2018年6月21日 (木)

遠江の支配を巡って今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

永正十四年(1517年)6月21日、遠江を巡る争いで引馬城に籠った大河内貞綱斯波義達に対し、今川氏親が攻撃を仕掛けました・・・第3次・引馬城の戦いです。

・・・・・・・・・

引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区)は、引間城とも曳馬城とも表記され、住所をご覧になってお察しの通り、現在の浜松城(はままつじょう)の場所に、かつてあったお城です。

かの武田信玄(たけだしんげん)と協力して今川氏真(いまがわうじざね)を倒した(12月27日参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)が、遠江(とおとうみ=静岡県西部)に乗り込んだ(3月27日参照>>)元亀元年(1570年)に、この引馬城に入城して、その名を浜松城に改称したわけですが、その浜松城内の北東部分が、かつての引馬城の中心部分で、あの元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)時にも、浜松城の本丸を捨てて、コチラ=北東部分の防備を固めたとされるくらい、この引馬城の建ってた場所は重要拠点だったようです。

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安政元年に描かれた浜松城絵図…二の丸右上の出っ張り部分が引馬城の痕跡

そんな引馬城のあった遠江・・・そもそも、室町幕府政権下で、この遠江の守護(しゅご=県知事みたいな)を任されていたのは今川(いまがわ)でした。

ご存じのように、この今川は、足利(あしかが)一門の吉良(きら)の分家にあたる名門で代々駿河(するが=静岡県東部)の守護を世襲するとともに、この遠江も支配していたわけですが、応永年間(1394年~1427年)の終わり頃から、遠江今川家5代の今川範将(のりまさ)が一揆に関わった事や、守護代の狩野(かのう)が力をつけて来た事などから、息子で6代目の今川貞延(さだのぶ)遠江を追い出されて駿河の今川義忠(よしただ=義元の祖父)を頼り、以後、この遠江は斯波(しば)が守護となったという経緯がありました。

このため、今川と斯波の間には大きな亀裂が・・・

とは言うものの、一方の斯波氏も、室町幕府将軍家の足利一門であり、なんなら細川(ほそかわ)畠山(はたけやま)とともに、三管領(さんかんれい=将軍を補佐する執事を輩出する3つの家柄)の一つ=つまり、室町幕府政権下ではメッチャ中心部の力のある家柄だったわけで、代々守護を任されていた領国も、越前(えちぜん=福井県東部)尾張(おわり=愛知県西部)と広大でしたし、義忠の時代には、あの応仁の乱(5月28日参照>>)も絡んで敵味方の入り乱れ状態となっていましたから、何度か刀を合わせつつも、遠江の情勢は混沌としたまま、結局、文明八年(1476年)の2月、不意を突いた一揆勢に襲われて、義忠は命を落とします。

当主の急死に、後継者を巡る家督争いが勃発した今川家でしたが、そこに仲裁に入ってくれた叔父=北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:氏親の母は早雲の姉もしくは妹のおかげで、無事、義忠の長男の今川氏親(うじちか)が家督を継ぐ事で落ち着きました。

こうして、今川の当主となった氏親は、父の時代にウヤムヤになっていた遠江を奪回すべく侵攻を試みるのです。

永正十年(1513年)、この氏親の動きを受けて、遠江引馬荘の代官で引馬城主の大河内貞綱(おおこうちさだつな)反今川の狼煙を挙げ、そこに見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・見付端城とも)堀越貞基(ほりこしさだもと=用山・今川貞延の息子)も加わったため、氏親は即座に討伐隊を構成し、引馬城へ攻撃を仕掛けました。

これを見込んで、すでに斯波義達(しばよしたつ)に援軍を要請していた大河内貞綱でしたが、氏親軍の動きが予想以上に早く、援軍が未だ来ない永正十年(1513年)3月7日引馬城は陥落し、第1次・引馬城の戦いは終結しました。

この時、敗軍の将となった大河内貞綱は、当然、その命奪われるはずでしたが、貞綱の主家である吉良家が仲裁に入って謝罪したため・・・と、先に書かせていただいた通り、今川家と吉良家は同族なので、その好で氏親は城を奪っただけで、貞綱の命を取る事はしなかったのです。

こうして、貞綱に代わって城には、同じく吉良を主家に持つ、親今川派の飯尾賢連(いのおかたつら)が入ったのですが・・・

ところが、その翌年・・・貞綱は、氏親が軍勢とともに領国へ戻ったのを見計らって、弟の巨海道綱(こみみちつな・おおみみちつな)と組んで飯尾賢連を追い落とし、引馬城に立て籠もってしまったのです。

永正十一年(1514年)8月18日、再び戻って来た氏親軍は、引馬城へと総攻撃を仕掛けるのですが、これがなかなか手ごわい・・・

しかし、やがて一人の武将が、うまく塀を乗り越えて城内へと侵入し、城門を開ける事に成功・・・怒涛の如く流入する兵士を抑えきれず引馬城は陥落し、大河内貞綱らは、裏門から逃走して行ったのです。

これが第2次・引馬城の戦い・・・またしても引馬城を追われた大河内貞綱でしたが、まだ諦めません。

やがてチャンスがやって来ます。

永正十年(1513年)頃から始まった甲斐(かい=山梨県)河内領(かわちりょう=山梨県の西八代郡と南巨摩郡)を領していた穴山(あなやま)(甲斐武田氏の一族)の内紛の末、当主の座を得た穴山信風(あなやまのぶかぜ)が今川派となった事、また、周辺の国衆もが乗っかって今川指示の姿勢を見せた事で、「これはイケる!」とばかりに、氏親が永正十二年(1515年)10月、大軍を率いて甲斐に出陣したのです。

当然、駿河や遠江は手薄になるわけで・・・

こうして、翌・永正十三年(1516年)3月、大河内貞綱が氏親に対する反乱を起こした事で、第3次・引馬城の戦いが始まったのです。

その3ヶ月後の6月には斯波義達も引馬城へと入り、反今川派によって城は占拠されてしまいます。

この状況に、一刻も早く甲斐を出て遠江に向かいたい氏親は、配下の宗長(そうちょう)を使者として、交戦中だった武田信虎(たけだのぶとら=信玄の父)のもとに送ります。

この宗長という人は、島田(しまだ=静岡県島田市)出身の僧で、京都の大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)にて一休宗純(いっきゅうそうじゅん)から禅を学び、宗祇(そうぎ)から連歌を教わった連歌師・・・当時は、氏親に仕えていた今川お抱え連歌師でしたが、ご存じのように、僧という立場は現世とは無縁ですし、連歌師もまた合戦とは無縁の者・・・

宗長の尽力により、何とか、武田との戦いを講和に持ちこんだ氏親は永正十四年(1517年)6月、連日の雨により、川幅が大幅アップし、海のようになっている天竜川に船橋を架けて渡り、永正十四年(1517年)6月21日引馬城に到着後、早速、城への攻撃を開始します。

しかし、正面から力づくでぶつかっても、なかなか落とせない堅固な守りに苦戦した氏親は、長期戦へと方向転換・・・梅ヶ島金山(うめがしまきんざん=静岡県静岡市葵区・安倍金山とも)の金堀り職人を召集し、穴を掘らせて井戸の水を抜き、引馬城の水の手を断ちます。

籠城戦において、最も重要な水・・・これを断たれては、もはや時間の問題です。

案の定、合戦開始から約3ヶ月後の8月19日・・・枯渇による飢餓状態に陥った城兵が、作戦も何もなく、無我夢中で撃って出て来たところを迎え撃って一網打尽にしたのです。

この戦いで大河内貞綱&巨海道綱兄弟は覚悟の自殺を図りますが、斯波義達は普済寺(ふさいじ=静岡県浜松市中区)に入って頭を丸めて、家督を息子の斯波義統(よしむね)に譲って降伏の意を表明した事で、その命は守られ、尾張へと送られました。

ただし、引退して後継に命つないだとは言え、その失脚感はハンパなく・・・しかも、この一連の対今川の戦いに反対して参戦していなかった斯波配下の尾張守護代=織田(おだ)が、義達の失脚によって盛り返して来て、やがて、頭角を現してくる織田信秀(おだのぶひで)(3月3日参照>>)からの織田信長(おだのぶなが)・・・と、最終的に尾張は織田の物になってしまうわけで・・・

一方、完全勝利となった氏親は、これによって、この先、浜名湖周辺を抑える事ができ、その支配は、息子の今川氏輝(うじてる)からの弟=今川義元(いまがわよしもと)海道一の弓取りへと引き継がれる事になります。

に、しても・・・ドラマで戦国、と言えば、この後の時代から~てのばかりですが、なんで?このあたりのドラマをやらないのだろう???

やっぱ有名どころが出ないと視聴率が取れないのでしょうか?
いつか、信長や義元の父ちゃんたちの時代劇も見てみたい物ですね~
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2018年5月29日 (火)

『馬乗り袴』をリメイクして『たっつけ袴』を作ってみました!

 

戦う戦国女子の必須アイテム『たっつけ袴(もどき)を作ってみました~
(注:あくまで「もどき」&「なんちゃって」です)

・‥…━━━☆

5月29日は、ご)(ふ)(く)の語呂合わせで、「呉服の日」って事で、以前は『江戸時代の帯結び』の話(2012年5月29日参照>>)なんかもさせていただきましたが、本日は、自分で作っちゃった話です(*´v゚*)ゞ

Tattuke900mk

『たっつけ袴』とは、大河ドラマ等の戦国時代劇で、奥方や姫が、馬に乗る時、あるいは、自身の城が城攻めに遭った時などに、小袖の下にはくアレ・・・

ドラマ出演中の女優さんの写真を勝手にブログに貼るわけにはいかないので、どんな物かを確認されたい方は「大河ドラマ 姫 乗馬」で画像検索してみてください。

『江』の時の上野樹里さんや『直虎』芝咲コウさんなどのたっつけ袴姿のお写真が出て来ると思います。
●追記:大河ドラマ「江」のクランアップの時のニュース記事がありました(コチラ>>別窓で開きます) ・・・コレコレ(o^-^o)コレです!

「ええなぁ」「戦国好きとしては着てみたいな~」と思いながらも、巷の呉服屋さんには売ってるの見た事無いし、何でも揃うさすがの「A→Z」さんでも、たっつけ袴は、忍者装束か祭りイベント用か南京玉すだれ装束か・・・しかも、けっこうイイ値段がする(;ω;)

「なら、作るしかないか~」とは思うものの、和裁どころか洋裁の知識も学校の家庭科で止まっている茶々といたしましては、イチから作るのは至難のワザ・・・つくづく、こういうのを見た目だけでイチから作っちゃう巷のコスプレイヤーさんは、エライ!

Umanoribakama って、思ってたところに、某ネット通販サイト(結局A→Zですが…)で、コスプレ用の安価な『馬乗り袴(←)を発見!
2807円でした…これは反物を買うより安いかも?です)

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これをアレンジするだけならいけるかも!!
とばかりにチャレンジしてみました~

ちなみに『馬乗り袴』とは、ズボンのように右足&左足に分かれてる袴の事で、一つの筒状になっているスカートのような袴は『行燈(あんどん)袴』と言います。

コスプレ用ではなく、普通の着物通販のサイトでも、男性用の安い物なら7~8000円くらいからありますし(もちろん高い物はキリがないです)、リサイクル着物のお店なら3~4000円くらいの掘り出し物もありますヨ(残念ながら、着物通販や呉服屋さんで女性用の馬乗り袴を売ってるのを、私は見た事ありません…女性用は行燈袴ばかりです)

そして、さらに・・・
Datezimem いつも見に行く着物通販サイトで、すでに白の伊達締め(だてじめ=着付けの際に帯の下に締めるヤツ)は見つけていたので、早速、その伊達締めを2本購入・・・

Daezime 上の伊達締めは夏物の伸縮性のあるメッシュでマジックテープで止めるタイプ(大特価の250円でした)

下の伊達締めはお腹部分に芯が入ってる一般的な伊達締めです(これも大特価500円

上記の通り、材料費は合計=3557円!
白の伊達締めは必須ではありませんが、大河ドラマの戦国の姫様は、ほとんどが、袴の紐の部分は白ですし、何たって、コレを付けておくと着やすいですから・・・

で・・・作り方は↓です。
Tattukebakamatukurikata

1、まずは、ウエスト部分の紐と、両足の裾から30cmほどの部分をハサミでカット。
(ご自分に合うサイズを確認してカットして下さいね)

2、カットした筒状の裾部分の片方の端っこを斜めに縫います。
(これも、ご自身のサイズで…これで良いと思ったら、いらない端っこはカット)

3、袴の上部分と切って縫った裾部分を縫い合わせ。
(袴は前部分にヒダがあるので、ヒダの折り目部分はそのままに、残った部分は裾部分と合うように等間隔でヒダを作って)

4、袴のウエスト部分の前後外側に伊達締めを縫いつけます。
(私の場合、後ろ側(背中)にメッシュのを、前側(お腹)に普通の伊達締めを縫いつけました…メッシュのは伸縮性があるので、背中の中心部分に楯に1本線を書くように、前部分の伊達締めは、芯が入ってるので、芯を避けるように伊達締めの下側を袴の紐の下側ピッタシに合わせて横に縫いつけました)

5、最後に、1で切った袴の紐を、切った部分をキレイに整えておいて、膝から下の部分に結ぶ用に使います。
(必要なら固定する意味で、袴のふくらはぎ部分に縫いつけるとイイです)

以上、最初の切るところから、わずか20分で完成しました~
Dscf3811tf3c600 完成品がコレ←です。
(あくまでそれっぽく見えるナンチャッテたっつけ袴ですが)

袴をはく時は、本来は、前からはく(前の袴をお腹に宛て紐を結ぶ)のですが、この『たっつけ袴もどき』は、先に背中側のメッシュの伊達締めを締めてから、前の伊達締めの芯の部分をシッカリお腹=メッシュの伊達締めの上に宛てて、1回まわして前で結ぶと、はきやすいし、楽です。

いかがでしょう?

ついでに、もともと、少し(ゆき=背中から手首までの長さ)が狭い、母からのお下がり着物の袖を、さらに小袖風にアレンジして合わせてみました~

これで、いつ戦国時代にタイムスリップしても、即座に戦えます!
わくわくp(^-^q=p^-^)qウキウキ

で、着てみて思った事は・・・
これ、メッチャ楽で動きやすいです。

これなら、乗馬はもちろん、山登りだってできるし、忍者のように素早く行動できるのも納得です。

実は、不肖私・・・
「ちゃんと正統な物を知っていなければ、崩す事もできないし、知らないで崩すのは邪道だ」
という観点から、一通り着付けを習い、一応、着付け講師の免許も持っているのですが、その知識を得て、歴史も好きな者からすれば、現在の「着付け」による着物の着かたは、戦後の高度成長期くらいから始まった着かたで、いわゆる、普通に日本人が毎日着物で暮らしていた時代の着かたとは違うのでは?と感じてます(←あくまで個人の感想です)

現に「着付け教室」のような物ができたのもその頃からのはずですよね?
だって、それまでのオバサマ方は教えてもらわなくても着れるはずですから・・・

ちなみに、着物=伝統的と思いがちですが、現在主流の六通柄の袋帯や名古屋帯が登場して来るのも、実は戦中戦後くらいからなんですよ。

現在の着かただと、まず腰巻巻いてから肌着に1本、長襦袢に1本、着物に2本・・・ここまでで、最低でも5本の紐的な物を結び、その上に帯をして、さらに帯枕と帯締めと帯揚げと、体に巻く紐状の物は、合計で8本という事になります。

「なんで?こんな苦しいくてしんどい着物の着かたをするんだろう?」

だって昔は・・・
あの十二単でさえ、体に巻く紐は1本なんですよ!
江戸時代には、帯揚げも帯締めも帯枕も無かったんですよ!

おそらく、大昔の人は、もっと気軽に、もっとサラッと着物を着ていたはず・・・(なんせ常に着てますから…)

もちろん、セレモニー的な正式な場所に行くのであれば、それなりのTPOをわきまえてキッチリしなければなりませんが、普段着なら、もっと気軽に、もっと自由に、そしてもっと楽に着物を着て良いんじゃないかな?って、個人的には思ってます。

どうか、着物に携わる方々・・・安価で気軽に着れる着物や帯を、もっとプッシュしてくださいませ。
(今でも、半幅帯だけで着るとメッチャ楽ですから)

だって、ゴルフしかり、釣り道具しかり、ギター等の楽器もしかり、
上手になってくれば、自然と高い物が欲しくなって来るのが人の常・・・

最初は、安いのを何度も着て、やがて慣れて、着るのが楽しくなってくれば、どのみち高級な物が欲しくなりますって。
伝統に培われたホンモノを身につけるのは、それからでも遅くはないのでは?と・・・

関係者様、是非とも御一考くださいませ~

てな事で、今回は「呉服の日」にちなんで・・・歴史の話ではなくてゴメンナサイです。
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2018年3月 5日 (月)

久米田の戦い~三好実休が討死す

永禄五年(1562年)3月5日、久米田の戦いで三好実休が討死しました。

・・・・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後の主導権争いに打ち勝って政権を握った細川晴元(はるもと)に対し、天文十八年(1549年)に江口の戦い(6月4日参照>>)にて勝利して彼を近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、自らは芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)を拠点として畿内を掌握し、京都には重臣の松永久秀(まつながひさひで)を所司代として置き、晴元に代わる政権を樹立したのです。

さらに、近江守護の六角義賢(よしかた=承禎)を味方につけて敵対していた第12代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる=義晴の息子)とも、永禄元年(1558年)の白川口の戦い(北白川の戦い)(6月9日参照>>)をキッカケに和睦し、事実上の天下人となった長慶・・・

しかし、そんな全盛期真っただ中の永禄四年(1561年)5月、これまで長慶の右腕として活躍してくれていた弟で岸和田城(きしわだじょう=言大阪府岸和田市)十河一存(そごうかずまさ・かずなが=長慶の3番目の弟)を亡くします(5月1日参照>>)

これまでに畿内を追われた敵方の面々が、この有能な弟の死を挽回のチャンスと見るは必至・・・

案の定、かの六角義賢は、晴元に代わる息子の細川晴之(ほそかわはるゆき=晴元の次男)を看板に掲げて、三好家に対抗するのですが、これが永禄四年(1561年)11月の将軍地蔵山の戦い(11月24日参照>>)です。

そのページで書かせていただいたように、近江(おうみ=滋賀県)に拠点を持つ義賢は、滋賀と京都の間にある将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に籠って・・・つまり、北東から京都を攻めるスタイルに・・・

一方、この時、その義賢と連携して、南から同時攻撃しようと動いたのが、紀伊(きい=和歌山県)河内(かわち=大阪府東部)の守護でありながら、事実上、河内を三好家に掌握されていた畠山高政(はたけやまたかまさ=畠山政長>>の曾孫)でした。

この時、飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市)にて指揮を取る長慶は、息子の三好義興(よしおき=長慶の嫡男で嗣子)とともに松永久秀らを地蔵山城の備えとして北へ向かわせ、すぐ下の弟=三好実休(じっきゅう=義賢・之康)らを、岸和田城の備えとして南へ向かわせました。

一存亡き後、この岸和田城を治めているのは、長慶2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=長慶の2番目の弟)・・・

Miyosizikkyuu500a 弟のピンチに駆けつける実休は、三好長逸(ながやす=三好三人衆)三好政康(まさやす=同三人衆・政勝・政生・宗渭)らなどの三好一族とともに、阿波(あわ=徳島県)淡路(あわじ=兵庫県淡路島)の軍勢を加えた7000余を岸和田に集結させますが、すでに、岸和田城が畠山勢に包囲されていたため、少し離れた久米田寺(くめだでら=大阪府岸和田市)周辺に布陣し、貝吹山城(かいぶきやまじょう=同岸和田市)に本陣を置いたのです。

京都側の地蔵山の戦いと同じ=まさに永禄四年(1561年)11月24日のその日、コチラ和泉(いずみ=大阪府南西部)側でも戦闘が開始されますが、コチラは三好勢がやや劣勢・・・

対峙と小競り合いを繰り返しつつ、12月25日には、飯盛山城の支城であった三箇城(さんがじょう=大阪府大東市)が畠山勢と、それに加勢する根来衆(ねごろしゅう=和歌山県岩出市の根来寺周辺の宗徒)の奇襲に遭って陥落し、城主の三好政成(まさなり=政康の兄で三好の重鎮)討死してしまいます。

年が明けた永禄五年(1562年)になっても、京都方面は、両者の一進一退が続くも、コチラ和泉は、どうも三好の分が悪い・・・

『西國太平記』によれば、
そんな小競り合いのさ中の、ある日、実休は不思議な夢を見たと言います。

それは、以前、自らの手で死に追いやった阿波守護の細川持隆(もちたか=晴元の従兄弟)が夢枕に現れ、実休を殺そうと刀を向けたという物・・・

「このまま斬られるわけにはいかぬ!」
とばかりに、実休は、取りあえずの時間稼ぎをすべく
「わかった!わかったけど、死ぬ前に時世の句を詠ませてくれ」
と言って、夢の中で句を詠みます。

それが
♪草枯らす 霜又今日の 日に消えて
 因果はここに 巡り来にけり ♪

「今日、露のように消えて行くのも、これまでして来た事の報いなんや」

句を詠み終えて、覚悟を決めた所で、夢が覚めた・・・にしても、我ながら不吉な句を詠んだ物やなぁ、と思いつつ、この話を、弟の安宅冬康にすると、

「確かに不吉な夢ですが、それは、きっと逆夢やと思います。ご心配なら、俺が、歌を返して、不吉な歌の厄払いをしましょう」
と・・・

♪因果とは はるか車の 輪の外に
 巡るも遠き 三好野々原 ♪

「俺らは、因果が巡る場所からメッチャ遠い所にいてます」

と詠んで、兄を勇気づけたのだとか・・・

そんなこんなの
永禄五年(1562年)3月5日、日付が変わった真夜中の0時、実休らの布陣する久米田に畠山勢が夜襲をかけたのです。

両者激しくぶつかり合う中、三好配下の篠原長房(しのはらながふさ)らが撃って出て根来衆の一団を崩します。

この勢いに乗じて押せ押せムードの三好勢・・・しかし、ここで三好の諸隊が一気に敵陣に撃って出たため、逆に総大将の実休の周辺が馬廻りや旗本のみの100騎前後と手薄になってしまいました。

ここを見逃さなかった畠山・・・この隙間を突いて実休めがけて突撃します。

『細川両家記』によれば、これを迎えた実休は、大傷を負いながらも一歩も退かず、そのまま周辺の30余名ともども、討ち取られたと言います。

『厳助大僧上記』では、「鉄砲により…」と記され、根来衆の放った鉄砲が致命傷となったとなっています。

こうして大将を討ち取られた三好軍は総崩れとなり、篠原長房や三好長逸らは、追撃して来る畠山勢をかわしながら飯盛山城へと敗走・・・安宅冬康も淡路へと逃走して行きました。

ただし、『常山紀談』によれば、
この日、飯盛山城にて連歌会に出席していた兄の長慶が、ちょうど、
♪すゝきにまじる 蘆の一むら…♪
「ススキの大群の中の蘆
(あし)の一群が…」
という句に、出席者の誰もが、次の句を付けあぐねて、皆がしばらく考え込んでいた状態だった時、ふと届いた書状に目をやりながら、
♪古沼の あさき潟より 野となりて…♪
「古い沼が浅い方から野原に変わって…」

と、次の句を付け加えた後、
「実休が討死にしたと言う…今日の連歌は、これにて…」
と、すぐさま、弟の仇を討つべく、兵を率いて出陣し、見事、畠山勢を破っています。

また、この和泉周辺での畠山勢の敗北を知った、京都の六角勢も、一旦、近江へと退いていますので、弟を失ったとは言え、未だ、この時点では三好の強さは維持されていたわけですが、ご存じのように、このあたりから三好家内では、家臣の松永久秀が力を持ち始め(11月18日参照>>)、やがて織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)によって決定打を放たれる事になるのですが・・・(9月28日参照>>)

ところで・・・
先程の実休が見た夢の話・・・

微妙に違う複数の逸話が残っているので、その真偽のほどはわかりませんが、実際に、
♪草枯らす 霜又今日の 日に消えて
 報いのほどは 終
(つい)に逃れず ♪
というのが、三好実休の時世の句とされ、どうやら、実休は本当に、敵将を死に追いやった自責の念にかられていたのではないか?と言われています。

以前、長兄の三好長慶さんのページでも
【やさし過ぎる戦国初の天下人…】>>
と題する記事を書かせていただきましたが、もし、本当に「自責の念にかられていた」のだとしたら、やはり、三好家の人々は、兄も弟も・・・戦国に生きるには難しいほどにやさしい人たちだったのかも知れません。

血で血を洗う戦国の世において、「これで良いのか?」と自問自答しながらも、殺らねば殺られる現状に奮起して生きていたのかな?と・・・ふと、

とは言え、実際問題として、そんなに弱気では戦国武将としてやって行けないし、ここまでの勢力を維持する事はできないでしょうから、あくまで話半分の逸話という感じなのかも・・・
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2018年2月15日 (木)

猿掛城攻防~庄為資と毛利元就と三村家親と…

永禄二年(1559年)2月15日、三村家親から救援要請を受けた毛利元就猿掛城を攻撃すべく、備中伊原に布陣しました。

・・・・・・・・・・

備中(びっちゅう=岡山県西部)猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)は標高230mの猿掛山に築かれた山城で、山の北側には東西に流れる小田川があり、それと並行するように走る旧山陽道を抑えた要所にありました。

その歴史は古く、平安時代の終わり頃には、ここに領地を与えられた庄家長(しょういえなが=荘家長)によって、館や城郭らしき物が構築されていたと見え、以来、鎌倉時代には幕府御家人として、南北朝には南朝の北畠の配下として活躍した(しょう=荘)が、この城を拠点として来ました。

やがて、戦国の天文の頃の城主であった庄為資(しょうためすけ=荘為資)は、天文二年(1533年)4月、備中中南部にあった松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)を攻めます。

この松山城は、一昨年の大河ドラマ「真田丸」のオープニングにも使用され、現存12天守の一つとして重要文化財に指定され、竹田城に勝るとも劣らない雲海に浮かぶ「天空の城」として有名な、あの松山城ですが・・・(現存する建物は江戸時代の物です)

ここには、源氏の支流で室町幕府にて奉公衆として足利(あしかが)氏に仕えた上野(うえの)が、備中の守護だった細川守護代として入城し、この当時は上野頼氏(うえのよりうじ)が城主を務めていましたが、今や守護もへったくれも無い世は下剋上・・・ご多分に洩れず、当時、西国(中国地方)を二分していた周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)と、出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)氏との権力闘争に翻弄される状況だったのです。

そんな中、尼子氏の支援を受けた庄為資が、この松山城を襲撃したというワケですが、この戦いで頼氏は討死・・・まもなく、頼氏に代わって為資が松山城の城主となり、自身の猿掛城には一族の穂井田実近(ほいださねちか=庄実近)を城代に据えたのです。

この勢いにより、庄氏は下道(かとう=岡山県倉敷市&総社市の一部)小田(おだ=同笠岡市付近)上房(じょうぼう=高梁市の高梁川以東)の三郡を治める備中最大の勢力となりました。

Mourimotonari600 しかし、ここに大内×尼子の間を縫って登場して来るのが、西国第三の男毛利元就(もうりもとなり)です。

はじめは、彼もまた、大内と尼子に翻弄される小さな国人領主の一人就でしたが、天文十年(1541年)に、尼子傘下から大内傘下に鞍替えした時、この元就を潰すべく、当主=尼子晴久(あまごはるひさ=当時は尼子詮久)が元就本拠の郡山城(こおりやまじょう=広島県安芸高田市・吉田郡山城)を攻めるも、大内の援軍を得ていた郡山城は落ちる事無く・・・逆に尼子軍は大将を討ち取られ、痛い敗北を喫してしまうのです(1月13日参照>>)

もちろん、この時点での元就は、上記の通り、未だ大内の支援を受けている状態ですが、そんな中で、天文十三年(1543年)には、安芸竹原(たけはら=広島県竹原市)の国人領主=小早川興景(こばやかわおきかげ)の死去にともなって、三男の隆景(たかかげ)養子に送りこんで竹原小早川家を掌握し、その6年後には小早川の本家にあたる沼田(ぬまた・ぬた=広島県広島市)を領する小早川繁平(しげひら)を出家に追い込んで、コチラも隆景に乗っ取らせます。

また、これと同時進行で、妹の旦那=吉川興経(きっかわおきつね)の養子に次男の元春(もとはる)を送り込んでおいて後、天文十九年(1550年)には、その興経父子を殺害して吉川家も乗っ取ってしまうのです(9月27日参照>>)

こうして力をつけて来た元就は、天文二十年(1551年)に大内氏の重臣=陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)がクーデターを起こして、事実上大内の実権を握ってしまった(8月27日参照>>)事をキッカケに大内に反旗を翻した石見(いわみ・島根県)吉見正頼(よしみまさより)に同調して、彼も大内氏を離反・・・

天文二十三年(1554年)には折敷畑(おしきばた)の戦いで勝利し(9月15日参照>>)、翌・弘治元年(1555年)には、あの戦国三大奇襲の一つ=厳島(いつくしま)の戦い(10月1日参照>>)で晴賢を葬り去り(10月5日参照>>)、2年後の弘治三年(1557年)には、大内の後継者であった大内義長(よしなが・当時は大友晴房=大内義隆の甥で大友宗麟の弟)自刃に追い込んで(4月3日参照>>)西国の名門=大内氏を滅亡させていたのです。

Sarugakezyoukoubousen800c
猿掛城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄二年(1559年)2月上旬、上り調子の毛利に支援を求めつつ、備中に侵攻して来たのが星田(ほしだ=岡山県井原市美星町)を本拠としていた成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)でした。

三村家親は、元就がここまで大きくは無い、かなり早いうちから、すでに毛利の味方となっていたらしく、両者の信頼関係は非常に篤い物だったようで・・・家親からの援軍要請を受けた元就は、早速、嫡男の隆元(たかもと)以下、元春・隆景の3人の息子を従えて安芸を発ち、永禄二年(1559年)2月15日、毛利本隊は伊原(いばら=岡山県井原市)に、元春は矢掛(やがけ=岡山県矢掛町)に、それぞれ陣を敷いたのです。

家親は、この毛利軍を先鋒として、まずは、城下の民家に放火して回って猿掛城へと迫って来ます。

しかし、城主=庄為資はまったくひるまず、逆に三村の軍勢を少数で追い散らしたタイミングを見計らい、この間に別働隊を動かして元春の本陣にも迫りました。

このため、家親の軍勢は大いに乱れますが、一方の元春の軍勢は、まったく動じず・・・この元春の威勢に恐れをなした為資勢は、やむなく退却したとか・・・(ま、『毛利家文書』内の話やからね~チョイと元春age?

その後、約50日ほどに渡って小競り合いが繰り返されますが、元就の毛利本隊は持久戦を視野に入れて力を温存する作戦をとったため、合戦の主体となったのは家親の軍勢と元春の軍勢・・・両者は、そんな小競り合いを繰り返しつつも、この間に猿掛城を包囲し、やがて決戦となる春を迎えます。

4月3日、家親が1500余騎で先陣、元春が2000余騎の軍勢で後陣の態勢で以って、再び井原へと陣を進めますが、この動きを察知した為資は、敵が攻撃を始める前日に夜襲をかけて蹴散らすべく準備に入ります。

しかし、この夜襲計画の情報をいち早く手に入れた家親は、二段構えの伏兵を置いて態勢を整え、自らは1000余の軍勢を率いて敵の本陣に斬り込む作戦に出ます。

ところが、この三村軍の動きも為資側はキャッチ・・・夜襲を待ち伏せされてはマズイとばかりに、夜襲のための兵を早々に退き始めます。

この動きを見た家親・・・「このまま退かせるわけにはいかぬ」とばかりに、自ら先陣を切って敵の追撃に乗り出しますが、この時の大きな(とき)の声により、隠れていた伏兵も一気に動き、全軍で以って敵の追撃を開始したのです。

このため、静かに退くはずだった為資の軍勢は大混乱・・・為資自身が、わずかの側近とともに猿掛城へとやっとこさ戻るの精一杯だったというほどの大敗となってしまいました。

しかも、この直後、元就が来島水軍(くるしますいぐん=村上水軍)を使って瀬戸内の海上を封鎖して他の同盟者との連絡を絶たせて為資を孤立させた事により、ついに為資は降伏し、猿掛城を開城したのでした。

結果、三村家親の長男=元祐(もとすけ)が為資の養子になって庄元資(しょうもとすけ=・荘元祐・穂井田元祐)と名乗って庄氏を継ぎ、猿掛城主となりました。

さらに三村方は、猿掛落城後も庄為資の息子=庄高資(しょうたかすけ=荘高資)が守っていた、かの備中松山城を永禄四年(1561年)と永禄九年(1566年)の2回に渡って攻め、最終的に松山城を攻略・・・高資を討ち取って本来の庄氏は壊滅し、代わって三村が備中の覇者となるのです。

しかし、世は戦国・・・実は、上記の松山城攻めの間に、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下にあった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客により、家親は暗殺されています。

それを受けて三村家の後を継いだのは、この松山城攻めにも、父=家親とともに参加していた次男=元親(もとちか)なのですが・・・

ご承知の通り、この後、浦上からの独立を狙う宇喜多と、毛利&三村・・・この微妙なトライアングルが更なる展開を見せるのですが、そのお話は、6月2日【備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親の自刃】でどうぞ>>m(_ _)m
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2018年1月10日 (水)

細川管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い

永正十七年(1520年)1月10日、細川高国摂津越水城を包囲する細川澄元三好之長勢に決戦を挑みました。

・・・・・・・・・・・・

あの応仁の乱に終止符を打ち乱世の梟雄と呼ばれた管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)・・・

この政元に実子がいなかった事から、その死後に3人の養子
関白・九条政基(まさもと)の子・澄之(すみゆき)
阿波(徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)
備中(岡山県)細川家の高国(たかくに)
の間で繰り広げられた後継者争奪戦で、

Hosokawatakakuni600aはじめは、澄元と高国が組んで澄之を追い落としたものの、澄之がいなくなると、今度は澄元と高国の争いに・・・

永正八年(1511年)8月、京都の船岡山(京都市)でぶつかった両者(8月24日参照>>)・・・この船岡山の戦いで勝利した高国は事実上京都を制し、負けた澄元は、摂津(せっつ=大阪府北部)に逃亡した後、領国の阿波に戻って、態勢を立て直す事に・・・

Hosokawasumimoto400a やがて永正十六年(1519年)、秋頃になって、態勢を立て直した澄元が、四国勢を率いて、まもなく上洛するとの噂が立ち始めます。

この情報を知った池田城(いけだじょう=大阪府池田市)池田信正(いけだのぶまさ)は、父=貞正が命を落とした永正五年(1508年)の敗戦以来、奪われたままになっている領地を回復せんと、いち早く澄元に連絡をつけて田中城(たなかじょう=兵庫県三田市)に籠城し、
「その時には先陣を務めますので、ここを足がかりに上洛を…」
と、洛中へ入る拠点としての場所を提供します。

もちろん、高国方も、コレにすばやく反応・・・瓦林正頼(かわらばやしまさより=政頼)はじめとする高国配下の者が、すばやく集結し、永正十六年(1519年)10月22日夜、突如として田中城を攻撃したのです。

しかし、この時、敵方に内応者がいたため瓦林勢の動きは、池田側に筒抜け・・・しかも、この攻撃を察知して事前準備も万全にしていた事や、当日たまたま雨が降って、攻めるに困難を極めた事から、ほどなく瓦林勢は大敗し、兵は夜陰に紛れて敗走して行き、正頼自身は居城の腰水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)に籠城しました。

勝利した池田信正は、恩賞により弾正忠(だんじょうのちゅう=警察)に任ぜられ、豊島郡(てしまぐん=大阪府池田市周辺)を領地として与えられました。

こうして上洛の足がかりを得た澄元は、その10月のうちに、三好之長(みよしゆきなが)をはじめ、1万とも2万とも言われる四国勢を率いて兵庫(ひょうご)に上陸し、神呪寺(神咒寺=かんのうじ=兵庫県西宮市)に本陣を置いて、瓦林正頼らが籠った腰水城を包囲したのです。

一方、この澄元の状況を知った高国も、山城(やましろ=京都府南部)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県東部)摂津など支配下の諸国人たちをかき集めて翌・11月21日に京都を出陣し、12月2日(もしくは6日)には池田城に入城し、ここを拠点として臨戦態勢に入ります

その後、高国勢は武庫川(むこがわ)に沿うように、その上流から下流に向けての昆陽(こや=兵庫県伊丹市)野間(のま=同伊丹市)瓦林(かわらばやし=兵庫県西宮市)浜田(はまだ=兵庫県尼崎市)などに布陣し、しばらくの間、睨み合いが続きました。

そんな中、こう着状態をたち割るように12月19日(18日とも)に大きな戦闘が行われ、四国勢数百人が討死にし、「その中には三好之長父子も…」という噂も流れましたが、三好父子の討死には誤報でした。

とは言え、この時は大きな痛手を受けた四国勢・・・しかも、瓦林勢には「那須与一(なすのよいち=参照>>の再来」とうたわれた弓の名手=一宮三郎なる人物がいて、四国勢もなかなか攻めあぐねていたのです。

そんなこんなの永正十七年(1520年)1月10日いよいよ両者は大決戦となります。

さすがに現政権派とあって、高国軍も、この頃には2万ほどにふくれあがっておりました。

『細川両家記』によれば・・・
午後4時頃から開始された戦いは、高国方の伊丹国扶(いたみくにすけ)中村口(伊丹市)から切り崩しを開始し、四国勢に襲いかかると同時に腰水城からは瓦林勢が撃って出て四国勢の諸将を相手に奮戦・・・この局地戦では高国方が大いに成果をあげました。

しかし、この日の午後8時頃まで・・・約4時間に渡って繰り広げられた戦いは、上記の夕方の局地戦では高国側が有利だったものの、全体では、四国勢の戦死者は100余名、高国勢は、その倍の200余名の犠牲者を出してしまっていたのです。

その後も、断続的に戦いは繰り広げられていきましたが、やがて腰水城の兵糧が枯渇しはじめ、籠城を維持できなくなってしまった事から、永正十七年(1520年)の2月3日、劣勢を挽回できないまま城将の瓦林正頼は、腰水城を放棄し、武庫川の左岸へと逃亡したのです。

この時、高国自身は、腰水城の救援に向かうべく本隊を移動させていましたが、腰水城の落城には間に合わず・・・やむなく撤退するところを、澄元に同調する国衆=西岡衆(にしのおかしゅう=京都・乙訓地域の自治を担った武士集団)に襲撃されたため、六角定頼(ろっかくさだより)を頼って(この時の六角氏は定頼の父=六角高頼が主導の説もあり)近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=大津市)へと逃れて行きました。

こうして、京の町は、一時的に澄元派が牛耳る事になりますが、もちろん高国も、このままでは終われません・・・いや、むしろ、ここから、ラッキーも加わって、高国はこの世の春を迎える事になるのですが、その続きのお話は、わずか4ヶ月後の永正十七年(1520年)5月5日に勃発する等持院表(とうじいんおもて)の戦い(5月5日参照>>)でどうぞo(_ _)oペコッ
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2017年12月18日 (月)

赤沢朝経率いる京軍の大和侵攻~奈良の戦国

明応八年(1499年)12月18日、赤沢朝経率いる京軍が大和衆の籠る秋篠城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

日本が真っ二つに分かれて戦った応仁の乱(5月20日参照>>)・・・約10年に渡るこの大乱は文明九年(1477年)11月に終わりを告げました(11月11日参照>>)が、もともと、将軍家や管領家などの複数の後継者争いが発端だった事や、そのそれぞれを支持する地方の武将が、それぞれ東西に分かれて戦った事、結果的にどっちが勝ったというハッキリした物も無かった事などがあって、京都を中心とした応仁の乱自体が終結しても、それぞれの地方の武将たちや、その配下の者の地元では、未だ小競り合いが続いていたわけで・・・

そんな地元のうちの一つが大和国(やまとのくに=奈良県)でした。

ここは、かの応仁の乱の口火を切る御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)をおっぱじめた畠山義就(よしなり・よしひろ)畠山政長(はたけやままさなが)らの河内畠山氏ドロ沼家督争い(7月17日参照>>)の影響をドップリ受けてる場所だったのです。

この河内畠山氏は、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)山城(やましろ=京都府南部)越中(えっちゅう=富山県)の守護を務め、足利将軍家の一門でもあり、室町幕府の三管領家(さんかんれいけ=幕府管領職(将軍の補佐役)をこなす三家:細川&斯波&畠山)の一つというスゴイ家柄・・・この時期、未だコレという突出する武将がいなかった大和地域では、それぞれの畠山家を支持する諸将が、応仁の乱さながらに東西に分かれて入り乱れ、反目を繰り返していたのです。
(大和衆の関わった応仁の乱の前哨戦=高田城の戦いは10月16日を参照>>)

しかし明応八年(1499年)10月、
大和の武士たちは「これではイカン!」と気がついた・・・

同じ大和の者同士で争い合うバカバカしさを悟った彼らは、それぞれの派閥トップである筒井(つつい)越智(おち)の間で10月27日に和議が結ばれた事をキッカケに、河内の争いを大和に持ち込まない事を約束し、今後は、大和を平和に導く事を誓い合ったのです。

残念ながら、古市(ふるいち)だけは、その合意に加わりませんでしたが・・・ま、この古市澄胤(ふるいちちょういん)は、去る明応二年(1493年)に山城の国一揆(12月11日参照>>)を鎮圧した事で大出世を遂げたうえ、時の管領=細川政元(ほそかわまさもと=応仁の乱東軍大将の細川勝元の息子)にも通じていたので、大和の国人衆の中でも一歩抜け出た雰囲気・・・なので「俺はお前らみたいなんとはツルまへんで~」てな感じだったのかも知れません。

ところが、「まだまだ河内の争乱に大和衆の勢力が必要だ」と思っていた政元が、今回の大和衆の合意に激おこ・・・大和の分裂を図るべく、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=澤蔵軒宗益)を大和へ差し向けたのです。

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京軍の大和侵攻・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、朝経率いる数千の京軍が大和に隣接する南山城(みなみやましろ=京都府相楽郡付近)に押し寄せたのは12月12日・・・16日には、早くも、歌姫越えで大和に入り、秋篠村(あきしのむら=奈良県奈良市秋篠町)へ侵攻します。

迎える秋篠氏は、本拠の秋篠城(秋篠平城)に籠って徹底抗戦の構えを見せます。

この秋篠氏は、古代の渡来系埴輪作り集団=土師(はじ)の末裔とされる人物が、平安時代の初期に移り住んだ地名にちなんで秋篠安人(あきしののやすひと)と名乗ったのが始まりと言われますが、いずれかの頃からは、興福寺一乗院方の衆徒となっており、同じく興福寺に属していた筒井氏とは旧知の仲・・・ここ秋篠城には、筒井氏をはじめとする面々が籠っていたのです。

激しい戦闘が起こったのは、明応八年(1499年)12月18日でした。

大和衆の中で京側についた古市の軍を先頭に、大軍で押し寄せた京軍に対し、大和側は筒井に秋篠に宝来(ほうらい)超昇寺(ちょうしょうじ)といった弱小連合軍であったため、未だ全軍の統率がとれておらず・・・

逆に、一方の京軍は、その後ろ盾による武器の準備も万全なうえ兵糧の補給路などもすでに確保澄み・・・それゆえの士気の高さは最高潮です。

それでも、午前10時頃から始まった合戦では、大和勢も奮起して戦い、迎撃の軍勢を2度3度と繰り出して精一杯戦いますが、約6時間の戦闘の末、午後4時頃には、さすがの大和勢も疲弊し、まもなく、秋篠城は陥落しました。

敗れた者たちは散り々々に逃げ去り、勢いづいた京軍は、近くの法華寺(ほっけじ=奈良県奈良市法華寺町)喜光寺(きこうじ=奈良県奈良市菅原町:菅原寺)などの堂塔や僧坊に乱入し、破壊と略奪の限りを尽くし、しばらくの間奈良で大暴れしたのだとか・・・

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東大寺大仏殿のモデルとされる喜光寺本堂
(喜光寺への行き方は本家HP:奈良歴史散歩「西の京」のページでどうぞ>>)

その後、文亀元年(1501年)に、朝経は、古市と越智そして河内の遊佐(ゆさ)を、改めて大和の代官に任命して、一応の落ち着きを見せるのですが、やはり、「大和は大和武士の手で治めるべき」という考えが消える事は無く、永正二年(1505年)に再び、大和の国衆の間で盟約が成立したりしますが、翌年の3月には、またもや朝経率いる京軍が侵攻・・・

と、とにもかくにも、この間、春日大社(かすがたいしゃ)の御神木を持ち出して抗議したり、京軍の守りが手薄になる頃合いを見計らっては、手を変え品を変え場所を変え、メンバーも入れ替わったりしつつ、ゲリラ的活動を続けて行く大和の国衆たちと、それを鎮圧すべくやって来る京軍の戦いが続く事に・・・(9月21日参照>>)

しかし・・・
やがて、この堂々巡りな戦いが終わる時がやって来ます。

それは永正四年(1507年)・・・細川政元&赤沢朝経率いる京軍が、若狭(わかさ=福井県西部)丹後(京都府北部)の守護を務める若狭武田氏の第5代当主=武田元信(たけだもとのぶ)のピンチを聞きつけ、武田と対立する一色義有(いっしきよしあり)を攻めていた時、天皇からの帰京命令に、慌てて京都へと戻った政元が、自らの養子同士の後継者争いに巻き込まれて6月23日に暗殺(6月23日参照>>)・・・

その3日後の6月26日には、攻撃のさ中に、政元の死を知って京に戻ろうとした赤沢朝経も、不穏分子である丹後の国衆が起こした一揆によって命を落としてしまったのです。

こうして、大和侵攻のおおもとであった細川政元と、当事者であった赤沢朝経が、相次いで亡くなった事で、京軍からの脅威が無くなった大和の地・・・

これで、やっとこさ、大和の諸将は、自らの本拠地に戻って、領国の治世に力を注ぐ事ができる日々がやって来るわけです。

とは言え、世は戦国・・・奈良とて他者の影響を受けずにスルーし続けられるはずもなく、やがて、この大和の地も戦国の波に呑まれていく事になります。
天文十五年(1546年):貝吹山城攻防戦>>
永禄八年(1565年):筒井城攻防戦>>
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2017年12月 7日 (木)

家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主~斎藤妙純の最期

明応五年(1496年)12月7日、近江の六角高頼を攻めた斎藤妙純父子が、土一揆に襲われて死亡しました。

・・・・・・・・・・・・

斎藤妙純(さいとうみょうじゅん=利国)は、美濃(みの=岐阜県)守護代だった斎藤利永(としなが)の次男で、叔父である斎藤妙椿(みょうちん)の養子となって、妙椿の家系である持是院家(じぜいんけ)を継いでいます。

応仁の乱の際には、西軍として、養父=妙椿とともに伊勢周辺に出兵し、この乱のドサクサで多くの領地の切り取りに成功・・・この頃には、すでに美濃守護である土岐成頼(ときしげより)の上を行く勢力を持っていたと言われています。

しかし、応仁の乱後に妙椿が死去すると、残された領地を巡って、異母兄の斎藤利藤(としふじ=利永の長男)と妙純との間に争いが勃発します。

まぁ、長男の利藤にしてみれば、父の死後に守護代を継いだのは自分なのに、実際には叔父の妙椿に実権を握られて抑えつけられたあげく、妙椿が死んだと思いきや、今度は実弟が仕切るんかい!てな感じでしょうか?

結局、合戦にまで発展した兄弟ゲンカは、妙純が勝利し、負けた利藤は六角氏を頼って亡命・・・後に和睦して美濃守護代に帰り咲きますが、もはや、実権を握るのは妙純だったわけで・・・

そんなこんなの明応四年(1495年)、今度は、美濃守護の土岐成頼の後継者を巡っての争いが勃発します。

成頼が、「自らの後継者を嫡男の政房(まさふさ)より、末息子の元頼(もとより)に継がせたい」と言いだしたのです。

成頼の意向を知った兄=利藤は「ここが挽回のチャンス!」とばかりに、政房を奉じる弟=妙純に対抗して元頼を奉じ、妙椿の家臣だった石丸利光(いしまるとしみつ)を味方に引き入れて、妙純排除を画策します。

これが妙純VS石丸利光の船田合戦(ふなだがっせん)・・・これが、利光と姻戚関係にあった織田敏定(おだとしさだ=信長の曽祖父?)や利藤を保護した六角高頼(ろっかくたかより=承禎の祖父)、かたや妙椿の娘婿であった朝倉貞景(あさくらさだかげ=義景の祖父)京極高清(きょうごくたかきよ=高次の祖父)などを巻き込んでの大きな合戦となったのです。

明応四年(1495年)3月から翌明応五年(1496年)6月まで続いた船田合戦ではありましたが、最後の最後に城田寺城(きだじじょう=岐阜県岐阜市城田寺)に追い詰められた利光が、自らの切腹と引き換えに、ともに城に籠っていた主君=成頼と利藤の息子の助命を願い出て、元頼とともに自殺・・・こうして、1年3ヶ月に渡る合戦が終結しました。

しかし、おおもとの合戦が終結しても、そのまま納まらなかったのが、それぞれの援助者たちのギクシャク感・・・

妙純は、京極高清と連携して、石丸方に味方した六角高頼を討つべく、六角氏のお膝元である近江(おうみ=滋賀県)に出陣します。

この動きを察知した高頼は、自らの金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市金剛寺町)とともに諸所にある支城や砦の再構築を行いつつ、高島(たかしま=滋賀県高島市)朽木材秀(くつきえだひで=直親)蒲生貞秀(がもうさだひで=秀郷の高祖父)などに出陣を要請して合戦の準備を整えます。

かくして船田合戦終了から4ヶ月後の11月6日、数千の兵を率いて破竹の勢いで国境を越えた妙純は、周辺に火を放ちながら進軍し、またたく間に蒲生郡(がもうぐん=滋賀県蒲生郡)一帯が焦土と化します。

勇ましく防戦を展開する六角勢ではありましたが、斎藤勢の勢いはハンパなく・・・やがて高頼は金剛寺城に、蒲生貞秀は日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町・中野城とも)にと、ともに居城に追い詰められ、両者とも籠城戦に突入します。

まだまだ蒲生平野に火を放ちながら、やがて日野城を包囲した斎藤勢・・・しかし、これがなかなか強い!

囲まれ、攻められながらも奮闘する日野城兵は、攻める斎藤勢を1000人ほど討ち取り、その勢いで撃って出て、逆に追撃をかけるほどの奮闘ぶり・・・やむなく斎藤勢は、作戦変更して日野城を諦め、高頼の金剛寺城をターゲットとしますが、こちらもなかなか強く、容易に落とす事ができませんでした。

仕方なく、兵を退き始める斎藤軍・・・それを見た高頼は、城を出て追撃を開始して50余人を討ち取りますが、一方の六角方の被害も大きく、この日の戦いはここまで・・・

その後も、しばらくの小競り合いが続きましたが、やがて合戦開始から1ヶ月ほど経った明応五年(1496年)12月7日、こう着状態に終止符を打つべく、両者の間で講和の話が持ち上がり、船田合戦からの流れを汲んだ、この日野口(ひのぐち)の戦いは、ここに終結するのです。

こうして和睦を成立させ、陣を明け渡す事になった妙純・・・しかし、この一瞬を、諸所の六角と郷土民たちが襲います。

長期の侵攻や地元を焦土とされた事に不満を抱いた郷民たちの土一揆・・・妙純は、これらを何とか防ぎつつ、なんなら、一揆に加勢する日野勢への攻めに転じる様相を見せますが、なんせ、一揆はその人数がハンパ無い・・・

相手は一揆の烏合の衆とは言え、明らかに不利な動員人数・・・自らが囲まれた事を察した妙純は、息子の斎藤利親(としちか)とともに、ここで自害するのでした。

『大乗院寺社雑事記』では斎藤方74人が自害
『後法興院記』では千人以上の斎藤方が、この一揆の襲撃で戦死したと記録されています。

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観音寺城跡=観音正寺より南西方面を望む

この時、妙純と連携して観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)まで出張って来ていた京極高清は、妙純の死を知り、慌てて夜陰に紛れ、船で琵琶湖を渡って湖西へと出た後、本拠の江北(こうほく=北近江)へと戻ったと言います。

また、妙純の苦戦を聞いて援軍を出した朝倉貞景も、やはり江北のあたりで、妙純の死亡と高清の敗走を知り、本国の越前(えちぜん=福井県)へと戻っていきました。

猛将と言われた斎藤妙純のあっけない最期・・・

後に、妙純の孫に当たる斎藤利良(としなが)が病死した時、その名跡を継いで斎藤新九郎利政(としまさ)と名乗ったのが、あの美濃のマムシこと斎藤道三(さいとうどうさん)です。(道三の経歴については諸説ありますが…)

ところで、余談ではありますが・・・
現在、重要文化財に指定され、徳川家康(とくがわいえやす)の遺言に従って久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう=静岡市駿河区)に安置されている「革柄蝋色鞘刀(かわづかろいろさやかたな)という名刀があります。

この刀は、天正十二年(1584年)頃に、家康が織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)から譲り受けた物で、家康が生涯で最も愛し、常に身につけ、その死の直前に振りまわした(4月17日参照>>)、あの刀だとされているのですが、この刀の指裏(腰に差した時に体側になる面)には「妙純傳持」「ソハヤノツルキ」、反対側の指表には「ウツスナリ」と刻まれているとか・・・

「ソハヤノツルキ」とは、平安の昔に征夷大将軍となって蝦夷(えぞ)を平定した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(7月2日参照>>)の愛刀で清水寺(きよみずでら=兵庫県加東市)が所蔵する騒速(そはや)の事で、「ウツスナリ」は、その刀の写しという事、

そして、「妙純傳持」は、それを斎藤妙純が持っていたという意味です。

そんな刀を、家康は、自らが最も警戒する西国=西に、「その切っ先を向けて安置せよ」と遺言したのです・・・もちろん、自分の死後も、徳川を永遠に守るために・・・

そこには、田村麻呂の武勇とともに、彼に勝るとも劣らない斎藤妙純という武将への敬意と憧れがあったと思えてなりません。
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2017年11月24日 (金)

三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い

永禄四年(1561年)11月24日、三好義興松永久秀とともに山城勝軍地蔵山に布陣中の六角義賢に攻めた将軍地蔵山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後の混乱する主導権争いに打ち勝ち、畿内に政権を樹立した細川晴元(はるもと)・・・もちろん、政権樹立と言っても、時は室町時代なので、晴元は管領で時の将軍は第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)だったわけですが。。。

その晴元の天下取りに貢献した重臣が三好元長(みよしもとなが)でした。

しかし、もともとの晴元が義晴の弟=足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立していたにも関わらず、政権を握った途端にアッサリと捨てて、それまで敵対していた義晴に乗り換えた事に不満を持った元長が晴元に反発・・・結局、元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げました。(7月17日参照>>)

Miyosinagayosi500a 父の死を受けて、わずか11歳で家督を継いだ三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、おそらくは「自分自身が未だ若過ぎる」と判断してか?しばらくは晴元の従順な家臣として仕えますが、やがて28歳となった天文十八年(1549年)6月、弟たちとの見事な連携プレーによる江口の戦いにて、晴元&彼に味方する三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟らに勝利し、彼らを近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させて畿内を掌握します(6月4日参照>>)

これによって、自らは芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)に拠ったまま、重臣の松永久秀(まつながひさひで)を京都所司代として都の治安維持に当たらせる長慶・・・

この頃には、すでに義晴と晴元は分裂状しつつありましたが、そんな中で坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴が病死すると、第12代=足利義輝(よしてる=義晴の息子)が将軍職を継ぎ、近江守護の六角義賢(よしかた=承禎)らと組んで、対三好の京都奪回作戦を展開していきます(2月26日参照>>)

そんなこんなの永禄元年(1558年)6月の白川口の戦い(北白川の戦い)後の和睦交渉をキッカケに(6月9日参照>>)将軍=義輝は長慶と和解して5年ぶりに京都へと戻るものの(11月27日参照>>)、晴元は近江に留まり、しばらくの間は、反三好の姿勢を崩しませんでした。

もともとの出身地だった阿波(あわ=徳島県)讃岐(さぬき=香川県)に加え、摂津(せっつ=大阪府北中部・兵庫県南東部)の国人たちをも傘下に入れ、都も掌握し、もはや関東の北条氏に勝るとも劣らない・・・いや、都も、そして畿内も抑えた分、事実上の天下人となった長慶・・・

しかし、そんな三好家にも、間もなく陰りが見え始めます。

そのキッカケとも言うべき出来事が、「鬼十河(おにそごう)なる異名で恐れられていた長慶の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入っていた)の死でした。

もちろん、この「恐れられていた」というのは「怖い」という意味では無く、「武将としてスルドイ」という意味ですが、それだけ長慶にとっては重要な右腕だった弟が、永禄四年(1561年)の3月、湯治先の有馬温泉で突然亡くなってしまったのです(5月1日参照>>)

一般的には病没とされますが、あまりに突然だったため、落馬説や暗殺説もあり・・・しかも、この有馬行きに同行していたのが、かの松永久秀であった事、また、この後、三好家に立て続けに不幸が起って衰退の一途をたどる事から、軍記物などでは、久秀を「主人殺しの悪党」とする物もあるくらい・・・

かと言って証拠はどこにも無いので、あくまでその噂は、三好家が衰退した後に活躍する久秀の姿ありきの「推理小説の基本=1番得をした者が犯人」的な論理の域を超えない物なのでしょうが・・・(松永久秀については10月3日参照>>)

その犯人探しは別の機会にさせていただくこととし、
とにもかくにも、この優秀な弟の死で片翼をもがれた形になった長慶・・・これをチャンスと見た六角義賢は、すでに出奔して力を失くしていた晴元に代わって、その息子の細川晴之(ほそかわはるゆき=晴元の次男)を看板に掲げて、三好家に対抗するのです。

永禄四年(1561年)7月28日、同じくここをチャンスと見て亡き十河一存の城=岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)にチョッカイを出していた畠山高政(はたけやまたかまさ=畠山政長の曾孫)と連携(3月5日参照>>)した六角義賢は、将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に籠って、長慶側の三好義興(よしおき=長慶の嫡男で嗣子)と対峙するのです。

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●位置関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

義賢自身は、神楽岡(かぐらおか=京都府京都市左京区吉田)に陣取り、馬淵(まぶち)源左衛門蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)永原安芸守(ながはらあきのかみ)らを一軍の将として上洛をうかがいます。

これを受けた三好側では、松永久秀が兵を率いて出陣し、義興勢と連携して六角勢と対陣・・・7月から11月下旬までは、お互いに遠矢(とおや=弓矢による遠距離戦)での交戦程度でありましたが、永禄四年(1561年)11月24日、六角勢のスキを突いた三好勢が白川口(北白川付近)に来襲し、永原&細川の陣営に襲いかかったのです。

勢いに乗じて、ここを突破した三好勢は、馬淵の陣へと迫り、激戦・・・三好軍の将であった三郷修理亮(しゅりのすけ)が馬を刺されて、人馬もろとも転倒し、そこを堀伊豆守(ほりいずのかみ)なる武将が襲いかかって首を討ち取りますが、一方の細川勢にも多くの死者が発生して乱戦に次ぐ乱戦。

そんな中、永原安芸守を討ち取った松永勢は、そのまま将軍山城を突破し、六角義賢の本陣=神楽岡へ1万の軍勢で以って突入します。

そこで六角方では、家臣の三雲定持(みくもさだもち)に命じて、川守城(かわもりじょう=滋賀県竜王町川守・野寺城)の城主=吉田出雲守(よしたいずものかみ)の門下生で日置流弓術(へきりゅうきゅうじゅつ)の名手300余名を選出して高所に陣取らせ、タイミングを見計らって一斉に松永勢に向けて射撃させたのです。

思わぬ攻撃に多くの犠牲者を出してしまった松永軍・・・やむなく、ここで敗走に転じます。

これを見た義賢はすぐに、逃げる松永勢を追撃しようとしますが、蒲生賢秀が
「今のは、タイミングが良く、ゲリラ戦的な形でウマくいきましたけど、寡兵(かへい=少ない兵)で以って大軍を追撃したなら、いずれ、こっちがヤバなりまっせ」
と進言・・・これ以上の深追いは止め、この日の戦いは終わりました。

結局、この戦いは三好家にとっては負け戦となってしまいましたが、一方の六角方でも、義賢に担がれた細川晴之がこの戦いで戦死したとされ、まだまだ三好政権の大勢に影響を及ぼすほどでは無く・・・その後もガッツリと京都を掌握しつつ、義賢らとの攻防が続くのですが、前途したように、結果的には、このあたりから三好家の衰退が始まった事は否めません。

というのも、この戦いの翌年=永禄五年(1562年)の3月に起こった久米田(くめだ・大阪府岸和田市)の戦いにて、すぐ下の弟=三好義賢(よしかた=元長の次男・実休)が戦死・・・さらに翌年には息子の義興が、22歳の若さで病死・・・さらにさらにのその翌年の永禄七年(1564年)には謀反を疑い、2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす)を長慶自身が謀殺してしまうのです。

この、長慶による冬康殺害の要因も様々に語られますが、実のところは、義賢の戦死の後くらいから、長慶はうつ病にかかっていて籠りがちになり、ちゃんとした判断ができていたのかが微妙だったようで、この頃から実際に合戦に出陣して三好家の力となっていたのは松永久秀だったと言われています。

結局、その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は亡くなり(5月9日参照>>)、十河一存の長男であった三好義継(よしつぐ)が、長慶の養子となって三好家を継ぎますが、未だ若い義継の権力地盤は弱く、彼を補佐する松永久秀と三好三人衆三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)らが、三好家の実権を握る事となったうえ、そんな彼らも一枚岩とは言い難く・・・(11月18日参照>>)

そんな時に京都へとやって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・という事になります。
【織田信長の上洛】参照>>
【信長の前に散る三好三人衆】参照>>)
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2017年11月19日 (日)

京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い

大永七年(1527年)11月19日、京都奪回を目指す足利義晴細川高国勢が三好元長柳本賢治らと激戦を繰り広げた東山・川勝寺口の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

応仁の乱の混乱修復後、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として政権を掌握した細川政元(まさもと)・・・

Hosokawatakakuni600a その政元亡き後に勃発した、細川澄之(すみゆき)細川澄元(すみもと)細川高国(たかくに)の3人の養子たちによる後継者争いに打ち勝った高国は、永正十八年(1521年)に第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して畿内に自らの政権を樹立しました。

しかし、わずか5年後の大永六年(1526年)、重臣の香西元盛(こうざいもともり)に謀反の疑いをかけて上意討ちした事から、元盛の兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が反発・・・籠城して抵抗する彼らに、高国は兵を派遣しますが、この時は手痛い敗北を喰らいます(10月23日参照>>)

Hosokawasumimoto400a そこをチャンスと見たのが、今は亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)・・・

配下の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=之長の甥)兄弟らとともに京へと攻め寄せたかと思うと波多野や柳本と連携して桂川(かつらがわ)の東岸にて激戦の末、大永七年(1527年)2月、高国らを近江(おうみ=滋賀県)へと追いやり、今度は、勝利した晴元らが、義晴の弟=足利義維(よしつな)を奉じて京都を掌握する事となったのです(2月13日参照>>)

とは言え・・・もちろん、将軍=義晴&高国も、このまま黙ってはいられません。

近江守護の六角定頼(ろっかくさだより)を頼って長光寺(ちょうこうじ=滋賀県近江八幡市)に拠った義晴は、その将軍の威勢をフルに使って、諸国の武将に「出陣せよ!」の声をかけ、京都奪回を画策します。

桂川原から5ヶ月後の7月・・・越前(えちぜん=福井県)朝倉(あさくら)能登(のと=石川県北部)畠山(はたけやま)越中(えっちゅう=富山県)椎名(しいな)美濃(みの=岐阜県)斎藤(さいとう)などの援軍を得た義晴は、27日に出陣

これに同調する六角定頼も、1万5千余りの兵を自ら率いて琵琶湖を渡り、坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴を出迎えます。

ここに集結した軍勢は約3万騎・・・これらを率いた義晴と高国は、10月13日に坂本を出発し、一路、京都へと向かい、義晴が若王子(にゃくおうじ=京都市左京区)、高国が神護寺(じんごじ=京都市右京区高雄)朝倉教景(あさくらのりかげ=宗滴)建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)に陣を置き、京都を抑える柳本&三好勢と対峙します。

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東山・川勝寺口の戦い布陣図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして大永七年(1527年)11月19日、いよいよ戦いの幕があがります。

『続応仁後記』によれば・・・
この日、義晴は、その軍勢で、東寺(とうじ=京都市南区九条町)から西七条(にししちじょう=京都市下京区)唐橋(からはし=京都市南区唐橋)鳥羽(とば=伏見区)などに隙間なく兵を配置し、高国も、自ら兵を率いて南方に向けて布陣し、おそらくは南方面から向かって来るであろう敵を待ち構えていたと言います。

しかし、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)方面から京都に入った三好勢は、丹波(たんば=京都府北部・兵庫県北部・大阪府北部)方面からの柳本勢らと連携し合って、京都の北方に進出・・・三好は西院(さいいん=京都市右京区)、波多野&柳本勢が五条(ごじょう=京都市東山区)から七条(しちじょう=同東山区)にかけての法華系寺院に展開し、北からの攻撃を仕掛けたのです。

想定外の方向からの攻撃に戸惑う義晴勢・・・

一方、亡き澄元の娘婿という立場であった河内(かわち=大阪府東部)畠山氏の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)が三好勢に加担すべく参戦・・・500余りの軍勢を率いて川勝寺口(せんしょうじぐち=京都市下京区西京極・泉乗寺口とも)を抑えて、西院に展開する三好勢を合流しようとしますが、そこを朝倉の越前兵が迎え撃ち、こちらも激しい合戦となりました。

この日の戦いは敵味方に多くの死者を出し、それでも決着がつかず・・・疲弊した両者は、ひとまず兵をを退き、しばし対陣する事となりましたが、その後もこう着状態が続いたため、年が明けた1月頃からは一部で和睦交渉が行われるようになります。

やがて、その交渉の主導者であった六角定頼と朝倉教景が、三好元長と和睦した事で、まずは3月に入って朝倉勢が帰国・・・これを受けて諸将も兵を収めて、次々と帰国して行きますが、そもそものモメ事の発端だった柳本賢治は、この和睦劇に不満ムンムン・・・

一方の発端の人である将軍=義晴と細川高国も、和睦には不満だったようですが、どちらも、諸将の加勢が無ければ戦えないのが現状・・・やむなく、彼らも兵を退き、またまた近江へと逃れたのでした。

とは言え、この和睦は、あくまで、今回の東山・川勝寺口の戦いにおける和睦・・・義晴&高国VS義維&晴元の抗争が終わったわけではありませんので、この後も、享禄四年(1531年)4月の箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原での合戦(4月6日参照>>)などの戦いが繰り広げられた後、いよいよ、高国最後の戦いとなる大物崩れ(だいもつくずれ)の戦いへと向かって行きますが、そのお話は、また、その戦いが起こる日付けにて、お話させていただきたいと思いますm(_ _)m

・・・にしても、今回も京都市街真っただ中の市街戦、周辺の建物にも被害が多くあった事が想像できます。
世は戦国とは言え、多くの一般市民も巻き込まれたかと思うと胸が痛いですね。
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2017年10月 7日 (土)

名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動

永禄六年(1563年)10月7日、重臣殺害の一件で近江の国人衆と対立した六角義治が観音寺城から逃走しました。

・・・・・・・・・・・・

六角氏(ろっかくし)は、宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、鎌倉時代に近江(おうみ=滋賀県)六郡(犬山・愛智・神崎・蒲生・栗太・志賀)を与えられた佐々木氏(ささきし)の嫡流が、六角東洞院(京都市中京区)に館を構えた事から、六角氏と名乗るようになったと言います。

室町時代には同族の佐々木道誉(ささきどうよ=京極高氏)に代わって近江守護となり、大名として実力を存分に発揮し、応仁の乱後のいち時には、幕府との対立があったものの、戦国に入った六角定頼(ろっかくさだより)の時代には、細川家の管領職争奪戦に関与したり(5月5日参照>>)、その管領に味方して出陣したり(8月23日参照>>)と、何かと、中央政権から頼りにされる存在=それだけ力がある武将だったわけです。

さらに、定頼の息子=六角承禎(じょうてい=義賢)は、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と対立する(6月24日参照>>)第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)を援助する(2月26日参照>>)事もしばしば・・・

そんな、三好と将軍の抗争も、永禄元年(1558年)6月の白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)を最後に和睦となって後、義輝が京都に戻った(11月27日参照>>)事で、一応の落ち着きを見せますが、一方で、この三好の京都完全掌握状態に不満をつのらせる者もおりました。

大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)竜安寺(りょうあんじ=京都市右京区)といった宗教勢力に公卿や町人・・・勝者であるが故に、時に横暴な態度に出る三好勢に眉をひそめる彼らは、もはや京都の治安維持さえままならない幕府に代わって、六角氏の力に都の平穏を望んだのです。

永禄五年(1562年)3月、承禎は、自らの息子=義治(よしはる)義定(よしさだ)とともに、近江武士や伊賀武士の軍勢を率いて入洛して清水坂に布陣・・・三好や、その配下の松永久秀(まつながひさひで)軍勢を蹴散らして、彼らを山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)へと追いやりました。

・・・と言っても、これは、あくまで京都市内の治安維持を要求するのための出陣・・・3か月後の6月に三好義興(みよしよしおき=長慶の嫡男で嗣子)との和睦が成立した事で、承禎父子はアッサリと近江に戻りました。

この後、すでに出家していた承禎は、箕作城(みつくりじょう=滋賀県東近江市五個荘山本町)に入って隠居し、六角氏内の政権と、本城の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)嫡男の義治に譲りました。

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観音寺城・本丸への石垣

しかし、これがケチのつき始め・・・そう、実は、この義治さんは、未だ18歳。

かの応仁の乱以来、同族で江北(こうほく=滋賀県北部・湖北、現在の彦根あたりより北)を統治する京極氏(きょうごくし)との抗争や、その京極氏に取って代わろうとする浅井氏(あざいし)との争い(4月6日参照>>)など、数あるゴタゴタを何とか治めて、江南(こうなん=滋賀県南部・現在の近江八幡とか安土とかのあたり)地方を制圧して、六角氏を絶頂期に導いたのは、ほぼほぼ、先の六角定頼&承禎の力によるもの・・・

それらを支えて来た重臣たちにとっては、若き義治は実績の無い青二才・・・もちろん、誰だって当主になりたての時は、実績も信用も無い若者なわけですが、そこを、古くからの重臣たちの意見を踏まえつつ、人心を掌握して、うまくまとめあげるのが信任当主の腕の見せ所。

しかし、義治の場合は、それがウマくいかなかった・・・。

義治のやる事なす事にことごとく批判し、何でもかんでも口出しする家臣の筆頭=執権である後藤賢豊(ごとうかたとよ)をうっとぉしく思い、「このままでは、京極氏に取って代わる浅井のようになってしまうのではないか?」との不安を抱いていったのです。

そんなこんなの永禄六年(1563年)10月1日、観音寺城へ賢豊&壱岐守(賢豊の長男・実名は不明)父子を呼び出した義治は、配下の者に命じて老蘇の森(おいそのもり=滋賀県近江八幡市安土町東老蘇)付近で殺害してしまったのです。

なんと、この時の配下の者は武装兵500を引き連れて完全包囲のうえでの殺害という事なので、いわゆる暗殺ではなく、完全に、その威勢を見せつけるための殺害・・・義治にとっては、「俺こそが当主」と、その上下関係を知らしめるための行為だったのかも知れません。

なんせ、この直後、他の重臣たち全員に、今すぐ観音寺城に集まるよう緊急命令を出しているのですから・・・

しかし、彼ら重臣が集まったのは呼び出された観音寺城ではなく、かの後藤とともに『六角氏の両藤』と称された、もう一人の大物家臣=進藤賢盛(しんどうかたもり)の屋敷だったのです。

未だ強固な信頼関係が構築されていない中での主君の暴挙に、彼らは次々と不満を噴出・・・進藤をはじめ、目賀田(めかた)馬淵(まぶち)伊庭(いば)平井(ひらい)三雲(みくも)などなどの主要家臣たちは、ここに反旗をひるがえす決意を固めたのです。

まずは、後藤と縁続きで最も親しかった永田景弘(ながたかげひろ)三上恒安(みかみつねやす)らが、観音寺城本丸の周囲にあった自邸に火を放ち、一族を本領に戻させた後、進藤賢盛らととともに、六角氏と敵対する浅井の支援を求めるべく浅井長政(あざいながまさ)小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)へと使者を走らせます。

かくして永禄六年(1563年)10月7日、進藤をはじめとする永田・平井・三上などなど・・・もちろん後藤一族も、そして、支援を快諾した浅井もが一斉に反旗をひるがえし、観音寺城の建つ繖山(きぬがさやま)を、約1万の軍勢で包囲して、攻め上っていったのです。

Kannonzisoudou 位置関係図→
クリックで大きくなります
(背景は地理院地図>>)

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迎え撃つ義治の手勢は、わずかに300・・・またたく間に観音寺城は炎に包まれ、さらに、愛知川(えちがわ=湖東(愛知郡周辺)を流れる)周辺に陣を張った浅井軍が、これを応援します。

さすがに、ここまでの多勢に無勢では何ともならず・・・やむなく義治は、搦手(からめて)から尾根伝いに安土へと脱出し、反旗に加わっていなかった重臣=蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)を頼って日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町:中野城とも)へと落ちて行きました。

また、箕作城に隠居していた承禎も、息子の暴挙には怒りつつも身の安全のために甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)方面へと逃れて行ったのです。

知らせを聞いた賢秀は1000余騎で以って出陣して主君の義治を出迎えた後、城に籠城しますが、当然、これを追って来た反旗の六角家臣たちと浅井勢との攻防へと突入・・・と、これがなかなかの奮戦ぶりで、六角家臣&浅井勢は苦戦&苦戦、なかなか城を落とせずにいたところ、10月も下旬になって、この賢秀が間に入り、和睦を提案します。

その条件は・・・

  • 浅井は愛知川を境とし、それより南には兵を出さない事 
  • 殺された後藤賢豊の次男=後藤高治(たかはる)に後藤の家督を相続させて、所領も安堵し、今後も六角氏の家臣として以前と変わらぬ待遇をする事 
  • 義治は隠居して政務から離れ、弟の義定が六角家督を相続する事

この3つの条件を提示したことで、六角家臣は納得し、10月21日に和睦が成立しました。

おかげで、何とか観音寺城に戻る事ができた義治ではありましたが、もはや覆水(ふくすい)盆に返らず・・・主君と家臣の間に入った亀裂が元通りに修復される事は無く、六角氏の勢いは、これを以って減速の一途をたどる事になります。

そして、この数年後に、やって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・

永禄十一年(1568年)、第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての信長の上洛に(9月7日参照>>)、道を譲った浅井は生き残り、「通さない!」と阻んだ
六角=【信長の上洛を阻む六角承禎】参照>>
&三好三人衆=【信長の登場で崩壊する三好三人衆】参照>>
は、畿内を追われる事に・・・

もちろん、その後も、信長最大のピンチである金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)の時には、野洲川の戦い(6月4日参照>>)で信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)を攻めもしましたが、もはや以前のような勢いが無くなっていた事は否めません。

まさに・・・
この観音寺騒動が、六角氏のその後の運命を変えた騒動だったのです。
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