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2020年7月14日 (火)

5千対2万…宇喜多直家一世一代の明善寺合戦~万灯会

 

永禄十年(1567年)7月14日、宇喜多直家により、明善寺合戦の死者を弔う万灯会を行う旨の命が下されました。

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猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)庄為資(しょうためすけ=荘為資) を倒して(2月15日参照>>)、史実上、備中(びっちゅう=岡山県西部)覇者となった三村家親(みむらいえちか)が、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)城主の浦上宗景(うらがみむねかげ)被官(ひかん=配下の官僚)であった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客の鉄砲にて暗殺されたのは永禄九年(1566年)2月の事。

その直後から、三村氏の本拠である成羽鶴首城(かくしゅじょう=岡山県高梁市成羽町)にて重臣たちによる弔い合戦の話が持ち上がりますが、当然、
「これを見過ごしては当家の恥辱!」
と息巻く者もおれば、
「時を見て事を起こすべき」
という慎重派もいて、なかなか議論が前に進みません。

そんな中、父の死を受けて後継ぎとなった次男の三村元親(もとちか)や、その兄弟たちも、即座の弔い合戦に積極的ではなかった事から、一族の中でもイケイケ派だった三村五郎兵衛(ごろうびょうえ)が、2ヶ月後の4月に、自らの一族だけで弔い合戦を決行しようと、50騎ばかりをしたがえて出陣・・・途中で加勢が増えたものの、わずか100騎に満たない兵を2手にわけて、宇喜多直家の拠る沼城(ぬまじょう=岡山市東区沼・亀山城とも)に向けて進軍します。

これを知った直家は、3000の自軍を3手に分けて迎え撃ちました。

決死の覚悟の三村勢は、少数ながら奮戦し、一時は優勢であったものの、やはり、多勢に無勢・・・やがて、宇喜多全軍が合流するに至って47人が討死し、100人以上が負傷する大敗となってしまいました。

Ukitanaoie300a この五郎兵衛との合戦は、他の三村勢が同調しなかった事で勝てはしましたが、この一件で危険を感じた直家は、かつて明善寺(みょうぜんじ=明禅寺)というお寺が建っていた上道郡(しょうとうぐん)沢田村(岡山市中区沢田)明善寺山の廃寺跡に砦を築き、再びの来襲に備える事にします。

ここは、おそらく、本拠の備中松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)から西国街道を東に向かい、南北に流れる旭川(あさひがわ)を渡って沼城に攻め寄せるであろう三村勢を俯瞰(ふかん)して見下ろせる事のできる高台・・・来る様子を見ながら迎え撃つ事もできれば、沼城を囲む敵勢を背後から挟む事もできます。

一方、直家が明善寺山に砦を築いた事を知った三村元親・・・先の五郎兵衛の時には出陣を渋った元親ですが、それはチャンスをうかがっていただけで、決して父の仇討を諦めていたわけではないですから、この砦構築のニュースを聞いて、元親の動きは俄然あわただしくなります。

まずは、岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市北区)金光宗高(かなみつむねたか)や、舟山城(ふやなまじょう=同加賀郡吉備中央町)須々木豊前守(すすきぶぜんのかみ)中島城(なかしまじょう=岡山市北区)中島元行(なかしまもとゆき)などを味方に引き込んで備中から備前南部にかけて宇喜多包囲網を構築して守りを固めたのち、

永禄十年(1567年)7月、三村方は、直家が構築したばかりの砦=明善寺城(明禅寺城)に襲いかかり、城下に火を放ったのです。

しかも、おりからの豪雨と烈風を利用した夜襲で、完全なる不意打ち・・・城中の兵は、まったくなす術なく、南側の山を越えて沼城に逃げるのみ・・・逃げ遅れた数十騎が討ち取られ、アッという間に明善寺城は占拠され、そこに、三村配下の禰屋与七郎(ねやよしちろう=根矢与七郎)薬師寺弥七郎(やくしじやしちろう)が入り、150人ほどの精鋭で以って立て籠もりました。

こうして明善寺城を奪われた宇喜多直家は、早速、策を講じます。

まずは、
「宇喜田は、近々、大軍を以って明善寺城を奪回するつもりだ」
との情報を、あえて流し、その情報とともに
「その時、金光&須々木&中島らの諸将は宇喜多に加担するらしい」
とのフェイクニュースを流します。

早速、これに反応した明善寺城の禰屋と薬師寺が、本拠・松山城の三村元親に援軍を要請します。

それを見て取った直家は、今度は、自らの使者を金光宗高に派遣し、
「今度、自ら兵を率いて明善寺城を攻撃するので、おそらく加勢に来るであろう三村の後詰(ごづめ=予備軍)を貴殿が先導して誘い出してもらいたい…そこで、一気に後詰の三村勢をも討つつもりである」
との要請をしたのです。

と言っても、実はコレも、ある意味フェイク・・・おそらく金光宗高が三村側に、この情報を流すであろう事を踏まえての要請で、直家自身が明善寺城奪回に乗り出せば、おそらく松山城にいる元親本人も動くであろうと・・・そして、そこで一気に三村氏自体をせん滅してやる!と。。。

案の定、この情報は金光から、元親の姉婿である幸山城(こうざんじょう=岡山県総社市)城主の石川久智(いしかわひさとも)のもとに伝えられ、そこから松山城の元親へ・・・今回の情報は先の禰屋&薬師寺からの援軍要請と符合する内容でもあり、早速、元親は、2万の大軍を率いて松山城を出陣し、宇喜多攻略へと向かうのです。

元親は全軍を3手に分け、兄の荘元祐(しょうもとすけ=穂井田元祐とも)の7000騎を右翼に、石川久智の5000を中軍に、自らが率いる8000の本隊を左翼に陣して全軍の抑えとし、進んで行きます。

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明善寺合戦要図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

迎える宇喜多直家・・・元親を引っ張り出す事には成功したものの、自軍はわずかに5000

まともにぶつかっては勝ち目に無い直家は、沼城を出ると自軍を5手に分け、自身は古都宿(こずしゅく=岡山県岡山市東区)に本陣を置いて、そこから南へ、目黒村 (めぐろむら=現在の岡山市東区目黒町付近)あたりまで一直線に5段構えに陣列を配置します

これは、まっすぐ沼城の方へ行かれては困るための抑えなわけですが、一方で敵の目を明善寺城に向けさせるため、最前線に配置した1隊に明善寺城を攻撃させ、わずかに一戦させてから、深く入り込まず小休止・・・そうしている間に、物見係から、三村勢が3手に別れて旭川を越えるべく向かっているとの報告が入ります。

先鋒右翼は金光宗高を案内人に富山城(とみやまじょう=同岡山市北区)の南から七日市(なのかいち=同岡山市北区七日市)
中軍は富山城の北を通り上伊福(かみいふく=岡山市北区上伊福町付近)へ、
元親の本隊は中島を道案内に津島(つしま=同岡山市北区津島周辺)から釣の渡し(つるのわたしー同岡山市北区三野付近)へ向かっているとの事。

敵勢が、それぞれ、旭川を渡るタイミングを見計らっていた直家は、
「それ!今だ!」
とばかりに、即座に古都宿の本陣を撤去し、一気に田畑を突っ切って明善寺城へ向かい、全軍で以って総攻撃を仕掛けます。

殿様自らが山を駆け上がる姿を見た宇喜多軍は奮い立ち、もとよりわずかな兵しかいない明善寺城を一気に焼き払い、瞬く間に占拠・・・城に上がる火煙によって方向を見失った禰屋与七郎&薬師寺弥七郎ら城兵は、ただただ逃げるしかありませんでした。

そんなさ中に、最初に旭川を渡って明善寺城近くに到着した右翼先鋒でしたが、最もややこしいタイミングで逃げて来た城兵と鉢合わせになったために、
「どないなっとんねん?」
と、戸惑っている間に、明善寺城を攻めるどころか、逆に宇喜多勢に蹴散らされてしまいます。

一説には、この時の退却戦で先鋒の大将だった荘元祐が討死したとも・・・(荘元祐の死については異説あり)

次に続いていた三村方中軍の石川久智は、原尾島(はらおしま=同岡山市中区原尾島付近)あたりまでやって来たところで、明善寺城から上がる炎を確認し、しかも物見係から
「味方は、すでに敗走している」
との知らせを受けて、
「今から明善寺城へ駆けつけても、おそらく奪回は不可能…
ここから、元親の本隊と合流して、ともに沼城を襲撃するのが得策だと思う」
と提案しますが、従う重臣たちの意見が合わず、なかなか方針が決まらない・・・

そんな決まらない中で、不意を突いて宇喜多軍が石川隊に向かって来たため、浮足立った将兵たちが一気に討たれ、やむなく中軍は旭川沿いの竹田村(たけだむら=岡山市中区竹田)付近まで退却を余儀なくされます。

一方、この日の午前10時頃に釣の渡しから旭川を渡河した本隊の元親は、このまま東へ進んで沼城を攻撃するつもりでしたが、四御神村(しのごぜむら=同岡山市中区四御神)あたりまで来たところで、右手の明善寺城が燃えているのを確認し、しかも先鋒どころか第2軍までが敗退して退却しつつある事を知ります。

動揺を隠せない将兵たち・・・もとより、足場の悪い湿地帯での行軍していた中で、後ろの方では引き返す部隊も出始め、行くと戻るの混乱の中、足を取られたり川に落ちる者まで登場し、全軍がどんどん騒がしくなってしまったため、元親は作戦を変更して南に向かう事に・・・

上記の通り、本来なら沼城防備のためには絶対に外せない古都宿の守りを、直家は撤去しているわけですので、実際には、このまままっすぐ行って殿様が留守となった沼城を攻撃すれば、たやすく落とせたのかも知れませんが、それを知らぬ元親は、残念ながら古都宿を目の前にして本隊を明善寺城方面=南へと方向転換してしまったわけです。

この本隊の動きを知った直家は、本陣を高屋村(たかやむら=岡山市中区高屋)に移動させ白兵戦の構えを見せます。

まずは岡家利(おかいえとし・岡剛介だったとも)ら率いる強豪勢を最前線に配置し、後陣に先ほど荘元祐らを破った精鋭部隊と弟=宇喜多忠家(ただいえ)の部隊を控えさせます。

そこにやって来た三村元親ら本隊・・・
「宇喜多はにっくき父の仇!」
と息巻く元親は、宇喜多勢の旗印を見るなり、田んぼも畑も畔も溝も関係なく、一直線に宇喜多の陣目掛けて突進して来たため、その勢いに最前線が押されて崩れかかりますが、

そこに、いつの間にやら迂回して、三村本隊の両側に回っていた宇喜多の後陣が、側面から三村本隊に斬りかかった事で、押されていた最前線も持ち直したところに、すかさず直家本隊が前に進んで、結果的に三村本隊は三方から攻撃を受ける事になり、いつしか元親の自身までもが危うい状況になり、たちまち三村勢は後退をし始めます。

この状況に起こった元親は、討死覚悟で先頭を切り、単騎で敵陣に駆け込もうとしますが、さすがに家人に止められ、ムリヤリ家人が馬の轡(くつわ)を取って馬を西へと向けたため、元親もやむなく撤退・・・総崩れとなった三村勢は、何とか竹田村まで敗走しました。

宇喜多勢は、これを追撃し、多くの首を挙げましたが、直家は旭川の手前で、これ以上追撃を止め、素早く軍をまとめて撤退・・・一方の三村勢は、釣の渡しから川を渡り、本拠の松山城へと戻りました。

今回の明善寺合戦は複数の文献に「永禄十年(1567年)7月」の事と記録され、細かな描写の違いはあれど、おおむね、このような流れとなっていて、いずれも少数の宇喜多軍が、大軍の三村軍を総崩れにさせた事から「明善寺崩れ」と称されます。

中でも『明善寺合戦記』では、
「…直家承り 即ち大勢の僧を供養し
討死仕ける諸勢の亡魂を弔ひける
これに依って浮田より湯迫村辺の民に申付られ
毎年七月十四日十五日の夜
右湯迫村北後の山に万灯として数多くの火を灯し
生霊を弔給ふ
是より今にいたり 惰(おこた)らず…」
と、

この合戦によって多くの死者が出た事に気を病んだ直家の命により、地元の村では毎年7月14日と15日の夜に「万灯会」が行われるようになったと記されています。

おそらくは、この永禄十年(1567年)7月14日に合戦があったか?
あるいは、それに近い日にちに合戦があり、お盆に合わせたのか?

いずれにしても、この戦いによって名を挙げた宇喜多直家は、この7年後の天正二年(1574年)に西国の雄毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)備中侵攻に乗り出した事で勃発する備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)の混乱の中で、主家の浦上を破って独立を果たし(4月12日参照>>)、さらに織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)と絡む、戦国の大大名になっていく事になります。

それにしても、謀略や騙し討ちや暗殺など・・・いわゆる「きたない手」がお得意の宇喜多直家が、珍しく(笑)正攻法で、しかも、何倍もの大軍を破った一世一代の合戦でしたね。

★このあとの宇喜多直家関連
 ●宇喜多直家の備中金川城攻略戦~松田氏滅亡
 ●美作三浦氏~尼子&毛利との高田城攻防戦の日々
 ●備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親自刃
 ●主君からの独立に動く宇喜多直家~天神山城の戦い
 ●信長に降った宇喜多直家VS毛利輝元~作州合戦
 ●織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦
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