2009年8月 8日 (土)

将軍に愛された美少年・世阿弥~謎の後半生

 

嘉吉三年(1443年)8月8日、猿楽から発展したを、芸術の世界にまで引き揚げた世阿弥がこの世を去りました。

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能のルーツとなった猿楽は、もともと農村で行われていた神事の芸能です。

言い伝えによれば・・・
南北朝動乱の時代、大和(奈良県)には五ヶ所の声聞師(しょうもじ)の村があったのだとか・・・声聞師とは、門付けして経文などを唱える芸能人の事で、彼らの村には十ほどの曲舞座があったと言います。

世阿弥(ぜあみ)の父である観阿弥(かんあみ)は、そんな曲舞座の一つの乙鶴で女曲舞を学び、神事の芸能に女曲舞を取り入れた新しい芸能を生み出し、結崎座(ゆうざきざ・観世流)を組織して、各地を巡回・・・村の祭礼や社殿の造営の時に招かれて演技を披露し、これが、なかなかの喝采を浴びていました。

やがて、醍醐寺での興業で人気を博した結崎座は、京の都を中心に活動するようになりますが、そんな一座の一員として舞いを披露していた少年が、観阿弥の息子・鬼夜叉・・・後の世阿弥元清です。

そんな彼が12歳の時、一大転機がやってきます。

それは、京都は今熊野神社で行われた神事猿楽興業・・・その神事を見物に来ていた、時の将軍・足利義満が、その世阿弥の美しさに一目ぼれ!

世阿弥は、10歳の時に初舞台を踏んでから、その容姿の美しさとともに、演舞の見事さは目を見張るばかり・・・そう、彼は、メチャメチャ美少年だったのです。

・・・と、上記の「将軍が美少年を」という文章で、ほとんどの方が、戦国武将にありがちなオッサンと美少年の構図を想像されたでしょうが、おっとドッコイ・・・この時、将軍・義満も、まだ17歳!

こ・・・これは、このところ、一部腐女子という方々に人気のボーイズ・ラブ=BLというヤツですねΣ(;・∀・)

ともあれ、これ以降、将軍の寵愛を受けた事で、能は隆盛を極めていくのですが、世阿弥自身は、父・観阿弥とは、少し違う道をめざす事になります。

それは、父の観阿弥の演舞が、あくまで庶民的な、いわゆる大衆芸能をめざしていたのに対し、世阿弥の能は、洗練された貴族的なもの・・・芸術=アートという高みをめざすものでした。

・・・と言っても、父の芸能を否定するのではありません。

彼は、全盛期と言われる応永七年(1400年)に、代表作である『風姿花伝(ふうしかでん)を著していますが、その中でも、あくまで父・観阿弥の残した遺訓を通して、その芸能論を語ります。

世阿弥にとって、父は、生涯にわたって尊敬すべき師匠であり、美学の境地であった・・・彼にとっては、そんな父に追いつき、いつしか追い越す事が最終目標だったのかも知れません。

皆さん、よくご存知の言葉・・・
「初心不可忘=初心忘るべからず」
これは、世阿弥の『花鏡(かきょう)の中にある言葉です。

その生涯で200番ほど書いた謡曲のうち、約120番以上が、今もなお演じられているという現実は、能を見た観客が味わう感動を「花」と称し、その「花」が咲き乱れる事を、最も大切にした世阿弥ならではの偉業とも言えるでしょう。

しかし、その晩年は、一転して不遇の日々となります。

それは、世阿弥が46歳の応永十五年(1408年)に義満が亡くなり、その息子で第4代将軍・義持(よしもち)の頃・・・

義持が、父・義満の、あまりに偏った世阿弥への寵愛を嫌っていた事や、豊作祈願の田遊びから発展した田楽が大好きであった事で、しだいに、彼を遠ざけるようになります。

すでに高尚な芸術となって民衆から離れていた能にとって、セレブから見放されるのは命取りです。

さらに、将軍家の能ばなれは、6代将軍・足利義教(よしのり)の時代に、決定的となります。

永享元年(1429年)、世阿弥と、その息子・観世元雅(かんぜもとまさ)は、仙洞御所での演能を禁止され、その後、間もなく、元雅は急死します。

しかも、世阿弥・72歳の永享六年(1434年)には、佐渡へ流罪となってしまうのですが、実は、この世阿弥の流罪・・・流罪にされた事だけはわかっているものの、その原因がまったくの不明です。

流罪というのですから、何か、他人を傷つけたり、大きな失敗をしたり・・・と、それなりの罪を犯しているはずなのですが、その記録はまったくありません。

一説には、義教が世阿弥の甥である音阿弥(おとあみ)を好んでいて、秘伝書とともに、後継者の座を音阿弥に譲るよう命令したにも関わらず、世阿弥が息子の元雅に観世大夫を継がせた事で、義教が激怒したとも・・・

確かに、この義教さん・・・このブログの嘉吉の乱(6月24日参照>>)でも書かせていただきましたが、あまり評判の良いかたではありません。

自分の意にそぐわない者を、次々と抹殺したという噂が、本当だとしたら、世阿弥も、些細な事が、その逆鱗に触れ、流罪となったのかも知れません。

また、一方では、息子も元雅が急死している事から、なにやらきな臭い噂も飛び交います。

それは、観阿弥が、あの楠木正成(5月25日参照>>)の血縁だとし、それゆえ、観阿弥・世阿弥父子は南朝のスパイであったと・・・

・・・で、スパイ活動をしていたところがバレた息子は暗殺され、世阿弥は流罪にというわけです。

いずれにしても、やはり義教のご機嫌をそこねての流罪であったようで、義教が暗殺された嘉吉元年(1441年)頃に、罪を許されたとされていますが、その後は京都に舞い戻ったとも言われるものの、結局は、その消息もはっきりしない状態です。

日本の伝統文化の中で、その代表格である能というものを大成させたにしては、あまりに悲しい末路となった世阿弥の生涯・・・

しかし、芸術家にとって、その作品が命であり、生きた証だとすれば、600年の時を越えて、今なお演じられ、見る人に感動の花を咲かせている事こそが、彼のめざした最終目標だったのかも知れません。

Zeamicc 追記:遅ればせながら、世阿弥のイラスト描いてみました~

・・・というより、途中まで描いてたんですが、記事のupに間に合わなかったんです(´Д⊂グスン

女っぽくなってしまいましたが、妖艶な美少年という事で・・・
 

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2009年7月23日 (木)

かりそめの征夷大将軍~護良親王の最期

 

建武二年(1335年)7月23日、鎌倉に幽閉中の護良親王を足利尊氏の弟・直義が暗殺しました。

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大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・またはもりながしんのう)は、あの建武の新政を行った第96代・後醍醐(ごだいご)天皇(8月16日参照>>)の息子です。

はじめは比叡山延暦寺で僧となり尊雲法親王(ほっしんのう)と名乗って天台座主(ざす)となっていましたが、父・後醍醐天皇が打倒・鎌倉幕府の動きを見せ始めると、還俗(僧となって出家した人が一般人に戻る事)して参戦します。

・・・というより、もともと気性の激しかった護良親王は、近畿地方の武士を集めて、むしろ積極的に参加し、鎌倉幕府に目をつけられて自由行動ができない父に代わって、「ともに戦おう!」令旨(天皇家の命令)を連発し、各地でゲリラ戦を展開したりしました(2月1日参照>>)

やがて、後醍醐天皇に協力した足利尊氏楠木正成新田義貞佐々木道誉(どうよ)らの力もあって鎌倉幕府は滅亡(5月22日参照>>)、政権を握って建武の新政を行う父のもと、護良親王は征夷大将軍に任命されます。

この征夷大将軍の任命に関しては、もともと、同時に鎮守府将軍に任命された尊氏にライバル心を燃やしていた護良親王自身が、拒否る後醍醐天皇に要求して強引に獲得したというものと、鎌倉幕府のような武家政権が誕生する事を恐れた後醍醐天皇のほうが、尊氏に対抗させるため息子を征夷大将軍にしたという2つの説があります。

前者の場合は、すでに鎌倉幕府討伐の時点で、後醍醐天皇の預かり知らぬところで護良親王が令旨を連発したところから、親子関係に亀裂が生じていたとも言われますが、前者と後者に共通しているのは、やはり、尊氏・・・いや、源氏という武家に対する警戒や対抗意識があったというところでしょう。

しかし、いくら武芸にすぐれ、自らが先頭に立ってゲリラ戦をこなしてきたとは言え、護良親王は天皇の息子・・・ちょっと腕に覚えのあるヤンチャなぼんぼんが張り切ったところで、プロの戦闘集団の武士を統率できるはずもなく、征夷大将軍は名ばかりのものとなり、結局、数ヶ月後には解任されてしまいます。

こうなると護良親王も、自らの周囲に武士を集める有効な手段がなくなり、もともと取り巻いていた武士からも見放され、やがては、数少ない手持ちの武士たちとともに、辻斬りをやったりのテロ行為に走ります。

・・・で、結局、後醍醐天皇の命により、「皇位簒奪(さんだつ・天皇と血縁関係にある者が皇位を奪取する事)の罪で、建武元年(1334年)10月に、参内したところを捕らえられて鎌倉に幽閉・・・尊氏の弟・足利直義の監視下に置かれます。

しかし、その翌年、鎌倉幕府・最後の執権だった北条高時の遺児・北条高行を担いでの諏訪頼重(すわよりしげ)らの中先代の乱(なかせんだいのらん)が勃発し、北条の幕府再興軍に親王を救出されて奉じられる事を恐れた直義によって、建武二年(1335年)7月23日護良親王は幽閉先で暗殺されてしまうのです。

この時、護良親王は・・・
「尊氏より、父のほうが、ずっとうらめしい」
と、言ったとか、言わなかったとか・・・

そもそもは、護良親王に皇位簒奪の意志が本当にあったのかどうかも怪しいところで、なにやら、父・後醍醐天皇と、ライバル・尊氏という海千山千の猛者たちの抗争に巻き込まれて翻弄された感の拭えないお気の毒な末路です。

ところで、ご存知のように、征夷大将軍と言えば、もともとは、古代律令国家が蝦夷(えぞ・東北より北の地方)を征討するための司令官に与えた役職・・・古くは、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(11月5日参照>>)なんかが有名ですが、畿内の律令国家の東北経営が一段落した弘仁年間(810年~824年)頃からは中断されていました。

やがて、ご存知のように、建久三年(1192年)に源頼朝が、この役職に任命されてからは、室町幕府の足利、江戸幕府の徳川と、中世・近世を通じて武家の棟梁あるいは幕府の長が、この征夷大将軍(略して将軍)と呼ばれる事になるのですが、すでに書かせていただいているように、あの木曽(源)義仲も、源平の戦いの真っ只中で、一時、強引に征夷大将軍を獲得しています(1月11日参照>>)

ただし、上記の通り、義仲の場合は鎌倉幕府という最初の武士政権が誕生する以前・・・それを考えると、源頼朝以降から明治維新まで、武家の長という意味で征夷大将軍に任命された中で、護良親王は、唯一の幕府を持たない征夷大将軍という事になります。

護良親王・・・享年28歳、
武門の棟梁を夢見て征夷大将軍となったマッスル皇子にとっては、まだまだ夢の途中・・・

はがゆいばかりの最期だった事でしょう。
 

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2009年6月24日 (水)

将軍暗殺!赤松満祐の嘉吉の乱

 

嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨の守護・赤松満祐が第6代室町幕府将軍・足利義教自宅にて騙まし討ち・・・世に言う嘉吉の乱がありました。

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鎌倉幕府を倒し、さらに、後醍醐(ごだいご)天皇とモメにモメた後、京都室町にて幕府を開いた初代室町幕府将軍・足利尊氏(たかうじ)・・・(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)

その尊氏の孫にあたる足利義満(よしみつ)は、わずか11歳で第3代将軍となり、細川頼之(よりゆき)山名氏清(うじきよ)大内義弘(よしひろ)など、有力守護を次々と征したうえ、元中九年(明徳三年・1392年)には南北朝の合一(10月5日参照>>)に成功します。

また、義満が(中国)と開始した日明貿易は莫大な富を生み、その明の皇帝への書状にも『日本国王』と署名し、まさに天皇をしのぐ権力を手に入れたのです(8月22日参照>>)

しかし、この義満の時代を全盛期に、その後は早くも室町幕府に陰りが見え始めます。

晩年は、あの北山殿(金閣寺)に引退しながらも、その権力を維持していた義満は、次男・義嗣(よしつぐ)を後継者に・・・と願っていたとも言われますが、それが実現する事なくこの世を去ります。

そして、これまた、わずか9歳で父の後を継いだ第4代将軍の足利義持(よしもち)は、そんな父が嫌い・・・「明に貢物を献上して、貿易させてもらってる感満載の貿易なんか、恥やんけ!」と、かの日明貿易を廃止し、ことごとく反発します。

やがて、義持は39歳で出家して、わずか17歳の長男・義量(よしかず)に将軍職を譲りますが、その後も実権は握ったままで離さずじまい・・・

しかも将軍となった、その義量は義量で、これまた大酒飲みで仕事らしい仕事もしない・・・ってか、オヤジが実権握ったままじゃなにもできないし、そのウップンを酒にぶつけたくなる気も、わからんではありませんが・・・。

・・・で、結局、その義量は、酒飲みがたたって2年後、わずか19歳で、オヤジより先に亡くなってしまうのですが、そんな若い義量には子供がなく、しかも、この頃にはオヤジも病気がちになってしまい、次期将軍の事が急を要する大問題となります。

候補者は、義持の弟・3人なのですが、三宝院満済(さんぽういんまんさい)をはじめとする幕府首脳部が、今や死の床にある義持に、その意向を聞いても・・・
「俺が決めたって、お前らが承認せなどないもならん・・・お前らがえぇと思うヤツにしてくれ~」と・・・

3人の弟には、それぞれに有力者がついているし派閥もあるし・・・誰を選んでも、また別の誰かの派閥から文句が出る・・・託された彼らも、虫の息の彼を囲んで、「あーだ、こーだ」と議論を重ねるも決着つかず・・・

困った彼らはとうとう・・・

満済が義持の前でクジを作り、時の管領・畠山満家が石清水八幡宮で、それを引く・・・つまり、くじ引きで将軍を決める事に・・・

やがて、義持がこの世を去った翌日、クジを開封・・・見事当選したのは、義持のすぐ下の弟で、天台座主となっていた青蓮院(しょうれんいん)の僧侶・義円

彼は、還俗(げんぞく・出家していた人が一般人に戻る事)して、名を義教(よしのり)と改めて、第6代将軍に就任しました。

ところで、くじ引きと聞くと、商店街のガラガラや、お楽しみスピードくじなんかを思い浮かべてしまって、つい「そんなんで決めんなよ!」と思ってしまいますが、今よりずっと神の存在が大きかった時代、神前の神聖な場所で引くクジは、神様のお告げ神託なのです。

ちなみに、余談ですが、後の明治天皇も、明治という元号を決めるに当たってくじ引きという方法で決定していますが、これも、「神の子孫である天皇が引く=神のお告げ」という考えのもとで、安易に決めているわけではないのです。

・・・で、この事から「くじ引き将軍」と呼ばれた6代将軍・足利義教(よしのり)ですが、その就任にあたっては、斯波(しば)畠山氏細川氏といった管領家に、「俺の承諾なく、勝手に事を決めるな」という証文を取るなど、かなり強気の姿勢を見せました。

当然、そんな強気で高飛車な姿勢は、将軍になってからも変わらず、やたらときびしい独裁政治を行うのです。

「勝手に事を決めるな」と言い放った管領家には、逆にその家督相続にまで首を突っ込んで、自分のお気に入りに継がせるし、ささいな理由で、自分の意にそぐわない貴族や大名を次々と抹殺・・・

永享十一年(1439年)には鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と、その息子たちによる永享の乱結城合戦で、公方を滅亡に追いやります(2月10日参照>>)

また、そんな恐怖政治をいさめようと説教した日蓮宗の日親に対して、火で真っ赤に熱した鍋を頭にかぶせ、「もう、2度とつまらぬ説教をしないように」と、舌を切って追放した・・・なんて恐ろしい逸話も・・・

そうなると、「ひょっとして、彼の気に入らない事をしてしまったかも・・・」と、身に覚えがあったり、あるいは、そんなのがなくても疑心暗鬼になって、「次ぎは、自分が抹殺されるのでは?」と、恐怖におののく者が出てくるのは当然です。

そんな中の1人が、以前、播磨(兵庫県)の守護の座を巡って、義教のお気に入りと争った過去がある赤松満祐(あかまつみつすけ)でした。

やや、病的なくらい怯えていたとも言われる満祐ですが、巷でも、「次ぎは赤松では?」というウワサになっていたのも事実・・・「こうなったら、殺られる前に殺ったる!」と決意した満祐・・・

かくして嘉吉元年(1441年)6月24日、満祐は、先の結城合戦の祝勝会と称して、将軍・義教を自らの屋敷に招いたのです。

宴もたけなわの頃あいを見計らって、庭園へと誘い出したところへ暴れ馬を放ち、ドサクサにまぎれて武装集団が乱入・・・一瞬のうちに義教の首をはねたのです。

この酒宴には、管領家をはじめ有力大名や公家たちも招かれていましたが、皆が逃げ惑うばかりで、すぐに将軍の仇を討とうとする者はほとんどいなかったのだとか・・・。

さらに、直後に赤松の家臣が、「将軍だけをターゲットにしたもので、他の者に危害を加える気はない」と説明すると、皆、すみやかに退席したと言います。

これだけの独裁的政治を行った将軍・・・このような結果も自業自得といった感も拭えませんでしたが、さすがに、赤松氏という一大名が、将軍を暗殺するという事件を、そのままにしておくわけにはいきませんから、当然、他の大名による討伐軍が編制され、追い詰められた満祐は、自刃する事になるのですが、そのお話はまた、別の機会にさせていただく事にします。

この後の戦国乱世を予感させる事件でした。
 

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2009年6月 7日 (日)

時代別年表:室町時代・前期(南北朝・足利全盛期時代)

  

このページは、室町時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

室町時代は、いわゆる戦国時代も含まれますので、ブログに書いている出来事が非常に多い・・・って事で、とりあえず、前期・中期・後期・・・そして後期を安土と桃山の計・4つに分けさせていただき、このページでは、北条高時が自刃して鎌倉幕府が滅亡した1333年5月22日から、南北朝を経て、北条早雲が伊豆討ち入りする1493年10月11日までを「室町時代・前期(南北朝・足利全盛期時代)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaimuromati110



 

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出来事とリンク
1333 5 22 鎌倉幕府・滅亡
【鎌倉幕府の滅亡】
1334 8 21 若狭・太良荘にて一揆が勃発
 【中世の名も無き人の名前とは?】
1335 7 23 足利直義が護良親王を暗殺
【かりそめの征夷大将軍~護良親王の最期】
12 11 箱根・竹ノ下の戦い
【弟のニセ綸旨で反旗を決意?】
1336 5 25 湊川の戦いで楠木正成が討死
【七生報国・湊川の戦い】
10 11 ~13日新田義貞・北国落ち
【新田義貞・北国落ちの悲劇は本当か?】
1338 7 2 新田義貞が越前で討死
【恋に戦に・新田義貞の純情】
8 11 足利尊氏・征夷大将軍に任ぜられる
【おめでとう!足利尊氏さん】
1339 8 16 後醍醐天皇・没
【北闕天を望みたい~後醍醐天皇の最期】
1340 10 佐々木道誉・紅葉事件
【佐々木道誉・紅葉事件で婆沙羅を卒業】
1350 2 15 吉田兼好・没
【兼好法師の恋愛感って・・】
10 26 観応の擾乱・勃発
【観応の擾乱~尊氏+師直VS直義】
1358 8 22 足利義満・誕生
【足利義満の「王権争奪計画」】
10 10 新田義興が謀殺される
【新田義興の怨念?神霊矢口の渡し】
1366 佐々木道誉・花見の会の逸話
【お花見の歴史は万葉から】
1392 10 5 南北朝の合一
【南北朝の合一】
1397 4 16 金閣の立柱棟上式
【金閣寺の建立】
1415 2 26 蓮如・誕生
【浄土真宗を日本一にした経営戦略】
1419 6 26 応永の外寇
【朝鮮軍・来襲!応永の外寇】
1428 9 18 正長の土一揆
【日本初!正長の土一揆】
1439 2 10 足利持氏・自刃~永享の乱
【鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦】
1441 6 24 嘉吉の乱
【将軍暗殺!赤松満祐の嘉吉の乱】
1443 8 8 世阿弥・没
【将軍に愛された美少年~謎の後半生】
1457 4 8 太田道灌が江戸城を築く
【公方から関東を守れ~江戸城・築城】
1461 7 26 備中新見荘の代官・裕清が京を発つ
【たまがきの恋物語~手紙に託した思い】
1464 4 1 足利義政主催の「勧進猿楽」が興行される
【将軍・義政の贅沢猿楽興行】
1467 1 17 御霊合戦
【応仁の乱の口火を切る御霊合戦】
5 20 細川勝元が山名・追討命令を受ける
【応仁の乱・勃発!】
10 3 応仁の乱・相国寺の戦い
【応仁の乱・激戦~相国寺の戦い】
1469 5 12 斎藤妙椿から東常緑へ領地が返還される
【和歌で領地を取り戻す~歌人・東常緑】
1471 7 27 蓮如が越前・吉崎に道場を建てる
【蓮如、吉崎に道場を建立】
1474 2 16 一休宗純が大徳寺の住職に就任
【一休さんのとんちは本当?】
1477 5 13 用土原の戦い(長尾景春の乱)
【太田道灌とライバル・長尾景春】
1483 6 27 銀閣寺・完成
【銀閣寺が銀箔じゃないワケは?】
1485 12 11 山城の国一揆が両畠山氏に撤退要求
【下克上の至り~山城の国一揆】
1487 12 2 近江鈎の陣に甲賀衆が奇襲をかける
【近江鈎の陣・甲賀の奇襲作戦】
【意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者】
1488 5 13 加賀一向一揆・勃発で富樫正親・自刃
【百姓の叡智・加賀の一向一揆】
【加賀一向一揆は、なぜ100年続いたか?】
【一味同心・一揆へ行こう!】
1490 1 7 足利義視・没
【応仁の乱のきっかけとなった足利義視】
1493 10 11 伊豆討ち入り
【北条早雲・伊豆討ち入り】
室町豆知識 【栄西のお茶・その後~闘茶と御茶壷道中】
【南北朝動乱~ある公家の悲しい都落ち】
【なぞなぞのルーツ~室町時代の謎かけ】

【姥捨て山は本当にあったのか?】
【トイレの歴史】
【世界最古の入れ歯は日本製?】

 

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2008年8月21日 (木)

意外!?中世の名も無き人の名前とは?

 

建武元年(1334年)8月21日、若狭国(福井県)太良荘(たらのしょう)にて、百姓・59名が、地頭代官の交代を要求して起請文を提出し、一揆を起こしました。

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今、某大統領候補と名前が同じという事で話題の、福井県は小浜(おばま)の市街地にほど近く、今も、当時を彷彿とさせる、のどかな農村地帯・・・ここにあった太良荘は、鎌倉時代中期から室町時代の中期までの約250年間、京都は東寺の荘園でした。

以前、『たまがきの恋物語』(7月26日参照>>)新見荘(岡山県)も東寺の荘園で、東寺には、今も多くの史料が残されている事を書かせていただきましたが、新見同様、この太良荘に関する文書も、東寺には多数残されているのです。

そんな史料の中の一つである今回の起請文ですが・・・

「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉でもおわかりのように、そもそもは鎌倉時代から、もともとある田畑に、なんだかんだと理由をつけちゃぁ、新たな税を徴収したり、用水を利用すりゃぁ、お金を払え!払わないと水泥棒として捕まえる・・・なんて事が、くりかえし行われていて、農民たちは、幾度となく、六波羅探題に訴えたりしていました。

しかし、そんな鎌倉幕府が崩壊した混乱の中、ますます治安は悪くなり、略奪行為がひんぱんに行われるようになり、その警固のために、新たな地頭代官が任命され、この太良荘にやってきたのですが、この脇袋という代官・・・荘園内の家屋をぶっ潰して勝手に城を構築したり、私用の無理難題をふっかけてきたりと、やりたい放題・・・。

その横暴ぶりを、何度も東寺に訴えますが、まったく聞き入れてもらえず・・・そこで、建武元年(1334年)8月21日、あの建武の新政を風刺した落書が二条河原に立ったと同じ月、堪忍袋の緒が切れた農民・59名が立ち上がり、代官の交代を求める起請文を提出し、一揆に踏み切ったのです。

・・・という事で、本日は、この太良荘の一揆の起請文の署名から、当時の一般の人々の名前について迫ってみたいのですが、かくいう私も、この太良荘の事を知るまでは、ほどんど一般人の名前という物がどんな風だったのか知りませんでした。

武将や公家の名前は教科書に出てきますが、一般人の名前は出てきませんから・・・。

明治になって、「国民全員、苗字つけろ」の令が出るまで、皆、苗字が無いものと思っていましたし、時代劇や昔話などでよく登場する権兵衛さんとか、三太とかっていう名前が多いのかな?と思ってましたが・・・

太良荘を形成していた人々は、2~3町の土地を所有する本百姓の名主クラスが数名と、あまり良くない土地の小百姓・・・さらにその下に属する農地を持たない下層の人々です。

以前、『一揆へ行こう』(6月9日参照>>)のページで書かせていただいたように一揆の署名は順不同という事なので、まずは、同じような名前の人をグループ分けしてご紹介します。

  1. 僧実円・僧禅勝・僧長弁
  2. 大山貞重・大山正弘・中原吉安・六人部国正・秦正守・物部宗弘
  3. 沙弥法円・沙弥浄法・沙弥善阿弥・沙弥妙阿弥・沙弥本阿弥
  4. 浄妙
  5. 中大夫・平大夫・矢大夫・矢二郎大夫・五郎大夫・新大夫・惣大夫・角大夫・美濃大夫
  6. 中介・江介・三郎介・和山介・豊前介
  7. 新検校・惣別当・安寿
  8. かい丸・牛丸
  9. 細工大夫・中細工・孫太郎細工
  10. 藤内・源内・
  11. 中江
  12. 孫太郎・孫二郎×2・孫四郎・孫五郎・彦二郎×2・彦三郎・弥二郎・中二郎・中三郎・平二郎・藤二郎・惣四郎・進士二郎・二郎太郎・三郎太郎×2

以上、1名分だけ、文字が読めなくなっている部分があるため、合計58名です。

この中のグループ1の「僧」がつく3名は、花押(ハンコ代わりのサイン)も持っていて一般農民とは別格なようです。

一応、僧実円僧禅勝が、この一揆のリーダーだったと言われています。

そして、グループ2の6名も、姓と名の実名を署名している事からやはり別格・・・「秦(はた)「物部(もののべ)などは、古代の豪族の名前ですが、子孫という事ではなく、勝手に名乗ってるわけで、このような名前を名乗っても、もはや怒られない時代になっていたって事なのでしょう。

この1と2のグループの中の何人かが名主クラスだったと思われます。

次に、グループ5と6の「大夫」「介」は、古代の官位名ですが、これは本名というのではなく、ある一定の年齢になると儀式を行って、それ以降は「大夫」や「介」をつけて呼ぶ通称というヤツです。

武士が元服して、大人っぽい名前に変えるのとよく似ていますね。

グループ7の「検校(けんぎょう)」「別当」「安寿」などは、寺院や官庁の役職名・・・たとえば、別当なんかも、以前は、○○別当=○○長官みたいな感じで使われていましたが、これも、この時代には、もうお百姓が名乗っても怒られなかったって事なんでしょうね。

このグループ7あたりまでが、小百姓クラスの人ではないでしょうか?(自信ないですが・・・)

グループ8の「丸」は本来は、武士の幼名に使用する名前ですが、起請文の署名という物は各家庭の代表者がするものなので、このお二人はおそらく成人した方・・・ただし、運搬業にたずさわる人は、成人しても「丸」を名乗っていたらしいので、牛丸さんなんかは、おそらく、牛を使って運搬業を営んでいたのかも知れません。

グループ9の「細工」というのは、ご想像通り、細工師=手工業者の方々・・・この「細工」の中には、「大夫」のつく人もおられますが、先ほどもあったように、「大夫」は大人という意味を表すので、この細工大夫さんは、細工師の中でも重鎮だったんでしょう。

最後に、グループ12・・・「太郎」とか「二郎」「三郎」とかっていうのは、お察しの通り、おそらく生まれた順でしょうね。

「孫」「彦」「弥」は、この時代の標準的な名前で、「藤」「平」「源」は、グループ10や11にもありますが、藤原氏・源氏・平氏などの姓を名前に取り入れたものです。

この中で、もし、女性がいるとしたら、鎌倉時代に同じ名前の女性がいるようなので、「浄妙」という名前のかた・・・この時代、一家の代表は、やはり成人男性という事になりますので、必然的に女性の名前が少なくなるでしょうね。

以上、起請文の署名を見てみましたが、本来、名主クラスのお百姓と、下層の人たちとでは、それぞれに確執があって、普段はなかなかうち解けあえるものではなかったでしょうが、相手が地頭となると、一揆を結んで、このように名を連ね、ともに立ち上がった・・・

その名前を見るだけで、中世の名も無き人々が、その命を賭けて、家族と土地を守った、その強い情熱を感じます。

歴史を作ったのは、名のある武将や貴族だけではない事を、ひしひしと感じる次第です。
 

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2008年7月26日 (土)

たまがきの恋物語~手紙に託したその思いは?

 

寛正三年(1461年)7月26日、備中国新見荘の直務代官に決定した僧・祐清上人が、京都・東寺を出発しました。

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京都府立総合資料館・所蔵の『東寺百合文書』の中に、『たまがき書状』と呼ばれる、かな文字で書かれた一通の手紙が残っています。

この手紙は、室町時代の農村の女性が書いた直筆の手紙としては、唯一、現在に残る貴重な史料で、その差出人は、たまがきという女性です。

彼女が暮らしていたのは備中国新見荘・・・現在の岡山県新見市

当時の新見荘は、京都・東寺領の荘園で、守護大名が細川氏・・・その細川氏の家臣である安富智安が請負代官として現地を支配していました。

つまり、現地で智安が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に仕送るというわけですが、当然そこには、彼ら守護の取り分も発生するわけです。

先日の豊臣秀吉太閤検地(7月8日参照>>)のところでも、チョコッと書かせていただきましたが、そのように、一つの土地に対して、複数の人が所有権を持つのが、中世の荘園制度・・・で、その智安は守護の力をバックに、農民からは不当に重い年貢を徴収し、東寺に対しては、約束分の量を納めなかったり、未納のままだったりという事が多くあったのです。

要するに、自分たちの取り分=中間マージンを多くしてガッポガッポ儲けてたって事ですね。

そこで、ついに発起した名主・41名が起請文を提出し、荘園領主である東寺の直務支配を要求したのです。

直務支配という事は、東寺が直接支配をするという事ですから、当然、東寺内部の誰かが現地に行かなくてはなりません。

その現地へ行く役=直務代官として派遣されたのが、東寺の僧・祐清(ゆうぜい)でした。

寛正三年(1461年)7月26日に京都を出た祐清は、8月5日に現地に到着・・・新見荘内でも、比較的開けたという地に事務所を構え、現地の実情を調査するとともに、新しい改革に取り組みます。

この時、彼の身の回りに世話をしたのが、現地荘官・福本盛吉の妹だったたまがきでした。

「年貢の取立てが、武士から僧侶に代わるのだから、少しは楽になるだろう」という農民たちの期待に答えてやってきた祐清でしたが、彼が農民たちに伝えた寺命は、予想以上に厳しいものでした。

  • 自分たちが自ら希望して直務になったのだから、年貢を納めないという行為は許さない。
  • 今まで年間8人だった京上人夫を年間12人にする・・・そのうち6人は実際に京に行って仕事をするが、残り6人は金銭でもよい。
  • 今までの公事物(貢物・紙とか漆とか)に蝋(ろう)を加える。

ガ~ン!増えてますやん!
この最初の段階で、少なからずショックを受ける農民たち・・・。

前年から不作が続いていた荘内では、「何とか許してほしい」という声があがりますが、若僧だった祐清にとって、東寺のおエライさんの決めた寺命は絶対ですし、若いがゆえに融通もききませんから、「この命賭けてでも、年貢を納めない者は徹底的に処罰する」と言って譲りませんでした。

こうして、マジメ一本やりで荘園再建に取り組む祐清は、ついに、年貢を未納のままにし続けていた名主・豊岡をクビにして追放してしまいました。

「安富と変わらんやん!」
「いや、安富の時のほうがマシやった」

という、不満の声が、村人たちから沸きあがってくるのも、当然のなりゆきかも知れません。

やがて翌年・寛正四年(1462年)の8月25日、未だ従わない奥・中奥と呼ばれる地域へ見回りに出かけた祐清・・・。

ある新築中の家の前を通りかかると・・・
「建築中の家の前を通る時は、馬から下りるのが、ここらへんのしきたりだ!」
と、家の中から出てきた男たちに叱られてしまいます。

その話を聞いて、慌てて馬を下りる祐清に、いきなり男たちは斬りかかり、哀れ、祐清は命を落してしまうのです。
男は、先の名主をクビになった豊岡の親戚の者でした。

恨みを持つ者に殺されてしまった祐清ですが、もちろん、村人全員が彼を恨んでいたわけではありません。

飢饉に苦しむ農民と、使命をまっとうせよという東寺の間で苦悩した彼は、東寺に対して「今回はいつもの半分の年貢で許してあげて欲しい」なんていう手紙を幾度か書いて、東寺から、その約束を取り付けたりもしていましたから、彼に親しみを抱いている農民も多くいたのです。

現に、仇討ちとばかりに、殺した相手に殴りこみをかけた者もいました。

そんな好意を持っていたうちのひとりが、たまがきです。

もちろん、ごく普通の一般人である彼女の生涯については、何一つ記録されてません。
その容貌も、その性格も・・・

ただ一つ、冒頭にご紹介した、彼女の手紙が残っているのです。

彼が、代官としてやって来た時から、わずか一年・・・祐清の弔いをすませた彼女は、その遺品の整理をしながら、東寺へ、彼の死の報告と、その遺品の処分について書き綴っているのです。

贅沢などいっさいない、質素な遺品・・・それらの品々を書き並べながら、白小袖・紬表・布子の3点について・・・
『このほとなしみ(馴染)申候ほとに、すこしの物おは、ゆうせいのかたみにもまいらせたく候、・・・給候は、いかほと御うれしく候』

「この三品を、祐清の形見としていただけたら、これほどうれしい事はありません」

彼が、一番身近に、身に着けていた品を、彼女は、形見として欲しいと・・・

たった一年間、ともに過ごした二人の間に、何があったのか?
どんな風に、二人は通じ合っていたのか?

東寺に残る新見荘の史料は、その量の多さから、中世の歴史を語る上で外す事ができないほどの貴重な物ですが、当然の事ながら、その内容は郷土史と言える物で、祐清とたまがきの心情にはふれていません。

しかし、唯一残る直筆の手紙からは、その溢れんばかりの彼女の思いが伝わってくる気がします。

真っ白な小袖を身にまとって、都から颯爽とやってきた若き僧・・・農村に暮らす彼女は、わずか一年間で、一生ぶんの恋をしたに違いありません。

果たして、彼女の願いが叶えられたのかどうか・・・それだけが気がかりです。
 

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2008年4月 8日 (火)

公方から関東を守れ!太田道灌・江戸城を築城

 

長禄元年(1457年)4月8日、太田道灌江戸城を築きました

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まずは、太田道灌(どうかん)江戸城を築いた理由から・・・

以前から、度々登場している室町幕府と鎌倉公方の対立・・・関東に拠点を持つ武家でありながら京都・室町で幕府を開く事になってしまった足利氏は、本拠地の関東を支配する役職として鎌倉公方と、その補佐役の関東管領を置きました。

以来、足利氏の長男の血筋が将軍職を、次男の血筋が鎌倉公方を、代々受け継いでいくわけですが、その鎌倉公方が、幕府を無視し、関東を独立国家のように運営しはじめた事から対立が生まれます。

将軍が第6代・足利義教(よしのり)、公方が第4代・足利持氏(もちうじ)の代になってピークを迎えたその抗争は『永享の乱』(2月10日参照>>)と呼ばれ、戦いは持氏の敗死によって決着が着けられたかに見えました。

しかし、持氏の遺児・足利成氏が、古河(こが)公方を勝手に名乗り(古河を本拠地にしていたので)、公方奪回を目指し関東各地で乱を起こします

特にターゲットにされたのは、当時、関東管領職にあった扇谷(おうぎがやつ)上杉家です。

古河公方は幕府非公認の勝手な公方・・・対する上杉家は、幕府から正式に任命されている役職ですから、当然と言えば当然です。

・・・で、当時の上杉家の当主・上杉定正の執事を務めていたのが太田道灌です。

つまり、道灌は成氏から関東を守るため、江戸城を築いたのです・・・その時、道灌・27歳。

もともと平安時代の末期に、この地を治めていた江戸氏の、館のような小さい建物が建っていた場所に築城したという事ですが、それとは別に、おもしろいエピソードも残っています。

道灌が築城にふさわしい場所を求めて、品川沖を船で航行中、船の中に“コノシロ”という魚が飛び込んできます。

「これは、ラッキーアイテム・ゲット!」
とばかりに、すぐに近くの岸に船を着け、そばにいた漁民に・・・
「このあたりの村は何という村かいな?」
とたずねると・・・
「ここは、千代田宝田祝いの里でございます」

「メッチャ縁起えぇ名前・・・ステキやん!」
と、即座に、この地に築城する事に決定したのだとか・・・。

諸葛孔明の再来築城の名人とうたわれた道灌のことですから、さぞかしすばらしい江戸城を構築した事でしょうが、残念ながら現在は、その影を見る事はできません。

道灌の死後、扇谷上杉氏の物となった江戸城は、その後、関東を支配した後北条氏の物となります。

しかし、ご存知のように北条の本拠地はあの屈指の名城・小田原城・・・そんな北条氏にとっては、江戸城は単なる支城の一つに過ぎず、あまり重視していなかったようです。

北条の物であった時代の江戸城は、わずかな城番が見張りをするだけのお城で、整備も修理もまともに行われず、かなりボロボロの状態になってしまっていました。

そんな江戸城が歴史の表舞台に登場するのは・・・そう、豊臣秀吉が北条を倒し(7月5日参照>>)、その秀吉の命を受け、この江戸城を徳川家康が居城とした時からです。

その時、初めて江戸城に入城した家康は、もはや惨たんたる姿の江戸城を目の当たりにするのです。

低い土塁が取り囲むだけで堀もなく、海辺へ出入りする木戸が数ヶ所あるだけでがっしりとした門もなく、主要の建物は枌板(そぎいた・松などの板をうすく削った物)葺きで、台所は、(かや)葺きに全面が土間・・・さらに、玄関は船板が3枚敷いてあるだけ

しかし、家康は天下を取って、この江戸で幕府を開きます

入城以来、30年の年月を費やして、生まれ変わった徳川の江戸城・・・ご存知のように、それは、道灌もびっくりの世界最大の大城郭となるのです。
 

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2008年2月25日 (月)

浄土真宗を日本一にした蓮如の経営戦略

 

応永二十二年(1415年)2月25日は、浄土真宗の「中興の祖」と呼ばれる蓮如さんのお誕生日です。

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先日、親鸞聖人のご命日のページ(11月28日参照>>)で書かせていただいたように、日本で最大の伝統仏教教団・浄土真宗の開祖は親鸞聖人です。

その親鸞から数えて7代目の存如(ぞんにょ)・・・この人が蓮如のお父さん。

17歳で得度した蓮如は、長禄元年(1457年)父の死後、異母兄弟との後継者争いの後に、47歳にて、第8代本願寺法主となりました。

しかし、親鸞のひ孫の時代に、門弟と対立して本願寺という寺号を称して、すでに独立した形をとっていた本願寺派・・・蓮如は確かに親鸞の血筋を継いではいますが、この頃の本願寺派は、真宗の宗派の中では最下位。
まさに、衰退の一途をたどっていたのです。

その頃、この本願寺を訪れた近江(滋賀県)本福寺の僧侶も、「一番人気の仏光寺は、群集に満ち溢れているが、本願寺はサビサビで、人っ子一人いなかった」と書き記しています。

蓮如本人も、毎日の食事にも事欠き、身に着ける衣も貧窮の極みでした。

しかし、8代目を継いでから、わずか8年後の寛正六年(1465年)には、比叡山が脅威を抱くほどに成長し、その比叡山衆徒に京都を追われてしまいます。

その後、越前(福井)吉崎に逃れて御坊(道場)を建てますが、その後も、本願寺派は成長を続け、23年後の長享二年(1488年)には、本願寺門徒が高尾城に押し寄せ、加賀の守護大名・富樫正親を自刃に追いやる『加賀の一向一揆』(6月9日参照>>)をやってしまうほどに成長します。

つまり、蓮如・一代で、教団内の最下位から、あの比叡山に肩を並べるくらいの大教団に仕立てあげたという事になります。
これが、「中興の祖」と呼ばれるゆえんです。

では、どのようにして、蓮如は、そこまで急激に教団を大きくする事ができたのでしょうか?

あくまで、個人的意見ですが、そこには、商売=経営と同様のテクニックがあったと思います。

無神論者の私が、「商売と同じ」と言うと、熱心な信者の方からお叱りを受けるかも知れませんが、もちろん、私利私欲の商売繁盛と仏教を広めようという精神とでは、根本的に違うと思いますが、それを成長させるためのテクニックが似ているという事です。

どんなに良い教えでも、それを相手に理解してもらわなければ・・・いえ、その前に、心を開いて話を聞いてもらわなければ、その教えは広まってはいかないのですから・・・。

蓮如が、この時使ったのは、企業が商品を売り込む時、あるいは、政治家が選挙に挑む時に行う『メディア戦略』です。

自分の教えを、各地に散らばる末寺に浸透させるには・・・。

それぞれの末寺に、阿弥陀仏の仏像を寄進しても、信者の心には響きません。
・・・かと言って、彼が、全国行脚して、末寺を一つ一つ回ったとしても、その数には限りがあります。

そこで、蓮如は、自筆の手紙というメディアを利用します。

もちろん、単なる挨拶の手紙ではありません。

そこには、浄土真宗の教えや、蓮如の考えなどが書かれているのですが、当時、すでに貴族や武士には、既存の仏教が浸透していて参入が困難な事もあって、当然、蓮如のターゲットは、難解な仏教をまだ理解しきれていない庶民層・・・。

ですから、その手紙は、難しい言葉を使わずに、簡潔にわかりやすく、やさしく語りかけるような文章に仕上げられていたのです。

この『御文』と呼ばれる蓮如の手紙は、各末寺へ送られ、そこで、その寺の僧侶が信者の前で読み上げるのですが、それは、あたかも、目の前で蓮如が、信者一人一人に語りかけてくれていると錯覚するくらいの物だったのです。

御文を読み聞かされた者は、どんどんと引き込まれ、同時に各地のお寺に、蓮如自身が訪問するのと、同じ効果をあげる事ができ、本願寺派は一気に成長する事となるのです。

さらに、もう一つ、蓮如は、次に大きくなった教団の結束を固め、維持していくための戦略を実行します。

それは、以前『シルバーラブの日』(11月30日参照>>)に書かせていただいた子沢山・・・産めよ増やせよ作戦です。

蓮如は、27歳で初めて結婚して以来、85歳でお亡くなりになる前年まで、合計五人の奥さん(最後の奥さん以外は皆、他界されました)との間に、13人の男の子と14人の女の子を設けています。

ただ単に、元気でありまくりのハリキリまくりではありません。
ちゃんと計画的に、血縁関係で教団の結束を固めようとしたのです。

それも、ちゃんと将来の身のふりかたも考えておかなくては・・・なんせ蓮如さん自身が若い頃、後継者争いに巻き込まれてますから、しっかりとした計画が無い限り、むしろ、血縁関係だからこその争いが起こる事も考えられます。

蓮如さんがとった作戦は・・・「吸収合併」「のれんわけ」です。

長男・順如には光禅寺というお寺を経営させ、次男・蓮乗南禅寺に修行に出した後、加賀本泉寺如乗の娘の婿養子に出し、三男・蓮綱にも松尾寺というお寺を経営させています。

もちろん、女の子たちも、それぞれライバルになりそうな有力な寺院に嫁に出しているのです。

子供のうちに亡くなった子以外は、すべて、浄土真宗の僧か尼さんにして、何かしらの役割を、自分自身で与えています。

そして、まだ、自分の目の黒いうちに、75歳で引退し(84歳で最後の子供が生まれてるので、たぶん、まだ目は黒いです)、五男の実如本願寺住職を譲ります

しかし、引退しても、まだまだ蓮如さんの戦略は終りません。
そう、「アフターサービス」です。

引退後も、お寺での説法はもちろんの事、あの「御文」も続け、暇さえあれば、「名号」を書いていたのです。

晩年、彼は「俺ほど、名号を書いた人間は、日本にいないゾ!」と、楽しげに語っていたと言います。

この名号によって、お寺と信者との結びつきが、強固なまま維持できたのは間違いありません。

まさに、見事な戦略。
なるべくしてなった日本一・・・というところでしょうか。
 

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2008年2月10日 (日)

鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦

 

永享十一年(1439年)2月10日、室町幕府VS鎌倉公方の構図で争われた『永享の乱』で敗れた第4代鎌倉公方・足利持氏が自刃しました

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まだ南北朝の動乱の真っ只中で幕府を開く事になった足利尊氏は、自分の本拠地が関東であるにも関わらず、不穏な空気が収まらない京都を離れる事ができず、京都・室町で幕府を開く事になります。

しかし、幕府が成立しても、各地の旧勢力がくすぶり続けるため、奥州探題九州探題などを置いて監視する事になりますが、そんな中でも最も重視したのが、やはり本拠地である関東です。

最初は弟・実義(ただよし)鎌倉に派遣し、次に息子の義詮(よしらきら)、そして、貞和5年(1349年)、義詮と交替に次男の基氏(もとうじ)を派遣します。

基氏以降、この鎌倉を守る足利氏は鎌倉公方と呼ばれ、基氏の息子からまたその息子へと代々受け継がれていくのです。

この鎌倉公方は、関東はもちろん、伊豆甲斐(山梨県)をも含めた広大な範囲を統轄しており、幕府に准ずる組織でしたが、それだけ大きいと、やはり、徐々に幕府とは別の道を歩もうとし始めます。

まして、強大な2番手という物は、いつでも将軍の座を狙える位置にいるワケですし、同じ足利氏として、常に幕府の下という位置に不満を持つのも自然な事かも知れません。

徐々に、亀裂が入り始めた室町幕府と鎌倉公方・・・そんな正長二年(1429年)、「将軍がくじ引きで決められる」という事態になってしまいます(6月24日参照>>)

室町幕府第6代将軍・足利義教(よしのり)です。

その、将軍決定劇に不満を持ったのが、基氏から数えて第4代目の鎌倉公方・足利持氏

義教が将軍になったその年は、元号が正長から永享に改元された年なのですが、持氏はこの永享という元号を使用せず、旧元号を使い続けるという態度をとり、あからさまに独立国家の意思を表明し始めます。

しかし、関東だからと言って、全員が持氏の味方であるわけでもなく、鎌倉公方の補佐役である関東管領・上杉憲実(のりざね)ら幕府寄りの者たちと、一触即発の状態を続けながらも、大きく衝突する事は避けられているかのようでした。

やがて永享六年(1434年)、持氏は、鶴岡八幡宮『呪詛の怨敵を未兆にはらわんがため』という幕府を呪う内容の願文を血書にてしたためて祈願をするまでになります。

そして、永享十年(1438年)・・・
「もう、僕らだけでは、押さえきれませ~ん」
・・・と、憲実が幕府に泣きついた事によって、本格的な衝突が開始されます。

これが『永享の乱』と呼ばれる戦いです。

最初は、幕府勢、鎌倉公方勢、ともに一進一退の合戦を続けていましたが、なんせ、相手は幕府・・・何だかんだ言っても、幕府=将軍の地位というのは強大ですから、戦闘が長引くにつれ、徐々に、地元の者たちが、幕府に寝返るようになるのです。

そうなると、またたく間に持氏の敗色が濃くなってきます。

そして、永享十一年(1439年)2月10日、鎌倉の留守役だった三浦時高の攻撃によって、持氏の館は焼け落ち、持氏は自刃するのです。

しかし、その持氏には、四人の息子がいました。

その四人の兄弟は、この時、炎に包まれる持氏の館から脱出しますが、嫡男・義久は、乱の後、長男らしく兄弟を代表して、鎌倉公方の復権を幕府に願い出ますが許されず、父の死の18日後の2月28日に自刃しました。

当然、残りの三人の兄弟は、乱の首謀者の息子として、幕府から追われる事になるのですが、その次男と三男が春王(しゅんのう)安王(あんのう)の二人・・・。

彼らを保護したのは、当時、関東屋形と呼ばれるほどの実力を持っていた下総結城城・城主の結城氏朝(ゆうきうじとも)でした。

結城氏は、ムカデ退治の逸話を残す勇者・俵藤太こと鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)・・・そう、あの平将門を討ち取った(2月14日参照>>)その人の子孫なのです。

氏朝は、かねてから憲実と対立しており、この永享の乱では、持氏をバックアップしていたのですが、その敗北により、さらに憲実と幕府への怒りが増大していたのです。

翌年の永享十二年3月、氏朝は、公方の遺児である春王・安王を旗印に掲げ、幕府に反旗をひるがえします。

世に『結城合戦』と呼ばれる戦いです。

当時、関東各地の武将には、すでに幕府に反感を持っていた者も多く、しかも、この頃には、以前、足利義視さんのご命日のページ(1月7日参照>>)でも書かせていただいたように、嫡男がすべてを継ぐ惣領制が崩れつつある事で、各武将の家々にも何かしらの後継者争い・家督争いが起こっていたので、氏朝の挙兵には多くの者が参戦し、関東の武士たちは、幕府派か氏朝(春王・安王)派かのどちらかに属して戦う事になります。

しかし、氏朝の結城城は、4ヶ月後の7月には、幕府軍に包囲されてしまいます。

それでも、何とか耐え抜いていましたが、翌・永享十三年(1441年)4月16日・・・ついに、氏朝は降伏を決意します。

幕府に降伏するにあたって氏朝は、城内にいる女子の命乞いを願い出ます。

もちろん、幕府はその条件をすんなり呑むのですが、実はこれには、幼い春王と安王を女装させて女子に紛れさせて、逃がそうという計略があったのです。

なんせ、春王が13歳、安王が11歳ですから、それくらいの少年って、女の子の格好をすれば、よほどガタイが良いか、とほどのオッサン面でない限り、それなりに見えるものですからねぇ。

しかし、幕府の兵がスルドかったのか?二人が思いっきりオトコだったのか?
二人はあっさり見つかってしまいます

捕えられて、京へ護送される事になる二人ですが、その旅の途中の5月16日・・・美濃垂井(たるい)という場所に差し掛かったところで、警固の兵のもとに飛脚から手紙が届けられます。

いつもは、夜遅くまで歩き続けるこの旅で、ここ垂井では、まだ日の高いうちに宿の手配がされます。

いつもとは違うその雰囲気に、手紙の内容をさとる幼い兄弟・・・そう、手紙の主は将軍・義教で、その内容は「即、二人を斬れ!」という物でした。

運命を感じた二人は、風呂を所望し、その身を清めます。
そして警固の兵に、用意された布団で寝るように即されると、健気にも・・・
「けして、泣いたり騒いだりしませんから、殺す時は起してください」
と、頼んだと言います。

その役目を命じられたのは、漆崎小次郎という男・・・相手は幼い二人です。
もともと個人的な怨みがあるわけでもありませんから、命令された彼も心が痛みます。

でも、命令された以上、それを努めなければなりませんから、心を鬼にして、そっと寝所へ入って行きますと、幼い兄弟は、手と手をしっかりと結び、一つの布団に一つの枕で寄り添うように眠っています。

ますます、彼は胸がいっぱいになり、しばし号泣・・・しばらく考えたあと、やはり、兄弟が言ったように、起してから斬るべきだろうという結論に達した彼。

そっと揺り起こして、
「お命頂戴いたしまする」
と言うと、二人はすんなり起き上がって、
「もう、覚悟は決まっています。
兄弟二人で死ねる事、うれしく思います。」

と言って、手を合わせながら、小次郎のほうに首を差し伸べたと言います。

こうして、鎌倉公方は、4代・100年で断絶する事になるのですが・・・そうです、持氏の息子は、もう一人います。

一番末っ子の永寿丸(永寿王とも)・・・永享の乱の時は、まだ1歳でした。

彼も乱の後、信濃(長野県)に潜伏しているところを発見され、将軍・義教の命令により、殺されるところでしたが、そのあまりの幼さに管領・細川持之が猛反対。

持之のゴリ押しで、あの憲実に預けられる事になるのです。

この永寿丸が、後の足利成氏(しげうじ)・・・そう、彼は、父と兄の思いを背負って、鎌倉公方を奪回すべく乱を起こす初代・古河公方となるのです(5月13日参照>>)

世は、まさに乱世に突入・・・ですね。
 

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2007年12月11日 (火)

弟のニセ綸旨で反旗を決意?足利尊氏・箱根竹ノ下の戦い

 

建武二年(1335年)12月11日、後醍醐天皇の命令で、追討にやって来た新田義貞を、足利尊氏が破った『箱根・竹ノ下の戦い』がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日の『箱根・竹ノ下の戦い』は、「南北朝動乱の幕開け」と称されています。

つまり、今まで、ともに協力して鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)、新政を成し遂げた後醍醐天皇足利尊氏が、ここに来て対立・・・そして合戦という形で表面化し、やがて「尊氏の北朝VS天皇の南朝」なるわけなので、まさに、「幕開け」です。

ただし、後醍醐天皇から派遣された新田義貞と足利軍が衝突したのは、この日が最初ではありません。

義貞が京を出たのは11月・・・迫り来る新田軍を最初に迎え撃ったのは尊氏ではなく、弟の直義でした。

しかし、三河・遠江・駿河と、直義が率いる足利軍は次々と破れ、新田軍は伊豆まで迫ってきます。

そこで、ようやく尊氏が立って、今日の『箱根・竹ノ下の戦い』となるのですが、なぜ?尊氏は、今日のこの時まで、戦わなかったのしょうか?

実は、もともと、尊氏には、「後醍醐天皇に反旗をひるがえそう」なんて気持ちはまったく無かったのです。

尊氏は、一度目は北条の鎌倉幕府を、そして2度目は今回の後醍醐天皇・・・と2度、主君に反旗をひるがえすわけですが、以前の【足利尊氏・裏切りの要因】(4月16日参照>>)のページにも書かせていただいた通り、それはひとえに、源氏の棟梁としての責任感のなせるワザなのです。

彼は、野心家でも反逆児でもなく、ただ、冷遇されている足利一門を・・・「自分の配下の武士たちの待遇を少しでも良くしたい」という思いからなのです。

尊氏は、根っからの親分肌
昨日まで敵だった者も、味方となった限りは大いにかわいがり、新田の配下となってしまった元足利の者に「こっちに来いよ」と、駆け引き無しで説得したりするところは、まさに大親分です。

そもそも今回の出兵は、北条の残党が鎌倉を占拠したために、それを制圧する目的で尊氏は京を出発するのですが、その時、後醍醐天皇は、尊氏の強さを恐れ、「遠くに離したくない」という思いから、尊氏が鎌倉に向かう事を許しませんでした。

しかし、我慢できない尊氏は、命令の無いまま、8月2日に出陣し、猛攻撃の末に19日には鎌倉を取り戻してしまうのですが、さすがに、この時は後醍醐天皇も「尊氏を手元に置いておきたい」というのは、自分の勝手な思惑とわかっていたらしく、後から「北条残党・追討」の命令を出しています。

そのかわり、尊氏に従二位の位を与え、その功績を賞した後は、すみやかに京に戻るよう命令しています。

しかし、すでに『建武の新政』で、武士が冷遇されていたのはご承知の通り。
それでも尊氏は天皇の命令通り京に戻るつもりでいましたが、弟・直義は「せっかく関東を制圧したのに、また同じ待遇の所に、今更戻る必要があるのか?」と尊氏に問います。

やがて、尊氏は、10月には鎌倉に新たな屋敷を建築し、京に戻る意思が無い事をあらわにするのです。

そして、先に書いた後醍醐天皇の「尊氏・追討命令」となって新田義貞がやってきたわけですが、それでも尊氏は、天皇に弓を引くつもりはなく、あくまで「自分の主張(武士の待遇と幕府を開く事)を何とか認めてもらいたい」という姿勢だったのです。

長い説明になりましたが、そういうわけで、初めのほうの新田軍との戦いには、尊氏は参戦していなかったのです。

・・・で、最初に書いたように、弟・直義が率いる足利軍は新田軍に苦戦を強いられるのですが、これも直義が弱いわけではなく、その根っからの親分肌のおかげで、「今やカリスマとなった源氏の棟梁が参戦しない戦い」に、配下の武士たちの士気があがるわけがありませんからね・・・負けが続くのは仕方の無い事です。

案の定、この『箱根・竹ノ下の戦い』で、重い腰をあげ、やっと参戦した尊氏を見て、味方の軍の士気は一気に高まり、見事、新田軍を破る事になるのですが、この日の参戦を、尊氏が決意するにあたって、一つのエピソードがあります。

先に書いたように、どうしても後醍醐天皇に反旗をひるがえしたくない尊氏・・・「何とかその思いをわかってもらいたい・・・どうしたらわかってもらえるのか?」と悩んだ末に、鎌倉の建長寺へ行き「出家する!」と言って元結を切ってしまうのです。

兄のザンバラ頭の姿を見た弟・直義はびっくりします。
「これは何とかせな!」

・・・と、直義は、『尊氏と直義を誅せよ』というニセの『綸旨(天皇の命令書・単なる命令より絶対度合が高い)を作成し尊氏に見せ・・・
「兄ちゃん、ほら、もうこんな事になってんねんから、今更、後に退いても、やられるだけやで」
・・・と、説得。

尊氏は弟のニセ綸旨のおかげて決意が固まって、やっとこさ参戦・・・という事になったのです。

こんなところにも、突進型で大将タイプの兄・尊氏と、策略家で参謀タイプの弟・直義の名コンビぶりがうかがえますね。

・・・で、この戦いに勝利した足利軍は、その勢いで新田軍を追撃しながら上京。
翌年の1月には近江(滋賀県)に迫り、その後、京都での戦いに突入する事となります。
 

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