« もはや恐怖しかない宴会が始まった大河ドラマ『麒麟がくる』第43回「闇に光る樹」の感想 | トップページ | 麒麟が行っちゃったので戦国ロスになる~大河ドラマ『麒麟がくる』最終回「本能寺の変」の感想 »

2021年2月 4日 (木)

今川から妻子を取り戻せ!~徳川家康と鵜殿長照の上ノ郷城の戦い

 

永禄五年(1562年)2月4日、先の桶狭間キッカケで独立した徳川家康が、今川領に残した妻子を取り戻すべく、今川配下の鵜殿長照の上ノ郷城を襲撃しました。

・・・・・・・・

上ノ郷城(かみのごうじょう=愛知県蒲郡市 )を居城とする鵜殿長照(うどのながてる)は、祖父の代から今川(いまがわ)に仕えており、先代=鵜殿長持(ながもち)今川義元(いまがわよしもと)の妹の間に生まれた武将です。

当時の今川義元は、本領の駿河(するが=静岡県東部)に加え、遠江(とおとうみ=静岡県西部)も領したうえ、尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)の侵攻によって風前の灯となってる松平広忠まつだいらひろただ)の要請を受けて(3月6日参照>>)、その息子の竹千代(たけちよ=後の徳川家康)を手元において三河(みかわ=愛知県東部)をも間接支配する大大名でありました。

その義元の妹を母に持つ鵜殿長照ですので、家臣というよりは、もはや今川の親族のような扱いで重用されていたわけです。

一方、天文二十年(1551年)3月に大黒柱の織田信秀を亡くしていた織田家では、息子の織田信長(のぶなが)が後を継ぐも、未だ尾張一国を統一できていなわ、弟・織田信行(のぶゆき=信勝)との内紛はくすぶるわで、織田を見限り今川方に寝返る者も出る始末【三の山・赤塚の合戦】参照>>)・・・

そこで天文二十三年(1554年)1月の村木砦の戦い(1月24日参照>>)でチョイと盛り返した信長は、先の赤塚で今川に寝返った山口教継(やまぐちのりつぐ)鳴海城(なるみじょう=愛知県名古屋市緑区:別名=根古屋城)や、織田VS今川の最前線の要地に建つ今川配下の大高城(おおだかじょう=名古屋市緑区)周辺に複数の砦(とりで)を構築し、これ以上の義元の侵攻に備えます。

そんなこんなの永禄三年(1560年)5月、いよいよ「天下に一番近い男」「海道一の弓取り」と称される義元が、大軍を率いての尾張侵攻を開始するのです。

この時、大高城の城代を務めていた鵜殿長照・・・織田方の砦に囲まれつつも、絶対に守らねばならぬ要地ゆえ身動きが取れず、いつしか城内の兵糧が枯渇し、もはや周辺の野山の草木を取って飢えをしのぎつつ、城兵を鼓舞して何とか耐えていましたが、そんな敵ウヨウヨ状態の大高城に兵糧を運び込んでくれたのが、父亡き後も、ずっと今川にて人質生活を送っていた徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)でした。
(ここで大高城の守備担当が長照から家康に代り、家康はそのまま大高城に留まる事になったとされます)

その兵糧運び込みがあったのが永禄三年(1560年)5月19日の未明・・・そう、この半日後に、あの桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市栄町&名古屋市緑区有松町)の戦いがあり、ご存知のように今川義元は討死(2015年5月19日参照>>)となったわけで・・・

Tokugawaieyasu600 で、以前書かせていただいたように、義元死すの知らせを聞いた家康は、今川領へとは戻らずに亡き父の持ち城であった岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)へと入り、今川からの独立行動に出ます(【桶狭間の戦いでの家康は…】参照>>)
(岡崎への帰還は今川の許しがあった…との説もあります)

一方、鵜殿長照は、義元の死を知った途端に一目散に自身の本領へと逃げ帰っています(家康の岡崎行きより速かったらしい)

とは言え、
この後、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)が頑張るものの、亡き父の存在があまりに大き過ぎた事で領内は混乱して、次々と今川を去る者が出て、果ては鵜殿の分家までが離反するものの鵜殿長照は今川を裏切る事無く、最後まで留まっていたとか・・

そんなこんなの永禄五年(1562年)1月、家康は、今や尾張をほぼ統一して隣国の美濃(みの=岐阜県南部)にも手を出して(5月14日参照>>)なかなかの上り調子だった織田信長との同盟を結びます清須同盟>>)

上記の通り、義元を倒した相手である信長と同盟を結んだのですから、これは、家康にとって、完全なる「今川との決別宣言」となるわけです。

ただ一つ・・・家康にはやり残していた事がありました。

あの桶狭間のドサクサで、そのまま岡崎城に入ったので、奥さんと子供を今川領の駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に置いて来たままだったのです。

家康の正室=築山殿(つきやまどの=当時は瀬名姫?)は、今川義元の姪(もしくは伯母)の子供であったと言われ、家康と築山殿の婚姻は、家康を今川の一族に迎える意味もあったとされていますので、奥さんの築山殿としては今川は実家なわけですが、家康が敵に回った今となっては、例え身内であろうと、その身が安全である保障はありません。

そして、その築山殿とともにるのが、未だ4歳の長男=竹千代(後の信康)と3歳の長女=亀姫(かめひめ)・・・コワイ嫁はんはとくもかく何としてでも、この三人を取り返したい家康さん。。。

そう言えば、かつて、自分も・・・
人質として今川に送られるはずだったのが、途中で織田に奪われ(8月2日参照>>)、しばらくの間、尾張で過ごしたものの、その後、義元家臣の太原雪斎(たいげんせっさい)の軍略によって救い出された事があったっけ。。。

そう・・・あの安祥城(あんしょうじょう=愛知県安城市)の戦い織田信広(のぶひろ=信秀の長男・信長の兄)を生け捕りにした雪斎が、父の信秀と交渉して、自分(家康)人質交換して取り戻した、あの方法です(11月6日参照>>)

そうと決めた家康は、ターゲットを探します。。。それが鵜殿の上ノ郷城でした。
(現当主=氏真の従兄弟やからね~でも築山殿も従兄弟かも知れない)

もちろん、目指す相手は、すでにオッサンの鵜殿長照ではなく、未だ10代前半の少年である息子=鵜殿氏長( うじなが)氏次(うじつぐ)兄弟。
(10代2人と幼子2人+母ならちょうどえぇ…かも)

かくして、
かの清須同盟から、わずか半月の永禄五年(1562年)2月4日、家康から、生け捕り作戦の総大将を命じられた松井忠次(まついただつぐ=後の松平康親)久松俊勝(ひさまつとしかつ)が、甲賀の忍び=伴太郎左衛門資家(ばんたろうざえもんすけいえ)ら80名とともに上ノ郷城内に忍び込み、氏長&氏次兄弟の生け捕りに成功するのです。

『寛政重修諸家譜』等では、
上記のような「上ノ郷城内に忍び込み」と書かれていたり、
「生け捕られたのは鵜殿長持の息子の長照&長忠兄弟」と書かれていたりしますが、
他の複数の文書から長持の死没が 弘治三年(1557年)である事が定説となっていますし、逆に『正行院の過去帳』では、長照が、この永禄五年(1562年)2月4日に亡くなっていますので、おそらく、生け捕りにされた兄弟というのは長照の息子=氏長&氏次兄弟であったと思われます。

そう、実は、落城した上ノ郷城から、何とか脱出した長照が現在の愛知県蒲郡市清田町にある安楽寺(あんらくじ)の横の坂で、先の伴太郎左衛門資家に討ち取られたために、今でも、この坂は「鵜殿坂」と呼ばれているそうで・・・

なので、上記の『寛政重修諸家譜』の内容のように「忍び込んだ」というよりは、やはり城攻めとなったものと思われ、結局は、德川勢の攻撃によって上ノ郷城が落ちた・・・という事のようです。

とにもかくにも、
その後、家康家臣の石川数正(いしかわかずまさ)が、氏長&氏次兄弟を連れて駿府に今川氏真を訪ね、人質交換の交渉を見事に成功させ、築山殿と信康・亀姫の3人を岡崎城に迎え入れる事ができたのです。
*厳密には築山殿は岡崎城に入れてもらえなかったみたいですが…
  ●築山殿について>>
  ●信康について>>
  ●亀姫について>>
  ●石川数正について>>

こうして、妻子を取り戻して今川への憂いを取り除いた家康は、

翌・永禄六年(1563年)~永禄七年(1564年)にかけて起こった三河一向一揆(みかわいっこういっき)を見事にまとめ(1月11日参照>>)、さらに2年後の永禄九年(1566年)には、朝廷に申し出て、姓を松平から德川に変更(12月9日参照>>)

永禄十一年(1568年)、いよいと今川領への侵攻を開始します。

★これからの家康↓
【井伊谷の戦いと遠江侵攻】>>
【引馬城入城~飯尾連龍とお田鶴の方】>>
【今川氏滅亡~掛川城の攻防戦】>>

去年から今年の大河ドラマ『麒麟がくる』桶狭間直前、その悪役っぷりがけっこう目立ってた鵜殿長照さん(大高城に来た風間家康くんに休憩禁止のパワハラしてた人です=第21回の感想を参照>>・・・この妻子との人質交換で再び出て来るものと思ってましたが、時間が無いためか、完全スルーでちょっと寂しかったですね。
 ,

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


« もはや恐怖しかない宴会が始まった大河ドラマ『麒麟がくる』第43回「闇に光る樹」の感想 | トップページ | 麒麟が行っちゃったので戦国ロスになる~大河ドラマ『麒麟がくる』最終回「本能寺の変」の感想 »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

鵜殿長照は再来年の大河ドラマでまた登場するかもしれないですね。再来年の徳川家康役は松本潤くん。
大河ドラマだと1983年と2017年が敗者側の視点での桶狭間の戦いの描写。再来年もそうですね。
今作の桶狭間の戦い。放送されていたのは昨年の梅雨前でしたね。「麒麟がくる」は今日でようやく最終回です。
来週からの「青天を衝け」は12月限りか。

個人的な案ですが渋沢栄一の1万円札が出る予定の2024年に、「他の大河作品を挟んで続きを放送」という異例の方式で、1年丸々要して第2部を放送(この方式だと今年が第1部)する可能性も?
年内限りだと「消化不良」になりそうなので。

投稿: えびすこ | 2021年2月 7日 (日) 11時31分

えびすこさん、こんばんは~

個人的には近代史より、もっと古い時代が好きなので、「鎌倉殿」が早く始まってほしいと思ってる派です。
あくまで、個人的好みですが…

投稿: 茶々 | 2021年2月 8日 (月) 02時31分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« もはや恐怖しかない宴会が始まった大河ドラマ『麒麟がくる』第43回「闇に光る樹」の感想 | トップページ | 麒麟が行っちゃったので戦国ロスになる~大河ドラマ『麒麟がくる』最終回「本能寺の変」の感想 »