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2021年7月15日 (木)

上杉VS北条…後の河越夜戦につながる河越城の戦い

 

天文六年(1537年)7月 15日、北条氏綱武蔵河越城を攻め落とされた上杉朝定が松山城に敗走しました。

・・・・・・・・・

関東に本拠を持ちながら京都にて幕府を開いた初代室町幕府将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)が、嫡男の義詮(よしらきら)の家系に将軍職を継がせ、四男の基氏(もとうじ)を派遣して、その基氏の家系に関東支配をさせたのが鎌倉公方(かまくらくぼう)・・・

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

しかし、やがて京都の将軍と距離を置き、独自の路線を歩み始める鎌倉公方は、第6代将軍=足利義教(よしのり)と第4代公方=足利持氏(もちうじ)の時に衝突し、将軍=幕府は関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐・執事)上杉家とともに持氏を滅ぼします永享の乱:2018年2月10日参照>>)

しばらくの公方空席の後、ほとぼりが冷めた頃に幼い足利成氏(しげうじ=持氏の遺児)が鎌倉公方に任命されますが、やがて成長した成氏は父と同じ道を歩み始めて関東は大混乱・・・

そのため、幕府は新たな鎌倉公方として義教の弟である足利政知(まさとも)を関東に派遣しますが、混乱で鎌倉に入れない政知は伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まり、以後、堀越公方(幕府公認)と呼ばれます。

一方、やはり混乱で鎌倉へ戻れなくなった成氏は古河(こが=茨城県古河市)本拠を置き、コチラは古河公方(無許可)を名乗ります。

そんな中、ここに来て、駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(うじちか)の右腕として台頭して来た北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時・氏親の叔父)が、延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年) に堀越公方を倒して伊豆討ち入り・10月11日参照>>)関東支配に乗り出して来ます。
 【小田原城奪取】>>
 【立河原の戦い】>>
 【相模を制覇】>>

一方の古河公方は、ただでさえヤバイ状況なのに、成氏の後を継いで2代目古河公方となった足利政氏(まさうじ)の息子同志がモメて、兄の高基(たかもと)に対抗すべく、弟の義明(よしあき)が家出独立して小弓(おゆみ=千葉市中央区)に本拠を置き、小弓公方(無許可の無許可)を名乗りはじめます(6月23日参照>>)

Houzyouuzituna300a この状況に、大永元年(1521年)2月、兄の高基は、早雲亡き後に2代目を継いでいた息子の北条氏綱(うじつな)に、自身の息子=足利晴氏(はるうじ)と氏綱の(芳春院)との結婚話を打診・・・

とうとう古河公方も北条になびきはじめた大永四年(1524年)、氏綱は、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ=関東管領家)上杉朝興(うえすぎともおき)から武蔵江戸城えどじょう=東京都千代田区)を奪ったのです(1月13日参照>>)

その後、岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)葛西城(かさいじょう=東京都葛飾区)板橋城(いたばしじょう=東京都板橋区)などを次々と落とされ、江戸へと戻れなくなった上杉朝興は、やむなく河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に身を置く事になります。

さらに朝興は、北条に対抗すべく、これまでワチャワチャやってた同族の山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)や古河公方の高基、小弓公方の義明とも和睦し、甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)をも味方につけ、河越城を拠点として、江戸を奪回すべく、この後しばらくは、何度も北条と刃を交える事になります。

 大永六年(1526年)5月~6月には蕨城(わらびじょう=埼玉県蕨市)で、
9月には小沢城(おざわじょう=神奈川県川崎市多摩区)
享禄二年(1529年)11月に玉縄城(たまなわじょう=神奈川県鎌倉市)
翌享禄三年(1530年)の正月には世田谷城(せたがやじょう=東京都世田谷区)や江戸城周辺で合戦や焼き討ち、
6月には多摩川河畔にて激戦となり、氏綱嫡子の北条氏康(うじやす)初陣の功名を挙げたとか・・・

この間の両者の戦いは複数の史料にいくつか残るものの、それぞれの内容がまちまちでハッキリとはしないのですが、

とにもかくにも天文六年(1537年)4月27日に50歳で病死する上杉朝興が、その死に際に「氏綱とは、すでに14回に渡って戦った」と言っていた『北条記』らしいので、やはり、何度も衝突を繰り返していたのでしょう。

この時、朝興の嫡子であった上杉朝定(ともさだ)は、未だ13歳と幼く、朝興弟の朝成(ともなり)が後見人となり、おそらく二人は朝興の死を目の当たりにしながら、その遺志を継ぐ事を誓い合ったのでしょう。

…というのも、この、朝興の死から、わずか2ヶ月後の6月20日、上杉朝定と朝成は、神太寺の古城=深大寺城(じんだいじじょう=東京都調布市)を修理&整備して氏綱と対峙の姿勢を見せるのです。

これを受けた氏綱は、7月11日、配下の諸将を召集し、その軍勢を五手に分けた約7000騎を率いて、河越城から五十余町(約5km)ほど離れた入間郡三木(いるまぐんみき=埼玉県狭山市)まで出張ります。

かくして天文六年(1537年)7月 15日、上杉朝定と上杉朝成は、配下の武蔵(むさし=東京&埼玉・神奈川の一部)上野(こうずけ=群馬県)の軍勢約2000余騎で以って、北条氏綱の軍を迎え撃つ事となります。

両者入り乱れての激しい戦いとなりますが、そんな中で深入りした朝成は、不覚にも生け捕られてしまい、上杉側には約700余名の討死が出てしまいます。

この状況に朝定は、やむなく河越城を捨て、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)の守る松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)へと逃走しました。

さらに、その5日後には、その松山城を攻める氏綱・・・と、このお話は「松山城風流合戦(まつやまじょうふうりゅうがっせん)のエピソードでの難波田さんがカッコイイので、くわしく書いた2019年7月20日のページ後半部分>>でどうぞm(_ _)m
(戦いまでの経緯も書いてますので前半部分の内容が丸カブリです…スミマセン)

というわけで、ここで、河越城を手にした北条氏綱・・・城代に北条綱成(つななり)を置きました。

これにて北条氏綱は、
翌年の天文七年(1538年)には小弓公方の足利義明を倒し国府台合戦・10月7日参照>>)、さらに翌年の天文八年(1539年)11月には古河公方を継ぐ足利晴氏と娘の婚姻が成立(11月28日参照>>)関東管領並みの扱いを受ける事になるのですが・・・

その氏綱が天文十年(1541年)7月に病死し、その後を北条氏康が継いだ頃から、古河公方&北条の蜜月期間も終了となり、足利晴氏は、かの上杉朝定や上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)とつるんで、やがて彼らは一丸となって、北条に奪われた河越城を取り返しに来るわけで・・・

しかし、これを頼もしき3代目=氏康が迎え撃つ・・・これが天文十五年(1546年)4月=戦国三大奇襲に一つに数えられる河越夜戦(4月20日参照>>)という事になります。
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