2009年11月17日 (火)

記念に改元~元正天皇の養老の滝・伝説

 

養老元年(717年)11月17日、岐阜に行幸した元正天皇が、「養老の滝」を命名した事にちなんで、養老に改元しました。

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元正(げんしょう)天皇は、第44代の天皇として即位した女帝です。

先日の第109代・明正天皇のページ(11月10日参照>>)で少しお話しましたので、ご承知だと思いますが、いわゆる中継ぎのための女帝です。

夫である第40代・天武天皇が亡くなった後、後を継がせたかった息子・草壁皇子が亡くなってしまい、その息子(天武天皇からみて孫)に後を継がせたいけど、まだ幼いってんで、天武天皇の奥さんである第41代・持統天皇が、自ら皇位を継ぎ、何とか踏ん張って、その孫=第42代・文武天皇に皇位を継承したものの、今度は、その文武天皇が亡くなった時に、皇位を継承するべき息子が幼かったために、文武天皇の奥さんが第43代・元明天皇となり、それでもまだだったので、その娘である元正天皇が継ぎ、その次の第45代・聖武天皇へ・・・と、ややこしいので、とにかく系図を。。。

Keizugensyucc つまり、聖武天皇から見れば、「文武=お父さん」→「元明=おばあちゃん」→「元正=伯母さん」とバトンタッチされて、自分のところに回ってきた・・・という事です。

そんな中継ぎの女帝ではありましたが、元正天皇という方は、なかなか聡明なお方であったようで、「人民が富まなくては、国は栄えない」と、産業の発展に重きを置き、それまでの水田だけではなく、畑の開墾も推奨し、稲とともに麦の耕作にも力を注いだとの事・・・

そんな元正天皇が、霊亀三年(717年)9月20日に、美濃国(岐阜県)当耆郡(たきのこおり)に行幸した時に、多度山の美しい泉を目にしました。

その泉の水で、顔や手を洗ったところ、お肌がスベスベに・・・さらに、痛いところを洗ったら、またたく間に痛みが取れて治ってしまいます。

「こんな私にも効き目があるなんて!」
・・・と、元正天皇、大感激!

「しかも、聞くところによれば、この泉の水を飲んだり浴びたりした人の中には、目の病気が治ったり、長く続いていた病気が快復したり、ツルピカがボーボーになった人もいるんだとか・・・

遠く、中国にも、こんな霊泉があると聞いた事があります。
これは、吉兆に違いない!

これは、平凡で才能のない私への神様からの贈り物・・・元号を養老にしましょ!

・・・と、この(みことのり・天皇の公式発言)を発したのが、養老元年(717年)11月17日・・・で、この日がら元号が養老になったというワケです。

・・・って、滝は???( ̄◆ ̄;)

実は、この詔の段階では、滝はもちろん、お酒も出てきません。

すでに、その名が知れ渡った観光名所にケチをつけるつもりはありませんが、実際に元正天皇が沐浴されたのは、現在の岐阜県は養老町にあるの養老の滝ではなく、近くにある菊水泉という泉であったと言われています。

しかし、『続日本紀』には、すぐ後の12月に、すでに、この水でお酒を醸造した記録があり、おそらくは、かなりの名水で、そこから造ったお酒も、かなりの銘酒だったのでしょう。

そんなところから、徐々に、伝説が伝説となっていったようです。

鎌倉時代の建長四年(1252年)に成立した『十訓抄(じっきんしょう)には、教訓となる説話がいくつか収められていますが、その中に・・・

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その昔、元正天皇の時代の美濃の国に、老いた父とともに暮らす貧乏な若者がおりました。

毎日、山に言っては草木を取って、細々と父を養っていましたが、この父が、毎日のように「お酒が野みたいなぁ・・・」とポツリ・・・

何とか、老いた父の夢を叶えてやりたいと、近所のお金持ちに頼み込んで、お酒を分けてもらったりしていましたが、ある日、いつものように薪を取ろうと山に入ったところ、苔むした石に足をすべらせて、スッテンコロリン。

しばらく気を失って、ふと目覚めると、なにやら、あたりにお酒の匂いが・・・

よく見ると、石の下から湧き出ている水が、どうやら普通の水ではない模様・・・恐る恐る汲んで飲んでみると、これがまさしくお酒。

大喜びの若者は、その日から、毎日お酒を汲みに来て、老いた父を養ったのだと・・・

で、この地にやって来て、このお話を聞いた元正天皇が、「これは、息子の孝行を見た神様のご褒美に違いない」と、この場所を養老の滝と命名し、元号を養老と改め、その孝行息子を美濃守に任命しましたとさ。

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という説話が登場します。

岐阜県の養老の滝の伝説は、これによるものと思われますが、岐阜県に限らず、養老の滝の伝説は、鎌倉時代以前から各地にあり、上記の孝行息子が父にそのお酒を与えるお話のほかにも、滝のお酒を飲んで病気が治ったり、若返ったりという、ご存知の昔話がいくつかありますよね。

すでに、『万葉集』に、その不老長寿の滝の伝説の存在が詠まれていますので、古くからの養老伝説と、元正天皇が泉での沐浴で美肌になった伝説とが、相まって、養老の滝となったという事なのでしょう。

伝説は、ともあれ、おいしい水、身体にいい水である事は確かでしょうね。
 

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2009年10月23日 (金)

没後・1105年経て天皇に~悲しみの淳仁天皇

 

天平神護元年(765年)10月23日、第47代・淳仁天皇が崩御しました。

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これまで、孝謙天皇&藤原仲麻呂の乱がらみで、何度かこのブログにもご登場いただいている淳仁(じゅんにん)天皇・・・何となく、彼らに振り回された感のある天皇です。

これまでの内容とかぶる所もありますが、一連の流れをお話させていただきますと・・・

そもそもは、あの東大寺の大仏建立でお馴染みの第45代・聖武天皇光明皇后との間に生まれた男の子が幼くして亡くなり、逆に、(武士でいうところの側室)のほうに男の子が誕生してしまったたために、外戚(天皇の母親の実家)としての実権を他の一族に取られまいとした藤原氏が、光明皇后が生んだ女の子を、女性でありながら初の皇太子に立てて第46代孝謙(こうけん)天皇として即位させました。

聖武天皇の晩年の頃から、朝廷で最も権力を握っていた光明皇后は、亡き兄の息子(つまり甥っ子)藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を重用し、また、女性でありながら皇太子→天皇の道を歩んだため結婚を許されない孝謙天皇も、この従兄弟にあたる仲麻呂を寵愛します。

この頃の淳仁天皇は大炊(おおい)と呼ばれていましたが、第41代・天武天皇の孫として生まれたとは言え、父の舎人(とねり)親王は大炊王が3歳の時に亡くなっており、彼自身は官位を受ける事もなく、まったく注目されない存在でありました。

やがて、天平宝字元年(757年)に発覚した橘奈良麻呂の乱(7月4日参照>>)で、ライバルを一掃した仲麻呂は、ラブラブ光線たっぷりの目線で孝謙天皇に天皇交代をおねだり・・・そうして、次期天皇になったのが、大炊王=淳仁天皇でした。

実は、この淳仁天皇・・・仲麻呂の亡くなった息子の嫁の再婚相手として仲麻呂宅に転がり込んでたんです。

父親と息子(すでに死んでる)の嫁とその彼氏が一緒に住む・・・何となく、奇妙な一つ屋根の下ですが、とにかく、仲麻呂にとって、この淳仁天皇は、自分の思い通りになる皇族だったのかの知れません。

「あなたのほほえみには、ワタシ負けちゃうわ」という意味にも取れる恵美押勝(えみのおしかつ)なる別名を与えるくらい大好きな仲麻呂の頼みとあって、すんなりと皇位を譲った孝謙天皇でしたが、いざ譲ってみると、仲麻呂は新天皇と新たに近江(滋賀県)に建設しようとする都・保良宮(ほらのみや)の事に夢中・・・

さらに、ここに来て最愛の母・光明皇后を亡くした孝謙天皇(上皇)は、寂しさのあまり病にふせってしまいます。

その病気治療のために登場したのが、葛城山で修行し、験者としての誉れも高い僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)・・・失恋の痛手を癒してくれた相手にコロッっといってしまうのは今も昔も変わりなく、孝謙天皇は一発で道鏡に夢中になり、しかも、バリバリに元気を取り戻すわ、政界復帰へ意欲満々となるわ、それとともに道鏡もどんどん出世していきます。

あわてた仲麻呂が、二人の親密な関係を注意すると、逆に、孝謙天皇は保良宮を後にして平城京へ戻り、「これからは、私が、ここで政治をやるわよ!」と宣言!

もちろん、仲麻呂もこの事態を見過ごすわけにはいかず、唐で安禄山の乱(11月9日参照>>)が起って海外情勢が不安定になった事を理由に、関所を押さえて軍備を強化しますが、孝謙天皇は、これを謀反と判断し、仲麻呂を討伐します藤原仲麻呂の乱・9月11日参照>>)

・・・と、ここでの淳仁天皇・・・本来なら、最大の支援者である仲麻呂と行動をともにしてそうですが、実際には、まったくの別行動。

この事に関しては、すでに孝謙天皇側に身柄を拘束されていたから・・・とも、すでに仲麻呂とは決別していたから・・・とも言われますが、ちゃんとした記録が残っていないので、はっきりとはわかりません。

しかし、たとえ別行動をとっていても、そこは許されるはずもなく、その身を捕らえた孝謙天皇は、淳仁天皇の帝位を剥奪して淡路国への流罪とし、自らが再び第48代・称徳(しょうとく)天皇として皇位に返り咲きます。

以後、淳仁天皇は淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる事になりますが、このとおりの話だと、何やら、孝謙天皇と仲麻呂の恋愛関係のもつれに付き合わされた感じのする一連の事件ですが、それはそこ、やはり、二人の愛憎劇だけではない、周囲の政治家たちの思惑、権力の奪い合いなども絡んでいた事でしょう。

・・・とは言え、お気づきのように、淳仁天皇自身には、まったく非はありません。

しかも、この後、称徳天皇がかの道鏡をものすごく重用する事で、周囲からの反発も多く、淡路へと流された帝に復帰を願う声も、少なかず聞かれるようになります。

そんな現状に脅威を感じた称徳天皇が現地の警備を強化する中、その声に答えてかどうかは不明ながらも、配流から1年後の天平神護元年(765年)10月22日、淳仁(元)天皇は、淡路を脱出します。

ところが、残念ながら、その身はすぐに捕らえられてしまい、翌日の天平神護元年(765年)10月23日亡くなってしまうのです。

死因は病死・・・えぇ???

前日に自力で配流先を脱出した人が、翌日に病死?
しかも、まだ30歳そこそこの若さで???

不可解極まりない淳仁天皇の死ですが、残念ながら、記録は病死でしかありません。

ところで、歴史上何度か起ってる血なまぐさい天皇交代劇・・・

今回の称徳天皇の次の天皇=第49代・光仁(こうにん)天皇から第50代・桓武天皇への交代劇では、桓武天皇は、ライバルだった他戸(おさべ)親王と、その母・井上皇后を、皇太子と皇后の座から引きずり下ろして自らが皇位につきました。

また、自分の息子を皇太子したいがために、すでに皇太子に決まっていた弟の早良(さわら)親王死に追いやりましたし、平安時代の後半には、やはり兄弟で皇位を争った第77代・後白河天皇が第75代・崇徳(すとく)天皇讃岐(徳島県)に追いやるなんて事も起こりますが、上記のメンバーを見ておわかりの通り、敗れて不運な最期となった人は、皆、怨霊と化してます。

他戸親王と井上皇后、そして早良親王の怨霊が怖くてたまらない桓武天皇が、怨霊退散の願いを込めて、平安京に様々な風水的効果を配置した事は有名ですし(10月22日参照>>)、早良親王に至っては、崇道(すどう)天皇という天皇の追号まで送って、天皇になった事にして必死の供養これがお彼岸の起源らしい・9月23日参照>>)をしています。

崇徳天皇は、もはや日本三大怨霊の1人とされ、あの日本一の天狗と言われた後白河法皇(天皇)でさえ、その怨霊には生涯に渡って悩まれ、その弔いを必死で行っています(8月26日参照>>)

ところが、この淳仁天皇に関しては、そういったお話は聞きません

奈良時代には、怨霊という発想が無かった???

いえいえ、あの乙巳の変(6月12日参照>>)で殺害された蘇我入鹿の怨霊が、第37代・斉明天皇の葬式に現れたなんて話が、すでにありました。

孝謙天皇が怨霊なんて信じるか!てな女傑だった???

いえいえ、孝謙天皇は、父・聖武天皇が天然痘の流行と国乱れに怯えまくって大仏建立を発案したと同時期頃に、すでにボロボロ状態になっていた亡き聖徳太子の遺構・斑鳩寺(法隆寺)を修復したり、現在の東院・夢殿を建立したりしていますが、これは、聖徳太子一族を鎮魂するためだったと言われています(11月2日参照>>)

だいたい、桓武天皇の怨霊ビビリと、淳仁天皇の死が16年しか空いてないのですから、この時に怨霊の思想がなかったとは考えられません。

かと言って、こんな事に答えは出ませんが、考えられるとしたら・・・

  1. 相手が高僧の道鏡なので怨霊なんて怖くない
  2. 淳仁天皇が完璧なイイ人だった
  3. 淳仁天皇の死因が本当に病死

・・・てな、事になるんでしょうが、とにもかくにも、淳仁天皇が、後世に怨霊となって人々を恐怖におとしめる事がなかった事で、彼は、淡路廃帝のまま・・・ずっと、その汚名を背負っていく事になるのです。

そんな淳仁天皇の汚名を晴らしてくれるのは、その死から1102年後に即位いた天皇でした。

ご存知、第122代・明治天皇です。

即位してから3年後の明治三年(1870年)、明治天皇は、大炊王に淳仁天皇の追号を送り、第47代の天皇として、歴代天皇表に加えたのです。

ここで、やっと、天皇の一人として数えられる事になりました。

ちなみに、同時に天皇に加えられたのは、あの壬申の乱で敗れ去ったために、天皇の仲間に入れてもらえていなかった大友皇子(7月22日参照>>)・・・彼もまた、第39代・弘文天皇として数えられるようになります・・・よかったよかった。

*追記:明治天皇は、この14年後にもう一人にも天皇の追号を送っていますが、それこそ、長くなりそうですので、そのお話は、その方関連の日に書かせていただく事にしますね。
 

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2009年8月 3日 (月)

律令・平城京・記紀~新体制の仕掛人・藤原不比等

 

養老四年(720年)8月3日、藤原不比等が62歳でこの世を去りました。

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奈良時代から平安時代にかけて栄華を極めた藤原氏・・・

平安の宮中文化華やかなりし頃、9歳になる孫・後一条天皇を即位させた藤原道長は、
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば ♪

「自分の栄華は、満月のように欠けたところすらない」と、高らかに勝利宣言してみせます(10月16日参照>>)

そんな藤原氏の最初の人となったのは、ご存知、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)・・・

それまで、中臣鎌足(なかとみのかまたり・鎌子)と名乗っていた彼は、中大兄皇子(なかのおおえののおうじ・後の天智天皇)とともに、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺のクーデター(6月12日参照>>)を起こし、大化の改新を決行した功績により、亡くなる直前に、天皇から藤原の姓を賜り(10月15日参照>>)、以来、由緒正しき貴種=源・平・藤・橘(げん・ぺい・とう・きつ)の一つ・藤原氏として続いていく事となります。

・・・と、確かに、藤原の姓を賜って、藤原氏の祖となったのは鎌足ですが、上記のような奈良から平安にかけて一大勢力を誇り、今なお続く藤原氏の礎となったのは、実は、その鎌足の息子の藤原不比等(ふじわらのふひと)なのです。

・・・というのも、あの壬申の乱です(7月22日参照>>)

壬申の乱は、第38代・天智天皇亡き後に起こった天智天皇の息子・大友皇子(おおとものおうじ・弘文天皇)と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)・・・簡単に言うと、甥っ子と叔父さんの間で次の天皇の座を争った戦いなのですが、この時、まだ天智天皇が生存中の段階で、大海人皇子は皇位を辞退し、出家して吉野の山へ入っています(10月19日参照>>)

なので、天智天皇の死後は、その息子・大友皇子がすんなりと後継者となり、近江(滋賀県)の都にて政権を握っていたわけで、そこへ、吉野から兵を挙げて戦いを挑んで、政権を奪取して、大海人皇子は第40代・天武天皇となる・・・つまり、武力による政権交代をしたわけです(2月25日参照>>)

・・・で、上記のように鎌足は、天智天皇とともに蘇我氏を倒して、その後の政治に手腕を発揮した人なわけですから、このように、武力による政権交代となった場合、鎌足の息子である不比等は、天智天皇の後継者である大友側の人間という事で、負け組という事になります。

しかし、幸か不幸か、この壬申の乱の時には、不比等はまだ13歳だったために、一連の合戦にはまったく関与せず、処罰の対象にもならなければ、功績の対象にもならなかったわけなのです。

ただ、不比等自身は処罰は受けなかったものの、鎌足の親類にあたる中臣氏の者が多数処罰されている事でもわかるように、負け組に入った事は確かで、ここで、父の功績がすべてリセットされてしまった事は事実で、彼は、この時、ゼロからのスタートとなるのです。

つまり、この後、不比等が世に出なければ、ここで、藤原氏は歴史の彼方に消えた過去の一族になっていたかも知れないのです。

そんなこんなで、最後には、大変な大物となる不比等ですが、史実としての記載は非常に少なく、謎多き人でもあります。

ただ、そのぶん想像のしがいもある魅力的な存在ではありますが、おそらく、彼は、この不遇の日々に、とんでもなく、勉強に励んだものと思われます。

彼が、次に歴史の表舞台に登場する時には、まれに見る知識と才能を身に着けた政治家として登場します。

ただ、いくら水面下で勉強に励んで、スゴイ知識を身に着けたところで、それを発揮できる場がなければ、彼は、結局、多くの下級官人の中の1人として埋もれていたかも知れないところですが、勝ち組である天武側に嫁いだ妹たちをわずかのつてとしながら、その政治手腕で徐々に出世の道を歩みはじめていた不比等は、亡き天武天皇の後を継いたその奥さんである第41代・持統天皇の時代になって、またとないチャンスをつかみます。

それは、県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)という女性との恋・・・そして、彼女をモノにした事で、さらに飛躍する糸口をつかむのです。

この時、不比等はすでに40前後・・・後に藤原の北家・南家・式家・京家を継ぐ事になる4人の男の子の他に女の子ももうけていましたし、お相手の三千代さんも、第30代・敏達天皇(びたつてんのう)4世の孫・美努王(みぬおう)との間に3人子供を持つ人妻でした。

しかし、いつしか二人は深い仲に・・・

・・・で、なぜ、不比等が三千代を落とした事がチャンスなのか?

実は、この三千代さんの県犬養という家柄も、もともとは、天皇家の倉番をするだけの大した事にない家柄だったのですが、彼女の伯父にあたる県犬養大伴(あがたのいぬかいのおおとも)という人が、かの壬申の乱の時、最初の段階から大海人側ついていた人だったのです。

その大海人皇子の吉野へのページにも書かせていただいたように、この時、大海人とともに吉野に入った人は数十名・・・最終的に、地方の豪族を味方につけ、寝返り組も含めて、壬申の乱に大勝利する大海人さんですが、この吉野入りの時は、かなり、寂しい雰囲気だったわけで、その不遇の時代から味方についていてくれた者には、大いに感謝して、戦後、多大の恩賞を与えたのです。

その恩恵にあやかったのが三千代さん・・・ちょうど、持統天皇の孫・軽皇子(かるのおうじ)が生まれたばかりの頃に、グッドタイミングで彼女も子供を出産した事で、軽皇子の乳母というポストをゲットします。

しかも、その献身的な乳母ぶりで、天皇家からの篤い信頼をも勝ちとっていたのです。

そんな彼女に、「わが娘・宮子を軽皇子の妻に・・・」娘の売り込みと同時に彼女のハートもゲットしたのが不比等です。

・・・と、書けば、なにやら、不比等が一方的に得をする打算まるだしの恋愛のようですが、三千代のほうにもメリットはあります。

それが、まぎれもない不比等の才能・・・溢れんばかりの知識と、政治力を身につけた彼は、彼女から見て、確実に出世を見込める男だったわけです。

確かに、彼女の夫は敏達天皇の4世の孫という天皇家の血筋の人ではありますが、そこまで枝分かれしてしまうと、よほどの腕の持ち主でないと、政治の中心に関わる事などできませんから、現在以上の生活は望めません。

彼女は、乳母として、まだ歳若い軽皇子が、この先、天皇の座についた時、そのブレーンとして手腕を発揮してくれるであろう不比等に、「皇子の味方になってやってね」と望んだに違いありません。

そして、自らも、そのブレーンとなる人の妻に・・・

先に書いたように不比等は40歳くらい、三千代も27~28歳前後・・・今よりも、ずっと平均寿命の短い頃ですから、もはや、打算のない感情だけに走る恋をする年齢ではありません。

お互いに、先を見通す力を持ち、この相手となら、上に登れると見込んでの恋愛・・・これも恋なのです。

かくして文武元年(697年)、軽皇子は第42代・文武天皇(もんむてんのう)として即位し、不比等の娘・宮子が皇夫人となります。

やがて、大宝元年(701年)、不比等は大宝律令の制定に尽力し、本格的な律令国家の基礎を築いた功績により、2階級特進の正三位大納言へと大出世・・・しかも、この同じ年、宮子が男子を産み、三千代が女子を産みます。

この宮子の産んだ男の子が首皇子(おびとのおうじ)が後の聖武天皇、三千代の産んだ女の子が安宿媛(あすかべひめ)が後の光明皇后となるのです。

まさに、二人の計画通り・・・おそらく、三千代は、先の文武天皇に引き続き、新皇子の乳母の座もゲットし、乳兄弟となった媛は、将来天皇になるでろう皇子に、最も近い女性となっていったに違いありません。

ただ一つ、彼ら二人の計画通りといかなかったのは、かの文武天皇が病弱だったため、即位後、わずか10年でこの世を去ってしまった事でしょう。

さすがに、まだ7歳の首皇子を天皇の座につける事はできず、皇子が成人するまでの中継ぎとして文武天皇の母であった阿閇皇女(あへのひめみこ)が、第43代・元明天皇として即位します。

しかし、不比等&三千代夫婦・・・ただでは起きません。

元明天皇の即位を祝う宴の席で、三千代は、これまでの功績により(たちばな)という姓を賜ります。

先の藤原と並ぶ由緒正しき貴種です。

この橘の姓は、彼女の前夫・美努王との間に生まれていた子供たちが継いでくれます。

後に、左大臣となる橘諸兄(たちばなのもろえ)が、彼女の長男・・・ただし、50年後、皮肉にも、この藤原氏をおびやかす最大のライバルになるのも、この橘氏なのですが・・・(7月4日参照>>)

やがて、行われた平城京遷都にも、不比等は深く関わっています(2月15日参照>>)

天皇家中心に皇族が行っていた政治を、天皇を中心にしながらも、力あのある貴族や豪族によって運営していく新体制のためには、旧勢力の影響を受ける明日香(飛鳥)の地を捨て、新天地への移転が重要だったわけです。

その後、古事記・日本書紀の編さん・・・ひょっとしたら不比等は、律令体制の確立や新しい都の建設の仕掛け人となっただけでなく、それまでの歴史をも、くつがえしているのかも・・・。

どことなく、つじつまの合わない記紀の記述を読み解きながら、あーだこーだと古代の日本を語る私たちは、1300年経った今もなお、不比等&三千代・夫婦の立てた、見事なまでの計画に翻弄されているのかも知れませんね。

やがて、養老二年(718年)に養老律令を完成させた不比等は、2年後の養老四年(720年)8月3日、藤原氏全盛へのすべての準備を終えたかのように病に倒れ、この世を去りました。

ただ、一つの心残りと言えば、わが娘・宮子が産んだ首皇子が、聖武天皇になる姿を、その目で見る事ができなかった事くらいでしょうが、この後、彼の残した4人の息子たちは、その期待通り、藤原氏最初の壁となった長屋王を排除する事になるのですが、そのお話は2月12日のページでどうぞ>>
 

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2009年6月10日 (水)

時間にキッチリ?奈良の都の勤め人~時の記念日

 

ご存知、今日、6月10日は『時の記念日』です。

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すでに、2006年の6月10日に書かせていただいたように、『日本書紀』の天智十年(671年)の四月二十五日のところに、「漏刻(ろうこく・洩剋)を新しき台(うてな)に置く、始めて候時(とき)を打つ、鐘鼓(かねつづみ)を動(とどろ)かす、始めて漏刻を用いる」と書かれてあり、この日づけを太陽暦に換算すると6月10日になる・・・というところから、大正九年(1920年)に「時間を守り、欧米のように生活の改善・合理化を図ろう」と制定されたのが『時の記念日』です(2006年のページを見る>>)

Dscn1521 上記の漏刻というのは、天智天皇が皇太子時代の斉明六年(660年)に造ったとされる「水時計によって時間を計り、時間に合わせて鐘を打つシステム」の事ですが(くわしくはHPで>>)、長年、日本書紀の記述のみで、どのような物なのかが謎だったところ、昭和五十一年(1981年)に、奈良県明日香村での水落遺跡の発掘によって、その詳細が明らかになったものです(これも2006年に書かせていただきましたスンマセン)

・・・て事で、本日は意外に時間に縛られていた奈良時代・平城京の勤め人のお話・・・。

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上記のように、天智天皇が、明確に時を知らせるシステムを作っちゃったもんだから、その時から、宮仕えの役人たちは、毎朝、鐘や太鼓の音で起され、時間内に出勤という現代のサラリーマン並みの規則正しい生活を余儀なくされるようになりました。

特に、平城京へと都が遷ってからは、陰陽寮(おんみょうりょう)という専門職の人が、キッチリと時間を計ってキッチリを鐘を打つし、さぞかし慌てさせられた事でしょう。

以前、【昔の人口は?】(1月29日参照>>)のところで書かせていただいたように、この時代の平城京の総人口は約20万人足らず・・・そのうち、朝廷へ出仕する役人は、1割に満たないくらい(あくまで予想です)・・・。

その中でも、上級の役人は、都に永住していましたが、下級役人の多くは地方に本籍を置いたまま、言わば単身赴任の形で、年2回の特別休暇の時は、地元に帰って農業の手伝いなどしなければならず、けっこう大変だったようです。

もちろん、以前【今も昔も役人天国】(8月3日参照>>)でも書かせていただいたように、その給料も、上級と下級では雲泥の差があり、役人と言えど下級の人は、お気の毒なくらいの状況でした。

例の漏刻のおかげで、現代で言うところのタイムカード制が導入されていたという事ですので、おそらく、時間に関しても・・・

それこそ、上級なら、重役出勤も当たり前なんでしょうが、下級だと、そうはいきません。

朝は、午前6時半に内裏朝堂の大門が開き、即、文書作成や書類への捺印などの作業に取り掛からねばなりません。

ただ、正午には、その漏刻での太鼓の音が鳴り響いて終業となります。

つまり、仕事は午前中だけ・・・でも、これは基本的に・・・というのがついてまして、やっぱり、ここでも、下級の役人たちは、けっこう遅くまで残業なければならない状況だったようです。(←サービス残業、ハンタ~イ!)

中には、残業しても正規の給料だけではやっていけず、さらに夜遅くまで写経のバイトをして、日々の生活の足しにしながら、土間にムシロ一枚というわびしい居室に、ごくわずかの日用品を置いただけの場所で、毎日、泥のように眠っては、翌日出勤する・・・といった人も多かったようです。

当然ですが、有給休暇はありませんので、いくら疲れていると言っても、欠勤すれは、即、給料に響いてきますから、彼らは、仕事を休むにも、事前の「欠勤届」なるものが必要だったようです。

あの正倉院には、そんな彼らの「欠勤届」も残ってます。

まずは、2行くらいで、その休む理由を書くのですが、多いのは、やはり「身内の不幸」「法事」・・・(今も変らん)

さらに、「家屋の修理」「盗難に遭った」・・・中には「衣類の洗濯」って、いかにも単身赴任っぽいのもありますが、そんな欠勤理由の後に、「仍具事状(よってことのじょうぐす)謹解」としるし、最後に、その日づけを書いて提出します。

正倉院の文書には、その後に書き込まれたと思われる「○月○日参」という、新たな日づけ・・・つまり、ちゃんと休んだ後に、予定通り出勤したかどうかが書かれていて、やはり、予定以上の欠勤が、後日の給料の支給に影響している事がわかります。

そんな、下級役人の、数少ない息抜きと言えば・・・お昼頃から日没まで開かれていた東西2ヶ所の「市」

西市は右京八条二坊・・・現在の薬師寺のちょい南あたりですね。
東市は左京八条三坊・・・大安寺の少し南あたりかな?
(平城京は東西に10本の条・南北に9本の坊という大路で区切られていました・・・2月15日参照>>

そこには、決まった店舗を持つ商人だけではなく、行商人も多くやって来て、食料品や日用品はもちろん、薬や牛馬まで売られていて、たいそう賑やかだったのだとか・・・

 

テンポの効いた客引きや、行商人のここち良い売り声・・・
時には、唐渡りの高級な絹で目の保養をしつつ、巧みな大道芸を楽しみ、夕暮れ迫る都の空の下、ちょいとだけお酒を飲みながら・・・

ガード下の赤ちょうちんに集う現代サラリーマンのように、彼らも、帰りの時間を気にしつつ、明日の日本を語ったのでしょうか・・・

何となく、彼らを身近に感じます。
 

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2009年5月 5日 (火)

時代別年表:奈良時代・後半(天平)

 

このページは、奈良時代・後半の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

ここでは、奈良時代後半の天平時代・・・「平城京遷都・布告」の708年2月15日から、「平安京遷都」の794年までを「奈良時代・後半(天平)」とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidainara110



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
708 2 15 平城京遷都を布告
【なぜ、平城京はあの場所に?】
710 3 10 平城京遷都
【なんと(710)大きな平城京】
712 1 28 太安万侶が元明天皇に古事記を献上
【太安万侶が古事記を作る】
713 5 2 元明天皇が風土記の編さんを命じる
【風土記の編さんを始める】
717 8 20 阿倍仲麻呂が唐を出発
【三笠の山に出でし月かも】
11 17 養老の滝にちなんで養老に改元
【記念に改元~元正天皇・養老の滝伝説】
720 3 4 大隅隼人の乱で大伴旅人を将軍に任命
【大伴旅人と隼人族の悲しみ】
4 21 舎人親王らが日本書紀を完成
【日本書紀を奏上】
8 3 藤原不比等・没
【律令・平城京・記紀~新体制の仕掛人】
723 7 6 太安万侶・没
【古事記をSFとして読めば・・・】
724 11 8 建物に瓦葺や丹塗りを許可
【奈良の都の住宅事情~貧しい庶民】
729 2 12 長屋王の変
【孤軍奮闘空しく~長屋王の悲劇】
730 4 17 光明皇后が施薬院を設立
【奈良に始まる福祉の歴史】
733 4 2 10回目の遣唐使船が日本を出航
【ルート変更で命がけ~遣唐使のお話】
735 4 25 遣唐使・吉備真備が天皇に書物を献上
【天平の陰陽師・吉備真備】
737 9 21 防人を廃止する
【単身赴任のルーツ・防人の歌】
740 9 3 ~10月23日藤原広嗣の乱
【身内思いの反乱者~藤原広嗣の乱】
743 10 15 聖武天皇が大仏建立の詔を発する
【大仏の大きさは天皇の恐怖の大きさ】
745 1 1 志香楽宮(しがらきのみや)・遷都
【木簡に万葉歌!「紫香楽宮」って?】
747 7 7 聖武天皇が七夕の宴と相撲見物を行う
【七夕の夜に日本最古のK-1ファイト】
749 2 2 行基・没
【弾圧の小僧・行基~大出世の裏事情】
751 3 12 第一回・二月堂修二会(おたいまつ)
【あをによし奈良の都のお水取り】
752 4 9 大仏・開眼供養が行われる
【大仏開眼~大仏の大きさデータ】
【奈良の大仏と鎌倉の大仏】
754 1 16 鑑真和上が平城京に到着
【鑑真が日本に来たかったワケは?】
755 11 9 安禄山の乱(中国)
【楊貴妃は日本で生きていた?】
756 6 21 正倉院・建立
【正倉院~アッ!と驚く豆知識】
757 7 4 橘奈良麻呂の乱
【歴史の闇に消えた橘奈良麻呂の乱】
759 8 3 鑑真和上が唐招提寺を建立
【鑑真和上が唐招提寺を建立】
760 6 7 光明皇后・没
【千人の病を癒した光明皇后】
763 5 6 鑑真和上・没
【鑑真和上・没】
764 9 11 ~18日藤原仲麻呂の乱
【盛者必衰~藤原仲麻呂の乱】
10 9 孝謙太上天皇が称徳天皇として即位
【道鏡事件のウラのウラ】
765 10 23 淳仁天皇・崩御
【没後・1105年経て天皇に~悲しみの天皇】
769 9 25 和気清麻呂が流罪になる
【和気清麻呂・大隅へ流罪】
785 8 28 大伴家持・没
【万葉の貴公子・大伴家持】
9 28 早良親王・死して怨霊となる
【お彼岸の起源・由来】
794 10 22 平安京・遷都
【未完の都・平安京】
【究極の魔界封じの都・平安京誕生】
奈良豆知識 【人は別れる時、なぜ手を振るのか?】
【お花見の歴史は万葉から・・・】
【万葉の恋歌~別れ歌】
【奈良・平安の食生活~グルメの醍醐味】
【昔の人口ってどれくらい?】
【時間にキッチリ?奈良の都の勤め人】
【飛鳥~現代・日本の土地制度の変化】

 

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2009年4月 2日 (木)

ルート変更で命がけ~遣唐使のお話

 

天平五年(733年)4月2日、第10回め(9回とも)の遣唐使船が、日本を出航しました~

そう言えば・・・

阿倍仲麻呂(8月20日参照>>)
吉備真備(4月25日参照>>)
最澄空海(12月14日参照>>)
小野篁(12月15日参照>>)
と、何人かの遣唐使・・・、

また、
鑑真和上(1月16日参照>>)
が、苦労の末、日本までおいでになった事などを、このブログでもご紹介しましたが、遣唐使そのものについて書いた事ないのかな?と思って・・・

本日は、遣唐使とはどんなものだったのか?について書かせていただきます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

・・・とは言うものの、この遣唐使が、当時、先進国であった(中国)へ、優秀な人材を派遣して、その叡智を学んで帰って来てもらって、日本の未来を荷う人になってもらいたいという、いわゆる国をあげての留学制度であった事は、改めて言うまでもありません。

舒明二年(630年)に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を大使に派遣された時を第1回とします(8月5日参照>>)

ちなみに、よくご存知の小野妹子(おののいもこ)遣隋使(7月3日参照>>)・・・隋と唐は別の国という事で、何かと細かな違いもありますので、それはそれで別の機会に書かせていただく事として・・・

以下、今回ご紹介するルートや、その他もろもろは、遣唐使の事であるという事でお願いします。

ところで、冒頭に第10回(9回とも)と書かせていただきましたが、これは、船出の準備をしていたものの船の破損で中止されたものや途中まで行って遭難したもの、また、唐からの使者を送るために派遣されたものを含めるか含めないかで、その回数の数え方が異なり、どれが正解とは言えないのが現状です。

とりあえず、すべてを数えると全部で20回の遣唐使が記録されていますが、上記のような様々な条件によって、ほかにも18回16回15回14回12回説がありますが、いちいち(○回とも)と書くのもややこしいので以下の第○回というのは、全部で20回とした時の数字とお考えください。

上記の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)吉備真備(きびのまきび)は養老元年(717年)の第9回で渡海・・・その後、真備は天平勝宝四年(752年)の第12回で、副使として再び渡海し、この時の船が2年後に帰国する時に乗船したのが鑑真和上(がんじんわじょう)です。

また、最澄空海は延暦二十三年(804年)の第18回で渡海しますが、以前、最澄&空海のページで書かせていただいたように、最澄は国費のエリート留学生で、空海は私費留学生の中の1人でした。

その次の回の承和五年(838年)の第19回に、結果的に最後となる遣唐使として渡海したのが小野篁(おのたかむら)・・・それは、この小野篁の次として計画された寛平六年(894年)の第20回のぶんで大使に任命された菅原道真が、「行きたくない~」とゴネまくりの反対しまくりで中止となり、そのまま「白紙(894)に戻そう遣唐使」となって、遣唐使制度自体が終了を迎える事になるので、実質的には、この19回で最後となるのです(1月25日参照>>)

・・・と、長々と紹介してしまいましたが・・・

「おぉ・・・やっぱ成績優秀な人材が派遣されるんやね~、有名人ばっかりやん!」
と、思ってしまいますが、実は、遣唐使は、少ない時でも200人ほど、最盛期には、一度に600人もの人数の留学生&留学僧で構成されていて、7世紀頃までは120人乗りの船2隻、8世紀頃からは150人乗りの船・4隻に分乗しての大挙の渡海なので、やはり、皆が皆、帰国後に活躍できたわけではないようです。

ところで、最後の遣唐使の大使に任命されちゃった菅原のミッチャンの、遣唐使廃止案の理由の中には、「もう唐に学ぶ事はない」「現地の治安が悪い」などの他に、渡海が命がけ・・・つまり、遣唐使船の遭難が多い事があげられていますが、本当に、そんなに危ない航海だったのでしょうか?

確かに、現在のような船ではないのですから、それなりに危険なのはわかりますが、以前の遣隋使の頃・・・小野妹子の時代や、それ以前にも、朝鮮半島の百済(くだら)からの渡来人がたくさん来ていたような気がするのに、それから約300年もたってから、さらに危険だなんて?・・・ひょっとして、ミッチャンは唐に行きたくないがため、オーバーに言っているのでは?と疑ってしまいますね~。

確かに、多少オーバーに言ってるかも知れませんが、とても危険だった事も事実なのです。

それは、日本をとりまく外交事情とも関係があります。

最初の頃の遣唐使は、当時、最大の港であった難波津(大阪湾)から出航し、瀬戸内海を通って筑紫(北九州)へ向かい、その次に筑前大津(博多)を経由して、壱岐対馬を過ぎると、朝鮮半島の西岸に沿うかたちで黄海を北上し、渤海湾から山東半島へ上陸し、その後、陸路で長安へ向かう北路というルートがとられていました。

これだと、島から島へ、その後は、半島の海岸沿いを・・・という事で、けっこう安全なわけです。

しかし、ご存知のように、この時代に朝鮮半島の情勢が、徐々に変わってきます。

天智称制二年(663年)には、例の白村江の戦いで、百済を援助した日本は敗退(8月27日参照>>)・・・日本と最も友好関係にあった、その百済も滅亡してしまします。

さらに676年に新羅が朝鮮半島を統一する頃には、新羅と日本の関係も悪化し、もう、この北路は使えなくなったわけです。

・・・で、大宝二年(702年)の第8回以降は、先の大津から九州の西を南下して、屋久島種子島、さらに奄美大島沖縄を経由して東シナ海を横切って長江の南側あたりから上陸する南海路や、五島列島から東シナ海を渡る南路というルートが使われるようになり、一気に危険度がUPしたわけです。

結局、この南のルートをとるようになってから、出発した4隻が4隻とも無事に帰国したのは、たった一回だけという悲惨な結果に・・・。

こうなると、「御仏の教えを学びたい」てな希望あふれる僧や、一旗あげたい貧乏学生ならともかく、大使に任命されるようなある程度地位のある役人は、行きたくなくなるわけで、第16回の宝亀八年(777年)の遣唐使の大使に任命された佐伯今毛人(さえきのいまえみし)などは、仮病を使って逃げまくり、この時は副使だけの遣唐使といった事まで起きてしまいます。

もちろん、ルートうんぬんだけではなく、飲食も、船の上では米を干した物と生水だけという有り様ですし、衛生面も良くないために病人の発生率も高く、さらに、その病人を、治療する別スペースさえない世界ですから・・・。

一番は自分が行きたくなかったから・・・とは言え、菅原道真の提案により、第20回の遣唐使派遣を中止して、それを最後に遣唐使制度そのもを廃止した日本・・・その9年後に唐が滅ぶ事を考えたら、ベストタイミングでの退去・・・といったところでしょうか。

ただ、このように命がけで渡海してくれた遣唐使によって、日本には様々な文化がもたらされ、あの平城京に見る美しい天平の甍(いらか)や、平安京に見る見事な都市計画があるわけで・・・

まさに、彼らの持ち帰った知識なくしては、これらの誕生もなかったかも知れない事を思えば、先人の勇気に感謝感激です。
 

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2009年3月 4日 (水)

征隼人持節大将軍・大伴旅人と隼人族の悲しみ

 

養老四年(720年)3月4日、大隅隼人の乱の鎮圧のため、大伴旅人が征隼人持節大将軍に任じられました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なんじゃら、かんじゃらと、スッタモンダのあった古代日本国でしたが、大宝元年(701年)の大宝律令(8月3日参照>>)で法律を定めて戸籍や土地を管理し、和銅三年(710年)には、唐にならった立派な首都・平城京もでき(2月15日参照>>)大和朝廷を中心とした律令国家は、ほぼ完成しました。

次ぎは、未だ従わぬ地方を配下に加え、より広範囲の中央集権国家にする事です。

都のある畿内から西へは、山陽道・山陰道・南海道・西海道、東へは東海道・東山道・北陸道・・・当時、これらの七道を区分して支配を進めていた政府でしたが、東北地方の蝦夷(えみし・えびす)、南九州地方の隼人(はやと)は、最後まで、その支配に抵抗していた人たちです。

そのうち東北の蝦夷に対しては、すでに斉明天皇の時代(655年~661年)から阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣して、日本海側を中心に新潟県秋田県あたりまでを探索させて、何度もちょっかいをかけていますが、その蝦夷平定を現実の物にしたのは、ご存知、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)・・・(11月5日参照>>)

田村麻呂が、蝦夷を征伐するという意味の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられ、その後、蝦夷が平定された後もその名称が使用され、いずれは武家の棟梁を指す名称になる事はご存知でしょう(1月11日参照>>)

一方、本日の征隼人持節大将軍(じせつたいしょうぐん)・・・他にも、平安期にはいくつかよく似た名前の将軍職があったようですが、その後は使用されなかったのか、あまり聞きなれませんねぇ。

とにかく、読んで字の如く、こちらは、南九州地方の隼人を征伐するために派遣された将軍です。

隼人は、5世紀頃の仁徳天皇の時代の一時期に、大和政権に服属していた事がありましたが、その支配体制は完全ではなく、農業国家としての体制を進める大和政権と、稲作に適した土地があまりなかった南九州とでは、なかなか相容れる事ができなかったのです。

大和政権も、農業指導者を移住させるなどして、何とか、この地を律令体制の支配下に置こうとしますが、中国大陸との交易が盛んな南九州の住人たちが、ムリヤリ稲作に従事するより、交易に力を入れたほうが良いと考えるのは当然のなりゆきで、やがて、大和政権が、その支配を強化するに至って、彼らは抵抗するようになったわけです。

ただ、こちらの地方は一枚岩ではなく、その住んでいる地域によって、日向隼人(ひゅうがはやと)大隅隼人(おおすみはやと)薩摩隼人(さつまはやと)甑隼人(こしきはやと)などと呼ばれる小さな部族集団であったため、大和政権は、その一つ一つを順々に統治していくのです。

上記のように、彼らが小集団であったせいか、あまり大きな反乱にならず、各首長が治める地域ごとに都を配置するという形で、徐々に統治し、律令体制を整えていく事になるのですが、その中での今回の大隅隼人の反乱・・・。

養老四年(720年)の2月29日に、大隅国司の陽候史麻呂(やこのふみまろ)が殺害された事に単を発したこの反乱は、数千人の隼人勢が7箇所の城に立てこもり、1年半に渡って抵抗を続けた大きな反乱で、現在では、隼人の反乱と言えば、この養老四年の反乱の事を指すようです。

・・・で、今回、養老四年(720年)3月4日に、その国司殺害を受けて、かの征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人(おおとものたびと)さん・・・

このかた、あの万葉集の編者とされる大伴家持(おおとものやかもち)(8月28日参照>>)のお父さんで、私としては、将軍というイメージより、歌人としてのイメージのほうが強い人であります。

この大隅隼人の反乱の時にも、最初の5箇所の城を攻略して、残りの城の攻略を長期戦の持ち込む作戦に切り替えた8月12日、これからの事を副将軍たちにまかせて戦線を離脱・・・都に戻ってきています。

その後、大宰師(だざいのそち・大宰府の長官)になった事で、中央政界から一線を引く形となった彼は、山上憶良(やまのうえのおくら)らと親交を深めます。

多くの歌を詠んだのは、この頃で、それゆえ、将軍というよりも歌人としての印象が強いのでしょう。

とにかく、彼はお酒好き・・・そのお酒にまつわる歌は、現代のお酒好きにも通じるものがあり、とても面白いです。

♪あな醜賢(みにくさか)しらをすと
  酒飲まぬ人をよく見れば 猿にかも似む♪

「酒も飲まんと、かしこぶってるヤツって、猿みたいでメッチャぶっさいくやんけ」

♪なかなかに人とあらずは 酒壷に
  なりにてしかも 酒にしみなむ  ♪

「中途半端に人として生きるよりは、酒の入れもんになって、ず~と酒に浸かってたいわ~」

♪験(しるし)なき 物を念(おも)わず一杯(ひとつき)
  にごれる酒を飲むべくあるらし♪

「グダグダ悩むんやったら、一杯のにごり酒でも飲んだほうがマシやっ・・・て」

♪言はむすべ せむすべ知らず極まりて
  貴きものは 酒にあるらし  ♪

「言葉に出して言うすべも、なすすべもなく追い詰められた俺には、酒ほどえぇもんはないなぁ」

・・・って、どんだけ酒好きやねん!
ほんで、どんだけ、悩んどんねん!

実は、あの菅原道真の一件(1月25日参照>>)でもおわかりのように、やはり中央から地方へ派遣されるのは、長官と言えど、左遷です。

しかも、この時代は、家柄による昇進が一般的ですから、代々勇敢な武将として仕えてきた大伴家の自分が中央から追われたとなると、もはやお家は没落・・・復活は、ほぼあり得ません。

さらに、そんな没落必至の自分を慕って、はるばる大宰府までついてきてくれた奥さんを、到着後まもなく亡くしてしまい、旅人さん・・・昇進を断念の傷心です。

その悲しみのあまり、どうやら、晩年の彼は、酒好きの風流なオッチャンになっていたようです・・・おかげで、ステキな歌がたくさん残りましたが・・・。

ところで、先ほどの反乱を起した隼人の皆さんですが・・・

翌・養老五年(721年)7月7日に鎮圧された彼らを待っていたのは、征服者による卑劣な支配でした。

大隅の彼らだけではなく、南九州一帯の隼人たちの中の多くの者が強制的に中央に移住させられ、守護人(まもりびと)として宮殿の警備をする仕事や竹製品作りの仕事に従事させられました。

また、6年交代で土地の特産物献上するために上京し、天皇の前で舞いや相撲などを披露する事が義務づけられていたのです。

それに、先ほどの宮殿の警備にしても、ただの警備ではなく、犬の遠吠えのマネをするといったようなミジメなもので、天皇の前で舞う舞いも、カッコイイものではなく、どちらかと言えば恥ずかしい舞いだったそうで、中央の政権は、彼らをかなり差別的に扱っていたようです。

皆さんは、昔話としても有名な海幸山幸の神話をご存知でしょうか?

以前、【針供養】のページ(2月8日参照>>)で、チョコッとこのお話を紹介させていただきましたが、昔話の場合は、大抵、海の神の宮殿に行って宝物を持ち帰ってきた弟の山幸彦が、攻めてきた兄・海幸彦を、その宝物を使って散々にやっつけてしまうところで終っています。

しかし、『古事記』『日本書紀』では、この時に戦いに勝利した弟・山幸彦=ホヲリノミコト(火遠理命)の孫が初代の神武天皇で、その弟に征服されて家来となる兄・海幸彦=ホデリノミコト(火照命)の子孫が隼人族なのだと・・・

しかも、天皇の前で舞う舞いは、山幸彦の持ち帰った潮の満ち退きを自由に操れる宝物によって、海幸彦の一族が溺れさせられた時の状況を再現したものなのだそうです・・・ヒドイ( ゚皿゚)

日本書紀は、この反乱の勃発した年と同じ年に、古事記は、もう少し先に誕生していますが、もちろん、これは、征服された側の隼人族が、なぜ、そんなミジメな奉仕をさせられるのかを、もっともらしく説明するものだったのでしょう。

浦島太郎によく似たこの手の神話が、ポリネシアや南太平洋生まれの神話であった事は、よく知られていますが、かの隼人の人たちが、南方系の人だった事で、記紀神話にこの話を取り入れ、大和朝廷の中央集権を、より強固なものにしようとしたのかも知れません。

ひょっとしたら、大伴旅人が途中で都に戻ったのも、大宰府に左遷されたのも、坂上田村麻呂と同様に、中央の役人や官僚と、最前線の軍人との間にあった、彼ら隼人族の扱いについての意識の違いがあったのかも知れませんね・・・田村麻呂と蝦夷の場合と違って、こちらは、あくまで想像ですが・・・。

征服される者と没落する者・・・二者の悲しい結末が、涙を誘います(ノ_-。)

大和朝廷の中央の皆さん、大いに反省してください!
 

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2009年1月16日 (金)

鑑真がそうまでして日本に来たかったワケは?

 

天平勝宝六年(754年)1月16日、唐の高僧・鑑真が、6度目の挑戦で渡海に成功し、この日、平城京に到着しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(中国)の高僧・鑑真和上(がんじんわじょう)・・・歴史教科書にも大きく取り上げられ、おそらく、それほど歴史に興味のないかたでも、きっと、名前はご存知の事と思います。

その来日は、苦難の連続・・・5度も失敗しても諦めずに果敢にアタックし、6度目の挑戦で、やっと九州に漂着した鑑真は、その苦労のため、途中で失明していたと言います。

しかも、時の皇帝・玄宗(げんそう)が出国を許可しなかったため、最終的には密航という形で、日本に帰る遣唐使船に乗船しての来日だったのです。

ちなみに、この時、同時に唐を出発した別の船には、あの♪・・・三笠の山に出でし月かも♪でお馴染みの阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が乗船していましたが、彼の船は別の場所に到着し、日本に帰る事はできませんでした(8月20日参照>>)

まさに、命がけの渡海・・・そうまでして、日本が鑑真を欲しがった理由、そして、鑑真が日本に来たかった理由は、いったい何だったのでしょうか?

この二つの理由の中で、日本が鑑真を必要とした理由は、明白です。

そもそも日本に鑑真を呼び寄せようと働きかけたのは、天平七年(735年)の遣唐使船で、遣唐使とともに唐へ渡った興福寺の僧・栄叡(ようえい)普照(ふしょう)でした。

もちろん、それには、仏教への熱い情熱・・・というのもあったでしょうが、当時の日本には、もっと現実的かつ、せっぱつまった事情があったのです。

それは・・・
当時の平城京は、天平の甍(いらか)と称されるような壮麗な都であった半面、庶民はその重税に苦しみ、労役や兵役に苦しむ極貧の生活で、社会的不安も大きな問題となる時代でした(11月8日参照>>)

そのページでも書かせていただいたように、そんな苦しい生活から逃れる方法は、「逃げる!」しかないわけですが、それは、同時に戸籍・・・自分の存在そのものも失ってしまう事になります。

そこで、もう一つの救われる方法・・・それが、僧になる事でした。

確かに、僧になれば、兵役や税金から逃れられるうえ、自分という物を失わなくてすみます。

しかし、そうなると、当然、僧になるべき人ではない人までが僧になるわけで、その質が落ちる事は明白ですから、政府は早速、勝手に僧になる事を禁止し、厳重に管理しようとしますが、それでもさらに増え続け、結局は統制も、ほとんど効果なし!

当然の事ながら、庶民から見る僧への尊敬や権威も低下し、それを管理できない政府への不満も、さらに大きくなります。

しかも、当時の日本には、授戒(戒律を授ける事)を授ける高僧が一人もいない状況で、自分で自分を授戒する状態だったのです。

・・・って事で、国家の安定をはかるためには、正しい仏教の戒律を確立させる必要があったわけで、そのためには、本場・唐で尊敬されている高僧を日本にお招きする必要があったわけです。

ところが、一方の、鑑真が日本に来たかった理由・・・これが、どうもつかめません。

もちろん、これも仏教への情熱・・・日本の仏教の荒廃した実態を聞いて、「俺がやらねば誰がやる!」と鑑真が思ったという事もあるのかも知れませんが、それにしては、20年間に5度も失敗して、途中で失明までして、それでもなお・・・もはや、執念としか言えません。

すでに、唐で何人もの弟子を持ち、高僧の名を馳せていた人がそこまで・・・。

それには、いくつかの説があります。

実は、より政情が不安定だったのは唐のほうで、この先の動乱を予感した鑑真は、むしろ日本に亡命したがっていたというもの・・・確かに、翌年の西暦755年にあの安禄山の乱(11月9日参照>>)が起こっていますから、なきにしもあらず・・・ですが・・・。

さらに、唐に渡った日本人の僧から、かの聖徳太子の話を聞き、かなりの太子ファンになった鑑真が、その太子を生んだ日本に行ってみたいと思ったというもの・・・確かに、フアンなら、その生誕の地へ行ってみたくなる気持ちはワカランでもないが・・・。

そして、最もスゴイ説は、鑑真=スパイ説・・・
ちょうど、その頃に開かれた唐での酒宴の席で、日本の代表と新羅(しらぎ)の代表が席順を争ったあげく、日本代表がよりイイ席を奪い取ったという、ちょっとした事件があったそうで、「カワイイ新羅くんに何て事するんだ!」と、唐が日本への警戒を強め、隣国の情勢を探らせるために、鑑真を派遣したというもの・・・これは、トンデモ説としては、オモシロイかも知れませんが、失明してまで来る必要はない気がしますね~。

ご覧の通り、どれもこれも、そこまで命をかける理由には、ほど遠い気がします。

・・・かと言って、仏教の情熱だけで、地位も名誉もある高僧が・・・といのにも、やはり引っかかるのですが・・・。

ただし、たとえ、鑑真が日本に来た理由が、仏教への情熱だけでなく、他にあったとしても、鑑真のその偉大さを、何らそこねるものではありません。

なぜなら、鑑真の偉業というものは、日本へ来る過程もさる事ながら、その後の日本での活躍がすばらしいのですから・・・。

Dscn2194330 唐招提寺・戒壇:戒壇とは授戒を授ける場所・・・鑑真にとって最も重要な場所だった事でしょう

日本が願った通り、その戒律の確立をおこなうべく、あの唐招提寺を建立(8月3日参照>>)、人々にたくさんの知識を与え、乱れつつあった仏教の世界を、正しいものに導いてくださったのですから・・・。

千年に渡って語り継がれる鑑真の偉業・・・それは、おそらく、この先、千年経っても変わらなく語り継がれていく事でしょう。

唐招提寺へのくわしい行きかたは・・・HPの歴史散歩へどうぞ>>
 

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2008年10月 9日 (木)

道鏡事件のウラのウラ

 

天平宝字八年(764年)10月9日、藤原仲麻呂の乱に関わったとして第47代淳仁天皇が廃され、孝謙太上天皇が第48代称徳天皇として、再び即位しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

江戸時代の川柳に
♪道鏡は 
  すわるとひざが
       三つでき♪

というのがあるのだそうです。

つまり、道鏡の男性としての持ち物がそれほど多きかったと・・・

僧・道鏡(どうきょう)の出身地とされる大阪八尾弓削神社では、「笠麿(かさまる)道鏡」と呼ばれる、大木で男性のシンボルを象ったものを担いで、子孫繁栄・五穀豊穣を願って町を練り歩くお祭りがあるのだそうで、これも、物部(もののべ)系の弓削連(ゆげのむらじ)出身の道鏡の巨根伝説に由来するものなのでしょうが、その噂のもととなったのは、道鏡を愛してやまなかった第46代孝謙(こうけん)天皇の存在です。

孝謙天皇は、すでにこのブログでも何度か登場していますが・・・
確かに道鏡を寵愛しましたが、実際に二人の間に男女の関係があったかどうかも定かではない事で、ましてや、道鏡の持ち物という事になると、まったくもって根も葉もない噂です。

ただ、孝謙天皇が、あまりにも道鏡を重用し、夢中になった事から、そのような噂が・・・。

豪族の家系に生まれた道鏡が、どういう理由で出家したのかは定かではありませんが、あの葛城山で修行し、学識に富み、サンスクリット語を話し、呪験術や宿曜秘法(すくようひほう・ヨガによる健康回復)などを身につけていたという事ですから、もともと、彼はかなりのデキル人であったようです。

孝謙天皇の父である聖武天皇の時代から宮中の道場に仕えていた道鏡でしたが、そこには、彼に匹敵するような僧もたくさんいて、その中から、一歩抜きんでるとい事は、なかなか難しい事でした。

しかし、そんな彼が歴史の表舞台に登場するチャンスがやってきます。

孝謙天皇は、父・聖武天皇と、その皇后・光明子の間に生まれた長女・・・今まで書き忘れてましたが、女性天皇です。

ご存知のように、天皇の地位は、男系男子が継承していくものですから、もともとは、天皇になるはずではなかった孝謙天皇でしたが、期待されて生まれた弟が、1歳で亡くなってしまい、しかも、その間に聖武天皇の別の奥さんとの間に男の子が生まれてしまった事で、「このままでは、他家の女性が産んだ子供が、次期天皇になってしまう」とあせった光明皇后の実家の藤原家の意向で、女性でありながら皇太子となった異例の天皇だったのです。

そんな彼女は、まだ道鏡と出会う前、従兄弟の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に恋をします。

奥さんがいるにも関わらず、仲麻呂の邸宅で寝泊りし、まるで、そこが宮廷のようだった・・・てな話も残るくらいに、一途な彼女・・・。

彼女の従兄弟という事は、母である光明皇后にとっても、仲麻呂はかわいい甥っ子なわけで、病気がちな聖武天皇から、すでに政務の実権を握っていた光明皇后と孝謙天皇の二人に愛されて、仲麻呂はおもしろいように出世していきます。

やがて、仲麻呂オススメの大炊王(おおいおう)に、言われるがまま皇位を譲って、太上天皇となった彼女でしたが、その大炊王が、第47代淳仁天皇となった途端、仲麻呂は、自分の理想としていた新しい都の造営に夢中になり、彼女の事を見向きもしなくなってしまうのです。

「この恋は、終ったのね・・・」と傷心の彼女に追い討ちをかけるように大好きな母・光明皇后も亡くなり、ひとりぼっちになった彼女は、みるみるうちに元気がなくなり、病気がちになってしまいます。

そんな彼女の病気治療の役をおおせつかったのが道鏡だったのです・・・そう、なんせヨガで元気回復の達人ですから・・・この時彼女は44歳、道鏡も同じか1~2歳年上といったところでしょうか。

病気の時にやさしくされると女は弱いもの、しかし新しい恋に出会った女は強いもの・・・孝謙太上天皇は、またたく間に快復し、元気百倍になるとともに、道鏡大好き度も百倍!

今度は、道鏡がどんどんと出世していきます。

こうなると、おもしろくないのは、仲麻呂です。

彼は、孝謙太上天皇と道鏡の関係について、宮廷内に、おおげさな噂を流し、淳仁天皇を通じて注意したりなんかし始めます。

これに怒った孝謙上皇・・・「そんな事すんねんやったら、天皇の椅子返してぇや!もう、これからは、政務は私がやる~!」
と、天皇復帰宣言をします。

「このままではいかん!」
と、孝謙太上天皇の天皇復帰を阻止しようとする仲麻呂・・・これが、藤原仲麻呂の乱です(9月11日参照>>)

結局、朝敵となった仲麻呂は、太上天皇の放った軍に追われ、命を落します。

そして、約1ヶ月後の天平宝字八年(764年)10月9日、仲麻呂の庇護のもと天皇となった淳仁天皇は失脚し(10月23日参照>>)、孝謙太上天皇が、再び、第48代称徳(しょうとく)天皇として二度目の皇位についたのです。

しかし、我が世の春は長く続きませんでした。

宇佐八幡から「道鏡を天皇にすれば、天下が太平となるだろう」とのお告げが下った」との報告が、大宰府から到着するのです。

皇族以外の人間が天皇になった例は未だなく、にわかに信じ難い称徳天皇は、もう一度、神託を確かめようと、側近の弟・和気清麻呂(わけのきよまろ)を、宇佐八幡へ派遣します。

ところが、清麻呂が授かった神託は、「皇太子には、必ず皇緒の者(皇族)を立てよ」と、一回目とは間逆のお告げが下るのです。

この結果に激怒した道鏡が、清麻呂を大隈へ流罪にしてしまう・・・と、一般的な歴史では語られます。

最初の神託は、道鏡が、当時、大宰師(だざいそち)の地位にあった、同族の弓削浄人(きよひと)と結託して、神主に嘘の神託を言わせたとも言われています。

これによって、道鏡は、天皇の地位を狙った天下の悪僧というレッテルを貼られる事になるのですが、以前、その清麻呂流罪のページ(本日とかなり内容かぶってますが・・・9月25日参照>>)でも書かせていただいたように、これは、この次に権力を握る人たちの正当性を印象づけるためのフィクションが多分に含まれていると、私は思ってます。

もし、本当に道鏡が天皇の座につく事を望んで、ニセの神託を発表したのだとしたら、その天皇の座を望んだのは、道鏡本人ではなく、そのおこぼれに預かろうとするまわりの人間たちでしょう。

しかし、そうだとしても、味方である称徳天皇さえ疑いを持つバレバレのニセ神託を、道鏡の周りの者たちが作ったとは考え難いですよね。

道鏡の権力を維持するなら、もっといい方法がいくらでもあったはずです。

それよりも、ニセの神託を広めて道鏡に難くせをつけ、失脚に追い込もうとする別の勢力が、見るからにオカシイ神託を、ここぞとばかりに明らかにしたのではないでしょうか?

Tennouketofuziwarakekeizu その後の清麻呂の神託だって、実際に神様が現れてお告げをしたわけではないでしょうし、こう感じたと神官や巫女が言うだけの事なら、何とでもなりますからね・・・一回目の神託と変わりゃしません。

それは、この後、間もなく称徳天皇が亡くなった時に明らかになります。

称徳天皇が亡くなると同時に道鏡は失脚して流罪となり、逆に、かの清麻呂が政界に復帰するのです。

しかも、その称徳天皇の後に天皇になったのが、第49代光仁天皇・・・この人は、あの天智天皇の孫なのです。

例の壬申の乱(7月22日参照>>)に打ち勝ち、天皇の座についた天武天皇以来、9代・約100年に渡って引き継がれてきた天武天皇の子孫による皇位継承・・・なのに、ここで、いきなり壬申の乱で負けたはずの天智系からの即位です。

臭いますねぇ~
注:第41代持統天皇と第43代元明天皇は、天智天皇の娘ですが、持統天皇は天武天皇の奥さんで、元明天皇は草壁皇子の奥さんで文武天皇の母・・・それぞれ、次ぎの天皇候補が幼いための中継ぎとして即位していますので、立場的には天武側となります)

ここで、行われたのは、、道鏡という僧の失脚劇ではなく、おそらく、天武派から天智派への政権交代・・・。

そして、もう一つ、藤原氏の中での権力争いの臭いがプンプンします。

あの藤原不比等の4人の子供・藤原四兄弟から枝分かれした藤原家・・・それは、武智麻呂(むちまろ)南家房前北家宇合式家麻呂京家の4つです。

この中で、まずは、麻呂には後継者がなく京家が終わり、次に先の仲麻呂が乱で殺害された事で南家が断絶しました。

そして、今回の光仁天皇は高齢のため、わずか十年で次ぎの天皇が即位するのですが、それが、その光仁天皇の息子の第50代桓武天皇

桓武天皇の平安遷都は、まさに政権交代の一大イベントだったに違いないのです。

その桓武天皇のブレーンとして、遷都のために力を注ぎ、大活躍する藤原種継は宇合の孫・・・つまり、京家が潰れ、南家がつぶれた後、式家の人間が実権を握った事になります。

ただし、結局、種継は、平安京の完成を見ないまま殺害され、その娘である藤原薬子は、謀反の罪で自害して、この式家も断絶します。

残ったのは房前の北家・・・この後、実権を握り、思うがままに政界を動かすのが、房前から数えて4代目の藤原良房・・・そして、良房からさらに4代目が、あの♪望月のかけたるもなし・・・♪藤原道長です。

まわりを藤原家で固められ、思うように動くことさえできなかった聖武天皇・・・藤原家に踊らされた感の拭えない称徳天皇・・・そして、もちろん道鏡も・・・

藤原家で、最後まで残り、敵がいなくなった北家が、その全盛の平安時代を牛耳る事を考えれば、何やら壮大な思惑が見えるようです。
 

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2008年9月 3日 (水)

身内思いの反乱者~藤原広嗣の乱

 

天平十二年(740年)9月3日、大宰府に左遷された藤原広嗣が、玄昉吉備真備の排除を願って挙兵・・・藤原広嗣の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、奈良時代に勢力を誇っていた藤原四兄弟の一人・藤原宇合(うまかい)の長男という実にエリート極まりない家柄の坊ちゃんです。

ご存知のように、奈良時代~平安時代に、圧倒的な勢力を誇って頂点に君臨する藤原氏・・・その土台を築いたのが、大化の改新で有名な初代・藤原鎌足(かまたり)の息子の藤原不比等(ふひと)

その不比等の4人の息子が、藤原武智麻呂(むちまろ・南家)藤原房前(ふささき・北家)藤原麻呂(まろ・京家)・・・そして、広嗣の父である宇合(式家)の四兄弟で、この先、この南家・北家・京家・式家で藤原四卿と呼ばれ、平安時代の藤原道長へと続く、藤原氏全盛の時代を築き上げるわけですが、まずは、彼らの姉の宮子を第42代・文武天皇に送り込んで、宮子が皇子を出産。

その皇子が第45代・聖武天皇となり、その聖武天皇の皇后に、彼らの妹・光明子を送り込んで、政治の実権を掌握し、さらに、皇室政治の生き残り・長屋王を抹殺(2月12日参照>>)し、藤原一族の地位を不動の物とするのですが、悲しいかな天平九年(737年)、彼ら四兄弟は次々と亡くなってしまいます。

そう、聖武天皇が恐れに恐れ、次から次へと遷都を繰り返し(5月24日参照>>)、最終的に大仏建立にまで至るあの天然痘の大流行(10月15日参照>>)です。

主軸たる四兄弟を失った藤原氏・・・その隙間に入り込んで、頭角を現してきたのが橘諸兄(たちばなのもろえ)です。

諸兄をバックアップするのは、ともに中国から最新の学問を学んで帰ってきたばかりの玄昉(げんぽう)吉備真備きびまきび4月25日参照>>)。

「このままでは、藤原氏の地位が危ない!」
そう思ったのが、本日の主役・藤原広嗣です。

彼は、天平九年(737年)に、一気に3段階昇進して従五位となり、翌年には式部少輔兼大養徳(大和)守という重要な職につくという大出世の真っ只中、まさに上り調子の藤原氏のエリートだったのです・・・なんせ父親は四兄弟の一人ですから・・・。

ところが、ここに来て、藤原氏の将来を思うあまり、
「何やっとんねん!お前ら」
「このままやったら、やられてまうぞ」
「俺らの一族には、ちゃんとしたヤツおらんのか!」
「諸兄にヘラヘラして、どないするんじゃ!」

・・・藤原氏への不満をぶちまけ、悪口を言いまくる毎日を送ります。

広嗣に言わせれば、あくまで、ふがいない藤原一族を叱咤激励するための不平・不満だったのですが、この悪口があまりにヒドイという事で、彼は、九州の大宰府に左遷されてしまうのです。

左遷されれば、さらに不満がつのるのは、当たり前の事・・・かくして、天平十二年(740年)9月3日、弟の藤原綱手(つなて)とともに、1万余の兵を率いて、反乱を起こしたのです。

藤原広嗣の乱の勃発です。

その旗印は・・・
「時の政治を正し、天地の災を陳情」
「朝廷の乱人・二人
(玄昉&吉備真備)の排除」
の二つ・・・。

そうです。
広嗣の反乱は、あくまで藤原氏のためであって、VS藤原氏ではないのです。

倒したいのは、諸兄一派・・・ところがどっこい、もう怖くてたまらない聖武天皇にとっては、乱は天然痘と同じ恐怖の対象ですから、すぐさま、大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする1万7千の鎮圧軍を派遣

広嗣と綱手は、長門(山口県)から渡海する大野軍を筑後豊前(福岡県)で迎え撃つ作戦に出ますが、大野軍は「広嗣は天下の逆賊・・・すぐに神罰が下るであろう」と、自軍が官軍である事を猛アピールします。

さらに・・・
「そんなヤツに味方してるお前らにも天罰が下るゾ!」
と、まくし立てながらの進軍。

この時代は、聖武天皇がメチャメチャ怖がったように、神罰・天罰なんて事が100%信じられていた時代ですから、そのアピールを聞いて、広嗣軍から官軍に寝返る者が続出・・・。

結局、10月23日に広嗣・綱手兄弟は捕らえられ、11月1日、備前・唐津(佐賀県唐津市)にて、東人の手で処刑され、乱は2ヶ月足らずで終結しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日のページの最後に広嗣さん、一言お願いします。
「何やっとんねん!お前ら」

やっぱり・・・そりゃ、言いたくもなりますわな。

藤原氏の事を思って頑張ったんですから・・・。

しかし、広嗣さん、ご安心を・・・
あなたの式家は脱落してしまいますが、北家はまだまだ続き、藤原氏は天下に君臨し続けるのですから・・・。

せっかくの思いが水の泡に・・・なんだかお気の毒です。
 

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