2017年7月17日 (月)

天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆

天文元年(1532年)7月17日、後の天文法華の乱につながっていく大和一向一揆がありました。

・・・・・・・・・・・

京都の市街を戦場とした事で、町中が焦土と化したと言われる応仁の乱ですが、実は、その応仁の乱よりも被害が大きかったとされるのが、天文五年(1536年)7月に起こった天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)です。

そのページには、有名な京都の祇園祭(ぎおんまつり)の山鉾巡行で、先頭を行く長刀鉾(なぎなたぼこ)に飾られる長刀は、この乱で法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)宗徒に八坂神社が勝利した証の長刀で、街中を練り歩いて、それを京都市民に披露する意味もあった事を書かせていただきましたが・・・

もともとは奈良の興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の末社だったのが、平安時代に比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)に属するようになった八坂神社・・・その後、室町時代には延暦寺から切り離されてはいましたが、未だ、そのつながりが強固な物だったようで・・・

つまり、上記の天文法華の乱は、天台宗VS法華宗の争乱という事になりますが、ここに至るまでには本願寺も絡んでいるうえ、もともとは武士同士の権力争いが宗教勢力を巻き込んで(≧ヘ≦)・・・と実にややこしいんですが、どうぞ、最後までお付き合いを・・・

・‥…━━━☆

応仁の乱(5月20日参照>>)の後、その東軍の大将=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いだ息子=細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)は、自らの意のままになる傀儡(かいらい=あやつり人形)の室町幕府将軍を擁立するほどの権力を持つ管領(かんれい=将軍の補佐)となりますが、その死後に起こった政元の養子同士の後継者争いの中で、大永七年(1527年)の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)などに勝利してライバルの細川高国(たかくに)を追い落とした細川晴元(はるもと)が、堺公方足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立して京都を掌握し、ようやく、わずかばかりの平和が訪れた頃、

先の高国討伐で、ともに功を挙げた、阿波(あわ=徳島県)にいた頃からの晴元の家臣=三好元長(みよし もとなが=長慶の父)と、山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)との間に亀裂が生じ始めていました。

その原因は・・・
上記の通り、そもそもは義維を擁立して政権を握るつもりだったはずの晴元が、高国という敵を排除した途端に、その高国とツルんでいた第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる=義維の兄)和睦を働きかけて近づいて行った事に、元長が苦言を呈した事で、両者がギクシャクし始めたところに、

このタイミングで、かの高国討伐をキッカケに晴元に急接近した木沢長政が、晴元の威を借りて、そもそもの主君であった河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)であり、室町幕府の管領家でもある畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)から独立を企てた事にありました。

当然、激怒した義堯は、元長の一族の三好一秀(みよしかずひで=勝宗)に命じて、長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻めさせますが、一方の長政は、即座に晴元に救援を要請・・・ここに、元長とは一族でありながらも、何かと敵対していた三好政長(みよしまさなが=之長の甥)が加わって、
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
 VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」

となったわけですが、

そんな中、享禄四年(1531年)8月と天文元年(享禄五年=1532年)6月の2度に渡って一秀らから飯盛山城を攻められ、分が悪い晴元&長政らは、山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)宗徒の出陣を要請します。

かつて、本願寺中興の祖である蓮如(れんにょ)上人が、あの加賀一向一揆で「過激な事はするな」と言い残して越前(えちぜん=福井県)を退去した(8月21日参照>>)ように、また、先代である実如(じつにょ=蓮如の息子で証如の祖父)「武士を敵としてはいけない」と言い残したように(…と言いながら自分も細川政元に協力して朝倉と戦ってますが…)、本来、戦いに関わらない姿勢にあった本願寺法主でしたが、当時、未だ血気盛んな17歳だった証如は、この要請を引き受けてしまいます。

実は、この時、都の宗教界を本願寺と二分していたのが法華宗で、その法華宗の大スポンサーだったのが元長さん・・・未だ若い証如は、宗教上での敵対勢力を弱体化させる絶好のチャンス!と思ったのでしょう。

もちろん、教祖様の呼びかけに応じて終結した本願寺宗徒=一向一揆衆たちはズブの素人の烏合の衆・・・本来なら、とてもプロの武将に太刀打ちできませんが、この時「集まった人数は3万を超えた」と言われるほど大人数で、飯盛山城を囲む三好勢を取り囲んで猛攻撃を開始します。

さすがに、突然現れた大軍になす術のない三好勢・・・勢いずく一揆勢は天文元年(1532年)6月15日一秀を討ち取った後、撤退しようとする義堯を追撃して自刃に追い込んだのです(飯盛城の戦い)

さらに、その5日後の6月20日には、10万ほどに膨れ上がった人数で、元長のいる顕本寺(けんぽんじ=大阪府堺市堺区)を取り囲み、元長をも自害させました。

こうして、晴元&長政は飯盛山城を死守する事ができたわけですが・・・

この時、天文元年の2度目の飯盛山城攻めから、畠山の要請により参戦していた大和(やまと=奈良県)の国衆=筒井順興(つついじゅんこう=順慶の祖父)は、速やかに撤退して、居城である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)に、無事、戻る事ができましたが、なんと、この後、河内で暴れまわった一向一揆が、その勢いのまま奈良へとやって来るのです。

と、言っても、河内の一揆衆がそのまま奈良に・・・というよりは、「その動きが波及して来た」という感じ・・・

なんせ、この奈良には、古くからの一大宗教勢力=興福寺があったわけで・・・

これまでも、あの全盛期の平家相手に真っ向から立ちふさがったり(12月28日参照>>)、中央政府に度々強訴(ごうそ=僧兵の武力で以って集団で訴え要求する事)を起こしたり(10月5日参照>>)と、かなりの武力行使で当地に君臨していたわけで・・・
*【僧兵~僧侶の武装と堕落】も参照>>

しかし、この頃の奈良には、すでにかなりの数、本願寺に帰依する者も出て来ていて、そんな彼らの中には、今もって権勢をふるう興福寺に嫌悪感を持っていた者も少なく無かったのです。

そんな彼らが、教祖様=証如の呼びかけに立ち上がるのは当然の事・・・

かくして天文元年(1532年)7月17日、集結した大和の一向一揆衆は、ホラ貝を吹き鳴らし、鐘をけたたましく打ちまくりながら、興福寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する坊寺院)に放火して回ったのです。

記録によれば、興福寺の伽藍(がらん=寺院の主要建築群)そのものと、一乗院(いちじょういん=奈良県奈良市)大乗院(だいじょういん=同奈良市)を除いて、他の僧坊はほとんど、焼かれるか破壊されるか・・・

大事な経典は破られ、高価な法事の道具は盗まれ・・・さらに、その勢いは春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)にまで及び、蔵や神主さんの家まで破壊されたのだとか・・・この時、抵抗する術もなかった奈良在住の興福寺宗徒たちは、手に手を取って、南の高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)を目指して落ちて行ったのです。

勢いが、ようやく終息に向かった8月9日の夜・・・残った物はほとんど無く、奈良中がすっかり焦土となっていたと言います。

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大乗院庭園…庭園へのくわしい行き方は本家HP:奈良歴史散歩「ならまち」で>>

こうして「天文法華の乱~大和一向一揆」は、終焉を迎えました~~
って、延暦寺+八坂神社VS法華衆は?

そうなんです。
本チャンは、まだ先の先・・・

この戦いで分が悪いと本願寺に支援を求めた細川晴元・・・開けちゃいけないパンドラの箱を開けちゃいました~

この争乱で勢いづいた・・・
いや、勢いがつき過ぎた本願寺を法華宗でおさえ、
ほたら、また法華宗が勢いづいて・・・
と、エンドレスな宗教勢力争いに武士が関与して、
あんな事やこんな事が・・・

とにもかくにも、この続き=山科本願寺の戦いについては、その日の日付で書かせていただくつもりでおりますので、少々のお待ちを・・・m(_ _)m
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2017年7月12日 (水)

応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い

延徳二年(1490年)7月12日、応仁の乱後も続いた畠山氏の主導権争いの中で、大きな衝突となった一乗山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府将軍家の後継者争いに管領家の後継者争いがくっついて、その配下となる全国の大名を巻き込み、全国を東西真っ二つに分ける大乱となった応仁の乱・・・

モメた原因の一つが、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県・三重県の一部)大和(やまと=奈良県)などの重要地の守護(しゅご=現在の県知事)を任されていた畠山氏の後継者争いでした。

Hatakeyamayosinari400 そもそもは、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)だった畠山持国(はたけやまもちくに)が、自らの後継者を弟の畠山持富(もちとみ)に定めていたにもかかわらず、途中で「やっぱ、ヤメた~」と持富を廃して、息子の畠山義就(よしひろ・よしなり)に譲ろうとしたために、持富の家臣や息子の畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が抵抗・・・持国も持富も弥三郎も亡くなった後は、弥三郎の弟である畠山政長(まさなが)が父と兄の遺志を受け継いで、義就との後継者争いを繰り広げる事になったわけです。

ただ、これには、単に持国が後継者決めに優柔不断だったり、家内で両者がウダウダやってたり・・・の畠山家ばかりのせいではなく、そこには、その力があまり大きくならないように守護大名を内部分裂させておきたい将軍家の思惑なんかもあったわけですが・・・。

なんせ、これまで、文安五年(1448年)11月に持国が義就を後継者に指名してから後、
享徳三年(1454年)9月
 =細川勝元の支持を受け弥三郎が上洛
 義就は京都を追われる
同年12月
 =義政の承認を受け義就が家督を継ぐ
 =弥三郎は京都を追われる
康正三年(1457年)7月
 =義就の勝手な出兵に義政激怒で所領没収
長禄三年(1459年)9月
 =弥三郎が死亡で派閥は弟の政長を擁立
長禄四年(1460年)9月
 =義就が朝敵(ちょうてき=国家の敵)
 =政長が畠山の家督を継ぐ
寛正四年(1463年)9月
 =恩赦により義就は赦免
寛正五年(1464年)
 =義政が管領に
文正元年(1466年)
 =義就が挙兵して上洛して義政に謁見
 =義政が管領職を辞めさせられる

とまぁ、このように、武力で以ってどっちかが上洛すれば、相手が退去・・・しかも、それをいちいち幕府が認めたり、辞めさせたりのくりかえし・・・(10月16日参照>>)

Ouninnoransoukanzucc で、上記のように、管領職を辞めさせられた義政が、名誉挽回とばかりに起こしたのが、応仁の乱勃発(5月20日参照>>)の直接の引き金となる応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)なのです。

勃発後、すぐには、5月の五月合戦(5月28日参照>>)、10月の相国寺の戦い(10月3日参照>>)など、京都市街で大きなぶつかり合いがありましたが、ご存じのように、この応仁の乱・・・
途中から、東西の武将が入れ替わったり、総大将がトンズラしたり(11月13日参照>>)してるうちに、徐々にグダグダ感満載の戦いと化していくわけで・・・

で、東西の大将である細川勝元(ほそかわかつもと)山名宗全(やまなそうぜん=持豊)が、文明五年(1473年)に相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事をキッカケに、8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が息子の足利義尚(あしかがよしひさ=9代)将軍職を譲って正式に隠居した事を受けて、その翌年には、それぞれの大将の息子=細川 政元(ほそかわまさもと)山名政豊(やまなまさとよ)が和睦・・・さらに文明九年(1477年)9月には義就が領国の河内に、11月には、最後までゴネまくっていた大内政弘(おおうちまさひろ)周防(すおい=山口県)にと(11月11日参照>>)・・・それぞれ京都を去って行った事で、やっとこさ応仁の乱は終結となるのです。

しかし、応仁の乱は終わっても、両畠山の抗争は終わりませんでした。

なんせ、上記の経緯の通り、幕府から認められた管領職についているのは義政なので、河内や紀伊など畠山の領国の守護は政長なわけですが、実際に河内の誉田城こんだじょう=大阪府羽曳野市誉田)に入って実権を握っているのは義就なわけで・・・未だに、どっちも譲らないんですから、当然です。

河内が難しいならば・・・と、政長が紀州への侵入を試みるも失敗した文明十四年(1482年)7月の戦闘をキッカケに、再び両畠山氏の戦闘が頻繁に行われるようになります。

戦場になった地では、田畑は荒らされるうえに、配下の者は、土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の地侍)はもちろん、農民に至るまで兵士として駆り出されるわけで・・・この頃、頻繁に戦場となっていた河内や山城の一般人から見れば、「もう、えぇかんげんにしてくれ!」ってなるのも当然で、この文明十四年(1482年)の12月には、歴史教科書でも有名な山城の国一揆(12月11日参照>>)が起こり、住民が話し合いで以って両畠山氏の撤退を要求するという前代未聞の下剋上を成功させています。

それでもまだ、あちらこちらで小競り合いを続ける両者・・・そんなこんなの延徳二年(1490年)7月12日大きな戦闘が起こります。

記録によって記述が様々なのですが、それらを合理的に統合して、現時点では、
あれからずっと、紀伊への侵入を画策しつつも、実現できずに苦労していた政長に、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)周辺の根来衆(ねごろしゅう=根来寺一帯に居住した僧兵集団)が協力を快諾した事から、それを足がかりに、イザ紀州へ攻め込もうと政長勢が駐屯していた一乗山(いちじょうざん=同岩出市)に、義就勢が押し寄せて猛攻撃を仕掛けた・・・という見方がされています。

結果としては、義就側の大敗・・・政長の主力であった根来衆相手に、数百余りが討死にし、その中には高野山の法師も多数含まれていたとされ、かなりの大戦だったと都でも評判になったとの記録が残っています。

また、主だった者の70余りの首が、その後京都に送られて「政長が首実検をした」との記録もある事から、この戦いに政長自身は出陣しておらず、その時は京都にいたものと考えられています。

とにもかくにも、この大敗は義就にとってはかなりの痛手であったようで、義就は翌・延徳二年(1491年)12月に、この世を去ります(内容かぶる部分ありますが…12月12日参照>>)

父の死を受けて息子の畠山義豊(よしとよ=基家)が後を継ぎますが、そこを一気に潰そうと考えたのか?政長は「義豊討伐」を願い出、時の第10代将軍=足利義稙(よしたね:義材・義尹=義政の弟の子)を擁して、根来衆やら紀伊の国衆やらを引き連れて義豊攻撃に向かうのですが・・・

ところが、将軍と元管領(時の管領は細川政元)が留守となったこの間、京都で、どえらい出来事が・・・有名な明応の政変(めいおうのせいへん)です。

これは、時の管領の細川政元が義稙を廃して、自らの意のままになるであろう足利義澄(よしずみ:義遐・義高=義政の兄の子)を第11代将軍に擁立して政権を掌握するという明応二年(1493年)に起こったクーデター・・・

この政変によって、将軍=義稙とそこにつながる政長が率いる軍団は、一夜にして賊軍となってしまったのです。

やむなく、元将軍=義稙は義豊側に投降し、政長は失意のまま自殺(討死にとも)・・・戦場を逃れた政長の息子=畠山尚順(ひさのぶ)は紀州へと身を隠し・・・おかげで、義豊は、政長に奪われたままとなっていた守護職を取り戻す事に成功したのです。

Dscn1713a900 応神天皇陵(誉田御廟山古墳・大阪府羽曳野市誉田)…誉田城は、この天皇陵を利用して構築した城と言われています。

しか~し・・・畠山両者の戦いは、ま~だ終わりません。

逃れた尚順が地元=紀州を味方につけ、勢力を挽回した事から、早くも、政変から約半年後の10月に両者の衝突が起こったのを皮切りに、
明応四年(1495年)、
明応六年(1497年)、
明応八年(1499年)・・・さらに、この明応八年(1499年)1月の戦いで義豊が戦死すると、その息子の畠山義英(はたけやまよしひで)が引き継いで
明応八年(1499年)12月、
翌・明応九年(1500年)・・・と、

とにかく、義豊側が尚順を紀州に追い込めば、ほとぼり冷めた頃に尚順が河内に侵攻・・・それが治まれば、また義豊側が紀州に・・・と、両者の戦いは続いていくのです。

とは言え、両者が、そんなこんなしているうちにも時代はどんどん進んでいくわけで・・・やがて、大和の派遣争い(9月21日参照>>)、政元亡き後の細川家の後継者争い(2月13日参照>>)、両者ともに巻き込まれつつあるうちに、徐々に他の武将たちが力をつけてくる下剋上・・・

結果的には・・・
義就系統は、上記の義英の息子の畠山義堯(よしたか=義宣)が、守護代の木沢長政(きざわながまさ)に裏切られて自刃に追い込まれた(7月17日参照>>)後、そのまた息子の畠山在氏(ありうじ)の時代に、その木沢長政が三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)に敗北した事から、事実上の滅亡となります。

一方の政長系統は、尚順から5代後の畠山高政(たかまさ)の時代に、やはり台頭していた三好(9月28日参照>>)と敵対した関係から、足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛して来た織田信長(おだのぶなが)(10月18日参照>>)に近づき、その子孫たちは織田→豊臣→徳川の流れで生き残り、伝統ある名家を重んじる徳川家康(とくがわいえやす)によって、あの今川家(3月16日参照>>)と同様に、江戸幕府内の高家(こうけ=江戸幕府内で儀式や典礼を担当する役職)として幕末まで続く事になります。

戦国の世で生き残っていくのは大変ですね~
振り返ってみると、この畠山両家は、戦国の幕開けとも言われる応仁の乱から、信長の上洛まで、ずっと戦っていたわけですから・・・
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2017年7月 5日 (水)

春日源助殿へ~武田信玄のラブレター❤

天文十五年(1546年)7月5日、武田信玄が、あの有名なラブレターを送りました。

・・・・・・・・・・

文春砲が鳴りやまない今日この頃ですが、いつの時代も、有名人というのは大変なものです。

古くは舎人(とねり)親王(11月14日参照>>)にしろ、近くは昭和の歌人=斉藤茂吉(もきち)(2月25日参照>>)にしろ、そして、今回の武田信玄(たけだしんげん)にしろ・・・
まさか、自分の書いたラブレターが日本中に公開されるとは!(lll゚Д゚)

まぁ、前回ご紹介させていただいた上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)『出家願望の手紙』(6月28日参照>>)でも、ご本人は「他人に見られたら恥ずかしい」っておっしゃっていますので、その内容に関わらず、手紙という物が、宛てた人以外の人に見られるのは、だいたいにおいて恥ずかしい物ではあります。

とは言え、歴史上の有名人となると、やはり、「その手紙が残っている」というだけで価値があるわけで、ましてや、それが、包み隠さずホンネを吐露した感じの内容であるなら尚更・・・

ただし、歴史が大好きで、歴史上の人物は全員大好きな不肖茶々・・・決して、こういった類の物を、バカにしたり、貶めるつもりでご紹介するわけではありません。

以前、別のページのコメントにも書かせていただいたのですが・・・

芸能事務所がアイドルやタレントを売り出すのに使う心理学を応用したテクニックの一つに『二重構造の原理』というのがあるんですが、それは、大衆の支持を得るためには、物質的な異質性心情的な同一性の二つを兼ね備えていないと人気が出ないという事なのだそうで、

物質的な異質性というのは、アイドルやタレントの場合は、カワイイ容姿だったり歌のうまさだったり…一方の歴史上の人物の場合は、強さだったり天才的な策略だったり、歴史に残るような偉業を成し遂げていたり…これは、一般人とは比較できないほど優れていなければなりません。

しかし、その一方で、心情的には同一=つまり一般大衆と同じように悩み苦しみ失敗する…心情的には一般大衆と同質の物を持っていないと共感を呼ぶ事ができず、大衆の支持を得られないって事なのですね。

邪魔だと思えば父も追放(6月14日参照>>)、敵をビビらせるためには3千人の生首を並べたり(8月17日参照>>)、三方ヶ原に勝利した翌日には、あの織田信長(おだのぶなが)を挑発(12月23日参照>>)したり・・・

そんな絶対的猛者の信玄が、大好きな男の子の心を捕まえておきたくて右往左往してる様子・・・心理学をカジった事のある茶々としては、このギャップが魅力的で、むしろ、「だからこそ人気がある」のだと思っているのです。

ちなみに、たまに、このラブレターの相手が男だという事に注目してしまう場合がありますが、以前、江戸時代に流行った若衆歌舞伎(6月20日参照>>)のページに書かせていただいてるように、この時代の男同士の恋愛は、特別珍しい事ではありませんので、そこではなく、人間味あふれる信玄さんの様子に、ご注目を・・・

・‥…━━━☆

一、弥七郎に頻(しきり)に度々申し候へども、虫気(むしけ)のよし申し候あひだ、了簡(りょうけん)なく候。全くわが偽(いつわり)になく候。
一、弥七郎伽
(とぎ)に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いはんや昼夜とも弥七郎とその儀なく候。なかんずく今夜存知よらず候のこと。
一、別して知音
(ちいん)申したきまゝ、色々走り廻り候へば、かへって御疑ひ迷惑に候。 

この条々、いつはり候はば、当国一、ニ、三明神、富士、白山、殊(こと)に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、諏訪上下(すわかみしも)大明神、罰を蒙(こうむ)るべきものなり。よって件(くだん)の如し。
内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候あひだ、白紙にて、明日重ねてなりとも申すべく候。
 

 七月五日
     晴信
(←花押)
  春日源助との

・‥…━━━☆

現代風に意訳すると・・・

・‥…━━━☆

「弥七郎には、何回か言い寄ったんは言い寄ったんやけど、腹痛やって断られて、結局は何も無かったんや~これ、ホンマ、嘘ちゃうからな」
「弥七郎の夜の相手をさした事は無い!それは、前から無い!もちろん、夜だけやなくて昼間も無いって事やで。
まして、今夜なんて事、あるわけないやろ」
この事、知ってほしくて、色々動きまわるんやけど、かえって疑いをかけられて、ホンマ困ってんねん。
 

もし、この手紙に書いた事が嘘やったら、神様の罰でも何でも受けるつもりやから、ホンマ、わかってな?
ほんまやったら、正式な誓いの紙に書かなアカンところやねんけど、今夜は
庚申(こうしん)待ちでみんな起きてるよって、他人の目があるさかい、明日、もっかい、ちゃんとした誓いの紙に書くからね~」

・‥…━━━☆

てな感じ・・・て、
何回か言い寄っとんのかい!(*`ε´*)ノ
断られて無かったらいっとったんかい!(=゚ω゚)ノ

というツッコミはさておき、

なんだか、右往左往する様子が目に浮かぶような、見てるコチラの顔も思わずニンマリしてしまうような、リアル感満載の手紙です。

正式には『春日源助宛武田晴信誓詞(東京大学史料編纂所蔵)と呼ばれるこの手紙・・・

この時の信玄は未だ出家前なので名前は晴信(はるのぶ)、この手紙自体には、年号がありませんが、最後の方に出て来る「甲役人多く候」「庚申待ちをしている人が多いので…」という風に解釈できるところから、7月5日が庚申の日(庚申待ちとは=3月6日参照>>)だった天文十五年(1546年)の手紙であろうと推測されているのです。

また、宛先の「春日源助との」とは、『甲陽軍鑑』(9月9日参照>>)の原本を記録したとも言われる武田四天王の一人=春日虎綱(かすがとらつな=高坂昌信)と一般的には言われています(異説もあり)

とは言え本当に、相手がイケメンの誉れ高い春日虎綱で、書いたのが天文十五年なのだとしたら、信玄25歳で虎綱19歳・・・まさかまさかの、見るに耐える、いや、むしろ見てみたいボーイズラブシーンのような気がしないでもない・・・

Singenkoicc_1

とまぁ、アホな事を言うとりますが・・・

実は、この手紙・・・まったく別の見方もできます。

冒頭に書いた、江戸時代に流行した若衆歌舞伎(再び6月20日参照>>)などは、ほぼほぼ趣味嗜好の世界ですが、そのページにも書かせていただいたように、戦国時代の男同士の関係は、単に恋愛だけではなかったわけで・・・

もちろん、おおもとには「戦場に女性を連れていけない」からの「夜のお相手」という部分もあったでしょうが、結果的に、それがあったればこそ、そこに揺るぎない主従関係が生まれた事も確かでしょう。

その関係が保たれている限り、主君から見れば「忠義を貫いてくれる部下」であり、家臣から見れば「自分を引き上げてくれる上司」だったという事です。

裏切りが当たり前の戦国の世で、主君の命令に忠実な家臣を育てる場合、パワハラ気味な強い態度で、力で以って言う事を聞かせる事もアリかも知れませんが、「この上司のためなら死んでもイイ(゚▽゚*)」というまでの信頼関係を構築する事も大事で、そのための一つの手段が「体のつながりを持つ」という事だったワケです。

今回の信玄の手紙も、主君から年下の家臣に宛てたにしては、けっこう丁寧な書き方で、だからこそ、必死のパッチで疑いを晴らそうとしているように感じてしまうわけですが、

戦国時代には、それこそ、「体の切れ目が縁の切れ目」とばかりに、その一族もろともに謀反を起こした例も少なく無い・・・なんせ、美少年の後ろには、その一族もついていて、美少年の肩には、その一族の未来ものしかかっているわけで・・・
【あんなに愛した仲なのに…陶晴賢・大寧寺の変】参照>>)

てな事で、一見、アタフタして浮気の弁解をしているように見えるこの信玄の手紙は、実は、家臣をつなぎとめておくための、計算ずくのしたたかな手段?・・・いや、物事を穏便に済ますための、信玄独特の気配り?の現れだったのかも知れません。
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2017年6月28日 (水)

上杉謙信の出家願望と大熊朝秀~駒返の戦い

弘治二年(1556年)6月28日、上杉謙信天室光育「出家を決意した」との手紙を送りました。

・・・・・・・・・

謹而言達 於今度宗心身上之儀ニ 以両使條々申展候段 定而可被聞召届候…

で始まる弘治二年(1556年)6月28日付けの、この手紙・・・上記の部分の内容は
「謹んで言わせてもらいますが、このたび、宗心の身の上に関して、2名の使者を派遣しましたので、おそらく願いは、お聞き届けいただいた事でしょう…」
てな感じ、

Uesugikensin500 「宗心」というのが上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)が自身で名乗った出家名で、(聞き届けてほしい)願い」というのは「出家」です。

そう、謙信は、この時、本気で「出家する!」と宣言して高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)へと向かっているのです。

この手紙・・・
実際には、この文章の後に、自身が若くして後を継いだ時の事やら、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)主になった経緯やら、領主としていかに国内を平定したかなどが、滔々と、半ば「俺ってスゴイやろ?」的な雰囲気を醸し出しつつ書いてある、けっこう長い手紙なわけですが・・・

そこは、そう・・・手紙の相手が、謙信が幼い頃から信頼を寄せ、ホンネを吐露できる親しい相手であった林泉寺(りんせんじ=新潟県上越市・上杉氏の菩提寺)天室光育(てんしつこういく )という僧侶だったのもあって、ついつい書いちゃった~って感じなのかな?

なんせ、手紙の最後のほうには、
「後先考えず、筆の向くまま書いてしもたので、誤字脱字も多いでしょうから、(この手紙を)他人に見られて笑われたらどないしょと思いますわ~けど、節目になる事なので、お知らせだけはしときたいという、僕の気持はわかってもらえたかと…」
てな、感じで締めくくっていますから。

で、その中には「出家したい」と思った理由めいた物も書かれていて・・・

「国内をやっとこさ平定し、五穀豊穣で一安心…僕がやる事も、もう無くなったし、昔から『功名を遂げた者が身を退いた』例もある事ですし…」
という一方で
「僕が、必死のパッチで外敵を撃退して平和を取り戻したのに、家臣らは、それぞれが自分勝手な事ばっかり言うて、味方同士でモメ倒して…そんなんしてたら僕の苦労も水の泡になるから、ここで身を退く事にしますわ」
てな、家臣へのグチとも、脅しとも言える内容が書いてあるのだとか・・・

そんな感じなので、謙信に「出家願望」があって、実際に、この時期に「高野山に向かった」事は確かなれど、出家の理由については、今も謎・・・色々と推理はできますが、「コレだ!」という決め手は無いようで、

上記のように、
「とりあえず、国内平定して一旦平和になったから」
「自分の苦労を理解してくれない家臣に嫌気がさしたから」

あるいは、家臣たちをちょっとビビらせて、逆に結束を強めるための「偽りの出家」「お芝居の出家」だったなんて話もあります(←今風に言うと「出家するする詐欺」?)

・・・で、謙信が、この手紙を受け取った天室光育に、
「手紙の内容を家臣のみんなに伝えといてね~」
と言って春日山城を去った事もあって、

間もなく、急使によってこの一報を聞いた上田長尾家(うえだながおけ)長尾政景(ながおまさかげ=謙信の姉婿・景勝の実父)(7月5日参照>>)は、取るものも取りあえず一門のもとにはせ参じ、国中に知らせて方々を招集し、皆の総意のもとに、主君の出家をストップさせるべく、政景自ら、謙信の後を追ったのです。

かくして、関山権現(せきやまごんげん=新潟県妙高市関山)祈祷中だった謙信に追いついた政景(場所は奈良の葛城山の麓だったとも)、涙ながらに
「そのお心はお察ししますが、殿さまあってこそ治められるこの国…今、出家された事が知れ渡れば、騒動を起こす者もおるかも知れません。
国の難は民の悲しみ…何とか、決心を覆してお戻りになって、国の安泰を維持してください。
家臣一同が皆、そう願ってますねん」
『上杉謙信言行録』より)
と説得したのだとか・・・

で、この説得に応じた謙信は、還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)して春日山城へと戻り、家臣たちに今後の忠誠を誓う「誓紙(せいし=誓いの言葉を記した紙・起請文)を差し出させて、この出家騒動は一件落着となるのですが・・・

実は、このゴタゴタの中で、騒ぎに乗じて反旗をひるがえした人物がいました。

それは、父の時代から長尾家に仕える重臣の一人=大熊朝秀(おおくまともひで)・・・彼だけは、上記の誓紙を出す場にはいなかったのです。

この頃の謙信の重臣と言えば、この大熊朝秀と本庄実乃(ほんじょうさねより)、そして直江景綱(なおえかげつな=直江兼続の義父)の名前が挙げられますが、実は、もともと朝秀と実乃の仲が悪く、事あるごとに反目していた事から、その下となる家臣も2派に分かれて対立していたとも言われます。

その原因となったのは、あの謙信の家督相続・・・ご存じのように、謙信には長尾晴景(ながおはるかげ)という兄がいて、父=長尾為景(ながおためかげ=越後長尾家)が隠居する際に家督を譲られたのは、このお兄さんの方・・・

しかし、父が亡くなり、仏門に入っていた弟が還俗して活躍し始めると、「温厚な性格で融和政策をとる兄より、イケイケで勝ちまくりの弟の方が良くネ?」てな事になって、結局、天文十七年(1548年)に、兄は隠居して弟に家督を譲ったという経緯があったわけで・・・

そうです。
この時に、朝秀は兄=晴景派で、実乃は弟=謙信(景虎)だったという話も・・・まぁ、この時は、守護の上杉定実(うえすぎさだざね)が間に入った事で家中分裂の危機を回避したので、その後は両者ともが謙信に仕えていたわけですが、それからずっと、その確執が埋まる事が無かった可能性も・・・

ただし、一方で、この謙信の家督相続の際には朝秀自身が謙信擁立に尽力したという説もあるので、あくまで、諸説あるうちの一つの可能性という事なのかも知れませんが・・・

また、それ以外にも、
朝秀自身は謙信の信頼を得ていたものの、周囲は長尾家の家臣ばかりで、その身の置き所に悩んでいたとか、
朝秀が、守護である上杉家を、もとの強い上杉家に再興したいと思っていた事が、結果的に守護代の長尾家に反発するような形になってしまったのだとか、
様々な要因が考えられていますが・・・

理由はともかく、このタイミングで大熊朝秀は、謙信と敵対していた武田信玄(たけだしんげん)からの再三の誘いに応じ、自らの城であった箕冠城(みかぶりじょう=新潟県上越市板倉区)を捨てて、越中(えっちゅう=富山県)へと退いて一揆を扇動し、信玄の援軍を待ったのです。

これが、弘治二年(1556年)8月23日の事・・・

そう、上記の涙ながらの説得に応じて、出家を止めて戻って来たとされる謙信ですが、一方では、この「大熊朝秀謀反の知らせを聞いて戻って来た」とも言われます。

なので、この一連の流れが、実は、分裂した家臣団のどちらか一方を切り、一つにまとめるための策だったとも・・・

とにもかくにも、還俗して春日山城に戻った謙信は、すばやく軍を編成して、越後(えちご=新潟県)へと進撃して来た朝秀軍を駒返(駒帰:こまがえし=新潟県糸魚川市)にて打ち破ったのです。

敗れた朝秀は、甲斐(かい=山梨県)の信玄のもとに身を寄せ、以降、大熊家は武田の家臣として生きていく事になります。

もし、上記のように、出家うんぬんの話からのすべてが、家臣を一つにまとめるための策だったとしたら、あまりに計画通りに事が運び過ぎの感もあり、切られた大熊朝秀の立場は???

って事にもなりますが、実は、ここで武田の家臣となった大熊家・・・信玄亡き後の織田&徳川連合軍の怒涛の進撃で多くの武田の家臣が裏切る中、朝秀は、武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)の最期となる、あの天目山(3月11日参照>>)まで従って、その忠義を貫き、主君とともに果てているのです。

ちなみに、朝秀の長男=大熊常光(おおくまつねみつ)は、この武田滅亡のゴタゴタの中で見事に生き残った真田昌幸(さなだまさゆき)(6月4日参照>>)に仕えていた事で、彼は無事・・・大熊家はその後も、真田の家臣として代々仕えたとの事なので、その点はご安心を・・・

謙信とは離れても、武田とは離れなかった朝秀・・・そこには、彼にしかわからない戦国武士の意地の貫き方があったという事なのかも知れませんね。
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2017年6月24日 (土)

三好長慶が天下を取る~江口の戦い

天文十八年(1549年)6月24日、三好長慶三好政長に勝利して事実上、戦国初の天下人となる江口の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後、3人の養子によって行われた後継者争いで、故郷の阿波(あわ=徳島県)に退去して無念の死を遂げた父=細川澄元(すみもと)に代わって敵対勢力を倒し(2月13日参照>>)、時の将軍=第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)とも和睦して、事実上、政権を掌握した細川晴元(はるもと)・・・

阿波時代から、晴元の重臣として活躍していたのが、三好元長(みよしもとなが)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟ら三好一族でしたが、そんな晴元が政権樹立が見えたタイミングで、もともと次期将軍候補として擁立していた足利義維(よしつな=義晴の弟)をアッサリ捨てて、上記の義晴に乗り換えた事に不満を持った元長が反発・・・結局、元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げました。(7月17日参照>>)

しかし、そんな元長の後を継いだ息子の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、その身が未だ11歳の若さであった故か?父の仇を討つ事無く従順に晴元に仕え、着々と細川政権内での地位を獲得していき、やがて1-2を争う重臣となっていくのですが、一方で、父の一件のせいか?晴元は何かと政長を優遇し、あのドサクサで政長の物となっていた亡き父の官職も返してはもらえぬまま・・・

政長は阿波時代からの長老とは言え、血筋から見れば、三好の総帥は長慶・・・一族の中で政長だけが突出してしまうと一族間での乱れも生じる事から、長慶はその旨、晴元に様々訴えるのですが、晴元は聞く耳持たず、相変わらず、政長と、その息子=三好政康(まさやす=宗渭・政勝、三好三人衆の一人)にベッタリ。

その間の天文十二年(1543年)には、後継者争いの3人の養子のうちの一人=細川高国(ほそかわたかくに)の後継者(養子)細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて挙兵したりの一件もありながらも、まだ平静を保っていた長慶でしたが、

やがて天文十七年(1548年)、政康のたび重なる不祥事?あるいは、父の死に政長が関与していた事をこの時点で知った?(様々な理由が推理されます)などなど・・・とにもかくにも、ここで「もう我慢できひん!」となった長慶は、晴元に政長父子の討伐を願い出ますが、やはりこれも却下・・・

「そこまで政長の味方しはるんやったら、晴元さんも敵とみなしまっせ!」
とばかりに軍事行動に出る覚悟を決めた長慶は、舅(側室の父)若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)主=遊佐長教(ゆさながのり)に声をかけます。

一方、この長慶の行動を、謀反と判断した晴元の舅でもある近江(おうみ=滋賀県)の雄=六角定頼(ろっかくさだより)は、和泉(いずみ=大阪府南部)細川元常(ほそかわもとつね)紀州(きしゅう=和歌山県)根来衆(ねごろしゅう=根来寺を中心とする僧兵たちの集団)などに出兵を要請します。

Egutinotatakai
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして翌・天文十八年(1549年)2月、尼崎に出陣した長慶は、3月に入って、別働隊を駆使して政長に与する細川晴賢(ほそかわはるかた)中嶋城(なかじまじょう=大阪市淀川区)を攻める一方で、その東に位置する柴島城(くにじまじょう=大阪市東淀川区)も攻め、その南にあたる政康の居る榎並城(えなみじょう=大阪市城東区)を追い込んで包囲・・・政長はなんとか伊丹城へと退却しましたが、長慶勢に包囲された榎並城は、以後、籠城戦となります。

これに対して晴元は近江へと赴いて、六角定頼らの出陣を要請した後、摂津多田の塩川城(しおかわじょ=兵庫県川西市)に入り、4月28日には武庫郡(むこぐん=兵庫県西宮市の大部分と宝塚市&尼崎市の1部)一帯に放火・・・翌日には、晴元に与する伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)伊丹親興(いたみちかおき)尼崎周辺に放火して回りました。

これは、上記の榎並城を包囲する別働隊と、越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)の長慶本隊とを分断する作戦・・・こうやっておいて、晴元&政長で以って政康を援護しようというわけです。

5月2日には、これから来てくれるであろう六角軍に備えて、三宅城(みやけじょう=大阪府茨木市)の城将=香西元成(こうざいもとなり)に、長慶方の芥川孫十郎(あくたがわまごじゅうろう)が守る芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)を攻めさせようとしますが、

それを阻止すべく惣持寺(そうじじ)西川原(大阪府茨木市西川原)で待ち構えていたのが三好長逸(ながやす=三好三人衆の一人で元長の従兄弟とも)でした。

ここで香西隊の行軍が阻止されたため、政長は伊丹城から三宅城へと移動・・・晴元も塩川城から三宅城へと移動しました。

そんなこんなの6月11日、政長は三宅城を出て江口城(えぐちじょう=大阪市東淀川区)に入ります。

この江口は、北中島の東北隅に位置しており、淀川と神崎川によって3方を囲まれた天然の要害・・・ここを拠点にゲリラ戦を試みて三好軍を妨害しつつ、やがて北東方面からやって来るであろう六角氏の援軍を待つ作戦でした。

この動きを見た長慶は、自らの弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った)(5月1日参照>>)別府(べふ=大阪府摂津市)の川畔に派遣・・・三宅城と江口城の連絡を断ち、兵糧の道を断ち、かつ東西から江口を挟み込む作戦です。

かくして天文十八年(1549年)6月12日、世にいう江口の戦い=長慶VS政長&晴元の最終決戦の幕が上がったのです。

開始からまもなく、近江からはせ参じてくれた政長方の新庄直昌(しんじょうなおまさ)が討死にするも、六角氏の援軍を待つつもりの政長軍は、守りを固める姿勢を崩さず、徹底した守勢を貫きます。

そう・・・実は、六角定頼の息子=六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)率いる大軍が、この6月24日には、すでに山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)まて来ていたのです。

そこから江口までは、わずか半日の行程です。

しかし、一方で、この時、政長は、
♪川舟を  留て近江の 勢もこず
 問んともせぬ 人を待
(つ)かな♪
という歌を詠んだとされ、なんだか援軍の到着に一抹の不安を感じている様子がうかがえます『足利季世記』より)

携帯やスマホの無い時代・・・待ち合わせ場所に遅れた友達が、今、どこまで来てのるか?
ひょっとして、その情報が政長まで届いていなかった???

その状況を見透かしていたのか?否か?
長慶は、ここで一気に勝負に出ます。

天文十八年(1549年)6月24日、六角氏の援軍が江口に到着する直前に、長慶は、弟らと江口を東西から挟み込むように連携し、江口城の政長を急襲したのです。

政長が江口に入ってから約2週間・・・
しかも、上記の通り、長慶によって三宅城との連絡も、兵糧の補給路も断たれた状態・・・

さらに、この江口城は、この戦い以前には文献に登場せず、戦いの後に、この城が長慶の物となったものの、そもそもの記録がほとんど無い謎の城なわけで、ひょっとしたら、城と言っても、この時点では、今回の戦いのために構築した急ごしらえの櫓(やぐら)のような物だった可能性も??

だとしたら、そこに仕掛けられた長慶方の総攻撃+挟み撃ちには、もはやひとたまりも無い状態だった事でしょう。

間もなく、政長をはじめとする800名が討死し、江口城は陥落しました。

また、一説に政長は、榎並城へと逃走を図ろうとしたものの、淀川で水死したとも伝わります『応仁以来年代記』による)

この敗戦によって、政長を援護するべく三宅城にいた細川晴元は、戦わずして京へと戻りますが、長慶の追撃を恐れて、将軍=義晴とともに、近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと避難していきました。

また、勝敗が決した事で榎並城の政康も、城を退去して逃亡・・・伊丹城の伊丹親興は和睦を結んで長慶の傘下となりました。

こうして、これまでの細川政権は崩れ、細川氏綱を冠にした三好政権が誕生する事になるのですが・・・

このあとは、坂本へと逃れた将軍=義晴の後を継いだ足利義輝(よしてる)による、アノ手コノ手の京都奪回作戦が繰り広げられる事になるのですが、そのお話は、それぞれの関連ページ「でどうぞm(_ _)m

★関連ページ
【三好VS六角の志賀の戦い】>>
【義輝VS三好長慶~白川口の戦い】>>
【剣豪将軍・義輝~京都奪回作戦の日々】>>
【三好を支えた「鬼十河」~十河一存】>>
【やさし過ぎる天下人…三好長慶】>>
【剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期】>>
【信長の上洛を阻む六角承禎】>>
【信長の登場で崩壊する三好三人衆】>>

これだけの死闘を繰り広げた三好×六角×細川が、この後の織田信長の登場で、三者ともに崩れてしまうのは、何とも・・・

悲しくもあり、盛者必衰のコトハリでもあり(´;ω;`)ウウ・・・それが戦国のならい&時代の流れという物かも知れません。
.

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2017年6月20日 (火)

長尾為景が上杉顕定に勝利~長森原の戦い

永正七年(1510年)6月20日、越後守護代の長尾為景が、関東管領の上杉顕定を死においやった長森原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

永正四年(1507年)、越後(えちご=新潟県)守護(しゅご=現在の県知事みたいな)を務めていた上杉房能(ふさよし)に対し、守護代(守護の補佐役)長尾為景(ながおためかげ=越後長尾家)が、房能の養子の上杉定実(さだざね)を次期守護に掲げて反旗をひるがえし、房能を死に追いやりました。(8月7日参照>>)

まさに下剋上(げこくじょう)ですが、これを捨て置けなかったのが、房能の兄で、現在は関東管領(かんとうかんれい=関東を治める足利公方の補佐役)を務める上杉顕定(あきさだ)でした。

その一件から2年後の永正六年(1509年)7月、顕定は、自ら8千騎の軍勢を従えて越後に乗り込みますが、その時には、すでに先陣として入っていた養子の上杉憲房(のりふさ)の誘い込み作戦によって現地の反為景勢力を結集させており、その代表格でもあった長尾房長(ながおふさなが=上田長尾家・上杉景勝の実祖父)坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)を進駐基地として決戦の準備を整えます。

ちなみに、顕定に味方した者は、他にも、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄房長(ほんじょうふさなが)平林城(ひらばやしじょう=新潟県村上市)色部昌長(いろべまさなが)竹俣城(たけまたじょう=新潟県新発田市)竹俣清綱(たけのまたきよつな)などの揚北衆(あがきたしゅう=越後北部の国人豪族)・・・また、定実&顕定・両者の実家にあたる上条上杉家(じょうじょううえすぎけ)上条定憲(じょうじょうさだのり)も顕定側に・・・

一方の為景側は、山本寺上杉家(さんぼんじうえすぎけ)山本寺左京進(さんぼんじさきょうのしん)をはじめ、中条藤資(なかじょうふじすけ)安田長秀(やすだながひで)などの越後国人衆市川(いちかわ)小笠原(おがさわら)高梨(たかなし)などの信濃衆(しなのしゅう=信濃の国人豪族)・・・など

やがて8月に入って各地で交戦が勃発すると、顕定方は破竹の勢いで為景方を蹴散らして行き、勢いが止められなかった定実&為景は、一旦、越中(えっちゅう=富山県)へと退きます。

為景らが越中に敗走した後も、為景方の武将たちは転戦を続けますが、一方で、越後を抑えた顕定は国政の采配に着手します。

『鎌倉管領九代記』には、この時の顕定は法制を厳しくして、為景に味方した者を殺害したり領地を没収したりなどの暴挙を行ったために、他国への逃亡者が相次ぎ、結局、越後の住人で彼に味方する者がほとんどいない状態になってしまった・・・的な事が書かれていますが、そこンところは、顕定には顕定なりの言い分が・・・

なんせ、数々の戦いで、自分に味方してくれた者たちに恩賞を与えねば、士気も下がるし、ヤル気もなくなるわけですが、顕定は関東管領で、今回も関東から出張して来てるわけですので、現時点で越後の人では無い顕定は、結局は、敵となった誰かの領地を奪って味方に分け与えるしか無いわけですよ。

とは言え、『鎌倉管領九代記』の記述が少しオーバーであったとしても、ムリクリの顕定出張政治は、多かれ少なかれ、そのような恐怖政治的な部分があったようで、結局、これが、この後の為景方巻き返しに影響を与えたように見えます。

Nagamoriharanotatakai
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
(この図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

明けて永正七年(1510年)春・・・4月2日の紙屋庄(かみやのしょう=新潟県長岡市付近)、4月7日の荒浜(あらはま=新潟県刈羽郡から柏崎市付近)などの戦いを経て、5月20日の今井・黒岩(糸魚川市付近)の戦いで為景方の村山直義が顕定方に勝利し、糸魚川付近に布陣して、越後府中(ふちゅう=現在の県庁所在地みたいな?)奪回の機会を狙うまでに態勢を回復させました。

ただし、信濃衆の一人の高梨政盛(たかなしまさもり)も、このタイミングで越後に侵入し、5月28日&29日の両日に渡って顕定軍と交戦しますが、この合戦は顕定軍の勝利・・・さらに6月6日には、顕定方の長尾房長が、為景方の蔵王堂城(ざおうどうじょう=新潟県長岡市)を攻略して数百人を信濃川に追い込んだり、為景方の拠点の一つであった黒滝城(くろたきじょう=新潟県西蒲原郡)を攻略するなど、まだまだ、その強さを見せつけていました。

しかし、やがて、その流れが変わります。

こうして、為景方が再三に渡る越後府中奪回作戦を展開した事で、徐々に、越後の武将たちの寝返りが相次いで来るのです。

その流れを決定的にしたのが、上条上杉家の看板を背負った上条定憲・・・各合戦の展開を読んだ定憲は、ここに来て、いきなり、軍港として重要な役割を果たしていた寺泊(てらどまり=新潟県長岡市)から、顕定軍を追いだしたのです。

おかげで、為景方が寺泊港を占領・・・さらに進撃して6月12日には椎谷(しいや=柏崎市)にて為景軍が勝利し、16日には柏崎(かしわざき)に陣を置いて府中に迫ります。

風向きが変わった事をすばやく察知した顕定は、一旦、兵を関東へ戻した方が良いを考え、すぐに行動に移したのですが、それを阻むかのように、このタイミングで寝返ったのが坂戸城の長尾房長・・・

かくして永正七年(1510年)6月20日、越後の長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)にて、後退する顕定軍が、それを阻止しようとする為景軍に包囲されたのです。

『鎌倉管領九代記』などによれば・・・
顕定軍800余騎に対して、為景軍は500余騎・・・数の差から、合戦開始当初から為景軍は押され気味となり、後退を余儀なくされ、「あわや!」という場面もあったようですが、そんな中で顕定軍が体制を立て直そうとしたその瞬間、横から、高梨政盛の700余騎が現れて突撃を開始したのだとか・・・

新手の大軍への防戦に戸惑っている中、混乱の間を縫うように大将めがけて突進した政盛は、馬上のまま顕定に組みついて、そのまま両者ともに落馬したところを、マウンティング状態で討ち取り、鉾先(ほこさき)にその首を掲げて
「上杉顕定入道、高梨摂津守が討ち取ったり~~!」
と叫びました。

大将を失った顕定軍は総崩れとなり、兵も散り々々になっていったのだとか・・・

ただし、顕定の死には、討死説の他にも、負けが濃くなった時点で自刃した説もあり、上記の記述が、どこまで史実なのか?は微妙なところではありますが、この後の展開を踏まえれば、この戦いで高梨政盛がかなりの活躍を見せた事、為景軍の勝利によって、越後内での合戦が治まったという事は、おそらく間違いのないところでしょう。

なんせ、この越後に荘園の支配権を持っていた公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)も、自身の日記に、
「顕定が死んだ事は残念やけど、越後が平和になってウレシイ」
と、戦乱から解放されて荘園の特権が当てにできる状態になった事を喜んでますから・・・

こうして、しばらくの間、定実を冠に据えた為景政権が越後を牛耳る事になります。

とは言え、この敗戦を受けて、白井城(しろいじょう=群馬県渋川市)へと戻った顕定の養子=憲房は、
「アイツ(為景)は家来のくせして、2人の主君(房能&顕定)を殺害しやがった~こんなん前代未聞やで!」と怒り心頭のご様子。

また、冠に据えられた定実も、やがては為景の操り人形状態に、徐々に不満を持って来る事になるのですが、そのお話は、先日書かせていただいた
【永正の乱~越後守護・上杉定実VS守護代・長尾為景】のページ>>でどうぞm(_ _)m

ちなみに、今回登場した上杉憲房の息子が上杉憲政(うえすぎのりまさ)・・・あの上杉謙信(うえすぎけんしん=為景の息子)関東管領職を譲渡し、その後は越後府中に近い御館(おたて=憲政の屋敷の意味)にて余生を送る事になるアノお方です。(2010年3月17日【景虎VS景勝~御館の乱】参照>>)
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2017年6月 9日 (金)

足利義輝VS三好長慶、和睦のキッカケ~白川口(北白川)の戦い

永禄元年(1558年)6月9日、京都白川口で、将軍=足利義輝細川晴元勢が三好松永勢と交戦した白川口の戦い(北白川の戦い)がありました。

・・・・・・・・・・・

これまでも、何度か書かせていただいている室町幕府管領細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)息子たちによる後継者争い・・・周辺の戦国武将たちをも巻き込んで展開された一連の合戦は、永正十七年(1520年)5月の等持院表の戦い(5月5日参照>>)に勝利した細川高国(たかくに)が第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)擁立して、一旦は政権を握るものの、高国に敗れた細川澄元(すみもと)の遺児=細川晴元(はるもと)が大永七年(1527年)2月の桂川原の戦い(2月13日参照>>)で高国に勝利し、その後の天文法華(てんぶんほっけ)の乱(7月27日参照>>)でも、支援してくれる六角定頼(ろっかくさだより)(4月6日参照>>)とともにウマく立ち回った事、出身地の阿波(あわ=徳島県)からの重臣である三好元長(みよしもとなが)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟らの協力なんかもあり、ほぼ、晴元が政権を握った形となっていました

ところが、政権を握った晴元が、自らが擁立していた足利義維(よしつな=義晴の弟)を捨て、敵の高国が擁立していた将軍=義晴と和睦した事に元長が反発・・・元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げ、義維も阿波へと逃れました。(7月17日参照>>)

しかし、元長の後を継いだ、わずか11歳の息子の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、父の仇のはずである晴元に反発する事なく従い、やがて晴元政権下で1-2を争う重臣となって力をつけていくのですが・・・

ご存じのように、後に「戦国初の天下人」と称される先見の明ある名武将の長慶は・・・ひょっとして、このタイミングを待ってたのか???

天文十二年(1543年)、亡き高国の後継者(養子)細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて、「打倒!晴元」掲げて挙兵すると、長慶は晴元政権から離脱します。

こうして、氏綱と連携して晴元政権と真っ向から対立する中、天文十八年(1549年)6月の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)で長慶が見事勝利し、晴元らが将軍=義晴を伴って近江の坂本へと避難した事から、長慶が事実上京都を掌握しました。

翌天文十九年(1550年)の5月には、将軍=義晴が避難場所の坂本にて病死した事を受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)足利義輝(よしてる)第13代室町幕府将軍に就任・・・当然のごとく、若き新将軍は京都奪回を目標に掲げて、アノ手コノ手で三好政権に対抗するわけですが、そんな中、天文二十年(1551年)には、六角定頼の息子=六角義賢(よしかた=承禎)と長慶の間で志賀の戦い(2月26日参照>>)が展開されたりしました。

その後も一進一退の攻防戦が繰り広げられる中、永禄元年(1558年)5月、義輝は、大規模な京都奪回作戦を画策します。

Sirakawagutinotatakaikankeizu_2
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

警戒する長慶は、5月19日、家臣の松永久秀(まつながひさひで)三好長逸(ながやす=三好三人衆の一人で元長の従兄弟とも)らが、1万5千の兵を率いて、鳥羽(とば)から九条大宮を北上し、御霊神社(ごりょうじんじゃ=京都市上京区)から大原口へ出て、富小路の東を通って鳥羽に戻るというコースをたどって市街を巡回させました。

これには、
「義輝&晴元勢に東山を越えさせない」
「京都市中の守りを強固にする」の2つの意味がありました。

そのうえで、6月2日には長逸が勝軍山(しょうぐんやま=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に布陣して、更なる備えを固めます。

一方、6月4日に六角勢の援軍を得て近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)を出陣した義輝は、6月8日に東山の如意ヶ嶽(にょいがたけ=京都市左京区と滋賀県大津市の境・西側に大文字山がある)を占拠します。

かくして永禄元年(1558年)6月9日、洛中へと乱入して来た義輝勢と三好・松永勢が激突・・・白川口(北白川付近)にて激しい戦いを展開しました。

戦況としては・・・
六角の支援で参戦した甲賀(こうが=滋賀県甲賀)の武士や、義輝の近臣など数十名が討ち取られましたが、一方の三好勢も戦死者が3~400人に上りました。

とは言え、はなから数の多さに違いがあったため、戦況としてはおおむね三好勢が優勢・・・

勝ちに乗じた三好勢が、勝軍山の陣を焼き払って洛中へと戻ると、それを追うかの如く、今度は義輝&晴元勢が如意ヶ嶽から勝軍山へと陣を移動して、態勢を整え直して洛中へと進軍し、三好勢と交戦・・・

このような状況が何日も続きますが、結局、義輝勢は思うような成果が得られず・・・いつまでも続くこう着状態になった事から、11月27日に至って、六角義堅の提案による和睦が成立したのです。

大規模な洛中への侵攻であったにも関わらず、結果的には三好政権をくつがえすどころか、逆に「三好強ぇ~」ってなった感のある一連の戦いではありますが、ここで和睦した事により、将軍=義輝は5年ぶりに京都に戻る事ができて(11月27日参照>>)、めでたしめでたし・・・

しかも、かの長慶が、上下関係を大切にしてくれる体育会系の人だった(5月9日参照>>)おかげで、その後の義輝は将軍としての腕も振るう事ができたわけですが、結果的には、その有能さが、かえって松永久秀&三好三人衆のあの行動を産んでしまう原因となるのは、何とも・・・義輝の最期となるそのお話は【剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期】>>でどうぞ。
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2017年5月26日 (金)

永正の乱~越後守護・上杉定実VS守護代・長尾為景

永正十一年(1514年)5月26日、永正の乱と呼ばれる一連の戦いの中で長尾為景が攻めていた岩手城が落城し、城主の宇佐美房忠が討死にしました。

永正の乱とは、永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱で管領家の内紛や古河公方の内紛なども含みますが、今回は「岩手城落城」の日付に合わせ、越後における永正の乱のお話させていただきます)

・・・・・・・・・・

ご存じ、越後(えちご=新潟県)の王者=上杉謙信(うえすぎけんしん)ですが、彼が登場する前の室町幕府政権下での越後は、鎌倉公方(かまくらくぼう=京都にいる将軍に代わって関東を治める足利尊氏の四男・基氏の家系)執事(しつじ=‘管領)の家柄である山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)につながる越後上杉家が代々守護(しゅご=現在の県知事)を務め、その配下としてサポートする守護代(しゅごだい)長尾家でした。

しかし、明応三年(1494年)に、当時の守護だった上杉房定(うえすぎふささだ)が亡くなり、息子の上杉房能(ふさよし)がその後を継いで方針転換した事から、両者の関係がギクシャクし始め、永正四年(1507年)8月、守護代だった長尾為景(ながおためかげ)が、房能の養子の上杉定実(さだざね)を味方に引き入れ、幕府に働きかけて新守護に定実を擁立し、武力で以って房能を追いだして自刃に追い込みました(8月7日参照>>)

この一件に怒り心頭なのが、房能の兄で当時は関東管領を務めていた上杉顕定(あきさだ)・・・その報復とばかりに、永正六年(1509年)に反為景派の勢力を結集して越後へ攻め入り、定実&為景らを越中(えっちゅう=富山県)へと敗走させて、自ら越後を統治します。

ところが、その翌年、曲がりなりにも幕府から守護として認められている定実の「越後奪回」を旗印に為景らは挙兵・・・味方になってくれた信濃衆(しなのしゅう=信濃の国人豪族)高梨政盛(たかなしまさもり)の活躍で長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市)の戦い(6月20日参照>>)に勝利し、負けた顕定は自刃(討ち取られたとも)に追い込まれました。

こうして、再び越後に戻った定実&為景には、しばらくの間は平穏な日々が続く事になるのですが・・・

お察しの通り・・・
守護の座にありながら、事実上は、国政のほとんどを為景が仕切る事に定実が、徐々に不満を募らせていく・・・当然ですが、越後の中でも皆が皆、為景に好感を持っているワケでは無いですし、守護である以上、その定実を純粋に盛り上げたいと思う者もいるわけで・・・

そんなこんなの永正十年(1513年)、為景は、定実派の宇佐美房忠(うさみふさただ=宇佐美定満の父とされる)らが、先の戦いでの活躍の影響で信濃衆の中で高梨が力を持つ事に懸念を感じていた島津貞忠(しまづさだただ)をはじめとする信濃衆の井上氏(いのうえし)栗田氏(くりたし)海野氏(うんのし)などの仲間を集めて挙兵の準備をしているとの噂を耳にします。

案の定、その年の8月に入ると、彼ら信濃衆は、関川口(せきがわぐち=新潟県妙高市付近)上田口(うえだぐち=新潟県南魚沼s市付近)に集結し、あからさまに侵攻する機会をうかがう様子・・・これを受けた為景は、長尾房長(ながおふさなが=上田長尾家)や、揚北衆(あがきたしゅう=越後北部の国人豪族)中条藤資(なかじょうふじすけ)などに声をかけて出陣を要請しました。

対する宇佐美房忠は、9月29日、揚北衆の一人である安田城(やすだじょう=新潟県阿賀野市)安田長秀(やすだながひで)を攻撃すべく新発田(しばた=新潟県新発田市)を進発します。

これを迎え撃つべく出発した為景方の長尾房景(ながおふさかげ=古志長尾氏)福王寺掃部助(ふくおうじかもんのすけ=友重?)らは、10月21日に沼河(ぬなかわ=新潟県糸魚川市)にて房忠軍と遭遇・・・合戦は房景らの勝利となりました。

一方、それらの遭遇戦と前後して、為景は、自ら兵を率いて房忠の小野城(おのじょう=新潟県上越市柿崎区)を取り囲みます。

しかし、この状況をチャンスと見た上杉定実・・・その為景の小野城攻撃中の留守を狙って、彼の居城である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)奪い取ったのです。

一報を聞いて、慌てて春日山城に戻った為景は、すぐさまを城を取り囲み、アッ言う間に定実を生け捕りにして、自らの館に幽閉・・・10月28日には、再び小野城に出陣して房忠討伐に取りかかりますが、今度は定実派の信濃衆が房忠を援護すべく為景に対抗・・・

しばらくの間、一進一退の小競り合いが続きますが、翌・永正十一年(1514年)1月16日の上田庄(うえだしょう=新潟県南魚沼市)の戦いに、為景方の長尾房長らが勝利した事で、為景方に形勢が傾き、その年の5月からは兵を増強して、集中的に小野城へ攻撃を仕掛けました。

この集中攻撃に、耐え切れないと判断した房忠は小野城を捨て、守り堅い要害である近くの岩手城(いわてじょう=同・柿崎区)に移動しますが、もはや傾き始めた形勢を逆転する事ができず、永正十一年(1514年)5月26日岩手城は落城し、房忠以下、一族はことごとく討死ににして果てたと言います。

この勝利により、長きに渡った守護VS守護代の戦いは終了となり、以降は、守護=定実は存在するものの、完全無視!
為景が越後の国政の実権を握って采配を振る事になります。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
(この図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ただ・・・一説には、
岩手城落城の際に、一族の中で房忠の息子ただ一人だけが、片倉壱岐守(かたくらいきのかみ)なる人物に守られながら、伊達稙宗(だてたねむね=独眼竜政宗の曽祖父)を頼って羽前(うぜん=山形県)へ逃れたとの情報も・・・

ご存じの方も多かろうと思いますが、この稙宗さん・・・伊達家を奥州随一に引き上げる名将でありますが、一方で、息子=晴宗(はるむね)との壮大な父子ゲンカ=天文の乱(洞の乱)をやった人でもあります(4月14日参照>>)

実は、そのケンカの原因の一つには、後継ぎ息子のいなかった上杉定実のもとに、自らの三男=伊達実元(さねもと=つまりは晴宗の弟)を養子に出そうとしていた稙宗の計画を、息子の晴宗が猛反対したという事もあったようで・・・

なんか、
   定実
房忠 △ 稙宗

みたいな三者関係が見えて来るような来ないような・・・

結局、この養子縁組は実現せず、定実は後継ぎがいないまま天文十九年(1550年)に病死・・・越後守護家が断絶した事を受けて、時の将軍=足利義輝(あしかがよしてる)の命によって、ここで正式に越後守護職を代行する事になったのが、為景の息子=長尾景虎(ながおかげとら)・・・後の上杉謙信なのですよ。

やはり、コチラも・・・
今後の上杉と伊達の関係が見えて来るような、来ないような・・歴史っていろんな所でつながってるんですね~
と、しみじみo(*^▽^*)o
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2017年5月 5日 (金)

室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い

永正十七年(1520年)5月5日、細川高国三好之長を破った等持院表(とうじいんおもて)の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

室町幕府将軍を補佐する立場にある管領(かんれい)が、現将軍=第10代足利義稙(あしかがよしたね:義材・義尹)を廃して、自らの意のままになる将軍=第11代足利義澄(よしずみ)を擁立するというクーデター=明応の政変(めいおうのせいへん)をやってのけた細川政元(ほそかわまさもと)が永正四年(1507年)6月に暗殺され(6月23日参照>>)、その3人の息子=全員養子の間で勃発した後継者争い・・・

関白・九条政基(まさもと)の子=澄之(すみゆき)
阿波(あわ=徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の高国(たかくに)

Hosokawasumimoto400a はじめは、お互いに協力して、澄之の追い落としを謀った澄元と高国でしたが、予想通り、澄之亡き後に対立・・・

やがて周防(山口県)の大物=大内義興(よしおき)を味方につけた高国は、亡き政元に追放されていた前将軍の義稙を奉じて京へと上り、永正八年(1511年)8月の船岡山の戦いで勝利・・・一方の澄元は摂津(せっつ=大阪府)へ敗走後、地元の阿波へと逃亡しました(8月24日参照>>)

Hosokawatakakuni600a 勝利した高国と義興は、義稙を将軍職に復帰させて政権を掌握・・・こうして、しばらくの間は、この高国政権下で平穏な日々が続きます。

・・・が、
そう、実は、このしばしの平穏は、高国政権確立のために、しばらくの間京都に滞在していた大内義興のおかげだったようで・・・

案の定、義興が領国の周防に戻った永世十五年(1518年)頃から、澄元の動きが活発になって来ます。

翌・永世十六年(1519年)11月、それまで阿波に引っこんでいた澄元は、阿波細川家に仕える家臣=三好之長(みよしゆきなが)とともに兵を挙げ、海を渡って兵庫へ上陸し、高国配下であった越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)瓦林政頼(かわらばやしまさより=正頼)を攻めたてます。

これを受けた高国は、その救援のために約5000の兵を従えて向かいますが、その力足りず・・・翌・永正十七年(1520年)の2月3日に越水城が落城してしまったため、やむなく京都へと退こうとします。

が、夜陰に紛れて後退する高国軍を、澄元に同調する国衆=西岡衆(にしのおかしゅう=京都・乙訓地域の自治を担った武士集団)が襲撃・・・動揺した高国は、さらなる襲撃を恐れて近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=大津市)へと逃れます。

この時、将軍=義稙にも、「ともに近江へ…」と声をかけたものの、義稙は、それを拒否・・・残念ながら、義稙の心は、すでに高国から離れ、澄元へと移りつつあったのです。

やむなく、将軍を奉じる事なく近江に向かった高国は、近江守護六角定頼(ろっかくさだより)を頼ります(この時の六角氏は定頼の父=六角高頼が主導の説もあり)

一方、勝利した澄元・・・自身は、その本拠を伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)に置き、3月には、之長率いる三好勢が京都へと入りました。

ここで、一時的に政権を握った形になった澄元側・・・しかし、さすが、近江に逃れたと言えど政権保持者の高国は、この間に、頼った六角氏だけではなく、越前(えちぜん=福井県)美濃(みの=岐阜県)丹波(たんば=兵庫県北東部・京都府中央部)などの有力武将に声をかけ、彼らの援軍を得ていたのです。

こうして、合計=4万とも5万とも言われる大軍となった高国軍・・・5月3日、まずは定頼が、弟の大原高保(おおはらたかやす)を陣代に据えた一軍を、琵琶湖西岸の山越えで京都に入らせ、鴨川東岸の吉田河原(よしだかわら)に布陣させます。

続いて約7000の丹波の援軍が船岡山(ふなおかやま=京都市北区)に到着・・・2日後の5日には、高国自ら率いる本隊が鴨川を渡って上京へと入り相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)付近に到着しました。

こうして、等持院(とうじいん=京都市北区)に待機していた三好軍を北と東から挟む形に・・・

Touziinomotekankeizu
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永正十七年(1520年)5月5日正午頃、政権争奪を賭けた市街戦が等持院の東南で展開される事と相成ります。

士気衰える事無くヤル気満々で決戦に挑んだ三好軍ではありましたが、伝えられるその数は、わずかに4~5000であったと言われ、さすがに4~5万の軍勢に囲まれては太刀打ちできず・・・奮戦も空しく、夕刻には勝敗が決しました。

この敗戦を受けて、之長は逃亡を図りますが、逃げきれずに捕縛され、6日後の5月11日に百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ=京都市左京区)にて切腹・・・同じく捕縛された之長の息子=芥川長光(あくたがわながみつ)三好長則(みよしながのり)兄弟も、父の後を追うようにして切腹して果てました。

知らせを聞いた澄元は、伊丹城を出て播磨(はりま=兵庫県南西部)に向かい、赤松氏の支援を受けて阿波へと逃亡しますが、約1ヶ月後の6月10日、その阿波にて志半ばのまま、32歳の若さで病死してしまいました。

一方、あの時、高国が「ともに近江へ…」と誘ったにも関わらず、行動をともにしなかった将軍=義稙・・・当然ですが、この時に険悪なムードになった二人の関係も修復される事はありませんでした。

その後も、京都を離れて、高国の討伐を画策する義稙ですが、もはや従う家臣もほとんどおらず、淡路島に滞在した後、讃岐(さぬき=香川県)細川家を頼って四国へやって来ますが、わずか3年後の大永三年(1523年)4月、彼もまた阿波国の撫養(むや=徳島鳴門市)にて病死するのです。

この間に高国は、先の第11代将軍=足利義澄の息子である足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立し、あの西岡衆をも攻撃し、確固たる高国政権を樹立するわけですが・・・

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等持院…くわしい場所は、本家HP=京都ぶらり歴史散歩「きぬかけの道」のページでどうぞ>>

細川澄元に三好之長・・・さらに、対立した将軍まで亡くなって、まさにわが世の春となった高国ですが、そんな彼の前に登場するのは、無念の死を遂げた澄元の息子=細川晴元(はるもと)と、之長の孫(息子説もあり)=三好元長(みよしもとなが=長慶の父)・・・

この後、世代交代した澄元勢が、高国打倒に向けて動き始めるのは、今回の等持院表から6年後の大永六年(1526年)10月・・・

そのお話は、
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>で、ご覧あれ!

とにもかくにも、彼らの京都争奪戦が、後の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)からの織田信長(おだのぶなが)の畿内掌握(9月29日参照>>)・・・と、皆さまご存じの戦国絵図へとつながっていくわけです。
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2017年4月20日 (木)

織田信長、清州城を乗っ取る!

弘治元年(1555年)4月20日、叔父=信光の協力を得た織田信長が清州城を乗っ取りました。

・・・・・・・・・

これまでも何度が書かせていただおておりますが、この尾張(おわり=愛知県西部)という地は、室町幕府の管領家である斯波(しば)が代々守護(知事)を務めていました。

とは言え、その役職の性質上、京都に滞在する事が多い守護・・・なので、その守護に代わって、居城の清州城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)にて普段の政務をこなしていたのが配下の守護代で、織田守護代家=清州織田家の当主が、代々その職務についていたわけですが、

そんな中、織田達勝(たつかつ)が守護代を務めていた時代に力をつけて来たのが、さらにその配下で清州三奉行と呼ばれていた人たち(1月17日前半部分参照>>)・・・その三奉行の中の織田弾正忠家(だんじょうのじょうけ)の当主が織田信定(おだのぶさだ=信長の祖父)で、
その息子が信秀(のぶひで)織田信長(おだのぶなが)のお父ちゃんです。

Odanobunaga400a で、その後、天文二十年(1551年)の父=信秀の死(3月3日参照>>)を受けて織田弾正忠家の家督を継いだのが信長というワケですが、

そんな中で、戦国も半ばになると、守護の斯波氏もすでに名ばかりの状態となっていて、当時守護職についていた斯波義統(しばよしむね)も、もはや傀儡(かいらい=あやつり人形)・・・逆に、守護代家をはじめとする配下の者が台頭しはじめ、結局は尾張一国も統一すらされていない群雄割拠の状態になっていたわけで、

もちろん、信長の織田家も、その祖父の代から流通の要衝を複数牛耳っていた事もあって、経済的には豊かで、徐々に力をつけて来ていたうちの一つでした。

てな事で、そうなると誰かが、「斯波氏に取って代わる下剋上をやってのけよう」と考えてしまうのも時間の問題・・・

そんな中、かつてはモメにモメていた隣国=美濃(みの=岐阜県)斎藤道三(さいとうどうさん)の娘を娶って(4月20日参照>>)北側の国境線の問題を治めた信長は、今度は東の三河(みかわ=愛知県東部)との国境線維持に奔走(1月24日参照>>)していましたが、

そんなこんなの天文二十三年(1554年)、清州城にて、かろうじて守護のイスにまだ座っていた義統の息子の斯波義銀(よしかね)が、多くの家臣団を引き連れて川狩りに出かけた7月12日、当時の守護代であった織田信友(のぶとも)は、「絶好のチャンスを逃すまい」とばかりに、老人や女子供ばかりになった清州城内の守護館を包囲し、一斉に攻撃を仕掛けたのです。

残った者だけで何とか抵抗をしてみるものの、もはや多勢に無勢でいかんともし難く完敗・・・結局、義統は一族30名余りとともに自害しました(清州の変)

もちろん、狩り姿で出かけたままの義銀も、そのまま清州城に戻る事が出来ない・・・で、彼が頼ったのが、当時は那古屋(なごやじょう・愛知県名古屋市中区)にいた信長だったのです。

実は、亡き父=信秀の後継者を巡っての時、信友は、信長の弟である信行(のぶゆき)を推しており、以後、信長とはシックリ行ってはいなかったワケで・・・そもそもは、ここ最近、そんな信長に義統が、何かと近づいていた事も、信友謀反の一つの原因だった事もあり、そりゃ、義銀は信長を頼りますわな。

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清州村古城絵図(蓬左文庫蔵)部分

これを受けた信長は、事件の5日後には配下の柴田勝家(しばたかついえ)に足軽衆をつけて派遣・・・清州側が防戦する山王口(さんのうぐち=三王口)を破り、安食村(あじきむら=愛知県名古屋市北区)を突破します。

防戦の清州勢は、誓願寺(じょうがんじ=同北区:成願寺)前で何とか踏みとどまるものの、多くの関係者が討ち取られてしまいました。(安食の戦い・中市場合戦)

この戦いで織田三位(おださんみ)河尻与一(かわじりよいち=左馬丞)などの有力者を失った清州側・・・当時、信友の家老で、小守護代(代官)と称されていた坂井大膳(だいぜん)は、重臣として清州を守る者が少ない事を懸念して守山城(もりやまじょう=名古屋市守山区)織田信光(のぶみつ)に声をかけます。

この信光という人は、信秀の弟=つまり信長の叔父さんなので、信長とも親しい関係にあり、何度が、ともに出陣した事もありましたが、それこそ生き馬の目を抜く戦国・・・敵側から重要人物をヘッドハンティングする事も日常茶飯事なわけで・・・

大膳が
「お力添えをいただいたあかつきには、信友殿とお二人で守護代を務めていただきたく…」
と、大きなエサをぶら下げての懐柔工作を図れば、
「お望み通りに…」
と、信光も快諾・・・

二心無い証として起請文(きしょうもん=神に誓う誓約書)をしたためて、信友側からその守りを任された清州城の南櫓(みなみやぐら=南矢倉)に入りました。

一方の信長・・・この先の勢力拡大、果ては、尾張統一をするためには、何としてでも信友を倒しておきたいところですが、この清州城がなかなかの堅城で、今のところは手も足も出無い状況・・・

と、そこへ、かの信光からのお誘いが・・・

そう、この信光さん、実は、清州からの誘いを受けたフリをして、実際には信長に協力しようと考えていたのです。

「俺が清州城をだまし取ったるよって、その代わり尾張の下の四郡のうちの東半分をくれるかな?」
「いいとも~ヽ(´▽`)/」
約束が即決するやいなや、

弘治元年(1555年)4月20日清州城内の信光が手勢を率いて謀反を起こすと同時に、信長が城外から攻撃・・・

南櫓のただならぬ雰囲気に気づいた大膳は、ギリギリのところで危険を察知し、今川義元(いまがわよしもと)を頼って駿河(するが=静岡県西部)へと逃亡しますが、逃げる事ができなかった信友は、あえなく討ち取られ、ここに清州織田家は断絶します。

勝利した信長は、那古屋城を信光に渡し、自らは乗っ取ったばかりの清州城へと入りました。

それは・・・そう、
ここに守護の斯波氏がいた事でもお察しの通り、この清州が尾張の覇府(はふ)=今で言うところの尾張国の首都だったからで、まさに、この先の尾張統一(11月1日参照>>)を見据えての行動。

ご存じの通り、清州城はこの後、
信長が桶狭間に出陣する時(5月19日参照>>)
徳川家康(とくがわいえやす)同盟を組む時、
そして、悲しいかな、
その死後に後継者を決める会議(6月27日参照>>)
・・・と、様々な歴史の舞台となる場所です。

ところで、今回、大きく貢献してくれた叔父=信光さん・・・この日から、わずか7ヶ月後の11月にお亡くなりになります。

『信長公記』では、
「11月26日、不慮の事件が起きて死亡、起請文に背いたので天罰が下ったのかも…恐ろしきかな」
と、いたくアッサリと書かれてしまってますが、現段階で信長に最も近い協力者が、こうも短期間に亡くなってしまうのは、やはり不可解・・・

謎が謎呼ぶ信光さんの死・・・って事になるのですが、そのお話は、そのご命日である11月26日に書かせていただいた【信長が指示?謎が謎呼ぶ織田信光・殺害】>>のページでどうぞm(_ _)m
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