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2021年5月13日 (木)

桓武平氏の祖~高望王が平の姓を賜る

 

寛平元年(889年)5月13日、桓武天皇の曾孫(もしくは孫)高望王が、宇多天皇から平姓を賜り上総介に任じられました。

・・・・・・・

 『平家勘文録(へいけかんもんろく=南北朝頃に成立)によれば、
民部卿宗章(みんぶきょうむねあき)朝臣なる人物(実在不詳)が謀反を起こした際、その宗章を追罰した功績によって、高見王(たかみおう=第50代:桓武天皇の孫)の子である高望王(たかもちおう)が、寛平元年(889年)5月13日宇多天皇(うだてんのう=第59代:桓武天皇の曾孫)勅命(ちょくめい=天皇の命令)により、平朝臣(たいらあそん=平氏)を賜って臣籍降下(しんせきこうか=皇族が姓を与えられ臣下の籍に降りる事)、以後、この方が平高望(たいらのたかもち)と名乗って活動した事で桓武平氏の祖とされる人物です。

「武士」と聞けば、
合戦での勇猛な姿とか、あるいは、江戸時代のいわゆる「お侍さん」を思い浮かべてしまうし、

「源平」と言えば、
平清盛(たいらのきよもり)源頼朝(みなもとのよりとも)の姿を想像したり、教科書等に載る「武士のおこり」なんていう歴史用語も思い浮かべますが、

そんな武士も、おおもとは皇族や貴族であって、そこに明確な区別はなく、最初のうちは、あくまで「皇族や貴族の中の武勇に優れた人」だったわけです。

そもそもは、
嵯峨天皇(さがてんのう=第52代:桓武天皇の皇子)の時代の弘仁五年(814年)に、増えすぎた皇親に対する厚遇が国家財政の大きな負担となっていた事により、経費を軽減させるため、母親の身分が低い幾人かの子女たちに、「天皇と源を同じくする」という意味の源朝臣(みなもとのあそん=源氏)の姓を与えて臣籍に下して任官させたのが始まりとされています。

もちろん、それには経費削減だけでなく、様々な役職に任官した彼らを政治に関わらせて朝廷内から皇室を守る(有利にする)という役割を担わせるという意味もあったと言います。

その嵯峨源氏誕生から11年後の天長二年(825年)に、桓武天皇の孫にあたる高棟王(たかむねおう=高見王の兄)臣籍降下して平朝臣姓を与えられ平高棟(たいらのたかむね)と名乗り、この人の家系が高棟流と呼ばれ、子や孫が公卿に昇進し、貴族としての道を歩みます。
なので、高棟王も桓武平氏の祖と呼ばれます(7月6日参照>>)

ちなみに、平清盛の奥さん=平時子(ときこ)は、この家系です。

と、一方、今回の高望王は、その高棟王の弟の高見王の子供・・・って事になるわけですが、実は、そこがハッキリせず(高見王の存在があやふや)、一説には、高見王の父である(つまりは桓武天皇の皇子)葛原親王(かずらわらしんのう)の子供かも知れないという事なので、そうなると桓武天皇の孫という事になるのですが、そこらへんは曖昧ですので、今回は、とりあえず置いて置いときます(スミマセンm(_ _)m)

とにもかくにも、嵯峨天皇系が一貫して「源」姓だったのに対し、桓武天皇系は久賀朝臣(くがのあそん)在原朝臣(ありわらのあそん=在原業平さんとこです)など複数の賜姓があった中で、今回の高望王は、冒頭に書いた通り、「謀反を平定した功績」という事で「平(たいら)となった?なんて話もありますが、

上記の通り、高望王が平姓を賜る半世紀以上前に、すでに高棟王が「平」を賜ってるはずなので、これは話半分てな感じですが・・・
それでは、なぜ?高望王が最初ではないのに、高棟王とともに桓武平氏の祖って言われるのか?

実は、この高望王は、姓を賜って平高望になった後が別格なのです。

冒頭に書いた通り、高望王は、平姓を賜るとともに上総介(かずさのすけ)に任ぜられたわけですが、この上総介というのは上総国(かずさのくに)=つまり、現在の千葉県の中部・市原市(いちはらし)を中心とした地域の事です。

ここ上総は、常陸国(ひたちのくに=茨城県)上野国(こうずけのくに=群馬県)とともに親王任国(しんのうにんごく)と呼ばれる親王(しんのう=天皇の皇子の中も次期天皇候補とされる皇子)が国守を務める場所で、そこでの「介」というのは、その長官(国守)という意味です。

ただ、当時は、それらに任官されたとしても、現地に赴く事は無かったわけですが、高望王は実際に東国に下り、しかも任期が過ぎた後も坂東(ばんどう=現在で言う関東地方)に土着して、都に戻って来る事が無かったのです。

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任国へ向かう国司の様子(因幡堂薬師縁起絵巻・東京国立博物館蔵)

それには、同時代を生きた在原業平(ありわらのなりひら)のお話(5月28日参照>>)や、第56代・清和天皇(せいわてんのう)のお話(12月4日参照>>)でも垣間見えるように、この頃の中央政権は右を見ても左を見ても「藤原」&「藤原」状態で、もはや、入り込む隙間が無かった事を含め、

もう一つ、
当時の坂東では盗賊の蜂起も絶えず、また、富豪浪人(ふごうろうにん)あるいは富豪之輩(ふごうのやから)と呼ばれる王臣家人(おうしんけにん=前任国司や中央貴族と繋がりを持つ人)が成長して活発化していた事により、奈良時代に制定されて平安期にも続けられていた戸籍に基づいた班田(はんでん=農地の支給や収容)(【土地制度の変化】参照>>)などによる律令制的な人別支配の維持が困難になっていたので、
(このへん↑チョイとややこしいです)

そこに、実際に武勇に優れた人物を送り込んで統治してもらおう…という意味もあったようです。

こうして地元に根付く事になった高望王ご一家・・・

その子供たちは地元坂東の有力者の娘を娶ったりして在地の勢力と深く結びつき、自らが関東の未墾地の開発者で生産者となることによって勢力を拡大し、やがては、自らが開発した土地を守るため、更なる武力拡大を図り、やがて武士団を形成していく事になるのです。

高望王自身は、延喜二年(902年)に西海道(さいかいどう=九州)の国司に任ぜられ、大宰府(だざいふ=九州福岡に設置された地方行政機関)に居住して、10年後に、その地で死去していますが、
(同時期に菅原道真も行って(1月25日参照>>)ので、これは左遷なのか?)

長男の平国香(くにか=良望)筑波(つくば=茨城県つくば市)を本拠とし、やがて、この家系から伊勢平氏=平清盛が誕生します。

また三男(もしくは四男)平良将(よしまさ)は、あの平将門(まさかど)(2月14日参照>>)の父です。

さらに五男の平良文(よしふみ)の家系からは、あの源平合戦で頼朝の配下の坂東平氏として活躍する畠山重忠(しげただ)(6月22日参照>>)上総介広常(かずさのすけひろつね)(12月20日参照>>)につながり、

高望王の息子とも平良茂(よしもち=良持・良将と同一?)の子ともされる平良正(よしまさ)からは、同じく、頼朝配下として鎌倉幕府を担う梶原景時(かじわらかげとき)(1月20日参照>>)和田義盛(わだよしもり)(5月2日参照>>)、第3代将軍=源実朝(さねとも)の暗殺に関わったかも知れない三浦義村(みうらよしむら)(1月27日参照>>)などへとつながるわけで・・・

ね。。。桓武平氏の祖でしょ?

ちなみに、北条政子(ほうじょうまさこ)さんも、平清盛と同じく長男の国香の子孫です。

Kanmuheisikeizu_2
↑クリックすると、さらに大きく見れます

ちなみのちなみに、清和源氏の方ですが・・・

*源氏の系図はコチラ→Seiwagenzikeizu

ご存知のように、この高望王と同時代を生きた清和天皇の流れから大量に源姓を賜る人々が登場しますが、中央に残った清和源氏からも右大臣や左大臣になった人もチラホラ登場しするものの、何たって地方で勢力を張った「河内源氏」「摂津源氏」「大和源氏」・・・

彼らのほとんどが清和源氏で、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(10月23日参照>>)酒呑童子(しゅてんどうじ)退治(12月8日参照>>)で有名な源頼光(らいこう・よりみつ)に、もちろん源頼朝に足利(あしかが)新田(にった)に、果ては徳川家康(とくがわいえやす)まで・・・(家康は怪しいけど…ww)

それこそ、「武士」と聞いて思い浮かぶ武士そのものの人々につながっていく事になります。
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コメント

桓武平氏の末裔には鬼玄蕃こと佐久間盛政もいますね。https://livedoor.blogimg.jp/morimasa_sakuma/imgs/a/5/a5281850.png

投稿: Seishou | 2021年6月14日 (月) 03時01分

Seishouさん、こんばんは~

頼朝さんの配下には関東の平氏がいっぱいしましたしね。

織田信長も(自称)平氏ですね。

投稿: 茶々 | 2021年6月14日 (月) 03時24分

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