2017年11月24日 (金)

三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い

永禄四年(1561年)11月24日、三好義興松永久秀とともに山城勝軍地蔵山に布陣中の六角義賢に攻めた将軍地蔵山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後の混乱する主導権争いに打ち勝ち、畿内に政権を樹立した細川晴元(はるもと)・・・もちろん、政権樹立と言っても、時は室町時代なので、晴元は管領で時の将軍は第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)だったわけですが。。。

その晴元の天下取りに貢献した重臣が三好元長(みよしもとなが)でした。

しかし、もともとの晴元が義晴の弟=足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立していたにも関わらず、政権を握った途端にアッサリと捨てて、それまで敵対していた義晴に乗り換えた事に不満を持った元長が晴元に反発・・・結局、元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げました。(7月17日参照>>)

Miyosinagayosi500a 父の死を受けて、わずか11歳で家督を継いだ三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、おそらくは「自分自身が未だ若過ぎる」と判断してか?しばらくは晴元の従順な家臣として仕えますが、やがて28歳となった天文十八年(1549年)6月、弟たちとの見事な連携プレーによる江口の戦いにて、晴元&彼に味方する三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟らに勝利し、彼らを近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させて畿内を掌握します(6月4日参照>>)

これによって、自らは芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)に拠ったまま、重臣の松永久秀(まつながひさひで)を京都所司代として都の治安維持に当たらせる長慶・・・

この頃には、すでに義晴と晴元は分裂状しつつありましたが、そんな中で坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴が病死すると、第12代=足利義輝(よしてる=義晴の息子)が将軍職を継ぎ、近江守護の六角義賢(よしかた=承禎)らと組んで、対三好の京都奪回作戦を展開していきます(2月26日参照>>)

そんなこんなの永禄元年(1558年)6月の白川口の戦い(北白川の戦い)後の和睦交渉をキッカケに(6月9日参照>>)将軍=義輝は長慶と和解して5年ぶりに京都へと戻るものの(11月27日参照>>)、晴元は近江に留まり、しばらくの間は、反三好の姿勢を崩しませんでした。

もともとの出身地だった阿波(あわ=徳島県)讃岐(さぬき=香川県)に加え、摂津(せっつ=大阪府北中部・兵庫県南東部)の国人たちをも傘下に入れ、都も掌握し、もはや関東の北条氏に勝るとも劣らない・・・いや、都も、そして畿内も抑えた分、事実上の天下人となった長慶・・・

しかし、そんな三好家にも、間もなく陰りが見え始めます。

そのキッカケとも言うべき出来事が、「鬼十河(おにそごう)なる異名で恐れられていた長慶の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入っていた)の死でした。

もちろん、この「恐れられていた」というのは「怖い」という意味では無く、「武将としてスルドイ」という意味ですが、それだけ長慶にとっては重要な右腕だった弟が、永禄四年(1561年)の3月、湯治先の有馬温泉で突然亡くなってしまったのです(5月1日参照>>)

一般的には病没とされますが、あまりに突然だったため、落馬説や暗殺説もあり・・・しかも、この有馬行きに同行していたのが、かの松永久秀であった事、また、この後、三好家に立て続けに不幸が起って衰退の一途をたどる事から、軍記物などでは、久秀を「主人殺しの悪党」とする物もあるくらい・・・

かと言って証拠はどこにも無いので、あくまでその噂は、三好家が衰退した後に活躍する久秀の姿ありきの「推理小説の基本=1番得をした者が犯人」的な論理の域を超えない物なのでしょうが・・・(松永久秀については10月3日参照>>)

その犯人探しは別の機会にさせていただくこととし、
とにもかくにも、この優秀な弟の死で片翼をもがれた形になった長慶・・・これをチャンスと見た六角義賢は、すでに出奔して力を失くしていた晴元に代わって、その息子の細川晴之(ほそかわはるゆき=晴元の次男)を看板に掲げて、三好家に対抗するのです。

永禄四年(1561年)7月28日、同じくここをチャンスと見て亡き十河一存の城=岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)にチョッカイを出していた畠山高政(はたけやまたかまさ=畠山政長の曾孫)と連携した六角義賢は、将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に籠って、長慶側の三好義興(よしおき=長慶の嫡男で嗣子)と対峙するのです。

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●位置関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

義賢自身は、神楽岡(かぐらおか=京都府京都市左京区吉田)に陣取り、馬淵(まぶち)源左衛門蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)永原安芸守(ながはらあきのかみ)らを一軍の将として上洛をうかがいます。

これを受けた三好側では、松永久秀が兵を率いて出陣し、義興勢と連携して六角勢と対陣・・・7月から11月下旬までは、お互いに遠矢(とおや=弓矢による遠距離戦)での交戦程度でありましたが、永禄四年(1561年)11月24日、六角勢のスキを突いた三好勢が白川口(北白川付近)に来襲し、永原&細川の陣営に襲いかかったのです。

勢いに乗じて、ここを突破した三好勢は、馬淵の陣へと迫り、激戦・・・三好軍の将であった三郷修理亮(しゅりのすけ)が馬を刺されて、人馬もろとも転倒し、そこを堀伊豆守(ほりいずのかみ)なる武将が襲いかかって首を討ち取りますが、一方の細川勢にも多くの死者が発生して乱戦に次ぐ乱戦。

そんな中、永原安芸守を討ち取った松永勢は、そのまま将軍山城を突破し、六角義賢の本陣=神楽岡へ1万の軍勢で以って突入します。

そこで六角方では、家臣の三雲定持(みくもさだもち)に命じて、川守城(かわもりじょう=滋賀県竜王町川守・野寺城)の城主=吉田出雲守(よしたいずものかみ)の門下生で日置流弓術(へきりゅうきゅうじゅつ)の名手300余名を選出して高所に陣取らせ、タイミングを見計らって一斉に松永勢に向けて射撃させたのです。

思わぬ攻撃に多くの犠牲者を出してしまった松永軍・・・やむなく、ここで敗走に転じます。

これを見た義賢はすぐに、逃げる松永勢を追撃しようとしますが、蒲生賢秀が
「今のは、タイミングが良く、ゲリラ戦的な形でウマくいきましたけど、寡兵(かへい=少ない兵)で以って大軍を追撃したなら、いずれ、こっちがヤバなりまっせ」
と進言・・・これ以上の深追いは止め、この日の戦いは終わりました。

結局、この戦いは三好家にとっては負け戦となってしまいましたが、一方の六角方でも、義賢に担がれた細川晴之がこの戦いで戦死したとされ、まだまだ三好政権の大勢に影響を及ぼすほどでは無く・・・その後もガッツリと京都を掌握しつつ、義賢らとの攻防が続くのですが、前途したように、結果的には、このあたりから三好家の衰退が始まった事は否めません。

というのも、この戦いの翌年=永禄五年(1562年)の3月に起こった久米田(くめだ・大阪府岸和田市)の戦いにて、すぐ下の弟=三好義賢(よしかた=元長の次男・実休)が戦死・・・さらに翌年には息子の義興が、22歳の若さで病死・・・さらにさらにのその翌年の永禄七年(1564年)には謀反を疑い、2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす)を長慶自身が謀殺してしまうのです。

この、長慶による冬康殺害の要因も様々に語られますが、実のところは、義賢の戦死の後くらいから、長慶はうつ病にかかっていて籠りがちになり、ちゃんとした判断ができていたのかが微妙だったようで、この頃から実際に合戦に出陣して三好家の力となっていたのは松永久秀だったと言われています。

結局、その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は亡くなり(5月9日参照>>)、十河一存の長男であった三好義継(よしつぐ)が、長慶の養子となって三好家を継ぎますが、未だ若い義継の権力地盤は弱く、彼を補佐する松永久秀と三好三人衆三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)らが、三好家の実権を握る事となったうえ、そんな彼らも一枚岩とは言い難く・・・(11月18日参照>>)

そんな時に京都へとやって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・という事になります。
【織田信長の上洛】参照>>
【信長の前に散る三好三人衆】参照>>)
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2017年11月19日 (日)

京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い

大永七年(1527年)11月19日、京都奪回を目指す足利義晴細川高国勢が三好元長柳本賢治らと激戦を繰り広げた東山・川勝寺口の戦いがありました。

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応仁の乱の混乱修復後、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として政権を掌握した細川政元(まさもと)・・・

Hosokawatakakuni600a その政元亡き後に勃発した、細川澄之(すみゆき)細川澄元(すみもと)細川高国(たかくに)の3人の養子たちによる後継者争いに打ち勝った高国は、永正十八年(1521年)に第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して畿内に自らの政権を樹立しました。

しかし、わずか5年後の大永六年(1526年)、重臣の香西元盛(こうざいもともり)に謀反の疑いをかけて上意討ちした事から、元盛の兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が反発・・・籠城して抵抗する彼らに、高国は兵を派遣しますが、この時は手痛い敗北を喰らいます(10月23日参照>>)

Hosokawasumimoto400a そこをチャンスと見たのが、今は亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)・・・

配下の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=之長の甥)兄弟らとともに京へと攻め寄せたかと思うと波多野や柳本と連携して桂川(かつらがわ)の東岸にて激戦の末、大永七年(1527年)2月、高国らを近江(おうみ=滋賀県)へと追いやり、今度は、勝利した晴元らが、義晴の弟=足利義維(よしつな)を奉じて京都を掌握する事となったのです(2月13日参照>>)

とは言え・・・もちろん、将軍=義晴&高国も、このまま黙ってはいられません。

近江守護の六角定頼(ろっかくさだより)を頼って長光寺(ちょうこうじ=滋賀県近江八幡市)に拠った義晴は、その将軍の威勢をフルに使って、諸国の武将に「出陣せよ!」の声をかけ、京都奪回を画策します。

桂川原から5ヶ月後の7月・・・越前(えちぜん=福井県)朝倉(あさくら)能登(のと=石川県北部)畠山(はたけやま)越中(えっちゅう=富山県)椎名(しいな)美濃(みの=岐阜県)斎藤(さいとう)などの援軍を得た義晴は、27日に出陣

これに同調する六角定頼も、1万5千余りの兵を自ら率いて琵琶湖を渡り、坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴を出迎えます。

ここに集結した軍勢は約3万騎・・・これらを率いた義晴と高国は、10月13日に坂本を出発し、一路、京都へと向かい、義晴が若王子(にゃくおうじ=京都市左京区)、高国が神護寺(じんごじ=京都市右京区高雄)朝倉教景(あさくらのりかげ=宗滴)建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)に陣を置き、京都を抑える柳本&三好勢と対峙します。

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東山・川勝寺口の戦い布陣図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして大永七年(1527年)11月19日、いよいよ戦いの幕があがります。

『続応仁後記』によれば・・・
この日、義晴は、その軍勢で、東寺(とうじ=京都市南区九条町)から西七条(にししちじょう=京都市下京区)唐橋(からはし=京都市南区唐橋)鳥羽(とば=伏見区)などに隙間なく兵を配置し、高国も、自ら兵を率いて南方に向けて布陣し、おそらくは南方面から向かって来るであろう敵を待ち構えていたと言います。

しかし、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)方面から京都に入った三好勢は、丹波(たんば=京都府北部・兵庫県北部・大阪府北部)方面からの柳本勢らと連携し合って、京都の北方に進出・・・三好は西院(さいいん=京都市右京区)、波多野&柳本勢が五条(ごじょう=京都市東山区)から七条(しちじょう=同東山区)にかけての法華系寺院に展開し、北からの攻撃を仕掛けたのです。

想定外の方向からの攻撃に戸惑う義晴勢・・・

一方、亡き澄元の娘婿という立場であった河内(かわち=大阪府東部)畠山氏の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)が三好勢に加担すべく参戦・・・500余りの軍勢を率いて川勝寺口(せんしょうじぐち=京都市下京区西京極・泉乗寺口とも)を抑えて、西院に展開する三好勢を合流しようとしますが、そこを朝倉の越前兵が迎え撃ち、こちらも激しい合戦となりました。

この日の戦いは敵味方に多くの死者を出し、それでも決着がつかず・・・疲弊した両者は、ひとまず兵をを退き、しばし対陣する事となりましたが、その後もこう着状態が続いたため、年が明けた1月頃からは一部で和睦交渉が行われるようになります。

やがて、その交渉の主導者であった六角定頼と朝倉教景が、三好元長と和睦した事で、まずは3月に入って朝倉勢が帰国・・・これを受けて諸将も兵を収めて、次々と帰国して行きますが、そもそものモメ事の発端だった柳本賢治は、この和睦劇に不満ムンムン・・・

一方の発端の人である将軍=義晴と細川高国も、和睦には不満だったようですが、どちらも、諸将の加勢が無ければ戦えないのが現状・・・やむなく、彼らも兵を退き、またまた近江へと逃れたのでした。

とは言え、この和睦は、あくまで、今回の東山・川勝寺口の戦いにおける和睦・・・義晴&高国VS義維&晴元の抗争が終わったわけではありませんので、この後も、享禄四年(1531年)4月の箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原での合戦(4月6日参照>>)などの戦いが繰り広げられた後、いよいよ、高国最後の戦いとなる大物崩れ(だいもつくずれ)の戦いへと向かって行きますが、そのお話は、また、その戦いが起こる日付けにて、お話させていただきたいと思いますm(_ _)m

・・・にしても、今回も京都市街真っただ中の市街戦、周辺の建物にも被害が多くあった事が想像できます。
世は戦国とは言え、多くの一般市民も巻き込まれたかと思うと胸が痛いですね。
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2017年10月 7日 (土)

名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動

永禄六年(1563年)10月7日、重臣殺害の一件で近江の国人衆と対立した六角義治が観音寺城から逃走しました。

・・・・・・・・・・・・

六角氏(ろっかくし)は、宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、鎌倉時代に近江(おうみ=滋賀県)六郡(犬山・愛智・神崎・蒲生・栗太・志賀)を与えられた佐々木氏(ささきし)の嫡流が、六角東洞院(京都市中京区)に館を構えた事から、六角氏と名乗るようになったと言います。

室町時代には同族の佐々木道誉(ささきどうよ=京極高氏)に代わって近江守護となり、大名として実力を存分に発揮し、応仁の乱後のいち時には、幕府との対立があったものの、戦国に入った六角定頼(ろっかくさだより)の時代には、細川家の管領職争奪戦に関与したり(5月5日参照>>)、その管領に味方して出陣したり(8月23日参照>>)と、何かと、中央政権から頼りにされる存在=それだけ力がある武将だったわけです。

さらに、定頼の息子=六角承禎(じょうてい=義賢)は、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と対立する(6月24日参照>>)第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)を援助する(2月26日参照>>)事もしばしば・・・

そんな、三好と将軍の抗争も、永禄元年(1558年)6月の白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)を最後に和睦となって後、義輝が京都に戻った(11月27日参照>>)事で、一応の落ち着きを見せますが、一方で、この三好の京都完全掌握状態に不満をつのらせる者もおりました。

大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)竜安寺(りょうあんじ=京都市右京区)といった宗教勢力に公卿や町人・・・勝者であるが故に、時に横暴な態度に出る三好勢に眉をひそめる彼らは、もはや京都の治安維持さえままならない幕府に代わって、六角氏の力に都の平穏を望んだのです。

永禄五年(1562年)3月、承禎は、自らの息子=義治(よしはる)義定(よしさだ)とともに、近江武士や伊賀武士の軍勢を率いて入洛して清水坂に布陣・・・三好や、その配下の松永久秀(まつながひさひで)軍勢を蹴散らして、彼らを山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)へと追いやりました。

・・・と言っても、これは、あくまで京都市内の治安維持を要求するのための出陣・・・3か月後の6月に三好義興(みよしよしおき=長慶の嫡男で嗣子)との和睦が成立した事で、承禎父子はアッサリと近江に戻りました。

この後、すでに出家していた承禎は、箕作城(みつくりじょう=滋賀県東近江市五個荘山本町)に入って隠居し、六角氏内の政権と、本城の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)嫡男の義治に譲りました。

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観音寺城・本丸への石垣

しかし、これがケチのつき始め・・・そう、実は、この義治さんは、未だ18歳。

かの応仁の乱以来、同族で江北(こうほく=滋賀県北部・湖北、現在の彦根あたりより北)を統治する京極氏(きょうごくし)との抗争や、その京極氏に取って代わろうとする浅井氏(あざいし)との争い(4月6日参照>>)など、数あるゴタゴタを何とか治めて、江南(こうなん=滋賀県南部・現在の近江八幡とか安土とかのあたり)地方を制圧して、六角氏を絶頂期に導いたのは、ほぼほぼ、先の六角定頼&承禎の力によるもの・・・

それらを支えて来た重臣たちにとっては、若き義治は実績の無い青二才・・・もちろん、誰だって当主になりたての時は、実績も信用も無い若者なわけですが、そこを、古くからの重臣たちの意見を踏まえつつ、人心を掌握して、うまくまとめあげるのが信任当主の腕の見せ所。

しかし、義治の場合は、それがウマくいかなかった・・・。

義治のやる事なす事にことごとく批判し、何でもかんでも口出しする家臣の筆頭=執権である後藤賢豊(ごとうかたとよ)をうっとぉしく思い、「このままでは、京極氏に取って代わる浅井のようになってしまうのではないか?」との不安を抱いていったのです。

そんなこんなの永禄六年(1563年)10月1日、観音寺城へ賢豊&壱岐守(賢豊の長男・実名は不明)父子を呼び出した義治は、配下の者に命じて老蘇の森(おいそのもり=滋賀県近江八幡市安土町東老蘇)付近で殺害してしまったのです。

なんと、この時の配下の者は武装兵500を引き連れて完全包囲のうえでの殺害という事なので、いわゆる暗殺ではなく、完全に、その威勢を見せつけるための殺害・・・義治にとっては、「俺こそが当主」と、その上下関係を知らしめるための行為だったのかも知れません。

なんせ、この直後、他の重臣たち全員に、今すぐ観音寺城に集まるよう緊急命令を出しているのですから・・・

しかし、彼ら重臣が集まったのは呼び出された観音寺城ではなく、かの後藤とともに『六角氏の両藤』と称された、もう一人の大物家臣=進藤賢盛(しんどうかたもり)の屋敷だったのです。

未だ強固な信頼関係が構築されていない中での主君の暴挙に、彼らは次々と不満を噴出・・・進藤をはじめ、目賀田(めかた)馬淵(まぶち)伊庭(いば)平井(ひらい)三雲(みくも)などなどの主要家臣たちは、ここに反旗をひるがえす決意を固めたのです。

まずは、後藤と縁続きで最も親しかった永田景弘(ながたかげひろ)三上恒安(みかみつねやす)らが、観音寺城本丸の周囲にあった自邸に火を放ち、一族を本領に戻させた後、進藤賢盛らととともに、六角氏と敵対する浅井の支援を求めるべく浅井長政(あざいながまさ)小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)へと使者を走らせます。

かくして永禄六年(1563年)10月7日、進藤をはじめとする永田・平井・三上などなど・・・もちろん後藤一族も、そして、支援を快諾した浅井もが一斉に反旗をひるがえし、観音寺城の建つ繖山(きぬがさやま)を、約1万の軍勢で包囲して、攻め上っていったのです。

Kannonzisoudou 位置関係図→
クリックで大きくなります
(背景は地理院地図>>)

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迎え撃つ義治の手勢は、わずかに300・・・またたく間に観音寺城は炎に包まれ、さらに、愛知川(えちがわ=湖東(愛知郡周辺)を流れる)周辺に陣を張った浅井軍が、これを応援します。

さすがに、ここまでの多勢に無勢では何ともならず・・・やむなく義治は、搦手(からめて)から尾根伝いに安土へと脱出し、反旗に加わっていなかった重臣=蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)を頼って日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町:中野城とも)へと落ちて行きました。

また、箕作城に隠居していた承禎も、息子の暴挙には怒りつつも身の安全のために甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)方面へと逃れて行ったのです。

知らせを聞いた賢秀は1000余騎で以って出陣して主君の義治を出迎えた後、城に籠城しますが、当然、これを追って来た反旗の六角家臣たちと浅井勢との攻防へと突入・・・と、これがなかなかの奮戦ぶりで、六角家臣&浅井勢は苦戦&苦戦、なかなか城を落とせずにいたところ、10月も下旬になって、この賢秀が間に入り、和睦を提案します。

その条件は・・・

  • 浅井は愛知川を境とし、それより南には兵を出さない事 
  • 殺された後藤賢豊の次男=後藤高治(たかはる)に後藤の家督を相続させて、所領も安堵し、今後も六角氏の家臣として以前と変わらぬ待遇をする事 
  • 義治は隠居して政務から離れ、弟の義定が六角家督を相続する事

この3つの条件を提示したことで、六角家臣は納得し、10月21日に和睦が成立しました。

おかげで、何とか観音寺城に戻る事ができた義治ではありましたが、もはや覆水(ふくすい)盆に返らず・・・主君と家臣の間に入った亀裂が元通りに修復される事は無く、六角氏の勢いは、これを以って減速の一途をたどる事になります。

そして、この数年後に、やって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・

永禄十一年(1568年)、第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての信長の上洛に(9月7日参照>>)、道を譲った浅井は生き残り、「通さない!」と阻んだ
六角=【信長の上洛を阻む六角承禎】参照>>
&三好三人衆=【信長の登場で崩壊する三好三人衆】参照>>
は、畿内を追われる事に・・・

もちろん、その後も、信長最大のピンチである金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)の時には、野洲川の戦い(6月4日参照>>)で信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)を攻めもしましたが、もはや以前のような勢いが無くなっていた事は否めません。

まさに・・・
この観音寺騒動が、六角氏のその後の運命を変えた騒動だったのです。
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2017年9月25日 (月)

奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦

天文十五年(1546年)9月25日、越智氏の貝吹山城を筒井順昭が攻めました。

・・・・・・・・・・・

貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)は、極彩色の壁画が発見されて一躍有名になった高松塚古墳(たかまつづかこふん)などがある明日香(あすか)から近鉄電車を挟んで西側にある標高200mほどの貝吹山の山頂に築かれた山城です。

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地でしたが、南北朝の動乱を経て寺社勢力そのものよりも、寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちが、興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』などとして力を持ちはじめ、やがて戦乱の世を生き抜く武士として群雄割拠するようになるのです。

ちなみに『衆徒』の代表格が筒井(つつい)、『国民』の代表格が越智(おち)十市(とおち)で、この3家に箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称されます。

Kaibukiyamazyoukoubousen●位置関係図→
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

 
で、今回の貝吹山城は、この中の越智氏が構築したとされる城で、この南西にある越智館越智城(おちじょう=同高取町)詰の城(つめのしろ)=万が一越智本城が落ちた時に、一旦退いて最後の決戦を挑む城として構築されたと言います。

とは言え、戦国に入って、この城は何度も戦場になっています。

天文四年(1535年)には、ライバルに撃ち勝って管領(かんれい=室町幕府内の将軍補佐役)の細川家後継者の座を得た細川晴元(はるもと)と組んで、主家の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)三好元長(みよし もとなが=長慶の父)を追い落として(7月17日参照>>)ノリノリ気分満載だった木沢長政(きざわながまさ)攻め落とされ、一時は高取城(たかとりじょう==同高取町)へと避難するという一幕もありました。

おかげで、かつては互角に戦い、大和を二分する勢力だった筒井と越智の間に、ここらあたりから大きな差ができ始め、これから後の越智は、何かと筒井の圧迫を受けるようになるのです。

そんなこんなの天文十五年(1546年)、筒井氏は筒井順昭(つついじゅんしょう)の代になって、さらに勢いを増し、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで大和の大半を手中に治めていましたが、ここに来ても、まだ越智氏は存在し、その存在が順昭の目の上のタンコブでもありました。

これまで、群雄割拠&戦国と言えども、大和ではそこまで兵士を大動員した大きな戦いは少なく、少人数の小競り合いのような戦いが多かったのですが、ここに来て大和統一に手が届くようになった順昭は、まさに兵を大動員して越智氏壊滅に乗り出したわけです。

一方の越智氏は、その歴史が古いぶん、いくつもの家系が入り乱れていて、一党を統率するには難しい状況だったのだとか・・・

かくして天文十五年(1546年)9月25日、自ら約5000の軍勢を率いた筒井順昭が貝吹山城を攻めたのです。

順昭の叱咤に士気上がる筒井軍と、積極的な戦闘を避けたい越智陣営・・・城に籠って出て来ない敵に対し、筒井勢は周辺の家々に火を放って挑発して回りました。

そんな中でも何とか防戦を続ける越智勢でしたが、結局のところ、その兵力の差はいかんともし難く・・・ほどなく和睦して城を明け渡し、越智勢は高取城へと撤退したのでした。

『多聞院日記』では、この貝吹山城攻防戦に撃ち勝った事で、「筒井は大和を統一した」と称していますが、実際には、まだもう一波乱・・・

3年後の天文十八年(1549年)には、筒井から貝吹山城を任された城将が私用で出かけた留守を見計らって、急いで軍兵をかき集めた越智勢が一気に攻めかかり、堀を破って本丸間近まで攻め寄せ、「あわや落城」の寸前までいった事もありました。

ただ、この時は、寸前のところで、筒井の援軍が駆けつけ、越智の寄せ手の背後を突いた事で形勢が逆転し、越智による城の奪還は成功しなかったのですが・・・

とは言え、勢力を増す筒井に対し、越智の士気も徐々に低迷し、やがて順昭の晩年期には、越智は、彼らが持つ城とともに筒井の傘下となって存続していく事になるのですが、そんな貝吹山城に手を伸ばして来たのが、大和へと侵入して来た松永久秀(まつながひさひで)でした。

もともとは、畿内で一大勢力を誇った三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として歴史上に登場する久秀ですが、永禄二年(1559年)から大和への侵攻を開始し、奈良盆地に点在した諸城を攻略しつつ(11月24日参照>>)、同年には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、いつしか主家に取って代わるほどの勢いを持ちはじめ、

翌・永禄八年(1565年)には、三好氏の縁者である三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)とともに第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)して(暗殺には久秀は関与していない説もアリ)第14代将軍=足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立し、さらに、順昭の死を受けて筒井氏を継いだ嫡男の筒井順慶(つついじゅんけい)筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)をも攻め立てて奪取していたのです(11月18日参照>>)

そんな勢いに、いち時は、その久秀に奪われた貝吹山城でしたが、このわずかの間で久秀と三好三人衆が決裂し、三人衆が順慶の味方となった事で翌・永禄九年(1566年)には、順慶が筒井城を奪回・・・これをチャンスと見た越智伊代守(おちいよのかみ=越智家増?)は、貝吹山城に詰めていた久秀方の生田(いくた)という者を調略して味方につけ、彼の手引きにより貝吹山城を奪い返したのでした。

しかし、この貝吹山城は奈良から吉野(よしの)へと出る交通の要所・・・永禄十一年(1567年)に、またもや久秀に、この城を狙われます。

しかも、この時の久秀は、この9月に第15代将=足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たし(10月18日参照>>)、かの三好三人衆をも蹴散らした(9月29日参照>>)織田信長(おだのぶなが)の傘下にチャッカリと納まり、イザとなったら、その援軍も期待できるイケイケムードだったわけで・・・

ところが、この時の越智軍は、見事な籠城戦を演じ久秀方は撃沈・・・多くの戦死者を出して撤退する事となしました。

しかし・・・当然、久秀は諦めません。

翌・永禄十二年(1569年)5月10日、またもや久秀は貝吹山城を攻めます。

力に物を言わせて猛攻撃を仕掛ける久秀軍でしたが、越智も必死のパッチの抵抗・・・やはり多くの戦死者を出した久秀は、やむなく力攻めから長期の持久戦へと戦略を変更し、城と外部の連絡を遮断して貝吹山城を兵糧攻めにするのです。

閉ざされた中で、約半年間耐えた貝吹山城でしたが、それも時間の問題・・・やがて襲い来る激しい飢えに力尽き、同年の11月4日、久秀方に城は明け渡される事となったのです。

こうして貝吹山城は久秀の物となり、越智氏一党は高取城を目指して落ちて行きましたが、ご存じのように、その後の久秀は信長と敵対(10月3日参照>>)し、代わって順慶が信長派となった頃、信長が命じた城割(しろわり=後の一国一城制のような物)(8月19日参照>>)により、貝吹山城は破却されました。

また、越智氏は・・・
信長死後に羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の傘下となった順慶とともに存続していましたが、天正十一年(1583年)、順慶側に寝返った家臣によって当主が暗殺されて滅亡・・・おそらくは悠久の古代物部(もののべ)からの流れを汲む越智氏の血筋は、ここに終焉となったのでした。
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2017年9月19日 (火)

謙信の祖父・長尾能景が討死~般若野の戦い

永正三年(1506年)9月19日、越中で起こった一向一揆の鎮圧に侵入した長尾能景が般若野の戦い(芹谷野の戦いとも)で討死しました。

・・・・・・・・・・

比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の勢力から逃れて、北陸へとやって来た本願寺第8代=蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)が、文明三年(1471年)にその拠点となる吉崎御坊(よしざきごぼう=福井県あわら市)を建てた事で、北陸が一気に本願寺宗徒の聖地となる中、長享二年(1488年)に、加賀(かが=石川県)守護の富樫(とがし)家内の勢力争い(7月26日参照>>)に乗じてその富樫を倒し、以後100年に渡る百姓(本願寺宗徒)の持ちたる国を誕生させたのが、有名な加賀一向一揆です(6月9日参照>>)

当然ですが・・・
この一向一揆勢力が加賀一国に留まるワケはなく、徐々に勢力拡大を計っていく事になりますが、そんなこんなの永正三年(1506年)、春頃から北越で一向一揆の動きが活発になって来て、やがて越中(えっちゅう=富山県)が脅かされるようになって来ます。

『本朝通鑑(ほんちょうつうがん)には、
「永正三年六月、加賀一向一揆群起こし越中の国を寇す。国土遊佐、神保、土肥、椎名、戦に敗れ、越後国に至りて、援を長尾能景に求む」
とあります。

ご存じのように、室町時代は、幕府から任命された守護(しゅご=県知事)が各地を治めていましたが、その領地が複数あるため、当然、一人では治め切れないので、各地には守護代(しゅだい)という配下の者を置いて、事実上、守護代がその現地を治めていたわけです。

しかし、中央の勢力が衰え始める戦国時代になると、力で以って守護代が守護にとって代わる下剋上(げこくじょう)が頻繁に起こるようになり、その最たるものが上記の加賀一向一揆=百姓が守護にとって代わったという事になるワケですが、

そんな中で、当時の越中守護は畠山尚順(はたけやまひさのぶ)・・・この尚順は、あの応仁の乱の主要メンバーの一人=畠山政長(まさなが)(1月17日参照>>)の息子ですが、以前も書かせていただいたように、畿内の畠山の領地の攻防に必死のパッチ(7月12日参照>>)状態で、もはや「越中守護=畠山」の時代は政長の死を以って終わった感がハンパなく・・・

なので、越中に加賀一向一揆が侵攻してきた場合、その盾となるのは、守護代の遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)といった面々・・・しかしながら、現時点ではなかなかその対策が立てられない状況でした。

となると、いくら、ほぼほぼ名ばかり状態となっていても守護は守護・・・尚順は、同じ守護仲間の越後(えちご=新潟県)守護の上杉房能(うえすぎふさよし)越前(えちぜん=福井県)守護の朝倉貞景(あさくらさだかげ)らに援助を要請・・・受けた彼らとて、加賀一向一揆がどんどん大きくなって越中を侵食すれば、いずれは隣接する越前や越後にも波及して来るわけですから、ここは一つ、連携を組んで対処しなければ!

てな事で、房能は配下である越後守護代の長尾能景(ながおよしかげ)を越中へと派遣するのです。

この能景さんは、ご存じ上杉謙信(うえすぎけんしん)ジッチャンに当たる人物で、実のところは、先代守護の上杉房定(ふささだ)とはウマくいっていたものの、その息子の房能とはあまりシックリいっていなかったようですが、現時点では上司&部下の関係ですし、今は自国が危険に晒されている一大事ですので、個人的な肌の合わなさをアレコレ言ってる場合じゃござんせん。

かくして能景は、永正三年(1506年)8月、大軍を率いて春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣したのです。

おりしも、この8月9日、越前では、貞景の叔父である朝倉宗滴(そうてき・教景)九頭竜川(くずりゅうがわ・福井市)にて一向一揆に勝利(8月9日参照>>)したばかりですから、おそらく隣国越前の本願寺門徒は疲弊しているはず・・・このチャンスを逃すわけにはいきません。

ちなみに、この時、越中一向一揆に味方していた越後の武将たちを鎮圧するべく蒲原方面(かんばら=新潟県三条市や長岡市付近)に出陣していたため、息子の長尾為景(ためかげ=謙信の父)は、父に同行しませんでした。

こうして越中へと侵入した長尾軍・・・越中に入るやいなや、敵対する鈴木国重(すずきくにしげ)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)府久呂兼久(ふくろかねひさ)滑川城(なめりかわじょう=富山県滑川市)赤川久次(あかがわひさつぐ)東岩瀬城(ひがしいわせじょう=富山県富山市)などを次々と撃破して進み、8月18日には、越中守護代家の神保一族の神保慶明(じんぼうよしあき=神保良衡の説もあり)と合流して、蓮台寺(れんだいじ=富山県富山市)周辺でも一揆勢を撃ち破り、いよいよ、越中一向一揆の本拠地である砺波(となみ=富山県礪波市周辺)あたりへと攻め込んでいきます。

とは言え、一向一揆衆もなかなかの奮戦・・・しかも、ここで加賀や越前の一向一揆衆にも援軍を求めます。

先に書いたように、戦いに敗れたばかりの越前の一向一揆衆ではありましたが、「死なば極楽!」との合言葉のもと、彼らが命知らずの軍団である事、また、ここ越中を占領されたならば、当然、加賀へも越前へも敵が侵攻して来る事は明白で、そうなれば、せっかく樹立した本願寺共和国も潰されるが必至・・・という状況に、必死で立ち向かって来るのでした。

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般若野の位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永正三年(1506年)9月19日、長尾軍は越中増山城(ますやまじょう=富山県礪波市)の麓に広がる般若野(はんにゃの)において一向一揆衆と戦う事になるのです。

古くは源平の昔、あの木曽義仲(きそよしなか=源義仲)が戦った般若野の地(5月9日参照>>)・・・東部に丘陵を見てとれる草原に布陣する両者・・・開戦を知らせるホラ貝の音とともに、長尾軍は一気に南西方面へと押しまくるのです。

数の上では一向一揆側が有利ではありますが、長尾軍は戦闘のプロ・・・越中に入った後も、これまで何度も蹴散らして来たように、ここでも、難なく一向一揆を撃破できる・・・

・・・はずでした。

ところがドッコイ、ここで守山城(もりやまじょう=富山県高岡市・二上城とも)から撃って出て、今まさに南西に向かって押しまくる長尾軍の背後へと回ったのが越中守護代家の当主である神保慶宗(じんぼうよしむね)・・・

そう、実は、これまで一向一揆は、越中の守護代たちに再三に渡って使者を送り、一揆側の味方になってくれるよう呼び掛ける懐柔策を取っていたのです。

慶宗ら守護代の心の内としては・・・
「守護の畠山尚順も、えぇかげんうっとぉしいヤツやのに、そんな中で命令聞いて一向一揆を破ったとしても、結局、状況は今のままやん。
それやったら、このチャンスに守護側を蹴散らして、名実ともに俺らが支配した方が得策やんけ」
(←心の内なので、あくまで推測です)
と思っていた・・・そこを、一向一揆の懐柔策がくすぐったわけです。

激戦の中で、いきなり背後に立たれ、退路を失った長尾軍は、さすがに大混乱となります。

その大混乱の中、奮戦する能景は戦死・・・主だった武将たちも次々と討たれ、長尾軍は壊滅しました。

増山城跡の近くには、この時、能景の死を悼んだ神保一族の神保良衡によって、その首と胴体をつないで埋葬されたとされる能景塚(砺波市頼成新)が、今も存在します。

ところで・・・
かの戦地にて父の死を知った息子の為景・・・・
「コレって、大した戦略も無いままにそもそもの出陣命令を出した上杉房能に軍事的責任があるんちゃうん?」
と、命令しっぱなしで実質的に動かなかった房能に激怒・・・

翌・永正四年(1507年)に、房能の養子の定実(さだざね)を抱き込んで謀反を起こし、結局は越後守護代の長尾家が守護に取って代わるのですが、そのお話は2009年8月9日の長尾為景~守護を倒して戦国大名への第一歩】>>でどうぞ

一方、越中国内ではこの戦いの後、神保をはじめとする越中の有力武士たちは、一向一揆との協調路線で進んで行く事になりますが、それはそれで、国内全土を統率する者を持たないそれぞれの武士同士の覇権争いとなって国内は混乱したままなわけで・・・

やがて、祖父&父の無念を晴らすがのごとく、この越中に侵出して来るのが為景の息子=長尾景虎(ながおかげとら)・・・ご存じ上杉謙信ですが、そのお話は約半世紀後の3月30日【上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い】>>でご覧あれ。。。

もちろん、そこには、それぞれに世代交代した神保&椎名らも登場します。
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2017年9月13日 (水)

織田信長、最愛の女性~生駒吉乃

永禄九年(1566年)9月13日、織田信長・最愛の女性で、側室として二男一女をもうけた生駒の方が39歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

と言っても、正史や一級資料にほとんど登場しない事から、かなり謎多き女性です。

亡くなった日付も、今回は9月13日でご紹介しましたが、5月13日説もあります。
(wikiは5月13日になってるので、ひょっとしたらソッチの方が一般的なのかも…)

名前も、正式には生駒家宗(いこまいえむね)の娘とあるだけで、本名もわからず、没年齢も、信長の6歳年上の39歳説と、4歳年下の29歳説があります。

でも、信長は、正室の濃姫(のうひめ=帰蝶)(2月24日参照>>)との間に子供ができなかった一方で、「側室として二男一女をもうけた」=「彼女が産んだ男子が後継ぎになるんだから…」と思いきや、確実なのは、次男の信雄(のぶお・のぶかつ)と長女の徳姫(とくひめ・五徳)のみで、生年のハッキリしない嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)は、彼女の子供では無い可能性もあるのだとか・・・

とにもかくにも、その伝承の多くが、偽書の疑いのある『武功夜話(ぶこうやわ)の出典である事から、「疑わしい」との見解もあるにはあるのですが、とかく古文書の真偽なんて物は原本を確認しない事には何とも言えない物でして・・・

現に、この『武功夜話』の場合でも、それまで偽書説派だった歴史家さんが、原本を見た途端に肯定派に回ったなんて事もありますし、専門家の間でも意見が分かれているのが現状ですので、『武功夜話』そのものの真偽に関しては、原本をナマで見る事のできる専門家の方々に委ねたいと思います。

また、例え一級資料であったとしても、中に書いてある事がすべて正しいわけでは無いですし、まして『武功夜話』は、江戸時代に書かれた『軍記物』に分類される物ですので、個々のエピソードについては、それぞれ個別に検討していかなくてはならない物・・・

なので、今回は、そんな事を踏まえつつ、一般的に語られる信長の側室=生駒の方のお話を、『武功夜話』に登場する吉乃(きつの)というお名前で、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

尾張の国(愛知県西部)丹羽郡小折村(にわぐんこおりむら=江南市)馬借(ばしゃく=運送業)を営む経営者=生駒家宗の娘として生まれた吉乃は、はじめ、土田弥平次(どたやへいじ・つちだやへいじ)という人物のもとに嫁ぎますが、彼が、弘治二年(1556年)に戦死してしまった事から、実家へと戻り、その後は生駒家で生活していました。

この1度目の結婚相手の土田弥平次の土田氏が、生駒氏の縁者であったらしく、そんな関係からの婚姻のようですが、この土田氏が、信長の生母=土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)の出自筋に当たり、土田弥平次は土田御前の甥だったとも言われ、そうなると、信長とも縁続き・・・

Odanobunaga400a という事で、信長は、度々、この生駒家に出入りしていたようで・・・

もちろん、そこには、馬借という商売柄、近隣の情報が集まりやすく、その情報収集のために、信長が出入りしていたであろう事も、容易に想像できるわけですが・・・

そんな中で、出戻りとは言え、色白の美人で、やさしくて控えめな・・・いや、おそらく、二人が出会った頃は、未だ10代後半だった信長にとって、すでに結婚を経験してる親戚のキレイなお姉さんに母の面影を見たのかも知れません。

なんせ、母の土田御前は、幼い頃から信長を嫌って、「弟の信行(のぶゆき)(11月2日参照>>)ばかりを可愛がっていた」なんて言われてますから・・・その包み込むような大人のやさしさに母を追ったとしても不思議ではありません。

また、同じく、この頃、それまで駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を放浪していた生活から地元の尾張に戻って来ていた藤吉郎(とうきちろう)=後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、この生駒屋敷に出入りしていて、その天然の明るさから、吉乃とも親しく話すようになり、

「この人、オモシロイ人(*^-^))」
と吉乃がなったところで、
「馬のお世話でも何でもしますんで、どうか、殿さまにお口添えを…」
とと切り出して、吉乃が信長に彼を紹介・・・有名な「信長の草履を温める」エピソードも、実は、生駒屋敷での出来事だったなんて事も言われます(信長と秀吉の出会いは諸説ありますが…)

とにもかくにも、そうこうしているうちに、ほどなく吉乃は信長の子を身ごもり、正室=濃姫に気を使った信長は、郡内のとある屋敷で、ひっそりと出産させたのだとか・・・。

で、弘治三年(1557年)頃に長男を産んでから、次男→長女と、吉乃は毎年のように子供を出産しますが、ご存じのように、この頃から信長本人は、
桶狭間(おけはざま)の戦い(5月19日参照>>)に、
美濃(みの=岐阜県)侵攻(5月14日参照>>)に、
尾張統一(11月1日参照>>)に、
と大変忙しくなり、吉乃のもとにはおいそれと通えない日々が続くわけで・・・

一方の吉乃は、3人目の子=長女を産んだ後の、いわゆる「産後の肥立ちが悪い」という状況になり、病床に伏せるようになってしまいます。

そんな中、永禄六年(1563年)に美濃攻めの拠点とすべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に小牧山城を構築した信長は、この城に吉乃用の御台御殿(みだいごてん)なる建物を建て、彼女を住まわせるために呼び寄せようとしますが、ここで初めて、彼女が病気である事を知ったのだとか・・・

しかも
「もはや、動かすのも難しいかも…」
と、聞いた信長は、慌てて生駒屋敷に駆けつけ
「忙しさのあまりに会いに来なかった事を許してくれm(_ _)m
これからは、新居でゆっくりと養生したらええ」

と・・・

その言葉に、彼女は大いに喜び、信長の手を握りながら
「ありがとう」
と・・・

そして、残った力を振り絞って輿(こし)に乗り、小牧山城へ入城・・・家臣たちの前で、信忠や信雄の生母として信長から紹介され、彼女はここで、正式に側室となったとされます。

そんな彼女は、
「こんな立派な御殿が、私の家やなんて…夢のよう」
と涙を流しながら感激にに浸っていたのだとか・・・

その後は、信長も頻繁にお見舞いに訪れていたようですが、残念ながら、永禄九年(1566年)9月13日病が快復する事無く、彼女は帰らぬ人となったのです。

一説には、「信長には側室が22人ほどいた」とも言われますが、その中でも、やはり吉乃は特別扱いで、その死に際して信長は号泣したとされ、「彼女が信長最愛の女性だった」というのが一般的な見方となっています。

わからない事が多く、その実態がほとんど掴めない吉乃という女性・・・

しかし、その心の激しさとやさしさが交互に見え隠れする信長という人・・・そんな彼のハートを射止めた彼女は、信長の良いところも悪いところも受け止めるような大きな器を持った女性であった事でしょう。
個人的なイメージでは、やっぱ、信長より年上かな?

彼女の死の翌年=永禄十年(1567年)に、念願の稲葉山城(いなばやまじょう=)を陥落(8月15日参照>>)させた信長は、さらに、その翌年、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京へと上る(10月18日参照>>)事になります。

自分の実家に通っていたハチャメチャな少年が、天下への一歩を踏み出した事・・・彼女は、空の上から垣間見て、ホッと胸をなでおろした事でしょう~いや、母なる気持ちなら逆に「また、心配の種が増える~」と、気を揉んでいたかも知れませんね。
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2017年9月 7日 (木)

足利義昭を奉じて~織田信長の上洛

永禄十一年(1568年)9月7日、足利義昭の要請に応えて上洛する織田信長が、美濃を出立しました。

・・・・・・・・・・

ご存じの足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛ですが、これまでも、このブログ内のいろんな所でチョコチョコ出て来てますので、内容がかぶり気味になるかとは思いますが、とりあえず今回は、信長上洛の様子を、時系列的にまとめてご紹介してみたいと思います。

・‥…━━━☆

兄である第13代将軍・足利義輝(よしてる)が、松永久秀(まつながひさひで)三好三人衆らに暗殺された(5月19日参照>>)永禄八年(1565年)5月、幕臣の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らの手引きにより幽閉先から脱出した義輝の弟=足利義昭は(7月28日参照>>)越前(福井県)一乗谷朝倉義景(よしかげ)のもとに身を寄せながら、自分を担ぎあげて上洛してくれそうな戦国大名たちに対して、せっせとお誘いの手紙を送るのですが、なかなか色よい返事をしてくれる大名は現れず・・・

しかし、そうこうしているうちの永禄十一年(1568年)2月8日、かの久秀と三好三人衆が擁立した義輝の従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)に朝廷からの許しが出て、第14代室町幕府将軍宣下がなされ、事実上、畿内は義栄以下、久秀や三好三人衆が牛耳る事態に・・・。

これまで、「できれば名のある大名に京都に連れてってもらいたい!」と願っていた義昭ですが、上記の通り、待った無しの状況となり、以前から朝倉家臣の明智光秀(あけちみつひで)なる武将が勧めてくれる織田信長へ方針転換・・・永禄十一年(1568年)7月、「これからは、織田くんの事を、ひたすら頼りにしたいんやけど…」と信長に打診したのです(10月4日参照>>)

当時の信長は・・・
永禄三年(1560年)に桶狭間(おけはざま)(5月19日参照>>)今川義元(いまがわよしもと)を破って後、永禄五年(1562年)に尾張一国を統一・・・今回の義昭接触の前年の永禄十年(1567年)に斎藤氏から稲葉山城を奪い(8月15日参照>>)、その地を岐阜と改めて本拠とし、あの『天下布武』の印鑑を使い始めたばかり・・・

『天下布武』とは、「天下に武を布(し)く」=「俺の武力で天下を治めるゾ」ってな意味(別解釈もアリ)ですから、「この岐阜の地から、まずは畿内を制して…」と天下を視野に入れていた信長にとっては、今回の事は、まさに渡りに舟・・・

「微力ながら、天下のために忠義を尽くします」と、義昭の申し入れを快諾した信長は、早速、義昭のもとに使者を送ると同時に、美濃の立正寺(りっしょうじ=立政寺=岐阜県岐阜市)に宿所を準備します。

永禄十一年(1568年)7月25日、美濃へと到着した義昭ご一行の部屋に準備されていたのは、ドド~ンと銅銭千貫文(現在だと一億超えの現金)と、その横には、これまたドド~ンと、太刀や鎧に始まる豪華絢爛な武具の数々・・・

大喜びする義昭らを見て、一刻も早い上洛を決意した信長は、近江の佐和山(さわやま=滋賀県彦根市)へと向かい、妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)に初対面した(2011年6月28日の前半部分参照>>)後、その佐和山から、義昭の使者に自分の使者をつけて、南近江(滋賀県南部)を支配する大物=六角承禎(じょうてい・義堅)(10月7日参照>>)の説得にあたります。

「義昭公が上洛されるので、忠誠の証として人質を出し、それ相当の対応してくれはりますか?」と・・・しかし、承禎の答えはNOでした。

しかし、まだ諦めず、7日間渡って説得を続け、「義昭公が将軍になったあかつきには、承禎さんを幕府所司代(しょしだい=侍所の副長官)に任命するて言うてはりますよって…」と提示しましたが、やはり承禎は拒否し続けました。

こうなると、力づくで近江を制して上洛するしかありません。

Nobunagazyouraku
信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永禄十一年(1568年)9月7日「一気に近江を平らげて、すぐにお迎えを差し上げますよ」と、義昭に別れの挨拶をした信長は、尾張・美濃・伊勢・三河の軍勢を率いて出陣したのです。

その日は平尾村(岐阜県不破郡垂井町)に陣を取り、翌日には近江の高宮(滋賀県彦根市)に到着・・・ここで2日間の休養をとり、そこに浅井の軍も加わった11日には、愛知川(えちがわ)付近に滞在して、自らが馬に乗って周辺の状況を確認し、周辺に散らばる六角氏傘下の城のうち、承禎らの籠る観音寺城(かんのんじじょう)箕作城(みつくりじょう)との和田山城(わだやまじょう)の3ヶ所に狙いを定めます。

翌12日は、自らの軍勢を3隊に分けて、それぞれに配置して攻撃を開始・・・13日には観音寺城の承禎らも夜陰に紛れて逃走し、世に言う観音寺城の戦いは織田方の勝利に終わりました(9月13日参照>>)

ここで、約束通り、立正寺の義昭のもとに不破光治(ふわみつはる)を派遣して「どうぞ、ご上洛を…」と・・・これを受け取った義昭は、ようやく岐阜を出立し、21日には米原(まいばら)、22日には安土(あづち)桑実寺(くわのみでら)に到着・・・

一方の信長は、24日には守山(もりやま=滋賀県守山市)まで進出し、翌25日は琵琶湖を渡れず瀬田で足踏みしたものの、26日には琵琶湖を渡り、三井寺(みいでら=園城寺・大津市)極楽院に陣取りました。

Kouyoutoufukuzicc 翌27日には、義昭も琵琶湖を渡り、同じく三井寺の光浄院に入り、さらに翌28日には、信長が東福寺(とうふくじ=京都市東山区)に陣を移動させると同時に、柴田勝家(しばたかついえ)蜂屋頼隆(はちやよりたか)森可成(もりよしなり)坂井政尚(さかいまさなお)の4名に先鋒を命じて、三好三人衆の一人=石成友通(いわなりともみち=岩成友通)の拠る勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)方面へと攻撃を仕掛けさせます。

もちろん、友通も抵抗しますが、この日のうちに150余の首を挙げられ、翌29日には、信長自身が出馬した事によって降伏し、勝竜寺城は開け渡されました。

ちなみに・・・一般的に「足利義昭を奉じて信長が上洛」という場合、上記の三井寺に入った9月26日か、東福寺に陣を張った9月28日が「上洛の日」とされる事が多いです。

その後、30日に信長が山崎(やまざき)に着陣すると、先鋒は三人衆の一人=三好長逸(みよしながやす)が籠る芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)へ・・・そしてここも、その日の夜には敵兵が退城し、織田方の物となります。

この時、いち時は畿内を掌握して事実上の天下人だった事もある細川晴元(ほそかわはるもと)(2月13日参照>>)の息子=細川昭元(あきもと)は、三好三人衆に担がれて、名目上の管領(かんれい=将軍の補佐役)となっていましたが、長逸とともに芥川山城を退去し、14代将軍の義栄もつれて阿波(あわ=徳島県)へと逃れました。

また、三人衆の残りの一人=三好政康(まさやす)も、いずこともなく身を隠しました。

続いて10月2日には池田勝正(いけだかつまさ)池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を攻撃・・・ここでは激しい戦いとなり、敵味方ともに多くの死傷者を出しますが、最後には城に火をかけ城下町を焼き払った事から、勝正は人質を差し出しての降伏となりました。

ちなみに、この時、14日間に渡って芥川山城に滞在していた信長のもとには、「この機会に…」と面会を希望する人が後を絶たず、門前には行列ができたとか・・・その中には、わずかの間に三好三人衆と袂を分かつ(11月18日参照>>)事になった松永久秀もいて、彼は、信長に名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上して、また、今井宗久(いまいそうきゅう)も名物の茶壷「松島」&茶入れ「茄子」を献上して、この時に信長の傘下に入っています。

10月14日には、信長は京都に戻り、一旦、本国寺(ほんこくじ=京都市下京区・本圀寺)に入った後、軍勢を引き連れて清水寺(きよみずでら=京都市東山区)へ・・・この時、信長は、配下の者には規律を守るよう徹底し、周辺の警備も厳重にした事から、兵士たちの狼藉や、治安を乱すような事件も起こらず、都の人々は、「これで平和になるヽ(´▽`)/」と胸をなでおろし、大いに喜んだと言います。

その後、畿内に残っていた抵抗勢力も、10日余りで徐々に退散して行く中、信長は、空となっている細川昭元の屋敷をリフォームして義昭の滞在する御殿とし、義昭はお引越・・・御殿とともに太刀と馬を献上した信長に、義昭は大喜びで、その日の宴会では、自ら信長にお酌をしてみせたとか・・・

かくして永禄十一年(1568年)10月18日、足利義昭は、朝廷からの将軍宣下を受け、正式に、第15代室町幕府将軍に就任したのです(10月18日参照>>)

・‥…━━━☆

以上、今回は、信長の上洛の状況を、日付を追って書かせていただきましたが、それぞれの戦いの様子や細かな事については、まだ書いていない部分も多々ありますので、そのあたりは、いずれ、その日付で記事を書かせていただきたいと思いますm(_ _)m
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2017年8月23日 (水)

天文法華の乱へ向かう~山科本願寺の戦い

天文元年(1532年)8月23日、細川晴元方の軍勢が山科本願寺を包囲しました。

・・・・・・・・

後の天文五年(1536年)7月、京都の町を焦土と化す事になる天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)へと向かう途中の、山科本願寺の戦いと呼ばれる戦いです。

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)として自らの意のままになる将軍を擁立して、事実上、政権を掌握した細川政元(ほそかわまさもと)(6月20日参照>>)・・・その死後に起こった養子同士の後継者争いで、ライバルの細川高国(たかくに)に勝利して(2月13日参照>>)、政権を奪取した細川晴元(はるもと)でしたが、そのVS高国戦で、ともに大活躍してくれた配下の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)木沢長政(きざわながまさ)との間に亀裂が生じた際、晴元は長政側につきます。

そこに、三好一族や、長政の元上司で河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)も加わって、
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
 VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」

の構図ができる中、

天文元年(1532年)6月、長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を、元長方の三好一秀(みよしかずひで=勝宗)に攻められて、分が悪い晴元は、法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)の大スポンサーだった元長に対抗して、京の宗教界で勢力を二分する山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)の第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)に援助を要請・・・晴元の意向を受けた教祖様に扇動された一向一揆(いっこういっき=本願寺宗徒の一揆)が3万~10万もの大軍に膨れ上がって、河内へと乱入し、一秀を討ち取り、義堯と元長を自害させました。

しかし、止まらないその勢いは翌7月に入って大和(やまと=奈良県)へと波及し、興福寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する坊寺院)や春日大社に放火して回り、結果、奈良市中が燃え尽くされたのです(7月17日参照>>)

この、あまりの勢いにビビッたのは、自らパンドラの箱を開けちゃった晴元自身です。

そもそも一揆とは、国家権力など、大きな権力に対抗する民衆の意思&不満が根底にあるわけで、今回、一向一揆の助けを借りて元長を倒したものの、そうやって盤石な政権を樹立すれは、今度は、政権を握る自分自身が一揆の対象になってしまうという矛盾・・・

まもなく、その脅威は皆の感じるとこととなり、「もうすぐ一向一揆衆が京都の町に乱入し、京中にある日蓮宗を襲撃する」との噂がたちはじめ、と京都市民は「今日か」「明日か」と眠れる夜を過ごす事に・・・

そのため、洛中にある法華宗の21ヶ寺の本山は武装を強化し、洛中の信者たちも自衛に立ち上がって、法華一揆が蜂起すると、晴元は法華門徒と手を結び、一向一揆に対抗する構えを見せます。

そんなこんなの8月2日、晴元が滞在中の(さかい)に一向一揆勢が乱入して戦闘状態に陥るも、何とか抵抗して晴元側の勝利に・・・これを受けた長政が、堺の本願寺道場に放火すると、たちまち、和泉(いずみ=大阪府南部)摂津(せっつ=大阪府北部)・河内・大和の4ヶ所の一向一揆衆が蜂起し、またもや堺で戦闘に・・・

一方、京都では8月7日から10日にかけて、晴元側の柳本賢治(やなぎもとかたはる)の家臣たちが、法華門徒数千人とともに洛中や東山・山科などを騒ぎ回って本願寺を威嚇・・・

すると、8月15日には、コチラも数千人の本願寺門徒が清水寺(きよみずでら=京都市東山区)近くでかがり火を焚いて威嚇します。

8月16日と17日には、この東山山麓で両一揆勢同士の激しい戦闘が繰り広げられましたが、ここでは法華一揆の勝利・・・さらに19日には、一向一揆勢が山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に布陣して西国街道を抑えようとしますが、すぐに柳本勢率いる法華衆が向かい、激戦の末、一向一揆勢を敗走させました。

京都周辺での、この2度の勝利のおかげで、東山周辺と山崎周辺=都の東西を法華門徒で固める事ができたのです。

かくして天文元年(1532年)8月23日、柳本勢・法華門徒に加え、近江(おうみ=滋賀県)から駆けつけた六角定頼(ろっかくさだより)の軍勢も加えた細川晴元軍が山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を包囲したのです。

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山科本願寺・包囲の図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

西側の粟田口(あわたぐち)には法華衆
大津からの東の玄関口には六角勢
南の汁谷口には柳本勢
三井寺へと抜ける東岩倉山には付近の郷土民たち、
と、まさに完全包囲した状態で本願寺周辺に放火し、刈田をして回ります

翌24日、早朝、いよいよ総攻撃を開始・・・やがて本願寺の各所が破られはじめ、そこから乱入して行った細川勢によって寺内のあちこちに火が放たれた事で、午前10時頃に勝敗は決しました。

「まるで城のようだ」
と言われた山科本願寺の坊舎は、跡形も無く焼き尽くされ、すべてが灰になりました

この後、しばらくは法華・一向の両一揆の小競り合いがありましたが、10月頃には、ほぼ平常に戻り、京都の人々も一安心・・・

こうして、京都の本拠を失った本願寺証如は、この後、真宗の中興の祖である蓮如(3月25日参照>>)が隠居所として建てた摂津・大坂石山御坊(いしやまごぼう)へと移り、以後、ここが本願寺門徒の本拠に・・・そう、後に織田信長(おだのぶなが)に真っ向立ち向かう石山本願寺(いしやまほんがんじ)(11月24日参照>>)です。

一方、勝利者側となった法華門徒は、事実上、洛中を掌握する事になったわけですが、そうなると・・・ん?晴元から見れば、一向一揆が法華一揆に代わっただけな気がしないでもない・・・

で、ここに登場するのが、洛中に多くの所領や末寺を抱える比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)・・・彼らもまた、法華門徒の一人勝ちを快く思わないわけで・・・かくして天文五年(1536年)7月、京都の町を焦土と化す事になる天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)となります。
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2017年7月17日 (月)

天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆

天文元年(1532年)7月17日、後の天文法華の乱につながっていく大和一向一揆がありました。

・・・・・・・・・・・

京都の市街を戦場とした事で、町中が焦土と化したと言われる応仁の乱ですが、実は、その応仁の乱よりも被害が大きかったとされるのが、天文五年(1536年)7月に起こった天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)です。

そのページには、有名な京都の祇園祭(ぎおんまつり)の山鉾巡行で、先頭を行く長刀鉾(なぎなたぼこ)に飾られる長刀は、この乱で法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)宗徒に八坂神社が勝利した証の長刀で、街中を練り歩いて、それを京都市民に披露する意味もあった事を書かせていただきましたが・・・

もともとは奈良の興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の末社だったのが、平安時代に比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)に属するようになった八坂神社・・・その後、室町時代には延暦寺から切り離されてはいましたが、未だ、そのつながりが強固な物だったようで・・・

つまり、上記の天文法華の乱は、天台宗VS法華宗の争乱という事になりますが、ここに至るまでには本願寺も絡んでいるうえ、もともとは武士同士の権力争いが宗教勢力を巻き込んで(≧ヘ≦)・・・と実にややこしいんですが、どうぞ、最後までお付き合いを・・・

・‥…━━━☆

応仁の乱(5月20日参照>>)の後、その東軍の大将=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いだ息子=細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)は、自らの意のままになる傀儡(かいらい=あやつり人形)の室町幕府将軍を擁立するほどの権力を持つ管領(かんれい=将軍の補佐)となりますが、その死後に起こった政元の養子同士の後継者争いの中で、大永七年(1527年)の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)などに勝利してライバルの細川高国(たかくに)を追い落とした細川晴元(はるもと)が、堺公方足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立して京都を掌握し、ようやく、わずかばかりの平和が訪れた頃、

先の高国討伐で、ともに功を挙げた、阿波(あわ=徳島県)にいた頃からの晴元の家臣=三好元長(みよし もとなが=長慶の父)と、山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)との間に亀裂が生じ始めていました。

その原因は・・・
上記の通り、そもそもは義維を擁立して政権を握るつもりだったはずの晴元が、高国という敵を排除した途端に、その高国とツルんでいた第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる=義維の兄)和睦を働きかけて近づいて行った事に、元長が苦言を呈した事で、両者がギクシャクし始めたところに、

このタイミングで、かの高国討伐をキッカケに晴元に急接近した木沢長政が、晴元の威を借りて、そもそもの主君であった河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)であり、室町幕府の管領家でもある畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)から独立を企てた事にありました。

当然、激怒した義堯は、元長の一族の三好一秀(みよしかずひで=勝宗)に命じて、長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻めさせますが、一方の長政は、即座に晴元に救援を要請・・・ここに、元長とは一族でありながらも、何かと敵対していた三好政長(みよしまさなが=之長の甥)が加わって、
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
 VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」

となったわけですが、

そんな中、享禄四年(1531年)8月と天文元年(享禄五年=1532年)6月の2度に渡って一秀らから飯盛山城を攻められ、分が悪い晴元&長政らは、山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)宗徒の出陣を要請します。

かつて、本願寺中興の祖である蓮如(れんにょ)上人が、あの加賀一向一揆で「過激な事はするな」と言い残して越前(えちぜん=福井県)を退去した(8月21日参照>>)ように、また、先代である実如(じつにょ=蓮如の息子で証如の祖父)「武士を敵としてはいけない」と言い残したように(…と言いながら自分も細川政元に協力して朝倉と戦ってますが…)、本来、戦いに関わらない姿勢にあった本願寺法主でしたが、当時、未だ血気盛んな17歳だった証如は、この要請を引き受けてしまいます。

実は、この時、都の宗教界を本願寺と二分していたのが法華宗で、その法華宗の大スポンサーだったのが元長さん・・・未だ若い証如は、宗教上での敵対勢力を弱体化させる絶好のチャンス!と思ったのでしょう。

もちろん、教祖様の呼びかけに応じて終結した本願寺宗徒=一向一揆衆たちはズブの素人の烏合の衆・・・本来なら、とてもプロの武将に太刀打ちできませんが、この時「集まった人数は3万を超えた」と言われるほど大人数で、飯盛山城を囲む三好勢を取り囲んで猛攻撃を開始します。

さすがに、突然現れた大軍になす術のない三好勢・・・勢いずく一揆勢は天文元年(1532年)6月15日一秀を討ち取った後、撤退しようとする義堯を追撃して自刃に追い込んだのです(飯盛城の戦い)

さらに、その5日後の6月20日には、10万ほどに膨れ上がった人数で、元長のいる顕本寺(けんぽんじ=大阪府堺市堺区)を取り囲み、元長をも自害させました。

こうして、晴元&長政は飯盛山城を死守する事ができたわけですが・・・

この時、天文元年の2度目の飯盛山城攻めから、畠山の要請により参戦していた大和(やまと=奈良県)の国衆=筒井順興(つついじゅんこう=順慶の祖父)は、速やかに撤退して、居城である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)に、無事、戻る事ができましたが、なんと、この後、河内で暴れまわった一向一揆が、その勢いのまま奈良へとやって来るのです。

と、言っても、河内の一揆衆がそのまま奈良に・・・というよりは、「その動きが波及して来た」という感じ・・・

なんせ、この奈良には、古くからの一大宗教勢力=興福寺があったわけで・・・

これまでも、あの全盛期の平家相手に真っ向から立ちふさがったり(12月28日参照>>)、中央政府に度々強訴(ごうそ=僧兵の武力で以って集団で訴え要求する事)を起こしたり(10月5日参照>>)と、かなりの武力行使で当地に君臨していたわけで・・・
*【僧兵~僧侶の武装と堕落】も参照>>

しかし、この頃の奈良には、すでにかなりの数、本願寺に帰依する者も出て来ていて、そんな彼らの中には、今もって権勢をふるう興福寺に嫌悪感を持っていた者も少なく無かったのです。

そんな彼らが、教祖様=証如の呼びかけに立ち上がるのは当然の事・・・

かくして天文元年(1532年)7月17日、集結した大和の一向一揆衆は、ホラ貝を吹き鳴らし、鐘をけたたましく打ちまくりながら、興福寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する坊寺院)に放火して回ったのです。

記録によれば、興福寺の伽藍(がらん=寺院の主要建築群)そのものと、一乗院(いちじょういん=奈良県奈良市)大乗院(だいじょういん=同奈良市)を除いて、他の僧坊はほとんど、焼かれるか破壊されるか・・・

大事な経典は破られ、高価な法事の道具は盗まれ・・・さらに、その勢いは春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)にまで及び、蔵や神主さんの家まで破壊されたのだとか・・・この時、抵抗する術もなかった奈良在住の興福寺宗徒たちは、手に手を取って、南の高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)を目指して落ちて行ったのです。

勢いが、ようやく終息に向かった8月9日の夜・・・残った物はほとんど無く、奈良中がすっかり焦土となっていたと言います。

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大乗院庭園…庭園へのくわしい行き方は本家HP:奈良歴史散歩「ならまち」で>>

こうして「天文法華の乱~大和一向一揆」は、終焉を迎えました~~
って、延暦寺+八坂神社VS法華衆は?

そうなんです。
本チャンは、まだ先の先・・・

この戦いで分が悪いと本願寺に支援を求めた細川晴元・・・開けちゃいけないパンドラの箱を開けちゃいました~

この争乱で勢いづいた・・・
いや、勢いがつき過ぎた本願寺を法華宗でおさえ、
ほたら、また法華宗が勢いづいて・・・
と、エンドレスな宗教勢力争いに武士が関与して、
あんな事やこんな事が・・・

とにもかくにも、この続き=山科本願寺の戦いについては、8月23日の【天文法華へ向かう~山科本願寺の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
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2017年7月12日 (水)

応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い

延徳二年(1490年)7月12日、応仁の乱後も続いた畠山氏の主導権争いの中で、大きな衝突となった一乗山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府将軍家の後継者争いに管領家の後継者争いがくっついて、その配下となる全国の大名を巻き込み、全国を東西真っ二つに分ける大乱となった応仁の乱・・・

モメた原因の一つが、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県・三重県の一部)大和(やまと=奈良県)などの重要地の守護(しゅご=現在の県知事)を任されていた畠山氏の後継者争いでした。

Hatakeyamayosinari400 そもそもは、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)だった畠山持国(はたけやまもちくに)が、自らの後継者を弟の畠山持富(もちとみ)に定めていたにもかかわらず、途中で「やっぱ、ヤメた~」と持富を廃して、息子の畠山義就(よしひろ・よしなり)に譲ろうとしたために、持富の家臣や息子の畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が抵抗・・・持国も持富も弥三郎も亡くなった後は、弥三郎の弟である畠山政長(まさなが)が父と兄の遺志を受け継いで、義就との後継者争いを繰り広げる事になったわけです。

ただ、これには、単に持国が後継者決めに優柔不断だったり、家内で両者がウダウダやってたり・・・の畠山家ばかりのせいではなく、そこには、その力があまり大きくならないように守護大名を内部分裂させておきたい将軍家の思惑なんかもあったわけですが・・・。

なんせ、これまで、文安五年(1448年)11月に持国が義就を後継者に指名してから後、
享徳三年(1454年)9月
 =細川勝元の支持を受け弥三郎が上洛
 義就は京都を追われる
同年12月
 =義政の承認を受け義就が家督を継ぐ
 =弥三郎は京都を追われる
康正三年(1457年)7月
 =義就の勝手な出兵に義政激怒で所領没収
長禄三年(1459年)9月
 =弥三郎が死亡で派閥は弟の政長を擁立
長禄四年(1460年)9月
 =義就が朝敵(ちょうてき=国家の敵)
 =政長が畠山の家督を継ぐ
寛正四年(1463年)9月
 =恩赦により義就は赦免
寛正五年(1464年)
 =政長が管領に
文正元年(1466年)
 =義就が挙兵して上洛して義政に謁見
 =政長が管領職を辞めさせられる

とまぁ、このように、武力で以ってどっちかが上洛すれば、相手が退去・・・しかも、それをいちいち幕府=将軍が認めたり、辞めさせたりのくりかえし・・・(10月16日参照>>)

Ouninnoransoukanzucc で、上記のように、管領職を辞めさせられた義政が、名誉挽回とばかりに起こしたのが、応仁の乱勃発(5月20日参照>>)の直接の引き金となる応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)なのです。

勃発後、すぐには、5月の五月合戦(5月28日参照>>)、10月の相国寺の戦い(10月3日参照>>)など、京都市街で大きなぶつかり合いがありましたが、ご存じのように、この応仁の乱・・・
途中から、東西の武将が入れ替わったり、総大将がトンズラしたり(11月13日参照>>)してるうちに、徐々にグダグダ感満載の戦いと化していくわけで・・・

で、東西の大将である細川勝元(ほそかわかつもと)山名宗全(やまなそうぜん=持豊)が、文明五年(1473年)に相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事をキッカケに、8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が息子の足利義尚(あしかがよしひさ=9代)将軍職を譲って正式に隠居した事を受けて、その翌年には、それぞれの大将の息子=細川 政元(ほそかわまさもと)山名政豊(やまなまさとよ)が和睦・・・さらに文明九年(1477年)9月には義就が領国の河内に、11月には、最後までゴネまくっていた大内政弘(おおうちまさひろ)周防(すおい=山口県)にと(11月11日参照>>)・・・それぞれ京都を去って行った事で、やっとこさ応仁の乱は終結となるのです。

しかし、応仁の乱は終わっても、両畠山の抗争は終わりませんでした。

なんせ、上記の経緯の通り、幕府から認められた管領職についているのは義政なので、河内や紀伊など畠山の領国の守護は政長なわけですが、実際に河内の誉田城こんだじょう=大阪府羽曳野市誉田)に入って実権を握っているのは義就なわけで・・・未だに、どっちも譲らないんですから、当然です。

河内が難しいならば・・・と、政長が紀州への侵入を試みるも失敗した文明十四年(1482年)7月の戦闘をキッカケに、再び両畠山氏の戦闘が頻繁に行われるようになります。

戦場になった地では、田畑は荒らされるうえに、配下の者は、土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の地侍)はもちろん、農民に至るまで兵士として駆り出されるわけで・・・この頃、頻繁に戦場となっていた河内や山城の一般人から見れば、「もう、えぇかんげんにしてくれ!」ってなるのも当然で、この文明十四年(1482年)の12月には、歴史教科書でも有名な山城の国一揆(12月11日参照>>)が起こり、住民が話し合いで以って両畠山氏の撤退を要求するという前代未聞の下剋上を成功させています。

それでもまだ、あちらこちらで小競り合いを続ける両者・・・そんなこんなの延徳二年(1490年)7月12日大きな戦闘が起こります。

記録によって記述が様々なのですが、それらを合理的に統合して、現時点では、
あれからずっと、紀伊への侵入を画策しつつも、実現できずに苦労していた政長に、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)周辺の根来衆(ねごろしゅう=根来寺一帯に居住した僧兵集団)が協力を快諾した事から、それを足がかりに、イザ紀州へ攻め込もうと政長勢が駐屯していた一乗山(いちじょうざん=同岩出市)に、義就勢が押し寄せて猛攻撃を仕掛けた・・・という見方がされています。

結果としては、義就側の大敗・・・政長の主力であった根来衆相手に、数百余りが討死にし、その中には高野山の法師も多数含まれていたとされ、かなりの大戦だったと都でも評判になったとの記録が残っています。

また、主だった者の70余りの首が、その後京都に送られて「政長が首実検をした」との記録もある事から、この戦いに政長自身は出陣しておらず、その時は京都にいたものと考えられています。

とにもかくにも、この大敗は義就にとってはかなりの痛手であったようで、義就は翌・延徳二年(1491年)12月に、この世を去ります(内容かぶる部分ありますが…12月12日参照>>)

父の死を受けて息子の畠山義豊(よしとよ=基家)が後を継ぎますが、そこを一気に潰そうと考えたのか?政長は「義豊討伐」を願い出、時の第10代将軍=足利義稙(よしたね:義材・義尹=義政の弟の子)を擁して、根来衆やら紀伊の国衆やらを引き連れて義豊攻撃に向かうのですが・・・

ところが、将軍と元管領(時の管領は細川政元)が留守となったこの間、京都で、どえらい出来事が・・・有名な明応の政変(めいおうのせいへん)です。

これは、時の管領の細川政元が義稙を廃して、自らの意のままになるであろう足利義澄(よしずみ:義遐・義高=義政の兄の子)を第11代将軍に擁立して政権を掌握するという明応二年(1493年)に起こったクーデター・・・

この政変によって、将軍=義稙とそこにつながる政長が率いる軍団は、一夜にして賊軍となってしまったのです。

やむなく、元将軍=義稙は義豊側に投降し、政長は失意のまま自殺(討死にとも)・・・戦場を逃れた政長の息子=畠山尚順(ひさのぶ)は紀州へと身を隠し・・・おかげで、義豊は、政長に奪われたままとなっていた守護職を取り戻す事に成功したのです。

Dscn1713a900 応神天皇陵(誉田御廟山古墳・大阪府羽曳野市誉田)…誉田城は、この天皇陵を利用して構築した城と言われています。

しか~し・・・畠山両者の戦いは、ま~だ終わりません。

逃れた尚順が地元=紀州を味方につけ、勢力を挽回した事から、早くも、政変から約半年後の10月に両者の衝突が起こったのを皮切りに、
明応四年(1495年)、
明応六年(1497年)、
明応八年(1499年)・・・さらに、この明応八年(1499年)1月の戦いで義豊が戦死すると、その息子の畠山義英(はたけやまよしひで)が引き継いで
明応八年(1499年)12月、
翌・明応九年(1500年)・・・と、

とにかく、義豊側が尚順を紀州に追い込めば、ほとぼり冷めた頃に尚順が河内に侵攻・・・それが治まれば、また義豊側が紀州に・・・と、両者の戦いは続いていくのです。

とは言え、両者が、そんなこんなしているうちにも時代はどんどん進んでいくわけで・・・やがて、大和の派遣争い(9月21日参照>>)、政元亡き後の細川家の後継者争い(2月13日参照>>)、両者ともに巻き込まれつつあるうちに、徐々に他の武将たちが力をつけてくる下剋上・・・

結果的には・・・
義就系統は、上記の義英の息子の畠山義堯(よしたか=義宣)が、守護代の木沢長政(きざわながまさ)に裏切られて自刃に追い込まれた(7月17日参照>>)後、そのまた息子の畠山在氏(ありうじ)の時代に、その木沢長政が三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)に敗北した事から、事実上の滅亡となります。

一方の政長系統は、尚順から5代後の畠山高政(たかまさ)の時代に、やはり台頭していた三好(9月28日参照>>)と敵対した関係から、足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛して来た織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)に近づき、その子孫たちは織田→豊臣→徳川の流れで生き残り、伝統ある名家を重んじる徳川家康(とくがわいえやす)によって、あの今川家(3月16日参照>>)と同様に、江戸幕府内の高家(こうけ=江戸幕府内で儀式や典礼を担当する役職)として幕末まで続く事になります。

戦国の世で生き残っていくのは大変ですね~
振り返ってみると、この畠山両家は、戦国の幕開けとも言われる応仁の乱から、信長の上洛まで、ずっと戦っていたわけですから・・・
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