2017年7月12日 (水)

応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い

延徳二年(1490年)7月12日、応仁の乱後も続いた畠山氏の主導権争いの中で、大きな衝突となった一乗山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府将軍家の後継者争いに管領家の後継者争いがくっついて、その配下となる全国の大名を巻き込み、全国を東西真っ二つに分ける大乱となった応仁の乱・・・

モメた原因の一つが、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県・三重県の一部)大和(やまと=奈良県)などの重要地の守護(しゅご=現在の県知事)を任されていた畠山氏の後継者争いでした。

Hatakeyamayosinari400 そもそもは、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)だった畠山持国(はたけやまもちくに)が、自らの後継者を弟の畠山持富(もちとみ)に定めていたにもかかわらず、途中で「やっぱ、ヤメた~」と持富を廃して、息子の畠山義就(よしひろ・よしなり)に譲ろうとしたために、持富の家臣や息子の畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が抵抗・・・持国も持富も弥三郎も亡くなった後は、弥三郎の弟である畠山政長(まさなが)が父と兄の遺志を受け継いで、義就との後継者争いを繰り広げる事になったわけです。

ただ、これには、単に持国が後継者決めに優柔不断だったり、家内で両者がウダウダやってたり・・・の畠山家ばかりのせいではなく、そこには、その力があまり大きくならないように守護大名を内部分裂させておきたい将軍家の思惑なんかもあったわけですが・・・。

なんせ、これまで、文安五年(1448年)11月に持国が義就を後継者に指名してから後、
享徳三年(1454年)9月
 =細川勝元の支持を受け弥三郎が上洛
 義就は京都を追われる
同年12月
 =義政の承認を受け義就が家督を継ぐ
 =弥三郎は京都を追われる
康正三年(1457年)7月
 =義就の勝手な出兵に義政激怒で所領没収
長禄三年(1459年)9月
 =弥三郎が死亡で派閥は弟の政長を擁立
長禄四年(1460年)9月
 =義就が朝敵(ちょうてき=国家の敵)
 =政長が畠山の家督を継ぐ
寛正四年(1463年)9月
 =恩赦により義就は赦免
寛正五年(1464年)
 =政長が管領に
文正元年(1466年)
 =義就が挙兵して上洛して義政に謁見
 =政長が管領職を辞めさせられる

とまぁ、このように、武力で以ってどっちかが上洛すれば、相手が退去・・・しかも、それをいちいち幕府=将軍が認めたり、辞めさせたりのくりかえし・・・(10月16日参照>>)

Ouninnoransoukanzucc で、上記のように、管領職を辞めさせられた義政が、名誉挽回とばかりに起こしたのが、応仁の乱勃発(5月20日参照>>)の直接の引き金となる応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)なのです。

勃発後、すぐには、5月の五月合戦(5月28日参照>>)、10月の相国寺の戦い(10月3日参照>>)など、京都市街で大きなぶつかり合いがありましたが、ご存じのように、この応仁の乱・・・
途中から、東西の武将が入れ替わったり、総大将がトンズラしたり(11月13日参照>>)してるうちに、徐々にグダグダ感満載の戦いと化していくわけで・・・

で、東西の大将である細川勝元(ほそかわかつもと)山名宗全(やまなそうぜん=持豊)が、文明五年(1473年)に相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事をキッカケに、8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が息子の足利義尚(あしかがよしひさ=9代)将軍職を譲って正式に隠居した事を受けて、その翌年には、それぞれの大将の息子=細川 政元(ほそかわまさもと)山名政豊(やまなまさとよ)が和睦・・・さらに文明九年(1477年)9月には義就が領国の河内に、11月には、最後までゴネまくっていた大内政弘(おおうちまさひろ)周防(すおい=山口県)にと(11月11日参照>>)・・・それぞれ京都を去って行った事で、やっとこさ応仁の乱は終結となるのです。

しかし、応仁の乱は終わっても、両畠山の抗争は終わりませんでした。

なんせ、上記の経緯の通り、幕府から認められた管領職についているのは義政なので、河内や紀伊など畠山の領国の守護は政長なわけですが、実際に河内の誉田城こんだじょう=大阪府羽曳野市誉田)に入って実権を握っているのは義就なわけで・・・未だに、どっちも譲らないんですから、当然です。

河内が難しいならば・・・と、政長が紀州への侵入を試みるも失敗した文明十四年(1482年)7月の戦闘をキッカケに、再び両畠山氏の戦闘が頻繁に行われるようになります。

戦場になった地では、田畑は荒らされるうえに、配下の者は、土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の地侍)はもちろん、農民に至るまで兵士として駆り出されるわけで・・・この頃、頻繁に戦場となっていた河内や山城の一般人から見れば、「もう、えぇかんげんにしてくれ!」ってなるのも当然で、この文明十四年(1482年)の12月には、歴史教科書でも有名な山城の国一揆(12月11日参照>>)が起こり、住民が話し合いで以って両畠山氏の撤退を要求するという前代未聞の下剋上を成功させています。

それでもまだ、あちらこちらで小競り合いを続ける両者・・・そんなこんなの延徳二年(1490年)7月12日大きな戦闘が起こります。

記録によって記述が様々なのですが、それらを合理的に統合して、現時点では、
あれからずっと、紀伊への侵入を画策しつつも、実現できずに苦労していた政長に、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)周辺の根来衆(ねごろしゅう=根来寺一帯に居住した僧兵集団)が協力を快諾した事から、それを足がかりに、イザ紀州へ攻め込もうと政長勢が駐屯していた一乗山(いちじょうざん=同岩出市)に、義就勢が押し寄せて猛攻撃を仕掛けた・・・という見方がされています。

結果としては、義就側の大敗・・・政長の主力であった根来衆相手に、数百余りが討死にし、その中には高野山の法師も多数含まれていたとされ、かなりの大戦だったと都でも評判になったとの記録が残っています。

また、主だった者の70余りの首が、その後京都に送られて「政長が首実検をした」との記録もある事から、この戦いに政長自身は出陣しておらず、その時は京都にいたものと考えられています。

とにもかくにも、この大敗は義就にとってはかなりの痛手であったようで、義就は翌・延徳二年(1491年)12月に、この世を去ります(内容かぶる部分ありますが…12月12日参照>>)

父の死を受けて息子の畠山義豊(よしとよ=基家)が後を継ぎますが、そこを一気に潰そうと考えたのか?政長は「義豊討伐」を願い出、時の第10代将軍=足利義稙(よしたね:義材・義尹=義政の弟の子)を擁して、根来衆やら紀伊の国衆やらを引き連れて義豊攻撃に向かうのですが・・・

ところが、将軍と元管領(時の管領は細川政元)が留守となったこの間、京都で、どえらい出来事が・・・有名な明応の政変(めいおうのせいへん)です。

これは、時の管領の細川政元が義稙を廃して、自らの意のままになるであろう足利義澄(よしずみ:義遐・義高=義政の兄の子)を第11代将軍に擁立して政権を掌握するという明応二年(1493年)に起こったクーデター・・・

この政変によって、将軍=義稙とそこにつながる政長が率いる軍団は、一夜にして賊軍となってしまったのです。

やむなく、元将軍=義稙は義豊側に投降し、政長は失意のまま自殺(討死にとも)・・・戦場を逃れた政長の息子=畠山尚順(ひさのぶ)は紀州へと身を隠し・・・おかげで、義豊は、政長に奪われたままとなっていた守護職を取り戻す事に成功したのです。

Dscn1713a900 応神天皇陵(誉田御廟山古墳・大阪府羽曳野市誉田)…誉田城は、この天皇陵を利用して構築した城と言われています。

しか~し・・・畠山両者の戦いは、ま~だ終わりません。

逃れた尚順が地元=紀州を味方につけ、勢力を挽回した事から、早くも、政変から約半年後の10月に両者の衝突が起こったのを皮切りに、
明応四年(1495年)、
明応六年(1497年)、
明応八年(1499年)・・・さらに、この明応八年(1499年)1月の戦いで義豊が戦死すると、その息子の畠山義英(はたけやまよしひで)が引き継いで
明応八年(1499年)12月、
翌・明応九年(1500年)・・・と、

とにかく、義豊側が尚順を紀州に追い込めば、ほとぼり冷めた頃に尚順が河内に侵攻・・・それが治まれば、また義豊側が紀州に・・・と、両者の戦いは続いていくのです。

とは言え、両者が、そんなこんなしているうちにも時代はどんどん進んでいくわけで・・・やがて、大和の派遣争い(9月21日参照>>)、政元亡き後の細川家の後継者争い(2月13日参照>>)、両者ともに巻き込まれつつあるうちに、徐々に他の武将たちが力をつけてくる下剋上・・・

結果的には・・・
義就系統は、上記の義英の息子の畠山義堯(よしたか=義宣)が、守護代の木沢長政(きざわながまさ)に裏切られて自刃に追い込まれた(7月17日参照>>)後、そのまた息子の畠山在氏(ありうじ)の時代に、その木沢長政が三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)に敗北した事から、事実上の滅亡となります。

一方の政長系統は、尚順から5代後の畠山高政(たかまさ)の時代に、やはり台頭していた三好(9月28日参照>>)と敵対した関係から、足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛して来た織田信長(おだのぶなが)(10月18日参照>>)に近づき、その子孫たちは織田→豊臣→徳川の流れで生き残り、伝統ある名家を重んじる徳川家康(とくがわいえやす)によって、あの今川家(3月16日参照>>)と同様に、江戸幕府内の高家(こうけ=江戸幕府内で儀式や典礼を担当する役職)として幕末まで続く事になります。

戦国の世で生き残っていくのは大変ですね~
振り返ってみると、この畠山両家は、戦国の幕開けとも言われる応仁の乱から、信長の上洛まで、ずっと戦っていたわけですから・・・
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2016年12月 7日 (水)

南北朝~新将軍京落での佐々木道誉の風流と楠木正儀

正平十六年・康安元年(1361年)12月7日、挽回を計る南朝軍が足利将軍のいる京都に進撃を開始しました。

・・・・・・・・・・

日本に二つの朝廷があった南北朝時代・・・ここまでの経緯のくわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただきたいのですが、とりあえず、かいつまんでお話させていただくと・・・

元弘三年(1333年)に鎌倉幕府を倒して(5月22日参照>>)建武の新政(6月6日参照>>)を行った後醍醐(ごだいご)天皇に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ=高氏)が、京都へと攻め上り(6月30日参照>>)光明(こうみょう)天皇を擁立して(8月15日参照>>)開いた室町幕府・・・こちらが北朝

この尊氏に京都を追われた後醍醐天皇が吉野(奈良)に入って開いたのが南朝(12月22日参照>>)です。

その後、延元三年(歴応元年・1338年)に尊氏が征夷大将軍(8月11日参照>>)となって、続く延元四年・暦応二年(1339年)に後醍醐天皇が崩御される(8月16日参照>>)中で、たび重なる合戦で南朝の中心である
北畠顕家(きたばたけあきいえ)(5月22日参照>>)
新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)
楠木正行(くすのきまさつら=正成の長男)(1月5日参照>>)などが次々と討死した事で、おおむね北朝が有利に駒を進めるも、

北朝は北朝で、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)と呼ばれる内紛に関連して、尊氏の弟=足利直義(ただよし)(10月25日参照>>)や、執事の高師直(こうのもろなお)などを失った(2月26日参照>>)うえ、そのドサクサで、後醍醐天皇の後を継いで第97代天皇となっていた後村上(ごむらかみ)天皇(後醍醐天皇の皇子)が京都を制圧したり(3月24日参照>>)、尊氏の次男=足利直冬(あしかがただふゆ)が抵抗(6月9日参照>>)したり・・・

しかし、その尊氏も正平十三年・延文三年(1358年)に亡くなり(4月30日参照>>)、時代は、その後を継いで第2代室町幕府将軍となった三男の義詮(よしあきら)へと移っていきます。

そんな中で、問題は、父の尊氏時代からの重臣たちの間での勢力争いが、ここに来て目立って来た事・・・将軍を主人と仰ぎながらも、その主人に対抗できるほどの力を持ちつつ、一方で政権の主導権を握る事に躍起になる彼らに対し、29歳の2代目は彼らとどう向き合い、将軍としてどのように自身の地位を確保していくのか・・・目を光らせる事になります。

そんなこんなの正平十五年・延文五年(1360年)、足利政権下で執事の座についていた仁木頼章(にっきよりあきら)追い落とされて没落しますが、その翌年には、その仁木追い落とし作戦の一翼を担っていたであろう管領(かんれい)細川清氏(ほそかわきようじ)謀反の疑いを掛けられて失脚(くわしい経緯は9月23日参照>>)・・・弁明叶わず若狭(わかさ=福井県)へと逃れた清氏は、そのまま南朝へと身を転じたのです。

それから、わずか3ヶ月・・・吉野を訪れた清氏は、
「南朝軍の諸将の協力あれば、1日で都を落として、これまでの苦難を晴らしてみせます!」と宣言したのです。

これを聞いた後村上天皇が、忠臣の誉れ高き楠木正成(くすのきまさしげ)の三男=楠木正儀(まさのり)に、清氏の言葉の実現性を尋ねてみると、
「京都から朝敵(ちょうてき=国家の敵…この場合は北朝の事)を追い出すなんて事は、清氏さんの力借りんでも、僕だけで充分できる簡単な事ですわ…問題は、一旦制圧した京都を、どう維持していくか?ですが、今のこの時点では、維持し続けるのは難しいと思います」
と正儀は答えます。

しかし、「一刻も早く都に帰りたい」と思っていた中で、北朝でもトップクラスの重臣=清氏がコチラに降った事に勢いづく南朝は、軍議の結果、清氏の策を採用する事となり、南朝方の錚々たる面々をズラリ揃えて出陣し、住吉天王寺(すみよし・てんのうじ=大阪府大阪市)に陣所を設けつつ北上し、正平十六年・康安元年(1361年)12月7日都の間近まで進撃しました。

迎え撃つ義詮は、一旦東寺(とうじ=京都市)に進んで陣を置きますが、南朝軍が間近に迫ると、迎撃する事なく、アッサリと陣をたたんで後光厳(ごこうごん)天皇(北朝4代=光明天皇の甥)とともに近江(おうみ=滋賀県)へと逃れます。

こうして、翌12月8日の夕方・・・南朝軍は都へと入り、将軍の御所を焼き払ったのです。

『太平記』によれば・・・
この時、都に入った楠木正儀は、すでにもぬけの殻となった北朝方のとある屋敷に侵入します。

もちろん、上記の将軍御所と同様に、敵方の屋敷として焼き払うべく訪れたわけですが、その屋敷の邸内は、まるで高貴な客人を迎えるが如く、客間や書院には高価な品々が並べられ、書斎には貴重な書物、寝所にはお客様用の緞子(どんす)の夜具が敷かれ、警備員の詰所にはおいしそうな酒の肴とともに、竹筒いっぱに満たされたお酒が・・・

Sasakidouyo600a 実は、このお屋敷は、あのバサラ(婆娑=派手で奇抜な恰好をして傍若無人に振舞う)の中のバサラ大名佐々木道誉(ささきどうよ)(10月12日参照>>)の屋敷だったのです。

戦う事無く都を落ちる事になった道誉は、
「我が屋敷には、この屋敷にふさわしい名将が入るに違いない」
と考え、邸内すべてを見事に美しく飾り付けた後、ここに留まる二人の僧に、
「この屋敷の来客は、どんな者であっても、丁寧にもてなしたってくれよ」
と言い残して去っていたのです。

先の失脚事件の際、おそらくは自らをハメて蹴落としたであろう道誉に怒り心頭の清氏は、
「アホか!敵の屋敷は全部焼いてまえ!」
と息巻きますが、当の正儀は、
「兄さん、メッチャ風流な事しはるやん!かっこえぇ」
と感動しきり・・・

結局、正儀は、清氏の言葉は聞かず、庭の木1本、畳1枚、傷つける事無かったばかりか、逆に、詰所の肴を、より豪華にし、寝所の枕もとには秘蔵の甲冑と太刀を飾った後、再び都を去ったのです。

まもなく、正儀と入れ換わるように都に戻った道誉・・・多くの屋敷が焼かれた中で、自宅が無傷だった道誉は
「ウマイ事やりやがった…ホンマ、ずる賢いやっちゃで」
と囁かれる一方で、結果的に甲冑と太刀を、道誉に譲ってしまった形になった正儀の事を、
「古ダヌキに手玉に取られよったで」
とバカにする者もいたのだとか・・・

いやいや、正儀さんは、ちょっと純粋なだけです~

・・・て、何?
「まもなく、正儀と入れ換わるように都に戻った道誉…」って

そうなんです。
上記の通り、12月8日に京都に入った南朝軍でしたが、わずか半月後の12月26日、やっぱり一戦も交えぬまま京都を退去し、その3日後に再び義詮が将軍として戻って来て、すべてが元通り・・・チャンチャンっとなるのです。

なんじゃそら!

って、思いますが、実は、京都って、攻めるにたやすく、守るに難しい場所なんです。

そう、最初に清氏がやって来て
「1日で落とせます!」
と言った時に、正儀が
「維持し続けるのは難しい」
と言いましたが、正儀さんのおっしゃる通りなんです。
(さすが!正成はんの息子ヽ(´▽`)/)

ご存じのように、京都は山に囲まれた盆地で、都の中心部には高い山が無く、比較的高い山はその外側にあります。

なので、外側を囲まれると非常に弱い・・・先の仁木の没落も清氏の失脚も、都内にいる彼らが、周囲からの攻撃に屈して退散したような物で、ここは一旦、都を放棄してから態勢を立て直し、改めて周囲を囲んで攻撃を仕掛ける方が得策なのです。

もう少し後の時代に登場する剣豪将軍=足利義輝(よしてる)も、何度か都を明け渡しては奪回する日々を送っています(11月27日参照>>)

・・・で、その事を重々承知の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、都全体をお土居で囲って、その守りの弱さを払しょくするわけですが、それは、もう200年ほど後のお話・・・
6月25日【秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床】>>
12月3日【北野天満宮「御土居=もみじ苑の公開」】>>

今回は、その守り難さを知っていたからこそ、義詮は、一旦アッサリと近江へ退去した後、すぐに軍勢を整えて、再び周囲を囲む・・・という策を取り、

一方の南朝も、1度目は清氏の案を採用しながらも、さすがに、このまま維持できない事に気づいて、次は、アッサリと明け渡したというワケです。

この後、細川氏の地元である阿波(あわ=徳島県)に戻って再起を計ろうとする清氏と、今回の一件の縁からか?道誉を通じて北朝に南北朝合一を働きかける正儀の姿がありますが、そのお話は、また別の機会にご紹介させていただきたいと思います。
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2016年10月16日 (日)

畠山義就×政長の応仁の乱前哨戦~高田城の戦い

文正元年(1466年)10月16日、翌年の応仁の乱の口火を切る事になる畠山義就の大和から河内への侵攻での高田城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

今回の主役=畠山義就(はたけやまよしひろ・よしなり)畠山氏は、室町幕府政権下において河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)山城(やましろ=京都府南部)越中(えっちゅう=富山県)大和(やまと=奈良県)の一部などなどの広範囲の守護職を任され、細川(ほそかわ)斯波(しば)とともに、管領職を順番に務める三管領家(さんかんれいけ)の一つとされた名門です。

Hatakeyamayosinari400 ただ・・・実は義就の母親という人がかなり身分が低かった(遊女だったとも)ために、本当に自分の子供かどうか確信が無かった父の畠山持国(もちくに)は、義就がただ一人の実子(かも)であったにも関わらず、はじめ、義就を嫡子と認定せず、社僧として石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)に出す事とし、自らの弟である畠山持富(もちとみ)養子に迎えて後継ぎとしていました。

ところが、その後、12歳になった義就と初めて面会した持国は、やっぱ息子がカワイイ~~」とばかりに(きっと似てたんやな?ww)、文安五年(1448年)、突然、持富を後継者から外して義就を迎え入れ、後を継がせたのです。

「それはモメる要素投入以外の何物でもないやろ!」
とのツッコミ満載な中、予想通り一部の家臣が反発・・・家臣団が義就派VS持富派に分かれるのですが、当の持富が宝徳四年(1452年)に死去したため、嫡子の畠山弥三郎(やさぶろう=政久・義富)持富派の後継者となり、対立はどんどん激化・・・

さらに、そこに、当時の実力者である細川勝元(ほそかわかつもと)やら山名宗全(やまなそうぜん=持豊)やら、大和の国人の筒井(つつい)までが関与して来て、よりややこしくなって来ます。

両者がシーソーゲームを繰り返す中、享徳四年(1455年)に父=持国が死去した事から、第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の許可を得て正式に畠山の家督を継ぐ事になった義就は、筒井氏に対抗する大和の国人=越智家栄(おちいえひで)らの支援を受けた事で勢いを増し、弥三郎一派の追い落としに成功します。

しかし、そのわずか2年後の康正三年(1457年)に起こった大和国内でのゴタゴタに、将軍=義政の許可を得ないまま軍勢を派遣してしまった事が義政の逆鱗に触れ、義就は所領没収となってしまいました。

その一方で、長禄三年(1459年)に弥三郎が亡くなった事を受けて、その弟の畠山政長(まさなが=つまり義就の従兄弟)持富派の代表として争いを引き継いで交戦状態を続ける事になるのですが、その翌年の長禄4年(1460年)、大和竜田(たつた)での義就VS政長が直接対決した戦いで、政長が見事勝利・・・大敗を喫してしまった義就の立場はますます危うくなり、将軍=義政は義就を敵視し、政長に家督を譲るよう命じます。

追われる立場となった義就は、やむなく居城の若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)を捨てて、岳山城(たけやまじょう=大阪府富田林市)から誉田(こんだ)道明寺(どうみょうじ=大阪府藤井寺市)などを転戦するも、徐々に押され、高野山から、最終的に吉野(よしの)へと逃げ込み、しばらくの間引き籠り状態に・・・

その間に、政長は、幕府から畠山の家督を相続する事を許さればかりか、彼を支持し続けてくれていた細川勝元から管領職まで譲られる事になりますが、一方の義就も、ただ吉野へ引き籠っているわけではありませんでした。

義就を支援し続けてくれていた越智家栄のもと、中央政府を窺いつつ、挽回のチャンスを狙っていたのです。

そんなこんなの文正元年(1466年)、前年の恩赦(おんしゃ=刑罰を軽減させる制度)によって、義政から罪を許された義就は、細川勝元に匹敵する大物=山名宗全からの支持を得る事に成功し、上洛を果たすべく吉野を発つのです。

しかし、そこに立ちはだかるのが、筒井順永(つついじゅんえい)をはじめとする政長を支持する大和の国人たち・・・

もちろん、義就の味方は越智家栄ら、こちらも大和の国人たち・・・

両者譲らず、大和国高田(たかだ=大和高田市)の里を東西に横切る横大路(初瀬街道)を挟んで、北に政長方、南に義就方が対峙する中、9月25日、まずは越智勢が高田へと攻め入って集落に火を放ち、戦いの火蓋が切られましたが、大和平野にて実質的な合戦が展開されたのは、文正元年(1466年)10月16日の事でした。

『大乗院寺社雑事記』によると・・・
この日、善戦したのは義就方・・・まずは大和高田城を攻め落とした義就軍が、味方の越智勢の活躍により勝利し、負けた筒井勢を中心とする政長方は、高田城の北に位置する箸尾城(はしおじょう=奈良県北葛城郡広陵町)へと、我先に雪崩をうって逃げ込み、これを追う越智勢が、城を取り囲みつつ、周辺への放火を決行したと言います。

両軍ともに、一軍の将と呼ばれる武将を複数失う大きな戦いであったようですが、その後は籠城戦となり、こう着状態となった11月、大和十市城(とおいちじょう=奈良県橿原市十市町)の城主である十市遠清(とおち・とおいちとおきよ)の仲介により、越智氏&筒井氏が和睦を結び、大和での戦いは一応の落着となりました。

この『大乗院寺社雑事記』はお寺の記録なので、その中で
「これで大和も平和になった~ヽ(´▽`)/」
寺社が大いに喜んだ様子を記していますが・・・

が、しかし、お察しの通り、これは越智&筒井=大和の国人同志の和睦・・・義就と政長の抗争は、まだまだ続き、結局は、彼ら大和の国人も、またまた巻き込まれて行く事になるのですが・・・

しかも、この後、12月に上洛を果たした義就が、翌・応仁元年(1467年)正月に、将軍=義政に謁見するのですが、その時、義就は実力者=山名宗全を伴って義政の前に現れ、その場で宗全が猛プッシュした事から、義政は、義就の畠山氏の相続を認め、逆に政長に屋敷の開け渡しと管領職の辞職を命じたのです。

この先の事を知ってる私たちから見れば
「もう~、またまた争いの種をまくんかい!」
と義政の優柔不断ぶりに激おこプンプン丸ですが・・・

こうして、立場が不利になった政長が、挽回すべく挙兵したのが応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)・・・

これが、全国の武将を東西に分けて10年以上に渡って繰り広げられる大イクサ応仁の乱の始まりとなるのです。
【応仁の乱・勃発!】参照>>
応仁の乱~初戦は激しい五月合戦】参照>>
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2016年6月24日 (金)

嘉吉の乱~万人恐怖のくじ引き将軍・足利義教の憂鬱

嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨の守護・赤松満祐が第6代室町幕府将軍・足利義教を自宅にて騙まし討ちするという・・・世に言う嘉吉の乱がありました。

・・・・・・・・・・・・

以前、『あなたが思う戦国の幕開けは?』というアンケート(2010年7月28日参照>>)をさせていただいた時には、応仁の乱>>が圧倒的1位、続いて北条早雲(ほうじょうそううん)足利=堀越公方を倒しちゃう伊豆討ち入り>>が2位につけ、その2強が他に大差をつけた状態だったわけですが、実は、永享十一年(1439年)に起きる永享(えいきょう)の乱(2月10日参照>>)と、その2年後に起きる今回の嘉吉(かきつ)の乱(以前のページは2009年6月24日参照>>)「戦国の幕開け」と位置づける研究者も多いんです。

つまり、戦国時代は関東から畿内にやって来て全国に広がったと・・・となると、永享の乱に勝利して嘉吉の乱にて暗殺される第6代室町幕府将軍足利義教(あしかがよしのり)は、まさに戦国の幕を開けた男という事になります。

とまぁ、上記でリンクを貼っておる通り、すでにこのブログで1度は書かせていただいている永享の乱と嘉吉の乱ではありますので、その内容は少々かぶり気味になりますが、今回は、その両乱の主役でもある足利義教さんを中心に書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

足利義教は、室町幕府を開いた初代将軍=足利尊氏(たかうじ)(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)の孫で、南北朝合一を果たして幕府を全盛期へと導いたあの足利義満(よしみつ)(12月30日参照>>)の息子です。

とは言え、彼は五男・・・なので、第4代将軍は長兄の足利義持(よしもち)が継ぎ、第5代将軍は、その義持の息子の足利義量(よしかず)が継ぎ・・・と、本来なら、将軍の座が義教に回って来るはずは無かったのです。

Dscn9028a800 なので、完全に将軍候補から外れていた彼は、10歳にして天台宗のお寺=青蓮院(しょうれんいん京都市東山区粟田口)に預けられて義圓(ぎえん=義円)と号し、兄の義持が亡くなるその日まで、僧として修行する毎日を送っていたのです。

なんせ、25歳で天台座主(てんだいざす=本山の延暦寺の住職で末寺を総監する役職)となった後、大僧正(だいそうじょう=僧を統括する最高位)にまで上り詰めていたのですから、もはや将軍職の事なんか頭のスミにも置かず、ドップリシッカリと僧の道を全うするつもりでいた事でしょう。

ところが人生わからない物・・・応永三十五年(1428年)1月に兄の義持が後継者を指名しないで亡くなってしまい、しかもその時には、5代将軍を継いでいた一人息子の義量も、若くして子供をもうけないまま、すでに亡くなってしまっていた=嫡流がいなくなったために、次期将軍を巡って幕府内は大モメにモメるのです。

と言うのも・・・
わずか11歳で将軍職を継いでから、ヤバイ相手には容赦ない鉄槌を下す、かなりハードな戦人生を送りつつ足利家の全盛を築いた3代将軍の義満が、息子の義持がわずか9歳の時に早々と将軍職を譲りながらも、その後も実権は自らが握るというワンマン社長的な政治体制をとっていたおかげで、いつしか義持の中には、父=義満に反発する気持ちが芽生えており、義満が亡くなって後に義持自身が実権を握ってからは、父とは正反対の(将軍の)側近たちと仲良くし、彼らの意見を聞く」という政治体制をとっていたのです。

なので、大抵の事は側近たちが話し合って決めていた・・・だからこそ、義持は、亡くなる時も、自らが次期将軍を指名せず、「君ら(側近)で話合うて決めてぇな」と遺言して逝ったのでした。

こうして、次期将軍は義持の4人の弟たちの中から選ばれる事になり、管領の畠山満家(はたけやまみついえ)をはじめ、斯波義満(しばよしみつ)細川持元(ほそかわもちもと)山名時煕やまなときひろ)畠山満慶(はたけやまみつのり)といった将軍側近メンバーたちが、義持の心を汲んで、未だ将軍が生きている段階から話し合いを始めるのですが、

候補となる4人の兄弟たちは、いずれも大寺院に務める立派な僧侶で、辿って来た経歴もほぼ同じ・・・今回ばかりはいくら話し合っても、いっこうに決まる気配がなく、結局、「話し合っても決められない事は神頼み」って事で、戦勝の神様=石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)にてくじ引きする事に・・・

で、神の御前でくじ引きし、義持の死後に開封された、その結果が義教・・・となったわけですが、この時代のくじ引き、しかも神前でのくじ引きは神託=神様のお告げであって、決してふざけているわけではなく、これでも、立派な将軍決定劇に間違い無かったのです。

とは言え、例え神のお告げであったとしても、前例のないくじ引きに、前例のない還俗(げんぞく=僧侶をやめて一般人に戻る事)からの将軍誕生という、このドタバタ劇は、内外に多大なる影響を与える事になるわけで・・・

こうして、早速、兄の死から2ヶ月後の応永三十五年(1428年)の3月に左馬守に任じられ、将軍の邸宅である室町殿に入った義教ですが(当時の名は義宣=よしのぶ)、2ヶ月後の正長元年(4月に応永から改元)5月に、早くも不穏な動きが・・・

それは、関東にて度々勝手な行動に出ていた鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方とも)足利持氏(あしかがもちうじ)上洛を企てているとの噂

と、ここで、これまでもブログに度々登場している鎌倉公方・・・この鎌倉公方というのは、そもそも室町幕府を開いた初代の足利尊氏が、自らの出身&領地が関東であったにも関わらず、かの後醍醐天皇(ごだいごてんのう)との南北朝問題があった事などから、その幕府を京都で開く事になっために、

留守がちになる関東の領地を、息子の義詮(よしあきら)に治めさせていたのですが、尊氏の死後、その義詮が2代将軍になったために京都へ行き、その弟である基氏(もとうじ)初代鎌倉公方に就任し、以来、その基氏の家系が代々鎌倉公方職を継いでいて、今回の持氏が4代目・・・という事になるのですが、

そう、もはや4代目ともなれば、関東は関東で、独自の道を歩み始めていたわけで・・・

しかも、この持氏は、生前の義持に「猶子(ゆうし=契約上の養子)なりたい」との話を持ち掛けて来た事もあり、「くじ引きするくらいモメるんなら、俺が将軍になるってのもアリじゃね?」的な匂いがプンプン・・・

なんたって、本来なら仏門に入った人は将軍候補から外されるのですから、将軍家の直系がいなくなった今、分家とは言え、仏門に入って無い持氏は候補者の一人なわけで、そこを「くじ引きさせて還俗させて就任させるくらいなら俺が…」って考えるのも無理のないところ・・・

とは言え、この一件に関しては、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲実(うえすぎのりざね)の取りなしで、なんとか事無きを得ました。

しかし、このタイミングで伊勢国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)が南朝勢力の回復を企んで(7月20日参照>>)後亀山天皇(ごかめやまてんのう)(4月12日参照>>)の一派と組み、かの持氏に連絡を取ったりなんぞ・・・

さらに、8月頃から近江(おうみ=滋賀県)で始まっていた土民(農民や都市の庶民)たちの不穏な動きが、9月には京都まで波及して、さらに播磨・丹波・伊勢・大和近畿一帯を巻き込んで大暴れ・・・ご存じ、正長の土一揆(9月18日参照>>)です。

伊勢のゴタゴタには守護の土岐持頼(ときもちより)を、一揆には幕府侍所(さむらいどころ)赤松満祐(あかまつみつすけ)を派遣して鎮圧に当たらせ、何とか事を治める義教・・・

ところが一方で、朝廷からは「こんな前代未聞な誕生っぷりの将軍は見た事無いよって、将軍宣下なんかしたるかい!」と言われ、正式な将軍就任を1年も待たされる事に・・・

Asikagayosinori600_2 とか何とかありながらも、翌・正長二年(1429年)3月には、無事、正式に第6代将軍に就任した義教(実際にはここで義宣から義教に改名)は、しばらくは、何かと側近たちに相談しつつ、その意見を聞きつつ、波風立てぬように、表面上はうまくやって来ていたわけですが、

その後も、周防長門(すおう・ながと=山口県)豊前(ぶぜん=福岡県東部)の三国を治める大内氏と、豊後(ぶんご=大分県)大友筑前(ちくぜん=福岡県西部)少弐(しょうに)連合軍との合戦や内紛に関与せざるを得なくなったかと思えば、比叡山延暦寺の僧が神輿をかざして強訴(ごうそ=力づくの強引な訴え)して暴れるわ・・・

その度に、側近と話し合えば、これまた意見は分かれるわ、そのワリには義教にとっては許し難い事さえも「まぁまぁまぁ」と側近たちによって無理やり鉾を納めさせられるわ、鎌倉公方はチョイチョイ出て来るわ、比叡山の僧はうっとぉおしいわで・・・ここらあたりから、とうとう義教はぶち切れはじめるのです。

永享六年(1434年)2月、義教に待望の男子(後の第7代将軍=義勝)が誕生し、祝賀のために多くの人々が彼の御所につめかけましたが、一方で、その男子を産んだ義教の側室=日野重子(ひのしげこ)の実家である日野家にも多くの人が参賀にやって来たのです。

ところが、なぜか、義教は、その日野家の邸宅前に見張りを立てて、誰が祝いにやって来たのかをチェックさせ、それらの人物=60人余りに所領没収の処分を下したのです。

しかも、その3ヶ月後に、その日野家の当主であった日野義資(よしすけ=重子の兄)強盗に殺害されるという事件が・・・「黒幕は義教?」との噂が流れる中、数日後には、犯人として高倉永藤(たかくらながふじ)という公家が逮捕されますが、一貫して無実を訴える彼をしり目に、罪状は所領没収のうえ硫黄島への島流しに決定してしまいました。

さらに、ここに来て、一旦おとなしくなっていた延暦寺が再び暴れ出すと、以前の時には側近になだめられて、何とか押さえた怒りが、数倍になって爆発・・・義教は、延暦寺の使節として京都に滞在していた3人の僧を捕えて処刑します。

これに激怒した僧徒たちは、翌日、根本中堂に火を放ち、その中で約20人の僧が、抗議の自害をするという事態に・・・

よく、義教の独裁政治っぷりを表す時に『万人恐怖』という言葉が使われますが、これは、この比叡山の一件の事を日記に記した伏見宮貞成(ふしみのもやさだふさ)親王が、日記の中で「万人恐怖す、言う莫(なか)れ」と書き残した事にはじまります。

そんな中、ここらあたりで徐々に側近たちも世代交代して行き、もはや、誰も義教を止められない状態になる中、いよいよ関東の持氏が動き始めます

これまでも何度となく不穏な動きをしながらも、なんとなく事無きを得ていたものの、中央では永享に改元されてからも、なんだかんだと関東では正長を使い続けていたヤル気満々持氏は、永享十年(1438年)、自らの嫡男の元服に当たって、息子を義久(よしひさ)と名乗らせます。

これは、これまでは京都の将軍の一字をもらって名を名乗っていた鎌倉公方(持氏は義持の「持」なのねん)将軍家が受け継ぐ「義」の文字を使った・・・つまり、「俺らも同格やで」と宣言したわけです。

しかも、それに反対した関東管領の上杉憲実を討つべく出陣・・・憲実からの救援要請を受けた京都では、奥州の諸将に上杉の応援をするように命じるとともに、出兵の大義名分となる綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発給する命令文書)を得て軍制を整え、錦の御旗を掲げて官軍として京都を出発・・・さすがに義教自身が京都を離れる事はありませんでしたが、将軍の意を受けた官軍は見事勝利し、持氏を自害に追い込みました永享の乱>>)

ところがその後・・・永享12年(1440年)、将軍の右腕だった一色義貫(いっしきよしつら)若狭(わかさ=福井県南部)武田信栄(たけだのぶひで)に、同じく幕府の重要人物だった土岐持頼は伊勢の国人=長野氏に、それぞれ殺害されるという事件が勃発・・・これまた「義教が黒幕なのでは?」と噂される中、翌年1月には畠山持国(もちくに=満家の息子)が追放され、6月18日には加賀守護の富樫教家(とがしのりいえ)義教の怒りに触れて出奔・・・かくして事件は、その6日後に起きました。

嘉吉元年(1441年)6月24日、病気で欠席の赤松満祐に代わって、息子の赤松教康(のりやす)が、義教はじめ、管領や側近などの大名たちを赤松の宿所に招き、酒宴の席を設けます。

宴席では猿楽が繰り広げられ、ゴキゲンの義教が盃を重ねていく中、その後方にあった障子がいきなり開かれ、そこから数十人の武装した兵が乱入・・・アッと言う間に義教の首を跳ねてしまったのです。

あまりに突然の事だったのか?
一部の側近は奮戦するものの、列席していた大名たちの多くは、将軍の仇を、その場で討とうとのそぶりも見せず、ただただ唖然とする者、慌てて逃げる者ばかり・・・

実は、この宴席に欠席していた赤松満祐の病気は「狂乱」だったとの記録もありまして・・・あまりの義教の暴走っぷりに、満祐は気を病んでしまったのだと・・・

なので、満祐だけでなく、他の大名たちも「処刑や追放の憂き目に遭うのは次は自分か?」と、毎日恐怖におののいていたわけで・・・(だから、将軍の仇を討とうなんて思う者はいなかった?)

そのおかげで、教康たちは、義教の遺骸をその場に放置したまま、首を剣に突き刺して高々と掲げて京都市中を練り歩き、堂々と故郷の播磨(はりま=兵庫県南西部)へと去って行ったのです。

この将軍暗殺劇が嘉吉の乱です。

とは言え、さすがに将軍殺害犯をそのままにして置くわけにはいかず、この後、幕府による討伐軍が派遣され、そこで活躍したのが山名持豊(やまなもちとよ)・・・後に、日本を東西に分けて戦う西陣代表の大大名となる名宗全(そうぜん)(3月18日参照>>)です。

また、義教の死によって、彼と敵対していた一部の人々の罪も許された事から、この後、あの持氏の遺児=足利成氏(あしかがしげうじ)大暴れして、まさに関東は戦国に突入する事となるのですが、そのお話は2012年9月30日のページ>>

に、しても・・・
『万人恐怖』やら『魔将軍』やら『悪御所』やら、

その暴君っぷりで散々に言われる義教さんですが、その生涯を見てみると、なんか最初はイイ人だったような?気が・・・

そもそも、ご本人も将軍になりたかったんですかね?
「俺はくじ引きパス!」てな事は言えなかったんでしょうか?

なんとなく、そのまま僧として過ごしていたら、穏やかに、それでいて凛々しい高僧になられたような気がしてなりませんね。
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2016年6月 9日 (木)

加賀一向一揆の始まり~長享一揆・高尾城の戦い

長享二年(1488年)6月9日、長享一揆=高尾城の戦いで一揆勢が勝利し、富樫政親が死去しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、約100年の長きに渡って本願寺門徒が一帯を支配する事になる加賀一向一揆・・・まさに百姓の持ちたる国」の始まり~という事になるのですが、

そもそもは嘉吉元年(1441年)、赤松満祐(あかまつみつすけ)が将軍・足利義教(よしのり)を暗殺した嘉吉の乱(6月24日参照>>)をキッカケに、加賀の守護大名だった富樫(とがし)が分裂し、やがて起こった応仁元年(1467年)の応仁の乱(5月20日参照>>)で、兄の富樫政(とがしまさちか)東軍細川勝元に、政親の弟の富樫幸千代(こうちよ)西軍山名宗全(そうぜん=持豊)について家督争いを激化させていたわけですが、

この間ず~と、戦いがあれば、軍費を徴収されるし、田畑は荒らされるし、男たちは人夫に駆り出されるしで苦しめられ続けていた領民たちの唯一の救いは仏の教えでした。

ちょうどその頃、京都にて他派からの迫害を受けて北陸へと逃れ、各地を巡っていた蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)が、教えを広めるとともに、部落ごとに、道場をを建て、信者が集まって談合をする事を勧めた事で、その場所は領民たちにとって、信仰の場所でもあり、議会を行う場所でもあり、やがては一致団結し、組織として活動する場となっていくわけですが・・・当然、そこには、100%の農民ばかりではなく、半士半農の地侍たちも多く含まれていたわけで・・・

文明六年(1474年)、その団結を警戒した幸千代が、本願寺門徒を弾圧し始めると、彼らは、幸千代と対立する兄=政親と組んで対抗・・・最初の加賀一向一揆である文明一揆となります(7月26日参照>>)

しかし、この文明一揆で一揆勢を味方につけた政親も、実のところは、この団結力は脅威なわけで・・・結局、政親は、すぐさま一揆衆と結んだ同盟を破棄して、一転、本願寺門徒の弾圧に取りかかったのです。

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富樫と一揆勢との戦いの挿絵…蓮如上人御一代記図絵より部分抜粋(国立国会図書館蔵)

・・襲撃された門徒は散り散りに逃げるしかなく、その多くが越中(えっちゅう=富山県)瑞泉寺(ずいせんじ)へと逃れ、教祖様=蓮如が北陸の拠点としている吉崎御坊(よしざきごぼう=福井県あわら市)に救いを求めます。

しかし、この時に対応に当たった蓮如の側近=下間蓮崇(しもつませんそう)は、あくまで平和解決を考えていた蓮如の思いを伝えず、門徒には徹底抗戦を命令・・・それを受けた門徒たちがますます過激になった事から、翌文明七年(1475年)、蓮如は蓮崇の行動に失望して吉崎を退居(8月21日参照>>)、以後の蓮如は、大坂を拠点にする事に・・・

一方、加賀に逃れて越中に集結しつつあった門徒たちを、文明十二年(1480年)、砺波郡(となみぐん=富山県砺波市)一帯を支配していた石黒光義(いしぐろみつよし)が襲撃します。

ところが、手勢を二手に分けて石黒勢を挟み討ちにした一揆勢は、この戦い=越中一向一揆に見事勝利(2月18日参照>>)・・・この勝利に勢いづいたのが、各地へと逃れ、あるいは隠れるように身を潜めていた加賀の門徒たちでした。

やがて訪れた長享元年(1487年)、近江(滋賀県)にて六角氏との戦い(12月2日参照>>)に苦戦を強いられていた第9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)が、全国の武将に援軍を要請した事を受けて近江へと向った政親の留守を見計らって、再び、活発な動きを見せ始める一揆勢・・・

この一報を聞いて、慌てて戻って来た政親は、一揆勢を抑えるべく、更に弾圧を強化します。

しかし、もはや一揆勢の勢いは止まらないばかりか、ここに来て、その一揆勢を一つにまとめるべく、富樫家の中で、政親と対立していた富樫泰高(とがしやすたか)総大将として担ぎあげたのです。

一方の政親は、自らの居城=高尾城(たかおじょう・たこうじょう=石川県金沢市)に籠城・・・ここは天然の要害となる山の上に造られた大規模な山城でした。

かくして長享二年(1488年)5月・・・南無阿弥陀仏と書かれたむしろ旗を先頭に、12万人とも20万人とも言われる一揆勢が、その高尾城を取り囲んだのです。

政親を守る城兵は、わずかに1万ほど・・・相手が烏合の衆である一揆勢とは言え、この数の差は大きい・・・

この軍勢の差に、もはや将軍の権威も地に落ちたこの時期に、その呼びかけに応じてくれた政親を助けようと、将軍=義尚も援軍を派遣しますが、一揆勢の数の多さに高尾城までたどり着けず・・・

やがて6月に入ると、高尾城内は敗戦ムードに包まれますが、このタイミングで一揆側から総攻撃をチラつかせながらの投稿をうながすと、城内からの離反者が次々と現れ、ますます敗戦の色濃くなりばかり・・・やがて城兵の数も底をつき始めます。

そんなこんなの長享二年(1488年)6月9日、いよいよ一揆勢は城内へと怒涛の如く押し寄せ、山頂へと追い詰められた政親は、そこで討死して果てたとも、自害したとも言われます。

享年34歳。
一方の泰高は齢70の老人で、政親の祖父の弟にあたる人物・・・この戦いの後、この泰高が加賀の守護となるわけですが、もちろん、それは名ばかりで、実際には一揆勢=本願寺門徒や僧、半士半農の国人衆たちが支配する事となります。

蓮如の五男=実如(じつにょ)の言う「百姓の持ちたる国」の誕生です。

この後、加賀一向一揆は、朝倉や上杉との北陸争奪戦をくりかえしながら、
【九頭竜川の戦い】>>
【朝倉宗滴】>>
【上杉謙信の和睦】>>
この地に、日本史上最強の戦国武将がやって来るまでの100年間、加賀一向一揆の支配が続く事となります。

その最強の戦国武将とは、
ご存じ織田信長(おだのぶなが)・・・そのお話は
【金沢御坊・落城】>>
【鳥越城攻防戦】>>
でどうぞ

★一揆の方法や惣村について
 【一味同心・一揆へ行こう】で>>
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2016年1月 6日 (水)

薬師寺貴能ら討死~福岡合戦の終盤

文明十六年(1484年)1月6日、前年より続いていた福岡合戦で、福岡城に籠城していた薬師寺貴能らが討死しました。

・・・・・・・・・

そもそもは、
嘉吉元年(1441年)、一大名である赤松満祐(あかまつみつすけ)が第6代将軍の足利義教(よしのり)を暗殺という暴挙に出た嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)・・・

その乱の時に、将軍家の命で赤松氏を追い込んだ功績にて、一躍武家のトップクラスに躍り出たのが、応仁元年(1467年)に勃発したあの応仁の乱(5月20日参照>>)で西軍を担う山名宗全(そうぜん)だったわけですが、

その後、その宗全と、東軍の主将だった細川勝元(ほそかわかつもと)相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事もあって、やがて応仁の乱は終焉を迎えたものの、そのドサクサで功を挙げたとして、以前の嘉吉の乱で滅亡状態となっていた赤松氏の赤松政則(あかまつまさのり=満祐の甥)播磨備前美作(みまさか=岡山県北東部)を賜って復権します。

「オイオイ、そこは俺のジッチャンが、赤松倒した功績で賜った領地やろがい!」と不満を抱くのは山名政豊(やまなまさとよ=宗全の孫もしくは息子)・・・と、もう一人

衰退を機に赤松を離脱し、自らの力で領地を拡大しつつあった、もと赤松氏の被官(部下=守護に従属する国人領主)で備前玉松城(別名:金川城=岡山県岡山市)城主の松田元成(もとなり)でした。

こうして、共通の敵が赤松となった元成は、山名と水面下で同盟を結び、文明十五年(1483年)9月に挙兵し、続く11月21日より、赤松配下の浦上則国(うらがみのりくに)が守る福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)に向けて攻撃を開始・・・これが福岡合戦と呼ばれる戦いなのですが、その合戦の前半部分は2012年12月13日【会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦】でどうぞ>>

・‥…━━━☆

こうして始まった福岡合戦は、年が明けても未だ終わる事なく続いていましたが、そんな戦いの中でも屈指の激戦だったのが文明十六年(1484年)1月6日の戦いでした。

この日の松田勢からの猛攻撃に、敗北の色が濃くなった状況を見た浦上の城兵たちは、ひとまず福岡城内へと戻る事となりますが、そんな城兵の中の一人が、赤松年寄衆薬師寺貴能(やくしじたかよし)という武将・・・

「よっしゃぁ、ここで俺が命かけて防ぎ止めたる!」
と長刀を取って応戦・・・味方が城内に戻るまで、決死の覚悟で戦う姿勢を見せます。

それを見た薬師寺家臣の弥四郎らが、主君を守るべく取って返して、これまた奮戦・・・山の麓から城壁間近のあたりまでの多勢を、わずかな手勢で追い払います。

そこに松田方の福屋九郎右衛門という剛の者が登場し、激しく圧しましたが、これも何とか討ち倒して防御・・・しかし、防いでも防いでも、その都度、敵方は新手を登場させ、城兵たちは、どんどん追い詰められて行きます。

この状況に、自らの死に場所を見た薬師寺貴能・・・自ら敵中へと飛び込み、壮絶な死を遂げました。

その光景を目にした二人の戦士・・・それは、この合戦の前に、「死ぬ時はいっしょに…」と誓い合っていた額田十郎左衛門(ぬかたじゅうろうざえもん)片岡孫左衛門(かたおかまござえもん)なる二人の武将でした。

実は、この少し前、福岡城内には、一つの情報がもたらされていたのです。

前半部分に書かせていただいている通り、今回の福岡合戦は、直接対決している攻め手=玉松城の松田と、籠城=福岡城の浦上だけの戦いではなく、それぞれ、松田には山名、浦上には赤松、という後ろ盾がいて、それぞれが援軍を送って援助する事になっていたわけですが、その両者が先日、真弓峠(兵庫県朝来市)でぶつかり、赤松側が敗北・・・

福岡城にとって、頼みの綱の赤松政則が姫路に戻ってしまって、「もう援軍は来ない」というのでした。

援軍が来ないとなれば、この籠城戦も時間の問題・・・そこで、薬師寺貴能は友人である額田十郎左衛門と片岡孫左衛門の前で
「もう赤松からの援軍もけぇ~へんし、味方の士気も落ちてるし、この次に大きな戦いがあったら、おそらく負けるやろ。
せやから俺は、その時は先頭で戦って討死しようと思う…死に遅れて生きながらえるのは本意ではないんや」

と宣言していたのです。

もちろん、貴能の宣言を聞いた二人も
「思いは同じだ!」
と宣言し、イザという時は、ともに枕を並べて死のうと決意していたのです。

そして訪れた合戦の日・・・
貴能は、
「すぐに敵の手に渡る首や!最後の対面をしとこ」
と言って、鏡に自らの姿を映し、その前でにっこり笑って身支度を整え、出陣したのだとか・・・

額田十郎左衛門は、未だ若年の一人息子を
「僕といっしょにいてたら、きっと討死しますさかいに…」
岡本筑後守なる武将に息子を預けて戦場へと向かいました。
(なので息子=又三郎は生き残りました)

片岡孫左衛門は、側近に向かって
「俺の首はきっと取られるやろから、コレを目印に遺体を探してくれ」
と、自らの左の二の腕のこよりを2重に結んで出陣しました。

果たして戦後、このこよりを目印に遺体を探し当てた孫左衛門の家臣・・・その傍らには、「ともに死のう」と約束した貴能と十郎左衛門の姿もあった事でしょう。

・‥…━━━☆

こうして、大きな戦いのあった1月6日が過ぎた後、城内では、どうやってこの籠城戦を終わらせるか=開城に向けての話し合いが行われる事になりますが、
「城を枕に、側近たちと刺し違えて死ぬ!」
と主張する則国に対して、
「敵の目前で同志討ちなど、末代までの恥!」
と説得する側近たち・・・

「ならば、皆は逃げたらええ!
俺一人で自刃する!もとからその覚悟や!」

と、今まさに刀に手をかけようとするのを抑え、
「この戦いがすべてでは無いんですから…
世の中には一旦落ちてから、態勢を整えて巻き返した例も少なく無いですから…」

と、とにかく説得に次ぐ説得で、何とか納得した則国は、1月24日の夜半頃に福岡城を脱出して播磨守護代・赤松政秀(あかまつまさひで)高田城(兵庫県上郡町)を目指してに落ち延びました。

かくして、福岡城が陥落・・・約4ヶ月に渡る福岡合戦が終了しました。

と、本日は『常山紀談』『備前軍記』の内容を中心にして書かせていただきましたが、小説やドラマで描かれる戦国時代より以前の、あまり馴染みの無い頃のお話という事でとっつき難い感じがあったかも知れません。

しかし、小説やドラマで、あまり描かれない時代にも、魅力的でカッコイイ武将がいる事を、しみじみと感じる逸話でしたね。

この後、則国を諭したかの側近が言った通り、浦上が巻き返す事になるのですが、そのお話は、また別の機会に・・・m(_ _)m
 .

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2015年8月 6日 (木)

九州における南北朝最大の合戦=筑後川の戦い

正平十四年・延文四年(1359年)8月6日、南朝方の懐良親王を担いだ菊池武光が、北朝方の少弐頼尚らを攻撃した筑後川の戦いがありました。

・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、その後の建武の新政(6月6日参照>>)で溝が入った事をキッカケに、後醍醐(ごだいご)天皇と敵対した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都での市街戦に勝利(6月30日参照>>)して開いた室町幕府北朝と、京都を追われた後醍醐天皇が奈良吉野にて開いた朝廷=南朝(12月21日参照>>)に始まる、ご存じ南北朝時代・・・
(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)

この尊氏が京都を制圧した延元元年・建武三年(1336年)、吉野へと逃げる後醍醐天皇は、自らの皇子たち幾人かを地方へと落ち延びさせましたが、そのうちの一人が、未だ8歳?(←生まれ年に諸説あり)という幼さで征西大将軍(せいせいたいしょうぐん)に任命され、西国へと派遣された懐良(かねよし・かねなが)親王でした。

ちなみに名将=新田義貞(にったよしさだ)の警固を受けて北国へ(10月13日参照>>)と向かった恒良(つねよし・つねなが)親王尊良(たかよし・たかなが)親王(ともに懐良親王の異母兄)は、延元二年・建武四年(1337年)の越前金崎城(かねがさきじょう)の落城(3月9日参照>>)とともに北朝の手に落ちています。

その後の南朝は、それまで陸奥守(むつのかみ)に任じらた義良(のりよし・のりなが)親王(後の後村上天皇=後醍醐天皇の皇子)とともに東北にいた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が、延元三年・建武五年(1338年)に、馳せ参じた大坂で無念の死を遂げ(5月22日参照>>)、その1ヶ月余後には、かの新田義貞も討死(7月2日参照>>)する中、一方の北朝=尊氏は室町幕府初代将軍に就任(8月11日参照>>)・・・

翌延元四年・暦応二年(1339年)には後醍醐天皇も崩御(8月16日参照>>)され、その後、正平三年・貞和四年(1348年)には名将=楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)の遺児=楠木正行(くすのきまさつら)四条畷の戦い(1月5日参照>>)で討死・・・と南朝の主要人物が次々とこの世を去った事もあってか、

北朝は、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>)という内部分裂も乗り越え、さらに八幡合戦(3月24日参照>>)の危機も乗り越え、父=尊氏に反発する足利直冬(あしかがただふゆ)らも抑え(3月13日参照>>)、ここに来てようやく北朝は、ほぼ揺るぎない物となり、すでに息子に将軍職を譲った尊氏も一安心・・・と、心が緩んだのか?正平十三年・延文三年(1358年)4月30日、尊氏はこの世を去ります(4月30日参照>>)

そんな中で、唯一、北朝に対抗できる勢力を維持していたのが、西国へ下った懐良親王だったのです。

やっと出て来た~
ここまで前置き=これまでの経緯ですo(_ _)oペコッ

Kaneyosisinnou600a あの延元元年・建武三年(1336年)、父=後醍醐天皇と分かれて西へと向かい、瀬戸内海の水軍の力を借りながら数年の歳月をかけて九州へとたどりついた懐良親王は、いち時は、自らの南朝と、敵対する北朝勢力・・・

さらに、あの足利直冬の勢力との三つ巴の戦いを繰り広げていました。

もちろん、そこには、中央の彼らをそれぞれに支持する九州のもともとからの地元豪族がいたわけけで・・・

南朝の懐良親王についていたのが菊池武光(きくちたけみつ)で、そこに、室町幕府から鎮西総大将を命じられていた一色範氏(いっしき のりうじ)・・・彼が北朝ですね。

そして、尊氏と敵対して九州に入ってきた足利直冬を指示していたのが少弐頼尚(しょうによりひさ)でしたが、上記の通り、正平八年・文和二年(1353年)に山名時氏(ときうじ)に担がれた(6月4日参照>>)直冬が京都を目指して九州を去っってしまった事から、これをチャンスと見た一色範氏が少弐潰しとばかりに、頼尚に攻撃を仕掛けます。

この時、頼尚が支援を求めたのが菊池武光・・・もともと肥後(ひご=熊本県)を本拠地に九州一円の制覇を夢見ていた武光は、これ幸いと頼尚とともに一色勢を攻撃・・・大宰府(だざいふ)での戦いに勝利し、さらに日向(ひゅうが=宮崎県)畠山に勝利して、豊後(ぶんご=大分県)大友も破って、一色勢を九州から追い出しました。

ところが、ここで少弐頼尚が北朝への突然の寝返り・・・これを受けて正平十四年・延文四年(1359年)7月、菊池武光は懐良親王を頂いて、少弐を討つために進発したのです。

これが「筑後川の戦い」、または「大保原の戦い」、あるいは「大原合戦」、別名を「菊池合戦」と呼ばれる南北朝時代の九州における最大の合戦です。
(呼び方多過ぎひんか?)

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大保原合戦図(国立国会図書館蔵『三井郡史蹟調査委員編『懐良親王と三井郡』より)

筑後川を挟んで南の高良山に親王&菊池、北の鰺坂(あじさか)(福岡県小郡市)に少弐・・・

まさに南北に布陣して両者が対峙する事になりますが、菊池勢は、なかなか渡河できずに攻めあぐねておりました。

しかし7月19日の真夜中、武光自らが5千騎を率いて夜襲を決行・・・川を渡って攻撃を仕掛けようとします。

しかし、これを察知した少弐側は、すかさず、敵が攻撃し難いであろう湿地帯=大保原の沼地に撤退して陣取り、さすがの菊池も、それ以上は、思うように進めません。

しばらくの間、かなり近い距離で睨みあう両者・・・

やがて正平十四年・延文四年(1359年)8月6日夜、菊池武政(たけまさ=武光の息子)率いる先鋒が闇に乗じて、搦め手より少弐勢に夜襲を仕掛けると、まもなく菊池の本隊が正面から鬨(とき)の声を挙げて突入・・・四方八方に暴れまわり、激戦となります。

戦いは数時間続き、少弐側では、頼尚の嫡男=直資(ただすけ)の討死をはじめとする多大な損害を受け、やむなく頼尚は、宝満(ほうまんやま=福岡県太宰府内山)退却しますが、一方の菊池側も被害大きく、懐良親王までが負傷した事もあって、追撃を諦めて、一旦、肥後へと引き揚げました。

追撃しなかったとは言え、今回の合戦自体には勝利した親王&菊池軍は、やがて待望の大宰府入りを果たし、懐良親王の征西府は、九州における全盛期を迎える事になります。

なんせ大宰府に上陸した(みん=中国)の使者が、懐良親王に「日本国王」のお墨付きを与えちゃって、第3代室町幕府将軍となった足利義満(あしかがよしみつ)が大慌てするくらいですから・・・と、そのお話は、懐良親王のご命日=3月27日に書かせていただいた【独立国家・九州南朝で強気外交…懐良親王の野心】のページでどうぞ>>
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2014年12月21日 (日)

応永の乱~大内義弘の最期

 

応永六年(1399年)12月21日、応永の乱で大内義弘が討死しました。

・・・・・・・・・・・・

延元三年・歴応元年(1338年)8月征夷大将軍に任命されて、京都にて室町幕府を開く足利尊氏(あしかがたかうじ)(8月11日参照>>)ですが、ご存じのように、開幕当初は、あの南北朝の動乱に明け暮れる日々・・・
(くわしくは【尊氏と南北朝の年表】でどうぞ>>)

やがて、応安元年(正平二十三年・1368年)に尊氏の孫=足利義満(よしみつ)が第3代将軍に就任する(12月30日参照>>)頃になって、ようやく南北朝は、少し落ち着きを見せ始めますが・・・(実際の南北朝合一は元中九年・明徳三年(1392年)=10月5日参照>>

なんたって、この時、将軍に就任した義満は未だ11歳・・・周囲には、その南北朝動乱で活躍した多くの武将たちがいたために、将軍の権力はまだまだ強固な物ではなく、それを確固たる物にするために、義満は、ある時は相手を攻め、ある時は、彼らを内部分裂で切り崩して行き、将軍権力の絶対化に向けて力を注がねばならなかったのです。

そんな中で、 弘和元年・永徳元年(1381年)に邸宅である『花の御所』を完成させた義満は、明徳元年(元中七年・1390年)には、山名氏清に同族の山名時熙(ときひろ)を攻めさせ(12月23日参照>>)、自らは、美濃(岐阜県)土岐康行(ときやすゆき)を討ち破り、翌年には、その氏清を明徳の乱(12月30日参照>>)で倒し・・・と、自らの直轄部隊を強化するとともに、守護大名の弱体化を図っていくのです。

その頃に、頭角を現して来ていたのが、九州探題(きゅうしゅうたんだい)今川貞世(いまがわさだよ=了俊)と、周防長門(すおう・なごと=山口県)の守護大名であった大内義弘(おおうちよしひろ)でした。

九州探題とは、その名の通り、九州を平定するために幕府から派遣されてる役職ですが、以前、日明貿易関連のページ(5月13日参照>>)で書かせていただいたように、この少し前に九州大宰府に上陸した(みん=中国)の使者が、後醍醐(ごだいご)天皇の第7皇子である懐良(かねよし・かねなが)親王を、日本側の代表者と勘違いして謁見するくらい、九州での室町幕府の影響力は弱かった(3月27日参照>>)わけで、その後も、しばらくは、九州は幕府の掌中には無かったのです。

そこを、将軍の支配下とするために派遣されていたのが貞世で、貞世の援軍として九州平定に活躍したのが義弘です。

義弘の大内氏は、百済(くだら=飛鳥時代に朝鮮半島にあった国)の王を祖先とし、鎌倉の昔よし周防・長門を守護する武家でしたが、義弘の代になって、先の明徳の乱など京都市中での活躍などが評価され、豊前(ぶぜん=福岡県東部と大分県北部)石見(いわみ=島根県西部)、さらに、和泉(いずみ=大阪府南西部)紀伊(和歌山県)といった、中央に近い場所の守護を任されるほどの大大名に出世していたのです。

ところが・・・
そんなこんなの応永二年(1395年)、九州平定に尽力していた今川貞世が突然京都に呼び戻され、これまた突然、九州探題の任を解かれて、、地元の駿河(するが=静岡県)へと帰還するという出来事が・・・

代わって、新たな九州探題として渋川満頼(しぶかわみつより)が派遣されますが、地元の少弐(しょうに)菊池相手になかなかの苦戦・・・この時、すでに応永元年(1394年)に将軍職を嫡男の義持(よしもち)に譲っていた義満でしたが、この事態を打開すべく、義弘に九州入国を命じたのです。

応永五年(1398年)、大軍を率いて九州に入った義弘・・・その援軍のおかげで、何とか形勢を挽回する幕府軍でしたが、そんな中で、義弘は、とんでも無い噂を耳にします。

「義満が、少弐氏や菊池氏に対して『大内討伐』の密命を下した」と言うのです。

結局、その噂は単なる噂だったようなのですが、1度抱いた疑念が義弘の心から消える事は無かったのです。

なぜなら、この九州での戦いで、義弘は弟の満弘(みつひろ)を失いましたが、それに対する義満からの言葉かけもないばかりか、別ルートで「和泉と紀伊の領地を召し上げるらしい」との噂の流れており、何たって、先年の今川貞世への仕打ちを目の当たりにしています。

「大きくなり過ぎた大内に対して、そろそろ何か仕掛けて来るかも知れない・・・」
徐々に徐々に、義弘のその思いは膨らんでいったのです。

かくして応永六年(1399年)10月13日、軍を率いて周防を出立した義弘は、領地である和泉の(大阪府堺市)にやって来て、京都を見据える形で、この地に陣を敷きます。

「上洛して義満に謁見する」との噂も流れましたが、結局、義弘自身は上洛せず、京都には使者を派遣しただけ・・・逆に、義満側には、「大内が堺にて兵を集めている」という噂が流れ始めます。

Zekkaityuusin500 そうなると、義満も黙っているわけにはいかず・・・お抱え禅僧の絶海中津(ぜっかいちゅうしん)を、使者として義弘のもとへ派遣し、上洛して速やかに義満に面会するよう求めました。

しかし、中津に面会した義弘は、その思いを切々と語り始めるのです。

「俺の、上様への篤い思いは今も変わりません。
せやからこそ、明徳の乱の時も、今回の九州での戦いも、南北朝合一の時も、俺ら、精一杯頑張って来ましてん。
せやけど、ここのところの上様のなさりようには、ホンマ、合点がいきませんのや。
敵方に‘大内を討て’て言わはったとか、‘領地を召し上げる’て言わはったとかの話聞くし、なんて言うても、ウチの弟が討死した事に対し、感謝の言葉一つくれはれへんていうのは、どーゆーこっちゃ?って思てますねん」

その不満を聞いた中津は、「それは誤解や」「そては行き違いや」と丁寧に弁解し、
「その疑念を解くためにも、上洛して将軍様に会うてくれへんやろか?」
と説得しましたが、もはや、義弘の決意は揺るがなかったのです。

実は、義弘は、すでに鎌倉公方足利満兼(あしかがみつかね=第3代鎌倉公方)と、
「ともに挙兵して幕府の御政道を正そう!」
との約束を交わしていたのです。

「いずれ、鎌倉殿とともに上洛します」
これが、義弘の答えでした。

そうなると、道はただ一つ・・・義満は、各地の大名に軍勢を整えて京に上るよう指令を発しました。

11月8日、東寺に陣を構えた義満のもとに馳せ参じた細川(ほそかわ)赤松(あかまつ)の軍勢が(京都市伏見区)山崎(京都府向日市)を通って和泉へと発進・・・さらに、駆け付けた畠山(はたけやま)斯波(しば)の軍勢も八幡(京都府八幡市)に集結し、時をうかがいます。

迎え撃つ義弘は、5000余りの軍勢で堺城に籠りますが、その堺城を幕府軍が取り囲むようになった11月下旬には、幕府の大軍は30000ほどに膨れ上がっていました。

とは言え、数の違いのワリには籠城&出撃を巧みにくりかえし、激戦を交わしながらも耐え抜く義弘・・・しかし、応永六年(1399年)12月21日早朝、いよいよ、幕府軍が総攻撃を開始します。

その日はおりからの強風・・・その風に乗じて、城内に火を放った幕府軍は、一気に城内へ攻め寄せます。

やがて主だった者が次々と討死し、その敗戦の色に内応者も出る中、最期の時を悟った義弘は、自刃ではなく、戦って死ぬ事を選びます。

自ら進み出て奮戦する義弘・・・一人減り二人減り、やがて、気付けば最後の一人・・・

自分を取り囲む敵兵に対して、義弘は高らかに・・・
「我は、天下無双の将・大内義弘である!この首取って、将軍に見せるがええ!」
と、言い放ち、その言葉を最後に、見事に討ち取られたと言います。

主君を失った大内勢は、その場で自刃する者、落ちる者、様々でしたが、ほどなく堺城は落城し、世に言う応永の乱が終結しました。

戦後、義満は、他の領地は召し上げたものの、周防・長門の守護職は安堵し、大内氏の名跡は、義弘の弟の大内弘茂(おおうちひろしげ)が継ぐ事になりました。

やはり、義満の心の内は「大内滅亡」ではなく、あくまで、その力を弱める事であったようです。

全滅こそ免れたものの、中央からは遠い、周防・長門に押し込められてしまった大内氏ですが、この後、応仁の乱でも、戦国でも、大いに活躍する名家として登場する事は、皆さま、ご存じの通りです。
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2014年9月23日 (火)

南北朝動乱~北朝執事の細川清氏が南朝へ…

 

正平十六年・康安元年(1361年)9月23日、 将軍・足利義詮からの討伐命令が下った事を知った細川清氏が若狭へと退去しました。

・・・・・・・・・・

ただでさえややこしい南北朝の動乱が、終盤に近づく頃の出来事・・・

くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただくとして・・・とりあえずは、元弘三年(1333年)に鎌倉幕府を倒して(5月22日参照>>)建武の新政(6月6日参照>>)を行った後醍醐(ごだいご)天皇に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ=高氏)が、京都へと攻め上り(6月30日参照>>)光明(こうみょう)天皇を擁立して(8月15日参照>>)開いた室町幕府・・・これが北朝と呼ばれます。

一方、この尊氏に京都を追われた後醍醐天皇が吉野(奈良)に入って開いたのが南朝(12月22日参照>>)・・・で、日本に、この二つの朝廷があった約60年ほどに渡る動乱が、一般的に南北朝の動乱と呼ばれている時代です。(時代区分は室町時代)

延元三年(歴応元年・1338年)には尊氏が征夷大将軍の座につき(8月11日参照>>)、続く延元四年・暦応二年(1339年)に後醍醐天皇が崩御する(8月16日参照>>)中、その間の南朝方との戦いを優位に進めていた尊氏でしたが、
北畠顕家(きたばたけあきいえ)討死(5月22日参照>>)
新田義貞(にったよしさだ)討死(7月2日参照>>)
楠木正行(くすのきまさつら)敗死(1月5日参照>>)など

一方では、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)と呼ばれる内紛に関連して、尊氏の右腕となって政務をこなしていた弟の足利直義(ただよし)(10月25日参照>>)や、苦楽をともにした執事の高師直(こうのもろなお)などを失い(2月26日参照>>)、そのドサクサで、後醍醐天皇の後を継いで第97代天皇となっていた後村上(ごむらかみ)天皇(後醍醐天皇の皇子)八幡(やわた=京都府)合戦(3月24日参照>>)で京都を制圧されたり、南朝に、尊氏と不仲だった次男の足利直冬(あしかがただふゆ)を担かれて抵抗されたり(6月9日参照>>)、というアブナイ場面もありました。

やがて正平十三年・延文三年(1358年)、その尊氏の死(4月30日参照>>)を以って、南北朝の動乱は新たなる展開を見せて行く事になるのですが・・・

その尊氏の後を継いで第2代室町幕府将軍となっていたのは、三男の義詮(よしあきら)・・・彼は、未だ千寿王(せんじゅおう)と呼ばれていた幼き頃から関東における足利の主(尊氏の名代)と認識されていて(5月21日参照>>)、その中で様々な経験を重ねつつ成長し、20歳の頃には、京都にて父のサポート役として政務をこなし、今や29歳の働き盛り・・・

後継ぎとして、義詮自身には問題は無かったのですが、問題だったのは、彼の周囲にいた重臣たちです。

それこそ彼ら重臣たちは、尊氏が反旗をひるがえした時代から支えて来た大物たちですから、そんな彼らとどう向き合い、2代目将軍としてどのように自身の地位を確保していくのか・・・

そう、若き将軍を旗印に掲げながらも、その下で働く、彼ら大物たちの間で、政権内の争いが勃発しはじめるのです。

もちろん、この間にも南朝勢力との戦いは続いていたわけですし・・・

・・・で、それまで執事職についていたのは、先の直冬との戦い=東寺合戦(京軍=きょういくさ)(3月13日参照>>)でも活躍した足利一問の仁木頼章(にっきよりあきら)でしたが、その仁木に反対する武将たちが結託して、南朝との合戦のウラで仁木の追い落としをたくらむ動きが出始めます

正平十五年・延文五年(1360年)、南朝への攻撃と見せかけて反仁木派が蜂起した事を受けて、仁木は京都を退去し、伊勢へと逃れ抵抗を続けるも撃退され、これにて仁木は没落の一途をたどる事になります。

『太平記』では、畠山道誓(はたけやまどうせい)の屋敷にて細川清氏(ほそかわきようじ)佐々木道誉(ささきどうよ)らを招いて酒宴・茶会を催した際に、打倒仁木の作戦を練ったとされていますが、結局のところは首謀者のわかぬままに決行された仁木追い落とし作戦の結果、その後に政権を担うようになったのが管領で執事でもあった細川清氏でした。

さぁ、これから順調に義詮と清氏の政権が・・・と、思いきや、今度は、それまでは円満だった義詮と清氏の関係が、例の仁木追い落とし作戦がかなり強引だった事もあり、しだいにお互いが離れていくようになってしまいます。

この一件も、一説には道誉の策略により、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)に清氏が収めた願文に「天下を執る」の一文を発見した伊勢貞継(いせさだつぐ)が、其の事を将軍=義詮に伝え、義詮が清氏に疑心を抱いたという道誉首謀説もあるようですが、

一方では、今川貞世(いまがわさだよ=了俊)著した『難太平記』には、今川範国(のりくに)を密かに召し出した義詮が「君んトコの息子(貞世の事)は清氏と親しいから、ちょっと京都に呼び出してヤッちゃってくれへんか?」と言ったなんて、将軍主導な話も書かれています。

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京都・嵐山にある天龍寺…天龍寺への行き方は、本家HP:京都歴史散歩の「竹林の里・嵯峨野&嵐山」でどうぞ>>

と、またもや首謀者のわからぬ一件ですが、とにもかくにも、その時、「武装した300騎の軍隊を引き連れた清氏が天龍寺を参拝した」との情報を聞いて、清氏の謀反を確信した義詮は、正平十六年・康安元年(1361年)9月23日後光厳(ごこうごん)天皇とともに京都を出て新熊野(いまくまの=今熊野・京都市東山区)に籠って、清氏の討伐を諸将に命じたのです。

急を察した清氏が義詮に対して(謀反の)身に覚えが無いです」と釈明するも義詮は聞き入れず・・・やむなく清氏は、血気にはやる家来たちをなだめて、領国の若狭(わかさ=福井県南部)へと退去したのでした。

若狭に入ってからは、頓宮四郎左衛門(とんぐうしろうざえもん)小浜城(福井県小浜市)に落ち着いた清氏らでしたが、そこへ「北陸道より幕府の討伐軍が進軍して来ている」との知らせが届き、清氏は自ら出陣して敵を迎え撃つ事にします

しかし、彼らが小浜城を後にした後、未だ勝敗が決していなにも関わらず、留守を守るはずだった四郎左衛門が幕府側へと通じ、敵を城内に入れてしまいます。

武勇の誉れ高き清氏も、さすがにこれでは万事休す・・・前後を挟まれたうえ、帰る場所もなくなってしまい、やむなく、清氏たちは右に左に、バラバラになって落ちていきました。

こうして、わずか2騎となった清氏・・・しかし、今度はその数の少なさを活かして、密かに京都へと舞い戻り、以前、南朝へと降った旧友の石堂頼房(いしどうよりふさ)を通じて南朝への降伏を打診・・・

間もなく、後村上天皇の綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発給された文書)が下り、晴れて南朝軍の一員となった清氏のもとには加勢する味方も集まり、南朝軍の士気も高まり・・・

そして、この3ヶ月後には、清氏自ら「1日で京都を攻略してみせまっせ!」といきまいて、北朝と一戦交える事になるのですが・・・そのお話は、南朝軍が京を制圧した12月7日【南北朝~新将軍京落での佐々木道誉の風流と楠木正儀】でどうぞ>>m(_ _)m
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2014年3月13日 (木)

南北朝・東寺合戦(京軍)の終結

 

正平十年・文和四年(1355年)3月13日、南北朝の動乱の東寺合戦にて幕府軍に補給路を断たれた足利直冬が、全軍に撤退命令を発しました。

・・・・・・・・

後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都に開いた室町幕府=北朝(8月15日参照>>)と、その後醍醐天皇が、逃れた吉野にて開いた南朝(12月21日参照>>)・・・と、こうして始まった南北朝の動乱ですが、

これまでの経緯は【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただくとして、本日は、2月4日に書かせていただいた神南(こうなん)合戦(2月4日参照>>)の続きのお話です。

・‥…━━━☆

父・尊氏と不仲であった次男の足利直冬(あしかがただふゆ)を担いだ南朝側の山名時氏(やまなときうじ)師氏(もろうじ)父子は、後醍醐天皇の皇子=後村上(ごむらかみ)天皇からの「尊氏&義詮追討」の勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)を得た(6月9日参照>>)うえに、ここに来て、あの新田義貞を討ち取った(7月21日参照>>)越前(福井県)守護の斯波高経(しばたかつね)という強い味方も加わった事で、意気揚々を京へと攻め上り、正平十年・文和四年(1355年)2月4日に山崎の西=神南(こうなん=高槻市神南)にて激戦となりますが、惜しくも敗れ、全軍撤退となりました。

神南合戦にて「幕府軍勝利!」の知らせを聞いた尊氏ですが、勝ったとは言え、未だ京都を制圧しているのは、東寺に陣取る南朝軍・・・・なので、自らは、比叡山を降りて東山に陣を構え、仁木頼章(にっきよりあきら)嵐山に配置したほか、西山山崎などに、それぞれ諸将を配置・・・

そう、現時点では、京都市街から南は八幡(京都府八幡市)あたりまでを制圧している南朝軍を囲むように自軍を配置したのです。

さらに、次なる市街戦を想定して、撃って出て来る敵が見渡しやすいように、戦場区域となる場所にある神社仏閣を破壊して民家を焼き払いました。

Hosokawakiyouzi こうして準備万端整えた2月8日(と言っても先の神南から4日後ですが…)、尊氏の息子=義詮(よしあきら=後の2代将軍)についていた細川清氏(ほそかわきようじ)が、幕府軍の先頭を切って京都市街へ突入・・・

四条大宮付近で南朝軍との激しい戦闘なりました。

この戦闘を皮切りに、幕府軍と南朝軍の京都市街での戦闘は約1ヶ月に渡って繰り広げられる事になるので、今回の一連の戦いは東寺合戦(とうじかっせん)、あるいは京軍(きょういくさ)と呼ばれます。

2月15日には、「東山から出た幕府軍が上京あたりで兵糧を集めている」との情報を聞きつけた南朝軍の苦桃(にがもも)大輔が500騎余りの軍勢を率いて東寺を撃って出て一条から二条に兵を展開し、迎え撃つ清氏勢と六条東洞院から烏丸あたりで7度8度のぶつかり合い・・・しかし、この日も勝負がつく事なく、ともに、自らの陣地へと・・・

そんな小競り合いが何度か続く中の正平十年文和四年(1355年)3月13日・・・徐々にその制圧範囲を広げて来ていた幕府軍が、7000騎の大軍を率いて押し寄せ、転戦の末、いよいよ東寺の目前にまで迫りまって来ます。

とは言え、未だ京での市街戦はあくまで互角・・・しかし、これらの一連の戦いの間に、幕府軍は、先の仁木頼章によって山陰道を押さえ、義詮の配下によって山陽道を封鎖しており、東は、もともと尊氏が東山に陣取っており・・・と、つまりは南朝軍は、幕府軍によって完全に補給路を断たれた孤立状態になってしまっていたのです。

たとえ市街戦が互角でも・・・
「これでは、もはや支えきれない」
と判断した直冬は、東寺を放棄して、とりあえずは八幡まで撤退する事に・・・

入れ替わりに東寺に侵入して占拠しのは、かの清氏・・・まもなく、尊氏・義詮父子も東寺へと入ります。

そうなれば、付き従う山名父子にも、
「もはや播磨に戻る時が来たみたいな」
てな空気が流れたその夜、直冬は全軍への撤退命令を発したのでした。

『太平記』によれば、この時、八幡まで撤退した直冬に八幡様の神託(しんたく=神のお告げ)があったと・・・
♪たらちねの 親を守りの 神なれば
 この手向
(たむけ)をば うくるものかは ♪
「源氏の守護神である八幡宮は、源氏の棟梁=尊氏(親)の守り神やよって、親を討つつもりの子=直冬の願いを叶える事はできひんねん」
との神歌だったとか・・・

こうして京都での市街戦となった戦いが終わりを告げた事で、この後、しばらくの間、都には平穏な日々が戻り、戦いから2年後の延文二年・正平十二年(1357年)には、後村上天皇による先の八幡合戦(3月24日参照>>)のゴタゴタで南朝側に幽閉されていた光厳(こうごん=北朝1代天皇)(7月7日参照>>)光明(こうみょう=北朝2代天皇)(8月15日参照>>)崇光(すうこう=北朝3代天皇)(1月13日参照>>)の3上皇と皇太子の直仁(なおひと)親王が解放されて都に戻っています。

とは言え、元弘三年(1333年)の鎌倉幕府の滅亡(5月22日参照>>)・・・いや、厳密には討幕の戦いはそれ以前に始まってるので、もう少し早い時期ですが、その頃に始まってから、鎌倉幕府の残党による戦い(7月28日参照>>)に向かった尊氏が反旗をひるがえしての南北朝の動乱に突入・・・ですから、もはや20年以上に渡って戦いにあけくれる日々が続いていたわけで・・・

これらの戦乱で、都にあった皇居をはじめ院の御所や公家たちの屋敷も大半は焼失していて、もはや残っているのは2~3割ほどだったところに、今回の市街戦となった事で、ほぼ壊滅状態・・・

白河あたりにチョロッと武士の屋敷が残る程度で、一般市民の家は1軒たりとも残っておらず、あたりは見渡す限りの焼け野原になってしまい、都の面影など、どこにも無い状態だったのだとか・・・

そのため、宮廷の職員や女官の中には、もはや生きる気力を失って、桂川に身を投げる者も現われ、生き残った者も、つてを頼って僻地に逃げたり、世捨て人のような侘びしい生活を送ったりで、都には、朝の炊事の煙もたたなくなり、餓死者があふれたとの事・・・

以前、『ある公家の悲しい都落ち』のお話(10月27日参照>>)を書かせていただきましたが、このお話が『太平記』に登場するのが、この33巻の東寺合戦のあと・・・

そして、その次の項に続く足利尊氏の死(4月30日参照>>)を以って、南北朝の動乱は新たなる展開へと進むのですが、

そのお話は、
新田義貞の次男=新田義興(にったよしおき)の死(10月10日参照>>)
尊氏の死から10年後に第3代将軍となる足利義満(よしみつ)(12月30日参照>>)
九州で奮戦する懐良(かねよし・かねなが)親王(3月27日参照>>)
などなどのページでどうぞm(_ _)m
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