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2020年5月 6日 (水)

金ヶ崎の退き口から姉川までの2ヶ月~信長VS浅井+朝倉+六角

 

元亀元年(1570年)5月6日、織田信長の危機をチャンスと見た六角承禎に扇動された一揆衆が、稲葉一鉄の守る守山城に迫りました。

・・・・・・

という事で、本日は、信長屈指の危機=金ヶ崎の退き口(かながさきののきぐち)から、その報復戦でもある姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦いまでの2ヶ月を、その日付とともに辿っていきたいと思います。

・‥…━━━☆

越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)のもとに身を寄せていた足利義昭(あしかがよしあき・義秋)からの要請を受けた(10月4日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その義昭を奉じて上洛・・・途中、行く道を阻む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)や畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通)などを蹴散らしつつ(9月7日参照>>)、無事、義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)したのは永禄十一年(1568年)10月18日の事でした。

しかし、その後、義昭の名のもとに信長が要請した上洛を、朝倉義景が無視し続けた事から、元亀元年(1570年)4月、信長は3万の軍勢を率いて越前への遠征に出立し、25日から朝倉の前線である天筒山金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始するのです(4月26日参照>>)

ちなみに、信長によるこの朝倉攻めは、この年の正月に、信長から示された「五ヶ条の掟書」に義昭がカチンときて(1月23日参照>>)・・・つまり、信長と義昭が敵対した事により、義昭からの要請を受けた各地の武将が一団となって信長を攻める=いわゆる「信長包囲網(のぶながほういもう)(2月22日参照>>)の第1段階との見方もありますが、それにしては、「掟書=1月」からの「出兵=4月」は早すぎるような気もします。

もちろん、掟書によって義昭が少々カチンと来た事は確かでしょうが、一方で、朝倉義景は、以前から何度も若狭(わかさ=福井県南西部)に攻め入って若狭守護の武田(たけだ)を圧迫し、間接支配をしようとしていましたから(8月13日参照>>)・・・この時点での「幕府公認の統治者である守護を圧迫する+将軍の上洛要請に応じない」は、どちらかというと朝倉の方が義昭に敵対している部分が大きいようにも感じます。

なので、後々の「信長包囲網」は別として、今の段階での信長の朝倉攻めは、ひょっとしたら義昭の意に沿った物であったのかも知れません。

とにもかくにも、こうして信長の朝倉攻めが決行されたわけですが、ここで、信長の妹(もしくは姪)お市の方を娶って織田と同盟を結んでいた(6月28日前半部分参照>>)はずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)朝倉側について織田軍に迫って来たのです。

そこで、挟み撃ち(北東=福井の朝倉と南西=滋賀の浅井)を恐れた信長は、配下の柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)池田勝正(いけだかつまさ)ら約6万の兵を本隊に見せかけて琵琶湖東岸を南下するふりをさせ、さらに木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)らに殿(しんがり=軍の最後尾)を命じて(4月28日参照>>)、自らは4月28日、佐久間信盛(さくまのぶもり)佐々成政(さっさなりまさ)など、わずかの側近だけを連れて撤退を開始し、琵琶湖西岸の山中を通り、途中、朽木谷(くつきだに=滋賀県高島市朽木)朽木元綱(くつきもとつな)を仲間に加えつつ、4月30日、無事京都に入りました。

ご存知、信長の生涯屈指の危機一髪=金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)です。

Kanegasakimoriyamaanegawa
金ヶ崎の退き口から姉川の戦いの位置関係図(日付入り)
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

当然、態勢を立て直すためには、一旦、本拠の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)へ戻らねばなりませんが、そこをチャンスとばかりに動き始めたのが、かの六角承禎です。

あの上洛の際に、本拠の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)を信長に落とされて(9月13日参照>>)からは、甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)伊賀(いが=三重県伊賀市)に身を隠していた六角承禎は、密かに近江に舞い戻り、機があれば攻撃せんと、かつては何度も刃を交えた宿敵(【箕浦合戦】参照>>)=浅井とも連絡を取り、本願寺の一向一揆にも声をかけ、残党たちをかき集め、すでに準備に入っておりました。

かくして元亀元年(1570年)5月6日鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市)に拠る六角承禎に扇動された一揆衆が、臍村(へそむら=滋賀県栗東市)にて蜂起し、織田配下の守山城(もりやまじょう=滋賀県守山市)に迫ったのです。

この時、守山城を守っていた織田方城将は稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)・・・その守りは万全で、守山の南口から焼き討ちをかけて来た一揆勢を、諸方面に撃って出て奮戦し、この1日で1200余の首を挙げて勝利しました。

こうして、守山の戦いに関しては事なきを得ましたが、当然の事ながら、これほどの危機一髪を、敵方も1度や2度で見逃すはずは無いわけで・・・

5月9日、京都を発った信長は、岐阜への帰路の道すがら、配下の諸将を各地に配置していきます。

まずは、浅井&朝倉の南下に備えて琵琶湖の西岸に構築した宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)森可成(もりよしなり)を置き、5月12日に瀬田城(せたじょう=滋賀県大津市瀬田)に入った後、翌13日には永原城(ながはらじょう=滋賀県野洲市永原)に入移って逗留し、そこを佐久間信盛に任せます。

さらに長光寺城(ちょうこうじじょう=滋賀県近江八幡市長光寺町)に柴田勝家を入らせ、安土(あづち)中川重政(なかがわしげまさ)を置いて、六角残党への備えを万全としてうえで、市原(いちはら=滋賀県東近江市)から千種(ちぐさ)街道越えで・・・途中の5月19日、甲津畑(こうづばた)にて、六角側から放たれた刺客=杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)の狙撃を受けながらも(5月19日参照>>)無事、5月21日に岐阜へと戻りました。

この間、京都にて朝山日乗(あさやまにちじょう)村井貞勝(むらいさだかつ)らによって、六角氏と和睦の話が進められていましたが、和睦が実現する事はありませんでした。

そのため、翌月の6月4日には、柴田勝家の守る長光寺城に六角承禎父子が迫り、あわや!という場面もありましたが、勝家の背水の陣での踏ん張りで何とか守り切ります(6月4日参照>>)

さらに、ここに来て、竹中半兵衛(たけなかはんべえ=重治)の働きによって、鎌刃城(かまはじょう=滋賀県米原市)堀秀村(ほりひでむら)と、長比城(たけくらべじょう=滋賀県米原市)樋口直房(ひぐちなおふさ)を、織田方に寝返らせる事に成功した信長は、北近江への障害が亡くなった事を確信し、

6月19日に、同盟を結んでいる三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)援軍を要請し、自らも岐阜城を出陣して、その日のうちに長比城へと入り、合戦の準備に入ります。

これが、ご存知、姉川の戦いです。
●【いよいよ姉川…小谷に迫る家康】>>
●【姉川の合戦】>>
●【姉川の七本槍と旗指物のお話】>>
●【遠藤喜右衛門・命がけの奇策】>> 
(↑チョチョイ内容かぶってう部分ありますが、お許しを…m(_ _)m)
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