2022年3月22日 (火)

浅井長政の大返し~六角義賢との佐和山城の戦い

 

永禄四年(1561年)3月22日、六角義賢佐和山城を攻められた浅井長政配下の磯野員昌が、見事な大返しで美濃から帰還・・・磨針峠まで進出しました。

・・・・・・・

ともに宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む京極氏(きょうごくし)六角氏(ろっかくし)は、ご先祖の佐々木道誉(ささきどうよ)(10月12日参照>>)が、室町幕府立ち上げに大きく貢献した事から、幕府政権下において近江(おうみ=滋賀県)守護(しゅご=県知事)を任され、京極氏が北近江六角氏が南近江を支配していましたが、

京極氏が自らの内紛によって力衰えて来た(8月7日参照>>)ところに、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)であった浅井亮政(あざいすけまさ)が主家を凌ぐ勢いを持ち始めたため(3月9日参照>>)、同族の六角定頼(ろっかくさだより)が、その武力で以って浅井に立ちはだかる中で、

六角氏との連戦に苦戦した亮政の息子=浅井久政(ひさまさ)は、やむなく六角氏に従属(1月10日参照>>)・・・

Azainagamasa600 息子の浅井長政(ながまさ=つまり亮政の孫)が元服する頃には、六角家臣の娘を娶らせ、その名を、六角義賢(よしかた=承禎・定頼の息子)の一字をとって「浅井賢政」と名乗らせるほどの主従関係を敷いていました

が・・・

永禄二年(1559年)、この状況に不満を持つ浅井家臣らが、元服したての長政を当主と仰いでクーデターを決行・・・

翌永禄三年(1560年)8月には、長政率いる新体制浅井が、野良田(のらだ=滋賀県彦根市野良田町付近)の戦いにて六角氏に勝利して(8月18日参照>>)六角氏からの離反を明らかにしたのでした。

格下と思っていた浅井にしてやられた六角義賢と、その息子=六角義治(よしはる=義弼とも)は、何とか雪辱せんと狙って、隣国の美濃(みの=岐阜県南部)斎藤義龍(さいとうよしたつ=斎藤道三の息子・高政とも)陽動作戦を依頼します。

六角父子の要請に応じた斎藤義龍は、永禄三年(1560年)12月、家臣の竹中重元(たけなかしげちか・しげもと=竹中半兵衛重治の父)近江に派遣し、浅井配下の刈安尾城(かりやすおじょう=滋賀県米原市藤川)を奪おうとします。

この時は、何とか抵抗して押し戻し、事無きを得た浅井長政でしたが、当然、斎藤義龍とは敵対関係に進む事となり、翌・永禄四年(1561年)3月、長政は美濃に向けて出兵したのでした。

Sawayamazyounotatakaioogaesi
佐和山城の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この長政留守のタイミングを見計らって、配下の将1万余りを従えて中山道へと出た六角義賢は、そのうちの2千を配下の肥田城(ひだじょう=滋賀県彦根市肥田町)高宮城( たかみやじょう=滋賀県彦根市高宮町)に入れて備えとし、残りの本隊で以って浅井方の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市佐和山町)を目指したのです。

さらに、かの竹中重元も、このタイミングで再び刈安尾城をけん制し、六角氏の佐和山城攻撃を側面から支援し、おそらく美濃から戻って来るであろう長政らの行く手を阻もうと計算したのです。

この時、当然ですが、佐和山城主である磯野員昌(いそのかずまさ)は、主君である長政とともに美濃に出陣中・・・

留守を預かっていたのは百々盛実(どどもりざね)以下、わずかな城兵でしたが、六角軍の来襲を知るや否や、本城の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)にいる長政父の浅井久政に連絡し、援軍を要請します。

もちろん、この急変を聞いた美濃の浅井軍も、急きょ退陣し、磯野員昌を先陣に、一路、佐和山城目指して走る一方で、殿(しんがり)赤尾清綱(あかおきよつな)がキッチリ抑えます。

夜を徹して近江へ取って返した磯野員昌は、永禄四年(1561年)3月22日磨針峠(すりはりとうげ=滋賀県彦根市北部にある峠・摺針峠)に到着したのでした。
(今回の佐和山城に戦いは『浅井三代記』では永禄6年=1563年の事となっていますが、現在は一般的には永禄四年とされています)

一方の六角義賢は、すでに城兵を打ち破って本丸に侵入・・・百々盛実を自刃に追い込んで、事実上、佐和山城を落城させていましたが、

このタイミングで、浅井勢が、すでに磨針峠まで戻って来ている事を知り、あまりの速さに驚愕・・・

「城を落としたとは言え、未だドタバタ感満載な段階で浅井勢の本隊に囲まれて退路を断たれては、元も子もない」
とばかりに、急きょ全軍に撤退命令を出し、速やかに兵を退いたのでした。

結果的には引き分けとなった今回の佐和山城の戦いですが、一時は落城に追い込まれた事の影響は大きく、江北(こうほく=滋賀県北部)の諸将の中には六角側に寝返る者も多数・・・

そこで長政は、この約3ヶ月後の永禄四年(1561年)7月、六角義賢が、畿内を牛耳る三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)との戦い(【将軍地蔵山の戦い】参照>>)のために京都に出陣したスキを狙って、

かつて父の久政が攻めあぐねた太尾城(ふとおじょう=滋賀県米原市米原・太尾山城とも)を奪わんと、配下の今井定清(いまいさだきよ)と磯野員昌を送りこみますが、残念ながら失敗・・・(前半部分内容カブッてますが…7月1日参照>>)

そのため、長政は、この後、約2年ほど、六角氏とは混沌とした関係が続く事になるのですが、
おそらくは、この状況により、
「六角氏に対抗できる後ろ盾を…」
と、長政は思ったらしく、ここらあたりで越前(えちぜん=福井県東部)朝倉氏(あさくらし)臣従に近い同盟を結んだとされます。

しかし、その2年が経った永禄六年(1563年)10月、六角氏は自ら観音寺騒動(かんのんじそうどう)を起こして自滅(10月7日参照>>)・・・内紛によって大きく力を削がれた六角氏には衰退の影が見え始めますが、

ここらあたりで、美濃攻め真っ最中(9月1日参照>>)尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)からの使者として不破光治(ふわみつはる)長政のもとへ・・・

ご存知の、長政とお市の方(おいちのかた=信長の妹もしくは姪)との正式な婚姻が成立するのは、4年後の永禄十年(1567年)の9月頃と言われます。

そして、皆さま、よくご存知のように、浅井長政が全国ネットの大舞台に登場していく事になります。
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2022年3月16日 (水)

小倉実隆と小倉右京大夫の内訌~小倉兵乱

 

永禄七年(1564年)3月16日、小倉実隆小倉右京大夫以下小倉西家の討伐に出陣しました。

・・・・・・・・ 

小倉実隆(おぐらさねたか)は、南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)守護 (しゅご=県知事)六角(ろっかく)の家臣である蒲生定秀(がもうさだひで)の三男・・・

定秀の長男が蒲生賢秀(かたひで)なので、後に信長から秀吉に仕えて有名戦国武将になる蒲生氏郷(うじさと)叔父さんという事になります。

そんな中で、戦国のならいと言いましょうか…愛知郡小椋(えちぐんおぐら=現在の東近江市・彦根市など)周辺を治めていた国人(こくじん=在地の武将)であった小倉氏当主の小倉実光(さだみつ)が実子が無いまま死去してしまったため、

父の定秀の意向で養子として小倉氏に入り、この永禄七年(1564年)の頃は、その名籍を継いで佐久良城(さくらじょう=滋賀県蒲生郡日野町)の城主を務めておりました。

しかし、かつての応仁の乱の頃は、小倉実澄(さねずみ)が一族を率いて、一団となって敵に立ち向かい小倉氏の絶頂期を築いたものの、

永正八年(1511年)頃からは、この周辺を治める者として3~4家の小倉家の名前が見えはじめ、どうやら互いに、その覇権を争っていた・・・

つまり小倉実隆が小倉家を継いだ頃には、すでに内訌状態にあったようなのです。

ちなみに、一応、小倉実隆が継いだ小倉家が宗家とされ、他の2~3家は庶流とされます。

そんなこんなの永禄七年(1564年)、山上城(やまがみじょう=滋賀県甲賀市水口町)城主で、庶流・小倉西家小倉右京大夫(うきょうのだいぶ)が、比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)年貢を横領するという事件が起こります。

この右京大夫の暴挙に激怒した六角義治(ろっかくよしはる=六角義賢の長男・義弼とも)は、すぐさま、小倉宗家の実隆に右京大夫の討伐を命じたのです。

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小倉兵乱の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永禄七年(1564年)3月16日、小倉実隆は、自らの配下とともに、六角家臣で甲津畑城(こうずはたじょう=滋賀県東近江市永源寺)速水勘解由左衛門(はやみかげゆさえもん)ほか蒲生郡(がもうぐん=現在の近江八幡市と東近江市付近)の諸将の助力を得て、右京大夫討伐に出陣します。

はじめ、千種越え(ちぐさごえ=滋賀か鈴鹿を越えて伊勢に向かう千種街道の峠)の要衝にてぶつかった両者は、

和南城( わなみじょう=滋賀県東近江市和南町)小倉治兵衛(じへえ=源兵衛とも)討ち取るものの、

当然、右京大夫側も西家総動員に加え、味方の諸将に応援を呼びかけており、戦いは山上城周辺に留まらず、小倉宗家と小倉西家の領地全体へと飛び火し、互いの存続をかけた全面戦争となります。

やがて押しに押した右京大夫側が勝ち進み、3月23日には永源寺(えいげんじ=滋賀県東近江市永源寺)を焼き、なおも小競り合いが繰り返されました

さらに、右京大夫は九居瀬(くいせ=滋賀県東近江市九居瀬町)に陣を移し、なおも戦い続け、5月1日には実隆の佐久良城に攻め寄せたのです。

複数の史料に食い違いがあるため、その死没の日付は、今のところ「不明」となっているのですが、おそらくは、この5月1日の合戦にて小倉実隆は討死したものと思われます。

その後も、勢いづく右京大夫は、5月23日にも再び永源寺に放火・・・さらに周辺の寺にも火をかけ、あたりの寺院多くが焼失してしまいました。

諸戦に勝利し、奥津保 (おくつのほ=滋賀県蒲生郡日野町中之郷周辺)まで制圧して意気揚々の右京大夫でしたが、ここで、息子の死を知った蒲生定秀が介入・・・

自ら大軍を率いて右京大夫と西家の討伐に乗り出し、彼らの拠点となっている山上城や 八尾城 (やつおじょう=滋賀県東近江市山上町)報復攻撃を仕掛け、ついに右京大夫以下小倉西家を滅ぼして、何とか、内訌状態の鎮静化に成功したのでした。

この和南合戦佐久良の戦いを含めた一連の合戦は、
小倉兵乱(おぐらひょうらん)とも、小倉の乱とも呼ばれます。

ただし、こうして最終的には小倉宗家の勝利となって丸く収めた小倉内訌からの小倉兵乱ではありましたが、この内輪モメは小倉氏の力を大きく削ぐ事となり、

やがて、この小倉氏は、蒲生氏の配下として生き残るしかなくなってしまったのですが、

ご存知のように、その後、この蒲生氏も衰退・(8月18日参照>>)

その後は、一族の誰かが豊臣に仕えたとか、德川に仕えて旗本として生き残ったとも言われますが定かではありません。

細川にしろ京極にしろ、この小倉の親分の六角でさえ、同族同士の内訌は、負けた側はもちろん、勝った側も大きく力を削がれ、やがては下の者に取って代わられたりして、いずれ衰退していくのは世の常なのに・・・なぜ?

とは言え、戦国の武家で内輪モメがまったく無い家が、ごくわずかな事を考えれば、後世の凡人には計り知れない、その時代の、その武将なりの譲れない何かがあるのでしょうね。。。
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2022年3月 2日 (水)

古河公方を巡って~北条氏政と簗田晴助の第1次関宿城の戦い

 

永禄八年(1565年)3月2日、北条氏政が簗田晴助の守る関宿城を攻撃しました。

・・・・・・・・

関宿城(せきやどじょう=千葉県野田市関宿三軒家)は、長禄元年(1457年)頃に、簗田成助(やなだしげすけ)によって築城されたと伝えられます。
(成助祖父の簗田満助築城説もあり)

もともと在地領主だった簗田氏は、やがて鎌倉公方(かまくらくぼう)の家臣に・・・

鎌倉公方とは、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自らの本拠が関東にあるにも関わらず京都にて幕府を開く事になり、在京する将軍に代って地元=関東を治めるべく四男の足利基氏(もとうじ)鎌倉に派遣した事に始まります。

以降、将軍は尊氏三男の義詮(よしあきら)の家系が、鎌倉公方は基氏の家系が代々継いでいく事に・・・

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

しかし、第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の頃に、第6代将軍足利義教(よしのり)と対立したため「永享の乱」参照>>)、持氏の息子の足利成氏(しげうじ)鎌倉を追われて古河(こが=茨城県古河市)を本拠とした事から、以降は古河公方(こがくぼう)と呼ばれる事に・・・

一方、成氏を公方と認めない将軍=義教は、自らの息子=足利政知(まさとも)公式の鎌倉公方として関東に派遣しますが、関東が動乱のために政知もまた鎌倉に入れず、やむなく、手前の伊豆堀越(ほりごえ)堀越御所(静岡県伊豆の国市)を建設して、そこを本拠とした事から、コチラは堀越公方(ほりごえ・ほりこしくぼう)と呼ばれる事になります「五十子・太田庄の戦い」参照>>)

…で、今回の主役である簗田氏は、もともと下野(しもつけ=栃木県)梁田郡(現在の足利市の渡良瀬川以南周辺)を支配していた在地領主でしたが、上記の通り鎌倉公方の家臣として力をつけて来た関係から、その流れのまま古河公方の配下となっていたワケです。

そんなこんなの延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)、駿河(するが=静岡県東部)今川氏親(いまがわうじちか)に仕える北条早雲(ほうじょうそううん=当時は伊勢新九郎・氏親の伯父)伊豆に討ち入りを果たして堀越公方を潰滅させ(10月11日参照>>)、その後も、どんどん支配を広げていったのです。

さらに早雲の後を継いだ北条氏綱(ほうじょううじつな)の代になると、東は江戸(えど=東京都)(1月13日参照>>)、西は甲斐(かい=山梨県)まで(2月11日参照>>)を脅かすほどに・・・

一方、古河公方家では、第2代足利政氏(まさうじ)と3代目を継いだ長男の足利高基(たかもと)がモメはじめ、さらに高基弟の足利義明(よしあき=政氏の次男)が反発して小弓城(おゆみじょう=千葉県千葉市中央区)にて独立して小弓公方(おゆみくぼう)を名乗り始め、そこに関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐役)上杉(うえすぎ)や、安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)が絡んで来て、もうグダグダ感満載・・・

Houzyouuzituna300a そこで、この頃の梁田氏を仕切っていた簗田高助 (たかすけ=成助の息子)は、主家=古河公方の勢力挽回を図るべく

天文六年(1537年)に上杉朝定(うえすぎともさだ=扇谷上杉家)河越城(かわごえじょう=埼玉県川越市)を奪って(1月30日参照>>)今や飛ぶ鳥を落とす勢いの北条氏綱に接近・・・

足利高基の後を継いだ第4代古河公方の足利晴氏(はるうじ)の意向を氏綱に伝え、それに応えた氏綱が小弓公方=足利義明を滅亡に追い込みます(10月7日参照>>)

ゴキゲンの晴氏は、天文八年(1539年)に氏綱の娘(後の芳春院)と結婚(11月28日参照>>)し、両者の蜜月関係は最高潮に・・・

天文十九年(1550年)には、簗田高助が亡くなり、嫡男の簗田晴助(はるすけ)が後を継ぎますが、その晴助も氏綱の後を継いだ北条氏康(うじやす=氏綱の嫡男)起請文を交わして同盟を結び、両者の関係が崩れる事はありませんでした。

しかし、北条が氏綱から氏康に代った事に揺らいだのが足利晴氏・・・

いつしか、かの上杉朝定や上杉憲政(のりまさ=山内上杉家)とツルんで河越城を奪回しようと試みますが、残念ながら、北条からの返り討ちに遭ってしまったのでした。「河越夜戦」参照>>)

この敗戦により、命こそながらえたものの、もはや名ばかりとなった古河公方・・・天文二十一年(1552年)、晴氏は古河公方の座を氏綱の娘との間に生まれた息子=足利義氏(よしうじ=第5代古河公方)に譲ります。

実は、ここまで書ききれていませんでしたが…「氏綱の娘と結婚した」と言っても、その時点で、すでに晴氏には正室がいて、その奥さんとの間に子供ももうけていました。

その正室というのが簗田高助の娘で、その嫡男である足利藤氏(ふじうじ)本来なら第5代古河公方になるはずでした…てか、その事はすでに決まっていた事でした。

しかし、上記の河越夜戦を受けて、簗田高助の娘を押しのけて氏綱の娘が継室となり、藤氏の嫡子と次期公方を廃して、北条氏康の甥にあたる足利義氏を嫡子にして第5代公方としたのです。

とは言え、これは戦での勝敗によるもの・・・簗田晴助も晴氏の配下として河越夜戦に参戦して負けたワケですから、そこは勝者の意向を汲むしかありません。

しかし永禄元年(1558年)4月、北条氏康が足利義氏を関宿城に移し、「ここを御所にする」と言って来たのです。

冒頭に書いた通り、関宿城は簗田が築城した簗田氏の居城・・・簗田氏は、これからは古河城(こがじょう=茨城県古河市)を本城とするという事で、その約束は取り交わされますが、これは完全に簗田晴助らの力を削ぐ意味を持っていました。

以降、足利義氏は「関宿様」と呼ばれ、側近たちは「関宿の地を手に入れた」と大喜び・・・実は、この周辺、当時は「関宿の地を抑えれば一国に値する」と言われたくらいの要所だったようで、そこが北条の物になったと自信満々だったのです。

そんな中、ここに来て度々関東へ進出して来ていたのが、永禄二年(1559年)に将軍=足利義輝(よしてる=第13代将軍)の承認を得て、かの河越夜戦で北条に敗退した上杉憲政から家督と関東管領職を譲り受けて(6月26日参照>>)、その名を長尾景虎(ながおかげとら)から上杉政虎(まさとら)に改めた越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=ややこしいので謙信の名で統一させてネ)でした。

Uesugikensin500 そうです。。。
冒頭に書いた通り、将軍に代って関東支配を任されているのが鎌倉公方で、その補佐が関東管領なんですから、当然、その任務は「関東を北条の好きにさせてはならない!」なわけで・・・

…、で、そんな謙信が、簗田晴助に対して
「古河公方を足利藤氏にする用意がある」
と打診して来たのです。

ここで、北条から上杉に舵を切る簗田晴助・・・甥の足利藤氏を我が古河城に招き入れます。

これを知った北条によって、永禄五年(1562年)頃から、古河城への攻撃が度々行われつつも、なんとか死守していた簗田晴助。

そんな中、晴助に呼応するように南下する上杉謙信の影に脅威を覚えた足利義氏が、千葉胤富(ちばたねとみ)を頼って関宿城を脱出したため、簗田晴助は素早く関宿城に入り、古河城に残った足利藤氏は、そこを御所と定めました。

一方の北条・・・
これまでは、周囲に敵が多数なため、その動きを制限していましたが、永禄七年(1564年)1月に第二次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦いに勝利して里見の衰退を確信した事で、

いよいよ、この古河&関宿問題に決着をつけるべく

永禄八年(1565年)3月2日夜、古河公方の奉公衆であった豊前左京亮(ぶぜんさきょうのすけ)を道案内に、北条氏政(うじまさ=氏康の次男)が大軍を率いて関宿へと侵入して来たのです。

その夜は、関宿城下をことごとく焼き払い、チリ一つ残さぬ勢いでしたが、4日の朝には一旦退き、6日に再び勢いづいて猛攻撃を仕掛けました。

このような状況が2ヶ月近く続くも、簗田晴助が巧みな戦術で何度もかわしているうち、かの上杉謙信と、謙信の要請に応じた常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)が、関宿城救援のために出兵して来た事で、北条軍は撤退し、その後、梁田と北条の間で和議の話し合いが行われる事に・・・

しかし、所詮はかりそめの和議・・・結局、この戦いは、翌永禄十年(1567年)の第2次、さらに天正二年(1574年)の第3次関宿城の戦いへと持ち越される事になるのですが、そのお話は、また、その日付にて書かせていただきたいと思います。
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2022年1月12日 (水)

武田信虎VS今川氏親~吉田城の戦い

 

永正十四年(1517年)1月12日、大井信達の要請を受けて今川軍が奪った吉田城を、武田軍が奪回しました。

・・・・・・・・・・

おそらくは延徳三年(1491年)から明応三年(1494年)にかけての頃に、伯父(おじ=母の兄?)北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)の援助を受けて、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部) を領する今川(いまがわ)の当主となった今川氏親(いまがわうじちか)(4月6日参照>>)は、

群雄割拠する中で守護(しゅご=室町幕府政権下での県知事みたいな?)としての復権を果たしつつあった甲斐(かい=山梨県)武田信虎(のぶとら)とも、未だ微妙な関係にありました。

そんな中、甲斐西郡の有力国人領主である大井信達(おおいのぶさと)からの援軍要請を受けた今川氏親は、永正十四年(1517年)に朝比奈(あさひな)葛山(かつらやま)庵原(いはら)2000余の家臣団を甲斐に送りこんで曽根(そね)勝山城(かつやまじょう=山梨県甲府市)占拠する一方で、富士山麓にも軍勢を送り、吉田城(よしだじょう=山梨県富士吉田市:吉田山城)占拠して、これらを今川の拠点としました。

Takedanobutora500a これを受けた武田信虎・・・

郡内(ぐんない=山梨県都留郡一帯)小山田信有(おやまだのぶあり)らの軍勢を中心に主力部隊を形成し、

永正十三年(1516年)の12月、吉田城の攻略に向かわせました。

派遣された武田軍は、12月26日、さらに29日にも、吉田城に攻撃を仕掛けますが、ともに有力武将を失う大惨事となり、吉田城は陥落しないまま、年を越す事になってしまいます。

この時、大半の兵士が本城へ戻る事が出来ず、河口湖(かわぐちこ=富士五湖の1つ)に浮かぶ無人島=鵜ノ島(うのしま)にて年を越したと言います。

明けて永正十四年(1517年)正月、小山田氏の有力武将である小林尾張入道(こばやしおわりにゅうどう)は、荒蔵(あらくら=富士吉田市新倉)に出陣し、2日から吉田城への攻撃を開始します。

かくして10日後の永正十四年(1517年)1月12日、ついに吉田城は陥落したのです。

この戦いは、武田信虎にとって、大きな犠牲を払った戦いではあったものの、最終的に勝利した事で、この方面においての優位な態勢を確立する事ができ、

逆に、今川氏親にとっては、一旦、退く決意をせざるを得ない残念な戦いとなってしまいました。

2ヶ月後の3月2日、武田信虎と今川氏親の間に和議の話が持ち上がり、この時点でも、未だ勝山城に詰めていた約2000の今川勢も、やむなく勝山城から撤収して、ほどなく駿河の地へと戻っていきました。

さらに翌永正十五年(1518年)の5月、ここで両者の間で正式な和睦が結ばれたのです。

この和睦によって、この戦いの発端となった大井信達も武田信虎と和睦し、長女を信虎の正室として嫁がせます。

この女性が大井の方(おおいのかた)と呼ばれる女性ですが、上記の通り、負け戦を治めるがための輿入れで、どちらかというと人質に近い物だったと言われています。

しかし、この大井の方が、後に今川義元(いまがわよしもと=氏親の息子)に嫁ぐ長女定恵院(じょうけいいん)を産み、嫡男武田晴信(はるのぶ=武田信玄)を産み、その晴信を支える武田信繁(のぶしげ)を産み、

この姉弟たちが主軸となって武田家の全盛期へと向かって行くのですから、世の中、わからないものです。

とは言え、武田と今川の関係は、まだまだ落ち着くにはほど遠く、そこに北条氏綱(うじつな=北条早雲の息子)も絡んで来て、一悶着も二悶着もあるんですけどね~

そちらのお話は、下記の関連項目からどうぞm(_ _)m

★この後の信虎の動向
 ●大永元年(1521年):飯田河原の戦い>>
 ●大永四年(1524年):猿橋の戦い>>
 ●天文四年(1535年):万沢口・山中の戦い>>
★この後の氏親の動向
 ●半年後の6月:第3次・引馬城の戦い>>
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2021年12月 9日 (木)

近江守護の座を巡って~六角高頼VS山内就綱の金剛寺城の戦い

 

明応三年(1494年)12月9日、山内就綱に奪われた金剛寺城を六角高頼が奪回する金剛寺城の戦いがありました。

・・・・・・・・・

世紀の大乱となった応仁の乱(おうにんのらん)(5月20日参照>>)の後、
スッタモンダの末に、8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後を継いで、第9代将軍となった一人息子の足利義尚(よしひさ)の使命は、大乱でグダグダになった全国各地を、少しずつでも平らかにし、室町幕府将軍の威厳を見せる事。。

…という事で、まずは、大乱に乗じて、近隣の公家の荘園などを力で以って占拠して、好き勝手に領地を増やしつつあった近江(おうみ=滋賀県)南部守護(しゅご=県知事)六角高頼(ろっかくたかより=行高)征討すべく、自ら出陣します。

しかし、近江鈎(まがり=滋賀県栗東市市安養寺)の陣にて、六角の味方をする甲賀衆(こうかしゅう=忍者部隊)の奇襲を受けた(12月2日参照>>)あげく、その陣中にて25歳の若さで病死してしまいます(3月27日参照>>)

そのため、義尚の母である日野富子(ひのとみこ)が夫=義政の弟である足利義視(よしみ)の息子の足利義材(よしき=後の義稙)を推挙・・・

10代将軍となった義材が義尚の遺志を継いで六角征討を続け、明応元年(1492年)12月、何とか六角高頼を近江から追い出す事に成功し、朽木貞綱(くつきさだつな=佐々木貞綱)の息子で六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟?)の養子となっていた虎千代を高頼に代わる新しい近江守護に任命して六角征討を終えたのです(12月13日参照>>)

とは言え、ご覧の通り、これは単に六角高頼を追いやっただけ・・・

本来なら、六角高頼とその一派を完全消滅させてこその征討・・・むしろ、幕府将軍が出張っても、六角高頼一人まともに倒す事ができなかったという事実が残り、幕府の弱体化が露呈してしまう結果となってしまったのです。

案の定、義材が京都に戻ったのを見計らって、コソコソと、徐々に近江へ戻って来る六角高頼系列の面々・・・

そこに動いたのが、あの応仁の乱の東軍大将だった細川勝元(ほそかわかつもと)の息子で、当時、管領(かんれい=将軍の補佐)を務めていた細川政元(まさもと)・・・

明応二年(1493年)4月、義材が、未だ応仁の乱を引きずってモメまくっている畠山義豊(はたけやまよしとよ=義就の息子)畠山政長(まさなが)の同族争い(7月12日参照>>)に、政長の味方をして河内(かわち=大阪府東部)へと出陣してるスキに、細川政元がクーデターを決行したのです。

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

 世に言う「明応の政変(めいおうのせいへん)・・・京都にいない義材をクビにして、自らのお気に入りである足利義澄(よしずみ=義高=義材の従兄弟)11代将軍に据えたのです(4月22日参照>>)

この政変によって幕府内にて絶大な力を持つことになった細川政元は、義材の将軍就任に関わった虎千代を廃し

先の六角征討の時に、義材側によって園城寺(おんじょうじ=滋賀県大津市・三井寺とも)に呼びだされて騙し討ちされた山内政綱(やまうちまさつな=六角氏の親族で重臣)の息子である山内就綱(なりつな)六角氏の当主とし、さらに近江守護にも任じたのです。

虎千代が守護になって、まだ1年も経っていないのに。。。 

この頃、すでにシレッと金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市)に身を寄せていた六角高頼・・・

本来なら、自分が座るべき守護の座を、
「義材や政元の都合でアッチコッチへ~何、勝手にさらしとんねん!」
怒り心頭です。

そもそもは六角の親族&重臣で、そのために先の征討で亡くなった山内政綱の息子ではありますが、山内就綱自身は、その際に幕府側に投降しており、もはやアチラ側の人間・・・

「正統な、このワシが、あんな若輩者に取って代わられる筋合いない!っちゅーねん」
と、こっそりと、新将軍の足利義澄に好を通じて、山内就綱の排除を謀ろうとしたのです。

京都にて、この気配を知った山内就綱は、すぐに近江へと帰還して、何とか六角高頼への対抗策を思案しますが、すでに将軍義澄も高頼に丸め込まれており、思うように兵備を整える事ができませんでした。

それでも、あちこち奔走する中、明応三年(1494年)10月になって、ようやく延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町・比叡山)の支援を得た事で、10月19日、山内就綱は高頼の拠る金剛寺城を攻めたのです。

この戦いで、重臣の美濃部貞茂(みのべさだしげ)をはじめとするその一族や多くの家臣を失った 六角高頼は、やむなく城を捨てて脱出・・・

が、しかし、ほどなく態勢を整え、今度は美濃(みの=岐阜県南部)守護代(しゅごだい=副知事)斎藤妙純(さいとうみょうじゅん・利国) の支援を得て舞い戻った六角高頼は、明応三年(1494年)12月9日金剛寺城に猛攻撃を仕掛けて、これを奪回したのでした。

今回は、逆に、多くの延暦寺の僧兵&宗徒が戦死し、山内就綱は、やむなく近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退きました。

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六角氏が居城とした観音寺城跡=観音正寺より南西方面を望む

とは言え、山内就綱は、その翌年の明応四年(1495年)頃には、チャッカリ京都に戻って来ていたようで・・・というのも、この頃には、将軍義澄の命によって六角高頼が近江守護に復帰しており、おそらくは、もう、何もできない状態だったのでしょう。

一方の高頼は、この金剛寺城奪回のすぐあとに起こった美濃の内乱である船田合戦(ふなだがっせん)にて、斎藤妙純に敵対する石丸利光(いしまるとしみつ)の味方となっった事で、残念ながら、今回の恩人=妙純とは袂を分かつ関係となってしまいました。

その後のお話は…
  ●家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主~斎藤妙純の最期
  ●六角VS伊庭の乱~音羽日野城の戦い
でどうぞm(_ _)m
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2021年11月24日 (水)

松永久秀の奈良侵攻~檜牧城の戦い

 

永禄三年(1560年)11月24日、奈良支配を強める松永久秀檜牧城を開城させました。

・・・・・・・・・

その地名から、自明塁(じみょうるい)とも呼ばれる檜牧城(ひのまきじょう=奈良県宇陀市榛原区檜牧自明)は、左記の通り、現在の奈良県宇陀市にあったお城で、位置的には有名な長谷寺(はせでら=奈良県桜井市初瀬)室生寺(むろうじ=奈良県宇陀市室生)の真ん中あたり・・・

長谷寺から東へ向かう伊勢本街道(大阪からの伊勢参りの道)を行き、途中で室生寺へ向かう道と分かれて、そのまま伊勢本街道を進んだ先でぶつかる内牧川によって形勢された谷に横たわる集落を見下ろす尾根に立地する天然の要害で、規模的には中規模であったものの、2重の堀と随所に塹壕(ざんごう=敵から身を守るための穴)が設けられた、なかなか実践的な城であったようです。
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檜牧城の麓にある自明不動堂横の国道から旧伊勢本街道への分かれ道

ここを代々治めて来たのが檜牧(ひのまき)氏・・・

この檜牧氏は、「和州宇陀三人衆(やまとしゅううだなんにんしゅう)あるいは「宇陀三将(うださんしょう)と呼ばれた秋山(あきやま)芳野(ほうの)(さわ)のうちの沢氏の同名衆(どうみょうしゅう=もともと同じ苗字を持ち行動をともにした武士の集団)で、この頃は与力(よりき=組下)を務めていたとか・・・

とは言え、ここは、山深いほんのわずかな集落・・・なので、ここを治めていた檜牧氏は、言わば典型的な土豪(どごう=土地に根付く侍)で、いわゆる戦闘員も寡少だったわけですが、それだけに家臣団の団結力も高く、少数ながら一騎当千の精鋭たちに支えられる存在でした。

そんな宇陀地方に狙いをつけて来たのが、去る永禄元年(1558年)の白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)に勝利した後に、第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦して京都に迎え入れ(11月27日参照>>)、その将軍のもと、いままさに畿内を牛耳る天下人に手をかけた三好長慶(みよしながよし)…の右筆(うひつ=秘書のような家臣)であった松永久秀(まつながひさひで)でした。

永禄二年(1559年)頃から、主君の三好長慶の天下人への道の一環として大和(やまと=奈良県)への侵攻を開始した松永久秀は、かつては大和守護代(しゅごだい=副知事)木沢長政(きざわながまさ)(3月17日参照>>)の居城だった信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改築して、そこを拠点とし、翌永禄三年(1560年)7月には、手始めに井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)を陥落させていました(7月24日参照>>)

そんな松永久秀にとって、この宇陀地域は重要な場所・・・それは、冒頭にも書かせていただいた通り、この山あいを伊勢本街道が通っているから。

ご存知のように、一般人がこの街道を通って伊勢神宮にお参りするようになるのは江戸時代以降ですが、古くは記紀にて倭姫命(やもとひめのみこと)天照大神(あまてらすおおみかみ)が鎮座する場所を求めて旅した道で・・・

ま、↑この話は神話の中の出来事だとしても、少なくとも飛鳥時代には政権の置かれた大和と伊勢を結ぶ重要な道として登場していますし、南北朝以降は、伊勢国司(こくし=中央から派遣された官吏)北畠(きたばたけ)が伊勢周辺を本拠(7月20日の真ん中あたり参照>>)とした事から、多くの武士が行き交う要道だったわけですから、

例え小さな土豪と言えど、その場所に、自らに敵対する勢力が根付いている事は、松永久秀陣営にとっては捨ておけないわけで・・・

かくして永禄三年(1560年)11月某日、圧倒的に優勢な数の兵を率いた松永久秀が、山深い檜牧城を囲んだのです。

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檜牧城周辺の位置関係図
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

記録が曖昧なため、くわしい経緯はわからないのですが、幾日かの攻撃があった後の永禄三年(1560年)11月24日、力尽きたとおぼしき檜牧城は、松永方との話し合いの場を設け、結果、噯(あつかい=示談・和睦)となった『足利季世記』との事。。。

つまりは、話し合いによって和睦したという事ですが、実は、以前に書かせていただいたように、この同日、檜牧城から3km弱離れた場所にある沢城(さわじょう=奈良県宇陀市榛原区)も、話し合いの末、松永久秀に開け渡されています(2016年11月24日参照>>)

おそらくは、この沢城の一件があっての檜牧城の開城・・・となった物と思われます。

なんせ、上記の通り、沢城の沢房満(さわふさみつ:房満の没年が不明なので、もしかしたら源六郎かも?)は、檜牧氏の親方ですから、そこが陥落した以上、多勢に無勢の無謀な戦いを続けるのは無意味。。。

一方の松永久秀も、合戦とは言え、自軍の犠牲も少ないに越した事は無く、相手が穏やかに対処しようとしている物を、ムリクリで力攻めする必要もないわけで、今回は、檜牧氏を自身の配下に収める形で、早々に信貴山城に引き上げて行ったという事です。

毎度の事ではありますが、華々しく散るのも戦国武将なら、生き残って血脈をつなぐのも戦国武将・・・どちらかと言えば、何とか生き残って次のチャンスを狙う方が得策かも知れません。

その後の松永久秀の奈良支配
 ●松永久秀VS筒井順慶~筒井城攻防戦
 ●久秀に城を奪われた筒井の報復~大和高田城の戦い
 ●大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井
 ●十市氏の内紛~松永久秀と筒井順慶のはざまで…
 ●松永久秀VS筒井順慶~辰市城の戦い
 ●松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い
 ●松永久秀~男の意地の信貴山城の戦い
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2021年11月17日 (水)

岩櫃斎藤氏の滅亡~真田幸隆の嵩山城の戦い

 

永禄八年(1565年)11月17日、武田信玄の配下となった真田幸隆が、斎藤憲宗城虎丸が守る嵩山城を落とした嵩山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・

信濃(しなの=長野県)小県(ちいさがた=上田市とその周辺)を支配していた海野(うんの)海野棟綱(うんのむねつな)の長男もしくは次男、もしくは孫、もしくは娘婿で、小県の真田庄(さなだしょう)に土着した事から、真田姓を名乗り始めたとされる真田幸隆(さなだゆきたか= 幸綱)。。。

Sanadayukitaka300a しかし、天文十年(1541年)5月14日の海野平(うんのたいら)の戦い(5月14日参照>>)にて、葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)村上義清(むらかみよしきよ)上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)諏訪頼重(すわよりしげ)と連合した甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)に、海野氏もろとも敗北した真田幸隆は、箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)長野業正(ながのなりまさ)を頼って亡命し、一時は浪人の身になったものの、

その海野平の戦い直後に、かの信虎は、息子の武田信玄(しんげん=当時は晴信)のクーデターに遭い(6月14日参照>>)、甲斐を追放されてしまうのです。

その後、父を追放した信玄が父とは真逆の方針を打ち出し、翌・天文十一年(1542年)には諏訪への侵攻を開始(6月24日参照>>)村上義清とも敵対(2月14日参照>>)した事から、真田幸隆は海野平の恨みをを捨て、武田の家臣となったのです。

信濃への更なる侵攻を目論む信玄にとって、この周辺の地の利を持つ幸隆の存在は大変心強く、その期待通り幸隆は、信玄が手こずった戸石城(といしじょう:砥石城=長野県上田市上野)を落とし(9月9日参照>>)、有名な永禄四年(1561年)の川中島の戦い(9月10日参照>>)でも、啄木鳥(きつつき)戦法の別働隊を担当しました。

そんなこんなの永禄六年(1563年)、幸隆は、斎藤憲広(さいとうのりひろ)岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)に狙いを定め、周辺の諸将の寝返り作戦&内応者の懐柔作戦を展開しつつ、3度目の総攻撃で岩櫃城を攻略・・・

城主の斎藤憲広と嫡子の斎藤憲宗(のりむね=則宗)は、上杉謙信(うえすぎけんしん)を頼って越後(えちご=新潟県)へと落ちていったのです(10月14日参照>>)

こうして岩櫃城は落としたものの、実は、近くにあるもう一つの斎藤の城=嵩山城(たけやまじょう=群馬県吾妻郡中之条町)には、斎藤憲広の四男の斎藤城虎丸(しろとらまる)が健在でした。

もちろん、一旦は退いたとは言え、斎藤憲宗(←父の憲広は越後への逃亡以降は不明)の目論見は、この嵩山城を足掛かりに岩櫃城を奪回する事・・・

そんな事は重々承知の幸隆ではありましたが、斎藤憲宗らの亡命を受け入れた上杉謙信が、自身の配下となってる尻高城(しったかじょう=群馬県高山村・要害城)尻高景家(しったかかげいえ)中山安芸守(なかやまあきのかみ)らに嵩山城の支援をさせており、そう簡単には手を出せません。

そこで、まずは、城虎丸が、その信頼を置く後見人の池田重安(いけだしげやす)を、コチラ側に寝返らせる作戦を展開・・・

初め池田重安は、主君=城虎丸の助命を条件に…つまり、
「主君の命を助けてくれたら、自分は武田の下につく」
と真田幸隆に申し出ていましたが、

幸隆が、
「おそらく信玄が城虎丸を許す事は無い事」
「どうあがいても、このままでは嵩山城は落ちてしまう事」
「武田に従えば池田重安の本領は安堵する事」
などなど、徐々に徐々にの懐柔交渉を繰り返し、ついに池田重安を寝返らせる事に成功します。

そして、永禄七年(1564年)、その支城である仙蔵城(せんぞうじょう=群馬県吾妻郡中之条町)を落とし、ここを拠点として嵩山城への攻撃を開始するのです。

明けて永禄八年(1565年)、未だ頑張ってる嵩山城に、上杉謙信の援助を受けて越後から戻った斎藤憲宗が、さらに浪人たちを集めて嵩山城へと入り、弟の城虎丸らと合体して岩櫃城の奪回を模索・・・

かくして11月16日、これ以上の敵方の進軍を防ぐべく、斎藤勢が、仙蔵城近くの五反田原(ごたんだはら=群馬県吾妻郡中之条町)で、真田勢を迎え撃ち、両者は激しい戦いとなりました。

しかし、力攻めで勝る真田勢を食い止める事ができず・・・やむなく、斎藤勢は嵩山城へと後退を開始。

それを追うように、嵩山城近くまで軍勢を勧めた真田方は、翌永禄八年(1565年)11月17日早朝、嵩山城への総攻撃を仕掛けたのです。

戦い激しく、池田より先に降った元斎藤家臣の唐沢杢之助(からさわもくのすけ=十勇姿のモデルの忍者とされる唐沢玄蕃の父)や 西窪治郎左衛門(にしくぼじろうざえもん)らの先陣に戦死者を出しつつも、何とか城内へ突入した真田勢は、一の木戸口(大手)にて湯本善太夫(ゆもとぜんだゆう)が、斎藤一の剛の者と名高い早川源蔵(はやかわげんぞう)を討ち取る功績を挙げ、ついに本丸を落としたのです。

これを受けて、兄の斎藤憲宗は城内で自刃しました。

弟の城虎丸は・・・
実は、嵩山城のある嵩山は、古より修験道の山として信仰を集めていた標高789mの岩山で、大天狗中天狗小天狗と呼ばれる3つの高低差のある峰が存在していたのですが、

その中でも最も厳しい大天狗岩より投身自殺を図ったのでした。

ここに、岩櫃斎藤氏は滅亡したのです。

この翌年の永禄九年(1566年)には、亡命でお世話になった箕輪城の長野さんまで攻め落とす(9月30日参照>>)真田幸隆は、おかげで『謀略の士』『謀将』などと呼ばれつつ、やがては武田二十四将(たけだにじゅうよんしょう)の一人にも数えられる出世を果たし、真田の祖となるのは皆さまご存知の通りです。

幸隆さんの生涯については2017年5月19日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2021年11月 2日 (火)

三好長慶&赤松義祐~明石城の戦い

 

天文二十三年(1554年)11月2日、三好勢の加勢を得た赤松義祐が、細川晴元側に属する明石城を攻めました。 

・・・・・・・・・

かの応仁の乱の後、室町幕府将軍に勝るとも劣らない絶大な力を持った管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと)(6月20日参照>>)の後継者を巡っての養子同士の争いで、亡くなった父親(細川澄元=政元の養子)に代わって敵対勢力の細川高国(たかくに=政元の養子)を、配下の三好長慶(みよしながよし)とともに倒して(2月13日参照>>)、大永七年(1527年)に畿内を掌握した細川晴元(はるもと)でしたが、

Miyosinagayosi500a やがて細川晴元と三好長慶は袂を分かつ事になり(9月14日参照>>)、天文十八年(1549年)の江口(えぐち=大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)にて長慶が勝利・・・

負けた晴元が、足利義晴(あしかがよしはる=第12代室町幕府将軍)を連れて近江(おうみ=滋賀県)に退去した事から、長慶は畿内を制する事実上の天下人となったのでした。

その体制は、
長兄の三好長慶が摂津(せっつ=大阪府北中部+兵庫県南東部)河内(かわち=大阪府東部)和泉(いずみ=大阪府南西部)

次兄の三好実休(じっきゅう=義賢)が領国の阿波(あわ=徳島県)をまとめ、

三男の安宅冬康(あたぎふゆやす=安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>淡路(あわじ=淡路島周辺)安宅水軍を引き継ぎ、

四男の十河一存(かずまさ・かずなが=十河氏の養子に入った(5月1日参照>>)が十河氏の讃岐(さぬき=香川県)掌握する
という広範囲に及ぶ物でした。

とにもかくにも、
こうして晴元が近江に退いてからしばらくは、兄弟ともに大きな支配圏を連携しつつ転戦するという盤石な形で守りつつ、父=義晴の死を受けて将軍職を継いだ足利義輝(よしてる=13代将軍)と、晴元が義兄となる縁(義賢の姉が晴元の奥さん)から彼らに味方する六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)と、幾度にも渡って戦っておりました(【志賀の戦い】参照>>)

そんな(=近江)の脅威とともに、やはり三好総出で守らねばならぬのが西(=瀬戸内海)の脅威・・・

そう・・・
阿波や淡路の制海権を握って補給路を確保したい三好長慶にとって、明石城(あかしじょう=兵庫県明石市・枝吉城)に本拠を構える明石(あかし)は、大いに目障りだったのです。

そもそも明石氏は、村上源氏(むらかみげんじ=村上天皇の流れ)の流れを汲む赤松(あかまつ)の庶流(異説あり)・・・

なので、必然的に赤松晴政(あかまつはるまさ=政村・晴政・政祐)が支持する晴元派に属していたわけですが、

この頃は、その赤松自身が、出雲(いずも=島根県)尼子(あまこ)氏や、

備前(びぜん=岡山県南東部+小豆島+赤穂)美作(みまさか=岡山県東北部)浦上(うらがみ)と配下の宇喜多能家(うきたよしいえ)などに脅かされ、隠居した赤松義村(よしむら=晴政の父)と晴政の2代に渡って、衰退の一途を辿っていました(11月12日参照>>)

この衰退状況を憂いての勢力挽回か?
ここに来て、赤松晴政の息子=赤松義祐(よしすけ)三好長慶に通じて来たのです。

これは三好にとって、明石城を手に入れる絶好のチャンス!

かくして天文二十三年(1554年)11月2日、安宅冬康や三好実休らの加勢を得た赤松義祐が、明石城への攻撃を仕掛けたのです。

まずは、安宅冬康の内衆が先陣となり、そこに三好実休の重臣である篠原長房(しのはらながふさ)が加わって、明石城を包囲します。

対する明石城内は、徹底した籠城作戦でビクとも動かず・・・はなから真冬の時期(旧暦なので)という事もあって、攻める側もムリヤリな力攻めはしなかった事から、年内には大きな合戦に発展する事無く、新しい年=天文二十四年(1555年=10月に弘治に改元)を迎えますが、

その年の正月に、三好長慶自らが出陣して、太山寺(たいさんじ=兵庫県神戸市西区)に布陣して睨みを効かせた事から、この様子を知った明石城方が、大いに恐怖を感じたようで・・・

結局、天文二十四年(1555年)1月13日、
「色々懇望候て曖に成て和睦」(『細川両家記』より)
との城側からの降伏の申し出があり、明石城は赤松&三好の手に落ちたのでした。

とは言え、戦国の世は、明日の事もわからぬ世・・・

この4年後の永禄元年(1558年)に、赤松義祐は、姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)主の小寺政職(こでらまさもと=赤松の分家)の助けを得てクーデターを起こして赤松家内を掌握しますが、追われた父=赤松晴政が逃げ込んだ龍野城(たつのじょう=兵庫県たつの市)主=赤松政秀(まさひで=晴政の娘婿で義祐の義弟)と、長きに渡って対立する事となりました。

一方の三好長慶も、この同じ年=永禄元年(1558年)に勃発した白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)をキッカケに、将軍=足利義輝と和睦し、義輝は5年ぶりに長慶のサポートで京都へと戻り(11月27日参照>>)、名実ともに将軍の座に返り咲いたわけです。

さらに、戦国の政情は変化を続け・・・

その翌年に、あの上杉謙信(うえすぎけんしん)関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)並みとなり(6月26日参照>>)、さらに、その翌年に、織田信長(おだのぶなが)が全国ネットに躍り出る桶狭間(おけはざま)(5月19日参照>>)浅井長政(あざいながまさ)が六角氏から独立する野良田の戦い(8月18日参照>>)と続き・・・

戦国の世は、次の段階へと進むことになります。
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2021年10月27日 (水)

上杉謙信との戦い~佐野昌綱の生き残り作戦

 

永禄七年(1564年)10月27日、上杉謙信が、再び背いた佐野昌綱唐沢山城を攻略しました。

・・・・・・・・・

よく、戦国時代の幕開けと称される応仁の乱ですが、私的には、未だ、この応仁の乱の直後あたりは、室町幕府政権内での上下関係が、将軍家を頂点に、管領(かんれい=将軍の補佐)守護(しゅご=県知事)守護代(しゅごだい=副知事)領主家→みたいに、ある程度保たれていたように思います。

しかし、応仁の乱が全国各地の武将を巻き込んで行われた事によって、各地の武将の力関係がギクシャクし、内紛が起こり、やがて、そのギクシャク内紛が下剋上(げこくじょう=下の者が上の者を倒す)を生み、戦国の群雄割拠となっていく・・・もちろん、その原因を作ったのが応仁の乱という事になれば、戦国の幕開けとするのもアリだと思いますが。。。

とは言え、そんな戦国も、幕開けから何年か経つと、徐々に、その力関係にも差がでてきて、大大名と称されるような戦国大名が登場して来ます。

畿内では、明応の政変(4月22日参照>>)でクーデターを起こした管領の細川政元(ほそかわまさもと)亡き後、その後継者争いでモメてる中で(2月13日参照>>)力をつけた三好長慶(みよしながよし)が、天文十八年(1549年)の江口の戦いに勝利して、ほぼ畿内を掌握し(6月24日参照>>)し、永禄元年(1558年)には、第13代室町幕府将軍の足利義輝(よしてる)と交戦しても、その力は揺るぎないほどになっています(6月9日参照>>)

一方の関東では、鎌倉公方(かまくらくぼう=関東支配のための足利家)がゴタゴタやってる中で(9月30日参照>>)公方家の一つである堀越(ほりごえ)公方を倒した北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)の孫の北条氏綱(うじつな)が、天文十五年(1546年)の河越夜戦(かわごえやせん)関東管領(かんとうかんれい=関東公方の補佐)上杉憲政(うえすぎのりまさ)もろとも古河(こが)公方足利晴氏(はるうじ)をせん滅(4月20日参照>>)

この時、もはや名ばかりの関東管領となってしまった上杉憲政が頼ったのが、越後(えちご=新潟県)長尾景虎(ながおかげとら)・・・ご存知、後の上杉謙信(うえすぎけんしん)です。

Uesugikensin500 謙信の長尾家は、もともとは越後の守護だった上杉房能(ふさよし=憲政の養父の弟)を追いやって、守護代の長尾為景(ながおためかげ=謙信の父)が掌握したという経緯ではありましたが、背に腹は代えられん!てな感じ?で、永禄二年(1559年)に上杉憲政から家督と関東管領職を譲られて上杉謙信と名乗るようになるわけですが(6月26日参照>>)

憲政から頼られたこの頃は、未だ越後統治も盤石ではなく、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)信濃(しなの=長野県)への侵攻を着々と進めていて(10月29日参照>>)、それが、あの川中島(かわなかじま)(9月1日参照>>)に発展し、なかなかに厳しい頃ではありましたが、忙しい中でも謙信は、憲政の要請で度々関東へも出兵するようになっていました。

そう・・・関東の諸将は、関東支配を広めようとする北条と、それを阻止しようとする上杉の間で揺れ動く事となっていたのです。

永禄二年(1559年)に下野(しもつけ=栃木県)国人領主(地侍)だった父=佐野泰綱(さのやすつな)の死を受けて家督を継いだ唐沢山城(からさわやまじょう=栃木県佐野市)佐野昌綱(まさつな)という武将も、その揺れ動く武将の一人でした。

昌綱は、はじめは足利晴氏に仕えていましたが、上記の通り、晴氏が北条に追われたために北条氏康(うじやす=氏綱の息子)と結んでいましたが、ここに来て、かの謙信が安房(あわ=千葉県南部)里見義堯(さとみよしたか)の救援要請を受けて関東に出兵(1月20日参照>>)する事を知り、上杉側に寝返り・・・

それを知った北条によって、永禄三年(1560年)2月に3万の北条軍で以って唐沢山城を攻められるも、見事!撃退しています。

翌永禄四年(1561年)3月に、謙信が再び関東に出張って来て、北条の本拠地である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を包囲した際には、キッチリ、その包囲陣の一人に加わっていた佐野昌綱・・・

しかし、上記の通り、謙信の関東入りあくまで出張・・・

そんな出張のさ中に、北陸は越中(えっちゅう)富山神保長職(じんぼうながもと)が勢力拡大に乗り出した(3月30日参照>>)事を知った謙信は、即座に領国へ戻らなければならなくなりました。

しかも、この年は、川中島でも最も有名な…♪鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)~夜 河を渡る~♪でお馴染みの第四次川中島の戦い(9月10日参照>>)が9月にあった年ですから、小田原城を包囲したとて、「今、陥落させるのは無理」と判断すれば、とっとと領国へ帰ってしまうわけで・・・

案の定、上杉軍が去った後の同年の12月・・・謙信への加勢に怒った北条氏康が唐沢山城へ攻撃を仕掛けます。

忙しい謙信からの援軍が期待できない佐野昌綱は、やむなく唐沢山城を開城し、氏康に降伏したのです。

ところが今度は、永禄四年の12月、その降伏を「北条への寝返り」とみなした上杉謙信が唐沢山城を包囲・・・

しかし、実は、この唐沢山城は、唐沢山の山頂に位置する本丸と連郭する曲輪(くるわ=土塁など区画された場所)が見事に配置された「関東一の山城」と称される堅城で、さすがの謙信も簡単には落とせず、本格的な冬を前に(当時は旧暦なので…)、包囲を解いて撤退しました。

そう、実は、この戦いから後の佐野昌綱の敵は上杉謙信のみ・・・しかも、その生涯で大小合わせると10回ほどの戦いがあったとされる中、そのほとんどを佐野昌綱は撃退しているのです。

上記の永禄四年の12月の戦いでの撤退後、越後には戻らず前橋城(まえばしじょう=群馬県前橋市)にて冬を越した謙信は、春を迎えた永禄五年(1562年)3月に、またもや唐沢山城に攻め寄せますが、またもや落城へは至らず撤退・・・

翌永禄六年(1563年)に入ると、謙信が越中での戦いに忙しい事を見越した北条が関東での勢力を拡大し、以前から上杉と北条の間で取り合い(7月20日参照>>)になっていた要所=松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)を奪回します。

謙信は、上記の松山城には間に合わなかったものの、急遽、冬の行軍を決行して関東に入り、関東の北条側の諸城を攻撃して回り、次々と開城させていったのです。

さすがの唐沢山城も、この時の謙信の勢いには勝てず、あえなく開城・・・

しかし、そんな謙信が下野を去った永禄七年(1564年)2月、またもや佐野昌綱は、謙信留守のスキを狙って反旗を翻しますが、この時は、それを阻止せんとする上杉軍との間で激しい戦いとなったため、

さすがの堅城=唐沢山城も耐えがたく、しかも、頼みの北条は第二次国府台(こうのだい=千葉県市川市)の戦い(1月8日参照>>)に忙しく援軍を期待できないため、やむなく佐野昌綱は、敵方の降伏要請に応じて唐沢山城を開城しました。

ところが、この年の8月に起こった5度目の川中島の戦い(8月3日【塩崎の対陣】参照>>)に謙信が向かったスキを狙って、案の定、北条氏康が侵出・・・

佐野昌綱は、またまた北条側へと寝返り、上杉側についている藤岡城(ふじおかじょう=栃木県栃木市藤岡町)を攻めたのです。

もちろん、謙信としては、この佐野昌綱の行動は許せません。

すぐさま兵を整え、下野へと侵攻した謙信は、10月20日に多田木山 (ただきやま=栃木県足利市多田木町)に着陣して丸一日兵馬を休ませた後、ここから佐野方面へとじりじりと距離を詰め、22日には沼尻(ぬまじり=同栃木市藤岡)に着陣します。

ここで、味方である祇園城(ぎおんじょう=栃木県小山市城山町・小山城)小山秀綱(おやまひでつな)と、足利公方家の家臣である簗田晴助(やなだはるすけ)を招いて軍議を開き、

25日に、小山(おやま=栃木県小山市)から出陣すると佐野昌綱に向けて警告を発し、唐沢山城に迫って来たのです。

そう・・・残念ながら、さすがの佐野昌綱も、上杉&連合軍からピンポイントで狙われては勝ち目はありません。

かくして永禄七年(1564年)10月27日佐野昌綱はやむなく降伏・・・人質を差し出しての恭順を誓ったのでした。

とまぁ、さすがに今回は、人質を差し出しての降伏という事で、しばらくは大人しくしていた佐野昌綱でしたが、約2年後の永禄九年(1566年)、謙信が、かねてよりの武田&北条との戦いに加え、またまた越中が騒がしくなった状況(4月13日参照>>)を見て、
「今がチャンス!」
とばかりに、またまた北条側に寝返り・・・それを許さぬ謙信に永禄十年(1567年)2月に、またまた唐沢山城を攻められますが、お約束の如く、冬に勝てない謙信は、一旦撤退・・・

しかし、雪解けを待った翌3月に攻められ、結局、佐野昌綱は、またもや開城を余儀なくされるのですが、

そう・・・以前に、このブログでご紹介した「戦国最弱」と噂される小田氏治(おだうじはる)さん(11月13日参照>>)が、そうであるように、落城&降伏しても、謙信は、その命を取る事はなかったのです。

なんせ謙信は関東管領として出兵しているわけで、自身の領国は越後・・・関東の諸将には、自分の傘下にさえ収まってくれていれば、あえて一族もろともせん滅する必要も無いわけで・・・

そんなこんなしているうちに、永禄十一年(1568年)、あの第15代室町幕府将軍足利義昭(あしかがよしあき)の上洛(9月7日参照>>)によって、政情が大きく変わります。

この時、武田信玄が甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=武田と北条と今川の同盟)を勝手に破棄して駿河(するが=静岡県東部)今川を攻め始めたため、北条が激怒(12月12日参照>>)・・・敵の敵は味方とばかりに、北条が謙信と同盟を結んだおかげで、佐野昌綱が北条と上杉の間で揺れ動く事はなくなりました。

それから後は、元亀元年(1570年)1月に1度だけ、謙信が唐沢山城に迫った事がありましたが、やはりこの時も、謙信は城を落とす事無く兵を退いています。

こうして大国と大国の間で何とか生き残りを掛けて奔走した佐野昌綱・・・残念ながら、息子&孫の時代に北条に呑み込まれてしまう事になるのですが、少なくとも、佐野昌綱自身は、堅城である唐沢山城と、自身の知略で以って天正二年(1574年)まで生き抜いたのでした。
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2021年10月13日 (水)

徳川家康の直系ご先祖~松平親忠の井田野の戦い

 

明応二年(1493年)10月13日、松平親忠が彼に反発する勢力に勝利した井田野の戦いがありました。

・・・・・・・

その不穏な空気は、三河(みかわ=愛知県東部)松平氏3代当主松平信光(まつだいらのぶみつ)が亡くなった長享二年(1488年)もしくは長享三年(1489年)・・・その死の直後から始まります。

…というのも、
遺言により、その死を受けて家督は三男の松平親忠(ちかただ)に譲られ、親忠が松平氏第4代当主となったとされているのですが、なぜに三男に譲るのか?がハッキリしない・・・

しかも、一説には、本当は、長男に家督を譲り、三男=親忠は、あくまでその分家の補佐だったものの、後に、この親忠の家系から大物を輩出するので、あとから、親忠が家督を継いだ事に書き換えた・・・なんて事も言われます。

そう、
実は、この親忠さんが、あの徳川家康(とくがわいえやす)の祖父の祖父の父=5代前のご先祖様なのです。

そもそもは、松平信光が松平氏3代という事も曖昧で・・・だとすると、当然、後を継いだ親忠の第4代もどうなんだか?…てな感じですが、

ま、有名になる前の人物の家系図という物は、概ね、そんな感じが多いので、とりあえず親忠が三男だけど、父の遺言を受けて家督を継いだ・・・という事で話を進めさせていただきます。

とにもかくにも、そんな曖昧な家督相続だった事から、これに反発する国人領主も多く、先代信光の死からほどなく、未だ親忠が正式に家督を相続していない段階から、不満分子たちが結束して、打倒親忠ののろしを挙げたのです。

それは明応二年(1493年)・・・と言いますから、

畿内では、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)が、前将軍をクビにして、自身の意のままになる将軍を擁立したクーデター『明応の政変』が起こり(4月22日参照>>)

関東では、幕府奉公衆(諸説あり)だった北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時)が、幕府公認の堀越公方(ほりごえくぼう=関東公方の後継)足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を倒して公方家を滅亡させた『伊豆討ち入り』があった(10月11日参照>>)

まさに時代の転換期=戦国の幕開けとも言える年・・・

反親忠派として蜂起したのは、
伊保城(いぼじょう=愛知県豊田市保見町)三宅加賀守(みやけかがのかみ)
挙母城(ころもじょう=同豊田市小坂本町・七州城とも)中条出羽守(なかじょうでわのかみ)
八草城(やぐさじょう=同豊田市八草町)那須宗左衛門(なすそうざえもん)
上野城(うえのじょう=同豊田市上郷町)阿部孫次郎(あべまごじろう)(以上『参河国聞書』より)

さらに、
寺部城(てらべじょう=同豊田市寺部町)鈴木日向守(すずきひゅうがのかみ)
も加わっており『松平町誌』より)
これは、親忠側にとっては、なかなかの窮地・・・

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「井田野の戦い位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

かくして明応二年(1493年)10月13日、三宅ら連合軍は、松平側の岩津城(いわつじょう=同岡崎市岩津町)を攻め落とし、その勢いのまま、親忠の拠る岡崎城(おかざきじょう=同岡崎市康生町)へと迫ったのです。

三宅・中条・阿部の諸隊が、大門(だいもん=岡崎市岩津地区)から矢作川(やはぎがわ=長野→岐阜→愛知から三河湾に注ぐ)を渡り、鈴木隊が桑原(くわばら=岡崎市桑原町)細川ほそかわ=岡崎市細川町)に寄せて来ます。

これを受けた親忠は、岡崎城を出て、井田野(いだの=岡崎市井田町)にて迎え撃つ事にしたのです。

この時、先手を担当したのは、松平長勝(ながかつ)という武将でした。

この長勝は、松平郷松平家(まつだいらごうまつだいらけ=松平太郎左衛門家とも)と呼ばれる三河国の国衆である松平氏の宗家の4代目の人・・・

後に、この松平郷松平家は庶宗家なんて呼ばれ方をしますが、それは、最初に書いた通り、今回の主役である松平親忠さんの松平家が、後々徳川家康に繋がっていくにあたり、いつしか、そっちが本家のような扱いになってしまうからであって、この頃は、むしろ、この松平郷松平家が宗家だったわけですが・・・

…で、今回、先手を預かった井田野の戦いでは、長勝は、まさに先陣を切って敵に突入し、壮絶な討死を遂げますが、その死と引き換えに、親忠に勝利をもたらし、松平親忠の武名の向上に一役かったのでした。

その命を懸けた戦いぶりに感動した親忠は、長勝の嫡子である松平勝茂(かつしげ)に、その所領を大幅加増して、猛将の死を惜しんだと言います。

ちなみに、この松平郷松平家は、結局は、戦国時代において三河の国衆レベル以上の出世を遂げる事はありませんでしたが、家康が天下を取って後も、江戸時代には旗本ながら独立大名に近い扱いを受け、松平家発祥の地を守り抜き、明治維新を迎えるまで立派に存続したという事です。
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