2018年10月16日 (火)

三好長慶の八上城攻略戦

弘治三年(1557年)10月16日、三好長慶が丹波八上城を攻め、龍蔵寺城を攻略しました。

・・・・・・・・・・・

丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)地方の小さな国人(こくじん=在地の武士)の一人に過ぎなかった波多野稙通(はたのたねみち)が、応仁の乱での功績によって細川勝元(ほそかわかつもと=東軍の大将)配下の有力武将となって築城したとされる八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)

その後の細川家内の後継者争いの真っ最中だった大永六年(1526年)、重臣として仕えていた弟を殺害された事で、その主君であった細川高国(たかくに=勝元の孫(養子))と敵対し(10月23日参照>>)、高国との後継者争いの相手であった細川晴元(はるもと=勝元の孫(養子)の息子)に近づいて、ともに高国を京都から追い出して(2月13日参照>>)晴元政権樹立に成功し、稙通も評定衆(ひょうじょうしゅう=政権下の最高機関)の一人に名を連ねたのです。

とは言え、稙通自身は天文十四年(1545年)頃に死没したようで、波多野の家督は嫡男の波多野晴通(はるみち)が受け継ぎます。

Miyosinagayosi500a ところが、今度は、その晴元が重臣の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と対立・・・長慶は、晴元の領国である阿波(あわ=徳島県)守護代を務める重臣中の重臣で、稙通も自らの娘(晴通の妹)を嫁に出して縁を繋いでいた相手だったのですが、この一件により、その奥さんも離縁の憂き目に・・・

そんな中、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで長慶に完敗した晴元は、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を伴って近江(おうみ=滋賀県)へと逃れました(6月24日参照>>)

ただし、翌年の天文十九年(1550年)5月には、その将軍=義晴が避難場所の坂本にて病死・・・それを受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)足利義輝(よしてる)第13代室町幕府将軍に就任しています。

その後、志賀の戦い(2月16日参照>>)を経た天文二十一年(1552年)の正月には晴元が出家した事で両者の間に和議が成立し、事実上の三好政権が誕生していたわけですが、やはり、京都奪回の夢を捨てきれない晴元は、軍を起こしてなんやかやの動きを見せていたのです。

そんな晴元に同調したのが波多野晴通・・・この動きを知った長慶は、八上城を攻略すべく、この年の4月に、重臣の松永久秀(まつながひさひで)を伴って丹波に出陣します。

しかし、八上城包囲中のさ中に、味方として三好軍に従っていた芥川孫十郎(あくたがわまごじゅうろう=長慶の妹婿もしくは娘婿)池田長正(いけだながまさ)が波多野側に内通して謀反を計画している事を察知した長慶は、5月23日に八上城の包囲を解いて一旦、越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)へと帰還します。

これにより、少しは勢いづいた晴元&晴通側でしたが、翌天文二十二年(1553年)8月、長慶はすかさず反撃・・・芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)を攻めて孫十郎を阿波へと敗走させたうえ、この混乱で京に攻め入っていた丹波勢を破って将軍=義輝を再び近江へと退けて京を制圧し、むしろ三好政権を盤石な物にしたのです。

と、なると、やはり、未だ攻略できていない波多野が目障り・・・って事で9月3日、長慶の命を受けた松永久秀が八上城を包囲します。

しかし、ほどなく、晴元方の香西元成(こうざいもとなり=細川家臣)三好政康(まさやす・宗渭=後の三好三人衆の一人)が背後から奇襲をかけて来たため、やむなく松永勢は退去しました。

次に三好軍が八上城を攻撃するのは天文二十四年(1555年=10月に弘治に改元)の事・・・すでに長慶は、畿内全域と阿波に加え、淡路(あわじ=兵庫県淡路島)播磨(はりま=兵庫県南西部)の東半分も手に入れて、もはや敵無しの状態になっていましたが、それでもやっぱり敵対する八上城の波多野・・・

そこで長慶は、その年の9月になって、いつの間にか長慶の傘下になっていた、かの三好政康を八上城攻略に当たらせる事にし、政康軍は生瀬(なませ=宝塚市)から丹波に入り、八上城を包囲します。

ところが、この時は、晴元自身が援軍を率いてやって来た事から、またもや攻略に失敗してしまいました。

しかし・・・
たび重なる失敗にもめげない長慶は、またまた八上城を攻めるべく軍を起こし、弘治三年(1557年)10月16日、波多野方の龍蔵寺城(りゅうぞうじじょう)を攻略します。

とは言え、ここらあたりの記録は不明な事が多いです。

実は、この龍蔵寺城の位置もハッキリとはわかっておらず、多紀郡(たきぐん)周辺にあったであろう」との事なのですが、この多紀郡は現在の篠山市ですので、おそらくは八上城の近くにあった支城なのでしょう~くらいの事しかわかっていません。

『細川両家記』では
「三筑(長慶)の衆い又 屋上(八上)へ出陣して龍蔵寺責落也」
とあり、ここからしばらく波多野が消息不明となります。

次に波多野が登場するのは、長慶亡き(5月9日参照>>)後の三好から、この八上城を奪回する永禄九年(1566年)2月26日の時の事・・・

そこに
「丹州屋上(八上)城に松永弾正正忠(久秀)の甥松永孫六と申人入城候処」
とあるので、先の弘治三年の八上城攻めで龍蔵寺城を攻略した後に八上城も落とし、そこに松永久秀の甥っ子が入城して城主となっていた事がうかがえます。

ここで、元八上城主だった波多野晴通の息子=波多野秀治(はたのひではる)が、包囲した八上城内の水の手を断って枯渇させたところ、飢えに苦しむ兵士たちが次々に逃亡していく事態となり、やむなく孫六も城を脱出して尼崎(あまがさき=兵庫県尼崎市)へと退却・・・

こうして、新当主=秀治によって、波多野は9年ぶりに八上城を奪回したのでした。

以後、秀治は、ここを拠点に武勇を誇り、
やがて織田信長(おだのぶなが)の命を受けて丹波平定にやって来る明智光秀(あけちみつひで)と対峙する事となるわけです。

※光秀の丹波平定に関しては
【籾井城の戦い】>>
【福知山攻略戦】>>
【八上城攻防戦】>>
【黒井城の戦い】>>
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2018年10月10日 (水)

大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井

永禄十年(1567年)10月10日、松永久秀対三好三人衆&筒井順慶連合軍の東大寺大仏殿・多門城の戦いで大仏殿が炎上しました。

・・・・・・・・・・

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)は、やがて寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちの中から、興福寺に属する『衆徒』の代表格である筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』の代表格=越智(おち)十市(とおち)、さらにこの3家に箸尾(はしお)を加え、『大和四家』と称される者たちが群雄割拠する室町時代を迎えていましたが、ここ奈良の守護(しゅご=室町幕府政権下でも県知事的役割)管領家(かんれいけ=将軍の補佐をする家柄)畠山(はたけやま)であった事もあって、その畠山氏や、同じく管領家の細川(ほそかわ)などの争いに巻き込まれていたわけですが・・・
【京軍の大和侵攻】参照>>
【井戸城・古市城の戦い】参照>>
【天文法華の乱~大和一向一揆】参照>>

そんな中、これまで長年抗争を繰り返していた越智氏に勝利し(9月15日参照>>)、その後、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで大和の大半を手中に治めつつあった筒井順昭(つついじゅんしょう)が天文十九年(1550年)に病死し、わずか3歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が引き継ぐ事になった頃、

このタイミングで新たな支配者となるべく大和に乗り込んで来たのが、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い細川晴元(はるもと)を破って(6月24日参照>>)後、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)とも和睦して(6月9日参照>>)事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)でした。

永禄二年(1559年)頃から大和への侵攻を開始した久秀は、信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していきます(7月24日参照>>)

しかし、そんな久秀の活躍とはうらはらに、永禄四年(1561年)に3番目の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが)(5月1日参照>>)、翌・永禄五年(1562年)にすぐ下の弟=三好実休(じっきゅう=義賢・之康)(3月5日参照>>)、さらに、その翌年の永禄六年(1563年)に息子の三好義興(よしおき=長慶の長男)を失った三好長慶は一気に病気がちになり、しかも永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入ったを長慶自らの勘違いで手にかけてしまい、その後悔の念からか?その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は廃人のようになってこの世を去ってしまう(5月9日参照>>)のです。

やむなく、三好家では長慶の甥=三好義継(よしつぐ)を当主に迎え、補佐役として三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)の3人=三好三人衆が若き当主を支えていく体制となりますが、そんな三好三人衆は永禄八年(1565年)5月に将軍の足利義輝を暗殺して(5月19日参照>>)、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を新将軍に擁立しようと企みます。

この将軍暗殺劇には、晩年に病気がちになっていた長慶に代わって、事実上、三好政権を切り盛りしていた久秀も協力していたとも言われていますが、一方で、その暗殺劇から、わずか半年後の11月には、奈良の支配を巡って未だ久秀と絶賛敵対中だった筒井順慶と三好三人衆が同盟を結んで、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃していますので、おそらく久秀は、将軍暗殺には関わっていないかも・・・

で、これを受けた久秀は、電光石火の速さで、その2日後に順慶の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲して奪い取りました。

ただし翌年、紀伊(きい=和歌山県)河内(かわち=大阪府東部・南部)の守護でもあった畠山高政(はたけやまたかまさ)らに協力して、(さかい=大阪府堺市)にいた三好の当主=三好義継を攻撃すべく、久秀が本拠の多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を留守にしたスキを狙って筒井順慶は筒井城を奪回しています。

ところが、その堺での合戦の後、久秀と和睦した義継が対立気味だった三好三人衆と決裂・・・永禄十年(1567年)4月に信貴山城に戻ってきた久秀とともに、その義継も信貴山城に入ったのです。

その6日後の4月11日、久秀が多聞山城に戻った事を受けて三好三人衆と筒井勢、さらに池田勝正(いけだかつまさ=摂津池田城主)らを加えた連合軍が奈良近辺の大安寺(だいあんじ=奈良県奈良市)白毫寺(びゃくごうじ=同奈良市)等に布陣を開始・・・その数、約1万~2万

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白毫寺から奈良市街を望む

これを迎撃すべく、久秀は東大寺(とうだいじ=奈良市)戒壇院(かいだんいん)転害門(てがいもん)に軍勢を配置します。

4月24日夜には、すでに南大門(なんだいもん)周辺に両軍が放つ銃声が響き渡り、両者の小競り合いも後を絶たず、僧や市民も眠れぬ夜を過ごす事になる中、三好&筒井連合軍は大乗院山(だいじょういんやま=奈良市高畑)天満山(てんまやま=同高畑)に陣を移動させますが、久秀の本拠である多聞山城は、東大寺より北にあるため距離が遠い・・・

そこで順慶は縁のある興福寺を通じて東大寺の境内に布陣させてもらえないか?打診すると、コレが即OK・・・なんせ、上記の如く、すでに松永勢はことわりもなく布陣しちゃってますから、寺側も「戦火に見舞われないか」必死なわけで、松永勢けん制のためには、彼ら連合軍に近くにいてもらった方が安心というもの・・・

そして、5月2日に連合軍のうち約1万が二月堂(にがつどう)大仏殿回廊に布陣すると、この日から、久秀自らも戒壇院に立て籠もります。

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東大寺:戒壇院           転害門

連合軍は随時、東大寺境内の陣所を変えながら、たまに一隊が多聞山城を攻めつつ、しばらくの間、一進一退のこう着状態が続きますが、この間、連合軍の陣所に利用される事を防ぐべく、松永勢はアチラコチラに火を放ち、一部の門や生垣等が、この時点ですでに焼失・・・少し離れた般若寺(はんにゃじ=奈良市般若寺町)なども、この時に焼失しています。

そんなこう着状態が破られるのは8月25日の事・・・三好三人衆の配下であった飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)の城主=松山安芸守(まつやまあきのかみ)松永方に寝返ったのです。

そのため、やむなく連合軍は、その一部を河内(かわち=大阪府東部)へと派遣せざるを得なくなりますが、もちろん、これは久秀の作戦で、数に劣る松永勢は、このおかげでちょっと楽に・・・この頃には、松永勢が寺院を焼く事も、ほぼ無くなっていたものの、両軍の小競り合いは相変わらず続き、徐々に、数に勝る連合軍が有利になっていくのです。

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東大寺大仏殿の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄十年(1567年)10月10日この状況を打開すべく、久秀が動きます。

東大寺の大仏殿付近に布陣していた三好軍に攻撃を仕掛けた松永軍・・・
『多聞院日記』では・・・「数度の合戦の後、穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それが大仏殿回廊へ延焼して深夜に大仏殿が焼失した」

『東大寺雑集録』には・・・
「大仏中門堂へ松永軍が夜討をかけて中門堂と西の回廊に火が放たれて焼失した」
とあります。

しかし、一方で宣教師=ルイス・フロイス『日本史』では、
「連合軍の中に我ら(イエスズ会)の同僚がおり、夜、密かに火を放った」
と、キリシタン兵士が大仏殿に放火した事が書かれています。

この「誰が放火したのか?」の犯人探しについては、未だ様々な説があって結論は出ていないのですが、とにもかくにも、ここで大仏殿が炎上した事で、布陣じていた連合軍は総崩れとなり、備えの兵として残した一部を除いて、ほとんどが摂津(せっつ=大阪府北中部と兵庫県の南東部)山城(やましろ=京都府南部)へと退去していったのです。

焦土と化した一帯では、寺院や宿坊を狙った強盗&略奪・・・いわゆる火事場泥棒が頻発した事により、翌11日には、三好義継と松永久秀、そして松永久通(ひさみち=久秀の息子)の連名で禁制(きんせい=犯行を禁じる)を発布しています。

この禁制発布は、イコール、この奈良の地が彼らの統治する場所になった事を意味しますので、合戦の結果としては松永方の勝利というところは間違いないでしょう。

もちろん、かと言って、三好や筒井らが、このまま引っ込んでしまうはずはなく、その後もチョコチョコ多聞山城に攻撃を仕掛けたりと、小競り合いを展開していくのですが・・・

そんなこんなの永禄十一年(1568年)・・・あの大仏殿炎上から約1年後の9月、三好三人衆に暗殺された前将軍=義輝の弟である足利義昭(よしあき)(10月4日参照>>)を奉じてアノ男が上洛して来ます(9月7日参照>>)

織田信長(おだのぶなが)です。

9月29日に摂津に侵入した信長のもとに、いち早く参じてその傘下となり、領地安堵を取り付ける三好義継と松永久秀・・・一方、敵対覚悟の三好三人衆と出遅れてしまった筒井順慶。

当然ですが、もはや三好三人衆は信長相手に手いっぱいで松永と筒井の抗争に人数を割く余裕すらありません。

こうして信長という後ろ盾を得た久秀は永禄十一年(1568年)10月に筒井城を攻撃し、敗れた順慶は福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して落ちていきました(11月18日後半部分参照>>)

とは言え、乱世の梟雄(きょうゆう)松永久秀が、このまま、親子ほどの年の差がある信長のもとで大人しくしているはずは無いわけで・・・

て事で、そのお話は
【多聞山城の戦い】>>
【信貴山城の戦い】>>
でご覧あれ(o^-^o)

周辺の歴史散歩コースは、姉妹サイト「京阪奈ぶらり歴史散歩」奈良春日野コースで>>(別窓で開きます)
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2018年9月27日 (木)

前将軍・足利義稙と管領・細川政元~宇治木幡の戦い

明応八年(1499年)9月27日、前将軍=足利義稙と同調する畠山尚順を攻める細川政元が、宇治木幡の戦いにて槇島城を落としました。

・・・・・・・・・・

第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争い=義尚(よしひさ=義政の息子)×義視(よしみ=義政の弟)に、
Ouninnoransoukanzu2 畠山&斯波・両管領家の後継者争い=
畠山義就(よしひろ)×政長(まさなが)
斯波義廉(しばよしかど)×義敏(よしとし)
がひっついて、それぞれに味方する武将が
山名宗全(やまなそうぜん=持豊)(西軍)
細川勝元(ほそかわかつもと)(東軍)
に分かれ、地方の武将を巻き込んで約10年に渡って繰り広げられた応仁の乱(5月20日参照>>)も、宗全&勝元=両巨頭の死を以って勢いを失くし(3月18日参照>>)、両者の後継同士=山名政豊(まさとよ=宗全の孫)細川政元(まさもと=勝元の嫡男)が和睦を結ぶ事によって終結の兆しをみせ、このために京都に集結していた武将たちも、徐々に地元へと帰って行くのですが(11月11日参照>>)

両総大将が手打ちしたからと言って、その発端となった後継者争いに決着がついたわけではなく、結局、それらの争いはそれぞれ個別の争いとなってくすぶり続けるわけです(12月12日参照>>)

そんな中、スッタモンダで義政の後を継いで第9代将軍になっていた義尚が、未だ男子をもうけないまま、近江(滋賀県)南部の戦国大名=六角高頼(ろっかくたかより)を征伐中の近江(まがり・滋賀県栗東)の陣中で病死(3月27日参照>>)・・・そのため、結局は、亡き義尚と将軍の座を争った義視の息子=足利義稙(よしたね=当時は義材・後に義尹)が、その後を継いで第10代将軍となります。

義稙は、義尚を遺志を継いで明応元年(1492年)には、とりあえず、六角氏を近江より追い出す事に成功します(12月13日参照>>)管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元にとっては、どうしても、この義稙が気に入らない・・・

最初は
「僕、何もわかりませんので、大人しくして全部政元さんに任しますわ」
としおらしくしてたのに、なんだかんだで、いつの間にか
「俺が将軍や!」
とばかりに、政元の反対をよそに、イロイロ動き始める・・・

そんなこんなの明応二年(1493年)、やはり、政元の反対を押し切った義稙は、未だくすぶり続ける畠山の後継者争いに関与して、畠山義豊(よしとよ=基家・義就の息子)討伐のため、畠山政長とともに河内(かわち=大阪府東部)へと出兵します。

その留守を狙って、政元は、日野富子(ひのとみこ=足利義政の奥さんで義尚の母)らと組んでクーデターを決行・・・義稙を廃して、第11代新将軍に足利義澄(よしずみ=当時は義高・義尚&義材の従兄弟)を擁立したのです(明応の政変)

京都にいない間に一夜にして賊軍の大将となった義稙は、やむなく投降・・・これキッカケで政元派に寝返る武将も出て孤立無援となった政長は自刃して果てました(討死にとも)

それでも終わらない畠山の争い・・・(7月12日参照>>)

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足利将軍家と管領家の略系図

政長が敗死してくれたおかげで、奪われていた守護の座を確保した義豊は、亡き政長の後を継いだ息子の畠山尚順(ひさのぶ)と、度々の衝突を繰り返しますが、徐々に劣勢となっていき、やがて明応六年(1497年)10月に高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)を落とされた事で河内を捨てて山城(やましろ=京都府南部)へ逃亡・・・さらに翌・11月には大和(やまと=奈良県)地方での義豊派の国人であった越智家栄(おちいえひで)古市澄胤(ふるいちちょういん)が尚順を支持する筒井順賢(つついじゅんけん)十市遠治(とおちとおはる)に敗れた事で窮地に追い込まれます。

追い込まれた義豊は明応八年(1499年)正月、起死回生の一手とばかりに尚順を野崎城(のざきじょう=大阪府大東市)に攻めますが、カウンターパンチを喰らって攻め込まれ、河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ=現在の寝屋川市西部と門真市・守口市一帯)で討死してしまいました。

義豊とともに戦っていた息子の畠山義英(よしひで)は何とか戦場を離脱し、しばらく、その身を隠します。

勢いに乗った尚順勢は、次々と河内を平定していきますが、当然、その先には、以前より義豊を支持する細川政元が・・・そんなこんなの7月頃、尚順は元将軍の義稙に接触します。

義稙は政変後の戦いで降伏した時、流罪となって幽閉されそうになった所を支援者の手助けで脱出して政長の領国であった越中(えっちゅう=富山県)に逃れて、政長家臣の神保長誠(じんぼうながのぶ)の保護を受けた後、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉貞景(あさくら さだかげ)のもとで、政元との和睦を模索していましたが、その和睦交渉が思うように進まない中で尚順からの誘いを受け、ともに政元を倒して京都を奪回しようと決意したのでした。

9月5日、先陣として大和の国人衆を加えた義稙&尚順連合軍は、山城の飯岡(いのおか=京都府京田辺市)に着陣・・・これを受けた政元は、まずは幕府御所の警護を強化し、その一方で、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=宗益)らを宇治(うじ=京都府宇治市)に、薬師寺元一(やくしじもとかず)長忠(ながただ)兄弟らを(よど=京都府京都市伏見区)に、香西元長(こうざいもとなが)らを摂津(せっつ=大阪府北部と兵庫県東南部)に向かわせて防御線を敷きます。

10日に宇治木幡(こばた=京都府宇治市)まで進出した尚順軍大和勢は、ここで細川方の赤沢勢とぶつかり交戦に突入・・・優勢な赤沢勢は、その勢いのまま前日の26日には西一口城(にしいもあらいじょう=京都府久世郡久御山町・御牧城)に火をかけ、翌・明応八年(1499年)9月27日槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)陥落させて複数の首級を挙げたのです。

この槇島城は、鎌倉時代の承久の乱(じょうきゅうのらん)(5月14日参照>>)の頃に第82代=後鳥羽天皇(ごとばてんのう=承久の乱の頃は上皇)配下の長瀬左衛門なる人物が構築したと伝えられ、後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が宇治川の護岸整備をする以前は、文字通り槇島という宇治川の中州にできた島に建っていたという事ですが、織田信長(おだのぶなが)の時代に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき)が拠った城としても有名です(7月18日参照>>)

今回の宇治木幡の戦い当時は、一色氏(いっしきし=清和源氏義国流で足利氏の一門)の流れを汲む真木島氏(まきしまし=槇島氏)が城主を務めていましたが、応仁の乱以来、一貫して細川方に属していた真木島が、なぜ、この時には政元と敵対したのか?は不思議なところではあります。

ただ、今回、政元側によって槇島城が落とされた事、また、元来、真木島氏が将軍直属の奉公衆であった事を踏まえると、この戦いの時には、「前将軍」という事で、尚順の…というよりは義稙の味方として政元に敵対したという事かも知れません。

その後、翌・28日には、御厨子城(みずしじょう=京都府城陽市水主・水主城)をも落とし、南山城一帯は、次々と赤沢の手に落ちて行ったのです。

勢い止まらぬ赤沢勢は、この後、尚順に同調した大和へ侵攻します(12月18日参照>>)

一方、一連の戦いに敗れて勢いを失った義稙は、周防(すおう=山口県)大内義興(おおうちよしおき)のもとに身を寄せ、尚順も紀州(きしゅう=和歌山県)へと逃れますが、8年後の永正四年(1507年)に、政元が、自身の3人の養子による後継者争い関連で暗殺される(8月1日参照>>)、激化する、その後継者争いの旗印として「前将軍」の肩書とともに、再び義稙は表舞台に登場し、次の世代へと続く京都争奪戦を繰り広げていく事になるですが、それらのお話は、それぞれのページでご覧あれm(_ _)m
【船岡山の戦い】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>

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2018年9月20日 (木)

光安自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?

弘治二年(1556年)9月20日、斎藤義龍に攻められた明智城が落城し、明智光安が自刃しました。

・・・・・・・・・・・

清和源氏の流れを汲む美濃(みの=岐阜県)守護(しゅご=現代の県知事みたいな)であった土岐(とき)から枝分かれした明智(あけち)は、明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を拠点として室町幕府に直接仕える奉公衆を務めていましたが、戦国時代に入って、あの美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん=利政)が、守護の土岐頼芸(よりなり)に取って代わって美濃一国を掌握するようになります(12月4日参照>>)

当時の明智氏は、先代の明智光綱(あけちみつつな)が若くして亡くなったため、その嫡子の明智光秀(みつひで)が家督を継いでいたものの、未だ幼かったため、叔父(光綱の弟)明智光安(みつやす)光秀の後見人となって明智家の政務をこなしていた状態でしたが、この道三の台頭に対しては、ちゃっかりと自らの妹=小見の方(おみのかた)を道三の継室(けいしつ=正室が亡くなったあとの次の正室・後妻)に送りこんで、生き残りを図っていたのです。

ちなみに、この小見の方と道三の間に生まれたのが、織田信長(おだのぶなが)に嫁いだ濃姫(のうひめ=帰蝶)です(2月24日参照>>)

しかし、その濃姫の結婚からわずか6年後の弘治元年(1555年)・・・道三の長男(濃姫の異母兄)である斎藤義龍(よしたつ)が、二人の弟を殺害し(10月22日参照>>)、父=道三に反旗を翻すのです。

光安は迷います。
なんだかんだで親子ゲンカ・・・どっちにも義理がある。
しかし、合戦となった以上、どちらかが勝ってどちらかが負ける中で、明智はどちらにつくべきか・・・

結果、光安は、若き光秀にわずかの兵をつけて義龍のもとに参陣させて土岐氏への義理を果たし、自らは中立の立場を守り、事を静観するという選択をしたのです。

かくして弘治二年(1556年)4月20日、道三×義龍による父子対決=長良川の戦いが決行され、ご存じのように、義龍の大勝となって道三は命を落とします(4月20日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、この合戦の時点で義龍は道三の6倍ほどの兵を維持=つまり、臣下の者の多くが義龍に味方していた状況でしたから、光安としても、「例え妹婿であっても道三側につくのは分が悪い」と感じていたのかも知れません。

とは言え、事が落ち着いた後も、光安は義龍の居る稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)へも出仕する事無く、心の中では悶々とする日々を過ごしていたのです。

自身のとった行動が果たして本当に良かったのか?
道三に対し、また土岐家に対して申し訳が立つのか?
誇りある家名を汚す事になりはしないか?

また、
軍治のおりには何もせず静観しておいて、義龍の世になったからと、ホイホイと出仕して臣下の列に座する事を、他人はどう思うだろう?

様々な思いが胸を過る・・・
♪人間~五十年~♪と言われたこの時代に、すでに50代半ばを過ぎていた光安は、ここで決断するのです。
「もはや命は惜しくない」
と・・・

ここに、「死を以って義理を果たし、武名を残す事こそ本意」と決めた光安は、弘治二年(1556年)9月、義龍に手切れの使者を送り、一族870人を集めて明智城に籠城したのです。

これを受けた義龍は、叔父(もしくは弟)長井道利(ながいみちとし)に3700余騎の兵をつけ明智討伐軍として出陣させました。

Aketizyounotatakai
●明智城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

9月19日に稲葉山城を出発した軍勢は、土田(どた)の渡しより木曽川(きそがわ)を渡り、さらに可児川(かにがわ)左岸に布陣した後、明智城へと迫りますが、城は天然の要害であるうえに明智勢の反撃も鋭く稲葉山勢が城を抜く事はできず・・・この日は双方に死傷者を出しながらも、決着つかぬまま日が暮れました。

その夜・・・「明日は決戦になる事必至」と悟った光安は、皆を集めて酒宴を催し、
「明日は城外へ撃って出て、思う存分に戦った後、本丸に火を放ち、潔く果てようぞ!」
と全将士と別れの盃を交わしました。

かくして弘治二年(1556年)9月20日、数倍の兵に囲まれた明智城・・・予想通り、早朝から稲葉山勢による総攻撃が開始されました。

敵に埋め尽くされた城下にて奮戦する明智勢ではありましたが、所詮は多勢に無勢・・・やがて押され始めた明智勢が城内へと退き始めると、光安も覚悟を決め「もはや、これまで」と、そばに光秀を呼び寄せて、
「本来なら、(光秀の死を)見定めた後、我ら殉死すべきところですが、それをしてしまうと明智家は断絶してしまいます。
祖父
(光秀の祖父=明智光継の遺言でもありますし、志も大きいですので、どうかその身を守り落ちのびて、後々、家名を再興してください。
その時は、どうか、我が長男の秀満
(ひでみつ)と次男の光忠(みつただ)を盛りたててやってください」
と頼み、切腹したのです。

光安の死を見届けた光秀は、妻子と従者10人余りとともに城を脱出・・・叔父(光綱の弟で光安の兄)山岸光信(やまぎしみつのぶ)を頼って西美濃(現在の岐阜県揖斐郡大野町付近)へと落ちていったのです。

ここに明智城は落城し、明智家も没落したのですが・・・

その数年後、西美濃に妻子と従者を預けた光秀は、諸国を転々と武者修行したり、京都の嵯峨(さが)嵐山付近に潜伏して学問をしたりの全国遍歴の旅に・・・

やがて永禄十一年(1568年)、自らを将軍として担いでくれる武将を探していた足利義昭(あしかがよしあき=義秋)と、上洛する大義名分を求めていた織田信長を結びつける仲介役として、光秀は華々しく歴史の表舞台に登場する事となります。
【義昭の上洛希望】参照>>
【信長の上洛】参照>>

・‥…━━━☆

とは言え、ご存じのように、実際の明智光秀の前半生はまったくの謎・・・

今回お話は『美濃國諸奮記』という江戸時代に書かれた軍記物に記された内容ですが、軍記物とは、今で言うところの歴史小説のような物で、すべてが創作では無いでしょうが、かと言って一級史料とは言い難い=「史実をもとにしたフィクションです」みたいなシロモノです。

ここに、光安の息子として登場する秀満や光忠も、実際には光秀が信長の配下となって活躍する時に、その家臣として登場して来ますが、それ以前の事はよくわからず、当然、光安の息子かどうかもわかりませんし、なんなら光安自身が、別人(遠山景行)だった話まであります。

もちろん、光秀が明智家の嫡流だったかどうかも、この時に落城した明智城にいたのかどうかも不明・・・信長らと接触する以前の光秀の事は、ほぼほぼ、上記のような軍記物にしか登場しないのが現状なんです。

ただ、光秀は、無名の状態から、いきなり登場したワリには、すでに一流の兵法を見につけていて、鉄砲を自在に操り、オシャレな京言葉を話し、都会的で世間の状勢にもくわしく、頭も良い(10月18日参照>>)・・・いわゆる即戦力で、
「おい君、彼はいったいどこで?」からの
「ビズリ~チ」d(゜ー゜)状態の登場だったわけで・・・

しかも、その後、中途採用なのにも関わらず、社内で1番最初に独立を勝ち取る(城主になる)スピード出世を果たしておきながらの、いきなりの謀反(本能寺の変)・・・には、誰しもが首をかしげるワケで・・・

てな事で、
彼が最初っからデキる男だったのにはワケがあるんだろう?
いきなりの謀反には、それ相当の理由があるんだろう?

てな疑問が湧くのは当然・・・

で、この二つの謎を解くためには、その明智という苗字から推測して、
はなから文武両道で都会的だったのは明智家の嫡流だから・・・
謀反を起こすのは、明智&土岐氏の再興を夢見ていたから・・・

てな、憶測が生まれ、このような軍記物が登場する事になるのでしょうね。
(*ちなみに土岐惣領家を継いでいた土岐頼芸は道三に追放された後も各地を転々した後、武田の庇護受けていたところに信長の甲州征伐で元家臣の稲葉一鉄に保護され、本能寺の変の時も失明&病気がちではあるもののギリ存命でした)

おそらくは、実際に明智城落城の一件があり、そこに後に登場する光秀の謎の部分を絡ませた感じでしょうか?

もちろん、今回の話が、すべて事実の可能性もありますが・・・そこに明確な答えが出ないのが、歴史のオモシロイところでもあります。
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2018年9月14日 (金)

最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転

天文十五年(1546年)9月14日、細川氏綱が亡き養父の仇を撃つべく細川晴元を攻めた嵯峨の戦いがありました。(細川家内訌)

・・・・・・・・・・

父=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いで応仁の乱を収め、自らの意のままになる将軍を擁立する明応の政変をやってのけた室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(まさもと)・・・

その後継者を争った3人の養子の中で、一歩抜け出て、第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して我が世の春を迎えた細川高国(たかくに)でしたが(5月5日参照>>)、大永六年(1526年)、自らの重臣に謀反の疑いをかけて殺害してしまった事から、その遺族の恨みをかい、土台が揺らぎ始めると(10月23日参照>>)、以前の養子同士の後継者争いで負けた細川澄元(すみもと)の遺児=細川晴元(はるもと)が、このタイミングで畿内へと攻め登り(2月13日参照>>)、大敗した高国は近江(おうみ=滋賀県)へと逃走・・・その後も、何度か刃を交える高国VS晴元でしたが、享禄四年(1531年)6月、高国は京都を奪回する事無く戦いに敗れて自害します。

その遺志を継いで政権奪回を計り、細川晴元と戦ったのは、高国の弟の細川晴国(はるくに)でしたが、彼もまた、晴元に通じた三宅国村(みやけくにむら)の反乱によって天文五年(1536年)8月に命を落とします。

そして、その後を継いだのが高国の養子であった細川氏綱(うじつな)でした。

氏綱は、高国の従兄弟(父の弟の子)に当たる細川尹賢(ただかた)の実子でしたが、高国の嫡男である細川稙国(たねくに)が18歳の若さで病死してしまったため、そのタイミングで、後継者候補として養子に迎え入れられていたのでした。

また、氏綱の実父=尹賢は、高国没落のおりには晴元に同調していたものの、結局、その後に晴元の命によって殺害されてしまうという・・・つまり、氏綱にとっては養父と実父の両方が(もちろん叔父も…)晴元によって死に追いやられた事になるわけで・・・

当然、跡目を継いだ氏綱は、晴元に抵抗すべく、天文十二年(1543年)7月、槇尾山城(まきおやまじょう=大阪府和泉市)に拠って旧臣たちをかき集め、反晴元の狼煙を挙げたのです。

氏綱出兵の報を受けて摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)に出陣した晴元に対し、氏綱勢は(さかい=大阪府堺市)を攻撃しますが、この時には、晴元の重臣=三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)らに敗れて兵を退きました。

しかし、その後、本願寺証如(しょうにょ=證如・第10世)から兵糧や金子の援助を受け、畠山稙長(はたけやまたねなが=河内・紀伊・越中守護)遊佐長教(ゆさながのり=河内国守護代)らと連絡を取り合って態勢を立て直してた氏綱は、河内(かわち=大阪府東部)から大和(やまと=奈良県)へと入り、天文十四年(1545年)5月には、晴元傘下の上野元全(うえのもとたけ)井手城(いでじょう=京都府綴喜郡井手町)に攻撃を仕掛けますが、またもや三好長慶らに阻まれて敗走・・・しかも、この同時期には蔭ながら氏綱を支援してくれていた畠山稙長も病死。

翌々月後の7月には氏綱方の内藤顕勝(ないとうあきかつ)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)関城(せきじょう=京都府京丹後市久美浜町)にて反晴元の兵を挙げますが、これまた長慶らに攻められて開城を余儀なくされます。

なんせ世は、高国政権に代わって、堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)を看板に据えた晴元政権の時代ですから戦う相手は現時点で最強の敵・・・そう簡単には行きません。

しかし、氏綱のヤル気はまだまだ衰えず・・・ようやく、翌・天文十五年(1546年)夏、一矢報いる時が来ます。

三宅城(みやけじょう=大阪府茨木市)の三宅国村を寝返らせ、池田城(いけだじょう=大阪府池田市)池田信正(いけだのぶまさ=久宗)など摂津の有力国衆を味方につけた氏綱勢は、長慶が戦闘準備のために堺に入ったのをキッカケに、摂津や山城(やましろ=京都府南部)方面の各地で一気に兵を挙げ、晴元方の大塚城(おおつかじょう=大阪市天王寺区茶臼山町)を占拠した後、天文十五年(1546年)9月14日には京都嵯峨に展開する晴元勢を攻め立て、晴元本人を丹波神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)にまで退け、芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)も開城させたのです。

Tyausuyama900 大塚城址=茶臼山:池中のこんもりした森が茶臼山…戦国最後の大坂の陣の陣跡として知られる茶臼山ですが、それ以前には大塚城がありました。

これを受けて長慶は、15日に高雄(たかお=京都市右京区)まで出陣して戦いますが、氏綱方の上野元治(うえのもとはる)に敗れ、丹波へと敗走する事に・・・さらに9月19日には、この丹波にも追撃をかけられ、ほうほうのていで何とか越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)まで移動し、 ここで態勢を整えます。

こうして一時的に京都を追われた晴元勢でしたが、11月に入って長慶の弟たち=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った=5月1日参照>>)らが合流するに至って、形勢は一気に逆転します。

翌・天文十六年(1547年)の2月~6月にかけて、総勢2万もの大軍となった晴元方は、三宅城&池田城を落とし、芥川山城を奪回し・・・さらに、晴元を支援する近江の六角定頼(ろっかくさだより)の援軍が加わると、氏綱のために勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう=京都市左京区北白川)まで出張っていた足利義晴も撤退を開始・・・大勝利の晴元は約1年ぶりに京を奪回しました。

・・・て、氏綱さん、結局、負けたんか~い゚゚(´O`)°゚
どうしても勝てない!!もはや万策尽きたか???

と、思いきや、思わぬ所から思わぬ助っ人が登場します。

そう・・・これまで晴元政権の片翼を担っていたはずの三好長慶が、舅の遊佐長教に接触・・・晴元に反旗を翻したのです。

もともと、故郷の阿波(あわ=徳島県)時代から晴元の重臣であった三好家ではありますが、長慶の父=三好元長(みよしもとなが)は、主君=晴元との亀裂の中で無念の死を遂げた(7月17日参照>>)という過去があります。

それでも長慶は、恨む気持ちを抑えて仕えていたにも関わらず、血筋から見れば三好の総帥である長慶よりも、三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟や政長の息子=三好政康(まさやす=宗渭・政勝、三好三人衆の一人)らを、相も変わらず晴元が重用する事に、とうとう堪忍袋の緒が切れちゃった・・・てな感じ??(ま、他にもイロイロあるでしょうが…)

こうして、氏綱側についた長慶が晴元勢とぶつかったのが天文十八年(1549年)6月の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)・・・この戦いで政長を討ち取り大勝利を収めた長慶に対し、一方の晴元は京都を追われ近江へと敗走。

ここに細川氏綱を冠にした三好政権が誕生します。

さらに永禄元年(1558年)6月には、復権をもくろむ若き新将軍(第13代)足利義輝(よしてる=義晴の嫡男)と京都・白川口(北白川付近)にて交戦しますが(6月9日参照>>)、その戦いをキッカケに将軍家と三好家の和睦が成立した事で、義輝は5年ぶりに京都に戻り(11月27日参照>>)、氏綱は晴れて幕府管領の座に就いて細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=細川家の嫡流家)の家督を継ぐ事になるという万々歳な結果に・・・

とは言え、上記の通り、氏綱の勝利&管領就任&家督継承は、どう見ても長慶が味方についてくれたおかげ・・・

なので、この後の実権は完全に長慶が握っており、氏綱は長慶の傀儡(かいらい=あやつり人形)、あるいはお飾りの管領とも言われますが、一方では、この時点での長慶は、未だ細川家に仕える一武将・・・氏綱という看板無くして晴元に抵抗すれば、それは幕府への謀反になるわけで、自らの戦いを正当化&すんなりと晴元を排除するためにも、氏綱の存在は重要だった事でしょう。

ただし、やはり世は戦国・・・ご存じのように、これで事実上の天下人となった三好長慶によって三好政権が畿内を牛耳る事となり、この後の氏綱には政治的出番がないまま、永禄六年(1564年)12月に静かにこの世を去った事で、管領という役職もウヤムヤに・・・なので、氏綱は最後の管領とも言われます。

思えば、建武三年(1336年)に室町幕府初代将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)の補佐として高師直(こうのもろなお)(2月26日参照>>)が就任した執事(しつじ)に始まる管領という役職は、約230年に渡って引き継がれ、この細川氏綱を最後に姿を消す事になったのです。
(上記の通り、最後の方はウヤムヤなので…細川高国の自害を以って管領は消滅したという見方もあります)
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2018年8月13日 (月)

朝倉から若狭を守る~粟屋勝久の国吉籠城戦

永禄十一年(1568年)8月13日、朝倉義景の命を受けた軍勢が若狭に侵攻しました。

・・・・・・・・・・

今回の舞台となる国吉城(くによしじょう=福井県美浜町)は、現在の美浜駅から、少し東へ行った佐柿(さがき)の背後にある城山の山頂から尾根づたいに構築されていた山城です。

『若狭国志』によると、この城は、「かつて国吉(くによし)なる人物が構築した物を天文~弘治年間(1532年~1557年)頃に粟屋勝久(あわやかつひさ)が修復再興して、旧名をそのまま呼称した」とあります。

この粟屋勝久は、若狭(わかさ=福井県西部)守護(しゅご=現在の県知事)であった名門=若狭武田氏の被官ですので、つまりは、この城は、武田が本城とする小浜城(おばまじょう=福井県小浜市:現在の後瀬山城)出城の役割を果たしていた城です。

Asakurayosikage500a そんな中、隣国=越前(えちぜん=福井県東部)では、これまで守護であった斯波(しば)に取って代わり、去る応仁の乱(5月20日参照>>)で功績を挙げた朝倉孝景(あさくらたかかげ)越前守護に就任・・・その息子で、父亡き後に朝倉を継いだ朝倉義景(あさくらよしかげ)は、管領(かんれい=将軍補佐で幕府のNo.2)家で時の権力者である細川晴元(ほそかわはるもと)の娘を娶った事もあって、さらに力をつけて行く事に・・・

しかし一方の若狭武田氏では先代の武田信豊(のぶとよ)と息子で現守護の武田義統(よしずみ)の対立がお家騒動に発展して、力が衰えていくばかり・・・しかも、窮地に立った義統が朝倉に援助を求めた事から、他家の介入を不服に思う粟屋勝久は義統の息子=武田元明(もとあき)を擁立して抵抗します。

この状況・・・時の当主から支援を求められた朝倉義景にとっては、すでに若狭は自身が間接的に支配してるつもりなわけで、それに抵抗する粟屋らはせん滅するのみ・・・

そんな朝倉義景が、最初に若狭に侵攻したのは永禄六年(1563年)・・・この先、6年間に渡って繰り広げられる国吉城の戦いの始まりでした。

8月下旬、義景の命を受けた約1000騎が若狭に侵入すると、これを察した粟屋勝久は一円の地侍たちを即座に招集・・・地侍=約200と百姓=約800が国吉城に集結する中、その一部に弓や鉄砲を持たせて関峠(せきとうげ=福井県敦賀市と同県三方郡美浜町の境)にて防戦するように命じるとともに、残りの者で籠城の準備を開始します。

9月2日の未明、関峠に侵入して来た朝倉勢を待ち伏せていた粟屋方が一斉に迎撃を開始すると、フイを突かれた朝倉勢は大混乱となり、ここで一旦撤退・・・翌日は、朝倉勢も身構えつつ軍を進めますが、今度は城の間近まで引き寄せる作戦の粟屋方。

こうして城の城壁間近まで充分引き寄せたところで、百姓600人が一斉に、用意していた大石や木材を投げ落とします。

『国吉籠城記』によれば、朝倉勢は「大石や古木に当たる者が続出し、当たらない者も、その巻き添えを喰らって、皆、麓へとごろげ落ちて行った」とか・・・見ていた粟屋方は、このタイミングで城から出て追討を開始し、この最初の戦いは国吉城側の大勝利となったのです。

2度目の戦いは翌・永禄七年(1564年)またも夏の終わり・・・
この時の朝倉勢は、昨年のように直接城には向かわず、近くの芳春寺(ほうしゅんじ=福井県三方郡美浜町)に本陣を構えた後、弓や鉄砲を放ちながら尾根づたいに国吉城へと迫って来ますが、これが、なかなか城に当たらない・・・なんせ、国吉城は木々に囲まれた山城ですから・・・

やむなく、今度は反対方向から城へと向かって行きますが、これに対抗する粟屋方は、弓の名手を1組=14~15名の少人数に分けて木々の間に潜ませ、敵を間近まで引き寄せてゲリラ的戦法で対抗・・・まったく城に近づけない朝倉勢はまたしても退きます。

こうして長期戦を視野に入れた朝倉勢は、芳春寺に裏山に付城(つけじろ=攻撃の拠点となる城)芳春寺砦を築いて、ここを拠点に城・・・ではなく、近隣の村々に乱入して稲や野菜など農産物を略奪して自軍の兵糧を確保したのです。

これには地侍や百姓が激怒・・・自ら率先して砦に夜襲をかけて火を放つと同時に、別働隊が朝倉の本陣を襲撃し、またしても朝倉勢を退散させたのです。

このおかげか、翌永禄八年(1565年)は、朝倉勢による国吉城への直接攻撃は無く、8月下旬頃の近隣の村々への青田刈りで城内を枯渇させる心理戦、あるいは付城を修復するにとどまりました。

明けて永禄九年(1566年)8月下旬、もはや夏の恒例行事のように佐田村(さたむら=福井県三方郡美浜町)に押し寄せた朝倉勢は、馳倉山(ちくらやま=福井県三方郡美浜町:狩倉山城?)に、新たな付城を築いて、そこを前線基地として、またまた近隣の村々への略奪や放火を決行・・・しかし、「国吉城の籠城組が出撃!」の知らせを聞くなり、そそくさと城へと逃げ帰ったのだとか・・・

続いて、翌永禄十年(1567年)日本の夏・朝倉の夏・・・やって来ました8月下旬。

と言っても、この8月というのは旧暦なので、実は、その下旬ともなれば、そろそろ稲が実る時期・・・で、今回の侵攻の目的は、あくまで稲を刈る事だったようで、その作業を終えるとさっさと退散したようです。

もちろん、これも、敵の兵糧を失くして自軍の兵糧にするという、プラマイ大きい重要な作戦ではあるのですが・・・

Kuniyosizyounotatakaikankeizu_2
国吉城の戦い・関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなで、またもや!事実上の最終決戦となる永禄十一年(1568年)・・・安定の8月13日

しかし、今回の朝倉は少し違う・・・

国吉城を攻撃せず・・・いや、むしろ避けるように三方方面へ抜け、熊谷直之(くまがいなおゆき)が守る大倉見城(おぐらみじょう=福井県三方上中郡:井崎城)を攻めたのです。

しかし、結局、この大倉見城も落城させる事はできなかったのですが、その代わり(と言っては何ですが…)大倉見城攻撃の勢いのままに小浜へと向かい、粟屋勝久が担ぎあげた武田元明を拉致する事に成功します。

というより、先に書いた通り、すでに若狭を間接支配している気満々の義景から見れば「武田元明を保護した」・・・つまり、一部の抵抗者のために内乱が治まらないので当主を自分のお膝元に置いて、何とか収拾させようという事です。

現に、この後、朝倉の本拠地である一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)朝倉館に移住した武田元明は、再三に渡って粟屋勝久に対し「朝倉に同調するように」と勧告しています。

しかし「例え元明を敵に回しても!」の思いが強い粟屋勝久は、それでも国吉城に籠城を続けます。

再び『国吉籠城記』によれば、この国吉城攻防は、永禄十二年(1569年)にも、何かしらの小競り合いがあったようですが、さすがの国吉籠城組も、こう毎年々々「夏の元気なごあいさつ」をされても、うんざり気味・・・長陣に嫌気がさし始めた元亀元年(1570年)、あの男が登場します。

そう、この2年前に室町幕府第15代将軍=足利義昭を奉じての上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)です(9月7日参照>>)

将軍の名のもと再三に渡って呼び掛けた上洛要請に応じない朝倉義景に対して、信長が攻撃を仕掛けた・・・あの「手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦」(4月26日参照>>)

この時、仲間の若狭国人衆とともに信長のもとにはせ参じた粟屋勝久は、自身の国吉城を信長の宿所として提供したばかりか、朝倉本拠の一乗谷での戦い(8月6日参照>>)でも一番乗りの功名を挙げる大活躍をし、見事、武田元明を救出しています。

その後は、元明の守護復帰は叶わなかったものの、仲間とともに「若狭衆」として、織田政権下で若狭を与えられた重臣=丹羽長秀(にわながひで)の配下に組み込まれ、あの天正九年(1581年)2月の御馬揃え(おんうまそろえ)でも先頭を飾った(2月28日参照>>)と言います。

粟屋勝久自身は、本能寺の変のすぐ後の頃に亡くなったと言われ、当主と仰いでいた武田元明も、その本能寺で明智光秀(あけちみつひで)に味方した事で命を落としますが(10月22日参照>>)、その元明の美人の奥さんが、夫の死後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室になった=京極龍子(きょうごくたつこ=松の丸殿)だった縁もあり、粟屋の子孫たちは秀吉の配下を経て藤堂高虎(とうどうたかとら)に従い・・・江戸時代を生き抜いたようです。

見事な身の振り方で、結果的に戦国を生き残った粟屋勝久・・・国吉城を譲らなかったのは、ただの意地っ張りではなく先見の明があったという事でしょうか。
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2018年8月 7日 (火)

京極政経VS高清の家督争い…京極騒乱~祇園館の戦い

延徳二年(1490年)8月7日、京極家の家督争い=京極騒乱の最中、京極政経が将軍=足利義稙より『高清追討の内書(ないしょ=内密&直接の書状)』を受け取りました。

・・・・・・・・・・

第59代宇多天皇(うだてんのう)の皇子=敦実親王(あつみしんのう)の第3皇子が臣籍に降下して源雅信(みなもとのまさざね)と名乗った事に始まる宇多源氏(うだげんじ)は、その4男の源扶義(みなもとのすけのり)の子孫が武家=佐々木氏を称して近江(おうみ=滋賀県)本貫(ほんがん=基となる地)とした後、平安から鎌倉にかけての佐々木信綱(ささきのぶつな)の息子たちのうち、兄が嫡流の六角氏(ろっかくし)となり、弟が京極氏(きょうごくし)と名乗って繁栄します。

その後、信綱から5代目の佐々木道誉(どうよ=京極高氏(12月7日参照>>)の活躍で、室町幕府政権下での京極家は出雲(いづも=島根県)隠岐(おき=島根県隠岐諸島)飛騨(ひだ=岐阜県北部)守護(しゅご=今の県知事)を務めるまでになり、六角氏とともに近江の2大勢力となっていました(近江源氏)

Ouninnoransoukanzu2 そんなこんなの応仁元年(1467年)・・・室町幕府政権下で管領(かんれい=将軍の補佐・No.2)職に就任する3つ家柄=三管領(執事別当)のうち細川(ほそかわ)以外の斯波(しば)畠山(はたけやま)によるそれぞれの家督争いを発端に、将軍家の家督争いが加わり、全国を真っ二つに分けて戦った、ご存じ応仁の乱(5月20日参照>>)が勃発します。

この時、京極持清(きょうごくもちきよ)は、甥っ子(妹の子)細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)や娘の嫁ぎ先である畠山政長(はたけやままさなが)が属する東軍につき、息子の京極勝秀(かつひで)とともに、近江にて、西軍についた六角高頼(ろっかくたかより)との合戦を展開していました。

しかし、翌・応仁二年(1468年)6月に、すでに家督を継いでいた息子の勝秀が、さらに文明二年(1470年)8月に父の持清自身が相次いで病死してしまった事で、勝秀の嫡子(ちゃくし=後継ぎ)であった孫童子丸(まごどうじまる)が家督を継ぐ事になりましたが、その翌年に、わずか6歳で、これまた孫童子丸も病死・・・

そのため、孫童子丸の叔父で後見人でもあった持清の三男=京極政経(まさつね・政高)と、かねてより当主の座を争っていた孫童子丸の兄=京極高清(たかきよ・乙童子丸)&その一派との間でお家騒動が勃発するのです。
(高清については、孫童子丸の兄でありながらも側室の子であったので嫡子では無かったとされますが、異説には政経の弟、あるいは勝秀の弟だったの説もあり)

この間にも例の応仁の乱は続いていますから、「敵同士になったからには!」とばかりに、高清を当主に推す派の持清の次男(政経の兄)京極政光(まさみつ)多賀清直(たがきよなお)は、未だ幼き高清とともに六角高頼と和睦して西軍へと寝返ります。

Kyougokusourankeizu ←京極騒乱・関係図

こうして
政経とその配下の多賀高忠(たがたかただ)(東軍)
 VS
高清と彼を推す京極政光&多賀清直(西軍)
の構図が出来上がります。

そんな中、文明三年(1471年)には、同じ東軍として政経についていた六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟)が高清派に討たれます。

しかし、反撃して来た政経派に今度は高清派が推され、困った高清らは美濃(みの=岐阜県南部)斎藤妙椿(さいとうみょうちん)に援助を要請し、文明四年(1472年)には、その助けを借りて政経派に勝利し、政経らは越前(えちぜん=福井県東部)へと逃れ、ここで一旦、京極家の家督を継ぐ形になる高清でしたが、まもなく、後見人だった政光が病死します。

それから3年経った文明七年(1475年)、出雲の国人衆などを味方につけて体勢を整えた政経派が上洛し、幕府からの近江奪回の許可を得て近江に侵攻・・・六角氏の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を攻撃して高清派に大勝利し、彼らは江北(こうほく=滋賀県の北側)に追いやられてしまいます。

とは言え、未だ継続中の応仁の乱ですから「西軍に属する彼らがヤバイ」となると、当然、西軍の武将ら=美濃の土岐成頼(とき しげより)尾張(おわり=愛知県西部)斯波義廉(しばよしかど)などが援軍を派遣し、仲間を得た高清派が反撃し・・・と、近江を巡って一進一退の攻防が何度も繰り広げられた末、ここは高清派が勝利

しかし、そんなこんなの文明五年(1473年)の西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)&東軍総大将の細川勝元の両巨頭の相次ぐ死(3月18日参照>>)により、京都における応仁の乱絡みの動きは徐々に下火となっていき、翌文明六年(1474年)に両巨頭の息子たち(山名政豊&細川政元)が和睦した事で都に駐屯していた地方の武将たちもだんだん領国へと戻りはじめ、やがて文明九年(1477年)11月、最後まで京都に残っていた周防(すおう=山口県)大内政広(おおうちまさひろ)が帰国して、応仁の乱が終結したのです(11月11日参照>>)

でも、中央政府が都にて「ハイ!しゅう~りょう~~」と言ったところで、それまで戦っていた武将たちが「ほな、おわろか~」なるわきゃない・・・てか、むしろ地方に戻った武将たちは、その領国にて、自身の家督争いや領国拡大の戦いをする事になるわけで・・・(【応仁の乱後も戦い続けた畠山義就】参照>>)

しかも、このドサクサで、かなり強引に事を起こす者も出て来て・・・と、その一人が、応仁の乱終了後に政経に代わって近江守護となっていた六角高頼だったわけですが、そうなると、治安維持のためにも幕府=将軍が、それらの横暴を抑えねばならないわけで・・・

そこで、応仁の乱時代の第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後を継いだ第9代将軍=足利義尚(よしひさ=義政の息子)が、自ら大軍を率いて六角高頼を成敗すべく出陣・・・これが近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)と呼ばれる戦いなのですが、残念ながら、義尚は、未だ六角氏を制する事ができていない長享三年(1489年)、この陣中にて病死してしまいます(3月26日参照>>)

やむなく、この六角成敗の一件は、その後を継いだ第10代将軍=足利義稙(よしたね=当時は義材)に引き継がれるのですが、そのお話は【将軍・足利義材による六角征討】>> で見ていただくとして、当然、この間も京極家の争いは継続中・・・未だ取ったり取られたりを繰り返していたわけですが、

そんなこんなの長享元年(1487年)、領国の出雲に戻っていた京極政経は近江を奪回すべく上洛・・・翌年には近江松尾(現在の長浜市付近)にて高清らと交戦するも敗退・・・しかし、その翌年の延徳二年(1490年)8月7日、政経は将軍=義稙より『高清追討の内書(ないしょ=内密&直接の書状)』を受け取るのです。

そう、上記の通り・・・この時の将軍は六角高頼を成敗中ですから、あの応仁の乱の以来、西軍同士のよしみで未だ高頼とツウツウな高清は、今回の近江鈎でもバッチリ六角勢として参戦しちゃってますから、将軍としては、そんな高清らに1発カマしてやってほしいわけです。

こうして、将軍のお墨付きを得た政経は、江北の豪族で京極の重臣でもある上坂治部(こうさか=家信?)浅井直種(あざいなおたね=浅井長政の曽祖父)といった面々を味方に引き入れ、祇園館(ぎおんやかた=滋賀県長浜市祇園町)の高清を攻めたのです。

将軍威力による重臣クラスの面々の離反で「太刀打ちできない」と判断した高清は、攻撃を防ぎつつ余呉(よご=長浜市余呉町)まで撤退した後、なおも続く厳しい追撃に耐えつつ、坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと身を隠しました。

この功績により将軍=義稙から太刀を賜り、息子=京極材宗(きむね)とともに江北を任される事になった政経・・・(南には、まだ六角がいるのでね)

ところが、そのわずか2年後の明応元年(1492年)、とりあえずの六角征討を果たした(厳密には高頼が逃走しただけ…くわしくは先程の【将軍・足利義材による六角征討】参照>>)義稙は、突如として六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟?)の養子=虎千代近江守護に任命し、逃れていた高清を呼び戻して京極家の後継とし、政経を排除したのです。

実は、これには、あの『明応の政変(めいおうのせいへん)が・・・これは、細川勝元の後を継いだ息子=細川政元(ほそかわまさもと)によって明応二年(1493年)に決行される政変で、管領である政元が、現将軍を廃し、自らの意のままになる将軍に首を挿げ替えた、まさに戦国下剋上の幕を開けたとも言われる政変。

つまり、現将軍=義稙から、政元お気に入りの足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟…義遐・義高)へと交代させるわけですが、どうやら、ここらあたりで義稙自身が、その政元の動きに気づいたらしい・・・

その中心人物である政元→斯波義寛(しばよしひろ=義敏の息子)赤松 政則(あかまつ まさのり)ラインは、まさに応仁の乱の東軍ラインなわけで、当然、政経も、このライングループだったのですね。

こうして明応元年(1492年)に高清に京極家の家督が認められ政経は失脚するのですが、先の戦いで重臣たちの多くが政経に味方した事は、高清にとっては何とも心細い・・・しかも、上記の通り、義稙の抵抗空しく翌・明応二年(1493年)に明応の政変が起こって立場が逆転し、高清の運命も風前の灯となります。

そこで高清は以前も助けてくれた斎藤妙椿の息子=斎藤妙純(みょうじゅん=利国)力を借りて挽回を図ります。

かくして明応四年(1495年)に美濃の内乱である船田合戦(ふなだがっせん)に勝利した妙純が、その勢いのまま近江へと侵出して来ると、たまらず政経は出雲へと逃走・・・さらに進む妙純は高頼らと交戦しますが、激しく展開された戦いは両者ともに大きな犠牲を払いながらも決着が付かないでいたところ、明応五年(1496年)に妙純が一揆に襲われて死亡してしまい(12月7日参照>>)、後ろ盾を失った高清も没落して、その後は斎藤氏を頼って美濃に向かったとか・・・

やがて明応八年(1499年)、重臣の上坂家信の助けによって北近江へと戻った高清は、政経の息子=材宗と和睦して、ここでようやく京極家の一連のお家騒動が終了するのです。

この京極家のお家騒動は、応仁の乱が終わった後も約30年に渡って繰り広げられ、文明の乱あるいは文明の内訌(ないこう)とも京極騒乱(きょうごくそうらん)とも呼ばれます。

・・・にしても、このお家騒動は京極家にとって命取りでしたね。

なんせ、武家の名門として出雲&隠岐&飛騨&近江の守護だったのが、騒乱が終わった後に残ったのは北近江だけ・・・

かの政経は妙純の侵攻で出雲へ退くも、その後の事はよくわからず、和睦の後に自刃に追い込まれた息子の材宗には吉童子丸という息子がいて、彼が出雲の守護となったとも言われますが、ご存じのように、この出雲は、京極配下で出雲の守護代(しゅごだい=今の副知事)だった尼子経久(あまごつねひさ)の尼子氏が、隠岐も含めて仕切るようになり、彼らの名は登場しません。

飛騨も、やはり家臣で守護代だった三木氏(みきし=姉小路氏)に取って代わられ、しかも、この後、高清の息子たちの間でまたもや後継者争いが起き、その間に、残った北近江までもが重臣の浅井亮政(あざいすけまさ=直種の息子で直政の婿養子)に仕切られる事になってしまうわけで・・・(3月9日参照>>)

そして、ご存じのように高清の孫にあたる京極高次(きょうごくたかつぐ)が、美人の姉ちゃん(もしくは妹)京極竜子(たつこ)豊臣秀吉(とよとみひでよし)に見染められて側室となった縁で表舞台に登場するまで、少々の間、浅井家に庇護のもと、大人しくしているしか無かったわけです(5月3日参照>>)

と、まぁ、本日は、ご覧の通り、京極騒乱についてダーっと駆け足で書かせていただきましたが、上記のように、この京極家の争いは応仁の乱と連動していたり、合戦の数も複数あり・・・本日のところは、その大まかな流れをサラッと書かせていただいたところで、いずれまた個々の戦いを、それぞれの日付にてご紹介していきたいと思います。
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2018年8月 1日 (水)

細川政元の後継を巡って~永正の錯乱と百々橋の戦い

永正四年(1507年)8月1日、細川京兆家の後継者を巡っての戦いで細川澄元と細川高国に攻められた細川澄之が自害しました。

・・・・・・・・・・・

あの応仁の乱(5月28日参照>>)の東軍・総大将として知られる細川勝元(ほそかわかつもと)・・・彼が息を引き取る時、わずか8歳の息子=政元(まさもと)をそばに呼び、
「この政元あらば、細川家は安泰だ」
と言って息をひきとったと言われるほど、政元は優れた息子でした。

その期待通り、政元は「半将軍」「観音の申し子」「八幡太郎の生まれ変わり」と呼ばれるほどの人物となって政権を掌握・・・管領(かんれい=室町幕府で将軍に次ぐ最高の役職)時代の明応二年(1493年)には、自らの意のままになる将軍に挿げ替える(第10代・足利義稙→第11代・足利義澄)という明応の政変(めいおうのせいへん)をやってのけ、もはや敵無しの状態でしたが、ただ一つ・・・

いや、これは噂の域を出ない話ですが、どうやら彼は男色一本=まったく女性を側に寄せ付けない人だったのだとか・・・

それだと、当然、子供は望めないわけですが、室町幕府政権下でのトップクラスの細川家を絶やすわけにはいかないわけで・・・で、かの明応の政変の少し前の延徳三年(1491年)2月に、養子として彼のもとにやって来たのが、前関白九条政基(くじょうまさもと)の息子=澄之(すみゆき)でした。

この時、まだ2歳だった澄之に、自らも名乗った細川京兆家(細川の嫡流)の世子(後継ぎ)が代々名乗る幼名=聡明丸(そうめいまる)を名乗らせ、13歳になった文亀二年(1502年)には、正式に嫡子(ちゃくし=後継者)に指名し、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)の守護としました。

これで澄之も細川も安泰・・・と思いきや、その翌年、いきなり澄之を廃嫡(はいちゃく=嫡子でなくなる・相続権はく奪)して、分家の阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)を養子にして、コッチを後継者に指名したのです。

実は、澄之が元服して聡明丸から澄之になったのは、この澄元が養子になった翌年の永正元年((1504年)の事・・・ジッチャンが勝元、父ちゃんが政元でお察しの通り、本来なら細川家の後継ぎが継承していく通字(とおりじ=代々受け継いでいく文字)は「元」だったわけですが、その文字はキッチリ前年の養子縁組と同時に元服しちゃった澄元に取られてしまってたわけで・・・

しかも、この二つの養子縁組の前後には(高国を養子…の時期はハッキリしてない)、やはり分家の野洲(やす)細川家からの高国(たかくに)という養子もプラスされ、何となく、後継者候補は三つ巴感満載に・・・

そりゃ~そもそもは最初に後継者指名されていたんですから、聡明丸澄之くんが激おこプンプン丸にならないはずは無いわけで・・・永正三年(1506年)には、父=政元の命を受けて、澄元らの細川勢とともに丹後(たんご=京都府北部)一色義有(いっしきよしあり)の討伐に向かってますが、そんなもん形だけで、ホントは、はなやからヤル気ゼロ・・・いや、ヤル気ゼロなら、まだ良かった。

逆に、別の方向にヤル気満々な澄之は、他の細川勢をよそにそそくさと撤退してしまったばかりか、この討伐劇キッカケで家老=三好之長(みよしゆきなが)らの大軍を従えて上洛して来た澄元に危機感を持った政元の重臣=薬師寺長忠(やくしじながただ)らとくっつくのでした。

薬師寺らは、三好が阿波の実力者で澄元との信頼関係もハンパない事から、「このまま次代が澄元になれば、もともとの細川家の重臣である自分たちの立場と彼ら三好家が逆転するのでは?」との思いを抱いていたのです。

かくして、澄之と結んだ薬師寺長忠は、同じく細川家家臣の香西元長(こうざいもとなが)と組んで政元の暗殺を計画・・・永正四年(1507年)6月23日、スピリチュアルな魔法体験が大好きな政元が、修行のための行水を行おうと湯殿に入ったところを家臣に襲わせて殺害したのです。(6月23日参照>>)

ところで・・・
その名の通りの聡明であるはずの政元が、あきらかに後々の争いのタネになるであろう3人を養子に迎えた要因については、様々に語られますが、

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

澄之の場合は、前関白という摂関家の看板とともに、澄之の母が、政元の推す第11代将軍=足利義澄(あしかがよしずみ)の母と姉妹の関係にあるという将軍家との繋がりを考えての事と推測されます。

しかしその養子縁組が行われた、わずか5ヶ月後の延徳三年(1491年)7月、義澄の弟で、将来は堀越公方(ほりこしくぼう=幕府公認の関東支配者)(堀越公方については「永享の乱」参照>>)になるはずだった足利潤童子(じゅんどうじ)が、幽閉状態から脱走した長兄の足利茶々丸(ちゃちゃまる)に殺害され・・・と同時に茶々丸が堀越公方を名乗り始めたところ、その7年後の明応七年(1498年)8月に、その茶々丸が、あの北条早雲(ほうじょうそううん)に滅ぼされてしまうという・・・(10月11日参照>>)

澄之を養子にして→後継者にして→やっぱ澄元を養子にして後継者に~の間に、関東ではこのような変化があったわけで・・・つまりは、明応の政変にて、自らの意のままになる将軍=義澄を擁立して、同じく意のままになる堀越公方を~という政元の構想が崩れてしまった事で、その後の政元は、後継者を模索せねばならない状況になっていたと・・・

ただ、この後の細川家の展開を踏まえれば、政元が自らの意のままになる将軍や公方を推したと同じように、今度は政元自身が家臣や被官(ひかん)たちの力に押されて政元と配下が分裂、さらに、その配下たち同士の分裂等々により、細川家自身が、力のある配下の意のままになるトップを据えなけらばならない争いに巻き込まれていった感があります。

つまり、これまでは幕府トップに将軍がいて、各地の守護を統率して~という感じだったのが、ここらあたりから、畿内や近国内の領国争いが将軍自身に、また畿内の守護たちにも影響を及ぼすようになり・・・と、そうなると、当然、畿内や近国以外の地方では、守護云々より力のある者が、その領国拡大によって力を持つようになり~と、まさに、この後の群雄割拠の戦国時代への幕を開けてしまったのが、この細川家の後継者争いなのではないか?と・・・

とにもかくにも、そんな中で起きたのが政元の暗殺で、それを実行したのが澄之派の者たち・・・未だ一色との抗戦中だった残りの細川勢は、この政元暗殺の一報を受けて、すぐに撤退を開始しますが、おそらく澄之らとの和睦の際に、すでに約束事ができていたとおぼしき一色義有は、反撃を開始して細川勢の一翼であった赤沢朝経(あかざわともつね)を自害に追い込んでいます。

その後、政元暗殺の勢いのまま、澄之派は澄元の屋敷を襲撃しますが、澄元は三好之長らに守られつつ、甲賀(こうか=滋賀県甲賀市・湖南市)山中長俊(やまなかながとし)を頼って近江(おうみ=滋賀県)への逃走を図ります。

そんな中で、すかざず政元の葬儀を行い、将軍=義澄の承認を得て、正式に細川京兆家の後継者となった澄之でしたが、ここで、もう一人の養子=高国が澄元側につき、反撃を模索し、もちろん、澄元自身も近江で態勢を整えます。

こうして、かの暗殺劇から1ヶ月後の7月28日、畿内の澄元派の諸将をまとめた高国が香西元長の居城である嵐山城(あらしやまじょう=京都市西京区嵐山)を攻め落とします。

Dscn6589a800_2 現在の宝鏡寺の門前には「宝鏡寺門跡」の文字とともに「百々御所跡」と刻まれた石碑が…宝鏡寺については11月19日参照>>

それから遅れる事2日・・・永正四年(1507年)8月1日、近江の国人たちを加えた澄元&之長軍が京へと攻め上り、百々橋(どどばし=京都市上京区百々町)近くにあった澄之の居館=百々館(現在の宝鏡寺の付近)攻め、さらに、高国勢と合流して、澄之を最後の砦となった遊初軒(ゆうしょけん=嵐山付近)へと追い込み、覚悟を決めた澄之は自害・・・未だ19歳の短い生涯でした。

澄之を推した薬師寺長忠や香西元長らも討死に、もしくは自害して、ここにわずか40日の澄之短期政権が終わったのでした。

勝利した澄元は、ソッコー翌8月2日、将軍=義澄に承認してもらい、晴れて細川京兆家の後継者に・・・

しかし案の定・・・ほどなく争いが

先の明応の政変で、細川政元によって交代させられて周防(すおう=山口県)に流れていた前将軍の足利義稙(よしたね=義材・義尹)が、西国の大物=大内義興(おおうちよしおき)に奉じられて上洛し、その復権を画策すると、いち早く高国が同調・・・高国に先を越されて義稙との和睦の機会を逃した澄元は、そのまま義澄とともに、彼らと敵対する事になり、永正八年(1511年)の船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)の戦いへと突入するのです(8月24日参照>>)

そこから、世代を越えての長い々々細川同士の政権争いが展開していく事になります。

★その後の流れ
直後の【船岡山】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>
【東山・川勝寺口の戦い】>>

ま、結局、最後の最後に畿内を制するのは、この時に澄元の家老として畿内にやって来た三好之長の曾孫(もしくは孫)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)なんですけどね【江口の戦い】参照>>
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2018年7月24日 (火)

松永久秀の奈良攻略~最初の戦い…第2次井戸城の戦い

永禄三年(1560年)7月24日、大和の攻略を開始した松永久秀が、井戸良弘が守る井戸城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

古くから興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)などの寺社勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地は、いつしか興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』など、寺社そのものよりも、在地の者が力を持つようになる中で、南北朝時代には『衆徒』の代表格=筒井(つつい)北朝に、『国民』の代表格越智(おち)南朝についたりして争って後、

あの応仁の乱(5月20日参照>>)では、その発端の一つが、ここ大和の守護(しゅご=県知事みたいな)であった畠山(はたけやま)の後継者争い(10月18日参照>>)であった事から、その後継者候補である畠山政長(はたけやままさなが=東軍)VS畠山義就(よしなり・よしひろ=西軍)の浮き沈みに翻弄されつつ、度々の戦場となるのですが(7月12日参照>>)

皆様ご存じの通り、こんな感じで守護大名たちがゴチャゴチャやってる間に在地の国人や土豪(どごう)たちが力をつけて来て、その実力で以って土地を支配しようとする戦国大名へと成長していき、やがて室町幕府政権下での守護が名ばかりとなる戦国へ突入・・・となって来ます。

そんな中、応仁の乱後の明応二年(1493年)に起こった山城(やましろ=京都府南部)の国一揆(12月11日参照>>)を鎮圧した功績で、中央にも認められ、大和の半分を支配する実力者となった古市城(ふるいちじょう=奈良市古市町)古市澄胤(ふるいちちょういん)(12月18日参照>>)、永正元年(1504年)、筒井氏の傘下であった井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)を攻めます・・・これが第1次の井戸城の戦い(9月21日参照>>)

その時は、筒井の援助を受けて城を守ったばかりか、逆に古市勢を猛攻し、筒井は古市城を手に入れています。

やがて時代はそれぞれの次世代へと変わって行き、大和守護は畠山義堯(はたけやまよしたか=義就の曾孫・義宣)の代となりますが、その義堯の配下で山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)であった木沢長政(きざわながまさ)が、管領家=細川氏の後継者争いに打ち勝った細川晴元(はるもと)(2月13日参照>>)とくっついて争乱をおっぱじめた事から、天文元年(1532年)には、大和の住人たちも、彼らの戦いに翻弄される状況となります(7月17日参照>>)

しかし一方で、長年抗争を繰り返していた(9月15日参照>>)越智氏以下、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで、ここに来て大和の大半を手中に治めつつあったのが筒井順昭(つついじゅんしょう)でした。

ところが、筒井氏を大和一に押し上げた、その順昭が天文十九年(1550年)に病死・・・当主の座は、わずか3歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が引き継ぐ事になります。

Matunagahisahide600a やがてそこに、新たに大和の支配をもくろんで乗り込んで来たのが、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)です。

長慶は、細川晴元の重臣だった三好元長(みよしもとなが)息子で、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)にて、主君である晴元を破って京都を制し、永禄元年(1558年)には第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)とも和睦して(6月9日参照>>)事実上の天下人となっている有力者です。

京を制したなら大和も・・・とばかりに、永禄二年(1559年)頃から大和への侵攻を開始した久秀は、信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を攻略していく事になるのですが、その最初のターゲットとなったのが井戸城でした。

上記の第1次の戦いでもお解りの通り、井戸氏は筒井の傘下・・・いきなり、目的の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を攻撃するのではなく、筒井にとっても重要な拠点である井戸城を先に落として、筒井城を孤立化する作戦です。

この時の井戸城を守るのは、筒井順昭の娘を妻に持つ井戸良弘(いどよしひろ)以下、家老や一族の者たち・・・数は多く無いものの、なかなかの武者揃いであったと伝わります。

しかし、久秀には思惑が・・・未だ幼い当主が率いる筒井には、この城を救援する能力が無いであろう事を見越して、「数に勝る自軍の勝利は間違い無し!」とばかりに、永禄三年(1560年)7月24日井戸城に攻めかかったのです。

「井戸城が窮地に立っている!」
この一報は、ほどなく筒井城に届きます。

この時の筒井城には、亡き順昭の弟で、幼き順慶を後見人として支えていた筒井順政(じゅんせい)や、後に、あの石田三成(いしだみつなり)の右腕として知られる事になる島左近(しまさこん= 清興)など、一騎当千の精鋭たちが詰めていましたが、やはり久秀の予想通り・・・評定の場で様々な意見が飛び交うものの、いっこうに何も決まらず、時間ばかりが過ぎてしまいます。

結局、順政率いる援軍が井戸城に到着したのは、攻撃開始から数日経ってからの事・・・

それでも、松永勢の猛攻に数日耐えていた井戸城内からは、援軍の登場に歓喜の声が上がりますが、もはや、四方を松永軍に囲まれた状態では、援軍は城へ近づく事もできず、せっかくの援軍は久秀の術中にハマってしまうのです。

「散々ニ打負(うちまけ)筒井方廿四人マテ討死ス」『足利季世記』
と、この時の援軍は大敗となってしまったようです。

それでも、なおも籠城を続ける井戸良弘・・・

その犠牲は大変なものでしたが、長期の籠城戦ともなれば、一方の松永勢にも少なからずの犠牲は出て来るわけで・・・

結局、城攻め開始から一ヶ月余りの8月24日、話し合いの末の停戦協定が結ばれ、井戸城は開城されたのです。

Idozyou2
●第2次井戸城攻防戦の位置関係図
 クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

このあと、久秀は、11月には沢城(さわじょう=奈良県宇陀市榛原区)を攻略して(11月24日参照>>)、そこを配下の高山友照(たかやまともてる=右近の父)に守らせた後、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城し、筒井氏と同様の立場だった十市氏も味方につけ、取り込んだ寺社には多額の献金で文句を言わせず・・・

それは・・・
ご存じのように、この翌年の永禄八年(1565年)5月には、三好長慶の後継の立場となった三好三人衆三好長逸三好政康石成友通とともに、将軍の足利義輝を暗殺(5月19日参照>>)して、自らの推す阿波御所足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立しようと企んだとされているくらいですから・・・ま、暗殺には久秀は関与してない説もありますが、それほどの人物になっていた事は確かですから、

そして、その年の秋には、いよいよ筒井城を攻略する(11月18日参照>>)・・・という事になります。

とは言え・・・
先に書かせていただいた通り、話し合いの末の停戦協定で開城した事で、命取られる事無かった井戸良弘は、この後の風向きの変化で筒井城を奪回した筒井順慶とともに、彼もまた井戸城に戻る事になり、

この次は、元亀元年(1570年)の第3次井戸城の戦いにて、再び松永久秀と相まみえる事になるのですが、そのお話は、いずれまた、合戦のあった「その日」に書かせていただく事にします。

とにもかくにも、父の死によって若くして井戸城主となった井戸良弘は、なかなかの長生きですから、この後も、久秀や順慶に絡みつつ、織田政権下&豊臣政権下でも生き抜いていきますので、また機会がありましたら、色々とご紹介していきたいと思います。
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2018年6月21日 (木)

遠江の支配を巡って今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

永正十四年(1517年)6月21日、遠江を巡る争いで引馬城に籠った大河内貞綱斯波義達に対し、今川氏親が攻撃を仕掛けました・・・第3次・引馬城の戦いです。

・・・・・・・・・

引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区)は、引間城とも曳馬城とも表記され、住所をご覧になってお察しの通り、現在の浜松城(はままつじょう)の場所に、かつてあったお城です。

かの武田信玄(たけだしんげん)と協力して今川氏真(いまがわうじざね)を倒した(12月27日参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)が、遠江(とおとうみ=静岡県西部)に乗り込んだ(3月27日参照>>)元亀元年(1570年)に、この引馬城に入城して、その名を浜松城に改称したわけですが、その浜松城内の北東部分が、かつての引馬城の中心部分で、あの元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)時にも、浜松城の本丸を捨てて、コチラ=北東部分の防備を固めたとされるくらい、この引馬城の建ってた場所は重要拠点だったようです。

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安政元年に描かれた浜松城絵図…二の丸右上の出っ張り部分が引馬城の痕跡

そんな引馬城のあった遠江・・・そもそも、室町幕府政権下で、この遠江の守護(しゅご=県知事みたいな)を任されていたのは今川(いまがわ)でした。

ご存じのように、この今川は、足利(あしかが)一門の吉良(きら)の分家にあたる名門で代々駿河(するが=静岡県東部)の守護を世襲するとともに、この遠江も支配していたわけですが、応永年間(1394年~1427年)の終わり頃から、遠江今川家5代の今川範将(のりまさ)が一揆に関わった事や、守護代の狩野(かのう)が力をつけて来た事などから、息子で6代目の今川貞延(さだのぶ)遠江を追い出されて駿河の今川義忠(よしただ=義元の祖父)を頼り、以後、この遠江は斯波(しば)が守護となったという経緯がありました。

このため、今川と斯波の間には大きな亀裂が・・・

とは言うものの、一方の斯波氏も、室町幕府将軍家の足利一門であり、なんなら細川(ほそかわ)畠山(はたけやま)とともに、三管領(さんかんれい=将軍を補佐する執事を輩出する3つの家柄)の一つ=つまり、室町幕府政権下ではメッチャ中心部の力のある家柄だったわけで、代々守護を任されていた領国も、越前(えちぜん=福井県東部)尾張(おわり=愛知県西部)と広大でしたし、義忠の時代には、あの応仁の乱(5月28日参照>>)も絡んで敵味方の入り乱れ状態となっていましたから、何度か刀を合わせつつも、遠江の情勢は混沌としたまま、結局、文明八年(1476年)の2月、不意を突いた一揆勢に襲われて、義忠は命を落とします。

当主の急死に、後継者を巡る家督争いが勃発した今川家でしたが、そこに仲裁に入ってくれた叔父=北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:氏親の母は早雲の姉もしくは妹のおかげで、無事、義忠の長男の今川氏親(うじちか)が家督を継ぐ事で落ち着きました。

こうして、今川の当主となった氏親は、父の時代にウヤムヤになっていた遠江を奪回すべく侵攻を試みるのです。

永正十年(1513年)、この氏親の動きを受けて、遠江引馬荘の代官で引馬城主の大河内貞綱(おおこうちさだつな)反今川の狼煙を挙げ、そこに見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・見付端城とも)堀越貞基(ほりこしさだもと=用山・今川貞延の息子)も加わったため、氏親は即座に討伐隊を構成し、引馬城へ攻撃を仕掛けました。

これを見込んで、すでに斯波義達(しばよしたつ)に援軍を要請していた大河内貞綱でしたが、氏親軍の動きが予想以上に早く、援軍が未だ来ない永正十年(1513年)3月7日引馬城は陥落し、第1次・引馬城の戦いは終結しました。

この時、敗軍の将となった大河内貞綱は、当然、その命奪われるはずでしたが、貞綱の主家である吉良家が仲裁に入って謝罪したため・・・と、先に書かせていただいた通り、今川家と吉良家は同族なので、その好で氏親は城を奪っただけで、貞綱の命を取る事はしなかったのです。

こうして、貞綱に代わって城には、同じく吉良を主家に持つ、親今川派の飯尾賢連(いのおかたつら)が入ったのですが・・・

ところが、その翌年・・・貞綱は、氏親が軍勢とともに領国へ戻ったのを見計らって、弟の巨海道綱(こみみちつな・おおみみちつな)と組んで飯尾賢連を追い落とし、引馬城に立て籠もってしまったのです。

永正十一年(1514年)8月18日、再び戻って来た氏親軍は、引馬城へと総攻撃を仕掛けるのですが、これがなかなか手ごわい・・・

しかし、やがて一人の武将が、うまく塀を乗り越えて城内へと侵入し、城門を開ける事に成功・・・怒涛の如く流入する兵士を抑えきれず引馬城は陥落し、大河内貞綱らは、裏門から逃走して行ったのです。

これが第2次・引馬城の戦い・・・またしても引馬城を追われた大河内貞綱でしたが、まだ諦めません。

やがてチャンスがやって来ます。

永正十年(1513年)頃から始まった甲斐(かい=山梨県)河内領(かわちりょう=山梨県の西八代郡と南巨摩郡)を領していた穴山(あなやま)(甲斐武田氏の一族)の内紛の末、当主の座を得た穴山信風(あなやまのぶかぜ)が今川派となった事、また、周辺の国衆もが乗っかって今川指示の姿勢を見せた事で、「これはイケる!」とばかりに、氏親が永正十二年(1515年)10月、大軍を率いて甲斐に出陣したのです。

当然、駿河や遠江は手薄になるわけで・・・

こうして、翌・永正十三年(1516年)3月、大河内貞綱が氏親に対する反乱を起こした事で、第3次・引馬城の戦いが始まったのです。

その3ヶ月後の6月には斯波義達も引馬城へと入り、反今川派によって城は占拠されてしまいます。

この状況に、一刻も早く甲斐を出て遠江に向かいたい氏親は、配下の宗長(そうちょう)を使者として、交戦中だった武田信虎(たけだのぶとら=信玄の父)のもとに送ります。

この宗長という人は、島田(しまだ=静岡県島田市)出身の僧で、京都の大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)にて一休宗純(いっきゅうそうじゅん)から禅を学び、宗祇(そうぎ)から連歌を教わった連歌師・・・当時は、氏親に仕えていた今川お抱え連歌師でしたが、ご存じのように、僧という立場は現世とは無縁ですし、連歌師もまた合戦とは無縁の者・・・

宗長の尽力により、何とか、武田との戦いを講和に持ちこんだ氏親は永正十四年(1517年)6月、連日の雨により、川幅が大幅アップし、海のようになっている天竜川に船橋を架けて渡り、永正十四年(1517年)6月21日引馬城に到着後、早速、城への攻撃を開始します。

しかし、正面から力づくでぶつかっても、なかなか落とせない堅固な守りに苦戦した氏親は、長期戦へと方向転換・・・梅ヶ島金山(うめがしまきんざん=静岡県静岡市葵区・安倍金山とも)の金堀り職人を召集し、穴を掘らせて井戸の水を抜き、引馬城の水の手を断ちます。

籠城戦において、最も重要な水・・・これを断たれては、もはや時間の問題です。

案の定、合戦開始から約3ヶ月後の8月19日・・・枯渇による飢餓状態に陥った城兵が、作戦も何もなく、無我夢中で撃って出て来たところを迎え撃って一網打尽にしたのです。

この戦いで大河内貞綱&巨海道綱兄弟は覚悟の自殺を図りますが、斯波義達は普済寺(ふさいじ=静岡県浜松市中区)に入って頭を丸めて、家督を息子の斯波義統(よしむね)に譲って降伏の意を表明した事で、その命は守られ、尾張へと送られました。

ただし、引退して後継に命つないだとは言え、その失脚感はハンパなく・・・しかも、この一連の対今川の戦いに反対して参戦していなかった斯波配下の尾張守護代=織田(おだ)が、義達の失脚によって盛り返して来て、やがて、頭角を現してくる織田信秀(おだのぶひで)(3月3日参照>>)からの織田信長(おだのぶなが)・・・と、最終的に尾張は織田の物になってしまうわけで・・・

一方、完全勝利となった氏親は、これによって、この先、浜名湖周辺を抑える事ができ、その支配は、息子の今川氏輝(うじてる)からの弟=今川義元(いまがわよしもと)海道一の弓取りへと引き継がれる事になります。

に、しても・・・ドラマで戦国、と言えば、この後の時代から~てのばかりですが、なんで?このあたりのドラマをやらないのだろう???

やっぱ有名どころが出ないと視聴率が取れないのでしょうか?
いつか、信長や義元の父ちゃんたちの時代劇も見てみたい物ですね~
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