御所千度参りで幕府に物申す~光格天皇の実力
天保十一年(1840年)11月18日、第119代・光格天皇が70歳で崩御されました。
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この光格(こうかく)天皇・・・幕末のページで、しばしば、その名を拝見する第121代・孝明天皇のおじいさまであり、当然ながらその次の第122代・明治天皇のひいおじいさまにあたります。
先代の後桃園天皇が、生まれたばかりの皇女1人を残して亡くなったので、閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王の第六皇子だった祐宮兼仁(さちのみやともひと)が養子に入り、光格天皇として皇位を継ぎました。
典仁親王が、第113代・東山天皇の孫にあたるので、皇室には違いないですが、直系という事になると、現在の天皇家は、この光格天皇から始まったという事になります。
9歳で即位し、24歳で先ほどの後桃園天皇の皇女・欣子(よしこ)内親王を皇后としました。
即位から数年後の天明二年(1782年)から天明七年(1787年)にかけて、ご存知の天明の大飢饉が発生します。
悪天候が続いていたうえに、例の浅間山の噴火(7月6日参照>>)によって、広域に火山灰が降り注ぎ、さらに噴煙によって起こる日射量の低下や異常気象によって、またたく間に全国的な飢餓状態となってしまいました。
飢えに苦しむ人々は、犬・猫はもちろん、人を口にするまで追い詰められ、各地では打ちこわし多発!・・・この状況は、天皇のおわす京都でも例外ではありませんでした。
京都の人々は、幕府の京都所司代に対策を講じるよう願い出ますが、いっこうにらちがあきません。
「幕府は何もしてくれない」と感じた人々の心は、ワラをもすがる気持ちで御所に向かいます。
最初に、その現象が起こったのは、天明七年の6月7日・・・はじめは、数人の人が御所を訪れ、門の前から天皇のおわすあたりに向かって手を合わせ祈り、賽銭を投げていくというものでした。
ところが、それが数日後には3万の人となり、10日後には、なんと7万人にも達して、御所を巡りながら祈りを捧げます。
この現象は御所千度参り(ごしょせんどまいり)と呼ばれ、京都に限らず、大坂・河内や近江など、近畿一帯から人が集まったと言われています。
見るに見かねた後桜町上皇(第117代の天皇)は、御所前に集まる人々に約3万個のリンゴを配り、有栖川家や九条家からも、お茶や握り飯が配られました。
さらに、心痛めた光格天皇は、自ら民衆の救済を京都所司代に申し入れたのです。
実は、これが江戸幕府始まって以来の出来事・・・
そうです。
先日、このブログ書かせていただいたばかりの第109代・明正天皇(11月10日参照>>)・・・そして、その父上である第108代・後水尾(ごみずのお)天皇(4月12日参照>>)のところで登場した『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』。
江戸の始めに徳川幕府が出した天皇の行動を制限するこの法令で、天皇家は幕府の許可なしには、何も出来ない状態にさせられてしまっていました。
つまり、天皇家が幕府に物申すのは、本来なら法令違反・・・光格天皇も、それを補佐する関白・鷹司輔平(たかつかさすけひら)も、さらに、賛同してくれる朝廷の方々も、皆、処罰覚悟の行動だったのです。
しかし、さすがに事態の深刻さを把握している幕府は、京都市民に対して米1500俵を放出する事を約束し、皇室の法令違反に対しても、その罪は問わないという決定をしました。
これは、江戸開幕以来、幕府が取り仕切っていた内政上の事項に対し、天皇が初めて関与し、幕府がそれに従ったという、前代未聞で大きな意味を持つ出来事でした。
翌年の天明八年(1788年)に起こった京都の大火では、皇居も仙洞御所も焼けてしまいましたが、この再建に力を注いだ時の将軍・第11代徳川家斉に対して、光格天皇は直筆の詩を送ったと言います。
これを賜った家斉は、早速、老中の松平定信に見せ、定信はそれを床の間に掲げて宴会を催したのだとか・・・これも、御所千度参りという現象を目の当たりにして、いかに、天皇家が民衆の心の拠り所となっているかを知り、幕府の中にも、多少の変化があったという事なのかも知れません。
また、光格天皇は、当時、度々通商を求めてきていたロシアとの交渉にも関心を寄せ、皇室での儀式や神事の復活にも力を注ぎました。
これは、この光格天皇によって、幕府に対する朝廷の発言力が高まった証とも言えますが、寛政元年(1789年)・・・この良好な関係にストップがかかります。
実は、光格天皇・・・自分が天皇になったにも関わらず、父上の典仁親王が親王ままでは気の毒だと、常々思っていたのです。
かの公家諸法度では、親王は大臣よりも低い地位ですから、なんとか父に尊号を送りたいと思い、幕府にその旨を伝えますが、これを幕府は断固拒否します。
光格天皇が希望を申し出てから、6年間に渡ってモメるこの尊号事件は、結局、光格天皇が矛を収めて落ち着いたのですが、尊号の願いが叶えられなかったとは言え、光格天皇によって、近代天皇制への下地が造られた事は確か・・・その観点からも、光格天皇は歴史に残る天皇であったと言えるでしょう。
ちなみに、この光格天皇がなし得なかった典仁親王の尊号・・・この願いを叶えるのは、光格天皇のひ孫で、同じ祐宮(さちのみや)と呼ばれた睦仁(むつひと)親王・・・そう、明治天皇なのですが、そのお話は、また、関連するその日に書かせていただきたいと思います。
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