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2021年9月 7日 (火)

源実朝~鎌倉幕府・第3代将軍就任

 

建仁三年(1203年)9月7日、源実朝が、第3代鎌倉幕府将軍に補任されました。

・・・・・・

源実朝(みなもとのさねとも)は、源頼朝(よりとも)北条政子(ほうじょうまさこ)夫妻の次男として建久三年(1192年)に生まれました。

ご存知の「イイクニ作ろう鎌倉幕府」の年・・・頼朝のもとに征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)任命の辞令が届いた、まさに絶頂の日の13日後の後継爆誕でした。
(現在は「イイハコ=1185」が主流です…参照>>)

幼名は千幡(せんまん)と言いますが、ややこしいので今日は「実朝」の名前で通させていただきます。

そんな実朝は、乳付役(うつけやく=乳母)に母・政子の妹である阿波局(あわのつぼね)乳母夫(めのと=後見役)北条氏が務めるという、まさに北条一色体制でのスタートとなります。

ちなみに、実朝の10歳年上の兄で嫡男(ちゃくなん=後継ぎ)源頼家(よりいえ=幼名:万寿)が、頼朝の乳母だった比企尼(ひきのあま)の養子である幕府有力御家人の比企能員(ひきよしかず)の家で生まれ、比企尼の娘が乳付役になって比企氏が乳母夫となっている関係から、後に娶る奥さんも比企能員の娘・・・つまり頼家の比企一色体制とは対照的。。。

もう、完全に後々のアレやコレやがミエミエ・・・ドラマやと「もう、わかりやす過ぎやん!」とツッコミたくなるほどのあからさまな伏線張まくり状態ですがwww

しかも、頼朝は、この次男の誕生祝を盛大に行うと、居並ぶ御家人たちの前で
「みんな、心を一つにして、この子の未来を見守ってやってくれよ~」
と言いながら、一人一人に実朝を抱っこさせて回ったとか・・・こりゃ、荒れまっせ。

と、思ったのもつかの間・・・ご存知のように、建久十(1199年)1月13日、頼朝が突然亡くなります(12月27日参照>>)

一般的には、その半月前の落馬事故が原因とされていますが、
「将軍ともあろうお人が、落馬するのかなぁ??」
という違和感も残ります。

とにもかくにも、頼朝が急死した事で、兄の頼家が、1月26日付けで第2代鎌倉殿となりますが、未だ天皇からの正式な征夷大将軍の宣下はありませんでした。
(この前年に、比企能員の娘が頼家の長子である一幡を産んでいますので、すでに既婚で比企一色体制は強化)

このお代替わりが、幕府にとって、かなりの不安材料だったのでしょうか?
「反乱の芽は今のうちに摘んどけ!」
とばかりに、すぐさま平清盛(たいらのきよもり)の曾孫で、僧となっていた平六代(たいらのろくだい=高清)を処刑しています(2月5日参照>>)

そして4月12日には、あの13人の有力御家人たちによる合議制にて、今後の政治を行う事が決定されるのです(4月12日参照>>)・・・「鎌倉殿の13人」ですねwww

まぁ、頼家もまだ18歳の若者だから仕方ないか~~~

と、思いつつも、波乱はすぐにやって来ます。

それから、わずか9ヶ月後の正治二年(1200年)1月、その13人のうちの一人である梶原景時(かじわらかげとき)反乱を起こして自刃に追い込まれてしまいます(1月20日参照>>)

この景時の反乱は、御家人たちが景時弾劾状(だんがいじょう=失敗や罪を告発する書状)(10月28日参照>>)を提出した事で、景時が鎌倉を追われたために起こったわけですが、

一説には、景時は、将軍頼家に、
「弟の実朝を将軍にしようと画策する者がいるので気をつけて!」
と密かにチクッたものの、その行動が逆に周りの御家人の反感を買ったとも言われていて、

それならば「この時点での景時は頼家の味方」という事になるわけで・・・ここで、みすみす景時を死なせてしまった事は、頼家にとっては痛手と言えるかも知れません。

その後、翌建仁元年(1201年)には、景時派の残党も鎮圧され、さらに、その翌年の建仁二年(1202年)7月に、頼家は第2代征夷大将軍の宣下を受ける事になります。

ところが、その翌年の建仁三年(1203年)5月、将軍頼家は、叔父(父頼朝の弟)で北条寄りの阿野全成(あのぜんじょう)謀反の疑いがあるとして逮捕・・・さらに、全成の奥さんとなっていた阿波局をも逮捕しようとします。

先に書いた通り、この阿波局は実朝の乳母で北条政子の妹・・・この時は、政子の抵抗により、阿波局は逮捕に至りませんでしたが、

将軍頼家と、その後ろにひしめく「比企氏VS北条氏」という対立構造が、見事に露わになったわけです。

そんな中、頼家は、すでに、かの全成逮捕事件以前から体調を崩していたようで、それが、ここに来て悪化し、8月には重体に陥ってしまいました

これをチャンスと見た北条時政(ときまさ=政子の父)と政子は、将軍の病気を盾に、13人の合議制を利用して(将軍に万が一の事があった時は)東国を頼家の息子である一幡が、西国を弟である実朝が継ぐ」という案をゴリ推ししたのです。

「そんなもん、将軍亡き後は、その息子が全部相続すんのが普通やろ!」
と、怒りを露わにする比企能員に対し、翌9月2日、北条邸に能員を呼びだして謀殺・・・残った比企一族を一幡もろとも滅亡させ(【比企能員の乱】参照>>)

病気の頼家を伊豆の修善寺に幽閉して、朝廷に対しては「頼家が亡くなった」と虚偽の報告をして、弟の実朝への家督&将軍職の継承を願い出るのです。

この幕府からの申請を受けた、時の天皇=後鳥羽天皇(ごとばてんのう=第82代)は、建仁三年(1203年)9月7日実朝を従五位下征夷大将軍に補任したのです。(『吾妻鏡』では宣下を受けたとされる)

Minamotonosanetomo600 『明月記』などによれば、ここで同時に、天皇から「新将軍の名を『実朝』とするよう」との定めが・・・つまり、実朝の名付け親は後鳥羽天皇だったという事のようです。

わずか12歳の少年将軍は、祖父の北条時政がシッカリとサポート・・・1ヶ月後の10月8日には元服し、正式に実朝を名乗ります。

一方、幽閉された頼家は、その後、奇跡的に快復しますが、わずか10ヶ月後の元久元年(1204年)7月、刺客によって殺害されています(7月18日参照>>)

しかし、スタートしたばかりの少年将軍の前に、まだまだ内輪のトラブルが続くのです。

元久二年(1205年)の6月 には、頼朝の時代からの重臣であった畠山重忠(はたけやましげただ)が、時政の陰謀により、一族もろとも滅ぼされる(6月22日参照>>)一方で、

翌7月には、その時政自身が後妻の牧の方(まきのかた)絡みの一件で失脚して(1月6日の中盤部分を参照>>)しまい、生母の北条政子が親権を行使する形で将軍権力を代行する事になりますが、実質的には、政子弟の北条義時(よしとき)主導する政治体制ができあがるのです。

ここに来ても実朝は、まだ14歳・・・今しばらくは、政治は大人の手に委ねつつ、自身は和歌に目覚め、後に『小倉百人一首』の撰者として有名になる藤原定家(ふじわらのさだいえ)に、歌の教授や評価をねだったり、

その定家の門弟に頼んで『新古今集』の写本を送ってもらったり。。。以後、両者は良好な師弟関係となり、ご存知のように、実朝は、後世の歌人たち(正岡子規や斎藤茂吉など)が「天才歌人」と評するほどの秀歌を残す名人になるわけですが・・・

とは言え、そんな少年将軍も、やがては大人になるわけで・・・実朝が18歳になった承元3年(1209年)、4月に従三位に叙せられ、翌5月に右近衛中将に任ぜられたあたりから、どうやら、彼は親裁権を行使しはじめるのです。

複数の職員(別当や知家事)らを抱える政所(まんどころ)を開設し、将軍親裁の中心的な機関とするのです。

もちろん、古株の北条義時や大江広元(おおえひろもと)などは、当初、若い実朝を軽く見る傾向にありましたが、そんな義時の要求を跳ね除けるなど、ここからの実朝は、将軍の権威を見せながら統治者として様々な政策を打ち出していく事になるのですが、

それら親政のお話は、おいおい、その日付にて書かせていただく事にして、今回は、「実朝が第3代鎌倉幕府将軍に補任された日」という事で、実朝が将軍になるまでの経緯を中心に書かせていただきました。

★関連ページ(この後の出来事)
 和田義盛の乱>>
 実朝の大船建造>>
 実朝・暗殺事件の謎>>
 実朝・暗殺事件の謎Part2>>
 源実朝暗殺犯・公暁の最期>>
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コメント

茶々様 こんばんは。

頼朝没後のこの非情な現実を、大河ドラマとしてどのように成立させるのかが今から楽しみです。

投稿: 山根秀樹 | 2021年9月 7日 (火) 22時19分

山根秀樹さん、こんばんは~

ホント、楽しみですね~
ドロドロの出来事を、三谷ワールドがどのように料理なさるのか?

ワクワクです。

投稿: 茶々 | 2021年9月 8日 (水) 03時19分

来年の大河ドラマでの実朝役の俳優が誰であるのかはまだ発表されていませんが、享年を考えると若手俳優になると思います。大河ドラマに源頼家・源実朝兄弟が出るのは平成以降では来年が初めてですね。
ツイッターを活用したキャスト発表は定着するかな?

投稿: えびすこ | 2021年9月15日 (水) 11時52分

えびすこさん、こんばんは~

鎌倉時代が題材になるのも珍しいですものね。

いつものように、主役の最期が最終回になるのだとしたら、やはり承久の乱がクライマックスですね。
楽しみです。

投稿: 茶々 | 2021年9月16日 (木) 04時00分

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