2009年11月13日 (金)

尼子経久~下克上の果てに・・・

 

天文十年(1541年)11月13日、北条早雲と並んで、戦国の下克上のお手本と言われる尼子経久が84歳で病死しました

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このブログで、すでに度々登場している毛利元就のお話の中で、その元就が家督を継いだ頃の毛利氏は、中国地方に勢力を誇っていた二大大名・大内氏尼子氏に挟まれた小国であったと書かせていただきました。

そして、そこに登場する尼子氏の事を、あの婆沙羅(バサラ)大名で有名な室町時代の武将・佐々木道誉(どうよ)を祖に持つ源氏の名門である事も、どこかのページで書かせていただいております。

しかし、そんな尼子氏・・・この尼子経久(あまこつねひさ)の代で、守護代を務めていた出雲(島根県)を追われているのです。

つまり、この経久は、一度地獄に落ちた後、再び這い上がって、一代で、出雲石見(いわみ)隠岐(おき・以上島根県)伯耆(ほうき)因幡(いなば・以上鳥取県)安芸(あき・広島県)備後備中備前美作(みまさか・以上岡山県)播磨(はりま・兵庫県)11ヶ国を手中に治める大大名にのし上がったというわけなのです。

まさに、下克上のお手本とも言える身の起しぶりですが、ただ、経久さんに関してのお話は、リアルタイムな史料が少なく、いずれも、後世の軍記物・・・お芝居がかった部分もあり、どこまで真実に近いのかはわかりませんが、とりあえず、本日は、その尼子経久の下克上物語を・・・

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長禄二年(1458年)に、父・尼子清定の居城・月山富田城(がっさんとだじょう)で生まれた尼子経久・・・当時の出雲の守護は京極氏で一門の尼子氏は、その守護代でした。

その主従関係の証として、幼い頃、京極氏に人質として出された経久は、おかげで京都という中心の地で、高い教養を身に着けるチャンスに恵まれます

根っからの武勇と相まり、文武両道の優れた若者に育った息子に、父・清定は大いに期待を寄せて、早くから政務につかせて経験を積ませようと、彼が21歳の時に家督を譲ります。

・・・とは、言え、父の希望は、単に守護代としての職務を真っ当するという物ではなく、守護の京極氏から、この出雲の地を乗っ取る事にありました。

すでに、父の思いを重々承知の経久・・・父とともに、税金を徴収しながら都に送らず、寺社領を横領するという行為で、京極氏を挑発します。

当然、京極氏は激怒して、守護代・経久をクビにするわけですが、彼ら父子には勝算がありました。

京都に郷を構える京極氏に対して、おそらく、地元の国人衆は、自分たちの味方についてくれるだろうと・・・

しかし、蓋を開けてみると、そのもくろみは見事ハズレ、ほとんどの国人が京極氏の味方となり、父子は、あっさりと敗れて地元を追われてしまいます

父・清定は浪人として諸国を放浪中に病死・・・経久は、一門の佐々木氏六角氏を頼りますが、いずれも門前払いで、しかたなく、母方の実家・真木上野介(まきこうずけのすけ)のもとに身を寄せながら、武者修行と称して出雲国内を巡り、昔なじみに声をかけて、「尼子再興を計りたい!」という自らの意思を示して協力を求めて回りました。

しかし、もはや、彼の味方になろうという人は、ほとんどいません。

わずかに、父・清定の弟・幸久の家系・山中氏の郎党が十数人、自らの元家臣が数十名・・・これでは、なんとも心もとない・・・

そんな中、経久は、月山を本拠地に活動する芸能集団・鉢屋党の頭目・弥三郎を味方に引き入れる事に成功します。

彼らの集団は、70名余り・・・
しかも、芸能集団という隠れ蓑・・・
経久は、秘策を考え出します。

浪人の身となってから約二年、文明十七年(1486年)が暮れようとする大晦日・・・まさに除夜の鐘が鳴り響く闇夜の中を、経久らの一団が、搦め手から富田城内へと侵入し、密かにその時を待ちます。

そして・・・ピ・ピ・ピーン・・・0時をお知らせします。
日の出は、まだ遠いものの、新年がやってきました。

かねてより、新年の祝賀行事をしきってきた鉢屋党は、
「万歳~!」
「おめでとうございま~す」
「いつもより、多めに回しておりま~す!」
と、笛や太鼓の音も賑やかに、新年を祝賀する歌舞を披露しながら、堂々と大手門から城内へと入ります。

新年の祝賀ムード真っ最中だった城内は、賑やかな踊りを一目見ようと、次々に人が飛び出してきて、本丸も館も、ほぼカラッポの状態に・・・

「今がチャンス!」とみてとった経久・配下の者が、一斉に火を放ち、城のあちこちから火の手があがります。

それを合図に、鉢屋党の面々が、きらびやかな衣装を脱ぎ捨て、衣装の下に隠し持っていた刀や槍で、周囲に群がる見物人に斬りかかります。

祝賀ムードで、多くの者が武器を持たずにいた城兵は、もう、こうなるとなす術もなく、次々と討たれていきます。

さすがに、城将の塩治掃部介(えんやかもんのすけ)は、槍を手に持ち応戦しますが、もはや、煙で、一寸先が見えない状態・・・近寄る者を斬って捨てた中に多くの部下の姿を見た掃部介は、「もはや、これまで!」と、妻子を斬り、自らも自害しました。

こうして、わずかの手勢で富田城を落とした経久の評判は、周辺諸国に一気に広まります。

一方で、京極氏が、時の当主・京極政経(まさつね)のもとで家臣団が分裂し、その勢力が衰えるという、経久にとってはラッキーな事もあり、政経の死後は、事実上、経久が出雲を統治する事となります。

その後、着実に領地を広げ、中国地方の覇者となっていく経久でしたが、途中、嫡男・政久(まさひさ)の死という悲しい出来事もありました。

永正十五年(1518年)に尼子に叛旗をひるがえした桜井宗的(そうてき)の居城・砥石城(といしじょう)を、息子・政久が大将となって兵糧攻めの最中、敵の矢に当たって亡くなってしまったのです。

一報を聞いて冨田城から駆けつけた経久は、まもなく宗的を討ち取りますが、すでに61歳になっていた彼には、期待の嫡男死は、かなりのショックでした。

亡き政久の嫡男・晴久(詮久)は、未だ幼く、次男・国久(くにひさ)、三男・興久(おきひさ)は、武勇は優れているものの、その器量は、経久のメガネに叶うものではありませんでした。

そこで、経久は、この後、自らの弟の久幸(ひさゆき・義勝)に家督を譲ろうとしますが、久幸は「総領の晴久が継ぐべき・・・我らが、後見人として晴久を盛りたてていくので、晴久の成長を待っていただきたい」と進言します。

「それならば・・・」
と、久幸の意見に従う経久でしたが、その事に不満を持ったのか、亨禄三年(1530年)、塩治を継いでいた三男・興久が叛旗をひるがえします。

この反乱は4年後の天文三年(1534年)に鎮圧され、興久も自刃しますが、この間に、尼子の配下となっていた安芸の武田氏友田氏大内氏に敗北し、あの毛利元就も尼子から大内に寝返り・・・と、中国地方の勢力図が徐々に変わりつつある中、経久は成長した晴久に家督を譲ります。

一方、これまでは、九州の大友氏との争いを重視し、東の尼子氏とは、まがりなりにも友好関係を築いていた大内氏が、ここに来て大友氏と和睦をし、逆に尼子氏を敵視しはじめます。

もはや両者の決裂が確実となった事で、早期に決着を着けたい晴久は、天文九年(1540年)、大内の参加となった毛利の郡山城を攻める事にします。

この時、27歳の晴久に、かの久幸は
「元就は智謀に長けた武将やから、血気にはやらず、じっくりと見据えてから事を起こすべきやで」
と進言しますが、そんな久幸を晴久は「尼子比丘尼(あまこびくに)とバカにしてその臆病ぶりを罵ったと言います。

すでに、その年齢から病気にふせっていた経久も、晴久を病床に呼び、
家が滅ぶのは、一族の不和から・・・この事を胸に刻んで、親類をいたわり尊敬して、わがままに驕ってはいかん!」
と、出陣をとりやめるよう説得しますが、もはや晴久は取り合いません。

出陣を前にして、兄・経久を見舞った久幸は、
「兄貴も、もうかなりのお歳ですから、僕も、潔く、かの地で討死する覚悟ですが、心残りは大将の器ではない晴久の事・・・僕ら二人が死んだら、この家が滅ぶのも、そう遠くないかも知れません」
と言い、二人は、涙を流しながら、別れの盃を交わしたのだとか・・・

3ヶ月以上に及んだ籠城戦で晴久は、案の定、元就に手痛い敗北を受け(1月13日参照>>)、久幸はその言葉どおり、晴久を最後まで守り抜いて討死しました。

その敗北と同じ年・・・天文十年(1541年)11月13日経久は静かに84歳の生涯を閉じました。

その昔、苦渋をなめた事で様々な経験を積み、飢えた者には食事を与え、凍えた者には衣服を与え、怪我をした者には薬を与え、討死した者の家族を保護するという、周囲への心配りが見事だったという経久・・・

病にふせるその目に、孫・晴久の敗北はどのように映ったのでしょうか・・・

また、彼の遺言ともいえる家が滅ぶのは、一族の不和からの言葉は、晴久の心に響いたのでしょうか?

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・・・では、ありますが、軍記物は、あくまで経久が主役で、主役を引き立たせるためか、晴久をかなりの愚将呼ばわりしていますが、現実には、晴久の時代が最盛期だったとも言われ、個人的にはそこまでの愚将とは思えませんが、この郡山城の敗北が、尼子氏にひとつの影を落とした事は確かかも知れません。
 

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2009年10月22日 (木)

西国の桶狭間・有田城外の合戦~毛利元就の初陣

 

永正十四年(1517年)10月22日、武田元繁に攻められた有田城を救援すべく出陣した毛利元就が元繁を討ち、初陣を飾りました

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この頃、中国地方では周防(すおう・山口県)大内氏と、出雲(島根県)尼子氏がしのぎを削っていて、毛利吉川小早川平賀などの小豪族は、その2大勢力の中間にあって身動きが取れない状態でした。

これまでも、それら小豪族の間で小規模な争いがくりかえされてはいましたが、大内氏の当主・大内義興(よしおき)足利義種(よしたね)を奉じて上洛し、永正八年(1511年)の船岡山の戦い(8月24日参照>>)に勝利して、中央での実権を握るにつれ、留守となった西国では、その争いが徐々に激化してきます。

もともと、この安芸(あき・広島県)という場所は、鎌倉時代から武田氏が守護となっていましたが、戦国の世となってそれらの小豪族が領地化して治めていたため、武田氏の旧領は、わずかしか残っておらず、武田元繁(もとしげ)は不満ムンムンで、何とか、以前の領地を回復する機会をうかがっておりました。

そんな時、安芸内部で小豪族争っている事態をおさめるべく、義興が幕府の命令として元繁に安芸内部の鎮静を命じたのです。

これ幸いと紛争を鎮静すべく行動を開始する元繁でしたが、それが、鎮静どころか、かえって紛争を大きくする結果になるのは目に見えています。

そんなこんなの永正十三年(1516年)8月、毛利氏の当主・毛利興元(おきもと)24歳の若さで亡くなります。

家督を継いだ幸松丸(こうまつまる)が、まだ2歳という幼さだった事で、大チャンスと見た元繁は、有田城(広島県山県郡)を攻めにかかるのです。

この有田城は、その2年前に、興元が武田氏から奪い、吉川元経(きっかわもとつね・興元の義弟)に譲り、武田への備えの城と位置づけていたものですが、ここを奪われれば、当然、その次は、毛利への所領に乱入してくるのは明白です。

かくして永正十四年(1517年)10月22日、有田城を救援すべく、亡き興元の弟・毛利元就が出陣します。

時に、元就21歳・・・「今まで何をしてたの?」と言いたいくらい遅い初陣でした。

・・・とは言え、大軍の武田に対して少人数しか集まらない状況に、側近たちからは、「少し様子を見るのが賢明・・・」と、出陣を反対されますが、すでに武田方による放火が始まったとの一報を聞いた元就は、取るものもとりあえず、戦場へと駆けつける・・・というなんともあわただしいものでした。

しかし、この時から、興元を失った毛利氏の将来は、元就の腕にかかる事になります。

まず、元就が目指したのは、城山のふもとで柵と防塁を築いて防戦を張っている武田配下の熊谷元直(くまがいもとなお)の陣・・・

つい先日、元就の吉川&小早川乗っ取り作戦のページ(9月27日参照>>)で、「元就の、戦場での武勇伝は、あまり聞かない」と書かせていただいたところですが、今回の初陣は、さすがに21歳の若さ・・・その話を撤回せねばならないほど、元就は先頭に立って、大いに腕を奮います。

途中からは、弟・元綱をはじめとする一門も駆けつけ、さらに吉川の援軍200も加わって、ついに熊谷の陣を占領・・・元繁の本営に迫ります。

防衛線を破られた事を知った元繁は、引き続き有田城を攻めるとともに、残り、半分強の手勢を5手に分けて周辺に配置し、毛利の進撃に備えます・・・その数、総勢4000.

攻める毛利勢は、先の援軍を加えても1000程度・・・しかも、熊谷との一戦をすでにこなしていますから、かなり不利・・・

しかしながら、元就も、もはやこれが最初で最後の戦いか!と思われるくらいに力を込めて采配を奮い、何度も突入を繰り返す事、約2時間・・・

とは言え、やはり多勢に無勢はいかんともしがたく、敵には、次から次へと新手が現れ、毛利勢は、徐々に、後方の又打川(またうちがわ)へと後退していきます。

やがて、奮戦空しく、ついに退却となり、川を渡って敗走しはじめます。

ところが、ここで・・・
勢い余った元繁がついつい深追いし、自ら槍をかざしながら馬で川の中へと乗り入れた時・・・

最前線に飛び交う一本の矢に撃ちぬかれて、水中に転落してしまいます。

それは、元繁を狙った物ではなく、完全に偶然の出来事・・・

そこを、すかさず、元就配下の井上光久(みつひさ)が首を取り、刀の先に刺して、高く高く掲げて叫びます。
「大将・元繁~討ち取ったり~~~!」

当然、一瞬にして空気は変わります。

敗走中の毛利勢は逆襲に転じ、あるじを失った武田勢は総崩れとなるのです。

終ってみれば、元繁に殉死した者=300、敗走中に討たれた者=780・・・というのは、どこまで正確かはわかりませんが、結果的には、見事な初陣となりました。

さすがの、元就も、有田城を守るだけでオンノジ・・・まさか、守護ご本人まて討てるとは思っていなかったラッキー含め勝利ではありますが、名将というのは、時に、運まで味方にしてしまうのが、戦の常。

この有田城外の合戦は、小人数で多勢を倒しただけでなく、この戦いによって、「安芸に毛利元就あり」を知らしめた戦いという事で、西国の桶狭間とも呼ばれています。

ただ、21歳でこの初陣を飾った元就が、厳島の奇襲戦(10月1日参照>>)で、全国ネットに躍り出るのは59歳・・・信長とは違って、元就には、更なる時間が必要となります。

そして、もう一つ・・・
運まかせの勝利に思える今回の合戦ですが、『毛利元就卿伝』という文献によれば、この合戦の前に、元繁の重臣の何人かが、すでに、吉川&小早川に寝返っていた事が書かれていて、それには、元就配下の世鬼一族なる忍びが絡んでいるとの話もあり、この先の謀略・知略の片鱗を見せてくれているところが、なんともたのもしい限りです。

後に、家督を争って元就が殺害する事になる弟・元綱が、元気に加勢する姿に、少し胸を熱くしてしまいますねぇ~。
 

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2009年10月19日 (月)

その後の武田の運命も変えた武田義信の自刃

 

永禄十年(1567)10月19日、父・武田信玄によって幽閉されていた嫡男・義信が自刃しました。

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天文七年(1538年)に、甲斐(山梨県)武田信玄の嫡男として、正室・三条の方との間に生まれた武田義信(よしのぶ)・・・ご存知のように、信玄は父・信虎から、あまり可愛いがられた経験がなく、ついには父を追放して家督を継いだ過去があり(6月14日参照>>)、自身の息子に対しては、ことのほか愛情を注いだようです。

いや、ちょっと可愛がり過ぎだったかも・・・

天文二十一年(1552年)、義信が15歳の時に、駿河(静岡県東部)今川義元の娘と結婚した時には、「領国喜大慶は後代にあるまじく」国を挙げての祝賀を催し、翌年に、時の将軍・足利義輝の一字を賜って義信と名乗った時には、「我より太郎(義信の事)は果報も何も上なり」と大喜びで、家まで新築しちゃいます。

さらに、その翌年には、先の今川に、相模(神奈川県)北条氏を加えた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれ、信玄は、気になってた信濃(長野県)の攻略に思う存分集中する事ができるようになります。

同じ年には義信も初陣を飾り、この頃からは、様々な書類も父子連名で記され、父も子も、そして周囲も、義信を信玄の後継者として疑わなかった事でしょう。

しかし、永禄三年(1560年)・・・義信の運命を変える大きな出来事が起こります。

東海一の弓取りと言われたあの今川義元が、尾張(愛知県西部)のちょっとした新興勢力に過ぎなかった織田信長桶狭間(おけはざま)で討たれたのです(5月19日参照>>)

さらに、その翌年の永禄四年(1561年)、あの宿命のライバル・越後(新潟県)上杉謙信との川中島の合戦です。

これまでも何度か書かせていただいているように、川中島の合戦は計・5回あり、最初の衝突は、すでに天文二十二年(1553年)に勃発していますが(4月22日参照>>)、5回の中で最も激戦だったとされる第四次の戦いが、この永禄四年の戦いで、一般的に「川中島の合戦」とだけ言う場合は、この第四次を指します(9月10日参照>>)

この時、前夜の闇にまぎれて軍を移動させた謙信が、夜明けとともに、そうとは知らない武田勢の目の前に現れ、前半は上杉有利に展開しますが、別働隊が到着してからは、数に勝る武田勢の優勢となり、結局、謙信のほうから兵を退いて終了となりました。

その第四次の川中島で、最初の父子の亀裂が生じたとされています。

戦いの最中は手傷を負いながらも奮戦し、武功を挙げた義信でしたが、戦いの後、「この優勢のまま終ろう」とする信玄と、「撤退する上杉勢を追撃すべき」と主張する義信との間で口論となったのです。

ご存知のように、この第四次の合戦で、信玄はその右腕とも言うべき弟・信繁(2008年9月10日参照>>)と、あの山本勘助を・・・もちろん、彼ら以外にも大勢の家臣を失いました。

まずは、これだけ多くの犠牲者を出した自軍を立て直す事が先決・・・更なる犠牲者を出すかも知れない深追いはやめようとする信玄と、若さゆえ血気にはやる義信・・・。

「状況に応じて、冷静で適切な判断を取るべき」と、大将としての心得を切々と説く信玄に対して、義信は一歩も退かず・・・いや、むしろ、義信のほうが、信玄を激しく非難したのだとか・・・

『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によれば、義信という人は「利根(りこん)すぎる」として、あまり良くないように書かれています。

「利根」って何?・・・と思って調べてみたら、ちょっと古い言い回しのようで、狂言や浄瑠璃での使用例が出てましたが、意味としては、「賢い事」とか「利発な事」とあって、要するに頭が良いわけですが、第2の意味として「口賢い」とありました。

つまり、「頭が良いために理屈をこねる」ってヤツ・・・それが、「過ぎる」のですから、かなりのものだったと想像します。

冒頭に「ちょっと可愛がり過ぎだったかも・・・」って書いたのは、ココです。

確かに、人間、生まれ持った性格というのもありますが、育った環境というのもあります。

自分の意見を持つという事は大事な事ですが、今回の場合、相手は父親で、しかも戦場では主君です。

その相手に対して、公衆の面前での激しい非難というのは、どうなんでしょう?

ここに、これまで大きな失敗をせずに、何事も優遇され続けて育ってきた坊ちゃんの影が見え隠れするのです。

さらに、その翌年、信玄は、四男の勝頼に家臣団をつけ信州高遠城主としますが、義信は、これも気に入らない・・・

ご存知のように勝頼の母は、信玄が滅ぼした諏訪頼重(すわよりしげ)の娘で、勝頼は、その諏訪氏の旧領を継ぐべく諏訪四郎と名乗ってたくらいなんですから、本来、高遠城主になったって何の問題もなく、武田を継ぐはずの嫡子たる義信が気にするべき事ではないのですが、一旦入った亀裂は、こんなところにも影響するわけです。

「自分が戦って取った場所を、まだ、武功もない側室の子に・・・」てな感じでしょうか。

そして、ここに来て徹底的となるのは、義元亡きあとの今川への侵攻・・・そうです。

義信の奥さんは、今川の人ですから、何がなんでも反対しなければ・・・

ついに永禄七年(1564年)、義信は、傳役(もりやく)飯富虎昌(おぶとらまさ)らと、父・信玄を討つ相談をするのです。

しかし、事は事前に発覚・・・信玄は、虎昌、そして義信の側近だった長坂源五郎曽根周防(そねすおう)首謀者を処刑し、家臣団は追放・・・義信を甲府の東光寺へ幽閉したのです。

さらに、今川氏の姫は離縁させて駿河へ返し、今川と決別・・・一方で、勝頼に信長の養女との縁組を成立させ、織田との友好関係を築き、着々と駿河攻めの準備に・・・。

後継者の道を絶たれ、東海一の美人と言われたラブラブな奥さんとも離れ、失意の義信は、永禄十年(1567)10月19日・・・自らの人生に終止符を打つのです。

信玄が駿河に侵攻したのは、それから1年と2ヶ月後の事でした(薩埵峠の戦い・12月12日参照>>)

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・・・と、信玄VS義信の確執を書かせていただきましたが、これは、「信玄LOVE」『甲陽軍鑑』の言い分・・・ご存知のように、『甲陽軍鑑』にしか登場しない山本勘助は、ひょっとしたら架空の人物かも知れないと噂されるくらい、すべてが真実とは言い難い記述もあり、何かと信玄を良いように書いている可能性大です。

ただ、義信が幽閉されたのも、側近や家臣団を潰されたのも事実ですから、義信の性格がどうとか、父子の対立がどうというのが創作だとしても、家臣団の中に不満分子がいて、彼らが、信玄が信虎を追放したように、義信を担いで何か事を起こそうとしたのは確かなようです。

それに、義信が幽閉された一方で勝頼が織田との架け橋になったとしても、未だ後継者の道が絶たれたわけではなかったかも知れません。

信玄としては、単に、不満分子の家臣と義信を引き離すための幽閉だった可能性も考えられます。

・・・というのは、山梨県笛吹市にある武田氏と縁の深い美和神社に、義信が亡くなる一年前に、三条の方が鎧を奉納しているのですが、これまで、神社の記録では、それは「信玄の鎧」となっていて、ずっと信玄の物と思われていたのです。

しかし、最近の研究で、その形や時期からみて、「どうやら、義信が元服の時に使用した鎧である」との見解が出されたのです。

死の一年前という事は、すでに義信が幽閉状態にあった頃・・・三条の方は、きっと、息子の将来を思い、夫との絆を思い、母として、一心に祈ったに違いありません。

希望的憶測ですが、ひょっとしたら、父と子との間を修復できる可能性があったとも受けとれます。

しかし、そんな三条の方の願いも空しく、義信は、自ら命を絶ちました。

享年30歳・・・今川の滅亡で運命が変わったこの利発な後継者の死が、やがては、勝頼の運命を変え、武田の運命をも変えてしまう事は、皆さんご承知の通りです。
 

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2009年10月 3日 (土)

応仁の乱・激戦~相国寺の戦い

 

応仁元年(1467年)10月3日、11年に渡る応仁の乱での相国寺の戦いが勃発しました。

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室町幕府・第8代将軍の足利義政後継者を巡っての争い(1月7日参照>>)に、管領家の畠山氏斯波(しば)のそれぞれの後継者争い、そこに、それぞれを支持する地方大名たちを巻き込み、東西に分かれて争われた応仁の乱・・・

最初の衝突は、その畠山氏の畠山長政畠山義就(よしなり)のいとこ同士の争い=御霊合戦からでした(1月17日参照>>)

そのおおまかな流れは、義政の弟・足利義視(よしみ)に味方した細川勝元(東軍)花の御所に・・・

義政の息子・足利義尚(よしひさ)についた山名宗全(持豊・西軍)が自宅・西陣に・・・

・・・と、わずか数百メートルの近さの場所に陣を構えてにらみ合った事で、応仁の乱の勃発の日とされる日5月20日>>に書かせていただきましたが、今回は、その中で、最も激戦となった相国寺の戦いを・・・

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勝元が花の御所を占拠し、将軍・義政から「山名追討」命令を得た事で、東軍が「官軍」、一方の西軍が「賊軍」となったわけですが、この影響からか、西軍からは、東軍に走る者や降伏する者、陣を離れて自宅に引きこもる者が続出しますが、宗全は、未だ上洛していない大名に呼びかけ、戦力を増強を図ります。

その甲斐あって西国の雄・大内政弘が西軍に加わって士気もあがり、京都各地で転戦しますが、今度は、東軍の総大将であった義視が職場放棄してトンズラするという大事件が・・・これで、東軍の士気が、一気に下がります。

そんな中で行われたのが相国寺の戦い・・・

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相国寺

応仁元年(1467年)10月3日、西軍の畠山義就と朝倉孝景が、相国寺に陣取る武田信堅(のぶかた)を攻撃します。

1日目は、相国寺・惣門で激しい戦闘が繰り広げられ、西軍に圧され気味の東軍は、一旦退却・・・この日の西軍は、討ち取った首を8輌もの車に積み込んで、意気揚々と西陣へ帰還します。

2日目は、「昨日の仕返しだ!とばかりに、東軍・畠山政長が必死の反撃で巻き返し、西軍・6000人の兵士を討ち取ります。
「応仁記」によれば、この日の戦いは、西軍の一色義直(よしなお)の兵が相国寺内の蓮池のそばで、多くの死亡者を出した事から、蓮池頽(くず)と呼ばれたと言います。

この戦闘で三日三晩、燃え続けた相国寺・・・最終的に、焼け跡に孝景が陣を取る事で、相国寺の戦いは一応の終結となしました。

しかし、結局は、占拠・奪回を繰り返し、双方ともにダメージを受けただけのような戦いでした。

このダメージが大きかったのか、この後、翌年の春まで、戦闘状態は中休みとなります。

・・・と、ここで、今回の相国寺の戦いで活躍する朝倉孝景さん・・・

けっこう最近、どこかでお名前を見たような・・・

そう、9月23日の【織田・朝倉連合軍VS斉藤道三~井ノ口の戦い】の時に、織田信秀と連合を組んで、斉藤道三を攻めた・・・(9月23日参照>>)

実は、その時の孝景さんの、ひいオジイチャンが本日の孝景さんです。

本日の孝景さんが朝倉氏7代目で、区別するために英林孝景・・・先日の孝景さんは10代目で宗淳孝景と呼びます。

ちなみに、本日の英林孝景は、なかなか魅力的な人物で、いわゆる、私たちが思い描く戦国大名のイメージ・・・そのイメージを持った最初の人ではないかと思います。

山名氏や細川氏のような守護大名的なイメージではなく、いわゆる策略と才知で下克上をのし上がっていく戦国大名のイメージ・・・

ではありますが、やはり魅力的ゆえ、たくさん書きたい事がありますので、本日の場合は、このへんで・・・いずれ、その魅力的な戦国武将ぶりをご紹介させていただくつもりですので、今、しばらくのご猶予を・・・。
 

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2009年9月27日 (日)

毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦

 

天文十九年(1550年)9月27日、毛利元就吉川興経・父子を殺害しました。

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これまで、何度か書かせていただいておりますが、後々、西国の雄となる毛利も、毛利元就(もうりもとなり)が家督を継いだ頃は、安芸(広島県)郡山城にわずかの家臣をかかえるだけの国人(半士半農の地侍)にすぎなかったわけで、その当時は、毛利の北=山陰の出雲(島根県)には尼子氏、西=周防(山口県)には大内氏、南=豊後(大分県)には大友氏・・・と、強大な勢力を誇る名門に挟まれ、身動き取れない状態だったわけです。

もちろん、それは毛利だけに限らず、大きな国に挟まれた小国は、その都度、あっちについたり、こっちについたりしながら、生き残るだけで精一杯・・・そんな状況の中から、毛利が一つ飛びぬけて、いや、最終的にすべてを手に入れるほどの大国になったのは、これ、ひとえに元就の謀略による領地拡大作戦のたまものです。

皆さんも、元就の『三矢(さんし)の訓(おし)え』の逸話(11月25日参照>>)などは、よくご存知でしょうが、その元就が、戦場で大暴れする武勇伝は、あまり聞かれた事がないのではないでしょうか?

彼は、たとえ合戦はしても、自らが戦場を駆け巡って武功を挙げるタイプではなく、緻密な情報活動から謀略&計略を張りめぐらしてのし上がっていくタイプの人なのです。

・・・と、ここで、一つ付け加えておきますが、これ、決して元就さんの悪口ではありません。

負ければ即・死亡の戦国時代で、コスイと言われようが、ズルイと罵られようが、勝たなければ生きぬいていけないわけですから、戦国武将に対する謀略家・策士・悪人・鬼などという代名詞は、褒め言葉だと思っています。

ましてや、尼子・大内・大友といったズバ抜けてデカイ名門に対して、武力で対抗できない小国なら、策略で対抗する以外に方法はないわけですから・・・。

そんな元就が、山陰・山陽に大きく根を張るきっかけとなったのは、次男・元春(もとはる)と三男・隆景(たかかげ)・・・元春が山陰の名族・吉川(きっかわ)に、隆景が瀬戸内の水軍を持つ小早川(こばやかわ)に、それぞれ養子に入って、その足がかりとしたわけです。

この両家は、双方に「川」の字がつく事で、その後「毛利の両川りょうせん)」と呼ばれ、早くに亡くなった長男・隆元の息子・輝元を支えて、毛利の躍進に一役も二役も買う事になるのです。

・・・で、本日は、その次男・三男の他家への養子の話なのですが・・・

一応、史料などによれば、この二つの養子縁組は、両家の側から、「後継ぎがいないので・・・」と頼まれ、「そんなに言うなら・・・」と元就が承知した形になってますが、血で血を洗う戦国に「そんなワキャないだろ!」と、怪しい香りがプンプン・・・

この養子縁組・・・いや、はっきりと、他家の乗っ取りと言っちゃいましょう!
これこそ、元就の謀略のなせるワザなのです。

まずは、三男の隆景の小早川入り・・・小早川家は、安芸安直・沼田本荘・竹原両荘一帯の地頭を務めた家柄で、それらの領地を二つに割って、本家の沼田(ぬた)小早川と分家の竹原小早川の二家に分かれていました。

・・・で、そんな竹原小早川の当主・興景(おきかげ)が病死し、後継ぎがいなかったため天文十三年(1544年)、12歳の隆景が養子となって後を継ぎますが、とりあえず、この養子縁組は、亡き興景さんの奥さんが元就の姪であった事もあって、何となく、「それもアリかな?」という雰囲気で、さしてモメる事もなかったようなのですが、問題は、その6年後の本家=沼田小早川との養子縁組です。

この沼田小早川家の当主だった正平(まさひら)は、隆景が竹原を継ぐ前年の天文十二年(1543年)、大内氏の傘下となって尼子氏の月山富田城を攻撃した戦いで戦死してしまっていたのですが、この沼田小早川家には繁平(しげひら)という後継者がいたのです。

・・・にも関わらず、「繁平は当主にふさわしくない」として、天文十九年(1550年)に、繁平に剃髪をさせて仏門に入れ、竹原を継いでいた隆景に沼田も継がせてしまうのです。

この時、当主にふさわしくない理由として繁平が視力に障害を持っていたからとされていますが、そのワリには家臣の猛反発に遭い、敵対する家臣をすべて殺害しての養子縁組となっています。

こうして沼田と竹原の両小早川家が一つになり、それをまとめる隆景・・・これは怪しいです。

そして、さらに怪しい次男・元春と吉川家の養子縁組・・・この吉川家も、藤原南家の流れを汲む安芸山形郡の地頭を務めた家柄で、かの応仁の乱の時には、東軍の細川勝元の配下として参戦し、当時の当主だった経元(つねもと)「鬼吉川」(←さっきの褒め言葉でっせ)と称されるほどの大活躍をしています。

そんな吉川家でしたが、やはりこの頃は毛利と同様に大国に挟まれていて、この時の当主・吉川興経(おきつね)は、その時々の情勢に応じて、尼子についたり、大内についたり・・・特に、マズかったのは、先ほどの沼田小早川の正平が戦死した月山富田城攻めの時、興経が、重要な局面で大内から尼子に寝返ったらしく、大内側では「正平の死の原因を作ったのは興経」と噂されていたのだそうで、そんな優柔不断な態度に不安を抱いた家臣が「興経を隠居させて元春を養子にして後を継いでもらいたい」と元就に言ってきたのだと・・・

まぁ、以前書かせていただいたように、もともとは毛利と吉川は、嫁にもろたりもらわれたりの関係にあって(7月10日参照>>)、元就の妻が興経の叔母さんという事で、可能性がゼロではありませんが、やはり「そんなウマイ話が・・・」と思ってしまいますね。

だって、興経には千法師という子供がいるわけですから、幼いとは言え、後継者がいるのであれば、家臣なら千法師を擁立して興経を隠居させるでしょうからね~。

しかし、天文十七年(1548年)、元就は、元春の養子縁組を成立させ、天文十九年(1550年)には強制的に興経を隠居させ、妻子も幽閉してしまったのです。

「そんな無茶なぁ!」と、納得いかない興経が不穏な気配を見せている・・・いや、これも、元就の流した噂の可能性大でしょう。

なんせ、興経は、わざわざ元就に手紙を送って、それを否定しているのですから・・・。

しかし、天文十九年(1550年)9月27日、新しき当主への謀反の疑いありとして、元就は、自らの配下の熊谷信直(くまがいのぶなお)らに命じて、興経の館を襲撃させ、興経・千法師の父子もろとも殺害してしまうのです。

こうして、元就は大きな合戦をする事なく、毛利の両川を手に入れました。

この頃は、すでに尼子氏を離れ、大内氏をバックにしていた元就は、両川を得た事でステップアップ・・・さらには、その大内氏(4月3日参照>>)や尼子氏(11月28日参照>>)まで滅亡させて、最終的に中国地方の覇者となるわけです。
 

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2009年9月23日 (水)

織田・朝倉連合軍VS斉藤道三~井ノ口の戦い

 

天文十三年(1544年)9月23日、織田・朝倉の連合軍が稲葉山城下に火を放ち斉藤道三を攻めた井ノ口の戦いがありました。

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もともと南北朝の時代がら、美濃(岐阜県)守護だったのは、清和源氏の流れを汲む土岐(とき)・・・その配下に守護代斉藤氏がいて、その下に小守護代長井氏という序列だったわけですが、その土岐氏の後継者争いで、斉藤氏の推す兄・頼武(よりたけ)に勝利して、天文五年(1536年)に第14代守護となったのが土岐頼芸(ときよりなり)でした。

この時、頼芸を強く推して勝利へと導いたのが、頼芸に仕えていた長井長弘・・・ここで、その長弘とともに頼芸を支えて主家である斉藤氏を追いやったのが、京都の妙覚寺の僧から還俗(げんぞく・出家していた人が一般人に戻る事)して、当時、長弘の家臣となっていた人物・・・

彼は、もともと西村姓を名乗っていたのを、主君の信頼を得て、主家の長井姓を賜り、この頃は、長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)と名乗っていた・・・この人が斉藤道三(どうさん)のお父さんです。

近年の「六角承禎条書(ろっかくじょうていじょうしょ)の発見により、今や、道三の出世物語は、親子2代の話である事が定説となっていますが、このあたりまでは、父である新左衛門尉さんのお話です。

まもなく長弘が亡くなり、その息子の景弘が小守護代を継いだと同じ頃に新左衛門尉も亡くなり、こちらも息子の新九郎規秀(のりひで・道三)が継ぎますが、いつの間にか、景弘の名前が長井氏の公文書から消え(道三に殺されたとも)、規秀が、その名跡を継いでしまいます・・・つまり乗っ取っちゃいました。

先の長井氏のクーデターで落とした斉藤氏の居城・稲葉山城に道三が入り、その名を長井規秀から斉藤利政(としまさ)に変えたのは天文七年(1538年)頃と思われますが、その頃には、その名の通り斉藤氏の名跡も継ぎ、もはや守護=頼芸も名ばかりとなり、実権は道三が握っていたのです。

・・・と、長い前置きになりましたが、その頃から勢力をつけてきたのが、隣国・尾張(愛知県西部)の下4郡を支配する清洲織田家のひとり織田信秀(のぶひで・信長の父)です。

未だ、織田家内の内紛も続く中、隣国の三河(愛知県東部)松平にも手を出し、那古屋(なごや)を奪ったのは、ちょうど道三が斉藤を名乗り始めたかも知れない天文七年の事・・・ここを本拠地として他国への軍事行動を起こしはじめます。

ここで、水面下で動き始めた人が、もう一人・・・かの頼芸です。

天文十一年(1542年)に、道三によって尾張から追放された彼は、近江(滋賀県)に勢力を誇る六角氏六角定頼(さだより)の娘が嫁さんだった事で、有力大名の六角氏の支援を得られる自信からか、この信秀と、越前(福井県)朝倉孝景(たかかげ)の仲介役となるのです。

朝倉には、冒頭の土岐氏の守護争いで、頼芸に負けた頼武の息子・頼純(よりずみ)が庇護されていて、一時は、朝倉氏と六角氏が彼を推して頼芸と争った、言わば宿敵だったわけですが、もう、そんな事、言ってられません。

信秀にとっては渡りに船・・・。

一方の孝景としては、織田家とは、ともに斯波(しば)家の家臣という立場ではあるものの、朝倉は、守護代を任される直臣で織田家は陪臣(ばいしん・家臣の家臣)・・・そこに、何等かのわだかまりがあったかも知れませんが、ホンネとしては、今現在も、「頼純を守護に・・・」という思いを持っていますから、ここは一つ、連携を組んで、道三を倒そうと、一歩踏み出したのです。

かくして、天文十三年(1544年)9月、織田・朝倉連合軍が美濃への侵攻を開始します。

19日には、赤坂の戦いで勝利し、その勢いのまま、連合軍は、天文十三年(1544年)9月23日道三の稲葉山城に迫ります

ふもとの城下町・井ノ口に火を放って焼き払い作戦にでますが、この時は、道三の巧みな反撃を受け敗走・・・斉藤軍の追撃を受けた織田軍は、木曽川へと追い詰められ、5000の死者を出すという大打撃を受けてしまいますが、ころんでのタダでは起きない信秀・・・大垣城だけは占領します。

しかし、結局は、その後も道三に翻弄され、美濃侵攻はいっこうにはかどらない信秀も、一方の国内では順調に勢力をのばし続け、自国の守護・&守護代をしのぐ勢いなり、尾張の半分以上を制したばかりか、美濃の西半分も手に入れます。

なのに、やっぱり道三とは・・・と、このお話は、信秀VS道三の最後の戦いとなる加納口の戦いのページでどうぞ>>
 

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2009年9月 1日 (火)

謙信VS信玄!第一次川中島の合戦~布施の戦い

 

天文二十二年(1553年)9月1日、犀川を渡り布施に布陣していた上杉謙信の軍が、武田信玄軍の先鋒をを破りました・・・世に言う、第一次川中島の合戦・布施の戦いです。

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川中島に関しては、何だかんだで随分と期間が空いてしまいましたが、ココだけホッタラケにするわけにもいかず、今回書かせていただきます。

すでに何度か書かせていただいている川中島の合戦・・・今回の布施の戦い以外は、すでにこのブログで最低一度は書かせていただいております。

ご存知のように、全部で5回と言われている謙信VS信玄の川中島の合戦・・・

このうち、第四次の八幡原の戦いが、あの♪鞭声粛々~♪のくだりで有名な一番激しい戦いで、例の一騎打ちもあり、信玄の弟・信繁の討死(2008年9月10日参照>>)もありで、一般的に「川中島の合戦」と言う場合は、この第四次の戦いの事を指します。

・・・って、「全部書いとるやないかい!」とお思いでしょうが、上記の第一次と第二次の間に、今回の布施の戦いが入ります。

実は、この第一次川中島の合戦と呼ばれる戦いは、天文二十二年(1553年)4月に行われた更級八幡(さらしなはちまん)の戦いの前半戦と、同じ年の8月~9月にかけて行われる布施(ふせ)の戦いの後半戦を合わせて第一次と呼ばれます。

・・・と、長い前置きになりましたが・・・

天文十一年(1542年)、諏訪頼重(すわよりしげ)を滅ぼして諏訪一帯を手に入れた甲斐(山梨県)の戦国大名・武田信玄(当時は晴信)は、さらに信濃(長野県)の奥深くにまで領地を広げるべく、度々侵攻します。

天文十九年(1550年)には小笠原長時林城を攻略した信玄は、いよいよ天文二十二年(1553年)、その長時が逃げ込んだ葛尾(かつらお)を包囲・・・長時ともども、葛尾城の村上義清も追放して、信濃の中部・東部を手中に収めました。

信濃の国人衆らとともに、越後(新潟県)上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼った義清は、居城の葛尾城を奪回すべく、謙信から5000の兵を預かり、更級八幡に布陣していた武田勢を急襲し、その勢いで、見事、葛尾城を奪回します・・・これが4月22日・23日の第一次川中島の合戦=更科八幡の戦いです。

謙信が、この戦いに乗り出してきた事を知った信玄は、一旦、兵を退き、休養をとり、態勢を整えて、3ヶ月後の7月25日、再び、甲斐を出陣します。

約1万の大軍を擁する武田勢は、義清の籠る塩田城をはじめとする佐久郡小県(ちいさがた)の支城を破竹の勢いで落とし、義清の残党を次々と蹴散らしながら、8月には川中島へと入ります。

一方の謙信・・・もはや、信玄との対決は避けられないものと判断し、こちらも約8000の兵を率いて春日山城を出陣・・・8月下旬には(さい)を渡り、布施(長野市)一帯に陣取ります。

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして天文二十二年(1553年)9月1日、上杉勢が武田方の先鋒を破る形で、戦闘の火蓋が切られました。

そのまま、勢いに乗って八幡(やわた)まで進出した上杉勢は、荒砥(あらと)を落とし、その時、信玄が本陣を置いていた塩田城へと迫ります。

しかし、今度は9月13日、武田勢が夜陰にまぎれて奇襲作戦を決行・・・荒砥城に放火して反撃します。

・・・とは言うものの、この9月初旬から中旬にかけての戦況や勝敗に関しては、あれやこれやの諸説ありで、確かな事はわからない小競り合いの連続のような戦いだったようですが、おおむね上杉優勢という見かたがされているようです。

しかし、結局、本陣の塩田城を攻撃できないまま、9月20日、謙信は陣を引き揚げ、春日山城への帰途につきます。

予想以上に遠征が長引いた事で兵糧が尽きてきた事、まもなく10月という事で越後ではそろそろ冬支度に入らねばならない事・・・などの理由があったものと思われますが、もともと、お互いがウワサの強敵と、いきなりの大決戦をするつもりではなく、「まずは、敵を知りたい」という気持ちでの出陣であったようです。

なぜなら、謙信の撤退を見た信玄も、10月7日を以って塩田城をあとにし、甲斐に戻っているからです。

おそらくは、この第一次川中島の前半戦であった更級八幡の戦いでは、謙信は義清に兵を貸しただけで、本人は、出陣しなかったのではないか?と思います。

そうなると、謙信VS信玄の直接対決となったのは、まさに、この布施の戦いが最初という事になり、お互いの力量を計る戦いだった可能性、大です。

特に、謙信は、この先、本格的に信玄と戦うための前哨戦と位置づけていたものと思われます。

・・・というのも、この布施の戦いを終えて、春日山城に戻った謙信は、すぐに上洛し、第105代・後奈良天皇に拝謁・・・『私的戦乱平定の綸旨(りんじ・天皇家の命令書)を授かっています(4月27日参照>>)

つまり、これで、謙信が官軍、その謙信に敵対し、戦乱を巻き起こす信玄は朝敵(国家の敵)であり賊軍という事になります。

これで、正々堂々、信玄と戦う大義名分ができました。

この次に、謙信と信玄が相まみえるのは、2年後の弘治元年(1555年)7月19日・・・第二次川中島の合戦~犀川の戦いです。

冒頭にもリンクがありますが、コチラからもどうぞ>>
 

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2009年8月25日 (火)

鉄砲伝来~異説とその後・・・

 

天文十二年(1543年)8月25日、種子島に漂着した中国船に乗船していたポルトガル人によって、日本に鉄砲が伝えられました。

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鉄砲伝来については、すでに3年前の8月25日に、島民の様子やら領主の種子島時尭(ときたか)の話やら書かせていただいたので、その定番の経緯については、そちらでご覧いただくとして(2006年8月25日を見る>>)、本日は、異説・・・というか、別ルートでも伝来していた?というお話と、戦国の戦い方を変えた鉄砲のその後のお話をさせていただきます。

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そもそも、定番となっている鉄砲伝来についての記録というのは、慶長十一年(1606年)に成立した『鉄砲記』なる書物に書かれている事で、それが、書面に残る唯一の鉄砲伝来の記録という事になっています。

しかし、実は、この書物・・・種子島久時という時尭さんの息子が書いたもの・・・

つまり、戦国の戦い方を一変させた鉄砲という武器を最初に手に入れたオヤジさんの功績を、メッチャかっこよく書いてる可能性アリって事です。

そもそも、伝えた側のポルトガルの記録によれば、「日本を発見したのは1542年」という事で、すでに1年前に、誰かが日本に来てるという事になります。

また、この時代のヨーロッパでは、火縄ではなく火打ち石式の銃が主流で、火縄が主流だったのはベトナムやマレーなど東南アジアだったのだとか・・・

・・・で、上記の様々な矛盾を解決する説として考えられているのが、前年の天文十年(1542年)に例のごとく、中国船の漂着というサプライズで種子島に来たポルトガル人が、まだ、日本に鉄砲が伝わっていない事を知り、「これは商売になるゾ!」とばかりに、翌年、見本とも言うべき鉄砲を持って、再び、種子島にやって来る・・・

持参したのは、もちろん、母国で使ってるほうではなく、アジアで大流行している火縄銃のほう・・・という事になります。

先ほどのポルトガル側の記録にある1542年に日本を発見した人物は、アントニオ・ダモッタフランシスコ・ゼイモトアントニオ・ペイショットという3人の人物・・・

日本側の記録にある翌・天文十二年(1543年)8月25日に鉄砲を伝えたポルトガル人の名前は「牟良叔舎」←コレが、中国語で読むと「フランシスコ」なのですよ!

・・・とは言うものの、「売る気満々の商売人から買った」というよりは、「たまたま漂着して助けてやった人物が持っていた物を、若き殿様が目に止め・・・」ってなほうが、世紀の武器の伝来ドラマとしては、確かにカッコイイですわな。

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・・・と、公式の鉄砲伝来のお話とは別に、もう一つ、非公式の伝来のお話も残っています。

それによれば、鉄砲伝来は、先の種子島より3年早い天文九年(1540年)に、当時、五島列島付近を中心に荒らしまわっていた海賊の頭目・王直が、平戸城主だった松浦興信(おきのぶ)に、弾薬付きで一挺の火縄銃を献上したのだそうな。

この王直という人物は、名前でお察しの通り中国人・・・明を追われて倭寇(わこう)を率いていた人物で、以前、応永の外寇(6月26日参照>>)のところで書かせていただいた、倭寇の後半に登場する中国人自身による倭寇の集団を率いていたのです。

この時、鉄砲を気に入った興信は、さらに十挺の銃と三十貫の弾薬を王から購入したという事なので、やっぱりこれも見本持参のビジネスという事なのか?
(そら、スーパーの肉売り場の横で、オバチャンが肉を焼いて配るはずやww)

・・・で、その興信の息子の26世・興信が、本来、伝わったとされる天文十二年に起こった肥前相神ノ浦の戦いで、鉄砲を使用したという事なので、これが本当なら、こっちが初という事になりますが、あくまで非公式なので・・・

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ところで、そんな鉄砲・・・最盛期には全国に30万挺はあったと言われるほど戦国武将に大人気だったわけですが、徳川家康が天下を取って太平の世となってからは、その膨大な数の鉄砲はどうなっちゃったのか?

まったく、噂を聞かないので、平和の中じゃ無用の長物として無くなっちゃったのかと思いきや、これがなかなか・・・皆、意外と鉄砲を持ってたんですね~

江戸幕府は、各藩に「君とこは○○石やから○○挺」と、石高に応じて一定の数の鉄砲を、むしろ常備するように義務づけています(そのほうが管理しやすい)、民間でも、狩猟に鉄砲を使っていたのはご存知の通り・・・

あの島原の乱(2月28日参照>>)の時には、秋月藩の黒田家が鉄砲を使用していますし、大塩平八郎の乱(2月19日参照>>)の時も、大塩が持っていた大砲に対して、幕府は鉄砲で応戦してます。

・・・と、そうです。

この二つの乱は、すでにブログに書かせていただいておりますので、お気づきでございましょうが、島原の乱は大坂夏の陣から約20年後の3代将軍・徳川家光の時代

そして、大塩の乱は、黒船が来航する15年前の12代将軍・徳川家慶(いえよし)の時代

つまり、江戸時代のはじめのほうと終わりのほう・・・その間、誤解から鉄砲自殺をしちゃった福知山城主の稲葉紀通さん(12月7日参照>>)なんかもいましたが、幕府や藩の持つ鉄砲を総動員して戦うような大きな合戦はなかったわけです。

・・・て事で、要は、江戸時代を通じて、鉄砲はたくさん保持されていたわけですが、実践に使われる事がほとんどなく、ただ、持ってただけ・・・なので、この間、技術的にはほとんど進歩がなく、幕末の長州征伐(6月14日参照>>)のところで書かせていただいたように、多くの藩は、外国との交戦で痛い目を見て、最新鋭の武器に切り替えた長州には、太刀打ちできないような戦国さながらの火縄銃・・・てな事になったわけなのです。

以上、本日は、鉄砲伝来記念として、イロイロ書かせていただきました~

この後は、おふざけで家電の取説風に書いた【火縄銃・取扱説明書】もお楽しみください>>
 

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2009年8月21日 (金)

毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城の攻防

 

永禄四年(1561年)8月21日、毛利元就が、大友宗麟の攻撃を受けていた門司城の救援に、息子・小早川隆景を派遣しました。

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戦国三大奇襲戦の一つと言われる厳島に戦い陶晴賢(すえはるかた)を倒し(10月1日参照>>)た後、若き当主・大内義長を自刃に追い込んで、中国地方の名門・大内氏を滅亡(4月2日参照>>)させた安芸(広島県)の戦国大名・毛利元就(もとなり)

その大内氏と覇権を争っていた、やはり名門の尼子氏も、ここのところの度々の交戦で弱体化が見え始めていました(12月24日参照>>)

そんな中の、九州の玄関口・門司に建つ門司城・・・室町時代からこの城を支配していた大内氏が滅亡した事で、その後は豊後(大分県)大友宗麟(そうりん・義鎮)にゆだねられるはずであったこの城を、永禄元年(1558年)6月に元就の三男・小早川隆景(たかかげ)が奪取し、毛利はここを拠点に北九州への勢力拡大を謀ろうと考えます。

一方、その翌年の永禄二年(1559年)に、それまでの豊後・肥前(佐賀県)肥後(熊本県)に加え、新たに豊前・筑後・筑前((福岡県南部)の守護となり、室町幕府13代将軍・足利義輝から九州探題を任される事となった宗麟にとって、この毛利の体制を許しておくわけにはいきません。

もとより、日明(にちみん)貿易南蛮貿易でガッポガッポ儲けている大友氏にとって、門司と関門海峡の制海権は生命線とも言える物です。

かくして永禄四年(1561年)春、宗麟は、配下の名将の立花道雪戸次鑑連)に1万5千の大軍をつけ、門司半島を攻撃させますが、門司城は標高175mの山頂にあるなかなかの要害・・・しかも、守備を任された城将・仁保隆康(にほたかやす)以下、守備兵が踏ん張り、容易に落す事ができませんでした。

この状況にイラだった宗麟・・・前代未聞の作戦に出ます。

先ほども書いたように、海外との貿易に長けた宗麟・・・しかも、ご存知のようにキリスト教がらみで、外国にはかなり顔が効きます(11月11日参照>>)

Nanbansencc ・・・で、その人脈を利用して、なんと、博多に停泊中だったポルトガル船の出動を要請・・・

8月1日、関門海峡に現れた南蛮船は、海上から門司城に向かって砲撃を開始したのです。

日本の軍事史上、初の艦砲射撃だったとされるこの攻撃・・・インドゴアからやってきたこの最新兵器には、さすがのも隆康も驚愕し、城兵たちもビビりまくります。

今度、これに慌てたのは元就です。

「このままでは、門司城があぶない!」とばかりに、永禄四年(1561年)8月21日、かつて、この門司城を落した立役者=息子の隆景を救援に向かわせるのです。

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

隆景の到着後、ほどなく瀬戸内最強の毛利水軍が大量に押し寄せ、何とか関門海峡の制海権を握る毛利水軍・・・。

やがて、門司城に入った隆景を待っていたのは、内応工作・発覚のニュース・・・宗麟の仕掛けた内応工作に答えて、門司城内には、すでに内通者がいたのです。

事前に発覚した事で、この内通者を処分し、大事には至りませんでしたが、隆景は、逆に、この一件を利用する事を思いつきます。

周囲にいる大友勢に向かって烽火(のろし)をあげて、あたかも内通が成功したかのように見せかけたのです。

烽火の合図を信じて一気に門司城へと迫る大友軍・・・寸前のところまでひきつけておいて、いきなり、怒涛のごとく城外へ撃って出ると同時に、それまで海上に展開していた水軍の兵が、これまた怒涛のごとく上陸し、城に近づいた大友軍を挟み撃ちにします。

10月10日、明神尾の激戦と呼ばれるこの衝突で、戦況は一気に毛利へと傾きます。

しかし、大友軍はなおも諦めず、10月26日の激戦では、道雪らが、大量の弓矢と鉄砲を城内へと撃ちこんで奮戦したりもしますが、結局、最後まで毛利有利の展開をひっくり返す事はできず、ついに11月5日、大友軍はやむなく撤退を開始・・・ここに門司城攻防戦は、毛利軍の勝利となったのでした。

それにしても・・・
海上からの艦砲射撃と聞けば、幕末の薩英戦争(7月2日参照>>)函館戦争(5月11日参照>>)を思い浮かべてしまいますが、戦国時代・・・それも、意外に早い段階で行われていたとは・・・

ちょっどびっくりですね。
 

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2009年8月15日 (土)

織田信長・天下への第一歩~稲葉山城・陥落

 

永禄十年(1567年)8月15日、かねてより再三に渡って織田信長の侵攻を受けていた斉藤氏の居城・稲葉山城が陥落しました。

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弘治二年(1556年)4月20日、主君を倒して国を盗り、美濃(岐阜県)のマムシの異名をとった斉藤道三が、息子・義龍のクーデター(10月22日参照>>)により長良川に散りました。

ウソかマコトか、その道三から「娘婿に国を譲る」という約束(4月19日参照>>)をとりつけていた織田信長(正室・濃姫が道三の娘)は、「舅の弔い合戦」を大義名分に、その後、再三に渡って美濃へ侵攻しますが、天下の名城をうたわれた居城・稲葉山城はさすがに堅固であり、また、義龍がなかなかの名君であった事から、度々の苦戦を強いられます。

そんな中の永禄四年(1561年)、義龍が35歳とい若さで急死し、息子の龍興(たつおき)14歳で家督を継ぎます。

酒や色に溺れた愚将と称される龍興ですが、それは、あくまで信長側から見た後世の見解で、個人的には、それほどダメな武将とは思えないのですが、とにかく、祖父・道三と父・義龍が、あまりにすばらしかったため、「そこまでの器ではない」と言ったところでしょうか・・・やがて、家臣との亀裂が生まれ、それを諌めようとした竹中半兵衛「稲葉山城乗っ取り事件」(2月6日参照>>)なんかもありつつ・・・

・・・と、そんな状況を見逃さないのが、かの信長でした。

こちらの稲葉山城へちょっかい出しつつも、その間にキッチリ尾張(愛知県西部)を統一し、ラッキーがらみの桶狭間(5月19日参照>>)で今川義元を倒した彼は、今こそチャンスとばかりに、本格的に稲葉山城の攻略へと的を絞ります

かねてより、小回りのきく木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)によって、水面下で行われていた美濃の国人衆への調略が功を奏し、永禄十年(1567年)、斉藤氏以前の土岐氏の代からの美濃の重臣であった美濃三人衆=稲葉一鉄(いなばいってつ)・氏家卜全(うじいえぼくぜん)・安藤守就(もりなり)勧誘に成功・・・その呼びかけに応じた彼らは、8月1日、稲葉山下の井ノ口城下に火を放ち、稲葉山攻略ののろしを挙げました(8月1日参照>>)

美濃国人衆を含めた織田軍の総勢は約1万5千・・・一方の斉藤軍の詳細な数は不明ながらも、堅城の防御力を活かし、なかなかの抵抗を試みますが、あらかじめ兵を分散して配置していた事が、かえって致命的となってしまいます。

信長は、四方に鹿垣(ししがき・柵)を築いて金華山を囲み、城と外部の連絡を遮断する「取り籠め」作戦を決行しながら、徐々に攻め立てます。

Inabayamazyoufuzinzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

正面の上り口にあたる大手・七曲がり口からは、美濃国人衆を含む旧斉藤家・家臣たちが、信長本隊とともに進み、城の守りの要所であった瑞龍寺口からは柴田勝家佐久間信盛とともに攻め上ります。

かくして永禄十年(1567年)8月15日、信長の総攻撃に半月間耐えた堅固な城も、とうとう陥落する事となります。

この時、(から)め手に位置する険しい山道を、少数の精鋭のみで登り、ゲリラ的作戦で敵を翻弄させ、目を見はる武功を挙げたと言われているのが、かの木下藤吉郎・・・ただし、この藤吉郎の動きに関しては、前年の墨俣の一夜城(9月14日参照>>)の一件も含めて、創作の可能性が高いとの事ですが、果たして搦め手から劇的に突入したかどうかはともかく、この一連の稲葉山城の攻略において、彼が相当な働きをした事は確かなようで、この戦いが、木下藤吉郎・大出世の飛躍の合戦になった事だけは事実と言えるでしょう。

道三の死から11年・・・悲願の稲葉山城を攻略し、龍興を追放した信長は、井ノ口と呼ばれていたこの地を岐阜と改めます。

その名前の由来は、信長の側近だった僧・沢彦(たくげん)が発案した、古代中国の周王朝文王殷王朝を倒した時に挙兵した地名「岐山(ぎざん)「岐」と、孔子が誕生した地の「曲阜(きょくふ)「阜」を取ったものと言われています。

城の名も、稲葉山城から岐阜城に改められ、その城郭は、名城の稲葉山城を土台にしながらも、さらに難攻不落で、しかも、山頂とふもとの2ヶ所に天主(安土城と同じく天守ではなく天主です)がある壮麗な造りに建てなおされました。

現在、千畳敷と呼ばれる石組みのある場所がふもとの天主のあった場所で、それは信長の居館として使用され、広い庭園や豪華な障壁画で飾られていたのだとか・・・

この岐阜城にて天下取りの道へと歩む事になる信長と、興福寺を脱出した将軍家の後継・足利義昭(7月28日参照>>)が出会うのは、この翌年・永禄十一年(1568年)の事となります。

一方の龍興は、一旦、伊勢に逃れて長島の一向一揆(5月16日参照>>)と同調した後、近江(滋賀県)浅井長政から越前(福井県)朝倉義景の元に身を寄せていた天正元年(1573年)、信長の越前征伐で最も激戦となった刀禰坂(刀根坂・とねざかの戦い(8月14日参照>>)にて、壮絶な戦死を遂げています。

思えば、信長が稲葉山城攻略に費やした11年間というものは、半士半農の国人&土豪の集団を束ねるそれまでの戦国大名と同じだった尾張の田舎侍が、全国ネットに躍り出て、自らの家臣をプロの戦闘集団に育て上げるために費やした時間だったと言えるかも知れませんね。
 

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2009年8月 7日 (金)

長尾為景~守護を倒して戦国大名への第一歩

 

元正三年(1507年)8月7日、長尾為景越後を追われた上杉房能が、松之山郷天水越にて自害しました。

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長尾為景(ながおためかげ)・・・

管領が将軍を追放した細川政元(6月23日参照>>)、一武将が公方を倒した北条早雲(10月11日参照>>)とともに、この為景という人も守護代が守護を倒すという下克上をやってのけ、戦国乱世という時代の幕を開けた1人であります。

戦国も前半の群雄割拠の頃という事で、なかなかドラマではお目にかからない為景さんですが、あの上杉謙信のお父さんと言えば、「おぉ・・・そうなのか!」と、なんとなく親しみが湧きますよね。

長尾家は代々上杉家に仕える守護代という家柄・・・関東管領職を独占していた同じ上杉家内で、扇谷(おうぎがやつ)上杉家山内(やまのうち)上杉家が関東の覇権を巡って争った永世元年(1504年)の立河原の戦い(9月27日参照>>)では、この為景が、山内上杉家の顕定(あきさだ)を助けるべく参戦したとの記録も残りますから、この山内上杉の配下にあったわけです。

以前から度々書かせていただいております通り、もともと関東・鎌倉に拠点を置く足利家が、京都にて室町幕府を開いたわけで、そもそもその室町幕府の守護というのは、その京都や鎌倉に身を置き、守護を務める現地の内政は、守護代が取り仕切っていましたが、「それでは基盤が弱くなる」として、この戦国期になって、現地に赴任するようになっていたのです。

しかし、ここ越後(新潟県)には、もともと国人という代々その土地を治める豪族がいるわけで、彼らにとっては上杉は関東からやってきたよそ者・・・なので、上杉家は、現地の国人たちとモメる事なくすんなりと配下にするためにも、土地の権利に関しては守護不介入を約束し、彼らの土地の多くを安堵していたのです。

ところが、守護・上杉房定(ふささだ)の病死に伴い、後を継いだ息子・上杉房能(ふさよし・顕定の弟)が赴任すると、彼は、かの不介入の制度によって守護の収入が非常に少ない事に驚き、新たな検地を実施します。

検地を断行すれは、納める税は増えるし、今まで、同じ郷里の者として暗黙の了解で行っていた未登録の田畑へのお目こぼしもなくなり、国人たちだけでなく、農民の反発をも買う事になってしまいました。

しかも、この守護不介入の土地を一番多く所有していたのは、守護代の長尾家です。

もう、ここで、長尾家の不満ムンムンさは感じますが、それでも為景の父・能景(よしかげ)は、従順に不介入の土地を上杉に差し出しています。

しかし、穏やかな父と違い、激しい性格の為景のムンムンは、水面下で大きくなるばかり・・・先の立河原の戦いの兵役への出費の不満もさることながら、為景が、その顕定から、宴会の席で目下の者の盃を受けるよう強要されたのを、盃を叩き割って反発した事で、さらに険悪なムードが漂います。

やがて、永世三年(1506年)、従順だった父・能景が越中(富山県)にて奮戦中に戦死してしまい、しかも、その時に救援要請があったにも関わらず房能が兵を出さなかったという事があり、為景の決意は固まります。

為景の出生の記録が曖昧であるため、確かな年齢はわかりませんが、おそらく、この時点で、20代の前半であったと思われる血気盛んなお年頃だった為景ですが、さすがは、戦国の幕開けに名を残す武将・・・そこは、血気にはやらず、周到に準備を重ねます。

このまま、房能を討っただけなら、単なる謀反・・・力衰えたとは言え、守護や幕府自体を敵に回してしまいますから・・・。

亡き父の家督を継いだ為景・・・まずは、その幕府への根回しとして、幕府有力者である名門・畠山氏に事前連絡

さらに、房能の養子であった定実(さだざね)を手なずけて、傀儡(かいらい・あやつり人形)として手元に確保・・・この定実を次期守護にするという大義名分を掲げ、房能の住む府中の稲荷館のすぐそばにある荒川館にて挙兵しました。

もちろん、このニュースを聞いた房能は、すぐに配下の国人を召集しますが、先に書いた通り、あの検地の一件で、すでに国人たちの心は房能から離れ、急を聞いて駆けつける者はほとんどいませんでした。

しかたなく、わずかの側近を従えて、府中を逃げ出す房能・・・めざすは、もちろん、関東の兄・顕定のところです。

安塚(やすづか)街道を、ひたすらに逃走する房能でしたが、約40km地点の天水越(あまみずこし・新潟県十日町市)にて、為景軍に追いつかれ、元正三年(1507年)8月7日無念の自刃を遂げます。

そして、先の根回しが見事に功を奏して、幕府が定実を次期・守護を認めたため、為景の主君への謀反の罪などは存在せず、当然不問・・・

かくして、前守護に不満を抱いていた国人を統合し、お飾りの新守護のもと、事実上、実権を握った為景・・・後の謙信へとつながる戦国大名への第一歩を踏み出した事になります。

・・・と、いかにも悪人で不人気のお役人に為景が正義の鉄槌を・・・てな雰囲気の筋書きですが、これは、あくまで勝者・為景の言い分で、敗者には敗者の言い分があるとは思いますが、本日のところは、為景主役という事で、房能さんには、悪役に徹していただくようお願いしたいと思います。
 

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2009年8月 6日 (木)

朝倉VS加賀一向一揆~九頭竜川の戦い

 

永正三年(1506年)8月6日、越前に進攻してきた加賀一向一揆朝倉宗滴(教景)が撃破した九頭竜川の戦いがありました。

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長享二年(1488年)に、加賀の本願寺門徒が高尾城を攻め、守護・富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込んだ長享一揆(ちょうきょういっき)(2006年6月9日参照>>)にはじまる加賀一向一揆が、100年の長きに渡って、その支配を保ち続ける事ができた背景には、その一向一揆が、単に本願寺門徒の信仰のみによる戦いではなく、彼らに協力して勢力拡大を図ろうとする国人や、彼らの力を利用して現状を左右しようとする武将たちの思惑が絡んでいたわけです(2009年6月9日参照>>)

その筆頭とも言うべきが、そのページにも書かせていただいた管領・細川政元(6月23日参照>>)・・・

明応二年(1493年)に明応の政変と呼ばれるクーデターを決行し、時の10代将軍・足利義種(よしたね)を追放し、自分の意のままになる傀儡(かいらい・あやつり人形)将軍である足利義澄(よしずみ・義高)を11代将軍に据えた政元に対して、その義種は北陸に潜伏し、勢力回復の機会を狙っていたわけです。

そして永正三年(1506年)7月、そんな義種を支持する勢力を一掃すべく、本願寺に協力を要請した政元に答えて、本願寺門徒に挙兵の指示を出したのが、亡き蓮如の後を継いで、第9代法主となっていた息子の実如(じつにょ)でした。

つまり、先の将軍の動きを抑えるべく、再び一向一揆が立ち上がったわけです。

その動きに同調したのが、朝倉元景(もとかげ)です。

この人は、越前(福井県)朝倉氏の現在の当主である朝倉貞景(さだかげ)の叔父に当たる人・・・貞景の祖父で7代当主の朝倉孝景(たかかげ)の息子で、もともとは景総(かげふさ)と名乗っていた彼でしたが、母親の身分が低かったため、兄でありながら常に兄弟の中で下に扱われる不満から、弟の1人を殺害してしまい、以降、朝倉家を離れて政元の家臣になっていました。

その後、貞景が9代当主を継ごうとした時、自らが朝倉氏を継ぐべくその暗殺計画を立てますが事前に発覚して、以後、能登に逃れ、身を隠していたのです。

そんな元景が、この期に乗じて越前へ進攻しようと、超勝寺(ちょうしょうじ・福井市)へ協力を要請・・・それに答えた超勝寺は、加賀・越中・能登の門徒を率いて発起したのです。

ここに、朝倉氏以前に越前の守護代だった甲斐氏の残党が加わり、総勢30万もの大軍となった一揆勢は、7月初旬、越前への進攻を開始します。

九頭竜川(くずりゅうがわ・福井市)を挟んで、彼らを迎え撃つ朝倉方の大将は、当主・貞景の叔父・朝倉宗滴(そうてき・教景)・・・

貞景の叔父・・・という事は?
そうです・・・実は、この宗滴も7代当主・孝景の息子って事で=元景とは兄弟です。

もともと、元景が貞景の暗殺を計画していたあの時、この宗滴も、その計画に加わっていたのが、途中で寝返って密告・・・つまり、この宗滴によって、元景の計画が発覚してしまい未遂に終っていたのです。

運命のいたずらか、兄弟の元景が誘発した一向一揆と相対する事になった宗滴・・・っと、この宗滴さん、以前、弘治元年(1555年)に、やはり、総大将となって一向一揆勢を蹴散らした時に、その人となりについて、このブログで書かせていただきましたが(8月13日参照>>)、直後に79歳でこの世を去る宗滴は、その弘治元年の戦いが、一向一揆との最後の戦い、そして、今回の九頭竜川の戦いが、一向一揆との最初の戦いとなります。

この時、宗滴30歳・・・思えば、この先、50年弱に渡る人生を、この一向一揆との戦いに費やす事になるのですね。

上記のページにも書かせていただきましたが、この宗滴さん・・・生涯現役を貫いた猛将なのですが、よく語られるその類の大将クラスの武将でも、実際に自らの刀を血に染めて、先頭を切って戦うというのは、意外に少ないです。

よく、誰々が誰々を討ったという表現をする場合、ドラマやゲームでの合戦シーンを思い出し、あたかも、本人が斬りまくってる印象を受けますが、本来、大将は、軍団の指揮をとる=采配を揮うのが役目ですから、自ら、戦っていては、指示を出し難いわけです。

そんな中で、宗滴は、自ら刀を振るって戦い抜いた武将だったわけですが、この九頭竜川の戦いの時も、それまで、しばらくの間、川を挟んで対峙していた最中、8月5日夜半に約3000の精鋭とともに川を渡り、一揆軍に奇襲をかけます。

不意を突かれた一揆軍は、またたく間に総崩れとなり、討たれる者、川で溺れる者が続出し、壊滅状態となった一揆軍の中で、加賀に逃げ帰る事ができたのは、3分の1=10万ほどだったとか・・・(上記の一連の実数には諸説あり)

宗滴は、馬上から長刀を振って敵を討ち、部下に首を取らせるという方式で、多くの首を挙げました。

かくして永正三年(1506年)8月6日一揆勢を撃ち破った宗滴・・・九頭竜川での勝利に勢いづいた貞景は、この勢いのまま、吉崎御坊をはじめとする本願寺の主要寺院&道場を破却しました。

この九頭竜川の戦いを端を発した一向一揆VS朝倉の戦いは、後に朝倉に身を寄せる足利義昭(7月28日参照>>)の仲介によって和睦が成立し、元亀二年(1571年)、朝倉義景の娘と本願寺第11代・顕如(けんにょ)の息子・教如との結婚によって終止符を打たれ、ともに織田信長という共通の敵に立ち向かう事となります。
 

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2009年8月 1日 (土)

美濃三人衆の内応~いざ!信長・稲葉山城へ

 

永禄十年(1567年)8月1日、美濃斉藤義興の家臣・美濃三人衆が織田信長に内応し、稲葉山下の井ノ口城に攻撃を仕掛けました。

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自らの主君である美濃(岐阜県)の守護・土岐頼芸(よしなり)を追放して(12月4日参照>>)、美濃一国の主となった美濃のマムシこと斉藤道三(どうさん)

長年、抗争を繰り返してきた隣国・尾張(愛知県・西部)織田信秀とも、天文十六年(1547年)の加納口の戦い(9月22日参照>>)を最後に、自分の娘・帰蝶(濃姫)と、信秀の息子・信長結婚という形で治まりました。

しかし、その8年後の弘治元年(1555年)、息子の義龍(よしたつ)クーデターを決行され、居城の稲葉山城を占拠されてしまいます(10月22日参照>>)

息子との決戦を明日に控え、数に劣る自分は、おそらく負けるであろうという予想のもと、悲しみとともに、もし、死んだら娘婿・信長へ美濃を譲る」という内容が書かれた手紙が現存するお話は、すでに書かせていただきました(4月19日参照>>)が、その道三の予想通り、翌日の長良川の戦いに敗れて、彼は、この世を去ってしまいます。

その時、出陣はしたものの、義父を助ける事ができなかった信長は、その「譲り状」を大義名分に、「舅の弔い合戦」と称して、その後、たびたび美濃へと進攻しますが、義龍は、ことごとく返り討ちにしています。

その昔、信長に初めて会った道三が、「わが国は婿殿への引き出物となるであろう」・・・つまり、自分の息子たちより、信長のほうが器量が勝っていて美濃は取られるだろうという事を言ったという有名な話がありますが、そんな道三は、かの長良川の戦いの時の息子・義龍を見て「器量を見誤った」と言ったとも言われています。

本当に言ったかどうかはともかく、そんな話が登場する事も納得できるくらい、どうやら義龍は、かなりの名君だったようです。

内政にも長け、家臣の統率も見事・・・この義龍が美濃を治めていた間の信長は、まったく歯が立たない状態でした。

しかも、当時の信長は、まだ尾張の統一すらできてませんでしたから、まずは、国内の情勢に目を向けながら、度々国境を脅かす東海の大大名・今川義元に気をくばる日々でしたが、やがて、永禄二年(1559年)に尾張を統一し、その翌年には、まさかまさかの桶狭間で、その大大名の義元を倒してしまいます(5月19日参照>>)

義元を討ち取り、一気に全国ネットに躍り出た信長が、その桶狭間の戦いで自由の身となった三河(愛知県・東部)徳川家康と同盟を結び、いよいよ美濃攻めに本腰を入れようとした矢先の永禄四年(1561年)、義龍は34歳という若さで急死してしまいます。

おそらく、この義龍がもっと長生きしていれば、信長は稲葉山城を落す事ができなかったのでは?と思わせてくれるくらい重要な死ですが、とにもかくにも、義龍の息子・龍興(たつおき)が、わずか14歳で家督を継ぐ事になってしまいます。

しかし、これが、どうやらケチのつき始め・・・まぁ、この龍興が、父や祖父ほどの器量の持ち主ではなかったという事もあるかも知れませんが、なんと言っても未だ14歳で、しかも、父は急死という事で、おそらく、後継者たるべき準備も何もされていなかったのかも知れません。

とにかく、このあたりから、美濃の家臣団の中に亀裂が生じはじめてきます。

その間にも、信長はたびたび美濃攻めを決行しながら、永禄六年(1563年)には、美濃攻略の拠点とすべく小牧山城を構築し、主力部隊をそちらに移し、さらに執拗に攻撃を仕掛けます。

ただ、さすがは天下の名城・稲葉山城・・・それでも、なかなか落ちませんでした。

そんな稲葉山城を落としたのが、例の竹中半兵衛重治(はんべえしげはる)・・・以前書かせていただいた永禄七年(1564年)の稲葉山城・乗っ取り事件(2月6日参照>>)です。

まぁ、これは、落としたというより、半兵衛は斉藤家の家臣なわけですし、その後、一旦追放した義興に、城を返還して隠居するところをみても、主君に取って代わろうとする謀反ではなく、家臣の統率をとれなくなっている義興をいさめようよする趣旨だったと思われます。

しかし、考えようによっちゃぁ、それだけ、家臣の亀裂は決定的と言える状況になっていたわけですが、そんな中で、やっぱり、信長の攻撃は続きます。

さらに、永禄九年(1566年)には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による、あの墨俣(すのまた)の一夜城の構築(9月14日参照>>)で、一気に稲葉山城がヤバくなった・・・なんていう話もありますが、これは、伝説かも知れないので置いといて・・・

とにかく、この間も、亀裂はさらに拡大の一途をたどっていたわけで、そんなこんなの永禄十年(1567年)8月1日一大事件が起こります。

美濃三人衆の離反・・・信長に内通したのです。
もちろん、信長による水面下の地道な根回しの成果ですが・・・。

この美濃三人衆とは・・・
西美濃曾根城主稲葉一鉄(いってつ)
西美濃大垣城主氏家卜全(うじいえぼくぜん)
西美濃北方城主安藤守就(もりなり)
の三人・・・皆、西部なので、西美濃三人衆と呼ぶ事もありますが、いずれも、斉藤家以前の土岐氏の時代からの美濃どっぷりの家臣たちです。

特に、安藤守就は、半兵衛の嫁のオヤッサンで、先の乗っ取り事件の時は、半兵衛に味方していたくらいですから、もはや、すっかり心は義興から離れていた事でしょう。

とにかく、この三人の信長への内通は大きかった・・・

これによって、さらなる離反が相次ぐと同時に、美濃の家臣団も、もう修復が不可能なくらいグラグラに揺らいだのは間違いなく、もちろん、信長も、この絶好の機会を逃すわけがありません。

この後、一気に稲葉山城を攻め落とす事になるわけですが、そのお話は、やはり、信長軍が怒涛のことく攻めかかる8月15日のページでどうぞ>>
 

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2009年7月28日 (火)

孤高の将軍・足利義昭~興福寺を脱出!

 

永禄八年(1565年)7月28日、奈良の興福寺一条院に幽閉されていた覚慶細川藤孝らの手引きで、近江(滋賀県)へと脱出しました。

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この覚慶というお坊さん・・・幼い頃に奈良興福寺一条院に入って、29歳のこの日まで仏門一筋の道を歩んで来た人なのですが、その父は室町幕府第12代将軍・足利義晴(よしはる)、母は前関白近衛尚通(ひさみち)の娘・慶寿院、さらに兄は第13代将軍・足利義輝(よしてる)・・・

・・・と、くれば、もう、おわかりですよね!
そうです、後の、室町幕府15代将軍・足利義昭(よしあき)です。

この年の5月、三好三人衆と結託した松永秀久に、兄の義輝を攻め殺され、鹿苑院の座主(ざす)となっていた弟も殺されたものの、彼だけは興福寺にて監禁状態にあっのです。

その義輝亡き後、永禄十一年までの約3年間、空席となる将軍の座ですが、もちろん、義輝を殺害した久秀らの心中には、次期将軍となるべき人物は決めてあります。

義輝の父の義晴の弟・・・つまり、第11代将軍・足利義澄(よしずみ)の息子・義維(よしつな)の、さらに息子・足利義栄(よしひで)です。

久秀と三好三人衆は、阿波の御所と呼ばれていたこの義栄を、傀儡(かいらい・あやつり人形)の将軍に据えようと考えたのです。

足利将軍家は、代々、将軍職を継ぐべき長子以外は、寺に入って僧侶となるのがしきたりでしたから、義昭も、今の今まで、覚慶として生きてきたわけですが、その長子に万が一の事があった場合、還俗(げんぞく・出家して僧となっていた者が一般人に戻る事)すれば、次期将軍となる資格があるというのもない事ではありません。

あの「くじ引き将軍」でお馴染みの第6代・足利義教(よしのり)も、くじ引きに当選するまでは義円という青蓮院(しょうれんいん)の僧侶でした(6月24日三唱>>)

「こうなったら、是非とも還俗して自分も次期将軍候補に・・・」と、大張り切りの義昭・・・。

しかし、やはり、1人で、それを夢見ても、ムリ・・・とは言え、久秀らが「義栄を将軍に担ぎ上げで、そのおこぼれにありつこう」と考えると同じように、「義昭を担いで、自らの出世の糸口に・・・」と考える野心家は、どこにでもいるものです。

それが、かつて義晴に仕えていた細川藤孝(後の幽斎)でした。

つまり、義昭と義栄は、いとこ同士で次期・14代将軍の座を争う事となったわけです。

かくして永禄八年(1565年)7月28日、監視の目をすり抜けて興福寺を脱出した覚慶こと義昭は、藤孝の手引きによって、近江国甲賀郡和田村の豪族・和田惟政(これまさ)の館へと身を寄せます・・・惟政もまた、以前、義輝に仕えていた幕臣でした。

早速、義昭は、その近江から、全国の有力者に向けて、幕府復興の内容をしたためた手紙を送り、協力を要請しますが、諸国の武将たちの反応は、いまいち、おもわしくありませんでした。

・・・と、言うのも、やはり、それぞれの武将たちには、それぞれの野心はあるものの、その身に叶った実力という物もあります。

なんせ、久秀と三好三人衆は、前将軍を殺害してしまうほどの力を、現時点では持っているわけですから、やはり、それに対抗できるほどの力がなければ、すぐには、立ちあがる事はできません。

翌・永禄九年(1566年)2月、正式に還俗して、名を義秋(よしあき)と改めた彼は、やがて、若狭を経て、越前(福井県)一乗谷朝倉義景(よしかげ)のもとに身を寄せます。

ここでも、せっせと諸国の武将に手紙を書き続ける義昭でしたが、そんな中で、長年、敵対関係にあった朝倉氏と加賀一向一揆との関係(8月13日参照>>)を、足利将軍家として仲介に入り、見事、和解に持っていくという、将軍にふさわしい資質をも垣間見せてくれています・・・この頃、元服して、名を義昭としました。

そうこうしているうちに永禄十一年(1568年)2月には、かの義栄が、第14代将軍となりますが、それでも、義昭は諦める事なく、むしろ、亡き兄のためにも、自分自身が将軍になる夢は、燃え上がるばかり・・・。

ところで、ここで、せっかく中央へ進出できるチャンスの種である義昭が転がり込んで来てくれているのに、彼を奉じて上洛しようという意志を示さなかった義景の事を、みすみすチャンスを逃した愚将ように言う場合がありますが、以前、義景さんのお誕生日のページにも書かせていただいたように、私自身は、それは、義景の内政を重視したうえの適切な判断であったと考えております(9月24日参照>>)

・・・で、上記のように、行動を起さない義景に業を煮やした藤孝が、諸国を放浪した後に、たまたま、その時、朝倉家に仕えていた明智光秀(10月18日参照>>)と組んで、ちょうど稲葉山城を攻略して美濃(岐阜県)を手に入れたばかりの、織田信長に義昭をひきあわせるのです。

そして、ご存知の通り、永禄十一年(1568年)9月26日の信長の上洛(9月26日参照>>)となるわけですが、ドラマなどで描かれる義昭さんは、大抵、このあたりから・・・

これも、定番ですが、結局、自らが天下人となりたい信長にとって、義昭は、単なる上洛のための大義名分であったわけで、二人のイイ関係はすぐに崩れてしまいますので(1月23日参照>>)、ドラマに出て来る義昭さんは、この後の、信長にいいように扱われる感じのボンクラ将軍のイメージで描かれる事が多いですね。

しかし、今回の興福寺脱出と言い、越前での采配と言い、信長に出会うまでの義昭さんは、ちょっとだけカッコイイ気がします。

今後は、是非とも、そんなカッコイイ義昭さんを、ドラマで見てみたいものですね。

(*この後、信長にヤラレまくっても、しぶとく生き抜く放浪の貴公子の姿は、7月18日のページでどうぞ>>
 

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2009年7月10日 (金)

中国の覇権をめぐって~幻の毛利と尼子の縁組

 

大永五年(1525年)7月10日、尼子経久出雲(いずも・島根県)伯耆(ほうき・鳥取県)の兵を率いて、毛利元就吉川興経大内義興を、安芸銀山に攻めました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・という事で、本日は、中国地方の覇権をめぐって争った、この尼子氏&毛利氏&吉川氏&大内氏の関係について・・・。
 

ご存知のように、後に、中国一帯にその勢力を誇るのは、毛利元就(もとなり)・その人なわけですが、この大永五年(1525年)の頃は、毛利氏の家督を継いで、まだ2年目の27歳・・・当時の力関係はまったく違っていました。

周防(すおう・山口県)を本拠地とした大内義興(よしおき)大内氏は、鎌倉時代から続く正真正銘の守護大名。

そして、出雲を本拠地とする尼子経久(つねひさ)(11月13日参照>>)の尼子氏は、守護の京極氏を、守護代の家系であった経久自らが倒し、1代で中国・11ヵ国を支配する大名にのし上がったばかり・・・

互いの領地拡大を狙って、常に争うこの二つの大大名の下で、元就の毛利氏と、吉川興経(きっかわおきつね)の吉川氏は、その時々の形勢によって、尼子についたり、大内についたり・・・両者に挟まれた安芸(広島県)国人衆の一つだったのです。

そもそも、永正三年(1506年)に、元就の父・弘元(ひろもと)が病死した時、家督を継ぐべく長男が、まだ15歳と歳若く、しかも、元服もまだだった事から、不安をつのらせた毛利家中は、すぐに頼れる名門・大内氏への服従を表明し、義興の傘下となります。

その翌年に元服して毛利を継いだのが毛利興元(おきもと)・・・元就のお兄さんです。

しかし、この興元は、そのわずか5年後、24歳の若さで亡くなってしまい、その後を継いだのは、わずか2歳の興元の長男・幸松丸(こうまつまる)・・・でした。

・・・で、今日、イチオシでご紹介したいのが、ちょうど、その頃出した物であろうと推定される尼子経久の書状・・・

宛先は、吉川経基(つねもと)・・・先ほど出てきた吉川興経の曽祖父にあたる人物です。

その内容は・・・
「お手紙はすべて拝見させていただきました。
せっかく、オススメいただいた毛利との縁談ですが、ウチは毛利とは、距離が離れていますし、自分は無力で、お役に立てそうもありませんので、辞退したいのですが・・・

確かに、ウチには年頃の孫娘が二人ほどいますが、どちらも、すでに決まった相手がおり、他に適当な娘もいません。

これは、大方(妻)も言ったと思いますが、ただ、それだけで、それ以外に深い理由はありませんが、度々、縁談のお話を持ってきてくださるので、僕のほうからも申し上げておきます」

・・・で、この妻というのは、経久の正室となっていた経基の娘・・・

つまり、吉川経基が娘婿である尼子経久に、「あんたの娘(もしくは孫娘)を毛利と結婚させたらどうや?」と言ってくるのを、嫁が断っても、さらに勧めてくるので、経久自身が断りの手紙を書いているのです。

この吉川経基の吉川氏は、ご存知のように、後に、元就の次男が、興経の養子に入って吉川元春と名乗る事でもおわかりのように、結果的に毛利の一門に取り込まれてしまうわけですが(9月27日参照>>)、この時点では、経基の孫(つまり興経の父)元経(もとつね)妹が元就へと嫁ぎ、逆に、元就の妹が元経に嫁いでいる(お互いの妹を嫁にしている)という密接な関係・・・

ああ・・・ややこしい!

とにかく、上り調子の尼子氏が、ここんとこ、度々、安芸や備中(岡山県)に進攻するもんだから、わが領地を守らんとしる安芸一帯の国人衆は、大内の傘下へと傾きつつあったこの頃。

自分の息子の嫁の実家であり、娘の嫁ぎ先でもある毛利氏を、やはり、自分の娘の嫁ぎ先である尼子氏と結びつけるために、経基さんが、尼子&毛利・両家の縁談を勧めていたって事です。

残念ながら、上記の返信の通り、経久が断ったので、この縁談が成立する事はありませんでしたが、その甲斐あってか、毛利氏の家督を継いでから、わずか7年後にかの幸松丸が9歳という幼さで亡くなり、いよいよ元就が毛利氏の家督を継ぐ頃には、毛利は、尼子の傘下となります。

しかし、その元就の家督相続の時、対抗馬として担ぎ出された異母弟・相合元綱(あいおうもとつな)を、ウラで後押ししていたのが尼子氏だったと、後に知った元就は、大永五年(1525年)1月に、また、大内傘下へと戻ってしまい、冒頭の大永五年(1525年)7月10日尼子経久の出陣となり、この争いは、やがて、元就が頭角をを表す安芸郡山城の攻防戦(1月13日参照>>)へとつながっていく事になります。

それにしても、今回の尼子経久の手紙・・・

結果的に、実現しなかった縁談ですが、年齢から考えて、吉川経基が勧めた相手は、おそらく元就・・・もし、この縁談が成立して、尼子氏の姫が元就のもとに嫁いでいたら、その後の中国地方の覇権はどうなっていたんでしょうね

ひょっとしたら、尼子&毛利の強力タッグで、まったく違った歴史になっていたかも知れません。

しかし、現実には、ご存知のように、ここで、尼子氏と手を切った元就は、もう、2度と尼子の傘下となる事はなく、最終的に、月山富田城(11月28日参照>>)上月城(7月3日参照>>)二度に渡って、尼子氏は滅亡の憂き目に遭う事になるわけです。
 

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2009年6月26日 (金)

信長の弟・秀孝射殺事件~その処置に問題あり?

 

弘治元年(1555年)6月26日、織田信長の弟・織田秀孝が馬で一騎駆け中、織田信次の家臣・州賀才蔵の放った矢に当たり、命を落としました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

織田秀孝は、尾張(愛知県西部)の戦国武将・織田信秀の七男か八男・・・つまりは、上記のように織田信長の6番目か7番目の弟という事になるのですが、とにかく、亡くなった年齢もわからないくらい、その史料が少ない人です。

あの『信長公記』には、「亡くなった時は15~16歳で、例えようのないイケメン」と書かれていますが、それだと、信長の3番目の弟(つまり秀孝の兄)信包(のぶかね)よりも年齢が高くなってしまうので×です。

逆に、亡くなった年齢を信じるならば、信長のすぐ下の弟・信行(信勝)、その次の信包との間という事になります。

こうなると、その「例えようのないイケメン」というのも怪しくなってきますが、あの戦国一の美女とうたわれたお市の方が同じ両親から生まれた妹なので、ひょっとしたら、本当に美形だったかも知れません。
(信長・信行・信包も同じ両親なんですが・・・( ̄Д ̄;;)

とにもかくにも、この秀孝さん・・・ちょっとした勘違いで命を落としてしまいます。

弘治元年(1555年)6月26日、織田信秀の弟(つまり信長・秀孝らの叔父)である守山城主織田信次が家臣を引き連れて、自らの領内で狩りをしていたところ、目の前を下馬もせずに、ただ一騎で通り過ぎる武者が・・・

「こら、無礼者!」(信次は殿様ですから・・・)
と、ばかりに、信次の家臣である州賀才蔵が、おどしのつもりで弓を引くと、それが、見事に、しかも、急所に命中・・・その武者は、即死してしまいます。

慌てて駆け寄って、その顔を見て、信孝である事を確認した信次主従・・・

なんたって、この頃は、すでに、信長は織田家当主ですから、その弟を、誤ってとは言え、射殺しておいて、何のお咎めもないわけがありません。

信次は、すぐに、その場から逃亡・・・姿をくらまし、ほったらかしとなった守山城は、信長の報復を恐れて籠城の臨戦態勢に入ります。

しかし、このニュースを聞いて、真っ先に行動を起したのは、信長ではなく、そのずぐ下の弟・信行・・・。

早速、出陣し、守山城下に火を放ち、城下を焼き払った後、さて、籠城する守山城をどうしてやるか・・・

ところが、ここで、当主である信長から、「彼らを許す」との判断が下されます。

「俺の弟もあろう者が供の者も連れず、怪しまれるような単独行動をとっていたのも悪いのだ」という事らしいのですが、それにしても、泣かないだけでホトトギスを殺してしまうほどの信長さんにしては寛大な処置・・・

・・・と、言いたいところですが、これにはウラがあります

そう、この時、即座に守山城への報復を行った信行さん・・・すでに、ブログに書かせていただいていますが、後に、信長が自らの手で暗殺する事になる人です(11月2日参照>>)

ご存知の通り、若い頃の信長は、ワル仲間と領内を暴れまわる「大うつけ」・・・父・信秀の葬式にも、とんでもない格好で現れ、焼香を投げつけて手も合わせず去っていくというシーンは、時代劇でも度々登場します。

一方の弟・信行は、利発で実直・・・父の葬式での凛した態度は、兄・信長より後継者にふさわしいのではないか?の声があがるほどでした。

もちろん、最後に、信長が信行を殺すのも、信行が、その声を受けて、自らが織田家当主になろうと謀反を画策したからなのですが、実は、今回の秀孝の事件の処置には、その事が絡んでいると思われます。

この秀孝さん・・・生前は、信行さんの味方をしていたのだとか・・・

逆に、叔父の信次は、信長派だった・・・

ちょっと、わかりやすすぎの感もありますが・・・
さすがに、亡くなったのは実の弟ですし、直接敵対している信行が死んでもいないのですから、すべてを、信長が画策したとは言いませんが、やはり、事件後の寛大な処置にはは、信行との関係が少なからず関わっていたと思われますね~。

結局、家臣の間からも、「弟が亡くなったのに、この処置は冷たすぎるんじゃない?」なんて声も出て、まったく罪を問わないとはいかず、この後の守山城主として、さらに下の弟の織田信時が入る事で、一件落着となりました。

ただし、かの信次は、その後も、信長の配下として働き、あの長島一向一揆の最終日に討死しています(9月29日参照>>)
 

その史料の少なさから、ドラマなどでは、まったく登場した事のない秀孝さん(このあいだのNHKのヒストリアに一瞬出ましたが・・・)ですが、それほどの美形となると、一度くらいは見てみたいものですね。
 

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2009年6月20日 (土)

時代別年表:室町時代・中期(戦国・群雄割拠の時代)

 

このページは、戦国時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

歴史上、戦国時代という区分はなく、いわゆる室町時代なわけですが、この時代は、ブログに書いている出来事が非常に多い・・・って事で、とりあえず、前期・中期・後期・・・そして後期を安土と桃山の計・4つに分けさせていただきました。

戦国の幕開けに関しては、「いつ」という点で、ご意見も多々あろうかと思いますが、前後の年表との量的な事も考えて、とりあえず、このページでは、北条早雲が伊豆討ち入りする1493年10月11日から、織田信長が足利義昭を奉じて上洛する1568年9月26日までを「室町時代・中期(戦国・群雄割拠の時代)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaisengoku1



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
1493 10 11 北条早雲が古河公方を倒す
【北条早雲・伊豆討ち入り】
1499 3 25 蓮如・没
【浄土真宗を日本一にした蓮如の経営戦略】
【蓮如上人・没】
1503 2 18 北野天神縁起絵巻ができる
【学問の神様・菅原道真の学力は?】
1504 9 27 立河原合戦
【関東の支配をめぐって】
1506 8 6 九頭竜川の戦い
【朝倉VS加賀一向一揆~九頭竜川の戦い】
1507 6 23 細川政元が暗殺される
【戦国の幕を開けた男・細川政元】
8 7 上杉房能が長尾為景の追われ自刃
【長尾為景~守護を倒し戦国大名への第一歩】
8 8 雪舟・没
【雪舟さんのご命日です】
1511 8 24 船岡山の戦い
【いよいよ戦国の幕が上がる】
1516 7 13 新井城の攻防
【北条早雲・相模を制覇】
1517 10 22 毛利元就・初陣~有田城外の合戦
【西国の桶狭間・有田城外の合戦】
1519 8 15 北条早雲・没
【石橋を叩いて渡る北条早雲】
1521 11 3 飯田河原の戦い
【武田信虎・甲斐統一!飯田河原の戦い】
1525 7 10 尼子経久が、毛利・大内を攻撃
【覇権をめぐって~幻の毛利と尼子の縁組】
1526 11 12 鎌倉・鶴岡八幡宮の戦い
【鎌倉・鶴岡八幡宮の戦い】
1530 1 21 上杉謙信・誕生
【上杉謙信・女説】
8 15 田手畷の戦い
【佐賀・鍋島~下克上の幕開け】
1533 9 24 朝倉義景・誕生
【名将?愚将?義景の汚名を晴らしたい】
1534 5 12 織田信長・誕生
【織田信長さんのお誕生日なので】
1536 6 10 花倉の乱
【今川義元・登場!花倉の乱】
1537 1 1 豊臣秀吉・誕生?
【豊臣秀吉・1月1日誕生日説】
1538 10 7 第一次・国府台合戦で足利義明が討死
【小弓公方の最期】
1541 1 13 尼子氏が郡山城の総攻撃を開始
【尼子氏衰退の第一歩?郡山城・攻防戦】
6 14 武田信玄が父・信虎を追放する
【信玄が父を追放したワケは?】
11 13 尼子経久・没
【尼子経久~下克上の果てに・・・】
1543 8 25 種子島に中国船が漂着する
【鉄砲伝来で戦国が変わる】
【異説とその後】
1544 9 23 井ノ口の戦い
【織田・朝倉連合軍VS斉藤道三】
1546 4 20 河越夜戦
【戦国屈指の夜襲で公方壊滅】
11 29 黒田官兵衛孝高(如水)・誕生
【ジッチャンの薬で先を見る目を養った?】
1547 9 22 加納口の戦い
【信長&濃姫の結婚へと向かわせた戦い】
1548 2 14 上田原の合戦
【信玄・痛手~上田原の合戦】
1549 2 24 織田信長が斉藤道三の娘・濃姫と結婚
【こつ然と姿を消す信長の正室・濃姫は?】
7 3 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸
【ザビエが以後よく広めるキリスト教】
11 6 安祥城の戦い
【信長&家康に今川と絡む運命の糸】
11 27 織田信広と徳川家康の人質交換
【徳川家康は四人いた?説】
1550 2 10 大友二階崩れの変
【棚ぼた?計略?宗麟の大友二階崩れ】
9 9 戸石城・攻防戦
【戸石崩れが山本勘助ヒーロー伝説へ?】
9 27 毛利元就が吉川興経・父子を殺害
【毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦】
1553 4 22 第一次川中島の合戦~更科八幡の戦い
【川中島・前哨戦~更科八幡の戦い】
9 1 第一次川中島の合戦~布施の戦い
【第一次川中島の合戦~布施の戦い】
1555 6 26 信長の弟・織田秀孝が射殺される
【秀孝射殺事件~その処置に問題あり?】
7 19 第二次川中島の合戦~犀川の戦い
【第二次川中島の合戦~犀川の戦い】
8 13 朝倉宗滴が加賀一向一揆を撃退
【齢79!生涯現役・宗滴の長寿の秘訣】
10 1 厳島の戦い
【戦国屈指の奇襲戦・厳島の戦い】
10 22 斎藤龍興が弟・2人を殺害
【道三より大物?龍興の親から国盗り物語】
1556 4 19 斉藤道三が遺言状を書く
【道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状】
4 20 長良川の戦い
【美濃のマムシは二人いた】
1557 4 3 大内義長・自刃
【義長の自刃で大内氏・滅亡】
8 29 第三次川中島の合戦~上野原の戦い
【第三次川中島の合戦~上野原の戦い】
10 27 正親町天皇が践祚
【天皇の権威復活~正親町天皇と信長】
11 2 織田信長が弟・信行を暗殺
【織田信長が信行を暗殺】
11 25 毛利元就が3人の息子に教訓状を送る
【毛利元就の三矢の教え~その願いは?】
1558 12 30 蜂須賀家政・誕生
【阿波の古ダヌキ・蜂須賀家政】
1559 4 27 上杉謙信が上洛・北信濃の平定を託される
【上杉謙信・2度の上洛の意味は?】
1560 3 18 徳川家康に長女・亀姫誕生
【宇都宮釣天井の仕掛け人】
5 1 今川義元が出陣命令を発する
【今川義元・出陣の理由は?】
5 19 桶狭間の戦い
【一か八かの桶狭間の戦い】
【桶狭間の戦い~その時、家康は・・・】
5 26 長浜表の戦い
【長宗我部元親・初陣!】
12 24 尼子晴久・没
【尼子氏衰退のターニングポイント】
1561 8 21 門司城の救援に小早川隆景を派遣
【毛利水軍VSポルトガル船~門司城攻防】
9 10 第四次川中島の合戦~八幡原の戦い
【鞭声粛々・川中島の戦い】
【川中島の合戦はなかった?】
【補佐役に徹した武田信繁】
1563 7 6 松平元康から徳川家康に改名
【松平元康から徳川家康へ】
9 5 ~64年2月 三河一向一揆
【三河一向一揆~徳川家臣が真っ二つ!】
1564 1 8 第二次国府台の合戦
【第二次国府台の合戦】
2 6 竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取る
【竹中半兵衛稲葉山城乗っ取り事件】
8 3 第五次川中島の合戦~塩崎の対陣
【第五次・川中島の戦い~塩崎の対陣】
1565 7 28 足利義昭が興福寺を脱出
【孤高の将軍・足利義昭~興福寺を脱出!】
1566 9 15 墨俣の一夜城完成?
【墨俣の一夜城凸建設中!】
9 30 武田信玄が上野箕輪城を陥落させる
【箕輪城落城~新陰流・誕生の影に・・・】
11 19 第2次・月山富田城戦で尼子氏が降伏表明
【落日の尼子氏と尼子十勇士】
11 21 第2次・月山富田城戦で尼子氏が降伏する
【山中鹿之助の一騎打ち】
11 28 尼子義久が月山富田城を開城
【山陰の雄・尼子氏の敗因は?】
1567 8

1

美濃三人衆が信長に内応
【美濃三人衆内応~いざ!信長・稲葉山城へ】
8

15

稲葉山城・陥落
【信長・天下への第一歩~稲葉山城・陥落】
10

10

松永久秀が東大寺・大仏殿を焼く
【乱世の梟雄・松永久秀~運命の日爆死!】
10 19 武田信玄の嫡男・義信が自刃
【武田の運命も変えた武田義信の自刃】
1568 9 26 織田信長が足利義昭を奉じて上洛
【織田信長、上洛!】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】

 

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2009年6月 9日 (火)

加賀一向一揆の支配は、なぜ100年も続いたか?

 

長享二年(1488年)6月9日、加賀で本願寺門徒による一揆が勃発し、守護・富樫政親の籠る高尾城を攻め、政親を自刃に追い込みました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この長享二年(1488年)6月9日の守護・富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込んだ高尾城(たかお・たこ・たこうじょう)攻め・・・ご存知のように、この後、加賀(石川県)は、約100年間の長きに渡って本願寺門徒が支配する「百姓の持ちたる国」となるのですが、本日の高尾城の戦いを長享一揆(ちょうきょういっき)と呼び、それ以前からの本願寺門徒の戦いと、この後の100年に渡る本願寺門徒の支配を総称して加賀一向一揆と呼びます。

もちろん、以前書かせていただいたように、蓮如(れんにょ)さんは、「浄土真宗を一向宗と呼ぶのは間違い」とおっしゃっていますので(11月28日参照>>)、厳密には本願寺門徒の一揆は一向一揆とは呼べないのですが、歴史上その名称となっていますので、今まで通り加賀一向一揆と呼ばせていただきます。

・・・で、今日の高尾城の戦いに関しても、加賀一向一揆(6月9日参照>>)として、すでにブログに書かせていただいているのですが、まだ、ブログをはじめて間もない頃の記事で、書き足りない事山のごとしで、もう少しくわしくご紹介したい!と思うものの、そのお話は、発端となる出来事から順を追って、それぞれの「その日」に書かせていただく事にして、本日は、この100年という歳月・・・。

加賀一向一揆は、なぜ、100年もの長きに渡って、加賀を支配する事ができたのか?について迫りたいと思います。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

この加賀一向一揆・・・本日の長享一揆に代表されるように、一見、本願寺の勢力を抑えようとする守護・富樫政親と、それに抵抗する本願寺門徒との戦いのように見えますが、実際には、一揆勢の中には、門徒ではない白山衆の百姓や、地元の国人衆が多く含まれていました。

現に、当時、このニュースを聞いた京都の人々は、この一揆を百姓の土一揆と認識していたようです。

しかし、実は、そのどちらでもない大きな要素が、この加賀一向一揆を100年に渡って続かせるその土台となっていたように思うのです。

もちろん、本来は烏合の衆である彼らを、守護をも倒すほど一体化させたのは、その根底に浄土真宗という強い絆があったわけで、それなしでは、彼らは、団体行動をとる事すら難しかったかも知れません。

しかし、一揆と言いながら、この、高尾城を攻めた時の彼らは、その総大将に、同じ富樫の一族で政親と対立していた富樫泰高(とがしやすたか)を据えています。

政親とは、親子以上に歳の離れた70歳前後の老将です。

泰高は、政親が自刃した後には、加賀の守護にもなっています。

ところが、いつの間にやら「百姓の持ちたる国」・・・守護・富樫泰高は完全に名前だけの存在になってしまいます。

同時期に起こった、あの山城の国一揆でも、わずか8年後に新たな守護が幕府から派遣され、そこで終焉を迎えているように(12月11日参照>>)、本来、このような状況の場合、幕府が新たな守護を派遣するなりなんなりして、鎮圧しなければならないのでは?

ところが、加賀一向一揆は、そうはならなかった・・・実は、ここには、当時最大の権力者である管領・細川政元(ほそかわまさもと)の思惑がからんでいるようです。

政元さんの人となりについては、そのご命日の日に書かせていただきましたが(6月23日参照>>)、彼は、初めて、管領の上司である将軍を、自分の意のままになる人物へと交代させで自らが実権を握るというクーデターを決行し、戦国の幕を開けた人であります。

山城の国一揆が文明十七年(1485年)。
今回の長享一揆が長享二年(1488年)。

そして、政元のクーデター・明応の政変が明応二年(1493年)です。

・・・で、先ほどの山城の国一揆の守護・・・もともと一揆が勃発した時には、その国人たちの行動を容認していたはずの政元が、クーデターを決行した途端、そのわずか4ヶ月後に、新たな守護を派遣して、終了に向かわせているのです。

要は、天下の実権を握った今、山城の国一揆は利用価値がなくなったという事でしょう。

では、加賀一向一揆は?

政元のクーデターは、第10代室町幕府将軍・足利義稙(よしたね)を追放して、自分の思い通りになる足利義高(後の義澄)を第11代将軍に擁立したわけですが、この追われた前将軍・義稙が潜伏して、あわよくば京へ戻ろうと画策していたのが北陸・・・しかも、この義稙に味方していたのが、かの富樫泰高・・・。

つまり、政元は、義稙に挽回させないためにも、泰高を守護とは認めたくなかったわけです。

しかも、加賀の一向一揆の勃発直後に、その事に激怒とた9代将軍・足利義尚(よしひさ)が、蓮如に対して加賀の本願寺門徒への破門を要求した時、間に入って将軍の怒りを収めたのが政元であった事で、以来、蓮如と本願寺自身は政元に協力的な立場をとっていましたから、ここは一つ、飾り物の守護には、そのまま飾り物でいていただいて、実質的な権力は加賀一向一揆が持つ形にして、本願寺を通じて一揆の動向を見ていくって事でいいんじゃないの?

・・・てな形で、一揆を容認したという事なのではないでしょうか?

これによって、本願寺は加賀国主としての地位を得て、やがて訪れた群雄割拠の時代には、すでに戦国大名と匹敵する地位が確立されていたという事なのでしょう。

確かに、下克上の乱世ですから、地元の国人の中にも「戦国大名に成りあがりたい!」と考える者もいたでしょうが、ここまでになると、容易に手が出せるものではありません。

たとえ、加賀の一向一揆を倒しても、もはや本願寺門徒は各地に存在するわけですから、彼ら全員・・・つまり、全国の本願寺門徒を相手にしなくてはなりません。

隣国・越前(福井県)朝倉氏も、たびたび進攻してくる加賀一向一揆と戦い、ある時は勝利したりもしますが(8月13日参照>>)、結局は、自国の領土を守るだけで精一杯で、加賀一向一揆を潰す事はできなかったわけです。

そうして100年の長きに渡って、加賀を支配した一向一揆でしたが、やがて、100年後に、全国の本願寺を相手に戦える脅威の武将が登場します。

ご存知、織田信長・・・彼は、本願寺の本拠地である大坂石山本願寺を押さえ、第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)に、自ら全国の本願寺門徒に武力蜂起の停止を呼びかけさせる事によって、加賀一向一揆に終焉を迎えさせるのです(3月9日参照>>)
 

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2009年5月12日 (火)

和歌で領地を取り戻す~カリスマ歌人・東常緑

 

文明元年(1469年)5月12日、東常緑斎藤妙椿と京都にて会見・・・奪われた篠脇城の返還が決定されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なんとも風流なお話です。

文明元年(1469年)と言えば・・・戦国の幕開けとも言える応仁の大乱が勃発(1月17日参照>>)したのが応仁元年(1467年)ですから、その2年後。

もちろん、応仁の乱は10年に渡って繰り広げられますので、まさに、その真っ只中でありながら、武力で奪われた城を和歌で取り返す・・・そんな出来事があったんですねぇ。

先日ご紹介した『古今和歌集』の序文で、編者の1人である紀貫之(きのつらゆき)が書いた序文を思い出します(4月18日参照>>)

歌は「力を用いず天地を動かし・・・鬼をも感動させ、勇猛な武士をも泣かす」

いつの世も、すばらしい歌は、人の心を動かすもの・・・という事なのでしょう。

・・・で、本日の主役・東常緑(とうつねより)は、下総(千葉県)千葉氏の分家という由緒正しき家柄・・・鎌倉時代に、美濃(岐阜県)郡上(ぐじょう)に領地を得た事で、こちらに移住したのが東氏の始まりでした。

中世の武将というのは、勇猛果敢であるのはもちろんでしが、多少の文芸をもたしなむ風流をもかねそなえていなければ一流とは言えませんが、常緑の場合は、その芸事がハンパじゃなかった・・・。

若い頃は京都にいて、二条派の尭孝(ぎょうこう)から、先の『古今和歌集』秘事口伝を学んでいます。

この「古今和歌集の秘事口伝」・・・いわゆる『古今伝授』ってヤツなんですが、以前、戦国武将の細川幽斎(藤孝)が、この『古今伝授』で、関ヶ原の合戦での危機一髪の時、「このまま幽斎が死んだら、古今伝授が耐えてしまう~」と心配した後陽成(ごようぜい)天皇が、思わず戦いを止めに入ったと書かせていただきましたが(8月20日参照>>)、それくらい重要、かつ、和歌の専門家なわけです。

なんせ、『古今和歌集』を正統に伝えていく役なのですから・・・

一方、もう一人の主役・斎藤妙椿(みょうちん)・・・彼は、当時、美濃の守護・土岐(とき)の守護代として勢力を誇っていた武将でした。

ご存知のように、応仁の乱は、室町幕府8代将軍の足利義政の後継者争いで、義政と嫁の日野富子の間に生まれた次期将軍候補・義尚(よしひさ)に味方した山名宗全(やまなそうぜん)と、もう一人の次期将軍候補である義政の弟・義視(よしみ)についた細川勝元の両巨頭とともに、それぞれに味方した管領家の畠山家斯波(しば)の家督争いもからみ、日本全国を東西・真っ二つに分けた戦いだったわけです(1月7日参照>>)

当然、美濃の国も、その乱の影響を受ける事になるのですが、この時、美濃の守護であった土岐成頼は、細川派・・・一方、常緑が将軍・義政の側近であった事から、東氏は山名派とみなされ、応仁二年(1468年)9月、守護・頼成の命により、妙椿が、東氏の居城である篠脇城を攻撃したのです。

この時、当主の常緑は、本家の所領でのモメ事の加勢として下総に出かけていて、その留守を守っていたのは、常緑の兄で、すでに隠居していた氏数でしたが、なんせ、兵の数が少ない・・・。

多勢に無勢ではどうしようもなく、篠脇城は敵の手に落ちてしまいました。

この一報を、遠く下総の地で聞いた常緑・・・ちょうど、亡き父の命日が近かった事から、その命日に合わせて、一首の歌を詠みます。

♪あるが内に 斯(か)かる世をも 見たりけり
  人の昔の 猶
(なお)も恋しき ♪
「生きてるうちに、こんな事になってしまうなんて・・・お父ちゃんの生きてた頃が懐かしいわ」

たまたま、この歌を京都の歌会で、他の人から聞いた妙椿・・・実は、彼も相当な歌ファンで、歌仲間ではカリスマ的存在の常緑の歌に感動を覚えたのです。

早速、妙椿は常緑に手紙を書きます(ファンレターかい!)

「遠く関東にいて、地元を奪われて、さぞかし不本意に思てはる事でしょう。実は、僕も歌の道を志してますねん。常緑さんは歌仲間やと思てます。どうか、僕のために歌を作ってもらえませんか?ほんなら、あの所領、返しますさかいに・・・」

確かに、平成の今だって、大好きなミュージシャンが、自分のために歌を作って歌ってくれるんなら、いくらお金を出したっていい!・・・てな、気持ちになるかも知れませんね。

この手紙を受け取った常緑・・・

♪吾世(わがよ)(へ)む しるべと今も 頼む哉(かな)
  みののお山の 松の千歳(ちとせ)を ♪

をはじめとする10首の歌を妙椿に送ります

これを受け取った妙椿・・・もちろん、今をときめくカリスマミュージシャンの新曲、しかも10曲もの大サービスに感動しないわきゃありません。

早速、妙椿も・・・

♪言(こと)の葉に 君が心は みづくきの
  行末とをらば 跡はたがはじ ♪

と、返します。

かくして文明元年(1469年)5月12日京都にて会見した二人・・・妙椿は、この場で、正式に篠脇城を、常緑に返還したのです。

♪故郷の 荒るるを見ても 先すと思う
  しる辺
(べ)あらすは いかかわけこむ ♪ 常緑
「戦場となって荒れてしもた故郷やけど、相手がみやびな人やなかったら戻ってもけぇへんかったやろな」

♪此頃の しるべなくとも 故郷に
  道ある人そ やすく帰らむ ♪ 
妙椿
「気にせんと故郷に帰りゃぁいいじゃん!」

こうして、常緑は、無事、領地を取り戻したのです。

まさに、「芸は身を助く」・・・戦国武将は、政治や軍事だけでなく、芸術の才能も身につけておかなければ一流ではないのです。

かの司馬遼太郎氏は、「東常緑は、歴史上、最も高い原稿料を取った」と・・・

確かに、わずか10首で、城と領地(郡上市大和町)とは、ぼったくり・・・いや、これも風流のなせるワザといったところでしょうか。
 

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2009年5月 1日 (金)

まもなく桶狭間~今川義元・出陣の理由は?

 

永禄三年(1560年)5月1日、今川義元が、全軍の出陣命令を発しました。

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駿河(静岡県東部)の戦国大名であった今川義元・・・永禄三年(1560年)の今日、5月1日出陣命令を出し、実際に駿府(すんぷ・静岡市)を出立するのは5月12日、その後、
13日には掛川城
14日・引馬城(ひくまじょう・浜松市)
15日・吉田城(豊橋市)、16日・岡崎城
17日・池鯉鮒城(ちりゅうじょう)と、すでに今川配下となっていた遠江(とうとうみ・静岡県西部)から三河(愛知県東部)の城を移動し、18日には、尾張(愛知県西部)との国境を越えて、近藤景春沓掛城(くつかけじょう・豊明市)に入っています。

その先には、今川最前線の鳴海城大高城・・・

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そして、さらに、その先には・・・織田信長清洲城

そうです。
この時の義元の行軍に、信長が仕掛けるのが、あの桶狭間の合戦です。

以前は、この時の義元の出陣は、上洛が目的であり、桶狭間の戦いは、その途中に起きた一つの合戦であるとされていましたが、最近では「上洛目的ではない」という説のほうが主流になりつつあります。

・・・というのも、以前、桶狭間の合戦のその日のページ(5月19日参照>>)にも書かせていただきましたが、この時の義元の軍勢が、総勢2万5千ほど・・・

確かに多いですが、たとえここで信長を蹴散らしたとしても、上洛するとなれば、その先には美濃(岐阜県)斉藤氏もいますし、近江(滋賀県)六角氏もいますから、これらを倒しての上洛は、おそらく、この数では不可能な事でしょう。

もちろん、上洛には、もう一つ、平和的な上洛もあり得ます。

以前、書かせていただいた上杉謙信の上洛(4月27日参照>>)・・・彼の2度の上洛は、天皇や将軍に拝謁する事を一番の目的としたものだったわけですが、こういう場合は、当然、通っていく他国の者に対して、事前に、その事を通達しておかねばなりません。

もちろん、目的地である京都にも、誰に会うのか?どこに滞在するのか?の打ち合わせも必要になってきますが、この時の義元は、それをやっていなかったようです。

天下を狙う上洛にしては軍勢が少なく、平和のための上洛にしては根回しがない・・・よって、今回の出陣の目的は、上洛ではなかったというのが、いまのところ主流の見解となっています。

では、何のために、義元は出陣を決意したのでしょうか?

実は、信長の父・織田信秀の時代から、取ったり取られたりの領地争奪合戦を繰り返していた織田と今川・・・ここに来て、その最終段階を迎えようとしていたようなのです。

そもそも、この少し前、群雄割拠していた戦国武将の中で、力をつけてきていたのが、駿河の義元であり、甲斐(山梨県)武田信玄であり、相模(神奈川県)北条氏康・・・お互いの国境を接して、こちらでも争奪合戦を繰り返していた三国でしたが、彼らも、敵はこの3人だけではありません。

義元が信秀と争っているように、信玄には越後(新潟県)の謙信というライバルがいますし、氏康も隣接する上野(こうずけ・群馬県)下野(しもつけ・栃木県)へと手を伸ばしたい・・・。

そこで、3者の思惑が一致します。

天文二十一年(1552年)、義元は、信玄の息子・義信に自分の娘を嫁がせて今川×武田の同盟を成立させ、翌年には、信玄が、氏康の息子・氏政に娘を嫁がせて武田×北条の同盟が成立・・・さらに、その翌年、氏康が、娘を義元の息子氏真(うじざね)に嫁がせて今川×北条の同盟も成立・・・ここに、甲相駿(こうそうしゅん)三国同盟が成立し、お互い、気になっていた隣国への攻略に全力を傾ける事ができるようになったわけです。

一方の織田家は、駿河にちょっかいを出していた信秀が、天文二十年(1551年)に亡くなり、後継者となった信長は、とりあえず、先に、尾張国内の統一に力を注ぐのです。

そう、信長が後を継いだ頃は、まだ織田家は、尾張下4郡の守護代・織田大和守(やもとのかみ)の、さらに家臣という立場で、さらに、上4郡の守護代・織田伊勢守(いせのかみ)もいたのですから、外にちょっかいを出すより、織田家の中でトップになる事のほうが先決だったわけです。

・・・で、叔父を倒し、主家を滅ぼして、ほぼ尾張全土を統一したのが、永禄二年(1559年)の頃・・・もちろん、その間も、ちょくちょく今川からの進攻も受けながらの尾張統一でした。

国内での争い事が激化すると、多くなるのが、その配下の国人たちの離反・・・やっぱ不安ですからねぇ。

ちょうど、この織田家内のゴタゴタの頃に、織田から今川へ寝返ったのが、大高城を奪ったばかりの鳴海城主の山口教継(のりつぐ)沓掛城近藤景春・・・ここが、冒頭の今川の最前線だったわけです。

・・・で、現在では、義元の出陣は、信長の尾張に対しての出陣であったであろうとされているわけですが、その最終目標に関しては、またまた意見が分かれています。

・・・と言いますのも、上記の鳴海城と大高城が、今川の物となってしまった事で、信長は、これらの城に対して付城(つけじろ)を構築しているのですが・・・

付城とは、狙いを定めた城に対して、攻撃をしやすいように、あるいは、監視しやすいようにと、すぐ近くに造る砦・城の事ですが、鳴海城には丹下善照寺中島の3つの砦、大高城には鷲津丸根の2つの砦・・・計・5つの砦を構築しています。
(桶狭間の時の布陣図を見ていただくとわかりやすいです=別窓で開く>>

つまり、この時の出陣の最終目標は、この二つの城に付けられた砦を潰すためだったのか?というわけです。

しかし、それには、やはり、2万5千という兵の数が引っかかります。

確かに、敵を倒しながらの上洛には少ない数ですが、かと言って、2つの城に付けられた砦を潰すためにしては多すぎる。

ひょっとして、2つの城を救援するだけなら、義元自らの出陣も不必要な事かも知れません。

以前の、その桶狭間のページでは、今川と織田の境界線をはっきりさせたかったのでは?とも書きましたが、これも義元自ら2万5千の兵を率いて・・・というのには、数が多すぎる気がします。

よって、この義元の出陣は、尾張そのものを攻略する目的ではなかったか?と考えるわけです。

ただし、そのページでも書かせていただいたように、その2万5千の軍勢が、皆、義元自身が率いていたかと言えば、そうではなく、各城に散らばって配置され、義元の側にいたのは2~3千だったとも言われ、そうなると、単に2つの城の砦を潰すための出陣であった可能性も考えられるのですが・・・。

ただ、ご存知のように、この時の義元は、馬ではなく、輿に乗っての出陣でした。

以前は、この輿での出陣が、公家のマネをして軟弱化した姿と、義元を愚将扱いする格好の材料となっていたわけですが、今では、この輿に乗っての出陣は、力のある大名が将軍家から許された特権であった事がわかっていますので、馬ではなく、あえて輿で出陣した義元の心情としては、抗う織田の青二才に、今川との差を見せつけるという意気込みもあったのかも知れません。

そうなると、この機会に、尾張を手に入れようとしていた可能性も大いにあるかも知れません。
 

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2009年4月19日 (日)

道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状

 

弘治二年(1556年)4月19日、長良川を挟んで、嫡男・斉藤義龍の軍と対峙する斉藤道三が、息子・日饒に手紙を出しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

弘治二年(1556年)4月19日付けで書かれたこの手紙・・・『道三の遺言状』とも、『信長への国譲り状』とも言われる書状ですが、現存する物は計・3通あります。

・・・とは、言うものの、一つは『江濃記(こうのうき)という史料の中に、その内容とともに、「道三の遺言状」として紹介されているもので、手紙そのものというのではありません。

残る2通は、大阪城天守閣が所蔵するものと、京都・妙覚寺が所蔵するものですが・・・微妙に文章は違っているものの、どちらも内容は、ほとんど同じ。

同じ内容の、同じ人宛ての手紙を、道三が2通書くとは思えないので、どちらかが「写し」、あるいは、両方とも「写し」の可能性もありで、中には、「写し」ではなく「偽作」との見解を持っておられる専門家のかたもおられるようですが、いずれにしても、「美濃(岐阜県)を信長に・・・」という約束のようなものが、道三と信長の間にあった事は事実であろうというのが、現在のところの定説となっているようです。

例のごとく、その手紙の内容を要約させていただきますと・・・

「今回、わざわざ、この手紙を書いたんは・・・
美濃の国の大桑
(おおが)で、“自分が死んだ後は、美濃を好きにしてえぇから”という譲り状を信長に渡したよって、お前は京都の妙覚寺に行くようにって事を、言うておこうと思てな。

子供のうち、1人が出家したら、家族全員が極楽に行けるらしいやんか。
この手紙を書きながらも、涙が止まらへんねんけど、ここにきて、すべてのこの世の苦しみから逃れて、仏さんの恩恵を得る事ができると思たら、うれしい限りやな。

明日の合戦で、俺はきっと死ぬやろうけど、終(つい)の住みかはどこになるんやろ」

・・・と、こんな感じですが、文中に「妙覚寺に行きなさい」と書かれていて、実際に、道三の息子の1人が、妙覚寺に入って妙覚寺19世となっているので、この手紙は、その19世となった日饒(にちじょう)上人に宛てたものであろうという事だそうです。

文中には「明日の合戦」というのも出てきますが、以前書かせていただいたように、翌日の4月20日は、道三が、息子・義龍と刃を交えた長良川の戦い(4月20日参照>>)・・・

18日に、道三は、鶴山という場所に陣を構え、20日になって、義龍が長良川の南岸に軍を動かした事で、道三も、その北岸へ軍を移動させたと言いますので、手紙の日づけを信じるならば、まさに、その前日にしたためられた事になります。

道三の軍は約2千・・・対する義龍の軍は約1万7千。
確かに、死を覚悟せねばならない数であった事でしょう。

合戦の勝敗はその日のうちに決し、壊滅状態となった中、道三は壮絶な最期を遂げ、討死した道三の首は、鼻を削ぎ落とされたうえ、長良川の河原にさらされたと言います。

前年の10月22日の、長男・義龍による次男・三男の殺害と稲葉山城の占拠にはじまった一連の戦いは、義龍の裏切り(10月22日参照>>)・・・というよりは、道三体制を崩壊させる一門あげてのクーデター色の強いものであったようで、長良川の戦いに挑む道三が「義龍の器量を見誤った」と言ったそうですが、「見誤った」というよりは、後世の人が、一介の油売りから、身を起す道三の出世物語のせいで、あたかも道三にスーパーヒーローのようなイメージを持ってしまったといった感じ(現在は親子2代の出来事というのが定説)で、多くの家臣が義龍側についている現状から考えても、実際には、道三より義龍のほうが、武将としては長けていたという事でしょう。

道三にとって、義龍は、実子ではなかった可能性もあるとは言え、主君から国を乗っ取って一国一城のあるじとなった道三も、最後には、息子に国を盗られたという事で、娘婿の信長に、美濃の将来を託したくなるのもわからないではありません。

ところで、その託された信長・・・道三が討ち取られたという事は、救援要請に答える事ができなかったという事になりますが、彼も、その救援要請をまったく無視したわけではなく、すでに軍を編制し、木曽川を越えて、戦場まで約15kmほどの大良(おおら)という場所に陣を構えていました。

ただ、それ以上深く美濃へ入る事は、やはり、できなかったのでしょう。

なんせ、この時の信長は、未だ尾張を統一する事すらできていませんから、同族の岩倉織田家が常にスキをうかがっている状態でしたし、何より、一家の中に、弟・信行派という反対勢力が存在する(11月2日参照>>)状況でしたから、美濃と尾張の両方を見据える事ができる位置にまでしか、軍を進められない事は、いたしかたないところであります。

結局、この長良川の合戦の時は、道三を討ち取った義龍軍が、その勢いのまま信長のところまでやって来て、陣を襲撃しはじめ、未だ、道三の死を知らなかった信長軍が、それに応戦するというかたちで合戦がはじまるのですが、やや、織田軍劣勢になったところで、すでに道三が敗死しているとの知らせが届いたうえ、岩倉織田軍が、信長の居城である清洲城に攻め込んだとの情報も入り、信長は自ら殿(しんがり)を務めて軍を退却させという事です。

後に、譲り状を大義名分に掲げて、美濃に攻め入る信長ですが、道三に託された美濃を落すのには、この先、11年の歳月を要する事になります(8月15日参照>>)

それも、名将だと思われる義龍が当主の間には、攻め落とす事ができず、彼が35歳という若さで亡くなってくれる事で、信長は美濃を攻め落とす事ができたという気もします。

「美濃を譲る」という約束事が、道三と信長の間に交わされていたであろう、そして、今回ご紹介した手紙の内容が本物であろうという根拠としては、上記の美濃を攻める大義名分として使われた事だけでなく、後に、信長が上洛してから、ことのほか妙覚寺を重用するという事でもわかるような気がします。

ほら、あの本能寺の変の時、信長が宿泊していたのは、もちろん本能寺ですが、跡取り息子の信忠が宿泊していたのは妙覚寺(6月2日参照>>)・・・何となく、道三と信長の絆が見えるような気がします。
 

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2009年2月24日 (火)

こつ然と姿を消す信長の正室・濃姫は何処へ?

 

天文十八年(1549年)2月24日、織田信長斉藤道三の娘・濃姫と結婚しました。

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その猛将ぶりで、尾張(愛知県西部)の半分を手中に収め、隣国・三河(愛知県東部)にも手を伸ばし、さらに領地を拡大しつつあった織田信秀でしたが、もう一つの隣国・美濃(岐阜県)への進攻は、何度挑戦しても、どうもうまくいきません。

なんせ相手は、あのマムシと呼ばれた斉藤道三(どうさん)ですから・・・。

天文十六年(1547年)の加納口の戦い(9月22日参照>>)では、越前(福井県)朝倉氏の援助を受けながらも手痛い敗北を受け、ここに来て方針転換をせざるをえなくなります

・・・というのも、信秀の度々の進攻を牽制するため、三河の松平広忠が、駿河(静岡県)今川義元と同盟を結んだのですが、その同盟の証しとして今川のもとへと人質に出されたはずの長男・竹千代(後の家康)を途中で連れ去り、織田の人質として、ここ尾張に連れてきたのが、ちょうど、同じ年の天正十六年・・・

当然の事ながら、広忠&義元との間には険悪なムードが流れますから、ここは、そちらとの抗戦を優先して、とりあえずは、美濃からの攻撃を受けないようにしなければ・・・。

なんせ、信秀はまだ尾張を統一する事すらできてはいないのですから、主家筋である清洲織田家が、そのマムシの道三と手を結んだりなんかしてしまっては大変です。

同盟の締結役として抜擢されたのは、信秀の息子である、あの織田信長の教育係としてもおなじみの平手政秀でした。

同盟の申し出を受けた道三にとっては、寝耳に水の話ではありましたが、無い事ではありません。

美濃は、例の朝倉氏の越前とも接していますし、近江(滋賀県)六角氏は、事実上、道三が乗っ取った土岐頼芸(よりあき・よりなり)の嫁の実家ですから、いたって油断がなりません。

道三は、この同盟の申し出を受ける事にし、その証しとして行われたのが、信秀の息子・信長と道三の娘・濃姫(のうひめ)の結婚でした。

その時、信長は15歳か16歳くらい、濃姫は、その一つ下か二つ下くらいなので、政略結婚とは言え、お似合いのカップルだったかも・・・ですね。

ちなみに、道三が、信長の器量を知りたくて会う約束を取りつけ、当日は、ナマの様子を見たいばかりに先に行って建物から覗き見した時には、例の尾張の大うつけの風貌(どんな感じだったかは5月12日参照>>で、「こりゃ、あかん」と思わせておいて、すぐあとの正式の会見には、凛々しい正装で現れて道三のド肝を抜く、あの有名なシーン・・・

ドラマでも度々描かれて、実際の信長を見た道三が「わが領地は、婿殿の引き出物になるだろう」と言ったなんてのも、もう、皆さんご存知のエピソードだとは思いますが、あれは、信長の父・信秀が亡くなってからの出来事ですから、この結婚から数年経った後のお話だと思われます・・・って事は、この結婚の話が決まった時には、信長がどんな人物かは、人づてに聞いたウワサのみだったはずですから、なかなか決断力が必要だったかも知れませんねww。

ところで、この信長の正室である濃姫・・・

天下を手中に収め、天皇をもビビらせる人物の正室にしては、史料がほとんど残っていません。

それでも、結婚当初からしばらくは、この婚礼に大喜びの信長が宴会を催した話や、ともに津島神社(愛知県津島市)のお祭りに出かけた話などで、その姿を感じとれますが、後半に至っては、まるで、そこにいなかったかのように、こつ然と姿を消し、その死さえうやむやになってしまっているのです。

ドラマなどでも、大抵、濃姫と呼ばれる彼女ですが、ご存知のように、これは「美濃から来た姫」という意味での呼び名で、本名を帰蝶(きちょう)とする文献もありますが、実際のところはわかっていません。

彼女は、信長との間に子供ができなかったようなので、そのために記録として残る事が少なかったと思われますが、それにしても、あれだけ信長の事が書かれてある『信長公記』でさえ、その死について、まったく触れてくれてはくれません。

信長には、ご存知、弘治三年(1557年)に生まれた信忠という息子がいますが、この信忠を産んだのは、濃姫ではなく、美濃・郡村(岐阜県江南市)の豪族・生駒氏の娘の吉乃(きつの)という女性・・・

いくつかの史料で、この吉乃さんの事を、「御台(みだい)という正室の呼び名で記している事から、この信忠誕生の時に、すでに、信長のそばにはいなかったのでは?という憶測も飛んでいます。

それは、その前年の弘治二年(1556年)の長良川の合戦で、義父の道三が息子の義龍(よしたつ)敗戦して命を落とした(10月22日参照>>)事で、道三との同盟としての役割を終えたというものです。

よって、必要ではなくなった濃姫は、美濃へ返されたとか、母の実家の明智氏に返されたとか、中には、殺されたなどというウワサもあります。

しかし、長良川の合戦の時に、「援助してくれたら美濃をあげる」という道三から信長への手紙もありますし、たとえその手紙が偽作だったとしても、この先、美濃を攻める信長にとって、濃姫がいなかったら、「義父の弔い合戦」という大義名分が無くなるわけですから、道三の死の時点で、濃姫が不要になる事は考え難いです。

ただ、病死という事はありえるかも知れません。

『濃陽諸士伝記(のうようしょしでんき)という書物には、永禄四年(1561年)にかの義龍が亡くなった頃には、濃姫が死亡していた事を感じさせる記述もあります。

しかし、山科言継(やましなときつぐ)という公家の書いた日記・『言継卿記(ときつぐきょうき)には、その義龍が亡くなった後に、その妻が持っていた名器の壷を信長が欲しがった時に、「信長本妻が抗議した」と記されていて、斉藤家との関わりを考えると、この本妻というのは、濃姫の可能性が高く、だとすると、この時点では、信長のそばにいた事になります。

また、逆に、長生き説もあります。

よく言われるのは、「あの本能寺の変の時に、そばにいた」という説・・・。

三年前の大河ドラマ・功名が辻でも、この説を採用して濃姫が長刀で応戦してた気がするんですが・・・(別のドラマだったらゴメンナサイ)

これは、本能寺の変の時に「おのう」という女性がそばにいたと記されている事からきているようですが、この時の「おのう」という人には、本妻とも正室とも御台とも書かれておらず、まったく別の女性で侍女か何かだった可能性もあるのです。

第一、濃姫が本当に濃姫と呼ばれていたのかすら危ういわけですから・・・。

更なる、長生き説としては、信長の菩提所・摠見寺(そうけんじ・滋賀県安土町)の織田家の過去帳には「養華院殿粟津妙大姉 慶長十七壬子七月九日信長公御台」とあり、この養華院さんが濃姫だとすれば、慶長十七年(1612年)という大坂の陣の2年前まで生きていた事になります。

また、京都の大徳寺の塔頭・総見院の織田家墓所にある五輪塔の一つにも、「信長公御台」と刻まれた物があり、こちらも年号は慶長十七年となっていますので、やはり78歳前後というご高齢まで健在であった事になります。

ただ、上記の通り、「信長本妻」「信長公御台」という記述が、濃姫を指すとは限らないわけで、謎は、やはり謎のまま・・・。

しかし、こういう感じの謎まみれのほうが、ドラマや小説などでは、いろんな脚色をつけやすいので、案外おもしろい作品になるかも知れません。

国盗り物語の松坂慶子さんは、お嫁に行くにあたって、
「何かあったら、この剣で・・・」
と、そっと懐剣を手渡した父に・・・
「この剣は、父上を刺す剣になるやも知れませぬ」と、答え、

功名が辻の和久井映見さんは、明智光秀と心魅かれ合いながらも、本能寺で夫を守って奮戦します。

たとえ、長良川の合戦のあとあたりから、史上に登場しなくなっても、「用済みになったので殺された」とは、誰も思いたくはないのです。

信長の奥さんは才媛であってほしい
二人の間には愛があってほしい

現在の濃姫像には、そんな歴史好きの思いがこめられているのかも知れません。
 

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2009年2月10日 (火)

棚ぼた?計略?宗麟の「大友二階崩れ」

 

天文十九年(1550年)2月10日、豊後の戦国大名・大友氏の20代当主・大友義鑑後継者を巡ってお家騒動が勃発・・・世に言う『大友二階崩れの変』です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

豊後(大分県)の戦国大名であった名門・大友氏の第20代当主・大友義鑑(よしあき)には、正室の産んだ義鎮(よししげ)という21歳になる長男がいましたが、側室の産んだ三男・塩市丸(しおいちまる)後継者にしたくてたまりません。

その理由は・・・

長男・義鎮は、少し気に入らない事があると家臣を手打ちにしたり、剣術の稽古なのにブレーキが効かずに相手をメッタ打ちにしたりという気性の荒いところが気に入らなかったとか・・・

逆に、義鎮が病弱であったため、当主には向かないと思ったとか・・・

義鎮の母というのが、周防(山口県)の名門・大内氏の娘であったため、実家の強大な勢力からの影響が大きくなりすぎてはいけないと判断したからだとか・・・

塩市丸の母・・・つまり、側室の彼女が好きで好きでたならないとか・・・

塩市丸が幼いながらも聡明なので溺愛していたとか・・・

様々に言われますが、実際のところはわかりません。

ただし、塩市丸は、この時点で3歳だったようなので、「幼いながら聡明」って・・・バカボンのはじめちゃんじゃあるまいし、3歳と21歳を比較して聡明もクソもない気がするので、おそらく、これは無いだろう?と思います。

しかし、理由はどうであれ、後継者を巡ってのモメ事があった事は確か・・・でない限りは、正室の子で長男なのですから、誰がどう見ても、その義鎮が家督を継ぐのが正統なわけですから・・・

やっぱ、ここには、それぞれの息子の味方をしている家臣同士の派閥や、現当主の義鑑の思惑などが渦巻いていたのでしょう。

かくして、天文十九年(1550年)2月10日、義鑑は、長男・義鎮を別府温泉へと出かけさせ、その留守中に重臣・4名を、順々に大友館に呼び出します。

呼ばれたのは、斉藤播磨守小佐井大和守津久見美作守田口蔵人佐の4名・・・

義鑑は、それぞれの家臣に、そっと、心の内を打ち明けます。

「塩市丸に家督を譲ろうと思ってるんやけど・・・」と・・・。

その話を聞いた4名は、それぞれ「そんなんしたら、家内でモメまっせ!」「やめときなはれ~」と猛反対するのですが、何と義鑑は、猛反対した4人のうちの二人・斉藤と小佐井を斬ってしまうのです。

これに驚いたのは、残った二人・津久見と田口です。

「こんなもん、黙っとたら、俺らも殺られるんと違うんけ?」と思うのは当然の事・・・

「それならば、殺られる前に殺るしかない!」

その日の夜・・・彼らは、館の二階で寝ていた塩市丸とその母を襲撃するのです。

まずは、確実に殺さなければならない塩市丸を津久見が・・・田口はその横にいた側室とその娘・二人を殺害します。

さらに、二人は義鑑の部屋へも乱入して大暴れ!

しかし、義鑑とともにいた側近が主君を守るべく応戦し、あえなく二人は討たれてしまいますが、当の義鑑も、すでに重傷を負っていました。

別府にて、このニュースを聞いた義鎮・・・

すぐに、府内(大分市)に戻り、もはや虫の息の父・義鑑に向かって・・・
「家督を俺に譲ると言わんかい!」と・・・

見事、家督相続をとりつけたその後、義鑑は2日後の2月12日に死亡します。

この騒ぎの要因を、最も塩市丸を推していた親族・入田親誠(にゅうたorいりたちかざね)にあると判断した義鎮は、家臣たちに入田征伐を命令・・・逃げる入田は、嫁の実家である阿蘇惟豊(あそこれとよ)を頼って身を寄せるのですが、逆に、そこで「お前が悪い」罵られて殺されてしまいます。

結局、この騒動は、重臣の二人(津久見と田口)による主君への謀反として処理され、一件落着・・・上記のように館の二階で起こったので、『二階崩れの変』と呼ばれます。

・・・て、どう思います~?

この、あまりの手際の良さ、あまりの処理のうまさ、そして、あまりに義鎮有利に事が運んだ事で、ひょっとしたら、彼・義鎮が、すべての黒幕では?などとも囁かれているのですが・・・。

結局、関係者は全員、死んでしまうわけですし・・・

とにもかくにも、こうして、大友氏21代当主の座を手に入れた義鎮さん・・・後に、33歳の時に出家して、法号を宗麟(そうりん)と称します。

そう、彼が、豊後の王・大友宗麟です。

後に、母親の実家とおぼしき大内氏の養子となって、家臣の陶隆房(すえたかふさ)のあやつり人形とされた弟・大内義長が、毛利元就(もとなり)に攻められた時も、彼・宗麟はまったく行動を起さず、見殺しにした形となった(4月3日参照>>)事を考えると・・・なにやら、この時も・・・という気がしないではありません。
 

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2008年12月24日 (水)

石見銀山争奪戦~尼子氏衰退のターニングポイント

 

永禄三年(1560年)12月24日、出雲(島根県)の戦国大名・尼子晴久37歳でこの世を去りました。

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先月書かせていただいた月山富田城(がっさんとだじょう)・開城のページでも、この尼子晴久さんの死からお話を始めさせていただいた(11月28日参照>>)ように、出雲を本拠地に、山陰地方に一大勢力を誇った尼子氏が、坂道を転げ落ちるように滅亡へと向かうターニングポイントが、この晴久さんの死にあったような気がします。

かと言って、晴久の後を継いだ尼子義久が、先代と比べて特別に愚将だったというわけではなく、時代の流れや周囲の環境が、まさにバッドタイミングで重なったような気がするのです。

鎌倉時代から、中国地方に君臨した2大勢力・・・周防(山口県)大内氏出雲尼子氏・・・。

近ごろ、世界遺産に登録されて俄然注目を浴びた石見(大森)銀山は、その鎌倉時代の延慶年間(1308年~11年)に発見されて以来、貴重な資金源として、この2大勢力の間での争奪戦が繰り返されていたのですが、その構図は、室町時代に入っても変わる事なく、銀山を守るために、大内氏によって構築された山吹城は、めまぐるしく両者の間を行き交い、抗争が繰り返されていたのです。

そして、いずれ大内氏も尼子氏も倒す事になる毛利も、この頃は、未だ尼子氏の配下に納まる地方の一国人という身分でしたが、大永三年(1523年)、弟との家督争いに勝利して、毛利家の当主となった毛利元就は、その弟の背後に尼子氏の画策があった事で、以後、大内氏の配下となり、尼子氏と対するようになります(11月25日参照>>)

その後、天文十一年(1542年)に晴久の父・尼子経久(つねひさ)の死(11月13日参照>>)に乗じた大内義隆が元就を引き連れて、本拠地・月山富田城を攻めた第一次の攻防戦でも、1年以上に渡る籠城戦を耐え抜いて守りきり、不動の尼子氏を印象づけました

ところが、その翌年の天文十二(1543年)年、尼子氏のあずかり知らぬところで、事態は大きく変わります。

大内氏の家臣だった陶隆房(すえたかふさ・晴賢)クデーターを決行・・・主君・義隆を自刃に追い込み、自らのあやつり人形となる大内義長大内氏の当主の座に座らせるのです。

しかし、その7年後の弘治元年(1555年)、今度は、そのゴタゴタに乗じた元就が、厳島の戦い(10月1日参照>>)で隆房を奇襲・・・戦いに参加していなかった義長は、無傷ではありましたが、あやつり人形として担ぎ出されただけの若き当主に、もはや、大内氏をまとめる力はありません。

ここで、山陽の雄・大内氏に取って代わった元就は、その金のなる木を手に入れるため、当時は尼子氏のものとなっていた石見に手を伸ばします。

翌・弘治二年(1556年)、毛利の家臣・口羽通良(くちばみちよし)と元就の次男の吉川元春らが石見に進攻し、山吹城への攻撃を開始・・・尼子氏の配下で銀山代官を務めていた刺鹿長信(さっかながのぶ)らが応戦するも、やがて、山吹城は毛利の手に落ちます。

さらに翌年の弘治三年(1557年)には、銀山だけではなく、石見そのものをほぼ手中に収めた毛利・・・石見に残る尼子配下の者は温湯城(ぬくゆじょう・島根県)小笠原長雄(ながたか)のみとなってしまいます。

そんな中、すでに風前のともし火となっていた例の大内氏を、義長を自刃に追い込んで滅亡(4月3日参照>>)させた元就自身が、永禄元年(1558年)の4月に先発隊と合流し、この温湯城の攻撃に加わります。

さすがに、敵の当主の出陣に尼子氏も気合を入れなおし、こちらも晴久自らが1万5千の軍勢を率いて、まずは山吹城奪回へと向かいます。

攻撃を受けながらも温湯城が踏ん張る中、山吹城への兵糧補給を担当していた宍戸隆家を倒した晴久は、その勢いに乗じて山吹城を奪還・・・降伏という形で、敵側に寝返っていた代官・刺鹿長信を自刃させ、新たに本城常光を入城させます。

ここに、石見銀山は、再び尼子氏の物となりました。

翌・永禄二年(1559)になって晴久は温湯城の援助に向かい、7月5日には(こう)の川という川を挟んで毛利勢と対陣・・・一触即発の状態となります。

しかし、なぜか、ここに来て、にらみ合いするのみ・・・結局、戦う事なく居城の月山富田城に帰ってしまうのです。

これに激怒したのが、温湯城で頑張っていた小笠原長雄・・・。

「帰んのかい!」という怒涛のツッコミが聞こえてきそうな気配の中、案の定、「尼子は頼りにならん!」と、あっさりと元就の配下へと降ってしまいます

温湯城が手に入った以上、後は、山吹城に集中するのみとなった元就は、翌年、夏・・・新たに1万4千の兵を派遣して山吹城を攻めます。

それでも、山吹城を任せれている常光は何とか踏ん張り続けるのですが・・・そう、このタイミングです。

このタイミングの永禄三年(1560年)12月24日晴久は37歳の若さで病に倒れ、帰らぬ人となってしまうのです。

後を継いだ義久は、冒頭に書いたように、愚将というほど悪くはないものの、何と言っても弱冠20歳・・・謀略に長けた元就と相対するには、もはや、先が見えた感がありますね。

やはり、ここに来ての晴久さんの死は、タイミング悪すぎです。

やがて、この2年後には、山吹城が開城となり、石見銀山は毛利の物に・・・そして、あの第二次月山富田城の攻防戦へと向かう事になるのです(11月21日参照>>)
 

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2008年12月 2日 (火)

意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者

 

長享元年(1487年)12月2日、室町幕府第9代将軍・足利義尚(よしひさ)の布陣する近江鈎(おうみまがり)の陣に、六角高頼(ろっかくたかより)配下の甲賀衆が奇襲をかけました。

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応仁の乱のドサクサで、近江国(滋賀県)にある寺社の荘園を横領しようとした守護・六角高頼・・・。

それを阻止すべく、将軍自らが出陣し、長享元年(1487年)9月から、延徳元年(1489年)3月26日に、その将軍・足利義尚が陣中で病死するまで、2年半に渡って繰り広げられた戦い・・・拠点にした場所の名から、この戦いの事を近江鈎の陣と呼びます。

その一連の戦いの中で、最も劇的なのが、12月2日奇襲攻撃・・・という事で、昨年は、そのお話を書かせていただきました(2007年12月2日を見る>>)

昨年のそのページでも書かせていただきましたし、本日の冒頭でも書かせていただいた「六角高頼配下の甲賀衆」・・・高頼は、近江が地元ですから、その配下の多くが甲賀の者たちであったので、そのように書かせていただきましたが、実は、この時の奇襲作戦には、一部、伊賀者も参加していたのです。

まばたき一つせず、ほぼ無表情に近い忍者・ハットリくんに恥をかかせようと、あの手この手で、執拗にイタズラを続ける甲賀忍者・ケムマキくん・・・この二人の構図から、何かと敵対しているイメージのある伊賀忍者と甲賀忍者。

でも、上記の近江鈎の陣への奇襲作戦でもわかるように、実はけっこう仲がいい・・・今日は、そこンところを書かせていただきます。

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主に拠点としていた京都に近いという事で、甲賀忍者を配下にし、今や最大のライバルとなった徳川家康の動きを探らせていた豊臣秀吉

本能寺の変の後の決死の伊賀越え(6月4日参照>>)以来、伊賀者を配下にして、秀吉の動きを探らせていた家康・・・伊賀と甲賀が敵対しているようなイメージがついたのは、ここらあたりの逸話によるものかも知れません。

しかし、実際には、その家康の伊賀越えの時も、服部半蔵正成の呼びかけに答えて、家康の警護に集まったのは、伊賀者だけではなく、甲賀の者も混ざっていたのです。

そう、伊賀と甲賀が敵対しているというのは、後の時代劇やお芝居などでの、完全に作られたイメージなのですよ。

それは、戦国忍者の誕生していった過程を、じっくり踏まえると、彼らが敵対していたのではない事が読み取れます。

以前、織田信長【第二次天正伊賀の乱】(9月11日参照>>)のところでも書かせていただいたように、武田信玄には出抜(すっぱ)上杉謙信には軒猿(のきざる)、はたまた北条風魔真田十勇士などなど・・・諜報活動が戦いにおいて最も重要なものであるのは、孫子の時代からの常識です(孫子の兵法・用間篇を参照>>)

そもそもは、あの聖徳太子が敵情視察のために放ったという志能備(しのび)・・・これが、忍者のルーツとも言われますが、私、個人的には聖徳太子の志能備と、戦国忍者は別物ではないか?と思っています。

聖徳太子の志能備は、先に人物を雇っておいて、その人物に志能備という諜報活動をやらせる・・・一方の、戦国忍者は、もともと諜報活動が専門のプロ集団を雇い入れる・・・正社員と派遣社員の違いとでも言いましょうか、仕事内容が同じでも、立場が違っていたのではないか?と・・・。

おそらく、戦国忍者が誕生したのは、それぞれの故郷=惣村の自衛のための集団として誕生したのでしょう(惣村については6月9日【一味同心・一揆へ行こう】参照>>)

地元に根付いた国人や土豪たちを中心に、その村に生きる農民たちが、戦国という世の中で、自らを守るために得とくしたすべが、独特の忍術なのでは?

時には、自らが造った環濠という堀を張りめぐらした村で・・・
時には、自然の山に囲まれた山間の里で・・・

戦国大名が群雄割拠した時代に、どこにも属さない彼らは、自衛のための手段を身につけます。

それは、大量の武器と兵に対抗するための諜報活動であり、ゲリラ作戦だったのです。

伊賀の里と甲賀の里を見てみてください。

どちらも、山に囲まれた地に暮らし、山間で農業を営みながら、時には採れた山の幸を持って都へと行商に出かける・・・鈴鹿を挟んで、同じ境遇で暮らす彼らは、敵対どころか、むしろ、お互いのノウハウを教えあう親しい関係にあったと思われます。

後の延宝四年(1676年)に、伊賀忍者の子孫という藤林保武(ふじばやしやすたけ)が書いた忍者のバイブルとも言うべき『万川集海(ばんせんしゅうかい)の序文には・・・

「伊賀・甲賀の11人の忍者の裏ワザや秘密アイテム、新たに編み出した忍術の厳選したものを集めて・・・」
と、ある事からも、とても敵対関係にあったとは思えませんよね。

自分たちの里を守るために編み出された忍術ですが、日本全国に小さな国が群雄割拠する時代から、やがて、頭一つ飛び抜ける人物が登場する事によって、彼らの運命は大きく変わるのです。

広大な領地を治めようとする大大名、あるいは天下統一を狙う者にとっては、自分の権力の及ばない独立国家はあってはならないもの・・・彼らの里は、二者択一を迫られる事になります。

独立を守って徹底的に戦うか、傭兵となって配下につくか・・・

戦国大名の天下統一が進むにつれ、先ほどの【天正伊賀の乱】などを経て、やがて彼らは傭兵となってそれぞれの大名に雇われる形となりますが、それでも、伊賀対甲賀といったような敵対の構図にはなりません。

彼らは、惣村から誕生していますから、すでに、統率のとれた団体ですが、厳密には、伊賀なら伊賀の中で、甲賀なら甲賀の中での派閥があり、それぞれの一派が、誰に雇われるかで、伊賀と甲賀が、ともに同じ武将のもとで、働く事もあれば、伊賀同士で敵味方に別れる事もあるわけです。

このようにして、戦国武将の傘下に組み込まれていった彼らですが、その基本の形態というのは、その後も変わる事なく続いていたようです。

それは、先ほど書かせていただいた派遣社員的な形態です。

彼らは、忍者の派閥に属してしますが、雇い主は武将・・・つまり、指揮命令系統は雇い主の武将にあるわけです。

慶長十年(1605年)にこんな事件がありました。

先の服部半蔵正成の死後、3代目服部半蔵を継いだ正就(まさなり)は、伊賀衆200人の支配も受け継ぐのですが、何を思ったか、先ほどの雇用形態を無視して、自宅の修復や、個人的な雑務を、自分の配下の者に命令しはじめたのです。

そこで、彼ら伊賀衆は、「我々は江戸幕府に雇われているのであって、服部家に雇われているのではない」と、老中・本多正純に直訴・・・見事、その訴えが通り、彼らは、正式に幕府直轄になりますが、それに怒った正就が、彼らにストーカー行為をおっぱじめ、さらに、殺害してしまうという事態となり、正就は改易のうえ永久謹慎処分となっています。

伊賀忍者と服部家の関係も、ここでプッツリと切れ、以来、復活する事はなく、こうして、忍者集団という組織は、完全に幕府・大名権力の中に組み込まれていったというワケです。
 

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2008年11月29日 (土)

黒田如水~ジッチャンの目薬で先を見る目を養った?

 

天文十五年(1546年)11月29日、豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛孝高が誕生しました。

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あの竹中半兵衛と並んで、豊臣秀吉名軍師として名高い黒田官兵衛孝高(よしたか)・・・後に、剃髪して名乗った如水(じょすい)という名前が有名なので、本日は如水と呼ばせていただきますが、彼らが称される軍師という職業は、現在の私たちが抱くイメージとはちょっと違います。

現在の軍師のイメージは、おそらく三国志諸葛孔明の影響なのでしょうが、実際には、日本では、諸葛孔明のような軍師は存在していなかったのです。

以前も、山本勘助のところで書かせていただいたのですが(5月23日参照>>)、日本における軍師というのは、必勝祈願を行ったり、出陣の儀式を仕切ったり、「明日は運勢が良いので、明日出陣しましょう」なんていう占い師のような仕事をしていて、どこから攻めるなどと進言する時も、それは、風水の方角の吉凶を根拠にしての発言で、軍事的な作戦というものではありませんでした。

如水や半兵衛の場合は、確かに武勇で名を馳せたというよりは、その智謀によって作戦や戦術を発案したり、主君の相談役になったりという事ではありますが、実際に、自ら兵を率いて出陣して戦場に行きますので、あくまで、軍師ではなく、武将という事になります。

ところで、本日の主役・黒田如水さん・・・ドラマなどでは、大抵、秀吉を通じて織田信長の傘下となった頃から登場し、あの荒木村重の謀反(5月4日参照>>)での説得役としてスポットと浴びる事もあり、何かと、幼い頃を想像し難いのですが、それこそ、いきなりオッサンで生まれてくるはずはなく、誰にでも子供時代というものがあるわけで、本日は、その信長傘下となるまでの事を少し書かせていただきます。

・・・とは言え、如水さんはともかく、その先代・先々代となると、史料も少なく、あくまで「・・・と言われている」という類のものではありますが・・・

如水の生まれた黒田家は、近江(滋賀県)北部の黒田村(木之本町)の出身で、近江源氏の流れを汲むお家柄・・・ひいお爺ちゃんの黒田高政は、第10代室町幕府将軍・足利義種(よしたね)に仕えていたものの、その命令に反したため、一族郎党を連れて、逃げるように備前国(岡山県)邑久郡(おくぐん・瀬戸内市)に移り住んだと言います。

やがて、祖父・黒田重隆(しげたか)の代になって播磨(兵庫県)小寺氏の家臣となり、その実力でみるみる出世し、小寺氏の城の一つであった姫路城の城代を任されるほどの重臣となります。

この重隆という人は、夢に出てきた目薬を、実際に作って売り出して大儲けをしたというアイデア商売人でもあったらしいのですが、後に如水と九州での勢力を二分する薩摩(鹿児島県)島津家が、如水に「目薬屋」というニックネームを着けているところからみても、その夢の話はともかく、目薬が大ヒット商品となっていた事は確かでしょうね。

そして、その重隆の後を継いだのが黒田職高(もとたか)・・・如水は、この職高の息子として天文十五年(1546年)11月29日に生まれます。

この頃には、職高は、小寺氏の家老にまで出世していて、主君の小寺政職(まさもと)からの信頼もあつく、小寺姓を賜って小寺職高と名乗っていました。

やがて、幼いなりにもその頭角を現してくる息子に信頼をおく職高は、永禄十年(1567年)、22歳になった如水に家督を譲り、自らは隠居の身となります。

そんなこんなの天正三年(1575年)、長篠の合戦(5月21日参照>>)武田勝頼を破った信長が、いよいよ天下統一へと動きはじめ、、徐々に、その勢力範囲を拡大してくる事になります。

西の毛利と東の織田の2大勢力に挟まれる形となった如水らの播磨・・・小大名でしかない小寺氏は、毛利につくか織田につくかで家中は騒然となるのですが、やはり、主君・政職をはじめ、多くの家臣は、毛利につく事を提案しますが、その中で、如水ひとりが、織田の傘下となる事を主張します。

どうやら、この時、すでに水面下で秀吉と接触していた如水は、信長の実力を見抜いていたようですね。

やはりそのスルドイ心眼は、ジッチャンの目薬のおかげかしら?

如水は、毛利に傾く家中において、秀吉から聞いた信長の話を、主君らにとくとくと話して皆を説得し、小寺氏は、信長の傘下となる事に決定しました。

この小寺氏の織田傘下の表明には、如水自らが信長のもとへと赴いて直接報告し、信長は大いに喜ぶとともに、そんな如水の事を大変気に入って、愛用の刀を授けたのだとか・・・

かくして、その信長の命で、中国の平定を担当する事になった秀吉とともに、彼は、西の最前線で、その智謀と戦略を大いに発揮する事となるのです。
 

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2008年11月28日 (金)

月山富田城・開城~山陰の雄・尼子氏の敗因は?

 

永禄九年(1566年)11月28日、すでに毛利元就の攻撃に耐え切れずに降伏を表明していた尼子義久月山富田城を開城しました。

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先代・尼子晴久の死(12月24日参照>>)によって、山陰の雄・出雲(島根県)の尼子氏を継いだ若き当主・尼子義久・・・しかし、この当主交代を絶好のチャンスと見たのは、中国地方に君臨した名門・周防(山口県)大内氏を滅ぼし、今や中国地方全土を手に入れようとする安芸(広島県)毛利元就(もうりもとなり)でした。

永禄八年(1565年)4月20日に毛利によって開始された、尼子氏の本拠地・月山富田城(がっさんとだじょう)への攻撃・・・『富田三面作戦』と称された伝説の総攻撃にも絶えた城でしたが、やがて、兵糧の補給路を断たれ、万策つきた当主の義久は、翌・永禄九年(1566年)11月19日、自らと弟の倫久(ともひさ)秀久3名の助命と、家臣の領土の安堵を条件に、毛利に対して降伏を表明し、11月21日には、元就がその条件を約束しました(11月21日参照>>)

かくして永禄九年(1566年)11月28日月山富田城は開城されたのです。

この時、元就の息子たち・吉川元春(きっかわもとはる・次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ・三男)の兄弟は、「その約束をほごにして、尼子氏を滅亡させるべき」と、父・元就に詰め寄りましたが、元就は「相手が生きたいって言うてる時は、その命を取らへんのが大将っちゅーもんや・・・俺ってえぇヤツやろ?(←最後のコレはジョークです)と、断固として譲らなかったと言います。

その代わりに、この尼子三兄弟から「2度と毛利には刃向かいません」との起請文を書かせています。

この開城の時点で、月山富田城に残っていた尼子の家臣は、わずか140人ほどだったそうですが、もちろん、その中には、あの山中鹿之介(鹿介)もいました。

やがて、毛利の本拠地である安芸へと送られる尼子三兄弟・・・家臣たちの「主君を最後まで見送りたい!」という希望は叶えられる事なく、鹿之介らは散り々々に、どこへともなく去っていきました。

12月14日、元就の居城・郡山城にほど近い円妙寺に送られた尼子三兄弟・・・元就の孫・毛利輝元豊臣秀吉の傘下となる天正十七年(1589年)まで続く事になる彼らの幽閉生活は、大変厳しいもので、旧家臣に会う事はいっさい許されず、面会に訪れた者たちは、全員、その場で斬り捨てられたと言います。

また、もう一つの約束であった、尼子家臣の所領の安堵は、ほとんど守られず、先の面会者の斬り捨てとも相まって、この二つの事は、後に鹿之介が、尼子勝久(京都で僧になっていた尼子氏の生き残り)を担いで再起する時、その一声で、6000もの尼子の残党が集まってしまうような遺恨を残す事にもなってしまったワケですが、そちらのお話は、7月3日のページでどうぞ>>。

ところで、山陰の雄とうたわれた尼子氏が、なぜ?ここまで坂道を転げ落ちるように滅亡してしまったのか?

もちろん、先代の晴久の死によって、突然、当主となった義久が、まだ21歳という若さであった事や、一方の元就が、酸いも甘いも噛み分けた、しかも、大内氏を倒しての上り調子である事もあります。

また、広大な領地を配下に治めていた感のあった尼子氏ですが、直轄の本領は意外に少なく、ほとんどは、傘下となっている国人たちの領地・・・つまり、どちらかというと連合国のようなもので、それらの国人たちは、尼子氏が強力であるが故に、傘下となっているのであって、いざという時は、簡単に敵側の傘下となってしまう存在であったというような事があげられます。

そして、もう一つ、尼子氏には、武勇に優れた『新宮党(しんぐうとう)という精鋭部隊がいたのですが、彼らが、先代の晴久の代に潰されてしまった事が、いわゆる片翼をもぎ取られたような形となってしまったという事が考えられます。

しかも、その新宮党壊滅の原因は元就の謀略にあるのだとか・・・

その新宮党というのは、晴久の祖父・経久(つねひさ)の代に枝分かれした尼子の支族で、当時は尼子国久と、その息子・誠久(さねひさ)が中心にいて、合戦のたびに功績をあげていたのです。

そこで、元就は、自国の死刑囚を一人呼びつけ、
「敵国へ使いを頼みたい・・・危険な仕事やけど、そのかわり成功したら、罪を許したる」
と、手紙を一通渡します。

渡された男は、何と言っても死刑囚ですから、このままじっとしていても100%死が待っているわけで、いくら危険と言っても、何%か助かる可能性のあるコチラの話に乗ったほうが得なのは、すぐにわかります。

男は、巡礼姿に身を包み、いざ、敵国・尼子の領内へ・・・

ところが、領内に入ったところで、強盗の仕業に見せかけて、元就の家臣が彼を殺害・・・当然、見つかった死体は、尼子領内の役人が調べを行う事になりますが、その被害者のふところを探ってみると、あの元就の手紙が・・・

そこには、
「約束通りに、晴久ちゃんを殺っちゃってくれたら、出雲と伯耆(ほうき・鳥取県)と石見をあげちゃうよん!」
と、書かれてあり、宛名は、あの国久・・・

この手紙の発覚で、国久の謀反を確信した晴久は、天文二十三年(1554年)1月1日・・・自ら出陣し、彼らの一族を根絶やしにしたのです。

ただし、上記の元就の謀略の話は、いわゆる軍記物と呼ばれる、今で言うところの「事実をもとにしたフィクション」のようなものに書かれている事なので、どこまで信じられるかアヤシイ部分もありますが、ここで、新宮党が壊滅するのも事実、それによって、元就が尼子を攻めやすくなるのも事実ですから、このような形ではないにしろ、何らかの策略を張りめぐらせていた可能性は大です。

ちなみに、この時、晴久に追われて討死した誠久の幼い息子が、命からがら京都へと脱出するのですが、その子が、後に鹿之介が、後継者として担ぎ上げ、尼子氏の再興をはかる勝久です。

こう考えると、若い義久が当主となった時・・・というよりも、それ以前から尼子氏の終焉が見えていたのかも知れませんね。
 

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2008年11月25日 (火)

毛利元就の三矢の訓え・・・その願いは?

 

弘治三年(1557年)11月25日、毛利元就三人の息子に教訓状を送りました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先日の毛利秀元さん誕生のページ(11月7日参照>>)でも書かせていただきました、毛利元就の逸話の中でも、超有名な『三矢(さんし)の訓(おし)え』・・・。

三人の子供たちに矢を折らせて、「1本なら簡単に折れる矢も、3本なら折れ難い」と、家族の結束がいかに重要であるかを説いたというものです。

そのページでも、このお話が後世の創作(前橋旧蔵聞書)である事とともに、まったくのウソではなく、そのもととなった元就が三人の息子に送った書状がある事を書かせていただきましたが、その『三子(さんし)教訓状』なる書状を送ったのが弘治三年(1557年)11月25日なのです。

これは、14か条からなる箇条書きの、いわゆる家訓なのですが、その全文はwikiなどで見ていただくとして、最も有名な、その逸話のもととなった部分は・・・

“三人の半(なかば)、少(すこし)にてもかけごへだても候(そうら)はば、ただただ三人御滅亡と思召(おぼしめ)さるべく候々(そうろう)

この「かけご=懸子」というのは隔たりを持たせる壁の事で、要は「三人の間に少しでも壁が生じたら、三人とも滅亡するよ思え」って事です。

この書状を受け取った三人の息子たちは、すぐに連盟の起請文を差し出して、その意向に従う事を誓ったのです。

時に元就61歳・・・三人の息子は、長男・毛利隆元が35歳、次男・吉川元春が28歳、三男・小早川隆景が25歳でした。

この書状を書いた翌年に、元就は長男・隆元に家督を譲りますが、その隆元はその四年後に亡くなってしまいますので、実質的には、この家訓は、その息子・・・つまり、元就の孫の輝元に引き継がれる事になるのですが、元就が、これだけ家族の結束を強調するのも、このタイミングで書状を出すのも、もちろんですが理由があります。

実は、元就には、家督争いで弟を殺害したという過去があります。

もともと、元就には兄・興元(おきもと)がいましたので、若い頃は毛利家の家督を継ぐ事など考えてもいなかったのですが、その兄が24歳という若さで亡くなってしまい、その遺児も幼くして病死した時の事でした。

その頃、出雲(島根県)尼子氏周防(山口県)大内氏の2代勢力挟まれていた毛利氏は、あっちへ着いたりこっちへついたり・・・そんな毛利のかく乱を狙って、尼子氏が、元就の異母弟・元綱を焚きつけたのです。

尼子氏の術中にハマッた元綱と彼を擁立する家臣が、元就殺害計画を立てたため、元就は、自らの手で、弟を始末し、大内氏の傘下となりました。

しかし、そんな一大勢力を誇っていた大内氏も、その家中のゴタゴタから、家臣・陶隆房(すえたかふさ・晴賢)にクーデターを起され、実権を握られたばかりか、その内紛に乗じて、元就自身がその隆房を厳島の戦い(10月1日参照>>)で倒して、彼に擁立されていた大内義長を自刃に追い込んだばかりだったのです(4月3日参照>>)

そう、この書状を息子たちに送ったのは、大内氏を滅亡させ、山陽の戦国大名のトップに躍り出た、まさに、その年だったのです。

確かに、長男の隆元は、愚将というほど悪くはないのだけれど、いたって普通の武将・・・先の陶隆房のクーデターの時にも、情に走って「大内へ援軍を出す!」と騒ぐ隆元と、「出さない」という元就の間で、大モメにもめた事もありました。

智謀に長けた元就から見れば、「こいつに家督を任せていいものか?」と悩んでいた事も事実だったのです。

そんな元就からの目線では、三人の息子の中で、一番、器量が良いと睨んでいたのは、小早川家に養子に出した三男・隆景だったようです。

もし、家臣たちの目にもそのように見えているとしたら、いつなんどき、隆景を担ぎ上げて家中を騒がす輩が出ないとも限りません。

しかも、成長したとは言え、もともと毛利は大内の傘下にいた土豪に毛の映えたような国人・・・未だ、周りには、同じように大内氏の傘下だった国人たちが、そんな内紛をてぐすね引いて待っているかも知れません。

さらに、ここにきて、その隆景と吉川家に養子に出した次男・元春が、あまり毛利家の本拠地に長く滞在する事がなくなってきていたのです。

もちろん、これは兄弟に亀裂が走ったというのではなく、もともと他家を乗っ取るために養子に出した弟たちですが(9月27日参照>>)、その家の当主ともなれば、自国の領内を治める仕事も多々あるわけで、単に、それらの政務を優先していただけなのですが、今まさに、名門・大内氏の内紛による自滅を目の当たりにし、長男の自虐、弟たちの独立を垣間見た元就は、「このままでは、アカン!」と思ったのでしょうね。

よくよく見れば、この書状・・・教訓というよりは、元就の願いのようにも思えます。

謀略に謀略を重ねて、相手のミスに漬け込んで、たった一代で、山陽一の大名にのし上がった元就だからこそ、息子たちの周りに満ち溢れる謀略を一番、心配していたのかも知れません。

ただし、元就さん・・・
この書状を見てみますと、さすがに隆元は長男なので別格になってますが・・・
「隆元之事者隆景元春をちからにして・・・」
とか・・・
「又隆景元春事者、当家他に堅固に候はゝ・・・」
とか・・・

二人が同時に登場するところで、本来ならすべてを次男の元春を先に書かないといかないと思うんですが、半分は、次男の元春より三男の隆景の名前を先に書いちゃって、隆景推しなのがバレバレなんですけど・・・

でも、元就さんの事ですから、ひょっとして、わざと、こう書いたのかも知れませんが・・・(同等という事かも)

その気持ちを察したのか、次男の元春・・・彼が、決して、兄貴の権力を振りかざす事なく、見事2番手に徹してくれたおかげで、少々危なかった元就の死の前後も、その教訓は、かろうじて守られたような気がします。
 

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2008年11月 6日 (木)

安祥城の戦い~信長&家康に今川と絡む運命の糸

 

天文十八年(1549年)11月6日、駿河今川義元配下の太原雪斎が三河安祥城を攻め、城主の織田信広を拉致した安祥城の戦いがありました。

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天文九年(1540年)、尾張(愛知県西部)織田信秀が、駿河(静岡県東部)今川に属していた三河(愛知県東部)岡崎城主・松平広忠三河安祥城(愛知県安城市)を奪ってからというもの、天文十一年・天文十七年・・・と、尾張×三河の隣国同士の争いは絶え間がありませんでした。

・・・と言うより、隣国の安祥城を奪う・・・という時点で、それ以前から境界線を巡っての争いがあったという事なのですが、この頃の信秀は、もう一つの隣国・美濃(岐阜県南部)斉藤道三ともドンパチやちゃってますので(9月22日参照>>)、とにかく、お互いが自分の領地を、少しでも広げようと画策し合う群雄割拠の時代だったわけです。

そんなこんなの天文十八年(1549年)3月・・・その松平広忠が、家臣に斬殺されるという事件が起こります。

この事件は、三河の松平を配下に取り込んでいる今川義元を大いに慌てさせます。

実は、上記のように、以前から織田からたびたび国境線を脅かされていた広忠は、名門・今川氏に支援してもらおうと、その配下となる事を約束し、2年前に嫡男・竹千代を人質として今川氏へと差し出したのですが、途中で織田方に奪われてしまい、その竹千代は、この時、織田の人質となっていたのです。

つまり、当主のいなくなった松平家が、その後継ぎである竹千代を求めた場合、現在、その竹千代のいる織田の傘下となってしまう可能性が・・・そうなると、三河一国がそっくりそのまま織田の領地となってしまうのです。

「これは、イカン!」と、義元・・・松平を今川の傘下につなぎとめておくためにも、織田に揺さぶりをかけなければいけません。

早速、義元は、家臣の朝比奈泰能らを岡崎城(愛知県岡崎市)へと送り込んで守りを固める一方で、軍師の太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)を総大将に、信秀の息子・織田信広(弘)が城主を務めていた安祥城に攻め寄せます。

3月19日・・・僧侶であった雪斎は、黒染めの法衣のうえに鎧を着け、自らが最前線に立って指揮しますが、この日は、織田方の激しい抵抗に遭い、松平勢の柱の一人・本多忠高(本多忠勝の父)を失ったうえ、一旦、兵を退きます。

その後、9月18日にも双方の激突があったとされますが、やはり、安祥城は未だ落ちず・・・。

そして、いよいよ天文十八年(1549年)11月6日、体制を立て直し、3度目の正直とばかりに、大軍を率いて、三度やってきた雪斎は、安祥城を包囲して、総攻撃を仕掛けます。

今回は、またたく間に三ノ丸を落し、本丸を孤立させる事に成功します。

実は、雪斎の狙いは、城主・信広を生け捕りにする事・・・それは、織田に人質となっている竹千代を手に入れるためです。

信広は、織田の当主・信秀の息子。
竹千代は、亡くなったとは言え松平の当主・広忠の息子。

1対1の人質交換です。

その読みはズバリ当たりました。

本丸に取り残された形となった信広は、戦いを断念・・・降伏を余儀なくされ、今川の人質となります。

こうして、その4日後の11月10日・・・尾張笠寺(かさでら・名古屋市南区)にて、両者の人質交換が行われ、この時8歳の竹千代は、亡き父の後を継いで岡崎城主という身分にはなったものの、実際には、岡崎城には今川の家臣が城代として入り、竹千代は、そのまま駿府へ送られる事に・・・(11月27日参照>>)

つまりは、織田の人質から今川の人質へと変わっただけ・・・しかも、これで完全に、三河は今川の支配下となってしまいました。

当然、松平の家臣も、今川に従うしかありません。

わずが8歳で、あっちからこっちへの人質移動・・・父親の死に目にも会えなかった少年は、この時から19歳の運命の日まで、さらに人質生活を続ける事になります。

その運命の日とは、永禄三年(1560年)5月19日・・・ご存知、桶狭間の戦い(07年5月19日参照>>)です。

桶狭間の戦いで、当主・今川義元を失ったドサクサで、長年の人質生活から開放されるこの少年は、ご存知・・・後の徳川家康(その日の家康については08年5月19日参照>>)

そして、奇しくも、この家康を長年の今川の呪縛から救ったその人は、あの日、人質交換された相手・信広の弟・・・織田信長でした。

信長&家康・・・今川を挟んで、何やら、運命の糸がからみあったような、ドラマチックな関係が浮かび上がってくるような気がします。

おぉ・・・今日は、雪斎さんを主役に、話を進めていくつもりで書き始めたのに、いつの間にやら、信長と家康が主役のようになってしまったsweat01

雪斎ファン様・・・お許しを・・・(。>0<。)
 

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2008年10月27日 (月)

天皇の権威復活~正親町天皇と織田信長

 

弘治三年(1557年)10月27日、後奈良天皇の崩御のため、第106代・正親町天皇が践祚(せんそ・皇位を受け継ぐ事)しました。

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群雄割拠した戦国時代も後半に入って、天下統一の実力を持つ武将が登場します。

ご存知、織田信長豊臣秀吉徳川家康・・・。

以前も書かせていただきましたが、この三人の天下人と、ほぼ同じ時代を生きる天皇も三人・・・。

徳川家康には、家康の孫・徳川和子を中宮に迎え、その徳川の血を引く娘に皇位を譲る後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)

豊臣秀吉には、常に天皇家を大事にしてくれる秀吉に、源平藤橘(げんぺいとうきつ)と同等の貴種・豊臣の姓を与える後陽成(ごようぜい)天皇(4月14日参照>>)

そして、織田信長と時代をともにしたのが、本日の第106代・正親町(おおぎまち)天皇です。

この二人の関係は・・・
悪く言えば癒着した政治家と企業のような、良く言えば持ちつ持たれつの関係・・・そう、この正親町天皇は、天皇というよりも、政治家なみの駆け引き手腕を発揮してくれます。

・・・というのも、あの応仁の乱(5月20日参照>>)以来続く戦乱の世・・・有名無実のような室町幕府では、地方からの税もままならず、朝廷は常に貧窮状態

この頃は、先祖代々受け継いできた儀式も中止せざるを得なくなり、亡くなった先の天皇の葬式さえ行えない状態で、その権威も地に落ちていたのです。

現に、この正親町天皇の父の後奈良天皇も、そのまた父・祖父の後柏原天皇も、費用不足で皇位を継いでから20年以上もの間、即位の礼をまともに行う事ができなかったのです。

もちろん、即位の礼を行えない状況は、今回の正親町天皇も同じ・・・。

冒頭にも書いた通り、正親町天皇が皇位を継いだのは、弘治三年(1557年)10月27日・・・信長がようやく弟・信行との後継者争いに終止符を打ち(11月2日参照>>)、あの武田信玄上杉謙信川中島で3度目の合戦(8月29日参照>>)をおっぱじめていた頃です。

そんな正親町天皇が即位の礼を行う事ができたのは、皇位を継いでから4年目の事・・・この時、そのための費用を出したのが、あの毛利元就でした。

元就は、弘治元年(1555年)に厳島の戦い(10月1日参照>>)に勝利して、名門・大内氏を滅亡させ、さらに南北朝から続く尼子氏を脅かしつつある、まさに新進気鋭の上り調子真っ只中!

この時、正親町天皇は元就を陸奥守に任じ桐菊の紋を与えています。

そうです・・・ここから、正親町天皇の、由緒正しくない新参者の戦国武将たちに、天皇家との関係を持つ事で、その権威のおすそ分けをし、反対に寄付や御殿の修理を頼むという持ちつ持たれつの関係をフル活用する天皇家復活作戦の始まりです。

そして、この正親町天皇が皇位を継いでから即位の礼をする4年の間に、桶狭間の戦い(5月19日参照>>)で全国ネットに躍り出たのが、かの信長・・・。

やがて、その信長は、足利義昭を奉じて上洛(9月26日参照>>)する事になりますが、この際には、正親町天皇は、安寧を祈願するとともに、応仁の乱以来のたびたびの戦火の怯える公家たちへの根回しするかたわら、信長に対しては、京の人々に危害を加えぬよう軍の規律をしっかりと保つようにと伝えています。

これによって、信長軍は、抵抗勢力の六角氏を撃ち破りさえすれば、何の問題もなくすんなりと京に入る事ができ、京の人々にもすこぶる評判が良かったのです。

その後、信長は、ともに上洛して第15代室町幕府将軍となった義昭との関係が悪化(1月23日参照>>)しても、天皇家へは皇室御用地や公家の領地回復、紫宸殿や清涼殿の修理、借金返済に困った公家のための徳政令を発布・・・などなど、様々な援助を続けます。

時には、信長が、義昭への攻撃を口実に御所の近くである上京を焼き討ち(4月4日参照>>)したりもしたものの、正親町天皇のほうも、天正二年(1774年)3月28日には、大事な大事な正倉院のお宝を見物させて(6月21日参照>>)香木・蘭奢待(らんじゃたい)を削らせてあげたり、天正六年(1578年)の11月4日には、信長の要請に答えて、石山本願寺&毛利との和解の仲裁に入ったりと大サービス!

しかし、その良好な関係も、徐々に崩れ始めてきます。

天下が夢物語ではなく、現実に近づくにつれ、信長は、自分の思い通りになる操り人形的な天皇を望むようになり、たびたび正親町天皇に譲位するよう口を挟んでくるようになるのです。

ただ、さすがの信長も、未だ武田や上杉が健在な間は、無理強いするような事は避けていたようですが、やがて、信玄も謙信も亡くなるにつれ、天正九年(1581年)には、天皇の前で、御馬揃(おうまぞろえ)なる軍事パレードを行い、その武力を誇示したりもしました。

もはや、信長に対抗するような武将もいなくなったと判断した正親町天皇は、彼を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任命する事で、良好な関係を維持する決意を固めるのです。

しかし・・・
ご存知のように、信長は、そのいずれかが欲しいのか?それとも、すべてを蹴るのか?の返答もしないまま、あの本能寺で自害する事になってしまいました(6月2日参照>>)

謎多き本能寺の変の黒幕として、天皇をはじめとする朝廷内の公家の名前が、推理の一つとしてあがるのも、上記のように、正親町天皇と信長の関係が、徐々に壊れつつあったからなのです。

やがて、信長を討った明智光秀山崎の合戦(6月13日参照>>)で破った秀吉を、天正十三年(1585年)に関白に任じ、正親町天皇は孫の和仁(周仁・後陽成天皇)親王に皇位を譲り、自らは上皇となりました。

この譲位というのも、第102代・後花園天皇(在位:1428年~1464年=永享の乱とかの時代です・2月10日参照>>から、約120年ぶりの事となります。

つまり、この120年間は、先の天皇が亡くなったので、しかたなく次の天皇が・・・という権威もクソもなかった状態から、正親町天皇が信長や力のある戦国武将との連携をうまく保った事によって、天皇家の地位を回復させたというわけです。

そして冒頭に書いたように、この次は、戦国天下人篇・第二幕・・・後陽成天皇と秀吉の関係へとつながっていきます。
 

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2008年10月22日 (水)

道三より大物?斉藤義龍の「親から国盗り物語」

 

弘治元年(1555年)10月22日、美濃・稲葉山城内で、斉藤道三の嫡男・斉藤義龍が弟の孫四郎と喜平次を騙まし討ちしました。

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一介の油売りから、美濃(岐阜県)の実力者・長井長弘の家臣となって、主君である長井氏を乗っ取り、その長井氏の主君だった守護代・斉藤利長の斉藤氏を乗っ取り、さらにその上の主君だった守護・土岐頼芸(ときよりなり)も追放して、ついに美濃一国を手にした斉藤道三(さいとうどうさん)・・・ご存知『国盗り物語』の主人公で、戦国下極上の代表格です。

しかし、天文二十一年(1552年)に、その美濃乗っ取り劇を行った道三は、天文二十三年(1554年)には、すでに隠居して稲葉山城から鷺山城へと移り、嫡男の斉藤義龍(よしたつ)に家督を譲ったとされますが、それが事実だとすると、一国一城の主という状態は、たった2年間だったという事になります。

ただし、この隠居劇は、江戸時代以降の軍記物に出て来るお話で、おそらく道三は天文二十三年の時点では、まだ、隠居はしておらず、この10月22日の嫡男・義龍の弟・殺害事件を以って、息子によるクーデターが決行されたと考えるべきでしょう。

もちろん、その火種は、もっと以前からありました。

かの『信長公記』によれば・・・
「道三は長男・義龍の事を「アホ」と罵り、次男の孫四郎や三男の喜平次「利口」として、下の二人ばかりを溺愛した事で、義龍との間に亀裂が入った」とあります。

この道三の態度から、次第に、二人の弟も、兄を侮るようになり、道三+弟二人VS義龍の構図ができあがっていく事になります。

やがて、弘治元年(1555年)の10月に入った頃から、義龍は病と称して、稲葉山城の奥に引きこもってしまうのです。

そして、訪れた弘治元年(1555年)10月22日、この日、稲葉山城の麓にある井口(いのくち)にある私邸に向かった道三・・・義龍は、このスキを狙って、二人の弟をそばに呼び寄せ、殺害を謀ったのです。

この報を聞いて驚いた道三は、急遽手勢を集めて、稲葉山城下を焼き払い、長良川を渡って対岸へと逃走します。

・・・つまり、ここで道三は鷺山城へ入り、義龍が家督を継いだという事になるのではないか?と思います。

なぜなら、天文二十三年の時点で、道三が隠居して鷺山城に居るなら、わざわざ井口に出かけているスキを狙う必要もありませんし、すでに家督を譲られているのなら、あえて強硬手段に出なくても・・・という気がするのです。

道三が井口に出かけている間に弟を殺害するのは、何より、道三がまだ稲葉山城にいたからであり、家督を弟のどちらかに譲ろうとしていたからに他ならないのではないでしょうか。

ところで、弟二人を騙まし討ちして、父親を追放して・・・というと、なにやら義龍さん、極悪非道な人のようにも思いますが、どうやらそうでもないようです。

・・・と言うのは、以前、道三のご命日となる長良川の戦いの日に書かせていただきましたが(4月20日参照>>)、この後、道三・義龍父子が決着をつけるべく戦ったその合戦での、お互いの手勢の数です。

この合戦は、斉藤家の父子の戦い・・・つまり、どちらの兵も、斉藤家の家臣なわけですが、道三の呼びかけに答えたのは約2千

一方の義龍に味方した者は、1万7千と言われています。

義龍が極悪非道で強引なクーデターを決行していたなら、たとえ、彼が稲葉山城に陣取っていたとしても、これほど多くの家臣の支持を得たとは、とても考え難い・・・ここに、単に弟のデキがいいから可愛がったというだけの親子の衝突でない事がうかがえます。

よく、耳にするのは、義龍が道三の実子ではなかったという話です。

義龍の母である深芳野(みよしの・三芳ノ方)は、もともと、かの土岐頼芸の側室だったのですが、彼女は評判の美人・・・どこかで、彼女を見かけた道三はたちまちのうちに一目惚れしてしまい、半ば脅す雰囲気で、当時は主君であった頼芸に頼み込んで、「そんなに好きならば・・・」と、譲り受けた女性だったのです。

しかし、その後、ほどなく義龍を生んだ事から、「譲り受けた時には、すでに妊娠していた」という噂が・・・もちろん、その子供が義龍なのですが、そうなると、その後の土岐氏は道三によって乗っ取られるのですから、当然、義龍にとっては道三は父の仇という事になります。

ただし、今のところ、これは事実ではなく後世の創作とされています。

ただ、そうでなくても、噂があったのは確かなようで、義龍は、むしろ、これを利用したようです。

なんせ、土岐氏を乗っ取っての国主・・・たとえ新参者のトップであれ、乗っ取られた以上、傘下に入らざるを得ないものの、以前からの土岐氏の家臣が、斉藤家にはたくさんいたわけですから、もしかしたら土岐氏の血を引くかもしれない・・・となると、名門のプライド高い彼らは、俄然、義龍の味方となるのです。

さらに、もう一つ・・・『信長公記』には、
「道三は、大した罪でもない者を、牛裂きにしたり、釜を置いて奥さんや親兄弟に火を焚かせて煮殺したりの凄まじい成敗をした」というような事が書かれてあり、どうやら道三は、その力ずくの下克上さながらの、強引な統治の仕方をしていたようです。

土岐氏を倒してから、この義龍のクーデターまで、わずか3年ですから、それだけで道三の領国統治能力をうんぬんする事はできないかも知れませんが、わりと早いうちから、家臣の信望を失い、領国経営がうまくいっていなかったのは確かなようです。

乗っ取りがウマイから経営もウマイとは限りませんからねぇ。

そして、道三が嫌っていた事や実子ではないの噂が流れる事でも垣間見えるように、義龍は父親には似ず、母親似で、心穏やかなイケメン(イケメンは家臣となるのに関係ないが・・・)、その人望もあつく、多くの家臣の心を掌握したという事なのです。

結果、長良川の戦いでの数の差というものが生まれてくる事になるわけです。

親子の亀裂というよりは、家臣・領民のために起こるべくして起こったクーデター・・・かくして、親子による国盗り物語の行方は・・・

先にも書いた4月20日のページでどうぞ>>

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

長良川の戦いの関連ページ:10月19日【道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状】もどうぞ>>

 

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2008年10月16日 (木)

武田信虎・甲斐統一!飯田河原の戦い

 

大永元年(1521年)10月16日、甲斐(山梨県)に進攻した福島正成を、武田信虎が撃退した飯田河原の戦いがありました。

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とにかく、謎の多い戦いです。

中世甲斐国の基本史料である『勝山記』にも、どのような状況だったのか、くわしい記述はなく、そもそもの福島正成の甲斐進攻に関しても、当時、駿河(静岡県東部)の戦国大名だった今川氏親(うじちか)命令によって・・・という話と、逆に、正成が氏親と対立した末の独断での進攻であったという話の両方があります。

また、この飯田河原の戦いに続く上条河原の戦いで討死したとされる、その正成自身も、討たれた者が正成本人だったか、福島を名乗る別人であったかの判断が難しいとされています。

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この年の2月末頃、駿河の今川氏の重臣であった土方城主・福島正成が、1万5千の大軍を率いて、甲斐の南部へやって来ます。

この時、甲斐一国をほぼ手中に収めていたのは武田信虎でしたが、それは、今川の支援を受けながら、最後まで抵抗していた甲斐西部の国人・大井信達の娘・後の大井夫人を嫁に取って成された和睦で、しかも、たった一年前の事・・・甲斐国内の国人たちは、一応傘下の姿勢は見せているものの、未だどう動くかわからない状況でした。

そんな中、9月には、甲斐国内の富田城勝山城などの諸城を攻略しながら、さらに北上をした福島勢は、信虎の本拠地・躑躅(つつじ)ヶ崎館(甲府市)に迫ります。

10月に入って、いよいよ危機感をつのらせた信虎は、当時妊娠中だった大井夫人を要害山城(もしくは積翠寺)に非難させると、大永元年(1521年)10月16日、自ら2千の兵を率いて、飯田河原にて、これを迎え撃つ事になりました。

この時は、数の上でも絶対的に不利だった武田方でしたが、わずかに地の利はコチラにアリ・・・信虎は虚兵の計(兵の数をゴマかして多く見せる)など駆使して、敵の将兵数百騎を撃ち取るという大勝利を収めます。

しかし、これでも、福島勢はわずかに後退しただけで、軍勢そのものが国元へ退いたわけではありませんので、まだまだ余談を許さない状態でしたが、そんな中、かの大井夫人が、11月3日に男の子を出産したというニュースが陣中に舞い込みます。

御曹子の誕生に士気上がる武田勢・・・この男の子は勝千代と名付けられますが、そう、すでにお気づきの、後の晴信=武田信玄です。

将兵たちの士気の上昇は、そのまま武田方の追い風となり、11月22日、再び両者は上条河原の戦いに突入します。

今度の衝突は、日中の戦いこそ引き分けに終ったものの、22日から23日にかけての深夜の武田勢の夜襲によって勝敗が決したという事です。

武田勢は、またまた数百騎の敵を討ち、福島勢の総死者は4千に及び、大将の正成以下、多くの重臣が討死し、武田方の大勝利とされていますが、そのワリには、福島方が撤退したのが、翌年になってから・・・という事なので、やはり謎多き合戦です。

しかし、いかに謎多き戦いでも、この時に、信虎が勝利をしたという事は確かな事・・・これだけの兵力の差がありながら勝利を得た要因としては、例のどちらに動くかわからない状態あった甲斐の国人たちが、外敵の侵入に危機感を抱き、数多く、武田の味方として参戦したとも言われていますが、それも、推理の域を出ないようです。

ただ、不可解な部分はあるものの、勝利した信虎は、これで、名実ともに甲斐統一を成し遂げた事になります。

また、この戦いの軍功によって板垣信方が、信玄のもり役に抜擢され、信玄の将来に大きく影響を与える事になるであろう予感を感じさせる一戦でした。
 

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2008年9月30日 (火)

箕輪城落城~あの新陰流・誕生の影に・・・

 

永禄九年(1566年)9月30日、武田信玄の攻撃を受けていた箕輪城が落城し、長野業盛が自刃・・・長野氏が滅亡しました。

なお、箕輪(みのわ)の落城には、その文献によって永禄四年または六年または八年・・・と諸説あり、また、日付も9月29日とする場合もありますが、今回は永禄九年の9月30日とさせていただきました。

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甲斐(山梨県)武田信玄が、越後(新潟県)上杉謙信と、一連の川中島の合戦(8月3日参照>>)を繰り広げていた永禄のはじめ頃・・・信玄は同時に、この上野(こうずけ・群馬県)にも、再三再四の進攻を繰り返していました。

当時、この上野西部に位置する箕輪城の城主だったのは、長野業正(なりまさ)・・・関東屈指の智将です。

しかも、その家臣には、武芸の誉れ高い、上泉信綱(かみいずみのぶつな)疋田景兼(ひきたかげかね)といった面々が控えており、さすがの信玄も攻めあぐねていたのです。

そんな上野箕輪城・・・永禄四年(1561年)11月22日に、城主・業正が病死してしまいます。

その後を継いだのは、嫡男の長野業盛(なりもり)・・・わずか14歳で家督を継ぐ事になった業盛でしたが、なかなかどうして、彼も父に似て、かなりのキレ者で、しかも武勇にも優れた武将でした。

業正の死後まもなく、その死に乗じて信玄が攻めてきた時も、信綱らの補佐を受けながら、見事、撃退しています。

しかも、その彼らが守る箕輪城は、複雑な地形の天然の要害の上に構築され、徹底した補強が繰り返されている難攻不落の城でした。

しかし、いくら難攻不落の城に若き智将と言えど、相手は、天下にも手をかけんばかりの勢いの信玄です。

再三再四にわたる攻めは、徐々に彼らの勢力範囲を狭めていき、逆に、信玄の包囲は、じわじわと強くなっていきます。

次第に孤立していく箕輪城・・・やがて、永禄九年(1566年)9月、信玄が2万の大軍で、この箕輪城の包囲を固めた頃には、城内に残る城兵は、わずか2百ほどになっていたのです。

9月27日、武田軍は総攻撃を開始します。

少ないながらも死力を尽くして戦う長野勢・・・しかし、これだけの多勢に無勢では、いかんともしがたい・・・

総攻撃が開始されて3日目の9月30日・・・業盛は最後の戦いに挑みます。

自らが、先頭に立ち、城門から撃って出て、敵の真っ只中に躍り込んで奮戦する業盛・・・。

その数の少なさゆえ、敵に大ダメージを与える事は不可能でしたが、予想以上の混乱を招き、一矢報いた形に満足した業盛は、再び城に戻り、本丸の北側に位置する曲輪にて自刃を遂げました・・・享年19歳。

若き智将は、信玄という大きな壁に押しつぶされ、ここに、戦国大名としての長野氏は滅亡しました。

ただし、家臣とともに脱出した2歳の息子が、後に井伊直政の家臣となったという事なので、血筋は残った事になりますが・・・。
 

ところで、主君の自刃を見送った武芸に優れた二人の忠臣・・・上泉信綱と疋田景兼。

業盛亡き後、主君に習って城外へ撃って出ようとしますが、武田方に説得され、まもなく箕輪城を開城して降伏します。

その腕を見込まれて、「武田の家臣にならないか?」との誘いを断り、彼ら二人は、ともに、以前から極めたいと思っていた兵法の修行に専念するための旅に出ます。

武者修行で諸国を巡るうちに身に着けた念流・陰流・神道流・・・これらの剣術を踏まえて、信綱は新たな流派を起こします。

その名は、新陰流・・・

信綱の弟子の柳生宗厳(むねよし)の息子・柳生宗矩(むねのり)柳生新陰流は、徳川幕府のもとで大きく栄えますので、ご存知のかたも多いでしょう。

一方の景兼も、やはり信綱の弟子となって新陰流を継ぎ、疋田新陰流と呼ばれるようになり、織田家や豊臣家の指南役となっています。

あの神道無念流も、この新陰流から生まれた事を考えると、新陰流は、後の剣術の発展に大きく影響している事がわかりますが、もし、箕輪城が落城せずに、彼らがずっと長野氏の家臣で、武者修行の旅に出なかったら・・・それでもやっぱり新陰流は誕生したのでしょうか?

いろんな想像をかきたてずにはいられない箕輪城の落城でした。
 

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2008年9月24日 (水)

愚将か?名君か?朝倉義景の汚名を晴らしたい

 

天文二年(1533年)9月24日、越前の戦国大名として君臨した名門・朝倉氏の最後の当主・朝倉義景が誕生しました。

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天文二年(1533年)9月24日に、越前(福井県)の名門・朝倉氏の10代当主・朝倉孝景(たかかげ)の長男として、一乗谷に生まれた朝倉義景(よしかげ)

父の死によって、若干15歳で11代当主となった時には、まさに朝倉氏が最盛の頃でした。

家督を継いだ当初こそ、一族の名将である朝倉宗滴(そうてき)に支えられたものの、宗滴が亡くなった(8月13日参照>>)弘治元年(1555年)からは、自らが政務をこなすようになりました。

ただ、その人となりとしては、なにかと愚将呼ばわりされている義景さん・・・

その主な理由としては、将軍候補の足利義昭(秋)がせっかく越前に亡命してきているのに、義昭を奉じての上洛というチャンスをみすみす逃してしまい、あっさりと織田信長に横取りされて、先に上洛されてしまった事や、その後15代・室町幕府将軍となった義昭の呼びかけに答えて武田信玄石山本願寺などによって信長包囲網がしかれていた元亀三年(1572年)の12月に、近江(滋賀県)浅井氏小谷城を囲んだ信長に対して、浅井の救援に駆けつけたにも関わらず、まったく攻撃もせずに帰ってしまった事で、ちょうど三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に勝利して西に向かっていた信玄から「今やったら協力して信長を倒せたのに、アホみたいに帰国してからに・・・全部、水の泡やんけ!」と激怒された事などがあげられます。

また、永禄五年(1562年)の8月21日には、一乗谷の景勝地に公家たちを招いて曲水の宴を開いたりしています。

曲水の宴とは、小川に流れる水に盃を浮かべて、その盃が自分の前に流れて来るまでに詩歌を吟じるという優雅な遊び・・・招かれた公家たちは大いに喜んだと言います。

その翌年の永禄六年の8月23日にも、秋十五番歌合わせを興行したりと、様々な遊びに興じていた事から「文に溺れ、武を忘れた」と揶揄(やゆ)されたりもします。

しかし、これらの遊興は、そこらへんの愚将にありがちな、国内は乱れて一般庶民が苦しんでいるにも関わらず、お殿様だけがノンビリと・・・というのではなく、義景の場合は、それだけ越前の国内が平和だったという事らしいのです。

永禄五年の曲水の宴の時も、招かれた公家たちは、越前の治安の良さをうらやましがり、「義景はんはたいへんよく治めてはる」褒め称えたというエピソードも残っています。

また、地元・福井の伝説には、当時、米を奪ったり、旅人を襲ったりしていた盗賊の噂を聞いた義景が、その盗賊を諭して改心させたという話もあります。

この盗賊の話が、本当かどうかはともかく、そのような話が、一般庶民の口から口へと伝えられ、今に残るというのは、、少なくとも庶民レベルでも、当時の越前が平和だったという証しではないでしょうか。

そもそも、永禄八年(1565年)に、時の将軍・13代足利義輝松永久秀三好三人衆に殺害され、命からがら脱出し流浪の身となった義昭が、近江若狭を点々とした後、この一乗谷に転がり込んできたのも、その治安の良さによるものなのですから・・・。

しかし、そんな義昭が、再三に渡って義景に頼み込んだ、「自分を奉じて上洛してほしい」という希望を、義景は断り続けます

・・・で、結局、義昭は上り調子で上洛する気満々の信長に乗りかえるわけで、それが、先に書いた、まんまと上洛を横取りされる・・・という事になるのです・・・

・・・が、しかし、考えても見てください。

前将軍・義輝を攻めた久秀らが、その後、自分たちの思い通りになる将軍=14代足利義栄(よしひさ)を立てているところに、彼らが殺した前将軍の弟・義昭を奉じて京に乗り込んで行く・・・となると、久秀らとの決戦は必至です。

つまり、義景は、義昭を奉じて上洛する事を躊躇(ちゅうちょ)したのではなく、その時におこるであろう久秀&三好との合戦に勝機があるかどうかを判断したのではないでしょうか?

現在の朝倉の力では難しい・・・それが義景の答えだったのかも知れません。

また、信玄が指摘した信長への攻撃に関しても、越前国内の内政に重きをおいていた義景にとって、国内を揺るがす事にもなる無謀な賭けは避けるべきであり、やはり、勝てない戦はしない・・・という考えが働いたのではないでしょうか?

結局、信玄は上洛する事なく亡くなってしまうわけですし・・・。

さらに、その後、義昭を奉じて上洛し、見事、義昭を15代将軍に立てた信長が、新将軍・義昭へ挨拶に来るように義景に要請するのですが、それを、義景は拒否し続けるのです。

これが、最終的に、信長に越前征伐(8月6日参照>>)の大義名分を与えてしまう事になるのですが、これも、義景の天下を狙う事よりも、内政を優先させる考えからでしょう。

ただし、この最後の上洛拒否には、もう一つ、彼のプライドも関わっています。

もともと尾張・越前の守護大名だった斯波(しば)の被官だった朝倉氏と織田氏・・・しかし、朝倉が直臣であるのに対し、織田は陪臣(ばいしん・家臣の家臣)

信長の奉じた将軍への挨拶は、イコール信長の下につくという事でもあるため、「格下の者の配下になれるか!」となったわけですが、彼が、愚将ではなく、内政に長けた名君であるなら、それなりのプライドを持っていた事も、別にカッコ悪い事ではありません。

結果から言えば、朝倉氏最後の当主となってしまった義景ですが、一般的に思われているような、遊びに興じた愚将ではなく、案外、誇り高き名君であったのかも知れません。
 

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2008年9月22日 (月)

信長&濃姫の結婚へと向かわせた加納口の戦い

 

天文十六年(1547年)9月22日、尾張の戦国大名・織田信秀が、美濃斉藤道三の居城・稲葉山城を攻めた加納口の戦いがありました。

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天文十一年(1542年)、美濃(岐阜県)斉藤道三は、主君であり美濃の守護であった土岐頼芸(ときよりあき)を追放し、美濃一国を手中に収めます(4月20日参照>>)

ご存知、『国盗り物語』でお馴染み・・・上記の4月20日のページでは、この物語は、実際には、親子2代の話であろうという事を書かせてはいただきましたが、どこまで真実かはともかく、一介の油売りから一国一城の主へと出世する道三のお話は、豊臣秀吉『太閤記』と並んで、戦国・下克上の代表格に挙げられる出世物語です。

そんな美濃との境界線を争って、度々、抗争をくりかえしていたのが、隣国・尾張(愛知県・西部)の戦国大名・織田信秀・・・あの織田信長のお父さんです。

信秀は、すでに天文十三年(1544年)9月にも、美濃へと進攻していましたが、戦略に優れた道三に翻弄され、撤退を余儀なくさせられていました(9月23日参照>>)

しかし、それでも美濃への進攻をあきらめない信秀・・・やがて天文十五年(1546年)頃からは、越前(福井県)の戦国大名・朝倉氏の助力を得る事に成功するとともに、先に道三に追放された土岐氏の旧臣や残党たちも織田軍に加わるようになり、一時は美濃大垣城を落すなど、徐々に道三を苦しめるようになっていきます。

そして、翌・天文十六年(1547年)の9月初め、さらに多くの土岐氏の残党を加え、その勢いに勝機を感じた信秀は、いよいよ、本格的に美濃攻略を開始したのです。

天文十六年(1547年)9月22日・・・道三の居城・稲葉山城下への放火を開始した織田軍・・・火は、またたく間に城下に燃え広がり、城下町は陥落寸前となります。

しかし、さすがに道三が築いた難攻不落の稲葉山城・・・城自体はちょっとやそっと落せるもんじゃありませんから、とりあえず本日の成果に満足した織田軍は、夜になって一旦、野営地へ戻ろう兵の引き揚げを開始します。

その時を攻撃のチャンスと狙っていた道三・・・すかさず、付近に潜伏していた兵が、撤収する織田軍に奇襲を仕掛けたのです。

不意を襲われた織田軍は、一瞬にして大混乱となり、われ先に城外へ逃げようと、加納口へと殺到します。

なおも攻撃を続ける道三は、信秀軍を荒田川へと追い詰め、ある者は討死し、ある者は逃げ場を失って川で溺れ・・・信秀は、この河岸で多くの兵を亡くしてしまいます。

この時の織田軍の兵力は、一説には1万とも言われ、この荒田川での死者は、そのうちの半数・・・5千に及んだと言われています。

弟の信康や清洲三奉行の一人・織田稲葉守達広をはじめとする副将クラスの武将も多数命を落とし、まさに壊滅状態となった織田軍・・・信秀自身も、やっとの事で命からがら尾張へ逃げ帰るという状況でした。

この加納口の戦いで、大敗を喫した信秀は、ここで方針を転換・・・道三との同盟を決意します。

この同盟締結に尽力したのが、家老・平手政秀・・・その同盟の証しが、信秀の息子・信長と、道三の娘・濃姫との結婚(2月24日参照>>)です。

尾張と美濃の同盟関係は、道三が息子・斉藤義龍に討たれるまで続き、道三が亡くなった途端、信長は、『義父の弔い合戦』と称して、美濃への進攻を開始する事になります(8月15日参照>>)
 

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2008年9月10日 (水)

思いは兄・信玄のため~補佐役に徹した武田信繁

 

永禄四年(1561年)9月10日は、ご存知、第四次川中島の合戦・八幡原の戦いで、越後(新潟県)上杉謙信甲斐(山梨県)武田信玄が激突した日であります。

全部で、5回に渡って繰り広げられるこの川中島の戦い・・・その流れについては、すでに何度か書かせていただいているので、それぞれのページをご覧くさだいませ。

このうち、今日9月10日に行われた第四次の合戦が最も激しく、一般的に川中島の合戦と言うと、この9月10日の戦いの事を指します。

一昨年には、その流れを・・・昨年には、ひょっとしたら、川中島の戦いは無かったのでは?(昨年のページ参照>>)という事を書かせていただきましたが、それは、そのページでも書かせていただいた通り、いわゆる車がかりの戦法や、啄木鳥(きつつき)戦法・・・そして、両大将による一騎撃ちなどが無かったのではないか?という事で、決して戦い事態が無かったという意味ではありません。

架空の人物かも知れない山本勘助はともかく、信玄の右腕だった弟・武田信繁(のぶしげ)が、この合戦で命を落としている事は確かで、しかも、副将とも言える重要人物でありながら、誰に討たれたかが不明というミステリーつきの最期ですから、何らかの戦いが繰り広げられた事は間違いありません。

前置きが長くなりましたが、本日は、今日の川中島の合戦で命を落す事になったその人・・・陰・日なたになって信玄を守り、補佐役に徹した武田信繁について書かせていただきたいと思います。

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武田信繁は、その父が武田信虎、母が大井夫人と、兄・信玄と同じ父母を持つ4歳下の弟です。

同じ師匠から学問を学び、同じ環境のもと武芸を磨き、その体格も顔も信玄によく似ていたそうですが、信玄よりは、ずっと真面目で、その性格も穏やかな少年だったようです。

気性の激しい父・信虎は、自分と同じように気性の激しい信玄を嫌い、心穏やかな弟が可愛くてしかたがなかったようで、何かとえこひいきしまくりで、あからさまに信玄にイケズな態度をとっていました。

戦国時代でのこういう場合・・・ひいきされてる弟が、兄を差し置いて後継者になる夢を見て、家督争いが巻き起こるのが常ですが、武田家がそうならなかったのは、やはり、信繁さんの性格の良さによるものでしょう。

父が、そこまでひいきしているにも関わらず、信繁は、あくまでも兄を立て、自分はその次という意識を捨てませんでした。

天文十年(1541年)に、信玄が家老たちと結託して、父・信虎を追放した時(6月14日参照>>)も、その作戦が、ものの見事に成功する影には、父一押しの弟の協力が大きく影響している事でしょう。

もし、父に推される信繁がその気になっていたら、家臣団が二つに分かれ、おそらくは、うまくいってなかったはずですからね。

信玄が武田家の当主となってからは、信繁は、その補佐として、主に国人たちの掌握に努力します。

まだ、兵農分離がされていないこの時代・・・直属の家臣が子会社なら、国人たちは、いわゆる業務提携をしている会社みたいな存在です。

主従関係ではなく、対等な立場で、契約しているに過ぎませんから、不満があれば、反乱を起すし、向こうが有利となれば、敵に寝返る事も多々アリ。

しかも、彼らは、その土地に根付いた半士半農ですから、彼らが敵に回れば、その領地がそのまま敵の傘下となるわけで、彼らの裏切りは、戦わずして領地を失う事になってしまうワケです。

さらに、そんな国人たちも一枚岩ではない、人それぞれですから、そんな軍団をまとめるのは容易な事ではないうえ、まとめられなけらば、お家の存亡にも関わる重大事件に発展する可能性もあるので、ある意味、合戦で武功を挙げる事よりも、はるかに重要な任務だったのです。

そんな難しい仕事を、信繁は20年に渡って、見事にこなしています。

事実、彼が、この第四次川中島の合戦で討ち死にしてから、それまでには影を潜めていた信濃の国人の反乱が、度々起こるようになっているのです。

その業務内容が地味であるがゆえ、ドラマや小説などでは、あまりスポットライトを浴びる事がありませんが、信繁の国人衆の掌握なくしては、信玄の領地拡大も無かったかも知れないのです。

そんな信繁も、一たび合戦となれば、当然、出陣します。

上田原の合戦(2月14日参照>>)や、塩尻峠の合戦などなど・・・そんな時、信繁は徹底して、信玄のいる本陣を守る事に専念していたようです。

「とにかく、兄を守ろう」と・・・

真偽のほどはさておき、この日、上杉謙信の背後を突くため妻女山(さいじょさん)へ向かった別働隊・・・しかし、作戦を見破った謙信は、夜のうちに下山して、しらじらと夜が開け、霧がやわらいだその時には、すでに武田軍・本隊の目の前に・・・

ふいをつかれた武田勢・・・しかも、別働隊が戻ってくるまでは、明らかに兵の数が劣っています。

この光景を目の当たりにした時、おそらく信繁は、死を覚悟して本陣を守る決意を固めた事でしょう。

「兄に代わり、自分が上杉勢の注意をひきつけて奮戦する間に、おそらく別働隊が到着するに違いない」と・・・

それには、できるだけ目立って、より多くの敵兵の目を自分に向けさせなければなりま