2022年11月15日 (火)

奈良の平和を願って…大和国衆と赤沢長経の戦い

 

永正四年(1507年)11月15日、室町幕府の実権を握った細川澄元によって、奈良に派遣された赤沢長経が大和の国衆と戦い、周辺を焼き討ちしました。

・・・・・・・

室町幕府の足利将軍家の後継者争いを頂点に、管領家の後継者争いが加わり、それぞれに味方する全国の諸将が東西に分かれて争った応仁の乱(5月20日参照>は、当然の事ながら、その派閥に属するそれぞれの地方の国衆や土豪ら(その土地の地侍)をも巻き込んだわけですが、

Ouninnoransoukanzu2 それこそ当然の事ながら、どこもかしこもに後継者争いが勃発してるわけではなく、応仁の乱という大乱が起こったせいで、その派閥の縦社会関係から東西に分かれてしまった人たちもいるわけで・・・

そんな彼らの中には、文明九年(1477年)に応仁の乱が終わっても、未だ後継者争いに決着がつかないおエラ方が、いつまでも争い続けてる(7月12日参照>>)事にウンザリする人も出て来るわけです。

しかも、その戦いで、自分たちの土地が戦場となって荒される事は、半士半農(はんしはんのう=平時は農業やってる)の小さな国衆にとっては、むしろ迷惑なわけで・・・

歴史教科書でご存知の文明十七年(1485年)の山城の国一揆などは、まさにソレです(12月11日参照>>)

応仁の乱が終わっても争いを止めようとしない畠山政長(はたけやままさなが=東軍)畠山義就(よしなり=西軍)(12月12日参照>>)、応仁の乱最中には東西に分かれていた山城(やましろ=京都府南部)地域の国衆や土豪に農民が加わって一致団結し、

「もう戦いはヨソでやってくれ!」
「両畠山家は山城に入ってくんな!」
蜂起した一揆なわけです。

しかし残念ながら、この山城の国一揆は、わずか8年の自治で終焉を迎えてしまいます。

それは、京都の中央政府(京方)室町幕府・・・武士政権である彼らにとって、この日本に自分たちが干渉できない自治の土地があってはならないわけで・・・

結局、国衆の中でも京方についていた古市澄胤(ふるいちちょういん)守護代(しゅごだい=副知事)に任命して潰しにかかり、山城の国一揆は明応二年(1493年)に大国に呑み込まれる形となったのです(9月17日参照>>)

この山城の国衆と同じ憂き目に遭ったのが、今回の大和(やまと=奈良県)の国衆でした。

ここ大和は、東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)興福寺(こうふくじ=同奈良市)春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの宗教勢力が強く、鎌倉時代から室町時代にかけての武士政権も、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)が置く事ができなかった中で、

戦国時代に入ると、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが力を持ち始め、興福寺に属する『衆徒』筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』越智(おち)十市(とおち)・・・そこに箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称される国衆たち以下、大小モロモロが群雄割拠する場所になっていたのです。

それこそ、応仁の乱以前から彼らは畠山同士の戦いの影響を受け、東西に分かれて、そこに動員されていたわけです(10月16日【大和高田の戦い】参照>>)が、

例の如く、乱が終わってもコチラは終らない畠山家の争いのおかげで、
文明十一年(1479年)の【郡山中城の戦い】>>
明応八年(1499年)の【壺坂の戦い】>>
などなど。。。

そんなこんなの明応八年(1499年)10月27日、他家の争いに巻き込まれて領地を荒される事にイヤ気がさした筒井と越智の間にて和議が結ばれた事をキッカケに、大和の国衆は一団となって
「河内(かわち=大阪府南部・守護が畠山)の合戦を大和に持ち込むな」
立ち上がったわけです。

しかし…そこに、明応二年(1493年)に明応の政変(めいおうのせいへん)(4月22日参照>>)というクーデターを決行して将軍を足利義稙(あしかがよしたね=10代将軍)から、自身が推す足利義澄(よしずみ=11代将軍)に交代させ、

何なら将軍よりも幕府の実権った事実上のトップである管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の嫡男)「待った」をかけて来たのです。

まさに山城の国一揆を同様、守護のいない大和で、国衆に一致団結されちゃぁマズイ
「それに、まだまだ河内の争乱には彼らの力が必要やん」
(と言っても、政元は山城の時はちと協力的だったんですが…)

とばかりに、同じ年の12月、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=澤蔵軒宗益)大和に派遣して秋篠城(あきしのじょう=奈良県奈良市秋篠町)を陥落させて法華寺(ほっけじ=奈良県奈良市法華寺町)喜光寺(きこうじ=奈良県奈良市菅原町:菅原寺)を焼き、秋篠氏に味方した筒井らもろともバラバラ状態に・・・(12月18日参照>>)

その後も、度々、京方のスキを狙ってゲリラ作戦を展開するも、またもや赤沢朝経らによって潰され(9月21日【井戸城・古市城の戦い】参照>>)・・・

と繰り返される中、永正四年(1507年)6月、実子がいなかった細川政元が、自身の後継者争いの関係で暗殺(9月21日参照>>)されたうえ、その急報を得て戦場から戻ろうとした赤沢朝経もが反対分子の一揆によって命を落とすという、大和国衆にとって逆転チャンスが訪れたのです。

しかし、さすがに手を緩めぬ京方・・・
細川政元の死から、わずか2ヶ月後の8月に、3人の養子による後継者争いの中で、ライバルの細川澄之(すみゆき)を倒して(8月1日【百々橋の戦い】参照>>)、幕府の実権を握った細川澄元(すみもと)が、赤沢朝経の養子=赤沢長経(ながつね=実父は不明)を大和に送り込んで来るのです。

もちろん、大和の国衆たちは、一致団結して、力の限りの防戦をするのですが、なんせ相手は幕府=中央政府ですから、そんな半士半農の小さな彼らの防衛能力にも限りがあるという物・・・

危険を感じた越智家教(おちいえのり=越智氏当主)は、自ら軍を率いて筒井(つつい=奈良県大和郡山市筒井町)まで進出し、協力要請を受けた河内の国衆も生駒(いこま=奈良県生駒市付近)まで出張って睨みを効かせました。

対する赤沢軍は、先を急がず祝園(ほうその=京都府相楽郡精華町祝園)に布陣して様子うかがいます。

Hannyazi800そんな中、

静寂を破って合戦が始まったのは10月1日でした。

一進一退をくりかえす戦いは翌日も続き、

3日には木津川(きづがわ)を渡った赤沢軍が般若寺(はんにゃじ=奈良県奈良市般若寺町)に殺到しますが、迎え撃つ大和国衆が早鐘をうって急を知らせ、集まった者たちによって必死の抵抗を試み、最初のこの戦いでは決着がつきませんでした。

次に起こった10月6日の合戦では、結集した大和国衆が木津(きづ=京都府木津川市付近)に撃って出るも、赤沢軍の反撃に遭い、100人余りが討死・・・

大和の北口を守っていた十市遠治(とおちとおはる=十市当主)箸尾衆らとともに救出に向かって、敵将の内堀次郎左衛門(うちほりじろうざえもん)を討ち取り、翌日には、その首を宿院辻(しゅくいんのつじ=奈良県奈良市宿院町)にさらして、自らの士気をアピールします。

しかし10月18日には、すでに般若寺を占拠していた赤沢軍が、出陣するやいなや東大寺を奇襲し、ここを守っていた筒井順賢(つついじゅんけん=筒井氏当主・筒井順慶の叔父)をはじめとする大和国衆は、不意を突かれて総崩れとなり、やむなく撤退・・・

時を見て挽回を図るべく、大和国衆らは、
越智&布施(ふせ)吉野(よしの=奈良県吉野郡)へ、
筒井&十市は河内へ、
箸尾は(さかい=大阪府堺市)へ…
と、それぞれ落ち延びていったのです。

居残った大和国衆は国一揆の形をとって、なおもゲリラ戦を展開して巻き返しを計りますが、

永正四年(1507年)11月15日には、赤沢軍による各地への焼き討ちが展開され、これまでの戦いで焼け残っていた場所を、ことごとく潰すように火が放たれ、大和一帯は焦土と化したのでした。

こうして赤沢軍に支配される事になった大和は、しばらくの間、静かで落ち着いた様子に見えましたが、それはうわべだけ・・・そこかしこで小さなゲリラ戦が繰り返され、翌・永正五年(1508年)になっても、国衆による大和奪回活動が止む事はありませんでした。

しかし、そんなこんなの永正五年(1508年)8月・・・

と、実は、大和国衆による上記のような合戦が繰り広げられている中、中央政府の状況が大きく変わりつつあったのです。

亡き細川政元が行った明応の政変で追放された足利義稙が、ここに来て西国の雄=大内義興(おおうちよしおき)の援助を受けて上洛をうかがい、現役の足利義澄との間に、またもや将軍の座を争う様相を呈して来たわけですが、

この状況に、上記の細川政元の後継を巡って、

最初は、細川澄之VS細川澄元の戦いで、澄元の味方となって勝利に貢献した3番目の養子の細川高国(たかくに)が、この大内&足利義稙派について、コチラの管領家も、またもや後継者争いの匂いプンプン・・・

…で、澄元配下の赤沢長経は、当然、大内&足利義稙派の敵!という事になり、この8月に河内にて細川高国と戦うのですが、

結果は敗北・・・高国に敗れた赤沢長経は、8月2日に河内で斬首となったのでした。

また、赤沢軍が大和に入って以降、京方に合力していた事で、事実上の大和の支配者となっていた古市澄胤も、この同じ負け戦にて自害した事で、

結果的に、大和に滞在していた細川澄元&赤沢配下の軍が、すべて退去していったのです。

ここに、ようやく、大和の地が国衆の手に戻りました。

良かった!良かった!
と言いたいところですが。

やっぱり、まだまだ世は戦国・・・なかなか、その縦社会の縁を切って歩んでいく事は難しく・・・

結局、天文元年(1532年)には、次世代の大和の国衆が、天下を揺るがす天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)巻き込まれる事になるのですが、そのお話は7月17日の【天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆】のページ>>でどうぞm(_ _)m

ちなみに、
同じ応仁の乱で東西に分かれた戦った富樫(とがし)の後継者争いに端を発する加賀一向一揆ですが、

コチラは縦社会というよりは宗教絡みなので100年続く事になります・・・くわしくは6月9日のページ>>で。。。
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2022年10月19日 (水)

畠山内紛に翻弄される奈良の戦国2~十市VS越智の壺坂の戦い

 

明応六年(1497年)10月19日、大和の地にて畠山尚順を支持する十市遠治が、壷阪寺に籠る畠山義豊派の越智家栄を攻撃しました。

・・・・・・・・

奈良時代から、東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)興福寺(こうふくじ=同奈良市)、そして春日大社(かすがたいしゃ=同奈良市)などの教勢力が強い場所だった大和(やまと=奈良県)地方では、鎌倉や室町の武士政権でも、この地にまともな守護(しゅご=幕府が派遣する県知事)が置く事ができず

やがて戦国時代に入ると、そんな寺社から荘園の管理等を任されていた者たちが、(こくじん=地侍)土豪(どごう=半士半農の地侍)として群雄割拠する事になるのですが、

あの応仁の乱で、東西に分かれて家督争いをした管領家(かんれいけ=将軍の補佐役を輩出する家柄)畠山政長(はたけやままさなが=東軍)と従兄弟の畠山義就(よしなり=西軍)(1月17日参照>>)応仁の乱が終結しても戦いを止める事無く(7月12日参照>>)、彼らの領地である河内(かわち=大阪府南部)紀伊(きい=和歌山県)山城(やましろ=京都府南部)などで争い続けたため、その影響を受ける大和の土豪たちは、それぞれに味方して火花を散らしていました。

先日の大和郡山中城(こおりやまなかじょう=奈良県大和郡山市)の戦い(10月12日参照>>)から約20年・・・

時代は、それぞれの息子=畠山尚順(ひさのぶ・ ひさより=政長の息子)畠山義豊(よしとよ=義就の息子)明応六年(1497年)頃になっても、未だ戦乱に明け暮れていて、それが、ここに来ても大和の諸将へ、深刻な影響を与えていたわけです。

この明応六年(1497年)の10月に、畠山義豊の拠る河内高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市古市)を落として士気あがる畠山尚順に同調する尚順派の十市遠治(とおちとおはる)は、

Dscn1581at600 10月7日、義豊派の越智家栄(おちいえひで)のお膝元である越智郷(おちごう=奈良県高市郡高取町周辺)に攻め込み、周辺をことごとく焼き払いました。

翌8日にも再び越智郷に侵入し、周辺の寺社を焼いた後、少し離れた岡寺(おかでら=奈良県高市郡明日香村)に本陣を置き、長期戦の構えです。

Yamatotubosaka  大和の戦国位置関係図
←クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

これに対抗する越智家栄は、自身が関所を設けている壺坂峠(つぼさかとうげ=竜門山地を越える峠の一つ)の近くの壷阪寺(つぼさかでら=奈良県高市郡高取町壺阪:南法華寺)の敷地内にあった館に、約700名が立て籠もって十市方に抵抗します。

この戦いで越智家の勇士=鳥屋吉宗(とりや・とやよしむね)父子が討死してしまいました。

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♪子ヲ思フ 焼野ノ雉子(きぎし) ホロホロト
 涙モ越智ノ 鳥屋啼(なく)ラン ♪(『畠山記』より)

それでも踏ん張る越智衆でしたが、やがて「形勢不利」と見た者が、一人また一人と脱出を試みるようになり、

いつしか、籠城組は越智一族を含む約300名ほどに・・・しかも、そのうちの約200名が女子供でした。

そんな中、徐々に枯渇していく兵糧・・・やがて16日には、食物類が尽きてしまいます。

それでも越智衆は諦める事無く、十市衆が総攻めを仕掛けて来ても、雄叫びを挙げて応戦し、勇敢に戦い続けるのですが、

明応六年(1497年)10月19日、今回の壺坂の戦いにおける最大の激戦が展開され、双方に多くの死傷者が出るとともに、壷阪寺の堂塔のほとんどが焼失・・・

この時、三重塔は奇跡的に類焼を免れたと言います。

やがて、最大合戦から4日過ぎた10月23日、畠山尚順が大軍を率いて十市衆の援軍としてやって来ます。

…と言っても、本陣を置いたのは壷坂から離れた万歳(ばんざい=奈良県大和高田市市場)という場所・・・しかし、ここは越智衆の本拠である越智城(おちじょう=奈良県高市郡高取町越智)とは約7kmほどしか離れておらず、今回の壷坂へも、行こうと思えば半日ほどで駆けつけられます。

なんせ、畠山尚順にとっては敵は越智だけではありませんから、なるべく、全域を見据える場所に陣を置きたかったのでしょう。

とは言え、いつでも来られるような場所に大軍を置かれてしまった越智家栄・・・

しかも、籠城組はもはや疲れがピーク・・・いや、ピークなんかとっくに越えちゃってる疲弊ぶり。

「もはや!これまで…」
を悟った越智家栄は、やむなく門を開き、館の衆とともに吉野山(よしのやま)方面へと逃げていったのでした。

その後、寄せ手の十市衆は、周辺の清水谷(しみずたに)に火を放って(とき)の声を挙げ、集落から立ち上る煙に勝利を味わったと言います。

両畠山家のイザコザに巻き込まれて戦闘ばかり繰り返す事になる大和の土豪たちが願った平和は、まだまだ遠く・・・

疲弊した大和衆が和睦を話し合うも、それに反対する中央政府が、大和に侵攻するのは、この戦いから2年後の明応八年(1499年)の事でした(12月18日参照>>)
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2022年10月 4日 (火)

武田信虎が武田家統一~勝山城の戦い

 

永正五年(1508年)10月4日、武田信虎が叔父の武田信恵父子らを勝山城に攻め滅ぼし、武田宗家を統一しました。

・・・・・・・・

平安から鎌倉時代の甲斐源氏(かいげんじ)武田信義(たけだのぶよし)に始まる甲斐武田氏は、室町時代においても、第7代当主の武田信武(のぶたけ)鎌倉討幕に貢献した武功により、

甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事)を任されていた名門でしたが、10代当主の武田信満(のぶみつ)が、応永二十三年(1416年)の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん=上杉禅秀による鎌倉公方への反乱)に関わった事で失脚したため、国内が守護不在の無法状態となっていました。

そのため、事実上、国内を有力国衆(地元の武士)守護代(しゅごだい=副知事)跡部(あとべ)に牛耳られる形となっていたのを、

信満の息子で第11代当主の武田信重(のぶしげ)結城合戦(ゆうきがっせん)(4月16日参照>>)功績を挙げた事で何とか再興の糸口をつかみ、孫の第13代当主=武田信昌(のぶまさ)跡部を排除したものの、

まだまだ甲斐国内には穴山(あなやま)栗原(くりはら)大井(おおい)など有力国衆が勢力を誇っていたのです。

しかも、そんな中で武田が内部分裂・・・

第14代当主の武田信縄(たけだのぶつな)と、その弟の油川信恵(あぶらかわのぶよし・のぶさと=武田信恵)が、主導権を巡って争う、世に言う武田内訌(ないこう=内部の戦い)が勃発するのです。 

身内同士で争ってる場合やないやろ!と思う中、

最初の頃の明応元年(1492年)こそ、市川(いちかわ=山梨県西八代郡)の戦いの勝利で油川信恵が優勢に立つ(7月22日参照>>)ものの、明応三年(1494年)3月の合戦にて信縄が勝利した後は、おおむね信縄方が優勢となっていましたが、

この間にも、この混乱を好機とみた駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(いまがわうじちか)伊豆(いず)北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢宗瑞)などに、度々、甲斐への侵攻を許してしまっていました。

しかも、ご存知のように、明応七年(1498年)には明応の大地震(8月25日の前半部分参照>>)があり、これには甲斐も大きな被害を受けたのです。

これを機に、信恵側についていた父=信昌は、信縄と和睦して、何とか状況を好転させようとしますが、兄弟の対立が止む事はなく・・・

やがて永正二年(1505年)に、その信昌が病気で亡くなって、兄弟の争いは、ますます過激に・・・

Takedanobutora500aそんな中、その父の後を追うかように、1年5ヶ月後の永正四年(1507年)2月に信縄が病死してしまい、

両者の戦いはそのまま、わずか14歳で家督を継ぐ事になった信縄の息子=武田信虎(のぶとら=この頃に信直から改名?)に受け継がれる事になったわけです。

当然、この信縄の死は、ここのところ負け気味で、やや低迷していた信恵派を勇気づける事となります。

かくして永正五年(1508年)10月4日、居城の勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市上曾根)において武田信恵は、甥の武田信虎にと戦うのです。

信恵派に同調するのは、
信恵の同母弟とされる岩手縄美(いわてつなみつ・つなよし)
母方の叔父である小山田弥太郎(おやまだやたろう=小山田信隆?)
家臣の栗原昌種(くりはらまさたね)
さらに上条(かみじょう)工藤(くどう)河村(かわむら)といった有力国衆をも味方についていました。

ところが・・・です。

この10月4日の戦いに、信虎は見事!勝利します。

史料が少なく、戦いの詳細については、くわしくご紹介できないのですが、

「此年十月四日武田八郎殿同子息武田弥九郎殿珍宝丸打レサセ玉フ」『勝山記』
「十月四日油川彦八郎ト四郎生害」『高白斎記』
とあり、
一蓮寺(いちれんじ=甲府市太田町)の過去帳にも
「永正五年十月四日合戦…武田彦八郎殿 栗原惣二郎 武田四郎殿 河村左衛門尉 武田弥九郎殿 同清九郎 ヲチンホ(孫の珍宝丸の事)
とある事から、

この日に、信恵だけでなく、その息子や孫までが、ことごとく戦死した事は確かなようです。(勝山合戦)

これにて、約20年間に渡って繰り広げられた武田のテッペンを争う戦いに終止符が打たれ、信虎は武田家宗家としての地位を確立する事になりました。

こうして、肝心の信恵と、その血筋が亡くなってしまった事は、信恵派にとっては大きなダメージです。

それでも、生き残った信恵派の小山田弥太郎は、2か月後の12月5日に信虎を攻めますが、その日の深夜に奇襲攻撃を受けて敗れ、小山田弥太郎は戦死・・・(坊ヶ峰の戦い)

弥太郎とともに信虎と戦った小山田弾正(だんじょう=平三)と工藤らは、北条早雲を頼って韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市韮山)に逃げ込みますが、

同月24日の戦いで、その小山田弾正ら逃走メンバーも討ち取られたとか・・・
(ただし小山田弾正に関しては天文四年8月22日山中の戦い>>での死亡の説が有力)

とは言え、小山田弥太郎が戦死したとて、家督は息子の小山田信有(のぶあり=涼苑)が継ぎ、小山田氏自身は甲斐国東部の郡内地方(山梨県都留郡一帯)未だ健在の状況でした。

そこで、勢いに乗った信虎は、翌永正六年(1509年)秋に、都留郡(つるぐん=山梨県大月市・上野原市・都留市・富士吉田市など)進軍し、周辺を火の海にした後、12月にも侵攻し、この時は、(詳細は不明なれど)小山田配下の有力家臣が多く戦死しているのが残る史料で見てとれます。

さらに信虎の郡内乱入は、翌永正七年(1510年)の春まで続きますが、どうやら、このあたりで小山田の力は尽きたか?・・・

小山田信有が武田信虎の妹を娶る=婚姻関係を結ぶ事で、両者の間に和睦が成立します。

…と言っても、これまでのような、
信虎の国中地方(甲府盆地が中心の山梨県中西部)に対する小山田の郡内地方という地域独立型の支配な感じは影をひそめ、完全なる従属=武田氏の有力家臣という形で小山田氏は生き残っていく事になります。

本日、一連の流れとして書かせていただいたように、この小山田氏の一件は、信虎と信恵の武田家内のトップ争いの延長上にある出来事でありますが、

一方で、この先続く、武田信虎による甲斐統一の始めの1ページでもあります。

そうです。
日付の関係上、お話が前後してしまいましたが、今回の出来事は、先週=9月28日万力(まんりき=山梨県山梨市万力)の戦い(9月28日参照>>)へと続いていく事になるわけです。

今川氏親を相手に、小山田さん、武田の家臣として大活躍です(^o^)
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2022年9月28日 (水)

今川氏親の甲斐侵攻~守る武田信虎…万力の戦い

 

永正十三年(1516年)9月28日、甲斐統一を目指す武田信虎が、甲斐に侵攻して来た今川氏親勢と戦った万力の戦いがありました。

・・・・・・・・

武田家は、戦国武将の中では指折りの由緒正しき御家柄・・・

「鎌倉殿の13人」八嶋智人さん演じる武田信義(たけだのぶよし)甲斐源氏(かいげんじ)の鎌倉時代から、続く室町時代でも甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事)を任されていたエリートだったわけですが、10代当主の武田信満(のぶみつ)が、応永二十三年(1416年)の上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん=上杉禅秀による鎌倉公方への反乱)に関わった事で失脚したため、

Takedanobutora500a 国内が守護不在の無法状態になるわ(7月22日参照>>)武田家同士でモメるわ…していたのを、永正五年(1508年)に武田宗家をまとめたのが第15代当主の武田信虎(のぶとら)でした。

ただ、武田宗家を統一したとは言え、長らく守護不在状態が続いた甲斐では、河内地方(山梨県西八代郡&南巨摩郡一帯)穴山氏(あなやまし)郡内地方(山梨県都留郡一帯)小山田氏(おやまだし)らなど、各地域の国衆がそれぞれ力を持ち、守護そっちのけで互いに侵攻を繰り返す戦乱状態だったのです。

武田宗家を背負った信虎としては、今度は、それらを一つ一つ傘下に収めていかなくては甲斐統一とはいかないわけで・・・

永正六年(1509年)には、都留郡(つるぐん=山梨県大月市・上野原市・都留市・富士吉田市など)に侵攻して、小山田信有(おやまだのぶあり)を従属させた信虎でしたが(10月4日参照>>)、 一方でゴチャゴチャやってる間に、駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(いまがわうじちか)が甲斐へと侵攻・・・

穴山氏当主の穴山信風(あなやまのぶかぜ)や西部の国衆である大井信達(おおいのぶさと)大井信業(のぶなり)父子が、今川の傘下となってしまう事態になります。

そこで信虎は、永正十二年(1515年)10月、小山田信有とともに大井信達の富田城(とだじょう=山梨県南アルプス市戸田)を包囲します。

大井信達からの救援要請を受けた今川は、早速、配下の兵=2000余を甲斐に送り込み、まずは、駿河と甲斐を結ぶ、すべての道を封鎖した後、勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市上曾根)吉田城(よしだじょう=山梨県富士吉田市:吉田山城)占拠させ、ここを拠点に、周辺各地へのゲリラ的襲撃を繰り返していくのです。

それは、年が明けた永正十三年(1516年)も変わらず続けられますが、

当然、そのまま黙ってはいない信虎は、 永正十三年(1516年)9月28日、信虎の本拠である川田館(かわだやかた=山梨県甲府市川田町)に近い万力(まんりき=山梨県山梨市万力)において今川勢とぶつかります。

この時の戦いの火の手は、八幡(やわた=山梨県東山梨郡)大井俣窪八幡神社(おおいまたくぼはちまんじんじゃ=山梨県山梨市)松本(まつもと=山梨県笛吹市石和町)大蔵経寺(だいぞうきょうじ=山梨県笛吹市石和町)右左口(うばぐち=山梨県甲府市南部)円楽寺(えんらくじ=山梨県甲府市右左口町)などを焼き尽くし、

自軍に多くの戦死者を出した武田信虎は、やむなく恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市塩山小屋敷)へと逃れて身を隠したまま、約1ヶ月ほど自陣には戻れなかったというほどの敗北を喫してしまったのです。

しかし、このまま沈んでしまわないのが信虎のスゴイとこ・・・

同年の暮れ、小山田らを吉田城の攻略に向かわせ、年が明けた永正十四年(1517年)正月12日、吉田城の奪回に成功するのです(1月12日参照>>)

しかも、この頃になると、今川方に属していた幾人かの国衆が、信虎の懐柔作戦に応じて寝返ってくれた事で、残った勝山城の今川勢は孤立してしまいます。

というのも、実はこの時、今川氏親の甲斐出兵を好機と見た三河(みかわ=愛知県東部)吉良(きら)の家臣=大河内貞綱(おおこうちさだつな)尾張(おわり=愛知県西部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)の守護である斯波義達(しばよしたつ)と組んで、今川の配下となった飯尾乗連(いのおのりつら=もしくは父の飯尾賢連)曳馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区:引間城とも後の浜松城)攻撃し、城を占拠してしまっていたのです。

甲斐と遠江の両面と戦う事になった今川氏親・・・どうやら、彼ににとっては、甲斐よりも遠江優先?
…というよりは、旗色が悪くなって来た甲斐にてこれ以上の侵攻を続けるより、配下となってた遠江を奪回する方を優先したのか?

とにもかくにも、孤立した勝山城含め、ここは一旦、甲斐から退く事として、連歌師(れんがし=長短句を複数人で交互に詠むプロ)宗長(そうちょう)を使者に立てて甲斐へとよこし、信虎との和睦を提案して来たのです。

宗長との和睦交渉は、かの吉田城奪還から半月後の1月28日から約50日間に渡って行われ、3月2日、ようやく、今川と武田の和議が成立し、勝山城に拠っていた2000余の今川勢は駿河へと帰国しました。

と言っても、これは、今川氏親にとって、あくまで勝山城に籠っていた今川勢を撤退させるための和睦であって、富士山麓など別方面では、まだまだ小競り合いが続いています。

とは言え、信虎ととりあえずの和睦した今川氏親は、この6月に曳馬城に向かい、城を包囲・・・3ヶ月の籠城戦の後、兵糧が枯渇した8月に入った頃に大河内貞綱が自刃した事で斯波義達が降伏し、曳馬城は、再び今川の傘下となっています(6月21日の後半部分参照>>)

ちなみに、今回の万力の戦いの根本原因とも言える大井信達・・・

この流れから、徐々に今川の勢力が甲斐から離れていったため、ほどなく(永正14年~17年頃と思われる)大井信達も武田信虎と和睦し、その証しとして、自身の娘を信虎に嫁がせる事に・・・

この女性が大井の方(おおいのかた=大井夫人)と呼ばれる信虎の正室で、あの武田信玄(しんげん)信繁(のぶしげ)信廉(のぶかど)という三兄弟の生母となる人ですが・・・

ちなみのちなみ、
信虎は、この後の大永元年(1521年)、甲斐統一を成し遂げる事になる 飯田河原の戦い上条河原の戦い(山梨県甲斐市)の陣中にて、大井の方の出産=嫡男(信玄)の誕生を知る事になりますが、そのお話は10月16日のページでどうぞ>>
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2022年8月24日 (水)

遠藤盛数VS東常慶の東殿山城の戦い~城下町・郡上八幡誕生物語

 

永禄二年(1559年)8月24日、遠藤盛数が東常慶を攻めた兄の弔い合戦である東殿山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・

本日の主役=東常慶(とうつねよし)は、今年の大河ドラマ「鎌倉殿13人」で、お爺ちゃんチームの一人として活躍の千葉常胤(ちばつねたね=岡本信人さんの役です)の子孫で、元の領地の下総(しもうさ=千葉)から美濃(みの=岐阜県南部)へと移り住んだ分家の血筋

この戦国時代は、篠脇城(しのわきじょう=岐阜県郡上市大和町牧)を拠点に、美濃の郡上(ぐじょう=岐阜県郡上市&下呂市)一帯を治める武将で、かつて、斎藤妙椿(さいとうみょうちん)から和歌で領地を取り戻した逸話(5月12日参照>>)が有名な風流人=東常緑(つねより)にあたります。

ここのところは、新たに東殿山城(とうどやまじょう=岐阜県郡上市八幡町・赤谷山城とも)を築き、篠脇城から本拠を移して、軍事の立て直しを図っておりました。

一方、もう一人の主役である遠藤盛数(えんどうもりかず)遠藤氏は、木越城(きごえじょう=岐阜県郡上市大和町島倉通)を拠点にした東氏の重臣で、千葉から引っ越して来た時からの古参でした。

常に一心同体の間柄の両者は、東氏に抵抗して来た和田一族を滅ぼしたり越前(えちぜん=福井県東部)から南下して来た朝倉孝景(あさくらたかかげ)撃退するなど(9月3日参照>>)度々、見事なタッグを組んで戦国を乗り切って来ていたのです。

しかも、遠藤盛数の奧さんは東常慶の娘=つまり東常慶にとって、遠藤盛数は頼もしい娘婿でもあったわけです。

ちなみに、この遠藤盛数の娘が、あの内助の功で有名山内一豊(やまうちかずとよ)の妻=見性院(けんしょういん)さん(12月4日参照>>)だとも言われています(諸説あり)

とは言え、東常慶には、一つ困った事が・・・それは、自身の息子である常堯(つねたけ)の事。。。

実は、息子の常堯は、その気性が荒く粗暴で、近所でも評判最悪のダメ息子だったのです。

なので、東常慶は遠藤盛数を婿養子として東家に迎え、自身の後継ぎとしようと考えていたとか・・・(一説には、すでに弘治年間(1555年~1558年)に家督を譲っていた話も…)

しかし、そんなボンクラ息子でも、年頃になれば
「身を固めてほしい」
と思うのが親の常・・・

なんせ、この令和と違って
「結婚だけが幸せじゃ無いのよ」
「独身貴族しか勝たん!」
「結婚しても子供は欲しくないかも…」
てな多様な人生観は無い時代ですから・・・

そこで東常慶は、遠藤盛数の兄である遠藤胤縁(たねより)の娘が、ちょうど良いお年頃なので、
「息子の嫁に来てチョーダイ」
と胤縁に打診します。

ところが胤縁は、
「あんなDV案件のボンクラに、ウチの可愛い娘をやれるかい!」
と、一蹴し、

「ボヤボヤして押し切られたらヤバイ」
とばかりに、そそくさと娘を、畑佐備後守(はたさびんごのかみ)の息子=六郎右衛門(ろくろうえもん)に嫁がせたのです。

これに
「面目を潰された!」
と激怒する東常慶。。。

永禄二年(1559年)8月1日に、遠藤胤縁を東殿山城に誘い出し、登城して来た彼を、家臣に命じて鉄砲で射殺してしまいます。

この一報を聞いた遠藤盛数・・・ここ最近は、郡上の南端に刈安城 (かりやすじょう=岐阜県郡上市美並町白山)を構築し、
「なんなら東氏に取って代わってやる」
てな野望も湧き始めていた盛数は、

早速、亡き兄の長男である遠藤胤俊(たねとし)を伴って、兄の弔い合戦に挑みます。

Guzyouhatimantoudoyamazyou 東殿山城の戦い・位置関係図→
クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

8月14日、味方を募って出陣した遠藤盛数らは、東殿山城から吉田川(よしだがわ)を挟んだ八幡山山頂に布陣し、ここから東殿山城に向けて、連日の攻撃を仕掛けます。

この時、和良村(わらむら=現在の岐阜県郡上市和良町付近) や気良郷(けらごう=現在の岐阜県郡上市明宝気良付近)など、一部の郷士は東常慶&常堯父子に味方しましたが、粥川氏(かゆかわし)餌取氏(えどり氏)をはじめとする、それ以外のほとんどの郡上の諸士は遠藤盛数側に味方・・・

なんなら飛騨(ひだ=岐阜県北部)から姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=斎藤道三の娘婿・三木頼綱)も援軍に駆け付けた…とかで、数的には遠藤勢が、かなり優勢な状況でした。

とは言え東殿山城は険しい場所に建つ要害で、数の差のワリには、なかなかな苦戦を強いられ、小競り合いが何日も続きます。

かくして、出陣から10日が経った永禄二年(1559年)8月24日、業を煮やした遠藤盛数は、この日に決着をつけるべく総攻撃を仕掛け、力攻めの末、東殿山城を攻略したのです。

東常慶は、合戦中に討死・・・息子の常堯は、妻の父親(…って、結婚しとんのかい!)である帰雲城(かえりくもじょう=岐阜県大野郡白川村)内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)を頼って飛騨へと逃走しますが、

その後、天正十三年(1586年)11月29日の天正大地震の際に崩れた帰雲城の下敷きになって亡くなったと言います。

一方、勝利した遠藤盛数は、戦勝の記念の地である陣地=八幡山の山上に城を築きます。

ご存知!
この後、江戸時代を通じて城下町として栄える通称=郡上八幡(ぐじょうはちまん=岐阜県郡上市八幡町)のシンボルとなる八幡城(はちまんじょう)です。
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2022年8月 3日 (水)

家康家臣「岡崎衆」の活躍~蟹江七本槍

 

弘治元年(1555年)8月3日 、今川義元配下の岡崎衆が、織田方の蟹江城を落とた蟹江城の戦いがありました。

・・・・・・・・

蟹江城(かにえじょう=愛知県海部郡蟹江町)は、
事実上の鎌倉幕府最後の執権(実際にはあと3人?執権がいる)となる北条高時(ほうじょうたかとき)(5月22日参照>>)の息子で、幕府滅亡後に中先代の乱(なかせんだいのらん)(7月23日参照>>)を引き起こす北条時行(ときゆき)の孫だとされる北条時任(ときとう)が永享年間(1429年 ~1440年)に築いたと言います。

とは言え、蟹江城と言えば、
何と言っても、徳川家康(とくがわいえやす)豊臣秀吉(とよとみひでよし)唯一の直接対決となった小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市など)の戦い(11月16日参照>>)の舞台の一つ(6月15日参照>>)として有名ですが、

今回のお話は、それより30年ほど前の弘治元年(1555年)にあった蟹江城の攻防のお話です。

このころの徳川家康(幼名:竹千代→松平元康ですが、ややこしいので家康さんで統一します)は、今川の人質生活状態でした。

それは・・・
駿河&遠江(するが&とおとうみ=静岡県)今川尾張(おわり=愛知県西部)織田に挟まれつつ奮戦していた祖父の松平清康(まつだいらきよやす)森山崩れ(12月5日参照>>)で亡くなった後に、家督を継いだ息子の松平広忠(ひろただ=つまり家康の父)は、放浪の末に何とか岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)に復帰するも(8月27日参照>>)弱小ゆえに戦国の動乱では分が悪く、やむなく今川義元(いまがわよしもと)長男=家康を人質に出して、大大名の今川の後ろ盾を得る事に・・・

ところが、今川へ行くはずだった家康が、敵陣である織田信秀(おだのぶひで=信長の父)に奪われてしまう(8月2日参照>>)中、天文十八年(1549年)3月に広忠は殺害されてしまうのです(3月6日参照>>)

その9か月後に起こった今川VS織田の安祥城 (あんしょうじょう=愛知県安城市安城町)の戦いで、今川勢に生け捕りにされた織田信秀の息子=織田信広(のぶひろ=信長の兄)との人質交換によって(11月6日参照>>)家康は無事(って言って良いのかワカランがww)今川義元のもとで人質生活を送る事になっていたわけです。(←今ココ)

つまり、父の広忠が死んでしまった事で、松平の当主は家康であるものの、その家康は、現状人質状態なので、その家臣は、おのずと今川の配下として動くって事になってるわけで・・・

…で、今川配下の中で「岡崎衆」と呼ばれる家康の家臣たちは、このころは、今川が「いざ!戦い」となれば、1番危ない先手に配置され、討死する者も多かったわけですが、なんせ主君が人質なので、そこは我慢するしかありません。

そんなこんなの弘治元年(1555年)8月、今川義元は、その岡崎衆の松平親乗(ちかのり)を先鋒の将として、
「蟹江城を攻めよ!」
と命じたのです。

このころの蟹江城を守っていたのは、織田民部(みんぶ)なる武将・・・
ご承知の通り、この「民部」は役職名なので、織田某(織田家の誰か)という事になりますが、

このころの織田家は、天文二十年(1551年)に亡くなった信秀(3月3日参照>>)の後を、あの織田信長(のぶなが)が継いだものの、ここに来て、やっとこさ清州城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)乗っ取って、守護代(上司)だった清須織田家を倒したばかり・・・(4月20日参照>>)

まだ、尾張一国を統一してませんから、同じ織田家と言っても、信長との関係はどうなんでしょう?

後に民部大輔となって「織田民部と言えば…」となる信長の弟の織田信包(のぶかね)(7月17日参照>>)は、このころは、まだ13~14歳くらいだと思うので、おそらく信包ではないはず…と思うのですが・・・(詳しい事ご存知の方はご一報乞う)
(確かに、この前年、信長は今川方の村木城を攻め落としてはいるんですが>>)

とにもかくにも、こうして弘治元年(1555年)8月3日 、岡崎衆を先鋒とする今川軍が、織田方の蟹江城に攻め込んだのです。

戦闘は激しく、岡崎衆の中でも、最も先手となった松平親乗家人の松平新助(しんすけ)隼人(はやと)武井角左衛門(たけいかくざえもん)大橋新三郎(おおはししんざぶろう)河合才兵衛(かわいさいべえ)といった面々が、組み討ち&槍などで応戦するも討死・・・

敗戦の色濃くなる中、父の杉浦吉貞(すぎうらよしさだ)とともに参戦していた杉浦勝吉(かつよし)も、その身に槍を受け、 
「もはや!これまで」
と覚悟を決めますが、

そこに7人の勇士現れ
取って返し、敵に槍を突き立て…
「遂に城を攻め落とす
 尾張蟹江七本槍とは此七人の事」(『松平記』)

とまぁ、こうして、とうとう城を落とした・・・という事らしい。

一体全体、敗戦の色濃いのを7人で?どうやって?どうなった?
と、もっとくわしく話を聞きたいのはやまやまですが、
なんせ、史料が少ない・・・

とは言え、この時の岡崎衆の大活躍を、大いに喜んだ今川義元が、家康に自らの名にちなむ「元康」の諱(いみな)を与え、姪っ子(妹の娘)瀬名姫(せなひめ=築山殿)結婚させる事を決意したとの話もあるので、やはり、この日の蟹江城陥落に岡崎衆が活躍したという事でしょう。

ちなにみ、この「蟹江七本槍」とは、
Ookubotadayo600ast 大久保忠俊(おおくぼただとし)
大久保忠員(ただかず=忠俊の弟)
大久保忠世(ただよ=忠員の長男・徳川十六神将)
大久保忠佐(ただすけ=忠員の次男・徳川十六神将)
阿倍忠政(あべただまさ=忠俊&忠員の甥)
に、先ほどの
杉浦吉貞&勝吉父子の7人とされます。

ただし、『大成記』では、大久保忠佐の代わりに大久保忠勝(ただかつ=忠俊の息子)になってます。

また、
『寛政重修諸家譜』にも
「弘治元年尾張国蟹江城攻め 松平和泉守親乗に属し軍功励む」
という松平一党の記録もある事から、

詳細は不明なれど、今川の者として、家康配下の皆さまが勝利に貢献した事は確かでしょう。

・・・にしても、今回の七本槍って、全員、後に徳川譜代の家臣となって活躍する面々ですね~

このあと、
家康自身は、永禄元年(1558年)2月の寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の戦い初陣を飾り(2月5日参照>>)

一方の信長は、さらに2年後の永禄三年(1560年)5月に、あの桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市か豊明市)で今川義元を破り(2007年5月19日参照>>)、その桶狭間キッカケで家康は人質生活から解放される(2008年5月19日参照>>)事に・・・

思えば、あと5年・・・
主君の立場上、アブナイ場所ばっかり任されてた家康さんの配下の人たちの苦労は、この戦いから、あと5年で終わりを迎えるわけですね~

豊臣恩顧の茶々ではありますが、今日ばかりは
「もう少しの間やからガンバレ!」
って応援したくなります。。。
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2022年7月19日 (火)

武田信玄VS小笠原長時~塩尻峠の戦い

 

天文十七年(1548年)7月19日、武田信玄小笠原長時に勝利した塩尻峠の戦いがありました。

・・・・・・・・・

東に北条氏康(ほうじょううじやす)相模(さがみ=神奈川県)、南に今川義元(いまがわよしもと)駿河(するが=静岡県東部)という 大国に隣接する甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信)にとって、北方に広がる信濃(しなの=長野県)の地を手に入れる事は、父=信虎(のぶとら)の時代からの悲願でした。

当時の信濃は、府中(ふちゅう=長野県松本市)に代々守護(しゅご=県知事)を務める小笠原長時(おがさわらながとき)がいるものの、群雄割拠の戦国となった今は、その勢力範囲も松本周辺に限られ、国内には多数の国人(こくじん=地侍)うごめいていたのです。

そんな中で、有力国人だったのが諏訪(すわ=長野県諏訪市周辺)諏訪頼重(すわよりしげ)と、北信濃村上義清(むらかみよしきよ)でした。

Takedasingen600b 天文十年(1541年)6月に父の信虎を追放して(6月14日参照>>)21歳で家督を継いだ信玄は、すぐさま信濃攻略に取り掛かり 、わずか1年で諏訪の上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)を攻略し、諏訪頼重を自刃に追い込みます(6月24日参照>>)

その2年後の天文十三年(1544年)10月には伊那(いな=長野県南部)に侵攻して(10月29日参照>>)福与城(ふくよじょう=長野県上伊那郡箕輪町:箕輪城とも)を落とし、

さらに天文十六年(1547年)8月には志賀城(しがじょう=長野県佐久市)を陥落させて(8月17日参照>>)その勢力は信濃東部にまで進みました。

しかし、そこに立ちはだかったのが葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)の村上義清だったのです。

天文十七年(1548年)2月の 上田原(うえだはら=長野県上田市)にて村上義清と戦った信玄は、生まれて初めて苦汁を飲む事になります(2月14日参照>>)

そのページにも書かせていただきましたが、この戦いは、『甲陽軍艦』では、一応、信玄が勝利した事になってますが、戦死者の数もさることながら、父の代からの重臣である板垣信方(いたがきのぶかた)甘利虎泰(あまりとらやす)を失い、信玄自身も負傷した事などから、一般的には村上方の勝利との見方がされています。

おそらく信玄自身も、そして回りの人々の目にも、武田の負け…と映った事でしょう。

しかし、納得がいかない信玄は2月14日の最大の戦いのあとも兵を退こうとせず、母の大井夫人(おおいふじん=大井の方)の説得によって、3月3日にようやく陣を引き払っています。

このゴタゴタをチャンスと見たのが、これまで武田に圧迫されていた信濃府中林城(はやしじょう=長野県松本市)の小笠原長時・・・このタイミングで、武田に反攻の意を示したのです。

まずは、信玄撤退から1ヶ月チョイの4月15日、諏訪へと侵入して諏訪大社(すわたいしゃ=諏訪湖周辺4か所にある神社)下社(しもしゃ)乱入して周辺を荒らしまわりました。

社人らが対抗してなんとか撃退しましたが、その乱入行為は6月10日にも。。。(6月10日の乱入にて諏訪下社を小笠原が占領したとも)

その後の内応策によって、武田方の諏訪西方衆の花岡(はなおか)矢島(やじま)を寝返らせる事に成功した小笠原長時は、7月10日、上諏訪に侵攻・・・危険を感じた神官らは上原城へと避難して、武田の援軍が来るのを待ちました。

これを知った信玄は、翌7月11日に甲府(こうふ=山梨県甲府市)を出陣し、しばらく跡部勝忠(あとべかつただ=武田家譜代家臣)の陣所に滞在した後、大井ヶ森(おおいがもり=山梨県北杜市長坂町)まで出て、敵陣の様子をうかがいます。

実は、この時・・・武田3000に小笠原5000という信玄には不利な兵数でしたが、武田勢の結束の固さに対し、一方の小笠原勢は、この時点で、すでに一枚岩では無かったのです。

この合戦の始め=諏訪でのアレコレの時に、小笠原長時の舅である仁科盛能(にしなもりよし)が、長時の力攻め案に反対して和睦した後に盛能自身が諏訪を支配する事を進言したにも関わらず、長時が、それを認めずに強行突破した事で、舅としての面目を失った仁科盛能は、ここで怒りがピークに達し、与力同心引き連れて撤兵してしまったのです。

さらに一説には、すでに水面下で行っていた小笠原方の山家(やまべ)三村(みむら)などへの内応工作が成功して彼らが寝返った?という話もありますが(信ぴょう性が薄いとされる)

とにもかくにも、
「ここでイケる!」
との感触を得た信玄は、様子うかがい作戦から一転…7月18日に上原城へ入ると、休む間もなく再び出陣し、小笠原方に気づかれぬよう、夜のうちに塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市と岡谷市)へと向かいます。

かくして天文十七年(1548年)7月19日の朝6時、武田軍が一斉に、塩尻峠の小笠原軍を急襲したのです。

武田軍の夜の動きを察知できず、未だ「信玄は様子見ぃの段階」との判断をしていた小笠原軍は、そのほとんどが武具をはずしての就寝中であったらしく、

いきなりの奇襲に大慌てで、反撃する間もなく総崩れとなり、小笠原軍は、あっけなく敗走する事になってしまいました。

小笠原方の記録『小笠原系図』では、
一日の内で6度の戦いがあったものの、6度目の決戦の直前に、すでに武田方に内通していた山家&三村らが、戦わずして戦場離脱した事から、残された小笠原勢が雪崩のように崩れていったように記されていますが、

小笠原方が1000人に及ぶ戦死者を出したという中で、武田方で発給された感状には敵の大将クラスの名がほとんど無い事から、6度の合戦というのは、やはり少々オーバーで、実際には、奇襲に慌てた小笠原方が、大した激戦もしないまま、ただただ逃げるしかなった…というのがホントのところのようです。

もちろん、総大将の小笠原長時も・・・命からがら林城(はやしじょう=長野県松本市)へと逃走しました。

こうして、長時の命は助かったものの、信濃の守護を預かる名家で、反武田の中心的存在だった小笠原が、信玄の急襲によって、あっけなく敗れ去った状況は、もはや、その反武田の結束をも崩壊させるに十分である状況を示す事になってしまうのです。

なんせ、先の上田原の戦いで村上義清に敗れた事で激ヤバ状態だった信玄が、今回の勝利でプラマイ0どころか、さらに何倍もの勢いをつけてしまう結果になったのですから。。。

この後、信玄が9月6日に佐久(さく)へと侵攻して前山城(まえやまじょう=長野県佐久市)を落城させると、その勢いを恐れた周辺の13城が自落し、さらに駒を進める信玄は、10月4日に松本平(まつもとだいら=長野県中央部にある盆地で安曇平とも)へ入り、小笠原長時が拠る林城から、南へわずか8kmの場所に、長時抹殺を見据えた村井城(むらいじょう=長野県松本市)を構築する事になるのです。

・・・で、結局、天文十九年(1550年)に、その林城を追われた小笠原長時が村上義清を頼り、その村上義清が上杉謙信(うえすぎけんしん)を頼り・・・で、やがて十数年に渡る、あの川中島(かわなかじま=長野県長野市)の戦いへと発展していく事になります。

★今後の流れ
 ●戸石城攻防戦>>
 ●更科八幡の戦い>>
 ●川中島1~布施の戦い>>
 ●川中島2~犀川の戦い>>
 ●川中島3~上野原の戦い>>
 ●川中島4~八幡原の戦い>>
 ●川中島5~塩崎の対陣>>
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2022年6月29日 (水)

信長より三好より先に京を制す~柳本賢治の波乱万丈

 

享禄三年(1530年)6月29日、播磨依藤城を攻撃中の柳本賢治が、細川高国方の放った刺客に殺害されました。

・・・・・・

柳本賢治(やなぎもとかたはる)の出自は、厳密には不明なのですが、一般的に、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川勝元(ほそかわかつもと)に仕えた波多野清秀(はたのきよひで)の息子と考えられています。

かの応仁の乱にて武功を挙げた波多野清秀は、細川勝元亡き後、その息子で管領となっていた細川政元(まさもと=24・26・27・28代管領)から丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)多紀郡(たきぐん=現在の丹波篠山周辺)を与えられた後、さらに政元配下として、丹波一国から摂津(せっつ=大阪府北中部)へと勢力を延ばしつつありました。

一方、主君の細川政元は、明応二年(1493年)に、時の将軍である足利義稙(よしたね=義材・第10代将軍)を廃し、自らの思うままの足利義澄(よしずみ=第11代将軍)を擁立するという明応の政変(4月22日参照>>)なるクーデターを成功させ、事実上政権トップの座を手に入れましたが、

その政元が永正四年(1507年)6月に、実子がいないまま暗殺(6月23日参照>>)されると、
関白・九条政基(くじょうまさもと)の息子=澄之(すみゆき)
阿波(あわ=徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の高国(たかくに)
という3人の養子の間で後継者争いが勃発・・・

ここで、亡き父の後を継いでいた波多野元清(はたのもときよ=稙通 )細川高国を支持・・・高国は「敵の敵は味方」とばかりに、細川澄元と協力して、養父の死からわすが2か月後の8月に百々橋(どどばし=京都市下京区)の戦い澄之を追い落としました(8月1日参照>>)

この戦いで澄之配下として参戦して戦死した香西元長(こうざいもとなが)讃岐(さぬき=香川県)の領地を、波多野元清の弟が継ぎ、香西元盛(こうざいもともり)と名乗ります。

しかし案の定、共通の敵がいなくなると、今度は、この高国と澄元が後継者を巡って争う事に・・・

やがて周防(すおう=山口県)の大物=大内義興(おおうちよしおき)を味方につけた高国は、亡き政元に追放されていた前将軍の義稙を奉じて京へと上り、永正八年(1511年)8月の船岡山(ふなおかやま=京都市北区)の戦いで勝利(8月24日参照>>)し、澄元は一旦、地元の阿波へと逃亡・・・おかげで足利義稙は将軍に復帰します。

しかし態勢を立て直した澄元が、阿波から家臣の三好之長(みよしゆきなが)を連れて舞い戻った永正十七年(1520年)1月、腰水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)を攻撃された高国らは、やむなく近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退き(1月10日参照>>)ますが、この時、「ともに近江へ…」と高国から誘われた足利義稙は同行を拒否し、以後、澄元についたのです。

ところが、その4か月後の5月、近江守護の六角氏(ろっかくし)をはじめとする多くの援軍を得た細川高国が等持院表(とうじいんおもて=京都市北区)の戦いにて澄元に勝利します(5月5日参照>>)

細川澄元は再び四国に逃亡し、捕縛された三好之長は切腹・・・この時に戦死した澄元派の柳本長治(やなぎもとながはる)の後継として柳本氏を継いだのが波多野元清&香西元盛兄弟のさらに弟の柳本賢治=本日の主役という事になります。
Yanagimotosoukanzu
長い前置きになって申し訳なかったですが、とにもかくにも、波多野元清&香西元盛&柳本賢治の三兄弟は、常に細川高国と行動をともにし、養子同士の後継者争いに打ち勝った高国は、先の明応の政変で擁立された足利義澄の息子=足利義晴(よしはる)第12代室町幕府将軍として迎えてその補佐をし、まさに我が世の春を迎えるわけですが・・・

そんなこんなの大永六年(1526年)7月、高国の従兄弟である細川尹賢(ほそかわ ただかた)が、「香西元盛が敵対勢力=澄元らに内通している」と高国に告げ口・・・このフェイクニュースを信じた高国が香西元盛を殺害してしまった事から、波多野元清&柳本賢治兄弟は激怒して、波多野元清は八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)に、柳本賢治は神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)と、それぞれ自身の城に籠城します。

これに驚いた高国が、自軍で以って神尾山城を攻めますが、柳本賢治は、これを撃破!(10月23日参照>>)

しかも、完全に高国から離反した波多野&柳本兄弟が、高国と敵対して四国へ去り、その後その地で亡くなった細川澄元の息子=細川晴元(はるもと)と連携を取った事から、

この絶好のタイミングで、晴元は配下の三好元長(もとなが=三好之長の息子or孫)引き連れて渡海・・・この晴元勢と合流した柳本賢治は、大永七年(1527年)2月の桂川原(かつらかわら)の戦いへと持ち込み(2月13日参照>>)見事勝利して、またもや高国と将軍=義晴を近江坂本へと退かせたのです。

敵が去った京都を、山崎城(やまざきじょう=京都府乙訓郡大山崎町)にて支配する柳本賢治は、その1週間後の2月19日からは、未だ残る高国派の一掃をはかるべく、伊丹元扶(いたみもとすけ)伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)を包囲します。

しかし、その堅固さを武器に籠城し、高国らの勢力回復の時間稼ぎをする伊丹城は、なかなか落ちず・・・

一方、その間、細川晴元と三好元長は(さかい=大阪府堺市)に、四国にて晴元とともにいた足利義維(よしつな=義晴の弟)を呼び寄せて、義維を堺公方(さかいくぼう)に擁立し、事実上の堺幕府が誕生します(3月1日の真ん中あたり参照>>)

9月に入って、ようやく落ち着いた三好元長が柳本賢治に加勢すべく伊丹城にやって来ますが、やっぱり落ちない伊丹城・・・

そうこうしている10月に、今度は、態勢を整えた細川高国が、足利義晴の呼びかけに応えた近江守護(しゅご=南部滋賀県知事)六角定頼(ろっかくさだより)越前守護(東部福井県知事)朝倉孝景(あさくらたかかげ)らの支援を受けて入京して来たため、柳本賢治はやむなく伊丹城の包囲を解いて、京都の西郊へと退きました。

この頃の畿内は、京都を制した柳本賢治と河内(かわち=大阪府東南部)に展開する三好元長の勢力に堺の細川晴元・・・そこに細川高国らの思惑が火花を散らしたり治まったりを繰り返す混沌とした雰囲気を醸し出していたのですが、

そんな中の享禄元年(1528年=大永八年・8月に改元)8月、柳本賢治らを重用する細川晴元と対立した三好元長が阿波に帰ってしまうという事件が起こります。

その一方で、この年の11月に、柳本賢治がようやく伊丹城を落城させた事で、細川晴元は、この伊丹城を配下の高畠長直(たかばたけながなお)に守らせました。

しかし、ここに来て、細川高国に更なる味方が・・・

それは備前(びぜん=岡山県東南部)三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)浦上村宗(うらがみむらむね)・・・浦上村宗が畿内を脅かし始めた事で、柳本賢治は細川晴元に足利義晴との和睦を進言しますが、晴元は
「足利義維はんがおるのに、無理やろ」
と聞く耳持たず・・・

そのため、享禄三年(1530年)5月に柳本賢治は、幕府政所執事(さむらいどころしつじ=政務の長官)伊勢貞忠(いせさだただ)と結託して利義晴の帰京を画策しますが、空しく失敗・・・

その落胆も癒えぬ間に、今度は東播磨(はりま=兵庫県西南部)別所就治(べっしょなりはる)からの援軍要請が舞い込んで来ます。

実は、この別所就治・・・以前から、この東播磨の地を依藤氏(よりふじし=依藤弥三郎?)と取ったり取られたりしていたのですが、ここに来て、その依藤氏が浦上村宗の支援を受けて力をつけ、別所就治の三木城(みきじょう=兵庫県三木市)を脅かすようになっていたのです。

そこで、別所就治の要請を受けた柳本賢治は播磨へと出陣・・・依藤城(よりふじじょう=兵庫県加東市・小沢城)を攻撃します。

押しては退き、退いては押す籠城戦は、約1ヶ月半に渡る激戦となりますが、その戦いの終わりは、あっけなくやって来るのです。

享禄三年(1530年)6月29日浄春坊(じょうしゅんぼう)なる山伏が夜陰に紛れて柳本の陣所に忍び込み、昼間の合戦の疲れを癒すべく酒を飲んでいた柳本賢治を刺殺したのです。

浄春坊は、細川高国と組む浦上村宗の被官(ひかん=近臣)である 中村助三郎(なかむらすけさぶろう)が放った刺客だったのです。

総大将を失った軍は哀れ・・・これをキッカケに襲い掛かる依藤軍によって、瞬く間に100人ほどが討たれ、柳本軍は、依藤城から撤退せざるを得ませんでした。

この柳本賢治の死をキッカケに挽回しはじめた細川高国は、別所就治の三木城に、先の伊丹城、さらに尼崎城(あまがさきじょう=兵庫県尼崎市)をも落とす快進撃を見せますが、

これで、柳本賢治を失ったヤバさを痛感した細川晴元が、阿波に引き籠っていた三好元長を呼び戻した事で形勢逆転・・・

細川高国は翌享禄四年(1531年)6月の大物崩れ(だいもつくずれ)天王寺の戦いで敗れ、自刃しました(6月8日参照>>)

一方、亡くなった柳本賢治の後継は、息子の虎満丸(とらみつまる)が幼かった事から、一族の柳本甚次郎(じんじろう=神二郎)が当主名代を務め、晴れて細川管領家の後継者となった細川晴元の配下となりますが、

この翌年の享禄五年(1532年)、細川晴元と、またまた袂を分かった三好元長に居城を攻められ、柳本甚次郎は討死・・・

この一件によって細川晴元と三好元長の関係はさらに悪化していく事になり、それは天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)から、大和一向一揆へと進み、三好元長が自刃するまで(7月17日参照>>)続く事になります。

・‥…━━━☆

「京を制すれば天下を制す」と言われた時代(この時代の天下は畿内ですが…・・・思えば、織田信長(おだのぶなが)はもちろん、三好長慶(ながよし)よりも先に、京都を制したのは、ひょっとして柳本賢治って事になる?

もちろん、その前に細川政元もいるし、その養子たちの取ったり取られたりもあるし、なんたってこの時代には足利将軍という存在があるわけですが、なんだかんだで彼らは「超えぇトコのボンボン」なわけで、いわゆる下剋上絡みの戦国武将的な人たちではない・・・

そういう意味で、柳本賢治という人は、かなり貴重な存在ですが、回りと比べると、知名度的にはちょっと低い感じ???

結果的には、ただ「京都を制する権」を細川高国から細川晴元にバトンタッチさせただけの役割のようになってしまった事が残念ですね。

ちなみに、三好元長亡き後、その息子である三好長慶の登場は、もう少し先・・・天文十五年(1546年)9月の【最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】>>でどうぞm(_ _)m
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2022年3月22日 (火)

浅井長政の大返し~六角義賢との佐和山城の戦い

 

永禄四年(1561年)3月22日、六角義賢佐和山城を攻められた浅井長政配下の磯野員昌が、見事な大返しで美濃から帰還・・・磨針峠まで進出しました。

・・・・・・・

ともに宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む京極氏(きょうごくし)六角氏(ろっかくし)は、ご先祖の佐々木道誉(ささきどうよ)(10月12日参照>>)が、室町幕府立ち上げに大きく貢献した事から、幕府政権下において近江(おうみ=滋賀県)守護(しゅご=県知事)を任され、京極氏が北近江六角氏が南近江を支配していましたが、

京極氏が自らの内紛によって力衰えて来た(8月7日参照>>)ところに、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)であった浅井亮政(あざいすけまさ)が主家を凌ぐ勢いを持ち始めたため(3月9日参照>>)、同族の六角定頼(ろっかくさだより)が、その武力で以って浅井に立ちはだかる中で、

六角氏との連戦に苦戦した亮政の息子=浅井久政(ひさまさ)は、やむなく六角氏に従属(1月10日参照>>)・・・

Azainagamasa600 息子の浅井長政(ながまさ=つまり亮政の孫)が元服する頃には、六角家臣の娘を娶らせ、その名を、六角義賢(よしかた=承禎・定頼の息子)の一字をとって「浅井賢政」と名乗らせるほどの主従関係を敷いていました

が・・・

永禄二年(1559年)、この状況に不満を持つ浅井家臣らが、元服したての長政を当主と仰いでクーデターを決行・・・

翌永禄三年(1560年)8月には、長政率いる新体制浅井が、野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)の戦いにて六角氏に勝利して(8月18日参照>>)六角氏からの離反を明らかにしたのでした。

格下と思っていた浅井にしてやられた六角義賢と、その息子=六角義治(よしはる=義弼とも)は、何とか雪辱せんと狙って、隣国の美濃(みの=岐阜県南部)斎藤義龍(さいとうよしたつ=斎藤道三の息子・高政とも)陽動作戦を依頼します。

六角父子の要請に応じた斎藤義龍は、永禄三年(1560年)12月、家臣の竹中重元(たけなかしげちか・しげもと=竹中半兵衛重治の父)近江に派遣し、浅井配下の刈安尾城(かりやすおじょう=滋賀県米原市藤川)を奪おうとします。

この時は、何とか抵抗して押し戻し、事無きを得た浅井長政でしたが、当然、斎藤義龍とは敵対関係に進む事となり、翌・永禄四年(1561年)3月、長政は美濃に向けて出兵したのでした。

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佐和山城の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この長政留守のタイミングを見計らって、配下の将1万余りを従えて中山道へと出た六角義賢は、そのうちの2千を配下の肥田城(ひだじょう=滋賀県彦根市肥田町)高宮城( たかみやじょう=滋賀県彦根市高宮町)に入れて備えとし、残りの本隊で以って浅井方の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市佐和山町)を目指したのです。

さらに、かの竹中重元も、このタイミングで再び刈安尾城をけん制し、六角氏の佐和山城攻撃を側面から支援し、おそらく美濃から戻って来るであろう長政らの行く手を阻もうと計算したのです。

この時、当然ですが、佐和山城主である磯野員昌(いそのかずまさ)は、主君である長政とともに美濃に出陣中・・・

留守を預かっていたのは百々盛実(どどもりざね)以下、わずかな城兵でしたが、六角軍の来襲を知るや否や、本城の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)にいる長政父の浅井久政に連絡し、援軍を要請します。

もちろん、この急変を聞いた美濃の浅井軍も、急きょ退陣し、磯野員昌を先陣に、一路、佐和山城目指して走る一方で、殿(しんがり)赤尾清綱(あかおきよつな)がキッチリ抑えます。

夜を徹して近江へ取って返した磯野員昌は、永禄四年(1561年)3月22日磨針峠(すりはりとうげ=滋賀県彦根市北部にある峠・摺針峠)に到着したのでした。
(今回の佐和山城に戦いは『浅井三代記』では永禄6年=1563年の事となっていますが、現在は一般的には永禄四年とされています)

一方の六角義賢は、すでに城兵を打ち破って本丸に侵入・・・百々盛実を自刃に追い込んで、事実上、佐和山城を落城させていましたが、

このタイミングで、浅井勢が、すでに磨針峠まで戻って来ている事を知り、あまりの速さに驚愕・・・

「城を落としたとは言え、未だドタバタ感満載な段階で浅井勢の本隊に囲まれて退路を断たれては、元も子もない」
とばかりに、急きょ全軍に撤退命令を出し、速やかに兵を退いたのでした。

結果的には引き分けとなった今回の佐和山城の戦いですが、一時は落城に追い込まれた事の影響は大きく、江北(こうほく=滋賀県北部)の諸将の中には六角側に寝返る者も多数・・・

そこで長政は、この約3ヶ月後の永禄四年(1561年)7月、六角義賢が、畿内を牛耳る三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)との戦い(【将軍地蔵山の戦い】参照>>)のために京都に出陣したスキを狙って、

かつて父の久政が攻めあぐねた太尾城(ふとおじょう=滋賀県米原市米原・太尾山城とも)を奪わんと、配下の今井定清(いまいさだきよ)と磯野員昌を送りこみますが、残念ながら失敗・・・(前半部分内容カブッてますが…7月1日参照>>)

そのため、長政は、この後、約2年ほど、六角氏とは混沌とした関係が続く事になるのですが、
おそらくは、この状況により、
「六角氏に対抗できる後ろ盾を…」
と、長政は思ったらしく、ここらあたりで越前(えちぜん=福井県東部)朝倉氏(あさくらし)臣従に近い同盟を結んだとされます。

しかし、その2年が経った永禄六年(1563年)10月、六角氏は自ら観音寺騒動(かんのんじそうどう)を起こして自滅(10月7日参照>>)・・・内紛によって大きく力を削がれた六角氏には衰退の影が見え始めますが、

ここらあたりで、美濃攻め真っ最中(9月1日参照>>)尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)からの使者として不破光治(ふわみつはる)長政のもとへ・・・

ご存知の、長政とお市の方(おいちのかた=信長の妹もしくは姪)との正式な婚姻が成立するのは、4年後の永禄十年(1567年)の9月頃と言われます。

そして、皆さま、よくご存知のように、浅井長政が全国ネットの大舞台に登場していく事になります。
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2022年3月16日 (水)

小倉実隆と小倉右京大夫の内訌~小倉兵乱

 

永禄七年(1564年)3月16日、小倉実隆小倉右京大夫以下小倉西家の討伐に出陣しました。

・・・・・・・・ 

小倉実隆(おぐらさねたか)は、南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)守護 (しゅご=県知事)六角(ろっかく)の家臣である蒲生定秀(がもうさだひで)の三男・・・

定秀の長男が蒲生賢秀(かたひで)なので、後に信長から秀吉に仕えて有名戦国武将になる蒲生氏郷(うじさと)叔父さんという事になります。

そんな中で、戦国のならいと言いましょうか…愛知郡小椋(えちぐんおぐら=現在の東近江市・彦根市など)周辺を治めていた国人(こくじん=在地の武将)であった小倉氏当主の小倉実光(さだみつ)が実子が無いまま死去してしまったため、

父の定秀の意向で養子として小倉氏に入り、この永禄七年(1564年)の頃は、その名籍を継いで佐久良城(さくらじょう=滋賀県蒲生郡日野町)の城主を務めておりました。

しかし、かつての応仁の乱の頃は、小倉実澄(さねずみ)が一族を率いて、一団となって敵に立ち向かい小倉氏の絶頂期を築いたものの、

永正八年(1511年)頃からは、この周辺を治める者として3~4家の小倉家の名前が見えはじめ、どうやら互いに、その覇権を争っていた・・・

つまり小倉実隆が小倉家を継いだ頃には、すでに内訌状態にあったようなのです。

ちなみに、一応、小倉実隆が継いだ小倉家が宗家とされ、他の2~3家は庶流とされます。

そんなこんなの永禄七年(1564年)、山上城(やまがみじょう=滋賀県甲賀市水口町)城主で、庶流・小倉西家小倉右京大夫(うきょうのだいぶ)が、比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)年貢を横領するという事件が起こります。

この右京大夫の暴挙に激怒した六角義治(ろっかくよしはる=六角義賢の長男・義弼とも)は、すぐさま、小倉宗家の実隆に右京大夫の討伐を命じたのです。

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小倉兵乱の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永禄七年(1564年)3月16日、小倉実隆は、自らの配下とともに、六角家臣で甲津畑城(こうずはたじょう=滋賀県東近江市永源寺)速水勘解由左衛門(はやみかげゆさえもん)ほか蒲生郡(がもうぐん=現在の近江八幡市と東近江市付近)の諸将の助力を得て、右京大夫討伐に出陣します。

はじめ、千種越え(ちぐさごえ=滋賀か鈴鹿を越えて伊勢に向かう千種街道の峠)の要衝にてぶつかった両者は、

和南城( わなみじょう=滋賀県東近江市和南町)小倉治兵衛(じへえ=源兵衛とも)討ち取るものの、

当然、右京大夫側も西家総動員に加え、味方の諸将に応援を呼びかけており、戦いは山上城周辺に留まらず、小倉宗家と小倉西家の領地全体へと飛び火し、互いの存続をかけた全面戦争となります。

やがて押しに押した右京大夫側が勝ち進み、3月23日には永源寺(えいげんじ=滋賀県東近江市永源寺)を焼き、なおも小競り合いが繰り返されました

さらに、右京大夫は九居瀬(くいせ=滋賀県東近江市九居瀬町)に陣を移し、なおも戦い続け、5月1日には実隆の佐久良城に攻め寄せたのです。

複数の史料に食い違いがあるため、その死没の日付は、今のところ「不明」となっているのですが、おそらくは、この5月1日の合戦にて小倉実隆は討死したものと思われます。

その後も、勢いづく右京大夫は、5月23日にも再び永源寺に放火・・・さらに周辺の寺にも火をかけ、あたりの寺院多くが焼失してしまいました。

諸戦に勝利し、奥津保 (おくつのほ=滋賀県蒲生郡日野町中之郷周辺)まで制圧して意気揚々の右京大夫でしたが、ここで、息子の死を知った蒲生定秀が介入・・・

自ら大軍を率いて右京大夫と西家の討伐に乗り出し、彼らの拠点となっている山上城や 八尾城 (やつおじょう=滋賀県東近江市山上町)報復攻撃を仕掛け、ついに右京大夫以下小倉西家を滅ぼして、何とか、内訌状態の鎮静化に成功したのでした。

この和南合戦佐久良の戦いを含めた一連の合戦は、
小倉兵乱(おぐらひょうらん)とも、小倉の乱とも呼ばれます。

ただし、こうして最終的には小倉宗家の勝利となって丸く収めた小倉内訌からの小倉兵乱ではありましたが、この内輪モメは小倉氏の力を大きく削ぐ事となり、

やがて、この小倉氏は、蒲生氏の配下として生き残るしかなくなってしまったのですが、

ご存知のように、その後、この蒲生氏も衰退・(8月18日参照>>)

その後は、一族の誰かが豊臣に仕えたとか、德川に仕えて旗本として生き残ったとも言われますが定かではありません。

細川にしろ京極にしろ、この小倉の親分の六角でさえ、同族同士の内訌は、負けた側はもちろん、勝った側も大きく力を削がれ、やがては下の者に取って代わられたりして、いずれ衰退していくのは世の常なのに・・・なぜ?

とは言え、戦国の武家で内輪モメがまったく無い家が、ごくわずかな事を考えれば、後世の凡人には計り知れない、その時代の、その武将なりの譲れない何かがあるのでしょうね。。。
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