カテゴリー「 南北朝・室町時代」の37件の記事

2008年8月21日 (木)

意外!?中世の名も無き人の名前とは?

 

建武元年(1334年)8月21日、若狭国(福井県)太良荘(たらのしょう)にて、百姓・59名が、地頭代官の交代を要求して起請文を提出し、一揆を起こしました。

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今、某大統領候補と名前が同じという事で話題の、福井県は小浜(おばま)の市街地にほど近く、今も、当時を彷彿とさせる、のどかな農村地帯・・・ここにあった太良荘は、鎌倉時代中期から室町時代の中期までの約250年間、京都は東寺の荘園でした。

以前、『たまがきの恋物語』(7月26日参照>>)新見荘(岡山県)も東寺の荘園で、東寺には、今も多くの史料が残されている事を書かせていただきましたが、新見同様、この太良荘に関する文書も、東寺には多数残されているのです。

そんな史料の中の一つである今回の起請文ですが・・・

「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉でもおわかりのように、そもそもは鎌倉時代から、もともとある田畑に、なんだかんだと理由をつけちゃぁ、新たな税を徴収したり、用水を利用すりゃぁ、お金を払え!払わないと水泥棒として捕まえる・・・なんて事が、くりかえし行われていて、農民たちは、幾度となく、六波羅探題に訴えたりしていました。

しかし、そんな鎌倉幕府が崩壊した混乱の中、ますます治安は悪くなり、略奪行為がひんぱんに行われるようになり、その警固のために、新たな地頭代官が任命され、この太良荘にやってきたのですが、この脇袋という代官・・・荘園内の家屋をぶっ潰して勝手に城を構築したり、私用の無理難題をふっかけてきたりと、やりたい放題・・・。

その横暴ぶりを、何度も東寺に訴えますが、まったく聞き入れてもらえず・・・そこで、建武元年(1334年)8月21日、あの建武の新政を風刺した落書が二条河原に立ったと同じ月、堪忍袋の緒が切れた農民・59名が立ち上がり、代官の交代を求める起請文を提出し、一揆に踏み切ったのです。

・・・という事で、本日は、この太良荘の一揆の起請文の署名から、当時の一般の人々の名前について迫ってみたいのですが、かくいう私も、この太良荘の事を知るまでは、ほどんど一般人の名前という物がどんな風だったのか知りませんでした。

武将や公家の名前は教科書に出てきますが、一般人の名前は出てきませんから・・・。

明治になって、「国民全員、苗字つけろ」の令が出るまで、皆、苗字が無いものと思っていましたし、時代劇や昔話などでよく登場する権兵衛さんとか、三太とかっていう名前が多いのかな?と思ってましたが・・・

太良荘を形成していた人々は、2~3町の土地を所有する本百姓の名主クラスが数名と、あまり良くない土地の小百姓・・・さらにその下に属する農地を持たない下層の人々です。

以前、『一揆へ行こう』(6月9日参照>>)のページで書かせていただいたように一揆の署名は順不同という事なので、まずは、同じような名前の人をグループ分けしてご紹介します。

  1. 僧実円・僧禅勝・僧長弁
  2. 大山貞重・大山正弘・中原吉安・六人部国正・秦正守・物部宗弘
  3. 沙弥法円・沙弥浄法・沙弥善阿弥・沙弥妙阿弥・沙弥本阿弥
  4. 浄妙
  5. 中大夫・平大夫・矢大夫・矢二郎大夫・五郎大夫・新大夫・惣大夫・角大夫・美濃大夫
  6. 中介・江介・三郎介・和山介・豊前介
  7. 新検校・惣別当・安寿
  8. かい丸・牛丸
  9. 細工大夫・中細工・孫太郎細工
  10. 藤内・源内・
  11. 中江
  12. 孫太郎・孫二郎×2・孫四郎・孫五郎・彦二郎×2・彦三郎・弥二郎・中二郎・中三郎・平二郎・藤二郎・惣四郎・進士二郎・二郎太郎・三郎太郎×2

以上、1名分だけ、文字が読めなくなっている部分があるため、合計58名です。

この中のグループ1の「僧」がつく3名は、花押(ハンコ代わりのサイン)も持っていて一般農民とは別格なようです。

一応、僧実円僧禅勝が、この一揆のリーダーだったと言われています。

そして、グループ2の6名も、姓と名の実名を署名している事からやはり別格・・・「秦(はた)「物部(もののべ)などは、古代の豪族の名前ですが、子孫という事ではなく、勝手に名乗ってるわけで、このような名前を名乗っても、もはや怒られない時代になっていたって事なのでしょう。

この1と2のグループの中の何人かが名主クラスだったと思われます。

次に、グループ5と6の「大夫」「介」は、古代の官位名ですが、これは本名というのではなく、ある一定の年齢になると儀式を行って、それ以降は「大夫」や「介」をつけて呼ぶ通称というヤツです。

武士が元服して、大人っぽい名前に変えるのとよく似ていますね。

グループ7の「検校(けんぎょう)」「別当」「安寿」などは、寺院や官庁の役職名・・・たとえば、別当なんかも、以前は、○○別当=○○長官みたいな感じで使われていましたが、これも、この時代には、もうお百姓が名乗っても怒られなかったって事なんでしょうね。

このグループ7あたりまでが、小百姓クラスの人ではないでしょうか?(自信ないですが・・・)

グループ8の「丸」は本来は、武士の幼名に使用する名前ですが、起請文の署名という物は各家庭の代表者がするものなので、このお二人はおそらく成人した方・・・ただし、運搬業にたずさわる人は、成人しても「丸」を名乗っていたらしいので、牛丸さんなんかは、おそらく、牛を使って運搬業を営んでいたのかも知れません。

グループ9の「細工」というのは、ご想像通り、細工師=手工業者の方々・・・この「細工」の中には、「大夫」のつく人もおられますが、先ほどもあったように、「大夫」は大人という意味を表すので、この細工大夫さんは、細工師の中でも重鎮だったんでしょう。

最後に、グループ12・・・「太郎」とか「二郎」「三郎」とかっていうのは、お察しの通り、おそらく生まれた順でしょうね。

「孫」「彦」「弥」は、この時代の標準的な名前で、「藤」「平」「源」は、グループ10や11にもありますが、藤原氏・源氏・平氏などの姓を名前に取り入れたものです。

この中で、もし、女性がいるとしたら、鎌倉時代に同じ名前の女性がいるようなので、「浄妙」という名前のかた・・・この時代、一家の代表は、やはり成人男性という事になりますので、必然的に女性の名前が少なくなるでしょうね。

以上、起請文の署名を見てみましたが、本来、名主クラスのお百姓と、下層の人たちとでは、それぞれに確執があって、普段はなかなかうち解けあえるものではなかったでしょうが、相手が地頭となると、一揆を結んで、このように名を連ね、ともに立ち上がった・・・

その名前を見るだけで、中世の名も無き人々が、その命を賭けて、家族と土地を守った、その強い情熱を感じます。

歴史を作ったのは、名のある武将や貴族だけではない事を、ひしひしと感じる次第です。

 

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2008年7月26日 (土)

たまがきの恋物語~手紙に託したその思いは?

 

寛正三年(1461年)7月26日、備中国新見荘の直務代官に決定した僧・祐清上人が、京都・東寺を出発しました。

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京都府立総合資料館・所蔵の『東寺百合文書』の中に、『たまがき書状』と呼ばれる、かな文字で書かれた一通の手紙が残っています。

この手紙は、室町時代の農村の女性が書いた直筆の手紙としては、唯一、現在に残る貴重な史料で、その差出人は、たまがきという女性です。

彼女が暮らしていたのは備中国新見荘・・・現在の岡山県新見市

当時の新見荘は、京都・東寺領の荘園で、守護大名が細川氏・・・その細川氏の家臣である安富智安が請負代官として現地を支配していました。

つまり、現地で智安が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に仕送るというわけですが、当然そこには、彼ら守護の取り分も発生するわけです。

先日の豊臣秀吉太閤検地(7月8日参照>>)のところでも、チョコッと書かせていただきましたが、そのように、一つの土地に対して、複数の人が所有権を持つのが、中世の荘園制度・・・で、その智安は守護の力をバックに、農民からは不当に重い年貢を徴収し、東寺に対しては、約束分の量を納めなかったり、未納のままだったりという事が多くあったのです。

要するに、自分たちの取り分=中間マージンを多くしてガッポガッポ儲けてたって事ですね。

そこで、ついに発起した名主・41名が起請文を提出し、荘園領主である東寺の直務支配を要求したのです。

直務支配という事は、東寺が直接支配をするという事ですから、当然、東寺内部の誰かが現地に行かなくてはなりません。

その現地へ行く役=直務代官として派遣されたのが、東寺の僧・祐清(ゆうぜい)でした。

寛正三年(1461年)7月26日に京都を出た祐清は、8月5日に現地に到着・・・新見荘内でも、比較的開けたという地に事務所を構え、現地の実情を調査するとともに、新しい改革に取り組みます。

この時、彼の身の回りに世話をしたのが、現地荘官・福本盛吉の妹だったたまがきでした。

「年貢の取立てが、武士から僧侶に代わるのだから、少しは楽になるだろう」という農民たちの期待に答えてやってきた祐清でしたが、彼が農民たちに伝えた寺命は、予想以上に厳しいものでした。

  • 自分たちが自ら希望して直務になったのだから、年貢を納めないという行為は許さない。
  • 今まで年間8人だった京上人夫を年間12人にする・・・そのうち6人は実際に京に行って仕事をするが、残り6人は金銭でもよい。
  • 今までの公事物(貢物・紙とか漆とか)に蝋(ろう)を加える。

ガ~ン!増えてますやん!
この最初の段階で、少なからずショックを受ける農民たち・・・。

前年から不作が続いていた荘内では、「何とか許してほしい」という声があがりますが、若僧だった祐清にとって、東寺のおエライさんの決めた寺命は絶対ですし、若いがゆえに融通もききませんから、「この命賭けてでも、年貢を納めない者は徹底的に処罰する」と言って譲りませんでした。

こうして、マジメ一本やりで荘園再建に取り組む祐清は、ついに、年貢を未納のままにし続けていた名主・豊岡をクビにして追放してしまいました。

「安富と変わらんやん!」
「いや、安富の時のほうがマシやった」

という、不満の声が、村人たちから沸きあがってくるのも、当然のなりゆきかも知れません。

やがて翌年・寛正四年(1462年)の8月25日、未だ従わない奥・中奥と呼ばれる地域へ見回りに出かけた祐清・・・。

ある新築中の家の前を通りかかると・・・
「建築中の家の前を通る時は、馬から下りるのが、ここらへんのしきたりだ!」
と、家の中から出てきた男たちに叱られてしまいます。

その話を聞いて、慌てて馬を下りる祐清に、いきなり男たちは斬りかかり、哀れ、祐清は命を落してしまうのです。
男は、先の名主をクビになった豊岡の親戚の者でした。

恨みを持つ者に殺されてしまった祐清ですが、もちろん、村人全員が彼を恨んでいたわけではありません。

飢饉に苦しむ農民と、使命をまっとうせよという東寺の間で苦悩した彼は、東寺に対して「今回はいつもの半分の年貢で許してあげて欲しい」なんていう手紙を幾度か書いて、東寺から、その約束を取り付けたりもしていましたから、彼に親しみを抱いている農民も多くいたのです。

現に、仇討ちとばかりに、殺した相手に殴りこみをかけた者もいました。

そんな好意を持っていたうちのひとりが、たまがきです。

もちろん、ごく普通の一般人である彼女の生涯については、何一つ記録されてません。
その容貌も、その性格も・・・

ただ一つ、冒頭にご紹介した、彼女の手紙が残っているのです。

彼が、代官としてやって来た時から、わずか一年・・・祐清の弔いをすませた彼女は、その遺品の整理をしながら、東寺へ、彼の死の報告と、その遺品の処分について書き綴っているのです。

贅沢などいっさいない、質素な遺品・・・それらの品々を書き並べながら、白小袖・紬表・布子の3点について・・・
『このほとなしみ(馴染)申候ほとに、すこしの物おは、ゆうせいのかたみにもまいらせたく候、・・・給候は、いかほと御うれしく候』

「この三品を、祐清の形見としていただけたら、これほどうれしい事はありません」

彼が、一番身近に、身に着けていた品を、彼女は、形見として欲しいと・・・

たった一年間、ともに過ごした二人の間に、何があったのか?
どんな風に、二人は通じ合っていたのか?

東寺に残る新見荘の史料は、その量の多さから、中世の歴史を語る上で外す事ができないほどの貴重な物ですが、当然の事ながら、その内容は郷土史と言える物で、祐清とたまがきの心情にはふれていません。

しかし、唯一残る直筆の手紙からは、その溢れんばかりの彼女の思いが伝わってくる気がします。

真っ白な小袖を身にまとって、都から颯爽とやってきた若き僧・・・農村に暮らす彼女は、わずか一年間で、一生ぶんの恋をしたに違いありません。

果たして、彼女の願いが叶えられたのかどうか・・・それだけが気がかりです。
 

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2008年4月 8日 (火)

公方から関東を守れ!太田道灌・江戸城を築城

 

長禄元年(1457年)4月8日、太田道灌江戸城を築きました

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まずは、太田道灌(どうかん)江戸城を築いた理由から・・・

以前から、度々登場している室町幕府と鎌倉公方の対立・・・関東に拠点を持つ武家でありながら京都・室町で幕府を開く事になってしまった足利氏は、本拠地の関東を支配する役職として鎌倉公方と、その補佐役の関東管領を置きました。

以来、足利氏の長男の血筋が将軍職を、次男の血筋が鎌倉公方を、代々受け継いでいくわけですが、その鎌倉公方が、幕府を無視し、関東を独立国家のように運営しはじめた事から対立が生まれます。

将軍が第6代・足利義教(よしのり)、公方が第4代・足利持氏(もちうじ)の代になってピークを迎えたその抗争は『永享の乱』(2月10日参照>>)と呼ばれ、戦いは持氏の敗死によって決着が着けられたかに見えました。

しかし、持氏の遺児・足利成氏が、古河(こが)公方を勝手に名乗り(古河を本拠地にしていたので)、公方奪回を目指し関東各地で乱を起こします

特にターゲットにされたのは、当時、関東管領職にあった扇谷(おうぎがやつ)上杉家です。

古河公方は幕府非公認の勝手な公方・・・対する上杉家は、幕府から正式に任命されている役職ですから、当然と言えば当然です。

・・・で、当時の上杉家の当主・上杉定正の執事を務めていたのが太田道灌です。

つまり、道灌は成氏から関東を守るため、江戸城を築いたのです・・・その時、道灌・27歳。

もともと平安時代の末期に、この地を治めていた江戸氏の、館のような小さい建物が建っていた場所に築城したという事ですが、それとは別に、おもしろいエピソードも残っています。

道灌が築城にふさわしい場所を求めて、品川沖を船で航行中、船の中に“コノシロ”という魚が飛び込んできます。

「これは、ラッキーアイテム・ゲット!」
とばかりに、すぐに近くの岸に船を着け、そばにいた漁民に・・・
「このあたりの村は何という村かいな?」
とたずねると・・・
「ここは、千代田宝田祝いの里でございます」

「メッチャ縁起えぇ名前・・・ステキやん!」
と、即座に、この地に築城する事に決定したのだとか・・・。

諸葛孔明の再来築城の名人とうたわれた道灌のことですから、さぞかしすばらしい江戸城を構築した事でしょうが、残念ながら現在は、その影を見る事はできません。

道灌の死後、扇谷上杉氏の物となった江戸城は、その後、関東を支配した後北条氏の物となります。

しかし、ご存知のように北条の本拠地はあの屈指の名城・小田原城・・・そんな北条氏にとっては、江戸城は単なる支城の一つに過ぎず、あまり重視していなかったようです。

北条の物であった時代の江戸城は、わずかな城番が見張りをするだけのお城で、整備も修理もまともに行われず、かなりボロボロの状態になってしまっていました。

そんな江戸城が歴史の表舞台に登場するのは・・・そう、豊臣秀吉が北条を倒し(7月5日参照>>)、その秀吉の命を受け、この江戸城を徳川家康が居城とした時からです。

その時、初めて江戸城に入城した家康は、もはや惨たんたる姿の江戸城を目の当たりにするのです。

低い土塁が取り囲むだけで堀もなく、海辺へ出入りする木戸が数ヶ所あるだけでがっしりとした門もなく、主要の建物は枌板(そぎいた・松などの板をうすく削った物)葺きで、台所は、(かや)葺きに全面が土間・・・さらに、玄関は船板が3枚敷いてあるだけ

しかし、家康は天下を取って、この江戸で幕府を開きます

入城以来、30年の年月を費やして、生まれ変わった徳川の江戸城・・・ご存知のように、それは、道灌もびっくりの世界最大の大城郭となるのです。
 

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2008年2月10日 (日)

鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦

 

永享十一年(1439年)2月10日、室町幕府VS鎌倉公方の構図で争われた『永享の乱』で敗れた第4代鎌倉公方・足利持氏が自刃しました

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まだ南北朝の動乱の真っ只中で幕府を開く事になった足利尊氏は、自分の本拠地が関東であるにも関わらず、不穏な空気が収まらない京都を離れる事ができず、京都・室町で幕府を開く事になります。

しかし、幕府が成立しても、各地の旧勢力がくすぶり続けるため、奥州探題九州探題などを置いて監視する事になりますが、そんな中でも最も重視したのが、やはり本拠地である関東です。

最初は弟・実義(ただよし)鎌倉に派遣し、次に息子の義詮(よしらきら)、そして、貞和5年(1349年)、義詮と交替に次男の基氏(もとうじ)を派遣します。

基氏以降、この鎌倉を守る足利氏は鎌倉公方と呼ばれ、基氏の息子からまたその息子へと代々受け継がれていくのです。

この鎌倉公方は、関東はもちろん、伊豆甲斐(山梨県)をも含めた広大な範囲を統轄しており、幕府に准ずる組織でしたが、それだけ大きいと、やはり、徐々に幕府とは別の道を歩もうとし始めます。

まして、強大な2番手という物は、いつでも将軍の座を狙える位置にいるワケですし、同じ足利氏として、常に幕府の下という位置に不満を持つのも自然な事かも知れません。

徐々に、亀裂が入り始めた室町幕府と鎌倉公方・・・そんな正長二年(1429年)、「将軍がくじ引きで決められる」という事態になってしまいます。

室町幕府第6代将軍・足利義教(よしのり)です。

その、将軍決定劇に不満を持ったのが、基氏から数えて第4代目の鎌倉公方・足利持氏

義教が将軍になったその年は、元号が正長から永享に改元された年なのですが、持氏はこの永享という元号を使用せず、旧元号を使い続けるという態度をとり、あからさまに独立国家の意思を表明し始めます。

しかし、関東だからと言って、全員が持氏の味方であるわけでもなく、鎌倉公方の補佐役である関東管領・上杉憲実(のりざね)ら幕府寄りの者たちと、一触即発の状態を続けながらも、大きく衝突する事は避けられているかのようでした。

やがて永享六年(1434年)、持氏は、鶴岡八幡宮『呪詛の怨敵を未兆にはらわんがため』という幕府を呪う内容の願文を血書にてしたためて祈願をするまでになります。

そして、永享十年(1438年)・・・
「もう、僕らだけでは、押さえきれませ~ん」
・・・と、憲実が幕府に泣きついた事によって、本格的な衝突が開始されます。

これが『永享の乱』と呼ばれる戦いです。

最初は、幕府勢、鎌倉公方勢、ともに一進一退の合戦を続けていましたが、なんせ、相手は幕府・・・何だかんだ言っても、幕府=将軍の地位というのは強大ですから、戦闘が長引くにつれ、徐々に、地元の者たちが、幕府に寝返るようになるのです。

そうなると、またたく間に持氏の敗色が濃くなってきます。

そして、永享十一年(1439年)2月10日、鎌倉の留守役だった三浦時高の攻撃によって、持氏の館は焼け落ち、持氏は自刃するのです。

しかし、その持氏には、四人の息子がいました。

その四人の兄弟は、この時、炎に包まれる持氏の館から脱出しますが、嫡男・義久は、乱の後、長男らしく兄弟を代表して、鎌倉公方の復権を幕府に願い出ますが許されず、父の死の18日後の2月28日に自刃しました。

当然、残りの三人の兄弟は、乱の首謀者の息子として、幕府から追われる事になるのですが、その次男と三男が春王(しゅんのう)安王(あんのう)の二人・・・。

彼らを保護したのは、当時、関東屋形と呼ばれるほどの実力を持っていた下総結城城・城主の結城氏朝(ゆうきうじとも)でした。

結城氏は、ムカデ退治の逸話を残す勇者・俵藤太こと鎮守府将軍・藤原秀郷(ひでさと)・・・そう、あの平将門を討ち取った(2月14日参照>>)その人の子孫なのです。

氏朝は、かねてから憲実と対立しており、この永享の乱では、持氏をバックアップしていたのですが、その敗北により、さらに憲実と幕府への怒りが増大していたのです。

翌年の永享十二年3月、氏朝は、公方の遺児である春王・安王を旗印に掲げ、幕府に反旗をひるがえします。

世に『結城合戦』と呼ばれる戦いです。

当時、関東各地の武将には、すでに幕府に反感を持っていた者も多く、しかも、この頃には、以前、足利義視さんのご命日のページ(1月7日参照>>)でも書かせていただいたように、嫡男がすべてを継ぐ惣領制が崩れつつある事で、各武将の家々にも何かしらの後継者争い・家督争いが起こっていたので、氏朝の挙兵には多くの者が参戦し、関東の武士たちは、幕府派か氏朝(春王・安王)派かのどちらかに属して戦う事になります。

しかし、氏朝の結城城は、4ヶ月後の7月には、幕府軍に包囲されてしまいます。

それでも、何とか耐え抜いていましたが、翌・永享十三年(1441年)4月16日・・・ついに、氏朝は降伏を決意します。

幕府に降伏するにあたって氏朝は、城内にいる女子の命乞いを願い出ます。

もちろん、幕府はその条件をすんなり呑むのですが、実はこれには、幼い春王と安王を女装させて女子に紛れさせて、逃がそうという計略があったのです。

なんせ、春王が13歳、安王が11歳ですから、それくらいの少年って、女の子の格好をすれば、よほどガタイが良いか、とほどのオッサン面でない限り、それなりに見えるものですからねぇ。

しかし、幕府の兵がスルドかったのか?二人が思いっきりオトコだったのか?
二人はあっさり見つかってしまいます

捕えられて、京へ護送される事になる二人ですが、その旅の途中の5月16日・・・美濃垂井(たるい)という場所に差し掛かったところで、警固の兵のもとに飛脚から手紙が届けられます。

いつもは、夜遅くまで歩き続けるこの旅で、ここ垂井では、まだ日の高いうちに宿の手配がされます。

いつもとは違うその雰囲気に、手紙の内容をさとる幼い兄弟・・・そう、手紙の主は将軍・義教で、その内容は「即、二人を斬れ!」という物でした。

運命を感じた二人は、風呂を所望し、その身を清めます。
そして警固の兵に、用意された布団で寝るように即されると、健気にも・・・
「けして、泣いたり騒いだりしませんから、殺す時は起してください」
と、頼んだと言います。

その役目を命じられたのは、漆崎小次郎という男・・・相手は幼い二人です。
もともと個人的な怨みがあるわけでもありませんから、命令された彼も心が痛みます。

でも、命令された以上、それを努めなければなりませんから、心を鬼にして、そっと寝所へ入って行きますと、幼い兄弟は、手と手をしっかりと結び、一つの布団に一つの枕で寄り添うように眠っています。

ますます、彼は胸がいっぱいになり、しばし号泣・・・しばらく考えたあと、やはり、兄弟が言ったように、起してから斬るべきだろうという結論に達した彼。

そっと揺り起こして、
「お命頂戴いたしまする」
と言うと、二人はすんなり起き上がって、
「もう、覚悟は決まっています。
兄弟二人で死ねる事、うれしく思います。」

と言って、手を合わせながら、小次郎のほうに首を差し伸べたと言います。

こうして、鎌倉公方は、4代・100年で断絶する事になるのですが・・・そうです、持氏の息子は、もう一人います。

一番末っ子の永寿丸(永寿王とも)・・・永享の乱の時は、まだ1歳でした。

彼も乱の後、信濃(長野県)に潜伏しているところを発見され、将軍・義教の命令により、殺されるところでしたが、そのあまりの幼さに管領・細川持之が猛反対。

持之のゴリ押しで、あの憲実に預けられる事になるのです。

この永寿丸が、後の足利成氏(しげうじ)・・・そう、彼は、父と兄の思いを背負って、鎌倉公方を奪回すべく乱を起こす初代・古河公方となるのです(5月13日参照>>)

世は、まさに乱世に突入・・・ですね。
 

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2007年12月11日 (火)

弟のニセ綸旨で反旗を決意?足利尊氏・箱根竹ノ下の戦い

建武二年(1335年)12月11日、後醍醐天皇の命令で、追討にやって来た新田義貞を、足利尊氏が破った『箱根・竹ノ下の戦い』がありました。

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今日の『箱根・竹ノ下の戦い』は、「南北朝動乱の幕開け」と称されています。

つまり、今まで、ともに協力して鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)、新政を成し遂げた後醍醐天皇足利尊氏が、ここに来て対立・・・そして合戦という形で表面化し、やがて「尊氏の北朝VS天皇の南朝」なるわけなので、まさに、「幕開け」です。

ただし、後醍醐天皇から派遣された新田義貞と足利軍が衝突したのは、この日が最初ではありません。

義貞が京を出たのは11月・・・迫り来る新田軍を最初に迎え撃ったのは尊氏ではなく、弟の直義でした。

しかし、三河・遠江・駿河と、直義が率いる足利軍は次々と破れ、新田軍は伊豆まで迫ってきます。

そこで、ようやく尊氏が立って、今日の『箱根・竹ノ下の戦い』となるのですが、なぜ?尊氏は、今日のこの時まで、戦わなかったのしょうか?

実は、もともと、尊氏には、「後醍醐天皇に反旗をひるがえそう」なんて気持ちはまったく無かったのです。

尊氏は、一度目は北条の鎌倉幕府を、そして2度目は今回の後醍醐天皇・・・と2度、主君に反旗をひるがえすわけですが、以前の【足利尊氏・裏切りの要因】(4月16日参照>>)のページにも書かせていただいた通り、それはひとえに、源氏の棟梁としての責任感のなせるワザなのです。

彼は、野心家でも反逆児でもなく、ただ、冷遇されている足利一門を・・・「自分の配下の武士たちの待遇を少しでも良くしたい」という思いからなのです。

尊氏は、根っからの親分肌
昨日まで敵だった者も、味方となった限りは大いにかわいがり、新田の配下となってしまった元足利の者に「こっちに来いよ」と、駆け引き無しで説得したりするところは、まさに大親分です。

そもそも今回の出兵は、北条の残党が鎌倉を占拠したために、それを制圧する目的で尊氏は京を出発するのですが、その時、後醍醐天皇は、尊氏の強さを恐れ、「遠くに離したくない」という思いから、尊氏が鎌倉に向かう事を許しませんでした。

しかし、我慢できない尊氏は、命令の無いまま、8月2日に出陣し、猛攻撃の末に19日には鎌倉を取り戻してしまうのですが、さすがに、この時は後醍醐天皇も「尊氏を手元に置いておきたい」というのは、自分の勝手な思惑とわかっていたらしく、後から「北条残党・追討」の命令を出しています。

そのかわり、尊氏に従二位の位を与え、その功績を賞した後は、すみやかに京に戻るよう命令しています。

しかし、すでに『建武の新政』で、武士が冷遇されていたのはご承知の通り。
それでも尊氏は天皇の命令通り京に戻るつもりでいましたが、弟・直義は「せっかく関東を制圧したのに、また同じ待遇の所に、今更戻る必要があるのか?」と尊氏に問います。

やがて、尊氏は、10月には鎌倉に新たな屋敷を建築し、京に戻る意思が無い事をあらわにするのです。

そして、先に書いた後醍醐天皇の「尊氏・追討命令」となって新田義貞がやってきたわけですが、それでも尊氏は、天皇に弓を引くつもりはなく、あくまで「自分の主張(武士の待遇と幕府を開く事)を何とか認めてもらいたい」という姿勢だったのです。

長い説明になりましたが、そういうわけで、初めのほうの新田軍との戦いには、尊氏は参戦していなかったのです。

・・・で、最初に書いたように、弟・直義が率いる足利軍は新田軍に苦戦を強いられるのですが、これも直義が弱いわけではなく、その根っからの親分肌のおかげで、「今やカリスマとなった源氏の棟梁が参戦しない戦い」に、配下の武士たちの士気があがるわけがありませんからね・・・負けが続くのは仕方の無い事です。

案の定、この『箱根・竹ノ下の戦い』で、重い腰をあげ、やっと参戦した尊氏を見て、味方の軍の士気は一気に高まり、見事、新田軍を破る事になるのですが、この日の参戦を、尊氏が決意するにあたって、一つのエピソードがあります。

先に書いたように、どうしても後醍醐天皇に反旗をひるがえしたくない尊氏・・・「何とかその思いをわかってもらいたい・・・どうしたらわかってもらえるのか?」と悩んだ末に、鎌倉の建長寺へ行き「出家する!」と言って元結を切ってしまうのです。

兄のザンバラ頭の姿を見た弟・直義はびっくりします。
「これは何とかせな!」

・・・と、直義は、『尊氏と直義を誅せよ』というニセの『綸旨(天皇の命令書・単なる命令より絶対度合が高い)を作成し尊氏に見せ・・・
「兄ちゃん、ほら、もうこんな事になってんねんから、今更、後に退いても、やられるだけやで」
・・・と、説得。

尊氏は弟のニセ綸旨のおかげて決意が固まって、やっとこさ参戦・・・という事になったのです。

こんなところにも、突進型で大将タイプの兄・尊氏と、策略家で参謀タイプの弟・直義の名コンビぶりがうかがえますね。

・・・で、この戦いに勝利した足利軍は、その勢いで新田軍を追撃しながら上京。
翌年の1月には近江(滋賀県)に迫り、その後、京都での戦いに突入する事となります。
 

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2007年10月27日 (土)

南北朝の動乱~ある公家の悲しい都落ち

そもそも、なんで南北朝なんて・・・1つの国に二人の天皇・・・なんて事になちゃったのでしょうか?

もちろん、建武の新政に不満を抱いた足利尊氏が、後醍醐天皇に反旗をひるがえして京都を占領し、新しい天皇を立てて、室町幕府を開く・・・これが北朝で、一方の、吉野に逃れた後醍醐天皇はそのまま天皇なので、これが南朝・・・って事なのですが・・・。

もし、尊氏が立てた北朝の天皇が、室町幕府の意向で、勝手に立てられた天皇だったら、昨日の『観応の擾乱(じょうらん)(10月26日参照>>)の時ように、尊氏が南朝に行っちゃった時点で北朝が無くなってしまう・・・という事になってもおかしくはないのですが、そうはいかない・・・つまり、天皇家にも以前から派閥があって、分かれるべくして分かれた南北朝だったのです。

Nanbokutyoukeizucc そもそも鎌倉時代に、第88代・後嵯峨天皇が、一旦、長男の後深草天皇に皇位を譲ったにも関わらず「あっ、やっぱ次男がいいや」って事で、後深草天皇に迫って、無理やり次男の亀山天皇に皇位を譲らせた事に始まります。

しかも、その後は、嫡孫である後深草天皇の息子に返すべき皇位を、そのまま自分=亀山天皇の息子に継がせちゃった事で、嫡流側=後深草側は「本家はこっちだから、こっちに返せ!」、弟・亀山側は「もらったものは、返さないよ~」、てな感じでモメ始めるのです。

それぞれの天皇のゆかりの場所から、後深草天皇の皇統を『持明院統』
亀山天皇の皇統を『大覚寺統』と呼びます。

この、返す・返さんの争いを見るに見かねた鎌倉幕府が仲裁に入って、「なら、交代々々で皇位についたらいいじゃん!」という案を出し、話し合いで一応、双方が納得し、これからは交代制にする事に・・・

これを、『文保の和談』と言いますが、この話し合いの後、すぐに即位したのが、後醍醐天皇なのです(8月16日参照>>)

しかし、そんな条件付で即位したにも関わらず、ご存知の通り、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して、建武の新政をやらかしてしまいます。

後醍醐天皇は大覚寺統の天皇・・・世の中がすっかり変わってしまった以上、以前の約束が生きているのやら死んでいるのやら・・・もう、持明院統には皇位の順番が戻って来ないニオイがプンプン。

あせる持明院統・・・そんな時に、後醍醐天皇を裏切った尊氏からのラブコールですから、渡りに船とばかりに「よろこんで~!」となったわけです。

そんな南北朝の時代は、おおむね北朝が京都を制圧していましたが、もちろん、南朝も常に京都制圧を企んでいて、何度も合戦が行われています。

その中で、昨日書いた観応二年(正平六年・1351年)、文和二年(正平八年・1353年)、文和四年(正平十年・1355年)、康安元年(正平十六年・1361年)の4回、南朝が京都を制圧しています。

もちろん、どれも数ヶ月とはもたず、すぐに北朝(室町幕府)に奪回されるのですが、その度にたいへんなのは、それぞれの公家や貴族たちです。

北朝・南朝ともに、天皇だけでなく、その傘下におさまる公家や貴族が、それぞれの政務をこなしているわけですが、南朝の公家たちは、常に吉野いますから、京都を南朝が制圧しても、生活のベースを京都に移す前にまた、北朝に奪回されるので、基本の生活は変わらないのです。

しかし、北朝の公家たちは違います。
京都が南朝に制圧されると、北朝の武士はいなくなり、自分たちは京都に残ったまま・・・。

国のトップが南朝の天皇になるので、自分たちは逆賊という事になり、官位剥奪・・・政治の仕事は南朝の公家に移るため、仕事は無くなり、給料はストップ
しかも、ヘタすりゃ命もありませんし、家も燃えたりなんかします。

北朝(幕府)「ヤバイ!」と思って、京都を放棄するたびに、公家たちはハラハラドキドキです。

それでも上流貴族たちは、敗走する幕府軍とともに脱出したり、つてを頼って疎開したりできましたが、下級公家たちは、逃げる場所もままならず、明日食べる食糧も無いといった状況になるのです。

『太平記』には、そんな下級公家の、ある悲しいお話が書かれています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

兵部少輔(ひょうぶのしょう)というある下級公家・・・京都市中で行われた合戦で、家も家財道具も焼けてしまい、親類も皆、行方不明になってしまいます。

都には、もはや頼る人もいません。
彼には、妻と、9歳になる男の子と7歳になる女の子がいます。
何とかしなくてはいけません。

しかたなく、彼ら一家は丹波に落ちて行きます。
もちろん、丹波にもあてはありません。
とにかく、「丹波なら戦もないだろう」程度の事でしかありません。

とぼとぼと、道を歩きながら、そこらへんに落ちている栗や柿を拾い食べ、少しずつ北へ向かいます。

しかし、丹波国の思出河(おもいでがわ)という川の川岸で、とうとう妻や子供たちが歩けなくなってしまいます。

「ほな、ここで、ちょっと待っとき。」
・・・と兵部少輔は、何か食べるものを分けてもらおうと近所の家を尋ねるのです。

しかし、その家の者は、彼の事を「強盗か?、はたまた南朝のスパイか?」と怪しみ、「白状しろ!」とばかりに、彼を拷問にかけてしまいます。

でも、もともと単なる物乞いで、何も悪いところのない兵部少輔。
数時間後には疑いも晴れ、釈放されて・・・それでも、妻子のために、あと何軒かの家々を回り、いくらかの木の実などを手に入れ、喜び勇んで妻子の待つ川岸へ戻ってきます。

しかし、彼がそこで見たものは・・・流れの隅ににひっかかっている愛する三人の溺死体でした。

実は、彼が食べ物を探しに行った時・・・

待てど暮らせど夫は帰って来ない・・・不安げに川岸でまつ妻と子に、通りがかった人が、夫が疑われて拷問にかけられている事を知らせたのです。

その話を聞いた妻は、「もはやこれまで・・・」と思いつめ、二人の子供を連れて川に身投げをしてしまっていたのです。

呆然とその場に立ち尽くす兵部少輔・・・
結局、彼も、妻子の後を追って、川に身を投げたのです。

兵部少輔の話は、ほんの一例・・・彼らのように、南北朝の動乱で、悲しい運命をたどった人たちは数多くいたという事です。

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Nanbokutyoumonogataricc 今日のイラストは、
最後の悲しい物語の一場面を・・・

公家と聞くと、なんだか優雅で、「苦労なんかしてないんだろう」と思ってましたが・・・ちょっとイメージが変わりました~。

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2007年10月26日 (金)

観応の擾乱~足利尊氏+高師直VS足利直義

観応元年(正平五年・1350年)10月26日、兄・足利尊氏と対立していた弟・直義が、失脚の引き金となった高師直を攻撃すべく挙兵・・・『観応の擾乱(じょうらん)が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

室町幕府を開いたのは初代将軍・足利尊氏・・・これは、もう教科書でも定番の出来事ですが、実際には、室町幕府は二人の将軍によって運営されていました。

それは尊氏と、その弟・足利直義によってです。

確かに、征夷大将軍になったのは尊氏ですが、幕府内の権限は完全に二分化されていて、尊氏は全国の武士を支配する武家の棟梁・・・直義は全国を統治する政治の責任者

簡単に言えば、軍のトップと政治家のトップ・・・現在なら、軍と政治家なら政治家のトップがイコールその国のトップとなるのでしょうが、室町幕府は武家政権・・・という事は軍事政権ですから、軍のトップがその国のトップという事になります。

もちろん、この担当は兄と弟、軍と政治の上下関係だけではなく、二人の性格も踏まえての事です。

感情の起伏が激しい軍人タイプの尊氏と、冷静沈着な政治家タイプの直義・・・武功があった家臣に恩賞を与える尊氏、所領の揉め事に判決を下す直義といった具合に、この二人の関係は、室町幕府の初期を支え、見事な相乗効果をもたらしていました。

これは、鎌倉幕府の将軍と執権の関係に似ているかも知れませんが、鎌倉幕府もそうであったように、世の中、「両雄並び立つ」というのはなかなか難しい物で、やはり、この二人の間にも、徐々に亀裂が生じて来るのです。

特に直義は、尊氏の執事であった高師直(こうのもろなお)と、肌が合わなかったようです。

確かに、『太平記』よると高師直という人は、出雲の守護・塩屋高貞の奥さんに一目惚れし、猛アタックを試みたものの、あえなく断られ、「夫がいなきゃいいんだ」とばかりに高貞を失脚させ殺した(2月15日参照>>)・・・という逸話の持ち主です。

これが、本当だとすると、そりゃぁ、冷静沈着な政治家タイプの直義から見れば、師直のような行動は考えられない・・・まさに水と油。
肌が合わないなんて言葉では収まらないくらいの嫌悪感を感じてした事でしょう。

それは、師直から見ても同じ事。
さらに、荘園問題が二人の確執に拍車をかけます。

貴族との対立を防ぐためにも、公家や社寺の領地である荘園は、武士の支配とは離して考えるべきと主張する直義と、武功のあった武士に正統な報酬を与えるためには、実質的に荘園の管理者である武士に支配させるべきと主張する師直。

こういうのを犬猿の仲って言うんでしょうか・・・。

そんなこんなの貞和三年(正平二年・1347年)、南朝の動きが活発になったため、直義は配下の細川顕氏らを派遣するのですが、彼らが南朝軍に敗れてしまったのに対し、逆に、師直は、翌年、南朝軍を撃ち破り吉野へ攻め込み、南朝を敗走させ大勝利を収めます。

この事で、幕府内での師直の発言権が強くなった事に危機感を抱いた直義は、尊氏に師直の悪口をチクリまくり、執事を解任させてしまいます。
しかも、この時、師直の暗殺計画もあったとか・・・。

そんな事を聞かされちゃぁ、師直も黙っていられません。
すかさず、武力でもって直義を攻撃!
お兄ちゃん・尊氏邸に逃げ込んだ直義を包囲します。

しかし、この時は、直義が出家し、その地位を尊氏の息子・義詮(よしあきら)に譲るという条件で、一件落着させる事に・・・って、あれ?尊氏の息子って・・・そうです、どうやら、師直のバックには、お兄ちゃん・尊氏が・・・

やっぱり、後を継がせるなら弟より息子・・・と誰しも思うところ。
弟がデキル弟なら、なおさらの事。
さすがの尊氏さんも、いつか弟一派に幕府のトップを脅かされるんじゃないかとビビッてたようですね。

とりあえず、話は収まったものの、やっぱり納得いかない直義・・・何とか反撃しようと機会をうかがっていたところ、九州で勢力を拡大しつつある直義の猶子・直冬を追討すべく、尊氏が出陣、京都を留守にする事に・・・。

観応元年(正平五年・1350年)10月26日「よっしゃぁ~!」とばかりに直義は、京都を脱出して、一路南朝へ走ります
そう、直義さん、今まで敵対していた南朝に行っちゃいました~。

そして、師直を討つべく挙兵するのです。
北朝は、すぐさま『直義追討令』を発令・・・『観応の擾乱』の勃発です。

しかし、南朝を味方につけた直義軍は強かった~翌・観応二年(正平五年・1351年)の2月、師直を倒し、高一族を滅亡に追いやりました。

師直がいなくなった後、義詮の補佐役として、ちゃっかり政界に復帰する直義。

すると、今度は尊氏・義詮父子が京都脱出し、南朝と和睦を結び、次は南朝から『直義追討令』が発布されるのです。

当然、逃亡する直義。
尊氏は、南朝との和睦の細かな交渉を息子・義詮にまかせ、自分は直義を追います。

直義は、北陸を経て、11月に鎌倉へ入りました。
追う尊氏は東海道を下り、直義軍を破り、翌・観応三年(正平六年・1352年)正月に直義を降伏させるのです。

結局、直義はその1ヶ月後に病死・・・病死!?あやしい・・・実にあやしい。
これには、やはり尊氏さんの毒殺説も浮上していますが、一応公式記録では黄疸となってます。

ところで、「何をゴチャゴチャやっとるんだ!」と、キレたくなるくらいややこしい南北朝の関係・・・尊氏が和睦を結んで南北朝の合一はどうなっちゃったの?

この一時的な合一を『正平の一統』と呼びますが、尊氏が南朝に降伏して、こうなったわけですから当然、南朝主体で合一の話が進む事となり、北朝陣営は無視されっぱなし。

・・・で、合一したんだか、してないんだかの短い期間で、和睦は解消される事となり、ご存知のように、南北朝の動乱はまだまだ続きます。

結局、これって、尊氏派と直義派に分裂しつつあった北朝が、一つにまとまっただけで、南朝との関係は何ともなってないじゃん!と思ったあなた・・・正解です。

弟が降伏したかと思えば、兄貴が降りる・・・和睦したかと思えば解消したり・・・ややこしいったらありゃしない南北朝の動乱ですが、このドタバタで、夜もじっくり眠れないのは、京都に住むお公家さん。

・・・と、このお話、まだまだ長くなりそうなので、『南北朝の動乱に怯えるお公家さんのお話』は次のページに書かせていただきました~コチラからどうぞ>>>

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2007年10月23日 (火)

新田義興の怨念?神霊矢口の渡し

延文三年(正平十三年・1358年)10月23日、新田義貞の次男・新田義興をだまし討ちした江戸遠江守高良が、落雷の直撃を受けました
彼は、一週間後に狂死したという事です。

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新田義興は、あの後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した時に、足利尊氏楠木正成らとともに、多大な功績のあった新田義貞の息子です(5月22日参照>>)

建武の新政の後、尊氏は天皇に反旗をひるがえしますが、正成・義貞は後醍醐天皇に忠誠をつくし尊氏らと戦い、ともに討死しました(7月2日参照>>)

京都を制圧した尊氏は室町幕府を開き、京都を追われた後醍醐天皇も吉野に朝廷を構えます・・・世に言う『南北朝の動乱』です。

父の遺志を継いで、後醍醐天皇=南朝に従う息子・義興・・・父の死後は越後(新潟県)に潜伏して反撃の機会を狙っていたものと思われます。

その後、何度かくりかえされた京都争奪戦では、やや劣勢な南朝側でしたが、やがて、そんな南朝側に絶好のチャンスが訪れます。

観応元年(正平五年・1350年)、兄の片腕となって、ともに室町幕府を支え、「副将軍」と呼ばれていた尊氏の弟・直義と兄・尊氏との関係が崩れたのです(10月26日参照>>)

『観応の擾乱(じょうらん)と呼ばれるこの動乱は、二年足らずで直義の死をもって終止符が打たれますが、この期に乗じて義興は、弟・義宗らとともに関東奪回を目指して挙兵します。

文和元年(正平七年・1352年)、鎌倉公方として室町幕府から派遣されていた尊氏の息子・足利基氏を追放し、鎌倉を制圧した義興は、関東における南朝方の中心人物となります。

しかし、もちろん追い出された基氏が、このまま黙っているわけはありません。

ただし、挙兵ではありません。
これが合戦という、ある意味正統な手段であったのなら、結果は変わっていたのかも知れませんが、基氏は関東管領の畠山国清と組んで、義興のもとへ、竹沢左京亮江戸遠江守高良という二人の刺客を送り込むのです。

竹沢左京亮は、もと義興の家臣・・・主君の性格のツボは心得たもので、「北朝に組みしたのはできごころだった」とか、「すっかり改心して前回以上に忠誠を尽くす」などとうまい事言って、まんまと義興の傘下にふたたび収まるのです。
もちろん、一緒に投降した江戸遠江守高良も・・・。

しかし、彼らの目的は義興の殺害・・・そんなそぶりは、おくびにも出さず、せっせとべんちゃらやりまくりの竹沢左京亮らは、徐々に家臣の中でも重く用いられるようになります。

義興が二人の事をすっかり信じ込んだころあいを見計らって、二人は行動に出ます。

延文三年(正平十三年・1358年)10月10日、「名月の宴を催す」と称して、義興を多摩川矢口の渡しに誘い出します。

竹沢左京亮の先導で矢口の渡しを渡る義興ら御一行・・・しかし、渡し舟の船底の板がすでに外されていて、やがて、舟は川のド真ん中で沈み始めます。

「おのれ、計ったな!」
と、義興が気づいた瞬間、伏兵として潜んでいた江戸遠江守高良らが矢を射かけます。

哀れ義興は、同じ舟に乗っていた近臣13名とともに自刃し、多摩川の露と消えたのです。
若干27歳でした。

しかし、その事件があったわずが12日後の、10月23日に、たまたま矢口の渡しの少し上流の浅瀬を渡ろうとした江戸遠江守高良が、多摩川べりで落雷に遭ってしまうのです。

その場ではたいした事はなく、命は助かったものの「すわ!義興公の怨霊か!」というのは誰しもが思う事・・・特に、だまし討ちという後ろめたさ満載の行為に及んだ本人としては、もはや耐えられなかった事でしょう。

江戸遠江守高良は、雷に打たれた7日後、狂死してしまいます。

その後も、矢口の渡し付近では、「怪光を見た」という者が後を絶たず、『義興公の怨霊』が評判となったため、義興を埋葬した場所に、新田神社なる社を建立したという事です。

これが、現在、東京都大田区にある新田神社であると言われていますが、中世の矢口の渡しがどのあたりにあったかは確定されておらず、この事件のあった矢口の渡しは、東京都稲城市矢野口であったという説もあります。

ところで、今日のお話には、少し付録がつきます。

この義興のだまし討ちと怨霊騒ぎは、『太平記』に書かれているお話ですが、これを江戸時代、一躍有名にしたのは、あのエレキテルで有名な平賀源内(11月21日参照>>)です。

この事件を素材として彼が書いた浄瑠璃『神霊矢口渡』が大ヒットし、後に歌舞伎にもなっています。

源内さん作の『神霊矢口渡』は、この事件の後日談といった感じの物語になっているのですが・・・

事件の後、追われる身の義興の弟・夫婦が矢口の渡しの船頭宅に一夜の宿を借り、そこの娘と恋に落ちたりなんぞしながら(嫁は?)、実は義興をだまし討ちしたのが、娘の父の船頭であった事がわかり、当然、その後、父は弟を殺そうとするのです。

弟に恋した娘が止める中、追いかけて川に舟を出す船頭・・・逃げる弟!
そこへ、天から新田家先祖伝来の神聖なる矢が降って来て、悪人船頭を貫く・・・といった具合なのですが、ここに源内さん特有の商売根性が発揮されています。

徳川家康が新田氏の出身と言い張っていた事もあって、江戸時代の新田神社はかなり賑わっていたようなのですが、当時、お守りの一種として、新田神社周辺の竹で造った霊験あらたかな『新田氏伝来の矢』という物を売っていたのです。

実は、このお土産用の矢の発案者が平賀源内さん、その人だったんですよね~。

これは・・・今で言うところの、大ヒット映画や大ヒットドラマとのコラボ商品では?・・・つまり、スターウォーズのアレとか、ガンダムのアレとか・・・

この源内さんが発案したお守り用の矢が、現在、神社でいただく『破魔矢(はまや)の元祖と言われています・・・まさに、見事なプロモーションです。

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Nittanoyacc 今日のイラストは、
霊験あらたかな『新田氏伝来の矢』を・・・
3Dソフトを使ってこんなの描いてみました~雷がけっこう難しかったです~

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2007年10月13日 (土)

新田義貞・北国落ちの悲劇は本当か?

延元元年(建武三年・1336年)10月13日、足利尊氏に京都を追われ、北国落ちした新田義貞らが、敦賀に到着しました

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あまりに公家中心で、武士を無視した感のある建武の新政に反発して、後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏

最初は、天皇側が優勢で、命からがら九州へ逃げた尊氏でしたが、九州で態勢を立て直し、湊川の戦い(5月25日参照>>)で、楠木正成新田義貞らの天皇軍を破り、その勢いで京に攻め上ります。

比叡山に逃れた後、すぐに、京都を奪回する事は難しいと判断した後醍醐天皇側は皇位を息子の恒良親王に譲り、親王を新田義貞に託します。

新田義貞は、新田軍が官軍である事の証しとして、その恒良親王と尊良親王を連れて、一旦、北国へ落ち延びる事となります。