2019年12月30日 (月)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2019年総まとめ

 

いよいよ、2019年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 江戸時代初期に描かれたものの、全容がわからないために「幻」とも呼ばれる「盛安本源氏物語絵巻」のうち、ヒロインの一人である夕顔の死を描いた場面の図が、新たにフランスで見つかりました。
源氏物語絵巻で不幸な場面を描いたものは、極めて珍しいそうです。
  中城城跡14世紀前半に積まれたとみられる新たな城壁が見つかりました。
城壁は19世紀末以降に築かれた城壁の内側に積まれていて、城壁修理のために石積みの解体作業中に発見されました。
先中城按司の時代に築かれたとみられる物で、これまで中城城の築城は14世紀後半とされてきましたが、時期がさかのぼり、城の歴史が書き換わることになります。
2月 奈良市にある奈良大が、所蔵する木造四天王像から「行基大菩薩御作 菅原寺」と墨で記された銘文が見つかったと発表しました。
銘文は江戸時代に書かれた可能性があるものの、奈良時代の僧・行基(ぎょうき)が創建したとされる菅原寺(奈良市、喜光寺)で安置されていたという伝承を裏付ける銘文となります。
  江戸幕府最後の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が書いたとみられる書が、「広辞苑」の編者として知られる言語学者・新村出(しんむらいずる)の旧宅(京都市北区)で見つかりました。
書かれた時期は不明ですが、専門家は「劇的な人生を歩んだ慶喜の人物像を知る上でとても貴重な史料」との見解です。
3月 奈良県大和郡山市平城京南方遺跡右京域(西部分)で、京を碁盤目状に整備した都市区画「条坊」と同規格の道路跡が新たに見つかりました。
調査地は、京の南端とされる九条大路にあった正門「羅城門」跡付近(同市野垣内町)で、道路を拡幅した跡があったことから、羅城門やそこから延びる城壁「羅城」と一体的に再整備された可能性が高いとの事。
  豊臣秀吉(とよとみひでよし)が造成した大坂城の三ノ丸跡から、推定100坪ほどの屋敷跡が見つかりました。
石を基礎にして柱を立てた跡があり、一緒に見つかった瓦に刻まれた家紋から、秀吉臣下の大名・佐竹義宣(さたけよしのぶ)の屋敷である可能性が高いということです。
  豊臣秀吉が加藤清正(かとうきよまさ)朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかりました。
横125.5cm、縦21.5cmの朱印状には、「小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」という内容が記されているとの事。
同様の命令書が中国や九州の大名へ広く出された事は推測されていましたが、3月23日付の命令書の実物が発見されたのは初めてだそうです。
4月 四天王寺(大阪市天王寺区)にある亀形石造物は、酒船石遺跡(奈良県明日香村)で出土した亀形石造物と同じ7世紀に造られ、2つの水槽がつながる構造やサイズも同じだったことが分かりました。
酒船石遺跡の亀形石は硬くて加工しにくい石材ですが、四天王寺は軟らかい凝灰岩であることや、四天王寺のほうがより忠実に亀を表現していることから酒船石遺跡よりも古い可能性があるとの事。
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四天王寺の亀井堂(参照>>)
5月 「日本一の石橋群」で知られる大分県宇佐市院内町で新たに4基の石橋が見つかりました。
市道下の地下水路(暗きょ)などに埋もれていたもので、保存状態も良好とみられ、同町で確認された石橋はこれで計79基になりました。
  平安時代後期に勢力を伸ばした平家一門の屋敷の一部とみられる堀の跡などが京都市内の発掘現場で見つかりました。
この付近に平家が拠点を築いたことは記録に残っていましたが、実際に遺構が見つかるのは初めてだという事です。
6月 大坂夏の陣で焼失の後、徳川家が城跡を埋め立てて再建したため(1月23日参照>>)、現在は地中に埋まっている豊臣秀吉が築いた大坂城の本丸周辺の地盤をボーリング調査したところ、天守台北側の地表面と天守台の東西で石垣とみられる傾斜も確認しました。
専門家は「絵図で従来あるだろうと思われたものが確実に存在することを把握できた」としています。。
(姉妹サイト:豊臣大坂城の歴史散歩コース>>)
  戦国武将の三好長慶(みよしながよし)が居城とした飯盛城跡(大阪府大東市、四條畷市)広い範囲を覆う石垣が見つかりました。
発見された石垣約100ヶ所のうち約半数が、長慶が居城した時期に整備されたとみられ、これまでの「築城に石垣を用いる手法は織田信長が最初だ」とされていた歴史の常識が覆る事になりそうです。
7月 アゼルバイジャンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会が、日本が推薦していた「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)を世界文化遺産に登録することを決めました。
日本の世界文化遺産の登録は7年連続で19件目。世界自然遺産も含めた世界遺産は23件目となります。
(姉妹サイト:古市古墳群の歴史散歩コース>>)
  江戸時代前期に描かれた最古の鳥羽城絵図が発見されました。
天守や本丸御殿、石垣、お堀などが克明に記され、鳥羽城が「海の城」と呼ばれた当時の面影がうかがえる貴重な資料となりそうです。
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遠く(左奥)伊勢湾を望む鳥羽城跡
  奈良時代に都があった奈良市の「平城京跡」で、当時の権力者・長屋王(ながやおう)のものと同じ規模を持つ広大な宅地の跡が見つかりました。
専門家は「歴史書に出てくる有名な人物が住んでいた可能性がある」とみています。
8月 国内初の本格的な宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村「飛鳥京跡苑池(えんち)で南北二つの人工池のうち北池から、全長約11.5mに及ぶ石組みの溝と石敷きの遺構が見つかりました。
7世紀後半にわき水を流す流水施設として造られたとみられ、古墳時代から続く「水のまつり」の宮廷儀式を行っていた可能性が高まりました。
  豊臣秀吉から関白職を継承しながらも失脚して切腹したとされる養子の秀次(ひでつぐ)について(7月15日参照>>)死の約3ヶ月前の時点では、秀吉が秀次の息子を要衝である大和(奈良)の「国主」に取り立てる意向だったことを示す新史料が見つかりました。
秀吉は淀殿(よどどの)との間に実子の秀頼(ひでより)が誕生したことで関白秀次と不仲になったとする通説に一石を投じる内容だそうです。
9月 11世紀前半の平安時代の上流貴族の墓跡と墓前に置かれたとみられる石製の笠塔婆(かさとうば)が平安京の墓所「鳥部野(とりべの=京都市東山区)の一角で出土ししました。
笠塔婆は石製として最古とみられ「当時の埋葬の実態を明らかにする史料」と考えられます。
(平安京の墓所について…参照>>)
10月 奈良県橿原市四条町藤原京跡(12月6日参照>>)3棟の建物跡が見つかりました。
中枢部の藤原宮跡から西に2km以上離れた場所で大規模な建物跡が見つかったのは初めてで、貴族の邸宅だったとみられます。
  平安京の玄関口に建てられた官寺「西寺」跡(京都市南区)で、中心建物の講堂跡の基壇が見つかりました。
基壇は造営した平安時代前期の姿をとどめており、同じ時期に築かれた初期平安宮の建物や寺院の解明につながる重要な遺構だとか…
五重塔とみられる建物の跡も初めて見つかり、東寺と西寺の主要伽藍(がらん)が朱雀大路を軸に、左右対称の位置に配置されていた可能性がより高まりました。
(平安京について…参照>>)
11月 世界遺産・東大寺(奈良市)の東塔跡の発掘調査で奈良時代の東門の跡が初めて確認されました。
規模は東西約7.1m、南北約12.7mで、創建当時の全体の規模を知る手がかりになると期待されます。
  京都市右京区嵯峨遺跡から、14世紀中ごろの南北朝時代以降に創業したとみられる酒造りの遺構が出土しました。
天龍寺などの寺院が手がけた僧房酒(そうぼうしゅ)の関係遺構とみられています。
搾りから貯蔵までの工程がわかる遺構としては、これまでは延宝二年(1674年)の旧岡田家住宅(兵庫県伊丹市)が最古とされていたので、その歴史は約300年さかのぼる事になります。
12月 奈良時代に遣唐使として中国に渡り、帰国後に官僚として活躍した吉備真備(きびのまきび)(4月25日参照>>)が書いた可能性の高い『墓誌(ぼし=亡くなった人の伝記)中国で発見されました。
本当に真備の筆であるならば国内はもちろん世界で初めての物で古代東アジアの実像を知る貴重な史料になりそうです。

こうして見ると、今年も様々な新発見がありました。

個人的には、やはり、8月の
「秀次の死の3か月前にも秀吉が秀次を優遇しようとしていたと考えられる史料」の発見ですかね~

私としては、ドラマや小説で、いつも、信長さんや秀吉さんが悪く描かれている事に悲しい気持ちになります。
(来年の大河も光秀主役なら織豊二人は敵やしね~)

信長や秀吉が殺戮や非道を繰り返し、最後に家康が、それらを払拭するように平和な世にした?みたいな?

もちろん、家康さんも嫌いでは無いですし、戦乱の無い平和な300年時代を築いた功績は、日本の歴史上トップクラスの快挙であると認識しておりますが、そこに至るまでにあった何やかんやのアカン部分が無かったかのようになってるのがチョイとね~
(戦乱の無い平和な時代は、一旦、秀吉の時代にできちゃってますし…)

まぁ、「勝てば官軍」「歴史は勝者が書く物」なので仕方ないですが、信長や秀吉のやさしさが垣間見える史料が発見されると、やっぱウレシイです。

あと、伊丹市が「酒造りの元祖の地」みたいな感じで推してるのを、つい最近のテレビで見た気がするので、11月の京都での遺構発見は、ちょっとお気の毒な気が・・・でも、それこそ、新発見で常に歴史は変わっていくのですから・・・
 .

最後に…
今年のニュースとして、やはり真っ先に思い出すのが10月の首里城焼失ですね~

新発見ではなく悲しいニュースですが…何より、保管されていた貴重な宝物や資料が失われた事は、とても残念です。

奈良や京都の寺社に行くと、伽藍や社殿とは別の「宝物館」や「収蔵館」といった博物館仕様の建物に国宝や重要文化財が収められている事が多々ありますが、「そういう事やねんな~」と改めて痛感させられました。

私見で恐縮ですが…
寛文五年(1665年)に焼失した徳川時代の大阪城天守閣は、300年の時を越えて昭和の大阪市民の寄付により再建され(11月7日参照>>)、現在は法令上の「博物館相当施設」として運営されています。

期待を以って遠方から見物に来られた方々には、
「あんなん復元天守ちゃうやん!ただのコンクリートのビルやん」
とボロカスに言われる昭和の天守閣ですが、貴重な文化財を収め展示する以上、そのような仕様の建物にするのがベストではないか?と個人的には思います。
もちろん、それ以前に、そもそもの火の用心が最重要ですが…

・‥…━━━☆

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2019年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年=2020年はいよいよ東京オリンピックの年(麒麟もくるヨ~)・・・今後とも、よろしくお願いします
 .

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2018年12月30日 (日)

日本史の新発見&発掘…2018年総まとめ

 

いよいよ、2018年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

 

1月 奈良県奈良市春日大社にて、昭和14年(1939年)の宝庫解体修理の際に天井裏から発見された12本の刀剣を順次研磨していたところ、そのうちの1本が、日本刀の原型が成立した最初期である平安時代末期ごろに作られた「古伯耆物(こほうきもの)と呼ばれる最古級の日本刀と判明しました。
大社では、平安時代から続く武家に伝えられていたものが、南北朝~室町初期に奉納されたと推測しています。
4月 広島県立歴史博物館徳川家康(とくがわいえやす)が豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣&夏の陣(年表>>)の詳細な陣形を記録した最古級かつ最大級の陣図が見つかりました。
これまで、主戦場だった城外の部隊配置まで詳しく示された陣図は過去に例がなく、戦いの様子を知る重要な史料とみられています。
5月 邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(まきむくいせき=奈良県桜井市)大量に発掘された桃の種について、放射性炭素年代測定をした結果、西暦135~230年のものとみられることが判明しました。
これは248年ごろ没したとされる女王卑弥呼(ひみこ)が活動した時代と重なり、邪馬台国の位置をめぐる論争にも影響を与えそうだとの事。
  滋賀県草津市教育委員会が、草津市野路町の榊差遺跡(さかきさしいせき)で、国内最古となる奈良時代前半の獣脚の鋳型を発見した事を発表…獣脚は獣を模した釜や鍋を支える部分で、祭祀等で使用した物と考えられています。
6月 広島県福山市県立歴史博物館が、14世紀中頃の南北朝時代に描かれたとみられる本州から九州のほぼ全域が記された日本地図が見つかったと発表しました。
現存する最古の日本地図は京都・仁和寺(にんなじ)所蔵の「日本図」(1305年)とされるものの、これは西日本が欠けていて、全体が残った地図では今回の物が最古級…日本地図の変遷を辿るうえで貴重な品であると注目されています。
7月 江戸時代の弘前藩で活動していた忍者の物とみられる忍術書が見つかりました。
中には武器の説明や敵に狙われないための心得等が記されており、発見した青森大(青森市)清川繁人教授によれば「忍者部隊の存在は文献には残っていたが、今回の忍術書の発見によって、その活動が裏付けられた」との事。
  昨年、福井県小浜市内の発心寺で本堂改修工事中に発見された駕籠が、江戸幕府3代将軍=徳川家光(とくがわいえみつ)が乗っていた駕籠(かご)と確認されました。
徳川将軍家の駕籠はこれまでに3挺確認されていますが、完全な形で現存するのは唯一。 
福井県立若狭歴史博物館(小浜市)によれば、駕籠は幅86cm、奥行き118cm、高さ102.5cmの大型で、ヒノキから作った細いひもを編んだ物が全体に張り付けられた物で、つや出しに透明の漆が塗ってあるそう…現段階で将軍や大名クラスの乗り物は実物がほとんど確認されておらず、大変重要な資料だと注目されています。
  京都市東山区三十三間堂で、国宝の風神・雷神像と観音二十八部衆像の配置について、従来が創建時とは異なっていたことが分かったため、鎌倉期の絵像などを基に識者から意見を聞き、創建時の姿に近づけるため、84年ぶりに左右が入れ替わり、もとの位置に…堂内の中央にある千手観音坐像が本来南向きになっているとされ、坐像から見て左手に風神像が来るとの事。
8月 縁結びの御利益があるといわれる京都府の下鴨神社に奉納される絵馬について、見ず知らずの人が絵馬に書いた内容を面白がってSNSにアップする人が増えたため、それを阻止しようという神社の計らいで、絵馬の全面を覆う形の「個人情報保護シール」を提供…SNS社会となった現代の事情が見て取れます。
  京都のお盆の風物詩「五山の送り火」(参照>>)は、かつては今よりもっと多くの山で行われていたと言われていたものの、詳しい場所はわかっていませんでしたが、京都大学が、京都市内の山で送り火が行われていた可能性のある痕跡を見つけました。
江戸時代の絵図には現在の京都市左京区あたりに、今はない「い」の送り火が描かれており、その「い」の送り火が行われていたことを示唆する痕跡が見つかったようです。
9月 今年の9月5日に関西で猛威を振るった台風21号の影響で、屋根飾りがはがれた二条城(京都市中京区)二の丸御殿にて、剥脱箇所から徳川家の紋「三つ葉葵」の飾り跡が見つかりました。
屋根の板に凹凸が残り、紋は直径64cmで木製か銅製だったらしく、1603年の家康による築城時に取り付けた可能性大ですが、その後に皇室別邸となった明治期に外され、菊の紋など別の飾りで覆われたと思われます。
  兵庫県中央部の神河(かみかわ)で、飛鳥時代後半(7世紀後半)に創建されたとみられる寺院跡が見つかりました。
町教育委員会によれば、鎌倉時代に成立した仏教史書「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)などには、飛鳥時代に地元の豪族が、命を救ってくれた愛犬を弔った「播磨犬寺」を建てたとする伝承があり、この犬寺と関わる可能性が高いとみており、「伝説の舞台が遺跡でみつかった貴重なケース」との事です。
10月 Dscn1995a 京都市北区金閣寺(鹿苑寺)の発掘調査で金閣に面した鏡湖池南側にあったとされる「南池跡」について、創建した足利義満(あしかがよしみつ)が造成し、未完に終わった池だったことが分かり、同時期の礎石建物も近くで新たに見つかりました。
金閣寺や市埋蔵文化財研究所によれば「幻とされた南池跡の出土は、北山殿が現在の建物規模より大規模に造成されたことを裏付け、室町幕府最盛期を築いた権力者・義満の権勢を示すもの」という事です。
  江戸時代に来日し、その後国外追放になったドイツ人医師シーボルト(参照>>)に、日本人妻お滝が送った最も古い手紙がオランダ・ライデン大で見つかりました。
シーボルトへの深い愛が伝わる内容で、調査した西南学院大の宮崎克則教授は「欧州に送られた最も古い日本語のラブレター」としています。
これまでオランダ語訳の存在は知られていましたが、日本語原本の所在は不明だった中、ライデン大の大学院生が大学の日本関係資料の中で発見して宮崎教授が確認した物です。
  鎌倉・室町時代の遺跡として知られる大阪府高槻市上牧遺跡で、さらに古い古墳時代の集落跡が見つかりました。上牧遺跡は、1971年に発見され鎌倉・室町時代の遺跡とされていましたが、新名神高速道路の建設のため、去年、新たに発掘を始めたところ、3世紀~6世紀の古墳時代の建物や井戸の跡などが確認され、大阪府は「水陸交通の拠点だったこの地域を、300年以上支配した集団が存在したことがわかった」としています。
  日本初の本格的な宮廷庭園の跡とされる奈良県明日香村飛鳥京跡苑池(あすかきょうあとえんち)で、その大きさの全容が初めて明らかになりました。
池は南北に2つあり、今回は、北側の池の構造が初めて詳しく調査され、広さが約1500㎡で、水深は深いところで2mほどあったとみられ、岸の一部が石で階段状に作られて池に入って行ける構造になっていることがわかり、当時、水遊びに使われた可能性もあるということです。
一方、南側の池は北側よりも広いものの水深は30cmほどで、池の内側に島を作るなど北側とは全く構造が異なり、観賞用に作られたとみられています。
11月 滋賀県栗東市蜂屋蜂屋遺跡で新たに溝跡が見つかり、法隆寺の屋根に使われたのと同じ文様を持つ飛鳥時代後半(7世紀後半)の瓦などが大量に出土したと滋賀県文化財保護協会が発表しました。
会によれば、法隆寺と深い関係を持つ寺院が存在した可能性があるとの事。
  飛鳥時代に築かれた狭山池(大阪狭山市)でかつて発掘された水路用の巨石は、古墳時代の大王らを葬った石棺だった事が判明…府立狭山池博物館の西川寿勝学芸員さんによると、巨石の特徴をもとに製作時期を絞り込み、仏教伝来で知られる欽明天皇、聖徳太子(しょうとくたいし)の弟の来目(くめ)皇子らが埋葬者ではないか?とみています。
  織田信長(おだのぶなが)が築城したとされる愛知県小牧市小牧山城の発掘調査で、山頂の天守(主郭)近くに屋敷建物があったことを示す礎石が見つかりました。
同じ場所から天目茶わんや青磁の小わんなどの破片数点も出土し、天守近くに居宅などの城主の生活空間が設けられたのは、これまでは、1567年に信長が岐阜城に設けたのが初めてと考えられていましたが、これで岐阜城以前に築城された小牧山城が先という事になります。
12月 滋賀県長浜市小谷城跡で、浅井長政(あざいながまさ)と妻=お市(いち)の方が生活していたと伝えられる「御屋敷(おやしき)跡」から、建物の礎石を固定する「根石」や青磁皿の破片などが見つかりました。
御屋敷跡で建物の存在を示す遺構が発見されたのは初めてで「伝承通り2人が住んでいた屋敷だった可能性が高まった」との事です。
  滋賀県草津市野路(のじ)榊差(さかきざし)遺跡で、8世紀初頭(奈良時代前半)仏像の「光背(こうはい)」の土製鋳型(いがた)の破片が見つかりました。
現存する飛鳥~奈良時代の金銅仏で光背があるのは法隆寺の献納宝物「四十八体仏」などわずかで、それらを製作した鋳型がこれまでに確認されておらず、国内最古の鋳型の可能性があるという事です。

 

こうして見てみると、この1年も、様々な発見やニュースがありましたね~

 

絵馬に貼る個人情報保護シールなんかは「まさに、今どきやなぁ」って感じですが、個人的に気になるのは、やはり11月の信長の小牧山城ですかね。

 

この小牧山城(こまきやまじょう=愛知県小牧市)は、織田信長が美濃の斎藤氏を攻めるための拠点として建てた城です。

 

かの『信長公記』にも、永禄四年(1561年)5月の美濃の斎藤龍興(さいとうたつおき=道三の孫)との交戦=森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)&続く美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)等を終えてしばらく経った永禄六年(1563年)に、信長が
「んじゃ、小牧山に移るか~」
てな事をいきなり言い出したために、急遽、城を造ったような雰囲気で書かれてあったり、

 

その後、永禄十年(1567年)8月に龍興の居城である稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現在の岐阜城)が陥落した(8月15日参照>>)事によって、役目を終えるかのように廃城・・・つまり、結果的に、わずか4年間しか使用されなかった事から、

 

かつては、急造りの付城(つけじろ=攻撃の拠点として敵城の近くに築いた城)(とりで)のような物だったと考えられていました。

 

しかし、近年の発掘調査によって、しっかりとした三重の石垣に囲まれた立派な城であった事が明らかとなり、さらに、周囲には緻密な計算による町割にて、ちゃんとした城下町が形成されており、いわゆる、この先の信長&秀吉の時代に代表される「戦う山城」ではない「統治する山城」であった事がわかって来ています。
(お城の変革については【城の日】のページで>>

 

そういった城は、これまでは「岐阜城が最初」とされていましたが、どうやらコチラの小牧山の方が早いようで・・・まさに、お城の一大変化の最初の城だったのですね。

 

おそらく、これから先の発掘調査によって、また更なる発見がある事でしょう・・・期待が膨らみます。('-'。)(。'-')。ワクワク

 

・‥…━━━☆

 

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2018年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

 

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

 

そして、来年=2019年はいよいよ新元号誕生の年・・・今後とも、よろしくお願いします
 .

 

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

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2017年12月31日 (日)

日本史の新発見&発掘…2017年総まとめ

 

いよいよ、2017年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
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1月 坂本龍馬(さかもとりょうま)が京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(なかねせっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった高知県が発表…封紙には「坂本先生遭難(暗殺)直前ノ書状ニテ他見ヲ憚(はばか)ルモノ也」朱書きの付箋が貼られていて“トップシークレット”の扱いになっていた事がうかがえ、この付箋を、いつ誰が書いたのかが気になるところです。
3月 方墳の(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村小山田遺跡で、新たに石室への通路跡が見つかった県立橿原考古学研究所が発表しました…出土した瓦片などから640年頃の築造とみられ飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定。当時の最高権力者である舒明(じょめい)天皇か大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(そがのえみし)(参照>>)の墓ではないか?とみられています。
4月 米子城跡(米子市久米町)がある湊山で見つかった石垣が、豊臣秀吉(とよとみひでよし)朝鮮出兵=文禄・慶長の役(参照>>)に参加した武将らに広まった、全国5例目、中国地方では初の「登り石垣」である事が分かりました…出兵にも参加し、米子城の大部分を築城した吉川広家(きっかわひろいえ)(参照>>)が取り入れたと見られています。
5月 群馬県と長野県の境=碓氷峠(安中市松井田町峠)で、戦国時代末期のものとみられる城跡が見つかりました…天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐(参照>>)の際に、前田利家(まえだとしいえ)上杉景勝(うえすぎかげかつ)真田昌幸(さなだまさゆき)らによる連合軍=北国勢(参照>>)が、北条(ほうじょう)側の支城へと侵攻する足がかりのための陣地(陣城)として急造した可能性が高いと見られます。
6月 戦国時代のキリシタン大名=高山右近(たかやまうこん)(参照>>)が城主だった高槻城(たかつきじょう=高槻市城内町)の二の丸跡内堀から、右近が城主だった時代に拡張したとみられる堅牢なつくりの大堀や、これまで記録になかった木橋橋脚などが見つかりました…今後、城の築造過程や実態などを知る上で貴重な資料となりそうです。
坂本龍馬が兄=権平(ごんぺい)家族に宛てた手紙を新たに6枚発見…龍馬が慶応二年(1867年)12月4日に記した手紙の存在は写本で知られ、原本の一部も見つかっていたましたが、この6枚は初めて原本が確認されたそうです。
7月 兵庫県豊岡市出石町の旧家に、豊臣秀吉が側室の茶々(ちゃちゃ=淀殿)(参照>>)に宛てた手紙が残されていた事が判明…病気だった茶々を気遣う愛情溢れる内容の手紙で、数多く残る秀吉の手紙の中でも、茶々宛ては、これまで3通しか発見されていないとの事。
9月 奈良=興福寺の国宝=阿修羅像(あしゅらぞう)の3面ある顔のうち、下唇をかむ右側の顔が原型の段階では口を開き、やや穏やかな表情だったことが分かりました…九州国立博物館のCT撮影で判明した物で、完成前に修正されたとみられます。
兵庫県姫路市埋蔵文化財センターが姫路城の西の玄関口だった「備前門」の石垣跡が、同市魚町の地中で見つかったと発表しました…石垣の構造から江戸初期に造られた可能性が高いそうです。
江戸時代に日本各地で見られた巨大なオーロラは史上最大の磁気嵐が原因だったと、国立極地研究所の研究グループが米学術誌に発表しました…オーロラを詳しく記した日記が新たに京都で見つかった事から正確に分析&コンピュータで再現できたのだとか
本能寺の変(参照>>)織田信長(おだのぶなが)を討った明智光秀(あけちみつひで)が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかりました…変の直後の12日付けで、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)(参照>>)で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはししげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と光秀が通じているとの内容。本能寺の変に関する書状で光秀の直筆は、かなり珍しいそうです。
10月 兵庫県立歴史博物館(姫路市)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)家臣に宛てた自筆文書が見つかったと発表しました…「俸禄(ほうろく=給与)」をさらに下の家臣に与えるよう指示する内容で、時期は姫路城主だった頃の物とみられ「秀吉が下級家臣の少額の給与まで自筆で指示していたことがうかがえ、秀吉と家臣団との関係を考える上で興味深い」物との事。
11月 幕末の「禁門の変」で戦死した来嶋又兵衛(きじままたべえ)(参照>>)の、人柄などを表す資料山口県美祢市(みねし)で発見されました…見つかった資料は来嶋の日記や手紙など約50点で、資料からは来嶋が長州藩の財政や、江戸屋敷の運営などで力を発揮していたことや、家族思いだったことがうかがえるそうです。
北東北最大の戦国大名・三戸南部氏の居城跡「三戸城跡(城山公園)の発掘調査で、16世紀後半~17世紀初め頃の本丸に通じる正門「大御門(おおごもん)」の柱を建てた礎石7個が発見されました年代を示す建物跡の発見は初めてで、三戸南部氏関連の城館跡では、江戸時代の本城・盛岡城を除いて最大の大きさの門という事になり、来年度以降の調査で、大御門の築造年代をさらに絞り込んでいくとの事。
12月 奈良時代に造営された恭仁京(参照>>)の中心の恭仁宮跡(木津川市加茂町)の発掘調査で、高官が執務や儀式をした「朝堂院」の北端とみられる柱穴を発見…隣接する「大極殿院」の区画が柱穴の位置から推定され、「続日本紀(しょくにほんぎ)に聖武天皇の時代に平城宮(参照>>)の大極殿を移築して恭仁宮の大極殿が建てられたとの記録がある事から、建材だけでなく、形態も譲り受けたのではないかと考えられ、恭仁京も平城宮と同形態の可能性が高くなったとの事。
関ケ原の合戦の前哨戦「伏見城の戦い」(参照>>)で焼けたとみられる城の石垣が、京都市伏見区桃山町の集合住宅の建設に伴う調査で見つかりました…石垣はひび割れて赤く変色しており、かなりの高温で焼かれて崩れ落ちたとみられ、激しい攻防があった事が想像されます。

こうして見てみると、この1年、様々な発見があった事がわかりますが、個人的には、やはり本能寺の時の明智光秀の書状ですかね~

来年、年明けしょっぱなのブログ更新で、今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』についても感想など書かせていただくつもりでおりますので、ドラマの中の本能寺の変については、ソチラでお話しますが(感想は1月5日参照>>)、今回のドラマでの本能寺の描き方はなかなか斬新ではありました。

ドラマで描かれた「信長による家康暗殺説」(参照>>)をはじめ、一昨年(2015年参照>>)に発見された四国説(参照>>)を後押しする『石谷家文書』などなど・・・やはり、この本能寺の変は謎が謎よびますね~

で、
今回の光秀の書状には、「将軍=義昭の入洛については…」という内容がある事から、「光秀には反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想があったのではないか?」との見方がされています。

確かに、この手紙を書いた時点で、そのような構想を持っていた事は確かでしょうが、難しいのは、この書状の日付が、本能寺の10日後の12日だという事・・・

光秀が、事を起こす前=最初から、このような構想を持っていたのなら、まさに「室町幕府再興のために本能寺の変を起こした」事になるのでしょうが、ひょっとしたら、やっちゃった後で、思うように畿内が掌握できない事やら、意外に支持してくれる武将が少ない事やら、のアテ外れがあり、急きょ、皆が仰ぐような看板として義昭を引っ張り出し、自らの謀反を正当化しようとした可能性も無くはないわけで・・・

かと言って、「信長暗殺」なんで重要事項は秘密裏に準備を進めねばならず、事を起こす前に手紙を書いたり、ペラペラ周囲にしゃべっちゃったりなんて事はしてはならない・・・てのも一理。

たとえば・・・
「信長による家康暗殺説」を主張される方で、よく、『本城惣右衛門覚書』にある
「…我等ハ 其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ  いゑやすさまとばかり存候…」
「↑(中国方面に行くと思っていた明智軍が京都に向かったので)我々は家康を討ちに行くのだと思った」
という一文を挙げて、「皆が、家康を暗殺するんだと思っていた」=「信長による家康暗殺説はアリ」とおっしゃる方がいらっしゃいますが、これを書いた本城惣右衛門(ほんじよそうえもん)なる人は、野武士程度の雑兵だった人で、失礼ながら、この時点では、なかなかの下っ端・・・もし、そんな下っ端の面々までもが「光秀が信長の命で家康を暗殺しようとしている」事を知っていたなら、逆に、秘密ダダ漏れで、戦略としては終わってますから、
むしろ、この記述に関しては、その逆=「家康暗殺はなかった」を意味しているような気がしないでもない。

つまり、今回発見の「変の後には義昭帰京云々」は、トップシークレットだったからこそ、書状などという後に残る物には、事を起こした後でないと書けなかった可能性もあるわけで・・・

いやはや(*´v゚*)ゞ
書状が出て来たから、謎の解明に近づくと思いきや、よけいにドロ沼にはまらされるとは!!

ま、そこが楽しいんですけどね。。。

・‥…━━━☆

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2017年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年=2018年は平成最後の年・・・今後とも、よろしくお願いします
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2016年12月29日 (木)

日本史の新発見&発掘…2016年総まとめ

 

いよいよ、2016年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 江戸時代中期に京都で活動した画家・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の花鳥画で、長く所在不明だった「孔雀鳳凰(くじゃくほうおう)図」が、岡田美術館(神奈川県箱根町)によって発見されました…83年ぶりの発見で今後の研究に影響を与えそうだとか。
大阪府堺市ニサンザイ古墳の発掘調査で古墳時代最大規模となる木橋が架けられていた事が判明…幅約12m、長さ45m以上に及ぶこの橋の用途については「埋葬者を運んだ」「豪族たちが葬列を成した場所」「重い資材を運ぶため」など様々な意見が噴出しています。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)が重臣の脇坂安治(わきさかやすはる)宛てた書状が新たに見つかる…脇坂ゆかりの兵庫県たつの市龍野神社で発見された33通の秀吉の書状には、細かな指示や仕事への叱責などが記され、当時の生々しい様子がうかがえるとの事。
5月 京都国立博物館(京都市東山区)所蔵の坂本龍馬(さかもとりょうま)(11月15日参照>>)の遺品と伝わる刀が実物と判明…1931年に龍馬の子孫から博物館に寄贈されたものの、刀身の反りが小さく、作風も異なることなどから真偽のほどが微妙とされていましたが、今回新たに寄贈時に書かれた書類が発見され、京都・近江屋で龍馬が暗殺された際に携えていた愛刀「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」の実物だと判明しました。
6月 福岡県春日市須玖(すぐ)岡本遺跡で、墓穴の大きさが国内最大級となる甕棺(かめかん)が見つかりました…この遺跡は魏志倭人伝に出てくる「奴国」の中心地の王や王族の集団墓地で、今回の甕棺墓は弥生中期前半=紀元前約150年頃の物とみられ、奴国のナンバー2か3クラスの有力者の墓の可能があるとの事。
7月 Saitouhazime600a 幕末に新撰組の幹部として活動した斎藤一(さいとうはじめ=藤田五郎)(9月28日参照>>)鮮明な写真が発見されました…これまで、次男の結婚式に出た時の不鮮明な写真しか無かったために、別人の写真が「斉藤一の写真」としてネットに出回っていた事を受けて、2015年秋に親族の蔵から出てきた2枚の写真を、その次男の子孫の方が公開に踏み切ったとの事~なるほど、出回ってる写真より男前ですな(*^-^)
沖縄県石垣島白保竿根田原洞窟遺跡にて旧石器人の全身骨格発見…ほぼ全身の状態がわかる約2万年前の人骨は、その時代の琉球列島に人が住んでいた事を裏付ける貴重な発見となりそう。
9月 奈良県橿原市藤原宮跡(12月6日参照>>)にて最古の「朝賀」の遺構発見続日本紀によれば大宝元年(701年)に国の内外に律令国家の完成を宣言した「元旦朝賀(がんたんちょうが)の儀式」が行われていますが、今回の遺構は、その際に「幢幡(どうばん)」と呼ばれる旗を立てた遺構との事で画期的な発見とされます。
10月 大坂冬の陣の和睦成立を報告する片桐且元(かたぎりかつもと)(8月20日参照>>)書状を発見東京都内古書店で6月に見つかっていた書状が、慶長十九年(1614年)12月18日に片桐且元が西本願寺の宗主に宛てて「和睦が進んでいる」事や「視察に訪れた徳川秀忠の機嫌が良かった」事などを報告している手紙であると確認されました。
京都市右京区高山寺に伝わる国宝の絵巻「鳥獣人物戯画」について、絵の順番が入れ違っていた事が判明…もともと絵に連続性の無い部分があった事から「順番が違っているのでは?」と指摘されていましたが、今回、透過光調査の結果、甲巻の23枚目と11枚目のハケの跡等が一致した事から判明しました。
奈良市平城宮跡(2月15日参照>>)からペルシャ人の名前が書かれた木簡が出土奈良文化財研究所が赤外線を使って調べたところ「破斯清道」なる名前(破斯=ペルシャを意味する中国語)を発見。ペルシャ人の名前の入った木簡が確認されたのは日本初で平城京が国際都市だった事をうかがわせます。
*平城京に住んだインド僧=菩提僊那>>のお話も参照いただければウレシイです(゚ー゚)
福井県立図書館にて大坂夏の陣に徳川方として参戦した越前松平家の家臣の手紙の写しを発見…そこには、その家臣が「自分がやりを交え、真田信繁(さなだのぶしげ=幸村)を討ち捕らえた事」が記されており、写しとは言え、討ち取った本人の証言という点で評価でき、信繁が戦いながら死んでいったとする説を補強する物との見方がされています。
11月 京都市伏見区伏見城跡(3月7日参照>>)から石垣の一部が14.5mに渡り出土…昨年発見され、豊臣秀吉が築いた「幻の伏見城」とされる指月城の存在を証明した遺構から西へ約200mの地点で発見された城の中堀と思われる石垣は、自然石をそのまま使用しつつも、表面を加工するなど、工法の新旧入れ換わり時期の様相が見られ、それが整然と出土した事が評価されます。
福岡県筑紫野市の丘陵上で、長さ500mに及ぶ大規模な7世紀の土塁を発見…丘陵上での土塁の確認は初めてで、古代九州を統括し国家外交の最前線だった大宰府を守る防塁とみられ、ここに広大な防衛ライン(8月27日参照>>)が引かれていた可能性大。
12月 京都市下京区本願寺史料研究所にて忠臣蔵に関する記録発見史料は、「忠臣蔵」で知られる「赤穂事件」(12月14日参照>>)について、西本願寺が事件後の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の容体を「お痛みが軽く」などと把握し、直接、事情聴取を行っていた事を示す記録など6点。吉良家と西本願寺との関係の重要度がうかがえます。
大阪市天王寺区餌差町「真田丸」の痕跡(真田丸はどこにあった?参照>>)を求めて発掘調査をしていた民間団体「『真田丸』発掘推進協議会」人工的に土を盛った層を確認しました…NHK大河ドラマのタイトルにもなった真田丸は大坂冬の陣にて真田信繁が構築した出城(真田丸の攻防>>)で、これまであやふやだった位置を推定するとともに、土塁の一部を発見した物です。

こうして見てみると、この1年、様々な発見があった事がわかりますが、個人的には、やはりNHK大河ドラマのおかげで、大坂の陣関連の発見が相次いだ事ですね。

上記でもリンクしたページ=「真田丸はどこにあった?」>>)に書かせていただいております通り、私個人も、以前から、「真田丸の場所は明星高校のグランドあたりでは?」と推測していたわけですが、やはり、それを確定するためには、それなりの調査が必要・・・

そう言った場合、その年の大河ドラマ等で話題になり、注目を浴びる事によって一気に進展する場合も多々ありで、ファンとしてはワクワクしきりですo(*^▽^*)o

一方、今年は、4月に発生した熊本地震にて、熊本城阿蘇神社をはじめとする多くの文化財が被害を受けた事で、文化財を守り&保存して行く事の重要性をあらためて痛感させられた年でもありました。

一歴史好きとしても、被災地の1日も早い復興を願うばかりです。

・‥…━━━☆

とまぁ、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2016年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

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2015年12月31日 (木)

日本史の新発見&発掘…2015年総まとめ

 

いよいよ、慌ただしき年の暮れ・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、この2015年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、ページのボリュームうんぬんや個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 奈良県立橿原考古学研究所奈良県明日香村小山田(こやまだ)遺跡で、飛鳥時代中期(7世紀中頃)頃の巨大な古墳の墳丘の一部と濠跡を発見…方墳と推定されるその遺跡は、飛鳥時代最大級の蘇我馬子(そがのうまこ)の墓とされる石舞台古墳(11月13日参照>>)より大きい事から、第34代:舒明天皇初葬墓(しょそうぼ=改葬前の墓)である滑谷岡(なめはざまのおか)陵の可能性が高いとみられますが、一方では馬子の子=蘇我蝦夷(えみし)大陵とも考えられるとの事。
滋賀県彦根市松原町松原内湖遺跡の丘陵地から、織田信長(おだのぶなが)が元亀元年(1570年)の佐和山城攻めの際に築いた堀切(ほりきり)や竪堀(たてぼり)などの遺構を発見…織豊期における包囲網戦を考える貴重な史料となりそうです。
2月 大阪文化財研究所が大阪市の難波宮(なにわのみや)近くで、地方行政単位「五十戸」を記した木簡が出土した事を発表…大化の改新後の646年に難波宮に遷都した孝徳天皇(6月14日参照>>)「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに一人徴発せよ」との(みことのり)を発した事が書かれている『日本書紀』内容を裏付ける証拠となる可能性も…
3月 滋賀県彦根市教育委員会が、彦根城から、石田三成(いしだみつなり)の居城で関ケ原合戦で落城した佐和山城で使われていた石垣と瓦片を確認…佐和山城の石垣を利用したことは江戸中期に書かれた井伊家文書「井伊年譜」に記述がありますが(2月1日参照>>)実際に発見されたのは初めて
4月 福井県が、織田信長に攻められた越前朝倉義景(あさくらよしかげ)自害した(8月6日参照>>)事を伝える羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)書状を、島根県在住の個人から購入した事を発表…義景自害後にその事が書かれた最も早い書状との事。
5月 昨年(2014年)6月に、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、明智光秀(あけちみつひで)の家臣である斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)に宛てた四国攻めに関する書状が見つかった(昨年のニュース総まとめページ>>)岡山市北区林原美術館が所蔵する「石谷家文書」の中に元関白:近衛前久(このえさきひさ)が、本能寺の変の9ヶ月後に元親の腹心に宛て、困窮状態への助力を求めた書状を発見…光秀謀反の要因=「四国説」(6月11日参照>>)を後押しする史料として注目を浴びそうです。
6月 京都平安文化財(京都市伏見区)が、豊臣秀吉が造営した伏見城(3月7日参照>>)の初期段階にあたる指月(しげつ)城とみられる石垣と堀が見つかったと発表…城の中心部が確認されたのは初めてで、「幻の城」とされてきた指月城の存在をより確実にする貴重な遺構です。
大阪府高槻市安満(あま)遺跡にて、弥生時代前期(約2500年前)近畿における最古級の水田跡を確認…近畿地方で米作りが始まった頃の風景や稲作のルーツを探る新発見となりそうです。
7月 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が、ドイツボンで開催されていた「第39回 世界遺産委員会」において世界文化遺産に登録されることが決定しました。
平安時代後期の約60年間に7回以上の拡張工事が行われたとみられる滋賀県長浜市塩津港遺跡の遺構から、多種多様な遺物を次々と発見…中でも、今回確認された造成技術や石製としては最古級となる12世紀頃の硯(すずり)など、この塩津港が交通の要所として繁栄していた事をうかがわせる物が多数。
8月 兵庫県あわじ市で発見された弥生時代中期の銅鐸(どうたく)7個のうち、大きい銅鐸に小さい銅鐸をはめ込んだ「入れ子」状態の1組2個を調査したところ、つい手にあたる「鈕(ちゅう)と、内部につり下げて打ち鳴らすであろう棒=「舌(ぜつ)ひもやひもをつけた痕跡を発見銅鐸や舌からひもが見つかったのは初めてで銅鐸の使用法を探る貴重な発見となります。
9月 奈良県明日香村の飛鳥時代(7世紀)に造られた国内最古の宮廷庭園跡=飛鳥京跡苑池で、苑池に入るための門跡を発見…天皇たちが利用した門の跡であると見られ、未だ全体像がつかめない苑池を考察するうえでの貴重な発見となっています。
京都市の中心街=四条烏丸に近い改築予定の店舗兼住宅地から、室町時代の寺院の物とみられる風呂跡や、香炉等の土器類、瓦などが出土…江戸時代の観光ガイドブックにしか、その存在が記されていなかった幻の寺=五条寺の可能性があるとして調べがすすめられています。
10月 国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、第2次大戦後のシベリア抑留の資料国宝「東寺百合文書」(いずれも京都府所在)の重要性を認め、世界記憶遺産に登録した事を発表しました。
11月 「みだれ髪」などで知られる歌人=与謝野晶子(よさのあきこ)が半身不随になった最晩年、鉛筆書きの乱れる字で短歌の草稿を記したノートを、東京都内に住む晶子のひ孫さんが納戸で発見しました。
12月 奈良市役所南側の奈良県警奈良署跡地から、大型建物跡を含む奈良時代後半(8世紀後半)の広さ約14000㎡と推定される邸宅跡を発見…場所は、天皇の住居である内裏(だいり)があった平城京から、南東に約600mの一等地で、貴族高級官僚の邸宅跡とみて調査しています。

・・・と、こうしてみると、この1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも興味津津なのは、やはり、昨年発見された「長宗我部元親の書状」に続く「石谷家文書」での発見。。。

今回発見されたのは、元関白の近衛前久(このえさきひさ)が、徳川家康(とくがわいえやす)のお膝元の浜松から、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の側近であった石谷頼辰(いしがいよりとき=斉藤利三の実兄)とその義父に宛てた書状で、日付けは天正十一年(1583年)2月20日=本能寺の変の9ヶ月後となっています。

気になる内容は・・・(報道によると…)
「信長とは長年仲良くしてたんで、変の後にはおかしな噂をたてられてしもて…
その後に光秀を倒して京都に来た秀吉からも関与を疑われて…
ほんで、今は家康君を頼ってここに来てるんやけど…
今度、四国に行く時には長宗我部君を頼りたいと思てんねん。
一昨年くらいに、公家の一人が信長に長宗我部君の悪口を吹き込んだ時、僕は「長宗我部君は、そんなヤツやない!メッチャ律儀なええヤツや!」って言うて、とりなした事もあってんやから、もし四国に行く事になったら、その時はヨロシクね」

てな感じです。

ニュースの見出しには(本能寺の変の)四国攻め回避説強める』とありますが、私としては昨年同様、この書状の発見で本能寺の変の謎が解けるか?と言えば、そう簡単な物では無い・・・という感じですね。

昨年のその時にもお話させていただいたように、明智光秀も、その側近たちも、四国攻めを回避するに越した事はないとは思っていたでしょうが、だからと言って、「主君に対して謀反を起こす」という重大さは大変な物・・・それはそれはものスンゴイ理由が無い限り、そんな事(謀反)は起こさないはすで・・・

やはり、この書状も、その「ものスンゴイ理由にはなっていない・・・むしろ「本能寺の…」「四国説の…」というよりは、めまぐるしく変わる状況に翻弄されるお公家さんの右往左往っぷりが垣間見える感じですね。

結局、この後の前久さんは、秀吉VS家康の小牧長久手を避けて奈良へと避難した後、秀吉が四国攻めを開始したさ中に、秀吉を猶子(ゆうし)として迎え、関白の座に着く手助けをするのですから、まさに翻弄された感じ・・・とは言え、当時の状況を知る重要な史料である事には間違いないですね。

さらに、もう一つは、秀吉が造営した初代伏見城である指月(しげつ)城とみられる石垣と堀の発見!ですね。

今や2代目の伏見城でさえ幻の城なのに、さらに、その前の指月城ですから・・・

今のところ、京都市内の聚楽第(じゅらくだい=じゅらくてい)(2月23日参照>>)と様式が酷似している石垣と、それに沿う形の堀の跡などが発見されているようですが、なんせ、場所が指月城の中心部に当たると推定させる場所からの出土ですから・・・更なる発掘に期待したいですね。

・‥…━━━☆

という事で、様々なご意見もおありかと思いますが、とりあえずは、独断と偏見で以って本年の歴史ニュースをまとめてみました~

今年一年、本当にありがとうございました・・・
さま、良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして2016年も、よろしくお願いします
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2014年12月29日 (月)

日本史の新発見&発掘…2014年総まとめ

 

いよいよ、慌ただしき年の暮れ・・・て事で、本年の締めくくりは、この一年間に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、ページのボリュームうんぬんや個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 大阪市中央区「難波宮跡(12月11日参照>>)「大規模回廊の可能性」発見…奈良時代に造営された難波宮の一部に、土壇跡や瓦片などが見つかり、南北約120m、東西約85mの区域を囲む瓦ぶきの回廊があった可能性が高まりました。
京都市東山区「井伊美術館」で、「吉田松陰の新たな辞世の句」を発見…♪此程(これほど)に思(おもい)定めし出立(いでたち)は、けふきく古曽(こそ)嬉しいかりける…矩之♪とあり、吉田松陰(よしだしょういん)(11月5日参照>>)が自身の実名=矩方(のりかた)を汚したくないとして、あえて別名で詠んだ可能性もあるとの事…
「卑弥呼の鏡」と称される3世紀後半の三角縁神獣鏡を最新の3Dプリンタで復元したところ、光を当てると裏面の文様が浮かび上がる「魔鏡」の構造であった事が判明したと京都国立博物館の村上学芸部長が発表…古代の人々にとって鏡がどのような役割を果たしたのか?新たな研究期待。(11月30日【古代日本における鏡とは~】参照>>)
2月 邪馬台国か?と噂される奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡4つめの建物跡…すでにエリアの中央部で発見されている宮殿とおぼしき建物の東に位置し、居館の可能性があるとみられています。
奈良県上牧町で3年前に発見された久渡(くど)2号墳飛鳥時代の大規模な終末期古墳と判明…古墳の規模が小さくなる傾向にあった時代に関わらず、比較的大規模な事が判明し、敏達天皇系の皇子の古墳である可能性も…
3月 豊臣秀吉が築いた最初の大坂城市民に公開するプロジェクトとして、昭和59年に発見された地下7mの所に埋まっている石垣を新たに発掘して報道陣に公開…今回は4日に報道陣に、7~9日に一般公開されたのみでしたが、後に常時見学できる施設を設ける予定で、現在、募金が行われています。
石垣公開プロジェクトの公式ページ>>(別窓で開きます)
4月 卑弥呼の後継者=台与(壱与)の墓ではないか?と噂される奈良県天理市西殿塚古墳で、前方部頂上に巨大な石積みの方形壇が築かれていた事が判明…土壌は他にもあるものの、石積みの方形壇はほとんど見られない事から、今後の研究に期待が高まります。
5月 広島県福山市広島県立歴史博物館が、8代将軍・徳川吉宗が享保10(1725)年頃に作らせた地図「享保日本図」の基になったとみられる測量図を発見した事を発表…測量図は縦152cm、横336cm、縮尺21万6千分の1で、北海道の南部から九州・種子島までの地名が記載されており、当時の測量方法を示す貴重な資料との評価。
卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市箸墓古墳の古写真が保存されている事を宮内庁が発表…植樹がされた現在の形になる以前の明治9年に撮影された写真で、今後、構造解明の手掛かりになる事が期待されます。
6月 岡山市北区林原美術館が所蔵する「石谷家文書」の中に、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、明智光秀(あけちみつひで)の家臣である斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)に宛た四国攻めに関する書状が見つかった事を発表…日付けが本能寺の変の10日前という事で、謎の解明に近づくのでは?との期待が持たれます。(6月11日【明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…】参照>>)
藤井寺市林遺跡から大小2基の釣り鐘の鋳造遺跡を発見…7世紀末~8世紀前半に使用された跡と見られる事から、鋳造跡としては最古クラスとの事で、更なる発掘成果に期待。
7月 豊臣秀吉太閤検地(7月8日参照>>)の実施以前に、大名らに土地の面積や石高を自己申告させた「指出検地」の具体的な内容を記した文書を、兵庫県たつの市市立龍野歴史文化資料館が発見…全国で初めて確認されたこの文書は、天正13(1585)年に秀吉配下の大名、仙石秀久が作成して提出した物とみられ、豊臣政権初期の土地支配や大名支配の様子を確認できる貴重な資料との事。
8月 奈良県明日香村にある飛鳥時代初期(6世紀後半)都塚古墳が、東西約41m、南北約42mの巨大方墳で、国内に例がない階段ピラミッド状であることが判明…当時の実力者である蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や蘇我氏の邸宅跡からも近い事から、馬子の父である蘇我稲目(そがのいなめ)(10月13日参照>>)の墓の可能性が高いとの見解です。
9月 豊臣秀吉の弟、秀長(ひでなが)(1月22日参照>>)が居城とした郡山城(奈良県大和郡山市)で、16世紀後半の安土桃山時代に天守閣があったことを裏付ける礎石を初めて確認…高さ15~20mで5階建てだったと考えられ、関ケ原合戦以前の天守閣の構造が分かる発掘成果は珍しいそうです。
10月 奈良県明日香村の国史跡・名勝「飛鳥京跡苑池(えんち)(7世紀)で、「取ったら災いが起きる」という内容の警告文が刻まれた珍しい土器が見つかりました…一見、ものスンゴイ予言にも思えますが、「おそらくは泥棒よけでは無いか?との事。「冷蔵庫のプリンに名前を書く」みたいな物?ww
11月 京都府向日市埋蔵文化財センターと立命館大による、同市寺戸町にある3世紀半ば~後半の大型前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」の発掘調査で、この古墳が、卑弥呼の墓といわれる「箸墓(はしはか)古墳」(奈良県桜井市)と酷似している事が判明…古代史を解明する上で鍵となる可能性が高まり、研究者から注目を集めています。
藤原宮(12月6日参照>>)から南約2kmの橿原市石川町藤原京跡で見つかった東西に細長い全長約51mの大型建物跡が、予想以上にしっかりした造りで、当時の宮殿クラスの建物だった事が判明…このような建物は、本来、藤原宮内にあるのが普通で、宮から遠く離れた京の南端で見つかった事に、「常識を覆す発見」と専門家も驚き、建物の性格についての謎が深まっています。
12月 織田信長東大寺(奈良市)に宛てて、戦乱からの保護を約束した書状が発見された事を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が発表…日付けは天正元年(1573年)9月で、この数年前に松永久秀三好氏との戦い(10月10日参照>>)で大仏殿を焼かれた東大寺が、畿内に勢力延ばして来た信長に保護を求めた事に返答したものと推測されます。(3月28日【織田信長の蘭奢待・削り取り事件】参照>>)

・・・と、こうしてみると、この1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも茶々いち推しのニュースは、やはり、6月に発見された「長宗我部元親の書状」!!ですよね~~

ただ、別のページのコメントにも書かせていただいたように、この書状の発見で本能寺の変の謎が解けるか?と言えば、そう簡単な物では無い・・・というのが、今のところの私の見解です。

確かに、「四国説」(再びですが…6月11日参照>>)の追い風となる、すばらしい一級史料ではありますが、その内容は
「言わはる通り阿波から撤退した事を信長さんに伝えてほしい…けど、土佐の周辺は長年俺が頑張って来た土地やから手放したくないねん。かと言うて戦争したいわけやないんで、何とかしてくれへんやろか?by元親」
てな感じ・・・(当時の元親はこんな状況…9月21日【ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定】参照>>)

四国攻めを止めて欲しいと願う元親の気持ちは充分理解できますが、受け取った利三と、その主君の光秀の心の内は・・・??

確かに、光秀は利三を身内のように可愛がっており、その利三の妹が元親に嫁いでいるという三者の仲ではありますので、光秀と利三も、戦いを回避する事が望ましいとは思っていたでしょうが、事あらば、身内と言えど討つ覚悟が無ければやっていけないのが戦国の世というもの・・・(7月14日【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)

逆に、「主君の命令を蹴る=謀反を起こす」という重大さは、他の事とは比較にならないほど・・・まして、光秀ともあろう優秀な武将ならば、それはそれはものスンゴイ理由が無い限り、そんな事(謀反)は起こさないだろうと人は考えるわけで・・・

今回の書状を含め、未だに、その「ものスンゴイ理由には、お目にかかれてないわけで・・・
だからこそ、未だにその謎が解けないわけで・・・

ただ、先にも書きましたように、今回の発見は「四国説」を後押しする重要な史料である事は確かですから、この先、その謎を解くためには欠かせない史料の一つとなる事は間違い無いでしょう。

という事で、独断と偏見で以って本年の歴史ニュースをまとめてみました~

今年一年、本当にありがとうございました・・・
さま、良いお年をお迎えくださいませm(_ _)m
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2014年1月 3日 (金)

あけおめ~日本史の新発見&発掘…2013年総まとめ

 

謹賀新年

皆様、あけましておめでとうございますm(_ _)m
本年も、「今日は何の日?徒然日記」をよろしくお願いします。

2014blog

・・・て事で、新年、1発めの今日は、昨年報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、独自の歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 奈良県明日香村「飛鳥寺西の石敷き広場内「樫の木の広場」を確認大化の改新(6月12日参照>>)の立役者=中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)が蹴鞠で飛ばした沓(くつ)中臣鎌子(なかとみのかまこ=後の藤原鎌足)が拾って手渡した事で人が出会ったとされる「樫の木の広場」と思われる場所を確認。
奈良県奈良市「薬師寺の発掘調査」で、14世紀には失われていたと思われる「300人は収容できる大きな食堂跡」が発見され、平安時代に書かれた「薬師寺縁起」の内容が裏付けられる事に…。
大阪市中央区難波宮跡の「後期難波宮の発掘調査」回廊跡出土…ここに、『東南新宮』(12月11日参照>>)のような格式の高い建物があった可能性が高くなりました。
2月 邪馬台国か?と噂される奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡で、大量の柱穴発見…狭い場所に何度も建物を建てたり壊したりした跡が見てとれる事から卑弥呼(ひみこ)祭祀を行った場所では?との声も…。
堺市北区ニンザイ古墳謎の柱穴列発見…宮内庁の管理のため、その実態がほとんどわかっていないニンザイ古墳で、前例が無いほとの多数の柱穴が見つかり、祭祀用の舞台か?橋の跡か?と話題になりました。
3月 奈良市JR奈良駅北側の平城京跡から、破棄されたとおぼしき埴輪の破片が発見されました…おそらくは平城京の造営のために、少なくとも、3基以上の古墳群が破壊されたとみられています。
4月 日英共同研究チームが、北海道や福井県などから発見された縄文式土器の焦げ跡に調理の跡を発見した事を発表…焦げ跡にはサケなどの魚を煮炊きしたとみられる脂質が含まれており、これまで「農耕が始まる前の土器は食糧の貯蔵のための器だった」という定説がくつがえされ、それ以前から、すでに魚を料理をして食べてした事が明らかとなりました。
神戸市灘区深江北町遺跡から、東大寺の大仏鋳造の寄付を示す木簡発見都以外の地方で、奈良時代の大仏鋳造の寄付を示す木簡が発見されたのは初めてで、地方の役人が、寄付の集金業務に関わっていた事が明らかとなりました。
5月 滋賀県長浜市長浜城歴史博物館が、賤ヶ岳の戦い(4月20日参照>>)におけるの羽柴(豊臣)秀吉指示書が見つかった事を発表…内容は、賤ヶ岳の戦いの時に、最前線の砦のそばに造った野営のための小屋を取り壊す際のダンドリを弟の秀長に指示した物で、これまで、軍記物の記述でしか確認できなかった賤ヶ岳の合戦の砦の存在が裏付けられる貴重な史料となりました。
京都市伏見区伏見城跡の発掘調査で、巨大な土橋や豪壮な石垣などが確認されました…同じ場所に明治天皇陵がある事から、これまで研究が進んでいなかった伏見城跡に、宮内庁の許可を得て大規模な発掘調査がされ、幻の伏見城の全貌解明に一歩近づくかも…。
6月 大阪府八尾市亀井遺跡で約30年前に発見されていた弥生時代の石製品が、てんびん用の分銅であった事が解明されました…当時貴重だった赤色顔料=朱が付着しており、この朱の配分で厳密な重さを計っていたとみられ、もちろん、日本最古の分銅です。
京都市中京区貴族の邸宅跡から30年前に発見されていた土器に、いろは歌の全文が書かれていた事が判明…一昨年の新発見のまとめでも、「最古ののいろは歌が書かれた土器が…」というのを取り上げましたが(2012年12月27日参照>>)、今回も最古…しかも、今回は、そこに全文が書かれていたとの事です。
7月 京都市歴史資料館が保存する資料の調査で、夫の葬儀の参列者に宛てた新島八重の直筆書状を発見…その年に大河ドラマ関係の資料が新発見される事がよくありますが、歴史好きにとってはウレシイ副産物ですね。
8月 滋賀県高島市上御殿(かみごてん)遺跡から弥生時代~古墳時代初めの短剣の鋳型を発見…そのデザインが中国・華北や内モンゴルの物に酷似している事から、これまで、朝鮮半島を通じて九州へのルートだと考えられていた銅剣の伝来が、日本海を通じて大陸から直のルートで伝来した可能性が浮上。
9月 京都市上京区桃山時代の大名屋敷跡から金箔の貼られた瓦片が100枚以上が出土…中には橘の家紋をほどこされた豪華な物もあり、豊臣政権時代の五奉行の一人・前田玄以(げんい)(5月7日参照>>)の屋敷跡ではないか?とみられます。
奈良県明日香村蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)(6月12日参照>>)父子の邸宅があったとされる甘橿丘東麓遺跡で、7世紀半ば頃と思われる建物跡を新たに発見…彼らの邸宅が広範囲に広がっていた事が確認されました。
10月 奈良市興福寺境内平安時代の将棋の駒を発見「桂馬」「歩兵」とともに発見された、現在の将棋では使用されない「酔象」の駒は、これが日本最古の物となります。
11月 京都市東山区方広寺大仏殿跡(7月26日参照>>)巨大な柱穴4個を新たに発見…これで、方広寺の大仏殿が、伝承通り、東大寺大仏殿を上回る日本最大の木造建築だった事が、ほぼ確定となりました。
奈良県明日香村飛鳥京跡苑池(えんち)全容が判明した事を県立橿原考古学研究所が発表…宮廷庭園跡として発掘調査されて来た中、大垣に囲まれた中に池を配置した日本庭園のルーツと言える庭で、万葉歌を詠むにふさわしい美しい庭園であった事が判明しました。
12月 京都市上京区相国寺光源院黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)(3月20日参照>>)荒木村重(あらきむらしげ)(5月4日参照>>)に宛てた手紙の写しを発見…コチラも、今年の大河ドラマの主役という事で、この1年、官兵衛がらみの発見が増える事が期待されますね。
ご存じのように、村重の有岡城に官兵衛が長期幽閉されるという悪しき因縁(10月16日参照>>)のあるこのお二人ですが、手紙の内容は、「何かあったら姫路に来てね!」と、幽閉の一件があった後も、お互いに交流をしていた事がうかがえるイイ内容となっているようです。

・・・と、こうしてみると、昨年1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも茶々いち推しのニュースは、4月に発表された日英共同研究チームによる縄文式土器調理の跡!!

聞くところによれば、この縄文式土器の調理跡は、現在のところ「世界最古の調理の痕跡」なのだそうですが、奇しくも、昨年は日本人の伝統的な食文化である「和食」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されましたよね。

そう、つまり、この世界最古の調理跡に日本人が受け継いで来た和食の原点があるという事になるのですよ!

日本人の祖先の縄文人が、世界で初めて、食品を調理して食べていた・・・まさに、和食の誕生!!

まぁ、いずれまた、世界のどこかで新たな発見があるのでしょうが(*´v゚*)ゞ、それまでのしばらくは、そんな夢に酔ってみるのも良いかもしれません。

という事で、本年も、我がブログに、チョコチョコ遊びに来てくださいませ。
よろしくお願いしますm(_ _)m
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2012年12月27日 (木)

日本史の新発見&発掘…2012年総まとめ

 

いよいよ、今年も、残すところ、あと5日・・・

振り返れば、今年も様々な新発見があった1年でしたね。

大きく報道されたのは、6月に福岡県太宰府松本遺跡で発掘された『戸籍を記す最古の木簡』・・・7世紀末の飛鳥時代の物で、人名や身分や性別などが分かる16名分の戸籍が記されており、大宝律令以前の地方行政単位である「評(郡に相当)」の文字も見えるそうです。

これまで最古とされていたのが、奈良・東大寺の正倉院に伝わる『筑前国嶋郡川辺里(かわべり)戸籍』(702年)など・・・大宝律令の完成が大宝元年(701年)ですので(8月3日参照>>)、まさに、今回、それ以前の戸籍が初めて発見された事になります。

近くには大宰府政庁跡がある事から、その発掘場所近くにも役所があった可能性が高いとの事・・・おそらく、まだまだ、何か発見されるんじゃないでしょうか?

個人的に気になったのは、あの奈良の藤ノ木古墳の埋葬者の一人が女装していた可能性が高い事がわかった事・・・皇族クラスの古墳でありながら、未盗掘という貴重な状態で昭和六十年(1985年)に発掘された藤ノ木古墳の二人の埋葬者が、皇位継承がらみの蘇我(そが)VS物部(もののべ)の争いに敗れて殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ=北側被葬者)(6月7日参照>>)宅部皇子(やかべのみこ=南側被葬者)ではないか?と推理されていると、以前、お話させていただきましたが(9月15日参照>>)、そのお名前でわかる通り、どちらも皇子=男性なのですが、南側の被葬者がネックレスやブレスレット、足にもアンクレットとおぼしきガラス玉を巻いており、古墳時代の埴輪を見る限り、このような装飾品は女性に用いられる物・・・つまり、「女装して埋葬されていた」という事になります。

Dscn2539a900 藤ノ木古墳

そこで、考えられる推理は二つ・・・

古代の中国で「宮刑(きゅうけい)という、死刑に次ぐ思い刑が存在し、それが男性のアレを切り落とす刑だった事から、それを真似て、実際に切るのではなく、女性の恰好をさせて埋葬する事で、一種の見せしめの刑に処したのではないか?との事・・・

そして、もう一つは、生前の二人が男女のように仲が良かった・・・つまり、南側の方がオネェ系だったかも・・・実際に、「穴穂部皇子と宅部皇子は非常に仲が良かった」という記録も残っているのだとか・・・

もちろん、未だ埋葬者が誰なのかも特定されていませんから、女装に関しては、あくまで推理の段階なのでしょうが、個人的には後者であってほしい気がします。

いつの時代も恋愛は自由・・・「罰でさせられた」というよりは、生前のご本人に良かれと思ったおくり人のやさしき処置と思いたいです。

また、残念なニュースも・・・

2月には、大阪城の天守閣の西方にある武家屋敷跡の発掘調査で、係の方の連絡ミスにより、大坂夏の陣の焼土層を40cm~90cmくらい深く掘り過ぎてしまい、一部調査不能になってしまったのだとか・・・まぁ、誰も「わざと壊そう」とは思っていないわけで、おそらくは関係者の方も意気消沈なさってると思われ、残念ではありますが・・・

一方、これこそ残念なのは、まさに一昨日のニュース・・・『岡山市北区にある金山寺の本堂が全焼』・・・

あの宇喜多直家(うきたなおいえ)(10月30日参照>>)が再建に尽力したという天正時代の建物・・・未だ出火原因も特定されていないので何とも言えませんし、住職さんがご無事で何よりなのですが、重要文化財がなくなってしまうのは、やはり悲しいですね。

そんなこんなで・・・僭越ではありますが、今年、気になった歴史の発見&発掘を一挙まとめてみようと思います。

1月 京都府八幡市「古代寺院・美濃山廃寺(みのやまはいじ)跡」から、約30棟分の建物跡が出土…謎の寺院の伽藍配置が解明されるかも。
三重県明和町「斎宮跡」からひらがなで「いろは歌」の書かれた11世紀末~12世紀前半の土器の破片発見…いろは歌が書かれた物としては最古。
京都の清水寺「清水の舞台」は3度焼失…舞台下の地層約3mのところから3層の焼土が見つかりました。
京都市下京区興正寺で江戸末期の京都の地震や幕末&維新の動乱の時代の京都の様子を記録した僧の日記を発見…謎の部分を解明できる貴重な史料。
2月 奈良県橿原市「新堂遺跡」で、井戸の中から鬼の顔を墨で描いた平安時代後期の土器発見…井戸を埋める際に鬼を地中に封じ込める何かの呪い使われた可能性アリ。
邪馬台国か?と噂される奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡で、大型建物跡の南側に溝発見…建物跡と並行している事から柵の跡と考えられています。
3月 奈良県橿原市藤原宮跡で、重さ1tもある礎石が2個見つかりました…「建部門(たけるべもん)と呼ばれた門の可能性が高く、その礎石の大きさから立派な門であった事がうかがえるそうです。
4月 大阪府狭山市のため池から出土した窯跡ではないか?とされる遺跡から、瓦や煉瓦のカケラ約200点と須恵器のカケラ約1000点出土…5世紀~13世紀の数百年間に千基の窯があったとされる大規模な生産拠点だった事が証明されました。
5月 大阪府高槻市萩之荘南遺跡で、大規模な溝に囲まれた竪穴式住居跡や墓を発見…弥生時代末期の環濠集落跡とみられます。
6月 日本書紀などに名前だけ登場していた幻の人工池=「磐余池(いわれいけ)の推定値から池底跡を発見…出土した土器などから、鎌倉時代に埋められた事も判明しました。
7月 奈良県橿原市藤原宮跡で、約42㎡の建物跡発見…これまでに出土していた掘っ立て柱仕様ではなく、初めての礎石の建物跡という事で、格調高い皇族の使用した建物とみられます。
8月 奈良県上牧町久渡(くど)3号墳から中国製の銅鏡=「画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)」1枚を発見…残念ながら調査時の重機による掘削で真っ二つに割れてしまっていましたが、初期ヤマト王権の史料となりそう。
京都市中京区の平安京跡にある京都地方気象台の構内から、物資輸送のために平安時代初期に作られた運河の跡発見…平安京を南北に貫く運河で東西で2本あったうちの西側に当たるらしい。。
また、氾濫の跡も見られ、その土砂で造った秀吉時代の御土居(12月13日参照>>)の一部も確認されたとか…
9月 京都市中京区平安京跡から、「延喜式」(12月26日参照>>)などにその名が登場するも、平安時代に焼失してしまっていた『白虎楼(びゃっころう)』のものとみられる瓦100枚以上が出土…その文様から丹波国の職人が造営に関わっていた事がわかったとの事…
杏林大の松田和晃教授大潮平八郎の手紙を発見…20年前に購入した古文書を整理していて、今年発見されたそうで、乱を起こす2年前に門徒に宛てた手紙=原本だそうです。
11月 京都府木津市恭仁(くに)京跡から朝堂の建物跡発見…わずか4年間しか存続しなかった恭仁京の全容解明に近づきました。
京都市中京区の平安時代の貴族の邸宅跡から、平仮名が墨書きされた土器の破片が見つかりました…これまで10世紀に成立したとされていた平仮名が9世紀後半にすでに成立し使用されていた事を示す貴重な発見だそうです。
大阪府堺市北区ニンザイ古墳から埴輪が出土…埴輪の分析からあの仁徳天皇陵の次に築造された事が判明し、被葬者には履中(りちゅう)天皇(2月1日参照>>)の名があがっているとの事、さらなる研究に期待します。
12月 奈良県橿原市植山古墳石室を封鎖した跡が見つかりました…この古墳は、日本初の女帝=推古天皇(12月8日参照>>)とその皇子の竹田皇子(たけだのみこ)がいち時埋葬された場所ではないか?と言われる古墳ですが、それを、この後使用できないように封鎖してあったという事は、『古事記』にある推古天皇の改葬を裏付ける史料という事になります。

以上、今年気になった新発見のニュースをピックアップさせていたがきましたが、専門家で無い私の知るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、関西在住という事もあり、さらにそこに、個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは独断の重大ニュースという事で、ご理解くださいませm(_ _)m
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2011年4月 4日 (月)

「花見自粛」ムードにひとこと言わせて!

 

今日のお話は、すでに何度か書かせていただいているので、いつも、このブログを見ていただいている方々には重複する内容で恐縮なのですが、今の時期に言いたい事なので、書かせていただく事にしました。

それは、今、一部の方々の間で出ている「花見自粛」の話です。

もちろん、空気を読まないバカ騒ぎはいけませんし、電力不足で計画停電が実施されている中での、やたら大規模なライトアップによる夜桜も考えたほうが良いかも知れません。

しかし、そうではない・・・
日本人が古来から行っていた、本当の花見・・・

それは、現在のようなバカ騒ぎではなく、
最悪の日に、明日への生きる力を得るための行事だった・・・

その事を、是非とも「花見自粛」とおっしゃる方々に知っておいていただきたいのです。
(こんな場末のブログで言っても、拡散はできないでしょうが…(゚ー゚;)

そもそも万葉の昔・・・
旧暦の3月3日か、もしくはその翌日が「花見にでかける日」とされていたのです。

それは、その3月3日が“シガノ悪日”という「何をやっても悪い日=厄日」とされていたからなのですが・・・

記録として残るのは、花が歌に詠まれるようになる万葉の頃ですが、おそらくは、もっと昔の時代から、そのような習慣があったのではないでしょうか?
(万葉の頃の花見は「梅」だったと言われていますが…)

・・・というのも、別ルートで伝わったとおぼしき東北地方にも“シガヨウカ”と呼ばれる最悪の日があって、そこでは4月8日がその日とされ、やはり同じように、この日に花見を行っていたとされているのです。

では、なぜ、最悪の日に花見をするのか?

それが、「タマフリ=魂振り」という儀式です。

これは読んで字のごとく、その場に神を呼び込んで場を清め、自らの魂を奮い立たせる儀式の事で、Yamafurigoheicc わかりやすい所では、神社はもちろん、建築物などの地鎮祭や、その他もろもろの場所で、神主さんが、紙を切ったような折ったようなビラビラが先っぽについた棒のような御幣(ごへい)という道具を左右に振り、お祓いをしますよね。

あれが、「タマフリ」です。

もちろん、あれは、神官となった人が行う正式なタマフリですが、他にも、色々なタマフリがあります。

何も道具を持たない庶民が、衣の袖を振ってタマフリを行い、命がけで旅をする人に「この先、神様のご加護があるように」と祈った儀式が、別れる時に手を振るという行為であったであろう事も、以前のページに書かせていただきました(内容かぶってますが1月31日参照>>)

タマフリの基本は、空気を震わせて波長を起こす事で、神を呼び、場を清め、魂を奮い立たせるワケですから・・・

そう、神社で拍手を打ったり、鈴を鳴らしたりというのもタマフリなのです。

音が、空間を伝わる波長である事は、近代になってからわかった事だと思うのですが、不思議な事に神代の昔から、日本では音を鳴らすタマフリが行われていたのです。

そして、21世紀の現代に生きる皆さまなら、もう一つ、空間を伝わる波長がある事をご存知ですよね?

そう、光=色です。

目にも鮮やかな真っ盛りの花を・・・
燃えるような青葉を・・・
その目で見る事によって、樹木からその生命力を分けてもらう・・・、
元気な色の波長を浴びて、自らの魂を奮い立たせる力を得る・・・

これが「見るタマフリ」です。

確かに、より元気で美しい花の周りに人が集まり、
そこに会話が生まれ、男女の出会いがあり、
やがては、花の下でお酒を酌み交わすようになって、江戸時代の頃には、現在のようなお花見のスタイルになるわけですが、

本来の花見というものは、決してバカ騒ぎする事ではありません。

それは、辛く悲しい最悪の日に、神様に降臨してもらい、その場を清めるとともに、自らの魂を奮い立たせ、明日を生きるための気力・活力を得る儀式なのです。

もちろん、未曽有の大災害に見舞われた今、被害に遭われた方々の気持ちを思う事も、喪に服して自粛する事も大切な事です。

しかし、「花見自粛」とおっしゃる方々・・・どうか、この本来の花見の意味を考えたうえで、そのご判断を下してください。

「それでも自粛したほうが良い」というのであれば、それは、それぞれお考えによるものですから、外野が口を挟む事ではありませんが・・・

一度、原点に立ち返ってみてはどうでしょう。

バカ騒ぎではない、本当の花見は、古代より、日本人が脈々と受け継いできた、明日への希望と活力を得るための神聖なもの・・・

もしかしたら、今こそ、大和魂を奮い立たせる時なのではないでしょうか?

Dscn6160a800 京都府・八幡 背割堤の桜
場所は本家HPの
「歴史散歩・石清水八幡宮」でどうぞ>>(別窓で開きます)
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2010年12月31日 (金)

2010年歴史は動いた~新発見・総まとめ

 

今年も、残すところ、あとわずか・・・
皆さま、お健やかな大晦日をお過ごしでしょうか。

本日は、その2010年を「今日は徒然」風に、今年動いた歴史など振り返ってみましょう。

・‥…━━━☆

今年、なんと言っても一番は、奈良県明日香村のあの牽牛子(けんごし)塚古墳の大発見ですね。

もちろん、この古墳の存在自体は、昔から認知されていて、7世紀後半の物という事も、すでに確認されていましたが、今年行われた発掘調査によって、その形状が八角形である事が判明した事・・・

この時代の古墳の八角形は、天帝を示すとされ、この古墳が天皇陵である事が有力となり、以前から噂されていた斉明天皇(7月24日参照>>)の御陵である事が確実となったのです。

さらにその後の調査で、牽牛子塚古墳の南側20mの所に石室を確認・・・日本書紀では、その斉明天皇の御陵に寄り添うように、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)が葬られた事が書かれており、まさに、その記述を裏付ける形となったわけです。

一方、沖縄石垣島の洞窟では、推定2万年~15000年前と思われる人骨が発見され、今後、日本人のルーツをたどるうえで貴重な資料となる事でしょう。

また、奈良県桜井市茶臼山古墳では、これまでの記録を塗り替える数の銅鏡の発見・・・バラバラの破片となってはいましたが、その数は300点以上にもなり、一つ一つ復元すれば、合計で80枚以上の数であろうと予想される事から、おそらくは大王クラスの人物の古墳であろうとの鑑定結果が出ました。

さらに10月25日には、あの東大寺・大仏殿にて、明治時代に発見されていた太刀のX線撮影で、その太刀に「陽劔(ようのけん)」「陰劔(いんのけん)」の文字が書かれていた事が、新たに判明・・・これが、奈良時代に行方不明となっていた正倉院の宝物であった事が分かり、歴史のロマンを感じさせてくれました。

そして、6月26日、個人的には今年最大の印象的な出来事となった発掘調査報告・・・大阪城天守閣の北側にある「山里丸(やまざとまる)と推定される場所で、大坂夏の陣で焼けたとおぼしき大量の瓦が発見された事・・・このニュースに関連して、わがブログの最高記録・14万4586アクセスの訪問数をいただきました(6月27日参照>>)

その時にも書かせていただきましたが、あまりに多くのアクセスをいただいたおかげで、ココログのサービスを提供されている@niftyさんと、ちょっとしたトラブルになってしまいましたが、それも速やかに解決(7月8日参照>>)・・・今となっては、忘れられない笑える思い出となりました。

そして、大阪城関連では、つい昨日・・・歴史好きにはうれしいニュースがありました。

以前、豊臣秀吉のご命日関連で、大阪城の歴史のような記事で書かせていただいた通り(8月18日参照>>)、現在の大阪城の石垣は、すべて徳川時代の物で、秀吉の大阪城は、その約10mほど下に、石垣ごとスッポリと埋められた状態となっているわけですが・・・
Dscn7118a600 (一部発掘されている豊臣時代の石垣についてはホームページの歴史散歩で、その発見の経緯やボウリング跡からの写真を含め、くわしくご紹介していますので【大阪歴史散歩・ヒミツの大阪城】でどうぞ>>別窓で開きます

・・・で、その地下に眠る豊臣時代の石垣を、常時見学できるようにする地下博物館建設の計画がある事を大阪市が発表したのですよ!

上記のホームページの同じページでご紹介している秀吉が構築した太閤下水・・・ここも、未だ現役の下水である事から、以前は関係者以外立ち入り禁止となっていましたが、3年前にのぞき窓が設置され、ガラス越しではありますが、常時、見学できるようになりました。

もちろん、その太閤下水ののぞき窓とは比べ物にならないくらいのビッグプロジェクトですから、今すぐに・・・ってワケにはいきませんが、私自身も、未だ上から覗いた事しかない幻の石垣を、真横から間近に見られるとなると、もうすでに、胸は期待でいっぱいです。

最後に、本年は、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」だった事で、坂本龍馬がブームとなり、龍馬に関連する新発見が複数登場しましたね。

6月には、龍馬が、大政奉還(6月22日参照>>)するにあたって土佐藩の参政・後藤象二郎を激励する手紙の下書きが高知県の民家から発見されました。

7月には、京都の、やはり一般のお宅で、龍馬最古となる剣術修業時代の手紙が発見されました。

他にも、武市半平太(5月11日参照>>)獄中書簡や、蒸気船・いろは丸の購入契約書などなど・・・中でも、個人的に興味深かったのは、富山で発見された、中岡慎太郎のあの有名な笑顔の写真の原版

そう考えると、ブームになるのも悪くはないですね~
・・・て、事は、来年は、お江さんに関する新たな発見が相次ぐって事???
う~~ん、うれしい限りです。

さぁ、あと10余時間・・・来るべき新年に期待をこめて・・・
「今日は、笑ってはいけないスパイで大いに笑わせてもらおう」っと
(↑歴史に関係ない(゚ー゚;)

とにもかくにも、今年1年、「今日は何の日?徒然日記」にご訪問いただき、ありがとうございました。

徐々にではありますが、年々増えていく傾向にあるアクセス数に、うれしい毎日を送る管理人・茶々でございますゆえ、来年もよろしくお願いします。

ではでは、
皆々様も、良いお年をお迎えくださいませo(_ _)oペコッ
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あなたの応援で元気100倍!

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