2021年10月13日 (水)

徳川家康の直系ご先祖~松平親忠の井田野の戦い

 

明応二年(1493年)10月13日、松平親忠が彼に反発する勢力に勝利した井田野の戦いがありました。

・・・・・・・

その不穏な空気は、三河(みかわ=愛知県東部)松平氏3代当主松平信光(まつだいらのぶみつ)が亡くなった長享二年(1488年)もしくは長享三年(1489年)・・・その死の直後から始まります。

…というのも、
遺言により、その死を受けて家督は三男の松平親忠(ちかただ)に譲られ、親忠が松平氏第4代当主となったとされているのですが、なぜに三男に譲るのか?がハッキリしない・・・

しかも、一説には、本当は、長男に家督を譲り、三男=親忠は、あくまでその分家の補佐だったものの、後に、この親忠の家系から大物を輩出するので、あとから、親忠が家督を継いだ事に書き換えた・・・なんて事も言われます。

そう、
実は、この親忠さんが、あの徳川家康(とくがわいえやす)の祖父の祖父の父=5代前のご先祖様なのです。

そもそもは、松平信光が松平氏3代という事も曖昧で・・・だとすると、当然、後を継いだ親忠の第4代もどうなんだか?…てな感じですが、

ま、有名になる前の人物の家系図という物は、概ね、そんな感じが多いので、とりあえず親忠が三男だけど、父の遺言を受けて家督を継いだ・・・という事で話を進めさせていただきます。

とにもかくにも、そんな曖昧な家督相続だった事から、これに反発する国人領主も多く、先代信光の死からほどなく、未だ親忠が正式に家督を相続していない段階から、不満分子たちが結束して、打倒親忠ののろしを挙げたのです。

それは明応二年(1493年)・・・と言いますから、

畿内では、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)が、前将軍をクビにして、自身の意のままになる将軍を擁立したクーデター『明応の政変』が起こり(4月22日参照>>)

関東では、幕府奉公衆(諸説あり)だった北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)が、幕府公認の堀越公方(ほりごえくぼう=関東公方の後継)足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を倒して公方家を滅亡させた『伊豆討ち入り』があった(10月11日参照>>)

まさに時代の転換期=戦国の幕開けとも言える年・・・

反親忠派として蜂起したのは、
伊保城(いぼじょう=愛知県豊田市保見町)三宅加賀守(みやけかがのかみ)
挙母城(ころもじょう=同豊田市小坂本町・七州城とも)中条出羽守(なかじょうでわのかみ)
八草城(やぐさじょう=同豊田市八草町)那須宗左衛門(なすそうざえもん)
上野城(うえのじょう=同豊田市上郷町)阿部孫次郎(あべまごじろう)(以上『参河国聞書』より)

さらに、
寺部城(てらべじょう=同豊田市寺部町)鈴木日向守(すずきひゅうがのかみ)
も加わっており『松平町誌』より)
これは、親忠側にとっては、なかなかの窮地・・・

Idanonotatakai
「井田野の戦い位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

かくして明応二年(1493年)10月13日、三宅ら連合軍は、松平側の岩津城(いわつじょう=同岡崎市岩津町)を攻め落とし、その勢いのまま、親忠の拠る岡崎城(おかざきじょう=同岡崎市康生町)へと迫ったのです。

三宅・中条・阿部の諸隊が、大門(だいもん=岡崎市岩津地区)から矢作川(やはぎがわ=長野→岐阜→愛知から三河湾に注ぐ)を渡り、鈴木隊が桑原(くわばら=岡崎市桑原町)細川ほそかわ=岡崎市細川町)に寄せて来ます。

これを受けた親忠は、岡崎城を出て、井田野(いだの=岡崎市井田町)にて迎え撃つ事にしたのです。

この時、先手を担当したのは、松平長勝(ながかつ)という武将でした。

この長勝は、松平郷松平家(まつだいらごうまつだいらけ=松平太郎左衛門家とも)と呼ばれる三河国の国衆である松平氏の宗家の4代目の人・・・

後に、この松平郷松平家は庶宗家なんて呼ばれ方をしますが、それは、最初に書いた通り、今回の主役である松平親忠さんの松平家が、後々徳川家康に繋がっていくにあたり、いつしか、そっちが本家のような扱いになってしまうからであって、この頃は、むしろ、この松平郷松平家が宗家だったわけですが・・・

…で、今回、先手を預かった井田野の戦いでは、長勝は、まさに先陣を切って敵に突入し、壮絶な討死を遂げますが、その死と引き換えに、親忠に勝利をもたらし、松平親忠の武名の向上に一役かったのでした。

その命を懸けた戦いぶりに感動した親忠は、長勝の嫡子である松平勝茂(かつしげ)に、その所領を大幅加増して、猛将の死を惜しんだと言います。

ちなみに、この松平郷松平家は、結局は、戦国時代において三河の国衆レベル以上の出世を遂げる事はありませんでしたが、家康が天下を取って後も、江戸時代には旗本ながら独立大名に近い扱いを受け、松平家発祥の地を守り抜き、明治維新を迎えるまで立派に存続したという事です。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

 

| コメント (2)

2021年9月23日 (木)

三浦義同VS三浦時高~養子と養父の新井城の戦い

 

明応三年(1494年)9月23日、三浦時高の拠る新井城に、三浦義同が夜討ちを仕掛けて勝利し、負けた時高が自刃しました。

・・・・・・・・

三浦時高(みうら ときたか)は、平安時代より衣笠城(きぬがさじょう=神奈川県横須賀市)に本拠を置いて三浦半島一帯を支配し、あの源平の合戦の際に、いち早く源頼朝(みなもとのよりとも)を助けた三浦義明(よしあき)(8月27日参照>>)の子孫です。

以来、三浦半島に君臨し、室町のこの頃は新井城(あらいじょう=神奈川県三浦市三崎町・三崎城とも)の城主を務め、 関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方足利家の補佐役・関東執事)扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)に従い、京都の第6代室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり)の意に従わなくなった鎌倉公方(かまくらくぼう=将軍家から関東支配を任されている足利分家)足利持氏(もちうじ)の討伐(【永享の乱】参照>>)でも活躍したりなんぞして、なかなかの武勇を誇っておりました。

ただ、時高は、なかなか子供に恵まれなかった・・・

おそらく、この時、20代半ばとおぼしき時高は、このままでは由緒正しき三浦が絶えてしまう・・・早く後継を定めねばとの思いがありました。

そこで、扇谷上杉家の現当主であった上杉持朝(もちとも)の信頼も篤かった時高は、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)城主で相模(さがみ=神奈川県)西部を支配していた大森氏頼(おおもりうじより)に嫁いだ妹が氏頼との間にもうけた女の子(つまり時高の姪っ子)を上杉持朝の次男である高救(たかひら)と結婚させて、その高救を三浦家の養子として迎え、後を継いでもらう事にします。

さらに、その二人の間に生まれた息子=義同(よしあつ)養子にして、これで、三浦家は安泰安泰・・・

と、思いきや、世の中なかなか思い通りにはいきません。

この時期、成長した足利成氏(しげうじ=持氏の遺児)が、父=持氏同様に将軍家に反発して関東で大暴れしていた事で、京都の将軍家から新たな鎌倉公方として派遣されて来た足利政知(まさとも=将軍義教の次男)鎌倉に入れないという出来事があったのですが(10月14日の真ん中あたり参照>>)

それが政知の執事である渋川義鏡(しぶかわよしかね)から「三浦と大森がジャマしてるから鎌倉に入れないんじゃないか?」と疑われてしまったために、その潔白を証明すべく、三浦時高は出家して隠居し、家督を高救に譲り、高救が三浦家の当主になる事で、その責めを回避・・・

したは良かったが、なんと、ここに来て時高に実子が誕生・・・

さらに文明十八年(1486年)、高救が三浦家に養子に出た事で実家の扇谷上杉家を継いでいた上杉定正(さだまさ=高救の弟)が忠臣の太田道灌(おおたどうかん)を殺害した事件(7月26日参照>>)に怒った高救が、自らが扇谷上杉を継ぐべく、当主の座を義同に譲って三浦家を去ってしまいます。

Miurayosiatu500as これを受け、三浦家の当主となった三浦義同・・・

これが、なかなかに武勇優れた人で、器量、才覚もあった事から、養子ではあるものの祖母は三浦の女性である事もあって、三浦一門も郎党たちまでもが彼を信頼し、三浦を継ぐにふさわしい人物として納得していたのです。

ところが、納得しなかったのが前当主=時高です。

そう、もともと実子が生まれたからには、実の息子に後を継いでもらいたい気持ちがある中で、それより何より、高救が個人的感情で三浦を出て義同に後継を譲った事が許せない!

時高は、あからさまに義同を疎んじるようになり、ことごとく敵対・・・これには、三浦の家臣たちも何度か諌めはしたものの、とうとう近臣に義同を討つ命を出したとか・・・

この、養父の態度に危険を感じた義同は、すぐさま新井城を出て、祖母の夫である大森氏頼を頼って小田原へ向かい総世寺(そうせいじ=神奈川県小田原市久野)にて剃髪し道寸(どうすん)と号して(ややこしいので名前は義同のままで…)隠居する姿勢を取りながらも、一門の中から自分に賛同してくれる者たちを募り、新井城を攻撃すべく準備を開始したのです。

かくして明応三年(1494年)9月23日、密かに、時高らの拠る新井城に夜討ちをかける義同隊・・・

勝手知ったる城内に、(とき)の声を挙げて一気に乱入する義同側に対し、まさか隠居して身を隠した養子が襲って来るとは考えていなかった城内は、完全に準備不足で、ただただ右往左往するばかり。

新井城はほどなく落ち、義同は、養父の高時と、その実子である高教(たかのり)を自害に追い込んだのです。

この戦いのさ中、城側から相模梅沢(うめざわ=神奈川県中郡二宮町)の住人=中村式部少輔(なかむらしきぶしょうゆう)なる武士が、義同の前に進み出て、
「こは如何に父に向て弓を引事
 八道の罪人ぞや
 汝等が武運頓て盡べし」
(父親に向かって弓引くとは何事や
 そんなもん、八道(人が進むべき道)の罪人やないかい!
 あんたの武運も、やがて尽きる事やろな)
と言い放って、壮絶な討死を遂げたとか・・・

という事ですが、
実のところ、時高父子が、この日この時、この新井城にて自刃したかどうかは、微妙なのです。

結果的に、この後、義同が新井城に拠る事から、一旦、出家した義同が高時父子を討ち取った(もしくは自刃に追い込んだ)事は事実と思われますが、問題は時期・・・

上記の通り、義同は祖母の婚家である大森氏の支援を受けて新井城に夜討ちをかけた事になってますが、当の大森氏頼は、この夜討ち実行日の約1ヶ月前に死去していて、その直後から後継問題でゴタゴタしてたうえに、そのゴタゴタに乗じて北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)小田原城狙いでチョッカイ出してたようで(翌・明応四年(1495年)2月に早雲が小田原城を奪取=参照>>)

後継となった大森藤頼(ふじより=氏頼の次男)は、この時、義義同の支援どころでは無い状態だったはずで、実に疑わしいのです。

というのも、今回ぎ紹介したお話のほとんどが北条側による記録(『北条記』)で、その脚色率高しなんです。

先の中村式部少輔なる武将の最期の捨てゼリフなんかも、おそらくは、この後、義同が、早雲に攻め込まれて、この同じ新井城にて命を落とし(7月13日参照>>)三浦家が滅亡する事を踏まえての伏線感満載です。

なので、すべてを信じるわけにはいきませんが、かと言ってすべてが創作とも言い難く・・・それこそ、今後の新たなる発見に期待ですね。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2021年8月18日 (水)

六角からの脱却~浅井長政の野良田の戦い

 

永禄三年(1560年)8月18日、それまで、ほぼ主従関係にあった六角氏浅井長政が勝利する野良田の戦いがありました。

・・・・・・・・

  • 日付の関係で記事のupが前後して申し訳ないです。
    今日のお話は7月29日にupした【蒲生野の戦い】>>へと続くお話…時系列ではコチラが先ですm(_ _)m

祖父=浅井亮政(あざいすけまさ)下剋上により(3月9日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)守護(しゅご=県知事)であった主筋の京極(きょうごく)の追い落としに成功した浅井氏・・・

しかし、京極氏とは同族で、浅井が京極に取って代わる事をヨシとしない南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)の守護=六角(ろっかく)は、度々浅井と敵対・・・

その戦いに苦戦した亮政の息子=浅井久政(ひさまさ)は、やむなく六角氏に従属(1月10日参照>>)・・・

息子の浅井長政(ながまさ=つまり亮政の孫)が元服する頃には、六角家臣である平井定武(ひらいさだたけ)の娘を娶らせ、その名を、六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)の一字をとって「浅井賢政」と名乗らせるほどの主従関係を敷いておりました。

Azainagamasa600 しかし永禄二年(1559年)、この状況に不満を持つ浅井家臣らが、元服したての長政を当主と仰いでクーデターを決行・・・

父・久政は、家臣らによって隠居させられて竹生島(ちくぶじま=琵琶湖に浮かぶ島)に追放されてしまいます。

こうして、わずか15歳で浅井家を率いる事になったた長政・・・目標は、もちろん六角の呪縛からの脱却ですが、

当然、これに激おこプンプンの六角義賢は、早速、浅井方の百々盛実(どどもりざね)の守る佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を攻撃します。

しかし、この時は、城を落とす事ができずに退却・・・

そこで、翌永禄三年(1560年)8月に、六角義賢は再び、江北(こうほく=滋賀県北部)に大軍を侵攻させます。

Rokkakuyosikata500 先陣蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)永原重興(ながはらしげおき)進藤賢盛(しんどうかたもり)池田景雄(いけだかげかつ)など、

第二陣田中治部大輔(たなかじぶたいふ)和田惟政(わだこれまさ)などを配置し、義賢自らは馬廻りとともに中軍に位置し、

後陣後藤賢豊(ごとうかたとよ)らで固め、総勢2万5千余騎の大軍となって愛知川(えちがわ)を渡ります。

狙うは、前年の佐和山攻めの後に長政の調略に乗って浅井方に寝返った高野瀬秀隆 (たかのせひでたか)肥田城(ひだじょう=滋賀県彦根市肥田町)です。

実は、義賢は、この高野瀬秀隆の寝返りにメッチャ怒っていて、この4月から、すでに、この肥田城を水攻めにかかっていたのですが、それが、あまり功を奏さず・・・

ここに来て、力攻めで以って、一気に落としてしまおうと考えていたのです。

高野瀬秀隆から、肥田城の急を聞いた長政は、百々盛実・磯野員昌(いそのかずまさ)ら5千余騎を先陣に、

後陣には自らが出馬し、自身の周囲を、赤尾清綱(あかおきよつな)今村氏直(いまむらうじなお)弓削家澄(ゆげいえずみ)安養寺氏秀(あんようじうじひで)ら6千余騎に囲ませ、

計、約1万1千騎で以って永禄三年(1560年)8月18日野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)へと押し出したのです。

宇曽川(うそがわ=湖東地域を流れる)を挟んで、北に浅井軍、南に六角軍。。。 

まずは、浅井の先陣=百々が六角の先陣=蒲生に挑み、一進一退の戦いを約4時間ほど繰り広げたところに、六角二陣の田中らが横からの攻撃を仕掛けたので、

百々勢は崩れて後退し始めたところを、自らは馬を返して衆を励まし奮戦していた百々盛実でしたが、ここでスキを突かれ、蒲生の家臣=結解十郎兵衛(ゆっけじゅうろうべえ)に討たれてしまいます。『武辺咄聞書』『浅井三代記』などによる)

「先陣の大将を討ち取ったぞ~~!」
とばかりに、士気が高まる六角軍が、さらに激しく攻め立てたので、浅井の敗色が濃くなって来ました。

なんせ、もともと2万5千VS1万1千で、数的にも不利な状況・・・

しかし、ここで長政、怯むことなく、安養寺と今村を呼び寄せて戦術の変更を話し合い、兵を2手に分け、安養寺ら1手には勝ちに乗じて突進する蒲生勢を迎え撃たせ、残りの1手は長政自らが精鋭を率いて六角本陣に突入する事に・・・

この時、蒲生勢と奮戦する浅井の1手が、蒲生の一翼を担っていた千種(ちぐさ)の将を討ち取った事で先陣の蒲生勢が戸惑う中、初戦の勝ちに少々の油断していた六角本陣の方に、長政率いる2手目のメンバーが殺到します。

不意の猛攻を防ぎきれぬ六角本陣から、慌てて六角義賢自身が退去し始めた事で、それまで勝ってたはずの六角勢が、総大将の動向につられ、なんと!全軍が敗走の形になってしまったのです。

そのまま、あれよあれよと言う間に、気が付けば、いつしか壊滅状態・・・

浅井も400ほどの戦死者を出してしまいますが、六角方の戦死者は900越えとなって、結果、浅井の勝利となったのです。

この野良田の戦いの勝利にて、浅井は北近江における政治的基盤を確立し、父の久政も戻って来て正式に長政に家督を譲り、長政も六角から与えられていた「賢政」の名を捨て、長政に改名したという事です。
(長政の名は信長の「長」の字…つまり信長と同盟を結んでからの改名の説もあり)

一方の六角氏は、この3年後の永禄六年(1563年)に起こった「観音寺騒動(かんのんじそうどう)と呼ばれる内ゲバ事件(10月7日参照>>)にて、義賢の後を継いだ嫡男の六角義治(よしはる=義弼)が、

居城の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を追われる事態(後に戻ります)となり、その弱体化が始まってしまうのです。

さらに、永禄九年(1566年)の蒲生野(がもうの=東近江市野口町・糠塚町周辺)の戦いでの勝利にて、六角との手切れが決定的となった浅井長政は、あの織田信長(おだのぶなが)との同盟を結ぶことになります(7月29日:蒲生野の戦いを参照>>)
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2021年8月11日 (水)

居城を追われた畠山尚順~後継者争いに翻弄された人生

 

永正十七年(1520年)8月11日、名門管領家・畠山氏の畠山尚順が、居城を追われた事を報告する手紙を書きました。

・・・・・・・・

応仁元年(1467年)、将軍家の後継者争いに武家の後継者争いが絡み、日本全国の武将を東西に分けて戦った大乱=応仁の乱(5月20日参照>>)

最初にぶつかって、その大乱の引き金となった戦いが、管領家(かんれいけ=将軍補佐役を引き継ぐ家系)畠山(はたけやま)の後継者争い=従兄弟同士の畠山政長(はたけやままさなが)畠山義就(よしひろ)による御霊合戦(ごりょうがっせん)でした(1月17日参照>>)

Ouninnoransoukanzu2 文明五年(1473年) に、西軍大将山名宗全(やまなそうぜん=持豊)と、東軍大将細川勝元(ほそかわかつもと)が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事もあって、合戦の内容も、徐々に小競り合いばかりのグダグダとなっていく中、文明九年(1477年)になって、両大将の後継者である山名政豊(まさとよ=宗全の孫)細川政元(まさもと=勝元の嫡男)の間に和睦が成立して、約10年渡る大乱に終止符を打ちました(11月11日参照>>)

しかし、これは、あくまで応仁の乱の両大将同士の和解であって、乱に関わった武将たちの後継者争いには、未だ決着はついていないわけで、結局それは、中央の京都で合戦しなくなっただけ・・・今度は、それぞれの武将のそれぞれの領地にて戦いが続いていく事になります。

今回の畠山両家の戦いも、舞台を地元に変えて続けられるのです(7月12日参照>>)

文明十七年(1485年)12月11日に起こった有名な山城の国一揆(やましろのくにいっき)も、この両畠山家の戦いで徴兵されたり田畑を荒されたりする事に我慢できなくなった山城(やましろ=京都府南部)国人(こくじん=地元に根付いた半士半農の武士)たちが、「畠山出てけ!」「税金搾取すんな!」「関所作って金取んな!」を訴えた一揆だったわけです(12月11日参照>>)

それは、延徳二年(1491年)に畠山義就が亡くなっても(12月12日参照>>)、明応二年(1493年)に細川政元が起こした将軍交代(義稙→義澄)クーデター明応の政変(めいおうのせいへん)絡みで畠山政長が自刃しても(4月22日参照>>)、その息子たち=畠山義豊(よしとよ=義就息子)畠山尚順(ひさのぶ=政長息子)によって継続されるのでした。

父=政長の自刃の際、なんとか領国の一つである紀伊(きい=和歌山県)に逃れていた尚順は、同じく政変で第11代足利義澄(よしずみ)に取って代わられたために越中(えっちゅう=富山県)へと逃走していた前将軍の足利義稙(よしたね=当時は義材・後に義尹:義視の息子)と連携をとり、明応八年(1499年)に河内(かわち=大阪府中東部)に侵出し、畠山義豊を死に追いやったものの、細川政元とタッグを組んだ畠山義英(よしひで=義豊の息子)に敗れ、再び紀伊へと逃れました(9月27日参照>>)

永正元年(1504年)に入って、尚順と義英は、一旦は和睦を結ぶのですが、そんなこんなの永正四年(1507年)、かの細川政元が暗殺され(6月23日参照>>)細川家内に養子同士の後継者争いが起きた事で(8月1日参照>>)、両者ともに、またぞろ戦いの渦中に・・・

細川高国(たかくに=備中細川家からの養子)につく尚順と、細川澄元(すみもと=阿波細川家からの養子)についた義英・・・

その高国が、周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)を味方につけ、亡き政元に追放されていた、あの足利義稙を奉じて京へと上り、永正八年(1511年)の船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)の戦い(8月24日参照>>)で勝利した事により、翌年には足利義稙が将軍に返り咲き、尚順も正式に畠山家の後継の地位を獲得・・・

これで、越中&河内&紀伊の守護になった尚順は、永正十二年(1515年)には河内守護職を息子の畠山稙長(たねなが)に譲り、自らは紀伊の広城(ひろじょう=和歌山県有田郡広川町)に居を構え、越中と紀伊の領国統治に励みます。

その後、永正十七年(1520年)1月には、阿波にて態勢を立て直して三好之長(みよしゆきなが=長慶の祖父か曾祖父)四国勢を率いてやって来た細川澄元腰水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)を落とされ(1月10日参照>>)六角(ろっかく)を頼って近江(おうみ=滋賀県)に逃れる場面もあった細川高国でしたが、4か月後の5月には等持院表(とうじいんおもて=京都市北区)の戦いで勝利し、再び高国が京都を制しています。

そんなこんなの永正十七年(1520年)8月・・・すでに隠居して卜山(ぼくざん)と号していた畠山尚順の身に、それは突然起こります。

尚順自身が永正十七年(1520年)8月11日付けの手紙にて、同盟を結んでいた越後(えちご=新潟県)長尾為景(ながおためかげ=上杉謙信の父)に報告しているので、おそらくは8月上旬に起こったと思われる出来事なのですが・・・

なんと、尚順は、自らの配下の者たちによって、居城の広城を追われてしまうのです。

尚順が「国民」と呼ぶ彼らは、おそらく畠山の内衆&国衆であり国人&土豪(どごう=地侍)と言った人たちですが、彼らからの攻撃を受けて敗北した尚順は、城を捨て、わずか20~30人の手勢とともに、泉州堺(さかい=大阪府堺市)に逃れたというのです。
(※本来「国民」とは大和における春日大社派の地侍の事…【貝吹山城攻防戦】参照>>

その原因はハッキリしないのですが、彼らは広城は襲撃しても、息子=稙長の高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市)には、まったく敵対せず、むしろ、その跡目を稙長の弟(複数いるので誰を指名したかは不明)に頼んでいるくらいなのですから、

おそらくは、「畠山が…」というよりは、尚順自身の領国経営に何かしらの不満があった中、上記の細川家のゴタゴタで中央政権が目まぐるしく変わったこのタイミングを絶好の機会と見て、事を謀ったのではないか?と思われます。

その後、尚順は、河内守護代遊佐長教(ゆさながのり)を交渉に向かわせたり、9月25日には、幕府の力を借りて(一応守護ですから…)、幕府から根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)を通じて広城の返還を要求してもらったりもしましたが、いっこうにラチがあかず・・・

翌大永元年(1521年)5月には、梶原(かじわら)なる人物の助力を得て、広城に討ち入るも、散々に討ち負け淡路島(あわじしま=兵庫県)へと落ちて行きました。

それからは、新将軍=足利義晴(よしはる=11代)を推す細川高国を支持する息子=稙長に対し、尚順は、あくまで全将軍=義稙を推しながら、在地勢力からの広城奪回を模索する日々を送りますが、

大永二年(1522年)8月17日広城奪回の願いが叶う事無く、淡路の地で死を迎える事となります。。。享年48

思えば、生まれながらにして、畠山の当主を巡っての争いに身を投じる運命にあり、生涯、その戦いのために費やして来たような人生ですが、唯一の救いは、亡くなる前年に、あの畠山義英と和睦した事でしょうか・・・

まぁ、この時は、すでに広城を追われ、息子とも袂を分かった後なので、それだけで心休まる事は無かったかも知れませんが・・・
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2)

2021年8月 3日 (火)

足利義昭~上洛への道

 

永禄九年(1566年)8月3日、近江矢島に滞在する足利義昭のもとに三好三人衆が軍兵を差し向けた坂本の戦いがありました。

・・・・・・・・・

第12代室町幕府将軍足利義晴(あしかがよしはる)の次男として生まれた足利義昭(よしあき=義秋)は、将軍職の後継者争いを避けるための足利将軍家の慣習に従って幼くして仏門に入り、奈良の興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)にて覚慶(かくけい)と号して僧侶としての道を歩んでおりました。

ところが永禄八年(1565年)5月、父の後を継いで第13代将軍となっていた兄の足利義輝(よしてる)が、畿内を掌握していた今は亡き三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の後継である三好義継(みよしよしつぐ=三好長慶の甥)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・岩成友通)、そして彼らに与する松永久通(まつながひさみち=松永久秀の息子)らによって暗殺(5月19日参照>>)された事で、その人生が一変します。

Asikagayosiaki600 この時、兄と一緒にいた母や、相国寺鹿苑院(ろくおんいん=京都府京都市上京区)の僧侶だった弟=周暠(しゅうこう=周高・周嵩)も殺され、自らも、興福寺にて幽閉&監視の身となっていた義昭でしたが、

2か月後の7月28日、一色藤長(いっしきふじなが)和田惟政(わだこれまさ)三淵藤英(みつぶちふじひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)兄弟ら、義輝の側近たちの手引きにより、興福寺から脱出し、近江(おうみ=滋賀県)守護(しゅご=県知事)六角義賢(ろっかくよしかた)の了解を得て、甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)にある和田惟政の屋敷(和田城=甲賀市甲賀町和田)に、一旦、身を寄せました(内容カブってますが…7月28日参照>>)

ここで義昭は、自らが将軍になる決意を固めたと言います。

和田の館に約4ヶ月滞在した後、11月21日からは、より京都に近い野洲郡矢島(やじま=守山市矢島町)に移動し、ここを矢島御所と定めて在所とし、自身による室町幕府再興に向けて動き出すのです。

その第一歩は、自分を将軍に担いでくれる強い武将を探す事・・・そう…以前書かせていただいたように、当時、関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)並みだった越後(えちご=新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)支援依頼の手紙を出したのもこの頃です(10月4日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

なぜなら、兄の義輝を殺害した三好&松永派は、すでに、生前の三好長慶が推していた堺公方足利義維(よしつな=義晴の弟)(【堺幕府】参照>>)の息子で、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで=つまり義昭らの従兄弟)第14代将軍にすべく朝廷に働きかけていたわけで、

そんな中で義昭の味方をしてくれる者は、ごくわずか・・・三好勢に対抗して将軍になるためには、彼らに匹敵する力が必要なわけです。

そして翌永禄九年(1566年)2月17日、いよいよ還俗(げんぞく=出家した僧侶から一般人に戻る事)して、足利義秋(よしあき)と名乗ります。

一方、ちょうどこの頃、以前から大和(やまと=奈良県)の支配を巡って筒井順慶(つついじゅんけい)との戦いに明け暮れていた松永久秀(ひさひで)に対し、三好三人衆が筒井側に回った事で、三好と松永の関係が何やらギクシャクし始めていたわけで。。。
【筒井城攻防】参照>>
【大和高田城の戦い】参照>>

これをチャンスと見た義昭は、
管領家で河内(かわち=大阪府南東部)守護の畠山高政(はたけやまたかまさ)能登(のと=石川県北部)守護の畠山義綱(よしつな)若狭(わかさ=福井県西部)守護の武田義統(たけだよしずみ)越前(えちぜん=福井県東部)守護の朝倉義景(あさくらよしかげ)といった、そうそうたるメンバーに、せっせと支援の手紙を書きまくります。

この義昭の動きをけん制すべく、永禄九年(1566年)8月3日三好長逸(みよしながやす)矢島の義昭に向けて軍兵を発し、坂本(さかもと=滋賀県大津市)まで侵攻して来たのです。

これを迎え撃つ義昭・・・この戦いで義昭を支援したのは六角義治(よしはる=義賢の息子・義弼)でした。

六角氏は、この3年前の永禄六年(1563年)に起こったお家騒動=「観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)にて、それまでの威信を失ってしまい、今は、ここぞとばかりに三好側に降る者も多数出てはいましたが、なんだかんだで佐々木源氏の流れを汲む名門・・・まだまだ力は持ってます。

『言継日記』
「足利義秋 三好長逸の兵を近江坂本にて迎え撃ちて これを敗る」
とあるだけで、細かな状況は読み取れないのですが、

とにもかくにも、この戦いでは、六角家臣の奮戦により、見事、三好勢を撃退しています。

そして、ここらへんで、「意外に、義昭の存在って大きいんだなぁ~」と思う出来事が・・・
敵の敵は味方!とばかりに、「三好&義栄」に敵対するコチラ側の諸将たちが近づくのです。

同族の京極(きょうごく)に取って代わった(【箕浦の戦い】参照>>) 事で、長年、浅井(あざい)に敵対心を持っていた六角氏がその浅井長政(あざいながまさ)と和睦したり、

尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)から、再三に渡って美濃(みの=岐阜県南部)への攻撃を受けていた(【新加納の戦い】参照>>)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)斎藤龍興(さいとうたつおき=道三の孫)が、その信長と和睦したり・・・

おそらく、この頃に降って湧いたであろう浅井長政と信長の妹(もしくは姪)お市の方との結婚話には、なんと六角氏の尽力もあったとか・・・

義昭を推す事で一致団結する武将たち・・・

とは言え、その一方で、義昭を奉じて上洛し、三好相手に戦おうという武将が現れる事も、未だ無かったのです。

そこで若狭の武田を頼って、若狭へと向かった義昭でしたが、武田はお家騒動の真っただ中(【国吉城の戦い】参照>>)で何ともならず・・・やむなく、9月には朝倉義景を頼って越前へと移ります。

一方で、義昭のもとに団結した諸将の関係も、刻々と変わる戦国の政情によって、その立場が揺らいでいきます。

翌永禄十年(1567年)8月には、信長が稲葉山城を陥落させて斎藤龍興が美濃を追われ(8月15日参照>>)
10月には奈良で起きた三好と松永の戦闘で東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)大仏殿が炎上(10月10日参照>>)・・・

ところが、この間にも、三好勢が義栄を推しつつ朝廷や幕臣に働きかけていたいた事が功を奏し、
翌永禄十一年(1568年)2月、とうとう朝廷からの将軍宣下を受け、義栄が堺にて、第14代室町幕府将軍に就任してしまったのです。

頼みの六角氏も、ここらあたりで義栄&三好と手を組みます。

万事休す・・・
かと、思いきや、まだ諦めぬ義昭は、ここで、その名を義秋から義昭に変えて心機一転・・・

そして、ここに登場するのが、
幕臣の細川藤孝の中間(ちゅうげん=身の回りの世話係)だった?、
あるいは朝倉義景の家臣だった?
あるいは越前にて寺子屋を開いていた?
あるいは医学の知識で以って一旗上げようとしたいた?
(↑いきなりの登場のため、謎が謎呼び、さまざまな説がある)
この時、越前にいた明智光秀(あけちみつひで)です。

この時点で、すくなくとも40歳前後だと思われる光秀(もっと年上の可能性あり)が、これまた一説には信長の奥さんである濃姫(のうひめ=帰蝶)と従兄弟同士だったとも言われていて、

その縁で光秀が、前年に斎藤家を倒して岐阜に拠点を置いた信長と義昭との仲介役をし、ようやく、義昭は、自らを担いで上洛してくれる武将と出会えたわけです。

Nobunagazyouraku
信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、永禄十一年(1568年)9月7日、足利義昭の要請に応えた信長が上洛する・・・お馴染みの場面となります。
(上洛の様子については9月7日のページで>>)

いやはや・・・さすがは戦国。
義昭のもとに一致団結するのも速ければ、また敵対するのも速い・・・

なんたって、このすぐ後、義輝を暗殺した三好義継と、それに加担したかも知れない松永久秀が、上洛した信長に、即座に挨拶しに行って、ちゃっかり織田傘下になっちゃうわけですからね~

めまぐるしく変わる情勢を、しっかり見てないと、戦国は生き抜いていけませんね。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2)

2021年7月29日 (木)

浅井長政の下剋上~VS六角の蒲生野の戦い

 

永禄九年(1566年)7月29日、一時は主従関係にあった六角義賢浅井長政が蹴散らした蒲生野の戦いが勃発しました。

・・・・・・・・・

祖父=浅井亮政(あざいすけまさ)下剋上により(3月9日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)守護(しゅご=県知事)であった主筋の京極(きょうごく)を追い落とした浅井ではありましたが、南近江の守護である六角(ろっかく)との戦いには苦戦したため、結局、亮政息子の浅井久政(ひさまさ)六角氏に従属(1月10日参照>>)・・・孫の浅井長政(ながまさ)が元服する頃には、六角家臣である平井定武(ひらいさだたけ)の娘を娶らせ、その名を、六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)の一字をとって「浅井賢政」と名乗らせるほどの主従関係を敷いておりました。

Azainagamasa600 しかし、この関係に不満を持つ浅井家臣らによって、元服したての長政を当主と仰いでクーデターを決行・・・

父・久政は隠居させられ、わずか15歳で一軍を率いた長政は、永禄三年(1560年)8月の野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)の戦い(8月18日参照>>)にて六角義賢に勝利した事で奥さんを実家に返し、「賢」の字も捨てて長政を名乗り(長政の名は織田信長との同盟の際に名乗ったとも)六角氏と絶縁の体制を取るようになったのです。

翌永禄四年(1561年)7月には、六角義賢が畿内を牛耳る三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)との戦いのために京都に出陣した【将軍地蔵山の戦い】参照>>)事をチャンスと見て、父が以前奪えなかった六角配下の太尾城(ふとおじょう=滋賀県米原市米原・太尾山城とも)を奪わんとしますが、残念ながらこの時は失敗(7月1日参照>>)・・・

ところが、その2年後の永禄六年(1563年)、義賢の出家によって本拠の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を引き継いでいた嫡男の六角義治(よしはる=義弼)が、重臣の後藤賢豊(ごとうかたとよ)を殺害し、それに怒った家臣たちによって観音寺城を追われるという・・・世に「観音寺騒動(かんのんじそうどう)と呼ばれる内ゲバ事件が発生したのです(10月7日参照>>)

この時、チャンスとばかりに、主君に反発する六角家臣に加勢する長政は、彼らとともに、義治が逃げ込んだ日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町:中野城とも)を攻撃するのですが、この日野城の城主は勇将名高い六角重臣の蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)・・・

1ヶ月近い籠城戦の末、反発していた六角家臣も長政も和睦する事になりました。

こうして和睦した事で、六角義治は、もとの観音寺城に戻って元通り・・・となるのですが、当然、ゴタゴタの亀裂が全回復するわけもなく、この一件で六角氏の力は確実に衰退する事になります。

そんなこんなの永禄九年(1566年)5月・・・かねてより六角義治に不信感を抱いていた六角重臣の布施公雄(ふせきみお=淡路入道)謀反を起こし布施山城(ふせやまじょう=滋賀県東近江市布施町)籠城したのです。

布施公雄からの援軍要請に応じた浅井長政は、7月になって居城の小谷城おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)から江南(こうなん=琵琶湖の南岸)へと進出し、まずは自軍を5陣に分けてから、25日に先陣を舟岡山(ふなおかやま=同東近江市糠塚町:船岡山)から 布施山に向かわせ、自身は小幡(おばた=同東近江市五個荘小幡町)に本陣を置き、六角勢を迎える態勢に・・・

一方の六角軍は、池田定輔(いけださだすけ)が布施山城を攻め、平井定武が堀内の屋敷にて、三上栖雲軒(みかみせいうんけん=士忠)上羽田(かみはねだ=同東近江市上羽田町)にて浅井勢を迎え撃つ事とします。

かくして永禄九年(1566年)7月29日、舟岡山の麓一帯に広がる蒲生野(がもうの=東近江市野口町・糠塚町周辺)と呼ばれる場所にて、浅井VS六角の合戦が展開される事になったのです。

Gamounonotatakai 蒲生野の戦いの位置関係図→
クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

戦いの詳細は不明なれど、この日の大きな流れとしては浅井勢が分が悪く、徐々に北方面へと撤退を開始したところ、六角義治勢が、それを追撃しつつ北進・・・

そこには、かの後藤賢豊とともに「六角の両藤」と呼ばれた六角重臣の進藤賢盛(しんどうかたもり)の奮戦もあり、逃げる浅井に追う六角で、戦場は北へ北へと進み、やがて8月13日、たどり着いた佐和山(さわやま=滋賀県彦根市佐和山町)周辺での合戦にて、さらに多くの戦死者を出してしまった浅井勢は、やむなく全軍の完全退却に至りました。

この時、六角に敗れて逃走して来た浅井の将=磯野員昌(いそのかずまさ)を匿ってくれたのが八町城(はっちょうじょう=滋賀県犬上郡豊郷町)の城主=赤田興(あかだおこる)でしたが、9月に入って、八町城内の者が六角家臣の高野瀬秀澄(たかのせひでずみ)に内通して、八町城に火を放ったのです。

しばしの休息で態勢を立て直していた浅井長政は、ここに参戦・・・高野瀬の居城である肥田城(ひだじょう=同犬上郡豊郷町)から赤田の八町城にかけての一帯で、高野瀬VS浅井+赤田+磯野連合軍の激しい戦いが行われたのでした。

結果は・・・高野瀬秀澄兄弟が討死したほか、六角本隊から派遣されていた三雲賢持(みくもかたもち)も戦死し、大きな痛手を負った六角勢は敗退する事となりました。

ご覧の通り、途中、ヤバイ場面もあったものの、永禄九年(1566年)5月の布施公雄の謀反に始まった今回の合戦は、最終的には浅井の勝利という結果で終止符が打たれたのです。

この一連の戦いは蒲生野の戦いと呼ばれます。

この戦いで、観音寺騒動から始まったの六角氏の弱体化が決定的な事を悟った六角義治は、この翌年=永禄十年(1567年)4月に弟の六角義定(よしさだ)に家督を譲る事となります。

一方の浅井長政は・・・

ちょうどこの頃に、美濃(みの=岐阜県南部)を手中に治め、陥落させた稲葉山城(いなばやまじょう)岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と改めて『天下布武(てんかふぶ)の印鑑を使い始めた織田信長(おだのぶなが)が、岐阜から京に向かう道筋にある近江に着目・・・

そう、その織田信長の妹(もしくは姪)お市(いち)の方を浅井長政が娶って、浅井×織田の同盟が結ばれるのが、永禄十年(1567年)10月の事と言われています。

さらに翌年の永禄十一年(1568年)7月に、信長は足利義昭(あしかがよしあき)と面会(10月4日参照>>)・・・翌・8月に、直接、浅井長政に会って上洛への道筋を再確認した信長(6月28日前半部分参照>>)、さらに、その翌月の9月に義昭を奉じて上洛を果たすのです(9月7日参照>>)

…で、ご存知のように、その上洛の際に抵抗した六角父子は観音寺城を追われるハメに・・・(9月13日参照>>)

もちろん、さすがの名門六角氏ですから、観音寺城を追われてもなお、まだまだ信長に抵抗する(6月4日参照>>)わけですが、

今回の蒲生野の戦いでご活躍の進藤賢盛さんも、先の観音寺騒動で六角義治を匿った蒲生賢秀さんも、結局は、この後、織田家の家臣になっちゃて

なんなら途中離脱の浅井長政(8月29日参照>>)より長く織田傘下として、いや、その後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の忠臣としても生き残っていくで、戦国の世渡りは、なかなかに難しいですね。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2)

2021年7月15日 (木)

上杉VS北条…後の河越夜戦につながる河越城の戦い

 

天文六年(1537年)7月 15日、北条氏綱武蔵河越城を攻め落とされた上杉朝定が松山城に敗走しました。

・・・・・・・・・

関東に本拠を持ちながら京都にて幕府を開いた初代室町幕府将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)が、嫡男の義詮(よしらきら)の家系に将軍職を継がせ、四男の基氏(もとうじ)を派遣して、その基氏の家系に関東支配をさせたのが鎌倉公方(かまくらくぼう)・・・

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

しかし、やがて京都の将軍と距離を置き、独自の路線を歩み始める鎌倉公方は、第6代将軍=足利義教(よしのり)と第4代公方=足利持氏(もちうじ)の時に衝突し、将軍=幕府は関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐・執事)上杉家とともに持氏を滅ぼします永享の乱:2018年2月10日参照>>)

しばらくの公方空席の後、ほとぼりが冷めた頃に幼い足利成氏(しげうじ=持氏の遺児)が鎌倉公方に任命されますが、やがて成長した成氏は父と同じ道を歩み始めて関東は大混乱・・・

そのため、幕府は新たな鎌倉公方として義教の弟である足利政知(まさとも)を関東に派遣しますが、混乱で鎌倉に入れない政知は伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)に留まり、以後、堀越公方(幕府公認)と呼ばれます。

一方、やはり混乱で鎌倉へ戻れなくなった成氏は古河(こが=茨城県古河市)本拠を置き、コチラは古河公方(無許可)を名乗ります。

そんな中、ここに来て、駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(うじちか)の右腕として台頭して来た北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時・氏親の叔父)が、延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年) に堀越公方を倒して伊豆討ち入り・10月11日参照>>)関東支配に乗り出して来ます。
 【小田原城奪取】>>
 【立河原の戦い】>>
 【相模を制覇】>>

一方の古河公方は、ただでさえヤバイ状況なのに、成氏の後を継いで2代目古河公方となった足利政氏(まさうじ)の息子同志がモメて、兄の高基(たかもと)に対抗すべく、弟の義明(よしあき)が家出独立して小弓(おゆみ=千葉市中央区)に本拠を置き、小弓公方(無許可の無許可)を名乗りはじめます(6月23日参照>>)

Houzyouuzituna300a この状況に、大永元年(1521年)2月、兄の高基は、早雲亡き後に2代目を継いでいた息子の北条氏綱(うじつな)に、自身の息子=足利晴氏(はるうじ)と氏綱の(芳春院)との結婚話を打診・・・

とうとう古河公方も北条になびきはじめた大永四年(1524年)、氏綱は、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ=関東管領家)上杉朝興(うえすぎともおき)から武蔵江戸城えどじょう=東京都千代田区)を奪ったのです(1月13日参照>>)

その後、岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市)葛西城(かさいじょう=東京都葛飾区)板橋城(いたばしじょう=東京都板橋区)などを次々と落とされ、江戸へと戻れなくなった上杉朝興は、やむなく河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に身を置く事になります。

さらに朝興は、北条に対抗すべく、これまでワチャワチャやってた同族の山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)や古河公方の高基、小弓公方の義明とも和睦し、甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)をも味方につけ、河越城を拠点として、江戸を奪回すべく、この後しばらくは、何度も北条と刃を交える事になります。

 大永六年(1526年)5月~6月には蕨城(わらびじょう=埼玉県蕨市)で、
9月には小沢城(おざわじょう=神奈川県川崎市多摩区)
享禄二年(1529年)11月に玉縄城(たまなわじょう=神奈川県鎌倉市)
翌享禄三年(1530年)の正月には世田谷城(せたがやじょう=東京都世田谷区)や江戸城周辺で合戦や焼き討ち、
6月には多摩川河畔にて激戦となり、氏綱嫡子の北条氏康(うじやす)初陣の功名を挙げたとか・・・

この間の両者の戦いは複数の史料にいくつか残るものの、それぞれの内容がまちまちでハッキリとはしないのですが、

とにもかくにも天文六年(1537年)4月27日に50歳で病死する上杉朝興が、その死に際に「氏綱とは、すでに14回に渡って戦った」と言っていた『北条記』らしいので、やはり、何度も衝突を繰り返していたのでしょう。

この時、朝興の嫡子であった上杉朝定(ともさだ)は、未だ13歳と幼く、朝興弟の朝成(ともなり)が後見人となり、おそらく二人は朝興の死を目の当たりにしながら、その遺志を継ぐ事を誓い合ったのでしょう。

…というのも、この、朝興の死から、わずか2ヶ月後の6月20日、上杉朝定と朝成は、神太寺の古城=深大寺城(じんだいじじょう=東京都調布市)を修理&整備して氏綱と対峙の姿勢を見せるのです。

これを受けた氏綱は、7月11日、配下の諸将を召集し、その軍勢を五手に分けた約7000騎を率いて、河越城から五十余町(約5km)ほど離れた入間郡三木(いるまぐんみき=埼玉県狭山市)まで出張ります。

かくして天文六年(1537年)7月 15日、上杉朝定と上杉朝成は、配下の武蔵(むさし=東京&埼玉・神奈川の一部)上野(こうずけ=群馬県)の軍勢約2000余騎で以って、北条氏綱の軍を迎え撃つ事となります。

両者入り乱れての激しい戦いとなりますが、そんな中で深入りした朝成は、不覚にも生け捕られてしまい、上杉側には約700余名の討死が出てしまいます。

この状況に朝定は、やむなく河越城を捨て、家臣の難波田憲重(なんばだ・なばたのりしげ=善銀)の守る松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)へと逃走しました。

さらに、その5日後には、その松山城を攻める氏綱・・・と、このお話は「松山城風流合戦(まつやまじょうふうりゅうがっせん)のエピソードでの難波田さんがカッコイイので、くわしく書いた2019年7月20日のページ後半部分>>でどうぞm(_ _)m
(戦いまでの経緯も書いてますので前半部分の内容が丸カブリです…スミマセン)

というわけで、ここで、河越城を手にした北条氏綱・・・城代に北条綱成(つななり)を置きました。

これにて北条氏綱は、
翌年の天文七年(1538年)には小弓公方の足利義明を倒し国府台合戦・10月7日参照>>)、さらに翌年の天文八年(1539年)11月には古河公方を継ぐ足利晴氏と娘の婚姻が成立(11月28日参照>>)関東管領並みの扱いを受ける事になるのですが・・・

その氏綱が天文十年(1541年)7月に病死し、その後を北条氏康が継いだ頃から、古河公方&北条の蜜月期間も終了となり、足利晴氏は、かの上杉朝定や上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)とつるんで、やがて彼らは一丸となって、北条に奪われた河越城を取り返しに来るわけで・・・

しかし、これを頼もしき3代目=氏康が迎え撃つ・・・これが天文十五年(1546年)4月=戦国三大奇襲に一つに数えられる河越夜戦(4月20日参照>>)という事になります。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2021年7月 6日 (火)

桶狭間での独立から約一年~徳川家康の長沢の戦い

 

永禄四年(1561年)7月6日、小原鎮吉らの守る長沢城を徳川家康が落城させました。

・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)5月19日の桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市&名古屋市緑区)の戦い(5月19日参照>>)のドサクサで、長きに渡る今川の人質生活を脱して岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)にて独立を果たした徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)
(【桶狭間の戦いでの家康】参照>>)

一方、織田信長(おだのぶなが)による桶狭間の奇襲で命を落とした今川義元(いまがわよしもと)今川家は、息子の今川氏真(うじざね)が後を継ぐも、海道一の弓取りと称された大黒柱を失った事に、これまで大大名である今川の傘下に納まっていた西三河(にしみかわ=愛知県中部)諸将たちも動揺を隠せませんでした。

しかし、そんな中でも、亡き義元から信頼され、吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市:今橋城)花沢城(はなざわじょう=静岡県焼津市)等の城代を任されていた小原鎮実(おはらしげざね)は、揺るぐことなく氏真に仕えていた今川家臣の一人でした。

そんな小原鎮実の息子(『改正三河後風土記』による)であった小原鎮吉(しげよし)が、当時、糟屋善兵衛(かすやぜんべえ)らとともに守っていたのが三河長沢城(ながさわじょう=愛知県豊川市長沢町)でした。

Tokugawaieyasu600 上記の通り、永禄三年(1560年)に独立した家康は、その直後から、この長沢城を奪うべく、配下の松平信一(まつだいらのぶかず=家康の祖父の従兄弟)石川家成(いしかわいえなり=石川数正の叔父)らに命じて、度々の攻撃を仕掛けていたのです。

そんなこんなの永禄四年(1561年)7月6日、その戦いは偶然に起こります。

この日、長沢城の近くを通過する事になった家康は、
「敵の襲撃をうけるかも知れない」
と警戒して、自軍を二手に分けて、行軍する事にします。

ところが、その時、偶然、長沢城の城内で火災が起こり、城内が騒がしくなるのですが、その様子を見て取ったのが、山下を通過中の德川の一手・・・

「すわっ!これは山南を行く、もう一手が、城に火を放ったに違いない!
 すぐに加勢せねば!」
と急ぎます。

ところが、一方の山南を行く旗本衆の一手も
「やれ!城攻めが始まったぞ!
 我らも行かねば!」
と・・・

お互いに勘違いながらも、猛烈な攻撃が、ほぼ同時に開始され、とうとう、城を落としてしまうのです。

もちろん、守る小原鎮吉らも奮戦しますが、鎮吉は家康の家臣=渡辺守綱(わたなべもりつな)によって討ち取られ、糟屋善兵衛は、やむなく城を抜け出して、今川の本拠地である駿河(するが=静岡県東部)へ向けて落ちていきました。

また、後日の今川氏真の書状によれば、この戦いに関連した合戦が、嵩山(すせ=愛知県豊橋市周辺)市場口(いちばぐち=愛知県豊田市周辺)方面でも展開されたようです。

偶然かつ史料もあやふやな長沢の戦いではありますが、この永禄四年(1561年)から、西三河における今川家の影響力が著しく低下し、徐々に西三河周辺&東三河(ひがしみかわ=愛知県東部)の諸将たちもが松平=徳川家康になびくようになっていくのが見てとれますので、ある意味ラッキーサプライズであったのかも知れません。

この後の家康は、約半年後の永禄五年(1562年)1月には、織田信長と清洲同盟(きよすどうめい)を結び(1月15日参照>>)、そのすぐ後には上ノ郷城(かみのごうじょう=愛知県蒲郡市 )襲撃して、今川領に残して来た妻子(築山殿&信康&亀姫)を取り戻(2月4日参照>>)・・・と、着々と三河での地盤を固めていく事になります。

Ieyasunagasawa
「家康と長沢の戦い位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

ところで、
そもそもの長沢城については、今川一族の関口(せきぐち)が文安年間(1444年~1449年)に構築して長沢直幸(ながさわなおゆき)が城主を務めていたのを応仁の乱の頃(1467年頃)に西三河の有力武将であった松平信光(まつだいらのぶみつ)が落とし、息子の松平親則(ちかのり)を入城させ、この親則が長沢松平家(ながさわまつだいらけ)の祖となったとされているのですが・・・

一方で、それには異説もあり、よくわかっていないですが、

今回の長沢の戦い以降は、家康の従兄弟で義弟でもある松平康忠(やすただ=母が家康の叔母で正室が家康の妹)が入城し、さらに、養子に入った家康の息子=松平忠輝(ただてる)が当主となって、やはり長沢松平家と呼ばれるようになるのですが、この方がほどなく改易となってしまうため(7月3日参照>>)わずかの間に家名が断絶してしまう事が、何とも悲しい限り・・・

以後は、長沢松平家の分家を継いだ松平正綱(まさつな)(6月22日参照>>)の家系が隆盛を誇る事になり、いつしか、長沢松平家と言えば、コチラの分家の事を指すようになっていったようです。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2021年6月30日 (水)

ジッチャンの恨みを晴らす!宇喜多直家の砥石城奪回戦

 

天文三年(1534年)6月30日、備前砥石城にて宇喜多直家の祖父=宇喜多能家が自刃しました。

本日は、その砥石城を、能家孫の宇喜多直家が奪回するまでのお話。。。

・・・・・・・・

鎌倉幕府の倒幕にも貢献し、その後の南北朝の動乱でも一貫して足利将軍家を助けた赤松則村(あかまつのりむら・円心)(4月3日参照>>)の活躍で、室町幕府政権下でも播磨(はりま=兵庫県南西部)備前(びぜん=岡山県東南部と兵庫&香川の一部)美作(みまさか=岡山県東北部)など中国地方を中心に広域の領地を持つ大きな存在であった赤松(あかまつ)・・・

しかし、その則村の4代後の赤松満祐(みつすけ)が、第6代将軍の足利義教(あしかがよしのり)暗殺した事で(6月24日参照>>)、その討伐戦で功績のあった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)にほとんどの領地を取られ、一旦は滅亡状態となりますが、その後に起こった応仁の乱(おうにんのらん)(10月22日参照>>)で赤松満祐の弟の孫にあたる赤松政則(まさのり)が、宗全と敵対する東軍の細川勝元(ほそかわかつもと)に見出されて活躍して再興を果たした後、かの嘉吉の乱で失った領地を取り戻すべく山名との戦いを繰り返していたのでした(4月7日参照>>)

そんな赤松の家臣だったのが播磨の浦上荘を本拠地とする浦上(うらがみ)氏で、この頃の当主の浦上則宗(うらがみのりむね)は赤松政則を助け、赤松氏再興に尽力した一人です。

Ukitayosiie300a さらに、その浦上氏の家臣だったのが、備前豊原荘に根を張る半商半士の土豪(どごう=その地の小豪族)宇喜多久家(うきたひさいえ)が、浦上が構築した砥石城(といしじょう=岡山県瀬戸内市)の城番を任されて以来、代々宇喜多家が、その城主を務めていました。
.

そんな中、上記の赤松VS山名の当人同士の戦いは長享二年(1488年)の英賀(あが=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)坂本城(さかもとじょう=兵庫県姫路市書写)の戦いを最後に終焉を迎えますが(4月7日参照>>)、赤松復活の象徴でもあった赤松政則が明応五年(1496年)に亡くなった事から、赤松家中に後継者争いが起こり(3月11日の真ん中あたり参照>>)、明応八年(1499年)前後に宇喜多家を継いだ宇喜多能家(よしいえ=久家の孫で直家の祖父)が城主になる頃には、赤松家中は真っ二つに分裂し、その争いに配下の浦上も宇喜多も巻き込まれていくのです。

しかも、ここまで主君赤松命だった浦上氏が、浦上則宗の死去により浦上村宗(むらむね=則宗の甥?)が継いだ文亀二年(1502年)あたりから赤松への反発心が増してきて、やがて、赤松に対して反旗をひるがえし、永正十五年(1518年)の三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)攻防戦では、見事!主君の赤松義村(よしむら=政則の娘婿)を城から追い出す事に成功します。
●【浦上松田合戦】参照>>
●【三石城攻防戦】参照>>

もちろん、これらの戦いで大いに活躍した宇喜多能家だったわけですが・・・

そんな中で、享禄四年(1531年)に起きた室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川(ほそかわ)の後継者争いである天王寺の戦い(大物崩れ)(6月8日参照>>)で、細川高国(ほそかわたかくに)側にて参戦していた浦上村宗が、その合戦で討死を遂げた事で、またもや周辺状況が変化しはじめるのです。

能家は、主君=村宗の死を受けて砥石城にて剃髪し、常玖(じょうきゅう)と号して隠遁生活を送っていましたが、

そんなこんなの天文三年(1534年)6月30日、能家に代って浦上の家政を執っていた高取山城(たかとりやまじょう=岡山県瀬戸内市邑久町)島村盛貫(しまむらもりつら=盛実)が、亡き村宗の遺命と称して砥石城を襲撃し、もはや病で歩行も困難だった能家を自刃に追い込んだと・・・

とされていましたが、実は、この話は、2年後の天文五年(1536年)もしくは天文九年(1540年)に能家の息子である宇喜多興家(おきいえ)島村盛貫の一族の息子たちとモメて、暴力沙汰となり殺害されたという事件(←この事件も本当にあったかどうか?疑わしいんですが)を受けての後世の軍記物の創作なのだそうで・・・

実際には、かの天王寺の戦いで細川高国&浦上村宗らと敵対する側で参戦していた赤松晴政(はるまさ=義村の息子)の命を受けた勢力によって、砥石城内にて殺害されたとの事。。。(経緯は違えど亡くなったという事は事実のようです)

この時、息子の興家が、幼い息子=宇喜多直家(なおいえ)を連れ、鞆の浦(とものうら=広島県福山市)へと落ちた事で、宇喜多の家督と砥石城主は、主君の浦上の命により、能家の異母弟である浮田国定(うきたくにさだ)が受け継ぐ事になりました。

これも、軍記物などでは、浮田国定が島村盛貫と組んでいて…要は、乗っ取ったみたいな話になっていたりしますが、上記の通り、能家息子の興家が砥石城を落ちてしまっているわけですので、ある意味、正統な後継であったという意見もあります。

また、一戦にも及ばず、父をみすみす殺害されたあげくに逃げ出してしまった状況となった息子の興家は、父に似ぬ不肖の子とか、暗愚の将などと言われますが、本当のところは、よくわかっていません…てか、その真偽が確かめられるほどの興家さんに関する史料が残っていないのが現実です。

とにもかくにも、ここで父の能家を失い、砥石城も叔父の浮田国定の物となってしまった興家は、息子の直家とともにしばしの放浪人生を送ったとされます。

その間、宇喜多の主君である浦上では、浦上村宗が亡くなった後に、家督を継いでいた嫡男の浦上政宗(まさむね)と、その弟=浦上宗景(むねかげ)との間で意見の食い違いがあり、両者が対立・・・おのずと、その配下の国衆たちも分裂するようになっていたわけですが・・・

Ukitanaoie300a そこに登場するのが、成長した能家の孫=宇喜多直家・・・実は、しばらくの没落の後、かつて祖父の能家が守将を務めていたと伝わる乙子城(おとごじょう=岡山県岡山市東区)にて宇喜多家の再興が許され、各地に散っていた旧臣たちが直家のもとに集まって来ていたのです。
 .

そんなこんなの天文十四年(1545年)・・・あれからも砥石城の城主を務めていた浮田国定が、毛利(もうり)へ内通しているとの情報が浦上宗景のもとに飛び込んで来ます。

くわしく調べてみると、どうやら、その情報は本当らしい・・・
そこで浦上宗景は、宇喜多直家に浮田国定への攻撃を命じたのです。

時に直家17歳・・・宗景から派遣されて来た天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)の援軍を得て、直家は砥石城を攻め立てます。

しかし、残念ながら願い叶わず・・・這う這うの体で逃げかえると、逆に、勢いづいた砥石城が乙子城を攻め立てます。

ここは何とか足軽たちの奮戦で城を守り切った直家でした。

この後も、何度も砥石城に攻撃を仕掛ける直家でしたが、その都度反撃を受けて切り崩され、足軽同士の小競り合い的な戦いが続く事になるのですが、この攻防戦に決着がつくのが・・・

天文十八年(1549年)もしくは弘治元年(1555年)か弘治二年(1556年)の事・・・

直家は、やはり宗景から派遣された天神山城の援軍と示し合わせて、砥石城に夜討ちをかけたのです。

不意を突かれた浮田国定は、瞬く間に城を乗っ取られ、やむなく城外へ逃走を図りますが、敗走する浮田を追走する宇喜多勢が討ち取り、多くの首級を挙げ、一説には国定も、この時討ち取られたとされます。

落城した砥石城は、宗景の命により同じ山並みに高取山城を持つ島村一族の島村貫阿弥(かんあみ=観阿弥:大物崩れで討死した島村弾正の子か孫で実名は宗政とも、また島村盛貫と同一人物ともされる不明な人物)に与えられ、直家は新庄山城(しんじょうやまじょう=岡山県岡山市東区:奈良部城とも)を与えられました。

そんな直家がようやく祖父の無念を晴らすのが、永禄二年(1559年)・・・この時、やはり主君の宗景の命により、沼城(ぬまじょう=岡山市東区沼:亀山城とも)を守る(しゅうと=直家の正室の父)中山勝政(なかやまかつまさ=中山信正)を攻めて討ち取った直家は、同時に高取山城と砥石城の島村貫阿弥も討ち取って、城を奪い返そうと計画します。

沼城の落城の後、主君の宗景に頼んで、島村貫阿弥を沼城に誘い出す書状を書いてもらい、貫阿弥が数人の部下だけを連れて沼城にやって来たところを待ち伏せして斬殺・・・騙し討ちにしたのです。

さらに、後から続いて駆けつけて来る島村の家臣たちも、ことごとく討ち果たし、その勢いのまま、直家自らが軍勢を率いて砥石城と高取山城へと、ほぼ同時に押しかけます。

わずかの留守兵しか残っていなかった両城は、主君の貫阿弥が討ち取られたと知るや、城内は騒然となり、そのまま降伏したのです。

かくして、直家は、ようやくジッチャンの無念を晴らし、砥石城を弟の宇喜多春家(はるいえ=忠家かも)に守らせるのでした。

これが宇喜多家による25年に渡る砥石城争奪戦・・・と言いたいところですが、今回のこの記述、ほぼ『備前軍記』に沿って書かせていただきました。

そう・・・
先にも書きましたが、軍記物とは、今で言うところの歴史小説・・・ある程度は史実に基づいてはいるものの、かなりの創作も入っており、あまり史料も無くて、その活躍ぶりがわからない興家さんは、あくまで何もできなかった愚将の如く描かれ、浦上配下として、ある程度の活躍記録が残る能家ジッチャンと、後に全国ネットに躍り出る直家をカッコ良く、しかもそこに、「ジッチャンの名に懸けて恨みを晴らす」的なドラマチックな要素が盛り込まれているわけです。

なので、おそらく事実であろう直家さんの活躍は、この後の戦い↓から?・・・という事になるかと思いますが、

かと言って、すべてが創作とも言えないし、とにかく他に史料が無いのが現実ですから、ここは直家の出世物語として、心に留めておきたい出来事だと思います。

★この後の直家は…
  ●永禄十一年(1568年)7月:金川城攻略戦>>
  ●永禄十年(1567年)7月:明善寺合戦>>
  ●天正三年(1575年)1月:高田城攻防戦>>
  ●天正三年(1575年)4月:天神山城の戦い>>
  ●天正三年(1575年)6月:松山合戦>>
  ●天正七年(1579年)2月:作州合戦>>
  ●天正八年(1580年)6月:祝山合戦>>
 でどうぞm(_ _)m
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2)

2021年6月23日 (水)

鎌倉公方分裂~堀越・古河・小弓…内紛が危機を招く

 

永正六年 (1509年)6月23日、古河公方の足利政氏と敵対していた足利高基が和睦しました。

・・・・・・・

これまでも何度か書かせていただいている通り、そもそもは関東に本拠を置きながらも京都にて幕府を開く事になった室町幕府初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自らの嫡男の足利義詮(よしあきら)に2代将軍の座を譲り、四男の足利基氏(もとうじ)に地元を治める鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東に派遣し、それぞれの家系にて、その座を世襲させていく事にしたわけですが、

その後、何年かして、更なる支配拡大を目論む鎌倉公方は独自に道を歩み始め、その独走を制止しようとする関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐約・執事)上杉家とも対立するようになって来ます。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

それは、正長二年(1429年)に第6代将軍の足利義教(よしのり)(6月24日参照>>)と第4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)の頃に激しさを増し、結局、永享十一年(1439年)に朝廷から持氏追討の綸旨(りんじ=天皇の意を受けて朝廷が発給する命令書)を受けた幕府軍によって持氏は攻められて自害に追い込まれました(永享の乱>>)

しかし、その翌年に義教が暗殺され(6月24日参照>>)、その後を継いだ第7代足利義勝(よしかつ=義教嫡男)も早世し、わずか8歳の足利義政(よしまさ=義教三男)が第8代将軍に就任した事もあり、鎌倉公方が空位のままではマズイとなって、先の永享の乱の時には未だ幼く、将軍家と鎌倉公方家との対立も理解していなかった持氏の末っ子=足利成氏(しげうじ)第5代鎌倉公方に就任しました。

とは言え、そんな幼子もやがては大人になるわけで・・・結局、父と同じく独立的な関東支配を目論むようになり、関東管領の上杉家とも対立して関東を暴れ回る中、幕府は、成氏の鎌倉公方を廃し、新たに足利政知(まさとも=義教次男・義政の兄)公方として関東に派遣しますが、戦火激しい中で政知は鎌倉に入れず、伊豆堀越(ほりごえ=静岡県伊豆の国市)を本拠地とする事になり、以後、堀越公方と呼ばれました(なので堀越が幕府公認の公方です)

一方の成氏も鎌倉には戻れず、下総古河(こが=茨城県古河市)に留まった事で、コチラは古河公方と呼ばれます(なので古河公方は自称です)

さらに、この頃から、関東管領職を代々世襲していた上杉家も、同族&家内での争い(扇谷上杉×山内上杉)が激しくなる中、明応六年(1497年)に成氏が死去(ここまでの経緯については9月30日参照>>)・・・その後を継いだのが成氏嫡男の足利政氏(まさうじ)でした。

Asikagamasauzi700a 政氏は、上杉家内の抗争において、はじめは扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)を支持していましたが、扇谷上杉家を盛り上げた執事の太田道灌(おおたどうかん=資長)が主君の上杉定正(うえすぎさだまさ)に暗殺され(7月26日参照>>)、その定正も明応三年(1494年)に死去した事を受けて扇谷上杉家に見切りをつけて山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)派に転身・・・

今度は、山内上杉家の当主=上杉顕定(あきさだ)とともに扇谷上杉家を継いだ上杉朝良(ともよし)と戦うのです。

永正元年(1504年)には、扇谷上杉朝良に味方する駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(うじちか)と、その叔父である北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時・氏親の母の兄)と戦った山内上杉顕定について、政氏も立河原(たちかわのはら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)に参陣しています。

そう・・・ここらあたりで台頭して来るのが北条早雲・・・

早雲は、すでに延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)に幕府公認の堀越公方を追放(10月11日参照>>)、明応四年(1495年)には小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取して(12月16日参照>>)そこを本拠として関東にグングン勢力をのばしつつあったのです。

「これはマズイ!」
と思ったのが、扇谷&山内の両上杉家・・・そう、同族同志でモメてる場合ではありません。

そこで、敵の敵は味方(…と思ったかどうかは知らんが)とばかりに永正二年(1505年)に両上杉家は和睦します

この頃、政氏は、弟の顕実(あきざね=以前は足利義綱)上杉顕定の養子に出して関係をさらに強化していますが・・・

ここに来て、今度は、自分とこの家内が怪しくなって来るのです。

『喜連川判鑑 (きつれがわはんがん)によれば永正三年(1506年)春、『鎌倉九代記』によれば永正四年(1507年)夏頃から、足利政氏と、その嫡男の高基(たかもと=高氏・義基)との間に不和が生じはじめたのだとか。。。

結局、高基は家出・・・奥さんの実家である宇都宮成綱(うつのみやしげつな=宇都宮氏17代当主)の下に身を寄せて永正五年(1508年)には嫡男の足利晴氏(はるうじ)をもうけます。

こんな父子の状況を憂いた上杉顕定は出家して可諄(かじゅん)と号して両者の仲介をし、永正六年 (1509年)6月23日、何とか父子は和解して、高基は古河に戻りました。

しかし、そんな上杉顕定も、翌永正七年(1510年)6月の長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)の戦いにて、越後(えちご=新潟県)の守護代であった長尾為景(ながおためかげ=越後長尾家)敗れて討死する(6月20日参照>>)、この同じ頃に再び父子は不和になり、今度の高基は、古河公方家の軍事を担っていた重臣=簗田政助(やなだまさすけ)の息子=簗田高助 (たかすけ)抱き込んで対抗します。

怒った政氏が、下野(しもつけ=栃木県)那須(なす)の者に命じて簗田高助の関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿)を攻撃させたりした事で、

この父子ケンカは、
父方に、
陸奥大館(むつおおだて=福島県いわき市)岩城常隆(いわきつねたか)
常陸(ひたち=茨城県)佐竹義舜(さたけよしきよ)など、

息子方に、
舅の宇都宮成綱、
下総(しもうさ=千葉北部・埼玉東部・茨城南西部・東京都の一部)結城政朝(ゆうきまさとも)
佐竹に対抗する同じ常陸の小田政治(おだまさはる=足利政知の落胤説あり)
などが味方し、徐々に大きな戦い(永正の乱)へと発展して行くのです。

とは言え、諸戦の状況は、少々父の分が悪い・・・

関東の諸将の多くが息子の高基を支持している事に怒り心頭の政氏は、永正九年(1512年)、古河を捨て、自身に味方してくれる小山成長(おやましげなが)を頼って、彼の祇園城(ぎおんじょう=栃木県小山市城山町・小山城)へと入り、以後は、この祇園城から関宿城までの各地にて対立抗争の戦いが繰り広げられるのです。

永正十年(1513年)4月には三浦三崎(みうらみさき=神奈川県三浦市)の要害で激しく戦うも、やはり状況は高基側が優勢・・・やむなく政氏は、永正十三年(1516年)12月には祇園城から、武蔵(むさし=東京都・埼玉・神奈川の一部)岩槻城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区)へと移動します。

しかし結局は、政氏VS高基父子の戦いは、高基優勢の形が崩される事はなく、最終的に政氏は、不利な条件を呑んでの高基との和睦を選択し、公方の座も息子に譲る事となりました。

こうして、ようやく政氏VS高基父子の戦いが収拾したかに見えた永正十四年(1517年)、今度は政氏次男の足利義明(よしあき)が、父とも兄とも対立して家を飛び出し、安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)の支援を受けて原胤清(はらたねきよ)小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)を奪い、ここを拠点とする小弓公方を自称して古河公方と対立するようになるのです。

そして案の定、この父子&兄弟ゲンカが、公方家の弱体化を加速させる事となり、やがて、皆さまご存知のように、関東は北条の治める地となってしまうわけです。

★鎌倉公方関連のその後…
 ●大永四年(1524年):北条氏綱の江戸進出>>
 ●大永六年(1526年):里見の鶴岡八幡宮の戦い>>
 ●天文七年(1538年)国府台合戦で足利義明討死>>
 ●天文八年(1539年):足利晴氏と北条氏綱の娘結婚>>
 ●天文十五年(1546年):河越夜戦で公方壊滅>>
★オマケ
 ●里見義弘と青岳尼(足利義明の娘)が結婚>>
  .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

より以前の記事一覧