2017年9月19日 (火)

謙信の祖父・長尾能景が討死~般若野の戦い

永正三年(1506年)9月19日、越中で起こった一向一揆の鎮圧に侵入した長尾能景が般若野の戦い(芹谷野の戦いとも)で討死しました。

・・・・・・・・・・

比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の勢力から逃れて、北陸へとやって来た本願寺第8代=蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)が、文明三年(1471年)にその拠点となる吉崎御坊(よしざきごぼう=福井県あわら市)を建てた事で、北陸が一気に本願寺宗徒の聖地となる中、長享二年(1488年)に、加賀(かが=石川県)守護の富樫(とがし)家内の勢力争い(7月26日参照>>)に乗じてその富樫を倒し、以後100年に渡る百姓(本願寺宗徒)の持ちたる国を誕生させたのが、有名な加賀一向一揆です(6月9日参照>>)

当然ですが・・・
この一向一揆勢力が加賀一国に留まるワケはなく、徐々に勢力拡大を計っていく事になりますが、そんなこんなの永正三年(1506年)、春頃から北越で一向一揆の動きが活発になって来て、やがて越中(えっちゅう=富山県)が脅かされるようになって来ます。

『本朝通鑑(ほんちょうつうがん)には、
「永正三年六月、加賀一向一揆群起こし越中の国を寇す。国土遊佐、神保、土肥、椎名、戦に敗れ、越後国に至りて、援を長尾能景に求む」
とあります。

ご存じのように、室町時代は、幕府から任命された守護(しゅご=県知事)が各地を治めていましたが、その領地が複数あるため、当然、一人では治め切れないので、各地には守護代(しゅだい)という配下の者を置いて、事実上、守護代がその現地を治めていたわけです。

しかし、中央の勢力が衰え始める戦国時代になると、力で以って守護代が守護にとって代わる下剋上(げこくじょう)が頻繁に起こるようになり、その最たるものが上記の加賀一向一揆=百姓が守護にとって代わったという事になるワケですが、

そんな中で、当時の越中守護は畠山尚順(はたけやまひさのぶ)・・・この尚順は、あの応仁の乱の主要メンバーの一人=畠山政長(まさなが)(1月17日参照>>)の息子ですが、以前も書かせていただいたように、畿内の畠山の領地の攻防に必死のパッチ(7月12日参照>>)状態で、もはや「越中守護=畠山」の時代は政長の死を以って終わった感がハンパなく・・・

なので、越中に加賀一向一揆が侵攻してきた場合、その盾となるのは、守護代の遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)といった面々・・・しかしながら、現時点ではなかなかその対策が立てられない状況でした。

となると、いくら、ほぼほぼ名ばかり状態となっていても守護は守護・・・尚順は、同じ守護仲間の越後(えちご=新潟県)守護の上杉房能(うえすぎふさよし)越前(えちぜん=福井県)守護の朝倉貞景(あさくらさだかげ)らに援助を要請・・・受けた彼らとて、加賀一向一揆がどんどん大きくなって越中を侵食すれば、いずれは隣接する越前や越後にも波及して来るわけですから、ここは一つ、連携を組んで対処しなければ!

てな事で、房能は配下である越後守護代の長尾能景(ながおよしかげ)を越中へと派遣するのです。

この能景さんは、ご存じ上杉謙信(うえすぎけんしん)ジッチャンに当たる人物で、実のところは、先代守護の上杉房定(ふささだ)とはウマくいっていたものの、その息子の房能とはあまりシックリいっていなかったようですが、現時点では上司&部下の関係ですし、今は自国が危険に晒されている一大事ですので、個人的な肌の合わなさをアレコレ言ってる場合じゃござんせん。

かくして能景は、永正三年(1506年)8月、大軍を率いて春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣したのです。

おりしも、この8月9日、越前では、貞景の叔父である朝倉宗滴(そうてき・教景)九頭竜川(くずりゅうがわ・福井市)にて一向一揆に勝利(8月9日参照>>)したばかりですから、おそらく隣国越前の本願寺門徒は疲弊しているはず・・・このチャンスを逃すわけにはいきません。

ちなみに、この時、越中一向一揆に味方していた越後の武将たちを鎮圧するべく蒲原方面(かんばら=新潟県三条市や長岡市付近)に出陣していたため、息子の長尾為景(ためかげ=謙信の父)は、父に同行しませんでした。

こうして越中へと侵入した長尾軍・・・越中に入るやいなや、敵対する鈴木国重(すずきくにしげ)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)府久呂兼久(ふくろかねひさ)滑川城(なめりかわじょう=富山県滑川市)赤川久次(あかがわひさつぐ)東岩瀬城(ひがしいわせじょう=富山県富山市)などを次々と撃破して進み、8月18日には、越中守護代家の神保一族の神保慶明(じんぼうよしあき=神保良衡の説もあり)と合流して、蓮台寺(れんだいじ=富山県富山市)周辺でも一揆勢を撃ち破り、いよいよ、越中一向一揆の本拠地である砺波(となみ=富山県礪波市周辺)あたりへと攻め込んでいきます。

とは言え、一向一揆衆もなかなかの奮戦・・・しかも、ここで加賀や越前の一向一揆衆にも援軍を求めます。

先に書いたように、戦いに敗れたばかりの越前の一向一揆衆ではありましたが、「死なば極楽!」との合言葉のもと、彼らが命知らずの軍団である事、また、ここ越中を占領されたならば、当然、加賀へも越前へも敵が侵攻して来る事は明白で、そうなれば、せっかく樹立した本願寺共和国も潰されるが必至・・・という状況に、必死で立ち向かって来るのでした。

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般若野の位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永正三年(1506年)9月19日、長尾軍は越中増山城(ますやまじょう=富山県礪波市)の麓に広がる般若野(はんにゃの)において一向一揆衆と戦う事になるのです。

古くは源平の昔、あの木曽義仲(きそよしなか=源義仲)が戦った般若野の地(5月9日参照>>)・・・東部に丘陵を見てとれる草原に布陣する両者・・・開戦を知らせるホラ貝の音とともに、長尾軍は一気に南西方面へと押しまくるのです。

数の上では一向一揆側が有利ではありますが、長尾軍は戦闘のプロ・・・越中に入った後も、これまで何度も蹴散らして来たように、ここでも、難なく一向一揆を撃破できる・・・

・・・はずでした。

ところがドッコイ、ここで守山城(もりやまじょう=富山県高岡市・二上城とも)から撃って出て、今まさに南西に向かって押しまくる長尾軍の背後へと回ったのが越中守護代家の当主である神保慶宗(じんぼうよしむね)・・・

そう、実は、これまで一向一揆は、越中の守護代たちに再三に渡って使者を送り、一揆側の味方になってくれるよう呼び掛ける懐柔策を取っていたのです。

慶宗ら守護代の心の内としては・・・
「守護の畠山尚順も、えぇかげんうっとぉしいヤツやのに、そんな中で命令聞いて一向一揆を破ったとしても、結局、状況は今のままやん。
それやったら、このチャンスに守護側を蹴散らして、名実ともに俺らが支配した方が得策やんけ」
(←心の内なので、あくまで推測です)
と思っていた・・・そこを、一向一揆の懐柔策がくすぐったわけです。

激戦の中で、いきなり背後に立たれ、退路を失った長尾軍は、さすがに大混乱となります。

その大混乱の中、奮戦する能景は戦死・・・主だった武将たちも次々と討たれ、長尾軍は壊滅しました。

増山城跡の近くには、この時、能景の死を悼んだ神保一族の神保良衡によって、その首と胴体をつないで埋葬されたとされる能景塚(砺波市頼成新)が、今も存在します。

ところで・・・
かの戦地にて父の死を知った息子の為景・・・・
「コレって、大した戦略も無いままにそもそもの出陣命令を出した上杉房能に軍事的責任があるんちゃうん?」
と、命令しっぱなしで実質的に動かなかった房能に激怒・・・

翌・永正四年(1507年)に、房能の養子の定実(さだざね)を抱き込んで謀反を起こし、結局は越後守護代の長尾家が守護に取って代わるのですが、そのお話は2009年8月9日の長尾為景~守護を倒して戦国大名への第一歩】>>でどうぞ

一方、越中国内ではこの戦いの後、神保をはじめとする越中の有力武士たちは、一向一揆との協調路線で進んで行く事になりますが、それはそれで、国内全土を統率する者を持たないそれぞれの武士同士の覇権争いとなって国内は混乱したままなわけで・・・

やがて、祖父&父の無念を晴らすがのごとく、この越中に侵出して来るのが為景の息子=長尾景虎(ながおかげとら)・・・ご存じ上杉謙信ですが、そのお話は約半世紀後の3月30日【上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い】>>でご覧あれ。。。

もちろん、そこには、それぞれに世代交代した神保&椎名らも登場します。
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2017年9月13日 (水)

織田信長、最愛の女性~生駒吉乃

永禄九年(1566年)9月13日、織田信長・最愛の女性で、側室として二男一女をもうけた生駒の方が39歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

と言っても、正史や一級資料にほとんど登場しない事から、かなり謎多き女性です。

亡くなった日付も、今回は9月13日でご紹介しましたが、5月13日説もあります。
(wikiは5月13日になってるので、ひょっとしたらソッチの方が一般的なのかも…)

名前も、正式には生駒家宗(いこまいえむね)の娘とあるだけで、本名もわからず、没年齢も、信長の6歳年上の39歳説と、4歳年下の29歳説があります。

でも、信長は、正室の濃姫(のうひめ=帰蝶)(2月24日参照>>)との間に子供ができなかった一方で、「側室として二男一女をもうけた」=「彼女が産んだ男子が後継ぎになるんだから…」と思いきや、確実なのは、次男の信雄(のぶお・のぶかつ)と長女の徳姫(とくひめ・五徳)のみで、生年のハッキリしない嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)は、彼女の子供では無い可能性もあるのだとか・・・

とにもかくにも、その伝承の多くが、偽書の疑いのある『武功夜話(ぶこうやわ)の出典である事から、「疑わしい」との見解もあるにはあるのですが、とかく古文書の真偽なんて物は原本を確認しない事には何とも言えない物でして・・・

現に、この『武功夜話』の場合でも、それまで偽書説派だった歴史家さんが、原本を見た途端に肯定派に回ったなんて事もありますし、専門家の間でも意見が分かれているのが現状ですので、『武功夜話』そのものの真偽に関しては、原本をナマで見る事のできる専門家の方々に委ねたいと思います。

また、例え一級資料であったとしても、中に書いてある事がすべて正しいわけでは無いですし、まして『武功夜話』は、江戸時代に書かれた『軍記物』に分類される物ですので、個々のエピソードについては、それぞれ個別に検討していかなくてはならない物・・・

なので、今回は、そんな事を踏まえつつ、一般的に語られる信長の側室=生駒の方のお話を、『武功夜話』に登場する吉乃(きつの)というお名前で、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

尾張の国(愛知県西部)丹羽郡小折村(にわぐんこおりむら=江南市)馬借(ばしゃく=運送業)を営む経営者=生駒家宗の娘として生まれた吉乃は、はじめ、土田弥平次(どたやへいじ・つちだやへいじ)という人物のもとに嫁ぎますが、彼が、弘治二年(1556年)に戦死してしまった事から、実家へと戻り、その後は生駒家で生活していました。

この1度目の結婚相手の土田弥平次の土田氏が、生駒氏の縁者であったらしく、そんな関係からの婚姻のようですが、この土田氏が、信長の生母=土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)の出自筋に当たり、土田弥平次は土田御前の甥だったとも言われ、そうなると、信長とも縁続き・・・

Odanobunaga400a という事で、信長は、度々、この生駒家に出入りしていたようで・・・

もちろん、そこには、馬借という商売柄、近隣の情報が集まりやすく、その情報収集のために、信長が出入りしていたであろう事も、容易に想像できるわけですが・・・

そんな中で、出戻りとは言え、色白の美人で、やさしくて控えめな・・・いや、おそらく、二人が出会った頃は、未だ10代後半だった信長にとって、すでに結婚を経験してる親戚のキレイなお姉さんに母の面影を見たのかも知れません。

なんせ、母の土田御前は、幼い頃から信長を嫌って、「弟の信行(のぶゆき)(11月2日参照>>)ばかりを可愛がっていた」なんて言われてますから・・・その包み込むような大人のやさしさに母を追ったとしても不思議ではありません。

また、同じく、この頃、それまで駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を放浪していた生活から地元の尾張に戻って来ていた藤吉郎(とうきちろう)=後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、この生駒屋敷に出入りしていて、その天然の明るさから、吉乃とも親しく話すようになり、

「この人、オモシロイ人(*^-^))」
と吉乃がなったところで、
「馬のお世話でも何でもしますんで、どうか、殿さまにお口添えを…」
とと切り出して、吉乃が信長に彼を紹介・・・有名な「信長の草履を温める」エピソードも、実は、生駒屋敷での出来事だったなんて事も言われます(信長と秀吉の出会いは諸説ありますが…)

とにもかくにも、そうこうしているうちに、ほどなく吉乃は信長の子を身ごもり、正室=濃姫に気を使った信長は、郡内のとある屋敷で、ひっそりと出産させたのだとか・・・。

で、弘治三年(1557年)頃に長男を産んでから、次男→長女と、吉乃は毎年のように子供を出産しますが、ご存じのように、この頃から信長本人は、
桶狭間(おけはざま)の戦い(5月19日参照>>)に、
美濃(みの=岐阜県)侵攻(5月14日参照>>)に、
尾張統一(11月1日参照>>)に、
と大変忙しくなり、吉乃のもとにはおいそれと通えない日々が続くわけで・・・

一方の吉乃は、3人目の子=長女を産んだ後の、いわゆる「産後の肥立ちが悪い」という状況になり、病床に伏せるようになってしまいます。

そんな中、永禄六年(1563年)に美濃攻めの拠点とすべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に小牧山城を構築した信長は、この城に吉乃用の御台御殿(みだいごてん)なる建物を建て、彼女を住まわせるために呼び寄せようとしますが、ここで初めて、彼女が病気である事を知ったのだとか・・・

しかも
「もはや、動かすのも難しいかも…」
と、聞いた信長は、慌てて生駒屋敷に駆けつけ
「忙しさのあまりに会いに来なかった事を許してくれm(_ _)m
これからは、新居でゆっくりと養生したらええ」

と・・・

その言葉に、彼女は大いに喜び、信長の手を握りながら
「ありがとう」
と・・・

そして、残った力を振り絞って輿(こし)に乗り、小牧山城へ入城・・・家臣たちの前で、信忠や信雄の生母として信長から紹介され、彼女はここで、正式に側室となったとされます。

そんな彼女は、
「こんな立派な御殿が、私の家やなんて…夢のよう」
と涙を流しながら感激にに浸っていたのだとか・・・

その後は、信長も頻繁にお見舞いに訪れていたようですが、残念ながら、永禄九年(1566年)9月13日病が快復する事無く、彼女は帰らぬ人となったのです。

一説には、「信長には側室が22人ほどいた」とも言われますが、その中でも、やはり吉乃は特別扱いで、その死に際して信長は号泣したとされ、「彼女が信長最愛の女性だった」というのが一般的な見方となっています。

わからない事が多く、その実態がほとんど掴めない吉乃という女性・・・

しかし、その心の激しさとやさしさが交互に見え隠れする信長という人・・・そんな彼のハートを射止めた彼女は、信長の良いところも悪いところも受け止めるような大きな器を持った女性であった事でしょう。
個人的なイメージでは、やっぱ、信長より年上かな?

彼女の死の翌年=永禄十年(1567年)に、念願の稲葉山城(いなばやまじょう=)を陥落(8月15日参照>>)させた信長は、さらに、その翌年、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京へと上る(10月18日参照>>)事になります。

自分の実家に通っていたハチャメチャな少年が、天下への一歩を踏み出した事・・・彼女は、空の上から垣間見て、ホッと胸をなでおろした事でしょう~いや、母なる気持ちなら逆に「また、心配の種が増える~」と、気を揉んでいたかも知れませんね。
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2017年9月 7日 (木)

足利義昭を奉じて~織田信長の上洛

永禄十一年(1568年)9月7日、足利義昭の要請に応えて上洛する織田信長が、美濃を出立しました。

・・・・・・・・・・

ご存じの足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛ですが、これまでも、このブログ内のいろんな所でチョコチョコ出て来てますので、内容がかぶり気味になるかとは思いますが、とりあえず今回は、信長上洛の様子を、時系列的にまとめてご紹介してみたいと思います。

・‥…━━━☆

兄である第13代将軍・足利義輝(よしてる)が、松永久秀(まつながひさひで)三好三人衆らに暗殺された(5月19日参照>>)永禄八年(1565年)5月、幕臣の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らの手引きにより幽閉先から脱出した義輝の弟=足利義昭は(7月28日参照>>)越前(福井県)一乗谷朝倉義景(よしかげ)のもとに身を寄せながら、自分を担ぎあげて上洛してくれそうな戦国大名たちに対して、せっせとお誘いの手紙を送るのですが、なかなか色よい返事をしてくれる大名は現れず・・・

しかし、そうこうしているうちの永禄十一年(1568年)2月8日、かの久秀と三好三人衆が擁立した義輝の従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)に朝廷からの許しが出て、第14代室町幕府将軍宣下がなされ、事実上、畿内は義栄以下、久秀や三好三人衆が牛耳る事態に・・・。

これまで、「できれば名のある大名に京都に連れてってもらいたい!」と願っていた義昭ですが、上記の通り、待った無しの状況となり、以前から朝倉家臣の明智光秀(あけちみつひで)なる武将が勧めてくれる織田信長へ方針転換・・・永禄十一年(1568年)7月、「これからは、織田くんの事を、ひたすら頼りにしたいんやけど…」と信長に打診したのです(10月4日参照>>)

当時の信長は・・・
永禄三年(1560年)に桶狭間(おけはざま)(5月19日参照>>)今川義元(いまがわよしもと)を破って後、永禄五年(1562年)に尾張一国を統一・・・今回の義昭接触の前年の永禄十年(1567年)に斎藤氏から稲葉山城を奪い(8月15日参照>>)、その地を岐阜と改めて本拠とし、あの『天下布武』の印鑑を使い始めたばかり・・・

『天下布武』とは、「天下に武を布(し)く」=「俺の武力で天下を治めるゾ」ってな意味(別解釈もアリ)ですから、「この岐阜の地から、まずは畿内を制して…」と天下を視野に入れていた信長にとっては、今回の事は、まさに渡りに舟・・・

「微力ながら、天下のために忠義を尽くします」と、義昭の申し入れを快諾した信長は、早速、義昭のもとに使者を送ると同時に、美濃の立正寺(りっしょうじ=立政寺=岐阜県岐阜市)に宿所を準備します。

永禄十一年(1568年)7月25日、美濃へと到着した義昭ご一行の部屋に準備されていたのは、ドド~ンと銅銭千貫文(現在だと一億超えの現金)と、その横には、これまたドド~ンと、太刀や鎧に始まる豪華絢爛な武具の数々・・・

大喜びする義昭らを見て、一刻も早い上洛を決意した信長は、近江の佐和山(さわやま=滋賀県彦根市)へと向かい、妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)に初対面した(2011年6月28日の前半部分参照>>)後、その佐和山から、義昭の使者に自分の使者をつけて、南近江(滋賀県南部)を支配する大物=六角承禎(じょうてい・義堅)の説得にあたります。

「義昭公が上洛されるので、忠誠の証として人質を出し、それ相当の対応してくれはりますか?」と・・・しかし、承禎の答えはNOでした。

しかし、まだ諦めず、7日間渡って説得を続け、「義昭公が将軍になったあかつきには、承禎さんを幕府所司代(しょしだい=侍所の副長官)に任命するて言うてはりますよって…」と提示しましたが、やはり承禎は拒否し続けました。

こうなると、力づくで近江を制して上洛するしかありません。

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信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永禄十一年(1568年)9月7日「一気に近江を平らげて、すぐにお迎えを差し上げますよ」と、義昭に別れの挨拶をした信長は、尾張・美濃・伊勢・三河の軍勢を率いて出陣したのです。

その日は平尾村(岐阜県不破郡垂井町)に陣を取り、翌日には近江の高宮(滋賀県彦根市)に到着・・・ここで2日間の休養をとり、そこに浅井の軍も加わった11日には、愛知川(えちがわ)付近に滞在して、自らが馬に乗って周辺の状況を確認し、周辺に散らばる六角氏傘下の城のうち、承禎らの籠る観音寺城(かんのんじじょう)箕作城(みつくりじょう)との和田山城(わだやまじょう)の3ヶ所に狙いを定めます。

翌12日は、自らの軍勢を3隊に分けて、それぞれに配置して攻撃を開始・・・13日には観音寺城の承禎らも夜陰に紛れて逃走し、世に言う観音寺城の戦いは織田方の勝利に終わりました(9月13日参照>>)

ここで、約束通り、立正寺の義昭のもとに不破光治(ふわみつはる)を派遣して「どうぞ、ご上洛を…」と・・・これを受け取った義昭は、ようやく岐阜を出立し、21日には米原(まいばら)、22日には安土(あづち)桑実寺(くわのみでら)に到着・・・

一方の信長は、24日には守山(もりやま=滋賀県守山市)まで進出し、翌25日は琵琶湖を渡れず瀬田で足踏みしたものの、26日には琵琶湖を渡り、三井寺(みいでら=園城寺・大津市)極楽院に陣取りました。

Kouyoutoufukuzicc 翌27日には、義昭も琵琶湖を渡り、同じく三井寺の光浄院に入り、さらに翌28日には、信長が東福寺(とうふくじ=京都市東山区)に陣を移動させると同時に、柴田勝家(しばたかついえ)蜂屋頼隆(はちやよりたか)森可成(もりよしなり)坂井政尚(さかいまさなお)の4名に先鋒を命じて、三好三人衆の一人=石成友通(いわなりともみち=岩成友通)の拠る勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)方面へと攻撃を仕掛けさせます。

もちろん、友通も抵抗しますが、この日のうちに150余の首を挙げられ、翌29日には、信長自身が出馬した事によって降伏し、勝竜寺城は開け渡されました。

ちなみに・・・一般的に「足利義昭を奉じて信長が上洛」という場合、上記の三井寺に入った9月26日か、東福寺に陣を張った9月28日が「上洛の日」とされる事が多いです。

その後、30日に信長が山崎(やまざき)に着陣すると、先鋒は三人衆の一人=三好長逸(みよしながやす)が籠る芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)へ・・・そしてここも、その日の夜には敵兵が退城し、織田方の物となります。

この時、いち時は畿内を掌握して事実上の天下人だった事もある細川晴元(ほそかわはるもと)(2月13日参照>>)の息子=細川昭元(あきもと)は、三好三人衆に担がれて、名目上の管領(かんれい=将軍の補佐役)となっていましたが、長逸とともに芥川山城を退去し、14代将軍の義栄もつれて阿波(あわ=徳島県)へと逃れました。

また、三人衆の残りの一人=三好政康(まさやす)も、いずこともなく身を隠しました。

続いて10月2日には池田勝正(いけだかつまさ)池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を攻撃・・・ここでは激しい戦いとなり、敵味方ともに多くの死傷者を出しますが、最後には城に火をかけ城下町を焼き払った事から、勝正は人質を差し出しての降伏となりました。

ちなみに、この時、14日間に渡って芥川山城に滞在していた信長のもとには、「この機会に…」と面会を希望する人が後を絶たず、門前には行列ができたとか・・・その中には、わずかの間に三好三人衆と袂を分かつ(11月18日参照>>)事になった松永久秀もいて、彼は、信長に名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上して、また、今井宗久(いまいそうきゅう)も名物の茶壷「松島」&茶入れ「茄子」を献上して、この時に信長の傘下に入っています。

10月14日には、信長は京都に戻り、一旦、本国寺(ほんこくじ=京都市下京区・本圀寺)に入った後、軍勢を引き連れて清水寺(きよみずでら=京都市東山区)へ・・・この時、信長は、配下の者には規律を守るよう徹底し、周辺の警備も厳重にした事から、兵士たちの狼藉や、治安を乱すような事件も起こらず、都の人々は、「これで平和になるヽ(´▽`)/」と胸をなでおろし、大いに喜んだと言います。

その後、畿内に残っていた抵抗勢力も、10日余りで徐々に退散して行く中、信長は、空となっている細川昭元の屋敷をリフォームして義昭の滞在する御殿とし、義昭はお引越・・・御殿とともに太刀と馬を献上した信長に、義昭は大喜びで、その日の宴会では、自ら信長にお酌をしてみせたとか・・・

かくして永禄十一年(1568年)10月18日、足利義昭は、朝廷からの将軍宣下を受け、正式に、第15代室町幕府将軍に就任したのです(10月18日参照>>)

・‥…━━━☆

以上、今回は、信長の上洛の状況を、日付を追って書かせていただきましたが、それぞれの戦いの様子や細かな事については、まだ書いていない部分も多々ありますので、そのあたりは、いずれ、その日付で記事を書かせていただきたいと思いますm(_ _)m
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2017年8月23日 (水)

天文法華の乱へ向かう~山科本願寺の戦い

天文元年(1532年)8月23日、細川晴元方の軍勢が山科本願寺を包囲しました。

・・・・・・・・

後の天文五年(1536年)7月、京都の町を焦土と化す事になる天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)へと向かう途中の、山科本願寺の戦いと呼ばれる戦いです。

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)として自らの意のままになる将軍を擁立して、事実上、政権を掌握した細川政元(ほそかわまさもと)(6月20日参照>>)・・・その死後に起こった養子同士の後継者争いで、ライバルの細川高国(たかくに)に勝利して(2月13日参照>>)、政権を奪取した細川晴元(はるもと)でしたが、そのVS高国戦で、ともに大活躍してくれた配下の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)木沢長政(きざわながまさ)との間に亀裂が生じた際、晴元は長政側につきます。

そこに、三好一族や、長政の元上司で河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)も加わって、
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
 VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」

の構図ができる中、

天文元年(1532年)6月、長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を、元長方の三好一秀(みよしかずひで=勝宗)に攻められて、分が悪い晴元は、法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)の大スポンサーだった元長に対抗して、京の宗教界で勢力を二分する山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)の第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)に援助を要請・・・晴元の意向を受けた教祖様に扇動された一向一揆(いっこういっき=本願寺宗徒の一揆)が3万~10万もの大軍に膨れ上がって、河内へと乱入し、一秀を討ち取り、義堯と元長を自害させました。

しかし、止まらないその勢いは翌7月に入って大和(やまと=奈良県)へと波及し、興福寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する坊寺院)や春日大社に放火して回り、結果、奈良市中が燃え尽くされたのです(7月17日参照>>)

この、あまりの勢いにビビッたのは、自らパンドラの箱を開けちゃった晴元自身です。

そもそも一揆とは、国家権力など、大きな権力に対抗する民衆の意思&不満が根底にあるわけで、今回、一向一揆の助けを借りて元長を倒したものの、そうやって盤石な政権を樹立すれは、今度は、政権を握る自分自身が一揆の対象になってしまうという矛盾・・・

まもなく、その脅威は皆の感じるとこととなり、「もうすぐ一向一揆衆が京都の町に乱入し、京中にある日蓮宗を襲撃する」との噂がたちはじめ、と京都市民は「今日か」「明日か」と眠れる夜を過ごす事に・・・

そのため、洛中にある法華宗の21ヶ寺の本山は武装を強化し、洛中の信者たちも自衛に立ち上がって、法華一揆が蜂起すると、晴元は法華門徒と手を結び、一向一揆に対抗する構えを見せます。

そんなこんなの8月2日、晴元が滞在中の(さかい)に一向一揆勢が乱入して戦闘状態に陥るも、何とか抵抗して晴元側の勝利に・・・これを受けた長政が、堺の本願寺道場に放火すると、たちまち、和泉(いずみ=大阪府南部)摂津(せっつ=大阪府北部)・河内・大和の4ヶ所の一向一揆衆が蜂起し、またもや堺で戦闘に・・・

一方、京都では8月7日から10日にかけて、晴元側の柳本賢治(やなぎもとかたはる)の家臣たちが、法華門徒数千人とともに洛中や東山・山科などを騒ぎ回って本願寺を威嚇・・・

すると、8月15日には、コチラも数千人の本願寺門徒が清水寺(きよみずでら=京都市東山区)近くでかがり火を焚いて威嚇します。

8月16日と17日には、この東山山麓で両一揆勢同士の激しい戦闘が繰り広げられましたが、ここでは法華一揆の勝利・・・さらに19日には、一向一揆勢が山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に布陣して西国街道を抑えようとしますが、すぐに柳本勢率いる法華衆が向かい、激戦の末、一向一揆勢を敗走させました。

京都周辺での、この2度の勝利のおかげで、東山周辺と山崎周辺=都の東西を法華門徒で固める事ができたのです。

かくして天文元年(1532年)8月23日、柳本勢・法華門徒に加え、近江(おうみ=滋賀県)から駆けつけた六角定頼(ろっかくさだより)の軍勢も加えた細川晴元軍が山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を包囲したのです。

Yamasinahonganzinotatakai
山科本願寺・包囲の図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

西側の粟田口(あわたぐち)には法華衆
大津からの東の玄関口には六角勢
南の汁谷口には柳本勢
三井寺へと抜ける東岩倉山には付近の郷土民たち、
と、まさに完全包囲した状態で本願寺周辺に放火し、刈田をして回ります

翌24日、早朝、いよいよ総攻撃を開始・・・やがて本願寺の各所が破られはじめ、そこから乱入して行った細川勢によって寺内のあちこちに火が放たれた事で、午前10時頃に勝敗は決しました。

「まるで城のようだ」
と言われた山科本願寺の坊舎は、跡形も無く焼き尽くされ、すべてが灰になりました

この後、しばらくは法華・一向の両一揆の小競り合いがありましたが、10月頃には、ほぼ平常に戻り、京都の人々も一安心・・・

こうして、京都の本拠を失った本願寺証如は、この後、真宗の中興の祖である蓮如(3月25日参照>>)が隠居所として建てた摂津・大坂石山御坊(いしやまごぼう)へと移り、以後、ここが本願寺門徒の本拠に・・・そう、後に織田信長(おだのぶなが)に真っ向立ち向かう石山本願寺(いしやまほんがんじ)(11月24日参照>>)です。

一方、勝利者側となった法華門徒は、事実上、洛中を掌握する事になったわけですが、そうなると・・・ん?晴元から見れば、一向一揆が法華一揆に代わっただけな気がしないでもない・・・

で、ここに登場するのが、洛中に多くの所領や末寺を抱える比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)・・・彼らもまた、法華門徒の一人勝ちを快く思わないわけで・・・かくして天文五年(1536年)7月、京都の町を焦土と化す事になる天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)となります。
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2017年7月17日 (月)

天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆

天文元年(1532年)7月17日、後の天文法華の乱につながっていく大和一向一揆がありました。

・・・・・・・・・・・

京都の市街を戦場とした事で、町中が焦土と化したと言われる応仁の乱ですが、実は、その応仁の乱よりも被害が大きかったとされるのが、天文五年(1536年)7月に起こった天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)です。

そのページには、有名な京都の祇園祭(ぎおんまつり)の山鉾巡行で、先頭を行く長刀鉾(なぎなたぼこ)に飾られる長刀は、この乱で法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)宗徒に八坂神社が勝利した証の長刀で、街中を練り歩いて、それを京都市民に披露する意味もあった事を書かせていただきましたが・・・

もともとは奈良の興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の末社だったのが、平安時代に比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)に属するようになった八坂神社・・・その後、室町時代には延暦寺から切り離されてはいましたが、未だ、そのつながりが強固な物だったようで・・・

つまり、上記の天文法華の乱は、天台宗VS法華宗の争乱という事になりますが、ここに至るまでには本願寺も絡んでいるうえ、もともとは武士同士の権力争いが宗教勢力を巻き込んで(≧ヘ≦)・・・と実にややこしいんですが、どうぞ、最後までお付き合いを・・・

・‥…━━━☆

応仁の乱(5月20日参照>>)の後、その東軍の大将=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いだ息子=細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)は、自らの意のままになる傀儡(かいらい=あやつり人形)の室町幕府将軍を擁立するほどの権力を持つ管領(かんれい=将軍の補佐)となりますが、その死後に起こった政元の養子同士の後継者争いの中で、大永七年(1527年)の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)などに勝利してライバルの細川高国(たかくに)を追い落とした細川晴元(はるもと)が、堺公方足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立して京都を掌握し、ようやく、わずかばかりの平和が訪れた頃、

先の高国討伐で、ともに功を挙げた、阿波(あわ=徳島県)にいた頃からの晴元の家臣=三好元長(みよし もとなが=長慶の父)と、山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)との間に亀裂が生じ始めていました。

その原因は・・・
上記の通り、そもそもは義維を擁立して政権を握るつもりだったはずの晴元が、高国という敵を排除した途端に、その高国とツルんでいた第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる=義維の兄)和睦を働きかけて近づいて行った事に、元長が苦言を呈した事で、両者がギクシャクし始めたところに、

このタイミングで、かの高国討伐をキッカケに晴元に急接近した木沢長政が、晴元の威を借りて、そもそもの主君であった河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)であり、室町幕府の管領家でもある畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)から独立を企てた事にありました。

当然、激怒した義堯は、元長の一族の三好一秀(みよしかずひで=勝宗)に命じて、長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻めさせますが、一方の長政は、即座に晴元に救援を要請・・・ここに、元長とは一族でありながらも、何かと敵対していた三好政長(みよしまさなが=之長の甥)が加わって、
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
 VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」

となったわけですが、

そんな中、享禄四年(1531年)8月と天文元年(享禄五年=1532年)6月の2度に渡って一秀らから飯盛山城を攻められ、分が悪い晴元&長政らは、山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)宗徒の出陣を要請します。

かつて、本願寺中興の祖である蓮如(れんにょ)上人が、あの加賀一向一揆で「過激な事はするな」と言い残して越前(えちぜん=福井県)を退去した(8月21日参照>>)ように、また、先代である実如(じつにょ=蓮如の息子で証如の祖父)「武士を敵としてはいけない」と言い残したように(…と言いながら自分も細川政元に協力して朝倉と戦ってますが…)、本来、戦いに関わらない姿勢にあった本願寺法主でしたが、当時、未だ血気盛んな17歳だった証如は、この要請を引き受けてしまいます。

実は、この時、都の宗教界を本願寺と二分していたのが法華宗で、その法華宗の大スポンサーだったのが元長さん・・・未だ若い証如は、宗教上での敵対勢力を弱体化させる絶好のチャンス!と思ったのでしょう。

もちろん、教祖様の呼びかけに応じて終結した本願寺宗徒=一向一揆衆たちはズブの素人の烏合の衆・・・本来なら、とてもプロの武将に太刀打ちできませんが、この時「集まった人数は3万を超えた」と言われるほど大人数で、飯盛山城を囲む三好勢を取り囲んで猛攻撃を開始します。

さすがに、突然現れた大軍になす術のない三好勢・・・勢いずく一揆勢は天文元年(1532年)6月15日一秀を討ち取った後、撤退しようとする義堯を追撃して自刃に追い込んだのです(飯盛城の戦い)

さらに、その5日後の6月20日には、10万ほどに膨れ上がった人数で、元長のいる顕本寺(けんぽんじ=大阪府堺市堺区)を取り囲み、元長をも自害させました。

こうして、晴元&長政は飯盛山城を死守する事ができたわけですが・・・

この時、天文元年の2度目の飯盛山城攻めから、畠山の要請により参戦していた大和(やまと=奈良県)の国衆=筒井順興(つついじゅんこう=順慶の祖父)は、速やかに撤退して、居城である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)に、無事、戻る事ができましたが、なんと、この後、河内で暴れまわった一向一揆が、その勢いのまま奈良へとやって来るのです。

と、言っても、河内の一揆衆がそのまま奈良に・・・というよりは、「その動きが波及して来た」という感じ・・・

なんせ、この奈良には、古くからの一大宗教勢力=興福寺があったわけで・・・

これまでも、あの全盛期の平家相手に真っ向から立ちふさがったり(12月28日参照>>)、中央政府に度々強訴(ごうそ=僧兵の武力で以って集団で訴え要求する事)を起こしたり(10月5日参照>>)と、かなりの武力行使で当地に君臨していたわけで・・・
*【僧兵~僧侶の武装と堕落】も参照>>

しかし、この頃の奈良には、すでにかなりの数、本願寺に帰依する者も出て来ていて、そんな彼らの中には、今もって権勢をふるう興福寺に嫌悪感を持っていた者も少なく無かったのです。

そんな彼らが、教祖様=証如の呼びかけに立ち上がるのは当然の事・・・

かくして天文元年(1532年)7月17日、集結した大和の一向一揆衆は、ホラ貝を吹き鳴らし、鐘をけたたましく打ちまくりながら、興福寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する坊寺院)に放火して回ったのです。

記録によれば、興福寺の伽藍(がらん=寺院の主要建築群)そのものと、一乗院(いちじょういん=奈良県奈良市)大乗院(だいじょういん=同奈良市)を除いて、他の僧坊はほとんど、焼かれるか破壊されるか・・・

大事な経典は破られ、高価な法事の道具は盗まれ・・・さらに、その勢いは春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)にまで及び、蔵や神主さんの家まで破壊されたのだとか・・・この時、抵抗する術もなかった奈良在住の興福寺宗徒たちは、手に手を取って、南の高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)を目指して落ちて行ったのです。

勢いが、ようやく終息に向かった8月9日の夜・・・残った物はほとんど無く、奈良中がすっかり焦土となっていたと言います。

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大乗院庭園…庭園へのくわしい行き方は本家HP:奈良歴史散歩「ならまち」で>>

こうして「天文法華の乱~大和一向一揆」は、終焉を迎えました~~
って、延暦寺+八坂神社VS法華衆は?

そうなんです。
本チャンは、まだ先の先・・・

この戦いで分が悪いと本願寺に支援を求めた細川晴元・・・開けちゃいけないパンドラの箱を開けちゃいました~

この争乱で勢いづいた・・・
いや、勢いがつき過ぎた本願寺を法華宗でおさえ、
ほたら、また法華宗が勢いづいて・・・
と、エンドレスな宗教勢力争いに武士が関与して、
あんな事やこんな事が・・・

とにもかくにも、この続き=山科本願寺の戦いについては、8月23日の【天文法華へ向かう~山科本願寺の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
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2017年7月12日 (水)

応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い

延徳二年(1490年)7月12日、応仁の乱後も続いた畠山氏の主導権争いの中で、大きな衝突となった一乗山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府将軍家の後継者争いに管領家の後継者争いがくっついて、その配下となる全国の大名を巻き込み、全国を東西真っ二つに分ける大乱となった応仁の乱・・・

モメた原因の一つが、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県・三重県の一部)大和(やまと=奈良県)などの重要地の守護(しゅご=現在の県知事)を任されていた畠山氏の後継者争いでした。

Hatakeyamayosinari400 そもそもは、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)だった畠山持国(はたけやまもちくに)が、自らの後継者を弟の畠山持富(もちとみ)に定めていたにもかかわらず、途中で「やっぱ、ヤメた~」と持富を廃して、息子の畠山義就(よしひろ・よしなり)に譲ろうとしたために、持富の家臣や息子の畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が抵抗・・・持国も持富も弥三郎も亡くなった後は、弥三郎の弟である畠山政長(まさなが)が父と兄の遺志を受け継いで、義就との後継者争いを繰り広げる事になったわけです。

ただ、これには、単に持国が後継者決めに優柔不断だったり、家内で両者がウダウダやってたり・・・の畠山家ばかりのせいではなく、そこには、その力があまり大きくならないように守護大名を内部分裂させておきたい将軍家の思惑なんかもあったわけですが・・・。

なんせ、これまで、文安五年(1448年)11月に持国が義就を後継者に指名してから後、
享徳三年(1454年)9月
 =細川勝元の支持を受け弥三郎が上洛
 義就は京都を追われる
同年12月
 =義政の承認を受け義就が家督を継ぐ
 =弥三郎は京都を追われる
康正三年(1457年)7月
 =義就の勝手な出兵に義政激怒で所領没収
長禄三年(1459年)9月
 =弥三郎が死亡で派閥は弟の政長を擁立
長禄四年(1460年)9月
 =義就が朝敵(ちょうてき=国家の敵)
 =政長が畠山の家督を継ぐ
寛正四年(1463年)9月
 =恩赦により義就は赦免
寛正五年(1464年)
 =政長が管領に
文正元年(1466年)
 =義就が挙兵して上洛して義政に謁見
 =政長が管領職を辞めさせられる

とまぁ、このように、武力で以ってどっちかが上洛すれば、相手が退去・・・しかも、それをいちいち幕府=将軍が認めたり、辞めさせたりのくりかえし・・・(10月16日参照>>)

Ouninnoransoukanzucc で、上記のように、管領職を辞めさせられた義政が、名誉挽回とばかりに起こしたのが、応仁の乱勃発(5月20日参照>>)の直接の引き金となる応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)なのです。

勃発後、すぐには、5月の五月合戦(5月28日参照>>)、10月の相国寺の戦い(10月3日参照>>)など、京都市街で大きなぶつかり合いがありましたが、ご存じのように、この応仁の乱・・・
途中から、東西の武将が入れ替わったり、総大将がトンズラしたり(11月13日参照>>)してるうちに、徐々にグダグダ感満載の戦いと化していくわけで・・・

で、東西の大将である細川勝元(ほそかわかつもと)山名宗全(やまなそうぜん=持豊)が、文明五年(1473年)に相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事をキッカケに、8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が息子の足利義尚(あしかがよしひさ=9代)将軍職を譲って正式に隠居した事を受けて、その翌年には、それぞれの大将の息子=細川 政元(ほそかわまさもと)山名政豊(やまなまさとよ)が和睦・・・さらに文明九年(1477年)9月には義就が領国の河内に、11月には、最後までゴネまくっていた大内政弘(おおうちまさひろ)周防(すおい=山口県)にと(11月11日参照>>)・・・それぞれ京都を去って行った事で、やっとこさ応仁の乱は終結となるのです。

しかし、応仁の乱は終わっても、両畠山の抗争は終わりませんでした。

なんせ、上記の経緯の通り、幕府から認められた管領職についているのは義政なので、河内や紀伊など畠山の領国の守護は政長なわけですが、実際に河内の誉田城こんだじょう=大阪府羽曳野市誉田)に入って実権を握っているのは義就なわけで・・・未だに、どっちも譲らないんですから、当然です。

河内が難しいならば・・・と、政長が紀州への侵入を試みるも失敗した文明十四年(1482年)7月の戦闘をキッカケに、再び両畠山氏の戦闘が頻繁に行われるようになります。

戦場になった地では、田畑は荒らされるうえに、配下の者は、土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の地侍)はもちろん、農民に至るまで兵士として駆り出されるわけで・・・この頃、頻繁に戦場となっていた河内や山城の一般人から見れば、「もう、えぇかんげんにしてくれ!」ってなるのも当然で、この文明十四年(1482年)の12月には、歴史教科書でも有名な山城の国一揆(12月11日参照>>)が起こり、住民が話し合いで以って両畠山氏の撤退を要求するという前代未聞の下剋上を成功させています。

それでもまだ、あちらこちらで小競り合いを続ける両者・・・そんなこんなの延徳二年(1490年)7月12日大きな戦闘が起こります。

記録によって記述が様々なのですが、それらを合理的に統合して、現時点では、
あれからずっと、紀伊への侵入を画策しつつも、実現できずに苦労していた政長に、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)周辺の根来衆(ねごろしゅう=根来寺一帯に居住した僧兵集団)が協力を快諾した事から、それを足がかりに、イザ紀州へ攻め込もうと政長勢が駐屯していた一乗山(いちじょうざん=同岩出市)に、義就勢が押し寄せて猛攻撃を仕掛けた・・・という見方がされています。

結果としては、義就側の大敗・・・政長の主力であった根来衆相手に、数百余りが討死にし、その中には高野山の法師も多数含まれていたとされ、かなりの大戦だったと都でも評判になったとの記録が残っています。

また、主だった者の70余りの首が、その後京都に送られて「政長が首実検をした」との記録もある事から、この戦いに政長自身は出陣しておらず、その時は京都にいたものと考えられています。

とにもかくにも、この大敗は義就にとってはかなりの痛手であったようで、義就は翌・延徳二年(1491年)12月に、この世を去ります(内容かぶる部分ありますが…12月12日参照>>)

父の死を受けて息子の畠山義豊(よしとよ=基家)が後を継ぎますが、そこを一気に潰そうと考えたのか?政長は「義豊討伐」を願い出、時の第10代将軍=足利義稙(よしたね:義材・義尹=義政の弟の子)を擁して、根来衆やら紀伊の国衆やらを引き連れて義豊攻撃に向かうのですが・・・

ところが、将軍と元管領(時の管領は細川政元)が留守となったこの間、京都で、どえらい出来事が・・・有名な明応の政変(めいおうのせいへん)です。

これは、時の管領の細川政元が義稙を廃して、自らの意のままになるであろう足利義澄(よしずみ:義遐・義高=義政の兄の子)を第11代将軍に擁立して政権を掌握するという明応二年(1493年)に起こったクーデター・・・

この政変によって、将軍=義稙とそこにつながる政長が率いる軍団は、一夜にして賊軍となってしまったのです。

やむなく、元将軍=義稙は義豊側に投降し、政長は失意のまま自殺(討死にとも)・・・戦場を逃れた政長の息子=畠山尚順(ひさのぶ)は紀州へと身を隠し・・・おかげで、義豊は、政長に奪われたままとなっていた守護職を取り戻す事に成功したのです。

Dscn1713a900 応神天皇陵(誉田御廟山古墳・大阪府羽曳野市誉田)…誉田城は、この天皇陵を利用して構築した城と言われています。

しか~し・・・畠山両者の戦いは、ま~だ終わりません。

逃れた尚順が地元=紀州を味方につけ、勢力を挽回した事から、早くも、政変から約半年後の10月に両者の衝突が起こったのを皮切りに、
明応四年(1495年)、
明応六年(1497年)、
明応八年(1499年)・・・さらに、この明応八年(1499年)1月の戦いで義豊が戦死すると、その息子の畠山義英(はたけやまよしひで)が引き継いで
明応八年(1499年)12月、
翌・明応九年(1500年)・・・と、

とにかく、義豊側が尚順を紀州に追い込めば、ほとぼり冷めた頃に尚順が河内に侵攻・・・それが治まれば、また義豊側が紀州に・・・と、両者の戦いは続いていくのです。

とは言え、両者が、そんなこんなしているうちにも時代はどんどん進んでいくわけで・・・やがて、大和の派遣争い(9月21日参照>>)、政元亡き後の細川家の後継者争い(2月13日参照>>)、両者ともに巻き込まれつつあるうちに、徐々に他の武将たちが力をつけてくる下剋上・・・

結果的には・・・
義就系統は、上記の義英の息子の畠山義堯(よしたか=義宣)が、守護代の木沢長政(きざわながまさ)に裏切られて自刃に追い込まれた(7月17日参照>>)後、そのまた息子の畠山在氏(ありうじ)の時代に、その木沢長政が三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)に敗北した事から、事実上の滅亡となります。

一方の政長系統は、尚順から5代後の畠山高政(たかまさ)の時代に、やはり台頭していた三好(9月28日参照>>)と敵対した関係から、足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛して来た織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)に近づき、その子孫たちは織田→豊臣→徳川の流れで生き残り、伝統ある名家を重んじる徳川家康(とくがわいえやす)によって、あの今川家(3月16日参照>>)と同様に、江戸幕府内の高家(こうけ=江戸幕府内で儀式や典礼を担当する役職)として幕末まで続く事になります。

戦国の世で生き残っていくのは大変ですね~
振り返ってみると、この畠山両家は、戦国の幕開けとも言われる応仁の乱から、信長の上洛まで、ずっと戦っていたわけですから・・・
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2017年7月 5日 (水)

春日源助殿へ~武田信玄のラブレター❤

天文十五年(1546年)7月5日、武田信玄が、あの有名なラブレターを送りました。

・・・・・・・・・・

文春砲が鳴りやまない今日この頃ですが、いつの時代も、有名人というのは大変なものです。

古くは舎人(とねり)親王(11月14日参照>>)にしろ、近くは昭和の歌人=斉藤茂吉(もきち)(2月25日参照>>)にしろ、そして、今回の武田信玄(たけだしんげん)にしろ・・・
まさか、自分の書いたラブレターが日本中に公開されるとは!(lll゚Д゚)

まぁ、前回ご紹介させていただいた上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)『出家願望の手紙』(6月28日参照>>)でも、ご本人は「他人に見られたら恥ずかしい」っておっしゃっていますので、その内容に関わらず、手紙という物が、宛てた人以外の人に見られるのは、だいたいにおいて恥ずかしい物ではあります。

とは言え、歴史上の有名人となると、やはり、「その手紙が残っている」というだけで価値があるわけで、ましてや、それが、包み隠さずホンネを吐露した感じの内容であるなら尚更・・・

ただし、歴史が大好きで、歴史上の人物は全員大好きな不肖茶々・・・決して、こういった類の物を、バカにしたり、貶めるつもりでご紹介するわけではありません。

以前、別のページのコメントにも書かせていただいたのですが・・・

芸能事務所がアイドルやタレントを売り出すのに使う心理学を応用したテクニックの一つに『二重構造の原理』というのがあるんですが、それは、大衆の支持を得るためには、物質的な異質性心情的な同一性の二つを兼ね備えていないと人気が出ないという事なのだそうで、

物質的な異質性というのは、アイドルやタレントの場合は、カワイイ容姿だったり歌のうまさだったり…一方の歴史上の人物の場合は、強さだったり天才的な策略だったり、歴史に残るような偉業を成し遂げていたり…これは、一般人とは比較できないほど優れていなければなりません。

しかし、その一方で、心情的には同一=つまり一般大衆と同じように悩み苦しみ失敗する…心情的には一般大衆と同質の物を持っていないと共感を呼ぶ事ができず、大衆の支持を得られないって事なのですね。

邪魔だと思えば父も追放(6月14日参照>>)、敵をビビらせるためには3千人の生首を並べたり(8月17日参照>>)、三方ヶ原に勝利した翌日には、あの織田信長(おだのぶなが)を挑発(12月23日参照>>)したり・・・

そんな絶対的猛者の信玄が、大好きな男の子の心を捕まえておきたくて右往左往してる様子・・・心理学をカジった事のある茶々としては、このギャップが魅力的で、むしろ、「だからこそ人気がある」のだと思っているのです。

ちなみに、たまに、このラブレターの相手が男だという事に注目してしまう場合がありますが、以前、江戸時代に流行った若衆歌舞伎(6月20日参照>>)のページに書かせていただいてるように、この時代の男同士の恋愛は、特別珍しい事ではありませんので、そこではなく、人間味あふれる信玄さんの様子に、ご注目を・・・

・‥…━━━☆

一、弥七郎に頻(しきり)に度々申し候へども、虫気(むしけ)のよし申し候あひだ、了簡(りょうけん)なく候。全くわが偽(いつわり)になく候。
一、弥七郎伽
(とぎ)に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いはんや昼夜とも弥七郎とその儀なく候。なかんずく今夜存知よらず候のこと。
一、別して知音
(ちいん)申したきまゝ、色々走り廻り候へば、かへって御疑ひ迷惑に候。 

この条々、いつはり候はば、当国一、ニ、三明神、富士、白山、殊(こと)に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、諏訪上下(すわかみしも)大明神、罰を蒙(こうむ)るべきものなり。よって件(くだん)の如し。
内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候あひだ、白紙にて、明日重ねてなりとも申すべく候。
 

 七月五日
     晴信
(←花押)
  春日源助との

・‥…━━━☆

現代風に意訳すると・・・

・‥…━━━☆

「弥七郎には、何回か言い寄ったんは言い寄ったんやけど、腹痛やって断られて、結局は何も無かったんや~これ、ホンマ、嘘ちゃうからな」
「弥七郎の夜の相手をさした事は無い!それは、前から無い!もちろん、夜だけやなくて昼間も無いって事やで。
まして、今夜なんて事、あるわけないやろ」
この事、知ってほしくて、色々動きまわるんやけど、かえって疑いをかけられて、ホンマ困ってんねん。
 

もし、この手紙に書いた事が嘘やったら、神様の罰でも何でも受けるつもりやから、ホンマ、わかってな?
ほんまやったら、正式な誓いの紙に書かなアカンところやねんけど、今夜は
庚申(こうしん)待ちでみんな起きてるよって、他人の目があるさかい、明日、もっかい、ちゃんとした誓いの紙に書くからね~」

・‥…━━━☆

てな感じ・・・て、
何回か言い寄っとんのかい!(*`ε´*)ノ
断られて無かったらいっとったんかい!(=゚ω゚)ノ

というツッコミはさておき、

なんだか、右往左往する様子が目に浮かぶような、見てるコチラの顔も思わずニンマリしてしまうような、リアル感満載の手紙です。

正式には『春日源助宛武田晴信誓詞(東京大学史料編纂所蔵)と呼ばれるこの手紙・・・

この時の信玄は未だ出家前なので名前は晴信(はるのぶ)、この手紙自体には、年号がありませんが、最後の方に出て来る「甲役人多く候」「庚申待ちをしている人が多いので…」という風に解釈できるところから、7月5日が庚申の日(庚申待ちとは=3月6日参照>>)だった天文十五年(1546年)の手紙であろうと推測されているのです。

また、宛先の「春日源助との」とは、『甲陽軍鑑』(9月9日参照>>)の原本を記録したとも言われる武田四天王の一人=春日虎綱(かすがとらつな=高坂昌信)と一般的には言われています(異説もあり)

とは言え本当に、相手がイケメンの誉れ高い春日虎綱で、書いたのが天文十五年なのだとしたら、信玄25歳で虎綱19歳・・・まさかまさかの、見るに耐える、いや、むしろ見てみたいボーイズラブシーンのような気がしないでもない・・・

Singenkoicc_1

とまぁ、アホな事を言うとりますが・・・

実は、この手紙・・・まったく別の見方もできます。

冒頭に書いた、江戸時代に流行した若衆歌舞伎(再び6月20日参照>>)などは、ほぼほぼ趣味嗜好の世界ですが、そのページにも書かせていただいたように、戦国時代の男同士の関係は、単に恋愛だけではなかったわけで・・・

もちろん、おおもとには「戦場に女性を連れていけない」からの「夜のお相手」という部分もあったでしょうが、結果的に、それがあったればこそ、そこに揺るぎない主従関係が生まれた事も確かでしょう。

その関係が保たれている限り、主君から見れば「忠義を貫いてくれる部下」であり、家臣から見れば「自分を引き上げてくれる上司」だったという事です。

裏切りが当たり前の戦国の世で、主君の命令に忠実な家臣を育てる場合、パワハラ気味な強い態度で、力で以って言う事を聞かせる事もアリかも知れませんが、「この上司のためなら死んでもイイ(゚▽゚*)」というまでの信頼関係を構築する事も大事で、そのための一つの手段が「体のつながりを持つ」という事だったワケです。

今回の信玄の手紙も、主君から年下の家臣に宛てたにしては、けっこう丁寧な書き方で、だからこそ、必死のパッチで疑いを晴らそうとしているように感じてしまうわけですが、

戦国時代には、それこそ、「体の切れ目が縁の切れ目」とばかりに、その一族もろともに謀反を起こした例も少なく無い・・・なんせ、美少年の後ろには、その一族もついていて、美少年の肩には、その一族の未来ものしかかっているわけで・・・
【あんなに愛した仲なのに…陶晴賢・大寧寺の変】参照>>)

てな事で、一見、アタフタして浮気の弁解をしているように見えるこの信玄の手紙は、実は、家臣をつなぎとめておくための、計算ずくのしたたかな手段?・・・いや、物事を穏便に済ますための、信玄独特の気配り?の現れだったのかも知れません。
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2017年6月28日 (水)

上杉謙信の出家願望と大熊朝秀~駒返の戦い

弘治二年(1556年)6月28日、上杉謙信天室光育「出家を決意した」との手紙を送りました。

・・・・・・・・・

謹而言達 於今度宗心身上之儀ニ 以両使條々申展候段 定而可被聞召届候…

で始まる弘治二年(1556年)6月28日付けの、この手紙・・・上記の部分の内容は
「謹んで言わせてもらいますが、このたび、宗心の身の上に関して、2名の使者を派遣しましたので、おそらく願いは、お聞き届けいただいた事でしょう…」
てな感じ、

Uesugikensin500 「宗心」というのが上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)が自身で名乗った出家名で、(聞き届けてほしい)願い」というのは「出家」です。

そう、謙信は、この時、本気で「出家する!」と宣言して高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)へと向かっているのです。

この手紙・・・
実際には、この文章の後に、自身が若くして後を継いだ時の事やら、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)主になった経緯やら、領主としていかに国内を平定したかなどが、滔々と、半ば「俺ってスゴイやろ?」的な雰囲気を醸し出しつつ書いてある、けっこう長い手紙なわけですが・・・

そこは、そう・・・手紙の相手が、謙信が幼い頃から信頼を寄せ、ホンネを吐露できる親しい相手であった林泉寺(りんせんじ=新潟県上越市・上杉氏の菩提寺)天室光育(てんしつこういく )という僧侶だったのもあって、ついつい書いちゃった~って感じなのかな?

なんせ、手紙の最後のほうには、
「後先考えず、筆の向くまま書いてしもたので、誤字脱字も多いでしょうから、(この手紙を)他人に見られて笑われたらどないしょと思いますわ~けど、節目になる事なので、お知らせだけはしときたいという、僕の気持はわかってもらえたかと…」
てな、感じで締めくくっていますから。

で、その中には「出家したい」と思った理由めいた物も書かれていて・・・

「国内をやっとこさ平定し、五穀豊穣で一安心…僕がやる事も、もう無くなったし、昔から『功名を遂げた者が身を退いた』例もある事ですし…」
という一方で
「僕が、必死のパッチで外敵を撃退して平和を取り戻したのに、家臣らは、それぞれが自分勝手な事ばっかり言うて、味方同士でモメ倒して…そんなんしてたら僕の苦労も水の泡になるから、ここで身を退く事にしますわ」
てな、家臣へのグチとも、脅しとも言える内容が書いてあるのだとか・・・

そんな感じなので、謙信に「出家願望」があって、実際に、この時期に「高野山に向かった」事は確かなれど、出家の理由については、今も謎・・・色々と推理はできますが、「コレだ!」という決め手は無いようで、

上記のように、
「とりあえず、国内平定して一旦平和になったから」
「自分の苦労を理解してくれない家臣に嫌気がさしたから」

あるいは、家臣たちをちょっとビビらせて、逆に結束を強めるための「偽りの出家」「お芝居の出家」だったなんて話もあります(←今風に言うと「出家するする詐欺」?)

・・・で、謙信が、この手紙を受け取った天室光育に、
「手紙の内容を家臣のみんなに伝えといてね~」
と言って春日山城を去った事もあって、

間もなく、急使によってこの一報を聞いた上田長尾家(うえだながおけ)長尾政景(ながおまさかげ=謙信の姉婿・景勝の実父)(7月5日参照>>)は、取るものも取りあえず一門のもとにはせ参じ、国中に知らせて方々を招集し、皆の総意のもとに、主君の出家をストップさせるべく、政景自ら、謙信の後を追ったのです。

かくして、関山権現(せきやまごんげん=新潟県妙高市関山)祈祷中だった謙信に追いついた政景(場所は奈良の葛城山の麓だったとも)、涙ながらに
「そのお心はお察ししますが、殿さまあってこそ治められるこの国…今、出家された事が知れ渡れば、騒動を起こす者もおるかも知れません。
国の難は民の悲しみ…何とか、決心を覆してお戻りになって、国の安泰を維持してください。
家臣一同が皆、そう願ってますねん」
『上杉謙信言行録』より)
と説得したのだとか・・・

で、この説得に応じた謙信は、還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)して春日山城へと戻り、家臣たちに今後の忠誠を誓う「誓紙(せいし=誓いの言葉を記した紙・起請文)を差し出させて、この出家騒動は一件落着となるのですが・・・

実は、このゴタゴタの中で、騒ぎに乗じて反旗をひるがえした人物がいました。

それは、父の時代から長尾家に仕える重臣の一人=大熊朝秀(おおくまともひで)・・・彼だけは、上記の誓紙を出す場にはいなかったのです。

この頃の謙信の重臣と言えば、この大熊朝秀と本庄実乃(ほんじょうさねより)、そして直江景綱(なおえかげつな=直江兼続の義父)の名前が挙げられますが、実は、もともと朝秀と実乃の仲が悪く、事あるごとに反目していた事から、その下となる家臣も2派に分かれて対立していたとも言われます。

その原因となったのは、あの謙信の家督相続・・・ご存じのように、謙信には長尾晴景(ながおはるかげ)という兄がいて、父=長尾為景(ながおためかげ=越後長尾家)が隠居する際に家督を譲られたのは、このお兄さんの方・・・

しかし、父が亡くなり、仏門に入っていた弟が還俗して活躍し始めると、「温厚な性格で融和政策をとる兄より、イケイケで勝ちまくりの弟の方が良くネ?」てな事になって、結局、天文十七年(1548年)に、兄は隠居して弟に家督を譲ったという経緯があったわけで・・・

そうです。
この時に、朝秀は兄=晴景派で、実乃は弟=謙信(景虎)だったという話も・・・まぁ、この時は、守護の上杉定実(うえすぎさだざね)が間に入った事で家中分裂の危機を回避したので、その後は両者ともが謙信に仕えていたわけですが、それからずっと、その確執が埋まる事が無かった可能性も・・・

ただし、一方で、この謙信の家督相続の際には朝秀自身が謙信擁立に尽力したという説もあるので、あくまで、諸説あるうちの一つの可能性という事なのかも知れませんが・・・

また、それ以外にも、
朝秀自身は謙信の信頼を得ていたものの、周囲は長尾家の家臣ばかりで、その身の置き所に悩んでいたとか、
朝秀が、守護である上杉家を、もとの強い上杉家に再興したいと思っていた事が、結果的に守護代の長尾家に反発するような形になってしまったのだとか、
様々な要因が考えられていますが・・・

理由はともかく、このタイミングで大熊朝秀は、謙信と敵対していた武田信玄(たけだしんげん)からの再三の誘いに応じ、自らの城であった箕冠城(みかぶりじょう=新潟県上越市板倉区)を捨てて、越中(えっちゅう=富山県)へと退いて一揆を扇動し、信玄の援軍を待ったのです。

これが、弘治二年(1556年)8月23日の事・・・

そう、上記の涙ながらの説得に応じて、出家を止めて戻って来たとされる謙信ですが、一方では、この「大熊朝秀謀反の知らせを聞いて戻って来た」とも言われます。

なので、この一連の流れが、実は、分裂した家臣団のどちらか一方を切り、一つにまとめるための策だったとも・・・

とにもかくにも、還俗して春日山城に戻った謙信は、すばやく軍を編成して、越後(えちご=新潟県)へと進撃して来た朝秀軍を駒返(駒帰:こまがえし=新潟県糸魚川市)にて打ち破ったのです。

敗れた朝秀は、甲斐(かい=山梨県)の信玄のもとに身を寄せ、以降、大熊家は武田の家臣として生きていく事になります。

もし、上記のように、出家うんぬんの話からのすべてが、家臣を一つにまとめるための策だったとしたら、あまりに計画通りに事が運び過ぎの感もあり、切られた大熊朝秀の立場は???

って事にもなりますが、実は、ここで武田の家臣となった大熊家・・・信玄亡き後の織田&徳川連合軍の怒涛の進撃で多くの武田の家臣が裏切る中、朝秀は、武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)の最期となる、あの天目山(3月11日参照>>)まで従って、その忠義を貫き、主君とともに果てているのです。

ちなみに、朝秀の長男=大熊常光(おおくまつねみつ)は、この武田滅亡のゴタゴタの中で見事に生き残った真田昌幸(さなだまさゆき)(6月4日参照>>)に仕えていた事で、彼は無事・・・大熊家はその後も、真田の家臣として代々仕えたとの事なので、その点はご安心を・・・

謙信とは離れても、武田とは離れなかった朝秀・・・そこには、彼にしかわからない戦国武士の意地の貫き方があったという事なのかも知れませんね。
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2017年6月24日 (土)

三好長慶が天下を取る~江口の戦い

天文十八年(1549年)6月24日、三好長慶三好政長に勝利して事実上、戦国初の天下人となる江口の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後、3人の養子によって行われた後継者争いで、故郷の阿波(あわ=徳島県)に退去して無念の死を遂げた父=細川澄元(すみもと)に代わって敵対勢力を倒し(2月13日参照>>)、時の将軍=第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)とも和睦して、事実上、政権を掌握した細川晴元(はるもと)・・・

阿波時代から、晴元の重臣として活躍していたのが、三好元長(みよしもとなが)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟ら三好一族でしたが、そんな晴元が政権樹立が見えたタイミングで、もともと次期将軍候補として擁立していた足利義維(よしつな=義晴の弟)をアッサリ捨てて、上記の義晴に乗り換えた事に不満を持った元長が反発・・・結局、元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げました。(7月17日参照>>)

しかし、そんな元長の後を継いだ息子の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、その身が未だ11歳の若さであった故か?父の仇を討つ事無く従順に晴元に仕え、着々と細川政権内での地位を獲得していき、やがて1-2を争う重臣となっていくのですが、一方で、父の一件のせいか?晴元は何かと政長を優遇し、あのドサクサで政長の物となっていた亡き父の官職も返してはもらえぬまま・・・

政長は阿波時代からの長老とは言え、血筋から見れば、三好の総帥は長慶・・・一族の中で政長だけが突出してしまうと一族間での乱れも生じる事から、長慶はその旨、晴元に様々訴えるのですが、晴元は聞く耳持たず、相変わらず、政長と、その息子=三好政康(まさやす=宗渭・政勝、三好三人衆の一人)にベッタリ。

その間の天文十二年(1543年)には、後継者争いの3人の養子のうちの一人=細川高国(ほそかわたかくに)の後継者(養子)細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて挙兵したりの一件もありながらも、まだ平静を保っていた長慶でしたが、

やがて天文十七年(1548年)、政康のたび重なる不祥事?あるいは、父の死に政長が関与していた事をこの時点で知った?(様々な理由が推理されます)などなど・・・とにもかくにも、ここで「もう我慢できひん!」となった長慶は、晴元に政長父子の討伐を願い出ますが、やはりこれも却下・・・

「そこまで政長の味方しはるんやったら、晴元さんも敵とみなしまっせ!」
とばかりに軍事行動に出る覚悟を決めた長慶は、舅(側室の父)若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)主=遊佐長教(ゆさながのり)に声をかけます。

一方、この長慶の行動を、謀反と判断した晴元の舅でもある近江(おうみ=滋賀県)の雄=六角定頼(ろっかくさだより)は、和泉(いずみ=大阪府南部)細川元常(ほそかわもとつね)紀州(きしゅう=和歌山県)根来衆(ねごろしゅう=根来寺を中心とする僧兵たちの集団)などに出兵を要請します。

Egutinotatakai
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして翌・天文十八年(1549年)2月、尼崎に出陣した長慶は、3月に入って、別働隊を駆使して政長に与する細川晴賢(ほそかわはるかた)中嶋城(なかじまじょう=大阪市淀川区)を攻める一方で、その東に位置する柴島城(くにじまじょう=大阪市東淀川区)も攻め、その南にあたる政康の居る榎並城(えなみじょう=大阪市城東区)を追い込んで包囲・・・政長はなんとか伊丹城へと退却しましたが、長慶勢に包囲された榎並城は、以後、籠城戦となります。

これに対して晴元は近江へと赴いて、六角定頼らの出陣を要請した後、摂津多田の塩川城(しおかわじょ=兵庫県川西市)に入り、4月28日には武庫郡(むこぐん=兵庫県西宮市の大部分と宝塚市&尼崎市の1部)一帯に放火・・・翌日には、晴元に与する伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)伊丹親興(いたみちかおき)尼崎周辺に放火して回りました。

これは、上記の榎並城を包囲する別働隊と、越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)の長慶本隊とを分断する作戦・・・こうやっておいて、晴元&政長で以って政康を援護しようというわけです。

5月2日には、これから来てくれるであろう六角軍に備えて、三宅城(みやけじょう=大阪府茨木市)の城将=香西元成(こうざいもとなり)に、長慶方の芥川孫十郎(あくたがわまごじゅうろう)が守る芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)を攻めさせようとしますが、

それを阻止すべく惣持寺(そうじじ)西川原(大阪府茨木市西川原)で待ち構えていたのが三好長逸(ながやす=三好三人衆の一人で元長の従兄弟とも)でした。

ここで香西隊の行軍が阻止されたため、政長は伊丹城から三宅城へと移動・・・晴元も塩川城から三宅城へと移動しました。

そんなこんなの6月11日、政長は三宅城を出て江口城(えぐちじょう=大阪市東淀川区)に入ります。

この江口は、北中島の東北隅に位置しており、淀川と神崎川によって3方を囲まれた天然の要害・・・ここを拠点にゲリラ戦を試みて三好軍を妨害しつつ、やがて北東方面からやって来るであろう六角氏の援軍を待つ作戦でした。

この動きを見た長慶は、自らの弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った)(5月1日参照>>)別府(べふ=大阪府摂津市)の川畔に派遣・・・三宅城と江口城の連絡を断ち、兵糧の道を断ち、かつ東西から江口を挟み込む作戦です。

かくして天文十八年(1549年)6月12日、世にいう江口の戦い=長慶VS政長&晴元の最終決戦の幕が上がったのです。

開始からまもなく、近江からはせ参じてくれた政長方の新庄直昌(しんじょうなおまさ)が討死にするも、六角氏の援軍を待つつもりの政長軍は、守りを固める姿勢を崩さず、徹底した守勢を貫きます。

そう・・・実は、六角定頼の息子=六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)率いる大軍が、この6月24日には、すでに山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)まて来ていたのです。

そこから江口までは、わずか半日の行程です。

しかし、一方で、この時、政長は、
♪川舟を  留て近江の 勢もこず
 問んともせぬ 人を待
(つ)かな♪
という歌を詠んだとされ、なんだか援軍の到着に一抹の不安を感じている様子がうかがえます『足利季世記』より)

携帯やスマホの無い時代・・・待ち合わせ場所に遅れた友達が、今、どこまで来てのるか?
ひょっとして、その情報が政長まで届いていなかった???

その状況を見透かしていたのか?否か?
長慶は、ここで一気に勝負に出ます。

天文十八年(1549年)6月24日、六角氏の援軍が江口に到着する直前に、長慶は、弟らと江口を東西から挟み込むように連携し、江口城の政長を急襲したのです。

政長が江口に入ってから約2週間・・・
しかも、上記の通り、長慶によって三宅城との連絡も、兵糧の補給路も断たれた状態・・・

さらに、この江口城は、この戦い以前には文献に登場せず、戦いの後に、この城が長慶の物となったものの、そもそもの記録がほとんど無い謎の城なわけで、ひょっとしたら、城と言っても、この時点では、今回の戦いのために構築した急ごしらえの櫓(やぐら)のような物だった可能性も??

だとしたら、そこに仕掛けられた長慶方の総攻撃+挟み撃ちには、もはやひとたまりも無い状態だった事でしょう。

間もなく、政長をはじめとする800名が討死し、江口城は陥落しました。

また、一説に政長は、榎並城へと逃走を図ろうとしたものの、淀川で水死したとも伝わります『応仁以来年代記』による)

この敗戦によって、政長を援護するべく三宅城にいた細川晴元は、戦わずして京へと戻りますが、長慶の追撃を恐れて、将軍=義晴とともに、近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと避難していきました。

また、勝敗が決した事で榎並城の政康も、城を退去して逃亡・・・伊丹城の伊丹親興は和睦を結んで長慶の傘下となりました。

こうして、これまでの細川政権は崩れ、細川氏綱を冠にした三好政権が誕生する事になるのですが・・・

このあとは、坂本へと逃れた将軍=義晴の後を継いだ足利義輝(よしてる)による、アノ手コノ手の京都奪回作戦が繰り広げられる事になるのですが、そのお話は、それぞれの関連ページ「でどうぞm(_ _)m

★関連ページ
【三好VS六角の志賀の戦い】>>
【義輝VS三好長慶~白川口の戦い】>>
【剣豪将軍・義輝~京都奪回作戦の日々】>>
【三好を支えた「鬼十河」~十河一存】>>
【やさし過ぎる天下人…三好長慶】>>
【剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期】>>
【信長の上洛を阻む六角承禎】>>
【信長の登場で崩壊する三好三人衆】>>

これだけの死闘を繰り広げた三好×六角×細川が、この後の織田信長の登場で、三者ともに崩れてしまうのは、何とも・・・

悲しくもあり、盛者必衰のコトハリでもあり(´;ω;`)ウウ・・・それが戦国のならい&時代の流れという物かも知れません。
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2017年6月20日 (火)

長尾為景が上杉顕定に勝利~長森原の戦い

永正七年(1510年)6月20日、越後守護代の長尾為景が、関東管領の上杉顕定を死においやった長森原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

永正四年(1507年)、越後(えちご=新潟県)守護(しゅご=現在の県知事みたいな)を務めていた上杉房能(ふさよし)に対し、守護代(守護の補佐役)長尾為景(ながおためかげ=越後長尾家)が、房能の養子の上杉定実(さだざね)を次期守護に掲げて反旗をひるがえし、房能を死に追いやりました。(8月7日参照>>)

まさに下剋上(げこくじょう)ですが、これを捨て置けなかったのが、房能の兄で、現在は関東管領(かんとうかんれい=関東を治める足利公方の補佐役)を務める上杉顕定(あきさだ)でした。

その一件から2年後の永正六年(1509年)7月、顕定は、自ら8千騎の軍勢を従えて越後に乗り込みますが、その時には、すでに先陣として入っていた養子の上杉憲房(のりふさ)の誘い込み作戦によって現地の反為景勢力を結集させており、その代表格でもあった長尾房長(ながおふさなが=上田長尾家・上杉景勝の実祖父)坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)を進駐基地として決戦の準備を整えます。

ちなみに、顕定に味方した者は、他にも、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄房長(ほんじょうふさなが)平林城(ひらばやしじょう=新潟県村上市)色部昌長(いろべまさなが)竹俣城(たけまたじょう=新潟県新発田市)竹俣清綱(たけのまたきよつな)などの揚北衆(あがきたしゅう=越後北部の国人豪族)・・・また、定実&顕定・両者の実家にあたる上条上杉家(じょうじょううえすぎけ)上条定憲(じょうじょうさだのり)も顕定側に・・・

一方の為景側は、山本寺上杉家(さんぼんじうえすぎけ)山本寺左京進(さんぼんじさきょうのしん)をはじめ、中条藤資(なかじょうふじすけ)安田長秀(やすだながひで)などの越後国人衆市川(いちかわ)小笠原(おがさわら)高梨(たかなし)などの信濃衆(しなのしゅう=信濃の国人豪族)・・・など

やがて8月に入って各地で交戦が勃発すると、顕定方は破竹の勢いで為景方を蹴散らして行き、勢いが止められなかった定実&為景は、一旦、越中(えっちゅう=富山県)へと退きます。

為景らが越中に敗走した後も、為景方の武将たちは転戦を続けますが、一方で、越後を抑えた顕定は国政の采配に着手します。

『鎌倉管領九代記』には、この時の顕定は法制を厳しくして、為景に味方した者を殺害したり領地を没収したりなどの暴挙を行ったために、他国への逃亡者が相次ぎ、結局、越後の住人で彼に味方する者がほとんどいない状態になってしまった・・・的な事が書かれていますが、そこンところは、顕定には顕定なりの言い分が・・・

なんせ、数々の戦いで、自分に味方してくれた者たちに恩賞を与えねば、士気も下がるし、ヤル気もなくなるわけですが、顕定は関東管領で、今回も関東から出張して来てるわけですので、現時点で越後の人では無い顕定は、結局は、敵となった誰かの領地を奪って味方に分け与えるしか無いわけですよ。

とは言え、『鎌倉管領九代記』の記述が少しオーバーであったとしても、ムリクリの顕定出張政治は、多かれ少なかれ、そのような恐怖政治的な部分があったようで、結局、これが、この後の為景方巻き返しに影響を与えたように見えます。

Nagamoriharanotatakai
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
(この図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

明けて永正七年(1510年)春・・・4月2日の紙屋庄(かみやのしょう=新潟県長岡市付近)、4月7日の荒浜(あらはま=新潟県刈羽郡から柏崎市付近)などの戦いを経て、5月20日の今井・黒岩(糸魚川市付近)の戦いで為景方の村山直義が顕定方に勝利し、糸魚川付近に布陣して、越後府中(ふちゅう=現在の県庁所在地みたいな?)奪回の機会を狙うまでに態勢を回復させました。

ただし、信濃衆の一人の高梨政盛(たかなしまさもり)も、このタイミングで越後に侵入し、5月28日&29日の両日に渡って顕定軍と交戦しますが、この合戦は顕定軍の勝利・・・さらに6月6日には、顕定方の長尾房長が、為景方の蔵王堂城(ざおうどうじょう=新潟県長岡市)を攻略して数百人を信濃川に追い込んだり、為景方の拠点の一つであった黒滝城(くろたきじょう=新潟県西蒲原郡)を攻略するなど、まだまだ、その強さを見せつけていました。

しかし、やがて、その流れが変わります。

こうして、為景方が再三に渡る越後府中奪回作戦を展開した事で、徐々に、越後の武将たちの寝返りが相次いで来るのです。

その流れを決定的にしたのが、上条上杉家の看板を背負った上条定憲・・・各合戦の展開を読んだ定憲は、ここに来て、いきなり、軍港として重要な役割を果たしていた寺泊(てらどまり=新潟県長岡市)から、顕定軍を追いだしたのです。

おかげで、為景方が寺泊港を占領・・・さらに進撃して6月12日には椎谷(しいや=柏崎市)にて為景軍が勝利し、16日には柏崎(かしわざき)に陣を置いて府中に迫ります。

風向きが変わった事をすばやく察知した顕定は、一旦、兵を関東へ戻した方が良いを考え、すぐに行動に移したのですが、それを阻むかのように、このタイミングで寝返ったのが坂戸城の長尾房長・・・

かくして永正七年(1510年)6月20日、越後の長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)にて、後退する顕定軍が、それを阻止しようとする為景軍に包囲されたのです。

『鎌倉管領九代記』などによれば・・・
顕定軍800余騎に対して、為景軍は500余騎・・・数の差から、合戦開始当初から為景軍は押され気味となり、後退を余儀なくされ、「あわや!」という場面もあったようですが、そんな中で顕定軍が体制を立て直そうとしたその瞬間、横から、高梨政盛の700余騎が現れて突撃を開始したのだとか・・・

新手の大軍への防戦に戸惑っている中、混乱の間を縫うように大将めがけて突進した政盛は、馬上のまま顕定に組みついて、そのまま両者ともに落馬したところを、マウンティング状態で討ち取り、鉾先(ほこさき)にその首を掲げて
「上杉顕定入道、高梨摂津守が討ち取ったり~~!」
と叫びました。

大将を失った顕定軍は総崩れとなり、兵も散り々々になっていったのだとか・・・

ただし、顕定の死には、討死説の他にも、負けが濃くなった時点で自刃した説もあり、上記の記述が、どこまで史実なのか?は微妙なところではありますが、この後の展開を踏まえれば、この戦いで高梨政盛がかなりの活躍を見せた事、為景軍の勝利によって、越後内での合戦が治まったという事は、おそらく間違いのないところでしょう。

なんせ、この越後に荘園の支配権を持っていた公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)も、自身の日記に、
「顕定が死んだ事は残念やけど、越後が平和になってウレシイ」
と、戦乱から解放されて荘園の特権が当てにできる状態になった事を喜んでますから・・・

こうして、しばらくの間、定実を冠に据えた為景政権が越後を牛耳る事になります。

とは言え、この敗戦を受けて、白井城(しろいじょう=群馬県渋川市)へと戻った顕定の養子=憲房は、
「アイツ(為景)は家来のくせして、2人の主君(房能&顕定)を殺害しやがった~こんなん前代未聞やで!」と怒り心頭のご様子。

また、冠に据えられた定実も、やがては為景の操り人形状態に、徐々に不満を持って来る事になるのですが、そのお話は、先日書かせていただいた
【永正の乱~越後守護・上杉定実VS守護代・長尾為景】のページ>>でどうぞm(_ _)m

ちなみに、今回登場した上杉憲房の息子が上杉憲政(うえすぎのりまさ)・・・あの上杉謙信(うえすぎけんしん=為景の息子)関東管領職を譲渡し、その後は越後府中に近い御館(おたて=憲政の屋敷の意味)にて余生を送る事になるアノお方です。(2010年3月17日【景虎VS景勝~御館の乱】参照>>)
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