2019年7月20日 (土)

上杉朝定VS北条氏綱~難波田憲重の松山城風流合戦

 

天文六年(1537年)7月20日、上杉朝定の拠る武蔵松山城を北条氏綱が攻撃した松山城の戦いがありました。

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現在の埼玉県にあった武蔵松山城(むさしまつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)

その誕生は、応永三年(1396年)もしくは六年(1399年)に扇谷上杉氏(おおぎがやつうえすぎ)家臣の上田友直(うえだともなお)によって築城されたと考えられており、あの新田義貞(にったよしさだ)鎌倉攻め(5月22日参照>>)の際に、ここに駐屯したとも言われますが、あくまで、それは言い伝え・・・

なんせ、武蔵(むさし=東京都&埼玉県と神奈川県の一部)比企丘陵(ひききゅうりょう=埼玉県東松山市・比企郡滑川町・嵐山町・小川町付近)の東端に位置し、南北・西の三方に川を従えた天然の要害地にある松山城。

おそらくは、東の下総(しもうさ・しもふさ=埼玉県&東京都の東部と千葉県北部・茨城県南部)、北の上野(こうずけ=群馬県)から武蔵を守る目的で構築された最前線の城であった事がうかがえ、その時代々々において、度々の関東支配を狙う武将たちによる争奪戦が繰り返された場所だったのです。

特に、文明十八年(1486年)に、活躍し過ぎな部下だった太田道灌(おおたどうかん)を恐れた主君=上杉定正(さだまさ・扇谷)が、その道灌を殺害してからは、山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)との抗争が激化し、度々、この地が合戦場所となっていました。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

ちなみに、この「山内&扇谷」という両上杉家は、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、もともと地元が関東であるにも関わらず、将軍は京都にいなければならないため、次期将軍を三男の 義詮(よしあきら)に譲り、その弟の基氏(もとうじ)に地元を支配すべく関東に派遣して鎌倉公方(かまくらくぼう)と称した、その鎌倉公方の補佐役=執事(しつじ=後の関東管領)を代々務める家柄でした。

とは言え、山内と扇谷では山内が本家なため、関東管領はほとんど山内上杉家から出ていたのですが、ここに来て、その太田道灌の活躍により(5月13日参照>>)扇谷上杉が力をつけつつあったわけなのですが・・・

しかし、この両者がゴチャゴチャやってる間に、その間をすり抜けて自力で小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)奪取して、徐々に関東における勢力範囲を伸ばしはじめていたのが北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎宗瑞)でした。

永正十三年(1516年)には、新井城(神奈川県三浦市)を落として(7月13日参照>>)相模(神奈川県の大部分)一帯を北条が制覇した事で、危機感を抱いた両上杉家が、和睦して対抗していますが、大永四年(1524年)には、早雲の後を継いだ北条氏綱(うじつな=早雲の長男)江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を奪われ、当主の上杉朝興(ともおき=定正の養孫)河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に逃亡する場面もあったとか・・・

そんなピンチな上杉朝興は、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事)武田信虎(たけだのぶとら)の息子=晴信(はるのぶ=後の信玄)に娘を嫁がせて同盟を結んで、その力を借りながら戦いますが、残念ながら江戸城奪回を果たせぬまま天文六年(1537年)4月に死去・・・息子の上杉朝定(ともさだ)が後を継ぐ事になります。

ところが、この息子の朝定が未だ13歳という若さ・・・当然ですが、かの北条氏綱が、この好機を見逃すはずはありません。

もちろん、そこンところは上杉側も重々承知。。。朝興の遺言に従い、弟(つまり朝定の叔父)上杉朝成(ともなり)が若き当主の後見人に立ち、神太寺にあった古城を深大寺城(じんだいじじょう=東京都調布市深大寺元町)としてを再構築して北条の侵攻に備えます。

朝興の死から3ヶ月後の7月11日、北条氏綱が、自ら7000騎の軍勢を率いて、現時点で上杉朝定らが本拠とする河越城の南西に位置する入間郡(いるまぐん=現狭山市内)付近まで出張ると、4日後の7月15日、これを受けた上杉勢は約2000の軍勢で以って迎え撃ちます。

しかし、深入りした上杉朝成が敵兵に生け捕られたうえに、味方に700余名の死者を出し、上杉勢は敗退・・・やむなく朝定は河越城を捨て、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)の守る松山城へと逃げ込んだのです。

かくして天文六年(1537年)7月20日松山城に駒を進めた北条氏綱勢に対し、残党をかき集めて体制を立て直した難波田憲重が撃って出ます。

合戦の勝敗については・・・
いくつかの文献で、北条方の激しい攻撃に耐えきれずに松山城は陥落し、上杉朝定は山内上杉憲政(のりまさ)を頼って上野平井城(ひらいじょう=群馬県藤岡市)へ逃れ、勢いに乗じた北条方が、その後、近隣の町屋をことごとく焼いた・・・と記されたりしているのですが、一方で、難波田憲重らの奮戦によって松山城を死守したという話もあります。

一般的には、この戦い以降、かの河越城を失った上杉朝定が、松山城を居城とし、河越奪回、いや、なんなら江戸城奪回を夢見て、松山城に大幅な拡張工事をしたと・・・つまり、難波田憲重らの奮戦によって北条勢を撃退したとの見方がされています。

Nanbadanorisige500a で、この時のエピソードとして語られているのが「松山城風流合戦(まつやまじょうふうりゅうがっせん)です。

北条勢を撃退した難波田憲重が城中へ取って返そうとした時、未だ攻撃中の寄せ手側から山中主膳(やまなかしゅぜん)なる武将が進み出て
♪あしからじ よかれとてこそ 戦はめ
 なにか難波田(なばた)の 浦崩れ行く ♪
と一首の和歌を詠みます。

「おいおい、どうしたんや!難波田は戦わんと逃げ帰るんか?」
城中へ戻ろうとする憲重を挑発して聞いて来たのです。

すると憲重は、古今和歌集の中の一首を引用して
♪君おきて あだし心を 我もたば
 末の松山 波もこえなん ♪
と返します。

上記の通り、この歌は古の歌集にある歌で、本来は、
「君をほっといて浮気するなんて、あり得へん」
という恋の歌です。

歌の中の「末の松山」とは、現在の宮城県多賀城市付近にあったとされる山なのですが、それが、とても高い山なので、そこを波が越えて行くなんて事はあり得ない・・・なので、古くから、そのあり得ない事の例えとして「末の松山、波もこえなん」という言い回しが使われていたのですね。

今だと何でしょ?
「天地がひっくりかえる(くらいあり得ない)みたいな言い回し?

それとも、
くりぃむ上田さんの「センターフライがファールになる(くらいあり得ない)とか、
フット後藤さんの「隠れミッキーが前面に出て来る(くらいあり得ない)てな例えツッコミみたいな感じかな?

とにもかくにも、つまりは
「主君をほったらかして目先の勝負に挑むような事は、俺の中ではあり得へんねん」
という自らの忠誠心を現すのに、古今和歌集の歌を、それも、今戦っている場所=「松山」というフレーズの入った歌を使ったという事です。

なんという教養!
なんというカッコ良さ!

あまりにカッコ良すぎて、さすがに、「それは、末の松山を波が越えるくらい無いやろ!」とツッコミたいところではありますが、ここはカッコ良さに免じて、そんな戦国ロマンに浸るのもアリかと・・・

とは言え、ご存知のように、この9年後、北条のスキを突いて河越城を奪回しとうした上杉朝定が、逆に奇襲をかけられて、その命までも落としてしまう、河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)・・・戦国三大奇襲の一つに数えられる、この有名な合戦において扇谷上杉は、滅亡し、このカッコイイ難波田憲重も、その戦いで亡くなってしまいます。

一説に、難波田憲重は戦いの最中に井戸に落ちて死んだとされ、ちょっとカッコ悪い死に方のようにも言われますが、戦いの最中の井戸・・・ですからね。

普通に歩いてて落ちたわけでは無いですし、もし、そうだったとしても、松山城でのカッコ良さとで「プラマイ0」・・・いや、若き主君を、それも、チョイ落ち目の主君に忠誠を誓い、支え続けたその姿は、引いて余りある名将ではないかと・・・

ところで、今回の河越夜戦の一件で北条に開け渡された松山城・・・この城を奪回するのは、この難波田憲重の娘婿で、かの太田道灌の曾孫太田資正(すけまさ・三楽斎)…と、歴史の流れはとめどなく続いていきますが、

そのお話は2011年9月 8日=【道灌のDNAを受け継ぎ軍用犬を駆使した智将・太田資正】でどうぞ>>
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2019年6月 8日 (土)

細川高国が自刃…大物崩れ~中嶋・天王寺の戦い

 

享禄四年(1531年)6月8日、天王寺の戦いに敗れて大物崩れとなった細川高国が自刃しました。

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応仁の乱後に、明応の政変(4月22日参照>>)で以って政権を握った室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)は、その政変の前後の状況変化ゆえ、3人の養子を迎える事になりますが、その死後に、3人の養子=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)の間で後継者争いが勃発・・・その中で、永正八年(1511年)の船岡山の戦い(8月24日参照>>)と永正十七年(1520年)の等持院表(とうじいんおもて)の戦い (5月5日参照>>)に勝利して一人勝ちとなった高国は足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立確固たる高国政権樹立に成功します。

Hosokawatakakuni600a しかし大永六年(1526年)、高国は自らの勘違いで重臣の香西元盛(こうざいもともり)を上意討ちしてしまった事から、その実兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が高国に反旗を翻し(10月23日参照>>)、しかも、このタイミングで阿波(あわ=徳島県)に退いていた亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)と配下の三好元長(みよし もとなが)らが挙兵して上洛して来ます。

大永七年(1527年)2月13日、波多野&柳本勢に合流した晴元は桂川原(かつらかわら)の戦い に勝利(2月13日参照>>)・・・負けた高国は将軍=義晴とともに近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退きます。

その後、しばらくは京都の奪回に向けて奔走する高国は、享禄元年(1528年)11月には伊賀(いが=三重県西部)仁木義広(にっきよしひろ)のもとに、翌年1月には娘婿に当たる伊勢(いせ=三重県中北部)北畠晴具(きたばたけはるとも)のもとに、5月には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉孝景(あさくらたかかげ)に、8月には出雲(いずも=島根県東部)尼子経久(あまごつねひさ)に、翌9月には三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)浦上村宗(うらがみむらむね)に会い・・・と、あちこちを転々として各人に出兵を要請して廻ります。

浦上滞在中の享禄三年(1530年)6月29日に播磨依藤城(よりふじじょう=兵庫県小野市・豊地城)を攻撃中の柳本賢治に刺客を派遣して暗殺に成功したうえに浦上の援軍を得た高国は、ここ最近、晴元と元長の関係がギクシャクし始めて元長が阿波に戻っていた事をチャンスと見て、いよいよ摂津(せっつ=大阪府中北部)に出陣します。

7月には別所就治(べっしょなりはる)三木城(みきじょう=兵庫県三木市)を攻略し、8月には神呪寺(かんのうじ=兵庫県西宮市・神咒寺)に、本陣を設けて後、9月から11月にかけて、晴元派の富松城(とまつじょう=兵庫県尼崎市)を陥落させ、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)尼崎城(あまがさきじょう=兵庫県尼崎市)での戦いにも勝利します。

一方の晴元も、諸城の守りを強化して防戦に努めますが、高国勢の勢いは止まらず、京都の各所に出没して禁裏(きんり=天皇の住まい)をも脅かすようになります。

さらに勢いづく高国勢が、年が明けた享禄四年(1531年)3月に池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を落とすと、近江の朽木(くつき=滋賀県高島市)に身を隠していた将軍=義晴も坂本まで進出し、京都奪回の機会をうかがいます。

この高国勢の快進撃に、いよいよヤバくなって来た晴元は京都を脱出し、自らが擁立した堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)のいる(さかい=大阪府堺市)へ・・・そんな晴元は、これまで頼りにしていた柳本賢治も今は亡く、ここは何とか、あの三好元長に戻って来てもらいたい(^人^) オ・ネ・ガ・イ♪

実は元長・・・先の等持院表の戦いで祖父(もしくは父)三好之長(みよしゆきなが)を亡くしています。。。つまり高国は、元長にとって、もともと祖父の仇なわけで、、、

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四天王寺・西門

かくして享禄四年(1531年)3月、元長は、堺を制圧すべく住吉(すみよし=大阪市住吉区)に出撃して来た高国勢に対し、摂津中嶋(なかじま=現在の天王寺周辺)に布陣して高国勢の先鋒を少し後退させますが、高国も天王寺(てんのうじ)難波(なんば)今宮(いまみや)に陣取り、浦上勢も野田福島(のだ・ふくしま=大阪市福島区)に布陣します。

これから5月頃まで、天王寺表にて小競り合いはあるものの、決着のつかないこう着状態が続く両者でしたが、6月2日に高国の援軍として神呪寺に布陣していた赤松晴政(あかまつはるまさ=政祐)が、晴元の要請に応じて寝返って浦上軍を背後から奇襲した事でこう着状態が崩れます。

実はコッチも・・・赤松晴政の父=赤松義村(よしむら)を暗殺したのが、誰あろう浦上村宗なわけでして(11月12日参照>>)(どんだけ恨み買うとんねん(><))、いつか仇を討とうと機会を狙っていたわけですが、この赤松の寝返りについては、高国側にもかなりの動揺があったようで・・・「赤松旧好の侍吾も吾もと神咒寺の陣に加わり」『備前軍記』と、名門赤松なればこそ、それに追随する者も少なくなかったようです。

とにもかくにも、この状況を受けた元長は、その2日後の6月4日高国陣営に総攻撃を仕掛けたのです。

もはや流れはすっかり変わりました。

かの浦上村宗をはじめ、松田元陸(まつだもとみち)伊丹国扶(いたみくにすけ)薬師寺国盛(やくしじくにもり)など、主だった武将の多くを失い、多大なる戦死者を出して、高国軍は大敗してしまうのです。

この戦いで中嶋を流れる野里川は死体で埋め尽くされ、まるで塚のようになってしまったのだとか・・・

敗戦の混乱の中、戦場を脱出した高国は、大物城(だいもつじょう=兵庫県尼崎市大物町・尼崎城と同一説あり)へと向かいますが、すでに追手が回っていたため、尼崎町内の藍染屋に逃げ込み、カメの中で身を潜めていたところを翌6月5日に発見され、享禄四年(1531年)6月8日、晴元の命により、広徳寺(こうとくじ=兵庫県尼崎市寺町)にて切腹・・・享年48でした。

この時、高国が詠んだ時世の句は
♪絵にうつし 石をつくりし 海山を
 後の世までも 目からずや見む  ♪
娘婿の北畠晴具に送った物で、三重県津市の北畠神社(きたばたけじんじゃ)に今も残る庭園の事を詠んだ物だそうで・・・この時の高国は、永遠に残る庭園の美しさと、散りゆく自らの儚さを感じていたのかも知れません。

今回の戦いは、その地名をとって「中嶋の戦い」と呼ばれたり「天王寺の戦い」とも言われますが、高国が最後に目指した場所とその衰退を含んで「大物崩れ(だいもつくずれ)とも呼ばれます。

これにて長きに渡った細川管領家を巡る争いは終わる事に・・・と言いたいところですが、実は、高国の養子である細川氏綱(うじつな)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい=元長の息子) の力を借りて晴元を倒し、最後の管領になるのです。

・・・と、そのお話は9月14日 【最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】でどうぞ>>
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2019年5月19日 (日)

粉河寺と高野山領の水争い~野上村の戦い

 

応仁元年(1467年)5月19日、紀州和歌山にて根来衆を巻き込みつつ、粉河寺領高野山領の間で起こった抗争・野上村の戦いが終結しました。

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紀伊の国(和歌山県)丹生屋村(にゅうのやむら=和歌山県紀の川市・丹生谷とも)粉河寺(こかわでら=同紀の川市)内の北東部分にあたる場所にありましたが、東隣の名手荘(なてのしょう=同紀の川市)高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に属しているので、言わば国境・・・なので、この両者の間には、平安~鎌倉の頃以来、断続的に争いが続いていた場所でした。

「隣」という理由だけで「争う」???
今ではピンと来ないかも知れませんが、実は、農業の盛んな地域ではごくごく最近、昭和の時代にでもあった事・・・そう、「水争い」というヤツです。

そもそもは、日本の国土の70%を占める山々に降り注ぐ雨は、大河となって平野部へと流れ、古代には度々の氾濫を繰り返していたのを、昔の人々は土地を畔(あぜ)で囲い、大河をいくつもの川に分散して水路を張り巡らし、肥沃な農地に変えていったわけですが、

この水路というのは川の一部をせき止めて、横道にそれさせているわけですので、当然、大量に横道に誘導すれば、その後の川の水の量は減る事になる・・・雨が多い時期は、それでも大丈夫ですが、雨が少なくなると、上流の場所で大量に横道に流されては、下流に住む人々の場所まで水が流れて来ない事になっちゃいます。

そうなると、
「ちょっと、せき止める量を少なくしてよ~」
って事になりますが、ここまでになった場合、大抵、日照り続きの大干ばつ状態ですから、上流に住む農民たちにとっても生きるか死ぬかの状態なわけで、そう簡単に
「ほな、流しまっせ~」
とはいかないわけで・・・

で、結局、どうにもならない下流の住人は力づくで上流の堰(せき)を壊しに行ったり、相手の村を襲撃したり・・・って事になるわけで、ここでは椎尾山(しいのおやま)の山林資源と水無川(みなせがわ=名手川)の水の領有を巡って、度々争っていたのです。

永享五年(1433年)には、粉河寺を攻撃しようとした高野山側を、守護の畠山満家(はたけやまみついえ)が出張って来て制止し、何とか止めさせたものの、これに不満を持つ暴徒が高野山の坊舎に放火して多くの建物が燃えてしまったという事もありました。

Kiimizuarasoi 
野上×丹生屋の水争い位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの応仁元年(1467年)、都では、あの応仁の乱がくすぶり始めた5月、またもや丹生屋村と名手荘の水争いを発端に大きな戦いが起こってしまうのです。

5月8日、まずは名手荘側の人間が丹生屋村に押し寄せて村に火をつけてまわって焼き払うと、それに怒った丹生屋村の住人が粉河寺に相談・・・すると、今度は粉河寺衆も加わって名手荘に属する野上(のがみ)に放火して報復を開始します。

当時の名手荘には、野上村の他にも馬宿(うまやど)村など5つの村があったようですが、野上は、その中でも比較的在家数が多い村で、おそらくは、そこの代表格で在地の土豪(どごう=土地に根付く武士)であろうと思われる野上九郎左衛門なる者が、籠城して戦った事が『粉河寺旧記』に記されています。

やがて、そこに、名手荘周辺の高野山領各地の荘の土豪たちが応援に駆け付けた事から、粉河寺側も大伴弥三右衛門なる人物を大将に立てて、粉河寺領内の村々から人数を集めて、連日連夜の小競り合いを繰り返していたのですが、

5月14日になって、粉河寺からの応援要請に応えた根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)の衆徒たちが、粉河の西の長田(ながた=同紀の川市)まで浸出して来た事で、合戦が大規模になる様相を呈して来て、緊張はピークに達します。

さすがに、ここまで来ると「村同士のモメ事」の域を超えていたと見え、守護の畠山もシカトするわけにいかず・・・って、何たって上記の通り、この年には応仁の乱が!!

そもそも、応仁の乱の発端となるのが、この応仁元年(1467年)1月17日に勃発した御霊(ごりょう)合戦(1月17日参照>>)畠山政長(はたけやままさなが=東軍)畠山義就(よしなり=西軍) による畠山の後継者争いなのですから、そっちに集注したい両畠山にとって、同時期に起こった領国内での争いは一刻も早く片付けてしまいたいわけで・・・

早速、守護代の神保(じんぼう)現地に派遣して仲裁に当たらせます。

かくして応仁元年(1467年)5月19日「流水は従来の通りにして、お互いに妨害しない」事を約束して両者が和解に至り、今回の騒動は一件落着となりました。

とは言え、ご存知のように、実は、粉河寺と根来寺もなかなかに抗争を繰り返していた仲なわけで・・・現に、この数年前にも、同じような水争いで、けっこう大きなドンパチをやらかしちゃってます。

なので、本当に「粉河寺のひと声で根来衆が動くのか?」てな疑問も残りますが、以前書かせていただいた【織田信長の高野山攻め】>>でも垣間見えるように、 その時々の利害関係によって立ち位置を変える柔軟さと独立性を持っていたのが中世の彼らの姿のようにも思えますので、そういう事もあったのかな?と思います。

そして、いよいよ、この水争い終結の翌日・・・畠山がらみの、あの応仁の乱が京都にて勃発する事となります(5月20日参照>>)
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2019年4月22日 (月)

戦国の幕開け~細川政元による将軍交代クーデター「明応の政変」

 

明応二年(1493年)4月22日、室町幕府将軍を足利義稙から足利義澄に交代させる細川政元によるクーデター「明応の政変」が決行されました。

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もともと、応仁の乱の原因の一つである室町幕府将軍の継承問題・・・(5月20日参照>>)

応仁の乱の時は、当時、子供がいなかった第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が、出家していた弟=足利義視(よしみ)を、わざわざ還俗(げんぞく=出家した人が俗世間に戻る事)させてまで、次期将軍に…と約束したにも関わらず、その直後に正室=日野富子(ひのとみこ)との間に男子=後の足利義尚(よしひさ)が生まれたために、話がややこしくなって・・・

もちろん、それだけではなく、代々管領(かんれい=将軍の補佐)を受け継いでいた三管領家(細川・斯波・畠山)のうち斯波(しば)畠山(はたけやま)の後継者争い(1月17日参照>>) や、やっぱり次代の家督を巡ってモメていた各地の武家や同じ領地を取り合ってた武将同士がそれぞれに分かれて縦ラインでくっついて~みたいな、様々な要因があるわけですけどね。

とにもかくにも、色んなところの色んなモメ事が合体しつつ10年以上に渡って行われた応仁の乱は、東軍の総大将であった細川勝元(ほそかわかつもと)&西軍の総大将だった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)の両巨頭の死(3月18日参照>>)を以って下火となり、それぞれの息子である細川政元(まさもと)山名政豊(まさとよ)によって和睦交渉が成され、第9代将軍は義政の実子=義尚が継ぐ事で落ち着きました。
(それぞれの武家の争いには、まだまだ続く物もあります(12月12日参照>>)

ところが、その後を継いだ息子=義尚が、幕府に歯向かうの六角氏討伐にあたっていた近江鈎(まがり)(12月2日参照>>)の陣中にて25歳の若さで病死(3月26日参照>>)・・・しかも、未だ後継者ももうけておらず・・・

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

で、8代将軍の嫁で亡き9代将軍の生母である富子の要望もあって、結局、義視の息子の足利義稙(よしたね=義材)が10代将軍を継ぐことに・・・なんせ、義視の正室は富子の妹なので、つまりは甥っ子ですから、以前はモメたものの、なんだかんだで息子の代わりは彼しかいないわけで・・・

とは言え、将軍就任の当初から、この義稙の将軍には反対の意を示す者も少なからずいたのです。

なんせ、現在、政権の中枢にいる人たちは、あの応仁の乱では義視&義稙父子とは敵の立場にあった人たちなわけですから、今回、義稙が将軍に就任するとなると、当然、その応仁の乱直後に義稙とともに逃げ隠れしていた側近たちもついて来る事になるわけで、今度は逆に、自分たちの地位が彼らに取って代わられる事になるかも・・・

すでに3度の管領を経験している細川政元も、その一人・・・しかも、あの応仁の乱時代には、細川とともに管領を継ぐ立場にあった斯波氏と畠山氏が、ともに乱後も続きっぱなしの後継者争いに目いっぱいで自ら衰退の道をたどり、三管領家のうち、 もはや幕府の中枢にいるのは自分とこの細川のみ・・・

そこで、幕府内政権を掌握すべく動く政元は、まずは延徳三年(1491年)に九条政基(くじょうまさもと)の息子をわずか2歳で養子に迎え、細川家の後継ぎが代々名乗る聡明丸(そうめいまる)を名乗らせます。

摂関家のおぼっちゃまを細川家の養子に迎えるというのは初めての事で極めて異例ですが、彼の母親が、足利義政の弟である足利政知まさとも)の奥さんの妹だった事から、その足利政知との関係を重視しての養子縁組だったわけです。

 この足利政知は、第6代の将軍=足利義教(よしのり=義政の父)の時代に中央幕府に歯向かった鎌倉公方足利持氏(もちうじ)(2月10日参照>>)に代わって、正式な鎌倉公方として東国に派遣された人物(戦乱で鎌倉に入れなかったため堀越に御所を設け堀越公方と呼ばれる)で、彼の三男である潤童子(じゅんどうじ)は次期公方に予定されていたのです。

そして、政元が次期将軍に推していたのが、政知の次男である足利義澄(よしずみ=清晃)・・・
つまり、
将軍=義澄に、
その弟が鎌倉公方、
そこに母親が姉妹同志
(=従兄弟)の聡明丸が管領細川家を継ぐ
という政権の構図が政元の中にあったわけです。

しかも、ここに来て幕府は、先の将軍=義尚と現将軍=義稙、この2人の将軍を要しても、近江(おうみ=滋賀県)にて反発する六角高頼(ろっかくたかより)という一武将すら、まともに制する事ができないという、将軍の体たらくを露見させてしまいます(12月13日参照>>)

 なのに将軍=義稙は、明応二年(1493年)正月、畠山義豊(はたけやまよしとよ=基家)討伐のため、河内(かわち=大阪府東部)出陣の大号令を各大名に向けて発するのです。

これは、例の応仁の乱以来モメている畠山氏の家督争い(7月12日参照>>)の一方(畠山政長側)の味方を幕府=将軍がする事になるわけで・・・

政元が反義稙派を着々と集める中、さすがの日野富子も、ここに来て政元の側につく中、先の六角との戦いの時には将軍=義稙ベッタリだった大物=赤松政則(あかまつまさのり)に自らの妹を嫁がせて(3月11日参照>>)味方につけた政元は、いよいよ、将軍すげ替えクーデターを決行します。

Hosokawamasamoto700明応二年(1493年)4月22日の夜、例の河内に出陣した義稙に随行せず、京都に留まっていた細川政元は、 留守中の義稙の将軍職を廃し、僧となっていた義澄を還俗させて保護し、第11代将軍として擁立したのです。

さらに、義稙の関係者の邸宅や寺院を襲撃して京都を掌握・・・金に物を言わせて朝廷も味方につけていますが、さすがに将軍宣下までは受けられず、この時は官位を授かるのみに留まりましたが・・・

その後、翌閏4月、義稙らの籠る正覚寺(しょうがくじ=大阪市平野区加美)を政元配下の上原元秀(うえはらもとひで)らが率いる4万の軍勢が攻撃します。

一方の義稙側には、同行する畠山政長(はたけやままさなが)の地元=紀州(きしゅう=和歌山県)から援軍が駆け付けるはずでしたが、コチラは(さかい=大阪府堺市)に集結していた政元方によって行く道を阻まれて進めず・・・結局、援軍が望めない事を知った政長が閏4月25日に自害した事で、義稙は投降を決意し、その後、政元らによって幽閉されました。

ここに、細川政元によるクーデター「明応の政変」は完結したのです。

しかし、世の中、そう思い通りにはいかない物・・・

実は、この政変の2年前の延徳三年(1491年)、父=足利政知の死を受けた長男の足利茶々丸(ちゃちゃまる)弟の潤童子とその母を殺害して、事実上の堀越公方になっていたのです。

彼=茶々丸は、一説には、素行が悪く乱暴者だったため、父=政知の命令によって幽閉されていたとも、我が子を次期公方にしたい潤童子の母親によって幽閉されていたとも言われますが、とにもかくにも、何かの事情で廃嫡(はいちゃく=後継者から除外される事)されて20歳過ぎても元服すらさせてもらえずに牢獄に閉じ込められていた茶々丸が牢番を殺害して脱獄&実力行使で、堀越公方の座を弟から乗っ取ったわけです。

なので、将軍&公方&管領後継者を、自身の思い通りに構成する政元の思惑は、この政変の時点で、すでに消えていたわけですが、それはそこ、「将軍さえ思い通りなら、何とか修正可能」と、まだ思っていはず・・・

ところがドッコイ、政変から、わずか半年後の明応二年(1493年)10月、この茶々丸の堀越館が伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき=北条早雲)に襲撃され、堀越公方が事実上滅亡してしまうのです(「伊豆討ち入り」10月11日参照>>)

ご存知のように、その後の北条は、これキッカケで約100年に渡って関東を牛耳る事に・・・くわしくは【北条・五代の年表】で>>

一方の政元・・・政変の翌年に、無事、義澄の将軍宣下はなされるものの、事態はヤバし・・・やむなく政元は、文亀三年(1503年)に細川家の支族である阿波(あわ=徳島県)細川家から養子を迎えて、その子に細川家の通字(とおりじ=その家系に代々受け継がれる字)である「元」のつく細川澄元(すみもと)を名乗らせ、先の聡明丸を澄之(すみゆき)と名乗らせる・・・つまり、聡明丸=澄之を後継者から外したわけです。

あ~あ┐( -"-)┌ 、自ら後継者争いフラグを立てちゃいましたよ~

わずかの間に大きく狂ってしまった政元の幕府掌握計画・・・やがて成長した義澄は自身の思う政治をやろうとして政元との間がギクシャクし始める中、澄元の出現によって追い払われた感が拭えない澄之派の家臣によって、永正四年(1507年)6月、細川政元は暗殺され、細川家は見事なまでの後継者争いに突入してしまうわけです(8月1日参照>>)

 さらに、澄元&澄之に加え、もう一人の養子であった細川高国(たかくに)も入って三つ巴の後継者争い様相を呈する中、翌永正五年(1508年)には、この混乱の乗じて幽閉先から脱出した前将軍=義稙が、周防(すおう=山口県)大内義興(おおうちよしおき)の支援を受けて上洛して将軍の座を・・・と、世はまさに戦国の幕開けへと向かっていくのです。

★その後の流れ
【船岡山の戦い】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>
【東山・川勝寺口の戦い】>>
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2019年4月 4日 (木)

六角と浅井の代理戦争~大溝打下城の戦い

 

天文十八年(1549年)4月4日、浅井の援軍を得た海津政元が、海津政義の拠る大溝打下城を攻めました。

・・・・・・・・

これまで何度か登場しておりますが、中世の頃の近江(おうみ=滋賀県)は・・・

第59代宇多天皇(うだてんのう)の流れを汲む宇多源氏(うだげんじ)で、平安時代から鎌倉時代に活躍した佐々木信綱(ささきのぶつな)の子孫たちが勢力を誇る場所でありました。

ご存知の江南(こうなん=滋賀県南部)六角氏(ろっかくし)江北(こうほく=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)、さらに大原庄(おおはらしょう=現在の彦根市・長浜市付近)大原氏(おおはらし)・・・そして琵琶湖の北西付近を牛耳っていたのが六角や京極と同じく佐々木氏を先祖に持つ高島氏(たかしまし)でした。

その高島氏を中心に朽木氏(くつきし)永田氏(ながたし)平井氏(ひらいし)横山氏(よこやまし)田中氏(たなかし)、そこに別系統の山崎氏(やまざきし)を加え高島七頭(たかしましちとう・たかしましちかしら)と呼ばれる彼らが西近江に君臨していたのですが、

やはりここも、例の応仁の乱のゴタゴタで(10月28日参照>>)、その力関係が微妙に変わって来た六角&京極&浅井の影響を受けてしまうのです。

以前書かせていただいたように、応仁の乱の真っただ中でお家騒動が勃発した京極氏は(8月7日参照>>)自ら衰退の道をたどり、いつしか京極家の家臣であった浅井亮政(あざいすけまさ)に仕切られるようになり(3月9日参照>>)、それを快く思わない六角定頼(ろっかくさだより)と対立・・・

そして、もはや将軍家でさえ手を焼く存在となって(12月13日参照>>)来る六角氏は、さらに領地を増やすべく高島方面へと進出していくのですが、当然、この六角氏の侵攻をヨシとしない京極&浅井とは更なる対立を生む事になって行きます(4月6日参照>>)

そんな中、天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて、息子の浅井久政(ひさまさ)の時代になって7年後の天文十八年(1549年)、大溝打下城(おおみぞうちおろしじょう=滋賀県高島市勝野)海津政義(かいづまさよし)浅井から六角に寝返ろうとしている事を、海津城(かいづじょう=同高島市)海津政元(かいづまさもと)が久政に報告して来たのです。

そもそもは京極の配下だった海津氏・・・それが、ここのところの京極の失速で、そのまま浅井の配下となっていたのですが、先の浅井亮政によって、甥である政元が海津城にて筆頭とされていた事に、叔父の政義が不満に思っていると聞きつけた六角配下で志賀(しが=滋賀県志賀町付近)を牛耳る佐々木義時(ささきよしとき)が、政義に声をかけたのです。

Utiorosizyou位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『浅井三代記』によれば・・・
小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)にて、この報告を受けた久政は怒り心頭・・・早速、配下の浅井政澄(まさずみ)赤尾清定(あかおきよさだ)らに800余騎をつけて海津に派遣したのです。

天文十八年(1549年)4月4日、浅井の援軍を従え、先鋒として打下城に押し寄せた海津政元隊・・・迎える打下城も、すでに佐々木の援軍を得ており、城を撃って出た事で、両者は源氏浜(げんじはま=高島市新旭町)にて合戦となります。

その後、2~3日に渡って両者はぶつかりましたが、なかなか決着がつかず・・・お互いに勝敗が見えない中にも、やや打下城側が優勢であった事から、4月10日になって浅井勢は引き上げ、海津城へと戻りました。

そして4月14日に体制を立て直して出陣・・・再び打下城へと迫りますが、しばらく引き付けた後、絶好のタイミングを見計らって城から撃って出た500余騎の佐々木勢に押されて、浅井勢はまたもや敗退してしまいます。

ちょうど、その頃、伊黒城(いくろじょう=高島市高島)新庄俊長(しんじょうとしなが=法泉坊俊長)という者が仲裁に入ってくれました。

 俊長が政義に対してその思いを聞いてみたところ
「そもそも、浅井家には恨みは無い。。。けど、なんで俺が政元の下に付かなアカンねん!
下になるのは嫌や!と思てた所に佐々木から声かけられて……つい」
との事・・・

「ほな、海津政元の配下やなくて、直接、浅井久政の配下になったらえぇやん」
と俊長さん、見事な回答・・・

以後、政義は浅井の配下となり、この後、何度六角氏が誘っても、浅井を離れる事は無かったのです。

一方、このゴタゴタに関与した佐々木義時は、「亮政の置き土産に付け込んで同族同士を争わせようとした人物」として、その後、高島一帯の諸将から総スカンを喰らったのだとか・・・

やがて、この近江の地に、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと)息子たちによる後継者争いが持ち込まれ、その争いの中心人物であった細川晴元(はるもと=澄元の息子)の配下である三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)が頭角を現しはじめ、六角・京極・浅井、ともに戦国後半戦の波に呑まれていく事になります。

●その後の出来事・関連ページ
【江口の戦い】>>
【三好VS六角の志賀の戦い】>>
【菖蒲嶽城の戦い】>>
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2019年3月19日 (火)

織田信秀VS今川義元&松平広忠~第2次小豆坂の戦い

 

天文十七年(1548年)3月19日、今川&松平連合軍と織田が戦った第2次小豆坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

享禄二年(1529年)、祖父の代からの念願だった三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たした松平清康(まつだいらきよやす)は、次に隣国の尾張(おわり=愛知県西部)へと手を伸ばし、当時、清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人で尾張古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市)主だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めたのですが、その陣中にあった天文四年(1535年)、家臣によって斬殺されてしまいます(12月5日参照>>)

24歳という若さで亡くなった清康の後を継いだのは、わずか10歳の息子=松平広忠(ひろただ)でしたが、案の定、このドサクサを狙って、一族の松平信定(のぶさだ)が謀反を起こし、居城の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)を追われて流浪の身となってしまったのです。

Imagawyosimoto600a やむなく叔母(父の妹)の嫁ぎ先である吉良持広(きらもちひろ)のもとへ身を寄せますが、その関係で、この後、駿河遠江(静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)からの支援を受ける事になって(*吉良と今川はともに足利宗家の流れを汲む関係)、何とか岡崎城を奪還・・・その後、ようやく三河に帰還します。

この頃に起こったのが第一次小豆坂(あずきざか=愛知県岡崎市)の戦い・・・(日付に関しては天文十一年(1542年)の8月説と12月説あり)

とは言え、日付も曖昧な時点でお察しのように、その勝敗も、一応、今川&松平連合軍の勝利だとされていますが、負けた織田側にも、さほど大きなダメージはなさげな雰囲気です。

その翌年=天文十二年(1543年)には、松平家内で叔父=松平信孝(のぶたか=清康の弟)との内紛が勃発し(8月27日参照>>)、その信孝が織田に降った事で、松平×織田の関係はますます悪化していきます。

一方の織田信秀は、松平が弱体化したこの間に三河へと侵攻し、松平に属する安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市)を奪い取ります。
(奪い取った時期に関しては天文九年(1540年)説と天文十三年(1544年)説あり)

これに対し、安祥城の奪還を図る広忠でしたが、あえなく敗北・・・しかも、この天文十三年(1544年)には、広忠の正室=於大の方(おだいのかた)の兄である水野信元(みずののぶもと)織田方に降る事態に・・・この一件により於大の方は広忠に離縁され、実家に戻っています。

ますますの織田からの攻撃に耐えかねるとともに、かの水野信元が松平に仕える一方で今川に仕えていた事もあって、ここらで、今一度、今川との関係を強固にして、その支援を仰ごうと考えた広忠は、於大の方との間にもうけた嫡男=竹千代(たけちよ=後の徳川家康)を今川への人質として送りますが、この大事な人質が、途中で織田方に奪われてしまうという大失態(8月2日参照>>)

もちろん、これを機会に、信秀は広忠に織田の傘下に入るよう要求するのですが、広忠は断固拒否・・・現状のまま、今川を頼って織田と戦う事を選びます。

そんなこんなの織田信秀ですが、ここんとこ尾張の北東部分に勢力拡大を図っていた彼は、実は、松平=三河&その向こうの今川=遠江という東側と同時に、北側の隣国=美濃(みの=岐阜県南部)斎藤道三(さいとうどうさん=利政)とも度々衝突していた(9月23日参照>>)わけで・・・

しかし、天文十六年(1547年・天文十三年説もあり)加納口(かのうぐち=岐阜県岐阜市)の戦い(9月22日参照>>)で大敗を喰らった信秀は、とりあえずは北の脅威を削いで東の三河攻略に専念すべく、自らの息子=信長(のぶなが)と道三の娘=帰蝶(きちょう=濃姫)の結婚話(2月24日参照>>)を進めて、美濃の斎藤とは和睦をする事にします。

こうして天文十七年(1548年)3月、岡崎城の奪取を狙い、4000余の兵を率いて安祥城を出陣する信秀・・・

一方の今川義元も、織田×松平の境界の最前線となる安祥城は、味方の手に入れておきたいわけで・・・松平救援のために太原雪斎(たいげんせっさい=崇孚)を大将に据え、朝比奈泰能(あさひなやすよし)(2011年3月19日参照>>)とともに出陣させます。

矢作川(やはぎがわ)を渡って上和田(かみわだ=愛知県岡崎市)に着陣する織田軍・・・その向こうの小豆坂の頂上付近に陣取る今川軍・・・

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↑第2次小豆坂の戦い・合戦図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天文十七年(1548年)3月19日未明、小豆坂にてぶつかった両者でしたが、『孫子の兵法・行軍編』(6月17日参照>>)でお馴染みの通り、こういう場合、高い位置に布陣してる側が断然有利・・・って事で、最初は今川勢が優勢で、織田の第一の備えは完全に崩されてしまいますが、

劣勢を悟った織田勢は、第二の備えが本隊付近まで後退して踏ん張り、本隊の力を借りて巻き返し、今度は今川勢の先陣を務めていた松平勢が崩れ始めます。

しかし、この時、これを予期していたかのように仕込まれていた岡部元信(おかべもとのぶ)率いる今川の伏兵が、勢いづいて突進する織田勢の横から突きかかりました。

予期せぬ方向から本隊を脅かされた織田勢は、それがキッカケとなり軍全体が総崩れとなり、あれよあれよという間に今川勝利に織田の負け・・・信秀は兵を退きあげて安祥城へと戻るしかありませんでした。

とまぁ、川&松平の勝利とは言え、結果的には信秀が安祥城を失う事もなく、両者の関係に大きな変化は無かったわけですが、その翌年の両者の運命が真逆に!

信秀は配下の謀反を見事抑える(1月17日参照>>)一方で、広忠は、自らの家臣によって殺害されてしまう(3月6日参照>>) のです。

このために岡崎城の城主はいなくなってしまったわけですが、先に書いた通り、この時、広忠の後を継ぐべき息子=竹千代は、今現在、織田のもとにいるわけで・・・

そこで、今川は、何とか松平の後継ぎ=後の家康を自らの保護下に置こうと、織田信広(のぶひろ=信秀の長男)が拠る安祥城へ迫る事になるのですが、そのお話は11月6日【安祥城の戦い~信長&家康に今川と絡む運命の糸】>>でどうぞ

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2019年1月27日 (日)

三木×広瀬×牛丸×江馬~戦国飛騨の生き残り作戦

天正十一年(1583年)1月27日、三木&広瀬の連合軍が、牛丸親綱小鷹利城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・

飛騨(ひだ=岐阜県北部)大野(おおの=岐阜県北西部)を本領とし、小鷹利城(こたかりじょう=岐阜県飛騨市河合町)を居城とする牛丸(うしまる)は、一説に平氏の流れを汲むとする古くからの名族でしたが、隣接する吉城(よしき=岐阜県北東部)を本領とする高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)江馬(えま)も、同じく平氏の流れを汲む名門で、これまで両者の間には少なからずのぶつかりがありました。

さらに室町時代頃になると、そこに、京極(きょうごく)の一族で益田(ました=岐阜県中東部)に拠点を持ち鍋山城(なべやまじょう=岐阜県高山市松ノ木)を居城とする三木(みき)、飛騨国府(こくふ=岐阜県高山市周辺)高堂城(たかどうじょう=岐阜県高山市国府町)を居城とする広瀬(ひろせ)も台頭して来ます。

やがて、室町幕府の力が衰え始めた戦国の世になると、上杉謙信(うえすぎけんしん)越後(えちご=新潟県)と、武田信玄(たけだしんげん)甲斐(かい=山梨県)、という大物の地に挟まれた形となる飛騨一帯の武将は、常に、この大物たちの動向に左右されつつ、この戦国の世を生き抜いていく事になります。

そんな中、飛騨南部に勢力を伸ばし始めた三木氏の三木自綱(みつきよりつな)は、南北朝時代から飛騨の国司であった姉小路(あねのこうじ)の名跡を乗っ取って姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)と名を改め、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じての上洛(9月7日参照>>)を果たして上り調子の尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に近づいて信長の奥さん=(のう)の妹を娶って親族となり、その力を借りて飛騨統一せんが勢いを見せ始めます。

ただ、天正四年(1576年)に、それを脅威に感じた大野郡の国人=塩屋秋貞(しおやあきさだ)の要請によって駆け付けた上杉謙信に攻められ、頼綱は降伏して(8月4日参照>>)、その傘下となるのですが、ご存知のように、その後、ほどなくして謙信が亡くなり(3月13日参照>>)、上杉家は後継者争いで飛騨云々言ってる場合じゃなくなってしまう(3月17日参照>>)わけで・・・

その後、天正六年(1578年)の月岡野(富山市上栄周辺)の戦い(10月4日参照>>)にも信長側親族として参戦して上杉に勝利し、ますます勢いづく頼綱は、新たに松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山松倉町)を構築(築城年数には諸説あり)して、そこに拠点を移します。

この頼綱の行動に脅威を感じたのが、先の高堂城から広瀬城(ひろせじょう=同高山市国府町)に拠点を移していた広瀬氏の広瀬宗域(ひろせむねくに)でした。

頼綱と宗域は、かつてはともに天神山城(てんじんやまじょう=岐阜県高山市八軒町・現在の高山城)高山外記(こうやまげき)を倒す等、連合を組んでいた時もありましたが、一方で織田に近づく頼綱に対して、宗域は信玄によしみを通じて敵意を見せた事もあり・・・

しかし、ご存知の通り、大黒柱の信玄を失った(4月16日参照>>)武田は、天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)の戦い(5月21日参照>>)で織田&徳川家康(とくがわいえやす)連合軍に敗れるなど、ここに来て少々分が悪い・・・

そこで宗域は、頼綱の三木氏と政略的婚姻関係を結んで一方の脅威を取り除き、その一方で、これまで懇意にしていた牛丸親綱(うしまるちかつな)小鷹利城を攻め、牛丸氏の名跡を奪おうと考えます。

天正八年(1580年)10月、家臣の磯村(いそむら)長十郎らに200の兵をつけて小鷹利城へと差し向けました。

迎える牛丸側も一族を中心にした200余名の兵を出陣させ、両者は古川(ふるかわ=岐阜県飛驒市古川町)付近でぶつかり合戦に至りましたが、なかなかに両者の戦力は互角・・・小競り合いがあるものの決着がつかなかった事から、翌天正九年(1581年)になって和平の話が進み、両者ともに兵を撤退させて、広瀬×牛丸は和睦の運びとなりました。

こうしてしばらくの平穏がおとずれますが、ここに来て時代の転換期が・・・

そう、翌天正十年(1582年)3月には、あの武田が滅び(3月11日参照>>)、その3ヶ月後の6月には、武田を滅亡させた信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)・・・と、戦国の勢力図が目まぐるしく変わります。

このゴタゴタを見逃さなかったのが綾小路頼綱と広瀬宗域、そして牛丸親綱も・・・

この三者が連合を組んで、これまで何かと目障りだった名門家=江馬氏の江馬輝盛(えまてるもり)をぶっ潰して、飛騨の覇権を抑えてしまおうと画策したのです。

それは、本能寺から約5ヶ月後の10月下旬・・・飛騨での覇権争いであった事から、後に「飛騨の関ヶ原」とも呼ばれる八日町(ようかまち=岐阜県高山市国府町八日町)の戦いですが、戦いの詳細については、いずれ、その日に書かせていただくとして、

一説には、連合軍1000に対して絵馬勢はわずか300騎だったとも言われ、多勢に無勢ゆえか、この戦いで江馬輝盛は討死し、絵馬氏は滅亡します。

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●↑戦国飛騨周辺の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところが、一方で、この頃から、その威勢に衰えが見え始めた牛丸氏・・・これをチャンスと見た綾小路頼綱と広瀬宗域は、天正十一年(1583年)1月27日、再び連合を組み、大軍を擁して小鷹利城を攻めたのです。

懇意にしていた両者に裏切られた牛丸親綱・・・特に広瀬宗域はわずかな間の2度めの裏切り。。。

なんとも悔しい思いが残る親綱でしたが、不意を突かれた事で城内は完全に準備不足・・・「このまま戦っても勝ち目はない」と踏んだ親綱は、その夜、城内のあちこちにかがり火を焚かせて、さも大勢がスタンバイしているように見せかけておいて、そのスキに、主だった者60余人が城を抜け出し越中(えっちゅう=富山県)目指して逃走を図ったのです。

これを知った広瀬&三木連合軍は、すぐさま追跡を開始し、角川(つのかわ=岐阜県飛騨市河合町)付近で激しい戦いとなりました。

牛丸側は24名を失うものの、親綱以下30余名が逃げ切り、何とか越中にたどり着いたものの、富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)断られ、さらに西へ・・・当時、越前(えちぜん=福井県東部)大野城(おおのじょう=福井県大野市)主であった金森長近(かなもりながちか)の下に逃げ込み、何とか生き延びました。

しかし、その翌年・・・酒宴と称して、広瀬宗域を自らの松倉城に招いた綾小路頼綱は、その宴の席で宗域を騙し討ちにし、広瀬城を奪い取ってしまうのです。

何とか難を逃れた宗域の嫡子=広瀬宗直(むねなお)は・・・そう、彼もまた越前の金森長近のもとへと逃げ込んだのです。

こうして、飛騨でひとり勝ちとなり、飛騨統一を果たした綾小路頼綱は、織田軍の旧北陸方面部隊であった柴田勝家(しばたかついえ)や、かの佐々成政と懇意な間柄になるわけですが、

天正十三年(1585年)、そこに乗り込んで来るのが、その柴田勝家を倒した後(4月21日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)です(8月29日参照>>)

この時に飛騨攻略を任されたのが金森長近(8月10日参照>>)・・・長近のもとで逃げ延びた牛丸親綱&広瀬宗直の部隊が、その恨み晴らすべく先頭となって戦い、大きな功績を挙げた事は言うまでもありません。

結局、佐々成政も綾小路頼綱も、秀吉の前に屈する事となり、飛騨国は金森長近が統治する事となったのです。

ちなみに、その後の牛丸親綱&広瀬宗直・・・

広瀬宗直は、金森長近の領国運営に反発して一揆を先導して追放されたようですが、牛丸親綱は、ずっと長近の配下として戦い、あの関ヶ原の前哨戦=郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)の戦い(9月1日参照>>)でも、やはり先頭に立って戦い、戦場の露と消えたのだとか・・・

にしても、今日のお話は、
メッチャ出演者が多かった(^-^;・・・まさに群雄割拠。。。生きるも死ぬも紙一重の世界です。
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2019年1月22日 (火)

美作三浦氏~尼子&毛利との高田城攻防戦の日々

天正三年(1575年)1月22日、浦上宗景に背いた宇喜多直家が三浦貞広との戦いに参戦しました。

今回は中国地方における群雄割拠の時代のお話・・・なので、敵が味方に、味方が敵に~と非常にややこしいですが、お許しを。。。m(_ _)m

・・・・・・・・・・・

美作(みまさか=岡山県東北部・作州)高田城(たかだじょう=岡山県真庭市・勝山城とも)を治める美作三浦(みうら)は、あの源平の合戦で活躍する坂東平氏の三浦氏の庶流で、室町時代の初め頃に、この地の領主となった三浦貞宗(みうらさだむね)なる人物が高田城を構築したとされますが、そのあたりの事は記録が乏しく、よくわかっていません。

この戦国の頃には三浦貞久(みうらさだひさ)が当主を務め、小さいながらも高田城にて当地を治めていましたが、一方で、出雲(いずも=島根県東部)守護代から、応仁の乱後のゴタゴタでのし上がり、実力で出雲の支配権を握って、さらに領地拡大に勤しむ月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)尼子(あまご)(7月10日参照>>)から度々の侵攻を受けていたのです。

当時の尼子の当主は尼子晴久(あまごはるひさ)・・・天文十三年(1544年)には、伯耆(ほうき=島根県中部)因幡(いなば=島根県東部)を攻略した晴久が、さらに美作へと侵攻し、配下の宇山久信(うやまひさのぶ)に高田城を攻めさせましたが、この時は貞久の見事な反撃によって、城を守り抜きました。

しかし天文十七年(1548年)、その貞久が病死してしまいます。

これをチャンスと見た尼子晴久が、間髪入れずに再び宇山久信を美作へ派遣し、三浦の支城を次々と攻略して高田城へと迫ります。

残念ながら、この時は多くの死者を出す激戦の末、高田城は陥落・・・父=貞久の後を継いでいた次男の三浦貞勝(さだかつ)備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)を頼って落ちて行きました。

もちろん、このままでは収まらない三浦貞勝は、永禄二年(1559年)、旧臣たちを集めて再起を図ります。

Mourimotonari600 そう・・・それは、去る弘治元年(1555年)の厳島(いつくしま)の戦い(10月1日参照>>)後に、西国の雄=周防(すおう=山口県東南部)大内(おおうち)を滅亡させて頭角を現して来た安芸(あき=広島県)吉田郡山城(よしだこおりやまじょう=広島県安芸高田市)を拠点とする毛利元就(もうりもとなり)が、その矛先を尼子氏に向けた、その間を縫っての奪回作戦の決行でした。

しばらくの安寧に油断していた宇山久信に対し、ヤル気満々の三浦勢は増水した川に馬ごと乗り入れての決死の猛攻・・・「分が悪い」と判断した宇山久信が、まともな戦いを避けて高田城から撤退した事で、三浦貞勝はなんなく入城を果たせました。

しかし、安心はできません・・・そう、暮れ行く尼子に代わって上り調子の毛利が、高田城に手を出して来たのです。

すでに永禄二年(1559年)の時点で毛利の傘下となっていた成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)は、美作に侵攻した永禄八年(1565年)、高田城への攻撃を開始・・・1ヶ月に渡る攻防戦の末に高田城は落城し、三浦貞勝も、城を脱出したものの、逃走中に自刃して果てました。

城主のいなくなった高田城には、毛利配下の武将=牛尾久盛(うしおひさもり)が入り、城は毛利の物となったのです。

ところが、その翌年の永禄九年(1566年)、かの三村家親が浦上配下の宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺され、その混乱に乗じた三浦勢は、先代=三浦貞久の末弟にあたる三浦貞盛(さだもり)を大将に押し立てて高田城を奪回します。

とは言え、もちろん、この状況を毛利元就が許すはずもなく、ほどなく、配下の杉原盛重(すぎはらもりしげ)を投入して高田城奪回に動きます。

この時、ちょうど三浦方では、城主=貞盛の甥にあたる三浦貞広(さだひろ=貞久の長男)が主力部隊を率いて備中(びっちゅう=岡山県西部)に出陣中であったため高田城の守りは手薄・・・少ない城兵で何とか抵抗するも、力尽きた貞盛は 永禄十一年(1568年)2月19日に自刃し、またもや高田城は毛利の手に落ちました。

Yamanakasikanosuke500 しかし、またまた立ち上がる三浦勢・・・実は、上記の高田城攻防戦の真っただ中の永禄九年(1566年)、あの尼子氏が居城の月山富田城を開城し(11月28日参照>>)、当主の尼子義久(よしひさ=晴久の息子)とその弟たちが毛利の手で幽閉の身となった事で、事実上の滅亡状態となっていたのですが、尼子家臣の山中幸盛(ゆきもり=鹿介)が、尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を当主と仰ぎ、月山富田城奪回&尼子再興を目指し、毛利相手に各地を転戦し始めていたのです(7月17日参照>>)

永禄十二年(1569年)になって、その尼子再興軍が美作にやって来た時、三浦の遺臣たちは、この尼子再興軍に同調し、そのドサクサで高田城を奪回しようと蜂起・・・その年の7月に、同じように尼子に与する宇喜多直家らの援助を受けて、約4000となった三浦勢が高田城を囲みます。

一方、この時の高田城を守るのは、毛利から派遣されていた香川光景(かがわみつかげ)父子ら約500騎・・・7月に始まった戦闘が、ますます激しくなって来た10月頃には、高田城内にいた旧尼子家臣の内応もあり、いち時は窮地に立たされる毛利勢でしたが、光景父子の奮戦により何とか敵勢の城内への侵入を防いでいました。

やがて年が明けた元亀元年(1570年)、ここに来ても小競り合いが続いていましたが、宇喜多勢が備中への出陣のため高田城の包囲から退去・・・ここで備前からの援軍が去ってしまった三浦遺臣勢は、かの山中幸盛に援助を依頼し、その尼子再興軍の力を借りて、元亀元年(1570年)の10月、何とか高田城を奪回して亡き貞盛の甥=三浦貞広を城主としました。

ようやく居城を取り戻して一安心・・・と行きたいところですが、当然、毛利からの攻撃の危険は常にあるわけで・・・

元亀二年(1571年)には御大=元就を失う毛利ですが、ご存知のように、その後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと=元就の息子・隆元の子)を、毛利の両川と呼ばれた元就の息子たち(つまり輝元の叔父)吉川元春(きっかわもとはる)小早川隆景(こばやかわたかかげ)が見事サポートして、高田城への攻撃に手を緩める事はありません。

しかも、ここに来て、あの宇喜多直家が主家の浦上からの独立を画策して毛利との講和を成立させます。

となると、三浦への援軍どころか、敵対関係になってしまったわけで・・・

そんな中、毛利は、天正元年(1573年)から徐々に版図を広げて高田城周辺へと迫り、翌・天正二年(1574年)には宮山城(みややまじょう=岡山県真庭市)を攻め立てます。

しかも、この翌年の天正三年(1575年)1月22日、ここに浦上に背く宇喜多直家が参戦して来たのです。

Mimasakamiurasi
美作三浦氏をめぐる位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この頃、久世(くせ=同真庭市)から駆け付けた寺畑城(てらはたじょう)城主で三浦家臣の牧菅兵衛(まきかんべえ)が、得意の夜襲で以って、宇喜多配下の伊賀久隆(いがひさたか=直家の妹婿)の守る槇山城(まきやまじょう=同真庭市・真木山城とも)を奪い取り、何とか要地を守ったと言いますが、それでも毛利勢の侵攻は止まらず・・・やがて、その寺畑城も猛攻を受け、いつしか、三浦の傘下となっている諸城がことごとく攻撃される状況に至って、天正四年(1576年)5月、ついに三浦貞広は降伏し、高田城は毛利軍の手に渡りました。

降伏宣言によって貞広の命こそ助かったものの、事実上の滅亡となった美作三浦氏は、配下の牧氏とともに、これ以降は宇喜多の配下として生きていく事に・・・

また、ほぼ同時進行で行われていた備中兵乱(びっちゅうひょうらん)で毛利に敵対していた三村元親(もとちか=家親の息子)(6月2日参照>>)、天神山城の戦いで浦上宗景が敗れた事により、勝利した毛利は、この中国地方において、もはや敵無しの状態になったわけです。

そこに、遥か東からやって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)(10月23日参照>>)・・・

そして、毛利に遺恨を持つ浦上や尼子残党の山中幸盛・・・果ては宇喜多直家までが、やがては織田傘下になる一方で、毛利は信長と敵対する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を援助する(7月13日参照>>)・・・という時代劇でお馴染みの場面へと展開していきます。
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2019年1月15日 (火)

死ぬまで続いた信長と家康の清須同盟

永禄五年(1562年)1月15日、織田信長と徳川家康が清洲城にて会見し、『清洲同盟(清須同盟)を締結させました。

・・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)5月19日、海道一の弓取りと称され、この時点で最も天下に近いと思われていた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を支配する今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)奇襲を受けて命を落とします・・・ご存知、桶狭間(おけはざま)の戦いです(2015年5月19日参照>>)

Tokugawaieyasu600 この時、幼い頃に今川に人質に出されて(8月2日参照>>)、そのまま成長した事で、今川方の一人として義元の行軍に参加していた徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)は、守っていた今川兵が逃げ出してカラになっていた岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に入り、その後、念願の独立を果たします(2008年5月19日参照>>)

岡崎城は、もともと享禄二年(1529年)に三河(みかわ=愛知県東部)を統一した松平清康(まつだいらきよやす=家康の祖父)の居城でしたが(12月5日参照>>)、その後の家臣の離反等で亡命を余儀なくされた松平広忠(ひろただ=家康の父)が、強大な力を持つ今川義元に息子=家康を人質に出して傘下となった事で、事実上、今川の城となっていましたが、今回の主君義元=の死を受けて守備兵が逃げて空っぽになっていたので、そこに家康が入ったというワケです。

で、独立したからには「少しでも領地を増やしたい!」とばかりに、三河に在する今川傘下の勢力に敵対する家康ですが、父の死を受けて今川家を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)は、当然、この家康の態度に激おこなわけで・・・

そこで、東のアンチャンが怒ってるなら、西のアンチャンを味方にしておかねば!とばかりに、家康は、この独立の間もなくから、配下の石川数正(いしかわかずまさ)を信長のもとに派遣して同盟の模索に取り掛かります。

Odanobunaga400a 一方の信長も、義元を殺っちゃった以上、当然、今川は1番の敵になるわけですが、この時点では尾張統一さえ果たしていない駆け出しだし、どっちかと言うと、今、盛んにドンパチやってる(5月14日参照>>)北の隣国=美濃(みの=岐阜県部)斎藤龍興(さいとうたつおき=斎藤道三の孫)との戦いに集注したいぶん、今川の領地と尾張の間に位置する三河の家康は味方につけておきたいわけで・・・で、コッチも、家康の母方の叔父で織田家と同盟を結んでいる水野信元(みずののぶもと)を派遣して家康との同盟交渉に当たらせました。

双方の殿様が同盟に前向きなワリには、正式な同盟締結まで、しばらくの歳月が流れたのには、やはり、これまでの両者の関係・・・上記の通り、これまでの家康は今川の傘下であり、信長の織田家は、その今川と敵対していたわけですから、配下の重臣たちがなかなか賛同せず、現に、桶狭間直後は、少なからずの小競り合いも、両者の間には勃発しています。

しかしながら、やがて、桶狭間から2年が過ぎた永禄五年(1562年)1月15日、家康が信長の居城である清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)に赴いて、会見をし、顔と顔を突き合わせての正式な同盟が結ばれるのです。

よって、この同盟は、結ばれたその場所をとって一般的には『清洲同盟(清須同盟)と呼ばれます。
『織徳同盟(しょくとくどうめい)あるいは『尾三同盟(びさんどうめい)とも呼ばれます)

そして、この清洲同盟は、信長が本能寺にて倒れる天正十年(1582年)まで(2015年6月2日参照>>)、 1度も破綻する事無く20年の長きに渡って・・・というよりも、信長が亡くなったからこそウヤムヤになったのですから、言い方としては最後まで破棄される事なく(生きてる間は)継続されたままだった同盟という事になります。

個人的な印象ではありますが、意外に信長さんって(相手が家康だからに限らず)、相手が完全に敵に回らない限り、簡単に同盟を破棄しない人だったように思いますね~。

それに関連して、この同盟の力関係についても、個人的に思うところがあります。

一般的には、
「この同盟が20年の長きに渡って破られる事は無かった」
と言っても、それは
「信長の無理難題に対して、忍耐力のある家康が耐えに耐えていたからこそ」
という風に思われがち・・・つまり、同盟とは言え、信長の力が強く、家康とは主従関係に近かったのでは?と。。。

現に、ドラマや小説等には、そんな感じで描かれ、時には、家康が豊臣秀吉(とよとみひでよし=信長配下の時代は羽柴秀吉)明智光秀(あけちみつひで)らと同等に並んでる風に、見ている側が錯覚してしまうように描かれる事すら、しばしばです。

しかし、秀吉と光秀は信長の家臣ですが、家康は同盟者・・・それも、私としては、上記のような主従に近い、あるいは人質を出しての臣従のような同盟ではなく、おそらくは同等の同盟者だったと思っています。

それを、信長と家康の間に上下関係があるように感じてしまう1番の要因は、例の家康が息子の信康(のぶやす)を自刃に追い込んだ事件(信康自刃は信長の命令だったとされる)ですが、以前から、このブログに書かせていただいているように、私としてははアレは徳川家の内部分裂だと考えております。
参照ページ↓
●信康・自刃のキーマン…信長の娘・徳姫>>
●築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!>>
●なぜ家康は信康を殺さねばならなかったのか?>>

しかし、結果的に最大の汚点(=息子殺し)となるこの一件を、後世(江戸時代)の人たちが「神君と崇める家康公が行った事にはできない」と考え、悪く言えば「死人に口なし」で「信長の命令だった」事にしておきたかったのではないか?と・・・

もちろん、20年の間ずっと両者に上下関係がまったく無かったか?と言えば、それはそれで違う気もしますが、少なくとも、同盟を結んだ直後は同等であったと思います。

なんせ、上記の通り・・・同盟を結んだ時は家康は独立したばかりですが、信長だって未だ尾張すら統一ない状況でしたからね。

ただ、その後、この永禄五年(1562年)の11月に尾張統一を果たした(11月1日参照>>)信長は、永禄十年(1567年)8月に稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させて美濃を手に入れ(8月15日参照>>)、稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう)と改めて「天下布武(てんかふぶ)」のハンコを使いはじめ、翌永禄十一年(1568年)9月には、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)わけで・・・

とは言え、この上洛の寸前まで、かの義昭は「もっと大物はおらんのか?」と、自分を奉じて上洛してくれる武将を模索していた(10月4日参照>>)くらい、信長は、まだ大物途上の役者不足だったわけですが、この上洛の際に、近江(おうみ=滋賀県)の覇者であった六角承禎(じょうてい・義堅)を破り(9月13日参照>>)、第14代将軍の足利義栄(よしひで=義昭の従兄弟)を奉じて畿内を牛耳っていた三好三人衆三好長逸・三好政康・石成友通)を破った(9月28日参照>>)事、また、敗れた三好三人衆とともに京都を去った義栄に代わって、信長が無事に連れて来た義昭が第15代将軍になった(10月18日参照>>)事で、信長は朝廷にも一目置かれる大出世となったわけで、ここらあたりでやっと信長と家康との力の差が明確になったように思います。

ただ、力の差はできても、同盟者として、その信頼関係が揺らぐ事は無かったんでしょうね。

なんせ、このすぐ後に始まる今川滅亡への道で、12月12日の薩埵峠(さつたとうげ)の戦い(12月12日参照>>)、翌日の今川館の攻防戦(12月13日参照>>)、そして12月27日から始まる掛川城攻防戦(12月27日参照>>)・・・と、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)との見事な連携プレーで、家康は今川を滅亡に追い込んでいます。

『浜松御在城記』によれば、この時、「大井川を境として、東の駿河は武田、西の遠江(とおとうみ=静岡県西部)は徳川クンが切り取ったらえぇ」と呼びかけて信玄と家康の仲を取り持ったのが信長と言われています。

つまり、信長にしてみれば「今川はお前(家康)に任したゾ」って事ですよね?
メッチャ信頼してますやん。

この後も、家康はあの姉川の戦い(6月28日参照>>)にも参戦し、共通の敵である武田にはタッグを組んで戦う事になる
【三方ヶ原の戦い】>>
【長篠の戦い】>>
【武田滅亡~天目山の戦い】>>
と来ますが・・・

有名な本能寺直前の、あの安土城(あつちじょう=滋賀県近江八幡市)での饗応の時にも、信長の方は自ら家康に酌をして(臣下ではない)同盟者アピール」してますが、一方の家康は、この頃には、少し思う所があったかも知れません。

というのも、上記の武田の滅亡・・・確かに、武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)の本拠地=甲斐深く攻め込んで引導を渡したのは信長ですが、長篠から滅亡までの7年間、家康はかなり頑張って遠江に点在する武田の城を奪っています(8月24日参照>>)

しかし、武田滅亡後の論功行賞(3月24日参照>>)では、他の信長の家臣たちとともに、家康が「信長から駿河を賜る」という感じに受け取れます。
(まぁ、同じ独立大名の木曾義昌(きそよしまさ)も、同様に信濃木曽谷2郡を賜ってるので、それが普通だったのかも知れませんが)

しかも、その直後、岐阜へと戻る信長の接待役(4月4日参照>>)・・・(ま、これも、その心の内は何とも言えませんが…)

ただ、本能寺後の家康の素早さを見る限り、やはり、この同盟関係・・・信長は何とも思って無かったかも知れませんが、家康の方には腹に一物あったかも感が匂いますね。

もちろん、力の差が歴然として「同盟関係が上下関係になってて腹立つ!」てな、子供じみた思いではなく、「チャンスが来たら、その時は同盟もクソも無いゾ!」的な、戦国武将らしい一物です。

なんせ、この本能寺の後、決死の伊賀越え(2007年6月2日参照>>)で三河に戻った家康は、3か月後に行われた清須会議(6月23日参照>>)をよそに、完全に甲斐を取りに行ってる感あります。
【河尻秀隆の死】>>
【天正壬午の乱】>>

もちろん、この家康の行動は、あくまで「信長が本能寺で亡くなったからこそ」の行動で、もし本能寺の変が無かったら、もっと長く同盟関係は続いていたのではないか?と思いますが・・・

ちなみに、
一説には、本能寺の変の原因は
「武田が滅亡した事で家康との同盟が不要になった信長が、家康を暗殺しようと企んだのを、光秀がそれを逆手に取って、家康と組んで信長を討った」
なんて話もありますが、以前も書かせていただいたように、私としては、その可能性は、かなり低いと考えております。

なんせ上記の天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)を見る限り、武田滅亡の後に信長横死となれば、その旧領を上杉と北条が間髪入れず取りに来てますから。

当然ですが、それは「機会あらばすぐにでも攻め入ってやる」という気持ちが上杉や北条にもあったわけで・・・
本能寺の当時、西の毛利を攻め、四国への出兵準備をしていた信長にとって、そのまま順調に行ったなら、背後の彼ら(上杉&北条)東の盾となってくれるであろう家康の存在は大切なはず・・・あの信長が上杉と北条の脅威を察知していないなんて事は考え難いですからね。
(まぁ実際には信長が死んでるので家康もそこに参戦したわけですが…)

て事は、ひょっとしたら、天正壬午の三つ巴は、生前の約束通り、織田の物となった旧武田の領地を、家康が上杉と北条から守ろうとした?という事も考えられなくも無いですが、先の河尻秀隆(かわじりひでたか)死亡の件や乱を収める和睦の条件が「双方切り取り次第」なとこなんかを見ても、やっぱ取りに行ってる感が拭えません。

まぁ、お互い戦略に長けた戦国武将ですから、また別の展開があって、何等かのチャンス的な物が訪れたならわかりませんが、少なくとも、信長と家康にとってお互いの利害が一致している間は、まだまだこの同盟は続いていたはずだと考えております。
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2019年1月10日 (木)

浅井久政の菖蒲嶽城の戦い~今井定清の将・島秀宣の勇姿

天文二十一年(1552年)1月10日、浅井久政今井定清の守る菖蒲嶽城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・・

鎌倉の時代より、宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角氏(ろっかくし)と、同じく佐々木氏の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)が南北の支配を固めていた近江の地でしたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)のさ中に起こった京極家内の後継者争い(8月7日参照>>)によって弱った主家に代わって、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)が力をつけていくのです。

その京極の様子を、同じ佐々木氏の流れを汲む者として快く思わない六角定頼(ろっかくさだより)が亮政と敵対・・・そこに、前管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)養子たちの間で勃発した後継者争い(2月13日参照>>)が絡んで、両者が戦う事になったのが享禄四年(1531年)4月の箕浦(みのうら=滋賀県米原市)合戦(4月6日参照>>)でした。

Syoubudakezyounotatakai ●←菖蒲嶽城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この戦いは一応の六角勝利となりますが、かと言って浅井側にも、それほどのダメージは無く、その後も坂田郡(さかたぐん=現在の米原市付近)以南を六角氏が、以北を京極氏と事実上の実権を握った浅井がその勢力圏を維持していたので、両勢力の境界線あたりにある諸城に対して六角定頼は、浅井に従わう事をヨシとせず六角に流れて来た旧京極の家臣などを配置して警戒に当たらせていたのです。

そんな中、天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて、息子の浅井久政(ひさまさ)の時代となりますが、その頃には、先の管領家=細川の後継者争いも、すでに細川晴元(はるもと=政元の養子・澄元の子)がほぼ勝利を治めた状況となっていました。

その後、天文十六年(1547年)頃から・・・今度は、その晴元勝利に貢献した三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と晴元が敵対した(9月14日参照>>)ため、定頼の娘が晴元に嫁いでいた縁で六角氏は度々、晴元の加勢として出兵する事になるのですが、

天文十八年(1549年)6月の江口の戦い(6月24日参照>>)は、三好勢の完全勝利となり、晴元は近江坂本へと身を潜める事に・・・

で、この度々の六角出陣の忙しさをチャンスと見た浅井久政は、天文十九年から二十年にかけて、今は六角氏に臣従している元京極氏だった諸将に誘いをかけ、寝返り工作に勤しむのです。

その寝返り工作をかけたうちの一人が、菖蒲嶽城(菖蒲岳城・しょうぶだけじょう=滋賀県彦根市)今井定清(いまいさだきよ)でした。

この今井氏は、近江の国人から京極家の重臣となった家柄でしたが、例の京極家のお家騒動の中の京極高清(きょうごくたかきよ)息子同士による争いで、はじめは次男を推す六角についていたものの、嫡男を推す浅井に合戦で負けたために浅井支持に回った事で六角の怒りをかって攻められ、当時、今井の当主であった今井秀俊(ひでとし)が自刃・・・

その時、未だ幼少だった秀俊の息子の定清が、その後、六角定頼の庇護のもとに成長した事から、この時、浅井との境界線となる菖蒲嶽城を、その盾となるべく任されていたのでした。

とは言え、コレって・・・
「六角定頼の庇護のもとに成長」←って事は、その間の生活は定清にとっては肩身の狭い生活だったのでは?っと想像してしまいます~(あくまで個人の憶測ですが)定清にとって六角定頼は父の仇なわけですから・・・

おそらくは、そんな境遇に置かれた戦国武将の誰もが夢見るように、彼もまた、独立=一国一城の主になる事を夢見ていたのでしょうか?

『嶋記録』によれば、この菖蒲嶽城は「この時期に定清自身が六角氏に願い出て築城した城」だとされ、それも、わずか2歳の息子を六角氏への人質として観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)へと送るという誠意を見せる事で、天文十三年(1544年)に、その築城を許されたの事。

とにもかくにも、そんなこんなの天文二十年(1551年)5月・・・浅井久政は、今井方の家臣=島秀宣(しまひでのぶ)を通じて浅井方に寝返るよう説得します。

もちろん今井定清は悩みます・・・上記の通り、可愛い息子を人質に出してますから・・・しかし、秀宣は、定清にとって宿将(しゅくしょう=経験に富んだ優れた武将)の中の宿将。。。定清は信頼する秀宣の進言を聞いて、浅井方につく事を決意するのです。

ところが、なぜか、そんな今井の動向が、浅井方には
「浅井の意向を受け入れず、今井は六角に味方するようだ」
と、間違って伝わってしまうのです。

かくして天文二十一年(1552年)1月10日、その誤報をマジに受け取った浅井久政は、突如出兵して菖蒲嶽城を攻めたのです。

予想していなかった攻撃を受けた菖蒲嶽城では、慌てて、島秀宣以下島一族が大手門で防戦する一方で、今井一族の井戸村清光(いどむらきよみつ)井戸村与三郎(よさぶろう)兄弟も、すぐさま救援に駆け付けて戦いますが、準備不足もあってか?苦戦を強いられ、与三郎は討死・・・清光も数か所の深手を負ってしまいます。

そんな中、どうしても、この浅井からの攻撃に納得いかない島秀宣・・・なんせ、大事な嫡子を危険にさらしてまで浅井の味方になったのですから・・・

そこで、やにわに前に進み出た秀宣は、浅井方に向かって大声で呼びかけます。

「この攻撃は、いかなる理由によるものか?」
と・・・

すると、当然、浅井方からは
「そちらが六角についたとの知らせを受けたので…」
との返答。

それを聞いた秀宣・・・
「それは誰かの讒言だと思う…もし、今井定清が六角に通じているのが事実ならば、俺はこの場で割腹して謝罪する!」
と強く言い放ちました。

堂々とした秀宣の姿に、その言葉を信じた浅井方が速やかに兵を退いていったので、両者ともに、かなりの犠牲者を出しはしたものの、戦いそのものは、すぐに収まってという事です。

とは言え、結局、その後に六角氏の威力に負けた浅井久政が、六角の傘下に入ってしまった事から、それに不満を持つ家臣と息子の浅井長政(ながまさ)が家内クーデターを決行したあげく、永禄三年(1560年)の野良田(のらだ=滋賀県彦根市)の戦いで、六角定頼の息子=六角義賢(よしかた=承禎 )に勝利して、浅井家が独立を果たすわけで・・・

つまり、主家である京極家をしのぐ勢いにまで浅井を押し上げた父=浅井亮政と、六角から独立してやがては北近江の覇権を手に入れる息子=浅井長政に挟まれるという展開で、何かと愚将扱いされるのが今回の浅井久政さん・・・

ただ、この時期の六角氏には勢いがあり、臣従しない=敵側に回っていたとすれば、そこで浅井は滅亡していた可能性もあるわけで・・・

「ヤバイ」と思ったら、おとなしく傘下に入って生き残りを図っておいて、その「時を待つ」というのも、戦国の一つの生き方かも知れませんので、一概に愚将とは言えないかも・・・ですね。
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