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2022年1月 4日 (火)

武田信玄の駿河侵攻~花沢城の戦い

 

元亀元年(永禄十三年=1570年)1月4日、駿河を狙う武田信玄が花沢城への攻撃を開始しました。

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永禄三年(1560年)の 桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市&名古屋市緑区)の戦い(2015年5月19日参照>>)で、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領し海道一の弓取りと称された今川義元(いまがわよしもと)の首を取り、一気に名を挙げた尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と、

同じく、その桶狭間キッカケで今川での人質生活から解放された三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)(2008年5月19日参照>>)

しかも、その翌年に今川傘下だった長沢城(ながさわじょう=愛知県豊川市長沢町)を落とし(7月6日参照>>)、さらに翌永禄五年(1562年)1月には、織田信長と清洲同盟(きよすどうめい)(1月15日参照>>)を結んで、完全に今川からの決別を露わにした徳川家康に、これまで大木である今川の下にいた三河&遠江周辺の諸将には、少なからずの動揺が走ります。

もちろん、父の死を受けて後を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)も、この状況で揺れ動く引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・引間城・曳馬城)飯尾連龍(いのおつらたつ・ 致実・能房)を殺害したりして(12月20日参照>>)傘下の諸将の離反を防ぐべくけん制をかけるのですが、

その間に尾張統一(11月1日参照>>)を果たした信長が、これまで、その眼を北東に向け、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)との川中島バトル(9月10日参照>>)を展開していた甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん=晴信)味方に引き込んで家康との関係を仲介・・・

Takedasingen600b 大黒柱を失った今川を、北と西の両側から攻撃して、今川亡き後は、大井川より東(つまり駿河)を武田が、西(つまり遠江)を德川が支配する約束を交わさせ、信玄の眼を南に向けさせたうえで、信長自身は、永禄十年(1567年)に美濃(みの=岐阜県南部)の攻略を果たします(8月15日参照>>)

とは言え、この信玄の方向転換は、去る天文二十三年(1554年)から、生前の今川義元とともに武田信玄と甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐&相模&駿河の三国)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)を怒らせます。

そりゃそうです。
未だ継続中の同盟を「義元が亡くなったから」で破棄されちゃぁ・・・しかし、この方向展開に反対した嫡男の武田義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)まで今川と訣別した信玄は、もう、後へは退けない…

かくして、信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)永禄十一年(1568年)の12月、いよいよ武田信玄は駿河の今川領に向け侵攻を開始するのです。

これを受けた今川氏真は、早速、重臣の庵原安房守(いはらあわのかみ)らを、要所の薩埵峠(さつたとうげ=静岡県静岡市清水区)に派遣して自らも出陣しますが、残念ながら、水面下で行われていた信玄による懐柔作戦で、すでに多くの今川傘下の武将が武田に寝返っており、先陣を切って薩埵峠を守るはずだった朝比奈信置(あさひなのぶおき)ら複数の重臣が姿を見せず・・・(12月12日参照>>)

やむなく氏真も、この時は戦う事無く本拠の今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区:後の駿府城)へと兵を退きあげますが、の翌日、
すかさず、その今川館を信玄が攻撃し、瞬く間に占領・・・

さすがに氏真も、今川館では防御が薄いと、すでに今川館の背後にある賤機山城(しずはたやまじょう=同静岡市葵区)に籠城して、ここで北条からの援軍を待つつもりでいましたが、あまりの武田の猛攻にヤバイと感じ、そのまま掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと逃亡したのでした(2007年12月13日参照>>)

一方、この今川館の攻防戦と同じ12月13日に遠江へと侵入(2019年12月13日参照>>)した徳川家康は、12月18日に引馬城に入り、そこを拠点として12月27日から掛川城への攻撃を開始するのです(12月27日参照>>)

信玄と家康の見事な連携プレーで窮地に追い込まれた今川氏真・・・結局、翌年の5月17日、北条氏政の仲介にて徳川家康と和睦を結び、掛川城を明け渡しました。

その間も、あの薩埵峠にて北条との戦いを繰り広げる信玄でしたが、かの掛川城の開城が、城を攻めあぐねた家康が単独で「氏政の息子である北条氏直(うじなお)今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継いで駿河&遠江を支配する(11月4日の真ん中あたり参照>>) 」という条件を呑んで北条との同盟を結んで得た物であった事を知り、怒り爆発します。

なんせ、上記の通り「今川を倒した後は駿河を武田が、遠江を徳川が…」の約束で以って、ともに侵攻したはずでしたから・・・

「そっちが単独でいくなら、こっちも単独したるわい!」
とばかりに、信玄は、7月には大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)(7月2日参照>>)を、10月の三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)(10月6日参照>>)を経て、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区蒲原)を奪取(12月6日参照>>)・・・と、次々と駿河周辺の支配を確固たる物にしていくのです。

そんな中、未だ武田にも徳川にも屈せず、今川旧臣として抵抗していたのが、花沢城(はなざわじょう=静岡県焼津市高崎・花澤城)小原鎮実(おはらしげざね=大原資良と同一人物ともされる)でした。

かくして元亀元年(永禄十三年=1570年)1月4日武田信玄は、この花沢城に攻撃を仕掛けるのです。

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武田信玄の駿河侵攻・位置関係図=花沢城版
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『絵本甲越軍記』によれば…
この日、武田軍は一糸乱れぬ軍列で以って、すかさず花沢城を囲み、花沢城を見下ろす高草山(たかくさやま=静岡県焼津市と藤枝市の境界付近)に本陣を据えました。

もちろん、迎える花沢城側も、音に聞こえたる名将の信玄に
「一泡吹かせてやろう!」
と身構え、準備した弓鉄砲を隙間なく発して対抗します。

そんな中、武田側では、この直前に武田に降った元今川家臣の岡部次郎右衛門(おかべじろうえもん)治部右衛門兄弟(岡部正綱&長秋?)が、寝返り直後の初の武功を挙げんと、花沢城の曲輪(くるわ=城内の中で広く平な場所)のそばの屋敷の高屋根に上って、城の様子を伺います。

その一方で、城内への一番乗りを狙う伊那四郎勝頼(いなしろうかつより=信玄の四男・武田勝頼)初鹿傅右衛門(はじかでんえもん=初鹿野伝右衛門)は、鉄砲と矢が雨アラレと降り注ぐ中を、左右に分かれて城門の前に手勢を引いて近づくと、彼らに続く縄無理之介(なわむりのすけ=名和無理之介)に向かって傅右衛門が、
「無理之介!城門を開けよ」
と、
「えぇ~っ(ノ@o@;)ノ今、この鉄砲の雨アラレの状況で?」
「名を挙げるんは、今やぞ!」
「それは~なんぼなんでも無理之介」
言うてる場合か!

と押し問答してるうちに、勝頼が進み出て門の隙間に槍を差し込んで扉をねじ上げました。

傅右衛門は、無理之介が具足の上に着ていた羽織をはぎ取って
「お前!2度と無理之介とか名乗んなよな!」
と捨てゼリフを残しつつ突入していきます。

落ち込む無理之介の肩に、勝頼はやさしく羽織をかけてあげて、いざ!城内へ・・・
(↑あくまで『絵本甲越軍記』のお話です)

しかし、ここを守っていたのは花沢城内でも屈指の剛の者を集めた軍団・・・さすがの武田勢も、おいそれとは前に進んで行けませんでした。

一進一退する戦いの様子を見ていた信玄は、あまりの激しさに、
「ここで勝頼を失うのは…」
と、この日は、一旦、兵を退きあげる事にしました。

その後も、
「こんな小城に手こずっては武田の名折れ」
とばかりに攻め立てるのですが、花沢城側も良く守り

結局、城が落ちたのは1月8日(27日の説もあり)の事でした。

その頃には、小原鎮実は、すでに花沢城を脱出しており、小笠原信興(おがさわらのぶおき=氏助)と合流すべく高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市上土方)へと向かっていましたが、

残念ながら、すでに小笠原信興は徳川家康派に寝返っており、彼らが城に入るや否や、即座に小原鎮実の首を取って家康に献上したのだとか・・・

一方の信玄は、この後、長谷川正長(はせがわまさなが)の守る徳一色城(とくのいっしきじょう=静岡県藤枝市田中:後の田中城)を落とし、周辺一帯を支配下に治めたのでした。

この信玄の
「家康、腹立つ!」
が、やがては、
あの西上作戦(10月13日参照>>)として、有名な三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)に向かっていく事になるのですが、

その前に…
この年の7月に奥さんを亡くした(7月28日参照>>)信玄は、まずは、翌元亀二年(1571年)3月には【深沢城の攻防】>>へ向かいます。

くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】>>で。。。
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