2020年6月11日 (木)

弘前藩・津軽家を支えた家老=兼平綱則

 

寛永二年(1625年)6月11日、戦国から江戸初期にかけて津軽家を支えた兼平綱則が死去しました。

・・・・・・・

兼平綱則(かねひらつなのり)は、陸奥(むつ)北部の津軽(つがる=青森県西部)地方を支配した津軽大浦(つがつおおうら)大浦為則(おおうらためのり)、その養子の津軽為信(つがるためのぶ=大浦為信)、さらにその息子の津軽信枚(のぶひら)3代に仕えた重臣で、 小笠原信浄(おがさわらのぶきよ)森岡信元(もりおかのぶもと)とともに「大浦三老」と呼ばれて、その軍事や政事に貢献しました。

その中でも大きな功績は、大浦為則から津軽為信へのお代替わりの時・・・

Tugarutamenobu500 南部(なんぶ)一族の久慈治義(くじはるよし)の次男だったとも、大浦為則の弟の子(つまり甥っ子)とも言われる津軽為信(当時は大浦為信)ですが、

一説には、 津軽為信は、上記のいずれかの後妻の子で、先妻の子供からヒドイ虐待を受けたため、母子ともども大浦為則を頼って保護してもらっていたところ、為則の娘である阿保良(おうら=戌姫)と恋仲になったのだとか・・・

とは言え、そんな美しいロマンスがあったかどうかは微妙なところです。

なんせ、この大浦為則さん・・・陸奥大浦城(おおうらじょう=青森県弘前市)の城主でありましたが、生来、体が弱く病気がちで、政務はほとんど家臣に任せていたらしい中で、為則が後継者に恵まれなかったとして、降ってわいた阿保良姫の恋の話から婿養子として為信が入って家督を継いだという事になってるのですが・・・

実は為則さんには、男子が6人もいたらしい・・・もちろん、この時代ですから、6人の男子がいたとしても全員無事成人するとは限らないし、成人しても後継者に相応しく無い場合もありますが、後々、この6人のうちの二人(つまり阿保良姫の弟2人)が川遊び中に溺死してしまう所なんか、何らかのお家騒動があった感が拭えません。

どうやら、為信の武将としての器量を見抜いていた兼平綱則らが、為信婿入りの一件を強く推し、各方面に十分な根回しをして擁立に成功し・・という感じのようですが、この後、この為信が、江戸時代を通じての弘前藩の祖となった事を見る限り、兼平綱則ら重臣の思いは正しかったような気がします。(津軽為信については12月5日参照>>)

とにもかくにも、こうして大浦家を継いだ為信は大浦姓から津軽姓に変え、その領地を拡大しつつ、奥州南部氏の家臣という立場からの脱却=独立に向けて動き出すのですが、もちろん、その戦いに兼平綱則は従軍して大いに活躍します。

なんせ兼平綱則は重臣ですから、その役割も津軽軍団全体の統率や直轄部隊の采配など多岐にわたります。

主家である南部氏の後継者争いのゴタゴタのスキを突いて、天正十七年(1589年)には、津軽地方にあった南部氏の諸城を津軽為信がほぼ制圧してしまいますが、そこには常に軍師として従う兼平綱則がいたのです。

また兼平綱則は外交交渉にも長けていたと言われ、翌年の天正十八年(1590年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(12月10日参照>>)の際にも、兼平綱則は水面下で奔走し、その生き残りを図ったのだとか・・・

そうです。。。先の津軽為信さんのページ>>にも書かせていただきましたが、この時、秀吉は東北の武将にも、この小田原征伐に参戦するよう大号令をかけますが、この時、東北の多くの武将が迷う中、津軽為信は、取る者もとりあえず、わずか18名の手勢を連れて真っ先に駆け付けて、未だ小田原に向かっている途中の秀吉に謁見・・・

人数こそ少ないものの、最も遠い津軽から、いち早くやって来た彼らに感動した秀吉は、為信に「津軽三郡、会わせ浦一円の所領安堵」=合計3万石の領地を認めた朱印状を与えるのです。

天下人から認めてもらった津軽の地・・・ここで完全に南部氏からの独立を果たしたわけです。

ま、おかげで、宗家の南部氏からは「勝手に独立した裏切者」とみなされ、両者の間に生まれた確執が消える事は無かったみたいですが・・・

やがて、秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦いでは、為信嫡男の津軽信建(のぶたけ)豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の小姓として大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に詰める一方で、父=為信は三男の津軽信枚(のぶひら)とともに東軍として参戦=どっちか生き残り作戦(【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事】のページ参照>>)で、見事やり過ごしました。

慶長十二年(1607年)には、為信と信建がたった2ヶ月の間に病死してしまった事から、信建の息子と信枚の間で後継者争いが生じますが、何とか信枚を後継者とする事で収まりました。

その後、慶長十九年(1614年)に兼平綱則は現役を引退しますが、元和五年(1619年)に幕府から津軽信枚の信濃国川中島藩(かわなかじまはん=長野県長野市松代町→後の松代藩)への転封(てんぽう=国替え・引越)通告が出た際には、いち早く登城して主君=信枚の基にはせ参じて皆を集め、転封反対の大演説を行ったのだとか・・・

彼の見事な演説によって一門&家臣の心が一つになり、一致団結した反対運動を起こします。

おそらくは、やみくもに反対するばかりではなく、お得意の根回しや水面下での色々もやってのけたんでしょうね~
いつしか、その転封の話は無かった事に・・・

それから数年後の寛永二年(1625年)6月11日兼平綱則は、その生涯を閉じました。

お家騒動やら何やらありながらも、江戸時代を通じて存続し、無事、明治維新を迎える弘前藩(ひろさきはん=青森県弘前市)・・・その初代藩主の津軽為信は、独立して一代で大名となった事から
『天運時至り 武将其の器に中(あた)らせ給う』(津軽一統志より)
(独立の)チャンス到来!その力を持つ武将が登場した」
と称され、今でも地元の英雄として親しまれているそうですが、

そこには、先手必勝で主君の前を駆け抜け、その舞台を整えた兼平綱則の姿もあったのです。
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2020年5月20日 (水)

江戸幕府の基礎固め~家康のブレーンで足利学校の校長・閑室元佶

 

慶長十七年(1612年)5月20日、戦国の終りから江戸時代初めに活躍した軍師=閑室元佶が死去しました。

・・・・・・・

閑室元佶(かんしつ げんきつ)は、あの関ヶ原の開戦の日取りを決めた軍配者的軍師として知られる僧・・・別号が三要でもあるので三要元佶(さんようげんきつ)とも、後に京都の円光寺(えんこうじ=現在は京都市左京区)を開山する事から円光寺元佶(えんこうじげんきつ)とも呼ばれます。

その生まれは肥前(ひぜん=佐賀県)で、父は、晴気城(はるけじょう=佐賀県小城市小城町)主の千葉胤連(ちばたねつら)で、その愛妾が野辺田伝之助に嫁いでから生まれたというご落胤説もありますが、一般的にはその野辺田伝之助の実子とされてます。

幼い頃に京に上り、円通寺(えんつうじ=京都市左京区岩倉)にて出家して勉学に励んだ後、京都の南禅寺(なんぜんじ=京都市左京区)を経て足利学校(あしかががっこう=現在の栃木県足利市にあった平安か鎌倉時代に創設されたとされる中世の高等教育機関)の9代目庠主(しょうしゅ=校長)となり、足利学校の中興の祖と称されます。

というのは・・・
上記の通り平安か鎌倉の時代に創立した足利学校も、幾度かの政権交代での浮き沈みがあったわけですが、

室町時代に衰退していたのを、その後の室町後半=戦国の時代に関東管領(かんとうかんれい=将軍の代わりに関東を支配する鎌倉公方の補佐役)だった上杉憲実(うえすぎのりざね)が再興し、さらに、その後に関東を牛耳る事になった北条氏政(ほうじょううじまさ)が支援していた頃には、あのフランシスコ・ザビエル「日本一のアカデミー」と称するほどだったものの、

その北条が、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(おだわらせいばつ)(7月5日参照>>)で滅びた後に、所領も奪われ、さらに古典モノが大好きだった秀吉の甥っ子=豊臣秀次(ひでつぐ)が足利学校の蔵書を大量に持ち出そうとした事があったようで・・・

その時にそれを阻止したのが徳川家康(とくがわいえやす)・・・で、この時に家康に働きかけたのが閑室元佶だったらしく、無事、蔵書が守られたと同時に、この時の交渉の際のアレやコレやで、家康と元佶の間には、かなりの信頼関係が生まれたのだとか・・・

つまり、ここから徳川の支援を受ける事になって、足利学校は再び繁栄期を迎える事になるので、元佶は足利学校の中興の祖という事になるわけです。

もちろん、ここで家康と親しくなった元佶は、吉凶を占ったりする僧としての役割だけでなく、足利学校の長としての知識をフル活用して、軍師的な役割も担い、家康のブレーンの一人に数えられるようになります。

「関ヶ原御出陣の節 日取 御吉凶等考差上之也」
と、関ヶ原における開戦の日取りや家康の動向も元佶がアドバイス・・・ご存知のように、その結果は見事に家康の勝利でした。

Nabesimakatusige700a また、この関ヶ原では、自らの故郷である肥前の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が、始め西軍として参加した(10月20日参照>>)事で、戦後に窮地に立たされるのですが、すかさず家康に働きかけた元佶の尽力により、無事、改易を回避したのだとか・・・

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この同じ年(慶長五年=1600年)に南禅寺の住持(じゅうじ=寺主)となりますが、家康の希望もあって開幕したばかりの江戸幕府の政治にも関与する事になります。

具体的には、板倉勝重(いたくらかつしげ)金地院崇伝(こんちいんすうでん=以心崇伝)らととも寺院の訴訟に関する事務的処理=いわゆる寺社奉行(じしゃぶぎょう)のような職務をこなしたり、

慶長十二年(1607年)に亡くなった相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)西笑承兌(せいしょうじょうたい)の後を引き継いで、朱印状(しゅいんじょう=海外渡航許可証)の発行や、それを携帯する朱印船(しゅいんせん=海外交易を行う船)の管理などの役割をこなしています。

さらに元佶は、やはり家康の肝いりで京都の伏見(ふしみ=京都市伏見区)足利学校の分校(伏見学校)を開設して、自らの持てる知識を後輩に与えて軍配者的軍師や軍医などの育成を考えてカリキュラムを組み、多くの人材を輩出するのですが、

やがて彼の思いとはうらはらに、江戸時代という平和が訪れた日本では、軍事よりも平時の事務的役割が重用されるようになった事から、結局は、伏見学校も、そして本家の足利学校も、日本の最高学府というよりは地元の人が学ぶ場所、あるいは豊富な蔵書を持つ図書館のような存在になっていったようです。

一方、その伏見学校の開校と同時に、その敷地の一角に円光寺を開山した元佶は、これまでは人の手によって書き写して残していた仏典や古書などを活版印刷で活字化して出版します。

それは、『孔子家語(こうしけご=『論語』に漏れた孔子説話)『六韜(りくとう=中国の兵法書)にはじまり、『貞観政要(じょうがんせいよう=中国唐の太宗の言行録)』『吾妻鏡(あづまかがみ=鎌倉幕府公式の歴史書)などなど・・・

これらは円光寺版(伏見版)と呼ばれ、この先、江戸時代を通じて日本人の文化&教育の水準が世界最高水準に導かれる事の第1段階となるわけです。

晩年には、例の関ヶ原での一件を感謝した鍋島家から、出身地の佐賀県小城市(おぎし)に寺領120石を寄進され、そこに三岳寺(さんがくじ)を開山しました。

それからほどない慶長十七年(1612年)5月20日閑室元佶は、この世を去ります。

同じ家康のブレーンとして、逆らう者には容赦なく鉄槌を加えた金地院崇伝(1月20日参照>>)とは違い、

どちらかと言えば穏やかで地味なブレーンではありましたが、江戸幕府初期の基礎固めに関与したその功績は大きく、まさに縁の下の力持ちという人だったのです。
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2020年1月23日 (木)

徳川幕府の初期を支えた学者~林羅山の最期

 

明暦三年(1657年)1月23日、徳川幕府初期の4代の将軍に仕えた学者・林羅山が死去しました。

・・・・・・・

林羅山(はやしらざん)は、加賀(かが=石川県南西部)の国の武士の末裔と言われる林信時(のぶとき)の長子として天正十一年(1583年)に京都の四条にて生まれたとされますが、当時、父が病弱で働けず、かなりの貧乏生活だったらしい・・・

Hayasirazan600a そんな中、父がある人から「鐘の銘文を書いてほしい」と頼まれたものの、病気のために思うように事が進んでしなかったところ、見かねた羅山がサラッと書いて見せ、それが見事な銘文だった事で周囲は大いに驚いたのだとか・・・これが羅山7歳の時。

さらに8歳の時は、となりで、とある武士が『太平記』を読むのを聴いていて、すぐさま、そのすべてをそらんじて、
「この子は、1度聞いた物を全部覚えるスゴイ子供だ」
と人々は驚いたのだとか・・・

とは言え、いくら聡明でも貧乏は貧乏・・・あまりの貧乏っぷりに、ほどなく米穀商を営んでいた叔父の吉勝(よしかつ)のもとに養子に出されますが、その後、13歳にて建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)に入って仏教を学びます。

しかし僧になる事は無く・・・というより、むしろ仏教を嫌って儒学(じゅがく=孔子の教え)の書を読みふけり、朱子学(しゅしがく=儒教の新体制)に没頭するのです。

さらに独学で勉強を続けていた中、20歳の頃に朱子学の大家=藤原惺窩(ふじわらせいか)に出会い即座に入門・・・与えた知識をどんどん吸収していく羅山の天才ぶりを大いに喜んだ惺窩は、慶長十年(1605年)、二条城(にじょうじょう=京都市中京区)に赴いて羅山を徳川家康(とくがわいえやす)に紹介します。

有名学者の惺窩の紹介という事もあって、家康はすぐに羅山を召し抱え、羅山は23歳の若さで家康のブレーンの一人となったのです。

その後、京都と駿河(するが=静岡県東部)を行き来して、徳川の家臣たちへの朱子学研修に務めるかたわら、例の大坂の陣の発端となった方広寺(ほうこうじ=京都府京都市東山区)の銘文事件(7月21日参照>>)にも関与・・・

豊臣秀頼(とよとみひでより=豊臣秀吉の息子)が寄進した方広寺の鐘の銘文にかかれていた『国家安康』の文字列を「家康の名を分断して呪っている」、同じく『君臣豊楽』の文字列を「豊臣家の繁栄を願う」、という意味だとイチャモンをつけた金地院崇伝(こんちいん すうでん=以心崇伝)南光坊天海(なんこうぼうてんかい)ら両家康ブレーンを後押しするがの如く、羅山も『右僕射源朝臣家康』「家康を射る」という意味だと称しています。

ま、この数年前には、家康の命令によって、嫌っていたはずの僧になって道春(どうしゅん)と号していますので、もはや身も心も徳川ドップリの人になっていたのでしょうね。

と言っても、コレ↑は悪口じゃないですよ~
なんせ家康に雇われて、徳川家のもとで出世していってるわけですから、僧で学者と言えど、徳川家のために&徳川に有利なように行動するのは当たり前の事・・・なんせ、この頃は、まだまだ家康の前に豊臣が立ちはだかってた頃ですから(【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】参照>>)

家康に始まった徳川ドップリは、その後、徳川秀忠(ひでただ)家光(いえみつ)家綱(いえつな)と、4代の将軍に仕えた羅山は、江戸幕府初期の土台造りに大きく貢献していきます。

それは、伝記や歴史書の編さん、古書&古記録の整理にはじまり、『武家諸法度(ぶけしょはっと)(7月7日参照>>)の制定にまで・・・多岐にわたりました。

寛永七年(1630年)には、江戸は上野(うえの=東京都大東区)忍岡に1353坪の土地を与えられ、そこで私塾と文庫と孔子廟を設けて、朱子学の発展と後進の育成に尽力しました。

この私塾は、後に昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ=湯島聖堂)と呼ばれる江戸幕府直轄の教学施設に発展しています。

晩年になっても年間700冊の本を読んで勉学に励んでいたと言われる羅山・・・そんな本の虫だった羅山は、最後の最後に、その命を縮める大きな出来事に遭遇します。

明暦三年(1657年)1月18日に起こったあの明暦の大火です。
【げに恐ろしきは振袖火事】>>
【江戸都市伝説~明暦の大火の謎】>>

三日三晩燃え続け、江戸の町を焦土と化したこの火事で、羅山は自身の邸宅と書庫を焼失してしまいます。

この時、蔵書の中で残ったのは、慌てて手に持って逃げた1冊だけだったとか・・・これに相当なショックを受けたであろう羅山は、火事の4日後の明暦三年(1657年)1月23日75歳にして、この世を去りました。

ところで・・・
羅山に関して、こんな話が残っています。 

ある時、羅山が史記(しき)『樊噲伝(はんかいでん=前漢時代の中国の武将の伝記)について講義をしていると、そばで聞いていた彦根2代藩主の井伊直孝(いいなおたか=井伊直政の息子)が、こんな事を言いました。

樊噲(はんかい)はスゴイ武将で真っ先に弓矢をかいくぐり敵陣に攻めて行ったと言いますが、敵陣に突っ込む勇気なら、僕も負けてません」
と・・・

すると羅山は
「樊噲は卑しい身分の出身ですから、血筋においても、あなた様の方が勝っているでしょうね。
けど、合戦で真っ先に突っ込んでいくのは、むしろ下っ端がやる事で、彼が讃えられるのは、そんな事ではありません。

合戦で活躍するのも武勇ですが、それは武士なら当たり前…樊噲がスゴイのは、例え相手が主君であっても、堂々と諫言(かんげん=目上の人の過失などを指摘して忠告すること)した事です。

敵ばかりではなく、内側も、そして自らの事もじっくりと考えなければなりません。
どうですか?あなたには、それができていますか?」
と答えたのです。

実は、この頃、周囲のあまりのイエスマンぶりに嫌気がさした徳川家光が、病気と称して諸大名に会う事を避けていた事を受けての助言だったとか・・・もちろん、井伊直孝は、心にズシーンと来て、自らの軽さを恥じ、大いに反省したのです。

『常山紀談』によると、この言葉は、世間では「羅山一生の格言」と称されているのだそうです。

人生の最後に失意に見舞われた羅山でしたが、その生涯は、自らの知識と知恵をおしみなく徳川に捧げた有意義な一生だった事でしょう。
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2019年12月 1日 (日)

板倉重宗に聞く~京都所司代の心構え

 

明歴二年(1656年)12月1日、徳川幕府政権下において第3代京都所司代を務めた板倉重宗が 、71歳で死去しました。

・・・・・・・・・

天正十四年(1586年)に、徳川家の旗本=板倉勝重(いたくらかつしげ)の長男として駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に生まれた板倉重宗(しげむね)は、幼い頃から徳川秀忠(とくがわひでただ=後の第2代江戸幕府将軍)小姓として仕え、関ヶ原大坂の陣にも秀忠の近侍として共に参戦し、元和六年(1620年)に2代目だった父の後を継いで、江戸幕府3代目の京都所司代(きょうとしょしだい)となりました。

Itakurasigemune700as 京都所司代とは、その名の通り京都の治安維持を任務とする役職与力(よりき)同心(どうしん)いった大勢を配下に持つ、今で言えば京都府警のトップ・・・といっても、後に江戸の幕藩体制が確立されて民政の事やなんやかんやが京都奉行所などに譲られるまでは、朝廷や公家の事、畿内より西に位置する諸大名の事など、あれやこれやを一手に引き受けていた役職なので、板倉重宗の頃は、かなり忙しかったのではないか?と・・・

その重要な役職を30年以上に渡って無事こなし、役職引退後も何かと頼られ、幕府大老(たいろう=将軍の補佐No.2)らにも堂々と物申す立場にあったと言いますから、幕府からも相当信頼されていたデキる人物だったのでしょう。

そんな彼は現役時代に訴訟などの決断所に向かう時、まずは西面の廊下にて伏し拝み、中では自身の前に明かり障子を立てて、傍らの茶臼で自ら茶を挽きながら罪人の訴えを聞いたと言います。

「何なん?そのルーティーン」
と、周りは不審に思っていたものの、相手がおエライさんなので聞くに聞けず、「変でっせ」と言う事もできず・・・にいたところ、晩年になって、その事を尋ねた人がいた。。。

その質問に対する板倉重宗さんの答えが『常山紀談(じょうざんきだん)(湯浅常山・著>>)に書かれています。

・‥…━━━☆

決断所に出向く時、廊下で拝んでたのは愛宕山(あたごやま)の神様(【愛宕神社のお話】参照>>)に対してなんです。

愛宕山の神様は、多くの神様の中でも特に霊験あらたかだと聞いたので、
「今日の案件を判断するにあたって、できる限り私見を挟まないよう努力しますが、もし私が私見を挟み間違えた判断をしてしまったら、どうぞ、この命を召し上げてください。
これだけ長く信心しているのですから、間違えた私を、そのまま生かすような事はしないで下さい」
と、毎日祈っているんです。

また、明確な判断ができないのは心が乱れているからだと…立派なお方は常に心静かだと思いますが、僕は、そんな立派な人間ではないので、心が静かかどうかを、お茶を挽いて確かめております。

心が安らかな時は、挽かれて落ちるお茶が、いかにも細やかなんです。

細やかなお茶が挽けると、
「あぁ、心落ち着いた~」
となって、相手の言い分を冷静に聞けるんです。

あと、明かり障子を隔てて相手の訴訟を聞くのは、人を見た目で判断しなようにするためです。

人というのは、ちょっと見ただけでも、憎たらしそうな奴もいれば、ひねくれてそうな奴も…それこそ千差万別です。

なので、いかにも誠実そうな人の言う事が真実に聞こえて、ワルそうな奴の言う事はウソのように聞こえますし、哀れをそそるような人の言う事は「何かウラがあるのと違うか?」って思ったりしてしまいます。

これらは、その人たちの言い分を聞く前に、自分ですでに判断してしまってる部分もあるわけです。

けど、訴訟の場では、哀れをそそる者にも憎むべき事があるし、憎たらしい者の中に哀れな部分もあるし、どんなに誠実そうに見えても偽りがあるかも知れません。
てか、実際には、そっちの方が多いです。

人の心の内は測り難いです。
顔かたちで決める事はできません。

昔は、質問に答える相手の顔色見て判断する人もいたようですが、僕には、そんな器用な事はできません。

ただえさえ裁判の場なんて普通やない怖い場所に出て来るのに、自分の生き死にを判断する者を目のまえにしたら、大抵の人は震え上がってしまって言いたい事も言えない、こんな雰囲気じゃ~POISON♪ってな事になって、あらぬ処罰を受けてしまう人もいるかも知れない。

なので、お互い、顔を見たり見られたりしないのが1番良いと思って、明かり障子で隔てた場所で対面してるんです。

・‥…━━━☆

と、答えたのだとか・・・

なんとも、スゴイお人です。

父の勝重さんも、かなり評判の良い人だったようですが、後に、「後世にはありがたき賢臣」と評され、庶民には「人を神のごとく敬い、父母のように愛した名臣」と言い伝えられているそうです。

とか何とか言いながら、板倉さん、落語にも興味がおありのようで・・・関連記事【戦乱の世に笑顔を…落語の元祖・安楽庵策伝】>>もどうぞ。。。
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2018年7月10日 (火)

堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説

元和九年(1623年)7月10日に第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠が、その約1ヶ月後の8月18日に第3代将軍に就任した徳川家光堺・南宗寺を参詣しました。

・・・・・・・・・・・

大阪にある南宗寺(なんしゅうじ=大阪府堺市堺区)臨済宗大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)のお寺で、もともとは南宗庵(なんしゅうあん)と呼ばれていた(いおり)を、その3代目法嗣(ほうし)となっていた大林宗套(だいりんそうとう)に帰依した三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)が、無念の死を遂げた父=三好元長(もとなが)(7月17日参照>>)を弔うために壮大な伽藍を建てて、その名を南宗寺としたのが始まりです。

Dscn0959a700
南宗寺の坐雲亭

その境内に、現存する建物としては最古の物とされる坐雲亭(ざうんてい)という下層が茶室となっている2階建ての建物があるのですが、この建物の内部に、
「征夷大将軍徳川秀忠公 元和九年七月十日  御成」
「征夷大将軍徳川家光公 同年八月十八日  御成」

(現物は非公開です)
てな事が書かれた板額があるのです。

徳川秀忠(とくがわひでただ)家光(いえみつ)父子は元和九年(1623年)の6月に上洛し、7月27日に伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)にて将軍宣下を受け、晴れて家光が第3代将軍となっていますので、まさに、その交代の時期にやって来た事になりますが・・・

Dscn0947a600 ところで、この南宗寺の一角には、「葵」の紋が描かれた瓦(←)がズラリと並ぶ回廊に囲まれた部分があります。
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実は、この回廊の内側には文政年間(1818年~1831年)に建立されたとされる東照宮(とうしょうぐう)があったのです。

Dscn0946a600 残念ながら太平洋戦争の空襲により焼失してしまい、今は「東照宮跡」の石碑(→)が建つだけになってしまいましたが、現在も、回廊とつながる南側に残る重要文化財の立派な唐門は、この東照宮にお参りするための物だったのです。

東照宮とは、ご存じのように、東照大権現(とうしょうだいごんげん)となった徳川家康(とくがわいえやす)を祀る神社で(4月10日参照>>)、現在では日光(にっこう)が有名ですが、江戸時代には全国各地に・・・当時は700社ほどあったと言われています。

大阪にも、この堺以外に、あの大塩平八郎の乱の時、皮肉にも幕府に刃向かう者たちの集合場所となった川崎東照宮(かわさきとうしょうぐう=大阪市北区)というのがありました(2月19日参照>>)

なので、江戸時代の南宗寺は、徳川家にとって重要な場所であった事は確かなのですが、上記の通り、秀忠&家光が参詣した時には、まだ東照宮は建立されていなかったわけで・・・

・・・で、ここで有名なアノ話・・・

この東照宮跡の北側に位置する開山堂(かいざんどう)の跡というところに、物議と妄想をかきたてる、「徳川家康の墓」と伝わる墓石があるのです。
Nansyuzikeidai

南宗寺の伝承によれば・・・
「大坂夏の陣、最後の戦いとなった慶長二十年(1615年)5月7日、天王寺茶臼山(ちゃうすやま=大阪市天王寺区)(4月14日参照>>)に本陣を構えていた家康でしたが、その日の天王寺口の戦いで、大坂方の毛利勝永(もうりかつなが)(2015年5月7日参照>>)真田幸村(ゆきむら=信繁)(2017年1月6日参照>>)に本陣間近まで迫られ、命の危険を感じて撤退を開始するのですが、敵にさとられぬよう、死者を運ぶ駕籠に乗って脱出します。 

しかし、逃げる途中に後藤又兵衛(ごとうまたべえ=基次)に見抜かれて追撃され、その槍に突かれてしまいます。 

とっさに持っていた布で槍の穂先についた血を拭い、相手に何事も無かったように見せかけたおかげで、確かに手ごたえがあったものの、血がついていない状況を見た又兵衛は、それ以上追撃して来る事は無かったので、そのまま、味方の町衆がいる堺にまで逃げて来たものの、南宗寺の前まで来た時に家臣が駕籠の中を確認すると、すでに絶命していたと・・・ 

やむなく、遺骸を南宗寺の軒下に埋葬して、後に、静岡の久能山(くのうさん)に埋葬し、さらに、ご存じの日光に至る」・・・と、

Dscn0955az800
徳川家康の墓とされる墓石

つまり、徳川家康が亡くなったのは、幕府公式記録にある元和二年(1616年)4月17日(4月17日参照>>)ではなく、慶長二十年(1615年)5月7日のここ堺であったものの、未だ江戸幕府が安定していない状態だったため、その死は隠され、後に別の日付で正式発表されたのだという事らしい。。。

この話は、『歴史ミステリー』的なテレビ番組でもやったりしてますので、ご存じの方も多かろうと思いますが、お察しの通り、この伝承には、いくつかのツッコミどころがあります。

まず、家康を仕留めたとされる後藤又兵衛は、前日の5月6日に道明寺(どうみょうじ=大阪府羽曳野市)の戦いにて戦死してしまっています(5月6日参照>>)

仮に、この家康と又兵衛の云々が前日の5月6日の戦い中に起きた出来事だったとしても・・・
この時、大坂を攻めるために、東からやって来る徳川軍は、大軍での生駒(いこま)山地越えが困難である事から、軍は、生駒の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指したのですが、又兵衛が戦った道明寺は大和口=松平忠輝(まつだいらただてる=家康の六男)を総大将にした本多忠政(ほんだただまさ=本多忠勝の息子)伊達政宗(だてまさむね)といった面々との戦いだった(4月30日参照>>)わけで、枚方方面を行った家康や秀忠と又兵衛は直接対決もしていないのです。

また、この堺自体も・・・
実は、同じく夏の陣の中の4月29日に起こった樫井(かしい・泉佐野市)の戦い(4月29日参照>>)の時に、豊臣方の大野治胤(はるたね=道賢・道犬)によって焼き打ちされ(6月27日参照>>)、堺の町はことごとく焦土と化していて、この南宗寺も瓦を残して、ほぼ焼失しまった事が記録されています。

しかも、その焼失した南宗寺の場所はここではないのです!
なんとお寺の由緒には、
「大坂夏の陣で焼失したため、当時の住職であった沢庵宗彭(たくあんそうほう)と堺奉行=喜多見勝忠(きたみかつただ)の尽力によって、元和五年(1619年)に現在の場所に再建された」
と書いてある・・・つまり、「大坂夏の陣の時点では、南宗寺は別の場所にあって、その後、ここに移転して来た」って事です。

大阪の陣の時の南宗寺が今とは違う場所だったなんて!!
「そら!完全にアウトですやん!」
と、言いたいところですが・・・

実は、この南宗寺の家康の墓には、まだ付録があります。

このお墓とされる石の右側・・・四角い石があるの見えますか?

この石・・・かなり古くなっているので写真(左)では見えにくいので、白文字で書き起こして(右)みますが・・・                          

Dscn0952as1000 Nansyuuzihibunn1000

『無銘ノ塔 家康サン諾ス 観自在』
つまり「この名前の無い塔は家康さんの墓で間違いない」と書かれているのです。

で、コレを書いたのは山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)らしい・・・江戸時代には徹底的に伏せられいて、いつしかその場所がわからなくなっていた家康の墓を、幕末になって「南宗寺にある」と聞きつけた鉄舟が、第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)の意向を受けて、資料調べと現地調査を行って、ここに書き残して行ったのだそうで・・・

つまり、幕府の公認を受けた事になりますが・・・
ただ・・・それにしては『家康サン』って書くかな??
普通『家康公』でしょ。

ちなみに、祖父=家康をリスペクトして止まなかった3代将軍の家光が、自身の心の支えとして常に持っていた直筆のメモには
『生きるも 死ぬるも みな 大権現さま次第に』
と書かれていたらしい・・・つまり、家光は家康の事を「大権現さま」と呼んでいたと・・・

普通、尊敬するご先祖様や主君を「サン」づけでは呼ばないですよね~

ただ、言葉ってのは変化しますからね~
たとえば、主君の「君」なんかも、
『君が代』の歌詞の元になったと言われている『古今和歌集』にある
♪我が君は 千代にやちよに
 さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで♪

でわかるように、この「君」とは天皇の事なのに、現在では、「○○くん」と呼んだり「きみは…」と言ったりすると、親しい同僚や目下の人に対して言ってる感じなるわけで・・・

そして「公」も、
家康公の「公」は、公人の「公」でもちろん敬意を表す言葉ですが、一方で、上から目線のさげすむ感じで、犬の事を「わん公」(今はカワイイ感じでワンコと言いますが)と言ったり猿を「エテ公」と言ったり、不良が、先生を「先公」とか警察を「ポリ公」とかって言い方したりする場合もあるわけで・・・

言葉という物は時と場合と昔と今でイロイロある・・・その場その場に立ち会わない限り「絶対に言ってない」と言いきれない物ですよね~

そんな中、最大に引っかかるのは、やはり、冒頭の秀忠&家光の連続参詣ですよ!

何たって、将軍宣下を挟んで前と後・・・

将軍を息子に譲って、これからは、父=家康がしたように大御所となって政務を行う
秀忠が元和九年(1623年)7月10日・・・

そして、将軍宣下を受け、
第3代将軍となった家光が8月18日・・・

まるで、その交代を初代に報告するかのような訪問は、何とも不可解さを感じます。

それを踏まえると、先の寺地移転お話も・・・「大坂の陣の後に寺が移転してるのだから、家康が南宗寺の門前で亡くなって、そこに葬ったなんて話しは信用できない」と一蹴する事はできなくなってきます。

そう、話の前後が逆な可能性もあるのです。

つまり、家康が寺の門前で絶命したので、そこにあった南宗寺に葬ったのではなく、大坂の陣で家康が絶命した場所=その時にとっさに葬った場所に、江戸時代になって南宗寺を移転させた・・・

むしろ、ここが家康最期の地であるからこそ、わざとこの場所に南宗寺を持って来て、山門やら仏殿やらの大伽藍に整備し、さらに、その後には東照宮まで建てて・・・と、すべてが、慌てて密かに埋葬したであろう無銘の塔を守るために廻っていたと考える事もできるわけで~

ワォ!!!(゚ロ゚屮)屮
ミステリーですね~

個人的には、横にある碑文よりも、秀忠&家光の連続参詣の真偽の方が、よっぽど気になるんですけど・・・

いつか謎は解けるのでしょうか?
楽しみです。
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2018年1月25日 (木)

枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話

 

本日は、大阪は枚方(ひらかた)に伝わる昔話?民話?言い伝え?伝説?的なお話を一つ・・・
(今日は何の日?でなくてスミマセンm(_ _)m)

・‥…━━━☆

枚方は、京都から大阪湾へと流れる淀川(よどがわ)沿いの中間あたりに位置する事から、古くは『古事記』『日本書紀』にもその名が登場するほどに、古来より人の往来の盛んな場所でしたが、

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江戸時代の京街道と枚方の地図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

やがて豊臣秀吉(とよとみひでよし)が淀川治水のために構築した堤防=文禄堤(ぶんろくつつみ)の上に道をつけた形の京街道を整備し、それを受けた徳川家康(とくがわいえやす)が江戸時代になって、東海道を延長して、大津(おおつ)から伏見(ふしみ)宿(よど)宿枚方宿守口(もりぐち)宿と起点となる高麗橋(こうらいばし)を加えて、正式に「東海道五十七次」とした事で、益々賑やかな宿場町へと発展し、さらに淀川を三十石船が往来するようになると、その中継場所として、以前にも増して人の往来が盛んになっていました。(2007年8月10日参照>>)

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三十石船に物を売る             舟宿の賑わい(右)
枚方名物「くらわんか舟」(左)

そんな枚方宿には、最盛期には50軒以上の旅籠(はたご)舟宿(ふなやど)が軒を連ね、その中には旅人相手に春を売る遊女たちがたむろする遊郭のような物も存在していて、常に50人~150人の遊女たちが存在していたとされます。
(ちなみに、枚方宿において宿屋と遊郭の建つ場所が分けられるのは明治に入ってからです) 

現在の京阪電車枚方市駅の近くには、今も、東側に「大坂みち」、北側に「左京六り やわた二リ」と刻まれた「宗左の辻(そうざのつじ)と呼ばれる道標が建っているのですが、ここは、かの京街道と磐船(いわふね)街道の分岐点にあたり、言わば枚方宿の北の端・・・
Souzanotuzi1000
♪送りましょうか送られましょか
 せめて宗左の辻までも ♪

と、枚方宿の遊女たちが客を、ここまで見送りに来た場所と言われています。

そんな遊女たちに、恋愛成就の御利益があるとして信仰されてたのが、京街道沿いにある臺鏡寺(だいきょうじ)のお地蔵様・・・

Dscn2057a900
現在の臺鏡寺

このお地蔵様は、今も臺鏡寺の境内にある地蔵堂の中におわし、身の丈2mほどの堂々としたやさしいお顔のお地蔵様なのですが、その足元に少しキズがあり、汚れたような感じに見える事から、いつしか
Dscn2061a600 「これは、皆が寝静まった真夜中に、お地蔵様がこっそりと修行のために出かけられるためだ」
と囁かれるようになり
←「夜歩き地蔵と呼ばれて親しまれていたのです。

そんな賑やかなりし江戸時代の枚方宿で、毎日、この夜歩き地蔵様にお参りする、一人の遊女がおりました。

17歳になったばかりの彼女の願いはただ一つ・・・
愛しい男との恋を叶える事。。。。そう、彼女は恋をしていたのです。

それは、客として店にやって来た、(なぎさ)のお百姓の息子。

たまたま遊女と客という関係で知り合ったものの、彼女に一目ぼれした若者が、何度も何度も店に通い、逢瀬を重ねるうち、彼女の方にも恋心が芽生え、いつしか二人ともが「夫婦になりたい」と願うようになっていたのです。

しかし、貧しい家に生まれ、家族のためにその身を売って、ここにやって来ていた彼女には、この先、まだ10年ほどは遊女として働かねばなりません。

若者としては、何とか彼女を身請けするしかありませんが、それには五十両もの大金が必要です。

一介の百姓のセガレである若者に、そんな大金は作れません。

それどころか、客として彼女の店に通うお金すら、徐々に用意できなくなって来る・・・そこに追い打ちをかけるように、遊女にうつつを抜かして、農作業もウワの空になっている若者に、父親は激おこ(-゛-メ)

とうとう、若者を勘当同然で家から追い出してしまいます。

もはや、身請けどころか、会う事さえできなくなった二人・・・しかし、二人はあきらめる事ができませんでした。

「こうなったら、あの世で添い遂げよう」
いつしか、二人の間には、ともに死ぬ=心中の二文字が浮かび上がってきます。

まもなく春が来ようかという、ある夜、二人は示し合わせて、葦(あし)が生い茂る淀川の河原へと打ち出でて、最後の名残りを惜しんだ後、若者は、小刀で彼女の胸を一突きし、自身の喉を掻っ切って心中を計ったのです。

しかし、人間、自分自身ではなかなか死ねないもの・・・彼女は亡くなりましたが、若者自身の傷は思ったより浅く、その痛みに耐えかねて堤の上に這い上がったところを、通りがかった者に、彼は助けられてしまったのです。

ご存じのように、この江戸時代、心中は天下の御法度(2月20日参照>>)・・・男と女、両方が死んだ場合は「不義密通」として罪人扱いとなり、遺族らは葬儀も埋葬する事も許されません。

また、両方が生き残った場合も罪人として扱われ、一般人の身分をはく奪され、その後は非人として生きて行かねばなりませんでした。

そして、今回の二人のように、片方が生き残った場合は、生き残った者を死罪・・・それも、極刑にした後、先に死んだ者の遺体とともに公道に並べられて晒される事になっていたのです。

若者は、事件から3ヶ月ほど経った夏の暑い日、一旦埋められて、このために掘り起こされた彼女の遺体と対面し、その傍らで斬首され、その首は、彼女の遺体とともに晒されたのでした。

その日、死ぬ事でしか一緒になれなかった二人の悲しみを思い、かの「夜歩き地蔵」のお堂の前には、枚方中の遊女が集まって嘆き悲しむ姿があったのだとか・・・

もちろん、江戸時代の枚方宿においても、このような出来事は彼と彼女のただ一度ではなく、遊女と客の心中などは、何度か起こった事件なのだそうですが、なぜか、この二人のお話は、夜歩き地蔵の逸話とともに、今に伝わります。

・‥…━━━☆

高麗橋・守口宿・枚方宿・伏見の地図や写真&散策コースを本家HP「京阪奈ぶらり歴史散歩」にupしています。

よろしければ、
下記リンクからどうぞ(別窓で開きます)
大阪歴史散歩:中之島周辺(高麗橋)>> 
大阪歴史散歩:文禄堤と守口宿>>
大阪歴史散歩:京街道枚方宿へ>>  
京都歴史散歩:伏見周辺を歩く>>
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2017年8月17日 (木)

怨みの井戸・門昌庵事件~松前藩の怖い話

真夏日の連続記録を更新せんが勢いだった暑さから、気の早い台風一過で一転、冷夏模様の今日この頃ではありますが、夏はやっぱりホラーで~って事で、本日は、1年ぶりの真夏の夜の怪談話シリーズ!
『松前の怖い伝説』です。

・‥…━━━☆

その昔、蝦夷(えぞ)と呼ばれていた北海道・・・その渡島国津軽郡(北海道松前郡松前町)に本拠を置く松前藩(まつまえはん)の第5代藩主=松前矩広(まつまえのりひろ)は、毎夜毎夜のランチキ騒ぎにあけくれていました。

Matsumaenorihiro500a そばに女性をはべらせては、酒を飲み、「もっと、
面白い物が見た~い(`ε´)」
「もっと、盛り上げろや~!(`◇´*)」

と大騒ぎの宴会、宴会、宴会・・・

最初のうちこそ、この藩主の堕落ぶりを注意した家臣も何人かいましたが、そんな忠告をいっこうに聞かないばかりか、
「うっとぉしい~」
と、次々と排除していったせいで、今や、彼の周りにはイエスマンばかりが集まって来て、もう誰も止めようともしませんでした。

しかも、終始、ゴキゲンで朝まで飲み倒すならまだしも、この宴会、夜も更けて来ると、毎度毎度必ず、異様な雰囲気になってしまうのです。

今夜も・・・
ある時間帯になると、
「来た~!来たゾ~怨みの声が聞こえてきた~~(ノ゚ο゚)ノノ」
矩広が叫び始めると、それまで鳴り続いていた音曲が止み、踊り手たちも一斉に踊りをやめ、矩広に聞こえるという、その声を探しますが、その場にいる誰にも、そんな声は聞こえません。

やがて、シ~ンと静まり返った座敷から、誰ともなく、一人減り、二人減り・・・最後は矩広一人になり
「やめろ!黙れ!やめてくれ~」
と、ブルブルと震えだしてしゃがみ込んで、体を丸くして怯えるばかり・・・

矩広の開く毎夜毎夜の宴会・・・実は、この恐怖から逃れたいがためのランチキ騒ぎだったのです。

それは寛文九年(1669年)に起こったシャクシャインの戦い(6月21日参照>>)・・・

過酷なアイヌ民族支配に不満を持ったアイヌの人たちが団結して反乱を起こした事件ですが、最終的に、アイヌのリーダーだったシャクシャインを騙し打ちにして戦いを終結させ、残る14人の首謀者を処刑して、首を取る代わりに耳をそぎ落としたのだとか・・・
(松前城内には、この時の耳を埋めた耳塚があり、現在も供養が毎年行われています)

この事件自体は、矩広が未だ10歳前後の頃の出来事で、父の死を受けて、藩主の座についてはいたものの、彼自身が何かに関与したわけではなく、一族や周辺の家臣たちによって事が進められたわけですが、多感な少年期に起こったこの事件は、彼の心に深い傷を残したようで、毎夜毎夜、
「ワシの耳を返せ~」
という恐ろしい幻聴に悩まされていたのです。

そんな中、ただ一人・・・勇気を振り絞って、
「殿…どうか、ほどほどに…」
と、藩主=矩広を諌める忠臣がいました。

大沢多治郎兵衛(丸山久治郎兵衛という名前の場合もあり)という人物。。。

しかし、その度々の諌めにイラだった矩広は、側近たちに
「アイツ、黙らせろや」と・・・

そこで、側近たちは大沢を呼び出し
「殿には困った物です。
昨夜もまた、派手にお騒ぎになられて、先祖代々の家宝の鉄扇を井戸の中に投げ込んでしまわれたのです」

と相談を持ちかけたのです。

「それは難儀な…」
と同調する大沢に、
「大沢殿に、井戸から、その鉄扇を取り上げて来ていただき、今一度、殿を説得してもらえないかと…」

「よし、わかった」
と井戸の中へと入って行った大沢に、
「お気をつけください」
「ありますか~?」

と、灯りを照らしながら見守っていた側近たち・・・

しかし、大沢が井戸の底まで達した頃、ようやく抱えられるかのような大きな石を手にとり、それぞれが、
「エイ!」
とばかりに、何個も投げ入れたのです。

鈍い音とうめき声とともに、大沢が井戸から上がって来る事は2度とありませんでした。

この井戸の話は、少しの間は噂になっていたものの、それ以上大きな話になる事はなかったのですが、一方で、この大沢のように、主君のご乱行を諌めようとする家臣が、その後も何人か亡くなる事件が相次いで、やがて矩広の周りには、彼のお気に入りの側近ばかりに・・・

しかし、そのお気に入りでさえも・・・
ある時、そのお気に入りの側近の一人が、矩広の側室と、通りすがりに話をしただけで怒りだし、
「不倫や!不義密通や!成敗したる!」
と騒ぎ始め、怖くなった、その側近は、松前家の菩提寺である法憧寺(ほうどうじ= 北海道松前郡松前町)に逃げ込み、住職の柏巌(はくがん)和尚に相談・・・
「住職様のお言葉なら、殿もお聞きになるかも…」
と矩広を説得してもらう事に・・・

しかし、目の前に現れた柏巌に対し矩広は、
「わしを呪いに来たんやろ?」
と、もはや聞く耳持たず、柏巌を門昌庵(もんしょうあん=北海道二海郡八雲町)という草庵に追放して首をはねるように、家臣に命じました。

かくして柏巌は斬首されますが、
その首を切られた時には側を流れていた川が逆流したとか、
斬首役の一人が発狂したとか、
首実検を行うために持ち帰った生首がカッと目を見開いたとか、
様々な噂がたつ中、松前藩の江戸藩邸でも家臣の変死が相次ぎ、矩広の体の調子も優れず、側室らが産んだ子供も次々と早世し、さらには、凶作、火事など、城下にも度々災難が起こった事から、人々は皆、
「柏巌の祟りではないか?」
と噂したのだとか・・・

・‥…━━━☆

と、まぁ、これまで見聞きしたお話を書かせていただきましたが、どうやら、このお話は一つの物語では無く、実際には複数のお話に分かれているようです。

もともと、こういうお話の性質上、「実際にあった」というよりは「そういう噂が流れていた」という感じの伝説的な物で、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけで・・・

ただし、今回の松前藩のお話の中では、最初の「シャクシャインの戦い」があった事は事実ですし、最後の柏巌の事件も「門昌庵事件」という名称で実際にあった事だとされ、家老や家臣の変死が相次いだのも本当の事だとされているようですが、実は・・・

「幽霊の正体見たり…」で恐縮ですが、実際には、どうやら、この時期に松前藩内でお家騒動があったようで・・・

つまり、藩内が二派に分かれて争っていた中で、勝った側によって多くの家臣が粛清されたと・・・ところが、その騒動が幕府老中の知るところとなったようで、

江戸時代、お家騒動が起こって収拾がつかなくなった場合、幕府の命により、藩そのものがお取り潰しになる場合もあるわけです。

なので、幕府に全容がバレてしまっては大変!とばかりに、慌てて、藩の正史には、亡くなった家臣たちを、皆「変死」と記録して、怖~い噂話を流してゴマかした?てな事のようです。

もちろん、上記の通り、お家騒動の話も正式な記録には残っていない話ですから、どこまで本当か?なんて事は、よくわからないわけですので、どちらを信じるか信じないかはアナタしだいです。
 .

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2016年3月19日 (土)

徳川譜代の雅楽頭~酒井忠世の失敗

寛永十三年(1636年)3月19日、徳川家康に仕えて、江戸時代初期に老中大老を務めた酒井忠世がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

徳川譜代の家臣として若き日の徳川家康(とくがわいえやす)に仕えた酒井重忠(さかいしげただ)の息子として三河西尾城(にしおじょう=愛知県西尾市)に生まれた酒井忠世(さかいただよ)は、幼くして家康に仕えました・・・ちなみに、家康と父=重忠が同世代で、忠世は、家康とは30歳くらいの歳の差があります。

やがて天正一八年(1590年)に家康の嫡子である徳川秀忠(ひでただ)豊臣秀吉(とよとみひでよし)に謁見するために上洛する時に、そのお供を命じられた事をキッカケに秀忠付きの家臣となり、その家老にまで抜擢されました。

家康が関東に入った時には、父の重忠とは別に武蔵国川越(埼玉県川越市)5000石を与えられ、川越城主となりました。

以来、秀忠に付き従い、大戦では度々留守居役を任される父に代わるように、忠世は、秀吉の朝鮮出兵(3月17日参照>>)でも九州・名護屋まで赴き、慶長5年(1600年)6月の会津征伐(7月25日参照>>)や、それに続く第二次上田合戦(9月7日参照>>)にも出陣しています。

やがて慶長十二年(1607年)、完成した駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市)のお祝いに、秀忠の名代として参加した際に、家康から「雅楽頭(うたのかみ)を名乗るように命じられ、以後、忠世の酒井家は『雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれ、代々続いていく事になるのです。

その後も、大坂の陣で秀忠の旗本を務めた後、元和三年(1617年)に父の重忠が死去して遺領の厩橋(うまやばし=群馬県前橋市)3万3千石を継ぎ、合計8万5千石の領地を領するようになりました。

この頃・・・45歳前後の働き盛りの忠世は、亡き家康の後を継いだ秀忠政権の年寄衆(老中)の一人として幕政の中心を担うようになり、さらに元和九年(1623年)、秀忠の嫡子である竹千代(たけちよ)が、徳川家光(いえみつ)として将軍職を継ぐと、秀忠の命により、忠世は家光付きの年寄衆となります。

寛永十一年(1634年)3月には、家光が、子飼いの側近である松平信綱(まつだいらのぶつな)堀田正盛(ほったまさもり)三浦正次(みうらまさつぐ)阿部忠秋(あべただあき)阿部重次(あべしげつぐ)太田資宗(おおたすけむね)の6名を、日常の雑務(旗本や御家人の支配等)を行う六人衆(若年寄)とし、

一方の、幕府としての全国支配を担当する年寄衆との役割分担を明確にして年寄衆には最高の権限を与えた事から、忠世も益々のご発展・・・

と、なるはずだったのですが、人生、どこで何があるかわからない物です。

そのわずか4ヶ月後の寛永十一年(1634年)7月・・・先代の秀忠が生きていた頃にはギクシャク感満載だった後水尾天皇(ごみずのおてんのう)との関係(11月8日参照>>)を修復すべく、家光が上洛して、留守となっていた江戸城で火災が発生し、西の丸が全焼してしまうという惨事が起こります。

そうです・・・この時、留守居役を任されていたのが忠世・・・

その責任を感じた忠世は、速やかに上野寛永寺(かんえいじ=東京都台東区)に入って、自ら謹慎・・・家光からの処分を待つ事にしますが、

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江戸時代の寛永寺(江戸名所図絵より)

意外にも、失火に関しては、家光からのお咎めは一切無し・・・しかし、逆に、速やかに寛永寺に入った事に、家光は激怒したのです。

「お前、コレ、戦国時代の合戦やったら、どうすんねん!」と・・・

城の留守を任されている重臣たる者が、出火の原因解明も、後始末もそこそこに、さっさと寺へと入ってしまった・・・
「逆に、最後まで城を守護するのが、任された者の役目ちゃうんか?」(『翁草』より)
と叱責したのだとか・・・

なるほど~言われてみれば、おっしゃる通りのような気も・・・

ただ、叱責はされたものの、酒井家はご覧の通りの重臣中の重臣・・・これまでの功績もあり、周囲の赦免嘆願もありで、この年の暮れには登城を許され、西の丸の留守居役にも復活する事ができました。

しかし、結局は年寄衆に復帰する事はなく、その権勢にはすっかり陰りが・・・と同時に、それらの事を思い悩むうち、心身ともに疲れて果ててしまったのでしょうか?
忠世は、突然の脳溢血に襲われて倒れてしまったのです。

さすがの家光も心配して、お見舞いの使者をよこしたりして気をつかいまくりでしたが、その甲斐もなく、倒れてから7日目の寛永十三年(1636年)3月19日忠世は、1度も意識を快復せぬまま、65歳の生涯を閉じたのです。

その無口な性格から『むっつり雅楽頭』というニックネームで呼ばれていたという忠世さん・・・ただ1度の失敗に、少しは弁解の口も開きたかったかも知れませんが、こればかりは、お家が存続しただけでも、ヨシとしなければならないでしょうね。

家が残ったおかげで、忠世亡き後の酒井家は、息子の忠行(ただゆき)が、すぐ後に亡くなってしまうものの、その後は嫡孫の忠清(ただきよ)が家督を継ぎ、見事、明治維新まで生き残ります。

鳥羽伏見から戊辰戦争の真っただ中を、後の最後まで徳川家を裏切らず忠誠を貫いた忠世の子孫たち・・・
そこには、徳川家譜代の家臣=雅楽頭酒井家の意地と誇りが見え隠れするようです。
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2016年2月 1日 (月)

天下のご意見番~大久保彦左衛門忠教が逝く

寛永十六年(1639年)2月1日、講談や時代劇で知られる大久保彦左衛門忠教がこの世を去りました。
(死亡日については2月29日もしくは2月30日説もあり←29日や30日だと書き難いので1日の日付けで書きます(*´v゚*)ゞ)

・・・・・・・・・

戦国時代を徳川家康(とくがわいえやす)とともに駆け抜けた後、その家康の息子の秀忠(ひでただ)、さらにその息子の家光(いえみつ)江戸時代初期の3代の将軍に仕えた重臣大久保忠教(おおくぼただたか)・・・

ここ最近はすっかり少なくなったテレビ時代劇ですが、その華やかなりし頃には、様々な立ち位置で何度もドラマに登場したのがこの方・・・ファンの皆様には大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)の名前の方がお馴染みかも知れませんね。

ある時は、魚屋の一心太助(いっしんたすけ)窮地に立った時に助ける大物役だったり、ある時は、若き家光をサポートする傅役(もりやく)だったり・・・いずれにしても、ドラマの場合は、弱き庶民が抵抗できないような役人や武士に対して臆することなく物を言い、庶民の味方となって見事に問題を片づけてくれる「天下のご意見番」という冠がつくカッコイイ老人の場合がほとんどですねww

ただし・・・お察しの通り、時代劇に登場する「カッコイイ老人」の代表格である水戸黄門と同様に、この彦左衛門さんの逸話も、ほぼほぼ後世の創作と言われています。

なんせ、江戸時代から彦左衛門さんは講談やお芝居で大人気だったですから・・・時代劇で描かれる彦左衛門の姿は、その江戸のお芝居の流れのまま描かれているんですね。

そもそも・・・
彦左衛門さんの大久保氏は、平安時代に関白となって権勢を振るった藤原北家藤原道兼(ふじわらのみちかね)の子孫で、南北朝時代には新田義貞(にったよしさだに従い、その後、三河(みかわ=愛知県東部)松平信光(まつだいらのぶみつ=家康の6代前)に仕えたのが始まりとされますが、実際のところはよくわかっていません。
(家康の父の清康(12月5日参照>>)から…という説もあります)

とは言え、家康の時代には、父の大久保忠員(ただかず)や、後に蟹江(かにえ)七本槍徳川十六神将の1人に数えられる兄の大久保忠世(ただよ)(3月1日参照>>)とともに彦左衛門も活躍し、いつしか彼らの大久保家は、本家の伯父さん(父の兄=大久保忠俊)の大久保家をしのぐ勢いとなっていきます。

とにもかくにも、天正十三年(1585年)の第一次上田城=神川の戦い(8月2日参照>>)や天正十八年(1590年)の小田原征伐(7月5日参照>>)、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦(関ヶ原の戦いの年表>>)に慶長十九年(1614年)の大坂の陣(大坂の陣の年表>>)などなど・・・数多くの合戦に従軍して奮戦したという事なんですが・・・

それは彦左衛門さんが一個師団を率いる武将ではなく、父や兄の軍に従属して参戦する人だったからか?

はたまた、晩年に書いた子孫へ残す家訓的な自叙伝=『三河物語』が、戦争を知らない子供たちの間で大ヒットし、若き武将のバイブル的存在になった事が大きかったのか?

やはり、今に残る逸話の多くが、平和な江戸時代になっても、戦国の生き残りとして反骨精神を失わない頑固なジッチャンのイメージ・・・痛快でおもしろく、一応史実とされる事でも「そら、講談や時代劇にしたなるわな!」って感じの逸話が多いんです。

・‥…━━━☆

ある時、某という武将の屋敷に招かれた彦左衛門・・・

宴会でひとしきり飲んで盛りあがる中、その武将がうやうやしく一頭の馬を引き立てて来て、
「どや!俺の持ってる、この馬…メッチャええ馬で、ごっつい俊足やねんゾ!大坂の陣でも大活躍した名馬や!」
と自慢するので、
「なるほど…あの大坂の陣の時に素早く逃げられたんは、足の速いこの馬のおかげかぁ~さすがの俊足で主人を助けるとは大した馬やなぁ」
と皮肉を一言・・・その武将が聞こえないフリをする一方で、他の者たちは顔を見合わせて、笑いをこらえるのに必死だったとか・・・

・‥…━━━☆

また、ある時、江戸城に登城した彦左衛門に、将軍=秀忠から
「今日の料理、珍しいが出るさかい、お前も一緒に食べへんか?」
と誘われてご一緒したところ、汁物の料理が登場・・・

「どや、珍しいやろ?鶴なんかめったに食べられへんで」
と秀忠が言うと、
「いや、ウチでは毎日食べてまっせ」
と彦左衛門・・・

「ウソやろ?なんぼなんでも毎日はムリやで」
と疑う秀忠に
「ホンマです…なんやったら、その証拠に、これから毎日、食用の鶴持って登城しますわ~お楽しみに~~」

と、翌日登城した彦左衛門は、2~3束の菜っ葉を手に秀忠の前に出て
「お約束の鶴を持って参りました=」
と、うやうやしく差し出します。

「これ、菜っ葉やんけ」
と秀忠・・・すると彦左衛門が、
「はい!僕らは菜っ葉て呼んでますけど…
昨日いただいた汁物に、この菜っ葉がよーけ入ってて、将軍様が、『鶴や~』『鶴や~』て言わはるんで、将軍家では、これを鶴って呼ぶんかなぁ~って思いまして…
それやったら、ウチにぎょーさんあるさかいに、献上しよかなって持って来ましてん」

とクソ真面目な顔で返答します。

「どないなっとんねん」
と不思議に思った秀忠が詮索してみたところ、料理人が証言・・・
「実は、昨日の汁物には、鶴と菜っ葉と入ってましたが、鶴が貴重なものでっさかいに、ちょっとしか使用しませんでした。
ほんで、もったいないかなぁ~なんて思て、彦左衛門はんのお椀には鶴入れんと、大量の菜っ葉だけ入れときましてん」

と・・・

つまり、誰の悪意でも皮肉でもなく、完全な感違いのすれ違い・・・一同大いに笑ったのだそうです。

・‥…━━━☆

そんな彦左衛門さん・・・
78歳にして病気になってからというもの、さすがの豪傑ジイチャンも日増しに弱々しくなっていき、誰の目にも余命少なく感じるようになった時、鹿島(かしま=茨城県)で暮らす彼のもとに、時の将軍=家光からの使者が訪れ、「5000石加増」の沙汰を伝えました。

すると彦左衛門は
「もうアカンわ~て思うような重病にかかってるジジイに加増してもろても、この先、何もお役に立つ事ができまへんがな。
子孫に残したれ…てな事やったら、楽して得しても、心が緩むだけです。
僕の子孫は、この先、僕以上の手柄を立てて、自分らの功績で加増してもらいますよって、今はいりませんわ」

と、固辞したのだとか・・・

それから間もなくの寛永十六年(1639年)2月1日大久保彦左衛門忠教は80歳の生涯を閉じたのでした。

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錦絵に描かれた大久保彦左衛門(上田市立博物館蔵)
大坂の陣にて家康を追い込む真田幸村VS守る彦左衛門

人一倍強い忠誠心を持ち、家康・秀忠・家光と3代の将軍に仕えた彦左衛門は、若き日に城主になるチャンスを蹴って旗本に徹し、老いてもなお加増のチャンスを蹴って逝く・・・歯に衣着せぬ物言いをしながらも、生真面目で曲がった事が嫌い・・・

そんな彼の魅力そのままが、後に講談や時代劇に描かれて人気を馳せる「天下のご意見番」の魅力となっているのでしょうね。
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2015年11月19日 (木)

残りの人生丸儲け~小林一茶、最期の時

文政十年(1827年)11月19日、江戸時代を代表する俳諧師の一人・小林一茶が、この世を去りました。

・・・・・・・・

とにもかくにも、この小林一茶(こばやしいっさ)という方は、俳句でイメージする優雅で落ち着いた印象とはうらはらな、なかなかに波乱の人生を歩んでおられるお方でして・・・

信州柏原宿(長野県信濃町柏原)の農家に生まれた一茶は、3歳で母親を亡くした後、8歳で迎えた継母との折り合いが悪く、15歳で江戸に奉公に出され、やがて、亡くなった父の遺産を巡って、その母と、今ハヤリの遺産争続・・・12年間もの争いに和解し、故郷に定住すべく舞い戻ったのは文化十年(1813年)の1月でした。

奉公に出されてから、実に36年の歳月・・・もちろん、それまでにも、病に倒れた父の看病やら、それこそ継母との遺産相続の話やらで、何度か故郷に帰ってはいましたが、ここに来て、やっとこさ流浪の身に終止符を打ち、終の棲家に落ち着こうと考えたのでした。

Kobayasiissa300a 時に、一茶、51歳・・・

しかし、彼の体は、本人が思っていた以上に疲れていたのかも知れません。

帰郷から、わずか5カ月ほどの頃、善光寺の祇園祭に出かけた一茶は、お尻にできた腫れ物のせいで、その後、70日もの間、病床に臥せってしまいます。

しかし、そんな中でもウレシイ出来事も・・・
間もなく、一茶のもとには、24歳年下の若い奥さんが・・・初婚の一茶はハリキって子作りに励みますが、それが、どうやらハリキリ過ぎたか?

54歳の文化十三年7月には(おこり=マラリアのような熱病)にかかり、一旦完治するものの、57歳の文政二年7月にも、またまた瘧に・・・

翌・文政三年10月には、出かけた先の雪道で転び、中風(ちゅうぶ=脳梗塞や脳出血、くも膜下出血などの後遺症)が起こったために駕籠にて帰宅して、そのまま布団へGO!・・・一時は、歩くどころか口まで不自由になっていたとか・・・

この時、すでに二人の間には長男が生まれていたので、赤ちゃんの世話もせねばならず、さぞかし奥さんは大変だったと思いますが、そんな中でのガンバリが効いたのか?病気は間もなく快復し、正月には
♪今年から 丸まうけ(儲け)ぞよ 娑婆遊び ♪
と吟じました。

この時に、自身の事を「蘇生坊」と称してますから、つまりは
「去年、もう死ぬわ~っと思た中で快復したんやさかい、今年からの人生は丸儲けやな」
てな感じです。

なんだか、ホッとする俳句ですね~
良かった良かった・・・

しかし・・・
そんな中、一茶との間に3男1女をもうけた、あの若い奥さんがお亡くなりに・・・翌・62歳の文政七年に貰った、これまた28歳と若い2度目の奥さんとはソリが合わず、わずか3カ月のスピード離婚。

しかも、離婚した翌月、弟子宅にて、またもや中風がぶりかえし・・・
「ふと舌廻らぬやまひおこりて…」
と告白していらっしゃる事から、どうやら言語障害になっていたようで・・・

とは言え、これも何とか快復した一茶は、文政九年、64歳にして3度目の結婚を・・・またまたお若い32歳の新妻でしたが、

なんと、今度は、その翌年の6月に村を襲った大火によって、小林一家は焼け出されてしまうのです。

一旦は弟子宅に避難するも、何とか焼け残った自宅の土蔵を修理して住めるようにして、3ヶ月後の9月には自宅へと戻りました。

ちょうどその頃、
「先生!今、メッチャ菊が見頃でっせ!」
と弟子たちが誘うので、未だ、身体は思うように動かなかったものの、比較的元気だったので、駕籠に乗りつつ、アチラコチラの菊の名所を見物・・・

自宅の土蔵に戻った11月8日には、いかにも機嫌よくしていましたが、その11日後の文政十年(1827年)11月19日(西暦では1828年1月5日)、いきなり、気分が悪くなったと訴えます。

それは、あの雪道で転んだ時に起こって以来、3度目の中風の発作でした。

そして、その日の夕方・・・一声の念仏を唱えて後、一茶は、仮住まいの土蔵の中で、64年の生涯を閉じたのでした。

この時、すでに最初の奥さんとの間に生まれた子供は、すべてを幼くして亡くしてしまっていた一茶・・・新しい奥さんのお腹の中には、待望の赤ちゃんが宿っていましたが、一茶は、その子の顔を見る事なく、逝ってしまったのです。

ただ一つの救いは、一茶が亡くなった翌年に生まれた女の子は健やかに育ち、その子孫の方が、今現在も長野県信濃町にお住まいなのだとか・・・

また、一茶57歳の文政二年に成立した『おらが春』(12月29日参照>>)が、その死から25年後に読物として刊行される事となります。
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