2018年2月15日 (木)

猿掛城攻防~庄為資と毛利元就と三村家親と…

永禄二年(1559年)2月15日、三村家親から救援要請を受けた毛利元就猿掛城を攻撃すべく、備中伊原に布陣しました。

・・・・・・・・・・

備中(びっちゅう=岡山県西部)猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)は標高230mの猿掛山に築かれた山城で、山の北側には東西に流れる小田川があり、それと並行するように走る旧山陽道を抑えた要所にありました。

その歴史は古く、平安時代の終わり頃には、ここに領地を与えられた庄家長(しょういえなが=荘家長)によって、館や城郭らしき物が構築されていたと見え、以来、鎌倉時代には幕府御家人として、南北朝には南朝の北畠の配下として活躍した(しょう=荘)が、この城を拠点として来ました。

やがて、戦国の天文の頃の城主であった庄為資(しょうためすけ=荘為資)は、天文二年(1533年)4月、備中中南部にあった松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)を攻めます。

この松山城は、一昨年の大河ドラマ「真田丸」のオープニングにも使用され、現存12天守の一つとして重要文化財に指定され、竹田城に勝るとも劣らない雲海に浮かぶ「天空の城」として有名な、あの松山城ですが・・・(現存する建物は江戸時代の物です)

ここには、源氏の支流で室町幕府にて奉公衆として足利(あしかが)氏に仕えた上野(うえの)が、備中の守護だった細川守護代として入城し、この当時は上野頼氏(うえのよりうじ)が城主を務めていましたが、今や守護もへったくれも無い世は下剋上・・・ご多分に洩れず、当時、西国(中国地方)を二分していた周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)と、出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)氏との権力闘争に翻弄される状況だったのです。

そんな中、尼子氏の支援を受けた庄為資が、この松山城を襲撃したというワケですが、この戦いで頼氏は討死・・・まもなく、頼氏に代わって為資が松山城の城主となり、自身の猿掛城には一族の穂井田実近(ほいださねちか=庄実近)を城代に据えたのです。

この勢いにより、庄氏は下道(かとう=岡山県倉敷市&総社市の一部)小田(おだ=同笠岡市付近)上房(じょうぼう=高梁市の高梁川以東)の三郡を治める備中最大の勢力となりました。

Mourimotonari600 しかし、ここに大内×尼子の間を縫って登場して来るのが、西国第三の男毛利元就(もうりもとなり)です。

はじめは、彼もまた、大内と尼子に翻弄される小さな国人領主の一人だった元就でしたが、天文十年(1541年)に、尼子傘下から大内傘下に鞍替えした時、この元就を潰すべく、当主=尼子晴久(あまごはるひさ=当時は尼子詮久)が元就本拠の郡山城(こおりやまじょう=広島県安芸高田市・吉田郡山城)を攻めるのですが、大内の援軍を得ていた郡山城は落ちる事無く・・・逆に尼子軍は大将を討ち取られ、痛い敗北を喫してしまうのです(1月13日参照>>)

もちろん、この時点での元就は、上記の通り、未だ大内の支援を受けている状態ですが、そんな中で、天文十三年(1543年)には、安芸竹原(たけはら=広島県竹原市)の国人領主=小早川興景(こばやかわおきかげ)の死去にともなって、三男の隆景(たかかげ)養子に送りこんで竹原小早川家を掌握し、その6年後には小早川の本家にあたる沼田(ぬまた・ぬた=広島県広島市)を領する小早川繁平(しげひら)を出家に追い込んで、コチラも隆景に乗っ取らせます。

また、これと同時進行で、妹の旦那=吉川興経(きっかわおきつね)の養子に次男の元春(もとはる)を送り込んでおいて後、天文十九年(1550年)には、その興経父子を殺害して吉川家も乗っ取ってしまうのです(9月27日参照>>)

こうして力をつけて来た元就は、天文二十年(1551年)に大内氏の重臣=陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)がクーデターを起こして、事実上大内の実権を握ってしまった(8月27日参照>>)事をキッカケに大内に反旗を翻した石見(いわみ・島根県)吉見正頼(よしみまさより)に同調して、彼も大内氏を離反・・・

天文二十三年(1554年)には折敷畑(おしきばた)の戦いで勝利し(9月15日参照>>)、翌・弘治元年(1555年)には、あの戦国三大奇襲の一つ=厳島(いつくしま)の戦い(10月1日参照>>)で晴賢を葬り去り(10月5日参照>>)、2年後の弘治三年(1557年)には、大内の後継者であった大内義長(よしなが・当時は大友晴房=大内義隆の甥で大友宗麟の弟)自刃に追い込んで(4月3日参照>>)西国の名門=大内氏を滅亡させていたのです。

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猿掛城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄二年(1559年)2月上旬、上り調子の毛利に支援を求めつつ、備中に侵攻して来たのが星田(ほしだ=岡山県井原市美星町)を本拠としていた成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)でした。

三村家親は、元就がここまで大きくは無い、かなり早いうちから、すでに毛利の味方となっていたらしく、両者の信頼関係は非常に篤い物だったようで・・・家親からの援軍要請を受けた元就は、早速、嫡男の隆元(たかもと)以下、元春・隆景の3人の息子を従えて安芸を発ち、永禄二年(1559年)2月15日、毛利本隊は伊原(いばら=岡山県井原市)に、元春は矢掛(やがけ=岡山県矢掛町)に、それぞれ陣を敷いたのです。

家親は、この毛利軍を先鋒として、まずは、城下の民家に放火して回って猿掛城へと迫って来ます。

しかし、城主=庄為資はまったくひるまず、逆に三村の軍勢を少数で追い散らしたタイミングを見計らい、この間に別働隊を動かして元春の本陣にも迫りました。

このため、家親の軍勢は大いに乱れますが、一方の元春の軍勢は、まったく動じず・・・この元春の威勢に恐れをなした為資勢は、やむなく退却したとか・・・(ま、『毛利家文書』内の話やからね~チョイと元春age?

その後、約50日ほどに渡って小競り合いが繰り返されますが、元就の毛利本隊は持久戦を視野に入れて力を温存する作戦をとったため、合戦の主体となったのは家親の軍勢と元春の軍勢・・・両者は、そんな小競り合いを繰り返しつつも、この間に猿掛城を包囲し、やがて決戦となる春を迎えます。

4月3日、家親が1500余騎で先陣、元春が2000余騎の軍勢で後陣の態勢で以って、再び井原へと陣を進めますが、この動きを察知した為資は、敵が攻撃を始める前日に夜襲をかけて蹴散らすべく準備に入ります。

しかし、この夜襲計画の情報をいち早く手に入れた家親は、二段構えの伏兵を置いて態勢を整え、自らは1000余の軍勢を率いて敵の本陣に斬り込む作戦に出ます。

ところが、この三村軍の動きも為資側はキャッチ・・・夜襲を待ち伏せされてはマズイとばかりに、夜襲のための兵を早々に退き始めます。

この動きを見た家親・・・「このまま退かせるわけにはいかぬ」とばかりに、自ら先陣を切って敵の追撃に乗り出しますが、この時の大きな(とき)の声により、隠れていた伏兵も一気に動き、全軍で以って敵の追撃を開始したのです。

このため、静かに退くはずだった為資の軍勢は大混乱・・・為資自身が、わずかの側近とともに猿掛城へとやっとこさ戻るの精一杯だったというほどの大敗となってしまいました。

しかも、この直後、元就が来島水軍(くるしますいぐん=村上水軍)を使って瀬戸内の海上を封鎖して他の同盟者との連絡を絶たせて為資を孤立させた事により、ついに為資は降伏し、猿掛城を開城したのでした。

結果、三村家親の長男=元祐(もとすけ)が為資の養子になって庄元資(しょうもとすけ=・荘元祐・穂井田元祐)と名乗って庄氏を継ぎ、猿掛城主となりました。

さらに三村方は、猿掛落城後も庄為資の息子=庄高資(しょうたかすけ=荘高資)が守っていた、かの備中松山城を永禄四年(1561年)と永禄九年(1566年)の2回に渡って攻め、最終的に松山城を攻略・・・高資を討ち取って本来の庄氏は壊滅し、代わって三村が備中の覇者となるのです。

しかし、世は戦国・・・実は、上記の松山城攻めの間に、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下にあった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客により、家親は暗殺されています。

それを受けて三村家の後を継いだのは、この松山城攻めにも、父=家親とともに参加していた次男=元親(もとちか)なのですが・・・

ご承知の通り、この後、浦上からの独立を狙う宇喜多と、毛利&三村・・・この微妙なトライアングルが更なる展開を見せるのですが、そのお話は、また、いずれかの戦いの日付にて、ご紹介させていただきたいと思います(たぶん3月くらいかと…m(_ _)m)
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2018年1月10日 (水)

細川管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い

永正十七年(1520年)1月10日、細川高国摂津越水城を包囲する細川澄元三好之長勢に決戦を挑みました。

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あの応仁の乱に終止符を打ち乱世の梟雄と呼ばれた管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)・・・

この政元に実子がいなかった事から、その死後に3人の養子
関白・九条政基(まさもと)の子・澄之(すみゆき)
阿波(徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)
備中(岡山県)細川家の高国(たかくに)
の間で繰り広げられた後継者争奪戦で、

Hosokawatakakuni600aはじめは、澄元と高国が組んで澄之を追い落としたものの、澄之がいなくなると、今度は澄元と高国の争いに・・・

永正八年(1511年)8月、京都の船岡山(京都市)でぶつかった両者(8月24日参照>>)・・・この船岡山の戦いで勝利した高国は事実上京都を制し、負けた澄元は、摂津(せっつ=大阪府北部)に逃亡した後、領国の阿波に戻って、態勢を立て直す事に・・・

Hosokawasumimoto400a やがて永正十六年(1519年)、秋頃になって、態勢を立て直した澄元が、四国勢を率いて、まもなく上洛するとの噂が立ち始めます。

この情報を知った池田城(いけだじょう=大阪府池田市)池田信正(いけだのぶまさ)は、父=貞正が命を落とした永正五年(1508年)の敗戦以来、奪われたままになっている領地を回復せんと、いち早く澄元に連絡をつけて田中城(たなかじょう=兵庫県三田市)に籠城し、
「その時には先陣を務めますので、ここを足がかりに上洛を…」
と、洛中へ入る拠点としての場所を提供します。

もちろん、高国方も、コレにすばやく反応・・・瓦林正頼(かわらばやしまさより=政頼)はじめとする高国配下の者が、すばやく集結し、永正十六年(1519年)10月22日夜、突如として田中城を攻撃したのです。

しかし、この時、敵方に内応者がいたため瓦林勢の動きは、池田側に筒抜け・・・しかも、この攻撃を察知して事前準備も万全にしていた事や、当日たまたま雨が降って、攻めるに困難を極めた事から、ほどなく瓦林勢は大敗し、兵は夜陰に紛れて敗走して行き、正頼自身は居城の腰水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)に籠城しました。

勝利した池田信正は、恩賞により弾正忠(だんじょうのちゅう=警察)に任ぜられ、豊島郡(てしまぐん=大阪府池田市周辺)を領地として与えられました。

こうして上洛の足がかりを得た澄元は、その10月のうちに、三好之長(みよしゆきなが)をはじめ、1万とも2万とも言われる四国勢を率いて兵庫(ひょうご)に上陸し、神呪寺(神咒寺=かんのうじ=兵庫県西宮市)に本陣を置いて、瓦林正頼らが籠った腰水城を包囲したのです。

一方、この澄元の状況を知った高国も、山城(やましろ=京都府南部)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県東部)摂津など支配下の諸国人たちをかき集めて翌・11月21日に京都を出陣し、12月2日(もしくは6日)には池田城に入城し、ここを拠点として臨戦態勢に入ります

その後、高国勢は武庫川(むこがわ)に沿うように、その上流から下流に向けての昆陽(こや=兵庫県伊丹市)野間(のま=同伊丹市)瓦林(かわらばやし=兵庫県西宮市)浜田(はまだ=兵庫県尼崎市)などに布陣し、しばらくの間、睨み合いが続きました。

そんな中、こう着状態をたち割るように12月19日(18日とも)に大きな戦闘が行われ、四国勢数百人が討死にし、「その中には三好之長父子も…」という噂も流れましたが、三好父子の討死には誤報でした。

とは言え、この時は大きな痛手を受けた四国勢・・・しかも、瓦林勢には「那須与一(なすのよいち=参照>>の再来」とうたわれた弓の名手=一宮三郎なる人物がいて、四国勢もなかなか攻めあぐねていたのです。

そんなこんなの永正十七年(1520年)1月10日いよいよ両者は大決戦となります。

さすがに現政権派とあって、高国軍も、この頃には2万ほどにふくれあがっておりました。

『細川両家記』によれば・・・
午後4時頃から開始された戦いは、高国方の伊丹国扶(いたみくにすけ)中村口(伊丹市)から切り崩しを開始し、四国勢に襲いかかると同時に腰水城からは瓦林勢が撃って出て四国勢の諸将を相手に奮戦・・・この局地戦では高国方が大いに成果をあげました。

しかし、この日の午後8時頃まで・・・約4時間に渡って繰り広げられた戦いは、上記の夕方の局地戦では高国側が有利だったものの、全体では、四国勢の戦死者は100余名、高国勢は、その倍の200余名の犠牲者を出してしまっていたのです。

その後も、断続的に戦いは繰り広げられていきましたが、やがて腰水城の兵糧が枯渇しはじめ、籠城を維持できなくなってしまった事から、永正十七年(1520年)の2月3日、劣勢を挽回できないまま城将の瓦林正頼は、腰水城を放棄し、武庫川の左岸へと逃亡したのです。

この時、高国自身は、腰水城の救援に向かうべく本隊を移動させていましたが、腰水城の落城には間に合わず・・・やむなく撤退するところを、澄元に同調する国衆=西岡衆(にしのおかしゅう=京都・乙訓地域の自治を担った武士集団)に襲撃されたため、六角定頼(ろっかくさだより)を頼って(この時の六角氏は定頼の父=六角高頼が主導の説もあり)近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=大津市)へと逃れて行きました。

こうして、京の町は、一時的に澄元派が牛耳る事になりますが、もちろん高国も、このままでは終われません・・・いや、むしろ、ここから、ラッキーも加わって、高国はこの世の春を迎える事になるのですが、その続きのお話は、わずか4ヶ月後の永正十七年(1520年)5月5日に勃発する等持院表(とうじいんおもて)の戦い(5月5日参照>>)でどうぞo(_ _)oペコッ
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2017年12月18日 (月)

赤沢朝経率いる京軍の大和侵攻~奈良の戦国

明応八年(1499年)12月18日、赤沢朝経率いる京軍が大和衆の籠る秋篠城を攻撃しました。

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日本が真っ二つに分かれて戦った応仁の乱(5月20日参照>>)・・・約10年に渡るこの大乱は文明九年(1477年)11月に終わりを告げました(11月11日参照>>)が、もともと、将軍家や管領家などの複数の後継者争いが発端だった事や、そのそれぞれを支持する地方の武将が、それぞれ東西に分かれて戦った事、結果的にどっちが勝ったというハッキリした物も無かった事などがあって、京都を中心とした応仁の乱自体が終結しても、それぞれの地方の武将たちや、その配下の者の地元では、未だ小競り合いが続いていたわけで・・・

そんな地元のうちの一つが大和国(やまとのくに=奈良県)でした。

ここは、かの応仁の乱の口火を切る御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)をおっぱじめた畠山義就(よしなり・よしひろ)畠山政長(はたけやままさなが)らの河内畠山氏ドロ沼家督争い(7月17日参照>>)の影響をドップリ受けてる場所だったのです。

この河内畠山氏は、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)山城(やましろ=京都府南部)越中(えっちゅう=富山県)の守護を務め、足利将軍家の一門でもあり、室町幕府の三管領家(さんかんれいけ=幕府管領職(将軍の補佐役)をこなす三家:細川&斯波&畠山)の一つというスゴイ家柄・・・この時期、未だコレという突出する武将がいなかった大和地域では、それぞれの畠山家を支持する諸将が、応仁の乱さながらに東西に分かれて入り乱れ、反目を繰り返していたのです。
(大和衆の関わった応仁の乱の前哨戦=高田城の戦いは10月16日を参照>>)

しかし明応八年(1499年)10月、
大和の武士たちは「これではイカン!」と気がついた・・・

同じ大和の者同士で争い合うバカバカしさを悟った彼らは、それぞれの派閥トップである筒井(つつい)越智(おち)の間で10月27日に和議が結ばれた事をキッカケに、河内の争いを大和に持ち込まない事を約束し、今後は、大和を平和に導く事を誓い合ったのです。

残念ながら、古市(ふるいち)だけは、その合意に加わりませんでしたが・・・ま、この古市澄胤(ふるいちちょういん)は、去る明応二年(1493年)に山城の国一揆(12月11日参照>>)を鎮圧した事で大出世を遂げたうえ、時の管領=細川政元(ほそかわまさもと=応仁の乱東軍大将の細川勝元の息子)にも通じていたので、大和の国人衆の中でも一歩抜け出た雰囲気・・・なので「俺はお前らみたいなんとはツルまへんで~」てな感じだったのかも知れません。

ところが、「まだまだ河内の争乱に大和衆の勢力が必要だ」と思っていた政元が、今回の大和衆の合意に激おこ・・・大和の分裂を図るべく、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=澤蔵軒宗益)を大和へ差し向けたのです。

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京軍の大和侵攻・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、朝経率いる数千の京軍が大和に隣接する南山城(みなみやましろ=京都府相楽郡付近)に押し寄せたのは12月12日・・・16日には、早くも、歌姫越えで大和に入り、秋篠村(あきしのむら=奈良県奈良市秋篠町)へ侵攻します。

迎える秋篠氏は、本拠の秋篠城(秋篠平城)に籠って徹底抗戦の構えを見せます。

この秋篠氏は、古代の渡来系埴輪作り集団=土師(はじ)の末裔とされる人物が、平安時代の初期に移り住んだ地名にちなんで秋篠安人(あきしののやすひと)と名乗ったのが始まりと言われますが、いずれかの頃からは、興福寺一乗院方の衆徒となっており、同じく興福寺に属していた筒井氏とは旧知の仲・・・ここ秋篠城には、筒井氏をはじめとする面々が籠っていたのです。

激しい戦闘が起こったのは、明応八年(1499年)12月18日でした。

大和衆の中で京側についた古市の軍を先頭に、大軍で押し寄せた京軍に対し、大和側は筒井に秋篠に宝来(ほうらい)超昇寺(ちょうしょうじ)といった弱小連合軍であったため、未だ全軍の統率がとれておらず・・・

逆に、一方の京軍は、その後ろ盾による武器の準備も万全なうえ兵糧の補給路などもすでに確保澄み・・・それゆえの士気の高さは最高潮です。

それでも、午前10時頃から始まった合戦では、大和勢も奮起して戦い、迎撃の軍勢を2度3度と繰り出して精一杯戦いますが、約6時間の戦闘の末、午後4時頃には、さすがの大和勢も疲弊し、まもなく、秋篠城は陥落しました。

敗れた者たちは散り々々に逃げ去り、勢いづいた京軍は、近くの法華寺(ほっけじ=奈良県奈良市法華寺町)喜光寺(きこうじ=奈良県奈良市菅原町:菅原寺)などの堂塔や僧坊に乱入し、破壊と略奪の限りを尽くし、しばらくの間奈良で大暴れしたのだとか・・・

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東大寺大仏殿のモデルとされる喜光寺本堂
(喜光寺への行き方は本家HP:奈良歴史散歩「西の京」のページでどうぞ>>)

その後、文亀元年(1501年)に、朝経は、古市と越智そして河内の遊佐(ゆさ)を、改めて大和の代官に任命して、一応の落ち着きを見せるのですが、やはり、「大和は大和武士の手で治めるべき」という考えが消える事は無く、永正二年(1505年)に再び、大和の国衆の間で盟約が成立したりしますが、翌年の3月には、またもや朝経率いる京軍が侵攻・・・

と、とにもかくにも、この間、春日大社(かすがたいしゃ)の御神木を持ち出して抗議したり、京軍の守りが手薄になる頃合いを見計らっては、手を変え品を変え場所を変え、メンバーも入れ替わったりしつつ、ゲリラ的活動を続けて行く大和の国衆たちと、それを鎮圧すべくやって来る京軍の戦いが続く事に・・・(9月21日参照>>)

しかし・・・
やがて、この堂々巡りな戦いが終わる時がやって来ます。

それは永正四年(1507年)・・・細川政元&赤沢朝経率いる京軍が、若狭(わかさ=福井県西部)丹後(京都府北部)の守護を務める若狭武田氏の第5代当主=武田元信(たけだもとのぶ)のピンチを聞きつけ、武田と対立する一色義有(いっしきよしあり)を攻めていた時、天皇からの帰京命令に、慌てて京都へと戻った政元が、自らの養子同士の後継者争いに巻き込まれて6月23日に暗殺(6月23日参照>>)・・・

その3日後の6月26日には、攻撃のさ中に、政元の死を知って京に戻ろうとした赤沢朝経も、不穏分子である丹後の国衆が起こした一揆によって命を落としてしまったのです。

こうして、大和侵攻のおおもとであった細川政元と、当事者であった赤沢朝経が、相次いで亡くなった事で、京軍からの脅威が無くなった大和の地・・・

これで、やっとこさ、大和の諸将は、自らの本拠地に戻って、領国の治世に力を注ぐ事ができる日々がやって来るわけです。

とは言え、世は戦国・・・奈良とて他者の影響を受けずにスルーし続けられるはずもなく、やがて、この大和の地も戦国の波に呑まれていく事になります。
天文十五年(1546年):貝吹山城攻防戦>>
永禄八年(1565年):筒井城攻防戦>>
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2017年12月 7日 (木)

家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主~斎藤妙純の最期

明応五年(1496年)12月7日、近江の六角高頼を攻めた斎藤妙純父子が、土一揆に襲われて死亡しました。

・・・・・・・・・・・・

斎藤妙純(さいとうみょうじゅん=利国)は、美濃(みの=岐阜県)守護代だった斎藤利永(としなが)の次男で、叔父である斎藤妙椿(みょうちん)の養子となって、妙椿の家系である持是院家(じぜいんけ)を継いでいます。

応仁の乱の際には、西軍として、養父=妙椿とともに伊勢周辺に出兵し、この乱のドサクサで多くの領地の切り取りに成功・・・この頃には、すでに美濃守護である土岐成頼(ときしげより)の上を行く勢力を持っていたと言われています。

しかし、応仁の乱後に妙椿が死去すると、残された領地を巡って、異母兄の斎藤利藤(としふじ=利永の長男)と妙純との間に争いが勃発します。

まぁ、長男の利藤にしてみれば、父の死後に守護代を継いだのは自分なのに、実際には叔父の妙椿に実権を握られて抑えつけられたあげく、妙椿が死んだと思いきや、今度は実弟が仕切るんかい!てな感じでしょうか?

結局、合戦にまで発展した兄弟ゲンカは、妙純が勝利し、負けた利藤は六角氏を頼って亡命・・・後に和睦して美濃守護代に帰り咲きますが、もはや、実権を握るのは妙純だったわけで・・・

そんなこんなの明応四年(1495年)、今度は、美濃守護の土岐成頼の後継者を巡っての争いが勃発します。

成頼が、「自らの後継者を嫡男の政房(まさふさ)より、末息子の元頼(もとより)に継がせたい」と言いだしたのです。

成頼の意向を知った兄=利藤は「ここが挽回のチャンス!」とばかりに、政房を奉じる弟=妙純に対抗して元頼を奉じ、妙椿の家臣だった石丸利光(いしまるとしみつ)を味方に引き入れて、妙純排除を画策します。

これが妙純VS石丸利光の船田合戦(ふなだがっせん)・・・これが、利光と姻戚関係にあった織田敏定(おだとしさだ=信長の曽祖父?)や利藤を保護した六角高頼(ろっかくたかより=承禎の祖父)、かたや妙椿の娘婿であった朝倉貞景(あさくらさだかげ=義景の祖父)京極高清(きょうごくたかきよ=高次の祖父)などを巻き込んでの大きな合戦となったのです。

明応四年(1495年)3月から翌明応五年(1496年)6月まで続いた船田合戦ではありましたが、最後の最後に城田寺城(きだじじょう=岐阜県岐阜市城田寺)に追い詰められた利光が、自らの切腹と引き換えに、ともに城に籠っていた主君=成頼と利藤の息子の助命を願い出て、元頼とともに自殺・・・こうして、1年3ヶ月に渡る合戦が終結しました。

しかし、おおもとの合戦が終結しても、そのまま納まらなかったのが、それぞれの援助者たちのギクシャク感・・・

妙純は、京極高清と連携して、石丸方に味方した六角高頼を討つべく、六角氏のお膝元である近江(おうみ=滋賀県)に出陣します。

この動きを察知した高頼は、自らの金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市金剛寺町)とともに諸所にある支城や砦の再構築を行いつつ、高島(たかしま=滋賀県高島市)朽木材秀(くつきえだひで=直親)蒲生貞秀(がもうさだひで=秀郷の高祖父)などに出陣を要請して合戦の準備を整えます。

かくして船田合戦終了から4ヶ月後の11月6日、数千の兵を率いて破竹の勢いで国境を越えた妙純は、周辺に火を放ちながら進軍し、またたく間に蒲生郡(がもうぐん=滋賀県蒲生郡)一帯が焦土と化します。

勇ましく防戦を展開する六角勢ではありましたが、斎藤勢の勢いはハンパなく・・・やがて高頼は金剛寺城に、蒲生貞秀は日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町・中野城とも)にと、ともに居城に追い詰められ、両者とも籠城戦に突入します。

まだまだ蒲生平野に火を放ちながら、やがて日野城を包囲した斎藤勢・・・しかし、これがなかなか強い!

囲まれ、攻められながらも奮闘する日野城兵は、攻める斎藤勢を1000人ほど討ち取り、その勢いで撃って出て、逆に追撃をかけるほどの奮闘ぶり・・・やむなく斎藤勢は、作戦変更して日野城を諦め、高頼の金剛寺城をターゲットとしますが、こちらもなかなか強く、容易に落とす事ができませんでした。

仕方なく、兵を退き始める斎藤軍・・・それを見た高頼は、城を出て追撃を開始して50余人を討ち取りますが、一方の六角方の被害も大きく、この日の戦いはここまで・・・

その後も、しばらくの小競り合いが続きましたが、やがて合戦開始から1ヶ月ほど経った明応五年(1496年)12月7日、こう着状態に終止符を打つべく、両者の間で講和の話が持ち上がり、船田合戦からの流れを汲んだ、この日野口(ひのぐち)の戦いは、ここに終結するのです。

こうして和睦を成立させ、陣を明け渡す事になった妙純・・・しかし、この一瞬を、諸所の六角と郷土民たちが襲います。

長期の侵攻や地元を焦土とされた事に不満を抱いた郷民たちの土一揆・・・妙純は、これらを何とか防ぎつつ、なんなら、一揆に加勢する日野勢への攻めに転じる様相を見せますが、なんせ、一揆はその人数がハンパ無い・・・

相手は一揆の烏合の衆とは言え、明らかに不利な動員人数・・・自らが囲まれた事を察した妙純は、息子の斎藤利親(としちか)とともに、ここで自害するのでした。

『大乗院寺社雑事記』では斎藤方74人が自害
『後法興院記』では千人以上の斎藤方が、この一揆の襲撃で戦死したと記録されています。

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観音寺城跡=観音正寺より南西方面を望む

この時、妙純と連携して観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)まで出張って来ていた京極高清は、妙純の死を知り、慌てて夜陰に紛れ、船で琵琶湖を渡って湖西へと出た後、本拠の江北(こうほく=北近江)へと戻ったと言います。

また、妙純の苦戦を聞いて援軍を出した朝倉貞景も、やはり江北のあたりで、妙純の死亡と高清の敗走を知り、本国の越前(えちぜん=福井県)へと戻っていきました。

猛将と言われた斎藤妙純のあっけない最期・・・

後に、妙純の孫に当たる斎藤利良(としなが)が病死した時、その名跡を継いで斎藤新九郎利政(としまさ)と名乗ったのが、あの美濃のマムシこと斎藤道三(さいとうどうさん)です。(道三の経歴については諸説ありますが…)

ところで、余談ではありますが・・・
現在、重要文化財に指定され、徳川家康(とくがわいえやす)の遺言に従って久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう=静岡市駿河区)に安置されている「革柄蝋色鞘刀(かわづかろいろさやかたな)という名刀があります。

この刀は、天正十二年(1584年)頃に、家康が織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)から譲り受けた物で、家康が生涯で最も愛し、常に身につけ、その死の直前に振りまわした(4月17日参照>>)、あの刀だとされているのですが、この刀の指裏(腰に差した時に体側になる面)には「妙純傳持」「ソハヤノツルキ」、反対側の指表には「ウツスナリ」と刻まれているとか・・・

「ソハヤノツルキ」とは、平安の昔に征夷大将軍となって蝦夷(えぞ)を平定した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(7月2日参照>>)の愛刀で清水寺(きよみずでら=兵庫県加東市)が所蔵する騒速(そはや)の事で、「ウツスナリ」は、その刀の写しという事、

そして、「妙純傳持」は、それを斎藤妙純が持っていたという意味です。

そんな刀を、家康は、自らが最も警戒する西国=西に、「その切っ先を向けて安置せよ」と遺言したのです・・・もちろん、自分の死後も、徳川を永遠に守るために・・・

そこには、田村麻呂の武勇とともに、彼に勝るとも劣らない斎藤妙純という武将への敬意と憧れがあったと思えてなりません。
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2017年11月24日 (金)

三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い

永禄四年(1561年)11月24日、三好義興松永久秀とともに山城勝軍地蔵山に布陣中の六角義賢に攻めた将軍地蔵山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後の混乱する主導権争いに打ち勝ち、畿内に政権を樹立した細川晴元(はるもと)・・・もちろん、政権樹立と言っても、時は室町時代なので、晴元は管領で時の将軍は第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)だったわけですが。。。

その晴元の天下取りに貢献した重臣が三好元長(みよしもとなが)でした。

しかし、もともとの晴元が義晴の弟=足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立していたにも関わらず、政権を握った途端にアッサリと捨てて、それまで敵対していた義晴に乗り換えた事に不満を持った元長が晴元に反発・・・結局、元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げました。(7月17日参照>>)

Miyosinagayosi500a 父の死を受けて、わずか11歳で家督を継いだ三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、おそらくは「自分自身が未だ若過ぎる」と判断してか?しばらくは晴元の従順な家臣として仕えますが、やがて28歳となった天文十八年(1549年)6月、弟たちとの見事な連携プレーによる江口の戦いにて、晴元&彼に味方する三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟らに勝利し、彼らを近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させて畿内を掌握します(6月4日参照>>)

これによって、自らは芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)に拠ったまま、重臣の松永久秀(まつながひさひで)を京都所司代として都の治安維持に当たらせる長慶・・・

この頃には、すでに義晴と晴元は分裂状しつつありましたが、そんな中で坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴が病死すると、第12代=足利義輝(よしてる=義晴の息子)が将軍職を継ぎ、近江守護の六角義賢(よしかた=承禎)らと組んで、対三好の京都奪回作戦を展開していきます(2月26日参照>>)

そんなこんなの永禄元年(1558年)6月の白川口の戦い(北白川の戦い)後の和睦交渉をキッカケに(6月9日参照>>)将軍=義輝は長慶と和解して5年ぶりに京都へと戻るものの(11月27日参照>>)、晴元は近江に留まり、しばらくの間は、反三好の姿勢を崩しませんでした。

もともとの出身地だった阿波(あわ=徳島県)讃岐(さぬき=香川県)に加え、摂津(せっつ=大阪府北中部・兵庫県南東部)の国人たちをも傘下に入れ、都も掌握し、もはや関東の北条氏に勝るとも劣らない・・・いや、都も、そして畿内も抑えた分、事実上の天下人となった長慶・・・

しかし、そんな三好家にも、間もなく陰りが見え始めます。

そのキッカケとも言うべき出来事が、「鬼十河(おにそごう)なる異名で恐れられていた長慶の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入っていた)の死でした。

もちろん、この「恐れられていた」というのは「怖い」という意味では無く、「武将としてスルドイ」という意味ですが、それだけ長慶にとっては重要な右腕だった弟が、永禄四年(1561年)の3月、湯治先の有馬温泉で突然亡くなってしまったのです(5月1日参照>>)

一般的には病没とされますが、あまりに突然だったため、落馬説や暗殺説もあり・・・しかも、この有馬行きに同行していたのが、かの松永久秀であった事、また、この後、三好家に立て続けに不幸が起って衰退の一途をたどる事から、軍記物などでは、久秀を「主人殺しの悪党」とする物もあるくらい・・・

かと言って証拠はどこにも無いので、あくまでその噂は、三好家が衰退した後に活躍する久秀の姿ありきの「推理小説の基本=1番得をした者が犯人」的な論理の域を超えない物なのでしょうが・・・(松永久秀については10月3日参照>>)

その犯人探しは別の機会にさせていただくこととし、
とにもかくにも、この優秀な弟の死で片翼をもがれた形になった長慶・・・これをチャンスと見た六角義賢は、すでに出奔して力を失くしていた晴元に代わって、その息子の細川晴之(ほそかわはるゆき=晴元の次男)を看板に掲げて、三好家に対抗するのです。

永禄四年(1561年)7月28日、同じくここをチャンスと見て亡き十河一存の城=岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)にチョッカイを出していた畠山高政(はたけやまたかまさ=畠山政長の曾孫)と連携した六角義賢は、将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に籠って、長慶側の三好義興(よしおき=長慶の嫡男で嗣子)と対峙するのです。

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●位置関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

義賢自身は、神楽岡(かぐらおか=京都府京都市左京区吉田)に陣取り、馬淵(まぶち)源左衛門蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)永原安芸守(ながはらあきのかみ)らを一軍の将として上洛をうかがいます。

これを受けた三好側では、松永久秀が兵を率いて出陣し、義興勢と連携して六角勢と対陣・・・7月から11月下旬までは、お互いに遠矢(とおや=弓矢による遠距離戦)での交戦程度でありましたが、永禄四年(1561年)11月24日、六角勢のスキを突いた三好勢が白川口(北白川付近)に来襲し、永原&細川の陣営に襲いかかったのです。

勢いに乗じて、ここを突破した三好勢は、馬淵の陣へと迫り、激戦・・・三好軍の将であった三郷修理亮(しゅりのすけ)が馬を刺されて、人馬もろとも転倒し、そこを堀伊豆守(ほりいずのかみ)なる武将が襲いかかって首を討ち取りますが、一方の細川勢にも多くの死者が発生して乱戦に次ぐ乱戦。

そんな中、永原安芸守を討ち取った松永勢は、そのまま将軍山城を突破し、六角義賢の本陣=神楽岡へ1万の軍勢で以って突入します。

そこで六角方では、家臣の三雲定持(みくもさだもち)に命じて、川守城(かわもりじょう=滋賀県竜王町川守・野寺城)の城主=吉田出雲守(よしたいずものかみ)の門下生で日置流弓術(へきりゅうきゅうじゅつ)の名手300余名を選出して高所に陣取らせ、タイミングを見計らって一斉に松永勢に向けて射撃させたのです。

思わぬ攻撃に多くの犠牲者を出してしまった松永軍・・・やむなく、ここで敗走に転じます。

これを見た義賢はすぐに、逃げる松永勢を追撃しようとしますが、蒲生賢秀が
「今のは、タイミングが良く、ゲリラ戦的な形でウマくいきましたけど、寡兵(かへい=少ない兵)で以って大軍を追撃したなら、いずれ、こっちがヤバなりまっせ」
と進言・・・これ以上の深追いは止め、この日の戦いは終わりました。

結局、この戦いは三好家にとっては負け戦となってしまいましたが、一方の六角方でも、義賢に担がれた細川晴之がこの戦いで戦死したとされ、まだまだ三好政権の大勢に影響を及ぼすほどでは無く・・・その後もガッツリと京都を掌握しつつ、義賢らとの攻防が続くのですが、前途したように、結果的には、このあたりから三好家の衰退が始まった事は否めません。

というのも、この戦いの翌年=永禄五年(1562年)の3月に起こった久米田(くめだ・大阪府岸和田市)の戦いにて、すぐ下の弟=三好義賢(よしかた=元長の次男・実休)が戦死・・・さらに翌年には息子の義興が、22歳の若さで病死・・・さらにさらにのその翌年の永禄七年(1564年)には謀反を疑い、2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす)を長慶自身が謀殺してしまうのです。

この、長慶による冬康殺害の要因も様々に語られますが、実のところは、義賢の戦死の後くらいから、長慶はうつ病にかかっていて籠りがちになり、ちゃんとした判断ができていたのかが微妙だったようで、この頃から実際に合戦に出陣して三好家の力となっていたのは松永久秀だったと言われています。

結局、その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は亡くなり(5月9日参照>>)、十河一存の長男であった三好義継(よしつぐ)が、長慶の養子となって三好家を継ぎますが、未だ若い義継の権力地盤は弱く、彼を補佐する松永久秀と三好三人衆三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)らが、三好家の実権を握る事となったうえ、そんな彼らも一枚岩とは言い難く・・・(11月18日参照>>)

そんな時に京都へとやって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・という事になります。
【織田信長の上洛】参照>>
【信長の前に散る三好三人衆】参照>>)
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2017年11月19日 (日)

京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い

大永七年(1527年)11月19日、京都奪回を目指す足利義晴細川高国勢が三好元長柳本賢治らと激戦を繰り広げた東山・川勝寺口の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

応仁の乱の混乱修復後、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として政権を掌握した細川政元(まさもと)・・・

Hosokawatakakuni600a その政元亡き後に勃発した、細川澄之(すみゆき)細川澄元(すみもと)細川高国(たかくに)の3人の養子たちによる後継者争いに打ち勝った高国は、永正十八年(1521年)に第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して畿内に自らの政権を樹立しました。

しかし、わずか5年後の大永六年(1526年)、重臣の香西元盛(こうざいもともり)に謀反の疑いをかけて上意討ちした事から、元盛の兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が反発・・・籠城して抵抗する彼らに、高国は兵を派遣しますが、この時は手痛い敗北を喰らいます(10月23日参照>>)

Hosokawasumimoto400a そこをチャンスと見たのが、今は亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)・・・

配下の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=之長の甥)兄弟らとともに京へと攻め寄せたかと思うと波多野や柳本と連携して桂川(かつらがわ)の東岸にて激戦の末、大永七年(1527年)2月、高国らを近江(おうみ=滋賀県)へと追いやり、今度は、勝利した晴元らが、義晴の弟=足利義維(よしつな)を奉じて京都を掌握する事となったのです(2月13日参照>>)

とは言え・・・もちろん、将軍=義晴&高国も、このまま黙ってはいられません。

近江守護の六角定頼(ろっかくさだより)を頼って長光寺(ちょうこうじ=滋賀県近江八幡市)に拠った義晴は、その将軍の威勢をフルに使って、諸国の武将に「出陣せよ!」の声をかけ、京都奪回を画策します。

桂川原から5ヶ月後の7月・・・越前(えちぜん=福井県)朝倉(あさくら)能登(のと=石川県北部)畠山(はたけやま)越中(えっちゅう=富山県)椎名(しいな)美濃(みの=岐阜県)斎藤(さいとう)などの援軍を得た義晴は、27日に出陣

これに同調する六角定頼も、1万5千余りの兵を自ら率いて琵琶湖を渡り、坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴を出迎えます。

ここに集結した軍勢は約3万騎・・・これらを率いた義晴と高国は、10月13日に坂本を出発し、一路、京都へと向かい、義晴が若王子(にゃくおうじ=京都市左京区)、高国が神護寺(じんごじ=京都市右京区高雄)朝倉教景(あさくらのりかげ=宗滴)建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)に陣を置き、京都を抑える柳本&三好勢と対峙します。

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東山・川勝寺口の戦い布陣図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして大永七年(1527年)11月19日、いよいよ戦いの幕があがります。

『続応仁後記』によれば・・・
この日、義晴は、その軍勢で、東寺(とうじ=京都市南区九条町)から西七条(にししちじょう=京都市下京区)唐橋(からはし=京都市南区唐橋)鳥羽(とば=伏見区)などに隙間なく兵を配置し、高国も、自ら兵を率いて南方に向けて布陣し、おそらくは南方面から向かって来るであろう敵を待ち構えていたと言います。

しかし、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)方面から京都に入った三好勢は、丹波(たんば=京都府北部・兵庫県北部・大阪府北部)方面からの柳本勢らと連携し合って、京都の北方に進出・・・三好は西院(さいいん=京都市右京区)、波多野&柳本勢が五条(ごじょう=京都市東山区)から七条(しちじょう=同東山区)にかけての法華系寺院に展開し、北からの攻撃を仕掛けたのです。

想定外の方向からの攻撃に戸惑う義晴勢・・・

一方、亡き澄元の娘婿という立場であった河内(かわち=大阪府東部)畠山氏の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)が三好勢に加担すべく参戦・・・500余りの軍勢を率いて川勝寺口(せんしょうじぐち=京都市下京区西京極・泉乗寺口とも)を抑えて、西院に展開する三好勢を合流しようとしますが、そこを朝倉の越前兵が迎え撃ち、こちらも激しい合戦となりました。

この日の戦いは敵味方に多くの死者を出し、それでも決着がつかず・・・疲弊した両者は、ひとまず兵をを退き、しばし対陣する事となりましたが、その後もこう着状態が続いたため、年が明けた1月頃からは一部で和睦交渉が行われるようになります。

やがて、その交渉の主導者であった六角定頼と朝倉教景が、三好元長と和睦した事で、まずは3月に入って朝倉勢が帰国・・・これを受けて諸将も兵を収めて、次々と帰国して行きますが、そもそものモメ事の発端だった柳本賢治は、この和睦劇に不満ムンムン・・・

一方の発端の人である将軍=義晴と細川高国も、和睦には不満だったようですが、どちらも、諸将の加勢が無ければ戦えないのが現状・・・やむなく、彼らも兵を退き、またまた近江へと逃れたのでした。

とは言え、この和睦は、あくまで、今回の東山・川勝寺口の戦いにおける和睦・・・義晴&高国VS義維&晴元の抗争が終わったわけではありませんので、この後も、享禄四年(1531年)4月の箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原での合戦(4月6日参照>>)などの戦いが繰り広げられた後、いよいよ、高国最後の戦いとなる大物崩れ(だいもつくずれ)の戦いへと向かって行きますが、そのお話は、また、その戦いが起こる日付けにて、お話させていただきたいと思いますm(_ _)m

・・・にしても、今回も京都市街真っただ中の市街戦、周辺の建物にも被害が多くあった事が想像できます。
世は戦国とは言え、多くの一般市民も巻き込まれたかと思うと胸が痛いですね。
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2017年10月 7日 (土)

名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動

永禄六年(1563年)10月7日、重臣殺害の一件で近江の国人衆と対立した六角義治が観音寺城から逃走しました。

・・・・・・・・・・・・

六角氏(ろっかくし)は、宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、鎌倉時代に近江(おうみ=滋賀県)六郡(犬山・愛智・神崎・蒲生・栗太・志賀)を与えられた佐々木氏(ささきし)の嫡流が、六角東洞院(京都市中京区)に館を構えた事から、六角氏と名乗るようになったと言います。

室町時代には同族の佐々木道誉(ささきどうよ=京極高氏)に代わって近江守護となり、大名として実力を存分に発揮し、応仁の乱後のいち時には、幕府との対立があったものの、戦国に入った六角定頼(ろっかくさだより)の時代には、細川家の管領職争奪戦に関与したり(5月5日参照>>)、その管領に味方して出陣したり(8月23日参照>>)と、何かと、中央政権から頼りにされる存在=それだけ力がある武将だったわけです。

さらに、定頼の息子=六角承禎(じょうてい=義賢)は、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と対立する(6月24日参照>>)第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)を援助する(2月26日参照>>)事もしばしば・・・

そんな、三好と将軍の抗争も、永禄元年(1558年)6月の白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)を最後に和睦となって後、義輝が京都に戻った(11月27日参照>>)事で、一応の落ち着きを見せますが、一方で、この三好の京都完全掌握状態に不満をつのらせる者もおりました。

大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)竜安寺(りょうあんじ=京都市右京区)といった宗教勢力に公卿や町人・・・勝者であるが故に、時に横暴な態度に出る三好勢に眉をひそめる彼らは、もはや京都の治安維持さえままならない幕府に代わって、六角氏の力に都の平穏を望んだのです。

永禄五年(1562年)3月、承禎は、自らの息子=義治(よしはる)義定(よしさだ)とともに、近江武士や伊賀武士の軍勢を率いて入洛して清水坂に布陣・・・三好や、その配下の松永久秀(まつながひさひで)軍勢を蹴散らして、彼らを山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)へと追いやりました。

・・・と言っても、これは、あくまで京都市内の治安維持を要求するのための出陣・・・3か月後の6月に三好義興(みよしよしおき=長慶の嫡男で嗣子)との和睦が成立した事で、承禎父子はアッサリと近江に戻りました。

この後、すでに出家していた承禎は、箕作城(みつくりじょう=滋賀県東近江市五個荘山本町)に入って隠居し、六角氏内の政権と、本城の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)嫡男の義治に譲りました。

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観音寺城・本丸への石垣

しかし、これがケチのつき始め・・・そう、実は、この義治さんは、未だ18歳。

かの応仁の乱以来、同族で江北(こうほく=滋賀県北部・湖北、現在の彦根あたりより北)を統治する京極氏(きょうごくし)との抗争や、その京極氏に取って代わろうとする浅井氏(あざいし)との争い(4月6日参照>>)など、数あるゴタゴタを何とか治めて、江南(こうなん=滋賀県南部・現在の近江八幡とか安土とかのあたり)地方を制圧して、六角氏を絶頂期に導いたのは、ほぼほぼ、先の六角定頼&承禎の力によるもの・・・

それらを支えて来た重臣たちにとっては、若き義治は実績の無い青二才・・・もちろん、誰だって当主になりたての時は、実績も信用も無い若者なわけですが、そこを、古くからの重臣たちの意見を踏まえつつ、人心を掌握して、うまくまとめあげるのが信任当主の腕の見せ所。

しかし、義治の場合は、それがウマくいかなかった・・・。

義治のやる事なす事にことごとく批判し、何でもかんでも口出しする家臣の筆頭=執権である後藤賢豊(ごとうかたとよ)をうっとぉしく思い、「このままでは、京極氏に取って代わる浅井のようになってしまうのではないか?」との不安を抱いていったのです。

そんなこんなの永禄六年(1563年)10月1日、観音寺城へ賢豊&壱岐守(賢豊の長男・実名は不明)父子を呼び出した義治は、配下の者に命じて老蘇の森(おいそのもり=滋賀県近江八幡市安土町東老蘇)付近で殺害してしまったのです。

なんと、この時の配下の者は武装兵500を引き連れて完全包囲のうえでの殺害という事なので、いわゆる暗殺ではなく、完全に、その威勢を見せつけるための殺害・・・義治にとっては、「俺こそが当主」と、その上下関係を知らしめるための行為だったのかも知れません。

なんせ、この直後、他の重臣たち全員に、今すぐ観音寺城に集まるよう緊急命令を出しているのですから・・・

しかし、彼ら重臣が集まったのは呼び出された観音寺城ではなく、かの後藤とともに『六角氏の両藤』と称された、もう一人の大物家臣=進藤賢盛(しんどうかたもり)の屋敷だったのです。

未だ強固な信頼関係が構築されていない中での主君の暴挙に、彼らは次々と不満を噴出・・・進藤をはじめ、目賀田(めかた)馬淵(まぶち)伊庭(いば)平井(ひらい)三雲(みくも)などなどの主要家臣たちは、ここに反旗をひるがえす決意を固めたのです。

まずは、後藤と縁続きで最も親しかった永田景弘(ながたかげひろ)三上恒安(みかみつねやす)らが、観音寺城本丸の周囲にあった自邸に火を放ち、一族を本領に戻させた後、進藤賢盛らととともに、六角氏と敵対する浅井の支援を求めるべく浅井長政(あざいながまさ)小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)へと使者を走らせます。

かくして永禄六年(1563年)10月7日、進藤をはじめとする永田・平井・三上などなど・・・もちろん後藤一族も、そして、支援を快諾した浅井もが一斉に反旗をひるがえし、観音寺城の建つ繖山(きぬがさやま)を、約1万の軍勢で包囲して、攻め上っていったのです。

Kannonzisoudou 位置関係図→
クリックで大きくなります
(背景は地理院地図>>)

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迎え撃つ義治の手勢は、わずかに300・・・またたく間に観音寺城は炎に包まれ、さらに、愛知川(えちがわ=湖東(愛知郡周辺)を流れる)周辺に陣を張った浅井軍が、これを応援します。

さすがに、ここまでの多勢に無勢では何ともならず・・・やむなく義治は、搦手(からめて)から尾根伝いに安土へと脱出し、反旗に加わっていなかった重臣=蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)を頼って日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町:中野城とも)へと落ちて行きました。

また、箕作城に隠居していた承禎も、息子の暴挙には怒りつつも身の安全のために甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)方面へと逃れて行ったのです。

知らせを聞いた賢秀は1000余騎で以って出陣して主君の義治を出迎えた後、城に籠城しますが、当然、これを追って来た反旗の六角家臣たちと浅井勢との攻防へと突入・・・と、これがなかなかの奮戦ぶりで、六角家臣&浅井勢は苦戦&苦戦、なかなか城を落とせずにいたところ、10月も下旬になって、この賢秀が間に入り、和睦を提案します。

その条件は・・・

  • 浅井は愛知川を境とし、それより南には兵を出さない事 
  • 殺された後藤賢豊の次男=後藤高治(たかはる)に後藤の家督を相続させて、所領も安堵し、今後も六角氏の家臣として以前と変わらぬ待遇をする事 
  • 義治は隠居して政務から離れ、弟の義定が六角家督を相続する事

この3つの条件を提示したことで、六角家臣は納得し、10月21日に和睦が成立しました。

おかげで、何とか観音寺城に戻る事ができた義治ではありましたが、もはや覆水(ふくすい)盆に返らず・・・主君と家臣の間に入った亀裂が元通りに修復される事は無く、六角氏の勢いは、これを以って減速の一途をたどる事になります。

そして、この数年後に、やって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・

永禄十一年(1568年)、第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての信長の上洛に(9月7日参照>>)、道を譲った浅井は生き残り、「通さない!」と阻んだ
六角=【信長の上洛を阻む六角承禎】参照>>
&三好三人衆=【信長の登場で崩壊する三好三人衆】参照>>
は、畿内を追われる事に・・・

もちろん、その後も、信長最大のピンチである金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)の時には、野洲川の戦い(6月4日参照>>)で信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)を攻めもしましたが、もはや以前のような勢いが無くなっていた事は否めません。

まさに・・・
この観音寺騒動が、六角氏のその後の運命を変えた騒動だったのです。
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2017年9月25日 (月)

奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦

天文十五年(1546年)9月25日、越智氏の貝吹山城を筒井順昭が攻めました。

・・・・・・・・・・・

貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)は、極彩色の壁画が発見されて一躍有名になった高松塚古墳(たかまつづかこふん)などがある明日香(あすか)から近鉄電車を挟んで西側にある標高200mほどの貝吹山の山頂に築かれた山城です。

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地でしたが、南北朝の動乱を経て寺社勢力そのものよりも、寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちが、興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』などとして力を持ちはじめ、やがて戦乱の世を生き抜く武士として群雄割拠するようになるのです(12月18日参照>>)

ちなみに『衆徒』の代表格が筒井(つつい)、『国民』の代表格が越智(おち)十市(とおち)で、この3家に箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称されます。

Kaibukiyamazyoukoubousen●位置関係図→
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

 
で、今回の貝吹山城は、この中の越智氏が構築したとされる城で、この南西にある越智館越智城(おちじょう=同高取町)詰の城(つめのしろ)=万が一越智本城が落ちた時に、一旦退いて最後の決戦を挑む城として構築されたと言います。

とは言え、戦国に入って、この城は何度も戦場になっています。

天文四年(1535年)には、ライバルに撃ち勝って管領(かんれい=室町幕府内の将軍補佐役)の細川家後継者の座を得た細川晴元(はるもと)と組んで、主家の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)三好元長(みよし もとなが=長慶の父)を追い落として(7月17日参照>>)ノリノリ気分満載だった木沢長政(きざわながまさ)攻め落とされ、一時は高取城(たかとりじょう==同高取町)へと避難するという一幕もありました。

おかげで、かつては互角に戦い、大和を二分する勢力だった筒井と越智の間に、ここらあたりから大きな差ができ始め、これから後の越智は、何かと筒井の圧迫を受けるようになるのです。

そんなこんなの天文十五年(1546年)、筒井氏は筒井順昭(つついじゅんしょう)の代になって、さらに勢いを増し、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで大和の大半を手中に治めていましたが、ここに来ても、まだ越智氏は存在し、その存在が順昭の目の上のタンコブでもありました。

これまで、群雄割拠&戦国と言えども、大和ではそこまで兵士を大動員した大きな戦いは少なく、少人数の小競り合いのような戦いが多かったのですが、ここに来て大和統一に手が届くようになった順昭は、まさに兵を大動員して越智氏壊滅に乗り出したわけです。

一方の越智氏は、その歴史が古いぶん、いくつもの家系が入り乱れていて、一党を統率するには難しい状況だったのだとか・・・

かくして天文十五年(1546年)9月25日、自ら約5000の軍勢を率いた筒井順昭が貝吹山城を攻めたのです。

順昭の叱咤に士気上がる筒井軍と、積極的な戦闘を避けたい越智陣営・・・城に籠って出て来ない敵に対し、筒井勢は周辺の家々に火を放って挑発して回りました。

そんな中でも何とか防戦を続ける越智勢でしたが、結局のところ、その兵力の差はいかんともし難く・・・ほどなく和睦して城を明け渡し、越智勢は高取城へと撤退したのでした。

『多聞院日記』では、この貝吹山城攻防戦に撃ち勝った事で、「筒井は大和を統一した」と称していますが、実際には、まだもう一波乱・・・

3年後の天文十八年(1549年)には、筒井から貝吹山城を任された城将が私用で出かけた留守を見計らって、急いで軍兵をかき集めた越智勢が一気に攻めかかり、堀を破って本丸間近まで攻め寄せ、「あわや落城」の寸前までいった事もありました。

ただ、この時は、寸前のところで、筒井の援軍が駆けつけ、越智の寄せ手の背後を突いた事で形勢が逆転し、越智による城の奪還は成功しなかったのですが・・・

とは言え、勢力を増す筒井に対し、越智の士気も徐々に低迷し、やがて順昭の晩年期には、越智は、彼らが持つ城とともに筒井の傘下となって存続していく事になるのですが、そんな貝吹山城に手を伸ばして来たのが、大和へと侵入して来た松永久秀(まつながひさひで)でした。

もともとは、畿内で一大勢力を誇った三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として歴史上に登場する久秀ですが、永禄二年(1559年)から大和への侵攻を開始し、奈良盆地に点在した諸城を攻略しつつ(11月24日参照>>)、同年には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、いつしか主家に取って代わるほどの勢いを持ちはじめ、

翌・永禄八年(1565年)には、三好氏の縁者である三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)とともに第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)して(暗殺には久秀は関与していない説もアリ)第14代将軍=足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立し、さらに、順昭の死を受けて筒井氏を継いだ嫡男の筒井順慶(つついじゅんけい)筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)をも攻め立てて奪取していたのです(11月18日参照>>)

そんな勢いに、いち時は、その久秀に奪われた貝吹山城でしたが、このわずかの間で久秀と三好三人衆が決裂し、三人衆が順慶の味方となった事で翌・永禄九年(1566年)には、順慶が筒井城を奪回・・・これをチャンスと見た越智伊代守(おちいよのかみ=越智家増?)は、貝吹山城に詰めていた久秀方の生田(いくた)という者を調略して味方につけ、彼の手引きにより貝吹山城を奪い返したのでした。

しかし、この貝吹山城は奈良から吉野(よしの)へと出る交通の要所・・・永禄十一年(1567年)に、またもや久秀に、この城を狙われます。

しかも、この時の久秀は、この9月に第15代将=足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たし(10月18日参照>>)、かの三好三人衆をも蹴散らした(9月29日参照>>)織田信長(おだのぶなが)の傘下にチャッカリと納まり、イザとなったら、その援軍も期待できるイケイケムードだったわけで・・・

ところが、この時の越智軍は、見事な籠城戦を演じ久秀方は撃沈・・・多くの戦死者を出して撤退する事となしました。

しかし・・・当然、久秀は諦めません。

翌・永禄十二年(1569年)5月10日、またもや久秀は貝吹山城を攻めます。

力に物を言わせて猛攻撃を仕掛ける久秀軍でしたが、越智も必死のパッチの抵抗・・・やはり多くの戦死者を出した久秀は、やむなく力攻めから長期の持久戦へと戦略を変更し、城と外部の連絡を遮断して貝吹山城を兵糧攻めにするのです。

閉ざされた中で、約半年間耐えた貝吹山城でしたが、それも時間の問題・・・やがて襲い来る激しい飢えに力尽き、同年の11月4日、久秀方に城は明け渡される事となったのです。

こうして貝吹山城は久秀の物となり、越智氏一党は高取城を目指して落ちて行きましたが、ご存じのように、その後の久秀は信長と敵対(10月3日参照>>)し、代わって順慶が信長派となった頃、信長が命じた城割(しろわり=後の一国一城制のような物)(8月19日参照>>)により、貝吹山城は破却されました。

また、越智氏は・・・
信長死後に羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の傘下となった順慶とともに存続していましたが、天正十一年(1583年)、順慶側に寝返った家臣によって当主が暗殺されて滅亡・・・おそらくは悠久の古代物部(もののべ)からの流れを汲む越智氏の血筋は、ここに終焉となったのでした。
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2017年9月19日 (火)

謙信の祖父・長尾能景が討死~般若野の戦い

永正三年(1506年)9月19日、越中で起こった一向一揆の鎮圧に侵入した長尾能景が般若野の戦い(芹谷野の戦いとも)で討死しました。

・・・・・・・・・・

比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の勢力から逃れて、北陸へとやって来た本願寺第8代=蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)が、文明三年(1471年)にその拠点となる吉崎御坊(よしざきごぼう=福井県あわら市)を建てた事で、北陸が一気に本願寺宗徒の聖地となる中、長享二年(1488年)に、加賀(かが=石川県)守護の富樫(とがし)家内の勢力争い(7月26日参照>>)に乗じてその富樫を倒し、以後100年に渡る百姓(本願寺宗徒)の持ちたる国を誕生させたのが、有名な加賀一向一揆です(6月9日参照>>)

当然ですが・・・
この一向一揆勢力が加賀一国に留まるワケはなく、徐々に勢力拡大を計っていく事になりますが、そんなこんなの永正三年(1506年)、春頃から北越で一向一揆の動きが活発になって来て、やがて越中(えっちゅう=富山県)が脅かされるようになって来ます。

『本朝通鑑(ほんちょうつうがん)には、
「永正三年六月、加賀一向一揆群起こし越中の国を寇す。国土遊佐、神保、土肥、椎名、戦に敗れ、越後国に至りて、援を長尾能景に求む」
とあります。

ご存じのように、室町時代は、幕府から任命された守護(しゅご=県知事)が各地を治めていましたが、その領地が複数あるため、当然、一人では治め切れないので、各地には守護代(しゅだい)という配下の者を置いて、事実上、守護代がその現地を治めていたわけです。

しかし、中央の勢力が衰え始める戦国時代になると、力で以って守護代が守護にとって代わる下剋上(げこくじょう)が頻繁に起こるようになり、その最たるものが上記の加賀一向一揆=百姓が守護にとって代わったという事になるワケですが、

そんな中で、当時の越中守護は畠山尚順(はたけやまひさのぶ)・・・この尚順は、あの応仁の乱の主要メンバーの一人=畠山政長(まさなが)(1月17日参照>>)の息子ですが、以前も書かせていただいたように、畿内の畠山の領地の攻防に必死のパッチ(7月12日参照>>)状態で、もはや「越中守護=畠山」の時代は政長の死を以って終わった感がハンパなく・・・

なので、越中に加賀一向一揆が侵攻してきた場合、その盾となるのは、守護代の遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)といった面々・・・しかしながら、現時点ではなかなかその対策が立てられない状況でした。

となると、いくら、ほぼほぼ名ばかり状態となっていても守護は守護・・・尚順は、同じ守護仲間の越後(えちご=新潟県)守護の上杉房能(うえすぎふさよし)越前(えちぜん=福井県)守護の朝倉貞景(あさくらさだかげ)らに援助を要請・・・受けた彼らとて、加賀一向一揆がどんどん大きくなって越中を侵食すれば、いずれは隣接する越前や越後にも波及して来るわけですから、ここは一つ、連携を組んで対処しなければ!

てな事で、房能は配下である越後守護代の長尾能景(ながおよしかげ)を越中へと派遣するのです。

この能景さんは、ご存じ上杉謙信(うえすぎけんしん)ジッチャンに当たる人物で、実のところは、先代守護の上杉房定(ふささだ)とはウマくいっていたものの、その息子の房能とはあまりシックリいっていなかったようですが、現時点では上司&部下の関係ですし、今は自国が危険に晒されている一大事ですので、個人的な肌の合わなさをアレコレ言ってる場合じゃござんせん。

かくして能景は、永正三年(1506年)8月、大軍を率いて春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣したのです。

おりしも、この8月9日、越前では、貞景の叔父である朝倉宗滴(そうてき・教景)九頭竜川(くずりゅうがわ・福井市)にて一向一揆に勝利(8月9日参照>>)したばかりですから、おそらく隣国越前の本願寺門徒は疲弊しているはず・・・このチャンスを逃すわけにはいきません。

ちなみに、この時、越中一向一揆に味方していた越後の武将たちを鎮圧するべく蒲原方面(かんばら=新潟県三条市や長岡市付近)に出陣していたため、息子の長尾為景(ためかげ=謙信の父)は、父に同行しませんでした。

こうして越中へと侵入した長尾軍・・・越中に入るやいなや、敵対する鈴木国重(すずきくにしげ)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)府久呂兼久(ふくろかねひさ)滑川城(なめりかわじょう=富山県滑川市)赤川久次(あかがわひさつぐ)東岩瀬城(ひがしいわせじょう=富山県富山市)などを次々と撃破して進み、8月18日には、越中守護代家の神保一族の神保慶明(じんぼうよしあき=神保良衡の説もあり)と合流して、蓮台寺(れんだいじ=富山県富山市)周辺でも一揆勢を撃ち破り、いよいよ、越中一向一揆の本拠地である砺波(となみ=富山県礪波市周辺)あたりへと攻め込んでいきます。

とは言え、一向一揆衆もなかなかの奮戦・・・しかも、ここで加賀や越前の一向一揆衆にも援軍を求めます。

先に書いたように、戦いに敗れたばかりの越前の一向一揆衆ではありましたが、「死なば極楽!」との合言葉のもと、彼らが命知らずの軍団である事、また、ここ越中を占領されたならば、当然、加賀へも越前へも敵が侵攻して来る事は明白で、そうなれば、せっかく樹立した本願寺共和国も潰されるが必至・・・という状況に、必死で立ち向かって来るのでした。

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般若野の位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永正三年(1506年)9月19日、長尾軍は越中増山城(ますやまじょう=富山県礪波市)の麓に広がる般若野(はんにゃの)において一向一揆衆と戦う事になるのです。

古くは源平の昔、あの木曽義仲(きそよしなか=源義仲)が戦った般若野の地(5月9日参照>>)・・・東部に丘陵を見てとれる草原に布陣する両者・・・開戦を知らせるホラ貝の音とともに、長尾軍は一気に南西方面へと押しまくるのです。

数の上では一向一揆側が有利ではありますが、長尾軍は戦闘のプロ・・・越中に入った後も、これまで何度も蹴散らして来たように、ここでも、難なく一向一揆を撃破できる・・・

・・・はずでした。

ところがドッコイ、ここで守山城(もりやまじょう=富山県高岡市・二上城とも)から撃って出て、今まさに南西に向かって押しまくる長尾軍の背後へと回ったのが越中守護代家の当主である神保慶宗(じんぼうよしむね)・・・

そう、実は、これまで一向一揆は、越中の守護代たちに再三に渡って使者を送り、一揆側の味方になってくれるよう呼び掛ける懐柔策を取っていたのです。

慶宗ら守護代の心の内としては・・・
「守護の畠山尚順も、えぇかげんうっとぉしいヤツやのに、そんな中で命令聞いて一向一揆を破ったとしても、結局、状況は今のままやん。
それやったら、このチャンスに守護側を蹴散らして、名実ともに俺らが支配した方が得策やんけ」
(←心の内なので、あくまで推測です)
と思っていた・・・そこを、一向一揆の懐柔策がくすぐったわけです。

激戦の中で、いきなり背後に立たれ、退路を失った長尾軍は、さすがに大混乱となります。

その大混乱の中、奮戦する能景は戦死・・・主だった武将たちも次々と討たれ、長尾軍は壊滅しました。

増山城跡の近くには、この時、能景の死を悼んだ神保一族の神保良衡によって、その首と胴体をつないで埋葬されたとされる能景塚(砺波市頼成新)が、今も存在します。

ところで・・・
かの戦地にて父の死を知った息子の為景・・・・
「コレって、大した戦略も無いままにそもそもの出陣命令を出した上杉房能に軍事的責任があるんちゃうん?」
と、命令しっぱなしで実質的に動かなかった房能に激怒・・・

翌・永正四年(1507年)に、房能の養子の定実(さだざね)を抱き込んで謀反を起こし、結局は越後守護代の長尾家が守護に取って代わるのですが、そのお話は2009年8月9日の長尾為景~守護を倒して戦国大名への第一歩】>>でどうぞ

一方、越中国内ではこの戦いの後、神保をはじめとする越中の有力武士たちは、一向一揆との協調路線で進んで行く事になりますが、それはそれで、国内全土を統率する者を持たないそれぞれの武士同士の覇権争いとなって国内は混乱したままなわけで・・・

やがて、祖父&父の無念を晴らすがのごとく、この越中に侵出して来るのが為景の息子=長尾景虎(ながおかげとら)・・・ご存じ上杉謙信ですが、そのお話は約半世紀後の3月30日【上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い】>>でご覧あれ。。。

もちろん、そこには、それぞれに世代交代した神保&椎名らも登場します。
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2017年9月13日 (水)

織田信長、最愛の女性~生駒吉乃

永禄九年(1566年)9月13日、織田信長・最愛の女性で、側室として二男一女をもうけた生駒の方が39歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

と言っても、正史や一級資料にほとんど登場しない事から、かなり謎多き女性です。

亡くなった日付も、今回は9月13日でご紹介しましたが、5月13日説もあります。
(wikiは5月13日になってるので、ひょっとしたらソッチの方が一般的なのかも…)

名前も、正式には生駒家宗(いこまいえむね)の娘とあるだけで、本名もわからず、没年齢も、信長の6歳年上の39歳説と、4歳年下の29歳説があります。

でも、信長は、正室の濃姫(のうひめ=帰蝶)(2月24日参照>>)との間に子供ができなかった一方で、「側室として二男一女をもうけた」=「彼女が産んだ男子が後継ぎになるんだから…」と思いきや、確実なのは、次男の信雄(のぶお・のぶかつ)と長女の徳姫(とくひめ・五徳)のみで、生年のハッキリしない嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)は、彼女の子供では無い可能性もあるのだとか・・・

とにもかくにも、その伝承の多くが、偽書の疑いのある『武功夜話(ぶこうやわ)の出典である事から、「疑わしい」との見解もあるにはあるのですが、とかく古文書の真偽なんて物は原本を確認しない事には何とも言えない物でして・・・

現に、この『武功夜話』の場合でも、それまで偽書説派だった歴史家さんが、原本を見た途端に肯定派に回ったなんて事もありますし、専門家の間でも意見が分かれているのが現状ですので、『武功夜話』そのものの真偽に関しては、原本をナマで見る事のできる専門家の方々に委ねたいと思います。

また、例え一級資料であったとしても、中に書いてある事がすべて正しいわけでは無いですし、まして『武功夜話』は、江戸時代に書かれた『軍記物』に分類される物ですので、個々のエピソードについては、それぞれ個別に検討していかなくてはならない物・・・

なので、今回は、そんな事を踏まえつつ、一般的に語られる信長の側室=生駒の方のお話を、『武功夜話』に登場する吉乃(きつの)というお名前で、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

尾張の国(愛知県西部)丹羽郡小折村(にわぐんこおりむら=江南市)馬借(ばしゃく=運送業)を営む経営者=生駒家宗の娘として生まれた吉乃は、はじめ、土田弥平次(どたやへいじ・つちだやへいじ)という人物のもとに嫁ぎますが、彼が、弘治二年(1556年)に戦死してしまった事から、実家へと戻り、その後は生駒家で生活していました。

この1度目の結婚相手の土田弥平次の土田氏が、生駒氏の縁者であったらしく、そんな関係からの婚姻のようですが、この土田氏が、信長の生母=土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)の出自筋に当たり、土田弥平次は土田御前の甥だったとも言われ、そうなると、信長とも縁続き・・・

Odanobunaga400a という事で、信長は、度々、この生駒家に出入りしていたようで・・・

もちろん、そこには、馬借という商売柄、近隣の情報が集まりやすく、その情報収集のために、信長が出入りしていたであろう事も、容易に想像できるわけですが・・・

そんな中で、出戻りとは言え、色白の美人で、やさしくて控えめな・・・いや、おそらく、二人が出会った頃は、未だ10代後半だった信長にとって、すでに結婚を経験してる親戚のキレイなお姉さんに母の面影を見たのかも知れません。

なんせ、母の土田御前は、幼い頃から信長を嫌って、「弟の信行(のぶゆき)(11月2日参照>>)ばかりを可愛がっていた」なんて言われてますから・・・その包み込むような大人のやさしさに母を追ったとしても不思議ではありません。

また、同じく、この頃、それまで駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を放浪していた生活から地元の尾張に戻って来ていた藤吉郎(とうきちろう)=後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、この生駒屋敷に出入りしていて、その天然の明るさから、吉乃とも親しく話すようになり、

「この人、オモシロイ人(*^-^))」
と吉乃がなったところで、
「馬のお世話でも何でもしますんで、どうか、殿さまにお口添えを…」
とと切り出して、吉乃が信長に彼を紹介・・・有名な「信長の草履を温める」エピソードも、実は、生駒屋敷での出来事だったなんて事も言われます(信長と秀吉の出会いは諸説ありますが…)

とにもかくにも、そうこうしているうちに、ほどなく吉乃は信長の子を身ごもり、正室=濃姫に気を使った信長は、郡内のとある屋敷で、ひっそりと出産させたのだとか・・・。

で、弘治三年(1557年)頃に長男を産んでから、次男→長女と、吉乃は毎年のように子供を出産しますが、ご存じのように、この頃から信長本人は、
桶狭間(おけはざま)の戦い(5月19日参照>>)に、
美濃(みの=岐阜県)侵攻(5月14日参照>>)に、
尾張統一(11月1日参照>>)に、
と大変忙しくなり、吉乃のもとにはおいそれと通えない日々が続くわけで・・・

一方の吉乃は、3人目の子=長女を産んだ後の、いわゆる「産後の肥立ちが悪い」という状況になり、病床に伏せるようになってしまいます。

そんな中、永禄六年(1563年)に美濃攻めの拠点とすべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に小牧山城を構築した信長は、この城に吉乃用の御台御殿(みだいごてん)なる建物を建て、彼女を住まわせるために呼び寄せようとしますが、ここで初めて、彼女が病気である事を知ったのだとか・・・

しかも
「もはや、動かすのも難しいかも…」
と、聞いた信長は、慌てて生駒屋敷に駆けつけ
「忙しさのあまりに会いに来なかった事を許してくれm(_ _)m
これからは、新居でゆっくりと養生したらええ」

と・・・

その言葉に、彼女は大いに喜び、信長の手を握りながら
「ありがとう」
と・・・

そして、残った力を振り絞って輿(こし)に乗り、小牧山城へ入城・・・家臣たちの前で、信忠や信雄の生母として信長から紹介され、彼女はここで、正式に側室となったとされます。

そんな彼女は、
「こんな立派な御殿が、私の家やなんて…夢のよう」
と涙を流しながら感激にに浸っていたのだとか・・・

その後は、信長も頻繁にお見舞いに訪れていたようですが、残念ながら、永禄九年(1566年)9月13日病が快復する事無く、彼女は帰らぬ人となったのです。

一説には、「信長には側室が22人ほどいた」とも言われますが、その中でも、やはり吉乃は特別扱いで、その死に際して信長は号泣したとされ、「彼女が信長最愛の女性だった」というのが一般的な見方となっています。

わからない事が多く、その実態がほとんど掴めない吉乃という女性・・・

しかし、その心の激しさとやさしさが交互に見え隠れする信長という人・・・そんな彼のハートを射止めた彼女は、信長の良いところも悪いところも受け止めるような大きな器を持った女性であった事でしょう。
個人的なイメージでは、やっぱ、信長より年上かな?

彼女の死の翌年=永禄十年(1567年)に、念願の稲葉山城(いなばやまじょう=)を陥落(8月15日参照>>)させた信長は、さらに、その翌年、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京へと上る(10月18日参照>>)事になります。

自分の実家に通っていたハチャメチャな少年が、天下への一歩を踏み出した事・・・彼女は、空の上から垣間見て、ホッと胸をなでおろした事でしょう~いや、母なる気持ちなら逆に「また、心配の種が増える~」と、気を揉んでいたかも知れませんね。
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