2020年9月17日 (木)

山城の国一揆の終焉~稲屋妻城の戦い

 

明応二年(1493年)9月17日、守護の伊勢貞陸の命を受けた古市澄胤が反対派の籠る稲屋妻城を陥落させ、山城の国一揆を崩壊させました。

・・・・・・・・・

文明十七年(1485年)12月の集会にて決行された山城の国一揆(くにいっき=国人による一揆)は、応仁の乱(5月20日参照>>)が終わっても、守護(しゅご=県知事)の座を巡っての戦いを止めない畠山義就(よしひろ・よしなり)畠山政長(まさなが)(7月19日参照>>)に対し、
① 畠山両軍の山城からの撤退
② 寺社本所領の還付
③ 新しく造った関所の撤廃

の三条件を提示して一揆を起こし、見事一揆を成功させ(くわしくは12月11日参照>>)、畠山両軍が去った南山城の2郡(現在の京都府南部=久世郡・綴喜郡・相楽郡の付近)を、「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆が自治的に管理運営する事になりました。
(国人=在地の領主・地侍)

一揆翌年の文明十八年(1485年)には、幕府が新しい守護として派遣して来た伊勢貞陸(いせさだみち=幕府政所執事伊勢貞宗の息子)を認めず、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)の重臣である安富元家(やすとみもといえ)を守護に推そうとした事もあったとか・・・

なので、最初の頃は、この伊勢貞陸も山城の国一揆と協調関係を結んで、かなり一揆側に譲った感じ守護継承であったようです。

しかし、その雰囲気が一転するのが、明応二年(1493年)4月に細川政元が起こした「明応の政変 (4月22日参照>>)・・・

これは、管領の政元が、第10代将軍=足利義材(あしかがよしき=義稙)を排除して、自らが推す足利義澄(よしずみ=義材の従兄弟)を新将軍に据えたクーデターだったわけですが、これによって幕府や細川家臣団の力関係が変わり、その家臣団内部の対立が、山城の国人たちにも絡んで来たからなのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以前の山城の国一揆のページ(先ほどの12月11日のページ>>)でも、加賀一向一揆が100年続いたのに対し山城の国一揆はあまり続かなかった・・・

それは、加賀一向一揆がもともと一向宗という宗教の下で団結した人が一揆を起こしたのに対し、山城の国一揆は、一揆のために一つになった人たちが起こした一揆だったから・・・

的な事を書かせていただきましたが、その通り、もともと山城の国一揆は一枚岩では無かったのです。

先にも書いたように国人とはその地に根付く地侍・・・末端の半士半農の者もいるとは言え、結局は武士なわけで、そこには同じ山城に住む者という横の関係とともに、それぞれの国人が抱える将軍を頂点とした武士という縦の関係もあったわけです。

上の方のゴタゴタは、当然、下の者たちにも影響を与えるわけで・・・

そんな中、伊勢貞陸は、政元に京都を追われた足利義材らが、再び京都への侵入を企てている事を利用して「それを防ぐため…」と称して、山城全土の直接支配に踏み出し、大和の有力者で畠山に通じていた古市澄胤(ふるいちちょういん)守護代(しゅごだい=副知事)に任命して、一揆以前の支配体制に戻す方向に進めたのです。

これに対して、山城の国一揆は真っ二つに分かれてしまいます。

自治を放棄し、伊勢貞陸の支配下として優位に生き残ろうとする者と、あくまで、それに反対する者・・・

この一部の者の支持を得た伊勢貞陸は、山城守護として入部しようと試みますが、これに反対する者たちが稲屋妻城(いなやづまじょう=京都府相楽郡精華町・稲八妻城とも)に籠り、徹底抗戦の構えを見せたのです。

そこで伊勢貞陸は、解決のあかつきには綴喜(つづき)相楽(そうらく)の2郡を与えるという条件で、古市澄胤に反対する国人衆の討伐を命じます。

明応二年(1493年)9月11日、大和(やまと=奈良県)から山城へと入った古市澄胤は市坂(いちさか=京都府木津川市)に陣取り、協力する郡代(ぐんだい=地方官)井上九郎(いのうえくろう)祝園(ほうその=京都府相楽郡精華町)に陣を置き、菅井(すがい=同相楽郡精華町)には河内誉田(こんだ)の軍勢50人・・・と、稲屋妻城を囲むように兵を配置して攻撃を開始します。

ままたく間に、数百人が籠っていた稲屋妻城の約70名ばかりを討ち取った古市勢は、これと同時に、伊勢排除の張本人であった稲屋妻庄の公文(くもん=荘園の現地管理役人)進藤父子の館を襲撃して父子を逃亡させます。

こうして、11日に始まった攻撃は、明応二年(1493年)9月17日、稲屋妻城にて抵抗していた反対派をことごとく討ち滅ぼし、戦いは伊勢配下の古市勢の勝利となりました。

残っていた反対勢力も、11月頃までには一掃され、ここに山城の国一揆は終りを告げたのです。

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室町幕府行人連署奉書(国立公文書館蔵)明応二年八月三日付け「伊勢貞陸に従うように通達する内容の幕府の文書」

これを最後に、この南山城で自治体制が再構築される事はなく、一揆の態勢は崩壊して伊勢氏の支配下となり、古市澄胤も力をつける事になりますが、一方で、その後、畠山の家臣が勝手に山城に侵入するのを伊勢貞陸が阻止できなかったりした事から、その支配の弱さを見せてしまい、やがて、この山城一帯も戦国の波に呑まれていく事になるのです。

★この後の山城地域関連の合戦
 ●明応八年(1499年)9月宇治木幡の戦い>>
 ●明応八年(1499年)12月京軍の大和侵攻>>
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2020年9月14日 (月)

1回飛んでからの~大河ドラマ『麒麟がくる』第23回「義輝、夏の終わりに」の感想

 

いやはや…「義輝、夏の終わりに」という題名だったので、てっきり向井将軍様は、今週、逝かれるものと思ってましたが、まだ、次回でしたか~

これまで剣豪っぽい場面を見た記憶が無いので、今回の題名を見て、それこそ最期は剣豪将軍らしく、大立ち回りをして華々しく散られる様を期待していたのでチョッピリ肩透かしを喰らった大河ドラマ『麒麟がくる』第23回「義輝、夏の終わりに」の感想をば、チョコっと。

ま、向井将軍様は気品があり、カッコ良く、それでいて理想を叶えられなかった物悲しさもあり…それが、もう1週見られる事は、それはそれで良いのですが、題名の「義輝、夏の終わりに」は、「義輝、夏の終わりに」ではなく、「義輝、夏の終わり」だったんですね。
(↑ご本人が「私の夏は終わった」と言うてはりました)

それにしても、前回と今回、よく見ると、脚本家さんも演出家さんも違うんですね~

それでかな?

前回、
向井将軍が、
三好長慶(みよしながよし)のせいで、自分の思うようにできない」
からの
「長慶を暗殺しろ」
的な事をのたまい、
それを聞いた長谷川光秀は、ハッキリとOKしたのかは微妙なものの、
「何て事を言うんですか!」
みたいな否定的な言葉は言わず、なんとなく(暗殺を)承諾?したように見えましたが…

なのに、今週は、
「価値の無い将軍はいらない」
という吉田久秀に、
「なんで、サポートしなかったんですか!」
的な文句を垂れ、
「したよ~ でも限界だよ~」
と言う久秀とともに、悔しがってた。。。

いやいや…久秀は長慶の家臣ですがな。

今回の光秀の、この言い分は、自分(久秀にとっては主君)の事を「邪魔だ」「暗殺しろ」と言う将軍のサポートをし続けろって事ですから、それは無理難題・・・てか、前回と今回で思想が変り過ぎではおまへんか?

ま、思想が変り過ぎは、眞島藤孝さんも、同じですがねww
前回は、
「別人のようにふさぎ込んでる将軍様を慰めてやって」
的な事言って、長谷川光秀を京に呼んだにも関わらず、
今回はもう、向井将軍をすっかり見限って、弟の滝藤覚慶(後の義昭)にベッタリ…
(↑藤孝は、何か決め手となって向井将軍を見限ったのかも見たかった)

実際、先週は大型台風が来て大河ドラマが1週飛びましたが、なんだか、そこに、放送されなかった1回があったかのような豹変ぶりに、ちょっと戸惑ってしまいました。

染谷信長に仕え始めた佐々木藤吉郎(後の秀吉)もそうでしたね。
まだ「百人組」の頭という下っ端なので、細かなエピは無いなら無いでも物語は成立しますが、今後、トップクラスの重要人物・・・てか、なんなら、これからの後半戦は長谷川光秀と染谷信長と佐々木藤吉郎が主役=三本柱なのですから、個人的には、もうチョイ藤吉郎仕官のエピが欲しかったです。

だって今回、東庵伊呂波大夫架空=三本柱のエピが、かなり長かったから・・・
色んな事があって、最終回まで急がねばならなくなった中で、あれだけの時間かけて、駒ちゃんの薬の話をするのは、この先、その薬がトンデモない重要なアイテムになるからなんでしょうか?

ここまで来たら、そういう重要な事への伏線と思いたいです。

とは言え、これまでに登場した稲葉山城明智城には無かった天守が、久秀の多門山城(【松永久秀の築城センス】参照>>)にはしっかり描かれてした事は、歴史好きとしてはウレシイ(だから大河が好き!)

できれば、絶賛盛り上がり中の信長の小牧山城の外観も見てみたかったですが(欲は言いますまい)

あと、今回、真夜中に目が覚めて「誰かある」と呼ぶ向井将軍の哀れさ・・・
一般的な時代劇なら、殿様が「誰かある」と呼べば、最後の「る」が聞こえるか聞こえないかの素早さ=「お前、絶対、襖の真ん前に、ずっとおったよな?」的なタイミングで、誰かが「ははぁ」と出て来るはずなのに、今回は、呼べど呼べど誰もいない・・・

人影の無い庭と相まって、寂しさ、空しさ、哀れさが見事に描き出された名場面でしたが、
将軍様、部屋を出るときは、刀一振りくらい持ちましょうよ。
まして、狙われてる事知ってるんですから、そこは、もそっと注意した方が良いです。

ところで、そんな将軍の寂しさは、実際の義輝さんも同様だったかも知れませんね。

なんせ、『万人恐怖』やら『魔将軍』やら『悪御所』やらのニックネームをつけられるほどの暴君(2016年6月24日参照>>)だった第6代室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり=義輝の高祖父)でさえ、嘉吉(かきつ)の乱で暗殺されたら、犯人は身の危険を感じて領国へ逃げ、それを山名宗全(やまなそうぜん=当時は持豊)ら幕府の人間が追討するという形になったわけですが(2009年6月24日参照>>)

向井さん演じる今回の義輝の場合は、犯人を追討しようなどどいう武将はおらず、逆に、犯人たち(とおぼしき人物)が推す足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)朝廷からの宣下を受けて14代将軍になっちゃうわけですから・・・

おそらく、本当に、その権威は失墜していた物と思われます。

今回、そんな将軍の空しさ&哀れさを見事に演じられた向井将軍様・・・
次回の散り際も大いに期待しています。

(↓前回と同じではありますがm(_ _)m)
たぶん来週、もしくは、これから起きる出来事は…
●【足利義輝の壮絶最期】>>
●【足利義昭の興福寺を脱出】>>
●【信長の美濃侵攻~堂洞合戦】>>
●【信長の美濃侵攻~関城の戦い】>>
●【義昭の僕を京都に連れてって】>>
でどうぞ
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2020年9月10日 (木)

里見義弘VS北条氏政~三船山の戦い…太田氏資の死

 

永禄十年(1567年)9月10日、里見義弘北条氏政の拠る三船台砦を攻めて勝利し、北条の援軍だった太田氏資を討ち取りました。

・・・・・・・

永禄七年(1564年)の第2次国府台(こうのだい=千葉県市川市一帯)(1月8日参照>>)にて北条氏康(ほうじょううじやす)北条氏政(うじまさ=氏康の嫡男)父子に敗れた里見義堯(さとみよしたか)里見義弘(よしひろ)父子は、相模(さがみ=神奈川県)を本拠とする北条に、上総(かずさ=千葉県中部)大部分を占領されてしまったため、本拠の安房(あわ=千葉県南部)に力を集中しつつ、山内上杉家(やまうちうえすぎけ)を継いで関東管領(かんとうかんれい=室町幕府の鎌倉府の長官・鎌倉公方の補佐)となって北条と敵対する上杉謙信(うえすぎけんしん)を後ろ盾に挽回の機会を狙っていました。

しかし、その謙信が本領の越後(えちご=新潟県)へと戻った永禄十年(1567年)、里見の重臣を寝返らせた北条は、里見義弘の居城である佐貫城(さぬきじょう=千葉県富津市佐貫)を奪うために、南に約4km隔てた三船山(みふねやま=千葉県富津市と君津市・三舟山)の山麓にある三船台に砦を築こうと北条氏政自らが陣頭指揮を取ります。

「砦ができてしまっては佐貫城が危険に晒される!」
と感じた里見義弘は三船台に駐屯する北条軍を攻撃します

この里見の行動を予測していた北条氏康は、すでに木更津(きさらづ=千葉県中西部・木更津市)方面近くに進ませていた北条氏照(うじてる=氏康の四男)小櫃川(おびつがわ)沿いに真里谷(まりやつ=同木更津市真里谷)へと進ませ、里見義堯の居城である久留里城(くるりじょう=同君津市久留里)の攻撃に向かわせる一方で、

すでに渡海して(江戸湾を渡って)いる岩付城(いわつきじょう=埼玉県さいたま市岩槻区・岩槻城)太田氏資(おおたうじすけ)に加え、現地にいる氏政には約3千の兵を派遣して、三船台での対応に当たらせたのでした。

この時の物見の使者の報告によると
「敵(里見方)は多くの兵を先頭に置いているものの、これを蹴散らして布陣すれば、おそらく敵方が攻撃して来るので、そこを横合いから斬り込んで、前後に敵を挟み撃ちにするのが得策」
との事。。。

一方の里見義弘は、近くの八幡山伏兵を潜ませ、自らが戦闘に立つ作戦。

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↑三船山の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永禄十年(1567年)9月10日早朝、三船山の合戦は矢いくさから始まり、やがて両軍がなだれ込んで斬り合いとなりました。
(*日付については8月23日説、2月23日説、10月10日説もあります)

ところが、途中から北条軍が退却し始めます。

そう、待ち伏せして前後で挟む作戦・・・しかし、これを北条の策略と見抜いた里見義弘は、
「敵に誘い込まれないように」
と、周囲に警戒の下知を飛ばします。

しかし、すでに作戦がバレてる事を知らぬ北条方は、この里見方の行動を、
「国府台の時の逃げ腰と同じ」
と考え、一気に追い込まんと斬り込んでいったのです。

三船山の西南に陣取った里見義弘は、北条方をできるだけ近くに引き寄せておいて、伏せていた八幡山の100騎に合図を送り、これを横から一気に攻撃させたのです。

三船山は道も狭く、混乱した北条勢は我先にと退却して行きますが、この周辺は泥沼が点在する湿地帯・・・未だ朝霧が残る状況で逃げ惑う北条勢は、その多くが深い泥沼にはまり身動きが取れなくなり、約3000もの死傷者を出してしまいました。

一方の里見方も約500余りの犠牲者を出しますが、終わってみれば、里見の完全勝利。

この戦いで殿(しんがり=撤退する最後尾)を務めた太田氏資も、自身の配下である52騎とともに三船山の城外にて戦い、壮絶な討死を果たしたと言いますが、実はコレにはちょっとした裏事情があったとされます。

『関八州古戦録』によると・・・
太田氏資がたまたま、北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)に出仕していた時に今回の合戦が起き、氏政からの出撃命令が出たものの、わずかな兵しか連れていなかったので断ろうとすると、周囲にいた武将たちから、
「あの三楽斎資正の息子のくせに、父に似ず、お前は臆病者かww」
とバカにされたため、汚名返上!とばかりに殿をかって出た。。。のだとか

そう、太田氏資の父は、智将と呼ばれる太田資正(すけまさ・三楽斎)(9月8日参照>>)・・・しかも、その4代前は、江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を建てた稀代の軍略家として知られる大田道灌(どうかん)(8月16日参照>>)なのです。

そこをイジられたら、氏資のプライドはズタズタですわな。

また、『小田原記』『太田家譜』では・・・
氏資と、父の資正との仲がうまくいってない事を北条が利用して氏資を焚け付け、最も危険な殿を務めるよう持って行った。。。なんて事も囁かれてます。

なんせこの後、北条氏政は、息子(三男)源五郎(げんごろう=北条国増丸)と亡くなった氏資の娘を結婚させて太田を継がせて、その源五郎が早世すると、早々にその奥さんと、すぐ下の息子(四男)と結婚さえて太田氏房(おおたうじふさ)と名乗らせ・・・つまり、太田の名跡を北条が乗っ取った形になるわけです。

なので、太田氏ゆかりの人々からは、
「北条の策略により、氏資は死ぬような危ない任務につかされた」
なんて事も噂されたのだとか。。。。

とにもかくにも、今回の大勝利は里見方に大きな喜びと自信をもたらし、この後、しばらくは房総半島において優位に立ち、北条に奪われた地も回復していく事になるのですが、もちろん、北条は、このままでは終わらない・・・

いや、むしろ北条は、この房総半島よりも、今川義元(いまがわよしもと)亡き後の今川の衰退に目をつけて駿河(するが=静岡県西部)に侵攻して来た甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)とのアレコレに大忙し・・・となるのですが、

それらの個々のお話は【後北条・五代の年表】>>からどうぞ。
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2020年9月 3日 (木)

朝倉孝景が美濃へ侵攻~天文篠脇城の戦い

 

天文九年(1540年)9月3日、美濃に侵攻して来た朝倉孝景を、篠脇城東常慶が迎え撃った天文篠脇城の戦いがありました。

・・・・・・・

美濃(みの=岐阜県南部)守護(しゅご=政府公認の県知事)であった父の土岐政房(ときまさふさ)の後継者を巡って、兄の土岐頼武(よりたけ)と争っていた土岐頼芸(よりあき)は、永正十五年(1518年)、前守護代(しゅごだい=副知事)斎藤彦四郎(さいとうひこしろう)のサポートを受けて、兄を越前(えちぜん=福井県東部)に追放しますが、追放された頼武は、越前の朝倉孝景(あさくらたかかげ=10代宗淳孝景・義景の父)の支援を得て美濃奪回に向けて侵攻を開始します。

この戦いに敗れ、一旦は兄の頼武に守護の座を奪われた頼芸でしたが、美濃代官(だいかん=小守護代)長井長弘(ながいながひろ)や、その家臣の長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう=道三の父)の助力を得て大永五年(1525年)には守護の座を奪回して、再び兄を越前へと追放・・・やがて後ろ盾だった長井長弘や長井新左衛門尉らが亡くなりますが、新左衛門尉の息子で後を継いだ斎藤道三(さいとうどうさん= 当時は長井規秀→斎藤利政)のサポートにより、兄との戦いを繰り返しつつも、その勢力を維持し、天文五年(1536年)には天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得て、正式に美濃守護の座につき、天文八年(1539年)には、享禄三年(1530年)に追放先の越前にて病死した兄=頼武の後を継いだ息子(頼芸にとっては甥っ子)土岐頼純(よりずみ)とも和睦しました。

しかし、この頃になると、頼芸さんは、斎藤の名跡を継いで守護代になっていた斎藤道三の事が、どうも気になりはじめます・・・

そう・・・これまでは、見事に自分をサポートしてくれた道三ではありますが、
ふと、気がつくと「何だか、守護の俺より強くね?」
と、頼芸は、ますます勢いを増していく道三に脅威を持ち始めるのです。

密かに連絡を取り合う越前の朝倉孝景らと頼芸は、まずは朝倉方が南下して郡上(ぐじょう=岐阜県郡上市)を制して頼芸と合流・・・さらに、道三と敵対する尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで=信長の父)に協力してもらって道三を潰すという作戦を練ります。

果たして天文九年(1540年)8月25日、朝倉勢は穴馬(あなま=福井県大野市)から石徹白村(いとしろむら=郡上市白鳥町)へと入り、石徹白城 (いとしろじょう=岐阜県郡上市白鳥町石徹白)石徹白源三郎(いとしろげんざぶろう)を脅して道案内をさせて長瀧寺(ちょうりゅうじ=岐阜県郡上市)に陣取って、向小駄良(むかいこだら=郡上市白鳥町向小駄良)に砦を築き、侵入から7日め、この地域一帯を制する東常慶(とうつねよし・とうのうねよし)の居城=篠脇城(しのわきじょう=岐阜県郡上市大和町)に向かって進撃を開始しました。

この情報を知った篠脇城・・・と、実は、道案内をした石徹白源三郎は東常慶の娘婿。。。脅されて道案内はしたものの、嫁の実家を裏切るのは本意ではなく、密かに使者を派遣して、様子を報告していたのです。

早速、篠脇城では郡内の支族や諸士を招集し、第1陣を阿千葉城(あちばじょう=同郡上市大和町)を中心にした和田川(わだがわ)南岸に、第2陣を松尾城(まつおじょう=同郡上市大和町)を中心にした大間見川(おおまみがわ)東岸に配置し、守備を固めました。

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篠脇城の戦い要図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

かくして天文九年(1540年)9月3日早朝、南下して来た朝倉勢は、まずは和田川の第1陣とぶつかります。

賢明に防戦する城勢でしたが、残念ながら第1陣が敗れ、まもなく第2陣も突破され、勢いづく朝倉勢が篠脇城めがけて押し寄せてきます。

そんな篠脇城の立地は深い谷間・・・狭い谷が多くの兵馬で満杯になる中、山麓で繰り広げられた死闘により、三日坂一帯は死体で埋め尽くされるほどの激戦となりました。

さらに進む朝倉勢は、城の北側麓にある館や屋敷に火を放ち、もはや篠脇城は裸城となってしまった事で、ここで一気に勝負に出た浅倉勢は、城へと向かって我先に土塁を上り始めます。

このタイミングで、篠脇城勢は、敵兵の頭上めがけて、用意していた石弾を投下・・・このため、多くの朝倉兵が死傷します。

激ヤバとなった浅倉勢が態勢を立て直そうとしているところに、背後から廻って来た木越城(きごえじょう=同郡上市大和町)からの遠藤(えんどう=東氏の支族)六ツ城 (同岐阜県郡上市白鳥町)からの猪俣(いのまた=同じく東氏の支族)軍勢が襲い掛かり、さすがの朝倉勢も混乱して崩れる一方・・・やむなく、谷の奥深くに逃げる者や近くの山中に逃げ込む者など、朝倉勢は、それぞれ散り々々に敗走していきました。

勝利が決定した後も、東勢は山や谷を追撃して回り、その残党狩りを終えたのは、9月23日の事だったと言います。

この戦いに敗れたのが、相当くやしかったのか?
朝倉孝景は、この翌年の天文十年(1541年)にも、再び篠脇城を落とさんと侵攻して来ましたが、その情報を得た東常慶は、今度は城外の要害にて撃退しようと諸々要所の守りを固める一方で、懇意にしている安養寺(あんにょうじ=同郡上市八幡町)の第10世=乗了(じょうりょう)に加勢を依頼し、1000余人の門徒を確保して油坂峠(あぶらさかとうげ=福井県大野市と岐阜県郡上市を結ぶ峠)にて待ち受け、見事、朝倉勢を撃退しています。

というのも、どうやら1回目の戦いで、かなり篠脇城が痛んでしまっていたようで・・・なので東常慶は、そのまま篠脇城を修復する事無く廃城とし、新たに郡上八幡に赤谷山城(あかだにやまじょう=同郡上市八幡町)を築城して、その後は、そちらへ移転しています。

とは言え、この2度の撃退には朝倉孝景も参ったようで、これ以降は郡上への侵攻を諦める事になります。

ただ、当然の事ながら、これで浅倉の美濃侵攻が終わったわけではありません。

それから3年後の天文十三年(1544年)、土岐頼純と浅倉隆景そして連合を組む織田信秀が、今度は郡上ではなく、斎藤道三の拠る稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)へと迫る事になるのですが、これが、今年の大河「麒麟がくる」でも描かれた井ノ口の戦い(9月23日参照>>)という事になります。
(井ノ口の戦いは加納口の戦い(9月22日参照>>)と同一視される場合もあり)
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2020年8月19日 (水)

武田信虎VS今川氏輝&北条氏綱~万沢口の戦いと山中の戦い

 

天文四年(1535年)8月19日、駿河に侵攻してきた武田信虎今川氏輝が迎え撃った万沢口の戦いが、また、3日後の8月22日には、今川を支援する北条氏綱と武田の別動隊が山中湖畔でぶつかった山中の戦いがありました。

・・・・・・・・

地域の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)たちが群雄割拠する状況から、何とか守護(しゅご=室町幕府政権下での県知事みたいな?)としての復権を果たしつつあった甲斐(かい=山梨県)武田信虎(のぶとら)は、自身が味方する関東管領(かんとうかんれい=鎌倉府の長官で鎌倉公方を補佐する・関東執事)を継承する上杉家(うえすぎけ=山内&扇谷)と、それに敵対する新興勢力の北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)(10月11日参照>>)との関係性から、

Takedanobutora500a その早雲の支援を受けて駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部) を領する今川(いまがわ)の当主となった今川氏親(いまがわうじちか=早雲の甥)とも、度々衝突しては和睦をし・・・という微妙な関係でありましたが、大永元年(1521年)に今川方の重臣であった福島正成(くしままさしげ・ふくしままさなり)甲斐に侵攻して来たのを蹴散らして(10月16日参照>>)以来、ここのところ、直接的な軍事衝突はありませんでした。

しかし大永五年(1525年)に、一旦、北条氏綱(うじつな=早雲の息子・2代目)と結んだ和睦を、山内上杉家に配慮して、事実上の破棄としてしまった事から氏綱との関係が悪化したため、氏綱を援助する形をとっていた今川氏親との関係も、あまりよろしくなくなってしまっていたのです。

『勝山記』の大永五年の条には
「駿河ト甲州ハ未和睦無シ」
とあり、この頃から、両者の間に小競り合いが生じていた事を伺わせます。

ところが、その翌年=大永六年(1526年)の6月に今川氏親が死去・・・氏親奥さんの寿桂尼(じゅけいに)が後見を務めるとは言え、後を継いだ息子の今川氏輝(うじてる)が、未だ14歳だった事で駿河に動揺が走ったのか?
この翌年に、今川と武田の間に和睦が結ばれています。

しかし、かりそめの和睦は、すぐに破られる事に・・・

天文四年(1535年)に入って、武田信虎が駿河への侵攻を開始したのです。

Houzyouuzituna300a6月5日に信虎が駿河に向けて出陣した事を知った今川方では、同盟者である北条氏綱にも出陣の要請をします。

7月17日には駿河富士郡(ふじぐん=静岡県芝川町付近)を放火して回る武田軍に対し、7月27日に武田軍を迎え撃つべく出陣する今川軍・・・

一方、要請に応じた氏綱が、息子=氏康(うじやす)とともに2万の大軍を率いて、8月16日には郡内(ぐんない=山梨県都留郡周辺)へと侵攻して来た事を受けて、信虎は、郡内を任せている妹婿(もしくは娘婿)小山田信有(おやまだのぶあり)に、その抑えを命じ、サポート役として異母弟の勝沼信友(かつぬまのぶとも)ともに別動隊として出陣させます。

しかし、その別動隊の数は、わずかに2000ほど・・・

そんなこんなの、天文四年(1535年)8月19日、武田信虎と今川氏輝が万沢口(まんざわぐち=山梨県南都留郡南部町)にて交戦します。

とは言え、はげしくぶつかり合うものの、両者ともに一進一退・・・結局、この万沢口での戦いは決着がつかず、引き分けとなります。

ところが、その3日後の天文四年(1535年)8月22日、今度は、山中湖畔(やまなかこ=山梨県南都留郡山中湖村)において、先の武田の別動隊と侵攻して来た北条軍とがぶつかるです。

山中湖畔での戦いは、ほぼ一日中に渡って合戦が繰り広げられ、午後2時頃に決着・・・
『勝山記』によれば、
「小山田殿劣被食候而
 弾正殿(小山田有誠の父の事)
 大輔殿(勝沼信友の事)
 従者周防殿…随分方々打死被食候
 殊ニ勝沼ノ人数以上二百四十人打死申候」
と、コチラの山中の戦いでは武田勢が大敗した事が記されています。

このあと北条勢は、その日のうちに上吉田(かみよしだ=山梨県富士吉田市)、翌日には下吉田(しもよしだ=同富士吉田市)を焼き払って意気の高いところを見せますが、24日には、足早に本拠の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)へと帰還していきました。

というのは、今川と北条の連携プレーによって、河内(かわち=山梨県笛吹市周辺)と郡内の二面作戦を強いられてしまった信虎が、このピンチを脱すべく、同盟者である扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)上杉朝興(うえすぎともおき)に、氏綱らが留守となった相模(さがみ=神奈川県)を突いてくれるよう働きかけていた事で、その危険を察知した氏綱が、慌てて撤兵して戻って行った・・・という事らしい。

この時、信虎の要請に応じて出陣してくれた上杉朝興は、9月には大磯(おおいそ=神奈川県中郡大磯町)辺りまで侵出して、その一帯を焼き払った後、10月6日に本拠の川越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)に戻ったのだとか・・・

この上杉朝興の行動によって危機を脱した信虎でしたが、上記の通り、弟を失ってしまうなど、万沢口&山中湖での戦いは、信虎にとってかなりの痛手となってしまいました。

とは言え、この翌年の天文五年(1536年)に今川氏輝が死去・・・氏輝の弟同志による後継者争いとして勃発した花倉の乱(はなくらのらん)(6月10日参照>>)に介入した信虎は、乱に勝利して後継者となった今川義元(よしもと)との結びつきを強め、このあと武田と今川の同盟を成立させます。

この同盟の成立によって、逆に今川と北条の同盟が破棄となり、この後は、武田&今川両氏と北条氏が、駿東方面にて抗争を繰り返すようになり、やがては、北条と今川の間には世に河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる激しい戦いが展開される事になりますが、そのお話は、また、それぞれの日付にて書かせていただきたいと思います。
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2020年7月29日 (水)

奈良統一を目指す~筒井順昭の柳生城攻防戦

 

天文十三年(1544年)7月29日、奈良統一を目指す筒井順昭に攻撃された柳生城が落城しました。

・・・・・・・

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地でしたが、南北朝の動乱を経て寺社勢力そのものよりも、寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちが、興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』などとして力を持ちはじめ、やがて、大和の国衆(くにしゅう=地元に根付く武士)となって戦乱の世を生き抜く武士として群雄割拠するようになるのです(12月18日参照>>)が、そんな中の、『国民』の代表格が越智(おち)十市(とおち)で、『衆徒』からのし上がった代表格が筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を本拠とする筒井(つつい)でした。

戦国時代の室町政権下で大和の守護(しゅご=県知事?)だったのが、三管領家(斯波氏・細川氏・畠山氏)の一つの畠山(はたけやま)で、この畠山氏の畠山政長(はたけやままさなが=東軍)畠山義就よしなり=西軍)が、あの応仁の乱での発端である後継者争い=御霊合戦(1月17日参照>>)から、ず~っとモメていたため、この大和は度々戦場となり、両者の動向の影響を受けたり、中央勢力の介入を受けたりしていたのです。

そんな中で、ここに来て、時には中央と連携を組み、時には周辺領主と関係を結んだりしつつ、一時は衰退した筒井氏を再興して、勢力を拡大しつつあったのが筒井順興(つついじゅんこう)でした。
  ●筒井順賢VS古市澄胤~井戸城・古市城の戦い
  ●天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆

Tutuijyunsyou600a その後を継いだ息子の筒井順昭(じゅんしょう)は、未だ大和における最大勢力である越智氏に対抗すべく山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)と結んだり、これまで敵対していた十市氏や古市(ふるいち)(9月21日参照>>)も傘下に収めて、さらに勢力を拡大しますが、そこに、かたくなまでに対抗していたのが柳生(やぎゅう)でした。

柳生一族は、ご存知、柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)の祖で剣豪として知られる柳生石舟斎宗巌(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)(4月19日参照>>)の柳生一族ですが、今回のお話は、彼が世に出る半世紀前ほどの出来事です。

柳生氏は本姓が菅原(すがわら)で平安時代頃に柳生の地に移転して柳生姓を名乗るようになったとされますが、その経緯は、あくまで伝承の域を出ないもの・・・とにかく、南北朝以前から、この地に栄えて来た古株の豪族で、当時は、北に山城(やましろ=京都市南部)、東に伊賀(いが=三重県西部)を控えた柳生谷の山峡に築かれていた柳生城(やぎゅうじょう=奈良県奈良市柳生町)を代々の居城とし、戦国の乱世を生き抜いていたのです。

柳生氏の菩提寺で現在もその地に建つ芳徳寺(ほうとくじ=同柳生下町)を含む周辺が柳生城の城郭で、境内の東南にあたる標高320mの山上に主郭があったとされています。

とにもかくにも、そんな中、大和の統一を目指す筒井順昭は、天文十三年(1544年)7月、配下に収めた十市勢300余と河内勢300余を含めた約1万の大軍で以って、柳生の里に押し寄せたのです。

しかし、その大軍ゆえに、筒井勢は柳生城を小城と侮り、数に物を言わせて強引に攻め立てるものの、いたずらに死傷者を出すばかりで、一向に城を落とせません。

一方、柳生城内では、その様子をあざ笑うかのように、城兵たちが鬨(とき)の声を挙げて、お互いの士気を高め合います。

「これでは、らちがあかん!」
と、筒井順昭は作戦変更・・・

柳生谷あたりの集落に火をつけて焼き払って柳生勢の士気を落として、ようやく城郭の外廻りを占領した後、城の水の手を断って、兵糧攻め作戦に切り替えます。

そして、柳生城に攻め手を現場に残したまま、自身は精鋭を連れて、柳生の西に位置する須川城(すがわじょう=奈良市須川町)の攻略に向かいます。

この須川城は、興福寺の塔頭(たっちゅう=大寺院に付属する小寺)一乗院(いちじょういん=奈良県奈良市)の国民出身の簀川(すがわ=須川)の居城で、実は、この前年=天文十二年(1542年)の4月に、筒井順昭が6000の兵で以って攻略し、その後、破却していたのですが、

その時、散り散りに落ちて行った簀川の者たちは、すぐに舞い戻り、再び城を回復していたのでした。

ここは、現在、柳生城を絶賛攻撃中の自軍の背後にあたる場所・・・そのままにしておいて、後ろから攻め込んで来られててはヤバイ!

とは言え、須川城攻撃中にも、柳生城攻撃の進捗状況が気になる順昭は、結局、業を煮やして、自らが出向いて柳生城攻めの采配を振る事に・・・

そんなこんなしているうちの天文十三年(1544年)7月29日、とうとう柳生城は門を開き、降伏の意を表明し、ここに柳生城は落城しました。

こうして柳生氏を傘下に加えた順昭は、この2年後の天文十五年(1546年)に、目の上のタンコブだった最大のライバル=越智氏の貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)を攻略して(9月25日参照>>)、コチラも傘下に加えますが、その6年後の天文十九年(1550年)に順昭は病死・・・わずか2歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が叔父=筒井順政(じゅんせい)の後見のもと、その後を継ぎます。

一方、ここで負けた柳生一族は、一旦、筒井の配下となるのですが、その殿様交代から9年後の永禄二年(1559年)、筒井氏から離反します。

そうです!
永禄元年(1558年)の白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)の後に、第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦して、事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)配下の松永久秀(まつながひさひで)が、永禄二年頃から、大和平定に乗り出したのです(11月24日参照>>)

この松永久秀の動向にすばやく反応して、即座に、その配下に鞍替えして、久秀の下で活躍することになる柳生一族・・・

ここから、松永久秀VS筒井順慶による奈良争奪戦が始まる事になりますが、
  ●松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防戦
  ●大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井
  ●松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い
  ●松永久秀~男の意地の信貴山城の戦い
  ●乱世の梟雄・松永久秀~運命の10月10日爆死!

ご存知のように、その戦いは、三好長慶から織田信長(おだのぶなが)へと政権交代してもなお続く事になります。
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2020年7月22日 (水)

武田家内紛~武田信縄と油川信恵の市川の戦い~甲斐の戦国

 

明応元年(1492年)7月22日、武田信縄油川信恵による後継者争いの最初の戦いである市川の合戦がありました。

・・・・・・・

今回の市川(いちかわ=山梨県西八代郡)の戦いで戦ったのは、甲斐(かい=山梨県)守護(しゅご=県知事みたいな?)である武田(たけだ)氏の第17代当主である武田信縄(たけだのぶつな)と、その弟の油川信恵(あぶらかわのぶよし・のぶさと=武田信恵)

このお兄さんの信縄さんの息子が武田信虎(のぶとら)で、その信虎の息子が武田晴信(はるのぶ)信玄(しんげん)ですので、つまりは、あの武田信玄のお爺ちゃんという事で、ドラマや小説等でよく描かれる、いわゆる戦国時代のチョイと前という感じです(実際にはこのあたりも、すでに荒れ放題の戦国時代ですが…)

そもそも、室町幕府がちゃんと機能していた頃には、各地に政府公認の守護を配置して、彼らにその地を治めさせていたわけですが、やがて、そんな守護たちに、それぞれ後継者を巡る争いが勃発し始め、それらをキッカケに起こったあの応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)で、守護たちが京都にてドンパチ始めると、守護が留守となってた地元では、守護代(しゅごだい=副知事)やら地元の有力武士が力をつけはじめ、やがて、彼らが力づくで守護に取って代わる=下剋上(げこくじょう)の戦国へ突入・・・
(実際にはもっと多くの複雑な要因がありますが、あくまでごくごく簡単に言うとこんな↑感じです)

皆さまご存知のように、
美濃(みの=岐阜県南部)の守護だった土岐(とき)に代って実権を握ったのが斎藤道三(さいとうどうさん=利政)(1月13日参照>>)
守護代の長尾(ながお)が守護の上杉(うえすぎ)を倒し、その後に後継ぎとなった上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)(6月26日参照>>)
さらに、守護の安芸(あき=広島県)武田氏を破り(10月22日参照>>)周防(すおう=山口県)大内(おおうち)を破り(10月1日参照>>)出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまご)(11月28日参照>>)但馬(たじま=兵庫県北部)山名(やまな)(4月7日参照>>)を押さえつつ、西国の雄となった毛利元就(もうりもとなり)
などなど、、、(他にもいっぱい)

そんな中で、数少ない(と言えるかどうかは個人の認識の差がありますが幕府公認の守護で戦国を生き抜いていたのが、信玄さんの甲斐武田です。

河内源氏(かわちげんじ)棟梁(とうりょう)源義光(みなもとのよしみつ=新羅三郎・源義家の弟)を祖に持ち、平安時代から武家だった武田は、あの源平合戦にも源頼朝(みなもとのよりとも)配下として参加して(【富士川の戦い】参照>>)鎌倉時代を駆け抜け、建武の新政にも関わり、南北朝では足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って第10代当主武田信武(のぶたけ)室町幕府政権下での公認の甲斐守護となったわけです。

とは言え、当然の事ながら、その間もその後も、ず~っと順風満帆だったわけではありません。。。てか、むしろ波乱に次ぐ波乱。

それこそ、中央の室町幕府がしっかりしていた頃は何とかなったものの、第6代室町幕府将軍=足利義教(よしのり)の頃に、中央政権に反発して関東で大暴れしていた第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)に対抗した第13代当主武田信満(のぶみつ)が応永二十四年(1417年)の合戦で討死した事から、一時は甲斐国も守護不在の状態となってしまったのです。

その後、持氏が永享の乱(えいきょうのらん)(2月10日参照>>)にて鎮圧された後の結城合戦(ゆうきがっせん)(4月16日参照>>)で、信満の息子で第14代当主武田信重(のぶしげ)が功績を挙げた事で何とか再興のキッカケをつかみますが、

上記のような混乱の中では、国内の実権は、有力国人(地元の武士)や守護代の跡部(あとべ)に牛耳られていて、信重息子の第15代当主武田信守(のぶもり)は守護として何もできぬまま早世・・・後を継いだ息子の第16代当主武田信昌(のぶまさ)の代になって、ようやく跡部を排除したものの、一方で、穴山(あなやま)栗原(くりはら)大井(おおい)など有力国人勢力の台頭を許してしまい、領内は乱国状態が続いていました。

そんなこんなの明応元年(1492年)に信昌は、長男の信縄(やっと出て来たw)に家督を譲って隠居しますが、

しかし、その直後・・・
『勝山記』には、
「延徳四壬子 此年六月十一日 甲州乱国ニ成始ル也」
とあり、

『塩山向嶽禅庵小年代記』にも、
「同月十三日国中大乱」
とあり、

どうやら明応元年(1492年=7月に延徳から改元)6月10日を過ぎた頃から、甲斐において乱が発生したらしい・・・

それは、武田の内訌(ないこう=内部の戦い)・・・そう、信昌から家督を譲られた信縄と、その弟の信恵との兄弟争いが勃発したのです。

長男の信縄に家督を譲った後は、万力(まんりき=山梨県山梨市万力)落合館に隠居していた信縄・信恵兄弟の父である信昌が、この兄弟抗争の時には次男の信恵を支援している事から、一説には、先の家督相続は信縄のクーデターであったのでは?との見方もあります。

とにもかくにも、領内が乱れている状態で起こった兄弟争いは、それが激しくなるにつれ、国内の勢力を二分して対立させ、さらに国外の勢力の乱入も許してしまう事になり、これが、甲斐における戦国の幕開けとの見方もあります。

その、兄弟の最初の戦いが、明応元年(1492年)7月22日市川での戦いでした。

詳細な記録は残っていないのですが、信縄方の討死した者の数の記録や、そこに有力氏族の名が多く記載されている事から、かなり激しい戦いの末、今回は信縄方の敗北に終わった事が予想できます。

また、『王代記』には、
「壬子(明応元年)甲州ヘ九月駿河衆乱入
 又兄弟相論
 此年七月廿二日一河(市川)合戦」
と、この市川の戦いと並べて、その2ヶ月後には駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)勢が甲斐に侵攻して来た事が書かれており、内乱に乗じた外部からの圧力もあった事でしょう。

さらに翌明応二年(1493年)には4月8日には塩後(しおご=山梨県甲州市塩山上塩後)にて、11月1日には小松(こまつ=同甲府市小松町)にて合戦が行われ、この頃には勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市)を本拠に父の信昌や国衆の一人である小山田信長(おやまだのぶなが)を味方につけた信恵が信縄勢を抑え込み、有利に展開していたようです。

しかし、翌明応三年(1494年)3月26日の合戦では『勝山記』
「三月十(廿)六日合戦ニハ
 武田彦八郎殿(信恵の事)傷負玉フ
 大蔵大輔(おおくらたいふ=今井信又の事)打死…」
とあり、信縄方が形成逆転し、ここから後は、ほぼ優位に立っていたと思われます。

翌明応四年(1495年)には、伊豆支配を目論む相模(さがみ=神奈川県)北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)甲斐へ侵攻して来ますが、それでも兄弟の抗争は治まらず・・・明応七年(1498年)には明応の大地震が起こり、一旦終息するものの、ほとぼりがさめたら、また再開。

しかも、永正二年(1505年)に、父の信昌が亡くなった事を受けて、両者の敵対はむしろ激しくなる一方・・・永正四年(1507年)に信縄は病死しますが、それでも、信縄の息子である武田信虎(当時は信直)に引き継がれ、この兄弟対決は、まだ続く事に・・・

Takedanobutora500a ところが、この信虎が段違いの強さだった!
(↑さすが、信玄の父ちゃん)

信虎は明応三年(1494年)生まれとされますので、信縄の死で家督を継いだのは、わずか14歳・・・しかも、その前年には母ちゃんも病死してるという不幸続き。

そこで、信縄が死んで若年の信虎が後を継いだ事をチャンスと見た信恵が、翌永正五年(1508年)に挙兵するのですが、信虎はこれを見事返り討ち・・・信恵は討死し、武田宗家は信虎の系統に統一される事になったのです。

その後は、乱れっぱなしだった甲斐の国衆たちとも戦う信虎は、大永二年(1522年)頃には甲斐一国統一を達成・・・さらに、やがては駿河や信濃(しなの=長野県)を見据える大物となっていくわけです(5月14日参照>>)

個々の戦いについては、またいずれ「その日」のページで書かせていただきたい思いますが、戦国屈指の武将として名高い武田信玄の家系は・・・風前の灯だった武田家内の抗争から一転、領国統一を成し遂げたそのお父ちゃんもスゴかったという事をお忘れなく(∩.∩)v
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2020年7月14日 (火)

5千対2万…宇喜多直家一世一代の明善寺合戦~万灯会

 

永禄十年(1567年)7月14日、宇喜多直家により、明善寺合戦の死者を弔う万灯会を行う旨の命が下されました。

・・・・・・・・

猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)庄為資(しょうためすけ=荘為資) を倒して(2月15日参照>>)、史実上、備中(びっちゅう=岡山県西部)覇者となった三村家親(みむらいえちか)が、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)城主の浦上宗景(うらがみむねかげ)被官(ひかん=配下の官僚)であった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客の鉄砲にて暗殺されたのは永禄九年(1566年)2月の事。

その直後から、三村氏の本拠である成羽鶴首城(かくしゅじょう=岡山県高梁市成羽町)にて重臣たちによる弔い合戦の話が持ち上がりますが、当然、
「これを見過ごしては当家の恥辱!」
と息巻く者もおれば、
「時を見て事を起こすべき」
という慎重派もいて、なかなか議論が前に進みません。

そんな中、父の死を受けて後継ぎとなった次男の三村元親(もとちか)や、その兄弟たちも、即座の弔い合戦に積極的ではなかった事から、一族の中でもイケイケ派だった三村五郎兵衛(ごろうびょうえ)が、2ヶ月後の4月に、自らの一族だけで弔い合戦を決行しようと、50騎ばかりをしたがえて出陣・・・途中で加勢が増えたものの、わずか100騎に満たない兵を2手にわけて、宇喜多直家の拠る沼城(ぬまじょう=岡山市東区沼・亀山城とも)に向けて進軍します。

これを知った直家は、3000の自軍を3手に分けて迎え撃ちました。

決死の覚悟の三村勢は、少数ながら奮戦し、一時は優勢であったものの、やはり、多勢に無勢・・・やがて、宇喜多全軍が合流するに至って47人が討死し、100人以上が負傷する大敗となってしまいました。

Ukitanaoie300a この五郎兵衛との合戦は、他の三村勢が同調しなかった事で勝てはしましたが、この一件で危険を感じた直家は、かつて明善寺(みょうぜんじ=明禅寺)というお寺が建っていた上道郡(しょうとうぐん)沢田村(岡山市中区沢田)明善寺山の廃寺跡に砦を築き、再びの来襲に備える事にします。

ここは、おそらく、本拠の備中松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)から西国街道を東に向かい、南北に流れる旭川(あさひがわ)を渡って沼城に攻め寄せるであろう三村勢を俯瞰(ふかん)して見下ろせる事のできる高台・・・来る様子を見ながら迎え撃つ事もできれば、沼城を囲む敵勢を背後から挟む事もできます。

一方、直家が明善寺山に砦を築いた事を知った三村元親・・・先の五郎兵衛の時には出陣を渋った元親ですが、それはチャンスをうかがっていただけで、決して父の仇討を諦めていたわけではないですから、この砦構築のニュースを聞いて、元親の動きは俄然あわただしくなります。

まずは、岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市北区)金光宗高(かなみつむねたか)や、舟山城(ふやなまじょう=同加賀郡吉備中央町)須々木豊前守(すすきぶぜんのかみ)中島城(なかしまじょう=岡山市北区)中島元行(なかしまもとゆき)などを味方に引き込んで備中から備前南部にかけて宇喜多包囲網を構築して守りを固めたのち、

永禄十年(1567年)7月、三村方は、直家が構築したばかりの砦=明善寺城(明禅寺城)に襲いかかり、城下に火を放ったのです。

しかも、おりからの豪雨と烈風を利用した夜襲で、完全なる不意打ち・・・城中の兵は、まったくなす術なく、南側の山を越えて沼城に逃げるのみ・・・逃げ遅れた数十騎が討ち取られ、アッという間に明善寺城は占拠され、そこに、三村配下の禰屋与七郎(ねやよしちろう=根矢与七郎)薬師寺弥七郎(やくしじやしちろう)が入り、150人ほどの精鋭で以って立て籠もりました。

こうして明善寺城を奪われた宇喜多直家は、早速、策を講じます。

まずは、
「宇喜田は、近々、大軍を以って明善寺城を奪回するつもりだ」
との情報を、あえて流し、その情報とともに
「その時、金光&須々木&中島らの諸将は宇喜多に加担するらしい」
とのフェイクニュースを流します。

早速、これに反応した明善寺城の禰屋と薬師寺が、本拠・松山城の三村元親に援軍を要請します。

それを見て取った直家は、今度は、自らの使者を金光宗高に派遣し、
「今度、自ら兵を率いて明善寺城を攻撃するので、おそらく加勢に来るであろう三村の後詰(ごづめ=予備軍)を貴殿が先導して誘い出してもらいたい…そこで、一気に後詰の三村勢をも討つつもりである」
との要請をしたのです。

と言っても、実はコレも、ある意味フェイク・・・おそらく金光宗高が三村側に、この情報を流すであろう事を踏まえての要請で、直家自身が明善寺城奪回に乗り出せば、おそらく松山城にいる元親本人も動くであろうと・・・そして、そこで一気に三村氏自体をせん滅してやる!と。。。

案の定、この情報は金光から、元親の姉婿である幸山城(こうざんじょう=岡山県総社市)城主の石川久智(いしかわひさとも)のもとに伝えられ、そこから松山城の元親へ・・・今回の情報は先の禰屋&薬師寺からの援軍要請と符合する内容でもあり、早速、元親は、2万の大軍を率いて松山城を出陣し、宇喜多攻略へと向かうのです。

元親は全軍を3手に分け、兄の荘元祐(しょうもとすけ=穂井田元祐とも)の7000騎を右翼に、石川久智の5000を中軍に、自らが率いる8000の本隊を左翼に陣して全軍の抑えとし、進んで行きます。

Ukitamyouzenzikuzure
明善寺合戦要図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

迎える宇喜多直家・・・元親を引っ張り出す事には成功したものの、自軍はわずかに5000

まともにぶつかっては勝ち目に無い直家は、沼城を出ると自軍を5手に分け、自身は古都宿(こずしゅく=岡山県岡山市東区)に本陣を置いて、そこから南へ、目黒村 (めぐろむら=現在の岡山市東区目黒町付近)あたりまで一直線に5段構えに陣列を配置します

これは、まっすぐ沼城の方へ行かれては困るための抑えなわけですが、一方で敵の目を明善寺城に向けさせるため、最前線に配置した1隊に明善寺城を攻撃させ、わずかに一戦させてから、深く入り込まず小休止・・・そうしている間に、物見係から、三村勢が3手に別れて旭川を越えるべく向かっているとの報告が入ります。

先鋒右翼は金光宗高を案内人に富山城(とみやまじょう=同岡山市北区)の南から七日市(なのかいち=同岡山市北区七日市)
中軍は富山城の北を通り上伊福(かみいふく=岡山市北区上伊福町付近)へ、
元親の本隊は中島を道案内に津島(つしま=同岡山市北区津島周辺)から釣の渡し(つるのわたしー同岡山市北区三野付近)へ向かっているとの事。

敵勢が、それぞれ、旭川を渡るタイミングを見計らっていた直家は、
「それ!今だ!」
とばかりに、即座に古都宿の本陣を撤去し、一気に田畑を突っ切って明善寺城へ向かい、全軍で以って総攻撃を仕掛けます。

殿様自らが山を駆け上がる姿を見た宇喜多軍は奮い立ち、もとよりわずかな兵しかいない明善寺城を一気に焼き払い、瞬く間に占拠・・・城に上がる火煙によって方向を見失った禰屋与七郎&薬師寺弥七郎ら城兵は、ただただ逃げるしかありませんでした。

そんなさ中に、最初に旭川を渡って明善寺城近くに到着した右翼先鋒でしたが、最もややこしいタイミングで逃げて来た城兵と鉢合わせになったために、
「どないなっとんねん?」
と、戸惑っている間に、明善寺城を攻めるどころか、逆に宇喜多勢に蹴散らされてしまいます。

一説には、この時の退却戦で先鋒の大将だった荘元祐が討死したとも・・・(荘元祐の死については異説あり)

次に続いていた三村方中軍の石川久智は、原尾島(はらおしま=同岡山市中区原尾島付近)あたりまでやって来たところで、明善寺城から上がる炎を確認し、しかも物見係から
「味方は、すでに敗走している」
との知らせを受けて、
「今から明善寺城へ駆けつけても、おそらく奪回は不可能…
ここから、元親の本隊と合流して、ともに沼城を襲撃するのが得策だと思う」
と提案しますが、従う重臣たちの意見が合わず、なかなか方針が決まらない・・・

そんな決まらない中で、不意を突いて宇喜多軍が石川隊に向かって来たため、浮足立った将兵たちが一気に討たれ、やむなく中軍は旭川沿いの竹田村(たけだむら=岡山市中区竹田)付近まで退却を余儀なくされます。

一方、この日の午前10時頃に釣の渡しから旭川を渡河した本隊の元親は、このまま東へ進んで沼城を攻撃するつもりでしたが、四御神村(しのごぜむら=同岡山市中区四御神)あたりまで来たところで、右手の明善寺城が燃えているのを確認し、しかも先鋒どころか第2軍までが敗退して退却しつつある事を知ります。

動揺を隠せない将兵たち・・・もとより、足場の悪い湿地帯での行軍していた中で、後ろの方では引き返す部隊も出始め、行くと戻るの混乱の中、足を取られたり川に落ちる者まで登場し、全軍がどんどん騒がしくなってしまったため、元親は作戦を変更して南に向かう事に・・・

上記の通り、本来なら沼城防備のためには絶対に外せない古都宿の守りを、直家は撤去しているわけですので、実際には、このまままっすぐ行って殿様が留守となった沼城を攻撃すれば、たやすく落とせたのかも知れませんが、それを知らぬ元親は、残念ながら古都宿を目の前にして本隊を明善寺城方面=南へと方向転換してしまったわけです。

この本隊の動きを知った直家は、本陣を高屋村(たかやむら=岡山市中区高屋)に移動させ白兵戦の構えを見せます。

まずは岡家利(おかいえとし・岡剛介だったとも)ら率いる強豪勢を最前線に配置し、後陣に先ほど荘元祐らを破った精鋭部隊と弟=宇喜多忠家(ただいえ)の部隊を控えさせます。

そこにやって来た三村元親ら本隊・・・
「宇喜多はにっくき父の仇!」
と息巻く元親は、宇喜多勢の旗印を見るなり、田んぼも畑も畔も溝も関係なく、一直線に宇喜多の陣目掛けて突進して来たため、その勢いに最前線が押されて崩れかかりますが、

そこに、いつの間にやら迂回して、三村本隊の両側に回っていた宇喜多の後陣が、側面から三村本隊に斬りかかった事で、押されていた最前線も持ち直したところに、すかさず直家本隊が前に進んで、結果的に三村本隊は三方から攻撃を受ける事になり、いつしか元親の自身までもが危うい状況になり、たちまち三村勢は後退をし始めます。

この状況に起こった元親は、討死覚悟で先頭を切り、単騎で敵陣に駆け込もうとしますが、さすがに家人に止められ、ムリヤリ家人が馬の轡(くつわ)を取って馬を西へと向けたため、元親もやむなく撤退・・・総崩れとなった三村勢は、何とか竹田村まで敗走しました。

宇喜多勢は、これを追撃し、多くの首を挙げましたが、直家は旭川の手前で、これ以上追撃を止め、素早く軍をまとめて撤退・・・一方の三村勢は、釣の渡しから川を渡り、本拠の松山城へと戻りました。

今回の明善寺合戦は複数の文献に「永禄十年(1567年)7月」の事と記録され、細かな描写の違いはあれど、おおむね、このような流れとなっていて、いずれも少数の宇喜多軍が、大軍の三村軍を総崩れにさせた事から「明善寺崩れ」と称されます。

中でも『明善寺合戦記』では、
「…直家承り 即ち大勢の僧を供養し
討死仕ける諸勢の亡魂を弔ひける
これに依って浮田より湯迫村辺の民に申付られ
毎年七月十四日十五日の夜
右湯迫村北後の山に万灯として数多くの火を灯し
生霊を弔給ふ
是より今にいたり 惰(おこた)らず…」
と、

この合戦によって多くの死者が出た事に気を病んだ直家の命により、地元の村では毎年7月14日と15日の夜に「万灯会」が行われるようになったと記されています。

おそらくは、この永禄十年(1567年)7月14日に合戦があったか?
あるいは、それに近い日にちに合戦があり、お盆に合わせたのか?

いずれにしても、この戦いによって名を挙げた宇喜多直家は、この7年後の天正二年(1574年)に西国の雄毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)備中侵攻に乗り出した事で勃発する備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)の混乱の中で、主家の浦上を破って独立を果たし(4月12日参照>>)、さらに織田信長(おだのぶなが)豊臣秀吉(とよとみひでよし)と絡む、戦国の大大名になっていく事になります。

それにしても、謀略や騙し討ちや暗殺など・・・いわゆる「きたない手」がお得意の宇喜多直家が、珍しく(笑)正攻法で、しかも、何倍もの大軍を破った一世一代の合戦でしたね。

★このあとの宇喜多直家関連
 ●宇喜多直家の備中金川城攻略戦~松田氏滅亡
 ●美作三浦氏~尼子&毛利との高田城攻防戦の日々
 ●備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親自刃
 ●主君からの独立に動く宇喜多直家~天神山城の戦い
 ●信長に降った宇喜多直家VS毛利輝元~作州合戦
 ●織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦
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2020年7月 7日 (火)

宇喜多直家の備中金川城攻略戦~松田氏滅亡

 

永禄十一年(1568年)7月7日、宇喜多直家が松田元輝の備前金川城を攻め落としました。

・・・・・・・

周防(すおう=山口県の東南部)の名門=大内(おおうち)とを倒し、西国の雄となりつつあった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)の援助を受けた三村家親(みむらいえちか)が、猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)庄為資(しょうためすけ=荘為資)を打ち破り、松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)にて、事実上の備中(びっちゅう=岡山県西部) の覇者となったのは永禄二年(1559年)の事でした(2月15日参照>>)

しかし、その家親が永禄九年(1566年)に、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下であった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまったため、後を継いだ家親の次男=三村元親(もとちか)は、兄=元資(もとすけ)とともに父の弔い合戦をすべく、翌永禄十年(1567年)に直家の明禅寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市・明善寺城)に夜襲をかけますが、これが、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれるほどの三村側の敗退となって(7月14日参照>>)、その追撃戦で兄も討死にしてしまったのでした(元資の死に関しては諸説あり)

Ukitanaoie300a 一方、この勝利に勢いづいた宇喜多直家は、翌永禄十一年(1568年)、念願だった美作(みまさか=岡山県北東部)の攻略に乗り出そうとしますが、そこで、本拠である備前から旭川(あさひがわ)をさかのぼって美作に至る、その道筋にあったのが金川城(かながわじょう=岡山県岡山市:玉松城とも)に狙いをつけます。

かつて、このあたりは播磨(はりま=兵庫県西南部)を含む備前美作守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)を務める室町幕府の大物=赤松満祐(あかまつみつすけ)の治める地でしたが、ご存知のように、この赤松満祐は、あの将軍暗殺劇=嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)を起こした人・・・

その主人殺しの討伐隊として名を高め、赤松失脚後に、その所領の多くを獲得したのが山名宗全(やまなそうぜん=持豊)で、その後にはあの応仁の乱(5月20日参照>>)西軍総大将となるほどの盛隆を極めるわけですが、その応仁の乱のゴタゴタの中で満祐の弟の孫=赤松政則(あかまつまさのり)が功を挙げて(5月28日参照>>)復権を果たした事から、乱の後、このあたりは赤松VS山名の領地争奪戦となっていた場所だったのです。

その当時に、赤松&山名の間に立って揺れ動いていた金川城主の松田元成(まつだもとなり)(12月25日参照>>)が、城を堅固な物に作り替えた事で、やがて両者の戦いも終焉を迎えた(2018年4月7日参照>>)元成から数えて5代目となる戦国真っただ中の松田元輝(もとてる=元堅)の頃には、浦上の天神山城と並ぶ大きな城となり「西備前一の堅城」と称されるようになっていたのでした。

もちろん、今回の宇喜多直家も、日頃から金川城の松田の事は警戒していて、元輝の息子の松田元賢(もとかた)に、自らの娘を嫁がせて平穏を装っていたわけですが、ここに来て松田元輝が日蓮宗(にちれんしゅう)に帰依するあまり、寺に引き籠って政務を疎かにしたり、他宗の寺院に改宗を迫り、逆らえば容赦なく焼き討ちにしたのだとか・・・そのため、家臣や領民からの不満を買い、領内も荒れていたのです。

そこに目をつけた直家は、永禄十一年(1568年)7月、このチャンスに金川城ごと松田氏を倒して、美作侵攻への前線基地にしようと、まずは松田配下の虎倉城(こくらじょう=岡山県岡山市)の城主=伊賀久隆(いがひさたか)に対し、寝返り工作を仕掛けます。

意外にも(…というか、すでに主君と家臣の間に亀裂が生じていたと思われ)、すんなりと直家の招きに応じた伊賀久隆は、息子の伊賀家久(いえひさ)とともに先手を引き受け、直家は100騎ばかりの手勢を率いて矢原村(やばらむら=同岡山市北区御津矢原周辺)に陣を敷きます。

まずは7月5日の夜・・・かねてより内通工作をかけていた一部の城兵の招きによって、密かに少数の精鋭を城内の一角に入れ、タイミングを見計らって一斉に鬨(とき)の声を挙げさせました。

この時、城主=元輝は城を留守にしていたため、代わって、家老の横井又七郎(よこいまたしちろう)が城内の指揮をとって、とにかく防備を固めますが、攻める伊賀父子は鉄砲を撃ちかけながら、どんどんと本丸の方へ・・・

他所にて、金川城の急を聞いた元輝が、慌てて帰城し、包囲が手薄だった搦手(からめて=裏門)から入城すると、当主の帰還に城兵の士気も挙がり、城内からも鉄砲での応戦を開始します。

完全なる不意打ちを喰らったものの、城内にて、すばやく籠城戦の采配を振る元輝でしたが、今以って、伊賀父子がなぜに?城攻めをしてくるのかわからない・・・てか、納得がいかない。

そこで元輝は櫓(やぐら)に上り、伊賀父子に、その真意を問います。

しかし、もはや合戦のさ中・・・やがて、それは、お互いに罵声を浴びせ合う言葉合戦となって行きますが、そんな中、寄せ手の兵士が放った銃弾が元輝を貫き、無残にも元輝は櫓から転げ落ちて命を失ってしまいました。

父の死を受けて、息子の元賢が指揮を取り、籠城戦を続けますが、この頃になると宇喜多直家の本隊も加わり、本丸の四面を包囲して全軍で以って攻撃を仕掛けて来ます。

とは言え、先に書かせていただいた通り、金川城は屈指の堅城・・・丸一日多勢の猛攻に耐えて、なかなか城は落ちずに、城兵&寄せ手ともに多くの死者を出しました。

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↑金川城攻防の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

なれど、所詮は多勢に無勢・・・
永禄十一年(1568年)7月7日未明、城が長く耐えられない事を悟った元賢は、弟の 元脩(もとなが)とともに城を脱出します。

大将がいなくなった金川城からは、多くの兵が逃亡したと言いますが、譜代の家臣たちは城に残り、城を枕に討死覚悟で応戦を続けましたが、やがて城戸を破って寄せ手が本丸に突入すると、残っていた者たちも全員討死し、ここに金川城は落城しました。

城落ちした松田兄弟のうち、兄=元賢は、西の山伝いに下田村(しもだむら=同岡山市北区)まで逃走したところを伊賀方の伏兵に見つかり、「もはやこれまで!」と敵軍の真っただ中に突入し、壮絶な討死を遂げました。

ちなみに、元賢の奥さんとなっていた宇喜多直家の娘は、落城のさ中に自害して果てたのだそう・・・

一方、弟の元脩は、再起を図ろうと自らの居城であった富山城(とみやまじょう=同岡山市北区)に向かいますが、すでに、ここも落ちて宇喜多&伊賀勢に占拠されてしまっていたため、やむなく備中方面へと逃走し、後に鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)主の山名豊国(とよくに=宗全から5代目)に仕えて、その家臣として血脈を繋いだと言いますが、残念ながら戦国大名としての松田氏は、ここに滅亡しました。

なので、この地域では、長らく七夕祭は行われなかったのだとか・・・(落城が7月7日なのでね…)

んん??って事は、松田さん、けっこう領民に慕われてますやん!
元輝さんがムチャクチャやって「領内が荒れていた」って話は??

ま、今回のお話は、ほぼほぼ『備前軍記』に沿った内容ですので、最終的に備前の覇者となる宇喜多寄りになっているのかも知れませんね。

そう、この戦いの後は、しばらくは毛利やら尼子(あまご)やら、なんやかんやがくんずほぐれつの備中兵乱(びっちゅうひょうらん)>>があり、その後、その兵乱のゴタゴタで主家の浦上を倒した宇喜多直家が(【天神山城の戦い】参照>>)、東から進んで来た織田信長(おだのぶなが)の傘下となって、西国の雄=毛利と戦う事になるのですが、そのお話はコチラ↓で。。。
  ●宇喜多VS毛利~作州合戦>>
  ●宇喜多VS毛利~祝山合戦>>
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2020年7月 1日 (水)

悲しき同士討ち~浅井長政配下・今井定清と磯野員昌の太尾城の戦い

 

永禄四年(1561年)7月1日、六角義賢の留守を狙う浅井長政が、配下の今井定清と磯野員昌に太尾城を攻撃させました。

・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)の妹(もしくは姪)お市(いち)の方と結婚して、茶々(ちゃちゃ=後の淀殿)(はつ)(こう)の、いわゆる浅井三姉妹をもうける事で、戦国武将の中でも超名の知れた浅井長政(あざいながまさ)ですが、実は、永禄三年(1560年)に15歳で元服した時の最初の名前は賢政(かたまさ)でした。

これは、観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)にて南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)を支配する六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)「賢」の一字をとった物であり、最初に結婚したのも六角義賢の家臣の平井定武(ひらいさだたけ)の娘さん・・・つまり、この頃の浅井は、しっかりドップリ六角氏の配下だったわけです。

というのも・・・
もともとは、六角氏と同じく宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった長政の先々代(つまりお爺ちゃん)浅井亮政(すけまさ)が、京極家が家内で起こった後継者争い(8月7日参照>>)によって主家の京極家が弱体化して行く中で力をつけ、いつしか主家を凌ぐ勢いを持つようになるのです。

Rokkakuyosikata500 しかし、当然、もともとの同族である六角定頼(さだより=義賢の父)は、浅井が京極に取って代わる事をヨシとせず、度々、浅井と六角は衝突をくり返していた(【箕浦の戦い】参照>>)のです。

それは天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて息子の浅井久政(ひさまさ=長政の父)が家督を継いた後も治まる事なく続けられていましたが、
●天文十八年(1549年)4月=大溝打下城の戦い>>
●天文二十一年(1552年)1月=菖蒲嶽城の戦い>>

上記の菖蒲嶽城(菖蒲岳城・しょうぶだけじょう=滋賀県彦根市)の戦い後、六角配下の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を落とした浅井久政が、その勢いのまま、翌天文二十二年(1553年)7月、やはり六角配下の太尾城(ふとおじょう=滋賀県米原市米原・太尾山城とも)を奪わんと4ヶ月に渡って攻め続けるも落とす事ができず、

多大なる損害を被ったあげくに、降伏に近い形で和睦を結ぶ結果となってしまった事で、浅井の力は削がれ、亮政時代に得た領地等も、ほぼほぼ失って六角の配下のような扱いを受ける事になってしまっていたのです。

Azainagamasa600 なので、長政の名も賢政で奥さんも六角の家臣から娶る・・・という事になっていたわけですが、当然、浅井の家臣の中には、この状況を不満に思う者が大勢いたわけです。

やがて、そんな家臣の不満が爆発・・・というより、その経緯を見る限りでは、「いつかヤッってやる!」の決意のもとに周到に準備され、その時を待っていた~という感じですが、

とにもかくにも永禄二年(1559年)、家臣たちがクーデターを決行・・・久政を幽閉して息子=長政を担ぎ上げます。

もちろん、長政自身もヤル気満々で、「賢」の字を捨てて長政を名乗り、奥さんを平井家に送り返して反六角の狼煙を挙げます。

しかも、その翌年=永禄三年(1560年)8月に起こった野良田(のらだ=滋賀県彦根市)の戦いで、見事に六角義賢を打ち破りました。

そこで、この勢いに乗じる長政は、浅井が六角からの屈辱的な講和に耐えねばならなくなったキッカケとも言える太尾城を奪おうと機会をうかがいますが、

ちょうど、この永禄四年(1561年)、宿敵=六角義賢が畿内を牛耳る三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)との戦いのために京都に出陣した(【将軍地蔵山の戦い】参照>>)事を確認した6月中旬、箕浦城 (みのうらじょう=滋賀県米原市)今井定清(いまいさだきよ)太尾城攻略に向けて出陣させたのです。

Isonogazumasa600a 定清は、長政から援軍として送られて来た磯山城(いそやまじょう=同米原市)磯野員昌(いそのかずまさ)と連携して夜襲をかける事にし、

永禄四年(1561年)7月1日、夜陰に紛れて、自軍480と磯野の援軍200=合計680ほどを率いて、太尾城の麓に潜んでおいて、伊賀(いが=三重県北西部)忍びを城内へと潜入させました。

この、先に城中に入った伊賀衆が火を放ち、その合図の炎で以って今井軍と磯野軍が本丸と二の丸を同時に攻撃する手はずとなっていたのです。

しかし・・・待てど暮らせど、いっこうに伊賀衆の火の手が上がらない・・・

そこで、おそらく伊賀衆が城中への潜入に失敗したと判断した磯野員昌が、
「約束の時刻になっても合図が無いところを見ると、おそらく伊賀衆が失敗したに違いない。
 お宅の城は、ここから近いのだから、一旦戻られた方が良いのでは?
 我らは、もう少しだけ、ここに留まって後、兵を退きあげる事にしよう」
と今井定清に提案・・・

「よし、わかった!」
と承諾した定清が、箕浦に帰るべく兵とともに退却していたところ、その途中で太尾山方面に火の手が上がりました。

「すわ!作戦が始まった!」
とばかりに、慌てて引き返し、その勢いのまま城中に攻め入ろうと、怒涛の攻撃態勢に・・・

しかし、その場所に展開していたのは、あの200余りの磯野の兵だったのです。

暗闇の中、突然の攻撃を受けた磯野の兵たちは、それが今井定清の兵とはわからず・・・いや、むしろ太尾城側に加勢する兵が現れたものと思い込み、これまた必死のパッチで反撃に出ます。

そんな中で、先頭を切って突入した定清を、磯野員昌の与力(よりき=足軽大将クラスの武将)であった岸沢与七(きしざわよしち)が背後から槍で一突き・・・馬上から落ちた定清は、その場で落命しました。

未だ、34歳の若さだったと言います。

それでも、まだ、味方同志とはわからず、闇夜の中の戦闘は続けられ、夜が白々と明ける頃になって後、周辺に横たわる味方の遺体を目にし、ここで、ようやく同士討ちをしていた事に気が付いたのです。

このような状態でしたから、当然、太尾城を落とすどころではなく、今井勢も磯野勢も、兵を退いて、むなしく本拠へと戻るのみでした。

もちろん、定清を討った磯野側に他意はなく、完全なる勘違い・・・4日後の7月5日、磯野員昌は今井家に向けて起請文(きしょうもん=神仏に誓う文書)を送って謝罪し、納得してもらったのだとか・・・

とまぁ、この時、太尾城を落とせずにいた浅井長政でしたが、この2年後の永禄六年(1563年)、六角氏は家内での内ゲバ事件=観音寺騒動(かんのんじそうどう)(10月7日参照>>)を起こして自ら衰退への引き金を引いてしまい

そこに乗じた長政が、浅井の力を維持したまま、あの織田信長との同盟を結び、やがて、その信長が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛し(9月7日参照>>)それを阻む六角が・・・

と、続いていくのですが、そのお話は、信長の上洛を阻む六角承禎の【観音寺城の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
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