2018年1月25日 (木)

枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話

 

本日は、大阪は枚方(ひらかた)に伝わる昔話?民話?言い伝え?伝説?的なお話を一つ・・・
(今日は何の日?でなくてスミマセンm(_ _)m)

・‥…━━━☆

枚方は、京都から大阪湾へと流れる淀川(よどがわ)沿いの中間あたりに位置する事から、古くは『古事記』『日本書紀』にもその名が登場するほどに、古来より人の往来の盛んな場所でしたが、

Kyoukaidou
江戸時代の京街道と枚方の地図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

やがて豊臣秀吉(とよとみひでよし)が淀川治水のために構築した堤防=文禄堤(ぶんろくつつみ)の上に道をつけた形の京街道を整備し、それを受けた徳川家康(とくがわいえやす)が江戸時代になって、東海道を延長して、大津(おおつ)から伏見(ふしみ)宿(よど)宿枚方宿守口(もりぐち)宿と起点となる高麗橋(こうらいばし)を加えて、正式に「東海道五十七次」とした事で、益々賑やかな宿場町へと発展し、さらに淀川を三十石船が往来するようになると、その中継場所として、以前にも増して人の往来が盛んになっていました。(2007年8月10日参照>>)

Kurawankafunaydo
三十石船に物を売る             舟宿の賑わい(右)
枚方名物「くらわんか舟」(左)

そんな枚方宿には、最盛期には50軒以上の旅籠(はたご)舟宿(ふなやど)が軒を連ね、その中には旅人相手に春を売る遊女たちがたむろする遊郭のような物も存在していて、常に50人~150人の遊女たちが存在していたとされます。
(ちなみに、枚方宿において宿屋と遊郭の建つ場所が分けられるのは明治に入ってからです) 

現在の京阪電車枚方市駅の近くには、今も、東側に「大坂みち」、北側に「左京六り やわた二リ」と刻まれた「宗左の辻(そうざのつじ)と呼ばれる道標が建っているのですが、ここは、かの京街道と磐船(いわふね)街道の分岐点にあたり、言わば枚方宿の北の端・・・
Souzanotuzi1000
♪送りましょうか送られましょか
 せめて宗左の辻までも ♪

と、枚方宿の遊女たちが客を、ここまで見送りに来た場所と言われています。

そんな遊女たちに、恋愛成就の御利益があるとして信仰されてたのが、京街道沿いにある臺鏡寺(だいきょうじ)のお地蔵様・・・

Dscn2057a900
現在の臺鏡寺

このお地蔵様は、今も臺鏡寺の境内にある地蔵堂の中におわし、身の丈2mほどの堂々としたやさしいお顔のお地蔵様なのですが、その足元に少しキズがあり、汚れたような感じに見える事から、いつしか
Dscn2061a600 「これは、皆が寝静まった真夜中に、お地蔵様がこっそりと修行のために出かけられるためだ」
と囁かれるようになり
←「夜歩き地蔵と呼ばれて親しまれていたのです。

そんな賑やかなりし江戸時代の枚方宿で、毎日、この夜歩き地蔵様にお参りする、一人の遊女がおりました。

17歳になったばかりの彼女の願いはただ一つ・・・
愛しい男との恋を叶える事。。。。そう、彼女は恋をしていたのです。

それは、客として店にやって来た、(なぎさ)のお百姓の息子。

たまたま遊女と客という関係で知り合ったものの、彼女に一目ぼれした若者が、何度も何度も店に通い、逢瀬を重ねるうち、彼女の方にも恋心が芽生え、いつしか二人ともが「夫婦になりたい」と願うようになっていたのです。

しかし、貧しい家に生まれ、家族のためにその身を売って、ここにやって来ていた彼女には、この先、まだ10年ほどは遊女として働かねばなりません。

若者としては、何とか彼女を身請けするしかありませんが、それには五十両もの大金が必要です。

一介の百姓のセガレである若者に、そんな大金は作れません。

それどころか、客として彼女の店に通うお金すら、徐々に用意できなくなって来る・・・そこに追い打ちをかけるように、遊女にうつつを抜かして、農作業もウワの空になっている若者に、父親は激おこ(-゛-メ)

とうとう、若者を勘当同然で家から追い出してしまいます。

もはや、身請けどころか、会う事さえできなくなった二人・・・しかし、二人はあきらめる事ができませんでした。

「こうなったら、あの世で添い遂げよう」
いつしか、二人の間には、ともに死ぬ=心中の二文字が浮かび上がってきます。

まもなく春が来ようかという、ある夜、二人は示し合わせて、葦(あし)が生い茂る淀川の河原へと打ち出でて、最後の名残りを惜しんだ後、若者は、小刀で彼女の胸を一突きし、自身の喉を掻っ切って心中を計ったのです。

しかし、人間、自分自身ではなかなか死ねないもの・・・彼女は亡くなりましたが、若者自身の傷は思ったより浅く、その痛みに耐えかねて堤の上に這い上がったところを、通りがかった者に、彼は助けられてしまったのです。

ご存じのように、この江戸時代、心中は天下の御法度(2月20日参照>>)・・・男と女、両方が死んだ場合は「不義密通」として罪人扱いとなり、遺族らは葬儀も埋葬する事も許されません。

また、両方が生き残った場合も罪人として扱われ、一般人の身分をはく奪され、その後は非人として生きて行かねばなりませんでした。

そして、今回の二人のように、片方が生き残った場合は、生き残った者を死罪・・・それも、極刑にした後、先に死んだ者の遺体とともに公道に並べられて晒される事になっていたのです。

若者は、事件から3ヶ月ほど経った夏の暑い日、一旦埋められて、このために掘り起こされた彼女の遺体と対面し、その傍らで斬首され、その首は、彼女の遺体とともに晒されたのでした。

その日、死ぬ事でしか一緒になれなかった二人の悲しみを思い、かの「夜歩き地蔵」のお堂の前には、枚方中の遊女が集まって嘆き悲しむ姿があったのだとか・・・

もちろん、江戸時代の枚方宿においても、このような出来事は彼と彼女のただ一度ではなく、遊女と客の心中などは、何度か起こった事件なのだそうですが、なぜか、この二人のお話は、夜歩き地蔵の逸話とともに、今に伝わります。

・‥…━━━☆

高麗橋・守口宿・枚方宿・伏見の地図や写真&散策コースを本家HP「京阪奈ぶらり歴史散歩」にupしています。

よろしければ、
下記リンクからどうぞ(別窓で開きます)
大阪歴史散歩:中之島周辺(高麗橋)>> 
大阪歴史散歩:文禄堤と守口宿>>
大阪歴史散歩:京街道枚方宿へ>>  
京都歴史散歩:伏見周辺を歩く>>
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)
|

2017年8月17日 (木)

怨みの井戸・門昌庵事件~松前藩の怖い話

真夏日の連続記録を更新せんが勢いだった暑さから、気の早い台風一過で一転、冷夏模様の今日この頃ではありますが、夏はやっぱりホラーで~って事で、本日は、1年ぶりの真夏の夜の怪談話シリーズ!
『松前の怖い伝説』です。

・‥…━━━☆

その昔、蝦夷(えぞ)と呼ばれていた北海道・・・その渡島国津軽郡(北海道松前郡松前町)に本拠を置く松前藩(まつまえはん)の第5代藩主=松前矩広(まつまえのりひろ)は、毎夜毎夜のランチキ騒ぎにあけくれていました。

Matsumaenorihiro500a そばに女性をはべらせては、酒を飲み、「もっと、
面白い物が見た~い(`ε´)」
「もっと、盛り上げろや~!(`◇´*)」

と大騒ぎの宴会、宴会、宴会・・・

最初のうちこそ、この藩主の堕落ぶりを注意した家臣も何人かいましたが、そんな忠告をいっこうに聞かないばかりか、
「うっとぉしい~」
と、次々と排除していったせいで、今や、彼の周りにはイエスマンばかりが集まって来て、もう誰も止めようともしませんでした。

しかも、終始、ゴキゲンで朝まで飲み倒すならまだしも、この宴会、夜も更けて来ると、毎度毎度必ず、異様な雰囲気になってしまうのです。

今夜も・・・
ある時間帯になると、
「来た~!来たゾ~怨みの声が聞こえてきた~~(ノ゚ο゚)ノノ」
矩広が叫び始めると、それまで鳴り続いていた音曲が止み、踊り手たちも一斉に踊りをやめ、矩広に聞こえるという、その声を探しますが、その場にいる誰にも、そんな声は聞こえません。

やがて、シ~ンと静まり返った座敷から、誰ともなく、一人減り、二人減り・・・最後は矩広一人になり
「やめろ!黙れ!やめてくれ~」
と、ブルブルと震えだしてしゃがみ込んで、体を丸くして怯えるばかり・・・

矩広の開く毎夜毎夜の宴会・・・実は、この恐怖から逃れたいがためのランチキ騒ぎだったのです。

それは寛文九年(1669年)に起こったシャクシャインの戦い(6月21日参照>>)・・・

過酷なアイヌ民族支配に不満を持ったアイヌの人たちが団結して反乱を起こした事件ですが、最終的に、アイヌのリーダーだったシャクシャインを騙し打ちにして戦いを終結させ、残る14人の首謀者を処刑して、首を取る代わりに耳をそぎ落としたのだとか・・・
(松前城内には、この時の耳を埋めた耳塚があり、現在も供養が毎年行われています)

この事件自体は、矩広が未だ10歳前後の頃の出来事で、父の死を受けて、藩主の座についてはいたものの、彼自身が何かに関与したわけではなく、一族や周辺の家臣たちによって事が進められたわけですが、多感な少年期に起こったこの事件は、彼の心に深い傷を残したようで、毎夜毎夜、
「ワシの耳を返せ~」
という恐ろしい幻聴に悩まされていたのです。

そんな中、ただ一人・・・勇気を振り絞って、
「殿…どうか、ほどほどに…」
と、藩主=矩広を諌める忠臣がいました。

大沢多治郎兵衛(丸山久治郎兵衛という名前の場合もあり)という人物。。。

しかし、その度々の諌めにイラだった矩広は、側近たちに
「アイツ、黙らせろや」と・・・

そこで、側近たちは大沢を呼び出し
「殿には困った物です。
昨夜もまた、派手にお騒ぎになられて、先祖代々の家宝の鉄扇を井戸の中に投げ込んでしまわれたのです」

と相談を持ちかけたのです。

「それは難儀な…」
と同調する大沢に、
「大沢殿に、井戸から、その鉄扇を取り上げて来ていただき、今一度、殿を説得してもらえないかと…」

「よし、わかった」
と井戸の中へと入って行った大沢に、
「お気をつけください」
「ありますか~?」

と、灯りを照らしながら見守っていた側近たち・・・

しかし、大沢が井戸の底まで達した頃、ようやく抱えられるかのような大きな石を手にとり、それぞれが、
「エイ!」
とばかりに、何個も投げ入れたのです。

鈍い音とうめき声とともに、大沢が井戸から上がって来る事は2度とありませんでした。

この井戸の話は、少しの間は噂になっていたものの、それ以上大きな話になる事はなかったのですが、一方で、この大沢のように、主君のご乱行を諌めようとする家臣が、その後も何人か亡くなる事件が相次いで、やがて矩広の周りには、彼のお気に入りの側近ばかりに・・・

しかし、そのお気に入りでさえも・・・
ある時、そのお気に入りの側近の一人が、矩広の側室と、通りすがりに話をしただけで怒りだし、
「不倫や!不義密通や!成敗したる!」
と騒ぎ始め、怖くなった、その側近は、松前家の菩提寺である法憧寺(ほうどうじ= 北海道松前郡松前町)に逃げ込み、住職の柏巌(はくがん)和尚に相談・・・
「住職様のお言葉なら、殿もお聞きになるかも…」
と矩広を説得してもらう事に・・・

しかし、目の前に現れた柏巌に対し矩広は、
「わしを呪いに来たんやろ?」
と、もはや聞く耳持たず、柏巌を門昌庵(もんしょうあん=北海道二海郡八雲町)という草庵に追放して首をはねるように、家臣に命じました。

かくして柏巌は斬首されますが、
その首を切られた時には側を流れていた川が逆流したとか、
斬首役の一人が発狂したとか、
首実検を行うために持ち帰った生首がカッと目を見開いたとか、
様々な噂がたつ中、松前藩の江戸藩邸でも家臣の変死が相次ぎ、矩広の体の調子も優れず、側室らが産んだ子供も次々と早世し、さらには、凶作、火事など、城下にも度々災難が起こった事から、人々は皆、
「柏巌の祟りではないか?」
と噂したのだとか・・・

・‥…━━━☆

と、まぁ、これまで見聞きしたお話を書かせていただきましたが、どうやら、このお話は一つの物語では無く、実際には複数のお話に分かれているようです。

もともと、こういうお話の性質上、「実際にあった」というよりは「そういう噂が流れていた」という感じの伝説的な物で、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけで・・・

ただし、今回の松前藩のお話の中では、最初の「シャクシャインの戦い」があった事は事実ですし、最後の柏巌の事件も「門昌庵事件」という名称で実際にあった事だとされ、家老や家臣の変死が相次いだのも本当の事だとされているようですが、実は・・・

「幽霊の正体見たり…」で恐縮ですが、実際には、どうやら、この時期に松前藩内でお家騒動があったようで・・・

つまり、藩内が二派に分かれて争っていた中で、勝った側によって多くの家臣が粛清されたと・・・ところが、その騒動が幕府老中の知るところとなったようで、

江戸時代、お家騒動が起こって収拾がつかなくなった場合、幕府の命により、藩そのものがお取り潰しになる場合もあるわけです。

なので、幕府に全容がバレてしまっては大変!とばかりに、慌てて、藩の正史には、亡くなった家臣たちを、皆「変死」と記録して、怖~い噂話を流してゴマかした?てな事のようです。

もちろん、上記の通り、お家騒動の話も正式な記録には残っていない話ですから、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけですので、どちらを信じるか信じないかはアナタしだいです。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

2016年7月30日 (土)

源氏物語を書いて地獄に堕ちた?~紫式部

 

関東も梅雨明けを迎え、いよいよ夏本番!という事で、本日は、ちょっと怖~いお話を・・・

・・・・・・・・・・

世界最古級の長編小説とも言われる『源氏物語』を書いたとされる紫式部(むらさきしきぶ)・・・

もはや説明する必要も無い超有名な歴史人物ですが、一方では、生没年や本名など、細かい部分がよくわからない人でもあります。

なんせ、平安時代くらいまでは、「男性に顔を見られる事は恥」だったり、「プロポーズの返事(OKの場合)が本名を教える事」だったりするような時代ですから、女性には謎の部分が多いのです。

とにもかくにも、寛弘二年(1005年)頃から、第56代=一条天皇の中宮である彰子(しょうし=藤原道長の長女で後の上東門院)家庭教師として仕えた事は間違いないでしょうが、冒頭に書いた通り、「源氏物語の作者」というのも、「だとされる」という雰囲気で、「作者は男だった」とか「作者は複数いた」とか、諸説あるんです。

とは言え、父の藤原為時(ふじわらのためとき)や弟の惟規(のぶのり)式部丞(しきぶのしょう=現在の文部科学省のような行政機関)の役人であった事から、勤務先の宮中にて、最初は藤式部(とうのしきぶ)と呼ばれていたのが、あの『源氏物語』の中で主人公の光源氏(ひかるげんじ)が、自らの理想の女性に育て上げようとするヒロイン=紫の上(むらさきのうえ)にちなんで、いつしか紫式部と呼ばれるようになったというのが一般的な説です。

Murasakisikibu800
彰子(左)に『白氏文集』を説く紫式部(右)『紫式部日記絵詞』

で、その紫式部に・・・実は、「その死後に地獄に堕ちた」という伝説があるのです。

鎌倉時代の説話集『今物語(いまものがたり)によれば・・・

・‥…━━━☆

ある人が不思議な夢を見ます。

枕元に、輪郭もよくわからない、ぼんやりとした影のような物が見えたので、
「誰?」
と声をかけてみると、

「私は、紫式部です。
私は、生前、嘘の作り話ばっかり沢山書いて、人を惑わせてしもたために、今は地獄に落ちて責められ、毎日苦しい思いをしていて、もう耐えられませんねん。
どうか『源氏物語』の巻の名前を詠み込みつつ、南無阿弥陀仏とか、お経を唱えるような歌を一巻ずつ詠んで供養して、この苦しみを和らげてくれはりませんか?」

「めちゃムズっ!(@Д@;」
と思ったその人は、
「たとえば、どんな風に詠んだらえぇんでしょうか?」
と尋ねます。

すると・・・
♪きりつぼに 迷はん闇も 晴るばかり
 なもあみだ仏と 常にいはなん ♪
「桐壺の巻を書いたために入ってしまった迷宮の闇が晴れるように、いつも南無阿弥陀仏と唱えて欲しいワ」

と言い終わるや否や、その影は消えてしまった・・・と、

・‥…━━━☆

源氏物語は五十四帖・・・こんな感じの歌を「54首も作れ」って、かなりの無理難題な気もしますが・・・

とは言え、この「紫式部地獄落ち説」は、けっこう早いうちから囁かれていたようで、平安末期の平康頼(たいらのやすより)による説話集=『宝物集(ほうぶつしゅう)にも、

:;;;:+*+:;;;:+*+

なんや最近、
「嘘八百な源氏物語を作った罪で地獄に落ちて苦しんでるさかい、一刻も早く物語を破り捨てて一日経(いちにちきょう=集中して1日で写経を完成させる事)をやって菩提を弔って欲しい」
と、どこぞの人の夢に紫式部が出て来たよって、歌人たちが集まって、皆で写経して供養したてニュース聞いたわ。

:;;;:+*+:;;;:+*+

と、コチラは実際に供養した事が、巷の噂になっていた事が書かれています。

確かに・・・
言われて見れば、源氏物語って、かなりな内容ですからね~

ドロドロ不倫しまくりで、愛すればこその情念は、ともすれな怨念に変わる・・・1夜限りの関係の女性が「捨てられた」と嘆き悲しんだり、通われなくなった女性が生霊となって現在の恋人を呪ったり・・・

男と女の恨みつらみの愛憎劇を何もないところから作りあげる行為は、言いかえれば大いなる嘘つき・・・

今生きる私たちでこそ、生まれた時から創作童話や小説やドラマなど、フィクションの物語にドップリ浸かってますから、そこに違和感を覚える事もありませんが、書く物と言えば、日記や報告など・・・その出来事を記録するために「物を書く」のが常識だった時代に、フィクションを、それも、怨霊出まくりの奇怪な物語を書けば、そんな風に思われてしまうのも仕方ない事なのかも知れません。

なんせ、「言霊(ことだま)とか「呪詛(じゅそ)とか、真夜中の「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)なんかが信じられていた時代ですから・・・

しかし、一方で擁護派もいます。

平安末期頃に成立したとされる『今鏡(いまかがみ)は、「紫式部に仕えた侍女」を語り手として話を進めて行く形式の歴史物語ですが、その中で、その老婆に
「源氏物語を、妄語や虚言とかいうのは違うと思います。
虚言とは、自分を良く見せるために起こってもいない事を起こったように話して、他人を騙すような行為ですが、この物語は人を楽しませ、満足させ、明るい良い方向へ導く物語なんです。
こんなすばらしい物語を書いた紫式部は妙音観音
(みょうおんかんのん)の化身なんやないか?と思うくらいです」
と言わせています。

いつしか、そのような考え方が、紫式部を供養する会=『源氏供養(げんじくよう)という文化を生み出します。

鎌倉時代の初め頃から、あちこちで行われた『源氏供養』は、やがて『源氏供養』を題材とした新しい物語が作られるように・・・まさに、源氏物語スピンオフ!

有名な能楽作品の『源氏供養』では、供養の後のクライマックスで、紫式部が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の化身であった事が明かされてラストを迎えるのだとか・・・

なんだか、ホッとしますね。

果たして紫式部は、
地獄に堕ちた大嘘つきか?
はたまた、
傑作を生み出した観音様か?

その答えは・・・
1000年以上に渡って読み継がれ、21世紀の現代に至っても、何度も映画やドラマの原作になる・・・そんな物語が他にあるでしょうか?

それこそが答えですね。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (36) | トラックバック (0)
|

2015年3月 9日 (月)

大阪の史跡:天王寺七名水と亀井の尼の物語

 

本日は、大阪の寺社巡りのヒントとなる史跡=「天王寺七名水」と、そこにまつわる物語をご紹介させていただきます。

寺社巡りと言えば、遠方の方から見れば奈良京都なんでしょうが、実は大阪の方が歴史が古かったりします。

たとえば、今回の七名水巡りの少し北にある生國魂神社(いくたまじんじゃ)高津宮(こうづぐう)・・・(地図参照)

生國魂神社は、未だ現在の大阪の半分以上が海だった頃に、あの初代天皇となる神武天皇(じんむてんのう)が、その東征で瀬戸内海から上陸した場(2月11日参照>>)、日本列島そのものの神である生島大神と足島大神を祀ったのが始まりとされています。
(現在の生國魂神社は大坂城構築の際に移転された場所ですが、以前は現在の大阪城の大手門あたりにあったとされています。また、神武天皇上陸の地は特定されておらず、推定地は大阪天満宮の境内にもあります)

あの伊勢神宮の始まりが、第11代垂仁(すいにん)天皇(7月14日参照>>)の頃とされますので、由緒&伝承だけで見れば、いくたまさん(←生國魂神社の呼称です)の方が数百年古い事になります。

また、高津宮は、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)(1月16日参照>>)が政治の場とした難波高津宮(なにわたかつのみや)のあった場所・・・と言いたい所ですが、仁徳天皇の高津宮の場所は特定されていないので、あくまで仁徳天皇を主祭神に祀るゆかりの地という事になりますが、おそらくは、皇居があった場所も、この近くでは無いか?と推測されます。

もちろん、今回の七名水巡りの核となる四天王寺も、以前書かせていただいた通り(7月7日参照>>)、その歴史は飛鳥時代にさかのぼります。

Yuuhigaokasyousaicc ←地図クリックで拡大します
「大阪市営地下鉄=夕陽ヶ丘駅」か「JR環状線:天王寺駅」が便利です。

とまぁ・・・神代の昔から大地だった上町台地には、奈良や京都に勝るとも劣らない神社仏閣がたくさんありますし、古き良き大阪を感じさせる「天王寺七坂」というのもあって、さすがに1度に全部をご紹介できませんので、今回は、題名通りの「天王寺七名水」に話題を絞らせていただきます。

…で、今回の「天王寺七名水」とは、有名な四天王寺の周辺に湧き出る湧水の事ですが、それは北から
1、有栖の清水
2、金龍の水
3、逢坂の清水
4、亀井の水
5、増井の清水
6、安居
(安井)の清水
7、玉出の清水

の、7ヶ所ですが、このうち「有栖の清水」と「玉出の清水」は場所が特定されておらず、しかも、実際には「金龍の水」と「亀井の清水」以外は、水は枯れてしまっていますが、歴史遺産を記憶にとどめるべく、井戸枠を残したり、石碑を建てたりされています。

  1. Dscf3403_aaa600b21 有栖の清水
    途中で土佐藩が買収して庶民が使えなくなった事から「土佐清水」とも呼ばれましたが、現在の星光学院の敷地内にかつてあった「料亭:浮瀬」の前あたりに湧水があったとされています。
  2. Dscn1409a800 金龍の水
    星光学院の南西=清水坂を下った場所にあり、そのほのかな甘みがなんとも美味だった事から茶の湯として使用されたそうです。
  3. Dscf2279a600 逢坂の清水
    以前は一心寺の門前西…まさに逢坂(おうさか)の途中にありましたが、広い道路に拡張させるにあたって取り壊され、その遺構が四天王寺の境内の地蔵山に移されています。
  4. 亀井の水(写真は下記の物語内に…)
    Ca3e0016a600 四天王寺の金堂の地底にある池から流れ出ていると言われる水で、その上に建てられた亀井堂の中にある石造りの大きな桶に、現在も水が流れていて、お彼岸には、その桶に戒名を書いた「経木」という板を浸して、ご先祖様の供養をする善男善女が集まります。
    また、この水が、この先、近くの清水寺の「音羽の滝(大阪市内唯一の滝=右上写真↗)になるという噂も…
  5. Ca3e0011a800 増井の清水
    かつては高さ2mの岩の間から、2段に分かれた広さ8畳ほどの水溜めに溜められ、酒造にも使用されたとの記録がありますが、現在はその水も枯れ、下段の屋形のみが残されています。
  6. Dscn1389a800 安居の清水
    菅原道真が太宰府に赴任する時に、病を癒しながら舟を待ったという事で、その場所に建立された安居神社…その境内にあった湧水で現在は空井戸と玉垣が残ります。
    ちなみに、この安居神社は、あの真田幸村の最期の地としても有名です。
  7. Dscn1383a800 玉出の清水
    かつて一心寺の西にあったとされる湧水ですが、残念ながら現在は枯れてしまい、その正確な位置もわかっていないのですが、推定値に石碑が建立されています。

以上、本日は「天王寺七名水」をご紹介しましたが、この七つの場所を巡るだけなら小一時間もかかりませんので、史跡巡りをされる場合は、是非とも、「天王寺七坂」や周辺の寺社へも訪れてみてください。

くわしくは・・・手前味噌ではありますが、本家HP:大阪歴史散歩「上町台地を歩く」>>を参照してみてくださいませ(モデルコースの関係からブログの地図とは番号などが違っていますのでご注意ください)

最後に、今回の「亀井の水」にまつわる『亀井の尼』の物語を・・・

・‥…━━━☆

京都は東山の一角に建つボロ屋に、一人の女性が住んでおりました。

彼女は、非常に控えめでおとなしく、色っぽい噂一つ無いマジメは女性ではありましたが、やはり、そこはうら若き乙女・・・年頃になれば、「恋の一つもしてみたい」と思うもの・・・

とは言え、人も寄りつかぬ荒れた家では何とも・・・月を見てはため息をつき、花を見ては涙する日々を送っておりましたところ、ある時、清水寺に参拝すると、何やら手引きする人物が・・・

その人に誘われるまま、ある男と夢のような一夜を過ごすのですが、なんと、そのお相手は時の帝・・・

それからしばらくは、「もう一度、あの夢のような一夜を…」と待ち続けていた彼女でしたが、なんせ相手は帝ですから、やがて時が経つにつれ、「やっぱり、相手が相手やし…無理なんやろね」と、諦めムードに傾いていきます。

さらに時が経ち、彼女はふと、
「ひょっとしたら、これは『それをキッカケに世を捨てなさい』という仏様の思し召しかも知れない」と思うようになり、心を決めて、あの手引きしてくれた人物に手紙を送ります。

♪なかなかに 訪(と)はぬも人の うれしきは
 憂き世をいとふ たよりなりけり ♪

「あなたが来られない事が、むしろ良かったかも知れんわ~
せやかて、それで世を捨てる決心ができたモン」

と・・・

しばらくして、使者を通じて、その手紙を手にした帝・・・

「うかつやったわ!忘れたわけでも嫌いなわけでもなく…たまたまやねん。
すぐに、また逢いに行くつもりやってん」

と、帝の気持を知った使者は、早速、東山の彼女家を訪ねますが、もはや、そこには留守を預かる老婆ひとり・・・

その老婆によると、
「なんや事情はよぅわかりませんが、今は四天王寺にお参りに行ってはります」
との事・・・

慌てて使者は四天王寺へ・・・

寺の境内で、あちこち聞いて回ると、霊水の湧き出る亀井の付近に、2~3人の尼僧が住んでいるのを突きとめ、訪ねてみると・・・ビンゴ!

Ca3e0066a900 四天王寺の亀井堂

その尼僧は、若い彼女とその母親でした。

使者の顔を見て、たまりかねて泣きだす彼女・・・

そばにいた母は
「出家は以前から決めていた事で、決して帝のせいやおまへん…そんな畏れ多い事…」
と言いながらも、二人とも言葉にならず泣き崩れるばかりでした。

もはやどうしようもなく・・・使者は、空しく、都へと戻って行ったのでした。

・‥…━━━☆

この物語は、鎌倉時代に成立(作者は藤原信実が有力)したとされる『今物語』にあるお話ですが、肉食系女子が多数な今日このごろの恋に比べると、平安の雅な恋は、「待つ恋」だったのだなぁ~とつくづく・・・
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

2013年7月20日 (土)

牛になった女房~田中広虫女の話

 

宝亀七年(776年)7月20日、讃岐国に住む田中広虫女が病死しました。

・・・・・・・・

と言いましても、この女性・・・歴史上の人物という事ではなく、『日本霊異記(にほんれいいき=日本国現報善悪霊異記) という説話集の下巻・第26話に登場する物語の主人公です。

Nihonreiiki200 まぁ、小さい頃には、
「食べて、すぐ寝ると牛になるで~」
てな事を母親から言われたもんですが・・・

 .
とにもかくにも、
その物語によりますと、田中広虫女(たなかのひろむしめ)は、讃岐((さぬき=香川県)美貴(みき=三木)郡司(ぐんじ・国司の下で働く地方官)小屋県主宮手(おやのあがたぬしのみやて)の妻で、二人の間には8人の子供をもうけていました。

広大な田畑を所有していて、多くの使用人や牛馬を使い、何不自由ない裕福な暮らし・・・

ただ一つ・・・彼女には大きな欠点が・・・

それは、信仰心が無く、生まれながらにケチで強欲で、豊かな心を知らない・・・つまり、性格がメッチャ悪かったのです。

大きな農場の他にも、酒屋や金融業も営んでいた彼女は、水でうすめたお酒を高値で販売したり、稲やお酒を貸す時には小さい升で計って貸したくせに返す時は大きな升で返すように強要したり、その利息も他者の10倍100倍にて徴収したり・・・

とにかく、彼女の周囲では、路頭に迷って、一家で夜逃げする人続出だったわけですが・・・

そんな彼女が、宝亀七年(776年)の6月に入って、突然、病に倒れ、意識を失ってしまいます。

必死の看病にも関わらず、彼女は1ヶ月の間、昏睡状態が続きます。

やがて、訪れた宝亀七年(776年)7月20日・・・

この日、突然意識を回復した広虫女は、枕元に夫と子供たちを呼んで、昏睡状態の中で見た夢の話をします。

夢の中で、彼女は、閻魔大王の宮殿に連れていかれ、大王から3つの大罪を指摘されたというのです。

その3つの大罪とは・・・
●寺院の財産を使い込んで返却しない事、
●水増しのお酒を売った事

そして
●貸す時には小さく、返済の時には大きな升を使って暴利をむさぼった事

しかし、その事を語ってまもなく、広虫女は息をひきとってしまいました。

夫や子供たちは悲しみに暮れながらも、僧侶や祈祷師を呼んで、冥福を祈るのですが、そうこうしているうちの7日目の夜・・・なんと、彼女は息を吹き返すのです。

この世の物とは思えない異様な悪臭とともに棺桶のフタを開けて登場する広虫女・・・しかし、生き返った彼女の姿は、上半身が牛で額に角が生え、手足にはヒズメがあります。

しかも、草しか食べず、牛独特の反芻(はんすう=食べた物を再び噛みなおすアレです)もするのです。

またたく間に、この話を聞きつけた近隣・・・いや、遠く離れた場所からも、ひと目見ようという見物人が後を絶たなくなって、困り果てる家族・・・

彼女が亡くなる前に語った3つの大罪の話が頭から離れない夫は、抱え込んでいた宝物を、近隣の寺院や、奈良の東大寺に寄進して、すべてを変換・・・・人々の借金も帳消しにして、これまでの罪を償うのです。

このおかげで、牛となってから5日後、広虫女は、やっと、安らかに死ぬ事ができました。

・‥…━━━☆

と、こんな感じのお話です。

もちろん、「これは説話集にあるお話なので…」とことわらなくとも、内容がすべて事実だと思われる方はおられないでしょうが、かと言って、「架空の作り話だから、歴史には関係ない」と言ってしまえないのも、この類いの説話のオモシロイところ・・・

そうです。

例え、「生き返ったのどうの」という内容が作り話だったとしても、その物語の背景が、その時代を浮き彫りにしている可能性が高いのです。

物語の舞台となる宝亀七年(776年)は、奈良時代の終わり頃ですが、『日本霊異記』 が成立したのは、平安時代の初めとされています(弘仁十三年 (822年) の説あり)

下巻に著者の自叙伝的な内容も含まれているところから、この物語を書いたのは、奈良の薬師寺の僧だった景戒(きょうかい・けいかい)だとされていますが、この景戒さんは、もともとは妻子を持つ俗世間に生きていた人・・・

つまり、根っから坊さんのエリート的な道を歩んで来た僧でない事が幸いし、もっぱら貴族や金持ち相手の平安初期の仏教界において、一段高い上から目線では無い、一般人とも深く交わる庶民のお坊さんだったようなんです。

・・・で、そんなお坊さんが書いた物語の背景・・・

この平安時代初期という時代は、地方豪族が、その裕福さと特権を良い事に、何かと私利私欲にばかり走り、挙句の果てに庶民を喰い物にして不当な利益をあげるという事が多々あった時代なのです。

少し後になりますが、以前書かせていただいた藤原元命(もとなが)が訴えられた事件(11月8日参照>>)なんか、まさにそうですね。

なんせ、その地を治めている人がワルサをするのですから、取り締まりもヘッタクレもなく、やりたい放題だったわけです。

そんな上層部に抑えつけられる庶民に対して、紹介する物語は、
「…故に過ぎて徴(はた)り迫(せ)むること莫か(なか)れ」
欲の出し過ぎはアカンで~
という言葉で、最後を締めくくっている事でもわかるように、結局は「悪い事をしてはいけない」という「教え」・・・

庶民に身近な、「あるある」的な題材を使って、仏の道&人の道を、わかりやすく伝える・・・それが、この物語のテーマだったという事ですね。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

2013年5月 8日 (水)

大坂の陣・落城記念~大阪城の怖い話

 

慶長二十年(1615年)5月8日、大坂城が炎に包まれ落城豊臣秀頼淀殿母子が自刃・・・ここに豊臣家は滅亡し、冬と夏の二度に渡った「大坂の陣」は終結しました。

・・・・・・・・・・

・・・と、大阪城の近くで生まれ育ち、今も昔も大阪城大好き少女(今は少女ではない(^-^;)の茶々としては、これまで、大阪城の事をいっぱい書いて来ましたが、そんなこんなの歴史上の事は、以前のページでご確認いただくとして・・・
●【大坂の陣の年表】からどうぞ>>

本日は、ちょっと趣向を変えて、大阪城に伝わる怖い話を・・・

Dscf0642a800 大阪城ベストショット

と言いますのも、以前も、そんな秀吉の怨霊ガラミなお話で、大阪城のたどった歴史を書かせていただいたのですが(「秀吉の怨念?大阪城の不思議な話」参照>>)

古くは、初代天皇となった神武天皇が上陸を果たした(以前は現在の大手門のあたりに生國魂神社がありました)後、しばらくして本願寺の本拠として人が集まり(8月2日参照>>)豊臣秀吉を経て徳川家康の手に渡り(1月23日参照>>)、徳川300年の後に戊辰戦争によって明治新政府へと引き継がれ(1月9日参照>>)、その後は第2次世界大戦が終了するまで、東洋一とうたわれた軍事施設(6月7日参照>>)だった大阪城・・・

日本の歴史の転換期の度に戦場となった大阪城ですが、なぜか、怨霊的なお話は豊臣が多いのです。

豊臣大坂城好きの茶々としては、そこに、「いかに徳川家がムリヤリ豊臣家をぶっ潰した感があったか」てな事を妄想してしまうのですが・・・

とにもかくにも、落城記念という事で、今なお大阪城に伝わる怖いお話のいくつかをご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

Oosakazyoukaidan 大阪城・怖い話マップ↑クリックして大きくして見てね

①奥座敷の宴会

大坂の陣で豊臣家が滅び、すっかり徳川の世となった後も、その噂は絶えませんでした。

「城内では、人気のない奥座敷から、夜な夜な酒盛りの音が聞こえて来る」
と・・・

「おのれ!亡霊め!成敗してやる!」
とばかりに、ある時、未だ血気盛んな若い家臣が、夜の更けるのを待って、奥座敷の方へと向かいました。

ぬき足さし足で近づいて行くと・・・なるほど、噂通りにざわざわと酒宴の音らしき物が聞こえてきます。

しかも、人の声だけではなく、何やら管弦の音まで・・・

息を殺して勇気を振り絞り、若者はガバッと襖を開けます。

すると、座敷の向こうにぼんやりと・・・この世のものとは思えぬ美しいうちかけを身にまとった女性を囲んで、何人かが宴会の真っ最中!

「亡霊め!」
大きく声を挙げた若者が、その声と同時に近づくと、

すかさず、輪の中にいた女性が・・・
「静かにしよし!
わらわは、淀じゃ!
今宵は、久しぶりの祝宴じゃ!」

と鬼のような形相で一喝!!

しかし、その途端、すっと表情を変え
「そなたも、もっとちこう寄れ…
わらわの盃をしんぜよう」

とニッコリ・・・

凍りつくような笑顔には、ありえないほどの妖気がこもり、一瞬にして気が遠くなり、若者は動けなくなったのだとか・・・

しばらくして我に返った時には、すでに亡霊の姿は無く、ただ、広い座敷にポツンと、若者が一人で座っていた状態だったのです。
 .

②陰火の舞い

陰火(いんか)とは人魂=火の玉の事・・・

現在、桜門の前のお堀は空堀となっていますが、豊臣時代の大坂城でも、このあたりに空堀があったとか・・・

で、ご存じのように、大坂の陣では数多くの豊臣の兵が討死し、その血が空堀に流れ、土にしみこんだ・・・

やがて、いつのほどからか、雨の降る夏の夜には、一つ、また一つと、恨みを残して死んだ豊臣の兵たちの怨念が火の玉となって現われ、それがピークに達する頃、城内から「ワーッ」という争乱の声が沸きあがるとか・・・
.

③胎衣の松

江戸時代の大坂城は徳川の直轄となったので、城主というのは徳川将軍・・・で、その代役として、大名や旗本から、城代:1名定番(じょうばん):2名大番(旗本頭):2組加番(かばん):4名が指名され、彼らが家臣を率いてやって来て大坂城に常駐していたわけですが・・・

そんな中の西大番頭の屋敷の書院の庭には、高さ一丈(約3.8m)、横十間(18m)もある大きな松があったのですが、ある時、大番頭から、その松の枝を切るように命じられた家臣が枝を切ったところ、その夜、夢に貴人が現われます。

「我こそは、大坂城主・豊臣秀頼であ~る。。。
その松のたもとには、我の胎衣
(えな=胎盤)が埋めてあるぞよ~
今後は、切ってはならぬぞえ」

と告げたのです。

以来、その松を切る事は無く、お神酒を供えて大切にしたのだとか・・・(って、コレ怖いか??)
 .

④京橋口の幽霊屋敷

江戸時代、京橋口には定番の屋敷がありましたが、ここには古くから妖怪が住むとの噂があり、任期を全うした大名はいなかったのだとか・・・

そんな中、享保十年(1725年)に着任した足利藩主・戸田忠囿(ただその)は、これまでの代々の定番役が、着任早々、ここに稲荷のほこらを建てて鎮魂していた事を聞くのですが、
「そんな古い習慣、
俺には関係あれへん!
なんやったら、これまでの古いほこらも、全部まとめて近所の玉造神社に遷してしまえ!
屋敷に一つも残すなよ」

と強気満々のご発言・・・

案の定、すべてのほこらを移転して10日ほどたった頃・・・
家臣たちの間に、いきなりの高熱を発する病気がまん延したり、
「化物を見た!」
と恐怖におののく者が続出・・・

しかし、当の忠囿さんは落ち着いたもの・・・

逆に、その化物を退治せんとばかりに書院に引き籠ります。

やがて3日目・・・忠囿の目の前に白髪をふり乱した化物が現われます。

自らも重傷を負いながらも、何とか鎌で化物を仕留めた忠囿・・・死んだその姿は巨大な古狐だったとか・・・(って退治しとるがな!!(゚ロ゚屮)屮)

・‥…━━━☆

以上、まだまだあるのですが、残りは真夏の夜のお楽しみという事で、本日のところは、このへんで・・・
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (10) | トラックバック (0)
|

2013年4月24日 (水)

柴田勝家自刃…福井・九十九橋の怨霊伝説

 

天正十一年(1583年)4月24日、越前北ノ庄城は炎に包まれ、柴田勝家とその妻・お市の方が自刃して果てました

・・・・・・・・・・

ご存じ、天正十年(1582年)の本能寺の変(6月2日参照>>)で亡くなった織田信長の後継者を巡っての争いで、信長の三男の神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)を推す織田家家臣筆頭の柴田勝家(かついえ)と、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)を倒して(6月13日参照>>)主君の仇を討った事で発言権を増したうえ、次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)を味方につけ、嫡孫の三法師(さんほうし)を推す羽柴(後の豊臣)秀吉・・・

事実上、勝家VS秀吉の覇権争いとなる中で、6月27日の清州会議(6月27日参照>>)で後継者は三法師に決定するも、納得がいかない勝家側・・・(10月15日参照>>)

やがてそれは、あの賤ヶ岳の戦いへと発展(3月9日参照>>)しますが、中国さながらの美濃の大返し(4月20日参照>>)で戻ってきた秀吉に、勝家は敗北・・・(4月21日参照>>)

本拠地の越前(福井)へと撤退して(2009年4月23日参照>>)北ノ庄城に籠城しますが、4月23日の夜に最後の酒宴を開いて(2010年4月23日参照>>)、翌日=天正十一年(1583年)4月24日妻のお市の方(信長の妹もしくは姪)とともに自刃して果てました(2007年4月24日参照>>)

・・・と、これらの一連の経緯は、上記のそれぞれの出来事のリンク先でくわしく見ていただくとして、本日は、その勝家自刃の後に起こった、、、こわ~~~いお話・・・(あくまで噂=都市伝説です)

・‥…━━━☆

ご存じのように、勝家亡き後、この北ノ庄城に入ったのは徳川家康の次男で秀吉の養子になっていた結城秀康(ゆうきひでやす=当時は羽柴秀康、後に松平姓)(11月21日参照>>)・・・

その秀康が大幅な改修工事を行って、北ノ庄城を巨大な城郭に変貌させたわけですが、3代め藩主となった松平忠昌(ただまさ)が、「北」は「敗北」に繋がって縁起が悪いとして、その名を「福居」、さらに「福井」と、城の名を改めたのです(4月11日参照>>)

しかし、異変は、この改名の頃から起こりはじめます。

毎年、勝家&お市の方の命日・・・つまり、旧暦の4月24日の丑三つ時(夜中の2時頃)になると、数百騎にもなる騎馬武者の行列が九十九橋を渡って南へと進んで行くのですが、なんと!その騎馬武者は全員首が無く、乗っている馬も首が無く、その傷口からは真っ赤な血がしたたり落ちているのだとか・・・

しかも、その翌朝は、決まって数人の死者が出るほか、夜中にその行列を見た者、あるいは、その話を誰かにしゃべった者&聞いた者も、ほどなく血を吐いて死ぬ・・・と噂されました。

Dscf1173a1000 現在の九十九橋

九十九橋(つくもばし)という橋は、現在も、福井県内を走る北陸道が足羽川に交差する地点に架かっている、言わば交通の要所となる橋なのですが、朝倉氏の時代からあったこの橋を、勝家が、南半分が石造、北半分が木造という半石半木に造り変えたと言われています。

これは、もし合戦があった時に、北半分の木造部分を壊して、敵の侵入を防ぐ意味があったとされていますが、この半分半分の橋は江戸時代にも、珍しい橋として有名だったのだとか・・

もちろん、現在の九十九橋は昭和六十一年(1986年)に架けられた物ですが、当時の雰囲気をイメージして再現された物が、「北ノ庄城址・柴田公園」に復元されています。

Dscf1116a900 柴田公園に再現された九十九橋

ところで、「見た者は死ぬ」なのに、なんで、騎馬武者や馬の首が無い事がわかるのか??

実は、それにはこんな話が・・・

享保十七年(1732年)、近くで表具屋を営む佐兵衛という者が、その好奇心から、「どうしても噂の首なし武者を見てみたい!」と思うようになりますが、絵も上手だった彼は、何とかその光景を絵に残せば、「万が一自分が死んでも絵が残る」と考え、死を恐れず、見る決意を固めたのです。

やがて、やって来たその夜・・・柳の影に隠れて見たその様子は、まぎれもなく首が無い噂通りの姿・・・しかも、柴田の馬印(決戦の時に大将の居場所を示す印)も確認しました。

まさに、勝家の亡霊・・・

慌てて自宅に戻り、見た光景を絵にしたためた左兵衛は、それを、ある武士から修理を頼まれていた桐の箱に隠しますが、案の定、彼は翌朝死体で見つかります。

佐兵衛の葬儀の後、箱の修理を依頼していた武士は、中に入っていた絵に気づきますが、「不吉な絵」だとして、すぐに庭先のたき火の中に投げ捨てます。

ところが、その途端に、火がついたまま宙に舞い上がった絵から、首なし武者の姿が浮かび上がったと思うと、絵はそのまま屋敷へと飛んでいき、武士の屋敷はもちろん、周囲の民家まで巻き込む大火事になったのだとか・・・

以来、江戸時代の福井の人々は、勝家の命日である4月24日の夜は、決して外出せず、灯りを消してうずくまり、万が一外でくつわの音がしても、決して外を見ないでやり過ごすようにしたのだそうです。

1度、その日が4月24日であった事を忘れて外出した老婆が、やはり首なし武者に遭遇・・・しかし、老婆は翌朝死ななかったので、「これは迷信だ」と思って家族に話した後、結局、1年後に水死体で発見されたなんて話も・・・

Dscf1118ab600 そんなこんなの九十九橋も、明治になって木造トラス橋(←写真)に架けかえられてからは、首なし武者が出現する事はなくなったとの事なので、ご安心を・・・

ただ、未だに噂があり、都市伝説として語られているこのお話・・・

・・・で、一つ、回避方法を・・・
もし、あなたが、福井で、この「首なし武者」に会い、武者から「何者か?」と問われたら、「勝家公の家臣にて…」と答えると、命までは奪われないとの事・・・

信じるか信じないかは、あなた次第ですm(_ _)m
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (14) | トラックバック (0)
|

2013年4月23日 (火)

気はやさしくて力持ち…大井子の力石伝説

 

今日は、『古今著聞集』に残る、オモシロイお話を・・・

琵琶湖の西にある、現在の滋賀県高島市安曇川町安閑神社に、水口石あるいは力石と呼ばれる石があります。

ちなみに、その石の隣には、神代文字とおぼしき、見た事も無い文字が刻まれた石が鎮座していて古代史ファンにはけっこう知られた神社らしいのですが、今回のお話は、神代のお話ではなく、平安時代のお話・・・

・・・・・・・・・・・

その高島に住む大井子(おおいこ・おいね)という女性は、なかなかの器量よし・・・

あたり一帯に広い水田を所有していた彼女ですが、ある時、近所の村人たちと水の事で言い争いになってしまい、彼女の水田には水が割り当てられなくなってしまったのです。

もちろん、それでは、広大な水田は維持できないわけで・・・

やむなく、その夜に彼女は、闇にまぎれてひと作業・・・六~七尺(一尺=約30cm)四方はあるかという大石を担いで水門の所まで行き、その大石を横向きに置いて、他方へ行く水をせき止め、全部の水が、自分とこの田んぼに流れるようにしたのです。

翌朝、この光景を見た村人たちはびっくり仰天・・・あわてて大勢を呼び集めて、その大石をどかそうとしますが、100人がかりでも(そんなオーバーな(^-^;)その石はビクともせず・・・

また、これを大井子が一人で動かした事を思うと、もし、勝手にどかして、彼女が怒りでもしたら・・・と、恐ろしくなって、一同相談の結果、彼女にワビを入れる事に・・・

「水は使っても良いので、どうか石をどけてくれんか?」
と・・・

その申し出を快諾した大井子は、その日の夜に、またまた一人で大石を動かし、それ以来、広大な田んぼが干上がる事はありませんでした。

また、その後は水争いもなくなり、村も平和に・・・と、つまり、この大石が、安閑神社に残る石との事なのです。

Ooikohokusaimanga 北斎漫画に描かれた大井子の物語

一方、そんなこんなの高島に、一人の男が通りかかります。

彼の名は佐伯氏長(さえきうじなが)・・・越前(福井県)の人で、この7月に行われる宮中での相撲大会に参加すべく、京の都を目指して旅している途中の力自慢の男でした。

そんな彼が、ふと見ると、目の前には川の水を桶に汲んで頭の上に乗せて運ぼうとしている美目麗しい少女・・・

ひと目でその少女に心奪われ、素通りできなくなった氏長は、馬から降りて、その少女が桶をささえる腕をつかんだところ、彼女は微笑みを浮かべて、嫌がる様子でも無い・・・

「おぉ!これイケるんちゃうん?脈ありやん」
と、さらに腕を強く握りしめる氏長・・・

すると、彼女は、桶から手を放して、氏長の腕を小脇にかかえ、ギューっと挟みこみます。

好意を持ってる美目麗しい少女にそんな事されて、もう氏長は心ウキウキ(≧∇≦)

しばらく、そのままでいましたが、少女がいつまでたっても手を離さないのにたまりかね、彼女の小脇から腕を引き抜こうとしますが、これがビクともしない・・・

それどころか、逆に、腕を小脇に挟んだ彼女にグイグイと引っ張られ、いつしか彼女の家の中へ・・・

家に到着して片手に持っていた桶を置いた彼女・・・
「それにしても、真昼間から、いたいけな少女に、とんだお戯れを・・・いったい、あんたはんは、どこのどなたはんで?」

聞かれた氏長は
「僕は越前の者です。
今度、宮中で相撲大会があるんで、国々から力の強い者が召しだされて都へ行くんですが、僕は福井代表で、そこに参加するんですわ」

と、答えました。

「そうですかいな。
けど、危ない危ない・・・あんたは、もうちょっとでケガをするところやったで・・・」

「?」

「都は広いでっせ・・・しかも、今回は全国大会やないですか。
どんだけ強い人間が集まって来るか。
あんたはんは、弱いことはおまへんけど、そないに強い事もなく、全国大会に出られるほどの力量は持ってはりませんわ。。。
 

ここでウチに会うたんは、何かのご縁・・・
もし、相撲大会まで日にちがあるようでしたら、ここに20日間ぐらいいときなはれ。
その間に、ウチが鍛えてあげますさかいに・・・」

そう、彼女が先の大石伝説を持つ大井子だったのです。

まだまだ日数に余裕があった氏長は、言われるままに、ここに滞在する事に・・・

「どんだけハードなメニューが用意されてんねやろ?」

ちょっとドキドキの氏長でしたが、意外にも大井子が用意したのは、運動メニューではなく、食事のメニュー・・・

なんと、彼女の怪力で、思いっきり固く握った握り飯を食べるというもの・・・

ところが、これが・・・
食べるというより食べさされる・・・

始めは、固くて固くて、食べ割る事すらできなかった大井子特製握り飯・・・
やがて1週間経った頃、ようやく食べ割る事が出来るように、さらに次の1週間が経つと、もはや、普通に食べられるように・・・

こうして、20日間・・・彼女は毎日食事の世話をしました。

やがて約束の日・・・
「よう、頑張らはりました!
これまでになりはったら、めったな事で負ける事はおまへんやろ。
急いで、都へ行っといなはれ~」

送りだされた氏長は、その後の相撲大会で大いに活躍して名を挙げたのだとか・・・

・‥…━━━☆

「気はやさしくて力持ち」は、男性に対する褒め言葉・・・

今でこそ、女性アスリートも絶賛されますが、残念ながら、この日本でも、長い間、女性は非力でおしとやかなのが魅力的とされ、強い女性は敬遠され、疎外される傾向にありました。

上記の物語の中で、「大井子の田んぼには水をやらない」という一件も、おそらくは、そんな偏見から・・・

しかし、一方で、やさしく叱咤激励する母にも似たほんわかな雰囲気が感じられる大井子のお話は、そんな偏見にもめげず、頑張りながら強く生きた女性たちがいた事を物語っているのでしょうね。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

2013年4月16日 (火)

奈良の昔話「楠の木の秘密」…金閣寺・建立にちなんで

 

応永四年(1397年)4月16日、第3代室町幕府将軍・足利義満が建立した金閣寺の棟上式が行われました。

・・・・・・・・

って事で、本日は、その金閣建立にまつわる昔話・・・奈良は大和高原地方に伝わる『楠の木の秘密』を・・・

と、その前に・・・

足利義満(あしかがよしみつ)については
【将軍権力の確立に生涯をかけた足利義満】>>

有名な、金閣と銀閣の違いについては
【銀閣寺が銀箔じゃないワケは?】>>

など、ご覧いただけるとありがたいですo(_ _)oペコッ

・‥…━━━☆

昔々、伊賀の国に、たいそう腕のたつ木こりがおりました。

その頃、都では、金閣寺の1枚天井を作るのに必要な、大きな楠の木を探していましたが、その一報は、その伊賀の木こりのもとにも届いていて、

「よっしゃぁ!きっと俺が、立派な楠の木をい見つけて、金閣寺の天井をふいて見せるゾ!」
と、はりきって、伊賀街道のあっちへこっちへと、立派な楠の木を探し求めて歩いておりました。

そんなある日、堂が谷と呼ばれる場所まで来ると、まわりが八間(1間=約1.8m)ほどある、それこそ見上げるような、立派な楠の木を見つけます。

「キタ━(゚∀゚)━! キタ━、これこそ、探しとった木やないかい!」

早速、仲間の木こりたちを呼んで、ギーコ ギーコ…と木を切りはじめます。

すると、切った場所から、ポタリポタリと、赤い血のような液体がこぼれ落ちはじめました。

「なんや不思議やな」
「きしょくわるいな」

と思いながらも、何とか、皆で切り倒して、とうとう最後の一息・・・というところまできます。

ところが、その時・・・
突然、枝の1本がパシッという音を立てて折れ、一人の木こりの目を直撃・・・その木こりは倒れてしまいます。

しかし、それと同時に、ともかく木は切り倒したわけですから、
「ほな、今日はここまでにして、続きは明日にしようや」
と、その日の仕事を終えました。

そして次の日の朝・・・

再び、楠の木のところに行ってみると、あら不思議・・・枝も幹も葉っぱも根っこも、皆、もとどおりにしっかりとひっついて、何事も無かったかのように、スクッと立っています。

「なんでや?
倒したはずの木がもとどおりになってるやないかい!」

不思議がる木こりたち・・・

しかし、考えても理由なんてわかりません。

「とにかく、昨日の仕事終わりから、今朝にかけての間に何かあったわけや」

・・・と、そこで、例の木こりは、その日の夜は、家に戻らず、その木のそばで夜通し過ごして、様子を観察する事にします。

落ち葉を集めて、居心地の良い布団を作り、そこに寝っ転がって、一夜を過ごす事にしました。

やがて夜の林の中は、真っ暗闇・・・時おり、フクロウがホウホウと鳴き、まさに静まり返っていきます。

しかし、そんな中、その静けさを破るかのように、ゴウゴウと聞いた事も無いような音がしてきました。

「なんや?なんの音や?」
木こりは身構えながら、葉っぱの影に身を隠し、木の葉の間から、ソ~ッと楠の木に方を観察します。

「んん?」
と思いながら、その目を上の方へ向けると・・・なんと、空から天狗が降りて来るではありませんか!

「楠の木さん、楠の木さん。。。ほんま、びっくりしたでぇ~具合はどないやねん」
と天狗・・・

すると楠の木は
「おやおや天狗さん、見舞いに来てくれたんかいな。
ありがとな~
けど、ご覧の通り、ワシは、なんぼ切られても大丈夫や!
元気!元気!」

「ほな、良かったわ」
「けどな、ナイショやけど、実は、ワシにも苦手なもんがあってな」

「ほう、そうかいな」

「それはな、アラメ(昆布の1種)を炊いた汁や。。。
あのだし汁だけは、どーもアカンのや。
あれをかけられたら、ワシもおしまいやねんけど、その事は誰も知らんさかいに、まぁ、安心やけどな」

「そうか、そうか、とにかく無事で何よりや!
ほな、お大事にな~」

当然、この会話を草の影で聞いていた木こり・・・

「しめしめ、ええ事聞いたゾ!
アラメの汁か…なるほどな」

次の明け方、木こりは早速、伊賀の自宅に戻り、せっせとアラメを炊き、そのだし汁を大きな壺に詰めて、堂が谷の楠の木のもとへ・・・

その木の根元に、アラメの煮汁を、一振り二振り・・・と振りかけると、木の中からした「チチチ…」という音とともに、葉っぱがハラリと落ち、幹が灰色に変色したかと思うと、ひとりでに、大きな楠の木がポッキリと折れ、ド~ンという音とともに倒れました。

Dscn1990a800 鹿苑寺・金閣

そうして、この木は都へと運ばれ、金閣寺の1枚天井になりましたと・・・さらに、この木を手に入れた木こりたちも、たいそう出世したそうな。。。

おしまい

・‥…━━━☆

う~~ん。なんとも複雑なお話ですね~

それこそ、誰かの作によるおとぎ話ではなく、口伝えで伝えられている昔話なので、そこに、勧善懲悪や感動美談ばかりを望んではいけないのでしょうが、なんとなく、切られた楠の木の味方をしたくなりますね~

これも、室町幕府という権力に対しての、ちょっとした抵抗?・・・相手の印象を悪くするネガティブ・キャンペーン?なのかも
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

| コメント (10) | トラックバック (1)
|

2013年4月 5日 (金)

滋賀県・湖北の昔話~「腰折雀」と「舌切り雀」

 

近畿地方も桜が咲いて、本日はポカポカ陽気でした(゚ー゚)

・・・で、今日は、滋賀県の湖北地方に伝わる、こんな春のポカポカした日に、恩返しに来たスズメの昔話「雀の瓢箪」をご紹介しましょう。

・‥…━━━☆

昔々、ある山奥に、一人のお婆さんが住んでおりました。

ある時、そのお婆さんの家に、雀が巣を作りはじめます。

しかし、それに気づいた近所の悪ガキたちが、オモシロがって棒で巣を突き壊して、下へ落としてしまいます。

イタズラで腰の骨を折られた雀は、痛そうに「チュンチュクチュン…」

可哀そうに思ったお婆さんは、その雀を籠に入れて飼う事にし、毎日、やさしく手当てをしてやりました。

その甲斐あって、やがて元気になった雀は、籠を飛びだして、どこへともなく飛んでいきました。

それからしばらく経った、春のポカポカ陽気の日、お婆さんが、気分良く日なたぼっこをしていると、どこからか、あの雀がやって来て、ぽ~いっと、口にくわえてした種をを一つ、庭に落として、また、帰っていったのです。

「ありゃ?
何や…これは、ひょうたんの種やないかい?
けど、せっかく、あの雀が落として行ったんや…どうせなら、植えてみよ!」

と、庭に、その種を植えてみます。

すると、どうでしょう。。。

またたく間に芽が吹いたと思ったら、あれよあれよと言う間にグングン背丈が伸びて行き、ツルを伸ばし、見る間に大きな花を咲かせました。

やがて、そこにぶら~~んと、大きなひょうたんがなります。

その大きなひょうたんは、風が吹くとゆさゆさと揺れ、その揺れとともに、カラカラと不思議な音をたけます。

「こりゃ、おかしなひょうたんやな??」
と、不思議に思いながらも、ころあいを見計って、その大きなひょうたんを収穫・・・

しかし、これが、とてつもなく重いのなんのって・・・

「ひょうたんっちゅーもんは、中が無いよって、軽いもんやねんげどなぁ??
ま、とりあえず、ひょうたんはひょうたんやねんさかい、乾かして、酒でも入れて使おかいな」

と、その重いひょうたんを、必死のパッチで、家の中に入れて乾かして・・・さて、いざお酒を入れようとすると、これが、まったく入れる事が出来ず、注いだしりから、ドボドボとこぼれ出てしまいます。

「ありゃま、なんぎなひょうたんやなぁ」
と、グチをこぼしながら・・・

なんせ、「物が入れられない」となると使い道に困るひょうたん・・・とりあえず、お婆さんは割ってみる事に・・・

ポ~~ン!!と大きな音をたてて、そのひょうたんを割ってみると、アラ不思議・・・中からは真っ白なお米がザクザク・・・

それも、出るのなんのって・・・朝から晩まで、ザックザクのドックドク

ずっと出続けて、いつしかお婆さんの家が、お米で埋まってしまうほどでしたとさ。。。
ほんで、しまい

・‥…━━━☆

と、実は、これとほぼ同じお話が、13世紀頃成立の『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)「雀報恩の事(腰折雀=こしおれすずめ)として登場します。

宇治拾遺物語のほうは、この後に、意地悪婆さんが登場して、自ら石を投げてケガさせた雀を相手に、同様の事をやりますが、予想通り、出来上がったひょうたんからは毒虫やら何やらが出てきて、それらに襲われ、意地悪婆さんが死んでしまう・・・という、勧善懲悪なストーリーとなってますが、上記の通り、地方に伝わる昔話は、のほほんとした感じで終わります。

ところで、スズメの登場するおとぎ話と言えば「舌切り雀」が有名ですが、実は、「舌切り雀」も、この湖北地方に伝えられている昔話・・・

全国ネットの「舌切り雀」は、ご承知のように、明治の頃に、「子供に話して聞かせるにはふさわしく無い場面をカット」して、おとぎ話として全国に広がった物ですが、湖北地方に伝わる昔話では、やはり、ちょっと表現し難い場面も、残っています。
(ご存じだと思うので全国ネットの筋書きは省きますm(_ _)m)

Sitakirisuzume900 河鍋暁斎が描いた「舌切り雀」

糊をなめた事で、お婆さんに舌を切られた雀のいる「雀のお宿」を、お爺さんが探しに行く場面では、その場所のヒントを教えてもらう代わりに、竹を噛まされたり、肥(こえ)を飲まされたり・・・

また、「雀のお宿」のおみやげに小さい箱を貰って帰って来たお爺さんに不満を持って、自らお宿を訪ねて、大きい箱を貰ってきたお婆さんが、途中で箱を開けて、中から出て来た妖怪に食べられてしまうところまでは同じですが、昔話では、その後に・・・

帰って来ないお婆さんを探しに行って、妖怪に食べられた後のお婆さんの遺体を見つけたお爺さんが、そのお婆さんのドクロを持って、とぼとぼと一人で帰路につきますが、途中で日暮れに・・・

やむなく、「どこか泊めてくれる所は無いか?」と探しますが、「ドクロと二人じゃ泊められない」と断わられる・・・

なので、仕方無く、「一人です」と嘘をついて、ようやく1軒の家に泊めてもらう・・・ところで、お話が終了という、それこそ、口伝えの昔話ならではの、ちょっと心残りな終わり方となっています。

こうしてみると・・・
おおもとの一つのお話から、口から口へと伝わる昔話ちょっと大人向けの説話集子供向けのおとぎ話・・・と、様々に枝分かれする過程で変化する様が、とても興味深いですね。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

より以前の記事一覧