2016年1月25日 (月)

恋の歌姫~式子内親王と藤原定家

建仁元年(1201年)1月25日、後白河天皇の皇女で歌人として知られる式子内親王が薨去されました。

・・・・・・・・・・

式子(しきし・しょくし・のりこ)内親王は、あの源平争乱期源頼朝(みなもとのよりとも)をして「日本一の大天狗」と言わせた後白河(ごしらかわ)天皇(10月25日参照>>)第3皇女・・・

あの平清盛(たいらのきよもり)の娘=徳子(とくこ)中宮に迎えて(12月14日参照>>)安徳(あんとく)天皇をもうける第80代:高倉(たかくら)天皇(1月14日参照>>)は、彼女の異母弟にあたり、その清盛に最初に反旗を翻す以仁王(もちひとおう)(4月9日参照>>)は、彼女の同母兄にあたるという超セレブなお姫様です。

とは言え、お察しの通り、この時代に皇室のお姫様が政治的or軍略的に何かをするという事はほぼ無いので、この式子内親王も特記するほどの「何かをした」という事も無いわけですが、彼女の歌が『小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)に収められていたり、新三十六歌仙女房三十六歌仙の一人にも選ばれてもいる事などから、歌詠み人として、彼女の名前を記憶されている方も多いかと思います。

そんな式子内親王は、10歳前後だった平治元年(1159年)に内親王宣下を受けたのをキッカケに斎院(さいいん)として賀茂神社(かもじんじゃ=京都の上賀茂神社と下鴨神社の総称)に奉仕する事になります。

この斎院とは、賀茂神社の神に仕えて祭祀を行う巫女の事で、もともとは、第10代崇神(すじん)天皇の時代(3世紀~4世紀頃)に始まったとされる(『日本書紀』による:実際には天武天皇の時代=飛鳥時代に正式な制度が確立したと思われる)、未婚の内親王が伊勢神宮に一定期間奉仕する斎宮(さいぐう)にならって、平安時代の初め頃から鎌倉時代頃まで行われた制度・・・

上記の通り伊勢神宮に奉仕する内親王を斎宮と言い、賀茂神社に奉仕する内親王を斎院と言い、その総称を斎王(さいおう)と言います。

ちなみに、現在、京都三大祭の一つに数えられている葵祭(あおいまつり)で、毎年、一般市民の未婚の女性から選ばれている最も華やかで注目される斎王代(さいおうだい)は、太平洋戦争後に葵祭が復活する際に、平安時代に祭を主宰していた斎王の代理という意味で「斎王代」なんですね。

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京都・葵祭…王朝行列の斎王代

こうして11年という月日を神に仕えて過ごした式子内親王でしたが、嘉応元年(1169年)に病気を理由に退下した後、母の実家である高倉三条第、父の後白河院の法住寺殿、叔母である八条院暲子(はちじょういんあきこ)内親王の館などで暮らしていましたが、

その八条院母子とのモメ事や、建久三年(1192年)に崩御された父の後白河院の遺領の相続問題やら、橘兼仲(たちばなのかねなか)陰謀事件などに翻弄される中、晩年には病気がちなり、建仁元年(1201年)1月25日式子内親王は薨去・・・・53歳の生涯を閉じられたのです。

このように、その心の内を察する事ができるような記録が皆無な式子内親王ですが、実は、彼女の事を、自らの日記に書きとめている人がひとり・・・

それが、式子内親王が斎王を退下した直後、三条第に住んでいた頃に、そこに足しげく通っていた藤原定家(ふじわらのさだいえ=ていか)・・・ご存じ、『小倉百人一首』の撰者です。

一般的には、その頃の定家は三条第の家政の管理をしていたから・・・つまり、仕事で通っていたとされますが、日記の記述を見る限りでは、その頃だけでなく、晩年になっても、定家と式子内親王の間には交流があった事がうかがえ、特に晩年に病気が悪化した頃には、頻繁にお見舞いにも訪れている事から、一説には、二人は恋人同士?・・・いや、計算上では定家が13歳年下になる事から、「式子内親王は定家の初恋の人だったんじゃないか?」てな事も言われます。

斎院を退下して間もなくの頃なら、式子内親王は20歳を少し過ぎた頃・・・
定家は10歳の少し前・・・

小学校4~5年の、ちょっと色気づき始めた男の子が、バッチリ化粧の女子大生に憧れる・・・
「キレイお姉さんは好きですか?」っていうアレですね。。。
(相手が美人なら、完全にアリやな(o^-^o))

この「二人恋仲」の噂は、かなり昔から囁かれており、ご存じのように、この話を題材にした謡曲『定家』も室町時代に誕生し、能の演目になっています。

とは言え、皇室の姫が自由な恋愛など許されるわけもなく、まして式子内親王は、それまでの10年間神に仕えていた身でもあるわけで、そんな恋だの愛だのという記録が残っている事もないですから、あくまで想像するしかないわけで・・・

実際には、歌人としても名高い式子内親王が、その歌の手ほどきを受けた先生が藤原俊成(としなり)(7月25日【忠度の都落ち】参照>>)であり、その息子が定家だったというだけの仲だったのかも知りません。

しかし、例え妄想の範ちゅうであったとしても「どうせならステキな恋であってほしいヽ(´▽`)/と人は思う物・・・

そんな中、有名な『小倉百人一首』・・・

以前の5月27日【百人一首に秘められた暗号】>>で書かせていただいたページでは、その『小倉百人一首』の成立を、承久の乱(5月14日参照>>)て流罪となった後鳥羽(ごとば)上皇に絡めてお話させていただきましたが、それはあくまで伝説の域を超えない話・・・

しかし、後鳥羽上皇うんぬんがなかったとしても、沢山の歌を残している歌人に対して、その中から一首を選ぶ段階で、歌の名人である定家が「なぜ、その一首を選んだの?」と、歌の善し悪しがわかる人が見れば首をかしげる一首もあるのだそうで・・・

つまり、この『小倉百人一首』は、「定家の独断=好みで歌を選んだ」可能性が大いにあるわけです。

一般的に式子内親王の作風&評価は、悲しみや孤独といった情感をモロに出す事はなく、それを内に秘めた感じでありながら、なんとなくそれを匂わせるような・・・で以って、他の歌人の影響を受けつつも一線を画する独自性を持つ見事なバランスを保った世界観で、まさに新古今時代の代表的な歌人とされています。

当然、複数の歌集に複数の式子内親王作の歌が収められているわけですが、その中から定家が『小倉百人一首』に選んだ一首は・・・

♪玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
 忍ぶることの 弱りもぞする ♪

「玉の緒」とは、直訳すれば「玉に開けた穴に通されたヒモ」の事ですが、この場合の「玉」は「魂」の事を意味していて、つまりは「命をつなぐ糸」みたいな意味ですね。

で、全体を意訳するなら
命をつなぐ糸なんか、切れるんやったら切れてしもたらええねん。
このままやったら、この気持、隠し通されへんようになってしまうもん!」

てな感じでしょうか?

ここには、文字に表さなくとも・・・
「このまま我慢できなくなって、忍ぶ恋が世間にバレてしまって悲しい結末になるくらいなら、いっその事…」
てな前置き的な気持ちが含まれている事も想像できます。

もちろん、これは「歌」ですから、現在の作詞家さんがそうであるように、歌詞に書いた事がすべて事実の実体験とは限らないわけですが・・・

自由な恋愛など許されない皇女という身分で、この歌を詠んだ式子内親王・・・

式子内親王亡き後、複数の彼女の歌の中から、この一首を選んだ定家・・・

そんな定家が百人一首に残した自らの歌は・・・

来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
 焼くや藻塩
(もしお)の 身もこがれつつ
「海岸で藻塩を
(藻を焼いて塩を精製する)焼いてる火のように身をこがして、俺はけぇーへん人を待っているんやで」

う~~ん・・・亡くなった人(男女問わず)への情と言えば情ですが、恋と言えば実らぬ恋と知りつつ相手を待っている歌のような気もする・・・

・・・と、まぁ、おそらく実際には何も無かったんでしょうけど、膨らむ妄想で胸キュンとなりそうですね((w´ω`w))
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2015年6月13日 (土)

鎌倉幕府・第2代執権~北条義時の最期の謎

 

元仁元年(1224年)6月13日、鎌倉幕府の第2代執権を務めた北条義時が、62歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

北条義時(ほうじょうよしとき)は、伊豆の豪族・北条時政(ときまさ)の息子・・・つまり、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の奥さん=北条政子(まさこ)にあたります。

Houzyouyositokia400 その政子ネェが頼朝に嫁いだ頃は、未だ15~6歳の少年だったようですが、以来、父&兄とともに頼朝を助け、以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)(4月9日参照>>)を手にした頼朝が、治承四年(1180年)に伊豆で挙兵(8月17日参照>>)してからは、まさに、手足となって戦場を駆け巡って行動をともにしたのです。

残念ながら、兄の宗時(むねとき)は、続く石橋山の合戦(8月23日参照>>)で戦死していますが・・・

義時は、その後の一連の平家との戦い(【源平争乱の年表】参照>>)や、奥州藤原氏との合戦(8月10日参照>>)で戦功を挙げ、まさに天下人となった頼朝が右近衛(うこのえ)大将権大納言に任ぜられる(12月1日参照>>)建久元年(1190年)頃には、その頼朝から「義時をもって家臣の最となす」と評されるほどの信頼を得ました。

頼朝亡き後は、第2代鎌倉幕府将軍となった頼家(よりいえ=頼朝&政子の長男)のもとで採用された13人衆の合議制(4月12日参照>>)を行う御家人メンバーにも選ばれました。

その後、鎌倉幕府内のゴタゴタで、梶原景時(かじわらかげとき)(1月20日参照>>)比企能員(ひきよしかず)(10月15日参照>>)畠山重忠(しげただ)(6月22日参照>>)和田義盛(わだよしもり)(5月2日参照>>)などの有力御家人を次々と追い落とす一方で、父=時政&政子ネェとタッグを組んで、頼家に代わる実朝(さねとも=頼朝&政子の次男)第3代将軍に擁立(7月18日参照>>)しますが、その後、方針が合わなくなると父の時政までをも失脚させ(1月6日参照>>)、自らが鎌倉幕府・第2代執権となります。

(執権(しっけん)とは鎌倉幕府内で政所別当(一般政務・財政を行う所の長官)を務める者が、事実上、政務の最高責任者を兼ねる事で、義時の頃から、その責任者を執権と呼ぶようになったとされるので、初代執権は父の時政とも、初代の政所別当である大江広元(おおえのひろもと)(6月10日参照>>)とも…という複数説がある微妙な感じです)

しかし、そんな実朝も、政子ネェ&義時の意のままにならないようになりはじめた頃(11月24日参照>>)、なんと、今度は、その実朝が暗殺されるという一大事件が勃発・・・
【実朝・暗殺事件の謎】参照>>
【実朝・暗殺事件の謎・パート2】参照>>
【謎多き…源実朝暗殺犯・公暁の最期】参照>>

もちろん、そこに義時の黒幕説もチラホラ囁かれるのですが、一方で、このゴタゴタをチャンスと見た後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)を中心とする朝廷復権を願う軍団が、承久三年(1221年)5月『北条義時・追討令』を発令・・・ご存じ、承久の乱(じょうきゅうのらん)です。

しかし、この時も、幕府を開いた頼朝の直系亡き中で、その意志を継ぐカリスマ性を持つ政子ネェを看板に据えて、自らはナンバーⅡとなって見事勝利し、逆に、幕府をより盤石な物としました。
【北条政子・涙の演説】参照>>
【承久の乱に翻弄された幸薄き仲恭天皇】参照>>

ところが、その乱からわずか3年後・・・その最期の時は突然訪れます。

『吾妻鏡』によれば・・・
その前日の朝9時頃、持病の脚気(かっけ)に加えて霍乱(かくらん)を併発して重態に陥った義時を、卜筮(ぼくぜい)で占ったところ、「夜の9時には治りまっせ」と出ますが、念のために、あっちからもこっちかも神職や僧を招いて祈祷を行い、病魔を乗り移らせるための身代わりも5種用意して病気治癒に挑んだものの、容体は重くなるばかり・・・

明けて元仁元年(1224年)6月13日午前5時、死を覚悟した義時は、自らが担ぎあげた時の将軍=藤原頼経(ふじわらのよりつね=第4代将軍)の許可を得て出家・・・「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とくりかえし唱え続ける中の午前10時、夜を徹して止む事が無かったその念仏が、ついに止まったと思うと、外縛印(げばくいん=指を交互に組んで両掌をピタリと合わせる状態の合掌)を胸の上で固く結んだままの静かな最期であったと・・・

その死にざまが、あまりに立派で「順次の往生(じゅんじのおうじょう=死んですぐに浄土に生まれ変わるだろう)」と絶賛の嵐だったのだとか・・・

んん?♪ちょと待ってちょと待ってお兄さん~♪
確かに、脚気は持病・・・そもそも、あの実朝暗殺の時も、本来なら義時が実朝に付き添うはずだったのが、その脚気のために体調不良となって急きょ欠席したおかげで、とばっちりを喰らわなくてすんだわけで・・・それは良いとして、

もう一つの霍乱て・・・
何となく、字を見ても怖そうな雰囲気ですが、これ、今で言うところの急性胃腸炎の事で、激しい腹痛とともに嘔吐と下痢を繰り返す・・・

とても落ち着いて、静かにお経を読んでいられ無いのではないかと・・・

実は、この『吾妻鏡』・・・ご存じのように鎌倉幕府の公式記録なものですから、「幕府に都合の悪い事は書かない」あるいは「変えて書く」というクセがありまして・・・現に、初代将軍=頼朝の死もウヤムヤだったり、義時父ちゃんの時政の出自もはっきり書いてなかったり・・・結構重要な事が抜けてます。

で、そうなると、やっぱり登場するのが謎を含む異説・・・

『小倉百人一首』(5月27日参照>>)の撰者として有名なあの藤原定家(ふじわらのさだいえ)の日記=『明月記(めいげつき)には、後鳥羽上皇のオカルト的な話(7月13日の後半部分参照>>)とともに、あの承久の乱の京方の首謀者の一人が、敗戦から6年後に捕まったくだりも書かれているのですが・・・

乱から6年後・・・ですから嘉禄三年(1227年)、って事は、もちろん義時は亡くなり、なんなら政子ネェも2年前の嘉禄元年(1225年)に死去してる(7月11日参照>>)わけですが、一方で、この犯人(一応犯人と呼びますスンマセン)はその間、ずっと地下に潜伏していたわけで、当然ですが、「彼を匿った誰かがいる」って事になるわけで、かなり厳しい取り調べが行われたのだとか・・・

で、その取り調べの苦痛に耐えかねた犯人が、
「義時が妻が義時にくれけむ薬、我に是くはせて早殺せ!」
と叫んだと・・・

つまり、義時は、後妻さんが盛った薬によって毒殺されたような事が書いてあるんです。

この後妻さんとは伊賀の方と呼ばれる女性で、義時の後継者に娘婿の一条実雅(いちじょうさねまさ)を推すも失敗して流罪になった人で、今回捕まって重大な事口走った犯人というのは実雅の兄である尊長(そんちょう)という僧侶・・・なんか、友達の友達のそのまた友達ほど遠く無いところが信憑性ありますなぁ

また、他にも、家臣に刺殺された説(『保暦聞記』)、近習の深見三郎なる人物が「父の仇!」と叫びながら刺殺した説(『続本朝通鑑』)などの説もあります。

まぁ、ご本人もカッコつけたいでしょうから、「のたうちまわって…」ていうのを「静かに落ち着いて…」と書き換えるのは公式記録としてはアリな気もしますが、さすがに毒殺や刺殺の場合はスルーし難い・・・ちょっと気になりますね。
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2014年5月15日 (木)

起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い

 

元弘三年(1333年)5月15日、鎌倉討幕戦における分倍河原の戦において幕府軍が勝利・・・討幕側の新田義貞が一時窮地に立たされるも、翌16日に挽回しました。

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元弘元年(1331年)に笠置山にて挙兵するも(9月28日参照>>)、失敗に終わった後醍醐(ごだいご)天皇が、翌元弘二年(1332年)隠岐に流された(3月7日参照>>)事で、小休止となった鎌倉討幕への戦い・・・

しかし、元弘三年(1333年)に入って間もなく、新たなる展開を見せるのです。

1月には笠置山から脱出した護良(もりよし・もりなが=後醍醐天皇の皇子)親王天王寺の戦いにて六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)に勝利・・・(2月1日参照>>)

閏2月5日には、先の戦いで落されていた千早城を奪回して立て籠もった楠木正成(くすのきまさしげ)を、大量の幕府軍が囲んでの千早城の戦い(2月5日参照>>)が開始されると、同2月24日には、隠岐を脱出した後醍醐天皇が船上山(せんじょうざん=鳥取県)籠ります(2月24日参照>>)

この天皇の戦闘態勢を受けて、播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松則村(あかまつのりむら・円心)が、兵庫の北に摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を拠点に、三月十二日合戦(3月12日参照>>)山崎合戦(3月15日参照>>)四月三日合戦(4月3日参照>>)と立て続けに京都を脅かし、さらに4月8日には、市街地での京合戦(4月8日参照>>)となります。

そんなこんなの4月16日に、鎌倉幕府の命を受けて、この一連の京都での合戦鎮圧のために上洛した足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)(4月16日参照>>)でしたが、翌5月7日、その高氏が、いきなり討幕派に転じて六波羅探題を攻撃した事で(5月7日参照>>)、京を追われた北条仲時(なかとき)が自刃し、六波羅探題が消滅(5月9日参照>>)・・・となります。

Nittayosisada600b と、ここらあたりは京都=都周辺での合戦・・・しかし、ご存じの通り、幕府の拠点は鎌倉ですから、討幕となれば当然・・・で、ここに登場するのが新田義貞(にったよしさだ)です。

義貞は、はじめ、幕府の一員として、あの正成が籠る千早城を攻撃する役目だったわけですが、長引く籠城戦の中で、密かに後醍醐天皇の綸旨(りんじ=天皇の命令を記した公文書)得た事で、病気と称して勝手に関東へと戻って戦闘準備・・・5月11日、意気揚々と挙兵し、小手指原(こてさしばら=埼玉県所沢市)にてぶつかった幕府軍を蹴散らしました(5月11日参照>>)

小手指原に続いて、翌12日に行われた久米川での戦闘にも敗れた幕府軍は、その日のうちに分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)まで撤退し、一方の新田軍は、その久米川畔に陣を敷きます。

この日の幕府軍の負傷者は相当な数に上り、もはや息も絶え絶え状態・・・おそらく義貞も、この勢いのままの完全勝利を描いていた事でしょうが、

そこは、さすがの幕府・・・この戦況を、鎌倉にて聞きつけた北条高時(ほうじょうたかとき=第14代執権)は、自らの弟=北条泰家(やすいえ)10万余騎(←『太平記』の数字です)の兵をつけて援軍として派遣する事に・・・

なんせ、この分倍河原は甲州街道をはじめとする複数の街道が行き交い、かつては武蔵の国府も置かれた要所・・・幕府にとって、ここは死守せねばならない場所だったのです。

こうして、大軍を率いた泰家は、15日の真夜中に、密かに現地=分倍河原へ到着・・・一方、幕府が要所と考えるこの地は、当然、義貞にとっても重要な場所であります。

しかし、この時の新田軍は、まさか、知らぬうちに10万もの援軍が合流しているとは気づかないまま、元弘三年(1333年)5月15日夜明け前に幕府軍の陣取る分倍河原へと押し寄せたのです。

夜のうちに10万の援軍・・・それを知らずに攻撃・・・
この経緯でお察しの通り、新田軍はたちまち窮地に追い込まれ、逆に新手の大軍に攻め立てられる形となり敗退・・・

と、以前も書かせていただきましたが『太平記』では、
「是ぞ平家の運命の尽きぬる処ところ)のしるし也(なり)
と記していて、ここで、もしかしたら討ち果たす事ができたかも知れない義貞を追撃せずに、すんなり撤退させてしまった事が幕府最大の失態=北条(平家)滅亡の兆しとしています。

それほど、この5月15日の分倍河原の戦いでの敗戦は義貞にとってピンチだったわけで、それこそ、命助かったものの、この後の戦いをどうすべきか、彼も悩みに悩んでいたわけですが、

そんなこんなの15日の夕方、今度は義貞のもとに救世主登場・・・相模(さがみ=神奈川県)から6000の兵を率いて駆け付けた三浦一族大多和義勝(おおたわよしかつ)でした。

しかも、
「さっき、こっそりと敵陣の様子をさぐらせたところ、幕府軍はこの勝利に安心して油断しきってるみたいですわ。
明日の合戦には、新手の僕が一方の先陣を引きうけて、敵を攻め立てて、必ず勝って見せますよってに…」

と心強い言葉・・・

かくして翌16日の朝4時・・・未だ鎮まる幕府軍に奇襲攻撃を仕掛けた三浦勢・・・さらに、そこに、義貞以下の軍勢が時間差攻撃の如く、三方から鬨(とき)の声を挙げて一気に攻め立てたため、幕府軍は大混乱・・・

やむなく、泰家率いる幕府軍は、鎌倉へと敗走する事に・・・

しかし、命からがら鎌倉に戻った兵たちに待っていたのは、「京都の六波羅が落ちた」との知らせ・・・彼らは、しばしの間呆然とするしか無かったのだとか・・・

そしていよいよ・・・この分倍河原での逆転勝利に勢いづいた義貞が、幕府の本拠地=鎌倉を目指すのは、この2日後の事ですが、そのお話は、5月21日の【新田義貞・稲村ケ崎の龍神伝説】でどうぞ>>
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2014年2月24日 (月)

後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場

 

元弘三年・正慶二年(1333年)閏2月24日、隠岐を脱出した後醍醐天皇が船上山に移りました。

・・・・・・・・・・・

時は鎌倉末期・・・

正和五年(1316年)に第14代執権となった北条高時(ほうじょうたかとき)(7月10日参照>>)・・・

一方、その2年後の文保二年(1318年)に第96代天皇として即位した後醍醐(ごだいご)天皇(2月26日参照>>)・・・

この頃は、皇族から来た守邦親王(もりくにしんのう)第9代鎌倉幕府将軍となっていましたが、ご存じのように、あの源頼朝(みなもとのよりとも)直系が絶えて(1月27日参照>>)以来、将軍はもはや飾り物・・・幕府の実権を握っていたのは、執権である北条家でした。

そんな幕府を倒して、自らが政治を行いたい後醍醐天皇は、正中元年(1324年)の正中の変(9月19日参照>>)、元弘元年(1331年)の元弘の変(9月28日参照>>)と度々事を起こしますがいずれも失敗・・・

頼みの綱の楠木正成(くすのきまさしげ)赤坂城(大阪府南河内郡千早赤阪村)にて敗れて姿をくらまし(10月21日参照>>)、後醍醐天皇自身も隠岐(おき)へと流されてしまします(3月21日参照>>)

しかし元弘三年(1333年)閏2月1日になって、後醍醐天皇の皇子=護良親王(もりよし・もりながしんのう)が隠れていた吉野山を脱出して散り々々になっている討幕派に蜂起を呼び掛け(2月1日参照>>)、続く閏2月5日からは、死んだと思われていた正成が千早城(同じく千早赤阪村)に籠って、攻め寄る幕府軍を翻弄(2月5日参照>>)・・・

さらに、播磨(はりま=兵庫県南西部)からは、討幕派の一翼を担う赤松則村(あかまつのりむら・円心)が挙兵して京都の六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅の北と南に設置した機関)に迫ります。

そうなると、隠岐にいる後醍醐天皇の監視も厳重になるのですが、そんなこんなの2月のある日・・・その日の警固当番だったた佐々木義綱なる者が女官を通じて現在の戦況を報告し、後醍醐天皇に隠岐からの脱出を進言して来たのです。

にわかに信じ難い後醍醐天皇・・・なんせ、相手は自分の監視役ですから・・・

「隠岐から船で脱出して伯耆(ほうき=鳥取県中西部)か出雲(いずも=島根県東部)か…味方になってくれる武将のおる地に上陸してください。ほんだら、僕が追手のふりして行きまっさかいに、そこで合流しましょ」
と義綱・・・

言葉では忠誠を誓う義綱ですが、やはり疑いを拭えない後醍醐天皇は、
「ほな、まずはお前が出雲へ行って、味方になってくれる武将を集めて迎えに来いや」
と・・・

「承知しました」
と、出雲に向かった義綱は、同族のよしみで味方になってくれそうな塩冶高貞(えんやたかさだ)(4月3日参照>>)のもとを訪ねますが、高貞は味方になるどころか、その義綱を幽閉し、隠岐へは返さなかったのです。

待てど暮らせど義綱が戻らない事に業を煮やした後醍醐天皇は運を天に任せて、自ら脱出する事に・・・

御所に出産間近の女性がいる事に目を付けた後醍醐天皇は、
「彼女がいよいよお産をするので御所を出る」
という噂を流し、女性用の車に乗って闇夜の道を千波(ちぶり=知夫里島)の港を目指して、ひた走ります。

つき従うのは隠岐への流罪にも随従していた千種忠顕(ちぐさただあき)なる近臣ただ一人・・・

途中で車を捨て、さらにひた走り・・・慣れない闇夜の歩行とは言え、これは逃走ではなく、夢ある希望に満ちた旅立ちだと思うと、心は躍りますが、さすがに疲れは隠せない・・・

しばらく休憩する中、とある一軒家を見つけた忠顕が、港への道を尋ねると、中から怪しげな男が出て来て、天皇の姿をしげしげと見つめたかと思うと、
「俺が案内しますわ!」
と、疲れ果てている天皇を軽々と背負って、いざ出発・・・

怪しい風貌とはうらはらに、意外とやさしいこの男は、港に着くとあちこち走り回って、なんと、伯耆へと戻る船頭を見つけて交渉・・・その船に乗せてもらえる事になります。

二人の身なりを見て「タダ者ではない」と感じた船頭は、
「あなたたちのような高貴なお方をお乗せできるなんざ、一生の誉れです!伯耆と言わず、お望みなら、どこの港にでも行きますよって、言うてください!」
と・・・

この態度に安心した忠顕が、その身分を明かして励ますと、船頭は、ますます感激しまくりのハリキリまくりで、帆を高く上げ、一心不乱に漕ぎ出し、力を振り絞って前に進みます。

しかし、そこに隠岐判官・佐々木清高が乗った追手の船が近づいて来ました。

船頭は機転を効かせて、天皇と忠顕を船底に隠した上に、乾魚の入った俵を積み重ねて覆い、さらに、その上に乗組員を座らせます。

やがて追いついた船団のうち一艘が船を横付けし、ドヤドヤと武士たちが乗り込んで来て、船内を捜索しますが、上記の船頭の機転により、天皇の姿を発見する事はできない・・・

すると、一人の武士が、
「この船では無かったか…」
と、今度は船頭に、
「ならば、他に怪しい船は見なかったか?」
と訪ねます。

すかさず、
「今夜の子の刻(午前0時頃)の事やったかいな…その頃に千波の港を出た船に、なんや冠という物や立烏帽子のような物を被った京の高貴な方らしい人物が乗ってはったっちゅー事ですけど、おそらく、その船はもう五~六里先へ進んでるんとちゃいますやろか?」
と、船頭が答えると、
「よっしゃ!その船に違いない!」
と、追手の船は帆を張って進路を変え、見ているうちに遠くの先の方へ消えていきました。

が、しかし・・・
追手の船はこれだけではなく、またもや船団を組んで、もう一組・・・しかも、ここに来て風は向かい風となり、
「アカン!もう追い付かれる~」
と思ったところに、船底から後醍醐天皇が上がって来て、これまで、肌身離さす持っていたお守袋の中から、仏舎利(ぶっしゃり=お釈迦様の遺骨)を一粒取り出し、それを懐紙の上に乗せて波の上に浮かべました。

すると、龍神が天皇の願いを聞いたのか?
にわかに風向きが変わり、追手の船団を後ろへ押し戻し、コチラを先へと誘導しはじめました。
(↑ここらあたりの不思議話は『太平記』によるお話なので…)

こうして危機を脱した船は、まもなく、無事、伯耆の国の名和(なわ)の港(鳥取県西伯郡名和町)に到着したのです。

上陸した忠顕は、すぐさま「この付近に精通した武将がいないか?」と聞きこみを開始・・・すると、「知名度こそあまり無いが、智略に優れた良い男で一族も繁栄している」名和長年(なわながとし)なる人物の名が挙がります。

早速、長年に「天皇の味方になるか?ならないか?すぐに返答せよ」との勅使(ちょくし=天皇の使者)立てると、それを受けた長年は、今、まさに一族で宴会中・・・

突然の事にちゅうちょする長年でしたが、
(天皇はあなたの)長年の武勇を前々からお聞きになっていた」
(天皇があなたを)頼っておられる」
との、ちょっと盛り気味の篤いメッセージに、宴会の席にいた親族たちが、
「この期に及んで何を迷う?」
「天皇にお味方する以外に道はないゾ!」

と口々に声を挙げ、長年も決意します。

Godaigozypuriku3 錦絵に描かれた名和長年と後醍醐天皇の隠岐脱出場面

時に元弘三年・正慶二年(1333年)閏2月24日・・・早速一同、鎧をつけ、天皇のもとへ一直線・・・急な事ゆえ車も用意できず、長年はその鎧姿の上に天皇を背負い、鳥が飛ぶ如くの早さでひた走って船上山(ふなのうえやま:現在のせんじょうざん=鳥取県東伯郡)へと登ったのでした。

これから後、長年は、反旗をひるがえした足利尊氏(あしかがたかうじ)との京都合戦(6月20日参照>>)で討死する延元元年・建武三年(1336年)まで、後醍醐天皇の篤い信頼を受ける忠臣として活躍する事になります。

一方、後醍醐天皇が船上山に入った事で、討幕軍には様々な動きが・・・まずは、播磨の赤松が、
3月12日の三月十二日合戦(3月12日参照>>)
3月15日の山崎の合戦(3月15日参照>>)
4月3日の四月三日合戦(4月3日参照>>)
さらに、4月8日の京合戦(4月8日参照>>)
と続くのですが、それぞれの戦いはそれぞれのページでご覧いただくとして・・・

そんな中で、後醍醐天皇は、「これは…」と思う武将に連絡をつけるのですが、その中の一人が、今、まさに、楠木正成の籠る千早城を攻撃中の軍の中にいた、あの新田義貞(にったよしさだ)・・・

この3月11日に思いもよらぬ後醍醐天皇の綸旨(りんじ=天皇の命令を記した公文書)を受け取った義貞は・・・と、この先は5月11日【鎌倉討幕…新田義貞の挙兵】でどうぞ>>
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2013年4月 8日 (月)

千種忠顕&児島高徳…4月8日の京合戦

 

元弘三年(1333年)4月8日、打倒鎌倉幕府を掲げた後醍醐天皇配下の千種忠顕が京都に侵攻するも、六波羅探題に阻まれた4月8日の京合戦がありました。

・・・・・・・・・

元弘元年(1331年)に元弘の変倉討幕を決行するも失敗に終わった(9月28日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇が、元弘三年(1333年)に再び挙兵して伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に立て籠り(2月24日参照>>)河内(大阪府東南部)では、後醍醐天皇の皇子=護良(もりよし・もりなが)親王(2月1日参照>>)楠木正成(くすのきまさしげ)(2月5日参照>>)が奮戦する中、

六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)が守る京都を奪取せんと転戦していたのが播磨(はりま=兵庫県南西部)にて挙兵した赤松則村(あかまつのりむら・円心)・・・

これまで、
3月12日の三月十二日合戦(3月12日参照>>)
3月15日の山崎の合戦(3月15日参照>>)
4月3日の四月三日合戦(4月3日参照>>)
と展開するものの、数に勝る六波羅探題に、その都度、阻まれるのでした。
(くわしくは、個々の合戦のそれぞれのページで…)

Tigusatadaaki600 そんな現状を打開すべく、後醍醐天皇軍は、千種忠顕(ちぐさ・ちくさただあき)山陽・山陰道の総司令官に任命し、「則村と協力して六波羅を攻略せよ」と京都へ派遣したのです。

その軍には、途中々々で味方が加わって20万7000余騎(『太平記』の数字です)の大軍となり、さらに、第六の若宮(後醍醐天皇・皇子の静尊法親王と思われる)が加わった事で、忠顕は大いに喜び、官軍の証である『錦の御旗』を掲げて進軍・・・兵の士気も最高潮のまま、4月2日には京の西山に布陣しました。

ですが・・・
そう、先に書いた通り、4月3日には、赤松軍が六波羅を攻撃しているはずなのに・・・

実は・・・
忠顕は、自軍の数の多さに自信を持ったのか?はたまた、その武功を一人占めしようとしたのか?・・・
とにかく、赤松軍と合流どころか、連携する事もなく時を過ごし元弘三年(1333年)4月8日こっそりと京都市中への進攻を開始したのです。

しかし、相手の六波羅探題は、しっかりと準備をして千種軍を待ちかまえていたのです。

まずは、六波羅探題が大宮方面へと配置していた先手に、2重3重に構えた千種軍が攻めかかります。

第1陣が退けば、すぐさま第2陣と次々と新手を投入する作戦で千種勢は六波羅を圧倒し、さらに、六波羅側に忍び込んでいた間者が敵の陣に火を放った事で、やむなく六波羅勢は大宮方面から撤退します。

勢いづいた千種軍は、さらに圧し進みますが、そこに、六角時信(ろっかくときのぶ=佐々木時信)六波羅の新手・・・実はこっちが本隊・・・

この新手に苦戦した千種軍は、あちこちで敗退し、やがて桂川のあたりまで撤退します。

それでも、名和小次郎児島高徳(こじまたかのり)(←後醍醐天皇が流罪になった時頑張ってた人デス:3月7日参照>>の小隊だけは後退せず、何とか踏ん張っておりましたが、忠顕からの全軍撤退の命令が出たために、敵の大将と挨拶を交し、「引き分け」という事で軍勢を退きました。

その後、本陣の峯堂(京都市西京区)にいた忠顕のもとに、すぐさま駆けつけた高徳・・・早速抗議です。

「なんでや!まだ勝機はあるがな!
援軍を出してくれ!俺は、もっかい行く!」

と、忠顕に申し出ますが、忠顕は、首を縦に振らず・・・そのまま、峯堂を動こうとしません。

「あぁ、そうでっか!!わかりましたわ!
けど、気ぃつけなはれや~
敵は、まだまだ力が有り余ってますさかいに、今夜、ここに夜襲があるかも知れまへんよってに…」

と、脅しの捨てゼリフを残して、その場を去った高徳・・・

やがて、その夜も更けた頃・・・高徳が、自らの陣から峯堂の方角を眺めると、星のように輝いているかがり火が、一つ、また一つと消えていきます。

「あのアホ!敵前逃亡か?」
と、疑いながら、慌てて峯堂へと向かう高徳・・・

すると、途中で、ちょうど自らの陣をたたんでいる同僚の荻野朝忠(おぎのともただ)と出会います。

「あぁ、わが大将は昨夜の0時頃、第六の若宮を馬に乗せて、前のめりになりながら慌てて落ちて行きはりましたわ。
しゃーないから、俺らも故郷の丹波に帰ろかなと思て…。
なんやったら、俺らといっしょに来はりますか?」

と朝忠・・・

どうやら忠顕さん・・・高徳の脅しに、本気で怖くなったらしい・・・

「クソッ!あんな臆病者を、大将と頼りにした俺が間違いやったわ!
けど、やっぱ、この目で事実を確かめんと、若宮の事も心配やし、上に報告もできひんし…とりあえずは峯堂まで行ってみるから、君ら、先に行っとってくれるか。
現場を確認した後で追っかけるさかいに…」

そう言って、高徳は、自らの従者を麓に待たせ、ただ一人、退却していく軍勢の中を押し分けへし分け、峯堂まで上っていき、忠顕がいた本堂の中に入ってみると・・・

よほど慌てていたのか?
そこらへんに鎧やら着物やら散乱し、見るも無残な現状・・・しかも、大事な『錦の御旗』まで、そこらへんにほっぽりだしたまま・・・

あまりの現状に
「あのアホ!!
どこぞの堀でも崖でもええから、落ちて死んだらええねん!」

と歯ぎしりしながら、しばし立ち尽くす高徳・・・

しかし、ここは戦場・・・六波羅郡の追撃があるやもしれませんから、ゆっくり立ち尽くしてはいられません。

気を取りなおして『錦の御旗』を回収し、自軍と合流した後、先ほどの朝忠の後を追いながら、丹波へと落ちていきました。

案の定、彼らが撤退した場所には、その後六波羅軍が押し寄せ、西山一帯の神社仏閣を破壊して放火・・・周辺は焦土と化したとの事・・・

赤松軍との連携は乱れ、千種軍は撤退し・・・
もはや、後が無い後醍醐天皇・・・

しかし、ここで、戦の女神は後醍醐天皇にほほ笑みます。

そう、天皇軍の転戦を伝え聞いた鎌倉幕府の元執権・北条高時(ほうじょうたかとき)が、六波羅探題の援軍として派遣した足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)・・・

高時の命を受け3月27日鎌倉を出陣じた高氏が、京都に到着するのは、今回の合戦から8日後の4月16日・・・彼が、後醍醐天皇軍の救世主となるのは、皆様もご存じかと思いますが、そのお話は2012年4月16日のページでどうぞ>>

・・・と、次のページへ行く前に・・・

このままだとあまりにも忠顕さんが気の毒な感じなので、つけ加えておきますと、今回こそカッコ悪さ100%ですが、忠顕さんは、それこそ、後醍醐天皇が隠岐へ流された時もつき従った忠臣で討幕運動に活躍し、後醍醐天皇政権下では三木一草(さんぼくいっそう)『草』に数えられ、伊勢千種家の祖となる人ですので・・・

●三木一草…楠木正成(くすのきまさしげ)結城親光(ゆうきちかみつ)名和長年(なわ ながとし)と、いずれも後醍醐天皇のもとで活躍した3人の、「くすの」「ゆうの2つの「き」と、長年が伯耆守(ほうきのかみ)だったので「ほう「き」合計3つの「き」と、「ちぐさ」の「くさ」を加えて、その隆盛を並び称されたという事です。
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2013年4月 3日 (水)

赤松VS六波羅探題…四月三日合戦の名勝負

 

元弘三年(1333年)4月3日、打倒鎌倉幕府を掲げた後醍醐天皇配下の赤松則村が再度京都に侵攻した四月三日合戦がありました。

・・・・・・・・・

元弘元年(1331年)に鎌倉幕府の討幕元弘の変を勃発させるも失敗に終わった後醍醐(ごだいご)天皇(9月28日参照>>)・・・

しかし、元弘三年(1333年)1月、敗戦の後に行方不明となっていた後醍醐天皇の皇子=護良(もりよし・もりなが)親王再起をはかり(2月1日参照>>)、同時に、死んだと思われていた楠木正成(くすのきまさしげ)千早城に籠城(2月5日参照>>)・・・これを受けて、後醍醐天皇も流刑先の隠岐から脱出し(2月24日参照>>)伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に立て籠ります

一方、鎌倉幕府の元執権・北条高時(ほうじょうたかとき)も、都を死守せんと苦戦する六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)への援軍として、足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)らの畿内への派遣を決定します。

Akamatunorimura600 この時、京都を狙う後醍醐天皇側の最前線として戦ったのが、播磨(はりま=兵庫県南西部)にて挙兵した赤松則村(あかまつのりむら・円心)でした。

やがて、今回の京都攻めの拠点として構築した摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を幕府軍に囲まれた則村は、果敢にも撃って出て、その勢いで桂川を渡河・・・3月12日には、一旦京都市中になだれ込みますが、幕府軍の数の多さはいかんともし難たく、あえなく撤退・・・(3月12日参照>>)

続く3月15日には、京都⇔大阪間の物資の補給路を断つべく、淀川を挟んた西岸の山崎、東岸の八幡に陣を構えて封鎖・・・これを崩すべくやって来た幕府軍と一進一退の攻防をくり返し、何とか幕府軍を追い返しました(3月15日参照>>)

2週間後の3月28日には、護良親王の要請を受けて、これらの動きに同調した比叡山の僧兵が、総勢1万6000騎で六波羅攻撃に向かいますが、油断と準備不足を突かれて幕府軍の逆襲に遭い、早々に退散するという小競り合いもありつつ・・・

元弘三年(1333年)4月3日再び、則村率いる赤松勢が京都に攻め寄せます。

とは言え、これまでの複数の合戦で多数の犠牲者を出した赤松勢・・・もちろん、一方の六波羅探題も多数の犠牲者を出してはいますが、なんたって彼らは幕府軍ですから、おおもとの軍勢の数が違うわけで・・・

ここに来て、今なお3万騎以上の兵力を持つ六波羅探題は、少しも騒がず・・・3方に分かれた赤松勢を見透かすように、自らの手勢も3隊に分けて、彼らを迎え撃つ体勢となります。

午前10時・・・その3ヶ所で、一度に合戦が開始されました。

3ヶ所とも一進一退の攻防戦が続き、結局は勝負の着かないまま日暮れを・・・しかし、「このまま終わらせてはならぬ」と踏ん張る六波羅勢は、奇襲作戦を決行・・・

まずは木幡(こわた=京都府宇治市木幡)にいた1隊を破り、続いて東寺(とうじ=京都市南区九条町)の手前にいた1隊も撤退させます。

Dscn2798a800 舞台となった京都・東寺

残るは則村自身が率いる3000騎・・・

他を破って3方から攻めかかる六波羅勢を相手に、奮戦し、なんとか踏みとどまる則村隊・・・

そんな則村隊の中にいたのが、頓宮(はみや・とんぐう)又次郎孫三郎・父子、そして田中盛兼と弟の盛泰・兄弟の4人の勇者・・・

決死の形相で前へ進み出て、おそらく数千騎はいるかと思われる大軍を相手に堂々名乗りを挙げます。

それに応えて六波羅勢から進み出たのは島津安芸前司(島津忠信?)父子3名・・・

ここに、西国一の太刀の名人とされる田中組と、北国無双の騎射の達人とされる島津組とが繰り広げる名勝負に、息を呑む戦場・・・お互いに追いつ追われつするさまを、周囲は前代未聞とばかりに、誰も乱入せず、むしろ見物状態です。

しかし、さすがに太刀と弓では・・・やがて、頓宮父子・田中兄弟4名は、2~30本の矢を浴びせられ、その最期は立ち往生となったのです。

また、赤松勢の中には、妻鹿(めじか・めが)孫三郎長宗なる怪力の持ち主がおりました。

彼は幼い頃から体格が良く、相撲を取れば負け知らず・・・しかも、彼の一族・17名が、これまた、皆揃っての体格&怪力の持ち主であった事から、この日も、他の軍勢とは合流せず、自分たちの一族だけで市中へと突入し、六条坊門(現在の五条大宮付近?)まで攻め込んでおりました。

とは言え、先ほどからの展開でお解りの通り、はなから多勢に無勢なわけで・・・結局、このあたりで、妻鹿一族は3000騎の六波羅勢に囲まれてしまいます。

やむなく撤退を開始する妻鹿一族でしたが、その17名が次々と討死・・・孫三郎はただ一人となって奮戦しながら逃走します。

そこを、印具(いぐ)駿河守の50騎が「逃してなるものか!」と追いかけます。

すると、その中から、20歳くらいの若武者一人・・・軍団から飛びぬけて、組み撃ちせんとばかりに孫三郎に近づいて来ました。

力自慢の孫三郎は、馬上から片手を出したかと思うと、その若武者を鎧ごと片手でワシ掴みにし、彼を左手にぶら下げたまま、なおも逃走・・・

追う印具勢が、
「あれ(若武者)を討死させるな!」
と、互いに声を挙げると、

孫三郎は、キッと睨み返し
「たった1騎やと思てナメんな…俺に近づいたらケガするゾ!
欲しいねやったら、やるわ!」

と、左手の若武者を右手に持ち替えて、ホイっと投げると、若武者の体は数騎の騎馬武者の頭上を越えて泥田の中へ・・・

これを目の当たりにした印具の追手たちは、さすがに、もう追うのを止め、その場から引き返し、孫三郎は、なんとか無事生還します。

とは言え、この日の合戦で更なる犠牲者を出してしまった赤松則村・・・しかも、今回の戦いでは、頼りにしていた精鋭たちの多くも討死してしまった事で、八幡・山崎へと撤退する則村の心も沈み、これらの京都での合戦の様子を伝え聞いた後醍醐天皇も、心を痛めます。

ただ、一つの希望は、これを受けて、船上山にて、自ら戦勝祈願をする後醍醐天皇が、祈願成就の吉兆を得た事・・・

こうして、後醍醐天皇の鎌倉討幕への道は、更なる展開を見せる事になるのですが、そのお話は、次なる展開の「その日」にご紹介させていただきます。
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2013年4月 1日 (月)

鎌倉幕府・初の皇族将軍…宗尊親王

 

建長四年(1252年)4月1日、後嵯峨天皇の第1皇子である宗尊親王が、鎌倉幕府の第6代将軍に就任・・・初の皇族将軍の誕生です。

・・・・・・・・・

「初の皇族将軍の誕生」と聞けば、何やら、鳴り物入りで意気揚々と、希望に満ち溢れた雰囲気がしますが、残念ながら、今回将軍となられた宗尊(むねたか)親王・・・自らの預かり知らぬところで、その人生を翻弄されるお方です。

そもそも、父の第88代後嵯峨(ごさが)天皇からしてややこしい・・・

話は、かなり戻りますが・・・
そのおおもとは、そう、あの源平の合戦の際、都を落ちる平家は、第80代高倉(たかくら)天皇と、平清盛(たいらのきよもり)の娘=徳子(とくこ)の間に生まれた第81代安徳(あんとく)天皇を奉じて西海へと落ちました(7月25日参照>>)

そのため、天皇不在となった都では、高倉天皇の第4皇子で、平家と行動をともにしていなかった尊成(たかひら)親王第82代天皇とします・・・この方が後鳥羽(ごとば)天皇・・・

で、ご存じのように、源平の合戦に勝利した源頼朝(みなもとのよりとも)は、その後鳥羽天皇のもと、初代の征夷大将軍となって鎌倉幕府を開く(7月12日参照>>)わけですが、この頼朝の直系の将軍が、第2代の頼家(よりいえ)(7月18日参照>>)、第3代の実朝(さねとも)(1月27日参照>>)と、わずか3代で絶えてしまいます。

そのため、事実上幕府の実権を握る頼朝の嫁=政子と、その弟で第2代執権の北条義時(よしとき)は、頼朝の妹=坊門姫(ぼうもんひめ)の曾孫にあたる九条家藤原頼経(よりつね)を、亡き頼家の娘=竹御所(たけのごしょ)と結婚させて、第4代将軍として迎えたのです。

ところが、このゴタゴタをチャンスとみた後鳥羽天皇が、討幕を計画・・・これが承久の乱ですが、ご存じのように天皇側が敗れ、逆に、幕府の勢力が拡大する結果となってしまいます(6月14日参照>>)

首謀者の後鳥羽天皇はもちろん、乱に関与した後鳥羽天皇の皇子・第83代順徳(じゅんとく)天皇、第84代土御門(つちみかど)天皇流罪に・・・順徳天皇の皇子で、当時わずか4歳だった第85代仲恭(ちゅうきょう)天皇まで廃帝となります(4月20日参照>>)

当然ですが、乱に関与した天皇の血筋を、次の天皇にしたくない幕府は、やむなく、あの源平合戦の時に、安徳天皇とともに西海へ落ちたものの、母が徳子ではない高倉天皇の第3皇子であった守貞(もりさだ)親王の息子=茂仁(ゆたひと)親王を、第86代後堀河(ごほりかわ)天皇として即位させたのです。

さらに、皇位は、後堀河天皇の皇子=第87代四条天皇へと譲られますが、この四条天皇が、わずか12歳で後継ぎもいないまま亡くなってしまったために・・・さぁ、幕府は困った・・・

仕方なく幕府は、承久の乱には参加したけれど、最も消極的だった土御門天皇(10月11日参照>>)の第3皇子を天皇とする事に・・・これが、後嵯峨天皇なのです。

一方、幕府将軍のほうは・・・

上記の通り、将軍自身は、完全にお飾りの傀儡(かいらい=あやつり人形)だったわけですが、やはり、どうしても、その近親者の権威は強くなるわけで・・・いつしか、将軍・頼経の父である九条道家(みちいえ=藤原道家)朝廷内で実権を握るようになります。

北条氏としては、この九条家が強くなり過ぎても困るわけですが、そうこうしているうちに将軍・頼経と時の第4代執権=北条経時(つねとき)との関係が悪化・・・あるいは、その関係を見計らった頼経自身の意志により、寛元二年(1244年)、将軍職は嫡男の頼嗣(よりつぐ)に譲られます。

しかし、その頼嗣も、建長三年(1251年)に起こった謀反未遂事件に父の頼経が関与していたとして将軍職を追われ、建長四年(1252年)4月1日、代わって第6代将軍に就任したのが、後嵯峨天皇の第1皇子である宗尊親王というわけです。

Munetakasinnou500 実は、この宗尊親王・・・後嵯峨天皇の第一子ではありますが、後嵯峨天皇は、この同じ年に西園寺姞子(さいおんじきつし)を中宮に迎えていて、まもなく、その姞子との間にも男子(後の第89代後深草天皇)が誕生・・・
つまり、母の身分が低いため、長男と言えど、おそらく宗尊親王が皇位を継ぐ事はないわけで・・・
 .

その事を、かねがね不憫に思っていた後嵯峨天皇と、例の九条家の力を、これ以上大きくしたくない北条氏の利害関係が一致して、ここに、初の皇族将軍の誕生とあいなったわけです。

しかし、それはイコール・・・「宗尊親王が将軍として何かをするという事が無い」という事を意味しています。

政治に関与する事のない、まったくのお飾り・・・歌が大好きだった宗尊親王は、折に触れて何度も歌会を催し、鎌倉歌壇でかなりの影響を持つ歌の名手とされたようですが、趣味の世界に生きるしか道が無いというのも、ツライ物があるかも知れません。

しかも、結局、25歳となった文永三年(1266年)6月、些細な事から謀叛の疑いをかけられ、後に第8代執権となる北条時宗(ときむね)らによって将軍職を解任され、京の都へと送還されるのです。

この時、この人事に強く反対した名越流北条氏(なごえりゅうほうじょうし=北条義時の次男・北条朝時の流れ)は、後に、謀反を企てたとして文永九年(1272年)の二月騒動で幕府から排されますので、おそらくは、名越流を排除したい時宗ら得宗家(とくそうけ=義時の嫡流)が、まずは名越流と仲の良い宗尊親王を排除したという事なのでしょう。

結局は、周囲の思惑によって祭り上げられ、周囲の思惑によって終止符を打たされた宗尊親王の将軍生活・・・

♪いにしへを 昨日の夢と おどろけば
 うつつの外に けふも暮れぬる ♪

「昔の事は、昨日の夢みたいやな~って思うんやけど、夢から覚めても現実味の無いまま、一日が終わってしまう」

これは、宗尊親王が将軍職を廃されて、京の都に戻ってから詠まれた歌だそうですが、なんとも物悲しい・・・お気の毒な気がします。
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2013年3月15日 (金)

鎌倉討幕~赤松則村の山崎合戦

 

元弘三年(1333年)3月15日、播磨にて討幕の兵を挙げた赤松則村と、それを迎え撃つ鎌倉幕府の六波羅探題がぶつかった山崎の合戦がありました。

・・・・・・・・・

3日前にご紹介した三月十二日合戦(くわしくは3月12日参照>>)の、まさに、その続きですが、一応、ここまでの経緯を書かせていただくと・・・

元弘元年(1331年)、河内の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)を味方に、笠置山にて、鎌倉幕府・討幕ののろしを挙げた後醍醐(ごだいご)天皇(9月28日参照>>)、この元弘の変に敗れ、隠岐へ流されてしまいます(3月7日参照>>)が、その後、行方不明になっていた息子の護良(もりよし・もりなが)親王や正成が相次いで挙兵した(2月1日参照>>)事を受けて、後醍醐天皇は隠岐から脱出(2月24日参照>>)・・・伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に陣取って幕府軍に対抗します。

それを受けて、各地の天皇方の武将も動きます。

その中の一人・播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松則村(あかまつのりむら・円心)は、兵庫の北に摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を構築して京に迫り、元弘三年(1333年)3月12日の合戦では、一旦、京都市内になだれ込むも、六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)の激しい抵抗に合い、一旦撤退しました。

・‥…━━━☆

このように、毎日どこかで合戦が行われている状態となった都周辺・・・

時の天皇・光厳(こうごん)天皇の皇居も、ひとところには定まらず、その心が休まる事もありませんでした。

そのため、朝廷&幕府の総力をあげて、社寺にて、国家安泰の祈願&祈祷をするのですが、一向に効果はありません。

やがて、先の合戦で、やむなく撤退した赤松軍が態勢を立て直して、再び迫ったのです。

則村は、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)八幡(京都府八幡市)の2ヶ所に陣を構えます。

Yamazakidougatougecc (←クリックして大きく見れます)

ご存じのように、ここは、この約250年後の戦国時代に、本能寺にて、主君=織田信長を討った明智光秀(あけちみつひで)が、脅威の中国大返しで戻ってきた羽柴(後の豊臣)秀吉を、京都に入れまいとして抑えた場所・・・(6月13日参照>>)

さらに下った慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの頃でも、幕府が砲台場を設置して、京都の守りとしていた場所です(1月5日参照>>)

地図を見ていただいたなら一目瞭然ですが、現在でも、JRは在来線も新幹線もここを通り、阪急電車や京阪電車もここを通り、少し離れてはいますが国道1号線も近くを通ります。

淀川を挟んで、西岸が山崎、東岸が八幡・・・しかも、両側に山が迫っていて、平地は川沿いの、ごくわずか・・・大阪方面から京都に入る時は、必ず、この狭い場所を通らねばならないので、合戦の際は、最重要の場所という事になります。

ただし、今回の赤松軍の場合は、敵は大阪方面からやって来るわけではなく、すでに京都にいますので、敵を迎え撃つために抑えたのではなく、「封鎖して、物資の補給路を絶った」という事ですね。

ご存じのように、京都は山に囲まれた盆地・・・物流の要である大阪からの補給路を断たれては困りますから、六波羅探題は大軍を率いて、その排除に向かいます。

元弘三年(1333年)3月15日朝・・・五条河原に集結した六波羅軍は、はじめ、軍を2手に分けて南へと進みますが、久我縄手(こがなわて・久我畷=京都市伏見区久我森の宮付近)付近は道が細くぬかるみ状態で、馬の引く手もままならなかったため、やがて1手に合流して、桂川を渡り物集女(もずめ=京都府向日市)に到着します。

この敵軍の進路を伝え聞いた則村・・・自軍の3000騎を3手に分け、矢の名手を中心にした1手を小塩山(おしおやま=京都府京都市西京区)へと回し、次の1手となる野伏(のぶせ=地侍や農民の武装集団)をを狐河(きつねがわ=京都府京田辺市)付近に配置・・・残りの1手を向日神社(むこうじんじゃ=京都府向日市)の松林の中に潜ませて、敵の侵入を待ちます。

しかし、六波羅勢とて戦いのプロ・・・あまりの静けさに警戒し、ゆっくりと一歩一歩進軍して行きます。

Dscf1975a800 向日神社(京都府向日市)…くわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「長岡京へ行こう」でどうぞ>>(別窓で開きます)

そんな中、六波羅勢の先陣が向日神社を前を通過するや否や、木陰や岩陰に潜んでいた赤松勢が、一気に矢を射かけました。

警戒していたとは言え、こういう場合、仕掛けられた側が完全に不利・・・なんせ、馬が言う事聞かなくなりますから・・・しかも、その周辺は、いたって細くて険しい道・・・(てか、それを狙って、そこに潜んでますからね)

「こんな野伏らにかもてる場合や無いゾ!」
「こんなん無視して、さっさと山崎に抜けろ!」

六波羅勢は、とにかく、南に向ってひた走ります。

しかし、打って出た先にも新手の兵・・・しかも、六波羅勢は、「相手の赤松勢は少数」と侮っていたため、またたく間に四方を囲まれそうになってしまいます。

やむなく退く六波羅勢・・・それを追撃する野伏・・・

さすがに、1人前の武将が野伏に追われる姿を恥ずかしく思い、六波羅勢は、一旦、引き返しますが、もはや、一度崩れた態勢を戻す事は不可能・・・やむなく、京へと撤退します。

この合戦・・・上記の通り、結果は、赤松軍のちょっとした勝利という事になるわけですが、それ以上に、六波羅に打撃を与えました。

それは・・・
この戦いで討死をした兵の数は、負けた六波羅側でも、さほど多くは無かったのですが、久我縄手というぬかるみでの戦いであった事、向日神社の麓という細く険しい道での戦いであった事から、堀や溝に落ちたり、沼に足を取られたりして、馬具や甲冑や武器などを、そのまま、打ち捨てて帰って来た武将が多数いて、その不細工な格好のまま、白昼の京都市内へ逃げ帰って来た姿が多くの京都市民に目撃される事になり、どエラい恥をかいてしまったのだとか・・・

もちろん、勝利した則村の名声は、逆に高まる事となります。

が、しかし・・・ご存じの通り、一連の戦いは、まだまだ終わりません。

続きのお話は、また、「その日」の日づけにて・・・【足利尊氏と南北朝の年表】もどうぞ>>
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2013年3月12日 (火)

鎌倉幕府・討幕!…赤松則村の三月十二日合戦

 

元弘三年(1333年)3月12日、討幕方の赤松則村と、鎌倉幕府の六波羅探題がぶつかった三月十二日合戦がありました。

・・・・・・・・・・・

元弘元年(1331年)、楠木正成(くすのきまさしげ)との運命の出会い(8月27日参照>>)を果たして笠置山にて討幕ののろしを挙げ元弘の変を勃発させた後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、あえなく敗退(9月28日参照>>)・・・

息子の護良(もりよし・もりなが)親王は行方不明になり、赤坂城で頑張っていた正成も、自ら城に火をかけて討死し(10月21日参照>>)、 捕えられた後醍醐天皇も隠岐に流罪となりました(3月7日参照>>)

しかし、その後、行方をくらまして奈良や和歌山を転々としていた護良親王が、各地の半幕府勢力をまとめる事に成功して吉野山に立て籠り、元弘三年(1333年)1月には天王寺の戦い六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)に勝利・・・(2月1日参照>>)、死んだと思われていた正成も、再び千早城にて奮戦します(2月5日参照>>)

これに触発されて動きだす、各地の武将たち・・・

彼らの手引きに寄り、閏2月の下旬には、後醍醐天皇が隠岐から脱出して伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に籠った(2月24日参照>>)事を受けて、元幕府執権・北条高時(ほうじょうたかとき)は、その討伐軍として足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)らを畿内へと派遣します。

Akamatunorimura600 そんな中、討幕派の一翼を担う赤松則村(あかまつのりむら・円心)播磨(はりま=兵庫県南西部)にて挙兵・・・

山陰・山陽の道を封鎖して、六波羅探題の要請で上京しようとしていた周防(すおう=山口県)安芸(あき=広島県)幕府勢力を通せんぼ・・・さらに、兵庫の北に摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を構築して、京に迫ります。

さらに六波羅探題には、四国の諸将の中でも天皇側につく者が結託して、「上京の兆しあり」との一報も入って来ます。

慌てに慌てる六波羅探題・・・しかし、そこは落ち着いて、「まずは、目の前の敵を潰さなければ」とばかりに、佐々木時信(ささきときのぶ=六角時信)らに在京の兵をつけ、さらに、そこに三井寺の僧兵を加えた5000余騎で以って、摩耶城を囲み攻撃を開始します。

これを見た則村は、わざと敵兵を険しい山道に誘いこみ、見事勝利・・・これを聞いた六波羅探題が、さらに1万騎の兵を送り込んで増強しますが、これもまた智略で以って勝利し、その勢いのまま、追撃を開始して、もはや、そのまま上京する勢いです。

元弘三年(1333年)3月12日、「もはや摩耶城の落城も時間の問題」と構えていた六波羅探題に「赤松軍迫る」の一報が届き、六波羅だけでなく、都中が大騒ぎになる中、慌てて六波羅探題は新たに在京の将兵を召集し、防戦体制にはいりました。

かくして、桂川を挟んで睨みあう両者・・・

とは言え、則村ら赤松軍が桂川の西岸から見る限り、敵の数はなかなかに多い・・・すぐに攻め立てるわけに行かず、しばらくは、お互いに矢を射かけながらの矢戦とあいなりますが、これでは、いつまでたっても、らちがあきません。

なんせ、もはや午後4時を過ぎ・・・グズグズしていたら、このまま夜を迎える事に・・・

血気にはやる則村の息子=則祐(そくゆう・のりすけ)は、
「このままではアカン!馬で川を渡りましょ!」
と提案しますが、

父・則村は
「無謀すぎる!」
と却下・・・ここでの渡河がいかに危険かを説いてみせますが、

「お父ちゃん、兵の数見てみぃな!
どう考えたって、俺ら不利やんけ。。。
こんだけの大差があったら、敵にこっちの数を見透かされんうちに奇襲をかけて、敵陣を乱すしか、方法は無い!
俺は行くで!」

と言うがはやいか、則祐は馬に鞭を当てて、即座に、川の早瀬へと入り、波を逆立てながら前へ進みます。

これを見ていた飽間光泰(あくまみつやす・あきまみつやす=斎藤光泰とも)5騎が後へと続き、やがて対岸へとたどりつきました。

これに驚いたのが六波羅探題勢・・・

父=則村が「無謀」と言った作戦が、逆に、ヤル気満々の勇猛な姿に見え、六波羅方の兵が怖気づいて、戦意を喪失してしまったのです。

それを見て取った則村・・・
「先駆けの勇者を見殺しにするな~!」
と、声を挙げれば、この光景に高揚も頂点に達した赤松軍が、一斉に、怒涛のごとく川を渡りはじめ、一気に攻めかかります。

もはや六波羅方は総崩れとなって、戦う前に槍を捨て、旗を捨て、逃げる者が続出・・・こうして桂川を渡った赤松軍は、京都市中へなだれ込み、あたりは一帯は火の海と化します。

「このままでは御所も危険!」
となり、時の光厳(こうごん)天皇は、三種の神器を手にとって、わずか20人ほどの公卿を伴って御所を脱出し、六波羅へと身を寄せました。

これに続いて、後伏見院花園法皇らが、皇太子や奥さんを引き連れて、皆で六波羅へ・・・にわかに騒がしくなる六波羅探題ですが、ここは一つ、落ちついて赤松軍に対処しなければ・・・

さすがに、その頃には、赤松軍の兵の数が、大して多く無い事に六波羅も気づいております。

ここで態勢を立て直し、七条河原にて赤松勢を迎え撃つ作戦の六波羅・・・

この戦いで活躍したのが河野九郎(こうのくろう)陶山次郎(すやまじろう)・・・彼らのすばらしい活躍に、さすがの赤松軍も、ここまで・・・

則村らは、散り散りになって退却し、なんとか、六波羅探題は京都を死守しました。

さらに追撃をかけようとする河野らでしたが、「深追い無用」との命が出て、合戦は終了・・・

二人には、喜んだ光厳天皇から、臨時の恩賞が授けられたと言いますが、一方では「大将を討ち捕ったり!!」の報告に、喜んで確認しているうち、陣所には、赤松則村の首が5つも並ぶという珍事も・・・

もちろん、ご存じのように則村は、まだ死んでませんから、その5つの首はすべてニセモノという事・・・何とか死守したとは言え、六波羅探題側も、なかなかの混乱ぶりであった事がうかがえます。

・・・が、ご存じのように、六波羅探題&鎌倉幕府は、この後、さらにトンデモなく混乱する事になるのですが、今日の戦いに続いて行われる山崎合戦については、3月15日【鎌倉討幕~赤松則村の山崎合戦】のページでどうぞ>>

さらに一連の流れについては【足利尊氏と南北朝の年表】で>>・・・
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2013年2月 8日 (金)

エリートコースを捨てて…信西の孫・貞慶

 

建久三年(1192年)2月8日、法然らを批判した『興福寺奏状』で知られる鎌倉時代の僧・貞慶が、隠遁生活を願い出ました。

・・・・・・・・・・・

昨年の大河ドラマ「平清盛」での阿部サダヲさんの名演技のおかげもあって、一躍、時の人となった信西(しんぜい)入道・・・

本日の主役である貞慶(じょうけい)は、その信西の孫にあたります。

ドラマでも描かれていたように、信西は、もともと高階通憲(たかしなみちのり)と名乗っていた藤原一族の人・・・なので、貞慶も藤原氏という貴族の人だったわけですが、

ご存じのように、平治元年(1159年)の暮れに勃発した、あの平治の乱信西は首をはねられ都大路に晒され(12月15日参照>>)・・・当然その息子である貞慶の父=藤原貞憲(さだのり)も配流に処せられました。

この時、貞慶・・・わずか5歳・・・

何もわからぬままの生家の没落・・・幼い貞慶には、当時、興福寺の住職であった叔父の覚憲(かくけん)を頼るより他に道はなく、そのまま興福寺へと入り、11歳の時に出家して東大寺戒壇院で受戒・・・以後、僧侶として生きて行く事になります。

Dscn0639a800 興福寺

しかし、この貞慶・・・祖父=信西の比類なき頭脳を、そのまま引き継いでおりました。

法律を学び、万巻の書物を読み・・・それこそ、ジッチャンに負けず劣らずの勉強家で、しかも、得た知識を見事に使いこなす能力も兼ね備えていましたから、またたく間に当代きっての学問僧と噂されるほどに、その頭角を現していきます。

やがて、、大法会などにも奉仕し、後鳥羽(ごとば)天皇や、時の権力者=九条兼実(かねざね)らの信頼を一身に受けるようになりますが・・・

そんなこんなの建久三年(1192年)2月8日、いきなり兼実のもとを訪ねた貞慶は、
「興福寺を去って笠置山に隠遁(いんとん)したいのです」
と願い出たのです。

何のつまづきもなく、見事に学問僧としてのエリートコースを歩み続けていた彼の突然の願い出に、戸惑う兼実は、当然、引きとめますが、貞慶の決意は固く、翌年、弥勒菩薩の信仰篤き笠置寺にて隠遁生活を開始したのです。

兼実の日記には、
「仏教界の損失…非常に悲しむべき事」
とあり、ものすごく残念がっていた事がうかがえます。

彼が興福寺を出た理由には、
「春日神の夢のお告げがあった」とか、
「僧たちの堕落を嫌って…」とか、
「騒がしい奈良を離れたかった」とか、

様々にあるようですが、この後の活躍ぶりを見るならば、「官からの離脱」というのも大きな理由であった事でしょう。

実は、当時の、興福寺や東大寺や延暦寺の僧というのは、言わば官僚でもあったのです。

国家が認めた、あるいは国家推し進める仏教に奉仕する立場の僧ですから、出世を望むなら公家の仏事などへの尽力を欠かさず行い、学問僧として認められたければ、勉強に勉強を重ねて、談義や論義で相手に勝ってさえいれば、その地位は国家に守られて、順風満帆なわけですが、

それは、逆に考えれば、国家が認めない事はやってはいけない事になるわけで・・・

たとえば、貞慶は、隠遁後の承元三年(1209年)に、奈良の北山非人に代わって曼陀羅堂の再興を願う願文を書いて提出していますが、非人とは、それこそ文字通りの「人に非(あら)ず」という事ですから、国が人と認めていない彼らを手助けする事は、官の立場の僧にはできない事になるわけです。

一般的な救済活動もそうです。

「病に苦しむ人たちを助けたい」
と思っても、そのような人たちの多くは、一般から忌み嫌われる最下層の身分の人たちですから、官の立場では、彼らに接触する事はできないのです。

また、辻説法など、道端で庶民を集めて法を説く事も、国家の僧には許されなかった事でしょう。

「いずれ、仏教界の頂点に立つであろう」
という周囲の期待を裏切って、
約束されたエリートコースを捨てて、

それでも貞慶がやりたかったのは、何者にも縛られない、自らの思い通りの仏の道では無かったか?と思います。

革新的で新しい鎌倉時代の仏教と言えば、法然(ほうねん)(2月18日参照>>)親鸞(しんらん)(11月20日参照>>)に注目が集まり、彼らを批判して流罪に追いやる立場にあった貞慶には、保守的な僧として、なかなかスポットが当たる事がありませんが、

それこそ、
法然や親鸞の、「念仏を唱えた者だけが救われる」という思想が、貞慶の思想と相反する物であったから、反対の立場で『興福寺奏状』を起草して、専修念仏の停止を求めたのあって、

貞慶は、決して保守的な人では無く、むしろ革新的・・・彼もまた、鎌倉時代の新しい仏教を求めた人であったのかも知れません。
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