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2022年5月 3日 (火)

北条義時が和田義盛を討つ~和田合戦をくわしく

 

建暦三年(1213年)5月3日、北条義時に反発した和田義盛が討死し、和田合戦=和田義盛の乱が終結しました。

・・・・・・・・

初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)亡き(12月27日参照>>)後、建久十年(正治元年・1199年)より嫡男の源頼家(よりいえ)のもと、13人の有力者による合議制(4月12日参照>>)にて運営される事になった鎌倉幕府・・・
(足立遠元・安達盛長・大江広元・梶原景時・中原親能・二階堂行政・八田知家・比企能員・北条時政・北条義時・三浦義澄・三善康信・和田義盛の13人)

しかし、その翌年の梶原景時(かじわらかげとき)(1月20日参照>>)に始まり、
元久元年(1204年)の比企能員(ひきよしかず)(9月2日参照>>)
元久二年(1205年)の畠山重忠(はたけやましげただ)(6月22日参照>>)
と、次々と有力御家人を排除し、

その途中には、比企能員に味方した将軍=頼家まで死に追いやった(7月18日参照>>)北条氏・・・

さらに父の北条時政(ほうじょうときまさ)を追放(1月6日参照>>)して執権(しっけん=将軍補佐:事実上の最高権力者)となり、姉の北条政子(まさこ=頼朝の妻で頼家の母で義時の姉)とともに、更なる幕府掌握を計る北条義時(よしとき)でしたが、

Wadayosimori500ats それでも侍所別当(さむらいどころべっとう=警視総監)として、未だ幕府内で大きな力を持っていたのが和田義盛(わだよしもり)でした。

義盛は、頼朝挙兵の時にいち早く味方についた三浦義明(みうらよしあき)(8月27日参照>>)の孫で、先の合議制13人の一人の三浦義澄(よしずみ)の甥っ子。

しかも、亡き頼朝と同い年でもあった事から、頼家の後を継いで第3代将軍となった源実朝(さねとも=頼朝・政子の次男)(9月7日参照>>)父のように慕う人物でした。

そんな、
実朝の義盛への、あまりの心酔ぶりが、政子&義時姉弟に目につき始めた建保元年(1213年)2月、亡き頼家の遺児である千寿丸(せんじゅまる=頼家の三男・後の栄実)新将軍に担いで北条義時を討つという泉親衡(いずみちかひら)による謀反の計画が発覚します。(2月16日参照>>)

先に計画がバレて謀反自体は未然に防いだものの、その計画に関わった330名の中に、和田義盛の息子である和田義直(よしなお)和田義重(よししげ)、甥の和田胤長(たねなが)他、和田関係十数人が含まれていた事が発覚してしまいます。

義盛大好きの実朝の采配によって息子の義直と義重は何とか許されたものの、甥の胤長は、義盛の嘆願空しく屋敷を没収の上、陸奥岩瀬郡(むついわせぐん=福島県)への流罪となりました。

しかも、北条義時は、義盛に見せつけるように目の前で胤長を捕縛し、本来なら一族に下げ渡されるはずの屋敷も別の者に与えたのです。

こうして、義時と義盛の間に生まれた亀裂・・・

何とか事態を収拾したい実朝は、4月に入って、その心中を慰める旨の使者を義盛に送りますが、戻って来た返事は、
「実朝さんには、まったく恨みは持ってませんけど、アイツが、ほんま好き勝手やりよるから、事情を確かめるために出向こうと、ウチの若いもんが密かに集まって話し合うてましたわ。
僕は、アカンで~って諌めたんですけど、もうすでに一致団結して、ヤル気満々で、もう止められまへんわ」
と。。。

かくして建暦三年(1213年)5月2日、夏も近づく、いや、旧暦なので、もはや夏真っ盛りの昼下がり・・・和田義盛は挙兵に踏み切ったのです。

んん?? 昼下がり?? 午後?? なんで?

そもそも謀反や奇襲のように、無防備な相手に急襲を仕掛ける場合は、真夜中に準備して、夜明け前あるいは明け方の薄暗い頃に行動を起こすのが常とう手段のはず。。。
【河越夜戦】>>【厳島の戦い】>>【本能寺の変】>>

もちろん、織田信長(おだのぶなが)【桶狭間】>>なんて真昼間のもありますが、アレは、総大将の今川義元(いまがわよしもと)一人を標的にして、ちょうど昼休憩で大軍が移動を停めた時間帯に本陣をピンポイントで・・・

そう・・・実は、和田義盛も、同様の作戦だったようなのです。

本来なら翌日=3日の明け方に行動を起こすつもりであった?ようで…

それは、義盛と姻戚関係にあり、おそらく加勢する兵の数が最も大いであろうと思われる横山党の党首=横山時兼(よこやまときかね=叔母が義盛の妻)が、この時、腰越(こしごえ=神奈川県鎌倉市南西部)付近に到着するのが5月3日の午前4時頃だったからです。

おそらく、本来は、この3日の明け方に横山党と合流して事を起こすはずだった???

しかし、この5月2日という日の午後という時間帯・・・
実は、将軍=実朝と幕府重鎮の大江広元(おおえひろもと)が、それぞれ宴会を執権の北条義時が囲碁の会を開催していたのです。

…となると、おそらくこの時間帯は御所の警備も甘々なはず・・・
「主要メンバーが宴会やら囲碁の会やらで、御所の守りが手薄になる~今がチャ~ンス!!
と、降って湧いた好機に行動を起こしたのではなかろうか?

Wadayosimorinoran
和田合戦時の鎌倉・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、
謀反の準備真っ只中の5月2日午後4時ごろ、
和田邸の近くに住んでいた八田知重( はったともしげ=八田知家の息子:小田知重)が、和田邸内の不穏な空気に気づき、将軍御所の近くに住む大江広元邸に急使を送ります。

上記の通り、宴会の真っ最中だった広元が急いで将軍御所に入ると同時に、三浦義村(みうらよしむら=三浦義澄の息子・兄)三浦胤義(たねよし=同息子・弟)兄弟が北条義時邸に駆け込み、義盛の挙兵を知らせました。

実は、この三浦義村兄弟・・・彼らの祖父も和田義盛と同じ三浦義明=つまり彼らは従兄弟同士だったわけで(義盛の父は義澄の兄)

何日か前に、義盛からの謀反のお誘いを受けており
「同族として味方するで~」
と言って、
「俺ら兄弟は北門を警固する」
との約束を交わしていたのですが、

ここに来て、まるっと、スッキリ、見事な、寝返りをやってのけたのです。
(先の2月16日=「泉親衡の乱」>>で書かせていただいたように、三浦家当主の座について義盛と義村の間でわだかまりがあった模様)

確かに、ともに戦う約束をしていたはずの三浦兄弟が、義盛挙兵の知らせを受けて、慌てて義時に知らせに行った感じがするのも、予定時間が早まったからと考えれば辻褄が合いますね。

もちろん、知らせを聞いた北条義時も即座に御所へ・・・

そんな中、
和田義盛、土屋義清(つちやよしきよ=三浦義明の弟=岡崎義実の息子)古郡保忠(ふるごおりやすただ=横山党に属す)ら、約150騎は3手に分かれ、1手は御所の南門(北門は義村に任せてるんで…)、残りの2手は北条義時邸の西と北の両門に分かれて、それぞれ一斉に襲いかかりました。

しかし・・・
上記の通り、本来なら三浦兄弟が固めているはずの北門・・・しかも、義村の邸宅は御所の西門の真ん前にあるので、義盛は南門さえ攻めれば、南と西と北の三方を抑える事ができるはずだったわけですが、それが裏切られたとなったら、いくら南門から攻め込んでも、御所の北と西と東が空きまくりなわけで・・・

案の定、広元と義時は、実朝を連れて北門から脱出・・・武勇の誉れ高き義盛三男の朝比奈義秀(あさひなよしひで)が、実朝の身柄を確保すべく総門を推し破って御所に乱入した時は、もはや実朝の姿はありませんでした。

それでも奮戦する和田勢は一昼夜に渡って戦い続け、翌5月3日明け方、ここで到着した、先ほどの横山党の加勢を得て、和田勢は幕府相手に盛り返しをはかります。

そうこうしているうちに、騒ぎを聞きつけた相模(さがみ=神奈川県の大部分)周辺の武士たちが武装してやって来ますが、目の前で戦ってるのは執権と侍所別当・・・21世紀の今だと、大統領と軍が戦ってるような感じ???

そんなもん、事情がよくわからないまま今来た彼らにしたら、どっちの味方として参戦して良いのやら・・・そりゃ、迷いまくりで、動けませんがな。

御所を脱出して、父=頼朝の墓所である法華堂(ほっけどう=鎌倉市西御門2丁目)に入っていた実朝は、自らの花押(かおう=直筆サイン)を記した御教書(みぎょうしょ=将軍の命令書)を、参戦に戸惑っている各人に対して発給し、自身が身を置く幕府方=つまり北条義時の側に加わるよう命じました。

そうなると、もはや時間の問題・・・

建暦三年(1213年)5月3日・・・午後6時頃には、義盛をはじめ和田勢の多くが戦死し、 戦いは終わりました。

和田義盛、享年67・・・息子の朝比奈義秀ら約500騎だけが、船6艘にて安房(あわ=千葉県南部)へと逃れたのです。

翌日、片瀬川(かたせがわ)の川べりに晒された234の首を実検した実朝は、幕府側の負傷者をねぎらうとともに、勲功の審理を行い、欠員となった侍所別当に北条義時を任命したのでした。

北条家にとって最大のライバルを葬り去り、政権と軍事の両方を手に入れた、この和田合戦・・・

とは言え、
ウハウハの義時&政子は良いとして、義盛を父の様に慕っていた実朝の心情はどうだったのでしょう?

思えば、勝敗を分けたのは、ご本人=実朝の身柄の確保・・・もし、和田義盛側が実朝を確保している状況で、実朝が御教書を発給していたら、多くの者はソチラの味方をし、結果は変わっていたかも知れません。

もともと、和田義盛も、実朝に対しては何とも思ってない・・・いや、日頃の動向から見る限り、むしろ将軍として大事に思っていたでしょうしね。

そんな中、この和田合戦から、わずか17日後の5月21日に鎌倉は大地震に見舞われるのですが、その時、実朝は、自らの名付け親でもある後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)に一首の歌を詠んでいます。

♪山は裂け 海は浅(あ)せなむ 世なりとも
 君にふた心 わがあらめやも ♪
「たとえ、山が裂けて海が干上がってしまう世になったとしても、私は君(後鳥羽上皇)に背く事はありません」

実際に山が裂けた大地震と、自身の心が裂けた和田合戦・・・実朝にとっては、立て続けに起こった激震。

やがて、この6年後に、実朝が亡くなってしまう(1月27日参照>>)事で、後鳥羽上皇と北条義時がギクシャクし始める(3月9日参照>>)という未来を知っている者からしたら、何やら、不安げで悲し気な歌に聞こえてしまう一首でした。

ちなみに、見事に裏切った三浦義村兄弟は、
「友を喰らう三浦犬」
と、陰口たたかれたようですが、上記の通り、
「もともと友達じゃなく、後継を争ってた仲なのよね~」
て事で・・・
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コメント

幾つも山場がある今年の大河ですが、この和田合戦も三谷さんがそうとう力を入れてそうなニオイがプンプンして楽しみにしてます。

投稿: 通りすがり | 2022年5月 3日 (火) 05時48分

通りすがりさん、おはようございます。

ドラマでは、ここんとこの和田義盛さん、目立ってますものね~

楽しみです!!

投稿: 茶々 | 2022年5月 3日 (火) 06時28分

茶々様
おはようございます。

ドラマで、義時は、和田殿は、私の言う事の反対ばかり言うとか言っているのは、未来を暗示しているのでしょうか?

巴御前は和田義盛の女になるのかな?何か嫌だわ。義仲一筋であって欲しい。

投稿: 浅井お市 | 2022年5月 5日 (木) 06時00分

浅井お市さん、こんばんは~

和田さんといい、梶原さんといい、
チョイチョイ伏線入ってますよね。
義経ほど、あからさまじゃ無いですが…

和田さんとのエピソードを描きたいためなのか?
巴御前は「女を捨てた」と言ってたので、ドラマの中では義仲との関係は、あくまで主従関係だけで色恋はなしという設定なんでしょうね。

個人的には、和田さんと出会って女に戻る巴御前を見るのは、ちと恥ずかしい…あくまでサラッと描いてほしい気がしてます。

投稿: 茶々 | 2022年5月 6日 (金) 02時16分

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