2009年8月 8日 (土)

将軍に愛された美少年・世阿弥~謎の後半生

 

嘉吉三年(1443年)8月8日、猿楽から発展したを、芸術の世界にまで引き揚げた世阿弥がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

能のルーツとなった猿楽は、もともと農村で行われていた神事の芸能です。

言い伝えによれば・・・
南北朝動乱の時代、大和(奈良県)には五ヶ所の声聞師(しょうもじ)の村があったのだとか・・・声聞師とは、門付けして経文などを唱える芸能人の事で、彼らの村には十ほどの曲舞座があったと言います。

世阿弥(ぜあみ)の父である観阿弥(かんあみ)は、そんな曲舞座の一つの乙鶴で女曲舞を学び、神事の芸能に女曲舞を取り入れた新しい芸能を生み出し、結崎座(ゆうざきざ・観世流)を組織して、各地を巡回・・・村の祭礼や社殿の造営の時に招かれて演技を披露し、これが、なかなかの喝采を浴びていました。

やがて、醍醐寺での興業で人気を博した結崎座は、京の都を中心に活動するようになりますが、そんな一座の一員として舞いを披露していた少年が、観阿弥の息子・鬼夜叉・・・後の世阿弥元清です。

そんな彼が12歳の時、一大転機がやってきます。

それは、京都は今熊野神社で行われた神事猿楽興業・・・その神事を見物に来ていた、時の将軍・足利義満が、その世阿弥の美しさに一目ぼれ!

世阿弥は、10歳の時に初舞台を踏んでから、その容姿の美しさとともに、演舞の見事さは目を見張るばかり・・・そう、彼は、メチャメチャ美少年だったのです。

・・・と、上記の「将軍が美少年を」という文章で、ほとんどの方が、戦国武将にありがちなオッサンと美少年の構図を想像されたでしょうが、おっとドッコイ・・・この時、将軍・義満も、まだ17歳!

こ・・・これは、このところ、一部腐女子という方々に人気のボーイズ・ラブ=BLというヤツですねΣ(;・∀・)

ともあれ、これ以降、将軍の寵愛を受けた事で、能は隆盛を極めていくのですが、世阿弥自身は、父・観阿弥とは、少し違う道をめざす事になります。

それは、父の観阿弥の演舞が、あくまで庶民的な、いわゆる大衆芸能をめざしていたのに対し、世阿弥の能は、洗練された貴族的なもの・・・芸術=アートという高みをめざすものでした。

・・・と言っても、父の芸能を否定するのではありません。

彼は、全盛期と言われる応永七年(1400年)に、代表作である『風姿花伝(ふうしかでん)を著していますが、その中でも、あくまで父・観阿弥の残した遺訓を通して、その芸能論を語ります。

世阿弥にとって、父は、生涯にわたって尊敬すべき師匠であり、美学の境地であった・・・彼にとっては、そんな父に追いつき、いつしか追い越す事が最終目標だったのかも知れません。

皆さん、よくご存知の言葉・・・
「初心不可忘=初心忘るべからず」
これは、世阿弥の『花鏡(かきょう)の中にある言葉です。

その生涯で200番ほど書いた謡曲のうち、約120番以上が、今もなお演じられているという現実は、能を見た観客が味わう感動を「花」と称し、その「花」が咲き乱れる事を、最も大切にした世阿弥ならではの偉業とも言えるでしょう。

しかし、その晩年は、一転して不遇の日々となります。

それは、世阿弥が46歳の応永十五年(1408年)に義満が亡くなり、その息子で第4代将軍・義持(よしもち)の頃・・・

義持が、父・義満の、あまりに偏った世阿弥への寵愛を嫌っていた事や、豊作祈願の田遊びから発展した田楽が大好きであった事で、しだいに、彼を遠ざけるようになります。

すでに高尚な芸術となって民衆から離れていた能にとって、セレブから見放されるのは命取りです。

さらに、将軍家の能ばなれは、6代将軍・足利義教(よしのり)の時代に、決定的となります。

永享元年(1429年)、世阿弥と、その息子・観世元雅(かんぜもとまさ)は、仙洞御所での演能を禁止され、その後、間もなく、元雅は急死します。

しかも、世阿弥・72歳の永享六年(1434年)には、佐渡へ流罪となってしまうのですが、実は、この世阿弥の流罪・・・流罪にされた事だけはわかっているものの、その原因がまったくの不明です。

流罪というのですから、何か、他人を傷つけたり、大きな失敗をしたり・・・と、それなりの罪を犯しているはずなのですが、その記録はまったくありません。

一説には、義教が世阿弥の甥である音阿弥(おとあみ)を好んでいて、秘伝書とともに、後継者の座を音阿弥に譲るよう命令したにも関わらず、世阿弥が息子の元雅に観世大夫を継がせた事で、義教が激怒したとも・・・

確かに、この義教さん・・・このブログの嘉吉の乱(6月24日参照>>)でも書かせていただきましたが、あまり評判の良いかたではありません。

自分の意にそぐわない者を、次々と抹殺したという噂が、本当だとしたら、世阿弥も、些細な事が、その逆鱗に触れ、流罪となったのかも知れません。

また、一方では、息子も元雅が急死している事から、なにやらきな臭い噂も飛び交います。

それは、観阿弥が、あの楠木正成(5月25日参照>>)の血縁だとし、それゆえ、観阿弥・世阿弥父子は南朝のスパイであったと・・・

・・・で、スパイ活動をしていたところがバレた息子は暗殺され、世阿弥は流罪にというわけです。

いずれにしても、やはり義教のご機嫌をそこねての流罪であったようで、義教が暗殺された嘉吉元年(1441年)頃に、罪を許されたとされていますが、その後は京都に舞い戻ったとも言われるものの、結局は、その消息もはっきりしない状態です。

日本の伝統文化の中で、その代表格である能というものを大成させたにしては、あまりに悲しい末路となった世阿弥の生涯・・・

しかし、芸術家にとって、その作品が命であり、生きた証だとすれば、600年の時を越えて、今なお演じられ、見る人に感動の花を咲かせている事こそが、彼のめざした最終目標だったのかも知れません。

Zeamicc 追記:遅ればせながら、世阿弥のイラスト描いてみました~

・・・というより、途中まで描いてたんですが、記事のupに間に合わなかったんです(´Д⊂グスン

女っぽくなってしまいましたが、妖艶な美少年という事で・・・
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←「おもしろかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします(゚ー゚)あなたの応援で元気100倍!

 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)

2009年7月23日 (木)

かりそめの征夷大将軍~護良親王の最期

 

建武二年(1335年)7月23日、鎌倉に幽閉中の護良親王を足利尊氏の弟・直義が暗殺しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・またはもりながしんのう)は、あの建武の新政を行った第96代・後醍醐(ごだいご)天皇(8月16日参照>>)の息子です。

はじめは比叡山延暦寺で僧となり尊雲法親王(ほっしんのう)と名乗って天台座主(ざす)となっていましたが、父・後醍醐天皇が打倒・鎌倉幕府の動きを見せ始めると、還俗(僧となって出家した人が一般人に戻る事)して参戦します。

・・・というより、もともと気性の激しかった護良親王は、近畿地方の武士を集めて、むしろ積極的に参加し、鎌倉幕府に目をつけられて自由行動ができない父に代わって、「ともに戦おう!」令旨(天皇家の命令)を連発し、各地でゲリラ戦を展開したりしました(2月1日参照>>)

やがて、後醍醐天皇に協力した足利尊氏楠木正成新田義貞佐々木道誉(どうよ)らの力もあって鎌倉幕府は滅亡(5月22日参照>>)、政権を握って建武の新政を行う父のもと、護良親王は征夷大将軍に任命されます。

この征夷大将軍の任命に関しては、もともと、同時に鎮守府将軍に任命された尊氏にライバル心を燃やしていた護良親王自身が、拒否る後醍醐天皇に要求して強引に獲得したというものと、鎌倉幕府のような武家政権が誕生する事を恐れた後醍醐天皇のほうが、尊氏に対抗させるため息子を征夷大将軍にしたという2つの説があります。

前者の場合は、すでに鎌倉幕府討伐の時点で、後醍醐天皇の預かり知らぬところで護良親王が令旨を連発したところから、親子関係に亀裂が生じていたとも言われますが、前者と後者に共通しているのは、やはり、尊氏・・・いや、源氏という武家に対する警戒や対抗意識があったというところでしょう。

しかし、いくら武芸にすぐれ、自らが先頭に立ってゲリラ戦をこなしてきたとは言え、護良親王は天皇の息子・・・ちょっと腕に覚えのあるヤンチャなぼんぼんが張り切ったところで、プロの戦闘集団の武士を統率できるはずもなく、征夷大将軍は名ばかりのものとなり、結局、数ヶ月後には解任されてしまいます。

こうなると護良親王も、自らの周囲に武士を集める有効な手段がなくなり、もともと取り巻いていた武士からも見放され、やがては、数少ない手持ちの武士たちとともに、辻斬りをやったりのテロ行為に走ります。

・・・で、結局、後醍醐天皇の命により、「皇位簒奪(さんだつ・天皇と血縁関係にある者が皇位を奪取する事)の罪で、建武元年(1334年)10月に、参内したところを捕らえられて鎌倉に幽閉・・・尊氏の弟・足利直義の監視下に置かれます。

しかし、その翌年、鎌倉幕府・最後の執権だった北条高時の遺児・北条高行を担いでの諏訪頼重(すわよりしげ)らの中先代の乱(なかせんだいのらん)が勃発し、北条の幕府再興軍に親王を救出されて奉じられる事を恐れた直義によって、建武二年(1335年)7月23日護良親王は幽閉先で暗殺されてしまうのです。

この時、護良親王は・・・
「尊氏より、父のほうが、ずっとうらめしい」
と、言ったとか、言わなかったとか・・・

そもそもは、護良親王に皇位簒奪の意志が本当にあったのかどうかも怪しいところで、なにやら、父・後醍醐天皇と、ライバル・尊氏という海千山千の猛者たちの抗争に巻き込まれて翻弄された感の拭えないお気の毒な末路です。

ところで、ご存知のように、征夷大将軍と言えば、もともとは、古代律令国家が蝦夷(えぞ・東北より北の地方)を征討するための司令官に与えた役職・・・古くは、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(11月5日参照>>)なんかが有名ですが、畿内の律令国家の東北経営が一段落した弘仁年間(810年~824年)頃からは中断されていました。

やがて、ご存知のように、建久三年(1192年)に源頼朝が、この役職に任命されてからは、室町幕府の足利、江戸幕府の徳川と、中世・近世を通じて武家の棟梁あるいは幕府の長が、この征夷大将軍(略して将軍)と呼ばれる事になるのですが、すでに書かせていただいているように、あの木曽(源)義仲も、源平の戦いの真っ只中で、一時、強引に征夷大将軍を獲得しています(1月11日参照>>)

ただし、上記の通り、義仲の場合は鎌倉幕府という最初の武士政権が誕生する以前・・・それを考えると、源頼朝以降から明治維新まで、武家の長という意味で征夷大将軍に任命された中で、護良親王は、唯一の幕府を持たない征夷大将軍という事になります。

護良親王・・・享年28歳、
武門の棟梁を夢見て征夷大将軍となったマッスル皇子にとっては、まだまだ夢の途中・・・

はがゆいばかりの最期だった事でしょう。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月24日 (水)

将軍暗殺!赤松満祐の嘉吉の乱

 

嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨の守護・赤松満祐が第6代室町幕府将軍・足利義教自宅にて騙まし討ち・・・世に言う嘉吉の乱がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒し、さらに、後醍醐(ごだいご)天皇とモメにモメた後、京都室町にて幕府を開いた初代室町幕府将軍・足利尊氏(たかうじ)・・・(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)

その尊氏の孫にあたる足利義満(よしみつ)は、わずか11歳で第3代将軍となり、細川頼之(よりゆき)山名氏清(うじきよ)大内義弘(よしひろ)など、有力守護を次々と征したうえ、元中九年(明徳三年・1392年)には南北朝の合一(10月5日参照>>)に成功します。

また、義満が(中国)と開始した日明貿易は莫大な富を生み、その明の皇帝への書状にも『日本国王』と署名し、まさに天皇をしのぐ権力を手に入れたのです(8月22日参照>>)

しかし、この義満の時代を全盛期に、その後は早くも室町幕府に陰りが見え始めます。

晩年は、あの北山殿(金閣寺)に引退しながらも、その権力を維持していた義満は、次男・義嗣(よしつぐ)を後継者に・・・と願っていたとも言われますが、それが実現する事なくこの世を去ります。

そして、これまた、わずか9歳で父の後を継いだ第4代将軍の足利義持(よしもち)は、そんな父が嫌い・・・「明に貢物を献上して、貿易させてもらってる感満載の貿易なんか、恥やんけ!」と、かの日明貿易を廃止し、ことごとく反発します。

やがて、義持は39歳で出家して、わずか17歳の長男・義量(よしかず)に将軍職を譲りますが、その後も実権は握ったままで離さずじまい・・・

しかも将軍となった、その義量は義量で、これまた大酒飲みで仕事らしい仕事もしない・・・ってか、オヤジが実権握ったままじゃなにもできないし、そのウップンを酒にぶつけたくなる気も、わからんではありませんが・・・。

・・・で、結局、その義量は、酒飲みがたたって2年後、わずか19歳で、オヤジより先に亡くなってしまうのですが、そんな若い義量には子供がなく、しかも、この頃にはオヤジも病気がちになってしまい、次期将軍の事が急を要する大問題となります。

候補者は、義持の弟・3人なのですが、三宝院満済(さんぽういんまんさい)をはじめとする幕府首脳部が、今や死の床にある義持に、その意向を聞いても・・・
「俺が決めたって、お前らが承認せなどないもならん・・・お前らがえぇと思うヤツにしてくれ~」と・・・

3人の弟には、それぞれに有力者がついているし派閥もあるし・・・誰を選んでも、また別の誰かの派閥から文句が出る・・・託された彼らも、虫の息の彼を囲んで、「あーだ、こーだ」と議論を重ねるも決着つかず・・・

困った彼らはとうとう・・・

満済が義持の前でクジを作り、時の管領・畠山満家が石清水八幡宮で、それを引く・・・つまり、くじ引きで将軍を決める事に・・・

やがて、義持がこの世を去った翌日、クジを開封・・・見事当選したのは、義持のすぐ下の弟で、天台座主となっていた青蓮院(しょうれんいん)の僧侶・義円

彼は、還俗(げんぞく・出家していた人が一般人に戻る事)して、名を義教(よしのり)と改めて、第6代将軍に就任しました。

ところで、くじ引きと聞くと、商店街のガラガラや、お楽しみスピードくじなんかを思い浮かべてしまって、つい「そんなんで決めんなよ!」と思ってしまいますが、今よりずっと神の存在が大きかった時代、神前の神聖な場所で引くクジは、神様のお告げ神託なのです。

ちなみに、余談ですが、後の明治天皇も、明治という元号を決めるに当たってくじ引きという方法で決定していますが、これも、「神の子孫である天皇が引く=神のお告げ」という考えのもとで、安易に決めているわけではないのです。

・・・で、この事から「くじ引き将軍」と呼ばれた6代将軍・足利義教(よしのり)ですが、その就任にあたっては、斯波(しば)畠山氏細川氏といった管領家に、「俺の承諾なく、勝手に事を決めるな」という証文を取るなど、かなり強気の姿勢を見せました。

当然、そんな強気で高飛車な姿勢は、将軍になってからも変わらず、やたらときびしい独裁政治を行うのです。

「勝手に事を決めるな」と言い放った管領家には、逆にその家督相続にまで首を突っ込んで、自分のお気に入りに継がせるし、ささいな理由で、自分の意にそぐわない貴族や大名を次々と抹殺・・・

永享十一年(1439年)には鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と、その息子たちによる永享の乱結城合戦で、公方を滅亡に追いやります(2月10日参照>>)

また、そんな恐怖政治をいさめようと説教した日蓮宗の日親に対して、火で真っ赤に熱した鍋を頭にかぶせ、「もう、2度とつまらぬ説教をしないように」と、舌を切って追放した・・・なんて恐ろしい逸話も・・・

そうなると、「ひょっとして、彼の気に入らない事をしてしまったかも・・・」と、身に覚えがあったり、あるいは、そんなのがなくても疑心暗鬼になって、「次ぎは、自分が抹殺されるのでは?」と、恐怖におののく者が出てくるのは当然です。

そんな中の1人が、以前、播磨(兵庫県)の守護の座を巡って、義教のお気に入りと争った過去がある赤松満祐(あかまつみつすけ)でした。

やや、病的なくらい怯えていたとも言われる満祐ですが、巷でも、「次ぎは赤松では?」というウワサになっていたのも事実・・・「こうなったら、殺られる前に殺ったる!」と決意した満祐・・・

かくして嘉吉元年(1441年)6月24日、満祐は、先の結城合戦の祝勝会と称して、将軍・義教を自らの屋敷に招いたのです。

宴もたけなわの頃あいを見計らって、庭園へと誘い出したところへ暴れ馬を放ち、ドサクサにまぎれて武装集団が乱入・・・一瞬のうちに義教の首をはねたのです。

この酒宴には、管領家をはじめ有力大名や公家たちも招かれていましたが、皆が逃げ惑うばかりで、すぐに将軍の仇を討とうとする者はほとんどいなかったのだとか・・・。

さらに、直後に赤松の家臣が、「将軍だけをターゲットにしたもので、他の者に危害を加える気はない」と説明すると、皆、すみやかに退席したと言います。

これだけの独裁的政治を行った将軍・・・このような結果も自業自得といった感も拭えませんでしたが、さすがに、赤松氏という一大名が、将軍を暗殺するという事件を、そのままにしておくわけにはいきませんから、当然、他の大名による討伐軍が編制され、追い詰められた満祐は、自刃する事になるのですが、そのお話はまた、別の機会にさせていただく事にします。

この後の戦国乱世を予感させる事件でした。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 7日 (日)

時代別年表:室町時代・前期(南北朝・足利全盛期時代)

  

このページは、室町時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

室町時代は、いわゆる戦国時代も含まれますので、ブログに書いている出来事が非常に多い・・・って事で、とりあえず、前期・中期・後期・・・そして後期を安土と桃山の計・4つに分けさせていただき、このページでは、北条高時が自刃して鎌倉幕府が滅亡した1333年5月22日から、南北朝を経て、北条早雲が伊豆討ち入りする1493年10月11日までを「室町時代・前期(南北朝・足利全盛期時代)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaimuromati110



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
1333 5 22 鎌倉幕府・滅亡
【鎌倉幕府の滅亡】
1334 8 21 若狭・太良荘にて一揆が勃発
 【中世の名も無き人の名前とは?】
1335 7 23 足利直義が護良親王を暗殺
【かりそめの征夷大将軍~護良親王の最期】
12 11 箱根・竹ノ下の戦い
【弟のニセ綸旨で反旗を決意?】
1336 5 25 湊川の戦いで楠木正成が討死
【七生報国・湊川の戦い】
10 11 ~13日新田義貞・北国落ち
【新田義貞・北国落ちの悲劇は本当か?】
1338 7 2 新田義貞が越前で討死
【恋に戦に・新田義貞の純情】
8 11 足利尊氏・征夷大将軍に任ぜられる
【おめでとう!足利尊氏さん】
1339 8 16 後醍醐天皇・没
【北闕天を望みたい~後醍醐天皇の最期】
1340 10 佐々木道誉・紅葉事件
【佐々木道誉・紅葉事件で婆沙羅を卒業】
1350 2 15 吉田兼好・没
【兼好法師の恋愛感って・・】
10 26 観応の擾乱・勃発
【観応の擾乱~尊氏+師直VS直義】
1358 8 22 足利義満・誕生
【足利義満の「王権争奪計画」】
10 10 新田義興が謀殺される
【新田義興の怨念?神霊矢口の渡し】
1366 佐々木道誉・花見の会の逸話
【お花見の歴史は万葉から】
1392 10 5 南北朝の合一
【南北朝の合一】
1397 4 16 金閣の立柱棟上式
【金閣寺の建立】
1415 2 26 蓮如・誕生
【浄土真宗を日本一にした経営戦略】
1419 6 26 応永の外寇
【朝鮮軍・来襲!応永の外寇】
1428 9 18 正長の土一揆
【日本初!正長の土一揆】
1439 2 10 足利持氏・自刃~永享の乱
【鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦】
1441 6 24 嘉吉の乱
【将軍暗殺!赤松満祐の嘉吉の乱】
1443 8 8 世阿弥・没
【将軍に愛された美少年~謎の後半生】
1457 4 8 太田道灌が江戸城を築く
【公方から関東を守れ~江戸城・築城】
1461 7 26 備中新見荘の代官・裕清が京を発つ
【たまがきの恋物語~手紙に託した思い】
1464 4 1 足利義政主催の「勧進猿楽」が興行される
【将軍・義政の贅沢猿楽興行】
1467 1 17 御霊合戦
【応仁の乱の口火を切る御霊合戦】
5 20 細川勝元が山名・追討命令を受ける
【応仁の乱・勃発!】
10 3 応仁の乱・相国寺の戦い
【応仁の乱・激戦~相国寺の戦い】
1469 5 12 斎藤妙椿から東常緑へ領地が返還される
【和歌で領地を取り戻す~歌人・東常緑】
1471 7 27 蓮如が越前・吉崎に道場を建てる
【蓮如、吉崎に道場を建立】
1474 2 16 一休宗純が大徳寺の住職に就任
【一休さんのとんちは本当?】
1477 5 13 用土原の戦い(長尾景春の乱)
【太田道灌とライバル・長尾景春】
1483 6 27 銀閣寺・完成
【銀閣寺が銀箔じゃないワケは?】
1485 12 11 山城の国一揆が両畠山氏に撤退要求
【下克上の至り~山城の国一揆】
1487 12 2 近江鈎の陣に甲賀衆が奇襲をかける
【近江鈎の陣・甲賀の奇襲作戦】
【意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者】
1488 5 13 加賀一向一揆・勃発で富樫正親・自刃
【百姓の叡智・加賀の一向一揆】
【加賀一向一揆は、なぜ100年続いたか?】
【一味同心・一揆へ行こう!】
1490 1 7 足利義視・没
【応仁の乱のきっかけとなった足利義視】
1493 10 11 伊豆討ち入り
【北条早雲・伊豆討ち入り】
室町豆知識 【栄西のお茶・その後~闘茶と御茶壷道中】
【南北朝動乱~ある公家の悲しい都落ち】
【なぞなぞのルーツ~室町時代の謎かけ】

【姥捨て山は本当にあったのか?】
【トイレの歴史】
【世界最古の入れ歯は日本製?】

 

Dekigoto2cc_3 Dekigoto2cc_3 
 

にほんブログ村 歴史ブログへ
↑より良いブログを目指して参りますヽ(´▽`)/応援クリックよろしくお願いします!

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月21日 (木)

意外!?中世の名も無き人の名前とは?

 

建武元年(1334年)8月21日、若狭国(福井県)太良荘(たらのしょう)にて、百姓・59名が、地頭代官の交代を要求して起請文を提出し、一揆を起こしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今、某大統領候補と名前が同じという事で話題の、福井県は小浜(おばま)の市街地にほど近く、今も、当時を彷彿とさせる、のどかな農村地帯・・・ここにあった太良荘は、鎌倉時代中期から室町時代の中期までの約250年間、京都は東寺の荘園でした。

以前、『たまがきの恋物語』(7月26日参照>>)新見荘(岡山県)も東寺の荘園で、東寺には、今も多くの史料が残されている事を書かせていただきましたが、新見同様、この太良荘に関する文書も、東寺には多数残されているのです。

そんな史料の中の一つである今回の起請文ですが・・・

「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉でもおわかりのように、そもそもは鎌倉時代から、もともとある田畑に、なんだかんだと理由をつけちゃぁ、新たな税を徴収したり、用水を利用すりゃぁ、お金を払え!払わないと水泥棒として捕まえる・・・なんて事が、くりかえし行われていて、農民たちは、幾度となく、六波羅探題に訴えたりしていました。

しかし、そんな鎌倉幕府が崩壊した混乱の中、ますます治安は悪くなり、略奪行為がひんぱんに行われるようになり、その警固のために、新たな地頭代官が任命され、この太良荘にやってきたのですが、この脇袋という代官・・・荘園内の家屋をぶっ潰して勝手に城を構築したり、私用の無理難題をふっかけてきたりと、やりたい放題・・・。

その横暴ぶりを、何度も東寺に訴えますが、まったく聞き入れてもらえず・・・そこで、建武元年(1334年)8月21日、あの建武の新政を風刺した落書が二条河原に立ったと同じ月、堪忍袋の緒が切れた農民・59名が立ち上がり、代官の交代を求める起請文を提出し、一揆に踏み切ったのです。

・・・という事で、本日は、この太良荘の一揆の起請文の署名から、当時の一般の人々の名前について迫ってみたいのですが、かくいう私も、この太良荘の事を知るまでは、ほどんど一般人の名前という物がどんな風だったのか知りませんでした。

武将や公家の名前は教科書に出てきますが、一般人の名前は出てきませんから・・・。

明治になって、「国民全員、苗字つけろ」の令が出るまで、皆、苗字が無いものと思っていましたし、時代劇や昔話などでよく登場する権兵衛さんとか、三太とかっていう名前が多いのかな?と思ってましたが・・・

太良荘を形成していた人々は、2~3町の土地を所有する本百姓の名主クラスが数名と、あまり良くない土地の小百姓・・・さらにその下に属する農地を持たない下層の人々です。

以前、『一揆へ行こう』(6月9日参照>>)のページで書かせていただいたように一揆の署名は順不同という事なので、まずは、同じような名前の人をグループ分けしてご紹介します。

  1. 僧実円・僧禅勝・僧長弁
  2. 大山貞重・大山正弘・中原吉安・六人部国正・秦正守・物部宗弘
  3. 沙弥法円・沙弥浄法・沙弥善阿弥・沙弥妙阿弥・沙弥本阿弥
  4. 浄妙
  5. 中大夫・平大夫・矢大夫・矢二郎大夫・五郎大夫・新大夫・惣大夫・角大夫・美濃大夫
  6. 中介・江介・三郎介・和山介・豊前介
  7. 新検校・惣別当・安寿
  8. かい丸・牛丸
  9. 細工大夫・中細工・孫太郎細工
  10. 藤内・源内・
  11. 中江
  12. 孫太郎・孫二郎×2・孫四郎・孫五郎・彦二郎×2・彦三郎・弥二郎・中二郎・中三郎・平二郎・藤二郎・惣四郎・進士二郎・二郎太郎・三郎太郎×2

以上、1名分だけ、文字が読めなくなっている部分があるため、合計58名です。

この中のグループ1の「僧」がつく3名は、花押(ハンコ代わりのサイン)も持っていて一般農民とは別格なようです。

一応、僧実円僧禅勝が、この一揆のリーダーだったと言われています。

そして、グループ2の6名も、姓と名の実名を署名している事からやはり別格・・・「秦(はた)「物部(もののべ)などは、古代の豪族の名前ですが、子孫という事ではなく、勝手に名乗ってるわけで、このような名前を名乗っても、もはや怒られない時代になっていたって事なのでしょう。

この1と2のグループの中の何人かが名主クラスだったと思われます。

次に、グループ5と6の「大夫」「介」は、古代の官位名ですが、これは本名というのではなく、ある一定の年齢になると儀式を行って、それ以降は「大夫」や「介」をつけて呼ぶ通称というヤツです。

武士が元服して、大人っぽい名前に変えるのとよく似ていますね。

グループ7の「検校(けんぎょう)」「別当」「安寿」などは、寺院や官庁の役職名・・・たとえば、別当なんかも、以前は、○○別当=○○長官みたいな感じで使われていましたが、これも、この時代には、もうお百姓が名乗っても怒られなかったって事なんでしょうね。

このグループ7あたりまでが、小百姓クラスの人ではないでしょうか?(自信ないですが・・・)

グループ8の「丸」は本来は、武士の幼名に使用する名前ですが、起請文の署名という物は各家庭の代表者がするものなので、このお二人はおそらく成人した方・・・ただし、運搬業にたずさわる人は、成人しても「丸」を名乗っていたらしいので、牛丸さんなんかは、おそらく、牛を使って運搬業を営んでいたのかも知れません。

グループ9の「細工」というのは、ご想像通り、細工師=手工業者の方々・・・この「細工」の中には、「大夫」のつく人もおられますが、先ほどもあったように、「大夫」は大人という意味を表すので、この細工大夫さんは、細工師の中でも重鎮だったんでしょう。

最後に、グループ12・・・「太郎」とか「二郎」「三郎」とかっていうのは、お察しの通り、おそらく生まれた順でしょうね。

「孫」「彦」「弥」は、この時代の標準的な名前で、「藤」「平」「源」は、グループ10や11にもありますが、藤原氏・源氏・平氏などの姓を名前に取り入れたものです。

この中で、もし、女性がいるとしたら、鎌倉時代に同じ名前の女性がいるようなので、「浄妙」という名前のかた・・・この時代、一家の代表は、やはり成人男性という事になりますので、必然的に女性の名前が少なくなるでしょうね。

以上、起請文の署名を見てみましたが、本来、名主クラスのお百姓と、下層の人たちとでは、それぞれに確執があって、普段はなかなかうち解けあえるものではなかったでしょうが、相手が地頭となると、一揆を結んで、このように名を連ね、ともに立ち上がった・・・

その名前を見るだけで、中世の名も無き人々が、その命を賭けて、家族と土地を守った、その強い情熱を感じます。

歴史を作ったのは、名のある武将や貴族だけではない事を、ひしひしと感じる次第です。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)

2008年7月26日 (土)

たまがきの恋物語~手紙に託したその思いは?

 

寛正三年(1461年)7月26日、備中国新見荘の直務代官に決定した僧・祐清上人が、京都・東寺を出発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

京都府立総合資料館・所蔵の『東寺百合文書』の中に、『たまがき書状』と呼ばれる、かな文字で書かれた一通の手紙が残っています。

この手紙は、室町時代の農村の女性が書いた直筆の手紙としては、唯一、現在に残る貴重な史料で、その差出人は、たまがきという女性です。

彼女が暮らしていたのは備中国新見荘・・・現在の岡山県新見市

当時の新見荘は、京都・東寺領の荘園で、守護大名が細川氏・・・その細川氏の家臣である安富智安が請負代官として現地を支配していました。

つまり、現地で智安が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に仕送るというわけですが、当然そこには、彼ら守護の取り分も発生するわけです。

先日の豊臣秀吉太閤検地(7月8日参照>>)のところでも、チョコッと書かせていただきましたが、そのように、一つの土地に対して、複数の人が所有権を持つのが、中世の荘園制度・・・で、その智安は守護の力をバックに、農民からは不当に重い年貢を徴収し、東寺に対しては、約束分の量を納めなかったり、未納のままだったりという事が多くあったのです。

要するに、自分たちの取り分=中間マージンを多くしてガッポガッポ儲けてたって事ですね。

そこで、ついに発起した名主・41名が起請文を提出し、荘園領主である東寺の直務支配を要求したのです。

直務支配という事は、東寺が直接支配をするという事ですから、当然、東寺内部の誰かが現地に行かなくてはなりません。

その現地へ行く役=直務代官として派遣されたのが、東寺の僧・祐清(ゆうぜい)でした。

寛正三年(1461年)7月26日に京都を出た祐清は、8月5日に現地に到着・・・新見荘内でも、比較的開けたという地に事務所を構え、現地の実情を調査するとともに、新しい改革に取り組みます。

この時、彼の身の回りに世話をしたのが、現地荘官・福本盛吉の妹だったたまがきでした。

「年貢の取立てが、武士から僧侶に代わるのだから、少しは楽になるだろう」という農民たちの期待に答えてやってきた祐清でしたが、彼が農民たちに伝えた寺命は、予想以上に厳しいものでした。

  • 自分たちが自ら希望して直務になったのだから、年貢を納めないという行為は許さない。
  • 今まで年間8人だった京上人夫を年間12人にする・・・そのうち6人は実際に京に行って仕事をするが、残り6人は金銭でもよい。
  • 今までの公事物(貢物・紙とか漆とか)に蝋(ろう)を加える。

ガ~ン!増えてますやん!
この最初の段階で、少なからずショックを受ける農民たち・・・。

前年から不作が続いていた荘内では、「何とか許してほしい」という声があがりますが、若僧だった祐清にとって、東寺のおエライさんの決めた寺命は絶対ですし、若いがゆえに融通もききませんから、「この命賭けてでも、年貢を納めない者は徹底的に処罰する」と言って譲りませんでした。

こうして、マジメ一本やりで荘園再建に取り組む祐清は、ついに、年貢を未納のままにし続けていた名主・豊岡をクビにして追放してしまいました。

「安富と変わらんやん!」
「いや、安富の時のほうがマシやった」

という、不満の声が、村人たちから沸きあがってくるのも、当然のなりゆきかも知れません。

やがて翌年・寛正四年(1462年)の8月25日、未だ従わない奥・中奥と呼ばれる地域へ見回りに出かけた祐清・・・。

ある新築中の家の前を通りかかると・・・
「建築中の家の前を通る時は、馬から下りるのが、ここらへんのしきたりだ!」
と、家の中から出てきた男たちに叱られてしまいます。

その話を聞いて、慌てて馬を下りる祐清に、いきなり男たちは斬りかかり、哀れ、祐清は命を落してしまうのです。
男は、先の名主をクビになった豊岡の親戚の者でした。

恨みを持つ者に殺されてしまった祐清ですが、もちろん、村人全員が彼を恨んでいたわけではありません。

飢饉に苦しむ農民と、使命をまっとうせよという東寺の間で苦悩した彼は、東寺に対して「今回はいつもの半分の年貢で許してあげて欲しい」なんていう手紙を幾度か書いて、東寺から、その約束を取り付けたりもしていましたから、彼に親しみを抱いている農民も多くいたのです。

現に、仇討ちとばかりに、殺した相手に殴りこみをかけた者もいました。

そんな好意を持っていたうちのひとりが、たまがきです。

もちろん、ごく普通の一般人である彼女の生涯については、何一つ記録されてません。
その容貌も、その性格も・・・

ただ一つ、冒頭にご紹介した、彼女の手紙が残っているのです。

彼が、代官としてやって来た時から、わずか一年・・・祐清の弔いをすませた彼女は、その遺品の整理をしながら、東寺へ、彼の死の報告と、その遺品の処分について書き綴っているのです。

贅沢などいっさいない、質素な遺品・・・それらの品々を書き並べながら、白小袖・紬表・布子の3点について・・・
『このほとなしみ(馴染)申候ほとに、すこしの物おは、ゆうせいのかたみにもまいらせたく候、・・・給候は、いかほと御うれしく候』

「この三品を、祐清の形見としていただけたら、これほどうれしい事はありません」

彼が、一番身近に、身に着けていた品を、彼女は、形見として欲しいと・・・

たった一年間、ともに過ごした二人の間に、何があったのか?
どんな風に、二人は通じ合っていたのか?

東寺に残る新見荘の史料は、その量の多さから、中世の歴史を語る上で外す事ができないほどの貴重な物ですが、当然の事ながら、その内容は郷土史と言える物で、祐清とたまがきの心情にはふれていません。

しかし、唯一残る直筆の手紙からは、その溢れんばかりの彼女の思いが伝わってくる気がします。

真っ白な小袖を身にまとって、都から颯爽とやってきた若き僧・・・農村に暮らす彼女は、わずか一年間で、一生ぶんの恋をしたに違いありません。

果たして、彼女の願いが叶えられたのかどうか・・・それだけが気がかりです。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2008年4月 8日 (火)

公方から関東を守れ!太田道灌・江戸城を築城

 

長禄元年(1457年)4月8日、太田道灌江戸城を築きました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まずは、太田道灌(どうかん)江戸城を築いた理由から・・・

以前から、度々登場している室町幕府と鎌倉公方の対立・・・関東に拠点を持つ武家でありながら京都・室町で幕府を開く事になってしまった足利氏は、本拠地の関東を支配する役職として鎌倉公方と、その補佐役の関東管領を置きました。

以来、足利氏の長男の血筋が将軍職を、次男の血筋が鎌倉公方を、代々受け継いでいくわけですが、その鎌倉公方が、幕府を無視し、関東を独立国家のように運営しはじめた事から対立が生まれます。

将軍が第6代・足利義教(よしのり)、公方が第4代・足利持氏(もちうじ)の代になってピークを迎えたその抗争は『永享の乱』(2月10日参照>>)と呼ばれ、戦いは持氏の敗死によって決着が着けられたかに見えました。

しかし、持氏の遺児・足利成氏が、古河(こが)公方を勝手に名乗り(古河を本拠地にしていたので)、公方奪回を目指し関東各地で乱を起こします

特にターゲットにされたのは、当時、関東管領職にあった扇谷(おうぎがやつ)上杉家です。

古河公方は幕府非公認の勝手な公方・・・対する上杉家は、幕府から正式に任命されている役職ですから、当然と言えば当然です。

・・・で、当時の上杉家の当主・上杉定正の執事を務めていたのが太田道灌です。

つまり、道灌は成氏から関東を守るため、江戸城を築いたのです・・・その時、道灌・27歳。

もともと平安時代の末期に、この地を治めていた江戸氏の、館のような小さい建物が建っていた場所に築城したという事ですが、それとは別に、おもしろいエピソードも残っています。

道灌が築城にふさわしい場所を求めて、品川沖を船で航行中、船の中に“コノシロ”という魚が飛び込んできます。

「これは、ラッキーアイテム・ゲット!」
とばかりに、すぐに近くの岸に船を着け、そばにいた漁民に・・・
「このあたりの村は何という村かいな?」
とたずねると・・・
「ここは、千代田宝田祝いの里でございます」

「メッチャ縁起えぇ名前・・・ステキやん!」
と、即座に、この地に築城する事に決定したのだとか・・・。

諸葛孔明の再来築城の名人とうたわれた道灌のことですから、さぞかしすばらしい江戸城を構築した事でしょうが、残念ながら現在は、その影を見る事はできません。

道灌の死後、扇谷上杉氏の物となった江戸城は、その後、関東を支配した後北条氏の物となります。

しかし、ご存知のように北条の本拠地はあの屈指の名城・小田原城・・・そんな北条氏にとっては、江戸城は単なる支城の一つに過ぎず、あまり重視していなかったようです。

北条の物であった時代の江戸城は、わずかな城番が見張りをするだけのお城で、整備も修理もまともに行われず、かなりボロボロの状態になってしまっていました。

そんな江戸城が歴史の表舞台に登場するのは・・・そう、豊臣秀吉が北条を倒し(7月5日参照>>)、その秀吉の命を受け、この江戸城を徳川家康が居城とした時からです。

その時、初めて江戸城に入城した家康は、もはや惨たんたる姿の江戸城を目の当たりにするのです。

低い土塁が取り囲むだけで堀もなく、海辺へ出入りする木戸が数ヶ所あるだけでがっしりとした門もなく、主要の建物は枌板(そぎいた・松などの板をうすく削った物)葺きで、台所は、(かや)葺きに全面が土間・・・さらに、玄関は船板が3枚敷いてあるだけ

しかし、家康は天下を取って、この江戸で幕府を開きます

入城以来、30年の年月を費やして、生まれ変わった徳川の江戸城・・・ご存知のように、それは、道灌もびっくりの世界最大の大城郭となるのです。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2008年2月25日 (月)

浄土真宗を日本一にした蓮如の経営戦略

 

応永二十二年(1415年)2月25日は、浄土真宗の「中興の祖」と呼ばれる蓮如さんのお誕生日です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先日、親鸞聖人のご命日のページ(11月28日参照>>)で書かせていただいたように、日本で最大の伝統仏教教団・浄土真宗の開祖は親鸞聖人です。

その親鸞から数えて7代目の存如(ぞんにょ)・・・この人が蓮如のお父さん。

17歳で得度した蓮如は、長禄元年(1457年)父の死後、異母兄弟との後継者争いの後に、47歳にて、第8代本願寺法主となりました。

しかし、親鸞のひ孫の時代に、門弟と対立して本願寺という寺号を称して、すでに独立した形をとっていた本願寺派・・・蓮如は確かに親鸞の血筋を継いではいますが、この頃の本願寺派は、真宗の宗派の中では最下位。
まさに、衰退の一途をたどっていたのです。

その頃、この本願寺を訪れた近江(滋賀県)本福寺の僧侶も、「一番人気の仏光寺は、群集に満ち溢れているが、本願寺はサビサビで、人っ子一人いなかった」と書き記しています。

蓮如本人も、毎日の食事にも事欠き、身に着ける衣も貧窮の極みでした。

しかし、8代目を継いでから、わずか8年後の寛正六年(1465年)には、比叡山が脅威を抱くほどに成長し、その比叡山衆徒に京都を追われてしまいます。

その後、越前(福井)吉崎に逃れて御坊(道場)を建てますが、その後も、本願寺派は成長を続け、23年後の長享二年(1488年)には、本願寺門徒が高尾城に押し寄せ、加賀の守護大名・富樫正親を自刃に追いやる『加賀の一向一揆』(6月9日参照>>)をやってしまうほどに成長します。

つまり、蓮如・一代で、教団内の最下位から、あの比叡山に肩を並べるくらいの大教団に仕立てあげたという事になります。
これが、「中興の祖」と呼ばれるゆえんです。

では、どのようにして、蓮如は、そこまで急激に教団を大きくする事ができたのでしょうか?

あくまで、個人的意見ですが、そこには、商売=経営と同様のテクニックがあったと思います。

無神論者の私が、「商売と同じ」と言うと、熱心な信者の方からお叱りを受けるかも知れませんが、もちろん、私利私欲の商売繁盛と仏教を広めようという精神とでは、根本的に違うと思いますが、それを成長させるためのテクニックが似ているという事です。

どんなに良い教えでも、それを相手に理解してもらわなければ・・・いえ、その前に、心を開いて話を聞いてもらわなければ、その教えは広まってはいかないのですから・・・。

蓮如が、この時使ったのは、企業が商品を売り込む時、あるいは、政治家が選挙に挑む時に行う『メディア戦略』です。

自分の教えを、各地に散らばる末寺に浸透させるには・・・。

それぞれの末寺に、阿弥陀仏の仏像を寄進しても、信者の心には響きません。
・・・かと言って、彼が、全国行脚して、末寺を一つ一つ回ったとしても、その数には限りがあります。

そこで、蓮如は、自筆の手紙というメディアを利用します。

もちろん、単なる挨拶の手紙ではありません。

そこには、浄土真宗の教えや、蓮如の考えなどが書かれているのですが、当時、すでに貴族や武士には、既存の仏教が浸透していて参入が困難な事もあって、当然、蓮如のターゲットは、難解な仏教をまだ理解しきれていない庶民層・・・。

ですから、その手紙は、難しい言葉を使わずに、簡潔にわかりやすく、やさしく語りかけるような文章に仕上げられていたのです。

この『御文』と呼ばれる蓮如の手紙は、各末寺へ送られ、そこで、その寺の僧侶が信者の前で読み上げるのですが、それは、あたかも、目の前で蓮如が、信者一人一人に語りかけてくれていると錯覚するくらいの物だったのです。

御文を読み聞かされた者は、どんどんと引き込まれ、同時に各地のお寺に、蓮如自身が訪問するのと、同じ効果をあげる事ができ、本願寺派は一気に成長する事となるのです。

さらに、もう一つ、蓮如は、次に大きくなった教団の結束を固め、維持していくための戦略を実行します。

それは、以前『シルバーラブの日』(11月30日参照>>)に書かせていただいた子沢山・・・産めよ増やせよ作戦です。

蓮如は、27歳で初めて結婚して以来、85歳でお亡くなりになる前年まで、合計五人の奥さん(最後の奥さん以外は皆、他界されました)との間に、13人の男の子と14人の女の子を設けています。

ただ単に、元気でありまくりのハリキリまくりではありません。
ちゃんと計画的に、血縁関係で教団の結束を固めようとしたのです。

それも、ちゃんと将来の身のふりかたも考えておかなくては・・・なんせ蓮如さん自身が若い頃、後継者争いに巻き込まれてますから、しっかりとした計画が無い限り、むしろ、血縁関係だからこその争いが起こる事も考えられます。

蓮如さんがとった作戦は・・・「吸収合併」「のれんわけ」です。

長男・順如には光禅寺というお寺を経営させ、次男・蓮乗南禅寺に修行に出した後、加賀本泉寺如乗の娘の婿養子に出し、三男・蓮綱にも松尾寺というお寺を経営させています。

もちろん、女の子たちも、それぞれライバルになりそうな有力な寺院に嫁に出しているのです。

子供のうちに亡くなった子以外は、すべて、浄土真宗の僧か尼さんにして、何かしらの役割を、自分自身で与えています。

そして、まだ、自分の目の黒いうちに、75歳で引退し(84歳で最後の子供が生まれてるので、たぶん、まだ目は黒いです)、五男の実如本願寺住職を譲ります

しかし、引退しても、まだまだ蓮如さんの戦略は終りません。
そう、「アフターサービス」です。

引退後も、お寺での説法はもちろんの事、あの「御文」も続け、暇さえあれば、「名号」を書いていたのです。

晩年、彼は「俺ほど、名号を書いた人間は、日本にいないゾ!」と、楽しげに語っていたと言います。

この名号によって、お寺と信者との結びつきが、強固なまま維持できたのは間違いありません。

まさに、見事な戦略。
なるべくしてなった日本一・・・というところでしょうか。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2008年2月10日 (日)

鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦

 

永享十一年(1439年)2月10日、室町幕府VS鎌倉公方の構図で争われた『永享の乱』で敗れた第4代鎌倉公方・足利持氏が自刃しました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まだ南北朝の動乱の真っ只中で幕府を開く事になった足利尊氏は、自分の本拠地が関東であるにも関わらず、不穏な空気が収まらない京都を離れる事ができず、京都・室町で幕府を開く事になります。

しかし、幕府が成立しても、各地の旧勢力がくすぶり続けるため、奥州探題九州探題などを置いて監視する事になりますが、そんな中でも最も重視したのが、やはり本拠地である関東です。

最初は弟・実義(ただよし)鎌倉に派遣し、次に息子の義詮(よしらきら)、そして、貞和5年(1349年)、義詮と交替に次男の基氏(もとうじ)を派遣します。

基氏以降、この鎌倉を守る足利氏は鎌倉公方と呼ばれ、基氏の息子からまたその息子へと代々受け継がれていくのです。

この鎌倉公方は、関東はもちろん、伊豆甲斐(山梨県)をも含めた広大な範囲を統轄しており、幕府に准ずる組織でしたが、それだけ大きいと、やはり、徐々に幕府とは別の道を歩もうとし始めます。

まして、強大な2番手という物は、いつでも将軍の座を狙える位置にいるワケですし、同じ足利氏として、常に幕府の下という位置に不満を持つのも自然な事かも知れません。

徐々に、亀裂が入り始めた室町幕府と鎌倉公方・・・そんな正長二年(1429年)、「将軍がくじ引きで決められる」という事態になってしまいます(6月24日参照>>)

室町幕府第6代将軍・足利義教(よしのり)です。

その、将軍決定劇に不満を持ったのが、基氏から数えて第4代目の鎌倉公方・足利持氏

義教が将軍になったその年は、元号が正長から永享に改元された年なのですが、持氏はこの永享という元号を使用せず、旧元号を使い続けるという態度をとり、あからさまに独立国家の意思を表明し始めます。

しかし、関東だからと言って、全員が持氏の味方であるわけでもなく、鎌倉公方の補佐役である関東管領・上杉憲実(のりざね)ら幕府寄りの者たちと、一触即発の状態を続けながらも、大きく衝突する事は避けられているかのようでした。

やがて永享六年(1434年)、持氏は、鶴岡八幡宮『呪詛の怨敵を未兆にはらわんがため』という幕府を呪う内容の願文を血書にてしたためて祈願をするまでになります。

そして、永享十年(1438年)・・・
「もう、僕らだけでは、押さえきれませ~ん」
・・・と、憲実が幕府に泣きついた事によって、本格的な衝突が開始されます。

これが『永享の乱』と呼ばれる戦いです。

最初は、幕府勢、鎌倉公方勢、ともに一進一退の合戦を続けていましたが、なんせ、相手は幕府・・・何だかんだ言っても、幕府=将軍の地位というのは強大ですから、戦闘が長引くにつれ、徐々に、地元の者たちが、幕府に寝返るようになるのです。

そうなると、またたく間に持氏の敗色が濃くなってきます。

そして、永享十一年(1439年)2月10日、鎌倉の留守役だった三浦時高の攻撃によって、持氏の館は焼け落ち、持氏は自刃するのです。

しかし、その持氏には、四人の息子がいました。

その四人の兄弟は、この時、炎に包まれる持氏の館から脱出しますが、嫡男・義久は、乱の後、長男らしく兄弟を代表して、鎌倉公方の復権を幕府に願い出ますが許されず、父の死の18日後の2月28日に自刃しました。

当然、残りの三人の兄弟は、乱の首謀者の息子として、幕府から追われる事になるのですが、その次男と三男が春王(しゅんのう)安王(あんのう)の二人・・・。

彼らを保護したのは、当時、関東屋形と呼ばれるほどの実力を持っていた下総結城城・城主の結城氏朝(ゆうきうじとも)でした。

結城氏は、ムカデ退治の逸話を残す勇者・俵藤太こと鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)・・・そう、あの平将門を討ち取った(2月14日参照>>)その人の子孫なのです。

氏朝は、かねてから憲実と対立しており、この永享の乱では、持氏をバックアップしていたのですが、その敗北により、さらに憲実と幕府への怒りが増大していたのです。

翌年の永享十二年3月、氏朝は、公方の遺児である春王・安王を旗印に掲げ、幕府に反旗をひるがえします。

世に『結城合戦』と呼ばれる戦いです。

当時、関東各地の武将には、すでに幕府に反感を持っていた者も多く、しかも、この頃には、以前、足利義視さんのご命日のページ(1月7日参照>>)でも書かせていただいたように、嫡男がすべてを継ぐ惣領制が崩れつつある事で、各武将の家々にも何かしらの後継者争い・家督争いが起こっていたので、氏朝の挙兵には多くの者が参戦し、関東の武士たちは、幕府派か氏朝(春王・安王)派かのどちらかに属して戦う事になります。

しかし、氏朝の結城城は、4ヶ月後の7月には、幕府軍に包囲されてしまいます。

それでも、何とか耐え抜いていましたが、翌・永享十三年(1441年)4月16日・・・ついに、氏朝は降伏を決意します。

幕府に降伏するにあたって氏朝は、城内にいる女子の命乞いを願い出ます。

もちろん、幕府はその条件をすんなり呑むのですが、実はこれには、幼い春王と安王を女装させて女子に紛れさせて、逃がそうという計略があったのです。

なんせ、春王が13歳、安王が11歳ですから、それくらいの少年って、女の子の格好をすれば、よほどガタイが良いか、とほどのオッサン面でない限り、それなりに見えるものですからねぇ。

しかし、幕府の兵がスルドかったのか?二人が思いっきりオトコだったのか?
二人はあっさり見つかってしまいます

捕えられて、京へ護送される事になる二人ですが、その旅の途中の5月16日・・・美濃垂井(たるい)という場所に差し掛かったところで、警固の兵のもとに飛脚から手紙が届けられます。

いつもは、夜遅くまで歩き続けるこの旅で、ここ垂井では、まだ日の高いうちに宿の手配がされます。

いつもとは違うその雰囲気に、手紙の内容をさとる幼い兄弟・・・そう、手紙の主は将軍・義教で、その内容は「即、二人を斬れ!」という物でした。

運命を感じた二人は、風呂を所望し、その身を清めます。
そして警固の兵に、用意された布団で寝るように即されると、健気にも・・・
「けして、泣いたり騒いだりしませんから、殺す時は起してください」
と、頼んだと言います。

その役目を命じられたのは、漆崎小次郎という男・・・相手は幼い二人です。
もともと個人的な怨みがあるわけでもありませんから、命令された彼も心が痛みます。

でも、命令された以上、それを努めなければなりませんから、心を鬼にして、そっと寝所へ入って行きますと、幼い兄弟は、手と手をしっかりと結び、一つの布団に一つの枕で寄り添うように眠っています。

ますます、彼は胸がいっぱいになり、しばし号泣・・・しばらく考えたあと、やはり、兄弟が言ったように、起してから斬るべきだろうという結論に達した彼。

そっと揺り起こして、
「お命頂戴いたしまする」
と言うと、二人はすんなり起き上がって、
「もう、覚悟は決まっています。
兄弟二人で死ねる事、うれしく思います。」

と言って、手を合わせながら、小次郎のほうに首を差し伸べたと言います。

こうして、鎌倉公方は、4代・100年で断絶する事になるのですが・・・そうです、持氏の息子は、もう一人います。

一番末っ子の永寿丸(永寿王とも)・・・永享の乱の時は、まだ1歳でした。

彼も乱の後、信濃(長野県)に潜伏しているところを発見され、将軍・義教の命令により、殺されるところでしたが、そのあまりの幼さに管領・細川持之が猛反対。

持之のゴリ押しで、あの憲実に預けられる事になるのです。

この永寿丸が、後の足利成氏(しげうじ)・・・そう、彼は、父と兄の思いを背負って、鎌倉公方を奪回すべく乱を起こす初代・古河公方となるのです(5月13日参照>>)

世は、まさに乱世に突入・・・ですね。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月11日 (火)

弟のニセ綸旨で反旗を決意?足利尊氏・箱根竹ノ下の戦い

 

建武二年(1335年)12月11日、後醍醐天皇の命令で、追討にやって来た新田義貞を、足利尊氏が破った『箱根・竹ノ下の戦い』がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日の『箱根・竹ノ下の戦い』は、「南北朝動乱の幕開け」と称されています。

つまり、今まで、ともに協力して鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)、新政を成し遂げた後醍醐天皇足利尊氏が、ここに来て対立・・・そして合戦という形で表面化し、やがて「尊氏の北朝VS天皇の南朝」なるわけなので、まさに、「幕開け」です。

ただし、後醍醐天皇から派遣された新田義貞と足利軍が衝突したのは、この日が最初ではありません。

義貞が京を出たのは11月・・・迫り来る新田軍を最初に迎え撃ったのは尊氏ではなく、弟の直義でした。

しかし、三河・遠江・駿河と、直義が率いる足利軍は次々と破れ、新田軍は伊豆まで迫ってきます。

そこで、ようやく尊氏が立って、今日の『箱根・竹ノ下の戦い』となるのですが、なぜ?尊氏は、今日のこの時まで、戦わなかったのしょうか?

実は、もともと、尊氏には、「後醍醐天皇に反旗をひるがえそう」なんて気持ちはまったく無かったのです。

尊氏は、一度目は北条の鎌倉幕府を、そして2度目は今回の後醍醐天皇・・・と2度、主君に反旗をひるがえすわけですが、以前の【足利尊氏・裏切りの要因】(4月16日参照>>)のページにも書かせていただいた通り、それはひとえに、源氏の棟梁としての責任感のなせるワザなのです。

彼は、野心家でも反逆児でもなく、ただ、冷遇されている足利一門を・・・「自分の配下の武士たちの待遇を少しでも良くしたい」という思いからなのです。

尊氏は、根っからの親分肌
昨日まで敵だった者も、味方となった限りは大いにかわいがり、新田の配下となってしまった元足利の者に「こっちに来いよ」と、駆け引き無しで説得したりするところは、まさに大親分です。

そもそも今回の出兵は、北条の残党が鎌倉を占拠したために、それを制圧する目的で尊氏は京を出発するのですが、その時、後醍醐天皇は、尊氏の強さを恐れ、「遠くに離したくない」という思いから、尊氏が鎌倉に向かう事を許しませんでした。

しかし、我慢できない尊氏は、命令の無いまま、8月2日に出陣し、猛攻撃の末に19日には鎌倉を取り戻してしまうのですが、さすがに、この時は後醍醐天皇も「尊氏を手元に置いておきたい」というのは、自分の勝手な思惑とわかっていたらしく、後から「北条残党・追討」の命令を出しています。

そのかわり、尊氏に従二位の位を与え、その功績を賞した後は、すみやかに京に戻るよう命令しています。

しかし、すでに『建武の新政』で、武士が冷遇されていたのはご承知の通り。
それでも尊氏は天皇の命令通り京に戻るつもりでいましたが、弟・直義は「せっかく関東を制圧したのに、また同じ待遇の所に、今更戻る必要があるのか?」と尊氏に問います。

やがて、尊氏は、10月には鎌倉に新たな屋敷を建築し、京に戻る意思が無い事をあらわにするのです。

そして、先に書いた後醍醐天皇の「尊氏・追討命令」となって新田義貞がやってきたわけですが、それでも尊氏は、天皇に弓を引くつもりはなく、あくまで「自分の主張(武士の待遇と幕府を開く事)を何とか認めてもらいたい」という姿勢だったのです。

長い説明になりましたが、そういうわけで、初めのほうの新田軍との戦いには、尊氏は参戦していなかったのです。

・・・で、最初に書いたように、弟・直義が率いる足利軍は新田軍に苦戦を強いられるのですが、これも直義が弱いわけではなく、その根っからの親分肌のおかげで、「今やカリスマとなった源氏の棟梁が参戦しない戦い」に、配下の武士たちの士気があがるわけがありませんからね・・・負けが続くのは仕方の無い事です。

案の定、この『箱根・竹ノ下の戦い』で、重い腰をあげ、やっと参戦した尊氏を見て、味方の軍の士気は一気に高まり、見事、新田軍を破る事になるのですが、この日の参戦を、尊氏が決意するにあたって、一つのエピソードがあります。

先に書いたように、どうしても後醍醐天皇に反旗をひるがえしたくない尊氏・・・「何とかその思いをわかってもらいたい・・・どうしたらわかってもらえるのか?」と悩んだ末に、鎌倉の建長寺へ行き「出家する!」と言って元結を切ってしまうのです。

兄のザンバラ頭の姿を見た弟・直義はびっくりします。
「これは何とかせな!」

・・・と、直義は、『尊氏と直義を誅せよ』というニセの『綸旨(天皇の命令書・単なる命令より絶対度合が高い)を作成し尊氏に見せ・・・
「兄ちゃん、ほら、もうこんな事になってんねんから、今更、後に退いても、やられるだけやで」
・・・と、説得。

尊氏は弟のニセ綸旨のおかげて決意が固まって、やっとこさ参戦・・・という事になったのです。

こんなところにも、突進型で大将タイプの兄・尊氏と、策略家で参謀タイプの弟・直義の名コンビぶりがうかがえますね。

・・・で、この戦いに勝利した足利軍は、その勢いで新田軍を追撃しながら上京。
翌年の1月には近江(滋賀県)に迫り、その後、京都での戦いに突入する事となります。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月27日 (土)

南北朝の動乱~ある公家の悲しい都落ち

 

そもそも、なんで南北朝なんて・・・1つの国に二人の天皇・・・なんて事になちゃったのでしょうか?

もちろん、建武の新政に不満を抱いた足利尊氏が、後醍醐天皇に反旗をひるがえして京都を占領し、新しい天皇を立てて、室町幕府を開く・・・これが北朝で、一方の、吉野に逃れた後醍醐天皇はそのまま天皇なので、これが南朝・・・って事なのですが・・・。

もし、尊氏が立てた北朝の天皇が、室町幕府の意向で、勝手に立てられた天皇だったら、昨日の『観応の擾乱(じょうらん)(10月26日参照>>)の時ように、尊氏が南朝に行っちゃった時点で北朝が無くなってしまう・・・という事になってもおかしくはないのですが、そうはいかない・・・つまり、天皇家にも以前から派閥があって、分かれるべくして分かれた南北朝だったのです。

Nanbokutyoukeizucc そもそも鎌倉時代に、第88代・後嵯峨天皇が、一旦、長男の後深草天皇に皇位を譲ったにも関わらず「あっ、やっぱ次男がいいや」って事で、後深草天皇に迫って、無理やり次男の亀山天皇に皇位を譲らせた事に始まります。

しかも、その後は、嫡孫である後深草天皇の息子に返すべき皇位を、そのまま自分=亀山天皇の息子に継がせちゃった事で、嫡流側=後深草側は「本家はこっちだから、こっちに返せ!」、弟・亀山側は「もらったものは、返さないよ~」、てな感じでモメ始めるのです。

それぞれの天皇のゆかりの場所から、後深草天皇の皇統を『持明院統』
亀山天皇の皇統を『大覚寺統』と呼びます。

この、返す・返さんの争いを見るに見かねた鎌倉幕府が仲裁に入って、「なら、交代々々で皇位についたらいいじゃん!」という案を出し、話し合いで一応、双方が納得し、これからは交代制にする事に・・・

これを、『文保の和談』と言いますが、この話し合いの後、すぐに即位したのが、後醍醐天皇なのです(8月16日参照>>)

しかし、そんな条件付で即位したにも関わらず、ご存知の通り、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して、建武の新政をやらかしてしまいます。

後醍醐天皇は大覚寺統の天皇・・・世の中がすっかり変わってしまった以上、以前の約束が生きているのやら死んでいるのやら・・・もう、持明院統には皇位の順番が戻って来ないニオイがプンプン。

あせる持明院統・・・そんな時に、後醍醐天皇を裏切った尊氏からのラブコールですから、渡りに船とばかりに「よろこんで~!」となったわけです。

そんな南北朝の時代は、おおむね北朝が京都を制圧していましたが、もちろん、南朝も常に京都制圧を企んでいて、何度も合戦が行われています。

その中で、昨日書いた観応二年(正平六年・1351年)、文和二年(正平八年・1353年)、文和四年(正平十年・1355年)、康安元年(正平十六年・1361年)の4回、南朝が京都を制圧しています。

もちろん、どれも数ヶ月とはもたず、すぐに北朝(室町幕府)に奪回されるのですが、その度にたいへんなのは、それぞれの公家や貴族たちです。

北朝・南朝ともに、天皇だけでなく、その傘下におさまる公家や貴族が、それぞれの政務をこなしているわけですが、南朝の公家たちは、常に吉野いますから、京都を南朝が制圧しても、生活のベースを京都に移す前にまた、北朝に奪回されるので、基本の生活は変わらないのです。

しかし、北朝の公家たちは違います。
京都が南朝に制圧されると、北朝の武士はいなくなり、自分たちは京都に残ったまま・・・。

国のトップが南朝の天皇になるので、自分たちは逆賊という事になり、官位剥奪・・・政治の仕事は南朝の公家に移るため、仕事は無くなり、給料はストップ
しかも、ヘタすりゃ命もありませんし、家も燃えたりなんかします。

北朝(幕府)「ヤバイ!」と思って、京都を放棄するたびに、公家たちはハラハラドキドキです。

それでも上流貴族たちは、敗走する幕府軍とともに脱出したり、つてを頼って疎開したりできましたが、下級公家たちは、逃げる場所もままならず、明日食べる食糧も無いといった状況になるのです。

『太平記』には、そんな下級公家の、ある悲しいお話が書かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

兵部少輔(ひょうぶのしょう)というある下級公家・・・京都市中で行われた合戦で、家も家財道具も焼けてしまい、親類も皆、行方不明になってしまいます。

都には、もはや頼る人もいません。
彼には、妻と、9歳になる男の子と7歳になる女の子がいます。
何とかしなくてはいけません。

しかたなく、彼ら一家は丹波に落ちて行きます。
もちろん、丹波にもあてはありません。
とにかく、「丹波なら戦もないだろう」程度の事でしかありません。

とぼとぼと、道を歩きながら、そこらへんに落ちている栗や柿を拾い食べ、少しずつ北へ向かいます。

しかし、丹波国の思出河(おもいでがわ)という川の川岸で、とうとう妻や子供たちが歩けなくなってしまいます。

「ほな、ここで、ちょっと待っとき。」
・・・と兵部少輔は、何か食べるものを分けてもらおうと近所の家を尋ねるのです。

しかし、その家の者は、彼の事を「強盗か?、はたまた南朝のスパイか?」と怪しみ、「白状しろ!」とばかりに、彼を拷問にかけてしまいます。

でも、もともと単なる物乞いで、何も悪いところのない兵部少輔。
数時間後には疑いも晴れ、釈放されて・・・それでも、妻子のために、あと何軒かの家々を回り、いくらかの木の実などを手に入れ、喜び勇んで妻子の待つ川岸へ戻ってきます。

しかし、彼がそこで見たものは・・・流れの隅ににひっかかっている愛する三人の溺死体でした。

実は、彼が食べ物を探しに行った時・・・

待てど暮らせど夫は帰って来ない・・・不安げに川岸でまつ妻と子に、通りがかった人が、夫が疑われて拷問にかけられている事を知らせたのです。

その話を聞いた妻は、「もはやこれまで・・・」と思いつめ、二人の子供を連れて川に身投げをしてしまっていたのです。

呆然とその場に立ち尽くす兵部少輔・・・
結局、彼も、妻子の後を追って、川に身を投げたのです。

兵部少輔の話は、ほんの一例・・・彼らのように、南北朝の動乱で、悲しい運命をたどった人たちは数多くいたという事です。

Nanbokutyoumonogataricc 今日のイラストは、
最後の悲しい物語の一場面を・・・

公家と聞くと、なんだか優雅で、「苦労なんかしてないんだろう」と思ってましたが・・・ちょっとイメージが変わりました~。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月26日 (金)

観応の擾乱~足利尊氏+高師直VS足利直義

 

観応元年(正平五年・1350年)10月26日、兄・足利尊氏と対立していた弟・直義が、失脚の引き金となった高師直を攻撃すべく挙兵・・・『観応の擾乱(じょうらん)が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

室町幕府を開いたのは初代将軍・足利尊氏・・・これは、もう教科書でも定番の出来事ですが、実際には、室町幕府は二人の将軍によって運営されていました。

それは尊氏と、その弟・足利直義によってです。

確かに、征夷大将軍になったのは尊氏ですが、幕府内の権限は完全に二分化されていて、尊氏は全国の武士を支配する武家の棟梁・・・直義は全国を統治する政治の責任者

簡単に言えば、軍のトップと政治家のトップ・・・現在なら、軍と政治家なら政治家のトップがイコールその国のトップとなるのでしょうが、室町幕府は武家政権・・・という事は軍事政権ですから、軍のトップがその国のトップという事になります。

もちろん、この担当は兄と弟、軍と政治の上下関係だけではなく、二人の性格も踏まえての事です。

感情の起伏が激しい軍人タイプの尊氏と、冷静沈着な政治家タイプの直義・・・武功があった家臣に恩賞を与える尊氏、所領の揉め事に判決を下す直義といった具合に、この二人の関係は、室町幕府の初期を支え、見事な相乗効果をもたらしていました。

これは、鎌倉幕府の将軍と執権の関係に似ているかも知れませんが、鎌倉幕府もそうであったように、世の中、「両雄並び立つ」というのはなかなか難しい物で、やはり、この二人の間にも、徐々に亀裂が生じて来るのです。

特に直義は、尊氏の執事であった高師直(こうのもろなお)と、肌が合わなかったようです。

確かに、『太平記』よると高師直という人は、出雲の守護・塩屋高貞の奥さんに一目惚れし、猛アタックを試みたものの、あえなく断られ、「夫がいなきゃいいんだ」とばかりに高貞を失脚させ殺した(2月15日参照>>)・・・という逸話の持ち主です。

これが、本当だとすると、そりゃぁ、冷静沈着な政治家タイプの直義から見れば、師直のような行動は考えられない・・・まさに水と油。

肌が合わないなんて言葉では収まらないくらいの嫌悪感を感じてした事でしょう。

それは、師直から見ても同じ事。
さらに、荘園問題が二人の確執に拍車をかけます。

貴族との対立を防ぐためにも、公家や社寺の領地である荘園は、武士の支配とは離して考えるべきと主張する直義と、武功のあった武士に正統な報酬を与えるためには、実質的に荘園の管理者である武士に支配させるべきと主張する師直。

こういうのを犬猿の仲って言うんでしょうか・・・。

そんなこんなの貞和三年(正平二年・1347年)、南朝の動きが活発になったため、直義は配下の細川顕氏らを派遣するのですが、彼らが南朝軍に敗れてしまったのに対し、逆に、師直は、翌年、南朝軍を撃ち破り吉野へ攻め込み、南朝を敗走させ大勝利を収めます。

この事で、幕府内での師直の発言権が強くなった事に危機感を抱いた直義は、尊氏に師直の悪口をチクリまくり、執事を解任させてしまいます。

しかも、この時、師直の暗殺計画もあったとか・・・。

そんな事を聞かされちゃぁ、師直も黙っていられません。
すかさず、武力でもって直義を攻撃!
お兄ちゃん・尊氏邸に逃げ込んだ直義を包囲します。

しかし、この時は、直義が出家し、その地位を尊氏の息子・義詮(よしあきら)に譲るという条件で、一件落着させる事に・・・って、あれ?尊氏の息子って・・・そうです、どうやら、師直のバックには、お兄ちゃん・尊氏が・・・

やっぱり、後を継がせるなら弟より息子・・・と誰しも思うところ。
弟がデキル弟なら、なおさらの事。

さすがの尊氏さんも、いつか弟一派に幕府のトップを脅かされるんじゃないかとビビッてたようですね。

とりあえず、話は収まったものの、やっぱり納得いかない直義・・・何とか反撃しようと機会をうかがっていたところ、九州で勢力を拡大しつつある直義の猶子・直冬を追討すべく、尊氏が出陣、京都を留守にする事に・・・。

観応元年(正平五年・1350年)10月26日「よっしゃぁ~!」とばかりに直義は、京都を脱出して、一路南朝へ走ります

そう、直義さん、今まで敵対していた南朝に行っちゃいました~。

そして、師直を討つべく挙兵するのです。
北朝は、すぐさま『直義追討令』を発令・・・『観応の擾乱』の勃発です。

しかし、南朝を味方につけた直義軍は強かった~翌・観応二年(正平五年・1351年)の2月、師直を倒し、高一族を滅亡に追いやりました。

師直がいなくなった後、義詮の補佐役として、ちゃっかり政界に復帰する直義。

すると、今度は尊氏・義詮父子が京都脱出し、南朝と和睦を結び、次は南朝から『直義追討令』が発布されるのです。

当然、逃亡する直義。
尊氏は、南朝との和睦の細かな交渉を息子・義詮にまかせ、自分は直義を追います。

直義は、北陸を経て、11月に鎌倉へ入りました。

追う尊氏は東海道を下り、直義軍を破り、翌・観応三年(正平六年・1352年)正月に直義を降伏させるのです。

結局、直義はその1ヶ月後の2月26日に病死・・・病死!?あやしい・・・実にあやしい。

これには、やはり尊氏さんの毒殺説も浮上していますが、一応公式記録では黄疸となってます。

ところで、「何をゴチャゴチャやっとるんだ!」と、キレたくなるくらいややこしい南北朝の関係・・・尊氏が和睦を結んで南北朝の合一はどうなっちゃったの?

この一時的な合一を『正平の一統』と呼びますが、尊氏が南朝に降伏して、こうなったわけですから当然、南朝主体で合一の話が進む事となり、北朝陣営は無視されっぱなし。

・・・で、合一したんだか、してないんだかの短い期間で、和睦は解消される事となり、ご存知のように、南北朝の動乱はまだまだ続きます。

結局、これって、尊氏派と直義派に分裂しつつあった北朝が、一つにまとまっただけで、南朝との関係は何ともなってないじゃん!と思ったあなた・・・正解です。

弟が降伏したかと思えば、兄貴が降りる・・・和睦したかと思えば解消したり・・・ややこしいったらありゃしない南北朝の動乱ですが、このドタバタで、夜もじっくり眠れないのは、京都に住むお公家さん。

・・・と、このお話、まだまだ長くなりそうなので、『南北朝の動乱に怯えるお公家さんのお話』は次のページに書かせていただきました~コチラからどうぞ>>>
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月23日 (火)

新田義興の怨念?神霊矢口の渡し

 

延文三年(正平十三年・1358年)10月23日、新田義貞の次男・新田義興をだまし討ちした江戸遠江守高良が、落雷の直撃を受けました
彼は、一週間後に狂死したという事です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

新田義興は、あの後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した時に、足利尊氏楠木正成らとともに、多大な功績のあった新田義貞の息子です(5月22日参照>>)

建武の新政の後、尊氏は天皇に反旗をひるがえしますが、正成・義貞は後醍醐天皇に忠誠をつくし尊氏らと戦い、ともに討死しました(7月2日参照>>)

京都を制圧した尊氏は室町幕府を開き、京都を追われた後醍醐天皇も吉野に朝廷を構えます・・・世に言う『南北朝の動乱』です。

父の遺志を継いで、後醍醐天皇=南朝に従う息子・義興・・・父の死後は越後(新潟県)に潜伏して反撃の機会を狙っていたものと思われます。

その後、何度かくりかえされた京都争奪戦では、やや劣勢な南朝側でしたが、やがて、そんな南朝側に絶好のチャンスが訪れます。

観応元年(正平五年・1350年)、兄の片腕となって、ともに室町幕府を支え、「副将軍」と呼ばれていた尊氏の弟・直義と兄・尊氏との関係が崩れたのです(10月26日参照>>)

『観応の擾乱(じょうらん)と呼ばれるこの動乱は、二年足らずで直義の死をもって終止符が打たれますが、この期に乗じて義興は、弟・義宗らとともに関東奪回を目指して挙兵します。

文和元年(正平七年・1352年)2月18日、鎌倉公方として室町幕府から派遣されていた尊氏の息子・足利基氏を追放し、鎌倉を制圧した義興は、関東における南朝方の中心人物となります。

しかし、もちろん追い出された基氏が、このまま黙っているわけはありません。

ただし、挙兵ではありません。
これが合戦という、ある意味正統な手段であったのなら、結果は変わっていたのかも知れませんが、基氏は関東管領の畠山国清と組んで、義興のもとへ、竹沢左京亮江戸遠江守高良という二人の刺客を送り込むのです。

竹沢左京亮は、もと義興の家臣・・・主君の性格のツボは心得たもので、「北朝に組みしたのはできごころだった」とか、「すっかり改心して前回以上に忠誠を尽くす」などとうまい事言って、まんまと義興の傘下にふたたび収まるのです。
もちろん、一緒に投降した江戸遠江守高良も・・・。

しかし、彼らの目的は義興の殺害・・・そんなそぶりは、おくびにも出さず、せっせとべんちゃらやりまくりの竹沢左京亮らは、徐々に家臣の中でも重く用いられるようになります。

義興が二人の事をすっかり信じ込んだころあいを見計らって、二人は行動に出ます。

延文三年(正平十三年・1358年)10月10日、「名月の宴を催す」と称して、義興を多摩川矢口の渡しに誘い出します。

竹沢左京亮の先導で矢口の渡しを渡る義興ら御一行・・・しかし、渡し舟の船底の板がすでに外されていて、やがて、舟は川のド真ん中で沈み始めます。

「おのれ、計ったな!」
と、義興が気づいた瞬間、伏兵として潜んでいた江戸遠江守高良らが矢を射かけます。

哀れ義興は、同じ舟に乗っていた近臣13名とともに自刃し、多摩川の露と消えたのです。
若干27歳でした。

しかし、その事件があったわずが12日後の、10月23日に、たまたま矢口の渡しの少し上流の浅瀬を渡ろうとした江戸遠江守高良が、多摩川べりで落雷に遭ってしまうのです。

その場ではたいした事はなく、命は助かったものの「すわ!義興公の怨霊か!」というのは誰しもが思う事・・・特に、だまし討ちという後ろめたさ満載の行為に及んだ本人としては、もはや耐えられなかった事でしょう。

江戸遠江守高良は、雷に打たれた7日後、狂死してしまいます。

その後も、矢口の渡し付近では、「怪光を見た」という者が後を絶たず、『義興公の怨霊』が評判となったため、義興を埋葬した場所に、新田神社なる社を建立したという事です。

これが、現在、東京都大田区にある新田神社であると言われていますが、中世の矢口の渡しがどのあたりにあったかは確定されておらず、この事件のあった矢口の渡しは、東京都稲城市矢野口であったという説もあります。

ところで、今日のお話には、少し付録がつきます。

この義興のだまし討ちと怨霊騒ぎは、『太平記』に書かれているお話ですが、これを江戸時代、一躍有名にしたのは、あのエレキテルで有名な平賀源内(11月21日参照>>)です。

この事件を素材として彼が書いた浄瑠璃『神霊矢口渡』が大ヒットし、後に歌舞伎にもなっています。

源内さん作の『神霊矢口渡』は、この事件の後日談といった感じの物語になっているのですが・・・

事件の後、追われる身の義興の弟・夫婦が矢口の渡しの船頭宅に一夜の宿を借り、そこの娘と恋に落ちたりなんぞしながら(嫁は?)、実は義興をだまし討ちしたのが、娘の父の船頭であった事がわかり、当然、その後、父は弟を殺そうとするのです。

弟に恋した娘が止める中、追いかけて川に舟を出す船頭・・・逃げる弟!
そこへ、天から新田家先祖伝来の神聖なる矢が降って来て、悪人船頭を貫く・・・といった具合なのですが、ここに源内さん特有の商売根性が発揮されています。

徳川家康が新田氏の出身と言い張っていた事もあって、江戸時代の新田神社はかなり賑わっていたようなのですが、当時、お守りの一種として、新田神社周辺の竹で造った霊験あらたかな『新田氏伝来の矢』という物を売っていたのです。

実は、このお土産用の矢の発案者が平賀源内さん、その人だったんですよね~。

これは・・・今で言うところの、大ヒット映画や大ヒットドラマとのコラボ商品では?・・・つまり、スターウォーズのアレとか、ガンダムのアレとか・・・

この源内さんが発案したお守り用の矢が、現在、神社でいただく『破魔矢(はまや)の元祖と言われています・・・まさに、見事なプロモーションです。

Nittanoyacc 今日のイラストは、
霊験あらたかな『新田氏伝来の矢』を・・・
3Dソフトを使ってこんなの描いてみました~雷がけっこう難しかったです~
 

にほんブログ村 歴史ブログへ ←「よかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします(゚ー゚)あなたの応援で元気100倍!

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月13日 (土)

新田義貞・北国落ちの悲劇は本当か?

 

延元元年(建武三年・1336年)10月13日、足利尊氏に京都を追われ、北国落ちした新田義貞らが、敦賀に到着しました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あまりに公家中心で、武士を無視した感のある建武の新政に反発して、後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏

最初は、天皇側が優勢で、命からがら九州へ逃げた尊氏でしたが、九州で態勢を立て直し、湊川の戦い(5月25日参照>>)で、楠木正成新田義貞らの天皇軍を破り、その勢いで京に攻め上ります。

比叡山に逃れた後、すぐに、京都を奪回する事は難しいと判断した後醍醐天皇側は皇位を息子の恒良親王に譲り、親王を新田義貞に託します。

新田義貞は、新田軍が官軍である事の証しとして、その恒良親王と尊良親王を連れて、一旦、北国へ落ち延びる事となります。

延元元年(1336年)10月11日、北近江の塩津に到着した総勢7千余りの新田軍。

Kinometougenittacc ここから北を目指す最短・最良のルートは「七里半越え」と呼ばれるルート。

これは、奈良時代に愛発関(あらちのせき)という関所が置かれていた場所を通るルートで、敦賀へ七里半くらいの山道であるところからこう呼ばれていました。
(愛発関は、正確な場所は不明ですが、現在の福井県の疋田あたりにあったとされています)

しかし、そのルートはすでに、越前の守護・斯波(しば)高経の軍勢に封鎖されているとの情報が入り、大きく東北へ迂回して木ノ芽峠越えにて敦賀へ入る事にします。

しかし、この後、太平記十七巻では・・・
『北国の常として十月の始めから高い山々には雪が降るけれども、今年は例年よりも寒さが早く、当日は風まじりの雪が降り、兵士たちは道を見失ってしまい、山道の夜には宿もなく、木の下や岩の影に縮こまって寝たが、馬も兵も凍えて自由がきかず、皆バタバタと、ここかしこで凍え死んでしまった』
・・・というのです。

もちろん最初に書きました通り、10月13日には新田義貞以下、二人の親王も無事に敦賀に入っているわけですから、全員凍死というわけではありませんが、かなり多くの死者が出た・・・とされています。

確かに旧暦の10月11日・・・現在の暦に直すと11月22日という事になりますから、豪雪地帯の北陸では、すでに雪が降っていた事は充分考えられますが、木ノ芽峠というのは、わずか600m余りの峠です。

はたして、本当にバタバタと凍死・・・なんていう事があったのでしょうか?

しかも、木ノ芽峠を通るルートというのは、戦国時代に柴田勝家が開いた道であって、室町時代には、まだ、無かったという説もあります。

しかし、しかし、これを歴史からではなく、「植物の観点から調査した結果がある」というんですねぇ。

それは、福井県の調査ではないのですが・・・
「長野県木曽御料林のヒノキの年輪調査の結果」というのがありまして、それによりますと、延元元年という年は、その前後・数十年と比較して、最もヒノキの成長が悪いのだそうです。

つまり、例年に比べてかなり寒かった・・・という事です。

前後・数十年ですから・・・
「半世紀に一度の寒波がその年の北陸を襲っていた」と考えると、多数の凍死者・・・というのは、充分考えられる話ではないかと思います。

年輪を見て、年数がピッタリ合うなんて、スゴイですね・・・ちょっと興奮しちゃいました~。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月12日 (金)

佐々木道誉・紅葉事件で婆沙羅を卒業

 

暦応三年(1340年)10月(すみません日付がわかりません)
・・・とあるので、10月中には書きたいなと思っていた佐々木道誉『紅葉折り・傷害・放火事件』について今日は書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

佐々木道誉と言えば、婆沙羅(バサラ)大名の代表格。

婆沙羅とは、サンスクリット語の【vajra】で、ダイヤモンドの事ですが、もちろん婆沙羅大名の婆沙羅はダイヤモンドという意味ではありません。

「ダイヤモンドがすべての石を砕く」というところから、「調子はずれ」「ケタはずれ」といった意味で舞楽の用語に使用されていたものが、いつしか、人の普段の生活ぶりが「ケタはずれ」・・・つまり、アウトロー的な人を指す言葉になったようです。

この時代は、「派手な服装をして派手な振る舞いをして、規則を破り乱暴・狼藉を働く者」といった意味で、婆沙羅と呼んでいました。

権力への反発・・・とでも言いましょうか、誰もが成長過程で一度は通る、親にはむかったり、先生にはむかったり、社会が悪いと言ってみたり・・・みたいな感情から出る一連の行動のような物です。

道誉の場合は、やはり「貴族に対するどうしょうもない身分の違い」といった物から、対抗意識が芽生え、婆沙羅に走った・・・という感じでしょうか。

・・・とは言え、道誉は、宇多源氏の正統で、代々検非違使(けびいし・現在の検事&裁判官)を務めていたという、けっこう坊ちゃんな家柄の出身です。

9歳で左衛門尉(さえもんのじょう)に任ぜられ、鎌倉幕府、最後の執権・北条高時に仕えます。
高時の「高」の字をもらって、高氏と名乗るほど寵愛され、高時が出家をした嘉暦元年(1326年)には自分も一緒に出家して、30歳の若さで法名・道誉となったくらい北条べったり。

・・・にも関わらず、足利尊氏が幕府に反旗をひるがえし、六波羅探題を攻撃した(4月16日参照>>)途端、道誉も立ち上がり、一緒に鎌倉幕府を倒してしまいます(5月22日参照>>)

そして、建武の新政となって後醍醐天皇のもとで、雑訴決断所(裁判所)の奉行に任ぜられますが、天皇と足利尊氏の仲がうまく行かなくなると、悩む尊氏の背中を押し、ともに今度は、天皇に反旗をひるがえします

しかし、天皇の命を受けて尊氏追討にやってきた新田義貞と戦って、負けそうになると、即、降参・・・新田軍の仲間となり、道案内までする親切さ

なのに、また、足利軍が有利な展開になると、いきなり新田軍を襲って尊氏の味方をする・・・何とも、オモシロイ人です。

その要領の良さが功を奏したのか、足利幕府のもと出世していく道誉さん・・・出世とともに婆沙羅度もUPしまくります。

そして、婆沙羅度が最高潮に達した頃、事件は起こります。

暦応三年(1340年)10月道誉・秀綱父子一同、大騒ぎの派手派手鷹狩りを終えて帰る途中で、東山妙法院のあたりにさしかかった頃、あたりは一面の紅葉真っ盛りです。

あまりの美しさに、その真っ赤な一枝を部下に折らせてみたところ、その様子を見ていた僧が「御所内の紅葉を折るとは!どこのどいつじゃ!何さらしとんねん!」と騒ぎに・・・。

すると、道誉はひるむどころか「御所がなんぼのもんじゃい!」と、逆にもっと大きな枝を折らせようとします。

しかし、僧も負けてはいません。
部下の持っていた枝を奪い取り、殴りとばして門外へ放り出しました。

さぁ、大変!
怒り狂った道誉は、早速300人の手勢をかき集め、妙法院を襲撃
一斉に、火を放ちます。

その時、ちょうど行法の真っ最中だった僧たちは、てんやわんやの大騒ぎ。

逃げ惑う門主の若宮を見つけた息子・秀綱は、仲間数人とともに、殴る蹴るの暴行を加え重症を負わせる始末。

この出来事が真夜中だったため、火は四方に広がり、騒ぎの声は都中に響きわたって、在京の武士たちも「何事や!」と、うろたえまくったと言います。

この妙法院の門主が、北朝初代の光厳天皇の弟で、悪名高き僧兵をかかえる比叡山延暦寺の住職であった事から、事はさらに大きくなります。

比叡山の僧・宗徒たちは守護神・日吉神社を担ぎ出し「佐々木父子を死罪ににしろ!」と騒ぎ立てます。

日頃、自分たちこそ乱暴狼藉をはたらいている比叡山の僧兵たちに、内心「いい気味だ」と思っていた幕府も、あまりの騒ぎに動かないわけにはいかなくなり、しかたなく罪一等を減じて、道誉に上総(千葉県)への配流を言い渡します。

しかし、さすがは婆沙羅道誉、ここで「しもた~エライ事してもた~千葉へ流罪やて~」
と、うろたえるようなタマじゃありません。

ここは、腕の見せどころ。
むしろ、カッコよく流されなきゃ婆沙羅道誉の男がすたるっちゅーもんです。

配流先へのその道中は、前後300人の供侍を従え、各人には、当時、セレブのペットだったウグイスの籠を持たせます。

さらに、日吉神社の使いとされていた猿の皮で作った矢入れを一人一人に持たせ、同じく猿の皮で作った腰当てを尻に当てての大行進。

途中の休憩では酒盛りをし、宿に泊まれば遊女を呼んで飲めや唄えの大騒ぎ。
とてもじゃないが、流人の都落ちとは思えない行進だったとか・・・婆沙羅の本領発揮ってとこですね。

しかし、道誉は、結局、流刑地まで行かず途中で尊氏に呼び戻されます。

もちろん、それは、南北朝の対立真っ只中という政治情勢の中、尊氏にとって道誉は必要な人物だったからに他ならないのですが・・・。

そこで、帰ってきた道誉に、尊氏が一言・・・
「貴族以上の教養や風流を見につけて見返してやればいいじゃん。それが結果的に貴族に勝つって事じゃないの?」
どうしてもあらがえない貴族との身分の違いへの対抗意識で婆沙羅に走っている事を、同じ武士として、充分理解した上で、やさしく諭したのです。

「ガ~ン!」
佐々木道誉44歳・・・この尊氏の言葉で目が覚めます(44歳・・・遅っ!)
足利尊氏35歳(年下かい!)の、すべてを見通したこの一言で、道誉は乱暴狼藉の婆沙羅を捨て、風流の道へと進むのです。

あっちにひっつき、こっちにひっつきしたそれまでの人生も、この後は尊氏一本・・・生涯の味方となるのです。

人生、どこに転換期が訪れるか・・・わからないものですなぁ。

Momizidouyocc 今日のイラストは、
やはり、季節がら『紅葉に流水』・・・。

秋っぽい絵柄にしてみました~。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月16日 (木)

北闕天を望みたい~後醍醐天皇の最期

 

暦応二年(1339年)8月16日は、後醍醐天皇のご命日・・・という事で、今日は後醍醐天皇のお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Godaigotennoucc第91代・後宇多天皇の第2皇子であった尊治(たかはる)親王が、先代の第95代・花園天皇の譲位を受けて後醍醐天皇となったのは、文保二年(1318年)・・・31歳という「おくればせながら・・・」という年齢に達していた時でした。

しかし、彼の即位は、皆に100%望まれたものではありません。

後醍醐天皇が即位する前年に行われた『文保の和談』という会議の中で、「天皇の即位は兄・後二条天皇(第94代)の遺児・邦良(くによし・くになが)親王が成人するまでの長くても10年間だけで、退位後に天皇の子孫が皇位を継ぐ事はない」という条件が決定された「条件つきの即位」だったのです。

しかし、彼には大いなる理想がありました。
それは「延喜・天暦の治に帰れ!」というもの。

延喜・天暦というのは、延喜年間(901~23年)と天暦年間(947~57年)の事で、醍醐天皇村上天皇が政治を行っていたいた時代の事です。

彼は、その時代を理想の時代とし、そのあこがれから、「自ら後醍醐天皇と称した」という話もあるくらいです。

その時代は平将門(2月14日参照>>)藤原純友(6月20日参照>>)が大暴れした時代で、必ずしも理想とは言えない時代なのですが、武家の力が強大になり過ぎた今となっては、摂関政治が途切れて『延喜式』『日本三代実録』などの成立に見られるように、少なくとも天皇自らが政治を行った時代ではあったのです。

そう、彼の理想は、摂関政治でもなく、院政でもなく、武家政治でもない、天皇自らが采配を振るう政治だったのです。

その理想を実現するためには、まずは、鎌倉幕府の存在が目の上のタンコブなわけですが、なんせ彼には時間がありません。
10年という条件をつけられちゃってますから・・・。

まずは、当時、院政を行っていた彼の父・後宇多法皇に院政のストップを要請。
その後、北畠親房(ちかふさ)吉田定房(さだふさ)といった有能な人材を登用し、記録所を復活させ、天皇自らの政治の実現に向けて進み始めます。

その間にも、『無礼講』と称する会合や、『朱子学講座』など、同志が集まりそうなイベントを開いちゃぁ、密かに鎌倉幕府の打倒計画を練っていましたが、そんなもん、いつかはバレます。

案の定、正中元年(1324年)に密告者によって計画が露見し、彼の側近・日野資朝(すけとも)佐渡へ流罪となってしまいます。(9月19日参照>>)

しかし、まだ諦めません。
息子の護良(もりよし)親王と、宗良(むねよし)親王を通じて寺社を味方にするように画策し、側近の日野俊基に命じて、各地に散らばる領地を持たない無頼の武士たちを集め、再びチャンスを待ちますが、これまた側近の密告によって発覚してしまいます。

この時は、紙一重で、笠置山に逃走し、夢のお告げで知り合った無頼の親玉・楠木正成とともに挙兵します(元弘の変:9月28日参照>>)が、あえなく失敗し、隠岐へ流されてしまいます。

当然、次の天皇が擁立されます。
しかし、例の邦良親王がすでに病気で亡くなっていたために、持明院統(第88代・後嵯峨天皇から枝分かれした後醍醐天皇とは別系統の天皇家)量仁(かずひと)親王光厳(こうごん)天皇として即位します。

これで、後醍醐天皇の夢は、一旦、潰えたがに見えましたが、どうしてどうして、護良親王と楠木正成が挙兵すると、絶好のチャンスとばかりに隠岐を脱出。

同時に、幕府側だった足利高氏の寝返り(4月16日参照>>)、反幕府の思いを秘めていた東国の新田義貞の挙兵という、強い味方を得た後醍醐天皇は、元弘三年(1333年)ついに北条氏を滅亡へ追い込み、鎌倉幕府を倒す事に成功しました(5月22日参照>>)

京の都に戻った後醍醐天皇は、光厳天皇の廃位を宣言し、自らが理想とした『建武の新政』を、半ば強引に推し進めます。

彼の理想は天皇中心ですから、その『建武の新政』というのは、当然の事ながら、今までの法慣習も無視して、すべての事に天皇(自分)が判断を下すという物でしたが、その結果は、偽綸旨(にせりんじ・にせの天皇の命令書)が横行し、治安は悪くなりまくり。

しかも、公家を重視し武家を無視した事から、人材の登用もメチャクチャで、仕事も出来ない人間が位ばかり高く、エラそうにして何もやらない・・・といった散々な結果となります。

さらに、鎌倉幕府討伐に力を発揮した、尊氏(高氏から改名)や義貞をはじめとする武士たちには、まともな褒美がないばかりか、大内裏(天皇の住居)の建築という負担までかけようとします。

建武の新政からわずか2年後、ついに足利尊氏がブチ切れ、反乱の鎮圧に向かった、鎌倉独自の新政を立ち上げます。

楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言しますが、天皇はこれを無視し、来るべき湊川の戦い(5月25日参照>>)へと突入し、正成は討死・・・その合戦では逃走した義貞も越前で敗死(7月2日参照>>)してしまいます。

押し寄せる尊氏軍に対して、一旦逃走した後醍醐天皇でしたが、『三種の神器』を、尊氏が新しく擁立した光明天皇に返して何とか和解。

しかし、すぐに、京を脱出し、「あの三種の神器はニセモノだよ~ん」と主張して、吉野の山中で、朝廷を開きます

京にある朝廷(北朝)と吉野にある朝廷(南朝)・・・そう、南北朝時代の始まりです
建武三年・延元元年(1336年)のこの日から、一つの国に二つの朝廷という奇妙な形は、57年間続く(10月5日参照>>)事になりますが、北朝に対してどうしても劣勢だった南朝・・・。

そんな中の暦応二年(1339年・延元四年)、病に倒れた後醍醐天皇は、息子の義良(のりよし)親王(後村上天皇)に皇位を譲った翌日の8月16日吉野金輪王寺亡くなりました

享年52歳。
左手に法華経第五巻を持ち、右手には剣を持って・・・
「玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも魂魄(こんばく・たましい)は常に北闕天(ほっけつてん・北にある宮城の門の方角)を望みたい」
これが、天皇最後の言葉だったとか・・・

精力絶倫で何人もの后を娶り、抜群の行動力と強い意志を持ち、不屈の精神で理想を追い求めた後醍醐天皇の目は、やはり、その最期の時も、北の都を睨んでいたに違いありません。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "北闕天を望みたい~後醍醐天皇の最期"

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月 2日 (月)

恋に戦に・新田義貞の純情

 

延元三年(建武五年・1338年)閏7月2日、建武の新政権に功績を残した新田義貞が、北陸で奮戦中、討死しました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『正中の変(1324年)『元弘の変(1331年)(9月28日参照>>)の2度に渡って鎌倉幕府打倒に失敗をした後醍醐天皇が、流されていた隠岐から脱出し、楠木正成らとともに三度めの幕府打倒を画策し始めます。

その事を察知した時の執権・北条高時が、後醍醐天皇を撃つべく鎌倉から京へ派遣した足利高氏は、後醍醐天皇派に寝返り、幕府を相手に京の町で大暴れ(4月16日参照>>)

それを伝え聞いて、高氏の子・千寿王のもとに集まった反幕府派の武士たち・・・そのまとめ役として彼らを率いたのが、今日の主役・新田義貞でした。

破竹の勢いで、東国の武士たちの先頭に立って鎌倉の本拠地へ攻め入る義貞は、あの稲村ヶ崎での伝説を残し、北条高時を自害に追い込み、鎌倉幕府を倒すという大殊勲あげる時代のヒーローとして歴史の舞台に登場します(5月22日参照>>)

しかし、幕府滅亡後の建武元年(1334年)に天皇の復権を夢見て、後醍醐天皇が行った建武の新政は、あまりにも公家中心であったため、武士たちは不満ムンムン。

その不満は、わずか二年で爆発します。

建武二年(1335年)、「鎌倉幕府最後の執権だった北条高時の遺児・時行が幕府復興を願って、鎌倉に攻め入り占領する」という事件が起こりますが、乱の鎮圧のために、鎌倉に向かった足利尊氏(高氏から改名)は、乱を鎮圧後も京には戻らず、鎌倉にその身を置いたまま、天皇に反旗をひるがえすのです

天皇は、義貞に尊氏追討を命じます。

同じ清和源氏・八幡太郎義家を祖に持つ尊氏と義貞・・・しかし、義貞は素直に天皇の命令に従い、尊氏を撃ちに出陣します。

やって来た新田軍を撃ち破った尊氏は、その勢いで京に攻め上りますが、奥州から駆けつけた北畠親房楠木正成、そして、態勢を立て直した新田軍に攻められ、命からがら九州へと敗走します。

建武の新政の武士への扱いに不満を抱いて立ち上がった尊氏と、同じ武士でありながら天皇に忠誠を尽くす義貞と正成・・・。

後醍醐天皇を見るかぎり、いつも公家中心・・・直属の軍隊を持たない後醍醐天皇にとって彼らがいなくては、やっていないはずなのに、まるで、武士は朝廷を守る飼い犬のような扱いです。

おそらく後醍醐天皇は、尊氏に義貞を差し向けた時でも「北条氏のように武士が力をつけて、またまた武家政権が復活されでもしたら大変!武士同士争って共倒れになってくれれば、それに越したことは無い」くらいに思っていたはずです。

義貞も正成も、そんな後醍醐天皇に不満を持っていたに違いないのですが、やはり、楠木正成の場合は、彼は領地を持たない悪党であり、後醍醐天皇という看板が無ければ、ただのはみ出し者に成り下がってしまいます。

そして、新田義貞の場合も、同じ源氏の名門でも、鎌倉幕府での地位は足利氏と新田氏では、どうしても足利氏の方が上。

その分、武士たちの人望は厚く、武家の棟梁としての才覚も持っていた尊氏に対して、彼も、同じ源氏の名門として、武家を統率したいという野望がある以上、尊氏と互角に戦い、武家の棟梁となるためには、後醍醐天皇という「錦の御旗」をバックに着けておかなければならなかったのでしょう。

もちろん、そこには、天皇という君主の信頼に答える事を喜びとする古いタイプの武士だった義貞の純情で素朴な性格という物も影響している事は確かです。

そんな、彼の純情さは、恋愛においても発揮されます。

九州へ逃走した尊氏に追い討ちをかけるかどうかの相談をしに、天皇のところへ出向いた義貞は、宮中で一人の女性を見かけます。

静かに琴を弾くその美しい姿に、一瞬にして恋に落ちる義貞・・・

『中将(義貞)行方も知らぬ道にまよひぬる心地して、帰る方もさだかならず、淑景舎(しげいしゃ)の傍にやすらひかねて立ち明かり』・・・
これは、『太平記』に記されているその日の義貞の様子。

淑景舎とは、彼女の邸宅。
義貞は、あまりにもポーっとなってしまったため、どこをどう通って家に帰ってよいのかさえわからず、彼女の家の前で立ちすくんだまま、一夜を明かしたと言うのです。

この時、義貞36歳・・・36歳ですよ!
まるで、10代の少年のような恋心です。

もちろん、次の日もその次の日も、思うのは彼女の事ばかり。
食事もノドに通らずげっそりと痩せてしまいます。

彼女は、公家・一条経尹(つねただ)の娘・・・本名はわかりませんが、天皇に仕える下級女官の官職名・勾当内侍(こうとうのないし)と呼ばれていました。

義貞の胸の内を伝え聞いた後醍醐天皇は、「そんなに思いつめているのなら・・・」と、彼女を義貞に与えます。

義貞は、もう狂喜乱舞!
片時も彼女を離さず溺愛します。

彼女も、それに答えます。
無骨なアズマ男の義貞ですが、その分純粋で彼女一筋。
一方の後醍醐天皇は正式なお后だけで18人というスゴ腕ですから、かえって嬉しかったのかも知れません。

この後『太平記』は、
『中将、内侍に迷うて、勝つに乗り疲れをせむる戦ひを事とせず。そのつひえ、はたして敵のために国を奪われたり』
と、「義貞が負けたのは、内侍との恋に溺れたせいだ」と書いています。

本当にそうなのかどうかは、わかりませんが、確かに、この後、義貞は勝ちに見放されてしまうのです。

逃走先の九州で態勢を立て直した尊氏は、湊川の戦いで、新田軍、楠木軍を破ります(5月25日参照>>)

正成は討死し、義貞は京に敗走。
やがて、京にも攻め込んできた尊氏の勢いに押され、越前へ退去します。

その時、京の都に、彼女を残したまま落ちた義貞・・・越前で奮戦するも、なかなか思うようには勝利できず、すぐに京を奪還する見通しが立たないと判断した義貞は、彼女を越前に呼び寄せる事にします。

彼女は、すぐに身支度を整え、一路、越前へと向かいます。

しかし、義貞は、敵が篭もる藤島城に向かう途中、遭遇した別隊の敵の矢に眉間を撃ち抜かれ、彼女の到着を待たずに命を落とすのです。

彼女と始めて会ったあの日から二年・・・38歳の夏でした。

その後の彼女は、尼となって京の嵯峨の庵で、義貞の菩提を弔いながらひっそりと暮らしたとも、狂乱して琵琶湖に身を投げて義貞の後を追ったとも言われています。

恋にも、戦にも純情を貫いた義貞・・・もう少し世渡り上手なら、彼の人生は違う結末を迎えたのでしょうか。

Yosisadaasagaocc 今日のイラストは、
純情な義貞さんのイメージ『夏風にそよぐ朝顔』で・・・
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "恋に戦に・新田義貞の純情"

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月26日 (火)

朝鮮軍来襲!応永の外寇

 

応永二十六年(1419年)6月26日、朝鮮半島の李氏朝鮮が、大軍を率いて対馬に来襲!
『応永の外寇』
です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

李氏朝鮮はもともと高麗の大臣であった李成桂が、倭寇の討伐に力を発揮した事で、国内でも勢力を拡大し、やがて高麗そのものを滅ぼして、1392年に建国した国です。

朝鮮半島は13世紀の頃から、ずっと倭寇に悩まされ続けていたのです。

倭寇とは、朝鮮半島や中国大陸の沿岸で猛威を振るった日本の海賊の、朝鮮・中国側からの呼び名です。

Wakoucc                 倭寇

彼らはもともと、北九州や瀬戸内に住んでいた海の民・・・古来より海上を往来しての交易をなりわいとしていましたが、南北朝時代の頃からはそのテリトリーが朝鮮半島付近まで拡大していたのです。

しかし、彼らの中には、船団を組み、武装して港や村を襲撃し略奪行為をくりかえすやからも多くいました。

そういった海賊行為をはたらく彼らは、倭寇と呼ばれて恐れられ、高麗の滅亡を早め、の衰退を招いたとも言われています。

・・・で、彼らの海賊行為にほとほと手を焼いた李朝鮮・・・。
何度も室町幕府に取り締まりを強化するよう要請しますが、なかなか事態は変わりませんでした。

やがて、応永十一年(1404年)、3代将軍・足利義満は、倭寇の取り締まりを強化する事を条件にとの公認の貿易を開始します。

これが、勘合貿易という物で、公認の証しの『勘合符』という、いわゆる「お墨付き」を持った船だけが往来できる・・・という物でしたが、残念ながら、効果はすぐには現れませんでした。

そんなこんなの応永二十六年・・・5月に、「大規模な倭寇が朝鮮半島を襲う」という事件が起こります。

勢いが衰えない倭寇はそのまま、翌月の6月には中国本土の遼東半島を襲います

しかし、ここで、劉江(りゅうこう)率いる軍隊と激突!
1000人の兵を失うという大打撃を受けて敗退します。

日頃から、室町幕府のらちのあかない取締りにイライラしていた李朝鮮は、倭寇を叩きのめすには、今が絶好のチャンスとばかりに、兵船227隻、兵員1万7千人という大軍を率いて、当時、倭寇の本拠地と思われていた対馬に来襲し、攻撃をしかけてきたのです。

これが、応永二十六年(1419年)6月26日の『応永の外寇』です。

すわ!元寇の再来か!
  (文永の役:10月19日参照
  (弘安の役6月6日参照
と、幕府内では大騒ぎ。

しかし、もともと倭寇撃退のための進軍であって、日本を侵略するつもりではなかった朝鮮軍は、10日余り滞在しただけで、そのまま撤退し、それ以上は何事も起こりませんでした。

この時の痛手と、勘合貿易での規制の厳しさが増した事もあり、一旦倭寇は下火になって行きますが、それは、そこ・・・もともと海賊というあこぎなご職業をなさっている方々が、そのままおとなしくしている・・・なんて事があるはずもなく、日本が戦国時代に入る頃には、再び倭寇が盛んになり始めます。

しかし、今度の倭寇は前の物とは違い、「真倭」と呼ばれる日本の倭寇は少なく、ほとんど中国人自身による中国への略奪行為でした。

やがて、それら後半の倭寇も、豊臣秀吉という強力なリーダーの誕生によって、強固な禁制が行われるに至って、徐々に鎮圧される事になります。

世は戦国・・・交易と海賊が紙一重の時代とは言え、倭寇と聞くと少し耳が痛いです・・・。

今回の『応永の外寇』では、「倭寇撃退」という目的だけで、日本を侵略する事なく、母国へお帰りになった朝鮮軍に感謝しなければ・・・。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "朝鮮軍来襲!応永の外寇"

| コメント (4) | トラックバック (0)

2007年5月25日 (金)

七生報国・湊川の戦い

 

延元元年・建武三年(1336年)5月25日は、『湊川の戦い』のあった日・・・合戦の敗者・楠木正成のご命日でもあります。

ブログでは、昨年のこの日も、『湊川の戦い』を書かせていただきましたが、今見直してみますと、やはり書き足らない事も多く、もう一度あらためて今日書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

足利尊氏楠木正成新田義貞といった味方を得て鎌倉幕府を倒し、新政権を立ち上げた後醍醐天皇(ブログ:5月22日参照)

しかし、その『建武の新政』はわずか二年で崩れる事になります。

後醍醐天皇自ら、「天皇中心の政治を・・・」と理想を追い求めるのはけっこうですが、鎌倉幕府の時代に政治の事は幕府にまかせっきっりだった公家たちは、いざ何かやろうと思っても、何から手をつけて良いのやらさっぱり・・・。

また、打倒鎌倉幕府の時に、たいした事もやっていない貴族たちが新政権では重要な役職に着き、貢献した武士たちには、逆にたいした恩賞もない・・・こんなもん武士たちの不満がつのらないわけがありません。

そんな建武二年(1335年)、「鎌倉幕府最後の執権だった北条高時の遺児・時行が幕府復興を願って、鎌倉に攻め入り占領する」という事件が起こります。

当然のように、その乱の鎮圧に鎌倉へ向かった足利尊氏。
乱はあっという間に鎮圧されますが、これをきっかけに尊氏は、天皇へ反旗をひるがえす事になるのです。

尊氏は京へ帰らずそのまま鎌倉で、「打倒!後醍醐天皇」を表明し、各地の武士たちに味方になるように声をかけます。

後醍醐天皇はすぐさま新田義貞を派遣し尊氏を討とうとしますが、尊氏は新田軍を撃ち破り、逆に京の攻め上ります。

しかし、この時は、奥州から追撃してきた北畠親房、態勢を立て直した新田軍、さらに楠木正成らも加わった朝廷側総動員で立ち向かわれためにあえなく敗退・・・九州へ落ち延びます。

やがて、九州で態勢を立て直した尊氏・・・しかも、今度は西国の武士たちを味方につけ、その数は水上2万5千、陸上1万という巨大な軍となって、西から京を目指して攻め上ります。

この尊氏の軍を、義貞・正成らが迎えうった戦いが、『湊川の戦い』です。

この時、後醍醐天皇は、「先に兵庫(湊川)で、足利軍を迎えうつべく陣を敷く新田軍と合流して力を合わせよ」と正成に命じますが、正成には別の秘策がありました。

それは、「数の上では断然足利軍の方が上・・・このままでは勝ち目がないと判断し、新田軍を撤退させ、天皇以下全員が一旦比叡山に退いて、その間に一方で畿内の兵を集め、一方で淀川流域を制圧し、京に入った足利軍の兵糧を絶つ。
そして、ころあいを見計らって比叡山より撃って出る」

という作戦でした。

しかし、「天皇が戦う前から都を捨てて避難するというのは、かっこがつかん!」と周囲は猛反対。
正成はさらに、「戦は最後に勝つ事のみが重要。途中の恥は捨ててください」と食い下がりますが、結局、聞き入れてはもらえず「天が味方するものと信じて迎撃をせよ」との命令が下ります。

正成は、「天皇は、この正成に討死せよとのお考えである」と、死を覚悟して延元元年・建武三年(1336年)5月25日の朝、湊川に向けて出撃するのです。

正成が湊川に到着した時には、尊氏が大船団を率いて瀬戸内海を越え、まさに上陸しようとしていた時でした。
完全に出遅れです。
準備も何もなく、そのままの状態で合戦に挑む事になってはしまいましたが、そのわりには、新田軍も楠木軍も善戦します。

しかし、やはり多勢に無勢・・・そのうち新田軍が敗走し、もはや合戦の勝敗は決しました。
それでも、正成は戦い続けますが、やがて兵の数も尽き、死に場所を求めて戦場を離れ、近くのゆかりの村へ身を隠します。

自害の決意をした正成は、舎弟の七郎・正季(まさすえ)に語りかけます。
「人は、最期の時の思いによって、次に生まれ変わる世界が変るっちゅーけど、今度生まれて来る時は、お前は何に生まれ変わりたい?」
正季は笑いながら・・・
「俺は、あと、7回でも同じ人間界に生まれ変って朝敵を滅ぼしたりますよ!」
正成も、うなづきながら・・・
「俺も同じや・・・ほな、お前も俺も、もっかい生まれ変わって、次は本懐を遂げような」

この「7回生まれ変っても国に報いる」という話は、『七生報国』と呼ばれ、戦時中にはおおいにもてはやされたという、もう一つの悲しい歴史を持っています。

戦争に駆り出す道具に使う事には賛成できませんが、不利を承知でひたむきに戦う正成さんの姿には、判官びいきならずとも感動をしてしまいます~。

それは、先祖代々、天皇に仕えてきた名家の坊ちゃんである尊氏と、後醍醐天皇という一人の天皇に見出された楠木正成と・・・同じように私領を増やしたいと願い、同じように武士の長として部下の幸せを思う中で、尊氏にとって天皇家は後醍醐天皇だけではなかったけれど、正成にとっては後醍醐天皇だけが天皇だったという事でしょう。

元弘元年(1331年)、笠置山で後醍醐天皇に初めて謁見したあの日から(ブログ:9月28日参照)、わずか六年・・・彗星のごとく歴史の表舞台に登場した楠木正成は、この日、静かにその表舞台を降りました。

Kusunokiminatogawacc 今日のイラストは、
『湊川で奮戦する楠木正成』・・・のつもりです。

♪忍ぶ鎧の 袖の上(え)に 散るは涙か はた露か♪

『青葉茂れる桜井の』という名曲を思い出します・・・古い!
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "七生報国・湊川の戦い"

| コメント (2) | トラックバック (1)

2007年4月22日 (日)

なぞなぞのルーツ?室町の謎かけ

 

今日は、歴史のお話・・・というよりは、『コラム』っぽい感じで、室町時代に流行した「謎かけ」遊びについて書かせていただきます。

「謎かけ」と言えば、落語家さんたちがよくやる「○○とかけて、○○と説く、その心は・・・」というのを思い出しますが、室町時代に流行した“謎かけ”というのは、「なんぞ、なんぞ」と問いかけて、その答えをせまる・・・という、まさに、今で言う“なぞなぞ”のような物事を「謎かけ」と呼びました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

『後奈良院御撰何曽(ぎょせんなぞ)という物に、こんな問いかけがあります。

「上を見れば下にあり、下を見れば上にあり、
母のはらをとをりて、子のかたにあり」とは、なんぞ?

もちろん、答えは「一」ですが、これって、今でも“なぞなぞ”の問題として時々登場しますよね。
他にも・・・

「道風(とうふう)が、みちのく紙に山といふ字を書く」とは、なんぞ?

これは、「道風」から「みちのく=道を退かせ」て「紙=上」に山という字を書くので答えは「嵐」

もう一つ・・・
「海の道、十里に足らず」とはなんぞ?

これは、「海の道=浜辺」で、「十里に足らず=十里に満たないという事で九里」・・・で、浜辺が九里→浜九里→はまくり→はまぐり→・・・って、バンザ~イ、バンザ~イ(モーレツしごき教室・大喜利風)

ところで、この『御撰何曽』の中には、今では通用しない「謎かけ」もあります。

「母には二たびあひたれども父には一たびもあはず」とは、なんぞ?

これ・・・、答えは「くちびる」なのですが・・・
「母」「父」という言葉を発する時に、「母」の場合は2度くちびるが合うが、「父」の場合は一度も合わない・・・という事ですが、意味わかりませんよね。

現在は「母」の発音は「はは=HAHA」と発音し、ハ行は「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ=HA・HI・FU・HE・HO」というH音の発音をします・・・って、今書いてて気付きましたが、フは今でもFUでF音ですね~。

そう、こういう風に当時のハ行は、現在のフ=FUと同じようにF音で発音していたんです。
つまり、「ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ」は、「ファ・フィ・フ・フェ・フォ=FA・FI・FU・FE・FO」と発音していました。

ですから、「母」は「ハハ」とは言わず「ファファ」って言ってたんですね。
・・・で、「母」と言う時は、「くちびるが2回合わさる」となるわけです。

この発音の違いは、やはり時代をさかのぼればさかのぼるだけスゴくなって行くわけで、奈良時代には、ハ行がF音だったのはもちろんの事、母音が「ア・イ・ウ・エ・オ」の5つだけではなく、8音あったと言いますから、きっと奈良時代の人が英語を習ったら、現代人よりはるかにネイティブな感じでしゃべれたんじゃないでしょうか。

もし、時代劇を本当にその時代にしゃべっていた言葉でやったとしたら、きっと字幕スーパー出さないとわからないんじゃないかと思います。

少し話がそれましたが、以前「小野篁」のページで書いた嵯峨天皇のクイズ
「子子子子子子子子子子子子」は、何て読むか?
答えは小野篁のページで>>)

とか、

定子中宮が出して清少納言が答えた
「高炉峰(中国の山の名)の雪は、いかに?」
答えは中宮・定子と清少納言のページで>>)

なんていうのも、“なぞなぞ”だと言えばそう言えなくもない気がしますが・・・。

それにしても、ハ行がF音の発音だったって事は、現在JとZが混ざっているザ行なんかも、違う発音だったんですかね。
今度、調べてみます~。

Marikomacc 今日のイラストは、
『なぞなぞ』・・・で、思いつく物がなかったので、『遊び』というワードから、『鞠と独楽』を書いてみました~。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "なぞなぞのルーツ?室町の謎かけ"

| コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月16日 (月)

足利尊氏・裏切りの要因

 

元弘三年(1333年)4月16日、再び幕府に反旗をひるがえした後醍醐天皇を討伐するため、足利高氏が京に入りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

元弘三年の3月、足利高氏は鎌倉幕府から京へ出陣するよう命令を受けます。
それは、「京の六波羅探題と協力して、後醍醐天皇の一派を討伐せよ」というものでした。

31歳という当時としては遅い年齢で即位した後醍醐天皇

天皇は、即位した直後から、政権を幕府が握っている現在の情況に不満を感じ、「武家から政権を奪回し、天皇中心の政治を行いたい」と、密かに動き始めるのです。

やがて、それは正中元年(1324年)の『正中の変』、元弘元年(1331年)の『元弘の変』という形で表面化します。(ブログ:9月28日参照)

その両方のクーデターに失敗した後醍醐天皇は、隠岐へ流罪の身となりますが、すぐに島を抜け出し、またまた倒幕をしようと画策しはじめます。

・・・で、幕府は、その後醍醐天皇を討て・・・と、高氏を派遣。
元弘三年(1333年)4月16日に高氏が京にやって来た・・・というわけです。

ところが、京に入った高氏は、協力するはずの六波羅探題を攻撃・・・一気に落としてしまいました。

もちろん、これは以前から後醍醐天皇の密かなお誘いに高氏が答えたわけで、天皇は大いに喜び、自分の名前・尊治の尊の一字を与え、この後、足利高氏は足利尊氏と名乗る事になるのです。

しかし、そうやって仲良く鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)わずか2年後に尊氏は、今度はその後醍醐天皇に弓を引く事になるのです。

尊氏の北朝、後醍醐天皇の南朝・・・一つの国に二人の天皇という、ご存知、南北朝の時代に突入するわけですが、この2度の裏切り行為により、尊氏は「逆賊のレッテルを貼られる事となり、天皇を護った楠木正成は忠義の人となるのです。

それにしても、尊氏はなぜ、2度も裏切ったのか?

最初は幕府に・・・そして、2度目は、ともに幕府を倒した後醍醐天皇に・・・

尊氏はそんなに政権を握りたかったのか?それともただ反逆したがりなのか?

しかし、一見別々に見えるこの2度の裏切り行為・・・よく見てみると、尊氏なりの一本筋の通ったポリシーが見えてくるのです。

まず、最初の鎌倉幕府との戦い・・・

当時の鎌倉幕府は、鎌倉幕府とは言えども、源頼朝の血筋は耐え、執権だった北条氏が事実上政権を握ってるものの、14代の北条高時の代になり、坂道を転げ落ちるように幕府の権威は衰退し、配下だった地方武士たちが次々に独立し、領地を持たない武士「悪党」となって各地で暴れ回っている・・・といった状況でした。

・・・で、この北条氏・・・初代の執権・北条時政は、平貞盛から数えて6代め。

つまり平家の子孫。

直系が耐えたからとは言え、頼朝が開いた源氏の幕府は、いつしか平家の幕府となっていたのです。

そこへ、登場する足利尊氏は八幡太郎義家を先祖とする名門・清和源氏の家系。

源氏には、義家から数えて7代目の子孫が天下を取るという言い伝えがありましたが、7代目の時はまだ力が弱く、「私の命を縮めて3代のちに天下を取らせたまえ」と八幡大菩薩に祈願して7代目が自害したと言われています。

その3代目というのが尊氏だったのです。

最初の幕府への裏切りは、平家から政権を奪回するための源氏の棟梁としての戦いだったとも言えなくもありませんが、ただ、この「3代のちに・・・」という話はちょっと出来すぎのような気かします。

しかし、この伝説は後から作られた物だとしても、尊氏の中に、源氏の棟梁としての責任感、使命感のような物があったのは確かなのではないでしょうか。

それは、部下に対する「忠義」とでも言いましょうか・・・一族の長として「部下たちに良い思いをさせてやりたい」といった感じの気持ちです。

そう考えると2度目の裏切り行為も、同じ道筋である事がわかります。

後醍醐天皇が打ち出した「建武の新政」が、あまりにも天皇中心で、武士に何の保障も無かった事。

「こんな政治をやられたら、かわいい部下たちは食っていけない!」と・・・。

やはり2度目も、一族の長であるという責任感、使命感が裏切り行為に走らせたのではないでしょうか。

こうして見ると、足利尊氏の2度の裏切り行為は、目上に対する「忠義」よりも、部下に対する「責任感」を重視した典型的なリーダーという、一本の線でつながる気がするのですが・・・。
 

Takauzisyutuzin1cc 今日のイラストは、
一応、尊氏さんのつもりです~。

だんだん想像が激しくなって来ている気がしますが、例の肖像画もご本人じゃないのなら、好きに想像しても良いのではないかと・・・。

 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "足利尊氏・裏切りの要因"

| コメント (2) | トラックバック (0)

2007年4月 1日 (日)

将軍・義政の贅沢猿楽興行

 

寛正五年(1464年)4月1日、京都・糺河原で将軍・足利義政主催の「勧進猿楽」の興行が行われました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

室町幕府八代将軍・足利義政は、政治をかえりみず文化・風流にうつつをぬかし、庶民の苦しみそっちのけで、銀閣寺などの造営に力を入れていた話は、もう有名ですよね。

まぁ、おかげで東山文化という和の極みが確立された・・・という事は、後から考えれば良かったかも知れませんが、当時、生きていた人々にとっては、はた迷惑な話です。

しかも義政さんは、何事も派手にやらねば気がすまない性格で、事あるごとに盛大なイベントを行うのが大好きだったのです。

その盛大なイベントの中の一つがこの4月1日に行われた「勧進猿楽」の興行だったのです。

「勧進」というのは、以前も書きましたが、本来、社寺の修復などの寄付を募ったりする事で、猿楽や能などに「勧進」がつくという事は、今で言うところの「チャリティ・コンサート」のような物だったわけですが、この頃には、すでにその言葉の意味は無視されつつあり、権力者が芸能などの興行を催して、それを身内だけではなく、庶民にも見せる事を「勧進」と呼ぶようになっていました。

「権力者が一般庶民とふれあう機会」と言うと聞こえは良いですが、当時の権力者という人たちは皆、税金で食ってるわけですから、その贅沢なイベントの費用は結局庶民の税金に跳ね返って来る・・・という、アリガタ迷惑な事になっていたのです。

ところで、その「勧進猿楽」は、4月1日を初日に、7日と10日の合計3度行われました。
Tadasugawara 場所は、糺河原(ただすがわら)
この京都・糺河原というのは、加茂川と高野川の合流地点で、現在では京阪電車の出町柳駅から橋を渡ってすぐのあの川に挟まれた葵公園のあるあたりです。

その河原に円形の舞台を作り、そのまわりに六十間と言いますから100m余りはある豪華な桟敷(さじき)をしつらえて、将軍・義政&富子夫妻を始め、細川勝元山名宗全といった当時のトップ集団が豪華絢爛なとびっきりの衣装に身を包み列席するという、そこいらのイベントとはわけが違うものスゴイ物でした。

・・・と、なんで、こんなイベントごときの話がくわしくわかるかと言いますと、実はこのイベントに行きたくてたまらなかったのに行けなかった人の日記が残っているからなのです。

その人の名は大乗院・尋尊(じんそん)と言います。
この大乗院・尋尊という人は、高級貴族で学者の家に生まれ、最終的には奈良興福寺大乗院門跡・大僧正という地位に着くわけですが、あくまでそれは家柄が良いから・・・。
美しい庭を造ったり、文化的には貢献もしていますが、歴史上「何をやった」と特筆するほどの偉人ではないように思いますが、とにかくメッチャくわしい日記を残している人なのです。

この人のお父さん・一条兼良(かねら)という人も日記を残していて、この人たちのおかげで、この時代の生活ぶりや事件のあらましなどが、ものすごくよくわかる事ができ、後世の歴史好きから見ると大変ありがたいお人なのです。

そして、この尋尊さんも、将軍に負けず劣らずの派手好きのイベント好き・・・。
そんな彼が、将軍主催のイベントに参加しないなんて事があるはずがありません。

何日も前から、心ウキウキ・・・彼の住む奈良から京都まで、わざわざ猿楽を見に出かける予定を組んでいました。

しかし、彼は高級貴族。
将軍様だって豪華絢爛のお衣装でお出ましなのですから、自分もそれなりの物を整えて行かなくてはなりません。

衣装はもちろん、牛車の準備、自分専用の桟敷の準備、なんでか知らないけど茶道具の準備・・・で、彼はその費用を捻出するため、臨時の税を徴収する事にします。

しかし、当時はすでに正規の年貢さえとどこおりがちのご時世。
思ったとおり、荘園の農民は猛反対!
「お前の贅沢な見栄張りに、付き合ってられるか!」と言ったかどうか知りませんが、とにかく抗議殺到です。
あげくの果てには、仲間の興福寺の僧たちからも反対され、結局、この日の「勧進猿楽」を諦めなければならなくなったのです。

「無念である・・・」と、この日の日記をしめくくる尋尊さん。
くやしさ余って、あれやこれや書いてくれたおかげで、将軍・義政の贅沢三昧が後世にまで記録される事となったわけですから、まぁ貢献したっちゃぁ~貢献した事になりますわね。

Takiginoucc 今日のイラストは、
『薪能』のイメージで・・・。

幽玄の世界ですね~
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "将軍・義政の贅沢猿楽興行"

| コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月15日 (木)

兼好法師の恋愛感って・・

 

正平五年(1350年)2月15日は、『徒然草』でお馴染みの、兼好法師の忌日です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ただし、「1352年に生存していた」という説もあって、亡くなったのは、「1352年以降」とする意見もありますが、とりあえず今日は兼好法師さんについて書かせていただきます。

兼好法師の本名は、卜部兼好さん。
お家が京都の吉田神社の神官の家系だった事から、吉田兼好と呼ばれたりしますが、ご本人は、ひょっとしたら“吉田兼好”と名乗った事は無かったんじゃないでしょうか。

・・・で、兼好法師と言えば、やはり『徒然草』
「つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば・・・」
という有名な書き出しで始まる名随筆。

歴史や古典に興味がなくても、確実に学校で勉強させられる物の一つですね。

文章もなめらかで読みやすく、出家した身でありながら、堅苦しいテーマだけではなく、人生観や女性観、人間関係など、説教臭くならずに、おもしろエピソードを散りばめて、今でも、人生の“座右の銘”になるような名言を語ってくれています。

ただ、兼好さん、女性観に関しては、やたらきびしい・・・。
貧欲だとか、浅はかだとか、わがままだとか・・・いったい、若い頃どんな恋愛してきたんだ?って感じです。

「すなほならずして、拙きものは女なり」
~素直でなく、完璧でないのが女だ~

「もし、賢女あらば、それもものうとく、すざまじかりなん」
~もし、賢い女がいたら、それはそれでウザイ~

「妻(め)といふものこそ、をのこの持つまじきものなれ」
~結婚なんて、するモンじゃないよ~

お~い!兼好さ~ん、何があったんだ~?
しかも、女に惚れこんで通いつめたり、子煩悩になったりせずに、一定の距離を置いて、時々女の所へ通うくらいにした方が長続きする・・・何て事も書いてます。

しかし、そのワリには、片一方で、プラトニックな恋を絶賛しています。
「男女の情もひとへに逢い見るをばいふものかは」
~会って結ばれるだけが恋じゃないんじゃない?~
兼好さんによれば、契りを結ばずに終った恋ほど、趣のある物はないのだそうです。

絶対、この人、女でヒドイめに遭ってますね。
若い時は、何度かあったんでしょうね~修羅場が・・・。

・・・で、そんな恋に恋してる思春期の乙女のような恋愛感の兼好さんに、ラブレターの代筆を頼んだ人がいます。

Moronaocc それは、足利尊氏・義詮(よしあきら)親子の執事として権勢を欲しいままにした婆沙羅大名の代表とも言える人物・高師直(こうのもろなお)です。

師直はとにかく女好き・・・で、ある時、メチャメチャ美人を見つけ、一目で恋に落ちます。
しかし、その女性は、出雲・隠岐の守護であった塩屋(えんや)高貞さんの奥さん・・・つまり、人妻です。
でも、あきらめきれない師直は、何とか彼女のモノにしようと、文章の達人・兼好さんに、ラブレターの代筆を頼んだわけです。

この頃のラブレターというのは、奈良・平安の頃から続く、日本の恋愛形式の定番です。
この時代、恋愛はまず、ラブレターから始まる物で、メチャメチャ重要・・・合コンで交換したメルアドに、帰ってから送る一発めのメールくらい重要です。
今後、進展があるかどうかは、ソレに懸かっています。

この“ラブレターの代筆”という仕事は平安時代から存在していて、実際に報酬をもらっていたかどうかは定かではありませんが、字のうまい人、文章のうまい人、歌のうまい人などは、しょっちゅう頼まれていたようです。

・・・で、その恋の結果は・・・というと・・・【ブー×】
さすがの兼好さんの名文も、夫を愛してやまない妻には効き目がなかったようです。

しかし、師直は、この一件を「ラブレターが悪い!」と、天下の名作家をクソミソにけなしまくる始末。

最終的に、「夫の塩屋高貞がいなきゃいいんだ!」と、高貞が謀反を企てていると、ウソの罪をでっちあげて殺そうとします。

危険を感じた高貞さんは、奥さんを連れ逃走しますが、逃げる途中に追い詰められ、夫をかばった奥さんは殺され、それを目の当たりにした高貞さんは、その場で自害・・・とても、悲しい結果となってしまいます。

結局、それって、兼好さんのラブレターが問題なんじゃなくて、師直さん、アンタの性格に問題アリだろ?って感じですね。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "兼好法師の恋愛感って・・"

| コメント (4) | トラックバック (0)

2006年10月 5日 (木)

南北朝の合一

 

元中九年・明徳三年(1392年)10月5日、足利義満の時代に、南朝・後亀山天皇が北朝・後小松天皇に譲位する形で、ようやく南北朝が合一しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

最初は仲良く、執権・北条氏を倒して、鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐天皇足利尊氏でしたが、後醍醐天皇の建武の新政の失敗からふたりの関係に亀裂がはいり、尊氏は京都で北朝を、後醍醐天皇は吉野で南朝を、それぞれの天皇、それぞれの元号を主張した南北朝時代に突入します。

後醍醐天皇の大いなる味方・楠木正成湊川の戦い(5月25日参照>>)で敗死しても、新田義貞越前で倒れても(7月2日参照>>)ひとつの国にふたりの天皇がいるオカシナ形は、57年間に渡って続きました。

しかし、その57年間も、最初のうちこそ互角に戦っていたものの、そのほとんどは圧倒的に北朝=室町幕府の優勢で、政治の中心は京都にありました。

・・・にも、かかわらず、なぜ、57年間も北朝は南朝を倒せなかったのか?

それは、三種の神器を南朝の後亀山天皇側が持っていたからです。

三種の神器とは、神代の昔から天皇家に伝わる八咫の鏡(やたのかがみ)草薙剣(くさなぎのつるぎ)八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)の3つの宝物です。

若いかたには、ピンと来ないかもしれませんが、この三種の神器はとても重要で、これを持っている事が正統な天皇家の証とされています。

現在でも、第二次世界大戦で無条件降伏した際、昭和天皇が三種の神器を相手側に奪われないかと心配されたという事がありましたし、現在の天皇陛下も即位される時、昭和天皇からの継承の儀式を行って即位されています。

昨年の大河ドラマでも、平家とともに海に身を投げた安徳天皇から三種の神器を奪えなかった・・・と義経さんが悔しがるシーンがありました。

ですから、南朝が三種の神器を持っている以上、本来はそちらが正統な天皇家となるわけで、いくら北朝がとてつもない強さであっても、一気に南朝をぶっ潰してしまう、という強硬手段になかなか出れなかったわけです。

しかし、やはり57年経って、圧倒的強さの北朝に、南朝はもはや虫の息。

北朝の出した講和条件を呑んで命をつなぐしかでだてがありませんでした。

そして、元中九年明徳三年(1392年)10月5日に南朝後亀山天皇から、北朝後小松天皇に、三種の神器と皇位を譲る・・・という形で講和が成立し、南北朝の時代は終わりました。

室町幕府はもう三代将軍・足利義満の時代でした。

その講和条件とは、
① 三種の神器を北朝・後小松天皇に渡し、南朝・後亀山天
   皇は譲位する。
② 以後、天皇は南朝・北朝が交互に立つ。
③ 皇室領のうち、国衙領は南朝派の物、長講堂陵は北朝
   派の所領とする。

という物でした。

しかし、結局はそれらの条件は一つも守られませんでした。

皇位継承は、三種の神器だけが後小松天皇のもとに渡され、譲位の儀式などはいっさい行われる事もなく、所領に関しても、すでに幕府が全面的に仕切っていて南朝側の入る余地もなく、元号も北朝の使っていた明徳がそのまま使用され、南朝の元中は消されました。

次の天皇さえも、北朝の次に南朝に来ることはなく、後小松天皇の息子が継承してしまいました。

もちろん、元南朝側の武士たちは不満を抱いて各地で反乱を起こしますが、もはや室町幕府が揺るぐ事はなかったのです。

いつの世も講和条件というのは、対等の間でこそ成り立つ物で、ここまで力の差が出ていれば、無条件降伏も同じ事なんでしょうね。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "南北朝の合一"

| コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月18日 (月)

日本初!正長の土一揆

 

正長元年(1428年)9月18日、日本の国が始まって以来、初めて土民がいっせいに反乱に立ち上がった正長の土一揆が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戦国時代は、多くの名だたる武将が歴史を動かしました。

しかし、歴史を動かしたのは、貴族や武士だけではありません。

名も無き庶民たちが歴史を動かす・・・それが、一揆です。

一揆の火種は、この日本が戦国に突入するもっと以前、建武の新政の頃から、すでに少しずつくすぶり始めていました。

「このごろ都にはやるもの、夜討ち、強盗、にせ綸旨(りんじ・天皇の命令)・・・」で始まる有名な二条河原の落書

この落書きが張り出されたのが、後醍醐天皇の建武の新政が行われた年、建武元年(1334年)の事です。

同じ年、若狭国・太良荘(たらのしょう)では、派遣された代官が、自分の領地の耕作に地元農民を使ったり、城造りに農民を動員したり、農民の田畑を奪おうとしたりした事に怒った農民たちが代官の悪行を文書にまとめ、代官追放を訴える、という事件も起こりました。

この頃から農民たちの生活が徐々に変わり始めていたのです。

トラクターこそ無いものの、、鋤(すき)や鍬(くわ)などの鉄製道具の発達や、二毛作の開始。

物の流通や貨幣の流通がさかんになって、農家の作物が商品として作られるようになります。

その結果、どんどん豊かになる者、逆に借金に苦しむ者と格差が出るなかで、自分たちの農村を自分たちで管理する心が生まれてくるのです。

そうなると、領主が無理難題をふっかけてきても、村全体で抗議する・・・といった事が起こるようになってくるのです。

正長の一揆の二年前・応永三十三年(1426年)に、近江の国・坂本の馬借(貨物運送業者)たちが一揆を起こしました。

しかし、この時はそれほど広範囲に広がることはありませんでした。

そして正長元年(1428年)の年。

この年は、前年からの凶作に加えて疫病の流行、そして将軍の交代などが重なって、不安が高まっていました。

そんな時、二年前と同じく近江国の大津坂本の馬借たちから始まった馬借一揆が広がりはじめ、土民たちが一斉に立ち上がる土一揆と変化し、高利貸しをしている酒屋・土倉・寺院などを破壊。

質に入っている品物を勝手に取り出し、借金の証文を破って捨てるといった行為に走ります。

この時は、官僚の畠山満家が幕府の命を受け鎮圧に乗り出しますが、なかなかその勢いは衰えませんでした。

やがて、この土一揆は、播磨・丹波・伊勢・大和と近畿一帯を巻き込んでしまいます。

土一揆とは、土民(農民や都市の庶民)が、荘園領主や大名・高利貸しに対して起こす一揆の事をいいます。

たいていの場合、土一揆は「徳政」を要求する徳政一揆に変化します。

「徳政」とは、借金をチャラにしたり、売却地を取り戻したりする事です。

一揆の勢いで自分たちで徳政を行うのを「私徳政」と言いますが、時には一揆を終結させるため幕府が「徳政令」を出す事もありました。

この、正長の土一揆の時は、幕府は徳政令を出しませんでしたが、証文などが破棄されたため、私徳政が行われた・・・という事になります。

ただし、この時大和では、多くの荘園を持っていた興福寺が徳政令を認めたためこの地域では徳政令が施行されました。

その記念に農民たちが、お地蔵様に刻んだ宣言文が、現在も奈良市柳生町に残っています。

やがて、徐々に一揆も成長し、山城の国一揆(12月11日参照>>)加賀の一向一揆(6月9日参照>>)といった、より団結の強いものへとなって行きます。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします

具体的な一揆のようすは、6月9日【一味同心・一揆へ行こう】のページをご覧あれ>>

 

 

続きを読む "日本初!正長の土一揆"

| コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月22日 (火)

足利義満の「王権争奪計画」

 

延文三年(正平十三年・1358年)8月22日は、室町幕府三代将軍・足利義満さんのお誕生日です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

足利尊氏が開いた室町幕府(ブログ:8月11日参照)は、後醍醐天皇の南朝に対する北朝という言わば逆賊からのスタートでした。

南朝という最大の敵と戦いながら、幕府の中でも内紛が起こるという混乱を乗り越えて、応安元年(1368年)に、足利義満が11歳で室町幕府三代将軍になる頃には、ようやく落ち着き始めていました。

そして、将軍職を継いでから10年後、京都の室町『花の御所』と呼ばれる華麗な邸宅を建設し、そこで政治をおこなった事から、この時代は室町幕府と呼ばれます。

官僚や侍所、政所といった政治機関を足利一門で固め、京常駐では最大規模の『奉公衆』という将軍・親衛隊まで持つ事になり、ついに明徳三年(1392年)、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に皇位を譲る形で、南北朝時代は終わりを告げます。

その間すでに、義満は宮中に参内した時に武家のマナーではなく、公家のマナーで天皇と接したり、次期天皇の即位の大礼の日程を決めたり、元号を決定したりと、うさん臭さ丸出しの行動をとっています。

やがて、応永元年(1394年)、37歳の若さで将軍職を息子の義持に譲り、朝廷から任命された最高官である『太政大臣』を、翌年すぐに辞退してしまいます。

武家と公家、両方の最高職を蹴った事になるわけです。

これは、将軍や太政大臣より上の地位を狙っていた証拠とも言えます。

しかし、それより上の地位というのは、天皇しかありません。

その直後、義満の邸宅を訪れた関白・一条経嗣が、決定的な場面を目撃してしまいます。

それは、参議に昇進した西園寺実敦が邸宅の庭で舞を舞っていて、それを義満が見ている・・・という場面。

これは「拝賀奏慶(はいがそうけい)」という物で、新しい官職に任命された公卿が謝礼の意味で舞を舞う、という儀式のような物で、当時めずらしい事ではありませんでした。

ただ、それは上皇に対して行う儀礼であって、未だかつて将軍の前では、ただの一度も行われた事はなかったのです。

そのうち、義満は右大臣や内大臣の任命まで行うようになります。

そして、応永八年(1401年)義満は、明との国交を開きますが、明の皇帝からは「日本国王」としての扱いを受け、自分自身も皇帝に対して「日本国王臣源」と署名しています。

Dscn1995a いよいよ義満が天皇になる日も近いのでは?・・・と思いきや、応永十五年(1408年)あっけなくこの世を去ってしまいます。

それまで日本の歴史上、天皇をしのぐ権力を持った人は何人もいます。
しかし、天皇にとって代わろうとした人は、まずいない。

はたして、義満が本当に天皇になりたかったかどうかは、「本人のみぞ知る」・・・といったところでしょうか。

今となっては、状況証拠による憶測でしかありませんが・・・
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "足利義満の「王権争奪計画」"

| コメント (0) | トラックバック (1)

2006年8月11日 (金)

おめでとう!足利尊氏さん

 

延元三年・暦応元年(1338年)8月11日、足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、以後死ぬまでの20年間権勢をふるいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

北条氏を仲良く倒した時は、「よくやった!」と自分の名前・尊治の1字をとって高氏を尊氏に改名させたくらい足利尊氏の事を気に入っていた後醍醐天皇(8月16日参照>>)

しかし、後醍醐天皇の行った公家びいき満載の建武の新政にブチ切れた足利尊氏は、北条との戦いでともに戦った新田義貞(10月13日参照>>)楠木正成を倒し(5月25日参照>>)、京を制圧します。

さらに、新政権の担当者に自分がなった事を内外にアピール。

後醍醐天皇は、吉野へ逃亡して尊氏の北朝に対抗して南朝を興し、ここに日本に二人の天皇がいる、という『南北朝時代』を迎えます。

元号が二つあるのは、それぞれに天皇とともに元号も主張していたからです。

この時点で室町幕府の成立とする場合と、この二年後、尊氏が北朝の光明天皇から征夷大将軍に任ぜられた時、つまり1338年の今日が室町幕府の成立とする場合と意見が分かれるところです。

ともかく、征夷大将軍になった後の尊氏は、みごとな政治手腕を見せつけてくれます。
中央には侍所や政所を一つにまとめる『官僚』を新設し、地方には鎌倉府奥州探題羽州探題九州探題を設置。

農村社会に起こりつつある新しい動きを守護勢力を通じてまとめあげていきました。

戦前は、尊氏は天皇に弓を引いた『逆臣』『逆賊』と言われ、後醍醐天皇について尊氏に敗れた楠木正成を『国民の英雄』と讃えました。

戦後は、逆に正成が『田舎侍の悪党の親玉』と言われ、尊氏の評価がぐっとあがりました。

尊氏さんは、見る側の姿勢でその人のイメージが180度変わる代表例かもしれません。
Dscn2010_1 数学のようにピタッと割り切れない。
歴史は、そこがオモシロイ。




尊氏さんの菩提寺・等持院

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "おめでとう!足利尊氏さん"

| コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月25日 (木)

湊川の戦い

 

延元元年(1336年)5月25日、摂津の国は湊川で、足利尊氏軍とこれを向かい撃つべく結集した新田義貞・楠木正成連合軍とが合戦をしました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

ブログ5月22日では、仲良く北条高時を破った後醍醐天皇と足利高氏・新田義貞たち。

しかし、その後後醍醐天皇が行った『建武の新政』が天皇・公家を中心とした政治だったため、武士たちにはメチャメチャ不評の嵐。

そこで、そんな事なら・・・と足利尊氏(北条を倒して高氏から改名)は、勝手に恩賞の配分やら何やらやり始めるし、自分を征夷大将軍に任命しろと言い出すし。

そうなると後醍醐天皇も天皇の権限をおおいにふるって尊氏討伐命令をくだします。

尊氏討伐軍の大将に任命された新田義貞は、箱根・竹ノ下で足利軍と戦いますが敗走。

しかし勝って京に入った尊氏も、北畠顕家に負けて、いったん九州へ緊急避難。

力をたくわえてやって来たのが、今日の舞台の湊川です。

この時、楠木正成は、体に相当な傷を負いながらも、大活躍。

しかし、力及ばず敗れ、弟・正季とともに自害します。

尊氏は、この戦いに勝利して、室町幕府成立に向かって行く事になります。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "湊川の戦い"

| コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月16日 (日)

金閣寺建立

 

もと西園寺公経の別荘だったものを、足利義満が譲り受けて、北山殿と呼ばれる別荘にしました。

そして、応永四年(1397年)、義満41歳の4月16日に金閣の立柱棟上式が行われました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

守護や僧侶に造営を強要したために、かなりの反発をかったようです。

義満が亡くなったあとは、その遺言によって、禅寺として夢窓国師を招いて開山しました。

当時は、境内も広く、堂もたくさんあったのですが、応仁の乱でほとんどが焼失して、江戸時代に再建されました。

現在の金閣は、昭和25年、寺の僧の放火により焼失し、30年に再建された物で、3層の楼閣。

高さは、約12.5メートル。

1層目の法水院は寝殿造り、2層目の潮音洞は鎌倉時代の武家造り、3層目は禅宗仏殿風の造りです。

1986年の修理で、金箔約20キログラム、約7億4千万円が使われたそうです。

私が、学生の頃は、再建はされていましたが金箔が少し残念な感じになってましたが、現在のは、ほんとうに美しくなりましたね。

86年の修理に携わった方々の匠の技がまぶしく光ってますね。

銀閣寺との違いについては、6月27日の【銀閣寺が銀箔じゃないワケは?】へどうぞ>>
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが、管理人の励みになります!よろしくお願いします

 

 

続きを読む "金閣寺建立"

| コメント (0) | トラックバック (0)