カテゴリー「 由来・起源・雑学・豆知識」の73件の記事

2008年10月 1日 (水)

「醤油の日」なので醤油の歴史

 

今日、10月1日は『醤油の日』なのだそうです。

日本醤油協会など、複数の関連団体が2003年に制定したのだとか・・・

その由来は・・・、

  • 以前は10月が新しいもろみを仕込む時期であった事。
  • その昔、醤油は、壷や甕(かめ)に詰められて運ばれていて、その甕の形から生まれた象形文字が酉であり、月を干支で表すと、酉の月は10月である事。

・・・なのだそうです。
ちょっと、ややこしい・・・

何となく10月はわかりますが、、なぜに1日なのか?という事は、今日のところは棚の上に置いとして、本日は例のごとく、醤油の日なので『醤油の歴史』を紐解いて参りましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とは言え、醤油の歴史は意外と新しい・・・

日本の文献に初めて「醤油」という文字が登場するのは、16世紀も終わりに近づいた慶長二年(1597年)に刊行された『易林本・節用集(えきりんぼん・せつようしゅう)・・・この節用集は戦国の広辞苑といった感じの文書です。

この頃の醤油は、現在の醤油とはちょっと違ったもので、どちらかと言えば溜り(たまり)醤油のようなものではありましたが、やっとここに来て、味噌とはっきりと分かれて、醤油という名前が着いたという事で、汁物と吸物の区別がつくのもちょうどこの頃・・・。

そうです。
先ほど、醤油の歴史は意外と新しいと書かせていただきましたが、このように、はっきりと区別されたのがこの頃だという事で、その原型となる物は古くからありました。

中国は紀元前11世紀のの時代に書かれた『周礼(しゅうらい)には、(ひしお)というものが登場します。

また、紀元前6世紀の『論語』でおなじみの孔子さんも、「醤が手に入んなかったら食べたくない」なんて事を言っていて、もう、すでに、この頃には、お食事の友・・・何はなくとも江●むらさきみたいな重要な調味料であった事がうかがえます。

ただ、この中国の醤という物は、醤油というよりは、現在の塩辛に近いもので、しかも、材料は、鹿や鳥や魚といった動物性のものでした。

やがて、紀元前1~2世紀頃のの時代になると、大豆などの穀類を材料とする醤が誕生し、肉類よりも安価に作れる事から、徐々に穀類の醤のほうが主流になっていきました。

一方、その頃の日本は、ちょうど弥生時代・・・

おそらく、中国の醤が、朝鮮半島を経由して伝わったのでしょうが、日本には、その弥生時代以前の、縄文時代の頃から、すでに、果物や野菜・海草などを材料にした醤が存在していたようです。

やがて、それらの醤は、奈良時代頃には味噌となり、平安時代には、様々な種類の味噌を売る商店なども登場しますが(お味噌の歴史のページ参照>>)、このあたりで枝分かれして独自の発展を遂げるのが、秋田に伝わる「しょっつる」能登半島「魚汁(いしる)などの魚を材料にした調味料や、富山「かぶら寿司」琵琶湖「鮒ずしなどのなれ寿司です。

「しょっつる」「魚汁」は、現在でも郷土料理として愛され、一方のなれ寿司も、ご存知のように、現在にそんそまま伝わるものと、おし寿司にぎり寿司へと変化するものに枝分かれする事になります。

さらに、醤や味噌の製造過程で、桶などの底にたまる液体が、煮物の味付けなどにピッタリな事がわかり、これがたまり醤油の原型となり、こちらも枝分かれしていきます。

醤油という名称の由来は、醤の液汁(油)から醤油となったとか、中国でよく似たものを醤湯とか豆油と呼んでいたので、両方をミックスして醤油となったなど、いくつかの説があります。

やがて、室町・戦国の頃から、あの武田信玄に、溜りを献上して気に入られ、『川中島御用醤油』の役を命じられた下総(千葉県)野田飯田市郎兵衛をはじめ、紀州(和歌山県)湯浅赤胴右馬太郎播磨(兵庫県)竜野円尾孫右衛門などなど・・・醤油の醸造が本格的に行われるようになります。

しかし、このように民間レベルで発展した醤油は、幕府や大名の管理下に置かれた米とは、まったく別の流通経路であったため、米の3~4倍の高値で取引され、お酒よりも高い高級品だったそうですが、冒頭の慶長頃には、大坂を中心に専門店が軒を並べるようになり、やがて、首都が江戸に遷るににつれ、江戸へと、そして全国へと広がり、いつしかお味噌と並ぶ、日本の調味料となるわけです。

ちなみに、そんな醤油が外国人の口に入るようになったのは、ごく最近の事のように思われがちですが、どうしてどうして、あの太陽王として君臨したルイ14世も醤油が大好きだったんだとか・・・

戦国の日本にやってきたオランダ人たちによって、それは、ブルボン王朝フランスにも届けられていたのだそうで、壷や瓶に入れ、木詮で密閉状態にして、はるばる船で運ばれた醤油は、さらに熟成されるうえ、もともと品質もよく、高価であった事が、よりセレブの心をくすぐり、当時の高級フランス料理には欠かせない調味料となっていたようです。

ところが、近代日本では、太平洋戦争直後の大豆不足からアミノ酸を混合させたり、スピード時代の波に乗ろうと速醸造の粗悪な醤油が多く造られた時代があり、その悪臭によって、海外からも、国内からも敬遠され、一時はそのまま衰退していくかのようになった事もあったそうですが、その状況はすぐに改善され、再び、長い年月をかけて熟成する品質のよいものが主流となって、現在は、ご存知のように、毎日の食卓に欠かせない調味料となっています。

もちろん、品質もバツグンです。

「あぁ。。。今夜は和食にしよう」
そして、はるか昔の醤の時代からの、長い長い旅の末にたどり着いた日本の味を、じっくりと味わってみようではありませんか。
 

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2008年9月29日 (月)

「招き猫の日」なので招き猫の由来

 

今日、9月29日は、「くる(9)ふ(2)く(9)」=来る福の語呂合わせで、日本招き猫倶楽部が制定した『招き猫の日』という記念日なのだそうです。

この日は・・・
伊勢神宮「おかげ横丁」
愛知県瀬戸市
熊本県島原市

などで、「来る福・招き猫まつり」が開催されるそうです。

ちなみに、今からお話する招き猫の由来の一つとして登場する彦根では、「い(1)い(1)ふ(2)く(9)」=いい福の語呂合わせで、11月2日~9日に「招き猫まつり」が開催されるそうです。

・・・てな事で、今日は『招き猫の由来』を書かせていただきたいと思いますが、そもそもの由来としては、中国は唐の時代の『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)なる書物に、「俗に言はく。猫、面を洗いて耳を過ぐればすなわち客到(いた)る」というのがありますので、もともとの出典は、これなのでしょうが、それが日本に伝わって、その猫の姿を、招き猫という人形にして、置物として飾る事に関しての起源については諸説あります。

まず、一番有名なところでは、東京・世田谷区豪徳寺に残る第2代・彦根藩主の井伊直孝さんの逸話・・・って、第2代藩主は井伊直継(直勝)さんじゃ無かったの?と思いきや、「直継さんは、病弱だったため実権は弟の直孝さんが握っていて、直継さんは藩主に数えない場合がある」のだそうです。

以前書かせていただいた彦根城の人柱の逸話(11月4日参照>>)の時は、元気そうだったんですけどね~まぁ、招き猫とは直接関係ないので、今日のところは、そこンとこのお家騒動はスルーしてお話を進めさせていただきますが・・・。

ある時、その直孝さんが、この豪徳寺の前を通りかかると、門のところで、猫が手招きをして、しきりに彼を呼ぶのです。

不思議に思って、猫に近づき、門の中に入った途端!ゴロゴロド~ンthunderの音とともに、今、立っていた場所に落雷が・・・

急死に一生を得た直孝さん・・・

この猫が、豪徳寺の住職の飼い猫だった事から、この後、豪徳寺は井伊家の菩提寺となって、大きく発展する事となるのです~・・・って、コレ、井伊家に福を招いたんじゃなくて、自分トコの寺に福を招いてるような気がしないでもありませんが、ともかく、この逸話から招き猫が生まれたというもの・・・

そのほかにも、江戸時代の天明年間(1781年~1788年)に両国にあった金猫銀猫という女郎屋の飼い猫が、「顔を洗うたびに客が入る」と評判になり、その猫をモデルにした置物を、店の名前にちなんで金と銀の色に塗って、店先に飾ったのが始まりというのも・・・

また、吉原の伝説の花魁・薄雪太夫の忠猫をモデルに人形を造り、太夫の人気にあやかろうと花街で猫の人形が大流行し、やがて、近くの飲食店や商店に広まっていったという話もあります。

その後、養蚕の敵であるネズミを退治してくれる動物である事から、商店や飲食店だけでなく、農家にも飾られるようにもなったのだとか・・・。

それにしても、その起源も謎ですが、なぜ?これほど全国に、招き猫が普及したのか?というのも、かなりの謎です。

最近でこそ、一般家庭では少なくなりましたが、商店などでは、今でもたくさん見ます・・・
さすがにフレンチ・レストランなどでは見られませんが・・・

信楽のタヌキか、亀の剥製か、というくらい、いや、それ以上に普及してる招き猫・・・しかも、種類も一つじゃありません。

一般的には、左手を挙げたものが客を招くとして商店や飲食店に飾られ、右手を挙げたものが金運を招くとして普通の家庭で飾るのだそうです。

関西では、京都の称念寺が有名で、こちらの招き猫は、色で分かれています。

金色のものが金運を招き、白色のものが福を招き、黒色のものは病気にかからないのだそうです(もはや招いてないゾsweat02

幕末の頃には、座ってる以外にも、ふせた姿勢の招き猫もいたらしいので、また別の何かを招いてくれるのかも知れませんね。

この種類の豊富さは、それだけ、人に身近な動物という事なのでしょう。

遣唐使とともに大陸からやってきた猫・・・(2月22日参照>>)

時には、化け猫として妖怪扱い(9月6日参照>>)されたりもしますが、その妖しい魅力が、何か不思議な事を起こしてくれるような気持ちにさせてくれるのでしょう。

金運招福・無病息災・家内安全・千客万来・・・
一家に一匹福を呼ぶ・・・招き猫は小さな巨人です。

Manekinekocc 久しぶりにイラストを書いてみました~

もちろん、招き猫で・・・

ちょっと欲張って、色んな福が来るように、左手の右手も挙げて、白に黒に金銀も、ぜ~んぶ○

これで、余生は酒池肉林の左ウチワでぃ!
 

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2008年9月20日 (土)

「お手玉の日」にお手玉の歴史

 

平成四年(1992年)9月20日に、第一回全国お手玉遊び大会愛媛県新居浜市で開催された事を記念して、今日9月2日は『お手玉の日』という記念日なのだそうです。

・・・て事で、今日は例のごとくお手玉の歴史について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「おむく」「おのせ」「おこんめ」「おひと」「いしなんご」「なっこ」「いっついこ」「ななつご」・・・などなど、地方によっていろんな呼びかたがあるお手玉ですが、大阪で生まれ育った私は、おじゃみ」と呼んでおりました。

♪おひと~つ おふた~つで お~さらい
  とってんしゃん~で お~さらい♪

という歌に乗せて、お手玉を投げたりつかんだり、あるいは手の甲ではじいたりラジバンダリ・・・

今、お手玉と言って、すぐに思い浮かべる小石や小豆、じゅず玉などを入れた布の袋のお手玉が普及するのは、江戸時代になってからですが、その原型とも言える石や動物の骨での遊びの歴史は大変古く、古代ギリシャにさかのぼるのだとか・・・

今に伝わるお手玉の遊び方は、大きく分けて、お手玉を上に投げて、取ってという「振り技(ゆり玉)という遊び方と、一つを投げている間に下に散らばったお手玉を寄せ集める「拾い技(よせ玉)という遊び方の2種類に分かれますよね。

古代ギリシャのお手玉の原型は、後者の「拾い技」と同じような遊びで、「アストラガリ」と呼ばれ、羊のかかとの骨を使って遊んでいたそうです。

それが、やがて、インド中国を経てアジア全体へと広がるにつれて、手に入り難い羊の骨から、近くにある石を使って遊ぶようになったようです。

お手玉自身の形や、使用する素材に違いはあれど、同じルーツを持つお手玉遊びは、今も世界中の人たちが楽しんでいるようです。

そんなお手玉の原型が、日本の文献に登場するのは平安時代・・・。

主に女の子の間で楽しまれた「いしなどり」という遊びがソレです。

この「いしなどり」は、あらかじめ、数個の小石をばらまいておいて、そのうちの一つを上に投げ、その石が落ちてこない間に、まいてある石をつかみ、石をつかんだその手で、落ちてくる石をつかむ・・・そして、順番に次々と石を拾っては投げ、拾っては投げ、すべての石を拾いつくしたほうが勝ちというルール・・・これは、まさしく「拾い技」ですね。

私たちは「おひとつ」と呼んでいましたが・・・平安時代からあったとは!

平安時代の歴史物語『栄花物語』には、第62代・村上天皇が、宮廷で女御たちの「いしなどり」を見物するシーンが出てきたり、あの西行法師が・・・
♪石なご(いしなどり)の 
 玉のおちくる ほどなきに
 過ぐる月日は かはりやはする♪

と、歌に詠んだりなんかしていますから、「やってみた」というよりは、「すでに流行していた」んだと思いますね。

一方、『源平盛衰記』には、知康という名手が、源頼朝の孫・一幡に呼ばれて、その目の前で、4個の小石を投げては受けるという芸を見せた」という記述があり、こちらは「振り技」・・・まさに「ジャグリング」ですね。

しかも、この時代に、すでに曲芸として見せるプロがいたって事ですね。
 

では、最後に、♪おさらい♪というフレーズが、お手玉歌の中で、最もよく聞くフレーズではないかという事で福井のお手玉歌=『おさらい』をご紹介します。

私の知ってるのとは、ちょっと違いますが、こちらの方が歴史が古そうなので・・・

 
~おさらい~

1月落して落して落して落しておさら~い
2月落して落して おさら~い
おみんな おさら~い
おてしゃみおてしゃみ おさら~い
おはさみおはさみ おさら~い
おちりんこおちりんこ おさら~い
お~ひ~ ら~り
ら~り ら~りらり
ひとよせ なかよせ おさら~い
しもづけ おさら~い

 

今、歌の途中に小倉ゆうこりんいませんでした?
しかも、脱字をするとヤバイ事になりそうなフレーズ・・・
  冷や汗出たsweat01
 

そんなこんなで、最近は、遊んでいる子供たちの姿も、見かけなくなったお手玉・・・しかし、平安の宮中で、天皇がご覧になった雅な遊びとあらば、是非とも、次の時代の子供たちに、伝えていってもらいたいものですね~。
 

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2008年7月30日 (水)

心太と書いて、なぜトコロテンと読む?

 

夏の風物詩つながりで、今日はトコロテンの豆知識&歴史を、ご紹介させていただきます。

このトコロテン・・・漢字では『心太』

パソコンでも一発変換できるにしては、なんで、心太と書いてトコロテンと読むのでしょうか?

ご存知のように、トコロテンは、テングサ類を煮詰めて、寒天質を抽出して冷やし、ゼリー状にした食べ物・・・日本独自の海草製品です。

これが、『大宝律令』にも凝海藻(こるもは)として登場する歴史ある食品なのです。

やがて、それは、平安時代になって『古々呂布止(ココロフト)と呼ばれるようになります。

このココロとは、こる・こごる(凝る)という意味で、フトは、お餅のような食品の事・・・つまりは、「凝り固まったお餅」という意味です。

この頃には、汁物の具として食べられていました。

やがて、ココロフトに、『心太』という漢字が当てられるようになり、鎌倉時代には、精進料理の一つとして食されていました。

室町時代には、京都の西山で加工され、公家や貴族に大いにもてはやされたそうで、その呼び名も、ココロフトからココロテイと変化し、時代の流れとともに、ココロテイ→ココロテン→トコロテン・・・バンザ~イ!バンザ~イ!
と変化していったのですが、心太という漢字だけは、そのまま使われ続けたというわけです。

江戸時代の寛永年間(1624年~1643年)の頃には、トコロテンという呼び名が定着し、夏の食べ物として冷たい状態で、砂糖あるいは醤油をかけて食べたのだそうです。

天保の頃に書かれた『守貞漫稿』には・・・
「心太、トコロテンと訓ず。三都とも、夏月之を売る。蓋(けだ)し、京坂、心太を晒(さら)したるを水飩(すいとん)と号く。心太一箇一文、水飩二文、買うて後に砂糖をかけ、或は醤油をかけ之(これ)を食す。京坂は醤油を用ひず」
とあります。

他の文献にも、「水飩は上品、心太は下品」という記述があるところを見れば、どうやら、心太を水でさらして冷たく冷やした物が水飩で、当然ですが、そっちの方がちょっと高かったって事ですね。

しかも、京坂は醤油を用ひず」・・・って、すでにこの時代に東西の食べ方が分かれてますね~。

そうです・・・私は大阪なので、長年、黒蜜でしかトコロテンを食べた事がありませんでした。

昔は、『てん突き』と呼ばれる水鉄砲のような器具を使って、「一突きなんぼ」で売られていたトコロテンですが、最近では、もっぱら、スーパーなどで、上からかける物が添付されたトコロテンを購入しますが、仕事の関係で、富山に引越した時に、初めて、酢醤油付きのトコロテンを見て、びっくりしてしまいました~。

しかし、さすが、富山は、東西文明の十字路!「日本のイスタンブール」(←これは、私が言ってるんですが・・・)、黒蜜と酢醤油の両方のトコロテンが売られてました。

中には、一つのトコロテンに、二つとも付いている物もあり、「お好みでどうぞ」みたいな説明がついていました。

一度は、酢醤油にも挑戦してはみましたが、やはり、食べなれた黒蜜がいいです。

逆に、東京の方から見れば、黒蜜はあり得ないんでしょうね。

ところで、このトコロテンの原料であるテングサも、最初の頃はココロフトと呼ばれていましたが、後になってトコロテンの材料であるところからトコロテングサと呼ばれるようになり、やがて、頭の部分を省略してテングサと呼ばれるようになったそうです。

Tokorotenkoukyoucc 今日のイラストは、
昨年の今頃には、暑い暑いと言いながら、平安時代のカキ氷のお話(8月5日参照>>)をさせていただいて、清少納言っぽい人にカキ氷を持っていただいたのですが、それならばと、今回は光明皇后っぽい人に心太を持っていただきました~。

小耳に挟んだ情報によれば、何やら正倉院の文書の中にも『心太』の文字があるらしく、正倉院と言えば、亡き聖武天皇の遺品を保管した光明皇后でしょう」って事で(6月21日参照>>)、正倉院をバックに、器がやはり、シルクロードを渡ってきた白瑠璃碗で・・・

もちろん、関西の方なので、黒蜜で・・・
 

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2008年7月29日 (火)

花火の歴史

 

昭和五十三年(1978年)7月29日、両国の花火大会隅田川花火大会と名称を変更して十七年ぶりに復活しました。

今年の隅田川花火大会は7月26日で、もう、過ぎてしまいましたが、夏の風物詩で季節もバッチリという事で、今日は、花火の歴史についてお話させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

花火の歴史は・・・紀元前3世紀頃の中国で発明された火薬が、やがての頃には、戦いのための武器や、通信手段の烽火(のろし)として使用されるようになります。

日本に伝わったのは、約400年前の戦国時代末期。

  • 櫟木民部大輔という人物がインドネシアから輸入した・・・
  • 種子島に伝わった鉄砲の火薬が花火に変化した・・
  • 慶長十八年(1613年)に伊毛達須なる中国人が伝えた・・・

と、複数の話がありますが、この慶長十八年には、あの徳川家康が、日本で初めて花火を観賞したという記録もあるので、いずれにしても、この頃に伝わった事は確かでしょう。

家康さんが見た花火というのは、今も、愛知県豊橋市に残る『炎の祭典』・・・降りそそぐ火の粉に耐えながら手で筒を抱えて・・・っていう手筒花火のような物だったと思われます。

翌年の大坂冬の陣(12月19日参照>>)では、例の淀殿もびっくりの天守閣直撃の大筒を、家康さんは披露していますから、さぞかし、花火には興味津々だった事でしょう。

戦いの道具として発展した花火も、やがて、天下泰平の世となるにつれ、娯楽のためにと変化していきます。

まずは、線香花火・・・そしてねずみ花火などが誕生し、江戸時代の中期になって、それは飛躍的な発展を遂げるのです。

やがて享保十八年(1733年)5月28日、水神祭とともに、両国川(現在の隅田川)の川開きが行われ、その時に約20発の花火が打ち上げられます。

その時に活躍したのが、六代目・鍵屋弥兵衛さん・・・日本橋横山町の花火師でした。

この弥兵衛さんのご先祖の初代・弥兵衛さんが御兵御殿の狼烟方(のろしかた)の打ち上げをヒントに花火を造って売り出したのが最初だったのですが、もう、この六代目さんの頃には、花火は鍵屋の独占状態・・・。

もちろん、それには、鍵屋さんの技術のすばらしさもありましたが、何より、「火事の原因となる花火を、あっちこっちでされては困る」って事で、江戸市中では、隅田川のみが、花火の場所とされ、「花火=鍵屋」というのも、この頃に定着しました。

やがて、文化五年(1808年)に、鍵屋の番頭であった清七さんが、のれんわけとして両国吉川町で、花火師を開業・・・こちらが玉屋となります。

名前は、もともとお稲荷さんを信仰していたことから、お稲荷さんの2匹駒狐が、鍵と玉をそれぞれくわえている事に由来するそうです。

花火の時に「たまや~」「かぎや~」と声をかけるのも、ここからきてるんですね~。

両国では、上流で玉屋、下流で鍵屋が花火を打ち上げ、両者が、花火のワザを競っていたところから、それぞれを応援する見物客が、声をかけはじめたんだそうです。

でも、さすがは江戸・・・大阪生まれの私は、長年、この「たまや~」と「かぎや~」のかけ声の事を知りませんでした。

サザエさんで、浪平さんが、花火を見ながら叫んでいたのを初めて見て、「何?」と、不思議に思ったくらいですから・・・

ところで、大阪ではほとんど聞かないので、あくまで小耳に挟んだ情報ですが、今では「かぎや~」と声をかけるより、「たまや~」と声をかける人のほうが断然多いらしい・・・

それは・・・
実は、玉屋さん、大きな火事を起こしてしまったために、江戸所払いとなり、花火師は一代限り、わずか35年間で終ってしまったのです。

その技術が素晴らしかっただけに、江戸の町の人々の涙を誘い、日本人の持って生まれた、いわゆる判官びいきの心をくすぐられ、「たまや~」と声をかける人が多かったのだとか・・・。

ちなみに、鍵屋さんのほうは、今も健在・・・十五代目の女社長さんが、後を継いでおられるそうです。

ITの時代になろうが、子供たちがテレビゲームに熱中しようが、いつの時代も、花火は、夏の風物詩・・・これだけは、室内では、味わえないですから・・・。

ところで、大阪で花火と言えば、世界一の規模を誇る教祖祭のPL花火大会ですが、それは、もうスゴイです。

昔は勢いにまかせて見にもいきましたが、花火も、スゴイけど人の多さもスゴイ・・・なかには、終電で帰れない人も出るくらいなので、お出かけの際はお気をつけて・・・。
 

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2008年7月 9日 (水)

日の丸はいつから国旗になった?

 

安政元年(1854年)7月9日、江戸幕府が日の丸=日章旗を日本船の船印と定めました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平成十一年(1999年)8月13日、4日前の衆議院本会議にて賛成多数で可決された『国旗及び国歌に関する法律』が公布・施行されました。

小渕内閣の時です。

その条文は、わずかに二つ・・・「国旗は日章旗(日の丸)とする」「国歌は君が代とする」

意外な事に、日の丸が日本の国旗だと正式に定められたのは、つい最近なんですね。

暗黙の了解のうちに、国の旗印として使用され、その歴史では、デンマークに次いで、世界で2番目に古いと言われている日の丸ですが、正式となると、こんなに最近・・・そこには、その誕生が、古いが故の、曖昧な慣例という生い立ちがあるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日の丸の最も古い記録としては、『続日本記』の中に、大宝元年(701年)「大極殿に、日の幡(はた)を掲げた」というのが出てきます。

大宝元年と言えば、まさに律令法典の完全版である『大宝律令』が施行された年・・・その時代に、朝廷の正殿である大極殿に掲げられたのですから、もはや、この時点で国の印しとして用いられていたようですね。

そんな日の丸が絵巻物などに頻繁に登場するようになるのは、平安時代の末期から・・・。

武士が持つ扇子などに描かれていますが、この時点では、まだ白地に赤だけではなく、赤地に白や、黒丸、金地に赤など様々な色の物でした。

ちなみに『平家物語』の中の源平合戦の名場面・扇の的(2月19日参照>>)に登場する扇は、「みな紅の扇の日出したるを・・・」って事で、赤地に金箔の日の丸です。

やがて、戦国時代に入ると、多くの大名が、国家の象徴として、日の丸の旗を戦場で掲げる事もありました。

現存する最古の日の丸は、雲峰寺(山梨県)の、あの武田家の遺品の中から、戦場での傷跡も痛々しい状況で発見された日の丸です。

約1.8m四方の白い布に、大きく描かれた朱色の日の丸・・・白地に赤が定着するのも、この頃からです。

豊臣秀吉朝鮮出兵(4月13日参照>>)の際の船印として日の丸を使用していますが、まだ、ここでも、暗黙の了解・・・正式に日の丸が認められていたわけではありません。

やがて、江戸幕府が成立した頃、朱印船制度が実施されるようになって、フィリピンタイなど、東南アジアとの交易が盛んになると、幕府は、外国船と区別するために、日本の船に日の丸をつけるように指導したようですが、まだ、ここでも正式ではありません。

そして、安政元年(1854年)7月9日、もはやペリーも来航した後の幕末期、薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)の提言によって、初めて正式に日本船の船印と認め、幕府から政令での公布という形になりました。

やがて、訪れた戊辰戦争(1月2日参照>>)では、江戸幕府は国旗として日の丸を掲げ、新政府は国旗として錦の御旗を掲げました。

・・・って事は、この時点での日の丸は、日本の旗というよりは、徳川幕府の旗だったわけですね。

そして、誕生した明治新政府は、明治三年(1870年)1月27日、日の丸を日本船の目印として商船規則に太政官布告(だいじょうかんふこく)・・・やっとここで、正式に日の丸が国旗として認められる事になります。

しかし、明治十八年(1885年)に内閣が発足し、太政官制が廃止になってしまいました。

さらに、現在の日本国憲法の下で、明治初期の太政官布告が有効なのか?無効なのか?という事が明確にされていないために、戦後の日本では、日の丸を国旗とする事に賛否の意見が飛び交う事になるのです。

結果、冒頭に書いたように平成十一年、正式に日の丸が国旗として定められる事になったわけです。

Hinomarucc ちなみに、正式な日の丸は・・・
縦の長さは横の3分の2。
赤い丸の直系は縦の長さの5分の3で、位置はドまん中とされているそうです。
 

私は、賛否両論できるほど、近代史には強くないので、そこのところは棚上げさせていただいて、デザインとして見た日の丸は大好きです。

なんたって、万国旗がズラリと並んだ中で、一番目立ちますから・・・
 

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2008年6月21日 (土)

チョット驚き!大江戸医者事情

昨日からのお医者さんつながりで、今日はちょっとくだけたお話を・・・

江戸時代のお医者さんのおもしろエピソードをいくつかご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日も書かせていただきましたように、江戸時代には医師免許なるものはありませんでしたので、「とりあえず医者にでもなろうか「医者しかできないんだよね~」なんて感じでお医者さんをやってた人もけっこういたのです・・・もちろん名医もいましたが・・・。

しかも、何の手続きもなく、思い立ったその日から始められるわりには、名字を名乗る事も許され、短いながらも刀をさす事もできましたから、けっこうお得・・・。

『徳川禁令考』という幕府の通達や、お触れを記した文献には・・・
「病気になって畑仕事でできなくなった農民が、医者になるというので許したところ、名字を名乗る事と、十徳(じゅっとく・医者が着る羽織のような衣のような礼服)を着る事を願い出てきたので許可しましたよ、いいですよね?」
という播磨からの質問に、幕府が・・・
「OK!いいよ」
と回答した事が書かれています。

こんな簡単に・・・

ですから、中には、「手遅れ医者」と呼ばれる、誰が来たって「もう、手遅れだ」なんて事を言ってごまかすような輩もいたらしく、
「大変や!源さんが、骨折ったみたいです!先生、診ておくなはれ!」
「残念ながら、手遅れや・・・」
「いや、今、2階から落ちたとこで・・・」
「せやから、手遅れや!って、落ちる前に連れてこんかいな!」
なんて、落語のような話もあったんだとか・・・

また、ある医者は・・・
「思いつきで医者になってみたけど、これほど、繁盛するとは思わんかったわ。
いまさらやめられへんし、繁盛するにつれて、だんだん難しい患者ばっかり来よるし・・・。
漢字も読まれへんし、薬の調合もできひんし・・・人に聞くわけにもいかへんし。
こうなったら金持って逃げたろかいな」

しかし、この医者、上記の通り大変繁盛しています。
・・・で、その秘訣は?と聞くと・・・
一、医は意なり
   金持ちには誠意を持ってゴマスリを・・・
一、医は衣なり
   高級ブランドで身を固める
一、医は威なり
   それらしくエラそうな雰囲気で・・・
一、医は異なり
   他の医者と違う独特の診断を・・・
一、医は稲荷
   人を化かす事を心がける
これが、繁盛の5か条なんですと・・・いやはや、ホンマかいな?って感じですねぇ。

また、ある時、肺結核を患った娘が、あっちの医者、こっちの医者に診てもらってはいるものの、病気はいっこうに快復に向かわず、特に最近は死人のようにふさぎ込んでばかり・・・たまりかねた父親が、名医と呼ばれる江戸は八丁堀で開業している高橋玄秀という医師に往診を頼みます。

すると、何回か通ううち、あんなにふさぎこんでいた娘が、医者が来る時だけ笑顔を見せるようになります。
時には、声を出して笑うほどの快復ぶり・・・。

「さすがは名医!」
と感激の父親・・・。

「先生!先生は娘に、いったいどんな治療をしてくだすってるんで?」
「いやね、脈をとる時に、わざとヒザをたてるんっすよ。
そんで、フンドシの下から中身をちょろっと出して見せてやると、たいていの娘は笑いますよ」

・・・って、それは治療か?

・・・と、こんな事ばかり書いていると、マジメにやってる江戸のお医者さんに失礼なので、最後に・・・
一、慈悲の心を持ち、
一、学問に励み、
一、常に経験を積み、
一、欲を捨て、
一、貧富の差なく、
一、慎重に治療する。

こんな、ちゃんとしたお医者さんの文献も残っていますので、ご安心を・・・。
 

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2008年6月16日 (月)

和菓子の歴史~そのルーツと豆知識

 

嘉祥元年(848年)6月16日、疫病が蔓延したため、第54代・仁明天皇16個の菓子・餅を神前に供えて疫病退散を祈願した『嘉祥菓子』の故事にちなんで、今日6月16日は『和菓子の日』という記念日なのだそうです。

・・・て、事で、今日は、和菓子の歴史を書かせていただきます。

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古代の人々にとっては、天然の果物や木の実が、まさにお菓子であったわけですが、奈良時代から平安時代になるにつれ、穀物を加工する技術が発達し、お餅団子が作られるようになります。

平安時代には、甘葛(あまづら)を煮込んで作る甘葛煎(あまづらに)なる甘味料も生まれ、文徳実録』という文献には、「嘉祥二年3月3日、婦女子、母子草を取り蒸しつきて餅を作り、歳時とする」とあり、よもぎなどを用いた草餅も登場します。

やがて、鎌倉時代にお菓子は飛躍的に変化します。

それは、大陸へと渡った禅宗の僧侶たちが持ち帰った点心という物・・・。

中国の読み方をそのまま使用した羊羹(ようかん)外郎(ういろう)なんていうのも、この頃に伝えられた物ですが、何と言っても、点心と聞いて思い描くのは、焼売(しゅうまい)餃子(ぎょうざ)・・・そして中華まん

肉の入った肉包子(ロウハオズ)は、日本に伝わり、やはり肉を入れたり野菜のあんを入れて菜まんじゅうと呼ばれましたが、やがて、それらはすたれていって、中には小豆のあんを入れるようになり、室町時代の頃には、現在のような形の饅頭となり、和菓子の代表格となるわけですが、その創始者と言われる人が、中国からの帰化人・林浄園さん。

延元四年(暦応二年・1339年)に、彼は奈良に住みつき、本格的に饅頭作りを開始します。

彼が塩瀬という姓を称した事で、この饅頭は塩瀬饅頭と呼ばれて大ヒット商品に・・・
江戸時代でも、饅頭の事を塩瀬と呼ぶ人も多かったそうで・・・
「フェルトペン=マジックインキ」
「セロハンテープ=セロテープ」
「瞬間接着剤=アロンアルファ」・・・みたいなもんですなぁ・・・。

この頃には、お茶とセットになって喫茶の習慣も生まれます。

ところで、少し話は脱線しますが・・・
饅頭は、なんで饅頭という名前なのか?

これは、あの中国での三国志の頃(紀元前300年頃)諸葛孔明が神様へのいけにえにする人間の代わりに、中に肉を入れて人の頭に似せて造り、お供えしたのが始まりだそうで、まさに肉饅頭・・・。

あの先端の中央にあるヒネリは、人間の髪の毛をあらわしているんだとか・・・ちょっとコワイ(>o<;)

やがて訪れる第2の飛躍ポイントは・・・そう、戦国時代の南蛮貿易です。

その画期的アイテムは砂糖・・・砂糖の輸入により、数々の新たなお菓子が生み出されます。

さらに、カステラ金平糖といった西洋のお菓子そのものも輸入され、それらは、和菓子の工夫にも大きな影響を与えます。

饅頭の中身も、小豆あんだけではなく、百合あん長芋あん白あんなどが考案され、それらを包む皮も、小麦粉に黒砂糖を加えた田舎饅頭、甘酒や濁酒(どぶろく)を入れて発酵させた酒饅頭、そば粉と長芋を混ぜた蕎麦饅頭、お茶を入れた茶饅頭などなど・・・

やがて、江戸時代には、それらの饅頭に加えて、安倍川餅きな粉餅なども誕生し、お菓子は大流行します。

あまりの流行ぶりに、お米の産出が激減したとして、寛永年間(1624年~1643年)には、菓子の売買・禁止令」が出されるほどだったと言います。

幕末には、江戸の米饅頭、大阪の虎屋饅頭、京都の(ふ)饅頭などの超有名どころも・・・。

やがて、明治になって、再びあの戦国時代の頃のように西洋のお菓子の影響を受け、和菓子は、その後も更なる発展をし続けるのです。

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最後に、その語源や起源など、和菓子豆知識を少し・・・

  • アラレ・・・
    もともとお餅を包丁で細かく切った物を乾燥させ、鍋で炒って作る物で、炒っている時に、はじけてふくらむ様子が、空から降る霰(あられ)に似ているところから、その名がついたのだそうです。
  • 桜餅・・・
    5代将軍・徳川綱吉の時代に、門番をやっていた山本新六という人物が、花見の時期に、おもしろ半分で桜の葉を塩漬けにし、小麦粉を解いた物を鉄板で焼き、中に小豆を入れて葉っぱで包んで売り出したところ、花見の時期だけで一年分の収入を得られるくらいにヒットしたのだとか・・・(関東風の桜餅)
  • 椿餅・・・
    道明寺粉で作る桜餅(関西風)に似た物で、桜の葉の変わりに椿の葉を用いますが、『源氏物語』にも登場する古い和菓子です。
  • 柏餅・・・
    ご存知、5月5日の端午の節句の定番お菓子ですが、意外に歴史は浅く、江戸時代に入ってからの事だそうです。

以上、本日は和菓子について、色々書かせていただきましたが、ともすれば忘れがちな、四季折々の風情を盛り込んで、見た目も美しく・・・めぐる季節の中で、その時々にふさわしい和菓子を、無性に食べたくなる・・・それは、心落ち着くひとときですね~

今日は、やっぱ、和菓子が安くなったりするんですかね?
・・・なんて思う私は、風流にはほど遠い・・・
 

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2008年5月17日 (土)

遠島・入墨・百タタキ~江戸の刑罰イロイロ

 

文化元年(1804年)5月17日、喜多川歌麿が描いた、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした『太閤五女花見之図』が、幕府の禁忌に触れるとして、「手鎖50日の刑」に処せられたのだそうです。

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いったい何が禁忌に触れたんでしょうかね?

題材が秀吉だという事がいけなかったんでしょうか?
それとも、春画っぽい感じだったんでしょうか?

小耳に挟んだ情報によれば、どうやら秀吉時代になぞらえて、実は、徳川時代の大奥を風刺した絵だったという事ですが・・・どんな絵だったか見てみたいですね~
(ネット上にあるのならお知らせください)

ところで、この「手鎖50日の刑」というのは、鎖で、どこかにつながれているわけではなく、ひょうたんのような形をした鎖・・・つまり手錠のような物をはめて50日間、自宅で謹慎するという刑です。

時代劇で見たところ木でできてるような雰囲気だし、錠の確認も2日一回だし・・・「けっこう自由に動けるやん!」と思ってしまいましたが、当の歌麿さんは、けっこうショックだったようで、この事が原因で3年後に亡くなった・・・なんて話もあるようです。

ひょっとしたら、この手錠がバーベルのようにメッチャ重かったのかも・・・身動きできないくらい。
それだとやっぱ、ツライっすね。

しかし、江戸時代にあった様々な刑の中では、やっぱり、この「手鎖」というのが一番軽い・・・って事で、今日は、江戸時代の様々な刑罰についてお話させていただきます。

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以前、十両盗めば首が飛ぶ』(12月3日参照>>)というのも書かせていただきましたが、これは「死罪」という刑・・・とりあえず、重い順に並べてみますと・・・

  • (はりつけ)
    親を殺害・主人への傷害など・・・
  • 獄門
    関所やぶり・毒薬販売・秤の偽造・枡の偽造・主人の奥さんとの不倫など・・・(ちと重すぎる気が・・・)
  • 火罪
    放火など・・・(目には目を・・・)
  • 死罪
    十両以上の窃盗・他人の夫及び妻との不倫など・・・

・・・と、ここまでが死刑です。
他にも、鋸挽(のこぎりびき)なんて、書くのも恐ろしい物もあります。

この中で、死罪のみが、小伝馬町の牢屋敷内で刑が執行され、それより重い死刑は、江戸市中引き回しのうえ、小塚原鈴ヶ森で執行されました。

続いて・・・

  • 遠島
    寺持ちの坊さんが女性とナニをする・過失による殺人など・・・
  • 重追放
    イロイロごまかして関所を通ろうとするなど・・・(町を出たかった場合はラッキーだ)
  • 中追放
    主人の娘と密通など・・・(普通やん!)
  • 軽追放
    婚約中の女性を奪う・百姓や町人が帯刀するなど・・・
  • 入墨
    一度、敲を受けた者が、再び軽い罪を犯した場合など・・・
  • (たたき)
    軽い罪・風呂屋での下着泥棒など・・・(これはイカン!)
  • 手鎖
    未亡人との密通など・・・(ボランティアの場合もあると思うが・・・)

・・・と、なりますが、歌麿の他にも、絵描きや劇作家などが、けっこうたくさん手鎖の刑に処せられています。

・・・で、もう少しくわしく・・・

遠島・・・というのは、江戸以前では、必ずしも島ではありませんでした。

在原業平東国へ行ったのも、菅原道真大宰府(1月25日参照>>)、ある意味遠島でしたし、この時代には朝廷による生活の保障もあり、まじめに努めれば戻る事もできました。

あの源頼朝伊豆に流されていますが、ちゃんと屋敷も貰って生活を営んでいましたし、なんと言っても、見張り役があの北条政子のオヤジさんですから・・・娘に手を出す余裕まであったって事になりますからね~(8月17日参照>>)

しかし、江戸時代の遠島は、まったく違います。

住むところから食糧まで、全部自分で確保しなければなりませんし、特別な恩赦がない限りは、基本、終身刑でした。

知識があって物書きができたり、医学の心得があったりなんかした人は、ちょっとは、まともな暮らしができましたが、多くの人は、餓死したり、生きる意欲を無くしたり・・・で、よく時代劇で見る「島ぬけ」なんかを企てたりするわけですが、ほとんどが溺死しまう事になります。

江戸の頃は、ある意味「死刑より、遠島のほうが重い」なんて事も言われていたそうです。

次に、やはり時代劇でよく目にする入墨・・・

これにも、様々な種類がありました。

Irezumihanzaicc 腕の入墨イロイロ:紀州・・いかにもワルそうやなぁ・・・

Irezumihanzaikaocc 上記の腕に入る入墨以外にも、地方には、額に彫られるものもあったそうで、安芸(広島)のなんか、初犯→再犯・・・で、三犯めは「犬」という文字になるそうですが、コレって・・・明らかに3回目に2画書かれてますが、誰も文句は言えなかったんでしょうか・・・。

肥前=三つ目がとおる・・・

 

 
この入墨(いれずみ)は、いわゆるオシャレで入れる刺青(いれずみ)と違って、犯罪者に苦痛を与える目的がありましたから、刺青よりは、はるかに太い針で、ガッツーンと彫られるそうで、かなり痛い・・・炎などで、焼き消そうとすれば焼き消せなくもありませんが、それにもやはり苦痛をともなう上、もし、バレたら更なる重い刑が待ってますからね~。

・・・なら、まわりに、オシャレ刺青を入れて目立たなくするのは・・・と、これも幕府はちゃんと手を打ってました。

彫師業界へ通達を出していて、入墨部分を残して刺青を掘る条件でしか、商売をしてはいけない事になっていたようです。

最後に、敲刑・・・

これは、ワラをきつくよって巻いた直系一寸(3cm)くらいのムチのような物で、腹ばいの姿勢になって、肩や背中・お尻などを叩かれます。

50回叩かれるのが普通の敲刑、100回叩かれるのが重敲(じゅうたたき)と呼ばれましたが、絶対に叩く数はオマケしてくれません。

ただし、この敲刑の重要な部分は、まわりにいる大勢の見物人に「悪いことをするとこうなるよ」と教える事と、大勢の目の前で叩かれる事で恥ずかしい思いをさせる事にありましたから、叩く数はごまかしてくれませんが、リアクションしだいでは、かなり、叩き方をオマケしてくれたようです。

痛がれば痛がるほど、叩き方はゆるくなるのだそうで、意地はって我慢してると、どんどん強く叩かれるのだとか・・・

50回・100回となると、叩くほうもしんどいですから・・・

ちなみに、50回の場合は一気に、100回の場合は、途中で休憩が入るそうです。
やっぱり、しんどいのねん。

以上、今日は江戸時代の刑罰について書かせていただきました。
 

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2008年5月 9日 (金)

大江戸・プロフェッショナルな女性事情

 

今回は、『今日は何の日?』を、お休みさせていただいて、以前から書かせていただいていた『教科書に絶対載らないだろうシリーズ』の続き・・・【大江戸・堕胎業禁止令】5月2日参照>>)の時に、「近いうちに」・・・と追記させていただいていたプロフェッショナルな江戸の女性のお話をさせていただきます。

下ネタではありますが、これも歴史の一面という事で、お許しを・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以前、三くだり半】(5月15日参照>>)のところで書かせていただいたように、こと法律においては、『大宝律令』の昔から、何となく男尊女卑感が拭えないですねぇ。

当時、世界最先端の大都市であった江戸でも、男性側からは、三行半の手紙一枚で離婚できるのに、女性側からは、昨日の豊臣秀頼さんの娘さんの作った駆け込み寺(昨日・5月8日参照>>)へ逃げ込んで、おかみのご沙汰を待たなくちゃならない・・・

・・・と、何となく女性が不幸なイメージがありますが、その三くだり半のページにも書かせていただいた通り、江戸時代の男女の比率は、だいたい3:1・・・つまり、男性全員が一人の奥さんとしか結婚しなくても、二人の男性が余ってしまうわけです。

まして、現在のように一夫一婦制が確立されていたわけではなく、お金持ちは平気で、何人ものお妾さんを囲う時代ですから、ますます男は余ってしまうわけで、女性の側から見れば選び放題・・・必然的に、男尊女卑をひけらかすような男はモテないわけです。

必死で彼女のご機嫌をとって、必死で彼女に嫌われないよう努める・・・それでも、彼女や奥さんを獲得した人は良いですが、上記の通り、絶対に余ってしまいます。

・・・で、当時大ハヤリだったのが、プロのお妾集団です。

これは、自分で見つけたカワイイ女性をお妾に・・・というのではなく、お妾が欲しいと思う男性が口入屋(くちいれや)に行って、そこの主人に頼み、主人は自分の知ってるプロの集団から、女の子を紹介するという物・・・。

この口入屋というお店は、ウラ稼業ではなく、れっきとした職業紹介所・・・今で言うハローワークみたいな物で、ちゃんとしたまじめな職業も紹介していた・・・というか、そっちがメインですが、同時に、こんな紹介もやってたんですね。

現代では、とても考えられない事ですが、当時は売春禁止法っつーのがありませんから、これも、一つの商売・・・売るほうも買うほうも、紹介するほうも、ビジネスと割り切ってのお付き合いなんでしょうね。

そんな中、『風軒遇記(ふうけんぐうき)という文献には、明和・安永年間(1764年~1781年)に、史上最悪のプロのお妾集団が存在した事が書かれています。

この集団の名は「通称:小便組」と呼ばれたそうですが、ここに所属する女性はいずれも美人揃いで教養も高く、中には武家の娘もいて、価格ランクも上の上・・・。

一両あれば、一年分の米を買える時代に、彼女たちは、契約時の支度金だけで三両~五両・・・もちろん、月々のお手当ても別にいるわけですから、ハンパじゃありません。

・・・という事は、やっぱり彼女たちと契約する男も、それなりにお金を持っている男でなくては、話に