2013年2月25日 (月)

天智天皇の読み方~「てんち」?「てんじ」?

 

先日upした【長屋王の邸宅跡の木簡発見で…】のページ(2月12日参照>>) で、いつもコメントをいただいているtontonさんから、このような疑問をいただきました。

「タイトルとは関係ないけれど
やっぱり気になるのでお伺いです。
「天智天皇」普通に読むなら「てんち…」と読むし
今までそう信じてきていたのですが
最近目にする読み方は「てんじ…」なんですよね。
どちらでもよいように書かれているものもありますが
正直私は??なんです^^;」

そのお返事にも書かせていただいた通り、私も、学校では「てんち」と習った記憶があるのですが、最近の歴史ドキュメンタリーなどで「てんじ」と発音されているうえに、PCで変換する時に、「てんちてんのう」だと「天地」が出て来ますが、「てんじ」だと1発で「天智」と変換されるので、最近はそうなのかな?と、今のところ、このブログでは「てんじ」というふりがなにさせていただいてます。

結局、今の段階では、世間一般では「てんち」でも「てんじ」でも良いような感じになってるようですが、実は、こういう、曖昧な感じが、この日本には意外に多くあります。

この「日本」という国名さえそう・・・

以前、別のページでもコメントさせていただきましたが、「日本」と書いて、「ニホン」と読むのか?「ニッポン」と読むのかが、実は、「決まっていない」&「どちらでも良い」のです。

江戸時代に日本を訪れた外国人が、「日本」と書いて何と読んでいるのかを巷の人々に聞いて、その発音をアルファベットで書き残しているらしい(それが「日本」の発音に関する最古の記録だそうです)のですが、それによると、
「ニホン」の人もいれば「ニッポン」の人もいて、さらに、変わったところでは「ニフォン」と言う人や「ジフォン」という人などもいたそうです。

結局、昔の人が「ニホン」と言ってたか「ニッポン」と言ってたかがわからないのだからどちらでも良いというのが、今の政府の見解だそうですが、「自国の呼び方が決まっていない国」というのは、世界に類をみないのだそう・・・でも、私、個人的には、事、歴史に関しては、そんな曖昧な感じが好きだったりします。

だって、自分自身はもちろん、現在生きている人の誰一人として、実際に見た事も聞いた事も無い物を、「私はこう思うから、それが正しい見解で、あなたは間違ってる!」なんて事は、私としては口が裂けても言えません。

このブログを書くにあたっても、すべての文章が「…だと思います」「…だったかも知れません」的な言い回しで終わると、何か変な文章になってしまう気がして、一部、断定的な「…でした」「…だったのです」てな書き方をしている部分もありますが、気持ち的には、このブログの内容、全部が、「あくまで、私が個人的に思ってる事」であって、別の意見の方の見解を否定しているわけではありません。

その証拠に、古い記事と新しい記事では見解が少々変わってたりしてるのもあったりします(*´v゚*)ゞ
(↑自慢気に言うな!…と自分で突っ込むww)

そもそも、昔の文献には、基本、ふりがななんてふってありませんし、たまに、ふってあっても、文献によって違っていたりして、ハッキリ言って、何て読んでいたかわからない事が多く、現在、ネット上や教科書等でうってあるふりがなも、読めないと不便なのでふってあるだけで、「それが絶対に正解」というわけでは無いのが本当のところです。

また、それは、古くなれば古くなるほど、わからない度が大きくなります。

それは、以前の【なぞなぞのルーツ?】(4月22日参照>>) でも書かせていただいたように、そもそも、昔と現代では発音が違うのです。

さらに、母音も、現在は「アイウエオ」の五つですが、中世以前はもっと沢山あったと言われています。

そんな中での、今回の天智天皇ですが・・・

「智」の文字が単独で「ち」と読む事でも想像できるように、本来、「天智天皇」にフリガナを打つなら「てんぢてんのう」なのだと思います。

この「ぢ」と「じ」・・・現在ではまったく同じ発音をしますが、以前は「ぢ」と「じ」は違った発音をしていた事が解明されています。

ところが、明治の頃から「ぢ」と「じ」の区別が無くなってしまったため、現在の国語では、明らかに「ち」から変化したであろうごく一部の単語を除いたその他すべてを「じ」とルビをふる事が決まっているのです。

なので、天智天皇は「てんぢ」かも知れないけれど、現在の表記では「てんじ」となるのですね。

ちなみに、病気の「痔」の場合、薬屋さんのCMでは、わかりやすいように「ぢ」と表記されていますが、上記の通り、特例以外は皆「じ」なので、国語としての正式なフリガナは「じ」です。

実は、この発音の変化・・・すでに古代に起こっています。

和歌などでは、「東」と書いて「ひんがし」とか「ひむがし」とかって読んだりしますが、これは、東が太陽の昇る方向であった事から「日向かし」が変化して「ひがし」となったと言われていますので、もともとは「ひむがし」だったわけですが、いつしか「む」と「ん」の発音の区別が無くなって「ひんがし」と発音されるようになったそうで、この変化が起こったのが、なんと万葉の時代だと言われています。

もうすでに、その時代から、言葉という物は変化し続けていたとは!!と驚いてしまいますが、実は、これの名残りが、ローマ字表記に見えます。

この時の「む」という発音は、現在の「む=mu」とも違う発音で、どちらかというと「ん」に近く、ローマ字表記するならば「m」なのですが、たとえば、大阪の難波・・・駅のローマ字表記はもちろん、「なんはCITY」「なんばパークス」のローマ字表記も、すべて「NAMBA」となっています。

ちなみに、例のアイドル集団さんも「NMB48」ですね。

これは、日本橋も同様で、東京の日本橋では「NIHOMBASI」「NIHONBASI」、大阪の日本橋でも「NIPPOMBASI」「NIPPONBASI」と、場所によって2種類の表記が存在します。

つまり、昔の「ん」には、「む」に近い「m」と、完全に「ん」の「n」の2種類の発音があったという事が、逆にローマ字表記にまだ残っている?という事なのですね。

・・・って事は、「JI」と「DI」の他に「ZI」もあって、「HU」と「FU」も違っていたのかも・・・

だから、先の室町時代のなぞなぞも、現在の「は・ひ・ふ・へ・ほ」が「HA・HI・HU・HE・HO」ではなく「FA・FI・FU・FE・FO」っぽい発音だったという事なのかも知れません。

ところで、
最初の天智天皇にお話を戻しますが・・・

「ち」が「ぢ」に変化するのは、方言が絡んでいる気がするのです。

「山崎さん」というお名前がありますよね。

これを「やまさき」と読むのか「やまざき」と読むのか・・・もちろん、現在生きていらっしゃる山崎さんは、ご自分で「僕はやまさきです」とか「私はやまざきです」とおっしゃっているので、当然、ご本人がおっしゃる読み方が正しいし、そう呼んでさしあげねば失礼なわけですが、
(ただし、その「やまざきさん」のご先祖様が、100年前、200年前にも「やまざきさん」と呼ばれていたかどうかは別の問題ですが…)

これを、実際に調べてみると、現段階では、西日本には「やまさき」さんが多くて、東日本には「やまざき」さんが多いのだとか・・・なので、言語学の世界では、この「やまさき」と「やまざき」の違いは方言なのではないか?と言われています。

中田さんや高田さん、中島さんなども同様だそうですが・・・
(そう言えば、北海道出身の中島みゆきさんは「なかじま」で、九州出身の中島美嘉さんは「なかしま」だワ)
これは、名字だけではなく、名詞もです。

たとえば「保健所」・・・

私は大阪生まれの大阪育ちなので、これを「ほけんしょ」と読みますが、東日本の方は、これを「ほけんじょ」と読みませんか?

さらに「研究所」も、「けんきゅうしょ」「けんきゅうじょ」・・・もちろん、このグローバルな時代ですから、かなり入り乱れているでしょうし、もはや明確な線引きなどできませんが、東の方に住んでおられる方には「自転車」を「じでんしゃ」と発音する方も多いと聞きました。

こうして、各地方に方言という物がある中、時代の流れで、京都に都があった時代から、天皇こそ京都におわすものの、政治の中心が、事実上江戸へと移行していくうち、いつしか関東の方言がメジャーな発音とされるようになり、「ち」から「ぢ」へ、「さ」から「ざ」へ、「た」から「だ」へ変化・・・さらに、明治になって制定された標準語という物が、江戸言葉をベースにしている事・・・

などなどが重なっていって、天智天皇にふるふりがなも「てんち」から「てんぢ」、そして「ぢ=じ」となって「てんじ」という事に、今のところは、なっているのではないのかな?なんて思っているのですが・・・

「今のところ」というのは・・・そう、上記の通り言葉はどんどん変わっていくのです。

ただし、この「変わっていく」というのも「今のところ」です。

なんせ、現代には録音機がありますから・・・

音をそのまま残す事が不可能だった時代には、早くも万葉の頃には失われてしまった「ん」の発音における「N」と「M」の違いですが、録音する技術があれば、また別・・・

これまで変化していた物が急に変化しなくなるかもしれませんし、逆に、ひょっとしたら、これまでの何千年とは違う変化が、わずかの間に起こるかも知れません。

もう、ワクワク…茶々の妄想は止まりません(*^-^)
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!
↓ブログランキングにも参加しています

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (23) | トラックバック (0)
|

2013年2月14日 (木)

2月14日は「ふんどしの日」

 

2月14日は、言わずと知れたバレンタインデー!!

ですが、実は、「2(ふん)(ど)(し)の語呂合わせから『ふんどしの日』という記念日でもあるのです。

・・・と思って、その記念日を制定した『日本ふんどし協会』のサイトに行ってみると・・・これがなかなかオモシロイ!!

『日本ふんどし協会』へ>>(別窓で開きます)

今日だけなのかも知れないけれど、トップにどど~んと
「2月14日はふんどしの日だよ!!」
と、デカデカと表示・・・

しかも、「恥ずかしいと思う人のために…」と、はきたい放題の『ふんどしカメラ』なるアプリも用意され、
「みんなで締めれば怖くない!」
「ナイスふんどし!」
(略して「ナふ!」)
という合言葉には、業界の方々の並々ならぬ努力を感じます。

また、男性陣は、
「バレンタインデーに、チョコではなく、ふんどしを贈る女性を手放すな!」
という定義も・・・

その理由は、
まず、この2月14日が、「バレンタインデーであるとともに、ふんどしの日でもある」という事を知っているという事で、その女性が情報通で知識が豊富な事がうかがえ、さらにユーモアがある事もわかり、そのうえ、「健康に良い下着を贈る」という行為に、その愛情の深さを感じる・・・というわけだそうです。

「なるほどなぁ」となかなかに説得力のある理由だと思いました。

ところで、この「ふんどし」の語源については、「踏通(ふみとおし)が転じて・・・というの一般的ですが、他にも「踏絆(ふもだし=馬の行動を拘束する綱)や、 「絆す(ほだす=動かないよう縄等で繋ぎ止める)「糞通(ふんとおし)から・・・などと諸説あって、よくわかっていません。

漢字で「褌」と書くところから、戦闘服の意味だったとも・・・

とにもかくにも、そのおおもとがよくわからないふんどしですが、日本史上、絵画として初めて登場するのは、平安末期から鎌倉時代に成立したとおぼしき『餓鬼草子(がきぞうし)・・・

とは言え、当時は布自体が高価な物であった事を考えると、やはり、下着として一般的に普及しはじめるのは江戸時代の初期の頃から・・・

はじめは、五尺(約1.5m)ものを半分にした物が主流だったようですが、やがて、長さが六尺(約2.3m)ほどある六尺褌(ろくしゃくふんどし)や、長さ1mほどの布の端に紐をつけた越中褌(えっちゅうふんどし)、長さ70cmほどの布の両端に紐を通したモッコなどなど、多くの種類が生まれました。

素材は、一般的には木綿ですが、高貴な人は繻子(しゅす)などを用い、色も、普通はの無地ですが、魔よけの意味を込めたを用いる事もよくありました。

Dscn0558a800 江戸時代の錦絵に描かれた三十石船のふんどし姿の船頭

ちなみに、越中褌は、以前書かせていただいたように、六尺褌を簡略化した物で、越中守(えっちゅうのかみ)だった細川忠興(ただおき)が考案した(12月2日参照>>)と言われますが、やはり、越中守だった松平定信(まつだいらさだのぶ)(6月19日参照>>) 説や、越中という名の遊女が考案したと言う説もあります。

また、モッコは、越中褌をさらに簡略化した物で、石や土を運ぶモッコの形から、その名が生まれたという事です。

江戸時代から明治にかけては、褌は、男子が9歳になった時に初めてつけるとされ、武士だけではなく、民間でも広く、元服に至るまでの中間の通過儀礼として、着用の儀式的な物が行われていたようです。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (10) | トラックバック (0)
|

2013年1月11日 (金)

昔々のウソ発見器…「湯起請」と「盟神探湯」

 

文亀四年(永正元年・1504年)1月11日、泉州大木長福寺で行われた吉書始めで盗難が発生・・・九条政基が湯起請により犯人を割り出しました。

・・・・・・・・・・・・・

文亀四年(永正元年・1504年)1月11日のこの日、関白や左大臣などを歴任した公家=九条政基(くじょうまさもと)が行って、事件の犯人を特定した湯起請(ゆきっしょう)とは・・・

「神に誓って熱湯の中に手を入れ、事の正邪を決定する方法」で、正しい者は無事なれど、邪悪なる者の手は焼けどでただれる・・・昔々のウソ発見器、というか裁判方法というか・・

今回の1月11日の出来事は、上記の通り、室町時代=戦国時代のの初めの頃の事ですが、もちろん、その裁判方法の起源は、記紀の時代にさかのぼります。

それは『日本書紀』の応神天皇の条に、盟神探湯(くかたち・くがたち)という名前で、文献に初登場します。

第12代景行(けいこう)天皇から成務(せいむ)仲哀(ちゅうあい)応神(おうじん)仁徳(にんとく)5代に渡る天皇に仕えた忠臣武内宿禰(たけのうちのすくね・たけしうちのすくね)の弟・甘美内宿禰(うましうちのすくね)が、兄に取って代わろうと謀反を企んだ時、どちらの忠誠心が勝るか?を計るために盟神探湯を行い、兄の武内宿禰が勝利したという物です。

Takenoutinosukune600 と言っても、この武内宿禰・・・本当に5代の天皇に仕えていたとしたら、その年齢は200歳を越えてしまうほどの長期に渡るであろう事から、飛鳥時代に権力を誇った蘇我馬子(そがのうまこ)主軸に、複数の蘇我氏の人物をモデルにした架空の人物の見方が強い人です。

ただ、盟神探湯を行った記述は、同じ『日本書紀』の第19代允恭(いんぎょう)天皇の条にも登場し、この時は
「諸(もろもろ)の氏姓の人等、沐浴斎戒(もくよくさいかい)して各(おのおの)盟神探湯せよ」
との、天皇の命令が出されたとあります。

当時、氏姓(うじかばね)が乱れまくっており、「これを正さねばならない」となって、味橿丘(うまかしのおか)辞過岬(ことのまがえのさき)にて盟神探湯が行なわれ、正しい者は何ともなく、ウソをついていた者は傷つき、身に覚えのある者は怖がって参加できなかったのだとか・・・

この事は、平安時代初期でも、戸籍の誕生逸話として意識されていた事から、武内宿禰の一件にしろ、允恭天皇の一件にしろ、登場人物や細かな事件は別として、実際に、このような裁判方法が行われていた事は確かであろうというのが、一般的な見方です。

実際の作法としては、まずは、自分の言い分を神に向かって誓い、その後、熱湯の入ったカメの中に手を入れ、中にある小石を取るという物で、上記の通り、誓った内容がウソでなかったら、その手はヤケドせずに無事・・・って事なのですが、

「そんなもん、なんぼ、正直者でも、熱湯に手ぇ入れたらヤケドするやろ!」
と思いますが、上記の允恭天皇の氏姓のところにもあるように、「身に覚えのある者は怖がって参加できない」ってのが重要だったのだでしょう。

むしろ、それに参加する時の態度を見て、判断していたとも考えられますね・・・当時の人にとって「神に誓う」という事は、今より、ずっとスゴイ事で、ウソを言えば、必ず天罰が下ると、どんな悪人もが信じていた時代ですから・・・。

とは言え、この盟神探湯・・・いわゆる法のもとで罪が裁かれる律令制が確立した頃からは、ほとんど行われなくなります。

平安時代や鎌倉時代には、行われた記録がない(発見されていないだけかも知れませんが)にも関わらず、冒頭に書いた通り、なぜか室町時代頃から復活するのです。

今度は湯起請という名前で・・・

方法は、ほぼ同じですが、ちゃんとした神棚をしつらえて、巫女さんやら陰陽師やらがうやうやしくお祓いをしてから湯を沸かし、当事者が誓いの起請文を書いた紙を燃やして、その灰を飲み込んで熱湯風呂ならぬ熱湯カメに挑むという、ちょっとたいそうになってます。

とは言え、さすがに、この室町の頃には、証拠書類や証人などを交えて、散々吟味した後、どうしても真偽が確定できない場合の早期解決のために行われるので、実際に罪を犯している場合は、実施当日の前に自白をさせる方向に誘導する意味合いが大きかったものと思われますね。

結局、この室町時代に復活した湯起請は江戸時代頃まで行われますが、江戸も中期になると、徐々に、神の審判を聞くよりは、もっと科学的に・・・いわゆる、アリバイやら動機やら状況証拠やらを重視して、経験豊富な役職の人が、法に基づいて裁決を下すというのが一般的となります。

ただ、村の境界線争いなどの民事では、両者の言い分の食い違いによってなかなか決着がつかない事があり、村の代表者同志が湯起請を行って決着をつけるという事が、しばらくの間は行われていたようです。

現在では、奈良の明日香にある甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)にて・・・ただし、熱湯に浸けるのは手ではなく、笹の葉で、「その葉っぱに色が変わらなければウソをついていないとする」という形の盟神探湯の神事をはじめ、各地の湯立て神事として継承されています。
 .

「湯の温度は程よいのがイイ!」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

2012年5月 2日 (水)

夏も近づく八十八夜♪雑節のお話

 

今日、5月2日八十八夜・・・

と言いたいところなんですが、今年は閏年なので、1日ズレて5月1日が八十八夜だったんですが、昨日はすっかり、その事を忘れておりまして、恥ずかしながらも、「通常は5月2日やからエエんちゃうん!」と開き直りつつ、本日、八十八夜と雑節について書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・

八十八夜とは、立春から数えて88日目の夜という意味なんですね・・・なので、今年のような閏年の場合は、一日早くなるワケです。

立春自体が変動する物なので、たまに5月3日になる事もあります。

一般的に、この頃になると霜が降りて作物を枯らす事もなくなり、屋外で植物を育てても心配なく育てる事が出来るようになるので、種まきをするのに最適な季節とされ、「八十八夜の別れ霜」なんて事も言われます。

また、この日に摘んだ茶葉が極上とされるところから5月2日は「緑茶の日」という日本茶業中央会の記念日でもあります。

Dscn1845a600 ♪夏も近づく八十八夜
 野にも山にも若葉が茂る ♪

という文部省唱歌「茶摘み」の歌でもお馴染ですね。
(写真→は、京都の茶どころ=宇治にある興聖寺の「茶筅塚」…八十八夜に摘まれたお茶の封が切られる秋に「献茶祭」や「供養祭」が行われます)

お茶だけでなく、養蚕でも蚕を育て始める時期であり、一般農業でも植物の苗を植えかえる時期でもあり、八十八夜は、農家にとって、とても忙しい時期なんですね~

そう実は、八十八夜は、雑節(ざっせつ)という特別な暦日の一つなのですが、この雑節というのが、昔の人が農業をやりやすくするために考え出した、目安の日という事なのです。

暦という物は、かなり昔から綿密に計算されていて、日本では月の運行により、すでに飛鳥時代には、何年何月何日どころか、時間まで計測する術も持っていた(4月25日参照>>) わけですが、それらの正確なカレンダーの計算という物は、あくまで陰陽師のような専門知識を持っている人のみが理解しているだけで、多くの一般人は「なんとなくわかる」程度の物・・・

しかし、実際に農業をやってるのは多くの一般市民なわけで、1年の農業の計画をたてて、それに従って作業するには、その季節を知らせてくれる何かしらの目安が欲しいわけで・・・

そこで、古代の中国で生まれたのが、干支(えと)であり、二十四節季であったのです。

干支は、現在の日本では、一般には年を現す事に使用されますが、もともとは、1年を12個に分けて植物の成長ぶりを観察し、その姿形からイメージする動物をあてはめた物です(11月9日参照>>)

二十四節季は、それを倍の24個に分けた物(10月8日参照>>)

・・・で、それでもカバーできない農業の節目の日として作られたのが雑節という目安の日というわけです。

ただ、雑節というのは、ちょっと曖昧なところがあって、八十八夜のように、全国的に知られた物もあれば、マイナーな物もあります。

以前、雑節の一つとしてご紹介した「庚申(こうしん)待ち」(3月6日参照>>) なんていうのは、もはや知ってる人のほうが少ない雑節ですが、おそらくは、正確なカレンダーが一般の人々にも普及するようになった江戸時代頃から、一部を除いて、徐々に忘れられていったのではないかな?と思います。

そんな中で、今回の八十八夜以外で一般的によく知られているのは・・・

  • 節分これは、もう皆さんご存じ・・・立春の次の日です。 (2月3日参照>>)
  • 初午(はつうま)2月で初めての午の日に稲荷神社にお参りしたり小豆粥を食べたりします。
        (2月8日参照>>)
  • 彼岸:春分・秋分の日を中日とし、その前後7日間の事・・・仏教的行事が始まるのは平安時代ですが、お彼岸という暦日はもっと昔から…
        (9月23日参照>>)
  • 社日:産土神(うぶすながみ)という生まれた土地の神様(地神)をお祭りする日で、春分または秋分に1番近い戊(つちのえ)の日に行われます。
  • 入梅:これは「梅雨入り宣言」ではなくて、二十四節季の一つの芒種(ぼうしゅ・6月6日頃)から5日目の日の事・・・これより約30日が梅雨期とされます。
  • 半夏生(はんげしょう):二十四節季をさらに分けた七十二侯のうちの一つで夏至から数えて11日目=7月2日頃・・・半夏(はんげ)という中国産の毒草がよく生える日という意味で、昔は、この日は天から毒が降って来ると考えられていて、すべての野菜を食べないとか、井戸の蓋をしっかり閉める習慣があったそうです。
  • 土用:これは、立春・立夏・立秋・立冬の前18日間の事で1年に4回ありますが、例の「ウナギを食べようキャンペーン」で夏が一番有名ですね。
        (7月30日参照>>)
  • 三元(さんげん)今は、「夏の元気な贈り物」だけが有名ですが、もともとは1月15日の「上元」と7月15日の「中元」と10月15日の「下元」の年3回あった節目の日・・(7月11日参照>>)
  • 盂蘭盆(うらぼん)お盆です・・・東は7月15日、西は8月15日が一般的ですね。
        (8月13日参照>>)
  • 二百十日二百二十日:それぞれ、立春から数えて210日目&220日目=9月2日と9月12日頃という事ですが、江戸中期の暦学者・渋川春海(はるみ)が、漁師から「立春後の210日と220日めは暴風雨になる事が多い」と聞き、その後の実体験を踏まえて、幕府に「厄日」として進言した事から一般的に広まったとされます。
    稲作では、ちょうど稲の開花時期となるので、この日を無事に過ごせたら豊作になるとの目安の日とされました。
  • 己巳(つちのとみ):庚申と同じく十干十二支の組み合わせの一つで、福神である弁財天を祭る日・・・「巳待ち」とも言い、弁財天の使いが蛇(巳)である事から、幸運を祈願したり厄除けのお参りをしたりします。
  • 大祓(おおはらえ)半年に1度の厄払いの日・・・夏と冬があります。
        (7月31日参照>>)

と、本日は八十八夜にちなんで、雑節のイロイロをご紹介しましたが、中には、その成り立ちやなんやかやが曖昧な物もあり、地方によっても違っていたりしますので、あくまでご参考の一つとお考えいただければありがたいです。
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!
↓ブログランキングにも参加しています

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)
|

2012年1月 6日 (金)

神代から現代まで…色の色々な歴史~「色の日」にちなんで

1月6日は、「1=イ」「6=ロ」の語呂合わせから、「色の日」という記念日なのだそうで、今日は「色」のお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・

そもそも、古代の日本で、最も重要かつ好まれた色は「赤」でした。

現在の私たちでも想像できるように、赤とは、
太陽の赤、
炎の赤、
血の赤、

と、何かと、エネルギーや生命を感じさせるところから、強い色=邪悪な者にも打ち勝つ色と認識され、縄文時代の頃には、すでに、魔よけの色として土器や日用品にも多く用いられました。

以前書かせていただいた、愛する人と結ばれている「運命の赤い糸」(8月21日参照>>)のもととなったお話でも、周囲に赤土をまいて、その場を清めるというまじないだっただろうと思われます。

それは、古墳時代になっても続き、古墳の石室内にほどこされた大量の赤は、現在でも確認する事ができます。

未盗掘で発見された奈良の藤の木古墳から、大量のベニバナの花粉が見つかった(9月25日参照>>)のも、記憶に新しいところです。

ま・・・、この場合は、赤というよりは「朱」といったほうが良いかも知れませんね。

そもそもお祝いの時に赤飯を炊くのも、もともとは神棚にお供えしていた「強飯(こわめし・こわいい)が赤かったからで、当時はモミを蒸しただけの物だったのが、玄米になり、さらに白米になるうち、現在のように、白米に赤味をつけるために、小豆と一緒に炊くようになったわけです。

壬申の乱の時に、大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)赤旗を使用した(7月2日参照>>)事もご存じかと思いますが、これも、五行思想の「火」をイメージしたとされ、ここで、乱に勝利して、天皇家の基盤を作る天武天皇が使用した「赤」が官軍の色となった事から、後の源平の合戦では、官軍(安徳天皇いますから)だった平家が「赤旗」・・・

そして、それに対抗すべく色として、八幡菩薩にちなむ「白旗」源氏が使用したのではないか?と思われています。

この赤白は、ご存じのように、現在の運動会の赤白や、あの紅白歌合戦にも通じています。

とは言え、これらの色にも、時代時代によっての流行が出てきます。

ご存じ、聖徳太子の時代の「冠位十二階」では、紫→青→赤→黄→白→黒(それぞれに濃と淡で12です)と、濃紫が最も高貴な色とされました。

おそらく、赤と青を合わせた中間色という事で、色そのものもミステリアスであり、染めるにも難しく、また原料も大変高価だった(主に日本では紫草の根、ヨーロッパでは貝紫)事などから、紫系の色が高貴な色とされたのだと思いますが・・・

この「紫が身分が高い」という観念は、けっこう長く続いていたようで、江戸時代の初めには、色がらみの紫衣事件(11月8日参照>>)が起こっていますが、ここで言うところの衣服の色は、あくまで階級を示す公式の場の色です。

なんたって、いろんな色の服を身につけたいのは、いつの時代も同じですから、奈良時代の終わり頃には、徐々に使用制限も緩められていたようで、正式な場を除いては、必ずしも階級による色が守られる事はなく、結構、自由な色合いを楽しんでいたようです。

平安時代には淡い色が好まれ、その上にさらに薄物を重ねて、下の色が透けて見える微妙な色合いを楽しむ事が大流行したそうです。(←もちろん、男もです)

ただ、それも、一部の貴族たちの楽しみで、一般庶民は、ほとんど、黒か黄色くらいしか許されなかったそうですが・・・(←工事中か!)

やがて鎌倉時代になると、武士中心の世の中になり、そのファッションリーダーもバトンタッチ・・・武士らしく、緑系や青系や褐色といった色がもてはやされ、それは、さらに、室町時代に花開いた「侘び・さび」の精神から、特にシブイ色が好まれるようになります。

ところが、そんな流行が一転するのが、織田信長豊臣秀吉・・・つまり、安土桃山時代です。

この二人のリーダーが好んだ「金銀派手派手色とりどり」ってのが流行し、今も残る桃山文化の建築物は、それはもう、目にも鮮やかな物ですね。

桃山時代の傑作とされる西本願寺唐門なんか、見ていると時間の経つのを忘れるとして別名・日暮門などと呼ばれています。

Karamon800 西本願寺:唐門

ところが、これも・・・
先の紫衣事件じゃないですが、江戸時代になると、一転して茶色や鼠色ばっかりに・・・

まぁ、これは、流行というよりは、何度も財政難に陥る江戸幕府が、度々質素倹約を呼びかけて、派手な衣装を禁止した事にあるわけですが、「それならそれで…」とばかりに、庶民たちは、逆に、黒や鼠色の中での微妙な色の違いを楽しむようになり、わずかな色の濃淡、あるいは、わずかに別の色を入れた新しい色を次々と生み出し、

それらの色に、花鳥風月を思い起こす美しい名前をつけたり、その色を好む人気の歌舞伎役者の名前をつけたり、イメージする歴史上の人物の名を入れたりして・・・

鼠色 濃鼠 銀鼠 葡萄鼠 利休鼠 藍鼠
源氏鼠 深川鼠 青磁鼠 白梅鼠 
素鼠
一応文字の色は、その色にしてみましたが、
携帯などで、
見え難い場合はゴメンナサイ

「鼠と素鼠は違うのか?」という疑問を残しつつも、これはこれで、結構楽しめ、おかげで、現在でも「そんな名前の色、あるの?」って驚くほどの色の種類が日本にある事は、皆さまもご承知の事と思います。

以前、ご紹介した天下御免の「氷」道中の旗印とされた緋色(8月5日参照>>)
巴御前の鎧の縅(おどし)の色だった萌黄色(1月21日参照>>)
雰囲気から名づけられたであろう今様色
まさに夕陽を思わせる茜色
ウチはもっと汚いゾの納戸色
じつは海って…の紺碧
そんなんあったんや~の空五倍子(うつぶし)

今日はひとつ、ゆっくりと、日本の色を探索してみるのもイイですね~
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (12) | トラックバック (0)
|

2011年8月 8日 (月)

乱世と平時で髭のある無し…ヒゲの日に因んで

 

今日8月8日は、「ヒゲの日」という記念日だそうです。

理由は、「八」という漢字が、ヒゲの形に似ているからだそうで、あのカミソリでお馴染のシック=Schickが制定した記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・

そもそもは神代の昔から、ヒゲというものは権威の象徴のように扱われていました。

あの『古事記』の有名な天岩戸のくだり・・・

もともと、なぜに、太陽神であらせられる天照大神(オマテラスオオミカミ)が天岩戸にお隠れあそばす事になったかと言えば、弟の建速須佐之男(タケハヤスサノヲノミコト)が、田んぼの水を止めたり、神聖な御殿でウ●コしたり、屋根の上から皮を剥いだ馬を投げ込んだりという乱暴を働いた事に怒って、岩戸の奥深くにひきこもったわけです。

結局は、天宇受売命(アメノウズメノミコト)の裸踊りで注意を引き、何とか岩戸から引っ張り出して事無きを得たわけですが、その後、八百万の神々が集まって会議を開き、乱暴を働いたスサノヲの処分を決定・・・

それが、両手両足の爪を抜いて髭を切り、高天原から追放!というものでした。

現代だと「ヒゲくらい、なんぼでも切らしたるがな」って思いますが、神代の昔は、それが罰として成立するくらい、ヒゲを切る事が屈辱だったわけです。

とは言え、そんなヒゲにも、どうやら、その時代々々のブームという物があるようで・・・

そう、切る事があれだけ屈辱だったヒゲは、貴族の間には好まれず、平安時代の貴族たちの間では、むしろ、お歯黒をしてお化粧をして女物をはおる・・・といった風貌がステキとされたのです。

ところが、中世から戦国時代になると、これまた一転、ヒゲをはやすのが流行・・・いや、むしろ、ヒゲが無い事がカッコ悪いとまで言われるようになります。

あの豊臣秀吉がヒゲが薄かったため、「つけ髭」をしていたのは有名な話ですよね。

なのになのに・・・

江戸時代に入ると、またまた一転、ヒゲを剃るのが大流行するのです。

これには、一つオモシロイ逸話があるのですが・・・

Doitosikaru500 徳川家康秀忠家光と3代の将軍に仕えた土井利勝(どいとしかつ)・・・彼の父・水野信元は、家康の母・於大(おだい)の方の兄という事で、つまり、利勝と家康は従兄弟同士だったわけですが、その家康からの可愛がられ方、出世の仕方、風貌のそっくりさから、「利勝は、家康のご落胤(隠し子)ではないか?」との噂があったのです。

それが、晩年、すでに家康も亡くなった寛永(1624年~1643年)の初め頃、ますます、その風貌が家康そっくりになっていき、「まるで生き写しだ」とまで言われ、隠し子の噂がますます大きくなっていきます。

やがて、利勝本人も気になってきて、鏡なんぞ覗きこんでマジマジと見てみると、本人から見ても「似てるなぁ」と・・・

「どうしたもんやろか?」
と考えた結果・・・
flairそうや!このヒゲがあるからそっくりなんや・・・ヒゲなんか添ってしまえ!」
と、その立派なヒゲを、おしげもなく剃り落としてしまいました。

その心の内を知らない周囲は、突然の事にビックリ!

とは言え、今や幕府でトップの実力者である大老の利勝がヒゲを剃ったのですから、その理由など知らぬ配下の者も、とにかく皆、右へならえとばかりにヒゲを剃りはじめ、いつしか、おしゃれ番長=利勝の「ヒゲ無しスタイル」が大流行・・・

やがて、ヒゲは、未だ戦国の気質を持った者の証のように言われるようになり、ヒゲを生やしているだけで謀反の疑いをかけられるほどに・・・そして最終的には、「風紀を乱す」との理由で、幕府から禁止令まで出る事に・・・。

まぁ、本当に土井さんが率先したのかどうかはともかく、江戸時代には、顔に傷があるなどの理由がない限り、ヒゲを生やすお侍はいなかったのだとか・・・

ところがドッコイ、そんな江戸時代も終わり、明治に入った途端に、またまたヒゲが大流行・・・以前のお札の肖像でお馴染の伊藤博文板垣退助、そして大久保利通なんかも立派なヒゲをたくわえた写真が残っていますよね?

うぬぬぬ・・・これは?

以前のページで、日本の歴史上、大いなる平和を感じた時期が2回あり、それは平安時代と江戸時代であるという事を書かせていただきました。

そのページでは、平和な時の武装放棄について(12月31日参照>>)書かせていただいたんですが、この見事な一致・・・ひょっとして、人は平和になるとヒゲを剃りたくなる生き物なのかしら?

確かに、ヒゲという物は男性ホルモンによって発毛が促進されるもの・・・もちろん、男性ホルモンは男性だけにある物ではなく女性にも存在し、女性ホルモンも男性の中に存在しますが、その多い少ないによって「男らしさ」「女らしさ」という物が形成されると言いますので、男性ホルモンで促進されるヒゲは男性ホルモンが多い=男らしい事を、その目で感じる事のできるシロモノという事なのでしょう。

こんな話があります。

ある群れのボス猿の●タマを切り取ると(生物学的実験だそうなのでお許しを…)、そのボス猿は一気にボスの座から引きずり降ろされますが、その猿に男性ホルモンを注射すると、再び力を盛り返して、ボスの座に返り咲くのだとか・・・

つまり、男性ホルモンが多いほうが、より猛々しく、雄々しく、力も強く、支配欲も強い・・・

フムフム・・・だから、人は無意識の内に、戦乱の世にはヒゲをたくわえ、平和になるとヒゲを剃るという事なのかも知れません。

・・・で、今は???
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (12) | トラックバック (0)
|

2011年6月 8日 (水)

戦国女戦士の必須アイテム「薙刀」~なぜ女性の武器?

 

昨日の鶴姫の関連で書かせていただきます。

戦国シュミレーションゲームが人気の今日この頃・・・ゲームでは勇猛な武将に交じって、ちょっぴりセクシーな衣装で登場する女戦士たちも大活躍ですね。

つい先日ご紹介させていただいた立花誾千代(ぎんちよ)(5月28日参照>>)井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)などなど・・・鎧の意味をなしてないやん!とツッコミたくなるような露出度で登場して、場面を華やかに彩ります(目の保養(゚▽゚*))

もちろん、実際に、戦国期に活躍した女性戦士は、数多くいたわけで・・・

昨日、ご紹介した上野隆徳(たかのり)の正室=鶴姫(6月7日参照>>)
城主の留守を守った吉岡妙林尼(みょうりんに・妙麟尼)(3月8日参照>>)
若武者のごとく颯爽と現われてダンナを救う富田信高夫人(8月25日参照>>)
武田勝頼に最後まで味方した高遠城で奮戦した諏訪勝右衛門(すわかつえもん)の妻(3月2日参照>>)
城攻めの天才・秀吉にひと泡吹かせた忍城成田氏長夫人甲斐(6月16日参照>>)

実際には戦ってないけど、完全装備の姿がカッコイイ真田の嫁=小松姫(7月25日参照>>)や、あの淀殿も、大坂の陣では甲冑姿に身を包み、ヤル気満々だったとか・・・

ほかにも、まだブログに登場していなくて、これから書いていきたい女武者たちは数多くいるのですが、そんな彼女たちに共通する武器が薙刀(長刀=なぎなた)・・・

これは、戦国時代だけでなく、その後の江戸時代を通じても、奥女中がタスキをかけて鉢巻きをして薙刀を持って夜回りをする・・・なんてシーンが時代劇にもよく登場します。

そもそもは、狩猟をしていた古代の頃から長柄の武器=いわゆる(やり)は、生活に根付いていたわけですが、そんな槍の先端に反りのある刀を装着した薙刀は、殺傷能力が高い事から、南北朝以前は薙刀を重用した武将も数多くいました。

源平合戦の時代に活躍した、あの武蔵坊坊弁慶が薙刀で奮戦する姿は、なかなかカッコイイものです。

ところが、戦国時代になって、その戦い方が個人戦から集団戦に代わった事で、おおがかりで振り回しがちな薙刀は、人が密集している場所では使い難い・・・となって、足軽の登場とともに、薙刀は戦場から姿を消していくのです。

かと言って、戦場では刀が主流になる事もありませんでした。

戦国期には、その戦い方も変わると同時に、防具の仕様もどんどん進歩しました。

進歩した甲冑は、それまでよりはるかに軽量となり、かつ、防御にも優れているうえ、簡単な物なら、けっこう安価で手に入る事から、下級家臣や足軽たちも身につけるようになりますから、ちょっとやそっと刀で斬ったくらいじゃ、相手にダメージを与えられなくなります。

そこで、戦国時代の合戦の主流となったのが槍です。

これなら、鎧の隙間を狙って相手を殺傷する事も可能ですし、戦闘技術の未熟な足軽や農民兵にも、リーチが長いぶん有利となり、充分に戦えるからです。

戦国の後半には、鉄砲も登場しますが、日頃の訓練も含め、様々な条件が整わないと効力を発揮しない鉄砲よりはなんだかんだで、やっぱり槍が主流だったのです。

そんなこんなで、戦場から消えた薙刀は、女性の武器として生き残るのです。

Awadutomoe900 粟津戦線から退く巴御前

薙刀&女武者と言えば、やはり源平合戦の頃の巴御前(1月21日参照>>)が目に浮かびますが、あの勇姿そのままに、戦国女性に受け継がれていたのですね~

薙刀が女性の武器となった理由は・・・
おそらくは、彼女たちの主戦場が城であったからでしょう。

殿さま以下、男たちが合戦へと向かった場合、城を守るのは、わずかな城兵と、奥さん以下、女性たち・・・

以前、大河ドラマ関連からの政略結婚(4月22日参照>>)のところで書かせていただいたように、男尊女卑より、身分の上下のほうが優先された戦国時代では、城主のいない城内で最も上の身分となるのは、その城主の奥さま(城主が独身の場合は生母)ですから、力弱くとも、主人として城を仕切らねばなりませんし、いざ、という時には、戦わねばなりません。

なんせ、ダンナが合戦に出てるという事は戦時下なのですから、いつ何どき、城攻めを受けるかわかりませんから・・・

そこで、城で戦う女性にとって、薙刀は好都合だったのです。

なんせ、城は、野っ原の戦場と違い、集団戦にもつれ込み難いです。

また、刀先が重いので、扱いづらそうに見えますが、かえってその刀先の重さが遠心力を産む事で、グルグルとふり回すだけで、かなりの殺傷能力が出ます。

しかも、その重さのために、どうしても下に行ってしまう先っぽは、逆に、相手の足を狙う事になり、これがなかなか・・・戦場での合戦に慣れてる普通の男兵士は、上からの上半身への攻撃には敏感ですが、足はけっこう無防備なのです。

昨日の、鶴姫率いる女軍団に、しばらくの間、毛利方が翻弄されるのも、そういった、男と女の戦い方の違いがあったのですね。

戦国時代に薙刀をふるって武勇伝を残した彼女たち・・・そんな彼女たちの勇姿が語り継がれ、「薙刀を持った女性は強い!」・・・と、江戸時代には、「女性は薙刀」という観念が定まっていったものと思われます。
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (12) | トラックバック (0)
|

2011年3月 6日 (日)

思いは遥かシルクロードへ…古き良き「庚申待ち」

 

今日3月6日は庚申(こうしん)の日です。

庚申とは・・・
「庚=かのえ(十干)」の日であって「申=さる(十二支」の日であるって事ですが、

もともと十干というのは、1ヶ月を上旬・中順・下旬の3つに分けた中の10日間の順序を示すために作られたとされる10個の数字・・・

いわゆる、(こう)(おつ)(へい)(てい)(ぼ)(き)(こう)(しん)(じん)(き)の10個のうちの7番目が庚ですね。

戦前までは、「1・2・3…」よりは、むしろ「甲・乙・丙…」が、数字として使われるが多く、今でも、クソややこしい契約書なんかに、「甲が乙に対して○○の時は…」てな文面で、余計に難解にしちゃってくれてますが、このように、本来は単に数字を表す物だった十干ですが、いつしか五行説などと結び付いて、時には、占いや縁起かつぎなどにも使われたりします。

一方の十二支は・・・ご存じですよね?
「子・丑・寅…」と続く、えとの十二支(くわしくは11月9日参照>>)・・・今年は、「卯(う=うさぎ)ですね。

・・・で、上記の十干と十二支を組み合わせて、「甲の子」「乙の丑」「丙の寅」…使っていくと、60で一周する事で、昔は、この十干と十二支が、年を表したり、日を表したりするのに使われていたわけです。

たとえば、よく疑問に思うのが・・・
今は、「平成○年生まれ」とか「昭和○年世代」なんて言うけど、元号がコロコロ変わった江戸時代の人は、「私、正保二年生まれです」「私は慶安元年生まれなんで3歳違いですな」とか、瞬時にしてわかったんだろうか?
なんて事ですが、

実は、昔の人は元号ではなく、この十干と十二支の組み合わせて、年を言い表していので、「正保二年=乙酉(きのととり)」「慶安元年=戊子(つちのえね)と、すぐに年齢の違いなんかがわかったわけです。

ご存じの方も多いとは思いますが、あの高校野球で有名な甲子園球場も、そのおおもととなる運動公園が誕生した大正十三年(1924年)が「甲子(きのえね)の年だったので甲子園と名づけられたとの事・・・と、こんな感じで、けっこう近年まで、この数字の表し方が使用されていたわけで、そんな中で、年を表すのと同じように、各日にちも十干と十二支で表されていたわけです。

なので、本日の「庚申の日」というのも、60日に一回は回ってくるわけで、前回は1月5日、今回の次は5月5日が庚申の日という事になります。

長い前置きになりましたが・・・とにかく、本日は、そんなこんなの庚申の日!

でも、それなら、庚申の前日は「己未(つちのとひつじ)で、次の日は「辛酉(かのととり)・・・なぜ、庚申の日だけ特別に?

実は、この庚申の日は「雑節(ざつせつ)の中の一つで、「庚申講(こうしんこう)あるいは「庚申待ち」という行事が行われる日だから、特別なのです。

雑節とは、農業を営むための目安とするために設けられた捕捉のような節目の日なのですが・・・

そもそも、産業の中心が農業だった昔の日本・・・その農業を順調に進めるためには、季節の移り変わりを知る(こよみ)が重要な役割をしていましたが、陰陽師などの特殊な職業の人以外は、正確な暦を計算する術を持っていませんでした。

そこで、1年を24等分に分けた二十四節季(くわしくは10月4日参照>>)、さらに、それを3等分した七十二候を作って、農作業の進み具合の目安としたのです。

雑節は、その更なる捕捉・・・有名なところでは、お茶の葉を摘む最適日とされる「八十八夜」や、台風の当たり日とされる「二百十日」なんていうのがあります(5月2日参照>>)

「入梅」も、この雑節の一つで、今で言う「梅雨入り宣言」ではなく、二十四節季の一つの芒種(ぼうしゅ・6月6日前後)から数えて5日目とされていました。

とは言え、この庚申の日は、あまり農業とは関係ないような・・・???( ̄◆ ̄;)

その起源は謎で、一説には、中国の道教「守庚申(しゅこうしん)という思想が、奈良時代に日本に伝わり、日本固有の信仰と結びついて発展したのでは?と言われますが、定かではありません。

そもそも、人には、上尸中尸下尸という「三尸(さんし)の虫」がいるのだとか・・・

上尸の虫は頭にいて、目を悪くしたり、顔にシワを作ったり、髪を白くさせたり・・・中尸の虫は腹にいて、暴飲暴食をさせたり臓器に悪さをし、下尸の虫は足にいて精を抜いちゃう。

・・・で、この三尸の虫は、庚申の日に、その宿主である人物が寝静まると、その身体から抜け出して、その人の悪事の数々を天帝に告げ口しに行くのですと!

もちろん、報告を受けた天帝によって天罰が下され、その人の身体は、さらに老いていく・・・って事なのですが、それを防ぐためには、ただ一つ!

そう、庚申の日に眠らなければ良いのです。

この「庚申の日に眠らない」というのは、平安時代頃には貴族の間に盛んに行われました。

あの『栄華物語』にも
「としのはじめの庚申の日なり せさせ給へ」
とあるほか、
『花園院宸記』の正和二年(1313年)8月2日の条には
「今夜睡眠せず 終夜庚申守る 和歌会 密々…」
とあり、徹夜するために皆で和歌の会を開いた事が書かれています。

その後、室町時代頃には、その風習が一般にも伝わり、江戸時代には、庶民の習慣の中に解け込んでいったようです。

庶民の場合は・・・
まずは庚申さんにお参りを済ませた後、庚申画像を掛けた当番の家に仲間内が集まってお酒を酌み交わしながらよもやま話で徹夜する・・・なんと、今でも、この通りに行われている地方もあるとの事です。

さすがに、夜の12時に日づけが変わる事が定着した現在では、0時解散となる所も多いようですが、夜の楽しみ方も人それぞれという現在と違って、昔は60日に一度の農家の楽しみだったのかも知れませんね。

Dscn3315a800 ならまち庚申堂にて…

ところで、奈良県奈良市の一画・・・「ならまち」と呼ばれる古き良き街並みが残る場所には、家々の軒先に、三尸の虫が嫌うという「身代わり申(さる)を吊るして、庚申の日の難に逃れようとする風習も残っていますが、この申のルーツも、これまた謎となっていました。

確かに、庚申待ちの信仰が、上層階級から庶民へと伝わる中、庚申の供養塔を建てるのが流行し、その中には「見ざる・聞かざる・言はざる」三猿の描かれた物も存在するようですが、果たして、その関係なのか???

と思われていた所・・・昭和六十二年(1987年)に、奈良県立博物館で開催された「大英博物館所蔵~日本・中国美術名品展」に出品された展示品の一つで、その謎が少し解けました。

それは、唐の時代に製作された敦煌(とんこう)石窟の祭壇に飾られたであろう垂れ幕・・・そこに、この「身代わり申」とまったく同じ物がついていたのです。

その意味は未だ謎ではありますが、おそらくはこの身代わり申・・・遠き昔に、シルクロードを通って、この奈良の地にやって来たお申さん・・・

古き良き庶民の風習といい、遥かシルクロードへの思いといい、なにやら、広大な妄想をかきたてられる庚申の日ですね。

う~~ん、今夜は眠れない(。>0<。)

ならまちへの行きかたを、本家ホームページ「歴史散歩:ならまち」で紹介しています…よろしければ、コチラからどうぞ>>
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

2011年3月 4日 (金)

火事と喧嘩は江戸火消しの華

 

文化三年(1806年)3月4日、明暦の大火明和の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる文化の大火が発生しました。

・・・・・・・・・・・・

文化三年(1806年)3月4日の午前10時頃・・・車町(現在の港区高輪)材木座付近を出火元に発生した火は薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)増上寺五重塔を全焼させた後、西南の強風にあおられて木挽町数寄屋橋に飛び火し、そこから日本橋の殆どを焼失させました。

それでも、火は収まる事を知らず、神田から浅草方面にまで燃え広がったと言います。

幸いな事に、翌5日に雨が降ってくれたおかげで、ようやく鎮火しましたが、その被害面積は下町を中心に530町(約58k㎡)・・・現在の港区・中央区・千代田区を足しても、まだ足らないくらいの広範囲ですね。

そのため、焼失家屋は12万6000戸におよび、死者は1200人を超えたと言われています。

「火事と喧嘩は江戸の華」・・・

これまでも、このブログでは、
振袖火事と呼ばれた明暦の大火>>
お芝居で有名な八百屋お七お七火事>>
明和九年の迷惑大火>>
あと、
遊びの殿堂・吉原炎上>>や、
その燃え移る事はなはだしい住宅事情の原因として、あまりの急激な人口増加のお話>>など、火事に関する事を書かせていただいておりますが、

本日は、火事が江戸の華なら、その火事の花形・・・火消しのお話をさせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

火事の現場にいち早く駆けつけ、頭(かしら)の指示に従って、各持ち場にスタンバイ!

その中でもイッチャンにかっこええ男が、水をかぶりハシゴを登り、建物の屋根の上に(まとい)を立てる・・・時代劇でも、お馴染のシーンですね。

♪芝で生まれて 神田で育ち
  今じゃ 火消しの纏持ち ♪

なんて歌われ、火の粉を浴びながら、カッコ良く纏を振る纏持ちは、そんな火消しの中でも、一番の花形でした。

それにしても、
「あんなん振って、火が消えるのか?」
と、かく言う私も、小さい頃には疑問を抱きながら時代劇を見ていたわけですが、もう皆さまご存じのように、当時の火消しの仕事は、完全に火を消しとめるという現在の消火とは、まったく違う物・・・

現在燃えている火を消すのではなく、この先の延焼を食い止めるために、火の行く手にある家屋を破壊する破壊消防というものでした。

かの纏持ちが立つ家こそ、
「ここで、火を食い止めるゾ!」
というボーダーラインで、仲間は、竜吐水(りゅうどすい)と呼ばれる消火ポンプで、その纏持ちに向かって放水するわけです。

纏持ち=代表者を、そんな危ない場所に立たせる意味は、文字通りの「火事場のバカ力」を誘発するための物です。

仲間を犠牲にさせたくないため、必死のパッチで家壊し担当ががんばるというわけです。

そんな火消しは、6万石以下の大名で組織された大名火消しと、旗本の定火消し(じょうびかし)、そして有名な町火消しの3種類があり、大川(隅田川)の西側を担当していたのが町火消しでした。

ご存じのように、この町火消しは「いろは48組」ありましたが、何となく、カッコ悪く聞こえる「へ組」「ら組」「ひ組(←これは縁起担ぎ?)の3つの組は存在せず、それぞれ「百組」「千組」「万組」という名前に置き換えられていたそうです。

ところで、冒頭に「火事と喧嘩は江戸の華」と書かせていただきましたが、火事の花形であった火消しは、もう一方の喧嘩の花形でもあったんです。

それは、上記のように、大名火消しや定火消し、町火消しなど、様々な火消しが入り乱れて現場に駆け付けるため、その主導権をめぐって、現場では、火消し同士の喧嘩が絶えず起こっていたからなのですが、

もともと、火消し自体が、命の危険をかえりみず、火事の現場に立ち向かうほどの男気のある者たちばかりですから、火事の現場だけでなく、普段から血気盛んな人たちが多かったわけで、まぁ、それこそが火消しの心意気でもあったわけですし・・・

この文化の大火のちょうど1年前には、後にお芝居となって超有名になった「め組の喧嘩」と呼ばれる事件も起こっています。

Meguminokenka1000 「め組の喧嘩」描いた錦絵

これは、文化二年(1805年)2月・・・芝明神で行われていた相撲興行を、そのあたり一帯を管轄していた「め組」のとび職・3名が、お金を支払わずに見ようとした事にはじまります。

当然の事ながら、それを見つけた力士の一人が、3人を注意するのですが、3人は謝るどころか、逆に、力士の体の大きさをからかいます。

恥をかかされた力士が、とびたちを投げ飛ばして周囲に悲鳴があがると、そこへ、お互いの仲間が駆けつけて乱闘開始!!!

結局、火消しと力士合わせて36名もの逮捕者を出す大騒ぎとなってしまいました。

・・・で、そのお裁きは、
喧嘩両成敗・・・と思いきや、意外と火消し側に厳しいものでした。

実は、火消しの彼ら・・・仲間を呼び集める時に、本来は、火事の時にしか鳴らしちゃいけない火の見櫓の早鐘を打ち鳴らしちゃったんですね~

カンニングに、ペーパーではなくネットを使ったために、新聞のトップ面に載って逮捕されるのと同じ???違うか(^-^;

まぁ、今でも、普段の移動にパトカーがサイレン鳴らして走ったら怒られますからね。

とは言え、この火消したちは、与力・力士と並んで「江戸の三男」と呼ばれて大いに庶民の人気者だったようです。

今でも、消防士やレスキュー隊員の制服を見ただけで、着ている人物まで男前に見えてしまう制服好き(私ですが…)がいるのですから、当時の人気は、さぞかしスゴかったでしょうね。
 .

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ   にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年1月31日 (月)

スケート・事始め~スケートの歴史

 

今日は、旧暦のない1月31日・・・という事で、この日の出来事ではなく、豆知識的なお話をしましょう。

季節がら、スケートの歴史など・・・

と言いましても、その歴史は大変古く、それこそ、北欧では石器時代から、獣の骨を靴底につけた滑走具にて、氷のはった湖面や沼を滑っていたと言われ、いわゆる現在で言うところのスケートが日本に伝わる以前から、日本人がそのような道具を自ら編み出して、湖面を滑っていなかったとは言えないわけで(日本にも、氷のはる湖は、いくらでもありますから…)、あくまで、諸説あるうちの一つとお考えいただければ幸いです。

・‥…━━━☆

上記の通り、北欧で生まれたスケートは、やがてスウェーデンからデンマークオランダへと伝わり、12世紀の終わり頃には、イギリス一般的な遊戯として行われるようになっていました。

17世紀頃には、ただの遊びではなく、スポーツとしてのスケートが開始されはじめ1740年代には、イギリスに複数のスケートクラブが誕生するようになります。

さらに18世紀から19世紀にかけて急速に発展していったスケートは、鋼鉄製の専用のスケート靴が開発された事によって、フィギュアスケートの基礎的技術も完成し、競技としての原型ができあがったのです。

やがて、1892年には国際スケート連盟が設立され、1893年にはスピードスケート公式大会、1896年にはフィギュアスケートの公式大会が開催され、現在に至る・・・というわけです。

日本におけるスケートの歴史は、やはり、様々な説がありつつも、明治十年(1877年)に札幌農学校に招かれたアメリカ人教師・=ウイリアム・ブルックス氏が、母国から持参したスケート用具で滑走を披露し、少年たちに伝えたというのが、有力な説となっています。

やがて、何にでも興味津々の少年たちが、草履の下に竹を取りつけた原始的なスタイルのスケート靴を自ら製作・・・大喜びで、雪道や湖面を滑走するうち、下駄スケートなる物も登場し、大いにもてはやされたと言います。

そんなこんなしているうちに、札幌には、ちゃんとしたスケート靴を売る専門店なども登場し、そうなると組織化されたスケートクラブも登場・・・そのクラブの主催で、氷上運動会なるイベントまで開催されるようになり、どんどんとスケート熱は高まっていったのです。

こうして、まずは北海道で大人気となったスケート・・・その後、盛岡から仙台へと南下して、やがて、信州の諏訪湖へ・・・

ご存じのように、この諏訪湖は冬になると絶好のコンディションのスケート場と化すため、猛スピードで大人気となっていくわけですが、それに拍車をかけたのが明治三十八年(1905年)の中央線(現在のJR)富士見~ 岡谷間の延伸開業です。

そう、電車が諏訪まで到達した事によって、太平洋側の都心部と結ばれ、スケートは大変な勢いで都市部へと広がっていったのです。

冬の休暇の頃には、東京あたりから多くの在日外国人が諏訪湖につめかけ、一大リゾート地&スケートのメッカとしての地位を確立していきました。

大正九年(1920年)には、日本で最初のスケート団体=日本スケート会による全国規模の競技大会も行われ、昭和四年(1929年)には日本スケート連盟も組織され、昭和七年(1932年)には、アメリカ・レークブラシッドで開催された、第3回冬季オリンピック日本選手団を派遣するほどに成長したのです。

こうして、世界に仲間入りをした日本のスケートのレベルは、今や世界で一番と言えるくらいの技術になりました(特にフィギュアは…)

現在の日本のスケートのメッカは?・・・名古屋なのかな?
いやいや、全国各地、次々と現われる金の卵たちに、目が離せませんね。

Hiraps600 添付写真は、京阪電車の枚方公園駅にあった「ひらかたパーク」のスケートリンク=アイススクエアの宣伝ポスター・・・
スケートの歴史とは関係ありませんが、おもしろい(キツイ)ポスターなので・・・(*゚ー゚*)

 

 

 

 

 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

より以前の記事一覧