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2021年8月23日 (月)

まもなく関ヶ原~中山道でぶつかる河渡の戦い

 

慶長五年(1600年)8月23日、関ヶ原の戦いで、中山道を西へと進む東軍と、それを阻止しようとする西軍がぶつかった河渡の戦いがありました。

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ご存知、関ヶ原の戦いです。
この日までの経緯は・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、朝鮮出兵の時に率先して戦った武闘派(ぶとうは)と事務方だった文治派(ぶんじは)の間に入った亀裂が、約1年後、御大前田利家(まえだとしいえ)の死をキッカケに武闘派の加藤清正(かとうきよまさ)らが文治派の石田三成(いしだみつなり)襲撃する事件によって表面化(3月4日参照>>)・・・

五大老筆頭徳川家康(とくがわいえやす)が何とか納めたものの、石田三成は謹慎処分となる一方で、なんだかんだで、もはや豊臣家臣のトップとなった家康は、自身は徐々に秀吉の遺言(8月9日参照>>)を無視しつつ、逆に豊臣恩顧の大名には、ちょっとした行動でイチャモンつけるように・・・

謀反の疑いをかけられた加賀(かが=石川県西南部)前田利長(としなが=利家の息子)は、母のまつ江戸に人質に出して、何とか回避しますが(5月17日参照>>)、同じく謀反の疑いをかけられた会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)屈せず(4月14日参照>>)・・・

そこで家康は、上杉を討伐すべく慶長五年(1600年)6月18日、豊臣政権の大老として、大軍を率いて会津征伐へと向う事になります。

この家康の出兵は、現在では三成をおびき出す(三成に先にこぶしを挙げさせる)ための作戦だった?とも言われてますが、それは今後の状況を知ってる後世の人間だからわかる事で、この時点では、やはり、この家康の会津遠征を「チャンス」と見た三成が、

すでに家康の会津征伐に合流すべく北に向かっていた大谷吉継(おおたによしつぐ)を引き戻すして、(7月11日参照>>)北陸諸将の勧誘に走ってもらい(7月14日参照>>)、家康に対抗できるコチラ側の総大将として毛利輝元(もうりてるもと)大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に入ってもらい(7月15日参照>>)、いよいよ7月17日、三成は、13項目に及ぶ『内府ちがひの条々』(家康が行った亡き秀吉との約束破りを告発する書状)を諸将に送りつけ、家康に宣戦布告したわけです。(書状の内容については下記【高取城攻防】を参照>>)

かくして最初の戦いとなったのは、
7月18日:高取城の攻防>>
以下、
7月19日~:伏見城の攻防・開始>>
7月21日~:田辺城の攻防・開始>>
7月25日:家康が小山評定>>にて
     会津征伐を中止し西に戻る事を表明
8月10日:三成が西軍本拠となる大垣城に着陣>>
8月11日:戻って来た東軍先鋒が岡崎城へ入城>>
8月16日:東軍が苗木城を奪取>>
     東軍が福束城を奪取>>
8月19日:東軍が南美濃の諸城を奪取>>
8月22日:東軍が竹ヶ鼻城を奪取>>

と、西へ戻る東軍が、西軍方の諸城を次々と落としていく中、西軍の織田秀信(おだひでのぶ=信長の孫・三法師)が守る岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を東軍の福島正則(ふくしままさのり)池田輝政(いけだてるまさ)山内一豊(やまうちかずとよ)らが落としたのが、慶長五年(1600年)8月23日の朝の事でした(8月22日参照>>)

この間も、大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)にて東軍の動向を逐一報告を受けていた三成は、竹ヶ鼻城を落とした東軍が、大垣に来襲するかも・・・と、島津義弘(しまづよしひろ)を長良川西岸に位置する墨俣(すのまた=大垣市安八郡)に派遣して美濃路を備え、自らも小西行長こにしゆきなが)とともに大垣城を出て揖斐川(いびがわ)右岸の沢渡(さわたり=大垣市東町)に布陣します。

しかし、8月22日に、岐阜城勢が米野(こめの=岐阜県羽島郡)での戦いに敗れた事を知り、東軍が、そのまま岐阜城を無視して、一気に西に向かって来るかも知れないとの考えから、舞兵庫(まいひょうご)を一軍の将として約1000の兵をつけ、長良川西岸の河渡(ごうど=岐阜県岐阜市・合渡)に向かわせました。

河渡は中山道の宿場町ですから、西へと進む東軍勢が中山道を通った場合、ここで食い止める事ができます。

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「河渡の戦い位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

一方、上記の通り、22日~23日にかけての攻撃で、23日朝に岐阜城を落とした東軍は、おそらく垣城から岐阜城への救援が来るものと予想し、黒田長政(くろだながまさ)田中吉政(たなかよしまさ)藤堂高虎(とうどうたかとら)らが率先して、この援軍を阻止せんと中山道を西へと進みます。

で、この東軍の彼らが、長良川東岸に到着した時には、上記の通り、すでに西岸に舞兵庫らが布陣していたわけです。

しかし、この時、(西軍にとっては運悪く)川面には霧が立ち込めていて、西軍の兵は対岸に東軍が到着した事に気づけず、一部の兵は朝食をとっていたのです。

「向こうは気づいてない」
と察した東軍は、「今が好機」とばかりに、一斉に銃撃を開始・・・田中隊が、いきなり川を渡って奇襲をかける一方で、黒田隊は少し下流の位置から川を渡り、宿場の西側に迂回して舞兵庫の本陣に突撃します。

突然の攻撃に驚いた西軍は、持ちこたえる事が出来ず、やむなく後退・・・西軍の殿(しんがり=軍の最後尾)を務めた杉江勘兵衛(すぎえかんべえ)討死するも、何とか一軍は大垣を目指して敗走して行きました。

一方、墨俣の島津隊を警戒する藤堂隊は、 さらに一里(=約4km)ほど下流にて川を渡って黒田隊&田中隊と呼応しつつ、更なる西へと進撃し、この日は揖斐川の左岸で宿営しました。

こうして、河渡の戦いで西軍を破った黒田隊・田中隊・藤堂隊・・・

翌24日には、中山道をさらに西へ進み、赤坂(あかさか=岐阜県多治見市赤坂町)に着陣し、

ほどなく岐阜城を落とした福島隊や池田隊も赤坂に到着し、以後しばらくは、この赤坂が東軍の拠点となり、未だ西軍についている周辺の諸城を攻略しつつ、まもなく江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を出発して来るであろう徳川家康(9月1日【家康出陣】参照>>)の本陣の準備をする事になります。

ご存知のように、このあとも、本チャンの関ヶ原までは、まだイロイロあるんですが、
それら関ヶ原の戦いの全体の流れについては…
【関ヶ原の戦いの年表】>>からどうぞm(_ _)m
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