日本初の本格的「都」~藤原京・誕生
持統八年(694年)12月6日、持統天皇が飛鳥浄御原宮から藤原京へ遷都しました。
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つい先日の11月29日、建築資材を運ぶための運河の跡が発見され話題となった藤原京(奈良県橿原市)は、日本初の都市計画に基づく本格的な都です。
この日から、和銅三年(710年)3月10日に平城京に遷都されるまでの16年間、ここが政治の中心でした。
明日香・甘樫丘から見た大和三山(左から畝傍山・耳成山・香久山)
ちなみに、藤原京という呼び名は、後世の人が名付けた学問上の名称で、実際には新益京(あらましのみやこ)と言い、その都にある宮殿の部分を藤原宮(ふじわらきゅう)と言います。
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天皇を頂点としたピラミッド型の政治構造を造り、法令に基づいた律令国家を目指した第40代・天武天皇(2月25日参照>>)・・・その死からまもなく、跡を継ぐべき皇太子であった草壁皇子も亡くなってしまった事から、天武天皇の奥さんで草壁皇子の母だった鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が第41代・持統天皇として即位して、亡き夫の遺志を継ぐ事となります。
持統三年(689年)には、日本初の行政法である飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい)が施行され、古代官僚制を確立させます。
ちなみに、「令」というのが行政の法規で、「律」というのが刑罰の法規で、両方合わせて律令国家なわけですが、「律」のほうはもう少し先の大宝律令(8月3日参照>>)で施行されます。
そして、やはり新しい律令国家に必要なのは本格的な都・・・もちろん、これも天武天皇の遺志なのですが・・・。
これまでの都は天皇が変わるたびに宮も変わる歴代遷宮が普通でしたが、数年ごとに宮が変わる不安定な状態だと、その周辺が京(みやこ)として大きく発達する事は難しい・・・そこで、都市計画に基づいた「京」としての藤原京の建設が行われたのです。
しかし、当時は朝鮮半島の情勢が不安定だったため(4月2日参照>>)、約30年間に渡って遣唐使が途絶えていた時代でもあり、モデルとなるべき中国の最新情報が得られない状況での造営は、なかなか難しかった事でしょう。
とは言え、そのスケールは大きかった・・・
藤原京(新益京)・復元区画図
(このイラストはわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
以前は、古道(下ツ道・中ツ道・横大路・山田道)に囲まれた大和三山(畝傍山・耳成山・香久山)の内側の部分であると考えられていましたが、近年の発掘調査で、その外側から道路の遺構が見つかり、平成九年(1997年)には東西十大路が確認され、1辺が5,3km四方の大きさであった事が判明しました。
これは、23k㎡の平安京、24k㎡の平城京よりも大きい事になります。
条坊道路は両側に側溝のある構造で、その幅は16m・9m・7mの3段階に分けられ、道路によって区画された中に寺院や官邸・宅地などがあり、基本的には宮に近いほど、有力な貴族の住む大きな邸宅であったと思われ、遠くなるほど小さな宅地が多くなります。
この藤原京の中心に位置したのが藤原宮で、東西925m、南北907mの区画を瓦葺の大垣で区切り、各面に3ケ所ずつの門が備えられている中央部分に北から内裏(だいり)・大極殿・朝堂院と並びます。
大極殿は、基壇の上に礎石を用いた瓦葺の最も大きな建物で、赤い柱や緑の窓、金色の金具といった中国的な建築様式だったとされ、これまでの基壇なしで地面に柱の板葺きという建物とは、明らかに違うものでした。
大極殿の南側には南門があり、続いて南北318m、東西230mに囲われた朝堂院があり、ここに東西各6棟の朝堂が建ち、さらに、その東西には官庁が並びます。
こうして、律令国家の基盤となる永年の都として造営された藤原京でしたが、わずか十六年で、次の平城京へと遷都される事になります。
それには
・山に囲まれたこの地では、これ以上都を大きくできない。
・良い材木を伐採しつくした。
・木材運搬の便利さ。
などなど・・・考えられますが、私としては、やはり政権交代ではないか?と・・・
そこのところは、平城京・遷都がらみのページで書かせていただいておりますので、2月15日の【平城京はなぜ、あの場所に?】へどうぞ>>
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