2009年10月11日 (日)

時代の波に呑まれた穏やかな天皇・土御門天皇

 

寛喜三年(1231年)10月11日、第83代・土御門天皇が、流刑先の阿波にて崩御されました。

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第83代・土御門(つちみかど)天皇・・・当代まれにみる心穏やかな天皇ですが、その性格とはうらはらに、激しい気性の父・後鳥羽天皇(第82代)と弟・順徳天皇(第84代)に挟まれて、時代の渦に容赦なく巻き込まれてしまうのです。

その波乱は、わずか4歳で即位した建久九年(1198年)から始まります。

その即位はきわめてあわただしいもので、後鳥羽天皇の3人の息子の中から卜筮(ぼくぜん)・・・つまり、占いで決められたと言います。

占いが行われたのが建久九年(1198年)の正月7日、その3日後の10日には、その占いで後継ぎと決まった第1皇子を為仁と命名し、翌日の11日には皇太子、同じ日に即、践祚(せんそ・天子の位を受け継ぐ事)の儀式が行われ、この時は、まだ3歳の幼児でした。

百人一首でお馴染みのあの藤原定家は、その日記『明月記』の中で、天皇の後継者を決めるという重要事項が、いとも簡単に、軽率に行われた事を、激しく非難したりしています。

ただ、これは、記録上は「占い」となっていますが、為仁親王の母・在子(ありこ)の養父である源通親(みなもとのみちちか)の意向が多分に含まれているようです。

通親は、この2年前の建久七年(1196年)に政変を起して関白・九条兼実(かねざね)を失脚させ、事実上、政界のトップとなっていた人で、いくら気性が激しくとも未だ17~18歳だった後鳥羽天皇は、その権力に押し切られた・・・というところでしょうか。

かくして、同じ建久九年(1198年)の3月にその為仁親王が第83代・土御門天皇として即位するわけですが、もちろん、そこにはご本人の意思など存在しません・・・まだ4歳ですからね。

しかし、その通親の栄華も、そう長くは続きませんでした。

土御門天皇に皇位を譲って上皇となっていた後鳥羽天皇(上皇)が、年齢を重ねるにつれ、徐々にその気性の激しさを見せ始め、先の政変で失脚した九条兼実の息子・良経(よしつね)を左大臣にするなど、自らの意志により人事を決定するようになる中、建仁二年(1202年)の通親の死を以って、その権力の逆転は決定的となります。

一方、鎌倉幕府のほうは、あの源頼朝が正治元年(1999年)に亡くなり(12月27日参照>>)、元久元年(1204年)には第2代将軍となった頼家も暗殺され(7月18日参照>>)、第3代将軍・実朝(さねとも)外戚(母親の実家)として&執権として、北条氏の幕府と化していました。

この時期、そんな鎌倉幕府と緊張関係になりつつあった後鳥羽上皇は、穏やかな性格の土御門天皇を「ぬるい!」として、自分と同じく気性の激しい3番目の息子(つまり土御門天皇の弟)守成(もりなり・もりひら)親王皇位を譲るよう土御門天皇に迫ります。

そこは、心穏やかな土御門天皇が反発するはずもなく、いや、心の中ではしぶしぶだったかも知れませんが、承元四年(1210年)、その弟に皇位を譲ります

これが第84代・順徳天皇(12月28日参照>>)・・・土御門天皇は、土御門上皇となります。

しかし、この間にも、後鳥羽上皇と幕府との緊張は徐々に高ぶっていきます。

やがて、建保七年(承久元年・1219年)、将軍・実朝が暗殺される(1月27日参照>>)に至って、この幕府のゴタゴタを好機とみた後鳥羽上皇は、倒幕の計画を立てる事になります。

ご存知、承久の変です(5月14日参照>>)

しかし、父・後鳥羽上皇が「ぬるい!」と言った土御門上皇のその穏やかな性格は、ぬるいというよりは冷静という表現のほうが似合いそうだと思います。

この時、土御門上皇は、父に「今は、その時期ではありません!」と、しっかりといさめています。

結果論ではありますが、イケイケムードで突き進んだ父と弟の間で、この土御門上皇が一番冷静に状況を把握していたのかも知れません。

しかし、当然の事ながら、後鳥羽上皇は、土御門上皇の意見など一蹴して、幕府への反旗をひるがえし、見事、大敗を喫してしまいます。

倒幕に失敗した後鳥羽上皇は隠岐へ流され(7月13日参照>>)、順徳天皇(上皇)佐渡へと流されました。

そんな中、先に反対していた事もあって承久の変にはノータッチだった土御門上皇には、何の咎めもなかったのですが、そこが、心優しい土御門上皇・・・「父と弟が流罪となったのに、自分だけが京の都に留まるわけにはいかない」と、自らが流罪を申し出ます。

もちろん、幕府は「その必要はない」と断りますが、頑として聞き入れない土御門上皇の姿勢に負け、「そこまでおっしゃるのなら・・・」と、土佐への配流を決定しました。

後に、阿波へと移転して、計・10年という月日を四国で過ごす事になる土御門天皇ですが、そこは幕府も、乱の首謀者である後鳥羽上皇や順徳上皇とは、まったく扱いを変え、土御門天皇には守護に命じて、現地に御所を造営するなど、流人とは思えない待遇で接しています。

かくして寛喜三年(1231年)10月11日、流刑の地である阿波でお亡くなりになった土御門上皇・・・上皇には10男9女という子宝があり、その多くは仏門に入りましたが、源通子(みなもとのみちこ)との間に生まれた邦仁(くにひと)だけが仏門には入らず、後に、第88代・後嵯峨天皇として即位しています。

第87代・四条天皇が、わずか12歳で亡くなり、その後継者に乱に加わった順徳天皇の系統を据える事をヨシとしなかった幕府の意向によって、乱とな関係のない土御門天皇の皇子に白羽の矢が立ち、後嵯峨天皇の即位となったわけですが、思えば、この後、ず~っと、この後嵯峨天皇の血筋が天皇を引き継いでいくのですから、まさに、沈黙の勝利・・・穏やかな土御門天皇の系統が最後まで残った事になります。

ちなみに、日蓮宗の開祖・日蓮が、この土御門天皇のご落胤という話もありますが、日蓮本人は「名もなき漁民の子」と言って、その名を明かしていないので、本当かどうかは定かではありません。
 

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2009年9月 2日 (水)

鎌倉幕府・震撼~比企能員の乱

 

建仁三年(1203年)9月2日、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の嫁の実家である比企氏が、頼家の母の実家である北条氏によって滅ぼされる比企能員の乱がありました。

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本日の比企能員の乱については、先日の源頼家(よりいえ)さんのご命日に、少し書かせてはいただきましたが、やっぱり外せない鎌倉幕府の一大事件という事で、内容かぶりつつも、今日も書かせていただきます。

比企能員(ひきよしかず)は、その出自は明らかでないものの、幼い時に、叔母である比企禅尼に引き取られて養育され、その比企禅尼が源頼朝の乳母だった事から、あの伊豆での挙兵(8月17日参照>>)以来、ずっとそばにいて頼朝を支え、藤原氏を滅亡させた奥州遠征(8月10日参照>>)でも、片翼の大軍を任されるほどの有能な側近でした。

頼朝の死後、2代目将軍を継いだ頼家のもとで、13人の御家人による合議制による体制が敷かれる事になりますが、能員は、その13人のメンバーにも入っていました。

しかし、その13人の中の1人であり、頼朝・頼家父子からの信頼も篤かった梶原景時が非業の死(1月20日参照>>)を遂げた頃から、徐々に世代交代の波が押し寄せます。

もちろん、それは、確執や争いからだけでなく、年齢というものもあります。

三浦義澄(よしずみ)安達盛長千葉常胤(つねたね)など、頼朝とともに戦って源氏の世を勝ち取った第一世代が、その年齢もあって相次いで亡くなり、幕府内の序列というものが大きく変わろうとしていたのです。

そんな中、年齢のわりに元気ハツラツなのは、頼朝の嫁・政子の父・北条時政・・・気を使わねばならない老臣たちがいなくなってきて、息子の義時(よしとき・政子の弟)とともに、まさにその権力を一手に引き受けようとしていましたが、彼らのライバルとなったのが能員です。

なんせ、能員は、頼朝が流人の時代からのおつきあいですし、彼の娘・若狭局(わかさのつぼね)は、2代将軍・頼家の側室となって一幡(いちまん)という男の子ももうけていました。

しかも、頼家はその若狭局にベタ惚れ・・・なにかと実家を引き立てます。

これは、いけません!

確かに、頼家も時政にとっては孫ではありますが、このままでは、その一幡くんが次期将軍・・・そんな事になったら、将軍の外戚(母方の実家)として、ますます比企氏の力が・・・

ところが、そんなこんなの建仁三年(1203年)、8月に入って、頼家が病に倒れ、一時は重体という事態となってしまいますが、逆に時政は、これ幸いと、かの合議制をうまく利用して将軍の権力を2分化する作戦に出ます。

それは、総守護職と関東28ヶ国の地頭職を頼家の子・一幡に・・・、関西38ヶ国の地頭職を頼家の弟・千幡(せんまん)に相続させるという案でした。

これで、頼家にもしもの事があったとしても、千幡の外戚(千幡の母は政子ですから)として時政も腕をふるう事ができます。

しかし、比企氏へのイケズとしか思えないこの案のゴリ押しに、怒り心頭なのは能員・・・そこで、能員は若狭局を通じて頼家に、「将軍が病気なのをええ事に、時政父子が千幡を担ぎ出して将軍職を奪おうとしてまっせ」と告げたのです。

この話に、病気とは思えないほどの怒りをあらわにする頼家・・・早速、枕元に能員を呼び寄せて、北条討伐の密議をこらしますが、これを障子の影から家政婦のように「見ちゃった・・・」のは、市原・・・いや、政子です。

かくして建仁三年(1203年)9月2日・・・政子の使いから、急を知らせる書状を受け取った時政の行動は素早い!

早速、政所(まんどころ・政務を取り仕切る所)の長官だった大江広元の承諾を得て、「将軍が病気なのをええ事に、その命令やと偽って、叛逆を企ててるので、ともに出陣せぃや!」と、天野遠景(とうかげ)仁田忠常(にったただつね)に命じます。

・・・と、この時、遠景が、「あんなジイサンに軍隊出す必要ないやろ!呼び出して殺ってまおうぜ!」と進言・・・まもなく、工藤五郎という男が使いとなって、「薬師如来の供養をするので、ウチに来てね(≧∇≦)」と、能員を北条邸へと誘います。

誘いを受けた比企邸では、一族・親類が、「行くのなら、甲冑に身を包んで、兵を引き連れて行くべき!」と提案しますが、将軍との密議がバレてるとは思わない能員は、「いやいや、武装していったら、かえって怪しまれるやろ・・・」と、平服のまま、数人の郎党を連れただけの状態で北条邸へと向かいます。

迎える時政は、自ら甲冑に身を固め、弓の名手を左右の小門に控えさせ、先ほどの遠景と忠常を脇戸の影に潜ませます。

やがて、そうとは知らずにやって来た能員が、惣門をくぐり、馬から下りた、その時!

遠景と忠常が飛び出し、左右から能員の腕を押さえ、有無を言わさず首を取ってしまいました。

慌てた郎党は、われ先にと比企邸に逃げ帰り、異変を知った比企一族は、とりあえず一幡を奉じて小御所に立て籠もります。

これに対して、時政は、幕府御家人を総動員しての大軍勢で小御所を取り囲み、すかさず攻撃開始!

守る比企氏は、能員の息子たちはもちろん、娘婿の笠原親景中山為重なども馳せ参じ、勢ながらも大奮戦しますが、いかんせん多勢に無勢・・・やがて親景が討たれ、為重が負傷する中、最期を悟った能員の嫡男・比企時員(ときかず)は、わずか6歳の一幡を抱きかかえ、燃え盛る炎に身を投じました。

こうして、比企氏は、わずか一日の変事によって滅亡する事となったのです。

その後、病が癒えた将軍・頼家の運命は、そのご命日に書かせていただいた通り(7月18日参照>>)・・・第3代の将軍は、先の争いで一幡のライバルとなった千幡が継ぎます・・・ご存知、実朝(さねとも)です。

・・・とは言え、上記の出来事は、北条家の正史『吾妻鏡』に書かれている事で、実際のところ、この騒動のおおもとである頼家と能員の密議でさえ、本当にあったのか?どうなのか?・・・なんせ、すべてが北条氏の言い分ですから・・・。

しかし、細かな描写はともかく、ここで、比企氏という一族が、滅亡してしまう事は、おそらく事実・・・時政の呼びかけに応じて、小御所を囲んだ御家人の中には、未だ現役で頑張る第一世代の生き残り、和田義盛畠山重忠もいました。

かの頼朝と苦労をともにして、やっと得た源氏の世・・・身体をはって山を駆け下り、命を賭けて瀬戸内を渡り、夢見た未来は、同志が同志を討つ、こんな世界だったのでしょうか?

そして、そんな彼らも、やがて、北条氏の画策によって、今日の比企氏と同じ運命をたどる事など、みじんも思っていなかったに違いありません。
 ・2年後の6月22日【武蔵二俣川の合戦】>>
 ・10年後の5月2日【和田義盛の乱】>>

彼ら老臣の死によって、もはや北条を押える者はいなくなりました。
 

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2009年7月18日 (土)

父に愛され、母に抹殺された鎌倉2代将軍・源頼家

 

元久元年(1204年)7月18日、伊豆・修善寺に幽閉されていた鎌倉幕府第2代将軍・源頼家が入浴中に謀殺されました

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栄華を誇った平家一門を倒し、鎌倉幕府という武士政権を誕生させた、ご存知・源頼朝(よりとも)・・・

そんな頼朝と、妻・北条政子の間に、長男の頼家(よりいえ)が誕生したのは、頼朝が富士川にて平家を破った(10月20日参照>>)後・・・寿永元年(1182年)の事でした。

石橋山の敗戦から再起を誓って、そして富士川で勝利して・・・打倒平家と、その後の源氏の世を夢見る頼朝にとって、自らの後継者の誕生は、ことのほか嬉しかったようです。

やがて、成長した頼家は、父の期待を裏切る事なく、りっぱな体格の少年に育ち、父の言う事をよく聞き、武芸にも勉学にも励む素直な性格でした。

頼家が、富士の裾野で開かれた狩りに、大人に混じって参加した12歳の時、初めての狩りにも関わらず、見事、鹿を射止めた事があったのですが、大いに喜んだ頼朝は、すぐに祝宴を開き、さらに、鎌倉にいた政子のもとにルンルンの手紙を出しています。

ところが、それを受け取った政子は、「武士なら当たり前」と、意外と冷静・・・どうやら、このお父さんとお母さん、子育てに対する信念が、ちょっとばかり違ったようではあります。

そんな両親の間で、なかなかの武将に育った頼家でしたが、悲しいかな、次期将軍への完璧なバトンタッチの土壌を設定する前に、父・頼朝は亡くなってしまいます(12月27日参照>>)

その頼朝の後を継いで、18歳で二代目将軍となった頼家・・・

そもそも、流人の身であった頼朝が、今までに無い武家政権を造れた背景には、ためにならないと思えば身内でもバッサリと排除する一方で、有力だと思える武将は御家人として重用し、その賞罰には私情を挟む事なく、絶妙なバランスで配下の者を管理していた事があったわけですが、どうやら、政子をはじめ、頼朝と苦楽をともにした御家人たちは、頼家には、未だそんな幕府を統率する能力がないと判断したようです。

それが、合議制のスタート・・・政子の父の北条時政をはじめとする御家人・13人による合議制で、幕府の重要事項の決裁をするというものでした。

先進的なシステムではありますが、当然の事ながら、これでは、将軍のリーダーシップを発揮する事はできません。

それこそ、頼家が、父の期待を裏切るようなボンクラな武将でいてくれたら、そのままうまくいったのかも知れませんが、なまじ、なかなかの器量を持ち合わせていたぶん、その不満はつのります。

さらに、その合議制は、将軍ではない力のある御家人の意見jに左右される状況となってきます。

そんな時に力を持ち始めたのが、比企能員(ひきよしかず)です。

彼は、頼朝の乳母の養子で、妻は頼家の乳母、さらに、娘・若狭局は頼家の寵愛を一身に受け一幡(いちまん)という息子ももうけています。

これは、嫁・政子の実家として御家人トップの座にいた時政と息子・義時(政子の弟)にとっては、由々しき問題です。

そんなこんなの建仁三年(1203年)、頼家が病にかかり、一時重体となった事をきっかけに、時政らが動き始めます。

それは、総守護職と関東28カ国の地頭職を頼家の長男・一幡に、関西38カ国を頼家の弟・千幡(せんまん)に相続させようというもの・・・

そうです、現在、重体にある頼家に、このまま、もしもの事があると、ずべてが、その息子である一幡に行ってしまいますから、少しでも、それを阻止しようと企んだわけです。

・・・で、この弟の千幡・・・頼家の弟という事は、そう、母親は政子その人ですから、何とか、半分だけでも、北条が外戚として、その勢力を維持できる事になります。

しかし、当然の事ながら、能員側は不満です。

そこで、若狭局を通じて、病床に頼家に、「北条は、千幡を担ぎ出して、将軍職を奪おうとしてる」とチクリ・・・その話を聞いた頼家は激怒!

すぐさま能員を呼び寄せて、北条討伐の密議を交わしますが、その様子を見ていた政子が、今度は、父・時政にチクリ・・・

これを聞いた時政は、「将軍が病気なのを良い事に、その命令だと偽って叛逆を企てている」として、能員をおびき出し、騙まし討ちに・・・

異変を知った比企一族は、とりあえず一幡を奉じて小御所に立て籠もりますが、そこを、和田義盛畠山重忠といった名だたる御家人が包囲・・・激戦の末、比企氏は滅亡し、一幡も、わずか6歳の命を散らしました。(9月2日参照>>)

その日の夜から翌々日にかけて、能員の近臣たちは、ことごとく幽閉や流罪となり、その後、息子・一幡の死を悲しみながらも、病から回復した頼家は、母・政子から剃髪を勧められ、心ならずも剃髪して将軍職を弟の千幡=実朝(さねとも)に譲り、その身は、伊豆修善寺へ護送され、幽閉生活を送る事となりました。

しかし、翌年の元久元年(1204年)7月18日、結局、頼家は、北条の放った刺客によって暗殺されてしまうのです。

享年22歳・・・父の期待を一身に受けて育った若き将軍は、母の手によって、その生涯を閉じました。

その後、未だ12歳の3代将軍・実朝を補佐するため、政所別当となった北条時政は、この後、北条家が代々引き継いでいく事になる鎌倉幕府・執権の座を手に入れる事となります。
 

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2009年6月22日 (月)

猛将・畠山重忠の最期~武蔵二俣川の合戦

 

元久二年(1205年)6月22日、頼朝亡き後の武蔵二俣川の合戦で、畠山重忠が討死しました。

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畠山重忠(しげただ)は、武蔵国(埼玉県)秩父を本拠とする豪族・畠山重能(しげよし)の息子・・・大力で名を馳せた彼も、まだ初々しい17歳の頃、伊豆蛭ヶ小島で流人の生活を送っていた源頼朝が、平氏打倒の旗を揚げたのです(8月17日参照>>)

京の都で大番役という役職についていた父の影響を受け、彼は、平氏の一員として腕を揮います。

由比ヶ浜では、母の実家である三浦氏と戦い、その三浦氏の衣笠城を攻め、祖父にあたる三浦義明を死に追いやりました(8月27日参照>>)

しかし、そんな重忠が、途中で頼朝傘下へと降ります。

すでに勇将として知られていた彼の行動で、相模国(神奈川県)の武将は次々に頼朝への帰順を表明したと言います。

寝返りっちゃー寝返りですが、それは、この先の関東一帯の情勢を見据えての行動・・・考えてみれば、頼朝は流人の身分なのですから、それまでは、皆、平氏配下の武将であるわけで、もともとは、嫁・政子の実家のあの北条氏だって平氏なわけですから・・・。

その事は、頼朝も充分承知・・・むしろ、「心強い男が味方に加わってくれた」とばかりに彼を重用します。

その期待に応えるかのように、重忠も、木曽義仲の討伐や平氏追討に大活躍!

あの宇治川では先陣を名乗り出て、いち早く川に飛び込んだり(1月17日参照>>)一の谷の鵯越では愛馬を背負って駆け下りたり、ことごとく対立する源義経梶原景時の一触即発の口論の場では、二人を抑える潤滑油の役割も果たしていました。

無事、平氏を倒して、源氏の世となった後に、一度、謀反の疑いをかけられた時は、正々堂々と頼朝の前に出て、揺るぎない忠誠心を見せ付けて、主君・頼朝を感動させました。

しかし、鎌倉幕府の大黒柱であった頼朝が亡くなって(12月27日参照>>)から、政情は大きく変わります。

頼朝の息子・頼家(よりいえ)が2代将軍を継ぎますが、頼朝とともに苦労して平氏を倒し、現在の世を勝ち取った御家人たちから見れば、その頼家も世間知らずのお坊ちゃん・・・将軍の独裁的な政治を恐れた彼らは、選ばれた御家人13名の合議制で、幕政の重要事項を決定するという先進的なシステムをスタートさせます。

しかし、これが、逆に幕府をおかしくしてしまいます。

実際に、合議制がスタートすると、将軍のリーダーとしての価値は失われ、力の強い御家人や、外戚(母方の親戚)の思惑に左右されるようになり、今度は、将軍への影響を与える者の追い落としが始まります。

まずは、生前の頼朝に最も気に入られ、さらに頼家の信頼も篤かった梶原景時が、頼朝の死からわずか1年後に犠牲となります(1月20日参照>>)

次ぎにターゲットとなったのは、比企能員(よしかず)でした。

能員の娘・若狭の局は頼家の奥さん・・・つまり、能員は、上記の外戚で、さらに、この頼家が、嫁にベッタリなものだから、その幕府内での力は、徐々に大きくなっていきます。

嫁の実家が強くなってオモシロくないのは、ダンナの実家・・・つまり、頼朝の嫁である政子と弟・義時(よしとき)、そして父・北条時政、しかも、頼家と若狭の局の間には、一幡(いちまん)という男の子も生まれていますから、このまま、その子が次期将軍となれば、ますます比企氏の天下となってしまいます。

そこで、時政は、たまたま頼家が病気にふせった事を理由に次期将軍候補として、もう一人の孫(つまり政子の子供で頼家の弟)千幡(せんまん)を立てたうえ、能員を騙まし討ちして、その後、一幡もろとも、比企氏を滅亡へと追いやり(9月2日参照>>)、未だ歳若い千幡を、3代将軍・実朝(さねとも)とし、その後見人として初代・執権の座につきました。

ただ、この比企氏への成敗・・・裏では思いっきり時政のたくらみであったとは言え、表向きは例の合議制で決まった事になっていましたので、攻撃には重忠も加わっていました。

それが、どうやら重忠にとって、本意ではなかったようなのです。

幕府の決定事項とは言え、あれだけ忠誠を誓った先代の頼朝の直系である一幡を死に追いやってしまったのですから・・・

重忠は、やがて、自らの館に引きこもるようになりますが、この行動が、「次ぎのターゲット=畠山」となってしまうのです。

直接の原因となったのは、時政が娶った若い後妻・牧の方の息子・平賀朝雅(ともまさ)・・・と、息子と言っても、この人は、牧の方が時政と結婚した時に連れてきた娘の夫という事で、北条とは血のつながりも何もない人なのですが、牧の方は、この義理の息子を出世させたくてたまらない・・・さらに、親子ほど違う若い嫁にベッタリの時政は、その夢を叶えさせてやりたくてしかたがない・・・

後に、時政は、自分の孫である実朝を廃して、この朝雅を将軍にしようとするくらいですから・・・その時は父の暴走にブチ切れた政子と義時によって、逆に執権の座を追われますが・・・

そんな朝雅は、元久元年(1204年)、3代将軍・実朝と藤原信清との娘との結婚が決定した時、かの姫を迎えに行く有力御家人の息子たちの1人として京へと上ります。

そして、重忠の息子・畠山重保(しげやす)も、そのお迎え役の1人として京に上ったのですが、その時、開かれた酒宴の席での事・・・

今をときめく時政を、義父に持った事で、何かと高飛車な態度をとる朝雅・・・昔からの御家人たちの息子に、あまりにエラそうに振舞う朝雅に腹を立てた重保が、「ええかげんにせい!」と注意をしたところ、口論となってしまいます。

まわりも、すぐに止めに入ったので、刃傷沙汰になる事もなく、祝宴の席でもあるという事で、その場はおさまりますが、お察しの通り、朝雅は、この事を義母の牧の方にチクリ、牧の方は時政に「このうっとぉしいヤツ、何とかしてぇ~」と猫なで声・・・

時政は、政子や義時の反対を押し切って、畠山父子の討伐へと腰をあげるのです。

それも、なかなか館から腰をあげない重忠を見越して、鎌倉で謀反が起こったとの情報を流しておびき寄せる作戦・・・詳細のわからぬまま、とりあえず「いざ!鎌倉!」と飛び出した父子・・・

まずは、由比ヶ浜で重保が討たれます

その知らせを聞いた重忠・・・息子の死によって、もはや、これが謀略である事は明白です。

現に、家臣も、「一旦、本拠へ戻って、兵を立てなおしてから決戦に挑みましょう」と進言しますが、重忠は、それを聞き入れず、武蔵二俣川にて果敢に戦うのです。

元久二年(1205年)6月22日、こちらは、鎌倉に着いてから兵や武器の再編制があるものと信じてのにわか装備の軍、あちらは、しっかりと準備万端整えた軍・・・しかも、数の上でも、かなうわけはありませんでした。

畠山重忠・享年42歳・・・猛将の名にふさわしい、壮絶な最期は、郎党たちの涙を誘い、皆、彼の後を追って、その場で自刃したと言います。

おそらく、もはや源氏のものではなくなった鎌倉幕府に、未来を夢見る事はなかったのでしょう。

それでも、止まらない北条氏の御家人追い落とし作戦・・・やがて、暴走気味の父に代わって、2代目執権となった義時は、8年後、最後の大物・和田義盛に狙いを定めます・・・【幕府を揺るがす和田合戦】へはコチラからどうぞ>>
 

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2009年5月24日 (日)

時代別年表:鎌倉時代

 

このページは、鎌倉時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

最近の学校の授業では、鎌倉幕府の成立は、「いいはこ=1185年」と習うそうですが、とりあえず、このページでは、源頼朝が征夷大将軍に任命される1192年7月12日から、北条高時が自刃する1333年5月22日までを「鎌倉時代」とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaikamakura110



 

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出来事とリンク
1192 7 12 源頼朝が征夷大将軍に任命される
【いい国つくろう!鎌倉幕府】
1193 5 28 曽我兄弟の仇討ち
【曽我兄弟の仇討ち・もう一人のターゲット】
8 17 源範頼・没
【頼朝は平凡な弟の何が怖かったのか?】
1194 7 14 源頼朝の娘・大姫が逝く
【頼朝の愛娘・大姫のお話】
1195 3 7 平(藤原)景清・没
【平家の生き残り・平景清】
1198 12 27 源頼朝・没
【頼朝の死因をめぐる疑惑】
1199 10 28 梶原景時・弾劾状を作成
【梶原景時・弾劾状を作成】
1200 1 20 梶原景時の乱
【露と消えた九州独立国家】
9 2 朝比奈義秀が兄・常盛と相撲勝負
【鬼神のごとき朝比奈義秀の話】
1203 9 2 比企能員の乱
【鎌倉幕府・震撼~比企能員の乱】
1204 7 18 将軍・源頼家の暗殺
【父に愛され、母に抹殺された将軍・源頼家】
1205 6 22 武蔵二俣川の合戦
【畠山重忠の最期~武蔵二俣川の合戦】
1207 2 18 法然が流罪となり専修念仏が禁止に
【イケメン弟子のサービス過剰】
1210 12 18 順徳天皇・即位
【順徳天皇の心の内は・・・】
1213 5 2 和田義盛の乱
【幕府を揺るがす和田合戦】
12 13 建礼門院・平徳子・没
【建礼門院・平徳子の忌日】
1216 6 8 鴨長明・没
【鴨長明さんのご命日なので・・・】
1219 1 27 将軍・源実朝の暗殺
【実朝・暗殺事件の謎】
【実朝・暗殺事件の謎・パート2】
1221 6 14 承久の乱
【北条政子・涙の演説】
7 13 後鳥羽上皇が隠岐に流される
【オカルトの日と後鳥羽上皇】
1231 10 11 土御門天皇・崩御
【時代の波に呑まれた穏やかな天皇】
1232 8 10 北条泰時が御成敗式目を定める
【御成敗式目て何じゃらホイ?】
1235 5 27 藤原定家が小倉百人一首を完成
【百人一首に隠された暗号】
1238 3 23 鎌倉の大仏を建立
【鎌倉の大仏と奈良の大仏】
1244 7 18 道元が大仏寺(後の永平寺)を建立
【曹洞宗の開祖・道元の永平寺・建立】
1262 11 28 親鸞聖人・没
【本願寺・門徒は一向宗じゃない?】
1274 10 5 元軍が対馬沖に出現
【フビライの日本侵略計画はあったか?】
10 19 元軍・博多湾に侵入
【蒙古襲来!文永の役】
1275 9 7 北条時宗が元の使者を斬殺
【時宗が元との徹底抗戦を決意した日】
1281 6 6 元軍が再び博多湾に侵入
【蒙古襲来・弘安の役】
1282 12 8 北条時宗が円覚寺を建立
【蒙古襲来絵詞に隠れた元寇のその後】
1289 8 23 時宗の開祖・一遍上人・没
【一代聖教みなつきて~一遍・最後の言葉】
1297 3 6 日本初の徳政令「永仁の徳政令」発令
【幕府公認の借金踏み倒し・徳政令】
1318 2 26 後醍醐天皇・即位
【北闕天を望みたい~後醍醐天皇の最期】
1324 9 19 正中の変
【正中の変~寝物語でバレちゃった】
1331 9 28 元弘の変・勃発
【楠木正成登場!元弘の変】
10 21 元弘の変・赤坂城の戦い
【楠木正成のゲリラ術炸裂!赤坂城の戦い】
吉田兼好・徒然草を執筆
【兼好法師の恋愛感って・・】
1333 2 1 護良親王が高野山へ脱出
【護良親王&楠木正成・再起】
2 5 幕府軍が千早城を攻撃
【楠木正成最大の見せ場・千早城の戦い】
4 16 足利高氏が入京
【足利尊氏・裏切りの要因】
5 22 鎌倉幕府・滅亡
【鎌倉幕府の滅亡】
鎌倉豆知識 【栄西のお茶・その後~闘茶と御茶壷道中】
【氏・素性と苗字の話】
【心太と書いてなぜ?トコロテンと詠む】
【和菓子の歴史~そのルーツと豆知識】
【端午の節句は女の祭?】
【のろしと密書・髻の綸旨の話】
【お味噌の歴史】
【質屋の歴史】
【成人式~元服の歴史】
【八朔~家康の江戸入府】

 

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2009年3月 7日 (土)

頼朝暗殺計画・実に37回~平家の生き残り・平景清

 

建久六年(1195年)3月7日、壇ノ浦で滅亡した平家の家臣・平景清が亡くなりました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日の主役・平景清(かげきよ)さん・・・

実際には、平家の人ではなく、藤原南家伊藤の流れを汲む藤原忠清(ただきよ)の息子なので、本名は藤原景清と言い、その勇猛さから、通称・上総悪七兵衛(かずさあくしちひょうえ)と称されるかたなのですが、代々平家に仕えた家臣の家柄で、平家の血を引いているとも言われ、今回は平景清さんのお名前で紹介させていただきます。

さらに、この景清さん・・・上記の通り、壇ノ浦でも生き残り、その後、何度も頼朝の暗殺計画をくわだてるところから、武門の誇りと滅びゆく判官びいきが相まって、多くの伝説に彩られた武将です。

謡曲や浄瑠璃・歌舞伎のモデルにもなり、それらも含めれば、その伝説は数知れず・・・

冒頭に書いた亡くなった日にちにしても、諸説ありますし、その死因についても、現在では、ただの病死であったとも言われているのですが、ここは、やはり、もともとの伝説に従って、思いっきりカッコよくご紹介させていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

景清は、源平の戦いが本格的になってきた、あの富士川の合戦(10月20日参照>>)の直後に、父・忠清から信濃守に推挙され、彼自身も、本格的に源氏との合戦に参加するようになります。

木曽義仲源行家らとも戦い、一の谷の合戦では侍大将も努めています。

その後の屋島の合戦は、源義経の作戦で、わずか兵を多勢と勘違いしてしまった平家が、早々と船に逃げ込むという義経ヒーロー伝説のような話(2008年2月19日参照>>)になってしまっていますが、その中でも景清の姿だけは、平家側の武勇伝として光っています。

それは、あの有名な扇の的(2月19日参照>>)の後の事・・・この日、早朝からの義経軍の民家への放火に幕を開けた屋島の合戦が、夕方近くになって一息ついた頃に、その扇の的の話が展開されるわけで、ご存知のように那須与一(なすのよいち)は見事に扇を撃ち落とします。

この時、与一の弓に感動して、「あっぱれ!」とばかりに、船の上で舞いを舞い始めた平家の者がいたのですが、義経は、「あれも討ってしまえ!」と、与一に命令・・・与一は、やはりその者も撃ち落すのですが、何となくルール違反っぽいですよね。

案の定、この後、戦闘が再開される事になるのですが、その時、「ルール違反やないかい!」と、真っ先に、陸の義経軍めがけて突っ込んでいったのが、彼・・・景清なのです。

Kabutosikorocc しかも、源氏方の美尾屋(みおのや・美尾谷・水尾谷)十郎との死闘を繰り広げ、逃げようとした十郎の兜の(しころ・→右のイラスト参照)素手で引きちぎるという離れ業をやってのけ、平家物語のこの部分は「景清の錣引き」として有名です。

そんな勇猛果敢な景清は、あの壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)でも、討たれる事もなく、生け捕られる事もなく、うまく戦場を逃れて生きのびました。

そして、やはり、戦線を離脱して生き残っていた兄・忠光(ただみつ)とともに、その後は、源頼朝の命を狙う事に賭けるのです。

しかし、兄・忠光は、建久三年(1192年)、鎌倉に建設中だった永福寺の工事現場にて、頼朝を暗殺しようとして失敗し、捕らえられて斬首されてしまいました。

そして訪れた建久六年(1195年)、頼朝が東大寺大仏殿にお参りをする事を知った景清は、チャンスとばかりに、平家の残党たちとともに上洛・・・当日は、東大寺・転害門(てがいもん)に身をひそめ、頼朝が来るのを待っていました。

Tegaimonkagekiyocc800 東大寺・転害門

しかし、肝心の頼朝が到着する前に見つけられ、捕らえられてしまいます

さすがの猛将も年貢の納め時・・・彼は、それまでに、なんと37回も頼朝の暗殺計画を立てていたのですが、これで万事休す!

しかし、捕らえられはしたものの、彼が、すぐに斬首される事はありませんでした。

どうやら、悲惨な逃亡生活の中、果敢にアタックし続けた姿が、主君を思う武将の誉れとして鎌倉武士に写ったようで、彼には、かなりの同情が寄せられていたのです。

とりあえずは、幕府でも武闘派で知られる重臣・和田義盛(よしもり)のもとに預けられ、屋敷の外へさえ出なければ、自由の身としての生活を送る事になりました。

自由とは言え、まわりは敵ばかり・・・さぞや肩身の狭い生活を・・・と思いきや、「運動不足や!」と言っては庭で馬を乗り回し「自由なんやからえぇやん!」と言っては和田一族の宴会で大騒ぎ・・・。

困った義盛は、頼朝に相談して、景清のおもり役を交代してもらいます。

次に、彼を預かったのは、八田知家(はったともいえ)という人物・・・彼も、義盛に勝るとも劣らない武闘派で、とても情け深い男気のある人でした。

敵ながら豪快で大胆な景清に、良い印象を持っていた知家は、義盛にも増して親切に、丁寧に、景清を保護したのです。

この彼の親切さに、張りつめていた景清の心が、プッツンと切れてしまったのです。

そう、景清は、武勇優れた豪快な人ではありましたが、生意気でずうずうしい人ではありません。

実は、義盛宅でのあの大胆な行動は、敵に捕らえられ、その地で保護されるというミジメで悲しい心の内を悟られまいとしての、精一杯の横暴ぶりだったのです。

しかし、そんな自分の態度に、何一つ文句を言わず、まるで息子のように、厚くもてなしてくれる知家のやさしさに、彼の心は、見事に崩れました

実は、平家に殺されたのは、兄だけではありません。

父・忠清も、平家滅亡の直後に捕らえられ、京の六条河原で斬首されていたのです。

「それなのに、自分だけ、こうして生きながらえている・・・しかも、敵なのに、こんなに厚い待遇で・・・」

やがて、彼は、化粧坂(けわいざか・仮粧坂)の中腹にある洞窟に籠るようになります。

しかし、それでも、毎日八田家から、食事が運ばれて来るのですが、彼は、それには手をつけず、ただ、ひたすら読経を続けるのです。

やがて、勇猛と称された武将の身体は痩せ細って見る影もなくなり、建久六年(1195年)3月7日・・・とうとう、その命、尽き果てたのです

現在、鎌倉市にある化粧坂の入り口には、「景清土牢」「水鑑景清」「景清窟」などと呼ばれている洞窟があり、そこが景清最期の地だと言われています。

何度も挑戦した頼朝暗殺・・・
痛快で豪快な武将の滅び行く哀れ・・・

そんな彼の最後を、思いっきり美しく描きたいと思う人の心が、これまでも、そしてこれからも、景清の更なる伝説を、より鮮やかにしてくれる事でしょう。
 

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2009年2月 5日 (木)

楠木正成・最大の見せ場!千早城の戦い

 

元弘三年(1333年)閏2月5日、楠木正成の籠る千早城に、鎌倉幕府軍が攻め寄せました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒すべく挙兵した第96代・後醍醐(ごだいご)天皇に従って、ともに戦う楠木正成でしたが、笠置山で捕らえられた天皇が隠岐へと流され、彼もまた籠っていた下赤坂城を捨て、姿を隠しました(10月21日参照>>)

やがて、先の笠置山で何とか脱出に成功していた、天皇の息子・護良親王(もりよししんのう・「もりなが」とも)吉野山にて挙兵した事で、正成も再び立ち上がりますが、幕府も20万の大軍を派遣して応戦・・・吉野を攻撃して護良親王を敗走させ、正成の弟・正季(まさすえ)の守る上赤坂城も落し、いよいよ全軍を傾けて、正成の籠る千早城へと迫ります・・・と、ここまで先日の【護良親王&楠木正成・再起~】(2月1日参照>>)で書かせていただきました。

千早城は金剛山中にあり、3方を渓谷に囲まれた天然の要害でしたが、周囲は4kmほどの小さな山城で、守る兵もわずか1000ほどでした。

そこへ、幕府全軍・20万が攻め寄せます。

元弘三年(1333年)閏2月5日、いよいよ幕府軍は攻撃を仕掛けてきますが、あまりの数の差に、ちょっと自信過剰だったのか、幕府軍には大した作戦も計算もなく、各将兵が自分勝手に我先に攻め寄せたため、例のごとく、大石を落したり、糞尿をかけたりの正成お得意のゲリラ戦法にしてやられてしまいます。

「これは、いかん!」
・・・と、先の上赤坂城同様、水源を断っての長期戦に切り替えますが、その作戦変更は、すでに正成はお見通し・・・準備万端、千早城には、すでに、たっぷりの水を確保して、正成側もその長期戦を受けて立つのです。

・・・で、ここで長期戦へと持ち込まれた千早城の戦いで、正成の逸話な中でも、最もドラマチックな名場面が展開される事になります。

ある日、正成はわらで作った武者人形を20~30体用意、夜のうちに城外の山の麓に人形を並べておきます。

やがて、白々と夜が明けるところを見計らって、後方から一斉に鬨(とき)の声を「わぁ~~」っと・・・長期の籠城に絶えられなくなった兵が、決死の攻撃に出たと思った幕府軍は一斉に雨あられのように矢を射かけます。

しかし、当然の事ながら、いくら矢を射かけでも兵(人形)は倒れず、やがて、矢が底をついてしまい、更なる攻撃をと敵が前に殺到したところで大石を投げ落とす・・・これで、敵兵は300人が即死し、500人が負傷、しかも、正成は、新たなる10万本の矢を手に入れる事ができた・・・というもので、「わら人形の策」と呼ばれています。

また、ある時、なかなか落ちない千早城に業を煮やした幕府軍が、京都から5000人の大工を呼び寄せ、幅4.5m長さ30mのハシゴを造らせ、これを向かい側の山から城壁へと渡して、新たなルートを確保・・・そこから一気に城内へ攻め寄せようとしたのです。

これに気づいた正成は大量の水鉄砲を用意し、その水鉄砲の中に油を仕込み、ピュッピュ、ピュッピュとハシゴに向かって噴射!

たっぷりと油がしみこんだハシゴに、今度は燃え盛る松明(たいまつ)を投げつけ、ハシゴは一気に炎に包まれます。

驚く前方の兵の足は止まりますが、「一気に進め~!いてまえ~!」と指示されている後方の兵は止まらず、押し合いへし合いになったハシゴの上は大混乱!

しばらくして、中ほどから焼け落ちるハシゴとともに、兵は谷底へ・・・こちらは、「長梯子(ながばしご)の計」と呼ばれます。

千早城の近くには、懸橋(かけはし)なる地名も残っていて、まさに、奇策で大軍を手玉にとる楠公ならではの痛快なエピソードとして有名な話で、ファンの心を掴んではなさない最も魅力的な部分・・・

ですが、もう、お気づきのかたも多いと思いますが、「わら人形の策」は、あの『三国志』赤壁の戦い諸葛孔明(しょかつこうめい)がやった奇策にそっくり・・・孔明の場合は100万本の矢でしたね。

後者の「長梯子の計」も、中国の春秋戦国時代(紀元前770年頃~紀元前403年頃)の書物『墨子(ぼくし)の中に登場するエピソードです。

まぁ、『太平記』軍記物であって、誰も、史実を書いているとは言ってませんし、書いた本人も、実際に戦いを見たわけではないでしょうから、おそらく、悪気はなく、正成がいかに優れた策士であるかを強調したいがための借用といった感じなのでしょうが、まさか、後世の日本で、これほどまでに三国志が有名になって、映画までヒットするとは思ってなかったでしょうね。

とは言え、少ない城兵でありながら、千早城が幕府の大軍の攻撃に耐えた事は、事実・・・。

最初の攻撃から約3ヶ月後の5月10日、結局、幕府軍は千早城を落すことなく、包囲を解き、撤退する事になるのですが、それは、この千早城が耐え抜いた事で起こった情勢の変化・・・幕府は、もう千早城どころではなくなってしまっていたのです。

閏2月24日には、伯耆(ほうき・島根県中西部)の豪族・名和長年(なわながとし)の手助けにより後醍醐天皇が隠岐かだ脱出して全国に倒幕の綸旨(天皇の命令)を発令します。

さらに、播磨(はりま・兵庫県西南部)では赤松則村(のりむら・円心)が、肥後(熊本県)では菊池武時(たけとき)が次々と立ち上がり、この千早城の攻防戦にも参戦していた新田義貞は帰国の途につきます。

そして、とうとう、後醍醐天皇を倒すべく、幕府から派遣された足利高氏(尊氏)までもが・・・

役者が揃いましたね、いよいよ時代が変わるその時がやって来ます。

【鎌倉幕府の滅亡】は、以前、5月22日のページでまとめております>>
 

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2009年2月 1日 (日)

護良親王&楠木正成・再起~千早赤坂・攻防戦へ

 

元弘三年(1333年)閏2月1日、吉野山に籠っていた護良親王が、鎌倉幕府からの攻撃を受けて、高野山へと脱出しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天皇自らが政治を行う事を夢見て、何度も水面下で謀反の計画を立てる第96代後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、世は、まさに鎌倉幕府=武士の時代・・・第14代執権・北条義時が実権を握っています。

悲しいかな、幕府に匹敵するような軍事力を持たない天皇・・・そこへ、登場したのが、かの楠木正成です。

心強い男を味方に得た天皇は、笠置山にて挙兵して、倒幕ののろしを挙げました。

元弘元年(1331年)9月28日・・・これが世に言う元弘の変です(9月28日参照>>)

しかし、幕府の大軍による総攻撃で、わずか一日で笠置御所はあえなく撃沈・・・山中を逃げ回っていた天皇も捕らえられてしまいます。

一方の正成は、下赤坂城(大阪府千早赤坂村)に籠り、幕府軍相手に得意のゲリラ戦で奮闘しますが、砦に毛の生えたような急ごしらえの城では太刀打ちできないと判断し、10月21日に自ら城に火を放ち、金剛山中へと姿を消しました(10月21日参照>>)

翌・元弘二年(1332年)の3月には後醍醐天皇が隠岐(おき)へ流され、6月には天皇の側近・日野資朝(すけとも)日野俊基(としもと)が処刑され、万事休す・・・戦いは終結してしまいました。

それから約1年、もはや後醍醐天皇の夢も露と消えたか・・・と思いきや、あの笠置山から脱出して、奈良や和歌山を点々としていた後醍醐天皇の息子・護良親王(もりよししんのう)が、各地の反幕府勢力をまとめる事に成功!・・・11月、再び、倒幕ののろしを挙げ、吉野山に立てこもったのです。

護良親王は、各地の武士に令旨(りょうじ・天皇家の命令書)を発し、「ともに戦おう!」と呼びかけます。

このグッドタイミングで再び登場するは、あの赤坂城の戦いで死んだと思われていた正成です。

正成は、先の戦いで幕府側に奪われていた下赤坂城を、早々に奪回し、その勢いのまま、和泉(大阪府南部)から摂津(大阪府北部)へ進攻・・・年が明けた元弘三年(1333年)の1月には、天王寺の戦い六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)を撃破します。

こうなっては、幕府ものんびりとはしていられません。

鎌倉から20万の大軍を畿内へ向けて発進するとともに、悪党・正成の首に多大なる恩賞をかけて将兵の士気をあおり、いざ!再びの全面戦争へと突入です。

幕府による大軍の派遣を聞いた正成は、北方の最前線である上赤坂城を弟・正季(まさすえ)に300の兵をつけて守らせ、自らは、その南東に築いた千早城(ちはやじょう・大阪府千早赤坂村)にて、幕府の大軍への備えを計ります。

やがて、護良親王の籠る吉野方面と、正成らが守る河内方面、さらに反幕府派が点在する紀伊方面の三手に分かれた幕府軍・・・阿蘇治時(あそはるとき)の率いる8万の河内方面・先鋒が、下赤坂城に迫ったのは、2月22日の事でした。

3方を山に囲まれた天然の要害である上赤坂城・・・しかも、城兵は、日頃から正成に鍛えられたゲリラ作戦で敵をまどわせ、少ないながらも善戦に次ぐ善戦で、8万の大軍相手によく戦いましたが、敵も、さすがに戦いのプロ・・・2月27日、水の補給路を断った事により、ついに落城してしまいます。

正季は、ギリギリで脱出に成功し、金剛山へと敗走しました。

一方、護良親王の籠る吉野を攻撃したのは、大仏家時(おさらぎいえとき)率いる吉野方面軍・・・こちらも、下赤坂城同様、大軍相手に奮戦してはいましたが、なにぶん手勢は、わずかに1000・・・しかも、その中の多くが僧兵ですから、鎌倉武士のプロ集団による総攻撃にはひとたまりもありませんでした。

もはや、陥落も時間の問題となった元弘三年(1333年)閏2月1日・・・
 :閏(うるう)とついているので、おわかりかとは思いますが、旧暦なので、この年の2月は2回あり、この「2月1日」というのは、先の下赤坂城の落城の前ではなく、落城後の2回目の2月の1日という事になります。

覚悟を決めた側近の村上義光(よしてる)は、護良親王の鎧・直垂(ひれたれ・鎧の下に着る平服)身につけ、親王の身代わりとなって切腹し、敵の目を惹きつけ、その間に親王は吉野を脱出・・・高野山へと逃れたのでした。

その後、しばらくの間、親王の行方を探索する家時でしたが、結局、見つける事ができず、軍勢は・・・そう、正成の籠る千早城へと進軍します。

そして、もちろん、下赤坂城を落とした治時軍も・・・そして、紀伊方面担当だった名越宗京(なごしむねのり)が率いる軍も・・・。

幕府軍は、そのすべてをかけて、千早城への総攻撃へと突入します・・・いよいよ、正成の一番の見せ場である千早城の戦いが始まります。

・・・が、そのお話は、やはり、戦いが勃発した2月5日書かせていただきたいと思いますので、少々お待ちを・・・
 

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2009年1月27日 (火)

将軍・源実朝~暗殺事件の謎・パート2

 

建保七年(1219年)1月27日、鎌倉幕府・第3代将軍の源実朝が、鶴岡八幡宮にで、甥の公暁に暗殺されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨年のこの日にも書かせていただいた源実朝(みなもとのさねとも)暗殺劇・・・その経緯は、昨年のページで見ていただくとして(2008年1月27日を見る>>)、そのページでも書かせていただいたように、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡(あづまかがみ)が、亡き2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)(7月18日参照>>)の遺児・公暁(くぎょう)怨恨による単独犯とするこの事件には、おそらく黒幕がいて、それは、時の執権・北条義時か?三浦義村か?、はたまたアガサ・クリスティの小説のように有力御家人・全員なのか?

・・・てな事を書かせていただきましたが、私の個人的見解としましては、おそらくは、義時&義村の共犯ではないか?と考えているのですが・・・。

まずは、実行犯・公暁の行動です。

彼は、鶴岡八幡宮で実朝を襲った後、その首を持って自宅に戻り、食事をします。

この時、公暁は、食事の最中、かたときもその首をはなさず、首を小脇に抱えたまま食事を済ませたという事で、かなりの興奮状態だった事がわかります。

その後、彼は、一通の手紙を書き、それを使者に預け、義村のもとへ届けさせます。

その手紙には・・・
「今日から、俺が将軍や!準備せぇや」と・・・

受け取った義村は、「ただ今、迎えの者をさしあげます」と返答し、公暁も、自宅にて、その迎えを待つのですが、いくら待っても迎えは来ず、しびれを切らした公暁は、自宅を出て、雪の降る中、ひとり、義村の邸宅へと向かいます。

すると、向こうから武士の一団が・・・
「おぉ・・・迎えが来た!」
と、思った瞬間、その武士の一団は公暁を取り囲み、刀を抜きます。

武士たちに応戦しながら、何とか切り抜け、先を急ぐ公暁・・・それでも、まだ、武士の一団が義村の配下とは思っていなかったようで、何とか彼らをまいて、必死に塀を乗り越えて、義村の屋敷に入ろうとしたところを追いつかれ、その邸宅の前で息絶えたのです。

この公暁の行動を見る限り、義村との約束ができていたとしか考えられません・・・つまり、黒幕は三浦義村・・・。

しかし、そうなると、徹底的におかしな事が・・・それは、もし、義村が黒幕であったのなら、義時が、それに気づかない事は考えられません。

現に、ここまで公暁の行動がバレちゃってるわけですから・・・ところが、義村には、お咎めどころか、疑いすらかけられていません。

本当なら、この日は、義時自身が実朝に付き添うはずだったわけで、仲章と交代しなければ、将軍殺害どころか、自分が殺害されてた可能性があるのですから、もし、義時が潔白であるなら、これ幸いと義村の追い落としにかかる事もできるはずです。

ならば、やっぱり北条義時が黒幕?

いや、それなら、公暁が義時だと思って、実朝のそばにいる仲章を斬ったというところのがつじつまが合わなくなってきます。

ただ、公暁と義時の間に密約ができていて、直前になって付き添いを交代する事も了承済みなら、わざと仲章を斬ったという事になりますが、それなら、そんな秘密を知る公暁を、わざわざ義村のもとに走らせたりはしません・・・さっさと、殺してしまわないと、秘密がバレてしまいます。

つまり、二人ともが実朝の暗殺を知っていたのでは?

もちろん、この時代に最も力のある義時と義村の二人が黒幕なら、もはや、他の御家人は見て無ぬふりをするしかありませんから、結果的には、全員が?・・・という可能性も・・・。

ここで、注目したいのは、殺された実朝自身の生前の行動です。

実朝は、この3年前の建保四年(1216年)、にわかに(そう・中国)に渡る」と言いだし、大船を建造しています。

宋から来た僧・陳和卿(ちんなけい)に、「あなたは、私の前世で師匠だった」とおだてられての行動だとも言われますが、当の義時や、母の北条政子に猛反対されたにも関わらず、その反対を押し切って船を造らせています。

彼は、どうしても宋へ行きたかった・・・というより、この国から逃げたかったような気がしてなりません。

結局、その船は大きすぎて、海に浮かべた直後に沈んでしまい、渡海の計画はそのままになってしまうのですが・・・いったい、実朝は何から逃げたかったのでしょうか?

やがて訪れた建保七年(1219年)1月27日・・・その日の朝、家臣が実朝の髪をセットしていたところ、櫛にまとっている髪を一筋取った実朝は、「記念にせよ」と、その者に渡したのだとか・・・

やがて、したくを整え、式典に出るために庭に降り立った実朝は、庭に立つ梅の木を見つけて・・・
♪出てゐなば 主なき宿と なりぬとも
  軒ばの梅よ 春をわするな ♪

きっと、実朝は、すでに、ここに自分の居場所がない事を知っていたのでしょう。

武士団の合議制によって、すべての事項を決定する鎌倉幕府には、将軍はいらないのだと・・・。

家臣であるはずの御家人という敵に、周囲を囲まれた孤独な将軍は、この春の梅を見る事なく28歳の生涯を閉じ、庭の梅の木はあるじを失いました。

同じ日に、20歳で死んだ公卿・・・この推理が正しければ、彼もまた被害者という事になります。

公暁さん、どうせ密約を交わすなら、実朝と交わしてほしかった・・・本来なら、同じ頼朝の血を分けた最も信頼できる相手だったはずなのに・・・残念です。
 

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2009年1月20日 (火)

露と消えた九州独立国家~梶原景時の乱

 

正治二年(1200年)1月20日、鎌倉幕府・開幕をサポートしながらも、源頼朝の死後に幕府を追われた後家人・梶原景時が、非業の死を遂げました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このブログでも、度々登場している梶原景時(かげとき)さん・・・その印象は、あまりよろしくありません。

それは、以前も書かせていただいた通り、源義経をヒーローに描きたい『義経記』『平家物語』では、義経に苦言を呈す敵役として描かれ、鎌倉幕府=北条氏の正史である『吾妻鏡(あずまかがみ)では、目の上のタンコブの極悪人として描かれているため・・・。

しかし、例の屋島の合戦(2月16日参照>>)や、壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)なども、義経が勝ったからこそ奇抜なアイデアでの勝利となりますが、考えようによっちゃぁ、命がいくつあっても足りないような無謀な作戦をルール無用でやっちゃってるワケですから、遠く鎌倉にいる兄・頼朝に、目付けとして派遣されている立場の景時なら、文句の一つも言ってあたりまえです。

北条氏の歴史である吾妻鏡も、頼朝の重臣であった彼を葬り去るために極悪人に仕立てあげなければならないのは当然の事・・・自分たちのほうを悪く書くわけありませんからね。

そんな景時さんが、平家物語や吾妻鏡で描かれているような悪人ではない事は、あの石橋山の合戦(8月23日参照>>)のエピソードからも垣間見えます。

もともと平家の配下であった景時は、石橋山の合戦で窮地に追い込まれた頼朝を助けます

それも、大庭景親(おおばかげちか)の軍に囲まれ、わずか数人の側近とともに、岩屋に隠れているところを発見し、それを見逃したのですから、もはや、命の恩人・・・彼が、一言大声で「ここにおるゾ~」と叫べば、頼朝の命は無かったのですから・・・。

ところが、その石橋山の翌年には、頼朝に仕えるようになる景時が、その命の恩人という切り札をひけらかしてるのを見た事がありません

本当なら、もっとこの切り札を使いまくって、エラそうにしても良いはずですが・・・。

岩屋に隠れる頼朝を見て、一目でその才気を見抜いたところと言い、使える切り札をひけらかさなかったところと言い・・・いかに、景時が優れた人物であったかがわかる気がするのですが・・・。

景時は頼朝に恩を売る事なく、ただひたすらに忠誠を尽くし、その手足となって働きます。

一方の頼朝も、そんな景時に全面的な信頼を置き、目付けのような役割を与えたのでしょう。

景時は、あの義経の平家討伐の時だけではなく、平家を倒し、源氏の世になった後も、他の御家人の言動を常にチェックし、頼朝に報告するという役割を荷い続けます。

それは、チクられる者たちからすれば、非常にうっとうしいでしょうが、多くの武士をまとめる立場にある将軍・頼朝にとっては重要な事で、これは告げ口ではなく、れっきとした職務上の報告です。

しかし、そんな立場の景時は、正治元年(1199年)1月13日に頼朝が亡くなると、いの一番に他の御家人たちのターゲットとなるのです。

それが、頼朝が亡くなったその年の10月28日に作成された『梶原景時・弾劾状(だんがいじょう)です(10月28日参照>>)

そのきっかけは、結城朝光(ともみつ)小山政光が亡き頼朝を偲んで言った言葉・・・「忠臣二君に仕えずっていう例えもあるから、俺ら、頼朝さんが亡くならはった時に、同時に出家しといたら良かったんかなぁ」てな会話を、小耳に挟んだ景時が、2代将軍を継いでいた頼朝の息子・頼家「これは、現・将軍には仕えたくないという意味なのでは?」と、頼朝の時同様にチクったわけです。

その事を知った朝光が、逆に他の御家人たちに相談・・・御家人66人が集結し、景時の悪口を書きまくった弾劾状を作成し、彼を失脚させたのです。

この後、将軍・頼家に、弾劾状の釈明のために呼び出された景時でしたが、はたして一言の弁明もする事なく退室したのだとか・・・。

優れた人物であるが故に、ここで、そのすべてを悟った事でしょう。

弾劾状から約2ヵ月後の12月18日、彼は鎌倉を出て、領地の相模(さがみ・神奈川県)一宮に移ります。

もはや、幕府に対抗する意思を固めていた景時は、即座に寒川神社付近に要害を構えて守りを固め、一族を連れて京に向かいます。

それは、当時、すでに譲位していた後鳥羽上皇が、幕府に対抗して院政を行い、朝廷の復権を図ろうとしていたからです。

彼も、これに同調して、上皇から院宣(天皇の命令書)を賜り、甲斐源氏の武田有義(ありよし)を将軍に掲げ、九州に独立した幕府を構えるつもりであったと言われています・・・ただし、これも、北条側の記述なので、真実かどうかアヤシイ事は怪しいのですが・・・。

しかし、彼の構想は打ち砕かれます。

駿河国(静岡県)清見関(きよみがせき)まで来たところで、付近の御家人・芦原小次郎工藤八郎三沢八郎飯田五郎らの襲撃を受けてしまったのです。

一旦は、息子らとともに反撃を試みますが、功名を挙げて恩賞に預かりたい周囲の御家人たちがどんどん加わってきて、もはや多勢に無勢・・・雨のように降り注ぐ矢に、ほとんどの者が倒れ、景時自身も深手を負ってしまいました。

死を覚悟した景時は、長男・景季(かげすえ)、次男・景高とともに後方の山に身を隠し、壮絶な自刃を遂げました。

頼朝とともに新しい世を夢見て、戦いに身を投じた景時は、その主君の死から、わずか一年後に自らの命を断つ事となったのです。
 

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