2009年12月10日 (木)

江戸時代から有名な「いろは歌」の暗号

 

永禄二年(1559年)12月10日、妙本寺の住職・日我が、西安房(千葉県)を移動しながら『いろは字』を書き上げました。

・・・って事なのですが、恥ずかしながら、日我さんについては、ほぼ無知なので、つい思い出してしまった『いろは歌の暗号』について、本日はお話させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今更ながらの暗号話ではありますが、ご存知の通り、『いろは歌』は、今以って作者は不明となってます。

この『いろは歌』が文書として初めて登場するのは、承暦三年(1079年)成立の『金光明最勝王(こんみょうさいしょうおう)です。

Irohauta その文書の中で、経典での発音や漢字の意味を説明するためのものとして用いられた『いろは歌』は、やがて仮名文字の手習いに用いられるようになり、広く一般庶民にまで知られるようになるのは、鎌倉時代頃からと言われています。

色な匂えど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔いもせず

(この世に華やかな生活があっても、それは無情に消えてしまう。そのはかなさを乗り越えるには、浅はかな栄華を夢見たり、幸せに酔いしれてはいけない)

47文字を一度も重複する事なく、しかも、なめらかな語呂で意味のある文章にするのは、大変な作業である事・・・また、その内容が、仏教的な意味が込められた無常観を唄ったものである事から、昔から、天才として知られる「弘法大師=空海の作である」なんて事が言われていますが、このなめらかな語呂というのが、平安後期に流行った『今様』風である事から、今では、奈良時代の人物である空海ではないだろうとの見方が主流です。

・・・で、この『いろは歌』の末尾の部分を横に読むと、「咎(とが)なくて死す」「無実の罪で死んだ」という暗号が隠されているというお話は、かなり有名ですが、実は、この暗号話は、すでに江戸時代からあったお話なのです。

この暗号の話を一躍有名にしたのは、あの『仮名手本忠臣蔵』・・・この人形銃瑠璃の大ヒットによって、江戸の町のほとんどの人は、すでに、暗号について知っていたんですねぇ。

ご存知のように忠臣蔵は、実際にあったあの赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件(12月14日参照>>)がモデル・・・事実はともかく、お芝居の中では、悪人は吉良さんのほうですから、赤穂浪士は無実の罪で切腹した事になります。

しかも、いろは47文字で浪士の数も四十七士いろは歌は仮名文字のお手本・・・って事で『仮名手本忠臣蔵』なワケですね~。

てな事で、すでに江戸時代から有名だった『いろは歌の暗号』ですが、今では作者も含め、いろいろな推理が出てきています。

意外なところでは、キリスト教徒説・・・

もちろん、「咎なくて死す」はまさしく、イエス・キリストの事なのですが、これによれば、末尾だけではなく、上の行にも、暗号があると・・・

一番最初の「い」・・・
そこから、上段の最後の「ゑ」・・・
そして、最後の「す」

さらに、このいろは歌には「ゑ」と、もう一つの「え」がありますが、最初の文字「い」から「え」までの文字数が33「え」から最後の「す」までの文字数が12・・・

この数字が、キリストが亡くなったのが33歳と、言わずと知れた12使徒と一致するというわけです・・・ワォ!!

なので、キリストの死を悼んだキリスト教徒の作ではないか?というのですが・・・キリスト教って、死を悼むというよりは、「神に召された」って考える気がしないでもないですが・・・。

また、有名なところでは、柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)もありますね~。

人麻呂は万葉集にも多くの歌を残す有名歌人ですから、歌を作る才能に関しては申し分なし、また、以前書かせていただいたように、猿丸太夫(さるまるだゆう)(4月18日参照>>)かも知れない謎多き人物で、万葉集に登場するのに正史には登場せず、死に際して詠んだ歌が存在するところから、死刑になったとも言われていて、もし、その死刑となった罪が無実であったとしたら、まさしく「咎なくせ死す」って事になります。

さらに、この場合・・・
江戸時代の火消しが、いろは47文字に「万」を足して48組あった事から、以前は、一番最後に「ま」があったのかも?って事で、最後に「ま」の文字を入れて7文字ずつ並べると、真ん中の「の」の文字を中心に、対角線上に「かきのもとひとまろ」と読める・・・

もはや、文字の多少のズレも、反対向きに読むのも、なんで「の」が中心なんだ?という疑問も、そんなの関係ねぇ!・・・と言わんばかりの暗号ぶりでダヴィンチも真っ青Σ(;・∀・)

でも、奈良時代の空海でありえないのなら、飛鳥時代の人麻呂は、もっと、ありえない気がしないでもないんですが、まぁ、なんやかやと推理するのは、とにかく楽しい事でありますから、わくわくしばがら、いろんな説を楽しみたいものですね。
 

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2009年12月 8日 (火)

排除された邪教の神~酒呑童子の叫び

 

いけません。
やっちまいました~

うぅ・・・・
頭が痛い~~喉が痛い~~

どうやら、風邪をひいたようです。

長期に渡って、風邪一つひかない健康体質を保ち続けていた茶々でござりまするが、まさに鬼の霍乱(かくらん)とは、この事でおます。

大阪には「アホは風邪ひかん」ということわざ?がありまして、長年どっぷり浸かったアホの世界から抜け出る事ができた事を喜びつつ、鬼の霍乱にちなんで、本日は鬼のお話を一つ・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

昔、正暦(990年~994年)のころ、京の都の内外で行方不明や殺人事件が相次いでいた中、時の最高実力者の藤原道長息子が行方不明になってしまいます。

あわてて、おかかえの陰陽師・安倍晴明を招いて占ってみますと、大江山に住む鬼の仕業である事がわかり、早速、帝は源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)藤原保昌(ふじわらのやすあき)鬼退治の命令を下しました。

頼光は、渡辺綱(わたなべのつな)坂田金時(さかたのきんとき)卜部季武(うらべのすえたけ)碓井貞光(うすいのさだみつ)という四天王と呼ばれる4人を引き連れて、鬼を油断させるために、山伏の姿に変装して大江山に乗り込みます。

鬼たちは彼らを山伏だと信じ込み、大歓迎して迎え入れてくれたうえ、宴の席を設けてくれたのです。

やがてそのうち酒宴の席に、ジャニーズ系美少年の姿をした酒呑童子(しゅてんどうじ)が現れました。

頼光たちは、神様からもらった毒入りのお酒を鬼たちに振る舞い、鬼たちを身動きできないようにしてから酒呑童子の様子を伺うと、酒呑童子もまわりに美女をはべらせてグーグーと眠ってしまっています。

熟睡して油断した酒呑童子は、とうとう本性を表します。

その正体は、15個の眼、5本の角を持つ巨大な醜い鬼だったのです。

寝ている童子に頼光たちが襲いかかります。
怪力自慢の四天王が手足を押さえ、頼光が首を切り落としました。

しかし、その首は宙を舞い、叫びまわりながら、やがて、頼光の兜に噛み付いたのです。

そこで、頼光は、その首の眼をくりぬき、やっとのことで、首は兜から離れ、退治する事ができました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

ご存知、大江山の酒呑童子のお話です。

このお話には、藤原道長をはじめ安倍晴明や源頼光や四天王たちなど、実在の人物が登場してはいますが、さすがに、実際にあった出来事だとは思えません。

・・・とは言え、伝説や昔話の類を、「作り話だ」として一蹴してしまうのはいただけません。

たとえ、物語そのものが空想の産物であったとしても、その物語が、そこで誕生した事は事実・・・その誕生のウラには、なにかしらの背景があるものです。

このお話の中で、酒呑童子が自らの身の上話を語るのですが、それによれば・・・
「昔から、比叡山を、先祖代々の所領としていたのだが、ある日、伝教大師(でんぎょうだいし)という坊さんがやって来て、延暦寺というお寺を建てたために追い出され、大江山に住むようになった」
との事・・・

伝教大師は、ご存知、最澄の事・・・つまり、酒呑童子とは、もともと神代の昔から比叡山で信仰されていた土着の神様で、仏教の伝来によって、それら昔の信仰が邪道とされ、徐々に排除されていった事を、英雄伝説に置き換えたものではないか?と思われます。

まぁ、大した根拠もない話ではありますが、頼光たちが山伏の姿で大江山に入り、その姿に、鬼たちが警戒しないところなど、山伏が鬼たち(土着の神様)とは同類で一体感があった事を臭わせています。

山伏も仏教ではなく、山岳信仰の修験者ですから・・・

また、御伽草子(おとぎぞうし)では、酒呑童子は越後(新潟県)の生まれであるとされ、越後のお寺で稚児として育つものの、寺で暴れて追い出されて比叡山へ・・・

そして、やはり比叡山を伝教大師に追い出されて大江山に住みついたところ、今度は弘法大師(空海)に追い出されるも、最澄や空海がいなくなったので、再び大江山に戻ってきていた事になってます。

おそらくは、彼らは鬼ではなく、山の神や竜神といった昔ながらの信仰を続けてきた人々・・・そんな彼らは、仏教や陰陽道を信仰する都の人々にとっては、邪教の信者であり、排除の対象となったという事なのでしょう。

伝説によれば、酒呑童子は、殺される時、
「鬼に横道(おうどう)はない!」
と叫んだのだとか・・・

つまり、「正義は我々にある」と・・・

邪教の排除を名目に、彼らの昔ながらの土地を次々と征服していった者たちへの、悲痛な叫びが聞こえてくるようです。
 

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2009年7月 7日 (火)

南西諸島の七夕伝説~天降子と天人女房

 

7月7日は七夕・・・

これまで、このブログでは・・・

2006年には、昔々、七夕イベントの一つとして行われていた格闘技のお話(2006年7月7日参照>>)

2007年には、ご存知の中国の七夕のお話と伝統的な七夕行事、大阪・池田に伝わる「星月夜の織姫」(2007年7月7日参照>>)と、七夕発祥の地とされる大阪・交野(かたの)七夕ゆかりの史跡京阪電車のイベント(2007年6月23日参照>>)

2008年には、日本の七夕伝説である「天稚彦(あめわかひこ)物語」(2008年7月7日参照>>)などなど・・・

毎年ご紹介させていただいており、「またかい!」とのお声もありましょうが、やはり、外せない七夕伝説・・・

本日は、南西の島々に伝わる七夕伝説をご紹介させていただきます。

実は、これ・・・いわゆる天女の羽衣伝説七夕伝説がくっついたような物語になっているのですが、羽衣伝説自体は、北は東北から南は九州&沖縄まで、日本中に広く分布しているのですが、なぜか、七夕伝説とくっついたものは、関東から西のみ・・・東北にはないのだそうで、もともとの中国から伝わった牽牛(けんぎゅう)&織女(しょくじょ)、そして室町時代に成立した御伽草子(おとぎぞうし)天稚彦&織姫、さらに、これら南西諸島の伝説と、その成り立ちや伝わり方を考えると興味津々です。
 

・‥…☆━━━喜界島の天降子━━━☆・‥…

昔、姉妹の天降子(アムリガー・天女の事)が、天から喜界島(鹿児島県大島郡)に降りてきて、森の中の泉のかたわらに立つ木に飛羽(とびはね)を掛けて水浴びをしていたところ、近くに住む牛飼いの男が、これを見つけて、飛羽をひとつだけ隠してしまいます。

慌てた姉妹・・・ふと見ると、残っている飛羽は姉の物・・・

すかさず、姉は自分の飛羽を身につけて、天へと帰ってしまいました。

残った妹は、何とか牛飼いに頼んで返してもらおうとしますが、牛飼いは承知せず、しかたなく、妻として牛飼いとともに暮らす事になります。

・・・と、しかたなく一緒になったわりには、なんだかんだで楽しく、そして、仲睦まじく暮らしていた二人でしたが、ある時、一緒に天界へ里帰りする事になり、「一緒に行くなら・・・」と、牛飼いが、あの飛羽を妻に返してやると、妻は、その飛羽を着け、夫を小脇に抱えて、いざ、天界へ・・・

途中、妻が言うには・・・
「この先も、私と暮らしたいなら、私の両親が縦に切れと言っても、絶対、横に切ってね・・・でないと、とんでもない事に・・・」
と、夫に言って聞かせます。

天界では、二人が戻って来たお祝いにと、ちょうど、畑に生ったばかりのキュウリをたくさん収穫して来てくれていて、さぁ、料理をしようと、牛飼いが包丁を持ったその時!

両親が、いきなり、「ナイキリー(縦に切れ)!」と叫び、牛飼いは、その勢いにつられて、さっきの約束を忘れて、両親の言うがまま、キュウリを縦に切ってしまいます

その途端、キュウリからドヮッと水が流れ出てきて、またたく間に川となり、妻と牛飼いは両方の岸に取り残されて、会えなくなってしまいました。

この日がちょうど7月7日で、それ以来、牛飼いと妻は、1年に1度、7月7日の夜にならないと会えなくなってしまったのです。
 

・‥…☆━━━奄美大島の天人女房━━━☆・‥…

昔、奄美大島に住む一人のクロという犬を飼っていました。

ある夜、山の奥の池のほとりから、なんとも美しい音楽が聞こえてくるので、不思議に思い、見に行ってみると、天女が水浴びをしています。

これが、またメチャメチャ美人・・・爺さん、年甲斐もなく、興奮して、そこに脱いであった飛衣を隠してしまい、天に帰れなくなった天女は、しかたなく、翁の妻になり、やがて、二人の間には、3人の子供が生まれます(しかたなく嫁になっても子供は生まれるモンなんだ・・・(゚ー゚;)

子供が、少し大きくなった頃、1番上の子供が歌う子守唄の中に、飛衣の隠し場所が唄いこまれている事に気がついた妻は、隠してあった飛衣を探し当て、すぐに身に着けて、1番上の子供の手を引き、2番目の子供を頭に乗せ、天に帰ってしまいます。

3番目の子供は、重くて連れて行く事ができなかったのです。

妻が天に帰った事を知った翁は、自分も天に行きたくて行きたくて・・・

そこで、千足のぞうりを作り、それを踏みながら天へと昇っていく事にした翁・・・ところが、あと一歩で天にたどりつく、というところで、ぞうりは無くなってしまいます。

実は、千足作ったと思っていたぞうりは、999足しかなく、あと1足、足りなかったのです。

・・・と、そこへ、愛犬・クロがやってきて、「ボクがぞうりになりましょう」と言って、千足めの位置にうずくまってくれたのです。

翁は、最後の一歩をクロの背中に乗って、天へとたどりつく事ができました。

こうして、翁は一番目の夜明けの星となり、クロは2番目の夜明け星になったという事です。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

・・・て、オイオイ、3番目の子供は置き去りかい!

という、なんとも、気になる終わり方をするお話ですが、民話という物は往々にして、こんな感じの終り方をする物・・・

むしろ、きっちりと出来上がった物語より、こういった昔話のほうが、「遠い昔より、人から人へと伝えられてきたんだろうなぁ」という感じがするものです。

中国の七夕、日本の七夕、南西諸島の七夕・・・

今宵は、どちらの七夕伝説で、古の星空に思いを馳せましょうや・・・

いつの時代も、七夕の夜はロマンチックですheart
 

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2009年3月31日 (火)

不老長寿は幸せ?人魚伝説・八百比丘尼

 

日本における最も古い人魚の記録は、『日本書紀』にあるとされているそうですが、その日本書紀以外にも、各地に様々な人魚の伝説が残ります。

今日は、その中でも、特に興味深い『八百比丘尼(はっぴゃくびくに)の伝説をご紹介します。

このお話は、若狭(福井県)小浜、あるいは佐渡羽茂(はもち)が舞台となっている事が多く、室町時代頃に最も広まったようで、地方によっては八百比丘尼を「やおびくに」と呼んだり、ヒロインの彼女の肌が白く美しかった事から『白比丘尼(しらびくに)と呼ぶところもあるようです。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

その日、ある漁師の地引網に、異様な姿をした獲物がかかります。

その頭には、人の顔・・・それも、17~8の美しい娘で、肩や胸のあたりも、まるで羽二重のような美しい肌・・・。

しかし、その下は金色のウロコに覆われていて、まるで魚の姿です。

「もしや・・・、これが、噂に聞く人魚?」

呆然とする漁師でしたが、そこに、どこからともなく、甘い香りが立ち込めてきます。

どうやら、その香りは人魚の物・・・。

やがて、我に返った漁師が、とりあえず胸に耳をあててみると、どうやら、人魚はすでに死んでしまっているようでした。

慌てて仲間を呼び、そのうち大勢が取り囲んで、「どうしたもんだろうか」と思案する中、漁師仲間の長老が進み出て・・・
「聞くところによれば、人魚の肉は、非常に美味だ言う。
どうだ? これを肴に宴を催そうではないか!」

確かに、その甘い香りは、食欲をもそそられる香りではありました。

ただ、もちろん、その長老も、本物の人魚を目にするのは初めて・・・それが、美味だというのも、小耳に挟んだ程度の話でしかありませんでしたが、それでも、宴会を催してみようと思うくらい、食欲をそそられる匂いだったのです。

長老の家で開かれた宴会には、村の長者も呼ばれました。

長者は、海に面したこの村で、の国との貿易なんかも手広くこなしている人で、外国の珍品を幾度となく目にしていますが、そんな彼でさえ、人魚は噂にしか聞いた事がありません。

宴会は、村の男たち総出で行われた盛大なもので、旬の酒の肴も用意され、お酒が入るにつれ盛り上がってきますが、お造りのように、一切れずつ美しく盛り付けられてはいても、やはり、あの人魚の肉には、誰も手をつけません。

どうしても、「人」の姿を思い出してしまって、とても「魚」とは思えなかったのです。

結局、誰一人手をつけないまま、宴会はおひらきとなりますが、それこそ、このまま長老のところに置いてかれても困りますから、とりあえず紙に包んで、一人少量ずつ持ち帰る事になりました。

かの長者も、一包み、もらって家路につきますが、帰り道で思い出すのは、あの美しい人魚の容姿ばかり・・・あの姿を思い出せば、とても、肉を口にする気分にはなりませんし、むしろ、なんだか重い気持ちで家にたどりつくと、慌てて自分の部屋に、先ほどの包みを隠し、気分を変えようと風呂に入りました。

そんな長者の部屋の前を通りがかったのが、長者の一人娘・・・年のころなら17~8の娘盛りでした。

すると、ふと、父親の部屋からの甘い香りに気づきます。

「あら、なんだかいい匂いがするわ」

・・・と、まだ、しばらくは父親が風呂に入っている今の情況を確認して、そっと部屋へ忍び込みます。

外を通っただけで、その香りに気づくくらいなのですから、中に入れば、それが、どこから香ってくるのかは、即座に見当がつきます。

娘は、ただただ興味本位で、戸棚を開け、包みを取り出し、中を覗き込みます。

「まぁ、いったい何の肉かしら?」

・・・と、思いながらも、その甘い香りを嗅げば嗅ぐほど、だんだんと食べたくて食べたくてしかたがなくなってくるのです。

「えぇい!食べちゃえ!一切れくらいわかんないや!」

長者は、この一人娘をことのほか可愛がっていましたから、それこそ、たとえ、食べた事がバレたとしても、怒られるなんて事はない事を、娘も重々承知・・・

しかし、一切れ食べたら、もう一切れ、もう一切れ食べたらまたまた・・・と、とうとう娘は全部食べてしまいました。

「もう、バレてもいいや!」
とばかりに、空の包みを入れて、もとにもどしておきました。

しかし、その日をさかいに、娘の様子が一転します。

翌朝、あさげの用意がされた部屋に娘が現れ、膳の前に座った姿を見た両親・・・思わず、ゴクリを唾を飲み込みます。

何と言うか・・・とにかく光輝いているような・・・
そこはかとない美しさをかもし出しているのです。

もちろん、もともとブサイクな少女だったわけではありませんが、それは顔形ではなく、それまでとはまったく違う不思議な輝きに満ちていて、まさに、人をとりこにするような魅力・・・とでも言いましょうか・・・。

そんな、娘は、またたく間に村の評判となり、やがて、それを聞きつけた近隣の村々からも、縁談の話が舞い込むようになります。

こうして、相手選び放題になった娘は、隣村の領主の跡取り息子と結婚する事に・・・嫁入りの日は、それこそ、彼女が見た事もないような数の馬が横づけされ、見た事もないような煌びやかなお道具、大勢の従者に囲まれ、彼女にとっては願ってもない相手のもとへと向かいました。

夫は、やさしい人で、彼女をこよなく愛してくれます。
いえ、それは、愛しすぎるくらい愛されます。

そうなんです。
彼女は、乙女のような外見とはうらはらに、夜の営みの時は、まるで娼婦のように大胆に夫を受け入れ、しかも、その最中には、例のあの甘い香りが・・・夫は、もう彼女を手放せなくなってしまうのです。

毎夜々々、夫の求めに応じる娘でしたが、娘のほうはまったく疲れる事がなく、むしろ、そのみずみずしさが増すように、よりいっそう美しく・・・しかし、夫のほうは、みるみるうちに痩せこけ、まるで生気がなくなっていくのです。

やがて、一年ほどで、夫は衰弱死してしいます。

泣く泣く、実家に戻った娘でしたが、そんな魅力的な娘ですから、その縁談は、またまた吐いて捨てるほど舞い込んできます。

そして、前夫の悲しみも癒えた頃、彼女は2度目の結婚をします。

もちろん、今回も、夫は彼女を愛してくれ、とても幸せな毎日だったのですが、やはり、またまた一年ほどで、2度目の夫も、老人のような姿になって死んでしまうのです。

そして、3度目も、4度目も・・・やがて、この頃になると、さすがに嫌な噂が囁かれるようになります。

「あの娘は男の精気を吸い取る鬼女だ」
「夫を死に追いやる女狐だ」などなど・・・

さらに、娘自身も、その異変に気づき始めます。

そうです・・・あの初々しかった一度目の結婚の時から、4度目を終えた今・・・・何年もの時が過ぎているはずなのに、自分の顔は相変わらずあの娘盛りの頃のまま。

もちろん、肌も10代のみずみずしさを保っています。

確かに、彼女は、時々
「いつまでも若いわね~うらやましいわぁ」
と、近所の奥さんに言われるけど・・・それとは明らかに違う何かが、彼女には存在します。

歳をとる・・・というのは老けるという意味だけではなく、結婚生活を続けていく中で、それとなく奥さんらしいというか、大人の女へと変化していくはずなのに、彼女には、それがありません。

彼女は、自分自身の中に、なにやら得体の知れない恐怖を感じ、思い悩みはじめます

そして、何日か悩んだ末、彼女は一大決心をします。
出家しよう・・・尼になって、男性との交わりを一切捨て、全国行脚して身を清めれば、何か道が開けるかも知れない」と・・・。

ある朝、両親には何も告げず、1人、尼寺のある山へと向かい、彼女は尼となり、やがて全国行脚の旅に出るのです。

熊野権現をはじめ、各地を渡り歩く彼女でしたが、そこは、まるで別天地でした。

なんせ、誰も彼女の事を知りませんから、どこへ行っても、17~8歳の若い尼として迎えられ、何も不思議がられずにすみますから・・・。

そうこうしているうちに、彼女は踊り念仏の一行に出会います。

一遍上人(8月23日参照>>)が始めた時宗(じしゅう)を広めるための踊り念仏・・・何も考えず、トランス状態となって踊り狂うその姿に魅了された彼女は、しばらく一行とともに、踊り念仏の輪の中で、全国行脚を続けていきます。

しかし、こうして、親しくなって旅をともにするようになると、やはり、再び、他人との差を感じずにはいられませんでした。

暑い夏、寒い冬・・・踊り念仏を続ける中、ある者は、崖から落ちて亡くなり、ある者は疫病で倒れ・・・しかし、娘は、いつまでたっても17歳のあの頃のままで、どんなに疫病が流行っても、病気にかかる事すらありませんでした。

やがて、年上はもちろん、年下の者まで、彼女は看取る事になります。

「私は、人を見送るばかり・・・私には終わりはないのだろうか・・・」

そう思うと、なんだかむしょうに故郷が恋しくなって、彼女の足は、思わず故郷のあの村へと向きました。

もう、何年、いや何十年も経っているでしょうが、彼女には、その年数すらわかりません。

やがて、自分の生家のあった場所に来て、彼女は目を疑いました。

荒れ果てた土地だけで、屋敷の面影すらなくなっているのです。

確かに、彼女は一人娘でしたから、跡取りがいなくなって、家が没落したのかも知れませんが、たとえ荒れ放題になっていたとしても、あれだけのお屋敷の跡形くらいは残っていてもよさそうなものです。

近くを通った老婆に訪ねます。
「昔、ここに、大きなお屋敷はありませんでしたか?」と・・・

すると老婆は、
「あたしゃ、生まれた時から何十年もここに住んどるが、この場所は、子供の時分から、こんな感じの荒れた土地だったさ・・・」

娘は、やっと気づくのです。
「自分が思っている以上に、年月は過ぎているのだ」と・・・

とぼとぼと歩きはじめた彼女は、薄い記憶をたどりながら、幼い頃、友人と隠れ家にして遊んでいた洞窟へと向かいます。

そこは、昔と変わらぬ姿で残っていて、少し安心した彼女・・・ただ、幼い頃は、自分の背丈ほどもなかった椿が、見上げるほどに生長して、その洞窟の前に美しい花を咲かせていました。

暗い洞窟の中に入り、冷たい石の上に正座して、静かに目を閉じた娘・・・その姿のまま、一切の水と食糧を断ち、ただひたすら念仏を唱えるのです。

やがて、何日か経ち、とうとう彼女は絶命・・・その800年の生涯を閉じたのでした。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

室町時代の文献・『中原康富記』には、文安6年(1449年)5月に、京都に八百比丘尼が現れて大騒ぎになった事が記されていたり、その他にも、各地には、比丘尼が植えた木や、足跡の残る石などもあり、当時は、現実にあったかように伝えられているこのお話ですが、おそらくは、旅の尼や巫女などが、たまたま美しいがために、そのように噂されたり、あるいは、自称して全国を行脚して回ったりしたのでしょうが、それらの、諸国を巡り歩いた尼によって、この伝説が各地に伝わったものと思われます。

この最後の岩屋に籠って自ら命を絶つシーンは、橋を渡っている最中に転倒して死んだという物や、他にもいくつかのパターンがあるようですが、いずれも、お話がハッピーエンドで終る事はありません。

本来、不老長寿は、あらゆる人の夢であり、それは、時代が変わっても不変の物であるはず・・・しかし、この昔話は、必ずしも、それが幸せではない事、不老長寿が、ただ単に、人間の無いものねだりである事を教えようとしてくれているのかも知れません。
 

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2008年12月 1日 (月)

大阪城に生きた虎が?~大阪の昔話・大坂城の虎

 

まずは、大阪に伝わる昔話『大坂城の虎』をご紹介しましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

豊臣秀吉朝鮮出兵(3月26日参照>>)・・・これがたいした負け戦で、このまま日本に帰ったらカッコわるいと思った加藤清正は、せめてもの手土産にと、虎を生け捕りにして日本につれて帰ってきました。

そして大坂城の門のところに大きな檻を作って飼うことになりましたが、これがまたたいへんな大飯食らい・・・。

困った秀吉は「毎日、1匹ずつ、町の者たちから犬を差し出さして虎の餌にする」というおふれを出し、命令を受けた役人たちは、大坂中の犬を次々と引っ立てていきました。

犬を飼ってる人達にとっては大変なことですが、とりあえず太閤さんの命令にさからうわけには行きませんので、皆、しかたなく差し出したのです。

こうして、毎日々々、虎を見ただけでふるえあがり、身動きできない犬たちを、虎はペロリと1口で食べてしまうのでした。

そんなある日、天満で金物屋を営んでいた徳八という男のところにも、役人がやってきて飼い犬のリキを差し出すよう命令しました。

リキをたいへんかわいがっていた徳八は、「かんべんしてやってくれ」と頼みましたが、逆に「犬を差し出さないならお前が虎の餌になれ」と役人に言われ、泣く泣く・・・最後にたっぷりと餌を食べさせて、やさしく毛並みをなでてやって、お城へ連れていきました。

役人は荷物を受け取るようにリキを受け取ると、ポ~ン!っと虎の檻に投げ込みました。

とたん、リキは身構えます。
他の犬みたいに震えあがりませんでした。

虎のほうも、コイツはいつもと様子が違う・・・というのに気づいてすぐには手を出さず、じ~っと様子を見ます。

長い沈黙のあと・・・リキは、虎の首根っこめがけて飛びかかり、みごと虎の首にガブリと噛み付きました。

虎は「ウォーッ!」と叫び声をあげて暴れ、リキの体を前足の爪で引っかきますが、リキは「放すものか」と噛み付いたまま・・・。

しかし、虎の爪はたいへん鋭く、やがて、リキはぱったりと倒れて息耐えてしまいましたが、虎は虎で、首からどくどくと血が流れてぐったりとなり、ほどなく死んでしまいました。

驚いた役人は、「犬の罪は、飼い主の罪や!」と、徳八をしばりあげてつれていってしまいました。

しかし、犬を飼っていた大阪の人々は大喜びして、天満の町の片隅に名犬リキの墓をたててやったということです。

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以上が、大阪に伝わる昔話ですが、かくいう私が生まれ育ったのは大阪城のすぐ近く・・・子供の頃には、「豊臣秀吉は、虎の脳みそを食べて死んだ」というのがもっぱらの噂で、ずっと信じておりました。

ところで、上記の昔話の、細かなところはともかくとして、「生きた虎」というのが、本当に大坂城にいた可能性というものはどうなんでしょうか?

そんな中、虎退治として有名なのは、やはり昔話にも出てきた、かの加藤清正で、昔から端午の節句の武者人形の題材になったり、錦絵になったり・・・『常山紀談(じょうざんきだん)『名将言語禄』など文書としても多く語られます。

ただ、さすがの清正も、あの勇猛果敢な虎を、錦絵のように単独で捕獲したという事は考え難いですが、文禄二年(1593年)頃の話として、虎は長寿の薬と伝え聞いた秀吉が虎狩りを指示し、朝鮮半島の渡った大名たちが、太閤殿下のご機嫌を取ろうと、こぞって虎退治を行ったという話もあり、虎狩り自体は、どうやら事実のようです。

しかも、虎狩りのために何人もの死傷者が出たために、最後には「虎狩り中止」の命令も出たようですから、やはり、諸大名こぞって・・・というのは本当のようですね。

朝鮮半島の人々が、日本軍の侵攻を恐れて山に逃げた時、「夜になると、虎防止のための火が焚かれるため、日本軍の兵士たちから見れば、彼らがどこに隠れているのかが丸わかりだった」なんていう話もあり、半島では、そこらへんに虎が出没していたのも事実のようですしね。

内臓は塩漬けにされて秀吉のもとに送られ、皮はしとめた大名の物になった・・・というような記録は残っているものの、上記の昔話のように「生きたまま・・・」というのは、どうなんでしょう?

京都の二条城には、狩野派の手による『竹林虎群図(ちくりんこぐんず)という襖絵が残っていますが、虎群図と言いながら、書かれているのは虎と豹・・・実は、江戸時代でも、縦縞の大きな虎が虎のオスで、それより小ぶりなまだら模様の豹が虎のメスだと思われていたようで、やはり、それだけ珍しい、見た事もない動物という認識が高かったように思います。

犬や猫のように飼う・・・というよりは、どちらかというと、鳳凰や龍のように、神様にも似た崇める対象だったようにも思いますね。

昔話の内容は、ちょっと権力を掴んだせいで調子に乗って、大阪弁で言うところの「イキリ過ぎ」の太閤さんに、「難波の庶民のド根性見せたろか!」てな雰囲気が込められているような気がします。
 

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2008年11月14日 (金)

大阪の昔話~ちょっと色っぽい「鉢かづき姫」

 

今日は、大阪に伝わる昔話・・・『鉢かづき姫』「鉢かつぎ」とも)をご紹介します。

有名な昔話ですが、実は、このお話は、大阪の寝屋川市が舞台だったんですよ。

一般の昔話には登場しないちょっと色っぽい鉢かづき姫を・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昔、河内の国の交野(現在の交野市だけではなく、大阪府の枚方市と交野市と寝屋川市あたりがすべて交野と呼ばれていました)寝屋村藤原実高という貴族が住んでいました。

奥さんもたいへん美人で、仲むつまじく評判の夫婦でしたが、ふたりにはどうしても子供だけは授かりません。

そこで、夫婦は大和の国(現在の奈良県)長谷寺の観音様にお参りして「どうぞ、子供が授かりますように」と願掛けをしました。

するとその夜に、奥さんの夢に観音様が出てきて・・・
「望みどおり、女の子を授けよう。そして、その子が13歳になったら、この鉢に宝物を入れて、頭にかぶせなさい。」
と言ったのです。

夢から覚めると、ほんとに枕元に鉢がありました。

それからまもなく奥さんは、ご懐妊・・・そして無事、かわいい女の子を産みました。

「観音様のご利益だ!」と夫婦はおおいに喜んで女の子に初瀬(はつせ)という名前を付けてかわいがりました。

しかし、初瀬が13歳の頃、奥さんは重い病気にかかってしまいます。

自分がもう長く生きられない事をさとり「かわいい娘に、こんな醜い鉢をかぶせるのはつらいけど、このままでは初瀬の将来が気になって死んでも死にきれない」と思うようになりました。

しかし、観音様のお告げでもある事だから・・・と決意を固めて、初瀬に事情を話して鉢をかぶせ、悲しみのあまりそのまま息をひきとりました。

その死を知った実高はおおいに悲しみ泣き崩れましたが、同時にそばにいた鉢をかぶった初瀬を見て驚き、その鉢を外そうとしましたが、ビクともしません。

実高は、うろたえて部屋に引きこもってしまいました。

それからは、実高は人が変わったように暗くなり、初瀬も自分の姿を見ると顔色を変える父を見るのもつらく、部屋に引きこもって出てこなくなり、使用人たちも、初瀬の事をはれものにさわるようにあるいは、化け物を見るように接するようになり、家のなかの様子はすっかり変わってしまいました。

それから何年かして実高は、二度目の奥さんと結婚しました。

その継母は、鉢をかぶった初瀬を見るなりきみわるがって、ことごとくつらくあたり、継母が連れてきたふたりの娘も何かと、初瀬をいじめます。

初瀬は、毎日母親のお墓に行っては、「早く私もお母様のおそばに行きたい」と、泣いていました。

いつしかその事が継母の耳に入り、「そんなにここがイヤやねんやったら、出て行きなはれ~!」と、とうとう追い出されてしまうのです。

とぼとぼと、行くあてもなくさまよっていると、大きな川(淀川)にたどり着きました。

川に写る自分の姿を見て悲しくて・・・このまま死んでしまおう・・と川に身を投げました。

しかし、かぶっていた鉢が水に浮いて、何度飛び込んでも岸に戻ってきて、死ぬことすらできませんでした。

濡れた着物を干して乾かし、しかたなく、また、とぼとぼと歩いて行くと、道を通る人は化け物を見るように初瀬をさけ、子供は「や~い!鉢かづき~」と言って石を投げてきます。

ちょうど、そこへ山陰の三位の中将という身分の高い人が通って、その様子を見てあわれに思い、子供たちをいさめて、初瀬を下働きとして働かせようと屋敷につれて帰りました。

初瀬は鉢かづきという名前で呼ばれて、朝から晩まで台所仕事や風呂焚きをして、夜は屋敷の馬小屋のわらの上で眠り、1日中働きました。

そのお屋敷でも、気味悪がる者や、次から次へと自分の仕事を押し付けていじめる者もいましたが、もう自分の居場所はここしかないような気がして初瀬は一所懸命、働くのでした。

三位の中将には4人の息子がいました。

上の三人には、すでに奥さんがいましたが、一番下の息子は独身だったためか、何かと帰りが遅く、帰宅してお風呂に入るのが深夜になることもしばしばありました。

彼は、見た目もりりしい若者でしたが、その気だてもやさしく、いつも自分が遅くなることによって、ふろ番をしている初瀬の休む時間も遅くなる事を気にしていたのです。

ある日、自分が風呂に入ったあと「今は、夜もふけてみな寝静まっているから、今のうちに早く、湯につかりなさい」と、初瀬に風呂をすすめてくれました。

当然、初瀬は辞退しましたが、若者のあまりの薦めに風呂を使わせてもらい、あの家を出てから久ぶりに、ホッとしたひとときを過ごしました。

「ありがとうございました」と礼を言う初瀬と、若者は、この時、初めてまともに言葉をかわしましたが、その言葉、そのしぐさに、若者は、初瀬がただの娘ではない事を感じるとともに、チラリと見えた白くぬけるような肌の美しさが脳裏に焼きついてしまうのです。

それから若者は、初瀬のいる馬小屋に通いはじめます。

若者が笛を持っていけば、みごとに美しく奏で、歌を詠めば、みごとに返してくる初瀬を見て、やはりただの娘ではない、きっとどこか地位のある人の姫にちがいない・・・と確信するのです。

そうなると若者の気持ちは止まりません。

毎夜毎夜、馬小屋に通っては、逢瀬を重ねる二人・・・とうとう初瀬のほうも、「最初は、すべての不幸の根源だと思ったこの醜い鉢・・・しかし、この鉢のおかげで、このかたとめぐり会えた・・・この鉢に感謝しなければ・・・」とまで思うようになりました。

若者も、もはや、初瀬なしでは夜を過ごせないほど、彼女に夢中になります。

そうなると、まわりにもウワサが広まり、中将の耳にもふたりの事が入り、「このままではたいへんな事になる」と猛反対します。

何とか、息子をあきらめさせ、鉢かづきを屋敷から追い出そうと思案しますが、反対されるとさらに強くなるのが恋心・・・若者は「鉢かつぎを嫁にする~」と言いだします。

それならば・・・と、鉢かづきと上の息子の3人の嫁と嫁くらべをする事になりました。

上の息子の3人の嫁は、それぞれ良家の姫で、財産も学識もある美しい女性たちでしたから、「こんな人たちと競うことはとてもできない・・・と鉢かづきは逃げるだろう」という考えでした。

嫁くらべを明日にひかえた前の晩・・・初瀬は涙をいっぱいためて、若者に言います。
「お別れはつらいですが、あなたならどんなりっぱな人でもお嫁に迎えられます。私はこのままここを出て行きます」

しかし、若者は・・・
「お前がいなければ生きてはいけない。どうしても、親が反対するのなら、私がこの家を出よう。さぁ!一緒に・・・」
と、初瀬の手を引いて駆け出そうとした時・・・

雷が落ちたような衝撃がはしり、一瞬、気が遠くなって、倒れてしましました。

ふと、我に返って、「鉢かづきはどうしただろう」と、あたりを見回すと、足元には、あの鉢がパッカリとふたつに割れ、その中からは金銀財宝や美しい着物が、ざくざくと出てきました。

そして、その割れた鉢の向こうにたたずむのは、この世のものとも思えない、みめうるわしい姫・・・。

「お前は・・・お前が・・・あの鉢かづきか?」

初瀬は、始めて若者に自分の身分や、鉢をかぶったいきさつを話ました。

そして、いよいよ次の日の朝・・・嫁くらべの話は寝屋村じゅうに広まっいて、屋敷には見物人も大勢集まってきていました。

「よっしゃ~、この大勢の中で、めぇいっぱい恥をかくがえぇ。そうして、いたたまれんようなって出て行ったらええねん」と中将・・・

そんな中、現れた初瀬の姿は・・・
一足進めるごとに匂うような美しさ・・・
中将の前にきて、少し挨拶をすれば、声もかけらればいほどの気品・・・
まわりの者をすべてくすませてしまうような輝き・・・

やがて始まった琴の演奏や歌会・・・ひととおりの嫁くらべの中でも、初瀬のそれが1番きわだっていました。

初瀬の生い立ちを聞いた中将夫婦は、本来なら、向こうのほうがずっと身分が上・・・望んでも叶えられないような縁談に、「よくぞわが息子の嫁に来てくれた」と大喜び。

ふたりはめでたく結ばれ、初瀬はまず、母の菩提をとむらい、長谷寺の観音様にお礼参りをしました。

その頃は、父・実高も継母と離別し、両方とも行方知れずでしたが、そのお礼参りの長谷寺で一心に祈りをささげているひとりの僧に出会ったのです。

僧は、お経を唱えるように、何やら小さな声でつぶやいています・・・「娘、鉢かづきが、まだこの世にいるなら、悪いことをした・・・一目合わせたまえ・・・」

そう、その僧は父・実高だったのです。

初瀬はすべてを許し、父を屋敷に迎え、夫婦仲むつまじく、子宝にもめぐまれ、末代まで末永く幸せに暮らしましたとさ。
 

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2008年11月 5日 (水)

父は長柄の人柱~大阪の昔話より

 

今日は、一つ、大阪に伝わる昔話「長柄(ながら)の人柱」をご紹介したいと思います。

このお話は、確か・・・(ずいぶん前の事なので、はっきりとは覚えてないんですが)「キジも鳴かずば」というような題名で、まんが日本昔ばなしでもやっていたように思いますので、お話の内容自体は、ご存知のかたも多いと思いますが、私が聞いた題名は、上記のちょっと怖い題名でしたね。

小さい頃、この昔話を初めて聞いた時は、『人柱』という言葉がしばらく頭からはなれなかった記憶があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昔、都が京になってまもなくの頃、淀川には橋がなく、舟で対岸を行き来していたのですが、朝廷から橋奉行の百済介(くだらのすけ)に、橋をかけるよう命令がくだります。

百済介は、日本国中の大工を集めて工事にとりかかりましたが、なかなか思うようにはかどりません。

やっと途中までできたかと思うと、また流されてしまうということが何度かありました。

四苦八苦しているところへ、どこからともなくやってきた巫女が言うには・・・
「これは竜神様の祟りじゃ。竜神を鎮めるためには、人柱をささげよ」
との事でした。

以前、仁徳天皇茨田堤(まんだのつつみ)の治水工事(6月25日参照>>)の時にも出てきましたが、人柱というのは、人間を生きたまま川に沈めて神様にいけにえとしてささげるということです。

近辺の、長柄豊里吹田の村長たちが集まって、人柱をたてるのか?、たてるなら誰にするのか?、いろいろ話し合いましたが、人の命に関わる事ですからそう簡単には結論が出せません。

そんな時、垂水(現在の吹田市)に住む長者の磐氏(いわじ)という男が、工事がいっこうにはかどらない事にイライラして文句を言いにやってきました。

みなが、人柱の事でたいそう悩んで、決めかねている事を話すと・・・
「そんなもん簡単や!はかまの股のとこにツギあててるヤツにしたらええ。そんなカッコ悪いことしてるヤツは、ろくなヤツやあれへん!」

皆は、思わず顔をみあわせて、お互いの格好を見比べました。

すると、役人や、工事の人間や、近所の村人やら、そこに大勢いる中で、たったひとり、はかまの股の所にツギをあてている者がいました

いいだしっぺの磐氏でした。

磐氏は、その場で役人に連れていかれ、次の日には、重しをつけられて、川の真ん中に沈められました。

すると、なぜか工事はとんとんびょうしに進んで、まもなく立派な橋が完成しました。

その磐氏には、光照前(てるひのまえ)という美しい娘がいたのですが、母親は磐氏が死んでからよいうもの、毎日のように・・・
「お父さんはいらんこと言うて、人柱にされてしもた。
あんたはこれからは、言わんでもええことをうっかりしゃべってはあかんよ。
くれぐれも気ぃつけるように」

と泣きながら言い聞かせていました。

それからというものは、光照前は人前であまり物を言わない娘になりましたが、その美しさに「ぜひ嫁に欲しい」という人がいて、娘は枚方(ひらかた)の長者と結婚しました。

しかし、嫁に行った先でも、「はい」「いいえ」しかしゃべらない光照前に、とうとう舅が怒りだし「そんな嫁はいらん!実家へ帰ってくれ」という事になってしまいました。

しかたなく夫は、光照前を馬に乗せて、実家の方へ向かいました。

すると、淀川沿いのアシの原でふいにキジがキッキーッと鳴き、夫は持っていた弓に矢をつがえ、、キジが飛び上がったところを狙い、うまく仕留めました。

その光景を見た光照前は、涙を浮かべながら、一首の歌を詠みました。

♪ものいわじ(磐氏) 父は長柄の 人柱
  キジも鳴かずば うたれざらまし♪

(父の磐氏はよけいな事を言ったばっかりに人柱にされてしまった・・・キジも鳴かなかったら撃たれなかったのに・・・)

夫はその歌を聞いて光照前が、しゃべらなかった理由を知り、むしろ「今までその苦悩をわかってやれなくてすまなかった」と、謝ったのです。

そして、実家に返さず、そのまま、再び、自分の家につれて帰り、その後はふたり仲むつまじく幸せに暮らしたという事です。

Nagarabasi900 長柄橋

現在、大阪のドまん中を南北に走る天神橋筋が淀川を渡るところに、その長柄橋がありますが、磐氏が人柱になった頃の橋は、現在の橋より、もう少し北にあったという事です。
 

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2008年7月 7日 (月)

日本の七夕伝説・天稚彦物語~牽牛を彦星と呼ぶのは?

 

本日は、七夕にちなんで、日本の七夕伝説『天稚彦(あめわかひこ)物語』を、ツッコミを交えて、ご紹介します。

*七夕行事の起源・中国の七夕伝説については、昨年の7月7日のページで>>

天稚彦は、古事記では天津国玉神(あまつくにたまのかみ)の子・天若日子という表記で登場します。

天照大神(あまてらすおおみかみ)から、葦原中国(あしはらのなかつくに・日本の事)を統治するために高天原(たかまがはら)から派遣されたにも関わらず、出雲を統治していた大国主神(おおくにぬしのかみ)の娘・下照比売(したてるひめ)と、あっさりと恋に落ち、まったく命令を遂行せず・・・

「お前、何やっとんねん!はよ、征服せいや!」
と、高天原から催促に使わされた雉名鳴女(きじしななきめ)を矢で撃ち殺してしまい、それを知った高天原から撃ち返された矢に当たって命を落す・・・という何とも、いいところのない神様(高天原に反発したため神様扱いされない場合もあり)です。

まぁ、この後に、建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)の国譲り、邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨へと続くので、それのひきたて役にされているのがミエミエのところもあるのですが・・・

そんな天稚彦ですが、室町時代の『御伽草子』で見事主役に大抜擢!

この物語は、中国の七夕・・・あの有名な牽牛と織女の物語をベースに、昔話のありとあらゆる要素を盛り込んで、和洋中で「もう、お腹いっぱい~」ってな感じの壮大なSFアドベンチャーです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昔あるところに三人の美しい娘を持つ長者がいました。

ある日、その家の下女が洗濯をしに湖に行くと、口に手紙をくわえた大蛇が現れ、
「言う通りにせんと、絞め殺すゾ!」
と脅します。

下女が、慌てて逃げ帰り、長者にその手紙を見せますと・・・
「娘を三人ともよこせ!さもないと皆殺しにする」
と、書かれてありました。

姉ふたりが、「絶対にイヤ!」と拒む中、「なら、私が参ります」と、末の娘が犠牲になる事に・・・
【ありがちな化け物・人身御供ストーリー】

娘が湖のほとりで待っていると、やがて雷鳴轟き、大波が立ち、大蛇が姿を現します。

パクリと食われると思いきや、意外にも、普通に・・・
「姉ちゃん、もし、刀持っとったら、この頭を斬ってみぃ」

娘が、震える手で大蛇の頭を斬り落すと、なんと、そこから、この世のものとは思えないイケメンが・・・
「我こそは、海竜王の息子・天稚彦である!」ジャ~ン!
【出た~!ヘンな物からイケメン登場ストーリー】

ふたりは、その場で恋に落ち、その場でシッポリ・・・娘は別の意味で、パクリと食われる事に・・・(#^o^#)ポッ。

天稚彦と娘は、しばらくの間、恵まれた環境(天稚彦は海竜王の子なので宝物いっぱい持ってた)で仲良く暮らしますがやがて・・・
「実は、俺は天にも用事があって、そろそろ帰らあかんねん・・・けど、絶対戻って来るって・・・もし、21日経っても戻ってけぇへんかったら、西の京のはずれに行くと一夜瓢(いちやひさご・一夜で天までのびる瓜で夕顔の事らしい)を持ってる女がおるから、それを買うて天まで昇って来いや。
それと、唐びつを置いて帰るけど、絶対に開けたらあかんで」

【見てはいけないシリーズだ!】

そう言って天稚彦は、天へ去っていきました。

彼が去った後も、残された宝物で、幸せそうにしている娘を妬んで、やってきた姉二人が、宝物や着物を、さも欲しそうにさわりまくります。
【シンデレラっぽいゾ・・・】

やがて、二人の姉は、娘からムリヤリ鍵を奪い、止めるのも聞かずに唐びつを開けてしまいます。

しかし、出たのは白い煙だけ・・・
【浦島太郎・・・】

中には何もありませんでした。
(ないんかい!)

そうこうしているうちに、結局、21日経っても、天稚彦が帰って来ない事に我慢しきれなくなった娘は、言われた通りに西の京へ行き、一夜瓢を買い求め、一晩で天まで伸びたツルに乗って天上界へと向かいます。
【ジャックと豆の木・・・もしくは、スーパーマリオ】

しかし、天上界も広い・・・
どこに行けば、彼がいるのかわからず、途方にくれながら、しばし歩いて行きますと、白い狩衣(かりぎぬ)をつけた夕づつ=宵の明星出会い、彼の居場所を訪ねますが「知らない」という返事・・・。

次に、箒木(ほうき)を持った童子・ははき星=彗星?に出会いますが、やはり、わからず、次の七人の童子すばる星=昴も知りませんでした。

最後に、玉の輿に乗った立派な人物である明月(あかつき)の明星に出会って、やっと居場所がわかり、二人はめでたく再会します。
【う~ん、SFファンタジーアドベンチャーだ!】
(夜空にきらめくファンタジ~byゴ~★ジャス)

しかし、それも、つかの間、天稚彦のオヤジが登場!
これが、何と!・・・(って竜王やったんちゃうんかい!)

とにかく、鬼なので・・・見つかってはマズイと(なぜ?紹介したれや!)、オヤジが天稚彦の部屋にやってくるたびに、娘を脇息(ひじかけ)に変身させたり、枕に変えたりして隠していましたが、ある日、うっかり昼寝をしていて見つかってしまいます。

するとオヤジは・・・
「お前が好きな娘(こ)なら、しゃぁないけど、一つ、嫁にふさわしいかどうかテストする!」
と言いだします。(やっぱり先に紹介しとくべき)

まずは、牛舎で飼っている1000頭の牛を、朝には野に放ち、夜には再び牛舎に追い込むカウボーイの仕事を娘に言いつけます。

「とても、女の私にはムリだわ・・・」
と困惑する娘に、天稚彦は、そっと自分の着物の袖を渡します。

そして、その袖を「天稚彦の袖々」と唱えながら振ってみると、牛は見事に言う事を聞いてくれて、娘の指示通りに動いてくれたので、何とかこなせました。

次に、米倉にある米を、すべて、別の米倉へ移すよう命じられます。
しかし、これも、天稚彦の袖を振ると、どこからともなく、大量のアリが現れ運んでくれました。

最後に、娘は蛇やムカデのいる部屋に閉じ込められてしまいますが、これも、天稚彦の袖のおかげで、蛇もムカデもおとなしくなり、無事、一夜を過ごす事ができました。
【古事記のオオクニヌシの試練にそっくり】(12月21日参照>>)

さすがにオヤジも観念して・・
「しゃぁない。息子の嫁として認めよ・・・ただし、二人が会うんは一と月に一度やぞ!

すると、娘は・・・
「えっ?何て?一年に一度って言いはりましたん?」
と聞き違いをしてしまいます。
(ひとつき→いちねん・・・一文字も合うてへん!娘、耳掃除せぇ!)
(天稚彦も天稚彦や!なんでお前も聞いとけへんねん!)

これ幸いとオヤジは一年に一度という事にして、一つの瓜を手にとって投げると、中から水がドバッと出て、天稚彦と娘、二人の間の天の川となりました。

こうして、天稚彦は彦星に、娘は織女星となって、一年に一度、7月7日の夜にだけ会う事になったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

うぇ~い・・・もう、盛りだくさんすぎて、何が何やら・・・

でも、一つわかりました!

これで、牽牛の事を日本では彦星って呼ぶんですね・・・天稚彦の彦なんだ・・・
(でも、織姫は一回も、機織ってない気が・・・)

・・・と、なんだか、突っ込みどころ満載で、海外の童話も交えての最近作られたような感じのお話でしたが、ベルリン東洋美術博物館には、15世紀半ばに造られた『天稚彦草子』なるすばらしい絵巻物も現存しており、由緒正しき昔話なのです。

中国から伝わった七夕伝説もいいですが、今年は一つ、日本の彦星と織姫に思いを馳せて、ロマンチックな一夜を過ごしてみようではありませんか。

Tanabatasasacc 今日のイラストは、
やはり、日本の七夕らしく・・・
短冊揺れる笹の葉に、織姫と彦星で・・・
 

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2008年6月25日 (水)

でるか?徳川埋蔵金伝説

 

最近、テレビでやらなくなりましたねぇ・・・徳川埋蔵金

一時は、某コピーライターさん指揮のもと、自称・超能力者まで総動員し、大型重機を使って、あちらこちら掘り返していましたが・・・。

かく言う私も、こういう類のお話は、決して嫌いではありません。

そもそも、このお話のでどころは、明治維新の時に徳川から明治政府に渡された財産が、あまりにも少なかった事にたんを発します。

最後は、完全崩壊しちゃったとは言え、250年間も君臨し続けた徳川幕府ですから、それなりの額の財産はあったはず、「なのに、こんだけかい!」というところから、「どこかに、隠したんじゃないの?」ってな話になって、埋蔵金伝説なる物が誕生するわけですが・・・。

最も有名なところでは、幕末の頃に幕府の勘定奉行をやっていた小栗忠順(おぐりただまさ)さんのウワサ・・・。

彼は、大政奉還後も徹底抗戦を訴えて、その強固な姿勢を崩しませんでしたが、その強固すぎる主張のため免職となり、幕府が崩壊する前に、故郷の上野(こうずけ・群馬県)に戻ってしまっています。

その時に、万が一の時のために隠してあった軍資金・360万両を持ち逃げしたという噂があったものの、維新後に新政府によって、彼が処刑されたため、そのお金のありかも不明になったという物です。

しかし、当時、本当に持ち出すようなお金が幕府に残っていたんでしょうか?

文久三年(1863年)と元治元年(1864年)に起こった下関戦争(8月8日参照>>)の賠償金やら、2度の長州征伐やらに多額に費用がかかり、この頃の幕府は大変な財政難に追い込まれていたとも言われています。

現に、ウワサの勘定奉行・小栗さん・・・蝦夷地(北海道)開発の権利と引き換えに、フランスから600万ドルの借金をしよと、慶応二年(1866年)の8月20日と9月25日の二度に渡って、フランス経済使節のクーレと交渉を行っているのです。

600万ドルと言えば、当時のお金で約450万両・・・これだけあれば、幕府の運営もしばらくはもちます。

・・・って事は、このお金を持って逃げた?
いえいえ、実は、この借金交渉は決裂してしまい、実際に借り受ける事はなかったのです。

それは、この交渉が開始されて、ほぼ約束が固まりはじめた翌年の慶応三年・・・その年に行われたパリ万博に、幕府と並んで薩摩藩が出展していたため、ヨーロッパの人たちが幕府と薩摩藩は同列の国だと思い込んでしまった事、また、同じ年の10月には大政奉還(10月14日参照>>)が行われていますが、以前も書かせていただいたように、この時点では、幕府はまだ、その態勢を維持したまま、この先も、別の形で存続するつもりでいたのですが、やはりヨーロッパからだと、大政奉還=幕府の崩壊に思えた事で、「もはや、終る政府に金は貸せない」となってしまったのです。

・・・て、事は、やっぱりお金はない・・・。

いやいや、まだ、他にも埋蔵金伝説はあります

それは、甲州街道・・・江戸時代に「五街道」と呼ばれた重要幹線の中で、東海道中山道は将軍のいる江戸と天皇のいる京都を結ぶため、確かに重要。

また、奥州街道も東北と江戸を結ぶ重要な幹線。
日光街道は、われらが権現・家康さまの日光東照宮への道ですから、これまた重要。

・・・で、甲州街道は・・・
以前、服部半蔵(11月4日参照>>)のところで書かせていただいたように、この甲州街道は、家康がまさかの時のための逃亡ルートとして用意した街道・・・家康は、「ここを通って、いざという時は上州を本拠地に、再起を計れ」と言ったとも・・・

それで、このルート沿い、あるいは上州に、家康の頃からの軍資金が、脈々と受け継がれているのでは?と囁かれているのです。

また、このように、国内に隠したと見せかけて、実は海外に・・・という海外埋蔵金伝説もあります。

それは、先に登場したパリ万博・・・このパリ万博を、15代将軍・徳川慶喜の弟・徳川昭武(あきたけ)が見物し、その後もしばらく留学していた事はすでに書かせていただきました(3月7日参照>>)が、この時に、彼は、なぜか上海にも立ち寄っているのです。

この時期に、将軍の弟を海外留学させる・・・そこに、お金を持たせないわけはありませんし、ひょっとしたら、まさかの時に、起死回生の一発を放つための軍資金を持たせた可能性もなきにしもあらずといったところでしょうか。

また、慶応四年(1868年)には、早丸という幕府の船が、財宝を積み、秘密裏に嵐の中を出航した・・・なんて伝説もあります。

しかも、この船は、その後、行方不明になったのだとか・・・って事は、もし、嵐の中沈没していたら、今も、お宝とともに、船は海に眠ってる?なんて事もあるかもです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上、噂が噂を呼ぶ徳川埋蔵金伝説ですが、今のところは、あくまで伝説です。

ただし、もし、実際に埋蔵金を見つけたとしても、速やかに文化庁に届けねばならず、届けた後は、その文化庁の管理下になるため、発見者には、何割かのお礼金が支払われ、後は手出し無用・・・って事で、大金を投資しての発掘は、「夢を買う」という心意気でない限り、ワリには合わない気がします。

でも、イロイロ想像すると楽しいですね~。
 

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2008年1月 4日 (金)

名古屋城の伝説~金の鯱に触れた者は・・・

 

昭和十二年(1937年)1月4日、名古屋城の金の鯱のうろこ・58枚が盗まれるという事件が起こりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「尾張名古屋は城で持つ」と言われるくらい、今現在も名古屋のシンボルである名古屋城

その名古屋城の天守に輝くのが金の鯱(しゃちほこ)です。

残念ながら、太平洋戦争で全焼してしまったために、現在の名古屋城は、昭和三十四年(1959年)の再建によるものですが、当時のお金で4千8百万という巨費を投じて、見事!復活した金の鯱は、やっぱり名古屋のシンボルである名古屋城のシンボルですよね。

そんな金の鯱が、昭和十二年(1937年)1月4日、ミシン工をしていた佐々木賢一という男に盗まれたのです。

彼は、昼間のうちに天守閣に登っておいて、物陰にひそみ、夜になってから、おもむろに屋根に登り、金の鯱のうろこ・58枚分をはがして盗んだと言います。

しかし、犯人の名前も、その手口もわかっている・・・お察しの通り、彼はすぐに捕まってしまったんですねぇ~。

実は、この名古屋城・・・「金の鯱に触れた者は必ず捕まる」という言い伝えがあるのだとか・・・。

それは、一世一代の思いを込めて、この城を築城したあの加藤清正の思いが、この金の鯱に込められているからなのだそうです。

名古屋城は、その昔、織田信長が一時、本拠地としていた那古野城・・・そのお城が、信長が清洲城に移った後に廃城となっていたのを、関ヶ原の合戦後に事実上天下を取った徳川家康が、自らの江戸城を大坂方から守るための防御の城として構築を命じた物です。

その命に応じたのが、かの加藤清正。

清正は、石田三成への反発から、関ヶ原では東軍についたものの、豊臣家への思いは多分にあった人物です。
なんせ、あの「賤ヶ岳の七本槍」の一人ですから・・・。

秀吉亡き後の豊臣家を支え、関ヶ原合戦の後も、何とか豊臣家の存続を願って、家康と秀頼の間に入り、二条城での会見にこぎつけたお話は、以前、このブログでも書かせていただきました(6月24日参照>>)

この名古屋城の構築にも、その思いが込められていた事は確かでしょう。

それは、「家康へのごきげん取り」という意味だけではなく、大坂方が反抗心を持っていない安全な存在である事を、家康に印象づけたかったに違いありません。

家康のドギモを抜くような立派な城・・・堂々たる名城を造りあげて、その事を証明して見せたのです。

そして、家康の天下のもと、豊臣家が大名として末永く生き残っていく姿を、彼は夢見ていたのでしょう。

しかし、清正は、この城の完成を見る事なく亡くなります。
金の鯱は、彼の遺志を汲んで、大判1900枚余りが投じられ、その死後に天守閣に取り付けられました。

しかも、その後、彼の思いとはうらはらに、ご存知のように、豊臣家は滅亡してしまいます(5月8日参照>>)

やがて、江戸時代になって、名古屋の人々の間では、奇妙な噂が囁かれる事になるのです。

「豊臣の滅亡をあの世で知った清正は、家康に自分の思いが通じなかった事に怒り、その魂は冥土から舞い戻って、あの金の鯱に住みついたのだと・・・。

その時から、あの金の鯱に触れた者は、必ず、凶運に見舞われると言われるようになったのだそうです。

それ以来、誰も触れる事がなかった金の鯱・・・この昭和の犯人のスピード逮捕のウラには、清正さんの思いが影響していたのかも知れませんね。

もちろん、現在の金の鯱も、未だ、よこしまな人の手には、一度も触れられていません。
きっと、今も、清正さんは・・・。
 

Syatihokocc 今日のイラストは、
やっぱり、『金の鯱』ですよね~。

ちなみに鯱とは、魚の身体に虎の顔、背中に鋭いトゲのような背びれを持つ想像上の生き物・・・あの水族館でジャンプするシャチとは、別物だそうです。
 

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