2018年12月 5日 (水)

家康の祖父・松平清康殺害「森山崩れ」と井田野の戦い

天文四年(1535年)12月5日、徳川家康の祖父である松平清康が殺害された森山崩れがありました。

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松平清康(まつだいらきよやす)は、あの徳川家康(とくがわいえやす)のお祖父ちゃん・・・安祥(あんじょう=愛知県安城市)松平の2代目で松平宗家6代目だった父=松平信忠(のぶただ)が、隣国=駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)からの攻撃を受けて、うまく松平家内を統率できずにいたため、わずか13歳で家督を継ぎ、以後、祖父(つまり信忠の父)松平長親(ながちか)らの後見のもと、三河(みかわ=愛知県東部)統一に向けて走り始めます。

Matudairakiyoyasu700a 大永六年(1526年)に、これまで代々の居城であった安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市)から、2年前に奪った岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に拠点を移してからは、城下町を整備して、現在の岡崎につながる町の発展&基礎を築きつつ、三河の諸城を攻め取り、国内の国衆を服属させていきます。

この頃から、清和源氏(せいわげんじ)新田(にった)の一門である徳川の庶流=世良田(せらた)姓を名乗り始めたようで、これが後に家康が松平から徳川に改姓する(12月29日参照>>)根拠となっているのですが・・・

とにもかくにも、西に東に軍を進めて快進撃を果たした清康は、享禄二年(1529年)11月、念願の三河統一を果たしますが、もちろん、ここで終わりはしません。

翌・享禄三年(1530年)には隣国=尾張(おわり=愛知県西部)に出兵して諸戦を展開・・・そしていよいよ天文四年(1535年)12月に、当時は清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めたのです。

ところが、その陣中にあった天文四年(1535年)12月5日、突如、家臣の阿部正豊(あべまさとよ)によって、未だ25歳の若さで清康は斬殺されてしまうのです。

これは組織的な裏切りや謀反ではなく、正豊が、彼の父である阿部定吉(さだよし)が清康から謀反の疑いをかけられて誅殺されたとの間違った噂を信じ込んで勘違いのまま「父の仇討ち」を決行してしまった結果だったと言われています。

この事件は、その起こった場所をとって「森山崩れ(もりやまくずれ=守山崩れ)と呼ばれますが、この阿部定吉という人は清康に仕えていた忠臣で、上記の通りの「間違った噂」ですから、当然、定吉は死んでませんし、謀反の疑いもかけられてはいません。

むしろ息子の行動を知った定吉は、すぐさま現場に駆け付けて、自らの手で息子を成敗し、その責任をとって自身も切腹しようとしますが、周囲に諭されて思いとどまります。

Ieyasukeizu2 何といっても、清康の嫡男である松平広忠(ひろただ=つまり家康の父)に、
「今後は、その命かけて俺を盛り立ててくれ」
と言われた事が大きかった・・・

その約束通り、以後の定吉は、松平家の危うさに多くの家臣が離反しても決して広忠の側を離れず、叔父の松平信定(のぶさだ)松平信孝(のぶたか)兄弟が結託して岡崎城を占拠した時に(8月27日参照>>)、命からがら逃げだした亡命先でも苦楽をともにして助けました。

また、この時期に駿河の今川義元(いまがわよしもと)傘下となる事を広忠に進言したのも定吉だったとされます。

それは、結果的には、未だ幼き息子=家康に長きに渡る人質生活を送らせる(8月2日参照>>)事にはなりますが、1番危ういこの時期に、お家が潰れる事もなく、曲がりなりにも独立を保ちながら、後に義元の死をキッカケに再び岡崎に戻った家康が(5月12日参照>>)最終的に天下を取ることになるのも、この時の定吉の進言あればこそなわけです。

そんなこんなで閑話休題、
お話を「森山崩れ」の直後に戻しますが・・・

今回の清康の死を絶好のチャンスととらえたのが織田信秀・・・森山崩れから10日もしないうちに、兵を率いて三河に駒を進めて来たのです。。。。井田野(いだの・井田)の戦いです。

『三河物語』によれば、
「森山崩れシテ十日モ過ザルニ 小田(織田)之弾正之中(忠) 三河エ打出 大拾(樹)寺ニ旗ヲ立ル」
と間髪入れず攻め入って来た事が記されています。

この時、約8000の兵を率いてやってきた織田方に対し、迎え撃つ松平方は、わずかに800ほど・・・

これを受けた松平方では岡崎城を出て井田野(いだの=愛知県岡崎市鴨田町)に陣を張ります。

その陣を置いた場所で戦いに突入した両者でしたが、松平方にとっては主君を失ったばかりの最大のピンチですので、全員が殉死覚悟の戦い・・・しかし、一方の織田方は、10倍近く数が勝るぶん
「何やっても勝てるだろう」
と高をくくり、大した作戦もないまま
「思ひ思ひ心々に戦ひければ 必死の勢に追立られ…右往左往に逃走する」『改正三河後風土記』
と、しばらくは戦ったものの、あまりに強く攻め立てられたため、結局、そのまま退いていったようです。

こうして、なんとか岡崎城を守り、わずか10歳で父=清康の後を継いで松平家の当主となった広忠でしたが、彼もまた24歳という若さでこの世を去ります(3月6日参照>>)

生涯に渡って広忠をバックアップして来た阿部定吉も、ほぼ同じ頃に亡くなったとされますが、この時点で、松平家の後を継ぐべき家康は、今川に行くはずが、途中で奪われて敵の織田家の人質になってる(同じく8月2日参照>>)という危機的状態・・・

しかし、定吉の敷いたレールは、この時、家康とともにいた石川数正(いしかわかずまさ)酒井忠次(さかいただつぐ)にしっかりと引き継がれ、その後の家康&徳川家の隆盛へと繋がっていく事になるのですが、続きのお話となる安祥城の戦い11月6日のページでどうぞ>>m(_ _)m
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2018年11月12日 (月)

備前&播磨を巡って赤松義村と浦上村宗の戦い~三石城攻防戦

永正十五年(1518年)11月12日、反旗を翻した浦上村宗赤松義村が攻めた三石城攻防戦が開始されました。

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村上源氏の流れを汲み、鎌倉幕府政権下で播磨(はりま=兵庫県南西部)地頭職を務めていたとされる赤松(あかまつ)は、その鎌倉討幕から室町への転換期に、赤松則村(あかまつのりむら・円心)討幕軍の一翼を担う多大なる活躍をし(4月3日参照>>)、その後の南北朝でも足利尊氏(あしかがたかうじ)側について貢献(3月2日参照>>)した事から、室町幕府政権下では四職家(他には京極・一色・山名)の1つに数えられ、則村の息子たちに与えられた摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)美作(みまさか=岡山県北東部)備前(びぜん=岡山県南東部)と、もともとの播磨に加えた計4ヶ国の守護(しゅご=県知事みたいな)を務めた名門です。

ただし、嘉吉元年(1441年)に則村の玄孫に当たる赤松満祐(あかまつみつすけ)が第6代将軍=足利義教(よしのり)暗殺した(6月24日【嘉吉の乱】参照>>)事で、その討伐軍だった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)赤松の領地のほとんどが与えられ、一時は事実上の滅亡という一幕もありましたが、満祐の弟の孫にあたる赤松政則(あかまつまさのり)が、以前に、後南朝側(後南朝については後亀山天皇のページ参照>>)に持ち去られていた三種の神器の一つを取り戻した功績により加賀(かが=石川県)半国を与えられて赤松を再興した後、応仁の乱では東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)に与して功績を挙げた事で(5月28日参照>>)播磨・備前・美作の3ヶ国守護に返り咲いたのです。

そうして置塩城(おきしおじょう=兵庫県姫路市)に居を構えた政則は、更なる領地拡大を図って山名政豊(まさとよ=宗全の息子か孫)と戦い(9月4日参照>>)、長享二年(1488年)には播磨一帯から山名勢力の排除に成功(4月7日参照>>)・・・しかも、細川勝元の娘=洞松院(とうしょういん=めし)を嫁に娶り、この戦国の頃の赤松は、以前にも増した全盛期を迎えていたのでした。

しかし、その結婚から、わずか3年後の明応五年(1496年)に赤松政則が急死・・・残念ながら洞松院との間には女の子しか生まれていなかったため、赤松の分家から娘の婿養子として入り、政則の後を継いだのが赤松義村(よしむら)でした。

そんな赤松氏を、かの鎌倉末期の則村の時代から家臣として支えていたのが守護代(しゅごだい=副知事みたいな)浦上(うらがみ)・・・先の政則の時代に、見事な復権を果たせたのも、山名の勢力を一掃できたのも、忠臣の浦上則宗(うらがみのりむね)おればこそ!だったのです。

ただ、それだけの武将であればこそ、いつしか主君より多くの支持者が、その下につき、家内での影響力も大きくなって行くというもの・・・

なんせ上記の通り、赤松政則と洞松院は、わずか3年の結婚生活ですから、政則が亡くなった時点では、その娘さんも幼児なわけで、おそらく、その婿養子の義村も、彼女に見合う同じような年齢だったと思われ(正確な生年は不明)・・・

とは言え、しばらくの間は、義母の洞松院が頑張って義村を支えていた(3月11日参照>>)事もあり、浦上家内での権力闘争はあったものの、赤松と浦上の主従関係に亀裂が入るほどでは無かったわけですが、文亀二年(1502年)に浦上則宗が亡くなり、その後を浦上村宗(むらむね)が引き継いだあたりから、
(*村宗は則宗の甥の子とも息子とも言われ、村宗の前に則宗の養子が家督を継いでいたという話もありますが、そこらへんの経緯はよくわかっていません)
幼かった義村が成長し、自身で政務をこなすようになって来て、これまで、ほぼ思い通りに・・・悪い言い方すると浦上家のやりたい放題だった政務に主君のチェックが入る状態に、浦上村宗は反発するようになっていったのです。

Ukitayosiie300a やがて永正十五年(1518年)秋・・・浦上村宗は、家臣の宇喜多能家(うきたよしいえ=秀家の曽祖父)らとともに居城の三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)に籠り、赤松に反旗を翻したのでした。

もちろん、これをそのままにしておけない赤松義村は、永正十五年(1518年)11月12日三石城へと出兵・・・船坂峠(ふなさかとうげ=兵庫県と岡山県の県境の峠)にて防戦する浦上方を撃破して三石城下へとなだれ込み、城から撃って出た浦上勢と激しい交戦を繰り広げました。

明けて翌13日も城から兵が撃って出て戦闘が始まり、囲む赤松勢が押せば城兵退き、城側の伏兵の出現に赤松が退けば城兵が追撃・・・と、一進一退の状況が続いた事で「これではらちがあかん!」とばかりに義村は、一気に攻め落とさんと15日朝から総攻撃を仕掛けます。

しかし、この時も・・・城側は攻め寄せる赤松勢を引きつけるだけ引きつけておいて、絶好のタイミングで一気に大手&搦め手から同時に出撃し、寄せ手を混乱させて切り崩し、大きな痛手を与えた事で、やむなく赤松軍は本陣の位置を船坂峠まで戻し、態勢を立て直す事に・・・

ところが、この間に、浦上村宗は二人の忍びに武具などを持たせて商人に見せかけて赤松の陣地に送り込み、敵の様子を探らせたばかりか、「村宗は病気で伏せっていて、しばらく動けないかも…」なんてウソの噂を流させたのです。

こうして赤松軍を油断させておいた11月19日夜、70人ばかりの少数精鋭で一気に夜襲を仕掛けます。

突然の火の手と鬨(とき)の声に驚く赤松勢は、応戦どころか、もはや逃げるので精一杯だったとか・・・

かくして年が明けた永正十六年(1519年)正月、赤松義村は作戦の変更・・・香登城(かがとじょう=岡山県備前市)に拠る村宗の弟=浦上宗久(むねひさ)に近づいて
「勝利のあかつきには村宗の領地をそっくりそのまま君にやる…浦上は君が掌握すればえぇ」
と、兄を裏切って赤松につくよう誘いをかけます。

それに乗った宗久は、密かにその準備に取り掛かりますが、その動きを、この時、香登城の二の丸を守備していた宇喜多能家が察知・・・二の丸の守備を強化して籠城すると同時に三石城へ宗久の裏切りを知らせて加勢の軍勢の派遣を要請した事で、逆に窮地に陥った宗久はやむなく城を脱出し、結果的に香登城は宇喜多能家が牛耳る事になってしまいました。

それでも諦めきれない義村は、その年の4月、さらに12月にも攻撃を仕掛け、翌永正十七年(1520年)の正月には、先に浦上傘下の富田松山城(とだまつやまじょう=岡山県備前市)を落としますが、7月に三石城からの救援が駆けつけて赤松軍を襲撃し、結局、このすべてが防がれてしまいます。

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●三石城攻防戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この度重なる敗戦で赤松の家名は地に落ち、それは同時に浦上村宗の名を挙げる形となり、やがて本拠の置塩城にでさえ村宗に同心する者が現れ、同永正十七年(1520年)の11月、やむなく義村は隠居して、嫡子の赤松晴政(はるまさ=才松丸→政村→政祐)を差し出す事で、何とか面目を保ちます。

とは言え、その後も何度か復権を目論んでイロイロ画策するのですが、結局、翌大永元年(1520年)9月に村宗の放った刺客によって義村が暗殺されしまい、その後は晴政が赤松を継承していくワケですが、お察しの通り、もはや浦上村宗の傀儡(かいらい=操り人形)の当主なわけで・・・

ただ・・・後に起こる細川勝元の孫たち(勝元の息子の政元の養子たち)による後継者争いで(2月13日参照>>)、最初は浦上村宗とともに、彼の推す細川高国(たかくに)についていた晴政が、父の仇討ちを目論み、途中で細川晴元(はるもと)側に寝返って、晴元側の三好元長(みよしもとなが=三好長慶の父)と協力して村宗を討つという場面があったのはあったのですが、結局は、この後も浦上村宗の息子たちとモメてる間に、出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまご)氏の台頭を許してしまい、この後、赤松氏が以前のように浮かび上がる事はありませんでした。

その後の赤松は、晴政の孫=赤松則房(のりふさ)の代に豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)の傘下となって置塩城を安堵されてますが、その細々と続いていた血脈も、関ヶ原の戦いで西軍につき、石田三成(いしだみつなり)の居城=佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)(9月17日参照>>)を守っていた赤松則英(のりひで=則房の息子)が、落城後に捕縛されて自害した事によって、名門=赤松の嫡流は断絶する事となるのです。
(庶流の赤松広秀も、その約1ヶ月に自害…10月28日参照>>)

鎌倉から室町を生き抜いた名門の武家が、戦国の世に姿を消す事は少なくありません・・・というより、それが下剋上であり戦国という物なのでしょうが、何とも、難しい時代であります。
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2018年11月 7日 (水)

本庄繁長の乱で上杉謙信が本庄城を攻撃

永禄十一年(1568年)11月7日、反旗を翻した本庄繁長の籠る本庄城を上杉謙信が攻撃しました。

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天文十一年(1542年)に信濃(しなの=長野県)諏訪(すわ)を制し(6月24日参照>>)、さらに北へと勢力を伸ばそうとする甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)(4月22日参照>>)に対し、天文二十二年(1553年)から永禄七年(1564年)にかけて、何度も川中島(かわなかじま=長野県長野市)にて(8月3日参照>>)刃を交えていた越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎・上杉輝虎)・・・

Uesugikensin500 一方で、その両者がともに傘下にしておきたい場所が、越後にも信濃にも接している隣国=越中(えっちゅう=富山県)・・・なんせ上洛するには、ここを通らねばなりませんし、それはイコール物流という観点からも重要ルートなわけで。。。

Takedasingen600b ここ越中は、もともとは南北朝の動乱の後に守護(しゅご=県知事的存在)だった畠山(はたけやま)以下、それをサポートするが守護代(しゅごだい=副知事的)遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)が分割して治めていた場所でしたが、応仁の乱を経た戦国時代に入って畠山氏の力が衰え始める中で越中一向一揆が頻発(9月19日参照>>)したりした事により、徐々にその立ち位置も微妙に・・・

で、この永禄の頃には射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による越中(えっちゅう=富山県)争奪戦を繰り返していましたが、そんな両者の戦いを影で支援していたのが武田信玄(神保を支援)と上杉謙信(椎名を支援)だったわけです(3月30日参照>>)

ところが、そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月、これまで密かに行っていた信玄の裏工作により、椎名康胤が武田側に寝返ったのです。

父の時代からの同盟者であった康胤に裏切られた事にショックを受けつつも、謙信は康胤の松倉城を落とすべく3月16日に居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣します。

一方、この康胤の寝返りを受けて、翌・4月、今度は神保長職が上杉に寝返り・・・すると、これまで信玄の要望(信玄の奥さんの妹の夫は本願寺顕如)で長職とともにゲリラ戦を展開していた一向一揆が、これまた神保から離れて武田側に寝返り(←あ~ややこしい)、長職傘下の守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)放生津城(ほうじょうづじょう=富山県射水市中新湊)を攻撃して陥落させてしまいます。

そこで謙信は、ひとまず松倉城への抑えとして配下の河田長親(かわだながちか)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)に配置して守らせ、自らは、長職と連携して守山城と放生津城への攻撃を開始するのです(4月13日参照>>)

しかし、その陣中に、鳥坂城(とっさかじょう=新潟県胎内市)中条藤資(なかじょうふじすけ)からの書状が届きます。

なんと、その書状の中には、もう一通の書状が・・・それは、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)から中条藤資に宛てた物で、その中身は
「コチラの味方になってくれませんか?」
のお誘い・・・

Honzyousigenaga600 そう・・・この謙信留守の間に武田側に寝返った本庄繁長が、中条藤資に送った寝返りを即す密書を、上杉を裏切る気ゼロの藤資が、そのまま謙信に見せたのです。

激おこの謙信は、すぐに陣を引き払って春日山城へ帰還し、本庄城攻撃の準備に入ります。

一方、その本庄繁長は、中条藤資以外にも、平林城(ひらばやしじょう=新潟県村上市)色部勝永(いろべかつなが)黒川城(くろかわじょう=新潟県胎内市)黒川実氏(くろかわさねうじ)大場沢城(おおばさわじょう=新潟県村上市)鮎川盛長(あゆかわもりなが)ら周辺の武将へ同様の書状を送って寝返りに誘っていたのです。

ところが、これが大きな誤算・・・中条藤資と同じく、彼らにも断られてしまったのです。

結果、本庄繁長は周囲を敵に囲まれた孤立無援の形になってしまい、やむなく本庄城に籠城して武田の援軍を待つしかなくなってしまいます。

そのニュースを得た信玄は、本願寺に向けて繁長救援を要請・・・これを受けた勝興寺(しょうこうじ=富山県高岡市)の一向一揆衆が越後へと侵入する一方で、海津城(かいづじょう=長野県長野市松代町)を出た信玄は、7月10日、謙信側の飯山城(いいやまじょう=長野県飯山市)を攻撃します。

しかし、さすがの謙信はこれを予想しており、すでに配下の者を援軍として送り込んで防戦したため、信玄はそれ以上の進軍ができず、10月13日には、本庄城に、使者とともに兵糧を送り込んで、今後の作戦を練ります。

一方、10月20日に春日山城を出発した謙信は、柏崎(かしわざき=新潟県柏崎市)から出雲崎(いずもざき=新潟県三島郡)を経て新潟に着陣・・・永禄十一年(1568年)11月7日いよいよ本庄城への攻撃を開始します。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

このピンチに繁長は、御大=信玄の出陣を要請しますが・・・残念ながら、この頃の信玄は、今川義元(いまがわよしもと)亡き後の駿河(するが=静岡県東部)への侵攻に忙しい・・・【薩埵峠の戦い】参照>>)【今川館の攻防戦】参照>>)

もちろん、これは「本庄より駿河が大事」って事だけではなく、11月の東北は、もはや雪に閉ざされ、行くに行けない状況だった事もあって、冬でも暖かい駿河への侵攻を優先したのです。

現に、本庄城を攻撃していた謙信方も、かなり雪に悩まされたようで・・・しかも本庄城が堅固な要塞なうえに城兵も少数ながらゲリラ戦をウマく展開し、もはや援軍も望めず籠城を続けるだけの本庄城を、謙信はなかなか落とせずにいました。

この状況を見るに見かねた陸奥(むつ=青森・岩手・宮城・福・秋田北東部)蘆名盛氏(あしなもりうじ)伊達輝宗(だててるむね) が、年も押し迫った12月28日に「繁長を許したって~」と謙信に願い出ますが、未だ激おこの謙信はガンとして首を縦に振らず・・・

そのまま年が明けた永禄十二年(1569年)1月9日には、夜の闇に紛れ本庄方の兵が謙信側の陣地を襲撃します。

しかし本庄方も、少数のゲリラ的攻撃では謙信方に大きなダメージを与える事はできず・・・まだまだヤル気満々の謙信は、周辺の農民に
「槍でも鍬でも鋤でも持って集まれ~~参戦したら褒美をつかわす~」
と呼びかけると同時に、先の色部勝永や黒川実氏らから人質と誓詞(せいし)を取って味方の団結を強めますが、3月に入って、今度は本庄繁長本人から蘆名盛氏と伊達輝宗を通じて赦免の願い出が・・・

さすがに、未だ激おこの謙信ではありましたが、進展の無い戦いが、あまりに長引くのも良く無いし、なんたって先の松倉城が、あのままになってますから、ここは一つ東北の諸将の顔を立てて、「繁長の息子を人質として差し出す事を条件に本庄の所領を安堵する」という事で、この戦いの終わらせる事にしたのです。

こうして本庄繁長の乱と呼ばれる戦いは終結・・・

この後、再び松倉城への攻撃に戻る謙信でしたが、なかなか手ごわい松倉城をようやく落としたのは元亀二年(1571年)3月の事・・・

一方、この一件で上杉の配下となった本庄繁長は、謙信の死後、御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)に勝利して上杉の後継者となった上杉景勝(かげかつ)に仕えて縦横無尽の大活躍・・・「上杉にこの人あり」と言われるほどの勇将となるのですから、世の中わからない物です。

ま、その活躍ぶりは、おいおい、その日付にて書かせていただく事にします。
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2018年10月28日 (日)

応仁・近江の乱~京極×六角の近江争奪戦

文明七年(1475年)10月28日、応仁の乱に絡む京極政経と六角高頼の戦い「佐々木庄の戦い」がありました。

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Ouninnoransoukanzu2 第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争いに、管領家(かんれいけ=将軍の補佐・No.2になる家柄)である斯波(しば)畠山(はたけやま)のそれぞれの後継者争いが加わって、応仁元年(1467年)から約10年に渡って日本全国が東西に分かれて戦った応仁の乱(5月20日参照>>)・・・

この時、近江(おうみ=滋賀県)に拠点を置く京極持清(きょうごくもちきよ)は、甥っ子(妹の子)細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)や娘の嫁ぎ先である畠山政長(はたけやままさなが)が属する東軍につき、同じく近江に拠点を置く西軍の六角高頼(ろっかくたかより)との合戦を展開しておりました。

この京極と六角は、ともに宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、平安時代終盤の源平合戦で活躍した佐々木信綱(ささきのぶつな)の息子の代で枝分かれしたものの、同じ近江源氏と呼ばれ全国に広大な領地を持つ同族であり近江2大勢力だったわけですが、上記の通り、同族でも・・・いや、同族だからこそ、立場や損得によって東西に分かれるのが応仁の乱だったわけで・・・

Kyougokusourankeizu ←京極家略系図

ところが応仁二年(1468年)から文明三年(1471年)にかけて、その京極持清と、すでに家督を譲られていた息子の京極勝秀(かつひで)、さらに勝秀の嫡男であった孫童子丸(まごどうじまる)が相次いで亡くなった事から、持清の三男=京極政経(まさつね・政高)と、孫童子丸の兄(叔父または従兄弟の説あり)京極高清(たかきよ・乙童子丸)との間に京極家の後継者争いが勃発するのです。

この間にも、かの応仁の乱は継続中・・・なので東軍に属している政経と敵対すべく、高清一派は六角氏と和睦して西軍へと寝返ります。

この頃、政経派の主将として活躍していた多賀高忠(たがたかただ)と、六角氏で東軍に属していた六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟)の勢いに押され気味だった六角高頼と京極高清は美濃(みの=岐阜県南部)斎藤妙椿(さいとうみょうちん)に援助を要請します。

妙椿も、その主家である土岐氏(ときし)も、応仁の乱には西軍として参加していますので、高頼&高清からの要請があろうがなかろうが、味方のピンチを救うは必至ですから、当然、要請を受けた妙椿は、即座に出陣して国境を越え米原山(まいばらやま=滋賀県米原市)にて京極と一戦した後、近江南部へと進出します。

これを知った高頼も、身を隠していた甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)を出発して妙椿と合流・・・文明三年(1471年)の3月には京極政経&多賀高忠らに勝利して若狭(わかさ=福井県西部)へと敗走させ、近江の地を奪回しました。

この西軍=高頼の勢いを削ぎたい東軍大将=細川勝元は、六角政堯に高頼討伐を命令・・・これを受けて、政堯の拠る清水鼻城(しみずはなじょう=滋賀県東近江市・後の箕作城)には近隣の西軍武将が集結しはじめますが、この動きを知った高頼は、早速、六角旧臣たちをかき集め、先手必勝とばかりに大挙して清水鼻城を攻めまくり、支えきれなくなった六角政堯は文明三年10月(11月とも)、自ら城に火を放って自害しました。

一方、先の米原山の戦いで敗れて若狭に逃走していた京極政経&多賀高忠は、文明四年(1472年)6月頃に近江へと戻り、高頼勢を小競り合いを繰り返していましたが、一旦美濃へ戻っていた斎藤妙椿が、9月になって美濃の大軍を率いて再び高頼の加勢にやって来た事から、西軍=細川勝元側も政経らに援軍を派遣・・・ここに畠山義就(よしひろ・よしなり=西軍)も加わって江北(こうほく=滋賀県の北側)を中心に大きな戦いへと発展きていきます。

そんな中で、高頼が比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)の寺領の横領を画策した事で、比叡山の僧兵や山門衆徒らが政経の味方につき、文明七年(1475年)頃からは一進一退・・・

しかし、やがて、この江北での戦いにも終止符が打たれる時が来るのです。

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観音寺城・本城跡

文明七年(1475年)10月28日、斎藤妙椿の加勢を受けた高頼が、六角氏の本拠である佐々木庄(ささきしょう=滋賀県近江八幡市・観音寺城)において、比叡山の山門衆徒と連合を組む政経勢と大激戦を繰り広げ、高頼方が大勝利を治めるのです。

上記の通り、すでに寺社の荘園の横領等、好き勝手やり始めていた六角高頼の勝利を見た将軍=義政は、比叡山に、再び政経勢と組んで高頼を討伐するようハッパをかけますが・・・実は、この間の文明五年(1473年)に西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)&東軍総大将の細川勝元の両巨頭が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)ために、全国武将を巻き込んだ応仁の乱は急速に勢いを失い、翌文明六年(1474年)には両巨頭の息子たち(山名政豊&細川政元)よって和睦が成立していたのです。

結局、応仁の乱に絡む江北での戦いは、この佐々木庄の戦いが最後になりました。

とは言え、高頼は、今度は将軍家の敵となり、それはやがて近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)へと発展・・・この流れに乗じた京極政経が、逃走先の出雲(いずも=島根県)から、近江奪回=高頼討伐を目指して上洛して来るのは長享元年(1487年)の事ですが、

そのお話は【京極騒乱~祇園館の戦い】の後半部分でどうぞ>>(前半部分は今回のお話とカブッてますが、ご了承を…)

・・・にしても、応仁の乱の時は、ホント、あっちもこっちも後継者争いで・・・結局、それが、同族同士でのつぶし合いとなってしまって、室町幕府政権下で大物として君臨していた武将たちの多くが、その配下である守護代、あるいは、もっと配下の国人に取って代わられる事になっていくのでしょうね。

このあたりの事、もはや描きつくされた織豊時代(しょくほうじだい=信長&秀吉の時代)よりも断然おもしろくなりそうなので、ぜひとも、ドラマ等で見てみたい物ですね~

まぁ、出演者が多すぎて難しいかも知れませんが・・・
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2018年10月16日 (火)

三好長慶の八上城攻略戦

弘治三年(1557年)10月16日、三好長慶が丹波八上城を攻め、龍蔵寺城を攻略しました。

・・・・・・・・・・・

丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)地方の小さな国人(こくじん=在地の武士)の一人に過ぎなかった波多野稙通(はたのたねみち)が、応仁の乱での功績によって細川勝元(ほそかわかつもと=東軍の大将)配下の有力武将となって築城したとされる八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)

その後の細川家内の後継者争いの真っ最中だった大永六年(1526年)、重臣として仕えていた弟を殺害された事で、その主君であった細川高国(たかくに=勝元の孫(養子))と敵対し(10月23日参照>>)、高国との後継者争いの相手であった細川晴元(はるもと=勝元の孫(養子)の息子)に近づいて、ともに高国を京都から追い出して(2月13日参照>>)晴元政権樹立に成功し、稙通も評定衆(ひょうじょうしゅう=政権下の最高機関)の一人に名を連ねたのです。

とは言え、稙通自身は天文十四年(1545年)頃に死没したようで、波多野の家督は嫡男の波多野晴通(はるみち)が受け継ぎます。

Miyosinagayosi500a ところが、今度は、その晴元が重臣の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と対立・・・長慶は、晴元の領国である阿波(あわ=徳島県)守護代を務める重臣中の重臣で、稙通も自らの娘(晴通の妹)を嫁に出して縁を繋いでいた相手だったのですが、この一件により、その奥さんも離縁の憂き目に・・・

そんな中、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで長慶に完敗した晴元は、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を伴って近江(おうみ=滋賀県)へと逃れました(6月24日参照>>)

ただし、翌年の天文十九年(1550年)5月には、その将軍=義晴が避難場所の坂本にて病死・・・それを受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)足利義輝(よしてる)第13代室町幕府将軍に就任しています。

その後、志賀の戦い(2月16日参照>>)を経た天文二十一年(1552年)の正月には晴元が出家した事で両者の間に和議が成立し、事実上の三好政権が誕生していたわけですが、やはり、京都奪回の夢を捨てきれない晴元は、軍を起こしてなんやかやの動きを見せていたのです。

そんな晴元に同調したのが波多野晴通・・・この動きを知った長慶は、八上城を攻略すべく、この年の4月に、重臣の松永久秀(まつながひさひで)を伴って丹波に出陣します。

しかし、八上城包囲中のさ中に、味方として三好軍に従っていた芥川孫十郎(あくたがわまごじゅうろう=長慶の妹婿もしくは娘婿)池田長正(いけだながまさ)が波多野側に内通して謀反を計画している事を察知した長慶は、5月23日に八上城の包囲を解いて一旦、越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)へと帰還します。

これにより、少しは勢いづいた晴元&晴通側でしたが、翌天文二十二年(1553年)8月、長慶はすかさず反撃・・・芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)を攻めて孫十郎を阿波へと敗走させたうえ、この混乱で京に攻め入っていた丹波勢を破って将軍=義輝を再び近江へと退けて京を制圧し、むしろ三好政権を盤石な物にしたのです。

と、なると、やはり、未だ攻略できていない波多野が目障り・・・って事で9月3日、長慶の命を受けた松永久秀が八上城を包囲します。

しかし、ほどなく、晴元方の香西元成(こうざいもとなり=細川家臣)三好政康(まさやす・宗渭=後の三好三人衆の一人)が背後から奇襲をかけて来たため、やむなく松永勢は退去しました。

次に三好軍が八上城を攻撃するのは天文二十四年(1555年=10月に弘治に改元)の事・・・すでに長慶は、畿内全域と阿波に加え、淡路(あわじ=兵庫県淡路島)播磨(はりま=兵庫県南西部)の東半分も手に入れて、もはや敵無しの状態になっていましたが、それでもやっぱり敵対する八上城の波多野・・・

そこで長慶は、その年の9月になって、いつの間にか長慶の傘下になっていた、かの三好政康を八上城攻略に当たらせる事にし、政康軍は生瀬(なませ=宝塚市)から丹波に入り、八上城を包囲します。

ところが、この時は、晴元自身が援軍を率いてやって来た事から、またもや攻略に失敗してしまいました。

しかし・・・
たび重なる失敗にもめげない長慶は、またまた八上城を攻めるべく軍を起こし、弘治三年(1557年)10月16日、波多野方の龍蔵寺城(りゅうぞうじじょう)を攻略します。

とは言え、ここらあたりの記録は不明な事が多いです。

実は、この龍蔵寺城の位置もハッキリとはわかっておらず、多紀郡(たきぐん)周辺にあったであろう」との事なのですが、この多紀郡は現在の篠山市ですので、おそらくは八上城の近くにあった支城なのでしょう~くらいの事しかわかっていません。

『細川両家記』では
「三筑(長慶)の衆い又 屋上(八上)へ出陣して龍蔵寺責落也」
とあり、ここからしばらく波多野が消息不明となります。

次に波多野が登場するのは、長慶亡き(5月9日参照>>)後の三好から、この八上城を奪回する永禄九年(1566年)2月26日の時の事・・・

そこに
「丹州屋上(八上)城に松永弾正正忠(久秀)の甥松永孫六と申人入城候処」
とあるので、先の弘治三年の八上城攻めで龍蔵寺城を攻略した後に八上城も落とし、そこに松永久秀の甥っ子が入城して城主となっていた事がうかがえます。

ここで、元八上城主だった波多野晴通の息子=波多野秀治(はたのひではる)が、包囲した八上城内の水の手を断って枯渇させたところ、飢えに苦しむ兵士たちが次々に逃亡していく事態となり、やむなく孫六も城を脱出して尼崎(あまがさき=兵庫県尼崎市)へと退却・・・

こうして、新当主=秀治によって、波多野は9年ぶりに八上城を奪回したのでした。

以後、秀治は、ここを拠点に武勇を誇り、
やがて織田信長(おだのぶなが)の命を受けて丹波平定にやって来る明智光秀(あけちみつひで)と対峙する事となるわけです。

※光秀の丹波平定に関しては
【籾井城の戦い】>>
【福知山攻略戦】>>
【八上城攻防戦】>>
【黒井城の戦い】>>
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2018年10月10日 (水)

大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井

永禄十年(1567年)10月10日、松永久秀対三好三人衆&筒井順慶連合軍の東大寺大仏殿・多門城の戦いで大仏殿が炎上しました。

・・・・・・・・・・

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)は、やがて寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちの中から、興福寺に属する『衆徒』の代表格である筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』の代表格=越智(おち)十市(とおち)、さらにこの3家に箸尾(はしお)を加え、『大和四家』と称される者たちが群雄割拠する室町時代を迎えていましたが、ここ奈良の守護(しゅご=室町幕府政権下でも県知事的役割)管領家(かんれいけ=将軍の補佐をする家柄)畠山(はたけやま)であった事もあって、その畠山氏や、同じく管領家の細川(ほそかわ)などの争いに巻き込まれていたわけですが・・・
【京軍の大和侵攻】参照>>
【井戸城・古市城の戦い】参照>>
【天文法華の乱~大和一向一揆】参照>>

そんな中、これまで長年抗争を繰り返していた越智氏に勝利し(9月15日参照>>)、その後、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで大和の大半を手中に治めつつあった筒井順昭(つついじゅんしょう)が天文十九年(1550年)に病死し、わずか3歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が引き継ぐ事になった頃、

このタイミングで新たな支配者となるべく大和に乗り込んで来たのが、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い細川晴元(はるもと)を破って(6月24日参照>>)後、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)とも和睦して(6月9日参照>>)事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)でした。

永禄二年(1559年)頃から大和への侵攻を開始した久秀は、信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していきます(7月24日参照>>)

しかし、そんな久秀の活躍とはうらはらに、永禄四年(1561年)に3番目の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが)(5月1日参照>>)、翌・永禄五年(1562年)にすぐ下の弟=三好実休(じっきゅう=義賢・之康)(3月5日参照>>)、さらに、その翌年の永禄六年(1563年)に息子の三好義興(よしおき=長慶の長男)を失った三好長慶は一気に病気がちになり、しかも永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入ったを長慶自らの勘違いで手にかけてしまい、その後悔の念からか?その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は廃人のようになってこの世を去ってしまう(5月9日参照>>)のです。

やむなく、三好家では長慶の甥=三好義継(よしつぐ)を当主に迎え、補佐役として三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)の3人=三好三人衆が若き当主を支えていく体制となりますが、そんな三好三人衆は永禄八年(1565年)5月に将軍の足利義輝を暗殺して(5月19日参照>>)、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を新将軍に擁立しようと企みます。

この将軍暗殺劇には、晩年に病気がちになっていた長慶に代わって、事実上、三好政権を切り盛りしていた久秀も協力していたとも言われていますが、一方で、その暗殺劇から、わずか半年後の11月には、奈良の支配を巡って未だ久秀と絶賛敵対中だった筒井順慶と三好三人衆が同盟を結んで、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃していますので、おそらく久秀は、将軍暗殺には関わっていないかも・・・

で、これを受けた久秀は、電光石火の速さで、その2日後に順慶の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲して奪い取りました。

ただし翌年、紀伊(きい=和歌山県)河内(かわち=大阪府東部・南部)の守護でもあった畠山高政(はたけやまたかまさ)らに協力して、(さかい=大阪府堺市)にいた三好の当主=三好義継を攻撃すべく、久秀が本拠の多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を留守にしたスキを狙って筒井順慶は筒井城を奪回しています。

ところが、その堺での合戦の後、久秀と和睦した義継が対立気味だった三好三人衆と決裂・・・永禄十年(1567年)4月に信貴山城に戻ってきた久秀とともに、その義継も信貴山城に入ったのです。

その6日後の4月11日、久秀が多聞山城に戻った事を受けて三好三人衆と筒井勢、さらに池田勝正(いけだかつまさ=摂津池田城主)らを加えた連合軍が奈良近辺の大安寺(だいあんじ=奈良県奈良市)白毫寺(びゃくごうじ=同奈良市)等に布陣を開始・・・その数、約1万~2万

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白毫寺から奈良市街を望む

これを迎撃すべく、久秀は東大寺(とうだいじ=奈良市)戒壇院(かいだんいん)転害門(てがいもん)に軍勢を配置します。

4月24日夜には、すでに南大門(なんだいもん)周辺に両軍が放つ銃声が響き渡り、両者の小競り合いも後を絶たず、僧や市民も眠れぬ夜を過ごす事になる中、三好&筒井連合軍は大乗院山(だいじょういんやま=奈良市高畑)天満山(てんまやま=同高畑)に陣を移動させますが、久秀の本拠である多聞山城は、東大寺より北にあるため距離が遠い・・・

そこで順慶は縁のある興福寺を通じて東大寺の境内に布陣させてもらえないか?打診すると、コレが即OK・・・なんせ、上記の如く、すでに松永勢はことわりもなく布陣しちゃってますから、寺側も「戦火に見舞われないか」必死なわけで、松永勢けん制のためには、彼ら連合軍に近くにいてもらった方が安心というもの・・・

そして、5月2日に連合軍のうち約1万が二月堂(にがつどう)大仏殿回廊に布陣すると、この日から、久秀自らも戒壇院に立て籠もります。

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東大寺:戒壇院           転害門

連合軍は随時、東大寺境内の陣所を変えながら、たまに一隊が多聞山城を攻めつつ、しばらくの間、一進一退のこう着状態が続きますが、この間、連合軍の陣所に利用される事を防ぐべく、松永勢はアチラコチラに火を放ち、一部の門や生垣等が、この時点ですでに焼失・・・少し離れた般若寺(はんにゃじ=奈良市般若寺町)なども、この時に焼失しています。

そんなこう着状態が破られるのは8月25日の事・・・三好三人衆の配下であった飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)の城主=松山安芸守(まつやまあきのかみ)松永方に寝返ったのです。

そのため、やむなく連合軍は、その一部を河内(かわち=大阪府東部)へと派遣せざるを得なくなりますが、もちろん、これは久秀の作戦で、数に劣る松永勢は、このおかげでちょっと楽に・・・この頃には、松永勢が寺院を焼く事も、ほぼ無くなっていたものの、両軍の小競り合いは相変わらず続き、徐々に、数に勝る連合軍が有利になっていくのです。

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東大寺大仏殿の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄十年(1567年)10月10日この状況を打開すべく、久秀が動きます。

東大寺の大仏殿付近に布陣していた三好軍に攻撃を仕掛けた松永軍・・・
『多聞院日記』では・・・「数度の合戦の後、穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それが大仏殿回廊へ延焼して深夜に大仏殿が焼失した」

『東大寺雑集録』には・・・
「大仏中門堂へ松永軍が夜討をかけて中門堂と西の回廊に火が放たれて焼失した」
とあります。

しかし、一方で宣教師=ルイス・フロイス『日本史』では、
「連合軍の中に我ら(イエスズ会)の同僚がおり、夜、密かに火を放った」
と、キリシタン兵士が大仏殿に放火した事が書かれています。

この「誰が放火したのか?」の犯人探しについては、未だ様々な説があって結論は出ていないのですが、とにもかくにも、ここで大仏殿が炎上した事で、布陣じていた連合軍は総崩れとなり、備えの兵として残した一部を除いて、ほとんどが摂津(せっつ=大阪府北中部と兵庫県の南東部)山城(やましろ=京都府南部)へと退去していったのです。

焦土と化した一帯では、寺院や宿坊を狙った強盗&略奪・・・いわゆる火事場泥棒が頻発した事により、翌11日には、三好義継と松永久秀、そして松永久通(ひさみち=久秀の息子)の連名で禁制(きんせい=犯行を禁じる)を発布しています。

この禁制発布は、イコール、この奈良の地が彼らの統治する場所になった事を意味しますので、合戦の結果としては松永方の勝利というところは間違いないでしょう。

もちろん、かと言って、三好や筒井らが、このまま引っ込んでしまうはずはなく、その後もチョコチョコ多聞山城に攻撃を仕掛けたりと、小競り合いを展開していくのですが・・・

そんなこんなの永禄十一年(1568年)・・・あの大仏殿炎上から約1年後の9月、三好三人衆に暗殺された前将軍=義輝の弟である足利義昭(よしあき)(10月4日参照>>)を奉じてアノ男が上洛して来ます(9月7日参照>>)

織田信長(おだのぶなが)です。

9月29日に摂津に侵入した信長のもとに、いち早く参じてその傘下となり、領地安堵を取り付ける三好義継と松永久秀・・・一方、敵対覚悟の三好三人衆と出遅れてしまった筒井順慶。

当然ですが、もはや三好三人衆は信長相手に手いっぱいで松永と筒井の抗争に人数を割く余裕すらありません。

こうして信長という後ろ盾を得た久秀は永禄十一年(1568年)10月に筒井城を攻撃し、敗れた順慶は福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して落ちていきました(11月18日後半部分参照>>)

とは言え、乱世の梟雄(きょうゆう)松永久秀が、このまま、親子ほどの年の差がある信長のもとで大人しくしているはずは無いわけで・・・

て事で、そのお話は
【多聞山城の戦い】>>
【信貴山城の戦い】>>
でご覧あれ(o^-^o)

周辺の歴史散歩コースは、姉妹サイト「京阪奈ぶらり歴史散歩」奈良春日野コースで>>(別窓で開きます)
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2018年9月27日 (木)

前将軍・足利義稙と管領・細川政元~宇治木幡の戦い

明応八年(1499年)9月27日、前将軍=足利義稙と同調する畠山尚順を攻める細川政元が、宇治木幡の戦いにて槇島城を落としました。

・・・・・・・・・・

第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争い=義尚(よしひさ=義政の息子)×義視(よしみ=義政の弟)に、
Ouninnoransoukanzu2 畠山&斯波・両管領家の後継者争い=
畠山義就(よしひろ)×政長(まさなが)
斯波義廉(しばよしかど)×義敏(よしとし)
がひっついて、それぞれに味方する武将が
山名宗全(やまなそうぜん=持豊)(西軍)
細川勝元(ほそかわかつもと)(東軍)
に分かれ、地方の武将を巻き込んで約10年に渡って繰り広げられた応仁の乱(5月20日参照>>)も、宗全&勝元=両巨頭の死を以って勢いを失くし(3月18日参照>>)、両者の後継同士=山名政豊(まさとよ=宗全の孫)細川政元(まさもと=勝元の嫡男)が和睦を結ぶ事によって終結の兆しをみせ、このために京都に集結していた武将たちも、徐々に地元へと帰って行くのですが(11月11日参照>>)

両総大将が手打ちしたからと言って、その発端となった後継者争いに決着がついたわけではなく、結局、それらの争いはそれぞれ個別の争いとなってくすぶり続けるわけです(12月12日参照>>)

そんな中、スッタモンダで義政の後を継いで第9代将軍になっていた義尚が、未だ男子をもうけないまま、近江(滋賀県)南部の戦国大名=六角高頼(ろっかくたかより)を征伐中の近江(まがり・滋賀県栗東)の陣中で病死(3月27日参照>>)・・・そのため、結局は、亡き義尚と将軍の座を争った義視の息子=足利義稙(よしたね=当時は義材・後に義尹)が、その後を継いで第10代将軍となります。

義稙は、義尚を遺志を継いで明応元年(1492年)には、とりあえず、六角氏を近江より追い出す事に成功します(12月13日参照>>)管領(かんれい=将軍の補佐役)の細川政元にとっては、どうしても、この義稙が気に入らない・・・

最初は
「僕、何もわかりませんので、大人しくして全部政元さんに任しますわ」
としおらしくしてたのに、なんだかんだで、いつの間にか
「俺が将軍や!」
とばかりに、政元の反対をよそに、イロイロ動き始める・・・

そんなこんなの明応二年(1493年)、やはり、政元の反対を押し切った義稙は、未だくすぶり続ける畠山の後継者争いに関与して、畠山義豊(よしとよ=基家・義就の息子)討伐のため、畠山政長とともに河内(かわち=大阪府東部)へと出兵します。

その留守を狙って、政元は、日野富子(ひのとみこ=足利義政の奥さんで義尚の母)らと組んでクーデターを決行・・・義稙を廃して、第11代新将軍に足利義澄(よしずみ=当時は義高・義尚&義材の従兄弟)を擁立したのです(明応の政変)

京都にいない間に一夜にして賊軍の大将となった義稙は、やむなく投降・・・これキッカケで政元派に寝返る武将も出て孤立無援となった政長は自刃して果てました(討死にとも)

それでも終わらない畠山の争い・・・(7月12日参照>>)

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足利将軍家と管領家の略系図

政長が敗死してくれたおかげで、奪われていた守護の座を確保した義豊は、亡き政長の後を継いだ息子の畠山尚順(ひさのぶ)と、度々の衝突を繰り返しますが、徐々に劣勢となっていき、やがて明応六年(1497年)10月に高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)を落とされた事で河内を捨てて山城(やましろ=京都府南部)へ逃亡・・・さらに翌・11月には大和(やまと=奈良県)地方での義豊派の国人であった越智家栄(おちいえひで)古市澄胤(ふるいちちょういん)が尚順を支持する筒井順賢(つついじゅんけん)十市遠治(とおちとおはる)に敗れた事で窮地に追い込まれます。

追い込まれた義豊は明応八年(1499年)正月、起死回生の一手とばかりに尚順を野崎城(のざきじょう=大阪府大東市)に攻めますが、カウンターパンチを喰らって攻め込まれ、河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ=現在の寝屋川市西部と門真市・守口市一帯)で討死してしまいました。

義豊とともに戦っていた息子の畠山義英(よしひで)は何とか戦場を離脱し、しばらく、その身を隠します。

勢いに乗った尚順勢は、次々と河内を平定していきますが、当然、その先には、以前より義豊を支持する細川政元が・・・そんなこんなの7月頃、尚順は元将軍の義稙に接触します。

義稙は政変後の戦いで降伏した時、流罪となって幽閉されそうになった所を支援者の手助けで脱出して政長の領国であった越中(えっちゅう=富山県)に逃れて、政長家臣の神保長誠(じんぼうながのぶ)の保護を受けた後、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉貞景(あさくら さだかげ)のもとで、政元との和睦を模索していましたが、その和睦交渉が思うように進まない中で尚順からの誘いを受け、ともに政元を倒して京都を奪回しようと決意したのでした。

9月5日、先陣として大和の国人衆を加えた義稙&尚順連合軍は、山城の飯岡(いのおか=京都府京田辺市)に着陣・・・これを受けた政元は、まずは幕府御所の警護を強化し、その一方で、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=宗益)らを宇治(うじ=京都府宇治市)に、薬師寺元一(やくしじもとかず)長忠(ながただ)兄弟らを(よど=京都府京都市伏見区)に、香西元長(こうざいもとなが)らを摂津(せっつ=大阪府北部と兵庫県東南部)に向かわせて防御線を敷きます。

10日に宇治木幡(こばた=京都府宇治市)まで進出した尚順軍大和勢は、ここで細川方の赤沢勢とぶつかり交戦に突入・・・優勢な赤沢勢は、その勢いのまま前日の26日には西一口城(にしいもあらいじょう=京都府久世郡久御山町・御牧城)に火をかけ、翌・明応八年(1499年)9月27日槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)陥落させて複数の首級を挙げたのです。

この槇島城は、鎌倉時代の承久の乱(じょうきゅうのらん)(5月14日参照>>)の頃に第82代=後鳥羽天皇(ごとばてんのう=承久の乱の頃は上皇)配下の長瀬左衛門なる人物が構築したと伝えられ、後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が宇治川の護岸整備をする以前は、文字通り槇島という宇治川の中州にできた島に建っていたという事ですが、織田信長(おだのぶなが)の時代に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき)が拠った城としても有名です(7月18日参照>>)

今回の宇治木幡の戦い当時は真木島氏(まきしまし=槇島氏)が城主を務めていましたが、応仁の乱以来、一貫して細川方に属していた真木島が、なぜ、この時には政元と敵対したのか?は不思議なところではあります。

ただ、今回、政元側によって槇島城が落とされた事、また、元来、真木島氏が将軍直属の奉公衆であった事を踏まえると、この戦いの時には、「前将軍」という事で、尚順の…というよりは義稙の味方として政元に敵対したという事かも知れません。

その後、翌・28日には、御厨子城(みずしじょう=京都府城陽市水主・水主城)をも落とし、南山城一帯は、次々と赤沢の手に落ちて行ったのです。

勢い止まらぬ赤沢勢は、この後、尚順に同調した大和へ侵攻します(12月18日参照>>)

一方、一連の戦いに敗れて勢いを失った義稙は、周防(すおう=山口県)大内義興(おおうちよしおき)のもとに身を寄せ、尚順も紀州(きしゅう=和歌山県)へと逃れますが、8年後の永正四年(1507年)に、政元が、自身の3人の養子による後継者争い関連で暗殺される(8月1日参照>>)、激化する、その後継者争いの旗印として「前将軍」の肩書とともに、再び義稙は表舞台に登場し、次の世代へと続く京都争奪戦を繰り広げていく事になるですが、それらのお話は、それぞれのページでご覧あれm(_ _)m
【船岡山の戦い】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>

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2018年9月20日 (木)

光安自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?

弘治二年(1556年)9月20日、斎藤義龍に攻められた明智城が落城し、明智光安が自刃しました。

・・・・・・・・・・・

清和源氏の流れを汲む美濃(みの=岐阜県)守護(しゅご=現代の県知事みたいな)であった土岐(とき)から枝分かれした明智(あけち)は、明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を拠点として室町幕府に直接仕える奉公衆を務めていましたが、戦国時代に入って、あの美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん=利政)が、守護の土岐頼芸(よりなり)に取って代わって美濃一国を掌握するようになります(12月4日参照>>)

当時の明智氏は、先代の明智光綱(あけちみつつな)が若くして亡くなったため、その嫡子の明智光秀(みつひで)が家督を継いでいたものの、未だ幼かったため、叔父(光綱の弟)明智光安(みつやす)光秀の後見人となって明智家の政務をこなしていた状態でしたが、この道三の台頭に対しては、ちゃっかりと自らの妹=小見の方(おみのかた)を道三の継室(けいしつ=正室が亡くなったあとの次の正室・後妻)に送りこんで、生き残りを図っていたのです。

ちなみに、この小見の方と道三の間に生まれたのが、織田信長(おだのぶなが)に嫁いだ濃姫(のうひめ=帰蝶)です(2月24日参照>>)

しかし、その濃姫の結婚からわずか6年後の弘治元年(1555年)・・・道三の長男(濃姫の異母兄)である斎藤義龍(よしたつ)が、二人の弟を殺害し(10月22日参照>>)、父=道三に反旗を翻すのです。

光安は迷います。
なんだかんだで親子ゲンカ・・・どっちにも義理がある。
しかし、合戦となった以上、どちらかが勝ってどちらかが負ける中で、明智はどちらにつくべきか・・・

結果、光安は、若き光秀にわずかの兵をつけて義龍のもとに参陣させて土岐氏への義理を果たし、自らは中立の立場を守り、事を静観するという選択をしたのです。

かくして弘治二年(1556年)4月20日、道三×義龍による父子対決=長良川の戦いが決行され、ご存じのように、義龍の大勝となって道三は命を落とします(4月20日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、この合戦の時点で義龍は道三の6倍ほどの兵を維持=つまり、臣下の者の多くが義龍に味方していた状況でしたから、光安としても、「例え妹婿であっても道三側につくのは分が悪い」と感じていたのかも知れません。

とは言え、事が落ち着いた後も、光安は義龍の居る稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)へも出仕する事無く、心の中では悶々とする日々を過ごしていたのです。

自身のとった行動が果たして本当に良かったのか?
道三に対し、また土岐家に対して申し訳が立つのか?
誇りある家名を汚す事になりはしないか?

また、
軍治のおりには何もせず静観しておいて、義龍の世になったからと、ホイホイと出仕して臣下の列に座する事を、他人はどう思うだろう?

様々な思いが胸を過る・・・
♪人間~五十年~♪と言われたこの時代に、すでに50代半ばを過ぎていた光安は、ここで決断するのです。
「もはや命は惜しくない」
と・・・

ここに、「死を以って義理を果たし、武名を残す事こそ本意」と決めた光安は、弘治二年(1556年)9月、義龍に手切れの使者を送り、一族870人を集めて明智城に籠城したのです。

これを受けた義龍は、叔父(もしくは弟)長井道利(ながいみちとし)に3700余騎の兵をつけ明智討伐軍として出陣させました。

Aketizyounotatakai
●明智城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

9月19日に稲葉山城を出発した軍勢は、土田(どた)の渡しより木曽川(きそがわ)を渡り、さらに可児川(かにがわ)左岸に布陣した後、明智城へと迫りますが、城は天然の要害であるうえに明智勢の反撃も鋭く稲葉山勢が城を抜く事はできず・・・この日は双方に死傷者を出しながらも、決着つかぬまま日が暮れました。

その夜・・・「明日は決戦になる事必至」と悟った光安は、皆を集めて酒宴を催し、
「明日は城外へ撃って出て、思う存分に戦った後、本丸に火を放ち、潔く果てようぞ!」
と全将士と別れの盃を交わしました。

かくして弘治二年(1556年)9月20日、数倍の兵に囲まれた明智城・・・予想通り、早朝から稲葉山勢による総攻撃が開始されました。

敵に埋め尽くされた城下にて奮戦する明智勢ではありましたが、所詮は多勢に無勢・・・やがて押され始めた明智勢が城内へと退き始めると、光安も覚悟を決め「もはや、これまで」と、そばに光秀を呼び寄せて、
「本来なら、(光秀の死を)見定めた後、我ら殉死すべきところですが、それをしてしまうと明智家は断絶してしまいます。
祖父
(光秀の祖父=明智光継の遺言でもありますし、志も大きいですので、どうかその身を守り落ちのびて、後々、家名を再興してください。
その時は、どうか、我が長男の秀満
(ひでみつ)と次男の光忠(みつただ)を盛りたててやってください」
と頼み、切腹したのです。

光安の死を見届けた光秀は、妻子と従者10人余りとともに城を脱出・・・叔父(光綱の弟で光安の兄)山岸光信(やまぎしみつのぶ)を頼って西美濃(現在の岐阜県揖斐郡大野町付近)へと落ちていったのです。

ここに明智城は落城し、明智家も没落したのですが・・・

その数年後、西美濃に妻子と従者を預けた光秀は、諸国を転々と武者修行したり、京都の嵯峨(さが)嵐山付近に潜伏して学問をしたりの全国遍歴の旅に・・・

やがて永禄十一年(1568年)、自らを将軍として担いでくれる武将を探していた足利義昭(あしかがよしあき=義秋)と、上洛する大義名分を求めていた織田信長を結びつける仲介役として、光秀は華々しく歴史の表舞台に登場する事となります。
【義昭の上洛希望】参照>>
【信長の上洛】参照>>

・‥…━━━☆

とは言え、ご存じのように、実際の明智光秀の前半生はまったくの謎・・・

今回お話は『美濃國諸奮記』という江戸時代に書かれた軍記物に記された内容ですが、軍記物とは、今で言うところの歴史小説のような物で、すべてが創作では無いでしょうが、かと言って一級史料とは言い難い=「史実をもとにしたフィクションです」みたいなシロモノです。

ここに、光安の息子として登場する秀満や光忠も、実際には光秀が信長の配下となって活躍する時に、その家臣として登場して来ますが、それ以前の事はよくわからず、当然、光安の息子かどうかもわかりませんし、なんなら光安自身が、別人(遠山景行)だった話まであります。

もちろん、光秀が明智家の嫡流だったかどうかも、この時に落城した明智城にいたのかどうかも不明・・・信長らと接触する以前の光秀の事は、ほぼほぼ、上記のような軍記物にしか登場しないのが現状なんです。

ただ、光秀は、無名の状態から、いきなり登場したワリには、すでに一流の兵法を見につけていて、鉄砲を自在に操り、オシャレな京言葉を話し、都会的で世間の状勢にもくわしく、頭も良い(10月18日参照>>)・・・いわゆる即戦力で、
「おい君、彼はいったいどこで?」からの
「ビズリ~チ」d(゜ー゜)状態の登場だったわけで・・・

しかも、その後、中途採用なのにも関わらず、社内で1番最初に独立を勝ち取る(城主になる)スピード出世を果たしておきながらの、いきなりの謀反(本能寺の変)・・・には、誰しもが首をかしげるワケで・・・

てな事で、
彼が最初っからデキる男だったのにはワケがあるんだろう?
いきなりの謀反には、それ相当の理由があるんだろう?

てな疑問が湧くのは当然・・・

で、この二つの謎を解くためには、その明智という苗字から推測して、
はなから文武両道で都会的だったのは明智家の嫡流だから・・・
謀反を起こすのは、明智&土岐氏の再興を夢見ていたから・・・

てな、憶測が生まれ、このような軍記物が登場する事になるのでしょうね。
(*ちなみに土岐惣領家を継いでいた土岐頼芸は道三に追放された後も各地を転々した後、武田の庇護受けていたところに信長の甲州征伐で元家臣の稲葉一鉄に保護され、本能寺の変の時も失明&病気がちではあるもののギリ存命でした)

おそらくは、実際に明智城落城の一件があり、そこに後に登場する光秀の謎の部分を絡ませた感じでしょうか?

もちろん、今回の話が、すべて事実の可能性もありますが・・・そこに明確な答えが出ないのが、歴史のオモシロイところでもあります。
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2018年9月14日 (金)

最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転

天文十五年(1546年)9月14日、細川氏綱が亡き養父の仇を撃つべく細川晴元を攻めた嵯峨の戦いがありました。(細川家内訌)

・・・・・・・・・・

父=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いで応仁の乱を収め、自らの意のままになる将軍を擁立する明応の政変をやってのけた室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(まさもと)・・・

その後継者を争った3人の養子の中で、一歩抜け出て、第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して我が世の春を迎えた細川高国(たかくに)でしたが(5月5日参照>>)、大永六年(1526年)、自らの重臣に謀反の疑いをかけて殺害してしまった事から、その遺族の恨みをかい、土台が揺らぎ始めると(10月23日参照>>)、以前の養子同士の後継者争いで負けた細川澄元(すみもと)の遺児=細川晴元(はるもと)が、このタイミングで畿内へと攻め登り(2月13日参照>>)、大敗した高国は近江(おうみ=滋賀県)へと逃走・・・その後も、何度か刃を交える高国VS晴元でしたが、享禄四年(1531年)6月、高国は京都を奪回する事無く戦いに敗れて自害します。

その遺志を継いで政権奪回を計り、細川晴元と戦ったのは、高国の弟の細川晴国(はるくに)でしたが、彼もまた、晴元に通じた三宅国村(みやけくにむら)の反乱によって天文五年(1536年)8月に命を落とします。

そして、その後を継いだのが高国の養子であった細川氏綱(うじつな)でした。

氏綱は、高国の従兄弟(父の弟の子)に当たる細川尹賢(ただかた)の実子でしたが、高国の嫡男である細川稙国(たねくに)が18歳の若さで病死してしまったため、そのタイミングで、後継者候補として養子に迎え入れられていたのでした。

また、氏綱の実父=尹賢は、高国没落のおりには晴元に同調していたものの、結局、その後に晴元の命によって殺害されてしまうという・・・つまり、氏綱にとっては養父と実父の両方が(もちろん叔父も…)晴元によって死に追いやられた事になるわけで・・・

当然、跡目を継いだ氏綱は、晴元に抵抗すべく、天文十二年(1543年)7月、槇尾山城(まきおやまじょう=大阪府和泉市)に拠って旧臣たちをかき集め、反晴元の狼煙を挙げたのです。

氏綱出兵の報を受けて摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)に出陣した晴元に対し、氏綱勢は(さかい=大阪府堺市)を攻撃しますが、この時には、晴元の重臣=三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)らに敗れて兵を退きました。

しかし、その後、本願寺証如(しょうにょ=證如・第10世)から兵糧や金子の援助を受け、畠山稙長(はたけやまたねなが=河内・紀伊・越中守護)遊佐長教(ゆさながのり=河内国守護代)らと連絡を取り合って態勢を立て直してた氏綱は、河内(かわち=大阪府東部)から大和(やまと=奈良県)へと入り、天文十四年(1545年)5月には、晴元傘下の上野元全(うえのもとたけ)井手城(いでじょう=京都府綴喜郡井手町)に攻撃を仕掛けますが、またもや三好長慶らに阻まれて敗走・・・しかも、この同時期には蔭ながら氏綱を支援してくれていた畠山稙長も病死。

翌々月後の7月には氏綱方の内藤顕勝(ないとうあきかつ)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)関城(せきじょう=京都府京丹後市久美浜町)にて反晴元の兵を挙げますが、これまた長慶らに攻められて開城を余儀なくされます。

なんせ世は、高国政権に代わって、堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)を看板に据えた晴元政権の時代ですから戦う相手は現時点で最強の敵・・・そう簡単には行きません。

しかし、氏綱のヤル気はまだまだ衰えず・・・ようやく、翌・天文十五年(1546年)夏、一矢報いる時が来ます。

三宅城(みやけじょう=大阪府茨木市)の三宅国村を寝返らせ、池田城(いけだじょう=大阪府池田市)池田信正(いけだのぶまさ=久宗)など摂津の有力国衆を味方につけた氏綱勢は、長慶が戦闘準備のために堺に入ったのをキッカケに、摂津や山城(やましろ=京都府南部)方面の各地で一気に兵を挙げ、晴元方の大塚城(おおつかじょう=大阪市天王寺区茶臼山町)を占拠した後、天文十五年(1546年)9月14日には京都嵯峨に展開する晴元勢を攻め立て、晴元本人を丹波神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)にまで退け、芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)も開城させたのです。

Tyausuyama900 大塚城址=茶臼山:池中のこんもりした森が茶臼山…戦国最後の大坂の陣の陣跡として知られる茶臼山ですが、それ以前には大塚城がありました。

これを受けて長慶は、15日に高雄(たかお=京都市右京区)まで出陣して戦いますが、氏綱方の上野元治(うえのもとはる)に敗れ、丹波へと敗走する事に・・・さらに9月19日には、この丹波にも追撃をかけられ、ほうほうのていで何とか越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)まで移動し、 ここで態勢を整えます。

こうして一時的に京都を追われた晴元勢でしたが、11月に入って長慶の弟たち=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った=5月1日参照>>)らが合流するに至って、形勢は一気に逆転します。

翌・天文十六年(1547年)の2月~6月にかけて、総勢2万もの大軍となった晴元方は、三宅城&池田城を落とし、芥川山城を奪回し・・・さらに、晴元を支援する近江の六角定頼(ろっかくさだより)の援軍が加わると、氏綱のために勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう=京都市左京区北白川)まで出張っていた足利義晴も撤退を開始・・・大勝利の晴元は約1年ぶりに京を奪回しました。

・・・て、氏綱さん、結局、負けたんか~い゚゚(´O`)°゚
どうしても勝てない!!もはや万策尽きたか???

と、思いきや、思わぬ所から思わぬ助っ人が登場します。

そう・・・これまで晴元政権の片翼を担っていたはずの三好長慶が、舅の遊佐長教に接触・・・晴元に反旗を翻したのです。

もともと、故郷の阿波(あわ=徳島県)時代から晴元の重臣であった三好家ではありますが、長慶の父=三好元長(みよしもとなが)は、主君=晴元との亀裂の中で無念の死を遂げた(7月17日参照>>)という過去があります。

それでも長慶は、恨む気持ちを抑えて仕えていたにも関わらず、血筋から見れば三好の総帥である長慶よりも、三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟や政長の息子=三好政康(まさやす=宗渭・政勝、三好三人衆の一人)らを、相も変わらず晴元が重用する事に、とうとう堪忍袋の緒が切れちゃった・・・てな感じ??(ま、他にもイロイロあるでしょうが…)

こうして、氏綱側についた長慶が晴元勢とぶつかったのが天文十八年(1549年)6月の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)・・・この戦いで政長を討ち取り大勝利を収めた長慶に対し、一方の晴元は京都を追われ近江へと敗走。

ここに細川氏綱を冠にした三好政権が誕生します。

さらに永禄元年(1558年)6月には、復権をもくろむ若き新将軍(第13代)足利義輝(よしてる=義晴の嫡男)と京都・白川口(北白川付近)にて交戦しますが(6月9日参照>>)、その戦いをキッカケに将軍家と三好家の和睦が成立した事で、義輝は5年ぶりに京都に戻り(11月27日参照>>)、氏綱は晴れて幕府管領の座に就いて細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=細川家の嫡流家)の家督を継ぐ事になるという万々歳な結果に・・・

とは言え、上記の通り、氏綱の勝利&管領就任&家督継承は、どう見ても長慶が味方についてくれたおかげ・・・

なので、この後の実権は完全に長慶が握っており、氏綱は長慶の傀儡(かいらい=あやつり人形)、あるいはお飾りの管領とも言われますが、一方では、この時点での長慶は、未だ細川家に仕える一武将・・・氏綱という看板無くして晴元に抵抗すれば、それは幕府への謀反になるわけで、自らの戦いを正当化&すんなりと晴元を排除するためにも、氏綱の存在は重要だった事でしょう。

ただし、やはり世は戦国・・・ご存じのように、これで事実上の天下人となった三好長慶によって三好政権が畿内を牛耳る事となり、この後の氏綱には政治的出番がないまま、永禄六年(1564年)12月に静かにこの世を去った事で、管領という役職もウヤムヤに・・・なので、氏綱は最後の管領とも言われます。

思えば、建武三年(1336年)に室町幕府初代将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)の補佐として高師直(こうのもろなお)(2月26日参照>>)が就任した執事(しつじ)に始まる管領という役職は、約230年に渡って引き継がれ、この細川氏綱を最後に姿を消す事になったのです。
(上記の通り、最後の方はウヤムヤなので…細川高国の自害を以って管領は消滅したという見方もあります)
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2018年8月13日 (月)

朝倉から若狭を守る~粟屋勝久の国吉籠城戦

永禄十一年(1568年)8月13日、朝倉義景の命を受けた軍勢が若狭に侵攻しました。

・・・・・・・・・・

今回の舞台となる国吉城(くによしじょう=福井県美浜町)は、現在の美浜駅から、少し東へ行った佐柿(さがき)の背後にある城山の山頂から尾根づたいに構築されていた山城です。

『若狭国志』によると、この城は、「かつて国吉(くによし)なる人物が構築した物を天文~弘治年間(1532年~1557年)頃に粟屋勝久(あわやかつひさ)が修復再興して、旧名をそのまま呼称した」とあります。

この粟屋勝久は、若狭(わかさ=福井県西部)守護(しゅご=現在の県知事)であった名門=若狭武田氏の被官ですので、つまりは、この城は、武田が本城とする小浜城(おばまじょう=福井県小浜市:現在の後瀬山城)出城の役割を果たしていた城です。

Asakurayosikage500a そんな中、隣国=越前(えちぜん=福井県東部)では、これまで守護であった斯波(しば)に取って代わり、去る応仁の乱(5月20日参照>>)で功績を挙げた朝倉孝景(あさくらたかかげ)越前守護に就任・・・その息子で、父亡き後に朝倉を継いだ朝倉義景(あさくらよしかげ)は、管領(かんれい=将軍補佐で幕府のNo.2)家で時の権力者である細川晴元(ほそかわはるもと)の娘を娶った事もあって、さらに力をつけて行く事に・・・

しかし一方の若狭武田氏では先代の武田信豊(のぶとよ)と息子で現守護の武田義統(よしずみ)の対立がお家騒動に発展して、力が衰えていくばかり・・・しかも、窮地に立った義統が朝倉に援助を求めた事から、他家の介入を不服に思う粟屋勝久は義統の息子=武田元明(もとあき)を擁立して抵抗します。

この状況・・・時の当主から支援を求められた朝倉義景にとっては、すでに若狭は自身が間接的に支配してるつもりなわけで、それに抵抗する粟屋らはせん滅するのみ・・・

そんな朝倉義景が、最初に若狭に侵攻したのは永禄六年(1563年)・・・この先、6年間に渡って繰り広げられる国吉城の戦いの始まりでした。

8月下旬、義景の命を受けた約1000騎が若狭に侵入すると、これを察した粟屋勝久は一円の地侍たちを即座に招集・・・地侍=約200と百姓=約800が国吉城に集結する中、その一部に弓や鉄砲を持たせて関峠(せきとうげ=福井県敦賀市と同県三方郡美浜町の境)にて防戦するように命じるとともに、残りの者で籠城の準備を開始します。

9月2日の未明、関峠に侵入して来た朝倉勢を待ち伏せていた粟屋方が一斉に迎撃を開始すると、フイを突かれた朝倉勢は大混乱となり、ここで一旦撤退・・・翌日は、朝倉勢も身構えつつ軍を進めますが、今度は城の間近まで引き寄せる作戦の粟屋方。

こうして城の城壁間近まで充分引き寄せたところで、百姓600人が一斉に、用意していた大石や木材を投げ落とします。

『国吉籠城記』によれば、朝倉勢は「大石や古木に当たる者が続出し、当たらない者も、その巻き添えを喰らって、皆、麓へとごろげ落ちて行った」とか・・・見ていた粟屋方は、このタイミングで城から出て追討を開始し、この最初の戦いは国吉城側の大勝利となったのです。

2度目の戦いは翌・永禄七年(1564年)またも夏の終わり・・・
この時の朝倉勢は、昨年のように直接城には向かわず、近くの芳春寺(ほうしゅんじ=福井県三方郡美浜町)に本陣を構えた後、弓や鉄砲を放ちながら尾根づたいに国吉城へと迫って来ますが、これが、なかなか城に当たらない・・・なんせ、国吉城は木々に囲まれた山城ですから・・・

やむなく、今度は反対方向から城へと向かって行きますが、これに対抗する粟屋方は、弓の名手を1組=14~15名の少人数に分けて木々の間に潜ませ、敵を間近まで引き寄せてゲリラ的戦法で対抗・・・まったく城に近づけない朝倉勢はまたしても退きます。

こうして長期戦を視野に入れた朝倉勢は、芳春寺に裏山に付城(つけじろ=攻撃の拠点となる城)芳春寺砦を築いて、ここを拠点に城・・・ではなく、近隣の村々に乱入して稲や野菜など農産物を略奪して自軍の兵糧を確保したのです。

これには地侍や百姓が激怒・・・自ら率先して砦に夜襲をかけて火を放つと同時に、別働隊が朝倉の本陣を襲撃し、またしても朝倉勢を退散させたのです。

このおかげか、翌永禄八年(1565年)は、朝倉勢による国吉城への直接攻撃は無く、8月下旬頃の近隣の村々への青田刈りで城内を枯渇させる心理戦、あるいは付城を修復するにとどまりました。

明けて永禄九年(1566年)8月下旬、もはや夏の恒例行事のように佐田村(さたむら=福井県三方郡美浜町)に押し寄せた朝倉勢は、馳倉山(ちくらやま=福井県三方郡美浜町:狩倉山城?)に、新たな付城を築いて、そこを前線基地として、またまた近隣の村々への略奪や放火を決行・・・しかし、「国吉城の籠城組が出撃!」の知らせを聞くなり、そそくさと城へと逃げ帰ったのだとか・・・

続いて、翌永禄十年(1567年)日本の夏・朝倉の夏・・・やって来ました8月下旬。

と言っても、この8月というのは旧暦なので、実は、その下旬ともなれば、そろそろ稲が実る時期・・・で、今回の侵攻の目的は、あくまで稲を刈る事だったようで、その作業を終えるとさっさと退散したようです。

もちろん、これも、敵の兵糧を失くして自軍の兵糧にするという、プラマイ大きい重要な作戦ではあるのですが・・・

Kuniyosizyounotatakaikankeizu_2
国吉城の戦い・関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなで、またもや!事実上の最終決戦となる永禄十一年(1568年)・・・安定の8月13日

しかし、今回の朝倉は少し違う・・・

国吉城を攻撃せず・・・いや、むしろ避けるように三方方面へ抜け、熊谷直之(くまがいなおゆき)が守る大倉見城(おぐらみじょう=福井県三方上中郡:井崎城)を攻めたのです。

しかし、結局、この大倉見城も落城させる事はできなかったのですが、その代わり(と言っては何ですが…)大倉見城攻撃の勢いのままに小浜へと向かい、粟屋勝久が担ぎあげた武田元明を拉致する事に成功します。

というより、先に書いた通り、すでに若狭を間接支配している気満々の義景から見れば「武田元明を保護した」・・・つまり、一部の抵抗者のために内乱が治まらないので当主を自分のお膝元に置いて、何とか収拾させようという事です。

現に、この後、朝倉の本拠地である一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)朝倉館に移住した武田元明は、再三に渡って粟屋勝久に対し「朝倉に同調するように」と勧告しています。

しかし「例え元明を敵に回しても!」の思いが強い粟屋勝久は、それでも国吉城に籠城を続けます。

再び『国吉籠城記』によれば、この国吉城攻防は、永禄十二年(1569年)にも、何かしらの小競り合いがあったようですが、さすがの国吉籠城組も、こう毎年々々「夏の元気なごあいさつ」をされても、うんざり気味・・・長陣に嫌気がさし始めた元亀元年(1570年)、あの男が登場します。

そう、この2年前に室町幕府第15代将軍=足利義昭を奉じての上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)です(9月7日参照>>)

将軍の名のもと再三に渡って呼び掛けた上洛要請に応じない朝倉義景に対して、信長が攻撃を仕掛けた・・・あの「手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦」(4月26日参照>>)

この時、仲間の若狭国人衆とともに信長のもとにはせ参じた粟屋勝久は、自身の国吉城を信長の宿所として提供したばかりか、朝倉本拠の一乗谷での戦い(8月6日参照>>)でも一番乗りの功名を挙げる大活躍をし、見事、武田元明を救出しています。

その後は、元明の守護復帰は叶わなかったものの、仲間とともに「若狭衆」として、織田政権下で若狭を与えられた重臣=丹羽長秀(にわながひで)の配下に組み込まれ、あの天正九年(1581年)2月の御馬揃え(おんうまそろえ)でも先頭を飾った(2月28日参照>>)と言います。

粟屋勝久自身は、本能寺の変のすぐ後の頃に亡くなったと言われ、当主と仰いでいた武田元明も、その本能寺で明智光秀(あけちみつひで)に味方した事で命を落としますが(10月22日参照>>)、その元明の美人の奥さんが、夫の死後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室になった=京極龍子(きょうごくたつこ=松の丸殿)だった縁もあり、粟屋の子孫たちは秀吉の配下を経て藤堂高虎(とうどうたかとら)に従い・・・江戸時代を生き抜いたようです。

見事な身の振り方で、結果的に戦国を生き残った粟屋勝久・・・国吉城を譲らなかったのは、ただの意地っ張りではなく先見の明があったという事でしょうか。
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