2009年11月30日 (月)

飛鳥から現代まで~日本の土地制度の変化

 

明治十三年(1880年)11月30日、「土地売買譲渡規則」が制定されました・・・という事で、本日は、何かとややこしい、日本の土地制度について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人が狩りしながら移動して生活をしていた時代はともかく、稲作が始まって、一つところに定住するようになると、その場所を確保すべく、また、より良い土地を巡って争い事が起こるようになっていきます。

その争いに勝った一族は、豪族となって支配階級の上層に位置するようになり、やがて、そんな豪族の集合体である大和朝廷が形成されていき、その頂点の天皇の詔(みことのり)という形で、土地の所有者が明確にされる事になります。

Nihontotiseidocc_2 まずは大化元年(546年)に行われた大化の改新(6月12日参照>>)・・・この改新の詔の第一条の「公地公民制(こうちこうみんせい)で、すべての土地が国家の所有である事が定められました。

それと同時に、「班田収受法(はんでんしゅうじゅのほう)も定められたとありますが、実際にこの法律が施行されたのは、大宝元年(701年)の大宝律令以降と思われます。

この「班田収受法」は、6歳以上の男女に、その身分に見合った一定の区分田(くぶんでん・土地)を貸し与えて、その代わりに税金を納めさせるというもの・・・(くわしくは8月3日の真ん中あたりを参照>>)

しかし、過酷な労働と高い税金に苦しむ農民は、土地を放り出して逃亡する者があとをたたず、また、男より女のほうが税金が安かったため、戸籍を偽る者も続出して、これでは税収が減る一方・・・庶民の過酷な生活は11月8日参照>>)

そこで、朝廷はしかたなく、養老七年(723年)、貸し出しではなく、期限付きで土地を私有できるようにします。

これが、「三世一身法(さんぜいいっしんのほう)・・・新たに荒野を開墾した者は、親子孫の3代に渡って、その私有を認めるというものでしたが、案の定、期限切れ近くになると、農民は働く意欲を失くして、耕作をほっぽり出してしまい、農地は荒れ放題になってしまいます。

そのため、ついに朝廷は、期限のない土地私有を認めざるを得なくなり、こうしてできたのが、天平十五年(743年)の「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)・・・面積に制限があり、きちんと朝廷の許可を得なければならないものの、開墾した土地は永久に私有して良いという画期的な法律でした。

これに飛びついたのが、財力のある寺社や貴族です。

彼らは競うように土地を開墾し私有・・・これは荘園(しょうえん)と呼ばれ、皆、こぞって口分田から荘園へと移行し、一気に班田制の崩れを招いていきます。

たとえば三善清行(みよしきよゆき)という人物の提出した『本朝文粋(ほんちょうもんすい)という意見書には・・・
「天平神護年中(765年~766年)に吉備国(岡山県)邇磨郷(にまごう)の人口を調査したところ、調庸(ちょうよう・物品による納税)を納める農民の数は1900人だったのが、貞観(859年~876年)の始めには70余人で、自分(清行)が調べた時は、17歳~20歳の男子3人、21歳~60歳の男子4人、61歳~65歳の男子2人でした。
さらに、今現在は?と聞いたところ、一人もいませんとの答えが返ってきました」

とあります。

平成の少子化もビックリ!・・・と言いたいところですが、もちろん、これは、人口が減ったのではなく、皆、口分田を捨て、荘園に走ったという事でしょう。

やがて、そんな初期荘園も、10世紀以降になると寄進地系荘園へと変わっていきます。

これは、開発領主(有力農民)作人(さくにん・一般農民)下人(農奴・のうど)を使って土地を開墾し、それを寺社や貴族へ寄進するというもの・・・と言っても、寄進は名目上だけで、実際の所有権は開発した領主にありました。

実は、上記のように、寺社や貴族の名を借りる事で、朝廷の国司(地方官)からの圧力や高い税金から逃れる事ができたのです。

荘園には、
国司の荘園への立ち入りを拒否できる権利=不入の権
税金が免除される権利=不輸(ふゆ)の権
があったんですねぇ。

名前を貸す寺社や貴族のほうも、
 本家=大寺社・皇族・摂関家
  ↓
 領家=貴族・寺社
  ↓
 荘官=開発領主・名主
  ↓
 荘民=作人・下人
という構造ができあがっている中、それぞれの中間で、それぞれいくらかの搾取(さくしゅ・ぬきとり)があるので、ただ名前を貸すだけで、取り分が手に入るわけです。

この荘園の形がしばらく続く中、各地の開発領主は、その自分たちの土地を守るため、徐々に武装していくのですが、これが武士のはじまりです。

彼らは、中央から派遣された賜姓皇族(しせいこうぞく・天皇の後継者にはならない第2皇子や第3皇子など)や貴族を棟梁(とうりょう)として担ぎ、強固な武士団を形成していきます・・・よくご存知の平氏源氏です(11月21日の平将門を参照>>)

やがて、鎌倉に誕生した初の武士政権・・・幕府を開いた源頼朝が、弟・義経奥州藤原氏の討伐にむかいつつあった頃、このように地方で事件が起こった時に、その都度、軍勢を率いての遠征を行うのは負担であると考えます。

そこで、頼朝の家臣や息のかかった者が、全国各地の国領(国の土地)・荘園の税を徴収し、連絡を密にして、ついでにその土地を治めてしまおう!というもの・・・これが、守護と地頭の設置です。

もちろん、朝廷は、この守護と地頭の設置を快くが思っていませんでしたが、もはや政権も武士に移ってしまったわけですから・・・。

こうして、鎌倉幕府や室町幕府のもとでは、御家人になる事で、本領安堵=土地の所有が保証される事になります。

この間に一致団結する農民が無理難題を押し付ける地頭と対決したり(8月21日参照>>)、横領して納税義務を果たさない守護勢力と寺社が対決したり(7月21日参照>>)する中、世は乱世の戦国へと突入!

・・・で、ここまで続いていた荘園の中間搾取を一掃する土地改革を行ったのが、かの豊臣秀吉・・・秀吉は、「兵農分離令」を出して一つの土地に一作人と決め、各地で「太閤検地」を行って生産力を把握し、それを石高で表して年貢を決定する方法で、荘園制度を完全に終らせました(7月8日参照>>)

秀吉の後に天下を取った徳川家康が開いた江戸幕府も、この制度を継続し、土地は農民の物となっていましたが、毎年に渡っての一定の税収確保のため、「田畑永代売買(でんばたえいたいばいばい)の禁令」や、「分地制限令」などを発令して、農民たちが、自由に土地の売買をする事を禁止しました。

土地の売買が再び自由化されるのは、明治に入ってから・・・明治六年(1873年)の地租改正では、「田畑永代売買禁止」を廃止したのを皮切りに、その後7年間に渡る大事業で、様々な改正を行い、そして明治十三年(1880年)11月30日「土地売買譲渡規則」です。

その後は、第二次世界大戦後に、地主が小作人土地を貸して高額な小作料を取る「寄生地主制度」を廃止する農地改革が行われ、多くの小作農が自作農となり、現在に至る・・・でございます。

もちろん、まだまだ細かく書かせていただかねばならないところですが、一応、今日のところは、日本の土地制度のおおまかな流れという事で、はしょった部分については、大目に見ていただきたいと存じます。
 

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2009年11月 4日 (水)

忍者の教科書『万川集海』~服部半蔵の命日に因んで

 

慶長元年(1596年)11月4日、徳川家康の配下で伊賀衆の棟梁となって活躍した服部半蔵正成が55歳の生涯を閉じました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご存知、伊賀忍者の服部半蔵(はっとりはんぞう)ですが、実際には、この服部半蔵という名前は、服部家が代々受け継いでいく名前なので、複数の服部半蔵さんが存在するわけですが、一般的には、徳川家康とともに江戸入りして、その配下となって活躍した二代目・服部半蔵である正成(まさなり)の事を指します。

・・・てな事は、未だ書き足りない部分はあるものの、一応、すでに書かせていただいていますので・・・

・・・で見ていただくとして、本日は12月2日のページにもチョコッと登場した忍術伝書『万川集海(ばんせんしゅうかい)について書かせていただきます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

『万川集海』とは、「すべての川は海に集まる」という意味で、延宝四年(1676年)に、伊賀忍者の上忍・藤林長門守の子孫とされる藤林保武(ふじばやしやすたけ)という人が著した書物・・・

その序文に・・・
「伊賀・甲賀の11人の忍者の裏ワザや秘密アイテムの、悪いところは除き、良いところだけを厳選し、名将が編み出した秘策などをあますことなく集めて・・・」
と、あるように、まさに、流派を超えた忍者の教科書ともいえる物で、かの服部半蔵の言葉なども掲載されているのです。

残念ながら、原本はありませんが、複数の写本は今も残っているようです。

それぞれの内容は微妙に違うものの、おおむね7巻に分かれます。

  1. 「序文」「凡例」「目録」「問答」
  2. 「正心(しょうしん)
  3. 「将知(しょうち)
  4. 「陽忍(ようにん)
  5. 「陰忍(いんにん)
  6. 「天時(てんじ)
  7. 「忍器」

忍者の心構えだけでなく、天文学のような科学的な知識、実際の行動方法、そして秘密道具などなど・・・

その中でも、「忍器」で紹介されてる鉄砲についての記述が興味深いです。

なんとなく、忍者と言えば、手裏剣撒菱(まきびし)鎖鎌(くさりがま)なんて武器を思い浮かべますが、意外と鉄砲っていうのも、忍者御用達なんですね。

そう言えば、織田信長朝倉義景を攻めた金ヶ崎城の攻防戦からの撤退(4月27日参照>>)の途中で、まさに危機一髪の狙撃を受けますが、火縄銃で信長を撃ったその犯人は杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)・・・甲賀忍者だったと言われていますよね。

また、信長の鉄甲船完成のページ(9月30日参照>>)で、最新鋭の大砲を完成させた事をご紹介した近江・国友村の鍛冶職人・・・甲賀はもちろん、伊賀とも大変近い場所ですから、おそらく、他よりも、いち早く手にした事も想像できますね~。

また、東京・新宿区には鉄砲坂と呼ばれる坂がありますが、ここは、江戸時代に伊賀者の屋敷が建ち並んでいた場所で、その訓練場が近くにあったから、その名がついた・・・なんて話もあります。

ただ、『万川集海』では、その撃ち方の技術的な記述よりも、火薬の調合や弾の製造法に重きを置いているようです。

そりゃそうですね。
撃ち方なら、武将や鉄砲隊なども訓練するでしょうから、忍者たるもの、それ以上の+αを習得しておかなくてはいけませんからね~。

「皮袋に砂を固く詰めた物を玉状にして・・・」
なんて記述を見ると、もはや散弾銃ですよね。

それでは、最後に、『万川集海』から名言を一つ・・・

「およそ兵は国の大事 死生(ししょう)存亡の危機なり」
兵=軍事は、国の一大事で死ぬか生きるかだ~~

・・・て、これは孫子の「始計篇」(4月5日参照>>)のパクリでは?
なんて、硬い事を言うのは、やめときましょう・・・国を越えても、時代を超えても、名言は名言だという事で・・・。
 

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2009年7月30日 (木)

戦国から明治まで有料だった?~富士登山

 

先日、知人から「富士山サブレ」なるお菓子をいただきました~。

「富士登山に行ってきた」のだそうです。

そう言えば、ちょうど今頃・・・夏休みは、富士登山のシーズンって感じなんですかね。

一生に一度は登ってみたいとは思っているんですが、未だ、例の車で行ける場所までで、残念ながら、その上へは行けていません。

ところで、この富士登山・・・

以前、【異常気象と富士山信仰】(7月9日参照>>)のところで、修験道の始祖・役小角(えんのおづね)が始めた、修行としての富士登山が、室町時代の後半の戦国の頃から盛んになるお話をさせていただきましたが、実は、この頃からすでに、登山は有料だったんですね~。

山梨県富士吉田市の富士山北口浅間神社を起点とする吉田口登山道・・・この道が、当時のメインの登山道だったそうで、かつては、神社の周辺に、登山者の宿泊所と教導所を兼ねたお坊が、それはもう、たくさん建っていたのだとか・・・。

・・・で、当時、このあたり一帯に勢力を誇っていた、あの今川氏が、この登山道の近くに関所を置き、登山者・1人につき244文の山役銭=通行料を徴収したのだそうです。

現在も、関所の目印だった金鳥居が健在です。

この徴収業務は、教導所の御師(おし)がおこない、例の白装束に金剛杖を持った登山者が、登山口で通行料を払うと、代わりに手形を受け取って、いざ!富士登山へ・・・というワケです。

もちろん、あの「六根清浄(ろっこんしょうじょう)も唱えます。

しかし、いつの時代も同じ・・・こんな神聖な場でも、やはりいます!通行料を払わずに登ろうとする神をも恐れぬ人・・・。

そのため、山の中腹と頂上にも関所を置き、手形の無い者は絶対に通さない・・・いや、富士山から追放!と、厳しくチェックしたようです。

徴収した通行料は、約半分は領主への上納とし、残った中から、御師が一部を貰い、あとは、登山道や周辺の整備を任されている近隣の農民に配られたのだそうで、高冷地で、農業と言っても多くの収穫を期待できない、このあたりの農民にとっては、良いアルバイトだったようで、近隣の村同士で、この権利を奪いあった事も記録に残っています。

そんなこんなの富士山有料制度・・・途中、今川から武田の支配に移った頃、一度、244文から122文と半額に値下がりした事があった(なぜ?)そうですが、なんだかんだで、その戦国時代から始まったこの制度は、江戸を通じて、明治の頃まで続いていたそうです。

Fuziyamacc 本日のイラストは、ちょっと斬新な雰囲気で霊峰・富士を描いてみました~

いつかは、あの高みに・・・ヽ(´▽`)/
 

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2009年6月25日 (木)

秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床

 

今や、夏の京都の風物詩ともなった鴨川の納涼川床・・・

二条あたりから五条のへんまで、ずらりと約90軒ほどが軒をつらねていて、川風に提灯が揺られるさまは、見ているだけでも涼しげです。

少し前までは、6月1日から8月16日のあの五山の送り火(8月13日参照>>)の日まで・・・というのが定番でしたが、最近では、5月1日に始まり、9月いっぱい楽しめるのが一般的となっています。

ツウの間では、5月の床を「皐月(さつき)の床」と呼び、お盆から後の床を「後涼み」、もともとの期間を「本床」と呼ぶらしい・・・

「床は、やっぱり、本床がええなぁ」って人も多いらしいですが、なかなか本格的な懐石料理に手が出ないワタクシとしては、予約もいらず、格安の値段でランチを提供してくれる5月の床はたいへんありがたい!

ちなみに、この鴨川の川床は「川床」と書いて「ゆか」と呼び、貴船は、同じく「川床」と書きますが、呼び方は「かわどこ」と呼びます。

Dscn3096a800 五条大橋あたりの鴨川床・・・雨の日で開放感に欠けますが・・・

ところで、この鴨川の川床は、いつから、どんな風に始まったのか?

もちろん、現在のような形で、お店の一部を床として、木の板を張って薄縁(うすべり・ゴザの高級なヤツ)を敷いて座敷机に座布団に・・・という形のものには、「ウチが元祖だ!」と名乗りをあげるお店もありましょうが、もともと、この鴨川の河原自体が、都の人々のお手軽リゾートであり、夕涼みの定番の場所であったという歴史があります。

現在、京都・南座の横に「阿国歌舞伎発祥の地」なる石碑が立っていますが、もちろん、現在の南座の場所のような「地」の上で、阿国歌舞伎が行われたわけではなく、阿国が本邦初でもありません。

昔の鴨川は、もっともっと幅が広く、間にはいくつもの砂州ができていて、何本にも枝分かれした鴨川がその間を縫うように走っていたわけで、そのような、だだっ広い河原や砂州に、簡単な舞台を作って、阿国歌舞伎よりも前から、猿楽などが披露されていたようです。

考えて見れば、もともと、そういった芸能は大道芸で、現在のように劇場内で披露するものではなかったわけで、都のような人のいっぱい集まるところでやりたいけど、街中でやって、予想以上に人が集まれば、近所の店屋から怒られるだろうし、かと言って、人が多く集まらないと見物料は稼げない・・・

そうなると・・・
都のすぐそばにあって、迷惑のかからないだだっ広い場所・・・う~ん、納得ですね~。

この鴨川での猿楽興行は、以前【将軍・義政の贅沢猿楽興行】(4月1日参照>>)でも書かせていただいたように、南北に流れる鴨川のあちらこちらで、阿国歌舞伎が始まる以前から行われていた事でしょう。

この義政の時は、糺河原(ただすがわら)・・・現在の、下鴨神社の近く、京阪電車の出町柳駅から橋を越えた川が枝分かれする所でしたね。

ただ、このように、以前から行われていた鴨川での猿楽興行を一変するのが阿国歌舞伎・・・それは、阿国という女性の登場と、グッドタイミングな時代の変貌が、見事に重なりあった事で、この鴨川での芸能の歴史が塗り替えられるのです。

それは、豊臣秀吉による平安京の大改造にあります。

平安京=京の都と言えば、やはり、延暦十三年(794年)に平安遷都した桓武天皇の平安京(10月22日参照>>)を思い浮かべてしまいますが、現在の京都のような町を造ったのは、豊臣秀吉なのです。

この時、応仁の乱をはじめとする度重なる戦乱で破壊され、昔の内裏のあたりは田んぼとなり、都は上京と下京に分断され、上下を行き交う事ができるのは室町通の一本だけという状態だったのだとか・・・

現在の京都市街に建つお寺で、応仁の乱以前の建物が、大報恩寺(千本釈迦堂)だけという事を考えてみても、いかに乱世の戦火がはげしかったかがわかりますよね。

そんな京都の町に、道を造り、町を造り、都らしい景観を整えていった秀吉・・・。

そして、秀吉が京都の町を造るのと同時に行ったのが、あの聚楽第(じゅらくだい)を中心に京都の町をお土居(どい)という塀で囲った事・・・

今や、そのお土居の跡が、とぎれとぎれに発掘されている状態で、その全貌は未だ謎ですが、おそらく、当時は、守りに弱い京都の町を、堅固な城塞都市にするがのごとく、囲まれていたわけで、そんな塀に囲まれた町から外に出るには、何箇所か作られた狭い出入口を通って外へ出なければならなかったはず・・・

ただでさえ塀で囲まれているという日頃の精神的圧迫感がある中、狭い出口を通り抜けたその先に、広々とした鴨川が流れていたら・・・もはや、それだけで、都の人々の開放感はMAXになった事でしょう。

つまり、その開放感が、たまに「多くの人が集まって芸能を見物する、都のはずれの広い場所」というのから、「一大リゾート地」へ変貌する要因になったのではないでしょうか。

そんな場所に阿国は陣取り、歌や踊りを披露する・・・阿国が最初の場所に四条周辺の河原を選んだのは、やはり八坂神社の影響があったのかも知れません。

古すぎてその歴史ははっきりしませんが、おそらく八坂神社は、平安京が平安京になる以前からあの場所にあって、八坂神社を基点に四条通りを西に伸ばした可能性が高い事を考えると、その囲われた都から、四条通を通って外に出る人の数もハンパなく多かったでしょうからね。

やがて、その開放感は、手軽なリゾートを求める人々の間で、舞台での芸能を見ながら、友人と話しながら、ゆっくりと休日を過ごす場所となっていき、そうなると、当然、そこには食事も持参する事になります。

やがて、江戸時代には、裕福な商人が、河原や砂州に床をしつらえ、取引先の接待をする・・・

その後、寛文年間(1661年~72年)に行われた大規模な治水工事で、両岸に石積の護岸ができた事で、そこに茶店や出店が出現し、現在とよく似た雰囲気に・・・

それでも、現在のような茶店の床だけでなく、河原には一般の人がしつらえた床もあり、川に足を浸しながら、夕涼みを楽しんだようです。

新撰組の前身・浪士隊を組織して、京都に乗り込んだ幕末の志士・清河八郎も、「京都は、食べ物の好みも、趣味もまったく肌に合わない最悪の場所」と言いながらも、この夏の鴨川の夕涼みだけは大絶賛で、「砂州をさらえて、一面に床を敷き、客を待つのはタマラン」のだそうです。

秀吉の築いたお土居が、もはやほんの少しの跡形を残すだけになった現在も、人は、開放感と涼しさを求めて鴨川に集まる・・・今も昔も変らぬ、京都の夏の風物詩です。
 

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2009年3月30日 (月)

歴史の気になる疑問・一挙解決~歴史豆知識

 

このページは、よりスムーズに記事が探せるようにと、ジャンル別に記事へのリンクをつけたまとめページ=目次です。

今回は、【歴史の気になる疑問】というテーマで、とにかく「アレってどんな感じだったの?」っていうような気になる事をピックアップさせていただきました~

他のテーマと重複している記事もありますが、「このページを起点に各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

また、左サイドバーに【お楽しみメニュー>ジャンル別・索引】としてリンクを表示しておきますので、気になった時はいつでもい見にきてくださいね・・・もちろん、更新もしていきますよ!

いつもの事ですが、タイムマシンに乗って、実際にこの目で見たわけではないので、それぞれの事柄は、諸説あるうちの一つとお考え下さい。

その点をご了承いただきながら、いざ!気になる疑問の解決!といきましょうか。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

★古代の気になる

●日本神話をSFっぽく
 【古事記をSFとして読めば・・・】

●なんで手を振るのか?気になる
 【人は別れる時、なぜ手を振るのか?】

●なぜ赤なのか?気になる
 【運命の赤い糸はなぜ赤い?】

●埴輪の使用目的は?
 【埴輪の使用目的は?】

●鏡は神聖なる物?
 【古代日本における鏡とは?】

●万葉集の1番はナンパの歌
 【万葉集1番の雄略天皇のお話】

●石舞台古墳のあるじは?
 【石舞台古墳のあるじは?】

★奈良時代の気になる

●法隆寺は再建された?
 【聖徳太子のために再建?謎と不思議の法隆寺】

●吉野の花見のルーツは飛鳥時代にあった?
 【秀吉も催した吉野の花見の意味は?】

●平城京の場所
 【なぜ?平城京はあの場所に?】

●奈良の大仏と鎌倉の大仏の違いは?
 【奈良の大仏と鎌倉の大仏】

●奈良時代の役人の年収
 【今も昔も役人天国?大宝律令の役人の年収は?】

●奈良時代の役人は天国↑でも庶民は・・・
 【奈良の都の住宅事情~貧しい庶民の実態】

●奈良時代の就業時間
 【時間にキッチリ?奈良の都の勤め人】

●ややこしい都市制度って・・・
 【飛鳥から現代まで~日本の土地制度の変化】

●天皇のコレクションルーム・正倉院
 【正倉院・アッと驚く豆知識】

★平安時代の気になる

●奈良・平安時代の食生活
 【奈良・平安の食生活~グルメの醍醐味】

●平安時代のハヤリ物
 【平安のトレンド・イケメン僧侶に貝合わせ】

●平安時代の花嫁修行
 【玉の輿に乗りたい!~平安の自分磨き】

●平安時代の香り事情と香合わせ
 【香りにうるさい平安貴族】

●平安貴族はカキ氷を食べていた?
 【平安時代のカキ氷~ひんやりスイーツの歴史】

●清少納言も流れ星に願いをかけた?
 【ペルセウス座流星群によせて~平安時代の流れ星】

●12年なのに「前九年」?そもそも、なんで「役」?
 【12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年」?】

★鎌倉・室町時代の気になる

●借金を返さなくていいって本当?
 【幕府公認の借金踏み倒し・永仁の徳政令】

●南北朝の動乱での下級公家たちは?
 【ある公家の悲しい都落ち】

●なぞなぞのルーツ
 【なぞなぞのルーツ~室町時代の謎かけ】

●一休さんのとんち話は本当?
 【一休さんのとんちは本当?】

●初めっから銀箔なんて貼るつもり無かったぜby義政
 【銀閣寺が銀箔じゃないワケは?】

●一揆のやり方
 【一味同心・一揆へ行こう!】

●加賀一向一揆の支配が100年続く
 【加賀一向一揆の支配は、なぜ100年も続いたか?】

●中世の農民にも苗字があった?
 【意外!?中世の名も無き人の名前とは?】

●源(の)頼朝には「の」がついて足利尊氏にはつかない
 【氏・素姓と苗字の話】

●親を捨てる風習はあったのか?
 【うば捨て山は本当にあったのか?】

★戦国・合戦の気になる

●緊急情報・伝達システム
 【のろしと密書・髻の綸旨の話】

●伊賀VS甲賀
 【意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者】
 【忍者の教科書『万川集海』】

●軍師の本当の仕事は?
 【軍師のお仕事・出陣の儀式】

●戦国合戦の陣形・陣立
 【戦国武将の必須科目・陣形と陣立のお話】

●旗と指物
 【姉川の七本槍と旗指物のお話】

●火縄銃の使い方
 【火縄銃・取扱説明書】

●鉄砲伝来は種子島じゃない?
 【鉄砲伝来~異説とその後】

●「風林火山」の意味
 【風林火山・孫子の兵法】

●9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」
 【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】

●時は戦国・・・男は合戦~その時、女は?
 【「おあむ物語」戦国女性の生き様】

●城割
 【天下人だけが成しえた城割の重要性とは?】

●町割
 【大阪マイナー史跡~大手橋と近世城下町の町割】

●西と東・・・本願寺が二つに別れたのは?
 【時代とともに生きた~東西・二つの本願寺】

●有料だった富士登山
 【戦国から明治まで有料だった?~富士登山】

★江戸時代の気になる

●徳川家の葵の家紋
 【徳川家だけ、なぜ葵?家紋のお話】

●寒ブリが食べたいばっかりにお家断絶って・・・
 【寒ブリでお家断絶・取り潰し】

●金のシャチホコに触れた者は必ず捕まる?
 【名古屋城の伝説】

●刃傷・松の廊下の松のデザイン
 【事件を目撃した松はどんな松?】

●奈良時代&江戸時代の人口
 【昔の人口ってどれくらい?】

●江戸時代の数学
 【ナユタとフカシギ】

●江戸時代の離婚事情は?
 【三くだり半~江戸の離婚事情】

●江戸時代の恋愛事情は?
 【江戸の媚薬・イモリの黒焼き】

●江戸時代の旅行事情
 【大江戸・旅マニュアル】
 【箱根の関所は6ヵ所あった?】

●江戸時代の娯楽
 【江戸のホエールウォッチング・珍獣見世物事情】

●江戸時代に大酒飲み大会やってた?
 【花のお江戸の酒飲み大会~千住の酒合戦】

●瓦版について
 【近代新聞と瓦版・大江戸情報ネットワーク】

●江戸時代の刑罰について
 【遠島・入墨・百叩き~江戸の刑罰イロイロ】

●江戸時代に堕胎禁止令が出た?
 【本邦初?大江戸堕胎禁止令】

●江戸時代の流行った「プロのお妾集団」
 【大江戸プロフェッショナルな女たち】

●大晦日恒例・大奥裸踊り
 【大晦日・恒例!大奥・裸おどり】

●大奥・開かずの間
 【大奥・開かずの間~徳川綱吉、刺殺の噂】

●大江戸医者事情
 【チョット驚き!大江戸医者事情】

●参勤交代の費用って、いくら?
 【参勤交代・始まる】

●東海道が五十七次って知ってた?
 【東海道は五十七次!~道の日にちなんで】

●大岡越前は名奉行だった?
 【大岡・名裁きは本当?】

●十両盗めば首が飛ぶ?
 【十両盗めば首が飛ぶ?】

●吉原の花魁遊びはいくら?
 【江戸で豪遊~吉原の花魁遊びはいくら?】

●天下泰平の世、鉄砲はどこへ?
 【鉄砲伝来~異説とその後】

●明治以前の日本人の歩き方
 【かかとの無い履き物と「ナンバ」】

★幕末の気になる

●黒船に庶民は驚いた?
 【黒船見物禁止令~庶民の反応は?】

●年をとってもお盛んだった歴史人物は?
 【今日はシルバーラブの日】

●あのスフィンクスと侍の写真はいつ撮った?
 【第二次幕末遣欧使節団の珍道中】

●政府にもある埋蔵金・徳川にはあった?
 【でるか?徳川埋蔵金】

★近代でも気になる事は気になる

●小学校は私立より公立がセレブ?
 【登校拒否は当たり前!明治の始めの学校】

●小学生がタバコを吸ってた?
 【明治の珍騒動~未成年・喫煙禁止令】

●日の丸はいつから国旗に?
 【日の丸はいつから国旗になった?】

●電報文の傑作
 【神風連の乱~ダンナハイケナイワタシハテキズ】

●謎の暗号・エニグマって何?
 【史上最恐の暗号・エニグマ】

●今も有効?決闘禁止令
 【ついに禁止令!明治の決闘ブーム】

●本当に地球は温暖化してるの?
 【最近気になる平安時代は今より温暖化だった?話】

★言葉・名前の気になる

●鳥居
 【神社の鳥居の起源・種類】

●招き猫
 【招き猫の由来】

●心太と書いてトコロテン
 【心太と書いてなぜトコロテンと読む?】

●くりからもんもん
 【「くりからもんもん」て何?】

●「うだつが上がらない」の『うだつ』
 【「うだつ」が上がらない】

●「五臓六腑」って、どこ?
 【五臓六腑って、どこ?】

●玉の輿
 【玉の輿に乗りたい!~平安の自分磨き】

●平安京→京都
 【平安京はいつから京都に?~平安京命名の日】

●東京・八重洲口の「八重洲」は人物名から?
 【三浦按針・漂着~そしてヨーステンの名は・・・】

●のぞき行為を「デバガメ」というのは?
 【出歯亀事件・発生】

●水琴窟(すいきんくつ)ってどんな音?
 【涼を呼ぶ松花堂の水琴窟~その音色は?】

●言葉の変化
 【新語・流行語~生まれては消える死語の世界】

★ついでに、日本三大○○

●日本三大奇襲
 ・河越夜戦
   【河越夜戦で公方壊滅】
 ・桶狭間の戦い
   【一か八かの桶狭間の戦い】
 ・厳島の戦い
   【戦国屈指の奇襲戦・厳島の戦い】

●日本三大仇討ち
 ・曽我兄弟
   【曽我兄弟の仇討ち~もう一人のターゲット】
 ・伊賀上野鍵屋の決闘
   【荒木又右衛門は何人斬ったか?】
 ・忠臣蔵
   【忠臣蔵のウソ・ホント】
   【消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門】

●日本三大怨霊
 ・菅原道真
   【清涼殿に落雷!道真の怨霊か?】
 ・平将門
   【平将門・怨霊伝説】
 ・崇徳天皇
   【史上最強!崇徳天皇・怨霊伝説】
   

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2008年12月29日 (月)

古式ゆかしい正月行事と初詣の起源

 

年金問題に食の安全、通り魔事件にゲリラ豪雨、果ては、リーマンショックでリストラの嵐・・・と、まっこと「変」な一年だった2008年も、残すところ、あと3日・・・

いよいよ、お正月の準備に忙しい年の暮れとなりました。

・・・という事で、本日は、その古式ゆかしいお正月の行事初詣の由来・起源について書かせていただきます。

ただし、何度もお伝えしております通り、お正月の行事は、ほとんどが、日本に仏教が伝わる以前からある民間信仰で、その後の神道や仏教の普及によって形を変えたり、あるいは統合されたりという紆余曲折を繰り返して、今に伝わるものですし、地方によって、その伝わり方も異なりますので、あくまで、諸説あるうちの一つという事をご理解下さい。

そもそも、初詣とは・・・

お正月に初めて神社仏閣へ参拝し、一年の無病息災・家内安全・平安無事などを祈る事で、除夜の鐘を聞いてから参るのが一般的ですが、この社寺にお参りする初詣が、いつ頃から庶民に定着したのかは定かではありません。

・・・と言っても、東京なら明治神宮大阪なら住吉大社京都なら伏見稲荷石清水八幡宮八坂神社・・・などなど、有名な社寺への初詣というのは、少なくとも電車などの交通機関が発達してから・・・というより、これは、完全に、近年の鉄道会社の宣伝のたまもの・・・

わざわざ電車に乗って、有名な場所へ出かける民族大移動で、鉄道会社は、かなり儲かりますからねぇ・・・

だからと言って、有名社寺への初詣を否定しているわけではありませんよ。

お菓子メーカーの思う壷とわかっていても、バレンタインデーにチョコレートを貰えばうれしいものですし、あげる側だってワクワクします。

それで、お互いの心にやさしい風が吹くのなら、思う壷にハマるのも悪くはありません。

平賀源内が考えた夏のウナギ屋の救済広告「土用丑の鰻」(7月30日参照>>)だって、食べた事で、何となく元気になれるのであれば、それはそれでOKですからね。

何たって初詣は、おみくじを引いたり、破魔矢(はまや・この破魔矢も平賀源内が考えた広告です)(10月23日参照>>)を戴いたり、中には振る舞い酒のサービスをしてくださるところもあり・・・と、それは楽しいものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

そもそも、お正月の一連の行事は、以前、【お歳暮の由来】(12月20日参照>>)で書かせていただいた通り、年神様というお正月にやってくる神様をお迎えするために行うもの・・・。

まだ、時計もなく、暦も定かでない時代は、一日の終わりは日没で、一年の終わりも、その年の最後の日の日没・・・ここから、新しい年の神様を迎え、神様とともに過ごすお正月が始まるわけです。

今では大晦日の夜にあたるその夜に、神棚に鏡餅を供え、お神酒、燈明をあげた後、賑やかな膳を用意し、人はその前に座り、年神様を待ちます。

やがて、真夜中、神様が門松(のぼり)をより所に降りてくると、お神酒・お供物を下げてともに宴を催して、一晩中、家族で雑談を交わしながら過ごします。

この神様に供物を供えてから、その供物を家族そろっていただく事を「トシをトル(トシトリ)と呼びました。

やがて、夜が明けると、主人または長男が若水を汲み、奥さんがその水を、昨夜から一晩中絶やさずにいた炉の火(万年火)で沸かし、皆でお茶(福茶)を飲みながら、やはり神様にお供えしていたみかんなどを下げていただきます。

これが、今のところ一番、古い形であろうお正月の神様を迎える作法です。

また、地方によっては、「トシトリ」で、一晩中、自宅で徹夜する代わりに、鎮守や氏神様に詣でて、社殿で一夜を過ごす「トシゴモリ」というのを行いました。

この「トシゴモリ」初詣のルーツと思われます。

いずれにしても、「この夜は遅くまで起きていればいるほど長生きする」という観念は、共通のようです。

なるほど・・・それで、ウチの母も、日頃は「早く寝なさい」と言うのに、この大晦日だけは、紅白を見終って、そのあとの「ゆく年くる年」を、まだ見てても、何も言わなかったのですね。

Dscn6051a160 私の家は、「おけいはん(京阪電車利用者の事)・・・この夜、京阪電車は一晩中走ります。
←伏見稲荷:稲荷山頂上付近

沿線には、八坂神社・伏見稲荷・平安神宮・下鴨神社・成田山不動尊と初詣の名所が目白押し・・・石清水八幡宮なんてケーブルカーまで徹夜で運転してくれて・・・何か、心踊りますね~。

とにもかくにも、初詣は、不況になるほど人出が増えるという事なので、百年に一度の大不況と言われている今回は、さぞかし沢山の人で賑わう事でしょうね。
 

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2008年12月14日 (日)

年末年始・お正月~由来・起源・豆知識集

 

12月も半ばになり、毎年恒例の京都・清水寺「今年の漢字」『変』と決まり、いよいよお正月準備にあわただしくなる今日この頃・・・

・・・て、事で、今回は、すでにブログにupしている年末年始・お正月の行事についての豆知識を、一挙まとめてみました。

お正月での会話が、一段とはずめば幸いです。

ただし、こういった行事は、何分、起源そのものが古く、物事によっては、地方などで言い伝えが違っていたり、諸説ある場合がありますので、あくまで、いくつかある中の一つの説だという解釈でお願いします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★お歳暮の由来
   【お歳暮はお正月の神様のため】

★除夜の鐘
   【除夜の鐘108つの意味は?】

★えと・十二支
   【「えと」十二支の由来と起源】

★年賀状
   【いよいよ師走~年賀状の由来と年賀状イラスト】

★おせちと雑煮
   【おせち料理とお雑煮の由来と起源】

★初詣
   【古式ゆかしい正月行事と初詣の起源】

★羽根突き
   【羽根突きはただの遊びじゃない!】

★双六
   【天武天皇も怒られた?ギャンブルの歴史】

★百人一首
   【百人一首に隠された暗号】

★お年玉
   【お年玉の由来】

★初夢
   【いい夢見ろよ~初夢と七福神の話】

★七草
   【七草粥の起源】

★成人式
   【成人式・元服の歴史】

★左義長・どんど焼き
   【左義長・どんど焼きの由来と意味は?】

★節分
   【節分・豆まきの起源と鬼】

 

Takarabune2009 年賀状につかえそうな宝船のイラストを・・・
 

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2008年11月23日 (日)

勤労感謝の日~新嘗祭は、もう一つの新年行事?

 

11月23日は勤労感謝の日という祝日です。

勤労感謝の日は、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」日なのだそうですが、もともと戦前は、この11月23日は新嘗祭(にいなめさい)という祝日で、その新嘗祭の日付をそのまま、勤労感謝の日といふうに改めたものなのです。

新嘗祭の「嘗」という字は、中国の秋の祭りを意味する文字で、『古事記』『日本書紀』に登場する「爾比那閇」「爾波能阿」の文字を、「新嘗」に置き換えたもの・・・もともと「ナメ」という言葉が「食する」とか「試みる」とかの意味を持っているそうなので、要するに、新嘗祭とは収穫祭の事で、その秋に収穫された新しい穀物を神前に供えてともに喜び、祭典や祝宴を開いて、それを食するお祭りだったわけです。

しかし、昔から新嘗祭という名称で、この行事が行われてきたのは宮中で、天皇自らが行う新嘗と関連の神社で行われる新嘗祭があって、一般庶民が行うこの行事の事は「田の神祭り」「猪の子祭り」「十日夜(とおかんや)」「刈り上げ祭り」などと呼ばれていたのです。

戦前は新嘗祭だったのが、戦後に勤労感謝の日に変わるのは、そこンとこが引っかかったのかもかも知れませんが、まぁ、もともと農耕民族だった日本にとって、昔は、労働と言えば、イコール農業に従事する事でしたが、現在は、ありとあらゆる労働があるわけで、そのすべての成果に感謝するとすれば、農業における収穫だけではなく、「すべての労働、すべての生産に感謝する」という意味の勤労感謝の日っていうのも悪くはないでしょうね。

ところで、その新嘗祭・・・もともとは、毎年、旧暦の11月の2回目の卯(う)の日に行われていたのを、明治五年(1872年)の太陽暦が採用された時(11月9日参照>>)に、そのまま新暦に置き換えて新嘗祭を行うと、翌年の1月になってしまうため、それならば・・・と、新暦の11月の2回目の卯の日に行う事になり、それが11月23日だったので、その年から、新嘗祭は11月23日に行われるようになったそうです。

wikiをはじめ、多くの新嘗祭の解説で・・・
「たまたま、日本が太陽暦を導入した年の11月の2回目の卯の日が11月23日だったために、その日が新嘗祭と決定されたが、11月23日という日付自体には深い意味がない」
とされているところが多いのですが、どうやら、そうではないかも知れませんよ。

11月23日は、昔からけっこう重要視されていた日付だったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現在、一年のスタートの日・・・と言えば、お正月

この正月は、今でも「新春」「初春」なんていう挨拶をする事でもおわかりのように、一年を24に分けた二十四節季(10月8日参照>>)の立春の事で、現在の日付では、2月4日前後・・・あの「鬼は~外~」豆まきが、一年の邪気を祓う年末行事の名残り(2月3日参照>>)で、そうやって、昔は厄を祓ってから、新年(立春)を迎えていたわけですが、日本には、昔から、もう一つ、スタートの日と呼べる日があったんです。

それは、冬至・・・。

昨年、【えと・十二支の由来と意味】(11月9日参照>>)で書かせていただいたように、十二支は、もともと一年を12に分けた月の呼び名として生まれ、その場合は、冬至の日がスタートの日となります。

最初の月にねずみが当てられたのも、「陰と陽の分かれ道=すべてが0になって新しくスタートする」から・・・という事も書かせていただきました。

つまり、この冬至の日がゼロの日という事になります。

・・・で、今の太陽暦では、冬至は12月23日前後ですが、旧暦を見てみると・・・そう、これが11月23日前後なんですね~。

しかも、昔は、陰陽師や占い師ならともかく、一般庶民は、そこまで正確に暦を知っていたわけではないので、ほとんどの人が、11月23日を冬至と考えて行動していたのです。

その名残りが大師講だと言われています。

一般的には、11月23日の大師講の大師は弘法大師の事だと言われ、その忌日の24日に行われる事もありますが、以前、書かせていただいたように、この日は弘法大師が村にやってきて雪を降らせるという伝説(2007年11月23日参照>>)の日でもあり、ご紹介した丹波以外に、東北北陸にもこの弘法大師の伝説が残っています。

また、慈恵大師・良源の忌日でもある事から大師講の大師は慈恵大師とする説も、そして、中国天台大師(天台宗の開祖・知顗、智者大師とも)の大師だとも、さらに、職人さんの間では、大師がたいしとも読める事から聖徳太子の大師であるなどという様々な説がありますが、それだけ沢山の説あるという事は、イコールそれらの説が生まれるずっと前から、その日が「たいしの日」と呼ばれていた事を意味するのではないでしょうか?

おそらく、それらの説のおおもととなったのが、日本に仏教が伝わる以前から信仰されていた越年に福をもたらす冬至の神=大子神(おおいこがみ・たいしがみ)であったと考えられます。

大子は大師・・・

その昔、村々を訪れて収穫をもたらしてくれる大子神にめずらしい食べ物をお供えしてすべてをゼロにして新たなスタートを切る日が冬至=11月23日だったんです。

大子神信仰と新嘗祭・・・どちらも、その年の収穫を祝い、来年の収穫を願う行事・・・無縁ではないように思えます。

しかも、新嘗祭がはっきりと文献に登場するのは、皇極天皇元年(642年)の11月の2回目の卯の日で、残念ながら、この年は11月23日ではなく11月16日ですが、昔の新嘗祭では、前日に鎮魂祭(たましずめのまつり)という明らかに邪気を祓う行事が行われていて、新嘗祭が新年を祝う行事である可能性大です。

さらに、中国の唐の時代の『祠令』には、「天子は夏至に地神を祭り、冬至に天を祭る」とのくだりもあり、その中国の思想も、影響があったかも知れません。

・・・とは言え、新嘗祭が、そして現在の新嘗祭=勤労感謝の日が11月23日になったのも、偶然ではないかも知れない・・・という事は、心の隅に置いておいて、とりあえずは、本日の休日を、勤労に感謝しながら、楽しく過ごさせていただく事といたしましょう。
 

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2008年10月 1日 (水)

「醤油の日」なので醤油の歴史

 

今日、10月1日は『醤油の日』なのだそうです。

日本醤油協会など、複数の関連団体が2003年に制定したのだとか・・・

その由来は・・・、

  • 以前は10月が新しいもろみを仕込む時期であった事。
  • その昔、醤油は、壷や甕(かめ)に詰められて運ばれていて、その甕の形から生まれた象形文字が酉であり、月を干支で表すと、酉の月は10月である事。

・・・なのだそうです。
ちょっと、ややこしい・・・

何となく10月はわかりますが、、なぜに1日なのか?という事は、今日のところは棚の上に置いとして、本日は例のごとく、醤油の日なので『醤油の歴史』を紐解いて参りましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とは言え、醤油の歴史は意外と新しい・・・

日本の文献に初めて「醤油」という文字が登場するのは、16世紀も終わりに近づいた慶長二年(1597年)に刊行された『易林本・節用集(えきりんぼん・せつようしゅう)・・・この節用集は戦国の広辞苑といった感じの文書です。

この頃の醤油は、現在の醤油とはちょっと違ったもので、どちらかと言えば溜り(たまり)醤油のようなものではありましたが、やっとここに来て、味噌とはっきりと分かれて、醤油という名前が着いたという事で、汁物と吸物の区別がつくのもちょうどこの頃・・・。

そうです。
先ほど、醤油の歴史は意外と新しいと書かせていただきましたが、このように、はっきりと区別されたのがこの頃だという事で、その原型となる物は古くからありました。

中国は紀元前11世紀のの時代に書かれた『周礼(しゅうらい)には、(ひしお)というものが登場します。

また、紀元前6世紀の『論語』でおなじみの孔子さんも、「醤が手に入んなかったら食べたくない」なんて事を言っていて、もう、すでに、この頃には、お食事の友・・・何はなくとも江●むらさきみたいな重要な調味料であった事がうかがえます。

ただ、この中国の醤という物は、醤油というよりは、現在の塩辛に近いもので、しかも、材料は、鹿や鳥や魚といった動物性のものでした。

やがて、紀元前1~2世紀頃のの時代になると、大豆などの穀類を材料とする醤が誕生し、肉類よりも安価に作れる事から、徐々に穀類の醤のほうが主流になっていきました。

一方、その頃の日本は、ちょうど弥生時代・・・

おそらく、中国の醤が、朝鮮半島を経由して伝わったのでしょうが、日本には、その弥生時代以前の、縄文時代の頃から、すでに、果物や野菜・海草などを材料にした醤が存在していたようです。

やがて、それらの醤は、奈良時代頃には味噌となり、平安時代には、様々な種類の味噌を売る商店なども登場しますが(お味噌の歴史のページ参照>>)、このあたりで枝分かれして独自の発展を遂げるのが、秋田に伝わる「しょっつる」能登半島「魚汁(いしる)などの魚を材料にした調味料や、富山「かぶら寿司」琵琶湖「鮒ずしなどのなれ寿司です。

「しょっつる」「魚汁」は、現在でも郷土料理として愛され、一方のなれ寿司も、ご存知のように、現在にそんそまま伝わるものと、おし寿司にぎり寿司へと変化するものに枝分かれする事になります。

さらに、醤や味噌の製造過程で、桶などの底にたまる液体が、煮物の味付けなどにピッタリな事がわかり、これがたまり醤油の原型となり、こちらも枝分かれしていきます。

醤油という名称の由来は、醤の液汁(油)から醤油となったとか、中国でよく似たものを醤湯とか豆油と呼んでいたので、両方をミックスして醤油となったなど、いくつかの説があります。

やがて、室町・戦国の頃から、あの武田信玄に、溜りを献上して気に入られ、『川中島御用醤油』の役を命じられた下総(千葉県)野田飯田市郎兵衛をはじめ、紀州(和歌山県)湯浅赤胴右馬太郎播磨(兵庫県)竜野円尾孫右衛門などなど・・・醤油の醸造が本格的に行われるようになります。

しかし、このように民間レベルで発展した醤油は、幕府や大名の管理下に置かれた米とは、まったく別の流通経路であったため、米の3~4倍の高値で取引され、お酒よりも高い高級品だったそうですが、冒頭の慶長頃には、大坂を中心に専門店が軒を並べるようになり、やがて、首都が江戸に遷るににつれ、江戸へと、そして全国へと広がり、いつしかお味噌と並ぶ、日本の調味料となるわけです。

ちなみに、そんな醤油が外国人の口に入るようになったのは、ごく最近の事のように思われがちですが、どうしてどうして、あの太陽王として君臨したルイ14世も醤油が大好きだったんだとか・・・

戦国の日本にやってきたオランダ人たちによって、それは、ブルボン王朝フランスにも届けられていたのだそうで、壷や瓶に入れ、木詮で密閉状態にして、はるばる船で運ばれた醤油は、さらに熟成されるうえ、もともと品質もよく、高価であった事が、よりセレブの心をくすぐり、当時の高級フランス料理には欠かせない調味料となっていたようです。

ところが、近代日本では、太平洋戦争直後の大豆不足からアミノ酸を混合させたり、スピード時代の波に乗ろうと速醸造の粗悪な醤油が多く造られた時代があり、その悪臭によって、海外からも、国内からも敬遠され、一時はそのまま衰退していくかのようになった事もあったそうですが、その状況はすぐに改善され、再び、長い年月をかけて熟成する品質のよいものが主流となって、現在は、ご存知のように、毎日の食卓に欠かせない調味料となっています。

もちろん、品質もバツグンです。

「あぁ。。。今夜は和食にしよう」
そして、はるか昔の醤の時代からの、長い長い旅の末にたどり着いた日本の味を、じっくりと味わってみようではありませんか。
 

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2008年9月29日 (月)

「招き猫の日」なので招き猫の由来

 

今日、9月29日は、「くる(9)ふ(2)く(9)」=来る福の語呂合わせで、日本招き猫倶楽部が制定した『招き猫の日』という記念日なのだそうです。

この日は・・・
伊勢神宮「おかげ横丁」
愛知県瀬戸市
熊本県島原市

などで、「来る福・招き猫まつり」が開催されるそうです。

ちなみに、今からお話する招き猫の由来の一つとして登場する彦根では、「い(1)い(1)ふ(2)く(9)」=いい福の語呂合わせで、11月2日~9日に「招き猫まつり」が開催されるそうです。

・・・てな事で、今日は『招き猫の由来』を書かせていただきたいと思いますが、そもそもの由来としては、中国は唐の時代の『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)なる書物に、「俗に言はく。猫、面を洗いて耳を過ぐればすなわち客到(いた)る」というのがありますので、もともとの出典は、これなのでしょうが、それが日本に伝わって、その猫の姿を、招き猫という人形にして、置物として飾る事に関しての起源については諸説あります。

まず、一番有名なところでは、東京・世田谷区豪徳寺に残る第2代・彦根藩主の井伊直孝さんの逸話・・・って、第2代藩主は井伊直継(直勝)さんじゃ無かったの?と思いきや、「直継さんは、病弱だったため実権は弟の直孝さんが握っていて、直継さんは藩主に数えない場合がある」のだそうです。

以前書かせていただいた彦根城の人柱の逸話(11月4日参照>>)の時は、元気そうだったんですけどね~まぁ、招き猫とは直接関係ないので、今日のところは、そこンとこのお家騒動はスルーしてお話を進めさせていただきますが・・・。

ある時、その直孝さんが、この豪徳寺の前を通りかかると、門のところで、猫が手招きをして、しきりに彼を呼ぶのです。

不思議に思って、猫に近づき、門の中に入った途端!ゴロゴロド~ンthunderの音とともに、今、立っていた場所に落雷が・・・

急死に一生を得た直孝さん・・・

この猫が、豪徳寺の住職の飼い猫だった事から、この後、豪徳寺は井伊家の菩提寺となって、大きく発展する事となるのです~・・・って、コレ、井伊家に福を招いたんじゃなくて、自分トコの寺に福を招いてるような気がしないでもありませんが、ともかく、この逸話から招き猫が生まれたというもの・・・

そのほかにも、江戸時代の天明年間(1781年~1788年)に両国にあった金猫銀猫という女郎屋の飼い猫が、「顔を洗うたびに客が入る」と評判になり、その猫をモデルにした置物を、店の名前にちなんで金と銀の色に塗って、店先に飾ったのが始まりというのも・・・

また、吉原の伝説の花魁・薄雪太夫の忠猫をモデルに人形を造り、太夫の人気にあやかろうと花街で猫の人形が大流行し、やがて、近くの飲食店や商店に広まっていったという話もあります。

その後、養蚕の敵であるネズミを退治してくれる動物である事から、商店や飲食店だけでなく、農家にも飾られるようにもなったのだとか・・・。

それにしても、その起源も謎ですが、なぜ?これほど全国に、招き猫が普及したのか?というのも、かなりの謎です。

最近でこそ、一般家庭では少なくなりましたが、商店などでは、今でもたくさん見ます・・・
さすがにフレンチ・レストランなどでは見られませんが・・・

信楽のタヌキか、亀の剥製か、というくらい、いや、それ以上に普及してる招き猫・・・しかも、種類も一つじゃありません。

一般的には、左手を挙げたものが客を招くとして商店や飲食店に飾られ、右手を挙げたものが金運を招くとして普通の家庭で飾るのだそうです。

関西では、京都の称念寺が有名で、こちらの招き猫は、色で分かれています。

金色のものが金運を招き、白色のものが福を招き、黒色のものは病気にかからないのだそうです(もはや招いてないゾsweat02

幕末の頃には、座ってる以外にも、ふせた姿勢の招き猫もいたらしいので、また別の何かを招いてくれるのかも知れませんね。

この種類の豊富さは、それだけ、人に身近な動物という事なのでしょう。

遣唐使とともに大陸からやってきた猫・・・(2月22日参照>>)

時には、化け猫として妖怪扱い(9月6日参照>>)されたりもしますが、その妖しい魅力が、何か不思議な事を起こしてくれるような気持ちにさせてくれるのでしょう。

金運招福・無病息災・家内安全・千客万来・・・
一家に一匹福を呼ぶ・・・招き猫は小さな巨人です。

Manekinekocc 久しぶりにイラストを書いてみました~

もちろん、招き猫で・・・

ちょっと欲張って、色んな福が来るように、左手の右手も挙げて、白に黒に金銀も、ぜ~んぶ○

これで、余生は酒池肉林の左ウチワでぃ!
 

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