2009年11月27日 (金)

剣豪将軍・足利義輝~京都奪回作戦の日々

 

永禄元年(1558年)11月27日、三好長慶と和睦した第13代室町幕府将軍・足利義輝が、5年ぶりの入京を果たしました。

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室町幕府を開いた初代・足利尊氏に始まり、第3代将軍・足利義満を頂点に、その栄華を誇った足利将軍家でしたが、第8代・足利義政の時代に勃発した、ご存知、応仁の乱(5月20日参照>>)のあたりから、実力が物を言う戦国乱世へと突入していきます。

さらに、第10代・足利義種(よしたね)の頃からは、もはや完全にお飾り状態・・・直属の武力さえ満足に持たない将軍は、その時々に将軍を担ぐ有力武将の動向に左右され、京で争乱が起こるたびに越中(富山県)に逃げたり、阿波(徳島県)に逃げたり、近江(滋賀県)に逃げたり・・・

そんな中、第12代・足利義晴(よしはる)の嫡男として生まれた足利義輝(よしてる)は、生まれながらにして、その将軍を継ぐ運命にあった人ですが、彼が元服し、父から将軍職を譲られた11歳の時には、やはり、めまぐるしく変わる敵味方に翻弄され、近江の坂本に滞在中の時でした。

当時、将軍に代わって実権を握っていた管領・細川晴元と、その家臣・三好長慶(みよしながよし)が対立し、抗争に敗れた晴元とともに、京を追われてしまっていたのです。

当然の事ながら、父・義晴は、長慶に奪われた京都奪回をめざして、銀閣寺の背後にある東山に、中尾城(京都市左京区)なる城を築き、その足がかりにしようとハリキリますが、残念ながら、その城の完成を見ないまま、天文十九年(1550年)5月、40歳で病死してしまいます。

未だ15歳の若き将軍・義輝の行く末を案じての無念の死でした。

その後、父の遺志を継いで、完成した中尾城に入った義輝は、父の家臣を前に・・・
「昔から「父の仇とは共に月日の光を戴かず」と言う・・・我ら、志を一つにして大きな敵に打ち勝とう!万が一この願いが叶わず、屍(しかばね)を軍門にさらすとも、一歩たりとも退かず、公方らしく戦死したい
と、堂々を語ったと言います。

この大演説に、その場にいた者は、皆、感激し、「この主君のために死のう」と思ったのだとか・・・

なんせ、この頃の義輝には、堺に人を差し向けて、火薬の原料となる硝石を買い求めた記録があり、直後の7月に起こった三好軍との京都市中の小競り合いでは、敵方の与力を鉄砲にて撃ち取った記録(歴史上、鉄砲での戦死は初記録)もあり・・・いち早く最新兵器の鉄砲に目をつけていたという大器を思わせるその行動には、周囲も大いに期待した事でしょう。

しかし、やっぱり長慶は強い・・・その後も、度々、三好軍の近江への進攻を許し、結局は、かの中尾城に自ら火を放ち、再び、坂本へ、継いで堅田、さらに朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと撤退するハメになってしまいました

でも、さすがの義輝・・・まだ、諦めません。

正面からぶつかっては勝ち目がないと判断した義輝は、テロ活動にて対抗します。

長慶が、伊勢貞孝の宿所で宴会をしていると聞けば、そこに美少年を送り込んで討とうとしたり、またまたイケメン武士を送り込んで、乱舞のドサクサで殺そうとしたり・・・

しかし、美少年は仲間を手引きする前に捕まり、乱舞の武士は、長慶に軽傷を負わせるも、命を取る事はできませんでした。

ただし、本人こそ大事に至らなかったものの、長慶の義父・遊佐長教(ゆさながのり)は、義輝の放った僧によって殺害されています。

ここで、力ワザでは不可能と考えた義輝は、ちょっくら父の無念を棚の上に置いといて、近江守護の六角義賢(ろっかくよしかた)を通じて、長慶に和睦を申し入れます。

長慶は、晴元を廃して、細川氏綱を管領職につかせる事などの条件とともに和睦に応じ、義輝は久々に京都に戻ります

京都では、長慶を御供衆(おともしゅう)に抜擢して、管領・細川家の家臣から、将軍直属の幕臣に出世させる大盤振る舞い・・・オイオイ、あの中尾城での大演説は?

・・・と、ツッコミを入れる間もない、わずか1年後、反長慶派をかき集めて態勢を整え、京都に迫った晴元に、ちゃっかり同調して、霊山城(りょうざんじょう・京都市東山区)へと移動し、晴元に協力する事を表明します。

長慶への優遇は、敵を安心させるための、義輝なりのポーズだったのか?、はたまた、本当にコロコロと体制を変える人だったのか?

ところが、これに対抗すべく、長慶が集めた兵は、なんと2万5000の大軍・・・もはや、その実力は比べ物にならないくらい大差がついてしまっていたのです。

長慶の兵の多さに驚いた晴元は、あっさりと逃走・・・すでに同調してしまった義輝も、京都を追われ、再び朽木谷へと舞い戻ります。

ここで、過ごした5年間・・・この間の義輝は、ただ、ひたすら武芸に励みます

剣豪の塚原卜伝(ぼくでん)の直伝により、めきめき上達した義輝は、武芸者として200人余りを斬り伏せたとも言われ、これほど腕のたつ将軍というのは他に類を見ず、「剣豪将軍」なるニックネームもあるほどです。

それと同時に、義輝は、やはり、この間にも、再び父の遺志を棚の上に置いて、長慶との融和政策に転進・・・これまた、ラッキーな事に、この長慶という人が、将軍との上下関係を重んじるマジメなイイ人だったため、なんと!かの日の裏切りを許し、義輝からの和議要請をOKしたのです。

かくして、永禄元年(1558年)11月27日義輝は、第13代室町幕府将軍として、5年ぶりに京都に戻ったのでした。

京都に戻った義輝は、積極的に各地の戦国大名と接触・・・今や都一の実力者=長慶の支援を受けているとあって、将軍としての権威もやや復活したのか、あの上杉謙信も上洛して義輝に謁見し、その名の一字を貰い上杉輝虎と名乗っています(4月27日参照>>)、未だ名も無き地方侍だった織田信長「帰京祝い」と称して上洛し、謁見しています(3月2日の前半部分参照>>)

この状況に危機感を抱いたのは、三好家の家臣の中でナンバーツーの座を獲得し、さらに筒井順慶(つついじゅんけい)から大和(奈良県)を奪って大名へとのし上がった松永久秀(10月10日参照>>)・・・

しかし、それでも、将軍を重んじる長慶が健在の数年間は、何とか平成を保っていましたが、やがて永禄七年(1564年)、長慶の死を以って、その均衡が破られる事になるのです。

・・・が、やはり、この続きのお話は、また関連するその日に書かせていただきたいと思います。
 

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2009年11月13日 (金)

尼子経久~下克上の果てに・・・

 

天文十年(1541年)11月13日、北条早雲と並んで、戦国の下克上のお手本と言われる尼子経久が84歳で病死しました

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このブログで、すでに度々登場している毛利元就のお話の中で、その元就が家督を継いだ頃の毛利氏は、中国地方に勢力を誇っていた二大大名・大内氏尼子氏に挟まれた小国であったと書かせていただきました。

そして、そこに登場する尼子氏の事を、あの婆沙羅(バサラ)大名で有名な室町時代の武将・佐々木道誉(どうよ)を祖に持つ源氏の名門である事も、どこかのページで書かせていただいております。

しかし、そんな尼子氏・・・この尼子経久(あまこつねひさ)の代で、守護代を務めていた出雲(島根県)を追われているのです。

つまり、この経久は、一度地獄に落ちた後、再び這い上がって、一代で、出雲石見(いわみ)隠岐(おき・以上島根県)伯耆(ほうき)因幡(いなば・以上鳥取県)安芸(あき・広島県)備後備中備前美作(みまさか・以上岡山県)播磨(はりま・兵庫県)11ヶ国を手中に治める大大名にのし上がったというわけなのです。

まさに、下克上のお手本とも言える身の起しぶりですが、ただ、経久さんに関してのお話は、リアルタイムな史料が少なく、いずれも、後世の軍記物・・・お芝居がかった部分もあり、どこまで真実に近いのかはわかりませんが、とりあえず、本日は、その尼子経久の下克上物語を・・・

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長禄二年(1458年)に、父・尼子清定の居城・月山富田城(がっさんとだじょう)で生まれた尼子経久・・・当時の出雲の守護は京極氏で一門の尼子氏は、その守護代でした。

その主従関係の証として、幼い頃、京極氏に人質として出された経久は、おかげで京都という中心の地で、高い教養を身に着けるチャンスに恵まれます

根っからの武勇と相まり、文武両道の優れた若者に育った息子に、父・清定は大いに期待を寄せて、早くから政務につかせて経験を積ませようと、彼が21歳の時に家督を譲ります。

・・・とは、言え、父の希望は、単に守護代としての職務を真っ当するという物ではなく、守護の京極氏から、この出雲の地を乗っ取る事にありました。

すでに、父の思いを重々承知の経久・・・父とともに、税金を徴収しながら都に送らず、寺社領を横領するという行為で、京極氏を挑発します。

当然、京極氏は激怒して、守護代・経久をクビにするわけですが、彼ら父子には勝算がありました。

京都に郷を構える京極氏に対して、おそらく、地元の国人衆は、自分たちの味方についてくれるだろうと・・・

しかし、蓋を開けてみると、そのもくろみは見事ハズレ、ほとんどの国人が京極氏の味方となり、父子は、あっさりと敗れて地元を追われてしまいます

父・清定は浪人として諸国を放浪中に病死・・・経久は、一門の佐々木氏六角氏を頼りますが、いずれも門前払いで、しかたなく、母方の実家・真木上野介(まきこうずけのすけ)のもとに身を寄せながら、武者修行と称して出雲国内を巡り、昔なじみに声をかけて、「尼子再興を計りたい!」という自らの意思を示して協力を求めて回りました。

しかし、もはや、彼の味方になろうという人は、ほとんどいません。

わずかに、父・清定の弟・幸久の家系・山中氏の郎党が十数人、自らの元家臣が数十名・・・これでは、なんとも心もとない・・・

そんな中、経久は、月山を本拠地に活動する芸能集団・鉢屋党の頭目・弥三郎を味方に引き入れる事に成功します。

彼らの集団は、70名余り・・・
しかも、芸能集団という隠れ蓑・・・
経久は、秘策を考え出します。

浪人の身となってから約二年、文明十七年(1486年)が暮れようとする大晦日・・・まさに除夜の鐘が鳴り響く闇夜の中を、経久らの一団が、搦め手から富田城内へと侵入し、密かにその時を待ちます。

そして・・・ピ・ピ・ピーン・・・0時をお知らせします。
日の出は、まだ遠いものの、新年がやってきました。

かねてより、新年の祝賀行事をしきってきた鉢屋党は、
「万歳~!」
「おめでとうございま~す」
「いつもより、多めに回しておりま~す!」
と、笛や太鼓の音も賑やかに、新年を祝賀する歌舞を披露しながら、堂々と大手門から城内へと入ります。

新年の祝賀ムード真っ最中だった城内は、賑やかな踊りを一目見ようと、次々に人が飛び出してきて、本丸も館も、ほぼカラッポの状態に・・・

「今がチャンス!」とみてとった経久・配下の者が、一斉に火を放ち、城のあちこちから火の手があがります。

それを合図に、鉢屋党の面々が、きらびやかな衣装を脱ぎ捨て、衣装の下に隠し持っていた刀や槍で、周囲に群がる見物人に斬りかかります。

祝賀ムードで、多くの者が武器を持たずにいた城兵は、もう、こうなるとなす術もなく、次々と討たれていきます。

さすがに、城将の塩治掃部介(えんやかもんのすけ)は、槍を手に持ち応戦しますが、もはや、煙で、一寸先が見えない状態・・・近寄る者を斬って捨てた中に多くの部下の姿を見た掃部介は、「もはや、これまで!」と、妻子を斬り、自らも自害しました。

こうして、わずかの手勢で富田城を落とした経久の評判は、周辺諸国に一気に広まります。

一方で、京極氏が、時の当主・京極政経(まさつね)のもとで家臣団が分裂し、その勢力が衰えるという、経久にとってはラッキーな事もあり、政経の死後は、事実上、経久が出雲を統治する事となります。

その後、着実に領地を広げ、中国地方の覇者となっていく経久でしたが、途中、嫡男・政久(まさひさ)の死という悲しい出来事もありました。

永正十五年(1518年)に尼子に叛旗をひるがえした桜井宗的(そうてき)の居城・砥石城(といしじょう)を、息子・政久が大将となって兵糧攻めの最中、敵の矢に当たって亡くなってしまったのです。

一報を聞いて冨田城から駆けつけた経久は、まもなく宗的を討ち取りますが、すでに61歳になっていた彼には、期待の嫡男死は、かなりのショックでした。

亡き政久の嫡男・晴久(詮久)は、未だ幼く、次男・国久(くにひさ)、三男・興久(おきひさ)は、武勇は優れているものの、その器量は、経久のメガネに叶うものではありませんでした。

そこで、経久は、この後、自らの弟の久幸(ひさゆき・義勝)に家督を譲ろうとしますが、久幸は「総領の晴久が継ぐべき・・・我らが、後見人として晴久を盛りたてていくので、晴久の成長を待っていただきたい」と進言します。

「それならば・・・」
と、久幸の意見に従う経久でしたが、その事に不満を持ったのか、亨禄三年(1530年)、塩治を継いでいた三男・興久が叛旗をひるがえします。

この反乱は4年後の天文三年(1534年)に鎮圧され、興久も自刃しますが、この間に、尼子の配下となっていた安芸の武田氏友田氏大内氏に敗北し、あの毛利元就も尼子から大内に寝返り・・・と、中国地方の勢力図が徐々に変わりつつある中、経久は成長した晴久に家督を譲ります。

一方、これまでは、九州の大友氏との争いを重視し、東の尼子氏とは、まがりなりにも友好関係を築いていた大内氏が、ここに来て大友氏と和睦をし、逆に尼子氏を敵視しはじめます。

もはや両者の決裂が確実となった事で、早期に決着を着けたい晴久は、天文九年(1540年)、大内の参加となった毛利の郡山城を攻める事にします。

この時、27歳の晴久に、かの久幸は
「元就は智謀に長けた武将やから、血気にはやらず、じっくりと見据えてから事を起こすべきやで」
と進言しますが、そんな久幸を晴久は「尼子比丘尼(あまこびくに)とバカにしてその臆病ぶりを罵ったと言います。

すでに、その年齢から病気にふせっていた経久も、晴久を病床に呼び、
家が滅ぶのは、一族の不和から・・・この事を胸に刻んで、親類をいたわり尊敬して、わがままに驕ってはいかん!」
と、出陣をとりやめるよう説得しますが、もはや晴久は取り合いません。

出陣を前にして、兄・経久を見舞った久幸は、
「兄貴も、もうかなりのお歳ですから、僕も、潔く、かの地で討死する覚悟ですが、心残りは大将の器ではない晴久の事・・・僕ら二人が死んだら、この家が滅ぶのも、そう遠くないかも知れません」
と言い、二人は、涙を流しながら、別れの盃を交わしたのだとか・・・

3ヶ月以上に及んだ籠城戦で晴久は、案の定、元就に手痛い敗北を受け(1月13日参照>>)、久幸はその言葉どおり、晴久を最後まで守り抜いて討死しました。

その敗北と同じ年・・・天文十年(1541年)11月13日経久は静かに84歳の生涯を閉じました。

その昔、苦渋をなめた事で様々な経験を積み、飢えた者には食事を与え、凍えた者には衣服を与え、怪我をした者には薬を与え、討死した者の家族を保護するという、周囲への心配りが見事だったという経久・・・

病にふせるその目に、孫・晴久の敗北はどのように映ったのでしょうか・・・

また、彼の遺言ともいえる家が滅ぶのは、一族の不和からの言葉は、晴久の心に響いたのでしょうか?

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・・・では、ありますが、軍記物は、あくまで経久が主役で、主役を引き立たせるためか、晴久をかなりの愚将呼ばわりしていますが、現実には、晴久の時代が最盛期だったとも言われ、個人的にはそこまでの愚将とは思えませんが、この郡山城の敗北が、尼子氏にひとつの影を落とした事は確かかも知れません。
 

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2009年10月22日 (木)

西国の桶狭間・有田城外の合戦~毛利元就の初陣

 

永正十四年(1517年)10月22日、武田元繁に攻められた有田城を救援すべく出陣した毛利元就が元繁を討ち、初陣を飾りました

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この頃、中国地方では周防(すおう・山口県)大内氏と、出雲(島根県)尼子氏がしのぎを削っていて、毛利吉川小早川平賀などの小豪族は、その2大勢力の中間にあって身動きが取れない状態でした。

これまでも、それら小豪族の間で小規模な争いがくりかえされてはいましたが、大内氏の当主・大内義興(よしおき)足利義種(よしたね)を奉じて上洛し、永正八年(1511年)の船岡山の戦い(8月24日参照>>)に勝利して、中央での実権を握るにつれ、留守となった西国では、その争いが徐々に激化してきます。

もともと、この安芸(あき・広島県)という場所は、鎌倉時代から武田氏が守護となっていましたが、戦国の世となってそれらの小豪族が領地化して治めていたため、武田氏の旧領は、わずかしか残っておらず、武田元繁(もとしげ)は不満ムンムンで、何とか、以前の領地を回復する機会をうかがっておりました。

そんな時、安芸内部で小豪族争っている事態をおさめるべく、義興が幕府の命令として元繁に安芸内部の鎮静を命じたのです。

これ幸いと紛争を鎮静すべく行動を開始する元繁でしたが、それが、鎮静どころか、かえって紛争を大きくする結果になるのは目に見えています。

そんなこんなの永正十三年(1516年)8月、毛利氏の当主・毛利興元(おきもと)24歳の若さで亡くなります。

家督を継いだ幸松丸(こうまつまる)が、まだ2歳という幼さだった事で、大チャンスと見た元繁は、有田城(広島県山県郡)を攻めにかかるのです。

この有田城は、その2年前に、興元が武田氏から奪い、吉川元経(きっかわもとつね・興元の義弟)に譲り、武田への備えの城と位置づけていたものですが、ここを奪われれば、当然、その次は、毛利への所領に乱入してくるのは明白です。

かくして永正十四年(1517年)10月22日、有田城を救援すべく、亡き興元の弟・毛利元就が出陣します。

時に、元就21歳・・・「今まで何をしてたの?」と言いたいくらい遅い初陣でした。

・・・とは言え、大軍の武田に対して少人数しか集まらない状況に、側近たちからは、「少し様子を見るのが賢明・・・」と、出陣を反対されますが、すでに武田方による放火が始まったとの一報を聞いた元就は、取るものもとりあえず、戦場へと駆けつける・・・というなんともあわただしいものでした。

しかし、この時から、興元を失った毛利氏の将来は、元就の腕にかかる事になります。

まず、元就が目指したのは、城山のふもとで柵と防塁を築いて防戦を張っている武田配下の熊谷元直(くまがいもとなお)の陣・・・

つい先日、元就の吉川&小早川乗っ取り作戦のページ(9月27日参照>>)で、「元就の、戦場での武勇伝は、あまり聞かない」と書かせていただいたところですが、今回の初陣は、さすがに21歳の若さ・・・その話を撤回せねばならないほど、元就は先頭に立って、大いに腕を奮います。

途中からは、弟・元綱をはじめとする一門も駆けつけ、さらに吉川の援軍200も加わって、ついに熊谷の陣を占領・・・元繁の本営に迫ります。

防衛線を破られた事を知った元繁は、引き続き有田城を攻めるとともに、残り、半分強の手勢を5手に分けて周辺に配置し、毛利の進撃に備えます・・・その数、総勢4000.

攻める毛利勢は、先の援軍を加えても1000程度・・・しかも、熊谷との一戦をすでにこなしていますから、かなり不利・・・

しかしながら、元就も、もはやこれが最初で最後の戦いか!と思われるくらいに力を込めて采配を奮い、何度も突入を繰り返す事、約2時間・・・

とは言え、やはり多勢に無勢はいかんともしがたく、敵には、次から次へと新手が現れ、毛利勢は、徐々に、後方の又打川(またうちがわ)へと後退していきます。

やがて、奮戦空しく、ついに退却となり、川を渡って敗走しはじめます。

ところが、ここで・・・
勢い余った元繁がついつい深追いし、自ら槍をかざしながら馬で川の中へと乗り入れた時・・・

最前線に飛び交う一本の矢に撃ちぬかれて、水中に転落してしまいます。

それは、元繁を狙った物ではなく、完全に偶然の出来事・・・

そこを、すかさず、元就配下の井上光久(みつひさ)が首を取り、刀の先に刺して、高く高く掲げて叫びます。
「大将・元繁~討ち取ったり~~~!」

当然、一瞬にして空気は変わります。

敗走中の毛利勢は逆襲に転じ、あるじを失った武田勢は総崩れとなるのです。

終ってみれば、元繁に殉死した者=300、敗走中に討たれた者=780・・・というのは、どこまで正確かはわかりませんが、結果的には、見事な初陣となりました。

さすがの、元就も、有田城を守るだけでオンノジ・・・まさか、守護ご本人まて討てるとは思っていなかったラッキー含め勝利ではありますが、名将というのは、時に、運まで味方にしてしまうのが、戦の常。

この有田城外の合戦は、小人数で多勢を倒しただけでなく、この戦いによって、「安芸に毛利元就あり」を知らしめた戦いという事で、西国の桶狭間とも呼ばれています。

ただ、21歳でこの初陣を飾った元就が、厳島の奇襲戦(10月1日参照>>)で、全国ネットに躍り出るのは59歳・・・信長とは違って、元就には、更なる時間が必要となります。

そして、もう一つ・・・
運まかせの勝利に思える今回の合戦ですが、『毛利元就卿伝』という文献によれば、この合戦の前に、元繁の重臣の何人かが、すでに、吉川&小早川に寝返っていた事が書かれていて、それには、元就配下の世鬼一族なる忍びが絡んでいるとの話もあり、この先の謀略・知略の片鱗を見せてくれているところが、なんともたのもしい限りです。

後に、家督を争って元就が殺害する事になる弟・元綱が、元気に加勢する姿に、少し胸を熱くしてしまいますねぇ~。
 

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2009年10月19日 (月)

その後の武田の運命も変えた武田義信の自刃

 

永禄十年(1567)10月19日、父・武田信玄によって幽閉されていた嫡男・義信が自刃しました。

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天文七年(1538年)に、甲斐(山梨県)武田信玄の嫡男として、正室・三条の方との間に生まれた武田義信(よしのぶ)・・・ご存知のように、信玄は父・信虎から、あまり可愛いがられた経験がなく、ついには父を追放して家督を継いだ過去があり(6月14日参照>>)、自身の息子に対しては、ことのほか愛情を注いだようです。

いや、ちょっと可愛がり過ぎだったかも・・・

天文二十一年(1552年)、義信が15歳の時に、駿河(静岡県東部)今川義元の娘と結婚した時には、「領国喜大慶は後代にあるまじく」国を挙げての祝賀を催し、翌年に、時の将軍・足利義輝の一字を賜って義信と名乗った時には、「我より太郎(義信の事)は果報も何も上なり」と大喜びで、家まで新築しちゃいます。

さらに、その翌年には、先の今川に、相模(神奈川県)北条氏を加えた甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれ、信玄は、気になってた信濃(長野県)の攻略に思う存分集中する事ができるようになります。

同じ年には義信も初陣を飾り、この頃からは、様々な書類も父子連名で記され、父も子も、そして周囲も、義信を信玄の後継者として疑わなかった事でしょう。

しかし、永禄三年(1560年)・・・義信の運命を変える大きな出来事が起こります。

東海一の弓取りと言われたあの今川義元が、尾張(愛知県西部)のちょっとした新興勢力に過ぎなかった織田信長桶狭間(おけはざま)で討たれたのです(5月19日参照>>)

さらに、その翌年の永禄四年(1561年)、あの宿命のライバル・越後(新潟県)上杉謙信との川中島の合戦です。

これまでも何度か書かせていただいているように、川中島の合戦は計・5回あり、最初の衝突は、すでに天文二十二年(1553年)に勃発していますが(4月22日参照>>)、5回の中で最も激戦だったとされる第四次の戦いが、この永禄四年の戦いで、一般的に「川中島の合戦」とだけ言う場合は、この第四次を指します(9月10日参照>>)

この時、前夜の闇にまぎれて軍を移動させた謙信が、夜明けとともに、そうとは知らない武田勢の目の前に現れ、前半は上杉有利に展開しますが、別働隊が到着してからは、数に勝る武田勢の優勢となり、結局、謙信のほうから兵を退いて終了となりました。

その第四次の川中島で、最初の父子の亀裂が生じたとされています。

戦いの最中は手傷を負いながらも奮戦し、武功を挙げた義信でしたが、戦いの後、「この優勢のまま終ろう」とする信玄と、「撤退する上杉勢を追撃すべき」と主張する義信との間で口論となったのです。

ご存知のように、この第四次の合戦で、信玄はその右腕とも言うべき弟・信繁(2008年9月10日参照>>)と、あの山本勘助を・・・もちろん、彼ら以外にも大勢の家臣を失いました。

まずは、これだけ多くの犠牲者を出した自軍を立て直す事が先決・・・更なる犠牲者を出すかも知れない深追いはやめようとする信玄と、若さゆえ血気にはやる義信・・・。

「状況に応じて、冷静で適切な判断を取るべき」と、大将としての心得を切々と説く信玄に対して、義信は一歩も退かず・・・いや、むしろ、義信のほうが、信玄を激しく非難したのだとか・・・

『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によれば、義信という人は「利根(りこん)すぎる」として、あまり良くないように書かれています。

「利根」って何?・・・と思って調べてみたら、ちょっと古い言い回しのようで、狂言や浄瑠璃での使用例が出てましたが、意味としては、「賢い事」とか「利発な事」とあって、要するに頭が良いわけですが、第2の意味として「口賢い」とありました。

つまり、「頭が良いために理屈をこねる」ってヤツ・・・それが、「過ぎる」のですから、かなりのものだったと想像します。

冒頭に「ちょっと可愛がり過ぎだったかも・・・」って書いたのは、ココです。

確かに、人間、生まれ持った性格というのもありますが、育った環境というのもあります。

自分の意見を持つという事は大事な事ですが、今回の場合、相手は父親で、しかも戦場では主君です。

その相手に対して、公衆の面前での激しい非難というのは、どうなんでしょう?

ここに、これまで大きな失敗をせずに、何事も優遇され続けて育ってきた坊ちゃんの影が見え隠れするのです。

さらに、その翌年、信玄は、四男の勝頼に家臣団をつけ信州高遠城主としますが、義信は、これも気に入らない・・・

ご存知のように勝頼の母は、信玄が滅ぼした諏訪頼重(すわよりしげ)の娘で、勝頼は、その諏訪氏の旧領を継ぐべく諏訪四郎と名乗ってたくらいなんですから、本来、高遠城主になったって何の問題もなく、武田を継ぐはずの嫡子たる義信が気にするべき事ではないのですが、一旦入った亀裂は、こんなところにも影響するわけです。

「自分が戦って取った場所を、まだ、武功もない側室の子に・・・」てな感じでしょうか。

そして、ここに来て徹底的となるのは、義元亡きあとの今川への侵攻・・・そうです。

義信の奥さんは、今川の人ですから、何がなんでも反対しなければ・・・

ついに永禄七年(1564年)、義信は、傳役(もりやく)飯富虎昌(おぶとらまさ)らと、父・信玄を討つ相談をするのです。

しかし、事は事前に発覚・・・信玄は、虎昌、そして義信の側近だった長坂源五郎曽根周防(そねすおう)首謀者を処刑し、家臣団は追放・・・義信を甲府の東光寺へ幽閉したのです。

さらに、今川氏の姫は離縁させて駿河へ返し、今川と決別・・・一方で、勝頼に信長の養女との縁組を成立させ、織田との友好関係を築き、着々と駿河攻めの準備に・・・。

後継者の道を絶たれ、東海一の美人と言われたラブラブな奥さんとも離れ、失意の義信は、永禄十年(1567)10月19日・・・自らの人生に終止符を打つのです。

信玄が駿河に侵攻したのは、それから1年と2ヶ月後の事でした(薩埵峠の戦い・12月12日参照>>)

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・・・と、信玄VS義信の確執を書かせていただきましたが、これは、「信玄LOVE」『甲陽軍鑑』の言い分・・・ご存知のように、『甲陽軍鑑』にしか登場しない山本勘助は、ひょっとしたら架空の人物かも知れないと噂されるくらい、すべてが真実とは言い難い記述もあり、何かと信玄を良いように書いている可能性大です。

ただ、義信が幽閉されたのも、側近や家臣団を潰されたのも事実ですから、義信の性格がどうとか、父子の対立がどうというのが創作だとしても、家臣団の中に不満分子がいて、彼らが、信玄が信虎を追放したように、義信を担いで何か事を起こそうとしたのは確かなようです。

それに、義信が幽閉された一方で勝頼が織田との架け橋になったとしても、未だ後継者の道が絶たれたわけではなかったかも知れません。

信玄としては、単に、不満分子の家臣と義信を引き離すための幽閉だった可能性も考えられます。

・・・というのは、山梨県笛吹市にある武田氏と縁の深い美和神社に、義信が亡くなる一年前に、三条の方が鎧を奉納しているのですが、これまで、神社の記録では、それは「信玄の鎧」となっていて、ずっと信玄の物と思われていたのです。

しかし、最近の研究で、その形や時期からみて、「どうやら、義信が元服の時に使用した鎧である」との見解が出されたのです。

死の一年前という事は、すでに義信が幽閉状態にあった頃・・・三条の方は、きっと、息子の将来を思い、夫との絆を思い、母として、一心に祈ったに違いありません。

希望的憶測ですが、ひょっとしたら、父と子との間を修復できる可能性があったとも受けとれます。

しかし、そんな三条の方の願いも空しく、義信は、自ら命を絶ちました。

享年30歳・・・今川の滅亡で運命が変わったこの利発な後継者の死が、やがては、勝頼の運命を変え、武田の運命をも変えてしまう事は、皆さんご承知の通りです。
 

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2009年10月 3日 (土)

応仁の乱・激戦~相国寺の戦い

 

応仁元年(1467年)10月3日、11年に渡る応仁の乱での相国寺の戦いが勃発しました。

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室町幕府・第8代将軍の足利義政後継者を巡っての争い(1月7日参照>>)に、管領家の畠山氏斯波(しば)のそれぞれの後継者争い、そこに、それぞれを支持する地方大名たちを巻き込み、東西に分かれて争われた応仁の乱・・・

最初の衝突は、その畠山氏の畠山長政畠山義就(よしなり)のいとこ同士の争い=御霊合戦からでした(1月17日参照>>)

そのおおまかな流れは、義政の弟・足利義視(よしみ)に味方した細川勝元(東軍)花の御所に・・・

義政の息子・足利義尚(よしひさ)についた山名宗全(持豊・西軍)が自宅・西陣に・・・

・・・と、わずか数百メートルの近さの場所に陣を構えてにらみ合った事で、応仁の乱の勃発の日とされる日5月20日>>に書かせていただきましたが、今回は、その中で、最も激戦となった相国寺の戦いを・・・

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勝元が花の御所を占拠し、将軍・義政から「山名追討」命令を得た事で、東軍が「官軍」、一方の西軍が「賊軍」となったわけですが、この影響からか、西軍からは、東軍に走る者や降伏する者、陣を離れて自宅に引きこもる者が続出しますが、宗全は、未だ上洛していない大名に呼びかけ、戦力を増強を図ります。

その甲斐あって西国の雄・大内政弘が西軍に加わって士気もあがり、京都各地で転戦しますが、今度は、東軍の総大将であった義視が職場放棄してトンズラするという大事件が・・・これで、東軍の士気が、一気に下がります。

そんな中で行われたのが相国寺の戦い・・・

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相国寺

応仁元年(1467年)10月3日、西軍の畠山義就と朝倉孝景が、相国寺に陣取る武田信堅(のぶかた)を攻撃します。

1日目は、相国寺・惣門で激しい戦闘が繰り広げられ、西軍に圧され気味の東軍は、一旦退却・・・この日の西軍は、討ち取った首を8輌もの車に積み込んで、意気揚々と西陣へ帰還します。

2日目は、「昨日の仕返しだ!とばかりに、東軍・畠山政長が必死の反撃で巻き返し、西軍・6000人の兵士を討ち取ります。
「応仁記」によれば、この日の戦いは、西軍の一色義直(よしなお)の兵が相国寺内の蓮池のそばで、多くの死亡者を出した事から、蓮池頽(くず)と呼ばれたと言います。

この戦闘で三日三晩、燃え続けた相国寺・・・最終的に、焼け跡に孝景が陣を取る事で、相国寺の戦いは一応の終結となしました。

しかし、結局は、占拠・奪回を繰り返し、双方ともにダメージを受けただけのような戦いでした。

このダメージが大きかったのか、この後、翌年の春まで、戦闘状態は中休みとなります。

・・・と、ここで、今回の相国寺の戦いで活躍する朝倉孝景さん・・・

けっこう最近、どこかでお名前を見たような・・・

そう、9月23日の【織田・朝倉連合軍VS斉藤道三~井ノ口の戦い】の時に、織田信秀と連合を組んで、斉藤道三を攻めた・・・(9月23日参照>>)

実は、その時の孝景さんの、ひいオジイチャンが本日の孝景さんです。

本日の孝景さんが朝倉氏7代目で、区別するために英林孝景・・・先日の孝景さんは10代目で宗淳孝景と呼びます。

ちなみに、本日の英林孝景は、なかなか魅力的な人物で、いわゆる、私たちが思い描く戦国大名のイメージ・・・そのイメージを持った最初の人ではないかと思います。

山名氏や細川氏のような守護大名的なイメージではなく、いわゆる策略と才知で下克上をのし上がっていく戦国大名のイメージ・・・

ではありますが、やはり魅力的ゆえ、たくさん書きたい事がありますので、本日の場合は、このへんで・・・いずれ、その魅力的な戦国武将ぶりをご紹介させていただくつもりですので、今、しばらくのご猶予を・・・。
 

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2009年9月27日 (日)

毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦

 

天文十九年(1550年)9月27日、毛利元就吉川興経・父子を殺害しました。

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これまで、何度か書かせていただいておりますが、後々、西国の雄となる毛利も、毛利元就(もうりもとなり)が家督を継いだ頃は、安芸(広島県)郡山城にわずかの家臣をかかえるだけの国人(半士半農の地侍)にすぎなかったわけで、その当時は、毛利の北=山陰の出雲(島根県)には尼子氏、西=周防(山口県)には大内氏、南=豊後(大分県)には大友氏・・・と、強大な勢力を誇る名門に挟まれ、身動き取れない状態だったわけです。

もちろん、それは毛利だけに限らず、大きな国に挟まれた小国は、その都度、あっちについたり、こっちについたりしながら、生き残るだけで精一杯・・・そんな状況の中から、毛利が一つ飛びぬけて、いや、最終的にすべてを手に入れるほどの大国になったのは、これ、ひとえに元就の謀略による領地拡大作戦のたまものです。

皆さんも、元就の『三矢(さんし)の訓(おし)え』の逸話(11月25日参照>>)などは、よくご存知でしょうが、その元就が、戦場で大暴れする武勇伝は、あまり聞かれた事がないのではないでしょうか?

彼は、たとえ合戦はしても、自らが戦場を駆け巡って武功を挙げるタイプではなく、緻密な情報活動から謀略&計略を張りめぐらしてのし上がっていくタイプの人なのです。

・・・と、ここで、一つ付け加えておきますが、これ、決して元就さんの悪口ではありません。

負ければ即・死亡の戦国時代で、コスイと言われようが、ズルイと罵られようが、勝たなければ生きぬいていけないわけですから、戦国武将に対する謀略家・策士・悪人・鬼などという代名詞は、褒め言葉だと思っています。

ましてや、尼子・大内・大友といったズバ抜けてデカイ名門に対して、武力で対抗できない小国なら、策略で対抗する以外に方法はないわけですから・・・。

そんな元就が、山陰・山陽に大きく根を張るきっかけとなったのは、次男・元春(もとはる)と三男・隆景(たかかげ)・・・元春が山陰の名族・吉川(きっかわ)に、隆景が瀬戸内の水軍を持つ小早川(こばやかわ)に、それぞれ養子に入って、その足がかりとしたわけです。

この両家は、双方に「川」の字がつく事で、その後「毛利の両川りょうせん)」と呼ばれ、早くに亡くなった長男・隆元の息子・輝元を支えて、毛利の躍進に一役も二役も買う事になるのです。

・・・で、本日は、その次男・三男の他家への養子の話なのですが・・・

一応、史料などによれば、この二つの養子縁組は、両家の側から、「後継ぎがいないので・・・」と頼まれ、「そんなに言うなら・・・」と元就が承知した形になってますが、血で血を洗う戦国に「そんなワキャないだろ!」と、怪しい香りがプンプン・・・

この養子縁組・・・いや、はっきりと、他家の乗っ取りと言っちゃいましょう!
これこそ、元就の謀略のなせるワザなのです。

まずは、三男の隆景の小早川入り・・・小早川家は、安芸安直・沼田本荘・竹原両荘一帯の地頭を務めた家柄で、それらの領地を二つに割って、本家の沼田(ぬた)小早川と分家の竹原小早川の二家に分かれていました。

・・・で、そんな竹原小早川の当主・興景(おきかげ)が病死し、後継ぎがいなかったため天文十三年(1544年)、12歳の隆景が養子となって後を継ぎますが、とりあえず、この養子縁組は、亡き興景さんの奥さんが元就の姪であった事もあって、何となく、「それもアリかな?」という雰囲気で、さしてモメる事もなかったようなのですが、問題は、その6年後の本家=沼田小早川との養子縁組です。

この沼田小早川家の当主だった正平(まさひら)は、隆景が竹原を継ぐ前年の天文十二年(1543年)、大内氏の傘下となって尼子氏の月山富田城を攻撃した戦いで戦死してしまっていたのですが、この沼田小早川家には繁平(しげひら)という後継者がいたのです。

・・・にも関わらず、「繁平は当主にふさわしくない」として、天文十九年(1550年)に、繁平に剃髪をさせて仏門に入れ、竹原を継いでいた隆景に沼田も継がせてしまうのです。

この時、当主にふさわしくない理由として繁平が視力に障害を持っていたからとされていますが、そのワリには家臣の猛反発に遭い、敵対する家臣をすべて殺害しての養子縁組となっています。

こうして沼田と竹原の両小早川家が一つになり、それをまとめる隆景・・・これは怪しいです。

そして、さらに怪しい次男・元春と吉川家の養子縁組・・・この吉川家も、藤原南家の流れを汲む安芸山形郡の地頭を務めた家柄で、かの応仁の乱の時には、東軍の細川勝元の配下として参戦し、当時の当主だった経元(つねもと)「鬼吉川」(←さっきの褒め言葉でっせ)と称されるほどの大活躍をしています。

そんな吉川家でしたが、やはりこの頃は毛利と同様に大国に挟まれていて、この時の当主・吉川興経(おきつね)は、その時々の情勢に応じて、尼子についたり、大内についたり・・・特に、マズかったのは、先ほどの沼田小早川の正平が戦死した月山富田城攻めの時、興経が、重要な局面で大内から尼子に寝返ったらしく、大内側では「正平の死の原因を作ったのは興経」と噂されていたのだそうで、そんな優柔不断な態度に不安を抱いた家臣が「興経を隠居させて元春を養子にして後を継いでもらいたい」と元就に言ってきたのだと・・・

まぁ、以前書かせていただいたように、もともとは毛利と吉川は、嫁にもろたりもらわれたりの関係にあって(7月10日参照>>)、元就の妻が興経の叔母さんという事で、可能性がゼロではありませんが、やはり「そんなウマイ話が・・・」と思ってしまいますね。

だって、興経には千法師という子供がいるわけですから、幼いとは言え、後継者がいるのであれば、家臣なら千法師を擁立して興経を隠居させるでしょうからね~。

しかし、天文十七年(1548年)、元就は、元春の養子縁組を成立させ、天文十九年(1550年)には強制的に興経を隠居させ、妻子も幽閉してしまったのです。

「そんな無茶なぁ!」と、納得いかない興経が不穏な気配を見せている・・・いや、これも、元就の流した噂の可能性大でしょう。

なんせ、興経は、わざわざ元就に手紙を送って、それを否定しているのですから・・・。

しかし、天文十九年(1550年)9月27日、新しき当主への謀反の疑いありとして、元就は、自らの配下の熊谷信直(くまがいのぶなお)らに命じて、興経の館を襲撃させ、興経・千法師の父子もろとも殺害してしまうのです。

こうして、元就は大きな合戦をする事なく、毛利の両川を手に入れました。

この頃は、すでに尼子氏を離れ、大内氏をバックにしていた元就は、両川を得た事でステップアップ・・・さらには、その大内氏(4月3日参照>>)や尼子氏(11月28日参照>>)まで滅亡させて、最終的に中国地方の覇者となるわけです。
 

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2009年9月23日 (水)

織田・朝倉連合軍VS斉藤道三~井ノ口の戦い

 

天文十三年(1544年)9月23日、織田・朝倉の連合軍が稲葉山城下に火を放ち斉藤道三を攻めた井ノ口の戦いがありました。

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もともと南北朝の時代がら、美濃(岐阜県)守護だったのは、清和源氏の流れを汲む土岐(とき)・・・その配下に守護代斉藤氏がいて、その下に小守護代長井氏という序列だったわけですが、その土岐氏の後継者争いで、斉藤氏の推す兄・頼武(よりたけ)に勝利して、天文五年(1536年)に第14代守護となったのが土岐頼芸(ときよりなり)でした。

この時、頼芸を強く推して勝利へと導いたのが、頼芸に仕えていた長井長弘・・・ここで、その長弘とともに頼芸を支えて主家である斉藤氏を追いやったのが、京都の妙覚寺の僧から還俗(げんぞく・出家していた人が一般人に戻る事)して、当時、長弘の家臣となっていた人物・・・

彼は、もともと西村姓を名乗っていたのを、主君の信頼を得て、主家の長井姓を賜り、この頃は、長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)と名乗っていた・・・この人が斉藤道三(どうさん)のお父さんです。

近年の「六角承禎条書(ろっかくじょうていじょうしょ)の発見により、今や、道三の出世物語は、親子2代の話である事が定説となっていますが、このあたりまでは、父である新左衛門尉さんのお話です。

まもなく長弘が亡くなり、その息子の景弘が小守護代を継いだと同じ頃に新左衛門尉も亡くなり、こちらも息子の新九郎規秀(のりひで・道三)が継ぎますが、いつの間にか、景弘の名前が長井氏の公文書から消え(道三に殺されたとも)、規秀が、その名跡を継いでしまいます・・・つまり乗っ取っちゃいました。

先の長井氏のクーデターで落とした斉藤氏の居城・稲葉山城に道三が入り、その名を長井規秀から斉藤利政(としまさ)に変えたのは天文七年(1538年)頃と思われますが、その頃には、その名の通り斉藤氏の名跡も継ぎ、もはや守護=頼芸も名ばかりとなり、実権は道三が握っていたのです。

・・・と、長い前置きになりましたが、その頃から勢力をつけてきたのが、隣国・尾張(愛知県西部)の下4郡を支配する清洲織田家のひとり織田信秀(のぶひで・信長の父)です。

未だ、織田家内の内紛も続く中、隣国の三河(愛知県東部)松平にも手を出し、那古屋(なごや)を奪ったのは、ちょうど道三が斉藤を名乗り始めたかも知れない天文七年の事・・・ここを本拠地として他国への軍事行動を起こしはじめます。

ここで、水面下で動き始めた人が、もう一人・・・かの頼芸です。

天文十一年(1542年)に、道三によって尾張から追放された彼は、近江(滋賀県)に勢力を誇る六角氏六角定頼(さだより)の娘が嫁さんだった事で、有力大名の六角氏の支援を得られる自信からか、この信秀と、越前(福井県)朝倉孝景(たかかげ)の仲介役となるのです。

朝倉には、冒頭の土岐氏の守護争いで、頼芸に負けた頼武の息子・頼純(よりずみ)が庇護されていて、一時は、朝倉氏と六角氏が彼を推して頼芸と争った、言わば宿敵だったわけですが、もう、そんな事、言ってられません。

信秀にとっては渡りに船・・・。

一方の孝景としては、織田家とは、ともに斯波(しば)家の家臣という立場ではあるものの、朝倉は、守護代を任される直臣で織田家は陪臣(ばいしん・家臣の家臣)・・・そこに、何等かのわだかまりがあったかも知れませんが、ホンネとしては、今現在も、「頼純を守護に・・・」という思いを持っていますから、ここは一つ、連携を組んで、道三を倒そうと、一歩踏み出したのです。

かくして、天文十三年(1544年)9月、織田・朝倉連合軍が美濃への侵攻を開始します。

19日には、赤坂の戦いで勝利し、その勢いのまま、連合軍は、天文十三年(1544年)9月23日道三の稲葉山城に迫ります

ふもとの城下町・井ノ口に火を放って焼き払い作戦にでますが、この時は、道三の巧みな反撃を受け敗走・・・斉藤軍の追撃を受けた織田軍は、木曽川へと追い詰められ、5000の死者を出すという大打撃を受けてしまいますが、ころんでのタダでは起きない信秀・・・大垣城だけは占領します。

しかし、結局は、その後も道三に翻弄され、美濃侵攻はいっこうにはかどらない信秀も、一方の国内では順調に勢力をのばし続け、自国の守護・&守護代をしのぐ勢いなり、尾張の半分以上を制したばかりか、美濃の西半分も手に入れます。

なのに、やっぱり道三とは・・・と、このお話は、信秀VS道三の最後の戦いとなる加納口の戦いのページでどうぞ>>
 

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2009年9月 1日 (火)

謙信VS信玄!第一次川中島の合戦~布施の戦い

 

天文二十二年(1553年)9月1日、犀川を渡り布施に布陣していた上杉謙信の軍が、武田信玄軍の先鋒をを破りました・・・世に言う、第一次川中島の合戦・布施の戦いです。

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川中島に関しては、何だかんだで随分と期間が空いてしまいましたが、ココだけホッタラケにするわけにもいかず、今回書かせていただきます。

すでに何度か書かせていただいている川中島の合戦・・・今回の布施の戦い以外は、すでにこのブログで最低一度は書かせていただいております。

ご存知のように、全部で5回と言われている謙信VS信玄の川中島の合戦・・・

このうち、第四次の八幡原の戦いが、あの♪鞭声粛々~♪のくだりで有名な一番激しい戦いで、例の一騎打ちもあり、信玄の弟・信繁の討死(2008年9月10日参照>>)もありで、一般的に「川中島の合戦」と言う場合は、この第四次の戦いの事を指します。

・・・って、「全部書いとるやないかい!」とお思いでしょうが、上記の第一次と第二次の間に、今回の布施の戦いが入ります。

実は、この第一次川中島の合戦と呼ばれる戦いは、天文二十二年(1553年)4月に行われた更級八幡(さらしなはちまん)の戦いの前半戦と、同じ年の8月~9月にかけて行われる布施(ふせ)の戦いの後半戦を合わせて第一次と呼ばれます。

・・・と、長い前置きになりましたが・・・

天文十一年(1542年)、諏訪頼重(すわよりしげ)を滅ぼして諏訪一帯を手に入れた甲斐(山梨県)の戦国大名・武田信玄(当時は晴信)は、さらに信濃(長野県)の奥深くにまで領地を広げるべく、度々侵攻します。

天文十九年(1550年)には小笠原長時林城を攻略した信玄は、いよいよ天文二十二年(1553年)、その長時が逃げ込んだ葛尾(かつらお)を包囲・・・長時ともども、葛尾城の村上義清も追放して、信濃の中部・東部を手中に収めました。

信濃の国人衆らとともに、越後(新潟県)上杉謙信(当時は長尾景虎)を頼った義清は、居城の葛尾城を奪回すべく、謙信から5000の兵を預かり、更級八幡に布陣していた武田勢を急襲し、その勢いで、見事、葛尾城を奪回します・・・これが4月22日・23日の第一次川中島の合戦=更科八幡の戦いです。

謙信が、この戦いに乗り出してきた事を知った信玄は、一旦、兵を退き、休養をとり、態勢を整えて、3ヶ月後の7月25日、再び、甲斐を出陣します。

約1万の大軍を擁する武田勢は、義清の籠る塩田城をはじめとする佐久郡小県(ちいさがた)の支城を破竹の勢いで落とし、義清の残党を次々と蹴散らしながら、8月には川中島へと入ります。

一方の謙信・・・もはや、信玄との対決は避けられないものと判断し、こちらも約8000の兵を率いて春日山城を出陣・・・8月下旬には(さい)を渡り、布施(長野市)一帯に陣取ります。

Kawanakazimasyusenzyoucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして天文二十二年(1553年)9月1日、上杉勢が武田方の先鋒を破る形で、戦闘の火蓋が切られました。

そのまま、勢いに乗って八幡(やわた)まで進出した上杉勢は、荒砥(あらと)を落とし、その時、信玄が本陣を置いていた塩田城へと迫ります。

しかし、今度は9月13日、武田勢が夜陰にまぎれて奇襲作戦を決行・・・荒砥城に放火して反撃します。

・・・とは言うものの、この9月初旬から中旬にかけての戦況や勝敗に関しては、あれやこれやの諸説ありで、確かな事はわからない小競り合いの連続のような戦いだったようですが、おおむね上杉優勢という見かたがされているようです。

しかし、結局、本陣の塩田城を攻撃できないまま、9月20日、謙信は陣を引き揚げ、春日山城への帰途につきます。

予想以上に遠征が長引いた事で兵糧が尽きてきた事、まもなく10月という事で越後ではそろそろ冬支度に入らねばならない事・・・などの理由があったものと思われますが、もともと、お互いがウワサの強敵と、いきなりの大決戦をするつもりではなく、「まずは、敵を知りたい」という気持ちでの出陣であったようです。

なぜなら、謙信の撤退を見た信玄も、10月7日を以って塩田城をあとにし、甲斐に戻っているからです。

おそらくは、この第一次川中島の前半戦であった更級八幡の戦いでは、謙信は義清に兵を貸しただけで、本人は、出陣しなかったのではないか?と思います。

そうなると、謙信VS信玄の直接対決となったのは、まさに、この布施の戦いが最初という事になり、お互いの力量を計る戦いだった可能性、大です。

特に、謙信は、この先、本格的に信玄と戦うための前哨戦と位置づけていたものと思われます。

・・・というのも、この布施の戦いを終えて、春日山城に戻った謙信は、すぐに上洛し、第105代・後奈良天皇に拝謁・・・『私的戦乱平定の綸旨(りんじ・天皇家の命令書)を授かっています(4月27日参照>>)

つまり、これで、謙信が官軍、その謙信に敵対し、戦乱を巻き起こす信玄は朝敵(国家の敵)であり賊軍という事になります。

これで、正々堂々、信玄と戦う大義名分ができました。

この次に、謙信と信玄が相まみえるのは、2年後の弘治元年(1555年)7月19日・・・第二次川中島の合戦~犀川の戦いです。

冒頭にもリンクがありますが、コチラからもどうぞ>>
 

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2009年8月25日 (火)

鉄砲伝来~異説とその後・・・

 

天文十二年(1543年)8月25日、種子島に漂着した中国船に乗船していたポルトガル人によって、日本に鉄砲が伝えられました。

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鉄砲伝来については、すでに3年前の8月25日に、島民の様子やら領主の種子島時尭(ときたか)の話やら書かせていただいたので、その定番の経緯については、そちらでご覧いただくとして(2006年8月25日を見る>>)、本日は、異説・・・というか、別ルートでも伝来していた?というお話と、戦国の戦い方を変えた鉄砲のその後のお話をさせていただきます。

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そもそも、定番となっている鉄砲伝来についての記録というのは、慶長十一年(1606年)に成立した『鉄砲記』なる書物に書かれている事で、それが、書面に残る唯一の鉄砲伝来の記録という事になっています。

しかし、実は、この書物・・・種子島久時という時尭さんの息子が書いたもの・・・

つまり、戦国の戦い方を一変させた鉄砲という武器を最初に手に入れたオヤジさんの功績を、メッチャかっこよく書いてる可能性アリって事です。

そもそも、伝えた側のポルトガルの記録によれば、「日本を発見したのは1542年」という事で、すでに1年前に、誰かが日本に来てるという事になります。

また、この時代のヨーロッパでは、火縄ではなく火打ち石式の銃が主流で、火縄が主流だったのはベトナムやマレーなど東南アジアだったのだとか・・・

・・・で、上記の様々な矛盾を解決する説として考えられているのが、前年の天文十年(1542年)に例のごとく、中国船の漂着というサプライズで種子島に来たポルトガル人が、まだ、日本に鉄砲が伝わっていない事を知り、「これは商売になるゾ!」とばかりに、翌年、見本とも言うべき鉄砲を持って、再び、種子島にやって来る・・・

持参したのは、もちろん、母国で使ってるほうではなく、アジアで大流行している火縄銃のほう・・・という事になります。

先ほどのポルトガル側の記録にある1542年に日本を発見した人物は、アントニオ・ダモッタフランシスコ・ゼイモトアントニオ・ペイショットという3人の人物・・・

日本側の記録にある翌・天文十二年(1543年)8月25日に鉄砲を伝えたポルトガル人の名前は「牟良叔舎」←コレが、中国語で読むと「フランシスコ」なのですよ!

・・・とは言うものの、「売る気満々の商売人から買った」というよりは、「たまたま漂着して助けてやった人物が持っていた物を、若き殿様が目に止め・・・」ってなほうが、世紀の武器の伝来ドラマとしては、確かにカッコイイですわな。

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・・・と、公式の鉄砲伝来のお話とは別に、もう一つ、非公式の伝来のお話も残っています。

それによれば、鉄砲伝来は、先の種子島より3年早い天文九年(1540年)に、当時、五島列島付近を中心に荒らしまわっていた海賊の頭目・王直が、平戸城主だった松浦興信(おきのぶ)に、弾薬付きで一挺の火縄銃を献上したのだそうな。

この王直という人物は、名前でお察しの通り中国人・・・明を追われて倭寇(わこう)を率いていた人物で、以前、応永の外寇(6月26日参照>>)のところで書かせていただいた、倭寇の後半に登場する中国人自身による倭寇の集団を率いていたのです。

この時、鉄砲を気に入った興信は、さらに十挺の銃と三十貫の弾薬を王から購入したという事なので、やっぱりこれも見本持参のビジネスという事なのか?
(そら、スーパーの肉売り場の横で、オバチャンが肉を焼いて配るはずやww)

・・・で、その興信の息子の26世・興信が、本来、伝わったとされる天文十二年に起こった肥前相神ノ浦の戦いで、鉄砲を使用したという事なので、これが本当なら、こっちが初という事になりますが、あくまで非公式なので・・・

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ところで、そんな鉄砲・・・最盛期には全国に30万挺はあったと言われるほど戦国武将に大人気だったわけですが、徳川家康が天下を取って太平の世となってからは、その膨大な数の鉄砲はどうなっちゃったのか?

まったく、噂を聞かないので、平和の中じゃ無用の長物として無くなっちゃったのかと思いきや、これがなかなか・・・皆、意外と鉄砲を持ってたんですね~

江戸幕府は、各藩に「君とこは○○石やから○○挺」と、石高に応じて一定の数の鉄砲を、むしろ常備するように義務づけています(そのほうが管理しやすい)、民間でも、狩猟に鉄砲を使っていたのはご存知の通り・・・

あの島原の乱(2月28日参照>>)の時には、秋月藩の黒田家が鉄砲を使用していますし、大塩平八郎の乱(2月19日参照>>)の時も、大塩が持っていた大砲に対して、幕府は鉄砲で応戦してます。

・・・と、そうです。

この二つの乱は、すでにブログに書かせていただいておりますので、お気づきでございましょうが、島原の乱は大坂夏の陣から約20年後の3代将軍・徳川家光の時代

そして、大塩の乱は、黒船が来航する15年前の12代将軍・徳川家慶(いえよし)の時代

つまり、江戸時代のはじめのほうと終わりのほう・・・その間、誤解から鉄砲自殺をしちゃった福知山城主の稲葉紀通さん(12月7日参照>>)なんかもいましたが、幕府や藩の持つ鉄砲を総動員して戦うような大きな合戦はなかったわけです。

・・・て事で、要は、江戸時代を通じて、鉄砲はたくさん保持されていたわけですが、実践に使われる事がほとんどなく、ただ、持ってただけ・・・なので、この間、技術的にはほとんど進歩がなく、幕末の長州征伐(6月14日参照>>)のところで書かせていただいたように、多くの藩は、外国との交戦で痛い目を見て、最新鋭の武器に切り替えた長州には、太刀打ちできないような戦国さながらの火縄銃・・・てな事になったわけなのです。

以上、本日は、鉄砲伝来記念として、イロイロ書かせていただきました~

この後は、おふざけで家電の取説風に書いた【火縄銃・取扱説明書】もお楽しみください>>
 

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2009年8月21日 (金)

毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城の攻防

 

永禄四年(1561年)8月21日、毛利元就が、大友宗麟の攻撃を受けていた門司城の救援に、息子・小早川隆景を派遣しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戦国三大奇襲戦の一つと言われる厳島に戦い陶晴賢(すえはるかた)を倒し(10月1日参照>>)た後、若き当主・大内義長を自刃に追い込んで、中国地方の名門・大内氏を滅亡(4月2日参照>>)させた安芸(広島県)の戦国大名・毛利元就(もとなり)

その大内氏と覇権を争っていた、やはり名門の尼子氏も、ここのところの度々の交戦で弱体化が見え始めていました(12月24日参照>>)

そんな中の、九州の玄関口・門司に建つ門司城・・・室町時代からこの城を支配していた大内氏が滅亡した事で、その後は豊後(大分県)大友宗麟(そうりん・義鎮)にゆだねられるはずであったこの城を、永禄元年(1558年)6月に元就の三男・小早川隆景(たかかげ)が奪取し、毛利はここを拠点に北九州への勢力拡大を謀ろうと考えます。

一方、その翌年の永禄二年(1559年)に、それまでの豊後・肥前(佐賀県)肥後(熊本県)に加え、新たに豊前・筑後・筑前((福岡県南部)の守護となり、室町幕府13代将軍・足利義輝から九州探題を任される事となった宗麟にとって、この毛利の体制を許しておくわけにはいきません。

もとより、日明(にちみん)貿易南蛮貿易でガッポガッポ儲けている大友氏にとって、門司と関門海峡の制海権は生命線とも言える物です。

かくして永禄四年(1561年)春、宗麟は、配下の名将の立花道雪戸次鑑連)に1万5千の大軍をつけ、門司半島を攻撃させますが、門司城は標高175mの山頂にあるなかなかの要害・・・しかも、守備を任された城将・仁保隆康(にほたかやす)以下、守備兵が踏ん張り、容易に落す事ができませんでした。

この状況にイラだった宗麟・・・前代未聞の作戦に出ます。

先ほども書いたように、海外との貿易に長けた宗麟・・・しかも、ご存知のようにキリスト教がらみで、外国にはかなり顔が効きます(11月11日参照>>)

Nanbansencc ・・・で、その人脈を利用して、なんと、博多に停泊中だったポルトガル船の出動を要請・・・

8月1日、関門海峡に現れた南蛮船は、海上から門司城に向かって砲撃を開始したのです。

日本の軍事史上、初の艦砲射撃だったとされるこの攻撃・・・インドゴアからやってきたこの最新兵器には、さすがのも隆康も驚愕し、城兵たちもビビりまくります。

今度、これに慌てたのは元就です。

「このままでは、門司城があぶない!」とばかりに、永禄四年(1561年)8月21日、かつて、この門司城を落した立役者=息子の隆景を救援に向かわせるのです。

Mozizyoukankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

隆景の到着後、ほどなく瀬戸内最強の毛利水軍が大量に押し寄せ、何とか関門海峡の制海権を握る毛利水軍・・・。

やがて、門司城に入った隆景を待っていたのは、内応工作・発覚のニュース・・・宗麟の仕掛けた内応工作に答えて、門司城内には、すでに内通者がいたのです。

事前に発覚した事で、この内通者を処分し、大事には至りませんでしたが、隆景は、逆に、この一件を利用する事を思いつきます。

周囲にいる大友勢に向かって烽火(のろし)をあげて、あたかも内通が成功したかのように見せかけたのです。

烽火の合図を信じて一気に門司城へと迫る大友軍・・・寸前のところまでひきつけておいて、いきなり、怒涛のごとく城外へ撃って出ると同時に、それまで海上に展開していた水軍の兵が、これまた怒涛のごとく上陸し、城に近づいた大友軍を挟み撃ちにします。

10月10日、明神尾の激戦と呼ばれるこの衝突で、戦況は一気に毛利へと傾きます。

しかし、大友軍はなおも諦めず、10月26日の激戦では、道雪らが、大量の弓矢と鉄砲を城内へと撃ちこんで奮戦したりもしますが、結局、最後まで毛利有利の展開をひっくり返す事はできず、ついに11月5日、大友軍はやむなく撤退を開始・・・ここに門司城攻防戦は、毛利軍の勝利となったのでした。

それにしても・・・
海上からの艦砲射撃と聞けば、幕末の薩英戦争(7月2日参照>>)函館戦争(5月11日参照>>)を思い浮かべてしまいますが、戦国時代・・・それも、意外に早い段階で行われていたとは・・・

ちょっどびっくりですね。
 

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