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2021年5月 6日 (木)

大坂夏の陣~藤堂高虎と渡辺了の八尾の戦い

 

慶長二十年(1615年:元和元年)5月6日は、大坂夏の陣での若江・八尾の戦いのあった日ですが、今回は、『常山紀談』に残る渡辺了の八尾の戦いでの逸話をご紹介させていただきます。

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ご存知、大坂の陣(おおさかのじん)は、
豊臣秀吉(とよみひでよし)亡き後、豊臣政権内の主導権争いでもある関ヶ原の戦いに勝利して家臣団の中でもトップの位置についた徳川家康(とくがわいえやす)が、徐々に力をつけていき、主君である豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)がやろうとしていた一大プロジェクトである大仏建立にイチャモンをつけた(7月21日参照>>)事をキッカケに始まった「豊臣追い落とし作戦」
(↑スンマセンm(_ _)m一般的な経緯と違い、ちょいと大阪生まれ大阪育ちの主観入ってますが、その思いは下記↓のページで…)
●【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】>>
●【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】>>

慶長十九年(1614年)11月に(11月29日参照>>)勃発した大坂冬の陣は、12月19日に講和が成立し(12月19日参照>>)、一応の決着がついたものの、くすぶる火種が消える事無く、翌年=慶長二十年(1615年・元和元年)4月26日の大和郡山城(やまとこおりやまじょう=奈良県大和郡山市)の戦い(4月26日参照>>)を皮切りに、大坂夏の陣が勃発します。

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

南から迫る紀州一揆(きしゅういっき=和歌山周辺の一揆勢)(4月28日参照>>)と連携して守りを固めるはずだった樫井(かしい=大阪府泉佐野市)の戦い(4月29日参照>>)に敗れた大坂方は、いよいよ、北東から迫る德川方を、大阪平野の東を南北に連なる生駒山地の切れ目にて迎え撃つ事になります。

Oosakanatunozinyaowatanabe 航空写真にポイントした右図→
(クリックで大きくなります→)
をご覧いただければ一目瞭然・・・

生駒の山越えしないで大阪平野に入るには、北東の枚方(ひらかた)方面からと、生駒山地の切れ目の藤井寺・道明寺(どうみょうじ=大阪府藤井寺市あたりの大和口から入る2ルートしかないわけで、

案の定、二条城(にじょうじょう=京都府京都市)からの徳川家康と伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)からの德川秀忠(ひでただ=家康の三男)は、枚方の星田方面の京街道ルートを取り、

伊達政宗(だてまさむね)本多忠政(ほんだただまさ)らは大和口からやって来る事に・・・

そこで豊臣方は、4月30日の軍議にて後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)が提案した大和口要撃作戦を決行・・・

北東方面を今福(いまふく=大阪市城東区)に陣取る木村重成(きむらしげなり)らが、少し南下した若江(わかえ=大阪府東大阪市)にて迎え撃ち(【若江の戦い】参照>>)、大和口を後藤又兵衛・真田幸村(さなだゆきむら=真田信繁)らが迎え撃つ事とし(【道明寺・誉田の戦い】参照>>)慶長二十年(1615年)5月6日その戦いの火蓋が切られたわけです。

・・・・・・・

Watanabesatoru700 近江(おうみ=滋賀県)土豪(どごう=土地に根付く武士)出身で、「槍の勘兵衛」と称されるほどの腕前だった渡辺了(わたなべさとる)は、この日、德川方の藤堂高虎(とうどうたかとら)の配下として先陣の中の手を受け持っておりました。

6日の朝、道明寺に軍を進めるべきか?否か?未だ作戦が決まらなかったため、
「地の利がないので、見て参ります」
と、自ら物見に出ると、先に物見に行った堺与右衛門(さかいよえもん)なる味方に出会ったので、たずねてみると
「すでに道明寺にて後藤又兵衛と思しき者が水野(みずの勝成)殿と鉄砲を交えております」
との事・・・

そこで了は、堺に従者をつけて陣に帰らせ、自らは、もう少し先の高台に進んで西を見渡せば、案の定、八尾から若江にかけて豊臣の軍勢が、馬の鼻先を揃えるように密集して押し寄せて来ていました。

「やはり…」
と確認して、すぐに取って返し、今より道明寺へ指して向かおうとしている味方を押し止めます。

「なぜ、止める?」
と問う藤堂高刑(たかのり=高虎の甥)に、
「見てみなはれ!すぐそこに敵がウヨウヨしてるのに、それを捨てて、わざわざ道明寺に行く事もないですやろ?」
と・・・

高刑は「なるほど」と納得してくれたものの、大将の藤堂高虎は、納得しれくれず・・・なので、続けて
「このあたりはぬかるんでますから、先陣を配置する場所なんてありません。
敵との間合いは四十町(約4km)ほど…そこに続く横堤まで十町(約1km)、その横堤には4本のあぜ道が見えますから、殿様は北2本を指揮して進んで行ってください。
僕は、南側2本を指揮します。
馬印は後方に控えさせておき、細いあぜ道を少数の馬で進んで行って、
敵を横堤で押し止めて、そこで隊列を整え、南北で以って挟み撃ちにすれば、必ず勝てましょう」
と説得しました。

ところが、作戦を練ってるその間に、藤堂良勝(よしかつ=高虎の従兄弟)藤堂良重(よししげ=高虎の従兄弟の息子)らが単騎にて馬で乗り出し、我先にと西へ向かって進んで行ってしまったのです。

実は彼ら・・・
昨年の冬の陣の時、主君~高虎と作戦において口論となった了が、
「こんなとこ、辞めたらぁ~!!」
と言い放って少々モメた事に、今も腹を立てていて、

今回、その一件が無かったかのように、またぞろ、自身の作戦をあーだこーだと指示する姿を苦々しく思っており、
「渡辺憎し!アイツより、もっとスゴイ武功を立てたるで~!」
と、了の意見を無視して先に出ていったのです。

その状況を見た了は、
「アカン!
こうなっては、作戦もクソもありませんわ!
早々に攻めかかられませ!」
と言い放ち、自身は佐堂(さどう=八尾市佐堂町…現在の近鉄大阪線:久宝寺口駅付近)側へと向かったのでした。

未だ朝霧かすむ中を、もはや我先にと進む藤堂隊を迎えたのは、豊臣方の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)の軍でした。

「今いる堤の上では戦い難い」
と思った盛親は、旗を下ろして後方の堤の下へと隊列を移動・・・
これを「逃げるゾ!」
っと思った藤堂隊の面々は、さらに我先に追いかけ、乱れた藤堂隊は、ものの見事に敗北してしまうのです。

この時、ともに藤堂隊の一員として戦っていた元長宗我部家臣=桑名吉成(くわなよしなり=弥次兵衛)(桑名の戦いぶりに関しては=2019年5月6日参照>>)が、藤堂高刑に対し、
「陣の指揮をすべき大将が、一騎駆けするのは良くないですよ」
と注意するも、高刑は、
「渡辺ひとりが武勇を誇るなんか、許せん!アカンかったら討死するまでよ!」
と言って走り抜け、その通りに討死する事になってしまいました。

高刑だけではなく、了に負けじと単騎で行った藤堂良勝と藤堂良重も、そして主君に進言した桑名までもが、ここで討死しています。

そんな中、佐堂に回った了が、追い来る敵を蹴散らしつつ南側を見ると、今まさに藤堂隊が崩れまくって、敗れた藤堂先陣が旗を捨てて逃げて行くのが見えます。

Oosakanatunozin0506 大坂夏の陣
 元和元年五月六日の布陣

 クリックで大きく(背景は
地理院地図>>)

そこで、すぐに南方向に転じ、藤堂高刑が戦死した場所を、なんとか占拠しますが、もはや了の手勢も、わずかに30騎ばかり・・・

そこへ総大将の藤堂高虎から、
「退け!」
の命令が何度も届きますが、了はいっこうに退かず・・・

7度の撤退命令を無視する了に高虎が、
「なぜ?退かぬ」
と聞けば、
「旗を押し進めてさえ下されば、我ら一陣で敵を切り崩し、逃げる敵を追いかけて大勝利をご覧にいれます」

更なる説得も聞かず、
「ウチの部隊長は戦い方をわかってません。
まばらに駆けて崩されて、見方を見殺しにする事を忠義と思てはるんですか?
僕は、今朝から、少ない軍兵でありながら、そこかしこで毎度打ち勝ち、横から敵を攻め破りました。
この渡辺がいなければ、もっと死者が、いや、全員死んでたかも知れません。
見たところ、長宗我部軍も、残りわずか…これを討ち漏らしたら殿の恥になりまっせ!
早々に旗本を進めてください。
僕が盛親を討ってみせます」
と、ますます退こうとしません。

と、そこに、若江の戦いで豊臣方の木村重成を破った井伊直孝(いいなおたか=井伊直政の息子)の軍が赤旗をなびかせて加勢にやって来るのが見え、長宗我部軍は新手の出現に動揺・・・了が「好機!」とばかりにドッと斬りかかると、長宗我部は乱れて、一斉に敗走していきます。

それを、「逃すまい!」と久宝寺から鉄砲を撃ちかけて追い詰める了・・・盛親は旗竿までも折られて、這う這うの体で何とか逃げ去りました。

さらに了は、その勢いのまま北西へ進んで平野(ひらの=大阪市平野区)を占拠したので、道明寺から大坂城内へと敗走する豊臣方は道を塞がれてしまいます。

ここで、了は
「軍兵さえいただければ、ここで疲れ果てている敵を一掃してみせます。
早く軍勢をよこしてください」
と使者を立てますが、高虎は、了の案をなったく聞き入れず、
ただただ
「早く、引き返せ」
「なんで、戻って来んのや」
と言うばかり・・・

しかたなく了は、大坂城に戻る敵軍を少しでも食い止めるべく、平野一帯に火をかけて本陣に戻りました。

後に、
もし、ここで渡辺了が退かなければ、真田幸村も、あの毛利勝永(もうりかつなが)も、ひょっとしたら大坂城へは帰還できなかったかも知れないと、世間の噂になったのだとか・・・

その後、戦い終わって藤堂高虎の陣を井伊直孝が訪れた際、
「同族が多く討死してしまい、無念です」
という高虎に、
「我らが、逃げる敵を追いかけて近くに来た時、筵(むしろ)の旗指物をした侍大将がいて、強敵を切り崩して見事に軍兵を指揮していた姿がアッパレでしたが、あの武将はどうなりましたか?」
と直孝が尋ねました。

そう、それは渡辺了、その人の事・・・

「いやぁ、筵の指物は僕ですわ~
まさか、井伊殿が目に止めて下さるとは!」
と、了が大声で答えたので、高虎は、ますます機嫌が悪くなったのだとか・・・

この後、了は案の定、高虎とはウマく行かず、藤堂家を出奔して、他家への再就職を試みますが、藤堂家から奉公構(ほうこうかまい=他家に「仕官させるな」の願いを出す事)=いわゆる「お前、ほすゾ」の命が出ていたため、他家への仕官は叶わなず、京都で僧になったそうな。

ま、今回の場合は、結果的にウマく行って、井伊さんにも褒められたので、了としてはウキウキだったかも知れませんが、一軍をまとめようとする大将から見れば、命令を無視して自分の意見ばかりグイグイ推して来る者は、モンスター家臣以外の何者でも無かったでしょうね。
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