2020年1月11日 (土)

若き徳川家康の試練~三河一向一揆・上和田の戦い

 

永禄七年(1564年)1月11日、三河一向一揆の中で最も激しい戦いとなった上和田の戦いがありました。

・・・・・・・

戦国の群雄割拠の中で領国=三河(みかわ=愛知県東部)を守ろうと、隣国の駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する大物=今川義元(いまがわよしもと)の力を借りるべく、父=松平広忠(まつだいらひろただ)が未だ6歳の息子=竹千代(たけちよ)今川への人質に出したのは天文十六年(1547年)の事でした(8月2日参照>>)

今川に送られるはずが、家臣の裏切りによって、今川と敵対する尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)のもとに送られて、そこで人質生活を送る事になる竹千代=徳川家康(とくがわいえやす=と名乗るのはもっと後ですが、ややこしいのでここから家康さんと呼びます)は、その間に父を内紛で失いながら(3月6日参照>>)も、天文十八年(1549年)11月の安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市安城町)の戦い後の人質交換(11月6日参照>>)で本来の今川の人質となります。
(一旦決行される織田への人質については、奪われたのではなく松平広忠の織田への降伏の証だった説もあります)

とにもかくにも、今川義元のもとでのその後の家康は、義元の姪である瀬名姫(せなひめ=後の築山殿)(8月29日参照>>)を娶り、永禄元年(1558年)2月の寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の戦い(2月5日参照>>)で初陣を飾る今川配下の武将として成長します。

しかし、その2年後の永禄三年(1560年)5月に起こった桶狭間(おけはざま)の戦い(2015年5月19日参照>>)・・・ご存知のように、もはや天下に手が届きそうな海道一の弓取り=今川義元が、未だ尾張の一武将でしかなかった織田信長(おだのぶなが=信秀の息子)に首を取られて、戦国の人物相関図が大きく変わる戦いとなったわけですが、この戦いで、家康の立ち位置も大きく変わります

本来は、三河を領する松平家の本拠だった岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)ですが、現段階で家康が今川配下となっている以上、この桶狭間の時は今川方の兵が守っていたものの、回の義元の討死で守りの兵が逃げ出した事によってカラッポになっており、それを知った家康がすかさず岡崎城へと入って三河の領主として独立を果たしたのです(2008年5月19日参照>>)

しかも、その2年後には尾張の織田信長と同盟を結ぶ(1月15日参照>>)・・・つまり、完全に今川の敵に回ったわけです。

Tokugawaieyasu600 そんな、自立したばかりの家康の前に、大きな試練として降って来たのが、三河一向一揆(みかわいっこういっき)・・・と言っても、後に、織田信長と本願寺顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)が10年に渡ってドンパチやる石山合戦(8月2日参照>>)を中心にしたあの一向一揆とは少し赴きが違います。

上記の通り、家康は半ばドサクサ紛れて祖父&父の旧領である三河を回復しましたが、誕生したばかりの家康政権が、それを維持していくためには敵対勢力に負けない備えが必要になるわけで・・・そのためには富国強兵=当然、きびしい年貢と兵役が農民たちに課せられる事になり、これまで今川の支配下地元民は
「こんなんやったら、今川のままの方が良かったやん」
てなるわけです。

もちろん、不満を持つのは農民だけでなく、徳川の家臣の中にも不満の種はあるわけで・・・そこに、やはり不満を持つ浄土真宗本願寺派の三河三ヶ寺(本證寺・上宮寺・勝鬘寺)の寺勢力が加わり、くすぶり続けていた火が一気に燃え上がったという感じです。

なので、約半年に渡る大きな戦いであったにも関わらず、その発端となった出来事がよくわかっていません。

德川の家臣が、罪人を匿ってるとして本證寺(ほんしょうじ=愛知県安城市野寺町)内にズケズケ入って行ったとか、同じく徳川の家臣が兵糧米をよこせと上宮寺(じょうぐうじ=岡崎市上佐々木町)を襲撃したとか、同じく徳川家臣が上宮寺に勝手に砦を作ろうとしたとか、いずれも、平時ではない戦国時代なら日常茶飯事な出来事をキッカケに、一気に燃え上がったようです。

なので、一揆の発生時期や戦いの詳細等は多くの異説&異論があるところで、重税を課せられた農民と、今川支配時代には保護されていたのに家康になって敵対して来た事に不満の本願寺派、さらに、これを機に、なんなら家康を倒して三河を支配してやろうと考える武将たちが団結して・・・という部分にも、彼らはいわゆる一揆=一味同心ではなく、一向宗派と武将派に分かれていたとも言われます。

そんな中、おそらくは永禄六年(1563年)6月前後から始まった三河一向一揆は、家康が本格的に鎮圧に乗り出した事で、永禄六年(1563年)9月には、砦を落とされた夏目吉信(なつめよしのぶ)らが投降し(9月5日参照>>)、翌月の10月には小豆坂(あずきざか=岡崎市戸崎・羽根町)でも大きな戦闘となる中、いずれも家康が勝利たものの、一揆が収まる事ない中で年を越します。

かくして永禄七年(1564年)1月11日、この三河一向一揆で、最も激しい戦いとなった上和田の戦いが展開されます。

大久保一族が守っていた上和田(かみわだ)の砦を、針崎(はりさき=愛知県岡崎市針崎周辺)・ 土呂(とろ=同岡崎市福岡町周辺)野寺(のでら=同安城市野寺町付近)の一揆衆が襲撃したのです。

戦いは激烈を極め、あわや落城という時に、家康自身が兵を率いて救援に駆け付け、なんとか維持・・・翌12日と、さらに13日と、戦いは3日間に渡って激戦が繰り広げられ、家康も2発の銃弾を受けました。

たまたま具足の分厚い部分に弾が当たったおかげで、幸いにも家康が負傷する事はありませんでしたが、どんだけスゴイ戦いだったのかはうかがえます。

とは言え、戦いの激しさはここがピークで、同13日に上宮寺の一揆衆が岡崎城に攻撃を仕掛けたのを最後に、戦いは終息の兆しを見せ始めます。

なんせ、家康自身が戦場に出て来るとなると、家臣の中に「殿様に弓引いてる感」を実感する者が多数出てきてしまって「さすがにそこまでは…」とちゅうちょする者が多くいたわけで・・・

もちろん、さすがの家康ですから、水面下での説得も続けていたわけですし・・・で、結局、2月28日頃までには、ほとんどか鎮圧されてしまったのだとか・・・

最後に、敵対した寺院との和睦交渉にて、家康は、
「寺院はもとのままに…」
と約束をしたそうですが、結局、事がすべて治まった後には、ド~ンと一向宗寺院を破却する家康さん・・・

「えぇ?なんで?」
と訴える僧たちに、
「もとのままに…というのは、もとの原野に戻すっちゅー事ですわ」
と言ったとか言わなかったとかwww

後のタヌキっぷりを彷彿とさせるエピソードですが、おおまかな計算で、家臣の半数ほどが一揆側に加担した?と言われる今回の三河一向一揆・・・この時、独立大名の道を走り始めたばかりの家康にとっては、何が何でも、どんな手を使っても鎮圧せねばならない重要な戦いだったという事ですね。

さらに、う~んと後の最終段階では、石山合戦後のゴタゴタを利用して、その勢力を二つにわけて宗教に専念してもらう事で政治への介入を防いだ(1月19日「東西・二つの本願寺」参照>>)手法は、やはり、この若き時の一揆の怖さを身に染みて感じていたからなのでしょうね。
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2020年1月 4日 (土)

目の前の命を救う~戦国の名医・曲直瀬道三

 

文禄三年(1594年)1月4日、戦国の名医で当代第一の文化人でもあった曲直瀬道三が病死しました。

・・・・・・・

これまで、このブログでも、そのお名前だけがチョイチョイ登場している曲直瀬道三(まなせどうさん=正盛)

  • 天正五年(1577年)、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部) 平定に、プラス石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との天王寺合戦(5月3日参照>>)やら、雑賀(さいか・さいが)の陣(3月15日参照>>)やら、松永久秀(まつながひさひで)謀反(10月3日参照>>)やらで忙し過ぎの明智光秀(あけちみつひで)が体調を崩して曲直瀬道三の治療を受けて回復した(10月29日参照>>)とか、
  • 天正十二年(1584年)、病をおして合戦に出陣していた筒井順慶(つついじゅんけい)曲直瀬道三の治療を受けるため京都を訪れた(8月11日参照>>)とか、
  • 後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の主治医として福祉に活躍する施薬院全宗(やくいんぜんそう)が、寺を出てまず医学の教えを請うたのが曲直瀬道三だった(12月10日参照>>)とか、

そう・・・曲直瀬道三は戦国時代のお医者さん。
それも天下の名医と呼ばれた人なのです。

近江源氏(おうみげんじ)の流れを汲む佐々木氏(ささきし)庶流の父と多賀氏(たがし)の母との間に永正四年(1507年)に生まれたという曲直瀬道三ですが、自身の出産で母を亡くし、そのすぐ後に父も戦死してしまったため、叔母に育てられたのち、幼くして出生地である滋賀県守山市(もりやまし)の寺に入ったと言います。

Manasedousan590as その後、13歳の時に京都の相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)に入って修行したのち、二十歳を過ぎた頃に関東に下って足利学校(あしかががっこう=栃木県足利市)で学びますが、ここで、すでに関東にて名医の誉れ高かった田代三喜斎(たしろさんきさい)に出合って医学の道に進む事を決意・・・三喜斎から李朱医学(りしゅいがく)を学びます。

李朱医学とは、
病気になった時、発汗や嘔吐を則したり、あるいは下剤等を使って「とにかく体の中にある悪い物を出す」という考え方だったこれまでの治療法とは一線を画す、栄養補給を中心とした体内環境の改善を目的とした治療法で、それを中国で学んで来た第一人者が田代三喜斎だったのです。

三喜斎のもとで10数年学んで、その奥義を取得した道三は、関東を出る気が無かった三喜斎に別れを告げ、自身は天文十五年(1546年)京都へと戻り、ここで還俗(げんぞく=僧を辞めて一般人に戻る事)して本格的に医師に専念する事になりますが、その噂は瞬く間に広まり、やがて道三宅の門の前には治療してもらいたい人々が群れをなして訪れるようになったのだとか・・・

そんな時、未だ坂本(さかもと=滋賀県大津市)に避難中だった若き将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第13代室町幕府将軍:当時は義藤)の病をたちまちに治した事から、さらに評判に・・・

しかも、その後に義輝が、時の権力者=細川晴元(ほそかわはるもと)と和睦した事から、その晴元や、家臣の三好長慶(みよしながよし)など、今をときめく武将らをも診察する有名医師となります。
(この頃の晴元や三好長慶について嵯峨の戦い参照>>)

特に、三好長慶の家臣の松永久秀(まつながひさひで)とは、中国の書をヒントに道三自らが記した夜のマニュアル本=『黄素妙論(こうそみょうろん)を伝授するほどの仲だったとか・・・
(久秀がコッソリ読んで「なるほど…欲望にまかせた自分本位のHはアカンのか~」とか考えてる所を想像すると笑てしまう(#^o^#))

もちろん、後進の育成も怠る事なく・・・京都に啓迪院(けいてきいん=京都府京都市上京区上長者町付近)なる学校を創建して800人とも3000人とも言われる門徒に医学を教えたのです。

永禄五年(1562年)には、将軍=義輝から、ただいま絶賛戦闘中↓
(石見銀山争奪戦参照>>)
(白鹿城攻防戦参照>>)
安芸(あき=広島県)毛利(もうり)出雲(いずも=島根県)尼子(あまご)の仲を調停させるべく命を受けて中国地方へと下向・・・その時、病気療養中だった毛利元就(もうりもとなり)の治療をするかたわら、その元就にも、敵対する尼子義久(あまごよしひさ)にも粘り強く和睦を働きかけます。

ただ、ご存知のように毛利×尼子の戦闘は収まる事無く、結局、尼子の本拠=月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)は毛利によって落とされるので(11月28日参照>>)、和睦に関してはかたくなな姿勢を崩さなかった元就ではありましたが、一方で道三の安芸滞在中には、彼に対してかなり気を使い、様々な便宜を図っていた様子もうかがえますので、和睦交渉人としての成果は薄かったものの、病気の治療の方はウマくいったようで、この間に道三は、門弟たちに語った療法をまとめた『雲陣夜話(うんじんやわ)を残しています。

また、天正二年(1574年)には自らが記した8巻にわたる医学書『啓迪集(けいてきしゅう)正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)に献上するとともに、天皇を診察します。

さらに、あの織田信長(おだのぶなが)が上洛した(9月7日参照>>)後には、その信長も診察し、喜んだ信長から蘭奢待(らんじゃたい=東大寺の香木)(3月28日参照>>)もプレゼントされたとか・・・

天正十二年(1584年)にはイエズス会宣教師オルガンティノを診察して洗礼を受けたり、天正二十年(1592年)には第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から、(たちばな)の姓を賜ったり・・・と、まさに、ここに医師の頂点を極めり!!

こうして、時の権力者とのつながりも持った道三でしたが、一方で、彼が権力者の力を頼る事はありませんでした。

冒頭にも書いた、道三の弟子である施薬院全宗は、その紹介ページにも書かせていただいたように、時の権力者である豊臣秀吉の力をフル活用して医師の道を究めました(再び12月10日参照>>)

もちろん、私個人としては、それも悪い事では無いと思っています・・・なんせ、福祉にはお金がかかりますから。

薬を手配するにも、従事する人手を集めるにも、第一、施設の建設費や設備費もハンパ無いですから、そこの部分を権力者に頼りながら、自身の理想を叶えていくやり方も、一つの方法だと考えます。

ただ、道三は、それをせず、あくまで在野の一医師としての道を選び、数多くの著書を残し、後進の育成と、今、目の前にいる一つの命を救う事に理想を求めたのです。

文禄三年(1594年2月23日)1月4日 、長男をすでに亡くしていた道三は、娘婿の玄朔(げんさく)を養子に向かえ、2代目曲直瀬道三を名乗らせてバトンタッチ・・・静かに89年の生涯を閉じました。

その後も、かの施薬院全宗を頂点としつつ、曲直瀬玄朔を含めた曲直瀬一門の医療体制が確立されていき、日本の医療界を主導していく事となります。
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2019年12月20日 (金)

今川と徳川の狭間で~引馬城の飯尾連龍とお田鶴の方

 

永禄八年(1565年)12月20日、遠江引馬城主の飯尾連竜が駿河にて今川氏真に誘殺されました。

・・・・・・・・ 

現在の浜松城(はままつじょう)の場所にあったとされる引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・引間城・曳馬城)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を治めるには重要な城・・・かつて室町幕府政権下で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)であった今川(いまがわ)が遠江の守護でもあったものの、一時は追われて斯波(しば)が守護になっていた事もありました。

それを、その斯波の配下で遠江引馬荘の代官であった引馬城主=大河内貞綱(おおこうちさだつな)を倒して、今川の手に取り戻したのが、北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:氏親の母は早雲の姉もしくは妹)の尽力によって今川家第9代当主となっていた今川氏親(うじちか)でした(6月21日参照>>)

その時、氏親の命によって、その後の引馬城を任されたのが、今川配下の飯尾賢連(いのおかたつら)だったのです(諸説あり)

で、その今川氏親と「女戦国大名」の異名を取る女傑=寿桂尼(じゅけいに)(3月14日参照>>)の息子が、ご存知、今川義元(いまがわよしもと)で、急死した兄=氏輝(うじてる)の後を継いで、やがては海道一の弓取りと呼ばれる大物になるわけですが・・・

これまたご存知のように、1番天下に近いと言われていたノリノリ真っただ中、未だ尾張(おわり=愛知県西部)の一武将であった織田信長(おだのぶなが)の奇襲によって永禄三年(1560年)、桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市&豊明市)(2015年5月19日参照>>)に倒れてしまいました。

Imagawauzizane400 総大将が討ち取られた・・・という事は、当然、その周囲にいた重臣や傘下の大物たちの多くも討ち取られたわけで、これは、急遽、亡き義元の後を継ぐ事になった今川氏真(うじざね)にとっては大打撃!

しかも、この桶狭間のドサクサで今川の人質だった徳川家康(とくがわいえやす)三河(みかわ=愛知県東部)岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)に入って独立(2008年5月19日参照>>)した事で、今川傘下だった西三河が徳川の勢力圏内に・・・

ただ、この家康が、今後も今川と仲良くしてくれるんなら波風立たなかったわけですが、実際には、その逆・・・2年後の永禄五年(1562年)に信長と同盟を結んで(1月15日参照>>)、完全に今川から離反というより、敵対を表明します。

もちろん、それは家康だけでなく、義元というカリスマ大黒柱の急死は、次々と傘下の武将の離反を生んでしまうのです。

なんせ、「今川が駿河と遠江を支配」と言っても、そこには、もとから地元に根付いている国人領主も多くいて、彼らは、現段階で力を持つ今川家に対して「寄らば大樹の陰」で傘下に納まっているだけで、腹の底では今川のやり方に不満を抱えた者もいたわけですから・・・

あの桶狭間の2年後の永禄五年(1562年)には、家康とコンビを組む信長も尾張の統一(11月1日参照>>)を果たして遠江&その西側はは完全にヤバし!ですし、駿河の北には甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん)がいるわけですから、このまま今川に留まるのかどうか・・・皆々悩むところです。

そんな中の一人が、かつて引馬城を任された飯尾賢連の孫で引馬城主の飯尾連龍(いのおつらたつ・ 致実・能房)でした。

一説には連龍の父=飯尾乗連(のりつら=つまり賢連の息子)は、かの桶狭間で義元とともに命を落としたうちの一人だとか・・・連龍が家督を継いだ年数はハッキリしませんが、上記の通り、お父さん亡き今は、まぎれもなく引馬城主なわけです。

で、その連龍が永禄五年(1562年)頃から、どうやら織田&徳川方についたようで・・・

これを知った今川氏真は、早速、今川傘下の井伊(いい)の家臣である新野親矩(にいのちかのり)らに命じて引馬城を攻めます。

これを受けた連龍は、飯田(いいだ=静岡県静岡市)まで出てきて迎え撃ち、かなりの激戦となりますが、勝負は着かず・・・この時、周辺の寺々でも、今川につく者と伊尾につく者に別れて戦闘となり、飯尾派だった頭陀寺(づだじ=静岡県浜松市)では堂舎の多くが焼かれたと言います。

しかし、どうしても飯尾連龍が許せない氏真・・・いや、許せないというよりは、ここをシッカリ押さえておかないと、周囲にも示しがつがないし、さらに離反者増えちゃいますからね。

なので永禄七年(1564年)9月、再び、新野親矩に3千の兵をつけ、引馬城を攻撃させるのですが、これが、引馬城を落とすどころか、飯尾方が放った矢に当たって、大将の新野親矩が討死する事態に・・・(新野親矩の死亡日については、この翌年の開城の時という説もあり)

とにもかくにも、結局、引馬城を落とせなかった氏真は、連龍とは一旦、和睦する事とし、とりあえず、今回の戦いは落ち着きました。

ちなみに、
先にも書かせていただいたように、この時は引馬城だけではなく、同時期に複数の遠江の武将(二俣城の松井や犬居城の天野など)「今川か?徳川か?」で揺れ、各地で合戦が起こったわけですが、この一連の戦いは「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)と呼ばれます。

しかし、氏真は、これで終わりにはしなかったのです。

永禄八年(1565年)12月20日、あらためて飯尾連龍を自身の駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市)に呼びつけ、面会の準備のため城内二の丸に入った連龍を襲撃し、殺害してしまったのです。

氏真の講和は偽りだった・・・これに怒った引馬城内に残っていた飯尾の家臣たちが、そのまま引馬城に籠城して今川に抵抗しました。

あくまで伝説の域を出ない話も含まれていますが、この、主君亡き後の引馬城籠城の中心となったのは連龍の奥さんであるお田鶴の方(おたづのかた=椿姫)であったとか・・・

このお田鶴の方のお母さんは今川義元の妹もしくは義妹の娘という事なので、つまりはお田鶴の方は今川氏親&寿桂尼さん夫婦の孫であり今川氏真とは従兄弟になる完全に今川の人であったわけですが、この時は、亡き夫の遺志を継いて引馬城に籠り、この後、家康が遠江へ侵入して来る永禄十一年(1568年)まで、引馬城を守り抜いていたと言います。

しかし、その永禄十一年(1568年)は運命の年・・・

今川との同盟を勝手に破棄して駿河を狙いはじめた武田信玄が、織田信長の仲介で、家康とタッグを組んで今川領に侵攻し始めるのです。

信玄が12月12日の薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)から、翌13日には氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)して、氏真を掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと追いやると、

同時に家康が、その掛川城を攻撃すべく、井伊谷三人衆を味方につけて遠江に入る(12月13日参照>>)のですが、この時、掛川城へ近づくべく、家康は引馬城の明け渡しの要求をしたのです。

しかしお田鶴の方は断固拒否・・・自ら防戦の指揮をを取って度々撃って出ます。

しかし、所詮は多勢に無勢でどうにもならず・・・最後は、自ら甲冑をまとい長刀を持って敵陣に斬り込み、壮絶な最期を遂げたと言います。

後に、彼女の死を惜しんだ家康の正室=築山殿(つきやまどの=瀬名姫←お田鶴の方の義理の従兄弟)が、彼女の住まい跡に建立された塚に100本余りの椿を植えて供養した事から、このお田鶴の方は椿姫とも呼ばれているのだとか・・・

こうして12月18日に引馬城に入った家康は、そこを拠点として12月27日から掛川城への攻撃を開始し、翌・永禄十二年(1569年)5月にようやく開城・・・敗れた氏真は奥さんとともに、奥さんの実家である北条氏政(ほうじょううじまさ)を頼って相模へ逃れる事になります(12月27日参照>>)
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2019年12月13日 (金)

井伊谷の戦いと徳川家康の今川領・遠江侵攻

 

永禄十一年(1568年)12月13日、武田信玄と連携して今川領に侵攻する徳川家康が遠江に入りました。

・・・・・・・

永禄三年(1560年)、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する海道一の弓取り今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)の奇襲攻撃によって桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)で倒れた事は、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)にも大きな影響を与えました。

去る天文二十二年(1553年)に相模(さがみ=神奈川県)北条(ほうじょう)とともに今川との間にも相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んでいた信玄は、本来なら、義元の後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)を盛り立てていかねばならない立場だったところでしたが、

この桶狭間キッカケで今川からの独立を果たして信長と同盟を結んだ(1月15日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)(2008年5月19日参照>>)が 互いの隣国である遠江を狙い始めた事や、これまで甲斐より北に位置する信濃(しなの=長野県)からさらに北へと侵攻していたものの越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)から川中島(8月3日参照>>)で激しい抵抗に遭って阻まれていた事、

などなどで、信玄はここで一気に方向転換・・・今川との同盟の証として義元の娘と結婚していた嫡男=武田義信(よしのぶ)廃嫡(はいちゃく=後継者から外す事)して幽閉し(10月19日参照>>)今川の領地へと目を向けたのです。

この信玄の転換を察知した信長は、おそらく義信の次の後継者になるであろう信玄四男の武田勝頼(かつより)に姪っ子の龍勝院(りゅうしょういん)を養女=自分の娘として嫁に出して信玄と友好関係を結んだ後、自身の同盟者である徳川家康と連携しての今川領侵攻をアドバイス・・・

かくして永禄十一年(1568年)12月6日、甲府を出発した武田軍は12日に薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)を越えて駿河へ侵入します(12月12日参照>>)

そして、その翌日に信玄は、氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)し、氏真はたまらず掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと避難するのですが、この同じ日=永禄十一年(1568年)12月13日、徳川家康は陣座峠(じんざとうげ=愛知県豊橋市と静岡県浜松市の境の峠)を越えて遠江へ侵入したのです。

その日のうちに中宇利(なかうり)小幡(おばた=愛知県新城市・小畑)まで軍を進めたところ、東三河菅沼定盈(すがぬまさだみつ)なる者が出迎えて道案内を買って出たのです。

実はコレ以前、以前から徳川派だった菅沼定盈の仲介で、家康は菅沼忠久(すがぬまただひさ)近藤康用(こんどうやすもち)鈴木重時(すずきしげとき)の3人=後に井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)と称される事になる3人を味方につけていて、前日の12月12日の日付にて起請文(きしょうもん=神仏に誓って約束する文書)を提出し、その協力に対するそれなりの恩賞を約束していたのです。

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徳川家康起請文(東京大学史料編纂所蔵)

しかし、この時、出迎えたのは菅沼定盈だけ・・・三人衆は来てませんでした。

実は、彼ら三人衆は、家康は海側を通って来ると勘違いしてソチラの道に向かっていたのだとか・・・で、その後、慌てて菅沼定盈は、その日のうちにかの3人を連れて行き、家康に謁見すると、

「この先の道では浜名荘(はまなしょう=静岡県湖西市の白須賀・境宿の付近)後藤(ごとう)が出てくるかも知れないので備えを怠らぬように」
との家康の言葉に菅沼定盈は、
「ヤツらが兵を挙げても、この定盈一隊で蹴散らせてみせます!」
と大ハリキリ・・・

ただし、ちょっと心配なので牧野康成(まきのやすなり)松平虎千代(まつだいらとらちよ=後の康長)を浜名荘に残して、德川本隊は先に進む事にしますが、心配していた後藤らは、むしろ敵対していた仲間らを説得して徳川に属さんと参上・・・菅沼定盈が大喜びで、その事を家康に報告すると、家康は彼らを定盈の配下の属させて、さらに菅沼隊を強化した後、拓植山(つげやま=愛知県新城市黄楊野付近の山)の奥道を通って、すでに家康に通じた僧の拠る方広寺(ほうこうじ=浜松市北区)に向かったと言います。

しかし、上記の通り、彼ら=菅沼定盈や井伊谷三人衆などは徳川についていたものの、この時、彼らの拠り所であった井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)は、信玄の駿河侵攻のドサクサで、今川氏真の命を受けた井伊家家老の小野道好(おのみちよし=政次)に占領されてしまっていたため、家康は井伊谷三人衆を井伊谷城へ派遣して井伊谷城を奪還・・・敗北した道好は城を捨てて逃亡しました(翌年処刑されます)

さらに、この井伊谷城の他にも刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市)白須賀城(しらすかじょう=静岡県湖西市)などを破竹の勢いで次々と落としていった家康は、12月18日に引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入って(12月20日参照>>)周辺の今川方の武将に調略仕掛けますが、すでに目の当たりにしている徳川方の進撃ぶりや、かの今川氏真の掛川逃避などなどが相まって、もはや周辺の武将は、われ先にと家康に帰属する状況だったとか・・・

翌12月19日、今川から徳川に鞍替えしたばかりの久野宗能(くのうむねよし)船橋(ふなばし=小舟で造った橋)を架けさせて天竜川を渡った家康は、翌20日、掛川城近くへと迫ります。

その後、信玄との約束通り、掛川城の今川氏真を攻める事になるのですが、これが、なかなかに手間取ったうえに、その和睦条件に憤慨した信玄が、やがては織田&徳川と手切れに至るのですが、そのお話はそれぞれのページで・・・

永禄十二年(1569年)1月18日の
【第2次薩埵峠の戦い】>>
3月27日【気賀堀川城一揆】>>
5月17日【掛川城・攻防戦】>>
7月2日【信玄の大宮城の戦い】>>
と…さらには、例の三方ヶ原へとまだまだ続きますが、これ以降は
戦国・安土の年表>>でどうぞ
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2019年11月 2日 (土)

武田信玄の伊那侵攻~福与城・箕輪の戦い

 

天文十三年(1544年)11月2日、武田信玄が伊那松島原で福与城の藤沢頼親勢と戦い、勝利しました。

・・・・・・・・

天文十年(1541年)に父・武田信虎(のぶとら)追放して(6月14日参照>>)甲斐(かい=山梨県)一国の当主となった武田信玄(たけだしんげん=当時の名乗りは晴信ですが、今回は信玄で通させていただきます)は、すぐさま、その翌年の天文十一年(1542年)6月に、父の時代からの悲願であった信濃(しなの=長野県)攻略へと動き始め、諏訪一族の1人である高遠頼継(たかとおよりつぐ)を寝返させる事に成功し、それを足がかりに諏訪氏の本拠地である上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)を攻撃して陥落させます。

その後、負けた諏訪頼重(すわよりしげ)甲府(こうふ=山梨県甲府市)東光寺にて切腹させられ、ここに諏訪惣領家は滅亡しました(6月24日参照>>)

Takedasingen600bそして、その諏訪氏の遺領は、今後は宮川 (みやがわ=山梨県北杜市を流れる)の以西を高遠頼継の領地に、以東を武田の領地にする事で、一旦は合意したのですが、自らの寝返りによって事を成しえたと自負する高遠頼継は、やっぱり不満・・・

結局、諏訪滅亡から2ヶ月後の9月、高遠頼継は諏訪の遺臣たちを率いて、武田信玄に対して反旗ののろしを挙げるのです。

これに対し、信玄は、亡き諏訪頼重に嫁いでいた自身の妹=禰々(ねね)の生んだ寅王(とらおう=つまり頼重の息子で信玄の甥)前面に推しだして出陣したのです。

この時、その寅王は、生後わずか6ヶ月の乳児でしたから、実質的には完全に信玄の軍だったわけですが、やはり寅王が看板に掲げられている態勢にひるむ諏訪の遺臣たちは、どうしてもかつての主君の遺児に弓を引くことができず、その多くが伊那(いな=長野県伊那市)方面へと逃走・・・

そこを、武田軍の先鋒を預かる駒井高白斎(こまいこうはくさい・政武)(9月26日参照>>)は、9月26日、敵側の拠点であった荒神山砦(こうじんやまとりで=長野県上伊那郡辰野町)を奪取し、その後、頼継と結託している藤沢頼親(ふじさわよりちか)福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町:箕輪城とも)を陥落させ、彼らに武田への帰属を誓約させる事で、この一件は落ち着く事になりました。

その翌年の天文十二年(1543年)に、武田の重臣である板垣信方(いたがきのぶかた)を上原城に諏訪郡代として配置し、事は収まったかに見えました。

しかし、これは、あくまで高遠方による「寅王という看板と武田率いる大軍」に対してとったポーズであったようで・・・結局、さらに翌年の天文十三年(1544年)、諏訪領奪回を目論む高遠頼継は、朋友の藤沢頼親に働きかけて、武田に反旗を翻させるのです。

この動きを知った信玄は、10月16日に甲府を出陣し、諏訪に滞在した後、28日に有賀(あるが=長野県諏訪市)に移動し、29日には先発隊を、かの荒神山に派遣して近隣に放火しつつ砦を攻めさせます。

この荒神山砦は、高遠頼継の高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市高遠町)と藤沢頼親の福与城の出城とも言うべき位置にある砦・・・この時も、藤沢頼親に味方する信濃守護で義兄(頼親の奥さんが長時の妹)小笠原長時(おがさわらながとき)から派遣された援軍が伊那衆とともに守っていましたが、武田方は、信玄弟の武田信繁(のぶしげ)を大将に、わずか3時間ほどで攻め落としてしまいます(10月29日参照>>内容かなりかぶってますがお許しを…)

かくして天文十三年(1544年)11月2日武田勢は福与城へと迫ります。

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 福与城・箕輪の戦い~位置関係図 クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

迎える福与城兵は松嶋原(まつしまばら=長野県上伊那郡箕輪町)まで繰り出し、ここでぶつかった両者は、そのまま合戦へとなだれ込みました。

史料が少なく、合戦の詳細は不明な中、敵首26を挙げた武田方の勝利となった事は確かなれど、かと言って、その武田方も福与城を落とす事が出来ず・・・そうこうしているうちに、結局、福与城に高遠からの援軍が投入された11月26日に、武田方は福与城への攻撃を諦め、諏訪まで撤退し、信玄自身も12月9日には甲府へと戻ります。

この勢いに乗った高遠勢は、信玄の移動に合わせるかように、12月8日に諏訪へと侵攻し、諏訪大社(すわたいしゃ=長野県の諏訪湖周辺)神長官(じんちょうかん)である守矢頼真(もりやよりざね)屋敷に放火して気勢を挙げたのだとか・・・

とは言え、結局は、この翌年に再び信玄に攻められ、かの高遠城とともに福与城も陥落する事になるのですが、そのお話は、また「その日」に書かせていただきたいと思います。
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2019年10月14日 (月)

真田幸隆VS斎藤憲広の岩櫃城の戦い

 

永禄六年(1563年)10月14日、武田配下の真田幸隆が斎藤憲広の岩櫃城に総攻撃を仕掛けました。

・・・・・・・

岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)吾妻郡(あがつまぐん=群馬県の西北部分)の中心になる城で、鎌倉時代あるいは南北朝時代にこの地を収めた吾妻(あがつま)が築城したとも、室町中期に吾妻氏の子孫と称する斎藤憲行(さいとうのりゆき)が築城または主君から奪った物とも言われますが、

とにもかくにも、室町時代以降に斎藤氏の居城となってからは、信州真田(さなだ)氏と同族の滋野(しげの)一族の海野(うんの)浦野(うらの)西窪(にしくぼ)など吾妻郡一帯の地侍を支配下に置いて、かなりブイブイ言わせてたみたいですが・・・

しかし、戦国期に入った永禄三年(1561年)、滋野一族の鎌原幸重(かんばらゆきしげ)が武田家臣の真田幸隆 (さなだゆきたか=幸綱)甘利昌忠(あまりまさただ)を通じて甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の傘下に加わった事から、当時の岩櫃城主=斎藤憲広(さいとうのりひろ)が、鎌原幸重の 鎌原城(かんばらじょう=群馬県吾妻郡嬬恋村)に圧力をかけて来ます。

翌・永禄四年(1561年)の羽尾幸全(はねおゆきてる?)らとともに鎌原城を攻撃して陥落させた斎藤憲広は、ここを羽尾氏に守らせます。

Sanadayukitaka300a 一方、敗れた鎌原幸重は信濃(しなの=長野県)に逃走しますが、彼らの訴えを聞いた武田信玄は、さらに翌年の永禄五年(1562年)8月に真田幸隆 & 甘利昌忠に3000の兵をつけて鎌原城を攻めさせて奪還に成功・・・鎌原城は再び鎌原幸重の手に戻りました。

ここで、さすがに「相手は大物=信玄」と踏んだ斎藤憲広は、武田に対抗すべく越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)を味方にして後ろ盾とします。

信玄は、そんな斎藤憲広への抑えとして長野原城(ながのはらじょう=群馬県吾妻郡長野原町)を真田幸隆の弟=常田隆永(ときだたかなが)に守らせて備えました。

そんなこんなの永禄六年(1563年)、またもや斎藤憲広が動きます。

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岩櫃城の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

9月、まずは長野原城を攻めて、これを落とし、その勢いのまま鎌原城攻略へと向かいます。
(一説には常田隆永と息子の俊綱(としつな)はこの戦いで討死したとも…)

真田幸隆は、信玄傘下となっている手子丸城(てこまるじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町・大戸城)浦野重成(うらのしげなり)ら3000の兵を以って暮坂(くれさか=群馬県吾妻郡中之条町)雁ヶ沢(がんがさわ=群馬県吾妻郡東吾妻町)大戸(おおど=群馬県吾妻郡東吾妻町)三方面から岩櫃城を囲みます。

一方の斎藤憲広は、上杉配下の沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)などに援軍を要請して、9月15日、手子丸城へと迫りつつ、雁ヶ沢にて真田勢とぶつかりました。

暮坂方面から侵入した真田幸隆隊は、岩櫃城守備の背後の要である成田(なりた)仙蔵城(せんぞうじょう=群馬県吾妻郡中之条町)を攻略しましたが、これ以上の力攻めを止め、ここで一旦、斎藤憲広と和睦します。

しかし、その後すぐに、斎藤憲広の一族の離反(斎藤則実か?)や、憲広配下の海野幸光(うんのゆきみつ・ゆきてる)輝幸(てるゆき)兄弟が真田に降った事で、永禄六年(1563年)10月14日3度目の岩櫃城総攻撃を仕掛けたのです。

総大将が真田と言えど、バックにはあの武田信玄がついているわけで・・・やむなく斎藤憲広は、嫡子の則宗(のりむね)とともに上杉謙信を頼って越後へと落ちていったという事です。

今回の真田幸隆が流浪の身から武田の家臣となって頑張り、息子の真田昌幸(まさゆき)、さらに、その息子の信之(のぶゆき=信幸)幸村(ゆきむら=信繁)兄弟へとつながっていく・・・今回のお話は、ドラマや小説でよく描かれる時代の一時代前のお話という事になりますが、

ドラマで描かれるその時代の頃には、今回の岩櫃城も沼田城も仙蔵城も、真田の城として登場するワケですから、戦国の群雄割拠する中で「父ちゃん&爺ちゃん、メッチャがんばったね~」って感じですね。。。

2007年放送の大河ドラマ「風林火山」では、チョコッとこの時代のお話が出てきましたが、また、この有名武将の父ちゃんたちの時代のドラマも見てみたいですね~
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2019年9月 1日 (日)

織田信長の美濃侵攻~関城の戦い

 

永禄八年(1565年)9月1日、織田信長が斎藤方の長井道利の拠る美濃関城を攻め落としました。

・・・・・・

かねてより、度々隣国同志で争っていた尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)(9月22日参照>>)でありましたが、天文十八年(1549年)頃に、尾張の織田信秀(おだのぶひで)の息子=信長(のぶなが)と、美濃の斉藤道三(さいとうどうさん)の娘=濃姫(のうひめ=帰蝶)との婚姻が成立して和睦(4月20日参照>>)、ひとときの平穏が保たれました。

しかし弘治二年(1556年)に、その道三が息子の義龍(よしたつ)に敗れて(4月22日参照>>)政権交代した事で、直後から義父の弔い合戦を意識する信長・・・なんせ信長は、自分を裏切った息子と戦う先日の道三から【「美濃を譲る」の遺言状】>>を受け取っていたという話もありますから (遺言状は偽物の噂もありますが…)

Odanobunaga400aとは言え、かの義龍がなかなかの名将であった事で美濃には容易に手は出せず、また、自身の弟=信行(のぶゆき)(11月2日参照>>)尾張を統一の事など・・・目先の事も解決しなければならないわけで・・・

しかし、そんんなこんなの永禄三年(1560年)、信長が、ご存知桶狭間(おけはざま)今川義元(いまがわよしもと)を破って(5月19日参照>>)全国ネットに躍り出る一方で、斎藤では、この翌年=永禄四年(1561年)5月11日に義龍が死去し、未だ14歳の息子=龍興(たつおき)が家督を継ぐという出来事が・・・

これをチャンスと見た信長は、即座に美濃攻略に出陣・・・5月14日の森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)と23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)に勝利しました。

さらに、翌年の永禄五年(1562年)に織田信賢(のぶかた)を追放して尾張一国を統一した信長は、いよいよ本格的に美濃攻略に乗り出す決意を固め、永禄六年(1563年)には、美濃侵攻の拠点とするべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に新たな城を築きました。

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信長の美濃侵攻~位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その後、永禄七年(1564年)に犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)の家老の内応により、その犬山城が織田方の物となると、斎藤配下だった加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)佐藤忠能(さとうただよし)忠康(ただやす)父子が織田方に転向します。

そして犬山城攻略の勢いに乗った織田勢は、犬山と加治田の間にある大沢基康(おおさわもとやす)鵜沼城うぬまじょう=岐阜県各務原市多治見修理(たじみしゅり)猿啄城(さるばみじょう=岐阜県加茂郡坂祝町)を攻略し、両城から敗走した兵が逃げ込んだ岸信周(きしのぶちか)堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)を囲みます。

ここで、速やかなる開城を交渉する信長でしたが、岸信周は堂洞城にて預かっていた佐藤忠能の娘を磔刑(たっけい=はりつけの刑)に処して反発・・・結局、大激戦の末、堂洞城は陥落する(8月28日参照>>)のですが、この時、堂洞城の後方支援として織田勢の背後を狙っていたのが、関城(せきじょう=岐阜県関市)長井道利(ながいみちとし)でした。

この長い道利は、斎藤道三の息子ともされる人物で、それならば現当主=龍興の叔父になるわけですが、その真偽はともかく、かなり主家に近しい人物であり、龍興が信頼を寄せる武将でした。

今回の信長の美濃侵攻に当たっても、その忠誠心で以って、先の佐藤忠能や岸信周らと「信長との徹底抗戦」を誓い、互いに同盟を結んでいたわけですが、上記の通り佐藤忠能には裏切られ、そのせいもあって、堂洞城を目の前にしながら岸信周を自刃させてしまった事に、誰よりも悔しい思いをしていたのです。

かくして、憎い信長を迎え撃つべく関城に籠城する道利・・・

この関城は、南側に3つの砦が連立したさらに南に津保川(つぼがわ)が西に向かって流れ、北側は湧き水による湿地帯・・・しかも、その湿地帯から城の東西両側を2つの川が南下するという見事な天然の要害で、備える兵力もなかなかの物なうえに、それを指揮するのが長井道利という事で、信長も、堂洞城陥落後すぐに攻撃を仕掛けず、しっかりと見据えつつ、まずは、佐藤忠能に斎藤新五(しんご=新五郎利治・長龍:斎藤道三の末子?)を加勢につけて攻めさせる事に・・・

8月29日、連日の晴天続きで、かなり水かさが減っていた津保川をなんなく渡河した織田勢・約1000は、関城を守る砦の一つである肥田瀬砦(ひだせとりで=岐阜県関市)の攻撃に取り掛かりますが、ここで「関城からの救援が無い」と見て、さらに進んで関城の大手口へと迫ります。

しかし、ここで長井勢の強い反撃を受けて撤退・・・翌日、丸一日かけて将兵の休息と、今後の作戦を練って大勢を整えた永禄八年(1565年)9月1日、先と同じく斎藤&佐藤勢を先鋒に、丹羽長秀(にわながひで)隊、河尻秀隆(かわじりひでたか)隊、金森長近(かなもりながちか)隊などの諸隊が続き、やはり先日と同じく津保川を渡って関城へと迫り、各所の砦を攻撃し始めます。

ここを支えきれなくなった砦の守兵は次々と本城へと退いて、籠城戦に加わっていきました。

ここまで、長井道利のゲリラ的奇襲を警戒して遠くから指示を出していた信長は、ここで、自身の本陣を肥田瀬へと移動して、「東西南の三方向から一気に関城に総攻撃をかけよ!」と指示を出します。

もちろん、道利も檄を飛ばして必死の防戦に努めますが、東からの斎藤勢の攻撃に対抗していると西からの丹羽勢が攻めかかり・・・と、城内外入り乱れての大混戦となるうち、長井勢が次々と討たれはじめ、とうとう、道利の息子=道勝(みちかつ=井上道勝*討死してない説もあります)など、側近までも討死してしまいます。

「もはや、これまで!」
と自刃も覚悟した道利でしたが、主君=龍興の今後を思うと、
やはり「ここで死ぬわけにはいかない!」
と思い直し、数人の従者を連れて城を脱出・・・主を失った関城は陥落しました。

これにて東濃(とうのう=美濃東部=岐阜県南東部)における反信長勢力は一掃され、斎藤氏の本拠=稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)の外郭を抑えた事になります。

こうして、信長はいよいよ念願の稲葉山城攻略へと向かうわけですが、そのお話は約2年後の永禄十年(1567年)・・・
*8月1日の【美濃三人衆の内応】>>
*8月15日の【天下への第一歩~稲葉山城・陥落】>>
それぞれのページでどうぞ
(内容がかぶってる部分もありますが、お許しを…m(_ _)m)
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2019年8月 1日 (木)

上杉謙信VS長尾房長&政景~坂戸城の戦い

 

天文二十年(1551年)8月1日、上杉謙信が長尾房長&政景父子の籠る坂戸城への総攻撃を通告しました。

・・・・・・・・

坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)の城主=長尾房長(ながおふさなが)は、越後(えちご=新潟県)守護代(しゅごだい=副知事)を務める越後長尾(ながお)の分家である上田長尾(うえだながお)の6代目当主。

本家の越後長尾家の当主である長尾為景(ためかげ)とは兄弟だったという説もあるものの、一般的には実父が長尾憲長(のりなが)、養父がその弟の長尾景隆(かげたか=つまり房長の叔父)で、越後長尾家の一族ではあったものの、関東管領(かんとうかんれい=室町幕府将軍補佐)越後守護(しゅご=県知事)でもある山内上杉(やまのうちうえすぎ)被官(ひかん=官僚)であったとされます。

そんな中、ここんとこの戦国下剋上で守護代の為景が守護の上杉をしのぐ勢いを見せて来ていた(長森原の戦い参照>>永正の乱参照>>)ものの、一方で越後内での争いにより、為景は天文五年(1536年)に隠居に追い込まれ、嫡男の長尾晴景(はるかげ)が、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)にて、その後を継ぐ事になります。

しかし、この晴景さん・・・戦いにはあまり向かない穏やかな性格であったようで、ある程度越後の内乱は収めたものの、当時の越後守護=上杉定実(さだざね=晴景の養父)が絡んだ奥州(おうしゅう=東北地方)伊達(だて)の内紛(4月14日参照>>)の影響を受け、なかなか国内の情勢は定まらない・・・

そんな中、仏門に入っていた晴景の弟が還俗(げんぞく=仏門に入っていたいた人が一般人に戻る事)して長尾景虎(かげとら)と名乗って栃尾城(とちおじょう=新潟県長岡市)の城主となって、謀反を起こした黒田秀忠(くろだひでただ)を倒した事から、一部の家臣の間で景虎を当主に擁立する動きが見え始めます。

Uesugikensin500 この景虎が後の上杉謙信(けんしん)です。
(後で養子の景虎が出て来てややこしいので、ここからは謙信の名で…)

当然、家中は晴景派と謙信派、真っ二つに分かれる事に・・・この時、謙信の母=虎御前(とらごせん)の実家である古志長尾(こしながお)の勢力が一族内で強大になる事を恐れた長尾房長は、晴景に味方し、両者一触即発の状態となりますが、ここに上杉定実が仲裁に入ります。

現状は「上杉>長尾」とは言え、なんだかんだで定実は長尾家の主君ですから、とりあえず、このゴタゴタは晴景派が矛を収め、天文十七年(1548年)12月に晴景は謙信と「父子の義」を結んで隠居し、19歳の若き謙信が春日山城主となりました。

とは言え、当然ですが、房長の心の奥底には、多少の不満は残ったまま・・・そんなこんなの天文十九年(1550年)2月、かの上杉定実が亡くなります。

定実には後継ぎがいなかった事から、その死の直後に、謙信は、時の将軍=足利義輝(あしかがよしてる)から、実質的な国主待遇を許可されたのです。
つまり、それは「上杉家に代わって、守護をやれ」という事・・・

ここで、房長の中にあった悶々とした不満が、一気に噴出します。

天文十九年(1550年)12月、房長は息子の長尾政景(まさかげ)とともに、坂戸城に籠って反謙信の旗を揚げるのです。

これを知った謙信は、先手を取って、房長に味方しそうな会津黒川城(くろかわじょう=会津若松市)主の蘆名盛氏(あしなもりうじ)に対し、その家臣である松本右京亮(まつもとうきょうのすけ)に宛てた12月28日付けの書状にて(おそらく味方にならぬよう釘を刺す意味で)房長&政景謀反の報告をします。

こうしておいて、年が明けた天文二十年(1551年)1月15日、謙信は、板木城(いたぎじょう=新潟県魚沼市板木)に本拠を持つ房長方の発智長芳(ほっちながよし)を襲撃します。

発智のピンチを聞きつけた金子尚綱(かねこなおつな)が即座に出陣し板木に向かいましたが、時すでに遅し・・・現地に到着した時は、発智長芳の妻子らが人質として春日山城に連行された後でした。

さらに謙信は、2月14日にも、こんこんと雪が降り積もる中、発智長芳への攻撃に向かいますが、さすがに雪深く、この時は決定打を放つ事はできませんでした。

そんな中、房長&政景父子は、なんだかんだで「謙信には勝てない」と、この春頃から、かたくなな姿勢を緩めて和平に向けて交渉を開始しますが、謙信に許す気配はなし・・・

かくして天文二十年(1551年)8月1日謙信は、坂戸城への総攻撃を通告したのです。

謙信の襲撃計画を知った房長&政景父子は、慌てて誓詞(せいし=忠誠を神仏に誓う文書)を提出し降伏しました。

それでも、許すつもりは無かった謙信でしたが、古くからの老臣たちの助命嘆願があった事や、なんだかんだで同じ長尾の一族である事から、最終的に房長&政景父子を許す事とし、謙信の姉=仙桃院(せんとういん=当時は綾?)が、息子の政景に嫁ぐ事で両者の溝を埋め、今回は一件略着となるのです。

ただし、この政景と仙桃院との結婚については天文五年(1536年)~六年前後という説もあり、その場合は上田長尾家と越後長尾家の関係強化のための婚姻であり、その縁があるからこそ、今回の謀反も許したのでは?と考えられています。

とにもかくにも、謙信にとっては、ここで長尾房長&政景父子を臣下とした事で、長尾家相続以来くすぶっていた一族の中での争いに終止符を打つことができ、憂いなく外へと目を向ける事ができるようになり、この後、わずか22歳で越後を統一する事になります。

一方の房長&政景父子・・・父の房長は、この翌年の天文二十一年(1552年)に亡くなりますが、その後を継いだ政景は、自身もろとも謙信の配下となった上田衆(上田長尾家の家臣)を率いて、越後長尾家の重臣として活躍し、あの弘治二年(1556年)の謙信出家騒動の時にも、必死のパッチで主君を引き留め、何とか思いとどまらせています(6月28日参照>>)

しかし、その8年後の永禄七年(1564年)7月、坂戸城近くの野尻池にて舟遊びをしていたところ、ともに舟に乗っていた謙信の重臣=宇佐美定満(うさみさだみつ)もろとも舟から落ち、溺死してしまうのです(7月5日参照>>)

その7月5日のページに書かせていただいたように、この溺死に関しては、イロイロ言われています。

舟の上でお酒を飲んでいた事から、酔った勢いの事故説もありますが、謙信の命を受けた宇佐美定満による命懸けの暗殺とも・・・どうやら、なんだかんだで越後長尾家と上田長尾家の溝は埋まってはいなかったようで・・・ その因縁は謙信の死後のアレコレを見るとなんとなく見えて来ます。

そうです・・・子供がいなかった謙信が、自身の養子として迎えた上杉景勝(かげかつ)は、この政景さんと仙桃院の子供・・・

謙信亡き後に、もう一人の養子=上杉景虎(かげとら=実父は北条氏康)と後継者を巡って争った御館の乱(おたてのらん)の時、景虎の支援をしたのが古志長尾家で、一方の景勝の配下は当然、実家でもある上田衆なわけですが、ご存知のように、結果的に景勝が勝利し(3月17日参照>>)上杉家の後継者は景勝・・・となる。

なんだか、かつて晴景派と謙信派に分かれた、あの時の古志長尾家VS上田長尾家の代理戦争のよう・・・

ところで、この御館の乱の景勝勝利には、景勝側が、未だ謙信が生きている間に、いち早く春日山城の本丸と武器庫と金蔵を占拠したと、当時、景虎実家の北条と同盟を結んでいて景虎に援軍を出すつもりでいたた甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより)寝返らせた事が大きく関わっているのですが・・・

もちろん、御館の乱は上杉家を真っ二つに分けた家中の大乱ですから、その勝因&敗因も色々ありますが、私個人的には、上記の2件が成功した事が景勝勝利につながる、かなり重要度が高い出来事だと思っています。

が、この二つ一大事業をやってのけたのは、実は、景勝直属の上田衆ではい無い人・・・ 春日山城の占拠は、上杉定実の一族の上条政繁(じょうじょうまさしげ)という人で、武田との交渉は越後の北部を領していた新発田重家(しばたしげいえ)だったとされています。

しかし、この戦いの後、上杉家内で大きく出世するのが上田衆だった・・・

そのためか?結局、上条政繁は豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)のもとへと走り、新発田重家は独立を夢見て反旗を翻す事になるのですが、そのお話は【上杉景勝の宿敵~独立を夢見た新発田重家】>>でどうぞm(_ _)m
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2019年7月20日 (土)

上杉朝定VS北条氏綱~難波田憲重の松山城風流合戦

 

天文六年(1537年)7月20日、上杉朝定の拠る武蔵松山城を北条氏綱が攻撃した松山城の戦いがありました。

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現在の埼玉県にあった武蔵松山城(むさしまつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)

その誕生は、応永三年(1396年)もしくは六年(1399年)に扇谷上杉氏(おおぎがやつうえすぎ)家臣の上田友直(うえだともなお)によって築城されたと考えられており、あの新田義貞(にったよしさだ)鎌倉攻め(5月22日参照>>)の際に、ここに駐屯したとも言われますが、あくまで、それは言い伝え・・・

なんせ、武蔵(むさし=東京都&埼玉県と神奈川県の一部)比企丘陵(ひききゅうりょう=埼玉県東松山市・比企郡滑川町・嵐山町・小川町付近)の東端に位置し、南北・西の三方に川を従えた天然の要害地にある松山城。

おそらくは、東の下総(しもうさ・しもふさ=埼玉県&東京都の東部と千葉県北部・茨城県南部)、北の上野(こうずけ=群馬県)から武蔵を守る目的で構築された最前線の城であった事がうかがえ、その時代々々において、度々の関東支配を狙う武将たちによる争奪戦が繰り返された場所だったのです。

特に、文明十八年(1486年)に、活躍し過ぎな部下だった太田道灌(おおたどうかん)を恐れた主君=上杉定正(さだまさ・扇谷)が、その道灌を殺害(7月26日参照>>)してからは、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)との抗争が激化し、度々、この地が合戦場所となっていました。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

ちなみに、この「山内&扇谷」という両上杉家は、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、もともと地元が関東であるにも関わらず、将軍は京都にいなければならないため、次期将軍を三男の 義詮(よしあきら)に譲り、その弟の基氏(もとうじ)に地元を支配すべく関東に派遣して鎌倉公方(かまくらくぼう)と称した、その鎌倉公方の補佐役=執事(しつじ=後の関東管領)を代々務める家柄でした。

とは言え、山内と扇谷では山内が本家なため、関東管領はほとんど山内上杉家から出ていたのですが、ここに来て、その太田道灌の活躍により(5月13日参照>>)扇谷上杉が力をつけつつあったわけなのですが・・・

しかし、この両者がゴチャゴチャやってる間に、その間をすり抜けて自力で小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)奪取して、徐々に関東における勢力範囲を伸ばしはじめていたのが北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎宗瑞)でした。

永正十三年(1516年)には、新井城(神奈川県三浦市)を落として(7月13日参照>>)相模(神奈川県の大部分)一帯を北条が制覇した事で、危機感を抱いた両上杉家が、和睦して対抗していますが、大永四年(1524年)には、早雲の後を継いだ北条氏綱(うじつな=早雲の長男)江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を奪われ、当主の上杉朝興(ともおき=定正の養孫)河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に逃亡する場面もあったとか・・・

そんなピンチな上杉朝興は、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事)武田信虎(たけだのぶとら)の息子=晴信(はるのぶ=後の信玄)に娘を嫁がせて同盟を結んで、その力を借りながら戦いますが、残念ながら江戸城奪回を果たせぬまま天文六年(1537年)4月に死去・・・息子の上杉朝定(ともさだ)が後を継ぐ事になります。

ところが、この息子の朝定が未だ13歳という若さ・・・当然ですが、かの北条氏綱が、この好機を見逃すはずはありません。

もちろん、そこンところは上杉側も重々承知。。。朝興の遺言に従い、弟(つまり朝定の叔父)上杉朝成(ともなり)が若き当主の後見人に立ち、神太寺にあった古城を深大寺城(じんだいじじょう=東京都調布市深大寺元町)としてを再構築して北条の侵攻に備えます。

朝興の死から3ヶ月後の7月11日、北条氏綱が、自ら7000騎の軍勢を率いて、現時点で上杉朝定らが本拠とする河越城の南西に位置する入間郡(いるまぐん=現狭山市内)付近まで出張ると、4日後の7月15日、これを受けた上杉勢は約2000の軍勢で以って迎え撃ちます。

しかし、深入りした上杉朝成が敵兵に生け捕られたうえに、味方に700余名の死者を出し、上杉勢は敗退・・・やむなく朝定は河越城を捨て、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)の守る松山城へと逃げ込んだのです。

かくして天文六年(1537年)7月20日松山城に駒を進めた北条氏綱勢に対し、残党をかき集めて体制を立て直した難波田憲重が撃って出ます。

合戦の勝敗については・・・
いくつかの文献で、北条方の激しい攻撃に耐えきれずに松山城は陥落し、上杉朝定は山内上杉憲政(のりまさ)を頼って上野平井城(ひらいじょう=群馬県藤岡市)へ逃れ、勢いに乗じた北条方が、その後、近隣の町屋をことごとく焼いた・・・と記されたりしているのですが、一方で、難波田憲重らの奮戦によって松山城を死守したという話もあります。

一般的には、この戦い以降、かの河越城を失った上杉朝定が、松山城を居城とし、河越奪回、いや、なんなら江戸城奪回を夢見て、松山城に大幅な拡張工事をしたと・・・つまり、難波田憲重らの奮戦によって北条勢を撃退したとの見方がされています。

Nanbadanorisige500a で、この時のエピソードとして語られているのが「松山城風流合戦(まつやまじょうふうりゅうがっせん)です。

北条勢を撃退した難波田憲重が城中へ取って返そうとした時、未だ攻撃中の寄せ手側から山中主膳(やまなかしゅぜん)なる武将が進み出て
♪あしからじ よかれとてこそ 戦はめ
 なにか難波田(なばた)の 浦崩れ行く ♪
と一首の和歌を詠みます。

「おいおい、どうしたんや!難波田は戦わんと逃げ帰るんか?」
城中へ戻ろうとする憲重を挑発して聞いて来たのです。

すると憲重は、古今和歌集の中の一首を引用して
♪君おきて あだし心を 我もたば
 末の松山 波もこえなん ♪
と返します。

上記の通り、この歌は古の歌集にある歌で、本来は、
「君をほっといて浮気するなんて、あり得へん」
という恋の歌です。

歌の中の「末の松山」とは、現在の宮城県多賀城市付近にあったとされる山なのですが、それが、とても高い山なので、そこを波が越えて行くなんて事はあり得ない・・・なので、古くから、そのあり得ない事の例えとして「末の松山、波もこえなん」という言い回しが使われていたのですね。

今だと何でしょ?
「天地がひっくりかえる(くらいあり得ない)みたいな言い回し?

それとも、
くりぃむ上田さんの「センターフライがファールになる(くらいあり得ない)とか、
フット後藤さんの「隠れミッキーが前面に出て来る(くらいあり得ない)てな例えツッコミみたいな感じかな?

とにもかくにも、つまりは
「主君をほったらかして目先の勝負に挑むような事は、俺の中ではあり得へんねん」
という自らの忠誠心を現すのに、古今和歌集の歌を、それも、今戦っている場所=「松山」というフレーズの入った歌を使ったという事です。

なんという教養!
なんというカッコ良さ!

あまりにカッコ良すぎて、さすがに、「それは、末の松山を波が越えるくらい無いやろ!」とツッコミたいところではありますが、ここはカッコ良さに免じて、そんな戦国ロマンに浸るのもアリかと・・・

とは言え、ご存知のように、この9年後、北条のスキを突いて河越城を奪回しとうした上杉朝定が、逆に奇襲をかけられて、その命までも落としてしまう、河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)・・・戦国三大奇襲の一つに数えられる、この有名な合戦において扇谷上杉は、滅亡し、このカッコイイ難波田憲重も、その戦いで亡くなってしまいます。

一説に、難波田憲重は戦いの最中に井戸に落ちて死んだとされ、ちょっとカッコ悪い死に方のようにも言われますが、戦いの最中の井戸・・・ですからね。

普通に歩いてて落ちたわけでは無いですし、もし、そうだったとしても、松山城でのカッコ良さとで「プラマイ0」・・・いや、若き主君を、それも、チョイ落ち目の主君に忠誠を誓い、支え続けたその姿は、引いて余りある名将ではないかと・・・

ところで、今回の河越夜戦の一件で北条に開け渡された松山城・・・この城を奪回するのは、この難波田憲重の娘婿で、かの太田道灌の曾孫太田資正(すけまさ・三楽斎)…と、歴史の流れはとめどなく続いていきますが、

そのお話は2011年9月 8日=【道灌のDNAを受け継ぎ軍用犬を駆使した智将・太田資正】でどうぞ>>
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2019年6月 8日 (土)

細川高国が自刃…大物崩れ~中嶋・天王寺の戦い

 

享禄四年(1531年)6月8日、天王寺の戦いに敗れて大物崩れとなった細川高国が自刃しました。

・・・・・・・・

応仁の乱後に、明応の政変(4月22日参照>>)で以って政権を握った室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)は、その政変の前後の状況変化ゆえ、3人の養子を迎える事になりますが、その死後に、3人の養子=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)の間で後継者争いが勃発・・・その中で、永正八年(1511年)の船岡山の戦い(8月24日参照>>)と永正十七年(1520年)の等持院表(とうじいんおもて)の戦い (5月5日参照>>)に勝利して一人勝ちとなった高国は足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立確固たる高国政権樹立に成功します。

Hosokawatakakuni600a しかし大永六年(1526年)、高国は自らの勘違いで重臣の香西元盛(こうざいもともり)を上意討ちしてしまった事から、その実兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が高国に反旗を翻し(10月23日参照>>)、しかも、このタイミングで阿波(あわ=徳島県)に退いていた亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)と配下の三好元長(みよし もとなが)らが挙兵して上洛して来ます。

大永七年(1527年)2月13日、波多野&柳本勢に合流した晴元は桂川原(かつらかわら)の戦い に勝利(2月13日参照>>)・・・負けた高国は将軍=義晴とともに近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退きます。

その後、しばらくは京都の奪回に向けて奔走する高国は、享禄元年(1528年)11月には伊賀(いが=三重県西部)仁木義広(にっきよしひろ)のもとに、翌年1月には娘婿に当たる伊勢(いせ=三重県中北部)北畠晴具(きたばたけはるとも)のもとに、5月には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉孝景(あさくらたかかげ)に、8月には出雲(いずも=島根県東部)尼子経久(あまごつねひさ)に、翌9月には三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)浦上村宗(うらがみむらむね)に会い・・・と、あちこちを転々として各人に出兵を要請して廻ります。

浦上滞在中の享禄三年(1530年)6月29日に播磨依藤城(よりふじじょう=兵庫県小野市・豊地城)を攻撃中の柳本賢治に刺客を派遣して暗殺に成功したうえに浦上の援軍を得た高国は、ここ最近、晴元と元長の関係がギクシャクし始めて元長が阿波に戻っていた事をチャンスと見て、いよいよ摂津(せっつ=大阪府中北部)に出陣します。

7月には別所就治(べっしょなりはる)三木城(みきじょう=兵庫県三木市)を攻略し、8月には神呪寺(かんのうじ=兵庫県西宮市・神咒寺)に、本陣を設けて後、9月から11月にかけて、晴元派の富松城(とまつじょう=兵庫県尼崎市)を陥落させ、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)尼崎城(あまがさきじょう=兵庫県尼崎市)での戦いにも勝利します。

一方の晴元も、諸城の守りを強化して防戦に努めますが、高国勢の勢いは止まらず、京都の各所に出没して禁裏(きんり=天皇の住まい)をも脅かすようになります。

さらに勢いづく高国勢が、年が明けた享禄四年(1531年)3月に池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を落とすと、近江の朽木(くつき=滋賀県高島市)に身を隠していた将軍=義晴も坂本まで進出し、京都奪回の機会をうかがいます。

この高国勢の快進撃に、いよいよヤバくなって来た晴元は京都を脱出し、自らが擁立した堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)のいる(さかい=大阪府堺市)へ・・・そんな晴元は、これまで頼りにしていた柳本賢治も今は亡く、ここは何とか、あの三好元長に戻って来てもらいたい(^人^) オ・ネ・ガ・イ♪

実は元長・・・先の等持院表の戦いで祖父(もしくは父)三好之長(みよしゆきなが)を亡くしています。。。つまり高国は、元長にとって、もともと祖父の仇なわけで、、、

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四天王寺・西門

かくして享禄四年(1531年)3月、元長は、堺を制圧すべく住吉(すみよし=大阪市住吉区)に出撃して来た高国勢に対し、摂津中嶋(なかじま=現在の天王寺周辺)に布陣して高国勢の先鋒を少し後退させますが、高国も天王寺(てんのうじ)難波(なんば)今宮(いまみや)に陣取り、浦上勢も野田福島(のだ・ふくしま=大阪市福島区)に布陣します。

これから5月頃まで、天王寺表にて小競り合いはあるものの、決着のつかないこう着状態が続く両者でしたが、6月2日に高国の援軍として神呪寺に布陣していた赤松晴政(あかまつはるまさ=政祐)が、晴元の要請に応じて寝返って浦上軍を背後から奇襲した事でこう着状態が崩れます。

実はコッチも・・・赤松晴政の父=赤松義村(よしむら)を暗殺したのが、誰あろう浦上村宗なわけでして(11月12日参照>>)(どんだけ恨み買うとんねん(><))、いつか仇を討とうと機会を狙っていたわけですが、この赤松の寝返りについては、高国側にもかなりの動揺があったようで・・・「赤松旧好の侍吾も吾もと神咒寺の陣に加わり」『備前軍記』と、名門赤松なればこそ、それに追随する者も少なくなかったようです。

とにもかくにも、この状況を受けた元長は、その2日後の6月4日高国陣営に総攻撃を仕掛けたのです。

もはや流れはすっかり変わりました。

かの浦上村宗をはじめ、松田元陸(まつだもとみち)伊丹国扶(いたみくにすけ)薬師寺国盛(やくしじくにもり)など、主だった武将の多くを失い、多大なる戦死者を出して、高国軍は大敗してしまうのです。

この戦いで中嶋を流れる野里川は死体で埋め尽くされ、まるで塚のようになってしまったのだとか・・・

敗戦の混乱の中、戦場を脱出した高国は、大物城(だいもつじょう=兵庫県尼崎市大物町・尼崎城と同一説あり)へと向かいますが、すでに追手が回っていたため、尼崎町内の藍染屋に逃げ込み、カメの中で身を潜めていたところを翌6月5日に発見され、享禄四年(1531年)6月8日、晴元の命により、広徳寺(こうとくじ=兵庫県尼崎市寺町)にて切腹・・・享年48でした。

この時、高国が詠んだ時世の句は
♪絵にうつし 石をつくりし 海山を
 後の世までも 目からずや見む  ♪
娘婿の北畠晴具に送った物で、三重県津市の北畠神社(きたばたけじんじゃ)に今も残る庭園の事を詠んだ物だそうで・・・この時の高国は、永遠に残る庭園の美しさと、散りゆく自らの儚さを感じていたのかも知れません。

今回の戦いは、その地名をとって「中嶋の戦い」と呼ばれたり「天王寺の戦い」とも言われますが、高国が最後に目指した場所とその衰退を含んで「大物崩れ(だいもつくずれ)とも呼ばれます。

これにて長きに渡った細川管領家を巡る争いは終わる事に・・・と言いたいところですが、実は、高国の養子である細川氏綱(うじつな)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい=元長の息子) の力を借りて晴元を倒し、最後の管領になるのです。

・・・と、そのお話は9月14日 【最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】でどうぞ>>
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