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2021年7月 6日 (火)

桶狭間での独立から約一年~徳川家康の長沢の戦い

 

永禄四年(1561年)7月6日、小原鎮吉らの守る長沢城を徳川家康が落城させました。

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永禄三年(1560年)5月19日の桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市&名古屋市緑区)の戦い(5月19日参照>>)のドサクサで、長きに渡る今川の人質生活を脱して岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)にて独立を果たした徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)
(【桶狭間の戦いでの家康】参照>>)

一方、織田信長(おだのぶなが)による桶狭間の奇襲で命を落とした今川義元(いまがわよしもと)今川家は、息子の今川氏真(うじざね)が後を継ぐも、海道一の弓取りと称された大黒柱を失った事に、これまで大大名である今川の傘下に納まっていた西三河(にしみかわ=愛知県中部)諸将たちも動揺を隠せませんでした。

しかし、そんな中でも、亡き義元から信頼され、吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市:今橋城)花沢城(はなざわじょう=静岡県焼津市)等の城代を任されていた小原鎮実(おはらしげざね)は、揺るぐことなく氏真に仕えていた今川家臣の一人でした。

そんな小原鎮実の息子(『改正三河後風土記』による)であった小原鎮吉(しげよし)が、当時、糟屋善兵衛(かすやぜんべえ)らとともに守っていたのが三河長沢城(ながさわじょう=愛知県豊川市長沢町)でした。

Tokugawaieyasu600 上記の通り、永禄三年(1560年)に独立した家康は、その直後から、この長沢城を奪うべく、配下の松平信一(まつだいらのぶかず=家康の祖父の従兄弟)石川家成(いしかわいえなり=石川数正の叔父)らに命じて、度々の攻撃を仕掛けていたのです。

そんなこんなの永禄四年(1561年)7月6日、その戦いは偶然に起こります。

この日、長沢城の近くを通過する事になった家康は、
「敵の襲撃をうけるかも知れない」
と警戒して、自軍を二手に分けて、行軍する事にします。

ところが、その時、偶然、長沢城の城内で火災が起こり、城内が騒がしくなるのですが、その様子を見て取ったのが、山下を通過中の德川の一手・・・

「すわっ!これは山南を行く、もう一手が、城に火を放ったに違いない!
 すぐに加勢せねば!」
と急ぎます。

ところが、一方の山南を行く旗本衆の一手も
「やれ!城攻めが始まったぞ!
 我らも行かねば!」
と・・・

お互いに勘違いながらも、猛烈な攻撃が、ほぼ同時に開始され、とうとう、城を落としてしまうのです。

もちろん、守る小原鎮吉らも奮戦しますが、鎮吉は家康の家臣=渡辺守綱(わたなべもりつな)によって討ち取られ、糟屋善兵衛は、やむなく城を抜け出して、今川の本拠地である駿河(するが=静岡県東部)へ向けて落ちていきました。

また、後日の今川氏真の書状によれば、この戦いに関連した合戦が、嵩山(すせ=愛知県豊橋市周辺)市場口(いちばぐち=愛知県豊田市周辺)方面でも展開されたようです。

偶然かつ史料もあやふやな長沢の戦いではありますが、この永禄四年(1561年)から、西三河における今川家の影響力が著しく低下し、徐々に西三河周辺&東三河(ひがしみかわ=愛知県東部)の諸将たちもが松平=徳川家康になびくようになっていくのが見てとれますので、ある意味ラッキーサプライズであったのかも知れません。

この後の家康は、約半年後の永禄五年(1562年)1月には、織田信長と清洲同盟(きよすどうめい)を結び(1月15日参照>>)、そのすぐ後には上ノ郷城(かみのごうじょう=愛知県蒲郡市 )襲撃して、今川領に残して来た妻子(築山殿&信康&亀姫)を取り戻(2月4日参照>>)・・・と、着々と三河での地盤を固めていく事になります。

Ieyasunagasawa
「家康と長沢の戦い位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

ところで、
そもそもの長沢城については、今川一族の関口(せきぐち)が文安年間(1444年~1449年)に構築して長沢直幸(ながさわなおゆき)が城主を務めていたのを応仁の乱の頃(1467年頃)に西三河の有力武将であった松平信光(まつだいらのぶみつ)が落とし、息子の松平親則(ちかのり)を入城させ、この親則が長沢松平家(ながさわまつだいらけ)の祖となったとされているのですが・・・

一方で、それには異説もあり、よくわかっていないですが、

今回の長沢の戦い以降は、家康の従兄弟で義弟でもある松平康忠(やすただ=母が家康の叔母で正室が家康の妹)が入城し、さらに、養子に入った家康の息子=松平忠輝(ただてる)が当主となって、やはり長沢松平家と呼ばれるようになるのですが、この方がほどなく改易となってしまうため(7月3日参照>>)わずかの間に家名が断絶してしまう事が、何とも悲しい限り・・・

以後は、長沢松平家の分家を継いだ松平正綱(まさつな)(6月22日参照>>)の家系が隆盛を誇る事になり、いつしか、長沢松平家と言えば、コチラの分家の事を指すようになっていったようです。
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