2022年4月13日 (水)

鎌倉公方・足利氏満の関東支配~小山義政の乱

 

弘和二年(永徳二年=1382年)4月13日、謀反を起こしたとして足利氏満から攻撃されていた小山義政が自害しました。

・・・・・・・

応安元年(正平二十三年=1368年)12月、父=義詮(よしあきら)の死を受けて、次男の足利義満(あしかがよしみつ)室町幕府第3代将軍に就任した時は、未だ11歳の少年でした(12月30日参照>>)

そこでベテランの細川頼之(ほそかわよりゆき)が後見人となって、若き将軍とともに、未だ不安定な将軍権力の確立に向けて奔走する日々を送って行くのです。

そんなこんなの天授三年(永和三年=1377年)、越中(えっちゅう=富山県)守護(しゅご=県知事)斯波義将(しばよしゆき)地域の武将とひと悶着を起こし、敗走した武士が逃げ込んた場所に乱入して荘園を焼き払う・・・という事件が起こったのですが、その荘園が細川頼之の所領だった事で、斯波×細川の両者が一触即発の状況になってしまいます。

しかし、これを見事に治めたのが、誰あろう、成長した足利義満・・・

各大名たちに使者を出して、どちらにも加担せぬよう、さらにイザコザが合戦に発展せぬよう尽くすとともに、細川頼之に、幕府政務を統轄する立場にある者が、故戦防戦(こせんぼうせん=私的な合戦)の禁止私的な事で徒党を組んで合戦に及ぶべきでは無い事を諭し、未然に戦いを防いだのです。

これにより、幕府内での将軍の株は爆上がり・・・天皇や公家たちも、義満に一目置くようになったのですが、一方で、このゴタゴタは、未だくすぶっている南朝勢力を触発し、南朝方の一部が紀伊(きい=和歌山県)で蜂起するまでに・・・

ただ、
この時の南朝方の反撃は大事に至らなかったものの、ここのところのアレやコレやで、幕府内に反細川頼之派がくすぶり始めたのです。

危険を感じた頼之は、自らの領国(四国)に引き籠ろうとしますが、未だ頼之を頼りに思う義満は、頼之反対派の中心人物であった土岐頼康(ときよりやす)討伐の将軍命令を発したのです。

ところがドッコイ・・・時世はすでに義満の思いとは別の方向に・・・

逆に、諸大名から、「土岐を赦免に&頼之を罷免に」の声が上がり、やむなく義満は、
「追討命令は無かった事に…」
「頼之を解任し、代わって斯波義将を管領(かんれい=将軍の補佐)に任命する」
事で、今回の一件を治めたのでした(康暦の政変)

とまぁ、長い前置きになりましたが・・・
(前置きやったんか~いΣ( ̄ロ ̄lll)ガビ~ン)

この一件から3ヶ月後の天授五年(康暦元年=1379年)3月7日、関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐)上杉憲春(うえすぎのりはる)自殺するという事件が起こるのです。

これまで何度か登場しておりますが、この室町幕府は、南北朝の動乱(12月21日参照>>)のせいで、関東が地元の足利氏(あしかがし)が京都にて幕府を開く事になったため、初代将軍=足利尊氏(たかうじ)の嫡男=足利義詮の家系が京都にて将軍職を継ぎ、地元の関東は四男の足利基氏(もとうじ)の家系が鎌倉公方(かまくらくぼう)として治めるという体制をとったわけです。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

で、その鎌倉公方の補佐役が関東管領・・・その人が自殺したわけで、

実は、上杉憲春の死は、
今回の将軍家のゴタゴタを機に、第2代鎌倉公方足利氏満(うじみつ=基氏の息子)が、自らが将軍に取って代わろうと謀反を起こした・・・
いや、起こすつもりだったところを、それを諌めるべくの自殺=諫死(かんし)だった
というのです。

もちろん、行軍の途中で土岐が赦免されたとの知らせを受けた事もあったようですが、さすがに腹心の自殺はこたえたようで、大いに反省した氏満は、すぐに京都の義満のもとに使者を送って、部下の自殺で世間を騒がせた事を陳謝したのだとか・・・

Asikagauzimitu650a これにより、21歳の若き公方=氏満は将軍になるという思いは捨てて、自らの関東支配に力を注ぎ、鎌倉府の勢力拡大に乗り出す方向に舵を切ったのです。

そんな中、家柄や実力においても拮抗する庶家が群雄割拠していた北関東で、

天授六年(康暦二年=1380年)5月、小山氏(おやまし)宇都宮氏(うつのみやし)が合戦となり、小山義政(おやまよしまさ)宇都宮基綱(うつのみやもとつな)敗死させるという出来事が起こります。

これは隣接する領地を巡って、長年対立関係にあった小山と宇都宮が、その流れで、たまたまこの時期に合戦となり、小山が勝利した・・・と考えようによっちゃ、武士同士の覇権争いなのですが、

上記の通り、関東支配に本腰を入れて、ヤル気満々の足利氏満は、幕府が掲げている故戦防戦の禁止を重視し、これを小山義政の「鎌倉府に対する謀反」と判断します。

実は、このころ、関東の大名の中で最大の勢力を誇っていたのが、小山城(おやまじょう=栃木県小山市城山町・祇園城とも)を拠点とする小山義政で、あの英雄=藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲む小山氏の11代目当主だった義政は、室町幕府創設期にも活躍し、下野(しもつけ=栃木県)の守護に任じられている実力者だったのです。

小山義政としては、氏満が
「例の管領自殺の一件で、公方が幕府中央から睨まれている間なら、幕府との関係も良好で、かつ関東一の実力を持つ自分の力を見せても大丈夫」
と思っていたのかも知れませんが、

氏満は氏満で、関東支配に舵を切った以上、武士同士の私的な合戦を見過ごすわけにはいきません。

早速、氏満は、
「小山を討伐するので速やかに出兵せよ」
との命令を関東八ヶ国の武士たちに発します。

兄の後を継いだ関東管領の上杉憲方(のりまさ・のりかた=上杉憲春の弟)木戸法季(きどのりすえ)を大将に据え、ハリキリまくりの氏満自らも出陣して武蔵府中(むさしふちゅう=東京都府中市)に陣所を構え、さらに北上して村岡(むらおか=埼玉県熊谷市)まで進みます。 

太刀打ちできないと判断した小山義政は降伏を申し入れ・・・これに応じた氏満も、義政の降伏を受け入れて、それ以上の攻撃は止め、事は一旦治まりました。

しかし、
「僕がソチラに行って直接謝りま~す」
と言っていた義政がいつまで経っても参陣しなかったため、

「あの降伏はウソやったんかい!」
と怒り心頭の氏満は、

弘和元年(永徳元年=1381年)2月、上杉朝宗(ともむね=上杉憲方の従兄弟)と木戸法季を大将に、再びの小山討伐命令を出したのです。

ハリキリボーイ氏満は、今回も自ら出陣して鎌倉街道を進み、小山義政が拠る鷲城(わしじょう=栃木県小山市外城)に迫りました。

その後、一進一退の攻防を繰り返す中、12月になって小山義政は、鷲城を開城して小山城に移って降伏を表明・・・その証しとして義政自らは剃髪(ていはつ=坊主)して出家の身となり、嫡子の若犬丸(わかいぬまる=隆政)は氏満の陣までやって来て平謝り。。。

…で、今回も許しちゃう氏満クン。。。

ところが、案の定・・・翌弘和二年(永徳二年=1382年)3月。

小山義政は、いきなり小山城に火を放ち、糟尾(かすお=栃木県鹿沼市・粕尾)にある奥の城塞(寺窪城と櫃沢城?)に籠って徹底抗戦の構えを見せたのです。

再びの約束破りには3度目の討伐を…!

とばかりに、またもや上杉と木戸を奥の城へと派遣・・・

やがて奥の2城も陥落し、小山義政と若犬丸は、一旦、城を脱出して逃走を図りますが、追手が迫ったため、小山義政は、弘和二年(永徳二年=1382年)4月13日自害して果てたのでした。

そのスキに若犬丸は、何処ともなく逃走し、何とか、その血脈が絶える事は無かったようですが、

小山の家督は、同族の結城基光(ゆうきもとみつ)の息子が小山泰朝(やすとも=基光の次男)として相続する事になり、もともとの小山の力は大きく削がれる事になりました。

もちろん、若犬丸も行方知れずのまま、その後は表舞台に登場する事もありませんでした。

これによって、鎌倉公方は、ようやく関東中央部を掌握する事となったのです。

この一連の戦いは小山義政の乱、あるいは小山氏の乱と呼ばれます。

乱から1ヶ月後の5月1日、氏満は鎌倉に戻り、留守を預かっていた上杉憲方とともに、その後しばらくは、公方&管領を中心とした正常運転の政治が展開され、しばらくは比較的円満で安定した関東地方・・・の時代をおくる事になり、

西の「将軍=義満」東の「公方=氏満」で、室町幕府の足利全盛の時代へと進んで行く事になります。
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2022年4月 6日 (水)

今川義忠の遠江争奪戦~命を落とした塩買坂の戦い

 

文明八年(1476年)4月6日、横地城勝間田城を落とした今川義忠が、凱旋途中の塩買坂にて一揆に襲われて討死しました。

・・・・・・・・・

横地城(よこちじょう=静岡県菊川市東横地・金寿城とも)を本拠とする横地氏(よこちし)は、あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)の流れを汲む一族として平安後期頃から歴史上に登場し、平家滅亡に貢献したとして鎌倉時代には将軍の御家人として、さらに足利尊氏(あしかがたかうじ)の倒幕にも強力したとして、室町幕府政権下でも将軍の奉公衆として名を馳せる名門で、

14代当主とされる横地秀国(よこちひでくに=横地四郎兵衛)の頃には、やはり源氏の流れを汲み室町幕府政権下で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)を任されていた今川義忠(いまがわよしただ=今川義元の祖父)の配下として周辺に睨みを効かせておりました。

また、横地氏と同族とも言われる(桓武平氏説もあり)勝間田氏(かつまたし)も、源頼朝(みなもとのよりとも)に従う家人として鎌倉時代から登場し、室町幕府政権下でも幕府方の勢力として、勝間田城(かつまたじょう=静岡県牧之原市勝田)を本拠に、遠江(とおとうみ=静岡県大井川以西)蓁原郡(はいばらぐん)勝田(静岡県牧之原市の勝間田川流域一帯)一帯を治めておりました。

しかし、ここに来て、その今川義忠が領地を拡大すべく、西の遠江へと侵攻する姿勢を見せ始めます。

実は、この遠江・・・かつては、ここも今川の一門が守護を務めていたのですが、応永二十六年(1419年)に守護職を足利一門の有力者=斯波氏(しばし)に代られたばかりか、それに反発した遠江今川氏今川範将(いまがわのりまさ)中遠一揆(ちゅうえんいっき)を起こすも、それも鎮圧され、いくつかの所領も、斯波氏配下の守護代(しゅごだい=副知事)狩野氏(かのし)に抑えられてしまっていたのです。

かくして文明六年(1474年)8月頃から、自軍を西へと向けた今川義忠・・・今回は、かつての中遠一揆の中核である在地領主の(はら)小笠原(おがさわら)久野(くの)らも味方につけ、3ヶ月に渡る戦いの末、11月21日、狩野氏が本拠としている遠江見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・破城とも見付端城とも)陥落させた今川義忠は、積年の敵=狩野氏を滅ぼしたのです。

しかし、この状況にジッとしていられなかったのが、先の横地秀国と勝間田修理亮(かつまたしゅりのすけ)・・・

文明八年(1476年)に入ると、両者連携して斯波義廉(しばよしかど)に通じ、今川義忠の侵攻を阻止せんと、2年前に義忠に落とされた見付城に入って城を復旧して、今川に敵対する行動を見せ始めるのです。

かくして、これを攻めんと駿河を発った今川義忠・・・

久野佐渡守(くのさどのかみ)奥山民部少輔(おくやまみんぶのしょう)杉森外記(すぎもりげき)岡部五郎兵衛(おかべごろべえ)など500余騎を従え、それを二手に分けて横地城と勝間田城を取り巻き、七日七晩、昼夜を問わず攻撃をを仕掛けた結果・・・7日目の夜に、横地秀国と勝間田修理亮の両人が討死。

見付城に籠っていた者も含め、一族郎党ともども敗北させたのでした。

ところが、この戦いに勝利し、凱旋帰国中の今川義忠は・・・

文明八年(1476年)4月6日小笠郡(おがさぐん)塩買坂(しょうかいざか=静岡県菊川市)に差し掛かった時、潜んでいた横地氏と勝間田氏の残党が率いる一揆に襲撃されるのです。

にわかに合戦となるものの、相手は烏合の衆・・・即座に蹴散らすべく、馬上から賢明に指揮する今川義忠でしたが、残念ながら、誰かが放った流れ矢に当たって命を落としてしまうのです。

享年、41・・・

ただし、この塩買坂の戦いのあった年次に関しては諸説あります。

  • 文明七年(1475年)4月6日
    『今川家略記』『今川記』『駿河記』『駿国雑誌』
  • 文明七年(1475年)6月19日
    『和漢合符』『後鑑』
  • 文明八年(1476年)4月6日
    『寛政重修諸家譜』『今川系図』
  • 文明十一年(1479年)2月19日
    『今川家譜』『正林寺今川系図』

などなど・・・

なので、今川義忠の忌日についても諸説あるのですが、本日のこのブログでは、今のところ、おそらく1番信ぴょう性が高いであろうとされる「文明八年(1476年)4月6日」の日付で書かせていただきました。

いずれにしても、勝利の後に、残党によって当主の命が奪われた今川家・・・

しかも、幕府が認めた守護である斯波氏配下の横地と勝間田を討った事になる今川義忠は、事実上の謀反人になるわけで・・・

そのため、義忠には、未だ幼い竜王丸(りゅうおうまる)という遺児がいたものの、幕府からの咎めを恐れて、後継者には義忠の従兄弟にあたる小鹿範満(おしかのりみつ=義忠父の弟の息子)を擁立しようとする一派が登場し、このあとの今川家内は竜王丸派と小鹿範満派に分裂してしまうのです。

とは言え、なんだかんだで竜王丸は由緒ある今川の嫡流・・・幕府には、竜王丸を亡き者にするほどの考えはなかった事で、この混乱を治めるべく、幕府奉公衆の一人で今川に縁のある武将を駿河に派遣して、事態の収拾を図ります。

Houzyousouun600その人が、今川義忠の奧さん=つまり竜王丸の母である女性(北川殿)の兄か弟だった伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき・長氏)・・・
ご存知の北条早雲(ほうじょうそううん)です。

小鹿範満派には、堀越公方(ほりごえくぼう)の 足利政知(あしかがまさとも)執事(しつじ=公方の補佐)上杉政憲(うえすぎまさのり)がついていたものの(小鹿範満の母が上杉家出身とされる)、そこを早雲が「竜王丸が成人するまで小鹿範満を家督代行とする」ことで、半ば強引に決着させ、今川家の内乱を抑えました。

この竜王丸が、後の今川氏親(うじちか)・・・

北条早雲に助けられつつ成長した氏親は、やがて、この遠江争奪戦に終止符を打ち

その息子の今川義元(よしもと)海道一の弓取りへとつながっていく事になるのですが、そのお話は【今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3】>>でどうぞm(_ _)m
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2021年12月23日 (木)

南北朝~新将軍・足利義詮の南征&龍門山の戦い

 

正平十四年・延文四年(1359年)12月23日、新将軍となった足利義詮が大軍を率いて京を出発・・・「足利義詮の南征」が開始されました。

・・・・・・・・・・

元弘三年(1333年)、
ともに鎌倉幕府を倒す(5月22日参照>>)も、その後に、後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)が行った建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、楠木正成(くすのきまさしげ)を破って(5月25日参照>>)京都を制圧し(6月30日参照>>)、そこに新たな天皇を擁立して(8月15日参照>>)開いたのが北朝・・・

それに対抗して吉野(よしの=奈良県吉野村)へと退いた後醍醐天皇が開いたのが南朝(12月21日参照>>)・・・
*くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】>>で…

こうして始まった南北朝時代も、はやくも延元三年・建武五年(1338年)には南朝期待の星だった北畠顕家(きたばたけあきいえ)(5月22日参照>>)新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)が、相次いで討死し、

その年の8月には、足利尊氏が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられ、京都にて室町幕府を開きます(8月11日参照>>)

その翌年には後醍醐天皇が崩御され(8月16日参照>>)、おおむね北朝有利に戦いは進みますが、その北朝は、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)(10月26日参照>>)の勃発や、執事(しつじ=将軍の補佐)高師直が謀殺される(2月26日参照>>)など、北朝内での内部抗争&主導権争いも激しくなり、正平七年・文和元年(1352年) には、一時的に南朝の盛り返しもありました(3月24日【八幡合戦】参照>>)

Asikagayosiakira500ass そんなこんなの正平十三年・延文三年(1358年)4月、足利尊氏が54歳で死去(4月30日参照>>)した事を受けて、その年の暮れには嫡子の足利義詮(よしあきら=三男)第2代室町幕府将軍に任命されました。

この頃も、北朝幕府方が都を制圧し優位にはあるものの、一方で、山名時氏(やまなときうじ)師氏(もろうじ)父子の離反や(3月13日参照>>)、九州で暴れる懐良親王(かねよし・かねながしんのう=後醍醐天皇の第八皇子)の事(8月6日参照>>)など、未だ南朝勢力への不安を抱えたままであった事から、

新将軍となった足利義詮は、関東にて奮戦する畠山国清(はたけやまくにきよ=道誓)を援軍に呼び寄せ、正平十四年・延文四年(1359年)12月23日河内(かわち=大阪府北部)から紀伊(きい=和歌山県)方面へと出立したのです。(足利義詮の南征)

大手(おおて=正面)を行く将軍義詮の軍は約2000余騎・・・その数のあまりの多さに西宮(にしのみや)から尼崎(あまがさき)そして鳴尾(なるお=いずれも兵庫県)あたりの寺社では、そこかしこに兵たちが満ちあふれるほどだったとか・・・

一方、義詮が都を発った同じ日に、南朝方の後村上天皇(ごむらかみてんのう=第97代・後醍醐天皇の第七皇子)は、北朝方の攻撃を警戒して、南朝の仮宮を楠木の菩提寺である観心寺(かんしんじ=大阪府河内長野市)に遷します。

これは、あの楠木正成の末っ子である楠木正儀(まさのり)の進言によるものと言われ、この頃の後村上天皇が最も信頼を置く武将が正儀だったのです。

…で、
将軍出立の翌日の24日に搦手(からめて=横手)として都を出陣した畠山国清の軍は、関東から連れて来た大軍を率いて、この日は八幡山(はちまんやま=京都府八幡市・男山)の麓にある葛葉(くずは=大阪府枚方市樟葉)に陣取ります。

しかし、その後の北朝方の軍は、楠木正儀の本拠である東条(ひがんじょ=大阪府柏原市)近くまでは迫るものの、容易に攻めて来なかったため、
「ならば…」
と、楠木正儀は、和田正武(わだまさたけ)らとともに撃って出る作戦に・・・

かくして、翌25日、楠木&和田軍は、四条(しじょう=現在の近鉄:瓢箪山駅周辺)にて畠山国清軍とぶつかりました。

この時、戦い自体は小競り合い程度であったものの、長きに渡るにらみ合いに疲れた北朝兵士たちが、神社仏閣に押し寄せて乱暴狼藉をはかったと言います。

一方、この頃、畠山国清の弟である畠山義深(よしふか・よしとお)は、将軍義詮の命を受けて紀伊方面へ・・・向かった龍門山(りゅうもんざん=和歌山県紀の川市)には、すでに南朝方の四条隆俊(しじょうたかとし)が3000の兵で陣取っておりました。

そこを、慎重に堅く、周囲に目を配りながらゆっくりと進む畠山義深・・・そこで四条隆俊は、侍大将塩谷伊勢守(しおのやいせのかみ)を使って陽動作戦を取ります。

畠山義深の大軍を見て、さもビビッたかの如く、退く姿勢を見せる塩谷隊・・・

畠山義深の側近の遊佐勘解由(ゆさかげゆ)は、
「それ!敵は逃げたぞ!追いかけよ!」
と、盾の用意もせずに飛び出してしまいます。

しかし、これは上記の通り、南朝方の作戦・・・途中まで追いかけたところで、山間に伏せていた兵が一斉に矢を射かけます。

雨アラレのように降り注ぐ矢に、畠山軍が進むことができず、思わず立ちすくむと、そこに
「我こそは塩谷伊勢守なり!」と、まだ真新しい甲冑に身を包んだ武将が、大声で名乗りつつ突進して来ます。

こうして陽動作戦は成功し、戦いは北朝の敗北となったものの、深追いし過ぎた塩谷伊勢守は、ここで戦死してしまったのです。(龍門山の戦い)

一方、この紀伊方面での敗北を知った北朝幕府側には動揺が走ります。

河内に展開する南朝軍と、紀伊の南朝軍の挟み撃ちに遭えば、さすがの幕府の大軍もヤバい・・・

そこで、幕府軍が芳賀公頼(はがきんより)を援軍として差し向けます。

公頼は、
「敵を倒さぬ限り、生きてここへは帰りませぬ」
と、父と今生の別れをし、一路、龍門へ・・・しかし、これが強かった。。。

いや、この決死の覚悟が、その強さを導いたのかも知れませんが、とにかく、芳賀公頼は龍門山の麓に着くなり打ち寄せ、打ち寄せると同時に攻め上り・・・

思わず、四条隆俊は龍門を捨てて阿瀬川城(あせがわじょう=和歌山県有田郡)へと退き、一転、龍門山の戦いは、北朝幕府軍の勝利となったのでした。

しかも、このタイミングで南朝方には悲しいお知らせが・・・

住吉神社の宮司から、社の庭に立つ楠の木が、風も無いのに神殿に向かって倒れかかるという凶兆が伝えられ、南朝のテンションはだだ下がり・・・

その後、勢いに乗る幕府軍は、楠木正儀&和田正武らが籠っていた龍泉寺城(りゅうせんじじょう=大阪府富田林市・嶽山城)を奇襲して落とすなど、南朝方の諸城を次々と落城させて行きました。

最後まで残った赤坂城(あかさかじょう=大阪府南河内郡千早赤阪村)では、守りを固めようとする楠木正儀と、イケイケの和田正武が対立し、和田正武が単独で、囲む幕府軍に夜襲をかけるも、あえなく敗退し、

やむなく楠木正儀&和田正武らは、ともに金剛山(こんごうざん=奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村)の奥深くに撤退したのでした。

こうして正平十四年・延文四年(1359年)から翌年にかけて展開された足利義詮の南征は終りを告げ、この後、楠木正儀によって秘密裏に和平交渉が行われるものの、失敗に終わり、南北朝の動乱は、まだまだ続く事になります。

★今後の展開は…
 ●【北朝執事の細川清氏が南朝へ…】>>
 ●【新将軍京落での佐々木道誉と楠木正儀】>>
でどうぞm(_ _)m
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2021年10月20日 (水)

南北朝合一の第100代天皇~室町幕府に翻弄された後小松天皇

 

永享五年(1433年)10月20日、 南北朝合一に関与した第100代=後小松天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・

わずか6歳の幹仁(もとひと)親王が、父である後円融(ごえんゆう)天皇の譲位を受けて、北朝第6代後小松(ごこまつ天皇号は後に呼称される物ですが、ややこしいので…)天皇となったのは永徳二年(1382年)の事でした。

ご存知のように、
Nanbokutyoukeizu2cc ともに鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、後醍醐(ごだいご=96代・南朝初代)天皇と袂を分かつ事になった足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都にて室町幕府を開き、持明院統光厳(こうごん=北朝初代)天皇を立てた北朝(8月15日参照>>)に対抗し、大覚寺統の後醍醐天皇が吉野(よしの=奈良県)にて開いたのが南朝(12月21日参照>>)です。

初頭から楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)などの有力武将を失い、さらに延元四年・暦応二年(1339年)には後醍醐天皇さえも崩御される(8月16日参照>>)危機を迎えながらも踏ん張る南朝(12月7日参照>>)と、

一方で、概ね優位に戦いを進めながらも観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>)など、内部分裂激しい北朝・・・

しかし、尊氏の孫の足利義満(よしみつ)第3代室町幕府将軍に就任する(12月30日参照>>)応安元年(正平二十三年・1368年)頃からは、南朝方の衰退が目立つようになり、今回の後小松天皇が即位する頃には、和平交渉も開始されるように・・・ただ、幕府に対して強硬路線をとる南朝の長慶(ちょうけい=第98代・南朝3代)天皇との交渉はなかなか進まずにいました。

そんな中、九州にて勢力を保っていた南朝側の懐良(かねよし・かねなが)親王(8月6日参照>>)が弘和三年・永徳三年(1383年)3月に亡くなった事(3月27日参照>>)

また、同年の冬に強硬派の長慶天皇が、弟で和平派の後亀山(ごかめやま=99代・北朝4代)天皇に譲位した事、

さらに元中八年・明徳二年(1391年)の明徳の乱で有力守護の山名氏清(やまなうじきよ)を葬り去った(12月30日参照>>)事、

などを受けた足利義満が、ここで本格的に南北朝の合一に乗り出し、ついに元中九年・明徳三年(1392年)10月、義満から出された

  1. 三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲渡され、それは「御譲国の儀式」にのっとって行われる事
  2. 今後の皇位継承は、旧南北双方より「相代(あいがわり・交代制)」で行う
  3. 旧南朝ゆかりの君臣を経済的に援助するため、旧南朝方に「諸国国衙領(しょこくこくがりょう)を領知(りょうち・土地を領有して支配)させる

の三条件を提示した書状が南朝に送られた後、10月2日に条件を呑んだ後亀山天皇が嵯峨野(さがの=京都市)大覚寺(だいかくじ)に入り、その3日後に、南朝が保持していた三種の神器が後小松天皇の皇居に送られ、ここに50余年に渡る南北朝の時代が終わったのです。

Gokomatutennou700a そう、この南北朝合一の時の天皇が後小松天皇なのですね~なので後小松天皇は北朝第6代であり第100代の天皇でもあるわけです。

ただ、上記の合一への三条件が足利義満から出された事でもわかるように、すでに義満の朝廷への影響はかなり大きかったわけで、この時期は、天皇と言えど後小松天皇は未だ若く、父の後円融上皇が形ばかりの院政を行っていたのが現状でした。

さらに、翌・明徳4年(1393年)に後円融上皇が崩御された事で、足利義満の朝廷への影響が、増して大きくなり、後小松天皇が治天の君(ちてんのきみ=政務の実権を握った天皇)として親政の形をとるものの、結局のところ、実権を握っていたのは義満でした。

翌応永元年(1395年)12月には、義満は、嫡男の足利義持(よしもち)将軍職を譲って隠居しますが、お察しの通り、退くどころか益々実権を握り、同年に従一位太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職)にまで昇進しています。

ちなみに、武家で太政大臣になったのは、あの平清盛(たいらのきよもり)(2月11日参照>>)以来の2人めです。

その翌年に義満は、出家して道義と号しますが、これは仏門に帰依というよりは、武家として征夷大将軍という頂点に達し、朝廷では太政大臣として、これまた頂点に達した義満が、寺社勢力においても頂点を掴もうとした?と考えられていて、仏門に入って隠居というには、ほど遠い物だったと思われます。

おそらく、この頃が義満の最高潮時代・・・なんせ、以前は交易しようと声をかけても、九州の懐良親王を「日本国王良懐」として相手にしてくれなかった(みん=現在の中国)の国王から、応永八年(1401年)には「日本国王源道義」なる返書をもらって(5月13日参照>>)、まさに国王のごとく振舞っていたウキウキ時期でしたから。

また、古くから巷には「百王思想」とか「百王説」などと呼ばれる「皇統が100代続けば断絶し新しい王が生まれる」という考え方があり、ちょうど後小松天皇が100代だった事から、「このまま足利が取って代わるのではないか?」なんて噂が、まことしやかに囁かれていたようなので、

後小松天皇としても、不本意ではあるものの、ここは、その勢いを認めて大人しくして、リベンジのチャンスを伺うしかなかった事でしょう。

しかし、そんな足利義満も 応永十五年(1408年)5月に病死・・・それを受けてか?応永十九年(1412年)8月に後小松天皇は第1皇子の称光(しょうこう=101代)天皇に譲位して、自身は上皇となり院政を開始します。

さぁ、ここからいよいよ・・・と言いたいところですが、お察しの通り、これは、完全なる約束破り・・・そう上記の合一条件の2番=「今後の皇位継承は、旧南北双方より「相代(あいがわり・交代制)」で行う」はずだったのに、それを無視して自分の息子に譲位しちゃったわけですから。。。

もちろん、これは後小松天皇の独断ではなく、北朝足利側が、はなから守る気無かったって感じですが、残念ながら、これに反発した旧南朝勢力が武将蜂起をしたり、後亀山天皇が吉野へ出奔するなどの事件が起こってしまっています(4月12日参照>>)

しかも、院政を開始したと言っても、しごく微妙な感じ・・・結局は、後小松天皇が親政を行っていた治天の君だったかどうかは、様々な考え方があり、幕府権力との力関係についても、よくわかっていないのが現状です。

なんせ白河(しらかわ=72代)天皇が上皇となって院政を開始して政界に君臨した(11月26日参照>>)あの平安の時代とは、なにもかも違うのですから、おそらくは、その頃のような権力を握れる事は無かったでしょう。

病弱だった称光天皇が崩御し、永享元年(1429年)には後花園(ごはなぞの=103代・伏見宮からの猶子)天皇が即位し、この2代に渡って院政を敷いた後、永享五年(1433年)10月20日に、後小松天皇は57歳で崩御されます。

結局、この後小松天皇以降は、院政も治天の君も、完全なる形だけの物となり、2度と日の目を見る事はない、事実上の終焉を迎えている事を踏まえれば、やはり後小松天皇の実力云々以前に、もはや時代の波に抗う事はできなかった物と思われます。

この次に、幕府に物申す強気な天皇が登場するのは、約400年後・・・江戸も天保の第119代光格(こうかく)天皇まで待たねばならない事になります。

★光格天皇については…
  御所千度参りで幕府に物申す~光格天皇の実力
  ●歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件
のページでどうぞm(_ _)m
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2021年6月10日 (木)

伊賀の局の勇女伝説~吉野拾遺…伊賀局が化物に遭遇

 

正平二年(貞和三年・1347年)6月10日、南朝のある吉野山にて伊賀局が、異形の化物と問答しました。

・・・・・・・・

伊賀局(いがのつぼね)は南北朝時代の人で、新田義貞(にったよしさだ)(11月19日参照>>)の家臣として活躍して新田四天王の一人とされた篠塚重広(しのづかしげひろ)の娘です。

本名は不明で、父の篠塚重広が伊賀守(いがのかみ)だった事から、彼女は伊賀局と呼ばれるようになったようで、あの足利尊氏(あしかがたかうじ)に対抗して吉野(よしの=奈良県)南朝を開いた後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)(12月21日参照>>)女院(にょいん=皇后並みの位)である阿野廉子(あのれんし)に仕える女官でした。

皇后様に仕える女官・・・と聞けば、つい、うるわし黒髪におしとやかな風貌を想像してしまいますが、実は彼女には怪力伝説あり・・・

後に、この吉野が北朝の高師直(こうのもろなお)に攻められた際、時の(後村上天皇)や内院らともども女房らが賀名生(あのう=奈良県南部)へ避難しようと逃げる中、途中にあったはずの吉野川に架かる橋が流されてしまっていて、
その先へは行けず・・・
しかし、追手は迫る・・・

という状況の中、屈強な従者たちもが困り果てていたのをしり目に、この伊賀局が進み出て、ザッと見渡した中で1番ブットイ松の大木を、スッコーンと、その手でへし折って丸太の橋として皆を渡らせて救ったとされ、「稀代の勇女」とされています。

後に、あの楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)の三男である楠木正儀(まさのり)(12月7日参照>>)に嫁いだとされ、それからは夫婦ともども忠義を尽くした・・・と言いますが、今回は、そんな伊賀局の『吉野拾遺(よしのしゅうい)という説話集に残る不思議なお話=「伊賀局化物ニ遭フ事」の一説を・・・

・‥…━━━☆

 それは正平二年(貞和三年=1347年)春の事・・・

その頃、女院の御所は皇居の西側の山つづきにありましたが、そのあたりに、なにやら化物が出るとの噂になり、人々が騒ぎ始めます。

しかし、未だ、誰も実際に化物を見た者はおらず、あくまで噂・・・

ただ、あまりに人が騒ぐので、内裏(だいり)から腕に覚えのある勇者が何人も来て、蟇目(ひきめ=高い音が響く鏑矢などを射て邪気を払う)などをやってくれて、少し静かになりました。

そんなこんなの6月10日

その日は、ひどく暑い日で、伊賀局は庭に出て涼みながら、さし出て来る月を眺めておりました。

伊賀局は、思わず、
♪すずしさを まつ吹く風に わすられて
 袂にやどす 夜半の月影 ♪
「涼しさ求めて待ってると松の木立の方から風が吹いて来て、昼間の暑さも忘れられるわ~って思てたら、夜半の月が、スーッと私の着物の袂を美しく照らしてくれるやないの~」
と、誰聞くともない歌を口ずさみながら、まったりとした気分に浸ってると、

松のこずえの方から、何やら干からびたような声で、古い歌が聞こえてきます。

♪ただよく心しずかなれば すなはち身もすずし♪

これは、
古く(とう=618年~907年の中国)の時代の詩人=白居易(はくきょい)が詠んだ詩、
不是禅房無熱到(是れ禅房に熱の到ることなきあらず)
但能心静即身涼(但だよく心静かなれば即ち身も涼し)
「いくら熱い部屋にいても
 心を静めたなら何の事は無い(その身は涼しい)

という歌の下の句の部分でした。

Iganotubone600a ふと見上げると、そこには、顔は鬼のようで、背中に翼が生え、その眼が月よりもらんらんと輝く、どんな猛き武将もが大声を出して逃げ出しそうな化物?妖怪?が立っていたのです。

しかし、さすがは勇女・伊賀局・・・少しも騒がず、むしろ、にっこり笑って

「ホンマにそうですね~言わはる通りですわ」
と、一旦ノッておいてからの~
「…って、そんな事どうでもえぇねん!
いったい君、誰やねん!
不審なヤツやな、名を名乗らんかい!」
と、華麗なるノリツッコミ。

すると、その者は、
「いや、僕ね、藤原基遠(ふじわらのもととお=基任)言いますねんけど…」
と身の上を話はじめます。

「かつて、僕は女院(阿野廉子)のために、この命捧げて戦いましてん。
せやのに、女院は、いっこうに菩提を弔ってくれはりません。
しかも、生前、罪深かったせいか、こんな姿になってしもて、ますます苦しんでるんです。

さすがに、ちょっと言うたろかいな~…って思て、この春頃から裏山でチョイチョイ、
出たり~入ったり~ってウロウロしてましてんけど、
さすがに、女院の御前に出るんはおそれ多くて…

この事、お前はんから、伝えといてもらわれへんやろか?」

「あ…、その話、聞いた事ありますわ。
けど、恨んだらあきませんで。
知っての通り、世は乱れまくりで、ここも安住の地やありませんねん。
女院も、せなあかん~せなあかん~と思いながらも延び延びになってしもてはったんとちゃいますか?

とは言え、あんたも苦しんではるんやったら、早々にお伝えしときますわ。

ところで、もし弔うんやったら、どんなプランがよろしいの?
どの宗派でも、ご相談に応じますよ」

伊賀局の対応に、その者も納得してくれたようで、
「それなら、法華経でよろしゅー
ほな、ぼちぼち帰らしてもらいまっさ」
と・・・

「えっ?帰るて言うても…どこへ帰らはるん?」
と局が聞くと

「露と消えにし野原にこそ 亡き魂はうかれ候へ」
(はかなく散った野原でこそ、浮かばれるっちゅーもんでっせ)
と言って、北の方角へ、まばゆい光を放ちながら飛んでいきました。

それを、ゆっくりと見送った伊賀局・・・

その後、女院のもとへ行き、その事を話すと
「いや、ホンマやわ~すっかり忘れてしもてたわ」
(↑こないだまで「太平記」の再放送を見ていたせいで原田美枝子さんで再生されてまう)

と、女院・・・早速、翌日、吉水法印(きっすいほういん=吉野金峯山寺の僧坊)に命じ、お堂で21日間に及ぶ法華経の読誦にて供養しました。

その後は、不思議な事は一切起こらず、かの者も、これにて成仏したようです。

・‥…━━━☆

…って、伊賀局って、どんだけ強いねん!勇女過ぎる!

今回は怖い話なので、真夏の夜の怪談話っぽく、オドロオドロしい感じで書こうと思っていたのに、あまりの女傑ぶりにコントのようになってしまい、ぜんぜん怖い話じゃなくなってしまいました~まことに申し訳ない。

それでは、最後に、
伊賀局さんの松の大木を引っこ抜く勇姿をご覧あれ!
Iganotubonec
松の大木を抜く伊賀局(『古今英雄技能伝』より)
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2020年10月28日 (水)

応仁の乱の余波?ギスギスMAX住民の宇治三室戸の合戦

 

文明十一年(1479年)10月28日、かねてより対立していた宇治の住民が三室戸を襲撃しました。

・・・・・・・・・

室町幕府第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者争いや、管領家(かんれいけ=将軍補佐役の家系)斯波(しば)畠山(はたけやま)の後継者争いに、時の有力者である細川勝元(ほそかわかつもと=東軍)山名宗全(やまなそうぜん=西軍)の権力争いが絡んで、その下にいる全国それぞれの武将を真っ二つにして争われた応仁の乱(おうにんのらん)・・・

Ouninnoransoukanzu2 応仁元年(1467年)5月20日に始まった大乱は、最初こそ激しかったものの(5月28日参照>>)、同年10月の相国寺(しょうこくじ=京都府京都市上京区)の戦い(10月3日参照>>)をピークに、末端の兵士による小競り合い程度のものになっていき、

さらに翌年には、東軍総大将の足利義視(よしみ=義政の弟)が西軍に走る(11月13日参照>>)などしてグダグダになる中、

文明五年(1473年)には、両巨頭だった細川勝元と山名宗全が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事から、そのグダグダ感にも拍車がかかり、

結局、文明六年(1474年)の4月に、双方大将の後継者である細川政元(まさもと=勝元の嫡男)山名政豊(まさとよ=宗全の孫)和睦した事で、約10年に渡る応仁の乱が終結・・・

そして、京都に残っていた武将も徐々に領国へ帰国していく(11月11日参照>>)事になるのですが、

そもそもが、それぞれの武将が抱える家内の後継者争いや権力争いがある中で、乱の勃発によって将軍の名のもとに京都市街に出張して、それぞれが支持する側に立って戦っていた地方の武将たちですので、

例え将軍の後継者が足利義尚(よしひさ=義政の息子)に決まろうが、両大将の細川と山名が和睦しようが、もとからくすぶっていた地元での自身の個人的な勢力争いに決着がついたわけではないので、それぞれの戦いは継続される事になり、

彼らが京都を去って領国に戻る=それは、その戦場も彼らの地元=地方へと広がっていく事になるわけです。
(実際には、上記のグダグダの時点で、すでに地方へと飛び火してますが…)

そんな中、京都近郊の南山城の地でも、応仁の乱の4ヶ月前に、その引き金となった戦い=御霊合戦(1月17日参照>>)の時から後継者争いが勃発していた畠山義就(よしひろ・よしなり=西軍)畠山政長(まさなが=東軍)(←二人は従兄弟同士)の戦いが、応仁の乱が終結しても未だ収まる気配もなく続けられていたのです。
●【乱が終わっても続く畠山の戦い】>>

そうなると、戦場になる土地の住民はたまったもんじゃありません。

武士同志で、どこか遠くで勝手にドンパチやってるなら「勝手にどうぞ」てな物ですが、自分たちの土地が戦場になった場合は、田畑は荒らされるし、家は放火されるし、配下の土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の地侍)はもちろん、農民だって兵士として駆り出されたりもするわけですから、

当然、無関係の住民たちの心も荒み、イライラがつのっていく・・・

そして、
そんな南山城の住民たちのイライラに、一つのキッカケが絡んで大爆発するのです。

それは、将軍職を息子の義尚に譲った先代将軍=足利義政の奥さんの日野富子(ひのとみこ)石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)詣ででした。

文明十一年(1479年)4月17日に日野富子が、石清水八幡宮とともに宇治神明社(うじしんめいしゃ=京都府宇治市宇治琵琶)も参拝する予定となった事で、

早速、宇治一帯で富子を迎える準備が開始されるのですが、その参拝に道筋にあたる羽戸(はと=同宇治市羽戸山)周辺の掃除を三室戸(みむろと=宇治市莵道滋賀谷周辺)の郷民が行った事に、宇治側が文句をつけたのです。

もともと、その境界線を巡ってモメ事が耐えなかった宇治と三室戸・・・

「ここは、俺らの場所や!」
とばかりに宇治側の者が、掃除をしている三室戸の者を追い払い、改めて掃除をし直した事から、三室戸側がブチ切れたのです。

富子の参拝が無事終了した9日後の4月26日、三室戸側の住民が、大挙宇治に押し寄せて、アチコチに放火して回り、この火によって放生院(ほうじょういん=同宇治市宇治東内・橋寺)が炎上します。

もちろん、宇治側の住民も負けてはおらず迎え撃って合戦となり、両方に多くの死者や負傷者を出しました。

武力行使をされた側=つまり被害者側となった宇治の住民は、これを、幕府奉公衆宇治大路(うじおおち)真木島(まきしま)に訴え、さらに両者が幕府に訴えた事で、宇治側は勝訴しますが、それでも収まらない宇治の住民は、

Dscn176131000a 半年後の文明十一年(1479年)10月28日三室戸を襲撃して、観音堂(三室戸寺→)以下、周辺をことごとく焼き払ったのです。

事件はさらに続き・・・
翌文明十二年(1480年)の正月18日、今度は三室戸側の住民が宇治橋を焼き落としてしまいます。

ご存知のように、この宇治という地は、古くから京都から奈良へと向かう奈良街道の要所・・・このため、京都と奈良を結ぶ交通に支障を来してしまい、しばらくは、船で槙島(まきしま)を渡る状況になってしまったのだとか・・・

Uzigawa11200a
宇治橋

この5年後の文明十七年(1485年)には、今回の場所より、もう少し南の地域(現在の京都府相楽郡&同綴喜郡の周辺)で、あの山城の国一揆(やましろのくにいっき)が起こっています。

この山城の国一揆も、その、おおもとは両畠山氏の戦いにウンザリした住民たちの不満から・・・
●【下克上の至り~山城の国一揆】>>
●【山城国一揆の終焉~稲屋妻城の戦い】>>

とは言え、このギスギス感は、まだまだ続くわけで・・・

本来なら、戦いとは無縁の一般住民も、ここは、大いなる平和をもたらしてくれる人が登場するまで、もう少し待たねばなりません。

ま、それが、織田・豊臣・徳川の戦国の三英傑って事になりますが、、、
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2020年10月22日 (木)

応仁の乱~摂津西部…兵庫津の争奪戦

 

文明元年(1469年)10月22日、東軍山名是豊赤松政則に兵庫津を攻撃された大内政弘軍が、敗戦を知って撤退を開始し、兵庫津争奪戦が終結しました。

・・・・・・・・

室町幕府第8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)後継者争いや、幕府管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を継いでいく家系)畠山(はたけやま)氏や斯波(しば)氏の後継者争いに、現事典で幕府を仕切ってる両巨頭細川勝元(ほそかわかつもと=東軍)山名宗全(やまなそうぜん=西軍)勢力争いが加わって、ほぼ全国の武将を巻き込んで応仁元年(1467年)5月に勃発した応仁の乱(おうにんのらん)

応仁元年(1467年)
●1月17日:御霊合戦(畠山の後継者争い)】>>
●5月20日:応仁の乱勃発(東軍が官軍となる)】>>
●5月28日:五月合戦(停戦命令で一旦休憩)】>>
●10月2日:東岩倉の戦い(大内政弘が西軍で参戦)】>>
●10月3日:相国寺の戦い】>>
応仁二年(1468年)
●3月21日:稲荷山攻防戦】>>
●11月3日:足利義視のトンズラ事件】>>

とまぁ、こんな流れですが、、、
Ouninnoransoukanzu2 最初の段階では、将軍の居所である「花の御所」に陣を置いて将軍=義政から「山名追討命令」を得て官軍となった細川勝元の東軍と、そこからわずか500m西に陣を構えた(←なので西陣です)山名宗全の西軍とで、激しい市街戦が展開されるのですが、最も激しい戦いになったとされる10月の相国寺の戦いをピークに、翌年に雑兵を大量投入した稲荷山の攻防戦以降は、徐々に、その雑兵たちによる小競り合いのような戦いばかりになっていきます。

さらに、東軍の総大将を任されていた足利義視(よしみ=義政の弟)伊勢(いせ=三重県)に逃亡したり比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市)に姿を隠したり、果ては西軍に加わったりして、もう何が何だか・・・

で、やがて戦いの中心は、もともと将軍家の後継者争いよりも深刻だった各武家の後継者争いや派閥争いにつながっていき、京都周辺で行われていた戦いは、ここらあたりから徐々に外=地方へと移行していく事になります。

そんな中、文明元年(1469年)に入って、備後(びんご=広島県東部)に下向していた山名是豊(これとよ)が現地の国人(こくじん=その地に根付く武士)郎党を統合させる事に成功し、安芸(あき=広島県西部)の国人である吉川経基(きっかわつねもと)毛利豊元(もうりとよもと=毛利元就の祖父)らを従えて京都に戻って来るとの知らせが・・・

この山名是豊という人は、その名でお察しの通り、西軍大将の山名宗全の息子=次男だったわけですが、後継の問題やら領地の問題やらで、父&兄と対立しており、この応仁の乱では東軍=細川派に属していたのです。

将軍=義政から牙旗(がき=錦の御旗みたいな)を与えられて官軍となっている東軍ですが、先の応仁元年(1467年)の5月に周防(すおう=山口県東南部)長門(ながと=山口県西部)を領する 西国の雄=大内政弘(おおうちまさひろ)西軍として参戦して来てからは少々分が悪い・・・現に、この段階でも摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)あたりでは大内軍が大暴れ中でした。

そこで細川勝元は、上洛する是豊に赤松政則(あかまつまさのり)をつけて兵庫津(ひょうごのつ=神戸港)奪還を命じたのです。

この兵庫津は、おおもとは将軍家の所有で、南側を興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)、北側を東大寺(とうだいじ=同奈良市)が分割所有していたのですが、先の大内政弘参戦の際に、大内軍が兵庫津に上陸して、ここを占拠してしまっていたのです。

ま、当時は国内第一の港ですからね~遠征時の補給路の確保は戦略上の最優先事項です。

で、そんな兵庫津の奪回を命じられた山名是豊は、さらに赤松配下の小寺(こでら)明石(あかし)等を引き連れて、大内配下の問田弘胤(といだひろたね)の守る兵庫津を攻撃したのです。

文明元年(1469年)10月16日に勃発した最初のぶつかり合いでは、「大内手打勝了(『大乗院寺社雑事記』による」=大内側の勝利となりますが、2日後の18日には、数で勝る山名&赤松勢が力推しで攻め立てたうえに放火・・・火の勢い激しい中で問田弘胤が行方不明になってしまったため、大内&問田勢は指揮を失い、やむなく南都(なんと=奈良)方面目指して逃走していくのです。

この16日~18日にかけての戦いは、名のある武将も負傷するなど、かなり激しい戦いだったようで、無関係の一般住民も巻き込まれ、多くの人が犠牲となりました。

中でも、先の市街戦で屋敷を焼かれたために、前年の9月に領国の土佐(とさ=高知県)へと避難した一条教房(いちじょうのりふさ)(9月6日参照>>)の長男=一条政房(まさふさ)は、父のもとに向かうため、この兵庫津にて船を待っていたところを、たまたま乱入して来た山名勢に槍で一突きされて息絶えたのです。

もちろん、この時の政房は武装などしておらず直衣(のうし)狩衣(かりぎぬ)といった公家装束であったとか・・・さすがに、これには天皇以下朝廷も大いに悲しんだようですが、彼を刺した兵士の方も、まさか無関係の人とは知らなかったようで、相手が政房だったと知らされた後は、出家したか?自害したか?とにかく、この後は行方知れずになってしまったようです。

とにもかくにも、この兵庫津での問田勢の敗走の一報を受けて、連動する形で池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を包囲していた大内軍が、文明元年(1469年)10月22日に撤退を開始し、この兵庫津での戦いは終りました。

さらに11月16日に摂津中島(なかじま=大阪府大阪市東淀川区付近)に陣取っていた大内軍を撃破した山名&赤松勢は、その2日後の18日には、細川勝元からの論功行賞によって是豊には兵庫五ヶ荘が、政則には播磨(はりま=兵庫県西南部)備前(びぜん=岡山県東南部)美作(みまさか=岡山県東北部)の守護職が与えられ、ここに兵庫津における戦いは完結となります。

このあと、山名是豊は現在の尼崎市吹田市あたりに展開する大内軍との交戦に突入しますが、敵を一掃するほどには至らず、あまり大きな成果を得られないまま文明二年(1470年)を迎え、今度は備後に突入して来た西軍相手に戦う事になりますが、そのお話は、また、いずれかの日付にて書かせていただきたいと思います。

ちなみに、今回の兵庫津の戦いの後は、これまで兵庫に来ていた(みん=中国)との交易船が(さかい=大阪府堺市)の港に発着するようになるので、おそらくは、かの激戦により、しばらくは兵庫の港が使えないほどヒドイ状態になっていたものと思われます。

もちろん、ご存知のように、応仁の乱自体は、地方へに移行&グダグダ感を増しつつも、これからも続きますしね。
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2020年10月14日 (水)

28年間に渡る享徳の乱~五十子・太田庄の戦い

 

長禄三年(1459年)10月14日、享徳の乱序盤の激戦=太田庄の戦いがありました。

・・・・・・・・

本日ご紹介する太田庄(おおたしょう)の戦いは、享徳三年(1454年)12月から文明十四年(1483年)11月までの28年間という長きに渡って混乱した享徳の乱(きょうとくのらん)という大乱の中での激戦の一つです。

まさに今日明日の長禄三年(1459年)10月14日と15日に太田庄(埼玉県熊谷市)でぶつかったので太田庄の戦いですが、その前後の対峙するこう着状態の期間も含めて五十子(いらこ・いかご=埼玉県本庄市)の戦いとも呼ばれます。

そもそもは、領国が関東でありながら、南北朝の混乱etc.のために京都の室町(むろまち=京都市上京区)にて幕府を開く事になった初代室町幕府将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)が、将軍は京都に滞在せねばならないために、留守になってしまう関東を治めるべく、自身の四男である足利基氏(もとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう)として、関東に派遣した事に始まります。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以来、将軍職は尊氏嫡男(実質は三男)足利義詮(よしあきら=2代将軍)の家系が代々継ぎ、鎌倉公方は基氏の家系が代々継いでいき、鎌倉公方の補佐する関東管領(かんとうかんれい=執事)には上杉(うえすぎ)が代々就く事になったわけですが、徐々に、鎌倉公方は将軍家と対立し、自らの道を歩み始めようとするようになったのです。

その最たる物が、第6代将軍=足利義教(よしのり)VS第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)でした。

…というのも、先々代の第4代将軍=足利義持(よしもち)が、息子の足利義量(よしかず=第5代将軍)に将軍職を譲ったものの、義量は子供がいないまま父より先に死に、その3年後に義持も次期将軍を指名しないまま亡くなってしまった事で、出家したいた義持の弟の中から、次期将軍をくじ引きで選ぶ事に・・・そのくじ引きで選ばれたのが第6代の足利義教だったわけですが、

どうやら持氏は、義持の猶子(ゆうし=養子)だったという話もあり、それなら持氏も「俺(持氏)にも将軍になる権利あるんちゃうん?」てな事からはじまり、不満ムンムンの鎌倉公方=足利持氏と、将軍=足利義教が一触即発の状態となる中、当時の関東管領=上杉憲実(うえすぎのりざね=山内上杉家8代当主)が、血気にはやる持氏を止めようとしたため、持氏は関東管領とも対立するようになります。

で結局、持氏は、その上杉憲実を討とうと軍を起こしたものの、逆に、上杉憲実と幕府によって永享十一年(1439年)2月、自刃に追い込まれてしまったのです「永享の乱」参照>>)

2年後の永享十三年(嘉吉元年=1441年)には、持氏の遺児である春王(しゅんのう・はるおう=持氏の次男)安王(あんのう・やすおう=持氏の三男)を担いだ結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)結城氏朝(ゆうきうじとも)が幕府に対抗しますが、コチラも鎮圧されてしまいます「結城合戦」参照>>)

ところが、そのわずか2ヶ月後・・・招かれた宴会の席にて将軍=義教が、播磨(兵庫県)の守護=赤松満祐(あかまつみつすけ)殺害されるという事件が起こります「嘉吉の乱」参照>>)

将軍職は義教嫡男の足利義勝(よしかつ=第7代)が、わずか9歳で継ぐ事になりますが、鎌倉公方はどうする?

先の永享の乱のゴタゴタで一旦廃止となっていたものの、やはり「関東安定のためには鎌倉公方は必要」との事で、関東武士団の推す亡き持氏の四男=足利成氏(しげうじ)が新たな鎌倉公方となり、関東管領には先の上杉憲実の息子=上杉憲忠(のりただ=山内上杉家9代当主)が就任します。

まぁ、先にゴタゴタあったものの、将軍も代わった事ですし、この時の成氏は未だ10歳に満たない少年でした(永享の乱の時に4歳だったとされる)から、回りの大人から見れば扱いやすく、それでいて血筋は正統な跡継ぎなのですから、関東の武士団がサポートすれば「これでウマく行く」という感じだったのでしょう。

しかし・・・よその子は大きくなるのが早いww

いつしか成氏は、父の仇である上杉家を遠ざけ、アノ時も味方になっていてくれた結城氏や安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)などを重用するようになっていくのです。

やがて、これに不満を持った上杉家の家宰(かさい=江戸時代の家老みたいな役職)長尾景仲(ながおかげかね)太田資清(おおたすけきよ=道心)が、宝徳二年(1450年)、成氏を襲撃するという事件が起こります。

この時は、江の島に避難して無事だった成氏ですが、当然、上杉家との距離は、益々開いていくわけで・・・

そんなこんなの享徳三年(1454年)12月、成氏が自らの御所に上杉憲忠を呼び寄せて騙し討ちする一方で、成氏に味方する里見らが、長尾景仲に代って上杉家の家宰となっていた長尾実景(さねかげ)父子を殺害したのです。

たまたま鎌倉を留守にしていた時に、この事件の報告を受けた長尾景仲は、報復すべく即座に兵を集めます。

一方の上杉憲忠の弟=上杉房顕(ふさあき)も、兄の後を継いで直ちに関東管領に就任し、従兄弟の上杉房定(ふささだ)と合流するとともに、上杉憲忠殺害などの一連の出来事を幕府に報告し、幕府から「成氏討伐」の許可を要請します。

こうして享徳の乱が始まったのです。
ちなみに、義教の後を継いだ7代将軍=義勝は在任わずか8ヶ月で病死してしまったため、嘉吉三年(1443年)に、その弟の足利義政(よしまさ=義教の三男)が第8代将軍に就任しています(当時8歳)。

乱勃発まもなくの頃は、分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)にて長尾景仲率いる上杉軍に大勝利した成氏でしたが、享徳四年(1455年)の4月になって、「成氏討伐」を決定した幕府の命で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)今川範忠(いまがわのりただ)が出陣・・・

勝利の勢いに乗って各地を転戦する成氏の留守を狙って、成氏の本拠=鎌倉に攻撃を仕掛け、ここを占領してしまいます。

このため、鎌倉に戻れなくなった成氏は、やむなく下総(しもうさ=千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県東辺・東京都東辺の隅田川東岸)古河(こが=茨城県西部)に入って古河城(こがじょう=茨城県古河市)を普請し、ここを自らの御所とし、更なる戦いに挑みます。

なので、これより後は、足利成氏は「古河公方(こがくぼう)と呼ばれます。
(↑幕府からの討伐命令が出てる以上、正式な公方ではありません)

こうして成氏が古河を拠点に反撃し始めた事から、上杉家の領国だった上総(かずさ=千葉県中部)や安房も成氏派に占領され、利根川を挟んで東側が古河公方=成氏派、西側が関東管領=上杉派に分断された形となって、戦いは関東各地に広がっていきました。

一方、幕府は、長禄元年(1457年)に、そんな成氏派に対抗するため、上杉持朝(もちとも=扇谷上杉家当主・相模国守護・上杉憲忠の岳父)河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)を、その執事の太田資清(おおたすけきよ)岩付城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市・岩槻城)を、資清の息子=太田道灌(どうかん)には江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築させて(4月8日参照>>)守りを固める一方で、将軍=義政の兄である足利政知(まさとも=義教の次男)に、執事として渋川義鏡(しぶかわよしかね)上杉教朝(のりとも)の二人をつけて、正式な鎌倉公方とするため関東に下向させます。

しかし、すでに混乱状態にある関東で、鎌倉に入れなかった政知らは、やむなく、少し手前の伊豆(いず=伊豆半島)堀越(ほりごえ・ほりこし=静岡県伊豆の国市)に御所を構え、以後、ここを本拠としたので、足利政知は堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれます。
(↑上記の通り、こっちが正式な公方です)

そんなこんなの長禄三年(1459年)の中頃、上杉方が利根川西岸の五十子(いらこ=埼玉県本庄市五十子)に本陣を置いて、一族の主だった者を集結させた事を知った成氏は、その五十子に攻撃を仕掛けるべく出陣します。

かくして長禄三年(1459年)10月14日、両軍は上杉本陣の五十子近くの太田庄でぶつかるのです。

激戦は丸一日続き、この日の戦いで上杉教房(のりふさ=持房の息子)をはじめとする主力武将が討死を遂げ、上杉方の敗戦となりました。

続く15日の朝方には、利根川を渡った上杉軍が海老瀬口(えびせぐち=群馬県邑楽郡板倉町)にて交戦し、夕方には羽継原(はねつぐはら=群馬県館林市)にて戦いましたが、形勢不利な状況は否めず・・・やむなく五十子へと引き返しました。

この戦いで大打撃を受けた上杉方としては「五十子の本陣もヤバイ?」てな雰囲気でしたが、どうやら成氏側も痛手を被ったようで、五十子にやって来ることなく、成氏の古河方もそのまま撤退して行ったので、五十子は上杉が確保・・・

以後、ここを拠点に長期戦に突入していく事になります。

幕府も、将軍=義政の名で関東の武士たちに成氏追討命令を出しますが、すでに関東一円が混乱状態の中、各武将たちにとっては将軍の追討命令よりも、自分に降りかかる目の前の合戦が最優先なわけで、なかなか古河方に決定打を出せないまま・・・

こうして、度々の小競り合いを続けながらも大きな決着がつかぬままの両軍・・・文正元年(1466年)には成氏が五十子の本陣を攻撃する一幕もありながらも、一方の上杉方では総大将とも言うべき上杉房顕が五十子にて急死

それでもにらみ合いと小競り合いが続いておりましたが、文明五年(1473年)になって、山内上杉家の執事職を継げなかった長尾景春(ながおかげはる=長尾景仲の孫)が乱を起こし、
【江古田・沼袋の戦い】>>
【用土原の戦い】>>
そのゴタゴタで景春に攻撃された五十子の本陣はボロボロ・・・解体を余儀なくされます。

もちろん、五十子の本陣はなくなっても、享徳の乱はもうしばらく続くのですが、ご存知のように、この間、都では、あの応仁の乱(おうにんのらん)が勃発(5月20日参照>>)していたわけで・・・

もはや関東も関西も収拾のつかない動乱の戦国へと突入・・・なので享徳の乱は関東における戦国の幕開けとも称されています。

とりあえず、28年に渡る大乱について、サラッと書かせていただきましたが、もう、何が何だか状態ですねww

まぁ、享徳の乱の終焉については、また後日・・・いずれかの日付にて書かせていただきたいと思いますm(_ _)m
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2020年9月17日 (木)

山城の国一揆の終焉~稲屋妻城の戦い

 

明応二年(1493年)9月17日、守護の伊勢貞陸の命を受けた古市澄胤が反対派の籠る稲屋妻城を陥落させ、山城の国一揆を崩壊させました。

・・・・・・・・・

文明十七年(1485年)12月の集会にて決行された山城の国一揆(くにいっき=国人による一揆)は、応仁の乱(5月20日参照>>)が終わっても、守護(しゅご=県知事)の座を巡っての戦いを止めない畠山義就(よしひろ・よしなり)畠山政長(まさなが)(7月19日参照>>)に対し、
① 畠山両軍の山城からの撤退
② 寺社本所領の還付
③ 新しく造った関所の撤廃

の三条件を提示して一揆を起こし、見事一揆を成功させ(くわしくは12月11日参照>>)、畠山両軍が去った南山城の2郡(現在の京都府南部=久世郡・綴喜郡・相楽郡の付近)を、「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆が自治的に管理運営する事になりました。
(国人=在地の領主・地侍)

一揆翌年の文明十八年(1485年)には、幕府が新しい守護として派遣して来た伊勢貞陸(いせさだみち=幕府政所執事伊勢貞宗の息子)を認めず、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)の重臣である安富元家(やすとみもといえ)を守護に推そうとした事もあったとか・・・

なので、最初の頃は、この伊勢貞陸も山城の国一揆と協調関係を結んで、かなり一揆側に譲った感じ守護継承であったようです。

しかし、その雰囲気が一転するのが、明応二年(1493年)4月に細川政元が起こした「明応の政変 (4月22日参照>>)・・・

これは、管領の政元が、第10代将軍=足利義材(あしかがよしき=義稙)を排除して、自らが推す足利義澄(よしずみ=義材の従兄弟)を新将軍に据えたクーデターだったわけですが、これによって幕府や細川家臣団の力関係が変わり、その家臣団内部の対立が、山城の国人たちにも絡んで来たからなのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以前の山城の国一揆のページ(先ほどの12月11日のページ>>)でも、加賀一向一揆が100年続いたのに対し山城の国一揆はあまり続かなかった・・・

それは、加賀一向一揆がもともと一向宗という宗教の下で団結した人が一揆を起こしたのに対し、山城の国一揆は、一揆のために一つになった人たちが起こした一揆だったから・・・

的な事を書かせていただきましたが、その通り、もともと山城の国一揆は一枚岩では無かったのです。

先にも書いたように国人とはその地に根付く地侍・・・末端の半士半農の者もいるとは言え、結局は武士なわけで、そこには同じ山城に住む者という横の関係とともに、それぞれの国人が抱える将軍を頂点とした武士という縦の関係もあったわけです。

上の方のゴタゴタは、当然、下の者たちにも影響を与えるわけで・・・

そんな中、伊勢貞陸は、政元に京都を追われた足利義材らが、再び京都への侵入を企てている事を利用して「それを防ぐため…」と称して、山城全土の直接支配に踏み出し、大和の有力者で畠山に通じていた古市澄胤(ふるいちちょういん)守護代(しゅごだい=副知事)に任命して、一揆以前の支配体制に戻す方向に進めたのです。

これに対して、山城の国一揆は真っ二つに分かれてしまいます。

自治を放棄し、伊勢貞陸の支配下として優位に生き残ろうとする者と、あくまで、それに反対する者・・・

この一部の者の支持を得た伊勢貞陸は、山城守護として入部しようと試みますが、これに反対する者たちが稲屋妻城(いなやづまじょう=京都府相楽郡精華町・稲八妻城とも)に籠り、徹底抗戦の構えを見せたのです。

そこで伊勢貞陸は、解決のあかつきには綴喜(つづき)相楽(そうらく)の2郡を与えるという条件で、古市澄胤に反対する国人衆の討伐を命じます。

明応二年(1493年)9月11日、大和(やまと=奈良県)から山城へと入った古市澄胤は市坂(いちさか=京都府木津川市)に陣取り、協力する郡代(ぐんだい=地方官)井上九郎(いのうえくろう)祝園(ほうその=京都府相楽郡精華町)に陣を置き、菅井(すがい=同相楽郡精華町)には河内誉田(こんだ)の軍勢50人・・・と、稲屋妻城を囲むように兵を配置して攻撃を開始します。

ままたく間に、数百人が籠っていた稲屋妻城の約70名ばかりを討ち取った古市勢は、これと同時に、伊勢排除の張本人であった稲屋妻庄の公文(くもん=荘園の現地管理役人)進藤父子の館を襲撃して父子を逃亡させます。

こうして、11日に始まった攻撃は、明応二年(1493年)9月17日、稲屋妻城にて抵抗していた反対派をことごとく討ち滅ぼし、戦いは伊勢配下の古市勢の勝利となりました。

残っていた反対勢力も、11月頃までには一掃され、ここに山城の国一揆は終りを告げたのです。

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室町幕府行人連署奉書(国立公文書館蔵)明応二年八月三日付け「伊勢貞陸に従うように通達する内容の幕府の文書」

これを最後に、この南山城で自治体制が再構築される事はなく、一揆の態勢は崩壊して伊勢氏の支配下となり、古市澄胤も力をつける事になりますが、一方で、その後、畠山の家臣が勝手に山城に侵入するのを伊勢貞陸が阻止できなかったりした事から、その支配の弱さを見せてしまい、やがて、この山城一帯も戦国の波に呑まれていく事になるのです。

★この後の山城地域関連の合戦
 ●明応八年(1499年)9月宇治木幡の戦い>>
 ●明応八年(1499年)12月京軍の大和侵攻>>
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2020年7月22日 (水)

武田家内紛~武田信縄と油川信恵の市川の戦い~甲斐の戦国

 

明応元年(1492年)7月22日、武田信縄油川信恵による後継者争いの最初の戦いである市川の合戦がありました。

・・・・・・・

今回の市川(いちかわ=山梨県西八代郡)の戦いで戦ったのは、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事みたいな?)である武田(たけだ)氏の第17代当主である武田信縄(たけだのぶつな)と、その弟の油川信恵(あぶらかわのぶよし・のぶさと=武田信恵)

このお兄さんの信縄さんの息子が武田信虎(のぶとら)で、その信虎の息子が武田晴信(はるのぶ)信玄(しんげん)ですので、つまりは、あの武田信玄のお爺ちゃんという事で、ドラマや小説等でよく描かれる、いわゆる戦国時代のチョイと前という感じです(実際にはこのあたりも、すでに荒れ放題の戦国時代ですが…)

そもそも、室町幕府がちゃんと機能していた頃には、各地に政府公認の守護を配置して、彼らにその地を治めさせていたわけですが、やがて、そんな守護たちに、それぞれ後継者を巡る争いが勃発し始め、それらをキッカケに起こったあの応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)で、守護たちが京都にてドンパチ始めると、守護が留守となってた地元では、守護代(しゅごだい=副知事)やら地元の有力武士が力をつけはじめ、やがて、彼らが力づくで守護に取って代わる=下剋上(げこくじょう)の戦国へ突入・・・
(実際にはもっと多くの複雑な要因がありますが、あくまでごくごく簡単に言うとこんな↑感じです)

皆さまご存知のように、
美濃(みの=岐阜県南部)の守護だった土岐(とき)に代って実権を握ったのが斎藤道三(さいとうどうさん=利政)(1月13日参照>>)
守護代の長尾(ながお)が守護の上杉(うえすぎ)を倒し、その後に後継ぎとなった上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)(6月26日参照>>)
さらに、守護の安芸(あき=広島県)武田氏を破り(10月22日参照>>)周防(すおう=山口県)大内(おおうち)を破り(10月1日参照>>)出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまご)(11月28日参照>>)但馬(たじま=兵庫県北部)山名(やまな)(4月7日参照>>)を押さえつつ、西国の雄となった毛利元就(もうりもとなり)
などなど、、、(他にもいっぱい)

そんな中で、数少ない(と言えるかどうかは個人の認識の差がありますが幕府公認の守護で戦国を生き抜いていたのが、信玄さんの甲斐武田です。

河内源氏(かわちげんじ)棟梁(とうりょう)源義光(みなもとのよしみつ=新羅三郎・源義家の弟)を祖に持ち、平安時代から武家だった武田は、あの源平合戦にも源頼朝(みなもとのよりとも)配下として参加して(【富士川の戦い】参照>>)鎌倉時代を駆け抜け、建武の新政にも関わり、南北朝では足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って第10代当主武田信武(のぶたけ)室町幕府政権下での公認の甲斐守護となったわけです。

とは言え、当然の事ながら、その間もその後も、ず~っと順風満帆だったわけではありません。。。てか、むしろ波乱に次ぐ波乱。

それこそ、中央の室町幕府がしっかりしていた頃は何とかなったものの、第6代室町幕府将軍=足利義教(よしのり)の頃に、中央政権に反発して関東で大暴れしていた第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)に対抗した第13代当主武田信満(のぶみつ)が応永二十四年(1417年)の合戦で討死した事から、一時は甲斐国も守護不在の状態となってしまったのです。

その後、持氏が永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)にて鎮圧された後の結城合戦(ゆうきがっせん)(4月16日参照>>)で、信満の息子で第14代当主武田信重(のぶしげ)が功績を挙げた事で何とか再興のキッカケをつかみますが、

上記のような混乱の中では、国内の実権は、有力国人(地元の武士)や守護代の跡部(あとべ)に牛耳られていて、信重息子の第15代当主武田信守(のぶもり)は守護として何もできぬまま早世・・・後を継いだ息子の第16代当主武田信昌(のぶまさ)の代になって、ようやく跡部を排除したものの、一方で、穴山(あなやま)栗原(くりはら)大井(おおい)など有力国人勢力の台頭を許してしまい、領内は乱国状態が続いていました。

そんなこんなの明応元年(1492年)に信昌は、長男の信縄(やっと出て来たw)に家督を譲って隠居しますが、

しかし、その直後・・・
『勝山記』には、
「延徳四壬子 此年六月十一日 甲州乱国ニ成始ル也」
とあり、

『塩山向嶽禅庵小年代記』にも、
「同月十三日国中大乱」
とあり、

どうやら明応元年(1492年=7月に延徳から改元)6月10日を過ぎた頃から、甲斐において乱が発生したらしい・・・

それは、武田の内訌(ないこう=内部の戦い)・・・そう、信昌から家督を譲られた信縄と、その弟の信恵との兄弟争いが勃発したのです。

長男の信縄に家督を譲った後は、万力(まんりき=山梨県山梨市万力)落合館に隠居していた信縄・信恵兄弟の父である信昌が、この兄弟抗争の時には次男の信恵を支援している事から、一説には、先の家督相続は信縄のクーデターであったのでは?との見方もあります。

とにもかくにも、領内が乱れている状態で起こった兄弟争いは、それが激しくなるにつれ、国内の勢力を二分して対立させ、さらに国外の勢力の乱入も許してしまう事になり、これが、甲斐における戦国の幕開けとの見方もあります。

その、兄弟の最初の戦いが、明応元年(1492年)7月22日市川での戦いでした。

詳細な記録は残っていないのですが、信縄方の討死した者の数の記録や、そこに有力氏族の名が多く記載されている事から、かなり激しい戦いの末、今回は信縄方の敗北に終わった事が予想できます。

また、『王代記』には、
「壬子(明応元年)甲州ヘ九月駿河衆乱入
 又兄弟相論
 此年七月廿二日一河(市川)合戦」
と、この市川の戦いと並べて、その2ヶ月後には駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)勢が甲斐に侵攻して来た事が書かれており、内乱に乗じた外部からの圧力もあった事でしょう。

さらに翌明応二年(1493年)には4月8日には塩後(しおご=山梨県甲州市塩山上塩後)にて、11月1日には小松(こまつ=同甲府市小松町)にて合戦が行われ、この頃には勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市)を本拠に父の信昌や国衆の一人である小山田信長(おやまだのぶなが)を味方につけた信恵が信縄勢を抑え込み、有利に展開していたようです。

しかし、翌明応三年(1494年)3月26日の合戦では『勝山記』
「三月十(廿)六日合戦ニハ
 武田彦八郎殿(信恵の事)傷負玉フ
 大蔵大輔(おおくらたいふ=今井信又の事)打死…」
とあり、信縄方が形成逆転し、ここから後は、ほぼ優位に立っていたと思われます。

翌明応四年(1495年)には、伊豆支配を目論む相模(さがみ=神奈川県)北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)甲斐へ侵攻して来ますが、それでも兄弟の抗争は治まらず・・・明応七年(1498年)には明応の大地震が起こり、一旦終息するものの、ほとぼりがさめたら、また再開。

しかも、永正二年(1505年)に、父の信昌が亡くなった事を受けて、両者の敵対はむしろ激しくなる一方・・・永正四年(1507年)に信縄は病死しますが、それでも、信縄の息子である武田信虎(当時は信直)に引き継がれ、この兄弟対決は、まだ続く事に・・・

Takedanobutora500a ところが、この信虎が段違いの強さだった!
(↑さすが、信玄の父ちゃん)

信虎は明応三年(1494年)生まれとされますので、信縄の死で家督を継いだのは、わずか14歳・・・しかも、その前年には母ちゃんも病死してるという不幸続き。

そこで、信縄が死んで若年の信虎が後を継いだ事をチャンスと見た信恵が、翌永正五年(1508年)に挙兵するのですが、信虎はこれを見事返り討ち・・・信恵は討死し、武田宗家は信虎の系統に統一される事になったのです。

その後は、乱れっぱなしだった甲斐の国衆たちとも戦う信虎は、大永二年(1522年)頃には甲斐一国統一を達成・・・さらに、やがては駿河や信濃(しなの=長野県)を見据える大物となっていくわけです(5月14日参照>>)

個々の戦いについては、またいずれ「その日」のページで書かせていただきたい思いますが、戦国屈指の武将として名高い武田信玄の家系は・・・風前の灯だった武田家内の抗争から一転、領国統一を成し遂げたそのお父ちゃんもスゴかったという事をお忘れなく(∩.∩)v
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