2019年11月 2日 (土)

武田信玄の伊那侵攻~福与城・箕輪の戦い

 

天文十三年(1544年)11月2日、武田信玄が伊那松島原で福与城の藤沢頼親勢と戦い、勝利しました。

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天文十年(1541年)に父・武田信虎(のぶとら)追放して(6月14日参照>>)甲斐(かい=山梨県)一国の当主となった武田信玄(たけだしんげん=当時の名乗りは晴信ですが、今回は信玄で通させていただきます)は、すぐさま、その翌年の天文十一年(1542年)6月に、父の時代からの悲願であった信濃(しなの=長野県)攻略へと動き始め、諏訪一族の1人である高遠頼継(たかとおよりつぐ)を寝返させる事に成功し、それを足がかりに諏訪氏の本拠地である上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)を攻撃して陥落させます。

その後、負けた諏訪頼重(すわよりしげ)甲府(こうふ=山梨県甲府市)東光寺にて切腹させられ、ここに諏訪惣領家は滅亡しました(6月24日参照>>)

Takedasingen600bそして、その諏訪氏の遺領は、今後は宮川 (みやがわ=山梨県北杜市を流れる)の以西を高遠頼継の領地に、以東を武田の領地にする事で、一旦は合意したのですが、自らの寝返りによって事を成しえたと自負する高遠頼継は、やっぱり不満・・・

結局、諏訪滅亡から2ヶ月後の9月、高遠頼継は諏訪の遺臣たちを率いて、武田信玄に対して反旗ののろしを挙げるのです。

これに対し、信玄は、亡き諏訪頼重に嫁いでいた自身の妹=禰々(ねね)の生んだ寅王(とらおう=つまり頼重の息子で信玄の甥)前面に推しだして出陣したのです。

この時、その寅王は、生後わずか6ヶ月の乳児でしたから、実質的には完全に信玄の軍だったわけですが、やはり寅王が看板に掲げられている態勢にひるむ諏訪の遺臣たちは、どうしてもかつての主君の遺児に弓を引くことができず、その多くが伊那(いな=長野県伊那市)方面へと逃走・・・

そこを、武田軍の先鋒を預かる駒井高白斎(こまいこうはくさい・政武)(9月26日参照>>)は、9月26日、敵側の拠点であった荒神山砦(こうじんやまとりで=長野県上伊那郡辰野町)を奪取し、その後、頼継と結託している藤沢頼親(ふじさわよりちか)福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町:箕輪城とも)を陥落させ、彼らに武田への帰属を誓約させる事で、この一件は落ち着く事になりました。

その翌年の天文十二年(1543年)に、武田の重臣である板垣信方(いたがきのぶかた)を上原城に諏訪郡代として配置し、事は収まったかに見えました。

しかし、これは、あくまで高遠方による「寅王という看板と武田率いる大軍」に対してとったポーズであったようで・・・結局、さらに翌年の天文十三年(1544年)、諏訪領奪回を目論む高遠頼継は、朋友の藤沢頼親に働きかけて、武田に反旗を翻させるのです。

この動きを知った信玄は、10月16日に甲府を出陣し、諏訪に滞在した後、28日に有賀(あるが=長野県諏訪市)に移動し、29日には先発隊を、かの荒神山に派遣して近隣に放火しつつ砦を攻めさせます。

この荒神山砦は、高遠頼継の高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市高遠町)と藤沢頼親の福与城の出城とも言うべき位置にある砦・・・この時も、藤沢頼親に味方する信濃守護で義兄(頼親の奥さんが長時の妹)小笠原長時(おがさわらながとき)から派遣された援軍が伊那衆とともに守っていましたが、武田方は、信玄弟の武田信繁(のぶしげ)を大将に、わずか3時間ほどで攻め落としてしまいます(10月29日参照>>内容かなりかぶってますがお許しを…)

かくして天文十三年(1544年)11月2日武田勢は福与城へと迫ります。

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 福与城・箕輪の戦い~位置関係図 クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

迎える福与城兵は松嶋原(まつしまばら=長野県上伊那郡箕輪町)まで繰り出し、ここでぶつかった両者は、そのまま合戦へとなだれ込みました。

史料が少なく、合戦の詳細は不明な中、敵首26を挙げた武田方の勝利となった事は確かなれど、かと言って、その武田方も福与城を落とす事が出来ず・・・そうこうしているうちに、結局、福与城に高遠からの援軍が投入された11月26日に、武田方は福与城への攻撃を諦め、諏訪まで撤退し、信玄自身も12月9日には甲府へと戻ります。

この勢いに乗った高遠勢は、信玄の移動に合わせるかように、12月8日に諏訪へと侵攻し、諏訪大社(すわたいしゃ=長野県の諏訪湖周辺)神長官(じんちょうかん)である守矢頼真(もりやよりざね)屋敷に放火して気勢を挙げたのだとか・・・

とは言え、結局は、この翌年に再び信玄に攻められ、かの高遠城とともに福与城も陥落する事になるのですが、そのお話は、また「その日」に書かせていただきたいと思います。
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2019年10月14日 (月)

真田幸隆VS斎藤憲広の岩櫃城の戦い

 

永禄六年(1563年)10月14日、武田配下の真田幸隆が斎藤憲広の岩櫃城に総攻撃を仕掛けました。

・・・・・・・

岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)吾妻郡(あがつまぐん=群馬県の西北部分)の中心になる城で、鎌倉時代あるいは南北朝時代にこの地を収めた吾妻(あがつま)が築城したとも、室町中期に吾妻氏の子孫と称する斎藤憲行(さいとうのりゆき)が築城または主君から奪った物とも言われますが、

とにもかくにも、室町時代以降に斎藤氏の居城となってからは、信州真田(さなだ)氏と同族の滋野(しげの)一族の海野(うんの)浦野(うらの)西窪(にしくぼ)など吾妻郡一帯の地侍を支配下に置いて、かなりブイブイ言わせてたみたいですが・・・

しかし、戦国期に入った永禄三年(1561年)、滋野一族の鎌原幸重(かんばらゆきしげ)が武田家臣の真田幸隆 (さなだゆきたか=幸綱)甘利昌忠(あまりまさただ)を通じて甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の傘下に加わった事から、当時の岩櫃城主=斎藤憲広(さいとうのりひろ)が、鎌原幸重の 鎌原城(かんばらじょう=群馬県吾妻郡嬬恋村)に圧力をかけて来ます。

翌・永禄四年(1561年)の羽尾幸全(はねおゆきてる?)らとともに鎌原城を攻撃して陥落させた斎藤憲広は、ここを羽尾氏に守らせます。

Sanadayukitaka300a 一方、敗れた鎌原幸重は信濃(しなの=長野県)に逃走しますが、彼らの訴えを聞いた武田信玄は、さらに翌年の永禄五年(1562年)8月に真田幸隆 & 甘利昌忠に3000の兵をつけて鎌原城を攻めさせて奪還に成功・・・鎌原城は再び鎌原幸重の手に戻りました。

ここで、さすがに「相手は大物=信玄」と踏んだ斎藤憲広は、武田に対抗すべく越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)を味方にして後ろ盾とします。

信玄は、そんな斎藤憲広への抑えとして長野原城(ながのはらじょう=群馬県吾妻郡長野原町)を真田幸隆の弟=常田隆永(ときだたかなが)に守らせて備えました。

そんなこんなの永禄六年(1563年)、またもや斎藤憲広が動きます。

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岩櫃城の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

9月、まずは長野原城を攻めて、これを落とし、その勢いのまま鎌原城攻略へと向かいます。
(一説には常田隆永と息子の俊綱(としつな)はこの戦いで討死したとも…)

真田幸隆は、信玄傘下となっている手子丸城(てこまるじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町・大戸城)浦野重成(うらのしげなり)ら3000の兵を以って暮坂(くれさか=群馬県吾妻郡中之条町)雁ヶ沢(がんがさわ=群馬県吾妻郡東吾妻町)大戸(おおど=群馬県吾妻郡東吾妻町)三方面から岩櫃城を囲みます。

一方の斎藤憲広は、上杉配下の沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)などに援軍を要請して、9月15日、手子丸城へと迫りつつ、雁ヶ沢にて真田勢とぶつかりました。

暮坂方面から侵入した真田幸隆隊は、岩櫃城守備の背後の要である成田(なりた)仙蔵城(せんぞうじょう=群馬県吾妻郡中之条町)を攻略しましたが、これ以上の力攻めを止め、ここで一旦、斎藤憲広と和睦します。

しかし、その後すぐに、斎藤憲広の一族の離反(斎藤則実か?)や、憲広配下の海野幸光(うんのゆきみつ・ゆきてる)輝幸(てるゆき)兄弟が真田に降った事で、永禄六年(1563年)10月14日3度目の岩櫃城総攻撃を仕掛けたのです。

総大将が真田と言えど、バックにはあの武田信玄がついているわけで・・・やむなく斎藤憲広は、嫡子の則宗(のりむね)とともに上杉謙信を頼って越後へと落ちていったという事です。

今回の真田幸隆が流浪の身から武田の家臣となって頑張り、息子の真田昌幸(まさゆき)、さらに、その息子の信之(のぶゆき=信幸)幸村(ゆきむら=信繁)兄弟へとつながっていく・・・今回のお話は、ドラマや小説でよく描かれる時代の一時代前のお話という事になりますが、

ドラマで描かれるその時代の頃には、今回の岩櫃城も沼田城も仙蔵城も、真田の城として登場するワケですから、戦国の群雄割拠する中で「父ちゃん&爺ちゃん、メッチャがんばったね~」って感じですね。。。

2007年放送の大河ドラマ「風林火山」では、チョコッとこの時代のお話が出てきましたが、また、この有名武将の父ちゃんたちの時代のドラマも見てみたいですね~
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2019年9月 1日 (日)

織田信長の美濃侵攻~関城の戦い

 

永禄八年(1565年)9月1日、織田信長が斎藤方の長井道利の拠る美濃関城を攻め落としました。

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かねてより、度々隣国同志で争っていた尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)(9月22日参照>>)でありましたが、天文十八年(1549年)頃に、尾張の織田信秀(おだのぶひで)の息子=信長(のぶなが)と、美濃の斉藤道三(さいとうどうさん)の娘=濃姫(のうひめ=帰蝶)との婚姻が成立して和睦(4月20日参照>>)、ひとときの平穏が保たれました。

しかし弘治二年(1556年)に、その道三が息子の義龍(よしたつ)に敗れて(4月22日参照>>)政権交代した事で、直後から義父の弔い合戦を意識する信長・・・なんせ信長は、自分を裏切った息子と戦う先日の道三から【「美濃を譲る」の遺言状】>>を受け取っていたという話もありますから (遺言状は偽物の噂もありますが…)

Odanobunaga400aとは言え、かの義龍がなかなかの名将であった事で美濃には容易に手は出せず、また、自身の弟=信行(のぶゆき)(11月2日参照>>)尾張を統一の事など・・・目先の事も解決しなければならないわけで・・・

しかし、そんんなこんなの永禄三年(1560年)、信長が、ご存知桶狭間(おけはざま)今川義元(いまがわよしもと)を破って(5月19日参照>>)全国ネットに躍り出る一方で、斎藤では、この翌年=永禄四年(1561年)5月11日に義龍が死去し、未だ14歳の息子=龍興(たつおき)が家督を継ぐという出来事が・・・

これをチャンスと見た信長は、即座に美濃攻略に出陣・・・5月14日の森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)と23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)に勝利しました。

さらに、翌年の永禄五年(1562年)に織田信賢(のぶかた)を追放して尾張一国を統一した信長は、いよいよ本格的に美濃攻略に乗り出す決意を固め、永禄六年(1563年)には、美濃侵攻の拠点とするべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に新たな城を築きました。

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信長の美濃侵攻~位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その後、永禄七年(1564年)に犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)の家老の内応により、その犬山城が織田方の物となると、斎藤配下だった加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)佐藤忠能(さとうただよし)忠康(ただやす)父子が織田方に転向します。

そして犬山城攻略の勢いに乗った織田勢は、犬山と加治田の間にある大沢基康(おおさわもとやす)鵜沼城うぬまじょう=岐阜県各務原市多治見修理(たじみしゅり)猿啄城(さるばみじょう=岐阜県加茂郡坂祝町)を攻略し、両城から敗走した兵が逃げ込んだ岸信周(きしのぶちか)堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)を囲みます。

ここで、速やかなる開城を交渉する信長でしたが、岸信周は堂洞城にて預かっていた佐藤忠能の娘を磔刑(たっけい=はりつけの刑)に処して反発・・・結局、大激戦の末、堂洞城は陥落する(8月28日参照>>)のですが、この時、堂洞城の後方支援として織田勢の背後を狙っていたのが、関城(せきじょう=岐阜県関市)長井道利(ながいみちとし)でした。

この長い道利は、斎藤道三の息子ともされる人物で、それならば現当主=龍興の叔父になるわけですが、その真偽はともかく、かなり主家に近しい人物であり、龍興が信頼を寄せる武将でした。

今回の信長の美濃侵攻に当たっても、その忠誠心で以って、先の佐藤忠能や岸信周らと「信長との徹底抗戦」を誓い、互いに同盟を結んでいたわけですが、上記の通り佐藤忠能には裏切られ、そのせいもあって、堂洞城を目の前にしながら岸信周を自刃させてしまった事に、誰よりも悔しい思いをしていたのです。

かくして、憎い信長を迎え撃つべく関城に籠城する道利・・・

この関城は、南側に3つの砦が連立したさらに南に津保川(つぼがわ)が西に向かって流れ、北側は湧き水による湿地帯・・・しかも、その湿地帯から城の東西両側を2つの川が南下するという見事な天然の要害で、備える兵力もなかなかの物なうえに、それを指揮するのが長井道利という事で、信長も、堂洞城陥落後すぐに攻撃を仕掛けず、しっかりと見据えつつ、まずは、佐藤忠能に斎藤新五(しんご=新五郎利治・長龍:斎藤道三の末子?)を加勢につけて攻めさせる事に・・・

8月29日、連日の晴天続きで、かなり水かさが減っていた津保川をなんなく渡河した織田勢・約1000は、関城を守る砦の一つである肥田瀬砦(ひだせとりで=岐阜県関市)の攻撃に取り掛かりますが、ここで「関城からの救援が無い」と見て、さらに進んで関城の大手口へと迫ります。

しかし、ここで長井勢の強い反撃を受けて撤退・・・翌日、丸一日かけて将兵の休息と、今後の作戦を練って大勢を整えた永禄八年(1565年)9月1日、先と同じく斎藤&佐藤勢を先鋒に、丹羽長秀(にわながひで)隊、河尻秀隆(かわじりひでたか)隊、金森長近(かなもりながちか)隊などの諸隊が続き、やはり先日と同じく津保川を渡って関城へと迫り、各所の砦を攻撃し始めます。

ここを支えきれなくなった砦の守兵は次々と本城へと退いて、籠城戦に加わっていきました。

ここまで、長井道利のゲリラ的奇襲を警戒して遠くから指示を出していた信長は、ここで、自身の本陣を肥田瀬へと移動して、「東西南の三方向から一気に関城に総攻撃をかけよ!」と指示を出します。

もちろん、道利も檄を飛ばして必死の防戦に努めますが、東からの斎藤勢の攻撃に対抗していると西からの丹羽勢が攻めかかり・・・と、城内外入り乱れての大混戦となるうち、長井勢が次々と討たれはじめ、とうとう、道利の息子=道勝(みちかつ=井上道勝*討死してない説もあります)など、側近までも討死してしまいます。

「もはや、これまで!」
と自刃も覚悟した道利でしたが、主君=龍興の今後を思うと、
やはり「ここで死ぬわけにはいかない!」
と思い直し、数人の従者を連れて城を脱出・・・主を失った関城は陥落しました。

これにて東濃(とうのう=美濃東部=岐阜県南東部)における反信長勢力は一掃され、斎藤氏の本拠=稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)の外郭を抑えた事になります。

こうして、信長はいよいよ念願の稲葉山城攻略へと向かうわけですが、そのお話は約2年後の永禄十年(1567年)・・・
*8月1日の【美濃三人衆の内応】>>
*8月15日の【天下への第一歩~稲葉山城・陥落】>>
それぞれのページでどうぞ
(内容がかぶってる部分もありますが、お許しを…m(_ _)m)
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2019年8月 1日 (木)

上杉謙信VS長尾房長&政景~坂戸城の戦い

 

天文二十年(1551年)8月1日、上杉謙信が長尾房長&政景父子の籠る坂戸城への総攻撃を通告しました。

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坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)の城主=長尾房長(ながおふさなが)は、越後(えちご=新潟県)守護代(しゅごだい=副知事)を務める越後長尾(ながお)の分家である上田長尾(うえだながお)の6代目当主。

本家の越後長尾家の当主である長尾為景(ためかげ)とは兄弟だったという説もあるものの、一般的には実父が長尾憲長(のりなが)、養父がその弟の長尾景隆(かげたか=つまり房長の叔父)で、越後長尾家の一族ではあったものの、関東管領(かんとうかんれい=室町幕府将軍補佐)越後守護(しゅご=県知事)でもある山内上杉(やまのうちうえすぎ)被官(ひかん=官僚)であったとされます。

そんな中、ここんとこの戦国下剋上で守護代の為景が守護の上杉をしのぐ勢いを見せて来ていた(長森原の戦い参照>>永正の乱参照>>)ものの、一方で越後内での争いにより、為景は天文五年(1536年)に隠居に追い込まれ、嫡男の長尾晴景(はるかげ)が、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)にて、その後を継ぐ事になります。

しかし、この晴景さん・・・戦いにはあまり向かない穏やかな性格であったようで、ある程度越後の内乱は収めたものの、当時の越後守護=上杉定実(さだざね=晴景の養父)が絡んだ奥州(おうしゅう=東北地方)伊達(だて)の内紛(4月14日参照>>)の影響を受け、なかなか国内の情勢は定まらない・・・

そんな中、仏門に入っていた晴景の弟が還俗(げんぞく=仏門に入っていたいた人が一般人に戻る事)して長尾景虎(かげとら)と名乗って栃尾城(とちおじょう=新潟県長岡市)の城主となって、謀反を起こした黒田秀忠(くろだひでただ)を倒した事から、一部の家臣の間で景虎を当主に擁立する動きが見え始めます。

Uesugikensin500 この景虎が後の上杉謙信(けんしん)です。
(後で養子の景虎が出て来てややこしいので、ここからは謙信の名で…)

当然、家中は晴景派と謙信派、真っ二つに分かれる事に・・・この時、謙信の母=虎御前(とらごせん)の実家である古志長尾(こしながお)の勢力が一族内で強大になる事を恐れた長尾房長は、晴景に味方し、両者一触即発の状態となりますが、ここに上杉定実が仲裁に入ります。

現状は「上杉>長尾」とは言え、なんだかんだで定実は長尾家の主君ですから、とりあえず、このゴタゴタは晴景派が矛を収め、天文十七年(1548年)12月に晴景は謙信と「父子の義」を結んで隠居し、19歳の若き謙信が春日山城主となりました。

とは言え、当然ですが、房長の心の奥底には、多少の不満は残ったまま・・・そんなこんなの天文十九年(1550年)2月、かの上杉定実が亡くなります。

定実には後継ぎがいなかった事から、その死の直後に、謙信は、時の将軍=足利義輝(あしかがよしてる)から、実質的な国主待遇を許可されたのです。
つまり、それは「上杉家に代わって、守護をやれ」という事・・・

ここで、房長の中にあった悶々とした不満が、一気に噴出します。

天文十九年(1550年)12月、房長は息子の長尾政景(まさかげ)とともに、坂戸城に籠って反謙信の旗を揚げるのです。

これを知った謙信は、先手を取って、房長に味方しそうな会津黒川城(くろかわじょう=会津若松市)主の蘆名盛氏(あしなもりうじ)に対し、その家臣である松本右京亮(まつもとうきょうのすけ)に宛てた12月28日付けの書状にて(おそらく味方にならぬよう釘を刺す意味で)房長&政景謀反の報告をします。

こうしておいて、年が明けた天文二十年(1551年)1月15日、謙信は、板木城(いたぎじょう=新潟県魚沼市板木)に本拠を持つ房長方の発智長芳(ほっちながよし)を襲撃します。

発智のピンチを聞きつけた金子尚綱(かねこなおつな)が即座に出陣し板木に向かいましたが、時すでに遅し・・・現地に到着した時は、発智長芳の妻子らが人質として春日山城に連行された後でした。

さらに謙信は、2月14日にも、こんこんと雪が降り積もる中、発智長芳への攻撃に向かいますが、さすがに雪深く、この時は決定打を放つ事はできませんでした。

そんな中、房長&政景父子は、なんだかんだで「謙信には勝てない」と、この春頃から、かたくなな姿勢を緩めて和平に向けて交渉を開始しますが、謙信に許す気配はなし・・・

かくして天文二十年(1551年)8月1日謙信は、坂戸城への総攻撃を通告したのです。

謙信の襲撃計画を知った房長&政景父子は、慌てて誓詞(せいし=忠誠を神仏に誓う文書)を提出し降伏しました。

それでも、許すつもりは無かった謙信でしたが、古くからの老臣たちの助命嘆願があった事や、なんだかんだで同じ長尾の一族である事から、最終的に房長&政景父子を許す事とし、謙信の姉=仙桃院(せんとういん=当時は綾?)が、息子の政景に嫁ぐ事で両者の溝を埋め、今回は一件略着となるのです。

ただし、この政景と仙桃院との結婚については天文五年(1536年)~六年前後という説もあり、その場合は上田長尾家と越後長尾家の関係強化のための婚姻であり、その縁があるからこそ、今回の謀反も許したのでは?と考えられています。

とにもかくにも、謙信にとっては、ここで長尾房長&政景父子を臣下とした事で、長尾家相続以来くすぶっていた一族の中での争いに終止符を打つことができ、憂いなく外へと目を向ける事ができるようになり、この後、わずか22歳で越後を統一する事になります。

一方の房長&政景父子・・・父の房長は、この翌年の天文二十一年(1552年)に亡くなりますが、その後を継いだ政景は、自身もろとも謙信の配下となった上田衆(上田長尾家の家臣)を率いて、越後長尾家の重臣として活躍し、あの弘治二年(1556年)の謙信出家騒動の時にも、必死のパッチで主君を引き留め、何とか思いとどまらせています(6月28日参照>>)

しかし、その8年後の永禄七年(1564年)7月、坂戸城近くの野尻池にて舟遊びをしていたところ、ともに舟に乗っていた謙信の重臣=宇佐美定満(うさみさだみつ)もろとも舟から落ち、溺死してしまうのです(7月5日参照>>)

その7月5日のページに書かせていただいたように、この溺死に関しては、イロイロ言われています。

舟の上でお酒を飲んでいた事から、酔った勢いの事故説もありますが、謙信の命を受けた宇佐美定満による命懸けの暗殺とも・・・どうやら、なんだかんだで越後長尾家と上田長尾家の溝は埋まってはいなかったようで・・・ その因縁は謙信の死後のアレコレを見るとなんとなく見えて来ます。

そうです・・・子供がいなかった謙信が、自身の養子として迎えた上杉景勝(かげかつ)は、この政景さんと仙桃院の子供・・・

謙信亡き後に、もう一人の養子=上杉景虎(かげとら=実父は北条氏康)と後継者を巡って争った御館の乱(おたてのらん)の時、景虎の支援をしたのが古志長尾家で、一方の景勝の配下は当然、実家でもある上田衆なわけですが、ご存知のように、結果的に景勝が勝利し(3月17日参照>>)上杉家の後継者は景勝・・・となる。

なんだか、かつて晴景派と謙信派に分かれた、あの時の古志長尾家VS上田長尾家の代理戦争のよう・・・

ところで、この御館の乱の景勝勝利には、景勝側が、未だ謙信が生きている間に、いち早く春日山城の本丸と武器庫と金蔵を占拠したと、当時、景虎実家の北条と同盟を結んでいて景虎に援軍を出すつもりでいたた甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより)寝返らせた事が大きく関わっているのですが・・・

もちろん、御館の乱は上杉家を真っ二つに分けた家中の大乱ですから、その勝因&敗因も色々ありますが、私個人的には、上記の2件が成功した事が景勝勝利につながる、かなり重要度が高い出来事だと思っています。

が、この二つ一大事業をやってのけたのは、実は、景勝直属の上田衆ではい無い人・・・ 春日山城の占拠は、上杉定実の一族の上条政繁(じょうじょうまさしげ)という人で、武田との交渉は越後の北部を領していた新発田重家(しばたしげいえ)だったとされています。

しかし、この戦いの後、上杉家内で大きく出世するのが上田衆だった・・・

そのためか?結局、上条政繁は豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)のもとへと走り、新発田重家は独立を夢見て反旗を翻す事になるのですが、そのお話は【上杉景勝の宿敵~独立を夢見た新発田重家】>>でどうぞm(_ _)m
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2019年7月20日 (土)

上杉朝定VS北条氏綱~難波田憲重の松山城風流合戦

 

天文六年(1537年)7月20日、上杉朝定の拠る武蔵松山城を北条氏綱が攻撃した松山城の戦いがありました。

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現在の埼玉県にあった武蔵松山城(むさしまつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)

その誕生は、応永三年(1396年)もしくは六年(1399年)に扇谷上杉氏(おおぎがやつうえすぎ)家臣の上田友直(うえだともなお)によって築城されたと考えられており、あの新田義貞(にったよしさだ)鎌倉攻め(5月22日参照>>)の際に、ここに駐屯したとも言われますが、あくまで、それは言い伝え・・・

なんせ、武蔵(むさし=東京都&埼玉県と神奈川県の一部)比企丘陵(ひききゅうりょう=埼玉県東松山市・比企郡滑川町・嵐山町・小川町付近)の東端に位置し、南北・西の三方に川を従えた天然の要害地にある松山城。

おそらくは、東の下総(しもうさ・しもふさ=埼玉県&東京都の東部と千葉県北部・茨城県南部)、北の上野(こうずけ=群馬県)から武蔵を守る目的で構築された最前線の城であった事がうかがえ、その時代々々において、度々の関東支配を狙う武将たちによる争奪戦が繰り返された場所だったのです。

特に、文明十八年(1486年)に、活躍し過ぎな部下だった太田道灌(おおたどうかん)を恐れた主君=上杉定正(さだまさ・扇谷)が、その道灌を殺害(7月26日参照>>)してからは、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)との抗争が激化し、度々、この地が合戦場所となっていました。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
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ちなみに、この「山内&扇谷」という両上杉家は、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、もともと地元が関東であるにも関わらず、将軍は京都にいなければならないため、次期将軍を三男の 義詮(よしあきら)に譲り、その弟の基氏(もとうじ)に地元を支配すべく関東に派遣して鎌倉公方(かまくらくぼう)と称した、その鎌倉公方の補佐役=執事(しつじ=後の関東管領)を代々務める家柄でした。

とは言え、山内と扇谷では山内が本家なため、関東管領はほとんど山内上杉家から出ていたのですが、ここに来て、その太田道灌の活躍により(5月13日参照>>)扇谷上杉が力をつけつつあったわけなのですが・・・

しかし、この両者がゴチャゴチャやってる間に、その間をすり抜けて自力で小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)奪取して、徐々に関東における勢力範囲を伸ばしはじめていたのが北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎宗瑞)でした。

永正十三年(1516年)には、新井城(神奈川県三浦市)を落として(7月13日参照>>)相模(神奈川県の大部分)一帯を北条が制覇した事で、危機感を抱いた両上杉家が、和睦して対抗していますが、大永四年(1524年)には、早雲の後を継いだ北条氏綱(うじつな=早雲の長男)江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を奪われ、当主の上杉朝興(ともおき=定正の養孫)河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に逃亡する場面もあったとか・・・

そんなピンチな上杉朝興は、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事)武田信虎(たけだのぶとら)の息子=晴信(はるのぶ=後の信玄)に娘を嫁がせて同盟を結んで、その力を借りながら戦いますが、残念ながら江戸城奪回を果たせぬまま天文六年(1537年)4月に死去・・・息子の上杉朝定(ともさだ)が後を継ぐ事になります。

ところが、この息子の朝定が未だ13歳という若さ・・・当然ですが、かの北条氏綱が、この好機を見逃すはずはありません。

もちろん、そこンところは上杉側も重々承知。。。朝興の遺言に従い、弟(つまり朝定の叔父)上杉朝成(ともなり)が若き当主の後見人に立ち、神太寺にあった古城を深大寺城(じんだいじじょう=東京都調布市深大寺元町)としてを再構築して北条の侵攻に備えます。

朝興の死から3ヶ月後の7月11日、北条氏綱が、自ら7000騎の軍勢を率いて、現時点で上杉朝定らが本拠とする河越城の南西に位置する入間郡(いるまぐん=現狭山市内)付近まで出張ると、4日後の7月15日、これを受けた上杉勢は約2000の軍勢で以って迎え撃ちます。

しかし、深入りした上杉朝成が敵兵に生け捕られたうえに、味方に700余名の死者を出し、上杉勢は敗退・・・やむなく朝定は河越城を捨て、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)の守る松山城へと逃げ込んだのです。

かくして天文六年(1537年)7月20日松山城に駒を進めた北条氏綱勢に対し、残党をかき集めて体制を立て直した難波田憲重が撃って出ます。

合戦の勝敗については・・・
いくつかの文献で、北条方の激しい攻撃に耐えきれずに松山城は陥落し、上杉朝定は山内上杉憲政(のりまさ)を頼って上野平井城(ひらいじょう=群馬県藤岡市)へ逃れ、勢いに乗じた北条方が、その後、近隣の町屋をことごとく焼いた・・・と記されたりしているのですが、一方で、難波田憲重らの奮戦によって松山城を死守したという話もあります。

一般的には、この戦い以降、かの河越城を失った上杉朝定が、松山城を居城とし、河越奪回、いや、なんなら江戸城奪回を夢見て、松山城に大幅な拡張工事をしたと・・・つまり、難波田憲重らの奮戦によって北条勢を撃退したとの見方がされています。

Nanbadanorisige500a で、この時のエピソードとして語られているのが「松山城風流合戦(まつやまじょうふうりゅうがっせん)です。

北条勢を撃退した難波田憲重が城中へ取って返そうとした時、未だ攻撃中の寄せ手側から山中主膳(やまなかしゅぜん)なる武将が進み出て
♪あしからじ よかれとてこそ 戦はめ
 なにか難波田(なばた)の 浦崩れ行く ♪
と一首の和歌を詠みます。

「おいおい、どうしたんや!難波田は戦わんと逃げ帰るんか?」
城中へ戻ろうとする憲重を挑発して聞いて来たのです。

すると憲重は、古今和歌集の中の一首を引用して
♪君おきて あだし心を 我もたば
 末の松山 波もこえなん ♪
と返します。

上記の通り、この歌は古の歌集にある歌で、本来は、
「君をほっといて浮気するなんて、あり得へん」
という恋の歌です。

歌の中の「末の松山」とは、現在の宮城県多賀城市付近にあったとされる山なのですが、それが、とても高い山なので、そこを波が越えて行くなんて事はあり得ない・・・なので、古くから、そのあり得ない事の例えとして「末の松山、波もこえなん」という言い回しが使われていたのですね。

今だと何でしょ?
「天地がひっくりかえる(くらいあり得ない)みたいな言い回し?

それとも、
くりぃむ上田さんの「センターフライがファールになる(くらいあり得ない)とか、
フット後藤さんの「隠れミッキーが前面に出て来る(くらいあり得ない)てな例えツッコミみたいな感じかな?

とにもかくにも、つまりは
「主君をほったらかして目先の勝負に挑むような事は、俺の中ではあり得へんねん」
という自らの忠誠心を現すのに、古今和歌集の歌を、それも、今戦っている場所=「松山」というフレーズの入った歌を使ったという事です。

なんという教養!
なんというカッコ良さ!

あまりにカッコ良すぎて、さすがに、「それは、末の松山を波が越えるくらい無いやろ!」とツッコミたいところではありますが、ここはカッコ良さに免じて、そんな戦国ロマンに浸るのもアリかと・・・

とは言え、ご存知のように、この9年後、北条のスキを突いて河越城を奪回しとうした上杉朝定が、逆に奇襲をかけられて、その命までも落としてしまう、河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)・・・戦国三大奇襲の一つに数えられる、この有名な合戦において扇谷上杉は、滅亡し、このカッコイイ難波田憲重も、その戦いで亡くなってしまいます。

一説に、難波田憲重は戦いの最中に井戸に落ちて死んだとされ、ちょっとカッコ悪い死に方のようにも言われますが、戦いの最中の井戸・・・ですからね。

普通に歩いてて落ちたわけでは無いですし、もし、そうだったとしても、松山城でのカッコ良さとで「プラマイ0」・・・いや、若き主君を、それも、チョイ落ち目の主君に忠誠を誓い、支え続けたその姿は、引いて余りある名将ではないかと・・・

ところで、今回の河越夜戦の一件で北条に開け渡された松山城・・・この城を奪回するのは、この難波田憲重の娘婿で、かの太田道灌の曾孫太田資正(すけまさ・三楽斎)…と、歴史の流れはとめどなく続いていきますが、

そのお話は2011年9月 8日=【道灌のDNAを受け継ぎ軍用犬を駆使した智将・太田資正】でどうぞ>>
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2019年6月 8日 (土)

細川高国が自刃…大物崩れ~中嶋・天王寺の戦い

 

享禄四年(1531年)6月8日、天王寺の戦いに敗れて大物崩れとなった細川高国が自刃しました。

・・・・・・・・

応仁の乱後に、明応の政変(4月22日参照>>)で以って政権を握った室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)は、その政変の前後の状況変化ゆえ、3人の養子を迎える事になりますが、その死後に、3人の養子=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)の間で後継者争いが勃発・・・その中で、永正八年(1511年)の船岡山の戦い(8月24日参照>>)と永正十七年(1520年)の等持院表(とうじいんおもて)の戦い (5月5日参照>>)に勝利して一人勝ちとなった高国は足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立確固たる高国政権樹立に成功します。

Hosokawatakakuni600a しかし大永六年(1526年)、高国は自らの勘違いで重臣の香西元盛(こうざいもともり)を上意討ちしてしまった事から、その実兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が高国に反旗を翻し(10月23日参照>>)、しかも、このタイミングで阿波(あわ=徳島県)に退いていた亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)と配下の三好元長(みよし もとなが)らが挙兵して上洛して来ます。

大永七年(1527年)2月13日、波多野&柳本勢に合流した晴元は桂川原(かつらかわら)の戦い に勝利(2月13日参照>>)・・・負けた高国は将軍=義晴とともに近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退きます。

その後、しばらくは京都の奪回に向けて奔走する高国は、享禄元年(1528年)11月には伊賀(いが=三重県西部)仁木義広(にっきよしひろ)のもとに、翌年1月には娘婿に当たる伊勢(いせ=三重県中北部)北畠晴具(きたばたけはるとも)のもとに、5月には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉孝景(あさくらたかかげ)に、8月には出雲(いずも=島根県東部)尼子経久(あまごつねひさ)に、翌9月には三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)浦上村宗(うらがみむらむね)に会い・・・と、あちこちを転々として各人に出兵を要請して廻ります。

浦上滞在中の享禄三年(1530年)6月29日に播磨依藤城(よりふじじょう=兵庫県小野市・豊地城)を攻撃中の柳本賢治に刺客を派遣して暗殺に成功したうえに浦上の援軍を得た高国は、ここ最近、晴元と元長の関係がギクシャクし始めて元長が阿波に戻っていた事をチャンスと見て、いよいよ摂津(せっつ=大阪府中北部)に出陣します。

7月には別所就治(べっしょなりはる)三木城(みきじょう=兵庫県三木市)を攻略し、8月には神呪寺(かんのうじ=兵庫県西宮市・神咒寺)に、本陣を設けて後、9月から11月にかけて、晴元派の富松城(とまつじょう=兵庫県尼崎市)を陥落させ、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)尼崎城(あまがさきじょう=兵庫県尼崎市)での戦いにも勝利します。

一方の晴元も、諸城の守りを強化して防戦に努めますが、高国勢の勢いは止まらず、京都の各所に出没して禁裏(きんり=天皇の住まい)をも脅かすようになります。

さらに勢いづく高国勢が、年が明けた享禄四年(1531年)3月に池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を落とすと、近江の朽木(くつき=滋賀県高島市)に身を隠していた将軍=義晴も坂本まで進出し、京都奪回の機会をうかがいます。

この高国勢の快進撃に、いよいよヤバくなって来た晴元は京都を脱出し、自らが擁立した堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)のいる(さかい=大阪府堺市)へ・・・そんな晴元は、これまで頼りにしていた柳本賢治も今は亡く、ここは何とか、あの三好元長に戻って来てもらいたい(^人^) オ・ネ・ガ・イ♪

実は元長・・・先の等持院表の戦いで祖父(もしくは父)三好之長(みよしゆきなが)を亡くしています。。。つまり高国は、元長にとって、もともと祖父の仇なわけで、、、

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四天王寺・西門

かくして享禄四年(1531年)3月、元長は、堺を制圧すべく住吉(すみよし=大阪市住吉区)に出撃して来た高国勢に対し、摂津中嶋(なかじま=現在の天王寺周辺)に布陣して高国勢の先鋒を少し後退させますが、高国も天王寺(てんのうじ)難波(なんば)今宮(いまみや)に陣取り、浦上勢も野田福島(のだ・ふくしま=大阪市福島区)に布陣します。

これから5月頃まで、天王寺表にて小競り合いはあるものの、決着のつかないこう着状態が続く両者でしたが、6月2日に高国の援軍として神呪寺に布陣していた赤松晴政(あかまつはるまさ=政祐)が、晴元の要請に応じて寝返って浦上軍を背後から奇襲した事でこう着状態が崩れます。

実はコッチも・・・赤松晴政の父=赤松義村(よしむら)を暗殺したのが、誰あろう浦上村宗なわけでして(11月12日参照>>)(どんだけ恨み買うとんねん(><))、いつか仇を討とうと機会を狙っていたわけですが、この赤松の寝返りについては、高国側にもかなりの動揺があったようで・・・「赤松旧好の侍吾も吾もと神咒寺の陣に加わり」『備前軍記』と、名門赤松なればこそ、それに追随する者も少なくなかったようです。

とにもかくにも、この状況を受けた元長は、その2日後の6月4日高国陣営に総攻撃を仕掛けたのです。

もはや流れはすっかり変わりました。

かの浦上村宗をはじめ、松田元陸(まつだもとみち)伊丹国扶(いたみくにすけ)薬師寺国盛(やくしじくにもり)など、主だった武将の多くを失い、多大なる戦死者を出して、高国軍は大敗してしまうのです。

この戦いで中嶋を流れる野里川は死体で埋め尽くされ、まるで塚のようになってしまったのだとか・・・

敗戦の混乱の中、戦場を脱出した高国は、大物城(だいもつじょう=兵庫県尼崎市大物町・尼崎城と同一説あり)へと向かいますが、すでに追手が回っていたため、尼崎町内の藍染屋に逃げ込み、カメの中で身を潜めていたところを翌6月5日に発見され、享禄四年(1531年)6月8日、晴元の命により、広徳寺(こうとくじ=兵庫県尼崎市寺町)にて切腹・・・享年48でした。

この時、高国が詠んだ時世の句は
♪絵にうつし 石をつくりし 海山を
 後の世までも 目からずや見む  ♪
娘婿の北畠晴具に送った物で、三重県津市の北畠神社(きたばたけじんじゃ)に今も残る庭園の事を詠んだ物だそうで・・・この時の高国は、永遠に残る庭園の美しさと、散りゆく自らの儚さを感じていたのかも知れません。

今回の戦いは、その地名をとって「中嶋の戦い」と呼ばれたり「天王寺の戦い」とも言われますが、高国が最後に目指した場所とその衰退を含んで「大物崩れ(だいもつくずれ)とも呼ばれます。

これにて長きに渡った細川管領家を巡る争いは終わる事に・・・と言いたいところですが、実は、高国の養子である細川氏綱(うじつな)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい=元長の息子) の力を借りて晴元を倒し、最後の管領になるのです。

・・・と、そのお話は9月14日 【最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】でどうぞ>>
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2019年5月19日 (日)

粉河寺と高野山領の水争い~野上村の戦い

 

応仁元年(1467年)5月19日、紀州和歌山にて根来衆を巻き込みつつ、粉河寺領高野山領の間で起こった抗争・野上村の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

紀伊の国(和歌山県)丹生屋村(にゅうのやむら=和歌山県紀の川市・丹生谷とも)粉河寺(こかわでら=同紀の川市)内の北東部分にあたる場所にありましたが、東隣の名手荘(なてのしょう=同紀の川市)高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に属しているので、言わば国境・・・なので、この両者の間には、平安~鎌倉の頃以来、断続的に争いが続いていた場所でした。

「隣」という理由だけで「争う」???
今ではピンと来ないかも知れませんが、実は、農業の盛んな地域ではごくごく最近、昭和の時代にでもあった事・・・そう、「水争い」というヤツです。

そもそもは、日本の国土の70%を占める山々に降り注ぐ雨は、大河となって平野部へと流れ、古代には度々の氾濫を繰り返していたのを、昔の人々は土地を畔(あぜ)で囲い、大河をいくつもの川に分散して水路を張り巡らし、肥沃な農地に変えていったわけですが、

この水路というのは川の一部をせき止めて、横道にそれさせているわけですので、当然、大量に横道に誘導すれば、その後の川の水の量は減る事になる・・・雨が多い時期は、それでも大丈夫ですが、雨が少なくなると、上流の場所で大量に横道に流されては、下流に住む人々の場所まで水が流れて来ない事になっちゃいます。

そうなると、
「ちょっと、せき止める量を少なくしてよ~」
って事になりますが、ここまでになった場合、大抵、日照り続きの大干ばつ状態ですから、上流に住む農民たちにとっても生きるか死ぬかの状態なわけで、そう簡単に
「ほな、流しまっせ~」
とはいかないわけで・・・

で、結局、どうにもならない下流の住人は力づくで上流の堰(せき)を壊しに行ったり、相手の村を襲撃したり・・・って事になるわけで、ここでは椎尾山(しいのおやま)の山林資源と水無川(みなせがわ=名手川)の水の領有を巡って、度々争っていたのです。

永享五年(1433年)には、粉河寺を攻撃しようとした高野山側を、守護の畠山満家(はたけやまみついえ)が出張って来て制止し、何とか止めさせたものの、これに不満を持つ暴徒が高野山の坊舎に放火して多くの建物が燃えてしまったという事もありました。

Kiimizuarasoi 
野上×丹生屋の水争い位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの応仁元年(1467年)、都では、あの応仁の乱がくすぶり始めた5月、またもや丹生屋村と名手荘の水争いを発端に大きな戦いが起こってしまうのです。

5月8日、まずは名手荘側の人間が丹生屋村に押し寄せて村に火をつけてまわって焼き払うと、それに怒った丹生屋村の住人が粉河寺に相談・・・すると、今度は粉河寺衆も加わって名手荘に属する野上(のがみ)に放火して報復を開始します。

当時の名手荘には、野上村の他にも馬宿(うまやど)村など5つの村があったようですが、野上は、その中でも比較的在家数が多い村で、おそらくは、そこの代表格で在地の土豪(どごう=土地に根付く武士)であろうと思われる野上九郎左衛門なる者が、籠城して戦った事が『粉河寺旧記』に記されています。

やがて、そこに、名手荘周辺の高野山領各地の荘の土豪たちが応援に駆け付けた事から、粉河寺側も大伴弥三右衛門なる人物を大将に立てて、粉河寺領内の村々から人数を集めて、連日連夜の小競り合いを繰り返していたのですが、

5月14日になって、粉河寺からの応援要請に応えた根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)の衆徒たちが、粉河の西の長田(ながた=同紀の川市)まで浸出して来た事で、合戦が大規模になる様相を呈して来て、緊張はピークに達します。

さすがに、ここまで来ると「村同士のモメ事」の域を超えていたと見え、守護の畠山もシカトするわけにいかず・・・って、何たって上記の通り、この年には応仁の乱が!!

そもそも、応仁の乱の発端となるのが、この応仁元年(1467年)1月17日に勃発した御霊(ごりょう)合戦(1月17日参照>>)畠山政長(はたけやままさなが=東軍)畠山義就(よしなり=西軍) による畠山の後継者争いなのですから、そっちに集注したい両畠山にとって、同時期に起こった領国内での争いは一刻も早く片付けてしまいたいわけで・・・

早速、守護代の神保(じんぼう)現地に派遣して仲裁に当たらせます。

かくして応仁元年(1467年)5月19日「流水は従来の通りにして、お互いに妨害しない」事を約束して両者が和解に至り、今回の騒動は一件落着となりました。

とは言え、ご存知のように、実は、粉河寺と根来寺もなかなかに抗争を繰り返していた仲なわけで・・・現に、この数年前にも、同じような水争いで、けっこう大きなドンパチをやらかしちゃってます。

なので、本当に「粉河寺のひと声で根来衆が動くのか?」てな疑問も残りますが、以前書かせていただいた【織田信長の高野山攻め】>>でも垣間見えるように、 その時々の利害関係によって立ち位置を変える柔軟さと独立性を持っていたのが中世の彼らの姿のようにも思えますので、そういう事もあったのかな?と思います。

そして、いよいよ、この水争い終結の翌日・・・畠山がらみの、あの応仁の乱が京都にて勃発する事となります(5月20日参照>>)
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2019年4月22日 (月)

戦国の幕開け~細川政元による将軍交代クーデター「明応の政変」

 

明応二年(1493年)4月22日、室町幕府将軍を足利義稙から足利義澄に交代させる細川政元によるクーデター「明応の政変」が決行されました。

・・・・・・・・

もともと、応仁の乱の原因の一つである室町幕府将軍の継承問題・・・(5月20日参照>>)

応仁の乱の時は、当時、子供がいなかった第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が、出家していた弟=足利義視(よしみ)を、わざわざ還俗(げんぞく=出家した人が俗世間に戻る事)させてまで、次期将軍に…と約束したにも関わらず、その直後に正室=日野富子(ひのとみこ)との間に男子=後の足利義尚(よしひさ)が生まれたために、話がややこしくなって・・・

もちろん、それだけではなく、代々管領(かんれい=将軍の補佐)を受け継いでいた三管領家(細川・斯波・畠山)のうち斯波(しば)畠山(はたけやま)の後継者争い(1月17日参照>>) や、やっぱり次代の家督を巡ってモメていた各地の武家や同じ領地を取り合ってた武将同士がそれぞれに分かれて縦ラインでくっついて~みたいな、様々な要因があるわけですけどね。

とにもかくにも、色んなところの色んなモメ事が合体しつつ10年以上に渡って行われた応仁の乱は、東軍の総大将であった細川勝元(ほそかわかつもと)&西軍の総大将だった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)の両巨頭の死(3月18日参照>>)を以って下火となり、それぞれの息子である細川政元(まさもと)山名政豊(まさとよ)によって和睦交渉が成され、第9代将軍は義政の実子=義尚が継ぐ事で落ち着きました。
(それぞれの武家の争いには、まだまだ続く物もあります(12月12日参照>>)

ところが、その後を継いだ息子=義尚が、幕府に歯向かうの六角氏討伐にあたっていた近江鈎(まがり)(12月2日参照>>)の陣中にて25歳の若さで病死(3月26日参照>>)・・・しかも、未だ後継者ももうけておらず・・・

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
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で、8代将軍の嫁で亡き9代将軍の生母である富子の要望もあって、結局、義視の息子の足利義稙(よしたね=義材)が10代将軍を継ぐことに・・・なんせ、義視の正室は富子の妹なので、つまりは甥っ子ですから、以前はモメたものの、なんだかんだで息子の代わりは彼しかいないわけで・・・

とは言え、将軍就任の当初から、この義稙の将軍には反対の意を示す者も少なからずいたのです。

なんせ、現在、政権の中枢にいる人たちは、あの応仁の乱では義視&義稙父子とは敵の立場にあった人たちなわけですから、今回、義稙が将軍に就任するとなると、当然、その応仁の乱直後に義稙とともに逃げ隠れしていた側近たちもついて来る事になるわけで、今度は逆に、自分たちの地位が彼らに取って代わられる事になるかも・・・

すでに3度の管領を経験している細川政元も、その一人・・・しかも、あの応仁の乱時代には、細川とともに管領を継ぐ立場にあった斯波氏と畠山氏が、ともに乱後も続きっぱなしの後継者争いに目いっぱいで自ら衰退の道をたどり、三管領家のうち、 もはや幕府の中枢にいるのは自分とこの細川のみ・・・

そこで、幕府内政権を掌握すべく動く政元は、まずは延徳三年(1491年)に九条政基(くじょうまさもと)の息子をわずか2歳で養子に迎え、細川家の後継ぎが代々名乗る聡明丸(そうめいまる)を名乗らせます。

摂関家のおぼっちゃまを細川家の養子に迎えるというのは初めての事で極めて異例ですが、彼の母親が、足利義政の弟である足利政知まさとも)の奥さんの妹だった事から、その足利政知との関係を重視しての養子縁組だったわけです。

 この足利政知は、第6代の将軍=足利義教(よしのり=義政の父)の時代に中央幕府に歯向かった鎌倉公方足利持氏(もちうじ)(2月10日参照>>)に代わって、正式な鎌倉公方として東国に派遣された人物(戦乱で鎌倉に入れなかったため堀越に御所を設け堀越公方と呼ばれる)で、彼の三男である潤童子(じゅんどうじ)は次期公方に予定されていたのです。

そして、政元が次期将軍に推していたのが、政知の次男である足利義澄(よしずみ=清晃)・・・
つまり、
将軍=義澄に、
その弟が鎌倉公方、
そこに母親が姉妹同志
(=従兄弟)の聡明丸が管領細川家を継ぐ
という政権の構図が政元の中にあったわけです。

しかも、ここに来て幕府は、先の将軍=義尚と現将軍=義稙、この2人の将軍を要しても、近江(おうみ=滋賀県)にて反発する六角高頼(ろっかくたかより)という一武将すら、まともに制する事ができないという、将軍の体たらくを露見させてしまいます(12月13日参照>>)

 なのに将軍=義稙は、明応二年(1493年)正月、畠山義豊(はたけやまよしとよ=基家)討伐のため、河内(かわち=大阪府東部)出陣の大号令を各大名に向けて発するのです。

これは、例の応仁の乱以来モメている畠山氏の家督争い(7月12日参照>>)の一方(畠山政長側)の味方を幕府=将軍がする事になるわけで・・・

政元が反義稙派を着々と集める中、さすがの日野富子も、ここに来て政元の側につく中、先の六角との戦いの時には将軍=義稙ベッタリだった大物=赤松政則(あかまつまさのり)に自らの妹を嫁がせて(3月11日参照>>)味方につけた政元は、いよいよ、将軍すげ替えクーデターを決行します。

Hosokawamasamoto700明応二年(1493年)4月22日の夜、例の河内に出陣した義稙に随行せず、京都に留まっていた細川政元は、 留守中の義稙の将軍職を廃し、僧となっていた義澄を還俗させて保護し、第11代将軍として擁立したのです。

さらに、義稙の関係者の邸宅や寺院を襲撃して京都を掌握・・・金に物を言わせて朝廷も味方につけていますが、さすがに将軍宣下までは受けられず、この時は官位を授かるのみに留まりましたが・・・

その後、翌閏4月、義稙らの籠る正覚寺(しょうがくじ=大阪市平野区加美)を政元配下の上原元秀(うえはらもとひで)らが率いる4万の軍勢が攻撃します。

一方の義稙側には、同行する畠山政長(はたけやままさなが)の地元=紀州(きしゅう=和歌山県)から援軍が駆け付けるはずでしたが、コチラは(さかい=大阪府堺市)に集結していた政元方によって行く道を阻まれて進めず・・・結局、援軍が望めない事を知った政長が閏4月25日に自害した事で、義稙は投降を決意し、その後、政元らによって幽閉されました。

ここに、細川政元によるクーデター「明応の政変」は完結したのです。

しかし、世の中、そう思い通りにはいかない物・・・

実は、この政変の2年前の延徳三年(1491年)、父=足利政知の死を受けた長男の足利茶々丸(ちゃちゃまる)弟の潤童子とその母を殺害して、事実上の堀越公方になっていたのです。

彼=茶々丸は、一説には、素行が悪く乱暴者だったため、父=政知の命令によって幽閉されていたとも、我が子を次期公方にしたい潤童子の母親によって幽閉されていたとも言われますが、とにもかくにも、何かの事情で廃嫡(はいちゃく=後継者から除外される事)されて20歳過ぎても元服すらさせてもらえずに牢獄に閉じ込められていた茶々丸が牢番を殺害して脱獄&実力行使で、堀越公方の座を弟から乗っ取ったわけです。

なので、将軍&公方&管領後継者を、自身の思い通りに構成する政元の思惑は、この政変の時点で、すでに消えていたわけですが、それはそこ、「将軍さえ思い通りなら、何とか修正可能」と、まだ思っていはず・・・

ところがドッコイ、政変から、わずか半年後の明応二年(1493年)10月、この茶々丸の堀越館が伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき=北条早雲)に襲撃され、堀越公方が事実上滅亡してしまうのです(「伊豆討ち入り」10月11日参照>>)

ご存知のように、その後の北条は、これキッカケで約100年に渡って関東を牛耳る事に・・・くわしくは【北条・五代の年表】で>>

一方の政元・・・政変の翌年に、無事、義澄の将軍宣下はなされるものの、事態はヤバし・・・やむなく政元は、文亀三年(1503年)に細川家の支族である阿波(あわ=徳島県)細川家から養子を迎えて、その子に細川家の通字(とおりじ=その家系に代々受け継がれる字)である「元」のつく細川澄元(すみもと)を名乗らせ、先の聡明丸を澄之(すみゆき)と名乗らせる・・・つまり、聡明丸=澄之を後継者から外したわけです。

あ~あ┐( -"-)┌ 、自ら後継者争いフラグを立てちゃいましたよ~

わずかの間に大きく狂ってしまった政元の幕府掌握計画・・・やがて成長した義澄は自身の思う政治をやろうとして政元との間がギクシャクし始める中、澄元の出現によって追い払われた感が拭えない澄之派の家臣によって、永正四年(1507年)6月、細川政元は暗殺され、細川家は見事なまでの後継者争いに突入してしまうわけです(8月1日参照>>)

 さらに、澄元&澄之に加え、もう一人の養子であった細川高国(たかくに)も入って三つ巴の後継者争い様相を呈する中、翌永正五年(1508年)には、この混乱の乗じて幽閉先から脱出した前将軍=義稙が、周防(すおう=山口県)大内義興(おおうちよしおき)の支援を受けて上洛して将軍の座を・・・と、世はまさに戦国の幕開けへと向かっていくのです。

★その後の流れ
【船岡山の戦い】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>
【東山・川勝寺口の戦い】>>
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2019年4月 4日 (木)

六角と浅井の代理戦争~大溝打下城の戦い

 

天文十八年(1549年)4月4日、浅井の援軍を得た海津政元が、海津政義の拠る大溝打下城を攻めました。

・・・・・・・・

これまで何度か登場しておりますが、中世の頃の近江(おうみ=滋賀県)は・・・

第59代宇多天皇(うだてんのう)の流れを汲む宇多源氏(うだげんじ)で、平安時代から鎌倉時代に活躍した佐々木信綱(ささきのぶつな)の子孫たちが勢力を誇る場所でありました。

ご存知の江南(こうなん=滋賀県南部)六角氏(ろっかくし)江北(こうほく=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)、さらに大原庄(おおはらしょう=現在の彦根市・長浜市付近)大原氏(おおはらし)・・・そして琵琶湖の北西付近を牛耳っていたのが六角や京極と同じく佐々木氏を先祖に持つ高島氏(たかしまし)でした。

その高島氏を中心に朽木氏(くつきし)永田氏(ながたし)平井氏(ひらいし)横山氏(よこやまし)田中氏(たなかし)、そこに別系統の山崎氏(やまざきし)を加え高島七頭(たかしましちとう・たかしましちかしら)と呼ばれる彼らが西近江に君臨していたのですが、

やはりここも、例の応仁の乱のゴタゴタで(10月28日参照>>)、その力関係が微妙に変わって来た六角&京極&浅井の影響を受けてしまうのです。

以前書かせていただいたように、応仁の乱の真っただ中でお家騒動が勃発した京極氏は(8月7日参照>>)自ら衰退の道をたどり、いつしか京極家の家臣であった浅井亮政(あざいすけまさ)に仕切られるようになり(3月9日参照>>)、それを快く思わない六角定頼(ろっかくさだより)と対立・・・

そして、もはや将軍家でさえ手を焼く存在となって(12月13日参照>>)来る六角氏は、さらに領地を増やすべく高島方面へと進出していくのですが、当然、この六角氏の侵攻をヨシとしない京極&浅井とは更なる対立を生む事になって行きます(4月6日参照>>)

そんな中、天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて、息子の浅井久政(ひさまさ)の時代になって7年後の天文十八年(1549年)、大溝打下城(おおみぞうちおろしじょう=滋賀県高島市勝野)海津政義(かいづまさよし)浅井から六角に寝返ろうとしている事を、海津城(かいづじょう=同高島市)海津政元(かいづまさもと)が久政に報告して来たのです。

そもそもは京極の配下だった海津氏・・・それが、ここのところの京極の失速で、そのまま浅井の配下となっていたのですが、先の浅井亮政によって、甥である政元が海津城にて筆頭とされていた事に、叔父の政義が不満に思っていると聞きつけた六角配下で志賀(しが=滋賀県志賀町付近)を牛耳る佐々木義時(ささきよしとき)が、政義に声をかけたのです。

Utiorosizyou位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『浅井三代記』によれば・・・
小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)にて、この報告を受けた久政は怒り心頭・・・早速、配下の浅井政澄(まさずみ)赤尾清定(あかおきよさだ)らに800余騎をつけて海津に派遣したのです。

天文十八年(1549年)4月4日、浅井の援軍を従え、先鋒として打下城に押し寄せた海津政元隊・・・迎える打下城も、すでに佐々木の援軍を得ており、城を撃って出た事で、両者は源氏浜(げんじはま=高島市新旭町)にて合戦となります。

その後、2~3日に渡って両者はぶつかりましたが、なかなか決着がつかず・・・お互いに勝敗が見えない中にも、やや打下城側が優勢であった事から、4月10日になって浅井勢は引き上げ、海津城へと戻りました。

そして4月14日に体制を立て直して出陣・・・再び打下城へと迫りますが、しばらく引き付けた後、絶好のタイミングを見計らって城から撃って出た500余騎の佐々木勢に押されて、浅井勢はまたもや敗退してしまいます。

ちょうど、その頃、伊黒城(いくろじょう=高島市高島)新庄俊長(しんじょうとしなが=法泉坊俊長)という者が仲裁に入ってくれました。

 俊長が政義に対してその思いを聞いてみたところ
「そもそも、浅井家には恨みは無い。。。けど、なんで俺が政元の下に付かなアカンねん!
下になるのは嫌や!と思てた所に佐々木から声かけられて……つい」
との事・・・

「ほな、海津政元の配下やなくて、直接、浅井久政の配下になったらえぇやん」
と俊長さん、見事な回答・・・

以後、政義は浅井の配下となり、この後、何度六角氏が誘っても、浅井を離れる事は無かったのです。

一方、このゴタゴタに関与した佐々木義時は、「亮政の置き土産に付け込んで同族同士を争わせようとした人物」として、その後、高島一帯の諸将から総スカンを喰らったのだとか・・・

やがて、この近江の地に、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと)息子たちによる後継者争いが持ち込まれ、その争いの中心人物であった細川晴元(はるもと=澄元の息子)の配下である三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)が頭角を現しはじめ、六角・京極・浅井、ともに戦国後半戦の波に呑まれていく事になります。

●その後の出来事・関連ページ
【江口の戦い】>>
【三好VS六角の志賀の戦い】>>
【菖蒲嶽城の戦い】>>
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2019年3月19日 (火)

織田信秀VS今川義元&松平広忠~第2次小豆坂の戦い

 

天文十七年(1548年)3月19日、今川&松平連合軍と織田が戦った第2次小豆坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

享禄二年(1529年)、祖父の代からの念願だった三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たした松平清康(まつだいらきよやす)は、次に隣国の尾張(おわり=愛知県西部)へと手を伸ばし、当時、清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人で尾張古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市)主だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めたのですが、その陣中にあった天文四年(1535年)、家臣によって斬殺されてしまいます(12月5日参照>>)

24歳という若さで亡くなった清康の後を継いだのは、わずか10歳の息子=松平広忠(ひろただ)でしたが、案の定、このドサクサを狙って、一族の松平信定(のぶさだ)が謀反を起こし、居城の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)を追われて流浪の身となってしまったのです。

Imagawyosimoto600a やむなく叔母(父の妹)の嫁ぎ先である吉良持広(きらもちひろ)のもとへ身を寄せますが、その関係で、この後、駿河遠江(静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)からの支援を受ける事になって(*吉良と今川はともに足利宗家の流れを汲む関係)、何とか岡崎城を奪還・・・その後、ようやく三河に帰還します。

この頃に起こったのが第一次小豆坂(あずきざか=愛知県岡崎市)の戦い・・・(日付に関しては天文十一年(1542年)の8月説と12月説あり)

とは言え、日付も曖昧な時点でお察しのように、その勝敗も、一応、今川&松平連合軍の勝利だとされていますが、負けた織田側にも、さほど大きなダメージはなさげな雰囲気です。

その翌年=天文十二年(1543年)には、松平家内で叔父=松平信孝(のぶたか=清康の弟)との内紛が勃発し(8月27日参照>>)、その信孝が織田に降った事で、松平×織田の関係はますます悪化していきます。

一方の織田信秀は、松平が弱体化したこの間に三河へと侵攻し、松平に属する安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市)を奪い取ります。
(奪い取った時期に関しては天文九年(1540年)説と天文十三年(1544年)説あり)

これに対し、安祥城の奪還を図る広忠でしたが、あえなく敗北・・・しかも、この天文十三年(1544年)には、広忠の正室=於大の方(おだいのかた)の兄である水野信元(みずののぶもと)織田方に降る事態に・・・この一件により於大の方は広忠に離縁され、実家に戻っています。

ますますの織田からの攻撃に耐えかねるとともに、かの水野信元が松平に仕える一方で今川に仕えていた事もあって、ここらで、今一度、今川との関係を強固にして、その支援を仰ごうと考えた広忠は、於大の方との間にもうけた嫡男=竹千代(たけちよ=後の徳川家康)を今川への人質として送りますが、この大事な人質が、途中で織田方に奪われてしまうという大失態(8月2日参照>>)

もちろん、これを機会に、信秀は広忠に織田の傘下に入るよう要求するのですが、広忠は断固拒否・・・現状のまま、今川を頼って織田と戦う事を選びます。

そんなこんなの織田信秀ですが、ここんとこ尾張の北東部分に勢力拡大を図っていた彼は、実は、松平=三河&その向こうの今川=遠江という東側と同時に、北側の隣国=美濃(みの=岐阜県南部)斎藤道三(さいとうどうさん=利政)とも度々衝突していた(9月23日参照>>)わけで・・・

しかし、天文十六年(1547年・天文十三年説もあり)加納口(かのうぐち=岐阜県岐阜市)の戦い(9月22日参照>>)で大敗を喰らった信秀は、とりあえずは北の脅威を削いで東の三河攻略に専念すべく、自らの息子=信長(のぶなが)と道三の娘=帰蝶(きちょう=濃姫)の結婚話(2月24日参照>>)を進めて、美濃の斎藤とは和睦をする事にします。

こうして天文十七年(1548年)3月、岡崎城の奪取を狙い、4000余の兵を率いて安祥城を出陣する信秀・・・

一方の今川義元も、織田×松平の境界の最前線となる安祥城は、味方の手に入れておきたいわけで・・・松平救援のために太原雪斎(たいげんせっさい=崇孚)を大将に据え、朝比奈泰能(あさひなやすよし)(2011年3月19日参照>>)とともに出陣させます。

矢作川(やはぎがわ)を渡って上和田(かみわだ=愛知県岡崎市)に着陣する織田軍・・・その向こうの小豆坂の頂上付近に陣取る今川軍・・・

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↑第2次小豆坂の戦い・合戦図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天文十七年(1548年)3月19日未明、小豆坂にてぶつかった両者でしたが、『孫子の兵法・行軍編』(6月17日参照>>)でお馴染みの通り、こういう場合、高い位置に布陣してる側が断然有利・・・って事で、最初は今川勢が優勢で、織田の第一の備えは完全に崩されてしまいますが、

劣勢を悟った織田勢は、第二の備えが本隊付近まで後退して踏ん張り、本隊の力を借りて巻き返し、今度は今川勢の先陣を務めていた松平勢が崩れ始めます。

しかし、この時、これを予期していたかのように仕込まれていた岡部元信(おかべもとのぶ)率いる今川の伏兵が、勢いづいて突進する織田勢の横から突きかかりました。

予期せぬ方向から本隊を脅かされた織田勢は、それがキッカケとなり軍全体が総崩れとなり、あれよあれよという間に今川勝利に織田の負け・・・信秀は兵を退きあげて安祥城へと戻るしかありませんでした。

とまぁ、川&松平の勝利とは言え、結果的には信秀が安祥城を失う事もなく、両者の関係に大きな変化は無かったわけですが、その翌年の両者の運命が真逆に!

信秀は配下の謀反を見事抑える(1月17日参照>>)一方で、広忠は、自らの家臣によって殺害されてしまう(3月6日参照>>) のです。

このために岡崎城の城主はいなくなってしまったわけですが、先に書いた通り、この時、広忠の後を継ぐべき息子=竹千代は、今現在、織田のもとにいるわけで・・・

そこで、今川は、何とか松平の後継ぎ=後の家康を自らの保護下に置こうと、織田信広(のぶひろ=信秀の長男)が拠る安祥城へ迫る事になるのですが、そのお話は11月6日【安祥城の戦い~信長&家康に今川と絡む運命の糸】>>でどうぞ

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