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2021年7月29日 (木)

浅井長政の下剋上~VS六角の蒲生野の戦い

 

永禄九年(1566年)7月29日、一時は主従関係にあった六角義賢浅井長政が蹴散らした蒲生野の戦いが勃発しました。

・・・・・・・・・

祖父=浅井亮政(あざいすけまさ)下剋上により(3月9日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)守護(しゅご=県知事)であった主筋の京極(きょうごく)を追い落とした浅井ではありましたが、南近江の守護である六角(ろっかく)との戦いには苦戦したため、結局、亮政息子の浅井久政(ひさまさ)六角氏に従属(1月10日参照>>)・・・孫の浅井長政(ながまさ)が元服する頃には、六角家臣である平井定武(ひらいさだたけ)の娘を娶らせ、その名を、六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)の一字をとって「浅井賢政」と名乗らせるほどの主従関係を敷いておりました。

Azainagamasa600 しかし、この関係に不満を持つ浅井家臣らによって、元服したての長政を当主と仰いでクーデターを決行・・・

父・久政は隠居させられ、わずか15歳で一軍を率いた長政は、永禄三年(1560年)8月の野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)の戦い(8月18日参照>>)にて六角義賢に勝利した事で奥さんを実家に返し、「賢」の字も捨てて長政を名乗り(長政の名は織田信長との同盟の際に名乗ったとも)六角氏と絶縁の体制を取るようになったのです。

翌永禄四年(1561年)7月には、六角義賢が畿内を牛耳る三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)との戦いのために京都に出陣した【将軍地蔵山の戦い】参照>>)事をチャンスと見て、父が以前奪えなかった六角配下の太尾城(ふとおじょう=滋賀県米原市米原・太尾山城とも)を奪わんとしますが、残念ながらこの時は失敗(7月1日参照>>)・・・

ところが、その2年後の永禄六年(1563年)、義賢の出家によって本拠の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を引き継いでいた嫡男の六角義治(よしはる=義弼)が、重臣の後藤賢豊(ごとうかたとよ)を殺害し、それに怒った家臣たちによって観音寺城を追われるという・・・世に「観音寺騒動(かんのんじそうどう)と呼ばれる内ゲバ事件が発生したのです(10月7日参照>>)

この時、チャンスとばかりに、主君に反発する六角家臣に加勢する長政は、彼らとともに、義治が逃げ込んだ日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町:中野城とも)を攻撃するのですが、この日野城の城主は勇将名高い六角重臣の蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)・・・

1ヶ月近い籠城戦の末、反発していた六角家臣も長政も和睦する事になりました。

こうして和睦した事で、六角義治は、もとの観音寺城に戻って元通り・・・となるのですが、当然、ゴタゴタの亀裂が全回復するわけもなく、この一件で六角氏の力は確実に衰退する事になります。

そんなこんなの永禄九年(1566年)5月・・・かねてより六角義治に不信感を抱いていた六角重臣の布施公雄(ふせきみお=淡路入道)謀反を起こし布施山城(ふせやまじょう=滋賀県東近江市布施町)籠城したのです。

布施公雄からの援軍要請に応じた浅井長政は、7月になって居城の小谷城おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)から江南(こうなん=琵琶湖の南岸)へと進出し、まずは自軍を5陣に分けてから、25日に先陣を舟岡山(ふなおかやま=同東近江市糠塚町:船岡山)から 布施山に向かわせ、自身は小幡(おばた=同東近江市五個荘小幡町)に本陣を置き、六角勢を迎える態勢に・・・

一方の六角軍は、池田定輔(いけださだすけ)が布施山城を攻め、平井定武が堀内の屋敷にて、三上栖雲軒(みかみせいうんけん=士忠)上羽田(かみはねだ=同東近江市上羽田町)にて浅井勢を迎え撃つ事とします。

かくして永禄九年(1566年)7月29日、舟岡山の麓一帯に広がる蒲生野(がもうの=東近江市野口町・糠塚町周辺)と呼ばれる場所にて、浅井VS六角の合戦が展開される事になったのです。

Gamounonotatakai 蒲生野の戦いの位置関係図→
クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

戦いの詳細は不明なれど、この日の大きな流れとしては浅井勢が分が悪く、徐々に北方面へと撤退を開始したところ、六角義治勢が、それを追撃しつつ北進・・・

そこには、かの後藤賢豊とともに「六角の両藤」と呼ばれた六角重臣の進藤賢盛(しんどうかたもり)の奮戦もあり、逃げる浅井に追う六角で、戦場は北へ北へと進み、やがて8月13日、たどり着いた佐和山(さわやま=滋賀県彦根市佐和山町)周辺での合戦にて、さらに多くの戦死者を出してしまった浅井勢は、やむなく全軍の完全退却に至りました。

この時、六角に敗れて逃走して来た浅井の将=磯野員昌(いそのかずまさ)を匿ってくれたのが八町城(はっちょうじょう=滋賀県犬上郡豊郷町)の城主=赤田興(あかだおこる)でしたが、9月に入って、八町城内の者が六角家臣の高野瀬秀澄(たかのせひでずみ)に内通して、八町城に火を放ったのです。

しばしの休息で態勢を立て直していた浅井長政は、ここに参戦・・・高野瀬の居城である肥田城(ひだじょう=同犬上郡豊郷町)から赤田の八町城にかけての一帯で、高野瀬VS浅井+赤田+磯野連合軍の激しい戦いが行われたのでした。

結果は・・・高野瀬秀澄兄弟が討死したほか、六角本隊から派遣されていた三雲賢持(みくもかたもち)も戦死し、大きな痛手を負った六角勢は敗退する事となりました。

ご覧の通り、途中、ヤバイ場面もあったものの、永禄九年(1566年)5月の布施公雄の謀反に始まった今回の合戦は、最終的には浅井の勝利という結果で終止符が打たれたのです。

この一連の戦いは蒲生野の戦いと呼ばれます。

この戦いで、観音寺騒動から始まったの六角氏の弱体化が決定的な事を悟った六角義治は、この翌年=永禄十年(1567年)4月に弟の六角義定(よしさだ)に家督を譲る事となります。

一方の浅井長政は・・・

ちょうどこの頃に、美濃(みの=岐阜県南部)を手中に治め、陥落させた稲葉山城(いなばやまじょう)岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と改めて『天下布武(てんかふぶ)の印鑑を使い始めた織田信長(おだのぶなが)が、岐阜から京に向かう道筋にある近江に着目・・・

そう、その織田信長の妹(もしくは姪)お市(いち)の方を浅井長政が娶って、浅井×織田の同盟が結ばれるのが、永禄十年(1567年)10月の事と言われています。

さらに翌年の永禄十一年(1568年)7月に、信長は足利義昭(あしかがよしあき)と面会(10月4日参照>>)・・・翌・8月に、直接、浅井長政に会って上洛への道筋を再確認した信長(6月28日前半部分参照>>)、さらに、その翌月の9月に義昭を奉じて上洛を果たすのです(9月7日参照>>)

…で、ご存知のように、その上洛の際に抵抗した六角父子は観音寺城を追われるハメに・・・(9月13日参照>>)

もちろん、さすがの名門六角氏ですから、観音寺城を追われてもなお、まだまだ信長に抵抗する(6月4日参照>>)わけですが、

今回の蒲生野の戦いでご活躍の進藤賢盛さんも、先の観音寺騒動で六角義治を匿った蒲生賢秀さんも、結局は、この後、織田家の家臣になっちゃて

なんなら途中離脱の浅井長政(8月29日参照>>)より長く織田傘下として、いや、その後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の忠臣としても生き残っていくで、戦国の世渡りは、なかなかに難しいですね。
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コメント

六角氏の支配領地は今の滋賀県のどのあたりでしょうか?浅井氏が滋賀県の東部・北部と言うイメージはありますが、六角氏だと「東の隅はどこまで」と考えてもあまりわかりません。
「西が六角、東が浅井」と聞きますが、境目は私でも知りません。

投稿: えびすこ | 2021年8月 8日 (日) 11時36分

えびすこさん、こんばんは~

>六角氏の支配領地は今の滋賀県のどのあたりでしょうか?

だいたい愛知川から南だと思います。
滋賀県の東西…よいうよりは南北ではないでしょうか?

もともと室町幕府政権下で、南近江の守護が六角で、北近江の守護が京極だったのを、浅井の下剋上で京極に取って代わったわけですから…

六角と京極は同族ですから、境界線に位置する武将の立ち位置によって、その境界線はチョイチョイ移動していたと思いますが、

本拠は観音寺城のあった安土周辺でしょうが、将軍家とひと悶着あった時には甲賀に逃げて態勢を立て直してるので、そのあたりにも、別の拠点があったと思われます。

投稿: 茶々 | 2021年8月 9日 (月) 04時26分

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