2022年5月29日 (日)

承久の乱~幕府方と京方が木曽川に展開

 

承久三年(1221年)5月29日、後鳥羽上皇から出された北条義時討伐の院宣を受けた鎌倉幕府が、北条泰時を総大将に据えて鎌倉を進発したという一報が、京都に届きました。

これにて、承久の乱が、武力×武力の決戦へと動きます。

・・・・・・・

まずは、これまでの経緯を…
(読んでくださった方&ご存知の方はスッ飛ばして下さい)

建保六年(1218年)2月:次期将軍に親王?>>
建保七年(1219年)1月:源実朝が暗殺さる>>
承久元年(1219年)4月:摂関家から将軍を>>
承久三年(1221年)4月:乱の準備で天皇交代>>
 ├5月15日:北条義時討伐の院宣発給>>
 ├5月19日:北条政子の演説で潮目が変わり↓
 └5月22日:北条泰時が京へ進発>>

・‥…━━━☆

とにもかくにも、後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)から、幕府執権(しっけん=将軍補佐・政務の長)北条義時(ほうじょうよしとき)討伐の命令が出された事で、討伐軍が京都から発信する前に先手必勝とばかりに、総大将となった北条泰時(やすとき=義時の長男)が、わずか18騎で以って鎌倉を進発したのは承久三年(1221年)5月22日早朝の事でした。

その日のうちに、北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)
足利義氏(あしかがよしうじ=義時の甥で泰時の娘婿)
三浦義村(みうらよしむら=有力御家人)泰村(やすむら)父子が、相次いで出撃し、
北条朝時(ともとき=義時の次男)北陸道の大将軍として鎌倉を進発しました。

一方、名指しされた北条義時に、大江広元(おおえのひろもと=政所別当)三善康信(みよしのやすのぶ=問注所執事)などの幕府文官、院宣の宛先だった小山朝政(おやまともまさ=幕府宿老)宇都宮頼綱(うつのみやよりつな=幕府御家人)幕府重臣たちは鎌倉に残り、必勝祈願や軍勢の調整に力を注ぎます。

『吾妻鏡』によれば、最初の一団が出た5月22日から25日の早朝までに、ほとんどの東国の武将たちが次々に出撃し、それぞれが3方に分かれて京都へと向かうのですが、その数は、
北条泰時率いる東海道=10万
武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏)率いる東山道=5万
北条朝時率いる北陸道=4万の、
総数=19万の大軍となったと言います。

かくして承久三年(1221年)5月29日「北条時房&泰時らが大軍を率いて上洛の途にある」との急報が京都に届けられます。

「まさか!」・・・
予想外の展開に揺れ動く京方(後鳥羽上皇方)

なんせ後鳥羽上皇側についた三浦胤義(たねよし=義村の末弟)の言い分では、
勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)が出て、北条が朝敵(ちょうてき=国家の敵)となったなら、味方する者なんか千人もいてませんて!」
とか、
「僕が、義時が油断するような手紙を、鎌倉のアニキ(義村)宛てに出しときますから、こんなんボロ勝ちでっせ!」
てな勢いでしたから、、、

確かに、この言葉は、油断でもオーバーでもなく、
「おそらく天子様に弓引くなどという大それた事をする御家人はいるまい」
という考えが、実際に京方にはあったのです。

現に、院宣が発給された当初は、幕府も動揺しました。

しかし、あの北条政子(まさこ=源頼朝妻で義時の姉)涙の演説で、義時一人に出された追討命令を幕府全体の危機にして見事に潮目を変え、「いざ!鎌倉」(参照>>)とばかりに御家人のテンションは最高潮・・・となったわけで、

とは言え、そんな経緯を知らない京方は、この5月29日の一報を受けてもなお「本当に?」「誤報やないん?」と揺らいでいましたが、

そんなこんなの6月1日、ここに来て、先日、幕府に捕縛された院の下部(しもべ=上皇の雑用係)押松(おしまつ)院御所(いんごしょ=上皇の居所)に帰還し、北条義時の放った言葉をそのまま伝えます。

「山道・海道・北陸道の三方から19万の精鋭が行きますさかいに、西国の武士を召集されて合戦でもさせてみて、その様子を御簾(みす=高貴の方のすだれ)の隙間から、どうぞご覧になって下さい」

使者が義時から直接聞いた言葉・・・もはや、鎌倉方の出撃は疑いようもなく、ボヤボヤしてたら、ほどなく彼らがやって来ます。

後鳥羽上皇は、藤原秀康(ふじわらのひでやす)を追討使に据え、
「早急に軍勢を整えて迎撃せよ!」
との命令を下します。

いよいよ承久の乱が、直接の武力衝突となります。

6月3日、「鎌倉方が遠江(とおとうみ=静岡県西部)に着いた」との知らせが届く中、京方は公卿たちによる衆議が開かれ、藤原秀康を追討使に、敵方を迎え撃つべく、コチラも三方に分かれての軍勢の派遣が決定します。

藤原秀康&秀澄(ひでずみ)兄弟や佐々木広綱(ささきひろつな=西面の武士)ら近臣の武士に、 大内惟信(おおうちこれのぶ)や三浦胤義といった在京の幕府御家人のほか上皇に味方する軍勢・・・コチラは総数=19326騎(細かっ!ホンマかいな?)

このうち12000騎を東海道と東山道にある12の木戸=つまり12ヶ所の防柵に分散させるという藤原秀澄主導の作戦をとった・・・ていうけど、さすがに、はなから敵より少ない数なのに、さらに12か所に分けちゃったら、よほどのゲリラ的動きをせんと無理なような?

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承久の乱美濃の戦い・進軍&位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、熱田神宮(あつたじんぐう=愛知県名古屋市熱田区)を経て、6月5日に尾張一宮(おわりいちのみや=愛知県一宮市)に到着した幕府軍が軍議を開き
鵜沼の渡(うぬまのわたり=岐阜県各務原市東部)
池瀬(いけせ=同各務原市付近:伊義の渡)
板橋(いたばし=同各務原市付近)
摩免戸(まめど=同各務原市前渡)
墨俣(すのまた=岐阜県大垣市)
の5ヶ所の要害に兵を差し向け、特に重要な場所である摩免戸に北条泰時と三浦義村など、墨俣に北条時房と安達景盛(あだちかげもり)などといったメインメンバーを向かわせますが、

奇しくも、この重要地点は京方の配備と、まるかぶり=上記の京方が兵を分散して向かった12ヶ所のうちの5ヶ所でした。
(他の場所=阿井渡・火御子・食渡・上瀬・市脇・大井戸渡・?)

いよいよ一触即発の雰囲気!
…なんですが、実は、この時・・・

すでに美濃(みの=岐阜県南部)大井戸(おおいど=岐阜県可児市土田)近くまで到着していた東山道の幕府方を任された武田信光は、木曽川を前にして、ともにいる小笠原長清(おがさわらながきよ=甲斐源氏一族)に、
「鎌倉勝タバ鎌倉ニ 京方勝タバ京方ニ付ナンズ」=つまり
「鎌倉が勝ちそうなら鎌倉に味方し、京方が勝ちそうなら京方に味方しよ…これこそが武士や!」
と言っていたのだとか・・・

ま、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも、この方の父である武田信義(のぶよし)役の八嶋智人さんが、
「わしは一度も頼朝を主人と思った事ないわ~!」
と叫んではりましたから、息子さんも、さもありなんて感じでしょうね~

ところが、武田主従のそういう出方を予想していた北条時房は、ここぞ!というタイミングで、
「渡河作戦が成功したら、美濃尾張甲斐信濃(しなの=長野県)常陸(ひたち=茨城県)下野(しもつけ=栃木県)の6ヶ国を保証しますよ」
と、

後鳥羽上皇の、単に「褒美を与える」「院庁への参上を許可する」といった曖昧な提示とは対照的に、具体的な国名を出して、その武士魂をくすぐったのだとか・・・

より確実な恩賞の提示に気を良くした武田&小笠原は、すぐさま木曽川を渡り
いよいよ京方と幕府方の木曽川美濃の戦いとなりますが、

そのお話は長くなりそうなので、決戦の行われた日付につづく。。。という事で少々お待ちを
 .

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2022年5月22日 (日)

承久の乱~北条政子の演説と北条泰時の鎌倉出撃

 

 承久三年(1221年)5月22日、承久の乱で幕府方の大将軍となった北条泰時が、わずか18騎で京都に向けて出撃しました。

・・・・・・・・・

未だ後継ぎが決まっていない鎌倉幕府第3代将軍源実朝(みなもとのさねとも)・・・朝廷との関係が良好だった実朝が健在の頃は、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)皇子を鎌倉に迎えて親王将軍とする案も出ていたものの(2月4日参照>>)

建保七年(承久元年・1219年)1月に、その実朝が暗殺された(1月27日参照>>)事から、朝廷と幕府の関係もギクシャク(2月11日参照>>)・・・

何とか、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する貴族)九条道家(くじょうみちいえ=頼朝の妹の孫)の息子=三寅(みとら=後の藤原頼経・4代将軍)第4代将軍(摂家将軍)を継ぐ事で話は治まったものの(3月9日参照>>)

幼い将軍(当時2歳)の脇を、亡き源頼朝(よりとも=初代将軍)の妻=北条政子(ほうじょうまさこ)と、その弟で幕府執権(しっけん)北条義時(よしとき)が固めている事にイライラがつのる後鳥羽上皇は、

ついに、承久三年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇自身が持つ北面の武士西面の武士(御所の警備員)や、このために味方に引き入れた御家人たちに、幕府京都守護職の宿所を攻撃させると同時に、北条義時追討の院宣を発給・・・世に言う承久の乱が勃発したのです(くわしくは5月15日参照>>)

…とは言え、追討命令を発給・・・と言っても、現代のように関係者に一斉メールが配信されるわけなく、ピピピッとニュース速報が流れるわけでもないので、当然、複数の同様の文書が各人に宛てに下されるのですが、『承久記』によれば、
武田信光(たけだのぶみつ=甲斐源氏5代)
小笠原長清(おがさわらながきよ=武田信光の従兄弟)
小山朝政(おやまともまさ=幕府宿老)、
宇都宮頼綱(うつのみやよりつな=幕府御家人
長沼宗政(ながぬまむねまさ=幕府御家人)
足利義氏(あしかがよしうじ=北条義時の甥)
北条時房(ときふさ=北条義時の異母弟)
三浦義村(みうらよしむら=幕府有力御家人)
の8名に送ったと言いますが、

いずれもそうそうたるメンバーで在京経験がある=つまり、京都にいて朝廷と直に接した事のある人たちですが、
「おいおい、こんな人らが味方になるとお思いか?」
と、あまりにも幕府ドップリのメンツ宛てに・・・とビックリします。

現に、結局は、誰も京方(後鳥羽上皇方)には回りませんでした。

ただ、これは本気で彼らに「追討せよ」と命じたわけではなく、その目的は、おそらくは幕府側に
「ひょっとして、誰か裏切るんちゃうん?」
という疑心暗鬼をもたらし、内部分裂をはかるためだったのでしょう。

なんせ、先日の(5月15日の>>)ページに書かせていただいたように、すでに、味方になってくれそうな人物には声かけて味方にしてるし(なんなら攻撃開始しちゃってるし)、三浦義村の弟の三浦胤義(たねよし)なんか、率先して後鳥羽上皇について、京方の中心人物となってますから、これは、あくまで敵方への宣戦布告みたいな物だったのでしょう。

そのうえで、追討する相手を幕府ではなく、北条義時一人に絞る事で、
「ひょっとして(義時個人に不満を持ってる)誰か一人でも味方になってくれたら儲けもん」
てな、感じだったかも知れません。

一方、幕府側は・・・
実は、すでに、異変を知らせる文書を持った何名かが院宣発給の前後に京を発ち、当日の5月15日から19日にかけて、相次いで鎌倉に到着しています。

15日朝・・・真っ先に到着したのは、
兄=三浦義村に誘引の書状を送った三浦義胤の使者。

次に、15日の朝から、すでに藤原秀康(ふじわらのひでやす)や三浦胤義ら京方の攻撃を受けていた伊賀光季(いがみつすえ=幕府方京都守護職・北条義時の嫁の兄)が、その直前に家臣に託した緊迫した京都の情勢を伝える使者。

次に、公家の西園寺公経(さいおんじきんつね)家司(けいし=公家の家政を担う職員)である三善長衡(みよしのながひら)が、主人の公経と息子の西園寺実氏(さねうじ)が京方に幽閉された事と、宣旨が五畿七道(ごきしちどう)に下された事を知らせる使者が京都を発った事を伝えて来ます。
(五畿=山城・大和・摂津・河内・和泉の5か国、七道=東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7道)

当然ですが、これを知った幕府首脳陣は動揺します。

ちょうど、その頃、
三浦義村が、弟=胤義の書状と携えた使者と面会・・・その書状には、
「『勅定に応じ 右京兆を誅すべし 勲功の賞においては請に依るべし』
(勅命に応じて北条義時を討て、恩賞は望みのまま与える)
と後鳥羽上皇から仰せを賜ったのでヨロシク」
と、

しかも、その使者は、自分一人で鎌倉に下ったのではなく、宣旨を持った院の下部(しもべ=雑用係)押松(おしまつ)とともに鎌倉に入ったと言う・・・

三浦義村は返事もせずに、その使者を追い返すと、即座に北条義時のもとへ駆けつけ、
「鎌倉より東の武将たちに知られる前に、はよ!押松を捕まえなアカン」
と進言します。

先ほどは、動揺を隠せなかった幕府首脳陣でしたが、目の前に「やる事」が具体化されれば仕事は早い・・・早速、押松の探索に市中に飛び出し、ほどなく葛西谷(かさいがやつ=鎌倉市大町)に潜んでいたところを捕縛し、宣旨と、源光行(みつゆき)が書いた副状(そえじょう)、東国武士の名前の一覧が書かれた注進状(ちゅうしんじょう=事の次第説明書)などを押収しました。

こうして、何とか、これより東の東国武士たちに院宣が伝わる事を防いだ幕府首脳陣でしたが、人の口の戸はたてられませんから、いずれは日本全国に伝わる・・・その前に、何とか手を打たねば!

なんだかんだで相手は天皇様だし…怒られてんのは北条義時一人だし…
幕府御家人と言えど一個人としては「天子様に弓引く」なんて事は、おそれ多いわけで、やはり心は揺れ動きます。

潮目が変わるのは承久三年(1221年)5月19日・・・
北条政子が、自身の邸宅に御家人たちを集めたのです。

Houzyoumasako600ak そして、先ほどの追討命令の宛名にされたそうそうたるメンバーに加え、上から下までの多くの御家人たちが見守る中、有名な北条政子の演説が始まるのです。

『吾妻鏡』では、
「皆心を一にして奉るべし これ最期の詞也」
(みんな、よー聞いてや。これは最後の言葉やで)
と切り出し、

「頼朝さんが、朝敵を倒して関東にて幕府を開いてから、君ら御家人は官位も俸禄(給料)も手に入れられるようになったやん。
その恩は、すでに、山よりも高いし、海よりも深いんちゃう?
君らが、その恩に報いようという気持ちは、浅いはず無いと私は思う。
今、後鳥羽上皇さんは、悪さをたくらむ逆臣の讒言(ざんげん=事実でない悪口)によって、正しくもない意味わからん命令を下しはった。
名を惜しむ者は、藤原秀康や三浦胤義らを討ち取って、将軍の遺産を守ってほしい。
ただし、後鳥羽上皇側に行きたい者がおるなら、今すぐ申し出てや!」

さらに『承久記』では、
「まずは、長女の大姫(おおひめ)、そして夫の頼朝、長男の頼家に次男の実朝・・・ほんで弟の義時まで失う事になったら、私は5度目の悲しみを味わう事になる~」
と嘆いてみせたとか・・・

心を揺さぶられる名演説・・・本来なら、義時一人に向けられた追討令を、見事、鎌倉幕府全体の出来事に変えちゃいましたね。

すぐさま武田信光が政子に賛同する事を表明すると、もはや、その場には誰一人反対する者はなく、むしろ全員が心を一つにした異様な興奮が渦巻いたのでした。

当然、幕府首脳陣は、この興奮冷めやらぬ雰囲気真っ只中で、素早く事を進めなけらばなりません。

早速、この日の夕刻に北条義時の館にて軍議が開かれます。

いずれは、後鳥羽上皇が追討使を任命し、追討軍が京都を進発する事になりますが、果たして、それを迎撃するのか?
あるいは、これまでの経験から、追討使が任命されるまでの時間を待たずに、コチラから出撃するのか?

軍議では様々な意見を戦わせるのですが、それらの提案を持って、政子に意見を聞くと、
「素早く上洛せぇへんかったら官軍を破る事はできひんかも…安保実光(あぼさねみつ)武蔵(むさし=ほぼ東京都・埼玉&神奈川の一部)の者らが到着次第出撃すべきや思うよ」
と・・・

Houzyouyasutoki500ast 早速、義時は関東一円の武将に、
「朝廷が幕府を襲うという情報が入ったので、北条時房(ときふさ=政子&義時の異母弟)北条泰時(やすとき=義時の長男)が軍勢を率いて出撃する事になった。
北条朝時(ともとき=義時の次男)は北国に差し向ける。
この事を、速やかに家中に伝えるとともに、自らも出撃せよ」
との命令を下したのです。

命を受けた遠方に住む関東武士たち・・・先に書いたように、幕府首脳陣が後鳥羽上皇の院宣を握りつぶしていた事で、事の成り行きがわからず、ただ「出撃せよ」の命令だけを受けて戸惑う者もいたと言います。

その様子を察した大江広元(おおえのひろもと=幕府重臣)が、
「日数が経つと些細な事に疑問を抱き、離反する者が出て来るかも知れんから、テンション高い今のうちに総大将の泰時だけでも出陣してしまえば、東国武士たちは後に続くはずや」
と進言すると、政子も、
「何もせんとチンタラしてるのは怠慢ちゃうんか?まずは総大将一人だけでも進発せな!」
と言います。

かくして承久三年(1221年)5月22日、小雨が降る早朝6時・・・北条泰時が京都に向けて進発します。

つき従うは、息子の北条時氏(ときうじ)をはじめとする、わずか18騎でした。

いよいよ京方と幕府の直接対決が始まりますが・・・

そのお話は、後鳥羽上皇が幕府軍の鎌倉出撃を知る事になる5月29日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2022年5月15日 (日)

承久の乱勃発~北条義時追討の院宣

 

承久三年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府2代執権である北条義時の追討令を発給・・・承久の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・

初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)鎌倉(かまくら=神奈川県鎌倉市)にて樹立した初の武家政権は、全国に守護(しゅご=県知事)地頭(じとう=荘園管理)を配置して開幕を実現しましたが(7月12日参照>>)、なんだかんだで、その力は東国が中心・・・西では、やはり朝廷の力が強く、この時期は二元政治な一面もありました。

やがて、2代将軍=源頼家(よりいえ=頼朝と政子の長男)の時には、鎌倉殿の13人の合議制にて政務をこなすシステム(4月12日参照>>)を採用するも、相次ぐ有力御家人の死によって、半ばグダグダになるにつれ、力を増すのは母の北条政子(ほうじょうまさこ=源義朝の妻)と、その弟で2代執権(しっけん=将軍の補佐やけど事実上の政務の長)北条義時(よしとき)。。。
(上記の13人は…足立遠元・安達盛長大江広元梶原景時中原親能二階堂行政・八田知家・比企能員北条時政・北条義時・三浦義澄三善康信・和田義盛=ーは実朝将軍就任までに死去または失脚した御家人・緑色は公家出身の文官

そんな中、建仁三年(1203年)には源実朝(さねとも=頼朝と政子の次男)が3代将軍となりますが(9月7日参照>>)、建保元年(1213年)には、今となっては数少ない北条氏に対抗できる力を持っていた和田義盛(わだよしもり)謀反の末に討死(5月3日参照>>)、ついに北条義時は、政権と軍事の両方を掌握する立場となります。

それでも、朝廷友好派の実朝が健在だった頃は、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)も、やりたい放題の北条氏を「東国での事」と思っていたようで、

なんなら、未だ跡取りのいない将軍の座に自らの皇子を送りこんで、信頼できる実朝に後見人になってもらって自身が幕府をコントロールできるかも…と、政子が持って来た親王将軍(しんのうしょうぐん=後鳥羽上皇の皇子が将軍になる)の話にも乗り気であった(2月4日参照>>)ようなのですが、

ところが、ご存知のように、建保七年(承久元年・1219年)1月、実朝は、(頼家の息子)公暁(くぎょう・こうきょう)によって暗殺されてしまった(1月27日参照>>)事から、

当初の予定が狂ったとおぼしき後鳥羽上皇は、自らの皇子を鎌倉に下向させる事を拒むようになり(2月11日参照>>)・・・

それでも親王将軍を願う幕府方が武装して京都に向かう事態となりますが、

そこを何とか、摂関家(せっかんけ=摂政や関白を輩出する貴族)九条道家(くじょうみちいえ=頼朝の妹の孫)の2歳の若君=三寅(みとら=後の藤原頼経・4代将軍)が鎌倉に下向して、北条政子が後見人となって養育しサポートする=つまり、摂家将軍(せっけしょうぐん)という事で、話は落ち着いたのでした(3月9日参照>>)

しかし、当然、シコリは残ります。。。お互いに、

そんな中、歌や学問だけでなく武勇にも優れていた後鳥羽上皇は、院政を始めて以来、自らの財力に物を言わせて北面の武士西面の武士を雇い、御所の警備に当たらせていたのですが、

その在京武士たちが後鳥羽上皇の命を受けて、幕府側の御所警備担当だった源頼茂(よりもち=源頼政の孫)攻め殺し、そのドサクサで内裏(だいり=御所の天皇の私的区域)の一部が焼失するという事件が起こります。

その理由は史料によって複数あり、よくわからないのですが、とにかく、朝廷と幕府の間が一触即発の状態にまで行っていた事は確かです。

Gotobatennou700a 次第に、北条義時の討伐を考えるようになる後鳥羽上皇・・・土御門上皇(つちみかどじょうこう=第83代天皇:後鳥羽上皇の第1皇子)(10月11日参照>>)や一部の公家が強気の後鳥羽上皇に反対する中、

順徳天皇(じゅんとくてんのう=第84代天皇:後鳥羽上皇の第3皇子)はヤル気満々で、自らの第3皇子である懐成親王(かねなりしんのう=後の仲恭天皇:当時4歳)(4月20日参照>>)に皇位を譲って制約のない自由な上皇の立場となって後鳥羽上皇に協力します。

当然の如く、後鳥羽上皇は反対派を遠ざけて、身辺をイエスマンで固める中、幕府御家人の取り込み工作を進めます。

その最初のターゲットとなったのは、先の和田義盛亡き今、唯一北条氏に対抗できるような力を持つ三浦氏・・・その三浦義村(みうらよしむら)の弟である三浦胤義(たねよし)でした。

後鳥羽上皇の命を受けた藤原秀康(ふじわらのひでやす)が、当時、京都に滞在していた三浦胤義を自宅に招いて酒宴の席を設け、
「後鳥羽上皇側につかないか?」
と誘ったところ、なんと、二つ返事で「OK」・・・

いや、むしろ
「そのために、京都に滞在してました」
と言います。

実は、胤義の奧さんは一品房昌寛(いっぽんぼうしょうかん)という人の娘で、彼女は胤義との結婚は再婚・・・以前は、亡き源頼家の側室で禅暁(ぜんぎょう)という男の子を生んでいました。

そう、その子は、
以前、阿野時元(ときもと)の謀反(2月11日参照>>)のところで出てきましたが、その時、源頼朝の血を引く者として、謀反のとばっちりで北条氏に殺された人で、胤義の奧さんは、胤義と再婚した後も、事あるごとに息子の死を悲しんでおり、その姿を見るたび、胤義も悲しい気持ちになっていて、常々、
「何とか嫁さんの恨みを晴らしたい」
と思っていたと・・・
(もちろん、京方についた原因としては他にも…諸説ありですが)

こうして後鳥羽上皇の味方となった胤義は
勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)が出て、北条が朝敵(ちょうてき=国家の敵)となったなら、味方する者なんか千人もいてませんて!」
とか、
「僕が、義時が油断するような手紙を、鎌倉のアニキ(義村)宛てに出しときますから、こんなんボロ勝ちでっせ!」
と豪語して上皇を喜ばせたとか・・・

そんな幕府御家人の取り込みとともに、いよいよ5月14日には、幕府寄りの公家=西園寺公経(さいおんじきんつね)実氏(さねうじ)父子を幽閉し、もろもろ、事を進めた後鳥羽上皇・・・

かくして、運命の承久三年(1221年)5月15日がやって来ます。
(注:この14日の西園寺公経父子の幽閉を以って、乱の勃発とする場合もあります)

朝1番…まずは、後鳥羽上皇の命を受けた藤原秀康が、京都守護職(きょうとしゅごしょく)伊賀光季(いがみつすえ)出頭の要請をします。

この伊賀光季という人は、鎌倉幕府宿老の伊賀朝光(ともみつ)の息子で、その娘(つまり光季の妹)は北条義時の奧さん=後妻の伊賀の方(いがのかた=後に7代執権となる政村含め3男1女をもうける)で、つまりは義時に代わって京都を守護している幕府代表的存在なわけです。

当然、光季は出頭を拒否・・・ここには1000余騎の京方(後鳥羽上皇方=官軍)の兵が差し向けられます。

三浦胤義、佐々木広綱(ささきひろつな=西面の武士)らをはじめとする軍勢は5陣に分かれて光季の宿所を囲みます。

この時、光季側は、わずかに85騎・・・さらに光季が皆を集めて、
「俺は最後まで戦って討死する覚悟やが、命が惜しい者は逃げるがよい」
と言った事から、逃亡者が続出し、残った精鋭は、ほぼ半数になってしまいました。

なんせ、戦う相手は官軍=天皇家やからね~

大きく門を開け放って敵を迎え撃つ光季は、そこに見知った三浦胤義を見つけて、
「大した罪でもない者に勅勘(ちょっかん=天皇の咎め)下すやなんて、どういうつもりやねん」
と問いながら弓を引くと、胤義は
「時世に従うだけや!宣旨(せんじ=天皇の命令書)で招集されたから敵を討つ!それだけや」
と答え、すかざず避けました。

こうして、奮戦する光季勢でしたが、所詮は多勢に無勢・・・戦いの中で負傷した光季は、宿所に火を放ち、我が子とともに炎の中で自害します。

「光季、死す」
の一報を受けた後鳥羽上皇は、
「是非とも味方に引き入れ、コチラ側の大将にしたかったのに…」
と、その死を惜しんだという事です。

一方、もう一人の京都守護職であった大江親広(おおえのちかひろ=大江広元の長男)も藤原秀康からの出頭要請を受けますが、応じて向かった先で後鳥羽上皇から、
「義時に味方するんか、こっちに付くんか、今ここで返答せいや!」
とスゴまれ、やむなく京方に従う事になったとか・・・

そうこうしているうちに後鳥羽上皇の次の一手・・・

いよいよ、北条義時追討の院宣(いんぜん=上皇の意を受けた院司が発給する文書)を発給するのです。

「近曾(ちかごろ)関東成敗と称し
天下の政務を乱る
(わずか)に将軍の名を帯(お)ぶると雖(いえど)
(なお)以って幼稚の齢(よわい)にあり
(しか)る間、彼の義時朝臣(あそん)
(ひとへ)に言詞を教命に仮り
(ほしいまま)に裁断を都鄙(とひ=都市や地方)に致す
(あまつさ)へ己が威を輝かし
皇憲を忘れたるが如し
これを政道に論ずるに、謀反と謂(い)ふべし
早く五機七道の諸国に下知し
彼の朝臣の身を追討せしめよ…」
(このごろ、幕府の命令やって言うて、天下の政治は乱れてる。
将軍ではあるけど、本人は未だ幼いのに、その将軍の名を借りて義時が好き勝手に裁可を下してるだけやなく、
自分の威勢を笠に、まるで朝廷の定めた法令も忘れてるかのようや。
これって正しい政治の在り方から見たら謀反やろ。
早速全国に命令を下して、義時を追討せよ…)
(実際の追討令は、もう少し長文で、史料によって複数ありますが、その内容はだいたい、こんな感じです)
(*五畿=山城・大和・摂津・河内・和泉の5か国)
七道=東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7道)

さぁ、後鳥羽上皇からの義時追討令が出ました。

どうする?義時。
どうする?鎌倉。。。

なんせ、相手は天皇家ですからね~

しかも、後鳥羽上皇は、より多くの味方が得られるよう、ターゲットを、幕府ではなく義時一人に絞ったわけで。。。

本来なら、三浦胤義が言うように、誰も、天皇家に弓引こうなんて思いませんもの。。。

当然、動揺する幕府、動揺する御家人たち…

Houzyoumasako600ak そこで、
そんな、ザワつく御家人たちの前に登場するのが、尼将軍=北条政子なのですが、

 .

そのお話は、北条政子の演説…からの~幕府軍が鎌倉を進発する5月22日のページ>>でどうぞ。。。

★せっかくの大河「鎌倉殿の13人」の当たり年なので、少々くわしくお話させていただくため、この後も何度か承久の乱の話題になる事、ご了承くださいませm(_ _)m
 .

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2022年5月 3日 (火)

北条義時が和田義盛を討つ~和田合戦をくわしく

 

建暦三年(1213年)5月3日、北条義時に反発した和田義盛が討死し、和田合戦=和田義盛の乱が終結しました。

・・・・・・・・

初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)亡き(12月27日参照>>)後、建久十年(正治元年・1199年)より嫡男の源頼家(よりいえ)のもと、13人の有力者による合議制(4月12日参照>>)にて運営される事になった鎌倉幕府・・・
(足立遠元・安達盛長・大江広元・梶原景時・中原親能・二階堂行政・八田知家・比企能員・北条時政・北条義時・三浦義澄・三善康信・和田義盛の13人)

しかし、その翌年の梶原景時(かじわらかげとき)(1月20日参照>>)に始まり、
元久元年(1204年)の比企能員(ひきよしかず)(9月2日参照>>)
元久二年(1205年)の畠山重忠(はたけやましげただ)(6月22日参照>>)
と、次々と有力御家人を排除し、

その途中には、比企能員に味方した将軍=頼家まで死に追いやった(7月18日参照>>)北条氏・・・

さらに父の北条時政(ほうじょうときまさ)を追放(1月6日参照>>)して執権(しっけん=将軍補佐:事実上の最高権力者)となり、姉の北条政子(まさこ=頼朝の妻で頼家の母で義時の姉)とともに、更なる幕府掌握を計る北条義時(よしとき)でしたが、

Wadayosimori500ats それでも侍所別当(さむらいどころべっとう=警視総監)として、未だ幕府内で大きな力を持っていたのが和田義盛(わだよしもり)でした。

義盛は、頼朝挙兵の時にいち早く味方についた三浦義明(みうらよしあき)(8月27日参照>>)の孫で、先の合議制13人の一人の三浦義澄(よしずみ)の甥っ子。

しかも、亡き頼朝と同い年でもあった事から、頼家の後を継いで第3代将軍となった源実朝(さねとも=頼朝・政子の次男)(9月7日参照>>)父のように慕う人物でした。

そんな、
実朝の義盛への、あまりの心酔ぶりが、政子&義時姉弟に目につき始めた建保元年(1213年)2月、亡き頼家の遺児である千寿丸(せんじゅまる=頼家の三男・後の栄実)新将軍に担いで北条義時を討つという泉親衡(いずみちかひら)による謀反の計画が発覚します。(2月16日参照>>)

先に計画がバレて謀反自体は未然に防いだものの、その計画に関わった330名の中に、和田義盛の息子である和田義直(よしなお)和田義重(よししげ)、甥の和田胤長(たねなが)他、和田関係十数人が含まれていた事が発覚してしまいます。

義盛大好きの実朝の采配によって息子の義直と義重は何とか許されたものの、甥の胤長は、義盛の嘆願空しく屋敷を没収の上、陸奥岩瀬郡(むついわせぐん=福島県)への流罪となりました。

しかも、北条義時は、義盛に見せつけるように目の前で胤長を捕縛し、本来なら一族に下げ渡されるはずの屋敷も別の者に与えたのです。

こうして、義時と義盛の間に生まれた亀裂・・・

何とか事態を収拾したい実朝は、4月に入って、その心中を慰める旨の使者を義盛に送りますが、戻って来た返事は、
「実朝さんには、まったく恨みは持ってませんけど、アイツが、ほんま好き勝手やりよるから、事情を確かめるために出向こうと、ウチの若いもんが密かに集まって話し合うてましたわ。
僕は、アカンで~って諌めたんですけど、もうすでに一致団結して、ヤル気満々で、もう止められまへんわ」
と。。。

かくして建暦三年(1213年)5月2日、夏も近づく、いや、旧暦なので、もはや夏真っ盛りの昼下がり・・・和田義盛は挙兵に踏み切ったのです。

んん?? 昼下がり?? 午後?? なんで?

そもそも謀反や奇襲のように、無防備な相手に急襲を仕掛ける場合は、真夜中に準備して、夜明け前あるいは明け方の薄暗い頃に行動を起こすのが常とう手段のはず。。。
【河越夜戦】>>【厳島の戦い】>>【本能寺の変】>>

もちろん、織田信長(おだのぶなが)【桶狭間】>>なんて真昼間のもありますが、アレは、総大将の今川義元(いまがわよしもと)一人を標的にして、ちょうど昼休憩で大軍が移動を停めた時間帯に本陣をピンポイントで・・・

そう・・・実は、和田義盛も、同様の作戦だったようなのです。

本来なら翌日=3日の明け方に行動を起こすつもりであった?ようで…

それは、義盛と姻戚関係にあり、おそらく加勢する兵の数が最も大いであろうと思われる横山党の党首=横山時兼(よこやまときかね=叔母が義盛の妻)が、この時、腰越(こしごえ=神奈川県鎌倉市南西部)付近に到着するのが5月3日の午前4時頃だったからです。

おそらく、本来は、この3日の明け方に横山党と合流して事を起こすはずだった???

しかし、この5月2日という日の午後という時間帯・・・
実は、将軍=実朝と幕府重鎮の大江広元(おおえひろもと)が、それぞれ宴会を執権の北条義時が囲碁の会を開催していたのです。

…となると、おそらくこの時間帯は御所の警備も甘々なはず・・・
「主要メンバーが宴会やら囲碁の会やらで、御所の守りが手薄になる~今がチャ~ンス!!
と、降って湧いた好機に行動を起こしたのではなかろうか?

Wadayosimorinoran
和田合戦時の鎌倉・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、
謀反の準備真っ只中の5月2日午後4時ごろ、
和田邸の近くに住んでいた八田知重( はったともしげ=八田知家の息子:小田知重)が、和田邸内の不穏な空気に気づき、将軍御所の近くに住む大江広元邸に急使を送ります。

上記の通り、宴会の真っ最中だった広元が急いで将軍御所に入ると同時に、三浦義村(みうらよしむら=三浦義澄の息子・兄)三浦胤義(たねよし=同息子・弟)兄弟が北条義時邸に駆け込み、義盛の挙兵を知らせました。

実は、この三浦義村兄弟・・・彼らの祖父も和田義盛と同じ三浦義明=つまり彼らは従兄弟同士だったわけで(義盛の父は義澄の兄)

何日か前に、義盛からの謀反のお誘いを受けており
「同族として味方するで~」
と言って、
「俺ら兄弟は北門を警固する」
との約束を交わしていたのですが、

ここに来て、まるっと、スッキリ、見事な、寝返りをやってのけたのです。
(先の2月16日=「泉親衡の乱」>>で書かせていただいたように、三浦家当主の座について義盛と義村の間でわだかまりがあった模様)

確かに、ともに戦う約束をしていたはずの三浦兄弟が、義盛挙兵の知らせを受けて、慌てて義時に知らせに行った感じがするのも、予定時間が早まったからと考えれば辻褄が合いますね。

もちろん、知らせを聞いた北条義時も即座に御所へ・・・

そんな中、
和田義盛、土屋義清(つちやよしきよ=三浦義明の弟=岡崎義実の息子)古郡保忠(ふるごおりやすただ=横山党に属す)ら、約150騎は3手に分かれ、1手は御所の南門(北門は義村に任せてるんで…)、残りの2手は北条義時邸の西と北の両門に分かれて、それぞれ一斉に襲いかかりました。

しかし・・・
上記の通り、本来なら三浦兄弟が固めているはずの北門・・・しかも、義村の邸宅は御所の西門の真ん前にあるので、義盛は南門さえ攻めれば、南と西と北の三方を抑える事ができるはずだったわけですが、それが裏切られたとなったら、いくら南門から攻め込んでも、御所の北と西と東が空きまくりなわけで・・・

案の定、広元と義時は、実朝を連れて北門から脱出・・・武勇の誉れ高き義盛三男の朝比奈義秀(あさひなよしひで)が、実朝の身柄を確保すべく総門を推し破って御所に乱入した時は、もはや実朝の姿はありませんでした。

それでも奮戦する和田勢は一昼夜に渡って戦い続け、翌5月3日明け方、ここで到着した、先ほどの横山党の加勢を得て、和田勢は幕府相手に盛り返しをはかります。

そうこうしているうちに、騒ぎを聞きつけた相模(さがみ=神奈川県の大部分)周辺の武士たちが武装してやって来ますが、目の前で戦ってるのは執権と侍所別当・・・21世紀の今だと、大統領と軍が戦ってるような感じ???

そんなもん、事情がよくわからないまま今来た彼らにしたら、どっちの味方として参戦して良いのやら・・・そりゃ、迷いまくりで、動けませんがな。

御所を脱出して、父=頼朝の墓所である法華堂(ほっけどう=鎌倉市西御門2丁目)に入っていた実朝は、自らの花押(かおう=直筆サイン)を記した御教書(みぎょうしょ=将軍の命令書)を、参戦に戸惑っている各人に対して発給し、自身が身を置く幕府方=つまり北条義時の側に加わるよう命じました。

そうなると、もはや時間の問題・・・

建暦三年(1213年)5月3日・・・午後6時頃には、義盛をはじめ和田勢の多くが戦死し、 戦いは終わりました。

和田義盛、享年67・・・息子の朝比奈義秀ら約500騎だけが、船6艘にて安房(あわ=千葉県南部)へと逃れたのです。

翌日、片瀬川(かたせがわ)の川べりに晒された234の首を実検した実朝は、幕府側の負傷者をねぎらうとともに、勲功の審理を行い、欠員となった侍所別当に北条義時を任命したのでした。

北条家にとって最大のライバルを葬り去り、政権と軍事の両方を手に入れた、この和田合戦・・・

とは言え、
ウハウハの義時&政子は良いとして、義盛を父の様に慕っていた実朝の心情はどうだったのでしょう?

思えば、勝敗を分けたのは、ご本人=実朝の身柄の確保・・・もし、和田義盛側が実朝を確保している状況で、実朝が御教書を発給していたら、多くの者はソチラの味方をし、結果は変わっていたかも知れません。

もともと、和田義盛も、実朝に対しては何とも思ってない・・・いや、日頃の動向から見る限り、むしろ将軍として大事に思っていたでしょうしね。

そんな中、この和田合戦から、わずか17日後の5月21日に鎌倉は大地震に見舞われるのですが、その時、実朝は、自らの名付け親でもある後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)に一首の歌を詠んでいます。

♪山は裂け 海は浅(あ)せなむ 世なりとも
 君にふた心 わがあらめやも ♪
「たとえ、山が裂けて海が干上がってしまう世になったとしても、私は君(後鳥羽上皇)に背く事はありません」

実際に山が裂けた大地震と、自身の心が裂けた和田合戦・・・実朝にとっては、立て続けに起こった激震。

やがて、この6年後に、実朝が亡くなってしまう(1月27日参照>>)事で、後鳥羽上皇と北条義時がギクシャクし始める(3月9日参照>>)という未来を知っている者からしたら、何やら、不安げで悲し気な歌に聞こえてしまう一首でした。

ちなみに、見事に裏切った三浦義村兄弟は、
「友を喰らう三浦犬」
と、陰口たたかれたようですが、上記の通り、
「もともと友達じゃなく、後継を争ってた仲なのよね~」
て事で・・・
 .

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2022年3月 9日 (水)

親王将軍か摂家将軍か…北条時房が千騎を率いて上洛

 

建保七年(1219年)3月9日、後鳥羽上皇の使者として藤原忠綱が、亡き源実朝の弔問に鎌倉を訪れました。

・・・・・・・・・・

未だ子供がいなかった第3代鎌倉幕府将軍源実朝(みなもとのさねとも)の後継者に、実朝の名付け親でもある後鳥羽上皇(ことばじょうこう=第82代天皇)皇子を…と願った実朝母の北条政子(ほうじょうまさこ)が、

弟の北条時房(ときふさ)を連れて初めての京都旅行をし、頼仁親王(よりひとしんのう)雅成親王(まさなりしんのう)いずれかを、次期将軍として近々鎌倉に下向させるという約束をとりつけたのは、この、わずか1年前の建保六年(1218年)2月の事でした(2月4日参照>>)

ところが、その翌年・・・年が明けてまもなくの建保七年(1219年)1月27日、その実朝が鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)にて、公暁(くぎょう・こうきょう)殺害されてしまい
 【実朝・暗殺事件の謎】>>
 【実朝暗殺事件の謎パート2】>>
事は急展開となります。

ポッカリ空いた将軍の座を狙った阿野時元(あのときもと)の謀反(2月11日参照>>)を、なんとか防ぎつつも、実朝の死という想定外の出来事に、揺らぐ上皇の心の内を、北条政子も、そして鎌倉幕府を預かる第2代執権(しっけん)北条義時(ほうじょうよしとき=政子の弟)も感じ取っていたのです。

Houzyoumasako600ak 先の「政子上洛」のページで書かせていただいたように、皇子の鎌倉下向&次期将軍を後鳥羽上皇が快諾したのは、自らが信頼する実朝が後見人としてサポートしつつ将軍職を引き継ぐ皇子の姿を想像したからであって、肝心の実朝がいなければ、話が変ってくる・・・

その後鳥羽上皇の思惑を重々承知の幕府は、早速翌月=2月1日に政所別当二階堂行光(にかいどうゆきみつ)を使者にたて、
「実朝が亡くなった今、すぐにでも親王を鎌倉に…」
と願ったのです。

Gotobatennou700a しかし、案の定、後鳥羽上皇の回答は、
「二人のうち、どちらかは鎌倉に下向させよう。ただ、今すぐというのはムリ」
というものでした。

京都からの報告をを受けた政子は、
「今すぐに!と、もっかいお願いしてみて~」
と、京都の二階堂に念を押します。

しかし、上皇からの返答はなく・・・

そんなこんなの建保七年(1219年)3月9日、後鳥羽上皇が、自らの側近で北面の武士(御所を警固する武士)藤原忠綱(ふじわらのただつな)弔問の使者という名目で鎌倉に派遣して来たのです。

忠綱は、まずは北条政子の邸宅にて後鳥羽上皇の弔意を伝えた後、北条義時の館に向かいます。

そして忠綱は、その場で、
後鳥羽上皇が寵愛する白拍子の亀菊(かめぎく=伊賀局とも)の持つ摂津(せっつ=大阪府北部)長江(ながえ=現在の大阪府豊中市付近)の荘園と、
尊長(そんちょう=一条能保の息子で後鳥羽上皇の側近)の持つ椋橋(くらはし=同じく豊中市付近)の荘園の地頭の撤廃と、
西面武士(北面と同じく御所の警備)仁科盛遠(にしなもりとお)所領没収処分の撤回を求める院宣(いんぜん=天皇の命令)を伝えたのです。

地頭(じとう)とは、ご存知のように、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際に、全国の荘園の管理や支配の権限を認めて設置し、御家人や配下の武士を派遣して当たらせた役職(7月12日参照>>)・・・

それを「撤廃しろ」という事は、「荘園は自分らで管理するから、お前ら幕府は関わんなや」という事です。

しかも、その場所は、いずれも川で以って大阪湾へと出られる交通の要所。

また、仁科盛遠の所領没収処分というのは、もともとは幕府御家人だった盛遠が、職務を怠って勝手に西面の武士(北面と同じく御所の警備員)になり後鳥羽上皇から給料をもらっていた(つまり上司にナイショで副業してた)事を知った北条義時が、職務専念義務違反として下した処分です。

もちろん、この彼らは全員、後鳥羽上皇にメッチャ近しい人たち・・・おそらくは上皇の私的がらみとおぼしき要求です。

その一方で、幕府が出していた、先の「親王下向」のお願いについては完全無視のゼロ回答。。。

とりあえずは、
「追って回答させていただきます」
と、結果を保留にして、京都へと戻る藤原忠綱を見送った幕府首脳陣は、

後鳥羽上皇の要求を呑むべきか否か?
また、呑むとしても、どこまで譲歩すべきか?
の話し合いに入ります。

なんせ、こういう場合、相手を怒らしてもアカンし、かと言ってナメられてもアカンわけで・・・

…で、すったもんだして出した結論は・・・

北条時房が千騎の軍勢を率いて上洛し、
「地頭の撤廃を拒否し、親王の早期下向を要求する」
という、完全なる強硬策だったのです。

時房が代表になったのは、例の北条政子の京都旅行の際に(2月4日参照>>)、蹴鞠の腕前を後鳥羽上皇に褒められて親しくなり、お気に入りとなっていたからですが、

時房が京都に到着した3月15日・・・さすがに、昨年とはまったく違う雰囲気で完全武装した時房の姿を見た後鳥羽上皇は、驚いたに違いありません。

ゼロ回答のまま、自らの要求だけを突き付けた後鳥羽上皇も上皇ですが、それに対して武力をチラつかせる幕府も幕府・・・

もはや、両者ともに、お互いの関係に亀裂が入った事を、完全に悟った事でしょう。

とは言え、どちらも、この一国を左右する地位につく人たち・・・いきなり、あからさまに敵対はせぬまま、建保七年(1219年)は4月12日に改元され、承久元年となりました。

そんな中、静かなる譲歩を決めたのは後鳥羽上皇でした。

「親王を下向させると、国が二分するかも知れないから、関白(かんぱく)摂政(せっしょう)の子供で手ぇ打ってちょ」
との譲歩案を出して来たのです。

それを知った三浦義村(みうらよしむら=幕府有力御家人)は、
「摂関家の九条道家(くじょうみちいえ)の長男で10歳になる九条教実(のりざね)か、その弟の2歳の若君に来ていただいて、コチラで養育し、いずれ君(上皇)をお守りいたしたいと思いますが…そういうのはどうでしょう?」
と提案します。

この提案を受け、交渉の結果、2歳の若君三寅(みとら)を下向させる事で、ようやく話が落ち着いたのです。

実は、この九条道家という人の母は、源頼朝の妹(姉とも)である坊門姫(ぼうもんひめ)の娘・・・しかも、この道家の奥さんの西園寺掄子(さいおんじりんし)も母親は坊門姫の娘・・・

つまり、頼朝から見れば、姪っ子二人が、それぞれ九条家&西園寺家に嫁いで、その子供(本人たちは従兄弟)どうしが結婚して生まれたのが三寅クンという事です。

この三寅クンが、後の藤原頼経(ふじわらのよりつね=九条頼経とも)・・・鎌倉幕府の第4代将軍、初の摂家将軍となる人です。

6月3日に鎌倉下向の宣下があり、様々な手続きを経て、6月25日に北条時房や三浦義村らに付き添われて京都を後にし、7月19日に鎌倉に到着・・・以後、北条政子が後見人となってサポートする事になるのです。

こうして、鎌倉幕府の将軍は何とか決まったものの、当然、両者に残る少なからずのしこり・・・

…で、
ご存知のように、この2年後に承久の乱が勃発するのですが、その間のお話のくわしくは、また、その日付の関連ページで。。。

承久の乱勃発~北条義時追討の院宣>>
 .

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2022年2月22日 (火)

承久の乱に敗れて~後鳥羽上皇、流人の旅路

 

延応元年(1239年)2月22日、承久の乱に敗れて隠岐への流罪となった後鳥羽上皇が崩御されました。

・・・・・・・・

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、後白河法皇(ごしらかわほうおう=第77代天皇)の皇子であった第80代高倉天皇(たかくらてんのう)第4皇子で、母は公卿の娘だった藤原殖子(ふじわらのしょくし=七条院殖子)・・・高倉天皇の中宮なのが、平清盛(たいらのきよもり)の娘の徳子(とくこ)なので、平家全盛の頃に、わずか3歳で即位した第81代安徳天皇(あんとくてんのう)異母弟にあたります。

ご存知のように、あの平家が都落ちの際に、安徳天皇とともに三種の神器(さんしゅのじんき)を持ち去ったため、後鳥羽天皇は後白河法皇の院宣(いんぜん=上皇からの命令を発給する文書)を受ける形で神器の無いまま&安徳天皇が退位しないまま、即位する事になったのです。

その後、あの壇ノ浦(だんのうら=山口県)平家は滅び(2007年3月24日参照>>)源頼朝(みなもとのよりとも)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となって、世は、日本初の武士政権=鎌倉幕府の世となる(7月12日参照>>)わけですが。。。

とは言え、やはり後鳥羽天皇と言えば、天皇の座を第1皇子の土御門天皇(つちみかどてんのう)に譲って、上皇となってからの、あの承久の乱

後鳥羽上皇自らが、鎌倉幕府を相手に兵を起こして敗れてしまった、あの戦いですが、今年は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」という事で、その承久の乱のアレコレについては、
承久の乱勃発~北条義時追討の院宣>>
で、ご覧いただくとして、
本日は、その承久の乱に敗れた後の後鳥羽上皇について、ご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆ 

戦後・・・
後鳥羽上皇に対する幕府の処断は、都から遠く離れた隠岐(おき=島根県隠岐郡)への配流でした。

乱が終結した2か月後の承久三年(1221年)7月6日、洛中の四辻殿(よつつじどの=院御所の一つ)から洛南の鳥羽離宮(とばりきゅう=伏見区中島御所ノ内町:鳥羽殿)に身柄を移される事になった後鳥羽上皇・・・この鳥羽離宮は、後鳥羽上皇がたびたび骨休みに訪れた大好きな別荘でしたが、今回は敗者としての悲しみの行幸でした。

この行幸には、西園寺実氏(さいおんじさねうじ)藤原信成(ふじわらののぶなり)藤原能茂(よしもち)の3人が騎馬で従います。

Gotobatennou700a 離宮に入って後の7月8日、後鳥羽上皇は、絵がうまい藤原信実(のぶざね)を離宮に呼んで、自らの御影を描かせますが、それが、今も水無瀬神宮(みなせじんぐう=大阪府三島郡島本町:上皇の離宮跡に建てられた)に残る、この肖像なのだとか→

その後、警固していた武士に頼み込んで、母の藤原殖子と涙ながらの対面が叶えられた後、

『慈光寺本』によれば…
7月10日には、北条時氏(ほうじょうときうじ=北条義時の孫)が鳥羽離宮にやって来て、弓の片端で後鳥羽上皇の前の御簾(みす=高級なすだれ)をかき上げながら、
「流罪となりましたので、早くお出ください」
と責め立てられ、
(さすがに、そんな失礼な事はしないと思うが…)

後鳥羽上皇が返事すらできずにいると、
時氏は、もう一度、
「お早く~」
とせかします。

すると、後鳥羽上皇は、
「最後にもう一度、伊王丸(いおうまる)にひと目だけでも会わせてほしい」
と答えました。

伊王丸とは、先の藤原能茂の事で、後鳥羽上皇が寵愛していた美少年・・・

時氏が父の北条泰時(やすとき=北条義時の息子・第3代執権)に、どうすべきか相談し、結局、能茂を出家させた後に後鳥羽上皇に面会させる事に・・・

出家して西蓮(さいれん)と号した伊王丸に面会した後鳥羽上皇は、
「そうか。。。出家したのか…ならば私も」
と、後鳥羽上皇も出家して法皇となって、7月13日、隠岐島への旅路についたのでした。

その旅に従ったのは、先の藤原能茂と女房ら2~3人と、旅先でのアクシデントに備えた僧だけだったとか・・・

移動中に見えた水無瀬離宮に、かつての思い出を噛みしめつつ、播磨(はりま=兵庫県南西部)美作(みまさか=岡山県東北部)伯耆(ほうき=鳥取県中西部)を経て、出雲(いずも=島根県東部)へと入り、この出雲の浜から船に乗ったと・・・警固としてついていた武士のほとんどと、ここで別れた後、大浜漁港にて船を乗り換え、

『吾妻鏡』では、
「八月五日丙辰 上皇遂着御于隠岐国阿摩郡苅田郷」
とあり、8月5日に苅田郷(かったごう)という所に到着・・・現在、島根県隠岐郡海士町にある旧源福寺の場所が後鳥羽上皇の在所跡とされています。

この後、約20年ほどの期間、この流刑先にて日々の生活をする事になる後鳥羽上皇ですが、流されてからも、和歌の才能バツグンで上皇自らが勅撰した『新古今和歌集』の選びなおしを行っていたという話など漏れ聞こえる物の、当然、日々の生活のくわしい記録などは、ほとんどないわけで・・・

そんな中で、結局、延応元年(1239年)2月22日後鳥羽上皇は、60歳にて崩御されるのですが、ここで登場するのが怨霊伝説・・・

崩御の時は、隠岐島全体を覆い隠すほどの数の怪鳥が飛び回ったとか・・・
この頃に琵琶湖(びわこ=滋賀県)に突然現れた足が4本ある巨大な怪鳥を人々は「隠岐掾(おきのじょう=隠岐で1番の身分の人)」と呼んで恐れたとか・・・

果ては、この同じ年の暮れに亡くなった三浦義村(みうらよしむら=鎌倉幕府の有力御家人)や翌年の正月の北条時房(ときふさ=北条義時の異母弟)の死は、後鳥羽上皇の怨霊のせいだとか・・・

このような話は、京都在住の複数の公家の日記に登場しますが、もちろん、そのお公家さんたちが、怨霊を見たとか実際に奇怪な出来事に会ったとかではなく、そのような話が町中の噂となっていて、京都の人々が恐れおののいていたという事でしょう。

その一方で、後鳥羽上皇と親しかった藤原定家(ふじわらのさだいえ)は、この後鳥羽上皇の崩御をキッカケにあの『小倉百人一首』をまとめた・・・つまり、あの小倉百人一首は、後鳥羽上皇に捧げた歌集ではないか?
という見方もあります(5月27日参照>>)

ただ「捧げた」のは仮説であったとしても、定家が後鳥羽上皇とかなり親しかった事は確か・・・

なんせ、定家がこの百人一首に選んだ後鳥羽上皇の
♪人も惜(お)し 人も恨めし 味気(あぢき)なく
 世を思ふゆゑに もの思ふには ♪
「今、思えば世の中には愛すべき人も憎い人もいるなぁ」
の歌は、上皇と定家含む5人の友人たちと開いた建歴二年(1212年)12月の歌会の中で詠まれた歌のうちの一首なんです。

結果から見ると、後鳥羽上皇にとっての「味気ない人」は鎌倉幕府・・・とも見れない事も無いですが、先日ご紹介させていただいたように、後鳥羽上皇と幕府がギクシャクし始めるのは、第3代将軍の源実朝(さねとも)が亡くなって(1月27日参照>>)から・・・

そのページに書かせていただいたように(2月4日参照>>)その寸前まで、上皇と幕府は蜜月関係にあり、最高にゴキゲンだったわけです。

上記の歌会が行われたのは、その10年ほど前の事ですから、皇子に皇位を譲って院政を敷き、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇or上皇)となっていた後鳥羽上皇にとって最も隆盛を誇った時期では無かったでしょうか?

たとえ定家の選んだ百人一首が、後鳥羽上皇に捧げた物ではなかったとしても、屈指の歌人として多くの歌を詠んだであろう中、
「上皇が最も輝いていた頃の歌を、上皇を代表する一首として歌集に収めてさしあげたい」
という、定家の思いがあったのかも知れませんね。
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2022年2月16日 (水)

北条義時と和田義盛を訣別させた泉親衡の乱発覚

 

建保元年(1213年)2月16日、鎌倉幕府執権の北条義時を狙った泉親衡の乱の計画が発覚しました。

・・・・・・・・・・

鎌倉幕府初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)が死去(12月27日参照>>)して後、建久十年(正治元年・1199年)に2代目将軍を継いだ源頼家(よりいえ=頼朝と北条政子の嫡男)のもと、幕政を将軍一人に任せるのではなく、13人の主たる御家人たちの合議制(4月12日参照>>)によって運営していく事を決定した鎌倉幕府・・・

一見、近代の民主主義のような良さげなシステムですが、結局は、幕府の方針が力のある御家人の思惑に左右される事になり、将軍のリーダシップも失われてしまうし、当然ですが、誰もが、その「力のある御家人」になりたいわけで・・・

まずは正治二年(1200年)の梶原景時(かじわらかげとき)の粛清(1月20日参照>>)に始まり、その後、頼家が嫁さんの実家として頼りにする比企能員(よしかず)(9月2日参照>>)、さらに頼家自身も元久元年(1204年)に殺害されてしまいます(7月18日参照>>)

ちなみに、この間、鎌倉殿の13人の一人である北条時政(ほうじょうときまさ=北条政子の父)は、頼家の次の将軍として、その弟の源実朝(さねよも)3代将軍に据え(9月7日参照>>)、自らは、その後見人として初代執権(しっけん=将軍の補佐&政務の統轄)に就任しています。

さらに元久二年(1205年)には同じく有力御家人だった畠山重忠(はたけやましげただ)を倒した(6月22日参照>>)北条氏は、時政に代わって(1月6日参照>>)北条政子(ほうじょうまさこ=頼朝室)の弟=北条義時(よしとき)第2代・執権となります。 

こうして、有力御家人が去り、意にそぐわねば将軍でさえ首をすげ替え、父でさえ失脚させる政子&義時の強力タッグですが、そんな中でも侍所別当(さむらいどころべっとう=警視総監)として、未だ力を持っていたのが和田義盛(わだよしもり)でした。

Wadayosimori500ats義盛は、もはや長老の域に達するほど長きに渡って侍所別当の地位にあり、御家人たちからの支持も篤く、また幼くして父の頼朝を亡くした将軍・実朝にとって、亡き父と同い年の義盛は、まるで父の様に信頼できる人物であったようですが・・・

お察しの通り、これは政子&義時の二人にとっては少々脅威・・・

とは言え、この義盛も問題を抱えていました。

それは、本家の三浦(みうら)との惣領問題・・・

和田義盛は、苗字を和田と名乗っていますが、その祖父は、頼朝挙兵の際にいち早く味方になって衣笠城(きぬがさじょう=神奈川県横須賀市)で討死した三浦義明(みうらよしあき)(8月27日参照>>)です。

ただ、義盛の父は義明の長男であり、一旦は家督を継いでいたものの、近隣武将との領地争いで早くに亡くなり、その後、家督は弟(義盛にとっては叔父)三浦義澄(よしずみ)が継ぎ、義澄亡き後の今は、その息子の三浦義村(よしむら)三浦氏の当主となってる・・・

そんなこんなの承元三年(1209年)、その和田義盛が、諸大夫(しょだいぶ=公卿ではない貴族相当の階層)である上総介(かずさのすけ=上総国の事実上の長官)に任命してほしいと願出て来たのです。

諸大夫というのは、いわゆる「侍」の身分より格上・・・北条氏の立場としては、あまりよろしくない。

しかし、上記の通り義盛大好きの実朝は、なんとか義盛の願いを叶えてあげたくて、母に相談・・・

相談された政子は、
「源氏一門でもない義盛を?…前例の無い事をしたいなら、勝手にしぃや!」
と、

母に強く反対されたため、結局は、この義盛の願いが実現する事はありませんでしたが、それでも実朝と義盛の関係が崩れる事は無く、実朝の中では、大江広元(おおえのひろもと)や北条義時、義時の弟の北条時房(ときふさ)に並ぶ人物として、序列のトップクラスに義盛を位置付けて、日々、重要な役目を任せていました。

こうして、
母である政子や叔父である義時&時房兄弟にとって、実朝の義盛へのあまりの心酔ぶりが、少々目障りになりつつあった建保元年(1213年)2月16日
事件は起こります。

泉親衡の乱(いずみちかひらのらん)です。 

…と言っても、実はコレ・・・未遂に終わります。

Seiwagenzikeizu 鎌倉幕府の御家人で信濃源氏(しなのげんじ=長野県の源氏)、小県郡(ちいさがた=長野県上田市周辺)の武将である泉親衡(いずみちかひら=清和天皇の曾孫で頼朝の7代前にあたる源満快の末裔とされる・源氏系図参照→)
郎党(ろうとう=一族・従者)青栗七郎という者の弟と名乗る安念坊(あんねんぼう)なる僧が、

千葉成胤(ちばなりたね)のもとを訪ね、亡き頼家の遺児である千寿丸(せんじゅまる=頼家の三男・後の栄実)を新将軍に担いで、
「北条義時を討とう!」
と誘ったのです。

千葉成胤と言えば、平氏でありながらも、頼朝が大負けした石橋山の戦い(8月23日参照>>)安房(あわ=千葉県南部)に逃走した際、いち早く味方になり、平清盛(たいらのきよもり)の姉婿である藤原親政(ふじわらのちかまさ)を生け捕りにして、なんなら坂東平氏武士団の頼朝派寝返りへをけん引した人・・・ 

「なんで?こんな人を誘たんやろ?」
と、後世の人間としては疑問に思う中、

案の定、成胤は、すぐさま安念坊なる僧を捕縛し、北条義時のもとへと連行・・・

安念坊の自供により、 泉親衡以下、主導した武士130余名、加担した武士200余名に及ぶ事が分かったのです。

義時は、即座に泉親衡捕縛の使者を派遣しますが、それを悟った親衡は、完全武装で抵抗・・・両者合戦となる中、その混乱に乗じて泉親衡は逃走し、以後、行方不明となります。

この合戦時での猛き勇姿や、行方不明という終わり方のおかげで、鎌倉幕府が終わった後の泉親衡には、様々な伝説や民話的な武勇伝が創作される事になるのですが、それらは、また別の機会にお話するとして・・・

そう、今回の謀反は、それ以上に大きな波乱を含んでいたのです。

実は、かの「泉親衡に加担した武将」の中に、和田義盛の息子である和田義直(よしなお)和田義重(よししげ)、甥の和田胤長(たねなが)と他、和田関係十数人が含まれていたのです。

この時、自らの領地にいて鎌倉を留守にしていた和田義盛は、急を聞いてすぐに駆け付けた3月8日、将軍御所に赴いて、息子たちの赦免を実朝に直訴します。

仲良し実朝は、これを衆議にかける事無く、
「父・義盛の勲功に免じて…」
義直と義重=息子二人を許してしまうのです。

すると、その翌日には、和田一族98名を率いて御所の南庭に連座して、今度は、甥の胤長の赦免を嘆願・・・しかし、そこに現れた北条義時が、
「胤長は首謀者の一人やから、許すわけにはイカン!」
と、居並ぶ和田一族の前で、胤長を後ろ手に縛りあげて被官(ひかん=家臣)に引き渡し、屋敷を没収の上、陸奥岩瀬郡(むついわせぐん=福島県)への流罪としたのです。

さらに、通常、罪人となった者のお屋敷は、一族の者に下げ渡される事になっていたのですが、この時の義時は、それを揺るさず、4月になって突然、今回の泉親衡の乱に功績のあった武将へと渡すため、屋敷を管理していた義盛の配下を追い出してしまったのです。

すでに目の上のタンコブだと思っていた和田義盛とその一族に対して、
今回の北条義時は、本気でブチ切れていたのか?

それとも、和田義盛を怒らせるために挑発だったのか?

とにもかくにも、この一件が引き金となって、泉親衡の乱から3ヶ月後の建保元年(1213年)5月2日、幕府を揺るがす和田義盛の乱和田合戦の勃発となるのですが、そのお話は(内容カブッってる部分ありますが)5月2日のページでどうぞ>>
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2022年2月11日 (金)

源実朝の暗殺を受けて~阿野時元の謀反

 

建保七年(1219年)2月11日、阿野全成と阿波局の息子=阿野時元が、鎌倉幕府に反旗をひるがえしました。

・・・・・・・・・

建保七年(1219年)1月27日の源実朝(みなもとのさねとも)の横死は、母の北条政子(ほうじょうまさこ)や、叔父で第2代執権(しっけん=将軍の補佐&政務の統轄)北条義時(よしとき=政子の弟)以下鎌倉幕府に大きな動揺を与えました。
【実朝・暗殺事件の謎】>>
【実朝・暗殺事件の謎part2】>>
【源実朝暗殺犯・公暁の最期】>> 

なんせ実朝は、第3代将軍であり、朝廷からも右大臣・左近衛大将という武家としては未だかつて無いような高い地位にあったのですから・・・

そもそも、
実朝暗殺犯の公暁(くぎょう)も、父である源頼家(よりいえ=実朝の兄)(7月18日参照>>)に代って将軍となった実朝(9月7日参照>>)に対し、父の恨みもさることながら、
「自分も将軍になる資格がある」
とばかりに、実朝に取って代わるつもりで暗殺に走ったわけで・・・

現段階で最高かつ最大の地位が宙に浮いたとなれば、当然、第2第3の公暁=他の源氏の血を引く者が現れんとも限りませんから、政子&義時は動揺しつつも、しっかりと采配を振るわねばなりませんでした。

そこで、すかさず翌日=28日の早朝に鎌倉を発った使者が、2月2日の午後に都へと入り、朝廷に突然の悲報を伝えます。

実朝の名付け親である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)は、水無瀬(みなせ=大阪府三島郡島本町)の離宮にて、この一報を受けますが、早速、都へと戻り、治天の君(ちてんのきみ=皇室の当主として政務の実権を握った天皇または上皇)として浮足立つ皆々に適切な指示を出し、鎮静化を図りました。

その一つには、実朝を祈祷していた陰陽師(おんみょうじ=占いや祈祷をする陰陽寮に属した官職)全員解任てな事も・・・

これは・・・
そう、実朝は、前年の12月に右大臣に昇進した祝賀ための鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)参拝途中で暗殺されたわけですから、ここ何日間か、「右大臣に昇進した実朝に幸あれ」と祈祷していた陰陽師たちは、その祈祷に失敗した事になりますからね。

とは言え、その陰陽師たちの先頭にいるのは天子たる後鳥羽上皇自身なんですけどね。。。

まぁ、肉体精神ともに頑丈を絵に描いたような、さすがの後鳥羽上皇も、このあと少々体調を崩されたようなので、やはり、かなりの衝撃だったのでしょう。

Houzyoumasako600ak 一方、鎌倉は・・・

実朝の死を京都に伝えた使者が鎌倉に戻って来たのが2月9日、その4日後の13日には、北条政子は、後鳥羽上皇の皇子である
頼仁親王(よりひとしんのう=母は坊門信清の娘)もしくは雅成親王(まさなりしんのう=母は藤原重子)のどちらかに、速やかに鎌倉に下向願います」
の要請する使者=政所別当二階堂行光(にかいどうゆきみつ)に、御家人たちが連署した奉状を持たせて都に派遣しています。

先日(2月4日参照>>)書かせていただいたように、実朝生前から、これ=「頼仁親王か雅成親王が次期将軍になる事」が幕府の総意であり、すでに約束された事なのです。

さらに、その翌日には伊賀光季(いがみつすえ=北条義時の義息子)を、29日には大江親広(おおえのちかひろ=大江広元の長男)京都の警固のために派遣します。

こうして、必死のパッチで事の鎮静化を図る政子&義時・・・しかし、その懸念は、ほどなく的中するのです。

建保七年(1219年)2月11日、今は亡き阿野全成(あのぜんじょう)の息子=阿野時元(ときもと)が、駿河(するが=静岡県東部)阿野(あの=静岡県沼津市井出周辺)山中に立て籠り、そこに城郭らしき物を構えて
「我こそは東国の支配者!」
とばかりに、謀反を企てたのです。

阿野時元の父である全成という人は、頼朝のお父さんである源義朝と、宮中一の美女・常盤御前(ときわごぜん)との間に生まれた源氏の血脈を持つ人・・・

あの源義経(よしつね)同母兄で、平治の乱に敗北した義朝が亡くなった時に(1月4日参照>>)、勝者=平清盛(たいらのきよもり)のもとに出頭した常盤御前(1月17日参照>>)が連れていた3人の男児のうち、1番年長の男の子。

美人の常盤御前に惚れた?清盛が、常盤御前が自分の愛妾(あいしょう=おめかけさん)なる事を条件に、3人の息子の命を保障すると約束した時、

未だ乳飲み子だった義経だけは、しばらく手元に残したものの(その後、鞍馬寺に預けられます)、全成は醍醐寺(だいごじ=京都市伏見区醍醐)に預けられて出家させられていたのでした。
(真ん中の義円は円城寺=三井寺に預けられます)

その後、頼朝の挙兵を聞いて、治承四年(1180年)、石橋山の戦い(8月23日参照>>)頼朝が敗北した直後に源氏軍に合流し、そのまま、兄の頼朝らとともに平家討伐を成功させましたが、頼朝が亡くなって後の建仁三年(1203年)、2代目将軍を継いだ源頼家との折り合いが悪く、謀反人として捕縛されたあげくに流罪となり、その年の6月に無念の死を遂げていました。

この時、息子である時元の身も、危うかったのですが、実は時元の母は、あの北条政子の妹=阿波局(あわのつぼね=「鎌倉殿の13人」では実衣という名前で登場してます)・・・なので、この時元は、他の女性が産んだ子供を含めたら全成の四男になるのですが、母が北条氏だという事で嫡男として大事にされていた事もあって、

祖父である北条時政(ときまさ=政子の父)や、伯母の政子の働きかけもあって、領地である阿野荘に引き籠って隠棲生活(いんせいせいかつ=俗世間を離れて静かに暮らす)を送る事を条件に命救われていたのでした。

しかし、ここに来て、頼朝の嫡流の実朝が死に、実朝を暗殺した同じく頼朝嫡流の公暁も死に・・・数少ない源氏の血脈を受け継ぐ者の一人として、北条氏が牛耳る鎌倉幕府に反旗をひるがえしたワケです。

この情報を4日後の15日に聞いた鎌倉の北条政子ら・・・早速、北条義時が、武装した御家人たちを駿河に向かわせます。

一方の時元は、
「自らが動けば周囲も動く」
と思っていたものの、実際には思ったように兵は集まらず・・・

しかも義時らが迅速に動いた事で、時元は、22日には時元は自害に追い込まれてしまいました。(『承久記』より)
(『大日本史料』では2月11日に討死)

さらに義時は、今回のような謀反を防ぐべく

時元の弟で実相寺(じっそうじ=静岡県富士市岩本:實相寺とも)の僧侶となっていた道暁(どうきょう)3月27日に殺害。

翌承久二年(1220年)4月15日には、三浦義村(みうらよしむら)の弟=三浦胤義(みうらたねよし)が、京にて助命活動に動いていた源頼家の遺児=禅暁(ぜんぎょう=公暁の異母弟)も、公暁に加担したとする罪で、京都に滞在中の二階堂行光によって、京都の外れにて討たれてしまいました。

一説には、後の承久の乱(じょうきゅうのらん)で、三浦胤義が京方(後鳥羽上皇側)について幕府と敵対するのは、この禅暁の一件が絡んでいるとも言われます(5月15日参照>>)

とまぁ、電光石火の早わざで、次々と源氏の血脈を潰していった鎌倉幕府・・・思えば、頼朝&政子夫婦の血を引く男子は、ここで全滅した事になります。

なんせ、上記の通り、
「後鳥羽上皇の皇子である頼仁親王か雅成親王に次期将軍になってもらう事」
が幕府の方針であり、決定事項なのですから、もはや、いらぬ芽は摘んでおくに越した事は無いのです。

ところが・・・

ここに来て、後鳥羽上皇の親王将軍の考えに揺らぎが・・・・もちろん、それは実朝の死という想定外の出来事があったからなのですが、

結局、この後鳥羽上皇の「やっぱ、皇子を鎌倉になんかやらんゾ!」の手のひら返しから、一刻も早い親王の鎌倉下向を望む幕府が、武装して都へ向かう事態となり(3月9日参照>>)

やがて、あの承久の乱へと向かって行く事になるのは、皆さまご存知の通りです。

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2022年2月 4日 (金)

北条政子の上洛~源実朝の後継者に親王将軍という選択

 

建保六年(1218年)2月4日、北条政子と、その弟の北条時房とともに上洛の途につきました。

・・・・・・・・

鎌倉幕府、初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)が亡くなって17年(12月27日参照>>)・・・さらに、第2代将軍源頼家(よりいえ=頼朝と政子の長男)が亡くなって12年(7月18日参照>>)が過ぎた建保四年(1216年)は、その後を継いだ第3代将軍の源実朝(さねとも=頼朝と政子の嫡出次男)にとって、将軍に就任(9月7日参照>>)して11年めの年でした。

Minamotonosanetomo600 しかし、この頃の幕府にとって懸念される問題が一つ・・・

実は、実朝は、すでに12年前に坊門信清娘(ぼうもんのぶきよのむすめ=信子?)との結婚を果たしていますが、未だに子供をもうけていませんでした。

しかも、実朝には(しょう=側室)もいません

また、『吾妻鏡(あづまかがみ=鎌倉幕府の公式文書)によれば、
ちょうどこの頃、官職についてアドバイスする大江広元(おおえの ひろもと)に対して、
「源氏の正統この時に縮まりをはんぬ
 子孫あへて之を相継ぐべからず
 然らばあくまで官職を帯び
 家名を挙げんと欲す」
つまり
源氏の嫡流は僕の代で終わり、子孫が継ぐ事は無いから、せめて、高い官職について家名を挙げたいと思う」
と、なぜだか、
「もう子供はできない」
と思っていたようです。

それ以上の事は書いてないので、なぜ?本人がそう思ったのか?はわかりませんが、おそらくは、その実朝の思いは、それとなく、母の北条政子(ほうじょうまさこ)や幕府の重鎮たちにも伝わっていたようで・・・

そこで実朝は、自身の名付け親である後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)皇子(親王)を、自らの後継将軍に迎えるという策を模索し始めたのです。

それは、やがて幕府全体の意向となっていき、
建保六年(1218年)1月15日に、幕府政所(まんどころ=鎌倉幕府の一般政務・財政を行う)にて、北条政子の熊野詣(くまのもうで)に関する審議が行われ、政子の弟の北条時房(ときふさ)が、それに同行する事が決定されたのです。
熊野詣については…1月22日参照>>)

Houzyoumasako600ak 政子個人の熊野詣を幕府の政所で審議する???

そう、これこそが、「後継将軍に親王を迎える」事を朝廷に打診するための旅だったのです。

ただ、上記の通り、今はまだ打診・・・

正式には何も成っておらず、幕府感を全面に押し出しての上洛ができないため、
政子が熊野詣に行く・・・ほんで、そのついでに上洛して関係者にご挨拶・・・のテイを取ったわけです。

弟の時房が同行すのは・・・
「時房は、蹴鞠(けまり)が、かなり上手だった」と伝わっているところから察すると、おそらく、上洛した事があり、その時に公家衆との交流もあり、京都に慣れてるから・・・って事でしょう。

なんせ、北条政子は、この歳になって京都初体験ですから・・・

かくして建保六年(1218年)2月4日北条政子と北条時房が上洛の途についたのです。

京都に着いた政子は、早速、藤原兼子(ふじわらのけんし=卿局・卿二位)に会い、交渉を進めます。

彼女=藤原兼子は、後鳥羽上皇の第?皇子の頼仁親王(よりひとしんのう)の養育係・・・実は、この頼仁親王のお母さんは、実朝の奥さんのお姉さんだったんですね。

 しかも、藤原兼子は頼仁親王を
「サラズハ将軍ニマレ」
つまり
(ホントは皇位について欲しいけど親王多すぎなので)それがダメなら将軍に…」
と、常々思っていたらしく、話はとんとん拍子に進み

見事、
「頼仁親王か、もしくは雅成親王(まさなりしんのう=母は藤原重子のどちらかを鎌倉に下らせる」
という約束を取り付けたのです。

兼子と政子という女性同志の非公式な交渉であったものの、それはお互い、朝廷と幕府の代表であり、後鳥羽上皇対源実朝&北条義時(よしとき=北条政子の弟で鎌倉幕府第2代執権)の代弁者同志の会見でもありました。

もちろん、お互いにメリットがあります。

後鳥羽上皇としては我が子を将軍に据え、さらに自分の事を敬ってくれる実朝を、その後見人とする事で、幕府を自身のコントロール下に置く事ができるかも知れないわけですし、

幕府は幕府で、天皇の皇子を鎌倉に迎え、その後見をする事で、王や公家社会と言う日本の伝統的権威を幕府の中に取り込む事ができるわけです。

以前、政子さんの亀の前(頼朝の愛人)襲撃事件のページ(11月10日参照>>)でもお話させていただきましたが、そもそもの北条氏は、源氏の嫡流と婚姻できるような家柄では無かったですから、その北条氏が、現段階で幕府の中心を成している事に、かなりのコンプレックスがあったでしょうしね。

て、事で、これはまさに「win-win」・・・

後鳥羽上皇もノリノリで、政子と時房を破格の待遇でもてなしたばかりか、政子が京都滞在中の3月6日には、鎌倉にいる実朝を、父・頼朝の右近衛大将を越える左近衛大将に任命し、さらに4月3日には、尼である政子に従三位(じゅさんみ=正三位の下で正四位の上の官位)を授けるのです。

政子は、すでに夫を亡くして出家の身・・・これまで出家している女性に対する叙位は准后(じゅごう=太皇太后・皇太后・皇后)だけに限られていたのですから、ここに来て完全に特別扱い出世です。

しかも後鳥羽上皇は、政子に対して
「拝謁を許すから御所においでよ!」
とまでおっしゃる。。。

さすがにこれは、政子の方が
「田舎者の老尼が天子様のお顔を拝するなど、おそれ多い」
と丁寧に辞退し、あまりのサービスぶりが怖くなったのか、そそくさと鎌倉へ帰って行きました。

それからも2~3月ほど滞在した時房は、お公家さんたちと蹴鞠三昧・・・その姿を見た後鳥羽上皇が、
「君、蹴鞠メッチャうまいやん!日本代表なれるで」
と褒めたたえ、その後鎌倉に戻った時房は自慢しまくりだったとか・・・

その年の暮れには、実朝が右大臣に昇進する事になり、ここに朝廷と幕府の蜜月も極まれり!!!

…だったワケですが・・・

そう・・・年が明けてまもなく、その右大臣昇進の祝賀の儀が行われる建保七年(1219年)1月27日の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市雪ノ下)。。。

その参拝の帰りに、実朝は、兄=頼家の遺児である公暁(くぎょう)殺害されてしまいます。
【実朝・暗殺事件の謎】>>
【実朝・暗殺事件の謎・パート2】>
【源実朝暗殺犯・公暁の最期】>>

ご存知のように、この実朝の死から、朝廷と幕府のすべてが狂い始めるのです。

おそらく「鎌倉殿の13人」でも山場となるであろう【承久の乱】>>ですが、

その前に・・・一応、後鳥羽上皇と鎌倉幕府、お互いに譲り合って「摂家将軍(せっけしょうぐん=摂関家から将軍を出す)で、一旦落ち着くのですが、そのお話は3月9日のページ>>で・・・
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2022年1月19日 (水)

華厳宗の中興の祖~月の歌人・明恵上人

 

寛喜四年(1232年)1月19日、 華厳宗の中興の祖とされる明恵上人が、60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・

明恵(みょうえ)上人は、鎌倉時代の僧です。 

現在の和歌山県有田川町の出身で、地元の有力者の家に生まれますが、わずか8歳で母を失い、その翌年に父が源平の合戦で討死した事から、京都神護寺(じんごじ=京都市右京区高雄)にて文覚(もんがく)(7月21日参照>>)の弟子となっていた叔父(母の弟)上覚(じょうかく)を頼って、彼もまた神護寺に入って修行し、17歳となった文治四年(1188年)に出家し、奈良東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)にて戒律を受けました。

この頃の明恵は、神護寺や東大寺だけでなく、仁和寺(にんなじ=京都市右京区御室)に行っては真言密教(しんごんみっきょう)を学び、栄西(えいさい)(7月5日参照>>)のもとに行ってはを学び・・・と、とにかく勉強熱心な僧でした。

ところが21歳の時、誘われた大規模な法会(ほうえ=僧侶・檀信徒の集まり&勉強会)への参加を断るや否や、故郷の有田に戻り、一切の俗世間との縁を断って山中にて修行する遁世生活に入ったのです。

Myoue700at 山寺も 法師くさくは ゐたからず
 心きよくは くそふくにても ♪

これは、明恵がこのころに詠んだとされる歌ですが、、、

「トイレ掃除してたって、心さえキレイなら、山寺の法師より臭くない」
と、まぁ、寺にいる他の僧に対して、かなりご立腹の様子・・・

…というのも、彼は勉学に励むだけでなく、自然の中で厳しい修行に励み、少しでも仏に近づきたいと願っていたようで・・・そのあまりの思いから、右耳を自ら切り落とした事もあったとか・・・とにかく、自分に厳しい人だったようです。

一時は、文覚に誘われて、後進に華厳宗(けごんしゅう=中国大乗仏教の宗派)の教学を講じた事もあったようですが、やっぱり、学問としての教説を理解しつつも実際の修行重視で、結局は山に戻り、座禅修行や戒律厳守で、その身を高める事をよしとしました。

そんな中で、自ら天竺(てんじく=仏教の聖地・現在のインド周辺)に行こうと試みた事もあったようですが、病気やら何やらで断念・・・

していたところに、時の後鳥羽天皇(ごとばてんのう=第84代)から、栂尾(とがのお=京都市右京区)の地を賜り、建永元年(1206年)、そこに高山寺(こうざんじ=京都市右京区梅ヶ畑)開山しました。

有名な歌『女ひとり』の2番の歌詞に出て来る
♪きょうと~とがのおこうざんじ~♪
と、恋に疲れた女がたたずむ、あのお寺です。

Dscf0436a1200
高山寺・金堂

先に書いた通り、驚異的な教説理解による学問僧でありながら実践修行を重んじる明恵は、研究と実践の統一を図るべく尽力し、一般人にも理解しやすい書物の執筆にも力を注ぐ一方で、人々の救済にも、その身を顧みず挑みました。

「無欲無私にて清廉、生きとし生ける物を慈しみ、権勢・権力を恐れず、自らを律し、釈尊(しやくそん=お釈迦様)に一歩でも近づきたい」・・・それが、明恵の考え方でした。

それが見事に表されているのが、承久三年(1221年)に勃発した承久の乱(じょうきゅうのらん)(5月15日参照>>)

この時、敗走して来た京方(後鳥羽上皇=朝廷方)の兵が高山寺に逃げ込んで来て、その引き渡しを要求する幕府方(北条方)に、

「私は仏弟子として学問の道を志してますので、俗世間とは一切関係ございません。
よって、紛争が起こっても、どちらかに味方したり、敵になったりする事はありません。
この高山寺の境内は、すべて仏に捧げた聖地ですから、ここで鳥獣を殺生する事さえ許されませんのに、
増して人間を捕縛&殺傷するなど、ありえません。
私が、この寺にいる限り、切羽詰まって逃げ込んで来る者は助け、敵味方の区別なく庇護します。
それが、仏弟子としての私の責任なんです。
もし、それがソチラにとって不都合なら、私の首を斬りなさい」

と一蹴・・・この明恵上人の言葉を聞いた北条泰時(ほうじょうやすとき=北条義時の息子:後の第3代執権)は、その凛々しい態度に感銘を受けて、明恵上人を罪に問う事は無かったそうです。

もちろん、泰時だけでなく、多くの人々からの尊崇を集めた明恵は、寛喜四年(1232年)1月19日60歳にして入滅します

最期の場所となったその部屋は、華厳と真言密教を融合した独自の宗教観を表すように、様々な曼荼羅(まんだら=仏の集会を図像化した物)諸聖衆図(しょしょうじゅうず=聖者の図)などが飾られる信仰の多様性に満ちた空間だったとか・・・

そんな明恵の有名な言葉が、
「人は阿留辺幾夜宇和と云ふ七文字を持つべきなり」
という言葉・・・

「阿留辺幾夜宇和」「あるべきようわ」と読み、言葉そのままの意味だと「あるがままに…」みたいな感じですが、英語で言う「 Let It Be」とも違い、明恵の言う「あるがままに…」は、

「今、その時、その場面において、自らが最善と思う生き方をしろ」
みたいな事だそうです。

僧なら僧の…あるべきように、
一般人なら一般人の…あるべきように、

帝王なら帝王のあるべきように、
臣下なら臣下のあるべきように、
そうしないから、この世から悪がなくならない…と続けています。

また明恵は、
♪あかあかや あかあかあかや あかあかや
 あかあかあかや あかあかや月 ♪
という歌を詠んで「月の歌人」とも称されますが、

この歌は、
「歌を詠もうとするから、うまく詠めないんよ。
何とは無く、ただ、心のままに感じたまま詠めば良い」
と、これまた「あるべきようわ」の精神を実践した歌です。

明恵は、かの栄西に教えを請うた時、栄西が中国から持ち帰ったお茶の種を分けてもらった事があります。

その時、明恵が植えたお茶の種は高山寺にて成長し、やがて、鎌倉から室町時代にかけて、「栂尾産のお茶は最高級茶葉」(10月31日参照>>)もてはやされるようになります。

その茶葉のように、明恵の精神も脈々と受け継がれていく事になったのです。
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