管領(かんとうかんれい=将軍の代わりに関東を支配する鎌倉公方の補佐役)だった上杉憲実(うえすぎのりざね)が再興し、さらに、その後に関東を牛耳る事になった北条氏政(ほうじょううじまさ)が支援していた頃には、あのフランシスコ・ザビエル「日本一のアカデミー」と称するほどだったものの、

その北条が、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(おだわらせいばつ)(7月5日参照>>)で滅びた後に、所領も奪われ、さらに古典モノが大好きだった秀吉の甥っ子=豊臣秀次(ひでつぐ)が足利学校の蔵書を大量に持ち出そうとした事があったようで・・・

その時にそれを阻止したのが徳川家康(とくがわいえやす)・・・で、この時に家康に働きかけたのが閑室元佶だったらしく、無事、蔵書が守られたと同時に、この時の交渉の際のアレやコレやで、家康と元佶の間には、かなりの信頼関係が生まれたのだとか・・・

つまり、ここから徳川の支援を受ける事になって、足利学校は再び繁栄期を迎える事になるので、元佶は足利学校の中興の祖という事になるわけです。

もちろん、ここで家康と親しくなった元佶は、吉凶を占ったりする僧としての役割だけでなく、足利学校の長としての知識をフル活用して、軍師的な役割も担い、家康のブレーンの一人に数えられるようになります。

「関ヶ原御出陣の節 日取 御吉凶等考差上之也」
と、関ヶ原における開戦の日取りや家康の動向も元佶がアドバイス・・・ご存知のように、その結果は見事に家康の勝利でした。

Nabesimakatusige700a また、この関ヶ原では、自らの故郷である肥前の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が、始め西軍として参加した(10月20日参照>>)事で、戦後に窮地に立たされるのですが、すかさず家康に働きかけた元佶の尽力により、無事、改易を回避したのだとか・・・

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この同じ年(慶長五年=1600年)に南禅寺の住持(じゅうじ=寺主)となりますが、家康の希望もあって開幕したばかりの江戸幕府の政治にも関与する事になります。

具体的には、板倉勝重(いたくらかつしげ)金地院崇伝(こんちいんすうでん=以心崇伝)らととも寺院の訴訟に関する事務的処理=いわゆる寺社奉行(じしゃぶぎょう)のような職務をこなしたり、

慶長十二年(1607年)に亡くなった相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)西笑承兌(せいしょうじょうたい)の後を引き継いで、朱印状(しゅいんじょう=海外渡航許可証)の発行や、それを携帯する朱印船(しゅいんせん=海外交易を行う船)の管理などの役割をこなしています。

さらに元佶は、やはり家康の肝いりで京都の伏見(ふしみ=京都市伏見区)足利学校の分校(伏見学校)を開設して、自らの持てる知識を後輩に与えて軍配者的軍師や軍医などの育成を考えてカリキュラムを組み、多くの人材を輩出するのですが、

やがて彼の思いとはうらはらに、江戸時代という平和が訪れた日本では、軍事よりも平時の事務的役割が重用されるようになった事から、結局は、伏見学校も、そして本家の足利学校も、日本の最高学府というよりは地元の人が学ぶ場所、あるいは豊富な蔵書を持つ図書館のような存在になっていったようです。

一方、その伏見学校の開校と同時に、その敷地の一角に円光寺を開山した元佶は、これまでは人の手によって書き写して残していた仏典や古書などを活版印刷で活字化して出版します。

それは、『孔子家語(こうしけご=『論語』に漏れた孔子説話)『六韜(りくとう=中国の兵法書)にはじまり、『貞観政要(じょうがんせいよう=中国唐の太宗の言行録)』『吾妻鏡(あづまかがみ=鎌倉幕府公式の歴史書)などなど・・・

これらは円光寺版(伏見版)と呼ばれ、この先、江戸時代を通じて日本人の文化&教育の水準が世界最高水準に導かれる事の第1段階となるわけです。

晩年には、例の関ヶ原での一件を感謝した鍋島家から、出身地の佐賀県小城市(おぎし)に寺領120石を寄進され、そこに三岳寺(さんがくじ)を開山しました。

それからほどない慶長十七年(1612年)5月20日閑室元佶は、この世を去ります。

同じ家康のブレーンとして、逆らう者には容赦なく鉄槌を加えた金地院崇伝(1月20日参照>>)とは違い、

どちらかと言えば穏やかで地味なブレーンではありましたが、江戸幕府初期の基礎固めに関与したその功績は大きく、まさに縁の下の力持ちという人だったのです。
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2020年5月18日 (月)

シュッした勝家が初登場した大河ドラマ『麒麟がくる』第18回「越前へ」の感想

 

放送の休止が決定してしまって、ちょっと寂しい大河ドラマ『麒麟がくる』第18回「越前へ」の感想です。

どうせなら、この越前編へ入るタイミングで休止した方が良かったような気もしますが、未だ、撮影再開のメドが立たない状態では、そういうワケにもいかなかったのでしょうね~

ホント、久々の良い大河(←個人の感想です)なので非常に残念ですが、こればかりは仕方ないですね。

ところで・・・
やっとこさ光秀奥さんのセリフが増えて来た~!
と思ったものの、やっぱり今週もの方が目立ってるゾ!

(これまで何度も色んな人に言ってた気がする中)
「命の恩人を探している」と今更ながら話し始めた駒に、

「それは私の旦那様!」光秀ママが感動するものの、
視聴者から見たら、「せやろな」感が拭えない・・・

ほとんどの人、気づいてましたよね?

てか、初回に駒が火事から助けられた話とともに、その恩人が言った麒麟の話をした時、長谷川光秀は、その話を初耳のような感じで聞いてましたが、父は、息子に、その麒麟の話をした事が無かったんかいな?

いや、「父は幼い頃に死んだ」というから、単に覚えて無かったのかも知れないけれど、
それならそれで、さゆりママは、1度もその話を息子にしてないんかいな?

その父は、自分が救った少女の行く末を、何度も京都で確かめようとしていたらしいのに・・・

どうも、今回の光秀パートは、何となくツッコミどころの多い摩訶不思議な回でした。

摩訶不思議と言えば、三河の忍びである菊丸くんは、
三河からず~っと、駒ちゃんのためについて来たにも関わらず、いきなりのサヨナラ・・・

ひょっとして、このままフェードアウトのメンバーになっちゃったのかな?
なんか不思議でしたね。。。

一方、新キャラのユースケ・モーニングストアハウスさんは、なかなかの良い味でした。

つかみどころがなく、それでいて、何かを企んでそうな雰囲気が、見事に醸しだされてましたね~

京都のセレブを招待して歌会などに興じていた事や、せっかく足利義昭を囲ってるのに上洛しなかった事などから、ドラマ等では、戦いが苦手な雅な人に描かれがちな朝倉義景さんですが、

今週ドラマで描かれた頃の2年ほど前には、後見人の朝倉宗滴とともに一向一揆(2008年8月13日参照>>)とも戦ってたし、この後、何度も若狭に出兵してたり(2018年8月13日参照>>)なんぞしている所を見ても、個人的には戦いが苦手だったとは思えないわけで・・・

そんな、程よい「うさん臭さ」が、あの必死のパッチの床磨きに現れていてオモシロかったです。

…にしても、伊呂波大夫にしろ、細川藤孝にしろ、なんで?光秀を、そこまで大物扱いするのかワカラン(><)

なんだかんだで、未だパシリ以外何もしてないし、久しく鉄砲も撃ってないし・・・
ま、「主役に近づいておれば今後の出番が多くなる」って事でヨシとしましょう。

私としては、一乗谷の湯殿(↓)が見事に再現されているところでテンションだだ上がりでしたし・・・

Dscf1285pa900
義景邸・湯殿跡一乗谷朝倉氏遺跡については4月11日のページで>>)


そんな中、
打って変わった後半の信長による、弟=信勝(信行)殺害シーン。。。。

染谷信長の、怖さが際立った演技がお見事でした。

ただ、なんやかんやあって時間調整がうまく行けてないのかもですが、
もう少し、弟さんとの紆余曲折の場面を、これまでにチョイチョイ挟んどいていただきたかったですね。

古くは親父さんの葬式も無かったし、直近の稲生の戦い(8月24日参照>>)も、すっ飛ばされてしまったために、これまでの信勝さんと言えば、囚われの竹千代(後の家康)子役ちゃんと将棋差してるシーンしか思い出せなくて、いきなりの弟=聖水持って参上からの殺害(11月2日参照>>)は、残念ながら、セリフの長さのワリには唐突な気がしてしまいました。

ところで、話変わりますが、
ここまで爽やかでシュッとした柴田勝家は初めてなんじゃ?

これまで、柴田勝家と言えば、譜代の家臣という立場からか?やっぱり「たたき上げの苦労人」的なイメージの役者さんが多かったので、これまた新しいキャラの勝家に期待大です。

来週は、光秀が京都に行って・・・てか、それなら皆で京都に潜伏してた方がよくね?
と思いながらも、久々に松永さんが登場するようですので、なんだかんだで来週も楽しみにしておりますです。

追記:
ん? 来週のタイトルが「信長を暗殺せよ」で主人公が京都訪問・・・て、ひょっとして、あの「尾張統一の後の信長の初上洛」(11月1日参照>>)するのかな?
ドラマではすっ飛ばされがちなエピソードですが、描かれるなら楽しみです!
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2020年5月14日 (木)

武田信虎VS海野棟綱~海野平の戦い

 

天文十年(1541年)5月14日、武田信虎勢が、信濃海野平にて海野棟綱ら滋野一党を撃破しました。

・・・・・・・

鎌倉時代から信濃(しなの=長野県)を本拠とし、室町幕府政権下では信濃の守護(しゅご=県知事みたいな?)であった小笠原(おがさわら)でありましたが、戦国時代になると徐々に、その支配力にも陰りが見え始め、地域の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)たちが群雄割拠する状況となって来ます。

そんな中で、東信濃の小県(ちいさがた=長野県上田市周辺)周辺では信濃村上(しなのむらかみ)との滋野(しげの)が激しく争い、そこに佐久(さく=長野県佐久市周辺)大井(おおい)を巻き込んでの争いが繰り広げられていたのです。

一方、その小県や佐久に隣接する甲斐(かい=山梨県)でも、守護の武田(たけだ)が、乱に巻き込まれて事実上滅亡し、一時は守護不在の乱戦状態だった中、

寛正六年(1465年)頃に第16代当主の武田信昌(たけだのぶまさ)が盛り返し、さらに、その孫にあたる武田信虎(のぶとら)が第18代当主となって武田家を継承し、やがて大永二年(1522年)頃に甲斐一国統一を達成します。

Takedanobutora500a その大永年間の信虎は、室町幕府政権下で関東管領(かんとうかんれい=鎌倉府の長官で鎌倉公方を補佐する・関東執事)を継承する上杉家(うえすぎけ=山内&扇谷)と、敵対新興勢力の伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき=北条早雲)を初代(10月11日参照>>)とする北条(ほうじょう)との戦いにも関与する一方で、

天文五年(1536年)頃からは東信濃方面にも手を広げ海ノ口城(うんのくちじょう=長野県南佐久郡南牧村)の攻略(12月28日参照>>)をはじめ、度々、息子の武田晴信(はるのぶ=後の信玄)とともに佐久に遠征し、天文九年(1540年)には、その大部分を服属させていたのでした。

また、この間に信虎は、これまで敵対していた駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)(10月16日参照>>)に対し、今川家内の後継者争い=花倉(はなくら)の乱(6月10日参照>>)に勝利して新たな当主となった今川義元(いまがわよしもと)と娘の定恵院(じょうけいいん)を結婚させて同盟を結んでいます。

そんな中、今川と同じく、これまで敵対していた小県の国衆=村上義清(むらかみよしきよ)や信濃の諏訪頼重(すわよりしげ)らと同盟を結んだ信虎は、

滋野三家(しげのさんけ=海野・根津・望月)を中心とする滋野一族が、あの関東管領の山内上杉(やまうちうえすぎ)を後ろ盾として、未だ小県や佐久にて抵抗している事を受け、義清&頼重らとともに、海野城( うんのじょう=長野県東御市)海野棟綱(うんのむねつな)を攻める事にしたのです。

前日に尾野山城(おのやまじょう=長野県上田市)を落城させた武田勢は、翌・天文十年(1541年)5月14日海野平(うんのたいら=長野県上田市)へ進出し、両者は、ここで激しい合戦となります。

棟綱嫡男の海野幸義(ゆきよし)が、この時の戦いで討死するほか、5月25日には海野側が総崩れとなり、やむなく海野棟綱は、上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)を頼って上野(こうずけ=群馬県)へと亡命・・・

父=棟綱とともに戦っていたとおぼしき息子の真田幸隆 (さなだゆきたか=真田頼昌の息子とする説もあり・幸綱ともは、長野業正(ながのなりまさ)を頼って箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)に亡命しました。

また、海野氏に味方していた滋野一族のうち、禰津元直(ねづもとなお)矢沢頼綱(やざわよりつな=綱頼とも)らは降伏して、この後は、武田の家臣として従う事になったので、禰津&矢沢ともに本領は安堵・・・

ちなみに、この矢沢頼綱は、今回敗戦して箕輪城に亡命した真田幸隆の弟だったとされ、降伏して配下についた事で、亡命した兄に代って本領に戻ったという事になります。

この頃は、山内上杉家とも同盟を結んでいた信虎ですので、これ以上踏み込む事は無く、5月の末日には陣を解き、合戦の慰労をかねて、娘婿の今川義元に会いに行く事に・・・

ところが翌月の6月14日、義元との面会を終えて、駿河から甲斐へ戻って来た信虎を、配下である武田の足軽たちが遮り
「お戻りになる事はできませぬ!」
と通せんぼ・・・

そう、この間に、息子の晴信によるクーデター(信虎追放)が決行されていたのです(6月14日参照>>)

しかたなく、その後しばらくは駿河に留まる事になった信虎・・・

しかし、このゴタゴタをチャンスと見たのか?
翌7月には、海野棟綱の依頼を受けた上杉憲政と長野業正が佐久に出兵し、諏訪頼重と同盟を結んでこの地を掌握・・・

このため小県も村上義清の支配する所となってしまいます。

Sanadayukitaka300a つまり、先の海野平の戦いには勝利したものの、晴信の父追放によって、村上義清や諏訪頼重や長野業正が武田晴信の敵に回る事になりました。

ただ、一方でこの状況に不満を抱いたとおぼしき真田幸隆は、しばしの流浪の後に晴信の家臣となり、武田二十四将の一人に数えられる名将になるのは、皆さま、ご存知の通り(幸隆については5月19日参照>>)・・・

かくして村上義清や諏訪頼重との同盟を破棄した信は、この後、彼らと雌雄を決する戦いに挑む事になります。
●天文十一年(1542年)諏訪攻略>>(VS諏訪頼重)
●天文十七年(1548年)上田原の戦い>>(VS村上義清)
●天文十九年(1550年)戸石崩れ>>(VS村上義清)
●天文二十二年(1553年)更科八幡の戦い>>(VS村上義清)
●永禄九年(1566年)箕輪城攻略>>(VS長野業正)

そして、このうちの村上義清との一連の戦いが、あの越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)との川中島(かわなかじま=長野県長野市)(【第一次川中島の合戦~布施の戦い】参照>>)につながっていく事になります。
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2020年5月11日 (月)

斎藤道三が主役だった大河ドラマ『麒麟がくる』第17回「長良川の対決」の感想

 

まさに~第1部の最終回?的な大河ドラマ『麒麟がくる』第17回「長良川の対決」の感想です。

いやぁ、カッコイイ~
とにかく、本木道三が、かっこ良かったです。

実際には、もはやこの時代には、大将同志の一騎撃ちなんてありえないでしょうが、ドラマではアリ・・・どころか、むしろ、そういう場面にこそ、見てる側は手に汗握るというものです。

史実としては、この時、川を渡って敵陣に向かったのは息子=高政勢の方だと思いますが、やはりドラマで描く場合は・・・しかも単身で斬り込んで行くなら、道三の方が川を渡って高政側へ行く方がカッコイイです。

とにもかくにも、
一騎撃ちシーンでは、そこまでのドラマ演出(=フィクション)をしておきながら、
一方で、
『なんだかんだで父親なんだから…
「殺さず、生け捕りにしよう」
と高政側が思案する』
という、史実かも?とされるエピソードを、さりげなく挿入なさるあたりはさすがの大河スタッフ様です。
【長良川の戦い~斎藤道三の最期】のページ参照>>)

同じく史実かも?のエピソードとしては、光秀の脱出場面でもそうでしたね。

死を覚悟した叔父=光安が、
「血筋を残せというのが祖父の遺言だから、何としてでも落ち延びよ」
と光秀を諭し、息子の秀満をつけて送り出すのは、
軍記物ではありますが、『美濃國諸奮記』に残るエピソードです。
【光安自刃で明智城落城】のページ参照>>)

そこに・・・
「後に、会おう」by光安
と、おそらく無理であろう約束をさせる演出は、西村さんの演技も相まって、涙を誘いました~

こういう風に、
「史実」という点と点を、「フィクション」という線で、
見事に結んでいただけると、本当にウレシイv(^o^)v

ただ・・・
もちろん、史実では未だ登場していない光秀ですので、この長良川の戦いに、変に関与する事は避けなければならないので仕方ないのでしょうが、

完全に道三が討ち取られた後に、ヒョッコリ光秀が、しかも単身で伊藤高政の前に現れ、フツーに会話している姿には、ちょっと??な感じがしました。

光秀は道三側についたよね?
先週>>の最後に「敵は高政様!」と宣言してた)

なのに、何のためらいもなく、敵兵たちが止めるでもなく、後ろ側から本陣に現れ、
「今からでも味方になれ」だの、
「まっぴらゴメンでありんす(←コレは m(_ _)mだの、
友達同士のように話しして、
これまた、普通に去っていく・・・って、、、

とは言え、やっぱコレも主人公の特権ならやむを得ず・・・

そんな中で、個人的に気になったのは、合戦中の太鼓。。。
アレって、本来は軍団の統率をとるために鳴らされる太鼓だと思うのですが、今回は、完全に一騎撃ちのBGMとなってましたね。

とてもじゃないが、あの速さのドンドコぶりでは、太鼓に合わせて全軍で動きを合わせるなんて事はできない。
けど、甲冑姿の人らが、明らかに戦場で叩いてるわけで・・・

個人的には、「普通に太鼓BGMを流す感じで良いのでは?」と、すごく不思議でした。

とか何とか言いながらも、先に書いた通り、今年の『麒麟がくる』は、近年稀にみる素晴らしき大河ドラマ!
(↑あくまで個人の感想です)

正式発表ではないものの、聴くところによれば、コロナの影響で、しばらくのお休みの後、残りの回数を減らして撮影を再開されるとか・・・本当に残念!!
こんな良い大河、是非とも万全の態勢で見てみたかったです。

とにもかくにも、
美濃編の最終回が終り、いよいよ来週から越前編・・・

てか、すぐ越前行くのん?
京都とか近江とか放浪せんの?
いや、それこそ、残り回数に限りがあるのですから、ここからは、むしろ高速でお願いしたいところです。

てな事で、
来週の信長さんは。。。
「弟と稲生の戦い>>
「弟を暗殺>>
「柴田勝家、登場か?」
の3本です。。。

楽しみですね~
 .

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2020年5月 6日 (水)

金ヶ崎の退き口から姉川までの2ヶ月~信長VS浅井+朝倉+六角

 

元亀元年(1570年)5月6日、織田信長の危機をチャンスと見た六角承禎に扇動された一揆衆が、稲葉一鉄の守る守山城に迫りました。

・・・・・・

という事で、本日は、信長屈指の危機=金ヶ崎の退き口(かながさきののきぐち)から、その報復戦でもある姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦いまでの2ヶ月を、その日付とともに辿っていきたいと思います。

・‥…━━━☆

越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)のもとに身を寄せていた足利義昭(あしかがよしあき・義秋)からの要請を受けた(10月4日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その義昭を奉じて上洛・・・途中、行く道を阻む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)や畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通)などを蹴散らしつつ(9月7日参照>>)、無事、義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)したのは永禄十一年(1568年)10月18日の事でした。

しかし、その後、義昭の名のもとに信長が要請した上洛を、朝倉義景が無視し続けた事から、元亀元年(1570年)4月、信長は3万の軍勢を率いて越前への遠征に出立し、25日から朝倉の前線である天筒山金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始するのです(4月26日参照>>)

ちなみに、信長によるこの朝倉攻めは、この年の正月に、信長から示された「五ヶ条の掟書」に義昭がカチンときて(1月23日参照>>)・・・つまり、信長と義昭が敵対した事により、義昭からの要請を受けた各地の武将が一団となって信長を攻める=いわゆる「信長包囲網(のぶながほういもう)(2月22日参照>>)の第1段階との見方もありますが、それにしては、「掟書=1月」からの「出兵=4月」は早すぎるような気もします。

もちろん、掟書によって義昭が少々カチンと来た事は確かでしょうが、一方で、朝倉義景は、以前から何度も若狭(わかさ=福井県南西部)に攻め入って若狭守護の武田(たけだ)を圧迫し、間接支配をしようとしていましたから(8月13日参照>>)・・・この時点での「幕府公認の統治者である守護を圧迫する+将軍の上洛要請に応じない」は、どちらかというと朝倉の方が義昭に敵対している部分が大きいようにも感じます。

なので、後々の「信長包囲網」は別として、今の段階での信長の朝倉攻めは、ひょっとしたら義昭の意に沿った物であったのかも知れません。

とにもかくにも、こうして信長の朝倉攻めが決行されたわけですが、ここで、信長の妹(もしくは姪)お市の方を娶って織田と同盟を結んでいた(6月28日前半部分参照>>)はずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)朝倉側について織田軍に迫って来たのです。

そこで、挟み撃ち(北東=福井の朝倉と南西=滋賀の浅井)を恐れた信長は、配下の柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)池田勝正(いけだかつまさ)ら約6万の兵を本隊に見せかけて琵琶湖東岸を南下するふりをさせ、さらに木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)らに殿(しんがり=軍の最後尾)を命じて(4月28日参照>>)、自らは4月28日、佐久間信盛(さくまのぶもり)佐々成政(さっさなりまさ)など、わずかの側近だけを連れて撤退を開始し、琵琶湖西岸の山中を通り、途中、朽木谷(くつきだに=滋賀県高島市朽木)朽木元綱(くつきもとつな)を仲間に加えつつ、4月30日、無事京都に入りました。

ご存知、信長の生涯屈指の危機一髪=金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)です。

Kanegasakimoriyamaanegawa
金ヶ崎の退き口から姉川の戦いの位置関係図(日付入り)
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

当然、態勢を立て直すためには、一旦、本拠の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)へ戻らねばなりませんが、そこをチャンスとばかりに動き始めたのが、かの六角承禎です。

あの上洛の際に、本拠の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)を信長に落とされて(9月13日参照>>)からは、甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)伊賀(いが=三重県伊賀市)に身を隠していた六角承禎は、密かに近江に舞い戻り、機があれば攻撃せんと、かつては何度も刃を交えた宿敵(【箕浦合戦】参照>>)=浅井とも連絡を取り、本願寺の一向一揆にも声をかけ、残党たちをかき集め、すでに準備に入っておりました。

かくして元亀元年(1570年)5月6日鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市)に拠る六角承禎に扇動された一揆衆が、臍村(へそむら=滋賀県栗東市)にて蜂起し、織田配下の守山城(もりやまじょう=滋賀県守山市)に迫ったのです。

この時、守山城を守っていた織田方城将は稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)・・・その守りは万全で、守山の南口から焼き討ちをかけて来た一揆勢を、諸方面に撃って出て奮戦し、この1日で1200余の首を挙げて勝利しました。

こうして、守山の戦いに関しては事なきを得ましたが、当然の事ながら、これほどの危機一髪を、敵方も1度や2度で見逃すはずは無いわけで・・・

5月9日、京都を発った信長は、岐阜への帰路の道すがら、配下の諸将を各地に配置していきます。

まずは、浅井&朝倉の南下に備えて琵琶湖の西岸に構築した宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)森可成(もりよしなり)を置き、5月12日に瀬田城(せたじょう=滋賀県大津市瀬田)に入った後、翌13日には永原城(ながはらじょう=滋賀県野洲市永原)に入移って逗留し、そこを佐久間信盛に任せます。

さらに長光寺城(ちょうこうじじょう=滋賀県近江八幡市長光寺町)に柴田勝家を入らせ、安土(あづち)中川重政(なかがわしげまさ)を置いて、六角残党への備えを万全としてうえで、市原(いちはら=滋賀県東近江市)から千種(ちぐさ)街道越えで・・・途中の5月19日、甲津畑(こうづばた)にて、六角側から放たれた刺客=杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)の狙撃を受けながらも(5月19日参照>>)無事、5月21日に岐阜へと戻りました。

この間、京都にて朝山日乗(あさやまにちじょう)村井貞勝(むらいさだかつ)らによって、六角氏と和睦の話が進められていましたが、和睦が実現する事はありませんでした。

そのため、翌月の6月4日には、柴田勝家の守る長光寺城に六角承禎父子が迫り、あわや!という場面もありましたが、勝家の背水の陣での踏ん張りで何とか守り切ります(6月4日参照>>)

さらに、ここに来て、竹中半兵衛(たけなかはんべえ=重治)の働きによって、鎌刃城(かまはじょう=滋賀県米原市)堀秀村(ほりひでむら)と、長比城(たけくらべじょう=滋賀県米原市)樋口直房(ひぐちなおふさ)を、織田方に寝返らせる事に成功した信長は、北近江への障害が亡くなった事を確信し、

6月19日に、同盟を結んでいる三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)援軍を要請し、自らも岐阜城を出陣して、その日のうちに長比城へと入り、合戦の準備に入ります。

これが、ご存知、姉川の戦いです。
●【いよいよ姉川…小谷に迫る家康】>>
●【姉川の合戦】>>
●【姉川の七本槍と旗指物のお話】>>
●【遠藤喜右衛門・命がけの奇策】>> 
(↑チョチョイ内容かぶってう部分ありますが、お許しを…m(_ _)m)
 .

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2020年5月 4日 (月)

光秀の「敵は~」の次のセリフに期待しちゃった大河ドラマ『麒麟がくる』第16回「大きな国」の感想

 

4~5ヶ月の出来事を3週に渡って放送して、暮れに本能寺までたどり着くのか?
だんだん心配になって来た大河ドラマ『麒麟がくる』第16回「大きな国」の感想です。

とは言え、前半戦最大の見せ場ですからね~
見ごたえあったぶん、そこは致し方ないところですね。

海猿高政(義龍)さんに愛想をふりながら、心は道三とともに・・・
今までなんだかんだと掴みどころが無かった西村光安叔父様の演技力が冴えわたってましたね~

もちろん、まるで例の真偽問われる【道三から信長へ美濃を譲るの遺言状】>>の如く、思いの丈を光秀に言って聞かせる本木道三も・・・

本木さんの演技、カメラのカット割り、光と影の使い具合が、あまりにお見事で、
史実上、謀略と暗殺で主家を乗っ取り(1月13日参照>>)、ドラマ内でも土岐頼純に毒茶(第2回>>)を振舞った道三が
「人のうえに立つ者は正直でなくてはならぬ」
と、まさに「おまいう」なセリフをのたまわっても、
すんなり感動しちゃうくらい良い場面でした。
(↑これは皮肉ではなく本当に…)

ただ、以前も道三は、スゴイ感動するような事を光秀に言ってたけど(第7回かな?>>)
今回も、「なんでソレを息子に言わんの?」と、ちょっと思っちゃいました。

その考えを、ちゃんと高政に伝えていたら、もうチョイ良い展開になったような気がしますが・・・アッと、それじゃ長良川で対決せんわな~と、自分で言ってて自分で納得・・・

に、しても、今週の長谷川光秀ちゃん・・・
さすがに、今回は主役らしく
「敵は、高政様!」
と言い放って出陣していきましたが、以前、高政さん相手に「土岐頼芸様に取り次いでくれるなら、お前の言う事は何でも聴く」てな、「だから言わんこっちゃない」的な無謀な約束(第11回かな?>>)をした話はどうなった?
アレ以来、何一つ高政さんの言う事聴いてないけど、大丈夫なんかいな?
気になる~

気になると言えば、先週(第15回>>)ご活躍の信長父ちゃんの弟=木下ほうか信光さん・・・

今週の雰囲気を見る限りでは来週は、いよいよ長良川で対決する(4月20日参照>>)んですよね?

長良川より前に・・・てか、高政の弟二人殺害(10月22日参照>>)の1ヶ月後に信光さん亡くなっちゃってます(11月26日参照>>)が、そこはスルーなんですかね?
それとも、これからなのかしら?
(これからかも知れないので、あまり突っ込まないでおきます)

ところで、今回の最初の方にあった染谷信長川口帰蝶姫『古今和歌集』のくだりは、何か意味があるのでしょうか?

アレって
♪冬ながら 空より花の 散りくるは
 雲のあなたは 春にやあるらむ  ♪
「冬なのに空から花が散って来るのは、雲の向こうは、もう春なんだろうか?」
の歌ですよね?

戦の行方の話の後に、わざわざ一首の歌を出し、信長に、戦の行方と同じ「わからん」のセリフを言わせる・・・

確か、あの歌の前には
清原深養父(きよはらのふかやぶ=清少納言の曾祖父)という詠んだ人の名前と
『雪の降りけるをよみける』=(雪が降った事を詠んだ)
という詞書(ことばがき・説明文)がついていたはず・・・

本を手に取って見てるんですから、当然、その詞書も見てますよね?
それを、これまた、わざわざ帰蝶姫に
「雪を花に例えてるんです!」
と説明させるんですから、
「何かの伏線では?」
と、つい勘ぐってしまいます。

あ~モヤモヤする。。。
何か、解った方、教えてくださいませm(_ _)m

とまぁ、今回は、ちょっと重箱の隅を突くようなツッコミをさせていただきましたが、本木道三の名場面で感動したように、今週も、楽しく拝見させていただきました。

来週は、いよいよ長良川の戦い>>
そして、
そこで道三側についた事によって、高政からの報復で明智城が落城>>
という、前半戦最高の盛り上がりとなるはずですので、期待大ですね!
 .

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