2014年7月 7日 (月)

VS蘇我との決戦~物部守屋の討死と鵲森宮

 

用明天皇二年(587年)7月7日、蘇我VS物部の決戦において物部守屋が討死・・・物部氏が滅亡しました。

・・・・・・・・

と言いましても、この7日というのは、あくまで小耳に挟んだだけの情報で、一般的には物部守屋の死は「用明天皇二年(587年)7月」というだけで日付までは特定されていません。

ただ、それだとこのブログにupし難いので、とりあえず、出どころのわからない情報ではありますが、本日=7月7日に書かせていただく事にしますので、ご了承のほど・・・

・‥…━━━☆

物部守屋(もののべのもりや)の物部氏は、天磐樟船(あまのいわくすふね)に乗って天孫降臨し、あの神武天皇(2月11日参照>>)よりも先に大和(奈良県)を統治していた饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祖に持つ大豪族(2011年3月30日参照>>)・・・そのページでお話させていただいたように、神代の話についてはアレですが、少なくともこの飛鳥時代より以前には、天皇家の武器庫の可能性高い石上(いそのかみ)神宮の管理運営を任されていた(2月1日参照>>)とおぼしき実力者で、天皇家の親衛隊だった大伴(おおとも)とともに並び立つ二大勢力だったわけです。

そこへ、新勢力として登場して来たのが蘇我氏・・・で、当時の日本に様々な技術や物産をもたらした渡来人とのパイプを持つ蘇我氏は、大陸から伝来した仏教を導入しようとし、古くからの豪族である物部氏は、それに反対し・・・と、ご存じの「蘇我VS物部の対立」が始まるわけですが(2010年3月30日参照>>)・・・

先日の【謎が謎呼ぶ蘇我馬子の時代】(5月20日参照>>)でもお話させていただいたように、ここらあたりの記録は、後に天下を掌握する藤原氏が残した勝者の記録・・・一説には物部氏も仏像を祀っていた(住居跡から寺跡発掘)なんて話もあって、おそらくは、蘇我VS物部の対立も、仏教云々以外の可能性もあり、何となく、記紀によってヒーローに祭り上げられる聖徳太子に対するかませ犬的な役割を背負わされ、悪のイメージをつけられまくり感のある物部守屋です。

しかし、そんな中でも垣間見えるのが、守屋が対立する蘇我馬子(そがのうまこ)に対して、
「まるで、矢の刺さったスズメやん!」
(小柄な馬子が大きな太刀を差している姿を見て…)
と言ってみたり、

欽明天皇の寵臣・三輪君逆(みわのきみさかう)の死を嘆く馬子に
「お前ごときの小者が知るこっちゃない!」
と一喝したり・・・

やはり、そこには、「新参者の蘇我氏とは格が違うのだ」といった物部のプライドを感じます。

そんなこんなの用明天皇二年(587年)4月、第31代・用明(ようめい)天皇が崩御され、かねてから、皇位継承に不満を持っていた穴穂部皇子(あなほべのおうじ=29代・欽明天皇の皇子)が暴走・・・かの三輪君逆を殺害してしまいます。(6月7日参照>>)

この事件を受けて馬子は、額田部皇女(ぬかたべのおうじょ=後の推古天皇)から
「速やかに、穴穂部皇子と宅部皇子(やかべおうじ)を誅殺(ちゅうさつ・罪を認めて殺す事)せよ」
との(みことのり・天皇の正式命令)を取りつけ、同年6月7日、正々堂々と官軍として穴穂部皇子を討伐した後、彼を次期天皇候補として推していた守屋=物部氏に迫ります。

両者がいずれ決戦を迎える事は、すでに誰もが予想していましたが、この時の物部氏=守屋にとって、旗印として掲げて蘇我氏と対抗するはずだった穴穂部皇子を失った事は大きい・・・なんせ、旗印が無ければ、後継者&政権争いではなく、ただの謀反人になってしまいますから・・・

そんなこんなで、本来持つ強力な軍事力を動員する事ができなかった守屋は、「子弟(こやから)と奴軍(やっこいくさ=奴隷)」のみで、蘇我の大軍を迎え撃つ事になります。

かくして守屋討伐の大軍・・・明日香で陣を整えた主力となる第1軍は、竹内峠から二上山を越えて河内(大阪府)古市(羽曳野市)国府(藤井寺市)へと入り、途中で守屋軍の先鋒と激戦を繰り広げながら、守屋の「難波の宅」を目指し、ここを守る捕鳥部萬(ととりべのよろず)と交戦します。

一方、第2軍は、大和川から信貴山を越えて守屋の本拠地である渋川(大阪府八尾市)を攻めました。

ここらあたり一帯の泥沼の地形をうまく利用して、何度か敵を撃退させる守屋でしたが、なんせ多勢に無勢・・・やがて衣摺(きずり=東大阪市)まで撤退し、ここに構築した稲城(いなき=稲で造った砦)にて応戦する守屋は、自ら大榎に上って、その高みから雨のように矢を射って見せたと言います。

この奮戦ぶりに「負けるかも知れない」と不安にかられる蘇我軍・・・

ここで登場するのが、かの聖徳太子=厩戸皇子(うまやとのおうじ)です。

苦戦の中、近くにあった白膠木(ぬりで=ウルシ科の落葉木)を切りとって四天王像を造り(仕事早っ!!(゚ロ゚屮)屮)、颯爽とと進み出てそれを高々と前髪にかざしながら・・・
「もし、今、俺らを勝たせてくれはったら、四天王のために寺を建立しまっせ!お願い!人( ̄ω ̄;)
と声も高らかに誓い、全軍の士気を高めて軍を進めました。

やがて、萬を破った第1軍が合流するにあたって態勢を立て直した蘇我軍・・・と、それでも奮戦する守屋でしたが、そんな中で突然!!

密かに守屋が上る大木の下に忍び寄っていた迹見赤檮(とみのいちい=守屋の側近だったとも)が頭上の守屋に向けて矢を放ち、その1発で仕留めたのです。

続いて守屋の一族に向かって次々と矢が放たれて子供たちを射殺・・・主を失った兵たちは散り散りに逃走し、ある者は僧侶に変装したり、ある者は狩人のふりをしたりしながら四散・・・用明天皇二年(587年)7月7日(仮)、ここに物部氏は滅亡しました。

この頃の敗者には、後の世とは比較にならない過酷な運命が待っていたようで・・・

生き残った者は名を改めて隠れ住んだほか、一部は流浪の身となり、一部は他家の奴隷に・・・また、約半数が、この時の勝利によって、後に聖徳太子が建立する事になる四天王寺の奴隷となったのだとか・・・

Dscn1491a800
鵲森宮(森之宮神社):くわしい場所は、本家HP:大阪歴史散歩「上町台地を行く」でどうぞ>>(別窓で開きます)

ところで、この時の戦いに登場する守屋の「難波の宅」・・・これが、どこにあったのか?というのは、未だ謎なのですが、一説には、「守屋の宅」→「守屋の宮」→「森ノ宮」・・・と、現在のJR大阪環状線の森ノ宮駅近くにある鵲森宮(かささぎもりのみや=森之宮神社)が、そうではないか?という説があるのだとか・・・

大阪城近くで生まれ育った不肖・茶々・・・大阪在住の方はお察しかと思いますが、幼き頃から通いなれた最寄駅が、この森ノ宮駅で、この鵲森宮は完全なるテリトリー範囲内でして、敗者好きな私は、仮説とは言え、ここに守屋の邸宅があったのか?と思うと、ワクワクドキドキなのですが・・・

・・・で、神社の由緒にもある通り、この鵲森宮は聖徳太子が造った神社・・・しかも、ご存じの方もあろうかと思いますが、最初に四天王寺が建てられたのは、実はこの場所なのです。

後に現在の地に移転して、ご存じのような大伽藍となる四天王寺ですが、つまりは、蘇我VS物部の決戦の直後に聖徳太子が建てたのはこの地なわけで・・・
(しかも現在の四天王寺の境内の一画には守屋を祀る祠もある)

勝利した証に、勝利に導いてくれた四天王の寺を、敵であった守屋の邸宅の跡に建てる・・・なんだか、アリな気がするのですが、いかがでしょう?
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2014年5月20日 (火)

謎が謎呼ぶ蘇我馬子の時代

 

推古天皇三十四年(626年) 5月20日、大臣として4代の天皇に仕えた飛鳥時代の政治家=蘇我馬子が推定74歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

教科書はもちろん、このブログでも、すでに度々登場している飛鳥時代を代表する有名人蘇我馬子(そがのうまこ)・・・しかし、実は謎だらけ・・・

そもそもは、
河内(大阪府)の豪族橿原(奈良県)の豪族、あるいは天皇家から分かれた支族、はたまた、大陸からの渡来人の子孫・・・と、そのルーツが曖昧な蘇我氏ですが、徐々に頭角を現し、馬子の父=稲目(いなめ)(3月30日参照>>)が宣化天皇元年(536年)に大臣となる大出世を果たし、その娘たちを天皇家に嫁がせて、さらに力を盤石な物にしたところで、息子の馬子にバトンタッチする中、

第31代・用明(ようめい)天皇の後継者争いに乗じて、最大のライバルであった物部(もののべ)氏を滅ぼした馬子(6月7日参照>>)、更なる実権を握って、自らの思い通りになるであろう第32代・崇峻(すしゅん)天皇を擁立・・・

しかし、その崇峻天皇との関係がギクシャクしはじめると、速やかに天皇を暗殺し、今度は、用明天皇の妹であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ=豐御食炊屋姫)を第33代・推古(すいこ)天皇として擁立し、まさに蘇我政権の全盛期を迎えるのです。

この間、渡来人を重用して先進的な技術や学問を導入し、日本における仏教の発展にも尽力・・・日本初の僧寺=法興寺(または元興寺=現在の飛鳥寺)を建立しています。

推古天皇十一年(604年)には冠位十二階十七条憲法の制定され(4月3日参照>>)、推古天皇二十八年(620年)には『天皇記』『国記』などの歴史書の編さん、国費で遣唐使を派遣して大陸の最先端の政治や学問を若者に学ばせるなど・・・

馬子が実権を握っていた時代は、それまで豪族の集合体政権だった大和朝廷が、中央集権的律令国家=日本へと変貌する時代であったわけです。

とまぁ、まさにキングメーカー馬子の華麗なる功績なわけですが・・・実は、馬子という人物についてのこれらの事は『日本書紀』の記述に由来する事が多い・・・

そう、ご存じの通り、その『日本書紀』を編さんしたのは、馬子の蘇我氏を滅ぼした藤原氏なわけで、どこまで本当の事なのか?が微妙・・・て事になります。

なんせ、上記の馬子が編さんしたであろう歴史書である『天皇記』や『国記』は、かの乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)での蘇我氏滅亡のゴタゴタで行方不明となり・・・いや、むしろ、変の首謀者である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)中臣鎌子(なかとみのかまこ=後の藤原鎌足)によって、わざと末梢された・・・なんて噂もあるくらいです。

政変でそれまでの歴史書が無くなり、政変を起こした人物の子孫が新たな歴史書を・・・って時点で、なんとなく疑いたくなるのは人の常。

もちろん、以前も書かせていただいたように(3月17日参照>>)、すべてが作り話というわけでも無いでしょうが、やっぱり納得の行かない部分も多々あるわけで・・・今回の馬子で言えば、たとえば、先ほどの崇俊天皇の暗殺事件(11月3日参照>>)・・・

『日本書紀』では、そもそもは、馬子自身が擁立したはずの崇峻天皇を、
「…十一月(しもつき)癸卯(みずのとのう)の朔乙巳(ついたちきのとのみのひ)に…東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、弑(し)せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡陵(くらはしのをかのみささぎ)に葬りまつる…」
つまり、
「11月3日に…東漢直駒なる人物を差し向けて暗殺して、この日のうちに天皇を倉梯岡陵に埋葬しました」
と堂々と書いてある・・・

なのに、馬子は、その後も普通に朝廷内の中心人物として居座り続けているわけで・・・

「国家元首を臣下の者が暗殺しといてお咎め無し」なんて事があるのでしょうか?

まぁ、それだけ権力を握っていて、「悪事を働いても誰も罰する事ができない=馬子の独裁政権だった」的な事を、『日本書紀』は言いたいのかも知れませんが、それって、もしかしたら、馬子が王だったて事になるんじゃないの?

一方、この馬子が実権を握っていたであろう時代にあった良い出来事=例の冠位十二階や十七条憲法の制定や、かの『天皇記』や『国記』などの歴史書の編さんや、遣唐使の派遣など・・『日本書紀』では、こんな良い事を行った事が書いてある時に、必ず、馬子とセットで登場するのが、ご存じ厩戸皇子(うまやどのおうじ)聖徳太子の名前です。

Tennoukeizu0520umako 聖徳太子は、蘇我氏の血脈を受け継いではいますが、用明天皇の皇子・・・しかも、そのまた皇子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が亡くなって血筋が途絶えてしまう家系・・・

そうです。
政変を起こして新しく歴史書を編さんする側にとっては、倒した相手=敵は悪でなくてはならないわけで、良い事をやってくれては困る・・・

そんな中で、好都合な事に、「ここに、すでに血筋の絶えてしまった天皇家の人がいてるやん!ラッキー!」と、

馬子の全盛期にあった良い事をやった人=皇太子であり推古天皇の摂政として活躍する厩戸皇子=聖徳太子を登場させたわけです。

最近よく言われる「聖徳太子=架空の人物説」ですが、どちらかと言えば、架空というよりは、蘇我氏のやった事を代わりにやった事にした人という事で、私としては「聖徳太子=蘇我三代(馬子・蝦夷・入鹿)説」だと思っております・・・まぁ、あくまで(仮)ですが

Dscn1587a800b 馬子の墓と言われる石舞台古墳(奈良県明日香村)

ところで、この馬子の墓ではないか?と言われている奈良の明日香村にある有名な石舞台古墳・・・・

以前書かせていただいたページ(11月8日参照>>)と重複する内容で恐縮なのですが、私も、やはり、「おそらく、この石舞台古墳は馬子の墓であろう」と思っております。

なんせ、その古墳の大きさがデカイ・・・もはや古墳時代も終わろうかという時代に、同時代の天皇家の墳墓よりも大きな古墳でありながら、わずかの間に古墳とはわからないほどに崩壊し、露出した石室が「謎の巨石」と扱われるようになるのは、まさに、敗者の古墳であったからではないか?と思うのです。

今のところは藤原氏の作った歴史書に頼るしかないこの時代の歴史探究・・・遺跡の発掘によって、更なる研究が進むことを期待したいですね。
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2013年1月11日 (金)

昔々のウソ発見器…「湯起請」と「盟神探湯」

 

文亀四年(永正元年・1504年)1月11日、泉州大木長福寺で行われた吉書始めで盗難が発生・・・九条政基が湯起請により犯人を割り出しました。

・・・・・・・・・・・・・

文亀四年(永正元年・1504年)1月11日のこの日、関白や左大臣などを歴任した公家=九条政基(くじょうまさもと)が行って、事件の犯人を特定した湯起請(ゆきっしょう)とは・・・

「神に誓って熱湯の中に手を入れ、事の正邪を決定する方法」で、正しい者は無事なれど、邪悪なる者の手は焼けどでただれる・・・昔々のウソ発見器、というか裁判方法というか・・

今回の1月11日の出来事は、上記の通り、室町時代=戦国時代のの初めの頃の事ですが、もちろん、その裁判方法の起源は、記紀の時代にさかのぼります。

それは『日本書紀』の応神天皇の条に、盟神探湯(くかたち・くがたち)という名前で、文献に初登場します。

第12代景行(けいこう)天皇から成務(せいむ)仲哀(ちゅうあい)応神(おうじん)仁徳(にんとく)5代に渡る天皇に仕えた忠臣武内宿禰(たけのうちのすくね・たけしうちのすくね)の弟・甘美内宿禰(うましうちのすくね)が、兄に取って代わろうと謀反を企んだ時、どちらの忠誠心が勝るか?を計るために盟神探湯を行い、兄の武内宿禰が勝利したという物です。

Takenoutinosukune600 と言っても、この武内宿禰・・・本当に5代の天皇に仕えていたとしたら、その年齢は200歳を越えてしまうほどの長期に渡るであろう事から、飛鳥時代に権力を誇った蘇我馬子(そがのうまこ)主軸に、複数の蘇我氏の人物をモデルにした架空の人物の見方が強い人です。

ただ、盟神探湯を行った記述は、同じ『日本書紀』の第19代允恭(いんぎょう)天皇の条にも登場し、この時は
「諸(もろもろ)の氏姓の人等、沐浴斎戒(もくよくさいかい)して各(おのおの)盟神探湯せよ」
との、天皇の命令が出されたとあります。

当時、氏姓(うじかばね)が乱れまくっており、「これを正さねばならない」となって、味橿丘(うまかしのおか)辞過岬(ことのまがえのさき)にて盟神探湯が行なわれ、正しい者は何ともなく、ウソをついていた者は傷つき、身に覚えのある者は怖がって参加できなかったのだとか・・・

この事は、平安時代初期でも、戸籍の誕生逸話として意識されていた事から、武内宿禰の一件にしろ、允恭天皇の一件にしろ、登場人物や細かな事件は別として、実際に、このような裁判方法が行われていた事は確かであろうというのが、一般的な見方です。

実際の作法としては、まずは、自分の言い分を神に向かって誓い、その後、熱湯の入ったカメの中に手を入れ、中にある小石を取るという物で、上記の通り、誓った内容がウソでなかったら、その手はヤケドせずに無事・・・って事なのですが、

「そんなもん、なんぼ、正直者でも、熱湯に手ぇ入れたらヤケドするやろ!」
と思いますが、上記の允恭天皇の氏姓のところにもあるように、「身に覚えのある者は怖がって参加できない」ってのが重要だったのだでしょう。

むしろ、それに参加する時の態度を見て、判断していたとも考えられますね・・・当時の人にとって「神に誓う」という事は、今より、ずっとスゴイ事で、ウソを言えば、必ず天罰が下ると、どんな悪人もが信じていた時代ですから・・・。

とは言え、この盟神探湯・・・いわゆる法のもとで罪が裁かれる律令制が確立した頃からは、ほとんど行われなくなります。

平安時代や鎌倉時代には、行われた記録がない(発見されていないだけかも知れませんが)にも関わらず、冒頭に書いた通り、なぜか室町時代頃から復活するのです。

今度は湯起請という名前で・・・

方法は、ほぼ同じですが、ちゃんとした神棚をしつらえて、巫女さんやら陰陽師やらがうやうやしくお祓いをしてから湯を沸かし、当事者が誓いの起請文を書いた紙を燃やして、その灰を飲み込んで熱湯風呂ならぬ熱湯カメに挑むという、ちょっとたいそうになってます。

とは言え、さすがに、この室町の頃には、証拠書類や証人などを交えて、散々吟味した後、どうしても真偽が確定できない場合の早期解決のために行われるので、実際に罪を犯している場合は、実施当日の前に自白をさせる方向に誘導する意味合いが大きかったものと思われますね。

結局、この室町時代に復活した湯起請は江戸時代頃まで行われますが、江戸も中期になると、徐々に、神の審判を聞くよりは、もっと科学的に・・・いわゆる、アリバイやら動機やら状況証拠やらを重視して、経験豊富な役職の人が、法に基づいて裁決を下すというのが一般的となります。

ただ、村の境界線争いなどの民事では、両者の言い分の食い違いによってなかなか決着がつかない事があり、村の代表者同志が湯起請を行って決着をつけるという事が、しばらくの間は行われていたようです。

現在では、奈良の明日香にある甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)にて・・・ただし、熱湯に浸けるのは手ではなく、笹の葉で、「その葉っぱに色が変わらなければウソをついていないとする」という形の盟神探湯の神事をはじめ、各地の湯立て神事として継承されています。
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「湯の温度は程よいのがイイ!」と思っていただけましたら
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2012年6月12日 (火)

蘇我入鹿暗殺=乙巳の変の首謀者は誰か?

 

大化元年(645年)6月12日、中大兄皇子中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺乙巳の変がありました。

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乙巳(いっし)の変・・・

上記の通り、中大兄皇子(なかのおおえのみこ=後の天智天皇)中臣鎌足(なかとみのかまたり=後の藤原鎌足)の協力を得て、天皇をしのぐ勢力を持ちつつあった蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害するというクーデターです。

(事件の流れについては、古い記事ではありますが、すでに書かせていただいている2007年6月12日のページでどうぞ>>

Issinohen500 乙巳の変を描いた「多武峯縁起絵巻」(談山神社蔵)

以前は、この暗殺劇も含めた一連の出来事を大化の改新と呼んでいましたが、現在では、この暗殺事件を乙巳の変と呼び、この後に行われる様々な改革を事を大化の改新と、分けて考えるようになりました。

さらに、『日本書紀』に書かれている、その大化の改新の記述には、後の大宝律令が成ってからの役職が登場する事などの矛盾も多く、実際に改革が行われたのか疑わしいという事で、「今後の教科書からは大化の改新の名が消え、乙巳の変だけが残る」なんて話も聞きましたが、今現在の教科書はどうなっているのでしょう?

とにもかくにも、この時代の事を書いた1級史料とされる物が『日本書紀』しか無い以上、書かれている事を史実とし、それ以外の事は、あくまで推理していくしかない状況なわけですが・・・

とは言え、大化の改新しかり、乙巳の変しかり・・・
つじつまの合わないおかしな事は多々あるわけで、もはや、文面通りに受け止める事の方が少ないのが現状・・・

なんせ、『日本書紀』っつー物は、第40代天武天皇が政権を握った時に、その天武天皇のために、息子と藤原氏とが編さんした史書ですから・・・(2月25日参照>>)

その天武天皇は、かの壬申の乱で天智天皇=中大兄皇子の息子である大友皇子を倒して政権を握った(7月23日参照>>)わけで、つまりは、前政権を武力で倒した新政権が、前政権がいかにして政権を握ったか?を書いているわけで、そこには、現政権が、そんな前政権を倒した事を正統化する、事実ではない記述も多分に含まれていると考えるほうが妥当なわけです。

そんな中で、この乙巳の変を、文字通り「入鹿暗殺事件」と考えて首謀者を推理する時に、推理の基本でもある動機・・・この事件によって最も得をした人は誰か?と考えた場合・・・

浮かんで来るのは、やはり、このクーデターによって、日本初の譲位で新しく天皇となる第36代孝徳天皇ですね。

この孝徳天皇は、前天皇である皇極天皇の弟なので、兄弟簡で頻繁に皇位を継承していた当時としては、ごく普通なわけですが、問題は上記の通りの「譲位」・・・

それまでは、天皇が亡くなった事によって、次の天皇へと移っていたのが、ここで初めて、「現役の天皇が、次の天皇に皇位を譲る」という事が行われたわけで、この前例の無い即位には、やはり「何かあるのでは?」と疑ってしまいますね。
孝徳天皇・首謀説については2010年6月14日でどうぞ>>

さらに、鎌足・首謀説というのもあります。

冒頭に書いた通り、一般的には、鎌足の強力を得た中大兄皇子が・・・という事で、首謀者はあくまで中大兄皇子で、鎌足は協力者となっているわけですが、それが逆で、鎌足こそが首謀者であったという事・・・

まぁ、この後の藤原氏の繁栄ぶり(8月3日:藤原不比等を参照>>)を考えると、それもありかも知れませんが・・・

また、目新しいところでは、蘇我倉山田石川麻呂・首謀説というのもあります。

この蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)という人は、かの乙巳の変の時に宮廷の大極殿にて、天皇の前で外交文書を読んでいた人・・・彼が、この外交文書を読み終えた瞬間が入鹿に斬りかかる合図となっていたと言われ、つまりは、蘇我氏の一員でありながら、クーデターに協力した人です。

その根拠となるのは、現場に同席していた古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ=中大兄皇子の異母兄)が、事件直後に語ったとされる「韓人が入鹿を殺した」という言葉・・・

かの『日本書紀』では、この言葉は「韓(からひと)の政(まつりごと)によって誅せられた」=つまり、「この時代に不穏な空気に包まれていた朝鮮半島の政治の駆け引きによって殺されたのだ」との注釈をつけているようですが、事件直後の興奮状態の時に、そんな抽象的な言い方をするだろうか???という事・・・

そこで、登場するのが、蘇我氏の出自です。

以前、仏像投げ捨て事件(3月30日参照>>) のところでも書かせていただきましたが、この蘇我氏のご先祖が渡来人だったかも知れない話は有名で、その関連から、渡来系の人々の束ね役となった事で蘇我氏が力をつけたと言われていますね。

つまり、石川麻呂・首謀説を唱える方の意見としては、この古人大兄皇子の言葉は、「韓人=蘇我氏の人間が入鹿を殺した」と解釈できるとして、1番身近にいたクーデター決行側の蘇我氏の人であり、当時、朝鮮半島との国交関連の担当でもあった人=石川麻呂という事なのです。

と、なると、かの乙巳の変から、わずか4年後に石川麻呂が自害してしまう事件(12月4日参照>>)も、後の内輪モメではなく、何か、別の大きな要因がある事になりますが・・・
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と、本日は、3人の疑わしき首謀者のお話をご紹介させていただきましたが、もちろん、一般的に言われる「中大兄皇子・首謀」という考えもあるわけで・・・

「結局は、結論は出んのかい!」
とのお怒りもありましょうが、歴史という物は、明確な解答が出ないもの・・・様々な推理を楽しむのが醍醐味という事で、本日のところはお許しくださいませ。
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2012年5月12日 (土)

可愛い子には旅を…鎌足の息子=定恵の留学

 

白雉四年(653年)5月12日、中臣定恵が、遣唐使として唐に旅立ちました。

・・・・・・・・・・・・

定恵(じょうえ)・・・飛鳥時代の僧です。

出家して、このお名前になるのですが、もとのお名前が中臣真人(なかとみのまひと)と言い、あの乙巳(いっし)の変大化の改新(6月12日参照>>)の功労者である中臣鎌足(なかとみのかまたり)=後の藤原鎌足の長男です。

日本の歴史上に君臨する藤原氏の基礎を作る、あの藤原不比等(ふひと)に、お兄さんがいたなんて!
私も、長い事知りませなんだ・・・

Zyoue600 それにしても、「真人」って名前・・・真=マコトの人、完全無欠の人、ってスゴイ名前です。

弟の不比等だって「他に比べられないほど(スゴイ)って意味ですから、鎌足父ちゃんは、スゴイ名前をつけるのが好きだった父ちゃんなのかも・・・

とにかく、この真人兄ちゃんと弟・不比等は、かなり年齢が離れていますので、この長男が生まれてからしばらくの間は、鎌足父ちゃんとしては、そんなスゴイ名前をつけたくなるくらい、ものすごく可愛がっていたわけで・・・

とは言え、この定恵さん(ややこしいので、ここからは定恵の名で呼ばせていただきます)・・・多くの謎に包まれた人です。

なんせ、史料が少ないうえに、残ってる史料によって言ってる事が違ってたりするので・・・だからこそ、教科書にドド~ンと載ったり、大々的に扱われる事が無く、あまり知られていないのかも知れませんね。

まずは、母親がはっきりしません。

一般的には、複数の史料にある車持国子君(くるまもちくにこぎみ)の娘とされますが、『日本書紀』では阿部氏の娘となってます。

しかも、そこに共通するのは、この車持の娘であっても阿部氏の娘であっても、どっちにしても、その奥さんは、第36代孝徳天皇の寵妃であった女性を賜ったと・・・

昔々のこういうケースの場合、女性はすでに妊娠している事が多々あって、つまりは、お腹の子供ごと賜る・・・現在の常識では、ちょっと理解し難いですが、当時の常識としては「高貴な人の子供を自分の子供にできる名誉な事」なわけで・・・

と、なると、この定恵さんの父親は鎌足ではなく、孝徳天皇の可能性も否定できないわけです。

ちなみに、弟・不比等のお母さんも、第38代天智天皇(一緒に大化の改新した中大兄皇子)から賜った寵妃なので、こっちも、ご落胤説が濃厚です。

・・・で、そんな長男を、鎌足は出家させ、しかも「遣唐使として唐(中国)に留学させよう」ってんですから、なかなかの決意っぷりです。

なんせ、枝分かれしているとは言え、鎌足の中臣氏は、古代より神事や祭祀を司る神官の家系なわけで、仏教ドップリの渡来系かも知れない蘇我(そが)とはワケが違います。

そんな蘇我氏でさえ、たった一人の長男を出家させて遣唐使にしようとは思わなかったのに、むしろ、仏教の導入に反対していた側の中臣のあととりを・・・

これには、「天皇の子供だから・・・」=つまりは、自らの実子じゃないので、愛情が薄かったから・・・なんて事も言われたりしますが、私としては、それこそ、現代の常識を持ち込み過ぎだと思います。

生まれた赤ちゃんが、皆、無事に成人するとは限らないこの時代・・・自分の子供なら、本人が頑張れば、それだけたくさん子供を授かる事ができ、無事に成人する人数も多くなるわけですが、高貴な人の子供を賜る機会はそうそう無いわけで、

もし、定恵さんが、本当に孝徳天皇の子供ならば、むしろ、その名誉に報いるべく、かえって大切に育てねばならないと思うのです。

なので、実子であろうが無かろうが、おそらくは、大切に育てたであろう長男を、遠き大陸に留学させるにあたっては・・・これには、やはり、父として相当な決意がいった事と思います。

なんせ、あの小さな遣唐使船で海を渡るのは危険極まりない行為・・・確かに、朝鮮半島との関係が悪化してルート変更(4月2日参照>>)してからの後半の遣唐使の危険度よりは、未だ、安全なルートだったですから、ちょっとはマシだったかも知れませんが、やっぱり、それでも命がけです。

しかも、この時、定恵は、わずか11歳・・・次男の不比等は、まだ生まれてません。

しかし、鎌足父ちゃんは、その名前に勝るとも劣らない聡明で優秀な完全無欠の長男に、藤原氏(まだ中臣ですが…)の未来を全面的に託すべく、一大決心をして留学させたのだと思います。

なんせ、この定恵を出家させた時の師匠というのが、慧隠(えおん)という僧で、23年間もの長い留学経験があり、現在の政権で国博士(くにはかせ=唐の律令制度を実際に運営する左右大臣や内臣をサポートする知識人)として活躍する(みん)(10月11日参照>>)などと並び称される、当時の最高頭脳だった人ですから・・・

息子に、最高の教育者をつけた鎌足なら、きっと、その留学先にも最高の場所を想定し、最高かつ最新の文化を学んでくるよう準備させたはず・・・

おそらくは、次世代を担う最高の政治家になって戻って来る事を期待して、心を鬼にして(出家=縁を切る意味も含まれてますので…)息子を送りだしたに違いありません。

こうして定恵は、白雉四年(653年)5月12日第2回遣唐使(8月5日の第1回参照>>)として旅立ったのです。

現地に着いた彼は、父の期待通りに勉学に励みます。

なんせ、彼が、長安(ちょうあん=唐の首都)で弟子入りしたのは神泰(じんたい)法師という、あの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう=西遊記の三蔵法師)が西域から持ち帰った経典の数々を中国語に訳す係を、唐の玄宗(げんそう)皇帝から託されていた人・・・つまり、コチラも当時の最高頭脳の僧だったワケで・・・

そんな人から教えてもらい、おそらくは、その経典の翻訳作業もその目で見たでしょうし・・・そりゃ、ついて回るだけでも、かなりの勉強になりますよ。

こうして12年に渡る留学生活を有意義に過ごした定恵・・・

天智天皇四年(665年)の9月、立派な23歳の青年に成長して無事、帰国します。

彼が、父の期待通りの優秀な人物に成長していた事がうかがえるのは、その帰国の途中に朝鮮半島を経由して帰って来るところ・・・

そう、あの白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦い(8月27日参照>>)があったのが、その帰国の2年前の天智天皇二年(663年)ですから・・・

個人的な思い込みかも知れませんが、この2年前の戦いを意識して朝鮮半島に寄って来たんじゃないかな?なんて考えたりします。

とにかく、無事の帰国・・・良かった良かった・・・

しかし、世の中、うまく行かないものです。

なんと、定恵は、帰国から、わずか3ヶ月後に病死してしまうのです。

一説には、そのあまりの優秀さを危険視した大陸or半島の住人が毒殺したなんて噂もあるようですが、冒頭に書いた通り、定恵の史料は少なく、この亡くなった時期でさえ諸説あるので、そこのところは、想像の域を出ない物です。

この時、彼が留学中に生まれていた弟=不比等は、わずか7歳・・・

この先、父=鎌足も死に、政争で後ろ盾を失った不比等が、一から身を起こして、再び政治のトップに躍り出る(8月3日参照>>)事を知ってる身としては、

この時、優秀な兄ちゃんが生きていたら、不比等の人生はどんな物だったんだろう?
なんて、想像を膨らませてしまいますね。
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2012年1月 3日 (火)

日本初の譲位と重祚…斉明天皇の即位

 

斉明天皇元年(655年)1月3日、第34代・舒明天皇の皇后だった宝皇女が、飛鳥板葺宮で重祚し、第37代・斉明天皇となりました。

・・・・・・・・・・

宝皇女(たからのひめみこ)は、第30代・敏達(びたつ)天皇の孫である茅渟王(ちぬのおおきみ)を父に、第29代・欽明(きんめい)天皇の孫である吉備姫王(きびひめのおおきみ)を母に持つ皇室の皇女として生まれますが、上記の敏達天皇は欽明天皇の息子という、この時代にありがちな身内同志の父と母でした。

Keizukoutokutennou_3 そんな中、宝皇女は最初、高向臣(たかむくのおみ)という、ほとんど史料に登場しない男性と結婚していますが、間もなく死別し、その後、田村皇子(後の舒明天皇)と再婚するのです。

これには、少し前に誕生した日本初の女帝=第33代・推古(すいこ)天皇の事が影響しているのかも知れません。

推古天皇は、皇位を継ぐべき皇子が幼いための次世代への橋渡し=中継ぎの天皇として即位しましたが(12月8日参照>>)、こういう前例ができた以上、万が一、この先も、同じように、男系男子への皇位継承が難しくなった時に、亡き天皇の皇后だった人が女帝として即位する可能性もあるわけで、その時に、その女性が皇族で無かったら、ちとマズイ・・・

つまり、ひょっとしたら皇位につくかも知れない皇后という地位につく人は、天皇家の血筋でないと困る・・・という事で、当時、奥さんが豪族出身の姫しかいなかった田村皇子のもとに、将来の皇后候補として、すでに前夫と死別していた彼女が嫁いだというワケです。

そんな宝皇女は、夫・舒明(じょめい)天皇との間に、二男・一女をもうけますが、この2人の息子が、この後、日本の歴史を大きく動かします。

兄が中大兄皇子が後の天智天皇で、蘇我氏を倒して(6月12日参照>>)大化の改新の行う人・・・

弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が後の天武天皇で、壬申の乱の後に日本という国家の基礎を作る人・・・(2月25日参照>>)

こんなズゴイ人物二人の母である宝皇女ですが、以前、ずいぶん前に、そのご命日の日に書かせていただいた記事(2006年7月24日参照>>)でも、「何となく周囲に振り回された感がある」・・・つまり、自分の意思ではないところで天皇としてまつりあげられ、彼女自身の心の内があまり見えないところがあるように思うと書かせていただきましたが、一方では、彼女は、日本初の天皇家にとって歴史的出来事を二つ実行しています。

それは譲位(じょうい)重祚(ちょうそ)・・・

譲位とは、それまで、天皇が亡くなってから次の天皇に譲っていた皇位を、未だ健在の時に自ら退位して、次の後継者に皇位をを譲るという事・・・

重祚というのは、一度天皇となった人が一旦退いた後、再び皇位につくという事・・・

どちらも、彼女が日本初です。

しかも、最近では、この二つの事に関して、周囲のお膳立てにただ乗っかったのではなく、彼女自身のしっかりした考えで行った彼女主導の行為であるとの見方も出て来ているのです。

それは、譲位と重祚・・・この二つが、ともに、我が子=中大兄皇子に皇位を継がせるための、母の気持ちから出た行為だったという考え方です。

Kougyokuzyotei590 夫である舒明天皇が亡くなった後、第35代・皇極(こうぎょく)天皇となっていた彼女ですが、その時に起こったのが、息子=中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺事件乙巳(いっし)の変・・・

その時、この政変を受けて、日本初の譲位をする彼女は、ひょっとしたら息子の中大兄皇子に皇位をい譲りたかったのかも知れません。

しかし、中大兄皇子は、この時には、まだ20歳の若者で皇太子でもありませんし、クーデターを起こした張本人でもある・・・しかも、譲位が日本初なら、女帝からその息子へ直接皇位を渡すのも日本初・・・

そこで、ワンクッション置くため、彼女の実の弟である軽皇子(かるのおうじ)=孝徳天皇への譲位という事にした・・・もちろん、当の中大兄皇子は、ここで正式に皇太子(孝徳天皇の後継者)となります。

その後、孝徳天皇のもと、都は難波に遷され、数々の大化の改新が成される事になりますが、結局、その体制も長く続かず・・・反対する孝徳天皇を残して、皇太子の中大兄皇子以下、皆々が飛鳥に帰ってしまい、孝徳天皇は失意のまま、この世を去っていましました。

そんな孝徳天皇の死を受けて・・・
斉明天皇元年(655年)1月3日宝皇女は、再び、第37代・斉明天皇として即位するのです。

これが、日本初の重祚・・・

すでに中大兄皇子が、孝徳天皇のもとで皇太子になっているのですから、その後継として中大兄皇子が天皇になっても良いものを、あえて、母の宝皇女が、初の試みの重祚を行って天皇になる・・・

譲位と重祚、二つの出来事を彼女主導とする意見では、ここに、彼女の母としての心が垣間見えるとされます。

孝徳天皇の反対を押し切って飛鳥に戻り、難波に残された天皇が寂しく亡くなる・・・「何となく孝徳天皇を死に追いやった感のある息子が、その直後に天皇になれば、何かと厳しい批判の矢面に立つかも知れない」

そんな批判をかわすための母心が、彼女が再び天皇となった理由ではなかったか?
という事なのです。

もちろん、これは、あくまで一つの推理です。

以前書かせていただいたように、すべてが中大兄皇子主導で行われていたのかも知れませんし(2011年1月3日参照>>)、第一、記紀』自体が天武天皇系列の正統性を主張するために歴史書ですから、たとえ同時代にあった出来事でも、果たして、ちゃんと事実を記録しているのかさえ危うい(3月17日参照>>)わけですから・・・

ただ、これまで、その心の内を垣間見る事さえできなかった宝皇女が、自らの意思で、母の心を以って譲位&重祚という日本初の試みをしたのだとしたら、それはそれで、なんだか、心ワクワクする推理だなと思った次第です。
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2011年12月 8日 (木)

日本初の女帝・推古天皇の誕生

 

崇峻天皇五年(592年)12月8日、敏達天皇の皇后だった額田部皇女(豐御食炊屋姫)初の女帝として即位・・・第33代天皇・推古天皇となりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご存じ、第33代・推古(すいこ)天皇は、日本史上初の女帝です。
上記の通り、天皇になる前は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)ですが、今日は、ずっと推古天皇と呼ばせていただきます。

ただ、これまでも、第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇の奥さん・神功(じんぐう)皇后(9月6日参照>>)や、第22代清寧(せいねい)天皇の死後に政務を取ったとされる履中(りちゅう)天皇の皇女(もしくは孫)飯豊(いいとよ)皇女など、おそらくは天皇と同じ位置にいたであろう女性はいましたが、記紀が正式に天皇と位置付けている女性は、この推古天皇が最初です。

そこには、神宮&飯豊の二人の彼女たちの場合には、即位礼などの儀式を通過しているか?などの問題とともに、万系一世・男系男子の原則上、女性が天皇になる事は異例であり、女帝とするには、なかなか難しい問題であったのでしょう。

しかし、推古天皇は女帝となりました。

そこには、もはや、そうするしか無かった何かの事情があったようにも思えますね。

それは、この推古天皇の後の約180年間に誕生する15代の天皇のうちで半数以上・・・皇極(斉明)持統元明元正孝謙(称徳)という5人=8代の女帝が誕生していて、この間を「女帝の世紀」と呼ばれる事でも察しがつきます。

なんせ、その後は、江戸時代に、第109代・明正天皇(11月10日参照>>)と、第117代・後桜町天皇(11月2日参照>>)の二人だけなのですから・・・(まぁ、このお二人の即位も異例ですが…)

今も言われている女帝誕生の理由としては、やはり、男子の皇位継承が難しい時に、その「中つぎ」として女性天皇を担ぎ出したという物・・・

ただ、すでに先例がある後半の女帝たちはともかく、日本初となる推古天皇の場合は、おそらく、そこに強大な力が関与していたはず・・・それは、とりもなおさず、あの蘇我氏です。

以前、推古天皇・崩御のページ(3月7日参照>>)や、蘇我VS物部の最終抗争の発端となる穴穂部皇子(あなほべのおうじ)の事件のページ(6月7日参照>>)でも書かせていただいているので、話がだだかぶりですが、そもそも、推古天皇・誕生の経緯となる出来事は、彼女の夫である第30代・敏達(びたつ)天皇の崩御にともなう後継者争いから始まります。

Suikokeizu20111208 ややこしいので、まずは、例の系図を表示しますが・・・
クリックすると大きく見られます(ややこしくなるだけなので、あまり関係のない人物は表示してません)

ご覧の通り、一連の皇位継承に関連する、敏達天皇・用明天皇・穴穂部皇子・崇峻天皇、そして、推古天皇・・・この5人は全員、欽明天皇の子供・・・つまり兄弟です。

兄弟でも母親が別人なら結婚の対象となった時代・・・いや、むしろ、そうして特別な血統を印象づけていた時代ですので、敏達天皇と推古天皇は兄妹で結婚してます。

・・・で、ここに出て来る欽明天皇の奥さんのうち、小姉君(おあねのきみ)堅塩姫(きたしひめ)の二人は、ともに蘇我稲目(そがのいなめ)の娘で、石姫(いしひめ)皇女という女性だけが、第28代・宣化(せんか)天皇の皇女となります。

・・・で、敏達天皇が亡くなった時、その後継者として最初に名乗りを挙げたのが穴穂部皇子だったわけですが、半ば脅しにも似た勢いで後継者宣言します。

この時代、まずは、先帝の兄弟の間で継承し、それが一通り行きわたったところで次世代(その息子たち)へバトンタッチというのが、一般的な皇位継承でしたし、上記の通り、穴穂部皇子は、蘇我氏の血を引いてますので、名乗りを挙げなくとも、おそらくは、順番に回ってきたと思うわけですが、なぜか、この人のバックについていたのは物部氏・・・

で、結局、次の天皇になったのは、欽明天皇の第4皇子で最年長だった用明天皇・・・順当な皇位継承ですが、すでに手を挙げちゃってる穴穂部皇子としては不満ムンムン・・・

怒った穴穂部皇子は、例の敏達天皇の(もがり:本葬前の期間の仮安置場所)に押し込んで、推古天皇に暴行を働くという事件を起こし、これを蘇我馬子始末し、さらに彼を支援していた物部氏も抹殺したわけです。

この間に亡くなった用明天皇の後を継いだのが、第32代崇峻(すしゅん)天皇・・・この方は、その穴穂部皇子の弟ですが、一連の出来事にはまったく関与していなかったので、まぁ、蘇我氏の血も引いてますし、兄貴が殺されるまでになってるのに、まったく関与してないってトコに、むしろ、政治に口出しする事も無いんじゃないか?って蘇我氏も思ったんでしょうかねぇ。

ところが、その崇峻天皇も、やがては蘇我氏に刃向かうようになって、結局、崇峻五年(592年)11月3日、馬子によって暗殺されてしまうのです(11月3日参照>>)

さぁ、困った・・・ここで、敏達天皇の子供たちの中で生きてるのは推古天皇だけ・・・

そうなると男系男子の次世代へ・・・となるのが通常の皇位継承なわけですが、この時点での次世代は、敏達天皇の息子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのおうじ)難波皇子(なにわのおうじ)春日皇子(かすがのおうじ)、そして推古天皇が産んだ竹田皇子(たけだのおうじ)、さらに用明天皇の息子である、ご存じ聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのおうじ)の5人となります。

しかし、その中で、彦人大兄皇子・難波皇子・春日皇子の3名は、蘇我氏の血を引いてない・・・物部氏を倒して、もはや敵無しとなった蘇我氏が、他の豪族の娘が産んだ皇子を天皇にしたくはないですもんね。

となると、蘇我氏の血を引いてるのは竹田皇子と聖徳太子ですが、母の推古天皇としては、おそらく我が子に継がせたい!

しかし、この時点での竹田皇子は未だ皇位につけないほどの幼少だった・・・(生没年が不明のため曖昧ですが、そう言われています)

かと言って、穴穂部皇子&崇峻天皇を蘇我氏みんなで暗殺しちゃった今、彼らと同父母兄弟である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母に持つ聖徳太子を皇位につかせる事には難色があった・・・

で、どうしようもなくなって、「竹田皇子が成長するまで」中つぎとして崇峻天皇五年(592年)12月8日初の女帝・推古天皇となったわけです。

ただ、残念ながら、推古天皇は竹田皇子にバトンタッチする事はできませんでしたが・・・

上記の通り、竹田皇子の生没年は不明なのですが、推古天皇が亡くなる時、その遺言として、(自らの遺骸を)竹田皇子と合葬してほしいと願っている・・・つまり、その時点で、すでに竹田皇子は亡くなっていたという事になりますから・・・

こうして、日本初の女帝の中つぎは、不成功に終わりましたが、以後、立て続けに誕生する女帝の先例となった事は確かでしょう。
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2011年10月11日 (火)

大化の改新の影の立役者・南淵請安

 

舒明天皇十二年(640年)10月11日、遣隋使として大陸に渡っていた学問僧・南淵請安が唐から帰国しました。

・・・・・・・・・・・・・・・

高市郡(たかいちのこおり・高取町&明日香村)にて、漢人系帰化人として生まれた南淵請安(みなぶちのしょうあん)は、7世紀頃の人というだけで、その生没年も不明です。

推古天皇十六年(608年)に遣隋使・小野妹子(おののいもこ)に従って、学者の高向玄理(たかむこのくろまろ)や学僧の(みん)ら、8人の留学生の一員として(ずい・中国)へと渡りました。

そこで、32年間の留学生生活を送る事になりますが、ご存じのように、その間に、隋が滅んで唐が建国されるという中国の一大転機を目の当たりにし、舒明天皇十二年(640年)10月11日玄理らとともに帰国しました。

ちなみに、旻は舒明天皇四年(632年)に、彼らより一足先に帰国しています。

この時代、隋や唐から帰国した彼らに求められた物は、もちろん、先進的な海外の知識や文化を、この日本に広める事・・・朝廷にて政治に従事する者もいたでしょうが、一方では、豪族の子弟たちを相手に私塾を開設し、次世代を担う後継者の育成に力を注いだ人も多くいました。

請安より先に帰国した旻の私塾に通っていたのが、今をときめく大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(そがのえみし)の息子・蘇我入鹿(いるか)・・・

彼は、旻をして
「我が堂にあって蘇我太郎(入鹿の事)に及ぶ者なし」
と言わせたほどの優秀な生徒だったと言われます。

Dscn3989a600 一方、帰国後、飛鳥川の上流にある南淵朝風(あさかぜ)という場所に居を構えて私塾を開いたのが請安で、ここに通っていたのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)・・・

一説によれば、法興寺(ほうこうじ)で行われた蹴鞠(けまり)の会で、勢い余って(くつ)を飛ばしてしまった中大兄皇子に、その沓をササ~ッと拾って差し出したのが鎌足で、それが二人の出会いだったとされています。

法興寺は、入鹿のお祖父ちゃんである蘇我馬子(そがのうまこ)が、敵対していた物部(もののべ)を倒して、実権を掌握した時に建てた日本初の本格的な僧寺で、まさに、蘇我氏の全盛の権力の象徴とも言える蘇我氏の氏寺・・・現在の奈良県明日香村の飛鳥寺の場所にありました(4月8日参照>>)

ちなみに、法興寺そのものは都が明日香から藤原京→平城京と遷るのと同時に都に移転していて、現在、奈良市のならまちにある元興寺が、その法興寺です。

そんな蘇我氏の権力の象徴であり、蘇我氏を守るべく願いを込めて建てられた寺で、中大兄皇子と鎌足が出会う・・・ドラマですね~~~

そう、こうして出会った二人が、親しくなった後に、ともに請安の私塾に通い周孔の学儒教などを学びながら、敵に悟られぬよう、この請安の邸宅で、あるいは通学途中の道すがらに、入鹿の暗殺=乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)の計画を練ったと言われているのです。

もちろん、蘇我氏滅亡後に行われる大化の改新の青写真も話し合った事でしょう。

そうなれば、まさに請安が持ち帰った最新の知識が、後の歴史をリードしたとも言えるわけですから、請安は大化の改新の影の立役者と言ったところでしょうか・・・

んん・・・影の???
そう、実は、上記のように、中大兄皇子&中臣鎌足という政変の両主役の師匠でありながら、請安自身は、政変後の新政権には加わっていないのです。

ともに大陸に渡った玄理や旻は国博士(くにはかせ=唐の律令制度を実際に運営する左右大臣や内臣をサポートする知識人)として新政権に入っているのに・・・

そのために、請安は、大化の改新以前に、すでに亡くなっていたのではないか?とも言われています。

しかし、一方では、請安は王仁(わに)博士(12月15日中ほどを参照>>)に次ぐ大儒学者として新政権は大いに欲しがり、好条件を提示して、何度も官人を使いに出したものの、ついに彼が朝廷に入る事はなく、その後は、南淵にて農業に従事したと伝える史書もあるのだとか・・・

これには、これまでの東アジアの状況を見た入鹿が、百済(くだら)との関係と同等の国交を高句麗(こうくり)新羅(しらぎ)にまで広げた聖徳太子と同じ視野を持って、広く、外国との交流を推進しようとしていたのに対し、乙巳の変で政権を握った中大兄皇子らの外交は、それを再び、百済オンリーの外交に戻そうとする物だったので、請安は、それに反対して袂を分かつ事になったのでは?とも・・・

漢人系帰化人で外国を見て来た請安なのですから、おそらくは外交の門を広く開ける事を望んでいたでしょうからね。

ところで、これまでは、何かと悪人呼ばわりされていた入鹿・・・

しかし、橿原市の入鹿神社近くの入鹿の旧跡に建つ江戸時代の石碑には、「蘇我入鹿公御旧跡」と、入鹿に敬語が使われていますし、室町時代に書かれた『元亨釈書(けんこうしゃくしょ)という文献にも、「蘇我氏が初期仏教に果たした役割は大きい」として、その貢献を評価しています。

実を言うと、現在のように、蘇我氏が悪人呼ばわりされるようになったのは、明治の初め頃から・・・と、なかなかに歴史が浅い・・・

それは、徳川幕府に代わる新しい政権を担う天皇を中心に集権体制を構築しようとした明治政府による『日本書紀』重視の政策が行われたためです。

なんせ、日本書紀の中での蘇我氏は、その権力を振りかざして横暴の限りを尽くし、天皇家に弓を引く大悪党で、偉大なる聖徳太子の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)をも殺害したとされ、中大兄皇子と中臣鎌足は、太子一族の仇を討つべく、蘇我氏を退治した英雄なのですから・・・

しかし、ここ最近は、再び、明治以前のように蘇我氏の名誉が回復されつつあります。

上記の通り、聖徳太子の政策を継承していたのは、むしろ蘇我入鹿のほうで、蘇我氏滅亡後に行われた大化の改新は、それに逆行するような形であった事から、中には、「聖徳太子=蘇我入鹿」と考える専門家さんも登場しているくらいです(11月1日参照>>)

もしかしたら、請安は、そんな逆行する政治体制に参加する事を拒んだという事なのかも知れません。

何も語らず、突然に歴史の表舞台から去った謎多き南淵請安・・・現在、彼のお墓は、邸宅があったとされる朝風から、飛鳥川を挟んだ対岸の明日香村稲渕に鎮座します。

Dscn3990a800 稲淵・竜福寺境内にある南淵請安の墓(向こう側が邸宅があったとされる朝風)

今もあの頃と変わりなく流れる飛鳥川を見下ろす高台から、請安先生は、大化の改新後の日本を見守り続けているのかも知れません。

*南淵請安の墓へのくわしい行き方は、本家HP【奈良歴史散歩:奥明日香・飛鳥川をさかのぼる】でどうぞ>>
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2011年6月29日 (水)

壬申の乱での装備や武器は?

 

天武天皇元年(672年)6月29日は、古代屈指の大乱・壬申の乱での最初の戦闘・・・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)側の武人・大伴吹負(おおとものふけい)による倭京の制圧があった日ですが、その状況につきましては、力不足ながらも、昨年の6月29日に書かせていただきましたので、ソチラで見ていただくとして・・・(2010年6月29日のページへ>>)

本日は、昨年の壬申の乱関連の記事で書き切れなかった、当時の装備や武器についてお話させていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

合戦シーンと言って思いだすのは、やはり戦国の合戦や、幕末の鳥羽伏見・・・あるいは、源平の壇ノ浦や一の谷・・・といったところですが、ドラマでよく見る合戦シーンも、最近のドラマは、そういった時代考証は見事に再現されているので、見た目の感じは、あのまんまと考えて間違いなさそうです。

まぁ、戦国の場合は、旗指物やら馬印やら言いだすとキリがないですし、画面の見た目や、視聴者側に敵味方がはっきりわかるようになどなどの工夫をされて省略されている場合もありますが・・・

しかし、源平以前・・・特に奈良時代以前って、どんな感じだったんでしょう?
あまり、イメージが湧きませんね。

・・・で、ここで一服の絵図・・・

Zinzinemaki900 武蔵寺縁起絵図(武蔵寺蔵)

この絵図は『武蔵寺(ぶぞうじ)縁起絵図』に書かれた壬申の乱の瀬田の合戦(7月22日参照>>)を描いた物ですが、ご覧になってすぐにおわかりの通り、描かれている兵士たちは、明らかに平安以降の雰囲気です。

もちろん、昔は、今ほど古代の事の研究も進んでいませんから、平安時代に描かれた奈良時代の人物は、ほとんど平安時代の装束で描かれてしまっても致し方ないところではあります。

では、今の段階でわかっている当時の装備は・・・

Zinzinbuzin4002 壬申の乱当時の武人は、小さな鉄板(小札=こざね)を紐で綴りあわせた桂甲(けいこう)や、後の胴丸(胴体周囲を覆う右脇で開閉する形式の物)に似た短甲(たんこう)などを着用・・・とは言っても、ご覧の通り、手足はほぼ無防備です。

一応頭の(かぶと)は鉄製ですが・・・

そこに、腰に太刀を下げますが、いわゆる反りの無いまっすぐな物で長さは60~70cmといったところでしょうか。

しかし、この装備・・・実は、かなり上級の武人の装備で、実際には、ごくごく一部の人しか、このような武装はしていませんでした。

この壬申の乱に動員された兵士の大多数は農民兵で、しかも、戦国武将のように領内を自らが仕切るという考えが無いので、農繁期であろうが、まったく関係なく、上からの命令で半強制的に徴兵され、大した訓練もないまま、すぐに戦場に送りこまれるのです。

さすがに、合戦の場で丸腰というわけにはいかないので、それらの農民兵には「槍(ほこ)というヤリのような武器が支給されましたが、これが、木の棒の両先端を、削って尖らせただけというチャッチぃ造りの物・・・まぁ、それだったら、いくらでも作れますからね。

Zinsinheimin450 しかも、先ほどの武人のような鎧も兜もなく、まったくの生身・・・そのうえ盾すら持たなかったと言いますから、まさにこんな感じ飛鳥時代の一般人の装束)に、ただ棒を持っただけって事ですね。

そんな彼らを、先ほどのような武装をした上級の武人が指揮するわけです。

ただ、そんな中には、それこそ、ごく一部だけ、馬に乗った最上級の武人もいたようです。

・・・というのは、本日の壬申の乱最初の戦いでの総大将・大伴吹負が、倭古京制圧に乗りこんで来た時の描写・・・

その時、吹負とともに、何人かの武人が馬に乗っていたようで、彼らがその地に突進すると、守っていた敵兵が、蜘蛛の子を散らすように逃げだし始めますが、もちろん、逃げ遅れた者が次々に斬られていきます。

すると吹負は
「俺らが戦いを起こしたんは、農民を殺すためちゃうぞ!
敵の将軍を殺ったれ!むやみに殺すな!」

と言ったとされています。

これは、完全装備した彼らの前には、まともな武器の無い一般兵士は、もはや太刀打ちできないという事であり、馬で来られたら逃げるしかない状況だった事がうかがえますね。

・・・で、以前、戦国時代を通して、戦場で最も有効な武器となったのが「鑓(やり)だとお話しましたが(6月8日参照>>)この頃の最も有効な武器は弓矢です。

おそらくは、上記のように、完全武装でやって来られたら、もう負けなのですから、近づく前に弓矢で撃ってしまえ!って事なのでしょうが、弓矢を装備した武人も、その防具は、先ほどの太刀と同じで、桂甲か短甲に、手足はほぼ無防備・・・

Zinzinbuzin400 この頃の弓は、めっちゃデカイ2mを越える長弓が使われ、矢は先端に鉄製の(やじり)をつけた篠竹製の物で、長さは85cmほど・・・

さらに、腰や背に胡簶(ころく)という筒を下げて、そこに矢を入れるのですが、その数は、一人50本以上だったと言いますから、いかに、これが主流だったかがわかりますね。

壬申の乱の中で最後の戦いとなった瀬田の合戦では、大友皇子側から大海人皇子側へ、「矢が雨のように降って来た」という記述がありますから、やはり、ソコが最後の=守りの要だったということなのでしょうね。
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2011年4月25日 (月)

漏刻で時間をお知らせ…飛鳥・プロジェクトX~時の記念日

 

天智十年(671年)4月25日、天智天皇水時計を使って、初めて鐘鼓を打って時を知らせました。

・・・・・・・・・・・・

『日本書紀』天智十年(671年)の四月二十五日の項に、
「漏刻(洩剋)を新しき台(うてな)に置く、始めて候時(とき)を打つ、鐘鼓(かねつづみ)を動(とどろ)かす、始めて漏刻を用いる」
と書かれてあります。

この漏刻(ろうこく)というのが、いわゆる水時計みたいなシステムの事です。

さらに、この天智十年4月25日という日づけを、太陽暦に換算すると671年6月10日になるという事で、現在、6月10日『時の記念日』という記念日に制定されています。

という事で、本日は、その漏刻なる物がどんな物なのか?というお話を中心に進めさせていただきます。
(画像は、すべてクリックしていただくと大きくなります)

・‥…━━━☆

とは言え、『日本書紀』の記述を引用して、大正九年(1920年)に「時の記念日」という記念日が制定されたものの、当時は、それが、天智天皇が皇太子=中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)時代の斉明六年(660年)に水時計によって時間を計り、時間に合わせて鐘を打つシステムを造り、この天智十年(671年)4月25日に、初めて実際に使用して時を知らせたという事がわかっているだけで、その漏刻なる物が、実際にはどんな物であったのかは、ずっと謎だったわけです。

そんな長年の謎が解けるのは、昭和五十一年(1976年)・・・奈良県明日香村のとある発掘現場で、それが発見されたのです。

現在、それは水落(みずおち)遺跡呼ばれ、ほぼ調査は完了し、丁寧に保存されています。

Dscn1521a800 水落遺跡(奈良県明日香村)

Roukoku800d ←建物外観の想像図

ここで見つかったのは、綿密かつ堅固に建てられた水時計用の建物と、その中央に黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置。

Roukoku600b ←地下水路
また、特殊な基礎工法を使って、建設途中に埋め込まれた木樋によって、水路が縦横無尽に走り、この水時計の建物を中心に、様々な施設があった事も確認されています。

Dscn1520a800 水落遺跡の北方100mほどの所には、明治時代に石人像が出土して注目を浴びた石神遺跡(→)という遺跡がありますが、ここも、昭和56年(1981年)から始まった本格的調査によって、通路でもって水落遺跡とつながっていた事が明らかとなっています。

当時の日本は、律令制による中央集権的な国家体制を急速に整えようとしていた真っ最中で、先進国である中国にならって、明確な時刻のもとに秩序ある政治体制を整える事は、国家の一大事業・・・まさに、この漏刻システムは、国家の維新をかけたプロジェクトだったわけです。

・・・で、肝心のそのシステムですが・・・

Roukoku600a 内部の想像図

と、このように、1階に水時計の装置を置き、2階に都じゅうに時を知らせる鐘、もしくは太鼓が設置されていたと思われます。

水時計は、階段になった水槽に水を張っていき、上段の水がいっぱいになると溢れ出して下段へ・・・、さらに、その段がいっぱいになると、また下に・・・という物で、最下の段に目盛りのついた人形を浮かべておいて、その人形の目盛りが決まった場所に来たら、鐘をついてみんなに時間を知らせる・・・という感じ・・・

単純作業に見えるけど、けっこう大変・・・ここで働く人は、やっぱエリートなですかね(゚ー゚;

このシステムのおかげで、どうやら宮仕えの役人たちは、毎朝、鐘や太鼓の音で起され、時間内に出勤という現代のサラリーマン並みの規則正しい生活を余儀なくされるようになったとか・・・

時間に正確な日本人の気質は、ここですでに生まれていたのかも知れませんね。

・・・で、そんな奈良時代の官僚の勤務システムについては、以前書かせていただいた時の記念日のページ(6月10日参照>>)で。。。

少し内容が重なる部分もありますが、どうぞご覧あれ!

追記:水落遺跡&石神遺跡への行き方は、本家HP「歴史散歩:明日香村」>>でどうぞ!
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