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2020年12月24日 (木)

長篠の後~武田から城奪回作戦の家康…光明城と二俣城の戦い

 

天正三年(1575年)12月24日、かつて武田信玄に奪われた二俣城を徳川家康が開城させました。

・・・・・・・・

二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二俣町)天竜川二俣川に挟まれた天然の要害を利用した堅城ですが、もともとは、戦国の初めの斯波(しば)との戦いのために今川(いまがわ)の家臣であった松井(まつい)(松井宗信?)が構築したとされます。

つまり、今川配下の城でした。

ところが、永禄三年(1560年)5月19日に起こった桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市もしくは名古屋市緑区)の戦いで、海道一の弓取りと呼ばれた大物=今川義元(いまがわよしもと)尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に敗れて討死した(5月19日参照>>)事で、大黒柱を失った今川に陰りが見え始めます。

それでも二俣城主の松井宗恒(まついむねつね=宗信の息子)は、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に仕える忠臣だったわけですが、そこに、信長の仲介によって、三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の間に「今川の領地の西半分の遠江(とおとうみ=静岡県西部)を德川が、東半分の駿河(するが=静岡県東部)を武田が切り取る(武力で奪って治める)約束が交わされ、永禄十一年(1568年)の12月に信玄が今川の本拠である今川館(静岡県静岡市・後の駿府城)攻撃し(12月13日参照>>)、氏真が慌てて逃げた先の掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を家康が攻撃する(12月27日参照>>)という見事な連携プレーで翌永禄十二年(1569年)5月、今川を滅亡に追い込みました。

しかし、これは掛川城を攻めあぐねていた家康に、信玄との戦闘を繰り返していた(1月18日参照>>)相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)が声をかけて、自らの息子=北条氏直(うじなお)今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配権を握るという条件で德川と北条の間に結ばれた同盟のもとに行われた無血開城によってもたらされた今川滅亡だった事で、駿河を取るつもりだった信玄は激おこ・・・信玄は北条はもちろん、織田&德川とも決別します(7月12日参照>>)

一方、今川の滅亡を受けた二俣城の松田は、一旦は信玄の従属する道を選びますが、すでに引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・後の浜松城)まで手に入れている(12月20日参照>>)德川軍からの攻撃にさらされ、やむなく降伏・・・つまり、ここで二俣城は德川の配下となりました。

その後も、信玄は、東の北条と国境線を争う(【三増峠の戦い】参照>>)一方で駿河での領地拡大(【蒲原城奪取!】参照>>)(【深沢城攻防】参照>>)にも転戦する日々でしたが、やがて元亀三年(1572年)、その目は西へと向きます。

Hitokotozakasinrozucc有名な武田信玄の西上作戦(せいじょうさくせん)です。
信玄の進路図
クリックしていただくと大きいサイズで開きます

「最終目標は上洛だった?」とも言われる武田軍の西への遠征で、武田と戦う家康は、一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)で敗れ(10月13日参照>>)、二俣城は奪い返され(10月14日参照>>)、有名な三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)でも不名誉な敗北(12月22日参照>>)・・・

ところが、年が明けた元亀四年(1573年)の1月、さらに西の野田城(のだじょう=愛知県新城市)攻防戦(1月11日参照>>)を最後に武田軍本隊は甲斐へとUターン(別動隊は3月に岩村城を攻撃してます>>)・・・そう、御大信玄が病に倒れ、そのまま、3ヶ月後4月に亡くなってしまったのです。

亡くなる際の信玄の遺言では「3年隠せ」(4月16日参照>>)と言われた信玄の死ですが、そこは、スパイ=忍者大国戦国日本、意外に早く、周辺の武将にバレていたようで・・・

というか、家康の場合は、信玄の死の2ヶ月後の6月に、当時は武田の傘下であった作手城(つくでじょう=愛知県新城市・亀山城とも)奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)信昌(のぶまさ=当時は貞昌)父子が德川に寝返った事によって信玄の死を知り、すかさず3ヶ月後の天正元年(元亀4年から改元=1573年)の9月、武田方の長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)奪い取ったのです(長篠城の戦い>>)

ちなみに、この時に德川に奪われた長篠城を、信玄の後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)が取り返しに来るのが、教科書にも載る有名な「長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦い」なわけですが(長篠設楽原の戦い>>)・・・

そうです・・・この時期、石山合戦や中国攻め等々、何かと信長の動きが激しくて後回しにされがちですが、

勝頼×家康(時々信長)の間では、先の信玄の死をキッカケに、武田が滅亡する甲州征伐まで、上記の長篠城争奪戦のような「駿河⇔遠江・取ったり取られたり大決戦」が繰り広げられる事になるのです。

とりあえず、時系列で並べると…
天正元年(1573年)9月:家康が長篠城奪取>>
●天正二年(1574年)5月:勝頼が高天神城奪取>>
●天正三年(1575年)5月:有名な長篠設楽ヶ原>>
● 同       6月:家康が光明城奪取
● 同       8月:家康が諏訪原城奪取>>
● 同      11月:信長が岩村城奪回>>
● 同      12月:家康が二俣城奪回(←今日ココ)
●天正七年(1579年)9月:家康が持船城奪取>>
●天正九年(1581年)3月:家康が高天神城奪回>>
●天正十年(1582年)2月:信長が甲州征伐開始>>
● 同       3月:勝頼自刃で武田滅亡>>

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(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

で、こんな感じの大まかな流れの中
(話が前後したうえに経過説明に時間かかって恐縮です)
本日は、天正三年(1575年)12月24日第2次二俣城の戦い・・・

先の信玄の西上作戦の時に奪われた二俣城を、家康が奪回する戦いです。

・‥…━━━☆

上記の通り、
信長との強力タッグで天正三年(1575年)5月の長篠設楽ヶ原の戦いで武田勢を撤退させる事に成功した家康は、亡き信玄に奪われたままになっている二俣城の奪回に乗り出します。

まずは、その拠点となるべき付城(つけじろ=攻撃拠点とするための砦)として
毘沙門堂砦(びしゃもんどうとりで=静岡県浜松市天竜区二俣町)
鳥羽山城(とばやまじょう=同天竜区二俣町鹿島)
蜷原砦(になはらとりで=同天竜区二俣町二俣)
和田ヶ島砦(わだがしまとりで=同天竜区渡ヶ島)
4か所を構築して二俣城を取り囲んだかと思うと、

先の設楽ヶ原から、わずか1ヶ月後の6月24日、武田傘下の将=朝比奈又太郎(あさひなまたたろう)が守る光明城(こうみょうじょう=同天竜区山東字光明山・光明寺跡)を急襲します。

まずは大手に当たる仁王堂口から本多忠勝(ほんだただかつ)榊原康政(さかきばらやすまさ)らが攻め上り、元本堂の北側に残っていた鏡石に目印となる德川の旗を立て、次に本隊が城の南側から、別動隊が西と北から…と三方から同時に攻め込まれたため、朝比奈は城を守り切れず降伏・・・一命を許されて、甲州方面に向かって落ちていきました。

そして7月には、武田傘下として遠江北部で勢力を誇っていた犬居城(いぬいじょう=同天竜区春野町堀之内)天野景貫(あまのかげつら)が德川の勢いに押されて城を退去・・・事実上の天野氏滅亡となり、二俣城は孤立していきます。

さらに1ヶ月後の8月24日、家康は、武田譜代の家臣=今福友清(いまふくともきよ)が守る諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)を開城させ(8月24日参照>>)いよいよ二俣城は、全くの孤立無援の城となってしまいます。

この時、二俣城を守っていた依田信蕃(よだのぶしげ)・・・

この状況を知った武田勝頼からは、
「開城しても良い」
との連絡を受け取っていましたが、それが、勝頼の直筆でなかった事から、頑なに開城を拒んで籠城を決意したのでした。

しかし、もはや孤立無援となった城での籠城では、ほどなく先が見えて来るもの・・・

12月に入って和平交渉が開始され、家康側からは大久保新十郎(おおくぼしんじゅうろう・泰忠?)と榊原康政が代表人質として出て、籠城する依田側からは依田信蕃の弟の依田善九郎(ぜんくろう)源八郎(げんぱちろう)が出て、12月23日に開け渡しの一切云々が行われる事になりました。

しかし、23日当日は、あいにくの雨模様・・・
依田側から、
「雨の日に藁笠(わらかさ)かぶって城を出るのはカッコ悪いので、晴れた日にしてちょ」
との申し入れがあり、家康がこれを承諾したところ、

翌・天正三年(1575年)12月24日が見事に晴れ渡ったので、約束通り、代表で人質となった4名が二俣川あたりで対峙する間に、開け渡しが行われ、一切が終了した後、人質が、それぞれ返され、二俣城開城の全行程が終了と相成りました。

武田軍が去った二俣城は、家康の重臣=大久保忠世(ただよ)が城将として入り、以後は德川の城となりました。

ただし、本来なら二俣城を追われた依田信蕃は、先の朝比奈と同様に、武田の本拠である甲斐に戻るべきところを、なんと、未だ武田方の城として孤立状態となっている高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)へと入り、一戦交える気満々だったのだとか・・・

とは言え、
この高天神城で合戦が行われるのは天正九年(1581年)3月の事(【第3次高天神城の戦い】参照>>)・・・まさに、武田滅亡のカウントダウンが始まった頃でした。
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