2021年1月27日 (水)

謎の死を遂げた秀吉の甥っ子~大和郡山城主・豊臣秀保

 

天正十九年(1591年)1月27日、養父の秀長の死を受けて、家督を継いだ豊臣秀保が大和郡山城主となりました。

・・・・・・・

豊臣秀保(とよとみのひでやす=羽柴秀保)は、豊臣秀吉(ひでよし)の姉である(とも=日秀尼)と元農夫の三好吉房(みよしよしふさ=弥助)との間に三男として天正七年(1579年)に生まれました。

長兄に豊臣秀次(ひでつぐ)、次兄に豊臣秀勝(ひでかつ)がいます。

上の兄たちとは10歳も年が離れており、計算上、智さんが46歳の時に産んだ子供になる事から、一説には「養子ではないか?」との話もありますが、兄たちと同様に、秀吉の後継者の一人として昇進をしている事実をを見ると、やはり、「身内だった(血縁関係があった)から」と思われます。

…で、先の、長兄の秀次が生まれたのが永禄十一年(1568年)で次兄の秀勝が生まれたのが翌年の永禄十二年(1569年)・・・

秀吉の年表>>で言うと、
秀次誕生の前年が、
秀吉の主君である織田信長(おだのぶなが)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市…後の岐阜城)を陥落させた(8月15日参照>>)年で、
その翌年が信長の伊勢北畠(きたばたけ)攻め(8月26日参照>>)
さらにその翌年は、信長危機一髪だったあの金ヶ崎の退き口(4月28日参照>>)・・・といった具合。

ご存知のように稲葉山城攻めでは搦手(からめて=側面)の崖を駆け上がり、北畠攻めでは先手を担い、金ヶ崎の退き口では殿(しんがり=最後尾)を務めて大活躍する秀吉ですが、この頃は、まだ、そこまでの武将ではありません。

と言うのも、後に天下人となる事から、その出自や正室のおね(寧々・禰)さんとの馴れ初めなど、色々と文献に登場する逸話が語られる事になりますが、実は、ちゃんとした公式文書に秀吉の名が登場するのは永禄八年(1565年)11月2日付けの知行安堵状(坪内文書)が初で、それ以前の事は、あくまで逸話の域を越えない話なのです。
(もちろん、色々と活躍していたから徐々に出世して行ってるんだと思いますが、墨俣の一夜城>>なんかもあくまで逸話です)

そんな中で、信長が浅井(あざい)朝倉(あさくら)と対峙した元亀元年(1570年)の姉川の戦い(6月28日参照>>)の翌年に、浅井方の磯野員昌(いそのかずまさ)を寝返らせて佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を開城(2月24日参照>>)させ、その北に位置する横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を守り、言わば対・浅井長政(あざいながまさ)最前線を担った事で(箕浦の戦い>>)、天正元年(1573年)8月に浅井が滅亡した時(8月27日参照>>)、その功績によって、秀吉は長浜城の城主=城持ちになったわけです(3月19日参照>>)

ちなみに、秀吉が織田家の重臣である丹羽長秀(にわながひで)柴田勝家(しばたかついえ)のような立派な武将になりたい」として、その名を木下秀吉(きのしたひでよし)から羽柴秀吉(はじばひでよし)に変えたとされているのが、この長浜城入りの前年です。

つまり、兄の秀次や秀勝が生まれたのはこの頃・・・どんどん出世街道を歩いていてメッチャ下っ端というわけではありませんが、かと言って、まだまだ上には大勢いる、未だ出世途上の段階だったわけです。

しかし、その後、天正五年(1577年)に、最終目標は西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)という、あの中国攻めの大将を命じられ、その10月には但馬(たじま=兵庫県北部)を攻略>>して、翌月には上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を落とし>>、さらに翌月に福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)>>破竹の勢いで西へ進み、この頃の秀吉は、あの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)も従えています。

そして秀保が生まれるのは岡山宇喜多直家(うきたなおいえ)を懐柔し(10月30日参照>>)、長かった三木城(みきじょう=兵庫県三木市)をようやく陥落させた>>まさに、その頃だったわけです。

要するに、兄二人と違って、秀保は、生まれながらに秀吉の後継者の一人=若様として育てられたのです。

なので天正十六年(1588年)に、わずか10歳で侍従(じじゅう=高貴な人(後陽成天皇?)の世話係)に任じられています。

しかし、その2年後の天正十八年(1590年)に、豊臣政権を支えていた秀吉の異父弟=豊臣秀長(ひでなが=小一郎)が病床につき、快復祈願も空しく、翌・天正十九年(1591年)の1月22日に、未だ男子の跡取りがいないまま、居城の郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)にて病死(1月22日参照>>)してしまったため、

その5日後の天正十九年(1591年)1月27日、わずか4~5歳の幼児であった秀長の娘=おみや(おきく)と祝言を挙げ、婿となった秀保が 養嗣子(ようしし=家督相続人となる養子)として秀長の後を継ぎ、郡山城の城主となったのです。

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大和郡山城址

実は、生前の秀長は、かの丹羽長秀の三男を養子に迎えていたのですが、それを押しのけての、今回の秀保の 養嗣子・・・やはり、それは「血筋を重んじて…」の事と考えられ、これもあって、冒頭の「秀保養子説」は否定され気味なわけですが・・・

こうして秀長の後を継ぐ事になった秀保ですが、未だ13歳の若さあった事から、秀長時代からの家老であった藤堂高虎(とうどうたかとら)桑山重晴(くわやましげはる)が、引き続き家老として秀保をサポートする事になります。

翌年の天正二十年(12月に文禄に改元=1592年)には従三位(じゅさんみ)権中納言(ごんちゅうなごん)の官位を授かり、その年に起こった文禄の役(ぶんろくのえき)(3月17日参照>>)では本陣となる名護屋城(なごやじょう=佐賀県唐津市)の普請にも加わり、1万5千の大軍を率いて参陣しています。
(ただし、未だ若年のため、実際に渡海して朝鮮半島で奮戦したのは藤堂高虎ら)

ちなみに、この文禄の役では、
長兄の秀次は、関白(かんぱく・天正十九年12月に秀吉の後を継いで就任)として京都の聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)にて内政をこなし、
次兄の秀勝は、出征中の朝鮮巨済島(きょさいとう=コジェ)にて病にかかり、そのまま天正二十年の9月に戦病死してます。

それまででも、秀保は、秀吉の後継者として秀次に次ぐ「ナンバー2」とされていましたが、上記の通り次兄の秀勝が亡くなった事で、ますます、その傾向が高まり、

一説には、朝鮮出兵した秀吉は「大陸を征服したあかつきには、後陽成(ごようぜい)天皇に(みん・中国)の皇帝になってもらい、秀次を明の関白にし、秀保に日本の関白を任せようと考えていたとも言われます。

文禄二年(1593年)の8月には、秀吉と、側室の淀殿(よどどの=浅井茶々)との間に豊臣秀頼(ひでより)が生まれますが(8月3日参照>>)、それでも翌年・文禄三年(1594年)2月27日に行われた吉野の花見(2月27日参照>>)では、徳川家康(とくがわいえやす)前田利家(まえだとしいえ)など名だたる武将とともに、秀次ともども、秀保も出席していて、未だ秀吉の期待が大きかった事がうかがえます。

ところが、その翌年の文禄四年(1595年)4月16日突然、秀保は17歳の若さで急死していまいます。

信憑性の高い一級史料である『駒井日記』には、
4月のはじめに天然痘(てんねんとう=疱瘡)か麻疹(ましん・はしか)によって体調を崩し十津川(とつかわ=奈良県吉野郡十津川村)にて療養のために温泉で湯治をしていたものの、4月10日から病状が悪化し、曲直瀬正琳(まなせまさよし=曲直瀬道三>>の弟子)ら複数の医師の治療によって14日には一時的に回復したものの、翌・15日に再び悪化し、16日に帰らぬ人となった・・・

と、ある事から、おそらくは病死というのが正しいのでしょうが、そこは、当然、様々な憶測が飛び交う事になります。

そうです。
秀保の死から、わずか2ヶ月後の6月末、兄の秀次に突然、謀反の疑いが持ち上がり、詰問の末、7月8日には官位をはく奪されて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に送られ、文禄四年(1595年)7月15日に、秀次は切腹させられるのです。

この「秀次切腹事件」の要因には、謀反の他にも、
罪のない領民を的にして射殺したとか、
妊婦を見つけてはその腹を裂いたとか、
殺生禁止の比叡山へ出かけては狩りを楽しんだ
といった乱行が発覚し「殺生関白」などと呼ばれて・・・なんて事も言われていますが(2007年7月15日参照>>)

実は、これと同じような話が秀保さんにもあります。

殺生禁止の猿沢池(さるさわのいけ=奈良県奈良市)法隆寺(ほうりゅうじ=奈良県生駒郡斑鳩町)の池で魚を捕って食べたり、
罪の無い庶民を殺害しまくったり、
定番の妊婦の腹を裂く行為(←は武烈天皇>>の時代からの悪の定番)

また、十津川での療養中に、散策していた滝の周辺にあった高い崖にて、側にいた小姓に向かって
「飛び降りてみろや」
と命令した事で、怒った小姓が秀保に抱き着いて、そのまま二人で崖を飛び降り水死した・・・なんて話もあります。

つまりは、
兄の秀次同様に、秀保も・・・
秀頼という実子が生まれた事によって、
「将来、息子と後継者争いになるのではないか?」
と感じた秀吉によって、あらぬ疑いをかけられて抹殺されたのではないか?
という憶測を呼ぶ事になり、後世に書かれた文献では、ある事無い事ゴチャ混ぜな逸話が散乱する事になったわけです。

今でも、ドラマや小説等では、この流れで描かれる事、ありますよね~

しかし、最近では、特に、秀次さんに関しては、そうではない説が囁かれるようになりました。

そもそも、謀反が原因なら、切腹ではなく処刑されるはずですし(家族は処刑されてますが>>)、一昨年(2019年)の8月には、
秀次の死の3ヶ月前に書かれた「秀次を大和(やまと=奈良)の国主にしたい」という内容の秀吉の書状が見つかった(2019年の新発見>>)事もあり、

今では、秀吉抜きで、周囲の家臣らが先々の後継者争いを懸念して秀次を追い込み、その仕打ちに心を病んだ秀次が、自ら高野山へ逃避行して、切腹=自殺したのではないか?
とも、言われるようになりました。

なので、秀保さんの場合も、単に病気が悪化して亡くなったのであろうと思われますが、秀次&秀勝&秀保の三兄弟全員が、わずか4年の間に亡くなってしまうのは、やはり、「何かあったのか?」と勘ぐってしまいますね。

しかも、この秀保の死によって、秀吉の右腕として活躍した弟の豊臣秀長の家系=大和豊臣家が断絶してしまうのですから、何とも悲しい事ですね。
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2021年1月20日 (水)

里見義堯と久留里城~北条との戦いの日々

 

永禄三年(1560年)1月20日、北条氏康に攻められた里見義堯が上杉謙信に救援を依頼しました

・・・・・・・

久留里城(くるりじょう=千葉県君津市久留里 )は、室町時代中期に上総(かずさ=千葉県中部)武田(たけだ)の祖=武田信長(たけだのぶなが)が構築した城でしたが、その後に、子孫の真里谷(まりやつ)に受け継がれるものの、戦国の動乱の中で安房(あわ=千葉県南部)を本拠とする里見(さとみ)の城となっていました。

やがて、あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)伊豆討ち入り(10月11日参照>>)堀越公方(ほりごえくぼう=静岡県伊豆の国市堀越を本拠とした)足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)倒した後に小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を奪取して本拠とし(2月16日参照>>)て以来、徐々に関東へと勢力を伸ばして来る北条(ほうじょう)と、関東の覇権を巡って度々の衝突を繰り返していた里見・・・
●大永四年(1524年)1月:江戸城高輪の戦い>>
●大永六年(1526年)11月:鶴岡八幡宮の戦い>>

そんな中、古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした)足利高基(あしかがたかもと)晴氏(はるうじ)父子を看板に関東支配を目論む北条氏綱(うじつな=早雲の息子)に対し、小弓公方(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城を本拠とした)足利義明(よしあき=高基の弟)を担いで対抗する里見義堯(さとみよしたか)は、

天文七年(1538年)10月の国府台(こうのだい・千葉県市川市)の戦いに敗れて足利義明を失った(10月7日参照>>)事を受けて、これまでの稲村城(いなむらじょう=千葉県館山市)から久留里城へと本拠を移し、着々とその整備に勤しみ(現在残る曲輪の跡などはこの時の物と見られています)、もはや、公方という看板無しでの関東支配に乗り出します。

これに脅威を感じた北条氏康(うじやす=氏綱の息子)は、娘婿の北条綱成(つなしげ・つななり)に命じて有吉城(ありよしじょう=千葉市緑区おゆみ野)を構築して里見の侵攻に備えます。

一方、この状況に、里見をせん滅せんと撃って出た椎津城(しいづじょう=千葉県市原市)真里谷信政(まりやつのぶまさ=武田信政)らは、天文二十一年(1552年)11月、逆に、里見からの激しい攻撃を受けて敗北・・・真里谷武田家は滅亡します(11月4日参照>>)

こうして、真里谷氏が滅亡してから後も北条氏康は、天文二十三年(1554年)の11月を皮切りに、約3年間に渡って度々渡海し、
「敵を討ち取った者には太刀を与えよう」
「敵地の様子や秘密事項を入手した者には望みの知行地や引き出物を与える」
などと触れを出し、現地の土民たちをも動員して里見への攻撃を繰り返しますが、結局、久留里城を落とせないままでした。

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↑久留里城周辺の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄三年(1560年)に入って、北条が久留里城近くに新たに城を構築し、そこに続々と兵を投入して、まさに一触即発の状況となった永禄三年(1560年)1月20日、里見義堯は家臣の正木憲時(まさきのりとき)から上杉家臣の北条高広(きたじょうたかひろ)を通じて越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)救援を依頼するのです。

これを受けて直ちに出陣した謙信・・・越後の大物の、この速やかな来援のおかげで、北条はここで戦わず、一部の兵を置いて引き揚げていったのでした。

しかし、4年後の永禄七年(1564年)1月の第2次国府台の戦いにて里見義堯&里見義弘(よしひろ=義堯の息子)父子は北条に敗れてしまい(1月8日参照>>)、その勢いのまま侵攻する北条氏康に椎津城や小糸城(こいとじょう=千葉県君津市・秋元城とも)をも落とされ、上総深くまで入り込まれてしまいます。

さらに、その年の10月初めには、かの国府台から逃げ帰った義堯の拠る久留里城を北条軍が囲んだのです。

残念ながら、戦いの詳細や、いつ久留里城が落ちたのか?という記録が無いため、落城の日付を知る事はできませんが、永禄七年(1564年)10月7日の日付にて北条氏康が、小田小太郎(おだこたろう=小田氏治?11月3日参照>>久留里城の城将に据え
「もし、ここを守って忠誠を尽くしてくれたなら本国の常陸(ひたち=茨城県)に戻れるようにする」
との約束を交わしたという記録が残っていますので、おそらく、その頃には、すでに久留里城は開城されていたものと思われます。

ただし、ここで里見が滅ぶ事はなく、再び久留里城を奪回しています。

これまた詳細な記録が無いので曖昧ではありますが、永禄十年(1567年)9月の三船山(みふねやま=千葉県富津市と君津市・三舟山)砦の戦い(9月10日参照>>)の時には、再び里見義堯が久留里城を守っていますので、永禄九年(1566年)か翌十年頃には奪回していたものと思われます。

この後、里見の全盛期を築いた里見義堯は、天正二年(1574年)、68歳にて死去しますが、その死を迎えた場所も久留里城でした。

その死から3年後の天正五年(1577年)、義堯息子の里見義弘と氏康の息子=北条氏政(うじまさ)の間で和睦が成立し(房相一和)、北条と里見の長きに渡る戦いは終了する事になります。
(*ただし、この講和は小田原征伐で北条が滅亡するまで続いたという説と、わずか2年後に破綻していたという説があります)
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2021年1月13日 (水)

北条氏綱、武蔵江戸に進出~江戸城高輪原の戦い

 

大永四年(1524年)1月13日、江戸城内の太田資高の内応を受けた北条氏綱が、扇谷上杉朝興を高輪原で破り、武蔵に進出しました。

・・・・・・

関東に本拠を持ちながら、京都・室町にて幕府を開くことになった足利尊氏(あしかがたかうじ)は、嫡流の義詮(よしあきら=三男)の家系に京都で政務をこなす将軍職を、弟=基氏(もとうじ=四男)の家系に関東を支配する鎌倉公方(かまくらくぼう)を世襲していき、公方を補佐する執事(しつじ=後に関東管領)には上杉(うえすぎ=最初の頃は斯波・畠山)が継いでいくシステムとしますが、

やがて、第6代将軍=足利義教(よしのり)と第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)の頃になって将軍と鎌倉公方が対立し、永享十一年(1439年) の永享の乱(2018年2月10日参照>>)へと発展・・・さらにそれは結城合戦(4月16日参照>>)を経て、一旦、鎌倉公方は断絶状態に追い込まれるものの(2007年2月10日参照>>)、その後、その持氏の遺児=成氏(なりうじ)鎌倉公方に就任し、またぞろ亡き父が目指していたような独立色の強い関東支配を目標に将軍家と対立したため、鎌倉を追われて古河公方(こがくぼう=茨城県古河市を本拠とした事から)を名乗って大暴れしはじめます(9月30日参照>>)

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

それに対抗して、幕府は将軍=義教の息子である足利政知(まさとも)を、公式の鎌倉公方として関東に派遣しますが、関東が動乱のために鎌倉に入れず、やむなく政知は、手前の伊豆堀越(ほりごえ)堀越御所(静岡県伊豆の国市)を建設して、そこを本拠とした事から堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれました。

そんな堀越公方の2代目(←諸説あり)足利茶々丸(ちゃちゃまる)を倒して関東支配に乗り出したのが、ご存じ北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)(10月11日参照>>)でした。

その後、早雲が小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を手中に納める一方で、
管領の上杉家は、その上杉同志=扇谷上杉&山内上杉でモメる(9月27日参照>>)
成氏の後を継いだ古河公方2代目の足利政氏(まさうじ)の息子同志もモメて、古河公方を継いだ兄の高基(たかもと)に対抗して、弟の義明(よしあき)小弓公方(おゆみくぼう=千葉市中央区の小弓城が本拠)を名乗って独立し、ますます関東の覇権争いが泥沼化していきました。

Houzyouuzituna300a そんな中、永正十六年(1519年)に早雲が亡くなってからしばらくは、早雲の後を継いだ息子の北条氏綱(うじつな)が父とともに切り取った伊豆(いず=伊豆半島)相模(さがみ=神奈川県の大部分)領国経営に力を入れて北条家の地盤固めを優先しつつ武蔵(むさし=東京都と神奈川県・埼玉県の一部)への進出を模索していた北条家に、

大永元年(1521年)2月、かねてより北条寄りだった古河公方の高基から、息子の晴氏(はるうじ)と氏綱の(芳春院)との結婚話を打診して来ます。

『北条記』には、この時、同時に、高基から「公方の御後見」の要請があったとされ、これは(どこまで公認&正式だったか?は時期的な事も含めて不明)事実上の関東管領を北条氏綱に担ってもらいたい」という事のようで、つまりは、上り調子の北条の力を得て弟の義明を抑え込み、関東公方の座を盤石な物にしようと考えたのでしょう。

さらに、この翌年の大永二年(1522年)の9月に氏綱の使者が古河御所に派遣されますが、その使者が帰り道に浅草寺(せんそうじ=東京都台東区浅草)を訪問している事も興味深い。。。どうやら、氏綱は、この機会に江戸を取る気満々な雰囲気。

そんな中、扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)に仕えていた太田資高(おおたすけたか)が、北条側へと寝返り、氏綱の娘(浄心院)との結婚の約束を・・・もちろん、これは氏綱の誘いによる政略結婚ですが。。。

実は、この太田資高さん・・・代々上杉家に仕え、あの江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築した太田道灌(どうかん=資長)の孫です。

ご存知のように、道灌は扇谷上杉家の重臣で忠実な家臣でしたが、関東動乱での強さがハンパなく(8月16日参照>>)、その、あまりの強さを恐れた主君=扇谷上杉定正(さだまさ=朝興の祖父)道灌を冷遇したうえに暗殺した(7月26日参照>>)という過去があり、しかも、亡きジッチャンが建てた江戸城に、今現在進行形で仇の孫(定正の息子の養子)である上杉朝興は入っているわけで・・・

おそらくは、そんなジッチャンの遺恨もあっての、今回の資高の寝返り・・・

こうして資高の内応を得た氏綱は、大永四年(1524年)正月、伊豆&相模の軍勢を率いて江戸城攻略に出立します。

1月1日に品川妙国寺(みょうこくじ=東京都品川区・天妙国寺)に、翌12日に本光寺(ほんこうじ=東京都品川区)に入った氏綱に対して、江戸城の上杉朝興は、同じく品川に出陣して迎え撃つ作戦・・・

かくして大永四年(1524年)1月13日、上杉方の先陣=曽我神四郎(そがじんしろう)と、北条方の先陣=多米六郎(ため・たごめろくろう)高輪の原(たかなわのはら=品川区高輪)にてぶつかりました。

そこで、北条方の多米に続く2番手の大道寺八郎兵衛(だいどうじはちろべえ)が、即座にに2手に別れて東西から上杉勢を挟み撃ちにして攻め立てたため、上杉方は総崩れとなり、江戸城に向かって、一斉に撤退し始めました。

一方、江戸城を撃って出た朝興は、氏綱を迎え撃つべく、同じく品川に陣取っていましたが、それを察知した氏綱は渋谷方面へと迂回して江戸城へと押し寄せ、かねての手配通り、内通した太田資高の導きによって、なんなく江戸城に入ったのだとか。

細かな記録は曖昧なものの、太田資高の内応を機に上杉朝興を高輪の原で破り、江戸城に進出した事は確かなようで・・・

この後、江戸城に戻れなくなった朝興は、配下となっている板橋城(いたばしじょう=東京都板橋区)へと逃走しますが、そこでの合戦で城主の板橋某兄弟が討死し、やむなく河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)へと、さらに逃走していったのでした。

この時、かつて太田道灌が江戸城内に創建した芳林院(ほうりんいん)の住職は、氏綱に寺宝を献上して、その庇護下に入る事を表明しています。

こうして武蔵に進出した氏綱・・・
さらに天文七年(1538年)10月には、第一次国府台合戦にて足利義明を討ち取って(10月7日参照>>)小弓公方を滅亡させ、
天文八年(1539年)11月には、かの足利晴氏と娘の結婚も実現させて(11月28日参照>>)
公方の名を後ろ盾に関東支配の夢へと突き進む事になるのですが、

上記の足利家の系図を見ていただければ一目瞭然な通り、やがては、関東公方=足利家も名ばかりとなり、氏綱の息子=の氏康(うじやす)の時代には、河越夜戦にて、古河公方の晴氏もろとも扇谷&山内=両上杉を蹴散らして、名実ともに関東の覇者になる・・・という展開になってしまうわけですが、戦国三大奇襲の一つと言われるそのお話は4月20日のページでどうぞ>>
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2020年11月26日 (木)

松永久秀に城を奪われた筒井順慶の報復~大和高田城の戦い

 

永禄八年(1565年)11月26日、松永久秀に筒井城を奪われた筒井順慶が、布施氏の合力を得て大和高田城を攻撃しました。

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もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地・・・武士政権として全国に守護(しゅご=県知事みたいな)地頭(じとう=荘園等の管理者)を設置した鎌倉幕府でも、大和での守護的役割を果たしていたのは武士ではなく興福寺だったのです。

しかし、その後、寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちが、興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』などとして力を持ちはじめ、やがて、大和の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)となって行き、南北朝の動乱や応仁の乱を経て、大和も群雄割拠する戦国時代へと突入していきました。

Tutuizyunkei600a そんな中で、『衆徒』からのし上がって筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を本拠としてする筒井(つつい)が、筒井順興(つついじゅんこう)順昭(じゅんしょう)父子の時代に、『国民』の代表格である越智(おち)を抑え、大和での最大勢力となるものの、その順昭が亡くなり、わずか2歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が叔父=筒井順政(じゅんせい)の後見のもと後を継いだ頃、

永禄元年(1558年)の白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)の後に、第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦して、事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)配下の松永久秀(まつながひさひで)が、その翌年から大和平定に乗り出して来たわけです(11月24日参照>>)

★ここまでの奈良の戦国に関しては
  ●筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆
  ●奈良統一を目指す~筒井順昭の柳生城攻防戦
  ●奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦
  ●松永久秀の奈良攻略~第2次井戸城の戦い
  ●キリシタン大名:高山友照と沢城の攻防

ここから始まった松永久秀VS筒井順慶による奈良争奪戦・・・

大和平定を開始した永禄二年(1559年)には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、そこを拠点とする松永久秀は、やがて勢いを失い始めた主家の三好に反比例するように、久秀が三好をしのぐ勢いを持ち始めます。

一方、これまでの経緯により、多くの国衆が筒井の配下となっていた大和ですが、相手が天下人=三好をしのぐ勢いの松永久秀となると、当然、その身の振り方も変わって来るわけで・・・筒井に友好的だった者も、しだいに松永になびくようになって行きます。

そんな中の一人が高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)を本拠とする高田(たかだ)・・・これまで、約100年に渡って、筒井の与力を務めていたものの、ここに来て反旗をひるがえしたのです。

そんなこんなの永禄八年(1565年)11月18日、松永久秀が順慶の筒井城を攻撃します。

実は、この時すでに、三好長慶亡きの後に三好を継いだ長慶の甥=三好義継(よしつぐ)と彼をサポートする三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸三好政康石成友通とは距離を置いていた松永久秀に対し、逆に、敵の敵は味方とばかりに筒井順慶は三好三人衆と同盟を結んでいました。

それに気づいた松永久秀が、この2日前の11月16日に飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を三好三人衆に攻撃された事を受けて、
「未だ同盟の足並みそろわぬうちに…」
と、筒井城を急襲したのでした。

その電光石火の攻撃に、三好の援軍が望めないと判断した順慶は、やむなく筒井城を捨てて、味方である布施(ふせ)の居城=布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)へと慌ただしく落ちていったのです(【筒井城攻防】参照>>)

しかし、当然の事ながら、今回の事は、兵力を温存せんがための早目の撤退であって、順慶が「負け」を認めたわけではないですから、ここで布施氏の合力を得た順慶は、すかさずリベンジに出るわけで・・・

もちろん、ここで危険を犯して順慶を受け入れた布施氏とて、その目標は久秀打倒!

そのターゲットは、ここに来て離反した高田城を守る高田当次郎(たかだとうじろう)・・・

かくして永禄八年(1565年)11月26日高田に攻め寄せた筒井&布施連合軍は、城下を焼き払います。

これに報復する高田方は、人質として預かっていた布施氏の面々を串刺しの刑にして対抗・・・その後、高田城に激しく攻めかかる筒井・布施勢でしたが、高田方の守りは固く、合戦は続くものの、なかなか落とせない。

そこで筒井方は高田城の周りに13の付城(つけじろ=攻撃の拠点とする城)を構築し、さらに、二重の堀を巡らして、そこには二間~三間(4~5m)おきに綱を張り巡らして鳴子(なるこ=人が引っかかると音が鳴る装置)を設置し、ネズミ一匹逃がさぬように慎重に、かつ、厳しく攻め立てます。

しかし、結局、最後まで高田城は落城せず・・・

この戦いが終わるのは、なんと永禄十一年(1568年)の10月の事。

そう、室町幕府の第15代将軍となるべき足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した、あの織田信長(おだのぶなが)の登場です。

この永禄十一年(1568年)の9月に上洛して三好三人衆らを蹴散らして、三好の本拠地だった芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に入った信長(9月7日参照>>)のもとに、いちはやく参じて、その傘下を表明し、「大和は切り取り次第(奪い取った地は自由に治めて良い)のお墨付きを得た松永久秀が、

その「将軍&信長」という後ろ盾を得て、高田城への囲みを解くよう介入して来たのです。

ご存知のように、
これ以降の三好三人衆は信長との抗戦にまい進する状態になるわ、信長の登場によって大和の国衆たちが織田になびくわで、3年かかっても高田城を落とせなかった筒井順慶は、ますます孤立無援の状態となってしまうのですが、、、

それはそこ、乱世の梟雄(らんせのきょうゆう)と称される松永久秀が、このまま信長の傘下として、のほほんとおとなしくしているわけはなく・・・久秀が信長に反旗をひるがえしてくれた事により、順慶が信長に近づくスキできて、今度は順慶が織田の傘下となるわけですが、そのお話は信貴山城の戦いのページ>>でどうぞm(_ _)m
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2020年11月 4日 (水)

真里谷武田氏の滅亡~里見義堯の椎津城の戦い

 

天文二十一年(1552年)11月4日、里見義堯に上総椎津城を攻められた真里谷(武田)信政が自刃しました。

・・・・・・・・

安房(あわ=千葉県南部)に根を張る安房里見(あわさとみ)の5代目当主だった里見義堯(さとみよしたか)は、関東の覇権を巡って北条(ほうじょう)と争いつつ、房総半島一帯への勢力拡大にまい進していました。

そんな中、実家の古河公方(こがくぼう=関東を治める足利家)に離反して小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)を占拠し、小弓公方(おゆみくぼう)を自称していた足利義明(あしかがよしあき)を担いで北条と戦った天文七年(1538年)の第1次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦い(10月7日参照>>)で敗れて、担いでいた義明を失うものの、逆に、上総(かずさ=千葉県中部)下総(しもうさ=千葉県北部)へ進出し、公方を担がぬまま=つまりは、里見自身によって房総半島を支配する形となり、里見義堯が当主の頃は久留里城(くるりじょう=千葉県君津市)を本拠に歴代里見氏最大の勢力を誇るようになっていたのです。

一方、その里見の勢いに脅威を感じた北条氏康(ほうじょううじやす=北条早雲の孫で2代目当主)は、娘婿の北条綱成(つなしげ・つななり)に命じて有吉城(ありよしじょう=千葉市緑区おゆみ野)を構築し、その防備を固めるのです。

これを受けた里見義堯は、房総における北条勢力を一掃せんと、すぐさま有吉城へ攻撃を仕掛けますが、北条綱成の見事な防戦により、城を落とす事はできませんでした。

そのため、里見義堯は、天文二十一年(1552年)の4月頃から、北条への最前線である佐貫城(さぬきじょう=千葉県富津市)に徐々に兵を移動させつつ、挽回の機会をうかがいます。

これに対し北条氏康は、万喜城(まんぎじょう=千葉県いすみ市)土岐頼定(ときよりさだ)椎津城(しいづじょう=千葉県市原市)真里谷信政(まりやつのぶまさ=武田信政)に連絡を取って、
「ともに里見をせん滅しよう」
と呼びかけます。

しかし、土岐頼定は北条の呼びかけに応じず、逆に、これを里見に通報・・・知らせを受けた里見義堯は急遽兵をかき集め、天文二十一年(1552年)11月4日、息子の里見義弘(よしひろ)とともに、1万8千余の軍勢で以って、椎津城に向けて出陣したのです。

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●↑椎津城の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

まず佐貫城に入った里見義堯は、ここで自軍を5陣に分けます。

先陣は土岐頼定隊、
第2陣は正木時茂(まさきときしげ)隊、
第3陣は里見義盛(よしもり)隊、
第4陣は里見義弘隊、
第5陣は安西勝高(あんざいかつたか)隊、
里見義堯自身は、息子=義弘が大将を務める第4陣に加わりました。

これを受けた椎津城では、早速、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市北条に援軍の依頼を発するとともに城の防備を固めつつ、配下の精鋭を小糸川(こいとがわ)北岸に詰めさせて渡河して来る里見方をせん滅すべく待ち受けさせる一方で、味方をかき集めて約千騎余となった城兵を、城から5町(約500m)ほど出たところに、山を盾にするよう配置して敵を迎えます。

間もなく、両軍は激しく戦いとなり、椎津城勢も踏ん張りますが、所詮は多勢に無勢・・・やがて、椎津城側の主だった者たちが次々と討死していく中、最前線から離脱し、なんとか城内に戻って来た真里谷信政は、
「もはや、これまで…」
城中にて自刃したのでした。

その3日後には叔父の真里谷信応(のぶまさ)も自害し、ここに真里谷武田家は事実上滅亡します。

真里谷武田家は、あの八幡太郎(はちまんたろう)源義家(みなもとのよしいえ)の弟=新羅三郎(しんらさぶろう)源義光(よしみつ)を祖とする源氏の流れを汲む武田氏の家系で、その11代目=武田信重(たけだのぶしげ=信重から6代目が信玄です)の弟=武田信長(のぶなが)が、例の甲斐(かい=山梨県)無守護状態(7月22日参照>>)から逃れて房総半島に移転したのが始まりとされます。

古河公方の家督争いに敗れた足利義明が小弓公方を名乗っていた頃は、真里谷氏も「房総管領(かんれい=将軍・公方の補佐役)」を名乗って隆盛を誇ったようですが、家内の勢力争いに加え、関東の戦国の波に呑まれて、名門と言えど消えていく事になったのです。

一方で、ご存知のように、里見と北条の戦いは、まだまだ続く事になります。

★関連ページ
 ●逃避行で初恋を実らせた里見義弘と青岳尼
 ●里見VS北条~第二次国府台の合戦
 ●里見VS北条~三船山の戦い…太田氏資の死
 ●里見氏の全盛を築いた南関東の雄・里見義弘
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2020年9月17日 (木)

山城の国一揆の終焉~稲屋妻城の戦い

 

明応二年(1493年)9月17日、守護の伊勢貞陸の命を受けた古市澄胤が反対派の籠る稲屋妻城を陥落させ、山城の国一揆を崩壊させました。

・・・・・・・・・

文明十七年(1485年)12月の集会にて決行された山城の国一揆(くにいっき=国人による一揆)は、応仁の乱(5月20日参照>>)が終わっても、守護(しゅご=県知事)の座を巡っての戦いを止めない畠山義就(よしひろ・よしなり)畠山政長(まさなが)(7月19日参照>>)に対し、
① 畠山両軍の山城からの撤退
② 寺社本所領の還付
③ 新しく造った関所の撤廃

の三条件を提示して一揆を起こし、見事一揆を成功させ(くわしくは12月11日参照>>)、畠山両軍が去った南山城の2郡(現在の京都府南部=久世郡・綴喜郡・相楽郡の付近)を、「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆が自治的に管理運営する事になりました。
(国人=在地の領主・地侍)

一揆翌年の文明十八年(1485年)には、幕府が新しい守護として派遣して来た伊勢貞陸(いせさだみち=幕府政所執事伊勢貞宗の息子)を認めず、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)の重臣である安富元家(やすとみもといえ)を守護に推そうとした事もあったとか・・・

なので、最初の頃は、この伊勢貞陸も山城の国一揆と協調関係を結んで、かなり一揆側に譲った感じ守護継承であったようです。

しかし、その雰囲気が一転するのが、明応二年(1493年)4月に細川政元が起こした「明応の政変 (4月22日参照>>)・・・

これは、管領の政元が、第10代将軍=足利義材(あしかがよしき=義稙)を排除して、自らが推す足利義澄(よしずみ=義材の従兄弟)を新将軍に据えたクーデターだったわけですが、これによって幕府や細川家臣団の力関係が変わり、その家臣団内部の対立が、山城の国人たちにも絡んで来たからなのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以前の山城の国一揆のページ(先ほどの12月11日のページ>>)でも、加賀一向一揆が100年続いたのに対し山城の国一揆はあまり続かなかった・・・

それは、加賀一向一揆がもともと一向宗という宗教の下で団結した人が一揆を起こしたのに対し、山城の国一揆は、一揆のために一つになった人たちが起こした一揆だったから・・・

的な事を書かせていただきましたが、その通り、もともと山城の国一揆は一枚岩では無かったのです。

先にも書いたように国人とはその地に根付く地侍・・・末端の半士半農の者もいるとは言え、結局は武士なわけで、そこには同じ山城に住む者という横の関係とともに、それぞれの国人が抱える将軍を頂点とした武士という縦の関係もあったわけです。

上の方のゴタゴタは、当然、下の者たちにも影響を与えるわけで・・・

そんな中、伊勢貞陸は、政元に京都を追われた足利義材らが、再び京都への侵入を企てている事を利用して「それを防ぐため…」と称して、山城全土の直接支配に踏み出し、大和の有力者で畠山に通じていた古市澄胤(ふるいちちょういん)守護代(しゅごだい=副知事)に任命して、一揆以前の支配体制に戻す方向に進めたのです。

これに対して、山城の国一揆は真っ二つに分かれてしまいます。

自治を放棄し、伊勢貞陸の支配下として優位に生き残ろうとする者と、あくまで、それに反対する者・・・

この一部の者の支持を得た伊勢貞陸は、山城守護として入部しようと試みますが、これに反対する者たちが稲屋妻城(いなやづまじょう=京都府相楽郡精華町・稲八妻城とも)に籠り、徹底抗戦の構えを見せたのです。

そこで伊勢貞陸は、解決のあかつきには綴喜(つづき)相楽(そうらく)の2郡を与えるという条件で、古市澄胤に反対する国人衆の討伐を命じます。

明応二年(1493年)9月11日、大和(やまと=奈良県)から山城へと入った古市澄胤は市坂(いちさか=京都府木津川市)に陣取り、協力する郡代(ぐんだい=地方官)井上九郎(いのうえくろう)祝園(ほうその=京都府相楽郡精華町)に陣を置き、菅井(すがい=同相楽郡精華町)には河内誉田(こんだ)の軍勢50人・・・と、稲屋妻城を囲むように兵を配置して攻撃を開始します。

ままたく間に、数百人が籠っていた稲屋妻城の約70名ばかりを討ち取った古市勢は、これと同時に、伊勢排除の張本人であった稲屋妻庄の公文(くもん=荘園の現地管理役人)進藤父子の館を襲撃して父子を逃亡させます。

こうして、11日に始まった攻撃は、明応二年(1493年)9月17日、稲屋妻城にて抵抗していた反対派をことごとく討ち滅ぼし、戦いは伊勢配下の古市勢の勝利となりました。

残っていた反対勢力も、11月頃までには一掃され、ここに山城の国一揆は終りを告げたのです。

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室町幕府行人連署奉書(国立公文書館蔵)明応二年八月三日付け「伊勢貞陸に従うように通達する内容の幕府の文書」

これを最後に、この南山城で自治体制が再構築される事はなく、一揆の態勢は崩壊して伊勢氏の支配下となり、古市澄胤も力をつける事になりますが、一方で、その後、畠山の家臣が勝手に山城に侵入するのを伊勢貞陸が阻止できなかったりした事から、その支配の弱さを見せてしまい、やがて、この山城一帯も戦国の波に呑まれていく事になるのです。

★この後の山城地域関連の合戦
 ●明応八年(1499年)9月宇治木幡の戦い>>
 ●明応八年(1499年)12月京軍の大和侵攻>>
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2020年9月14日 (月)

1回飛んでからの~大河ドラマ『麒麟がくる』第23回「義輝、夏の終わりに」の感想

 

いやはや…「義輝、夏の終わりに」という題名だったので、てっきり向井将軍様は、今週、逝かれるものと思ってましたが、まだ、次回でしたか~

これまで剣豪っぽい場面を見た記憶が無いので、今回の題名を見て、それこそ最期は剣豪将軍らしく、大立ち回りをして華々しく散られる様を期待していたのでチョッピリ肩透かしを喰らった大河ドラマ『麒麟がくる』第23回「義輝、夏の終わりに」の感想をば、チョコっと。

ま、向井将軍様は気品があり、カッコ良く、それでいて理想を叶えられなかった物悲しさもあり…それが、もう1週見られる事は、それはそれで良いのですが、題名の「義輝、夏の終わりに」は、「義輝、夏の終わりに」ではなく、「義輝、夏の終わり」だったんですね。
(↑ご本人が「私の夏は終わった」と言うてはりました)

それにしても、前回と今回、よく見ると、脚本家さんも演出家さんも違うんですね~

それでかな?

前回、
向井将軍が、
三好長慶(みよしながよし)のせいで、自分の思うようにできない」
からの
「長慶を暗殺しろ」
的な事をのたまい、
それを聞いた長谷川光秀は、ハッキリとOKしたのかは微妙なものの、
「何て事を言うんですか!」
みたいな否定的な言葉は言わず、なんとなく(暗殺を)承諾?したように見えましたが…

なのに、今週は、
「価値の無い将軍はいらない」
という吉田久秀に、
「なんで、サポートしなかったんですか!」
的な文句を垂れ、
「したよ~ でも限界だよ~」
と言う久秀とともに、悔しがってた。。。

いやいや…久秀は長慶の家臣ですがな。

今回の光秀の、この言い分は、自分(久秀にとっては主君)の事を「邪魔だ」「暗殺しろ」と言う将軍のサポートをし続けろって事ですから、それは無理難題・・・てか、前回と今回で思想が変り過ぎではおまへんか?

ま、思想が変り過ぎは、眞島藤孝さんも、同じですがねww
前回は、
「別人のようにふさぎ込んでる将軍様を慰めてやって」
的な事言って、長谷川光秀を京に呼んだにも関わらず、
今回はもう、向井将軍をすっかり見限って、弟の滝藤覚慶(後の義昭)にベッタリ…
(↑藤孝は、何か決め手となって向井将軍を見限ったのかも見たかった)

実際、先週は大型台風が来て大河ドラマが1週飛びましたが、なんだか、そこに、放送されなかった1回があったかのような豹変ぶりに、ちょっと戸惑ってしまいました。

染谷信長に仕え始めた佐々木藤吉郎(後の秀吉)もそうでしたね。
まだ「百人組」の頭という下っ端なので、細かなエピは無いなら無いでも物語は成立しますが、今後、トップクラスの重要人物・・・てか、なんなら、これからの後半戦は長谷川光秀と染谷信長と佐々木藤吉郎が主役=三本柱なのですから、個人的には、もうチョイ藤吉郎仕官のエピが欲しかったです。

だって今回、東庵伊呂波大夫架空=三本柱のエピが、かなり長かったから・・・
色んな事があって、最終回まで急がねばならなくなった中で、あれだけの時間かけて、駒ちゃんの薬の話をするのは、この先、その薬がトンデモない重要なアイテムになるからなんでしょうか?

ここまで来たら、そういう重要な事への伏線と思いたいです。

とは言え、これまでに登場した稲葉山城明智城には無かった天守が、久秀の多門山城(【松永久秀の築城センス】参照>>)にはしっかり描かれてした事は、歴史好きとしてはウレシイ(だから大河が好き!)

できれば、絶賛盛り上がり中の信長の小牧山城の外観も見てみたかったですが(欲は言いますまい)

あと、今回、真夜中に目が覚めて「誰かある」と呼ぶ向井将軍の哀れさ・・・
一般的な時代劇なら、殿様が「誰かある」と呼べば、最後の「る」が聞こえるか聞こえないかの素早さ=「お前、絶対、襖の真ん前に、ずっとおったよな?」的なタイミングで、誰かが「ははぁ」と出て来るはずなのに、今回は、呼べど呼べど誰もいない・・・

人影の無い庭と相まって、寂しさ、空しさ、哀れさが見事に描き出された名場面でしたが、
将軍様、部屋を出るときは、刀一振りくらい持ちましょうよ。
まして、狙われてる事知ってるんですから、そこは、もそっと注意した方が良いです。

ところで、そんな将軍の寂しさは、実際の義輝さんも同様だったかも知れませんね。

なんせ、『万人恐怖』やら『魔将軍』やら『悪御所』やらのニックネームをつけられるほどの暴君(2016年6月24日参照>>)だった第6代室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり=義輝の高祖父)でさえ、嘉吉(かきつ)の乱で暗殺されたら、犯人は身の危険を感じて領国へ逃げ、それを山名宗全(やまなそうぜん=当時は持豊)ら幕府の人間が追討するという形になったわけですが(2009年6月24日参照>>)

向井さん演じる今回の義輝の場合は、犯人を追討しようなどどいう武将はおらず、逆に、犯人たち(とおぼしき人物)が推す足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)朝廷からの宣下を受けて14代将軍になっちゃうわけですから・・・

おそらく、本当に、その権威は失墜していた物と思われます。

今回、そんな将軍の空しさ&哀れさを見事に演じられた向井将軍様・・・
次回の散り際も大いに期待しています。

(↓前回と同じではありますがm(_ _)m)
たぶん来週、もしくは、これから起きる出来事は…
●【足利義輝の壮絶最期】>>
●【足利義昭の興福寺を脱出】>>
●【信長の美濃侵攻~堂洞合戦】>>
●【信長の美濃侵攻~関城の戦い】>>
●【義昭の僕を京都に連れてって】>>
でどうぞ
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2020年9月10日 (木)

里見義弘VS北条氏政~三船山の戦い…太田氏資の死

 

永禄十年(1567年)9月10日、里見義弘北条氏政の拠る三船台砦を攻めて勝利し、北条の援軍だった太田氏資を討ち取りました。

・・・・・・・

永禄七年(1564年)の第2次国府台(こうのだい=千葉県市川市一帯)(1月8日参照>>)にて北条氏康(ほうじょううじやす)北条氏政(うじまさ=氏康の嫡男)父子に敗れた里見義堯(さとみよしたか)里見義弘(よしひろ)父子は、相模(さがみ=神奈川県)を本拠とする北条に、上総(かずさ=千葉県中部)大部分を占領されてしまったため、本拠の安房(あわ=千葉県南部)に力を集中しつつ、山内上杉家(やまうちうえすぎけ)を継いで関東管領(かんとうかんれい=室町幕府の鎌倉府の長官・鎌倉公方の補佐)となって北条と敵対する上杉謙信(うえすぎけんしん)を後ろ盾に挽回の機会を狙っていました。

しかし、その謙信が本領の越後(えちご=新潟県)へと戻った永禄十年(1567年)、里見の重臣を寝返らせた北条は、里見義弘の居城である佐貫城(さぬきじょう=千葉県富津市佐貫)を奪うために、南に約4km隔てた三船山(みふねやま=千葉県富津市と君津市・三舟山)の山麓にある三船台に砦を築こうと北条氏政自らが陣頭指揮を取ります。

「砦ができてしまっては佐貫城が危険に晒される!」
と感じた里見義弘は三船台に駐屯する北条軍を攻撃します

この里見の行動を予測していた北条氏康は、すでに木更津(きさらづ=千葉県中西部・木更津市)方面近くに進ませていた北条氏照(うじてる=氏康の四男)小櫃川(おびつがわ)沿いに真里谷(まりやつ=同木更津市真里谷)へと進ませ、里見義堯の居城である久留里城(くるりじょう=同君津市久留里)の攻撃に向かわせる一方で、

すでに渡海して(江戸湾を渡って)いる岩付城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区・岩槻城)太田氏資(おおたうじすけ)に加え、現地にいる氏政には約3千の兵を派遣して、三船台での対応に当たらせたのでした。

この時の物見の使者の報告によると
「敵(里見方)は多くの兵を先頭に置いているものの、これを蹴散らして布陣すれば、おそらく敵方が攻撃して来るので、そこを横合いから斬り込んで、前後に敵を挟み撃ちにするのが得策」
との事。。。

一方の里見義弘は、近くの八幡山伏兵を潜ませ、自らが戦闘に立つ作戦。

Mifuneyamanotatakai
↑三船山の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永禄十年(1567年)9月10日早朝、三船山の合戦は矢いくさから始まり、やがて両軍がなだれ込んで斬り合いとなりました。
(*日付については8月23日説、2月23日説、10月10日説もあります)

ところが、途中から北条軍が退却し始めます。

そう、待ち伏せして前後で挟む作戦・・・しかし、これを北条の策略と見抜いた里見義弘は、
「敵に誘い込まれないように」
と、周囲に警戒の下知を飛ばします。

しかし、すでに作戦がバレてる事を知らぬ北条方は、この里見方の行動を、
「国府台の時の逃げ腰と同じ」
と考え、一気に追い込まんと斬り込んでいったのです。

三船山の西南に陣取った里見義弘は、北条方をできるだけ近くに引き寄せておいて、伏せていた八幡山の100騎に合図を送り、これを横から一気に攻撃させたのです。

三船山は道も狭く、混乱した北条勢は我先にと退却して行きますが、この周辺は泥沼が点在する湿地帯・・・未だ朝霧が残る状況で逃げ惑う北条勢は、その多くが深い泥沼にはまり身動きが取れなくなり、約3000もの死傷者を出してしまいました。

一方の里見方も約500余りの犠牲者を出しますが、終わってみれば、里見の完全勝利。

この戦いで殿(しんがり=撤退する最後尾)を務めた太田氏資も、自身の配下である52騎とともに三船山の城外にて戦い、壮絶な討死を果たしたと言いますが、実はコレにはちょっとした裏事情があったとされます。

『関八州古戦録』によると・・・
太田氏資がたまたま、北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)に出仕していた時に今回の合戦が起き、氏政からの出撃命令が出たものの、わずかな兵しか連れていなかったので断ろうとすると、周囲にいた武将たちから、
「あの三楽斎資正の息子のくせに、父に似ず、お前は臆病者かww」
とバカにされたため、汚名返上!とばかりに殿をかって出た。。。のだとか

そう、太田氏資の父は、智将と呼ばれる太田資正(すけまさ・三楽斎)(9月8日参照>>)・・・しかも、その4代前は、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を建てた稀代の軍略家として知られる大田道灌(どうかん)(8月16日参照>>)なのです。

そこをイジられたら、氏資のプライドはズタズタですわな。

また、『小田原記』『太田家譜』では・・・
氏資と、父の資正との仲がうまくいってない事を北条が利用して氏資を焚け付け、最も危険な殿を務めるよう持って行った。。。なんて事も囁かれてます。

なんせこの後、北条氏政は、息子(三男)源五郎(げんごろう=北条国増丸)と亡くなった氏資の娘を結婚させて太田を継がせて、その源五郎が早世すると、早々にその奥さんと、すぐ下の息子(四男)と結婚さえて太田氏房(おおたうじふさ)と名乗らせ・・・つまり、太田の名跡を北条が乗っ取った形になるわけです。

なので、太田氏ゆかりの人々からは、
「北条の策略により、氏資は死ぬような危ない任務につかされた」
なんて事も噂されたのだとか。。。。

とにもかくにも、今回の大勝利は里見方に大きな喜びと自信をもたらし、この後、しばらくは房総半島において優位に立ち、北条に奪われた地も回復していく事になるのですが、もちろん、北条は、このままでは終わらない・・・

いや、むしろ北条は、この房総半島よりも、今川義元(いまがわよしもと)亡き後の今川の衰退に目をつけて駿河(するが=静岡県西部)に侵攻して来た甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)とのアレコレに大忙し・・・となるのですが、

それらの個々のお話は【後北条・五代の年表】>>からどうぞ。
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2020年9月 3日 (木)

朝倉孝景が美濃へ侵攻~天文篠脇城の戦い

 

天文九年(1540年)9月3日、美濃に侵攻して来た朝倉孝景を、篠脇城東常慶が迎え撃った天文篠脇城の戦いがありました。

・・・・・・・

美濃(みの=岐阜県南部)守護(しゅご=政府公認の県知事)であった父の土岐政房(ときまさふさ)の後継者を巡って、兄の土岐頼武(よりたけ)と争っていた土岐頼芸(よりあき)は、永正十五年(1518年)、前守護代(しゅごだい=副知事)斎藤彦四郎(さいとうひこしろう)のサポートを受けて、兄を越前(えちぜん=福井県東部)に追放しますが、追放された頼武は、越前の朝倉孝景(あさくらたかかげ=10代宗淳孝景・義景の父)の支援を得て美濃奪回に向けて侵攻を開始します。

この戦いに敗れ、一旦は兄の頼武に守護の座を奪われた頼芸でしたが、美濃代官(だいかん=小守護代)長井長弘(ながいながひろ)や、その家臣の長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう=道三の父)の助力を得て大永五年(1525年)には守護の座を奪回して、再び兄を越前へと追放・・・やがて後ろ盾だった長井長弘や長井新左衛門尉らが亡くなりますが、新左衛門尉の息子で後を継いだ斎藤道三(さいとうどうさん= 当時は長井規秀→斎藤利政)のサポートにより、兄との戦いを繰り返しつつも、その勢力を維持し、天文五年(1536年)には天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得て、正式に美濃守護の座につき、天文八年(1539年)には、享禄三年(1530年)に追放先の越前にて病死した兄=頼武の後を継いだ息子(頼芸にとっては甥っ子)土岐頼純(よりずみ)とも和睦しました。

しかし、この頃になると、頼芸さんは、斎藤の名跡を継いで守護代になっていた斎藤道三の事が、どうも気になりはじめます・・・

そう・・・これまでは、見事に自分をサポートしてくれた道三ではありますが、
ふと、気がつくと「何だか、守護の俺より強くね?」
と、頼芸は、ますます勢いを増していく道三に脅威を持ち始めるのです。

密かに連絡を取り合う越前の朝倉孝景らと頼芸は、まずは朝倉方が南下して郡上(ぐじょう=岐阜県郡上市)を制して頼芸と合流・・・さらに、道三と敵対する尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで=信長の父)に協力してもらって道三を潰すという作戦を練ります。

果たして天文九年(1540年)8月25日、朝倉勢は穴馬(あなま=福井県大野市)から石徹白村(いとしろむら=郡上市白鳥町)へと入り、石徹白城 (いとしろじょう=岐阜県郡上市白鳥町石徹白)石徹白源三郎(いとしろげんざぶろう)を脅して道案内をさせて長瀧寺(ちょうりゅうじ=岐阜県郡上市)に陣取って、向小駄良(むかいこだら=郡上市白鳥町向小駄良)に砦を築き、侵入から7日め、この地域一帯を制する東常慶(とうつねよし・とうのうねよし)の居城=篠脇城(しのわきじょう=岐阜県郡上市大和町)に向かって進撃を開始しました。

この情報を知った篠脇城・・・と、実は、道案内をした石徹白源三郎は東常慶の娘婿。。。脅されて道案内はしたものの、嫁の実家を裏切るのは本意ではなく、密かに使者を派遣して、様子を報告していたのです。

早速、篠脇城では郡内の支族や諸士を招集し、第1陣を阿千葉城(あちばじょう=同郡上市大和町)を中心にした和田川(わだがわ)南岸に、第2陣を松尾城(まつおじょう=同郡上市大和町)を中心にした大間見川(おおまみがわ)東岸に配置し、守備を固めました。

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篠脇城の戦い要図
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(背景は地理院地図>>)

かくして天文九年(1540年)9月3日早朝、南下して来た朝倉勢は、まずは和田川の第1陣とぶつかります。

賢明に防戦する城勢でしたが、残念ながら第1陣が敗れ、まもなく第2陣も突破され、勢いづく朝倉勢が篠脇城めがけて押し寄せてきます。

そんな篠脇城の立地は深い谷間・・・狭い谷が多くの兵馬で満杯になる中、山麓で繰り広げられた死闘により、三日坂一帯は死体で埋め尽くされるほどの激戦となりました。

さらに進む朝倉勢は、城の北側麓にある館や屋敷に火を放ち、もはや篠脇城は裸城となってしまった事で、ここで一気に勝負に出た浅倉勢は、城へと向かって我先に土塁を上り始めます。

このタイミングで、篠脇城勢は、敵兵の頭上めがけて、用意していた石弾を投下・・・このため、多くの朝倉兵が死傷します。

激ヤバとなった浅倉勢が態勢を立て直そうとしているところに、背後から廻って来た木越城(きごえじょう=同郡上市大和町)からの遠藤(えんどう=東氏の支族)六ツ城 (同岐阜県郡上市白鳥町)からの猪俣(いのまた=同じく東氏の支族)軍勢が襲い掛かり、さすがの朝倉勢も混乱して崩れる一方・・・やむなく、谷の奥深くに逃げる者や近くの山中に逃げ込む者など、朝倉勢は、それぞれ散り々々に敗走していきました。

勝利が決定した後も、東勢は山や谷を追撃して回り、その残党狩りを終えたのは、9月23日の事だったと言います。

この戦いに敗れたのが、相当くやしかったのか?
朝倉孝景は、この翌年の天文十年(1541年)にも、再び篠脇城を落とさんと侵攻して来ましたが、その情報を得た東常慶は、今度は城外の要害にて撃退しようと諸々要所の守りを固める一方で、懇意にしている安養寺(あんにょうじ=同郡上市八幡町)の第10世=乗了(じょうりょう)に加勢を依頼し、1000余人の門徒を確保して油坂峠(あぶらさかとうげ=福井県大野市と岐阜県郡上市を結ぶ峠)にて待ち受け、見事、朝倉勢を撃退しています。

というのも、どうやら1回目の戦いで、かなり篠脇城が痛んでしまっていたようで・・・なので東常慶は、そのまま篠脇城を修復する事無く廃城とし、新たに郡上八幡に赤谷山城(あかだにやまじょう=同郡上市八幡町)を築城して、その後は、そちらへ移転しています。

とは言え、この2度の撃退には朝倉孝景も参ったようで、これ以降は郡上への侵攻を諦める事になります。

ただ、当然の事ながら、これで浅倉の美濃侵攻が終わったわけではありません。

それから3年後の天文十三年(1544年)、土岐頼純と浅倉隆景そして連合を組む織田信秀が、今度は郡上ではなく、斎藤道三の拠る稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)へと迫る事になるのですが、これが、今年の大河「麒麟がくる」でも描かれた井ノ口の戦い(9月23日参照>>)という事になります。
(井ノ口の戦いは加納口の戦い(9月22日参照>>)と同一視される場合もあり)
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2020年8月19日 (水)

武田信虎VS今川氏輝&北条氏綱~万沢口の戦いと山中の戦い

 

天文四年(1535年)8月19日、駿河に侵攻してきた武田信虎今川氏輝が迎え撃った万沢口の戦いが、また、3日後の8月22日には、今川を支援する北条氏綱と武田の別動隊が山中湖畔でぶつかった山中の戦いがありました。

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地域の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)たちが群雄割拠する状況から、何とか守護(しゅご=室町幕府政権下での県知事みたいな?)としての復権を果たしつつあった甲斐(かい=山梨県)武田信虎(のぶとら)は、自身が味方する関東管領(かんとうかんれい=鎌倉府の長官で鎌倉公方を補佐する・関東執事)を継承する上杉家(うえすぎけ=山内&扇谷)と、それに敵対する新興勢力の北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)(10月11日参照>>)との関係性から、

Takedanobutora500a その早雲の支援を受けて駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部) を領する今川(いまがわ)の当主となった今川氏親(いまがわうじちか=早雲の甥)とも、度々衝突しては和睦をし・・・という微妙な関係でありましたが、大永元年(1521年)に今川方の重臣であった福島正成(くしままさしげ・ふくしままさなり)甲斐に侵攻して来たのを蹴散らして(10月16日参照>>)以来、ここのところ、直接的な軍事衝突はありませんでした。

しかし大永五年(1525年)に、一旦、北条氏綱(うじつな=早雲の息子・2代目)と結んだ和睦を、山内上杉家に配慮して、事実上の破棄としてしまった事から氏綱との関係が悪化したため、氏綱を援助する形をとっていた今川氏親との関係も、あまりよろしくなくなってしまっていたのです。

『勝山記』の大永五年の条には
「駿河ト甲州ハ未和睦無シ」
とあり、この頃から、両者の間に小競り合いが生じていた事を伺わせます。

ところが、その翌年=大永六年(1526年)の6月に今川氏親が死去・・・氏親奥さんの寿桂尼(じゅけいに)が後見を務めるとは言え、後を継いだ息子の今川氏輝(うじてる)が、未だ14歳だった事で駿河に動揺が走ったのか?
この翌年に、今川と武田の間に和睦が結ばれています。

しかし、かりそめの和睦は、すぐに破られる事に・・・

天文四年(1535年)に入って、武田信虎が駿河への侵攻を開始したのです。

Houzyouuzituna300a6月5日に信虎が駿河に向けて出陣した事を知った今川方では、同盟者である北条氏綱にも出陣の要請をします。

7月17日には駿河富士郡(ふじぐん=静岡県芝川町付近)を放火して回る武田軍に対し、7月27日に武田軍を迎え撃つべく出陣する今川軍・・・

一方、要請に応じた氏綱が、息子=氏康(うじやす)とともに2万の大軍を率いて、8月16日には郡内(ぐんない=山梨県都留郡周辺)へと侵攻して来た事を受けて、信虎は、郡内を任せている妹婿(もしくは娘婿)小山田信有(おやまだのぶあり)に、その抑えを命じ、サポート役として異母弟の勝沼信友(かつぬまのぶとも)ともに別動隊として出陣させます。

しかし、その別動隊の数は、わずかに2000ほど・・・

そんなこんなの、天文四年(1535年)8月19日、武田信虎と今川氏輝が万沢口(まんざわぐち=山梨県南都留郡南部町)にて交戦します。

とは言え、はげしくぶつかり合うものの、両者ともに一進一退・・・結局、この万沢口での戦いは決着がつかず、引き分けとなります。

ところが、その3日後の天文四年(1535年)8月22日、今度は、山中湖畔(やまなかこ=山梨県南都留郡山中湖村)において、先の武田の別動隊と侵攻して来た北条軍とがぶつかるです。

山中湖畔での戦いは、ほぼ一日中に渡って合戦が繰り広げられ、午後2時頃に決着・・・
『勝山記』によれば、
「小山田殿劣被食候而
 弾正殿(小山田有誠の父の事)
 大輔殿(勝沼信友の事)
 従者周防殿…随分方々打死被食候
 殊ニ勝沼ノ人数以上二百四十人打死申候」
と、コチラの山中の戦いでは武田勢が大敗した事が記されています。

このあと北条勢は、その日のうちに上吉田(かみよしだ=山梨県富士吉田市)、翌日には下吉田(しもよしだ=同富士吉田市)を焼き払って意気の高いところを見せますが、24日には、足早に本拠の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)へと帰還していきました。

というのは、今川と北条の連携プレーによって、河内(かわち=山梨県笛吹市周辺)と郡内の二面作戦を強いられてしまった信虎が、このピンチを脱すべく、同盟者である扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)に、氏綱らが留守となった相模(さがみ=神奈川県)を突いてくれるよう働きかけていた事で、その危険を察知した氏綱が、慌てて撤兵して戻って行った・・・という事らしい。

この時、信虎の要請に応じて出陣してくれた上杉朝興は、9月には大磯(おおいそ=神奈川県中郡大磯町)辺りまで侵出して、その一帯を焼き払った後、10月6日に本拠の川越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に戻ったのだとか・・・

この上杉朝興の行動によって危機を脱した信虎でしたが、上記の通り、弟を失ってしまうなど、万沢口&山中湖での戦いは、信虎にとってかなりの痛手となってしまいました。

とは言え、この翌年の天文五年(1536年)に今川氏輝が死去・・・氏輝の弟同志による後継者争いとして勃発した花倉の乱(はなくらのらん)(6月10日参照>>)に介入した信虎は、乱に勝利して後継者となった今川義元(よしもと)との結びつきを強め、このあと武田と今川の同盟を成立させます。

この同盟の成立によって、逆に今川と北条の同盟が破棄となり、この後は、武田&今川両氏と北条氏が、駿東方面にて抗争を繰り返すようになり、やがては、北条と今川の間には世に河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる激しい戦いが展開される事になりますが、そのお話は、また、それぞれの日付にて書かせていただきたいと思います。
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