2009年9月25日 (金)

未盗掘で発見された藤ノ木古墳~その被葬者は?

 

昭和六十年(1985年)9月25日、奈良県斑鳩町藤ノ木古墳で石室等が発掘された事で、本日9月25日は『藤ノ木古墳記念日』という記念日なのだそうです。

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つい先日書かせていただいた江戸の名大工・中井正清(9月21日参照>>)・・・彼の出身地である西里(にしさと)が、奈良の法隆寺の西大門出てすぐの西隣にある事を書かせていただきましたが、その道をさらに西に進んで、民家と畑の合間にポツンと見えてくるのが藤ノ木古墳です。

Fuzinoki2 右の写真は、私が訪れた3年前のものですが、ご覧になっての通り、この時は、近所の奥様に「これが、藤ノ木古墳ですか?」と聞いてしまったくらい、雑草生え放題で、説明書きも何もない状態でした。

その後、昨年の3月に、車椅子で石室内に入れるバリアフリー設計で整備されたようで、wikiなどにはキレイな写真が載せられていてうれしい限りですが、その時の私の驚きは、あの有名な藤ノ木古墳が・・・何の整備もされていない」事の驚きだったわけです。

・・・で、この藤ノ木古墳が、なぜ、そんなに有名なのか?

それは、この古墳の石棺が未盗掘のまま発見されたからです。

あの有名な高松塚古墳も、美しい壁画が残っていた事で一躍脚光を浴びましたが、やはり、鎌倉時代に盗掘された跡があり、おそらく朱雀が描かれていたであろう南側の壁は壊され、石棺の中も荒らされていました。

未盗掘という事は、埋葬された時の状態のままなわけで、当時の埋葬の儀礼を解明するうえで、とても貴重な史料なわけです。

発掘後すぐに行われた第一次調査では、全長約14mの横穴式石室と、くりぬき式家型石棺が検出され、石棺と奥壁との間に、銅に金メッキをほどこした馬具や武具、土器などが出土しましたが、何と言っても藤ノ木古墳を有名にしたのは、昭和六十三年(1988年)に行われた第二次調査です。

この時、最新技術とも言えるファイバースコープを使って、石棺内を調査・・・翌日の新聞の一面には、「金銅の冠・刀剣・玉 見えた」「輝く大量の副葬品」という見出しが躍り、まさに、高松塚以来のフィーバーを巻き起こしました。

ただ、高松塚の壁画と違って、ファイバースコープの映像は、なんだかモヤモヤで、素人目には、何が映っているのかよくわからず、何であんなにデカデカと報道されたのか?と少し疑問にも思ったりもしましたが、「最新技術のファイバースコープのカラー映像」というのが、テレビ向き、新聞向きのいい材料だったんでしょうね。

もちろん、ファイバースコープの映像はともかくも、貴重な発見には変わりないわけで、その後も続けられた調査で、石棺内では、北側に20歳前後の男性と、南側に20~40歳とみられる男性二人の被葬者が確認され、金銅製の靴やガラス玉で装飾された太刀、被葬者を覆う布などが、埋葬当時の状態のまま見つかっています。

そんな藤ノ木古墳・・・石棺内の調査は、その昭和六十三年に終えましたが、出土した多くの品々の調査が今なお続いており、イロイロ話題をふりまいてくれています。

もちろん、その被埋葬者が誰であるのかは未だ不明なわけですが、やはり、そこが一番興味のあるところ・・・

実は、この藤ノ木古墳の石棺内からは大量のベニバナの花粉が見つかっていたのですが、当初、その花粉は、被葬者を覆う布の染料に使用されたと見られていました。

しかし、その量がハンパなく多い事に疑問を抱いていた金原正明・奈良教育大准教授の研究によって、その花粉がほぼ100%の花粉である事が判明・・・逆に染料として使用すれば、花粉はほとんど残らない事が証明されて、この石棺内のベニバナは、染料に用いられたのではなく、生花が使用された可能性が高くなったのです。

つまり、現在の私たちが葬儀の時に、生の菊の花で飾るように、生のベニバナで埋葬者を埋め尽くしたという事です。

・・・という事は、ベニバナの咲く季節=夏に埋葬された事になります。

そこで、奈良芸術短大の前園実知雄教授は、被葬者は用明二年(587年)6月5日に亡くなった穴穂部皇子(あなほべのおうじ)ではないか?と推測します。

この穴穂部皇子・・・このブログでは第33代・推古(すいこ)天皇との関係で登場していますが(3月7日参照>>)、推古天皇の夫である第30代・敏達(びたつ)天皇が亡くなった時、その後継者を巡って、後の推古天皇である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)蘇我馬子(そがのうまこ)と対立して殺され、果ては、そんな穴穂部皇子のバックについていた物部守屋(もののべのもりや)との「蘇我VS物部の大抗争」へと発展するきっかけとなった人物です。

そうなると、もう一人の被葬者は、穴穂部皇子が殺された翌日に、やはり殺された親戚筋の宅部皇子(やかべのおうじ)の可能性が高い事になりますが、それを裏付けるお話も・・・

この藤ノ木古墳内で発掘されている副葬品の中には製作ミスの物が混ざっていたりして、かなり、やっつけで、急遽副葬品を製作した感があります。

さらに、石棺内の被葬者の骨がくっついていた・・・つまり、当時は、亡くなってから一定の期間喪に服してから埋葬するはずが、がくっつくほど、死の直後に埋葬されているなど、急な死であり、急な埋葬であった事がうかがえ、その点でも、穴穂部皇子の可能性が高いのだとか・・・

ただ、石棺に入れられたベニバナが生花ではなく、保存用のドライフラワーだった可能性も捨てきれず、そうなると、季節は関係なくなります。

また、今年になって、被葬者の1人・・・南側の人物は女性という説も登場しています。

もともと、骨の鑑定から、男性とされた南側の人物ですが、北側の人物が20歳前後の男性とされたのに対し、南側は20~40歳の男性と見られる・・・つまり、その残っている骨の状態があまりよろしくなく、極めて鑑定し難い状態なのです。

そこで、奈良芸術短大の玉城一枝・非常勤講師は、身に着けていた装飾品に注目し、当時の埴輪や記紀に見られる手玉・足玉など、女性が身に着けていた可能性が高い装飾品を身に着けている南側の被葬者は女性ではないか?と・・・

もちろん、そうなると、北側のもう一人が穴穂部皇子・・・というのも、根本から見直す事になります。

「なんや、結局ワカランのかいな!」
なんて、言わないでくださいね(。>0<。)

こうして、いろいろな、ヒントをいただきながら、あーだこーだと推理していく事が楽しいのです。
 

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2009年8月 5日 (水)

世界情勢とともに変化した遣唐使の役目

 

舒明二年(630年)8月5日、犬上御田鍬らが第1回遣唐使として派遣され、中国へと向かいました。

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以前、第10回の遣唐使派遣のページ(4月2日参照>>)で、そのルート変更により、危険性が格段に増した事など書かせていただきましたが、本日は、第1回の派遣という事で、日本をとりまく周辺諸国の状勢により、徐々に変化していく遣唐使の役目などについてお話させていただきます。

ちなみに、上記の第10回のページと同様、有名な小野妹子(おののいもこ)に始まる遣隋使は、遣唐使とは、また、別の使節とご理解いただきたいと思います。

・・・で、今回の第1回の遣唐使・派遣・・・

この頃は、すでにが滅びて唐に代わってから12年・・・唐にとっては内政も整い、国内も落ちついていた時期で、皇帝の玄宗(げんそう)も、たいそうご機嫌で犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを、熱烈歓迎してくれています。

翌年、彼らが帰国する時には、高表仁(こうひょうじん)(皇帝の正式な使い)を持たせてお礼の訪問をさせ、「日本は遠いよって、毎年貢物せんでもえぇねんで~」てな、おやさしい事をおっしゃって、次に遣唐使が派遣されるのは22年後という事になります。

・・・にも関わらず、この次の回となる白雉四年(653年)と白雉五年(654年)には、立て続けに二年連続の第2回と第3回の遣唐使を派遣・・・。

これは、おそらく、朝鮮半島の情勢の悪化によるもの・・・例の白村江の戦い(8月27日参照>>)が、天智二年(663年)ですから、それを睨んでの派遣という事でしょう。

そして、結局その朝鮮情勢に、百済(くだら)の救援という形で参戦して、唐&新羅の連合軍に敗れた日本は、天智八年(669年)派遣の遣唐使では、「高麗を平定したお祝い」という姿勢をとっています。

しょっぱなの遣隋使の時の、皇帝・煬帝(ようだい)を怒らせたとウワサの、あの聖徳太子「日出(い)ずる処(ところ)の天子・・・」の手紙(7月3日参照>>)以来、一貫して同じ独立国家として対等の外交姿勢を貫いていた日本としては、ちょっと、腰が退けた状態となってしまいました。

・・・とは言え、やはり、中国にとっての日本は、陸続きの他のアジア諸国とは、少し違う存在だったようです。

もともと中国は、国は代われど伝統的に『冊封(さくほう)体制』をとっていました。

いわゆる、世界の中心に中国という国があり、周辺の諸国は、その中国に臣下の礼をとる事で国家として認めてもらい、その国の王も、中国の承認があってこそ、名実ともに王なのだ・・・といった具合で、ときには、中国の要請によって兵役を課せられる事もあり、属国とまではいかないものの、それに近いものだったのです。

しかし、日本は、その冊封体制には組み込まれておらず、あくまで『朝貢国』・・・一定期間に決まった回数の使節を送り、挨拶を欠かさないという立場でした。

ただ、これは、あくまで、上記の聖徳太子の時代から日本側の主張する一環した姿勢であり、中国から見れば、結局は臣下の国の一つに過ぎなかったようですが、それでも、他のアジア諸国が毎年、しかも一年に何度も使節を訪問させているのに対し、日本は、相変わらず20年に1度のままだったわけで、その点では、やっぱり、特別扱いです。

それには、もちろん、先の玄宗が言ったように、日本は海を隔てた遠くにあり、その航海が危険を伴うものであったからという事が第一ですが、それよりも、中国自身にとって重要だったのは、日本の位置です。

朝鮮半島を臣下としておくためには、その向こうの位置にある日本と仲良くしておく事が大事だったわけです。

何か事を起こそうとしても、中国と日本が友好関係にあれば、必ず、挟み撃ちとなるのですから・・・。

それは、中国だけでなく、周辺諸国も充分承知・・・高句麗滅亡後の文武元年(698年)に、朝鮮半島北部から中国東北部を領土とした渤海(ぼっかい)は、神亀四年(727年)には、自ら使節を日本へと派遣して国交を樹立した後は、むしろ日本の朝貢国のような立場を自らとっています。

これは、渤海滅亡までの200年間・・・日本の遣唐使制度が終った後も続けられていました。

あの新羅でさえ、たびたび日本とは険悪なムードになりながらも、その都度、使節を派遣して、数の上だと、遣唐使をはるかに上回る頻度での交流を持ったのは、やはり、挟み撃ちを恐れての行動なのでしょう。

・・・と、その時代々々によって、政治的背景は多少の差があって、国家を背負って訪問する使節の意味は微妙に違うものの、一貫しているのは、彼らとともに海を渡った留学生による文化的交流です。

遣唐使の留学には、短期長期があるのですが、一旦中国へ着いたその船は、1年後に再び日本への帰途をたどる事になるので、短期というのは、この1年間の留学という事になります。

長期留学の場合は、先に書いた通り、基本、20年に一度の派遣なので、必然的に20年という事になりますが、国の命により派遣された使節の官人よりは、自らの学びたいという意志で渡海してきた留学生のほうが、その情熱も高く、僧ならば、かの最澄空海(12月14日参照>>)、学生ならば、吉備真備(きびまきび(4月25日参照>>)小野篁(たかむら)(12月15日参照>>)といった、後に中央政界で大活躍する優秀な人材を輩出する事になります。

なかには、あまりに優秀すぎて、唐に滞在中の段階で政治手腕を発揮して、帰るに帰れなくなった安倍仲麻呂(8月20日参照>>)のようなケースもありますが、そもそも、あの鑑真和上(がんじんわじょう)(1月16日参照>>)だって、おそらくは、彼ら留学生の情熱にほだされて、「日本へ行きたい!」という気持ちになったのでしょうから・・・。

それにしても・・・
近代になってこそ、発展途上国の優秀な人材を、国費にて先進国へと向かわせ、その最先端を学ばせるという留学制度が行われるのは当たり前となりましたが、1300年もの昔に、このような制度を行っていたというのは、世界広しと言えど日本くらいなのでは?

・・・と思ったら、外国にもあるそうです(゚ー゚;
下記コメントで“おみそしるさん”に教えていただきましたので、コメント欄でご確認を・・・(世界史が苦手なもので申し訳ないです・・・加筆させていただいときます)
*補足=トップページでまとめて記事を読んでくださってる場合は、この記事の末尾の【固定リンク】をクリックしていただくとコメント欄が出ます。

かくして、寛平六年(894年)に菅原道真(1月25日参照>>)の進言によって廃止されるまでの260余年・・・命がけで海を渡った若者が、勇気ととも持ち帰った最先端の知識と情報が、当時の日本に様々な影響を与えた事は言うまでもありません。

やがて、遣唐使廃止から9年後には、唐のほうが滅亡してしまいますが、伝えられた文化が見事に融合し、日本人の奥深くに根付いていくのはご承知の通りです。
 

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2009年4月 3日 (金)

知ってるつもりの十七条憲法~その言いたい事は?

 

推古十二年(604年)4月3日、聖徳太子が憲法十七条を制定しました。

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「聖徳太子の憲法十七条」・・・これは、誰しもが通る道・・・

どんなに歴史好きでない人でも、さすがに小学校の授業で習った記憶が残っているシロモノです。

現在では、その存在自体が疑問視されている聖徳太子・・・最近は教科書でも聖徳太子の名前は消え、より実在した可能性の高い厩戸(うまやど)皇子として登場するようになっているようですし、以前から、このブログにも、その怪しさについて書いたりしています(4月10日【聖徳太子のどこが怪しいのか】参照>>)

そうなると当然、本日の憲法十七条についても疑いが持たれる事になりまが、それを論じ出すとキリがなく、その真偽だけでいっぱいいっぱいになってしまいますので、それは、また、そのようなテーマで書く時に論じさせていただく事として、今日は、とりあえず、聖徳太子が実在して、憲法十七条を制定したというテイで、その憲法そのもについて書かせていただきたいと思います。

・・・で、冒頭に、誰もが通る道・・・と、歴史好きでなくても誰もが知ってる事を強調させていただきましたが、この誰でも知ってるというのが、意外にクセモノです。

「604年の4月3日に作ったかどうかは知らんが、聖徳太子が十七条の憲法を作った事は知ってる」

そうなんです。
憲法を作った事を知ってるだけで、どんな物かはほとんどわからない・・・

「いやいや、『和をもって貴(とうと)しと成し、忤(さから)う事なきを宗(むね)とせよ』、と皆で仲良くしようって事が書いてある事も知ってるよ」
と、おっしゃる方もおられるでしょうが、問題は、そのあとです。

そう、教科書を探しても、聖徳太子に関する本を読んでも、そこから後ろの事はほとんど書いていません。

つまり、そこからあとの内容については、学校でも教えられていないのが現状なのです。

例として、私の持ってる歴史副読本を転載させていただきますと・・・

  • 一に曰く、和をもって貴しと成し、忤う事なきを宗とせよ(以下現代語訳あらまし)
  • あつく仏教を信仰せよ
  • 天皇の命令をうけたら、必ずそれに従え
  • 役人は礼儀を基本とせよ
  • 私利私欲を捨てて公平な裁判を行え
  • 善をすすめ、悪をこらせ
  • 人は各自の任務と役目を行え
  • 役人は朝早く出勤し、遅く退庁せよ
  • すべての事に信をもって当たれ
  • 人の過失を怒ってはならない
  • 役人の功績と罪科にかなった賞罰をせよ
  • 地方官は人民から税をむさぼり取らぬようにせよ。
    国に二人の君はなく、人民に二人の主はない
  • 役人は職務の内容を心得よ
  • 役人は他人を恨んだり妬んではいけない
  • 私欲を捨てて公共の立場に立つのが臣民の務め
  • 人民を使役する時は、時節をわきまえよ
  • 物事は自分一人で決めず、よく論議せよ
           (浜島書店:資料カラー歴史より)

と、あります。

もちろん、原文は漢文で書かれていますので、それを現代語訳していただいてるのはありがたいですし、少なくともここは、十七条のすべてを書いてくださっているので結構なのですが、中には、途中の五条くらいから十条くらいまでがカットされていたり、四条までで以下略・・・いや、以下略なら、「まだ、この先があるんだな」という事が想像できますが、何も書いていないものもあって、そこで終わりだと思ってしまっている人も、多くいらっしゃるのではないか?と思います。

現に、私も、学校で習った時は、そう思ってました。

しかし、上記の引用の中での「以下現代語訳あらまし」・・・ここです。

つまり、ここから先は、あらましを書いてあるだけ・・・それは、この一条だけでなく、二条~十七条すべてが、あらましなので、本当は、このそれぞれの条の先に、まだ文章が続いている事になるわけです。

もちろん、先に書かせていただいたように、原文は難しく、すべてを、ここでご披露しても「何だかな~」って感じですし、上記の、内容を要約したもので充分だと思いますので、それはやめておきますが、せめて、第一条の、あの有名なところだけは・・・

・・・というのも、この一条・・・けっこう、個人的に好きな内容なのでござんすよ。

原文:
一曰 以和為貴 無忤為宗 人皆有黨 亦少達者 是以或不順君父 乍違于隣里 然上和下睦 諧於論事 則事理自通 何事不成

一般的な読み下し:
一に曰く、和をもって貴(とうと)しと成し、忤(さから)う事なきを宗(むね)とせよ。
人みな党(たむら)あり。
また、達(さと)れる者少なし。
ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に従わず。
また隣里に違(たが)う。
しかれども、上和(かみやわら)ぎ、下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、事理おのずから通ず。
何事か成らざん。

私的解釈:
お互いに協力する事がええ事であって、やたら反目せんようにするのが基本やと思うんやけど、人にはそれぞれの思惑とか派閥とかあるし、なかなか情勢を見通す事のできるモンもおらへんから、上司やオヤジに反発したり、近所とモメ事を起すような事になるんや。
けどな、上も下もなく、お互いが腹割って仲よう話し合う事ができたら、問題は絶対解決できるし、成し遂げられへん事なんかないと思うねん。

私は、この後半部分がすごく重要だと思うのです。

最初の「和をもって貴しと成す」だけなら、単に、「みんな仲良く」という意味合いで、なんだか皆が同じ意見でないといけないような雰囲気なのですが、後半部分まで読んでみると、「それぞれ違う意見があるのは認めるけど、話し合って解決しようや」という事になる・・・つまり、自分と違う考えの人物がいる事を認めている事になるわけです。

これは、ちょっとした事のようで、とても大切な事なのではないでしょうか?

現在の世の中って、両極端なような気がするのです。

学校では、皆が同じように勉強して同じような成績をとる事を望み、運動会でも同じような速さの子供を集めて競走をさせ、みんなと違う人がいれば、逆にイジメの対象になったりする・・・。

そうかと思えば、♪世界に一つだけの花♪のような個性を大事に・・・をはき違えて、順番に並ばないのも個性の一つ、公共の場でワイワイ騒ぐのも個性の一つ、果ては、大人になっても働かないのも個性の一つ・・・と、おっしゃって、まったく子供を叱らない親御さんもいらっしゃると言います。

なんだか、個人と社会の区別がつかない感じとでも言いましょうか・・・

個人は個人、その個性は大いに伸ばしていくべきだと思いますが、一歩社会に出れば、自分とは、環境も、考えも、何もかも違う人もいて、その人たちをちゃんと認めたうえで、うまくやっていかなきゃならない・・・

この第一条は、そういった事を言いたいのではないかと思うのです。

残念ながら、「和をもって貴しと成す」の最初の一行だけでは、それを知る事はできませんが・・・。
 

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2009年3月19日 (木)

天智天皇~一大決心の近江大津京・遷都

 

天智六年(667年)3月19日、中大兄皇子が、都を近江(滋賀県)大津に遷しました。

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♪三輪山を しかも隠すか 雲だにも
  情
(こころ)あらなも 隠さふべしや ♪
「なんで、雲は三輪山を隠すのしょう・・・雲にも心があるなら、こんな日に隠さないでよ」

これは、住みなれた大和(奈良県)の地を離れる峠の道で、かの額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ、♪味酒(うまざけ) 三輪山・・・♪から始まる長歌への返歌として詠まれた歌・・・。

神代の昔から、この三輪山は特別な山・・・大和朝廷自身が、強く崇める神の山でした。

しかし、大和の地では毎日眺めていた三輪山も、都が大津に遷れば、その美しい姿を見る事ができません。

奈良山を越える峠の道で振り返ると、雨模様の空からどんよりとした雲が覆いかぶさり、三輪山の姿は見えない・・・最後のこの日に、もう一度三輪山を見て、しっかりとこの目に焼きつけておきたかったのに・・・

そんな切なる思いを、ヒシヒシと感じさせてくれる歌です。

この額田王だけではなく、多くの人がとまどいを隠せなかった大津京への遷都・・・

遠まわしにいさめる声も多く、ちまたでは、「童謡(わざうた)も流行したと言います。

童謡というのは、子供のわらべ歌ではなく、風刺や異変の前兆を歌にしたもの・・・この大津京・遷都のときは、「なぜ?」という疑問とともに、「失策である」という批判を込めた歌詞だったと思われます。

この時、多くの人民は、政治の事情よりも、住みなれた土地を離れる事の寂しさや不安が先立ち、上記のような反対意見が吹き荒れてはいましたが、国家を預かる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)にとっては、一大決心の大冒険・・・現在の暗い時代を払拭し、この国の将来を賭けた遷都だったのです。

中大兄皇子は、ご存知の通り、あの蘇我入鹿・暗殺を決行した大化の改新の立役者(6月12日参照>>)・・・

『日本書紀』の言い分によれば、天皇の息子である中大兄皇子・自らが手を汚し、天皇に代わってすき放題やってた悪しき豪族の蘇我氏から実権を取り戻したにも関わらず、なぜか時の天皇である皇極天皇は退位し、しかも、そのクーデターの立役者であるはずの息子には皇位を譲らず、弟の軽皇子(かるのおうじ)が第36代・孝徳天皇となり、中大兄皇子は皇太子のまま・・・

さらに、その孝徳天皇が亡くなってさえも、まだ中大兄皇子は即位せず、先の皇極天皇・・・つまり、中大兄皇子のお母ちゃんが、再び斉明天皇として即位します。

ここで、あの大化の改新から10年・・・すでに、中大兄皇子は30歳になってますから、「人の道を重んじる中大兄皇子が、年長者に譲った」なんていう美しきいいわけは通用しませんが・・・。

このあたりの「即位せずの謎」につきましては、異論・新説、多々ありますので、また別の機会に書かせていただく事として、とにかく、この斉明天皇の時代に、国家を揺るがす大事件が起こったわけです。

斉明七年(661年)、朝鮮半島を巡る新羅(しらぎ)高句麗(こうくり)百済(くだら)の争いが激化し、大陸からの脅威にさらされた日本は、その防御策として、斉明天皇以下、船団を組んで九州に移動しますが、かの地についた途端、天皇は崩御(7月24日参照>>)

しかも、その2年後、救援を求めてきた百済とともに助っ人として参加した白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いで、日本は、新羅と唐(中国)の連合軍に大敗を喫してしまいます(8月27日参照>>)

「この勢いに乗って、大国・唐が攻めてくるかも知れない!」
そんなウワサがたつのも当然です。

実際には、その頃の唐は、日本とは友好関係を持ちたいと思っていたようで、戦いの翌年には、百済占領軍の司令官であった劉仁願(りゅうじんがん)を長とする使者を送り、貢物を献上しに来ているのですが・・・

それでも中大兄皇子は警戒心を緩める事なく、対馬(つしま)壱岐(いき)筑紫(福岡県)防人(さきもり)を置き(2月25日参照>>)、異変が起きた時に知らせるのろし台(4月23日参照>>)も設置、筑紫から大宰府の1kmに渡っては水城(みずき)と呼ばれる堤も構築しました。

今回の大津京・遷都は、その白村江の戦いから3年、しかも、改新から始まった新たな政治も重大な転機にさしかかっていた・・・つまり、対外的にも内政的にも、最も不安定な時期だったわけです。

そんな意味合いには気づかなかった多くの人々が、不安にかられたのは、その近江という土地が、未だ見も知らぬ土地であったからなのですが、確かに、大化の改新後、一度、大和を離れて難波(なにわ・大阪)に都を遷していますが、難波は、当時は、すでに遣唐使船の発着所でもあり、聖徳太子が建てたとされる四天王寺もあり、古くは、仁徳天皇高津宮もあった場所で、多くの渡来人が居住する都会であったのです。

でも大津は・・・。

しかし、それこそが、中大兄皇子が求めた、すべての不安を払拭する、新たな都であったのです。

考えてみれば、大津は琵琶湖を前にしての海運も望め、周囲は山に囲まれた天然の要害・・・さらに、『扶桑略記』には、この遷都の時期の事として書かれている日本最古の銅鐸(どうたく)発掘のニュースなどを考えれば、まったくの未開の地ではなかったわけですから、心機一転、新天地での新たな政治には、うってつけの場所だったのかも知れません。

民衆の批判にもめげずに決行した大津京・遷都・・・やがて、外敵の不安も徐々になくなり、滅亡した百済から大量に移住してきた渡来人たちによって発展した新たな文化も根づきはじめ、翌年の天智七年(668年)1月、中大兄皇子は、その大津宮で正式に即位し、第38代・天智天皇となります。

あの大化の改新から20年以上・・・夢に描いていた花の都が現実のものとなった瞬間でした。

しかし、天智天皇が理想とした花の都は、所詮、天智天皇だけの理想の都だったようで、その都としての命は、わずか数年で、天智天皇の死とともに終ってしまう事になります。

ご存知、壬申の乱の勃発です・・・(10月19日【希望と不安を抱いて~大海人皇子・吉野へ出発】へどうぞ>>)
 

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2009年2月27日 (金)

弟が年上?天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑

 

天武二年(673年)2月27日、壬申の乱に勝利した大海人皇子が、飛鳥浄御原宮にて即位し、第40代・天武天皇となりました

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一昨日、律令制定の詔(みことのり)発令(2月25日参照>>)で書かせていただいたばかりの大海人皇子(おおあまのおうじ)=天武天皇のまたまたの登場で恐縮ですが・・・

そのページでも触れましたように、その真偽はともかく、現在のところ第一の史料である『古事記』『日本書紀』によれば、大海人皇子=後の天武天皇は、第34代舒明(じょめい)天皇と、その皇后である宝皇女(たからのおうじょ・後の皇極&斉明天皇)との間に生まれ、同じ父と母から生まれた兄に後の天智天皇である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、姉に間人皇女(はしひとのおうじょ・孝徳天皇皇后)がいます。

その兄の息子である大友皇子(弘文天皇)壬申の乱で攻め、政権を奪い取り、天武二年(673年)2月27日、晴れて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)にて即位し、第40代・天武天皇となったわけです。

ところで、この天武天皇・・・その年齢がよくわかりません。

古事記のほうは物語性が強く、もっと古い時代をくわしく書いてあるので、この時代の人々の年齢を調べるのに、用いられるのは、やはり日本書紀です。

・・・とは言うものの、その日本書紀にも、何年生まれなんていう生年月日をそのまま記載してあるわけではなく、年齢や年号(えと)に関する記述を取り出して、そこから計算して年齢を割り出すわけですが、それによると、兄の天智天皇は推古三十四年(626年)の生まれというのが、現在のところ定説となってします。

ところが、天武天皇の年齢は、日本書紀の記述だけでは計算できないのです。

そこで、多くの学者さんは、鎌倉時代に書かれた『本朝皇胤紹運禄(ほんちょうこういんじょううんろく)と、南北朝時代に書かれた『一代要記(いちだいようき)の二つともが、天武天皇の没年齢を65歳としているところから、日本書紀に書かれている天武天皇の亡くなった年号=朱鳥元年(686年)から逆算して、生まれた年を割り出すのですが・・・

これが、推古三十年(622年)となり兄の天智天皇より、4歳年上になってしまうのです。

そこで、この矛盾を解決する説としては、「この後の世の二つの文書の作者が、天武天皇の没年齢を56歳とするところを65歳と書き間違えたのだ」と・・・多くの歴史家のかたが、現在も、この解釈をしておられるようです。

歴史を学問として専門的に研究されている方々にとっては、「後世に書かれた物ほど不正確である」というのが定番で、やはり日本書紀が最優先のようです。

まぁ、鎌倉時代と言えば、お亡くなりになってからすでに2~300年は経ってますから、しかたがないのかもしれません。

また、単に「間違えた」では心もとないと、表記のしかたの違いをイロイロに解釈する場合もあるようです。

それは、先の『本朝皇胤紹運禄』の中では、天智天皇の没年齢は58歳となっていて、日本書紀の46歳死亡とは12歳のズレがあり、天武天皇の年齢との矛盾はありません。

これは、『本朝皇胤紹運禄』の編者が、日本書紀のままの年齢だと、天智天皇が大化の改新を行った時の年齢が20歳という、あまりに若い年齢であるため、「生まれ年のえとを一巡繰り上げて、没年齢を記したのでは?」という解釈で、それだと、天智天皇が亡くなったのが天智十年(671年)ですから、生まれたのは推古二十一年(613年)という事になり、天武天皇より年上という事になります。

また、『一代要記』のほうも、天智天皇の生まれた年を推古二十七年(619年)としていますので、『日本書紀』とはズレがありますが、『一代要記』の中の内容では、矛盾なく、天武天皇のほうが年下となるわけです。

ただ、これは、ご覧いただいてわかるように、アチラを信じればコチラがおかしくなり、コチラを信じればアチラがおかしくなり・・・年齢の矛盾を解決するために、両方の都合のいいところだけを並べ立てて、つじつまを合わしているような気もします。

歴史学者の方々は、これらの史料を日々研究されて、矛盾を解決する方法を模索しておられるので、新しい研究結果に期待したい!というところですね。

・・・と、イロイロ書かせていただきましたが、とにかく、この年齢の計算は、素人の私にはムリ!

とりあえず、具体的な年齢の事は、専門家のかたにおまかせするとして、弟が兄より年上であろうがなかろうが、何より重要な事をわすれちゃいませんか!って事です。

それは、かの『日本書紀』に、「天武天皇の没年齢がわかる記述が一つも書いていない」という事・・・一昨日のページにも書かせていただいたように、この日本書紀を編さんするように命じたのは、その天武天皇ですよ!

そして、編さんにあたった中心人物は舎人親王(とねりしんのう)・・・天武天皇の息子です。

父親の遺言で、編さんを始めた書物に、その父親の年齢を書き忘れるアホがいるわけがありません。

しかも、一人ではなく、何人もの人が関わってチェックしてるんですから・・・。

それに、日本書紀は、この日本という国の歴史がいかに古く伝統のあるものか、そして、いかに自分たちがこの国を支配するにふさわしい家系かを、海外向けにアピールするための外交のための史料でもあるわけで、一個人の自分史とはわけが違います。

そして、そこから想像できる事は、ただ一つ・・・書き忘れたのではなく、書かなかったという事です。

『斉明即位前紀』には、こうあります・・・
「初に橘豊日天皇(たちばなのとよひ・用明天皇の事)の孫高向(たかむく)に適(みあひ)して(あや)皇子を生(あ)れませり」と・・・・つまり、天智&天武天皇のお母さんである宝皇女は、舒明天皇と結婚する前に、高向王という人物と結婚していて漢皇子という子供がいたという事です。

しかも、この高向王・・・上記の通り用明天皇の孫となっていますが、両親が誰かという情報がまったくなく、いつ亡くなったかも不明、さらに漢皇子に関しての記録もなし・・・なので、宝皇女は夫とは早くに死別して、漢皇子も幼くしてなくなり、その後、舒明天皇の皇后となったのであろうというのが通説となっていますが、実に不可解です。

・・・で、ひょっとしたら漢皇子=天武天皇かも知れない、あるいは、イコールではないにしても、宝皇女が舒明天皇の皇后になる前に、すでに天武天皇を産んでいたのでは?となるわけです。

この推理は、上記の通り何もかも不明なので、想像の域を出ないものですが、これだと、たとえ天武天皇のほうが年上だったとしても、先に天智天皇が即位するのも納得できます・・・なんせ、天武天皇は天皇の子供ではないわけですから・・・。

ひょっとしたら、謎だらけの父親は用明天皇の孫などではないのかも・・・さらに、飛躍すれば、天武天皇は、まったく別のところから現れた天智天皇の兄弟ですらない別人の可能性も・・・そうなると、やっぱり、その通りには書けませんわなぁ。

一昨日同様、天武天皇での政権交代疑惑ですが、そこまでの飛躍はないにしても、天武天皇のほうが年上だったという可能性は、なきにしもあらずって感じですね。

・・・とは言うものの、歴史って、様々な憶測を呼んで、推理を張りめぐらすわりには、案外、実際には、そんなに複雑な事ではなかったりする事もあるので、もしかしたら、「当時は誰もが知っている事なので書かなかっただけ」なんていうオチもありだと思いますが・・・

なんせ、舎人親王は、千年以上も後の人がこれを見て、あーだこーだと言うとは思っていなかったかも知れませんからね。
 

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2009年2月25日 (水)

ここから日本の歴史が始まる?天武天皇の律令国家

 

天武十年(681年)2月25日、第40代・天武天皇が律令の制定を命じました

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古代最大の争乱と言われる壬申の乱(7月22日参照>>)において、兄・天智天皇の息子(つまり甥)大友皇子(おおとものおうじ・弘文天皇)を倒して政権を奪取した大海人皇子(おおあまのおうじ)は、翌・天武二年(673年)2月27日、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し、第40代・天武天皇となります。

そんな天武天皇が新しい国家を目指して、天武十年(681年)2月25日律令の制定を命ずる詔(みことのり)を発するわけです。

「律」とは刑法の事、「令」とは国家統治組織や官吏職務規定・・・つまり行政の事なのですが、この律令がまだ完成していない朱鳥元年(686年)に天武天皇は亡くなってしまいます(9月9日参照>>)

その後、その遺志を継いだ奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのおうじょ・後の持統天皇)と息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)が、制定事業を進めていくのですが、その草壁皇子も、持統三年(689年)の4月に急死してしまいます。

そして、その直後の6月に『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)なる日本史上初の体系的な律令法が発令されるのですが、そのもの自体は現存せず、発令された時は令のみで律はなかったとも言われ、次期天皇になるべき草壁皇子の急死によって、急遽、慌てて発令した感はぬぐえませんねぇ。

現在言われている内容も、おそらく「これも決めてた」「あれも決めてた」的な感じで、後から付け加えていったような気もします。

ただし、その後、奥さん自らが持統天皇となって、藤原京に遷都したりという大事業をこなしていますので、たとえ、後から作られたとしても、その『飛鳥浄御原令』に、天武天皇の意向が反映されていた事は確かだと思いますが・・・。

では、天武天皇が実現したかった律令国家というものは、どんなものだったのでしょうか?

・・・っと、その前に・・・

この時代の第一の史料とされるのは、ご存知『古事記』『日本書紀』で、それ以外には、ほとんど史料というものが無いのが現状です。

なので、この頃の歴史は、記紀を本筋にして考えて行くしかなく、そこから逸脱すれば、学問的には異説・トンデモ説となるわけですが、やっぱり、どう考えてもおかしな部分があるのも確かです。

もはや、記紀に書かれている事が100%正しいと思っている人も少ないでしょうが、実は、その記紀を編さんするように命令を出したのも天武天皇・・・しかも、この同じ年、天武十年(681年)に出しているのです。

そして、完成したのは・・・
古事記が和銅五年(712年・1月28日参照>>)、
日本書紀が養老四年(720年・4月21日参照>>

ともに、『帝記』『旧辞』をもとにしていると言いますが、つまりは、この天武天皇より以前の出来事を、天武天皇から後に書いたという事になります。

臭います~

以前、【蘇我入鹿・暗殺≠大化の改新】(6月12日参照>>)でも、書かせていただいたように、ひょっとしたら大化の改新は、改新というほどの改新は無かった可能性も・・・

だいたい、この入鹿暗殺は、明らかにクーデターです。

クーデターとは、政権を持たない者が、その政権を奪取すべく行う力づくの政変・・・もし、記紀が語るように、この時、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)の母親の皇極天皇が、その名の通り王であったのなら、その息子がクーデターを起す必要はないわけです。

ひょっとして、この時、政権を握っていた・・・つまり王だったのは蘇我氏ではないか?と考えます。

なので、王である蘇我氏から中大兄皇子=天智天皇は政権を奪取したのです。

そして、再び起こった政権交代が、この大海人皇子=天武天皇・・・。

冒頭に書いた通り、記紀では、この天武天皇は、天智天皇の弟という事になってますが、それにしては、天武天皇の抱いていた国家というものが、それまでの国家と、あまりに、違うような気がするのです。

やっと、天武天皇の律令国家のところに話が戻ってきましたが・・・(^-^;

実は、この天皇という称号・・・それまで「大王」と呼ばれていたのを「天皇」に変えたのは天武天皇です。

そして、それまで「倭国」と称していた国名を「日本」に変えたのも天武天皇・・・。

国家元首の名前と国名を変えるなんて!・・・単に、兄貴&その息子から政権を奪取したにしては、かなりの変化だと思いませんか?

そのうえ、太政大臣や右大臣・左大臣も廃止し、現天皇とその息子たちが政権の首脳部を握り、それまでの豪族は、その外側の一段下に置かれるのです。

さらに、天皇家の祖として天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀る伊勢神宮を特別扱いしだすのも、この時期からです。

つまり、それまでの政権だった天智天皇を兄とし、その兄が倒した蘇我氏を、王ではなく臣下とする事で、それ以前に政権を握っていた別の系統とつなぎ合わせ、神代の昔から一本につながる現政権の正統性を造り上げたのが、古事記であり日本書紀の編さんという事になります。

これらのつじつまを合わせるために、蘇我氏が政権を握っていた間にあった、悪い事はすべて蘇我氏のせい、良い事はすべて聖徳太子のおかげ・・・しかも、その蘇我と太子の両方ともの直系の子孫が絶えるという、よけいつじつまの合わない歴史を作る事になり、さらに、現政権があたかもそれを受け継いでいるかのような大化の改新をでっちあげなければならなくなったのでは?

・・・と、少し、断定的でキツイ言い回しをしてしまいましたが、これは、あくまで私見・・・空想の産物で、確固たる証拠があるわけではありません。

もちろん、現在につながる天皇家や日本の歴史を否定するものでもありません。

学問としてではなく、あくまで、歴史を楽しむ中の一つの説として提案してみました。

こう言いながらも、実際には、第一の史料である古事記&日本書紀以上のシロモノが発見されない限り、その内容に沿って歴史が綴られるのが、正統であると考えますので・・・。

【聖徳太子のどこが怪しいのか?】>>
【聖徳太子の子・山背大兄王を殺したのは誰か?】>>
も見てね!
 

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2008年10月19日 (日)

希望と不安を抱いて~大海人皇子・吉野へ出発

 

天智十年(671年)10月19日、第38代・天智天皇からの皇位継承を固辞した弟・大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)が、吉野に向かって出発しました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

20歳の時に、中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)とともに乙巳の変(6月12日参照>>)蘇我蝦夷(そがのえみし)入鹿(いるか)父子を倒し、その後即位した第36代孝徳天皇(6月14日参照>>)のもと大化の改新を支え、次の第37代・斉明天皇(7月24日参照>>)をサポートし、白村江の戦い(8月27日参照>>)という海外出兵も経験するという波乱の皇太子時代を送った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、近江(滋賀県)大津宮に都を遷し(3月19日参照>>)天智天皇として即位したのは、天智七年(668年)・・・天皇が43歳の時でした。

しかし、その翌年には、ともに歩んできた鎌足が亡くなり(10月15日参照>>)、その頃には、大化の改新の直後には手を組んで政務をこなしていた弟の大海人皇子との間にも、大きなズレが生じるようになっていました。

それは、天智天皇と大海人皇子の二人を手玉に取った額田王(ぬかたのおおきみ)という女性との三角関係も噂されますが(1月6日参照>>)、それよりも、むしろ、二人の方向性の違い・・・描く未来に差があったというところでしょうか。

二人ともがデキル人物であるが故に、その方向性に違いが生じると、修復が困難な亀裂ができてしまう・・・それは、やがて、天智天皇の後継者という問題に発展します。

早々と、大海人皇子を皇太子に立てていた天智天皇ですが、天皇には日々成長を続ける大友皇子(おおとものおうじ)という息子がいます。

ご本人たちの意思はともかく、朝廷内には、天皇と考えの違う皇太子・大海人皇子より、天皇の意思を継ぐ大友皇子のほうが後継者にふさわしいのではないか?という意見が生まれる事になります。

そんな中、天智十年(671年)の秋頃から、天智天皇は病に臥せるようになります。

10月17日、天皇は蘇我安麻呂(そがのやすまろ)を使者に立て、病床の枕元に大海人皇子を呼びました。

この時、すでに大海人皇子と親しい関係にあった安麻呂は、天皇との対面に向かう大海人皇子に対して「用心しなはれや~」と言ったとか言わなかったとか・・・

この時の大海人皇子の出方しだいでは、宮殿を出た直後に殺害する準備もしていた・・・なんて話もありますが、天皇が、そこまで、息子の大友皇子を後継者にしたかったどうかは、疑わしい部分もあります。

なんせ、天智天皇は、その生涯で一言も、息子に天皇の座を譲ってくれと大海人皇子に言った事もないし、皇太子を交代してくれとも言った事がないわけで、後に、壬申の乱が起こるのだから、この時点で、後継者争いがあったのだろうと、後の世の人間が勝手に思っているだけかも知れないわけですから・・・。

現に、この日、大海人皇子と面会した天智天皇は、「後をよろしく」と、大海人皇子に皇位を継承するように頼んでいるのです。

しかし、大海人皇子自身が、「僕は病気がちなんでできません・・・倭姫王(やまとひめのおおきみ・天智天皇の皇后)に皇位を譲って、大友皇子に政務をやってもらってください」と、断ってしまいます。

そして、「出家する」と言って退室し、その場で剃髪し、身につけていた武器を返上するのです。

もちろん、安麻呂が言ったように、その言葉通りに受け止めて、大海人皇子が皇位継承をOKしていたら、その場で殺害・・・なんて事になってたかも知れませんが、逆に、天皇は本気で皇位を譲ろうと思っていたかも知れません・・・お互いの心の内までは、計り知れませんからねぇ。

かくして、天智十年(671年)10月19日未明・・・大海人皇子は妃の鵜野讃良々皇女(うののさららのおうじょ・天智天皇の娘)、息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)以下、舎人(とねり)や女官ら数十名とともに、大津宮を出発したのです。

『日本書紀』では、この日、天智天皇に、行き先が吉野である事を告げ、その許しを得てからの出発という事ですが、未明という事は、その夜中のうちに許しを得たのか?それとも事後報告だったのか?という感じですが、出発に際しては、天智天皇の重臣である蘇我赤兄(そがのあかえ)中臣金(なかとみのかね)蘇我果安(そがのはたやす)の三人が宇治まで見送ったという事です。

この見送りに関しても、都を出てから大海人皇子を殺害しようとしていたとか、大海人皇子に疑いを持っていた彼らが本当に大海人皇子が吉野に行くのかどうか確認しようとしたとか、別れる事になった兄弟に本当は仲良くしてもらいたかったという純粋な気持ちからの見送りだったとか、様々な解釈がされていますが、この中のひとりが、「虎に翼を着けて放つようなものだ」と言ったというのが、もし本当であったなら、やはり、すでに未来に起こる大乱のきざしがあったという事なのでしょう。

虎とは、もちろん大海人皇子の事・・・ただでさえ強い虎に翼を着けて放つのですから、いかに危険かという意味です。

しかし、当の大海人皇子は、それほど強気の吉野行きではなかったと思います。

かつて、蘇我入鹿が次期天皇にと願っていた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ・天智天皇と大海人皇子の異母兄)も、入鹿が中大兄皇子に暗殺された時に、逃げるように吉野に入っていますが、その後、弟・天智天皇の手によって殺害されています。

たとえ、この吉野行きが、近江朝廷を倒すための準備のためであったとしても、そのタイミングで予定通りの確かな準備が整うかどうかも、それまでの間に古人大兄皇子のように追手が放たれるかどうかも、現時点では予測不可能なわけで、必ず生きて帰れるかどうかの保証ない旅立ちだったでしょう。

三人の重臣に見送られて旅立った大海人皇子ご一行は、その日のうちに明日香に到着し、翌・20日には吉野に向かって峠越えをするのですが、その時詠んだ大海人皇子の歌が『万葉集』に残っています。

♪ み吉野の 耳我(みみが)の嶺に
  時なくそ 雪は落
(ふ)りける
  間なくそ 雨は零
(ふ)りける
  その雪の 時なきが如
(ごと)
  その雨の 間なきが如
  隈
(くま)も落ちず 思ひつつぞ来(こ)
  その山道を   ♪

「吉野の耳我峯に、深々と雪は降り、絶え間なく雨が降る・・・まるで、その雪は永遠に降り続くかのように、その雨は止む事がないかのように・・・そんな思いを抱きながら山道をひたすら歩いた・・・」

降り続く雨など無いのに、まるでその雨が永遠のように思える・・・明日は晴れるという見通しのたたない不安な時、人は、このような心境になるのではないでしょうか?

虎に例えられた男でさえ不安なこの山道を、夫・大海人皇子とともに、この日、この道を歩いたであろう鵜野讃良皇女は、時に前を見据え、時に後ろをふりかえりながら、ただ一縷の望みを持って着いて行った事でしょう。

そんな思いを抱えながら歩いた山道・・・それが、先日ご紹介した奥明日香(9月5日参照>>)・・・あの芋峠を越える飛鳥川沿いの道だったとされています。

Yosinoikiasukagawa 飛鳥川・上流

そのページでも書かせていただいた通り、後に持統天皇となった鵜野讃良皇女は、その生涯で、合計31回吉野へ通います。

彼女が、吉野に、そして、この道にそこまでこだわったのは、おそらく、この日の吉野行きこそが、夫婦二人の転機であったからではないでしょうか。

やがて、一と月半後の12月3日、天智天皇はこの世を去り(12月3日参照>>)、大海人皇子が吉野を出る時が刻々と近づく事となります。
 

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2008年8月27日 (水)

白村江の戦い~その敗戦の原因は?

 

天智称制二年(663年)8月27日、百済の救援要請に応じて海外出兵をした日本が、唐・新羅を相手に大敗を喫した白村江の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

当時、高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)百済(くだら)の三国がひしめき合って、緊迫状態にあった朝鮮半島・・・。

そんな中、新羅が(中国)の支援を受けて百済を攻撃・・・百済王・義慈(ぎし)を捕らえて、百済を滅亡に追いやります。

そこで、重臣・鬼室福信(きしつふくしん)は、当時、在日中だった事で難を逃れた義慈の息子・余豊璋(よほうしょう)を旗印に掲げ、百済の再興をはかるため、日本に救援を要請します。

百済は、朝鮮半島における唯一の友好国であり、そこが、唐に制圧されれば、大陸からの防衛拠点を失う事にもなる日本は、その要請に答えて海外出兵を行い・・・と、白村江(はくすきのえ)の戦いに至る経緯などは、一昨年の8月27日(一昨年のページを見る>>)にも書かせていただいたのですが・・・

それにしても、この見事な負けっぷりの原因は、いったい何だったのでしょうか?

本日は、その戦いぶりを中心に書かせていただきたいと思いますが、なにぶん古い話でありまして、肝心の『日本書紀』にも、様々な矛盾点がある事は確かで、あくまで諸説ありますが・・・という前置きのもと、お話をさせていただく事にします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

百済滅亡後も、わずかに死守した任存城において抗戦を続けていた鬼室福信らは、豊璋を護送するかたちで到着した日本軍の第一陣に活気づき、先に唐に奪われて、今は、敵の拠点となっている熊津城四此城牽制します。

その後、白江の河口付近の周留城にて豊璋を国王に立て、以後、この周留城を拠点として、百済南部に進攻していた新羅・唐軍との抗戦を繰り返して勢いづきます。

しかし、善戦もこれまで・・・ここらあたりから、徐々におかしくなってくるのです。

その発端は、まず拠点を周留城から、少し南にある避城移動した事に始まります。

移転の理由は、諸兵に疲れが生じてきた事と、なによりも周留周辺が農業に適さなかった事から兵糧の確保ができないと判断したようです。

しかし、軍事面においては周留は要所であり、この移転に福信は反対し、日本からの援軍の将である朴市田来津(えちのたくつ)も・・・
「飢は後なり、亡(ほろび)は先なり」と助言しますが、聞き入れられず、拠点は避城に移転されます。

そして、それ以来、豊璋と福信の意見は、ことごとく対立するようになってしまったのです。

百済の再興を願い、戦い続ける兵士たちにとって、豊璋は国の象徴であり、福信は戦術のリーダー・・・この二人がタッグを組んでこそ、その士気も上がるっちゅーもんです。

しかし、日本からの大軍を目の当たりにした豊璋は、気が大きくなったというか、勝てると思い込んでしまったというか・・・。

やがて、あまりの意見の対立に、豊璋は、「福信が謀反をくわだてているのではないか?」との疑いを抱いてしまうのです。

実際のところ、その福信も、仮病を使って、お見舞いに来た豊璋を暗殺する計画を立てていたとも言われますが、とにかく、謀反が本当であろうがなかろうが、その前に、豊璋は福信を処刑してしまいました

そう、これが白村江の戦いのターニングポイントです。

実は、この福信は、この地域の気候風土・地形や潮流などを熟知していて、これまでの作戦にも、その知識をフルに活用していたのですが、彼がいなくなった事で、まるで作戦が立てられなくなってしまったのです。

その事は、敵も充分お見通し・・・ここがチャンスだとばかりに、新羅は周留城を一気に攻撃し、唐軍も陸路と海路に分かれて、一斉に進撃を開始します。

Hakusukinoezucc *このイラストは進軍ルートをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません

もちろん、日本も急遽、第2陣を派遣しますが、この段階になっても、まだ、豊璋の立てた作戦は・・・
「地形も潮流も関係あるかい!とにかく、突っ込んで行ったら敵は撤退しよるに決まってるやんけ!」
と、やっぱり、援軍の数に頼った、ずさんな作戦でした。

確かに、記録によれば、この時の百済・日本連合軍の船の数は400隻、対する唐・新羅連合軍は170隻、それぞれの数は多少オーバーなところがあるかも知れませんが、日本・百済連合軍の数ほうが圧倒的に多かった事は確かでしょう。

はたして、天智称制二年(663年)8月27日、朝鮮半島西側の海上で起こった戦いは、作戦らしい作戦もないまま、我先にと唐軍に突入し、結局は挟み撃ちにされて、あえなく敗退する事になってしまったのです。

この白村江の戦いは、その完膚なきまでの負けっぷりに、大国である唐に挑んだ無謀な戦いのように思われがちですが、実は、そうではなく、百済勢の内部分裂による士気の低下と、戦闘態勢の乱れが引き起こした敗戦と言えるかも知れませんね。
 

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2008年7月 3日 (木)

国書を失くした小野妹子が出世する不思議

 

推古十五年(607年)7月3日、遣隋使・小野妹子が、隋の皇帝へ宛てた国書を持参し、日本を出発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この日、小野妹子(おののいもこ)が持って行った(中国)の皇帝・煬帝(ようだい)へ宛てた国書・・・っていうのは、あの有名な・・・
「日出(い)ずる処(ところ)の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無(つつがな)きや」
って、ヤツです。

そもそも、本当にこの手紙を聖徳太子は書いたのか?
いや、聖徳太子って人は、実在したのか?

だいたい、この7年前に、すでに誰かから派遣された日本の使者が訪問している事が中国の史書には記録されているのに、日本では小野妹子が第一回めの遣隋使となってる・・・などなど、突っ込みどころはいくつかあるのですが、それを言い出したら、とてつもない文章量になってしまいそうなので、とりあえず今日は、定説通りに、「第一回・遣隋使・小野妹子が聖徳太子の国書を持って中国へ渡った」という事で、お話を進めさせていただきます。

上記の「日出ずる国の天子・・・」の手紙を読んだ煬帝さんが、かなりご立腹された話は有名ですが・・・そりゃ、そうでしょ。

なんせ、当時の中国は、「世界一の強国だ」と自負していて、周辺諸国は、わが国の臣下にある貢物を献上しに来る国くらいにしか思ってなかったわけですから・・・。

そんな下位な国から対等の物言いをされちゃぁ・・・しかも、「日出ずる国」と、「日没する国」じゃぁ、なんか「日出ずる国」のほうがカッコイイ気がしないでもない。

煬帝は
「アホの国の文書は文章もアホや!こんなん二度と見たないわい!」
と、大変なお怒りだったとか・・・。

しかし、怒ったわりには、裴世清(はいせいせい)なる人物を答礼の大使として、妹子の帰国とともに日本へ行かせていますし、その妹子に返事も持たせています。

ところが、この妹子さん、その大事な煬帝からの手紙を、途中で紛失してしまうのです。

彼の言い分だと、帰国の途中に立ち寄った百済(くだら)で、百済人に襲われ、その手紙を盗まれてしまったのだとか・・・。

ホンマかいな?

もしも、本当にそんな襲撃事件があったのなら、ともに行動していた裴世清ら中国人も、その事件の事を知っているはずですが、彼らは、そんな事は一切言ってませんし、逆に、もし、紛失した事を裴世清が知って、さらに、それが煬帝の知るところとなれば、「ワシの手紙を、なんちゅー軽率な扱いしとんねん!」と、更なる怒りが爆発する事になるに違いありません。

第一、そんな大事な手紙、命に代えても守らなければ、初代・遣隋使の名がすたるっちゅーもんです。

そんな大きなミスを犯した妹子さんには、帰国すれば、さぞかし、厳しい処分が待っているんでしょう・・・と思いきや、これが、まったくのお咎めなし!

それどころか、翌年に裴世清が帰国するのと同時に派遣された第二回・遣隋使に、妹子は、またまた大使として中国に渡っているのです。

しかも、その帰国後は「大徳」という官位十二階の最高位を賜っているのです。

いくら何でも、国を揺るがすようなミスをした人に、これはないでしょう・・・という事で、今では、手紙を紛失したのではなくて、わざと隠ぺいしたのではないか?という事が言われています。

では、なぜ?返事を隠す必要があったのでしょうか?

以前、【聖徳太子・死因の謎(2月22日参照>>)のページで、冒頭の手紙の事を・・・
「これは、駆け引き無しの失態なのか?
計算ずくのハッタリなのか?
一か八かの賭けだったのか?」

と、書かせていただきましたが、このミスをしでかした妹子への対応を見る限り、これは、聖徳太子のハッタリだった可能性が高いのではないかと考えます。

今現在、煬帝の一番の関心事は、やはり朝鮮半島の情勢・・・つまり、朝鮮半島の三つの国が、いつ敵に回るかわからない状況で、日本を是非味方につけておきたいこの時期に、ちょっとやそっとで、兵を出したり、国交を断絶させたりはしないだろうとの計算から、一か八かのハッタリをかましたのではないでしょうか?

それは、もちろん、隋と対等に交易するためのハッタリでもありますが、聖徳太子にとって、それよりも重要だったのは、国内の豪族に対してのハッタリです。

当時の聖徳太子には、年齢が倍ほども違う強大なライバル・蘇我馬子がいます。

もちろん、彼以外の豪族・臣下の者も・・・おそらく、若き太子にとっては、誰もが年上のうるさがたのおエラがたですから、ちょっとばかし、自分のスゴイところも見せておかなければなりません。

そこで、対等の物言いをした手紙を送る・・・隋の皇帝への国書ですから、その内容は臣下の者も皆、知っているはずですよね。

しかし、当然、その国書を見た煬帝は怒りますから、おそらく、返事の内容は、怒り爆発でアホ・バカ連発の見るに耐えない物だった・・・当然、このまま、返事の内容を皆に発表するわけにはいきません。

そこで、失くしちゃった事にするのです。

一緒に連れて来た答礼大使の裴世清は、身分は外交官ですから、相手の国の貴族や大臣に対しては、友好ムードの社交辞令で接するはずですから、日本国内の者から見れば、何となく、あの手紙が受け入れられたように、思ってしまう・・・あぁ、これで、めでたしめでたし。

・・・てな、感じでしょう。

だからこそ、国書を紛失するといった大失態を起してしまったにも関わらず、妹子は引き続き大使であり、官位も上がる・・・っと、いや、もし、この通りだとすると、むしろ妹子は、聖徳太子にとって、ナイスアシストで、メンツを守ってくれた事になりますからね。

ひょっとしたら、妹子は、失くした事にして、太子にだけは返事を見せたのかも知れませんね。

その煬帝の返事が日本に現存しないのは、見るに耐えない事が書かれた手紙を見た太子が、今度は逆に「アホ言うヤツがアホじゃ!ボケ!」と、怒り爆発で破り捨てたのかも・・・
 

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2008年4月10日 (木)

聖徳太子のどこが怪しいのか?

 

推古元年(593年)4月10日、聖徳太子が第33代・推古天皇の摂政に就任しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

聖徳太子=厩戸皇子(うまやどのおうじ)・・・

推古天皇摂政となり・・・
それまで力のみで決められていた朝廷内の上下関係を払拭し、新たな能力による人材登用の道を開く『冠位十二階』を定め・・・
豪族同士の和と天皇の地位を明確にした「十七条憲法」を制定した・・・

学校で、このように教わって、以前はその偉業を疑う事なく記憶しましたが、ご存知のように最近では「架空の人物説」「聖徳太子=蘇我入鹿説」などなど・・・様々な論理が展開されています。

もちろん、それらの説は、あくまで俗説・・・学問としての歴史は、未だ教科書で習った通りの聖徳太子(名前は厩戸皇子となってる場合もありますが・・)です。

しかし、専門家ではない一歴史ファンとしては、色々な推理を積上げていくのは実におもしろい・・・って事で、ここで一つ、聖徳太子のどこが怪しいのか?を、もう一度考えてみたいと思います。

とりあえず、一般的に教科書などにある年表を見てみると・・・

  • 574年 聖徳太子誕生
  • 587年 物部氏滅亡
  • 592年 推古天皇即位
  • 593年 聖徳太子・摂政となる
  • 603年 冠位十二階を定める
  • 604年 十七条憲法を制定
  • 607年 遣隋使・派遣(1回目)
         法隆寺・建立
  • 608年 遣隋使・派遣(2回目)
  • 614年 遣隋使・派遣(3回目)
  • 620年 「天皇記」「国記」編さん
  • 622年 聖徳太子・没

と、いう感じになります。

まずは、誕生からして、ちと怪しい・・・

聖徳太子の母がウマヤで産気づいて太子を生んだので厩戸皇子・・・って、これはどう考えてもキリストのパクリです。

以前、切支丹禁止令と戦国日本】(12月23日参照>>)のページで書かせていただいたように、フランシスコ・ザビエル日本にやってくる以前から、キリスト教は日本に伝わっていました。

もちろん、宗教としてではなく、話として伝わったという感じの物でしょうが、635年の唐の時代の中国で、正式な布教活動が行われているのですから、あれだけ遣唐使を送って大陸文化を吸収した日本に、伝わっていないほうが不自然です。

正史とされる『古事記』『日本書紀』が書かれるのは、太子が亡くなってから100年ほども後の、すっかり平城京の奈良時代=710年頃の事ですから、その時には、キリストの出産エピソードが伝わっていて、太子を、より神格化するために付け足したと考えるほうが自然でしょう・・・って事は、厩戸皇子という名前も怪しい・・・

次に、物部守屋VS蘇我馬子の抗争では、太子は馬子側について参戦し、物部氏を滅亡に追いやるのですが、この時のエピソードは明らかに人間ワザを越えた神の領域の物のなので、参戦したという事以外は、すべて怪しい・・・と考えたほうが良いかも知れません。

次に、今日の話題である摂政・・・
これは『日本書紀』
「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立てて皇太子(ひづぎのみこ)とす。仍(よ)りて録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしむ」
とあるので、一応、事実としときましょう。

次に冠位十二階・・・
実は、これは、その事が書かれてある『日本書紀』にも、
「はじめて冠位を諸臣に賜ふ」
と書かれているだけで、太子が作ったとは一言も書いてません

この冠位十二階は、最初にも書いたように、力のある豪族が、親から子へその役職を世襲制にしていた事をやめさせるために制定したはずなのですが、なぜか、一番力のある蘇我氏には適用されませんでした。

つまり、蘇我氏は別格・・・となると、どう考えても、天皇側に立った人間が作った物ではなく、蘇我氏側の人間が作った事になります。

次に、十七条憲法・・・
これには、第十二条のところに、大宝律令の後から制定された「国司」という役職が登場する事で、もはや「怪しい」・・・を通り越して、「ありえない」といったほうが良いかも知れません。

次に、遣隋使は・・・
これは、どう考えても太子ひとりでできる事ではありません。

最初の提案くらいはしたかも知れませんが、こんな大きな国家プロジェクト・・・いろんな人が関わってるに決まってますからね。

ただし、1回目の遣隋使の時は、小野妹子にあの有名な「日出づる処(ところ)の天子・・・」国書を持たせてますから、太子も関わっていた事は確かでしょう。

でも、2回目・3回目は太子がいるいないに関係なく派遣する事は可能でしょうね

次に法隆寺の建立に関しては・・・
実は、太子と法隆寺を結びつける決定的な史料はありません。

法隆寺を建立したというよりは、現在の法隆寺の場所に当時あったとされる太子の邸宅・斑鳩宮(いかるがのみや)に移ったというのが正解でしょう。

当時の都は明日香です。
政治の中心が明日香にあるにも関わらず、太子が斑鳩に引っ越したという事は、すでにこの時点で、政治の表舞台から退いたと考えられます。

摂政になった時から、わずか14年で、おそらく太子は、政界を引退していたのです。

次に、『天皇記』『国記』の編さん・・・
これは、蘇我馬子の命令のもと、蘇我氏によって編さんされた物で、太子は代表者として名前を貸しただけのような存在です。

その証拠と言えるかどうかわかりませんが、この『天皇記』と『国記』・・・完成後は、蘇我氏が保管していて、『国記』のほうは、あの入鹿暗殺=乙巳の変(6月12日参照>>)の時、全焼した蘇我蝦夷の邸宅とともに灰になり、『天皇記』のほうは、無事残ったものの、入鹿を暗殺した中大兄皇子(後の天智天皇)の手に渡った後、行方不明となってます。

つまり、その内容は蘇我氏の歴史・・・という物であったと思われ、中大兄皇子くん、抹消しちゃいましたね・・・たぶん。

最後に、太子の死については、以前【聖徳太子・死因の謎】(2月22日参照>>)と題して書かせていただきましたので、ここでは省かせていただきます。

以上・・・

こうしてみると・・・どうでしょう?

今のところ、「事実である」とされる事が、摂政に就任した事と、小野妹子に持たせた国書だけという事になってしまい、実に怪しい・・・。

結果、「架空の人物説」「蘇我入鹿説」などが登場する事となります。

はたして、この謎が解けるのは、いつの日の事なのでしょうか?
 

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2008年2月27日 (水)

秀吉も催した勝利の聖地・吉野の花見の意味は?

 

文禄三年(1594年)2月27日、豊臣秀吉が、豊臣秀次・徳川家康・前田利家らとともに、奈良の吉野にて花見の宴を開催しています

旧暦の2月27日ですから、現在の暦で言えば、4月の半ば頃・・・吉野山の桜が、下千本中千本上千本の順に次々と咲き始め、まさに見頃の真っ只中といった感じでしょう。

この頃の豊臣秀吉と言えば、二年前の文禄元年(1592年)に、一度目の朝鮮出兵を行い(4月13日参照>>)、その翌年・・・つまり、この花見の前年には、男児=後の秀頼が生まれています。

そして、この花見の翌年・文禄四年(1595年)には、花見に同席している甥の関白・秀次を自刃に追い込む事になるのです。

秀次さんのご命日に、その汚名を晴らしたい!というタイトルで、彼の謀反の罪がでっちあげであろうという事、「殺生関白」と呼ばれるもととなった悪行の数々も無かったであろう事、そして、秀吉から見て秀次が、将来、わが子・秀頼の最大のライバルにあるであろう事を予測し、その存在が脅威となり、消されたのではないか?と書かせていただきました。(7月15日参照>>)

しかし、もう一つ、秀吉が秀次を脅威と感じた一因には、朝鮮出兵の時の内政のウマさにあったという説もあります。

この第一次朝鮮出兵=文禄の役の時は、秀吉は軍の指揮を取るために九州に出向いていますから、その間に留守を守り、内政を行ったのが秀次です。

この朝鮮出兵は、皆さんのご存知のように「なぜ?」という疑問が拭えない出兵です。

当時でも、反対意見が多数ある中、それらを無視して、秀吉のゴリ押しでの出兵と相成った事とは相対的に、留守を預かった秀次の内政への采配が見事で、諸大名の中には、「外征は秀吉、内政は秀次」と、はっきりした役割分担を認識する者もいて、二極化する気のない秀吉とって、これ以上秀次の評判が上がる事が望ましくなかったのではないか?というのです。

もし、本当に、秀吉が秀次を切腹に追い込む要因が、二年前の朝鮮出兵と、前年の秀頼誕生にあるとしたら、この花見の宴でのお互いの心情というのは、いかばかりだったのでしょうか?

そばにいた、徳川家康前田利家は、どこまで、彼らの心の奥を読み取っていたのでしょうか?
興味はつきませんが、こればかりは、推測するしかありませんねぇ・・・。
Sakurayosinohanamicc
ところで、以前『お花見の歴史』(3月30日参照>>)のページで、本来、万葉の昔のお花見は、「悪い日=厄日」に出かけ、真っ盛りの花をその目で見る事によって、樹木からその生命力を分けてもらうのが目的であるという事を書かせていただきました。

これは、見るタマフリです。

タマフリというのは、空気を揺るがせて波長を起こし、神様を呼び寄せて場を清めたり、人の心を奮い立たせる行為・・・これも、以前『人は別れる時、なぜ手を振るのか?』(1月31日参照>>)で書かせていただいて、神社で拍手を打ったり、鈴を鳴らしたりするのが、音のタマフリである事も、その時に書かせていただきました。

(袖)を振る事は、もちろん空気を揺るがし波長を起しますが、音も波長、光も波長である事を、古代の人がなぜ知っていたかは、おいといて、科学の時代に生きる皆さんは、もうご存知ですよね。

これらは、皆、同じ「タマフリ」という儀式がベースとなっているのです。

そんな中でも、合戦を主とする武人にとって、この吉野で花見=タマフリは特別な物と言えるかも知れません。

それは、万葉の昔にさかのぼります。

第38代・天智天皇が亡くなって、天皇の息子・大友皇子と、天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)の間で後継者争いが起こった時、身の危険を感じた大海人皇子は、一旦、吉野へ逃げる決意をするのです。

確かに、ある程度の勝算はあったとは言え、その時、彼に従う人数は、わずかに舎人20人+女官10人という寂しい吉野入りでしたから、大きな不安にかられていた事は想像できます。

そんな彼が、やがて吉野で決起し、この地から出陣し、息子たちとともに近江の大友皇子を攻めた『壬申の乱』(7月22日参照>>)・・・。

この戦いに勝利し、大海人皇子は、第40代・天武天皇となるわけですが、そんな彼の歌が万葉集に残っています。

♪よき人の よしとよく見て よしと言いし
  芳野よく見よ よき人よく見♪

一見、言葉遊びのように思える歌ですが、遊んでいるのではなく、「よき物を見る」事を強調をしている歌なのです。

吉野で決起して勝利を得た大海人皇子にとって、吉野はまさに聖地・・・よき所なのです。

良き所、良き物をよく見て・・・という事を、良き人に向かって言いふくめているのです。

良き人とは、もちろん、彼の子供たちと、そして奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)の事・・・大事な子供たちと奥さんに、タマフリで英気を養いなさいという事を歌に託しているのです。

その夫の言葉を、しっかりと受け止めるかのように、持統天皇は、夫に先立たれ、後継者にと望んでいた息子・草壁皇子にも先立たれてから、女帝として君臨するそのかたわら、31回も吉野を訪れています

女の身で国家という思い荷物を背負って、思い悩んだ時、疲れて倒れそうになった時、おそらく彼女は、夫に勝利を呼び込んだ聖地・吉野で、良き物を見て「見るタマフリ」を行い、良き歌(夫の歌)を口にして「音のタマフリ」を行う事で、その勇気を奮い立たせていたのではないでしょうか?

勝利の聖地・吉野での花見には、単に桜の名所というだけでなく、そんな昔の人々の思いが込められているのです。

この日、ここ吉野で盛大な花見を催した天下人・豊臣秀吉は、1首の歌を詠みます。

♪年月の 心にかけし 吉野山
 花の盛りを 今日見つるかな♪

長い年月・・・「いつかは、あの“たかみ”に・・・」と、駆け抜けた日々・・・
今、長年、夢見た吉野の桜とともに盛りを迎えたのは、まぎれもない己の人生・・・

吉野の花見は、勝利した男だけが味わえる最高の優越感だったのです。

今年は、一つ、良きところ・吉野で、良き花見といきたいものです。
 

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2008年2月15日 (金)

なぜ、平城京はあの場所に?影に潜む藤原氏の思惑

 

和銅元年(708年)2月15日、第43代・元明天皇(みことのり)によって、平城京の造営が布告されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

しつこいようで、心苦しいのですが、今日はまたまた、平城京のお話なので、以前『奈良の都の住宅事情』(11月8日参照>>)で、掲載させていただいた平城宮跡の写真と平城京の地図を、参考のために載せさせていただきます。

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そして、重箱の隅をつつく姑さんのようで恐縮なのですが、やはり、歴史好き、奈良好きとしては、そこは譲れない所なので、あらためて強調させていただきますが、写真のだだっ広~い史跡の名称は、『平城京跡』ではなくて『平城宮跡』

当時、西は、西大寺あたりから、東は春日山(春日大社のあたり)の裾野まで、南は九条・・・現在の大和郡山市あたりまであった平城京の、北の端に位置していた宮殿の跡が、平城宮跡なのです。

一昨年ほど前、九条の外に新たな遺構が発見されたため、今では「平城京は十条まであり、もっと広かったのでは?」とも囁かれています。

それほど、平城京というのは広かったのです。

永遠の都を願って造営された藤原京を、わずか十数年で遷都する事になるのも、第一の理由としては、その広さにあるのです。

藤原京は、耳成山(みみなしやま)畝傍山(うねびやま)香久山(かぐやま)大和三山に囲まれた場所にあり、平地の面積が少ない。

律令体制を整え、より強固な中央集権を実現する国家となると、それに比例して都の人口も増えていくものですが、藤原京は、それ以上広くする事ができない場所にあり、人口の増加に対応しきれない状況にあったのです。

その点、奈良盆地は、面積が広く、広大な都を構えるには絶好でした。

もちろん、広さだけではなく、地相という物も考慮されています。

先の元明天皇の詔の中には「それ平城の地は四禽図(きんと)に叶ひ三山鎮をなす」という言葉があります。

「四禽図に叶い」というのは、平安京遷都(10月22日参照>>)のところでも登場した風水の陰陽思想の『四神相応の地』の定義に叶っているという意味で、東に川=青竜、西に道=白虎、南に池=朱雀、北に山=玄武四方に住む神獣よって守られる土地という事です。

「三山鎮をなす」というのは、東の春日山、北の奈良山、西の生駒山(または西の京あたりの丘)三つの山が、悪を鎮めてくれるという事です。

さらに、都造営のための木材の確保という問題もありました。

十数年前に藤原京を造営した事で、付近の良質の木材は底をつき、当時はすでに、新たな寺院の建築などは、遠く近江(滋賀県)から木材を調達している状態でした。

琵琶湖の南から宇治川木津川を経て運ばれてきた木材は、藤原京だと陸揚げしてからの距離が非常に長く不便でしたが、奈良盆地なら、その悩みも解決できます。

広くて、土地柄が良く、資材の運搬に便利・・・しかし、何よりこの遷都を推し進めたのは、時の実力者・藤原不比等で、そこには、藤原一族の大きな思惑も秘められていたのです。

それは、つい先日『長屋王の変』(12月12日参照>>)にある第45代・聖武天皇の即位にも関係があります。

藤原京を造営したのは、ご存知、第41代・持統天皇・・・壬申の乱(7月22日参照>>)で勝利して頂点に立った夫・天武天皇の遺志を継がせようとした息子・草壁皇子は、皇位を継ぐ前に亡くなってしまい、その期待は草壁皇子の息子(つまり持統天皇の孫)・第42代・文武天皇へと移ります。

持統天皇が、幼い文武天皇を上皇という立場からサポートし、数多くいた天武天皇の息子たちも、それを支える・・・つまり、その時、政治の中心にいたのは、皆、皇族の人たちという事になります。

ところが、その文武天皇の夫人であった宮子が、男の子を出産します。
これが、首皇子(おびとおうじ・後の聖武天皇)です。

そして、宮子のお父さんが藤原不比等・・・この首皇子が天皇となれば、藤原一族は皇族の親戚として、大いに政治に関与できる事になります。

父・藤原鎌足が大活躍した乙巳の変(いっしのへん・蘇我入鹿暗殺)大化の改新(6月12日参照>>)のおかげで、その臣下の第一番の座についていた不比等でしたが、それまでは、あくまで臣下・・・皇族を助ける役回りでしかなかった藤原氏が、政治の中心に躍り出る絶好のチャンスが訪れた事になったワケです。

しかし、臣下の者の中には、まだまだ古い体制を維持しようという者や、もともと、中臣氏の中でも下層にいた鎌足の子孫である藤原一族に反対の姿勢をとる昔からの名門氏族たちもいました。

彼らの多くが飛鳥(明日香)の地に根をはった豪族たちですから、そんな飛鳥から離れた土地に都を遷して、「旧勢力を払拭しよう」・・・それが、不比等の一番の狙いだったのではないでしょうか。

天皇を中心に、皇族たちが行っていた『皇親政治』

それが、ここに一つの時代の転換期がやってきます。

天皇を中心に据えながらも、臣下である貴族・豪族が強い発言権を持つ『貴族政治』

この先、何百年も続く、この政治体制が、今、この瞬間に生まれました・・・平城京遷都の一番の目的は、新たなる時代への第一歩となる新体制の確立だったのではないでしょうか。
 

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2007年12月22日 (土)

女帝・持統天皇の葛藤~ご命日にちなんで・・・

 

大宝二年(704年)12月22日、第41代・持統天皇58歳で亡くなりました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

♪春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
  衣乾すちょう 天の香久山♪

Zitoutennouyamatosanzancc 明日香・甘樫丘から見た大和三山

子供の頃、あまり意味もわからないまま手にした『小倉百人一首』
百枚のカードの中で、ひときわ美しく、ひときわ豪華な一枚がありました。

この歌が書かれた持統天皇のカードです。

彼女は、亡き夫・天武天皇の後継者に・・・と思っていた息子・草壁皇子を失い、その草壁皇子の息子・(かる)皇子が、まだ幼いため、自らが天皇となって、その座を守った女帝。

この歌は、自らが造りあげた壮大な藤原京に立ち、大和三山を眺めながら、まもなく夏を迎える真っ青な空と、心地よい風をはらんではためく真っ白な洗濯物に目を細め、まさに天下を掌握した、堂々たる勝利の歌に聞こえます。

しかし、実際の彼女の心の内は、おそらく、生涯、休まる事はなかったでしょう。

愛する夫の残した地位を、子へ孫へバトンタッチするために、彼女は心を鬼にして、冷酷に、冷徹に生き抜いていったに違いないのです。

持統天皇が生まれたのは、大化元年(645年)、あの蘇我入鹿の暗殺(6月12日参照>>)から大化の改新へと、時代がめまぐるしく変わったその年です。

父は、自らの手で、その入鹿を斬った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)
母は、蘇我一族でありながら、その中大兄皇子のクーデターに協力した蘇我石川麻呂の娘・造媛(みやつこひめ)

しかし、その大化の改新が成された、わずか4年後・・・つまり彼女が4歳の時に、石川麻呂は謀反の疑いをかけられ自害し、傷心の母・造媛も、石川麻呂の後を追って自殺します(「12月4日参照>>)

父が、祖父を攻め、その苦悩に耐えられず母が死ぬ・・・幼い彼女には、その光景がどのように映ったのでしょう。

やがて13歳の時に、彼女は、父・中大兄皇子の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)と結婚します。
兄弟でも母親が違えば結婚の対象となったこの時代ですので、叔父と姪の結婚は不思議ではないのですが、この時、大海人皇子はすでに27歳・・・当時としては親子ほど離れた、この歳の差は、あきらかに政略結婚です。

なぜなら、彼女が結婚した翌年には、あの有間皇子の事件が起こっているからです(11月10日参照>>)

有間皇子は、入鹿暗殺のすぐ後に即位した第36代・孝徳天皇の息子・・・将来、天皇の後継者を争う事になるであろう人物を中大兄皇子が抹殺したのは明白です。

そう、中大兄皇子の弟である大海人皇子も、中大兄皇子にとっては、来るべき将来、後継者を争う事になるかもしれないライバルなのですから・・・。

自分の娘を嫁がせて、そのライバル心を押さえようとでも言うのでしょうか・・・大海人皇子のもとには、同じ両親から生まれた姉・太田皇女も、すでに嫁いでいました。

しかし、たとえ政略結婚であったとしても、亡き母の事件を目の当たりにしてきた少女にとっては、酸いも甘いも噛み分けた大人の夫は、頼れる伴侶だったようです。

やがて、中大兄皇子が、第38代・天智天皇として即位する頃には、皆が心配していた通り、兄と弟の間には、亀裂が生まれはじめるのです。

それは、日に日に成長する天智天皇の息子・大友皇子・・・。
最初は、ともに政治を行っていた弟・大海人皇子に皇位を譲るつもりでいた天智天皇に、やはり息子・大友に皇位を譲りたいという気持ちが出てきたのです。

彼女・持統天皇にとっては、今度は父と夫の争いという事になりますが、この時、彼女は父ではなく、夫を選びます。

天智天皇の気持ちを察した大海人皇子が吉野へと身をひそめますが、彼女は夫に従い、ともに吉野へ向かうのです。
この時、ともに大海人皇子に嫁いでいた姉・太田皇女はすでに病死・・・彼女は大海人皇子の妃の中ではトップの座についていたのです。

そして、天智天皇の死後、一旦は大友皇子が後継者となりますが、大海人皇子は、すぐに挙兵します。
壬申の乱の勃発です(6月24日参照>>)

壬申の乱に勝利した大海人皇子は、第40代・天武天皇として即位し、彼女はその皇后となります

様々な政権争いに翻弄された彼女にも、やっと平和な日々が訪れたかに見えましたが、実は、水面下では彼女の最大の苦悩が待ち受けていたのです。

そう、今度は、天皇となった夫の後継者です。

彼女には、夫との間に設けた草壁皇子という息子がいましたが、そのライバルは一つ年上の大津皇子
彼は、亡き姉・太田皇女の息子・・・彼女にとっては、かわいい甥っ子にあたる人物です。

しかし、明るく有能で積極的な大津皇子に対して、わが息子・草壁皇子は病弱で少し弱気な性格・・・帝王となるには、誰が見ても大津皇子のほうが勝っていたのです。

ここで、偉大なる母は、鬼となるのです。

朱鳥元年(686年)、天武天皇が亡くなると、わずか、その1ヵ月後に、謀反の罪で大津皇子を死刑にしてしまうのです(9月24日参照>>)

この時の一連のやり方は、様々な人間に大津皇子を誘惑させ、最終的に大津皇子だけを抹殺し、自らが即位して持統天皇となる・・・まさに血も涙もない鉄の女のように映ります。

しかし、彼女の心の中には、冷酷にはなりきれない様々な葛藤があったに違いないのです。
彼女は、この大津皇子の死の直後から、10年間に、26回も吉野へ通います。

吉野は、あの時、後継者争いを避けて、夫・天武天皇とともに向かった思い出の場所・・・彼女は、幼い頃から目の当たりにして、嫌でたまらなかった後継者争いに、気がつけば自分自身が手を染めていた事に耐えられなかったのではないでしょうか?

しかし、助けてほしい頼れる夫は、もうこの世にはいません。
何とか、亡き夫の心に触れようと、吉野へ通ったのかも知れません。

やがて、心を鬼にしてまで、ライバルを消したにも関わらず、わずか3年後に、最愛の息子・草壁皇子が病死してしまうのです。

悪に手を染めて行った自分の一連の行動は何だったのか?・・・彼女にとって、この時ほど、自暴自棄になった事はなかったでしょう。

しかし、折れそうになる心を奮い立たせて、偉大なる母は戦い続けます。

「亡き・草壁皇子の息子・軽皇子が成長するまでは、この天皇の座を譲れない」と・・・。

最初に、紹介した持統天皇の有名な歌は、この頃(持統九年・695年)詠んだとされています。
天下を掌握したおおらかな帝王の歌の裏には、彼女の、人には言えない影の部分が隠されていたのかも知れません。

それは、この同じ頃に伽藍が完成したあの薬師寺(10月4日参照>>)
その薬師寺の東院堂にある聖観音菩薩像は、持統天皇が大津皇子をモデルにして造らせたと言われる仏像です。

その、爽やかですがすがしい表情の仏像が、本当に大津皇子の姿だとしたら、持統天皇の心の中は、悔やんでも悔やみきれない、大津皇子への懺悔の気持ちでいっぱいだったように思うのです。

やがて文武元年(697年)、成長した軽皇子は文武天皇として即位します。

退位した持統天皇は、若き天皇をサポートしつつ、あの大宝律令(8月3日参照>>)を成し遂げ、大宝二年(704年)12月22日58歳でこの世を去るのです

果たして、最後に彼女の脳裏をかすめたのは、すべてを成し遂げ、最高の状態で孫に皇位を譲り、愛する夫のもとへ旅立つ満足感だったのでしょうか?

それとも・・・。
 

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2007年12月 4日 (火)

数奇な運命をたどった山田寺の未来への遺産

 

天武八年(678年)12月4日、蘇我倉山田石川麻呂の発願による『金銅丈六仏』が鋳造されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)という人は、あの『蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺=乙巳の変(いっしのへん)(6月12日参照>>)の一件に関わった人物です。

その日のブログを読んでいただくとわかるように、宮廷の大極殿にて、彼が外交文書を読み終えた瞬間が、入鹿に斬りかかる合図となっていました。

つまり、彼は、蘇我氏の一員でありながら中大兄皇子(後の天智天皇)中臣(後の藤原)鎌足に組みした、蝦夷(えみし)・入鹿たち本家・蘇我氏から見れば裏切り者という事になりますが、石川麻呂の娘・造媛(みやつこひめ)が中大兄皇子と結婚している事を考えると、納得の裏切り行為です。

強い本家が倒れたなら、自分が蘇我氏でトップに立てるかも知れないわけですから・・・。

案の定、蝦夷・入鹿が倒れ、大化の改新が成され始めると、石川麻呂は右大臣に収まり、羽振りの良さの頂点に達します。

そんな石川麻呂ノリノリの時期、かねてから建築を進めていた自身の名がついた山田寺の建設にも本腰が入ります。

最初に書かせていただいた『金銅丈六仏』は、石川麻呂の構想では、その山田寺の本尊となるはずでした。

石川麻呂が建築を始めた山田寺と、その本尊になるはずだった仏像・・・
この二つは、世間一般には、あまりお馴染みではないかも知れませんが、歴史好きにとっては、かなりのシロモノ・・・ご存知ない皆様にも、今宵はぜひ、そのズゴさを知っていただきたいです~。

まずは、山田寺のお話から・・・

羽振りの頂点に達して、山田寺の建築を急ぐ石川麻呂でしたが、あの乙巳の変からわずか4年後の斉明五年(649年)に、謀反の疑いをかけられてしまうのです。

中大兄皇子の派遣した軍に攻め込まれた石川麻呂は、建築中の山田寺の仏殿にて「無実で死ぬ事になるが、君王(きみ)を恨んだりしない!私は死んでも君王の忠臣である」と言い残して、斉明五年(649年)3月25日、自害するのです。

この時に山田寺は炎上し、当然、その後の工事もストップ。
父の非業の死と、攻めたのが夫の軍である事にショックを受けた造媛も、その後を追って自害してしまいます。

しかし後になって、石川麻呂の蔵から発見された様々の資財には、皇子に忠誠を誓っていたと思われる物が多数発見され、皇子も、「彼が無実であった事を知り、深く反省した・・・」と、『日本書紀』には書かれていますが、はてさて、本当にあの中大兄皇子が反省したのかどうか・・・むしろ、計画的に、先々(藤原氏の)邪魔になるであろう者を抹殺した感も拭えない一件ではあります。

本心はともかく、無実であった以上、その名誉も回復してあげなくては・・・と、即位して天智天皇となった中大兄皇子は、天智二年(663年)に中断されていた山田寺の工事を再開させるのです。

これには、造媛の娘(つまりは中大兄皇子=天智天皇の娘でもあるわけですが)鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)「おじいちゃんの名誉回復してあげて~」という願いが多分に含まれていると思われます。

やがて、天智天皇が亡くなり、壬申の乱(7月22日参照>>)に勝利した天武天皇(天智天皇の弟)の世となり、この時期に山田寺が完成します。

そう、その鵜野皇女は天武天皇の奥さんですから、思う存分ジッチャンの名誉回復ができたわけです。

・・・で、その山田寺がなぜ有名かと言いますと・・・

結局、その後、中世には衰退し、明治には廃寺となって山田寺跡という史跡が残るのみだったのですが、昭和五十七年(1982年)12月に、奈良県桜井市にある、この山田寺跡の地中から、東回廊の部分が倒れた状態で発見されたのです。

飛鳥時代に建てられた多くの寺院が崩壊し、その姿が確認できない状態となっています。

Yamadaderahakkutucc しかし、この山田寺の東回廊はどうでしょう?
倒れた状態・・・というのが建築物としてみなされるのか、どうかわかりませんが・・・

そうです。
先日、書かせていただいたように、法隆寺が再建されていた(11月2日参照>>)事が濃厚となっている今、この山田寺は、その法隆寺より半世紀も早い、現存する世界最古の木造建築という事になります。

現在、この山田寺の東回廊は、状態の良い部分に補修をほどこし、14年という歳月を費やして見事!飛鳥資料館の内部に復元されています。
(資料館の場所はHPでどうぞ>>)

そして、今日の話題・・・天武八年(678年)12月4日『金銅丈六仏』の鋳造です。

天武十二年(685年)、ご本尊薬師如来は、開眼供養となり、鵜野皇女は、おじいちゃんの願っていたご本尊を、やっと造ったのです。

でも、「回廊のみが残る廃寺になって、仏像は無くなったんじゃないの?」
・・・と、お思いでしょうが、実はこの仏像も数奇な運命をたどり現存するのです。

先ほど書いたように、山田寺は徐々に衰退し、平安時代にはすっかり勢いが無くなっていました。

そんな時です。
例の平家との抗争・・・奈良の興福寺が、あの平重衡との一戦のため、ほぼ全焼の憂き目に遭ってしまいます・・・『南都焼き討ち』(3月10日参照>>)です。

興福寺のご本尊が焼失してしまい、当然「何とかご本尊を・・・」という事になりますが、何と、興福寺の僧や衆徒が、山田寺のご本尊を盗んできて、興福寺・東金堂のご本尊にしてしまったのです。

「桜井市から奈良市まで、どうやって運んだの?」と聞きたくなるくらいけっこうな大きさだったご本尊・・・衰退の一途をたどる山田寺と、当時全盛の平家を相手に戦いを挑む興福寺とでは、その力の差が歴然としていたんでしょうね。

こうして、山田寺の薬師如来は、興福寺の薬師如来となります。

しかし、そのご本尊も応永十八年(1411年)、興福寺・東金堂に雷が落ち、火災となって仏像も頭部だけとなり、「台座の下に入れた」という記録はあったものの、誰も確認した事がなかったのです。

ところが、昭和十二年(1937年)、東金堂の修理中、台座の下から、焼け残った頭の部分が本当に発見されたのです。

Yamadaderabuttoucc 現在、『胴造仏頭』という名称で興福寺・国宝館に収められているこの仏様・・・白鳳時代のお手本とも言えるデザインで、しかも鋳造年月日が明らか。

まして、すがすがしい青年のような顔立ち・・・今や国宝となった、貴重な日本の遺産です。

この仏頭なら、歴史の教科書や美術の教科書でご覧になったかたも多いんじゃないでしょ
                  うか。

そう、これが山田寺のご本尊だったのです。

少し、歴史の歯車が狂えば、現在の私たちが見る事は無かったかも知れない二つの遺産・・・「山田寺・東回廊」「ご本尊・仏頭」

これからも、歴史の重さ、歴史のおもしろさ、そして、歴史のすばらしさを教えてくれる未来への遺産となる事でしょう。
 

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2007年11月18日 (日)

石舞台古墳のあるじは?

 

今日、11月18日は『土木の日』なのだそうです。

明治十二年(1879年)に、日本で最初の工学系の学協会・日本工学会が設立された事と、『土木』という文字を分解すると「十一」「十八」になる事から昭和六十二年(1987年)に制定された記念日だそうです。

土木技術・・・というと、ついつい思い出してしまう古墳(歴史が好きなもので・・・)
思い出したら、もう、頭から離れないので、今日は古墳について書かせていただきます

以前、古墳については、仁徳天皇陵の大きさや埴輪の使用目的についてチョコッと書かせていただきました(3月22日参照>>)ので、本日は、奈良県明日香村にある石舞台古墳を中心に、古墳のお話を進めさせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古墳と言えば、ついつい仁徳天皇陵(大山古墳)のような、鍵穴の形をした前方後円墳を思い出してしまいますが、実はあの形は意外に少ないのです。

Kofunnokataticc 約20万ほどある古墳の中で、その90%が円墳と呼ばれる丸い形の古墳です。

大きく差があいて、その次が方墳と呼ばれる四角い形の物です。

今から1700年前の3世紀の後半から~7世紀にかけて多く造られ、この時代を古墳時代と呼びますが、ご存知のように、古墳というのは、古代の王や豪族たちのお墓・・・その大きさは、権力の大きさでもありました。

お墓ですから、山のように見えるその古墳の中には、必ずその遺体を葬るお部屋・石室があります

石を積上げた部屋を造って、そこに遺体の入った石棺を安置したのです。
仁徳天皇陵の場合は、丸い部分の真ん中あたりにそのお部屋があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Isibutaiphotocc 有名な奈良県明日香村石舞台は、昔は「その舞台の上でキツネが踊った」なんて伝説もありましたが、もちろん、これは舞台ではありません。

この石舞台は先ほど説明した古墳の石室の部分なのです。
写真などで見ると、このように石の部分だけを見てしまうので、一見古墳のように見えませんが、この石舞台が造られた当時は、この上に土が盛ってあって、小山のように見えていたはずです。

石舞台は一辺が55m、高さ2m以上もある方墳・・・最初にご紹介した古墳のいろいろな形の中の四角いヤツです。

高さが2m以上・・・というのは、つまり先ほど言いましたように、上に盛られたはずの土が無くなっているので、高さがわからないという事です。

Isibutaisouzoucc 「こんな感じかな?」と想像図を描いてみましたが、この赤い矢印のところの点線で囲った部分が石室のある部分ですから、現在の石舞台は、この部分だけを見ているという事です。

今はまわりに木や草花が植えられているため、ちょっとわかり難いですが、今でも、石舞台のまわりは四角い土手のようになっていて、よ~く見ると、方墳だった部分が確認できますよ。

Isibutaimeizicc もちろん、これは近代の発掘調査のおかげで、江戸時代には、この四角い形の部分は、すっかり埋まっていて、巨石だけが露出し、すでに『石舞台』という名前で呼ばれ、謎の巨石として観光名所になっていたそうです。

それにしても、なんと言っても興味があるのは、こんな大きな石をどうやって運んだのか?という事ですね。

もちろん、それまで発見されていた様々な史料から、おそらく、丸太を石の下に置き、コロのように使って、縄で引っ張って転がして・・・という風に想像はされていましたが、あくまで、コロを使用という事だけで、あとは想像するしかありませんでした。

しかし、昭和五十三年(1978年)、大阪は藤井寺三ツ塚古墳から巨石運搬に使用されたと思われる『修羅』が発掘され、古代史に画期的な変化をもたらしました。Syuracc 現在、この修羅を復元した物が、近くの道明寺天満宮に展示されています。
これを、見れば一目瞭然・・・「こうして運んだんだなぁ」と、風景が目に浮かぶようですね。

ところで、石の運び方とともに、気になるのはやはり、この石舞台が誰のお墓なのか?という事ですね。

この被埋葬者については、一般的には、蘇我馬子ではないか?と言われていますが、実は、私も、今のところそうではないか?と思っています。
(あくまで、今のところ・・・です。新たな発見があるかも知れませんので・・)

その理由は、まず、大きさです。
55m四方・・・というのは、かなりの大きさです。

もしかしたら、この記事を読んでいただいている方の中にも、「石舞台を見に行った事があるけれど、回りが四角くなってるなんて気づかなかったよ」という方がいらっしゃるんじゃないですか?

当然です。
気づかないくらい大きいのです。
Isibutaiphuto2cc この写真・・・ちょっと見にくいんですが、まわりに木があるため、これ以上遠くへ離れると、木に隠れてしまってよけいにわかり難いので、ここが限界なのですが、左に見える石舞台・・・そして右はしが階段になって、土手のようになっているのがわかりますか?

ここが、方墳の跡なのですが、これでも上部で、この下にさらに広い下部があったわけですから、その大きさが想像できるという物です。

しかも、この石舞台古墳が造られたのは、古墳時代でも後期です。
仁徳天皇陵が河内平野に造られた時代には、それこそ大きさを競うように巨大古墳が造られましたが、古墳時代も後期になってからは、徐々にその大きさは小さくなっていました。
その時代に、この大きさです。

埋葬された人物が、よほどの権力者であった事がわかります。

さらに、この石舞台古墳のまわりには、この古墳が造られるために潰された、小さな古墳の跡も見てとれるのです。

先日、【宗峻天皇・暗殺事件のページ(11月3日参照>>)でも書かせていただきましたように、私は蘇我馬子→蝦夷→入鹿の蘇我氏三代は、当時政権を握っていた王ではないか?と思ってします。

以前の政権を倒して、新政権をうち立てた馬子なら、昔の古墳を壊して・・・という事にも納得できますし、その大きさにもうなずけます。

そして、その後、乙巳の変』(6月12日参照>>)で入鹿が暗殺され蘇我氏は滅亡・・・つまり、再び政権交代が起きたわけです。

この石舞台の壊れっぷりも、その政権交代があった事を考えれば納得です。

たとえば、同じく明日香村で有名な高松塚古墳なども、すでに鎌倉時代に盗掘され、穴が開けられているにも関わらず、古墳の形そのもは、古墳とわかる状態でした。

死者とともに、多数の副葬品が納められている古墳は、多くの場合盗掘という憂き目に遭います。
宝物を求めて盗賊は、歴史もクソも関係なく進入しますからね。

しかし、、さきほども書きましたように、この石舞台古墳は、昔の人が気づいた時には、すでに「石舞台=謎の巨石」と思うくらい壊れていた事になります。

石室が露出するくらい壊れた(あるいは壊された?)という状況は、あたかも『日本書紀』の中で、悪の権化として描かれる蘇我入鹿と、同じ事が言えるのではないか?という気がしてしかたがないのです。
 

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石室の造り方など、「もっとくわしく~」という方は、HPの【もっと古墳を知ろう】のページを見てくだされ>>
ビジュアル図解で説明しています~内容ちょっとかぶってますが・・・。

 

 

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2007年11月14日 (水)

天武天皇も怒られた?日本のギャンブルの歴史

 

11月14日は、全国遊技業協同組合が設立した「パチンコの日」だそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

パチンコの元になったのは、アメリカで生まれたコリントゲーム
スマートボールとも言いますが、台が斜めになっていて、「玉をはじくとコロコロ転がって釘をすり抜けながら連なった穴に入り、縦横斜めに並べばOK!」という、卓球とともに温泉には欠かせないアレです。

昔は、夏休みの工作なんかに作ったりもしました。

そんなコリントゲームの台が縦になって日本に伝わり、昭和五年(1930年)11月14日には名古屋で、パチンコ店・第一号の営業が許可されたそうですが、全国的に大流行し始めるのが、太平洋戦争が終ってまもなくの頃・・・。

娯楽の少なかった時代に、突如として現れ、またたく間に大ヒットとなったのです。

それにしても、パチンコに限らず、そして、洋の東西を問わず、どうして人はこんなにギャンブルが好きなんでしょうね。

以前、いい碁の日』(1月15日参照>>)にも書かせていただきましたが、ああいうのを見ると、「時代が変わっても同じなんだなぁ」って、遠い昔の人に親しみを感じたりします。

ドイツの賭博研究家(そんな肩書きあるんや!)の名言に、「賭け事は人類とともに発生している」というのがありますが、ホント、おっしゃる通り、きっと、ヤリでマンモスを追っかけてた時代からあったんじゃないでしょうか。
文字よりも先に誕生してるんじゃないか?とさえ思います。

ただ、記録として残ってないと歴史としては語れませんからね~。
・・・で、日本で最も古いギャンブルの記録は・・・やはり日本初の宝庫・『日本書紀』にあります。

「天武天皇十四年、大安殿に御し、王卿をして博戯せしむ」
天武十四年と言えば、西暦685年。
いい碁のページに書きましたように、囲碁が中国から伝えられたのが大宝律令の701年頃とすると、やはり、こちらのほうが15年早い事になります。

・・・で、この時、何が行われたかと言いますと、それは「双六(すごろく)です。

これは、今、皆さんが思い描く双六ではなく、『盤双六』という、約30cm~40cmくらいの双六盤に向かい合って、二人で勝負する双六です。

白と黒のコマを15ずつ持ち、竹筒に入った2個のサイコロを振り、出た目の数だけコマを進め、早く相手の陣地にたどり着いたほうが勝ち・・・というルールでした。

もちろん、この時は、「天皇自らが勝負する」という事ではなくて、おそらく「天覧試合」という形で行われたのでしょうが、天武天皇以下、多くの人の目を釘付けにした事は確かでしょうね。

『万葉集』には、
♪ひとふたの 目のみにはあらず 五つ六つ
  三つ四つさえあり 双六のさい♪

・・・なんて歌も詠まれているくらいですから、きっと宮中で大流行したんでしょうね。

・・・で、そうなってやりすぎると怒られるのが世の常です。

もちろん、日本書紀には、「天武天皇が嫁の持統天皇に怒られた」とは書いていません。

日本書紀は政府の公式文書ですから、もし、仮に怒られたとしても、そんな事は書くわけないですし・・・。

実は、天武天皇は、この双六の天覧試合のあった翌年・686年に亡くなっているのですが、その後を継いで、持統天皇として即位した鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)・・・その夫の死から、わずか3年後の持統三年(689年)12月8日に、『双六禁止令』を出しています。

「奥さん、メッチャ怒ってはりますやん!」
・・・て、感じしませんか?

しかし、この禁止令は、その後も度々出されているので、やっぱ、いくら禁止しても、人間、なかなかやめる事ができなかったんでしょうね。
多少の金品も動いていたようですし・・・。

やがて、室町時代の頃には、この盤双六は完全にバクチと化してしまい、その後の江戸時代には、双六の道具の一部であったサイコロのみで、賭ける・・・そう、あの時代劇でよく見る「丁か?半か?」というバクチの王道をたどる事になります。

盤双六がすたれる一方で、逆に、『絵双六』という、お正月によく見るお馴染みの双六が登場してきます。

このパターンの双六は、寛文年間(1661年~1673年)に、『仏法双六』と呼ばれる物が最初とされています。

仏法双六は、わかりやすい絵が書かれた物で、「良い目が出ると極楽に行き、悪い目が出ると地獄に落ちる」という人生ゲームさながらの双六でしたが、これは天台宗の教えを、若い僧に目で見てわかるように教える教材として生まれた物でした。

やがて、こちらは江戸時代には、「江戸をスタートして京都であがり」となる『道中双六』や、「田舎から出てきた少年が、ちゃんこ番から幕下になり、苦労の末、やがて横綱になる(かわいがりは無し)という『出世双六』など、子供の遊びの定番として今に伝えられるようになったのです。

以上、今日は、『パチンコの日』という事で書き始めたのに、途中から、双六の話になってしまいました~
(パチンコやらないもので)・・・申し訳ないっす<(_ _)>
 

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2007年11月 3日 (土)

崇峻天皇・暗殺事件の謎

 

崇峻五年(592年)11月3日、第32代・崇峻天皇が、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒によって暗殺されました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この1ヶ月前の10月4日、崇峻(すしゅん)天皇のもとにイノシシが献上された時の事です。

目の前で料理されるイノシシを見て天皇はこうつぶやきました。
「あぁ、いつになったら、このイノシシの首を切るみたいに、憎たらしいアイツの首を切る事ができるんやろ・・・」

その天皇のつぶやきが、6日後には時の権力者・蘇我馬子の耳に入ります。
しかも、「何やら天皇が兵を集めている」という情報・・・

「このまま、天皇の襲撃を受けてはたまらん」と、崇峻五年(592年)の11月3日、なんやかんやと理由をつけて、天皇を儀式の席に誘い出し、配下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)暗殺をさせたのです。

・・・と、『日本書紀』には書かれています。

出ました!またまた、突っ込みどころ満載の『日本書紀』
(前日・前々日と聖徳太子一族の話題だったもので・・・)

『日本書紀』公式文書です。
その文書に「国家元首が暗殺された」なんて事を書くのは前代未聞じゃありませんか?

確かに、幕末の孝明天皇の場合も暗殺説(12月25日参照>>)として、ブログに書かせていただきましたが、あくまで疑わしいというのであって、こんなにはっきり実行犯の名前まで記録しているなんて事はありません。

しかも、事件後に黒幕である馬子が処分を受けた様子もありません

逆に、崇峻天皇は天皇であるにもかかわらず、その日のうちに埋葬されています。

当時は、位の高い人が亡くなった時は『もがり』と言って、2~3年間は鎮魂の儀式をするのが慣わしでしたが、そんなものは一切無く、一般人扱いで葬られてしまっています。

そんな事しといてお咎めなしはあり得ない出来事です。

『日本書紀』の言い分では、「馬子が周到な計画を立てて実行したために、詳しい事がわからなのでお咎め無しは仕方が無い」のだそうです。

その周到な計画というのは、・・・
天皇の遺体の埋葬が素早かった事。
事前に馬子の命令で、主だった臣下の者を九州に出張させていた事。

また、実行犯である東漢直駒が、事件直後に天皇の妃に手を出しちゃった・・・という事で、馬子に処刑されているのですが、、それがいわゆる口封じであって、真実を知る者がいない・・・と言うのです。

真実を知る者がいない・・・だから処分は無し・・・でも、暗殺・・・と、まったく、つじつまが合いません。

確かに、当時は、蘇我氏の目の上のタンコブであった物部氏を倒して、頂点を掌握していた蘇我馬子です。
崇峻天皇は、馬子と額田部皇女(後の推古天皇)とが擁立した傀儡(かいらい・あやつり人形)だったとも言われています。

しかし、豪族は蘇我氏だけではありません。
もし、本当に天皇が暗殺されたのであれば、出張先の九州からでも、即刻、馳せ参じて問題にしなければなりません。
天皇暗殺は、それくらい重要な出来事です。

この一大事件を罪に問わない・・・という不可解な結末の理由について、以前書かせていただいた推古天皇のページでは、崇峻天皇の次に天皇となる推古天皇自身がこの暗殺に関与していたからではないか?という事を書かせていただきました(3月7日参照>>)

臣下の者が天皇を暗殺したのではなく、天皇家同志の争いなら、当然、罪に問われる事はありませんからね・・・。

・・・という事で、前置きが長くなりましたが(えぇ?今まで前置きやったんかい!)、今日は、もう一つ、推古天皇黒幕説とは別の推理をしてみましょう。

蘇我馬子が、崇峻天皇を暗殺したのが、事実だったとして、もう一つ、罪に問われない場合があります。

それは、蘇我馬子こそが王であった場合です。

Susyuntennoukeizucc それ以前からくすぶっていた蘇我VS物部の関係が、実際の戦争となるのは、第30代・敏達天皇の後継者争いからです。

一般的な歴史でも、敏達天皇の二人の弟の間で後継者争いが起こり、物部氏が推していた穴穂部皇子が真っ先に殺され、もう一人の蘇我氏が推していた弟・用明天皇が即位しますが、この戦争が終る前に亡くなり、戦争が終った後に穴穂部皇子の弟・崇峻天皇が即位した事になってます。

この物部氏を倒した時に、蘇我氏が天皇家も陵駕していたとしたら、たとえ、崇峻天皇が馬子を倒そうと兵を集めても、それは、謀反となるわけです。
よって、謀反人を成敗したところで、馬子が罪を問われる事はありません。

ひょっとしたら、蘇我馬子→蝦夷→入鹿のこの蘇我氏三代は、この時、政権を握っていたのではないでしょうか。

「西暦600年に、日本から隋に使者がやって来た」と、日本には無い歴史が中国の『隋書』に書かれていて、この時の使いが「わが国の王は男であると言ったという話は有名です。

日本では、西暦600年は女帝・推古天皇の時代・・・この男の王が誰のことを指すのかは、今も議論されるところですが、当時、蘇我氏が政権を握っていたのなら納得できる話です。

そして、敏達天皇のひ孫に当たる天智天皇(中大兄皇子)がクーデターを起し、入鹿を暗殺して、政権を奪回したのです。

クーデターとは政権の無い者が現政権に対して行う物・・・国家元首の息子がクーデターを起す必要は無いわけですから、この時、やはり、天皇家には政権が無かったと考えるほうがつじつまが合います。

ただ、『日本書紀』を編さんした藤原氏にとっては、天皇家は万世一系の一本線でつながっていていただかなければ・・・その万系一世の天皇家を支え、サポートしたのが中臣鎌足に始まる藤原氏なのですから・・・。

蘇我氏が政権を握っていた間の重要な部分を推古天皇の在位として、歴史を書き換える事によって、天皇家は一本につながります。

推古天皇という初の女性天皇の誕生も、他の女性天皇が中継ぎの役割だったのに対し、推古天皇の在位期間が非常に長い事も、この時代の政権交代を暗示しているような気がします。
 

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2007年11月 2日 (金)

聖徳太子のために再建された謎と不思議の法隆寺

 

昨日の山背大兄王(11月1日参照>>)の関連で、今日は、法隆寺のお話を・・・。

日本最初の世界遺産で、聖徳太子を祀る法隆寺・・・。

Houryuuzi3acc

現在、金堂に安置されている薬師如来像の光背の銘文によれば、「推古十五年(607年)に、聖徳太子が父の用明天皇の病気治癒を祈願して建立した」と書かれています。

また、『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)では推古六年(598年)の建立とされ、『日本書紀』には推古十四年(606年)と書かれています。

多少の違いはあれ、このくらいの誤差は仕方ないかな?という感じなんですが、その同じ『日本書紀』天智九年(670年)の4月のところには「法隆寺災(ひつ)けり、一屋(ひとつのいえも)余ること無し」・・・つまり「全焼した」と書かれてあります。

その後の平安時代のいくつかの書物には、「和銅年間(708年~714年)に再建をした」という記述もあります。

この、日本書紀の中の全焼説は、長い間、論争を呼んできました。

・・・というのも、美術史・建築史の観点から見れば、現在の法隆寺の伽藍は、飛鳥時代の建築様式で建てられているわけで、同じ斑鳩にある法輪寺法起寺なども、金堂内部に飛鳥様式が使用されているものの、塔などは、あきらかに天武朝の様式である事が確認されています。

「もし、法隆寺も、後の時代に再建されているなら、別の様式が取り入れられているだろう」と考えられますが、現存の法隆寺は、『高麗(こま)尺』と呼ばれる大化の改新以前にしか使用されていなかった測定基準を用いて建築されているのです。

注:今、燃えた・燃えないと論じているのは、法隆寺の西院の事です。
Houryuuzikeidaizucc ご存知のかたも多いでしょうが、法隆寺は金堂や五重塔が建つ西院と、例の救世観音が納められている8角形の夢殿のある東院とに分かれていますが、この東院は、天平十一年(739年)に、すでに平城京に都が移り、廃墟のようになっていた聖徳太子一族の住まい・斑鳩宮跡を、「このままではしのびない・・」と、安倍内親王後の孝謙天皇9月11日参照>>)が、創立した事が定説となっていますので、こちらは論争には入りません。

そして、現在の西院の南東には、『若草伽藍』と呼ばれる塔や金堂の建っていた跡が見られる事から、先ほどの論争の「法隆寺は全焼した」との主張でも、斑鳩寺と呼ばれていた当時は、若草伽藍と西院が同時に建っていて、若草伽藍が全焼し、西院だけが残ったのだとの考えが多くありました。

しかし、そんな論争に終止符を打つ時がやってきます。

昭和十四年(1939年)の発掘調査で、若草伽藍の跡地から、四天王寺式の配置(HPの【仏教建築の時代変化】参照>>)の塔や金堂跡がはっきりと確認されたのです。

さらに、西院・若草伽藍両方の中心線の方向から考えて、同時に建っていると考えるのは不可能だという事、しかも、そこから発掘された瓦は、西院のそれよりも古いという事もわかりました。

つまり、聖徳太子が創建した斑鳩寺と呼ばれた若草伽藍が焼失し、その後、現在の法隆寺・西院が再建されたという事で、今のところ、この説が定説となっているようです。

しかし、さらなる謎も残ったままです。

先ほども書いたように、再建されたのなら、なぜ?飛鳥時代の様式なのか?という事も、そして、第一、再建の年数すらはっきりしません。

特に、Houryuuzidourincc 現存する五重塔には、すごく興味をそそられます。

実は、その柱の下には、火葬された骨が埋められていましたが、誰の物なのか?
塔の中で一番重要であろう舎利を収める容器に、肝心の舎利が無いのはなぜか?

それらの答えは未だに出ていません。

さらに、その五重塔の相輪部分(屋根の一番上の部分です)には、なぜか4本のカマが装着されています。

このカマは、豊作の時には上にのぼり、凶作の時には下にさがるという伝説がありますが、なぜ、着けられているのかは謎です。

一般的には、「雷という魔物を寄せ付けないため」とされていますが、はたして、寄せ付けたくない魔物は、本当に雷だったのでしょうか?

昨日の記事で、日本書紀には「蘇我入鹿に攻撃された山背大兄王一族が、法隆寺の五重塔にて自害した」とある事を書かせていただきましたが、年代からいっても、この時の五重塔は現存する五重塔ではなく、焼失した斑鳩寺(若草伽藍)の五重塔です。

聖徳太子が、父・用明天皇の病気治癒を祈願して建てた斑鳩寺の跡に、聖徳太子を偲んで創建された太子を祀る法隆寺・西院。

孝謙天皇が、まさに天然痘の恐怖の中、荒れ放題の斑鳩宮に、太子を偲んで創建した夢殿・・・そして、その中に安置された救世観音・・・。

藤原一族にとって、聖徳太子を偲ぶという事が、どういう事かは、昨日のブログを読んでいただいたかたには、もう、おわかりいただけると思いますが・・・

そうすれば、五重塔の大きなカマで、防ぎたかったのは何なのかが見えて来るような気がします。

もちろん、たとえ法隆寺が再建されていたとしても、世界最古の木造建築である事には変わりなく、たとえ、聖徳太子一族の鎮魂のために建てられたとしても、その魅力が薄れる事はありません。

いや、むしろ、謎が深まれば深まるほど、さらに魅力を増していくようです。
 

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2007年11月 1日 (木)

聖徳太子の子・山背大兄王を殺したのは誰か?

 

皇極天皇二年(643年)11月1日、聖徳太子の息子・山背大兄王蘇我入鹿が攻撃
山背大兄王は一族とともに自害に追い込まれます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

かの日本書紀にこのように書かれている事から、教科書なのでもそう書かれています。

攻撃した理由については、聖者・聖徳太子の息子で、彼自身も人望があった山背大兄王(やましろのおおえのおう)に対して、蘇我入鹿(そがのいるか)は自分の意のままになる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を、次期天皇候補として推していたため山背大兄王が邪魔になった・・・というのが一般的です。

皇極天皇二年(643年)11月1日斑鳩宮にいて、入鹿の軍に襲われた山背大兄王は、一族郎党を連れ生駒に逃れます。

ところが、なぜか再び、斑鳩の法隆寺へ戻ってきます。

山背大兄王が言うには・・・
「戦えば勝つのはわかっている。しかし、私は戦いたくない。」
のだそうです。

・・・で、結局、11月11日、法隆寺に戻った山背大兄王一族は、法隆寺の五重の塔にて、ある者はその中で山背大兄王とともに自害し、ある者は塔に上り、西に向かって飛び降り、一族の全員が亡くなったと言うのです。

「はぁ?」
マジャでなくとも「はぁ?」と突っ込みを入れたくなりますよね。

平和な時代じゃないんですよ。
血で血を洗う王権争奪戦が繰り返されていた時代に、「戦いたくないから死のう」なんて・・・しかも、戦えば勝つのがわかってるのに・・・

百歩譲ってそう思うなら、最初から「僕は皇位継承を辞退しますんで・・・」的な発言をしておけば、襲われなかったかもしれないわけですし・・・。

何か、違和感を感じてしまいます。

ここで、思い起こされるのは、『日本書紀は勝者の歴史である』という事です。

書紀は、あの中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)とともに大化の改新に一役買った中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)の息子・藤原不比等(ふひと)が全盛の時代に編さんされた物・・・もちろん、その編さん事業には不比等以下、藤原一門が深く関わっているのです。

そうです。
この山背大兄王の死は、藤原一族の重要な事件に関わる出来事なのです。

それは、この山背大兄王の死から2年後に起きる『乙巳の変』・・・有名な「蘇我入鹿・暗殺事件」です。
事件の詳細は、その日のブログに書いていますので(6月12日参照>>)、そちらで見ていただくとして・・・

日本書紀の記述を信じるならば、この時、中大兄・鎌足らに襲われた入鹿は、倒れながら目の前の皇極天皇に向かって「私が何をしたと言うのです?私は無実です。」と言い寄っています。

皇極天皇も、「何事か!」と叫んで大変うろたえた様子です。
つまり、天皇もこの暗殺計画を知らなかったし、入鹿もなぜ自分が殺されなくてはいけないのかを知らなかった事になります。

そこで、中大兄皇子は天皇に向かって・・・
「聖者の王家を滅ぼして、天皇家を傾けようとた者を罰した」
と、高らかに宣言するのです。

聖者の王家とはもちろん聖徳太子とその息子・山背大兄王の一族の事です。
つまり、山背大兄王の仇を討ったのだ・・・というのです。

そして、入鹿の暗殺後に行われる大化の改新・・・と、ここで、「なるほど・・・」と納得するわけには行きません。

時代の流れを見てみると、腑に落ちない事が出てきます。

聖徳太子は、それまで百済一辺倒だった外交を、新羅といった大陸全体に向け、天皇の国際的地位を飛躍的に向上させた救世主です。

遣唐使制度をはじめ、あの冠位十二階も、唐を意識しての事なのは、誰もがわかっています。
この間、蘇我馬子・蝦夷・入鹿ら蘇我氏は、太子と対立関係にあったと思われがちですが、そうも言えません。

彼らは渡来人の子孫であり、日本に住む渡来人たちの束ね役でもありましたから、むしろ、渡来人たちの活躍に比例するように蘇我氏の権力も強くなっていっています。
ですから、おそらく、この「太子の外交政策に反対する」という事は無かったはずです。

最近では、「聖徳太子=蘇我入鹿説」まで登場するくらい、同じ視野で大陸を見ていたに違いないのです。

それに比べて、大化の改新の後はどうでしょう・・・。
ふたたび、百済一辺倒の外交に戻り、あげくの果てに百済再興を願う百済の王子を支援して出兵までし、白村江の戦いで大敗(8月27日参照>>)を喫してしまいます。

中大兄皇子や鎌足が、太子の遺志を継ぐ者とは、とても思えませんよねぇ。

そして、もう一つ、入鹿暗殺後に摩訶不思議な現象が起こっている事も見逃せません。

暗殺直後に、入鹿の首が中大兄と鎌足を追いかけまわし、二人が大慌てで逃げる・・・この話はかなり有名で、明日香村・甘樫の丘近くには入鹿の首が、力尽きて最後に落ちた場所に入鹿の首塚なる石塔もあります。

さらに斉明元年(655年)には大空を龍に乗った何物かが出現、続いて斉明七年(661年)5月には笠を深くかぶった鬼(怪人)が、斉明天皇(先の皇極天皇と同一人物)の前に現れ、その2ヶ月後に天皇は亡くなり(7月24日参照>>)、その葬儀の時も、その鬼が出現した・・・と言います。

書物の中には、この一連の出来事が「豊浦大臣(蝦夷か入鹿のどちらか)の仕業である」とはっきり書いてある物もあります。

つまり、「祟り」という事になります。

このブログでは、早良親王(9月23日参照>>)崇徳天皇(8月26日参照>>)などなど、他にも怨霊伝説をいくつかご紹介していますので、もう、おわかりでしょうが、怨霊伝説という物が、殺された本人より、殺した側の人間の負い目から発生する事は明白です。

中大兄・鎌足の言い分通りなら、「入鹿は大悪人で殺されても仕方が無い人間・・・俺らは仇を討ったんだ」って事ですが、それなら、なぜ?怨霊伝説などが発生するのでしょう?

諸悪の根源に正義の鉄槌を下したのなら、何の負い目も感じるはずがありません。

さらに、鎌足の子孫である藤原氏は、8世紀頃から法隆寺に多大なる支援をしはじめます。
そう、天然痘で不比等の息子たちが次々に死に、大仏建立を発案(10月15日参照>>)した頃です。

皆さんは、法隆寺の秘仏で、普段は夢殿に安置され、春と秋にだけ公開される「救世観音」様という仏像をご存知でしょうか?

この仏像は、聖徳太子の等身像と言われ、太子の生前の姿を映したものだそうですが、この救世観音は、その後頭部には、直接、光背(こうはい)が打ち込まれ、まるでミイラのように布でグルグル巻きにされて、何世紀もの間、誰も見た事が無かったのです。

確かに、「秘仏」と呼ばれる仏像は、他にもたくさんあります。
しかし、たいていの場合、それは「一般に公開していない」という事であって、僧侶たちが大切に保管しているという類の物で、「布でグルグル巻きにされて、誰も見た事が無い」というのとは、何か違う気がするのです。

まるで、その仏像の中に、何かを封じ込めたような・・・そんな気持ちさえしませんか?

ならば、誰が何を封じ込めたのでしょう。

そう、天皇家と藤原氏は、蘇我入鹿だけでなく、聖徳太子も怖かったという事ではないでしょうか?

そうなると、もちろん、山背大兄王を死に追いやったのは蘇我入鹿では無い事になるのですが・・・。

★聖徳太子関連で、ついでに、翌日の法隆寺再建のお話もどうぞ>>
 

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2007年9月 3日 (月)

時代別年表:奈良時代・前半(飛鳥・白鳳)

 

このページは、奈良時代前半の飛鳥・白鳳時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

飛鳥時代・・・というくくりに関して、このページでは、日本という国が中央集権国家へと歩み始める事に影響を与えた「仏教伝来」の552年10月13日から、「平城京遷都」の710年3月10日までを「飛鳥・白鳳時代」とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

Syoutokutaisinennpyoucc



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
552 10 13 仏教伝来
【仏教伝来・物部VS蘇我】
592 11 3 蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺
【崇峻天皇・暗殺事件の謎】
593 4 10 聖徳太子が摂政に就任
【聖徳太子のどこが怪しいのか?】
604 4 3 聖徳太子が憲法十七条を制定
【十七条憲法~その言いたい事は?】
606 7 13 ~16宮中で初めてのお盆行事
【お中元の起源と歴史】
607 聖徳太子が法隆寺を建立
【法隆寺と聖徳太子】
【太子のために再建?謎と不思議の法隆寺】
7 3 第一回遣隋使・小野妹子を派遣
【国書を失くした小野妹子が出世する】
622 2 22 聖徳太子死去
【聖徳太子・死因の謎】
628 3 7 推古天皇・崩御
【女帝・推古天皇の素顔】
630 8 5 第1回遣唐使・犬上御田鍬を派遣
【世界情勢とともに変化した遣唐使の役目】
641 舒明天皇・崩御で皇極天皇即位
【斉明天皇の心の内は・・・】
643 11 1 蘇我入鹿が山背大兄王を攻撃
【山背大兄王を殺したのは誰か?】
645 6 12 乙巳の変・蘇我入鹿の暗殺
【入鹿暗殺≠大化の改新】
6 14 孝徳天皇即位
【第36代・孝徳天皇即位】
6 19 元号を大化と定める
【元号のお話】
649 3 25 謀反の疑いで山田石川麻呂が自害
【数奇な運命をたどった山田寺・未来への遺産】
658 11 10 有間皇子死刑
【悲劇の皇子・有間皇子死刑】
661 1 6 朝鮮半島情勢悪化で天皇が九州へ
【額田王巡る三角関係】
7 24 斉明天皇・崩御
【斉明天皇の心の内は・・・】
663 8 27 白村江の戦いで敗退
【古代海外出兵・白村江の戦い】
【白村江の戦い~その敗戦の原因は?】
664 北九州に防人をおく
【単身赴任のルーツ・防人の歌】
667 3 19 近江遷都
【天智天皇~一大決心の近江大津京・遷都】
668 5 5 蒲生野で狩
【額田王巡る三角関係2】
669 10 15 鎌足が藤原の姓を賜り、翌日死去
【中臣鎌足・藤原の姓を賜る】
671 6 10 水時計によって鐘を打つ「漏刻」の完成
【時の記念日】
10 19 大海人皇子・吉野へ出発
【希望と不安~大海人皇子・吉野へ出発】
12 3 天智天皇・崩御
【天智天皇の死・政変の予感】
672 6 4 壬申の乱勃発
【大海人皇子吉野出発で壬申の乱勃発】
7 22 壬申の乱・瀬田の合戦
【壬申の乱の山場!瀬田の合戦】
7 23 瀬田の合戦に敗れた大友皇子が自害
【切腹のルーツは五穀豊穣の祈り?】
673 2 27 天武天皇・即位
【天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑】
678 12 4 山田寺の本尊・金銅丈六仏を鋳造
【数奇な運命を辿った山田寺・未来への遺産】
681 2 25 天武天皇が律令制定の詔を発する
【歴史が始まる?天武天皇の律令国家】
686 9 9 天武天皇・崩御
【天武天皇崩御で持統天皇が・・・・】
10 3 大津皇子死刑
【大津皇子・謀反発覚!】
689 12 8 双六禁止令・発令
【天武天皇も怒られた?ギャンブルの歴史】
698 10 4 奈良に薬師寺完成
【薬師寺・伽藍完成】
700 3 10 僧・道昭が日本初の火葬に・・・
【日本の火葬の習慣はいつから?】
701 8 3 大宝律令の完成
【大宝律令の役人の年収は?】
704 12 22 持統天皇・崩御
【女帝・持統天皇の葛藤】
706 宮中で「鬼儺(おにやらい)」が行われる
【節分・豆まきの起源と鬼】
708 2 15 平城京遷都を布告
【なぜ、平城京はあの場所に?】
710 3 10 平城京遷都
【なんと(710)大きな平城京】
飛鳥豆知識 【人は別れる時、なぜ手を振るのか?】
【お花見の歴史は万葉から・・・】
【勝利の聖地・吉野の花見の意味は?】
【未盗掘で発見された藤ノ木古墳の主は?】

 

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2007年8月 3日 (金)

今も昔も役人天国?大宝律令の役人の年収は?

 

大宝元年(701年)8月3日、刑部(おさかべ)親王藤原不比等(ふひと)による『大宝律令』の編さんが完成しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「律令」「律」は刑法。
「令」は、行政に関する法律の事。

それまでの大和政権では、天皇を中心とする豪族たちによる、(うじ・血縁関係の集合体)が、(かばね・政権内の地位)を朝廷からもらい政治を行うという『氏姓制度』でした。

しかし、遣唐使などから、中国の律令国家の制度がもたらされ、日本も、法律に基づく中央集権・律令国家への道を歩み始めます。

日本最初と言えば、646年の「大化の改新の詔(みことのり)や、668年の天智天皇「近江令」という事になりますが、これらはどうもアヤシイ・・・。

その後も、「大宝律令」が発令されるまでの間には、もう一つ、天武天皇「飛鳥浄御原(きよみはら)令」というのも発令されてますが、どれもこれも、その文章の中に、明らかに大宝律令が制定されてから後に使われ出す官職名などが登場する事から、その「令」自体を疑問視する声も上がっています。

やはり、日本が本格的に、律令国家として歩み出したのは、この『大宝律令』から・・・と考えたほうか良さそうです。

『大宝律令』の中では、この先の行政の基盤となる『官制』が最も重要でしょうか。
中国に倣った・・・と言っても、神国・日本ですから、政治を行う「太政官」とは別に「神祇官」という祭祀を行う機関が設けられ「二官八省」となります。

Taihourituryoukanseicc 政治を行う「八省」は、・・・
・中務省=公式文書作成
・式部省=役人の人事・教
       育
・治部省=僧尼・貴族・外
       交事務
・民部省=戸籍・税の管理
・兵部省=軍事
・刑部省=裁判・刑罰・身
       分の決定
・大蔵省=財政
・宮内省=宮中の雑務
となります。

そして、何と言っても中国と違うところは、役人の採用方法。
中国は「科挙」のようなメッチャ難しい試験によって採用や登用が決定されていましたが、日本は100%コネでの採用

官位は、正一位~正八位・初位(そい)までの30階で構成されていましたが、一位~三位までを「貴」と呼び、四位五位は「通貴」、六位以下は「非通貴」で、この五位以上と六位以下の間にはメッチャ大きな溝があり、絶対的な区別がされていました。

一般人(・・・と言っても貴族のはしくれですが)は、どんだけ学校の成績がよくても、仕事が出来ても、せいぜい八位どまり、逆に、親が一位~三位の地位にいるとその子供は、21歳で役人になった途端、五位から始まる・・・といった感じです。

以前、このブログでご紹介した吉備真備(きびのまきび)(4月25日参照>>)は、遣唐使として中国に渡り、猛勉強の末、貴重な書物を日本に持ち帰った功績によって、六位下の官位をもらい、その後、右大臣まで出世しますが、そんな例は、彼以外にはほとんど見当たりません。
よほどの天才だったんでしょうね。

この五位以上と六位以下の差は、当然、年収にも関わってきます。

律令国家に欠かせない土地制度に『公地公民の制』『班田伝授法』というのがあります。

『公地公民の制』というのは、「すべての土地は国の物で、決まりにのっとって口分田(くぶんでん)を与える」というもので、その決まりというのが『班田伝授法』・・・で、これが、「6年ごとに戸籍を改め、6歳以上の男女に口分田を分け与えて本人が死んだら返す」というものです。

「6歳以上の男女に・・・」とありますが、全員同じではなく、きっちり差別されています。

Taihourituryouzyouriseicc 貴族と公民を含む戸籍に登録されている(当時600万人くらいいた)良民(りょうみん)と呼び、この良民の男子『条理制(右図参照→)で分けられた土地の2段分が与えられます。
そして、女子にはその3分の2

それ以外の戸籍のない人たちは、賤民(せんみん)と呼ばれていて、良民の3分の1の口分田が与えられたのです・・・って、右図の通り、10段=約108mなら、そのうちの2段の3分の1って・・・7mくらいしかないがな!

しかも、賤民の中で、家人(けにん)と呼ばれる人々は、曲がりなりにも家族として暮らす事ができましたが、奴婢(ぬひ)と呼ばれる人々は、自由に売買され、家族と暮らす事も許されていなかったそうです。(だんだん腹たってきた・・・)

さらに、腹たつ話をしていきましょう。

そうです。
先の「役人」という人たちは、これらの農民から税を取って年収・・・つまり給料を得ていたわけですから・・・。

まず、役人の収入源は、「位田(いでん)」「位封(いふう)」「位禄(いろく)」「季禄(きろく)の4種類です。

「位田」は、五位以上の役人に与えられる田の事で、最低の五位でも8町・・・さっきの一般良民の40倍です。

「位封」は三位以上の役人に与えられる人民・・・これは、人という意味ではなく、その人数が収める税金という事で、三位の場合は100戸でした。

「位禄」は、四位・五位の役人に与えられる大蔵省の倉庫から与えられるお金で、実質的には「位封」と同じです。

・・・で、何と!うれしい事に、この位田・位封・位禄の3つは、役所に出勤しなくても、一生貰えるお給料なのです~(・・・て、ええかげんせぇ!)

マジメに働いた人(当たり前)には、毎年2月上旬と8月上旬に「季禄」というお給料が支払われます。

これは、六位以下であろうが、役人なら全員に支払われた給料ですが、半年のうち120日以上出勤していないと貰えません・・・って、一年で240日なら週休2日?
農民は盆と正月もなく働いて、役人は日が暮れる前に退社の時代に、週休2日は休みすぎやろ!

・・・で、「季禄」は(あしぎぬ)・綿・布・鍬(くわ)のの4種類の物品で、大蔵省から支払われました。
これも、一位の役人は最下位の役人の30倍あったといいますから、役人の中でも格差はあったのですが、さらにさらに、大臣と大納言に任命された人には、「職田(しきでん)」「職封(しきふ)という中身は位田と位封と同じものが別に与えられ、大臣や大納言には三位以上の人しかなれないので、またまたトップが得するシステムとなっております。

そして、(まだ、あんのかい!)五位以上の人には資人(しじん)という公費から人件費がまかなわれる召使い(公設秘書か!)も支給されるのでありがたい。

さらに、改元や即位などの祝い事があるとボーナスも支払われます。

・・・と、書いてても、なかなか具体的にどれくらいなのか?掴みにくいので、正一位の太政大臣(総理大臣クラス)で見てみると・・・
位田+職田=120町
位封+職封=3300戸
資人=400人
季禄=(絁×30匹+綿×30屯+布×100反+鍬×140口)
合計・・・現在のお金に換算すると、年収3億7千万くらいだったそうです。

二位だと1億2千万、三位が7千万で、四位4千万・・・先ほど、五位以上と六位以下の差がスゴイというお話をしましたが、五位が2千800万と、今まで通りの順調な下がりっぷりなのに、六位でいきなり700万(何じゃこの差は?)
七位が500万で八位が350万

官位のところで紹介した一番下の初位は250万くらい。
・・・で、この初位は、大初位(だいそい)少初意(しょうそい)に別れているうえに、さらに上下に分かれていて、今の250万という金額は大初位の年収なので、少初位下という末端になると、さらに低い・・・という事になり、役人と言えども、そこまで差をつけられると、ちょっとかわいそうな気もします。

あの正倉院には、「季禄」を担保に借金している下級役人の証文や、同じく下級役人がアルバイトで書いた写経も残っています。
けっこう火の車だったようです。

それにくらべて、上級役人・・・先ほど「三位から上の役人の息子は最初から五位なのだ」「一般人は八位より上に上がらない」という事を書きました。

ですから、この法律ができてからは、一部の家柄の出身者ばっかりが三位以上の地位を独占する事になるのです。

奈良時代を通じて三位より上になったのは、先ほどの吉備真備などの例外を除いては、藤原氏をはじめ、大伴氏橘氏など・・・20足らずの一族だけです。
さすが、藤原不比等が作っただけの事はありますね~。
自分らが儲かるように計算されてますなぁ~。

あの『ドラゴン桜』で、主人公の学校の先生が「金持ちになりたいなら東大へ行け!世の中のシステムは頭の良いヤツが、自分たちが儲かるように作っている」と言ってたのを思い出しました~。

ちなみに、地方の国司をやっていた山上憶良(やまのうえのおくら)の年収は千500万くらいで、あの『古事記』を編さんした太安万侶は四位で年収3千500万だったとか・・・そら3千500万もろたら、編さんくらいする!っちゅーねん、けっこう金持ち~。
 

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2007年6月12日 (火)

入鹿暗殺≠大化の改新

 

大化元年(645年)6月12日・・・

まずは、蘇我入鹿・暗殺の一部始終から・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

その日、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の大極殿では、時の天皇・第35代皇極天皇がお出ましになり、三韓(みつのからくに)からの貢物を受け取る儀式が行われようとしていました。

居並ぶ重臣たちの先頭に立つのは、当時、権力を欲しいままにしていた蘇我蝦夷(えみし)大臣・・・。

Issinohenitabukinomiyacc 最後にやってきた蝦夷の息子・入鹿(いるか)が宮殿へ入ろうとすると、入り口でピエロが芸を披露し、面白おかしく(何かを)チョーダイ」のポーズ・・・「そうか、この剣を渡せと言う事か?」と、入鹿は笑いながら、ピエロに剣を預けます。

皆が揃ったところで、蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)が進み出て、三韓の外交文書を読み上げます。

自ら槍を持って宮殿の脇へ身を隠した皇極天皇の息子・中大兄皇(なかのおおえのおうじ)が合図を送ると、味方の警備兵が一斉に12個ある宮殿の通用門を閉めます。

皇子の傍らには、弓矢を持った中臣鎌子(鎌足)が、同じく身を潜めます。

鎌子のとなりにいた海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)は、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)稚犬養連網田(わかいぬかいのむらじあみだ)に、それぞれ一振ずつ剣を手渡しながら、小声で「できるだけ迅速に斬り捨てろ」と命じます。

しかし、二人は恐ろしさのあまり、ノドがカラカラ・・・水を飲もうとしてもノドを通らない。

そうこうしている間に、石川麻呂は文書を読み終わりそうになります。
実は、石川麻呂が文書を読んでいる最中に、入鹿に斬りかかる予定でしたが、先の二人の恐怖がおさまらず、グズグズしていたのです。

もう、最後の一行になってしまったのに、なかなか事が始まらないので、今度は石川麻呂が奮えだし、恐怖のために汗ビッショリになってしまいます。

その様子を見た入鹿は不審に思い「どうした?なぜ、そのように怯えているのか?」と訪ねます。
「あまりに天皇の近くにきましたので、おそれおおくて奮えが止まりません」と、石川麻呂はごまかします。

「あかん!コイツらにまかしとかれへん!俺が殺ったる!」と、中大兄皇子が躍り出んとした時・・・「蘇我大臣の御殿が、何者かの放火され炎上中!」という急使が舞い込みます。

騒然とする宮殿内。
蝦夷は顔面蒼白になり、その場から駆け出します。

父の後を追って、入鹿が駆け出そうとしたその瞬間!
背後から何者かに刺され、血まみれになってその場に倒れ込みます。

傍らには、剣を手にした中大兄皇子と中臣鎌子・・・。

「何事か!」と、玉座におわす天皇が声を荒げますと、虫の息の入鹿は、はいつくばりながら天皇のほうを見上げて「私は無実です。よくお調べになって下さい・・・」
そう言って、その場で息絶えたのです。

さすがの二人の貴公子も、しばらくその場から動けずに立ちすくんでいたところ、「早よう、この場をお逃げなされ」という、重臣の誰かの一言にハッと我に返り、皇子と鎌子は、同志十数名とともに、多武峰(とうのみね)へと逃走します。

多武峰とは、飛鳥から細川(冬野川)沿いの渓谷を南東へ向かった場所にあり、五年前の蹴鞠の会で知り合った皇子と鎌子は、その後、多武峰で度々寄り合っては、入鹿暗殺の計画を練っていた場所・・・つまりアジトです。
その逸話から、その場所は談山神社と呼ばれる事になります。

一天にわかに掻き曇り、雷鳴轟く中を逃げる皇子と鎌子・・・それを、斬り落としたはずの入鹿の首が執拗に追いかけます。

息も絶え絶えになりながら逃げるうち、うっそうとした森の中に入り込んで、大きな木の陰に隠れて、入鹿の首をやり過ごす・・・。

Amakasinookatokubidukacc 二人を見失った入鹿の首は、ふと、燃え上がる自宅の事が気にかかります。
「父はどうしただろう」
入鹿の首は、180度方向を変え、今度は飛鳥に戻ります。
しかし、力つきて自宅の手前で落ちた所が、現在の入鹿の首塚のある場所だと言われています。

一方の皇子と鎌子・・・恐る恐るチラッと空を見上げる二人・・・どうやら入鹿の首は飛び去ったようです。
「よかった・・・」
「さすがに、ここまで来たら、もう来んやろな。」
と言ったという事で、このあたりの森は「茂古(もうこん)の森」と呼ばれています。

・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、これが蘇我入鹿暗殺の一部始終。
これを「乙巳(いっし)の変」と呼びます。

もちろん、後半部分の入鹿の首が追っかけて来る・・・という話は作り話だという事はわかりますが、この変をきっかけに「大化の改新」なる大きな改革が行われる事になる・・・と、私は歴史の授業で習いました。

しかし、どうやら、「入鹿暗殺」と、「大化の改新」は別物のようです。

そもそも、この暗殺劇と大化の改新の事が書かれている『日本書紀』は、この事件の後、70年後に書かれた物で、しかも、編者は、物語のヒーロー中臣鎌足の子孫

このブログで度々指摘している勝者が書いた歴です。
とてもアヤシイ・・・。

だいたい名前がすでに嘘です。
当時は、巨大なクジラの事を「勇魚(いさな)と呼んでいて、読んで字のごとく、勇敢な魚として良いイメージを持っていたのに対し、食すればまずく、漁場を荒らしてばかりする小型のクジラを「入鹿(いるか)と、さげすんだイメージで呼んでいたのです。

そうなるとお父さんの蝦夷もおわかりですね。
「征大将軍」という名前でもわかるように、当時、蝦夷は別の国で、しかも、その呼び名には自国より劣った国という差別的な意味も込められていました。

つまり、この名前は差別用語・・・二人とも本名ではありません。

あれだけ歴史に登場した蘇我氏の本家が、ここで滅亡したという事実がある以上、さすがに暗殺事件があった事は本当でしょうが、それ以外の事はどうも鵜呑みにするのは考え物のようです。

そして、その暗殺事件と大化の改新が別の物であるという根拠は、この暗殺事件の翌年に発布されたとする「大化の改新の詔(みことのり)にあります。

詔とは、要するに、政変によって改革された新しい法律ですが、その詔の副文が大宝元年(701年)に成立する「大宝律令」の丸写しの可能性が高いのです。

それは、地方の行政区域の表記が、詔では(もちろん大宝律令でも)「郡大領」と書かれているのですが、藤原宮で発掘された木簡によって、大宝律令以前には、「評督領」と表記されていた事が判明。

つまり、改新の詔は、大宝律令以降に書かれた事が決定的となりました。

さて、こうなったら、『日本書紀』のどこが本当で、どこが嘘なのか?徹底的に知りたくなりますね~。
謎解きのミステリーは、推理小説より面白いかも・・・ワクワクしますね~
また、本屋さんへ行って、謎解きのヒントになりそうな本を物色してこなくては・・・。

Issinohencc 今日のイラストは、
やはり、『乙巳の変』その時・・・って感じです。

入鹿目線の絵っていうのがけっこう難しかった~
記事よりはるかに時間がかかってしまった・・・
 

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2007年5月 5日 (土)

額田王を巡る三角関係2

 

天智七年(668年)、天智天皇が即位し、飛鳥から近江に都を遷したこの年の5月5日、琵琶湖の東岸・蒲生野で、盛大な狩りが催されました
ここで、額田王大海人皇子のあの名場面が展開されます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

朝鮮半島情勢が悪化し、半島への出兵と日本の守りを固めるため、斉明天以下、主だった者を乗せた軍船が難波を出航したのは斉明七年(661年)の事でした。

その九州行きの船の中で、斉明天皇の息子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)が、弟・大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)の元カノ・額田王ぬかたのおおきみ)相手に、三角関係の歌を詠んだお話は以前書かせていただきました(ブログ:1月6日参照)が、その後三人の関係はどうなったのでしょうか?

旅先の九州で斉明天皇が亡くなり、百済を助けて出兵した白村江の戦いに敗退した後、中大兄皇子と大海人皇子は兄弟団結して、敗戦の復興や対外政策に当たったに違いありません。

天智六年(667年)に、その対策の一環として都を飛鳥から近江(滋賀県)に遷した(3月19日参照>>)、その近江朝廷の基礎も定まり、ようやく平安な日々が訪れるようになった翌年の正月、中大兄皇子は、天智天皇として即位します。

政治がらみで話が少し固い雰囲気になりましたが、あの九州への船出から七年・・・以前ご紹介したこの額田王が詠んだ歌・・・
♪君待つと 我がひ居れば 我が屋戸の
 簾
(すだれ)動かし 秋の風吹く♪
「恋しいあなたを待っていたら、簾が動いたので“来た~っ”て思ったら風だったわ」

この歌には「近江天皇(天智)を思ひて」という注釈がつけられている事でもわかるように、額田王はもう、すっかり天智天皇のカノ女に納まった感がありました。
この歌と対比するように、もう一つの歌があります。

♪風をだに 恋ふるはともし 風をだに
 来むとし待たば 何か嘆かむ♪

「ぬか喜びさせる風にイラついてるみたいだけど、ウチにはそんな風さえも来ないわよ」
この歌は、額田王の姉・鏡王女(かがみのおおきみ・姉ではないという説もありますが、姉としたほうが昼ドラ的でオモシロイ)が詠んだ歌。

実は、もともと天智天皇(当時は中大兄皇子)と付き合ってたのは、鏡王女だったのです。

♪妹(いも)が家も 継ぎて見ましを 大和なる
 大島の嶺
(ね)に 家もあらましを♪
「君の家が、一番高い大島(高安山)のてっぺんにあったら、いつでも見ていられるのにな」

♪秋山の 樹(こ)の下隠り逝く水の
 われこそ益さめ 御思いよりは♪

「落葉の下の隠れて流れていく水のように表に出さないけど、アナタが思ってる以上に私はアナタの事好きよ」

上の歌が天智天皇の歌で、下の歌が鏡王女の歌・・・こんな感じで二人はラブラブだったんですね。

ところが、ここに来て天智天皇は、弟との間に十市皇女という女の子まで生んじゃってる額田王に夢中。
結局、鏡王女は、あの中臣鎌足と結婚する事となるのです。

そんな中、天智天皇が即位した年の5月5日の節句の日に、琵琶湖の東岸の蒲生野(がもうの)の皇室ご料地で、盛大な「狩り」が開催されたのです。

「狩り」と言っても、いわゆるすぐに頭に思い描くような「狩り」ではなく、男性は馬に乗って春新しく生え変わった鹿の角を取ったり、女性は紫草のような薬草を取ったりという風流な物で、言うなれば「野外レクレーション」、今で言えば「お花見」「野外バーベキューパーティ」といった感じでしょうか。

そして、日が徐々に傾きはじめ、イベントもそろそろおひらきになろうかという頃、女同士で草を摘んでいた額田王のそばに、向こうのほうから大きく手を振って駆け寄って来る男性が一人・・・それは、元カレ・大海人皇子ではありませんか。

♪あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
 野守
(のもり)は見ずや 君が袖振る♪
「夕陽に染まる紫野を歩いていると、あなたが手を振ってくる(ダメよ、そんな大胆な事)野原の番人に見られてしまうじゃない」

♪紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
 人妻故に われ恋ひめやも♪

「紫草のように綺麗な君を好きじゃないなら、人妻なのにこんなに恋しいと思うわけないだろ」

もちろん、上の歌が額田王の歌で、下の歌がそれに返した大海人皇子の歌ですが、万葉集に残るこの有名な歌・・・大好きです~。

万葉人のおおらかな雰囲気・・・男らしく大胆な大海人皇子の行動に、少女のようにとまどう額田王。
ふたりの状況が見事に映像として浮かびあがってきますね~。

まるで、たまたま彼氏と入ったレストランで、元カレがウエイターをやってたような・・・。
そして、彼氏の死角から、自分たちにだけわかる合図を送ってくる元カレ。
「何やってんのよ!」と、目線でたしなめる彼女ですが、本気で怒っているわけではありません。

そうです。
二人のこのやりとりを見られてはいけないのは、野原の番人なんかじゃありません。
天智天皇・・・その人です。

天皇の目を盗んだ忍ぶ恋にしては、とてもさわやかな感じがするのは、二人が若い頃いい恋をして、いい別れかたををしたからでしょうか?

・・・と、ここまでは、私が理想とするドラマのような解釈の仕方をしてみましたが、実際のこの二人の歌の解釈については、よりをもどした三角関係の歌・・・というよりは、狩りの後行われた宴会の席で披露された余興なのだろうというのが、現在の一般的な見方になっています。

たしかに、この頃、天智天皇も大海人皇子も額田王も皆40歳前後。
当時の平均寿命から見れば、けっこうなお年寄りです。
真剣に恋だの愛だのを語るようなお年頃ではない気もします。

まして、そんな「オバさん」に対して「紫のにほへる妹」などと、10代のうら若き娘さんのような表現は、冗談まじりのイヤミでしか言えないのではないかとも思います。

ただ、私の個人的で大胆な仮説を許していただけるならば・・・

以前は兄弟で力を合わせて政治を行っていた天智天皇と大海人皇子でしたが、この頃になってどうやら天智天皇は成長した自分の息子・大友皇子に皇位を譲りたいと思うようになり、大海人皇子を政治の表舞台から締め出した感があります。

実際、大海人皇子はその手腕を思うように発揮できずにウップンたまりまくりで、別の宴会の席でも、泥酔して槍を振り回して大暴れする・・・といった事があったようです。

その胸につかえた「思いのたけ」を、宴会の席で吐き出させてあげようと額田王は大海人皇子に歌をプレゼントしたのでは?と思うのです。
彼女の歌に答える形で歌った大海人皇子・・・この人妻とは額田王の事ではなく、この国の事・・・自分の手から離れてしまったこの国です。

たしかに、この時額田王は天智天皇のカノ女ですが、額田王の生涯を通しての行動を見てみると、着かず離れず大海人皇子をサポートしている気がするのです。

皇位継承をめぐって有間皇子が謀反の罪を着せられ死刑になった時(ブログ11月10日参照)、「あなたも将来の天皇候補なんだから気をつけて」という内容の歌を大海人皇子に送っています。

そして、やがて起こる大友皇子と大海人皇子の後継者争いの壬申の乱(ブログ:6月24日参照)の時も、大友皇子と結婚した十市皇女が、「吉野にいる父親に琵琶湖の名産を献上する」と称して、鮎の腹を裂いてその中に近江側の動きを記した密書を入れて送った・・・とされていますが、ここには当然、娘・十市皇女と一緒にいた額田王が関与しているはずです。

額田王が、大海人皇子から天智天皇に気持ちを伝えさせるために、この日の宴会で、この「あかねさす・・・」の歌を詠んだのだとするのは飛躍しすぎでしょうか・・・。

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Akanesasu2cc 今日のイラストは、
やはり『あかねさす・・・』の名場面で・・・

恋多き額田王は、持統天皇の時代に宮廷歌人の座を柿本人麻呂に譲った後、60歳くらいで天武天皇の息子・弓削皇子と歌を交わします・・・たぶん恋ではありませんが・・・

 

 

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2007年3月 7日 (水)

女帝・推古天皇の素顔

 

推古三十六年(628年)3月7日は、日本で最初の女帝・推古天皇が亡くなった日です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

推古天皇と言えば、大臣・蘇我馬子と摂政・聖徳太子とで行ったトロイカ政治を思い出しますが、この三人の関係をどう見るかで、推古天皇という人のイメージがずいぶんと変ってしまいますね。

今まで語られて来た通説の通り、聖徳太子がスゴイ政治力の持ち主だったとすると、「本来ならば太子が天皇になるべきであるけれども、年が若いし蘇我氏の手前もあるので、歴代天皇の兄弟・額田部皇女(←推古天皇の名前)に天皇になってもらって、馬子と太子にサポートをさせる」というパターンです。
これだと、推古天皇は完全に飾り物・・・ただの看板という事になります。

そうではなく、蘇我馬子が当時の一番の権力者だったとすると「推古天皇も聖徳太子も、天皇家でありながら、蘇我氏の血を引く人物・・・そのふたりを天皇と摂政にすえる事で蘇我氏の権力が増大する・・・馬子にとって、この二人はまさに、女子供だった」というパターン。
これなら、推古天皇も聖徳太子も飾り物・・・蘇我馬子が実権を握っていた事になります。

多くの人が馬子VS太子の構図を描いてしまいますが、ここにもう一つ、推古天皇こそが真の権力者であった可能性も忘れてはいけません。

彼女がただの飾り物でなかったかも知れない」事が垣間見える出来事は、彼女が天皇になるずっと前、彼女の夫である第30代・敏達天皇が亡くなった事をきっかけに起こります。

Suikokeizucc_1 この時代、たとえ兄弟であっても母親が違っていれば結婚の対象になったので、推古天皇のまわりの人間関係はホントにややこしい・・・。
とりあえず、右図(→)のような系図を書いてみましたが、本当はもっとたくさんの奥さんや子供が入り乱れていますが、ややこし過ぎるので、今日のお話に出で来そうにない人物は省かせていただきました。

この敏達天皇が亡くなった頃というのは、二代・三代前くらいから始まっていた物部氏VS蘇我氏の抗争が、まさにピークに達していた頃でした。(ブログ:10月13日参照)
それを物語るエピソードがあります。

敏達天皇の葬儀の時の事・・・。

大臣だった馬子が、おもむろに弔辞を捧げはじめます。
それを横で見ていた物部氏のトップ・物部守屋(もののべのもりや)「まるで、矢の刺さったスズメやん!」と、笑ったんです。

実は、馬子はあまり体格の良い人では無かったのですが、この日は前・天皇の葬儀とあって、はりきってメッチャ立派な太刀を腰にさしていたんですね。
小さい人がでっかい刀を・・・というのを見てからかったんです。

そして、今度は守屋が弔辞を捧げる番。
さっき、からかった事もあり、まわりを取り囲む蘇我一族の視線は、ただならぬ鋭い視線でした。
守屋の額からは汗がしたたり落ち、手がブルブル震えます。
それを見た馬子「なんや、体に鈴でも着けといたら良かったな。さぞ、えぇ音で鳴ったやろな」とからかい返しです。

天皇の葬儀という公式な場所で、こんなにも公にののしり合うほど一触即発の状態だった物部VS蘇我。
その戦いに終止符を打つきっかけになる事件は、まだ天皇の死の余韻が残る中で起こります。

額田部皇女が夫の喪に服して過ごしていたたある夜、彼女いる宮の前がにわかに騒がしくなります。

「開けろ!言うたら開けんかい!」
「いや~、それは困ります~」
「俺は天皇の異母弟や!俺も喪に服したい~っちゅーとんのや!開けんかい!」
「いや~それには手続きみ必要ですし・・・いきなり来られても・・」
「何をウダウダ言うとーんねん!さっさと開けろや!」

しばらく押し問答が続いた後、侵入者は諦めて帰りました。
その侵入者を宮前で必死で止めていたのは三輪君逆(みわのきみさかう)という敏達天皇の寵臣でした。

逆に聞いたところ、宮前で大暴れしていたのは、穴穂部皇子だったのです。。
彼は自分でも言ってるように、亡くなった敏達天皇の弟。
当然、次期天皇候補の一人になるわけです。

この時期、敏達天皇の後継者となるべき人は何人がいましたが、物部氏の押すこの穴穂部皇子と、蘇我氏の押す大兄皇子(後の用明天皇)が最有力でした。
事実上、ともに敏達天皇の弟であるこの二人の対決だったのです。

亡くなった先代・天皇の皇后である額田部皇女の発言は、その後継者争いに影響する事は確かです。
「自分が後継者にふさわしい」と、穴穂部皇子はアピールしたかった・・・彼が宮前で「開けろ!開けろ!」と言ったのは、そんな理由だったのかも知れません。

ここで、額田部皇女が穴穂部皇子の大暴れを見て、「怖い!怖い!」と部屋の隅で隠れているような女性なら、きっと最初に書いたように、馬子や太子のお飾りとして天皇の位に着いた人だと思われますが、実は彼女はそうではなかったのです。

きっと彼女は、穴穂部皇子の態度を見て、ほくそえみながら「馬鹿なオトコ・・・」って思ったに違いありません。

次の日の朝、宮廷内を噂が駆け巡ります。
「皇位を狙う穴穂部皇子が、先代天皇の皇后を犯そうとして宮に乱入した!」

そう、彼女は「穴穂部皇子にレイプされそうになった」と、蘇我馬子に告白したのです。
事実、記録に残る彼女は絶世の美女で、しかもこの話が、何の疑いもなく皆が信じてしまうくらい、本当に魅力的な人だったようです。

穴穂部皇子にそんな気があったのか、無かったのか、どちらにしても宮廷中にそんな噂が広まってしまった以上、彼の怒りは収まりません。
穴穂部皇子は、物部守屋に命じて、あの日、宮の前で押し問答を繰り広げた逆を殺させてしまいました。

「待ってました!」とばかりに兵を挙げる馬子。
穴穂部皇子は、あっという間に殺され、その勢いのまま、戦いは物部VS蘇我の大合戦へと発展して行きます。

この戦いの間に、敏達天皇の後を継いだ用明天皇(大兄皇子)は、病気で亡くなってしまいますが、戦いの結果は蘇我氏の大勝利、ここに物部氏は滅亡したのです。

しかし、ここでもまだ、額田部皇女は天皇にはなりません。
彼女は、その発言権を生かし、次期天皇に泊瀬部皇子を推薦するのです。
この泊瀬部皇子が第32代・崇峻天皇です。

しかし、実は、この崇峻天皇は、物部氏滅亡のきっかけを作った穴穂部皇子の弟なのです。
先の合戦の時、途中から蘇我側に寝返ったとは言え、なぜ、額田部皇女は敵方の弟を天皇に推薦したのでしょう?

もちろん、滅びたとは言え、あれだけの勢力を誇っていた物部氏への気遣いもあったでしょうが、もし、勝手な想像を許していただけるならば・・・「コイツは使える・・・」。
彼女はそう思ったのではないでしょうか。

ひょっとしたら先の合戦での途中の寝返りも、崇峻天皇に何らかの圧力をかけていたのかも知れません。
「彼は、自分の言う事を聞く人間だ」と判断しての推薦ではなかったのでしょうか?

それを裏付けるように、崇峻天皇が思い通りにならないとわかった5年後、馬子が派遣した東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって、崇峻天皇は暗殺されるのです。

「大臣が天皇を暗殺する」という前代未聞の事件は、後にも先のもこの事件くらいでしょう。
確かに、不幸な死に方をした天皇や、暗殺されたのでは?と疑わしい天皇は他にもいますが、なんせ崇峻天皇の事件は正式な発表が暗殺なのですから・・・。

しかしそれが、まわりに文句を言わせず、まかり通ってしまうのは、この事件に額田部皇女・・・つまり次期天皇が関与していたからではないでしょうか。

崇峻天皇の死を受けて、空白になった皇位・・・。
ここで、満を持して額田部皇女が、日本初の女帝・推古天皇として即位するのです。

Zyoteikikucc 今日のイラストは、
女帝をイメージして菊の花を描いてみました
 

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2007年2月25日 (日)

単身赴任のルーツ・防人の歌

 

本日は、「今日は何の日?」ではないのですが、歴史エピソ-ドとして防人(さきもり)の歌をいくつか紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

防人とは、九州北部の西海の防衛を担当する兵士の事。

その防人の名称と設置に関しては『大化の改新の詔』にも登場しますが、実際には朝鮮半島の動乱に巻き込まれて出兵し、大敗してしまった白村江(はくすきのえ)の戦い(ブログ:8月27日参照)の後、大陸からの攻撃に備えて、本格的に動員されるようになりました。

その後大宝元年(701年)に大宝律令が施行され、防人にには各地の農民が召集される事になりましたが、実際にはほとんど東国の農民たちで、20歳~60歳の健康な男子の中からアトランダムに、有無を言わさず狩り出され、3年間という任期を、家族と離れ、遠い九州の任地で送る事になります。

しかし、今と違って何の保障もないこの時代・・・単身赴任と言っても、現代の人が描く単身赴任とは大違いです。

「西海の防衛をする」と言っても、彼らは“武士”ではありませんから、専業として兵士をやってるわけではなく、そこから給料をもらえるわけではありません。

赴任先で与えられるのは、ただの空き地で、そこを自分で開拓して農地にし、米や野菜を栽培し自給自足の生活です。

大変な単身赴任だと思いますが、現地での生活より大変なのが、その道中です。

たとえば、一般的に東国と言って思い当たる関東地方のあたりから、九州・大宰府まで、早くても2ヶ月はかかります。

その間、現地から難波(大阪)までは、各地方の役人が引率しての陸路で、当然ホテルはありませんから野宿です。
しかも、ここまでの旅費は実費。

そして難波からは、まとめて船に乗せられ大宰府まで行くのですが、もちろん、食事も医療体制も満足のいくはずもなく、とにかく強行突破といった感じの無茶な旅。

そんなこんなで、無事に九州へたどり着いて、3年間の任期を終えても、今度は帰り道で亡くなってしまう・・・という事も少なくなかったそうです。
ちなみに、行き帰りの道中の日数は任期の三年間には含まれません。

こんな状況ですから、夫や息子が防人に選ばれた家はもう大変です。
旅立つ人の安否もさることながら、一番の働き手を失った家は、生計のめどが立たず、残された家族が生活できなくなる事もありました。

行く人も、見送る人もおそらく、この世の別れと思って、悲しみにうちひしがれたでしょうが、これもお国の命令ですから、しかたがありません。

あまりにも過酷なこの制度は、やがて九州に住む現地の農民が担当するようになり、平安時代には、一般農民を徴発する防人は廃止され、天長三年(826年)には、防人そものが廃止されました。

Sakimoricc

大伴家持(ブログ:8月28日参照)は、国守として越中・富山に旅立った時の思いを重ね合わせていたのでしょうか・・・『万葉集』には、防人に狩り出された人々の歌が多く納められています。

♪道の辺の 荊(うまら)の先に 這(は)ほ豆の
 からまる君を 別
(はか)れか行かむ♪
道端の茨(いばら)に這う豆がからまるように、僕にすがりついてくる君と別れて、行かなくちゃならない
この歌は、大伴家持が上総の国の防人担当役人から受け取った十九首の歌の中の一首で、この歌にある、“這う(はう)”を“這ほ(はほ)”と言ったり、“別れ(わかれ)”を“別れ(はかれ)”と言ったりするのは当時の東国の方言だそうです。
当時の東国の人は都の人間より、体格が良く、健康だったそうで、この事にも防人率が高い原因があるのでしょうか。

♪わが妻も 絵にかきとらむ いづまもが
 旅行くあれは 見つつしのばむ♪

妻の似顔絵を書いて肌身離さず持っていれば寂しくないかも・・・
いつの世も同じ、今は写メがあるから便利です。

♪父母が 頭(かしら)かきなで 幸(さ)くあれて
 言いし言葉ぜ 忘れかねつる♪

父さんと母さんが髪をなでながら「気をつけて」って言った言葉が忘れられない
こちらは若い息子さんの歌ですね、
交通や通信が発達した現在でも、そろそろ訪れる旅立ちの季節に、こんな親子の光景があるんですもんね~。

♪防人に 行くは誰(た)が背と 問ふ人を
 見るが羨
(とも)しさ 物思いせす♪
「今度の防人に狩り出されたのは誰のダンナかね?」と、気軽に訪ねてくる人を見ると羨ましい
これは、防人の妻の詠んだ歌。
聞いた人はこの人の旦那さんが次の防人だって知らなかったんでしょうけど、辛いですね。

それにしても、戦時下での徴兵という物に、悲しい別れがともなうのは当然の事ですが、これだけ心のままに歌が詠めたという事に、私は感動します。

昭和の時代はどうだったのでしょう。
名誉だ、万歳だと言って送り出したその影に、思いのたけを歌にこめる事はできたのでしょうか?
 

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2007年2月22日 (木)

聖徳太子・死因の謎

 

推古三十年(622年)2月22日、聖徳太子が49歳でお亡くなりになりました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

聖徳太子に関しては、このブログでも何度か(ブログ:1月26日参照)書いていますし、HPのほうでは特集を組んでいます(HPへはコチラからどうぞ→)ので、少し内容がかぶる事もあるかもしれませんが、今日はご命日という事で、その死の謎を中心に書かせていただきます。

聖徳太子の生涯と、大化の改新(乙巳の変)(ブログ:6月12日参照)は、古代史の中でも屈指の謎。
これは、ひとえに、「蘇我一族の歴史を消したい藤原一族のなせるワザ」と言えなくもないわけですが、おかげ様で、あーだこーだと推理の花も咲くわけで、ある意味、感謝ですね。

ところで、聖徳太子の死因についてですが・・・公には伝染病にかかって亡くなった事になっています。
その伝染病は、前年の暮れに太子の母親を死に追いやり、最愛の妻・膳部妃(かしわでのひ)を襲い、妻が死んだ次の日の太子はこの世を去るのです。

『日本書紀』には、厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子の事)が斑鳩の宮で亡くなり、皆悲しんだ』という事が書かれているだけで、なんともあっさりした、そっけないくらいの書き方です。

Syoutokutaisicc 聖徳太子の偉業として、あれだけのすばらしい業績を並べ立てておきながら死因も書かないあっさりぶり・・・「何だそりゃ!12月が近づいて最後まで収まりきれない事に気付き、慌てていろんなエピソードを削り始めた大河ドラマか!」って感じです~。

こうなると、これは「実際に偉業を成し遂げたのがこの日死んだ本人ではなかった」「公表できない死に方」だったか、のどちらかではないかと思うわけです。

まず、前者の場合・・・
『日本書紀』は、ご存知のように、天敵・蘇我氏を倒して頂点にのし上がった藤原一族の書いた歴史ですから、蘇我氏のやった悪い事はそのまま蘇我氏のやった事として記録し、蘇我氏のやったすばらしい偉業は・・・「そう、ここに一族が断絶しちゃったちょうど都合のいい皇子がいるから、この人がやった事にしときましょう」って、なったのではないでしょうか?
この時、聖徳太子が亡くなってから、すでに100年近くの年月が経っている事を考えると、死に関するちゃんとした記録がないために、こんな書き方になっちゃった・・・という事ではないでしょうか?

次に、やっぱり気になるのは後者の場合です。
これは、わくわくするくらい、いろんな事が考えられます。

まず、平安時代に書かれた『聖徳太子伝暦』・・・これは、太子の事に関して、かなりくわしく書かれていますが、荒唐無稽な神話のような話も混じっていて、どこまで信用できる物かは計りかねますが、とにかく、これによると、太子は生前、自分の墓を造る際に、「○○年の春に死ぬから工事を急げ」などと指図をしています。

そして、死ぬ前夜、妻の膳部妃を呼び寄せ、「僕は、今夜あの世へ行くから、一緒に行こう」と誘うのです。
それから、膳部妃を沐浴させて身を清め、その後自分も沐浴して、同じベッドに入り、翌朝、遺体で発見されるのです。

この通りだと、明らかに自殺・・・しかも彼女との心中という事になります。

この事が無視できないのは、今も残る聖徳太子のお墓に、この膳部妃が一緒に埋葬されているからです。

当時、太子には身分のりっぱな奥さんが、膳部妃以外に、三人いました。
膳部妃は、太子が三輪明神でひっかけた恋人・・・当然一般人です。
並み居る正室と側室がいるにもかかわらず、一般人の彼女が同じお墓に埋葬されているのは、この心中事件が本当の事だから・・・という事も考えられます。

・・・で、次に自殺ではなかった場合・・・他殺って事になると・・・

これは、まず、太子が死んで一番得をする人を考えなければなりませんが・・・そうなると、33代・推古天皇の後に天皇になる田村皇子=34代・舒明天皇か?

しかし、田村皇子は、30代・敏達天皇→31代・用明天皇→32代・崇峻天皇と3代続く兄弟天皇の一番兄である敏達天皇の孫で、太子は弟の用明天皇の息子。
血筋としては、やはり長男が優先・・・て事になると、そんなに急がなくても、いずれ皇位は回ってきそうです。

しかも、田村皇子は、太子の建立したお寺を、バトンタッチしてさらに大きくする・・・といった太子に敵意を持っているとは思えない行動をしているので、可能性は薄いように思います。

では、太子とともに政治を行った推古天皇蘇我馬の仲良しコンビはどうでしょう?
たしかに、始めは三人で仲良く政治をやっていたのが、途中からおかしくなってきますから、敵意を持っていた事も考えられます。

しかし、その途中からおかしくなってきた時点で、太子は、都の飛鳥から離れた斑鳩の宮(法隆寺の夢殿のあたりにあった)に引きこもってしまいますから、ここで、もう推古天皇と馬子の勝ちが決定したような物です。
政治の表舞台から身を引いて、斑鳩に隠居した太子をあえて殺害する必要があったとは考え難いのではないでしょうか?

では、彼ら以外で聖徳太子が邪魔になった人はいるのでしょうか?

太子の数々の偉業の中で「んん?」と、気になる事がありますね。
あれだけのすばらしい業績を残した人が、唯一、?って思う事があります・・・それは外交

「日出(い)ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」という手紙をに送って煬帝(ようだい)を怒らせてしまった話は有名です。

これは、駆け引き無しの失態なのか?
計算ずくのハッタリなのか?
一か八かの賭けだったのか?

しかし、煬帝は「そんな手紙な二度と見たくない!」と怒った・・・というわりには、その後、何かをしてきた形跡はありません。
怒りの返事を、遣隋使の小野妹子に持たせたくらいの事しかしてません。

ただ、この返事の手紙は、妹子が途中で紛失したため、内容はよくわかっていませんが・・・。
「煬帝さんお怒り」の文章だったため妹子がわざと失くしたフリをした・・・という説もありますが、とにかく、それによって日本を攻めるなどという事もなかったのです。

なぜならば、当時の隋にとって、身近にせまる“目の上のタンコブ”があったからです。
それは、朝鮮半島情勢

新羅百済高句麗がせめぎあう朝鮮半島に睨みを効かせるためには、その向こう側にある小さな島国・日本と「仲良くしておく必要がある」と思っていたのではないでしょうか?

煬帝は、高句麗と小競り合いを起こしたかと思うと、逆に、百済と高句麗に「日本と協力して新羅を討て」と言ったりしています。
朝鮮半島の情勢をかなり気にしていた様子が伺えます。

そして、朝鮮半島の国の中での注目は新羅です。
その昔、朝鮮半島にはもう一つ、任那(みまな)という国があったのです。
任那も他の国と同様、日本に使者と貢物を定期的に送っていたのですが、太子の時代、その任那は新羅に統合されてしまっていました。
にもかかわらず、太子は新羅に、任那の分と合わせて2カ国分の使者と貢物を要求していたのです。

朝鮮半島の各国にとっては、隋の後ろ盾がある日本には、容易に敵対心をあらわにする事はできなかったようで、新羅は素直に2カ国分の使者と貢物をしばらくは続けていたようです。

しかし、時代は変ります。
太子が亡くなる4年前、煬帝が死に、隋が滅び、が起こります。
当然、国が変れば、新しく外交関係を築きあげなければなりません。

そんな中、推古三十年(622年)2月22日、聖徳太子が亡くなるのです。
そして、その翌年、新羅は「今後は、任那の分の使者と貢物は中止する」と通告してくるのです。
果たして、この事は、聖徳太子の死と関わりがあるのでしょうか?
個人的には、かなり臭いますが・・・。

最後に、残るは事故死ですが、もうこれは考え出したらきりがありません。
なにしろ偶然が伴う物ですから・・・。

歴史という物は、誰もその目で確認する事ができない以上、「絶対」という事はありえません。
新しい発見があれば、それを踏まえてもう一度考え直すと、当然今までの見解とは変ってきます。
教科書だって書き換えられます。

小学校の頃、教科書で見た聖徳太子を病死として疑わなかったあの日から、新たな情報を得るたびに、私の中の太子は紆余曲折の人生を繰り返します。

「お前の意見には一貫性が無いのか!」と言われそうですが、そこのところは、「一貫性が無いのではなく、柔軟なのだ」という寛大なお心でお願いします。
 

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2007年1月26日 (金)

法隆寺と聖徳太子

 

昭和二十四年(1949年)1月26日、法隆寺金堂から出火

建物の全焼こそ免れたものの、日本最古の壁画が焼失してしまった事から、昭和三十年(1955年)に消防庁がこの1月26日を“文化財防火デー”に設定し、各地のの文化財で防火訓練などが行われます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

放火やイタズラではなく、壁画の模写を手がけていた画家の電気座布団の過熱が出火の原因・・・おそらく、この壁画の魅力を誰よりも感じていたであろう人の胸の内を思うと、心が痛みます。

現在は、パネルに描かれた物が壁にはめ込まれています。

Houryouzi2cc 法隆寺の魅力は、もちろん世界最古の木造建築である・・・という事ですが、何と言ってもその建築の美しさ・・・。

遠くギリシャから伝わった少し真ん中が膨らんだ形のエンタシスの柱と、連子窓の続く回廊から眺める五重塔と金堂

その回廊を少し歩いて、今度は大講堂から西院全体を見渡せば、心は遥か古にタイムスリップ。

金堂に安置されている釈迦三尊像は、後世のふくよかな仏様とは違った飛鳥時代特有の雄雄しい感じがする面長なお顔に、神秘の微笑み=アルカイックスマイルをたたえていらっしゃいます。

この地に斑鳩(いかるが)の宮が造営されたのは推古九年(601年)。

お寺の創建はその6年後の推古十五年(607年)と考えられています。

政治の中心が飛鳥(明日香)にあった時代に、聖徳太子は何を思って遠く離れた斑鳩に宮を築いたのでしょうか。

十七条憲法、冠位十二階、遣唐使の派遣・・・数々の偉業を成し遂げ、以前は日本史上トップクラスの英雄だった聖徳太子も、ここ最近、架空の人物説や、複数合体説など、様々な説が囁かれるようになりました。

Houryouzi1cc 聖徳太子という名前はもうご存知の、死んでから後つけられる(おくりなと呼ばれる物。

(うまや)のそばで生まれた事から、生前は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれていたそうですが、【切支丹禁止令と戦国日本(ブログ:12月23日参照)の記事でも書いたように、この伝説は明らかにイエス・キリストの伝説を引用して聖徳太子を神格化させるためのエピソード。
・・・て事になると、その厩戸皇子と呼ばれていた事すら怪しくなってきます。

しかも、この聖徳太子という諡にも秘密が・・・。

HPの【謎が謎呼ぶ聖徳太子】(HPへはコチラからどうぞ→)で散々書かせていただきましたので、ここでは軽く触れるだけにしておきますが、天皇家でこの『徳』という字が入った諡を持った方々の生涯を見る限り、聖徳太子も今思うような英雄的な一生を送ったとは考え難い事がわかります。

そして、最期は、愛しい彼女との心中で、聖徳太子は自らの命を絶ったとされていますが、自殺以外にも様々な死因が取りざたされておます・・・(くわしくは【ブログ2月22日聖徳太子死因の謎】でどうぞ>>)

しかし、聖徳太子の謎は謎として、現実に法隆寺は存在し、たとえ聖徳太子がスーパーマンではなくても、それが魅力的な事には変りありません。

Houkizicc 私が親とでもなく、遠足とかでもなく、初めて自分で切符を買って、自分で電車に乗って行った最初のお寺は法隆寺でした。

あれから、ずいぶんと道路が整備されて、最近訪れた時は、まわりの雰囲気は少し違っていましたが、西院と夢殿の間の道を歩き法輪寺と、その向こうに法起寺の三重塔が見えるあたりの景色は、太子の生きた古き斑鳩の里を感じさせてくれます。

 

Ikarugacc 上の写真の遠く法起寺の三重塔が見えるあたり・・・昔は菜の花畑だったような?・・・最初に行った時からずいぶん経ってるので、どこかの場所と記憶がゴッチャになってるかも知れません。
とりあえず、自分の中のいかるがの里のイメージで書いてみました。

HPの歴史散歩で法隆寺の地図や写真をupしています。
興味がおありでしたらコチラからどうぞ→
 

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2007年1月 6日 (土)

額田王を巡る三角関係

 

斉明七年(661年)1月6日、朝鮮半島への出兵と日本の守りを考慮し、斉明天以下、主だった者を乗せた軍船が難波を出航しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これは、唐と新羅の連合軍に攻撃された百済が、日本に救援を求めてきた事に答えたもので、九州の筑紫・朝倉に拠点を移すための船出でした。

朝鮮半島の情勢や、今回の出航については、以前このブログの【白村江の戦いブログ:8月27日)や、【斉明天皇の心の内は・・・(ブログ:7月24日)で書かせていただきましたので、今日は別のお話を・・・。

この軍船は、難波を出航して、瀬戸内海を西に向かうのですが、播磨の印南の海岸あたりで詠ったとされる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)の歌があります。

♪香久山は 畝傍を愛しと 耳成と
 相争ひき 神代より かくにあるらし
 いにしへも しかにあれこそ
 うつせみも 妻を 争ふらしき♪

ここに、登場する香久山、畝傍山、耳成山はご存知、大和三山です。
『播磨風土記』には、まだ山々が神様だった遠い昔、美しい畝傍山(女神)を、香久山(男神)と耳成山(男神)が取り合ったという神話があるのです。

その神話になぞらえて「香久山は畝傍山を愛して耳成山と争った。神代の昔からそうなんだから、今も二人の男が一人の女を奪い合うのは当然だよ」と歌っているのです。

んん~?聞き捨てなりませんなぁ・・・いったいと誰が誰を取り合っているのでしょうか?

もちろん、研究者のかたの見解では、「単に伝説の地(この神話には印南の海岸近くの印南国原が登場するので)を目の前にして、その情景を歌っただけ」という見方もありますが、私は真実を探求する歴史家ではないので、やはりここは、愛憎からみまくりの恋愛物語と思いたいですね。

そうなると、当然“男”のひとりは、本人・中大兄皇子です。
そして、彼がこの九州行きでの最中、落とそうと思っている彼女・・・それが、額田王(ぬかたのおおきみ)・・・ですから、“女”は額田王という事になります。

Nukatacc この額田王という女性は、正史には「天皇、初め 鏡王(かがみのおおきみ)の女(むすめ)額田王を娶(め)して、十市皇女(とをちのひめみこ)を生む」と、『日本書紀』に一行だけ書かれているだけの謎の女性で、それ以外は『万葉集』にいくつかの彼女作の歌が残されているのみ・・・なので、そこから、彼女を想像するしかないわけなのです。

以前、私が見た小説やドラマなどでは、神がかり的な巫女として描かれていましたが、私が個人的に思うには、巫女ではなく、宮廷のお抱え歌人・・・今で言えば「国民的シンガー」とでも言いましょうか・・・。

万葉集に残る額田王の歌を見てみますと、自分の個人的立場に立った歌と、公の立場で歌った歌の両方があります。

たとえば、古典の教科書にも載ってる有名なこの歌
♪熟田津に 船乗りせむと 月待てば
 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな♪

この歌は、今回の九州行きで、1月14日に伊予(愛媛県)熟田津(にきたつ)に停泊した時に彼女が詠んだとされる歌ですが、彼女個人の心情ではなく、船団の代表者の立場に立って・・・潮の流れが良くなったから「さあ!船を漕ぎ出そう!」と、力強く歌っています。

かたや、
♪君待つと 我が恋ひ居れば 我が屋戸の
 簾
(すだれ)動かし 秋の風吹く♪
こちらは「恋しいあなたを待っていたら、簾が動いたので、“来た~っ”て思ったら風だったわ」
と、素直な自分の恋心を歌っています。

天智天皇の時代、近江京で開かれた宴会などでも、彼女は、歌を詠んでいます。
宴会のアイドル・・・この時代の皇室の宴会のアイドルは=国民的歌手と言えるのではないかと思います。

ところで、先程の『日本書紀』額田王が登場する部分ですが、この「天皇、初め・・・」の天皇は、天武天皇の事。
つまり中大兄皇子の弟・大海人皇子の事なのです。
事実、ふたりの間には十市皇女という女の子がいます。

しかし、この九州行きの船の中で、弟の“元カノ”と知っていながら中大兄皇子はあの『大和三山』の歌を詠むわけです。

・・・で、額田王の返事は・・・?
実は先程紹介した“♪君待つと・・・”の歌。
この歌には「近江天皇を思ひて」という注釈がつけられているのです。
近江天皇、つまり天智天皇=中大兄皇子を思って作った歌なのです。

いっちゃいましたか・・・兄貴のほうへ・・・。

しかし、この恋愛ドラマはまだ終りません。
この後、弟・大海人皇子額田王が再び・・・・

・・・と、大好きな額田王の事になると、ほんのサワリの部分でこんなにも書いてしまいました~この先もっともっと長くなりそうなので、続きはまた別の日に書かせていただきました。

続きは【5月5日:額田王巡る三角関係Ⅱ】で>>
 

「もっとくわしく、知りたい~」と、おっしゃっていただけるかたは、HPに【額田王・恋物語】として書いておりますので、そちらを見ていただければうれしいです。
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2006年12月 3日 (日)

天智天皇の死,政変の予感

 

671年12月3日、あの大化の改新の中心人物である第38代・天智天皇が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天智天皇は、藤原鎌足とともに、“乙巳(いっし)の変(ブログ6月12日参照)と呼ばれる蘇我入鹿・暗殺を決行し、大化の改新を行った人で、その後即位した孝徳天皇斉明天皇の時代も、常に政治の実権を握りながら皇太子の座にとどまり、斉明天皇の没後、ようやく天皇になりました。

そんな天智にとって、二年前の鎌足の死はそうとうなショックのようでした。

大化の改新以来、常に右腕として活躍してくれた重臣ですから無理もありません。

改新直後には、手を組んで一緒に仲良く政治を行っていた弟・大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)とは、天智が即位し都を近江に遷した(3月19日参照>>)から、何やらギクシャクした関係になっていたのです。

兄・天智という大きな存在の影で、自分の政治手腕を思う存分発揮できない才能溢れる弟・大海人皇子は、以前びわ湖畔で行われた宴会の席で、日頃の不満が爆発し、槍を床に突き立てて暴れた事がありました。

怒った天智が大海人に手をかけようとした時、それを止めに入ったのは、他ならぬ鎌足・・・。

そんな風に、兄弟の潤滑油的な役割も、鎌足は荷っていましたから、その死以来、宮廷内に不穏な空気が流れていたのも確かなのでした。

天智は自分の三人の娘を大海人の妃へ送っていますし、逆に大海人と額田王(ぬかたのおおきみ)の間に生まれた十市皇女(とうちのひめみこ)を、息子・大友皇子の妃に迎えてもいました。

その上、自分の後継者として大海人を皇太子にも任命していました。

しかし、一度できがった兄弟の溝は、徐々に深まっていくばかりでした。

671年になって、近江令を完成させ、近江朝=天智帝の基盤を造り上げ、国内の秩序が保たれているとは言え、鎌足を失った天智の権勢は少し下り坂になりつつあったのです。

この年の秋頃から、天智天皇は病気がちになってしまいます。

日増しに衰弱していく天皇は、いよいよ床にふせるようになり、自らの命がそう長くない事を感じるのです。

そして天智天皇は、病室に大海人皇子を呼んで、皇太子である弟に「後の事は頼む」と告げるのです。

しかし、大海人の答えは「NO!」でした。

兄弟の溝が深まるにつれ、たくましく成長する兄・天智の息子・大友皇子・・・いつしか、「自分の後継者には大友を・・・」と、思うようになっていた天智天皇の心の内を大海人皇子はしっかり見抜いていたのです。

いや、むしろ朝廷内でも、大友派と大海人派に二分され、二人の後継者の対立は表面化していました。

大海人皇子は、次期・天皇の座を断り、皇太子に大友皇子を推薦し「仏道修行する」と言って、その場で髪をそり、都を離れ吉野山に入ったのです。

それは以前、大化の改新の後に吉野に入った天智の兄・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を思い起こさせる光景でした。

その時は、それまで入鹿に後押しされていた古人大兄皇子が、蘇我氏・滅亡となり危険を感じて吉野に入ったものですが、その後すぐに天智天皇(当時は中大兄皇子)に謀反の罪を着せられ処刑されてしまいました。

しかし、今回の天智天皇には、もうそんな気力は感じられません。

人々は「寅に翼をつけて放すようなものだ」と噂します。

24歳の若き大友皇子に、酸いも甘いも噛み分けた41歳の大海人皇子・・・多くの人には、この先の結果がすでに見えていたのかも知れません。

案の定、半年後の6月に、皇位継承を争う古代最大の内乱“壬申の乱”(ブログ6月24日参照)が勃発する事になるのですが・・・まだ、その事を知らない天智天皇は、自分を看取る我が子・大友の将来を案じながら671年、12月3日に、46歳の波乱の人生を閉じました。

♪かからむと かねて知りせば 大御船(おおみふね)
 泊
(は)てし泊(とま)りに 標結(しめゆ)はましを♪ 額田王
(こうなる事を知っていたなら、天皇の船が泊まる港にしめ縄をはり、死霊が入らないようにするのに・・・)

 

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2006年11月10日 (金)

悲劇の皇子・有間皇子死刑

 

斉明天皇四年(658年)11月10日、有間(ありま)皇子が謀反の罪で、紀州・藤白の坂で死刑となりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

話は大化の改新の頃にさかのぼります。

皇極天皇四年(645年)6月12日に、中大兄皇子(後の天智天皇)中臣鎌足の手による蘇我入鹿の暗殺によって始まった大化の改新

時の天皇・皇極天皇(中大兄皇子の母)は退き、その弟の孝徳天皇が即位し、中大兄皇子が皇太子となります。

元号も大化と定められ、都は飛鳥から難波に遷されました。

その孝徳天皇の息子が有間皇子です。

この時わずか5歳でした。

有間皇子の母・小足媛(おたらしひめ)の父・安倍倉梯麿(あべのくらはしまろ)は、この新政権で左大臣に任命され、有間皇子の前途は希望に満ち溢れていたはずです。

しかし、新政権の実権を握っているのは中大兄皇子の一派で、彼らから見れば孝徳天皇は、だだの飾り物。

やがて、有間皇子の大きな後ろ盾であった母方の祖父・安倍倉梯麿が亡くなると、孝徳天皇軽視の姿勢はあからさまになって来ます。

白雉四年(653年)、孝徳天皇が反対するにもかかわらず、皇太子・中大兄皇子は都を難波から飛鳥に強引に戻してしまうのです。

中大兄皇子はもちろん、先の天皇(皇極天皇)までもが、孝徳天皇を難波に置き去りにしたまま、全員で飛鳥に引っ越してしまいました。

失意の孝徳天皇は翌年、孤独のまま亡くなってしまいます。

この時、有間皇子15歳でした。

以前、蘇我入鹿のお気に入りだった古人大兄皇子(中大兄皇子の兄)も、ともに入鹿暗殺を行った蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)も、邪魔者だと思えば容赦なく死に追いやってきた中大兄皇子。

聡明な有間皇子は、次のターゲットが自分である事を感じずにはいられませんでした。

そして、先の皇極天皇がもう一度即位して、斉明天皇となった頃、有間皇子は気がふれたふりをして身を守ろうとするのです。

そして、病気治療として牟婁(むろ)の湯(和歌山県・白浜温泉)にしばらく滞在するのでした。

やがて三年後、病気が治った(正気に戻った)と、都(飛鳥)に戻って来るのですが・・・なぜ、有間皇子は、狂気を演じる事ををやめてしまったのでしょうか?

演じ続ける事に疲れたか・・・演技がバレたのか・・・私は勝手に後者のほうだと思っています。

なぜなら、この時、有間皇子が正気に戻る事は、彼にとって命取りだからです。

もはや、誰一人、味方のいない彼は、もし、バレていなければ、何としてでも演技を続けただろうと思います。

そんな時、斉明天皇がことのほかかわいがっていた孫の(たける)皇子が、わずか8歳で亡くなってしまいます。

病気のように落ち込んでしまう斉明天皇・・・。

・・・ならば、「あの有間皇子の病気を治した牟婁の湯へ我々も行こう」と、いう事になります。

後から思えば、この旅行は完全なる中大兄皇子の計略

なぜならこの頃、斉明天皇が次から次へと行った無茶な土木工事が朝廷の中でも問題になっていて、政府内に反対派が生まれつつあったのです。

そんな時期に、天皇と皇太子そろって都を離れるなど、考えられない事ですから・・・。

かくして、斉明天皇四年(658年)10月10日、天皇御一行は、都を出発したのです。

運命の日は、まもなく訪れます。

11月3日、あの蘇我氏の生き残り蘇我赤兄(そがのあかえ)が、有間皇子のもとを訪ねます。

赤兄は、次々と現政府の批判を口にします。

赤兄が中大兄皇子に滅ぼされた蘇我氏の人間であったからなのでしょうか、有間皇子はこれが陰謀だという事を見抜けなかったのです。

赤兄の口車に乗ってつい、同じように政府の批判をし、自らが政権を握りたい意志がある事を赤兄に告げてしまうのです。

そして、わずか2日後の11月5日、赤兄本人が出した兵によって逮捕されてしまうのです。
9日には、天皇と皇太子のいる紀州へ有間皇子は護送されました。

その護送の途中、南部町の岩代で有間皇子が詠んだ歌が万葉集に残ってします。

♪磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び
 真幸
(まさち)あらば また還り見む♪
「磐代の浜に生えている松の枝を結んで行く(当時の長寿のおまじないです)、幸いにも許されたなら、帰り道この枝を見る事にしよう」

しかし、有間皇子の小さな願いが叶う事はありませんでした。

南紀の地で、謀反の意志を詰問する中大兄皇子に有間皇子は、こう答えます。

「天知る、地知る、赤兄知る、吾(おのれ)(もはら)(し)らず」
天と赤兄だけが知っている。私は何も知らない)と・・・。

わずか19歳の少年は、紀州に着いた翌日・11月10日に藤白の坂で絞首刑に処せられました。

Keizu2 こちらの系図は、中大兄皇子と有間皇子の関係がわかりやすいようにと、私のHPから今日の記事に関係ある部分コピーした物です。

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2006年10月15日 (日)

中臣鎌足,藤原の姓を賜る

 

天智八年(669年)10月15日、中臣鎌足が藤原の姓を賜りました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この日、病床にふせっている中臣鎌足のもとへ、天智天皇の使いとして見舞いに訪れた天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)から、生前の功労を評価して、最高の冠位である『大織冠(だいしょくかん・だいしきのかうぶり)『大臣』の位を授けられ、同時に藤原の姓を賜ります。

ここに希に見る大豪族・藤原氏が誕生したのです。

これから先、第二次世界大戦の敗戦直後に服毒自殺する近衛文麿まで1300年の長きに渡り、多少の盛衰はあるものの政治的中心にいる事を誰が予想できたでしょう。

その一族の初代となる中臣鎌足ですが、彼が表舞台に登場するのは、やはり大化の改新の発端となった蘇我入鹿の暗殺乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)です。

これは、皆さんもうご存知のように、天智天皇(中大兄皇子)・主演、中臣鎌足・演出による革命劇です。
主役に天智天皇を抜擢したのも鎌足です。

蘇我氏に変って政治の中枢に加わりたいと思った鎌足は、最初は時の天皇・皇極女帝の弟・軽皇子(後の孝徳天皇)に声をかけます。

しかし、軽皇子がその器でない事を察した鎌足は、さっさと軽皇子に見切りをつけ、自分から天智天皇に近づいてこの計略に誘い込みます。

蘇我一族の有力者・石川麻呂を味方に引き入れたり、蘇我入鹿がかわいがっている古人大兄皇子の娘を妃に迎えて安心させたり、蘇我氏滅亡直後の天皇を孝徳天皇(先程の軽皇子です)即位させたり・・・などという策略は、おそらく鎌足の手による物でしょう。

なんせ、天智天皇はこの時まだ20歳になったばかり、いくら聡明でも歴史上の英雄・源頼朝や徳川家康らがそうであるように、20歳そこそこの頃はまだまだ青いはず。
一連の出来事に二重三重の策略を張り巡らすなど、到底無理でしょう。

その点、鎌足は男盛りの32歳。
その後の用意周到な行動から見てもかなりの策略家であった事は間違いありません。

用意周到な行動というのは・・・そうです、これだけ鎌足が天智天皇にべったり着いているにもかかわらず、後に起こる天智天皇の息子・大友皇子と大海人皇子の間の後継者争いの壬申の乱(6月4日参照>>)で、大海人皇子が勝利し、天武天皇の時代になっても鎌足の息子・藤原不比等は、ちゃっかり政治の中心に座っています(8月3日参照>>)

いや、むしろもっと藤原氏は繁栄しているのです。

それは、上記の通り、壬申の乱で負け組となって、しばらくの間不遇の時代を味わいながらも、その間の猛勉強して、新しい政治の手腕を身に着けた不比等の努力とともに、やはり鎌足が張り巡らした二重三重の念を入れた対処も功を奏していました。

鎌足は、天智天皇の妃であった鏡王女(かがみのおおきみ)を、妻にもらい受け(悪い言い方ですが、おさがり的な感じです)、天智天皇べったりの姿勢を見せておきながら、自分の娘ふたりを大海人皇子の妃にしています。

大友皇子にも自分の娘を妃に入れています。

これなら、誰が天皇になっても藤原一族は何とかなります。

こうして、今後の基礎を築いた鎌足は、藤原の姓を賜った天智八年(669年)10月15日翌日に56歳の生涯を閉じました。

そのお墓は、奈良の談山神社とも、京都の山科とも、大阪の阿武山古墳とも言われています。

阿武山古墳の埋葬者は50歳代とみられ、豪華な棺とともに、精巧な金のモールで飾られた絹製の冠が出土していて、その冠がこの世に一つしかない『大織冠』ではないか?との事でしたが、その後の成り行きを知りませんので、どうなったんでしょうか?
断定されたんでしょうか?

もし、阿武山古墳が鎌足のお墓だとしたら、出土した人骨に落馬による骨折の跡が見られる・・・との事だったので、鎌足が倒れたのを聞いて天智天皇がすぐお見舞いに行ったのが10月10日、その6日後に亡くなる・・・という病気とは思えないスピードにも納得がいくのですが・・・。

Dscn3201 藤原氏の氏寺・興福寺と猿沢の池

 

 

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2006年10月13日 (金)

仏教伝来・物部VS蘇我

 

欽明天皇十三年(552年)10月13日、朝鮮半島の百済の国の聖明王の使者が、仏像・仏具・経典を献上した・・・と、日本書紀にありますが、様々な研究から近年では、仏教の伝来は538年であるという説が有力とされています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

欽明天皇に送られた仏像一式には、聖明王の手紙も添えられていました。

『この法は、他のどれよりも、入りにくく達しにくい物で、周公も孔子もこれを知らなかった。この尊い法は天竺(インド)から三韓(当時の朝鮮半島にあった百済・新羅・高句麗の三つの国)に伝わった物で、皆が敬っている。仏陀の予言では、この法は東方へ流れると言われているので、貴国にこれを伝承する』

欽明天皇は「これほど、微妙な法を聞いた事がない」といたく感動して、仏教を崇拝するかどうかを、大臣たちに相談します。

すると大臣のひとりの蘇我稲目(そがのいなめ)は、「大陸のほうの国は皆仏像を礼拝しています。わが国も是非受け入れましょう」と賛成しますが、もうひとりの物部尾輿(もののべのおこし)は、「わが国の王は、神代の昔から天地におられる八百万(やおよろず)の神々を祭っています。

今ここで、他国の神を礼拝すれば、国神(くにつかみ)の怒りを招きます」と反対します。

Dscn1498 決めかねた天皇はとりあえず、蘇我稲目だけに私的な仏像礼拝を許しました。

稲目は、百済から伝えられた仏像をもらい受け、自宅を浄めて寺として、その仏像を安置し、礼拝する事にしました。

それが、日本初の寺と言われている豊浦寺です。

しかしその後、疫病が流行し多くの死者を出す・・・という事態が起こってしまいます。

仏教崇拝に反対していた物部氏派は、「それ、見たことか!他国の神を信じるからだ」と、ますます猛反対!

天皇は、仏像を難波の堀江に沈め、豊浦寺に火をつけて焼き払ってしまいました。

この頃はまだ、蘇我一族は朝廷の中では弱かったんですかね。
現在、明日香村に豊浦寺跡があります

それから32年後の敏達天皇十三年(548年)、百済に行った唐深臣(からかみのおみ)という人物が今度は弥勒菩薩像を持ち帰って来たのです。

時代はそれぞれの息子たちの時代に移っていました。

蘇我稲目の息子・蘇我馬子が、自宅の東方に仏殿を造り、仏像を安置したところ、再び疫病が流行ったので物部尾輿の息子・物部守屋またまた怒り爆発!

仏像を燃やし修行していた者たちを捕らえました。

しかし、今度の蘇我氏の長・馬子はちょっと強気。

それでも、礼拝をやめません。

しかたなく敏達天皇は、蘇我氏の私的な礼拝だけを許可しました。

この蘇我一族のかたくなな仏教押しにはわけがあります。

この時代に突然現れ一時代を築いた蘇我氏。

蘇我氏の系図は満智(まち)→韓子(からこ)→高麗(こま)→稲目と続き、この稲目が欽明天皇の時代に始めて大臣となります。

そもそも、この時代よりずっと前の5世紀頃から、日本にはたくさんの渡来人がやってきて、大陸の様々な技術を伝えていました。

文字や儒教を伝えた王仁(わに)氏、機織の技術を伝えた(はた)氏、仏像造りの細工技術や学芸に秀でた鞍作(くらつくり)氏など・・・。

そんな渡来系の人々の束ね役としてのし上がってきたのが蘇我氏なのですが、約5世紀頃の応神天皇の時代、百済の国で国政を荷っていながら、国王の母親と不倫をしたために国を追われ日本にやってきた木満致(もくまち)という人物。

彼は、日本で高級官僚として応神天皇に仕えるのですが、この人物が蘇我氏の系図の一番最初の人物・満智と、同一人物ではないか?と言われています。

そうなると、蘇我氏自身も渡来系の人々であった可能性も出てきますが、この時代、もはや渡来系の人々なしでは、日本の経済が回らない状況になっていたのです。

技術を伝えるだけではなく、その莫大な財力は大きな勢力となって、時の権力者を支える事になるのです。

対する、物部氏、大伴氏、中臣氏といった豪族たちは、天孫降臨の昔から天皇のそばについて政治を行ってきた一族です。

それぞれ、高天原にいた神様たちから枝分かれしていった神様の子孫たち。

彼らが、かたくなに神々を崇拝するように、渡来系の人々は仏教を崇拝したのでしょう。

蘇我氏にとっては、仏教うんぬんよりも、渡来人の技術力・経済力も含めた豊かな財源を確保する事が重要だった・・・そのための仏教押しだったと思われます。

宗教がらみで表面化した物部氏(守屋)VS蘇我氏(馬子)の構図は、それぞれがお気に入りの皇子の皇位争奪、政治と経済の権力の握り合いが複雑に絡み合って大きな戦争へと向かって行くのです。

そして、その戦いは蘇我氏が勝利を収める事となり、物部氏は滅亡します。

馬子の時代に名実ともに豪族のトップにのし上がった蘇我氏。

その後、馬子→蝦夷→入鹿と続き、入鹿が大化の改新の『乙巳の変』で、中大兄皇子(後の天智天皇)中臣鎌足に殺害され、蘇我氏も滅亡となるのです。

Dscn1503 豊浦寺跡近くにある物部尾輿が仏像を投げ込んだ『難波の堀江』とされる難波池(なんばいけ)

 

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2006年10月 4日 (水)

薬師寺、伽藍完成

 

文武天皇二年(698年)10月4日、薬師寺の伽藍が完成しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Dscn2157a 680年に第40代・天武天皇が、皇后(のちの持統天皇)の病気全快を願って薬師寺建立を発願。

天武天皇が亡くなった後、第41代・持統天皇がその遺志を継いで、697年に本尊を開眼、そして天武・持統帝の孫である第42代・文武天皇の時代に建物が完成しました。

持統天皇は、どのような思いで、この薬師寺の完成を見たのでしょうか・・・。

父・天智天皇の亡き後、夫・大海人皇子(のちの天武天皇)と、天智天皇の息子・大友皇子との後継者争いで始まった壬申の乱

その乱に勝利して夫は、天武天皇として即位しますが、今度はその天武天皇亡き後の後継者争いで、自分の息子・草壁皇子のためにライバル・大津皇子を消し去ったものの、息子は病死。

かわいい孫に皇位を譲るため、孫が大きくなるまで、自らが即位して持統天皇になりました。

そして、やっと孫が文武天皇として即位して、夫の願いであった薬師寺が完成したこの時、偉大な母は人生をふりかえって物思いにふけったにちがいありません。

なぜなら、この薬師寺にある『聖観音菩薩像』(現在も東院堂に安置されています)。

その姿はたいへんすがすがしく、初々しく、年若き青年の姿をしているのですが、この像のモデルがあの大津皇子だと言われています。

もし、本当にこの像が大津皇子の姿で、持統天皇の発願で造られた物だとしたら、冷酷なまでの政治を行った女帝とは別の、隠された女としての母としての一面が、この像の美しさに秘められている気がするのです。

そして薬師寺は、その後、平城京に都が遷る時(710年)、同時に飛鳥の地から現在の西の京に移されました。

現在は、大仏さんのある東大寺を中心に見てしまうので、この薬師寺のある西の京は、奈良の郊外にあるように思ってしまいますが、平城京の時代は、平城宮を中心に東に東大寺、西に西大寺が位置し、南は大和郡山のあたりまでありましたから、当時このあたりは、大都会の真ん中といった所でしょう。

Dscn2182_1奈良のお寺めぐりをしていると、「あぁ、ここは変らないなぁ~」と、懐かしい風景に感動する事がしばしばありますが、この薬師寺は久しぶりに訪れると、その変貌ぶりには、驚いてしまします。(もちろん、悪い意味ではありません)

私が最初に薬師寺を訪れた時には、建物は東塔と講堂だけだったと思います。
西塔は礎石のみが残っていて、その礎石の穴に水がたまって、東塔の法輪がその水面に写る風景に感動を覚えたものでした。

Dscn0001 それから金堂が建ち、西塔も復元されて、最近訪れたときは『玄奘三蔵院伽藍』という、ものすごく美しい建物が建っていて、またまた新たな感動をしてしまいました。

 

 

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2006年9月24日 (日)

大津皇子、謀反発覚!

 

朱鳥元年(686年)9月24日、大津皇子の謀反が発覚しました・・・といっても、濡れ衣ですが・・・たぶん。

今日のお話は、ブログ9月9日:天武天皇崩御の続きなので、もしご覧いただいてなければ、先にそちらを読んでいただいてからのほうがわかりやすいです。

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9月9日にも、書いたように、病弱でおとなしい性格の草壁皇子より、奔放で決断力と行動力を兼ね備えた大津皇子のほうが帝王にふさわしい・・・という事は、宮中の誰の目にも明らかでした。

しかし、やはり皇后・鵜野讃良皇女にとって我が子がカワイイ。

その皇后の心の内も、誰の目にも明らかでしたから、天武天皇が亡くなった今、何かが起こる事を、まわりもそして当人たちも感じていました。

早速、新羅の僧・行心(こうじん)という者が、大津皇子に近づきます。

「あなた様こそ、天皇の位に着くにふさわしいおかたです。お顔にその相があふれておりまする・・・」

しかし、聡明な大津皇子が、そんなあやしげな僧の言葉の惑わされる事はありません。
むしろ逆に、いよいよ皇后が自分を消すために、行動を起こし始めたを痛感しました。

さて、これから自分はどうするか?

以前、入鹿暗殺事件後の古人大兄皇子や、天智天皇死後の父・天武のように、出家して吉野に入ろうか?

いや、しかし、古人大兄皇子は吉野に入っても殺されてしまった・・・いっそのこと、海の向こうの大陸の行ってしまおうか?

思い悩んだ大津皇子は、一番親しかった友人・川島皇子に相談した後、伊勢へ旅立ちます。

伊勢には、姉の大伯皇女が斎宮として伊勢神宮に仕えていました。

幼い頃、母を亡くしてから、ふたり寄り添うように生きてきてに違いありません。

皇后の強大な黒い影を前に、可憐な姉弟は、どんな話をしたのでしょう。

やがて、ふたたび飛鳥に戻る弟を見送りながら、大伯皇女は歌を詠みます。

♪二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を
 いかにか君が ひとり越ゆらむ♪

「ふたりでも、たいへんな山を、弟はひとりで越えて行く・・・」

万葉集に残るこの歌を聞くと、去ってゆく弟の背中を見て、大伯皇女の胸が締め付けられるような悲しみを感じずにはいられません。

大津皇子が伊勢にいる間に大和では、事が大きく動いていたのです。

『大津皇子・謀反発覚!』密告したのは、他ならぬ川島皇子、朱鳥元年9月24日の事でした。

はたして先日、大津皇子が川島皇子に持ちかけた相談は、本当に『謀反の意志』だったのでしょうか?

おそらくその時は、この先の身の置き所を相談しただけで、川島皇子は長いものに巻かれてしまったのだ・・・と、思います。

なぜなら、この先の皇后の行動が、あまりにもスピーディで、はなから計画していたとしか思えないからです。

10月2日、飛鳥に戻った大津皇子を待っていたのが、非情な皇后の『謀反の罪で逮捕せよ』という命令でした。

その日のうちに、大津皇子と共犯者三十余名が逮捕され、翌日には大津皇子ひとりの死刑が執行されてしまいます。

それに、共犯者として一緒に逮捕された者のなかで、有罪になった者でも、側近の礪杵道作(ときのみちつくり)が伊豆に、大津皇子を誘惑した僧・行心が飛騨の寺に左遷されただけで、残りは全員無罪。

明らかに、大津皇子ひとりをターゲットにした茶番劇のように思えてなりません。

大津皇子は二上山に葬られ、やがて伊勢の斎宮を解任された大伯皇女が毎日のようにその塚の前に姿を見せていたと言います。

さて、皇后の身分のまま天皇の政務をこなし、なりふりかまわず可愛い息子のお膳立てをしてやった鵜野讃良皇女に、たった一つ、想定の範囲外の出来事が起こってしまいます。

それは、大津皇子の事件からわずか三年後、最愛の我が子・草壁皇子が病死してしまうのです。

さすがの、皇后も遺体にすがって泣き苦しみますが、またしても、その見事な精神力で立ち直ります。

草壁皇子には、その時8歳になる軽皇子という子供がいたのです。

「この子が大きくなって皇位を継ぐまで、何とか頑張らなければ・・・」

偉大なる母は、翌年、自らが即位して持統天皇となるのです。
 

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2006年9月 9日 (土)

天武天皇崩御で持統天皇が動き出す

 

朱鳥元年(686年)9月9日、第40代・天武天皇が崩御しました。

そして、その死をきっかけに、いよいよ持統天皇の『強烈ママの我が子を天皇にするぞ作戦』が、動き始めます。

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大海人皇子(後の天武天皇)は、あの大化の改新を行った第38代・天智天皇の弟で、その天智天皇のふたりの娘を妃にしていました。

姉・大田皇女(おおたのひめみこ)と妹・鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)です。

このふたりの皇女には、同時期に相次いで、子供が生まれます。

大田皇女には、長女・大伯皇女と長男・大津皇子

鵜野讃良皇女には、草壁皇子です。

しかし、大田皇女は大伯皇女が7歳・大津皇子が5歳の時に病気で亡くなってしまいます。
後に起こる大津皇子の悲劇は、この時に始まっていたと言ってもいいでしょう。

やがて、天智天皇が病死し、その息子・大友皇子との皇位継承の争いである壬申の乱に勝利した大海人皇子が天武天皇として即位します。

そして、鵜野讃良皇女が皇后となるのです。

天武天皇は、9人の妃に17人の皇子・皇女をもうけていましたが、もうすでに宮中では、次の皇位継承について波乱の噂が囁かれていたようです。

・・・と、言うのもこのふたりの皇子は、草壁皇子が10歳、大津皇子が9歳で、壬申の乱の時、父をアシストしましたが、その後、大人になるにつれ、徐々にその帝王としての素質に差が出てくるのです。

大津皇子は奔放で才気にあふれ・・・、対する草壁皇子は悪くはないものの少し軟弱な青年でした。

ふたりの皇子がともに恋をした石川郎女(いしかわのいつらめ)という女性も最終的に大津皇子の手の中に落ちています。

やはり、男としても大津皇子のほうが魅力的だったようです。

天武天皇は当然、心の中では「大津皇子を皇太子にしたい」と、思っていましたが、大津皇子の母・大田皇女はすでに亡く、草壁皇子の母・鵜野讃良皇女は皇后として君臨していますから、なかなかすぐには決定できません。

そこで、鵜野讃良皇女はここで、予防線を張ります。

彼女は、生涯の中で31回吉野に旅をしていますが、たった1回、天武天皇も同行した吉野行きがありました。

それが、天武八年(679年)5月の『吉野のちかい』と言われる旅で、この旅の中で「千歳の後に事なからしめむ」と神と天皇の前で誓う儀式が行われたのです。

その儀式の時、代表で天皇の前に進み出る役を、草壁皇子が行うようにダンドリをしたのは、言うまでもなく鵜野讃良皇女でした。

そのパフォーマンスが効いたのか、その翌年に草壁皇子は皇太子なります。

草壁皇子・19歳、大津皇子18歳でした。

しかし、鵜野讃良皇女の大津皇子を疎外しようという意図が、あまりにもあからさまで、見かねた宮中の大臣たちの声もあり、その2年後には、天武天皇は大津皇子も政治に関わる役職につけたり・・・と配慮をしていました。

そんな時、今日の天武天皇・崩御です。

鵜野讃良皇女は、片方で夫の死を悲しみながら、いよいよ我が子のライバルを消しにかかります。

・・・が、そのお話は、その事件が起こる2週間後の9月24日にさせていただく事にします。

Dscn1608

天武・持統天皇陵

 

 

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2006年8月27日 (日)

古代海外出兵・白村江の戦い

 

天智称制二年(663年)8月27日、日本+百済軍唐+新羅軍白村江の戦いで敗れました。

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斉明天皇五年(659年)の頃、朝鮮半島では、新羅(しらぎ)高句麗(こうくり)百済(くだら)の三国がたがいに、しのぎをけずっていましたが、ここに来て、百済と高句麗に多くの城を奪われた新羅が唐に助けを求めます。

年号も唐に合わせすっかり唐の傘下に収まっていた新羅は、唐の高宗から十万の援軍を得てその年の7月に百済を攻撃

唐も同時に海路から攻撃を仕掛けます。

挟み撃ちされた百済は、次々と城を奪われ、やがて百済王・義慈(ぎじ)は捕虜となり、唐に送られ、ここに百済は滅亡しました。

しかし、一つの国が一発でそう簡単に滅ぶわけもなく、その後も朝鮮半島で生き残りたちが、百済の復活を願って、各地でテロを起こしたりしていました。

そんな彼らが、復興の旗印として白羽の矢が立てたのが、当時、日本に滞在していて難をまぬがれた義慈王の息子・余豊章(よほうしょう)でした。

彼を、王として担ぎ上げ、日本の救援を得て再び百済を再生しようと考えたのです。

日本の朝廷は議論の末、百済の救援を承諾つまり、唐・新羅を相手に戦う事を決断します。

天皇自らが指揮をとるべく、斉明天皇七年(661年)正月、大船団を組んで出兵の拠点となる九州へ出発しました。(ブログ:7月24日参照

九州に着いて、間もなく高齢のためか斉明天皇が亡くなりましたが、息子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)が引き続き指揮をとり、将軍・安倍比羅夫(あべのひらふ)を豊章とともに日本海へと送り出しました。

しかし、日本軍は、唐軍の待ち受ける白村江(はくすきのえ・朝鮮半島の西側の沖)に吸い寄せられるように船を進め、東郷に敗れたバルチック艦隊のように、見事に負けてしまいます。

唐の書物には・・・
「倭の船四百隻を焚く、煙焔 天にみなぎり、海水皆赤し」
と、記され、戦闘の激しさが伺えます。

これによって百済という国は完全に滅亡してしまいました。

その後、中大兄皇子は本土決戦を視野に入れて、九州に防人を置いたり、大宰府を始め西日本の各地に朝鮮式の城を築きます。

幸か不幸か、この時の百済からの大量の亡命者により、日本に大陸の様々な技術が輸入される結果となりました。

白村江の戦いについては、HPでも書いていますので、よろしければコチラからどうぞ>>Dscn2758
百済からの亡命者たちの氏神・百済王神社
お隣には、百済寺跡もあります
(大阪府・枚方市)

くわしい場所はHPの交野ヶ原のページへどうぞ→

 
 

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2006年7月24日 (月)

斉明天皇の心の内は・・・

 

斉明七年(661年)7月24日、第37代・斉明天皇が九州・朝倉宮にて、この世を去りました。

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この天皇の68年の生涯は、自分の心とはうらはらに、まわりの人物たちの運命によって波乱に満ちた物になりました。

斉明天皇は、宝皇女(たからのひめみこ)という名前で、女性です。

高向臣という人物と結婚していましたが死別して、田村皇子(後の舒明天皇)と再婚したのが32~3歳の頃。

この結婚がすでに蘇我蝦夷の計らいでした。

この頃在位していた推古天皇には、二人の次期天皇候補がいました。

田村皇子ともうひとり、聖徳太子の子・山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)です。

理想主義で豪族を排除し、皇室を重視する聖徳太子の考えを受け継ぐ山背大兄皇子は、蘇我蝦夷にとって目の上のたんこぶ。

当然、性格がおとなしく扱いやすい田村皇子を押しますが、天皇になるには、ふさわしい皇后も必要です。

田村皇子には、蘇我馬子の娘・法提郎女(ほていのいつらめ)が嫁いでいて、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)という男の子をもうけていましたが、推古天皇の例もあり、いざという時、天皇になる事も考え、天皇家の血をひく人でなくてはなりません。

それで、敏達天皇の曾孫で、やっぱり扱いやすい宝皇女との結婚を勧めたのです。

蘇我蝦夷のもくろみどおり、推古三六年(628年)に推古天皇が亡くなった後、田村皇子が舒明天皇として即位し、宝皇女が皇后になります。

この頃から蘇我蝦夷の政界における実権は確実に増強していきます。

そして、舒明十三年(641年)に舒明天皇が亡くなった後、皇后の宝皇女が第35代・皇極天皇として即位します。

この頃には、蝦夷の息子入鹿も登場し、先の山背大兄皇子一族を滅ぼし、ますます蘇我氏の天下で、天皇が新嘗祭(新米を神に供え五穀豊穣を祈願する皇室の行事)を行った同じ日に、蘇我氏は蘇我氏で新嘗祭を行うといった露骨な事もするようになりました。

そんな蘇我氏にブチ切れたのが、皇極天皇の息子・中大兄皇子です。

露骨な事をされながらも、のほほんとしていたお嬢様の心の内とは関係なく、クーデターは決行されました。

そう、乙巳(いっし)の変・蘇我入鹿暗殺事件です。(ブログ:6月12日参照

この時の皇極天皇の驚きぐあいから見ても彼女はクーデターの事は知らなかった、考えていなかった・・・というのがよくわかります。

クーデターの後は、皇極天皇の弟・軽皇子が即位して孝徳天皇となります。(ブログ:6月14日参照

しかし、ここからは、案の定クーデターを決行した中大兄皇子と中臣鎌足が実権を握り、蘇我氏よりだった兄の古人大兄皇子も滅ぼしてしまいます。

そして、飾り物のように無視をされた孝徳天皇は失意のまま10年とたたない間に亡くなり、またまた本人の気持ち関係なく、宝皇女が即位して斉明天皇となりました。

今度の天皇はお母ちゃん、ますます遠慮なしに、中大兄皇子は政治やりまくりです。
でも、今回は斉明天皇も負けてません。

多武峯に新宮殿を築いたり、岡本宮の東の山に石垣を造ったり、吉野に離宮を造ったり、土木事業に勤しみました。

しかし、これがまた評判が良くなかった・・・。

石垣の石を運ぶために造った溝を人々は「狂心(たぶれごころ)の溝」と呼んだといいます。
人手と費用がかかったわりには、意味のない建造物だったようです。

そんな時、先の孝徳天皇の息子・有間皇子が謀反の罪で死刑となります。(ブログ:11月10日参照)

またまた、皇極天皇の感知しない所で、中大兄皇子は策略を張り巡らし、邪魔者を排除していたのです。

それから、間もなく斉明六年(660年)政局は急展開を迎えます。

朝鮮半島で、唐と新羅の連合軍に敗れた百済が救援を求めてきたのです。

今までの付き合い上、無視するわけにもいきません。

わが国も朝鮮半島への出兵を覚悟し、護りを固めるため、天皇自ら大船団を組んで九州に出発します。

もちろん皇太子・中大兄皇子もお供します。

斉明七年(661年)、斉明天皇68歳の正月の事でした。

いったん磐瀬(福岡県)に落ち着いた後、5月には、朝倉の宮殿も完成します。

しかし、朝倉に移ってから、わずか2ヶ月後の今日7月24日、斉明天皇はその生涯を閉じました。

ことごとくまわりの人間関係に振り回された女帝の生涯・・・ひょっとしたら、彼女自身は政治になんて興味がなく、ただひたすら、良き妻、良き母、良きおばあちゃんでありたかっただけかもしれません。

この続き【白村江の戦い】ブログ:8月27日へどうぞ→

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斉明天皇の頃に造営されたとされる亀型石造物

 

 

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2006年7月22日 (土)

壬申の乱の山場!瀬田合戦

 

天武元年(672年)7月22日は、壬申の乱の最後で最大の戦い瀬田の合戦があった日です。

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兄・天智天皇の死後、後継者をめぐって天智天皇の息子・大友皇子と争った(ブログ:6月24日参照大海人皇子(後の天武天皇)が、吉野を出発してからというもの、押せ押せムードで戦いを進めていました。

大海人皇子には、もう戦いに参加でき、片腕となってくれる息子が何人かいましたし、先に関所を押さえ大友皇子側の外部との接触をできなくしていました。

一方の大友皇子は、むしろその息子たちに近い年齢。

血を分けた身内がいないせいか、まとまりが悪く、味方の将軍どうしでもめる・・・といった内紛状態になっていました。

北陸を通って、琵琶湖の西岸を南下してきた軍と、瀬田橋の東側までせまってきた大海人皇子の長男・高市皇子の率いる軍勢に挟まれる形になった大津京。

そしていよいよ今日、7月22日、瀬田を越えさせてはならない!と大友皇子が自ら軍勢を率いて最後の決戦に挑みます。

橋の西側に陣取った大友皇子は、橋に仕掛けを作って渡らせない作戦にでます。

最初はしばらく、矢戦が続きましたが、突然、大海人軍のひとりが、橋の仕掛けの綱を切って対岸に渡り、後の者も次々とそれに続きます。

こうなると、もう形勢は一方的、大友軍は総崩れとなってしまいます。

大友皇子はいったんは、脱出しますが、逃げ切れない事を悟り、翌日・23日山崎の地で自害します。

そして、大津京も焼かれました。

大海人皇子は即位して、第39代・天武天皇となります。

この後、平安京を造営する桓武天皇までの約1世紀の間、天武系の子孫が天皇の座に君臨することになります。(桓武天皇は、天智系の子孫です)

後の世になって、大友皇子は壬申の乱勃発までに、すでに即位していた・・・とされ第39代・弘文天皇ということになり、現在は天武天皇は第40代という事になりました。

もっと、くわしく知りたい方は、私のHP『京阪奈歴史散歩』飛鳥時代徹底解剖ページへお越しくださいませ
 

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2006年6月24日 (土)

大海人皇子・吉野出発で壬申の乱勃発

 

白鳳元年(672年)6月24日、大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)は、舎人二十余人、女官十余人と妃・鵜野讃良々皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)を、つれて滞在中の吉野を出発しました。

これが、事実上の壬申の乱の始まり、古代最大の内乱の勃発です。

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複雑な細かい事情はあるものの、一言で言うと、叔父と甥の天皇・相続争いです。

668年に即位した第38代・天智天皇(中大兄皇子)