2016年12月29日 (木)

日本史の新発見&発掘…2016年総まとめ

 

いよいよ、2016年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 江戸時代中期に京都で活動した画家・伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の花鳥画で、長く所在不明だった「孔雀鳳凰(くじゃくほうおう)図」が、岡田美術館(神奈川県箱根町)によって発見されました…83年ぶりの発見で今後の研究に影響を与えそうだとか。
大阪府堺市ニサンザイ古墳の発掘調査で古墳時代最大規模となる木橋が架けられていた事が判明…幅約12m、長さ45m以上に及ぶこの橋の用途については「埋葬者を運んだ」「豪族たちが葬列を成した場所」「重い資材を運ぶため」など様々な意見が噴出しています。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)が重臣の脇坂安治(わきさかやすはる)宛てた書状が新たに見つかる…脇坂ゆかりの兵庫県たつの市龍野神社で発見された33通の秀吉の書状には、細かな指示や仕事への叱責などが記され、当時の生々しい様子がうかがえるとの事。
5月 京都国立博物館(京都市東山区)所蔵の坂本龍馬(さかもとりょうま)(11月15日参照>>)の遺品と伝わる刀が実物と判明…1931年に龍馬の子孫から博物館に寄贈されたものの、刀身の反りが小さく、作風も異なることなどから真偽のほどが微妙とされていましたが、今回新たに寄贈時に書かれた書類が発見され、京都・近江屋で龍馬が暗殺された際に携えていた愛刀「陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)」の実物だと判明しました。
6月 福岡県春日市須玖(すぐ)岡本遺跡で、墓穴の大きさが国内最大級となる甕棺(かめかん)が見つかりました…この遺跡は魏志倭人伝に出てくる「奴国」の中心地の王や王族の集団墓地で、今回の甕棺墓は弥生中期前半=紀元前約150年頃の物とみられ、奴国のナンバー2か3クラスの有力者の墓の可能があるとの事。
7月 Saitouhazime600a 幕末に新撰組の幹部として活動した斎藤一(さいとうはじめ=藤田五郎)(9月28日参照>>)鮮明な写真が発見されました…これまで、次男の結婚式に出た時の不鮮明な写真しか無かったために、別人の写真が「斉藤一の写真」としてネットに出回っていた事を受けて、2015年秋に親族の蔵から出てきた2枚の写真を、その次男の子孫の方が公開に踏み切ったとの事~なるほど、出回ってる写真より男前ですな(*^-^)
沖縄県石垣島白保竿根田原洞窟遺跡にて旧石器人の全身骨格発見…ほぼ全身の状態がわかる約2万年前の人骨は、その時代の琉球列島に人が住んでいた事を裏付ける貴重な発見となりそう。
9月 奈良県橿原市藤原宮跡(12月6日参照>>)にて最古の「朝賀」の遺構発見続日本紀によれば大宝元年(701年)に国の内外に律令国家の完成を宣言した「元旦朝賀(がんたんちょうが)の儀式」が行われていますが、今回の遺構は、その際に「幢幡(どうばん)」と呼ばれる旗を立てた遺構との事で画期的な発見とされます。
10月 大坂冬の陣の和睦成立を報告する片桐且元(かたぎりかつもと)(8月20日参照>>)書状を発見東京都内古書店で6月に見つかっていた書状が、慶長十九年(1614年)12月18日に片桐且元が西本願寺の宗主に宛てて「和睦が進んでいる」事や「視察に訪れた徳川秀忠の機嫌が良かった」事などを報告している手紙であると確認されました。
京都市右京区高山寺に伝わる国宝の絵巻「鳥獣人物戯画」について、絵の順番が入れ違っていた事が判明…もともと絵に連続性の無い部分があった事から「順番が違っているのでは?」と指摘されていましたが、今回、透過光調査の結果、甲巻の23枚目と11枚目のハケの跡等が一致した事から判明しました。
奈良市平城宮跡(2月15日参照>>)からペルシャ人の名前が書かれた木簡が出土奈良文化財研究所が赤外線を使って調べたところ「破斯清道」なる名前(破斯=ペルシャを意味する中国語)を発見。ペルシャ人の名前の入った木簡が確認されたのは日本初で平城京が国際都市だった事をうかがわせます。
*平城京に住んだインド僧=菩提僊那>>のお話も参照いただければウレシイです(゚ー゚)
福井県立図書館にて大坂夏の陣に徳川方として参戦した越前松平家の家臣の手紙の写しを発見…そこには、その家臣が「自分がやりを交え、真田信繁(さなだのぶしげ=幸村)を討ち捕らえた事」が記されており、写しとは言え、討ち取った本人の証言という点で評価でき、信繁が戦いながら死んでいったとする説を補強する物との見方がされています。
11月 京都市伏見区伏見城跡(3月7日参照>>)から石垣の一部が14.5mに渡り出土…昨年発見され、豊臣秀吉が築いた「幻の伏見城」とされる指月城の存在を証明した遺構から西へ約200mの地点で発見された城の中堀と思われる石垣は、自然石をそのまま使用しつつも、表面を加工するなど、工法の新旧入れ換わり時期の様相が見られ、それが整然と出土した事が評価されます。
福岡県筑紫野市の丘陵上で、長さ500mに及ぶ大規模な7世紀の土塁を発見…丘陵上での土塁の確認は初めてで、古代九州を統括し国家外交の最前線だった大宰府を守る防塁とみられ、ここに広大な防衛ライン(8月27日参照>>)が引かれていた可能性大。
12月 京都市下京区本願寺史料研究所にて忠臣蔵に関する記録発見史料は、「忠臣蔵」で知られる「赤穂事件」(12月14日参照>>)について、西本願寺が事件後の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の容体を「お痛みが軽く」などと把握し、直接、事情聴取を行っていた事を示す記録など6点。吉良家と西本願寺との関係の重要度がうかがえます。
大阪市天王寺区餌差町「真田丸」の痕跡(真田丸はどこにあった?参照>>)を求めて発掘調査をしていた民間団体「『真田丸』発掘推進協議会」人工的に土を盛った層を確認しました…NHK大河ドラマのタイトルにもなった真田丸は大坂冬の陣にて真田信繁が構築した出城(真田丸の攻防>>)で、これまであやふやだった位置を推定するとともに、土塁の一部を発見した物です。

こうして見てみると、この1年、様々な発見があった事がわかりますが、個人的には、やはりNHK大河ドラマのおかげで、大坂の陣関連の発見が相次いだ事ですね。

上記でもリンクしたページ=「真田丸はどこにあった?」>>)に書かせていただいております通り、私個人も、以前から、「真田丸の場所は明星高校のグランドあたりでは?」と推測していたわけですが、やはり、それを確定するためには、それなりの調査が必要・・・

そう言った場合、その年の大河ドラマ等で話題になり、注目を浴びる事によって一気に進展する場合も多々ありで、ファンとしてはワクワクしきりですo(*^▽^*)o

一方、今年は、4月に発生した熊本地震にて、熊本城阿蘇神社をはじめとする多くの文化財が被害を受けた事で、文化財を守り&保存して行く事の重要性をあらためて痛感させられた年でもありました。

一歴史好きとしても、被災地の1日も早い復興を願うばかりです。

・‥…━━━☆

とまぁ、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2016年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして2017年も、よろしくお願いします
 .

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2015年12月31日 (木)

日本史の新発見&発掘…2015年総まとめ

 

いよいよ、慌ただしき年の暮れ・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、この2015年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、ページのボリュームうんぬんや個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 奈良県立橿原考古学研究所奈良県明日香村小山田(こやまだ)遺跡で、飛鳥時代中期(7世紀中頃)頃の巨大な古墳の墳丘の一部と濠跡を発見…方墳と推定されるその遺跡は、飛鳥時代最大級の蘇我馬子(そがのうまこ)の墓とされる石舞台古墳(11月13日参照>>)より大きい事から、第34代:舒明天皇初葬墓(しょそうぼ=改葬前の墓)である滑谷岡(なめはざまのおか)陵の可能性が高いとみられますが、一方では馬子の子=蘇我蝦夷(えみし)大陵とも考えられるとの事。
滋賀県彦根市松原町松原内湖遺跡の丘陵地から、織田信長(おだのぶなが)が元亀元年(1570年)の佐和山城攻めの際に築いた堀切(ほりきり)や竪堀(たてぼり)などの遺構を発見…織豊期における包囲網戦を考える貴重な史料となりそうです。
2月 大阪文化財研究所が大阪市の難波宮(なにわのみや)近くで、地方行政単位「五十戸」を記した木簡が出土した事を発表…大化の改新後の646年に難波宮に遷都した孝徳天皇(6月14日参照>>)「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに一人徴発せよ」との(みことのり)を発した事が書かれている『日本書紀』内容を裏付ける証拠となる可能性も…
3月 滋賀県彦根市教育委員会が、彦根城から、石田三成(いしだみつなり)の居城で関ケ原合戦で落城した佐和山城で使われていた石垣と瓦片を確認…佐和山城の石垣を利用したことは江戸中期に書かれた井伊家文書「井伊年譜」に記述がありますが(2月1日参照>>)実際に発見されたのは初めて
4月 福井県が、織田信長に攻められた越前朝倉義景(あさくらよしかげ)自害した(8月6日参照>>)事を伝える羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)書状を、島根県在住の個人から購入した事を発表…義景自害後にその事が書かれた最も早い書状との事。
5月 昨年(2014年)6月に、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、明智光秀(あけちみつひで)の家臣である斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)に宛てた四国攻めに関する書状が見つかった(昨年のニュース総まとめページ>>)岡山市北区林原美術館が所蔵する「石谷家文書」の中に元関白:近衛前久(このえさきひさ)が、本能寺の変の9ヶ月後に元親の腹心に宛て、困窮状態への助力を求めた書状を発見…光秀謀反の要因=「四国説」(6月11日参照>>)を後押しする史料として注目を浴びそうです。
6月 京都平安文化財(京都市伏見区)が、豊臣秀吉が造営した伏見城(3月7日参照>>)の初期段階にあたる指月(しげつ)城とみられる石垣と堀が見つかったと発表…城の中心部が確認されたのは初めてで、「幻の城」とされてきた指月城の存在をより確実にする貴重な遺構です。
大阪府高槻市安満(あま)遺跡にて、弥生時代前期(約2500年前)近畿における最古級の水田跡を確認…近畿地方で米作りが始まった頃の風景や稲作のルーツを探る新発見となりそうです。
7月 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が、ドイツボンで開催されていた「第39回 世界遺産委員会」において世界文化遺産に登録されることが決定しました。
平安時代後期の約60年間に7回以上の拡張工事が行われたとみられる滋賀県長浜市塩津港遺跡の遺構から、多種多様な遺物を次々と発見…中でも、今回確認された造成技術や石製としては最古級となる12世紀頃の硯(すずり)など、この塩津港が交通の要所として繁栄していた事をうかがわせる物が多数。
8月 兵庫県あわじ市で発見された弥生時代中期の銅鐸(どうたく)7個のうち、大きい銅鐸に小さい銅鐸をはめ込んだ「入れ子」状態の1組2個を調査したところ、つい手にあたる「鈕(ちゅう)と、内部につり下げて打ち鳴らすであろう棒=「舌(ぜつ)ひもやひもをつけた痕跡を発見銅鐸や舌からひもが見つかったのは初めてで銅鐸の使用法を探る貴重な発見となります。
9月 奈良県明日香村の飛鳥時代(7世紀)に造られた国内最古の宮廷庭園跡=飛鳥京跡苑池で、苑池に入るための門跡を発見…天皇たちが利用した門の跡であると見られ、未だ全体像がつかめない苑池を考察するうえでの貴重な発見となっています。
京都市の中心街=四条烏丸に近い改築予定の店舗兼住宅地から、室町時代の寺院の物とみられる風呂跡や、香炉等の土器類、瓦などが出土…江戸時代の観光ガイドブックにしか、その存在が記されていなかった幻の寺=五条寺の可能性があるとして調べがすすめられています。
10月 国連教育科学文化機関(ユネスコ)が、第2次大戦後のシベリア抑留の資料国宝「東寺百合文書」(いずれも京都府所在)の重要性を認め、世界記憶遺産に登録した事を発表しました。
11月 「みだれ髪」などで知られる歌人=与謝野晶子(よさのあきこ)が半身不随になった最晩年、鉛筆書きの乱れる字で短歌の草稿を記したノートを、東京都内に住む晶子のひ孫さんが納戸で発見しました。
12月 奈良市役所南側の奈良県警奈良署跡地から、大型建物跡を含む奈良時代後半(8世紀後半)の広さ約14000㎡と推定される邸宅跡を発見…場所は、天皇の住居である内裏(だいり)があった平城京から、南東に約600mの一等地で、貴族高級官僚の邸宅跡とみて調査しています。

・・・と、こうしてみると、この1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも興味津津なのは、やはり、昨年発見された「長宗我部元親の書状」に続く「石谷家文書」での発見。。。

今回発見されたのは、元関白の近衛前久(このえさきひさ)が、徳川家康(とくがわいえやす)のお膝元の浜松から、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の側近であった石谷頼辰(いしがいよりとき=斉藤利三の実兄)とその義父に宛てた書状で、日付けは天正十一年(1583年)2月20日=本能寺の変の9ヶ月後となっています。

気になる内容は・・・(報道によると…)
「信長とは長年仲良くしてたんで、変の後にはおかしな噂をたてられてしもて…
その後に光秀を倒して京都に来た秀吉からも関与を疑われて…
ほんで、今は家康君を頼ってここに来てるんやけど…
今度、四国に行く時には長宗我部君を頼りたいと思てんねん。
一昨年くらいに、公家の一人が信長に長宗我部君の悪口を吹き込んだ時、僕は「長宗我部君は、そんなヤツやない!メッチャ律儀なええヤツや!」って言うて、とりなした事もあってんやから、もし四国に行く事になったら、その時はヨロシクね」

てな感じです。

ニュースの見出しには(本能寺の変の)四国攻め回避説強める』とありますが、私としては昨年同様、この書状の発見で本能寺の変の謎が解けるか?と言えば、そう簡単な物では無い・・・という感じですね。

昨年のその時にもお話させていただいたように、明智光秀も、その側近たちも、四国攻めを回避するに越した事はないとは思っていたでしょうが、だからと言って、「主君に対して謀反を起こす」という重大さは大変な物・・・それはそれはものスンゴイ理由が無い限り、そんな事(謀反)は起こさないはすで・・・

やはり、この書状も、その「ものスンゴイ理由にはなっていない・・・むしろ「本能寺の…」「四国説の…」というよりは、めまぐるしく変わる状況に翻弄されるお公家さんの右往左往っぷりが垣間見える感じですね。

結局、この後の前久さんは、秀吉VS家康の小牧長久手を避けて奈良へと避難した後、秀吉が四国攻めを開始したさ中に、秀吉を猶子(ゆうし)として迎え、関白の座に着く手助けをするのですから、まさに翻弄された感じ・・・とは言え、当時の状況を知る重要な史料である事には間違いないですね。

さらに、もう一つは、秀吉が造営した初代伏見城である指月(しげつ)城とみられる石垣と堀の発見!ですね。

今や2代目の伏見城でさえ幻の城なのに、さらに、その前の指月城ですから・・・

今のところ、京都市内の聚楽第(じゅらくだい=じゅらくてい)(4月14日参照>>)と様式が酷似している石垣と、それに沿う形の堀の跡などが発見されているようですが、なんせ、場所が指月城の中心部に当たると推定させる場所からの出土ですから・・・更なる発掘に期待したいですね。

・‥…━━━☆

という事で、様々なご意見もおありかと思いますが、とりあえずは、独断と偏見で以って本年の歴史ニュースをまとめてみました~

今年一年、本当にありがとうございました・・・
さま、良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして2016年も、よろしくお願いします
 .

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2014年12月29日 (月)

日本史の新発見&発掘…2014年総まとめ

 

いよいよ、慌ただしき年の暮れ・・・て事で、本年の締めくくりは、この一年間に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、ページのボリュームうんぬんや個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 大阪市中央区「難波宮跡(12月11日参照>>)「大規模回廊の可能性」発見…奈良時代に造営された難波宮の一部に、土壇跡や瓦片などが見つかり、南北約120m、東西約85mの区域を囲む瓦ぶきの回廊があった可能性が高まりました。
京都市東山区「井伊美術館」で、「吉田松陰の新たな辞世の句」を発見…♪此程(これほど)に思(おもい)定めし出立(いでたち)は、けふきく古曽(こそ)嬉しいかりける…矩之♪とあり、吉田松陰(よしだしょういん)(11月5日参照>>)が自身の実名=矩方(のりかた)を汚したくないとして、あえて別名で詠んだ可能性もあるとの事…
「卑弥呼の鏡」と称される3世紀後半の三角縁神獣鏡を最新の3Dプリンタで復元したところ、光を当てると裏面の文様が浮かび上がる「魔鏡」の構造であった事が判明したと京都国立博物館の村上学芸部長が発表…古代の人々にとって鏡がどのような役割を果たしたのか?新たな研究期待。(11月30日【古代日本における鏡とは~】参照>>)
2月 邪馬台国か?と噂される奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡4つめの建物跡…すでにエリアの中央部で発見されている宮殿とおぼしき建物の東に位置し、居館の可能性があるとみられています。
奈良県上牧町で3年前に発見された久渡(くど)2号墳飛鳥時代の大規模な終末期古墳と判明…古墳の規模が小さくなる傾向にあった時代に関わらず、比較的大規模な事が判明し、敏達天皇系の皇子の古墳である可能性も…
3月 豊臣秀吉が築いた最初の大坂城市民に公開するプロジェクトとして、昭和59年に発見された地下7mの所に埋まっている石垣を新たに発掘して報道陣に公開…今回は4日に報道陣に、7~9日に一般公開されたのみでしたが、後に常時見学できる施設を設ける予定で、現在、募金が行われています。
石垣公開プロジェクトの公式ページ>>(別窓で開きます)
4月 卑弥呼の後継者=台与(壱与)の墓ではないか?と噂される奈良県天理市西殿塚古墳で、前方部頂上に巨大な石積みの方形壇が築かれていた事が判明…土壌は他にもあるものの、石積みの方形壇はほとんど見られない事から、今後の研究に期待が高まります。
5月 広島県福山市広島県立歴史博物館が、8代将軍・徳川吉宗が享保10(1725)年頃に作らせた地図「享保日本図」の基になったとみられる測量図を発見した事を発表…測量図は縦152cm、横336cm、縮尺21万6千分の1で、北海道の南部から九州・種子島までの地名が記載されており、当時の測量方法を示す貴重な資料との評価。
卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市箸墓古墳の古写真が保存されている事を宮内庁が発表…植樹がされた現在の形になる以前の明治9年に撮影された写真で、今後、構造解明の手掛かりになる事が期待されます。
6月 岡山市北区林原美術館が所蔵する「石谷家文書」の中に、土佐長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が、明智光秀(あけちみつひで)の家臣である斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)に宛た四国攻めに関する書状が見つかった事を発表…日付けが本能寺の変の10日前という事で、謎の解明に近づくのでは?との期待が持たれます。(6月11日【明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…】参照>>)
藤井寺市林遺跡から大小2基の釣り鐘の鋳造遺跡を発見…7世紀末~8世紀前半に使用された跡と見られる事から、鋳造跡としては最古クラスとの事で、更なる発掘成果に期待。
7月 豊臣秀吉太閤検地(7月8日参照>>)の実施以前に、大名らに土地の面積や石高を自己申告させた「指出検地」の具体的な内容を記した文書を、兵庫県たつの市市立龍野歴史文化資料館が発見…全国で初めて確認されたこの文書は、天正13(1585)年に秀吉配下の大名、仙石秀久が作成して提出した物とみられ、豊臣政権初期の土地支配や大名支配の様子を確認できる貴重な資料との事。
8月 奈良県明日香村にある飛鳥時代初期(6世紀後半)都塚古墳が、東西約41m、南北約42mの巨大方墳で、国内に例がない階段ピラミッド状であることが判明…当時の実力者である蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や蘇我氏の邸宅跡からも近い事から、馬子の父である蘇我稲目(そがのいなめ)(10月13日参照>>)の墓の可能性が高いとの見解です。
9月 豊臣秀吉の弟、秀長(ひでなが)(1月22日参照>>)が居城とした郡山城(奈良県大和郡山市)で、16世紀後半の安土桃山時代に天守閣があったことを裏付ける礎石を初めて確認…高さ15~20mで5階建てだったと考えられ、関ケ原合戦以前の天守閣の構造が分かる発掘成果は珍しいそうです。
10月 奈良県明日香村の国史跡・名勝「飛鳥京跡苑池(えんち)(7世紀)で、「取ったら災いが起きる」という内容の警告文が刻まれた珍しい土器が見つかりました…一見、ものスンゴイ予言にも思えますが、「おそらくは泥棒よけでは無いか?との事。「冷蔵庫のプリンに名前を書く」みたいな物?ww
11月 京都府向日市埋蔵文化財センターと立命館大による、同市寺戸町にある3世紀半ば~後半の大型前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」の発掘調査で、この古墳が、卑弥呼の墓といわれる「箸墓(はしはか)古墳」(奈良県桜井市)と酷似している事が判明…古代史を解明する上で鍵となる可能性が高まり、研究者から注目を集めています。
藤原宮(12月6日参照>>)から南約2kmの橿原市石川町藤原京跡で見つかった東西に細長い全長約51mの大型建物跡が、予想以上にしっかりした造りで、当時の宮殿クラスの建物だった事が判明…このような建物は、本来、藤原宮内にあるのが普通で、宮から遠く離れた京の南端で見つかった事に、「常識を覆す発見」と専門家も驚き、建物の性格についての謎が深まっています。
12月 織田信長東大寺(奈良市)に宛てて、戦乱からの保護を約束した書状が発見された事を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が発表…日付けは天正元年(1573年)9月で、この数年前に松永久秀三好氏との戦い(9月29日参照>>)で大仏殿を焼かれた東大寺が、畿内に勢力延ばして来た信長に保護を求めた事に返答したものと推測されます。(3月28日【織田信長の蘭奢待・削り取り事件】参照>>)

・・・と、こうしてみると、この1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも茶々いち推しのニュースは、やはり、6月に発見された「長宗我部元親の書状」!!ですよね~~

ただ、別のページのコメントにも書かせていただいたように、この書状の発見で本能寺の変の謎が解けるか?と言えば、そう簡単な物では無い・・・というのが、今のところの私の見解です。

確かに、「四国説」(再びですが…6月11日参照>>)の追い風となる、すばらしい一級史料ではありますが、その内容は
「言わはる通り阿波から撤退した事を信長さんに伝えてほしい…けど、土佐の周辺は長年俺が頑張って来た土地やから手放したくないねん。かと言うて戦争したいわけやないんで、何とかしてくれへんやろか?by元親」
てな感じ・・・(当時の元親はこんな状況…9月21日【ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定】参照>>)

四国攻めを止めて欲しいと願う元親の気持ちは充分理解できますが、受け取った利三と、その主君の光秀の心の内は・・・??

確かに、光秀は利三を身内のように可愛がっており、その利三の妹が元親に嫁いでいるという三者の仲ではありますので、光秀と利三も、戦いを回避する事が望ましいとは思っていたでしょうが、事あらば、身内と言えど討つ覚悟が無ければやっていけないのが戦国の世というもの・・・(7月14日【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)

逆に、「主君の命令を蹴る=謀反を起こす」という重大さは、他の事とは比較にならないほど・・・まして、光秀ともあろう優秀な武将ならば、それはそれはものスンゴイ理由が無い限り、そんな事(謀反)は起こさないだろうと人は考えるわけで・・・

今回の書状を含め、未だに、その「ものスンゴイ理由には、お目にかかれてないわけで・・・
だからこそ、未だにその謎が解けないわけで・・・

ただ、先にも書きましたように、今回の発見は「四国説」を後押しする重要な史料である事は確かですから、この先、その謎を解くためには欠かせない史料の一つとなる事は間違い無いでしょう。

という事で、独断と偏見で以って本年の歴史ニュースをまとめてみました~

今年一年、本当にありがとうございました・・・
さま、良いお年をお迎えくださいませm(_ _)m
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2014年1月 3日 (金)

あけおめ~日本史の新発見&発掘…2013年総まとめ

 

fuji謹賀新年fuji

皆様、あけましておめでとうございますm(_ _)m
本年も、「今日は何の日?徒然日記」をよろしくお願いします。

2014blog

・・・て事で、新年、1発めの今日は、昨年報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

とは言いましても、専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに、個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、独自の歴史ニュースという事で、ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 奈良県明日香村「飛鳥寺西の石敷き広場内「樫の木の広場」を確認大化の改新(6月12日参照>>)の立役者=中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)が蹴鞠で飛ばした沓(くつ)中臣鎌子(なかとみのかまこ=後の藤原鎌足)が拾って手渡した事で人が出会ったとされる「樫の木の広場」と思われる場所を確認。
奈良県奈良市「薬師寺の発掘調査」で、14世紀には失われていたと思われる「300人は収容できる大きな食堂跡」が発見され、平安時代に書かれた「薬師寺縁起」の内容が裏付けられる事に…。
大阪市中央区難波宮跡の「後期難波宮の発掘調査」回廊跡出土…ここに、『東南新宮』(12月11日参照>>)のような格式の高い建物があった可能性が高くなりました。
2月 邪馬台国か?と噂される奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡で、大量の柱穴発見…狭い場所に何度も建物を建てたり壊したりした跡が見てとれる事から卑弥呼(ひみこ)祭祀を行った場所では?との声も…。
堺市北区ニンザイ古墳謎の柱穴列発見…宮内庁の管理のため、その実態がほとんどわかっていないニンザイ古墳で、前例が無いほとの多数の柱穴が見つかり、祭祀用の舞台か?橋の跡か?と話題になりました。
3月 奈良市JR奈良駅北側の平城京跡から、破棄されたとおぼしき埴輪の破片が発見されました…おそらくは平城京の造営のために、少なくとも、3基以上の古墳群が破壊されたとみられています。
4月 日英共同研究チームが、北海道や福井県などから発見された縄文式土器の焦げ跡に調理の跡を発見した事を発表…焦げ跡にはサケなどの魚を煮炊きしたとみられる脂質が含まれており、これまで「農耕が始まる前の土器は食糧の貯蔵のための器だった」という定説がくつがえされ、それ以前から、すでに魚を料理をして食べてした事が明らかとなりました。
神戸市灘区深江北町遺跡から、東大寺の大仏鋳造の寄付を示す木簡発見都以外の地方で、奈良時代の大仏鋳造の寄付を示す木簡が発見されたのは初めてで、地方の役人が、寄付の集金業務に関わっていた事が明らかとなりました。
5月 滋賀県長浜市長浜城歴史博物館が、賤ヶ岳の戦い(4月20日参照>>)におけるの羽柴(豊臣)秀吉指示書が見つかった事を発表…内容は、賤ヶ岳の戦いの時に、最前線の砦のそばに造った野営のための小屋を取り壊す際のダンドリを弟の秀長に指示した物で、これまで、軍記物の記述でしか確認できなかった賤ヶ岳の合戦の砦の存在が裏付けられる貴重な史料となりました。
京都市伏見区伏見城跡の発掘調査で、巨大な土橋や豪壮な石垣などが確認されました…同じ場所に明治天皇陵がある事から、これまで研究が進んでいなかった伏見城跡に、宮内庁の許可を得て大規模な発掘調査がされ、幻の伏見城の全貌解明に一歩近づくかも…。
6月 大阪府八尾市亀井遺跡で約30年前に発見されていた弥生時代の石製品が、てんびん用の分銅であった事が解明されました…当時貴重だった赤色顔料=朱が付着しており、この朱の配分で厳密な重さを計っていたとみられ、もちろん、日本最古の分銅です。
京都市中京区貴族の邸宅跡から30年前に発見されていた土器に、いろは歌の全文が書かれていた事が判明…一昨年の新発見のまとめでも、「最古ののいろは歌が書かれた土器が…」というのを取り上げましたが(2012年12月27日参照>>)、今回も最古…しかも、今回は、そこに全文が書かれていたとの事です。
7月 京都市歴史資料館が保存する資料の調査で、夫の葬儀の参列者に宛てた新島八重の直筆書状を発見…その年に大河ドラマ関係の資料が新発見される事がよくありますが、歴史好きにとってはウレシイ副産物ですね。
8月 滋賀県高島市上御殿(かみごてん)遺跡から弥生時代~古墳時代初めの短剣の鋳型を発見…そのデザインが中国・華北や内モンゴルの物に酷似している事から、これまで、朝鮮半島を通じて九州へのルートだと考えられていた銅剣の伝来が、日本海を通じて大陸から直のルートで伝来した可能性が浮上。
9月 京都市上京区桃山時代の大名屋敷跡から金箔の貼られた瓦片が100枚以上が出土…中には橘の家紋をほどこされた豪華な物もあり、豊臣政権時代の五奉行の一人・前田玄以(げんい)(5月7日参照>>)の屋敷跡ではないか?とみられます。
奈良県明日香村蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)(6月12日参照>>)父子の邸宅があったとされる甘橿丘東麓遺跡で、7世紀半ば頃と思われる建物跡を新たに発見…彼らの邸宅が広範囲に広がっていた事が確認されました。
10月 奈良市興福寺境内平安時代の将棋の駒を発見「桂馬」「歩兵」とともに発見された、現在の将棋では使用されない「酔象」の駒は、これが日本最古の物となります。
11月 京都市東山区方広寺大仏殿跡(7月26日参照>>)巨大な柱穴4個を新たに発見…これで、方広寺の大仏殿が、伝承通り、東大寺大仏殿を上回る日本最大の木造建築だった事が、ほぼ確定となりました。
奈良県明日香村飛鳥京跡苑池(えんち)全容が判明した事を県立橿原考古学研究所が発表…宮廷庭園跡として発掘調査されて来た中、大垣に囲まれた中に池を配置した日本庭園のルーツと言える庭で、万葉歌を詠むにふさわしい美しい庭園であった事が判明しました。
12月 京都市上京区相国寺光源院黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)(3月20日参照>>)荒木村重(あらきむらしげ)(5月4日参照>>)に宛てた手紙の写しを発見…コチラも、今年の大河ドラマの主役という事で、この1年、官兵衛がらみの発見が増える事が期待されますね。
ご存じのように、村重の有岡城に官兵衛が長期幽閉されるという悪しき因縁(10月16日参照>>)のあるこのお二人ですが、手紙の内容は、「何かあったら姫路に来てね!」と、幽閉の一件があった後も、お互いに交流をしていた事がうかがえるイイ内容となっているようです。

・・・と、こうしてみると、昨年1年だけでも、様々な発見があった事がわかりますが、その中でも茶々いち推しのニュースは、4月に発表された日英共同研究チームによる縄文式土器調理の跡!!

聞くところによれば、この縄文式土器の調理跡は、現在のところ「世界最古の調理の痕跡」なのだそうですが、奇しくも、昨年は日本人の伝統的な食文化である「和食」が、ユネスコ無形文化遺産に登録されましたよね。

そう、つまり、この世界最古の調理跡に日本人が受け継いで来た和食の原点があるという事になるのですよ!

日本人の祖先の縄文人が、世界で初めて、食品を調理して食べていた・・・まさに、和食の誕生!!

まぁ、いずれまた、世界のどこかで新たな発見があるのでしょうが(*´v゚*)ゞ、それまでのしばらくは、そんな夢に酔ってみるのも良いかもしれません。

という事で、本年も、我がブログに、チョコチョコ遊びに来てくださいませ。
よろしくお願いしますm(_ _)m
 .

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2012年12月27日 (木)

日本史の新発見&発掘…2012年総まとめ

 

いよいよ、今年も、残すところ、あと5日・・・

振り返れば、今年も様々な新発見があった1年でしたね。

大きく報道されたのは、6月に福岡県太宰府松本遺跡で発掘された『戸籍を記す最古の木簡』・・・7世紀末の飛鳥時代の物で、人名や身分や性別などが分かる16名分の戸籍が記されており、大宝律令以前の地方行政単位である「評(郡に相当)」の文字も見えるそうです。

これまで最古とされていたのが、奈良・東大寺の正倉院に伝わる『筑前国嶋郡川辺里(かわべり)戸籍』(702年)など・・・大宝律令の完成が大宝元年(701年)ですので(8月3日参照>>)、まさに、今回、それ以前の戸籍が初めて発見された事になります。

近くには大宰府政庁跡がある事から、その発掘場所近くにも役所があった可能性が高いとの事・・・おそらく、まだまだ、何か発見されるんじゃないでしょうか?

個人的に気になったのは、あの奈良の藤ノ木古墳の埋葬者の一人が女装していた可能性が高い事がわかった事・・・皇族クラスの古墳でありながら、未盗掘という貴重な状態で昭和六十年(1985年)に発掘された藤ノ木古墳の二人の埋葬者が、皇位継承がらみの蘇我(そが)VS物部(もののべ)の争いに敗れて殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ=北側被葬者)(6月7日参照>>)宅部皇子(やかべのみこ=南側被葬者)ではないか?と推理されていると、以前、お話させていただきましたが(9月15日参照>>)、そのお名前でわかる通り、どちらも皇子=男性なのですが、南側の被葬者がネックレスやブレスレット、足にもアンクレットとおぼしきガラス玉を巻いており、古墳時代の埴輪を見る限り、このような装飾品は女性に用いられる物・・・つまり、「女装して埋葬されていた」という事になります。

Dscn2539a900 藤ノ木古墳

そこで、考えられる推理は二つ・・・

古代の中国で「宮刑(きゅうけい)という、死刑に次ぐ思い刑が存在し、それが男性のアレを切り落とす刑だった事から、それを真似て、実際に切るのではなく、女性の恰好をさせて埋葬する事で、一種の見せしめの刑に処したのではないか?との事・・・

そして、もう一つは、生前の二人が男女のように仲が良かった・・・つまり、南側の方がオネェ系だったかも・・・実際に、「穴穂部皇子と宅部皇子は非常に仲が良かった」という記録も残っているのだとか・・・

もちろん、未だ埋葬者が誰なのかも特定されていませんから、女装に関しては、あくまで推理の段階なのでしょうが、個人的には後者であってほしい気がします。

いつの時代も恋愛は自由・・・「罰でさせられた」というよりは、生前のご本人に良かれと思ったおくり人のやさしき処置と思いたいです。

また、残念なニュースも・・・

2月には、大阪城の天守閣の西方にある武家屋敷跡の発掘調査で、係の方の連絡ミスにより、大坂夏の陣の焼土層を40cm~90cmくらい深く掘り過ぎてしまい、一部調査不能になってしまったのだとか・・・まぁ、誰も「わざと壊そう」とは思っていないわけで、おそらくは関係者の方も意気消沈なさってると思われ、残念ではありますが・・・

一方、これこそ残念なのは、まさに一昨日のニュース・・・『岡山市北区にある金山寺の本堂が全焼』・・・

あの宇喜多直家(うきたなおいえ)(10月30日参照>>)が再建に尽力したという天正時代の建物・・・未だ出火原因も特定されていないので何とも言えませんし、住職さんがご無事で何よりなのですが、重要文化財がなくなってしまうのは、やはり悲しいですね。

そんなこんなで・・・僭越ではありますが、今年、気になった歴史の発見&発掘を一挙まとめてみようと思います。

1月 京都府八幡市「古代寺院・美濃山廃寺(みのやまはいじ)跡」から、約30棟分の建物跡が出土…謎の寺院の伽藍配置が解明されるかも。
三重県明和町「斎宮跡」からひらがなで「いろは歌」の書かれた11世紀末~12世紀前半の土器の破片発見…いろは歌が書かれた物としては最古。
京都の清水寺「清水の舞台」は3度焼失…舞台下の地層約3mのところから3層の焼土が見つかりました。
京都市下京区興正寺で江戸末期の京都の地震や幕末&維新の動乱の時代の京都の様子を記録した僧の日記を発見…謎の部分を解明できる貴重な史料。
2月 奈良県橿原市「新堂遺跡」で、井戸の中から鬼の顔を墨で描いた平安時代後期の土器発見…井戸を埋める際に鬼を地中に封じ込める何かの呪い使われた可能性アリ。
邪馬台国か?と噂される奈良県桜井市纒向(まきむく)遺跡で、大型建物跡の南側に溝発見…建物跡と並行している事から柵の跡と考えられています。
3月 奈良県橿原市藤原宮跡で、重さ1tもある礎石が2個見つかりました…「建部門(たけるべもん)と呼ばれた門の可能性が高く、その礎石の大きさから立派な門であった事がうかがえるそうです。
4月 大阪府狭山市のため池から出土した窯跡ではないか?とされる遺跡から、瓦や煉瓦のカケラ約200点と須恵器のカケラ約1000点出土…5世紀~13世紀の数百年間に千基の窯があったとされる大規模な生産拠点だった事が証明されました。
5月 大阪府高槻市萩之荘南遺跡で、大規模な溝に囲まれた竪穴式住居跡や墓を発見…弥生時代末期の環濠集落跡とみられます。
6月 日本書紀などに名前だけ登場していた幻の人工池=「磐余池(いわれいけ)の推定値から池底跡を発見…出土した土器などから、鎌倉時代に埋められた事も判明しました。
7月 奈良県橿原市藤原宮跡で、約42㎡の建物跡発見…これまでに出土していた掘っ立て柱仕様ではなく、初めての礎石の建物跡という事で、格調高い皇族の使用した建物とみられます。
8月 奈良県上牧町久渡(くど)3号墳から中国製の銅鏡=「画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)」1枚を発見…残念ながら調査時の重機による掘削で真っ二つに割れてしまっていましたが、初期ヤマト王権の史料となりそう。
京都市中京区の平安京跡にある京都地方気象台の構内から、物資輸送のために平安時代初期に作られた運河の跡発見…平安京を南北に貫く運河で東西で2本あったうちの西側に当たるらしい。。
また、氾濫の跡も見られ、その土砂で造った秀吉時代の御土居(12月13日参照>>)の一部も確認されたとか…
9月 京都市中京区平安京跡から、「延喜式」(12月26日参照>>)などにその名が登場するも、平安時代に焼失してしまっていた『白虎楼(びゃっころう)』のものとみられる瓦100枚以上が出土…その文様から丹波国の職人が造営に関わっていた事がわかったとの事…
杏林大の松田和晃教授大潮平八郎の手紙を発見…20年前に購入した古文書を整理していて、今年発見されたそうで、乱を起こす2年前に門徒に宛てた手紙=原本だそうです。
11月 京都府木津市恭仁(くに)京跡から朝堂の建物跡発見…わずか4年間しか存続しなかった恭仁京の全容解明に近づきました。
京都市中京区の平安時代の貴族の邸宅跡から、平仮名が墨書きされた土器の破片が見つかりました…これまで10世紀に成立したとされていた平仮名が9世紀後半にすでに成立し使用されていた事を示す貴重な発見だそうです。
大阪府堺市北区ニンザイ古墳から埴輪が出土…埴輪の分析からあの仁徳天皇陵の次に築造された事が判明し、被葬者には履中(りちゅう)天皇(2月1日参照>>)の名があがっているとの事、さらなる研究に期待します。
12月 奈良県橿原市植山古墳石室を封鎖した跡が見つかりました…この古墳は、日本初の女帝=推古天皇(12月8日参照>>)とその皇子の竹田皇子(たけだのみこ)がいち時埋葬された場所ではないか?と言われる古墳ですが、それを、この後使用できないように封鎖してあったという事は、『古事記』にある推古天皇の改葬を裏付ける史料という事になります。

以上、今年気になった新発見のニュースをピックアップさせていたがきましたが、専門家で無い私の知るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、関西在住という事もあり、さらにそこに、個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、独壇場の重大ニュースという事で、ご理解くださいませm(_ _)m
 .

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2011年4月 4日 (月)

「花見自粛」ムードにひとこと言わせて!

 

今日のお話は、すでに何度か書かせていただいているので、いつも、このブログを見ていただいている方々には重複する内容で恐縮なのですが、今の時期に言いたい事なので、書かせていただく事にしました。

それは、今、一部の方々の間で出ている「花見自粛」の話です。

もちろん、空気を読まないバカ騒ぎはいけませんし、電力不足で計画停電が実施されている中での、やたら大規模なライトアップによる夜桜も考えたほうが良いかも知れません。

しかし、そうではない・・・
日本人が古来から行っていた、本当の花見・・・

それは、現在のようなバカ騒ぎではなく、
最悪の日に、明日への生きる力を得るための行事だった・・・

その事を、是非とも「花見自粛」とおっしゃる方々に知っておいていただきたいのです。
(こんな場末のブログで言っても、拡散はできないでしょうが…(゚ー゚;)

そもそも万葉の昔・・・
旧暦の3月3日か、もしくはその翌日が「花見にでかける日」とされていたのです。

それは、その3月3日が“シガノ悪日”という「何をやっても悪い日=厄日」とされていたからなのですが・・・

記録として残るのは、花が歌に詠まれるようになる万葉の頃ですが、おそらくは、もっと昔の時代から、そのような習慣があったのではないでしょうか?
(万葉の頃の花見は「梅」だったと言われていますが…)

・・・というのも、別ルートで伝わったとおぼしき東北地方にも“シガヨウカ”と呼ばれる最悪の日があって、そこでは4月8日がその日とされ、やはり同じように、この日に花見を行っていたとされているのです。

では、なぜ、最悪の日に花見をするのか?

それが、「タマフリ=魂振り」という儀式です。

これは読んで字のごとく、その場に神を呼び込んで場を清め、自らの魂を奮い立たせる儀式の事で、Yamafurigoheicc わかりやすい所では、神社はもちろん、建築物などの地鎮祭や、その他もろもろの場所で、神主さんが、紙を切ったような折ったようなビラビラが先っぽについた棒のような御幣(ごへい)という道具を左右に振り、お祓いをしますよね。

あれが、「タマフリ」です。

もちろん、あれは、神官となった人が行う正式なタマフリですが、他にも、色々なタマフリがあります。

何も道具を持たない庶民が、衣の袖を振ってタマフリを行い、命がけで旅をする人に「この先、神様のご加護があるように」と祈った儀式が、別れる時に手を振るという行為であったであろう事も、以前のページに書かせていただきました(内容かぶってますが1月31日参照>>)

タマフリの基本は、空気を震わせて波長を起こす事で、神を呼び、場を清め、魂を奮い立たせるワケですから・・・

そう、神社で拍手を打ったり、鈴を鳴らしたりというのもタマフリなのです。

音が、空間を伝わる波長である事は、近代になってからわかった事だと思うのですが、不思議な事に神代の昔から、日本では音を鳴らすタマフリが行われていたのです。

そして、21世紀の現代に生きる皆さまなら、もう一つ、空間を伝わる波長がある事をご存知ですよね?

そう、光=色です。

目にも鮮やかな真っ盛りの花を・・・
燃えるような青葉を・・・
その目で見る事によって、樹木からその生命力を分けてもらう・・・、
元気な色の波長を浴びて、自らの魂を奮い立たせる力を得る・・・

これが「見るタマフリ」です。

確かに、より元気で美しい花の周りに人が集まり、
そこに会話が生まれ、男女の出会いがあり、
やがては、花の下でお酒を酌み交わすようになって、江戸時代の頃には、現在のようなお花見のスタイルになるわけですが、

本来の花見というものは、決してバカ騒ぎする事ではありません。

それは、辛く悲しい最悪の日に、神様に降臨してもらい、その場を清めるとともに、自らの魂を奮い立たせ、明日を生きるための気力・活力を得る儀式なのです。

もちろん、未曽有の大災害に見舞われた今、被害に遭われた方々の気持ちを思う事も、喪に服して自粛する事も大切な事です。

しかし、「花見自粛」とおっしゃる方々・・・どうか、この本来の花見の意味を考えたうえで、そのご判断を下してください。

「それでも自粛したほうが良い」というのであれば、それは、それぞれお考えによるものですから、外野が口を挟む事ではありませんが・・・

一度、原点に立ち返ってみてはどうでしょう。

バカ騒ぎではない、本当の花見は、古代より、日本人が脈々と受け継いできた、明日への希望と活力を得るための神聖なもの・・・

もしかしたら、今こそ、大和魂を奮い立たせる時なのではないでしょうか?

Dscn6160a800 京都府・八幡 背割堤の桜
場所は本家HPの
「歴史散歩・石清水八幡宮」でどうぞ>>(別窓で開きます)
 .

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2010年12月31日 (金)

2010年歴史は動いた~新発見・総まとめ

 

今年も、残すところ、あとわずか・・・
皆さま、お健やかな大晦日をお過ごしでしょうか。

本日は、その2010年を「今日は徒然」風に、今年動いた歴史など振り返ってみましょう。

・‥…━━━☆

今年、なんと言っても一番は、奈良県明日香村のあの牽牛子(けんごし)塚古墳の大発見ですね。

もちろん、この古墳の存在自体は、昔から認知されていて、7世紀後半の物という事も、すでに確認されていましたが、今年行われた発掘調査によって、その形状が八角形である事が判明した事・・・

この時代の古墳の八角形は、天帝を示すとされ、この古墳が天皇陵である事が有力となり、以前から噂されていた斉明天皇(7月24日参照>>)の御陵である事が確実となったのです。

さらにその後の調査で、牽牛子塚古墳の南側20mの所に石室を確認・・・日本書紀では、その斉明天皇の御陵に寄り添うように、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)が葬られた事が書かれており、まさに、その記述を裏付ける形となったわけです。

一方、沖縄石垣島の洞窟では、推定2万年~15000年前と思われる人骨が発見され、今後、日本人のルーツをたどるうえで貴重な資料となる事でしょう。

また、奈良県桜井市茶臼山古墳では、これまでの記録を塗り替える数の銅鏡の発見・・・バラバラの破片となってはいましたが、その数は300点以上にもなり、一つ一つ復元すれば、合計で80枚以上の数であろうと予想される事から、おそらくは大王クラスの人物の古墳であろうとの鑑定結果が出ました。

さらに10月25日には、あの東大寺・大仏殿にて、明治時代に発見されていた太刀のX線撮影で、その太刀に「陽劔(ようのけん)」「陰劔(いんのけん)」の文字が書かれていた事が、新たに判明・・・これが、奈良時代に行方不明となっていた正倉院の宝物であった事が分かり、歴史のロマンを感じさせてくれました。

そして、6月26日、個人的には今年最大の印象的な出来事となった発掘調査報告・・・大阪城天守閣の北側にある「山里丸(やまざとまる)と推定される場所で、大坂夏の陣で焼けたとおぼしき大量の瓦が発見された事・・・このニュースに関連して、わがブログの最高記録・14万4586アクセスの訪問数をいただきました(6月27日参照>>)

その時にも書かせていただきましたが、あまりに多くのアクセスをいただいたおかげで、ココログのサービスを提供されている@niftyさんと、ちょっとしたトラブルになってしまいましたが、それも速やかに解決(7月8日参照>>)・・・今となっては、忘れられない笑える思い出となりました。

そして、大阪城関連では、つい昨日・・・歴史好きにはうれしいニュースがありました。

以前、豊臣秀吉のご命日関連で、大阪城の歴史のような記事で書かせていただいた通り(8月18日参照>>)、現在の大阪城の石垣は、すべて徳川時代の物で、秀吉の大阪城は、その約10mほど下に、石垣ごとスッポリと埋められた状態となっているわけですが・・・
Dscn7118a600 (一部発掘されている豊臣時代の石垣についてはホームページの歴史散歩で、その発見の経緯やボウリング跡からの写真を含め、くわしくご紹介していますので【大阪歴史散歩・ヒミツの大阪城】でどうぞ>>別窓で開きます

・・・で、その地下に眠る豊臣時代の石垣を、常時見学できるようにする地下博物館建設の計画がある事を大阪市が発表したのですよ!

上記のホームページの同じページでご紹介している秀吉が構築した太閤下水・・・ここも、未だ現役の下水である事から、以前は関係者以外立ち入り禁止となっていましたが、3年前にのぞき窓が設置され、ガラス越しではありますが、常時、見学できるようになりました。

もちろん、その太閤下水ののぞき窓とは比べ物にならないくらいのビッグプロジェクトですから、今すぐに・・・ってワケにはいきませんが、私自身も、未だ上から覗いた事しかない幻の石垣を、真横から間近に見られるとなると、もうすでに、胸は期待でいっぱいです。

最後に、本年は、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」だった事で、坂本龍馬がブームとなり、龍馬に関連する新発見が複数登場しましたね。

6月には、龍馬が、大政奉還(6月22日参照>>)するにあたって土佐藩の参政・後藤象二郎を激励する手紙の下書きが高知県の民家から発見されました。

7月には、京都の、やはり一般のお宅で、龍馬最古となる剣術修業時代の手紙が発見されました。

他にも、武市半平太(5月11日参照>>)獄中書簡や、蒸気船・いろは丸の購入契約書などなど・・・中でも、個人的に興味深かったのは、富山で発見された、中岡慎太郎のあの有名な笑顔の写真の原版

そう考えると、ブームになるのも悪くはないですね~
・・・て、事は、来年は、お江さんに関する新たな発見が相次ぐって事???
う~~ん、うれしい限りです。

さぁ、あと10余時間・・・来るべき新年に期待をこめて・・・
「今日は、笑ってはいけないスパイで大いに笑わせてもらおう」っと
(↑歴史に関係ない(゚ー゚;)

とにもかくにも、今年1年、「今日は何の日?徒然日記」にご訪問いただき、ありがとうございました。

徐々にではありますが、年々増えていく傾向にあるアクセス数に、うれしい毎日を送る管理人・茶々でございますゆえ、来年もよろしくお願いします。

ではでは、
皆々様も、良いお年をお迎えくださいませo(_ _)oペコッ
 .

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2009年12月11日 (金)

謎が謎呼ぶ天平人の忘れ物~藤原宮から難波宮へ

 

12月9日づけのニュースで大変興味深いものが・・・

大阪市天王寺区空堀町で出土した瓦が藤原宮の瓦である事が判明したというのです。

何が興味深いって・・・

Fusiwaranomiyakawarasyutudotizu この発見場所(右図の印)というのが、難波宮跡の南東300mほどの8世紀頃の地層・・・何とも不思議です。

つい先日書かせていただいたばかりの藤原京(12月6日参照>>)・・・そのページに書かせていただいたように、第41代持統天皇の世に飛鳥浄御原から藤原京に遷都したのが持統八年(694年)。

一方の難波宮(なにわのみや)は、大化の改新(6月12日参照>>)直後の大化元年(645年)と、第45代聖武天皇天然痘と藤原広嗣の叛乱から逃げまくっていた(10月15日参照>>)天平十六年(744年)の2度、都に定められています。

西暦 天皇 出来事

645
652
孝徳 大化の改新
難波長柄豊崎宮・完成式
667 天智 大津宮遷都
673
 
686
天武 壬申の乱
飛鳥浄御原宮遷都
大蔵省より出火・宮室全焼
694 持統 藤原京遷都

710 元明 平城京遷都
726
734
744
745
聖武 藤原宇合を難波遷都の責任者に
難波京の宅地を班給
難波を皇都と定める
平城京遷都
756 孝謙 天皇が難波宮を東南新宮に
784 桓武 長岡京遷都

前者を前期難波宮(難波長柄豊崎宮・なにわながらとよさきのみや)、後者の天平時代に再び造営された宮殿を後期難波宮と言います。

Naniwanomiyazenkeicc 大阪歴史博物館より難波宮跡を望む

現在の大阪城の南側には、難波宮の遺跡の一部が公園として整備されていますが、実際にはもっと広い範囲が推定されるわけですから、その南東300mとなると、もはや難波宮跡から出土したと言っても良いくらいの誤差です。

そこから、なぜに藤原京の瓦が・・・???

発見された、この瓦は、縦6cm、横17cm、奥行き20cmの大きさで、表面には(つる)唐草模様の浮き彫りがほどこされた、軒先などに使用する軒平瓦(のきひらがわら)と呼ばれる瓦との事・・・

その紋様や表面の仕上げ具合から、香川県三豊市宗吉瓦窯(むねよしがよう)で製作されて、藤原宮の朱雀門や宮殿を囲む塀などに用いられた物と、同一の物であるとの判定が下されたわけです。

考えられる推理は二つ・・・

香川で製作された瓦は、瀬戸内海を船で渡り、当時は難波津(なにわづ)などと呼ばれて遣唐使船の発着場でもあった大阪に陸揚げされ、おそらくは、ここから奈良藤原宮へと運ばれたわけですが、その途中に、破損してしまった瓦を捨てたか、あるいは、運んでいる最中に落としてしまったか・・・

Koukinaniwanomiyafukugen 後期難波宮・復元模型(大阪歴史博物館)

そして、もう一つは、発見された地層が8世紀頃という事なので、すでに、藤原京から平城京へと遷都されてしまった事で、藤原宮の瓦が不要となり、難波宮にリサイクルとして使用したか・・・

実は、後期の難波宮・・・造営に着手したのが神亀三年(726年)で、正式に都と定められたのが上記の通りの天平十六年(744年)。

そして、その1年後の天平十七年(745年)には、再び平城京に遷都されてしまうものの、天平勝宝八年(756年)には第46代孝謙天皇が新宮に移ったりなど、その後も、この難波宮は、平城京に対する副都して、第50代桓武天皇長岡京に遷都する延暦三年(784年)まで存続し続けていたというのですから、何等かの手が加えられていた可能性もあるかも知れませんし、リサイクルというのは大いに考えられますね。

ただ、それなら、出土したのが、たったの1枚というのは、何とも・・・??

破損したり、使わなくなって捨てたのであれば、もっとたくさんの瓦が出土して当然ですし、リサイクルなら、なおさら大量の瓦が必要だったはず・・・たった一枚だけが、ポツンと出土した事に関係者の皆さんも首をかしげておられます。

ならば、やっぱり、運ぶ途中の落し物???

ひょっとしたら、どこかにごっそりと埋もれている可能性も・・・

時空を越えた天平人の忘れ物は、平成の私たちに大きな謎を残してくれました。

謎はいつ解けるのか?
ドキドキ・ワクワク・・・歴史好きは今夜も眠れない!

そんな謎の瓦は、今月の27日まで、難波宮跡近くにある大阪歴史博物館(地下鉄「谷町四丁目駅」下車・火曜日休館)にて公開されてるそうなので、ぜひ、この機会にどうぞ(。・w・。 )
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2009年7月 3日 (金)

最近気になる平安時代は今より温暖化だった?話

 

本日は歴史・・・というより、少々気になっている疑問・・・

昨日、NHK大人のドリルという番組で、地球温暖化が取り上げられていました。

本当は、番組をちゃんと見ようと思っていたんですが、「ビデオの録画設定をし忘れる」というぼんミスで、結局、最後の5分ほどしか見られなかったので、番組の感想を書くわけにはいかないのですが、新聞のテレビ欄の番組紹介には「この100年間で地球の平均気温は0.74度上昇し、異常気象による災害も頻発・・・」てな事が書かれていました。

確かに、その通り・・・この100年間で、地球の平均気温は上昇しています。

では、1000年前は?

実は、木の年輪の調査などから、平安時代の日本の平均気温は、今より3度ほど高かったという結果がはじき出されています。

あくまで、仮説にすぎないかも知れない話ですが・・・
地球上をかっ歩した恐竜が絶滅した後に訪れた大きな氷河期の後、地球は小さな氷河期と小さな温暖期を繰り返しているという話があります。

その説によると、日本では・・・

縄文時代の半ば頃から弥生時代頃までは寒冷期

その後、卑弥呼邪馬台国の頃から大和朝廷の支配が進む西暦500年頃までは温暖期

そこから、大宝律令が制定される西暦700年頃までは再び寒冷期で、次ぎの奈良時代・平安時代・鎌倉時代温暖期が続き、その後、室町時代の1400年前後から小氷期に入り、その寒い期間は昭和の初め頃まで続くと言う・・・。

確かに、これなら、平安時代の気温が今よりも高かったという話も、近代の測定方法で気温が測定されるようになってからの平均気温が上昇し続けているという結果もうなづけます・・・なんせ、測定を開始した頃は、小氷期の最後のあたりになるわけですから・・・

さらに、歴史を紐解いてみても、ところどころ、符合する点があるのも確かです。

聖武天皇を恐怖に陥れた天然痘の流行・・・(10月15日参照>>)

平安京遷都を決行した桓武天皇は、平安京の前に、長岡京へと遷都しますが、未だ建設途中の段階で2度も洪水に襲われたうえ、夫人・皇后・母・息子・・・と次々と(おそらく疫病で)身近な人を亡くし、わずか10年で長岡京を捨てて、平安京の建設に切り替えます(10月22日参照>>)

その平安京で発達した寝殿造りには壁がなく、(すだれ)や几帳(きちょう)のみで仕切るという寒冷期なら考えられない造りです(12月7日参照>>)

さらに、その寝殿造りの清涼殿には、ゲリラ豪雨とともに雷が落ち、人々は菅原道真の怨霊だと恐れて、彼を天神として祀ります(6月26日参照>>)

確か、あの平清盛(2月4日参照>>)の死因となった熱病も、文献に残されたその症状から、現在では「マラリアに感染したのでは?」と推測されていますが、ご存じのように、マラリアは熱帯から亜熱帯地方に分布する感染症です。

京都の祇園祭(7月1日参照>>)をはじめ、多くの「疫病退散のお祭り」が、この頃に生まれているのも興味深いですね(6月16日参照>>)

ところが、室町時代に入って、その様子が一変します。

足利尊氏の京都入りに備えて、後醍醐天皇から皇位を譲られた息子の恒良親王を連れて、福井敦賀へと落ちた新田義貞北国落ち・・・(10月13日参照>>)

その延元元年(建武三年)10月13日を、太陽暦に換算すると1336年11月22日・・・確かに、雪深い北陸では、そろそろ雪の便りも聞かれる頃ですが、彼らが一夜を過ごしたとされる木の芽峠は、わずか海抜600mほどの高さです。

そんなところで、それなりの装備をした軍隊のほとんどが凍死するという悲劇は、やはり、その年が異常に寒かった事を意味します。

その小氷期の真っ只中であった戦国時代には、例の疫病の流行はほとんど見られません。

あの大坂夏の陣の1ヶ月後の慶長二十年6月1日には、江戸一帯に雪が降った(7月9日参照>>)事が記録されていますが、これを太陽暦に換算すると1615年7月9日・・・7月の、それも東京に雪が降る事は、想像すらし難い事ですが、これも小氷期のなせるワザなのでしょうか。

そんな小氷期が徐々に終っていく時期と、日本を含めた世界中が近代化へ向けて走り出すのが、ちょうど同じ1900年頃・・・「この100年で気温が上昇している」というのは、この頃からの記録という事になります。

地球物理学によれば、地球は、この先、500年ほど現在の状況を保った後、大きな氷河期に向かっていくそうですが、その話も、そして上記の内容も、仮説の一つに過ぎません。

ただし、地球が温暖化していて、その原因が二酸化炭素にあるというのも仮説です。

どれもこれも、それを否定したり肯定したりできるほどの知識は持ち合わせていない私ですので、大きな事は言えませんが・・・

誰も見た事がないし、誰も証明した事がない・・・それは、歴史と同じで、明確な答えがない以上、多くの仮説の中から、どれを支持するかは、個人の自由のような気がするのですが、なにやら、誰かが推し進める一つの説に、誘導されている感が拭えない今日この頃・・・

ただ、一言付け加えさせていただくのは、本日のこのページ・・・

ひとつ、地球温暖化について、歴史の観点から見てみるのも一興かと思って書かせていただきましたが、決して、エコロジーそのものを否定しているわけではありません。

地球が温暖化してようがしまいが、その原因がCO2にあろうがなかろうが、エネルギーは限りある資源なのですから、無駄なエネルギーは使わないに越した事はなく、海も川も空も、そして空気だってキレイなほうがいいに決まってます・・・節約という意味でのエコは大切な事だと思います。

それこそ、江戸時代のように、修理&修理を重ねながら、使える物は最後まで丁寧に使いきり、着物や紙は幾度も作り替えられ、人の排泄物さえ畑に再利用する・・・そんな、労働力は惜しみなく使い、限りある物は大切に使う節約型のエコこそ、本来のエコであるべきなのに、いつの間にやら、新しい製品に買い換える事がエコになってしまっている事に、少しの疑問を感じてしまうのです。

確かに、電化製品は電気代は少なく、車はCO2の排出量も少ないのなら、エコかも知れませんが、まだ使えるのに廃棄された物はどうなるのでしょう?

いくつかは、リサイクルされるとしても、いくつかはどこかに捨てられるのでしょう。

それを、エコポイントやエコカー減税なる物で、政府が後押しする・・・なにやら、そこンところに少々疑問に感じる次第です。
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