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2020年5月14日 (木)

武田信虎VS海野棟綱~海野平の戦い

 

天文十年(1541年)5月14日、武田信虎勢が、信濃海野平にて海野棟綱ら滋野一党を撃破しました。

・・・・・・・

鎌倉時代から信濃(しなの=長野県)を本拠とし、室町幕府政権下では信濃の守護(しゅご=県知事みたいな?)であった小笠原(おがさわら)でありましたが、戦国時代になると徐々に、その支配力にも陰りが見え始め、地域の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)たちが群雄割拠する状況となって来ます。

そんな中で、東信濃の小県(ちいさがた=長野県上田市周辺)周辺では信濃村上(しなのむらかみ)との滋野(しげの)が激しく争い、そこに佐久(さく=長野県佐久市周辺)大井(おおい)を巻き込んでの争いが繰り広げられていたのです。

一方、その小県や佐久に隣接する甲斐(かい=山梨県)でも、守護の武田(たけだ)が、乱に巻き込まれて事実上滅亡し、一時は守護不在の乱戦状態だった中、

寛正六年(1465年)頃に第16代当主の武田信昌(たけだのぶまさ)が盛り返し、さらに、その孫にあたる武田信虎(のぶとら)が第18代当主となって武田家を継承し、やがて大永二年(1522年)頃に甲斐一国統一を達成します。

Takedanobutora500a その大永年間の信虎は、室町幕府政権下で関東管領(かんとうかんれい=鎌倉府の長官で鎌倉公方を補佐する・関東執事)を継承する上杉家(うえすぎけ=山内&扇谷)と、敵対新興勢力の伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき=北条早雲)を初代(10月11日参照>>)とする北条(ほうじょう)との戦いにも関与する一方で、

天文五年(1536年)頃からは東信濃方面にも手を広げ海ノ口城(うんのくちじょう=長野県南佐久郡南牧村)の攻略(12月28日参照>>)をはじめ、度々、息子の武田晴信(はるのぶ=後の信玄)とともに佐久に遠征し、天文九年(1540年)には、その大部分を服属させていたのでした。

また、この間に信虎は、これまで敵対していた駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)(10月16日参照>>)に対し、今川家内の後継者争い=花倉(はなくら)の乱(6月10日参照>>)に勝利して新たな当主となった今川義元(いまがわよしもと)と娘の定恵院(じょうけいいん)を結婚させて同盟を結んでいます。

そんな中、今川と同じく、これまで敵対していた小県の国衆=村上義清(むらかみよしきよ)や信濃の諏訪頼重(すわよりしげ)らと同盟を結んだ信虎は、

滋野三家(しげのさんけ=海野・根津・望月)を中心とする滋野一族が、あの関東管領の山内上杉(やまうちうえすぎ)を後ろ盾として、未だ小県や佐久にて抵抗している事を受け、義清&頼重らとともに、海野城( うんのじょう=長野県東御市)海野棟綱(うんのむねつな)を攻める事にしたのです。

前日に尾野山城(おのやまじょう=長野県上田市)を落城させた武田勢は、翌・天文十年(1541年)5月14日海野平(うんのたいら=長野県上田市)へ進出し、両者は、ここで激しい合戦となります。

棟綱嫡男の海野幸義(ゆきよし)が、この時の戦いで討死するほか、5月25日には海野側が総崩れとなり、やむなく海野棟綱は、上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)を頼って上野(こうずけ=群馬県)へと亡命・・・

父=棟綱とともに戦っていたとおぼしき息子の真田幸隆 (さなだゆきたか=真田頼昌の息子とする説もあり・幸綱ともは、長野業正(ながのなりまさ)を頼って箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)に亡命しました。

また、海野氏に味方していた滋野一族のうち、禰津元直(ねづもとなお)矢沢頼綱(やざわよりつな=綱頼とも)らは降伏して、この後は、武田の家臣として従う事になったので、禰津&矢沢ともに本領は安堵・・・

ちなみに、この矢沢頼綱は、今回敗戦して箕輪城に亡命した真田幸隆の弟だったとされ、降伏して配下についた事で、亡命した兄に代って本領に戻ったという事になります。

この頃は、山内上杉家とも同盟を結んでいた信虎ですので、これ以上踏み込む事は無く、5月の末日には陣を解き、合戦の慰労をかねて、娘婿の今川義元に会いに行く事に・・・

ところが翌月の6月14日、義元との面会を終えて、駿河から甲斐へ戻って来た信虎を、配下である武田の足軽たちが遮り
「お戻りになる事はできませぬ!」
と通せんぼ・・・

そう、この間に、息子の晴信によるクーデター(信虎追放)が決行されていたのです(6月14日参照>>)

しかたなく、その後しばらくは駿河に留まる事になった信虎・・・

しかし、このゴタゴタをチャンスと見たのか?
翌7月には、海野棟綱の依頼を受けた上杉憲政と長野業正が佐久に出兵し、諏訪頼重と同盟を結んでこの地を掌握・・・

このため小県も村上義清の支配する所となってしまいます。

Sanadayukitaka300a つまり、先の海野平の戦いには勝利したものの、晴信の父追放によって、村上義清や諏訪頼重や長野業正が武田晴信の敵に回る事になりました。

ただ、一方でこの状況に不満を抱いたとおぼしき真田幸隆は、しばしの流浪の後に晴信の家臣となり、武田二十四将の一人に数えられる名将になるのは、皆さま、ご存知の通り(幸隆については5月19日参照>>)・・・

かくして村上義清や諏訪頼重との同盟を破棄した信は、この後、彼らと雌雄を決する戦いに挑む事になります。
●天文十一年(1542年)諏訪攻略>>(VS諏訪頼重)
●天文十七年(1548年)上田原の戦い>>(VS村上義清)
●天文十九年(1550年)戸石崩れ>>(VS村上義清)
●天文二十二年(1553年)更科八幡の戦い>>(VS村上義清)
●永禄九年(1566年)箕輪城攻略>>(VS長野業正)

そして、このうちの村上義清との一連の戦いが、あの越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)との川中島(かわなかじま=長野県長野市)(【第一次川中島の合戦~布施の戦い】参照>>)につながっていく事になります。
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