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2021年6月30日 (水)

ジッチャンの恨みを晴らす!宇喜多直家の砥石城奪回戦

 

天文三年(1534年)6月30日、備前砥石城にて宇喜多直家の祖父=宇喜多能家が自刃しました。

本日は、その砥石城を、能家孫の宇喜多直家が奪回するまでのお話。。。

・・・・・・・・

鎌倉幕府の倒幕にも貢献し、その後の南北朝の動乱でも一貫して足利将軍家を助けた赤松則村(あかまつのりむら・円心)(4月3日参照>>)の活躍で、室町幕府政権下でも播磨(はりま=兵庫県南西部)備前(びぜん=岡山県東南部と兵庫&香川の一部)美作(みまさか=岡山県東北部)など中国地方を中心に広域の領地を持つ大きな存在であった赤松(あかまつ)・・・

しかし、その則村の4代後の赤松満祐(みつすけ)が、第6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)暗殺した事で(6月24日参照>>)、その討伐戦で功績のあった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)にほとんどの領地を取られ、一旦は滅亡状態となりますが、その後に起こった応仁の乱(おうにんのらん)(10月22日参照>>)で赤松満祐の弟の孫にあたる赤松政則(まさのり)が、宗全と敵対する東軍の細川勝元(ほそかわかつもと)に見出されて活躍して再興を果たした後、かの嘉吉の乱で失った領地を取り戻すべく山名との戦いを繰り返していたのでした(4月7日参照>>)

そんな赤松の家臣だったのが播磨の浦上荘を本拠地とする浦上(うらがみ)氏で、この頃の当主の浦上則宗(うらがみのりむね)は赤松政則を助け、赤松氏再興に尽力した一人です。

Ukitayosiie300a さらに、その浦上氏の家臣だったのが、備前豊原荘に根を張る半商半士の土豪(どごう=その地の小豪族)宇喜多久家(うきたひさいえ)が、浦上が構築した砥石城(といしじょう=岡山県瀬戸内市)の城番を任されて以来、代々宇喜多家が、その城主を務めていました。
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そんな中、上記の赤松VS山名の当人同士の戦いは長享二年(1488年)の英賀(あが=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)坂本城(さかもとじょう=兵庫県姫路市書写)の戦いを最後に終焉を迎えますが(4月7日参照>>)、赤松復活の象徴でもあった赤松政則が明応五年(1496年)に亡くなった事から、赤松家中に後継者争いが起こり(3月11日の真ん中あたり参照>>)、明応八年(1499年)前後に宇喜多家を継いだ宇喜多能家(よしいえ=久家の孫で直家の祖父)が城主になる頃には、赤松家中は真っ二つに分裂し、その争いに配下の浦上も宇喜多も巻き込まれていくのです。

しかも、ここまで主君赤松命だった浦上氏が、浦上則宗の死去により浦上村宗(むらむね=則宗の甥?)が継いだ文亀二年(1502年)あたりから赤松への反発心が増してきて、やがて、赤松に対して反旗をひるがえし、永正十五年(1518年)の三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)攻防戦では、見事!主君の赤松義村(よしむら=政則の娘婿)を城から追い出す事に成功します。
●【浦上松田合戦】参照>>
●【三石城攻防戦】参照>>

もちろん、これらの戦いで大いに活躍した宇喜多能家だったわけですが・・・

そんな中で、享禄四年(1531年)に起きた室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川(ほそかわ)の後継者争いである天王寺の戦い(大物崩れ)(6月8日参照>>)で、細川高国(ほそかわたかくに)側にて参戦していた浦上村宗が、その合戦で討死を遂げた事で、またもや周辺状況が変化しはじめるのです。

能家は、主君=村宗の死を受けて砥石城にて剃髪し、常玖(じょうきゅう)と号して隠遁生活を送っていましたが、

そんなこんなの天文三年(1534年)6月30日、能家に代って浦上の家政を執っていた高取山城(たかとりやまじょう=岡山県瀬戸内市邑久町)島村盛貫(しまむらもりつら=盛実)が、亡き村宗の遺命と称して砥石城を襲撃し、もはや病で歩行も困難だった能家を自刃に追い込んだと・・・

とされていましたが、実は、この話は、2年後の天文五年(1536年)もしくは天文九年(1540年)に能家の息子である宇喜多興家(おきいえ)島村盛貫の一族の息子たちとモメて、暴力沙汰となり殺害されたという事件(←この事件も本当にあったかどうか?疑わしいんですが)を受けての後世の軍記物の創作なのだそうで・・・

実際には、かの天王寺の戦いで細川高国&浦上村宗らと敵対する側で参戦していた赤松晴政(はるまさ=義村の息子)の命を受けた勢力によって、砥石城内にて殺害されたとの事。。。(経緯は違えど亡くなったという事は事実のようです)

この時、息子の興家が、幼い息子=宇喜多直家(なおいえ)を連れ、鞆の浦(とものうら=広島県福山市)へと落ちた事で、宇喜多の家督と砥石城主は、主君の浦上の命により、能家の異母弟である浮田国定(うきたくにさだ)が受け継ぐ事になりました。

これも、軍記物などでは、浮田国定が島村盛貫と組んでいて…要は、乗っ取ったみたいな話になっていたりしますが、上記の通り、能家息子の興家が砥石城を落ちてしまっているわけですので、ある意味、正統な後継であったという意見もあります。

また、一戦にも及ばず、父をみすみす殺害されたあげくに逃げ出してしまった状況となった息子の興家は、父に似ぬ不肖の子とか、暗愚の将などと言われますが、本当のところは、よくわかっていません…てか、その真偽が確かめられるほどの興家さんに関する史料が残っていないのが現実です。

とにもかくにも、ここで父の能家を失い、砥石城も叔父の浮田国定の物となってしまった興家は、息子の直家とともにしばしの放浪人生を送ったとされます。

その間、宇喜多の主君である浦上では、浦上村宗が亡くなった後に、家督を継いでいた嫡男の浦上政宗(まさむね)と、その弟=浦上宗景(むねかげ)との間で意見の食い違いがあり、両者が対立・・・おのずと、その配下の国衆たちも分裂するようになっていたわけですが・・・

Ukitanaoie300a そこに登場するのが、成長した能家の孫=宇喜多直家・・・実は、しばらくの没落の後、かつて祖父の能家が守将を務めていたと伝わる乙子城(おとごじょう=岡山県岡山市東区)にて宇喜多家の再興が許され、各地に散っていた旧臣たちが直家のもとに集まって来ていたのです。
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そんなこんなの天文十四年(1545年)・・・あれからも砥石城の城主を務めていた浮田国定が、毛利(もうり)へ内通しているとの情報が浦上宗景のもとに飛び込んで来ます。

くわしく調べてみると、どうやら、その情報は本当らしい・・・
そこで浦上宗景は、宇喜多直家に浮田国定への攻撃を命じたのです。

時に直家17歳・・・宗景から派遣されて来た天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)の援軍を得て、直家は砥石城を攻め立てます。

しかし、残念ながら願い叶わず・・・這う這うの体で逃げかえると、逆に、勢いづいた砥石城が乙子城を攻め立てます。

ここは何とか足軽たちの奮戦で城を守り切った直家でした。

この後も、何度も砥石城に攻撃を仕掛ける直家でしたが、その都度反撃を受けて切り崩され、足軽同士の小競り合い的な戦いが続く事になるのですが、この攻防戦に決着がつくのが・・・

天文十八年(1549年)もしくは弘治元年(1555年)か弘治二年(1556年)の事・・・

直家は、やはり宗景から派遣された天神山城の援軍と示し合わせて、砥石城に夜討ちをかけたのです。

不意を突かれた浮田国定は、瞬く間に城を乗っ取られ、やむなく城外へ逃走を図りますが、敗走する浮田を追走する宇喜多勢が討ち取り、多くの首級を挙げ、一説には国定も、この時討ち取られたとされます。

落城した砥石城は、宗景の命により同じ山並みに高取山城を持つ島村一族の島村貫阿弥(かんあみ=観阿弥:大物崩れで討死した島村弾正の子か孫で実名は宗政とも、また島村盛貫と同一人物ともされる不明な人物)に与えられ、直家は新庄山城(しんじょうやまじょう=岡山県岡山市東区:奈良部城とも)を与えられました。

そんな直家がようやく祖父の無念を晴らすのが、永禄二年(1559年)・・・この時、やはり主君の宗景の命により、沼城(ぬまじょう=岡山市東区沼:亀山城とも)を守る(しゅうと=直家の正室の父)中山勝政(なかやまかつまさ=中山信正)を攻めて討ち取った直家は、同時に高取山城と砥石城の島村貫阿弥も討ち取って、城を奪い返そうと計画します。

沼城の落城の後、主君の宗景に頼んで、島村貫阿弥を沼城に誘い出す書状を書いてもらい、貫阿弥が数人の部下だけを連れて沼城にやって来たところを待ち伏せして斬殺・・・騙し討ちにしたのです。

さらに、後から続いて駆けつけて来る島村の家臣たちも、ことごとく討ち果たし、その勢いのまま、直家自らが軍勢を率いて砥石城と高取山城へと、ほぼ同時に押しかけます。

わずかの留守兵しか残っていなかった両城は、主君の貫阿弥が討ち取られたと知るや、城内は騒然となり、そのまま降伏したのです。

かくして、直家は、ようやくジッチャンの無念を晴らし、砥石城を弟の宇喜多春家(はるいえ=忠家かも)に守らせるのでした。

これが宇喜多家による25年に渡る砥石城争奪戦・・・と言いたいところですが、今回のこの記述、ほぼ『備前軍記』に沿って書かせていただきました。

そう・・・
先にも書きましたが、軍記物とは、今で言うところの歴史小説・・・ある程度は史実に基づいてはいるものの、かなりの創作も入っており、あまり史料も無くて、その活躍ぶりがわからない興家さんは、あくまで何もできなかった愚将の如く描かれ、浦上配下として、ある程度の活躍記録が残る能家ジッチャンと、後に全国ネットに躍り出る直家をカッコ良く、しかもそこに、「ジッチャンの名に懸けて恨みを晴らす」的なドラマチックな要素が盛り込まれているわけです。

なので、おそらく事実であろう直家さんの活躍は、この後の戦い↓から?・・・という事になるかと思いますが、

かと言って、すべてが創作とも言えないし、とにかく他に史料が無いのが現実ですから、ここは直家の出世物語として、心に留めておきたい出来事だと思います。

★この後の直家は…
  ●永禄十一年(1568年)7月:金川城攻略戦>>
  ●永禄十年(1567年)7月:明善寺合戦>>
  ●天正三年(1575年)1月:高田城攻防戦>>
  ●天正三年(1575年)4月:天神山城の戦い>>
  ●天正三年(1575年)6月:松山合戦>>
  ●天正七年(1579年)2月:作州合戦>>
  ●天正八年(1580年)6月:祝山合戦>>
 でどうぞm(_ _)m
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2021年6月23日 (水)

鎌倉公方分裂~堀越・古河・小弓…内紛が危機を招く

 

永正六年 (1509年)6月23日、古河公方の足利政氏と敵対していた足利高基が和睦しました。

・・・・・・・

これまでも何度か書かせていただいている通り、そもそもは関東に本拠を置きながらも京都にて幕府を開く事になった室町幕府初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自らの嫡男の足利義詮(よしあきら)に2代将軍の座を譲り、四男の足利基氏(もとうじ)に地元を治める鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東に派遣し、それぞれの家系にて、その座を世襲させていく事にしたわけですが、

その後、何年かして、更なる支配拡大を目論む鎌倉公方は独自に道を歩み始め、その独走を制止しようとする関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐約・執事)上杉家とも対立するようになって来ます。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

それは、正長二年(1429年)に第6代将軍の足利義教(よしのり)(6月24日参照>>)と第4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)の頃に激しさを増し、結局、永享十一年(1439年)に朝廷から持氏追討の綸旨(りんじ=天皇の意を受けて朝廷が発給する命令書)を受けた幕府軍によって持氏は攻められて自害に追い込まれました(永享の乱>>)

しかし、その翌年に義教が暗殺され(6月24日参照>>)、その後を継いだ第7代足利義勝(よしかつ=義教嫡男)も早世し、わずか8歳の足利義政(よしまさ=義教三男)が第8代将軍に就任した事もあり、鎌倉公方が空位のままではマズイとなって、先の永享の乱の時には未だ幼く、将軍家と鎌倉公方家との対立も理解していなかった持氏の末っ子=足利成氏(しげうじ)第5代鎌倉公方に就任しました。

とは言え、そんな幼子もやがては大人になるわけで・・・結局、父と同じく独立的な関東支配を目論むようになり、関東管領の上杉家とも対立して関東を暴れ回る中、幕府は、成氏の鎌倉公方を廃し、新たに足利政知(まさとも=義教次男・義政の兄)公方として関東に派遣しますが、戦火激しい中で政知は鎌倉に入れず、伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)を本拠地とする事になり、以後、堀越公方と呼ばれました(なので堀越が幕府公認の公方です)

一方の成氏も鎌倉には戻れず、下総古河(こが=茨城県古河市)に留まった事で、コチラは古河公方と呼ばれます(なので古河公方は自称です)

さらに、この頃から、関東管領職を代々世襲していた上杉家も、同族&家内での争い(扇谷上杉×山内上杉)が激しくなる中、明応六年(1497年)に成氏が死去(ここまでの経緯については9月30日参照>>)・・・その後を継いだのが成氏嫡男の足利政氏(まさうじ)でした。

Asikagamasauzi700a 政氏は、上杉家内の抗争において、はじめは扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)を支持していましたが、扇谷上杉家を盛り上げた執事の太田道灌(おおたどうかん=資長)が主君の上杉定正(うえすぎさだまさ)に暗殺され(7月26日参照>>)、その定正も明応三年(1494年)に死去した事を受けて扇谷上杉家に見切りをつけて山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)派に転身・・・

今度は、山内上杉家の当主=上杉顕定(あきさだ)とともに扇谷上杉家を継いだ上杉朝良(ともよし)と戦うのです。

永正元年(1504年)には、扇谷上杉朝良に味方する駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(うじちか)と、その叔父である北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時・氏親の母の兄)と戦った山内上杉顕定について、政氏も立河原(たちかわのはら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)に参陣しています。

そう・・・ここらあたりで台頭して来るのが北条早雲・・・

早雲は、すでに延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)に幕府公認の堀越公方を追放(10月11日参照>>)、明応四年(1495年)には小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取して(12月16日参照>>)そこを本拠として関東にグングン勢力をのばしつつあったのです。

「これはマズイ!」
と思ったのが、扇谷&山内の両上杉家・・・そう、同族同志でモメてる場合ではありません。

そこで、敵の敵は味方(…と思ったかどうかは知らんが)とばかりに永正二年(1505年)に両上杉家は和睦します

この頃、政氏は、弟の顕実(あきざね=以前は足利義綱)上杉顕定の養子に出して関係をさらに強化していますが・・・

ここに来て、今度は、自分とこの家内が怪しくなって来るのです。

『喜連川判鑑 (きつれがわはんがん)によれば永正三年(1506年)春、『鎌倉九代記』によれば永正四年(1507年)夏頃から、足利政氏と、その嫡男の高基(たかもと=高氏・義基)との間に不和が生じはじめたのだとか。。。

結局、高基は家出・・・奥さんの実家である宇都宮成綱(うつのみやしげつな=宇都宮氏17代当主)の下に身を寄せて永正五年(1508年)には嫡男の足利晴氏(はるうじ)をもうけます。

こんな父子の状況を憂いた上杉顕定は出家して可諄(かじゅん)と号して両者の仲介をし、永正六年 (1509年)6月23日、何とか父子は和解して、高基は古河に戻りました。

しかし、そんな上杉顕定も、翌永正七年(1510年)6月の長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)の戦いにて、越後(えちご=新潟県)の守護代であった長尾為景(ながおためかげ=越後長尾家)敗れて討死する(6月20日参照>>)、この同じ頃に再び父子は不和になり、今度の高基は、古河公方家の軍事を担っていた重臣=簗田政助(やなだまさすけ)の息子=簗田高助 (たかすけ)抱き込んで対抗します。

怒った政氏が、下野(しもつけ=栃木県)那須(なす)の者に命じて簗田高助の関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿)を攻撃させたりした事で、

この父子ケンカは、
父方に、
陸奥大館(むつおおだて=福島県いわき市)岩城常隆(いわきつねたか)
常陸(ひたち=茨城県)佐竹義舜(さたけよしきよ)など、

息子方に、
舅の宇都宮成綱、
下総(しもうさ=千葉北部・埼玉東部・茨城南西部・東京都の一部)結城政朝(ゆうきまさとも)
佐竹に対抗する同じ常陸の小田政治(おだまさはる=足利政知の落胤説あり)
などが味方し、徐々に大きな戦い(永正の乱)へと発展して行くのです。

とは言え、諸戦の状況は、少々父の分が悪い・・・

関東の諸将の多くが息子の高基を支持している事に怒り心頭の政氏は、永正九年(1512年)、古河を捨て、自身に味方してくれる小山成長(おやましげなが)を頼って、彼の祇園城(ぎおんじょう=栃木県小山市城山町・小山城)へと入り、以後は、この祇園城から関宿城までの各地にて対立抗争の戦いが繰り広げられるのです。

永正十年(1513年)4月には三浦三崎(みうらみさき=神奈川県三浦市)の要害で激しく戦うも、やはり状況は高基側が優勢・・・やむなく政氏は、永正十三年(1516年)12月には祇園城から、武蔵(むさし=東京都・埼玉・神奈川の一部)岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区)へと移動します。

しかし結局は、政氏VS高基父子の戦いは、高基優勢の形が崩される事はなく、最終的に政氏は、不利な条件を呑んでの高基との和睦を選択し、公方の座も息子に譲る事となりました。

こうして、ようやく政氏VS高基父子の戦いが収拾したかに見えた永正十四年(1517年)、今度は政氏次男の足利義明(よしあき)が、父とも兄とも対立して家を飛び出し、安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)の支援を受けて原胤清(はらたねきよ)小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)を奪い、ここを拠点とする小弓公方を自称して古河公方と対立するようになるのです。

そして案の定、この父子&兄弟ゲンカが、公方家の弱体化を加速させる事となり、やがて、皆さまご存知のように、関東は北条の治める地となってしまうわけです。

★鎌倉公方関連のその後…
 ●大永四年(1524年):北条氏綱の江戸進出>>
 ●大永六年(1526年):里見の鶴岡八幡宮の戦い>>
 ●天文七年(1538年)国府台合戦で足利義明討死>>
 ●天文八年(1539年):足利晴氏と北条氏綱の娘結婚>>
 ●天文十五年(1546年):河越夜戦で公方壊滅>>
★オマケ
 ●里見義弘と青岳尼(足利義明の娘)が結婚>>
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2021年6月17日 (木)

本能寺の変の実戦隊長…斎藤利三の処刑

 

天正十年(1582年)6月17日、本能寺の変の後、山崎の戦い羽柴秀吉に敗れた明智光秀の家老・斎藤利三が処刑されました。 

・・・・・・・・

斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)は、
平安時代頃からの藤原一族の流れを汲む美濃(みの=岐阜県南部)土岐(とき)守護次官斎藤氏(斎藤道三は別系)の人とされる白樫城(しらかしじょう=岐阜県揖斐郡)主・斎藤利賢(としかた)を父に、

代々室町幕府の重臣の家系である蜷川氏(にながわし=アニメ一休さんの新右衛門さんが有名)蜷川親順(ちかより)の娘との間の次男として天文三年(1534年)頃に生まれたとされますが、その生年も諸説あり、お母さんも、斎藤道三(どうさん)の娘説、明智光秀(あけちみつひで)の妹説などもあり、少々謎です。

ただ、利三の兄である石谷頼辰(いしがいよりとき)が、母の再婚相手である石谷光政(みつまさ=空然)の養子となって石谷姓を継ぎ、義父の職を継いで室町幕府の奉公衆となっていて、弟の斎藤利三も、兄と同じく幕府奉公衆であった事を考えると、やはり母は蜷川氏の娘さんである可能性が高いように思われます。

ちなみに、母と再婚相手との間に生まれた利三にとっては異父妹にあたる姫の嫁ぎ先が、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)で、この縁談の仲介役だったのが兄の石谷頼辰と、同僚(幕府奉公衆)細川藤孝(ふじたか=後の幽斎)だったようで、この頃は藤孝の中間(ちゅうげん)だった明智光秀は、この時に長宗我部元親と知り合いになったとされていて、

後々の本能寺の変の一因とも噂される光秀&利三&元親の3人の関係ができた物と思われます(本能寺の変:四国説>>) 。

Saitoutosimitu600a そんな斎藤利三の最初の結婚相手は斎藤道三の娘と言われますが、確固たる証拠はありません・・・ただ、何かしらの縁があって、この頃、利三は道三の息子である斎藤義龍(よしたつ)に仕えるようになっていますので、道三の系列と密な関係になっていた事はうかがえます。

その後、その道三の家臣であった稲葉一鉄(いなばいってつ)与力となって、一鉄の娘(もしくは姪)と再婚します。

ご存知のように、この稲葉一鉄は、永禄十年(1567年)の斎藤本拠の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)陥落(8月15日参照>>)の時に、攻撃側の織田信長(おだのぶなが)の道案内をして織田に寝返った美濃三人衆の一人(8月1日参照>>)、これをキッカケに一鉄配下の斎藤利三も織田傘下となるのです。

翌年の永禄十一年(1568年) には、ご存知のように織田信長が室町幕府15代将軍となる足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たし(9月7日参照>>)、畿内を掌握していく事になるわけですが、

ところが・・・
織田家傘下の稲葉の配下として様々な武功を挙げる斎藤利三ですか、少々不満があったようで・・・

それは、自らの武功に対して、稲葉一鉄が、それに見合った報酬を与えてくれない事・・・

かくして元亀元年(1570年)頃(もうチョイ後かも)、日頃の不満が爆発した利三は、逃げるように稲葉家を出て、すでに信長の家臣として活躍中の明智光秀のもとへと走ります。

つまり、明智光秀が稲葉一鉄の家臣である斎藤利三を引き抜いて自分の家臣にしたわけですが、この頃、光秀は別の人も引き抜こうとしてモメていますので、どうやら、利三の不満が爆発していきなり・・・というよりは、光秀との約束事が、すでに水面下で決まっており、稲葉家を出たものと思われます。

なんせ、かつて同じ職場(幕府奉公衆)だったわけですし、同じ土岐氏でもありますから・・・

とは言え、家臣を引き抜かれた一鉄は激おこプンプン丸で、収まらないその怒りを主君である信長に訴え、利三の返還を求めます。

事を治めたい信長は、利三に切腹を命じますが、織田の家臣で利三と親しかった猪子平助(いのこへいすけ)という武将が間に入って(『改正三河後風土記』では光秀自身が信長に反論して利三を守ったとなっています)、何とか利三の切腹は免れましたが、無茶な引き抜きを行った光秀は、信長からかなりキツく怒られたようで・・・もちろん、稲葉一鉄との確執も残ったままになってしまいます(この一件も本能寺の一因と噂されます)

とにもかくにも、
野茂のメジャー行きくらいに(←例えが古い)大モメにもめた移籍劇ではありましたが、明智光秀の配下となった斎藤利三は大いに活躍して光秀の信頼を得、光秀が信長から任された丹波(たんば=兵庫県の一部)攻めで、天正七年(1579年)に黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)を落とした(8月9日参照>>)時には、その後の黒井城を任され、光秀の家老に抜擢されました。

やがてやって来るのが天正十年(1582年)の本能寺の変・・・
★本能寺の変については↓
 ●本能寺の変~『信長公記』>>
 ●その時の安土城>>
 ●数時間のタイム・ラグ>>

6月1日夜、「殿(信長)に陣容を見せる」という名目で、居城の亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)を出た明智の軍勢【明智越体験記】参照>>)・・・一説には、山城(やましろ=京都府)との国境である老ノ坂(おいのさか)の手前で、光秀は、一部の重臣に対して「変の決行」を打ち明けたと言いますが、もちろん、打ち明けたメンバーの中には斎藤利三も・・・

これには、利三は反対したものの、光秀の決意は固く・・・という説と、
むしろ利三が積極的で、なんなら利三に押された形で光秀が決意したという、真逆な説があります。

ごく最近、「光秀が現地(本能寺)には行って無い」という史料の発見もあり、今は、後者の「利三が主導していた」との考えが強くなって来ています。
(信長の四国攻めが間近だった事もあるので)

とにもかくにも、ここで本能寺の変は決行され、「変」自体は成功を収めたわけですが、ご存知のように、電光石火で畿内に戻って来た羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)に推された織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)率いる織田軍によって、明智軍は敗れ、戦場を離れた光秀も討たれてしまいます。
★このへんは、すでに書いておりますのでコチラで↓
 ●秀吉の中国大返し>>
 ●天王山~山崎の合戦>>

斎藤利三も何とか戦場を脱出しますが、堅田(かただ=滋賀県大津市)に潜伏していたところを、秀吉の命を受けた一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)を大将とする30余人の捕手と足軽50人に囲まれ、息子らとともに奮戦するも、息子2人は斬られ、利三自身は捕縛されてしまいました。
(捕縛したのは猪飼秀貞の説もあり)

かくして天正十年(1582年)6月17日、市中引き回しのうえ六条河原にて斬首された斎藤利三・・・享年49でした。

消えてゆく 露の命は 短夜の
 明日をも待たず 日の岡の峰 ♪  利三辞世
「夜露の命は短い夜だけで、お日様が上ったら消えてしまうものなんや」

その遺体は、5日後の23日、明智光秀の首とともに、あらためて三条粟田口(あわたぐち)にて磔刑(たっけい)に処せられたという事です。

しかし、その後、利三の友人だった絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)(8月28日参照>>)が盗み出し、同じく友人の東陽坊長盛( とうようぼうちょうせい)が住職を務める真正極楽寺(しんしょうごくらくじ=京都市左京区)に葬られました。

ちなみに、この時、4歳で父=斎藤利三を亡くし、母方の稲葉家に預けられたのが、後の春日局(かずかのつぼね)(10月10日参照>>)という事になります。
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2021年6月10日 (木)

伊賀の局の勇女伝説~吉野拾遺…伊賀局が化物に遭遇

 

正平二年(貞和三年・1347年)6月10日、南朝のある吉野山にて伊賀局が、異形の化物と問答しました。

・・・・・・・・

伊賀局(いがのつぼね)は南北朝時代の人で、新田義貞(にったよしさだ)(11月19日参照>>)の家臣として活躍して新田四天王の一人とされた篠塚重広(しのづかしげひろ)の娘です。

本名は不明で、父の篠塚重広が伊賀守(いがのかみ)だった事から、彼女は伊賀局と呼ばれるようになったようで、あの足利尊氏(あしかがたかうじ)に対抗して吉野(よしの=奈良県)南朝を開いた後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)(12月21日参照>>)女院(にょいん=皇后並みの位)である阿野廉子(あのれんし)に仕える女官でした。

皇后様に仕える女官・・・と聞けば、つい、うるわし黒髪におしとやかな風貌を想像してしまいますが、実は彼女には怪力伝説あり・・・

後に、この吉野が北朝の高師直(こうのもろなお)に攻められた際、時の(後村上天皇)や内院らともども女房らが賀名生(あのう=奈良県南部)へ避難しようと逃げる中、途中にあったはずの吉野川に架かる橋が流されてしまっていて、
その先へは行けず・・・
しかし、追手は迫る・・・

という状況の中、屈強な従者たちもが困り果てていたのをしり目に、この伊賀局が進み出て、ザッと見渡した中で1番ブットイ松の大木を、スッコーンと、その手でへし折って丸太の橋として皆を渡らせて救ったとされ、「稀代の勇女」とされています。

後に、あの楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)の三男である楠木正儀(まさのり)(12月7日参照>>)に嫁いだとされ、それからは夫婦ともども忠義を尽くした・・・と言いますが、今回は、そんな伊賀局の『吉野拾遺(よしのしゅうい)という説話集に残る不思議なお話=「伊賀局化物ニ遭フ事」の一説を・・・

・‥…━━━☆

 それは正平二年(貞和三年=1347年)春の事・・・

その頃、女院の御所は皇居の西側の山つづきにありましたが、そのあたりに、なにやら化物が出るとの噂になり、人々が騒ぎ始めます。

しかし、未だ、誰も実際に化物を見た者はおらず、あくまで噂・・・

ただ、あまりに人が騒ぐので、内裏(だいり)から腕に覚えのある勇者が何人も来て、蟇目(ひきめ=高い音が響く鏑矢などを射て邪気を払う)などをやってくれて、少し静かになりました。

そんなこんなの6月10日

その日は、ひどく暑い日で、伊賀局は庭に出て涼みながら、さし出て来る月を眺めておりました。

伊賀局は、思わず、
♪すずしさを まつ吹く風に わすられて
 袂にやどす 夜半の月影 ♪
「涼しさ求めて待ってると松の木立の方から風が吹いて来て、昼間の暑さも忘れられるわ~って思てたら、夜半の月が、スーッと私の着物の袂を美しく照らしてくれるやないの~」
と、誰聞くともない歌を口ずさみながら、まったりとした気分に浸ってると、

松のこずえの方から、何やら干からびたような声で、古い歌が聞こえてきます。

♪ただよく心しずかなれば すなはち身もすずし♪

これは、
古く(とう=618年~907年の中国)の時代の詩人=白居易(はくきょい)が詠んだ詩、
不是禅房無熱到(是れ禅房に熱の到ることなきあらず)
但能心静即身涼(但だよく心静かなれば即ち身も涼し)
「いくら熱い部屋にいても
 心を静めたなら何の事は無い(その身は涼しい)

という歌の下の句の部分でした。

Iganotubone600a ふと見上げると、そこには、顔は鬼のようで、背中に翼が生え、その眼が月よりもらんらんと輝く、どんな猛き武将もが大声を出して逃げ出しそうな化物?妖怪?が立っていたのです。

しかし、さすがは勇女・伊賀局・・・少しも騒がず、むしろ、にっこり笑って

「ホンマにそうですね~言わはる通りですわ」
と、一旦ノッておいてからの~
「…って、そんな事どうでもえぇねん!
いったい君、誰やねん!
不審なヤツやな、名を名乗らんかい!」
と、華麗なるノリツッコミ。

すると、その者は、
「いや、僕ね、藤原基遠(ふじわらのもととお=基任)言いますねんけど…」
と身の上を話はじめます。

「かつて、僕は女院(阿野廉子)のために、この命捧げて戦いましてん。
せやのに、女院は、いっこうに菩提を弔ってくれはりません。
しかも、生前、罪深かったせいか、こんな姿になってしもて、ますます苦しんでるんです。

さすがに、ちょっと言うたろかいな~…って思て、この春頃から裏山でチョイチョイ、
出たり~入ったり~ってウロウロしてましてんけど、
さすがに、女院の御前に出るんはおそれ多くて…

この事、お前はんから、伝えといてもらわれへんやろか?」

「あ…、その話、聞いた事ありますわ。
けど、恨んだらあきませんで。
知っての通り、世は乱れまくりで、ここも安住の地やありませんねん。
女院も、せなあかん~せなあかん~と思いながらも延び延びになってしもてはったんとちゃいますか?

とは言え、あんたも苦しんではるんやったら、早々にお伝えしときますわ。

ところで、もし弔うんやったら、どんなプランがよろしいの?
どの宗派でも、ご相談に応じますよ」

伊賀局の対応に、その者も納得してくれたようで、
「それなら、法華経でよろしゅー
ほな、ぼちぼち帰らしてもらいまっさ」
と・・・

「えっ?帰るて言うても…どこへ帰らはるん?」
と局が聞くと

「露と消えにし野原にこそ 亡き魂はうかれ候へ」
(はかなく散った野原でこそ、浮かばれるっちゅーもんでっせ)
と言って、北の方角へ、まばゆい光を放ちながら飛んでいきました。

それを、ゆっくりと見送った伊賀局・・・

その後、女院のもとへ行き、その事を話すと
「いや、ホンマやわ~すっかり忘れてしもてたわ」
(↑こないだまで「太平記」の再放送を見ていたせいで原田美枝子さんで再生されてまう)

と、女院・・・早速、翌日、吉水法印(きっすいほういん=吉野金峯山寺の僧坊)に命じ、お堂で21日間に及ぶ法華経の読誦にて供養しました。

その後は、不思議な事は一切起こらず、かの者も、これにて成仏したようです。

・‥…━━━☆

…って、伊賀局って、どんだけ強いねん!勇女過ぎる!

今回は怖い話なので、真夏の夜の怪談話っぽく、オドロオドロしい感じで書こうと思っていたのに、あまりの女傑ぶりにコントのようになってしまい、ぜんぜん怖い話じゃなくなってしまいました~まことに申し訳ない。

それでは、最後に、
伊賀局さんの松の大木を引っこ抜く勇姿をご覧あれ!
Iganotubonec
松の大木を抜く伊賀局(『古今英雄技能伝』より)
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2021年6月 3日 (木)

伊丹康勝と紙と運~「康勝格言の事」…常山紀談より

 

承応二年(1653年)6月3日、江戸前期の旗本で勘定奉行を務めた伊丹康勝が死去しました。

・・・・・・・

伊丹康勝(いたみやすかつ)伊丹氏は、鎌倉末期から南北朝の時代に、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)を本拠として伊丹周辺を手中に治めていた国人(こくじん=地侍)として史料に登場しますが、戦国時代に入って細川管領家内の闘争(1月10日参照>>)に巻き込まれて城を失い、各地を転々とした後、康勝の父の代になって甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより)に仕えたものの、その武田が織田信長(おだのぶなが)によって滅ぼされた(3月11日参照>>)ため、今度は徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となりました。 

Tokugawaieyasu600 その父が家康に仕えるようになった頃には、家康の通字(とおりじ=代々使用する字)でない方の「康」の文字を賜って伊丹康直(やすなお)と名乗る事でもわかる通り、家康からの信頼がかなり厚かった事から、

息子の伊丹康勝も同じく「康」の文字をいただき、10歳頃から家康の三男で嫡子(ちゃくし=後継者)德川秀忠(ひでただ)に仕え、秀忠が将軍職を継いでからは、幕府政策にも関わり、その息子である第3代将軍=徳川家光(いえみつ)の元でも手腕を発揮し、老中(ろうじゅう=江戸幕府最高職)並みの扱いを受ける大出世を果たしていました。

ま、一般的には、あまりに権力を持ち過ぎたここらあたりで、その横暴ぶりが目立つようになったため、家光の命にて失脚させられ、後に復帰するも、かつての勢いなく、寂しい晩年を送った後、承応二年(1653年)6月3日79歳でこの世を去った・・・とされますが、

一方で『常山紀談』には、その名言とも格言とも言える言葉が残っているのです。

・・・・・・・

伊丹康勝が甲府城(こうふじょう=山梨県甲府市)城番(じょうばん=城代の補佐)をしていた頃、

公儀に高額の運上金(うんじょうきん=営業税)を納めて、甲斐にて産出される鼻紙(はなかみ=ティッシュ)の商いを一手に引き受けている商人がおりましたが、

ある時、別の商人が、
「ソイツが納める金額に1000両上乗せして運上金を納めますよって、鼻紙の商いは私一人に任せてもらえまへんやろか?」
と言って来ました。

評議では、
「えぇ話やないかい」
「それで、決めよう」
という方向に話が進みかけますが、

康勝が、ただ一人
「僕は納得できません。反対です」
と言って、それを許しませんでした。

しかし、諦めない商人は、さらに執政(しっせい=政務)の老中にまで、その旨を訴えて退き下がりません。

やがて3年ほどゴチャゴチャやっていた中で、執政から直接、康勝に対して
「皆が賛成やって言うてるのに、一人反対してるそうやないか。
天下国家の利益から見たら、たかが1000両は大した事やないけど、それでも少しは国家の費用の足しになるやろ。
利益につながる事やのに、なんで?反対するんや?」
と質問されてしまいます。

すると、康勝は、
「もし、この世に『盗賊が出ない方法』っちゅうのがあるんなら、僕も賛成しますけど(…それが無い以上賛成できない)
と答えました。

居並ぶ人々が
「それは、どういう意味?」
と、ざわつく中、康勝は、おもむろに・・・

「日本が世界に誇れる産物は紙です。
中でも、鼻紙は、上級国民も貧しい者も、同じように一日たりとも無くてはならない日用品です。
そういう物は価格が安いからこそ、皆が購入でき、世の中にためになってるんです。

たかが1000両…て、言わはりますけど、その1000両は、どこから産出されるんです?
おそらく多少価格が上がっても、買う人は買うから、同じ利益を得ようとする商人は、その価格を上げて…つまりは、運上金ぶんを上乗せした価格で販売するようになると思います。

一~二銭値上がりしたところで富裕層は何ともないでしょうけど、貧困層にはキツイ…その一~二銭で家族を養ってる人も、世の中にはいっぱいいてはるし、その人たちも鼻紙は毎日使うんです。

もちろん、別の商売をしてる商人も鼻紙は使いますから、そんな必需品が値上がりすれば、当然、他の品を扱う商人も、自分とこの品物を値上げして、損失を抑えようと考えます。

世の中、一つの物が値上がりすれば、我も我もと、ドンドン他の物も値上がりしていくもんです。

そうなると貧困層は、飢え凍え、やがて死んでいきます。

飢えや凍えで死なんのは、上級国民だけですわ。

そんな中で、どうせ死ぬなら、一日でも長く、少しでも幸せに…と思うのは当然の事。

こうして盗賊は生まれるんです。

これは貧しい農民や商家だけの事ではありません。

皆さんが召し抱えている下男や下女かて、物の値段が上がって買えなくなったら「盗もう」と考える者も出て来るかも知れません。

そうして盗みが盛んになって、世の中盗賊だらけになったら、政権を担当してはる皆さんは、どうやって止めはるおつもりですか?

盗みは貧しさから起きる事も多々あると思います。

それ以上に、アカン事は、
幕府が民に利益を競争させるような事を許し、しかも、その利益を幕府に上納させるやなんて…

そんな事して、天下の風をそっち向きにしはったら、善人までもが、ちょっとでも利益を出そうとし始めるでしょう。

それは『盗みせぬ盗人』で、実際に盗みをする事より厄介でっせ。

天下を安全に保てば、それは、すべて天下の宝となりますから、幕府が、チョイと節約に務めれば、一年間で相当な額が得られるはずです。

たかが1000両の金を増やそうとして盗賊を起こさせ、天下を乱すような事をするのは
『身の肉切りて飢えを救う(自分の身を切って食し、飢えをしのぐ)』ような物・・・腹が満ち足りた時には、その身も終わるという事です。

だいたい、物の値段が上がっていく時は、運上金が原因の事が多いです。

僕は、すでに年老いたので、もうすぐ死ぬでしょうけど、おそらく、この後も同じような事を言うてくる人がおるはずですから、くれぐれも、今日の事を、心に止めておいてください」

この大演説に、周囲にいた人々は大いに感心したのだとか・・・

・・・・・・・

なんか・・・今聞いても、納得する発言ですね~

江戸の初め、徳川家康や秀忠とともに戦い、旗本として勘定奉行を務めて老中並みの権力を持つほど出世をし、徳美(とくみ=山梨県甲府市)の初代藩主にもなった伊丹康勝・・・こんな良い発言が残ってるのに、やっぱり、晩年は寂しかったのかなぁ。。。

権力持つと、人はやっぱ変わるのかなぁ。。。
色々と、複雑な思いがします。
 .

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