2017年3月 2日 (木)

大河ドラマ「おんな城主 直虎」~信長役に海老蔵さん

 

NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」に、歌舞伎俳優の市川海老蔵さんが織田信長役で出演!

Odanobunaga400a 本日=3月2日のお昼前・・・こんなニュースが飛び込んできました~

不詳わたくし・・・この1日・2日、大河ドラマに関して少々言いたい事があり、感想を書こうか書くまいか、少し悩んでいたんですが・・・あぁ、待ってて良かった~~ヽ(´▽`)/

そう、実は、その言いたいことは、この織田信長がドラマに出るのか?出ないのか?に関しての事・・・

なんせ、もう次回は桶狭間なんですから・・・

本来なら、今川家の方々や徳川家康などを演じる俳優さんたちと同時期に、主役を張れるほどの有名演者さんの名が発表されてもおかしくないほどの重要人物のはずなのに、ここまで発表が無いという事は・・・

もしかして・・・
平成十九年(2007年)の「風林火山」のように、シルエットだけのナレーションスルーになるのか?
もし、そうなら、ちょいと言いたい事を言っちゃうヨ(`ε´)
と、思ってたんですが、

ただ・・・
前回のドラマの中で、桶狭間へ向かう今回の行軍について、井伊家を含む今川方の面々が、あまりにも「当然の勝ちイクサ」とか「負ける気がしない」とかを連呼しはるもんですから、ひょっとして(今川から見ると)織田なんか眼中に無い」=「信長小物感」を出したいがために、あえて、ここまで無視してるのではなかろうか?

と、引っかかったものですから、
もう1週間待ってみよう
桶狭間が過ぎても出てこなかったら言おう

と、思って待ってたら、この「海老蔵さんが織田信長役で…」の発表ですよ~

もちろん、本格的に、重要な役どころとしての出演かどうか?は、作家さん&スタッフさん次第でしょうが、たとえ、セリフのほとんど無い特別出演的なもので、結局は、ほぼナレーションスルーと変わらなかったとしても、主役を張れる俳優さんが演じられる事で、その存在感が違いますからね。

そう・・・
実は、前回が、主役の次郎法師(直虎)の幼馴染の井伊直親(おおなおちか)しの夫婦に「子供ができるの」「できないの」昼ドラさながらの嫁×姑×小姑バトルもどきのドロドロ展開に、丸々一回ぶんを使ってしまった事で、巷では、
「これが大河か?」
「そんなんは朝ドラでやってくれ」

という声も多数聞きました。

かくいう私も、以前の感想(1月12日参照>>)で、韓流時代劇っぽい雰囲気と三角関係のラブストーリー感が気になる」と書いております通り、今回の大河は、女性が主役であるためか?少々、話題がこじんまりしてる感は拭えないないなぁ~と思っている派なのですが、

ただし・・・
この「子供ができるorできない」は、よくよく考えれば、今回の直虎に関しては、かなり重要な事ではあります。

なんせ、この時の井伊家に男子がボコボコ生まれて、後継ぎ選び放題な状況なら、直虎が女だてらに当主になる事は無かったわけですから・・・「おんな城主 直虎」と称する限りは、なかなか子宝に恵まれずに後継ぎ選びに苦労した事を重要事項に持ってくるのもアリかも知れません。

ただ、それより私が気になったのは、前回が、その「子作り」の話題に終始してしまい、今回の桶狭間に至る出兵に関しての事がほとんど語られ無かった事でした。

先にも書いた通り、「当然の勝ちイクサ」や「負ける気がしない」というセリフとともに、「出陣する」という事ばかりで、なぜ出陣するのか?が、主人公の次郎法師が、瀬名姫(後の築山殿)からの手紙から得た知識を、大叔父の南渓(なんけい)和尚に披露する程度でしか語られていませんでした。

もちろん、歴史としては、今回の桶狭間に至る出兵についても、様々な説があって・・・
少し前までは、この時点で、最も天下に近い男であった今川義元(いまがわよしもと)による上洛目的の行軍であったという説が主流でしたが、現在では別の見方も出ています。

私も、以前、このブログで書かせていただいているように、上洛ではなく、「寸前に(今川方へ寝返った武将がいたため)これまでの織田と今川との境界線に変化があったので、あらためて現時点での境界線をハッキリさせる」みたいな感じだったと思っています(2009年5月1日参照>>)

ただ、ドラマは史実がどうこうではなく、作者の方が思うように持って行ってくださって結構ですので、どの説をとるかは自由・・・いや、なんなら独自の考えで以って出兵の理由を語ってくださっても良いのですが、前回のように、「子作り騒動」の合間の伝言めいたよくわからないままの出兵に終始してしまっては非常に残念だな~と思っていたわけで・・・

なんせ、ほとんど史料の無い方が主人公の今年の大河では、数少ない歴史的大事件なわけですからね。

もし、次回の桶狭間の回を以ってしても、信長の登場がなければ、上記のようなウヤムヤな感じになってしまうような予感がしていたのですが・・・

冒頭に書いた通り・・・出はるんですね、信長さん、
それも、海老蔵さんが演じはるのですね~良かったです

やはり、「信長なんか眼中に無い」感を出すための演出だったのですね(◎´∀`)ノ

これで、おそらく、なぜに出兵し、なぜに合戦となり、なぜに死ななければならなかったのかが、ドラマの中で徐々に語られていく事になるのでしょう。

プラス・・・
信長が出る事で、阿部サダヲさん演じる家康と、菜々緒さん演じる瀬名姫の、オモロイ夫婦の掛け合いも、思う存分描かれる方向になるのだとしたら、個人的にウレシイです。

ホント、あのお二人のキャラ設定はおもしろいです。
(逆に、後でロスになるのがコワイ)
これからも、楽しみですね。

関連ページもどうぞ↓
【戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎】>>
【今川義元・出陣の理由は?】>>
【一か八かの桶狭間の戦い】>>
【二つの桶狭間古戦場】>>
【桶狭間で名を挙げた毛利良勝と服部一忠】>>
【桶狭間の戦い~その時、家康は…】>>
【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい】>>
【戦国・群雄割拠の時代の年表】>>
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2017年2月26日 (日)

将軍義輝が朽木へ~三好VS六角の志賀の戦い

 

天文二十年(1551年)2月26日、7日から始まっていた三好VS六角による志賀の戦いが、ほぼ終結しました。

・・・・・・・・・・・

戦国の幕を開けた男とも言われる室町幕府管領(かんれい)細川政元(まさもと)の死後、後継者の座を巡って3人の養子たちが争ったお話は、これまでも何度か書かせていただいておりますが、
【細川政元の暗殺】>>
【船岡山の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>

と、その桂川原の戦いに敗れたために、大永七年(1527年)、近江(おうみ=滋賀県)へと退いたのが、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)と、彼を擁する細川高国(たかくに)

一方、戦いに勝利した事で、(さかい=大阪府堺市)に拠点を置く堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立したのが細川晴元(はるもと=澄元の息子)と、彼らとともに阿波(あわ=徳島県)からやって来た三好元長(みよしもとなが)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟ら。

そして、もともと高国と対立していた事によって晴元らに味方し、山崎城(やまざきじょう=天王山城・宝寺城とも)から京の都を支配する柳本賢治(やなぎもとかたはる)

こうして、滋賀の坂本、京都の山崎、大阪の堺、と、機内に3つの政権保持者が乱立するわけですが、もともと、それぞれが別々の思惑で動き、別々の利害関係を持っているわけで・・・

結局、享禄三年(1530年)に柳本賢治が暗殺され、それキッカケで京へと攻め上った細川高国が、翌享禄四年(1531年)に自害に追い込まれると、事実上の一人勝ちとなった晴元は、どうやら、一連の抗争が細川家当主&幕府管領というトップのイスに座りたかったためのものだったようで・・・堺公方の件をウヤムヤにして将軍=義晴と和睦してしまいます。

そして・・・その件で晴元と対立した三好元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げ、義維も阿波へと逃れました。

Miyosinagayosi500a そこに登場するのが、三好元長の息子で、後に「戦国初の天下人」と言われる事になる三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と、その兄弟たちです。

とは言え、以前、その長慶さんのページ(5月9日参照>>)でもお話させていただいたように、父の元長が亡くなった時は、未だ長慶11歳の頃・・・しかも、上記の通り、この時、中央で政権を握っていたのは晴元なわけで、しばらくの間、長慶は大人しく晴元の配下につき、そこで腕を磨き、手柄をたてる事によって、むしろ細川晴元政権の中でも、1-2を争う重臣となっていくわけです。

そんな中、かの桂川原の戦い以来、晴元ベッタリの細川政長との仲が徐々にややこしくなっていく長慶・・・その原因としては、

以前は、父の元長が管理していた河内(かわち大阪府北部)の荘園を、その死後に政長が管理していたのですが、それを、「そろそろ俺らに反してぇな」と長慶が頼んでも、政長は知らん顔とか・・・とにかく、ことごとく長慶に敵対する政長の討伐を、長慶は何度も晴元に願い出ますが、許す気配が無いどころか、何かと晴元は政長に同調し味方ばかりするのです。

しかも、このようなタイミングで、亡き高国の後継者(養子)細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて、「打倒!晴元」掲げて挙兵・・・かくして長慶は、この氏綱と連携して、晴元政権からの離脱を決意するのです。

これを幕府への謀反と判断する晴元・・・この両者の対立は、機内の諸将たちをも二分させ、「どちらにつくか?」のそれぞれの立場によって、様々な小競り合いを生んでいく事になるのですが、そのあたりも、いずれは、それぞれの日付にてくわしく書かせていただく事として・・・

そんなこんなの天文十八年(1549年)6月、両者が直接対決した江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで長慶が見事勝利(先の5月9日の真ん中あたり参照>>)した事から、負けた晴元勢は、長慶の追撃を恐れて、将軍=義晴を伴って近江の坂本へと避難し、京都の行政は事実上長慶が牛耳る事となります。

ところが、その翌年の天文十九年(1550年)5月、将軍=義晴が、その避難場所の坂本にて病死・・・それを受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)足利義輝(よしてる)第13代室町幕府将軍に就任します。

当然のことながら、未だ15歳の若き将軍の夢は、今や長慶と氏綱の手にある京都を奪回する事・・・この将軍の夢にまず答えたのは、先の江口の戦いの時にも晴元&政長に加勢し、その後も晴元ベッタリな観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)六角定頼(ろっかくさだより)の息子=六角義賢(よしかた=承禎)でした。

新将軍誕生から、わずか2ヶ月後の7月、義賢は京都に向けて兵を出し、三好勢と東山方面で交戦・・・しかし、この時は勝敗が決しなかった事から、翌天文二十年(1551年)2月7日、今度は長慶自らが軍を率いて戦いの準備を整えると同時に、配下の松永長頼(まつながながより=内藤宗勝・松永久秀の弟)に、近江への侵攻を命じたのです。

これを受けた義賢・・・鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市鯰江町)鯰江貞景(なまずえさだかげ)鎌刃城 (かまはじょう=滋賀県米原市) 堀元積(ほりもとつむ)勢多城(せたじょう=滋賀県大津市・瀬田城)山岡景隆(やまおかかげたか)などの配下の諸将300余を以って迎え撃つ事になります。

Siganotatakaiitikankeizu900b
↑志賀の戦い位置関係図…画像をクリックすると、大きいサイズで開きます (このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は地理院地図>>をお借りしました)

こうして始まった三好VS六角の志賀の戦い・・・両者の激戦が、何日も繰り返されたため、2月20日には、将軍=義輝が高島郡の朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと避難する事態になりますが、天文二十年(1551年)2月26日六角勢に押し負けた松永勢が京都へと撤退を開始・・・追う六角勢

翌27日の朝には、追撃して来た六角勢が鹿ヶ谷(ししがだに=京都市左京区)あたりで追い付き、再び激しい戦闘となる中、松永勢の名のある武将が何名か命を落としたところで、六角勢は坂本へと引き返します

しかし、さらに翌2月28日には、京都に侵入して来た六角勢によって、東山一体が焼き払われますが、一方で、反六角氏を表明している北近江京極(きょうごく)浅井(あざい)によって、犬上郡多(たが)が放火されるなどの小競り合いも、三好軍と連携する形で勃発しています。

結果的に、今回の志賀の戦いについては、おおむね六角氏の勝利となりましたが、もちろん、両者の交戦が、これで終わるわけはなく、まもなく、京都の市街戦に突入する事になるのですが、そのお話は、またいずれかの日付にてご紹介させていただきたいと思います。
・・・将軍義輝の今後の動きにも要注意ですしネ(ノ∀`)・゚・。
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2017年2月13日 (月)

畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い

 

大永七年(1527年)2月13日、丹波の柳本賢治らが三好勝長らと連合し、桂川原で細川高国を破る桂川原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

応仁の乱(5月20日参照>>)の東軍の大将として有名な細川勝元(ほそかわかつもと)の息子=細川政元(まさもと)は、室町幕府管領(かんれい)という立場にありながら、現将軍を廃して自らの思い通りになる将軍を擁立するという「明応の政変」なるクーデターをやってのけ、戦国の幕を開けた男とも称されますが、実子がいなかった事から、その死後に、3人の養子の間で後継者争いが勃発します(6月20日参照>>)

関白九条政基(まさもと)の子供=細川澄之(すみゆき)
阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の細川高国(たかくに)

まずは永正八年(1511年)、タッグを組んだ澄元&高国に澄之が追い落とされます(8月24日参照>>)が、その後、周防(すおう=山口県)の戦国大名=大内義興(よしおき)を味方につけた高国が、澄元に味方する三好之長(みよしゆきなが)を追い落とし、阿波へ逃れた澄元は病死・・・勝利した高国は、永正十八年(1521年)に第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して畿内に自らの政権を樹立したのです。

こうして末永く続くかに見えた高国政権でしたが、そのわずか5年後、重臣の香西元盛(こうざいもともり)に謀反の疑いをかけて上意討ちしてしまった事から、元盛の兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)反旗をひるがえしたのです。

これが大永六年(1526年)10月の神尾山城の戦い(10月23日参照>>)・・・

この時、八上城と神尾山城にて籠城する両者を一気に潰そうと考えて、配下の者総動員で兵を挙げた高国でしたが、波多野&柳本の激しい抵抗に逢い、手痛い敗北を喰らってしまいます。

これを見逃さなかったのが・・・いや、むしろ反旗をひるがえした彼らと連絡をとってチャンスをうかがっていたのが、阿波に追われて病死した澄元の息子=細川晴元(はるもと)と、ともに機会を待っていた之長の息子=三好元長(みよし もとなが=長慶の父)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=之長の甥)兄弟らでした。

神尾山城の戦いに敗れ、京都へ逃げ帰った高国勢を追うがの如く、京都方面へとやって来た波多野&柳本勢は、明けて大永七年(1527年)2月11日、京都山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に着陣して、ここで、阿波から到着した晴元勢と合流・・・

その間に、高国傘下の薬師寺国長(やくしじくになが=九郎左衛門尉)らが守る山崎城(やまざきじょう=天王山城・宝寺城とも)を落として占領し、ここを最前線として、高国配下の
芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)
太田城(おおだじょう=大阪府茨木市)
茨木城(いばらきじょう=同茨木市)
安威城(あいじょう=同茨木市)
福井城(ふくいじょう=同茨木市)
三宅城(みやけじょう・みあけじょう=同茨木市)諸城を攻略して行きました。

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山崎城(天王山城)本丸跡付近

一方の高国は、室町幕府の縁をフル活用して、
若狭(わかさ=福井県南部)の守護=武田元光(たけだもとみつ)
をはじめ、
近江(おうみ=滋賀県)守護の六角定頼(ろっかくさだより)
播磨(はりま=兵庫県南西部)備前(びぜん=岡山県東南部)美作(みまさか=岡山県東北部)の守護=赤松晴政(あかまつはるまさ)
尾張(おわり=愛知県西部)の守護=斯波義統(しばよしむね)
など、幕府の有力者に援軍を要請しますが、すぐに行動を起こしてくれたのは若狭の武田くらいだったとか・・・

やがて、2月12日には、阿波から(さかい=大阪府堺市)に上陸した三好勢も晴元&波多野&柳本勢に合流して、桂川の西岸に到着・・・同日、一方の高国勢も桂川に布陣し、その夜には、川を挟んで対峙した両者が矢を射かけ合って、互いをけん制しました。

かくして大永七年(1527年)2月13日戦国序盤の天下分け目・・・世に桂川原(かつらかわら)の戦いと称される大合戦が開始されたのです。

Katuragawaranotatakai この時、桂川の東岸の鳥羽(とば=京都市南区)から鷺の森辺付近まで不気味なほど一直線に主力部隊を布陣させた高国は、本陣となる将軍=義晴の陣を後方の六条に置き、その手前に高国自身の本陣を、武田の軍勢を西七条へと布陣させ、桂川の西岸からやって来る波多野&柳本勢を迎え撃つ作戦でした。

ところが、イザ!開戦となって川を渡って来た波多野&柳本勢は、主力部隊との交戦もそこそこに、一翼を率いる三好勢が、いきなり後詰めの武田勢へと攻めかかったのです。

不意をつかれて乱れる大軍・・・もちろん、集中砲火となっている武田勢はまたたく間に敗戦となり、いきなり80余名が戦死します。

武田の窮地を聞いた高国は、自ら兵を率いて救援に向かいますが、もはや敵方の勢いは止まらず・・・防戦一方の中、精鋭部隊を10余名失ったあげく、雑兵も2~300人が討ち取られてしまったため、やむなく兵を退きあげました。

こうして、波多野&柳本勢側にも多くの戦死者を出す激戦となった桂川原の戦いでしたが、結果は波多野&柳本勢の勝利・・・

大敗した高国は2月14日、将軍=義晴を奉じて、北白川(きたしらかわ=京都市東山区)から間道を抜けて近江は坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと逃れて行ったのです。

その後の京都は、柳本賢治が山崎城にて支配する事となりますが、一方では晴元&三好一派が、義晴の弟=足利義維(よしつな)を擁して堺に居を構え、堺公方(さかいくぼう)として政権を樹立します。

この時の高国の都落ちには、配下の武将はもちろん、上記の通り、現将軍=義晴が同行したほか、一部の公家も下った事から、なんだかんだで政権は握ったままの格好・・・

一方、実質的に京の都を掌握しているのは山崎城の柳本賢治・・・

そして堺に堺公方・・・

と、畿内に三勢力がひしめき合うオカシナ雰囲気に・・・当然の事ながら、もともと一枚岩ではない彼らは、この後、様々な紆余曲折を迎える事になりますが、そのお話は、また、それぞれの出来事の日付けでお話させていただく事にします。
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2017年2月 5日 (日)

若き徳川家康の初陣~三河寺部城の戦い

 

永禄元年(1558年)2月5日、松平元康=後の徳川家康が、今川義元の命を受けて、三河寺部城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・

ご存じ徳川家康(とくがわいえやす)・・・
(ややこしいので、この文中ではずっと家康の名で呼ばせていただきます)

Tokugawaieyasu600 この家康が生まれた頃は、父=松平広忠(まつだいらひろただ)=率いる松平家も、敵対する尾張(愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで=信長の父)駿河(静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)の間で、未だ今川の援護なくしては生き残れないような状態でした(くわしくは3月6日参照>>)

そのため、広忠の嫡男として生まれた家康(幼名は竹千代)は、その同盟の証として、天文十六年(1547年)にわずか6歳で今川への人質として差し出される事になるのですが、なんと、その途中で織田方に奪われ、その身はしばらく織田の人質として暮らす事に・・・(8月2日参照>>)

もちろん、これは息子の命を餌に広忠にコチラ側について貰おうという織田信秀の作戦なわけですが、それでも心揺るがぬ広忠は、ガンとして今川傘下を離れることは無かった・・・

しかし、そんな広忠が、そのわずか2年後に家臣の裏切りによって殺害されてしまった事から、松平家内は揺れます。

なんせ、その後継ぎが織田に人質になってる状況で当主を失ったわけですから・・・その時、松平一族の中には、すでに織田傘下となっている者もチラホラ・・・
「そんなら、このまま俺らも織田に…」
との空気が流れる
中、それをヨシとしなかったのが今川義元のブレーン=今川家軍師の太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)でした。

「今後、今川家が領地拡大を計るおり、松平のい存在は重要」
と考えた雪斎は自ら兵を率いて信秀の息子・織田信広が守る安祥城へと攻め込むみ(11月6日参照>>)信広を生け捕りにして、家康との人質交換を交渉・・・天文十八年(1549年)11月、見事、人質交換が成立し、8歳になっていた家康は駿府(すんぷ=静岡市葵区)へと移ったのでした。

そう、松平家の本拠地である岡崎(愛知県岡崎市)ではなく、今川家の本拠地である駿府・・・まぁ、織田から今川に移っただけで、人質生活は変わらないので・・・

とは言え、ここでちょっと付け加えておきたいのは、この人質の意味について・・・

現代の私たちが思い描く人質という言葉のイメージは、いわゆる誘拐事件や監禁事件なんかの人質を想像し、ついつい、その置かれた状況は、自由を奪われ、常に命の危険に晒されている感じを思い浮かべてしまいますね。

実際、今年の大河ドラマの中でも、主人公の子役ちゃんが、今川の人質になるのをかなり嫌がってました。
(本来は、もし人質を差し出すと決まったあの状況では、子供が嫌がろうが何をしようが、その約束は揺らぐ事はほぼほぼ無いですが、ドラマはエンタメなので…)

しかし、戦国時代の、いわゆる同盟や、その傘下に入るための証として送られる人質は、そんなに過酷な生活を強いられるわけではありません

もちろん、例外もあるしケースバイケースで決められない面もありますが、そもそもは、上記の通り同盟の証ですから、どちらかが裏切らない限りは、ある程度良い待遇で扱ってさしあげるのが武士としての心得だし、裏切ってもいないのに相手側で邪険な扱いされてたら、お互いの信頼関係も成り立たないでしょうしね。

北風と太陽の童話じゃないですが、逆に、その人質くんに超一流の師匠を提供して、キッチリ育てて差し上げたなら、そこに恩も感じるだろうし、ともに生活するうちに情も湧いて来るでしょうし、そうなると成長したあかつきには、心底今川家に尽くす武将となるかも知れないわけですから・・・実際、今川時代の家康の教育係は雪斎自身だったという説も存在します。

現に、同盟の証=人質のような意味で政略結婚しながらも、最期には、夫や嫁ぎ先の家に殉じる戦国の姫もいたわけですし(もちろん、家康のお母さんのように、同盟崩れたら離縁なんて例もありますが…)、昨年の大河の主役=真田幸村(さなだゆきむら=信繁)だって豊臣秀吉(とよとみひでよし)の馬廻りとして、ちゃんと扱われてしましたしね。

ただ、領主たるもの常に独立は夢見るでしょうし、あくまで自分の領地で生活してるわけでは無いので行動も制限させるでしょうから、どんだけ待遇が良かったとしても、結局は肩身が狭い=精神的苦痛があるかも知れませんし、それこそ当事者同士の様々がケースが存在する事でしょうが・・・

ともあれ、そんなこんなで多感な少年時代を今川家で過ごした家康・・・

天文二十四年(1555年)、駿府にて、義元自らが烏帽子親(えぼしおや=元服の際の親代わりで本当の親子に近い関係)となって元服した家康は、義元の一字を賜って松平元信(もとのぶ=後に元康と改名)と名乗ります。

それと同時に、、今川家の重臣=関口親永(せきぐちちかなが=瀬名義広)の娘で、今川義元の姪にあたる瀬名姫(せなひめ=後の築山殿)(8月29日参照>>)を娶る事になるのですが・・・

今年の大河ドラマでも、そして先日このブログ(1月12日参照>>)でもお話したように、この瀬名姫のお母さんが、大河の主人公である井伊直虎(いいなおとら)大叔母(祖父の妹)にあたる女性で、もともと、今川家と井伊家の同盟の証として駿府に送られ、いち時は義元の側室だったのを後に重臣の関口親永が正室として迎えて、生まれたのが瀬名姫だとされます。

で、関口の正室として迎えるにあたって、名目上、義元の妹(義妹)という事にしての輿入れであるので、瀬名姫は義元の姪って事になるわけですが・・・

この流れが、
現代の私たち
(視聴者)には理解しがたい?
あるいは、
物語の流れ上、今川家を悪にしておかないといけない?
などなどがあってなのか?

先日の大河ドラマでは、10歳前後の姫に向かって、世話係の侍女が
佐名さま(瀬名姫の母の名)ボロ雑巾のように捨てられたのでございます」
的な暴言をのたまう展開wwになったのでしょうが、

上記の人質のところでもお話しましたように、同盟の証として送られて来た姫を、そんな扱いしたらお互いの同盟関係が破たんしてしまいます。

もちろん、後の家康さんのように、気に入った女性を連れて来て側室にする武将は、当時もいたと思いますが、同じ側室でも、好きで側に置いている女性と、同盟の証として送られて来た女性を、いっしょくたにしてはいけません。
:ドラマは「今川憎し」で話が進んで行きますので、創作物語としてはアリですが…)

そもそも、以前書かせていただいたように、恋愛結婚は身分の低い者がする「はしたない行為」とされていたこの時代・・・まして武家のお姫様なら、格上の家との交渉相手として自らが向かうなら本望でしょう(4月22日参照>>)

また、現代人には理解しがたいですが、「貴人の側にいた女性を配下の臣に譲る」というのは昔からある事で、これは殿様が家臣を信頼している証であり、家臣にとっては、むしろ名誉な事(【平清盛の御落胤説】参照>>)・・・まして、義理の妹という名目なのですから、関口親永は義元の義弟とになるわけで、さらに親密度は増すわけで・・・

なんせ、同じ戦国には、自ら、家臣の押しかけ女房となって龍造寺家を守った慶誾尼(けいぎんに)さん(3月1日参照>>)なるツワモノもいるわけで、それが、血で血を洗う戦国の世に「自らの血脈で家を守る」という姫たちの誇り高き使命でもあるのです。

で、そんな関口親永の娘である瀬名姫を家康が・・・て事は、家康も義元と姻戚関係になるわけですし、もちろん、義父の関口家とも、果ては井伊家ともつながるわけで・・・これ、今川家にとってはかなりの大盤振る舞いだと思います。

今川義元が、いかに松平家を&家康を大事に思っていたか!・・・まぁ、もちろん、これも、家康は心の中で、「大きなお世話」「こんなんしていらん」と思っていたかも知れませんけど、本来は、未だ弱小の松平家にとっては、このうえなき喜ばしい事だと思います(大河ドラマではたぶん、今川家の横暴みたいに描かれるんでしょうけどww)

と、まぁ、今川家の下ではありますが、こうして、元服もした、妻も娶った・・・となると、武士として迎えるのは初陣(ういじん)です。

もともと、三河の領地を巡って松平との交戦を続けていたものの、この頃は、その三河に進出してきていた今川の傘下となっていた寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の城主=鈴木日向守(すずきひゅうがのかみ=重辰)が、ここに来て織田へと通じたため、義元が家康に、この寺部城を命じたのが、この戦いの発端とされます。

この時、一旦、岡崎城へと戻った家康は、そこで合戦の準備を整え、自らの岡崎衆を率いて出陣・・・これまで、当主の家康がいないまま、今川軍の先鋒として、数々の合戦に駆り出されていた岡崎衆の皆々は、
「ようやく殿のもとで働ける!」
と、大いに喜んだといいます。

しかも、家康は
「寺部を落とした後に、周辺の諸城から後詰めを喰らえば、コチラのピンチとなる事は明白・・・まずは周辺を落としてしまおう」
と、家臣の進言も聞かずに、鈴木に同調する周辺の広瀬城(ひろせじょう)拳母城(こもろじょう=七州城)梅坪城(うめうぼじょう)伊保城(いぼじょう)など(いずれも愛知県豊田市周辺)への攻撃を早々に開始し、その後に寺部城へと向かいますが、これがなかなかの猛将ぶりだったようで、初めて主君の雄姿を見た松平家の老臣たちは皆、
清康(家康の祖父)の再来だ~~」
とばかりに、涙また涙の状態だったのだとか・・・

かくして永禄元年(1558年)2月5日、寺部城を囲んだ家康軍は、寺部城の外曲輪を押し破った後、本来の目的である寺部城を見事に落とし、17歳の若き主君=家康の初陣を飾ったのでした。

この大活躍を大いに喜んだ義元は、自身の太刀を家康に与えたほか、旧領のうち300貫文の地を返還したのです。

「痛みに耐えて、よく頑張った!感動した!」

この後、家康が事実上独立する事になる、あの桶狭間の戦い(5月12日参照>>)まで、わずか2年・・・

この先の歴史を知っている者の個人的な思いではありますが・・・
大喜びでの大盤振る舞いっぷりの義元さんが、人がイイと言うか・・・少々お気の毒な気が・・・
これでも、今年の大河ドラマでは悪く描かれるのかなぁ~(ρ_;)ちょっとウルウル・・・
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2017年1月12日 (木)

大河ドラマ『おんな城主 直虎』~井伊家の家老・小野政直とは?

始まりましたね~大河ドラマ『おんな城主 直虎』・・・

いやはや・・・
それにしても、番組の感想を書く系のネット掲示板がオモシロイの何のってww

昨年の『真田丸』が「オモシロイ」という方からは
「メリハリなくて全然つまらない」
「ダラダラと見る気失せる」

との意見が飛び交い、
昨年の『真田丸』が「ツマラナカッタ」という方からは
「昨年は初回からコントを見せられてウンザリしたけど今年はやっと大河が見られた」
「トンデモな女性ばかりだった昨年から、やっとちゃんとした戦国女性が出て来た」

と、見事に分かれた感想の数々に、
思わずクスリ(*≧m≦*)

そもそも、万人がオモシロイと思うなんて事はあり得ないですから・・・ホント、作り手さんは大変ですね~

私は・・・ハイ、初回を見た限りでは、良かったと思いますよ~

私は、昨年のようなぶっ飛んだ感じも「挑戦しはったな~」てな感じでオモシロイと思いますし、今年のような、しずしずと話が進んで行く感じも好きです。

ちょっと韓流時代劇っぽい雰囲気なのと、三角関係のラブストーリー感は気になりはしますが、何年か前の『姫たちの妄想』のように、「途中で書く人代わった?」って思うほどの変貌ぶりが無い限りは、なかなか期待できると思います。

『寛政重修家譜』にある井伊谷(いいのや)八幡の神主さんが井戸の中から男の子を見つける話や、家老の小野政直(おのまさなお=道高)の讒言で井伊直満(いいなおみつ)が殺されて、息子の亀之丞(かめのじょう)くんピ~ンチ!も出て来ましたしね。

・・・にしても、1回目で、そんなに史実をやっちゃって大丈夫なのか?
残ってる史実は、どんどん少なくなるゾ!
と、ちと心配になってしまいますが、そこは秀逸な創作で埋めていただく事を期待しつつ・・・

ところで、この初回からヒールな香りをプンプン撒き散らしている吹越満さん演じる小野政直って何者?

今年の大河は次郎法師(井伊直虎)が主役なので小野政直さんは、完全なる敵役・・・かくいう私も、未だ大河の主役になるなど、米粒ほども思っていなかった6年前に書かせていただいた【戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎】>>のページでは、やはり、直虎さんが主役なので、小野政直を、駿河(するが=静岡県東部)今川義(いまがわよしもと)に告げ口した「チクリ政直」と呼んでました(*´v゚*)ゞ

とは言え、ドラマでは、あの倍返し半沢さんの大和田常務のように、ヒール役が憎たらしければ憎たらしいほど、物語は面白くなるので、その点では怪しい雰囲気を醸し出す吹越さんの演技に大いに期待ですが、実は、お察しの通り、史実とされる小野政直さんのイメージは、そこまで悪人では無いようです。

もちろん、義元へのチクリから直満が死んで亀之丞が逃げて・・・のくだりは史実のようですが、そもそも、この頃の井伊家は、上り調子真っただ中の今川の傘下という立場ですから・・・

Iinaotorakeizu 井伊直虎の家系図→(クリックで大きく)

もうすでに、大河の予備知識としてご存じの方も多かろうと思いますが、この井伊家が今川の傘下になるにあたっては、ドラマの主人公=次郎法師の曽祖父である井伊直平(なおひら)が、自身の娘を人質として今川に差し出して臣従していて、その娘さんが義元の妹(養妹・義元の側室だったとも)という名目で、今川の家臣である関口義広(せきぐちよしひろ=親永)の奥さんとなり、その二人の間に生まれたのが、後の徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)の正室になる築山殿(つきやまどの=瀬名姫)(築山殿については8月29日参照>>)だとされています。

直平が自らの娘を今川への人質として差し出して傘下になったのがいつ頃かは不明ですが、おそらくは家康と同い年くらい、もしくは1~2歳年上だったと思われる築山殿の生まれた年から考えると、だいたい天文六年か七年頃?(1538年頃?)・・・

とにもかくにも、もし、ドラマのように、直平と井伊家にとっては、弱小であるが故の不本意かつ悔しさ満載の臣従であったとしても、今川の傘下となった以上は、とりあえず表向きはその指示に従い、協力して行かねばならない立場であったはずですから、そこの家老が今川と仲良くするのは、むしろ自然な事です。

一方、その頃の今川家では、世に河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる北条氏との争いが勃発中でした。

ご存じのように、もともとは自らの姉(もしくは妹)が側室となっていた今川義忠(よしただ=義元の祖父)に協力して盛り上げたのは、北条氏の初代となる北条早雲(ほうじょうそうううん=当時は伊勢新九郎)(10月11日参照>>)でしたから、本来、北条と今川の仲は、悪くは無かったはず・・・同盟も組んでましたしね。

しかし、その後、今川氏輝(うじてる=義元の兄)の時代になって、今川家は、両者ともに敵とみなしていた武田信虎(たけだのぶとら=信玄の父)と和睦したばかりか、その息子の義元が信虎の娘=定恵院(じょうけいいん)を正室に迎えて更なる同盟の強化を計った事に怒った北条が、駿河へと侵攻して来たのが河東一乱・・・河東というのは富士川より東の地域という意味です。

ところが、そんな北条氏に井伊が協力していたとおぼしき記録があります。

それは、3月29日付けの北条氏綱(うじつな=早雲の息子)による三河(みかわ=愛知県東部)の国人領主=奥平貞昌(おくだいらさだまさ)宛ての手紙・・・
「遠州本意之上…(略)で始まる手紙には、
「遠江(とおとうみ=静岡県大井川西部)が思い通りになったんで、ご褒美あげるね~なので、今後は井伊と談合して早々に行動を起こす事が大事やで~」
とあります。

当時は、この奥平も今川の傘下でしたから、ともに今川配下の奥平と井伊を寝返らせて、西の彼らと東の北条で今川を挟み、孤立させようという作戦なわけです。

残念ながら、この手紙に年号が書いて無いので、いつの手紙がはっきりしないのですが・・・
この河東一乱が天文五年(1536年)頃と天文十四年(1545年)の2度激しくなる時期がある中で、差出人の氏綱が天文十年(1541年)に亡くなっている事から(奥平貞昌の死亡は不明)、当然、手紙はそれ以前という事になります。

もちろん、この手紙の中の「井伊」が井伊家内の誰なのか?という事は不明ですが、この河東一乱に合わせて、今川ではなく、北条に通じ、北条に味方しようとしていた人物が井伊家内にいた事は確か・・・

そして、今回の大河ドラマの第1回にあった今川義元による直満殺害事件(実際には弟の直義もともに殺害)があったのは天文十三年・・・関連を匂わせる史料は今のところ無いので、あくまで時期だけの推察ですが、

当時の井伊家内には、今川派と北条派がいて、おそらくは、北条側についた者が、この河東一乱の連動して動きを見せた・・・

となると、直満兄弟は、それに関連して義元に殺害された可能性は無きにもあらずで、ならば、ここでの、家老=小野政直の義元への告げ口も、「個人的に嫌いな直満の息子が当主となる事に反対」だけでは無い「井伊家を守る」という意味もあったように思えますね。

ところで、少しネタバレにはなりますが、史実として語られている事なので、今後ドラマで描かれるであろう、ちと先のお話をしますが、今回の第1回で、父の直満を殺され、追われる立場となって逃走する息子の亀之丞くんが、この井伊谷に戻って来れるのは、かの小野政直が死んだ後の12年後・・・

つまり、家老が当主である井伊直盛(なおもり=直虎の父)を飛び越えて、直接、義元に讒言したうえに、そのせいで、叔父の直満を殺されても、何もできなかった当主=直盛がおり、しかも、その後、身を隠した亀之丞が戻って来れるのは、その家老が死んでから・・・って事になるわけで、どんだけ家老が権力持っとんねん!と思ってしまいますが、

実は、この直満事件の10日ほど前に、全国を旅して廻っていた連歌師の宗牧(そうぼく)なる人物が、この井伊谷を訪れている事が記録されているのですが、
その『東国紀行』によれば
(略)…抑留に及ばずとて、使僧して樽肴贈らる、
馬上盞の体なり、
初夜の過に和泉守所へ落ち着きたり、 
次郎殿やがて光儀、明日一座の懇望、又
太山にも やどや桜の 雪の山…
(略)
…十四日、引馬まで急いだ、次郎殿自身、
其外同名中、都田といふ所まで送りゆく
、又盃…
(略)

かねてより約束していた事もあって、かなり手前の場所まで井伊家の者が出迎えに来てくれていた中
「そんなに長居はしませんから…と伝えると、使いの僧にお酒や肴を持って来させてくれたんで、馬に乗りながら飲み食いしてるうちに和泉守(いずみのかみ=小野政直の事)の屋敷に到着したんやけど、それから、そこに直盛さんがやって来て、「明日、連歌会を開いてほしいわぁ」と言うので、♪太山にも~…って歌を詠んだんや~(略)
14日
(12月14日)は引馬(ひくま=静岡県浜松市)まで急いだんやけど、直盛さん自らが仲間を連れて都田まで見送りに来てくれて、そこでまた1杯引っかけたわ」
と・・・

これって、客人が滞在するのが家老の屋敷で、帰る客人を見送りに行くのが領主???
何か、逆のような気がしないでもないけど、それだけ小野政直が力を持っていたって事なのか??

実は、江戸時代になって封建制度が確立されるまでは、主従の力関係が微妙な事がよくあったのです。

南北朝時代を描いた『太平記』巻三十七の有名な言葉に
「君は舟、臣は水、水能(よく)浮船、
水又覆船也
(なり)
臣能
(よく)保君、臣又傾君といへり」
というのがあります。

これは
「主君は船で家臣は水…水は、船を浮かべる事もできるが、同時に、船を転覆させる事もできる」
つまり、家臣が主君を倒す事もあるよ!って事ですが、この時代の戦国武将の中には、この一文を引用して、堂々と主君と渡り合った家臣もいました。

そもそも戦国の世という物自体が下剋上ドップリな世界・・・上杉謙信(うえすぎけんしん)の父=長尾為景(ながおためかげ)は、上司であった守護の上杉を倒して(8月7日参照>>)のし上がった、もともとは守護代だったわけですし、あの織田信長(おだのぶなが)の父ちゃん(2014年1月17日参照>>)もそうです。

って事は、井伊家だって、例え今川の傘下にあったとしても、北条と通じてもOK・・・ただし、それを実行する前に、事が露見すれば、そりゃ、ヤラれますわな。。。

おそらくは、小野政直には今川という強い後ろ盾がある事により、当時は主君に匹敵するような力を持っていて、当然、彼は、これからも今川の後押しを以って、未だ弱小の井伊家を維持して行こうと考えていた・・・

しかし一方では、今川とは手を切って、独立したいと思っていた一派もいて、おそらくは、前者も後者も、ともに井伊家の未来の事を考えての立ち位置だったはずで、この段階では、どちらが正義で、どちらが悪かは、わからない状況という事になります。

とは言え、今回の大河の主役である次郎法師=直虎は後者の立場・・・しかも、結果的に井伊家は残り、いや、むしろ大藩として江戸時代を生き抜くのですから、当然、ドラマでは前者の小野政直はヒール役を演じる事になります。

後々、またまた対立する事になるであろう、この小野政直の息子を演じるのが、これまた、悪役もこなせる魅力的な高橋一生さんという役者さんなので、益々楽しみですね。

期待してます!
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2016年11月24日 (木)

キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防

永禄三年(1560年)11月24日、大和攻略を開始した松永久秀が沢城を落としました。

・・・・・・・・・・・

先日=11月18日の日付けでご紹介させていただいたに松永久秀(まつながひさひで)よる大和(やまと=奈良県)攻略戦です。

そのページに書かせていただいたように(11月18日参照>>)
三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)右筆(うひつ=秘書のような家臣)として頭角を現した松永久秀は、やがて三好家でも指折りの重臣となり、永禄二年(1559年)に大和への侵攻を開始して、奈良盆地に点在した諸城を攻略していくのですが・・・

その中の一つが、今回の大和(やまと=奈良県)宇陀(うだ)にあった沢城(さわじょう=奈良県宇陀市榛原区)の攻略・・・

Dscn1146a600 ←かつて初瀬街道から伊勢本街道の要所として栄えた榛原宿の面影を残す旧旅籠=あぶらや(宇陀市榛原)

沢城は、現在の宇陀市街&近鉄榛原(はいばら)から南へ少しの伊那佐山(いなさやま)の支峰=天然の要害に囲まれた場所に築かれた山城で、興福寺(こうふくじ)荘園の現地での管理実務を任されていた「宇陀三将」の一人=(さわ)の城でした。

南北朝時代から戦国期にかけては、国境を接する伊勢(いせ=三重県)守護の北畠(きたばたけ)に属しながらも、一揆や紛争で近隣との抗争を重ねつつ、実力で荘園を支配する国人領主となり、この永禄の頃には沢房満(さわふさみつ:房満の没年が不明なので、もしかしたら源六郎かも?)が城主を勤めていたところに、上記の久秀の登場です。

永禄三年(1560年)11月24日、配下の摂津(せっつ=大阪府北部)を率いて大挙押し寄せた松永勢を目の当たりにして、不毛な戦いを避けたであろう房満は、久秀と話し合いの末、沢城を明け渡して、自身は伊賀へと退去したと言います。

こうして、久秀の手に渡った沢城に、新しい城主として配置されたのが、当時は、久秀の家臣だった高山友照(たかやまともてる)・・・そう、キリシタン大名として有名な高山右近重友(うこんしげとも)お父さんです。

なので、今回の沢城・・・実は、その高山右近がキリシタンになった=洗礼を受けた場所として、けっこう知られた城だったりします。

それは、友照が沢城主となって3年が過ぎた永禄六年(1563年)の事・・・

去る天文十八年(1549年)に、あのがフランシスコ・ザビエルが来日して布教活動を始めて(12月3日参照>>)以来、西は九州から徐々に東へと浸透しつつあったキリスト教は、永禄五年(1562年)には、宣教師が「堺でのクリスマスパーティは大盛況だったよ!」と本国への手紙で報告するくらいになっていたようで(12月24日参照>>)

すでに京都にも教会を開き、上り調子の一途をたどるキリスト教に対して、当然、おもしろくないのは、おそらく信者を持っていかれたであろう僧侶たち・・・

で、ここに来て、イエズス会の中心宣教師であったガスパル・ヴィレラが堺を訪問することを知った堺の僧たちは、同じく上り調子で熱心な仏教徒だった久秀に
「宣教師なんか追放したっておくなはれ!」
とばかりに働きかけたのです。

しかし、そこは後にあの織田信長(おだのぶなが)が憧れるほど(12月26日参照>>)センスの良さと先見性のある久秀・・・頭ごなしに反対するのではなく、ちゃんと取り調べをして、何か不審な点が無いかどうか?吟味してから結論を出す事に・・・

かくして、久秀の学問の師で明経博士(みょうぎょうはかせ=明経道という儒学の教授)であった清原枝賢(きよはらのえだかた・しげかた)という人物が、ヴィレラの代理として奈良にやって来た日本人イエズス会員=ロレンソ了斎(りょうさい)対決する事となります。

個人的には、「取り調べ」というよりは、後に信長の命で行われる『安土宗論(あづちしゅうろん)(5月27日参照>>)のような感じだったのかな?と想像してますが・・・

で、その時に、第三者的な冷静な立場で両者の宗論を見て、適格な審査ができるようにと同席をしたのが、久秀の腹心であった結城忠正(ゆうき ただまさ)と高山友照だったのです。

なんせ、儒学の教授VSキリスト教ドップリの日本人・・・おそらくは侃侃諤諤(かんかんがくがく)一触即発(いっしょくそくはつ)の雰囲気になるであろう事が予想されますから・・・現に「ヴィレラにもしもの事があってはいけない」からこそ、その代理のロレンソが現地入りしたわけですし・・・

ところがドッコイ、フタを開けてみたら、なんと、ロレンソ側の論破&論破の嵐!!・・・いや、実際には、何日にも渡って議論は行われているし、その場で入信したわけでは無いので、「論破」というよりは「徐々に感化されていった」という感じですかね?

そう、実は、このあと高山友照はもちろん、同席した結城忠正も・・・そして、清原枝賢までもがキリスト教に入信しちゃうんです。

清原枝賢なんか・・・後に、父の影響を受けた娘さん=いと(洗礼名=マリア)が、侍女として仕えていたあの細川ガラシャ(玉)洗礼を授けるという大役をこなす(7月17日参照>>)ほどのドップリぶりになってしまうんですから・・・

とにもかくにも、その宗論の日から、友照は何度もヴィレラに手紙を書き、再びロレンソに沢城に来てもらってキリスト教の講義を開いたりして、結果的に、友照以下、家族全員や主だった家臣たちもが、ロレンソから洗礼を受ける事になります。

もちろん、この時、11~12歳の少年だった息子の高山右近も・・・やがて永禄八年(1565年)頃には、城内に礼拝堂が建てられ、その頃の友照(洗礼名=ダリオ)は、朝夕礼拝にあけくれる日々を送っていたようです。

とは言え、当然ですが、沢城を追われた形の沢房満も、このままおとなしくしているはずはなく、沢城の奪回を目指して度々の合戦を仕掛けていたのですが・・・

そんな中、宣教師ルイス・フロイス『日本史』によると・・・

ある時、友照が毎日、朝夕に礼拝堂の窓辺に立つ習慣がある事を知った一人の農民が、伊賀に潜伏中の房満に言います。

「窓辺に立っているところを鉄砲で狙えば、1発でイケまっせ!」
と・・・

2~3000の兵を率いた房満が城の周辺に待機し、それとは別の先鋒=鉄砲隊が窓辺の友照を襲撃した後、その勢いのまま城門を開いた先鋒の誘導にて本隊が一気に城へと侵入・・・という計画を立てて実行に移そうとしますが、

実は、その農民君には、すでにキリスト教に入信していた友人がいて、その計画は沢城に筒抜け・・・間もなく、その農民は沢城に呼び出されて処刑されたのだとか・・・

しかし世は戦国、沢城の高山家も永遠ではなく・・・
やがて永禄十年(1567年)、それこそ先日書かせていただいた松永久秀VS筒井順慶(つついじゅんけい)筒井城攻防戦(再び11月18日参照>>)、ヤバイ感じになった久秀が、もはや沢城どころでは無い状態になっていたところをうまく突いて、房満が見事!沢城を奪回するのです。

そんなこんなの翌年=永禄十一年(1568年)、ご存じのように織田信長(おだのぶなが)足利義昭(よしあき=室町幕府15代将軍)(10月18日参照>>)を奉じて上洛して来ますが、この時に、松永久秀が信長傘下を表明した事で、友照は、室町幕府の幕臣=和田惟政(わだこれまさ)の配下に据えられて、信長が三好家から奪った芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)にはに入る事になります。

その後、その惟政が亡くなると、今度は荒木村重(あらきむらしげ)の下に付けられるものの、例の村重の謀反(12月16日参照>>)で、父=友照は村重に、息子=右近は信長に着いた事で、それ以降の高山家は右近にバトンタッチして、織田政権から豊臣秀吉(とよとみひでよし)の時代を生き抜いて行く(1月5日参照>>)事になります。

一方の沢房満は・・・
沢城奪回後も、やはり北畠に属しつつ東方への領地拡大を計っていたようですが、コチラにも信長さんの侵攻が・・・

永禄十二年(1569年)の大河内城(おおかわちじょう・三重県松坂市)での戦いにて北畠に勝利した信長は、和睦の条件として、自らの次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)を当主=北畠具教(きたばたけとものり)の養子として送り込んで、この名門家を継がせた後、天正四年(1576年)の三瀬の変によって北畠を滅亡に追い込んだのです(11月25日参照>>)

この時、房満の弟は信長に反発したものの、房満自身は参加しなかったため天正五年(1577年)に赦免され、その後は、北畠を継いだ信雄の配下となって織田に組み込まれて生き残りますが、この頃から、おそらくは房満の息子であろう沢源六郎(さわげんろくろう)が沢氏の中心人物となって行くので、コチラも父子バトンタッチして織田から秀吉の時代を生き抜いていったと思われます。

こうして、一連の流れを見てみると、もともとは奈良を巡って群雄割拠していた松永久秀も筒井順慶も、高山友照も沢房満も、紆余曲折&時間の前後はあるにせよ、結果的には、全員が信長の傘下となるわけで・・・

そのやり方のすべてに、賛同はできかねる力ワザではあるものの、「天下を取る」「乱世を終わらせる」という事は、こういう事なのかなぁ?~とつくづく・・・

とは言え、そんな信長さんも志半ばで本能寺に倒れ、乱世の終わりは、もう少し先ではありますが・・・
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2016年11月18日 (金)

松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防戦

永禄八年(1565年)11月18日、松永久秀が筒井氏の大和筒井城を攻略・・・追われた筒井順慶は布施城へ入りました。

・・・・・・・・

その出自や経歴は諸説あれど・・・
畿内で一大勢力を誇った三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として歴史上に登場する松永久秀(まつながひさひで)・・・

しかし、その三好家では、
永禄四年(1561年)に長慶の3番目の弟=一存(そごうかずまさ・かずなが)を失った(5月1日参照>>)のを皮切りに、
続く、永禄五年(1562年)には、長慶のすぐ下の弟=義賢(よしかた・実休が、
その翌年=永禄六年(1563年)には長慶の息子の三好義興(よしおき=長慶の長男)を、
さらにその翌年=永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入ったを長慶自らの勘違いで手にかけてしまい、その後悔の念からか?その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は廃人のようになってこの世を去ってしまう(5月9日参照>>)のです。

そんな不幸続きの三好家と反比例するように、家内で大きな力を持っていく久秀・・・なので、「これら一連の死に、久秀が関与している」との話もありますが、そこのところは、確固たる証拠も無いので何とも言えません。

とにもかくにも、ここで、当時の天下人とも言える位置にいた長慶と、それに続く弟や息子までも失った三好家では、長慶の甥=三好義継(よしつぐ)を当主に迎え、未だ若き主君を支える補佐役=三好三人衆三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)の3人を中心に盛りたてて行く事になりました。

もちろん、そこには、今は亡き長慶の信頼を一身に受け、京の都の政治のほとんどを任されていた久秀の姿も・・・

Tutuizyunkei600a 一方の筒井順慶(つついじゅんけい)は、大和(やまと=奈良県)の国衆として天文年間(1532年~54年)頃に全盛期を迎えた筒井順昭(じゅんしょう)の息子として 天文十八年(1549年)に生まれますが、その父がわずか2歳の時に病死・・・以来、越智(おち)十市(とおち・とおいち)(9月21日=井戸城の戦い参照>>)などの国衆が割拠する中を、一族や宿老に守られながら領国経営をしていく事になりますが、そこに「待った!」をかけたのが、上記の松永久秀だったのです。

永禄二年(1559年)に大和への侵攻を開始した久秀は、奈良盆地に点在した諸城を攻略しつつ(11月24日参照>>)、同年には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城する力ワザを見せつける一方で、手中に治めた地の寺社には献金もシッカリ納めて反発を防ぎ、筒井氏と同様の立場だった十市氏も味方につけ、順慶の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を孤立させて行きました。

そんなこんなの永禄八年(1565年)5月、かの三好三人衆と久秀らが結託して決行したのが、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)・・・そう、こうして「自分たちの思い通りになる将軍=阿波御所の足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立しよう」って事なのですが、

Matunagahisahide600a なんと!そんな将軍暗殺から、わずか半年ほどの同・永禄八年(1565年)11月18日久秀が筒井城を攻撃をするのです。

と・・・まぁ、ここで「なんと!」とか「わずか半年ほどの…」という個人的な感想を入れたのにはワケがあります。

この時、久秀からの急襲を受けた順慶は、抵抗する間もなく筒井城を出て、筒井方の布施(ふせ)の居城=布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと慌ただしく落ちるのですが、その理由は「援軍が期待できなかったから…」

援軍が期待できない以上、ここは無理に抵抗してダメージを受けるより、アッサリと撤退して時期を待つ・・・という事なのですが、その当日に期待できなかった援軍というのが三好三人衆からの援軍だったのです。

そう、わずか半年前に、ともに将軍暗殺を決行したはずの三人衆と久秀は、早くも決裂し、三人衆は順慶と同盟を結んでいたんです。
(なので久秀は将軍暗殺を容認していない=三人衆に協力してないもあります)

そんな三人衆が、この筒井城攻撃の2日前の11月16日、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)精鋭部隊を率いて攻撃・・・すでに、三人衆と順慶が同盟を結んだ事を知っていた久秀は、「未だ同盟者の足並みそろわぬ時に、電光石火で筒井城を攻めれば、飯盛山城に夢中の三人衆は援軍を送れない」と踏んで、筒井城を急襲したのでした。

かくして久秀の手に落ちた筒井城は、位置的には信貴山城の東で多聞城の南・・・ここを要所と考える久秀は、この城に大量の兵糧を搬入して備え、奪回すべく度々のゲリラ戦を挑む筒井勢との対立を深めて行ったのです。

こうして年が明けた永禄九年(1566年)、風向きが変わります。

この年の5月、久秀は紀伊(きい=和歌山県)河内(かわち=大阪府東部・南部)の守護=畠山高政(はたけやまたかまさ)らとともに、例の三好家の後を継いだ義継のいる(さかい=大阪府堺市)を攻めるべく、本拠の多聞城を後にしました。

これをチャンスと見た順慶は、明らかに手薄となった筒井城を攻撃・・・周囲に築かれていた松永方の陣所を次々と撃ち破ります。

さらに幸いな事に、堺での戦いの形勢は松永不利で、これ以上戦っても、もはや無益な戦いである事を悟った久秀が、堺の茶人たちに間に入ってもらって和睦交渉を進めている様子・・・ちまり、すぐに奈良には戻れない~

で、そんなこんなの6月8日、順慶は筒井城を奪回するのです。

以後、順慶+三好と久秀は、奈良周辺を舞台に戦いを繰り返す事になりますが(その中には大仏殿を焼いてしまう、あの東大寺の戦いもありますが、諸説アリのこの話題は、また、いずれかの日にくわしく書かせていただきたいと思います)、そんな中で、少々押され気味だった久秀が復活するのが、翌・永禄十一年(1568年)9月・・・

そうです・・・ご存じ織田信長(おだのぶなが)の登場です。

先の将軍暗殺事件で兄=義輝を暗殺された時、からくも興福寺から脱出して(7月28日参照>>)越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)のもとに身を寄せていた足利義昭(よしあき)が、自らを担いでくれる武将を探していた(10月4日参照>>)中で、名乗りを挙げた信長とともに、南近江(滋賀県南部)の名門=六角承禎(じょうてい・義堅)を破り(9月13日参照>>)三好三人衆を蹴散らして(9月29日参照>>)、永禄十一年(1568年)9月に上洛を果たし、翌月、義昭が第15代室町幕府将軍に就任する(10月18日参照>>)という、あの一件です。

以前にも書きましたが、この時、信長が陣を置いた芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)には「信長傘下に入りたくてたまらない人」がワンサカ訪れ、「門前エ出仕ノ馬車市ヲナシ、耳目ヲ驚カス有様ナリ」(『足利季世記』)と描写されるほどに行列のできる陣所だったワケで・・・

で、そこにスス~~ッと入りこむのが久秀・・・この頃、順慶は未だ19か20の若者でしたが、久秀はもう60歳近いはずですから、大浪小波かき分け、酸いも甘いも味わったオッチャンは、いち早く流行に乗って信長のもとへ馳せ参じ、甥っ子を人質に差し出して臣従を誓い、信長から、「手柄次第切取ヘシ」のお墨付きと2万の援軍の約束を取り付けたのです。

その後も、なんとか信長に抵抗を続ける三人衆でしたが、それも風前の灯・・・と言うか、もはや信長に必死の三好三人衆は、順慶に援軍を出す余裕も無いわけで・・・

そんな風にあおられて、大和の国衆も、どんどん信長傘下を表明していき、順慶は孤立無援となってしまいます。

そんな順慶に引導を渡すべく久秀が攻撃を仕掛けたのは永禄十一年(1568年)10月6日・・・イザとなれば信長からの援軍も期待できる松永勢の士気は高く、鬨(とき)の声高く押し寄せて城下に放火し、ことごとく焼き払いました。

なんとか命がけの抵抗する順慶主従でしたが、次第に味方の数も減って行き、やむなく、攻撃開始から2日後の10月8日夕刻、順慶は城を落ち福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して峠を越えて行ったのでした。

こうして、幾度にも及んだ筒井城攻防戦は終結しましたが、ご存じのように松永久秀VS筒井順慶の戦いが終わったわけではありません。

今後は、順慶も久秀も、そして三好三人衆も、信長VS石山本願寺という大きな波に呑まれつつ、それぞれの道を歩んで行く事になります。

久秀=【乱世の梟雄・久秀~運命の日爆死!】
順慶=【筒井順慶・36歳…無念の死】
三好三人衆=【信長VS三好の野田福島の戦い】
もご参照くださいm(_ _)m
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2016年11月 4日 (金)

安宅水軍の衰退を招いた内紛~安宅一乱

 

享禄三年(1530年)11月4日、室町時代に一大勢力を誇った安宅水軍が衰退するキッカケとなった安宅一乱が勃発しました。

・・・・・・・・・

日置川(ひきがわ=和歌山県西牟婁郡付近)の河口近くの安宅荘を拠点とする安宅(あたぎ)は、清和源氏の流れを汲み鎌倉初期に活躍した小笠原長清(おがさわらながきよ)の末裔で、阿波(あわ=徳島県)から、この地に移り住んだと言います。

この家系伝承の真偽のほどは定かではありませんが、室町時代初め頃には海上交通に長けた一団として歴史上に登場し、近隣の周参見(すさみ)名跡を継いだり、近隣の国人領主らと姻戚関係を結んだりして徐々に力をつけて行く中、戦国乱世真っただ中に当主となった安宅実俊(あたぎさねとし)が、宗教的にも、そして熊野水軍という一大勢力にも強い威力を持つ那智山別当家(べっとう=熊野三山を統轄)実方院(じっぽういん)娘を正室に迎えた事で、この戦国時代の安宅家は、安宅本城(あたぎほんじょう=和歌山県西牟婁郡白浜町)を中心に、紀伊水道の制海権を握る一大水軍として隆盛を極めていたのです。

しかし・・・
そんなこんなの大永六年(1526年)、その実俊が病死した時、その後を継ぐべき息子=安宅安定(やすさだ)が未だ幼かった事から、実俊の弟である安宅定俊(さだとし)が、
「ほな、安定が15歳になったら当主の座を変換するんで、とりあえず、それまでは僕が家督を預かっときますわ~」
と、この先モメる臭いプンプンの展開に・・・

『安宅一乱記』によると・・・
(軍記物なのですべてを鵜呑みにはできませんが、なんだかんだで争乱については最もくわしいので、とりあえず『安宅一乱記』を参照させていただきます)

案の定・・・
安定が15歳になった享禄三年(1530年)正月、定俊の居城である八幡山城やわたやまじょう・はちまんやまじょう=同西牟婁郡白浜町)で行われた新年会に出席した安定づきの家老が、
「ぼちぼち変換してもろても…」
と、家督変換の話を持ち掛けたところ、激怒した定俊によって家老は殺害されてしまったのです。

この一報を安宅本城近くの下屋敷で聞いた安定たち・・・早速、大野五郎なる者を大将に、120ほどの兵を率いて八幡山城へと攻めかけますが、城中では500余りの城兵が応戦して強固な守りを見せたため、多勢に無勢で何ともならず、あえなく撤退となってしまいます。

ところが、逆に、このムードに勢いづいた八幡山城の城兵は、そのまま安定を討つ勢いで下屋敷へ押し寄せました。

またたく間に下屋敷は炎に包まれて焼け落ち、「あわや!」という場面に陥りましたが、安定とその母は、影武者が時間稼ぎをしている間に、なんとか周参見(すさみ=和歌山県すさみ町)方面へと落ちのびたのです。

その後は、小競り合いはあるものの定俊当主の態勢が揺るぐことなく続きますが、一方の安定母子も、母の実家である那智山実方院に身を隠しつつ、挽回の時を待っていました。

Ooatakebunecc  ←戦国水軍の大安宅船(肥前名護屋城図屏風・名護屋城博物館蔵)…ちにみに安宅船の安宅と安宅氏の安宅が関係があるか?無いか?は不明です。

 .

その年の11月・・・
安宅譜代の家臣に、那智山の衆徒、近隣の土豪(どごう=地侍)に加え、淡路島(あわじしま=兵庫県)や阿波からの援軍も得た安定は、水軍を要して海上から八幡城を包囲します。

対する定俊も、阿波からの援軍を日置浜(同西牟婁郡白浜町)に陣取らせ、もちろん八幡山城の城兵も含め、城の北方にあたる富田坂や、安宅本城の固めとして構築された勝山城(かつやまじょう=同西牟婁郡白浜町)、東南の周参見方面などの各砦に、それぞれ人員を配置します。

かくして享禄三年(1530年)11月4日早朝、各地で一斉に戦闘が開始されました。

まずは富田坂での戦闘を優勢に進めた安定勢は、周参見方面でも多数の定俊勢を討ち取り、日置浜でも押せ押せムード・・・形勢不利と見た定俊勢の兵は、まもなく逃走を開始し、皆一斉に、勝山城へと逃げ込みます。

が、ここは安定勢も深追いせず、勝山城よりも、本拠の八幡城を優先して包囲します。

そこで定俊側は、各地に展開していた兵を引き揚げて八幡山城の防衛に専念させて抵抗し、なかなかの堅固ぶりを発揮しますが、安定側が八幡山城の唯一の山続きである北方の鳶が森(とびがもり)に火を放ったところ、おりからの強風にあおられて、火はたちまち燃え広がり、逃げ場を失った定俊は、妻&次男を道連れに自刃・・・配下の多くが炎の中で討死し、この年の1月から始まった戦いは、この11月4日の一日限りの戦闘にて、安定の勝利として幕を閉じました。

とは言え、この後の八幡山城では怪異な事が相次いで起こり、その原因として、定俊の怨霊の噂がたったため、あらためて定俊を丁重に葬り、神社を造営して、毎年の命日には祭礼を行ったとの事・・・

いやいや、それは怨霊ではなく、定俊の息子の仕業かも・・・

そう、上記の通り、定俊とともに亡くなったのは妻と次男・・・この戦闘の時、勝山城にて一軍の将となっていた嫡男の安次丸は生き残っていました。

もちろん、勝ったとは言え、勝山城をそのままにしておけない安定は、早くも11月10日、勝山城を攻撃したのを皮切りに、12月にも、翌年の1月にも合戦が展開され、対する安次丸もなかなかの抵抗を見せ・・・と、両者はこの後、何度も戦いをくり返す事になります。

実はこれが命取り・・・
本日の戦いの様子でも書かせていただいたように、両者は、この戦闘において近隣の国人や土豪に援軍を要請しています。

そうです・・・なかなか決着がつかない、この両者の戦いは、やがて援軍同士がぶつかりあったりするようになり、いつしか、そんな彼らの勢いが、当の安宅氏をしのぐようになってしまうのです。

日高郡で勢力を持っていた玉置(たまき)新宮堀内(ほりうち)などなど・・・

先に書いた通り、『安宅一乱記』は軍記物なので脚色も多く、なかなかに信用できませんが、おそらく、この時期に安宅家内での大きな内紛があり、それによって安宅氏自身が衰退してしまった事は確か・・・

なんせ、この数十年後の信長&秀吉の時代に熊野水軍を掌握しているのは、今回の安宅一乱のドサクサで那智山実方院の城に攻め入った堀内氏虎(ほりうちうじとら)から家督を引き継いだ息子=堀内氏善(うじよし)なのですから・・・

こうして、身内のイザコザ=「安宅一乱(あたぎいちらん)から衰退の道をたどり始めた安宅氏は、その後、畿内を追われて淡路島に退いていたのを、あの三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男)養子に迎えて家名を存続させて盛り返し、さらにその冬康の息子の安宅信康(のぶやす)安宅水軍を率いて織田信長(おだのぶなが)VS石山本願寺+兵糧を運びこむ毛利水軍第一次木津川口の戦い(7月13日参照>>)に参戦したりしていますが、やはり、全盛期の安宅水軍の勢いを取り戻すまでには至らなかったように感じますね。

少し道を間違えば一気に衰退・・・戦国の世渡りは、実に難しいものです。
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2016年10月23日 (日)

細川高国政権が崩れるキッカケとなった神尾山城の戦い

大永六年(1526年)10月23日、細川高国が反旗を翻した波多野稙通・柳本賢治討伐のため、細川尹賢を大将として軍勢を丹波へ向かわせました。

・・・・・・・・・・

細川高国(ほそかわたかくに)は、細川一門である備中(びっちゅう=岡山県)細川家の細川政春(まさはる)の息子で、応仁の乱(5月20日参照>>)の東軍の大将として有名な細川勝元(かつもと)の息子の細川政元(まさもと)の養子となっていました。

義父である政元という人は、将軍を補佐する管領(かんれい)であるにも関わらず、先の将軍を排して自らの思いのままになる将軍を擁立するという「明応の政変」・・・言うなれば、戦国の幕を開けるクーデターをやってのけた人であり、室町幕府管領として一時代を築いた人でありますが、

実子がいなかった事から、3人の男子を養子にする事に・・・

Hosokawasumimoto400a 予想通り、ともに養子であった関白九条政基(まさもと)の子供=澄之(すみゆき)と、阿波(あわ=徳島県)細川家の義春の子供=澄元(すみもと)との間で後継者争いが勃発!!(8月24日【船岡山の戦い】参照>>)

てか、そもそも義父・政元の死そのものが、彼らの後継者争い絡みによる暗殺なのです(6月20日参照>>)

Hosokawatakakuni600a

とは言え、高国は、当初は澄元に味方して、ともに澄之を倒しているんですが、案の定というか、やっぱりというか・・・結局は、澄元とも対立し、高国は、周防(すおう=山口県)の戦国大名・大内義興(よしおき)を味方につけて、澄元&彼に味方する三好之長(みよしゆきなが)を追い落とした後、その澄元が阿波で病死した事で、事実上の一人勝ちとなった永正十八年(1521年)、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して、自らの政権を確立したのです。

大永四年(1524年)には、息子の稙国(たねくに)に管領職を譲り、自らは剃髪(ていはつ)して、隠居という立場から実権を握り我が世の春・・・と言いたいところですが、残念ながら、その息子が間もなく病死してしまい、あわただしく管領に復帰しています。

そんなこんなの大永六年(1526年)7月事件は起こります。

高国の従兄弟にあたる細川尹賢ほそかわ ただかた)が、高国の重臣である香西元盛(こうざいもともり)について、ある事無い事(実際には無い事&無い事=まるっと嘘だったようですが)吹き込んだところ、それを信じた高国が「元盛が敵対勢力=澄元らに内通している」と思いこみ、充分な取り調べもせぬまま、彼を上意討ちにしてしまったのです。

これに怒ったのが、元盛の二人の兄=波多野稙通(はたのたねみち)柳本賢治(やなぎもとかたはる)でした。

事件が起こった時、たまたま京都にいた波多野と柳本・・・高国への挙兵を決意した二人は、「嵯峨(さが)にて夜川狩りをする」と称し、夜の闇に紛れて宿所を脱出し、密かに、領国である丹波(たんば=兵庫県)へと戻り、それぞれの居城、波多野は八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)、柳本は神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)に入って籠城の構えを見せたのです。

その後、黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井五郎(あかいごろう=時家?)を味方につけた波多野と柳本は、事件から3ヶ月後の10月、いよいよ挙兵します

驚いた高国は、大永六年(1526年)10月23日、かの細川尹賢を大将に、池田弾正(いけだだんじょう)瓦林修理亮(かわらばやししゅりのすけ=河原林修理進?)内藤国貞(ないとうくにさだ)薬師寺九郎左衛門(やくしじくろうざえもん=国長)らといった面々、合計80余組からなる軍勢を丹波へと派遣したのです。

すでに1部の先発隊は10月18日から神尾山城への攻撃を開始するも、20日には城から撃って出た柳本の兵が、高国方の一部の陣所を攻撃して20ほどの首を挙げるなど、一進一退の攻防戦が続きますが、そんなさ中の10月30日、黒井城の赤井が3000の兵を率いて登場し、神尾山城を包囲する高国勢に背後から襲いかかりました。

自身が波多野の八上城へと向かっていた途中に、この情報を聞いた尹賢は、早速、軍のうちの13組を、赤井への対策に当たらせましたが、赤井の兵を200余り討ったものの、自らの兵も300以上失う激戦となり、神尾山城への包囲も破られてしまいます。

そこに神尾山城の城兵が反撃を加え、形勢不利となった高国軍は崩れるように敗退し、兵の多くが京都方面へと我先に逃走し始めました。

その後、「神尾山城攻め失敗」の一報を聞いた尹賢は、八上城へ向かっていた足を止めてUターン・・・自らも京都方面へと戻るのでした。

一方、未だ激戦続く神尾山城周辺では、戦況を見た池田弾正が柳本側へと寝返り、敗走する高国軍に矢を射かけます。

実は、この池田弾正・・・阿波にいた、亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)と、すでに通じていたのです。

そうとは知らず、いきなりの奇襲を受けた形になった高国軍は、ますます崩れてしまい、もはや軍の形を成さない状態で京都へ逃げ帰るという、まさに惨敗の中の惨敗となってしまいました。

とは言え、池田弾正が、ここで敗走する兵を深追いする事はありませんでした。

そうです。
波多野と柳本が主君の高国から離反したのは弟の一件が主たる要因かも知れませんが、池田弾正の離反は晴元との内通・・・この後に、高国VS晴元の「因縁の直接対決が展開するのを待っていた?」という事なるのでしょう。

そして、管領職の後継者として雌雄を決すべく、その晴元とともに阿波からやって来るのが、これまた、今は亡き三好之長の孫(もしくは息子)三好元長(みよし もとなが=長慶の父)、同じく之長の甥っ子である三好勝長&政長(かつなが&まさなが)兄弟たち・・・

そんな両者がぶつかるのが「桂川原の戦い(かつらかわらのたたかい)・・・という事になるのですが、そのお話は、戦いのあった2月13日【畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い】のページでどうぞ>>
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2016年9月21日 (水)

筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い

永正元年(1504年)9月21日、井戸城を攻められた大和の筒井順賢らが、古市で古市澄胤父子と戦いました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じのように、大和(やまと=奈良県)の国は、戦国の終盤こそ、六角承禎(じょうてい・義堅)(9月13日参照>>)三好三人衆(9月28日参照>>)を蹴散らして上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)によって少し落ち着き(3月28日:【蘭奢待・削り取り事件】参照>>)、後に反旗をひるがえした松永久秀(まつながひさひで)(10月3日参照>>)が攻められた後に信長の傘下となった筒井順慶(つついじゅんけい)(4月22日参照>>)が治める事になって、やっとこさ平定された感が出て来ますが、それまでは、土地に根付いた地侍や国人・土豪(どごう)などが、時には入り乱れ、時は団結して・・・を繰り返していた場所でした。

そうなった原因の一つは、室町幕府政権下の三管領家(斯波氏・細川氏・畠山氏)の一つで、この大和の守護だった畠山氏・・・この畠山氏が内部抗争の末に、あの応仁の乱畠山政長(東軍)VS畠山義就(よしなり・西軍)に分かれ、その大乱の口火を切る御霊合戦(1月17日参照>>)をおっぱじめた事で、畠山氏の配下として働いてした大和の国人衆らは、どちらにつくのか?でお互いをけん制し合う混乱状態となっていたわけです。

京都での戦いが地方へと伝わっていく中、やがて応仁の乱も、東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)と西軍大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)(3月18日参照>>)両巨頭の死を以って終焉の色濃くなり、なんとなくの世代交代を迎える中での大和の国人の代表格は、畠山尚順(ひさのぶ・ ひさより=政長の息子)筒井順賢(つついじゅんけん)十市遠治(とおち・とおいちとおはる)、一方の畠山義豊(よしとよ=義就の息子)越智家栄(おちいえひで)古市澄胤(ふるいちちょういん)といった面々となってきました。

とは言え、やはり、ここに来ても、それぞれの派閥による小競り合いが続いていたのですが、そんな中で、大和から、そう遠く離れていない山城(やましろ=京都府南部)の地で起こった山城の国一揆(12月11日参照>>)を、明応二年(1493年)に鎮圧した事から、大和の約半分を支配するほどに大出世した澄胤は、華麗な古市城(ふるいちじょう=奈良市古市町)を築き、大和の国人衆の中でも一歩前へ出た雰囲気・・・

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奈良市古市町付近…古市城は現在の奈良市立東市小学校の位置にあったとか

そんな澄胤は、茶の湯村田珠光(むらたじゅこう=「わび茶」の創始者)に習い、謡曲尺八にも優れ、連歌もたしなみ、銘石(めいせき)の鑑定などもこなす文化人だったようで、古市城内には、茶室や見事な庭園などを設えて、度々茶会などを開いており、多くの文化人が集う古市城は、文化サロン的な要素を持った城だったとの事・・・

そんなこんなの永正元年(1504年)9月21日澄胤は、井戸氏の重要拠点である井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)を攻めたのです。

この井戸氏は、後に、井戸茶碗(いどちゃわん=韓国李朝時代に作られた高麗茶碗)にその名を残す井戸覚弘(いどさとひろ)から、江戸時代を通じて旗本として生き残った事で、その家譜(かふ)では、藤原式家の流れを汲む藤原忠文(ふじわらのただぶみ)の末裔という事になってますが、どうやら実際には、もともとから大和に根づいていた土豪で、その時々に有力武将や有力国人を渡り歩きながら、しだいに力をつけて来ていた大和国人衆の一員であったようなのですが・・・

Idozyoufuruitizyou660 ★位置関係図→
(背景の地図は地理院地図>>からお借りしました)

そう・・・この頃の井戸氏は筒井氏の配下となっていて、まさに、この日は、筒井順賢の弟である筒井順興(じゅんこう)が、この井戸城に詰めていて、それを狙っての攻撃だったのです。
(ちなみに、この順興さんは筒井順慶のお祖父ちゃんです)

この日、平尾山と呼ばれる小さな山の頂上に築かれた井戸城を一気に攻め落とすべく押し寄せた古市の軍勢でしたが、必死に防ぐ筒井&井戸勢の守りは固く、なかなか落ちないばかりか、夕刻になって、逆に城から撃って出て来た筒井勢によって、古市勢は、あっけなく押し戻されてしまいます。

しかも、その勢いのまま押され続けた古市勢は、やがて一ヶ所が崩れ始めると、その乱れがどんどん広がり、結局、古市の兵たちは我先に敗走してしまうのですが、勢い止まらぬ筒井勢は、そのまま追尾し、澄胤が逃げ戻った古市城を攻め立てました。

しばらくの間、何とか抗戦を続けていた澄胤でしたが、その勢いに圧倒され、やむなく城を捨てて敗走・・・古市城は、筒井勢の手に落ちました。

さらに、勢い収まらぬ筒井勢は、古市の砦や統治する山村など、周辺を容赦なく焼き払ったと言います。

ちなみに、今回の戦いでは生き残った澄胤でしたが、この4年後の永正五年(1508年)に起こった河内高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市古市)攻めに失敗して自害する事となります。

信長の力によって、この地が穏やかになるのは、まだまだ70年も先の事(11月18日【筒井城攻防戦】参照>>)・・・もうしばらくの間、奈良の乱世は続く事となります。
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