2020年7月 1日 (水)

悲しき同士討ち~浅井長政配下・今井定清と磯野員昌の太尾城の戦い

 

永禄四年(1561年)7月1日、六角義賢の留守を狙う浅井長政が、配下の今井定清と磯野員昌に太尾城を攻撃させました。

・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)の妹(もしくは姪)お市(いち)の方と結婚して、茶々(ちゃちゃ=後の淀殿)(はつ)(こう)の、いわゆる浅井三姉妹をもうける事で、戦国武将の中でも超名の知れた浅井長政(あざいながまさ)ですが、実は、永禄三年(1560年)に15歳で元服した時の最初の名前は賢政(かたまさ)でした。

これは、観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)にて南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)を支配する六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)「賢」の一字をとった物であり、最初に結婚したのも六角義賢の家臣の平井定武(ひらいさだたけ)の娘さん・・・つまり、この頃の浅井は、しっかりドップリ六角氏の配下だったわけです。

というのも・・・
もともとは、六角氏と同じく宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった長政の先々代(つまりお爺ちゃん)浅井亮政(すけまさ)が、京極家が家内で起こった後継者争い(8月7日参照>>)によって主家の京極家が弱体化して行く中で力をつけ、いつしか主家を凌ぐ勢いを持つようになるのです。

Rokkakuyosikata500 しかし、当然、もともとの同族である六角定頼(さだより=義賢の父)は、浅井が京極に取って代わる事をヨシとせず、度々、浅井と六角は衝突をくり返していた(【箕浦の戦い】参照>>)のです。

それは天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて息子の浅井久政(ひさまさ=長政の父)が家督を継いた後も治まる事なく続けられていましたが、
●天文十八年(1549年)4月=大溝打下城の戦い>>
●天文二十一年(1552年)1月=菖蒲嶽城の戦い>>

上記の菖蒲嶽城(菖蒲岳城・しょうぶだけじょう=滋賀県彦根市)の戦い後、六角配下の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を落とした浅井久政が、その勢いのまま、翌天文二十二年(1553年)7月、やはり六角配下の太尾城(ふとおじょう=滋賀県米原市米原・太尾山城とも)を奪わんと4ヶ月に渡って攻め続けるも落とす事ができず、

多大なる損害を被ったあげくに、降伏に近い形で和睦を結ぶ結果となってしまった事で、浅井の力は削がれ、亮政時代に得た領地等も、ほぼほぼ失って六角の配下のような扱いを受ける事になってしまっていたのです。

Azainagamasa600 なので、長政の名も賢政で奥さんも六角の家臣から娶る・・・という事になっていたわけですが、当然、浅井の家臣の中には、この状況を不満に思う者が大勢いたわけです。

やがて、そんな家臣の不満が爆発・・・というより、その経緯を見る限りでは、「いつかヤッってやる!」の決意のもとに周到に準備され、その時を待っていた~という感じですが、

とにもかくにも永禄二年(1559年)、家臣たちがクーデターを決行・・・久政を幽閉して息子=長政を担ぎ上げます。

もちろん、長政自身もヤル気満々で、「賢」の字を捨てて長政を名乗り、奥さんを平井家に送り返して反六角の狼煙を挙げます。

しかも、その翌年=永禄三年(1560年)8月に起こった野良田(のらだ=滋賀県彦根市)の戦いで、見事に六角義賢を打ち破りました。

そこで、この勢いに乗じる長政は、浅井が六角からの屈辱的な講和に耐えねばならなくなったキッカケとも言える太尾城を奪おうと機会をうかがいますが、

ちょうど、この永禄四年(1561年)、宿敵=六角義賢が畿内を牛耳る三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)との戦いのために京都に出陣した(【将軍地蔵山の戦い】参照>>)事を確認した6月中旬、箕浦城 (みのうらじょう=滋賀県米原市)今井定清(いまいさだきよ)太尾城攻略に向けて出陣させたのです。

Isonogazumasa600a 定清は、長政から援軍として送られて来た磯山城(いそやまじょう=同米原市)磯野員昌(いそのかずまさ)と連携して夜襲をかける事にし、

永禄四年(1561年)7月1日、夜陰に紛れて、自軍480と磯野の援軍200=合計680ほどを率いて、太尾城の麓に潜んでおいて、伊賀(いが=三重県北西部)忍びを城内へと潜入させました。

この、先に城中に入った伊賀衆が火を放ち、その合図の炎で以って今井軍と磯野軍が本丸と二の丸を同時に攻撃する手はずとなっていたのです。

しかし・・・待てど暮らせど、いっこうに伊賀衆の火の手が上がらない・・・

そこで、おそらく伊賀衆が城中への潜入に失敗したと判断した磯野員昌が、
「約束の時刻になっても合図が無いところを見ると、おそらく伊賀衆が失敗したに違いない。
 お宅の城は、ここから近いのだから、一旦戻られた方が良いのでは?
 我らは、もう少しだけ、ここに留まって後、兵を退きあげる事にしよう」
と今井定清に提案・・・

「よし、わかった!」
と承諾した定清が、箕浦に帰るべく兵とともに退却していたところ、その途中で太尾山方面に火の手が上がりました。

「すわ!作戦が始まった!」
とばかりに、慌てて引き返し、その勢いのまま城中に攻め入ろうと、怒涛の攻撃態勢に・・・

しかし、その場所に展開していたのは、あの200余りの磯野の兵だったのです。

暗闇の中、突然の攻撃を受けた磯野の兵たちは、それが今井定清の兵とはわからず・・・いや、むしろ太尾城側に加勢する兵が現れたものと思い込み、これまた必死のパッチで反撃に出ます。

そんな中で、先頭を切って突入した定清を、磯野員昌の与力(よりき=足軽大将クラスの武将)であった岸沢与七(きしざわよしち)が背後から槍で一突き・・・馬上から落ちた定清は、その場で落命しました。

未だ、34歳の若さだったと言います。

それでも、まだ、味方同志とはわからず、闇夜の中の戦闘は続けられ、夜が白々と明ける頃になって後、周辺に横たわる味方の遺体を目にし、ここで、ようやく同士討ちをしていた事に気が付いたのです。

このような状態でしたから、当然、太尾城を落とすどころではなく、今井勢も磯野勢も、兵を退いて、むなしく本拠へと戻るのみでした。

もちろん、定清を討った磯野側に他意はなく、完全なる勘違い・・・4日後の7月5日、磯野員昌は今井家に向けて起請文(きしょうもん=神仏に誓う文書)を送って謝罪し、納得してもらったのだとか・・・

とまぁ、この時、太尾城を落とせずにいた浅井長政でしたが、この2年後の永禄六年(1563年)、六角氏は家内での内ゲバ事件=観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)を起こして自ら衰退への引き金を引いてしまい

そこに乗じた長政が、浅井の力を維持したまま、あの織田信長との同盟を結び、やがて、その信長が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛し(9月7日参照>>)それを阻む六角が・・・

と、続いていくのですが、そのお話は、信長の上洛を阻む六角承禎の【観音寺城の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
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2020年6月18日 (木)

細川晴国の京都奪回作戦~仁和寺付近の戦い

 

天文二年(1533年)6月18日、京都を奪回すべく押し寄せた細川晴国細川晴元勢に迫った仁和寺付近の戦いがありました。

・・・・・・・

応仁の乱後に現室町幕府将軍を廃して自らの意のままになる将軍を擁立する明応の政変(4月22日参照>>)で以って、事実上政権を握った室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)の死後、

その後継は3人の養子=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)によって争われますが、その後継者争いに打ち勝った高国を、今度は澄元の遺児である細川晴元(はるもと)が破ります(【大物崩れ】参照>>)

これによって、高国が擁立していた第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)近江(おうみ=滋賀県)へと退き、晴元は自らの推す次期将軍候補=足利義維(よしつな=義晴の弟)&家臣の三好元長(みよしもとなが)とともに、将軍不在の京都に代って、(さかい=大阪府堺市)にて事実上の政権を握ったのです堺幕府については「晴元さんご命日」のページで>>)

己が政権を握ってしまえば、トップはどうでも良かったのか?
晴元は、自分が引っ張って来た義維を遠ざけ、高国派だった将軍=義晴との和睦を模索し始めた事により、これに怒った三好元長と対立する事になります。

しかし元長の持つ武力は膨大・・・分が悪い晴元が、ここで山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)に援軍を求めた事で、それが本願寺衆徒による一向一揆(いっこういっき)となって大暴れする事になるのです【飯盛山城の戦いと大和一向一揆】参照>>)

制御が効かなくなった一向一揆に困った晴元は、今度は京都市内にて勢力を誇る法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)に働きかけて法華一揆(ほっけいっき)を誘発させ、山科本願寺を焼き討ちに【山科本願寺の戦い】参照>>)・・・

本拠を焼かれた本願寺証如以下衆徒たちは、かつて蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が隠居所として建てた摂津(せっつ=大阪府北中部)大坂石山御坊(いしやまごぼう=大阪府大阪市・石山本願寺)へと移り、以後、ここを本願寺門徒の本拠に活動を続け、その後も度々、法華宗との小競り合いを続けていました。

この頃の京都&大阪周辺の情勢は「天下乱れて麻の如し」と称される程で、何度となく繰り返される争いに田畑を荒らされる周辺農民たちによる半済(はんぜい=年貢半納)求める徳政一揆(とくせいいっき)が頻発するあり様でした。

これに対しても、晴元は配下の者や法華宗徒の力を借りて、太秦(うずまさ)北山(きたやま)の集落を焼き払うなど、力づくの対処をしていましたが、それは当然、益々の混迷と乱れを生むことになります。

このゴタゴタをチャンスとばかりに立ち上がったのが、先の戦いで敗れた細川高国の弟(息子とも)と言われる細川晴国(はるくに)だったのです。

高国の死後、若狭(わかさ=福井県西南部)に潜伏していた晴国は、丹波(たんば=京都府中部&兵庫県東北部)波多野晴通(はたのはるみち)らの支援を受けて次期細川京兆家当主として擁立され、天文二年(1533年)5月頃から、丹波勢を率いて京都に侵攻して来たのです。

さらに、ここに来て石山本願寺を味方に引き入れた晴国は、天文二年(1533年)6月18日、京都の仁和寺(にんなじ=京都府京都市右京区御室)付近にて、晴元軍の京勢とぶつかります

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御室桜と五重塔(仁和寺)(参照>>)

この時、摂津河内(かわち=大阪府東部)和泉(いずみ=大阪府南部)方面にて戦闘を展開する一向一揆に対抗するために主力部隊を大坂方面に出陣させていたため、手薄となってしまった晴元軍の京勢は、たちまち劣勢となり、晴元の宿将=薬師寺国長(やくしじくになが)が討死・・・総崩れとなった晴元&法華門徒勢は痛い敗戦となりました。

京都を牛耳っていた法華衆徒の敗戦に市中は騒然となりますが、その雰囲気を払拭すべく、京都市街では、翌19日から連日に渡って法華宗の打ち回り(巡回警備)が続けられますが、24日には晴国率いる丹波勢が二条西洞院(にじょうにしのとういん)妙顕寺(みょうけんじ=現在は京都府京都市上京区)まで押し寄せて伽藍や塔頭(たっちゅう=大寺院に付属する寺)に放火して回り、防戦した法華門徒にも多くの死者が出ました。

この京都の異変を滞在中の大阪で知った晴元が、慌てて6月20日に本願寺証如と和睦して軍勢を収めたため、京都市中での戦いは次第に鎮静化して行き、法華門徒たちは晴国ら丹波勢から京都市内を自衛すべく動くようになり、益々京都市内は法華宗の牛耳る所となるのですが、

そこに「待った!」をかけるのが京都市中に多くの末寺をかかえる比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本)・・・

やがてそれは、京都市街を焦土と化す天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)(7月27日参照>>)へとつながっていく事になります。
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2020年6月 8日 (月)

これからしばらく麒麟が来ない大河ドラマ『麒麟がくる』第21回「決戦! 桶狭間」の感想

 

仕方ないけど、主役の光秀が単なる野次馬だった大河ドラマ『麒麟がくる』第21回「決戦! 桶狭間」の感想です。

解ってます!
解ってますよ~

未だ史料に登場していない時代に、変に長谷川光秀に何かをさせるわけにはいかない。。。
だけど、主人公だから登場させなきゃいけない。。。

脚本家さんの苦悩のご養子は痛いほど解っておりますが、今回の光秀は、完全にただの野次馬でしたね。

貧乏所帯なのに、どこからか馬を調達して清洲城に向かって行ったものの、染谷信長の隠し子抱いた川口帰蝶姫
「もう出陣しました」
って・・・完全に出遅れてるわ、途中で間宮左馬助が消えるわ、何をしたかった…いや、させたかったんだろ?

アッ!そうか~
桶狭間の戦いを終えた染谷信長に、どうやって調達したのか謎なキレイな水を差し出したかったんだぁ~←ってなワケではないですよねw

あ、でも、少し落ち着いて(見終わってからしばらくして)思い返してみると、この水を差しだして信長褒めのシーンがあったからこそ、見事に「エピソード1が完結」したっぽい感じで、しばしの休止に入る事ができるってことですよね。

そこはスタッフ様お見事でした。

以前の感想で、
本木道三が無くなって、明智城が落ちて、越前に逃亡するところで休止に入った方が良かったんじゃ?」
と、浅はかな事を申しましたが、今回、前半戦最大の盛り上がりの桶狭間と、その後の、この水やりシーンがあったおかげで、おもいっきり続きが気になるまま休止に入る事にならなくなったわけで・・・さすが、プロのスタッフ様のお仕事だと思いました。

で、桶狭間と言えば、
今回の「麒麟がくる」の桶狭間は、よくドラマで描かれる桶狭間とは、ちょっと違う雰囲気がしましたね。

よくドラマで描かれるのは、
陣幕の中、おもいっきし休憩しまくってる白塗り義元に、ジャジャぶりの雨の中、いきなり織田軍が奇襲をかけ、逃げまくる義元が・・・てな感じ?

今回は、それとは違う雰囲気で、やや小ぶりで迫力に欠ける感ありましたが、逆に、それが『信長公記』の記述に沿っていて、実際の桶狭間に近い気がしました。
●【桶狭間で義元を討った毛利新介と服部小平太】参照>>
片岡義元さんも、シッカリ戦うしねw

個人的には、今川家臣の岡部元信が義元の首を奪い返すシーン(2007年5月19日参照>>)もやってほしかったですが、それこそ、主役の光秀には関係ない事なので、今回はスルーで当然ですわな。

…にしても、今回の「麒麟がくる」の桶狭間のシーンは、大掛かりではなくこじんまりした雰囲気だったものの、そのぶん、映像技術のスゴさを感じたシーンでした。

毛利新介役の今井翼君がカッコよく飛ぶシーン・・・後ほど、じっくりコマ送りかスローで、もう1度見てみたいと思ってますが、あそこはワイヤーアクションやらCGやらを駆使して、これまでにないカット割りのお見事なシーンとなってましたね。
★追記:
愛之助さんの瞳に映るジャンピング翼を確認(@^-゜@)v

いやはや、最近はチャンバラも、こんな感じになりましたか~と、つくづく時の流れを感じる昭和世代です。

ところで、今回、染谷信長の隠し子紹介のシーンは、なかなかオモシロかったと思いますよ。

「こんな時に、自分以外に女性がいる事を知る帰蝶姫の気持ちは複雑なんじゃ?」
てな見方もあるようですが、それはちょいと現代人の価値観が強すぎるような・・・

そんな現代人の価値観を、うまく払拭できるように、「命懸けの出陣の時に子供を紹介する」という感じに、脚本家さんは持っていかれたんですよね?

そうです。
この戦国時代、殿様に後継ぎがいない状況だと、とっても不安なのです。

ま、実際には、信長さんはメッチャ弟いるので(異母弟含めるとあと8人くらいいる)何とかなりそうですが、ドラマには出てきてないし、出てた弟は殺しちゃったしですから、「死を覚悟してる」事を伝え、それとともに、もしもの時には・・・ってのを伝え、そして後継ぎ~ていう流れは思わず唸りました。
(側室の生駒の方については【信長、最愛の女性~生駒吉乃】>>でどうぞ)

一方、もう一人の隠し子(←ドラマ上出て来てないという意味です)
風間家康君の息子は、やっぱり、今川から奪回するタイミングで出て来るんですかね?

…というのも、今回、ドラマ内で、小者感満載の憎たらしいパワハラ上司だった鵜殿長照(うどのながてる)さん・・・実は、この後、家康が、とある戦いで、この方の息子(本人説もあり)を生け捕りにし、その昔、自分と信長兄が今川と織田の間で交換されたように、人質交換で以って息子(信康)(亀姫)(築山殿)を取り戻すんですよね~(8月29日参照>>)

今回のパワハラぶりは、その時の伏線と見たw

伏線と言えば、ちゃんが教えてもらった秘伝の薬は、何かの伏線なのか?
「何にでも効く薬」なのだから、今後、ものすご~く重要なシーンで、とてつもなく重要な事をしちゃうとか?

本能寺で火だるまの信長を助けたり…
天王山でズタボロの光秀を助けたり…
したら、最終回を迎えられないので、それは無いでしょうが、けっこう気になります。

…にしても、予告編を見る限りでは、いよいよ後半戦は、向井将軍様に代って滝藤将軍様や、クセ者の本郷前久様らがご登場のようで、メチャ楽しみなんですが、その予告編の最後が「本当に麒麟は来るのか?」ってなってますが、まさか、麒麟が来ないまま、来年の渋沢栄一さんが来ちゃうって事ではないですよね。

あくまで小休止ですよね?
と不安になりながらも、今回の桶狭間がかなり盛り上がったおかげで、その小休止の間も、今回の盛り上がりに浸りながら待つ事ができそうですが、

なんなら、次に麒麟がくるまでの間の大河名場面の再放送は、歴代大河の桶狭間シーンを集めて下さったりなんかしたら、いっそう期待して待つ事ができるのではないか?と…

とにもかくにも、再開を楽しみに待っておりますm(_ _)m
 

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2020年6月 1日 (月)

いよいよ桶狭間前夜祭~大河ドラマ『麒麟がくる』第20回「家康への文」の感想

 

今から、再来週はどうしよう?と思案しつつの大河ドラマ『麒麟がくる』第20回「家康への文」の感想です。

相変わらず、主人公より架空三人衆(駒&東庵&菊丸)の方が目立ってましたが、今回描かれた時期も、未だ光秀が歴史上には登場しない時代なので、そこは納得の範囲内です。

ただ、風間家康片岡義元も、東庵先生イロイロしゃべり過ぎなところは、ちょいと気になりましたが・・・
(セキュリティ甘いゾ)

そんな中、駒ちゃんがヘアスタイルを変えて、着物も何だか大人っぽくなってて、独り立ちっぽくお灸をして回ったりのイメチェン・・・そこに、いずれ薬マニアになるであろう風間家康を絡ませるあたりはニヤリとさせられる演出ですね。

それにしても、長谷川光秀は・・・
それこそ、今は亡き(先週ナレ死)伊藤義龍じゃないですが、
「お前はいったい何がしたいんだ?」
と聞きたくなるような不思議なアレコレ・・・

だって、越前に来た当時は、ユースケ・アサクラとはちょっと距離を置いて、住まいを借りるだけにしていたっぽいのに、今回は鉄砲の腕を見せつけて仕官を頼み、後半は、喰う米にも困るような貧乏生活なのに、どこからか馬を調達して来て、おそらく桶狭間へ直行・・・

しかも、予告を見る限りでは、参戦しに行ったのではなく、甲冑も着けない普段着のまま「見届け」に行くみたいやし・・・って、もはや、嫁と子供を養っていかなきゃならない身としては、ちょっと軽率ではないかえ?と・・・

とは言え、これも、どないかして主人公を名場面に絡ませないとドラマの盛り上がりに欠ける思った脚本家さんの苦肉の策という事で致し方ないのかも・・・です。

ただ、個人的に、どうしても、突っ込んでおきたいのが、あのユースケ・アサクラの蹴鞠(けまり)の場面を見た長谷川光秀の態度です。

朝倉家臣が「遊びです」とは言ったものの、
一方で、その蹴鞠の相手が「京都の公家」である事も言ってたはず・・・

この頃の蹴鞠や、歌会、
あと、もうすぐ出て来そうなお茶会も、
これらは、今で言うところの接待ゴルフです。

一昔前なら、
嫁=「あなた、日曜なのに、またゴルフなの?」
夫=「仕方ないだろ!ゴルフも仕事だ」
嫁=「゛(`ヘ´#) ムッキー」
なんて場面が、昭和のドラマにあったような気もしますが、

働く女性がバリバリ活躍する令和のこの時代、社会人はもちろん、女子供だって、もう気づいてますよ。

正式な会談ではない、ざっくばらんなオフレコで話す内容が、いかに重要で、そこから発展する事項が多々ある事・・・

なんせ、国家の首脳がゴルフして、両者の関係をアピールする時代なんですから・・・誰も、アレを見て「遊んでる」とは思わないですよね。

なのに光秀は気づかない・・・気づかないどころか、その言葉通りに「遊んでる」と思って憤慨し、どうやら「朝倉になんか仕官するもんか!」と思ったご様子。

残念ながら光秀さん、それでは出世できません。
その「来ている公家」が誰であるかくらい確かめないと・・・
(本来なら、話してる内容も聞きたいところですが…)

これまでの長谷川光秀が、出演者の皆々様から「優秀だ」と称され、アッチからもコッチからも引っ張りだこのモテモテ設定なのですから、それなら、このシーンはいらなかったような気がします。

せっかく、裏で川口濃姫にアドバイスして、水野のおいちゃんを呼びださせて染谷信長と会わせ、風間家康を今川から離反させようと画策した優秀さがブレブレになってしまいました。

とは言え、この離反作戦自体は、お見事でしたね~

今回のタイトルが「家康への文」だったので、いつぞやのファンタジー大河を思い出し、まさか
「光秀君よ、主役の特権使って家康に手紙出すんか!?」
と思ってドキドキしてましたが、なるほど、家康母ちゃんからの手紙だったわけですね~これはウマイ!

しかも、於大母ちゃんを演じた松本若菜さんの演技が、これまたウマイ!

わずか6歳で人質に出され(8月2日参照>>)、しかも、兄貴の水野のおいちゃんが織田に寝返ったせいで自分は離縁されて、1度も会えてない・・・

彼女の中では、未だ子供の姿のままの息子が、元服して出陣して、おそらく最も危険な先鋒を受け持つ・・・涙しながら、息子の無事を願う母。

まるでBGMに♪母さんの歌♪が流れて、立て籠もり犯を説得せんが勢いの名場面を、松本於大さんが見事な演技で魅せてくれはりました。

なのに、予告を見る限りでは離反工作は失敗する模様・・・
なんで?
「そう来たか!」
「コレ(母の願い)やったらイケる!」

と思った私の気持ちを返してくれ!

とまでは、言わないですが、おそらくは史実通り、義元の死を知ってから家康さんは決意する展開になるのかな?
【桶狭間の戦いの時の徳川家康】参照>>
水野のおいちゃんも、手を貸してくれそうやし・・・

とにもかくにも、いよいよ来週は「決戦!桶狭間」

次に「麒麟がくる」その日まで、桶狭間の余韻に浸りながら待っております!

★このあたりの予習復習ページ↓
 ●【家康初陣~三河寺部城の戦い】>>
 ●桶狭間の戦い
  【今川義元の行軍ルート】>>
  【一か八かの桶狭間の戦い】>>
  【二つの桶狭間古戦場】>>
  【義元を討った毛利新介と服部小平太】>>
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2020年5月28日 (木)

守護代・織田信賢と信長~浮野の戦い

 

永禄元年(1558年)5月28日、美濃の斎藤義龍と通じた岩倉城の織田信賢織田信長を攻撃する浮野の戦いがありました。

・・・・・・・・

天文二十年(1551年)3月の父=織田信秀(おだのぶひで)の死(3月3日参照>>)を受けて、織田家の家督を継いだ織田信長(のぶなが)は、当主交代のドサクサで、以前から信秀と敵対していた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと)に寝返った鳴海城(なるみじょう=愛知県名古屋市緑区:別名=根古屋城)城主の山口教継(やまぐちのりつぐ)との戦い(【三の山・赤塚の戦い】参照>>)や、その今川が織田領内に築いた村木城(むらきじょう=愛知県知多郡東浦町=村木砦とも)にも相対しつつ (【村木城(砦)の戦い】参照>>)

Odanobunaga400a 一方で、清州城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)にて尾張(おわり=愛知県西部)守護(しゅご=今の県知事みたいな?)斯波義統(しばよしむね)を保護していた尾張下四郡守護代(しゅごだい=副知事)織田信友(のぶとも)が守護の斯波に反旗をひるがえした事をキッカケに、その清洲城を攻撃して乗っ取って(4月20日参照>>)尾張内での支配を拡大していき、

弘治三年(1557年)11月には、父=信秀の死後から、その後継者を巡って敵対(【稲生の戦い】参照>>)していた弟=信行(のぶゆき=信勝)を抹殺し(11月2日参照>>) 、斯波義統の後継者だった息子=斯波義銀(よしかね)も追放しますが、未だ、本家で尾張上四郡守護代織田信安(のぶやす=岩倉織田氏・織田伊勢守家)は居城の岩倉城(いわくらじょう=愛知県岩倉市)にて、その勢力を維持していました。

しかし、ここに来て、信安が嫡男の信賢(のぶかた)を廃して次男の信家(のぶいえ)に後を継がせようと画策していた事を知った信賢がクーデターを起こし、岩倉城を奪って父=信安を追放したのです。

Nobunagaukino ←浮野の戦いの位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

しかも、その信賢は、先の弘治二年(1556年)に同じくクーデターを起こして父の斎藤道三(さいとうどうさん)を排除して(4月20日参照>>)実権を握っていた隣国=美濃(みの=岐阜県南部)斎藤義龍(よしたつ)に近づいて、信長と敵対する構えを見せます。

そこで信長・・・永禄元年(1558年)5月28日約2000の軍勢を率いて出陣し、岩倉城の背後へと廻り、足場の良い浮野(うきの=愛知県一宮市千秋町)という場所に布陣し、まずはあちこちに放火しながら足軽たちが攻撃を仕掛けます

対する信賢は「城を奪われてなならぬ」家老山内盛豊(やまうちもりとよ=山内一豊の父)大手門(おおてもん)に配置して守りを強化した後、約3000ほどの兵を出撃させて応戦・・・正午を過ぎた頃から、信長勢は少し南東方向へ移動しつつ、徐々に信賢勢を追い込んで行きます。

この時、信賢方にいた林弥七郎(はやしやしちろう)という武士・・・彼は弓の名手として知られた人でしたが、少々形勢が悪くなり、弓を持って一歩退こうとしておりました。

そこを見つけて追いかけたのが、信長方でも鉄砲の名手として有名だった橋本一巴(はしもといっぱ)でした。

もともと、この戦いはともに尾張に根を張る織田家=同族同志の争い・・・ともに旧知の間柄であった弥七郎が、サッと振り向いて「助けてはやれんゾ!」と言うと、一巴も「重々承知」と答えます。

そこで、四寸(約12cm)ほどもの矢尻をつけたあいかという矢を弓につがえた弥七郎が、すかさず矢を放つと、それは一巴の脇の下深くに食い込み、その命を奪いました(7月12日死亡とも)

しかし、一方の一巴も、同時に二つ玉(2発の弾丸を紙で包んで一つにした物)を込めた鉄砲を肩に当てて正確に放っていて、それが命中した弥七郎もその場に倒れます。

そこを、信長小姓の佐脇良之(さわきよしゆき=前田利家の弟)が、すかさず弥七郎の首を取ろうと走り寄って来たところを、弥七郎は倒れたまま太刀を抜き、良之の左ひじに斬りつけます。

それでも良之はひるまず・・・負傷しながらも弥七郎の首を討ち取りました。

この日、1200を超える死者を出した信賢は、やむなく岩倉城へと敗走・・・信長も清洲へと軍勢を戻しました。

とは言え、信賢の籠城はこの後も続き、最終的に信長が岩倉城を落として信賢を追放したのは永禄五年(1562年)11月1日の事とされ、この信賢の追放を以って、信長の尾張一国の統一が成されたとされています(11月1日参照>>)

また、一豊父の山内盛豊は浮野の戦いもしくは岩倉城落城の際に討死もしくは自刃したとされますが、今回の浮野の戦いが弘治三年(1557年)で岩倉落城が永禄元年(1558年)とする説もありますので、そのあたりは、未だ不明です。

とにもかくにも、信賢の失脚で信長は尾張統一・・・しかも、この間には永禄三年(1560年)5月19日の桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市もしくは豊明市)の戦い
●【一か八かの桶狭間の戦い】>>
●【二つの桶狭間古戦場】>>
●【名を挙げた毛利新介と服部小平太】>>
がありますから、まさにこのあたりから、信長が、地方の深夜枠から全国ネットのプライムタイムへと躍り出る事になるわけです。
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2020年5月25日 (月)

モテモテ光秀の大河ドラマ『麒麟がくる』第19回「信長を暗殺せよ」の感想

 

「信長を暗殺せよ」っていうタイトルなので信長が危ないのか?と思いきや、まさかの義龍ナレ死で驚いた大河ドラマ『麒麟がくる』第19回の感想です。

…にしても、どうしちゃったの?
何なんやろ?

まさかまさかの、スタッフの皆様が本木道三ロスになっておられるのか?

歴代大河ドラマでも久々の名作『麒麟がくる』とは思えないような展開の第19回でした。

そもそも、ご本人が「浪人者」とおっしゃってる長谷川光秀・・・「浪人者」という限りは、朝倉から禄を貰ってる家臣でもなければ客将でもない、ただ、越前に身を隠してる感じの存在ですよね?

しかも、現状を見る限り、ユースケ・アサクラは、さほど光秀を気に入ってもいないようだし、城下の空き家を貸してやっただけ・・・そんな人を、将軍様への使者にしちゃうなんて!

交渉事での代表者もそうですが、こういう場合、差し出す引出物も大事かも知れんけど、それを持って来た使者のランクも大事なはず・・・
(この場合、将軍の側近と知り合いだとか、本人がメチャ優秀だとかは、あまり関係ないかと…)

「上洛の要請に応じて力のない将軍にベッタリとなって、いらん事に巻き込まれたくないから上洛したくない」という考えは良いとしても、一方で「祝い物を出す」という事は「完全なる敵対関係」にはしたくないわけですよね?

だったら、それを持っていく使者は、自らの代わりと成り得る者=身内か重臣クラスでないと、波風立たない対応とは言えないと思うわけで、逆に「ケンカ売っとんのか!」てなりそうな気がしないでもない。
(できれば、使者として向かう家臣の付き添いくらいにしておいて欲しかった…てか、むしろ付き添いの方が「側近の知り合い」という人脈が活きて来る)

ま、そこを普通に受け入れる将軍家も将軍家・・・
「お前、今、越前にいるんだってな」
じゃないですよ!
落城して逃亡してんのに、住んでる場所を京都住みの皆が知ってて、大丈夫なんかいな?

皆が知ってると言えば、今回のタイトルの「信長の暗殺計画」・・・
なんでバレてんの?
どっから、その情報入手した?
どうせ、ここで信長死なへんけど…ウン!殺害するの誰か知ってる
タイトルにするくらいなら、もうチョイ丁寧に描いてもよさげな気がしました。

それにしても、相変わらず長谷川光秀はモテモテやねぇ~

眞島藤孝からは、やさしい眼差し迎えてもらい、
将軍様からも「覚えてる」と言って染谷信長の謁見にまで同席させてもらい、
その信長からも「おぉ」と友達のように接してもらい、
吉田久秀からは、その信長との秘話を楽しそうに聞かせてもらい、

もう、他でこんなにモテてたら、奥さんからの子供ができた報告シーンにもラブラブ感を感じないようになって来ましたわ。

その最たる物が、高政から改名した伊藤義龍からの、またもやのラブコール・・・
いったい何度目のプロポーズ?
そしてまたもやフラれる義龍さん。。。

言っとくけど、
今度会ったら打ち首じゃ→(からの)許される
朝倉の使者で来てんのに勝手に信長暗殺阻止→許される
「コッチにおいでよ」からの「断る」→許される
コレ、全部、義龍がアンタの事を好きで好きでたまらないから許されてるだけだかんね。
ビンタされようがハイヒールで踏まれようが、健気に愛し続ける義龍さんに代って言ってやりました)

なのに・・・
そこにナレ死でトドメを指すなんて、、、
お人が悪い・・・オバチャンびっくりしましたよ~

でも、本当に義龍さんは、ここで退場なんですか?
これまでは斎藤家をあんなに丁寧に描いていたのに?
この先も、信長さんとなんやかんやあるのに?

てか、そもそも、まだ信長さんは守護代の織田信賢を追放(11月1日参照>>)してませんよね?
桶狭間より後のはずやもん…義龍も絡んでるはずやし)
向井将軍に謁見した時、染谷信長は
「尾張統一の報告に…」
てな事言うてはりましたが、諸説あるので仕方ないものの、そこはドラマでは統一した事になってるんですかね?

とは言え、
こんなにツッコミ所の多い展開なのに、普通に楽しく見れてしまうのは、さすがの大河ドラマです。

初回放送の頃は、あれだけキラキラだった画面が、いつの間にやら落ち着いて重厚感あふれる画面になり、
役者さんの演技、目線、仕草の一つ一つに、「やっぱり大河やなぁ」というスゴさがあり、
長い廊下から部屋への動線と、その合間に移り込む庭のある広々としたセット。。。

演者の方含む作り手の方々の力の入れようが垣間見えます。

それだけに、今回のツッコミ所満載の展開は残念でしたが、それこそ、この時点では未だ活躍エピソード0の光秀さんが主人公である以上、ある程度のゴリ推しは致し方ないところなのかも知れません。

来週はいよいよ桶狭間への流れですね。。。
その後、少しお休みになるかも知れませんが、今後の展開も楽しみにしております。

★このあたりの予習復習ページ↓
 ●【義輝VS三好長慶の白川口の戦い】>>
 ●【足利義輝~5年ぶりの入京】>>
 ●桶狭間の戦い
  【今川義元の行軍ルート】>>
  【一か八かの桶狭間の戦い】>>
  【二つの桶狭間古戦場】>>
  【義元を討った毛利新介と服部小平太】>>
  【桶狭間の戦いの時の徳川家康】>>
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2020年5月18日 (月)

シュッした勝家が初登場した大河ドラマ『麒麟がくる』第18回「越前へ」の感想

 

放送の休止が決定してしまって、ちょっと寂しい大河ドラマ『麒麟がくる』第18回「越前へ」の感想です。

どうせなら、この越前編へ入るタイミングで休止した方が良かったような気もしますが、未だ、撮影再開のメドが立たない状態では、そういうワケにもいかなかったのでしょうね~

ホント、久々の良い大河(←個人の感想です)なので非常に残念ですが、こればかりは仕方ないですね。

ところで・・・
やっとこさ光秀奥さんのセリフが増えて来た~!
と思ったものの、やっぱり今週もの方が目立ってるゾ!

(これまで何度も色んな人に言ってた気がする中)
「命の恩人を探している」と今更ながら話し始めた駒に、

「それは私の旦那様!」光秀ママが感動するものの、
視聴者から見たら、「せやろな」感が拭えない・・・

ほとんどの人、気づいてましたよね?

てか、初回に駒が火事から助けられた話とともに、その恩人が言った麒麟の話をした時、長谷川光秀は、その話を初耳のような感じで聞いてましたが、父は、息子に、その麒麟の話をした事が無かったんかいな?

いや、「父は幼い頃に死んだ」というから、単に覚えて無かったのかも知れないけれど、
それならそれで、さゆりママは、1度もその話を息子にしてないんかいな?

その父は、自分が救った少女の行く末を、何度も京都で確かめようとしていたらしいのに・・・

どうも、今回の光秀パートは、何となくツッコミどころの多い摩訶不思議な回でした。

摩訶不思議と言えば、三河の忍びである菊丸くんは、
三河からず~っと、駒ちゃんのためについて来たにも関わらず、いきなりのサヨナラ・・・

ひょっとして、このままフェードアウトのメンバーになっちゃったのかな?
なんか不思議でしたね。。。

一方、新キャラのユースケ・モーニングストアハウスさんは、なかなかの良い味でした。

つかみどころがなく、それでいて、何かを企んでそうな雰囲気が、見事に醸しだされてましたね~

京都のセレブを招待して歌会などに興じていた事や、せっかく足利義昭を囲ってるのに上洛しなかった事などから、ドラマ等では、戦いが苦手な雅な人に描かれがちな朝倉義景さんですが、

今週ドラマで描かれた頃の2年ほど前には、後見人の朝倉宗滴とともに一向一揆(2008年8月13日参照>>)とも戦ってたし、この後、何度も若狭に出兵してたり(2018年8月13日参照>>)なんぞしている所を見ても、個人的には戦いが苦手だったとは思えないわけで・・・

そんな、程よい「うさん臭さ」が、あの必死のパッチの床磨きに現れていてオモシロかったです。

…にしても、伊呂波大夫にしろ、細川藤孝にしろ、なんで?光秀を、そこまで大物扱いするのかワカラン(><)

なんだかんだで、未だパシリ以外何もしてないし、久しく鉄砲も撃ってないし・・・
ま、「主役に近づいておれば今後の出番が多くなる」って事でヨシとしましょう。

私としては、一乗谷の湯殿(↓)が見事に再現されているところでテンションだだ上がりでしたし・・・

Dscf1285pa900
義景邸・湯殿跡一乗谷朝倉氏遺跡については4月11日のページで>>)


そんな中、
打って変わった後半の信長による、弟=信勝(信行)殺害シーン。。。。

染谷信長の、怖さが際立った演技がお見事でした。

ただ、なんやかんやあって時間調整がうまく行けてないのかもですが、
もう少し、弟さんとの紆余曲折の場面を、これまでにチョイチョイ挟んどいていただきたかったですね。

古くは親父さんの葬式も無かったし、直近の稲生の戦い(8月24日参照>>)も、すっ飛ばされてしまったために、これまでの信勝さんと言えば、囚われの竹千代(後の家康)子役ちゃんと将棋差してるシーンしか思い出せなくて、いきなりの弟=聖水持って参上からの殺害(11月2日参照>>)は、残念ながら、セリフの長さのワリには唐突な気がしてしまいました。

ところで、話変わりますが、
ここまで爽やかでシュッとした柴田勝家は初めてなんじゃ?

これまで、柴田勝家と言えば、譜代の家臣という立場からか?やっぱり「たたき上げの苦労人」的なイメージの役者さんが多かったので、これまた新しいキャラの勝家に期待大です。

来週は、光秀が京都に行って・・・てか、それなら皆で京都に潜伏してた方がよくね?
と思いながらも、久々に松永さんが登場するようですので、なんだかんだで来週も楽しみにしておりますです。

追記:
ん? 来週のタイトルが「信長を暗殺せよ」で主人公が京都訪問・・・て、ひょっとして、あの「尾張統一の後の信長の初上洛」(11月1日参照>>)するのかな?
ドラマではすっ飛ばされがちなエピソードですが、描かれるなら楽しみです!
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2020年5月14日 (木)

武田信虎VS海野棟綱~海野平の戦い

 

天文十年(1541年)5月14日、武田信虎勢が、信濃海野平にて海野棟綱ら滋野一党を撃破しました。

・・・・・・・

鎌倉時代から信濃(しなの=長野県)を本拠とし、室町幕府政権下では信濃の守護(しゅご=県知事みたいな?)であった小笠原(おがさわら)でありましたが、戦国時代になると徐々に、その支配力にも陰りが見え始め、地域の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)たちが群雄割拠する状況となって来ます。

そんな中で、東信濃の小県(ちいさがた=長野県上田市周辺)周辺では信濃村上(しなのむらかみ)との滋野(しげの)が激しく争い、そこに佐久(さく=長野県佐久市周辺)大井(おおい)を巻き込んでの争いが繰り広げられていたのです。

一方、その小県や佐久に隣接する甲斐(かい=山梨県)でも、守護の武田(たけだ)が、乱に巻き込まれて事実上滅亡し、一時は守護不在の乱戦状態だった中、

寛正六年(1465年)頃に第16代当主の武田信昌(たけだのぶまさ)が盛り返し、さらに、その孫にあたる武田信虎(のぶとら)が第18代当主となって武田家を継承し、やがて大永二年(1522年)頃に甲斐一国統一を達成します。

Takedanobutora500a その大永年間の信虎は、室町幕府政権下で関東管領(かんとうかんれい=鎌倉府の長官で鎌倉公方を補佐する・関東執事)を継承する上杉家(うえすぎけ=山内&扇谷)と、敵対新興勢力の伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき=北条早雲)を初代(10月11日参照>>)とする北条(ほうじょう)との戦いにも関与する一方で、

天文五年(1536年)頃からは東信濃方面にも手を広げ海ノ口城(うんのくちじょう=長野県南佐久郡南牧村)の攻略(12月28日参照>>)をはじめ、度々、息子の武田晴信(はるのぶ=後の信玄)とともに佐久に遠征し、天文九年(1540年)には、その大部分を服属させていたのでした。

また、この間に信虎は、これまで敵対していた駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)(10月16日参照>>)に対し、今川家内の後継者争い=花倉(はなくら)の乱(6月10日参照>>)に勝利して新たな当主となった今川義元(いまがわよしもと)と娘の定恵院(じょうけいいん)を結婚させて同盟を結んでいます。

そんな中、今川と同じく、これまで敵対していた小県の国衆=村上義清(むらかみよしきよ)や信濃の諏訪頼重(すわよりしげ)らと同盟を結んだ信虎は、

滋野三家(しげのさんけ=海野・根津・望月)を中心とする滋野一族が、あの関東管領の山内上杉(やまうちうえすぎ)を後ろ盾として、未だ小県や佐久にて抵抗している事を受け、義清&頼重らとともに、海野城( うんのじょう=長野県東御市)海野棟綱(うんのむねつな)を攻める事にしたのです。

前日に尾野山城(おのやまじょう=長野県上田市)を落城させた武田勢は、翌・天文十年(1541年)5月14日海野平(うんのたいら=長野県上田市)へ進出し、両者は、ここで激しい合戦となります。

棟綱嫡男の海野幸義(ゆきよし)が、この時の戦いで討死するほか、5月25日には海野側が総崩れとなり、やむなく海野棟綱は、上杉憲政(うえすぎのりまさ=山内上杉家)を頼って上野(こうずけ=群馬県)へと亡命・・・

父=棟綱とともに戦っていたとおぼしき息子の真田幸隆 (さなだゆきたか=真田頼昌の息子とする説もあり・幸綱ともは、長野業正(ながのなりまさ)を頼って箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)に亡命しました。

また、海野氏に味方していた滋野一族のうち、禰津元直(ねづもとなお)矢沢頼綱(やざわよりつな=綱頼とも)らは降伏して、この後は、武田の家臣として従う事になったので、禰津&矢沢ともに本領は安堵・・・

ちなみに、この矢沢頼綱は、今回敗戦して箕輪城に亡命した真田幸隆の弟だったとされ、降伏して配下についた事で、亡命した兄に代って本領に戻ったという事になります。

この頃は、山内上杉家とも同盟を結んでいた信虎ですので、これ以上踏み込む事は無く、5月の末日には陣を解き、合戦の慰労をかねて、娘婿の今川義元に会いに行く事に・・・

ところが翌月の6月14日、義元との面会を終えて、駿河から甲斐へ戻って来た信虎を、配下である武田の足軽たちが遮り
「お戻りになる事はできませぬ!」
と通せんぼ・・・

そう、この間に、息子の晴信によるクーデター(信虎追放)が決行されていたのです(6月14日参照>>)

しかたなく、その後しばらくは駿河に留まる事になった信虎・・・

しかし、このゴタゴタをチャンスと見たのか?
翌7月には、海野棟綱の依頼を受けた上杉憲政と長野業正が佐久に出兵し、諏訪頼重と同盟を結んでこの地を掌握・・・

このため小県も村上義清の支配する所となってしまいます。

Sanadayukitaka300a つまり、先の海野平の戦いには勝利したものの、晴信の父追放によって、村上義清や諏訪頼重や長野業正が武田晴信の敵に回る事になりました。

ただ、一方でこの状況に不満を抱いたとおぼしき真田幸隆は、しばしの流浪の後に晴信の家臣となり、武田二十四将の一人に数えられる名将になるのは、皆さま、ご存知の通り(幸隆については5月19日参照>>)・・・

かくして村上義清や諏訪頼重との同盟を破棄した信は、この後、彼らと雌雄を決する戦いに挑む事になります。
●天文十一年(1542年)諏訪攻略>>(VS諏訪頼重)
●天文十七年(1548年)上田原の戦い>>(VS村上義清)
●天文十九年(1550年)戸石崩れ>>(VS村上義清)
●天文二十二年(1553年)更科八幡の戦い>>(VS村上義清)
●永禄九年(1566年)箕輪城攻略>>(VS長野業正)

そして、このうちの村上義清との一連の戦いが、あの越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)との川中島(かわなかじま=長野県長野市)(【第一次川中島の合戦~布施の戦い】参照>>)につながっていく事になります。
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2020年5月11日 (月)

斎藤道三が主役だった大河ドラマ『麒麟がくる』第17回「長良川の対決」の感想

 

まさに~第1部の最終回?的な大河ドラマ『麒麟がくる』第17回「長良川の対決」の感想です。

いやぁ、カッコイイ~
とにかく、本木道三が、かっこ良かったです。

実際には、もはやこの時代には、大将同志の一騎撃ちなんてありえないでしょうが、ドラマではアリ・・・どころか、むしろ、そういう場面にこそ、見てる側は手に汗握るというものです。

史実としては、この時、川を渡って敵陣に向かったのは息子=高政勢の方だと思いますが、やはりドラマで描く場合は・・・しかも単身で斬り込んで行くなら、道三の方が川を渡って高政側へ行く方がカッコイイです。

とにもかくにも、
一騎撃ちシーンでは、そこまでのドラマ演出(=フィクション)をしておきながら、
一方で、
『なんだかんだで父親なんだから…
「殺さず、生け捕りにしよう」
と高政側が思案する』
という、史実かも?とされるエピソードを、さりげなく挿入なさるあたりはさすがの大河スタッフ様です。
【長良川の戦い~斎藤道三の最期】のページ参照>>)

同じく史実かも?のエピソードとしては、光秀の脱出場面でもそうでしたね。

死を覚悟した叔父=光安が、
「血筋を残せというのが祖父の遺言だから、何としてでも落ち延びよ」
と光秀を諭し、息子の秀満をつけて送り出すのは、
軍記物ではありますが、『美濃國諸奮記』に残るエピソードです。
【光安自刃で明智城落城】のページ参照>>)

そこに・・・
「後に、会おう」by光安
と、おそらく無理であろう約束をさせる演出は、西村さんの演技も相まって、涙を誘いました~

こういう風に、
「史実」という点と点を、「フィクション」という線で、
見事に結んでいただけると、本当にウレシイv(^o^)v

ただ・・・
もちろん、史実では未だ登場していない光秀ですので、この長良川の戦いに、変に関与する事は避けなければならないので仕方ないのでしょうが、

完全に道三が討ち取られた後に、ヒョッコリ光秀が、しかも単身で伊藤高政の前に現れ、フツーに会話している姿には、ちょっと??な感じがしました。

光秀は道三側についたよね?
先週>>の最後に「敵は高政様!」と宣言してた)

なのに、何のためらいもなく、敵兵たちが止めるでもなく、後ろ側から本陣に現れ、
「今からでも味方になれ」だの、
「まっぴらゴメンでありんす(←コレは m(_ _)mだの、
友達同士のように話しして、
これまた、普通に去っていく・・・って、、、

とは言え、やっぱコレも主人公の特権ならやむを得ず・・・

そんな中で、個人的に気になったのは、合戦中の太鼓。。。
アレって、本来は軍団の統率をとるために鳴らされる太鼓だと思うのですが、今回は、完全に一騎撃ちのBGMとなってましたね。

とてもじゃないが、あの速さのドンドコぶりでは、太鼓に合わせて全軍で動きを合わせるなんて事はできない。
けど、甲冑姿の人らが、明らかに戦場で叩いてるわけで・・・

個人的には、「普通に太鼓BGMを流す感じで良いのでは?」と、すごく不思議でした。

とか何とか言いながらも、先に書いた通り、今年の『麒麟がくる』は、近年稀にみる素晴らしき大河ドラマ!
(↑あくまで個人の感想です)

正式発表ではないものの、聴くところによれば、コロナの影響で、しばらくのお休みの後、残りの回数を減らして撮影を再開されるとか・・・本当に残念!!
こんな良い大河、是非とも万全の態勢で見てみたかったです。

とにもかくにも、
美濃編の最終回が終り、いよいよ来週から越前編・・・

てか、すぐ越前行くのん?
京都とか近江とか放浪せんの?
いや、それこそ、残り回数に限りがあるのですから、ここからは、むしろ高速でお願いしたいところです。

てな事で、
来週の信長さんは。。。
「弟と稲生の戦い>>
「弟を暗殺>>
「柴田勝家、登場か?」
の3本です。。。

楽しみですね~
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2020年5月 4日 (月)

光秀の「敵は~」の次のセリフに期待しちゃった大河ドラマ『麒麟がくる』第16回「大きな国」の感想

 

4~5ヶ月の出来事を3週に渡って放送して、暮れに本能寺までたどり着くのか?
だんだん心配になって来た大河ドラマ『麒麟がくる』第16回「大きな国」の感想です。

とは言え、前半戦最大の見せ場ですからね~
見ごたえあったぶん、そこは致し方ないところですね。

海猿高政(義龍)さんに愛想をふりながら、心は道三とともに・・・
今までなんだかんだと掴みどころが無かった西村光安叔父様の演技力が冴えわたってましたね~

もちろん、まるで例の真偽問われる【道三から信長へ美濃を譲るの遺言状】>>の如く、思いの丈を光秀に言って聞かせる本木道三も・・・

本木さんの演技、カメラのカット割り、光と影の使い具合が、あまりにお見事で、
史実上、謀略と暗殺で主家を乗っ取り(1月13日参照>>)、ドラマ内でも土岐頼純に毒茶(第2回>>)を振舞った道三が
「人のうえに立つ者は正直でなくてはならぬ」
と、まさに「おまいう」なセリフをのたまわっても、
すんなり感動しちゃうくらい良い場面でした。
(↑これは皮肉ではなく本当に…)

ただ、以前も道三は、スゴイ感動するような事を光秀に言ってたけど(第7回かな?>>)
今回も、「なんでソレを息子に言わんの?」と、ちょっと思っちゃいました。

その考えを、ちゃんと高政に伝えていたら、もうチョイ良い展開になったような気がしますが・・・アッと、それじゃ長良川で対決せんわな~と、自分で言ってて自分で納得・・・

に、しても、今週の長谷川光秀ちゃん・・・
さすがに、今回は主役らしく
「敵は、高政様!」
と言い放って出陣していきましたが、以前、高政さん相手に「土岐頼芸様に取り次いでくれるなら、お前の言う事は何でも聴く」てな、「だから言わんこっちゃない」的な無謀な約束(第11回かな?>>)をした話はどうなった?
アレ以来、何一つ高政さんの言う事聴いてないけど、大丈夫なんかいな?
気になる~

気になると言えば、先週(第15回>>)ご活躍の信長父ちゃんの弟=木下ほうか信光さん・・・

今週の雰囲気を見る限りでは来週は、いよいよ長良川で対決する(4月20日参照>>)んですよね?

長良川より前に・・・てか、高政の弟二人殺害(10月22日参照>>)の1ヶ月後に信光さん亡くなっちゃってます(11月26日参照>>)が、そこはスルーなんですかね?
それとも、これからなのかしら?
(これからかも知れないので、あまり突っ込まないでおきます)

ところで、今回の最初の方にあった染谷信長川口帰蝶姫『古今和歌集』のくだりは、何か意味があるのでしょうか?

アレって
♪冬ながら 空より花の 散りくるは
 雲のあなたは 春にやあるらむ  ♪
「冬なのに空から花が散って来るのは、雲の向こうは、もう春なんだろうか?」
の歌ですよね?

戦の行方の話の後に、わざわざ一首の歌を出し、信長に、戦の行方と同じ「わからん」のセリフを言わせる・・・

確か、あの歌の前には
清原深養父(きよはらのふかやぶ=清少納言の曾祖父)という詠んだ人の名前と
『雪の降りけるをよみける』=(雪が降った事を詠んだ)
という詞書(ことばがき・説明文)がついていたはず・・・

本を手に取って見てるんですから、当然、その詞書も見てますよね?
それを、これまた、わざわざ帰蝶姫に
「雪を花に例えてるんです!」
と説明させるんですから、
「何かの伏線では?」
と、つい勘ぐってしまいます。

あ~モヤモヤする。。。
何か、解った方、教えてくださいませm(_ _)m

とまぁ、今回は、ちょっと重箱の隅を突くようなツッコミをさせていただきましたが、本木道三の名場面で感動したように、今週も、楽しく拝見させていただきました。

来週は、いよいよ長良川の戦い>>
そして、
そこで道三側についた事によって、高政からの報復で明智城が落城>>
という、前半戦最高の盛り上がりとなるはずですので、期待大ですね!
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