2020年10月22日 (木)

応仁の乱~摂津西部…兵庫津の争奪戦

 

文明元年(1469年)10月22日、東軍山名是豊赤松政則に兵庫津を攻撃された大内政弘軍が、敗戦を知って撤退を開始し、兵庫津争奪戦が終結しました。

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室町幕府第8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)後継者争いや、幕府管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を継いでいく家系)畠山(はたけやま)氏や斯波(しば)氏の後継者争いに、現事典で幕府を仕切ってる両巨頭細川勝元(ほそかわかつもと=東軍)山名宗全(やまなそうぜん=西軍)勢力争いが加わって、ほぼ全国の武将を巻き込んで応仁元年(1467年)5月に勃発した応仁の乱(おうにんのらん)

応仁元年(1467年)
●1月17日:御霊合戦(畠山の後継者争い)】>>
●5月20日:応仁の乱勃発(東軍が官軍となる)】>>
●5月28日:五月合戦(停戦命令で一旦休憩)】>>
●10月2日:東岩倉の戦い(大内政弘が西軍で参戦)】>>
●10月3日:相国寺の戦い】>>
応仁二年(1468年)
●3月21日:稲荷山攻防戦】>>
●11月3日:足利義視のトンズラ事件】>>

とまぁ、こんな流れですが、、、
Ouninnoransoukanzu2 最初の段階では、将軍の居所である「花の御所」に陣を置いて将軍=義政から「山名追討命令」を得て官軍となった細川勝元の東軍と、そこからわずか500m西に陣を構えた(←なので西陣です)山名宗全の西軍とで、激しい市街戦が展開されるのですが、最も激しい戦いになったとされる10月の相国寺の戦いをピークに、翌年に雑兵を大量投入した稲荷山の攻防戦以降は、徐々に、その雑兵たちによる小競り合いのような戦いばかりになっていきます。

さらに、東軍の総大将を任されていた足利義視(よしみ=義政の弟)伊勢(いせ=三重県)に逃亡したり比叡山(ひえいざん=滋賀県大津市)に姿を隠したり、果ては西軍に加わったりして、もう何が何だか・・・

で、やがて戦いの中心は、もともと将軍家の後継者争いよりも深刻だった各武家の後継者争いや派閥争いにつながっていき、京都周辺で行われていた戦いは、ここらあたりから徐々に外=地方へと移行していく事になります。

そんな中、文明元年(1469年)に入って、備後(びんご=広島県東部)に下向していた山名是豊(これとよ)が現地の国人(こくじん=その地に根付く武士)郎党を統合させる事に成功し、安芸(あき=広島県西部)の国人である吉川経基(きっかわつねもと)毛利豊元(もうりとよもと=毛利元就の祖父)らを従えて京都に戻って来るとの知らせが・・・

この山名是豊という人は、その名でお察しの通り、西軍大将の山名宗全の息子=次男だったわけですが、後継の問題やら領地の問題やらで、父&兄と対立しており、この応仁の乱では東軍=細川派に属していたのです。

将軍=義政から牙旗(がき=錦の御旗みたいな)を与えられて官軍となっている東軍ですが、先の応仁元年(1467年)の5月に周防(すおう=山口県東南部)長門(ながと=山口県西部)を領する 西国の雄=大内政弘(おおうちまさひろ)西軍として参戦して来てからは少々分が悪い・・・現に、この段階でも摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)あたりでは大内軍が大暴れ中でした。

そこで細川勝元は、上洛する是豊に赤松政則(あかまつまさのり)をつけて兵庫津(ひょうごのつ=神戸港)奪還を命じたのです。

この兵庫津は、おおもとは将軍家の所有で、南側を興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)、北側を東大寺(とうだいじ=同奈良市)が分割所有していたのですが、先の大内政弘参戦の際に、大内軍が兵庫津に上陸して、ここを占拠してしまっていたのです。

ま、当時は国内第一の港ですからね~遠征時の補給路の確保は戦略上の最優先事項です。

で、そんな兵庫津の奪回を命じられた山名是豊は、さらに赤松配下の小寺(こでら)明石(あかし)等を引き連れて、大内配下の問田弘胤(といだひろたね)の守る兵庫津を攻撃したのです。

文明元年(1469年)10月16日に勃発した最初のぶつかり合いでは、「大内手打勝了(『大乗院寺社雑事記』による」=大内側の勝利となりますが、2日後の18日には、数で勝る山名&赤松勢が力推しで攻め立てたうえに放火・・・火の勢い激しい中で問田弘胤が行方不明になってしまったため、大内&問田勢は指揮を失い、やむなく南都(なんと=奈良)方面目指して逃走していくのです。

この16日~18日にかけての戦いは、名のある武将も負傷するなど、かなり激しい戦いだったようで、無関係の一般住民も巻き込まれ、多くの人が犠牲となりました。

中でも、先の市街戦で屋敷を焼かれたために、前年の9月に領国の土佐(とさ=高知県)へと避難した一条教房(いちじょうのりふさ)(9月6日参照>>)の長男=一条政房(まさふさ)は、父のもとに向かうため、この兵庫津にて船を待っていたところを、たまたま乱入して来た山名勢に槍で一突きされて息絶えたのです。

もちろん、この時の政房は武装などしておらず直衣(のうし)狩衣(かりぎぬ)といった公家装束であったとか・・・さすがに、これには天皇以下朝廷も大いに悲しんだようですが、彼を刺した兵士の方も、まさか無関係の人とは知らなかったようで、相手が政房だったと知らされた後は、出家したか?自害したか?とにかく、この後は行方知れずになってしまったようです。

とにもかくにも、この兵庫津での問田勢の敗走の一報を受けて、連動する形で池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を包囲していた大内軍が、文明元年(1469年)10月22日に撤退を開始し、この兵庫津での戦いは終りました。

さらに11月16日に摂津中島(なかじま=大阪府大阪市東淀川区付近)に陣取っていた大内軍を撃破した山名&赤松勢は、その2日後の18日には、細川勝元からの論功行賞によって是豊には兵庫五ヶ荘が、政則には播磨(はりま=兵庫県西南部)備前(びぜん=岡山県東南部)美作(みまさか=岡山県東北部)の守護職が与えられ、ここに兵庫津における戦いは完結となります。

このあと、山名是豊は現在の尼崎市吹田市あたりに展開する大内軍との交戦に突入しますが、敵を一掃するほどには至らず、あまり大きな成果を得られないまま文明二年(1470年)を迎え、今度は備後に突入して来た西軍相手に戦う事になりますが、そのお話は、また、いずれかの日付にて書かせていただきたいと思います。

ちなみに、今回の兵庫津の戦いの後は、これまで兵庫に来ていた(みん=中国)との交易船が(さかい=大阪府堺市)の港に発着するようになるので、おそらくは、かの激戦により、しばらくは兵庫の港が使えないほどヒドイ状態になっていたものと思われます。

もちろん、ご存知のように、応仁の乱自体は、地方へに移行&グダグダ感を増しつつも、これからも続きますしね。
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2020年10月14日 (水)

28年間に渡る享徳の乱~五十子・太田庄の戦い

 

長禄三年(1459年)10月14日、享徳の乱序盤の激戦=太田庄の戦いがありました。

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本日ご紹介する太田庄(おおたしょう)の戦いは、享徳三年(1454年)12月から文明十四年(1483年)11月までの28年間という長きに渡って混乱した享徳の乱(きょうとくのらん)という大乱の中での激戦の一つです。

まさに今日明日の長禄三年(1459年)10月14日と15日に太田庄(埼玉県熊谷市)でぶつかったので太田庄の戦いですが、その前後の対峙するこう着状態の期間も含めて五十子(いらこ・いかご=埼玉県本庄市)の戦いとも呼ばれます。

そもそもは、領国が関東でありながら、南北朝の混乱etc.のために京都の室町(むろまち=京都市上京区)にて幕府を開く事になった初代室町幕府将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)が、将軍は京都に滞在せねばならないために、留守になってしまう関東を治めるべく、自身の四男である足利基氏(もとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう)として、関東に派遣した事に始まります。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以来、将軍職は尊氏嫡男(実質は三男)足利義詮(よしあきら=2代将軍)の家系が代々継ぎ、鎌倉公方は基氏の家系が代々継いでいき、鎌倉公方の補佐する関東管領(かんとうかんれい=執事)には上杉(うえすぎ)が代々就く事になったわけですが、徐々に、鎌倉公方は将軍家と対立し、自らの道を歩み始めようとするようになったのです。

その最たる物が、第6代将軍=足利義教(よしのり)VS第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)でした。

…というのも、先々代の第4代将軍=足利義持(よしもち)が、息子の足利義量(よしかず=第5代将軍)に将軍職を譲ったものの、義量は子供がいないまま父より先に死に、その3年後に義持も次期将軍を指名しないまま亡くなってしまった事で、出家したいた義持の弟の中から、次期将軍をくじ引きで選ぶ事に・・・そのくじ引きで選ばれたのが第6代の足利義教だったわけですが、

どうやら持氏は、義持の猶子(ゆうし=養子)だったという話もあり、それなら持氏も「俺(持氏)にも将軍になる権利あるんちゃうん?」てな事からはじまり、不満ムンムンの鎌倉公方=足利持氏と、将軍=足利義教が一触即発の状態となる中、当時の関東管領=上杉憲実(うえすぎのりざね=山内上杉家8代当主)が、血気にはやる持氏を止めようとしたため、持氏は関東管領とも対立するようになります。

で結局、持氏は、その上杉憲実を討とうと軍を起こしたものの、逆に、上杉憲実と幕府によって永享十一年(1439年)2月、自刃に追い込まれてしまったのです「永享の乱」参照>>)

2年後の永享十三年(嘉吉元年=1441年)には、持氏の遺児である春王(しゅんのう・はるおう=持氏の次男)安王(あんのう・やすおう=持氏の三男)を担いだ結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)結城氏朝(ゆうきうじとも)が幕府に対抗しますが、コチラも鎮圧されてしまいます「結城合戦」参照>>)

ところが、そのわずか2ヶ月後・・・招かれた宴会の席にて将軍=義教が、播磨(兵庫県)の守護=赤松満祐(あかまつみつすけ)殺害されるという事件が起こります「嘉吉の乱」参照>>)

将軍職は義教嫡男の足利義勝(よしかつ=第7代)が、わずか9歳で継ぐ事になりますが、鎌倉公方はどうする?

先の永享の乱のゴタゴタで一旦廃止となっていたものの、やはり「関東安定のためには鎌倉公方は必要」との事で、関東武士団の推す亡き持氏の四男=足利成氏(しげうじ)が新たな鎌倉公方となり、関東管領には先の上杉憲実の息子=上杉憲忠(のりただ=山内上杉家9代当主)が就任します。

まぁ、先にゴタゴタあったものの、将軍も代わった事ですし、この時の成氏は未だ10歳に満たない少年でした(永享の乱の時に4歳だったとされる)から、回りの大人から見れば扱いやすく、それでいて血筋は正統な跡継ぎなのですから、関東の武士団がサポートすれば「これでウマく行く」という感じだったのでしょう。

しかし・・・よその子は大きくなるのが早いww

いつしか成氏は、父の仇である上杉家を遠ざけ、アノ時も味方になっていてくれた結城氏や安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)などを重用するようになっていくのです。

やがて、これに不満を持った上杉家の家宰(かさい=江戸時代の家老みたいな役職)長尾景仲(ながおかげかね)太田資清(おおたすけきよ=道心)が、宝徳二年(1450年)、成氏を襲撃するという事件が起こります。

この時は、江の島に避難して無事だった成氏ですが、当然、上杉家との距離は、益々開いていくわけで・・・

そんなこんなの享徳三年(1454年)12月、成氏が自らの御所に上杉憲忠を呼び寄せて騙し討ちする一方で、成氏に味方する里見らが、長尾景仲に代って上杉家の家宰となっていた長尾実景(さねかげ)父子を殺害したのです。

たまたま鎌倉を留守にしていた時に、この事件の報告を受けた長尾景仲は、報復すべく即座に兵を集めます。

一方の上杉憲忠の弟=上杉房顕(ふさあき)も、兄の後を継いで直ちに関東管領に就任し、従兄弟の上杉房定(ふささだ)と合流するとともに、上杉憲忠殺害などの一連の出来事を幕府に報告し、幕府から「成氏討伐」の許可を要請します。

こうして享徳の乱が始まったのです。
ちなみに、義教の後を継いだ7代将軍=義勝は在任わずか8ヶ月で病死してしまったため、嘉吉三年(1443年)に、その弟の足利義政(よしまさ=義教の三男)が第8代将軍に就任しています(当時8歳)。

乱勃発まもなくの頃は、分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)にて長尾景仲率いる上杉軍に大勝利した成氏でしたが、享徳四年(1455年)の4月になって、「成氏討伐」を決定した幕府の命で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)今川範忠(いまがわのりただ)が出陣・・・

勝利の勢いに乗って各地を転戦する成氏の留守を狙って、成氏の本拠=鎌倉に攻撃を仕掛け、ここを占領してしまいます。

このため、鎌倉に戻れなくなった成氏は、やむなく下総(しもうさ=千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県東辺・東京都東辺の隅田川東岸)古河(こが=茨城県西部)に入って古河城(こがじょう=茨城県古河市)を普請し、ここを自らの御所とし、更なる戦いに挑みます。

なので、これより後は、足利成氏は「古河公方(こがくぼう)と呼ばれます。
(↑幕府からの討伐命令が出てる以上、正式な公方ではありません)

こうして成氏が古河を拠点に反撃し始めた事から、上杉家の領国だった上総(かずさ=千葉県中部)や安房も成氏派に占領され、利根川を挟んで東側が古河公方=成氏派、西側が関東管領=上杉派に分断された形となって、戦いは関東各地に広がっていきました。

一方、幕府は、長禄元年(1457年)に、そんな成氏派に対抗するため、上杉持朝(もちとも=扇谷上杉家当主・相模国守護・上杉憲忠の岳父)河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)を、その執事の太田資清(おおたすけきよ)岩付城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市・岩槻城)を、資清の息子=太田道灌(どうかん)には江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築させて(4月8日参照>>)守りを固める一方で、将軍=義政の兄である足利政知(まさとも=義教の次男)に、執事として渋川義鏡(しぶかわよしかね)上杉教朝(のりとも)の二人をつけて、正式な鎌倉公方とするため関東に下向させます。

しかし、すでに混乱状態にある関東で、鎌倉に入れなかった政知らは、やむなく、少し手前の伊豆(いず=伊豆半島)堀越(ほりごえ・ほりこし=静岡県伊豆の国市)に御所を構え、以後、ここを本拠としたので、足利政知は堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれます。
(↑上記の通り、こっちが正式な公方です)

そんなこんなの長禄三年(1459年)の中頃、上杉方が利根川西岸の五十子(いらこ=埼玉県本庄市五十子)に本陣を置いて、一族の主だった者を集結させた事を知った成氏は、その五十子に攻撃を仕掛けるべく出陣します。

かくして長禄三年(1459年)10月14日、両軍は上杉本陣の五十子近くの太田庄でぶつかるのです。

激戦は丸一日続き、この日の戦いで上杉教房(のりふさ=持房の息子)をはじめとする主力武将が討死を遂げ、上杉方の敗戦となりました。

続く15日の朝方には、利根川を渡った上杉軍が海老瀬口(えびせぐち=群馬県邑楽郡板倉町)にて交戦し、夕方には羽継原(はねつぐはら=群馬県館林市)にて戦いましたが、形勢不利な状況は否めず・・・やむなく五十子へと引き返しました。

この戦いで大打撃を受けた上杉方としては「五十子の本陣もヤバイ?」てな雰囲気でしたが、どうやら成氏側も痛手を被ったようで、五十子にやって来ることなく、成氏の古河方もそのまま撤退して行ったので、五十子は上杉が確保・・・

以後、ここを拠点に長期戦に突入していく事になります。

幕府も、将軍=義政の名で関東の武士たちに成氏追討命令を出しますが、すでに関東一円が混乱状態の中、各武将たちにとっては将軍の追討命令よりも、自分に降りかかる目の前の合戦が最優先なわけで、なかなか古河方に決定打を出せないまま・・・

こうして、度々の小競り合いを続けながらも大きな決着がつかぬままの両軍・・・文正元年(1466年)には成氏が五十子の本陣を攻撃する一幕もありながらも、一方の上杉方では総大将とも言うべき上杉房顕が五十子にて急死

それでもにらみ合いと小競り合いが続いておりましたが、文明五年(1473年)になって、山内上杉家の執事職を継げなかった長尾景春(ながおかげはる=長尾景仲の孫)が乱を起こし、
【江古田・沼袋の戦い】>>
【用土原の戦い】>>
そのゴタゴタで景春に攻撃された五十子の本陣はボロボロ・・・解体を余儀なくされます。

もちろん、五十子の本陣はなくなっても、享徳の乱はもうしばらく続くのですが、ご存知のように、この間、都では、あの応仁の乱(おうにんのらん)が勃発(5月20日参照>>)していたわけで・・・

もはや関東も関西も収拾のつかない動乱の戦国へと突入・・・なので享徳の乱は関東における戦国の幕開けとも称されています。

とりあえず、28年に渡る大乱について、サラッと書かせていただきましたが、もう、何が何だか状態ですねww

まぁ、享徳の乱の終焉については、また後日・・・いずれかの日付にて書かせていただきたいと思いますm(_ _)m
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2020年9月17日 (木)

山城の国一揆の終焉~稲屋妻城の戦い

 

明応二年(1493年)9月17日、守護の伊勢貞陸の命を受けた古市澄胤が反対派の籠る稲屋妻城を陥落させ、山城の国一揆を崩壊させました。

・・・・・・・・・

文明十七年(1485年)12月の集会にて決行された山城の国一揆(くにいっき=国人による一揆)は、応仁の乱(5月20日参照>>)が終わっても、守護(しゅご=県知事)の座を巡っての戦いを止めない畠山義就(よしひろ・よしなり)畠山政長(まさなが)(7月19日参照>>)に対し、
① 畠山両軍の山城からの撤退
② 寺社本所領の還付
③ 新しく造った関所の撤廃

の三条件を提示して一揆を起こし、見事一揆を成功させ(くわしくは12月11日参照>>)、畠山両軍が去った南山城の2郡(現在の京都府南部=久世郡・綴喜郡・相楽郡の付近)を、「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆が自治的に管理運営する事になりました。
(国人=在地の領主・地侍)

一揆翌年の文明十八年(1485年)には、幕府が新しい守護として派遣して来た伊勢貞陸(いせさだみち=幕府政所執事伊勢貞宗の息子)を認めず、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)の重臣である安富元家(やすとみもといえ)を守護に推そうとした事もあったとか・・・

なので、最初の頃は、この伊勢貞陸も山城の国一揆と協調関係を結んで、かなり一揆側に譲った感じ守護継承であったようです。

しかし、その雰囲気が一転するのが、明応二年(1493年)4月に細川政元が起こした「明応の政変 (4月22日参照>>)・・・

これは、管領の政元が、第10代将軍=足利義材(あしかがよしき=義稙)を排除して、自らが推す足利義澄(よしずみ=義材の従兄弟)を新将軍に据えたクーデターだったわけですが、これによって幕府や細川家臣団の力関係が変わり、その家臣団内部の対立が、山城の国人たちにも絡んで来たからなのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以前の山城の国一揆のページ(先ほどの12月11日のページ>>)でも、加賀一向一揆が100年続いたのに対し山城の国一揆はあまり続かなかった・・・

それは、加賀一向一揆がもともと一向宗という宗教の下で団結した人が一揆を起こしたのに対し、山城の国一揆は、一揆のために一つになった人たちが起こした一揆だったから・・・

的な事を書かせていただきましたが、その通り、もともと山城の国一揆は一枚岩では無かったのです。

先にも書いたように国人とはその地に根付く地侍・・・末端の半士半農の者もいるとは言え、結局は武士なわけで、そこには同じ山城に住む者という横の関係とともに、それぞれの国人が抱える将軍を頂点とした武士という縦の関係もあったわけです。

上の方のゴタゴタは、当然、下の者たちにも影響を与えるわけで・・・

そんな中、伊勢貞陸は、政元に京都を追われた足利義材らが、再び京都への侵入を企てている事を利用して「それを防ぐため…」と称して、山城全土の直接支配に踏み出し、大和の有力者で畠山に通じていた古市澄胤(ふるいちちょういん)守護代(しゅごだい=副知事)に任命して、一揆以前の支配体制に戻す方向に進めたのです。

これに対して、山城の国一揆は真っ二つに分かれてしまいます。

自治を放棄し、伊勢貞陸の支配下として優位に生き残ろうとする者と、あくまで、それに反対する者・・・

この一部の者の支持を得た伊勢貞陸は、山城守護として入部しようと試みますが、これに反対する者たちが稲屋妻城(いなやづまじょう=京都府相楽郡精華町・稲八妻城とも)に籠り、徹底抗戦の構えを見せたのです。

そこで伊勢貞陸は、解決のあかつきには綴喜(つづき)相楽(そうらく)の2郡を与えるという条件で、古市澄胤に反対する国人衆の討伐を命じます。

明応二年(1493年)9月11日、大和(やまと=奈良県)から山城へと入った古市澄胤は市坂(いちさか=京都府木津川市)に陣取り、協力する郡代(ぐんだい=地方官)井上九郎(いのうえくろう)祝園(ほうその=京都府相楽郡精華町)に陣を置き、菅井(すがい=同相楽郡精華町)には河内誉田(こんだ)の軍勢50人・・・と、稲屋妻城を囲むように兵を配置して攻撃を開始します。

ままたく間に、数百人が籠っていた稲屋妻城の約70名ばかりを討ち取った古市勢は、これと同時に、伊勢排除の張本人であった稲屋妻庄の公文(くもん=荘園の現地管理役人)進藤父子の館を襲撃して父子を逃亡させます。

こうして、11日に始まった攻撃は、明応二年(1493年)9月17日、稲屋妻城にて抵抗していた反対派をことごとく討ち滅ぼし、戦いは伊勢配下の古市勢の勝利となりました。

残っていた反対勢力も、11月頃までには一掃され、ここに山城の国一揆は終りを告げたのです。

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室町幕府行人連署奉書(国立公文書館蔵)明応二年八月三日付け「伊勢貞陸に従うように通達する内容の幕府の文書」

これを最後に、この南山城で自治体制が再構築される事はなく、一揆の態勢は崩壊して伊勢氏の支配下となり、古市澄胤も力をつける事になりますが、一方で、その後、畠山の家臣が勝手に山城に侵入するのを伊勢貞陸が阻止できなかったりした事から、その支配の弱さを見せてしまい、やがて、この山城一帯も戦国の波に呑まれていく事になるのです。

★この後の山城地域関連の合戦
 ●明応八年(1499年)9月宇治木幡の戦い>>
 ●明応八年(1499年)12月京軍の大和侵攻>>
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2020年7月22日 (水)

武田家内紛~武田信縄と油川信恵の市川の戦い~甲斐の戦国

 

明応元年(1492年)7月22日、武田信縄油川信恵による後継者争いの最初の戦いである市川の合戦がありました。

・・・・・・・

今回の市川(いちかわ=山梨県西八代郡)の戦いで戦ったのは、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事みたいな?)である武田(たけだ)氏の第17代当主である武田信縄(たけだのぶつな)と、その弟の油川信恵(あぶらかわのぶよし・のぶさと=武田信恵)

このお兄さんの信縄さんの息子が武田信虎(のぶとら)で、その信虎の息子が武田晴信(はるのぶ)信玄(しんげん)ですので、つまりは、あの武田信玄のお爺ちゃんという事で、ドラマや小説等でよく描かれる、いわゆる戦国時代のチョイと前という感じです(実際にはこのあたりも、すでに荒れ放題の戦国時代ですが…)

そもそも、室町幕府がちゃんと機能していた頃には、各地に政府公認の守護を配置して、彼らにその地を治めさせていたわけですが、やがて、そんな守護たちに、それぞれ後継者を巡る争いが勃発し始め、それらをキッカケに起こったあの応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)で、守護たちが京都にてドンパチ始めると、守護が留守となってた地元では、守護代(しゅごだい=副知事)やら地元の有力武士が力をつけはじめ、やがて、彼らが力づくで守護に取って代わる=下剋上(げこくじょう)の戦国へ突入・・・
(実際にはもっと多くの複雑な要因がありますが、あくまでごくごく簡単に言うとこんな↑感じです)

皆さまご存知のように、
美濃(みの=岐阜県南部)の守護だった土岐(とき)に代って実権を握ったのが斎藤道三(さいとうどうさん=利政)(1月13日参照>>)
守護代の長尾(ながお)が守護の上杉(うえすぎ)を倒し、その後に後継ぎとなった上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)(6月26日参照>>)
さらに、守護の安芸(あき=広島県)武田氏を破り(10月22日参照>>)周防(すおう=山口県)大内(おおうち)を破り(10月1日参照>>)出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまご)(11月28日参照>>)但馬(たじま=兵庫県北部)山名(やまな)(4月7日参照>>)を押さえつつ、西国の雄となった毛利元就(もうりもとなり)
などなど、、、(他にもいっぱい)

そんな中で、数少ない(と言えるかどうかは個人の認識の差がありますが幕府公認の守護で戦国を生き抜いていたのが、信玄さんの甲斐武田です。

河内源氏(かわちげんじ)棟梁(とうりょう)源義光(みなもとのよしみつ=新羅三郎・源義家の弟)を祖に持ち、平安時代から武家だった武田は、あの源平合戦にも源頼朝(みなもとのよりとも)配下として参加して(【富士川の戦い】参照>>)鎌倉時代を駆け抜け、建武の新政にも関わり、南北朝では足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って第10代当主武田信武(のぶたけ)室町幕府政権下での公認の甲斐守護となったわけです。

とは言え、当然の事ながら、その間もその後も、ず~っと順風満帆だったわけではありません。。。てか、むしろ波乱に次ぐ波乱。

それこそ、中央の室町幕府がしっかりしていた頃は何とかなったものの、第6代室町幕府将軍=足利義教(よしのり)の頃に、中央政権に反発して関東で大暴れしていた第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)に対抗した第13代当主武田信満(のぶみつ)が応永二十四年(1417年)の合戦で討死した事から、一時は甲斐国も守護不在の状態となってしまったのです。

その後、持氏が永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)にて鎮圧された後の結城合戦(ゆうきがっせん)(4月16日参照>>)で、信満の息子で第14代当主武田信重(のぶしげ)が功績を挙げた事で何とか再興のキッカケをつかみますが、

上記のような混乱の中では、国内の実権は、有力国人(地元の武士)や守護代の跡部(あとべ)に牛耳られていて、信重息子の第15代当主武田信守(のぶもり)は守護として何もできぬまま早世・・・後を継いだ息子の第16代当主武田信昌(のぶまさ)の代になって、ようやく跡部を排除したものの、一方で、穴山(あなやま)栗原(くりはら)大井(おおい)など有力国人勢力の台頭を許してしまい、領内は乱国状態が続いていました。

そんなこんなの明応元年(1492年)に信昌は、長男の信縄(やっと出て来たw)に家督を譲って隠居しますが、

しかし、その直後・・・
『勝山記』には、
「延徳四壬子 此年六月十一日 甲州乱国ニ成始ル也」
とあり、

『塩山向嶽禅庵小年代記』にも、
「同月十三日国中大乱」
とあり、

どうやら明応元年(1492年=7月に延徳から改元)6月10日を過ぎた頃から、甲斐において乱が発生したらしい・・・

それは、武田の内訌(ないこう=内部の戦い)・・・そう、信昌から家督を譲られた信縄と、その弟の信恵との兄弟争いが勃発したのです。

長男の信縄に家督を譲った後は、万力(まんりき=山梨県山梨市万力)落合館に隠居していた信縄・信恵兄弟の父である信昌が、この兄弟抗争の時には次男の信恵を支援している事から、一説には、先の家督相続は信縄のクーデターであったのでは?との見方もあります。

とにもかくにも、領内が乱れている状態で起こった兄弟争いは、それが激しくなるにつれ、国内の勢力を二分して対立させ、さらに国外の勢力の乱入も許してしまう事になり、これが、甲斐における戦国の幕開けとの見方もあります。

その、兄弟の最初の戦いが、明応元年(1492年)7月22日市川での戦いでした。

詳細な記録は残っていないのですが、信縄方の討死した者の数の記録や、そこに有力氏族の名が多く記載されている事から、かなり激しい戦いの末、今回は信縄方の敗北に終わった事が予想できます。

また、『王代記』には、
「壬子(明応元年)甲州ヘ九月駿河衆乱入
 又兄弟相論
 此年七月廿二日一河(市川)合戦」
と、この市川の戦いと並べて、その2ヶ月後には駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)勢が甲斐に侵攻して来た事が書かれており、内乱に乗じた外部からの圧力もあった事でしょう。

さらに翌明応二年(1493年)には4月8日には塩後(しおご=山梨県甲州市塩山上塩後)にて、11月1日には小松(こまつ=同甲府市小松町)にて合戦が行われ、この頃には勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市)を本拠に父の信昌や国衆の一人である小山田信長(おやまだのぶなが)を味方につけた信恵が信縄勢を抑え込み、有利に展開していたようです。

しかし、翌明応三年(1494年)3月26日の合戦では『勝山記』
「三月十(廿)六日合戦ニハ
 武田彦八郎殿(信恵の事)傷負玉フ
 大蔵大輔(おおくらたいふ=今井信又の事)打死…」
とあり、信縄方が形成逆転し、ここから後は、ほぼ優位に立っていたと思われます。

翌明応四年(1495年)には、伊豆支配を目論む相模(さがみ=神奈川県)北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)甲斐へ侵攻して来ますが、それでも兄弟の抗争は治まらず・・・明応七年(1498年)には明応の大地震が起こり、一旦終息するものの、ほとぼりがさめたら、また再開。

しかも、永正二年(1505年)に、父の信昌が亡くなった事を受けて、両者の敵対はむしろ激しくなる一方・・・永正四年(1507年)に信縄は病死しますが、それでも、信縄の息子である武田信虎(当時は信直)に引き継がれ、この兄弟対決は、まだ続く事に・・・

Takedanobutora500a ところが、この信虎が段違いの強さだった!
(↑さすが、信玄の父ちゃん)

信虎は明応三年(1494年)生まれとされますので、信縄の死で家督を継いだのは、わずか14歳・・・しかも、その前年には母ちゃんも病死してるという不幸続き。

そこで、信縄が死んで若年の信虎が後を継いだ事をチャンスと見た信恵が、翌永正五年(1508年)に挙兵するのですが、信虎はこれを見事返り討ち・・・信恵は討死し、武田宗家は信虎の系統に統一される事になったのです。

その後は、乱れっぱなしだった甲斐の国衆たちとも戦う信虎は、大永二年(1522年)頃には甲斐一国統一を達成・・・さらに、やがては駿河や信濃(しなの=長野県)を見据える大物となっていくわけです(5月14日参照>>)

個々の戦いについては、またいずれ「その日」のページで書かせていただきたい思いますが、戦国屈指の武将として名高い武田信玄の家系は・・・風前の灯だった武田家内の抗争から一転、領国統一を成し遂げたそのお父ちゃんもスゴかったという事をお忘れなく(∩.∩)v
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2019年10月21日 (月)

斎藤妙椿の応仁の乱~東美濃の戦い

 

文明五年(1473年)10月21日、美濃の斎藤妙椿が梅戸城の戦いに出陣しました。

・・・・・・・・・

斎藤妙椿(さいとうみょうちん)は、応永十八年(1411年)に美濃(みの=岐阜県南部)守護代(しゅごだい=副知事)斎藤宗円(そうえん)の次男として生まれ、Saitoumyoutin500a 長禄四年(1460年)に父の後を継いで守護代を務めていた兄の斎藤利永(としなが)が死去すると、その後を継いだ甥っ子の斎藤利藤(としふじ)を後見する立場となりますが、その実力はハンパなく、守護代の利藤どころか、主家で美濃守護(しゅご=県知事)である土岐成頼(ときしげより)をも凌ぐ勢いを持ち始めていました。

そんな中で勃発したのが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)・・・

ご存知のように、この応仁の乱は第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争いに、管領家(かんれいけ=将軍の補佐・No.2になる家柄)斯波(しば)畠山(はたけやま)やらの後継者争いが加わり、さらに、それぞれを支持する武将が東西に分かれて争った大乱ですが、

その中で、山名宗全(やまな そうぜん=持豊)率いる西軍に属する妙椿は、代表として京都にて戦っている土岐成頼に代わって、長江(ながえ)など美濃における東軍勢や彼らを応援する京極(きょうごく)氏に打ち勝ち、もはや美濃一国を西軍一色に変える勢いを見せていました。

ただ、一方では、奪った土地を「10首の和歌と交換して平和的に返す」なんていう風流な一面を匂わせる逸話も残っていますが(5月12日参照>>)

その強さを伝え聞いた六角高頼(ろっかくたかより)からの援護要請に応え、近江(おうみ=滋賀県)に出陣して東軍の京極政経(きょうごくまさつね)多賀高忠(たがたかただ)軍を撃破してみせ、その豪勇ぶりは京都の細川勝元(ほそかわかつもと)陣営を震え上がらせるほどでした。

そんなこんなの文明五年(1473年)春、「その妙椿が美濃の軍勢を率いて上洛するようだ」との噂が京都を駆け巡ります。

早速、細川陣営は比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)へ援護の要請を発し、将軍=義政は信濃(しなの=長野県)小笠原家長(おがさわらいえなが)木曾家豊(きそいえとよ)らに、「背後から美濃へと侵入して土岐成頼を討つように」と命じたのです。

Saitoumyoutinhigasimino
応仁の乱~東美濃の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中、3月18日に山名宗全が死去(3月18日参照>>)して後、妙椿の甥っ子で養子の斎藤妙純(みょうじゅん=利国・利藤の弟)が近江に侵入すると、いよいよ妙椿も、本格的に上洛の兆しを見せ、これを受けた細川陣営は、未だ出陣していなかった先の小笠原&木曽に東からの美濃侵攻を催促するとともに、北伊勢(きたいせ=三重県北部)の東軍武将=世保 (よやす)氏や富島(とみしま・としま)に西側から攻めさせ、美濃を挟み撃ちにする作戦を狙います。

これを知った妙椿ら土岐勢は10月、西の脅威をぶっ潰すべく妙純が北伊勢へ侵入し、世保氏ら北伊勢勢の籠る梅戸城(うめどじょう=三重県いなべ市大安町)への攻撃を開始します。

しかし、これがなかなか手ごわい・・・かくして文明五年(1473年)10月21日斎藤妙椿自らが数万騎を率いて出陣したのです。

さらに10月29日には、妙椿配下の石丸利光(いしまるとしみつ=斎藤利光)も加わって、ついに梅戸城を落とします。

しかし、手薄になったこの間に小笠原&木曽の信濃勢が美濃に侵攻し、わずかな城兵しかいなかった大井城(おおいじょう=岐阜県恵那市大井町)萩島城(はぎしまじょう=岐阜県瑞浪市釜戸町)を猛攻撃して陥落させると、その勢いに乗って南下して地元の土豪たちを降伏させ、東美濃を支配下に治めたのです。

やむなく土岐氏は東美濃を諦め、これ以上の美濃への侵入を防ぐべく、御嵩(みたけ=岐阜県可児郡)顔戸(ごうど=同可児郡)金山(かなやま=同可児市兼山)の3ヶ所に支城を構築して防御を強めました。

おかげで、これ以上の信濃勢による美濃侵攻はなく、現状、西美濃を維持している限り、土岐&斎藤妙椿らは京都や近江との連絡が絶たれる事は無いわけで、とりあえず一安心・・・

とは言え、このあとも、近江での六角&京極の戦いに援軍として進出し、縦横無尽の活躍をする事になるのですが、そのお話は【応仁の乱・近江の乱~京極×六角の近江争奪戦】>>でどうぞm(_ _)m
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2019年10月 9日 (水)

石上神宮VS興福寺~布留郷一揆

 

文明十五年(1483年)10月9日、布留郷民の反発に怒った興福寺が石上神宮に乱入して郷民を破った布留郷一揆がありました。

・・・・・・・・

応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱(5月20日参照>>)は、将軍家の後継者争いに管領家(かんれいけ=将軍を補佐する家柄)の後継者争いが絡み、それぞれを指示する武将たちが東西に分かれて戦った大乱でしたが、それは、乱の発端でもある畠山(はたけやま)の後継者争い(10月18日参照>>)のおかげで約10年に渡って度々戦場となった奈良の領民にとっても、田畑は荒らされ、略奪が横行する、大変迷惑な物であったわけです。

もともとは、古くから興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)守護(しゅご=県知事みたいな)に相当する立場を持っていて仏教とのつながり深かった大和の人々ではありましたが、乱で疲弊した中でも、その権威を振りかざして段銭(たんせん=税金)を要求し、言う事を聞かねば僧兵(そうへい=武将した僧侶)で以って強硬策に出る姿勢に、もはや領民たちも我慢の限界が来ていたわけで・・・

かくして文明十四年(1482年)10月、奈良は石上神宮(いそのかみじんぐう=奈良県天理市布留町)に厚い信仰を寄せる布留郷(るふごう=現在の天理市中心部から東の山間部にかけての一帯)の領民が、「興福寺への段銭を拒否し、郷内の通行を一方的に禁じる」という態度に出たのです。

もちろん、一方の興福寺は激怒して、即座に衆徒たちに出陣命令を下します。

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布留郷一揆の関係図 ↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

文明十五年(1483年)10月7日、興福寺の西金堂東金堂の前に掲げられた御旗に前に集合した僧兵&衆徒たちは、その旗を先頭に、一路、布留郷を目指して出発・・・この興福寺からの陣触れは、瞬く間に大和一帯に伝えられ、興福寺に味方する国人(こくじん=土着の武士)土豪(どごう=土地に根付く小豪族)、修学者たちも、それぞれが思い思いに武装して、その軍団に加わっていきました。

翌8日に、興福寺の軍勢は布留郷に侵入して村を焼き払いにかかり、それに追われるように郷民約4000が石上神宮に立て籠もり、必死の抗戦を開始します。

ただし、記録によれば、この時の布留郷がイザという時のために用意していた具足は800領もあったという事なので、コチラもなかなかのもの・・・「ただの郷民」と侮れません。

とは言え、興福寺の僧兵は=この時代の僧兵は僧はどこへやらの兵士そのものですし、国人や土豪は戦いのプロである武士ですから、さすがに「まともに戦っては勝ち目が無い」とばかりに、郷民側は各所でゲリラ的な戦いを展開していくのです。

その突き所は・・・実は、この時の興福寺側も一枚岩ではなく、天理(てんり)周辺に根付く豊田(とよだ)井戸(いど)などは、表向きには興福寺に協力して出陣してはいるものの、裏では布留郷に、今回の合戦に備えての具足の提供をしたりなんぞしています。

なんせ、布留郷もバックには石上神宮が付いてるわけで、天理の地元民としては敵対した際の神罰が怖い・・・何たって石上神宮は古代軍事の神であり格は由緒正しき神宮ですし。

オマケに、この何日か前に神火(じんか)と呼ばれる原因不明の不思議な火が布留郷一帯に出現するという怪現象も手伝って、興福寺寄りの武士の中にでも「どっちの味方もせず、何とかウマくやり過ごしたい」と思ってた人たちもいたようで・・・

ただ、8日の合戦で、興福寺に全面協力する古市(ふるいち)氏は、ヤル気満々で、最初のぶつかりで郷民らに蹴散らされた豊田隊の連中に「お前らヤル気あんのか!」と罵声をあびせながら、今度は、自分たちが手足として動かせる六方衆(ろっぽうしゅう)と呼ばれる興福寺&その末寺の衆徒たちを、田村荘(たむら=奈良県天理市田町)と、その周辺に点在させ、それぞれを連携させて一斉に攻撃を仕掛けていったのです。

六方衆の一斉攻撃にも何とか耐えて、抗戦を続けていた布留郷民たちでしたが、文明十五年(1483年)10月9日の明け方になって山城やましろ=京都府南部)の国の椿井(つばい)氏が300の兵を連れて興福寺側の援軍として駆け付けて来た事で戦況は一気に変わります。

新手の軍勢を得た事で、興福寺側が総攻撃を仕掛けたのです。

それでも踏ん張って抗戦していた郷民たちでしたが、やがて敗戦の色が濃くなり、やむなく、石上神宮を捨てて、それぞれに落ちて行ったのです。

その後、興福寺側の兵は、郷民たちが去った石上神宮の境内へとなだれ込み、集会所や庵などに火を放ち、周辺の宝物や物品を略奪・・・さらに、その日の夕刻には古市隊が、郷民に味方した丹波市村(たんばいちむら=奈良県天理市丹波市町)一帯を焼き払い、今回の布留郷一揆と呼ばれる一件は終りを迎えたのでした。

ちなみに、今回の布留郷民は、永禄十一年(1568年)に、織田信長(おだのぶなが)軍&松永久秀(まつながひさひで)とも戦っています。

当時は、奈良の覇者だった筒井(つつい)をも破って破竹の勢いだった久秀に、これまた上り調子の織田勢という事で、さすがに布留郷民も太刀打ちできず、石上神宮内に織田勢が乱入して暴れまわり、社殿も壊され神領も没収されるという憂き目に遭い、石上神宮は一旦消滅しますが、ご存知のように、人々の信仰の火は消える事無く続き、明治の世になって石上神宮は復活・・・今に至っています
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2019年10月 2日 (水)

応仁の乱~東岩倉の戦いと大内政弘の参戦

 

応仁元年(1467年)10月2日、応仁の乱の中で展開された東岩倉の戦いが終結しました。

・・・・・・

これまで何度も、このブログに登場している応仁の乱

そもそもは・・・
未だ後継ぎが生まれていないにも関わらず、一刻も早く引退して趣味に走りたい第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が、弟の足利義視(よしみ)を後継者に指名したものの、その直後に義政と奥さん= 日野富子(ひのとみこ)との間に男子=義尚(よしひさ)が誕生。

そうなると、なんとか我が子を次期将軍にしたい富子は、時の実力者ある山名宗全(やまなそうぜん・持豊)(3月18日参照>>)に相談しますが、一方の義視は義視で「息子生まれて…俺の立場ヤバイんちゃうん?」と、これまた時の実力者である細川勝元(ほそかわかつもと)に近づく。

そんなこんなの応仁元年(1467年)1月17日、以前から後継者争いでモメていた管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を代々受け継ぐ家柄)畠山(はたけやま)同士の争い=御霊合戦が勃発(1月17日参照>>)しますが、 この合戦で、懇意にしている畠山政長(はたけやままさなが)から援助を求められた細川勝元は「応援したいのはやまやまなんやけど、将軍さんが私的な争いに関与したらアカンでいうてはるので…」と静観していました。

Ouninnoransoukanzu2 ところが対立する畠山義就(よしなり)側には宗全の孫である山名政豊(まさとよ)が関与してバッチリ勝利をつかんだ事を知り、激おこの勝元は「戦火から御所を守る」という名目で将軍の住まう「花の御所」を占拠し、将軍から「都を荒らす山名方追討」の命令を取り付け、その総大将には義視が任命されます(5月20日参照>>)

御所を抑えられた山名宗全は、やむなく、そこから西へ500mほどの自身の邸宅近くに本陣を構えました(これが西陣です)

ここに、「山名宗全=西軍」「細川勝元=東軍」という応仁の乱の基本の形が形成され、そこに、先の畠山氏の後継者争いや、同じく以前から後継者でモメていた管領家=斯波(しば)が加わり、さらに、それらの大物の系列である全国の武士たちが、東西いずれかに加担して参戦した事で、応仁の乱は歴史上屈指の大乱となるわけです。

最初のぶつかり合いは、5月26日~27日の2日間・・・戦場となった一条大宮周辺が焦土と化す激しい戦いではあったものの、決着がつきそうに無い状況に、将軍=義政が5月28日に停戦命令を出して、一応の静寂が蘇りました(5月28日参照>>)

しかし、その10日後の6月8日に将軍=義政が細川勝元に牙旗(がき=錦の御旗みたいな)を与えた事で、東軍が官軍に、西軍が賊軍に認定されてしまったのです。

当然ですが「コチラにも正義がある」という思いで参加していた西軍の武将たちの士気は下がり、領国に戻ってしまう者までいて、もはや西軍の運命は風前の灯・・・

と思いきや、ここで、西方から大きな助け船が動いて来ます。

かねてより、宗全が声をかけていた西国の大物=大内政弘(おおうちまさひろ)周防(すおう=山口県東南部)長門(ながと=山口県西部)はもちろん、分国の石見(いわみ=島根県西部)伊予(いよ=愛媛県)の軍勢まで連れて、西軍に参戦するために上洛して来るのです。

すでに5月10日のうちに周防を発っていた大内政弘は、7月20日に兵庫(ひょうご)に上陸・・・これを受けて山名勢が活発になる事を警戒した将軍=義政は、弟=義視に対し「徹底追討」の命令を下します。

対する大内勢は、摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)国人(こくじん=地元に根付い武士)たちを味方に加えて、大内の上洛を阻止せんと派遣された細川配下の秋庭元明(あきばもとあき)&赤松配下の浦上則宗(うらがみのりむね)ら東軍側と小規模な戦闘を繰り返しながら、(よど=京都市伏見区)山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)を経て京都へと入り、8月23日、洛北にある船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)に陣取ります。

彼ら大内勢と小競り合いを繰り返しながら、その後を追うように京都に入った秋庭&浦上勢は、何とか東軍の主力部隊と合流しようと試みますが、西軍の猛攻に阻まれ、やむなく南禅寺(なんぜんじ=京都市左京区)近くの東岩倉(ひがしいわくら=京都府京都市東山区粟田口)に陣を置きました。

この時、援軍到着に勢いづいた西軍山名勢が、東軍側の複数陣所に攻撃を仕掛けたため、時の後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)が花の御所に避難してくる場面もあったとか・・・

Ouninhigasiiwakura
東岩倉の戦い~位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな時、一大事件が起こります。

大内政弘が入京した、その日の夜、東軍の総大将であったはずの足利義視が、密かに陣を抜け出して姿をくらましたのです。

実は、以前から義視と対立関係にあり、次期将軍にも義尚を推していた伊勢貞親(いせさだちか)を、この5月に、将軍=義政と細川勝元が呼び戻して東軍に加えたのを義視は快く思っていなかったし、そもそも日野富子&義尚母子と自分は同じ花の御所にいるわけで・・・その事で、何となく「自分の居場所は東軍じゃないんじゃ??」と考え始めた義視は、東軍に属しながらも義政から上洛を許されていなかった伊勢北畠教具(きたばたけのりとも)を頼って脱走したのでした。

総大将のトンズラは、東軍の士気を一気に鈍らせ、西軍の勢いを増加させます。

勢いに乗った西軍は9月1日、畠山義就に土岐(とき)六角(ろっかく)の兵を加えた5万の大軍で、東軍側の武田信賢(たけだのぶかた)の拠る三宝院(さんぼういん=京都市伏見区醍醐)を襲撃し、その勢いのまま京極持清(きょうごくもちきよ)の守る浄花院(じょうかいん=京都市上京区元浄花院町)を陥落させます。

さらに13日には、山名宗全自らが軍を率いて細川勝元邸を攻撃する一方で、畠山義就が内裏(だいり=天皇の住まい)を占拠し、下京のほとんどを西軍が制圧する形となりました。

かくして9月18日、本隊と連絡が取れず孤立していた東岩倉の秋庭&浦上の陣に対して、西軍が猛攻撃を仕掛けたのです。

これが、約15日間に渡っての激戦で南禅寺や青蓮院(しょうれんいん=京都市東山区粟田口)が廃墟と化してしまう事になる東岩倉の戦いです。

応仁元年(1467年)10月2日西軍がようやく攻撃を休めて洛内へと戻った事で、そのスキに秋庭&浦上隊は北へ迂回して上御霊神社(かみごりょうじんじゃ= 京都府京都市上京区 )側から東軍本陣へと合流する事ができたのでした。

東軍の諸将は、何とか無事の合流を喜んだものの、今や、東軍は花の御所と、それに隣接する相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)など上京のわずかの場所だけに押し込まれる事になってしまいました。

さらに、この東岩倉が収まった翌日の10月3日、西軍は畳みかけるように、その相国寺に攻撃を仕掛け、応仁の乱の中でも屈指の激しい戦闘となる相国寺の戦いが繰り広げられる事になるのですが、そのお話のくわしくは2009年10月3日のページで>>

とは言え、この相国寺の戦いは東西の両軍ともに大きな損害を受けて、しばらくは大きな乱闘を起こす気力もない状態となります。

その後12月7日に、東軍が船岡山に陣取る大内軍を攻撃しますが、大打撃を与える事はできず・・・結局、両者は京都市内の各所にそれぞれ陣を構えて警戒しつつ対峙しながら年を越し、翌年の稲荷山攻防戦(3月21日参照>>)へと向かっていく事になります。
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2019年7月26日 (金)

当方滅亡!~上杉を支えた名執事=太田道灌の最期

 

文明十八年(1486年)7月26日、主君=上杉定正の命により、太田道灌が暗殺されました。

・・・・・・・・

太田道灌(おおたどうかん=資長)戦国初期に登場する屈指の名将です。

そもそもは、初代の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自身の地元が関東でありながら、南北朝の動乱やら何やらで京都にて室町幕府を開く事になり、そうなると、足利家のトップである将軍は京都におらねばならないため、その間、留守となった地元=関東の支配を誰かに任せねばならない・・・

Asikagakuboukeizu3 ←足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そこで尊氏は自身の三男の 義詮(よしあきら)に将軍職を譲り、その弟の四男=基氏(もとうじ)を地元を支配する鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東に派遣し、以来、義詮の血筋が将軍を、基氏の血筋が公方を、代々継承していったわけですが、その公方の補佐役が執事(しつじ)・・・後に関東管領(かんとうかんれい)と呼ばれる役職で、それを交代々々で歴任していたのが両上杉家(うえすぎけ)=惣領家が山内上杉(やまのうちうえすぎ)と言い、分家が扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)です。

ところが、やがて「京都の将軍家とは距離を置いて、関東は関東でやっていきたい!」と考える第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)が登場・・・それを時の将軍である第6代=足利義教(よしのり)が何とか鎮圧しますが(永享の乱>>)(結城合戦>>)、その後、持氏の遺児の足利成氏(しげうじ)次期公方を勝手に名乗って関東で大暴れ・・・そのために、幕府から任命された新たな公方が鎌倉に入る事ができないという事態に・・・

そうなると、ここで何とか関東をまとめなければならないのが、最初っから公方の補佐として関東にいる両上杉家なわけですが、そんな扇谷上杉家の執事だったのが太田道灌です。

Ootadoukan600 幼き頃からその天才ぶりはズバ抜けていて、その優秀さを心配した父=太田資清(すけきよ)が、
「障子は直立してこそ役に立つけど、曲がって倒れてたら役に立たんのやぞ」
(↑「過ぎるほどの才能をまっすぐに良い方向へ使え」という意味)
と忠告すると
「障子はそうですやろけど、屏風はまっすぐやと立ちません。屏風は曲がってこそ役に立ちます」
と言い返して父を黙らせたとか・・・

なんと、生意気な憎ったらしい子供・・・と思いますが、成長した道灌は周囲から反感を買う事は少なかったのだとか・・・思うに、本当に頭が良くて、周囲から見ても別格なんでしょうね~もう、そんじょそこらの人じゃ太刀打ちできないくらいの差があるとか…たぶん。

長禄元年(1457年)には、そんな自称公方らから関東を守るべく江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築し(4月8日参照>>)扇谷上杉家のため、八面六臂の活躍をする道灌・・・

中でも特筆すべきは、この後の時代の手本となるような足軽(あしがる)の扱い方・・・

以前書かせていただいたように、大乱を聞きつけて近隣の農村から集まって来る喰いっぱぐれた農民くずれや無頼の輩・・・いわゆる雑兵(ぞうひょう)を雇い入れ、鎧も兜も身に着けず刀も槍も持たないまま軽装で大量に自軍に参加させ、これまでの一騎撃ちスタイルから、互いに集団戦で戦う、まさに、私たちが思う戦国合戦スタイルに劇的に変化させたのは、あの応仁の乱で東軍総大将となった細川勝元(ほそかわかつもと)ではありますが(3月21日参照>>)、この勝元の時代は、なんだかんで、ただただ集団でワーワーやるだけの烏合(うごう)の衆でしかなかったのです。

それを、統率のとれた組織編制をして、大河ドラマ等で描かれるような足軽集団にしたのが道灌と言われています。

『太田家記』には、道灌が作ったとされる
♪小机は まづ手習ひの 初めにて
 いろはにほへと 散り散りになる ♪
という戯れ歌が書かれているのですが、

この小机というのは、道灌の良きライバルである長尾景春(ながおかげはる)小机城(こづくえじょう=神奈川県横浜市)の事・・・

この景春の長尾家は、代々、山上上杉家の執事を務める家柄ですから、扇谷上杉家執事の太田道灌とは、まさに同じ立場の人だったのですが、その長尾家の後継者の決定に主君の山上上杉家が介入して来た事で、それに不満を持った長尾景春が反旗を翻した。。。この時、道灌はちょっと景春の気持ちが理解できる雰囲気で、それ察した景春が道灌を自軍に誘う場面もあったようですが、やはり道灌は主君を裏切れず、結局、その良きライバルを攻める事になるのですが・・・
【江古田・沼袋(東京都中野区)の戦い】参照>>
【武蔵・用土原(埼玉県深谷市)の戦い】参照>>

この時に、上記の歌を繰り返し、呪文のように口ずさませながら、足軽たちの士気を高めるとともに、太鼓の音の代わりに、それぞれの隊に一斉にタイミングを合わせる行動を取らせて攻撃を仕掛け、勝利に導いたのです。

今で言うなら、ラジオ体操のピアノと掛け声みたいな感じ?
あのピアノとリーダーの掛け声があるからこそ、公園に集まった人たちは、同じタイミングで同じ動きをするわけで・・・これにより、烏合の集団だった素人戦士の足軽たちが、まさに軍隊へと変貌したわけです。

おかげで、いつしか分家の扇谷上杉が惣領家の山内上杉をしのぐ勢いを示すようになるのです。

しかし、この道灌のあまりの優秀さが、文字通り、命取りとなります。

文明十八年(1486年)7月26日、道灌は、相模糟屋(かすや=神奈川県伊勢原市)にある主君=上杉定正(うえすぎさだまさ)の招きを受けます。

江戸城から上杉邸まで、距離にして約50kmほど・・・その労をねぎらうように風呂を勧められ、やがて出ようとした、その時、定正の命を受けた曽我兵庫(そがひょうご)なる武将が太刀で斬りつけ、道灌を暗殺したのです。

道灌は倒れながら、「当方滅亡!」と一言叫んだのだとか・・・

「当方滅亡」とは、
「俺のいない上杉家は滅びるぞ!」
という意味です。

一般的には、そのあまりの優秀さに、定正が「いつか取って代わられるのではないか?」との不安にかられたため殺害に至った・・・とされています。

ただし『北条記』では、定正が道灌討伐のために糟屋へと出陣したのを、迎え撃った道灌が、馬上にて槍に突かれて落とされ、
♪かかる時 さこそ命の 惜しからめ
 かねてなき身と 思い知らずば ♪
「はなから、(自分は)この世にはいない物やと悟ってるから、こんな時でも命推しくはないんや!」
との辞世の句を残して首を取られた・・・つまり、合戦での討死だとされています。

また、別の史料では糟屋の洞昌院(とうしょういん=公所寺)で殺害されたとの記録もありますが、かの『太田家記』では、この洞昌院は道灌が荼毘に付された場所とされていて、現在も、隣接する境内に道灌の胴塚と伝えられる塚があります。

さらに、近くの大慈寺(だいじじ)にも道灌の首塚とされる塚があって、江戸時代の太田家は、お参りの際には、この両方の墓所に参詣していたと伝えられていますので、暗殺にしろ、討死にしろ、道灌は斬首されたという事なのかも知れません。

それから何年後かに上杉定正は、
「道灌は、江戸城を堅固にして上杉顕定(あきさだ=山内上杉家当主)に歯向かおうとしたので、俺が度々注意しててけど、言う事聞かへんから成敗した」
てな内容を手紙に書き残していますが、これは、あくまで定正の言い分・・・

ただ、先の江古田・沼袋>>用土原>>のページにも書かせていただいたように、道灌自身も両上杉家に対し、少々の不満があった事も確かだし、分家の定正が惣領家の山内上杉家に気をつかっていた事も確かで、「いつしか惣領家に分家が取って代わるのではないか?」道灌の強さに脅威を抱いていたのは、直接の主君である定正ではなく上杉顕定の方だったかも知れませんね。

果たして・・・この後、
長尾景春という執事を失った山内上杉家と、太田道灌という執事を失った扇谷上杉家は、同族で激しく争う事になり、やがて、そのゴタゴタの合間を縫って関東に勢力を伸ばし始めた北条(ほうじょう)によって、道灌の予言通り、扇谷上杉家は滅亡する事となるのです【戦国屈指の夜襲で公方壊滅~河越夜戦】参照>>)
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2019年5月19日 (日)

粉河寺と高野山領の水争い~野上村の戦い

 

応仁元年(1467年)5月19日、紀州和歌山にて根来衆を巻き込みつつ、粉河寺領高野山領の間で起こった抗争・野上村の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

紀伊の国(和歌山県)丹生屋村(にゅうのやむら=和歌山県紀の川市・丹生谷とも)粉河寺(こかわでら=同紀の川市)内の北東部分にあたる場所にありましたが、東隣の名手荘(なてのしょう=同紀の川市)高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に属しているので、言わば国境・・・なので、この両者の間には、平安~鎌倉の頃以来、断続的に争いが続いていた場所でした。

「隣」という理由だけで「争う」???
今ではピンと来ないかも知れませんが、実は、農業の盛んな地域ではごくごく最近、昭和の時代にでもあった事・・・そう、「水争い」というヤツです。

そもそもは、日本の国土の70%を占める山々に降り注ぐ雨は、大河となって平野部へと流れ、古代には度々の氾濫を繰り返していたのを、昔の人々は土地を畔(あぜ)で囲い、大河をいくつもの川に分散して水路を張り巡らし、肥沃な農地に変えていったわけですが、

この水路というのは川の一部をせき止めて、横道にそれさせているわけですので、当然、大量に横道に誘導すれば、その後の川の水の量は減る事になる・・・雨が多い時期は、それでも大丈夫ですが、雨が少なくなると、上流の場所で大量に横道に流されては、下流に住む人々の場所まで水が流れて来ない事になっちゃいます。

そうなると、
「ちょっと、せき止める量を少なくしてよ~」
って事になりますが、ここまでになった場合、大抵、日照り続きの大干ばつ状態ですから、上流に住む農民たちにとっても生きるか死ぬかの状態なわけで、そう簡単に
「ほな、流しまっせ~」
とはいかないわけで・・・

で、結局、どうにもならない下流の住人は力づくで上流の堰(せき)を壊しに行ったり、相手の村を襲撃したり・・・って事になるわけで、ここでは椎尾山(しいのおやま)の山林資源と水無川(みなせがわ=名手川)の水の領有を巡って、度々争っていたのです。

永享五年(1433年)には、粉河寺を攻撃しようとした高野山側を、守護の畠山満家(はたけやまみついえ)が出張って来て制止し、何とか止めさせたものの、これに不満を持つ暴徒が高野山の坊舎に放火して多くの建物が燃えてしまったという事もありました。

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野上×丹生屋の水争い位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの応仁元年(1467年)、都では、あの応仁の乱がくすぶり始めた5月、またもや丹生屋村と名手荘の水争いを発端に大きな戦いが起こってしまうのです。

5月8日、まずは名手荘側の人間が丹生屋村に押し寄せて村に火をつけてまわって焼き払うと、それに怒った丹生屋村の住人が粉河寺に相談・・・すると、今度は粉河寺衆も加わって名手荘に属する野上(のがみ)に放火して報復を開始します。

当時の名手荘には、野上村の他にも馬宿(うまやど)村など5つの村があったようですが、野上は、その中でも比較的在家数が多い村で、おそらくは、そこの代表格で在地の土豪(どごう=土地に根付く武士)であろうと思われる野上九郎左衛門なる者が、籠城して戦った事が『粉河寺旧記』に記されています。

やがて、そこに、名手荘周辺の高野山領各地の荘の土豪たちが応援に駆け付けた事から、粉河寺側も大伴弥三右衛門なる人物を大将に立てて、粉河寺領内の村々から人数を集めて、連日連夜の小競り合いを繰り返していたのですが、

5月14日になって、粉河寺からの応援要請に応えた根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)の衆徒たちが、粉河の西の長田(ながた=同紀の川市)まで浸出して来た事で、合戦が大規模になる様相を呈して来て、緊張はピークに達します。

さすがに、ここまで来ると「村同士のモメ事」の域を超えていたと見え、守護の畠山もシカトするわけにいかず・・・って、何たって上記の通り、この年には応仁の乱が!!

そもそも、応仁の乱の発端となるのが、この応仁元年(1467年)1月17日に勃発した御霊(ごりょう)合戦(1月17日参照>>)畠山政長(はたけやままさなが=東軍)畠山義就(よしなり=西軍) による畠山の後継者争いなのですから、そっちに集注したい両畠山にとって、同時期に起こった領国内での争いは一刻も早く片付けてしまいたいわけで・・・

早速、守護代の神保(じんぼう)現地に派遣して仲裁に当たらせます。

かくして応仁元年(1467年)5月19日「流水は従来の通りにして、お互いに妨害しない」事を約束して両者が和解に至り、今回の騒動は一件落着となりました。

とは言え、ご存知のように、実は、粉河寺と根来寺もなかなかに抗争を繰り返していた仲なわけで・・・現に、この数年前にも、同じような水争いで、けっこう大きなドンパチをやらかしちゃってます。

なので、本当に「粉河寺のひと声で根来衆が動くのか?」てな疑問も残りますが、以前書かせていただいた【織田信長の高野山攻め】>>でも垣間見えるように、 その時々の利害関係によって立ち位置を変える柔軟さと独立性を持っていたのが中世の彼らの姿のようにも思えますので、そういう事もあったのかな?と思います。

そして、いよいよ、この水争い終結の翌日・・・畠山がらみの、あの応仁の乱が京都にて勃発する事となります(5月20日参照>>)
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2018年12月25日 (火)

赤松政則VS山名政豊~真弓峠の戦い

文明十五年(1483年)12月25日、赤松政則軍と山名政豊軍がぶつかった真弓峠の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

嘉吉元年(1441年)、播磨(はりま=兵庫県西南部)備前(びぜん=岡山県南東部)美作(みまさか=岡山県北東部)守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)であった赤松満祐(あかまつみつすけ)が、時の室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり=第6代)を暗殺した嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)で、その討伐軍として活躍した山名宗全(そうぜん=持豊)が、その功により赤松の旧領を賜って武家のトップクラスに躍り出る一方で、当然の事ながら、謀反を起こした赤松家は没落・・・

しかし、応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱(5月20日参照>>)で西軍総大将となった宗全に対抗する東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の下で、満祐の弟の孫=赤松政則(あかまつまさのり)が功を挙げて(5月28日参照>>)、何とか復権を果たします

やがて約10年に渡った応仁の乱も、東西総大将の死を以て下火となり、彼らの後継者たち=細川政元(まさもと=勝元の息子)山名政豊(やまなまさとよ=宗全の息子か孫)らに和睦が結ばれた後、文明九年(1477年)11月に大内政弘(おおうちまさひろ)の帰郷(11月11日参照>>)によって幕を閉じました。

一方で、このまま終わらなかったのが山名VS赤松の戦い・・・

播磨や備前や美作などは政則にしてみれば、もともと赤松家の物だった領地ですが、政豊にとっては功績の恩賞に先代が貰った領地・・・本来ならば、そこを将軍家がシッカリ采配せねばならないところですが、もはや、取ったもん勝ちの戦国模様ですから、、、

なんだかんだで先の大出世で旧領を回復した赤松政則は、幕府の侍所(さむらいどころ=軍事&警察組織)にも任じられ、ライバルの山名政豊を肩を並べるようになりますが、回復したばかりの領地が気になる政則は、守護代浦上則宗(うらがみのりむね)京都に常駐させて、自らは領国にて領地経営に当たります。

この動きを心配した山名政豊は、文明九年(1477年)~翌・十年(1478年)にかけて、何度も京都と領国を行ったり来たり・・・文明十一年(1479年)の9月には、時の将軍=足利義尚(よしひさ=義政と富子の息子・第9代)の静止を振り切って帰国して(9月4日参照>>)、赤松に通じた稲葉(いなば=鳥取県東部)での反乱を鎮圧せねばならない状況でした。

やがて文明十二年(1480年)12月12日の『大乗院寺社雑事記』には、
「山名軍が今年中には必ず播磨に攻め入るだろう」って、
あと半月しかないやろ!というツッコミはさておき、そこまで緊張した両者の関係だったわけですが、

そんなこんなの文明十五年(1483年)の夏頃・・・赤松配下で玉松城(別名:金川城=岡山県岡山市)城主の松田元成(まつだもとなり)が、政豊の息子=山名俊豊(としとよ)の勧誘を受けて山名へと寝返り、赤松派の福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)を包囲して攻撃を仕掛けて来たのです(12月13日参照>>)

これを受けた赤松政則は、「我が播磨に侵攻して来た」として、早速、幕府から松田元成討伐の許可を得ました。

ただし・・・許可は得たものの、主君=政則自身の福岡城救援を進言する浦上則宗をよそに、政則は、三石城(みついしじょう=岡山県備前市)浦上則国(うらがみのりくに)?もしくは赤松政秀(まさひで・龍野城主の赤松政秀とは同姓同名の別人)?を福岡城の救援に向かわせただけで、自身は、かつての領地であった但馬(たじま=兵庫県北部)朝来(あさご)を奪還目指して12月16日、1500余騎を率いて置塩城(おきしおじょう・おじおじょう=兵庫県姫路市)を出陣したのです。

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●真弓峠の戦いの進路図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『備前軍記』『備前文明乱記』等によれば・・・
赤松政則は、12月18日に粟賀(あわが=兵庫県神崎郡神河町・大賀)に着陣した後、さらに但馬(たじま=兵庫県北部)の国境に近い真弓峠(まゆみとうげ=兵庫県朝来市生野町)まで攻め寄せますが、すでに季節は冬・・・

見慣れた木々も真っ白な雪に覆われた銀世界だったため、どこが谷やら山やら見分けがつかず、とりあえずは日当たりの良い場所や風に当たらない場所を見つけて各所に陣を張って野営をしていた文明十五年(1483年)12月25日未明に、山名配下の但馬勢約2000余騎が赤松陣営を急襲したのだとか・・・

積雪のために身動きが取れなかった赤松勢は、この真弓峠にて、主だった武将34名を含む300余人が討死するという大敗を喫してしまったのです。

この悲報を本陣の粟賀にて受け取った赤松政則は、
「今、この戦いによって疲労困憊しているであろう但馬勢を、本隊にて直ちに攻撃すべき!」
と息巻きますが、
「この雪では平野部にて戦う方が勝算がある」
と側近たちに説得されて、やむなく諦め、姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)へと退却していきました。

しかも、この真弓峠の敗退の一報が、福岡城を救援していた赤松の部隊に届くと、彼らも一気に戦意喪失・・・やがて、その救援隊も次々に播磨へと退却して行ったため、年が明けて間もなくの1月上旬に、かの福岡城も陥落してしまいました(1月6日参照>>)

その後の事は、史料が少なく、よくわかっていないのですが、公家の日記等に、
「赤松政則が高野山に逃げた」
とか
「赤松政則は行方不明になってる」
とか書かれているようなので、おそらく、しばらくの間は山名勢の勢いが強く、赤松は風前の灯だった事がうかがえます。

しかも、上記の通り、今回の真弓峠の敗北と福岡城の陥落は、これまでず~っと政則を支えてきた老臣=浦上則宗の進言を聞き入れずに兵を両所に分散してしまった政則の判断ミスに拠るものとのイメージが家臣たちの間に蔓延し、主君への不信感から赤松家内も、一時は分裂してしまいます。

が、本来の敵は山名・・・何とか主従協力して敵に当たり、文明十七年(1485年)に再び真弓峠でぶつかった時には、見事山名に勝利し、やがて訪れた長享二年(1488年)4月の英賀坂本城(さかもとじょう=兵庫県姫路市書写)の戦いにて、赤松VS山名の最終決戦となるのですが、そのお話は2018年4月7日のページ>>にてどうぞm(_ _)m

…にしても、
応仁の乱以前に名門であった山名や赤松といった大大名たちが、このように争っている間に、今回では守護代だった浦上などが力をつけて行き(11月12日参照>>)、やがて、その浦上もが配下であった宇喜多直家(うきたなおいえ)に出し抜かれ(6月15日参照>>)、その宇喜多も毛利(もうり)織田(おだ)のハザマで蠢き・・・と、お馴染みの戦国絵図へと展開していく事になるわけで、物語は、まさに大河の如く~長く々々つながっていくのですよね~ヽ(´▽`)/
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