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2022年8月24日 (水)

遠藤盛数VS東常慶の東殿山城の戦い~城下町・郡上八幡誕生物語

 

永禄二年(1559年)8月24日、遠藤盛数が東常慶を攻めた兄の弔い合戦である東殿山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・

本日の主役=東常慶(とうつねよし)は、今年の大河ドラマ「鎌倉殿13人」で、お爺ちゃんチームの一人として活躍の千葉常胤(ちばつねたね=岡本信人さんの役です)の子孫で、元の領地の下総(しもうさ=千葉)から美濃(みの=岐阜県南部)へと移り住んだ分家の血筋

この戦国時代は、篠脇城(しのわきじょう=岐阜県郡上市大和町牧)を拠点に、美濃の郡上(ぐじょう=岐阜県郡上市&下呂市)一帯を治める武将で、かつて、斎藤妙椿(さいとうみょうちん)から和歌で領地を取り戻した逸話(5月12日参照>>)が有名な風流人=東常緑(つねより)にあたります。

ここのところは、新たに東殿山城(とうどやまじょう=岐阜県郡上市八幡町・赤谷山城とも)を築き、篠脇城から本拠を移して、軍事の立て直しを図っておりました。

一方、もう一人の主役である遠藤盛数(えんどうもりかず)遠藤氏は、木越城(きごえじょう=岐阜県郡上市大和町島倉通)を拠点にした東氏の重臣で、千葉から引っ越して来た時からの古参でした。

常に一心同体の間柄の両者は、東氏に抵抗して来た和田一族を滅ぼしたり越前(えちぜん=福井県東部)から南下して来た朝倉孝景(あさくらたかかげ)撃退するなど(9月3日参照>>)度々、見事なタッグを組んで戦国を乗り切って来ていたのです。

しかも、遠藤盛数の奧さんは東常慶の娘=つまり東常慶にとって、遠藤盛数は頼もしい娘婿でもあったわけです。

ちなみに、この遠藤盛数の娘が、あの内助の功で有名山内一豊(やまうちかずとよ)の妻=見性院(けんしょういん)さん(12月4日参照>>)だとも言われています(諸説あり)

とは言え、東常慶には、一つ困った事が・・・それは、自身の息子である常堯(つねたけ)の事。。。

実は、息子の常堯は、その気性が荒く粗暴で、近所でも評判最悪のダメ息子だったのです。

なので、東常慶は遠藤盛数を婿養子として東家に迎え、自身の後継ぎとしようと考えていたとか・・・(一説には、すでに弘治年間(1555年~1558年)に家督を譲っていた話も…)

しかし、そんなボンクラ息子でも、年頃になれば
「身を固めてほしい」
と思うのが親の常・・・

なんせ、この令和と違って
「結婚だけが幸せじゃ無いのよ」
「独身貴族しか勝たん!」
「結婚しても子供は欲しくないかも…」
てな多様な人生観は無い時代ですから・・・

そこで東常慶は、遠藤盛数の兄である遠藤胤縁(たねより)の娘が、ちょうど良いお年頃なので、
「息子の嫁に来てチョーダイ」
と胤縁に打診します。

ところが胤縁は、
「あんなDV案件のボンクラに、ウチの可愛い娘をやれるかい!」
と、一蹴し、

「ボヤボヤして押し切られたらヤバイ」
とばかりに、そそくさと娘を、畑佐備後守(はたさびんごのかみ)の息子=六郎右衛門(ろくろうえもん)に嫁がせたのです。

これに
「面目を潰された!」
と激怒する東常慶。。。

永禄二年(1559年)8月1日に、遠藤胤縁を東殿山城に誘い出し、登城して来た彼を、家臣に命じて鉄砲で射殺してしまいます。

この一報を聞いた遠藤盛数・・・ここ最近は、郡上の南端に刈安城 (かりやすじょう=岐阜県郡上市美並町白山)を構築し、
「なんなら東氏に取って代わってやる」
てな野望も湧き始めていた盛数は、

早速、亡き兄の長男である遠藤胤俊(たねとし)を伴って、兄の弔い合戦に挑みます。

Guzyouhatimantoudoyamazyou 東殿山城の戦い・位置関係図→
クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

8月14日、味方を募って出陣した遠藤盛数らは、東殿山城から吉田川(よしだがわ)を挟んだ八幡山山頂に布陣し、ここから東殿山城に向けて、連日の攻撃を仕掛けます。

この時、和良村(わらむら=現在の岐阜県郡上市和良町付近) や気良郷(けらごう=現在の岐阜県郡上市明宝気良付近)など、一部の郷士は東常慶&常堯父子に味方しましたが、粥川氏(かゆかわし)餌取氏(えどり氏)をはじめとする、それ以外のほとんどの郡上の諸士は遠藤盛数側に味方・・・

なんなら飛騨(ひだ=岐阜県北部)から姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=斎藤道三の娘婿・三木頼綱)も援軍に駆け付けた…とかで、数的には遠藤勢が、かなり優勢な状況でした。

とは言え東殿山城は険しい場所に建つ要害で、数の差のワリには、なかなかな苦戦を強いられ、小競り合いが何日も続きます。

かくして、出陣から10日が経った永禄二年(1559年)8月24日、業を煮やした遠藤盛数は、この日に決着をつけるべく総攻撃を仕掛け、力攻めの末、東殿山城を攻略したのです。

東常慶は、合戦中に討死・・・息子の常堯は、妻の父親(…って、結婚しとんのかい!)である帰雲城(かえりくもじょう=岐阜県大野郡白川村)内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)を頼って飛騨へと逃走しますが、

その後、天正十三年(1586年)11月29日の天正大地震の際に崩れた帰雲城の下敷きになって亡くなったと言います。

一方、勝利した遠藤盛数は、戦勝の記念の地である陣地=八幡山の山上に城を築きます。

ご存知!
この後、江戸時代を通じて城下町として栄える通称=郡上八幡(ぐじょうはちまん=岐阜県郡上市八幡町)のシンボルとなる八幡城(はちまんじょう)です。
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2022年8月17日 (水)

乱世の南部氏を支えた水先案内人~北信愛

 

慶長十八年(1613年)8月17日、戦国時代から江戸初期にかけて、南部氏4代に仕えた功臣=北信愛が、この世を去りました。

・・・・・・・

北信愛(きたのぶちか)は、
清和源氏の流れを汲む陸奥(むつ=福島県・宮城県・岩手県・青森県)の戦国武将である南部氏(なんぶし)の24代当主の南部晴政(なんぶはるまさ)から4代に渡って仕えた功臣です。

信愛の父である北致愛(むねちか)は、21代当主の南部信義(のぶよし)の嫡男として生まれますが、誕生の直前に父が亡くなり、その弟である南部政康(まさやす)が22代当主となった事から、致愛は母方の北氏を継いで、その一門として南部氏を支えて行く立場となったとされ、

その息子である北信愛も、父の後を継いで南部氏の重臣として剣吉城(けんよしじょう=青森県三戸郡南部町・剣吉館とも)にて腕を奮う事になります。

そんな中、24代当主となっていた南部晴政には、一つの悩みが・・・

実は晴政・・・すでに3人の女の子はもうけているものの、50歳近くになっても男の子が誕生していなかったのです。

Nanbukeizu 南部氏系図→

そこで晴政さん、
永禄八年(1565年)頃に、叔父の石川高信(いしかわたかのぶ)の息子である南部信直(なんぶのぶなお)自身の長女と結婚させて養子とし、信直を後継者と定めたのです。

ところが、元亀元年(1570年)になって、嫡男=晴継(はるつぐ=晴政の嫡男・25代当主)が誕生・・・そうなると実子に継がせたくなるのが親の常。。。

実は、この翌年の元亀二年(1571年)に、津軽為信(つがるためのぶ=南部一族の説あり)石川城(いしかわじょう=青森県弘前市)を攻めて城主の石川高信を自害(生存説あり)させ、津軽地方(青森県西部)を切り取るという一件が勃発するのですが、これには、信直をうっとぉしく思い始めた晴政がウラで糸を引いていたとの噂も・・・

いや、少なくとも信直は、そう感じていたようで、天正四年(1576年)に晴政長女の奥さんが亡くなってからは、晴政との養子縁組を返上したうえに南部氏の居城である三戸城(さんのへじょう=青森県三戸郡三戸町)を出て、田子館(たっこだて=青森県三戸郡田子町)引き籠っていたのだとか・・・

そんなこんなの天正十年(1582年)、その南部晴政と、上記の経緯から後継者に定められていた南部晴継が相次いで亡くなっってしまうのです。

コレ・・・ちょっと怪しい。。。

なんせ、晴政さんの病死が天正十年(1582年)1月4日で、晴継の死がその20日後の1月24日。

ま、晴政は66歳なので、当時の平均寿命から見れば病死もアリかと思いますが、晴継は、わずか13歳・・・一応、死因は天然痘と記録されていますが、やっぱりあります、父の葬儀の帰り道に暴漢に襲われた=暗殺説

とは言え、噂は、あくまで噂・・・
で以って、ここで登場するのが、本日の主役=北信愛さん

Kitanobutika600ast なんせ、信直が養子として南部家に入ったあの時から、ず~っと一貫して信直推しで、なんなら実子推しの南部晴政との関係がギクシャクした頃もあった信愛ですから、

ここは一つ、対抗馬の晴政次女の婿殿である九戸実親(くのへさねちか)を推す声を押さえつけ、見事、信直を25代当主に擁立したのです。

こうして、何とか南部家内部のゴタゴタに終止符を打った北信愛・・・ここで、目を外に向けてみると、、、

お~っと、
天下を統べる勢いやった織田信長(おだのぶなが)が、殺られとるやないかい!(6月2日参照>>)

ほんで、織田家家臣同士による主導権争いで豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)が勝って(4月23日参照>>)織田信雄(おだのぶお・のぶかつ=信長の次男)も丸め込んどるやないかい!(11月16日参照>>)

てな事で、中央の情勢を読んだ北信愛は、天正十五年(1587年)、自らが、秀吉の盟友である加賀(かが=石川県南西部)前田利家(まえだとしいえ)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に訪ね、手土産とともに秀吉に臣従する旨を伝えます。

すでに前年の暮れに、太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長)に任じられ(12月19日参照>>)、豊臣の姓を賜り、九州をも平定(4月12日参照>>)した秀吉にとって、関東の北条(ほうじょう)と、その向こうにある東北は、今後の目標でもあるわけで・・・

そんな中で、仲良し前田クンに自ら使者としてやって来て忠誠を誓ってくれた北信愛の行動を大いに喜んだ秀吉は、主君の南部信直に向けて、今後の南部氏の領地についての安堵(あんど=所有権の保障)状を送ったと言います。

ただ、同時期、同じ東北から、いち早く秀吉の味方を表明したライバル=津軽為信(12月5日参照>>)にも、秀吉は所領安堵の約束してしまったので、そこのところは、北信愛にとっても、少しイラッとしたかも知れませんが、ここは安全第一で不満は漏らさず。。。

なんせ、この後に始まるのが、あの北条攻めの小田原征伐(おだわらせいばつ)(3月29日参照>>)からの奥州仕置(おうしゅうしおき=小田原攻めに参戦しなかった東北地方の武将の平定)なのですから・・・

ご存知のように、伊達政宗(だてまさむね)(6月5日参照>>)最上義光(もがみよしあき)(1月18日参照>>)など、はなから小田原征伐に参戦していた武将もいましたが、未だ秀吉の東北進出をヨシとしない武将もいて、

案の定、小田原城落城から4ヶ月ちょっとの天正十八年(1590年)11月、小田原に参陣せず領地の没収を言い渡された者たちの葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)が勃発します(11月24日参照>>)

その一揆に同調して挙兵したのが九戸政実(まさざね)・・・お名前でお察しの通り、南部晴政&晴継父子が亡くなった時の後継者争いで南部信直に敗れた九戸実親のお兄さんです。

九戸は、もともとは南部氏から枝分かれした同族で、先にも書いたように九戸実親は南部晴政の娘婿ですから、ほぼほぼ南部信直と条件は同じで、なんなら嫁が早くに亡くなってる信直より可能性は高かったはず・・・

で、兄の九戸政実としては、どうしても納得がいかず、今回のゴタゴタに紛れて挙兵し、南部信直を倒そうとしたわけです。

これを九戸の乱(くのへのらん)または九戸政実の乱(くのへまさざねのらん)と呼びます。

そこで北信愛は、自ら上洛して秀吉に謁見して援軍を要請・・・秀吉は葛西大崎一揆には伊達政宗を、九戸の乱には蒲生氏郷(がもううじさと)を総大将とした援軍を派遣して対処に当たらせました。

おかげで天正十九年(1591年)9月4日に九戸城(くのへじょう=岩手県二戸市福岡城ノ内)は開城となり、乱は終結・・・北信愛の水面下での政治工作が功を奏し、一門が起こした乱ながら南部家が処罰される事もありませんでした。

ただし、この九戸の乱で、北信愛は次男の北秀愛(ひでちか)を失います。

複数の説があるものの、一般的に、この合戦中に銃撃を受けたらしく、その傷がもと(悪化?)で慶長三年(1598年)に亡くなったとされています。

おそらく、その息子の死が影響したのか?、慶長四年(1599年)10月5日に主君の南部信直が亡くなった時、それをキッカケに、信愛は隠居を申し出るのですが、

信直の後を継いだ信直嫡男の南部利直(としなお=27代当主)がそれを許さず…強く説得した事から、剃髪はしたものの、花巻城(はなまきじょう=岩手県花巻市)城代として、引き続き、南部家の要職を務めます。

やがて訪れた慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い・・・

この時、当主の南部利直は、ほとんどの将兵を連れて、東北の関ヶ原と呼ばれるあの長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市)の戦い(慶長出羽合戦)(10月1日参照>>)に出張中でした。

この留守を狙って仕掛けて来たのが、かつての小田原征伐で秀吉の呼びかけに応じなかった事で罰せられた和賀義忠(わがよしただ)の息子=和賀忠親(ただちか)らをはじめとする奥州仕置され浪人たち・・・

一説には、この時の和賀忠親は、伊達政宗からの援助の確約を取り付けて、密かに旧領へ舞い戻り、反南部の意思を持つ農民などを集めて、花巻城襲撃のチャンスを狙っていたとか・・・

しかし、この時、その襲撃のお誘いを受けた中に柏山明助(かしやまあきすけ)なる人物が・・・

彼もまた、奥州仕置きでヤラれた葛西氏(かさいし)の家臣でしたが、むしろ今回は、この好機に南部家に恩を売り、そこで出世しようと考え、この情報を持って、留守を預かる北信愛のもとへ駆け込んだのです。

このころ、北信愛は、病を得て、すでに失明していましたが、すぐさま城下にかん口令を敷き、城下の住民を城に入れ、城内の各所の守備を固めました。

和賀忠親率いる軍団は一揆と化して城へと攻め寄せ、わずか20~30人の将兵しかいなかった花巻城は、二の丸三の丸を敵方に奪われながらも、北信愛は怯むことなく、城内の婦女子までもを動員して抵抗し、最終的に一揆を撃退するに至りました。(花巻城の夜討ち)

ちなみに、この時に長谷堂城の戦いに出張中だった当主の南部利直は、東軍=徳川家康(とくがわいえやす)側についた最上義光の後援として出陣してるので、同じ東軍である伊達政宗がチャチャを入れていた事になるわけで(政宗本人は現地に行ってないけど家臣の留守政景(るすまさかげ)が最上の後援で参戦中)(9月15日参照>>)・・・

この一件を知った利直は、すぐさま許可を得て兵とともに北信愛のもとへと戻り、ほどなく一揆そのものを鎮圧させています。

…で、ご存知のように、関ヶ原の戦いは東軍=徳川家康方の勝利となりますから、勝ち組に乗っかった南部家は、その後は、内政に力を入れ、居城である盛岡城(もりおかじょう=岩手県盛岡市)を中心とした城下町の整備を行う事になるのですが、

南部利直からの篤い信頼を受ける北信愛は、その都市計画にも参画しています。

やがて慶長十八年(1613年)8月17日、南部家4代に仕えた北信愛は、91歳で、返らぬ人となったのです。

思えば、その舵取りが最も難しい戦国最後の頃・・・ここで選択を間違えて散って行った戦国武将も数多くいる中で、北信愛は南部家という船を操って見事生き残らせた、まさに水先案内人のよう。。。

その遺言で、名跡の継承を望まなかった信愛の花巻領は、死後、主君の南部家に接収される事になりますが、その血脈は、長男の北愛一(ちかかず)をはじめとする4人の兄弟に受け継がれ、南部家の家臣として幕末まで続く事になります。
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2022年8月10日 (水)

武士による武士のための~北条泰時の御成敗式目

 

貞永元年(1232年)8月10日、時の執権・北条泰時が『御成敗式目』を制定しました。

・・・・・・・・・・

伊豆に流罪となっていた源頼朝(みなもとのよりとも)が、嫁=北条政子(ほうじょうまさこ)の実家を筆頭にした関東の武士たちをまとめて、平家を滅ぼして開いた初の武家政権=鎌倉幕府。。。

しかし、その頼朝が亡くなって(12月27日参照>>)後、2代目将軍となった源頼家(よりいえ=頼朝&政子の長男)は、その若さ故、少々おぼつかない所もあり、幕府創建に尽力した13人が将軍を補佐する合議制(4月12日参照>>)を採用し、幕府を運営する事になりますが、
(合議制の13人は…足立遠元安達盛長大江広元梶原景時中原親能二階堂行政八田知家比企能員北条時政北条義時三浦義澄三善康信和田義盛 =茶色は幕府御家人緑色は公家出身の文官取り消し線は実朝暗殺までに死去または失脚した人)

蓋を開ければ、疑心暗鬼の御家人同士の足の引っ張り合いや後継争いに終始し、そのドサクサで頼家も暗殺され(7月18日参照>>)、気がつけば、残っているのは父の後を継いで幕府執権(しっけん=政務の長)となっていた北条義時(よしとき=政子の弟)と京より下った文官2人のみ・・・

しかも、そんな中で、建保七年(承久元年・1219年)、第3代将軍に就任した源実朝(さねとも=頼朝&政子の次男)暗殺され(1月27日参照>>)、その後継者に摂関家から、わずか2歳の若君を鎌倉に迎える事となったため(3月9日参照>>)、このゴタゴタを朝廷復権のチャンスと見た(7月13日参照>>)治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)が、諸国の武士に向け、北条義時追討の命を発したのです。

これが承久の乱(5月15日参照>>)ですが、残念ながら後鳥羽上皇側の敗戦・・・後鳥羽上皇の思惑とは逆に、これまで西の朝廷と東の幕府と、事実上二頭政治のようになっていた形を、幕府一つに絞れたばかりか、より幕府御家人の結束も固まり、鎌倉幕府を盤石な物にしてしまったのです(6月23日参照>>)
(個々の出来事については【鎌倉時代の年表】>>からご覧ください)

やがて、その2年後に北条義時が亡くなり(6月13日参照>>)
その翌年には北条政子が亡くなり(7月11日参照>>)

Houzyouyasutoki500ast その間、おおむね平和な日々が続く中、父=義時の後を継いで幕府執権となった北条泰時(やすとき=義時の長男)は、

これまで、武士としての実践的な道理や、経験&先例に基づいて、言わば、その場その場で臨機応変に行われていた裁判を、武士政権としての法令=式目を制定して、様々なモメ事を、ちゃんとした法令で解決できるようにと考えます。

かくして貞永元年(1232年)8月10日、北条泰時は、一族の長老=北条時房(ときふさ=政子&義時の末弟)評定衆(ひょうじょうしゅう=幕府の政務機関に携わる人)らを交えて協議し、御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定したのです。

泰時は、六波羅探題(ろくはらたんだい=京都に設けた幕府の出先機関)として京都にいる北条重時(しげとき=泰時の弟・義時の三男)に宛てた手紙の中で、

「ちゃんと、あらかじめ定めてないと、良いか悪いかより強いか弱いかで判決が決まったり、先例を知らんふりして訴訟を起こす者もおるやろ。地位の高い低いに関わらず、どちらかを贔屓したりする事無く裁可できるように、くわしく記述して残す事にしたんです。

こうしてキッチリ決めとけば、字の読めない人でも、個人の判断で判決が変化するような事は無いでしょう。
京都の人で、反対意見のある人にも、この趣旨を伝えといてください」
と言うてます。

先日(7月24日)に放送された「鎌倉殿の13人」でも、誰かと誰かが土地の取り合いでモメて、それを解決するのに、
「コイツは知り合い」
「でも、コイツは親戚」
「政治に私情を挟むな!」
「よしみがある言うて肩持つな!」
てな感じで評議でモメてはりましたが、まさしく、あのシーンは、この御成敗式目誕生への伏線だと思いました(個人の感想です)

…で、その内容は・・・
51条もあるので、端的に、わかりやすさ優先でご紹介させていただきます。

  1. 神社を大切にして盛大に祭をやろう
  2. 坊さんはマジメに毎日お勤めしてね
  3. 守護の仕事は朝廷の警固と犯罪の取り締まり
  4. 重要な犯罪はしっかり調べて幕府に報告する事
  5. 地頭は年貢を荘園所有者にちゃんと渡す事(中抜き禁止)
  6. 朝廷の荘園や社寺が起こす裁判に幕府は関与せず
  7. 頼朝&政子さんから貰た領地の権利は保証するよ
  8. 頼朝さんが決めた御家人の土地は返さんでえぇよ
  9. 謀反は重罪やから処罰はその都度調べて決める
  10. 殺人は死刑か流罪で財産没収
  11. 謀反・殺人・山賊・海賊・夜討ち・強盗などは重罪なんで、夫の罪であっても妻の財産没収
  12. 悪口禁止。特に醜い誹謗中傷は流罪か入牢
  13. 暴力禁止。御家人は領地没収、御家人以外は入牢
  14. 代官の罪は事前に報告すれば任命者は無罪
  15. 偽造文書作ったら所領没収か流罪
  16. 承久の乱で没収された領地は後に無実が証明されれば返還する
  17. 御家人が父子で別れて戦った場合、それが父でも子でも幕府側についた者に恩賞を与え、朝廷側についた者を罰する
  18. 親から貰た土地の権利は男女平等
  19. 主人に忠実で財産や土地を与えられた家来が、主人の死後に豹変して遺族とモメた時は、家来が得た物を没収して遺族に渡す
  20. 財産の譲り状を与えた子供が先に亡くなった時は、親が自由に相続人を決めて良いよ
  21. 離婚原因が妻にある場合、妻は夫から財産もらえないけど、離婚原因が夫にある場合は財産は妻の物
  22. 後妻やその子供に追い出された前妻の子にも相続権あり
  23. 夫を亡くした妻が養子を得た場合、その子は実子同等に相続できる
  24. 夫を亡くした妻がソッコー再婚した時は亡き夫の財産相続する権利なし
  25. 御家人の婿になった公家は武士として生きてよね
  26. 御家人が一旦子供に与えた所領でも、気持ち変われば変更できる
  27. 御家人が相続決める前に死亡した場合は能力に応じて妻子に財産を分配する
  28. 嘘の訴訟を起こした者は領地没収か流罪
  29. 裁判の途中で裁判官変えるの禁止
  30. 被告が知り合いやからって忖度すんの禁止
  31. 裁判の不服申し立ては領地の3分の一を没収
  32. 地頭が盗賊や悪人を領地に匿うの禁止
  33. 強盗と放火は死刑
  34. 人妻と不倫した御家人は所領の半分没収か流罪
  35. 被告が裁判所からの呼び出しを3回無視したら原告だけで裁判するからな
  36. 自分に有利な境界線を主張して領地広げるの禁止
  37. 上皇や法皇や女院の荘園奪うの禁止
  38. 地頭が開発独立した者の土地を奪うの禁止
  39. 朝廷からの官位は幕府を介して決まる
  40. 坊さんも勝手に官位を貰うの禁止な
  41. 人身売買禁止。10年以上使われてない奴隷は自由になれる
  42. 逃亡した農民の妻子を拘束して財産奪うの禁止
  43. 他人の領地や年貢を奪った者は所領没収か流罪
  44. 裁判中は当事者以外は発言禁止
  45. 裁判の判決が出る前に免職するの禁止
  46. 国司交代の時は前任者に迷惑かけない事
  47. 実効支配してない土地を勝手に寄進するの禁止
  48. 御家人は先祖代々の土地は売ってええけど、恩賞で貰た土地は売ったらダメ
  49. 双方の書類が完璧な時は出廷なしの書類のみで判決下す
  50. 暴力事件の現場でどちらかに加勢するの禁止。現場検証のみOK
  51. 威力で以って犯人に自白迫るの禁止

と、まぁ、こんな感じですが、思てた以上に具体的。

この御成敗式目は、
まさに、武士による武士のための武士のルールですが、武士に限らず、朝廷や公家にも優れた法令として重宝され、その都度、必要に応じて追加や修正が成されたと言い、

この後の室町幕府「建武式目」参照>>)戦国時代の分国法「塵芥集」参照>>)にも影響を与え、江戸時代になっても「武家諸法度」、そして手習いの手本として重用されているところを見れば、やはり大した物です。

ちなみに、泰時さんの手紙にもありましたが、この時代の鎌倉武士のほとんどが、漢字を読めなかったらしいですが、この式目を理解していれば大丈夫でしょう。

泰時の志向に影響を与えたと思しき明恵(みょうえ)上人については1月19日のページで>>
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2022年8月 3日 (水)

家康家臣「岡崎衆」の活躍~蟹江七本槍

 

弘治元年(1555年)8月3日 、今川義元配下の岡崎衆が、織田方の蟹江城を落とた蟹江城の戦いがありました。

・・・・・・・・

蟹江城(かにえじょう=愛知県海部郡蟹江町)は、
事実上の鎌倉幕府最後の執権(実際にはあと3人?執権がいる)となる北条高時(ほうじょうたかとき)(5月22日参照>>)の息子で、幕府滅亡後に中先代の乱(なかせんだいのらん)(7月23日参照>>)を引き起こす北条時行(ときゆき)の孫だとされる北条時任(ときとう)が永享年間(1429年 ~1440年)に築いたと言います。

とは言え、蟹江城と言えば、
何と言っても、徳川家康(とくがわいえやす)豊臣秀吉(とよとみひでよし)唯一の直接対決となった小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市など)の戦い(11月16日参照>>)の舞台の一つ(6月15日参照>>)として有名ですが、

今回のお話は、それより30年ほど前の弘治元年(1555年)にあった蟹江城の攻防のお話です。

このころの徳川家康(幼名:竹千代→松平元康ですが、ややこしいので家康さんで統一します)は、今川の人質生活状態でした。

それは・・・
駿河&遠江(するが&とおとうみ=静岡県)今川尾張(おわり=愛知県西部)織田に挟まれつつ奮戦していた祖父の松平清康(まつだいらきよやす)森山崩れ(12月5日参照>>)で亡くなった後に、家督を継いだ息子の松平広忠(ひろただ=つまり家康の父)は、放浪の末に何とか岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)に復帰するも(8月27日参照>>)弱小ゆえに戦国の動乱では分が悪く、やむなく今川義元(いまがわよしもと)長男=家康を人質に出して、大大名の今川の後ろ盾を得る事に・・・

ところが、今川へ行くはずだった家康が、敵陣である織田信秀(おだのぶひで=信長の父)に奪われてしまう(8月2日参照>>)中、天文十八年(1549年)3月に広忠は殺害されてしまうのです(3月6日参照>>)

その9か月後に起こった今川VS織田の安祥城 (あんしょうじょう=愛知県安城市安城町)の戦いで、今川勢に生け捕りにされた織田信秀の息子=織田信広(のぶひろ=信長の兄)との人質交換によって(11月6日参照>>)家康は無事(って言って良いのかワカランがww)今川義元のもとで人質生活を送る事になっていたわけです。(←今ココ)

つまり、父の広忠が死んでしまった事で、松平の当主は家康であるものの、その家康は、現状人質状態なので、その家臣は、おのずと今川の配下として動くって事になってるわけで・・・

…で、今川配下の中で「岡崎衆」と呼ばれる家康の家臣たちは、このころは、今川が「いざ!戦い」となれば、1番危ない先手に配置され、討死する者も多かったわけですが、なんせ主君が人質なので、そこは我慢するしかありません。

そんなこんなの弘治元年(1555年)8月、今川義元は、その岡崎衆の松平親乗(ちかのり)を先鋒の将として、
「蟹江城を攻めよ!」
と命じたのです。

このころの蟹江城を守っていたのは、織田民部(みんぶ)なる武将・・・
ご承知の通り、この「民部」は役職名なので、織田某(織田家の誰か)という事になりますが、

このころの織田家は、天文二十年(1551年)に亡くなった信秀(3月3日参照>>)の後を、あの織田信長(のぶなが)が継いだものの、ここに来て、やっとこさ清州城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)乗っ取って、守護代(上司)だった清須織田家を倒したばかり・・・(4月20日参照>>)

まだ、尾張一国を統一してませんから、同じ織田家と言っても、信長との関係はどうなんでしょう?

後に民部大輔となって「織田民部と言えば…」となる信長の弟の織田信包(のぶかね)(7月17日参照>>)は、このころは、まだ13~14歳くらいだと思うので、おそらく信包ではないはず…と思うのですが・・・(詳しい事ご存知の方はご一報乞う)
(確かに、この前年、信長は今川方の村木城を攻め落としてはいるんですが>>)

とにもかくにも、こうして弘治元年(1555年)8月3日 、岡崎衆を先鋒とする今川軍が、織田方の蟹江城に攻め込んだのです。

戦闘は激しく、岡崎衆の中でも、最も先手となった松平親乗家人の松平新助(しんすけ)隼人(はやと)武井角左衛門(たけいかくざえもん)大橋新三郎(おおはししんざぶろう)河合才兵衛(かわいさいべえ)といった面々が、組み討ち&槍などで応戦するも討死・・・

敗戦の色濃くなる中、父の杉浦吉貞(すぎうらよしさだ)とともに参戦していた杉浦勝吉(かつよし)も、その身に槍を受け、 
「もはや!これまで」
と覚悟を決めますが、

そこに7人の勇士現れ
取って返し、敵に槍を突き立て…
「遂に城を攻め落とす
 尾張蟹江七本槍とは此七人の事」(『松平記』)

とまぁ、こうして、とうとう城を落とした・・・という事らしい。

一体全体、敗戦の色濃いのを7人で?どうやって?どうなった?
と、もっとくわしく話を聞きたいのはやまやまですが、
なんせ、史料が少ない・・・

とは言え、この時の岡崎衆の大活躍を、大いに喜んだ今川義元が、家康に自らの名にちなむ「元康」の諱(いみな)を与え、姪っ子(妹の娘)瀬名姫(せなひめ=築山殿)結婚させる事を決意したとの話もあるので、やはり、この日の蟹江城陥落に岡崎衆が活躍したという事でしょう。

ちなにみ、この「蟹江七本槍」とは、
Ookubotadayo600ast 大久保忠俊(おおくぼただとし)
大久保忠員(ただかず=忠俊の弟)
大久保忠世(ただよ=忠員の長男・徳川十六神将)
大久保忠佐(ただすけ=忠員の次男・徳川十六神将)
阿倍忠政(あべただまさ=忠俊&忠員の甥)
に、先ほどの
杉浦吉貞&勝吉父子の7人とされます。

ただし、『大成記』では、大久保忠佐の代わりに大久保忠勝(ただかつ=忠俊の息子)になってます。

また、
『寛政重修諸家譜』にも
「弘治元年尾張国蟹江城攻め 松平和泉守親乗に属し軍功励む」
という松平一党の記録もある事から、

詳細は不明なれど、今川の者として、家康配下の皆さまが勝利に貢献した事は確かでしょう。

・・・にしても、今回の七本槍って、全員、後に徳川譜代の家臣となって活躍する面々ですね~

このあと、
家康自身は、永禄元年(1558年)2月の寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の戦い初陣を飾り(2月5日参照>>)

一方の信長は、さらに2年後の永禄三年(1560年)5月に、あの桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市か豊明市)で今川義元を破り(2007年5月19日参照>>)、その桶狭間キッカケで家康は人質生活から解放される(2008年5月19日参照>>)事に・・・

思えば、あと5年・・・
主君の立場上、アブナイ場所ばっかり任されてた家康さんの配下の人たちの苦労は、この戦いから、あと5年で終わりを迎えるわけですね~

豊臣恩顧の茶々ではありますが、今日ばかりは
「もう少しの間やからガンバレ!」
って応援したくなります。。。
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