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2020年6月18日 (木)

細川晴国の京都奪回作戦~仁和寺付近の戦い

 

天文二年(1533年)6月18日、京都を奪回すべく押し寄せた細川晴国細川晴元勢に迫った仁和寺付近の戦いがありました。

・・・・・・・

応仁の乱後に現室町幕府将軍を廃して自らの意のままになる将軍を擁立する明応の政変(4月22日参照>>)で以って、事実上政権を握った室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)の死後、

その後継は3人の養子=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)によって争われますが、その後継者争いに打ち勝った高国を、今度は澄元の遺児である細川晴元(はるもと)が破ります(【大物崩れ】参照>>)

これによって、高国が擁立していた第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)近江(おうみ=滋賀県)へと退き、晴元は自らの推す次期将軍候補=足利義維(よしつな=義晴の弟)&家臣の三好元長(みよしもとなが)とともに、将軍不在の京都に代って、(さかい=大阪府堺市)にて事実上の政権を握ったのです堺幕府については「晴元さんご命日」のページで>>)

己が政権を握ってしまえば、トップはどうでも良かったのか?
晴元は、自分が引っ張って来た義維を遠ざけ、高国派だった将軍=義晴との和睦を模索し始めた事により、これに怒った三好元長と対立する事になります。

しかし元長の持つ武力は膨大・・・分が悪い晴元が、ここで山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)に援軍を求めた事で、それが本願寺衆徒による一向一揆(いっこういっき)となって大暴れする事になるのです【飯盛山城の戦いと大和一向一揆】参照>>)

制御が効かなくなった一向一揆に困った晴元は、今度は京都市内にて勢力を誇る法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)に働きかけて法華一揆(ほっけいっき)を誘発させ、山科本願寺を焼き討ちに【山科本願寺の戦い】参照>>)・・・

本拠を焼かれた本願寺証如以下衆徒たちは、かつて蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が隠居所として建てた摂津(せっつ=大阪府北中部)大坂石山御坊(いしやまごぼう=大阪府大阪市・石山本願寺)へと移り、以後、ここを本願寺門徒の本拠に活動を続け、その後も度々、法華宗との小競り合いを続けていました。

この頃の京都&大阪周辺の情勢は「天下乱れて麻の如し」と称される程で、何度となく繰り返される争いに田畑を荒らされる周辺農民たちによる半済(はんぜい=年貢半納)求める徳政一揆(とくせいいっき)が頻発するあり様でした。

これに対しても、晴元は配下の者や法華宗徒の力を借りて、太秦(うずまさ)北山(きたやま)の集落を焼き払うなど、力づくの対処をしていましたが、それは当然、益々の混迷と乱れを生むことになります。

このゴタゴタをチャンスとばかりに立ち上がったのが、先の戦いで敗れた細川高国の弟(息子とも)と言われる細川晴国(はるくに)だったのです。

高国の死後、若狭(わかさ=福井県西南部)に潜伏していた晴国は、丹波(たんば=京都府中部&兵庫県東北部)波多野晴通(はたのはるみち)らの支援を受けて次期細川京兆家当主として擁立され、天文二年(1533年)5月頃から、丹波勢を率いて京都に侵攻して来たのです。

さらに、ここに来て石山本願寺を味方に引き入れた晴国は、天文二年(1533年)6月18日、京都の仁和寺(にんなじ=京都府京都市右京区御室)付近にて、晴元軍の京勢とぶつかります

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御室桜と五重塔(仁和寺)(参照>>)

この時、摂津河内(かわち=大阪府東部)和泉(いずみ=大阪府南部)方面にて戦闘を展開する一向一揆に対抗するために主力部隊を大坂方面に出陣させていたため、手薄となってしまった晴元軍の京勢は、たちまち劣勢となり、晴元の宿将=薬師寺国長(やくしじくになが)が討死・・・総崩れとなった晴元&法華門徒勢は痛い敗戦となりました。

京都を牛耳っていた法華衆徒の敗戦に市中は騒然となりますが、その雰囲気を払拭すべく、京都市街では、翌19日から連日に渡って法華宗の打ち回り(巡回警備)が続けられますが、24日には晴国率いる丹波勢が二条西洞院(にじょうにしのとういん)妙顕寺(みょうけんじ=現在は京都府京都市上京区)まで押し寄せて伽藍や塔頭(たっちゅう=大寺院に付属する寺)に放火して回り、防戦した法華門徒にも多くの死者が出ました。

この京都の異変を滞在中の大阪で知った晴元が、慌てて6月20日に本願寺証如と和睦して軍勢を収めたため、京都市中での戦いは次第に鎮静化して行き、法華門徒たちは晴国ら丹波勢から京都市内を自衛すべく動くようになり、益々京都市内は法華宗の牛耳る所となるのですが、

そこに「待った!」をかけるのが京都市中に多くの末寺をかかえる比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本)・・・

やがてそれは、京都市街を焦土と化す天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)(7月27日参照>>)へとつながっていく事になります。
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