時代の波に呑まれた穏やかな天皇・土御門天皇
寛喜三年(1231年)10月11日、第83代・土御門天皇が、流刑先の阿波にて崩御されました。
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第83代・土御門(つちみかど)天皇・・・当代まれにみる心穏やかな天皇ですが、その性格とはうらはらに、激しい気性の父・後鳥羽天皇(第82代)と弟・順徳天皇(第84代)に挟まれて、時代の渦に容赦なく巻き込まれてしまうのです。
その波乱は、わずか4歳で即位した建久九年(1198年)から始まります。
その即位はきわめてあわただしいもので、後鳥羽天皇の3人の息子の中から卜筮(ぼくぜん)・・・つまり、占いで決められたと言います。
占いが行われたのが建久九年(1198年)の正月7日、その3日後の10日には、その占いで後継ぎと決まった第1皇子を為仁と命名し、翌日の11日には皇太子、同じ日に即、践祚(せんそ・天子の位を受け継ぐ事)の儀式が行われ、この時は、まだ3歳の幼児でした。
百人一首でお馴染みのあの藤原定家は、その日記『明月記』の中で、天皇の後継者を決めるという重要事項が、いとも簡単に、軽率に行われた事を、激しく非難したりしています。
ただ、これは、記録上は「占い」となっていますが、為仁親王の母・在子(ありこ)の養父である源通親(みなもとのみちちか)の意向が多分に含まれているようです。
通親は、この2年前の建久七年(1196年)に政変を起して関白・九条兼実(かねざね)を失脚させ、事実上、政界のトップとなっていた人で、いくら気性が激しくとも未だ17~18歳だった後鳥羽天皇は、その権力に押し切られた・・・というところでしょうか。
かくして、同じ建久九年(1198年)の3月にその為仁親王が第83代・土御門天皇として即位するわけですが、もちろん、そこにはご本人の意思など存在しません・・・まだ4歳ですからね。
しかし、その通親の栄華も、そう長くは続きませんでした。
土御門天皇に皇位を譲って上皇となっていた後鳥羽天皇(上皇)が、年齢を重ねるにつれ、徐々にその気性の激しさを見せ始め、先の政変で失脚した九条兼実の息子・良経(よしつね)を左大臣にするなど、自らの意志により人事を決定するようになる中、建仁二年(1202年)の通親の死を以って、その権力の逆転は決定的となります。
一方、鎌倉幕府のほうは、あの源頼朝が正治元年(1999年)に亡くなり(12月27日参照>>)、元久元年(1204年)には第2代将軍となった頼家も暗殺され(7月18日参照>>)、第3代将軍・実朝(さねとも)の外戚(母親の実家)として&執権として、北条氏の幕府と化していました。
この時期、そんな鎌倉幕府と緊張関係になりつつあった後鳥羽上皇は、穏やかな性格の土御門天皇を「ぬるい!」として、自分と同じく気性の激しい3番目の息子(つまり土御門天皇の弟)の守成(もりなり・もりひら)親王に皇位を譲るよう土御門天皇に迫ります。
そこは、心穏やかな土御門天皇が反発するはずもなく、いや、心の中ではしぶしぶだったかも知れませんが、承元四年(1210年)、その弟に皇位を譲ります。
これが第84代・順徳天皇(12月28日参照>>)・・・土御門天皇は、土御門上皇となります。
しかし、この間にも、後鳥羽上皇と幕府との緊張は徐々に高ぶっていきます。
やがて、建保七年(承久元年・1219年)、将軍・実朝が暗殺される(1月27日参照>>)に至って、この幕府のゴタゴタを好機とみた後鳥羽上皇は、倒幕の計画を立てる事になります。
ご存知、承久の変です(5月14日参照>>)。
しかし、父・後鳥羽上皇が「ぬるい!」と言った土御門上皇のその穏やかな性格は、ぬるいというよりは冷静という表現のほうが似合いそうだと思います。
この時、土御門上皇は、父に「今は、その時期ではありません!」と、しっかりといさめています。
結果論ではありますが、イケイケムードで突き進んだ父と弟の間で、この土御門上皇が一番冷静に状況を把握していたのかも知れません。
しかし、当然の事ながら、後鳥羽上皇は、土御門上皇の意見など一蹴して、幕府への反旗をひるがえし、見事、大敗を喫してしまいます。
倒幕に失敗した後鳥羽上皇は隠岐へ流され(7月13日参照>>)、順徳天皇(上皇)も佐渡へと流されました。
そんな中、先に反対していた事もあって承久の変にはノータッチだった土御門上皇には、何の咎めもなかったのですが、そこが、心優しい土御門上皇・・・「父と弟が流罪となったのに、自分だけが京の都に留まるわけにはいかない」と、自らが流罪を申し出ます。
もちろん、幕府は「その必要はない」と断りますが、頑として聞き入れない土御門上皇の姿勢に負け、「そこまでおっしゃるのなら・・・」と、土佐への配流を決定しました。
後に、阿波へと移転して、計・10年という月日を四国で過ごす事になる土御門天皇ですが、そこは幕府も、乱の首謀者である後鳥羽上皇や順徳上皇とは、まったく扱いを変え、土御門天皇には守護に命じて、現地に御所を造営するなど、流人とは思えない待遇で接しています。
かくして寛喜三年(1231年)10月11日、流刑の地である阿波でお亡くなりになった土御門上皇・・・上皇には10男9女という子宝があり、その多くは仏門に入りましたが、源通子(みなもとのみちこ)との間に生まれた邦仁(くにひと)王だけが仏門には入らず、後に、第88代・後嵯峨天皇として即位しています。
第87代・四条天皇が、わずか12歳で亡くなり、その後継者に乱に加わった順徳天皇の系統を据える事をヨシとしなかった幕府の意向によって、乱とな関係のない土御門天皇の皇子に白羽の矢が立ち、後嵯峨天皇の即位となったわけですが、思えば、この後、ず~っと、この後嵯峨天皇の血筋が天皇を引き継いでいくのですから、まさに、沈黙の勝利・・・穏やかな土御門天皇の系統が最後まで残った事になります。
ちなみに、日蓮宗の開祖・日蓮が、この土御門天皇のご落胤という話もありますが、日蓮本人は「名もなき漁民の子」と言って、その名を明かしていないので、本当かどうかは定かではありません。
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しかも、源氏方の

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