2018年8月 7日 (火)

京極政経VS高清の家督争い…京極騒乱~祇園館の戦い

延徳二年(1490年)8月7日、京極家の家督争い=京極騒乱の最中、京極政経が将軍=足利義稙より『高清追討の内書(ないしょ=内密&直接の書状)』を受け取りました。

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第59代宇多天皇(うだてんのう)の皇子=敦実親王(あつみしんのう)の第3皇子が臣籍に降下して源雅信(みなもとのまさざね)と名乗った事に始まる宇多源氏(うだげんじ)は、その4男の源扶義(みなもとのすけのり)の子孫が武家=佐々木氏を称して近江(おうみ=滋賀県)本貫(ほんがん=基となる地)とした後、平安から鎌倉にかけての佐々木信綱(ささきのぶつな)の息子たちのうち、兄が嫡流の六角氏(ろっかくし)となり、弟が京極氏(きょうごくし)と名乗って繁栄します。

その後、信綱から5代目の佐々木道誉(どうよ=京極高氏(12月7日参照>>)の活躍で、室町幕府政権下での京極家は出雲(いづも=島根県)隠岐(おき=島根県隠岐諸島)飛騨(ひだ=岐阜県北部)守護(しゅご=今の県知事)を務めるまでになり、六角氏とともに近江の2大勢力となっていました(近江源氏)

Ouninnoransoukanzu2 そんなこんなの応仁元年(1467年)・・・室町幕府政権下で管領(かんれい=将軍の補佐・No.2)職に就任する3つ家柄=三管領(執事別当)のうち細川(ほそかわ)以外の斯波(しば)畠山(はたけやま)によるそれぞれの家督争いを発端に、将軍家の家督争いが加わり、全国を真っ二つに分けて戦った、ご存じ応仁の乱(5月20日参照>>)が勃発します。

この時、京極持清(きょうごくもちきよ)は、甥っ子(妹の子)細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)や娘の嫁ぎ先である畠山政長(はたけやままさなが)が属する東軍につき、息子の京極勝秀(かつひで)とともに、近江にて、西軍についた六角高頼(ろっかくたかより)との合戦を展開していました。

しかし、翌・応仁二年(1468年)6月に、すでに家督を継いでいた息子の勝秀が、さらに文明二年(1470年)8月に父の持清自身が相次いで病死してしまった事で、勝秀の嫡子(ちゃくし=後継ぎ)であった孫童子丸(まごどうじまる)が家督を継ぐ事になりましたが、その翌年に、わずか6歳で、これまた孫童子丸も病死・・・

そのため、孫童子丸の叔父で後見人でもあった持清の三男=京極政経(まさつね・政高)と、かねてより当主の座を争っていた孫童子丸の兄=京極高清(たかきよ・乙童子丸)&その一派との間でお家騒動が勃発するのです。
(高清については、孫童子丸の兄でありながらも側室の子であったので嫡子では無かったとされますが、異説には政経の弟、あるいは勝秀の弟だったの説もあり)

この間にも例の応仁の乱は続いていますから、「敵同士になったからには!」とばかりに、高清を当主に推す派の持清の次男(政経の兄)京極政光(まさみつ)多賀清直(たがきよなお)は、未だ幼き高清とともに六角高頼と和睦して西軍へと寝返ります。

Kyougokusourankeizu ←京極騒乱・関係図

こうして
政経とその配下の多賀高忠(たがたかただ)(東軍)
 VS
高清と彼を推す京極政光&多賀清直(西軍)
の構図が出来上がります。

そんな中、文明三年(1471年)には、同じ東軍として政経についていた六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟)が高清派に討たれます。

しかし、反撃して来た政経派に今度は高清派が推され、困った高清らは美濃(みの=岐阜県南部)斎藤妙椿(さいとうみょうちん)に援助を要請し、文明四年(1472年)には、その助けを借りて政経派に勝利し、政経らは越前(えちぜん=福井県東部)へと逃れ、ここで一旦、京極家の家督を継ぐ形になる高清でしたが、まもなく、後見人だった政光が病死します。

それから3年経った文明七年(1475年)、出雲の国人衆などを味方につけて体勢を整えた政経派が上洛し、幕府からの近江奪回の許可を得て近江に侵攻・・・六角氏の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を攻撃して高清派に大勝利し、彼らは江北(こうほく=滋賀県の北側)に追いやられてしまいます。

とは言え、未だ継続中の応仁の乱ですから「西軍に属する彼らがヤバイ」となると、当然、西軍の武将ら=美濃の土岐成頼(とき しげより)尾張(おわり=愛知県西部)斯波義廉(しばよしかど)などが援軍を派遣し、仲間を得た高清派が反撃し・・・と、近江を巡って一進一退の攻防が何度も繰り広げられた末、ここは高清派が勝利

しかし、そんなこんなの文明五年(1473年)の西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)&東軍総大将の細川勝元の両巨頭の相次ぐ死(3月18日参照>>)により、京都における応仁の乱絡みの動きは徐々に下火となっていき、翌文明六年(1474年)に両巨頭の息子たち(山名政豊&細川政元)が和睦した事で都に駐屯していた地方の武将たちもだんだん領国へと戻りはじめ、やがて文明九年(1477年)11月、最後まで京都に残っていた周防(すおう=山口県)大内政広(おおうちまさひろ)が帰国して、応仁の乱が終結したのです(11月11日参照>>)

でも、中央政府が都にて「ハイ!しゅう~りょう~~」と言ったところで、それまで戦っていた武将たちが「ほな、おわろか~」なるわきゃない・・・てか、むしろ地方に戻った武将たちは、その領国にて、自身の家督争いや領国拡大の戦いをする事になるわけで・・・(【応仁の乱後も戦い続けた畠山義就】参照>>)

しかも、このドサクサで、かなり強引に事を起こす者も出て来て・・・と、その一人が、応仁の乱終了後に政経に代わって近江守護となっていた六角高頼だったわけですが、そうなると、治安維持のためにも幕府=将軍が、それらの横暴を抑えねばならないわけで・・・

そこで、応仁の乱時代の第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後を継いだ第9代将軍=足利義尚(よしひさ=義政の息子)が、自ら大軍を率いて六角高頼を成敗すべく出陣・・・これが近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)と呼ばれる戦いなのですが、残念ながら、義尚は、未だ六角氏を制する事ができていない長享三年(1489年)、この陣中にて病死してしまいます(3月26日参照>>)

やむなく、この六角成敗の一件は、その後を継いだ第10代将軍=足利義稙(よしたね=当時は義材)に引き継がれるのですが、そのお話は【将軍・足利義材による六角征討】>> で見ていただくとして、当然、この間も京極家の争いは継続中・・・未だ取ったり取られたりを繰り返していたわけですが、

そんなこんなの長享元年(1487年)、領国の出雲に戻っていた京極政経は近江を奪回すべく上洛・・・翌年には近江松尾(現在の長浜市付近)にて高清らと交戦するも敗退・・・しかし、その翌年の延徳二年(1490年)8月7日、政経は将軍=義稙より『高清追討の内書(ないしょ=内密&直接の書状)』を受け取るのです。

そう、上記の通り・・・この時の将軍は六角高頼を成敗中ですから、あの応仁の乱の以来、西軍同士のよしみで未だ高頼とツウツウな高清は、今回の近江鈎でもバッチリ六角勢として参戦しちゃってますから、将軍としては、そんな高清らに1発カマしてやってほしいわけです。

こうして、将軍のお墨付きを得た政経は、江北の豪族で京極の重臣でもある上坂治部(こうさか=家信?)浅井直種(あざいなおたね=浅井長政の曽祖父)といった面々を味方に引き入れ、祇園館(ぎおんやかた=滋賀県長浜市祇園町)の高清を攻めたのです。

将軍威力による重臣クラスの面々の離反で「太刀打ちできない」と判断した高清は、攻撃を防ぎつつ余呉(よご=長浜市余呉町)まで撤退した後、なおも続く厳しい追撃に耐えつつ、坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと身を隠しました。

この功績により将軍=義稙から太刀を賜り、息子=京極材宗(きむね)とともに江北を任される事になった政経・・・(南には、まだ六角がいるのでね)

ところが、そのわずか2年後の明応元年(1492年)、とりあえずの六角征討を果たした(厳密には高頼が逃走しただけ…くわしくは先程の【将軍・足利義材による六角征討】参照>>)義稙は、突如として六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟?)の養子=虎千代近江守護に任命し、逃れていた高清を呼び戻して京極家の後継とし、政経を排除したのです。

実は、これには、あの『明応の政変(めいおうのせいへん)が・・・これは、細川勝元の後を継いだ息子=細川政元(ほそかわまさもと)によって明応二年(1493年)に決行される政変で、管領である政元が、現将軍を廃し、自らの意のままになる将軍に首を挿げ替えた、まさに戦国下剋上の幕を開けたとも言われる政変。

つまり、現将軍=義稙から、政元お気に入りの足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟…義遐・義高)へと交代させるわけですが、どうやら、ここらあたりで義稙自身が、その政元の動きに気づいたらしい・・・

その中心人物である政元→斯波義寛(しばよしひろ=義敏の息子)赤松 政則(あかまつ まさのり)ラインは、まさに応仁の乱の東軍ラインなわけで、当然、政経も、このライングループだったのですね。

こうして明応元年(1492年)に高清に京極家の家督が認められ政経は失脚するのですが、先の戦いで重臣たちの多くが政経に味方した事は、高清にとっては何とも心細い・・・しかも、上記の通り、義稙の抵抗空しく翌・明応二年(1493年)に明応の政変が起こって立場が逆転し、高清の運命も風前の灯となります。

そこで高清は以前も助けてくれた斎藤妙椿の息子=斎藤妙純(みょうじゅん=利国)力を借りて挽回を図ります。

かくして明応四年(1495年)に美濃の内乱である船田合戦(ふなだがっせん)に勝利した妙純が、その勢いのまま近江へと侵出して来ると、たまらず政経は出雲へと逃走・・・さらに進む妙純は高頼らと交戦しますが、激しく展開された戦いは両者ともに大きな犠牲を払いながらも決着が付かないでいたところ、明応五年(1496年)に妙純が一揆に襲われて死亡してしまい(12月7日参照>>)、後ろ盾を失った高清も没落して、その後は斎藤氏を頼って美濃に向かったとか・・・

やがて明応八年(1499年)、重臣の上坂家信の助けによって北近江へと戻った高清は、政経の息子=材宗と和睦して、ここでようやく京極家の一連のお家騒動が終了するのです。

この京極家のお家騒動は、応仁の乱が終わった後も約30年に渡って繰り広げられ、文明の乱あるいは文明の内訌(ないこう)とも京極騒乱(きょうごくそうらん)とも呼ばれます。

・・・にしても、このお家騒動は京極家にとって命取りでしたね。

なんせ、武家の名門として出雲&隠岐&飛騨&近江の守護だったのが、騒乱が終わった後に残ったのは北近江だけ・・・

かの政経は妙純の侵攻で出雲へ退くも、その後の事はよくわからず、和睦の後に自刃に追い込まれた息子の材宗には吉童子丸という息子がいて、彼が出雲の守護となったとも言われますが、ご存じのように、この出雲は、京極配下で出雲の守護代(しゅごだい=今の副知事)だった尼子経久(あまごつねひさ)の尼子氏が、隠岐も含めて仕切るようになり、彼らの名は登場しません。

飛騨も、やはり家臣で守護代だった三木氏(みきし=姉小路氏)に取って代わられ、しかも、この後、高清の息子たちの間でまたもや後継者争いが起き、その間に、残った北近江までもが重臣の浅井亮政(あざいすけまさ=直種の息子で直政の婿養子)に仕切られる事になってしまうわけで・・・(3月9日参照>>)

そして、ご存じのように高清の孫にあたる京極高次(きょうごくたかつぐ)が、美人の姉ちゃん(もしくは妹)京極竜子(たつこ)豊臣秀吉(とよとみひでよし)に見染められて側室となった縁で表舞台に登場するまで、少々の間、浅井家に庇護のもと、大人しくしているしか無かったわけです(5月3日参照>>)

と、まぁ、本日は、ご覧の通り、京極騒乱についてダーっと駆け足で書かせていただきましたが、上記のように、この京極家の争いは応仁の乱と連動していたり、合戦の数も複数あり・・・本日のところは、その大まかな流れをサラッと書かせていただいたところで、いずれまた個々の戦いを、それぞれの日付にてご紹介していきたいと思います。
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2018年4月16日 (月)

永享の乱後の結城合戦~関東と大和と東北と…

永享十三年(1441年)4月16日、幕府に反発した結城氏朝らによる結城合戦で、結城城が陥落しました。

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南北朝の不穏な空気が収まらなかった事から、本拠地が関東でありながら京都にて幕府を開く事になった足利尊氏(あしかがたかうじ)(8月11日参照>>)は、将軍職を三男の義詮(よしらきら)に継がせ、四男の基氏(もとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東の支配を任せます。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以来、室町幕府将軍は義詮の息子らが、鎌倉公方は基氏の息子ら継いでいくわけですが、応永三十二年(1425年)2月に、第5代将軍の足利義量(あしかがよしかず)が若くして亡くなった事で、後継者選びが難航し、結局、くじ引きで決まった足利義教(よしのり)第6代将軍となります(2016年6月24日参照>>)

この決定に不満を持ったのが、第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)・・・「将軍家に物申さん」と上洛を思案する持氏を関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)上杉憲実(うえすぎのりざね)が静止しますが、これがキッカケとなって持氏と憲実との溝が深まり、とうとう持氏が挙兵したところを、将軍=義教が派遣した幕府軍に攻められ、永享十一年(1439年)2月10日、持氏は自刃・・・続いて嫡男の義久(よしひさ)も自害に追い込まれました。

これが永享の乱(えいきょうのらん)と呼ばれる一件です(くわしくは2018年2月10日参照>>)

こうして公方が不在となった関東は、憲実はじめとする重臣たちが政務をこなすことになりますが、不仲になったとは言え、上司として仰いでいた持氏を自刃にまで追い込んでしまった事に悩む憲実は、関東管領職を辞任し、伊豆にて隠居してしまいます。

次の鎌倉公方に、自らの息子を派遣しようと考えていた義教でしたが、信頼できる憲実がいないとなると、可愛い息子を関東にやるのは不安・・・もちろん、このまま上杉家の家督が宙に浮いたまま、というわけにもいかず、

とりあえず、上杉の本拠である越後(えちご=新潟県)にいた憲実の弟=上杉清方(きよまさ・きよかた)が関東に入り、上杉家の中心となって、何とか関東も落ち着きを取り戻します。

しかし、もともとは公方として関東を支配していた持氏・・・当然の事ながら、その息のかかった者たちは、持氏が死のうが嫡男が果てようが、そのへんにウジャウジャいるわけで・・・

Yuukiuzitomo500a 翌・永享十二年(1440年)正月、持氏派の一部の者が決起し、これをキッカケに関東の諸将が動きはじめ、3月には、持氏の次男&三男である春王(しゅんのう・はるおう)安王(あんのう・やすおう)常陸(ひたち=茨城県)で蜂起した事を知った結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)結城氏朝(ゆうきうじとも)が、彼らを自らの城へと招き入れ、幕府に対抗する姿勢を見せたのです。

それによって、持氏に恩義を感じている武将たちが、続々と結城城に集まって来ました。

この動きを知った京都・・・早速、将軍=義教の命により幕府軍が編成される一方で、隠居していた憲実も鎌倉へと戻り、弟=清方を大将とする討伐軍が鎌倉を出発したのです。

まさに関東が一触即発状態のこの5月15日、大和(やまと=奈良県)で事件が起こります。

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和の地は、やがて興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』など、寺社そのものよりも、在地の者が力を持つようになる中で、南北朝時代に『衆徒』の筒井(つつい)北朝につき、『国民』の越智(おち)南朝についた事で、南北朝が終わった後も、未だ両者の争乱はくすぶり続けていたわけですが、

ご存じのように、室町幕府は北朝・・・って事で、将軍=義教は、配下の一色義貫(いっしきよしつら)土岐持頼(ときもちより)らを越智討伐軍として大和に派遣するのです。

一節には、「今回の永享の乱や、その後の結城の動きに同調するような動きが越智氏にあった」とも言われていますが、そこはハッキリしないものの、とにかく一色義貫&土岐持頼は、義教の命令で以って、幕府軍を率いて大和に来ていたわけです。

ところが、この二人が、その大和にて殺害されてしまいます。

それも、越智との合戦で、ではなく味方に・・・

一色義貫は安芸武田(あきたけだ=広島県)武田信栄(たけだのぶひで)に朝食を誘われて向ったところ、その席で襲われ、側近たちが討たれた後に義貫は自害・・・陣中に残っていた息子や家族たちも細川持常(ほそかわもちつね)に襲撃され、こちらも討死もしくは自害しました。

一方の土岐持頼も・・・コチラは伊勢(いせ=三重県中北部)長野(ながの=長野工藤)の者に討たれたと言われています。

さらに翌日には、京都にあった一色義貫の邸宅が一色教親(のりちか)に襲撃され、出陣せずに残っていた息子たちも捕えられてしまいました。

いずれも、一色義貫&土岐持頼にとっては、これまでともに戦って来た仲間たち・・・教親なんかは義貫の甥っ子ですし・・・

しかし驚くのは、その後の采配・・・死んだ義貫は若狭(わかさ=福井県南部)丹後(たんご=京都府北部)三河(みかわ=愛知県東部)の守護だったわけですが、この事件後、その若狭の守護となるのは武田信栄、丹後の守護は一色教親、三河の守護には細川持常、そして土岐持頼の伊勢守護も一色教親が獲得します。

もっと先の戦国も群雄割拠する頃になると、力ずくで守護を倒して自らがその領地を統治する=下剋上で支配する武将なんかもいますが、彼らとて、あくまで自称=勝手に守護の役割を分捕って実行してるだけで、正式な守護では無い・・・なんせ、正式な守護は幕府=将軍が決めるはずですから・・・

つまり、この結果を見る限り、一色義貫&土岐持頼の殺害は、将軍=義教の命令だった事になるわけで・・・とは言え、関係者以外、誰も、「将軍が命令を出した」という確かな事はわからないわけで、結局、疑惑を持ちながらも表面上は何事も無かったように政務は続けられました。

まぁ、あまり騒ぎ立てると、今度は自分に火の粉が降りかかって来るやも知れませんからね~

そんなこんなの6月24日、今度は東北で事件が起こります。

第2代鎌倉公方=足利氏満(うじみつ)の息子で篠川公方( ささがわくぼう)と称された足利満直(みつなお・みつただ)が、奥州の諸将に襲撃され自殺したのです。

この満直という人は、第3代鎌倉公方である兄の足利満兼(みつかね)の命を受けて、足利による東北支配を強固にすべく派遣され、篠川御所(ささがわごしょ=福島県郡山市)にて政務を行っていた人物・・・なので、永享の乱で死んだ持氏とは叔父⇔甥の仲になるわけですが、その永享の乱の時は幕府より錦の御旗(にしきのみはた=官軍の証)を頂いて、持氏を攻める側に回っていたわけで・・・

なので、春王&安王らの命を受けた奥州石川(おうしゅういしかわ)をはじめとする持氏派の諸将の襲撃に遭ってしまったわけです。

それから間もなくの7月頃、かの上杉清方を総大将とする幕府軍が結城城の周辺に集結しはじめます。

それは、関東はもちろん、上州(じょうしゅう=群馬県)武州(ぶしゅう=東京都・埼玉県)に越後や信濃(しなの=長野県)などなど、まさに東国の幕府軍を総動員したほどの大軍であったようですが、対する結城城側だって、すでに持氏恩顧の武将たちが集結していたわけですから、堅固な造りの結城城は、そう簡単に落ちはしませんでした。

長引く籠城戦・・・睨み合いが続く中、幕府側ではいつ総攻撃をかけるべきか?の話し合いが何度も行われますが、何も決定しないままズルズルと時が過ぎるばかり・・・

やがて、年が明けた永享十三年(1441年)元旦には、逆に結城城内から撃って出た兵に陣を襲撃される始末・・・まぁ、さすがに多勢の幕府軍は、襲撃勢を蹴散らして、さほどのダメージを受ける事もなく、この日の戦いは幕府勝利となりますが、さりとて結城城側も、かなりの数の兵士が無事城内に戻ったと見え、態勢が崩れる事無く、そのまま籠城戦は継続されて行きます。

しかし、所詮は多勢に無勢・・・しかも、大軍に囲まれた籠城戦には、時間に限りがあるという物・・・静かなる籠城戦が始まってからほぼ9カ月めの永享十三年(1441年)4月16日幕府方の総攻撃により結城城は陥落し、結城氏朝をはじめとする籠城組の将は、ことごとく討取られました。

この時、未だ13歳の春王と11歳の安王は、女装して城を脱出しますが、まもなく発見され捕縛・・・京都の将軍のもとに護送される途中の5月16日、美濃垂井(たるい=岐阜県不破郡垂井町)にて斬首されました(くわしくは2008年2月10日の後半参照>>)

こうして、結城城に集結していた持氏派は、ほぼ一掃され、結城合戦は終結・・・関東の支配は上杉家に任されて安定するか?に見えましたが、おっとドッコイ!

例え配下の者でも、例え謀反など起こさずとも、自身の気にそぐわぬ者は成敗する・・・強気の将軍=義教の、あの一色義貫&土岐持頼殺害事件の余波が、ここに来て表面化するのです。

「このままでは、自分も、いつ始末されるかわからない」
と恐怖を感じた播磨(はりま=兵庫県南西部)備前(びぜん=岡山県東南部)美作(みまさか=岡山県東北部)の守護=赤松満祐(あかまつみつすけ)が、嫡子の教康(のりやす)らに命じ、結城合戦の祝勝会と称して将軍=義教を呼び出し、あの春王&安王の死から、わずか1ヶ月の6月24日、宴会の席で義教を暗殺してしまうのです。

世に嘉吉の乱(かきつのらん)と呼ばれる将軍暗殺事件(6月24日参照>>)・・・このため幕府内の政情は一転し、関東の情勢も大きく変わります。

結城合戦の時、わずか1歳だった持氏の4男=永寿丸(永寿王とも)は、この将軍の死によって赦免され、やがて成長して足利成氏(しげうじ)と名乗り、関東を暴れまわる事になるのですが、そのお話は9月30日のページでどうぞ>>
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2018年4月 7日 (土)

赤松VS山名の最終決戦~英賀坂本城の戦い

長享二年(1488年)4月7日、山名政豊の播磨坂本城を赤松政則が攻めた英賀坂本城の戦いがありました。

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嘉吉元年(1441年)、播磨備前美作(みまさか=岡山県北東部)守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)であった赤松満祐(あかまつみつすけ)が、時の室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり=第6代)を暗殺した嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)・・・

この事件により赤松家は衰退する一方で、満祐を討伐した山名宗全(そうぜん=持豊)は、赤松の旧領を賜って武家のトップクラスに躍り出、その後の応仁元年(1467年)に起きた将軍家や管領家の後継者争いが絡む、あの応仁の乱(5月20日参照>>)でも西軍の総大将を務めました。

Akamatumasanori600 一方、この応仁の乱の時に、東軍の総大将だった細川勝元(ほそかわかつもと)に近づいて功を挙げ、旧領の守護に返り咲いていた(5月28日参照>>)のが満祐の甥=赤松政則(あかまつまさのり=満祐の甥の子)でした。

その後、両総大将の死を受けて和睦交渉し、文明九年(1477年)に応仁の乱を終結させたのは、彼らの息子=細川政元(まさもと=勝元の息子)山名政豊(やまなまさとよ=宗全の息子か孫)でしたが、こうして京都の情勢にかかりっきりになっていた政豊の領国では、更なる領地拡大を狙う政則の動きに加え、一揆などの混乱も起きていたわけです。

それは新たな将軍=足利義尚(よしひさ=義政と富子の息子・第9代)の静止を振り切ってでも帰国しなければならない状態でした(9月4日参照>>)

政則にしてみれば、もともと赤松家の物だった領地・・・
しかし、政豊にとっては功績の恩賞に先代が貰った領地・・・
それを、うまく采配仕切れない将軍家・・・
こうして出来上がったのが山名VS赤松の戦いの構図でした。

もちろん、実際にはそんな単純な構図ではなく、その混乱に乗じて取って代わろうとする地元の豪族たちも、両者の間に入り乱れて来るわけで・・・

そんなこんなの文明十六年(1484年)、赤松配下の福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)が、山名政豊と組んだ松田元成(もとなり)からの攻撃を受けて陥落してしまうのです(1月6日参照>>)

しかも、この時、赤松政則は福岡城の救援に向かう援軍を浦上則国(うらがみのりくに)に任せ、自身はかつての赤松の所領であった但馬(たじま=兵庫県北部)朝来(あさご)を奪回すべく向った真弓峠(まゆみとうげ=兵庫県朝来市生野町)山名軍とぶつかり、大敗を喰らってしまったのです。

つまり、独自の判断で兵を分散させてしまったために、福岡城も落ちるわ、真弓峠でも負けるわ、という大失態をやっちまったわけで・・・

これに激怒したのが、福岡城への援軍を要請した守護代浦上則宗(うらがみのりむね)でした。

なんせ、この則宗は、守護=政則を守護代としてずっと支えていた人・・・かの応仁の乱の頃は政則は未だ13歳で、一方の則宗は脂の乗った38歳でしたから、冒頭に書いた「応仁の乱キッカケで守護に返り咲いた」てのは、どう見ても若き領主をサポートしていた則宗の功績も大きく、当然、両者の力関係も微妙なわけで・・・

このため赤松家内は分裂し、実権を握った則宗によって、一時的に政則が追放されるという一件も起こりますが、このドサクサに乗じて山名が攻めまくって美作と備前を奪い取って来たため、家臣たちの要望の末、足利義政(よしまさ=第8代将軍)の仲介で政則と則宗は和解・・・協力して山名に当たる事となりました。

確かに・・・内輪モメしてる場合では無いです!

おかげで、文明十七年(1485年)に再び真弓峠でぶつかった時も、翌文明十八年(1486年)に、赤松の拠点の一つである英賀(あが=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)に攻め込まれた時も、見事、山名軍に勝利します。

一方の山名軍は、この敗戦により、保持する城が坂本城(さかもとじょう=兵庫県姫路市書写)ほか数ヶ所という窮地に立たされてしまいました。

翌年・・・近江(滋賀県)南部六角高頼(ろっかくたかより)が幕府に刃向かった近江鈎(まがり・滋賀県栗東)の陣(12月13日参照>>)に、赤松は守護代の浦上則宗を、山名は嫡男の山名俊豊(としとよ=後に廃嫡)を派遣中の長享二年(1488年)4月7日赤松政則は、長き抗争に決着をつけるべく、山名政豊を坂本城に攻めたのです。

7日→8日→9日の3日間に渡って行われた戦いで、赤松軍は戦死者を出しつつも勝利し、大いに気を吐きましたが、一方で、これらの城外戦には勝利したものの、城の一ヶ所に集まった山名勢を完全に崩す事ができず、戦いは籠城戦に持ち込まれます。

しかし、この時、一方の坂本城内では、何やらややこしい雰囲気に・・・

『蔭凉軒日録』によると・・・
実は、これまでの一連の敗戦により、山名の中には厭戦(えんせん=戦いに嫌気がさす)気分が漂っており、山名政豊自身も、すっかりヤル気を失っていたのです。

もちろん、未だヤル気満々の者もいました・・・てか、世は戦国ですから、そっちの方が多いくらいです。

特に、山名配下の但馬の国人領主たちが、これまでの犠牲を考えると「むしろ撤退は許され無い事」として猛反対・・・徐々に政豊は城内で孤立していきます。

未だ合戦上等の彼らから、嫡子の俊豊を当主に推す声さえも出始めた7月18日の夜10時頃・・・結局、政豊は、わずかの部下と馬廻りだけを連れて、闇に紛れて坂本城を出奔して但馬に帰ってしまうのです。

さすがの抗戦派も、この政豊のいきなりのトンズラまでは考えていなかったのか?
城内に動揺が走りまくりで、見事に彼らも戦意喪失・・・備後(びんご=広島県東部)からの加勢組も、一人、また一人と去って行きました。

となれば、いずれは坂本城からの山名の完全撤退が・・・と言っても、実はその日付はよくわかっていないのです。
先の『蔭凉軒日録』によれば、かの福岡城に詰めていた山名勢が、政豊の行動を知り、7月20日に、彼らも福岡城も退去したとの事なので、おそらく坂本城からの山名の完全撤退の日付も、その7月20日前後・・・

こうして文明十六年(1484年)の真弓峠に始まった・・・いや、もとはと言えば、あの嘉吉の乱に始まった赤松VS山名の直接対決は、政豊のトンズラで幕を閉じたのです。

まぁ、長い戦いでしたからね~
メンタルが鬼でなければ、戦国を生きてはいけませぬ。

この5年後の明応二年(1493年)、政則は、細川勝元の娘=洞松院(とうしょういん=めし)継室(けいしつ=後妻)に娶り、その弟で、時の権力者である細川政元と縁を深めますが、その結婚生活は政則の死を以って、わずか3年で終了・・・その後の赤松家は、鬼瓦のニックネームも勇ましい新婚の奥さんが守っていく事になりますが、そのお話は【鬼瓦と呼ばれた細川勝元の娘・洞松院】でどうぞ>>
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2018年2月10日 (土)

永享の乱~鎌倉公方・足利持氏が自刃

 

永享十一年(1439年)2月10日、『永享の乱』で敗れた第4代鎌倉公方足利持氏が自刃しました。

・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇と対立し、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)(8月11日参照>>)でしたが、当時は、一方の後醍醐天皇が吉野(よしの=奈良県)にて南朝を開いており、未だ動乱の真っ只中・・・

故に結局、尊氏は、足利家の本拠地が関東であるにも関わらず、不穏な空気が収まらない京都を離れる事ができなかったため、京都の室町で幕府を開く事になってしまったわけで・・・

そのため、鎌倉を拠点に関東を治めるべく、最初は弟=直義(ただよし)鎌倉に派遣し、次に嫡男の義詮(よしらきら)、そして貞和5年(1349年)、後に2代将軍となるべき義詮に代わって四男の基氏(もとうじ)を派遣します。

この基氏以降、鎌倉を守る役目は基氏の息子からまたその息子へと代々受け継がれていく事になり、この後、それは鎌倉公方(かまくらくぼう)と呼ばれ事になります。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

とは言え、この鎌倉公方は、関東はもちろん、伊豆甲斐(山梨県)をも含めた広大な範囲を統轄する役職で、幕府に准ずる組織ですから、最初こそウマく行っていたものの、徐々に「畿内を牛耳る将軍家と関東を牛耳る鎌倉公方は同等にも感じられる」ような雰囲気が持ち上がって来るわけで、代が進むにつれ、その色が濃くなって来る・・・

そんな中の応永三十二年(1425年)2月、第5代室町幕府将軍の足利義量(あしかがよしかず)が、わずか19歳で病死・・・さらに、その3年後の応永三十五年(1428年)1月に、義量の父で第4代将軍だった足利義持(よしもち)も死亡します。

この義持は、息子が第5代将軍になった後も、実権を握り続けていた人なので、先の義量の死の後も、父の義持が政務をこなしていたため、そこらへんは義持が亡くなるまでは大丈夫だったわけですが、若くして亡くなった息子には後継ぎがいなかったわけで・・・

その状況で、続いて父の義持も亡くなれば・・・しかも、次期将軍を指名せずに死んでしまったおかげで、当然のごとく後継者問題が勃発するのです。

そこで、義持の3人の弟たちの中から時期将軍を選ぶ事になりますが、あーだこーだの協議の末、結局は、くじ引きによって選ばれ、正長二年(1429年)3月に第6代将軍となったのが足利義教(よしのり)だったのです(2016年6月24日参照>>)

ま、この時代のくじ引きは、今で言う抽選という感覚とは違い、「神のお告げ」「神様が選んだ」という意味合いだったわけですが、このドタバタ劇にカチンと来たのが、義持の猶子(ゆうし=両者の結束目的とした養子縁組)で、関東にて4代目の鎌倉公方をやっていた足利持氏(もちうじ)でした。

なんだかんだで血筋は足利家やし、なんやったら猶子やし、
「くじ引きするくらいモメてるんやったら、俺にもちょっとくらい絡む権利あるんちゃうん?」
と・・・

この時、
「一発、文句言いに行ったる!」
とイキリまくって上洛を考える持氏を
「まぁ、まぁ、まぁ」
と説得したのが、若き関東管領(かんとうかんれい)上杉憲実(うえすぎのりざね)でした。

この関東管領という役職は、初期には関東執事(かんとうしつじ)とも呼ばれ、鎌倉公方を補佐する役職なのですが、その任命権は将軍にあり・・・つまり、役職は支店長の下の副支店長なんだけど、実は、本社の社長から派遣されてて、社長の指揮下にあるみたいな?

なので、憲実は、これまでも度々、関東周辺で起こる戦いやモメ事を穏便に治めつつ、時には持氏に厳しい苦言を呈しながらも、幕府将軍家と鎌倉公方の融和を計って来たわけですが・・・

その憲実の姿勢が、どうしても、「自立したい」感溢れる持氏とは相容れず、両者の溝は徐々に深まりつつあったのです。

そんなこんなの永享九年(1437年)6月、持氏は、不穏な動きをする信濃(しなの=長野県)小笠原(おがさわら)を抑えるべく、上杉憲直(うえすぎのりなお=持氏の側近:宅間上杉家)を大将とした軍勢を派遣しようとします。

しかし、これが・・・
「小笠原攻撃とは名ばかりで、実は憲実を討とうとしている」
との噂が立ち、鎌倉は一気に不穏な空気に・・・ただ、これは、本当に持氏の本意では無かったらしく、すぐさま持氏は、自ら憲実の宿所に出向いて誤解を解き、大事には至らなかったのですが、どうやら、表面では収めたものの、水面下では、もう、お互いの亀裂は修復不可能になりつつあったようで・・・

翌・永享十年(1438年)6月、持氏の嫡男である賢王丸(かんおうまる)の元服がとり行われるのですが、なんと!この時、持氏は賢王丸に義久(よしひさ)と名乗らせたのです。

そう、これまでの鎌倉公方は、その元服する際、時の将軍にお願いし、その将軍の名から一字を賜って名乗るのが通例・・・当の持氏は、先の4代将軍=義持から、持氏の父である満兼(みつかね)は、あの3代将軍=義満(よしみつ)からいただいてます。

ところが持氏・・・自らの息子には、将軍家の通字(とおりじ=家に代々継承される字)である「義」の文字の名を名乗らせたのです。

つまり、「俺らは将軍家と対等や」と・・・

もちろん、この時も憲実は反対して元服式をボイコットし、
「将軍様にお願いしては?」
と提言しますが、持氏の決意は固く、両者の亀裂が決定的となります。

この関東での不穏な空気は、早い段階で、駿河(するが=静岡県東部)守護の今川範忠(いまがわのりただ)によって京都に知らせられ、義教は
「状況を監視して、動きがあったら、すぐに憲実に味方しろ」
と範忠に指示する一方で、奥州(おうしゅう=東北)伊達(だて)芦名(あしな)といった面々に
「憲実が窮地に陥ったときは、すぐに救援できるよう準備しておけ」
との命令を発していました。

間もなくの8月になると、
「持氏が憲実追討の兵を集めている」
との噂が流れ出しますが、
「今度は、ホンマモンやぞ!」
と察した憲実は、慌てて上野(こうずけ=群馬県)平井(ひらい=藤岡市)へと身を隠します。

この憲実の動きを知った持氏は、その2日後、自らが兵を率いて鎌倉を出立・・・武蔵府中(むさしふちゅう=東京都府中市)高安寺(こうあんじ)に布陣し、一触即発の状態となりました。

もちろん、この「持氏出陣」の知らせも、間もなく京都に届き、幕府側は、すばやく持氏追討の軍を編成するとともに、後花園(ごはなぞの)天皇綸旨(りんじ=天皇の命令)も得て、幕府軍は錦の御旗(にしきのみはた=天皇の軍という証)を掲げた官軍として京都を出発するのです。

この時、将軍義教も自ら出陣しようとしましたが、さすがにそれは側近に止められ、何とか思い留まっています。

こうして、斯波持種(しばもちたね)甲斐将久(かいゆきひさ)を中心とした幕府軍が東へ向っていた頃、すでに出兵していた駿河や信濃の武士たちが箱根あたりで公方方と遭遇して一戦を交え、敵陣を突破したりしてますが、

そんなこんなの9月27日、相模の早川尻(はやかわじり=神奈川県小田原市)にて幕府軍と一戦交えたのは、あの上杉憲直と、同じく持氏側の大将格だった一色直兼(いっしきなおかね)の軍勢・・・両者激しく戦いますが、何たって幕府軍はあまりの大軍にて、自軍に多くの戦死者を出してしまった憲直は、やむなく兵を退きました。

この敗北を受けた2日後、高安寺にいた持氏は、陣を海老名(えびな=神奈川県海老名市)に移動させますが、この時、持氏の側にいた千葉胤直(ちばたねなお)が裏切り、幕府側へと転じます。

実は胤直は、以前より憲実との和睦の道を進言していたのですが、持氏には、まったく聞き入れられず・・・ここに来て、とうとう持氏に見切りをつけたのでした。

さらに10月になると、鎌倉にて留守居役を命じられていた三浦時高(みうらときたか)までもが、その役目をすっぽかして自身の領地に帰ってしまいます。

これを好機と見た憲実・・・10月19日、自ら分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)に布陣し、一戦交える覚悟を決めます。

しかし、それから間もなくの11月1日、あの時、一旦領国に戻った三浦時高が、今度は鎌倉に攻め入り、御所を攻め落として持氏の息子たちを拘束・・・これを知った持氏は、急いで鎌倉に戻ろうとしますが、その帰路の途中、憲実の重臣である長尾忠政(ながおただまさ)にバッタリ出会います。

「もはや、これまで!」
と観念した持氏は、自らの身を忠政に預け、降伏したのです。

忠政によって鎌倉の永安寺(ようあんじ=神奈川県鎌倉市二階堂)に幽閉された持氏は、一旦、称名寺(しょうみょうじ=神奈川県横浜市金沢区)に入って出家した後、再び永安寺にて千葉胤直監視のもと幽閉されます。

この間、主人の投降を知った上杉憲直と一色直兼は、自ら恭順姿勢を見せて称名寺に入りましたが許されず・・・長尾忠政に攻められて、11月7日に、両者ともに自刃します。

そんな敗者二人の首は、やがて京都に送られて将軍=義教が検分する事になるのですが、この時、義教は持氏の首が無い事に、たいそうお怒りだったとか・・・

そう、実は持氏に対しては、今回は敵に回った配下の者たちからも、助命の願いが出されていたのです。

上記の通り、持氏は出家しましたし、拘束された息子=義久も、寺に入って喝食姿(かっしきすがた=元服前の少年の髪形)になって降伏の意を表明していたので、おおもとの被害者である憲実でさえ、
「命ばかりは助けてさしあげたい」
と懇願していたのです。

しかし、義教は許しませんでした。

相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)柏心周操(はくしんしゅうそう)を通じて、憲実に持氏追討の命を下し、それを受けた千葉胤直らによって永安寺を攻撃された持氏は、永享十一年(1439年)2月10日自刃して果てたのでした。

Asikagamotiuzizizin
結城合戦絵詞に描かれた足利持氏の自刃

その後、報国寺(ほうこくじ=神奈川県鎌倉市)にいた嫡男の義久のもとにも「討伐」の報告が入り、覚悟を決めた義久は、仏前で焼香した後、念仏を唱えながら自害したと言います(ただし義久の死に関しては、日付や場所、亡くなった年齢などが複数あり、諸説入り乱れてます)

こうして永享の乱(えいきょうのらん)と呼ばれる持氏の反乱は終焉を迎えましたが、当の持氏やその息子、大将格の面々こそ討伐されたものの、関東には持氏恩顧の武将たちがまだまだいて、彼らは無傷だった事から、この後、事態は更なる展開へと進みます。

持氏の次男&三男である春王(しゅんのう・はるおう)安王(あんのう・やすおう)を抱え込んだ結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)結城氏朝(ゆうきうじとも)による結城合戦が勃発(4月16日参照>>)・・・敗色濃くなった氏朝は、春王と安王を女装させて城から脱出させますが、まもなく発見された二人は護送中に処刑されてしまいます(2008年2月10日参照>>)←以前、永享の乱と結城合戦を同時に書いてしまったため、前半部分の内容がだだカブリですが、お許しを(*_ _)人ゴメンナサイ 

ところが、この春王&安王の死から、わずか1ヶ月後の嘉吉元年(1441年)6月、義教が嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)にて殺害されるのです。

この義教の死によって、未だ幼児であった持氏の四男坊=永寿丸(永寿王とも)赦免されるのですが、この四男坊が成長して足利成氏(しげうじ)に・・・(9月30日参照>>)

「我こそが鎌倉公方の後継者!」
とばかりに関東支配に乗り出す成氏に対し、幕府は、
「コッチが幕府公認の鎌倉公方や!」
とばかりに、亡き義教の息子=足利政知(まさとも)を関東に送りこみますが、現地が乱れに乱れていたため、政知は鎌倉に入る事ができず、御所を構えた地名を取ってコチラは『堀越公方』呼ばれます。

一方、政知の進出により勢力範囲を制限された成氏は下総古河(こが=茨城県古河市)を本拠地とする事となり、コチラは『古河公方』と呼ばれますが、

ご存じのように、そんなこんなしているうちに、将軍家も公方家も、やがて、力のある武将の推しがなければやってけない戦国へと突入していく事となります。
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2017年12月13日 (水)

戦国の幕開け~将軍・足利義材による六角征討

明応元年(1492年)12月13日、足利義材による六角高頼の征討が終わり、義材が帰京の途につきました。

・・・・・・・・・・・

そもそもは・・・
さっさと将軍を辞めて趣味の世界に生きたい第8代室町幕府将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が、仏門に入っていた弟=足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)を呼び戻して次期将軍に指名したものの、その途端に正室=日野富子(ひのとみこ)との間に男の子=足利義尚(よしひさ)が生まれちゃって・・・そうなると、当然わが子を将軍にしたい富子と、指名されちゃってヤル気満々の義視が対立。

そこに、畠山(はたけやま)やら斯波(しば)家やらの管領家の後継者争いが絡んだ事で日本全国の武将を東西に分ける大乱となってしまったのが、あの応仁の乱・・・(5月20日参照>>)

最初こそ激しいものの(5月28日参照>>)、途中からは、なかなかのグダグダ感を醸し出しつつ(11月13日参照>>)、結局、西軍大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)(3月18日参照>>)&東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の両巨頭の死を以って、文明九年(1477年)、約10年に渡る大乱は幕を閉じました(11月11日参照>>)

その後、そもそもの渦中の人である義政は、文明十四年(1482年)に将軍職を息子の義尚に譲る事を表明・・・この間に、もう一方の渦中の人である義視は美濃(みの=岐阜県)へと亡命して行きました。

そんなこんなで父の後を受け継いだ若き第9代将軍=義尚・・・彼に課せられた使命は、まずは世紀の大乱で失墜していく室町幕府将軍の権威を、少しでも回復させる事

それには、応仁の乱のゴタゴタに乗じて、武力で以って好き勝手やり始めた者を、足利将軍家の威力で以って抑えなければ・・・実は、この混乱に乗じて近江(滋賀県)南部の戦国大名=六角高頼(ろっかくたかより)が、武力で以って近江内の公家領や寺社領を占拠し続けるという暴挙に出ていたのです。

公家や寺社からの依頼を受けた義尚は、長享元年(1487年)、有力武将を従えた約2万の軍勢で以って六角氏の本拠=を攻撃して高頼を敗走させますが、高頼は、配下の甲賀武士の所に逃げ込み、彼らとともにゲリラ戦を展開・・・(12月2日参照>>)

そして、1年半にも渡るこのゲリラ戦のさ中、義尚は近江(まがり・滋賀県栗東)陣中にて、25歳の若さで病死してしまうのです(3月27日参照>>)

その死を受けて、第10代将軍となったのが、父=義視とともに美濃にいたその息子=足利義材(よしき=後の義稙)・・・息子を失った義政&富子の推薦での将軍就任という事もあり、当然、義尚の遺志をついで、彼もまた、六角氏と戦う事になります。

延徳三年(1491年)、高頼の追討命令を諸国の武将に発し、時の天皇=第103代後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)からの征討綸旨(りんじ=天皇家の命令書)も賜った義材は、8月27日、軍を率いて京を出立し、まずは三井寺(みいでら=滋賀県大津市・園城寺)に陣取ります。

これを知った高頼は、舞い戻っていた自身の本城=観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)をアッサリ捨てて、またもや甲賀の山中へ、その身を隠します。

この間、将軍自らの出陣にビビッって義材側に降る者、あるいは、個々の攻撃にて砦を落とされる者など、様々な小競り合いが勃発しつつも、甲賀山中に拠る高頼は、配下の者と連絡を取りつつゲリラ戦を展開していくのですが・・・

Syougunyoshikirokkakuseitou
足利義材の六角征討関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中、年が明けた明応元年(1492年=実際には7月19日に延徳四年より改元)5月、飯道寺(はんどうじ=滋賀県甲賀市)に拠った高頼は、諸所の防備をさらに固める一方で、密かに、絶賛お家騒動中(8月7日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極高清(きょうごくたかきよ)に援軍を求めて、幕府軍の混乱を図ろうとします。

この要請を受けて、市原谷から八風峠(はっぷうとうげ=三重県三重郡~滋賀県東近江市)まで出張って来る京極軍・・・この状況に義材は、自軍を2手に分け、一つは甲賀の高頼に備えつつ、主力部隊を市原谷に向けて進撃させました。

義材より、この合戦の大将を任された赤松政則(あかまつまさのり)は、9月15日に野洲川(やすがわ)沿いの立入(たていり=滋賀県守山市)から、浦上則宗(うらがみのりむね)桐原(きりはら=滋賀県近江八幡市)から、蒲生野(こもうの=滋賀県東近江市)を越え、17日には芝原(しばはら)に到着し、ここでぶつかった京極勢を蹴散らし甲津畑(こうづはた=同東近江市)まで進出します。

さらに幕府軍の一手は八風峠付近に火を放ち、近くの永源寺(えいげんじ=滋賀県東近江市)を焼き払います。

この勢いに耐えきれなくなった京極軍は退却・・・赤松政則は土岐成頼(ときしげより)に京極の追撃を命じ、自らの本隊は陣所へと帰還しました。

この京極軍の退却によって敗戦の色濃くなった高頼は、甲賀山中にて甲賀武士に守られながらも、より安全な場所を求めて、鈴鹿(すずか)を越えて伊勢(いせ=三重県北中部)へと逃走・・・これに前後して将軍=義材は、朽木貞綱(くつきさだつな=佐々木貞綱)の息子で六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟?)の養子となっていた虎千代高頼に代わる新しい近江守護として任命して統治に当たらせる事に・・・

これで、「近江には新守護を配置して高頼が去った」という事で、明応元年(1492年)12月13日、義材は金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市)に置いていた自らの本陣を払い、帰京の途についたのでした。

しかし、この状況・・・お気づきの通り、ただ、事が沈静化しただけで、六角高頼自身を征伐したわけではありません。

つまり、これは・・・
「義尚&義材=二人の将軍が自ら軍を率いたにも関わらず、近江の一大名さえ討ち滅ぼす事ができなかった」
という結果なわけで、ここで義材が陣を払った事は、むしろ足利将軍家の力不足をまざまざと見せてしまった事になるわけで・・・

応仁の乱を経ても、まだ何とか保っていた室町幕府将軍の権威が、ここから、見事に崩れていく事になります。

なんせ、義材の帰京を知った六角軍の諸将は、結局その後、もといたそれぞれの領地へと復帰してしまうのですから・・・

結果的に、今回の将軍=義材による六角征討は、戦国の幕開けとなった出来事と言えるかも知れません。

ちなみに、関東での戦国の幕開けと言える北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)による「伊豆討ち入り」は、この前後年=延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)の事とされます(10月11日参照>>)

近畿も関東も・・・そろって、戦国時代に突入!!ですな。
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2017年7月12日 (水)

応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い

延徳二年(1490年)7月12日、応仁の乱後も続いた畠山氏の主導権争いの中で、大きな衝突となった一乗山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府将軍家の後継者争いに管領家の後継者争いがくっついて、その配下となる全国の大名を巻き込み、全国を東西真っ二つに分ける大乱となった応仁の乱・・・

モメた原因の一つが、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県・三重県の一部)大和(やまと=奈良県)などの重要地の守護(しゅご=現在の県知事)を任されていた畠山氏の後継者争いでした。

Hatakeyamayosinari400 そもそもは、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)だった畠山持国(はたけやまもちくに)が、自らの後継者を弟の畠山持富(もちとみ)に定めていたにもかかわらず、途中で「やっぱ、ヤメた~」と持富を廃して、息子の畠山義就(よしひろ・よしなり)に譲ろうとしたために、持富の家臣や息子の畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が抵抗・・・持国も持富も弥三郎も亡くなった後は、弥三郎の弟である畠山政長(まさなが)が父と兄の遺志を受け継いで、義就との後継者争いを繰り広げる事になったわけです。

ただ、これには、単に持国が後継者決めに優柔不断だったり、家内で両者がウダウダやってたり・・・の畠山家ばかりのせいではなく、そこには、その力があまり大きくならないように守護大名を内部分裂させておきたい将軍家の思惑なんかもあったわけですが・・・。

なんせ、これまで、文安五年(1448年)11月に持国が義就を後継者に指名してから後、
享徳三年(1454年)9月
 =細川勝元の支持を受け弥三郎が上洛
 義就は京都を追われる
同年12月
 =義政の承認を受け義就が家督を継ぐ
 =弥三郎は京都を追われる
康正三年(1457年)7月
 =義就の勝手な出兵に義政激怒で所領没収
長禄三年(1459年)9月
 =弥三郎が死亡で派閥は弟の政長を擁立
長禄四年(1460年)9月
 =義就が朝敵(ちょうてき=国家の敵)
 =政長が畠山の家督を継ぐ
寛正四年(1463年)9月
 =恩赦により義就は赦免
寛正五年(1464年)
 =政長が管領に
文正元年(1466年)
 =義就が挙兵して上洛して義政に謁見
 =政長が管領職を辞めさせられる

とまぁ、このように、武力で以ってどっちかが上洛すれば、相手が退去・・・しかも、それをいちいち幕府=将軍が認めたり、辞めさせたりのくりかえし・・・(10月16日参照>>)

Ouninnoransoukanzu2 で、上記のように、管領職を辞めさせられた義政が、名誉挽回とばかりに起こしたのが、応仁の乱勃発(5月20日参照>>)の直接の引き金となる応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)なのです。

勃発後、すぐには、5月の五月合戦(5月28日参照>>)、10月の相国寺の戦い(10月3日参照>>)など、京都市街で大きなぶつかり合いがありましたが、ご存じのように、この応仁の乱・・・
途中から、東西の武将が入れ替わったり、総大将がトンズラしたり(11月13日参照>>)してるうちに、徐々にグダグダ感満載の戦いと化していくわけで・・・

で、東西の大将である細川勝元(ほそかわかつもと)山名宗全(やまなそうぜん=持豊)が、文明五年(1473年)に相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事をキッカケに、8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が息子の足利義尚(あしかがよしひさ=9代)将軍職を譲って正式に隠居した事を受けて、その翌年には、それぞれの大将の息子=細川 政元(ほそかわまさもと)山名政豊(やまなまさとよ)が和睦・・・さらに文明九年(1477年)9月には義就が領国の河内に、11月には、最後までゴネまくっていた大内政弘(おおうちまさひろ)周防(すおい=山口県)にと(11月11日参照>>)・・・それぞれ京都を去って行った事で、やっとこさ応仁の乱は終結となるのです。

しかし、応仁の乱は終わっても、両畠山の抗争は終わりませんでした。

なんせ、上記の経緯の通り、幕府から認められた管領職についているのは義政なので、河内や紀伊など畠山の領国の守護は政長なわけですが、実際に河内の誉田城こんだじょう=大阪府羽曳野市誉田)に入って実権を握っているのは義就なわけで・・・未だに、どっちも譲らないんですから、当然です。

河内が難しいならば・・・と、政長が紀州への侵入を試みるも失敗した文明十四年(1482年)7月の戦闘をキッカケに、再び両畠山氏の戦闘が頻繁に行われるようになります。

戦場になった地では、田畑は荒らされるうえに、配下の者は、土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の地侍)はもちろん、農民に至るまで兵士として駆り出されるわけで・・・この頃、頻繁に戦場となっていた河内や山城の一般人から見れば、「もう、えぇかんげんにしてくれ!」ってなるのも当然で、この文明十四年(1482年)の12月には、歴史教科書でも有名な山城の国一揆(12月11日参照>>)が起こり、住民が話し合いで以って両畠山氏の撤退を要求するという前代未聞の下剋上を成功させています。

それでもまだ、あちらこちらで小競り合いを続ける両者・・・そんなこんなの延徳二年(1490年)7月12日大きな戦闘が起こります。

記録によって記述が様々なのですが、それらを合理的に統合して、現時点では、
あれからずっと、紀伊への侵入を画策しつつも、実現できずに苦労していた政長に、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)周辺の根来衆(ねごろしゅう=根来寺一帯に居住した僧兵集団)が協力を快諾した事から、それを足がかりに、イザ紀州へ攻め込もうと政長勢が駐屯していた一乗山(いちじょうざん=同岩出市)に、義就勢が押し寄せて猛攻撃を仕掛けた・・・という見方がされています。

結果としては、義就側の大敗・・・政長の主力であった根来衆相手に、数百余りが討死にし、その中には高野山の法師も多数含まれていたとされ、かなりの大戦だったと都でも評判になったとの記録が残っています。

また、主だった者の70余りの首が、その後京都に送られて「政長が首実検をした」との記録もある事から、この戦いに政長自身は出陣しておらず、その時は京都にいたものと考えられています。

とにもかくにも、この大敗は義就にとってはかなりの痛手であったようで、義就は翌・延徳二年(1491年)12月に、この世を去ります(内容かぶる部分ありますが…12月12日参照>>)

父の死を受けて息子の畠山義豊(よしとよ=基家)が後を継ぎますが、そこを一気に潰そうと考えたのか?政長は「義豊討伐」を願い出、時の第10代将軍=足利義稙(よしたね:義材・義尹=義政の弟の子)を擁して、根来衆やら紀伊の国衆やらを引き連れて義豊攻撃に向かうのですが・・・

ところが、将軍と元管領(時の管領は細川政元)が留守となったこの間、京都で、どえらい出来事が・・・有名な明応の政変(めいおうのせいへん)です。

これは、時の管領の細川政元が義稙を廃して、自らの意のままになるであろう足利義澄(よしずみ:義遐・義高=義政の兄の子)を第11代将軍に擁立して政権を掌握するという明応二年(1493年)に起こったクーデター・・・

この政変によって、将軍=義稙とそこにつながる政長が率いる軍団は、一夜にして賊軍となってしまったのです。

やむなく、元将軍=義稙は義豊側に投降し、政長は失意のまま自殺(討死にとも)・・・戦場を逃れた政長の息子=畠山尚順(ひさのぶ)は紀州へと身を隠し・・・おかげで、義豊は、政長に奪われたままとなっていた守護職を取り戻す事に成功したのです。

Dscn1713a900 応神天皇陵(誉田御廟山古墳・大阪府羽曳野市誉田)…誉田城は、この天皇陵を利用して構築した城と言われています。

しか~し・・・畠山両者の戦いは、ま~だ終わりません。

逃れた尚順が地元=紀州を味方につけ、勢力を挽回した事から、早くも、政変から約半年後の10月に両者の衝突が起こったのを皮切りに、
明応四年(1495年)、
明応六年(1497年)、
明応八年(1499年)・・・さらに、この明応八年(1499年)1月の戦いで義豊が戦死すると、その息子の畠山義英(はたけやまよしひで)が引き継いで
明応八年(1499年)12月、
翌・明応九年(1500年)・・・と、

とにかく、義豊側が尚順を紀州に追い込めば、ほとぼり冷めた頃に尚順が河内に侵攻・・・それが治まれば、また義豊側が紀州に・・・と、両者の戦いは続いていくのです。

とは言え、両者が、そんなこんなしているうちにも時代はどんどん進んでいくわけで・・・やがて、大和の派遣争い(9月21日参照>>)、政元亡き後の細川家の後継者争い(2月13日参照>>)、両者ともに巻き込まれつつあるうちに、徐々に他の武将たちが力をつけてくる下剋上・・・

結果的には・・・
義就系統は、上記の義英の息子の畠山義堯(よしたか=義宣)が、守護代の木沢長政(きざわながまさ)に裏切られて自刃に追い込まれた(7月17日参照>>)後、そのまた息子の畠山在氏(ありうじ)の時代に、その木沢長政が三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)に敗北した事から、事実上の滅亡となります。

一方の政長系統は、尚順から5代後の畠山高政(たかまさ)の時代に、やはり台頭していた三好(9月28日参照>>)と敵対した関係から、足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛して来た織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)に近づき、その子孫たちは織田→豊臣→徳川の流れで生き残り、伝統ある名家を重んじる徳川家康(とくがわいえやす)によって、あの今川家(3月16日参照>>)と同様に、江戸幕府内の高家(こうけ=江戸幕府内で儀式や典礼を担当する役職)として幕末まで続く事になります。

戦国の世で生き残っていくのは大変ですね~
振り返ってみると、この畠山両家は、戦国の幕開けとも言われる応仁の乱から、信長の上洛まで、ずっと戦っていたわけですから・・・
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2016年12月 7日 (水)

南北朝~新将軍京落での佐々木道誉の風流と楠木正儀

正平十六年・康安元年(1361年)12月7日、挽回を計る南朝軍が足利将軍のいる京都に進撃を開始しました。

・・・・・・・・・・

日本に二つの朝廷があった南北朝時代・・・ここまでの経緯のくわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただきたいのですが、とりあえず、かいつまんでお話させていただくと・・・

元弘三年(1333年)に鎌倉幕府を倒して(5月22日参照>>)建武の新政(6月6日参照>>)を行った後醍醐(ごだいご)天皇に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ=高氏)が、京都へと攻め上り(6月30日参照>>)光明(こうみょう)天皇を擁立して(8月15日参照>>)開いた室町幕府・・・こちらが北朝

この尊氏に京都を追われた後醍醐天皇が吉野(奈良)に入って開いたのが南朝(12月22日参照>>)です。

その後、延元三年(歴応元年・1338年)に尊氏が征夷大将軍(8月11日参照>>)となって、続く延元四年・暦応二年(1339年)に後醍醐天皇が崩御される(8月16日参照>>)中で、たび重なる合戦で南朝の中心である
北畠顕家(きたばたけあきいえ)(5月22日参照>>)
新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)
楠木正行(くすのきまさつら=正成の長男)(1月5日参照>>)などが次々と討死した事で、おおむね北朝が有利に駒を進めるも、

北朝は北朝で、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)と呼ばれる内紛に関連して、尊氏の弟=足利直義(ただよし)(10月25日参照>>)や、執事の高師直(こうのもろなお)などを失った(2月26日参照>>)うえ、そのドサクサで、後醍醐天皇の後を継いで第97代天皇となっていた後村上(ごむらかみ)天皇(後醍醐天皇の皇子)が京都を制圧したり(3月24日参照>>)、尊氏の次男=足利直冬(あしかがただふゆ)が抵抗(6月9日参照>>)したり・・・

しかし、その尊氏も正平十三年・延文三年(1358年)に亡くなり(4月30日参照>>)、時代は、その後を継いで第2代室町幕府将軍となった三男の義詮(よしあきら)へと移っていきます。

そんな中で、問題は、父の尊氏時代からの重臣たちの間での勢力争いが、ここに来て目立って来た事・・・将軍を主人と仰ぎながらも、その主人に対抗できるほどの力を持ちつつ、一方で政権の主導権を握る事に躍起になる彼らに対し、29歳の2代目は彼らとどう向き合い、将軍としてどのように自身の地位を確保していくのか・・・目を光らせる事になります。

そんなこんなの正平十五年・延文五年(1360年)、足利政権下で執事の座についていた仁木頼章(にっきよりあきら)追い落とされて没落しますが、その翌年には、その仁木追い落とし作戦の一翼を担っていたであろう管領(かんれい)細川清氏(ほそかわきようじ)謀反の疑いを掛けられて失脚(くわしい経緯は9月23日参照>>)・・・弁明叶わず若狭(わかさ=福井県)へと逃れた清氏は、そのまま南朝へと身を転じたのです。

それから、わずか3ヶ月・・・吉野を訪れた清氏は、
「南朝軍の諸将の協力あれば、1日で都を落として、これまでの苦難を晴らしてみせます!」と宣言したのです。

これを聞いた後村上天皇が、忠臣の誉れ高き楠木正成(くすのきまさしげ)の三男=楠木正儀(まさのり)に、清氏の言葉の実現性を尋ねてみると、
「京都から朝敵(ちょうてき=国家の敵…この場合は北朝の事)を追い出すなんて事は、清氏さんの力借りんでも、僕だけで充分できる簡単な事ですわ…問題は、一旦制圧した京都を、どう維持していくか?ですが、今のこの時点では、維持し続けるのは難しいと思います」
と正儀は答えます。

しかし、「一刻も早く都に帰りたい」と思っていた中で、北朝でもトップクラスの重臣=清氏がコチラに降った事に勢いづく南朝は、軍議の結果、清氏の策を採用する事となり、南朝方の錚々たる面々をズラリ揃えて出陣し、住吉天王寺(すみよし・てんのうじ=大阪府大阪市)に陣所を設けつつ北上し、正平十六年・康安元年(1361年)12月7日都の間近まで進撃しました。

迎え撃つ義詮は、一旦東寺(とうじ=京都市)に進んで陣を置きますが、南朝軍が間近に迫ると、迎撃する事なく、アッサリと陣をたたんで後光厳(ごこうごん)天皇(北朝4代=光明天皇の甥)とともに近江(おうみ=滋賀県)へと逃れます。

こうして、翌12月8日の夕方・・・南朝軍は都へと入り、将軍の御所を焼き払ったのです。

『太平記』によれば・・・
この時、都に入った楠木正儀は、すでにもぬけの殻となった北朝方のとある屋敷に侵入します。

もちろん、上記の将軍御所と同様に、敵方の屋敷として焼き払うべく訪れたわけですが、その屋敷の邸内は、まるで高貴な客人を迎えるが如く、客間や書院には高価な品々が並べられ、書斎には貴重な書物、寝所にはお客様用の緞子(どんす)の夜具が敷かれ、警備員の詰所にはおいしそうな酒の肴とともに、竹筒いっぱに満たされたお酒が・・・

Sasakidouyo600a 実は、このお屋敷は、あのバサラ(婆娑=派手で奇抜な恰好をして傍若無人に振舞う)の中のバサラ大名佐々木道誉(ささきどうよ)(10月12日参照>>)の屋敷だったのです。

戦う事無く都を落ちる事になった道誉は、
「我が屋敷には、この屋敷にふさわしい名将が入るに違いない」
と考え、邸内すべてを見事に美しく飾り付けた後、ここに留まる二人の僧に、
「この屋敷の来客は、どんな者であっても、丁寧にもてなしたってくれよ」
と言い残して去っていたのです。

先の失脚事件の際、おそらくは自らをハメて蹴落としたであろう道誉に怒り心頭の清氏は、
「アホか!敵の屋敷は全部焼いてまえ!」
と息巻きますが、当の正儀は、
「兄さん、メッチャ風流な事しはるやん!かっこえぇ」
と感動しきり・・・

結局、正儀は、清氏の言葉は聞かず、庭の木1本、畳1枚、傷つける事無かったばかりか、逆に、詰所の肴を、より豪華にし、寝所の枕もとには秘蔵の甲冑と太刀を飾った後、再び都を去ったのです。

まもなく、正儀と入れ換わるように都に戻った道誉・・・多くの屋敷が焼かれた中で、自宅が無傷だった道誉は
「ウマイ事やりやがった…ホンマ、ずる賢いやっちゃで」
と囁かれる一方で、結果的に甲冑と太刀を、道誉に譲ってしまった形になった正儀の事を、
「古ダヌキに手玉に取られよったで」
とバカにする者もいたのだとか・・・

いやいや、正儀さんは、ちょっと純粋なだけです~

・・・て、何?
「まもなく、正儀と入れ換わるように都に戻った道誉…」って

そうなんです。
上記の通り、12月8日に京都に入った南朝軍でしたが、わずか半月後の12月26日、やっぱり一戦も交えぬまま京都を退去し、その3日後に再び義詮が将軍として戻って来て、すべてが元通り・・・チャンチャンっとなるのです。

なんじゃそら!

って、思いますが、実は、京都って、攻めるにたやすく、守るに難しい場所なんです。

そう、最初に清氏がやって来て
「1日で落とせます!」
と言った時に、正儀が
「維持し続けるのは難しい」
と言いましたが、正儀さんのおっしゃる通りなんです。
(さすが!正成はんの息子ヽ(´▽`)/)

ご存じのように、京都は山に囲まれた盆地で、都の中心部には高い山が無く、比較的高い山はその外側にあります。

なので、外側を囲まれると非常に弱い・・・先の仁木の没落も清氏の失脚も、都内にいる彼らが、周囲からの攻撃に屈して退散したような物で、ここは一旦、都を放棄してから態勢を立て直し、改めて周囲を囲んで攻撃を仕掛ける方が得策なのです。

もう少し後の時代に登場する剣豪将軍=足利義輝(よしてる)も、何度か都を明け渡しては奪回する日々を送っています(11月27日参照>>)

・・・で、その事を重々承知の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、都全体をお土居で囲って、その守りの弱さを払しょくするわけですが、それは、もう200年ほど後のお話・・・
6月25日【秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床】>>
12月3日【北野天満宮「御土居=もみじ苑の公開」】>>

今回は、その守り難さを知っていたからこそ、義詮は、一旦アッサリと近江へ退去した後、すぐに軍勢を整えて、再び周囲を囲む・・・という策を取り、

一方の南朝も、1度目は清氏の案を採用しながらも、さすがに、このまま維持できない事に気づいて、次は、アッサリと明け渡したというワケです。

この後、細川氏の地元である阿波(あわ=徳島県)に戻って再起を計ろうとする清氏と、今回の一件の縁からか?道誉を通じて北朝に南北朝合一を働きかける正儀の姿がありますが、そのお話は、また別の機会にご紹介させていただきたいと思います。
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2016年10月16日 (日)

畠山義就×政長の応仁の乱前哨戦~高田城の戦い

文正元年(1466年)10月16日、翌年の応仁の乱の口火を切る事になる畠山義就の大和から河内への侵攻での高田城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

今回の主役=畠山義就(はたけやまよしひろ・よしなり)畠山氏は、室町幕府政権下において河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)山城(やましろ=京都府南部)越中(えっちゅう=富山県)大和(やまと=奈良県)の一部などなどの広範囲の守護職を任され、細川(ほそかわ)斯波(しば)とともに、管領職を順番に務める三管領家(さんかんれいけ)の一つとされた名門です。

Hatakeyamayosinari400 ただ・・・実は義就の母親という人がかなり身分が低かった(遊女だったとも)ために、本当に自分の子供かどうか確信が無かった父の畠山持国(もちくに)は、義就がただ一人の実子(かも)であったにも関わらず、はじめ、義就を嫡子と認定せず、社僧として石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)に出す事とし、自らの弟である畠山持富(もちとみ)養子に迎えて後継ぎとしていました。

ところが、その後、12歳になった義就と初めて面会した持国は、やっぱ息子がカワイイ~~」とばかりに(きっと似てたんやな?ww)、文安五年(1448年)、突然、持富を後継者から外して義就を迎え入れ、後を継がせたのです。

「それはモメる要素投入以外の何物でもないやろ!」
とのツッコミ満載な中、予想通り一部の家臣が反発・・・家臣団が義就派VS持富派に分かれるのですが、当の持富が宝徳四年(1452年)に死去したため、嫡子の畠山弥三郎(やさぶろう=政久・義富)持富派の後継者となり、対立はどんどん激化・・・

さらに、そこに、当時の実力者である細川勝元(ほそかわかつもと)やら山名宗全(やまなそうぜん=持豊)やら、大和の国人の筒井(つつい)までが関与して来て、よりややこしくなって来ます。

両者がシーソーゲームを繰り返す中、享徳四年(1455年)に父=持国が死去した事から、第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の許可を得て正式に畠山の家督を継ぐ事になった義就は、筒井氏に対抗する大和の国人=越智家栄(おちいえひで)らの支援を受けた事で勢いを増し、弥三郎一派の追い落としに成功します。

しかし、そのわずか2年後の康正三年(1457年)に起こった大和国内でのゴタゴタに、将軍=義政の許可を得ないまま軍勢を派遣してしまった事が義政の逆鱗に触れ、義就は所領没収となってしまいました。

その一方で、長禄三年(1459年)に弥三郎が亡くなった事を受けて、その弟の畠山政長(まさなが=つまり義就の従兄弟)持富派の代表として争いを引き継いで交戦状態を続ける事になるのですが、その翌年の長禄4年(1460年)、大和竜田(たつた)での義就VS政長が直接対決した戦いで、政長が見事勝利・・・大敗を喫してしまった義就の立場はますます危うくなり、将軍=義政は義就を敵視し、政長に家督を譲るよう命じます。

追われる立場となった義就は、やむなく居城の若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)を捨てて、岳山城(たけやまじょう=大阪府富田林市)から誉田(こんだ)道明寺(どうみょうじ=大阪府藤井寺市)などを転戦するも、徐々に押され、高野山から、最終的に吉野(よしの)へと逃げ込み、しばらくの間引き籠り状態に・・・

その間に、政長は、幕府から畠山の家督を相続する事を許さればかりか、彼を支持し続けてくれていた細川勝元から管領職まで譲られる事になりますが、一方の義就も、ただ吉野へ引き籠っているわけではありませんでした。

義就を支援し続けてくれていた越智家栄のもと、中央政府を窺いつつ、挽回のチャンスを狙っていたのです。

そんなこんなの文正元年(1466年)、前年の恩赦(おんしゃ=刑罰を軽減させる制度)によって、義政から罪を許された義就は、細川勝元に匹敵する大物=山名宗全からの支持を得る事に成功し、上洛を果たすべく吉野を発つのです。

しかし、そこに立ちはだかるのが、筒井順永(つついじゅんえい)をはじめとする政長を支持する大和の国人たち・・・

もちろん、義就の味方は越智家栄ら、こちらも大和の国人たち・・・

両者譲らず、大和国高田(たかだ=大和高田市)の里を東西に横切る横大路(初瀬街道)を挟んで、北に政長方、南に義就方が対峙する中、9月25日、まずは越智勢が高田へと攻め入って集落に火を放ち、戦いの火蓋が切られましたが、大和平野にて実質的な合戦が展開されたのは、文正元年(1466年)10月16日の事でした。

『大乗院寺社雑事記』によると・・・
この日、善戦したのは義就方・・・まずは大和高田城を攻め落とした義就軍が、味方の越智勢の活躍により勝利し、負けた筒井勢を中心とする政長方は、高田城の北に位置する箸尾城(はしおじょう=奈良県北葛城郡広陵町)へと、我先に雪崩をうって逃げ込み、これを追う越智勢が、城を取り囲みつつ、周辺への放火を決行したと言います。

両軍ともに、一軍の将と呼ばれる武将を複数失う大きな戦いであったようですが、その後は籠城戦となり、こう着状態となった11月、大和十市城(とおいちじょう=奈良県橿原市十市町)の城主である十市遠清(とおち・とおいちとおきよ)の仲介により、越智氏&筒井氏が和睦を結び、大和での戦いは一応の落着となりました。

この『大乗院寺社雑事記』はお寺の記録なので、その中で
「これで大和も平和になった~ヽ(´▽`)/」
寺社が大いに喜んだ様子を記していますが・・・

が、しかし、お察しの通り、これは越智&筒井=大和の国人同志の和睦・・・義就と政長の抗争は、まだまだ続き、結局は、彼ら大和の国人も、またまた巻き込まれて行く事になるのですが・・・

しかも、この後、12月に上洛を果たした義就が、翌・応仁元年(1467年)正月に、将軍=義政に謁見するのですが、その時、義就は実力者=山名宗全を伴って義政の前に現れ、その場で宗全が猛プッシュした事から、義政は、義就の畠山氏の相続を認め、逆に政長に屋敷の開け渡しと管領職の辞職を命じたのです。

この先の事を知ってる私たちから見れば
「もう~、またまた争いの種をまくんかい!」
と義政の優柔不断ぶりに激おこプンプン丸ですが・・・

こうして、立場が不利になった政長が、挽回すべく挙兵したのが応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)・・・

これが、全国の武将を東西に分けて10年以上に渡って繰り広げられる大イクサ応仁の乱の始まりとなるのです。
【応仁の乱・勃発!】参照>>
応仁の乱~初戦は激しい五月合戦】参照>>
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2016年6月24日 (金)

嘉吉の乱~万人恐怖のくじ引き将軍・足利義教の憂鬱

嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨の守護・赤松満祐が第6代室町幕府将軍・足利義教を自宅にて騙まし討ちするという・・・世に言う嘉吉の乱がありました。

・・・・・・・・・・・・

以前、『あなたが思う戦国の幕開けは?』というアンケート(2010年7月28日参照>>)をさせていただいた時には、応仁の乱>>が圧倒的1位、続いて北条早雲(ほうじょうそううん)足利=堀越公方を倒しちゃう伊豆討ち入り>>が2位につけ、その2強が他に大差をつけた状態だったわけですが、実は、永享十一年(1439年)に起きる永享(えいきょう)の乱(2月10日参照>>)と、その2年後に起きる今回の嘉吉(かきつ)の乱(以前のページは2009年6月24日参照>>)「戦国の幕開け」と位置づける研究者も多いんです。

つまり、戦国時代は関東から畿内にやって来て全国に広がったと・・・となると、永享の乱に勝利して嘉吉の乱にて暗殺される第6代室町幕府将軍足利義教(あしかがよしのり)は、まさに戦国の幕を開けた男という事になります。

とまぁ、上記でリンクを貼っておる通り、すでにこのブログで1度は書かせていただいている永享の乱と嘉吉の乱ではありますので、その内容は少々かぶり気味になりますが、今回は、その両乱の主役でもある足利義教さんを中心に書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

足利義教は、室町幕府を開いた初代将軍=足利尊氏(たかうじ)(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)の孫で、南北朝合一を果たして幕府を全盛期へと導いたあの足利義満(よしみつ)(12月30日参照>>)の息子です。

とは言え、彼は五男・・・なので、第4代将軍は長兄の足利義持(よしもち)が継ぎ、第5代将軍は、その義持の息子の足利義量(よしかず)が継ぎ・・・と、本来なら、将軍の座が義教に回って来るはずは無かったのです。

Dscn9028a800 なので、完全に将軍候補から外れていた彼は、10歳にして天台宗のお寺=青蓮院(しょうれんいん京都市東山区粟田口)に預けられて義圓(ぎえん=義円)と号し、兄の義持が亡くなるその日まで、僧として修行する毎日を送っていたのです。

なんせ、25歳で天台座主(てんだいざす=本山の延暦寺の住職で末寺を総監する役職)となった後、大僧正(だいそうじょう=僧を統括する最高位)にまで上り詰めていたのですから、もはや将軍職の事なんか頭のスミにも置かず、ドップリシッカリと僧の道を全うするつもりでいた事でしょう。

ところが人生わからない物・・・応永三十五年(1428年)1月に兄の義持が後継者を指名しないで亡くなってしまい、しかもその時には、5代将軍を継いでいた一人息子の義量も、若くして子供をもうけないまま、すでに亡くなってしまっていた=嫡流がいなくなったために、次期将軍を巡って幕府内は大モメにモメるのです。

と言うのも・・・
わずか11歳で将軍職を継いでから、ヤバイ相手には容赦ない鉄槌を下す、かなりハードな戦人生を送りつつ足利家の全盛を築いた3代将軍の義満が、息子の義持がわずか9歳の時に早々と将軍職を譲りながらも、その後も実権は自らが握るというワンマン社長的な政治体制をとっていたおかげで、いつしか義持の中には、父=義満に反発する気持ちが芽生えており、義満が亡くなって後に義持自身が実権を握ってからは、父とは正反対の(将軍の)側近たちと仲良くし、彼らの意見を聞く」という政治体制をとっていたのです。

なので、大抵の事は側近たちが話し合って決めていた・・・だからこそ、義持は、亡くなる時も、自らが次期将軍を指名せず、「君ら(側近)で話合うて決めてぇな」と遺言して逝ったのでした。

こうして、次期将軍は義持の4人の弟たちの中から選ばれる事になり、管領の畠山満家(はたけやまみついえ)をはじめ、斯波義満(しばよしみつ)細川持元(ほそかわもちもと)山名時煕やまなときひろ)畠山満慶(はたけやまみつのり)といった将軍側近メンバーたちが、義持の心を汲んで、未だ将軍が生きている段階から話し合いを始めるのですが、

候補となる4人の兄弟たちは、いずれも大寺院に務める立派な僧侶で、辿って来た経歴もほぼ同じ・・・今回ばかりはいくら話し合っても、いっこうに決まる気配がなく、結局、「話し合っても決められない事は神頼み」って事で、戦勝の神様=石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)にてくじ引きする事に・・・

で、神の御前でくじ引きし、義持の死後に開封された、その結果が義教・・・となったわけですが、この時代のくじ引き、しかも神前でのくじ引きは神託=神様のお告げであって、決してふざけているわけではなく、これでも、立派な将軍決定劇に間違い無かったのです。

とは言え、例え神のお告げであったとしても、前例のないくじ引きに、前例のない還俗(げんぞく=僧侶をやめて一般人に戻る事)からの将軍誕生という、このドタバタ劇は、内外に多大なる影響を与える事になるわけで・・・

こうして、早速、兄の死から2ヶ月後の応永三十五年(1428年)の3月に左馬守に任じられ、将軍の邸宅である室町殿に入った義教ですが(当時の名は義宣=よしのぶ)、2ヶ月後の正長元年(4月に応永から改元)5月に、早くも不穏な動きが・・・

それは、関東にて度々勝手な行動に出ていた鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方とも)足利持氏(あしかがもちうじ)上洛を企てているとの噂

と、ここで、これまでもブログに度々登場している鎌倉公方・・・この鎌倉公方というのは、そもそも室町幕府を開いた初代の足利尊氏が、自らの出身&領地が関東であったにも関わらず、かの後醍醐天皇(ごだいごてんのう)との南北朝問題があった事などから、その幕府を京都で開く事になっために、

留守がちになる関東の領地を、息子の義詮(よしあきら)に治めさせていたのですが、尊氏の死後、その義詮が2代将軍になったために京都へ行き、その弟である基氏(もとうじ)初代鎌倉公方に就任し、以来、その基氏の家系が代々鎌倉公方職を継いでいて、今回の持氏が4代目・・・という事になるのですが、

そう、もはや4代目ともなれば、関東は関東で、独自の道を歩み始めていたわけで・・・

しかも、この持氏は、生前の義持に「猶子(ゆうし=契約上の養子)なりたい」との話を持ち掛けて来た事もあり、「くじ引きするくらいモメるんなら、俺が将軍になるってのもアリじゃね?」的な匂いがプンプン・・・

なんたって、本来なら仏門に入った人は将軍候補から外されるのですから、将軍家の直系がいなくなった今、分家とは言え、仏門に入って無い持氏は候補者の一人なわけで、そこを「くじ引きさせて還俗させて就任させるくらいなら俺が…」って考えるのも無理のないところ・・・

とは言え、この一件に関しては、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲実(うえすぎのりざね)の取りなしで、なんとか事無きを得ました。

しかし、このタイミングで伊勢国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)が南朝勢力の回復を企んで(7月20日参照>>)後亀山天皇(ごかめやまてんのう)(4月12日参照>>)の一派と組み、かの持氏に連絡を取ったりなんぞ・・・

さらに、8月頃から近江(おうみ=滋賀県)で始まっていた土民(農民や都市の庶民)たちの不穏な動きが、9月には京都まで波及して、さらに播磨・丹波・伊勢・大和近畿一帯を巻き込んで大暴れ・・・ご存じ、正長の土一揆(9月18日参照>>)です。

伊勢のゴタゴタには守護の土岐持頼(ときもちより)を、一揆には幕府侍所(さむらいどころ)赤松満祐(あかまつみつすけ)を派遣して鎮圧に当たらせ、何とか事を治める義教・・・

ところが一方で、朝廷からは「こんな前代未聞な誕生っぷりの将軍は見た事無いよって、将軍宣下なんかしたるかい!」と言われ、正式な将軍就任を1年も待たされる事に・・・

Asikagayosinori600_2 とか何とかありながらも、翌・正長二年(1429年)3月には、無事、正式に第6代将軍に就任した義教(実際にはここで義宣から義教に改名)は、しばらくは、何かと側近たちに相談しつつ、その意見を聞きつつ、波風立てぬように、表面上はうまくやって来ていたわけですが、

その後も、周防長門(すおう・ながと=山口県)豊前(ぶぜん=福岡県東部)の三国を治める大内氏と、豊後(ぶんご=大分県)大友筑前(ちくぜん=福岡県西部)少弐(しょうに)連合軍との合戦や内紛に関与せざるを得なくなったかと思えば、比叡山延暦寺の僧が神輿をかざして強訴(ごうそ=力づくの強引な訴え)して暴れるわ・・・

その度に、側近と話し合えば、これまた意見は分かれるわ、そのワリには義教にとっては許し難い事さえも「まぁまぁまぁ」と側近たちによって無理やり鉾を納めさせられるわ、鎌倉公方はチョイチョイ出て来るわ、比叡山の僧はうっとぉおしいわで・・・ここらあたりから、とうとう義教はぶち切れはじめるのです。

永享六年(1434年)2月、義教に待望の男子(後の第7代将軍=義勝)が誕生し、祝賀のために多くの人々が彼の御所につめかけましたが、一方で、その男子を産んだ義教の側室=日野重子(ひのしげこ)の実家である日野家にも多くの人が参賀にやって来たのです。

ところが、なぜか、義教は、その日野家の邸宅前に見張りを立てて、誰が祝いにやって来たのかをチェックさせ、それらの人物=60人余りに所領没収の処分を下したのです。

しかも、その3ヶ月後に、その日野家の当主であった日野義資(よしすけ=重子の兄)強盗に殺害されるという事件が・・・「黒幕は義教?」との噂が流れる中、数日後には、犯人として高倉永藤(たかくらながふじ)という公家が逮捕されますが、一貫して無実を訴える彼をしり目に、罪状は所領没収のうえ硫黄島への島流しに決定してしまいました。

さらに、ここに来て、一旦おとなしくなっていた延暦寺が再び暴れ出すと、以前の時には側近になだめられて、何とか押さえた怒りが、数倍になって爆発・・・義教は、延暦寺の使節として京都に滞在していた3人の僧を捕えて処刑します。

これに激怒した僧徒たちは、翌日、根本中堂に火を放ち、その中で約20人の僧が、抗議の自害をするという事態に・・・

よく、義教の独裁政治っぷりを表す時に『万人恐怖』という言葉が使われますが、これは、この比叡山の一件の事を日記に記した伏見宮貞成(ふしみのもやさだふさ)親王が、日記の中で「万人恐怖す、言う莫(なか)れ」と書き残した事にはじまります。

そんな中、ここらあたりで徐々に側近たちも世代交代して行き、もはや、誰も義教を止められない状態になる中、いよいよ関東の持氏が動き始めます

これまでも何度となく不穏な動きをしながらも、なんとなく事無きを得ていたものの、中央では永享に改元されてからも、なんだかんだと関東では正長を使い続けていたヤル気満々持氏は、永享十年(1438年)、自らの嫡男の元服に当たって、息子を義久(よしひさ)と名乗らせます。

これは、これまでは京都の将軍の一字をもらって名を名乗っていた鎌倉公方(持氏は義持の「持」なのねん)将軍家が受け継ぐ「義」の文字を使った・・・つまり、「俺らも同格やで」と宣言したわけです。

しかも、それに反対した関東管領の上杉憲実を討つべく出陣・・・憲実からの救援要請を受けた京都では、奥州の諸将に上杉の応援をするように命じるとともに、出兵の大義名分となる綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発給する命令文書)を得て軍制を整え、錦の御旗を掲げて官軍として京都を出発・・・さすがに義教自身が京都を離れる事はありませんでしたが、将軍の意を受けた官軍は見事勝利し、持氏を自害に追い込みました永享の乱:2月10日参照>>)

ところがその後・・・永享12年(1440年)、将軍の右腕だった一色義貫(いっしきよしつら)若狭(わかさ=福井県南部)武田信栄(たけだのぶひで)に、同じく幕府の重要人物だった土岐持頼は伊勢の国人=長野氏に、それぞれ殺害されるという事件が勃発・・・これまた「義教が黒幕なのでは?」と噂される中、翌年1月には畠山持国(もちくに=満家の息子)が追放され、6月18日には加賀守護の富樫教家(とがしのりいえ)義教の怒りに触れて出奔・・・かくして事件は、その6日後に起きました。

嘉吉元年(1441年)6月24日、病気で欠席の赤松満祐に代わって、息子の赤松教康(のりやす)が、義教はじめ、管領や側近などの大名たちを赤松の宿所に招き、酒宴の席を設けます。

宴席では猿楽が繰り広げられ、ゴキゲンの義教が盃を重ねていく中、その後方にあった障子がいきなり開かれ、そこから数十人の武装した兵が乱入・・・アッと言う間に義教の首を跳ねてしまったのです。

あまりに突然の事だったのか?
一部の側近は奮戦するものの、列席していた大名たちの多くは、将軍の仇を、その場で討とうとのそぶりも見せず、ただただ唖然とする者、慌てて逃げる者ばかり・・・

実は、この宴席に欠席していた赤松満祐の病気は「狂乱」だったとの記録もありまして・・・あまりの義教の暴走っぷりに、満祐は気を病んでしまったのだと・・・

なので、満祐だけでなく、他の大名たちも「処刑や追放の憂き目に遭うのは次は自分か?」と、毎日恐怖におののいていたわけで・・・(だから、将軍の仇を討とうなんて思う者はいなかった?)

そのおかげで、教康たちは、義教の遺骸をその場に放置したまま、首を剣に突き刺して高々と掲げて京都市中を練り歩き、堂々と故郷の播磨(はりま=兵庫県南西部)へと去って行ったのです。

この将軍暗殺劇が嘉吉の乱です。

とは言え、さすがに将軍殺害犯をそのままにして置くわけにはいかず、この後、幕府による討伐軍が派遣され、そこで活躍したのが山名持豊(やまなもちとよ)・・・後に、日本を東西に分けて戦う西陣代表の大大名となる名宗全(そうぜん)(3月18日参照>>)です。

また、義教の死によって、彼と敵対していた一部の人々の罪も許された事から、この後、あの持氏の遺児=足利成氏(あしかがしげうじ)大暴れして、まさに関東は戦国に突入する事となるのですが、そのお話は2012年9月30日のページ>>

に、しても・・・
『万人恐怖』やら『魔将軍』やら『悪御所』やら、

その暴君っぷりで散々に言われる義教さんですが、その生涯を見てみると、なんか最初はイイ人だったような?気が・・・

そもそも、ご本人も将軍になりたかったんですかね?
「俺はくじ引きパス!」てな事は言えなかったんでしょうか?

なんとなく、そのまま僧として過ごしていたら、穏やかに、それでいて凛々しい高僧になられたような気がしてなりませんね。
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2016年6月 9日 (木)

加賀一向一揆の始まり~長享一揆・高尾城の戦い

長享二年(1488年)6月9日、長享一揆=高尾城の戦いで一揆勢が勝利し、富樫政親が死去しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、約100年の長きに渡って本願寺門徒が一帯を支配する事になる加賀一向一揆・・・まさに百姓の持ちたる国」の始まり~という事になるのですが、

そもそもは嘉吉元年(1441年)、赤松満祐(あかまつみつすけ)が将軍・足利義教(よしのり)を暗殺した嘉吉の乱(6月24日参照>>)をキッカケに、加賀の守護大名だった富樫(とがし)が分裂し、やがて起こった応仁元年(1467年)の応仁の乱(5月20日参照>>)で、兄の富樫政(とがしまさちか)東軍細川勝元に、政親の弟の富樫幸千代(こうちよ)西軍山名宗全(そうぜん=持豊)について家督争いを激化させていたわけですが、

この間ず~と、戦いがあれば、軍費を徴収されるし、田畑は荒らされるし、男たちは人夫に駆り出されるしで苦しめられ続けていた領民たちの唯一の救いは仏の教えでした。

ちょうどその頃、京都にて他派からの迫害を受けて北陸へと逃れ、各地を巡っていた蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)が、教えを広めるとともに、部落ごとに、道場をを建て、信者が集まって談合をする事を勧めた事で、その場所は領民たちにとって、信仰の場所でもあり、議会を行う場所でもあり、やがては一致団結し、組織として活動する場となっていくわけですが・・・当然、そこには、100%の農民ばかりではなく、半士半農の地侍たちも多く含まれていたわけで・・・

文明六年(1474年)、その団結を警戒した幸千代が、本願寺門徒を弾圧し始めると、彼らは、幸千代と対立する兄=政親と組んで対抗・・・最初の加賀一向一揆である文明一揆となります(7月26日参照>>)

しかし、この文明一揆で一揆勢を味方につけた政親も、実のところは、この団結力は脅威なわけで・・・結局、政親は、すぐさま一揆衆と結んだ同盟を破棄して、一転、本願寺門徒の弾圧に取りかかったのです。

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富樫と一揆勢との戦いの挿絵…蓮如上人御一代記図絵より部分抜粋(国立国会図書館蔵)

・・襲撃された門徒は散り散りに逃げるしかなく、その多くが越中(えっちゅう=富山県)瑞泉寺(ずいせんじ)へと逃れ、教祖様=蓮如が北陸の拠点としている吉崎御坊(よしざきごぼう=福井県あわら市)に救いを求めます。

しかし、この時に対応に当たった蓮如の側近=下間蓮崇(しもつませんそう)は、あくまで平和解決を考えていた蓮如の思いを伝えず、門徒には徹底抗戦を命令・・・それを受けた門徒たちがますます過激になった事から、翌文明七年(1475年)、蓮如は蓮崇の行動に失望して吉崎を退居(8月21日参照>>)、以後の蓮如は、大坂を拠点にする事に・・・

一方、加賀に逃れて越中に集結しつつあった門徒たちを、文明十二年(1480年)、砺波郡(となみぐん=富山県砺波市)一帯を支配していた石黒光義(いしぐろみつよし)が襲撃します。

ところが、手勢を二手に分けて石黒勢を挟み討ちにした一揆勢は、この戦い=越中一向一揆に見事勝利(2月18日参照>>)・・・この勝利に勢いづいたのが、各地へと逃れ、あるいは隠れるように身を潜めていた加賀の門徒たちでした。

やがて訪れた長享元年(1487年)、近江(滋賀県)にて六角氏との戦い(12月2日参照>>)に苦戦を強いられていた第9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)が、全国の武将に援軍を要請した事を受けて近江へと向った政親の留守を見計らって、再び、活発な動きを見せ始める一揆勢・・・

この一報を聞いて、慌てて戻って来た政親は、一揆勢を抑えるべく、更に弾圧を強化します。

しかし、もはや一揆勢の勢いは止まらないばかりか、ここに来て、その一揆勢を一つにまとめるべく、富樫家の中で、政親と対立していた富樫泰高(とがしやすたか)総大将として担ぎあげたのです。

一方の政親は、自らの居城=高尾城(たかおじょう・たこうじょう=石川県金沢市)に籠城・・・ここは天然の要害となる山の上に造られた大規模な山城でした。

かくして長享二年(1488年)5月・・・南無阿弥陀仏と書かれたむしろ旗を先頭に、12万人とも20万人とも言われる一揆勢が、その高尾城を取り囲んだのです。

政親を守る城兵は、わずかに1万ほど・・・相手が烏合の衆である一揆勢とは言え、この数の差は大きい・・・

この軍勢の差に、もはや将軍の権威も地に落ちたこの時期に、その呼びかけに応じてくれた政親を助けようと、将軍=義尚も援軍を派遣しますが、一揆勢の数の多さに高尾城までたどり着けず・・・

やがて6月に入ると、高尾城内は敗戦ムードに包まれますが、このタイミングで一揆側から総攻撃をチラつかせながらの投稿をうながすと、城内からの離反者が次々と現れ、ますます敗戦の色濃くなりばかり・・・やがて城兵の数も底をつき始めます。

そんなこんなの長享二年(1488年)6月9日、いよいよ一揆勢は城内へと怒涛の如く押し寄せ、山頂へと追い詰められた政親は、そこで討死して果てたとも、自害したとも言われます。

享年34歳。
一方の泰高は齢70の老人で、政親の祖父の弟にあたる人物・・・この戦いの後、この泰高が加賀の守護となるわけですが、もちろん、それは名ばかりで、実際には一揆勢=本願寺門徒や僧、半士半農の国人衆たちが支配する事となります。

蓮如の五男=実如(じつにょ)の言う「百姓の持ちたる国」の誕生です。

この後、加賀一向一揆は、朝倉や上杉との北陸争奪戦をくりかえしながら、
【九頭竜川の戦い】>>
【朝倉宗滴】>>
【上杉謙信の和睦】>>
この地に、日本史上最強の戦国武将がやって来るまでの100年間、加賀一向一揆の支配が続く事となります。

その最強の戦国武将とは、
ご存じ織田信長(おだのぶなが)・・・そのお話は
【金沢御坊・落城】>>
【鳥越城攻防戦】>>
でどうぞ

★一揆の方法や惣村について
 【一味同心・一揆へ行こう】で>>
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