2009年11月18日 (水)

御所千度参りで幕府に物申す~光格天皇の実力

 

天保十一年(1840年)11月18日、第119代・光格天皇が70歳で崩御されました。

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この光格(こうかく)天皇・・・幕末のページで、しばしば、その名を拝見する第121代・孝明天皇のおじいさまであり、当然ながらその次の第122代・明治天皇のひいおじいさまにあたります。

先代の後桃園天皇が、生まれたばかりの皇女1人を残して亡くなったので、閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王の第六皇子だった祐宮兼仁(さちのみやともひと)が養子に入り、光格天皇として皇位を継ぎました。

典仁親王が、第113代・東山天皇の孫にあたるので、皇室には違いないですが、直系という事になると、現在の天皇家は、この光格天皇から始まったという事になります。

9歳で即位し、24歳で先ほどの後桃園天皇の皇女・欣子(よしこ)内親王を皇后としました。

即位から数年後の天明二年(1782年)から天明七年(1787年)にかけて、ご存知の天明の大飢饉が発生します。

悪天候が続いていたうえに、例の浅間山の噴火(7月6日参照>>)によって、広域に火山灰が降り注ぎ、さらに噴煙によって起こる日射量の低下や異常気象によって、またたく間に全国的な飢餓状態となってしまいました。

飢えに苦しむ人々は、犬・猫はもちろん、人を口にするまで追い詰められ、各地では打ちこわし多発!・・・この状況は、天皇のおわす京都でも例外ではありませんでした。

京都の人々は、幕府の京都所司代に対策を講じるよう願い出ますが、いっこうにらちがあきません。

「幕府は何もしてくれない」と感じた人々の心は、ワラをもすがる気持ちで御所に向かいます。

最初に、その現象が起こったのは、天明七年の6月7日・・・はじめは、数人の人が御所を訪れ、門の前から天皇のおわすあたりに向かって手を合わせ祈り、賽銭を投げていくというものでした。

ところが、それが数日後には3万の人となり、10日後には、なんと7万人にも達して、御所を巡りながら祈りを捧げます。

この現象は御所千度参り(ごしょせんどまいり)と呼ばれ、京都に限らず、大坂・河内や近江など、近畿一帯から人が集まったと言われています。

見るに見かねた後桜町上皇(第117代の天皇)は、御所前に集まる人々に約3万個のリンゴを配り、有栖川家や九条家からも、お茶や握り飯が配られました。

さらに、心痛めた光格天皇は、自ら民衆の救済を京都所司代に申し入れたのです。

実は、これが江戸幕府始まって以来の出来事・・・

そうです。

先日、このブログ書かせていただいたばかりの第109代・明正天皇(11月10日参照>>)・・・そして、その父上である第108代・後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)のところで登場した『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)

江戸の始めに徳川幕府が出した天皇の行動を制限するこの法令で、天皇家は幕府の許可なしには、何も出来ない状態にさせられてしまっていました。

つまり、天皇家が幕府に物申すのは、本来なら法令違反・・・光格天皇も、それを補佐する関白・鷹司輔平(たかつかさすけひら)も、さらに、賛同してくれる朝廷の方々も、皆、処罰覚悟の行動だったのです。

しかし、さすがに事態の深刻さを把握している幕府は、京都市民に対して米1500俵を放出する事を約束し、皇室の法令違反に対しても、その罪は問わないという決定をしました。

これは、江戸開幕以来、幕府が取り仕切っていた内政上の事項に対し、天皇が初めて関与し、幕府がそれに従ったという、前代未聞で大きな意味を持つ出来事でした。

翌年の天明八年(1788年)に起こった京都の大火では、皇居仙洞御所も焼けてしまいましたが、この再建に力を注いだ時の将軍・第11代徳川家斉に対して、光格天皇は直筆の詩を送ったと言います。

これを賜った家斉は、早速、老中の松平定信に見せ、定信はそれを床の間に掲げて宴会を催したのだとか・・・これも、御所千度参りという現象を目の当たりにして、いかに、天皇家が民衆の心の拠り所となっているかを知り、幕府の中にも、多少の変化があったという事なのかも知れません。

また、光格天皇は、当時、度々通商を求めてきていたロシアとの交渉にも関心を寄せ、皇室での儀式や神事の復活にも力を注ぎました。

これは、この光格天皇によって、幕府に対する朝廷の発言力が高まった証とも言えますが、寛政元年(1789年)・・・この良好な関係にストップがかかります。

実は、光格天皇・・・自分が天皇になったにも関わらず、父上の典仁親王が親王ままでは気の毒だと、常々思っていたのです。

かの公家諸法度では、親王は大臣よりも低い地位ですから、なんとか父に尊号を送りたいと思い、幕府にその旨を伝えますが、これを幕府は断固拒否します。

光格天皇が希望を申し出てから、6年間に渡ってモメるこの尊号事件は、結局、光格天皇が矛を収めて落ち着いたのですが、尊号の願いが叶えられなかったとは言え、光格天皇によって、近代天皇制への下地が造られた事は確か・・・その観点からも、光格天皇は歴史に残る天皇であったと言えるでしょう。

ちなみに、この光格天皇がなし得なかった典仁親王の尊号・・・この願いを叶えるのは、光格天皇のひ孫で、同じ祐宮(さちのみや)と呼ばれた睦仁(むつひと)親王・・・そう、明治天皇なのですが、そのお話は、また、関連するその日に書かせていただきたいと思います。
 

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2009年11月10日 (火)

父は天皇・母は徳川~859年ぶりの女帝・明正天皇

 

元禄九年(1696年)11月10日、第109代明正天皇が74歳で崩御されました。

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明正(めいしょう)天皇女帝・・・それも、第48代・称徳(しょうとく)天皇以来・・・859年ぶりの女帝です。

何年か前に、改定するのしないのと問題になった皇室典範により、明治以降は、男系男子の限られている天皇ですが、歴史上、日本には8人=10代の女性天皇がいらっしゃいます。

明正天皇は、その7人目の女帝・・・

これらの女帝・誕生劇は大きく分けて二つ・・・仮に安定型中継ぎ型とでもしときましょうか・・・

明正天皇が8人中7番目という事は、8人中6人の女帝が称徳天皇の奈良時代以前に誕生している事がわかりますが、最初の女帝となった第33代・推古(すいこ)天皇から、数えて16代目の称徳天皇まで、その半数が女帝という飛鳥~奈良の時代・・・。

最初の推古天皇は第32代崇峻(すしゅん)天皇・暗殺(11月3日参照>>)の後に・・・

第35と37代の2度天皇になった皇極(こうぎょく・斉明)天皇大化の改新(6月12日参照>>)前後に・・・と、血生臭い事件後に不安定な政権を安定させるために擁立された女帝

その後の、第41代持統天皇(12月22日参照>>)、第43代元明天皇、第44代元正天皇【(11月17日参照>>)は、いずれも、皇位を継がせたい皇子が幼い場合、その成長を待つための中継ぎのための女帝です。

まぁ、最初の持統天皇は、中継ぎらしからぬ政治的手腕を発揮しますが、その根底にあるのは、皇位を継がせたかった息子・草壁皇子が亡くなり、未だ幼かった孫の文武天皇へと引き継ぐためです。

この中継ぎ女帝の誕生には、天皇が政治の中心だった飛鳥の前半が過ぎ、飛鳥後半になって徐々に力をつけはじめてきた藤原氏勢力の思惑も絡んでいます。

また、最後の女帝となった第117代の後桜町天皇も、(さすがに藤原氏ではないですが)次期天皇となるべき皇子が幼かった故の中継ぎ女帝です。

そんな中で、859年間の空白の最初と最後となった称徳天皇と明正天皇・・・このお二人は異彩を放ってます。

称徳天皇は第46代孝謙天皇と同一人物・・・そう、あの藤原仲麻呂(恵美押勝)道鏡がらみでその名を残す女帝で、どうあっても天皇の外戚(母方の実家)を手放したくない藤原氏の思惑で、女性として初めて皇太子となってから天皇の座についた人です(くわしくは7月4日参照>>)

そして、今回の明正天皇・・・この明正天皇の誕生は、藤原氏と同じく、天皇の外戚をゲットしたい徳川家と、その真意を察して意地の譲位を決行した第108代後水尾(ごみずのお)天皇前代未聞の天皇交代劇だったのです(今回と内容がかぶってますが良かったら後水尾天皇のページもどうぞ>>)

そもそもは元和元年(1615年)・・・大坂夏の陣(5月8日参照>>)で豊臣家を滅ぼした徳川は、その直後に禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を発布します。

これは、天皇の行動を幕府が監視・制限しようとする前代未聞の法律ですから、当然、天皇をはじめとする朝廷側が反発するのは当たり前・・・

しかも、後水尾天皇から見れば、先代の父・後陽成(ごようぜい)天皇(4月14日参照>>)の時代から、何かと親切に天皇家をたててくれていた豊臣秀吉の後継者を死に至らしめた徳川には、あまり良い印象を持てません。

そのため、後水尾天皇は、すでに慶長十九年(1614年)に決まっていた2代将軍・徳川秀忠と正室・お江(江与)の間に生まれた娘・和子との結婚を、ここに来て拒みはじめます

そうこうしているうちに、後水尾天皇と別の女性との間に1男・1女が誕生・・・激怒した秀忠が、天皇に退位をちらつかせたため、やむなく、元和六年(1620年)、天皇は和子との結婚に踏み切りました。

こうして、結婚から三年後の元和九年(1623年)に二人の間に生まれたのが女一宮(おんないちのみや)=後の明正天皇です。

まもなく、男の子も生まれた段階で、後水尾天皇は、はやくもその皇子に皇位を譲ろうとします。

それは、かの禁中並公家諸法度・・・これは、天皇の権限を制限してますから、後水尾天皇が天皇でなくなれば、その制限はうんと軽くなるわけで、幼い天皇の後ろで、存分に腕を奮う事かできます・・・一方の徳川家だって、もともと天皇の外戚になりたいための政略結婚ですから、その皇子が皇位を継ぐ事に依存はないはず・・・って事です。

ところがドッコイ!
この高仁親王が2歳になる前に死亡・・・後水尾天皇は、しかたなく、その姉の女一宮への皇位継承を打診しますが、これには徳川家がNO!

確かに、徳川家は天皇の外戚が欲しいですが、これだと、その欲しい度がいかにもあからさま・・・まさに、859年前に藤原氏があわてて孝謙天皇を即位させたカッコ悪さそのものです。

後水尾天皇と和子の間には、まだ男の子が生まれる可能性もあるのですから、ここで徳川家がそこまで急ぐ必要はありません。

「譲るよん!」
「いや、もうちょい 待って~」
と、やってるうちの寛永四年(1627年)、朝廷の決定した事を幕府が取り消すという天皇の面目丸潰れの事件=紫衣(しえ)事件が起こります(4月16日の後半部分参照>>)

さらに、寛永六年(1629年)、あの春日局(かすがのつぼね・お福)が、無位無冠の身分で後水尾天皇に拝謁するという、これまでの伝統ぶち破りをやってしまいます(10月10日の後半部分参照>>)

そのわずか1ヵ月後・・・後水尾天皇は、幕府に無断で、娘に皇位を譲ってしまいます

元正天皇の誕生です。

さすがに、「怒ってはるワι(´Д`υ)アセアセ」
・・・と感じた幕府は、「驚いた事ではあるが、ともかく叡慮(天皇のお考え)のままに・・」と返答し、幕府側の関係者を処分するだけで、あえて争いは避けました

その後、3代将軍・徳川家光によって院政が承認され、現役天皇の後ろで思う存分に腕を奮う事ができるようになった後水尾上皇も満足満足・・・朝廷と幕府の関係も、しだいに穏やかな物となっていきます

・・・という事で、明正天皇自身は、父の院政の下、直接政務に関わる事はありませんでしたが、なんせ、天皇の娘であり、将軍の姪っ子であるわけですから、その存在自体が、朝廷と幕府の関係修復に大いに役立った事は確かです。

そして15年間の天皇での期間を終えた明正天皇は、21歳で皇位を異母弟の紹仁(つぐひと)親王(後光明天皇)に譲りました。

押し絵などの手芸が大好きだったという明正天皇・・・天皇を引退した後は、父・後水尾天皇と母・和子(東福門院)とを連れ立って、父が設計した修学院離宮へ度々訪れ、家族仲良く過ごす事が多かったと言います。

政略結婚・・・しかも、あれほどのドタバタで結婚した後水尾天皇と和子さんが、娘を間に挟んで離宮で楽しく老後を過ごす・・・プライスレス

それもこれも、明正天皇の穏やかな性格を物語っているようです。

そんな明正天皇・・・元禄九年(1696年)11月10日74歳でこの世を去りました

この明正天皇という追号は、あの奈良時代の元明天皇と元正天皇の二人の女帝から、それぞれの一字をとったという事です。
 

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2009年11月 9日 (月)

ナユタとフカシギ

 

『ナユタとフカシギ』・・・

これは、すでにご存知でしょうが、大橋卓弥さん&常田真太郎さんという男性二人で構成される音楽ユニット・スキマスイッチが、11月4日に発売した4作目のオリジナルアルバムのタイトルです。

『ナユタ』『フカシギ』・・・
久々に、この言葉というか単語を耳にしました。

初めてこれを習ったのは、ずいぶんと前の事で、その習った時に、「おそらく、この先、一生この単語を使う事も耳にする事もあるまい」と思いました。

そして、月日が経って、その習った事すら忘れていた自分・・・

久々に、この単語を聞いて、習った時に「なんじゃ?こりゃ!」というツッコミを入れながら味わった衝撃と、それだけの衝撃を受けたにも関わらず、すっかり忘れていた自分自身が、なんだかオモシロくて、今回は、この『ナユタ』&『フカシギ』の言葉の意味について書かせていただきます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

これは、寛永四年(1627年)に吉田光由(みつよし)という和算家が執筆した『塵劫記(じんこうき)という文献の中に登場するもの・・・

この書物は、数の桁の名称や単位、掛け算や九九などの計算の仕方や、面積の出し方など、いわゆる算術の解説書です。

この一冊で、ほぼ、日常生活に必要な、様々な計算が網羅されているうえ、一般人にもわかりやすく書かれている事から大ベストセラーとなり、さらに、江戸時代を通じて、この本以上の物が登場しなかった事で大ロングセラーにもなり、明治になるまで、何度も出版しなおされた本なのです。

もちろん、江戸時代の多くの学者にも影響を与え・・・いや、今なお、私たちも、これを基本として使っているのです。

一・十・百・千・万・億・兆・京・・・よく使うのは、このあたりまでですね。

そうです・・・この十の位(くらい)、百の位、という数字の桁の名称・・・これが、『塵劫記』の中で紹介されているのです。

もちろん、この桁の名称は、別に吉田さんが創作したわけではなく、中国から伝わっ後、日本でも古くから使われていたわけですが、現在もこの桁の名称が使用されているのは、やっぱり江戸時代に『塵劫記』が大ヒットして、一般庶民にまで数学が浸透した事が基本となっているのでしょう。

・・・で、かの『ナユタ』『フカシギ』は、兆・京・垓・・・と続く、ず~っと先の大きい桁の名称なのです。

もちろん、スキマスイッチのお二人も、これをご存知で、「無限の可能性へと向かう二人の気持ち」を表現するために、この無限にも近い数字の桁の名称をタイトルに使用されたようです(小耳に挟んだ情報ですが・・・)

では、ここで、私が「一生使うか!」と思った物も含めて、ご紹介させていただきます。

名称 読み 換算量
一(壱) いち 1
十(拾) じゅう 10
ひゃく 10の2乗
せん 10の3乗
万(萬) まん 10の4乗
おく 10の8乗
ちょう 10の12乗
けい 10の16乗
がい 10の20乗
禾予(*1) じょ 10の24乗
じょう 10の28乗
こう 10の32乗
かん 10の36乗
せい 10の40乗
さい 10の44乗
きょく 10の48乗
恒河沙 ごうがしゃ 10の52乗
阿僧祗 あそうぎ 10の56乗
那由他 なゆた 10の60乗
不可思議 ふかしぎ 10の64乗
無料大数 むりょうたいすう 10の68乗

「(*1)=のぎへんに予(文字が出ません(。>0<。))」

小学生の皆さんのために説明しますと・・・
10の2乗=百はゼロが二つ着いて100
10の3乗=千はゼロが三つついて1000という事です。

・・・ね!
「なんじゃ?こりゃ!」ってなりますよね。

ついでに、私が同時に習って、さらに「ひぇ~」となった小さい桁もご紹介!

名称 読み 換算量
10の-1乗
りん 10の-2乗
もう 10の-3乗
糸(絲) 10の-4乗
こつ 10の-5乗
10の-6乗
せん 10の-7乗
しゃ 10の-8乗
じん 10の-9乗
あい 10の-10乗
びょう 10の-11乗
ばく 10の-12乗
模糊 もこ 10の-13乗
逡巡 しゅんじゅん 10の-14乗
しゅゆ 10の-15乗
瞬息 しゅんそく 10の-16乗
弾指 だんし 10の-17乗
刹那 せつな 10の-18乗
六徳 りっとく 10の-19乗
空虚 くうきょ 10の-20乗
清浄    せいじょう    10の-21乗

10の-1乗=1分は0.1
10の-2乗=1厘は0.01

ギガテラも、ナノピコもメじゃないね!

日本の算術も大したモンです。

「大根を1ゴウガシャ下さいな」
「ローンの金利が1モコになったぜ」

・・・・

言~ってみてぇ~!
 

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2009年11月 7日 (土)

戦国のトラブルメーカー~小野次郎右衛門忠明

 

寛永五年(1628年)11月7日、戦国屈指の武芸者・小野次郎右衛門が60歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

小野次郎右衛門忠明(おのじろうえもんただあき)・・・もとの名を神子上典膳(みこがみてんぜん:御子神)と言い、里見氏の家臣の子として安房国(千葉県)に生まれました。

里見の万喜城攻めでは、名のある敵将と一騎打ちをして名を挙げるも、思うところあって里見を出奔し、一刀流の剣聖・伊東一刀斎に弟子入り・・・ここで兄弟子を破り、一刀斎から流派の後継者に指名されたのだとか・・・

その後、文禄二年(1593年)に、その師匠の推薦で徳川家康に200石で兵法指南役として召抱えられ、関ヶ原の合戦では徳川秀忠とともに上田城を攻めたり、大坂の陣でも武功を挙げて大活躍・・・1年送れで同じ兵法指南役として召抱えられた柳生宗矩(やぎゅうむねのり)ライバル視される剣豪で、彼の流派は、後に小野派一刀流と称されて世に残ります。

・・・と、見事な経歴の次郎右衛門さん。

しかし、ライバルとされる柳生新陰流の宗矩に比べて、あまりそのお名前を聞きませんねぇ~。

それを裏付けるかのように、同時期に同じ兵法指南役として同じ200石で召抱えられた宗矩が、関ヶ原で2000石、大坂の陣の後には3000石に加増されるにも関わらず、次郎右衛門は、その生涯で600石・・・息子の代になってやっとこさ800石になったくらいです。

「腕が違うんだろ?」
いえいえ、彼の一刀流も、新陰流に勝るとも劣らないすばらしい流派です。

実は・・・
彼は、世渡りベタだったんです。

良く言えば、素直で純粋・・・思った事をそのまま口にして、たとえ相手が上司でも媚びへつらう事を嫌い、自らの心情を貫き通す人・・・

しかし、そんな彼の、周囲を気にせずにわが道を行く行動は、時には周囲を巻き込んでのトラブルとなり、他人に迷惑をかけておきながら、本人はまったく反省の色もなく、また、同じような事をくりかえす・・・

戦国を駆け抜ける一武将として見た場合は、そんな性格も破天荒で魅力的ではありますが、組織の一員となれば、こんな迷惑な人はありません。

当然、周囲からは煙たがられ、果ては、その出世も思うように望めない・・・って事になるわけです。

まずは、かの関ヶ原の時の上田城での出来事・・・

この時、次郎右衛門は、上田城内から物見のために出てきた依田兵部(よだひょうぶ)という者の顔面に一太刀浴びせますが、ほぼ同時に、同僚の辻太郎助という人物も兵部に斬りつけました。

この直後に、彼らは窮地に陥ったものの、味方の加勢によって、何とか助かったのですが、そのありがたみも忘れ、この二人は、どっちが先に兵部に斬りつけたか?・・・つまり「初太刀はどっちか?」でモメ始めるのです。

周囲は、なんとか二人をなだめて事を納めようとしますが、本人たちはいっこうに聞き入れず、結局、家来の数人を馬買いに変装させて真田の家臣に密かに送り、実情を確かめるはめに・・・

結果的には、次郎右衛門の初太刀が認められる事になりますが、上司に敵方への問い合わせをさせる家臣って・・・迷惑極まりないです。

さらに・・・
ある時、秀忠が、家臣たちの前で、剣術についての自論を展開していたところ、「剣術なんて刀抜いてナンボのもんや! こんなトコに座りながら色々言うてても、畑で水泳の練習してるようなもんやがな」と、いきなりのチャチャ入れ・・・

その場での上司・秀忠のメンツもまる潰れ・・・では、ありますが、秀忠もオトナ・・・表情こそ変わったものの、大したトラブルにはなりませんでしたが、その直後、次郎右衛門は、またまた問題を起します。

その頃、両国あたりで「真剣で立会い、斬り殺されるかもしれない覚悟のある者はおいであれ」という看板を掲げた町道場があったのですが、その事を聞きつけた次郎右衛門・・・早速、その道場に出向いて勝負を挑みます。

真剣の相手を鉄扇で受け止め、さらにその鉄扇で脳天叩き割り!

さすがに、先日は怒りを押えた秀忠も、今回は激怒・・・「天下の師範にあるまじき行動」として、勝ったにも関わらず次郎右衛門は蟄居(ちっきょ・謹慎処分)を言渡される事に・・・

確かに、強いところを見せたいのはわかりますが、将軍家の指南役が一・町道場で暴れては、将軍家の看板にも傷がつきます。

まだあります。

ある時、余興で立会いを求めたある大名を相手にした時、その木刀を逆さに掴みながら・・・
「アンタもいらん事を望んだもんや!ケガするのが気の毒やな」
との、相手をナメきったセリフとともに、両腕をへし折り、終生体の自由を失ってしまうほどの重傷を負わせたのだとか・・・

そんな次郎右衛門は、同僚(っと本人は思ってる)の宗矩に対しても・・・
「お前とこのアホ息子でも、罪人の中から腕のたつ者みつくろうて、真剣で斬り合わせたら、ええ修行になって腕もあがると思うでぇ」と・・・

ご存知のように、新陰流は「剣禅一如(けんぜんいちにょ・極めれば剣も禅も同じ)がモットー・・・真剣で稽古をする小野派一刀流に対して、もっぱら新陰流は袋竹刀(ふくろじない・竹を割って造った練習用の物)での稽古でした。

この次郎右衛門の提案に対して、宗矩は、常に「せやね~君の言う通りやねぇ」と言いながらも、終生、その提案を受け入れる事はありませんでした。

トラブルメーカーだった次郎右衛門は、結局、大坂の陣の後、閉門処分に処せられ、寛永五年(1628年)11月7日、60歳でこの世を去ります。

要領が良い人と悪い人・・・
結果、3000石と600石・・・

確かに、隣にいたら迷惑だけど、対岸の火事として見るなら、次郎右衛門さんは、かなり魅力的な人ではあります。

「そうやね」と、口では言いながら、心では「そうやね」とは思っていない宗矩の態度のほうが、考えようによっては、事なかれ主義で、魅力には欠けるという事もありますが、やはり、群雄割拠の時代と、戦国も終わる時代とでは、見てる側は淋しいものの、その生き方も考えなくてはならないのかも・・・

もっと戦国真っ只中だったなら、その個性を、余すところ無く発揮できたかも知れませんね。
 

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2009年11月 2日 (月)

柳沢吉保の汚名を晴らしたい!

 

正徳四年(1714年)11月2日、江戸幕府・第5代将軍・徳川綱吉の御用人として知られる柳沢吉保が57歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

娯楽時代劇に登場する悪役と言えば、田沼意次(たぬまおきつぐ)(10月2日参照>>)か、この柳沢吉保(やなぎさわよしやす)か・・・

しかも、本日の吉保さん・・・水戸黄門(12月6日参照>>)忠臣蔵(12月14日参照>>)という人気のお題での敵役ですから、これまで何度も描かれていますが、まぁ、イイ人だった事がほとんどありません。

演じられた俳優さんも、古くは山形勲木村功さん、近くは石橋蓮司さんに北村一輝さんなどなど・・・と、どなたも1クセありそな演技派の方々ばかり・・・

それにしても、そんなに吉保さんは、悪の限りをつくしたんでしょうか?

答えを先に言っちゃうと、「NO!」です。

その一番の根拠は・・・
後ろ盾となってくれた第5代将軍・徳川綱吉が亡くなった時、江戸時代の常として、将軍が変わると同時に側近も入れ替わるという政権交代が起きますが、その時、隠居した吉保も、後を継いだ息子の吉里(よしさと)も、新政権からの処罰をまったく受けていません。

確かに、領地は甲府(山梨県)から郡山(奈良県)へと移転させられてしまいますが、石高は減らされる事なく、そっくりそのままの15万石・・・他の側近たちが、ことごとく免職・減封の憂き目に遭っている事を考えれば、おそらくは、吉保を罰する理由がなかった=彼はイイ人だったという事になります。

では、どこから、どうやって、悪役のイメージがついちゃったのか?

彼の生涯を振り返りながら、そこのところを探っていきましょう。

ちなみに、吉保さんは、その生涯で数度名前を変えていますが、本日はややこしいので、吉保で通させていただきます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

柳沢吉保は万治元年(1658年)12月に、3代将軍・徳川家光の弟・忠長に仕えていた柳沢安忠の長男として、江戸は市ヶ谷で生まれました。

・・・で、以前書かせていただいたように、父の主君である忠長は非業の死を遂げます(12月6日参照>>)ので、その後の父は家光に仕え、さらに、当時は館林藩(群馬県)の藩主だった綱吉の家臣となります。

やがて、吉保18歳の時に家督を継ぐと同時に、綱吉の小姓として出仕します。

ちょうど一回り離れた同じ戌年生まれの二人・・・吉保の才覚を見ぬいた綱吉は、彼に、お得意の文学を教え、彼も綱吉を学問上の師と仰ぎ、主君としても仕えるという密接な関係になっていきます。

そして、その5年後、家光から4代将軍を継いだ家綱が、後継ぎがいないまま亡くなった事から、綱吉に将軍の座が回ってきますが、この時、吉保も、将軍の側にいて様々な雑用をこなす小納戸役に任ぜられ、ともに江戸城へと入ります。

・・・と、ここからの吉保は、出世街道まっしぐら!

綱吉は、自らが率先して政治を行うために側用人(そばようにん)という新たな役職を儲けますが、吉保は31歳で、格上の人たちに混じって大抜擢され、石高も1万2千石となります。

その2年後には2万石に、さらにその3年後には従四位下という官位も賜り、元禄七年(1694年)には、37歳にして川越7万2千石を賜り、城持ち大名となります。

この時には、大規模な新田開発に成功し、藩政を見事にこなしています。

その3年後には、出羽守から美濃守に出世し、松平の姓を名乗る事も許されるようになります。

やがて、綱吉の後継者に甲府藩主の徳川綱豊(後の家宣)が決まると、その後任として甲府15万石藩主となります。

後に第6代となるこの家宣は綱吉の甥っ子・・・つまり、この甲府という地は、江戸の重要な防御の地点として、代々徳川家が治める、御三家に次ぐ徳川一門の場所甲斐家と呼ばれていました。

そこに、吉保を・・・
いかに、綱吉の信頼が篤いかがわかります。

その後、将軍家と天皇家の架け橋となった功績もあって、いよいよ宝永三年(1706年)、大老格にまで昇進して頂点へと達しますが、そのわずか3年後の宝永六年(1709年)1月、可愛がってくれた綱吉が亡くなってしまいます(1月10日参照>>)

新将軍・家宣には、政治顧問として学者の新井白石がピッタリとくっついていて、幕府内の力関係は一気に変わります。

ここで、吉保は、その地位にしがみつく事なくあっさり引退・・・息子の吉里に家督を譲って、駒込の別荘に隠居します。

・・・で、この時に冒頭に書いたように甲府から郡山への移転となりますが、吉保自身は、駒込の別荘にいて、その後、7年がかりで広大な庭園=六義園を完成させ、その風雅な庭を愛でながら、四季折々の風情を楽しむ老後を5年間過ごした後、正徳四年(1714年)11月2日静かにこの世をさ去ったのです。

ちなみに、余談ではありますが、息子の吉里が、飼っていたペットの金魚とともに、郡山へとお引越しをした事から、大和郡山は金魚の町となったんですよ。

Dscn3845800 吉保を祭神とする柳澤神社(郡山城跡内・奈良県大和郡山市)

・・・と、ここまでの生涯を見る限り、何も悪い事やってないようなんですが・・・

そうなんです。
『徳川実記』など、いわゆる記録のような文献には、彼の悪行はいっさい出て来ないのです。

しいて言えば、新井白石が放つ悪口くらい・・・白石は、その著書の中で、学者とな思えないほど感情的に前将軍・綱吉の政治を批判し、それを正そうとせず、たたひたすら従った吉保を無能呼ばわりしてます。

しかし、いくらエライ学者さんのお話でも、コレだけは、そのまま鵜呑みにするわけにはいきません。

なんせ白石は、家宣の政治顧問ですから・・・現在の与党と野党のやりとりを思い浮かべていただいたら、その雰囲気も一目瞭然!
相手方の政治家を褒めるわけがありませんからね。

そんな中、現在のような「綱吉=暗愚」「吉保=悪人」のイメージが最初に登場するのは、『三王外記(さんのうげき)という文献ですが、これは、今で言うところの、フライデーなどの写真週刊誌の写真ないバージョンみたいな本だそうで、おおもとは、事実であるものの、おもしろおかしく・・・いわゆるウケ狙いで、話を大きくしている可能性アリ

生類憐みの令を天下の悪法として、「こんな変な事があった」「あんなバカバカしい事がまかり通った」なんてネタも、この本が出どころなのですよ。

もちろん、そこには、一代でのしあがった成功者への嫉妬も多分に含まれていて、そんな内容に、江戸市民が大いに喜んだ様子も、わからんではありません。

今だって、時代の寵児ともてはやされた後、ズドーンと地の底に落とされた人もいましたよね。

他にも、綱吉の側室・染子を娶った吉保が、その後も、妻となったその女性を綱吉に提供して、そして生まれたのが吉里・・・つまり、吉里は綱吉の子供で、それをネタに甲府を貰ったって話がありますが、これは『護国女太平記』という文献が出どころなのですが、実は、この本、今なら、実録モノ=ノンフィクション小説のジャンルに入るもので、いわゆる「事実をもとにしたフィクションです」ってヤツです。

実際には、その染子さんが大奥にいた、あるいは逆に、大奥に上がったという正式な記録なんてないわけなのですが、この後も、この話を元にした「柳沢騒動」というお芝居が大ヒットした事で、ダメ押しとなり、吉保=悪人のイメージが定着してしまう事となったようです。

第一、綱吉が亡くなって、速やかに引退する時点で、言われているような人ではない事がわかります。

本当の悪人なら、それこそ、もうちょっと悪あがきしていただかねばオモシロくありませんからねぇ。

・・・って事で、今回、ちょっとは、柳沢吉保さんの汚名を晴らす事ができたでしょうか・・・
 

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2009年10月21日 (水)

花のお江戸の酒飲み大会~千住の酒合戦

 

文化十二年(1815年)10月21日、飛脚問屋・中屋六右衛門の還暦祝賀パ-ティで『千住の酒合戦』が行われました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

酒合戦・・・つまり、今もテレビのスペシャル番組などで行われる「大食い大会」のお酒バージョンです。

もちろん、酒豪同士が個人的に、「どっちが強い」的な感じで、酒飲みの勝負をするような事は、おそらく神代の昔からあったでしょう。

黒田家配下の勇将・母里太兵衛友信(もりたへえとものぶ)が、福島正則・主催の宴会で、大杯(おおさかずき)の酒を飲み干し、勝利の証として、正則の持っていた「日本号」と称する名槍を手に入れた話は、♪黒田節♪の歌詞として現在にも伝わります。

ただ、参加者を広く募って、彼らが競う様子を一般聴衆に見せる・・・という、いわゆるイベントとして企画されたような事が行われるのは、やはり、徳川政権も安定し始めた3代将軍・徳川家光の頃から・・・

『水鳥記』という文献には、江戸・大塚の医者・地黄坊樽次(ぢおうぼうたるつぐ)なる人物と、大蛇丸底深(だいじゃまるそこぶか)なる農民が、酒勝負を行い、樽次が一斗五升を飲み、底深はそれ以上飲んだけれど、判定勝ちで樽次の勝利となった事が記録されているそうです。

判定て・・・( ̄○ ̄;)!
どうやら、飲む量だけじゃなく、その作法も採点の対象となったようです。

それにしても、名前が、
「地黄坊樽次」
VS
「大蛇丸底深」て・・・

もう、完全に、
「地上最強の胃袋=プリンス小林
VS
「大食い大魔神=ジャイアント白田の世界ですね。

・・・で、こんな感じで、江戸を通じて、度々開催された酒飲み大会ですが、その中で最も有名なのが、文化十二年(1815年)10月21日に開かれた「千住酒合戦」という大会・・・。

冒頭に書いたように、飛脚問屋・中屋六右衛門さんの還暦を祝うための酒宴だったようですが、この大会をプロヂュースした人物が千住駅頌酒堂(酒屋かしら?)の通称・鯉隠居と呼ばれる人で、その隠居なる人が俳画などをたしなむ文化人だった事もあって、ゲストには、今、江戸で評判の一流の文化人や画家が招かれ、彼らが、ちびちびと酒を飲みながら審査をしたと言いますから、まさに、現在の正月番組的な一大イベントだったわけです。

・・・で、大会参加者は、まず、受付で申し込みをし、そこで、自分の酒量を事前に申告して整理券をもらって、待合室へ・・・

しばらくして、一斉に戦いの場となる大広間へ通されますが、戦いの場と観客席は、ちゃんと青竹で作った垣根で仕切られ、お客さんの席には、赤い毛氈(もうせん)が敷かれています。

中央には、6種類の盃が用意されていて、それぞれ盃に描かれた蒔絵によってイカス名前が付けられています。

  • 江の島盃=五合
  • 鎌倉盃=七合
  • 宮島盃=一升
  • 万寿無彊(まんじゅむきゅう)=一升五合
  • 緑毛亀(みのがめ)=二升五合
  • 丹頂鶴盃=三升

これを、小さい順に飲み干していきますが、もちろん、も用意されてます。

花塩・さゞれ梅・蟹・鶉(うずら)の焼き鳥・・・と、けっこう豪華!

しかも、浅草の芸者が三味線でナマBGMを奏で、太鼓持ちが「一気!一気!一気!」とはやし立てて、場を盛り上げてくれます。

もう、飲まずにはいられません!

・・・とは言え、さすがに「大会に参加しよう」と集まってくるような人は、はなから二升・三升当たり前ですから、「負けまい」とついつい、限界を超えてしまう人が続出して、芸者に絡むわ、そこらへんで粗相をしてしまうわで、あたりは修羅場と化してしまったのだとか・・・

さらには、酒・酢・醤油・水をそれぞれ一升ずつ飲んで「腹の中で三杯酢でぃ!」てな芸を見せる電撃ネットワーク的なワンクッションのお笑いもあり・・・まさにエンターテイメントショーです。

・・・と、こんな風に書くと、マッチョで豪快な男たちばかりが、汗だくで競い合ってる光景を思い浮かべてしまいますが、なんと、この大会には、あの大食い大会に花を添えるギャル曽根的に、幾人かの女性の参加者もいたのだとか・・・

菊屋のおすみという人は2.5升緑毛亀盃に挑み、酌取り女のおいく江の島鎌倉の二つの盃を手にチビリチビリ・・・天満屋五郎左衛門の妻・お美代という人は1.5升万寿無彊盃を飲み干してなお、まったく乱れなかったのだそうな。

トゥルトゥルトゥル・・・(←ドラムロール)
ジャ~ン!
結果発表~~!

最多記録としては7.5升を飲んだ男性がいましたが、優勝したのは、千住の宿場の泊り客で6.2升を飲み干した河田なんたらという人物でした。

彼は、江の島に始まり、鎌倉宮島万寿・・・と順調に飲み干し、最後に丹頂鶴盃をすすめられたところ・・・

「明日の朝、ゆっくりできるんなら、もう一杯戴くところなのですが、ちょっと用事があって、早立ちして故郷に向かいますので・・・」
と、丁寧に断り、一礼して会場を去ったのだとか・・・
*この頃って、確か七つ立ち(午前4時)が普通だったはず大江戸旅マニュアル参照>>)・・・早立ちって大丈夫かいな?この人・・・

やはり、量だけでなく、いくら飲んでも乱れず、礼を失わずのカッコイイ飲み方が評価されたようです。

ところで、文化十二年(1815年)と言えば、すでに、近海にロシアの船が何度か現れ、7年前の文化五年(1808年)にはフェートン号事件も起こり、そろそろ、幕末へのカウントダウンを刻み始めた頃でないかい?(黒船以前の外国船出没については2月3日参照>>

そんな時に、ノンキにもこんな事してていいのか!

・・・と、言いたいところですが、個人的には、こういうのもキライではありません。

人間、どんなに深刻な時でも、たまの笑いという物は必要です。

特に、何のヒネリもないバカバカしい笑いというのは、脳を休ませるためには、とても良いのだそうです。

江戸であろうが平成であろうが、緊張・緊張の連続でストレスがたまった場合は、な~にも考えずに笑える、緩和の時も、たまにはアリという事で、広い目で見てさしあげましょう。
 

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2009年10月 8日 (木)

将軍・吉宗に反発した尾張の暴れん坊藩主・徳川宗春

 

明和元年(1764年)10月8日、徳川御三家・尾張藩第7代藩主の徳川宗春が69歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

徳川宗春(むねはる)は、元禄九年(1696年)、尾張藩第3代藩主・徳川綱誠(つななり)の19男として名古屋城にて生まれました

19男という性質上、梁川藩(やながわはん・福島県)3万石を与えられ、第4代藩主となっていましたが、兄・継友(つぐとも)の死去にともない、尾張徳川家を継ぐ事となり、第7代藩主として享保十六年(1731年)、36歳で名古屋城へ入りました。

・・・と、言っても、一般的には「それ、誰やねん!」の世界ですが、この宗春さん、知る人ぞ知る有名な逸話をお持ちです。

それは、江戸中興の英雄と言われる暴れん坊将軍こと第8代徳川吉宗(よしむね)に、唯一、刃向かった藩主なのです。

遊興にふけって贅沢三昧をしたあげく、蟄居(ちっきょ・隠居して幽閉)へと追い込まれ、罪人として扱われた事で、以前は、江戸幕府を立て直した名君にたてついた極悪人のように思われていた宗春さんですが、ここのところ、少し違った見方が出てきているようです。

・・・と言うのも、以前、このブログでも書かせていただいたように(6月18日参照>>)、吉宗の享保の改革100%すばらしい改革ではなかった事がわかってきて、そうなると、反発した宗春にも、それなりの意見という物が、見え隠れするようになってきたからです。

そもそも、吉宗の享保の改革が財政難に陥っていた幕府を立て直したと絶賛されたのも、幕府の記録によるところからきているわけで、確かに、幕府にとって良い改革だったかも知れませんが、それが、そのまま一般庶民にも良い改革だったかどうか・・・いや、むしろ、重税を課せられるようになった農民は、困窮に拍車がかかり、間引きという悲しい行為もしなくてはならなかったわけです。

そんな吉宗は、増税とともに、倹約令も発布しています。

「お金がないのだから節約しよう」という事ですが、宗春は、これに真っ向から反対します。

「贅沢は必要悪」とばかりに、倹約とは正反対のような藩政の改革を行います。

まずは、芝居・歌舞伎・能といった芸能や相撲の興行を解禁し、藩祖・義直(よしなお)以来禁止されていた遊郭の設置も公認・・・

さらに、自らが率先して華美な服装を身にまとい、数千人を踊り子を招いて大宴会を開いたり、仮装パ-ティで庶民とふざけ合ったり・・・

もちろん、これは、単に贅沢をしたいからやったというバカげた物ではなく、そこには、しっかりとした宗春の理論が底辺にあります。

彼の記した『温知政要(おんちせいよう)は、「極端な倹約ばかりでは、かえって庶民を苦しめる事になり、結局は無益となってしまう」という事が、理論的に述べられている名著です。

実際に、倹約令で低迷していた名古屋の経済は活気づき、「京の都より繁栄している」と噂されたくらいの賑やかさを取り戻しています。

その他にも、咎人の処刑を禁止・・・いわゆる死刑廃止論のような斬新な政策も実践していて、彼が、ただのバカ殿ではない事は明白です。

ただ、ちょっとやり過ぎた事も確か・・・結局は、藩政は赤字となり、新たな税を徴収するしかなくなって民衆の心も離れ、贅沢令とも言うべき数々の政策も見直しを余儀なくされてしまいます。

そこには、吉宗に対する個人的な反発も含まれていると言われますが、その通り、本来なら、将軍家の後継ぎが耐えた時のサポートとしての役割も持つ御三家・・・その中での筆頭は、家康の9男・義直を祖とする尾張だったわけですが、その尾張の第4代藩主である兄・吉通(よしみち)を差し置いて、なんだかんだで紀州の吉宗が8代将軍になってしまっわけで(8月13日参照>>)、そこに、個人的恨みが少なからず影響していた事も、なきにしもあらずです。

しかし、やり過ぎは吉宗のほうも同じ・・・過度な増税と倹約は、米価の暴落を招き、各地で一揆や打ちこわしが続発し、結局は行き詰って、最終的に老中・水野忠之らの尽力によって、「とりあえず成果をあげたんじゃない?」程度の結果となってしまいました。

ただ、願わくば、宗春さんの政策のほうも、最後の最後までやらせてあげて欲しかった・・・そうなんです、上記のように、吉宗の享保の改革のほうは、最後の最後で一応の成果が見られたわけですが、宗春の政策のほうは、吉宗の怒りを買い、宗春が蟄居させられた事によって、途中でストップしてしまうわけです。

ひょっとして、もう少し時間の猶予があれば、改変に改変を重ねて、見事な成功を収めていたかも知れません・・・いや、当代きっての知識人の彼なら、そうなった可能性大だと思います。

そんな、可能性を秘めながらも、将軍に反発した事で叛逆人として扱われ、かの名著も発禁となり、亡くなった後も、その墓石には罪人の証である金網が掛けられていたのだとか・・・

宗春の名誉が回復するのは、彼の没後75年経った天保十年(1839年)・・・第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の息子・斉荘(なりたか)が第12代尾張藩主になった時でした。

もちろん、その時に、金網も撤去されました。

もしかしたら、あの吉宗よりも、暴れん坊で名君だったかも知れない宗春さん、汚名を返上できて、ホッと、胸のつかえが取れた事でしょうね。
 

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2009年9月29日 (火)

柳生宗冬の総入れ歯

 

延宝三年(1675年)9月29日、大和(奈良県)柳生藩・第3代藩主で、第4代将軍・徳川家綱剣術師範としても知られる柳生宗冬が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昭和二年(1927年)6月、東京下谷広徳寺にあるお墓から、めずらしい物が発見されました。

お墓の主は、延宝三年(1675年)9月29日に亡くなった柳生宗冬(やぎゅうむねふゆ)・・・初代柳生藩主となった柳生宗矩(むねのり)の三男で、時代劇で有名な剣豪・柳生十兵衛三厳(じゅうべえみつよし)の弟です。

時代劇では、激しく強い父と兄の影に隠れて、何かとめだたない存在の宗冬さんですが、この大発見で、ある意味、父と兄を超越したか?という感じですが・・・

彼の遺体とともに「かめ」の中に収められてしたのは、床の部分が黄楊(つげ)の木でできていて、そこに蝋石(ろうせき)で彫刻された歯が埋め込まれている、すばらしく精巧に造られた総入れ歯だったのです。

日本の医学の歴史は、なかなかのもので、大宝元年(701年)に制定された、あの大宝律令にも医師の養成が国家で行われる事か明記されていて、内科や小児科とともに、歯科も登場しています。

以前、『入れ歯の日』という記念日に、日本最古・・・いや、実際に義歯として使用していた物としては、世界最古の室町時代の入れ歯をご紹介させていただきましたが(10月8日参照>>)、欧米においての誕生は、18世紀のフランスまで待たねばならず、やはり日本の入れ歯の技術は世界最先端だったんですね。

そのページにも書かせていただきましたが、宗冬さんの入れ歯は、寛永十二年(1635年)当時に、口中医として活躍していた小野玄入(げんにゅう)さんの作品で、今で言えば、インプラント以上の最高級品・・・とてもじゃないが、なかなか手に入る物ではなかったでしょうね。

はっきりとはわからないものの、宗冬さんは、大体63歳くらいでお亡くなりになったという事で、当時としては老人の部類に入るのでしょうが、彼よりも年齢の高い人で、お金持ちの人もいたでしょうに、彼以外の人のお墓から入れ歯が見つかった話を、あまり聞きませんねぇ。

他の人が使っていなかったのか?たまたまお墓に入れる事がなかっただけなのか?

そこのところは微妙ですが、宗冬さんに関しては、その歯の悪さは職業病とも言えるもののようです。

つまり、剣を使うたびに全身に急激な力が加わるため、歯に大きな負担がかかり、最終的にボロボロになっていったのではないかと・・・

あの、幕末の将軍・第14代の徳川家茂(いえもち)には、30本の虫歯があったそうですが、そういうのとは別の形でのボロボロ・・・

つい先日、某市長が市議会の本会議中にガムを噛んでいた事が問題になり、「市長だけでなく、スポーツ選手もガムを噛んでいて態度が悪い」なんて、市長の話からスポーツ選手に飛び火しているブログやら掲示板やらを見かけましたが、市長のガムとスポーツ選手のガムとはまったくの別物・・・

スポーツ選手のガムは、宗冬さんと同じで、急激に力を入れる時に歯をくいしばって痛めたり、また、その食いしばった歯で舌や口内を傷つけてしまう事を防ぐためのガムであって、市長の「喉をうるおしたかった」のとは、わけが違うのです。
(議会中に喉をうるおすのもどうかと思うし・・・)

そう考えると逆に、宗冬さんの時代にガムがあれば、彼も総入れ歯にならずにすんだのかも・・・

いずれにしても、時代劇では、やっぱり兄貴の引き立て役にされてしまうんでしょうけど・・・ボウフラを見て、剣の極意を編み出したっていう逸話自体が、兄貴とは差がある気が拭えないですもんね。
 

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2009年8月28日 (金)

死人に口無し?大老・堀田正俊刺殺事件

 

貞享元年(1684年)8月28日、江戸城内において、若年寄・稲葉正休が、大老・堀田正俊に斬りかかって殺害するという刃傷事件がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思えば、あの浅野内匠頭(あさのたくものかみ)吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかった江戸城・松の廊下の刃傷事件(3月14日参照>>)からさかのぼること17年・・・

しかも、加害者が若年寄で被害者が大老なんて、どう見ても、こっちのほうが、登場人物のランクが上だし、何たって被害者が死に至ってますし・・・

なのに、あっちは、芝居になり浄瑠璃になり・・・さらに、平成の今の世となっても、話題に上るほどの一大事件となっているにも関わらず、本日の堀田正俊(ほったまさとし)殺人事件に関しては、ほとんど聞いた事かありません。

実は、コレ・・・加害者である稲葉正休(いなばまさやす)堀田に斬りかかった動機がまったくわからない・・・しかも、主君のご乱心で改易となった稲葉家も仇を討たない・・・(堀田さんも死んでますし)

なので、浄瑠璃や芝居になりようもないのですが、それもそのはず、なんせ、上記のように、被害者・堀田は殺害され、加害者・稲葉は、騒ぎを聞いて駆けつけた大久保忠朝戸田忠昌安倍正武の3名にその場でメッタ斬りにされ即死・・・

つまり、両者とも、亡くなってしまった以上、もはや、その原因を調べようにも調べられなわけです。

それにしても、だいたい殿中で刃傷に及んだら、その身はどうなるのかは承知のはず・・・

まして、稲葉は美濃国(岐阜県)青野1万2千石領する藩主で、自らも若年寄という要職についた前途のある身・・・一族郎党が、この先、路頭に迷う事を考えれば、よほどの事がない限り、そんな行動に出る事はありません。

しかし、幕府の公式記録=徳川実記では、事件の発端は「正休の発狂」で片付けられていて、その動機は明らかにされていません。

だいたい、駆けつけた3人が、その場で稲葉を殺害っていうのも臭います。

現に、あの浅野内匠頭のほうは、取り押さえられています
(ドラマでは茶坊主に・・・)

現在にも通じる事ですが、こういう事件の場合、犯人をちゃんと捕まえて、その動機を究明してから処分するなりなんなりしてこそ、真の解決に至るわけで、直後に殺してしまって、その理由もわからずじまいというのは、むしろ、彼ら3人の不手際です。

しかし、事件後、彼らが、その不手際を罰せられたという記録は残っていません・・・不可解です。

有名なところでは、新井白石が後に語ったとされる話・・・淀川の改修工事でのモメ事です。

淀川の改修工事にあたって、稲葉は事前の視察を行い、4万両で工事を請け負う見積もりを立てていたのに、堀田が2万両で、河村瑞賢(ずいけん)という人物に依頼をしてしまった・・・ほんでもって、稲葉が、「ウチにやらしてくれ」と、頼み込んできたのを、堀田が断ったために、稲葉がブチ切れ・・・というもので、「二人が事件前夜に口論しているのを見た」という目撃証言もあります。

しかし、結局のところ、工事のモメ事は、命を賭けてまでブチ切れるほどの出来事ではないように思いますよね。

また、堀田の家臣が残した記録では、時の将軍=第5代・徳川綱吉との関係がこじれた事に要因があるとしているものもあります。

それによれば、もともと第4代将軍・家綱の臨終の際、次期将軍を決めるにあたって、時の大老・酒井忠清と大いにモメた堀田が、「何としてでも・・・!」と、強く綱吉を推した事で、綱吉は5代将軍になり、それとともに、堀田は、酒井に代わって大老に任ぜられたわけで、二人は、お互いが持ちつ持たれつのイイ関係にあったはずなのですが、綱吉自身が、何事も自分の意見を通したいタイプであり、堀田も、自分の意見を譲らない性格であったため、いつしか、綱吉が、堀田の事をうっとうしく思うようになっていたというのです。

加えて、堀田が、あまりにも綱吉の信頼を受けている事に増長して、調子にに乗りすぎの横柄な態度を取っていた事にも、綱吉は怒っていたのだと・・・

それで、綱吉は、堀田に隠居を勧める決意をするのですが、その将軍の意向を、堀田に告げる役目を頼まれたのが、稲葉だった・・・

しかし、城内の御用部屋にいた堀田に、稲葉が将軍の意向を伝えても、堀田はあっさりと拒否・・・将軍の命令は絶対だと思っていた稲葉は、将軍の命令に従わない堀田にブチ切れ・・・というのが、その家臣のお話・・・

でも、この話でもやっぱり、稲葉のブチ切れとなっているのが、どうも引っかかります。

かの浅野内匠頭は、なにやら日頃からブチ切れやすい性格で、本人もそれを悩んでいて、精神安定剤のような薬を常用していたなんて聞きますが、稲葉に関しては、そんな話はありません。

むしろ、同時代の学者・戸田茂睡(もすい)などは、彼の事を、「忠義といい、分別といい、他に類を見ないほどの良い人物」と称しています。

そんな人が、そう簡単にブチ切れるでしょうか?

確かに、その忠義の精神から、「将軍の命令は絶対だ」と思っていて、それを堀田が断ったとしても、戸田さんが言うように、他に類を見ないほどのすばらしい人物であるなら、その場でブチ切れる事なく、冷静に説得するか、新たな方法を考えて出直すはずです。

・・・と、ここで、ムリヤリなトンデモ説ではありますが、一つだけつじつまが合うのではないか?と思う事が・・・

それは、将軍・綱吉が、稲葉に頼んだのは、「堀田を説得する事」ではなく、「堀田を殺害する事」ではなかったのか?という事です。

この時に、綱吉が何等かの報酬的なものを約束したかどうかは微妙ですが、殿中で刃傷沙汰を起せば、自分自身は死ぬ以外にないわけですから、いくら将軍の頼みだと言っても、自分も死に、お家も取り潰しになるのなら、ワリにあわないでしょう。

しかし、もし、自分自身は死ぬ運命にあったとしても、残された一族郎党の前途が約束されるなら、彼はやったかも知れません。

もともと、将軍の命令にさからう事も処分を受けるだろうし、自らの命と引き換えに、事が丸く納まり、お家が守られるなら・・・と、

・・・で、駆けつけた老中たちは、そのすべてを知っていて、何も聞かず、即座に正休を殺害し、死人に口なしとばかりに、その後、お家も改易に・・・

まぁ、トンデモな仮説ですが・・・
 

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2009年8月13日 (木)

暴れん坊・徳川吉宗~怪しすぎる8代将軍・誕生劇

 

享保元年(1716年)8月13日、江戸幕府第8代将軍に、紀州藩主の徳川吉宗が就任しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

就任直後から、「享保の改革」(6月18日参照>>)と呼ばれる様々な改革を行い、崩れ行く幕府の態勢を立て直した中興の名君として讃えられる8代将軍・徳川吉宗・・・。

確かに、ここで吉宗さんが登場しなければ、江戸時代という徳川の時代も、7代で終っていたかも知れないと思わせるほどの名将軍ではありますが、御三家とは言え、地方藩主の四男坊が、天下の徳川幕府の将軍になった経緯については、あの「暴れん坊将軍」で受ける爽やかなイメージとはうらはらな謎多き人でもあります。

以前、江戸時代に実際に起こった事件をモデルにした「天一坊事件」(4月21日参照>>)についても書かせていただきましたが、この時、「実は、あなたの子供です」と名乗り出た見知らぬ人物を、「絶対に違う!」と、真っ向から否定できないほど、実は紀州のぼんぼん時代は遊びまくっていた・・・。

つまり、将軍になるなんて思ってもみなかった、なるはずもなかった紀州時代には、よくも悪くも、いろんな女性と、ほぼ自由な恋愛をしていて、隠し子の1人や2人いてもおかしくない自由奔放でのびのびとした生活を送っていたわけです。

そんな吉宗が17歳になった元禄元年(1697年)、越前国(福井県)丹生(にゅう)という地を与えられ、本来なら、その後は丹生3万石の大名として生きていくはずでした。

ところが22歳になった宝永二年(1705年)・・・二人の兄の死をきっかけに、その人生が変わっていくわけですが、その後、紀州藩主になり、やがて享保元年(1716年)8月13日将軍に就任します。

・・・と、この将軍になるまでの12年間で、身近な人&将軍継承にかかわる人が合計8人亡くなっている事になるのですが、その方たち、いずれか1人が欠けても、吉宗が将軍になる事はなかったのです。

臭いますねぇ・・・。

もちろん、すべてが怪しい死だというわけではありませんが、中には原因不明の急死とされる不可解なものもあります。

まずは、宝永元年(1704年)、長兄・綱教(つなのり)の奥さん・鶴姫天然痘で亡くなります。

実は、この鶴姫さん、あの5代将軍・徳川綱吉の娘・・・ご存知のように、綱吉は、あの「生類憐みの令」(1月28日参照>>)を発した人物・・・一説に、この法律が生まれた原因は、綱吉の長男・徳松が亡くなって後、男の子が生まれなかったせいだとも言われていますが、それが事実かどうかはともかく、そんな噂が飛び交うほど、実際にその後継者に困っていたのも確かなのです。

そんな中、実子のいない綱吉が次期将軍にと考えた人物が二人・・・一人は綱吉の兄の子=つまり甥っ子の甲府藩主・徳川綱豊、そしてもう一人が吉宗の長兄・綱教だったのです。

しかも、当時の綱吉は、かなり綱教さんに傾いていたのだとか・・・確かに、甥っ子には、自分の血は流れていませんが、将来、娘が産む子供=孫には、自分の流れている事になります。

すでに紀州藩主を継いでいる綱教ですが、娘婿の彼が次期将軍になれば、当然、その息子が次の将軍になるわけで、まだ見ぬ孫に、その夢を託す気持ちはわかります。

しかし、上記の通り、この鶴姫さんは、子供を産む事なく亡くなってしまい、そうなれば、当然、綱教を将軍にという話も立ち消えとなるわけですが、その翌年、その長兄の綱教が病死し、すぐ後に父・光貞も亡くなります。

この二人の死に関しては、いずれも病名こそ記されていないものの、不可解な部分は少なく、現在のところ、鶴姫・綱教・光貞に関しては、怪しい部分はないとされています。

しかし、問題は、次の頼職(よりもと)の死・・・この方は、光貞の三男=つまり、吉宗のすぐ上のお兄さんなのですが、二男の次郎吉さんという方が早くに亡くなっているので、長兄亡き後、紀州藩主を継ぐべき人物で、実際、この時、藩主を一旦継いだ後、実務をこなすために江戸から紀州へと帰国の途についていたのですが、その旅の途中に謎の急死を遂げます。

急に発病して・・・となっていますが、もちろん病名も不明・・・この次兄の死によって、四男坊の吉宗に藩主の座が転がり込んでくるわけですから、ここは疑われてもしかたのないところ・・・ただし、証拠はありません。

こうして、わずか一年で、父と二人の兄を亡くした吉宗は、この同じ年、第5代・紀州藩主となり、しばらく内政の改革などをこなす事になります。

この間の宝永六年(1709年)に綱吉が亡くなり(1月10日参照>>)、次の将軍には、かの綱豊が徳川家宣(いえのぶ)と名を改めて6代将軍となりますが、その家宣は、在位わずか3年で亡くなり、その息子・鍋松が、わずか4歳にして第7代将軍・徳川家継となります。

ただ、その家継も、わずか8歳で亡くなってしまうのです。

先の綱吉が29年間も将軍の座についていたにも関わらず、その後、7年間で2回も将軍が交代するという胡散臭さ満載の展開ですが、これには、家宣・家綱ともに病弱だったという話もあり、また、吉宗が・・・というよりは、二人の将軍の母による大奥内でのドロドロした関係が取りざたされているようです。

よく大奥ドラマで描かれるように、将軍の母となると、膨大な権力を手中に収める事ができるのですが、たとえ将軍のお手がついて、その子供を産んだとしても、身分の低い側室は、身分が低いままで、その子供は正室の子として育てられるわけです。

しかし、その子供が将軍になった場合は別・・・将軍の生母として優遇されるのです。

・・・で、この時の大奥には、将軍の母と呼ばれる人は、家宣の正室・天英院と、家継の生母・月光院の二人がいる事になるわけですが、後者の月光院さんは、まだ家継が幼い頃から、我が子を将軍にするために、他の側室の産んだ子を暗殺したといった噂の耐えないしたたかな女性でありました。

しかも、上記のように、家宣亡き後の家継の生母という事で、それまでトップだった天英院の権力が、将軍交代で月光院に移り、その華美な生活は頂点を極めていたわけですが、この二人の確執は、大奥内には留まらず、それぞれの派閥の老中や御用人といった幕府幹部を巻き込んでの派閥闘争にも関与する事になります。

・・・で、この時、病弱な家継を心配して、生前の頃から、すでに次期将軍を誰にするかが取りざたされていたのですが、ここで月光院派が推していたのが、尾張徳川家の吉通(よしみち)・・・と、そのまま、月光院派が権力を握っていれば、たとえ家継が亡くなっても、次期将軍は、その吉通になるはずでした。

が、しかし、ここで、一つの事件が起こります。

あの大奥最大のスキャンダルと言われる「絵島・生島事件」(3月5日参照>>)です。

月光院派のナンバー2であった絵島が、生島新五郎というイケメン役者に惚れこんで、大奥の門限に遅れた・・・あるいは、男子禁制の大奥に彼を招きいれ、逢瀬を楽しんだと言われ、大奥内、果ては幕府内の月光院派が大量処分された事件です。

これによって、大奥内&幕府内の権力は一転して、前将軍の正室・天英院派へと戻る事になるのです。

その天英院が次期将軍に推していたのが、吉宗・・・その人です。

徳川家の正史である『徳川実記』では、「これは、亡き先代将軍・家宣様のご遺志である」という天英院の強い主張により、吉宗に決まった事が記されていますが、一方の月光院派で、この後失脚する事になる新井白石の著によれば、「家宣様は、次期将軍には尾張の吉通を・・・もしダメなら、鍋松を将軍にして、吉通を後見にする」と言った事が書かれていて、勝者と敗者の言い分の食い違いが生じてします。

どちらが正しいかは、更なる証拠の発見を見るしかないわけですが、最初に書いた通り、家宣は、綱吉の後の将軍の座をめぐって、一時は紀州の綱教とライバルとなった人ですから、その人がはたして、自分の次の将軍に、ライバルだった人の弟を指名するかどうかは、はなはだ疑問だという歴史家の指摘もあります。

とにもかくにも家継亡き後、こうして将軍の座を射止めた紀州の四男坊・徳川吉宗・・・この後、享保の改革の一環として、先のスキャンダルで月光院派がいなくなった大奥に、未だ残っている天英院派を一掃する大幅リストラに踏み切るのは、さすがの大奥女帝の上をいくしたたかさを持っていたという事なのでしょうか。

「世の中に人間ほどおそろしいものはない。善人にも悪人にも心を許してはならない・・・人は、色と酒と欲を好むものゆえ、その人の好みを知って取り入っていけば、願いが叶わない事などない」
これは、吉宗が著したとされる『紀州政事草』の中の一説ですが、まさに・・・

実践あるのみですな・・・吉宗さん。

・・・で、この後、吉宗は御三卿という、自分の子孫だけが将軍職を継ぐシステムを、ちゃっかり作り上げる事になるのですが、そのお話は、11月10日【いつの世も次期将軍でモメる?】のページでどうぞ>>
 

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