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2022年6月14日 (火)

承久の乱の山場~瀬田・宇治の戦い

 

承久三年(1221年)6月14日、承久の乱の山場となる瀬田・宇治の戦いが展開されました。

・・・・・・・・・・

後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)が、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)北条義時(ほうじょうよしとき)討伐の命令を出した事に始まる承久の乱(じょうきゅうのらん)・・・

これまでの経緯は…
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
 ├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
 ├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
 ├5月22日:北条泰時が京へ進発>>
 ├5月29日:幕府軍の出撃を京方が知る>>
 └6月 6日:美濃の戦いが終結>>

木曽川(きそがわ)を挟んだ美濃の戦いに押し勝った幕府軍に、やむなく撤退する京方(後鳥羽上皇側)・・・いよいと京都周辺での合戦へとなだれ込みます。

・‥…━━━☆

承久三年(1221年)6月7日の軍議にて
瀬田(せた=滋賀県大津市)北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)
手上(たのかみ=同大津市)武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏・信義の息子)安達景盛(あだちかげもり)
宇治(うじ=京都府宇治市)北条泰時(ほうじょうやすとき=義時の長男・幕府軍総大将)
芋洗(いもあらい= 京都府久世郡久御山町東一口付近)毛利季光(もうりすえみつ=大江広元の四男)
淀渡(よどのわたり=京都府京都市伏見区西南部)三浦義村(みうらよしむら=有力御家人・三浦氏当主)結城朝光(ゆうきともみつ=有力御家人・結城氏当主)
を向かわせる事に決定した幕府軍。。。。

翌日の6月8日には、北陸道を行く北条朝時(ともとき=義時の次男)の軍勢が、砺波(となみ=富山県礪波市)にて越中の京方を打ち破って、京に向け進軍中・・・との報告を受けた幕府軍は、6月12日には東海道の野路宿(のじじゅく=滋賀県草津市)に陣を敷き、しばしの休憩を取ります。

一方、この同じ12日、京方も、
瀬田の山田重忠(やまだしげただ=山田重広・山田重定・泉重忠とも)はじめ、宇治周辺の要衝に藤原秀康(ふじわらのひでやす)秀澄(ひでずみ)父子や三浦胤義(みうらたねよし=三浦義村の弟)佐々木広綱(ささきひろつな=西面の武士)などを配置し、やって来る幕府軍に備えます。

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承久の乱~瀬田・宇治の戦いの幕府軍進路図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

翌13日の夕刻=18時頃から、雨が降りしきる中、幕府軍の面々が次々と出陣して行きましたが、北条時房が瀬田に着いた時には、すでに瀬田の唐橋(せたのからはし=滋賀県大津市瀬田の瀬田川に架かる橋)の中ほどの二間(にけん=約3.6m)の板が引き落とされており、

その向こうには、外した板を縦に並べて盾とし、すでに(やじり)をコチラに向けた山田重忠が僧兵など3000騎を従えて待ち構えていたのです。

雨のために川は激流と化していて、とても渡れる状態では無かった事から、幕府方の武士たちは何とか橋を渡ろうと押し寄せますが、そこを京方が雨霰のごとく矢を射かけます。

やむなく橋げたから行こうとすると、そこを今度は、手慣れた薙刀で僧兵たちが襲い掛かりました。

苦戦する幕府軍・・・そこにやって来た宇都宮頼業(うつのみやよりなり=頼成)は、
「まともに橋を渡っては殺られる!」
とばかりに、少し川上に移り、そこから遠矢を放って対岸の京方や、舟に乗る敵を狙います。

あまりの激戦に、そのうち双方の矢の数も底が見え始めたため、この日の合戦は決着つかぬまま終わりました。

一方、同じ13日に開戦すべく宇治に向かった北条泰時でしたが、すでに前日12日に、三浦泰村(やすむら=三浦義村の息子)足利義氏(あしかがよしうじ=幕府御家人)らが泰時を待たずに宇治橋に攻め寄せたため、そこに待ち構える佐々木広綱らと激しい戦闘となり、すでに多くの死傷者が出ていました。

宇治に着いた泰時も、そのまま戦いに突入しますが、血気にはやる武士たちがやみくもに橋げたを渡ろうとし戦闘に苦戦するのを見た泰時は、
「これは川を渡らねば京方を破れない!」
と思い、その日の戦闘を中止し、平等院(びょうどういん=京都府宇治市)に陣を取ったところで、水泳の得意な芝田兼義(しばたかねよし)に命じて、川の中で渡れそうな浅瀬を探らせる事に・・・

前日からの大雨で増水した川はあちこちに白波が立つ状態でしたが、何とか真木島(まきしま=宇治川の中州・槙島)までたどり着き、そこにいた地元の老人から浅瀬の位置を聞き出します。
(ここで敵方の兵糧を奪い取ったとも、地元の老人を斬ったとも)

かくして承久三年(1221年)6月14日早朝(午前6時頃?)、北条泰時は、芝田兼義、佐々木信綱(のぶつな=佐々木広綱の弟)らに渡河を命じました。

北条義時から、御局(おつぼね)という駿馬を賜って大ハリキリの信綱は、先陣を切って進み、中洲に着く手前で、
「近江の住人、佐々木四郎左衛門尉源信綱(ささきしろうさえもんのじょうみなもとののぶつな)、今日の宇治河の先陣也(うじがわのせんじんなり)
と高らかに名乗りを挙げ、続く芝田兼義も中洲に上がって名乗りを挙げると、岸の鎌倉武士たちが一斉に川へ突入・・・京方は、そこに矢を放って防戦します。

さすがの鎌倉武士も、戦う前に川に流される者や矢に射抜かれる者が続出し、見かねた北条泰時は、息子の北条時氏(ときうじ=泰時の長男)を呼び寄せ、
「命捨てる覚悟で、とにかく対岸に渡って、敵の陣中に入れ!」
と命じます。

「承知!」
と、北条時氏が主従わずか6騎で、続く三浦泰村も5騎にて、敵の攻撃をかいくぐりつつ、何とか対岸にたどり着いた頃には、一旦中洲に上陸していた佐々木信綱も対岸に到着。。。

芝田兼義は馬を射られて少し流されたものの、得意の泳ぎで何とか踏ん張り、彼らに続くように上陸し、皆、そのまま流れるように敵陣に・・・

そんな中、尾藤景綱(びとうかげつな=北条得宗家被官)らが、近隣の民家を壊して筏を造り、北条泰時や足利義氏らが、それに乗って川を渡り始めます。

もちろん、この間も、ある者は溺れ、ある者は討たれながらも、鎌倉武士たちは、どんどん川を渡って行くわけで・・・

北条泰時の「川を渡らねば…!」の予想通り・・・川を渡ってさえしまえば、当然、もともとの数が多い幕府方が優勢になっていく。。。

やがて形勢は逆転します。

防戦もせず逃げ出す者、何とか抗戦するも力尽きる者・・・京方の姿が戦場から消えていきました。

その頃には瀬田で戦っていた北条時房率いる幕府軍も優勢となっており、淀や芋洗の毛利光季や三浦義村も敵を撃破・・・夜にはほとんどの京方の面々が京都へと逃げ帰った事で、

この日の戦いは幕府方の勝利となり、北条泰時は深草(ふかくさ=京都市伏見区)に陣を敷き、いよいよ明日、入京する事を皆々に伝えたのでした。

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宇治橋

一方、次々と帰京する京方の面々・・・14日の夜半、藤原秀康三浦胤義、山田重忠らが、後鳥羽上皇のおわす院御所の門前までやって来て、瀬田や宇治での敗戦を報告するとともに、
「我らは、御所に籠って敵勢を待ち受け、力の限り戦う様をお見せして、皆で討死する覚悟ですよって、門を開けてください!」
と奏上しますが、

後鳥羽上皇の返答は、
「君らが、ここに立て籠もったら、鎌倉武士がここを包囲して、(自分=後鳥羽上皇に)攻撃して来る事になるやん。そんなん困るわ~」

そして
「只今(ただいま)ハ トクトク何(いず)クヘモ引退(ひきしりぞ)ケ」
(こうなったら、どこへなりとも立ち去りなはれ)
と言い、門を開ける事も無かったとか・・・

後鳥羽上皇の態度に、驚き呆れた三浦胤義が、
「どうせなら、淀から入京して来る兄=三浦義村に思いの丈をぶつけて、その手にかかろう」
と覚悟して、東寺(とうじ=京都市南区九条町)に立て籠もっていたところ、

果たして翌朝、見慣れた「黄紫紅(きむらごう=三浦氏の三引両の紋章)」の旗を見つけた胤義・・・馬で以って駆け寄り、
「俺が謀反を起こしたんは、従兄弟の和田義盛(わだよしもり)を滅ぼすような北条義時と、根っからの友達やった兄ちゃんが嫌いやったからや!
そんな兄ちゃんに、京方へのお誘いの手紙書いた事は、一生の不覚やったわ!」
(【和田義盛の乱】参照>>)

その様子を見た三浦義村は
「無益なり」
と、弟と戦う事を避けて西へと退いたため、

やむなく胤義は、残った三浦配下の者たちと一戦交えた後、洛西へと落ちて行き、息子とともに自害したと言います。

また、やはり入京して来た幕府軍と最後まで戦おうと留まっていた山田重忠ら京方の勇士たちも、それぞれ一戦交えた後、ある者は嵯峨(さが=京都市右京区)方面へ、ある者は大江山(おおえやま=京都府福知山市と宮津市)へと落ち、それぞれ、そこで果てたとされます。

また、追討使(ついとうし=京方の総大将)に任命されていた藤原秀康は、後鳥羽上皇が「義時朝臣追討の宣旨(皇室の命令書)」を撤回して、今回の事は、
「謀臣(ぼうしん=逆心を持つ家臣)による企みで起こった」
として、逆に、「秀康逮捕の院宣」を出した事により、奈良(なら=奈良県)に潜伏していた所を、10月に捕縛され、息子の秀澄とともに斬られたという事です。

こうして承久の乱は、終焉を迎えたのです。

このあと、六波羅探題(ろくはらたんだい)の誕生など、戦後処理についてお話したいところですが、それは、6月23日の【承久の乱終結~戦後処理と六波羅探題のはじまり】>>でどうぞm(_ _)m

…にしても、今回、「謀臣による企み」として、すべての罪を部下になすりつけた感のある後鳥羽上皇ですが・・・

もちろん、上皇個人の責任逃れ的な部分は多少あったかも知れませんが、これは鎌倉幕府にとっても「良き落としどころ」であっような気がしてます。

罪に問われた方々はお気の毒ではありますが、もし後鳥羽上皇が「何が何でも自分の責任…自分が全部やった」と言い続けた場合、鎌倉幕府は天皇家自体を倒さない限り、ずっと朝敵であり謀反人なのかも知れないわけで・・・「なら、どうする?」って、もう、さらに悲惨な結果しか見えません。

それを考えると、ここでこうして終結するのが、1番良かったのかも知れません。
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