2021年4月21日 (水)

信長を大敗させた半兵衛の作戦~斎藤龍興の新加納の戦い

 

永禄六年(1563年)4月21日、美濃へ侵攻した織田信長を迎撃し、斎藤龍興が勝利した新加納の戦いがありました。

・・・・・・・・

その出世ヒストリーから「美濃(みの=岐阜県南部)のマムシ」と呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん)が、反発する息子の斎藤義龍(よしたつ=高政とも)によるクーデターによって倒れたのは弘治二年(1556年)4月の事でした【長良川の戦い】参照>>)

この時、道三は、娘=帰蝶(きちょう=濃姫)の嫁ぎ先である尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)「美濃を譲る」の遺言状を書いた(4月19日参照>>)とも言われますが、

そんな遺言状があろうがなかろうが、おそらく信長は娘婿として道三の弔い合戦を考えていた事でしょうが、いかんせん、この頃の信長は、未だ尾張一国をも手にしていない一武将・・・

しかも、道三を倒しただけあって義龍は、なかなかの勇将で、とても美濃には手出しできない状況でした。

そんな中、永禄三年(1560年)5月に、あの桶狭間(おけはざま)にて今川義元(いまがわよしもと)を討ち取った(2007年5月19日参照>>)事で一躍名を挙げた信長のもとに、永禄四年(1561年)5月11日に「義龍が30半ばの若さで急死した」との情報が舞い込んで来ます。

Saitoutatuoki300 しかも、後を継いだのは未だ14歳の息子=斎藤龍興(たつおき)・・・

信長は早速、永禄四年(1561年)5月13日に美濃への侵攻を開始し、翌14日の森部の戦い(5月14日参照>>)、23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)と、立て続けに戦を仕掛けましたが、さすがは美濃の王者・・・

本家本元の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)を何とかせねば、藤氏が揺るぐことはありません。

そんなこんなの永禄五年(1562年)11月、尾張守護代家の内紛に乗じて織田信賢(のぶかた)を倒して(2011年11月1日参照>>)、ようやく尾張を統一した信長は、再び、その矛先を美濃に向けます。

永禄六年(1563年)4月21日、上記のような経験から、本拠の稲葉山城の攻略を目標に置く信長は、約1万の兵を率いて木曽川を渡った後、その稲葉山の動向を見つつ、各務野(かかみの=岐阜県各務原市)付近に侵攻し、周辺の村々に火を放ちつつ進軍しました。

それは、
先陣に池田恒興(いけだつねおき=信輝)隊、
第2陣に森可成(もりよしなり)隊、
第3陣に柴田勝家(しばたかついえ)隊、
最後尾の信長本隊を丹羽長秀(にわながひで)隊がサポートする順列で、新加納(しんかのう=同各務原市那加浜見町)を経て、稲葉山城に迫る勢いで進みます。

一方、迎える斎藤龍興方は、
先陣の牧村半之助(まきむらはんのすけ)野村甚右衛門(のむらじんえもん)ら2千余騎、
第2陣の日根野備中守(ひねのびっちゅうのかみ)ら1500余騎を大手(正面)側に配しておいて、
長井道利(ながいみちとし=道三の息子説あり)を将とする別動隊を森蔭や竹藪に伏せさせておき、
本隊を前一色山(まえいっしきやま=金華山の南東にある山:八幡山)の麓に隠した後、
偽装の本陣を山頂に設けて、やたら派手々々の吹き流しやのぼりを、これでもか!っと賑やかに据え、

準備万端整えて、信長軍を待ち構えていました。

そんな中、まずは新加納に布陣していた牧村隊が、ただ今やって来た織田先陣の池田隊とぶつかりますが、「とても抗いきれない」という雰囲気で、牧村隊が少し後退すると、そこを池田隊とともに、第2陣の森隊が追撃を仕掛けます。

しかし、それは斎藤方の作戦・・・

頃合いを見計らって、斎藤第2陣の日根野隊が牧村隊を救援すますが、これも、やや劣勢で後退し始めると、この状況に「斎藤劣勢なり!」と見た柴田隊&丹羽隊もが追撃にかかります。

この絶好のタイミングで、森蔭に伏せていた長井の別動隊が一斉に横から突いたため、さすがの織田軍も混乱・・・隊形が乱れます。

斎藤軍は、さらに、そこをグッとこらえて織田軍を十分に引き付けてから、これまた絶好のタイミングで全軍に反撃命令・・・伏兵&本隊&別動隊が一斉に鬨(とき)の声を挙げて突入します。

やられた織田方は、味方ともそれぞれ分断され、連絡も途絶えて散々に乱れ、死者が続出する中で前にも後ろにも行けず、右にも左にも回避できぬ状態となり、もはや全滅寸前となります。

もう、信長本隊にさえ敵が突入し、側近の馬廻衆が必死のパッチで、かろうじて防戦するあり様でした。

実は、斎藤方のこの作戦を考えたのが、あの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)だったと言われています。

さすがは名軍師・・・と言いたいところですが、上司&同僚のパワハラにキレた半兵衛が稲葉山城を占拠する有名なあの【竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り事件】>>は、この翌年の事なので、この情報は、後に有名になる人の定番=後付けエピソードなのかも知れませんが、ひょっとして?と思わせるほどの斎藤方の見事な作戦でした。

…と、ここで信長の命すら危ない風前の灯となった織田軍でありましたが、

この頃、ちょうど夕暮れ時となり、各務野一帯が薄暗くなって来た中、ここで突然、稲葉山南方の尾根・瑞龍寺山(ずいりゅうじやま=同岐阜市)数百に及ぶ松明(たいまつ)が掲げられます。

「すわ!一大事」
と慌てる斎藤軍・・・

実は、今回の織田軍迎撃のため、ほぼ全軍で立ち向かっていた斎藤方は、今現在、本拠の稲葉山城は、ほぼカラッポ状態・・・ほとんど兵を配置していなかったのです。

「この間に、別動隊が城を落とす作戦かも知れん」
と思った斎藤方は、慌てて包囲を解いて稲葉山城へと引き揚げていったのでした。

実は、この主君のピンチの際に、作戦には無かったフェイク松明を焚いたのが、織田方の殿(しんがり=軍の最後尾)を担当していた木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)だったと言われています。

まぁ、これも半兵衛同様に、後の展開を見た後付けエピソードかも知れませんが、実にオモシロイじゃありませんか!

半兵衛の作戦により大勝を得た龍興、
秀吉の機転により、
大敗でありながらも命落とさずに済んだ信長。

この後の、秀吉&半兵衛二人の関係を思うとワクワクしますね~

こうして、何とか無事、尾張に帰還した信長は、今回の手痛い敗戦に懲りた事で、「美濃を落とすためには、それ用の城が必要」と考え、小牧山城(こまきやまじょう=愛知県小牧市)構築を決意したと言われています。

★その後の信長の美濃侵攻関連
永禄八年(1565年)8月:堂洞合戦>>
永禄九年(1566年)9月:墨俣の一夜城?>>
永禄十年(1567年)8月 :美濃三人衆内応>>
同年8月:稲葉山城・陥落>>
でどうぞ。。。
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2021年3月24日 (水)

近江守護代・伊庭貞隆の「伊庭の乱」~音羽日野城の戦い

 

文亀三年(1503年)3月24日、細川政元赤沢朝経近江に派遣し、伊庭貞隆と共に六角高頼の拠る日野城を攻める伊庭の乱が勃発しました。

・・・・・・・

近江源氏(おうみげんじ)佐々木(ささき)の流れを汲む六角高頼(ろっかくたかより)は、近江守護(しゅご=今で言う県知事?)として応仁の乱では山名宗全(やまなそうぜん)(3月18日参照>>)西軍に属して活躍しましたが、その後、公家や寺社や将軍奉公衆などの荘園を力づくで横領したりの横暴が目立った事で、

長享元年(1487年)には足利義尚(あしかがよしひさ=第9代将軍)から「近江鈎(まがり)の陣」参照>>)
明応元年(1492年)には足利義稙(よしたね=当時は義材:第10代将軍)から「六角征討」参照>>)

度々の討伐を受け、一旦は近江から姿を消すものの、明応二年(1493年)に管領(かんれい~将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)が起こした明応の政変(政元が義材を廃した政変=4月22日参照>>)のドサクサで幕府公認の守護を追い払うとともに、近江守護への復権を果たしていました。

そんなドタバタ劇の中でも、六角氏の一族で高頼家臣の山内政綱(やまうちまさつな)とともに、主君=六角高頼をよく支え&補佐していたのが、近江神崎郡(かんざきぐん=現在の彦根市周辺)の領主で近江守護代(しゅごだい=副知事)だった伊庭貞隆(いばさだたか)でした。

しかし延徳三年(1491年)に周辺の国衆たちをウマくまとめていた山内政綱が亡くなった事で、六角配下の国衆のまとめ役を含め、六角内のアレやコレやが伊庭貞隆一人に集中する形となり、いつしか貞隆は、当主=高頼に匹敵するほどの権力を持つようになって来るのです。

これに脅威を感じた六角高頼・・・文亀二年(1502年)10月、伊庭貞隆を排除すべく伊庭領への侵攻を開始したのです。

思わぬ主君からの攻撃に、一旦は敗走して湖西(こせい=琵琶湖の西岸)へと身を隠した伊庭貞隆でしたが、ほどなく態勢を立て直し、また、山内就綱(なりつな=政綱の息子)の助力も得、伊庭の被官(ひかん=家臣)九里員秀(くのりかずひで)とも合流して江南(こうなん=滋賀県南部)へと舞い戻り、高頼に味方する青地頼賢(あおちよりかた)青地城(あおちじょう=滋賀県草津市青地町)を攻め、これを12月20日に落とします。

さらに12月25日には永原城(ながはらじょう=滋賀県野洲市永原)を落とした勢いで馬淵城(まぶちじょう=滋賀県近江八幡市馬淵町)へと攻め込んで、守っていた馬淵入道道哲(まぶちにゅうどうどうてつ)開城させました。

この状況に本拠の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)から脱出した高頼は、蒲生貞秀(がもうさだひで=智閑)を頼って音羽城(おとわじょう=滋賀県蒲生郡日野町)へと逃げ込みます。

戦いの形勢を読む周辺国衆は、「ここぞ」とばかりに優勢な伊庭方につき、高頼もろとも音羽城を攻めようとしますが、逆に蒲生貞秀は、伊庭に味方する甲賀(こうか=滋賀県甲賀市甲賀町)佐治(さじ)勢を攻撃・・・両者がともに痛手を被るとともに、これは六角家内を二分する大きな抗争へと発展していくのです。

翌文亀三年(1503年)3月4日には、今度は蒲生貞秀が伊庭方に降った馬淵城を攻撃し、困った道哲は、高頼が去った観音寺城に入っている山内就綱に援軍を要請しますが間に合わず・・・道哲は観音寺城へ逃げ込むハメになってしまいます。

しかし、それからほどなく、馬淵城の戦いを終えて本拠である日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町・中野城とも)に帰陣していた蒲生貞秀を、今度は、甲賀の佐治勢が攻め寄せます。

これを受けた伊庭貞隆は、管領の細川政元と連絡を取って内衆(うちしゅ=直属の家来)赤沢朝経(あかざわともつね)を派遣してもらい、文亀三年(1503年)3月24日赤沢朝経&伊庭貞隆連合軍となって、六角高頼の拠る日野城を攻撃したのです。

途中、金剛定寺(こんごうじょうじ=滋賀県蒲生郡日野町)に火が放たれ、堂塔や本尊の十一面観音などのすべてを焼失してしまうという惨事がありながらも、大軍に囲まれた日野城はよく耐え、この戦いは2ヶ月余りを費やする籠城戦となります。

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伊庭の乱の位置関係要図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『重編応仁記』によると、この籠城戦真っ最中の4月28日、蒲生貞秀は「蒲生国人等」と称して、城を囲む伊庭&赤沢軍に対し、弦五百張とともに一通の手紙を送って来たのだとか・・・
ちょっと長くて痛快なので臨場感wwたっぷりの口語訳(私的な意訳含む)で、ご紹介します。

「未だ雌雄決する事ない中、長きに渡る在陣、ほんまご苦労様です。
雷のような猛威で脅かし、鶴の翼のようなワザで以って、命惜しまず義を重んじる姿に、コチラは感服してます。
忠義を尽くして力の限り頑張ってはる皆さんは、もはや神の領域ですわ。
せやよって、かけ替え用の弦を五百張プレゼントさせてもらいます。
使っていただけたらウレシイです。
もう、ウチら城中の者たちは、鷹に睨まれた雉みたいになってしもて、いつぶっ倒れてもおかしくありません。
なんせ、虫ケラのような僕らが、京都から来はった勇将(中央政府から派遣された赤沢の事)を迎えての合戦に挑んでるわけですから、
もはや勝負はついたも同然…あとは、コチラとしては屍(しかばね)を、なんぼほど並べるかだけですわ。
さぁ、一刻も早く、四方の囲いを破って勝利の旗をなびかせ、後世への武勇伝を残してください。
恐々謹言」

てな感じです。

もう、余裕しゃくしゃくですな~
これを受け取った伊庭&赤沢部隊の憤慨ぶりが目に浮かぶような文章・・・

結局、攻めあぐねた伊庭&赤沢勢は、和議を模索するに至り、6月1日の和睦の成立を以って、陣を引き払い、赤沢朝経も京都へと戻る事になります。

とは言え、当然の事ながら、一旦亀裂が入った六角×伊庭の関係が修復される事はなく、両者の対立は続いたまま・・・

その後、永正三年(1506年)になって幕府の仲介によって、ようやく完璧な仲直りとなり、伊庭貞隆は守護代に復帰し、山内就綱も本領へと帰還したという事で、「伊庭の乱」と呼ばれる戦いは終結となったのです。

ま、この後、六角定頼(ろっかくさだより=14代当主・高頼の次男)の頃に、再び、京極氏(きょうごくし=北近江守護)を交えての三つ巴戦なんかもあるのですが、ご存知のように、その京極氏も浅井(あざい)に取って代わられる頃(1月10日参照>>)には、伊庭の一族も六角氏の直臣へと組み込まれていく事になります。

ちなみに、今回、籠城中に手紙を送った蒲生貞秀さんは、あの蒲生氏郷(うじさと)4代前のジッチャン・・・名将と謳われる氏郷のDNAのスゴさを垣間見るようです。
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2021年3月16日 (火)

赤松&山名からの脱却…備前の戦国の始まり~浦上松田合戦

 

明応六年(1497年)3月16日、浦上宗助が松田一族の富山城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

全国の武将が東西に分かれ、約10年の長きに渡ってくすぶり続けた応仁の乱(おうにんのらん)(11月11日参照>>)・・・

その後も、戦いは地方に分散されつつ引き継がれる中(「一乗山の戦い」参照>>)、弟10代室町幕府将軍を継いだ足利義材(あしかがよしき=後の義稙)が、反発する近江(おうみ=滋賀県)南部の六角高頼(ろっかくたかより)領地からは蹴散らすも息の根止める事ができなかった=幕府が一武将の征討に失敗してしまうという幕府将軍の弱さを露呈してしまい(12月13日参照>>)、何やら、戦国下剋上の香りがプンプンして来た明応年間(1492年~1501年)の始まり~

東では北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)伊豆討入り(堀越公方を倒す)を果たし(10月11日参照>>)、西では管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)明応の政変(めいおうのせいへん=自身の意のままになる将軍へ変更)を起こします(4月22日参照>>)

さらに西となる中国地方では、かつての嘉吉の乱(かきつのらん=赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺した事件)(6月24日参照>>)を起こした赤松討伐をキッカケに山陰の大大名にのし上がった山名(やまな)(「山名宗全」を参照>>)と、その嘉吉の乱で一旦沈むも、応仁の乱の五月合戦で盛り返して来た播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松(あかまつ)(5月28日参照>>)が、過去の因縁そのままに対立姿勢にありました(「真弓峠の戦い」参照>>)

そんな中、備前(びぜん=岡山県南東部・兵庫県&香川県の一部)にて赤松の家臣であった金川城(かながわじょう=同岡山市北区御津)松田元藤 (まつだもとふじ=元勝)でが山名側に通じた事で、一貫して赤松側だった三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)浦上則宗(うらがみのりむね)とが対立するようになります。

やがて山名VS赤松の戦いが痛み分けのまま終息に向かう(4月7日参照>>)のに対して、松田&浦上の両者は、その守護(室町幕府公認の今で言う県知事みたいな)権力から脱却して独自の道を歩み始め、それぞれの領地&支配圏の拡大に進んで行くのです。

かくして明応六年(1497年)3月16日、備前西部に勢力を伸ばしたい浦上宗助(うらがみむねすけ=則宗の甥?)が、約1000騎の兵を率いて三石を出陣し、上道郡(じょうとうぐん・かみつみちのこおり=岡山県岡山市中区周辺)へと乱入して村々に放火した後、旭川を渡って金山(きんざん・かなやま=同岡山市北区付近)に陣を張り、富山城(とみやまじょう=岡山県岡山市北区)を攻めたのです。

この時、富山城にいたのは松田惣右衛門(そうえもん)以下、松田一族の人々でした。

そこを、さらに富山城近くの伊福郷(いふくごう=岡山市北区周辺)に放火して城に迫る浦上勢に対し、金川城(かながわじょう=同岡山市北区御津)にて、この事態を知った松田元藤は、手早く500ほどの手勢を集めて笹ヶ瀬 (ささがせ=同岡山市北区)方面へと出陣し、後詰となって富山城内と呼応し、浦上軍を挟み撃ちの態勢にします。

この状況に浦上勢はやむなく撤退して、天然の要害である瀧口山に登り、ここで陣取りながら松田軍からの攻撃を凌ぎます。

その間に富山城を出た松田惣右衛門が湯迫(ゆば=同岡山市中区)に回り込んで浦上勢の退路を断つと、ここまで瀧口山の浦上勢を直接攻めていた松田元藤勢が攻撃を止め、遠巻きに浦上勢を眺めつつ、兵糧が尽きるのを待つ作戦に・・・

Ukitayosiie300a この状況を聞いた三石城では、浦上配下の宇喜多能家(うきたよしいえ)が兵を率いて援軍に駆け付け、退路を封鎖している松田惣右衛門勢を追い崩そうとしましたが、これがなかなかに強敵・・・

そこで能家は、配下の者数十人を百姓姿に変装させ、伏兵として投入・・・
脇田(わきた=同岡山市中区)周辺の民家に放火させました。

これに驚いた松田勢が消火に当たっているところを、宇喜多勢が不意打ちをかまし、慌てる松田勢に、瀧口山から山伝いに脇田へと出た浦上勢が宇喜多勢と一緒になって打ちかかります。

乱れに乱れた松田勢はやむなく退却・・・西へと兵を退くと、宇喜多勢が殿(しんがり=軍隊の最後尾)となって東へ向かい、無事、三石城へと戻ったのでした。

この戦いを皮切りに始まった「浦上松田合戦」と呼ばれる戦い・・・この両者の覇権争いはしばらく続きます。

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浦上松田合戦の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一般的に第二次とされる文亀二年(1502年)冬の戦いでは、宇喜多能家が300余騎を率いて備前福岡(ふくおか=岡山県瀬戸内市長船町)から吉井川を越えた事を知った松田元藤が、矢津峠(やづとうげ=同岡山市東区)にて敵勢を封鎖せんと宍甘村(しじかいむら=同岡山市北区大供付近)に陣取っていたところ、

足軽隊を先頭に、宇喜多能家自ら率先して真正面からぶつかって行き、有松右京進(ありまつさきのじょう)なる松田家臣の首を取って、その従者2名をも突き伏せた事から宇喜多勢の士気が頂点に達し、その勢いに負けた松田勢が敗退・・・勝利を確信した能家は将兵とともに勝鬨(かちどき)を挙げ、堂々の帰還を果たしました。

さらに第三次とされる翌文亀三年(1503年)1月の牧石河原(まきいしがわら=同岡山市北区付近)にて展開された旭川(あさひがわ)の戦いでは、浦上を援護すべく上道郡に出陣した宇喜多能家が、合戦のさ中に笠井山(かさいやま=同岡山市中区)に上って山上から麓の浦上勢を取り巻いてせん滅とする松田勢を確認した事から、自身の預かる全軍に旭川を渡らせて一気に松田勢に攻め込み、松田勢を敗走させたのです。

・・・て、浦上の話のはずが、なんか宇喜多能家の方が目立ってますやん!

そう、実は、お名前でもお察しの通り、この宇喜多能家さんは、後に備前岡山を支配する事になる宇喜多直家(なおいえ)のお爺ちゃんです。

これまで、
守護の赤松配下の
守護代の浦上配下で、
商人にも間違われるような一土豪(どごう=地侍)に過ぎなかった宇喜多家を中央にも名の知れる武家に押し上げた中興の祖とも言えるのが、この能家さん。。。

この後、浦上の後を継いだ浦上村宗(むらむね=宗助の息子)を担いで主家の赤松を倒す下剋上をやってのけますが、今度は、その浦上という主家を倒して備前全土を手に入れるのが孫の宇喜多直家というワケです(くわしくは「天神山城の戦い」参照>>)
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2021年3月10日 (水)

江戸湾の制海権を巡って~里見義弘VS北条氏康の三浦沖の戦い

 

弘治二年(1556年)3月10日、里見義弘北条氏康の三浦を攻める三浦沖の戦いがありました。

・・・・・・・

相模(さがみ=神奈川県の大部分)小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を本拠とし、更なる領地拡大を目指す北条氏綱(うじつな=北条早雲の息子)が、江戸城&高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)の戦いに勝利して武蔵(むさし=東京都と神奈川県・埼玉県の一部)に進出したのは 大永四年(1524年)1月の事でした(1月13日参照>>)

この状況に危機感を抱く安房(あわ=千葉県南部)里見義堯(さとみよしたか)は、大永六年(1526年)11月には江戸湾を船で越えて三浦半島に攻め寄せたりするものの、一方で里見家内の内紛も抱えるしんどい状況・・・(11月12日参照>>)

しかも、天文七年(1538年)10月の第1次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦いでは、ともに関東一円の支配を目指すべく里見が担いでいた小弓公方(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城が本拠の足利家)足利義明(あしかがよしあき)を失ってしまいます(10月7日参照>>)

一方、北条家では、天文八年(1539年)11月に氏綱の娘(後の芳春院)古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠の足利家)足利晴氏(はるうじ)のもとへと嫁ぎ、古河公方から関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役・執事)並みの扱いを受ける事になりますが(11月28日参照>>)

これらの状況に、もともと室町幕府公認で代々関東管領職を継いできた扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)山内上杉(やまのうちうえすぎ)は、里見はもちろん、甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)とも手を組み(2月11日参照>>)「北条包囲網」を形勢していたわけですが、

Houzyouuziyasu500a 天文十五年(1546年)4月、氏綱の後を継いだ息子=北条氏康(うじやす)武蔵河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)夜戦にて大勝利(河越夜戦)し、晴氏(氏綱の死後に敵対)もろとも上杉家を壊滅状態に追い込んだのです(4月20日参照>>)

 
その勢いで、氏康は、里見が領する安房への進出も度々行っていたようで…

『妙本寺文書』には、天文二十二年(1553年)4月付けで、北条から安房妙本寺(みょうほんじ=千葉県安房郡鋸南町)に対して、北条が禁制(きんせい=その地の権力者がある一定の行為を禁止する事)を与えた記録が残っています。

禁制とは、その地を支配した者が発する物・・・

この前年の天文二十一年(1552年)11月に、里見は真里谷信政(まりやつのぶまさ=武田信政)からの攻撃を受けており、何とか撃退はするものの、当然、無傷ではおられず、そこを北条に突かれた…という感じでしょうか(11月4日参照>>)

そう…
里見が渡海して鎌倉を攻撃する一方で北条も安房を狙う・・・つまり、両者ともに江戸湾の制海権を握りたいわけです。

かくして弘治二年(1556年)3月10日、北条からの襲撃を危惧する里見義弘(よしひろ=義堯の息子)は、先手必勝とばかりに、配下の万喜頼定(まんぎよりさだ=上総土岐氏?)正木時茂(まさきときしげ)ら5000余の兵とともに、数十艘の軍船で以って三浦半島沖に向かったのでした。

これに対抗する北条側は、氏康はじめ息子の北条氏政(うじまさ)らが城ヶ島(じょうがしま=神奈川県三浦半島の南端)に布陣し、近づいてくる里見方の軍船に火矢を射かけます。

その後、両者入り乱れての戦いとなり、里見方からは東条景経(とうじょうかげつね)木曽輝房(きそてるふさ)なる者が北条の舟に乗り込み、北条方の馬淵新八(まぶちしんぱち)中村源六(なかむらげんろく)らと海中にて一騎打ちとなり、あるいは里見方の竜崎掃部(りゅうざきかもん)が兜を矢で射抜かれながらも敵を切り崩し・・・

その間に敵地に上陸した万喜頼定&正木時茂らが北条方を攻撃し、名のある武将を次々と討ち取り、三浦新井城(あらいじょう=神奈川県三浦市三崎町)占拠し、そこに城兵を置いた。。。。

『里見代々記』にはありますが、どうやら、これは里見側のチョイと盛った言い分で、

実際には「里見が三浦半島を制した」という事実は無い模様で、この時も、ある程度の合戦の後に里見は兵を退き、北条が守り切っているので、結果的には引き分け?あるいは船団を組んで渡海して来たぶん里見のチョイ負け?という状況だったようです。

ただ、三浦半島に点在する舟主の中には、これを機会に里見からの印判(いんばん=印章)を与えられて使用する者もいたようで、このあたりの舟主たちも、戦国の世らしく、その時々に応じて両者のいずれかの属してウマくやっていたようです。

このあと、先の河越夜戦の後に関東を追われた山内上杉憲政(のりまさ)越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)を頼った事から、謙信が憲政を奉じて関東に出陣し、北条相手に戦う事になるのですが(6月26日参照>>)

当然、里見義弘も謙信に接近し、ともに北条を倒さんとの盟約を結びます。

『高橋文書』『相州兵乱記』などによると、
永禄四年(1561年)の10月8日には、やはり渡海してやって来た80隻に及ぶ里見水軍によるゲリラ戦が、同じ三浦半島沖で展開されたものの、北条方の海賊衆がこれを迎え撃ち、撃退したと記録されています。

とは言え、天正五年(1577年)に里見&北条の間で結ばれた房相一和(ぼうそういちわ=相房御和睦)によって両者の関係が改善されますので、制海権を巡る動きも穏やかになった物と思われます。

その後、このあたりの制海権争いが崩れるのは約30年後・・・
ご存知、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原城包囲(4月3日参照>>)という事になります。
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2021年2月11日 (木)

武田信虎VS北条氏綱~猿橋の戦い

 

大永四年(1524年)2月11日、甲斐武田信虎相模北条氏綱の国境線争い…猿橋の戦いがありました。

・・・・・・・

明応二年(1493年)に堀越公方(ほりごえくぼう=室町幕府から関東支配を命じられるが鎌倉に入れず堀越を拠点としていた)「伊豆討ち入り 」にて倒し(10月11日参照>>)、明応四年(1495年)には、後に居城となる小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取(2月16日参照>>)した北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)は、更なる相模(さがみ=神奈川県)進行を狙う一方で、そのけん制として、背後にあたる甲斐(かい=山梨県)との国境線である都留郡(つるぐん=大月市・都留市・富士吉田市などの周辺)あたりへと度々出兵しておりました。

明応四年(1495年)8月には籠坂(かごさか= 山梨県南都留郡山中湖村)に、
文亀元年(1501年)9月には小倉山(おぐらさん=山梨県富士吉田市)周辺に、
さらに文亀三年(1503年)にも梨木沢(なしきさわ=山梨県南巨摩郡富士川町)
などなど、複数の合戦が記録されています。

とは言え、この頃は、未だ北条早雲は、駿河(するが=静岡県西部)今川氏親(いまがわうじちか=早雲の甥)部将としての色が濃く、一方の甲斐も、国境線の都留郡を領していたのは小山田弥太郎(おやまだやたろう=信隆?)で、未だ小山田氏は武田(たけだ)に属していないので、

厳密には、小山田VS今川方の早雲との戦いという事になるわけですが・・・

Saruhasinotatakai
↑猿橋の戦い前後の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

しかし、やがて永正十六年(1519年)8月の早雲の死後に北条を継いだ息子=北条氏綱(うじつな)は、今川から独立した戦国大名としての道を歩みはじめ、

一時は戦乱状態だった甲斐も(7月22日参照>>)、第17代当主の武田信虎(たけだのぶとら)が内紛を治めて武田宗家を統一し、この時に信虎に帰服した小山田氏は武田家家臣として生き残る事になり、大永元年(1521年)10月には飯田河原(いいだがわら=甲府市飯田町)の戦いに勝利して(10月16日参照>>)信虎が甲斐統一に成功します。

つまり、ここからは相模と甲斐の国境線の戦いは、イコール北条氏綱と武田信虎の戦いとなり、それは、これまでとは次元の違う大きな物となっていくわけです。

そんなこんなの大永四年(1524年)1月、北条氏綱は、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)の拠る江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を奪取(1月13日参照>>)した事で、次に、朝興と同盟関係にある信虎の甲斐へと矛先を向けたのです。

これに対し信虎は、2月7日に1万8000の兵を率いて猿橋(さるはし・えんきょう=山梨県大月市猿橋町)に着陣します。

かくして大永四年(1524年)2月11日両者は猿橋にてぶつかったのです。

戦いの詳細は明らかではありませんが、このあと、戦場を小猿橋(こさるはし=神奈川県相模原市緑区北西部・旧津久井郡吉野町)に移動して、そこで複数の合戦があったように記録されていますので、おそらくは信虎が押し勝って、相模への侵入を果たし、北条が少し退き下がった格好になった物と思われます。

その後、信虎は、3月に武蔵(むさし=東京都と神奈川県・埼玉県の一部)へと侵入し、7月には、先の江戸城戦で北条に寝返った岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区)太田資高(おおたすけたか)を攻めていますが、

一方で氏綱が山内上杉家(やまうちうえすぎけ)上杉憲房(のりふさ)に働きかけて和睦を結んだ事から、武蔵遠征から帰国した信虎は、翌・大永五年(1525年)に入って、北条と和睦を結びました。

というのも、扇谷&山内の両上杉家は、ともに関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐役)を継承しながらも上杉同士で対立していたのを、信虎が介入して「対北条」という所で利害が一致し、ここのところは協力関係にあったので、「その山内上杉と北条が和睦したのなら…」という事のようですが、これは、単に表立った合戦をしないだけで、政治的な対立は治まる事なく、結局、この和睦は、わずかの間で破綻する事となります。

それは大永五年(1525年)2月(早っ!w@o@)w)・・・

氏綱が越後(えちご=新潟県)長尾為景(ながおためかげ)と連携して上野(こうずけ=群馬県)に侵攻しようとした際に、信虎が道を譲らなかったとか、為景が氏綱に贈った鷹を信虎が奪い取ったとか・・・

とにもかくにも、またもや、旧津久井郡付近で度々の合戦を繰り返していたようですが、
『勝山記』には、「津久井ノ城不落」とある事から、信虎は北条配下の津久井城(つくいじょう=神奈川県相模原市緑区)を落とせぬまま、

戦いは、
享禄三年(1530年)八坪坂(やつぼざか=山梨県上野原市)(4月23日参照>>)
さらに天文四年(1535年)の万沢口(まんざわぐち=山梨県南都留郡南部町)&山中湖(やまなかこ=山梨県南都留郡山中湖村)(8月19日参照>>)という激しく大きな戦いへと向かっていく事になります。

ちなみに、
ご存知のように、今回登場した皆々様は、、、
武田信虎は武田信玄(しんげん=晴信)の父、
今川氏親は今川義元(よしもと)の父、
北条氏綱は北条氏康(うじやす)の父、
長尾為景は上杉謙信(うえすぎけんしん)の父、
小山田弥太郎は武田二十四将の一人の小山田信茂(のぶしげ)の爺ちゃんか叔父さん、
と、まぁ、有名な戦国武将のお父ちゃん世代のお話という事になります。
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2021年2月 4日 (木)

今川から妻子を取り戻せ!~徳川家康と鵜殿長照の上ノ郷城の戦い

 

永禄五年(1562年)2月4日、先の桶狭間キッカケで独立した徳川家康が、今川領に残した妻子を取り戻すべく、今川配下の鵜殿長照の上ノ郷城を襲撃しました。

・・・・・・・・

上ノ郷城(かみのごうじょう=愛知県蒲郡市 )を居城とする鵜殿長照(うどのながてる)は、祖父の代から今川(いまがわ)に仕えており、先代=鵜殿長持(ながもち)今川義元(いまがわよしもと)の妹の間に生まれた武将です。

当時の今川義元は、本領の駿河(するが=静岡県東部)に加え、遠江(とおとうみ=静岡県西部)も領したうえ、尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)の侵攻によって風前の灯となってる松平広忠まつだいらひろただ)の要請を受けて(3月6日参照>>)、その息子の竹千代(たけちよ=後の徳川家康)を手元において三河(みかわ=愛知県東部)をも間接支配する大大名でありました。

その義元の妹を母に持つ鵜殿長照ですので、家臣というよりは、もはや今川の親族のような扱いで重用されていたわけです。

一方、天文二十年(1551年)3月に大黒柱の織田信秀を亡くしていた織田家では、息子の織田信長(のぶなが)が後を継ぐも、未だ尾張一国を統一できていなわ、弟・織田信行(のぶゆき=信勝)との内紛はくすぶるわで、織田を見限り今川方に寝返る者も出る始末【三の山・赤塚の合戦】参照>>)・・・

そこで天文二十三年(1554年)1月の村木砦の戦い(1月24日参照>>)でチョイと盛り返した信長は、先の赤塚で今川に寝返った山口教継(やまぐちのりつぐ)鳴海城(なるみじょう=愛知県名古屋市緑区:別名=根古屋城)や、織田VS今川の最前線の要地に建つ今川配下の大高城(おおだかじょう=名古屋市緑区)周辺に複数の砦(とりで)を構築し、これ以上の義元の侵攻に備えます。

そんなこんなの永禄三年(1560年)5月、いよいよ「天下に一番近い男」「海道一の弓取り」と称される義元が、大軍を率いての尾張侵攻を開始するのです。

この時、大高城の城代を務めていた鵜殿長照・・・織田方の砦に囲まれつつも、絶対に守らねばならぬ要地ゆえ身動きが取れず、いつしか城内の兵糧が枯渇し、もはや周辺の野山の草木を取って飢えをしのぎつつ、城兵を鼓舞して何とか耐えていましたが、そんな敵ウヨウヨ状態の大高城に兵糧を運び込んでくれたのが、父亡き後も、ずっと今川にて人質生活を送っていた徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)でした。
(ここで大高城の守備担当が長照から家康に代り、家康はそのまま大高城に留まる事になったとされます)

その兵糧運び込みがあったのが永禄三年(1560年)5月19日の未明・・・そう、この半日後に、あの桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市栄町&名古屋市緑区有松町)の戦いがあり、ご存知のように今川義元は討死(2015年5月19日参照>>)となったわけで・・・

Tokugawaieyasu600 で、以前書かせていただいたように、義元死すの知らせを聞いた家康は、今川領へとは戻らずに亡き父の持ち城であった岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)へと入り、今川からの独立行動に出ます(【桶狭間の戦いでの家康は…】参照>>)
(岡崎への帰還は今川の許しがあった…との説もあります)

一方、鵜殿長照は、義元の死を知った途端に一目散に自身の本領へと逃げ帰っています(家康の岡崎行きより速かったらしい)

とは言え、
この後、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)が頑張るものの、亡き父の存在があまりに大き過ぎた事で領内は混乱して、次々と今川を去る者が出て、果ては鵜殿の分家までが離反するものの鵜殿長照は今川を裏切る事無く、最後まで留まっていたとか・・

そんなこんなの永禄五年(1562年)1月、家康は、今や尾張をほぼ統一して隣国の美濃(みの=岐阜県南部)にも手を出して(5月14日参照>>)なかなかの上り調子だった織田信長との同盟を結びます清須同盟>>)

上記の通り、義元を倒した相手である信長と同盟を結んだのですから、これは、家康にとって、完全なる「今川との決別宣言」となるわけです。

ただ一つ・・・家康にはやり残していた事がありました。

あの桶狭間のドサクサで、そのまま岡崎城に入ったので、奥さんと子供を今川領の駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に置いて来たままだったのです。

家康の正室=築山殿(つきやまどの=当時は瀬名姫?)は、今川義元の姪(もしくは伯母)の子供であったと言われ、家康と築山殿の婚姻は、家康を今川の一族に迎える意味もあったとされていますので、奥さんの築山殿としては今川は実家なわけですが、家康が敵に回った今となっては、例え身内であろうと、その身が安全である保障はありません。

そして、その築山殿とともにるのが、未だ4歳の長男=竹千代(後の信康)と3歳の長女=亀姫(かめひめ)・・・コワイ嫁はんはとくもかく何としてでも、この三人を取り返したい家康さん。。。

そう言えば、かつて、自分も・・・
人質として今川に送られるはずだったのが、途中で織田に奪われ(8月2日参照>>)、しばらくの間、尾張で過ごしたものの、その後、義元家臣の太原雪斎(たいげんせっさい)の軍略によって救い出された事があったっけ。。。

そう・・・あの安祥城(あんしょうじょう=愛知県安城市)の戦い織田信広(のぶひろ=信秀の長男・信長の兄)を生け捕りにした雪斎が、父の信秀と交渉して、自分(家康)人質交換して取り戻した、あの方法です(11月6日参照>>)

そうと決めた家康は、ターゲットを探します。。。それが鵜殿の上ノ郷城でした。
(現当主=氏真の従兄弟やからね~でも築山殿も従兄弟かも知れない)

もちろん、目指す相手は、すでにオッサンの鵜殿長照ではなく、未だ10代前半の少年である息子=鵜殿氏長( うじなが)氏次(うじつぐ)兄弟。
(10代2人と幼子2人+母ならちょうどえぇ…かも)

かくして、
かの清須同盟から、わずか半月の永禄五年(1562年)2月4日、家康から、生け捕り作戦の総大将を命じられた松井忠次(まついただつぐ=後の松平康親)久松俊勝(ひさまつとしかつ)が、甲賀の忍び=伴太郎左衛門資家(ばんたろうざえもんすけいえ)ら80名とともに上ノ郷城内に忍び込み、氏長&氏次兄弟の生け捕りに成功するのです。

『寛政重修諸家譜』等では、
上記のような「上ノ郷城内に忍び込み」と書かれていたり、
「生け捕られたのは鵜殿長持の息子の長照&長忠兄弟」と書かれていたりしますが、
他の複数の文書から長持の死没が 弘治三年(1557年)である事が定説となっていますし、逆に『正行院の過去帳』では、長照が、この永禄五年(1562年)2月4日に亡くなっていますので、おそらく、生け捕りにされた兄弟というのは長照の息子=氏長&氏次兄弟であったと思われます。

そう、実は、落城した上ノ郷城から、何とか脱出した長照が現在の愛知県蒲郡市清田町にある安楽寺(あんらくじ)の横の坂で、先の伴太郎左衛門資家に討ち取られたために、今でも、この坂は「鵜殿坂」と呼ばれているそうで・・・

なので、上記の『寛政重修諸家譜』の内容のように「忍び込んだ」というよりは、やはり城攻めとなったものと思われ、結局は、德川勢の攻撃によって上ノ郷城が落ちた・・・という事のようです。

とにもかくにも、
その後、家康家臣の石川数正(いしかわかずまさ)が、氏長&氏次兄弟を連れて駿府に今川氏真を訪ね、人質交換の交渉を見事に成功させ、築山殿と信康・亀姫の3人を岡崎城に迎え入れる事ができたのです。
*厳密には築山殿は岡崎城に入れてもらえなかったみたいですが…
  ●築山殿について>>
  ●信康について>>
  ●亀姫について>>
  ●石川数正について>>

こうして、妻子を取り戻して今川への憂いを取り除いた家康は、

翌・永禄六年(1563年)~永禄七年(1564年)にかけて起こった三河一向一揆(みかわいっこういっき)を見事にまとめ(1月11日参照>>)、さらに2年後の永禄九年(1566年)には、朝廷に申し出て、姓を松平から德川に変更(12月9日参照>>)

永禄十一年(1568年)、いよいと今川領への侵攻を開始します。

★これからの家康↓
【井伊谷の戦いと遠江侵攻】>>
【引馬城入城~飯尾連龍とお田鶴の方】>>
【今川氏滅亡~掛川城の攻防戦】>>

去年から今年の大河ドラマ『麒麟がくる』桶狭間直前、その悪役っぷりがけっこう目立ってた鵜殿長照さん(大高城に来た風間家康くんに休憩禁止のパワハラしてた人です=第21回の感想を参照>>・・・この妻子との人質交換で再び出て来るものと思ってましたが、時間が無いためか、完全スルーでちょっと寂しかったですね。
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2021年1月27日 (水)

謎の死を遂げた秀吉の甥っ子~大和郡山城主・豊臣秀保

 

天正十九年(1591年)1月27日、養父の秀長の死を受けて、家督を継いだ豊臣秀保が大和郡山城主となりました。

・・・・・・・

豊臣秀保(とよとみのひでやす=羽柴秀保)は、豊臣秀吉(ひでよし)の姉である(とも=日秀尼)と元農夫の三好吉房(みよしよしふさ=弥助)との間に三男として天正七年(1579年)に生まれました。

長兄に豊臣秀次(ひでつぐ)、次兄に豊臣秀勝(ひでかつ)がいます。

上の兄たちとは10歳も年が離れており、計算上、智さんが46歳の時に産んだ子供になる事から、一説には「養子ではないか?」との話もありますが、兄たちと同様に、秀吉の後継者の一人として昇進をしている事実をを見ると、やはり、「身内だった(血縁関係があった)から」と思われます。

…で、先の、長兄の秀次が生まれたのが永禄十一年(1568年)で次兄の秀勝が生まれたのが翌年の永禄十二年(1569年)・・・

秀吉の年表>>で言うと、
秀次誕生の前年が、
秀吉の主君である織田信長(おだのぶなが)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市…後の岐阜城)を陥落させた(8月15日参照>>)年で、
その翌年が信長の伊勢北畠(きたばたけ)攻め(8月26日参照>>)
さらにその翌年は、信長危機一髪だったあの金ヶ崎の退き口(4月28日参照>>)・・・といった具合。

ご存知のように稲葉山城攻めでは搦手(からめて=側面)の崖を駆け上がり、北畠攻めでは先手を担い、金ヶ崎の退き口では殿(しんがり=最後尾)を務めて大活躍する秀吉ですが、この頃は、まだ、そこまでの武将ではありません。

と言うのも、後に天下人となる事から、その出自や正室のおね(寧々・禰)さんとの馴れ初めなど、色々と文献に登場する逸話が語られる事になりますが、実は、ちゃんとした公式文書に秀吉の名が登場するのは永禄八年(1565年)11月2日付けの知行安堵状(坪内文書)が初で、それ以前の事は、あくまで逸話の域を越えない話なのです。
(もちろん、色々と活躍していたから徐々に出世して行ってるんだと思いますが、墨俣の一夜城>>なんかもあくまで逸話です)

そんな中で、信長が浅井(あざい)朝倉(あさくら)と対峙した元亀元年(1570年)の姉川の戦い(6月28日参照>>)の翌年に、浅井方の磯野員昌(いそのかずまさ)を寝返らせて佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を開城(2月24日参照>>)させ、その北に位置する横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を守り、言わば対・浅井長政(あざいながまさ)最前線を担った事で(箕浦の戦い>>)、天正元年(1573年)8月に浅井が滅亡した時(8月27日参照>>)、その功績によって、秀吉は長浜城の城主=城持ちになったわけです(3月19日参照>>)

ちなみに、秀吉が織田家の重臣である丹羽長秀(にわながひで)柴田勝家(しばたかついえ)のような立派な武将になりたい」として、その名を木下秀吉(きのしたひでよし)から羽柴秀吉(はじばひでよし)に変えたとされているのが、この長浜城入りの前年です。

つまり、兄の秀次や秀勝が生まれたのはこの頃・・・どんどん出世街道を歩いていてメッチャ下っ端というわけではありませんが、かと言って、まだまだ上には大勢いる、未だ出世途上の段階だったわけです。

しかし、その後、天正五年(1577年)に、最終目標は西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)という、あの中国攻めの大将を命じられ、その10月には但馬(たじま=兵庫県北部)を攻略>>して、翌月には上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を落とし>>、さらに翌月に福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)>>破竹の勢いで西へ進み、この頃の秀吉は、あの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)も従えています。

そして秀保が生まれるのは岡山宇喜多直家(うきたなおいえ)を懐柔し(10月30日参照>>)、長かった三木城(みきじょう=兵庫県三木市)をようやく陥落させた>>まさに、その頃だったわけです。

要するに、兄二人と違って、秀保は、生まれながらに秀吉の後継者の一人=若様として育てられたのです。

なので天正十六年(1588年)に、わずか10歳で侍従(じじゅう=高貴な人(後陽成天皇?)の世話係)に任じられています。

しかし、その2年後の天正十八年(1590年)に、豊臣政権を支えていた秀吉の異父弟=豊臣秀長(ひでなが=小一郎)が病床につき、快復祈願も空しく、翌・天正十九年(1591年)の1月22日に、未だ男子の跡取りがいないまま、居城の郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)にて病死(1月22日参照>>)してしまったため、

その5日後の天正十九年(1591年)1月27日、わずか4~5歳の幼児であった秀長の娘=おみや(おきく)と祝言を挙げ、婿となった秀保が 養嗣子(ようしし=家督相続人となる養子)として秀長の後を継ぎ、郡山城の城主となったのです。

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大和郡山城址

実は、生前の秀長は、かの丹羽長秀の三男を養子に迎えていたのですが、それを押しのけての、今回の秀保の 養嗣子・・・やはり、それは「血筋を重んじて…」の事と考えられ、これもあって、冒頭の「秀保養子説」は否定され気味なわけですが・・・

こうして秀長の後を継ぐ事になった秀保ですが、未だ13歳の若さあった事から、秀長時代からの家老であった藤堂高虎(とうどうたかとら)桑山重晴(くわやましげはる)が、引き続き家老として秀保をサポートする事になります。

翌年の天正二十年(12月に文禄に改元=1592年)には従三位(じゅさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)の官位を授かり、その年に起こった文禄の役(ぶんろくのえき)(3月17日参照>>)では本陣となる名護屋城(なごやじょう=佐賀県唐津市)の普請にも加わり、1万5千の大軍を率いて参陣しています。
(ただし、未だ若年のため、実際に渡海して朝鮮半島で奮戦したのは藤堂高虎ら)

ちなみに、この文禄の役では、
長兄の秀次は、関白(かんぱく・天正十九年12月に秀吉の後を継いで就任)として京都の聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)にて内政をこなし、
次兄の秀勝は、出征中の朝鮮巨済島(きょさいとう=コジェ)にて病にかかり、そのまま天正二十年の9月に戦病死してます。

それまででも、秀保は、秀吉の後継者として秀次に次ぐ「ナンバー2」とされていましたが、上記の通り次兄の秀勝が亡くなった事で、ますます、その傾向が高まり、

一説には、朝鮮出兵した秀吉は「大陸を征服したあかつきには、後陽成(ごようぜい)天皇に(みん・中国)の皇帝になってもらい、秀次を明の関白にし、秀保に日本の関白を任せようと考えていたとも言われます。

文禄二年(1593年)の8月には、秀吉と、側室の淀殿(よどどの=浅井茶々)との間に豊臣秀頼(ひでより)が生まれますが(8月3日参照>>)、それでも翌年・文禄三年(1594年)2月27日に行われた吉野の花見(2月27日参照>>)では、徳川家康(とくがわいえやす)前田利家(まえだとしいえ)など名だたる武将とともに、秀次ともども、秀保も出席していて、未だ秀吉の期待が大きかった事がうかがえます。

ところが、その翌年の文禄四年(1595年)4月16日突然、秀保は17歳の若さで急死していまいます。

信憑性の高い一級史料である『駒井日記』には、
4月のはじめに天然痘(てんねんとう=疱瘡)か麻疹(ましん・はしか)によって体調を崩し十津川(とつかわ=奈良県吉野郡十津川村)にて療養のために温泉で湯治をしていたものの、4月10日から病状が悪化し、曲直瀬正琳(まなせまさよし=曲直瀬道三>>の弟子)ら複数の医師の治療によって14日には一時的に回復したものの、翌・15日に再び悪化し、16日に帰らぬ人となった・・・

と、ある事から、おそらくは病死というのが正しいのでしょうが、そこは、当然、様々な憶測が飛び交う事になります。

そうです。
秀保の死から、わずか2ヶ月後の6月末、兄の秀次に突然、謀反の疑いが持ち上がり、詰問の末、7月8日には官位をはく奪されて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に送られ、文禄四年(1595年)7月15日に、秀次は切腹させられるのです。

この「秀次切腹事件」の要因には、謀反の他にも、
罪のない領民を的にして射殺したとか、
妊婦を見つけてはその腹を裂いたとか、
殺生禁止の比叡山へ出かけては狩りを楽しんだ
といった乱行が発覚し「殺生関白」などと呼ばれて・・・なんて事も言われていますが(2007年7月15日参照>>)

実は、これと同じような話が秀保さんにもあります。

殺生禁止の猿沢池(さるさわのいけ=奈良県奈良市)法隆寺(ほうりゅうじ=奈良県生駒郡斑鳩町)の池で魚を捕って食べたり、
罪の無い庶民を殺害しまくったり、
定番の妊婦の腹を裂く行為(←は武烈天皇>>の時代からの悪の定番)

また、十津川での療養中に、散策していた滝の周辺にあった高い崖にて、側にいた小姓に向かって
「飛び降りてみろや」
と命令した事で、怒った小姓が秀保に抱き着いて、そのまま二人で崖を飛び降り水死した・・・なんて話もあります。

つまりは、
兄の秀次同様に、秀保も・・・
秀頼という実子が生まれた事によって、
「将来、息子と後継者争いになるのではないか?」
と感じた秀吉によって、あらぬ疑いをかけられて抹殺されたのではないか?
という憶測を呼ぶ事になり、後世に書かれた文献では、ある事無い事ゴチャ混ぜな逸話が散乱する事になったわけです。

今でも、ドラマや小説等では、この流れで描かれる事、ありますよね~

しかし、最近では、特に、秀次さんに関しては、そうではない説が囁かれるようになりました。

そもそも、謀反が原因なら、切腹ではなく処刑されるはずですし(家族は処刑されてますが>>)、一昨年(2019年)の8月には、
秀次の死の3ヶ月前に書かれた「秀次を大和(やまと=奈良)の国主にしたい」という内容の秀吉の書状が見つかった(2019年の新発見>>)事もあり、

今では、秀吉抜きで、周囲の家臣らが先々の後継者争いを懸念して秀次を追い込み、その仕打ちに心を病んだ秀次が、自ら高野山へ逃避行して、切腹=自殺したのではないか?
とも、言われるようになりました。

なので、秀保さんの場合も、単に病気が悪化して亡くなったのであろうと思われますが、秀次&秀勝&秀保の三兄弟全員が、わずか4年の間に亡くなってしまうのは、やはり、「何かあったのか?」と勘ぐってしまいますね。

しかも、この秀保の死によって、秀吉の右腕として活躍した弟の豊臣秀長の家系=大和豊臣家が断絶してしまうのですから、何とも悲しい事ですね。
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2021年1月20日 (水)

里見義堯と久留里城~北条との戦いの日々

 

永禄三年(1560年)1月20日、北条氏康に攻められた里見義堯が上杉謙信に救援を依頼しました

・・・・・・・

久留里城(くるりじょう=千葉県君津市久留里 )は、室町時代中期に上総(かずさ=千葉県中部)武田(たけだ)の祖=武田信長(たけだのぶなが)が構築した城でしたが、その後に、子孫の真里谷(まりやつ)に受け継がれるものの、戦国の動乱の中で安房(あわ=千葉県南部)を本拠とする里見(さとみ)の城となっていました。

やがて、あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)伊豆討ち入り(10月11日参照>>)堀越公方(ほりごえくぼう=静岡県伊豆の国市堀越を本拠とした)足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)倒した後に小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取して本拠とし(2月16日参照>>)て以来、徐々に関東へと勢力を伸ばして来る北条(ほうじょう)と、関東の覇権を巡って度々の衝突を繰り返していた里見・・・
●大永四年(1524年)1月:江戸城高輪の戦い>>
●大永六年(1526年)11月:鶴岡八幡宮の戦い>>

そんな中、古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした)足利高基(あしかがたかもと)晴氏(はるうじ)父子を看板に関東支配を目論む北条氏綱(うじつな=早雲の息子)に対し、小弓公方(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城を本拠とした)足利義明(よしあき=高基の弟)を担いで対抗する里見義堯(さとみよしたか)は、

天文七年(1538年)10月の国府台(こうのだい・千葉県市川市)の戦いに敗れて足利義明を失った(10月7日参照>>)事を受けて、これまでの稲村城(いなむらじょう=千葉県館山市)から久留里城へと本拠を移し、着々とその整備に勤しみ(現在残る曲輪の跡などはこの時の物と見られています)、もはや、公方という看板無しでの関東支配に乗り出します。

これに脅威を感じた北条氏康(うじやす=氏綱の息子)は、娘婿の北条綱成(つなしげ・つななり)に命じて有吉城(ありよしじょう=千葉市緑区おゆみ野)を構築して里見の侵攻に備えます。

一方、この状況に、里見をせん滅せんと撃って出た椎津城(しいづじょう=千葉県市原市)真里谷信政(まりやつのぶまさ=武田信政)らは、天文二十一年(1552年)11月、逆に、里見からの激しい攻撃を受けて敗北・・・真里谷武田家は滅亡します(11月4日参照>>)

こうして、真里谷氏が滅亡してから後も北条氏康は、天文二十三年(1554年)の11月を皮切りに、約3年間に渡って度々渡海し、
「敵を討ち取った者には太刀を与えよう」
「敵地の様子や秘密事項を入手した者には望みの知行地や引き出物を与える」
などと触れを出し、現地の土民たちをも動員して里見への攻撃を繰り返しますが、結局、久留里城を落とせないままでした。

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↑久留里城周辺の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄三年(1560年)に入って、北条が久留里城近くに新たに城を構築し、そこに続々と兵を投入して、まさに一触即発の状況となった永禄三年(1560年)1月20日、里見義堯は家臣の正木憲時(まさきのりとき)から上杉家臣の北条高広(きたじょうたかひろ)を通じて越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)救援を依頼するのです。

これを受けて直ちに出陣した謙信・・・越後の大物の、この速やかな来援のおかげで、北条はここで戦わず、一部の兵を置いて引き揚げていったのでした。

しかし、4年後の永禄七年(1564年)1月の第2次国府台の戦いにて里見義堯&里見義弘(よしひろ=義堯の息子)父子は北条に敗れてしまい(1月8日参照>>)、その勢いのまま侵攻する北条氏康に椎津城や小糸城(こいとじょう=千葉県君津市・秋元城とも)をも落とされ、上総深くまで入り込まれてしまいます。

さらに、その年の10月初めには、かの国府台から逃げ帰った義堯の拠る久留里城を北条軍が囲んだのです。

残念ながら、戦いの詳細や、いつ久留里城が落ちたのか?という記録が無いため、落城の日付を知る事はできませんが、永禄七年(1564年)10月7日の日付にて北条氏康が、小田小太郎(おだこたろう=小田氏治?11月3日参照>>久留里城の城将に据え
「もし、ここを守って忠誠を尽くしてくれたなら本国の常陸(ひたち=茨城県)に戻れるようにする」
との約束を交わしたという記録が残っていますので、おそらく、その頃には、すでに久留里城は開城されていたものと思われます。

ただし、ここで里見が滅ぶ事はなく、再び久留里城を奪回しています。

これまた詳細な記録が無いので曖昧ではありますが、永禄十年(1567年)9月の三船山(みふねやま=千葉県富津市と君津市・三舟山)砦の戦い(9月10日参照>>)の時には、再び里見義堯が久留里城を守っていますので、永禄九年(1566年)か翌十年頃には奪回していたものと思われます。

この後、里見の全盛期を築いた里見義堯は、天正二年(1574年)、68歳にて死去しますが、その死を迎えた場所も久留里城でした。

その死から3年後の天正五年(1577年)、義堯息子の里見義弘と氏康の息子=北条氏政(うじまさ)の間で和睦が成立し(房相一和)、北条と里見の長きに渡る戦いは終了する事になります。
(*ただし、この講和は小田原征伐で北条が滅亡するまで続いたという説と、わずか2年後に破綻していたという説があります)
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2021年1月13日 (水)

北条氏綱、武蔵江戸に進出~江戸城高輪原の戦い

 

大永四年(1524年)1月13日、江戸城内の太田資高の内応を受けた北条氏綱が、扇谷上杉朝興を高輪原で破り、武蔵に進出しました。

・・・・・・

関東に本拠を持ちながら、京都・室町にて幕府を開くことになった足利尊氏(あしかがたかうじ)は、嫡流の義詮(よしあきら=三男)の家系に京都で政務をこなす将軍職を、弟=基氏(もとうじ=四男)の家系に関東を支配する鎌倉公方(かまくらくぼう)を世襲していき、公方を補佐する執事(しつじ=後に関東管領)には上杉(うえすぎ=最初の頃は斯波・畠山)が継いでいくシステムとしますが、

やがて、第6代将軍=足利義教(よしのり)と第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)の頃になって将軍と鎌倉公方が対立し、永享十一年(1439年) の永享の乱(2018年2月10日参照>>)へと発展・・・さらにそれは結城合戦(4月16日参照>>)を経て、一旦、鎌倉公方は断絶状態に追い込まれるものの(2007年2月10日参照>>)、その後、その持氏の遺児=成氏(なりうじ)鎌倉公方に就任し、またぞろ亡き父が目指していたような独立色の強い関東支配を目標に将軍家と対立したため、鎌倉を追われて古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした事から)を名乗って大暴れしはじめます(9月30日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

それに対抗して、幕府は将軍=義教の息子である足利政知(まさとも)を、公式の鎌倉公方として関東に派遣しますが、関東が動乱のために鎌倉に入れず、やむなく政知は、手前の伊豆堀越(ほりごえ)堀越御所(静岡県伊豆の国市)を建設して、そこを本拠とした事から堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれました。

そんな堀越公方の2代目(←諸説あり)足利茶々丸(ちゃちゃまる)を倒して関東支配に乗り出したのが、ご存じ北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)(10月11日参照>>)でした。

その後、早雲が小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を手中に納める一方で、
管領の上杉家は、その上杉同士=扇谷上杉&山内上杉でモメる(9月27日参照>>)
成氏の後を継いだ古河公方2代目の足利政氏(まさうじ)の息子同志もモメて、古河公方を継いだ兄の高基(たかもと)に対抗して、弟の義明(よしあき)小弓公方(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城が本拠)を名乗って独立し、ますます関東の覇権争いが泥沼化していきました。

Houzyouuzituna300a そんな中、永正十六年(1519年)に早雲が亡くなってからしばらくは、早雲の後を継いだ息子の北条氏綱(うじつな)が父とともに切り取った伊豆(いず=伊豆半島)相模(さがみ=神奈川県の大部分)領国経営に力を入れて北条家の地盤固めを優先しつつ武蔵(むさし=東京都と神奈川県・埼玉県の一部)への進出を模索していた北条家に、

大永元年(1521年)2月、かねてより北条寄りだった古河公方の高基から、息子の晴氏(はるうじ)と氏綱の(芳春院)との結婚話を打診して来ます。

『北条記』には、この時、同時に、高基から「公方の御後見」の要請があったとされ、これは(どこまで公認&正式だったか?は時期的な事も含めて不明)事実上の関東管領を北条氏綱に担ってもらいたい」という事のようで、つまりは、上り調子の北条の力を得て弟の義明を抑え込み、関東公方の座を盤石な物にしようと考えたのでしょう。

さらに、この翌年の大永二年(1522年)の9月に氏綱の使者が古河御所に派遣されますが、その使者が帰り道に浅草寺(せんそうじ=東京都台東区浅草)を訪問している事も興味深い。。。どうやら、氏綱は、この機会に江戸を取る気満々な雰囲気。

そんな中、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)に仕えていた太田資高(おおたすけたか)が、北条側へと寝返り、氏綱の娘(浄心院)との結婚の約束を・・・もちろん、これは氏綱の誘いによる政略結婚ですが。。。

実は、この太田資高さん・・・代々上杉家に仕え、あの江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築した太田道灌(どうかん=資長)の孫です。

ご存知のように、道灌は扇谷上杉家の重臣で忠実な家臣でしたが、関東動乱での強さがハンパなく(8月16日参照>>)、その、あまりの強さを恐れた主君=扇谷上杉定正(さだまさ=朝興の祖父)道灌を冷遇したうえに暗殺した(7月26日参照>>)という過去があり、しかも、亡きジッチャンが建てた江戸城に、今現在進行形で仇の孫(定正の息子の養子)である上杉朝興は入っているわけで・・・

おそらくは、そんなジッチャンの遺恨もあっての、今回の資高の寝返り・・・

こうして資高の内応を得た氏綱は、大永四年(1524年)正月、伊豆&相模の軍勢を率いて江戸城攻略に出立します。

1月1日に品川妙国寺(みょうこくじ=東京都品川区・天妙国寺)に、翌12日に本光寺(ほんこうじ=東京都品川区)に入った氏綱に対して、江戸城の上杉朝興は、同じく品川に出陣して迎え撃つ作戦・・・

かくして大永四年(1524年)1月13日、上杉方の先陣=曽我神四郎(そがじんしろう)と、北条方の先陣=多米六郎(ため・たごめろくろう)高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)にてぶつかりました。

そこで、北条方の多米に続く2番手の大道寺八郎兵衛(だいどうじはちろべえ)が、即座にに2手に別れて東西から上杉勢を挟み撃ちにして攻め立てたため、上杉方は総崩れとなり、江戸城に向かって、一斉に撤退し始めました。

一方、江戸城を撃って出た朝興は、氏綱を迎え撃つべく、同じく品川に陣取っていましたが、それを察知した氏綱は渋谷方面へと迂回して江戸城へと押し寄せ、かねての手配通り、内通した太田資高の導きによって、なんなく江戸城に入ったのだとか。

細かな記録は曖昧なものの、太田資高の内応を機に上杉朝興を高輪の原で破り、江戸城に進出した事は確かなようで・・・

この後、江戸城に戻れなくなった朝興は、配下となっている板橋城(いたばしじょう=東京都板橋区)へと逃走しますが、そこでの合戦で城主の板橋某兄弟が討死し、やむなく河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)へと、さらに逃走していったのでした。

この時、かつて太田道灌が江戸城内に創建した芳林院(ほうりんいん)の住職は、氏綱に寺宝を献上して、その庇護下に入る事を表明しています。

こうして武蔵に進出した氏綱・・・

このすぐあとには上杉と同盟を結ぶ甲斐(かい=山梨県)の武田信虎(たけだのぶとら)との戦いもありまがらも(【猿橋の戦い】参照>>)

さらに天文七年(1538年)10月には、第一次国府台合戦にて足利義明を討ち取って(10月7日参照>>)小弓公方を滅亡させ、
天文八年(1539年)11月には、かの足利晴氏と娘の結婚も実現させて(11月28日参照>>)
公方の名を後ろ盾に関東支配の夢へと突き進む事になるのですが、

上記の足利家の系図を見ていただければ一目瞭然な通り、やがては、関東公方=足利家も名ばかりとなり、氏綱の息子=の氏康(うじやす)の時代には、河越夜戦にて、古河公方の晴氏もろとも扇谷&山内=両上杉を蹴散らして、名実ともに関東の覇者になる・・・という展開になってしまうわけですが、戦国三大奇襲の一つと言われるそのお話は4月20日のページでどうぞ>>
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2020年11月26日 (木)

松永久秀に城を奪われた筒井順慶の報復~大和高田城の戦い

 

永禄八年(1565年)11月26日、松永久秀に筒井城を奪われた筒井順慶が、布施氏の合力を得て大和高田城を攻撃しました。

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もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地・・・武士政権として全国に守護(しゅご=県知事みたいな)地頭(じとう=荘園等の管理者)を設置した鎌倉幕府でも、大和での守護的役割を果たしていたのは武士ではなく興福寺だったのです。

しかし、その後、寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちが、興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』などとして力を持ちはじめ、やがて、大和の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)となって行き、南北朝の動乱や応仁の乱を経て、大和も群雄割拠する戦国時代へと突入していきました。

Tutuizyunkei600a そんな中で、『衆徒』からのし上がって筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を本拠としてする筒井(つつい)が、筒井順興(つついじゅんこう)順昭(じゅんしょう)父子の時代に、『国民』の代表格である越智(おち)を抑え、大和での最大勢力となるものの、その順昭が亡くなり、わずか2歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が叔父=筒井順政(じゅんせい)の後見のもと後を継いだ頃、

永禄元年(1558年)の白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)の後に、第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦して、事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)配下の松永久秀(まつながひさひで)が、その翌年から大和平定に乗り出して来たわけです(11月24日参照>>)

★ここまでの奈良の戦国に関しては
  ●筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆
  ●奈良統一を目指す~筒井順昭の柳生城攻防戦
  ●奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦
  ●松永久秀の奈良攻略~第2次井戸城の戦い
  ●キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防

ここから始まった松永久秀VS筒井順慶による奈良争奪戦・・・

大和平定を開始した永禄二年(1559年)には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、そこを拠点とする松永久秀は、やがて勢いを失い始めた主家の三好に反比例するように、久秀が三好をしのぐ勢いを持ち始めます。

一方、これまでの経緯により、多くの国衆が筒井の配下となっていた大和ですが、相手が天下人=三好をしのぐ勢いの松永久秀となると、当然、その身の振り方も変わって来るわけで・・・筒井に友好的だった者も、しだいに松永になびくようになって行きます。

そんな中の一人が高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)を本拠とする高田(たかだ)・・・これまで、約100年に渡って、筒井の与力を務めていたものの、ここに来て反旗をひるがえしたのです。

そんなこんなの永禄八年(1565年)11月18日、松永久秀が順慶の筒井城を攻撃します。

実は、この時すでに、三好長慶亡きの後に三好を継いだ長慶の甥=三好義継(よしつぐ)と彼をサポートする三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸三好政康石成友通とは距離を置いていた松永久秀に対し、逆に、敵の敵は味方とばかりに筒井順慶は三好三人衆と同盟を結んでいました。

それに気づいた松永久秀が、この2日前の11月16日に飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を三好三人衆に攻撃された事を受けて、
「未だ同盟の足並みそろわぬうちに…」
と、筒井城を急襲したのでした。

その電光石火の攻撃に、三好の援軍が望めないと判断した順慶は、やむなく筒井城を捨てて、味方である布施(ふせ)の居城=布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと慌ただしく落ちていったのです(【筒井城攻防】参照>>)

しかし、当然の事ながら、今回の事は、兵力を温存せんがための早目の撤退であって、順慶が「負け」を認めたわけではないですから、ここで布施氏の合力を得た順慶は、すかさずリベンジに出るわけで・・・

もちろん、ここで危険を犯して順慶を受け入れた布施氏とて、その目標は久秀打倒!

そのターゲットは、ここに来て離反した高田城を守る高田当次郎(たかだとうじろう)・・・

かくして永禄八年(1565年)11月26日高田に攻め寄せた筒井&布施連合軍は、城下を焼き払います。

これに報復する高田方は、人質として預かっていた布施氏の面々を串刺しの刑にして対抗・・・その後、高田城に激しく攻めかかる筒井・布施勢でしたが、高田方の守りは固く、合戦は続くものの、なかなか落とせない。

そこで筒井方は高田城の周りに13の付城(つけじろ=攻撃の拠点とする城)を構築し、さらに、二重の堀を巡らして、そこには二間~三間(4~5m)おきに綱を張り巡らして鳴子(なるこ=人が引っかかると音が鳴る装置)を設置し、ネズミ一匹逃がさぬように慎重に、かつ、厳しく攻め立てます。

しかし、結局、最後まで高田城は落城せず・・・

この戦いが終わるのは、なんと永禄十一年(1568年)の10月の事。

そう、室町幕府の第15代将軍となるべき足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した、あの織田信長(おだのぶなが)の登場です。

この永禄十一年(1568年)の9月に上洛して三好三人衆らを蹴散らして、三好の本拠地だった芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に入った信長(9月7日参照>>)のもとに、いちはやく参じて、その傘下を表明し、「大和は切り取り次第(奪い取った地は自由に治めて良い)のお墨付きを得た松永久秀が、

その「将軍&信長」という後ろ盾を得て、高田城への囲みを解くよう介入して来たのです。

ご存知のように、
これ以降の三好三人衆は信長との抗戦にまい進する状態になるわ、信長の登場によって大和の国衆たちが織田になびくわで、3年かかっても高田城を落とせなかった筒井順慶は、ますます孤立無援の状態となってしまうのですが、、、

それはそこ、乱世の梟雄(らんせのきょうゆう)と称される松永久秀が、このまま信長の傘下として、のほほんとおとなしくしているわけはなく・・・久秀が信長に反旗をひるがえしてくれた事により、順慶が信長に近づくスキできて、今度は順慶が織田の傘下となるわけですが、そのお話は信貴山城の戦いのページ>>でどうぞm(_ _)m
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