2009年12月 6日 (日)

日本初の本格的「都」~藤原京・誕生

 

持統八年(694年)12月6日、持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京へ遷都しました。

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つい先日の11月29日、建築資材を運ぶための運河の跡が発見され話題となった藤原京(奈良県橿原市)は、日本初の都市計画に基づく本格的な都です。

この日から、和銅三年(710年)3月10日に平城京に遷都されるまでの16年間、ここが政治の中心でした。

Zitoutennouyamatosanzancc 明日香・甘樫丘から見た大和三山(左から畝傍山・耳成山・香久山)

ちなみに、藤原京という呼び名は、後世の人が名付けた学問上の名称で、実際には新益京(あらましのみやこ)と言い、その都にある宮殿の部分を藤原宮(ふじわらきゅう)と言います。

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天皇を頂点としたピラミッド型の政治構造を造り、法令に基づいた律令国家を目指した第40代・天武天皇(2月25日参照>>)・・・その死からまもなく、跡を継ぐべき皇太子であった草壁皇子も亡くなってしまった事から、天武天皇の奥さんで草壁皇子の母だった鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が第41代・持統天皇として即位して、亡き夫の遺志を継ぐ事となります。

持統三年(689年)には、日本初の行政法である飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい)が施行され、古代官僚制を確立させます。

ちなみに、「令」というのが行政の法規で、「律」というのが刑罰の法規で、両方合わせて律令国家なわけですが、「律」のほうはもう少し先の大宝律令(8月3日参照>>)で施行されます。

そして、やはり新しい律令国家に必要なのは本格的な都・・・もちろん、これも天武天皇の遺志なのですが・・・。

これまでの都は天皇が変わるたびに宮も変わる歴代遷宮が普通でしたが、数年ごとに宮が変わる不安定な状態だと、その周辺が(みやこ)として大きく発達する事は難しい・・・そこで、都市計画に基づいた「京」としての藤原京の建設が行われたのです。

しかし、当時は朝鮮半島の情勢が不安定だったため(4月2日参照>>)、約30年間に渡って遣唐使が途絶えていた時代でもあり、モデルとなるべき中国の最新情報が得られない状況での造営は、なかなか難しかった事でしょう。

とは言え、そのスケールは大きかった・・・

Fuziwarakyouzu 藤原京(新益京)・復元区画図
(このイラストはわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

以前は、古道(下ツ道・中ツ道・横大路・山田道)に囲まれた大和三山(畝傍山・耳成山・香久山)の内側の部分であると考えられていましたが、近年の発掘調査で、その外側から道路の遺構が見つかり、平成九年(1997年)には東西十大路が確認され、1辺が5,3km四方の大きさであった事が判明しました。

これは、23k㎡の平安京、24k㎡の平城京よりも大きい事になります。

条坊道路は両側に側溝のある構造で、その幅は16m・9m・7mの3段階に分けられ、道路によって区画された中に寺院や官邸・宅地などがあり、基本的には宮に近いほど、有力な貴族の住む大きな邸宅であったと思われ、遠くなるほど小さな宅地が多くなります。

Fuziwarakyuuzu 藤原宮(想像図)

この藤原京の中心に位置したのが藤原宮で、東西925m、南北907mの区画を瓦葺の大垣で区切り、各面に3ケ所ずつの門が備えられている中央部分に北から内裏(だいり)大極殿朝堂院と並びます。

大極殿は、基壇の上に礎石を用いた瓦葺の最も大きな建物で、赤い柱や緑の窓、金色の金具といった中国的な建築様式だったとされ、これまでの基壇なしで地面に柱の板葺きという建物とは、明らかに違うものでした。

大極殿の南側には南門があり、続いて南北318m、東西230mに囲われた朝堂院があり、ここに東西各6棟の朝堂が建ち、さらに、その東西には官庁が並びます。

こうして、律令国家の基盤となる永年の都として造営された藤原京でしたが、わずか十六年で、次の平城京へと遷都される事になります。

それには
・山に囲まれたこの地では、これ以上都を大きくできない。
・良い材木を伐採しつくした。
・木材運搬の便利さ。
などなど・・・考えられますが、私としては、やはり政権交代ではないか?と・・・

そこのところは、平城京・遷都がらみのページで書かせていただいておりますので、2月15日の【平城京はなぜ、あの場所に?】へどうぞ>>
 

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2009年9月25日 (金)

未盗掘で発見された藤ノ木古墳~その被葬者は?

 

昭和六十年(1985年)9月25日、奈良県斑鳩町藤ノ木古墳で石室等が発掘された事で、本日9月25日は『藤ノ木古墳記念日』という記念日なのだそうです。

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つい先日書かせていただいた江戸の名大工・中井正清(9月21日参照>>)・・・彼の出身地である西里(にしさと)が、奈良の法隆寺の西大門出てすぐの西隣にある事を書かせていただきましたが、その道をさらに西に進んで、民家と畑の合間にポツンと見えてくるのが藤ノ木古墳です。

Fuzinoki2 右の写真は、私が訪れた3年前のものですが、ご覧になっての通り、この時は、近所の奥様に「これが、藤ノ木古墳ですか?」と聞いてしまったくらい、雑草生え放題で、説明書きも何もない状態でした。

その後、昨年の3月に、車椅子で石室内に入れるバリアフリー設計で整備されたようで、wikiなどにはキレイな写真が載せられていてうれしい限りですが、その時の私の驚きは、あの有名な藤ノ木古墳が・・・何の整備もされていない」事の驚きだったわけです。

・・・で、この藤ノ木古墳が、なぜ、そんなに有名なのか?

それは、この古墳の石棺が未盗掘のまま発見されたからです。

あの有名な高松塚古墳も、美しい壁画が残っていた事で一躍脚光を浴びましたが、やはり、鎌倉時代に盗掘された跡があり、おそらく朱雀が描かれていたであろう南側の壁は壊され、石棺の中も荒らされていました。

未盗掘という事は、埋葬された時の状態のままなわけで、当時の埋葬の儀礼を解明するうえで、とても貴重な史料なわけです。

発掘後すぐに行われた第一次調査では、全長約14mの横穴式石室と、くりぬき式家型石棺が検出され、石棺と奥壁との間に、銅に金メッキをほどこした馬具や武具、土器などが出土しましたが、何と言っても藤ノ木古墳を有名にしたのは、昭和六十三年(1988年)に行われた第二次調査です。

この時、最新技術とも言えるファイバースコープを使って、石棺内を調査・・・翌日の新聞の一面には、「金銅の冠・刀剣・玉 見えた」「輝く大量の副葬品」という見出しが躍り、まさに、高松塚以来のフィーバーを巻き起こしました。

ただ、高松塚の壁画と違って、ファイバースコープの映像は、なんだかモヤモヤで、素人目には、何が映っているのかよくわからず、何であんなにデカデカと報道されたのか?と少し疑問にも思ったりもしましたが、「最新技術のファイバースコープのカラー映像」というのが、テレビ向き、新聞向きのいい材料だったんでしょうね。

もちろん、ファイバースコープの映像はともかくも、貴重な発見には変わりないわけで、その後も続けられた調査で、石棺内では、北側に20歳前後の男性と、南側に20~40歳とみられる男性二人の被葬者が確認され、金銅製の靴やガラス玉で装飾された太刀、被葬者を覆う布などが、埋葬当時の状態のまま見つかっています。

そんな藤ノ木古墳・・・石棺内の調査は、その昭和六十三年に終えましたが、出土した多くの品々の調査が今なお続いており、イロイロ話題をふりまいてくれています。

もちろん、その被埋葬者が誰であるのかは未だ不明なわけですが、やはり、そこが一番興味のあるところ・・・

実は、この藤ノ木古墳の石棺内からは大量のベニバナの花粉が見つかっていたのですが、当初、その花粉は、被葬者を覆う布の染料に使用されたと見られていました。

しかし、その量がハンパなく多い事に疑問を抱いていた金原正明・奈良教育大准教授の研究によって、その花粉がほぼ100%の花粉である事が判明・・・逆に染料として使用すれば、花粉はほとんど残らない事が証明されて、この石棺内のベニバナは、染料に用いられたのではなく、生花が使用された可能性が高くなったのです。

つまり、現在の私たちが葬儀の時に、生の菊の花で飾るように、生のベニバナで埋葬者を埋め尽くしたという事です。

・・・という事は、ベニバナの咲く季節=夏に埋葬された事になります。

そこで、奈良芸術短大の前園実知雄教授は、被葬者は用明二年(587年)6月5日に亡くなった穴穂部皇子(あなほべのおうじ)ではないか?と推測します。

この穴穂部皇子・・・このブログでは第33代・推古(すいこ)天皇との関係で登場していますが(3月7日参照>>)、推古天皇の夫である第30代・敏達(びたつ)天皇が亡くなった時、その後継者を巡って、後の推古天皇である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)蘇我馬子(そがのうまこ)と対立して殺され、果ては、そんな穴穂部皇子のバックについていた物部守屋(もののべのもりや)との「蘇我VS物部の大抗争」へと発展するきっかけとなった人物です。

そうなると、もう一人の被葬者は、穴穂部皇子が殺された翌日に、やはり殺された親戚筋の宅部皇子(やかべのおうじ)の可能性が高い事になりますが、それを裏付けるお話も・・・

この藤ノ木古墳内で発掘されている副葬品の中には製作ミスの物が混ざっていたりして、かなり、やっつけで、急遽副葬品を製作した感があります。

さらに、石棺内の被葬者の骨がくっついていた・・・つまり、当時は、亡くなってから一定の期間喪に服してから埋葬するはずが、がくっつくほど、死の直後に埋葬されているなど、急な死であり、急な埋葬であった事がうかがえ、その点でも、穴穂部皇子の可能性が高いのだとか・・・

ただ、石棺に入れられたベニバナが生花ではなく、保存用のドライフラワーだった可能性も捨てきれず、そうなると、季節は関係なくなります。

また、今年になって、被葬者の1人・・・南側の人物は女性という説も登場しています。

もともと、骨の鑑定から、男性とされた南側の人物ですが、北側の人物が20歳前後の男性とされたのに対し、南側は20~40歳の男性と見られる・・・つまり、その残っている骨の状態があまりよろしくなく、極めて鑑定し難い状態なのです。

そこで、奈良芸術短大の玉城一枝・非常勤講師は、身に着けていた装飾品に注目し、当時の埴輪や記紀に見られる手玉・足玉など、女性が身に着けていた可能性が高い装飾品を身に着けている南側の被葬者は女性ではないか?と・・・

もちろん、そうなると、北側のもう一人が穴穂部皇子・・・というのも、根本から見直す事になります。

「なんや、結局ワカランのかいな!」
なんて、言わないでくださいね(。>0<。)

こうして、いろいろな、ヒントをいただきながら、あーだこーだと推理していく事が楽しいのです。
 

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2009年8月 5日 (水)

世界情勢とともに変化した遣唐使の役目

 

舒明二年(630年)8月5日、犬上御田鍬らが第1回遣唐使として派遣され、中国へと向かいました。

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以前、第10回の遣唐使派遣のページ(4月2日参照>>)で、そのルート変更により、危険性が格段に増した事など書かせていただきましたが、本日は、第1回の派遣という事で、日本をとりまく周辺諸国の状勢により、徐々に変化していく遣唐使の役目などについてお話させていただきます。

ちなみに、上記の第10回のページと同様、有名な小野妹子(おののいもこ)に始まる遣隋使は、遣唐使とは、また、別の使節とご理解いただきたいと思います。

・・・で、今回の第1回の遣唐使・派遣・・・

この頃は、すでにが滅びて唐に代わってから12年・・・唐にとっては内政も整い、国内も落ちついていた時期で、皇帝の玄宗(げんそう)も、たいそうご機嫌で犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを、熱烈歓迎してくれています。

翌年、彼らが帰国する時には、高表仁(こうひょうじん)(皇帝の正式な使い)を持たせてお礼の訪問をさせ、「日本は遠いよって、毎年貢物せんでもえぇねんで~」てな、おやさしい事をおっしゃって、次に遣唐使が派遣されるのは22年後という事になります。

・・・にも関わらず、この次の回となる白雉四年(653年)と白雉五年(654年)には、立て続けに二年連続の第2回と第3回の遣唐使を派遣・・・。

これは、おそらく、朝鮮半島の情勢の悪化によるもの・・・例の白村江の戦い(8月27日参照>>)が、天智二年(663年)ですから、それを睨んでの派遣という事でしょう。

そして、結局その朝鮮情勢に、百済(くだら)の救援という形で参戦して、唐&新羅の連合軍に敗れた日本は、天智八年(669年)派遣の遣唐使では、「高麗を平定したお祝い」という姿勢をとっています。

しょっぱなの遣隋使の時の、皇帝・煬帝(ようだい)を怒らせたとウワサの、あの聖徳太子「日出(い)ずる処(ところ)の天子・・・」の手紙(7月3日参照>>)以来、一貫して同じ独立国家として対等の外交姿勢を貫いていた日本としては、ちょっと、腰が退けた状態となってしまいました。

・・・とは言え、やはり、中国にとっての日本は、陸続きの他のアジア諸国とは、少し違う存在だったようです。

もともと中国は、国は代われど伝統的に『冊封(さくほう)体制』をとっていました。

いわゆる、世界の中心に中国という国があり、周辺の諸国は、その中国に臣下の礼をとる事で国家として認めてもらい、その国の王も、中国の承認があってこそ、名実ともに王なのだ・・・といった具合で、ときには、中国の要請によって兵役を課せられる事もあり、属国とまではいかないものの、それに近いものだったのです。

しかし、日本は、その冊封体制には組み込まれておらず、あくまで『朝貢国』・・・一定期間に決まった回数の使節を送り、挨拶を欠かさないという立場でした。

ただ、これは、あくまで、上記の聖徳太子の時代から日本側の主張する一環した姿勢であり、中国から見れば、結局は臣下の国の一つに過ぎなかったようですが、それでも、他のアジア諸国が毎年、しかも一年に何度も使節を訪問させているのに対し、日本は、相変わらず20年に1度のままだったわけで、その点では、やっぱり、特別扱いです。

それには、もちろん、先の玄宗が言ったように、日本は海を隔てた遠くにあり、その航海が危険を伴うものであったからという事が第一ですが、それよりも、中国自身にとって重要だったのは、日本の位置です。

朝鮮半島を臣下としておくためには、その向こうの位置にある日本と仲良くしておく事が大事だったわけです。

何か事を起こそうとしても、中国と日本が友好関係にあれば、必ず、挟み撃ちとなるのですから・・・。

それは、中国だけでなく、周辺諸国も充分承知・・・高句麗滅亡後の文武元年(698年)に、朝鮮半島北部から中国東北部を領土とした渤海(ぼっかい)は、神亀四年(727年)には、自ら使節を日本へと派遣して国交を樹立した後は、むしろ日本の朝貢国のような立場を自らとっています。

これは、渤海滅亡までの200年間・・・日本の遣唐使制度が終った後も続けられていました。

あの新羅でさえ、たびたび日本とは険悪なムードになりながらも、その都度、使節を派遣して、数の上だと、遣唐使をはるかに上回る頻度での交流を持ったのは、やはり、挟み撃ちを恐れての行動なのでしょう。

・・・と、その時代々々によって、政治的背景は多少の差があって、国家を背負って訪問する使節の意味は微妙に違うものの、一貫しているのは、彼らとともに海を渡った留学生による文化的交流です。

遣唐使の留学には、短期長期があるのですが、一旦中国へ着いたその船は、1年後に再び日本への帰途をたどる事になるので、短期というのは、この1年間の留学という事になります。

長期留学の場合は、先に書いた通り、基本、20年に一度の派遣なので、必然的に20年という事になりますが、国の命により派遣された使節の官人よりは、自らの学びたいという意志で渡海してきた留学生のほうが、その情熱も高く、僧ならば、かの最澄空海(12月14日参照>>)、学生ならば、吉備真備(きびまきび(4月25日参照>>)小野篁(たかむら)(12月15日参照>>)といった、後に中央政界で大活躍する優秀な人材を輩出する事になります。

なかには、あまりに優秀すぎて、唐に滞在中の段階で政治手腕を発揮して、帰るに帰れなくなった安倍仲麻呂(8月20日参照>>)のようなケースもありますが、そもそも、あの鑑真和上(がんじんわじょう)(1月16日参照>>)だって、おそらくは、彼ら留学生の情熱にほだされて、「日本へ行きたい!」という気持ちになったのでしょうから・・・。

それにしても・・・
近代になってこそ、発展途上国の優秀な人材を、国費にて先進国へと向かわせ、その最先端を学ばせるという留学制度が行われるのは当たり前となりましたが、1300年もの昔に、このような制度を行っていたというのは、世界広しと言えど日本くらいなのでは?

・・・と思ったら、外国にもあるそうです(゚ー゚;
下記コメントで“おみそしるさん”に教えていただきましたので、コメント欄でご確認を・・・(世界史が苦手なもので申し訳ないです・・・加筆させていただいときます)
*補足=トップページでまとめて記事を読んでくださってる場合は、この記事の末尾の【固定リンク】をクリックしていただくとコメント欄が出ます。

かくして、寛平六年(894年)に菅原道真(1月25日参照>>)の進言によって廃止されるまでの260余年・・・命がけで海を渡った若者が、勇気ととも持ち帰った最先端の知識と情報が、当時の日本に様々な影響を与えた事は言うまでもありません。

やがて、遣唐使廃止から9年後には、唐のほうが滅亡してしまいますが、伝えられた文化が見事に融合し、日本人の奥深くに根付いていくのはご承知の通りです。
 

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2009年4月 3日 (金)

知ってるつもりの十七条憲法~その言いたい事は?

 

推古十二年(604年)4月3日、聖徳太子が憲法十七条を制定しました。

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「聖徳太子の憲法十七条」・・・これは、誰しもが通る道・・・

どんなに歴史好きでない人でも、さすがに小学校の授業で習った記憶が残っているシロモノです。

現在では、その存在自体が疑問視されている聖徳太子・・・最近は教科書でも聖徳太子の名前は消え、より実在した可能性の高い厩戸(うまやど)皇子として登場するようになっているようですし、以前から、このブログにも、その怪しさについて書いたりしています(4月10日【聖徳太子のどこが怪しいのか】参照>>)

そうなると当然、本日の憲法十七条についても疑いが持たれる事になりまが、それを論じ出すとキリがなく、その真偽だけでいっぱいいっぱいになってしまいますので、それは、また、そのようなテーマで書く時に論じさせていただく事として、今日は、とりあえず、聖徳太子が実在して、憲法十七条を制定したというテイで、その憲法そのもについて書かせていただきたいと思います。

・・・で、冒頭に、誰もが通る道・・・と、歴史好きでなくても誰もが知ってる事を強調させていただきましたが、この誰でも知ってるというのが、意外にクセモノです。

「604年の4月3日に作ったかどうかは知らんが、聖徳太子が十七条の憲法を作った事は知ってる」

そうなんです。
憲法を作った事を知ってるだけで、どんな物かはほとんどわからない・・・

「いやいや、『和をもって貴(とうと)しと成し、忤(さから)う事なきを宗(むね)とせよ』、と皆で仲良くしようって事が書いてある事も知ってるよ」
と、おっしゃる方もおられるでしょうが、問題は、そのあとです。

そう、教科書を探しても、聖徳太子に関する本を読んでも、そこから後ろの事はほとんど書いていません。

つまり、そこからあとの内容については、学校でも教えられていないのが現状なのです。

例として、私の持ってる歴史副読本を転載させていただきますと・・・

  • 一に曰く、和をもって貴しと成し、忤う事なきを宗とせよ(以下現代語訳あらまし)
  • あつく仏教を信仰せよ
  • 天皇の命令をうけたら、必ずそれに従え
  • 役人は礼儀を基本とせよ
  • 私利私欲を捨てて公平な裁判を行え
  • 善をすすめ、悪をこらせ
  • 人は各自の任務と役目を行え
  • 役人は朝早く出勤し、遅く退庁せよ
  • すべての事に信をもって当たれ
  • 人の過失を怒ってはならない
  • 役人の功績と罪科にかなった賞罰をせよ
  • 地方官は人民から税をむさぼり取らぬようにせよ。
    国に二人の君はなく、人民に二人の主はない
  • 役人は職務の内容を心得よ
  • 役人は他人を恨んだり妬んではいけない
  • 私欲を捨てて公共の立場に立つのが臣民の務め
  • 人民を使役する時は、時節をわきまえよ
  • 物事は自分一人で決めず、よく論議せよ
           (浜島書店:資料カラー歴史より)

と、あります。

もちろん、原文は漢文で書かれていますので、それを現代語訳していただいてるのはありがたいですし、少なくともここは、十七条のすべてを書いてくださっているので結構なのですが、中には、途中の五条くらいから十条くらいまでがカットされていたり、四条までで以下略・・・いや、以下略なら、「まだ、この先があるんだな」という事が想像できますが、何も書いていないものもあって、そこで終わりだと思ってしまっている人も、多くいらっしゃるのではないか?と思います。

現に、私も、学校で習った時は、そう思ってました。

しかし、上記の引用の中での「以下現代語訳あらまし」・・・ここです。

つまり、ここから先は、あらましを書いてあるだけ・・・それは、この一条だけでなく、二条~十七条すべてが、あらましなので、本当は、このそれぞれの条の先に、まだ文章が続いている事になるわけです。

もちろん、先に書かせていただいたように、原文は難しく、すべてを、ここでご披露しても「何だかな~」って感じですし、上記の、内容を要約したもので充分だと思いますので、それはやめておきますが、せめて、第一条の、あの有名なところだけは・・・

・・・というのも、この一条・・・けっこう、個人的に好きな内容なのでござんすよ。

原文:
一曰 以和為貴 無忤為宗 人皆有黨 亦少達者 是以或不順君父 乍違于隣里 然上和下睦 諧於論事 則事理自通 何事不成

一般的な読み下し:
一に曰く、和をもって貴(とうと)しと成し、忤(さから)う事なきを宗(むね)とせよ。
人みな党(たむら)あり。
また、達(さと)れる者少なし。
ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に従わず。
また隣里に違(たが)う。
しかれども、上和(かみやわら)ぎ、下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、事理おのずから通ず。
何事か成らざん。

私的解釈:
お互いに協力する事がええ事であって、やたら反目せんようにするのが基本やと思うんやけど、人にはそれぞれの思惑とか派閥とかあるし、なかなか情勢を見通す事のできるモンもおらへんから、上司やオヤジに反発したり、近所とモメ事を起すような事になるんや。
けどな、上も下もなく、お互いが腹割って仲よう話し合う事ができたら、問題は絶対解決できるし、成し遂げられへん事なんかないと思うねん。

私は、この後半部分がすごく重要だと思うのです。

最初の「和をもって貴しと成す」だけなら、単に、「みんな仲良く」という意味合いで、なんだか皆が同じ意見でないといけないような雰囲気なのですが、後半部分まで読んでみると、「それぞれ違う意見があるのは認めるけど、話し合って解決しようや」という事になる・・・つまり、自分と違う考えの人物がいる事を認めている事になるわけです。

これは、ちょっとした事のようで、とても大切な事なのではないでしょうか?

現在の世の中って、両極端なような気がするのです。

学校では、皆が同じように勉強して同じような成績をとる事を望み、運動会でも同じような速さの子供を集めて競走をさせ、みんなと違う人がいれば、逆にイジメの対象になったりする・・・。

そうかと思えば、♪世界に一つだけの花♪のような個性を大事に・・・をはき違えて、順番に並ばないのも個性の一つ、公共の場でワイワイ騒ぐのも個性の一つ、果ては、大人になっても働かないのも個性の一つ・・・と、おっしゃって、まったく子供を叱らない親御さんもいらっしゃると言います。

なんだか、個人と社会の区別がつかない感じとでも言いましょうか・・・

個人は個人、その個性は大いに伸ばしていくべきだと思いますが、一歩社会に出れば、自分とは、環境も、考えも、何もかも違う人もいて、その人たちをちゃんと認めたうえで、うまくやっていかなきゃならない・・・

この第一条は、そういった事を言いたいのではないかと思うのです。

残念ながら、「和をもって貴しと成す」の最初の一行だけでは、それを知る事はできませんが・・・。
 

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2009年3月19日 (木)

天智天皇~一大決心の近江大津京・遷都

 

天智六年(667年)3月19日、中大兄皇子が、都を近江(滋賀県)大津に遷しました。

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♪三輪山を しかも隠すか 雲だにも
  情
(こころ)あらなも 隠さふべしや ♪
「なんで、雲は三輪山を隠すのしょう・・・雲にも心があるなら、こんな日に隠さないでよ」

これは、住みなれた大和(奈良県)の地を離れる峠の道で、かの額田王(ぬかたのおおきみ)が詠んだ、♪味酒(うまざけ) 三輪山・・・♪から始まる長歌への返歌として詠まれた歌・・・。

神代の昔から、この三輪山は特別な山・・・大和朝廷自身が、強く崇める神の山でした。

しかし、大和の地では毎日眺めていた三輪山も、都が大津に遷れば、その美しい姿を見る事ができません。

奈良山を越える峠の道で振り返ると、雨模様の空からどんよりとした雲が覆いかぶさり、三輪山の姿は見えない・・・最後のこの日に、もう一度三輪山を見て、しっかりとこの目に焼きつけておきたかったのに・・・

そんな切なる思いを、ヒシヒシと感じさせてくれる歌です。

この額田王だけではなく、多くの人がとまどいを隠せなかった大津京への遷都・・・

遠まわしにいさめる声も多く、ちまたでは、「童謡(わざうた)も流行したと言います。

童謡というのは、子供のわらべ歌ではなく、風刺や異変の前兆を歌にしたもの・・・この大津京・遷都のときは、「なぜ?」という疑問とともに、「失策である」という批判を込めた歌詞だったと思われます。

この時、多くの人民は、政治の事情よりも、住みなれた土地を離れる事の寂しさや不安が先立ち、上記のような反対意見が吹き荒れてはいましたが、国家を預かる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)にとっては、一大決心の大冒険・・・現在の暗い時代を払拭し、この国の将来を賭けた遷都だったのです。

中大兄皇子は、ご存知の通り、あの蘇我入鹿・暗殺を決行した大化の改新の立役者(6月12日参照>>)・・・

『日本書紀』の言い分によれば、天皇の息子である中大兄皇子・自らが手を汚し、天皇に代わってすき放題やってた悪しき豪族の蘇我氏から実権を取り戻したにも関わらず、なぜか時の天皇である皇極天皇は退位し、しかも、そのクーデターの立役者であるはずの息子には皇位を譲らず、弟の軽皇子(かるのおうじ)が第36代・孝徳天皇となり、中大兄皇子は皇太子のまま・・・

さらに、その孝徳天皇が亡くなってさえも、まだ中大兄皇子は即位せず、先の皇極天皇・・・つまり、中大兄皇子のお母ちゃんが、再び斉明天皇として即位します。

ここで、あの大化の改新から10年・・・すでに、中大兄皇子は30歳になってますから、「人の道を重んじる中大兄皇子が、年長者に譲った」なんていう美しきいいわけは通用しませんが・・・。

このあたりの「即位せずの謎」につきましては、異論・新説、多々ありますので、また別の機会に書かせていただく事として、とにかく、この斉明天皇の時代に、国家を揺るがす大事件が起こったわけです。

斉明七年(661年)、朝鮮半島を巡る新羅(しらぎ)高句麗(こうくり)百済(くだら)の争いが激化し、大陸からの脅威にさらされた日本は、その防御策として、斉明天皇以下、船団を組んで九州に移動しますが、かの地についた途端、天皇は崩御(7月24日参照>>)

しかも、その2年後、救援を求めてきた百済とともに助っ人として参加した白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いで、日本は、新羅と唐(中国)の連合軍に大敗を喫してしまいます(8月27日参照>>)

「この勢いに乗って、大国・唐が攻めてくるかも知れない!」
そんなウワサがたつのも当然です。

実際には、その頃の唐は、日本とは友好関係を持ちたいと思っていたようで、戦いの翌年には、百済占領軍の司令官であった劉仁願(りゅうじんがん)を長とする使者を送り、貢物を献上しに来ているのですが・・・

それでも中大兄皇子は警戒心を緩める事なく、対馬(つしま)壱岐(いき)筑紫(福岡県)防人(さきもり)を置き(2月25日参照>>)、異変が起きた時に知らせるのろし台(4月23日参照>>)も設置、筑紫から大宰府の1kmに渡っては水城(みずき)と呼ばれる堤も構築しました。

今回の大津京・遷都は、その白村江の戦いから3年、しかも、改新から始まった新たな政治も重大な転機にさしかかっていた・・・つまり、対外的にも内政的にも、最も不安定な時期だったわけです。

そんな意味合いには気づかなかった多くの人々が、不安にかられたのは、その近江という土地が、未だ見も知らぬ土地であったからなのですが、確かに、大化の改新後、一度、大和を離れて難波(なにわ・大阪)に都を遷していますが、難波は、当時は、すでに遣唐使船の発着所でもあり、聖徳太子が建てたとされる四天王寺もあり、古くは、仁徳天皇高津宮もあった場所で、多くの渡来人が居住する都会であったのです。

でも大津は・・・。

しかし、それこそが、中大兄皇子が求めた、すべての不安を払拭する、新たな都であったのです。

考えてみれば、大津は琵琶湖を前にしての海運も望め、周囲は山に囲まれた天然の要害・・・さらに、『扶桑略記』には、この遷都の時期の事として書かれている日本最古の銅鐸(どうたく)発掘のニュースなどを考えれば、まったくの未開の地ではなかったわけですから、心機一転、新天地での新たな政治には、うってつけの場所だったのかも知れません。

民衆の批判にもめげずに決行した大津京・遷都・・・やがて、外敵の不安も徐々になくなり、滅亡した百済から大量に移住してきた渡来人たちによって発展した新たな文化も根づきはじめ、翌年の天智七年(668年)1月、中大兄皇子は、その大津宮で正式に即位し、第38代・天智天皇となります。

あの大化の改新から20年以上・・・夢に描いていた花の都が現実のものとなった瞬間でした。

しかし、天智天皇が理想とした花の都は、所詮、天智天皇だけの理想の都だったようで、その都としての命は、わずか数年で、天智天皇の死とともに終ってしまう事になります。

ご存知、壬申の乱の勃発です・・・(10月19日【希望と不安を抱いて~大海人皇子・吉野へ出発】へどうぞ>>)
 

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2009年2月27日 (金)

弟が年上?天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑

 

天武二年(673年)2月27日、壬申の乱に勝利した大海人皇子が、飛鳥浄御原宮にて即位し、第40代・天武天皇となりました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一昨日、律令制定の詔(みことのり)発令(2月25日参照>>)で書かせていただいたばかりの大海人皇子(おおあまのおうじ)=天武天皇のまたまたの登場で恐縮ですが・・・

そのページでも触れましたように、その真偽はともかく、現在のところ第一の史料である『古事記』『日本書紀』によれば、大海人皇子=後の天武天皇は、第34代舒明(じょめい)天皇と、その皇后である宝皇女(たからのおうじょ・後の皇極&斉明天皇)との間に生まれ、同じ父と母から生まれた兄に後の天智天皇である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、姉に間人皇女(はしひとのおうじょ・孝徳天皇皇后)がいます。

その兄の息子である大友皇子(弘文天皇)壬申の乱で攻め、政権を奪い取り、天武二年(673年)2月27日、晴れて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)にて即位し、第40代・天武天皇となったわけです。

ところで、この天武天皇・・・その年齢がよくわかりません。

古事記のほうは物語性が強く、もっと古い時代をくわしく書いてあるので、この時代の人々の年齢を調べるのに、用いられるのは、やはり日本書紀です。

・・・とは言うものの、その日本書紀にも、何年生まれなんていう生年月日をそのまま記載してあるわけではなく、年齢や年号(えと)に関する記述を取り出して、そこから計算して年齢を割り出すわけですが、それによると、兄の天智天皇は推古三十四年(626年)の生まれというのが、現在のところ定説となってします。

ところが、天武天皇の年齢は、日本書紀の記述だけでは計算できないのです。

そこで、多くの学者さんは、鎌倉時代に書かれた『本朝皇胤紹運禄(ほんちょうこういんじょううんろく)と、南北朝時代に書かれた『一代要記(いちだいようき)の二つともが、天武天皇の没年齢を65歳としているところから、日本書紀に書かれている天武天皇の亡くなった年号=朱鳥元年(686年)から逆算して、生まれた年を割り出すのですが・・・

これが、推古三十年(622年)となり兄の天智天皇より、4歳年上になってしまうのです。

そこで、この矛盾を解決する説としては、「この後の世の二つの文書の作者が、天武天皇の没年齢を56歳とするところを65歳と書き間違えたのだ」と・・・多くの歴史家のかたが、現在も、この解釈をしておられるようです。

歴史を学問として専門的に研究されている方々にとっては、「後世に書かれた物ほど不正確である」というのが定番で、やはり日本書紀が最優先のようです。

まぁ、鎌倉時代と言えば、お亡くなりになってからすでに2~300年は経ってますから、しかたがないのかもしれません。

また、単に「間違えた」では心もとないと、表記のしかたの違いをイロイロに解釈する場合もあるようです。

それは、先の『本朝皇胤紹運禄』の中では、天智天皇の没年齢は58歳となっていて、日本書紀の46歳死亡とは12歳のズレがあり、天武天皇の年齢との矛盾はありません。

これは、『本朝皇胤紹運禄』の編者が、日本書紀のままの年齢だと、天智天皇が大化の改新を行った時の年齢が20歳という、あまりに若い年齢であるため、「生まれ年のえとを一巡繰り上げて、没年齢を記したのでは?」という解釈で、それだと、天智天皇が亡くなったのが天智十年(671年)ですから、生まれたのは推古二十一年(613年)という事になり、天武天皇より年上という事になります。

また、『一代要記』のほうも、天智天皇の生まれた年を推古二十七年(619年)としていますので、『日本書紀』とはズレがありますが、『一代要記』の中の内容では、矛盾なく、天武天皇のほうが年下となるわけです。

ただ、これは、ご覧いただいてわかるように、アチラを信じればコチラがおかしくなり、コチラを信じればアチラがおかしくなり・・・年齢の矛盾を解決するために、両方の都合のいいところだけを並べ立てて、つじつまを合わしているような気もします。

歴史学者の方々は、これらの史料を日々研究されて、矛盾を解決する方法を模索しておられるので、新しい研究結果に期待したい!というところですね。

・・・と、イロイロ書かせていただきましたが、とにかく、この年齢の計算は、素人の私にはムリ!

とりあえず、具体的な年齢の事は、専門家のかたにおまかせするとして、弟が兄より年上であろうがなかろうが、何より重要な事をわすれちゃいませんか!って事です。

それは、かの『日本書紀』に、「天武天皇の没年齢がわかる記述が一つも書いていない」という事・・・一昨日のページにも書かせていただいたように、この日本書紀を編さんするように命じたのは、その天武天皇ですよ!

そして、編さんにあたった中心人物は舎人親王(とねりしんのう)・・・天武天皇の息子です。

父親の遺言で、編さんを始めた書物に、その父親の年齢を書き忘れるアホがいるわけがありません。

しかも、一人ではなく、何人もの人が関わってチェックしてるんですから・・・。

それに、日本書紀は、この日本という国の歴史がいかに古く伝統のあるものか、そして、いかに自分たちがこの国を支配するにふさわしい家系かを、海外向けにアピールするための外交のための史料でもあるわけで、一個人の自分史とはわけが違います。

そして、そこから想像できる事は、ただ一つ・・・書き忘れたのではなく、書かなかったという事です。

『斉明即位前紀』には、こうあります・・・
「初に橘豊日天皇(たちばなのとよひ・用明天皇の事)の孫高向(たかむく)に適(みあひ)して(あや)皇子を生(あ)れませり」と・・・・つまり、天智&天武天皇のお母さんである宝皇女は、舒明天皇と結婚する前に、高向王という人物と結婚していて漢皇子という子供がいたという事です。

しかも、この高向王・・・上記の通り用明天皇の孫となっていますが、両親が誰かという情報がまったくなく、いつ亡くなったかも不明、さらに漢皇子に関しての記録もなし・・・なので、宝皇女は夫とは早くに死別して、漢皇子も幼くしてなくなり、その後、舒明天皇の皇后となったのであろうというのが通説となっていますが、実に不可解です。

・・・で、ひょっとしたら漢皇子=天武天皇かも知れない、あるいは、イコールではないにしても、宝皇女が舒明天皇の皇后になる前に、すでに天武天皇を産んでいたのでは?となるわけです。

この推理は、上記の通り何もかも不明なので、想像の域を出ないものですが、これだと、たとえ天武天皇のほうが年上だったとしても、先に天智天皇が即位するのも納得できます・・・なんせ、天武天皇は天皇の子供ではないわけですから・・・。

ひょっとしたら、謎だらけの父親は用明天皇の孫などではないのかも・・・さらに、飛躍すれば、天武天皇は、まったく別のところから現れた天智天皇の兄弟ですらない別人の可能性も・・・そうなると、やっぱり、その通りには書けませんわなぁ。

一昨日同様、天武天皇での政権交代疑惑ですが、そこまでの飛躍はないにしても、天武天皇のほうが年上だったという可能性は、なきにしもあらずって感じですね。

・・・とは言うものの、歴史って、様々な憶測を呼んで、推理を張りめぐらすわりには、案外、実際には、そんなに複雑な事ではなかったりする事もあるので、もしかしたら、「当時は誰もが知っている事なので書かなかっただけ」なんていうオチもありだと思いますが・・・

なんせ、舎人親王は、千年以上も後の人がこれを見て、あーだこーだと言うとは思っていなかったかも知れませんからね。
 

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2009年2月25日 (水)

ここから日本の歴史が始まる?天武天皇の律令国家

 

天武十年(681年)2月25日、第40代・天武天皇が律令の制定を命じました

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古代最大の争乱と言われる壬申の乱(7月22日参照>>)において、兄・天智天皇の息子(つまり甥)大友皇子(おおとものおうじ・弘文天皇)を倒して政権を奪取した大海人皇子(おおあまのおうじ)は、翌・天武二年(673年)2月27日、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し、第40代・天武天皇となります。

そんな天武天皇が新しい国家を目指して、天武十年(681年)2月25日律令の制定を命ずる詔(みことのり)を発するわけです。

「律」とは刑法の事、「令」とは国家統治組織や官吏職務規定・・・つまり行政の事なのですが、この律令がまだ完成していない朱鳥元年(686年)に天武天皇は亡くなってしまいます(9月9日参照>>)

その後、その遺志を継いだ奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのおうじょ・後の持統天皇)と息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)が、制定事業を進めていくのですが、その草壁皇子も、持統三年(689年)の4月に急死してしまいます。

そして、その直後の6月に『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)なる日本史上初の体系的な律令法が発令されるのですが、そのもの自体は現存せず、発令された時は令のみで律はなかったとも言われ、次期天皇になるべき草壁皇子の急死によって、急遽、慌てて発令した感はぬぐえませんねぇ。

現在言われている内容も、おそらく「これも決めてた」「あれも決めてた」的な感じで、後から付け加えていったような気もします。

ただし、その後、奥さん自らが持統天皇となって、藤原京に遷都したり(12月6日参照>>)という大事業をこなしていますので、たとえ、後から作られたとしても、その『飛鳥浄御原令』に、天武天皇の意向が反映されていた事は確かだと思いますが・・・。

では、天武天皇が実現したかった律令国家というものは、どんなものだったのでしょうか?

・・・っと、その前に・・・

この時代の第一の史料とされるのは、ご存知『古事記』『日本書紀』で、それ以外には、ほとんど史料というものが無いのが現状です。

なので、この頃の歴史は、記紀を本筋にして考えて行くしかなく、そこから逸脱すれば、学問的には異説・トンデモ説となるわけですが、やっぱり、どう考えてもおかしな部分があるのも確かです。

もはや、記紀に書かれている事が100%正しいと思っている人も少ないでしょうが、実は、その記紀を編さんするように命令を出したのも天武天皇・・・しかも、この同じ年、天武十年(681年)に出しているのです。

そして、完成したのは・・・
古事記が和銅五年(712年・1月28日参照>>)、
日本書紀が養老四年(720年・4月21日参照>>

ともに、『帝記』『旧辞』をもとにしていると言いますが、つまりは、この天武天皇より以前の出来事を、天武天皇から後に書いたという事になります。

臭います~

以前、【蘇我入鹿・暗殺≠大化の改新】(6月12日参照>>)でも、書かせていただいたように、ひょっとしたら大化の改新は、改新というほどの改新は無かった可能性も・・・

だいたい、この入鹿暗殺は、明らかにクーデターです。

クーデターとは、政権を持たない者が、その政権を奪取すべく行う力づくの政変・・・もし、記紀が語るように、この時、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)の母親の皇極天皇が、その名の通り王であったのなら、その息子がクーデターを起す必要はないわけです。

ひょっとして、この時、政権を握っていた・・・つまり王だったのは蘇我氏ではないか?と考えます。

なので、王である蘇我氏から中大兄皇子=天智天皇は政権を奪取したのです。

そして、再び起こった政権交代が、この大海人皇子=天武天皇・・・。

冒頭に書いた通り、記紀では、この天武天皇は、天智天皇の弟という事になってますが、それにしては、天武天皇の抱いていた国家というものが、それまでの国家と、あまりに、違うような気がするのです。

やっと、天武天皇の律令国家のところに話が戻ってきましたが・・・(^-^;

実は、この天皇という称号・・・それまで「大王」と呼ばれていたのを「天皇」に変えたのは天武天皇です。

そして、それまで「倭国」と称していた国名を「日本」に変えたのも天武天皇・・・。

国家元首の名前と国名を変えるなんて!・・・単に、兄貴&その息子から政権を奪取したにしては、かなりの変化だと思いませんか?

そのうえ、太政大臣や右大臣・左大臣も廃止し、現天皇とその息子たちが政権の首脳部を握り、それまでの豪族は、その外側の一段下に置かれるのです。

さらに、天皇家の祖として天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀る伊勢神宮を特別扱いしだすのも、この時期からです。

つまり、それまでの政権だった天智天皇を兄とし、その兄が倒した蘇我氏を、王ではなく臣下とする事で、それ以前に政権を握っていた別の系統とつなぎ合わせ、神代の昔から一本につながる現政権の正統性を造り上げたのが、古事記であり日本書紀の編さんという事になります。

これらのつじつまを合わせるために、蘇我氏が政権を握っていた間にあった、悪い事はすべて蘇我氏のせい、良い事はすべて聖徳太子のおかげ・・・しかも、その蘇我と太子の両方ともの直系の子孫が絶えるという、よけいつじつまの合わない歴史を作る事になり、さらに、現政権があたかもそれを受け継いでいるかのような大化の改新をでっちあげなければならなくなったのでは?

・・・と、少し、断定的でキツイ言い回しをしてしまいましたが、これは、あくまで私見・・・空想の産物で、確固たる証拠があるわけではありません。

もちろん、現在につながる天皇家や日本の歴史を否定するものでもありません。

学問としてではなく、あくまで、歴史を楽しむ中の一つの説として提案してみました。

こう言いながらも、実際には、第一の史料である古事記&日本書紀以上のシロモノが発見されない限り、その内容に沿って歴史が綴られるのが、正統であると考えますので・・・。

【聖徳太子のどこが怪しいのか?】>>
【聖徳太子の子・山背大兄王を殺したのは誰か?】>>
も見てね!
 

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2008年10月19日 (日)

希望と不安を抱いて~大海人皇子・吉野へ出発

 

天智十年(671年)10月19日、第38代・天智天皇からの皇位継承を固辞した弟・大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)が、吉野に向かって出発しました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

20歳の時に、中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)とともに乙巳の変(6月12日参照>>)蘇我蝦夷(そがのえみし)入鹿(いるか)父子を倒し、その後即位した第36代孝徳天皇(6月14日参照>>)のもと大化の改新を支え、次の第37代・斉明天皇(7月24日参照>>)をサポートし、白村江の戦い(8月27日参照>>)という海外出兵も経験するという波乱の皇太子時代を送った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、近江(滋賀県)大津宮に都を遷し(3月19日参照>>)天智天皇として即位したのは、天智七年(668年)・・・天皇が43歳の時でした。

しかし、その翌年には、ともに歩んできた鎌足が亡くなり(10月15日参照>>)、その頃には、大化の改新の直後には手を組んで政務をこなしていた弟の大海人皇子との間にも、大きなズレが生じるようになっていました。

それは、天智天皇と大海人皇子の二人を手玉に取った額田王(ぬかたのおおきみ)という女性との三角関係も噂されますが(1月6日参照>>)、それよりも、むしろ、二人の方向性の違い・・・描く未来に差があったというところでしょうか。

二人ともがデキル人物であるが故に、その方向性に違いが生じると、修復が困難な亀裂ができてしまう・・・それは、やがて、天智天皇の後継者という問題に発展します。

早々と、大海人皇子を皇太子に立てていた天智天皇ですが、天皇には日々成長を続ける大友皇子(おおとものおうじ)という息子がいます。

ご本人たちの意思はともかく、朝廷内には、天皇と考えの違う皇太子・大海人皇子より、天皇の意思を継ぐ大友皇子のほうが後継者にふさわしいのではないか?という意見が生まれる事になります。

そんな中、天智十年(671年)の秋頃から、天智天皇は病に臥せるようになります。

10月17日、天皇は蘇我安麻呂(そがのやすまろ)を使者に立て、病床の枕元に大海人皇子を呼びました。

この時、すでに大海人皇子と親しい関係にあった安麻呂は、天皇との対面に向かう大海人皇子に対して「用心しなはれや~」と言ったとか言わなかったとか・・・

この時の大海人皇子の出方しだいでは、宮殿を出た直後に殺害する準備もしていた・・・なんて話もありますが、天皇が、そこまで、息子の大友皇子を後継者にしたかったどうかは、疑わしい部分もあります。

なんせ、天智天皇は、その生涯で一言も、息子に天皇の座を譲ってくれと大海人皇子に言った事もないし、皇太子を交代してくれとも言った事がないわけで、後に、壬申の乱が起こるのだから、この時点で、後継者争いがあったのだろうと、後の世の人間が勝手に思っているだけかも知れないわけですから・・・。

現に、この日、大海人皇子と面会した天智天皇は、「後をよろしく」と、大海人皇子に皇位を継承するように頼んでいるのです。

しかし、大海人皇子自身が、「僕は病気がちなんでできません・・・倭姫王(やまとひめのおおきみ・天智天皇の皇后)に皇位を譲って、大友皇子に政務をやってもらってください」と、断ってしまいます。

そして、「出家する」と言って退室し、その場で剃髪し、身につけていた武器を返上するのです。

もちろん、安麻呂が言ったように、その言葉通りに受け止めて、大海人皇子が皇位継承をOKしていたら、その場で殺害・・・なんて事になってたかも知れませんが、逆に、天皇は本気で皇位を譲ろうと思っていたかも知れません・・・お互いの心の内までは、計り知れませんからねぇ。

かくして、天智十年(671年)10月19日未明・・・大海人皇子は妃の鵜野讃良々皇女(うののさららのおうじょ・天智天皇の娘)、息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)以下、舎人(とねり)や女官ら数十名とともに、大津宮を出発したのです。

『日本書紀』では、この日、天智天皇に、行き先が吉野である事を告げ、その許しを得てからの出発という事ですが、未明という事は、その夜中のうちに許しを得たのか?それとも事後報告だったのか?という感じですが、出発に際しては、天智天皇の重臣である蘇我赤兄(そがのあかえ)中臣金(なかとみのかね)蘇我果安(そがのはたやす)の三人が宇治まで見送ったという事です。

この見送りに関しても、都を出てから大海人皇子を殺害しようとしていたとか、大海人皇子に疑いを持っていた彼らが本当に大海人皇子が吉野に行くのかどうか確認しようとしたとか、別れる事になった兄弟に本当は仲良くしてもらいたかったという純粋な気持ちからの見送りだったとか、様々な解釈がされていますが、この中のひとりが、「虎に翼を着けて放つようなものだ」と言ったというのが、もし本当であったなら、やはり、すでに未来に起こる大乱のきざしがあったという事なのでしょう。

虎とは、もちろん大海人皇子の事・・・ただでさえ強い虎に翼を着けて放つのですから、いかに危険かという意味です。

しかし、当の大海人皇子は、それほど強気の吉野行きではなかったと思います。

かつて、蘇我入鹿が次期天皇にと願っていた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ・天智天皇と大海人皇子の異母兄)も、入鹿が中大兄皇子に暗殺された時に、逃げるように吉野に入っていますが、その後、弟・天智天皇の手によって殺害されています。

たとえ、この吉野行きが、近江朝廷を倒すための準備のためであったとしても、そのタイミングで予定通りの確かな準備が整うかどうかも、それまでの間に古人大兄皇子のように追手が放たれるかどうかも、現時点では予測不可能なわけで、必ず生きて帰れるかどうかの保証ない旅立ちだったでしょう。

三人の重臣に見送られて旅立った大海人皇子ご一行は、その日のうちに明日香に到着し、翌・20日には吉野に向かって峠越えをするのですが、その時詠んだ大海人皇子の歌が『万葉集』に残っています。

♪ み吉野の 耳我(みみが)の嶺に
  時なくそ 雪は落
(ふ)りける
  間なくそ 雨は零
(ふ)りける
  その雪の 時なきが如
(ごと)
  その雨の 間なきが如
  隈
(くま)も落ちず 思ひつつぞ来(こ)
  その山道を   ♪

「吉野の耳我峯に、深々と雪は降り、絶え間なく雨が降る・・・まるで、その雪は永遠に降り続くかのように、その雨は止む事がないかのように・・・そんな思いを抱きながら山道をひたすら歩いた・・・」

降り続く雨など無いのに、まるでその雨が永遠のように思える・・・明日は晴れるという見通しのたたない不安な時、人は、このような心境になるのではないでしょうか?

虎に例えられた男でさえ不安なこの山道を、夫・大海人皇子とともに、この日、この道を歩いたであろう鵜野讃良皇女は、時に前を見据え、時に後ろをふりかえりながら、ただ一縷の望みを持って着いて行った事でしょう。

そんな思いを抱えながら歩いた山道・・・それが、先日ご紹介した奥明日香(9月5日参照>>)・・・あの芋峠を越える飛鳥川沿いの道だったとされています。

Yosinoikiasukagawa 飛鳥川・上流

そのページでも書かせていただいた通り、後に持統天皇となった鵜野讃良皇女は、その生涯で、合計31回吉野へ通います。

彼女が、吉野に、そして、この道にそこまでこだわったのは、おそらく、この日の吉野行きこそが、夫婦二人の転機であったからではないでしょうか。

やがて、一と月半後の12月3日、天智天皇はこの世を去り(12月3日参照>>)、大海人皇子が吉野を出る時が刻々と近づく事となります。
 

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2008年8月27日 (水)

白村江の戦い~その敗戦の原因は?

 

天智称制二年(663年)8月27日、百済の救援要請に応じて海外出兵をした日本が、唐・新羅を相手に大敗を喫した白村江の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

当時、高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)百済(くだら)の三国がひしめき合って、緊迫状態にあった朝鮮半島・・・。

そんな中、新羅が(中国)の支援を受けて百済を攻撃・・・百済王・義慈(ぎし)を捕らえて、百済を滅亡に追いやります。

そこで、重臣・鬼室福信(きしつふくしん)は、当時、在日中だった事で難を逃れた義慈の息子・余豊璋(よほうしょう)を旗印に掲げ、百済の再興をはかるため、日本に救援を要請します。

百済は、朝鮮半島における唯一の友好国であり、そこが、唐に制圧されれば、大陸からの防衛拠点を失う事にもなる日本は、その要請に答えて海外出兵を行い・・・と、白村江(はくすきのえ)の戦いに至る経緯などは、一昨年の8月27日(一昨年のページを見る>>)にも書かせていただいたのですが・・・

それにしても、この見事な負けっぷりの原因は、いったい何だったのでしょうか?

本日は、その戦いぶりを中心に書かせていただきたいと思いますが、なにぶん古い話でありまして、肝心の『日本書紀』にも、様々な矛盾点がある事は確かで、あくまで諸説ありますが・・・という前置きのもと、お話をさせていただく事にします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

百済滅亡後も、わずかに死守した任存城において抗戦を続けていた鬼室福信らは、豊璋を護送するかたちで到着した日本軍の第一陣に活気づき、先に唐に奪われて、今は、敵の拠点となっている熊津城四此城牽制します。

その後、白江の河口付近の周留城にて豊璋を国王に立て、以後、この周留城を拠点として、百済南部に進攻していた新羅・唐軍との抗戦を繰り返して勢いづきます。

しかし、善戦もこれまで・・・ここらあたりから、徐々におかしくなってくるのです。

その発端は、まず拠点を周留城から、少し南にある避城移動した事に始まります。

移転の理由は、諸兵に疲れが生じてきた事と、なによりも周留周辺が農業に適さなかった事から兵糧の確保ができないと判断したようです。

しかし、軍事面においては周留は要所であり、この移転に福信は反対し、日本からの援軍の将である朴市田来津(えちのたくつ)も・・・
「飢は後なり、亡(ほろび)は先なり」と助言しますが、聞き入れられず、拠点は避城に移転されます。

そして、それ以来、豊璋と福信の意見は、ことごとく対立するようになってしまったのです。

百済の再興を願い、戦い続ける兵士たちにとって、豊璋は国の象徴であり、福信は戦術のリーダー・・・この二人がタッグを組んでこそ、その士気も上がるっちゅーもんです。

しかし、日本からの大軍を目の当たりにした豊璋は、気が大きくなったというか、勝てると思い込んでしまったというか・・・。

やがて、あまりの意見の対立に、豊璋は、「福信が謀反をくわだてているのではないか?」との疑いを抱いてしまうのです。

実際のところ、その福信も、仮病を使って、お見舞いに来た豊璋を暗殺する計画を立てていたとも言われますが、とにかく、謀反が本当であろうがなかろうが、その前に、豊璋は福信を処刑してしまいました

そう、これが白村江の戦いのターニングポイントです。

実は、この福信は、この地域の気候風土・地形や潮流などを熟知していて、これまでの作戦にも、その知識をフルに活用していたのですが、彼がいなくなった事で、まるで作戦が立てられなくなってしまったのです。

その事は、敵も充分お見通し・・・ここがチャンスだとばかりに、新羅は周留城を一気に攻撃し、唐軍も陸路と海路に分かれて、一斉に進撃を開始します。

Hakusukinoezucc *このイラストは進軍ルートをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません

もちろん、日本も急遽、第2陣を派遣しますが、この段階になっても、まだ、豊璋の立てた作戦は・・・
「地形も潮流も関係あるかい!とにかく、突っ込んで行ったら敵は撤退しよるに決まってるやんけ!」
と、やっぱり、援軍の数に頼った、ずさんな作戦でした。

確かに、記録によれば、この時の百済・日本連合軍の船の数は400隻、対する唐・新羅連合軍は170隻、それぞれの数は多少オーバーなところがあるかも知れませんが、日本・百済連合軍の数ほうが圧倒的に多かった事は確かでしょう。

はたして、天智称制二年(663年)8月27日、朝鮮半島西側の海上で起こった戦いは、作戦らしい作戦もないまま、我先にと唐軍に突入し、結局は挟み撃ちにされて、あえなく敗退する事になってしまったのです。

この白村江の戦いは、その完膚なきまでの負けっぷりに、大国である唐に挑んだ無謀な戦いのように思われがちですが、実は、そうではなく、百済勢の内部分裂による士気の低下と、戦闘態勢の乱れが引き起こした敗戦と言えるかも知れませんね。
 

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2008年7月 3日 (木)

国書を失くした小野妹子が出世する不思議

 

推古十五年(607年)7月3日、遣隋使・小野妹子が、隋の皇帝へ宛てた国書を持参し、日本を出発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この日、小野妹子(おののいもこ)が持って行った(中国)の皇帝・煬帝(ようだい)へ宛てた国書・・・っていうのは、あの有名な・・・
「日出(い)ずる処(ところ)の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無(つつがな)きや」
って、ヤツです。

そもそも、本当にこの手紙を聖徳太子は書いたのか?
いや、聖徳太子って人は、実在したのか?

だいたい、この7年前に、すでに誰かから派遣された日本の使者が訪問している事が中国の史書には記録されているのに、日本では小野妹子が第一回めの遣隋使となってる・・・などなど、突っ込みどころはいくつかあるのですが、それを言い出したら、とてつもない文章量になってしまいそうなので、とりあえず今日は、定説通りに、「第一回・遣隋使・小野妹子が聖徳太子の国書を持って中国へ渡った」という事で、お話を進めさせていただきます。

上記の「日出ずる国の天子・・・」の手紙を読んだ煬帝さんが、かなりご立腹された話は有名ですが・・・そりゃ、そうでしょ。

なんせ、当時の中国は、「世界一の強国だ」と自負していて、周辺諸国は、わが国の臣下にある貢物を献上しに来る国くらいにしか思ってなかったわけですから・・・。

そんな下位な国から対等の物言いをされちゃぁ・・・しかも、「日出ずる国」と、「日没する国」じゃぁ、なんか「日出ずる国」のほうがカッコイイ気がしないでもない。

煬帝は
「アホの国の文書は文章もアホや!こんなん二度と見たないわい!」
と、大変なお怒りだったとか・・・。

しかし、怒ったわりには、裴世清(はいせいせい)なる人物を答礼の大使として、妹子の帰国とともに日本へ行かせていますし、その妹子に返事も持たせています。

ところが、この妹子さん、その大事な煬帝からの手紙を、途中で紛失してしまうのです。

彼の言い分だと、帰国の途中に立ち寄った百済(くだら)で、百済人に襲われ、その手紙を盗まれてしまったのだとか・・・。

ホンマかいな?

もしも、本当にそんな襲撃事件があったのなら、ともに行動していた裴世清ら中国人も、その事件の事を知っているはずですが、彼らは、そんな事は一切言ってませんし、逆に、もし、紛失した事を裴世清が知って、さらに、それが煬帝の知るところとなれば、「ワシの手紙を、なんちゅー軽率な扱いしとんねん!」と、更なる怒りが爆発する事になるに違いありません。

第一、そんな大事な手紙、命に代えても守らなければ、初代・遣隋使の名がすたるっちゅーもんです。

そんな大きなミスを犯した妹子さんには、帰国すれば、さぞかし、厳しい処分が待っているんでしょう・・・と思いきや、これが、まったくのお咎めなし!

それどころか、翌年に裴世清が帰国するのと同時に派遣された第二回・遣隋使に、妹子は、またまた大使として中国に渡っているのです。

しかも、その帰国後は「大徳」という官位十二階の最高位を賜っているのです。

いくら何でも、国を揺るがすようなミスをした人に、これはないでしょう・・・という事で、今では、手紙を紛失したのではなくて、わざと隠ぺいしたのではないか?という事が言われています。

では、なぜ?返事を隠す必要があったのでしょうか?

以前、【聖徳太子・死因の謎(2月22日参照>>)のページで、冒頭の手紙の事を・・・
「これは、駆け引き無しの失態なのか?
計算ずくのハッタリなのか?
一か八かの賭けだったのか?」

と、書かせていただきましたが、このミスをしでかした妹子への対応を見る限り、これは、聖徳太子のハッタリだった可能性が高いのではないかと考えます。

今現在、煬帝の一番の関心事は、やはり朝鮮半島の情勢・・・つまり、朝鮮半島の三つの国が、いつ敵に回るかわからない状況で、日本を是非味方につけておきたいこの時期に、ちょっとやそっとで、兵を出したり、国交を断絶させたりはしないだろうとの計算から、一か八かのハッタリをかましたのではないでしょうか?

それは、もちろん、隋と対等に交易するためのハッタリでもありますが、聖徳太子にとって、それよりも重要だったのは、国内の豪族に対してのハッタリです。

当時の聖徳太子には、年齢が倍ほども違う強大なライバル・蘇我馬子がいます。

もちろん、彼以外の豪族・臣下の者も・・・おそらく、若き太子にとっては、誰もが年上のうるさがたのおエラがたですから、ちょっとばかし、自分のスゴイところも見せておかなければなりません。

そこで、対等の物言いをした手紙を送る・・・隋の皇帝への国書ですから、その内容は臣下の者も皆、知っているはずですよね。

しかし、当然、その国書を見た煬帝は怒りますから、おそらく、返事の内容は、怒り爆発でアホ・バカ連発の見るに耐えない物だった・・・当然、このまま、返事の内容を皆に発表するわけにはいきません。

そこで、失くしちゃった事にするのです。

一緒に連れて来た答礼大使の裴世清は、身分は外交官ですから、相手の国の貴族や大臣に対しては、友好ムードの社交辞令で接するはずですから、日本国内の者から見れば、何となく、あの手紙が受け入れられたように、思ってしまう・・・あぁ、これで、めでたしめでたし。

・・・てな、感じでしょう。

だからこそ、国書を紛失するといった大失態を起してしまったにも関わらず、妹子は引き続き大使であり、官位も上がる・・・っと、いや、もし、この通りだとすると、むしろ妹子は、聖徳太子にとって、ナイスアシストで、メンツを守ってくれた事になりますからね。

ひょっとしたら、妹子は、失くした事にして、太子にだけは返事を見せたのかも知れませんね。

その煬帝の返事が日本に現存しないのは、見るに耐えない事が書かれた手紙を見た太子が、今度は逆に「アホ言うヤツがアホじゃ!ボケ!」と、怒り爆発で破り捨てたのかも・・・
 

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