カテゴリー「 怨霊・伝説・昔話・不思議話」の27件の記事

2008年7月 7日 (月)

日本の七夕伝説・天稚彦物語~牽牛を彦星と呼ぶのは?

 

本日は、七夕にちなんで、日本の七夕伝説『天稚彦(あめわかひこ)物語』を、ツッコミを交えて、ご紹介します。

*七夕行事の起源・中国の七夕伝説については、昨年の7月7日のページで>>

天稚彦は、古事記では天津国玉神(あまつくにたまのかみ)の子・天若日子という表記で登場します。

天照大神(あまてらすおおみかみ)から、葦原中国(あしはらのなかつくに・日本の事)を統治するために高天原(たかまがはら)派遣されたにも関わらず、出雲を統治していた大国主神(おおくにぬしのかみ)の娘・下照比売(したてるひめ)と、あっさりと恋に落ち、まったく命令を遂行せず・・・

「お前、何やっとんねん!はよ、征服せいや!」
と、高天原から催促に使わされた雉名鳴女(きじしななきめを矢で撃ち殺してしまい、それを知った高天原から撃ち返された矢に当たって命を落す・・・という何とも、いいところのない神様(高天原に反発したため神様扱いされない場合もあり)です。

まぁ、この後に、建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)の国譲り、邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨へと続くので、それのひきたて役にされているのがミエミエのところもあるのですが・・・

そんな天稚彦ですが、室町時代の『御伽草子』で見事主役に大抜擢!

この物語は、中国の七夕・・・あの有名な牽牛と織女の物語をベースに、昔話のありとあらゆる要素を盛り込んで、和洋中で「もう、お腹いっぱい~」ってな感じの壮大なSFアドベンチャーです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昔あるところに三人の美しい娘を持つ長者がいました。

ある日、その家の下女が洗濯をしに湖に行くと、口に手紙をくわえた大蛇が現れ、
「言う通りにせんと、絞め殺すゾ!」
と脅します。

下女が、慌てて逃げ帰り、長者にその手紙を見せますと・・・
「娘を三人ともよこせ!さもないと皆殺しにする」
と、書かれてありました。

姉ふたりが、「絶対にイヤ!」と拒む中、「なら、私が参ります」と、末の娘が犠牲になる事に・・・
【ありがちな化け物・人身御供ストーリー】

娘が湖のほとりで待っていると、やがて雷鳴轟き、大波が立ち、大蛇が姿を現します。

パクリと食われると思いきや、意外にも、普通に・・・
「姉ちゃん、もし、刀持っとったら、この頭を斬ってみぃ」

娘が、震える手で大蛇の頭を斬り落すと、なんと、そこから、この世のものとは思えないイケメンが・・・
「我こそは、海竜王の息子・天稚彦である!」ジャ~ン!
【出た~!ヘンな物からイケメン登場ストーリー】

ふたりは、その場で恋に落ち、その場でシッポリ・・・娘は別の意味で、パクリと食われる事に・・・(#^o^#)ポッ。

天稚彦と娘は、しばらくの間、恵まれた環境(天稚彦は海竜王の子なので宝物いっぱい持ってた)で仲良く暮らしますがやがて・・・
「実は、俺は天にも用事があって、そろそろ帰らあかんねん・・・けど、絶対戻って来るって・・・もし、21日経っても戻ってけぇへんかったら、西の京のはずれに行くと一夜瓢(いちやひさご・一夜で天までのびる瓜で夕顔の事らしい)を持ってる女がおるから、それを買うて天まで昇って来いや。
それと、唐びつを置いて帰るけど、絶対に開けたらあかんで」

【見てはいけないシリーズだ!】

そう言って天稚彦は、天へ去っていきました。

彼が去った後も、残された宝物で、幸せそうにしている娘を妬んで、やってきた姉二人が、宝物や着物を、さも欲しそうにさわりまくります。
【シンデレラっぽいゾ・・・】

やがて、二人の姉は、娘からムリヤリ鍵を奪い、止めるのも聞かずに唐びつを開けてしまいます。

しかし、出たのは白い煙だけ・・・
【浦島太郎・・・】

中には何もありませんでした。
(ないんかい!)

そうこうしているうちに、結局、21日経っても、天稚彦が帰って来ない事に我慢しきれなくなった娘は、言われた通りに西の京へ行き、一夜瓢を買い求め、一晩で天まで伸びたツルに乗って天上界へと向かいます。
【ジャックと豆の木・・・もしくは、スーパーマリオ】

しかし、天上界も広い・・・
どこに行けば、彼がいるのかわからず、途方にくれながら、しばし歩いて行きますと、白い狩衣(かりぎぬ)をつけた夕づつ=宵の明星出会い、彼の居場所を訪ねますが「知らない」という返事・・・。

次に、箒木(ほうき)を持った童子・ははき星=彗星?に出会いますが、やはり、わからず、次の七人の童子すばる星=昴も知りませんでした。

最後に、玉の輿に乗った立派な人物である明月(あかつき)の明星に出会って、やっと居場所がわかり、二人はめでたく再会します。
【う~ん、SFファンタジーアドベンチャーだ!】
(夜空にきらめくファンタジ~byゴ~★ジャス)

しかし、それも、つかの間、天稚彦のオヤジが登場!
これが、何と!・・・(って竜王やったんちゃうんかい!)

とにかく、鬼なので・・・見つかってはマズイと(なぜ?紹介したれや!)、オヤジが天稚彦の部屋にやってくるたびに、娘を脇息(ひじかけ)に変身させたり、枕に変えたりして隠していましたが、ある日、うっかり昼寝をしていて見つかってしまいます。

するとオヤジは・・・
「お前が好きな娘(こ)なら、しゃぁないけど、一つ、嫁にふさわしいかどうかテストする!」
と言いだします。(やっぱり先に紹介しとくべき)

まずは、牛舎で飼っている1000頭の牛を、朝には野に放ち、夜には再び牛舎に追い込むカウボーイの仕事を娘に言いつけます。

「とても、女の私にはムリだわ・・・」
と困惑する娘に、天稚彦は、そっと自分の着物の袖を渡します。

そして、その袖を「天稚彦の袖々」と唱えながら振ってみると、牛は見事に言う事を聞いてくれて、娘の指示通りに動いてくれたので、何とかこなせました。

次に、米倉にある米を、すべて、別の米倉へ移すよう命じられます。
しかし、これも、天稚彦の袖を振ると、どこからともなく、大量のアリが現れ運んでくれました。

最後に、娘は蛇やムカデのいる部屋に閉じ込められてしまいますが、これも、天稚彦の袖のおかげで、蛇もムカデもおとなしくなり、無事、一夜を過ごす事ができました。
【古事記のオオクニヌシの試練にそっくり】(12月21日参照>>)

さすがにオヤジも観念して・・
「しゃぁない。息子の嫁として認めよ・・・ただし、二人が会うんは一と月に一度やぞ!

すると、娘は・・・
「えっ?何て?一年に一度って言いはりましたん?」
と聞き違いをしてしまいます。
(ひとつき→いちねん・・・一文字も合うてへん!娘、耳掃除せぇ!)
(天稚彦も天稚彦や!なんでお前も聞いとけへんねん!)

これ幸いとオヤジは一年に一度という事にして、一つの瓜を手にとって投げると、中から水がドバッと出て、天稚彦と娘、二人の間の天の川となりました。

こうして、天稚彦は彦星に、娘は織女星となって、一年に一度、7月7日の夜にだけ会う事になったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

うぇ~い・・・もう、盛りだくさんすぎて、何が何やら・・・

でも、一つわかりました!

これで、牽牛の事を日本では彦星って呼ぶんですね・・・天稚彦の彦なんだ・・・
(でも、織姫は一回も、機織ってない気が・・・)

・・・と、なんだか、突っ込みどころ満載で、海外の童話も交えての最近作られたような感じのお話でしたが、ベルリン東洋美術博物館には、15世紀半ばに造られた『天稚彦草子』なるすばらしい絵巻物も現存しており、由緒正しき昔話なのです。

中国から伝わった七夕伝説もいいですが、今年は一つ、日本の彦星と織姫に思いを馳せて、ロマンチックな一夜を過ごしてみようではありませんか。

Tanabatasasacc 今日のイラストは、
やはり、日本の七夕らしく・・・
短冊揺れる笹の葉に、織姫と彦星で・・・
 

にほんブログ村 歴史ブログへ ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします。

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2008年6月25日 (水)

でるか?徳川埋蔵金伝説

 

最近、テレビでやらなくなりましたねぇ・・・徳川埋蔵金

一時は、某コピーライターさん指揮のもと、自称・超能力者まで総動員し、大型重機を使って、あちらこちら掘り返していましたが・・・。

かく言う私も、こういう類のお話は、決して嫌いではありません。

そもそも、このお話のでどころは、明治維新の時に徳川から明治政府に渡された財産が、あまりにも少なかった事にたんを発します。

最後は、完全崩壊しちゃったとは言え、250年間も君臨し続けた徳川幕府ですから、それなりの額の財産はあったはず、「なのに、こんだけかい!」というところから、「どこかに、隠したんじゃないの?」ってな話になって、埋蔵金伝説なる物が誕生するわけですが・・・。

最も有名なところでは、幕末の頃に幕府の勘定奉行をやっていた小栗忠正(おぐりただまさ)さんのウワサ・・・。

彼は、大政奉還後も徹底抗戦を訴えて、その強固な姿勢を崩しませんでしたが、その強固すぎる主張のため免職となり、幕府が崩壊する前に、故郷の上野(こうずけ・群馬県)に戻ってしまっています。

その時に、万が一の時のために隠してあった軍資金・360万両を持ち逃げしたという噂があったものの、維新後に新政府によって、彼が処刑されたため、そのお金のありかも不明になったという物です。

しかし、当時、本当に持ち出すようなお金が幕府に残っていたんでしょうか?

文久三年(1863年)と元治元年(1864年)に起こった下関戦争の賠償金やら、2度の長州征伐やらに多額に費用がかかり、この頃の幕府は大変な財政難に追い込まれていたとも言われています。

現に、ウワサの勘定奉行・小栗さん・・・蝦夷地(北海道)開発の権利と引き換えに、フランスから600万ドルの借金をしよと、慶応二年(1866年)の8月20日と9月25日の二度に渡って、フランス経済使節のクーレと交渉を行っているのです。

600万ドルと言えば、当時のお金で約450万両・・・これだけあれば、幕府の運営もしばらくはもちます。

・・・って事は、このお金を持って逃げた?
いえいえ、実は、この借金交渉は決裂してしまい、実際に借り受ける事はなかったのです。

それは、この交渉が開始されて、ほぼ約束が固まりはじめた翌年の慶応三年・・・その年に行われたパリ万博に、幕府と並んで薩摩藩が出展していたため、ヨーロッパの人たちが幕府と薩摩藩は同列の国だと思い込んでしまった事、また、同じ年の10月には大政奉還(10月14日参照>>)が行われていますが、以前も書かせていただいたように、この時点では、幕府はまだ、その態勢を維持したまま、この先も、別の形で存続するつもりでいたのですが、やはりヨーロッパからだと、大政奉還=幕府の崩壊に思えた事で、「もはや、終る政府に金は貸せない」となってしまったのです。

・・・て、事は、やっぱりお金はない・・・。

いやいや、まだ、他にも埋蔵金伝説はあります

それは、甲州街道・・・江戸時代に「五街道」と呼ばれた重要幹線の中で、東海道中山道は将軍のいる江戸と天皇のいる京都を結ぶため、確かに重要。

また、奥州街道も東北と江戸を結ぶ重要な幹線。
日光街道は、われらが権現・家康さまの日光東照宮への道ですから、これまた重要。

・・・で、甲州街道は・・・
以前、服部半蔵(11月4日参照>>)のところで書かせていただいたように、この甲州街道は、家康がまさかの時のための逃亡ルートとして用意した街道・・・家康は、「ここを通って、いざという時は上州を本拠地に、再起を計れ」と言ったとも・・・

それで、このルート沿い、あるいは上州に、家康の頃からの軍資金が、脈々と受け継がれているのでは?と囁かれているのです。

また、このように、国内に隠したと見せかけて、実は海外に・・・という海外埋蔵金伝説もあります。

それは、先に登場したパリ万博・・・このパリ万博を、15代将軍・徳川慶喜の弟・徳川昭武(あきたけ)が見物し、その後もしばらく留学していた事はすでに書かせていただきました(3月7日参照>>)が、この時に、彼は、なぜか上海にも立ち寄っているのです。

この時期に、将軍の弟を海外留学させる・・・そこに、お金を持たせないわけはありませんし、ひょっとしたら、まさかの時に、起死回生の一発を放つための軍資金を持たせた可能性もなきにしもあらずといったところでしょうか。

また、慶応四年(1868年)には、早丸という幕府の船が、財宝を積み、秘密裏に嵐の中を出航した・・・なんて伝説もあります。

しかも、この船は、その後、行方不明になったのだとか・・・って事は、もし、嵐の中沈没していたら、今も、お宝とともに、船は海に眠ってる?なんて事もあるかもです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上、噂が噂を呼ぶ徳川埋蔵金伝説ですが、今のところは、あくまで伝説です。

ただし、もし、実際に埋蔵金を見つけたとしても、速やかに文化庁に届けねばならず、届けた後は、その文化庁の管理下になるため、発見者には、何割かのお礼金が支払われ、後は手出し無用・・・って事で、大金を投資しての発掘は、「夢を買う」という心意気でない限り、ワリには合わない気がします。

でも、イロイロ想像すると楽しいですね~。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ ←「おもしろかった」と思っていただけましたら応援クリックを・・・あなたの応援クリックで、今日も、めいっぱいハリキリます!よろしくお願いします。

 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)

2008年1月 4日 (金)

名古屋城の伝説~金の鯱に触れた者は・・・

昭和十二年(1937年)1月4日、名古屋城の金の鯱のうろこ・58枚が盗まれるという事件が起こりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「尾張名古屋は城で持つ」と言われるくらい、今現在も名古屋のシンボルである名古屋城

その名古屋城の天守に輝くのが金の鯱(しゃちほこ)です。

残念ながら、太平洋戦争で全焼してしまったために、現在の名古屋城は、昭和三十四年(1959年)の再建によるものですが、当時のお金で4千8百万という巨費を投じて、見事!復活した金の鯱は、やっぱり名古屋のシンボルである名古屋城のシンボルですよね。

そんな金の鯱が、昭和十二年(1937年)1月4日、ミシン工をしていた佐々木賢一という男に盗まれたのです。

彼は、昼間のうちに天守閣に登っておいて、物陰にひそみ、夜になってから、おもむろに屋根に登り、金の鯱のうろこ・58枚分をはがして盗んだと言います。

しかし、犯人の名前も、その手口もわかっている・・・お察しの通り、彼はすぐに捕まってしまったんですねぇ~。

実は、この名古屋城・・・「金の鯱に触れた者は必ず捕まる」という言い伝えがあるのだとか・・・。

それは、一世一代の思いを込めて、この城を築城したあの加藤清正の思いが、この金の鯱に込められているからなのだそうです。

名古屋城は、その昔、織田信長が一時、本拠地としていた那古野城・・・そのお城が、信長が清洲城に移った後に廃城となっていたのを、関ヶ原の合戦後に事実上天下を取った徳川家康が、自らの江戸城を大坂方から守るための防御の城として構築を命じた物です。

その命に応じたのが、かの加藤清正。

清正は、石田三成への反発から、関ヶ原では東軍についたものの、豊臣家への思いは多分にあった人物です。
なんせ、あの「賤ヶ岳の七本槍」の一人ですから・・・。

秀吉亡き後の豊臣家を支え、関ヶ原合戦の後も、何とか豊臣家の存続を願って、家康と秀頼の間に入り、二条城での会見にこぎつけたお話は、以前、このブログでも書かせていただきました(6月24日参照>>)

この名古屋城の構築にも、その思いが込められていた事は確かでしょう。

それは、「家康へのごきげん取り」という意味だけではなく、大坂方が反抗心を持っていない安全な存在である事を、家康に印象づけたかったに違いありません。

家康のドギモを抜くような立派な城・・・堂々たる名城を造りあげて、その事を証明して見せたのです。

そして、家康の天下のもと、豊臣家が大名として末永く生き残っていく姿を、彼は夢見ていたのでしょう。

しかし、清正は、この城の完成を見る事なく亡くなります。
金の鯱は、彼の遺志を汲んで、大判1900枚余りが投じられ、その死後に天守閣に取り付けられました。

しかも、その後、彼の思いとはうらはらに、ご存知のように、豊臣家は滅亡してしまいます(5月8日参照>>)

やがて、江戸時代になって、名古屋の人々の間では、奇妙な噂が囁かれる事になるのです。

「豊臣の滅亡をあの世で知った清正は、家康に自分の思いが通じなかった事に怒り、その魂は冥土から舞い戻って、あの金の鯱に住みついたのだと・・・。

その時から、あの金の鯱に触れた者は、必ず、凶運に見舞われると言われるようになったのだそうです。

それ以来、誰も触れる事がなかった金の鯱・・・この昭和の犯人のスピード逮捕のウラには、清正さんの思いが影響していたのかも知れませんね。

もちろん、現在の金の鯱も、未だ、よこしまな人の手には、一度も触れられていません。
きっと、今も、清正さんは・・・。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ ←記事が「よかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします~クリックで「歴史ブログ」でのランキングが上がります

Syatihokocc 今日のイラストは、
やっぱり、『金の鯱』ですよね~。

ちなみに鯱とは、魚の身体に虎の顔、背中に鋭いトゲのような背びれを持つ想像上の生き物・・・あの水族館でジャンプするシャチとは、別物だそうです。

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 1日 (土)

昔話・桃太郎と製鉄の関係~鉄の記念日にちなんで・・・

安政四年(1857年)12月1日、岩手県の釜石高炉(後の新日鉄釜石製鉄所)創業を開始し、日本の近代製鉄の幕開けとなった事をを記念して、今日12月1日は『鉄の記念日』なのだそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・で、鉄の記念日という事で、今日は、昔話『桃太郎』のお話を・・・
「風が吹くと桶屋が儲かる」的な発想ですが、実は私、個人的には、この桃太郎のお話は、製鉄と深い関係があると思っております。

いくら最近の子供たちが昔話に興味を持たなくなったと言っても、さすがに桃太郎の昔話は、「知らない人はいなだろう」と思うくらい、昔話の中でもダントツに有名なお話です。

そして、皆さんも、うすうすは感じておられるでしょうが、このお話の・・・
「子供のいないおじいさんとおばあさんがいて、おばあさんが川で洗濯中に大きな桃が流れてきて、その桃を拾って帰って食べようとすると、中から男の子が登場・・・」
・・・という前半の部分と、

「犬・猿・雉(きじ)の3匹の家来を連れて、鬼ヶ島に鬼を退治に行く・・・」
という後半の部分は、あきらかに別の昔話だと思われます。

そんな中で、ところどころ違う話が混じりながらも、全国各地に桃太郎の昔話が伝わっていて、それぞれ「これが、桃太郎のモデル」と言われるような人物の伝説が残っているわけですが、その中でも最も有力なのが岡山県です。

ご存知のように、岡山駅前には桃太郎の銅像が立ち、そのルーツを主張し続けておられます。

その一番の根拠は、岡山市にある吉備津神社・・・吉備津神社は、第10代・崇神天皇の時代に、天皇から派遣され吉備平定を成し遂げた吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祀る神社で、その吉備津彦命の伝説をもとにしたのが、桃太郎のお話だというわけです。

その吉備津彦の伝説とは・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昔、崇神天皇の頃(250年~300年頃)、異国の鬼神が空を飛んで吉備の国(岡山県のあたり)にやってきます。

その鬼神は、百済の王の子供で、名前は温羅(うら)・・・背丈は一丈四尺(約4m)ほどあり、気性が荒く、力も強い。
しかも、口から火を吹き、水を油に変えるなどの神通力も持っていました。

そんな温羅は、吉備の国の新山鬼ヶ城という砦を造り、都へ向かう船をを襲っては略奪し、道行く人や猿を襲っては食べたりという悪行を繰り返していました。

見かねた天皇は、息子の五十狭斧彦命(伊佐勢理比古命・いさせりひこのみこと)を、温羅討伐に派遣します。

しかし、その戦いは激しく、五十狭斧彦命の放った矢は、ことごとく温羅の矢と空中でぶつかり、その度に地上に落ちてしまいます。

そこで五十狭斧彦命は、弓に2本の矢をつがえ、同時に放ちました。
すると、一本は温羅に落とされますが、もう一本は、狙い通り、温羅の左目に命中します。

手傷を負った温羅は、雉に変身して逃亡・・・追う五十狭斧彦命は鷹に変身します。

次に、温羅が鯉に変身して水中へと逃れると、今度は鵜に変身して追う五十狭斧彦命・・・。

ついに、追いついた五十狭斧彦命は見事!温羅の首を取ります

しかし、胴と離れたにも関わらず、その首は、大きなうなり声をあげて吠え続けます
犬に食われ、ドクロとなってもなお、うなり声をやめないのです。

勝利して名前を吉備津彦命と改め、そのドクロを吉備津宮釜殿の下に埋めた五十狭斧彦命は、ある夜、温羅の夢を見ます。

夢の中で温羅は、「俺の嫁さんを釜殿で奉仕させたなら、この国に災いが起こる時に、その釜を荒々しく鳴らして教えよう」と言ったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上が吉備津彦の伝説で、今も吉備津神社では、毎年10月19日に、お釜の音で吉凶を占う『釜鳴り神事』というお祭りが行われています。

確かに、桃太郎の後半の鬼退治の部分のお話に似ています・・・いや、こっちがルーツでしょうけど・・・。
ただ、犬は首を喰ってるので良いとして、雉は敵だし、猿は被害者・・・

まぁ、細かい事を言ってもしょうがないですし、これには、吉備津彦に同行した三人の武者が、犬飼武命(いぬかいたけるのみこと・犬飼部)中山彦命(なかやまひこのみこと・猿飼部)楽々森彦命(ささもりひこのみこと・鳥飼部)であった事がら、動物に例えられたという話もあるようですし・・・。

そして、桃太郎に登場するきび団子・・・このきび団子の「きび」が「吉備」ではないか?というのも、この吉備津彦が桃太郎のモデルの最有力候補にあげられる理由でもあります。

しかし、この桃太郎のお話は、戦争中にはプロパガンダとして使用されたという悲しい歴史も持っています。

「神国・ニッポンの子である桃太郎が鬼畜米英を退治する」物語として、国民(特に子供)の戦意を高上させる道具となったのです。

桃太郎のお話が、そのような使い方をされる事を予測していた人もいました。
あの芥川龍之介は、「怠け者で乱暴な桃太郎が、鬼ヶ島で平和に暮らす鬼たちを侵略し、物を略奪する」という桃太郎のパロディを書いているそうです。

そのように、正義のヒーローは、紙一重で侵略者になる可能性も秘めているわけです。

この桃太郎のモデルではないか?とされる吉備津彦も、実は大和政権から派遣された侵略者であるかも知れない・・・いや、おそらく、吉備津彦の伝説は、たとえ崇神天皇の時代ではなかったとしても、古代にあった戦争をモチーフにした伝説である事は確かでしょう。

吉備の国・・・という名称でもわかる通り、この地方がもともと別の政権であった事は明らかです。
それも、出雲と並ぶくらいの大国であった事でしょう。

では、古代の政権は、何が目的で吉備の国を攻めたのでしょう?
それが鉄・・・製鉄技術です(やっと出てきた~)

岡山県総社市には、古代に大国であった事をうかがわせる数多くの遺跡が確認されていますが、なかでも、平成元年(1989年)、工業団地の造成中に見つかった「久代・板井砂奥製鉄遺跡」・・・現在は工業団地の一角に遺跡公園が整備され、一部の遺跡が復元されているそうです。

ここには、6世紀の後半から約100年に渡って、計60基の製鉄炉と16基の炭窯があったそうです。
もちろん、製鉄でできた鉄を加工するいわゆる『鍛冶屋』鍛冶炉も、総社市ではたくさん見つかっています。

原料となる鉄鉱石と製鉄技術は、武器や防具はもちろんの事、さまざまな道具に使用され、膨大な富を産み出したに違いないのです。
古代・大和にあった王権は、軍事転用もできる技術の支配と、その利益に目をつけたのです。

大陸からやって来た温羅・・・口から火を吹き、水を油に変える・・・まさに製鉄の様子を思い描いてしまいます。

現代、世界のあちこちで争いを巻き起こしている石油利権・・・それと同じ事が、古代の日本でも行われていたのです。

製鉄・・・金鉱・・・油田・・・時代と物は変れど、人の心=欲はいっこうに変わらない・・・あいも変わらず利権を巡って国と国とがぶつかり合う。

少し考えさせられますね。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ ←記事が「よかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします
 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月23日 (金)

今夜は丹波の里に雪が降る~弘法大師の伝説

 

今日、11月23日にまつわる、京都・丹波地方に伝わる昔話です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昔、昔のある冬の夜。
山奥の谷にひとりのお坊さんがやってきました。

どうやら、各地を巡礼中のお坊さんのようですが、身にまとっている法衣はボロボロ、顔は痩せこけ、その姿は枯れ木が立っているようでした。

お坊さんは、一軒のお百姓の家の戸口に立つと・・・
「すまぬが、今夜、一晩、泊めてはもらえないだろうか?」と尋ねます。

チョコっと戸口を開けて、外の様子をうかがったその家の婆さまは、
「なんや!きたない坊さんやな。そんな坊さんに用はあれへん!さっさと、どっか行け!」
と、つれない返事をして、ピシャッと戸を閉めてしまいました。

お坊さんは、しかたなく、トボトボと山道を歩き、少し離れたもう一軒のお百姓の家の戸口に立つと、もう一度・・・
「すまぬが、今夜、一晩、泊めてはもらえないだろうか?」と尋ねました。

さっきの家よりは、はるかに貧しそうなたたずまいの家・・・出てきた婆さまも、足が「すりこぎ」のように細い・・・

しかし、その婆さまは、
「お~お、この冬空・・・寒かったやろうに、はよ、あがってぬくもりなはれ。
うちは、ご覧のとおり、貧乏やさかいに、なんも、おもてなしはできひんけれども、どうぞ、どうぞ。」

と、快く中に入れてくれました。

でも、婆さまは困りました。
痩せこけたお坊さんが気の毒で、何か食べさせてあげたいけれど、婆さまの家はこの村一番の貧乏。

米びつの中を覗き込みますが、そんなもの、とっくの昔に空っぽになったままです。
この冬の最中では、野菜の一つもありません。

困った婆さまは、悩みに悩んだあげく、悪い事とは知りながら、そっと抜け出して、隣の畔から、一人分の稲を拝借して、あわてて家に戻ります。

手早く、もみを草履でこすって、お米を炊いて、そのお坊さんに食べさせました。
ここ何日も食べていなかったお坊さんは、「うまい、うまい」と喜び、冷え切っていた体は、しんから温まりました。

しかし、実は、稲を盗んだ婆さまの足跡が、隣からこの家まで、しっかりとついていたのです。
真っ暗な夜だったので、婆さまは、その事に気づいていません。
明日、朝になったら、稲を盗んだ事がバレて、こっぴどく叱られるに違いありませんでした。

次の日の早朝、お坊さんが旅立つ時、婆さまが見送りがてら、戸口を開けると、まぶしいくらいの光が差し込んできて、思わず目がくらみました。

外は、真っ白な雪景色だったのです。
一夜の間に、とてつもない雪が降り、あたりの様子はすっかり変わっていました。

お坊さんは、婆さまに礼を言うと、山向うへと旅立って行きました。
その後姿を、見送る婆さま・・・真新しい雪の上には、お坊さんの足跡だけがくっきりと残ります。

そう、婆さまの昨日の足跡は、すっかり雪の下に埋もれ、もう、誰にも見られる事はありません。

そのきたないお坊さんは、修行中の空海・弘法大師だったのです。

それで、この丹波の地方では、霜月(11月)の23日になると、必ず雪が降ると言います。
「ほら、今年もお大師さんが、来やはった・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この昔話は『あと隠しの雪』という題名で、「まんが日本昔話」でもやっていたので、丹波だけではなく、他の地方にも伝わっている全国ネットの民話なのかも知れませんが・・・。

それにしても、以前も別のページで書かせていただきましたが、この空海平家の落武者「いったい何人いるんだ?」と突っ込みたくなるくらい、どこへ行っても、何かしらの伝説が伝わっていますよね。

平家の落武者は、ある程度の多人数ですから、ひょっとしたらアリかも知れませんが、空海は一人ですからね~。

これは、やはり彼の人生の前半と後半のギャップによる物ではないかと思います。

弘法大師・空海は讃岐(香川県)で生まれ、18歳の時に上京して儒教・道教・仏教を学びますが、勉学に飽き足らず山野を遍歴しながら修行に励みます。

つまり、この頃は、この昔話のお坊さんのような巡礼の旅をしていたわけで、本人にとっては、それは有意義な修行ですが、無関係の人から見れば放浪生活ですから、一目見ただけでは徳をつんだエライお坊さんなのか、ただの流浪中の生臭坊主なのかは区別がつかなかったでしょう。

延暦二十三年(804年)に30歳になった空海は、思うところがあって、遣唐使船に乗って(中国)へ向かいます。

空海と、よく比較されて登場するのが伝教大師・最澄
実は、最澄も、この同じ遣唐使船に乗って唐に渡っているのです。

空海より7歳年上の最澄は、かなりのエリートで、すでに、この時、高僧の名を欲しいままにしていた超有名人です。
中国に行ったこの時も、彼の費用は全部国が負担する言わば特待生

それに比べて、空海はまったくの無名・・・費用もすべて実費。
つまり、空海は遣唐使ではなく、遣唐使船にお金を払って乗せてもらっていた私費留学生です。

ところが、二年経って、日本に帰って来た時には、最澄と肩を並べるくらいの出世をし、弘仁三年(812年)には、空海が最澄に「灌頂(かんじょう)を与えています。

灌頂とは、密教の伝法・授戒の儀式・・・言わば、最澄が空海の弟子になったという事です。
もちろん、これは、最澄が空海の下という意味ではありません。
ご存知のように、最澄と空海は別の宗派の人ですから・・・。

わかりやすく言うと、「日本語の権威が、語学の見聞を広めるために英語の達人に教えを乞う」という感じでしょうか。
しかし、そこまで肩を並べる高僧になったわけです。

このギャップが人々の、心をくすぐるのでしょう。

山奥の寂しい村に、ふらっとやって来たみすぼらしい坊さんが、実は高僧・空海であった・・・という、日本人が大好きな「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「裸の大将」「ごくせん」に流れるパターンです。

もちろん、空海が全国行脚(全国かどうかも微妙)をしている時代は、まだ無名ですから、いちいち名乗る事もないでしょうし、葵の紋の入った刀や印籠を持ってるわけでもありませんから・・・。

「あの時のお坊さんがひょっとして・・・」という庶民の期待と夢が、数々の伝説となって、弘法大師の偉業として残っているのだと思います。

その伝説が、人々の心の中に、良い思い出として残り、苦しい時の生きる希望となるのであれば、それこそが弘法大師の偉業と言えるものなのでしょう。

さて、今夜は丹波に雪が降るのでしょうか・・・いや、きっと降っている事でしょう。
「ほら、見てみ、今年もお大師さんが、来やはった・・・」
 

にほんブログ村 歴史ブログへ ←記事が「よかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします

Atokakusinoyukicc 今日のイラストは、
昔話『あと隠しの雪』の一場面で・・・

真っ白に雪が積もった日の朝は、とても明るく、とても静か・・・世界が変わって見えますね。

 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)

2007年10月28日 (日)

丑の刻参り~避けてはいけない歴史の一つ

いつの世も、複雑怪奇な人間関係・・・悩みに悩みぬいた人には、他に解決方法が見つからないのかも知れませんが、この科学の発達した21世紀でも、縁切り寺縁切り稲荷といった所に願をかける人が後を絶たないのだとか・・・。

Usinokokukikunocc 京都は、河原町通りの法雲寺というお寺の片隅にある菊野大明神・・・。
あの小野小町のところに百日間通い、百日目にこがれ死にしたという深草少将が、小町を思いながら、毎夜座った石がご神体なのだそうです。

ほこらの裏側にある小さな穴に、縁を切りたい人の名前を書いた紙を押し込むのだそうで、その願いの暗さのせいか、中もとっても暗かった・・・
(注:私は縁を切りに行ったわけではありません。)

よく似た感じのお参りに、有名な『丑の刻参り』というのがあります。

この丑の刻参りは、「人を呪い殺すために願をかける」という、縁切りよりはるかに暗い祈願ですが、これがけっこう歴史があるのです。

古くは平家物語に書かれています。
以前、『橋の日(8月4日参照>>)という記念日の日にチョコッとご紹介した『宇治の橋姫』のお話です。

Usinokokuhasihimecc 嵯峨天皇の頃(809年~823年)に、夫の浮気に嫉妬した女が、貴船大明神に参詣して7日間籠り「憎い女をとり殺したいので、生きながら鬼にしてください」と願います。

すると、貴船の神は、「鬼になりたければ姿を変えて21日間、宇治川に浸かればよい」と答えたのです。

女は、髪を松やにで固めて五つの角を作り、顔や体を赤く塗って、頭には鉄輪をかぶり、松明を口にくわえて、深夜の都大路を疾走し、宇治川にその身を浸します。

やがて、21日たって、念願の鬼となった彼女は、自分を「あさましい・・・」と、さげすむ者すべてをとり殺したと言います。

室町時代から江戸前期頃に書かれた御伽草子では、かの女性は、やはり7日間『貴船明神への丑の刻参り』をした後、21日間宇治川に浸り、生きながら鬼となった後、憎い夫を殺そうと都に戻ってきた時、平安のスーパースター・安倍晴明によって追い払われ、念願は叶わなかった事になっています。

少しずつ変化した「丑の刻参り」が、時代劇で登場するような手順に定着するのは、江戸時代の頃・・・その方法は・・・

Usinokokumairiningyoucc まず、手製のわら人形を用意。

当日の服装は白衣白帯
髪の毛はシャンプーして油分を落としておきます。
ただし、香油は呪いの効力を上げるのでOK.

頭には五徳(鉄輪)をかぶり、そこにろうそくを立て、首からはを下げます。
黄楊(つげ)でできたクシの歯のほうを口でくわえ、高ゲタをはいて現地まで行きます。

Usinokokumairisyouzokucc

ここで、裸足になって境内に入りますが・・・
実は、もう一つアイテムが必要です。

帯のところに、木綿(一反)の端をくくりつけます。
そして、この木綿が境内の地べたにつかないスピードで目的の木まで行かなくてはなりません。

木綿が一反・・・約11mです。
まさに疾走です。
約11mの布をヒラヒラさせながら、仮に到着したとして、かのわら人形を取り出し、人形を五寸釘を使って、木にカナヅチで打ちつけるのです。

この時、決まった呪いの言葉はありませんが、「アホ!ボケ!」できる限り汚い言葉を大声で吐き続けなければなりません。

しかも、以上の事を、誰にも見られる事なく、7日間続けなくてはならないのです。

・・・てか、木綿で疾走の時点でムリでしょ・・・
そんな事できるなら、とっくに世界を目指してます。

だいたい、高ゲタはいて、山道登ってるだけでテンションだだ下がりです。

しかも、今まで、丑の刻参りの呪いで死に至ったという、ちゃんとした話は一つもありません。
勘違いしてしまいそうですが、よく考えると平家物語も御伽草子も、丑の刻参りで呪い殺したのではなく、自分で殺しに行ってます・・・どっちも失敗してますし・・・。

・・・にも関わらず、先の平家物語や御伽草子の記述のせいか、いまだに、貴船神社の境内では、五寸釘やわら人形が見つかるのだとか・・・。

Usinokokukibunecc 確かに貴船神社の奥の院は、昼なお暗く、丑の刻参りの発祥の地にふさわしい、空気の張り詰めたような雰囲気が立ち込めてはいますが、それは、神々しい厳かな空気に他なりません。
 

貴船神社によれば、この丑の刻参りは、神聖な霊場を汚す行為で、決して、神様が願いを叶える事はないのだそうで、五寸釘やわら人形は、定期的に点検して、見つけ次第、撤去しているとの事。

こうなったら、迷惑行為以外の何物でもありません。
当時の人々の心の内が垣間見える歴史の一つとしては、丑の刻参りはとても興味深いですが・・・。

どうせ神様に願いをかけるのなら、相手の不幸より、自分の幸せに願いをかけてみようじゃありませんか。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ ←記事を読んで「なるほど」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします

このページでご紹介した菊野大明神・橋姫神社・貴船神社への行き方はHPの【平安京魔界マップ】で紹介しています~コチラからどうぞ>>

| コメント (4) | トラックバック (0)

2007年10月23日 (火)

新田義興の怨念?神霊矢口の渡し

延文三年(正平十三年・1358年)10月23日、新田義貞の次男・新田義興をだまし討ちした江戸遠江守高良が、落雷の直撃を受けました
彼は、一週間後に狂死したという事です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新田義興は、あの後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した時に、足利尊氏楠木正成らとともに、多大な功績のあった新田義貞の息子です(5月22日参照>>)

建武の新政の後、尊氏は天皇に反旗をひるがえしますが、正成・義貞は後醍醐天皇に忠誠をつくし尊氏らと戦い、ともに討死しました(7月2日参照>>)

京都を制圧した尊氏は室町幕府を開き、京都を追われた後醍醐天皇も吉野に朝廷を構えます・・・世に言う『南北朝の動乱』です。

父の遺志を継いで、後醍醐天皇=南朝に従う息子・義興・・・父の死後は越後(新潟県)に潜伏して反撃の機会を狙っていたものと思われます。

その後、何度かくりかえされた京都争奪戦では、やや劣勢な南朝側でしたが、やがて、そんな南朝側に絶好のチャンスが訪れます。

観応元年(正平五年・1350年)、兄の片腕となって、ともに室町幕府を支え、「副将軍」と呼ばれていた尊氏の弟・直義と兄・尊氏との関係が崩れたのです(10月26日参照>>)

『観応の擾乱(じょうらん)と呼ばれるこの動乱は、二年足らずで直義の死をもって終止符が打たれますが、この期に乗じて義興は、弟・義宗らとともに関東奪回を目指して挙兵します。

文和元年(正平七年・1352年)、鎌倉公方として室町幕府から派遣されていた尊氏の息子・足利基氏を追放し、鎌倉を制圧した義興は、関東における南朝方の中心人物となります。

しかし、もちろん追い出された基氏が、このまま黙っているわけはありません。

ただし、挙兵ではありません。
これが合戦という、ある意味正統な手段であったのなら、結果は変わっていたのかも知れませんが、基氏は関東管領の畠山国清と組んで、義興のもとへ、竹沢左京亮江戸遠江守高良という二人の刺客を送り込むのです。

竹沢左京亮は、もと義興の家臣・・・主君の性格のツボは心得たもので、「北朝に組みしたのはできごころだった」とか、「すっかり改心して前回以上に忠誠を尽くす」などとうまい事言って、まんまと義興の傘下にふたたび収まるのです。
もちろん、一緒に投降した江戸遠江守高良も・・・。

しかし、彼らの目的は義興の殺害・・・そんなそぶりは、おくびにも出さず、せっせとべんちゃらやりまくりの竹沢左京亮らは、徐々に家臣の中でも重く用いられるようになります。

義興が二人の事をすっかり信じ込んだころあいを見計らって、二人は行動に出ます。

延文三年(正平十三年・1358年)10月10日、「名月の宴を催す」と称して、義興を多摩川矢口の渡しに誘い出します。

竹沢左京亮の先導で矢口の渡しを渡る義興ら御一行・・・しかし、渡し舟の船底の板がすでに外されていて、やがて、舟は川のド真ん中で沈み始めます。

「おのれ、計ったな!」
と、義興が気づいた瞬間、伏兵として潜んでいた江戸遠江守高良らが矢を射かけます。

哀れ義興は、同じ舟に乗っていた近臣13名とともに自刃し、多摩川の露と消えたのです。
若干27歳でした。

しかし、その事件があったわずが12日後の、10月23日に、たまたま矢口の渡しの少し上流の浅瀬を渡ろうとした江戸遠江守高良が、多摩川べりで落雷に遭ってしまうのです。

その場ではたいした事はなく、命は助かったものの「すわ!義興公の怨霊か!」というのは誰しもが思う事・・・特に、だまし討ちという後ろめたさ満載の行為に及んだ本人としては、もはや耐えられなかった事でしょう。

江戸遠江守高良は、雷に打たれた7日後、狂死してしまいます。

その後も、矢口の渡し付近では、「怪光を見た」という者が後を絶たず、『義興公の怨霊』が評判となったため、義興を埋葬した場所に、新田神社なる社を建立したという事です。

これが、現在、東京都大田区にある新田神社であると言われていますが、中世の矢口の渡しがどのあたりにあったかは確定されておらず、この事件のあった矢口の渡しは、東京都稲城市矢野口であったという説もあります。

ところで、今日のお話には、少し付録がつきます。

この義興のだまし討ちと怨霊騒ぎは、『太平記』に書かれているお話ですが、これを江戸時代、一躍有名にしたのは、あのエレキテルで有名な平賀源内(11月21日参照>>)です。

この事件を素材として彼が書いた浄瑠璃『神霊矢口渡』が大ヒットし、後に歌舞伎にもなっています。

源内さん作の『神霊矢口渡』は、この事件の後日談といった感じの物語になっているのですが・・・

事件の後、追われる身の義興の弟・夫婦が矢口の渡しの船頭宅に一夜の宿を借り、そこの娘と恋に落ちたりなんぞしながら(嫁は?)、実は義興をだまし討ちしたのが、娘の父の船頭であった事がわかり、当然、その後、父は弟を殺そうとするのです。

弟に恋した娘が止める中、追いかけて川に舟を出す船頭・・・逃げる弟!
そこへ、天から新田家先祖伝来の神聖なる矢が降って来て、悪人船頭を貫く・・・といった具合なのですが、ここに源内さん特有の商売根性が発揮されています。

徳川家康が新田氏の出身と言い張っていた事もあって、江戸時代の新田神社はかなり賑わっていたようなのですが、当時、お守りの一種として、新田神社周辺の竹で造った霊験あらたかな『新田氏伝来の矢』という物を売っていたのです。

実は、このお土産用の矢の発案者が平賀源内さん、その人だったんですよね~。

これは・・・今で言うところの、大ヒット映画や大ヒットドラマとのコラボ商品では?・・・つまり、スターウォーズのアレとか、ガンダムのアレとか・・・

この源内さんが発案したお守り用の矢が、現在、神社でいただく『破魔矢(はまや)の元祖と言われています・・・まさに、見事なプロモーションです。

にほんブログ村 歴史ブログへ ←記事が「よかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします

Nittanoyacc 今日のイラストは、
霊験あらたかな『新田氏伝来の矢』を・・・
3Dソフトを使ってこんなの描いてみました~雷がけっこう難しかったです~

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月22日 (月)

究極の魔界封じの都・平安京誕生

「泣くよウグイス平安京」
延暦十三年(794年)10月22日、第50代・桓武天皇平安京に遷都しました

もともと母親の身分の違いから、異母弟の他戸(おさべ)親王に決まっていた次期天皇の座を、謀反の濡れ衣を着せ、死に追いやって勝ち取った桓武天皇

その次には、自分の次に天皇になる事になっていた弟の早良(さわら)親王を、息子に後を継がせたいばかりに、これまた死に追いやってしまいました。

やがて起こる異変の嵐!
地震・飢饉・水害・・・さらに、疫病で四人の妻と母親を次々と亡くし、他戸親王と早良親王の祟りとばかりに恐れおののく桓武天皇が、怨霊から逃げるように、建設途中の長岡京を捨て、この日、平安京に都を遷した事はこのブログでチョコチョコ書かせていただいております。

各関連ページへのリンクです↓
・10月22日:未完の都・平安京>>
・11月8日:平安京、命名の日>>
・9月23日:お彼岸の起源・由来>>

そのおかげで、徹底的に怨霊を排除する究極の魔界封じ都市となった平安京・・・今日は、具体的にどのように魔界封じがなされているのか?ご紹介させていただきたいと思います。

まずは、京都という場所が持って生まれた『四神相応の地』であったという事・・・。

Kitorasuzakutogenbucc 『四神相応の地』四神とは、その字の通り四体の神様。
これは、古代中国に起源のある物で、東西南北の四方向をそれぞれの神=聖獣が守ってくれるというものです。

東は青竜(せいりゅう・色は青)
西は白虎(びゃっこ・色は白)
南は朱雀(すざく・色は赤)
北は玄武(げんぶ・色は黒)

この思想は、飛鳥時代にはすでに日本に伝わっていて、あの高松塚古墳キトラ古墳の石室の壁に、それぞれの壁画が書かれていた事は有名です。

飛鳥時代では、宮殿の四方にそれぞれの聖獣を書いた旗を立てたり、聖獣を示す色をほどこして都の平安を祈っていましたが、平安京までは、まだ、都の立地そのものを四神にゆだねる事はありませんでした。

そして、青竜は河川に、白虎は大路に、朱雀は湖沼に、玄武は山に住むというところから、それらに四方を囲まれた土地は『四神相応の地』とされ、永遠に栄えると言われていたのです。

これは、現在の風水や家相につながる言い伝えですが、風水がそうであるように、単なる占いではなく、統計と経験に基づく理にかなった物である事が、今となっては理解できますね。

北に山があって南に沼があれば、当然、そこに開けた土地というのは、ゆるやかな南斜面という事になりますから、日当たり良好のバツグンの住みやすさ。

さらに山から湧き出る清らかな水をたたえた川は南に向かって走り、飲み水や生活用水となるばかりか、水運も発達させます。

加えて、残った一方向に、別の都市へとつながる道があるなら、交通の便もよろしく経済も発展するに違いないのです。

怨霊を徹底的に封じるためには、立地そのものを四神に守ってもらおうと考えた桓武天皇・・・そうして選ばれた土地が現在の京都だったのです。

北に洛北の峰々を抱えているのは、皆さんもご存知の通り。
東には鴨川が流れ、西には大陸への玄関口・九州へと続く山陽道がすでにありました。
さらに、現在は干拓されたため無くなっていますが、当時は南に巨椋池という大きな湖があったのです。

Heiankyouewsn ↑画像をクリックすると大きくなります

『四神相応の地』を見つけた桓武天皇・・・しかし、これだけでは不安です。
さらに、怨霊を近づけないために、人工の魔界封じをほどこします。

都の東西南北にある巨石を掘り起こし、その下に『一切経(いっさいきょう)という経文を埋め込みました。

その巨石というのは、『磐座(いわくら)という古代の祭壇です。
神社という物が現在のような社殿を持つ形になる以前、古代の人々が、ご神体となる山の上などに、祭祀やお参りをするために、巨石などで造った神社の原型のような建造物・・・それが磐座です。

当時は、すでに古代人の造った磐座が、平安京となる土地の周囲に、いくつか存在していたのですが、その中の東西南北の4箇所にお経を埋めたという事です。

東の磐座は、左京区の大日山にあったという事ですが、以前ここにあった別名・東岩倉寺と呼ばれた観勝寺というお寺が応仁の乱の際に焼けてしまい、残念ながら現在は磐座の面影は無いという事です。

西の磐座は、西京区大原野にある西岩倉山金蔵寺で、ここには現在巨石は見当たりませんが、本堂の下に一切経が埋められているとか・・・。

南の磐座は、下京区石不動院町にある明王院不動・・・かつては、ここに、うっそうとした松林とともに巨石と石仏があったそうですが、現在は京都の街中で、石仏だけがお不動さんとして信仰を集めています。

北の磐座は、左京区岩倉にある山住神社で、ここは現在も完全な形で巨石が残っています。

さらに桓武天皇は、やはり東西南北に大将軍神社を建てて、なおいっそうの怨霊バリアを張り巡らします。

大将軍とは、記紀神話に登場するスサノヲノミコトの事です。
ご存知のようにスサノヲノミコトは、あのヤマタノオロチを退治した英雄神でもありますが、高天原を揺るがした荒ぶる神でもあります。

「目には目を・・・怨霊には荒神を・・・」というワケです。

東には、東山区・・・現在の京阪三条近く大将軍神社
西には、上京区・・・あの北野天満宮の南西側に位置する大将軍八神社。
南には、伏見区の深草にある藤森神社の摂社となっている大将軍社
北には、北区の上賀茂神社から賀茂川を挟んだ西賀茂にある大将軍神社

さらに、まだまだ・・・桓武天皇は、あの鬼の通り道と言われる『鬼門』の方角・・・北東にもちゃんと魔界封じをします。

賀茂川べりに幸神社(さいのかみのやしろ)を置き、鬼門の方角に古くからあった上賀茂神社下鴨神社を大きく建て直します。

そして、この鬼門のラインは、最強最大の霊場・比叡山延暦寺へと続きます。

おお・・・完璧!
・・・と思いきや、桓武天皇はまだ満足できません。
そう、裏鬼門が残ってます。

裏鬼門にあたる南西は、近鉄・竹田近くの城南宮・・・その先には石清水八幡宮

さらに北の守りを鉄壁にすべく、貴船神社鞍馬寺を造営。

都の入り口・羅城門の両脇には東寺西寺(現在は礎石のみです)
今熊野には宝剣を埋めて(剣神社)愛宕山愛宕神社を大改修・・・どんだけ怖いねん!

・・・と、突っ込みたくなるくらいですが、まぁ、そのおかげで、桓武天皇の願い通り、京都は千年の都として栄える事になったわけですから、桓武天皇の恐怖心さまさま・・・って感じで、めでたしめでたしですね。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ ←記事が「よかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします

上記でご紹介している神社仏閣(一部紹介していない史跡もあります)への行き方はHPでご覧ください>>