2019年1月27日 (日)

三木×広瀬×牛丸×江馬~戦国飛騨の生き残り作戦

天正十一年(1583年)1月27日、三木&広瀬の連合軍が、牛丸親綱小鷹利城を攻撃しました。

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飛騨(ひだ=岐阜県北部)大野(おおの=岐阜県北西部)を本領とし、小鷹利城(こたかりじょう=岐阜県飛騨市河合町)を居城とする牛丸(うしまる)は、一説に平氏の流れを汲むとする古くからの名族でしたが、隣接する吉城(よしき=岐阜県北東部)を本領とする高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)江馬(えま)も、同じく平氏の流れを汲む名門で、これまで両者の間には少なからずのぶつかりがありました。

さらに室町時代頃になると、そこに、京極(きょうごく)の一族で益田(ました=岐阜県中東部)に拠点を持ち鍋山城(なべやまじょう=岐阜県高山市松ノ木)を居城とする三木(みき)、飛騨国府(こくふ=岐阜県高山市周辺)高堂城(たかどうじょう=岐阜県高山市国府町)を居城とする広瀬(ひろせ)も台頭して来ます。

やがて、室町幕府の力が衰え始めた戦国の世になると、上杉謙信(うえすぎけんしん)越後(えちご=新潟県)と、武田信玄(たけだしんげん)甲斐(かい=山梨県)、という大物の地に挟まれた形となる飛騨一帯の武将は、常に、この大物たちの動向に左右されつつ、この戦国の世を生き抜いていく事になります。

そんな中、飛騨南部に勢力を伸ばし始めた三木氏の三木自綱(みつきよりつな)は、南北朝時代から飛騨の国司であった姉小路(あねのこうじ)の名跡を乗っ取って姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)と名を改め、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じての上洛(9月7日参照>>)を果たして上り調子の尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に近づいて信長の奥さん=(のう)の妹を娶って親族となり、その力を借りて飛騨統一せんが勢いを見せ始めます。

ただ、天正四年(1576年)に、それを脅威に感じた大野郡の国人=塩屋秋貞(しおやあきさだ)の要請によって駆け付けた上杉謙信に攻められ、頼綱は降伏して(8月4日参照>>)、その傘下となるのですが、ご存知のように、その後、ほどなくして謙信が亡くなり(3月13日参照>>)、上杉家は後継者争いで飛騨云々言ってる場合じゃなくなってしまう(3月17日参照>>)わけで・・・

その後、天正六年(1578年)の月岡野(富山市上栄周辺)の戦い(10月4日参照>>)にも信長側親族として参戦して上杉に勝利し、ますます勢いづく頼綱は、新たに松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山松倉町)を構築(築城年数には諸説あり)して、そこに拠点を移します。

この頼綱の行動に脅威を感じたのが、先の高堂城から広瀬城(ひろせじょう=同高山市国府町)に拠点を移していた広瀬氏の広瀬宗域(ひろせむねくに)でした。

頼綱と宗域は、かつてはともに天神山城(てんじんやまじょう=岐阜県高山市八軒町・現在の高山城)高山外記(こうやまげき)を倒す等、連合を組んでいた時もありましたが、一方で織田に近づく頼綱に対して、宗域は信玄によしみを通じて敵意を見せた事もあり・・・

しかし、ご存知の通り、大黒柱の信玄を失った(4月16日参照>>)武田は、天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)の戦い(5月21日参照>>)で織田&徳川家康(とくがわいえやす)連合軍に敗れるなど、ここに来て少々分が悪い・・・

そこで宗域は、頼綱の三木氏と政略的婚姻関係を結んで一方の脅威を取り除き、その一方で、これまで懇意にしていた牛丸親綱(うしまるちかつな)小鷹利城を攻め、牛丸氏の名跡を奪おうと考えます。

天正八年(1580年)10月、家臣の磯村(いそむら)長十郎らに200の兵をつけて小鷹利城へと差し向けました。

迎える牛丸側も一族を中心にした200余名の兵を出陣させ、両者は古川(ふるかわ=岐阜県飛驒市古川町)付近でぶつかり合戦に至りましたが、なかなかに両者の戦力は互角・・・小競り合いがあるものの決着がつかなかった事から、翌天正九年(1581年)になって和平の話が進み、両者ともに兵を撤退させて、広瀬×牛丸は和睦の運びとなりました。

こうしてしばらくの平穏がおとずれますが、ここに来て時代の転換期が・・・

そう、翌天正十年(1582年)3月には、あの武田が滅び(3月11日参照>>)、その3ヶ月後の6月には、武田を滅亡させた信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)・・・と、戦国の勢力図が目まぐるしく変わります。

このゴタゴタを見逃さなかったのが綾小路頼綱と広瀬宗域、そして牛丸親綱も・・・

この三者が連合を組んで、これまで何かと目障りだった名門家=江馬氏の江馬輝盛(えまてるもり)をぶっ潰して、飛騨の覇権を抑えてしまおうと画策したのです。

それは、本能寺から約5ヶ月後の10月下旬・・・飛騨での覇権争いであった事から、後に「飛騨の関ヶ原」とも呼ばれる八日町(ようかまち=岐阜県高山市国府町八日町)の戦いですが、戦いの詳細については、いずれ、その日に書かせていただくとして、

一説には、連合軍1000に対して絵馬勢はわずか300騎だったとも言われ、多勢に無勢ゆえか、この戦いで江馬輝盛は討死し、絵馬氏は滅亡します。

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●↑戦国飛騨周辺の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところが、一方で、この頃から、その威勢に衰えが見え始めた牛丸氏・・・これをチャンスと見た綾小路頼綱と広瀬宗域は、天正十一年(1583年)1月27日、再び連合を組み、大軍を擁して小鷹利城を攻めたのです。

懇意にしていた両者に裏切られた牛丸親綱・・・特に広瀬宗域はわずかな間の2度めの裏切り。。。

なんとも悔しい思いが残る親綱でしたが、不意を突かれた事で城内は完全に準備不足・・・「このまま戦っても勝ち目はない」と踏んだ親綱は、その夜、城内のあちこちにかがり火を焚かせて、さも大勢がスタンバイしているように見せかけておいて、そのスキに、主だった者60余人が城を抜け出し越中(えっちゅう=富山県)目指して逃走を図ったのです。

これを知った広瀬&三木連合軍は、すぐさま追跡を開始し、角川(つのかわ=岐阜県飛騨市河合町)付近で激しい戦いとなりました。

牛丸側は24名を失うものの、親綱以下30余名が逃げ切り、何とか越中にたどり着いたものの、富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)断られ、さらに西へ・・・当時、越前(えちぜん=福井県東部)大野城(おおのじょう=福井県大野市)主であった金森長近(かなもりながちか)の下に逃げ込み、何とか生き延びました。

しかし、その翌年・・・酒宴と称して、広瀬宗域を自らの松倉城に招いた綾小路頼綱は、その宴の席で宗域を騙し討ちにし、広瀬城を奪い取ってしまうのです。

何とか難を逃れた宗域の嫡子=広瀬宗直(むねなお)は・・・そう、彼もまた越前の金森長近のもとへと逃げ込んだのです。

こうして、飛騨でひとり勝ちとなり、飛騨統一を果たした綾小路頼綱は、織田軍の旧北陸方面部隊であった柴田勝家(しばたかついえ)や、かの佐々成政と懇意な間柄になるわけですが、

天正十三年(1585年)、そこに乗り込んで来るのが、その柴田勝家を倒した後(4月21日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)です(8月29日参照>>)

この時に飛騨攻略を任されたのが金森長近(8月10日参照>>)・・・長近のもとで逃げ延びた牛丸親綱&広瀬宗直の部隊が、その恨み晴らすべく先頭となって戦い、大きな功績を挙げた事は言うまでもありません。

結局、佐々成政も綾小路頼綱も、秀吉の前に屈する事となり、飛騨国は金森長近が統治する事となったのです。

ちなみに、その後の牛丸親綱&広瀬宗直・・・

広瀬宗直は、金森長近の領国運営に反発して一揆を先導して追放されたようですが、牛丸親綱は、ずっと長近の配下として戦い、あの関ヶ原の前哨戦=郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)の戦い(9月1日参照>>)でも、やはり先頭に立って戦い、戦場の露と消えたのだとか・・・

にしても、今日のお話は、
メッチャ出演者が多かった(^-^;・・・まさに群雄割拠。。。生きるも死ぬも紙一重の世界です。
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2019年1月22日 (火)

美作三浦氏~尼子&毛利との高田城攻防戦の日々

天正三年(1575年)1月22日、浦上宗景に背いた宇喜多直家が三浦貞広との戦いに参戦しました。

今回は中国地方における群雄割拠の時代のお話・・・なので、敵が味方に、味方が敵に~と非常にややこしいですが、お許しを。。。m(_ _)m

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美作(みまさか=岡山県東北部・作州)高田城(たかだじょう=岡山県真庭市・勝山城とも)を治める美作三浦(みうら)は、あの源平の合戦で活躍する坂東平氏の三浦氏の庶流で、室町時代の初め頃に、この地の領主となった三浦貞宗(みうらさだむね)なる人物が高田城を構築したとされますが、そのあたりの事は記録が乏しく、よくわかっていません。

この戦国の頃には三浦貞久(みうらさだひさ)が当主を務め、小さいながらも高田城にて当地を治めていましたが、一方で、出雲(いずも=島根県東部)守護代から、応仁の乱後のゴタゴタでのし上がり、実力で出雲の支配権を握って、さらに領地拡大に勤しむ月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)尼子(あまご)(7月10日参照>>)から度々の侵攻を受けていたのです。

当時の尼子の当主は尼子晴久(あまごはるひさ)・・・天文十三年(1544年)には、伯耆(ほうき=島根県中部)因幡(いなば=島根県東部)を攻略した晴久が、さらに美作へと侵攻し、配下の宇山久信(うやまひさのぶ)に高田城を攻めさせましたが、この時は貞久の見事な反撃によって、城を守り抜きました。

しかし天文十七年(1548年)、その貞久が病死してしまいます。

これをチャンスと見た尼子晴久が、間髪入れずに再び宇山久信を美作へ派遣し、三浦の支城を次々と攻略して高田城へと迫ります。

残念ながら、この時は多くの死者を出す激戦の末、高田城は陥落・・・父=貞久の後を継いでいた次男の三浦貞勝(さだかつ)備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)を頼って落ちて行きました。

もちろん、このままでは収まらない三浦貞勝は、永禄二年(1559年)、旧臣たちを集めて再起を図ります。

Mourimotonari600 そう・・・それは、去る弘治元年(1555年)の厳島(いつくしま)の戦い(10月1日参照>>)後に、西国の雄=周防(すおう=山口県東南部)大内(おおうち)を滅亡させて頭角を現して来た安芸(あき=広島県)吉田郡山城(よしだこおりやまじょう=広島県安芸高田市)を拠点とする毛利元就(もうりもとなり)が、その矛先を尼子氏に向けた、その間を縫っての奪回作戦の決行でした。

しばらくの安寧に油断していた宇山久信に対し、ヤル気満々の三浦勢は増水した川に馬ごと乗り入れての決死の猛攻・・・「分が悪い」と判断した宇山久信が、まともな戦いを避けて高田城から撤退した事で、三浦貞勝はなんなく入城を果たせました。

しかし、安心はできません・・・そう、暮れ行く尼子に代わって上り調子の毛利が、高田城に手を出して来たのです。

すでに永禄二年(1559年)の時点で毛利の傘下となっていた成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)は、美作に侵攻した永禄八年(1565年)、高田城への攻撃を開始・・・1ヶ月に渡る攻防戦の末に高田城は落城し、三浦貞勝も、城を脱出したものの、逃走中に自刃して果てました。

城主のいなくなった高田城には、毛利配下の武将=牛尾久盛(うしおひさもり)が入り、城は毛利の物となったのです。

ところが、その翌年の永禄九年(1566年)、かの三村家親が浦上配下の宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺され、その混乱に乗じた三浦勢は、先代=三浦貞久の末弟にあたる三浦貞盛(さだもり)を大将に押し立てて高田城を奪回します。

とは言え、もちろん、この状況を毛利元就が許すはずもなく、ほどなく、配下の杉原盛重(すぎはらもりしげ)を投入して高田城奪回に動きます。

この時、ちょうど三浦方では、城主=貞盛の甥にあたる三浦貞広(さだひろ=貞久の長男)が主力部隊を率いて備中(びっちゅう=岡山県西部)に出陣中であったため高田城の守りは手薄・・・少ない城兵で何とか抵抗するも、力尽きた貞盛は 永禄十一年(1568年)2月19日に自刃し、またもや高田城は毛利の手に落ちました。

Yamanakasikanosuke500 しかし、またまた立ち上がる三浦勢・・・実は、上記の高田城攻防戦の真っただ中の永禄九年(1566年)、あの尼子氏が居城の月山富田城を開城し(11月28日参照>>)、当主の尼子義久(よしひさ=晴久の息子)とその弟たちが毛利の手で幽閉の身となった事で、事実上の滅亡状態となっていたのですが、尼子家臣の山中幸盛(ゆきもり=鹿介)が、尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を当主と仰ぎ、月山富田城奪回&尼子再興を目指し、毛利相手に各地を転戦し始めていたのです(7月17日参照>>)

永禄十二年(1569年)になって、その尼子再興軍が美作にやって来た時、三浦の遺臣たちは、この尼子再興軍に同調し、そのドサクサで高田城を奪回しようと蜂起・・・その年の7月に、同じように尼子に与する宇喜多直家らの援助を受けて、約4000となった三浦勢が高田城を囲みます。

一方、この時の高田城を守るのは、毛利から派遣されていた香川光景(かがわみつかげ)父子ら約500騎・・・7月に始まった戦闘が、ますます激しくなって来た10月頃には、高田城内にいた旧尼子家臣の内応もあり、いち時は窮地に立たされる毛利勢でしたが、光景父子の奮戦により何とか敵勢の城内への侵入を防いでいました。

やがて年が明けた元亀元年(1570年)、ここに来ても小競り合いが続いていましたが、宇喜多勢が備中への出陣のため高田城の包囲から退去・・・ここで備前からの援軍が去ってしまった三浦遺臣勢は、かの山中幸盛に援助を依頼し、その尼子再興軍の力を借りて、元亀元年(1570年)の10月、何とか高田城を奪回して亡き貞盛の甥=三浦貞広を城主としました。

ようやく居城を取り戻して一安心・・・と行きたいところですが、当然、毛利からの攻撃の危険は常にあるわけで・・・

元亀二年(1571年)には御大=元就を失う毛利ですが、ご存知のように、その後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと=元就の息子・隆元の子)を、毛利の両川と呼ばれた元就の息子たち(つまり輝元の叔父)吉川元春(きっかわもとはる)小早川隆景(こばやかわたかかげ)が見事サポートして、高田城への攻撃に手を緩める事はありません。

しかも、ここに来て、あの宇喜多直家が主家の浦上からの独立を画策して毛利との講和を成立させます。

となると、三浦への援軍どころか、敵対関係になってしまったわけで・・・

そんな中、毛利は、天正元年(1573年)から徐々に版図を広げて高田城周辺へと迫り、翌・天正二年(1574年)には宮山城(みややまじょう=岡山県真庭市)を攻め立てます。

しかも、この翌年の天正三年(1575年)1月22日、ここに浦上に背く宇喜多直家が参戦して来たのです。

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美作三浦氏をめぐる位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この頃、久世(くせ=同真庭市)から駆け付けた寺畑城(てらはたじょう)城主で三浦家臣の牧菅兵衛(まきかんべえ)が、得意の夜襲で以って、宇喜多配下の伊賀久隆(いがひさたか=直家の妹婿)の守る槇山城(まきやまじょう=同真庭市・真木山城とも)を奪い取り、何とか要地を守ったと言いますが、それでも毛利勢の侵攻は止まらず・・・やがて、その寺畑城も猛攻を受け、いつしか、三浦の傘下となっている諸城がことごとく攻撃される状況に至って、天正四年(1576年)5月、ついに三浦貞広は降伏し、高田城は毛利軍の手に渡りました。

降伏宣言によって貞広の命こそ助かったものの、事実上の滅亡となった美作三浦氏は、配下の牧氏とともに、これ以降は宇喜多の配下として生きていく事に・・・

また、ほぼ同時進行で行われていた備中兵乱(びっちゅうひょうらん)で毛利に敵対していた三村元親(もとちか=家親の息子)(6月2日参照>>)、天神山城の戦いで浦上宗景が敗れた事により、勝利した毛利は、この中国地方において、もはや敵無しの状態になったわけです。

そこに、遥か東からやって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)(10月23日参照>>)・・・

そして、毛利に遺恨を持つ浦上や尼子残党の山中幸盛・・・果ては宇喜多直家までが、やがては織田傘下になる一方で、毛利は信長と敵対する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を援助する(7月13日参照>>)・・・という時代劇でお馴染みの場面へと展開していきます。
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2019年1月15日 (火)

死ぬまで続いた信長と家康の清須同盟

永禄五年(1562年)1月15日、織田信長と徳川家康が清洲城にて会見し、『清洲同盟(清須同盟)を締結させました。

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永禄三年(1560年)5月19日、海道一の弓取りと称され、この時点で最も天下に近いと思われていた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を支配する今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)奇襲を受けて命を落とします・・・ご存知、桶狭間(おけはざま)の戦いです(2015年5月19日参照>>)

Tokugawaieyasu600 この時、幼い頃に今川に人質に出されて(8月2日参照>>)、そのまま成長した事で、今川方の一人として義元の行軍に参加していた徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)は、守っていた今川兵が逃げ出してカラになっていた岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に入り、その後、念願の独立を果たします(2008年5月19日参照>>)

岡崎城は、もともと享禄二年(1529年)に三河(みかわ=愛知県東部)を統一した松平清康(まつだいらきよやす=家康の祖父)の居城でしたが(12月5日参照>>)、その後の家臣の離反等で亡命を余儀なくされた松平広忠(ひろただ=家康の父)が、強大な力を持つ今川義元に息子=家康を人質に出して傘下となった事で、事実上、今川の城となっていましたが、今回の主君義元=の死を受けて守備兵が逃げて空っぽになっていたので、そこに家康が入ったというワケです。

で、独立したからには「少しでも領地を増やしたい!」とばかりに、三河に在する今川傘下の勢力に敵対する家康ですが、父の死を受けて今川家を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)は、当然、この家康の態度に激おこなわけで・・・

そこで、東のアンチャンが怒ってるなら、西のアンチャンを味方にしておかねば!とばかりに、家康は、この独立の間もなくから、配下の石川数正(いしかわかずまさ)を信長のもとに派遣して同盟の模索に取り掛かります。

Odanobunaga400a 一方の信長も、義元を殺っちゃった以上、当然、今川は1番の敵になるわけですが、この時点では尾張統一さえ果たしていない駆け出しだし、どっちかと言うと、今、盛んにドンパチやってる(5月14日参照>>)北の隣国=美濃(みの=岐阜県部)斎藤龍興(さいとうたつおき=斎藤道三の孫)との戦いに集注したいぶん、今川の領地と尾張の間に位置する三河の家康は味方につけておきたいわけで・・・で、コッチも、家康の母方の叔父で織田家と同盟を結んでいる水野信元(みずののぶもと)を派遣して家康との同盟交渉に当たらせました。

双方の殿様が同盟に前向きなワリには、正式な同盟締結まで、しばらくの歳月が流れたのには、やはり、これまでの両者の関係・・・上記の通り、これまでの家康は今川の傘下であり、信長の織田家は、その今川と敵対していたわけですから、配下の重臣たちがなかなか賛同せず、現に、桶狭間直後は、少なからずの小競り合いも、両者の間には勃発しています。

しかしながら、やがて、桶狭間から2年が過ぎた永禄五年(1562年)1月15日、家康が信長の居城である清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)に赴いて、会見をし、顔と顔を突き合わせての正式な同盟が結ばれるのです。

よって、この同盟は、結ばれたその場所をとって一般的には『清洲同盟(清須同盟)と呼ばれます。
『織徳同盟(しょくとくどうめい)あるいは『尾三同盟(びさんどうめい)とも呼ばれます)

そして、この清洲同盟は、信長が本能寺にて倒れる天正十年(1582年)まで(2015年6月2日参照>>)、 1度も破綻する事無く20年の長きに渡って・・・というよりも、信長が亡くなったからこそウヤムヤになったのですから、言い方としては最後まで破棄される事なく(生きてる間は)継続されたままだった同盟という事になります。

個人的な印象ではありますが、意外に信長さんって(相手が家康だからに限らず)、相手が完全に敵に回らない限り、簡単に同盟を破棄しない人だったように思いますね~。

それに関連して、この同盟の力関係についても、個人的に思うところがあります。

一般的には、
「この同盟が20年の長きに渡って破られる事は無かった」
と言っても、それは
「信長の無理難題に対して、忍耐力のある家康が耐えに耐えていたからこそ」
という風に思われがち・・・つまり、同盟とは言え、信長の力が強く、家康とは主従関係に近かったのでは?と。。。

現に、ドラマや小説等には、そんな感じで描かれ、時には、家康が豊臣秀吉(とよとみひでよし=信長配下の時代は羽柴秀吉)明智光秀(あけちみつひで)らと同等に並んでる風に、見ている側が錯覚してしまうように描かれる事すら、しばしばです。

しかし、秀吉と光秀は信長の家臣ですが、家康は同盟者・・・それも、私としては、上記のような主従に近い、あるいは人質を出しての臣従のような同盟ではなく、おそらくは同等の同盟者だったと思っています。

それを、信長と家康の間に上下関係があるように感じてしまう1番の要因は、例の家康が息子の信康(のぶやす)を自刃に追い込んだ事件(信康自刃は信長の命令だったとされる)ですが、以前から、このブログに書かせていただいているように、私としてははアレは徳川家の内部分裂だと考えております。
参照ページ↓
●信康・自刃のキーマン…信長の娘・徳姫>>
●築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!>>
●なぜ家康は信康を殺さねばならなかったのか?>>

しかし、結果的に最大の汚点(=息子殺し)となるこの一件を、後世(江戸時代)の人たちが「神君と崇める家康公が行った事にはできない」と考え、悪く言えば「死人に口なし」で「信長の命令だった」事にしておきたかったのではないか?と・・・

もちろん、20年の間ずっと両者に上下関係がまったく無かったか?と言えば、それはそれで違う気もしますが、少なくとも、同盟を結んだ直後は同等であったと思います。

なんせ、上記の通り・・・同盟を結んだ時は家康は独立したばかりですが、信長だって未だ尾張すら統一ない状況でしたからね。

ただ、その後、この永禄五年(1562年)の11月に尾張統一を果たした(11月1日参照>>)信長は、永禄十年(1567年)8月に稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させて美濃を手に入れ(8月15日参照>>)、稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう)と改めて「天下布武(てんかふぶ)」のハンコを使いはじめ、翌永禄十一年(1568年)9月には、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)わけで・・・

とは言え、この上洛の寸前まで、かの義昭は「もっと大物はおらんのか?」と、自分を奉じて上洛してくれる武将を模索していた(10月4日参照>>)くらい、信長は、まだ大物途上の役者不足だったわけですが、この上洛の際に、近江(おうみ=滋賀県)の覇者であった六角承禎(じょうてい・義堅)を破り(9月13日参照>>)、第14代将軍の足利義栄(よしひで=義昭の従兄弟)を奉じて畿内を牛耳っていた三好三人衆三好長逸・三好政康・石成友通)を破った(9月28日参照>>)事、また、敗れた三好三人衆とともに京都を去った義栄に代わって、信長が無事に連れて来た義昭が第15代将軍になった(10月18日参照>>)事で、信長は朝廷にも一目置かれる大出世となったわけで、ここらあたりでやっと信長と家康との力の差が明確になったように思います。

ただ、力の差はできても、同盟者として、その信頼関係が揺らぐ事は無かったんでしょうね。

なんせ、このすぐ後に始まる今川滅亡への道で、12月12日の薩埵峠(さつたとうげ)の戦い(12月12日参照>>)、翌日の今川館の攻防戦(12月13日参照>>)、そして12月27日から始まる掛川城攻防戦(12月27日参照>>)・・・と、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)との見事な連携プレーで、家康は今川を滅亡に追い込んでいます。

『浜松御在城記』によれば、この時、「大井川を境として、東の駿河は武田、西の遠江(とおとうみ=静岡県西部)は徳川クンが切り取ったらえぇ」と呼びかけて信玄と家康の仲を取り持ったのが信長と言われています。

つまり、信長にしてみれば「今川はお前(家康)に任したゾ」って事ですよね?
メッチャ信頼してますやん。

この後も、家康はあの姉川の戦い(6月28日参照>>)にも参戦し、共通の敵である武田にはタッグを組んで戦う事になる
【三方ヶ原の戦い】>>
【長篠の戦い】>>
【武田滅亡~天目山の戦い】>>
と来ますが・・・

有名な本能寺直前の、あの安土城(あつちじょう=滋賀県近江八幡市)での饗応の時にも、信長の方は自ら家康に酌をして(臣下ではない)同盟者アピール」してますが、一方の家康は、この頃には、少し思う所があったかも知れません。

というのも、上記の武田の滅亡・・・確かに、武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)の本拠地=甲斐深く攻め込んで引導を渡したのは信長ですが、長篠から滅亡までの7年間、家康はかなり頑張って遠江に点在する武田の城を奪っています(8月24日参照>>)

しかし、武田滅亡後の論功行賞(3月24日参照>>)では、他の信長の家臣たちとともに、家康が「信長から駿河を賜る」という感じに受け取れます。
(まぁ、同じ独立大名の木曾義昌(きそよしまさ)も、同様に信濃木曽谷2郡を賜ってるので、それが普通だったのかも知れませんが)

しかも、その直後、岐阜へと戻る信長の接待役(4月4日参照>>)・・・(ま、これも、その心の内は何とも言えませんが…)

ただ、本能寺後の家康の素早さを見る限り、やはり、この同盟関係・・・信長は何とも思って無かったかも知れませんが、家康の方には腹に一物あったかも感が匂いますね。

もちろん、力の差が歴然として「同盟関係が上下関係になってて腹立つ!」てな、子供じみた思いではなく、「チャンスが来たら、その時は同盟もクソも無いゾ!」的な、戦国武将らしい一物です。

なんせ、この本能寺の後、決死の伊賀越え(2007年6月2日参照>>)で三河に戻った家康は、3か月後に行われた清須会議(6月23日参照>>)をよそに、完全に甲斐を取りに行ってる感あります。
【河尻秀隆の死】>>
【天正壬午の乱】>>

もちろん、この家康の行動は、あくまで「信長が本能寺で亡くなったからこそ」の行動で、もし本能寺の変が無かったら、もっと長く同盟関係は続いていたのではないか?と思いますが・・・

ちなみに、
一説には、本能寺の変の原因は
「武田が滅亡した事で家康との同盟が不要になった信長が、家康を暗殺しようと企んだのを、光秀がそれを逆手に取って、家康と組んで信長を討った」
なんて話もありますが、以前も書かせていただいたように、私としては、その可能性は、かなり低いと考えております。

なんせ上記の天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)を見る限り、武田滅亡の後に信長横死となれば、その旧領を上杉と北条が間髪入れず取りに来てますから。

当然ですが、それは「機会あらばすぐにでも攻め入ってやる」という気持ちが上杉や北条にもあったわけで・・・
本能寺の当時、西の毛利を攻め、四国への出兵準備をしていた信長にとって、そのまま順調に行ったなら、背後の彼ら(上杉&北条)東の盾となってくれるであろう家康の存在は大切なはず・・・あの信長が上杉と北条の脅威を察知していないなんて事は考え難いですからね。
(まぁ実際には信長が死んでるので家康もそこに参戦したわけですが…)

て事は、ひょっとしたら、天正壬午の三つ巴は、生前の約束通り、織田の物となった旧武田の領地を、家康が上杉と北条から守ろうとした?という事も考えられなくも無いですが、先の河尻秀隆(かわじりひでたか)死亡の件や乱を収める和睦の条件が「双方切り取り次第」なとこなんかを見ても、やっぱ取りに行ってる感が拭えません。

まぁ、お互い戦略に長けた戦国武将ですから、また別の展開があって、何等かのチャンス的な物が訪れたならわかりませんが、少なくとも、信長と家康にとってお互いの利害が一致している間は、まだまだこの同盟は続いていたはずだと考えております。
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2019年1月10日 (木)

浅井久政の菖蒲嶽城の戦い~今井定清の将・島秀宣の勇姿

天文二十一年(1552年)1月10日、浅井久政今井定清の守る菖蒲嶽城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・・

鎌倉の時代より、宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角氏(ろっかくし)と、同じく佐々木氏の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)が南北の支配を固めていた近江の地でしたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)のさ中に起こった京極家内の後継者争い(8月7日参照>>)によって弱った主家に代わって、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)が力をつけていくのです。

その京極の様子を、同じ佐々木氏の流れを汲む者として快く思わない六角定頼(ろっかくさだより)が亮政と敵対・・・そこに、前管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)養子たちの間で勃発した後継者争い(2月13日参照>>)が絡んで、両者が戦う事になったのが享禄四年(1531年)4月の箕浦(みのうら=滋賀県米原市)合戦(4月6日参照>>)でした。

Syoubudakezyounotatakai ●←菖蒲嶽城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この戦いは一応の六角勝利となりますが、かと言って浅井側にも、それほどのダメージは無く、その後も坂田郡(さかたぐん=現在の米原市付近)以南を六角氏が、以北を京極氏と事実上の実権を握った浅井がその勢力圏を維持していたので、両勢力の境界線あたりにある諸城に対して六角定頼は、浅井に従わう事をヨシとせず六角に流れて来た旧京極の家臣などを配置して警戒に当たらせていたのです。

そんな中、天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて、息子の浅井久政(ひさまさ)の時代となりますが、その頃には、先の管領家=細川の後継者争いも、すでに細川晴元(はるもと=政元の養子・澄元の子)がほぼ勝利を治めた状況となっていました。

その後、天文十六年(1547年)頃から・・・今度は、その晴元勝利に貢献した三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と晴元が敵対した(9月14日参照>>)ため、定頼の娘が晴元に嫁いでいた縁で六角氏は度々、晴元の加勢として出兵する事になるのですが、

天文十八年(1549年)6月の江口の戦い(6月24日参照>>)は、三好勢の完全勝利となり、晴元は近江坂本へと身を潜める事に・・・

で、この度々の六角出陣の忙しさをチャンスと見た浅井久政は、天文十九年から二十年にかけて、今は六角氏に臣従している元京極氏だった諸将に誘いをかけ、寝返り工作に勤しむのです。

その寝返り工作をかけたうちの一人が、菖蒲嶽城(菖蒲岳城・しょうぶだけじょう=滋賀県彦根市)今井定清(いまいさだきよ)でした。

この今井氏は、近江の国人から京極家の重臣となった家柄でしたが、例の京極家のお家騒動の中の京極高清(きょうごくたかきよ)息子同士による争いで、はじめは次男を推す六角についていたものの、嫡男を推す浅井に合戦で負けたために浅井支持に回った事で六角の怒りをかって攻められ、当時、今井の当主であった今井秀俊(ひでとし)が自刃・・・

その時、未だ幼少だった秀俊の息子の定清が、その後、六角定頼の庇護のもとに成長した事から、この時、浅井との境界線となる菖蒲嶽城を、その盾となるべく任されていたのでした。

とは言え、コレって・・・
「六角定頼の庇護のもとに成長」←って事は、その間の生活は定清にとっては肩身の狭い生活だったのでは?っと想像してしまいます~(あくまで個人の憶測ですが)定清にとって六角定頼は父の仇なわけですから・・・

おそらくは、そんな境遇に置かれた戦国武将の誰もが夢見るように、彼もまた、独立=一国一城の主になる事を夢見ていたのでしょうか?

『嶋記録』によれば、この菖蒲嶽城は「この時期に定清自身が六角氏に願い出て築城した城」だとされ、それも、わずか2歳の息子を六角氏への人質として観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)へと送るという誠意を見せる事で、天文十三年(1544年)に、その築城を許されたの事。

とにもかくにも、そんなこんなの天文二十年(1551年)5月・・・浅井久政は、今井方の家臣=島秀宣(しまひでのぶ)を通じて浅井方に寝返るよう説得します。

もちろん今井定清は悩みます・・・上記の通り、可愛い息子を人質に出してますから・・・しかし、秀宣は、定清にとって宿将(しゅくしょう=経験に富んだ優れた武将)の中の宿将。。。定清は信頼する秀宣の進言を聞いて、浅井方につく事を決意するのです。

ところが、なぜか、そんな今井の動向が、浅井方には
「浅井の意向を受け入れず、今井は六角に味方するようだ」
と、間違って伝わってしまうのです。

かくして天文二十一年(1552年)1月10日、その誤報をマジに受け取った浅井久政は、突如出兵して菖蒲嶽城を攻めたのです。

予想していなかった攻撃を受けた菖蒲嶽城では、慌てて、島秀宣以下島一族が大手門で防戦する一方で、今井一族の井戸村清光(いどむらきよみつ)井戸村与三郎(よさぶろう)兄弟も、すぐさま救援に駆け付けて戦いますが、準備不足もあってか?苦戦を強いられ、与三郎は討死・・・清光も数か所の深手を負ってしまいます。

そんな中、どうしても、この浅井からの攻撃に納得いかない島秀宣・・・なんせ、大事な嫡子を危険にさらしてまで浅井の味方になったのですから・・・

そこで、やにわに前に進み出た秀宣は、浅井方に向かって大声で呼びかけます。

「この攻撃は、いかなる理由によるものか?」
と・・・

すると、当然、浅井方からは
「そちらが六角についたとの知らせを受けたので…」
との返答。

それを聞いた秀宣・・・
「それは誰かの讒言だと思う…もし、今井定清が六角に通じているのが事実ならば、俺はこの場で割腹して謝罪する!」
と強く言い放ちました。

堂々とした秀宣の姿に、その言葉を信じた浅井方が速やかに兵を退いていったので、両者ともに、かなりの犠牲者を出しはしたものの、戦いそのものは、すぐに収まってという事です。

とは言え、結局、その後に六角氏の威力に負けた浅井久政が、六角の傘下に入ってしまった事から、それに不満を持つ家臣と息子の浅井長政(ながまさ)が家内クーデターを決行したあげく、永禄三年(1560年)の野良田(のらだ=滋賀県彦根市)の戦いで、六角定頼の息子=六角義賢(よしかた=承禎 )に勝利して、浅井家が独立を果たすわけで・・・

つまり、主家である京極家をしのぐ勢いにまで浅井を押し上げた父=浅井亮政と、六角から独立してやがては北近江の覇権を手に入れる息子=浅井長政に挟まれるという展開で、何かと愚将扱いされるのが今回の浅井久政さん・・・

ただ、この時期の六角氏には勢いがあり、臣従しない=敵側に回っていたとすれば、そこで浅井は滅亡していた可能性もあるわけで・・・

「ヤバイ」と思ったら、おとなしく傘下に入って生き残りを図っておいて、その「時を待つ」というのも、戦国の一つの生き方かも知れませんので、一概に愚将とは言えないかも・・・ですね。
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2018年12月 5日 (水)

家康の祖父・松平清康殺害「森山崩れ」と井田野の戦い

天文四年(1535年)12月5日、徳川家康の祖父である松平清康が殺害された森山崩れがありました。

・・・・・・・・・・・

松平清康(まつだいらきよやす)は、あの徳川家康(とくがわいえやす)のお祖父ちゃん・・・安祥(あんじょう=愛知県安城市)松平の2代目で松平宗家6代目だった父=松平信忠(のぶただ)が、隣国=駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)からの攻撃を受けて、うまく松平家内を統率できずにいたため、わずか13歳で家督を継ぎ、以後、祖父(つまり信忠の父)松平長親(ながちか)らの後見のもと、三河(みかわ=愛知県東部)統一に向けて走り始めます。

Matudairakiyoyasu700a 大永六年(1526年)に、これまで代々の居城であった安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市)から、2年前に奪った岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に拠点を移してからは、城下町を整備して、現在の岡崎につながる町の発展&基礎を築きつつ、三河の諸城を攻め取り、国内の国衆を服属させていきます。

この頃から、清和源氏(せいわげんじ)新田(にった)の一門である徳川の庶流=世良田(せらた)姓を名乗り始めたようで、これが後に家康が松平から徳川に改姓する(12月29日参照>>)根拠となっているのですが・・・

とにもかくにも、西に東に軍を進めて快進撃を果たした清康は、享禄二年(1529年)11月、念願の三河統一を果たしますが、もちろん、ここで終わりはしません。

翌・享禄三年(1530年)には隣国=尾張(おわり=愛知県西部)に出兵して諸戦を展開・・・そしていよいよ天文四年(1535年)12月に、当時は清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めたのです。

ところが、その陣中にあった天文四年(1535年)12月5日、突如、家臣の阿部正豊(あべまさとよ)によって、未だ25歳の若さで清康は斬殺されてしまうのです。

これは組織的な裏切りや謀反ではなく、正豊が、彼の父である阿部定吉(さだよし)が清康から謀反の疑いをかけられて誅殺されたとの間違った噂を信じ込んで勘違いのまま「父の仇討ち」を決行してしまった結果だったと言われています。

この事件は、その起こった場所をとって「森山崩れ(もりやまくずれ=守山崩れ)と呼ばれますが、この阿部定吉という人は清康に仕えていた忠臣で、上記の通りの「間違った噂」ですから、当然、定吉は死んでませんし、謀反の疑いもかけられてはいません。

むしろ息子の行動を知った定吉は、すぐさま現場に駆け付けて、自らの手で息子を成敗し、その責任をとって自身も切腹しようとしますが、周囲に諭されて思いとどまります。

Ieyasukeizu2 何といっても、清康の嫡男である松平広忠(ひろただ=つまり家康の父)に、
「今後は、その命かけて俺を盛り立ててくれ」
と言われた事が大きかった・・・

その約束通り、以後の定吉は、松平家の危うさに多くの家臣が離反しても決して広忠の側を離れず、叔父の松平信定(のぶさだ)松平信孝(のぶたか)兄弟が結託して岡崎城を占拠した時に(8月27日参照>>)、命からがら逃げだした亡命先でも苦楽をともにして助けました。

また、この時期に駿河の今川義元(いまがわよしもと)傘下となる事を広忠に進言したのも定吉だったとされます。

それは、結果的には、未だ幼き息子=家康に長きに渡る人質生活を送らせる(8月2日参照>>)事にはなりますが、1番危ういこの時期に、お家が潰れる事もなく、曲がりなりにも独立を保ちながら、後に義元の死をキッカケに再び岡崎に戻った家康が(5月12日参照>>)最終的に天下を取ることになるのも、この時の定吉の進言あればこそなわけです。

そんなこんなで閑話休題、
お話を「森山崩れ」の直後に戻しますが・・・

今回の清康の死を絶好のチャンスととらえたのが織田信秀・・・森山崩れから10日もしないうちに、兵を率いて三河に駒を進めて来たのです。。。。井田野(いだの・井田)の戦いです。

『三河物語』によれば、
「森山崩れシテ十日モ過ザルニ 小田(織田)之弾正之中(忠) 三河エ打出 大拾(樹)寺ニ旗ヲ立ル」
と間髪入れず攻め入って来た事が記されています。

この時、約8000の兵を率いてやってきた織田方に対し、迎え撃つ松平方は、わずかに800ほど・・・

これを受けた松平方では岡崎城を出て井田野(いだの=愛知県岡崎市鴨田町)に陣を張ります。

その陣を置いた場所で戦いに突入した両者でしたが、松平方にとっては主君を失ったばかりの最大のピンチですので、全員が殉死覚悟の戦い・・・しかし、一方の織田方は、10倍近く数が勝るぶん
「何やっても勝てるだろう」
と高をくくり、大した作戦もないまま
「思ひ思ひ心々に戦ひければ 必死の勢に追立られ…右往左往に逃走する」『改正三河後風土記』
と、しばらくは戦ったものの、あまりに強く攻め立てられたため、結局、そのまま退いていったようです。

こうして、なんとか岡崎城を守り、わずか10歳で父=清康の後を継いで松平家の当主となった広忠でしたが、彼もまた24歳という若さでこの世を去ります(3月6日参照>>)

生涯に渡って広忠をバックアップして来た阿部定吉も、ほぼ同じ頃に亡くなったとされますが、この時点で、松平家の後を継ぐべき家康は、今川に行くはずが、途中で奪われて敵の織田家の人質になってる(同じく8月2日参照>>)という危機的状態・・・

しかし、定吉の敷いたレールは、この時、家康とともにいた石川数正(いしかわかずまさ)酒井忠次(さかいただつぐ)にしっかりと引き継がれ、その後の家康&徳川家の隆盛へと繋がっていく事になるのですが、続きのお話となる安祥城の戦い11月6日のページでどうぞ>>m(_ _)m
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2018年11月12日 (月)

備前&播磨を巡って赤松義村と浦上村宗の戦い~三石城攻防戦

永正十五年(1518年)11月12日、反旗を翻した浦上村宗赤松義村が攻めた三石城攻防戦が開始されました。

・・・・・・・・・・

村上源氏の流れを汲み、鎌倉幕府政権下で播磨(はりま=兵庫県南西部)地頭職を務めていたとされる赤松(あかまつ)は、その鎌倉討幕から室町への転換期に、赤松則村(あかまつのりむら・円心)討幕軍の一翼を担う多大なる活躍をし(4月3日参照>>)、その後の南北朝でも足利尊氏(あしかがたかうじ)側について貢献(3月2日参照>>)した事から、室町幕府政権下では四職家(他には京極・一色・山名)の1つに数えられ、則村の息子たちに与えられた摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)美作(みまさか=岡山県北東部)備前(びぜん=岡山県南東部)と、もともとの播磨に加えた計4ヶ国の守護(しゅご=県知事みたいな)を務めた名門です。

ただし、嘉吉元年(1441年)に則村の玄孫に当たる赤松満祐(あかまつみつすけ)が第6代将軍=足利義教(よしのり)暗殺した(6月24日【嘉吉の乱】参照>>)事で、その討伐軍だった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)赤松の領地のほとんどが与えられ、一時は事実上の滅亡という一幕もありましたが、満祐の弟の孫にあたる赤松政則(あかまつまさのり)が、以前に、後南朝側(後南朝については後亀山天皇のページ参照>>)に持ち去られていた三種の神器の一つを取り戻した功績により加賀(かが=石川県)半国を与えられて赤松を再興した後、応仁の乱では東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)に与して功績を挙げた事で(5月28日参照>>)播磨・備前・美作の3ヶ国守護に返り咲いたのです。

そうして置塩城(おきしおじょう=兵庫県姫路市)に居を構えた政則は、更なる領地拡大を図って山名政豊(まさとよ=宗全の息子か孫)と戦い(9月4日参照>>)、長享二年(1488年)には播磨一帯から山名勢力の排除に成功(4月7日参照>>)・・・しかも、細川勝元の娘=洞松院(とうしょういん=めし)を嫁に娶り、この戦国の頃の赤松は、以前にも増した全盛期を迎えていたのでした。

しかし、その結婚から、わずか3年後の明応五年(1496年)に赤松政則が急死・・・残念ながら洞松院との間には女の子しか生まれていなかったため、赤松の分家から娘の婿養子として入り、政則の後を継いだのが赤松義村(よしむら)でした。

そんな赤松氏を、かの鎌倉末期の則村の時代から家臣として支えていたのが守護代(しゅごだい=副知事みたいな)浦上(うらがみ)・・・先の政則の時代に、見事な復権を果たせたのも、山名の勢力を一掃できたのも、忠臣の浦上則宗(うらがみのりむね)おればこそ!だったのです。

ただ、それだけの武将であればこそ、いつしか主君より多くの支持者が、その下につき、家内での影響力も大きくなって行くというもの・・・

なんせ上記の通り、赤松政則と洞松院は、わずか3年の結婚生活ですから、政則が亡くなった時点では、その娘さんも幼児なわけで、おそらく、その婿養子の義村も、彼女に見合う同じような年齢だったと思われ(正確な生年は不明)・・・

とは言え、しばらくの間は、義母の洞松院が頑張って義村を支えていた(3月11日参照>>)事もあり、浦上家内での権力闘争はあったものの、赤松と浦上の主従関係に亀裂が入るほどでは無かったわけですが、文亀二年(1502年)に浦上則宗が亡くなり、その後を浦上村宗(むらむね)が引き継いだあたりから、
(*村宗は則宗の甥の子とも息子とも言われ、村宗の前に則宗の養子が家督を継いでいたという話もありますが、そこらへんの経緯はよくわかっていません)
幼かった義村が成長し、自身で政務をこなすようになって来て、これまで、ほぼ思い通りに・・・悪い言い方すると浦上家のやりたい放題だった政務に主君のチェックが入る状態に、浦上村宗は反発するようになっていったのです。

Ukitayosiie300a やがて永正十五年(1518年)秋・・・浦上村宗は、家臣の宇喜多能家(うきたよしいえ=秀家の曽祖父)らとともに居城の三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)に籠り、赤松に反旗を翻したのでした。

もちろん、これをそのままにしておけない赤松義村は、永正十五年(1518年)11月12日三石城へと出兵・・・船坂峠(ふなさかとうげ=兵庫県と岡山県の県境の峠)にて防戦する浦上方を撃破して三石城下へとなだれ込み、城から撃って出た浦上勢と激しい交戦を繰り広げました。

明けて翌13日も城から兵が撃って出て戦闘が始まり、囲む赤松勢が押せば城兵退き、城側の伏兵の出現に赤松が退けば城兵が追撃・・・と、一進一退の状況が続いた事で「これではらちがあかん!」とばかりに義村は、一気に攻め落とさんと15日朝から総攻撃を仕掛けます。

しかし、この時も・・・城側は攻め寄せる赤松勢を引きつけるだけ引きつけておいて、絶好のタイミングで一気に大手&搦め手から同時に出撃し、寄せ手を混乱させて切り崩し、大きな痛手を与えた事で、やむなく赤松軍は本陣の位置を船坂峠まで戻し、態勢を立て直す事に・・・

ところが、この間に、浦上村宗は二人の忍びに武具などを持たせて商人に見せかけて赤松の陣地に送り込み、敵の様子を探らせたばかりか、「村宗は病気で伏せっていて、しばらく動けないかも…」なんてウソの噂を流させたのです。

こうして赤松軍を油断させておいた11月19日夜、70人ばかりの少数精鋭で一気に夜襲を仕掛けます。

突然の火の手と鬨(とき)の声に驚く赤松勢は、応戦どころか、もはや逃げるので精一杯だったとか・・・

かくして年が明けた永正十六年(1519年)正月、赤松義村は作戦の変更・・・香登城(かがとじょう=岡山県備前市)に拠る村宗の弟=浦上宗久(むねひさ)に近づいて
「勝利のあかつきには村宗の領地をそっくりそのまま君にやる…浦上は君が掌握すればえぇ」
と、兄を裏切って赤松につくよう誘いをかけます。

それに乗った宗久は、密かにその準備に取り掛かりますが、その動きを、この時、香登城の二の丸を守備していた宇喜多能家が察知・・・二の丸の守備を強化して籠城すると同時に三石城へ宗久の裏切りを知らせて加勢の軍勢の派遣を要請した事で、逆に窮地に陥った宗久はやむなく城を脱出し、結果的に香登城は宇喜多能家が牛耳る事になってしまいました。

それでも諦めきれない義村は、その年の4月、さらに12月にも攻撃を仕掛け、翌永正十七年(1520年)の正月には、先に浦上傘下の富田松山城(とだまつやまじょう=岡山県備前市)を落としますが、7月に三石城からの救援が駆けつけて赤松軍を襲撃し、結局、このすべてが防がれてしまいます。

Mituisizyounotatakai
●三石城攻防戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この度重なる敗戦で赤松の家名は地に落ち、それは同時に浦上村宗の名を挙げる形となり、やがて本拠の置塩城にでさえ村宗に同心する者が現れ、同永正十七年(1520年)の11月、やむなく義村は隠居して、嫡子の赤松晴政(はるまさ=才松丸→政村→政祐)を差し出す事で、何とか面目を保ちます。

とは言え、その後も何度か復権を目論んでイロイロ画策するのですが、結局、翌大永元年(1520年)9月に村宗の放った刺客によって義村が暗殺されしまい、その後は晴政が赤松を継承していくワケですが、お察しの通り、もはや浦上村宗の傀儡(かいらい=操り人形)の当主なわけで・・・

ただ・・・後に起こる細川勝元の孫たち(勝元の息子の政元の養子たち)による後継者争いで(2月13日参照>>)、最初は浦上村宗とともに、彼の推す細川高国(たかくに)についていた晴政が、父の仇討ちを目論み、途中で細川晴元(はるもと)側に寝返って、晴元側の三好元長(みよしもとなが=三好長慶の父)と協力して村宗を討つという場面があったのはあったのですが、結局は、この後も浦上村宗の息子たちとモメてる間に、出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまご)氏の台頭を許してしまい、この後、赤松氏が以前のように浮かび上がる事はありませんでした。

その後の赤松は、晴政の孫=赤松則房(のりふさ)の代に豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)の傘下となって置塩城を安堵されてますが、その細々と続いていた血脈も、関ヶ原の戦いで西軍につき、石田三成(いしだみつなり)の居城=佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)(9月17日参照>>)を守っていた赤松則英(のりひで=則房の息子)が、落城後に捕縛されて自害した事によって、名門=赤松の嫡流は断絶する事となるのです。
(庶流の赤松広秀も、その約1ヶ月に自害…10月28日参照>>)

鎌倉から室町を生き抜いた名門の武家が、戦国の世に姿を消す事は少なくありません・・・というより、それが下剋上であり戦国という物なのでしょうが、何とも、難しい時代であります。
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2018年11月 7日 (水)

本庄繁長の乱で上杉謙信が本庄城を攻撃

永禄十一年(1568年)11月7日、反旗を翻した本庄繁長の籠る本庄城を上杉謙信が攻撃しました。

・・・・・・・・・

天文十一年(1542年)に信濃(しなの=長野県)諏訪(すわ)を制し(6月24日参照>>)、さらに北へと勢力を伸ばそうとする甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)(4月22日参照>>)に対し、天文二十二年(1553年)から永禄七年(1564年)にかけて、何度も川中島(かわなかじま=長野県長野市)にて(8月3日参照>>)刃を交えていた越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎・上杉輝虎)・・・

Uesugikensin500 一方で、その両者がともに傘下にしておきたい場所が、越後にも信濃にも接している隣国=越中(えっちゅう=富山県)・・・なんせ上洛するには、ここを通らねばなりませんし、それはイコール物流という観点からも重要ルートなわけで。。。

Takedasingen600b ここ越中は、もともとは南北朝の動乱の後に守護(しゅご=県知事的存在)だった畠山(はたけやま)以下、それをサポートするが守護代(しゅごだい=副知事的)遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)が分割して治めていた場所でしたが、応仁の乱を経た戦国時代に入って畠山氏の力が衰え始める中で越中一向一揆が頻発(9月19日参照>>)したりした事により、徐々にその立ち位置も微妙に・・・

で、この永禄の頃には射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による越中(えっちゅう=富山県)争奪戦を繰り返していましたが、そんな両者の戦いを影で支援していたのが武田信玄(神保を支援)と上杉謙信(椎名を支援)だったわけです(3月30日参照>>)

ところが、そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月、これまで密かに行っていた信玄の裏工作により、椎名康胤が武田側に寝返ったのです。

父の時代からの同盟者であった康胤に裏切られた事にショックを受けつつも、謙信は康胤の松倉城を落とすべく3月16日に居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣します。

一方、この康胤の寝返りを受けて、翌・4月、今度は神保長職が上杉に寝返り・・・すると、これまで信玄の要望(信玄の奥さんの妹の夫は本願寺顕如)で長職とともにゲリラ戦を展開していた一向一揆が、これまた神保から離れて武田側に寝返り(←あ~ややこしい)、長職傘下の守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)放生津城(ほうじょうづじょう=富山県射水市中新湊)を攻撃して陥落させてしまいます。

そこで謙信は、ひとまず松倉城への抑えとして配下の河田長親(かわだながちか)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)に配置して守らせ、自らは、長職と連携して守山城と放生津城への攻撃を開始するのです(4月13日参照>>)

しかし、その陣中に、鳥坂城(とっさかじょう=新潟県胎内市)中条藤資(なかじょうふじすけ)からの書状が届きます。

なんと、その書状の中には、もう一通の書状が・・・それは、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)から中条藤資に宛てた物で、その中身は
「コチラの味方になってくれませんか?」
のお誘い・・・

Honzyousigenaga600 そう・・・この謙信留守の間に武田側に寝返った本庄繁長が、中条藤資に送った寝返りを即す密書を、上杉を裏切る気ゼロの藤資が、そのまま謙信に見せたのです。

激おこの謙信は、すぐに陣を引き払って春日山城へ帰還し、本庄城攻撃の準備に入ります。

一方、その本庄繁長は、中条藤資以外にも、平林城(ひらばやしじょう=新潟県村上市)色部勝永(いろべかつなが)黒川城(くろかわじょう=新潟県胎内市)黒川実氏(くろかわさねうじ)大場沢城(おおばさわじょう=新潟県村上市)鮎川盛長(あゆかわもりなが)ら周辺の武将へ同様の書状を送って寝返りに誘っていたのです。

ところが、これが大きな誤算・・・中条藤資と同じく、彼らにも断られてしまったのです。

結果、本庄繁長は周囲を敵に囲まれた孤立無援の形になってしまい、やむなく本庄城に籠城して武田の援軍を待つしかなくなってしまいます。

そのニュースを得た信玄は、本願寺に向けて繁長救援を要請・・・これを受けた勝興寺(しょうこうじ=富山県高岡市)の一向一揆衆が越後へと侵入する一方で、海津城(かいづじょう=長野県長野市松代町)を出た信玄は、7月10日、謙信側の飯山城(いいやまじょう=長野県飯山市)を攻撃します。

しかし、さすがの謙信はこれを予想しており、すでに配下の者を援軍として送り込んで防戦したため、信玄はそれ以上の進軍ができず、10月13日には、本庄城に、使者とともに兵糧を送り込んで、今後の作戦を練ります。

一方、10月20日に春日山城を出発した謙信は、柏崎(かしわざき=新潟県柏崎市)から出雲崎(いずもざき=新潟県三島郡)を経て新潟に着陣・・・永禄十一年(1568年)11月7日いよいよ本庄城への攻撃を開始します。

Honzyousigenakanoran
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

このピンチに繁長は、御大=信玄の出陣を要請しますが・・・残念ながら、この頃の信玄は、今川義元(いまがわよしもと)亡き後の駿河(するが=静岡県東部)への侵攻に忙しい・・・【薩埵峠の戦い】参照>>)【今川館の攻防戦】参照>>)

もちろん、これは「本庄より駿河が大事」って事だけではなく、11月の東北は、もはや雪に閉ざされ、行くに行けない状況だった事もあって、冬でも暖かい駿河への侵攻を優先したのです。

現に、本庄城を攻撃していた謙信方も、かなり雪に悩まされたようで・・・しかも本庄城が堅固な要塞なうえに城兵も少数ながらゲリラ戦をウマく展開し、もはや援軍も望めず籠城を続けるだけの本庄城を、謙信はなかなか落とせずにいました。

この状況を見るに見かねた陸奥(むつ=青森・岩手・宮城・福・秋田北東部)蘆名盛氏(あしなもりうじ)伊達輝宗(だててるむね) が、年も押し迫った12月28日に「繁長を許したって~」と謙信に願い出ますが、未だ激おこの謙信はガンとして首を縦に振らず・・・

そのまま年が明けた永禄十二年(1569年)1月9日には、夜の闇に紛れ本庄方の兵が謙信側の陣地を襲撃します。

しかし本庄方も、少数のゲリラ的攻撃では謙信方に大きなダメージを与える事はできず・・・まだまだヤル気満々の謙信は、周辺の農民に
「槍でも鍬でも鋤でも持って集まれ~~参戦したら褒美をつかわす~」
と呼びかけると同時に、先の色部勝永や黒川実氏らから人質と誓詞(せいし)を取って味方の団結を強めますが、3月に入って、今度は本庄繁長本人から蘆名盛氏と伊達輝宗を通じて赦免の願い出が・・・

さすがに、未だ激おこの謙信ではありましたが、進展の無い戦いが、あまりに長引くのも良く無いし、なんたって先の松倉城が、あのままになってますから、ここは一つ東北の諸将の顔を立てて、「繁長の息子を人質として差し出す事を条件に本庄の所領を安堵する」という事で、この戦いの終わらせる事にしたのです。

こうして本庄繁長の乱と呼ばれる戦いは終結・・・

この後、再び松倉城への攻撃に戻る謙信でしたが、なかなか手ごわい松倉城をようやく落としたのは元亀二年(1571年)3月の事・・・

一方、この一件で上杉の配下となった本庄繁長は、謙信の死後、御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)に勝利して上杉の後継者となった上杉景勝(かげかつ)に仕えて縦横無尽の大活躍・・・「上杉にこの人あり」と言われるほどの勇将となるのですから、世の中わからない物です。

ま、その活躍ぶりは、おいおい、その日付にて書かせていただく事にします。
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2018年10月28日 (日)

応仁・近江の乱~京極×六角の近江争奪戦

文明七年(1475年)10月28日、応仁の乱に絡む京極政経と六角高頼の戦い「佐々木庄の戦い」がありました。

・・・・・・・・・・

Ouninnoransoukanzu2 第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争いに、管領家(かんれいけ=将軍の補佐・No.2になる家柄)である斯波(しば)畠山(はたけやま)のそれぞれの後継者争いが加わって、応仁元年(1467年)から約10年に渡って日本全国が東西に分かれて戦った応仁の乱(5月20日参照>>)・・・

この時、近江(おうみ=滋賀県)に拠点を置く京極持清(きょうごくもちきよ)は、甥っ子(妹の子)細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)や娘の嫁ぎ先である畠山政長(はたけやままさなが)が属する東軍につき、同じく近江に拠点を置く西軍の六角高頼(ろっかくたかより)との合戦を展開しておりました。

この京極と六角は、ともに宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、平安時代終盤の源平合戦で活躍した佐々木信綱(ささきのぶつな)の息子の代で枝分かれしたものの、同じ近江源氏と呼ばれ全国に広大な領地を持つ同族であり近江2大勢力だったわけですが、上記の通り、同族でも・・・いや、同族だからこそ、立場や損得によって東西に分かれるのが応仁の乱だったわけで・・・

Kyougokusourankeizu ←京極家略系図

ところが応仁二年(1468年)から文明三年(1471年)にかけて、その京極持清と、すでに家督を譲られていた息子の京極勝秀(かつひで)、さらに勝秀の嫡男であった孫童子丸(まごどうじまる)が相次いで亡くなった事から、持清の三男=京極政経(まさつね・政高)と、孫童子丸の兄(叔父または従兄弟の説あり)京極高清(たかきよ・乙童子丸)との間に京極家の後継者争いが勃発するのです。

この間にも、かの応仁の乱は継続中・・・なので東軍に属している政経と敵対すべく、高清一派は六角氏と和睦して西軍へと寝返ります。

この頃、政経派の主将として活躍していた多賀高忠(たがたかただ)と、六角氏で東軍に属していた六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟)の勢いに押され気味だった六角高頼と京極高清は美濃(みの=岐阜県南部)斎藤妙椿(さいとうみょうちん)に援助を要請します。

妙椿も、その主家である土岐氏(ときし)も、応仁の乱には西軍として参加していますので、高頼&高清からの要請があろうがなかろうが、味方のピンチを救うは必至ですから、当然、要請を受けた妙椿は、即座に出陣して国境を越え米原山(まいばらやま=滋賀県米原市)にて京極と一戦した後、近江南部へと進出します。

これを知った高頼も、身を隠していた甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)を出発して妙椿と合流・・・文明三年(1471年)の3月には京極政経&多賀高忠らに勝利して若狭(わかさ=福井県西部)へと敗走させ、近江の地を奪回しました。

この西軍=高頼の勢いを削ぎたい東軍大将=細川勝元は、六角政堯に高頼討伐を命令・・・これを受けて、政堯の拠る清水鼻城(しみずはなじょう=滋賀県東近江市・後の箕作城)には近隣の西軍武将が集結しはじめますが、この動きを知った高頼は、早速、六角旧臣たちをかき集め、先手必勝とばかりに大挙して清水鼻城を攻めまくり、支えきれなくなった六角政堯は文明三年10月(11月とも)、自ら城に火を放って自害しました。

一方、先の米原山の戦いで敗れて若狭に逃走していた京極政経&多賀高忠は、文明四年(1472年)6月頃に近江へと戻り、高頼勢を小競り合いを繰り返していましたが、一旦美濃へ戻っていた斎藤妙椿が、9月になって美濃の大軍を率いて再び高頼の加勢にやって来た事から、西軍=細川勝元側も政経らに援軍を派遣・・・ここに畠山義就(よしひろ・よしなり=西軍)も加わって江北(こうほく=滋賀県の北側)を中心に大きな戦いへと発展きていきます。

そんな中で、高頼が比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)の寺領の横領を画策した事で、比叡山の僧兵や山門衆徒らが政経の味方につき、文明七年(1475年)頃からは一進一退・・・

しかし、やがて、この江北での戦いにも終止符が打たれる時が来るのです。

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観音寺城・本城跡

文明七年(1475年)10月28日、斎藤妙椿の加勢を受けた高頼が、六角氏の本拠である佐々木庄(ささきしょう=滋賀県近江八幡市・観音寺城)において、比叡山の山門衆徒と連合を組む政経勢と大激戦を繰り広げ、高頼方が大勝利を治めるのです。

上記の通り、すでに寺社の荘園の横領等、好き勝手やり始めていた六角高頼の勝利を見た将軍=義政は、比叡山に、再び政経勢と組んで高頼を討伐するようハッパをかけますが・・・実は、この間の文明五年(1473年)に西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)&東軍総大将の細川勝元の両巨頭が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)ために、全国武将を巻き込んだ応仁の乱は急速に勢いを失い、翌文明六年(1474年)には両巨頭の息子たち(山名政豊&細川政元)よって和睦が成立していたのです。

結局、応仁の乱に絡む江北での戦いは、この佐々木庄の戦いが最後になりました。

とは言え、高頼は、今度は将軍家の敵となり、それはやがて近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)へと発展・・・この流れに乗じた京極政経が、逃走先の出雲(いずも=島根県)から、近江奪回=高頼討伐を目指して上洛して来るのは長享元年(1487年)の事ですが、

そのお話は【京極騒乱~祇園館の戦い】の後半部分でどうぞ>>(前半部分は今回のお話とカブッてますが、ご了承を…)

・・・にしても、応仁の乱の時は、ホント、あっちもこっちも後継者争いで・・・結局、それが、同族同士でのつぶし合いとなってしまって、室町幕府政権下で大物として君臨していた武将たちの多くが、その配下である守護代、あるいは、もっと配下の国人に取って代わられる事になっていくのでしょうね。

このあたりの事、もはや描きつくされた織豊時代(しょくほうじだい=信長&秀吉の時代)よりも断然おもしろくなりそうなので、ぜひとも、ドラマ等で見てみたい物ですね~

まぁ、出演者が多すぎて難しいかも知れませんが・・・
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2018年10月16日 (火)

三好長慶の八上城攻略戦

弘治三年(1557年)10月16日、三好長慶が丹波八上城を攻め、龍蔵寺城を攻略しました。

・・・・・・・・・・・

丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)地方の小さな国人(こくじん=在地の武士)の一人に過ぎなかった波多野稙通(はたのたねみち)が、応仁の乱での功績によって細川勝元(ほそかわかつもと=東軍の大将)配下の有力武将となって築城したとされる八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)

その後の細川家内の後継者争いの真っ最中だった大永六年(1526年)、重臣として仕えていた弟を殺害された事で、その主君であった細川高国(たかくに=勝元の孫(養子))と敵対し(10月23日参照>>)、高国との後継者争いの相手であった細川晴元(はるもと=勝元の孫(養子)の息子)に近づいて、ともに高国を京都から追い出して(2月13日参照>>)晴元政権樹立に成功し、稙通も評定衆(ひょうじょうしゅう=政権下の最高機関)の一人に名を連ねたのです。

とは言え、稙通自身は天文十四年(1545年)頃に死没したようで、波多野の家督は嫡男の波多野晴通(はるみち)が受け継ぎます。

Miyosinagayosi500a ところが、今度は、その晴元が重臣の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と対立・・・長慶は、晴元の領国である阿波(あわ=徳島県)守護代を務める重臣中の重臣で、稙通も自らの娘(晴通の妹)を嫁に出して縁を繋いでいた相手だったのですが、この一件により、その奥さんも離縁の憂き目に・・・

そんな中、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで長慶に完敗した晴元は、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を伴って近江(おうみ=滋賀県)へと逃れました(6月24日参照>>)

ただし、翌年の天文十九年(1550年)5月には、その将軍=義晴が避難場所の坂本にて病死・・・それを受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)足利義輝(よしてる)第13代室町幕府将軍に就任しています。

その後、志賀の戦い(2月16日参照>>)を経た天文二十一年(1552年)の正月には晴元が出家した事で両者の間に和議が成立し、事実上の三好政権が誕生していたわけですが、やはり、京都奪回の夢を捨てきれない晴元は、軍を起こしてなんやかやの動きを見せていたのです。

そんな晴元に同調したのが波多野晴通・・・この動きを知った長慶は、八上城を攻略すべく、この年の4月に、重臣の松永久秀(まつながひさひで)を伴って丹波に出陣します。

しかし、八上城包囲中のさ中に、味方として三好軍に従っていた芥川孫十郎(あくたがわまごじゅうろう=長慶の妹婿もしくは娘婿)池田長正(いけだながまさ)が波多野側に内通して謀反を計画している事を察知した長慶は、5月23日に八上城の包囲を解いて一旦、越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)へと帰還します。

これにより、少しは勢いづいた晴元&晴通側でしたが、翌天文二十二年(1553年)8月、長慶はすかさず反撃・・・芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)を攻めて孫十郎を阿波へと敗走させたうえ、この混乱で京に攻め入っていた丹波勢を破って将軍=義輝を再び近江へと退けて京を制圧し、むしろ三好政権を盤石な物にしたのです。

と、なると、やはり、未だ攻略できていない波多野が目障り・・・って事で9月3日、長慶の命を受けた松永久秀が八上城を包囲します。

しかし、ほどなく、晴元方の香西元成(こうざいもとなり=細川家臣)三好政康(まさやす・宗渭=後の三好三人衆の一人)が背後から奇襲をかけて来たため、やむなく松永勢は退去しました。

次に三好軍が八上城を攻撃するのは天文二十四年(1555年=10月に弘治に改元)の事・・・すでに長慶は、畿内全域と阿波に加え、淡路(あわじ=兵庫県淡路島)播磨(はりま=兵庫県南西部)の東半分も手に入れて、もはや敵無しの状態になっていましたが、それでもやっぱり敵対する八上城の波多野・・・

そこで長慶は、その年の9月になって、いつの間にか長慶の傘下になっていた、かの三好政康を八上城攻略に当たらせる事にし、政康軍は生瀬(なませ=宝塚市)から丹波に入り、八上城を包囲します。

ところが、この時は、晴元自身が援軍を率いてやって来た事から、またもや攻略に失敗してしまいました。

しかし・・・
たび重なる失敗にもめげない長慶は、またまた八上城を攻めるべく軍を起こし、弘治三年(1557年)10月16日、波多野方の龍蔵寺城(りゅうぞうじじょう)を攻略します。

とは言え、ここらあたりの記録は不明な事が多いです。

実は、この龍蔵寺城の位置もハッキリとはわかっておらず、多紀郡(たきぐん)周辺にあったであろう」との事なのですが、この多紀郡は現在の篠山市ですので、おそらくは八上城の近くにあった支城なのでしょう~くらいの事しかわかっていません。

『細川両家記』では
「三筑(長慶)の衆い又 屋上(八上)へ出陣して龍蔵寺責落也」
とあり、ここからしばらく波多野が消息不明となります。

次に波多野が登場するのは、長慶亡き(5月9日参照>>)後の三好から、この八上城を奪回する永禄九年(1566年)2月26日の時の事・・・

そこに
「丹州屋上(八上)城に松永弾正正忠(久秀)の甥松永孫六と申人入城候処」
とあるので、先の弘治三年の八上城攻めで龍蔵寺城を攻略した後に八上城も落とし、そこに松永久秀の甥っ子が入城して城主となっていた事がうかがえます。

ここで、元八上城主だった波多野晴通の息子=波多野秀治(はたのひではる)が、包囲した八上城内の水の手を断って枯渇させたところ、飢えに苦しむ兵士たちが次々に逃亡していく事態となり、やむなく孫六も城を脱出して尼崎(あまがさき=兵庫県尼崎市)へと退却・・・

こうして、新当主=秀治によって、波多野は9年ぶりに八上城を奪回したのでした。

以後、秀治は、ここを拠点に武勇を誇り、
やがて織田信長(おだのぶなが)の命を受けて丹波平定にやって来る明智光秀(あけちみつひで)と対峙する事となるわけです。

※光秀の丹波平定に関しては
【籾井城の戦い】>>
【福知山攻略戦】>>
【八上城攻防戦】>>
【黒井城の戦い】>>
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2018年10月10日 (水)

大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井

永禄十年(1567年)10月10日、松永久秀対三好三人衆&筒井順慶連合軍の東大寺大仏殿・多門城の戦いで大仏殿が炎上しました。

・・・・・・・・・・

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)は、やがて寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちの中から、興福寺に属する『衆徒』の代表格である筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』の代表格=越智(おち)十市(とおち)、さらにこの3家に箸尾(はしお)を加え、『大和四家』と称される者たちが群雄割拠する室町時代を迎えていましたが、ここ奈良の守護(しゅご=室町幕府政権下でも県知事的役割)管領家(かんれいけ=将軍の補佐をする家柄)畠山(はたけやま)であった事もあって、その畠山氏や、同じく管領家の細川(ほそかわ)などの争いに巻き込まれていたわけですが・・・
【京軍の大和侵攻】参照>>
【井戸城・古市城の戦い】参照>>
【天文法華の乱~大和一向一揆】参照>>

そんな中、これまで長年抗争を繰り返していた越智氏に勝利し(9月15日参照>>)、その後、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで大和の大半を手中に治めつつあった筒井順昭(つついじゅんしょう)が天文十九年(1550年)に病死し、わずか3歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が引き継ぐ事になった頃、

このタイミングで新たな支配者となるべく大和に乗り込んで来たのが、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い細川晴元(はるもと)を破って(6月24日参照>>)後、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)とも和睦して(6月9日参照>>)事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)でした。

永禄二年(1559年)頃から大和への侵攻を開始した久秀は、信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していきます(7月24日参照>>)

しかし、そんな久秀の活躍とはうらはらに、永禄四年(1561年)に3番目の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが)(5月1日参照>>)、翌・永禄五年(1562年)にすぐ下の弟=三好実休(じっきゅう=義賢・之康)(3月5日参照>>)、さらに、その翌年の永禄六年(1563年)に息子の三好義興(よしおき=長慶の長男)を失った三好長慶は一気に病気がちになり、しかも永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入ったを長慶自らの勘違いで手にかけてしまい、その後悔の念からか?その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は廃人のようになってこの世を去ってしまう(5月9日参照>>)のです。

やむなく、三好家では長慶の甥=三好義継(よしつぐ)を当主に迎え、補佐役として三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)の3人=三好三人衆が若き当主を支えていく体制となりますが、そんな三好三人衆は永禄八年(1565年)5月に将軍の足利義輝を暗殺して(5月19日参照>>)、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を新将軍に擁立しようと企みます。

この将軍暗殺劇には、晩年に病気がちになっていた長慶に代わって、事実上、三好政権を切り盛りしていた久秀も協力していたとも言われていますが、一方で、その暗殺劇から、わずか半年後の11月には、奈良の支配を巡って未だ久秀と絶賛敵対中だった筒井順慶と三好三人衆が同盟を結んで、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃していますので、おそらく久秀は、将軍暗殺には関わっていないかも・・・

で、これを受けた久秀は、電光石火の速さで、その2日後に順慶の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲して奪い取りました。

ただし翌年、紀伊(きい=和歌山県)河内(かわち=大阪府東部・南部)の守護でもあった畠山高政(はたけやまたかまさ)らに協力して、(さかい=大阪府堺市)にいた三好の当主=三好義継を攻撃すべく、久秀が本拠の多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を留守にしたスキを狙って筒井順慶は筒井城を奪回しています。

ところが、その堺での合戦の後、久秀と和睦した義継が対立気味だった三好三人衆と決裂・・・永禄十年(1567年)4月に信貴山城に戻ってきた久秀とともに、その義継も信貴山城に入ったのです。

その6日後の4月11日、久秀が多聞山城に戻った事を受けて三好三人衆と筒井勢、さらに池田勝正(いけだかつまさ=摂津池田城主)らを加えた連合軍が奈良近辺の大安寺(だいあんじ=奈良県奈良市)白毫寺(びゃくごうじ=同奈良市)等に布陣を開始・・・その数、約1万~2万

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白毫寺から奈良市街を望む

これを迎撃すべく、久秀は東大寺(とうだいじ=奈良市)戒壇院(かいだんいん)転害門(てがいもん)に軍勢を配置します。

4月24日夜には、すでに南大門(なんだいもん)周辺に両軍が放つ銃声が響き渡り、両者の小競り合いも後を絶たず、僧や市民も眠れぬ夜を過ごす事になる中、三好&筒井連合軍は大乗院山(だいじょういんやま=奈良市高畑)天満山(てんまやま=同高畑)に陣を移動させますが、久秀の本拠である多聞山城は、東大寺より北にあるため距離が遠い・・・

そこで順慶は縁のある興福寺を通じて東大寺の境内に布陣させてもらえないか?打診すると、コレが即OK・・・なんせ、上記の如く、すでに松永勢はことわりもなく布陣しちゃってますから、寺側も「戦火に見舞われないか」必死なわけで、松永勢けん制のためには、彼ら連合軍に近くにいてもらった方が安心というもの・・・

そして、5月2日に連合軍のうち約1万が二月堂(にがつどう)大仏殿回廊に布陣すると、この日から、久秀自らも戒壇院に立て籠もります。

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東大寺:戒壇院           転害門

連合軍は随時、東大寺境内の陣所を変えながら、たまに一隊が多聞山城を攻めつつ、しばらくの間、一進一退のこう着状態が続きますが、この間、連合軍の陣所に利用される事を防ぐべく、松永勢はアチラコチラに火を放ち、一部の門や生垣等が、この時点ですでに焼失・・・少し離れた般若寺(はんにゃじ=奈良市般若寺町)なども、この時に焼失しています。

そんなこう着状態が破られるのは8月25日の事・・・三好三人衆の配下であった飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)の城主=松山安芸守(まつやまあきのかみ)松永方に寝返ったのです。

そのため、やむなく連合軍は、その一部を河内(かわち=大阪府東部)へと派遣せざるを得なくなりますが、もちろん、これは久秀の作戦で、数に劣る松永勢は、このおかげでちょっと楽に・・・この頃には、松永勢が寺院を焼く事も、ほぼ無くなっていたものの、両軍の小競り合いは相変わらず続き、徐々に、数に勝る連合軍が有利になっていくのです。

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東大寺大仏殿の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄十年(1567年)10月10日この状況を打開すべく、久秀が動きます。

東大寺の大仏殿付近に布陣していた三好軍に攻撃を仕掛けた松永軍・・・
『多聞院日記』では・・・「数度の合戦の後、穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それが大仏殿回廊へ延焼して深夜に大仏殿が焼失した」

『東大寺雑集録』には・・・
「大仏中門堂へ松永軍が夜討をかけて中門堂と西の回廊に火が放たれて焼失した」
とあります。

しかし、一方で宣教師=ルイス・フロイス『日本史』では、
「連合軍の中に我ら(イエスズ会)の同僚がおり、夜、密かに火を放った」
と、キリシタン兵士が大仏殿に放火した事が書かれています。

この「誰が放火したのか?」の犯人探しについては、未だ様々な説があって結論は出ていないのですが、とにもかくにも、ここで大仏殿が炎上した事で、布陣じていた連合軍は総崩れとなり、備えの兵として残した一部を除いて、ほとんどが摂津(せっつ=大阪府北中部と兵庫県の南東部)山城(やましろ=京都府南部)へと退去していったのです。

焦土と化した一帯では、寺院や宿坊を狙った強盗&略奪・・・いわゆる火事場泥棒が頻発した事により、翌11日には、三好義継と松永久秀、そして松永久通(ひさみち=久秀の息子)の連名で禁制(きんせい=犯行を禁じる)を発布しています。

この禁制発布は、イコール、この奈良の地が彼らの統治する場所になった事を意味しますので、合戦の結果としては松永方の勝利というところは間違いないでしょう。

もちろん、かと言って、三好や筒井らが、このまま引っ込んでしまうはずはなく、その後もチョコチョコ多聞山城に攻撃を仕掛けたりと、小競り合いを展開していくのですが・・・

そんなこんなの永禄十一年(1568年)・・・あの大仏殿炎上から約1年後の9月、三好三人衆に暗殺された前将軍=義輝の弟である足利義昭(よしあき)(10月4日参照>>)を奉じてアノ男が上洛して来ます(9月7日参照>>)

織田信長(おだのぶなが)です。

9月29日に摂津に侵入した信長のもとに、いち早く参じてその傘下となり、領地安堵を取り付ける三好義継と松永久秀・・・一方、敵対覚悟の三好三人衆と出遅れてしまった筒井順慶。

当然ですが、もはや三好三人衆は信長相手に手いっぱいで松永と筒井の抗争に人数を割く余裕すらありません。

こうして信長という後ろ盾を得た久秀は永禄十一年(1568年)10月に筒井城を攻撃し、敗れた順慶は福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して落ちていきました(11月18日後半部分参照>>)

とは言え、乱世の梟雄(きょうゆう)松永久秀が、このまま、親子ほどの年の差がある信長のもとで大人しくしているはずは無いわけで・・・

て事で、そのお話は
【多聞山城の戦い】>>
【信貴山城の戦い】>>
でご覧あれ(o^-^o)

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