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2022年7月13日 (水)

承久の乱へ~後鳥羽上皇をその気にさせた?源頼茂事件

 

建保七年(1219年)7月13日、後鳥羽上皇の命で動いた在京武士の襲撃を受けた源頼茂が、仁寿殿に火をかけて自害しました。

・・・・・・・

鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の奧さん=北条政子(ほうじょうまさこ)の実家である北条氏(ほうじょうし)執権(しっけん)という役どころについて将軍をサポートする形で力をつけて来た中、第3代将軍=源実朝(さねとも=頼朝と政子の次男)の時代に、数少ない北条氏の対抗馬である和田義盛(わだよしもり)を倒した(5月3日参照>>)事で、軍事と政務の両方を手にした2代目執権=北条義時(よしとき=政子の弟)。。。

そんな時、未だ子供のいない実朝の後継者として治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)皇子を鎌倉に迎えて将軍職を継いでもらう親王将軍(しんのうしょうぐん)の話が持ち上がりますが(2月4日参照>>)

建保七年(承久元年・1219年)も明けたばかりの1月に、後鳥羽上皇からの信頼篤かった実朝が暗殺(1月27日参照>>)された事で、その予定が狂い始めたものの(2月11日参照>>)、何とか、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を出す家柄)九条道家(くじょうみちいえ)の若君を鎌倉に迎える摂家将軍(せっけしょうぐん)という事で折り合いをつけて双方同意・・・(3月9日参照>>)

今後の展開を見る限りでは、この時の後鳥羽上皇にはなかなかの不満が残ったようですが、とりあえず表面的には波風立てず・・・

やがて、若君の三寅(みとら=当時2歳)クンが、北条時房(ときふさ=政子&義時の末弟)三浦義村(みうらよしむら=有力御家人)らに付き添われて京都を出発したのは、実朝暗殺から約半年後の6月25日の事でした。

しかし、それからわずか半月後の建保七年(1219年)7月13日、彼らが去った京都で事件が起こります。

朝廷にて、右馬権頭(うまごんのかみ)を務めていた源頼茂(みなもとのよりもち)が、在京の武士たちの襲撃を受けて自害したのです。 

源頼茂は、かつて以仁王(もちひとおう=第77代・後白河天皇の皇子)(4月9日参照>>)とともに、平家打倒を掲げていち早く挙兵して散った源頼政(よりまさ)(5月26日参照>>)にあたる人物で、

右馬権頭とは、
もともとの名前的には朝廷が保有する馬の管理をする右馬寮(うめりょう)の長官の事ですが、平安後期&鎌倉初期には皇居を守る武官であり、治安維持を担う警察的な要素もあり、そのトップ=頭の座は、後に将軍となる人が通る道(かつては実朝も左馬寮御監になってます)で、なんなら副将軍的な見方もできる武士憧れの役職だったのです。

ところが、鎌倉幕府と朝廷を仲介する立場にあった、そんな源頼茂を在京の武士たちが、大内裏(だいだいり=宮城)に攻めたのです。

Dairiminamotonoyorimoti ←大内裏の図
(クリックで大きく

襲撃を察知したその時、昭陽舎(しょうようしゃ)にいた源頼茂は、諸門を閉じて、正面の承明門(しょうめいもん)だけを開いて迎撃せんと挑みましたが、最後は仁寿殿(じんじゅでん)に追いつめられて、そこに火をかけて自害しました。

その火は仁寿殿だけでなく、宜陽殿(ぎようでん)校書殿(きょうしょでん)へ燃え移り、所蔵されていた仏像や応神天皇御輿(天皇の車)、大嘗祭などの装束などの宝物の数々を焼き尽くしたのです。

平安京の大内裏は、平安の時代には度々の火災に見舞われたため、いつしか天皇や皇子たちは、それぞれ、里内裏(さとだいり)と呼ばれる、いわゆる別荘で暮らすようになっていて、この鎌倉時代には、天皇が日常的に大内裏で暮らす事は無かったものの、儀式の時などは立派な殿舎で行われ、政務も行うにも充分に使用可能でした。

むしろ、日常生活がされないぶん、ここ100年以上は火災もなく平穏に・・・なのに今回、それが兵火によって殿舎が焼け落ちてしまったのは、前代未聞の出来事でした。

ところで、今回の「在京の武士」という人たち・・・彼らの内わけは、おおまかに、「在京の御家人」「京武者」の2種類に分かれます。

在京御家人というのは、鎌倉幕府の御家人のうち京都に派遣されて、都で何らかの役職をこなしている人で、都にて事が起これば、鎌倉殿の命を受けて任務を遂行する・・・ただ、今のところ朝廷と幕府の間にギクシャク感は表に出てないので、この時点では幕府と朝廷の両方に属してるような感じです。

一方の京武者というのは、いわゆる北面の武士西面の武士と呼ばれる人たちで、一部、西国出身の幕府御家人も含まれるものの、そんな御家人に比べると未だ個々には弱小な後鳥羽上皇おかかえの武士たちも多くいて、御所の北面や西面などの警固につきつつ、後鳥羽上皇自身が組織し育成していた武士たちでした。

ご存知のように、御所を守る北面の武士は平安時代からありましたが(11月26日参照>>)西面の武士は後鳥羽上皇が作ったとされています。

それは、この10年前くらいに起こった北条時政(ときまさ=政子と義時の父)と、その後妻の牧の方(まきのかた)の事件・・・時政が牧の方の進言により、現将軍の源実朝を廃して、牧の方の連れ子(娘)の夫である平賀朝雅(ひらがともまさ)新将軍に擁立しようとした事件で、結局、計画は未遂に終わったものの(1月6日参照>>)

この時、当の娘婿=平賀朝雅は京都勤務・・・

つまり義父と義母の事は東国で処理され、娘婿は京都にて…ってなった時、在京の御家人たちは鎌倉の命を受けて平賀朝雅の追討に当たったわけです。

その状況を目の当たりにした後鳥羽上皇・・・この時、普段は御所を警備している=朝廷を守ってくれている武士たちは「鎌倉の命で動くのだ」という事を思い知らされたのではないでしょうか?

もちろん、人の心の内はわかりませんから、あくまで憶測ですが、実際に後鳥羽上皇が北面の武士に加えて、西面の武士を創設したのがこの頃で、やはり、自らの命で動く武力集団が欲しかったのでは?と考えられますね~

ところが…です。

今回の源頼茂謀反事件・・・源頼茂を追い込んだのは京武者と在京御家人の両方を含む在京武士だった。。。

しかも、それは後鳥羽上皇の院宣(いんぜん=上皇の発する命令書)を受けての事だったのです。

それは・・・
『吾妻鏡(あづまかがみ=幕府公式記録)では「後鳥羽上皇の意に背いたため」とされ、
『愚管抄(ぐかんしょう=同時代の僧=慈円の記した歴史解説書)『保暦間記(ほうりゃくかんき=南北朝時代に成立した歴史書)では「後鳥羽上皇の近臣である藤原忠綱(ふじわらのただつな)が、自らが養育係だった九条基家もといえ=九条道家の異母弟)を次期将軍に擁立しようと企んでいて、源頼茂が彼らに通じていたため」あるいは「源頼茂自らが次期将軍になろうと企てたため」などとされ、

上記の史料を統合すると、
「大内ニ候シヲ 謀反ノ心ヲコシ 在京ノ武士ドモ申テ」
(大内裏仕えていたのに謀反の心を起こしたと在京の武士が訴えた)
この訴え↑を受けた後鳥羽上皇が、源頼茂を召喚したものの、彼がそれに応じなかった事から上皇が追討の院宣を発した…というのが事件の流れのようです。

しかし、実際には、なぜに?後鳥羽上皇が突如として『源頼茂追討』の宣旨を出したのか?、明確な理由は、よくわかっていないのです。

一説には、後鳥羽上皇自身が、「実朝の後継者には源頼茂」と考えていて、頼茂本人もその気になっていたいたところ、冒頭に書いた通り、幕府との話し合いにより、九条道家の若君の三寅に決定してしまったために、口封じのために源頼茂を襲撃させた・・・なんて話もあったりしますが、

一応、現段階では、おそらくは先の牧の方の事件や、れ以前の御家人たちのゴタゴタ(↓参照)
 ●梶原景時の乱>>
 ●比企能員の乱>>
 ●2代将軍・源頼家の暗殺>>
 ●畠山重忠の二俣川の戦い>>
 ●阿野時元の謀反>>
のような、幕府御家人同士のモメ事だったのだろうというのが、一般的な見解となっているようです。

とまぁ、上記の通り、その原因に関しては曖昧なのですが、この事件の最大の関心事は、原因ではなく結果・・・

おそらくは、これまでもあったであろう
幕府御家人同士のモメ事に、
後鳥羽上皇が院宣を出し、
その院宣に従って在京武士たちが一丸となって動いた
というところにあるのです。

そう・・・冒頭に書いた通り、この事件が起こったのは、北条時房や三浦義村といった幕府首脳陣が、新将軍とともに鎌倉に向かっている最中・・・

新将軍の三寅クンたちが鎌倉に到着するのは7月19日の事で、この事件の一報が鎌倉に届くのは7月25日の事。 

この事件を鎌倉に知らせた京都守護伊賀光季(いがみつすえ=幕府が派遣した在京御家人)も、使者に託したその手紙の中で
「新将軍の下向中だったので飛脚を派遣するのを控えた」
と言っています。

つまり、
「幕府御家人同士のモメ事を関東の命を受けずに後鳥羽上皇が処理した」
しかも「それに在京武士たちが従った」
という事になるわけです。

もちろん、これまでに後鳥羽上皇が自らの命で在京武士たちを動かした事が無かったわけではありません。

しかし、それは寺社の強訴(ごうそ=僧や神官が神仏の威をかざして力づくで強引に訴える事)への対策や都の治安維持に関する事であり、今回のとは、ちと色が違う・・・

なので後鳥羽上皇は、今回の事で、
自らの命で在京武士が動く事を実感し、この先、彼らを、鎌倉とは一線を画す存在としてウマく育て上げ、時を見て幕府内の対立を生じさせたなら・・・

「コレ…ひょっとしてイケるんじゃネ?」
と思ったのかも。。。

てな事で、今回の『源頼茂事件』は、後鳥羽上皇を、幕府との関係において「妥協から敵対へと導いた事件」とも言われ、2年後に勃発する承久の乱(5月15日参照>>)へ向かうキッカケの一つとも考えられています。

とは言え、さすがに大内裏の一部が焼失した事には、後鳥羽上皇もショックだったようで、この後、1ヶ月ほど寝込んだそうですが、

体調が快復した秋ごろからは、幕府とのギクシャク感は、一旦、棚の上に上げてチャンスを待つとして、まずは大内裏の再建に取り組む事になります。
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鎌倉時代」カテゴリの記事

コメント

こんにちは、
とても勉強になります。
後鳥羽上皇の真意が気になりますが・・
今後の鎌倉殿が楽しみです。

投稿: 賀茂左近 | 2022年7月13日 (水) 10時11分

賀茂左近さん、こんばんは~

主人公には、あまり関わりないですが、後鳥羽上皇に関わる事なので、ドラマでもやってほしいですね。
楽しみです。

投稿: 茶々 | 2022年7月14日 (木) 05時29分

茶々様
こんばんは

そうなんですね、そういう事があって後鳥羽さんは自信を持ったのですね。でも勘違いやったのかも知れませんね。
尾上松也の後鳥羽さんはクセが強そうだわ。後鳥羽さんは相撲や水泳もするらしいし。

北条も比企も、嫁の方が恐そう。
頼家の嫁と側室の言い合いも面白いし。でも現実に顔を合わせる事はないでしょ。
政子の妹は旦那見捨てて他の男に興味持ってるし。
そろそろ梶原影時が追放されそうやし、面白くなりそう。

投稿: 浅井お市 | 2022年7月20日 (水) 02時36分

浅井お市さん、お早うございます。

実際の後鳥羽さんも文武両道だったみたいですね。
大河はいよいよ本番で、楽しみです。

投稿: 茶々 | 2022年7月20日 (水) 06時23分

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