2017年8月17日 (木)

怨みの井戸・門昌庵事件~松前藩の怖い話

真夏日の連続記録を更新せんが勢いだった暑さから、気の早い台風一過で一転、冷夏模様の今日この頃ではありますが、夏はやっぱりホラーで~って事で、本日は、1年ぶりの真夏の夜の怪談話シリーズ!
『松前の怖い伝説』です。

・‥…━━━☆

その昔、蝦夷(えぞ)と呼ばれていた北海道・・・その渡島国津軽郡(北海道松前郡松前町)に本拠を置く松前藩(まつまえはん)の第5代藩主=松前矩広(まつまえのりひろ)は、毎夜毎夜のランチキ騒ぎにあけくれていました。

Matsumaenorihiro500a そばに女性をはべらせては、酒を飲み、「もっと、
面白い物が見た~い(`ε´)」
「もっと、盛り上げろや~!(`◇´*)」

と大騒ぎの宴会、宴会、宴会・・・

最初のうちこそ、この藩主の堕落ぶりを注意した家臣も何人かいましたが、そんな忠告をいっこうに聞かないばかりか、
「うっとぉしい~」
と、次々と排除していったせいで、今や、彼の周りにはイエスマンばかりが集まって来て、もう誰も止めようともしませんでした。

しかも、終始、ゴキゲンで朝まで飲み倒すならまだしも、この宴会、夜も更けて来ると、毎度毎度必ず、異様な雰囲気になってしまうのです。

今夜も・・・
ある時間帯になると、
「来た~!来たゾ~怨みの声が聞こえてきた~~(ノ゚ο゚)ノノ」
矩広が叫び始めると、それまで鳴り続いていた音曲が止み、踊り手たちも一斉に踊りをやめ、矩広に聞こえるという、その声を探しますが、その場にいる誰にも、そんな声は聞こえません。

やがて、シ~ンと静まり返った座敷から、誰ともなく、一人減り、二人減り・・・最後は矩広一人になり
「やめろ!黙れ!やめてくれ~」
と、ブルブルと震えだしてしゃがみ込んで、体を丸くして怯えるばかり・・・

矩広の開く毎夜毎夜の宴会・・・実は、この恐怖から逃れたいがためのランチキ騒ぎだったのです。

それは寛文九年(1669年)に起こったシャクシャインの戦い(6月21日参照>>)・・・

過酷なアイヌ民族支配に不満を持ったアイヌの人たちが団結して反乱を起こした事件ですが、最終的に、アイヌのリーダーだったシャクシャインを騙し打ちにして戦いを終結させ、残る14人の首謀者を処刑して、首を取る代わりに耳をそぎ落としたのだとか・・・
(松前城内には、この時の耳を埋めた耳塚があり、現在も供養が毎年行われています)

この事件自体は、矩広が未だ10歳前後の頃の出来事で、父の死を受けて、藩主の座についてはいたものの、彼自身が何かに関与したわけではなく、一族や周辺の家臣たちによって事が進められたわけですが、多感な少年期に起こったこの事件は、彼の心に深い傷を残したようで、毎夜毎夜、
「ワシの耳を返せ~」
という恐ろしい幻聴に悩まされていたのです。

そんな中、ただ一人・・・勇気を振り絞って、
「殿…どうか、ほどほどに…」
と、藩主=矩広を諌める忠臣がいました。

大沢多治郎兵衛(丸山久治郎兵衛という名前の場合もあり)という人物。。。

しかし、その度々の諌めにイラだった矩広は、側近たちに
「アイツ、黙らせろや」と・・・

そこで、側近たちは大沢を呼び出し
「殿には困った物です。
昨夜もまた、派手にお騒ぎになられて、先祖代々の家宝の鉄扇を井戸の中に投げ込んでしまわれたのです」

と相談を持ちかけたのです。

「それは難儀な…」
と同調する大沢に、
「大沢殿に、井戸から、その鉄扇を取り上げて来ていただき、今一度、殿を説得してもらえないかと…」

「よし、わかった」
と井戸の中へと入って行った大沢に、
「お気をつけください」
「ありますか~?」

と、灯りを照らしながら見守っていた側近たち・・・

しかし、大沢が井戸の底まで達した頃、ようやく抱えられるかのような大きな石を手にとり、それぞれが、
「エイ!」
とばかりに、何個も投げ入れたのです。

鈍い音とうめき声とともに、大沢が井戸から上がって来る事は2度とありませんでした。

この井戸の話は、少しの間は噂になっていたものの、それ以上大きな話になる事はなかったのですが、一方で、この大沢のように、主君のご乱行を諌めようとする家臣が、その後も何人か亡くなる事件が相次いで、やがて矩広の周りには、彼のお気に入りの側近ばかりに・・・

しかし、そのお気に入りでさえも・・・
ある時、そのお気に入りの側近の一人が、矩広の側室と、通りすがりに話をしただけで怒りだし、
「不倫や!不義密通や!成敗したる!」
と騒ぎ始め、怖くなった、その側近は、松前家の菩提寺である法憧寺(ほうどうじ= 北海道松前郡松前町)に逃げ込み、住職の柏巌(はくがん)和尚に相談・・・
「住職様のお言葉なら、殿もお聞きになるかも…」
と矩広を説得してもらう事に・・・

しかし、目の前に現れた柏巌に対し矩広は、
「わしを呪いに来たんやろ?」
と、もはや聞く耳持たず、柏巌を門昌庵(もんしょうあん=北海道二海郡八雲町)という草庵に追放して首をはねるように、家臣に命じました。

かくして柏巌は斬首されますが、
その首を切られた時には側を流れていた川が逆流したとか、
斬首役の一人が発狂したとか、
首実検を行うために持ち帰った生首がカッと目を見開いたとか、
様々な噂がたつ中、松前藩の江戸藩邸でも家臣の変死が相次ぎ、矩広の体の調子も優れず、側室らが産んだ子供も次々と早世し、さらには、凶作、火事など、城下にも度々災難が起こった事から、人々は皆、
「柏巌の祟りではないか?」
と噂したのだとか・・・

・‥…━━━☆

と、まぁ、これまで見聞きしたお話を書かせていただきましたが、どうやら、このお話は一つの物語では無く、実際には複数のお話に分かれているようです。

もともと、こういうお話の性質上、「実際にあった」というよりは「そういう噂が流れていた」という感じの伝説的な物で、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけで・・・

ただし、今回の松前藩のお話の中では、最初の「シャクシャインの戦い」があった事は事実ですし、最後の柏巌の事件も「門昌庵事件」という名称で実際にあった事だとされ、家老や家臣の変死が相次いだのも本当の事だとされているようですが、実は・・・

「幽霊の正体見たり…」で恐縮ですが、実際には、どうやら、この時期に松前藩内でお家騒動があったようで・・・

つまり、藩内が二派に分かれて争っていた中で、勝った側によって多くの家臣が粛清されたと・・・ところが、その騒動が幕府老中の知るところとなったようで、

江戸時代、お家騒動が起こって収拾がつかなくなった場合、幕府の命により、藩そのものがお取り潰しになる場合もあるわけです。

なので、幕府に全容がバレてしまっては大変!とばかりに、慌てて、藩の正史には、亡くなった家臣たちを、皆「変死」と記録して、怖~い噂話を流してゴマかした?てな事のようです。

もちろん、上記の通り、お家騒動の話も正式な記録には残っていない話ですから、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけですので、どちらを信じるか信じないかはアナタしだいです。
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2016年3月19日 (土)

徳川譜代の雅楽頭~酒井忠世の失敗

寛永十三年(1636年)3月19日、徳川家康に仕えて、江戸時代初期に老中大老を務めた酒井忠世がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

徳川譜代の家臣として若き日の徳川家康(とくがわいえやす)に仕えた酒井重忠(さかいしげただ)の息子として三河西尾城(にしおじょう=愛知県西尾市)に生まれた酒井忠世(さかいただよ)は、幼くして家康に仕えました・・・ちなみに、家康と父=重忠が同世代で、忠世は、家康とは30歳くらいの歳の差があります。

やがて天正一八年(1590年)に家康の嫡子である徳川秀忠(ひでただ)豊臣秀吉(とよとみひでよし)に謁見するために上洛する時に、そのお供を命じられた事をキッカケに秀忠付きの家臣となり、その家老にまで抜擢されました。

家康が関東に入った時には、父の重忠とは別に武蔵国川越(埼玉県川越市)5000石を与えられ、川越城主となりました。

以来、秀忠に付き従い、大戦では度々留守居役を任される父に代わるように、忠世は、秀吉の朝鮮出兵(3月17日参照>>)でも九州・名護屋まで赴き、慶長5年(1600年)6月の会津征伐(7月25日参照>>)や、それに続く第二次上田合戦(9月7日参照>>)にも出陣しています。

やがて慶長十二年(1607年)、完成した駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市)のお祝いに、秀忠の名代として参加した際に、家康から「雅楽頭(うたのかみ)を名乗るように命じられ、以後、忠世の酒井家は『雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれ、代々続いていく事になるのです。

その後も、大坂の陣で秀忠の旗本を務めた後、元和三年(1617年)に父の重忠が死去して遺領の厩橋(うまやばし=群馬県前橋市)3万3千石を継ぎ、合計8万5千石の領地を領するようになりました。

この頃・・・45歳前後の働き盛りの忠世は、亡き家康の後を継いだ秀忠政権の年寄衆(老中)の一人として幕政の中心を担うようになり、さらに元和九年(1623年)、秀忠の嫡子である竹千代(たけちよ)が、徳川家光(いえみつ)として将軍職を継ぐと、秀忠の命により、忠世は家光付きの年寄衆となります。

寛永十一年(1634年)3月には、家光が、子飼いの側近である松平信綱(まつだいらのぶつな)堀田正盛(ほったまさもり)三浦正次(みうらまさつぐ)阿部忠秋(あべただあき)阿部重次(あべしげつぐ)太田資宗(おおたすけむね)の6名を、日常の雑務(旗本や御家人の支配等)を行う六人衆(若年寄)とし、

一方の、幕府としての全国支配を担当する年寄衆との役割分担を明確にして年寄衆には最高の権限を与えた事から、忠世も益々のご発展・・・

と、なるはずだったのですが、人生、どこで何があるかわからない物です。

そのわずか4ヶ月後の寛永十一年(1634年)7月・・・先代の秀忠が生きていた頃にはギクシャク感満載だった後水尾天皇(ごみずのおてんのう)との関係(11月8日参照>>)を修復すべく、家光が上洛して、留守となっていた江戸城で火災が発生し、西の丸が全焼してしまうという惨事が起こります。

そうです・・・この時、留守居役を任されていたのが忠世・・・

その責任を感じた忠世は、速やかに上野寛永寺(かんえいじ=東京都台東区)に入って、自ら謹慎・・・家光からの処分を待つ事にしますが、

Kaneiji1200a
江戸時代の寛永寺(江戸名所図絵より)

意外にも、失火に関しては、家光からのお咎めは一切無し・・・しかし、逆に、速やかに寛永寺に入った事に、家光は激怒したのです。

「お前、コレ、戦国時代の合戦やったら、どうすんねん!」と・・・

城の留守を任されている重臣たる者が、出火の原因解明も、後始末もそこそこに、さっさと寺へと入ってしまった・・・
「逆に、最後まで城を守護するのが、任された者の役目ちゃうんか?」(『翁草』より)
と叱責したのだとか・・・

なるほど~言われてみれば、おっしゃる通りのような気も・・・

ただ、叱責はされたものの、酒井家はご覧の通りの重臣中の重臣・・・これまでの功績もあり、周囲の赦免嘆願もありで、この年の暮れには登城を許され、西の丸の留守居役にも復活する事ができました。

しかし、結局は年寄衆に復帰する事はなく、その権勢にはすっかり陰りが・・・と同時に、それらの事を思い悩むうち、心身ともに疲れて果ててしまったのでしょうか?
忠世は、突然の脳溢血に襲われて倒れてしまったのです。

さすがの家光も心配して、お見舞いの使者をよこしたりして気をつかいまくりでしたが、その甲斐もなく、倒れてから7日目の寛永十三年(1636年)3月19日忠世は、1度も意識を快復せぬまま、65歳の生涯を閉じたのです。

その無口な性格から『むっつり雅楽頭』というニックネームで呼ばれていたという忠世さん・・・ただ1度の失敗に、少しは弁解の口も開きたかったかも知れませんが、こればかりは、お家が存続しただけでも、ヨシとしなければならないでしょうね。

家が残ったおかげで、忠世亡き後の酒井家は、息子の忠行(ただゆき)が、すぐ後に亡くなってしまうものの、その後は嫡孫の忠清(ただきよ)が家督を継ぎ、見事、明治維新まで生き残ります。

鳥羽伏見から戊辰戦争の真っただ中を、後の最後まで徳川家を裏切らず忠誠を貫いた忠世の子孫たち・・・
そこには、徳川家譜代の家臣=雅楽頭酒井家の意地と誇りが見え隠れするようです。
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2016年2月 1日 (月)

天下のご意見番~大久保彦左衛門忠教が逝く

寛永十六年(1639年)2月1日、講談や時代劇で知られる大久保彦左衛門忠教がこの世を去りました。
(死亡日については2月29日もしくは2月30日説もあり←29日や30日だと書き難いので1日の日付けで書きます(*´v゚*)ゞ)

・・・・・・・・・

戦国時代を徳川家康(とくがわいえやす)とともに駆け抜けた後、その家康の息子の秀忠(ひでただ)、さらにその息子の家光(いえみつ)江戸時代初期の3代の将軍に仕えた重臣大久保忠教(おおくぼただたか)・・・

ここ最近はすっかり少なくなったテレビ時代劇ですが、その華やかなりし頃には、様々な立ち位置で何度もドラマに登場したのがこの方・・・ファンの皆様には大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)の名前の方がお馴染みかも知れませんね。

ある時は、魚屋の一心太助(いっしんたすけ)窮地に立った時に助ける大物役だったり、ある時は、若き家光をサポートする傅役(もりやく)だったり・・・いずれにしても、ドラマの場合は、弱き庶民が抵抗できないような役人や武士に対して臆することなく物を言い、庶民の味方となって見事に問題を片づけてくれる「天下のご意見番」という冠がつくカッコイイ老人の場合がほとんどですねww

ただし・・・お察しの通り、時代劇に登場する「カッコイイ老人」の代表格である水戸黄門と同様に、この彦左衛門さんの逸話も、ほぼほぼ後世の創作と言われています。

なんせ、江戸時代から彦左衛門さんは講談やお芝居で大人気だったですから・・・時代劇で描かれる彦左衛門の姿は、その江戸のお芝居の流れのまま描かれているんですね。

そもそも・・・
彦左衛門さんの大久保氏は、平安時代に関白となって権勢を振るった藤原北家藤原道兼(ふじわらのみちかね)の子孫で、南北朝時代には新田義貞(にったよしさだに従い、その後、三河(みかわ=愛知県東部)松平信光(まつだいらのぶみつ=家康の6代前)に仕えたのが始まりとされますが、実際のところはよくわかっていません。
(家康の父の清康から…という説もあります)

とは言え、家康の時代には、父の大久保忠員(ただかず)や、後に蟹江(かにえ)七本槍徳川十六神将の1人に数えられる兄の大久保忠世(ただよ)(3月1日参照>>)とともに彦左衛門も活躍し、いつしか彼らの大久保家は、本家の伯父さん(父の兄=大久保忠俊)の大久保家をしのぐ勢いとなっていきます。

とにもかくにも、天正十三年(1585年)の第一次上田城=神川の戦い(8月2日参照>>)や天正十八年(1590年)の小田原征伐(7月5日参照>>)、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦(関ヶ原の戦いの年表>>)に慶長十九年(1614年)の大坂の陣(大坂の陣の年表>>)などなど・・・数多くの合戦に従軍して奮戦したという事なんですが・・・

それは彦左衛門さんが一個師団を率いる武将ではなく、父や兄の軍に従属して参戦する人だったからか?

はたまた、晩年に書いた子孫へ残す家訓的な自叙伝=『三河物語』が、戦争を知らない子供たちの間で大ヒットし、若き武将のバイブル的存在になった事が大きかったのか?

やはり、今に残る逸話の多くが、平和な江戸時代になっても、戦国の生き残りとして反骨精神を失わない頑固なジッチャンのイメージ・・・痛快でおもしろく、一応史実とされる事でも「そら、講談や時代劇にしたなるわな!」って感じの逸話が多いんです。

・‥…━━━☆

ある時、某という武将の屋敷に招かれた彦左衛門・・・

宴会でひとしきり飲んで盛りあがる中、その武将がうやうやしく一頭の馬を引き立てて来て、
「どや!俺の持ってる、この馬…メッチャええ馬で、ごっつい俊足やねんゾ!大坂の陣でも大活躍した名馬や!」
と自慢するので、
「なるほど…あの大坂の陣の時に素早く逃げられたんは、足の速いこの馬のおかげかぁ~さすがの俊足で主人を助けるとは大した馬やなぁ」
と皮肉を一言・・・その武将が聞こえないフリをする一方で、他の者たちは顔を見合わせて、笑いをこらえるのに必死だったとか・・・

・‥…━━━☆

また、ある時、江戸城に登城した彦左衛門に、将軍=秀忠から
「今日の料理、珍しいが出るさかい、お前も一緒に食べへんか?」
と誘われてご一緒したところ、汁物の料理が登場・・・

「どや、珍しいやろ?鶴なんかめったに食べられへんで」
と秀忠が言うと、
「いや、ウチでは毎日食べてまっせ」
と彦左衛門・・・

「ウソやろ?なんぼなんでも毎日はムリやで」
と疑う秀忠に
「ホンマです…なんやったら、その証拠に、これから毎日、食用の鶴持って登城しますわ~お楽しみに~~」

と、翌日登城した彦左衛門は、2~3束の菜っ葉を手に秀忠の前に出て
「お約束の鶴を持って参りました=」
と、うやうやしく差し出します。

「これ、菜っ葉やんけ」
と秀忠・・・すると彦左衛門が、
「はい!僕らは菜っ葉て呼んでますけど…
昨日いただいた汁物に、この菜っ葉がよーけ入ってて、将軍様が、『鶴や~』『鶴や~』て言わはるんで、将軍家では、これを鶴って呼ぶんかなぁ~って思いまして…
それやったら、ウチにぎょーさんあるさかいに、献上しよかなって持って来ましてん」

とクソ真面目な顔で返答します。

「どないなっとんねん」
と不思議に思った秀忠が詮索してみたところ、料理人が証言・・・
「実は、昨日の汁物には、鶴と菜っ葉と入ってましたが、鶴が貴重なものでっさかいに、ちょっとしか使用しませんでした。
ほんで、もったいないかなぁ~なんて思て、彦左衛門はんのお椀には鶴入れんと、大量の菜っ葉だけ入れときましてん」

と・・・

つまり、誰の悪意でも皮肉でもなく、完全な感違いのすれ違い・・・一同大いに笑ったのだそうです。

・‥…━━━☆

そんな彦左衛門さん・・・
78歳にして病気になってからというもの、さすがの豪傑ジイチャンも日増しに弱々しくなっていき、誰の目にも余命少なく感じるようになった時、鹿島(かしま=茨城県)で暮らす彼のもとに、時の将軍=家光からの使者が訪れ、「5000石加増」の沙汰を伝えました。

すると彦左衛門は
「もうアカンわ~て思うような重病にかかってるジジイに加増してもろても、この先、何もお役に立つ事ができまへんがな。
子孫に残したれ…てな事やったら、楽して得しても、心が緩むだけです。
僕の子孫は、この先、僕以上の手柄を立てて、自分らの功績で加増してもらいますよって、今はいりませんわ」

と、固辞したのだとか・・・

それから間もなくの寛永十六年(1639年)2月1日大久保彦左衛門忠教は80歳の生涯を閉じたのでした。

Oosakanozinnisikie1000
錦絵に描かれた大久保彦左衛門(上田市立博物館蔵)
大坂の陣にて家康を追い込む真田幸村VS守る彦左衛門

人一倍強い忠誠心を持ち、家康・秀忠・家光と3代の将軍に仕えた彦左衛門は、若き日に城主になるチャンスを蹴って旗本に徹し、老いてもなお加増のチャンスを蹴って逝く・・・歯に衣着せぬ物言いをしながらも、生真面目で曲がった事が嫌い・・・

そんな彼の魅力そのままが、後に講談や時代劇に描かれて人気を馳せる「天下のご意見番」の魅力となっているのでしょうね。
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2015年11月19日 (木)

残りの人生丸儲け~小林一茶、最期の時

文政十年(1827年)11月19日、江戸時代を代表する俳諧師の一人・小林一茶が、この世を去りました。

・・・・・・・・

とにもかくにも、この小林一茶(こばやしいっさ)という方は、俳句でイメージする優雅で落ち着いた印象とはうらはらな、なかなかに波乱の人生を歩んでおられるお方でして・・・

信州柏原宿(長野県信濃町柏原)の農家に生まれた一茶は、3歳で母親を亡くした後、8歳で迎えた継母との折り合いが悪く、15歳で江戸に奉公に出され、やがて、亡くなった父の遺産を巡って、その母と、今ハヤリの遺産争続・・・12年間もの争いに和解し、故郷に定住すべく舞い戻ったのは文化十年(1813年)の1月でした。

奉公に出されてから、実に36年の歳月・・・もちろん、それまでにも、病に倒れた父の看病やら、それこそ継母との遺産相続の話やらで、何度か故郷に帰ってはいましたが、ここに来て、やっとこさ流浪の身に終止符を打ち、終の棲家に落ち着こうと考えたのでした。

Kobayasiissa300a 時に、一茶、51歳・・・

しかし、彼の体は、本人が思っていた以上に疲れていたのかも知れません。

帰郷から、わずか5カ月ほどの頃、善光寺の祇園祭に出かけた一茶は、お尻にできた腫れ物のせいで、その後、70日もの間、病床に臥せってしまいます。

しかし、そんな中でもウレシイ出来事も・・・
間もなく、一茶のもとには、24歳年下の若い奥さんが・・・初婚の一茶はハリキって子作りに励みますが、それが、どうやらハリキリ過ぎたか?

54歳の文化十三年7月には(おこり=マラリアのような熱病)にかかり、一旦完治するものの、57歳の文政二年7月にも、またまた瘧に・・・

翌・文政三年10月には、出かけた先の雪道で転び、中風(ちゅうぶ=脳梗塞や脳出血、くも膜下出血などの後遺症)が起こったために駕籠にて帰宅して、そのまま布団へGO!・・・一時は、歩くどころか口まで不自由になっていたとか・・・

この時、すでに二人の間には長男が生まれていたので、赤ちゃんの世話もせねばならず、さぞかし奥さんは大変だったと思いますが、そんな中でのガンバリが効いたのか?病気は間もなく快復し、正月には
♪今年から 丸まうけ(儲け)ぞよ 娑婆遊び ♪
と吟じました。

この時に、自身の事を「蘇生坊」と称してますから、つまりは
「去年、もう死ぬわ~っと思た中で快復したんやさかい、今年からの人生は丸儲けやな」
てな感じです。

なんだか、ホッとする俳句ですね~
良かった良かった・・・

しかし・・・
そんな中、一茶との間に3男1女をもうけた、あの若い奥さんがお亡くなりに・・・翌・62歳の文政七年に貰った、これまた28歳と若い2度目の奥さんとはソリが合わず、わずか3カ月のスピード離婚。

しかも、離婚した翌月、弟子宅にて、またもや中風がぶりかえし・・・
「ふと舌廻らぬやまひおこりて…」
と告白していらっしゃる事から、どうやら言語障害になっていたようで・・・

とは言え、これも何とか快復した一茶は、文政九年、64歳にして3度目の結婚を・・・またまたお若い32歳の新妻でしたが、

なんと、今度は、その翌年の6月に村を襲った大火によって、小林一家は焼け出されてしまうのです。

一旦は弟子宅に避難するも、何とか焼け残った自宅の土蔵を修理して住めるようにして、3ヶ月後の9月には自宅へと戻りました。

ちょうどその頃、
「先生!今、メッチャ菊が見頃でっせ!」
と弟子たちが誘うので、未だ、身体は思うように動かなかったものの、比較的元気だったので、駕籠に乗りつつ、アチラコチラの菊の名所を見物・・・

自宅の土蔵に戻った11月8日には、いかにも機嫌よくしていましたが、その11日後の文政十年(1827年)11月19日(西暦では1828年1月5日)、いきなり、気分が悪くなったと訴えます。

それは、あの雪道で転んだ時に起こって以来、3度目の中風の発作でした。

そして、その日の夕方・・・一声の念仏を唱えて後、一茶は、仮住まいの土蔵の中で、64年の生涯を閉じたのでした。

この時、すでに最初の奥さんとの間に生まれた子供は、すべてを幼くして亡くしてしまっていた一茶・・・新しい奥さんのお腹の中には、待望の赤ちゃんが宿っていましたが、一茶は、その子の顔を見る事なく、逝ってしまったのです。

ただ一つの救いは、一茶が亡くなった翌年に生まれた女の子は健やかに育ち、その子孫の方が、今現在も長野県信濃町にお住まいなのだとか・・・

また、一茶57歳の文政二年に成立した『おらが春』(12月29日参照>>)が、その死から25年後に読物として刊行される事となります。
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2015年11月 6日 (金)

滝沢馬琴の最期~嫁・路の献身

嘉永元年(1848年)11月6日、あの『南総里見八犬伝』の著者として有名な滝沢馬琴が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

この滝沢馬琴(たきざわばきん)さん・・・本名を滝沢興邦(おきくに)さんと言い、ペンネームが曲亭馬琴(きょくていばきん)ですが、実のところ、滝沢馬琴という呼び方は後世の人が本名とくっつけて勝手にそう呼ぶようになたのであって、ご本人は一度も使った事がないのだとか・・・

Takizawabakin600a そんな馬琴は、江戸・深川旗本屋敷の用人滝沢興義(おきよし)の三男として生まれ・・・と行きたいところですが、その生涯については、すでに9年前の2006年に、やはりご命日の本日=11月6日の日付で書かせていただいております(2006年11月6日のページ>>)

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とは言え、未だブログを始めて間もなくの記事という事で、アッサリし過ぎで書き足りない事山の如しなんですが、足りない部分の個々の出来事については、また、おいおい書かせていただく事として、本日は、やはりごご命日という事で、以前のページでは触れなかったその最期の姿にスポットを当ててお話させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

若い頃は放浪の日々を送ったりしていた馬琴ですが、30代に本格的に作家の道を歩み始めてからは、出世作となった『高尾船字文(たかおせんじもん)を皮切りに、、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』『月氷奇縁(げつひやうきえんなどの小説を精力的に発表しちゃぁ、次々とヒットを飛ばした事で、おそらくは金銭的には裕福だったと思われますが、

70歳を過ぎた頃から、老齢のためか?視力が衰えて来て、執筆期間=28年間にも渡る大作で天保十三年(1842年)に刊行に至った、あの『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)も、最後の方は、馬琴が声に出した物を、息子=宗伯(そうはく=天保六年(18356年)に死去)の嫁=みち(土岐村路)が書く・・・いわゆる口述筆記で、なんとか完成に至ったという経緯がありました。

なので、晩年の馬琴は、その、息子の嫁のみちや、その息子(=つまり孫)太郎に、古典作品や自らの著作物を読んでもらって、それを聴くという毎日でした。

そんなこんなの嘉永元年(1848年)・・・
この年の秋の訪れは非常に早く、すでに寒い日々が続いていた9月28日。

この日は馬琴の祖母の命日であった事から、(上記の通り、馬琴の息子はすでに亡くなっているので)家督を継いでいた孫の太郎が、一家を代表して菩提寺にお参りして供養を済ませましたが、帰り際に降り出した雨に当たったせいか、帰宅して間もなくに風邪の症状を見せ始め、熱を出して寝込んでしまいます。

翌日も、薄曇りの寒い日だったので、馬琴は火鉢を手放せない状態となって一日中火に当たっていましたが、夕方頃になると、逆にのぼせてしまって気分が悪く、胸に痛みを感じるように・・・

とは言え、寒さが苦手な馬琴にとっては、この体調不良と胸の痛みは、晩年になってからの毎冬の恒例行事・・・
寒いの苦手→一日中火鉢に当たる→のぼせる→気分悪くて胸痛い→くりかえし→
て事で、さほど気にもせず、いつもの置き薬を飲んで様子を見つつ、自身の『傾城水滸伝(けいせいすいこでん)みちに読んでもらいながら、ゆっくり過ごしておりました。

一方、気になるのは孫の太郎です。

2~3日経っても熱が下がらなかった事から、医師の診察を受けて、熱さましや葛根湯(かっこんとう)などの漢方薬で対処してもらっていましたが、その甲斐あってか、10月に入る頃には症状も軽くなり、10月7日には熱も下がり、このまま治っていくであろう様子・・・

ところが、太郎の様態とはうらはらに、この頃から、馬琴にぜんそくの発作が出始めるのです。

10月15日には苦しくて、横になるのもままならないようになり、馬琴はここで、ようやく医師の処方した薬を試してみますが、もはや厠へ行く事もできない状態に・・・

それでも、親戚がお見舞いに持って来てくれたブドウや、お粥、うどんなどはよく食べ、「ぜんそくに効く」と言われる鳩やショウガなんかも口にしますが、お察しの通り、これらの民間療法は即効性の無い物ですから、なかなか病状は快復しませんでした。

見かねたみちが
「医者を変えましょうか?」
と尋ねますが、馬琴は
「こんな年寄りに医師三昧の薬漬けはいらん」
と・・・

実は、馬琴には、医学の知識が、かなりあったんですね。

それは彼の母・・・以前、母親が亡くなった時に、「もっとしてやれた事があったんじゃないか?」という後悔の念にかられており、以来、医学を猛勉強・・・

今は亡き、息子の宗伯が医者になったのも、父=馬琴の強い願いがあったからとも言われています。

しかも、その関連からか、嫁のみちの実家も医者・・・

つまり、馬琴さんのお家は、医学や薬の知識を持ってる人だらけだったわけで、だからこそ、馬琴自身も、現在診てくれている医師が間違った処方をしていない事は充分知ってわけで、それなのに医者を代えても薬を代えても、結果は同じだという事を悟っていたのです。

11月5日、みちは、庭に生えている竹を切って竹瀝油(ちくれきゆ)を作りました。

これは、生の竹を火であぶって、その切り口から出た褐色の液を集めたもので、ぜんそくや肺炎、解熱作用などがある民間薬として飲まれている物でした。

その後、家の中に祀ってある観音様にお百度参りをして、舅の病の快復を祈願しましたが、夜になって馬琴の容態は、ますます悪くなりました。

「胸が痛い!」
と、のたうちまわるほど苦しみ・・・

たまに少し落ち着きますが、その落ち着きはすぐに終わって、また苦しみ・・・というのをくり返しながら、やがて日付けは嘉永元年(1848年)11月6日に・・・

その日の明け方頃、ついに馬琴は、この世を去ったのです。

享年=82歳・・・葬儀は、2日後の8日に盛大に行われ、参列者は350人にも上ったとの事・・・

物書きである馬琴さん・・・自身の事についても詳細な日記を綴っていた事から、その最期へと至る様子も見て来たかのように分かるわけですが、もちろん、その大いなる日記の最後の仕上げを行ったのは、舅の晩年に、その目となり手となって物書きのお手伝いをした嫁=みちさん・・・

まさにバトンタッチするように、馬琴最後の年となったこの嘉永元年(1848年)から書き始めた彼女の日記は、後に『路女日記(みちじょにっき)として刊行され、その生き方は貞女の鑑と評判になったという事です。

まぁ、あまりの舅×嫁に密着ぶりに、馬琴の奥さんは、かなりヤキモチを焼いていたようではありますが・・・
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2015年10月29日 (木)

初の国産改暦~渋川春海の『貞亨暦』

貞享元年(1684年)10月29日、渋川春海が作成した貞亨暦が採用される事が決定しました。

・・・・・・・・・・・・

以前【平安の大学者・三善清行の「辛酉革命」予言】(11月21日参照>>)のページでも書かせていただいたように、古来より、(こよみ)を司る事が天皇の権威の象徴であり、世を治めている証でありました。

上記のページは「改元」のお話でしたが、当然、そもそもの「暦(暦法)を作る」という事も重要だったわけですが、古い時代の日本では長きに渡って中国から輸入した暦をアレンジした物が採用されていました。

日本史の中で「暦」の事が最初に登場する文献は『日本書紀』・・・その欽明天皇十四年(553年)に百済(くだら=現在の朝鮮半島にあった国)から暦博士が来日して伝えたというのが初。

さらに・・・
同じく『日本書紀』に、推古天皇十年(602年)に、やはり百済の僧が来日し、彼から暦を伝授された学生がいる事、また、平安時代の書物の中に、「その伝えられた物が翌々年の正月から採用された」という記述があるので、推古天皇十二年(604年)から、日本で暦が使われ始めたとも言われますが、

様々な検証の末、やはり『日本書紀』の持統天皇四年十一月甲戌朔の甲甲の条(690年11月11日)にある「勅を奉りて始めて元嘉暦(げんかれき)と儀鳳暦(ぎほうれき)とを行ふ」という所から、実際にはこれが最初であろうとされます。

その後、文武天皇元年(697年)の儀鳳暦の単独採用、天平宝字八年(764年)に儀鳳暦廃止で大衍暦(たいえんれき)採用、天安二年(858年)の大衍暦と五紀暦(ごきれき)の併用、貞観四年(862年)の宣明暦(えんみょうれき)施行と、平安時代まで、けっこう頻繁に改正が続きますが、この間の暦の改正は、実際の天文事象の違いのズレを修復するための微調整的な感じで、しかも、それには輸入先の中国の事情も影響していたのですが・・・

しかし・・・
この古代最後の暦の改正=宣明暦施行となった貞観四年(862年)の後、ご存じの遣唐使廃止(9月14日参照>>)に代表されるように、日本は、少し中国と距離を置く事になったようで、以来、823年間という長きに渡って、暦が改正される事はありませんでした。
(中国の暦はこの間にも改正されています)

やがてやって来た江戸時代・・・

江戸時代には、今回の貞享元年(1684年)の貞亨暦(じょうきょうれき)を皮切りに、宝暦五年(1755年)の宝暦暦(ほうりゃくれき)、寛政十年(1798年)の寛政暦(かんせいれき)、天保十五年(1844年)の天保暦(てんぽうれき)と、4回の改暦が行われています。

ちなみに江戸時代最後の天保の後は、有名な明治六年(1873年)の太陽暦(ユリウス暦)への変更(11月9日参照>>)・・・その後、明治三十一年(1897年)ユリウス暦から、同じ太陽暦のグレゴリオ暦になって、今に至るわけですが、

律令国家が形成された奈良時代と、幕府政治が行われた江戸時代に何度も改暦が成されたにも関わらず、その間(=宣明暦)の800年以上に渡っては、まったく変更されなかったという事実は非常に興味深いところではあります。

そんな中でも、本日は、貞享元年(1684年)10月29日の日付けにて、改正される事が決定した貞亨暦について・・・

冒頭で書かせていただいたように、「暦を司る事が権威の象徴」であるとしたら・・・そうです!
あの関ヶ原(関ヶ原の年表>>)から80余年、大阪の陣の勝利宣言とも言える「元和偃武(げんなえんぶ)(7月7日参照>>)から70年・・・ここで、この暦の変更に江戸幕府が着手し始めたという事でもあるわけですが・・・

そのおおもととなったのは、あの保科正之(ほしなまさゆき)です。

正之は、第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠(とくがわひでただ)隠し子として(12月18日参照>>)、幼き頃は不遇の日々を送ったとされますが、わだかまりが解けた後は、第3代将軍=徳川家光(いえみつ)や4代=家綱(いえつな)を支える稀代の補佐役として初期の江戸幕府に尽くした人物(9月1日参照>>)です。

そんな、幕府の重鎮として暦の重要性を知る正之が白羽の矢をたてたのが、趣味である囲碁の師匠=初代・安井算哲(やすいさんてつ)の息子=渋川春海(しぶかわはるみ)でした。

幼い頃から、父を継ぐ2代目として碁打ちの才能を発揮し、その秀才ぶりを目にした正之は、春海に将来の改暦を担わせようと、早くから天文術を勉強させていたとも言われます。

そんな春海は、とある天文談義で知り合った山崎闇斎(やまざきあんさい)と意気投合・・・ちょうどその頃、すでに朱子学で名を馳せていた闇斎が垂加神道(すいかしんとう・しでますしんとう=朱子学と陰陽学と易学などを組み合わせた独自の神道)に大転換した事から、春海は闇斎の門下生となり、あの『日本書紀』に書かれた神武東征の日付け(2月11日参照>>)から続く、2300余年渡る干支を計算して表にまとめた『日本長暦』を作り上げます。

また、この闇斎のところで、同じ門下生だった土御門泰福(つちみかどやすとみ)と出会った事も、春海のレベルアップにつながりました。

「土御門」という名前でお察しの通り、泰福は平安の昔から天文学・暦学を受け継いでいる陰陽師(おんみょうじ)の家系・・・この頃の二人は、度々、天文学や暦算の勉強会を開いたりして切磋琢磨し、お互いの知識の交流を図っていたようです。

やがて正之が亡くなった翌年の寛文十三年(1674年)、春海は、将軍=家綱に宛てて改暦の上表書を捧げますが、その後、春海が予想した日食がハズレてしまったために、大老酒井忠清(さかいただきよ)「改暦無用論」を展開して猛反対し、一旦ここで、改暦の話は却下されてしまいます。

ところが・・・
延宝八年(1680年)、将軍家綱が死去・・・病弱な家綱に子供がいなかった事から、弟の綱吉(つなよし)が第5代江戸幕府将軍となり、この政権交代で忠清が失脚した(12月9日参照>>)事から、再び、改暦の話が持ち上がって来るのです。

なんせ、これまでの宣明暦と実際の天行とにズレがある事は周知の事実で、ここらあたりで全国的に統一された暦が必要な事は明らかでした。

そんなこんなの天和二年(1682年)、これまで陰陽師の支配を巡って、土御門家とはライバル関係にあった幸徳井家の当主が突如亡くなった事を受けて、泰福に陰陽頭の座が巡って来ます。

この時、時の霊元天皇(れいげんてんのう=112代)綸旨(りんじ=天皇家の命令書)にて、将軍綱吉が朱印状にて、土御門家の陰陽師支配を認めた事で、泰福は全国の陰陽師を編成し、陰陽道の復興に力を注ぐ事ができるようになったのです。

さらに翌・天和三年(1683年)には、春海が水戸の徳川光圀(みつくに=水戸の黄門様です)の命令によって制作していた天球図を綱吉に献上し、幕府内でも改暦の重要性が語られるようになります。

しかし、それでも、朝廷では、当時の(みん=中国)で使用されていた大統暦(たいとうれき)に改暦するつもりでいましたが、そこに「待った!」をかけて「日本独自の暦に…」と、自ら制作した大和暦の採用を願い出る春海と、それを後押しする陰陽頭・泰福・・・

そう、ここで春海と泰福は一致団結し・・・後の幕末でのワードを借りれば公武合体しての改暦事業を推し進めたのです。

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渋川春海の貞享暦(国立科学博物館蔵)

貞享元年(1684年)10月29日、春海が制作した大和暦は、元号の名をとって『貞亨暦』と名付けられ、天皇宣下のもと、その採用が決定します。

その2ヶ月後、幕府は寺社奉行のもとに天文方(てんもんかた=天文職)を設置し、春海は初代天文方に就任します。

そうです。
この貞亨暦への改暦は、日本初の国産の暦を採用という記念すべき出来事であるとともに、天皇宣下のもとで実施された幕府の事業として、両者のメンツをも守るという、まさに春海&泰福の友情の成せる、見事な改暦であったのです。

なんせ、この次の宝暦暦への改暦の時は、土御門VS天文方のドロドロ感満載の改暦になったようですから・・・

とにもかくにも、この貞亨改暦は、綱吉政権が行った最も重要な施策とも言える一大事業だった事は確かでしょう。
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2015年6月 9日 (火)

戦国の終わりとともに…福島正則の転落人生

元和五年(1619年)6月9日、江戸幕府が広島城無断修築の罪で福島正則を信濃川中島へ減封しました。

・・・・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の叔母の子として生まれたとされる福島正則(ふくしままさのり)は、その秀吉とは24歳も離れているとは言え、上記の通り従兄弟(いとこ)・・・18歳で小姓の一人として初参戦した播磨(はりま=兵庫県南西部)三木城の籠城戦(3月29日参照>>)以来、常に秀吉のそばにあり、その戦いぶりを見つめながら成長して来た武将でした。

Fukusimamasanori400a 秀吉の天下分け目の一つである山崎の合戦(6月13日参照>>)でも武功を挙げ、もう一つの天下分け目である賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(2011年4月21日参照>>)でも、「賤ヶ岳の七本槍」のうちの一人(2009年4月21日参照>>)に数えられるほどの大活躍をみせます。

すぐにカッとなる激情型で行動力のある性格は、水を得た魚のように、戦国という世を泳ぎやすかったのかも知れません。

しかし、そんなこんなの慶長三年(1598年)、これまで、彼の道しるべとなっていたであろう秀吉が亡くなり(8月9日参照>>)、真っ二つに分かれた豊臣家臣団の間で、あの関ヶ原の戦いが勃発します。

この時、東軍の大将である徳川家康(とくがわいえやす)最も警戒したのが、この正則だったと言います。

なんせ、その豊臣恩顧度はハンパないですから・・・

しかし、一方で、そのカッとなりやすい性格は、うまく扱えは強い味方ともなる・・・そう、正則は、この関ヶ原で家康に敵対していた石田三成(いしだみつなり)メチャメチャ仲が悪かったんですね。

戦場にて自らの手で武功を勝ち取って出世する武闘派の正則は、政権内で事務的な事が得意な文治派=三成を、どーも好きになれない・・・なんせ、秀吉が死んだ翌年には、三成襲撃事件(3月4日参照>>)も起こしてますから・・・

・・・で、この家臣同士の亀裂を利用して豊臣家内の反対派を一掃しようとする家康は、会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)に謀反の疑いあり(4月1日参照>>)と称して、軍勢を率いて東へと向かい、自分が留守の間に、三成が伏見城を攻撃した(8月1日参照>>)との報告が入るなり、会津征伐を取りやめて三成と一戦交えるためにUターンして戻るのですが・・・(7月24日参照>>)

その事を、率いていた軍勢に発表したのが「小山評定(おやまひょうじょう)と呼ばれる会議・・・なんせ、この時、家康が率いている軍団は、あくまで豊臣政権下の会津征伐軍であって、参加している武将のほとんどが自分の妻子たちを大坂に残して来ている状態ですから、(大坂にいる三成と戦うんやけど)このまま僕に着いて来てね」と家康が言っても、「ハイ、そうですか」と従ってくれるかどうかは微妙なわけです。

・・・で、家康は、この時、1番に警戒していた正則を、黒田長政(くろだながまさ)を通じて、その激情型の性格をくすぐるがごとく説得し、真っ先に味方につけたのです。

こうして、会議の席にて、「君ら、どーする?」と聞く家康に対し、いち早く手を挙げ、
「家康さんについて行きます!」
と宣言した正則・・・(7月25日参照>>)

最も豊臣恩顧の正則が手を挙げれば、当然、その場にいた豊臣恩顧の武将たちも、我も我もとこぞって手を挙げ、この小山評定の場にいた会津征伐軍は、ほぼそのまま、関ヶ原の東軍となります(当然ですが、全員ではなく、ここで袂を分かった武将もいます)

こうして、関ヶ原へ向かう一連の戦いを駆け抜け(そのあたりは【関ヶ原の年表】で>>)本番の関ヶ原でも率先して大活躍した正則は、関ヶ原戦前の清州24万石から、戦後は、安芸・備後2ヶ国49万石の大出世を果たし、西軍総大将だった毛利輝元(もうりてるもと)(9月28日参照>>)の抑えとして、あの広島城に入ったのです。

この前年には、後継ぎである養子=福島正之(ふくしままさゆき=正則の甥)に、家康の養女=満天姫(まてひめ=家康の姪)を娶っていて、まさに、徳川政権内でノリノリ状態に・・・(正之が亡くなった後も徳川との縁が切れるのを嫌がって、満天姫をそのまま、実子の福島忠勝(ふくしまただかつ)の嫁とした説あり)

とは言え、一方では、やはり豊臣に対しての忠誠心も強く、家康が、秀吉の遺児=豊臣秀頼(とよとみひでより)と面会した二条城での会見の時には、かの加藤清正(かとうきよまさ)らとともに、イザという時には豊臣とともに命を捨てる覚悟のカッコイイ逸話(3月28日参照>>)も残してくれています。

まぁ、かなりの酒豪で、お酒による失敗の逸話も残してくれていますが・・・(6月6日の後半部分参照>>)

しかし、それも・・・やがて、清正をはじめとする豊臣恩顧の武将が次々と世を去る(6月24日参照>>)のにともなって、正則の価値が大暴落していくのです。

もはや遠慮なく、正則への警戒を露わにし始めた家康は、大坂の陣の時には正則を江戸留守居役とし、息子の忠勝だけが参戦・・・そして慶長二十年(1615年)5月、豊臣は滅亡(5月8日参照>>)、天下は徳川の物となりますが、そんなこんなで元号が変わった元和三年(1617年)、広島城が大水害に見舞われるのです。

太田川のデルタ地帯に建つ広島城は、三の丸まで浸水し、石垣や櫓まで崩れてしまうという膨大な被害となりました。

早速、正則は、城修復の許可願いを提出します。

なんせ、未だ天下を平定したばかりの徳川幕府は、慶長二十年(1615年)7月に発布した「武家諸法度(ぶけしょはっと)(7月7日参照>>)で、諸大名の行動を厳しく制限していて、幕府の許可なくしては、城に釘1本打ってはいけない状況だったですから・・・

ところが、待てど暮らせど、その許可が下りず・・・このままでは、城そのものが倒れかねない状況となり、やむなく正則は、城下町の堤防1m高くし、壊れた石垣をチョコッと修復しちゃいます。

・・・が、お察しの通り、そこを
「待ってました~」
とばかりに追及したのが、亡き家康の後を継いだ第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠(ひでただ)

慌てて修理した部分を破却して弁明する正則でしたが、破却が不十分だとして、元和五年(1619年)6月9日安芸・備後の領地を没収され、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5千石に減封・転封されてしまったのです。

引越し後、正則が忠勝に家督を譲って隠居して出家した事で、何とか福島家は生き残る事となりましたが、もはや、以前の姿は見る影もありません。

『名将言行録(めいしょうげんこうろく)には、この時の正則の心境が語られています。

「弓ってな…合戦の時にはメッチャ役立つ武器やん。
けど、合戦の無い時は袋に収まって蔵に保管される。
俺って弓やな。。。
不要になったら、川中島の蔵に入れられるんや」

この5年後の寛永元年(1624年)、正則は64歳の生涯を閉じます。

戦国に生まれた比類無き猛将は、平和な世の訪れとともに、暗い土蔵の中に身を投じる事となったのです。

おそらく、彼こそが、家康&秀忠の父子2代が最後の最後まで警戒した豊臣の武将だったのかも知れません。
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2015年4月17日 (金)

学者大名~福知山藩主・朽木昌綱

 

享和二年(1802年)4月17日、福知山藩第8代藩主で蘭学者でもあった朽木昌綱がこの世を去りました。

・・・・・・・・

第6代福知山藩主朽木綱貞(つなさだ)の長男として江戸藩邸にて生まれた朽木昌綱(くつきまさつな)は、幼い頃から、何か一つ気になる事があると、トコトン夢中になる性格だったと言います。

そんな昌綱が13歳の頃に出会ったのが、当時、大ブームとなっていた古銭の収集でした。

最初の頃は、ちょうど、江戸幕府が新貨幣増発制作を打ち出した時期でもあった頃から、ブームに乗っかって五匁(もんめ)四文銭など、身近な貨幣を収集していた昌綱少年でしたが、やがてそれが清国(中国)オランダの銭貨へ、さらにオランダを通じて入って来るヨーロッパの貨幣へと広がって行くうち、日本のソレとは違った雰囲気を放つ不思議な貨幣を造る、その外国そのものへと興味が湧いて来るようになるのです。

そんなこんなの安永元年(1772年)・・・23歳になっていた昌綱は、その前の年に、江戸は小塚原の刑場で行われた死刑囚の腑分け(解剖)の現場で意気投合した小浜藩の医者=杉田玄白(げんぱく)と中津藩の医者=前野良沢(りょうたく)『ターヘル・アナトミア(ドイツの医学書『解剖学図譜』をオランダ語に訳した物)翻訳作業に取り掛かるというニュース(3月4日参照>>)を聞き付け、そのチームに身を投じるのでした。

もとより、何事にも夢中になる少年時代の性格は、今もなお健在でしたから、これは、決して藩主おぼっちゃまの気まぐれなどでは無く、一大決心の真剣勝負・・・

外国に興味を以って以来、漢文で書かれた様々な地理に関する書物を読みながらも、「本当に西洋の事を知るためには、自分自身で洋書を読めるようになければ!」という思いからの行動でした。

なんせ、このチームのメンバーは、いずれも天下の逸材と呼ばれる人々ですから・・・

そんな中で、語学とともに地理研究を続けていた昌綱は、彼に最も影響を与える人物に出会います。

それが、当時、長崎の出島にてオランダ東インド会社商館長(カピタン)だったオランダ人外科医で学者でもあるイサーク・チチング(ティチング・ティツィング)でした。

日本を研究したいチチングと西洋を研究したい昌綱・・・現在、石川県立図書館に所蔵されるニコラ・サンソン編『新世界地図帳(ATLAS NOUVEAV=1692年パリ刊)は、安永九年(1780年)にチチングが初めて江戸にやって来た時に、昌綱にプレゼントした物だそうです。

これに代表されるように、チチングと昌綱は、お互いが持っている物を見せ合ったり、疑問に思っている事を質問しては答えたり・・・と、いつしか二人は、師弟とも友人とも言える交流を持つようになったようです。

なんせ、当時は、いくら欲しても、入手できる洋書の数は知れた物ですから、昌綱にとってのチチングは、まさに生きた辞書・・・言い方悪いですが、これほど便利な図書館はありません。

Kutukimasatunategami700a 二人の関係はチチングが日本を去った後も続けられ、昌綱のチチングに宛てたオランダ語の手紙も残っているそうです。

もちろん、昌綱の地理研究は、このチチングを得た事で、より本格的に進んで行きますが、それは、38歳で第8代福知山藩主となった後も続けられ、やがて寛政元年(1789年)、20年余りの彼の研究の集大成とも言える『泰西輿地図説(たいせいよちずせつ)』の刊行に至ったのです。

これは、第1巻のヨーロッパ総論に始まり、2巻~14巻は各国の地誌、15巻~17巻は地図や都市図を記した物なのですが、実はこれが、当時として珍しい仮名まじりの文章・・・

この時代のいわゆる学者さんが、学術的に高い専門書のような物を執筆する時は、漢文で書くのが一般的でしたが、昌綱は、誰にでも読みやすく、一般人でもたやすく理解できるように細心の注意を払って、この書を書いたのです。

残念ながら原本は残っていないようなのですが、別の物に転載された一部の記述を見てみると・・・
「『ウェストミュンステル』ノ殿閣ハ古ヘハ是モ王の居處ナリシカ今ハ會儀堂トナリテ國中ノ諸官人集リテ政事ヲ儀スルノ役所トナセリ…」
て・・・これってイギリスはロンドンの・・・あの「ウェストミンスター宮殿=ビッグベンは、現在では国会が開かれる場所ですヨ」って事ですよね?
今でも、わかりやすいです。

おかげで、この『泰西輿地図説』は、西洋地誌の権威書として長く珍重される事になります。

また、この昌綱さんは、自らが勉学に励むだけでは無く、蘭学者たちのパトロンであった事も知られています。

たとえば・・・
一流の蘭学者&医者として知られる大槻玄沢(おおつきげんたく)(3月30日参照>>)・・・実は、同じ「チーム解体新書」のよしみから、彼の長崎進学の資金を提供したのが、この昌綱さん・・・

彼がいなければ、玄沢の遊学も道半ばで終わってしまっていたかも知れないわけで、そういう意味でも、昌綱は蘭学の発展に尽くした人と言えるのです。

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寛政十二年(1800年)、50歳を超えた昌綱は、養子の倫綱(ともつな)に家督を譲って隠居した後、江戸へと戻ってわずか2年の享和二年(1802年)4月17日53歳の生涯を閉じます。

禅の道にも精通し、茶道の世界でも、山水画も一流だった昌綱さん・・・

とにもかくにも、これだけの才能を持ち、常に努力して実行した大名は、他にはいないわけで、もう少し知名度があって良いのでは?と思う歴史人物の一人ですね。
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2015年1月19日 (月)

海内一流の人物~荻生徂徠の死

 

享保十三年(1728年)1月19日、独自の思想『古文辞学』を提唱した江戸中期の儒学者・荻生徂徠が63歳で死去しました。

・・・・・・・・・・

寛文六年(1666年)は江戸に、医者の息子として生まれた荻生徂徠(おぎゅうそらい)でしたが、14歳の時に、父の失脚により、しばらくの間、母の実家にて不遇の日々を送りました。

『近世大儒列伝』によれば、その時に、父の荷物の中から、以前に父が書き移していた『大学諺解(げんかい=林羅山著)』を見つけ、これを必死に読みはじめたのが、学問に目覚めたキッカケだとの事・・・

Ogyusorai600 以来、様々な本を読みふけり、独学で以って学問を究めていく徂徠は、元禄五年(1692年)の27歳の時に、父が許された事から江戸へと戻り、再び学問に励みながら、芝増上寺の近くに塾を開いて、わずかながらの生活費を稼ぐようになりますが、これが、なかなかの貧乏生活・・・

この極貧生活を見るに見かねたのが、増上寺の門前にて豆腐屋を営んでいたご主人・・・

「余り物だから…」
「どうせ、捨てる物だから…」

と、毎日、豆腐粕(おから)を徂徠のもとに届けでくれたのです。

やがて、何とか幕府に召し抱えられた徂徠は、まず、その豆腐屋に礼を尽くすべく、少ない給料の中から、お米3升を買い、毎月、かの豆腐屋に贈ったのだとか・・・

ご存じの方も多いと思いますが、これが『徂徠豆腐』という落語や講談の元となったお話です。(もちろん、落語や講談は少しアレンジされてますが…)

・・・で、この美談を耳にしたのが、時の将軍=徳川綱吉(とくがわつなよし)側用人だった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)(11月2日参照>>)・・・

元禄九年(1696年)、吉保は徂徠を書記に大抜擢するのですが、ここで、発揮されるのが、これまで頑張りに頑張りぬいて来た学問です。

柳沢邸にて講義をしたり、次々と浴びせられる政治の質問にも適格に応える徂徠に、徐々に周囲も信頼を置くようになり、やがて将軍=綱吉も彼に理解を示すようになります。

『先哲像伝(せんてつどうぜん)によれば、やはり徂徠に教えを請うていたあの名奉行の大岡忠相(おおおかただすけ=大岡越前守)をして、
「博識洽聞(はくしきこうぶん)知らざる所無し」
と言わせたとか・・・

そんな中で先ほどの落語『徂徠豆腐』とともに有名な逸話として知られるのは、元禄十五年(1702年)12月に起きた「元禄赤穂事件」(12月14日参照>>)との関わり・・・

実は、史実として起きた出来事を呼ぶ場合は「元禄赤穂事件」、物語として流布している物を指す場合は(仮名手本)忠臣蔵」と使い分けがされている事で解るように、実際の討ち入りと、それをモデルにしたお芝居やドラマは、あちらこちらが違っているわけですが、現在1番有名な『仮名手本忠臣蔵』こそ、事件があってから50年後に初上演となっているものの、早い物は討ち入り前に、討ち入り後はその3ヶ月後の翌年の2月に複数の、赤穂事件関連のお芝居が上演されています(8月14日参照>>)

つまり赤穂事件は、その事件があった直後から一般市民にも知れ渡るほどの話題になっていたわけで・・・しかも、それらの多くは、「曽我兄弟の仇打ち」(5月28日参照>>)になぞらえたりしての仇打ち賛美で、また、討ち入りした彼らも、「忠臣」「義士」と呼ばれていて、その呼び名でお察しの通り、庶民はもちろん、多くの知識人たちもが、彼らを擁護し、助命論を展開していたのです。

しかし、そんな中で、徂徠は幕府の質問に答える形で、あえて「切腹」を主張します。

「義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也」
つまり、義理人情でいくと、主君の無念を晴らした彼ら赤穂浪士の行為はワカランでもないが、法のもとでは明らかに罪人である・・・と、

さらに付け加えて・・・
そもそも、江戸城内での刃傷事件(3月14日参照>>)に関しては、その後に幕府の沙汰が執行されているわけで、そこを、幕府の許可無しに騒動を起こした事は許されない事。 

情に流された私論で以って公論を曲げるような事になったら、天下の法は成り立たなくなる。 

その代わり、罪人=処刑とするところを、武士の礼を以って切腹とすれば、彼らの忠義も軽んじた事にはならない。
・・・と、

私としては見事なお答えのように思います。

・・・で、結果的に、赤穂浪士の面々は、徂徠の意見の通りに切腹となる(2月4日参照>>)のですが、かの落語の『徂徠豆腐』では、恩返しに来た徂徠に対して、豆腐屋が
「義士を切腹させたヤツのお礼は受けたくない!」
てな事を言う場面がありますので、この事が、一部の義士ファンからの反感をかっていたかも知れません。

「反感をかう」と言えば、徂徠が、後世の解釈をつけず論語などの経典を研究する『古文辞学(こぶんじがく)の開祖的立場だった事から、当時の主流だった朱子学(しゅしがく)を、「憶測にう基づく虚説」痛烈批判した事で、朱子学者から反感を持たれていた事も確か・・・

やがて、綱吉が亡くなって柳沢吉保が失脚してからは、柳沢邸を出て、日本橋茅場町にて私塾・蘐園塾(けんえんじゅく)を開いて、多くの弟子たちを育て、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)にも助言する立場にあった徂徠でしたが、

享保十三年(1728年)1月19日に、彼が63歳で死去した後には、対立していた朱子学者側から、「尋常な死に方では無かった」とか、「幕府の命で徂徠の遺体は島流しにされた」とかの、あらぬ噂を流されたうえに、徂徠の墓を巡って、「誰が主導権そ握るか」弟子同士が対立して、一門がバラバラになってしまったようで・・・何とも悲しい雰囲気ですが、

しかし、一方では、死に臨んだ徂徠の最期の言葉として
「海内一流の人物、物茂卿(ぶつもけい)将に命を隕(おと)さんとす。天、為めに此の世界をして銀ならしむ」

その日、江戸に大雪が降った事を受けて、
「一流の俺が死ぬから、神さんが銀世界にしはったんやで!」
との豪快な言葉を残したという事も伝えられていますので、徂徠自身は、大いに満足のいく人生だったのかも知れませんね。
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2014年12月 9日 (火)

仙石騒動に散った仙石左京

天保六年(1835年)12月9日、江戸時代後期の出石藩を揺るがした仙石騒動の中心人物である仙石左京が処刑されました。

・・・・・・・・・

江戸時代を通じて、いくつか起こっていたお家騒動ですが、その中の『三大お家騒動』と言えば、これまで、
「黒田騒動」(3月2日参照>>)
「伊達騒動」(3月27日参照>>)
「加賀騒動」(6月26日参照>>)
と、ご紹介させていただいていますが、上記の「加賀騒動」に入れ換わって三大お家騒動の一つに数えられる事があるのが、今回の仙石騒動・・・

仙石家と言えば、清和源氏の流れをくむ土岐氏の一族で、戦国時代には、あの仙石秀久(せんごくひでひさ)(9月18日参照>>)が登場し、乱世の中を美濃(岐阜県)斉藤から、豊臣秀吉徳川家康と渡り歩いて生き残り、元禄時代(1688年~1704年)に、それまで藩主を務めていた小出家が廃絶になったのを受けて、信濃国(長野県)上田藩の第3代藩主=仙石政明(せんごくまさあきら)が出石に入って以来、代々、但馬国(兵庫県北部)出石(いずし)の藩主を務めていました。

しかし、第6代藩主となった仙石政美(まさよし・まさみつの時代になると、これまで積み重ねて来た借金が約6万両ほどにも膨れ上がり、藩の財政はかなり窮地に立たされていたのです。

こういう場合、財政立て直しの策としては、大きく分けて、地場産業を盛り上げたり、人事を見直して人件費を削るという改革案と、質素倹約を徹底するという保守に分かれる物ですが、この出石藩もご多分にもれず、藩内では改革派と保守派がしのぎを削っていたわけです。

そんな中で、未だ若き25歳の藩主=政美は、改革派の政策を指示し、改革派のリーダー的存在であった筆頭家老の仙石左京(さきょう=久寿)を登用し、財政改革に当たらせました。

しかし、なかなか思うような成果があげられない・・・で、結局、政美は、左京の政策を一旦停止させて、一時失脚していた保守派のリーダー的存在=仙石造酒(みき=久恒)復権させて政務に当たらせたのです。

とは言え、この時点では、改革派VS保守派の派閥争いはあったものの、騒動というほどの物では無かったのですが・・・

ところが、そんなこんなの文政七年(1824年)、参勤交代で江戸へ向かった政美が、その途中で病にかかり、江戸に到着した直後、28歳の若さで亡くなってしまうのです。

未だ若き藩主であったため、その後を継ぐべき男子がおらず・・・急きょ、隠居していた先代藩主の仙石久道(ひさみち=政美の父)は、後継者を選定すべく、江戸にて会議を開く事にします。

この時、会議出席のために国許から江戸にやって来た左京が、息子の小太郎を連れて来ていた事から、藩内では「左京は、小太郎を後継者に推して藩を乗っ取るつもりでは?」との憶測も流れましたが、結局、議場では波風立つ事無く、亡き政美の弟(久道の十二男)である久利(ひさとし)を政美の養子として、後継者に据える事と決定しました。

その後も、久利が第7代藩主になったとは言え、藩の方針としては、亡き政美を継ぐ形でしたから、今まで通り、左京の政策は廃止されたままで、藩政の実権は、相変わらず保守である造酒派は握っていたわけですが・・・

ところが、今度は、その造酒派内で、造酒の弟と側近による派閥争いが勃発し、それは乱闘騒ぎまで引き起こす事に・・・

そうなると、当然、その責任を追及され、造酒派は失脚し、造酒自身も隠居させられ、京が、藩政の中心に返り咲く事となったのです。

ここぞとばかりにその手腕を発揮する左京・・・やがて、わずかに残っていた造酒派も失脚し、もはや、左京の独壇場となって、藩政の最高権力者に上った天保二年(1831年)、左京は、息子=小太郎の嫁に、江戸幕府の筆頭老中である松平康任(まつだいらやすとう)の姪を娶るという最盛期を迎えます。

そうなると、再び浮上するあの噂・・・かの会議の時に起こった「左京は、小太郎を後継者に推して藩を乗っ取るつもりでは?」という憶測が、再び乱れ飛ぶ事となり、造酒派が何度となく、その状況を先々代藩主の久道に訴えたりなんぞしますが、それ以上、何かが動く事はありませんでした。

しかし天保六年(1835年)・・・ここに来て、出石藩の騒動が幕府の知るところとなり、さらに幕府内の権力争いが、この騒動の上に圧し掛かって来るのです。

そう、小太郎が松平康任の姪を嫁にした事が仇となりました。

筆頭老中の松平康任を追い落としたい寺社奉行の脇坂安董(わきさかやすただ)と老中の水野忠邦(みずのただくに)、「仙石家の乗っ取りを画策している左京に康任が加担している」と、将軍の徳川家斉(とくがわいえなり)に報告したのです。

雲行きが怪しくなった康任は、病気と称して自ら老中を辞任しますが、尋問の結果、康任が左京から賄賂を受け取っていた事実も暴かれ、隠居ならびに蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)の命令が下りました。

騒動の中心人物であった左京は獄門を言い渡され、天保六年(1835年)12月9日、江戸鈴が森にて処刑され、その首はさらし首に・・・左京の息子の小太郎は八丈島への遠島となり、以下、30人ほどの藩士が断罪されたと言います。

また、藩主の久利には、お咎めこそ無かったものの、出石藩は5万8千石から3万石に減封に・・・こうして、何とか、この仙石騒動は一件落着となりました。

しかし、聞くところによれば、その後も両派閥にしこりが残り、この先30年ほどは、藩内の政争が絶えなかったのだとか・・・

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出石城跡

やがて、この騒動は、講談やお芝居の恰好の題材となった事から、仙石左京は「お家乗っ取りを企んだ極悪人」として広く知られる事になりますが、他のお家騒動同様、実際には、誰が悪人かは、一概に決めつけられないものです。

出石では、左京は頭脳明晰で多才、藩政改革に努力した人として伝えられており、ここまでの隆盛を誇ったワリには、事件後に開け渡された屋敷の中には、贅沢な衣装や宝物などはほとんどなく、意外に質素な生活をしていたらしいという話も残っているとの事・・・

残念ではありますが、その真相は、関係者のみそ知る・・・という事になります。
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