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2022年3月30日 (水)

【平安京ニュース】七光り炸裂!藤原能信の牛車暴行事件

 

長和二年(1013年)3月30日、石清水八幡宮の臨時祭にて、藤原能信が暴行事件を起こしました。

・・・・・・・

第66代一条天皇(いちじょう てんのう)の時代(986年~1011年)に、道隆(みちたか)道兼(みちかね)という二人の兄が相次いで亡くなった事で、棚ぼた的に政権を掌握し、

♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪
「世界はオレの物!」

と高らかに宣言して栄華を極めた、ご存知、藤原道長(ふじわらのみちなが)(12月4日参照>>)

本日の主役は、その道長さんの四男である藤原能信(ふじわらのよしのぶ)なのですが、上記の通り、親が平安時代最大の七光りを放ってるがため、その光浴びまくりの彼は、もう、やりたい放題の、様々な事件をヤラかしてくれているわけです。

それは、能信が未だ19歳の貴公子だった長和二年(1013年)3月30日の事・・・

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石清水八幡宮(本殿)

この日は、「臨時祭(りんじさい)と呼ばれる石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)の祭礼の日で、
(「臨時祭」=天慶五年(942年)将門>>純友>>の乱平定のお礼参りとして臨時に始まった祭礼で後に恒例となるも明治に廃止された祭)

朝廷からは、天皇の勅使(ちょくし=天皇の使者)が八幡宮に向けて派遣されるのですが、この使者の行列がなかなかの見ものだったのです。

それこそ、現在の人が、「葵祭」「時代祭」の王朝行列を見物するのと同じ感覚で、当時の京都の市民たちにも大人気で、市内の大路のそこかしこに人々が群がって見物するのが恒例でした。

…で、その見物人の中には、一般の民衆に交じって見物する貴族層の人たちも・・・

と言っても、さすがに、彼らは一般民衆と違って、見物すると言っても、大路のいっちゃんえぇ場所を見つくろって、周辺の人たちを一定数払いのけ、そこに牛車(ぎっしゃ)を停め、その中から、お見物をあそばされるですが、

誰もがいっちゃんえぇ場所に牛車を停めたいわけで、「ここぞ!」という場所には、有名貴族の車がズラリ・・・

この日は、
藤原景斉(ふじわらのかげなり=前大和守)
源兼澄(みなもとのかねずみ=前加賀守)
大中臣輔親(おおなかとみのすけちか=神祇伯)
藤原為盛(ふじわらのためもり=前越前守)
高階成順(たかしなのなりのぶ=伊勢大輔のダンナ)
源懐信(みなもとのかねのぶ=蔵人所雑色)

といった面々が溜まっていた一画に、

スススーっと、後から牛車を寄せて来たのが藤原能信でした。

上記の通り、この頃の藤原能信は、未だ19歳の少納言(しょうなごん)・・・少納言とは官位相当は従五位下でした。

先の面々は、生没年が不明な人もいますが、前大和守とか前加賀守とかって人たちは、かなりの年上で、なんなら能信の父の藤原道長より年上の人もいましたし、官位も正三位や従四位の人もいたはずなんですが。。。

なぜか、この時の、この状況においては
「能信坊ちゃんのそばで見物する」事を、後からやって来た坊ちゃん自身に許可してもらわねばならない・・・となったのです。

おそらく、親の七光り・・・

坊ちゃんにご機嫌を損ねられて、その事を父親にチクられでもしたら、その後、自身の身はどうなるかわからない…って事なんでしょうが。。。

…で、早速、藤原能信の従者に対して、その許可を求めたわけですが・・・

ところがドッコイ
許してくれるどころか・・・

まずは、はじめに、大中臣輔親と源懐信とが、藤原能信の従者たちによって、牛車から引きずり落とされます。

これまで何度かお話させていただいているように、平安のこの時代・・・公衆の面前で高貴なお方が牛車から降りる事自体が、すでに恥。。。

しかも、今回は祭のさ中の大通りかつ、回りは群衆なわけで。

この醜態を見た藤原為盛と高階成順は、慌てて牛車から降り、車を捨てて逃げ出します。

自分の足で走って逃げる・・・上記の通り、牛車を降りる事だけでも屈辱ですから、自分の足で走って逃げる事も、完全に恥なわけですが、引きずり降ろされるよりは、自分で降りた方がマシなワケで。。。

この4名の醜態を目の当たりにした残りの二人・・・藤原景斉と源兼澄は、もはや恐ろしくて身動きできず。

結果的に牛車に籠る=籠城する形になった両者に、なんと藤原能信の従者たちは、彼ら二人の牛車に石を投げ始めるのです。

当然、その間には、暴言の数々も浴びせられた事でしょうし、おそらくは、相当の時間、石を投げつけられたはず・・・

しかも、結局、藤原景斉は能信の従者らによって牛車から引きずり降ろされ、その場で殴る蹴るの暴行を受けてしまったのでした。

いくらなんでも、めでたい祭の日に、公衆の面前で、ここまでの暴挙に走れば、さすがの七光りも・・・と思いきや、

なんと、捜査を行った検非違使(けびいし=検察)は、藤原能信の従者1名を逮捕してチャンチャン・・・

んな、アホな~!

複数人の貴族が襲われ、暴行を受けたのに、加害者は一人となw(@o@)w

げに恐ろしきは、親の七光り。。。

とにもかくにも、この藤原能信さん、、、この3年後には、あの強姦未遂事件(5月25日参照>>)に関与しちゃったりなんかして、スキャンダルには事欠かない、かなりの暴れん坊なのですが、

それらの事件に関しては、また、その日付にて書かせていただきたいと思います。
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2022年3月22日 (火)

浅井長政の大返し~六角義賢との佐和山城の戦い

 

永禄四年(1561年)3月22日、六角義賢佐和山城を攻められた浅井長政配下の磯野員昌が、見事な大返しで美濃から帰還・・・磨針峠まで進出しました。

・・・・・・・

ともに宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む京極氏(きょうごくし)六角氏(ろっかくし)は、ご先祖の佐々木道誉(ささきどうよ)(10月12日参照>>)が、室町幕府立ち上げに大きく貢献した事から、幕府政権下において近江(おうみ=滋賀県)守護(しゅご=県知事)を任され、京極氏が北近江六角氏が南近江を支配していましたが、

京極氏が自らの内紛によって力衰えて来た(8月7日参照>>)ところに、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)であった浅井亮政(あざいすけまさ)が主家を凌ぐ勢いを持ち始めたため(3月9日参照>>)、同族の六角定頼(ろっかくさだより)が、その武力で以って浅井に立ちはだかる中で、

六角氏との連戦に苦戦した亮政の息子=浅井久政(ひさまさ)は、やむなく六角氏に従属(1月10日参照>>)・・・

Azainagamasa600 息子の浅井長政(ながまさ=つまり亮政の孫)が元服する頃には、六角家臣の娘を娶らせ、その名を、六角義賢(よしかた=承禎・定頼の息子)の一字をとって「浅井賢政」と名乗らせるほどの主従関係を敷いていました

が・・・

永禄二年(1559年)、この状況に不満を持つ浅井家臣らが、元服したての長政を当主と仰いでクーデターを決行・・・

翌永禄三年(1560年)8月には、長政率いる新体制浅井が、野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)の戦いにて六角氏に勝利して(8月18日参照>>)六角氏からの離反を明らかにしたのでした。

格下と思っていた浅井にしてやられた六角義賢と、その息子=六角義治(よしはる=義弼とも)は、何とか雪辱せんと狙って、隣国の美濃(みの=岐阜県南部)斎藤義龍(さいとうよしたつ=斎藤道三の息子・高政とも)陽動作戦を依頼します。

六角父子の要請に応じた斎藤義龍は、永禄三年(1560年)12月、家臣の竹中重元(たけなかしげちか・しげもと=竹中半兵衛重治の父)近江に派遣し、浅井配下の刈安尾城(かりやすおじょう=滋賀県米原市藤川)を奪おうとします。

この時は、何とか抵抗して押し戻し、事無きを得た浅井長政でしたが、当然、斎藤義龍とは敵対関係に進む事となり、翌・永禄四年(1561年)3月、長政は美濃に向けて出兵したのでした。

Sawayamazyounotatakaioogaesi
佐和山城の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この長政留守のタイミングを見計らって、配下の将1万余りを従えて中山道へと出た六角義賢は、そのうちの2千を配下の肥田城(ひだじょう=滋賀県彦根市肥田町)高宮城( たかみやじょう=滋賀県彦根市高宮町)に入れて備えとし、残りの本隊で以って浅井方の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市佐和山町)を目指したのです。

さらに、かの竹中重元も、このタイミングで再び刈安尾城をけん制し、六角氏の佐和山城攻撃を側面から支援し、おそらく美濃から戻って来るであろう長政らの行く手を阻もうと計算したのです。

この時、当然ですが、佐和山城主である磯野員昌(いそのかずまさ)は、主君である長政とともに美濃に出陣中・・・

留守を預かっていたのは百々盛実(どどもりざね)以下、わずかな城兵でしたが、六角軍の来襲を知るや否や、本城の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)にいる長政父の浅井久政に連絡し、援軍を要請します。

もちろん、この急変を聞いた美濃の浅井軍も、急きょ退陣し、磯野員昌を先陣に、一路、佐和山城目指して走る一方で、殿(しんがり)赤尾清綱(あかおきよつな)がキッチリ抑えます。

夜を徹して近江へ取って返した磯野員昌は、永禄四年(1561年)3月22日磨針峠(すりはりとうげ=滋賀県彦根市北部にある峠・摺針峠)に到着したのでした。
(今回の佐和山城に戦いは『浅井三代記』では永禄6年=1563年の事となっていますが、現在は一般的には永禄四年とされています)

一方の六角義賢は、すでに城兵を打ち破って本丸に侵入・・・百々盛実を自刃に追い込んで、事実上、佐和山城を落城させていましたが、

このタイミングで、浅井勢が、すでに磨針峠まで戻って来ている事を知り、あまりの速さに驚愕・・・

「城を落としたとは言え、未だドタバタ感満載な段階で浅井勢の本隊に囲まれて退路を断たれては、元も子もない」
とばかりに、急きょ全軍に撤退命令を出し、速やかに兵を退いたのでした。

結果的には引き分けとなった今回の佐和山城の戦いですが、一時は落城に追い込まれた事の影響は大きく、江北(こうほく=滋賀県北部)の諸将の中には六角側に寝返る者も多数・・・

そこで長政は、この約3ヶ月後の永禄四年(1561年)7月、六角義賢が、畿内を牛耳る三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)との戦い(【将軍地蔵山の戦い】参照>>)のために京都に出陣したスキを狙って、

かつて父の久政が攻めあぐねた太尾城(ふとおじょう=滋賀県米原市米原・太尾山城とも)を奪わんと、配下の今井定清(いまいさだきよ)と磯野員昌を送りこみますが、残念ながら失敗・・・(前半部分内容カブッてますが…7月1日参照>>)

そのため、長政は、この後、約2年ほど、六角氏とは混沌とした関係が続く事になるのですが、
おそらくは、この状況により、
「六角氏に対抗できる後ろ盾を…」
と、長政は思ったらしく、ここらあたりで越前(えちぜん=福井県東部)朝倉氏(あさくらし)臣従に近い同盟を結んだとされます。

しかし、その2年が経った永禄六年(1563年)10月、六角氏は自ら観音寺騒動(かんのんじそうどう)を起こして自滅(10月7日参照>>)・・・内紛によって大きく力を削がれた六角氏には衰退の影が見え始めますが、

ここらあたりで、美濃攻め真っ最中(9月1日参照>>)尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)からの使者として不破光治(ふわみつはる)長政のもとへ・・・

ご存知の、長政とお市の方(おいちのかた=信長の妹もしくは姪)との正式な婚姻が成立するのは、4年後の永禄十年(1567年)の9月頃と言われます。

そして、皆さま、よくご存知のように、浅井長政が全国ネットの大舞台に登場していく事になります。
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2022年3月16日 (水)

小倉実隆と小倉右京大夫の内訌~小倉兵乱

 

永禄七年(1564年)3月16日、小倉実隆小倉右京大夫以下小倉西家の討伐に出陣しました。

・・・・・・・・ 

小倉実隆(おぐらさねたか)は、南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)守護 (しゅご=県知事)六角(ろっかく)の家臣である蒲生定秀(がもうさだひで)の三男・・・

定秀の長男が蒲生賢秀(かたひで)なので、後に信長から秀吉に仕えて有名戦国武将になる蒲生氏郷(うじさと)叔父さんという事になります。

そんな中で、戦国のならいと言いましょうか…愛知郡小椋(えちぐんおぐら=現在の東近江市・彦根市など)周辺を治めていた国人(こくじん=在地の武将)であった小倉氏当主の小倉実光(さだみつ)が実子が無いまま死去してしまったため、

父の定秀の意向で養子として小倉氏に入り、この永禄七年(1564年)の頃は、その名籍を継いで佐久良城(さくらじょう=滋賀県蒲生郡日野町)の城主を務めておりました。

しかし、かつての応仁の乱の頃は、小倉実澄(さねずみ)が一族を率いて、一団となって敵に立ち向かい小倉氏の絶頂期を築いたものの、

永正八年(1511年)頃からは、この周辺を治める者として3~4家の小倉家の名前が見えはじめ、どうやら互いに、その覇権を争っていた・・・

つまり小倉実隆が小倉家を継いだ頃には、すでに内訌状態にあったようなのです。

ちなみに、一応、小倉実隆が継いだ小倉家が宗家とされ、他の2~3家は庶流とされます。

そんなこんなの永禄七年(1564年)、山上城(やまがみじょう=滋賀県甲賀市水口町)城主で、庶流・小倉西家小倉右京大夫(うきょうのだいぶ)が、比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)年貢を横領するという事件が起こります。

この右京大夫の暴挙に激怒した六角義治(ろっかくよしはる=六角義賢の長男・義弼とも)は、すぐさま、小倉宗家の実隆に右京大夫の討伐を命じたのです。

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小倉兵乱の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永禄七年(1564年)3月16日、小倉実隆は、自らの配下とともに、六角家臣で甲津畑城(こうずはたじょう=滋賀県東近江市永源寺)速水勘解由左衛門(はやみかげゆさえもん)ほか蒲生郡(がもうぐん=現在の近江八幡市と東近江市付近)の諸将の助力を得て、右京大夫討伐に出陣します。

はじめ、千種越え(ちぐさごえ=滋賀か鈴鹿を越えて伊勢に向かう千種街道の峠)の要衝にてぶつかった両者は、

和南城( わなみじょう=滋賀県東近江市和南町)小倉治兵衛(じへえ=源兵衛とも)討ち取るものの、

当然、右京大夫側も西家総動員に加え、味方の諸将に応援を呼びかけており、戦いは山上城周辺に留まらず、小倉宗家と小倉西家の領地全体へと飛び火し、互いの存続をかけた全面戦争となります。

やがて押しに押した右京大夫側が勝ち進み、3月23日には永源寺(えいげんじ=滋賀県東近江市永源寺)を焼き、なおも小競り合いが繰り返されました

さらに、右京大夫は九居瀬(くいせ=滋賀県東近江市九居瀬町)に陣を移し、なおも戦い続け、5月1日には実隆の佐久良城に攻め寄せたのです。

複数の史料に食い違いがあるため、その死没の日付は、今のところ「不明」となっているのですが、おそらくは、この5月1日の合戦にて小倉実隆は討死したものと思われます。

その後も、勢いづく右京大夫は、5月23日にも再び永源寺に放火・・・さらに周辺の寺にも火をかけ、あたりの寺院多くが焼失してしまいました。

諸戦に勝利し、奥津保 (おくつのほ=滋賀県蒲生郡日野町中之郷周辺)まで制圧して意気揚々の右京大夫でしたが、ここで、息子の死を知った蒲生定秀が介入・・・

自ら大軍を率いて右京大夫と西家の討伐に乗り出し、彼らの拠点となっている山上城や 八尾城 (やつおじょう=滋賀県東近江市山上町)報復攻撃を仕掛け、ついに右京大夫以下小倉西家を滅ぼして、何とか、内訌状態の鎮静化に成功したのでした。

この和南合戦佐久良の戦いを含めた一連の合戦は、
小倉兵乱(おぐらひょうらん)とも、小倉の乱とも呼ばれます。

ただし、こうして最終的には小倉宗家の勝利となって丸く収めた小倉内訌からの小倉兵乱ではありましたが、この内輪モメは小倉氏の力を大きく削ぐ事となり、

やがて、この小倉氏は、蒲生氏の配下として生き残るしかなくなってしまったのですが、

ご存知のように、その後、この蒲生氏も衰退・(8月18日参照>>)

その後は、一族の誰かが豊臣に仕えたとか、德川に仕えて旗本として生き残ったとも言われますが定かではありません。

細川にしろ京極にしろ、この小倉の親分の六角でさえ、同族同士の内訌は、負けた側はもちろん、勝った側も大きく力を削がれ、やがては下の者に取って代わられたりして、いずれ衰退していくのは世の常なのに・・・なぜ?

とは言え、戦国の武家で内輪モメがまったく無い家が、ごくわずかな事を考えれば、後世の凡人には計り知れない、その時代の、その武将なりの譲れない何かがあるのでしょうね。。。
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2022年3月 9日 (水)

親王将軍か摂家将軍か…北条時房が千騎を率いて上洛

 

建保七年(1219年)3月9日、後鳥羽上皇の使者として藤原忠綱が、亡き源実朝の弔問に鎌倉を訪れました。

・・・・・・・・・・

未だ子供がいなかった第3代鎌倉幕府将軍源実朝(みなもとのさねとも)の後継者に、実朝の名付け親でもある後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)皇子を…と願った実朝母の北条政子(ほうじょうまさこ)が、

弟の北条時房(ときふさ)を連れて初めての京都旅行をし、頼仁親王(よりひとしんのう)雅成親王(まさなりしんのう)いずれかを、次期将軍として近々鎌倉に下向させるという約束をとりつけたのは、この、わずか1年前の建保六年(1218年)2月の事でした(2月4日参照>>)

ところが、その翌年・・・年が明けてまもなくの建保七年(1219年)1月27日、その実朝が鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)にて、公暁(くぎょう・こうきょう)殺害されてしまい
 【実朝・暗殺事件の謎】>>
 【実朝暗殺事件の謎パート2】>>
事は急展開となります。

ポッカリ空いた将軍の座を狙った阿野時元(あのときもと)の謀反(2月11日参照>>)を、なんとか防ぎつつも、実朝の死という想定外の出来事に、揺らぐ上皇の心の内を、北条政子も、そして鎌倉幕府を預かる第2代執権(しっけん)北条義時(ほうじょうよしとき=政子の弟)も感じ取っていたのです。

Houzyoumasako600ak 先の「政子上洛」のページで書かせていただいたように、皇子の鎌倉下向&次期将軍を後鳥羽上皇が快諾したのは、自らが信頼する実朝が後見人としてサポートしつつ将軍職を引き継ぐ皇子の姿を想像したからであって、肝心の実朝がいなければ、話が変ってくる・・・

その後鳥羽上皇の思惑を重々承知の幕府は、早速翌月=2月1日に政所別当二階堂行光(にかいどうゆきみつ)を使者にたて、
「実朝が亡くなった今、すぐにでも親王を鎌倉に…」
と願ったのです。

Gotobatennou700a しかし、案の定、後鳥羽上皇の回答は、
「二人のうち、どちらかは鎌倉に下向させよう。ただ、今すぐというのはムリ」
というものでした。

京都からの報告をを受けた政子は、
「今すぐに!と、もっかいお願いしてみて~」
と、京都の二階堂に念を押します。

しかし、上皇からの返答はなく・・・

そんなこんなの建保七年(1219年)3月9日、後鳥羽上皇が、自らの側近で北面の武士(御所を警固する武士)藤原忠綱(ふじわらのただつな)弔問の使者という名目で鎌倉に派遣して来たのです。

忠綱は、まずは北条政子の邸宅にて後鳥羽上皇の弔意を伝えた後、北条義時の館に向かいます。

そして忠綱は、その場で、
後鳥羽上皇が寵愛する白拍子の亀菊(かめぎく=伊賀局とも)の持つ摂津(せっつ=大阪府北部)長江(ながえ=現在の大阪府豊中市付近)の荘園と、
尊長(そんちょう=一条能保の息子で後鳥羽上皇の側近)の持つ椋橋(くらはし=同じく豊中市付近)の荘園の地頭の撤廃と、
西面武士(北面と同じく御所の警備)仁科盛遠(にしなもりとお)所領没収処分の撤回を求める院宣(いんぜん=天皇の命令)を伝えたのです。

地頭(じとう)とは、ご存知のように、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際に、全国の荘園の管理や支配の権限を認めて設置し、御家人や配下の武士を派遣して当たらせた役職(7月12日参照>>)・・・

それを「撤廃しろ」という事は、「荘園は自分らで管理するから、お前ら幕府は関わんなや」という事です。

しかも、その場所は、いずれも川で以って大阪湾へと出られる交通の要所。

また、仁科盛遠の所領没収処分というのは、もともとは幕府御家人だった盛遠が、職務を怠って勝手に西面の武士(北面と同じく御所の警備員)になり後鳥羽上皇から給料をもらっていた(つまり上司にナイショで副業してた)事を知った北条義時が、職務専念義務違反として下した処分です。

もちろん、この彼らは全員、後鳥羽上皇にメッチャ近しい人たち・・・おそらくは上皇の私的がらみとおぼしき要求です。

その一方で、幕府が出していた、先の「親王下向」のお願いについては完全無視のゼロ回答。。。

とりあえずは、
「追って回答させていただきます」
と、結果を保留にして、京都へと戻る藤原忠綱を見送った幕府首脳陣は、

後鳥羽上皇の要求を呑むべきか否か?
また、呑むとしても、どこまで譲歩すべきか?
の話し合いに入ります。

なんせ、こういう場合、相手を怒らしてもアカンし、かと言ってナメられてもアカンわけで・・・

…で、すったもんだして出した結論は・・・

北条時房が千騎の軍勢を率いて上洛し、
「地頭の撤廃を拒否し、親王の早期下向を要求する」
という、完全なる強硬策だったのです。

時房が代表になったのは、例の北条政子の京都旅行の際に(2月4日参照>>)、蹴鞠の腕前を後鳥羽上皇に褒められて親しくなり、お気に入りとなっていたからですが、

時房が京都に到着した3月15日・・・さすがに、昨年とはまったく違う雰囲気で完全武装した時房の姿を見た後鳥羽上皇は、驚いたに違いありません。

ゼロ回答のまま、自らの要求だけを突き付けた後鳥羽上皇も上皇ですが、それに対して武力をチラつかせる幕府も幕府・・・

もはや、両者ともに、お互いの関係に亀裂が入った事を、完全に悟った事でしょう。

とは言え、どちらも、この一国を左右する地位につく人たち・・・いきなり、あからさまに敵対はせぬまま、建保七年(1219年)は4月12日に改元され、承久元年となりました。

そんな中、静かなる譲歩を決めたのは後鳥羽上皇でした。

「親王を下向させると、国が二分するかも知れないから、関白(かんぱく)摂政(せっしょう)の子供で手ぇ打ってちょ」
との譲歩案を出して来たのです。

それを知った三浦義村(みうらよしむら=幕府有力御家人)は、
「摂関家の九条道家(くじょうみちいえ)の長男で10歳になる九条教実(のりざね)か、その弟の2歳の若君に来ていただいて、コチラで養育し、いずれ君(上皇)をお守りいたしたいと思いますが…そういうのはどうでしょう?」
と提案します。

この提案を受け、交渉の結果、2歳の若君三寅(みとら)を下向させる事で、ようやく話が落ち着いたのです。

実は、この九条道家という人の母は、源頼朝の妹(姉とも)である坊門姫(ぼうもんひめ)の娘・・・しかも、この道家の奥さんの西園寺掄子(さいおんじりんし)も母親は坊門姫の娘・・・

つまり、頼朝から見れば、姪っ子二人が、それぞれ九条家&西園寺家に嫁いで、その子供(本人たちは従兄弟)どうしが結婚して生まれたのが三寅クンという事です。

この三寅クンが、後の藤原頼経(ふじわらのよりつね=九条頼経とも)・・・鎌倉幕府の第4代将軍、初の摂家将軍となる人です。

6月3日に鎌倉下向の宣下があり、様々な手続きを経て、6月25日に北条時房や三浦義村らに付き添われて京都を後にし、7月19日に鎌倉に到着・・・以後、北条政子が後見人となってサポートする事になるのです。

こうして、鎌倉幕府の将軍は何とか決まったものの、当然、両者に残る少なからずのしこり・・・

しかも、この三寅下向の真っ最中に、京都で後鳥羽上皇を強気にさせる事件も勃発します【源頼茂事件】参照>>)

…で、
ご存知のように、この2年後に承久の乱が勃発するのですが、その間のお話のくわしくは、その日付の関連ページで。。。

承久の乱関連ページ
 【実朝の後継…北条政子上洛】>>
 ●【実朝暗殺】>>
 ●【阿野時元の謀反】>>
 ●【北条時房が武装して上洛】←今ココ
 ●【源頼茂謀反事件】>>
 ●【義時追討の院宣発給で乱勃発】>>
 ●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
 ●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
 ●【承久の乱~美濃の戦い】>>
 ●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
 ●【後鳥羽上皇、流罪】>>
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2022年3月 2日 (水)

古河公方を巡って~北条氏政と簗田晴助の第1次関宿城の戦い

 

永禄八年(1565年)3月2日、北条氏政が簗田晴助の守る関宿城を攻撃しました。

・・・・・・・・

関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿三軒家)は、長禄元年(1457年)頃に、簗田成助(やなだしげすけ)によって築城されたと伝えられます。
(成助祖父の簗田満助築城説もあり)

もともと在地領主だった簗田氏は、やがて鎌倉公方(かまくらくぼう)の家臣に・・・

鎌倉公方とは、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自らの本拠が関東にあるにも関わらず京都にて幕府を開く事になり、在京する将軍に代って地元=関東を治めるべく四男の足利基氏(もとうじ)鎌倉に派遣した事に始まります。

以降、将軍は尊氏三男の義詮(よしあきら)の家系が、鎌倉公方は基氏の家系が代々継いでいく事に・・・

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

しかし、第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の頃に、第6代将軍足利義教(よしのり)と対立したため「永享の乱」参照>>)、持氏の息子の足利成氏(しげうじ)鎌倉を追われて古河(こが=茨城県古河市)を本拠とした事から、以降は古河公方(こがくぼう)と呼ばれる事に・・・

一方、成氏を公方と認めない将軍=義教は、自らの息子=足利政知(まさとも)公式の鎌倉公方として関東に派遣しますが、関東が動乱のために政知もまた鎌倉に入れず、やむなく、手前の伊豆堀越(ほりごえ)堀越御所(静岡県伊豆の国市)を建設して、そこを本拠とした事から、コチラは堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれる事になります「五十子・太田庄の戦い」参照>>)

…で、今回の主役である簗田氏は、もともと下野(しもつけ=栃木県)梁田郡(現在の足利市の渡良瀬川以南周辺)を支配していた在地領主でしたが、上記の通り鎌倉公方の家臣として力をつけて来た関係から、その流れのまま古河公方の配下となっていたワケです。

そんなこんなの延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)、駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(いまがわうじちか)に仕える北条早雲(ほうじょうそううん=当時は伊勢新九郎・氏親の伯父)伊豆に討ち入りを果たして堀越公方を潰滅させ(10月11日参照>>)、その後も、どんどん支配を広げていったのです。

さらに早雲の後を継いだ北条氏綱(ほうじょううじつな)の代になると、東は江戸(えど=東京都)(1月13日参照>>)、西は甲斐(かい=山梨県)まで(2月11日参照>>)を脅かすほどに・・・

一方、古河公方家では、第2代足利政氏(まさうじ)と3代目を継いだ長男の足利高基(たかもと)がモメはじめ、さらに高基弟の足利義明(よしあき=政氏の次男)が反発して小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)にて独立して小弓公方(おゆみくぼう)を名乗り始め、そこに関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐役)上杉(うえすぎ)や、安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)が絡んで来て、もうグダグダ感満載・・・

Houzyouuzituna300a そこで、この頃の梁田氏を仕切っていた簗田高助 (たかすけ=成助の息子)は、主家=古河公方の勢力挽回を図るべく

天文六年(1537年)に上杉朝定(うえすぎともさだ=扇谷上杉家)河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)を奪って(1月30日参照>>)今や飛ぶ鳥を落とす勢いの北条氏綱に接近・・・

足利高基の後を継いだ第4代古河公方の足利晴氏(はるうじ)の意向を氏綱に伝え、それに応えた氏綱が小弓公方=足利義明を滅亡に追い込みます(10月7日参照>>)

ゴキゲンの晴氏は、天文八年(1539年)に氏綱の娘(後の芳春院)と結婚(11月28日参照>>)し、両者の蜜月関係は最高潮に・・・

天文十九年(1550年)には、簗田高助が亡くなり、嫡男の簗田晴助(はるすけ)が後を継ぎますが、その晴助も氏綱の後を継いだ北条氏康(うじやす=氏綱の嫡男)起請文を交わして同盟を結び、両者の関係が崩れる事はありませんでした。

しかし、北条が氏綱から氏康に代った事に揺らいだのが足利晴氏・・・

いつしか、かの上杉朝定や上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)とツルんで河越城を奪回しようと試みますが、残念ながら、北条からの返り討ちに遭ってしまったのでした。「河越夜戦」参照>>)

この敗戦により、命こそながらえたものの、もはや名ばかりとなった古河公方・・・天文二十一年(1552年)、晴氏は古河公方の座を氏綱の娘との間に生まれた息子=足利義氏(よしうじ=第5代古河公方)に譲ります。

実は、ここまで書ききれていませんでしたが…「氏綱の娘と結婚した」と言っても、その時点で、すでに晴氏には正室がいて、その奥さんとの間に子供ももうけていました。

その正室というのが簗田高助の娘で、その嫡男である足利藤氏(ふじうじ)本来なら第5代古河公方になるはずでした…てか、その事はすでに決まっていた事でした。

しかし、上記の河越夜戦を受けて、簗田高助の娘を押しのけて氏綱の娘が継室となり、藤氏の嫡子と次期公方を廃して、北条氏康の甥にあたる足利義氏を嫡子にして第5代公方としたのです。

とは言え、これは戦での勝敗によるもの・・・簗田晴助も晴氏の配下として河越夜戦に参戦して負けたワケですから、そこは勝者の意向を汲むしかありません。

しかし永禄元年(1558年)4月、北条氏康が足利義氏を関宿城に移し、「ここを御所にする」と言って来たのです。

冒頭に書いた通り、関宿城は簗田が築城した簗田氏の居城・・・簗田氏は、これからは古河城(こがじょう=茨城県古河市)を本城とするという事で、その約束は取り交わされますが、これは完全に簗田晴助らの力を削ぐ意味を持っていました。

以降、足利義氏は「関宿様」と呼ばれ、側近たちは「関宿の地を手に入れた」と大喜び・・・実は、この周辺、当時は「関宿の地を抑えれば一国に値する」と言われたくらいの要所だったようで、そこが北条の物になったと自信満々だったのです。

そんな中、ここに来て度々関東へ進出して来ていたのが、永禄二年(1559年)に将軍=足利義輝(よしてる=第13代将軍)の承認を得て、かの河越夜戦で北条に敗退した上杉憲政から家督と関東管領職を譲り受けて(6月26日参照>>)、その名を長尾景虎(ながおかげとら)から上杉政虎(まさとら)に改めた越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=ややこしいので謙信の名で統一させてネ)でした。

Uesugikensin500 そうです。。。
冒頭に書いた通り、将軍に代って関東支配を任されているのが鎌倉公方で、その補佐が関東管領なんですから、当然、その任務は「関東を北条の好きにさせてはならない!」なわけで・・・

…、で、そんな謙信が、簗田晴助に対して
「古河公方を足利藤氏にする用意がある」
と打診して来たのです。

ここで、北条から上杉に舵を切る簗田晴助・・・甥の足利藤氏を我が古河城に招き入れます。

これを知った北条によって、永禄五年(1562年)頃から、古河城への攻撃が度々行われつつも、なんとか死守していた簗田晴助。

そんな中、晴助に呼応するように南下する上杉謙信の影に脅威を覚えた足利義氏が、千葉胤富(ちばたねとみ)を頼って関宿城を脱出したため、簗田晴助は素早く関宿城に入り、古河城に残った足利藤氏は、そこを御所と定めました。

一方の北条・・・
これまでは、周囲に敵が多数なため、その動きを制限していましたが、永禄七年(1564年)1月に第二次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦いに勝利して里見の衰退を確信した事で、

いよいよ、この古河&関宿問題に決着をつけるべく

永禄八年(1565年)3月2日夜、古河公方の奉公衆であった豊前左京亮(ぶぜんさきょうのすけ)を道案内に、北条氏政(うじまさ=氏康の次男)が大軍を率いて関宿へと侵入して来たのです。

その夜は、関宿城下をことごとく焼き払い、チリ一つ残さぬ勢いでしたが、4日の朝には一旦退き、6日に再び勢いづいて猛攻撃を仕掛けました。

このような状況が2ヶ月近く続くも、簗田晴助が巧みな戦術で何度もかわしているうち、かの上杉謙信と、謙信の要請に応じた常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)が、関宿城救援のために出兵して来た事で、北条軍は撤退し、その後、梁田と北条の間で和議の話し合いが行われる事に・・・

しかし、所詮はかりそめの和議・・・結局、この戦いは、翌永禄十年(1567年)の第2次、さらに天正二年(1574年)の第3次関宿城の戦いへと持ち越される事になるのですが、そのお話は、また、その日付にて書かせていただきたいと思います。
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