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2021年1月27日 (水)

謎の死を遂げた秀吉の甥っ子~大和郡山城主・豊臣秀保

 

天正十九年(1591年)1月27日、養父の秀長の死を受けて、家督を継いだ豊臣秀保が大和郡山城主となりました。

・・・・・・・

豊臣秀保(とよとみのひでやす=羽柴秀保)は、豊臣秀吉(ひでよし)の姉である(とも=日秀尼)と元農夫の三好吉房(みよしよしふさ=弥助)との間に三男として天正七年(1579年)に生まれました。

長兄に豊臣秀次(ひでつぐ)、次兄に豊臣秀勝(ひでかつ)がいます。

上の兄たちとは10歳も年が離れており、計算上、智さんが46歳の時に産んだ子供になる事から、一説には「養子ではないか?」との話もありますが、兄たちと同様に、秀吉の後継者の一人として昇進をしている事実をを見ると、やはり、「身内だった(血縁関係があった)から」と思われます。

…で、先の、長兄の秀次が生まれたのが永禄十一年(1568年)で次兄の秀勝が生まれたのが翌年の永禄十二年(1569年)・・・

秀吉の年表>>で言うと、
秀次誕生の前年が、
秀吉の主君である織田信長(おだのぶなが)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市…後の岐阜城)を陥落させた(8月15日参照>>)年で、
その翌年が信長の伊勢北畠(きたばたけ)攻め(8月26日参照>>)
さらにその翌年は、信長危機一髪だったあの金ヶ崎の退き口(4月28日参照>>)・・・といった具合。

ご存知のように稲葉山城攻めでは搦手(からめて=側面)の崖を駆け上がり、北畠攻めでは先手を担い、金ヶ崎の退き口では殿(しんがり=最後尾)を務めて大活躍する秀吉ですが、この頃は、まだ、そこまでの武将ではありません。

と言うのも、後に天下人となる事から、その出自や正室のおね(寧々・禰)さんとの馴れ初めなど、色々と文献に登場する逸話が語られる事になりますが、実は、ちゃんとした公式文書に秀吉の名が登場するのは永禄八年(1565年)11月2日付けの知行安堵状(坪内文書)が初で、それ以前の事は、あくまで逸話の域を越えない話なのです。
(もちろん、色々と活躍していたから徐々に出世して行ってるんだと思いますが、墨俣の一夜城>>なんかもあくまで逸話です)

そんな中で、信長が浅井(あざい)朝倉(あさくら)と対峙した元亀元年(1570年)の姉川の戦い(6月28日参照>>)の翌年に、浅井方の磯野員昌(いそのかずまさ)を寝返らせて佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を開城(2月24日参照>>)させ、その北に位置する横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を守り、言わば対・浅井長政(あざいながまさ)最前線を担った事で(箕浦の戦い>>)、天正元年(1573年)8月に浅井が滅亡した時(8月27日参照>>)、その功績によって、秀吉は長浜城の城主=城持ちになったわけです(3月19日参照>>)

ちなみに、秀吉が織田家の重臣である丹羽長秀(にわながひで)柴田勝家(しばたかついえ)のような立派な武将になりたい」として、その名を木下秀吉(きのしたひでよし)から羽柴秀吉(はじばひでよし)に変えたとされているのが、この長浜城入りの前年です。

つまり、兄の秀次や秀勝が生まれたのはこの頃・・・どんどん出世街道を歩いていてメッチャ下っ端というわけではありませんが、かと言って、まだまだ上には大勢いる、未だ出世途上の段階だったわけです。

しかし、その後、天正五年(1577年)に、最終目標は西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)という、あの中国攻めの大将を命じられ、その10月には但馬(たじま=兵庫県北部)を攻略>>して、翌月には上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を落とし>>、さらに翌月に福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)>>破竹の勢いで西へ進み、この頃の秀吉は、あの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)も従えています。

そして秀保が生まれるのは岡山宇喜多直家(うきたなおいえ)を懐柔し(10月30日参照>>)、長かった三木城(みきじょう=兵庫県三木市)をようやく陥落させた>>まさに、その頃だったわけです。

要するに、兄二人と違って、秀保は、生まれながらに秀吉の後継者の一人=若様として育てられたのです。

なので天正十六年(1588年)に、わずか10歳で侍従(じじゅう=高貴な人(後陽成天皇?)の世話係)に任じられています。

しかし、その2年後の天正十八年(1590年)に、豊臣政権を支えていた秀吉の異父弟=豊臣秀長(ひでなが=小一郎)が病床につき、快復祈願も空しく、翌・天正十九年(1591年)の1月22日に、未だ男子の跡取りがいないまま、居城の郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)にて病死(1月22日参照>>)してしまったため、

その5日後の天正十九年(1591年)1月27日、わずか4~5歳の幼児であった秀長の娘=おみや(おきく)と祝言を挙げ、婿となった秀保が 養嗣子(ようしし=家督相続人となる養子)として秀長の後を継ぎ、郡山城の城主となったのです。

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大和郡山城址

実は、生前の秀長は、かの丹羽長秀の三男を養子に迎えていたのですが、それを押しのけての、今回の秀保の 養嗣子・・・やはり、それは「血筋を重んじて…」の事と考えられ、これもあって、冒頭の「秀保養子説」は否定され気味なわけですが・・・

こうして秀長の後を継ぐ事になった秀保ですが、未だ13歳の若さあった事から、秀長時代からの家老であった藤堂高虎(とうどうたかとら)桑山重晴(くわやましげはる)が、引き続き家老として秀保をサポートする事になります。

翌年の天正二十年(12月に文禄に改元=1592年)には従三位(じゅさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)の官位を授かり、その年に起こった文禄の役(ぶんろくのえき)(3月17日参照>>)では本陣となる名護屋城(なごやじょう=佐賀県唐津市)の普請にも加わり、1万5千の大軍を率いて参陣しています。
(ただし、未だ若年のため、実際に渡海して朝鮮半島で奮戦したのは藤堂高虎ら)

ちなみに、この文禄の役では、
長兄の秀次は、関白(かんぱく・天正十九年12月に秀吉の後を継いで就任)として京都の聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)にて内政をこなし、
次兄の秀勝は、出征中の朝鮮巨済島(きょさいとう=コジェ)にて病にかかり、そのまま天正二十年の9月に戦病死してます。

それまででも、秀保は、秀吉の後継者として秀次に次ぐ「ナンバー2」とされていましたが、上記の通り次兄の秀勝が亡くなった事で、ますます、その傾向が高まり、

一説には、朝鮮出兵した秀吉は「大陸を征服したあかつきには、後陽成(ごようぜい)天皇に(みん・中国)の皇帝になってもらい、秀次を明の関白にし、秀保に日本の関白を任せようと考えていたとも言われます。

文禄二年(1593年)の8月には、秀吉と、側室の淀殿(よどどの=浅井茶々)との間に豊臣秀頼(ひでより)が生まれますが(8月3日参照>>)、それでも翌年・文禄三年(1594年)2月27日に行われた吉野の花見(2月27日参照>>)では、徳川家康(とくがわいえやす)前田利家(まえだとしいえ)など名だたる武将とともに、秀次ともども、秀保も出席していて、未だ秀吉の期待が大きかった事がうかがえます。

ところが、その翌年の文禄四年(1595年)4月16日突然、秀保は17歳の若さで急死していまいます。

信憑性の高い一級史料である『駒井日記』には、
4月のはじめに天然痘(てんねんとう=疱瘡)か麻疹(ましん・はしか)によって体調を崩し十津川(とつかわ=奈良県吉野郡十津川村)にて療養のために温泉で湯治をしていたものの、4月10日から病状が悪化し、曲直瀬正琳(まなせまさよし=曲直瀬道三>>の弟子)ら複数の医師の治療によって14日には一時的に回復したものの、翌・15日に再び悪化し、16日に帰らぬ人となった・・・

と、ある事から、おそらくは病死というのが正しいのでしょうが、そこは、当然、様々な憶測が飛び交う事になります。

そうです。
秀保の死から、わずか2ヶ月後の6月末、兄の秀次に突然、謀反の疑いが持ち上がり、詰問の末、7月8日には官位をはく奪されて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に送られ、文禄四年(1595年)7月15日に、秀次は切腹させられるのです。

この「秀次切腹事件」の要因には、謀反の他にも、
罪のない領民を的にして射殺したとか、
妊婦を見つけてはその腹を裂いたとか、
殺生禁止の比叡山へ出かけては狩りを楽しんだ
といった乱行が発覚し「殺生関白」などと呼ばれて・・・なんて事も言われていますが(2007年7月15日参照>>)

実は、これと同じような話が秀保さんにもあります。

殺生禁止の猿沢池(さるさわのいけ=奈良県奈良市)法隆寺(ほうりゅうじ=奈良県生駒郡斑鳩町)の池で魚を捕って食べたり、
罪の無い庶民を殺害しまくったり、
定番の妊婦の腹を裂く行為(←は武烈天皇>>の時代からの悪の定番)

また、十津川での療養中に、散策していた滝の周辺にあった高い崖にて、側にいた小姓に向かって
「飛び降りてみろや」
と命令した事で、怒った小姓が秀保に抱き着いて、そのまま二人で崖を飛び降り水死した・・・なんて話もあります。

つまりは、
兄の秀次同様に、秀保も・・・
秀頼という実子が生まれた事によって、
「将来、息子と後継者争いになるのではないか?」
と感じた秀吉によって、あらぬ疑いをかけられて抹殺されたのではないか?
という憶測を呼ぶ事になり、後世に書かれた文献では、ある事無い事ゴチャ混ぜな逸話が散乱する事になったわけです。

今でも、ドラマや小説等では、この流れで描かれる事、ありますよね~

しかし、最近では、特に、秀次さんに関しては、そうではない説が囁かれるようになりました。

そもそも、謀反が原因なら、切腹ではなく処刑されるはずですし(家族は処刑されてますが>>)、一昨年(2019年)の8月には、
秀次の死の3ヶ月前に書かれた「秀次を大和(やまと=奈良)の国主にしたい」という内容の秀吉の書状が見つかった(2019年の新発見>>)事もあり、

今では、秀吉抜きで、周囲の家臣らが先々の後継者争いを懸念して秀次を追い込み、その仕打ちに心を病んだ秀次が、自ら高野山へ逃避行して、切腹=自殺したのではないか?
とも、言われるようになりました。

なので、秀保さんの場合も、単に病気が悪化して亡くなったのであろうと思われますが、秀次&秀勝&秀保の三兄弟全員が、わずか4年の間に亡くなってしまうのは、やはり、「何かあったのか?」と勘ぐってしまいますね。

しかも、この秀保の死によって、秀吉の右腕として活躍した弟の豊臣秀長の家系=大和豊臣家が断絶してしまうのですから、何とも悲しい事ですね。
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コメント

今「週刊ヤングマガジン」で「センゴク権兵衛」が連載中ですが、今後の連載で秀保の早世についても触れると思います。
時代に関係なく突然若くして死んだ人は、臨終を看取った人がいないと、急逝・死因に関して様々な憶測が出ますよね。

投稿: えびすこ | 2021年1月30日 (土) 13時16分

えびすこさん、こんばんは~

若い年齢なので、よけいに謎めいてしまいますね。

投稿: 茶々 | 2021年1月31日 (日) 02時39分

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