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2021年1月27日 (水)

謎の死を遂げた秀吉の甥っ子~大和郡山城主・豊臣秀保

 

天正十九年(1591年)1月27日、養父の秀長の死を受けて、家督を継いだ豊臣秀保が大和郡山城主となりました。

・・・・・・・

豊臣秀保(とよとみのひでやす=羽柴秀保)は、豊臣秀吉(ひでよし)の姉である(とも=日秀尼)と元農夫の三好吉房(みよしよしふさ=弥助)との間に三男として天正七年(1579年)に生まれました。

長兄に豊臣秀次(ひでつぐ)、次兄に豊臣秀勝(ひでかつ)がいます。

上の兄たちとは10歳も年が離れており、計算上、智さんが46歳の時に産んだ子供になる事から、一説には「養子ではないか?」との話もありますが、兄たちと同様に、秀吉の後継者の一人として昇進をしている事実をを見ると、やはり、「身内だった(血縁関係があった)から」と思われます。

…で、先の、長兄の秀次が生まれたのが永禄十一年(1568年)で次兄の秀勝が生まれたのが翌年の永禄十二年(1569年)・・・

秀吉の年表>>で言うと、
秀次誕生の前年が、
秀吉の主君である織田信長(おだのぶなが)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市…後の岐阜城)を陥落させた(8月15日参照>>)年で、
その翌年が信長の伊勢北畠(きたばたけ)攻め(8月26日参照>>)
さらにその翌年は、信長危機一髪だったあの金ヶ崎の退き口(4月28日参照>>)・・・といった具合。

ご存知のように稲葉山城攻めでは搦手(からめて=側面)の崖を駆け上がり、北畠攻めでは先手を担い、金ヶ崎の退き口では殿(しんがり=最後尾)を務めて大活躍する秀吉ですが、この頃は、まだ、そこまでの武将ではありません。

と言うのも、後に天下人となる事から、その出自や正室のおね(寧々・禰)さんとの馴れ初めなど、色々と文献に登場する逸話が語られる事になりますが、実は、ちゃんとした公式文書に秀吉の名が登場するのは永禄八年(1565年)11月2日付けの知行安堵状(坪内文書)が初で、それ以前の事は、あくまで逸話の域を越えない話なのです。
(もちろん、色々と活躍していたから徐々に出世して行ってるんだと思いますが、墨俣の一夜城>>なんかもあくまで逸話です)

そんな中で、信長が浅井(あざい)朝倉(あさくら)と対峙した元亀元年(1570年)の姉川の戦い(6月28日参照>>)の翌年に、浅井方の磯野員昌(いそのかずまさ)を寝返らせて佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を開城(2月24日参照>>)させ、その北に位置する横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を守り、言わば対・浅井長政(あざいながまさ)最前線を担った事で(箕浦の戦い>>)、天正元年(1573年)8月に浅井が滅亡した時(8月27日参照>>)、その功績によって、秀吉は長浜城の城主=城持ちになったわけです(3月19日参照>>)

ちなみに、秀吉が織田家の重臣である丹羽長秀(にわながひで)柴田勝家(しばたかついえ)のような立派な武将になりたい」として、その名を木下秀吉(きのしたひでよし)から羽柴秀吉(はじばひでよし)に変えたとされているのが、この長浜城入りの前年です。

つまり、兄の秀次や秀勝が生まれたのはこの頃・・・どんどん出世街道を歩いていてメッチャ下っ端というわけではありませんが、かと言って、まだまだ上には大勢いる、未だ出世途上の段階だったわけです。

しかし、その後、天正五年(1577年)に、最終目標は西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)という、あの中国攻めの大将を命じられ、その10月には但馬(たじま=兵庫県北部)を攻略>>して、翌月には上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を落とし>>、さらに翌月に福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)>>破竹の勢いで西へ進み、この頃の秀吉は、あの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)も従えています。

そして秀保が生まれるのは岡山宇喜多直家(うきたなおいえ)を懐柔し(10月30日参照>>)、長かった三木城(みきじょう=兵庫県三木市)をようやく陥落させた>>まさに、その頃だったわけです。

要するに、兄二人と違って、秀保は、生まれながらに秀吉の後継者の一人=若様として育てられたのです。

なので天正十六年(1588年)に、わずか10歳で侍従(じじゅう=高貴な人(後陽成天皇?)の世話係)に任じられています。

しかし、その2年後の天正十八年(1590年)に、豊臣政権を支えていた秀吉の異父弟=豊臣秀長(ひでなが=小一郎)が病床につき、快復祈願も空しく、翌・天正十九年(1591年)の1月22日に、未だ男子の跡取りがいないまま、居城の郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)にて病死(1月22日参照>>)してしまったため、

その5日後の天正十九年(1591年)1月27日、わずか4~5歳の幼児であった秀長の娘=おみや(おきく)と祝言を挙げ、婿となった秀保が 養嗣子(ようしし=家督相続人となる養子)として秀長の後を継ぎ、郡山城の城主となったのです。

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大和郡山城址

実は、生前の秀長は、かの丹羽長秀の三男を養子に迎えていたのですが、それを押しのけての、今回の秀保の 養嗣子・・・やはり、それは「血筋を重んじて…」の事と考えられ、これもあって、冒頭の「秀保養子説」は否定され気味なわけですが・・・

こうして秀長の後を継ぐ事になった秀保ですが、未だ13歳の若さあった事から、秀長時代からの家老であった藤堂高虎(とうどうたかとら)桑山重晴(くわやましげはる)が、引き続き家老として秀保をサポートする事になります。

翌年の天正二十年(12月に文禄に改元=1592年)には従三位(じゅさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)の官位を授かり、その年に起こった文禄の役(ぶんろくのえき)(3月17日参照>>)では本陣となる名護屋城(なごやじょう=佐賀県唐津市)の普請にも加わり、1万5千の大軍を率いて参陣しています。
(ただし、未だ若年のため、実際に渡海して朝鮮半島で奮戦したのは藤堂高虎ら)

ちなみに、この文禄の役では、
長兄の秀次は、関白(かんぱく・天正十九年12月に秀吉の後を継いで就任)として京都の聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)にて内政をこなし、
次兄の秀勝は、出征中の朝鮮巨済島(きょさいとう=コジェ)にて病にかかり、そのまま天正二十年の9月に戦病死してます。

それまででも、秀保は、秀吉の後継者として秀次に次ぐ「ナンバー2」とされていましたが、上記の通り次兄の秀勝が亡くなった事で、ますます、その傾向が高まり、

一説には、朝鮮出兵した秀吉は「大陸を征服したあかつきには、後陽成(ごようぜい)天皇に(みん・中国)の皇帝になってもらい、秀次を明の関白にし、秀保に日本の関白を任せようと考えていたとも言われます。

文禄二年(1593年)の8月には、秀吉と、側室の淀殿(よどどの=浅井茶々)との間に豊臣秀頼(ひでより)が生まれますが(8月3日参照>>)、それでも翌年・文禄三年(1594年)2月27日に行われた吉野の花見(2月27日参照>>)では、徳川家康(とくがわいえやす)前田利家(まえだとしいえ)など名だたる武将とともに、秀次ともども、秀保も出席していて、未だ秀吉の期待が大きかった事がうかがえます。

ところが、その翌年の文禄四年(1595年)4月16日突然、秀保は17歳の若さで急死していまいます。

信憑性の高い一級史料である『駒井日記』には、
4月のはじめに天然痘(てんねんとう=疱瘡)か麻疹(ましん・はしか)によって体調を崩し十津川(とつかわ=奈良県吉野郡十津川村)にて療養のために温泉で湯治をしていたものの、4月10日から病状が悪化し、曲直瀬正琳(まなせまさよし=曲直瀬道三>>の弟子)ら複数の医師の治療によって14日には一時的に回復したものの、翌・15日に再び悪化し、16日に帰らぬ人となった・・・

と、ある事から、おそらくは病死というのが正しいのでしょうが、そこは、当然、様々な憶測が飛び交う事になります。

そうです。
秀保の死から、わずか2ヶ月後の6月末、兄の秀次に突然、謀反の疑いが持ち上がり、詰問の末、7月8日には官位をはく奪されて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に送られ、文禄四年(1595年)7月15日に、秀次は切腹させられるのです。

この「秀次切腹事件」の要因には、謀反の他にも、
罪のない領民を的にして射殺したとか、
妊婦を見つけてはその腹を裂いたとか、
殺生禁止の比叡山へ出かけては狩りを楽しんだ
といった乱行が発覚し「殺生関白」などと呼ばれて・・・なんて事も言われていますが(2007年7月15日参照>>)

実は、これと同じような話が秀保さんにもあります。

殺生禁止の猿沢池(さるさわのいけ=奈良県奈良市)法隆寺(ほうりゅうじ=奈良県生駒郡斑鳩町)の池で魚を捕って食べたり、
罪の無い庶民を殺害しまくったり、
定番の妊婦の腹を裂く行為(←は武烈天皇>>の時代からの悪の定番)

また、十津川での療養中に、散策していた滝の周辺にあった高い崖にて、側にいた小姓に向かって
「飛び降りてみろや」
と命令した事で、怒った小姓が秀保に抱き着いて、そのまま二人で崖を飛び降り水死した・・・なんて話もあります。

つまりは、
兄の秀次同様に、秀保も・・・
秀頼という実子が生まれた事によって、
「将来、息子と後継者争いになるのではないか?」
と感じた秀吉によって、あらぬ疑いをかけられて抹殺されたのではないか?
という憶測を呼ぶ事になり、後世に書かれた文献では、ある事無い事ゴチャ混ぜな逸話が散乱する事になったわけです。

今でも、ドラマや小説等では、この流れで描かれる事、ありますよね~

しかし、最近では、特に、秀次さんに関しては、そうではない説が囁かれるようになりました。

そもそも、謀反が原因なら、切腹ではなく処刑されるはずですし(家族は処刑されてますが>>)、一昨年(2019年)の8月には、
秀次の死の3ヶ月前に書かれた「秀次を大和(やまと=奈良)の国主にしたい」という内容の秀吉の書状が見つかった(2019年の新発見>>)事もあり、

今では、秀吉抜きで、周囲の家臣らが先々の後継者争いを懸念して秀次を追い込み、その仕打ちに心を病んだ秀次が、自ら高野山へ逃避行して、切腹=自殺したのではないか?
とも、言われるようになりました。

なので、秀保さんの場合も、単に病気が悪化して亡くなったのであろうと思われますが、秀次&秀勝&秀保の三兄弟全員が、わずか4年の間に亡くなってしまうのは、やはり、「何かあったのか?」と勘ぐってしまいますね。

しかも、この秀保の死によって、秀吉の右腕として活躍した弟の豊臣秀長の家系=大和豊臣家が断絶してしまうのですから、何とも悲しい事ですね。
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2021年1月25日 (月)

背中押されまくりの大河ドラマ『麒麟がくる』第42回「離れゆく心」の感想

 

ドラマの中では、いっこうに丹波攻略に行かない長谷川光秀が心配な大河ドラマ『麒麟がくる』第42回「離れゆく心」の感想です。

確かに、明智光秀有岡城に籠城した荒木村重の説得に行ってますが…
(12月8日のページの真ん中あたり参照>>)

だとしても、主君にナイショ(っぽい)敵対中の毛利の庇護を受けてる滝藤公方様に会いにいっちゃうって・・・
しかも、のんびり釣をしながら、
「京へお戻りになりませんか?」
「信長様は私が説得します!(キリッ)
って、
公方様が
「信長のいる京には戻らぬ」
と断ってくれたから良かったものの、
これまた勝手に無理な約束を・・・

しかも、
これまで何度も、秀吉GPSで行動がバレっちゃってるんやから、またぞろ染谷信長様にバレちゃうんじゃないか?とハラハラしましたがな。
(どうやら、今回はGPSつけてなかったらしいww)

ところで、今回の荒木村重の寝返りの原因は
「配下を追い込んだ」
「配下への目が行き届いていない」
的な言い分で蔵之助秀吉を上から目線で責め立ててた光秀さん・・・

確か・・・
最初は味方だった八上城波多野さんは、アナタの黒井城攻撃の真っ最中に寝返ったんじゃ無かったでしたっけ?
【黒井城攻防戦】参照>>)
【八上城攻防戦】参照>>)
これも、よく似た物だと思うが…ドラマでは、なぜか絶賛合戦中のはずのそこはスルー

そんな中、反旗を納めない村重の息子から離縁されて戻って来る光秀の長女=ちゃん。。。
そんなに泣かないで!~アナタには左馬ちゃんがいるわよ~と言わんばかりに間宮左馬助のアップへ…

と、そこへ、村重の有岡城へ総攻撃をかける決意をした染谷信長が
「荒木の家中、女子供ひとり残らず殺せ!」
と、これまた、いかにも鬼畜な雰囲気でしたが、、、

確かに、村重の妻子や一族郎党が皆処刑されてます(12月16日参照>>)
これって、村重だけ逃げちゃった事が少なからず影響してませんかね?

なんせ、この後、村重は花隈城でも一戦交え(3月2日参照>>)
最終的に毛利んとこまで逃げちゃってますが、花隈城攻防での信長さんは、
「すんなり明け渡すんやったら妻子の命は助ける」
ってな、お優しきご発言をなさってますので…

そんな中、ひっそり登場の岡村菊丸さんのお誘いで、風間家康に会いに行く光秀・・・
(…て、また丹波攻めせんとステイホームしてるやん)

新説をどんどん取り込んでいくはずだった今年の大河ですが、
ここは昔ながらの家康妻=築山殿と息子=信康への信長の殺害命令・・・
【築山殿の殺害】参照>>)
【信康の自刃】参照>>)
やっぱり、信長を鬼に描くなら、この逸話は外せませんな~って感じですか?

…にしても、
毛利水軍との勝利戦に上機嫌の信長から、
ス~っと表情が変って、
「天皇は何と言ったか?」
と聞きながら激高して光秀を打つ・・・

染谷さんの、この心の動きの表現が素晴らしかった~
もちろん長谷川さんも、、、俳優さんたちの演技が見事でしたね~

ところで・・・
先週の
玉三郎天皇様の「信長が道を間違えぬよう見届けよ」
に続き、今週は、
荒木村重の(信長は)国衆がワシから離れていくのを、素知らぬ顔で見てる」
滝藤公方様の「信長のいる京には戻らぬ!そなた一人の京なら…」
風間家康の(信長が)あまりに理不尽なら己を貫く」
そして
染谷信長さん自身の光秀への叱責・・・
はたまた
門脇駒さまの「十兵衛なら麒麟を呼んで来れるかも(by公方)

さらにとどめを刺すがの如く来週の予告にて
川口帰蝶さまの「毒を盛る」

…て、どんだけ背中押すねん!

片思いの相手を目の前にした中学生が
「ほら、告って来いよ」
「今がチャンスだよ」
「大丈夫だって~」
と、仲間から背中を押され、

ハリきって告白したのに
秒でフラれた時、

ちゃんとフォローしたげてよ、、、君たち。

くれぐれも知らん顔して、秀吉のなすがまま放置するような事はやめてあげてネ!

と、皆々様のあまりの背中押しに、この先起こる本能寺の変の後の事が、オバチャン心配になって来ましたわ。

いや、もとい・・・来週も楽しみになって来ましたわ。
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2021年1月20日 (水)

里見義堯と久留里城~北条との戦いの日々

 

永禄三年(1560年)1月20日、北条氏康に攻められた里見義堯が上杉謙信に救援を依頼しました

・・・・・・・

久留里城(くるりじょう=千葉県君津市久留里 )は、室町時代中期に上総(かずさ=千葉県中部)武田(たけだ)の祖=武田信長(たけだのぶなが)が構築した城でしたが、その後に、子孫の真里谷(まりやつ)に受け継がれるものの、戦国の動乱の中で安房(あわ=千葉県南部)を本拠とする里見(さとみ)の城となっていました。

やがて、あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)伊豆討ち入り(10月11日参照>>)堀越公方(ほりごえくぼう=静岡県伊豆の国市堀越を本拠とした)足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)倒した後に小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取して本拠とし(2月16日参照>>)て以来、徐々に関東へと勢力を伸ばして来る北条(ほうじょう)と、関東の覇権を巡って度々の衝突を繰り返していた里見・・・
●大永四年(1524年)1月:江戸城高輪の戦い>>
●大永六年(1526年)11月:鶴岡八幡宮の戦い>>

そんな中、古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした)足利高基(あしかがたかもと)晴氏(はるうじ)父子を看板に関東支配を目論む北条氏綱(うじつな=早雲の息子)に対し、小弓公方(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城を本拠とした)足利義明(よしあき=高基の弟)を担いで対抗する里見義堯(さとみよしたか)は、

天文七年(1538年)10月の国府台(こうのだい・千葉県市川市)の戦いに敗れて足利義明を失った(10月7日参照>>)事を受けて、これまでの稲村城(いなむらじょう=千葉県館山市)から久留里城へと本拠を移し、着々とその整備に勤しみ(現在残る曲輪の跡などはこの時の物と見られています)、もはや、公方という看板無しでの関東支配に乗り出します。

これに脅威を感じた北条氏康(うじやす=氏綱の息子)は、娘婿の北条綱成(つなしげ・つななり)に命じて有吉城(ありよしじょう=千葉市緑区おゆみ野)を構築して里見の侵攻に備えます。

一方、この状況に、里見をせん滅せんと撃って出た椎津城(しいづじょう=千葉県市原市)真里谷信政(まりやつのぶまさ=武田信政)らは、天文二十一年(1552年)11月、逆に、里見からの激しい攻撃を受けて敗北・・・真里谷武田家は滅亡します(11月4日参照>>)

こうして、真里谷氏が滅亡してから後も北条氏康は、天文二十三年(1554年)の11月を皮切りに、約3年間に渡って度々渡海し、
「敵を討ち取った者には太刀を与えよう」
「敵地の様子や秘密事項を入手した者には望みの知行地や引き出物を与える」
などと触れを出し、現地の土民たちをも動員して里見への攻撃を繰り返しますが、結局、久留里城を落とせないままでした。

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↑久留里城周辺の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄三年(1560年)に入って、北条が久留里城近くに新たに城を構築し、そこに続々と兵を投入して、まさに一触即発の状況となった永禄三年(1560年)1月20日、里見義堯は家臣の正木憲時(まさきのりとき)から上杉家臣の北条高広(きたじょうたかひろ)を通じて越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)救援を依頼するのです。

これを受けて直ちに出陣した謙信・・・越後の大物の、この速やかな来援のおかげで、北条はここで戦わず、一部の兵を置いて引き揚げていったのでした。

しかし、4年後の永禄七年(1564年)1月の第2次国府台の戦いにて里見義堯&里見義弘(よしひろ=義堯の息子)父子は北条に敗れてしまい(1月8日参照>>)、その勢いのまま侵攻する北条氏康に椎津城や小糸城(こいとじょう=千葉県君津市・秋元城とも)をも落とされ、上総深くまで入り込まれてしまいます。

さらに、その年の10月初めには、かの国府台から逃げ帰った義堯の拠る久留里城を北条軍が囲んだのです。

残念ながら、戦いの詳細や、いつ久留里城が落ちたのか?という記録が無いため、落城の日付を知る事はできませんが、永禄七年(1564年)10月7日の日付にて北条氏康が、小田小太郎(おだこたろう=小田氏治?11月3日参照>>久留里城の城将に据え
「もし、ここを守って忠誠を尽くしてくれたなら本国の常陸(ひたち=茨城県)に戻れるようにする」
との約束を交わしたという記録が残っていますので、おそらく、その頃には、すでに久留里城は開城されていたものと思われます。

ただし、ここで里見が滅ぶ事はなく、再び久留里城を奪回しています。

これまた詳細な記録が無いので曖昧ではありますが、永禄十年(1567年)9月の三船山(みふねやま=千葉県富津市と君津市・三舟山)砦の戦い(9月10日参照>>)の時には、再び里見義堯が久留里城を守っていますので、永禄九年(1566年)か翌十年頃には奪回していたものと思われます。

この後、里見の全盛期を築いた里見義堯は、天正二年(1574年)、68歳にて死去しますが、その死を迎えた場所も久留里城でした。

その死から3年後の天正五年(1577年)、義堯息子の里見義弘と氏康の息子=北条氏政(うじまさ)の間で和睦が成立し(房相一和)、北条と里見の長きに渡る戦いは終了する事になります。
(*ただし、この講和は小田原征伐で北条が滅亡するまで続いたという説と、わずか2年後に破綻していたという説があります)
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2021年1月18日 (月)

いよいよ、あと3回…大河ドラマ『麒麟がくる』第41回「月にのぼる者」の感想

 

月がキレイ&天皇玉さまがキレイ~
大河ドラマ『麒麟がくる』第41回「月にのぼる者」の感想です。

コロナのせいで合戦シーンが撮影できないぶん、セリフのやり取りで魅せる良い回でしたね。

丹波戦にて落城した武将たちを、免税確約で解放しちゃう、相変わらずの優しさ満載&平和好き長谷川光秀ですが、
なぜか蔵之介秀吉には相変わらずキツイなぁ。。。

まぁ、ドラマ内では敵役なので仕方ないのでしょうけど、
やっぱ、あの平蜘蛛の釜の一件は、個人的には、どうしても納得いかない。。。

「吉田久秀が光秀に釜を譲った事を秀吉がチクッて、信長様が不快に思われるよう仕組んだ
って光秀さん言ってたけど、
持ってるのに「知らない」と信長に言ったのはアナタの方で、
秀吉は主君に対して、知り得た情報を正直に話しただけですよね?

しかも、その情報を得た間諜(かんちょう=間者・スパイ)を、まるで「悪」であるかの如く・・・いやいや、戦略において間諜が最も重要な事は孫子の時代から有名>>でしょうが。。。

てか、自分もソレもどき(本人は家臣と言ってたが…)を使って秀吉がチクッた情報を得たわけでしょうが。。。

「申し上げれば不義理、申し上げねば不忠の極み」
って、おどおどしながら弁解した秀吉に
「こたびは貸しにしておく」
と、エライ上から目線で物言ってたけど、
何分か後に、まったく同じ事やってませんでした?

ソーシャルディスタンス完璧な大広間で、染谷信長に平蜘蛛の茶釜を見せながら
「知らぬと言いましたが、いたく後悔をいたしました」
「松永殿に勝った祝の品としてお納めいただければ幸い」

その後、平蜘蛛の釜という最上級の名物を持つ者は…
と、色々とごたく並べてはりましたが、
信長や、その周囲がまったく疑ってない中で、茶釜を持参したなら、その言い分も響きましょうが、

秀吉が報告→からの→信長が知ってる
事を光秀が気づいてから持って行ったのでは、ただの保身に映ってしまうのでは?

「久秀=(友人との)義理」

「信長=
(主君への)忠義」
を天秤にかけて、

「このままでは身が危ない」と信長に告白・・・したようにも、見えてしまいました。

たぶん、作り手側の方にはそういう意図はなく、私がイケズな考え方をしているだけなんでしょうが、ここは、そういうイケズな見方をゼロにするためにも、個人的には、信長以下全員が「釜は行方不明」と思っている中で、颯爽と光秀に持参していただきたかったです。

ま、最後の信長さんの「釜を売っちゃう」発言と、俳優さまたちの見事な演技&表情によって、ドキドキするようなやり取りに仕上がっていて、万事良かったですが。。。

それにしても、
玉三郎天皇さまと月の庭のシーンは美しい~

しかも、光秀が、あの坂本城にて熙子奥様とやり取りした「桂男」の話が出てきて・・・

月を見上げる天皇様、水面に映り込む月・・・

そんな中で、
「この後、信長が道を間違えぬよう、しかと見届けよ」
という、スゴイ勅命を、直々に受けちゃう光秀さん、、、

何週間前の天王寺砦>>から、信長さんが、とてつもないバカ殿になった事で、すでに本能寺への道筋は見えていましたが、ここに来て、更なるダメ押し・・・

おそらく、こうして、複数の道筋を展開しながら最終回に、向かうのでしょうね。

ところで、今回の大河・・・
滝藤公方様が京都を追われた後にも、ある程度の力を持っている事・・・

いや、ドラマの光秀のセリフだと
「公方様と戦っている」
状況である事を前面に押し出してくださるのはウレシイ・・・

以前、足利義昭さんのページ(古い記事で申し訳ないですが>>)で書かせていただいてるように、信長に京都を追われた後も、槙島1万石を領されて出家する天正十六年(1588年)まで、義昭さんは将軍としての慣例的な仕事はやってたし、

途中に秀吉が(将軍職を継ぎたいので)義昭さんの養子にして~」と頼んだ時もキッパリ断ってたわけですし、

そもそも、あの徳川家康の江戸幕府将軍>>や、13代:義輝亡き後の、14代:義栄将軍>>の時でもわかるように、征夷大将軍というものは朝廷からの「将軍宣下」によって決定するわけで、

朝廷から「お前アウト!」と言われるか、「自らが返上を願い出て朝廷に許される」とかしないと、「都を追われたから」とか「権力が無いから」で、将軍でなくなるわけではないのです。

将軍が存在する以上、幕府も存在してるはずです(実質的には影は薄いかも知らんが)

なのに、教科書等では、未だ 義昭が京都を追放>>された年=元亀四年(天正元年=1573年)に室町幕府滅亡になってる事が、個人的には引っかかっているんです。

もちろん、歴史には様々な考え方あるし、上記の通り、この年に元号が変ってる(元号は何かの節目に変わる物なので…)って事もあるので、あくまで個人的に引っかかってる事なんですが、

ただ、「元亀四年(天正元年=1573年)に室町幕府滅亡」と教科書に記載され、ドラマ等でも、京都追放後の義昭さんがほとんど描かれない事から、「ここ(1573年)で終わった」感がハンパない・・・

そんな中、今回、
「京都を追われた後も力持ってる」事をドラマにて表現してくださった事は、「元亀四年(天正元年=1573年)に室町幕府滅亡してない」派の私にとっては、ウレシイ限りです。

それにしても、
死亡フラグ立ったと思いきや、
見事にかいくぐって立ち去った岡村菊丸さん。。。
芦田たまちゃんの初々しい白無垢姿・・・
門脇駒さまがしおらしい、

また、
「弟を叱る」が→「殺す」
事になるのなら
「しかと見届けよ」が何になるのか??((;゜Д゜)ガクブル
(↑って本能寺になるんでしょうけどww)
・・・などなど

時間がない中で、クライマックスに向けての盛り上がりを感じさせた今回・・・来週も楽しみですね。

★ナレーションスルーになるであろう光秀の丹波戦
籾井城の戦い>>
福知山攻略戦>>
八上城攻防戦>>
黒井城・攻略>>
山家城の戦い>>
丹波平定の報告>>
 

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2021年1月13日 (水)

北条氏綱、武蔵江戸に進出~江戸城高輪原の戦い

 

大永四年(1524年)1月13日、江戸城内の太田資高の内応を受けた北条氏綱が、扇谷上杉朝興を高輪原で破り、武蔵に進出しました。

・・・・・・

関東に本拠を持ちながら、京都・室町にて幕府を開くことになった足利尊氏(あしかがたかうじ)は、嫡流の義詮(よしあきら=三男)の家系に京都で政務をこなす将軍職を、弟=基氏(もとうじ=四男)の家系に関東を支配する鎌倉公方(かまくらくぼう)を世襲していき、公方を補佐する執事(しつじ=後に関東管領)には上杉(うえすぎ=最初の頃は斯波・畠山)が継いでいくシステムとしますが、

やがて、第6代将軍=足利義教(よしのり)と第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)の頃になって将軍と鎌倉公方が対立し、永享十一年(1439年) の永享の乱(2018年2月10日参照>>)へと発展・・・さらにそれは結城合戦(4月16日参照>>)を経て、一旦、鎌倉公方は断絶状態に追い込まれるものの(2007年2月10日参照>>)、その後、その持氏の遺児=成氏(しげうじ)鎌倉公方に就任し、またぞろ亡き父が目指していたような独立色の強い関東支配を目標に将軍家と対立したため、鎌倉を追われて古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした事から)を名乗って大暴れしはじめます(9月30日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

それに対抗して、幕府は将軍=義教の息子である足利政知(まさとも)を、公式の鎌倉公方として関東に派遣しますが、関東が動乱のために鎌倉に入れず、やむなく政知は、手前の伊豆堀越(ほりごえ)堀越御所(静岡県伊豆の国市)を建設して、そこを本拠とした事から堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれました。

そんな堀越公方の2代目(←諸説あり)足利茶々丸(ちゃちゃまる)を倒して関東支配に乗り出したのが、ご存じ北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)(10月11日参照>>)でした。

その後、早雲が小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を手中に納める一方で、
管領の上杉家は、その上杉同士=扇谷上杉&山内上杉でモメる(9月27日参照>>)
成氏の後を継いだ古河公方2代目の足利政氏(まさうじ)と息子&息子同志もモメて(6月23日参照>>)、古河公方を継いだ兄の高基(たかもと)に対抗して、弟の義明(よしあき)小弓公方(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城が本拠)を名乗って独立し、ますます関東の覇権争いが泥沼化していきました。

Houzyouuzituna300a そんな中、永正十六年(1519年)に早雲が亡くなってからしばらくは、早雲の後を継いだ息子の北条氏綱(うじつな)が父とともに切り取った伊豆(いず=伊豆半島)相模(さがみ=神奈川県の大部分)領国経営に力を入れて北条家の地盤固めを優先しつつ武蔵(むさし=東京都と神奈川県・埼玉県の一部)への進出を模索していた北条家に、

大永元年(1521年)2月、かねてより北条寄りだった古河公方の高基から、息子の晴氏(はるうじ)と氏綱の(芳春院)との結婚話を打診して来ます。

『北条記』には、この時、同時に、高基から「公方の御後見」の要請があったとされ、これは(どこまで公認&正式だったか?は時期的な事も含めて不明)事実上の関東管領を北条氏綱に担ってもらいたい」という事のようで、つまりは、上り調子の北条の力を得て弟の義明を抑え込み、関東公方の座を盤石な物にしようと考えたのでしょう。

さらに、この翌年の大永二年(1522年)の9月に氏綱の使者が古河御所に派遣されますが、その使者が帰り道に浅草寺(せんそうじ=東京都台東区浅草)を訪問している事も興味深い。。。どうやら、氏綱は、この機会に江戸を取る気満々な雰囲気。

そんな中、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)に仕えていた太田資高(おおたすけたか)が、北条側へと寝返り、氏綱の娘(浄心院)との結婚の約束を・・・もちろん、これは氏綱の誘いによる政略結婚ですが。。。

実は、この太田資高さん・・・代々上杉家に仕え、あの江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築した太田道灌(どうかん=資長)の孫です。

ご存知のように、道灌は扇谷上杉家の重臣で忠実な家臣でしたが、関東動乱での強さがハンパなく(8月16日参照>>)、その、あまりの強さを恐れた主君=扇谷上杉定正(さだまさ=朝興の祖父)道灌を冷遇したうえに暗殺した(7月26日参照>>)という過去があり、しかも、亡きジッチャンが建てた江戸城に、今現在進行形で仇の孫(定正の息子の養子)である上杉朝興は入っているわけで・・・

おそらくは、そんなジッチャンの遺恨もあっての、今回の資高の寝返り・・・

こうして資高の内応を得た氏綱は、大永四年(1524年)正月、伊豆&相模の軍勢を率いて江戸城攻略に出立します。

1月1日に品川妙国寺(みょうこくじ=東京都品川区・天妙国寺)に、翌12日に本光寺(ほんこうじ=東京都品川区)に入った氏綱に対して、江戸城の上杉朝興は、同じく品川に出陣して迎え撃つ作戦・・・

かくして大永四年(1524年)1月13日、上杉方の先陣=曽我神四郎(そがじんしろう)と、北条方の先陣=多米六郎(ため・たごめろくろう)高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)にてぶつかりました。

そこで、北条方の多米に続く2番手の大道寺八郎兵衛(だいどうじはちろべえ)が、即座にに2手に別れて東西から上杉勢を挟み撃ちにして攻め立てたため、上杉方は総崩れとなり、江戸城に向かって、一斉に撤退し始めました。

一方、江戸城を撃って出た朝興は、氏綱を迎え撃つべく、同じく品川に陣取っていましたが、それを察知した氏綱は渋谷方面へと迂回して江戸城へと押し寄せ、かねての手配通り、内通した太田資高の導きによって、なんなく江戸城に入ったのだとか。

細かな記録は曖昧なものの、太田資高の内応を機に上杉朝興を高輪の原で破り、江戸城に進出した事は確かなようで・・・

この後、江戸城に戻れなくなった朝興は、配下となっている板橋城(いたばしじょう=東京都板橋区)へと逃走しますが、そこでの合戦で城主の板橋某兄弟が討死し、やむなく河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)へと、さらに逃走していったのでした。

この時、かつて太田道灌が江戸城内に創建した芳林院(ほうりんいん)の住職は、氏綱に寺宝を献上して、その庇護下に入る事を表明しています。

こうして武蔵に進出した氏綱・・・

このすぐあとには上杉と同盟を結ぶ甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)との戦いもありながらも(【猿橋の戦い】参照>>)、天文六年(1537年)7月には河越城を落とし(7月15日参照>>)

さらに天文七年(1538年)10月には、第一次国府台合戦にて足利義明を討ち取って(10月7日参照>>)小弓公方を滅亡させ、
天文八年(1539年)11月には、かの足利晴氏と娘の結婚も実現させて(11月28日参照>>)
公方の名を後ろ盾に関東支配の夢へと突き進む事になるのですが、

上記の足利家の系図を見ていただければ一目瞭然な通り、やがては、関東公方=足利家も名ばかりとなり、氏綱の息子=の氏康(うじやす)の時代には、河越夜戦にて、古河公方の晴氏もろとも扇谷&山内=両上杉を蹴散らして、名実ともに関東の覇者になる・・・という展開になってしまうわけですが、戦国三大奇襲の一つと言われるそのお話は4月20日のページでどうぞ>>
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2021年1月11日 (月)

大河ドラマ『麒麟がくる』第40回「松永久秀の平蜘蛛(ひらぐも)」の感想

吉田久秀の見事な最期久々の川口帰蝶姫登場だった大河ドラマ『麒麟がくる』第40回「松永久秀の平蜘蛛(ひらぐも)の感想です。

丹波攻略にも手間取り、戦続きで歌も詠めぬというワリには、なんか、ゆっくりした平和な雰囲気が漂う長谷川光秀宅ですが、

いつも通りの伊呂波大夫の導きとは言え、今回の長谷川光秀と吉田久秀の対面シーンは良かったですね。

狙ってた大和の地が筒井順慶の物になると知って、染谷信長裏切る事を告白する久秀に怒り心頭の光秀さま・・・

「そなたと戦うのは本意ではない」
と、思い出を語り始めて、思いっきり死亡フラグを掲げる久秀ですが、この方のこの先は有名な話なので、そこは驚かないですが、驚いたのは、命の次に大事な平蜘蛛の茶釜を、
「光秀にあげちゃう」
発言・・・

ちなみに、松永久秀の最期については、
(攻められた信貴山城にて…)
●切腹後に焼死 
●平蜘蛛を打ち砕いて焼死(10月3日参照>>)
●平蜘蛛もろとも爆死で、その身も茶釜も砕け散った(10月10日参照>>)
●その後、どんどん爆死話が派手になる…

と、複数の文書があり、後世になるほど尾ひれがついていった感がありますが、今では「爆死」は、おそらく後世の作り話とされるものの、平蜘蛛は、久秀の死の際に砕かれたであろうというのが一般的な見方となっています。

というのも、平蜘蛛は、その後は行方不明となっているからで、「誰かが持っている」とか「どこぞの寺にある」という噂はあるものの、あくまで噂の域を出ない話で、いわゆる名物とされた平蜘蛛の茶釜は、焼けた残骸のような物も確認できず「未だ見つかっていない」というのが通説となっていますので・・・

とは言え、ナレ死ではなく、見事な炎の中での最期は、吉田久秀最大の見せ場でしたね。

そんな中で、今回、ドラマでは久秀が、その平蜘蛛を、一旦、伊呂波大夫に預け
「俺が負けたら、光秀に渡せ」
てな事になった。。。

えぇ?光秀にあげちゃって良いの?
しかも、そのおかげで、染谷信長との間に決定的な亀裂が入る雰囲気に・・・
本能寺への要因の一つに架空の人物や出来事が絡んで大丈夫?

と、ちょっと不安になりましたが・・・
なるほど~コレが久秀の罠とな。。。

ここで、
「知らぬ」
と信長さまに嘘ついて平蜘蛛を渡さなかった事で、
もはや、光秀は後戻りはできない&信長の上を行くしかない状況となったわけですね。

これまで、何があっても、ずっと吉田久秀に好意的だった光秀・・・
一方、染谷信長に対しては、腑に落ちない嫌な顔ばかりしていた光秀・・・

この演出が、ここで活きて来たわけですね。

これまでには無い、創作満載のエピソードではありますが、
これはこれでオモシロイv(^o^)v

架空のつなぎ役のおかげで、この後、玉三郎天皇様の信長へのお気持ちもスンナリ聞けそうですし、本能寺への斬新な道筋が見えた気がしました。

ところで、
京都の智積院長谷川等伯の障壁画(2007年2月24日参照>>)のような美しい襖絵の中にたたずむ美しき川口帰蝶さま・・・

その帰蝶さまが、
「少々、疲れました」
「岐阜に帰る」
と、ご発言。。。

史実としては、信長が岐阜を手に入れた後の帰蝶さまの事がよくわからないため(2009年2月24日参照>>)、ドラマ等では、そのままフェードアウトされる事や亡くなった事になっているとか、あるいは逆に、本能寺までラブラブで信長とともに奮戦したりする姿が描かれる事が多かった中で、この「卒婚発言」は、なかなか斬新で良かったです。

ただ、前半あれだけ信長のサポートをしておいて…いや、なんなら、帰蝶さまが信長を影で操ってるのか?てなくらい、その作戦にまで口出してたのに?と、ちょっとは思ったけれど、
そこは、ちゃんと、ご自身で
「けしかけたの私かも知れぬ」
と、おっしゃり、信長の立場が、以前とは、あまりに変わった事で苦悩する雰囲気も出ていたので、そこは理解できましたし、このような主軸からの離れ方もアリな気がしました。

ただ、ドラマには出て来ないためか、上杉謙信の事が、名前だけの伝聞でしか出て来ないのは少々残念でしたね。

番組ホームページのトリセツでは、石川県までがハッキリと敵対関係になってる地図が掲載されていますが、ドラマでは、いまいち分かり難いでよね。

この頃の謙信は、
富山に侵攻>>し、
飛騨を手に入れ>>
七尾城を攻略>>し、
手取川の戦い>>から、
能登も平定>>しています。

この能登平定が、信貴山城への攻撃が始まる10日ほど前の事ですから、 もう少し「謙信が目の前に迫ってる感」が欲しかった気がしないでもないですが、そこは、残り時間の都合という事で、仕方ありません。

なんせ、光秀には丹波平定が控えてますから。。。
籾井城の戦い>>
福知山攻略戦>>
八上城攻防戦>>
黒井城・攻略>>
山家城の戦い>>
丹波平定の報告>>

とにもかくにも、いよいよこれからクライマックスを迎える麒麟・・・楽しみですね。
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2021年1月 6日 (水)

色の日にちなんで~色の名称の成り立ち…基本は「黒白赤青」

 

1月6日は、「1=イ」「6=ロ」の語呂合わせから、「色の日」という記念日なのだそうで、今日は「色」のお話をさせていただきます。

と言っても、実は2012年の1月6日=色の日に、1度、色に関するお話をさせていただいており、その時は、色の持つ意味=イメージや、時代々々に流行した色・・・つまり色の歴史を中心にお話をさせていただきました(2012年1月6日のページ参照>>)

なので、本日は、いつか書きたいと思っていた色そのものの「名称」というか「色を表す言葉の成り立ち?」みたいなお話をさせていただきたいと思います。

とは言え、言葉の成り立ちなんて、それこそ遠い々々昔=超古代のお話で、そこかしこに想像の域を出ないお話も含まれておりますが、「一つの説」という事で、広いお気持ちでとらえていただけると幸いです。

・・・・・・

そもそも、言葉&名称という物は、日々生まれ、進化し、変わっていく物で、毎年、年末には『新語・流行語大賞』なんて物も発表されてますよね?

昨年は「3密」でしたか?

とは言え、今現在、毎年のように生まれる「新語」は、どちらかと言えば、これまでにある言葉を複数足して新しい解釈をしたり、もともとあった言葉を別の意味に使ったり、あるいは外国由来の言葉だったり・・・という場合が多いわけで、まったくの新しい言葉というのは、早々生まれる物ではありませんよね。

そんな中で、古代の人が言葉という物を持ち始めた頃、「火」や「水」や「花」といった形のある物の呼び名としての名称とは違う、形は同じでも見た目が違う「色」という物の名称に関して、どのように表現しようとしたのか???

実は、それがだったと言われています。

確かに、空はいかなる時も空で、形は同じなのに、見る時間によって色が変わります。

そこで、まず、古代の人は、
漆黒に包まれた夜の空の色を「黒」と呼び、
日の出間近の白々となって来る空の色を「白」と呼び、
太陽が姿を現した朝焼けの色を「赤」と呼び、
太陽が真上に上がった晴天の空の色を「青」と呼んだのです。

Ironohi4

これが、最初に生まれた基本かつ純粋な「色の名称」だったんです。

もちろん、世の中には、実際には様々な色の物があふれているわけですから、やがては、様々な色の呼び方が登場するわけですが、

それらは、
桃の花の色だから「桃色」
の色に似てるから「水色」
お茶っ葉の色だから「茶色」
ムラサキ草の根っこの色だから「紫色」
てな感じの、先に物の名前があって、その物の色に似ているから名付けられた名称なのです。

いやいや…基本の色が4つって…
と思われるかも知れません。

また、基本の色というなら、
色の三原色に入ってる黄色は?
光の三原色は?
って、思いますよね?

確かに、三原色は、様々な色を造るにあたって、
「この3つの原色があれば、その配合によってありとあらゆる色が出せる」
という意味で三原色ですが、純粋に日本語で色を表す名称か?と言えば、実は、そうでは無いのです。

そもそも「黄」という文字は、「光」と「田」という文字が合わさって誕生したとされる文字で、たわわに実った田んぼに光が当たる事によって黄金に輝く稲穂の色を表現した物なのです。

つまり、「桃の花の色だから桃色」と同じ経緯で誕生した名称・・・「稲穂に光が当たったような色」だから「黄色」なのです。

また、緑は、
「緑の黒髪」とか言われるように、本来の「緑」という名称は色を表す名詞ではなく、
「みずみずしさ」を表す言葉だったのです。

奈良時代に成立した『大宝律令』には、3歳以下の幼児を「緑」と称する規定があったそうですが、それも、人として生命力溢れる「瑞々しいさま」から例えられたもので、今でも、生まれたばかりの赤ちゃんの事を「嬰児と書いてみどり子」と呼ぶのは、「みどり」が、現在で言うところの「緑色」を表す単語ではなく、瑞々しい物を例える言葉だったからなのです。

これが、やがて、みずみずしい葉っぱの色を「緑」と呼ぶようになるわけですが、これが、平安時代頃だと言われています。

それまでは、葉っぱのような色は、先の4つの基本の色の中で、最も近い色である「青」と呼ばれていたのです。

なので、現在でも「青葉」「青菜と、平安時代以前に呼ばれていたであろう名残りの言葉がチラホラ残っているわけで、つまりは「緑」が色の名前とされるのは、先の基本の4つの色の名称より、はるか後の事というのがわかります。

さらに言いますと、先の4つの基本の色名が、純粋の色の名前だという証拠とも言えるのが、色の単語の後につける「い」です。

黒い白い赤い青い
この4つだけ、「い」をつけて色を表現しますが、他の色は
緑色、黄色、桃色、水色、紫色、
と、「色」の事を言ってるんですよ~と念を押すがの如く末尾に「色」という言葉をつけて話しますよね?
(黄色だけは「黄色い」という言い方があるので、ちょっと自信ないですが(^o^;))

つまり、かの基本の4色だけが別格=純粋な色の名称なのですよ。

そんな中、色の名自体は日本にて生まれた日本語ではあるものの、「基本の4色」という考え方は、おそらく大陸からもたらされた物だと思います。
(そもそも漢字が大陸からですので)

それがわかるのが『四神相応』思想です。

以前、平安京遷都のところでお話させていただきましたが、
古代中国で発生した、この『四神相応』の思想は、

この世界は、
東の川に棲む青龍(せいりゅう)
西の街道に棲む白虎(びゃっこ)
南の池に棲む朱雀(すざく)
北の山に棲む玄武(げんぶ)
という
「東西南北それぞれの方角に棲む4つの神(聖獣)に守られている地(または人など)は千年栄える
という考え方で、
平安京は、東に賀茂川、西に西国街道、南に巨椋池(おぐらいけ=戦国時代くらいまであった池)、北に(北山もしくは船岡山)のある、まさに「四神相応の地」であった…という事を、そのページに書かせていただきました(ページを見る>>)

Kitorasuzakutogenbuccもちろん、その思想は、もっと早くから日本に伝わっていて、高松塚古墳キトラ古墳の石室内部(→)にも、東西南北のそれぞれの方向に四神の絵が描かれていて、「埋葬された人を守る」意味があったとされています。

この四神の持つ色=イメージカラーが、実は、この基本の4色なのです。

東の青龍西の白虎は、その名の通り、青と白。

北の玄武は、亀と蛇が合体したような聖獣で、南の朱雀は「鳳凰」あるいは「火の鳥」のようなイメージの聖獣なのでで表現されます。

はたして、
空からイメージした4つの基本の色の観念は、四神相応の思想とともに日本に伝わったのか?

それとも、すでに古代の人々がイメージしていたところに四神相応の思想が伝わったのか?

おそらく、その解明は、あの卑弥呼の邪馬台国論争のように、一生物の研究になるであろうと思われますので、今日のところは、このへんで、おひらきとさせていただきたいと思います。
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2021年1月 4日 (月)

熙子さんの回だった大河ドラマ『麒麟がくる』第39回「本願寺を叩け」の感想

大河ドラマ『麒麟がくる』第39回「本願寺を叩け」の感想です。

速い速い急ぐ急ぐww
でも、残り時間が少ないので仕方ないですね。

あの方の降板に始まり、コロナで撮影できないわ。。。
やっと再開できても、ロケはできんし、
1度にスタジオに入れる人数にも限りはあるし、
俳優さんのスケジュールも立て直しせざるを得ず、
当然、脚本からの見直し…

でも、すぐ後ろに渋沢さんが控えてるし、
最終回には本能寺に突入せなアカンし、

本当に大変な現場となっている物とお察しします。

そのために、
おそらくは、同時期に起こった出来事を前後させて物語の辻褄を合わせつつ、スピード重視で、お話を進められているものと思われます。

そこはドラマですし、
しかも、それらの出来事を出演者のセリフ等で視聴者に伝えねばならない場合もあるわけですから、多少の前後はアリだと思いますが、

一応、ここは歴史好きブログなので、参考までに、実際の歴史(とされている)の流れを復習しておきましょう。

まずは、
岐阜城を訪れた石橋三条西さんから、
岐阜に戻った理由を聞かれた染谷信長の発言。

「武田が美濃に攻め入りまして…」
は、おそらく天正二年(1574年)2月の明智城陥落>>の事かと思われます。

実際には、あの蘭奢待の削り取り事件>>より1ヶ月ほど前の事で、今回の主人公である光秀のもといた城(というドラマの設定)(光安自刃で明智城落城>>)だったので、ちょっとは出て来るかな?と思ってたんですが、城の名前も出て来ませんでしたね。。。ちと残念。

次に
「息子=信忠に家督を譲るので京の事は息子に…」
と言ってましたが、これは天正三年(1575年)11月の事>>

また、ナレーションにて
「安土に城を築きはじめた」
と言ってましたが、これは天正四年(1576年)2月の事>>

そしてタイトル明けに
石山本願寺との天王寺砦の激戦が描かれてましたが、これは天正四年(1576年)5月の事>>

もちろん、信長と本願寺との戦いは約10年に渡って繰り広げられますし、そのために構築した天王寺砦ですから、その周辺で戦いがあった事は1度や2度では無いでしょうが、ドラマでは、その日の戦いで原田直政(塙直政)が討死した事になっていたので、やはり、これは 天正四年5月3日の戦いを描いていたのだと思われます。

ただ、天王寺砦にやって来た信長さんが、いつの間にか、鬼のような、しかも、手の付けられないアホ殿様になってましたね。。。
(↑コレはちょっとショックだ)

おそらくは、一刻も早く本能寺の道筋を整えてしまわないといけない・・・つまりは、来週に裏切る予定の吉田久秀さんや、長谷川光秀さんが、とにかく信長を殺したいほど憎むようにしないといけないためなんでしょうけど、あのままだと、ホント、どうしようもない殿様です。
(いつも冷めた目で見ている長谷川光秀は、どこが良くて染谷信長の家臣になったんだろ?)

実際の歴史上でも、この天王寺砦の戦いで最前線に出て奮戦した信長が負傷してますが、

『信長公記』『兼見卿記』等によれば
「直政らを討ち取った勢いに乗った本願寺勢が天王寺砦を包囲して、籠城する光秀らが、もはや、なす術なしになっている状況を聞いた信長が、急遽、わずかの馬廻衆だけを連れて京都から出馬し、若江城などを経由して兵を集めつつ天王寺へ向かい、軍議で作戦を練った後、合計3000となっていた兵を3段に分けて、佐久間信盛・松永久秀ら+若江衆を先陣に、滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀らを第2段に、最初に率いた馬廻衆を備えの3段目とした後、信長は先手の足軽に交じって陣頭指揮をとりつつ駆け巡り、肩に傷、足に鉄砲を受けながらも主従一丸となって戦い、最終的に、砦を囲んでいた敵勢を本願寺城門の所まで押し戻して追い崩し、天王寺砦を救った」
事になってます。
(敵1万3000を、味方3000で…ですよ~ホレてまうやろ!)

信長さんの名誉のためにも、
何の作戦もなく、家臣が止めるのも聞かず、
アホみたいに、敵に向かっていってケガしたのでは無い事だけは、お伝えしときます。

で、ドラマでは、この天王寺砦にて長谷川光秀が倒れる…
からの…夫の急に寝間着姿のまま東庵先生を呼びに街中を走る奥さん。。。
て、コレ↑、今やとパジャマかネグリジェのまま?って事?
例え、頭にカーラー巻いたまま(←大阪のオバチャンスタイル)であったとしても、せめて、カーディガンは羽織ってほしい。。。

と、そんなこんなしているうちに、ムリが祟った奥さんに死亡フラグが立つ。。。

唐突に思い出話をし始める妻=熙子。。。
髪を売ったエピソード(10月10日参照>>)をここに入れて来た~~

その後、快復した光秀に信長が、本願寺との状況と叩き方を説明・・・

話しの内容では、
まんまと石山本願寺に兵糧を運び込まれてしまった天正四年(1576年)7月第一次木津川口海戦>>は、すでに終わった事なのか?まだこれからなのか?はよくわからなかったですが、

この第一次の合戦で毛利につく村上水軍に翻弄された事で、信長は九鬼嘉隆に命じて華麗なる鉄甲船>>を造らせ、おそらくこの後、ドラマで描かれるであろう2度目の木津川口海戦>>では勝利しています。
(【鉄甲船の初海戦】も参照>>)

ちなみに、そのあと、
「大和は筒井順慶に任す」
と染谷信長が言ってましたが、そこは、実際には微妙なところです。

順慶は天正二年(1574年)には人質を出して信長に臣従してますが、この頃には、まだ松永久秀に開け渡されたはずの十市城を乗っ取ったままで十市の内紛>>が続いてますので、信長の鶴の一声で決定するには、まだ難しいかと・・・

そこにお菓子を持って来た芦田たまちゃんに
「良い嫁ぎ先を探してやろう」
という信長を前に、いかにも嫌そうな顔してた光秀ですが、

主君に娘の結婚を世話してもらうので、名誉な事なんじゃ?
なんで、そこまで信長を嫌うかなぁ~
てか、そんなに嫌いなら、滝藤公方様にしたように、家臣やめたら良いのに・・・

と思いつつも、そのスキに、風間家康さんの奥さん=築山殿が安定の悪女として>>登場・・・

ちなみに、その時、忍びの岡村菊丸さんが
「信長様は、三河(德川)の事などお忘れではないかと…」
と言ってましたが、あの長篠設楽ヶ原の戦い>>天正三年(1575年)5月です。

一方、その頃、光秀と入れ替わるように病の床についた奥様=熙子さんが、夫とゆっくり思い出を語り合って後、静かにあの世に旅立たれます。

ナレーションで、その死は「天正四年(1576年)秋」との事・・・

て事は、
ドラマ内では、今は天正四年(1576年)秋って事なんですね?

ようやく落ち着きました。

いきなり本願寺が出てきて、いきなり天王寺合戦になったので、少々混乱しましたが、多少の前後はあるものの、おおむね歴史通りに事は流れているようで・・・安心しました。

ただ、最近の大河ドラマでは、やはり描きにくいのか?ほとんど登場しない側室という立場の女性・・・

そんな中、光秀は数少ない側室を持たなかった武将なので、光秀が主役ならば、その奥様とのふれあいが存分に描かれるものと思っていただけに、今回で、その奥様が逝ってしまわれたのは残念でしたね。

死に際の思い出話には泣けましたが、もう少し、以前から奥様の事を描いていただきたかった気もします。

まぁ、それもこれも、思い通りに撮影できないゆえの結果なのでしょうけど。。。

とは言え、知らないうちに荒木さんちに嫁に行ってた光秀長女のさんが、間宮左馬助(明智秀満)と仲良さげに踊りを踊ってたシーンには、またもや歴ヲタ心をくすぐられましたが・・・

来週は、いよいよ吉田久秀の名シーン信貴山城の戦い>>・・・
こうなったら、史実どうこう関係なく、盛大に爆死していただきたい。

来週も楽しみにしております。
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2021年1月 1日 (金)

新年のごあいさつ~茶々の年賀状

 

🎍謹んで新春のお慶びを🎍
🎌     申し上げます🎌

昨年は、色んな事があり、忘れられない1年となりましたが、
そのぶん、大切な事や無くしてはならない物に気づかされる日々でもありました。

こうして、一日一日が、未来への歴史として紡がれていく物なのでしょうね。

未だ、楽観はできぬ時節ではありますが、
粛々と、日々の行動に気をつけながら、
今年一年、また新たな歴史を紡いでまいりましょう。

2021f16c

本年もまた、
歴史の、あんな事、こんな事をお話しながら…

末永く、
『今日は何の日?徒然日記』
を、よろしくお願いいたします。

皆さまにとって、良い年でありますように…
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