2016年7月 3日 (日)

新世界ルナパークと初代通天閣の誕生

明治四十五年(1912年)7月3日、大阪・天王寺新世界ルナパークが開場し、通天閣が人気となりました。

・・・・・・・・・・

明治三十六年(1903年)、3月1日~7月31日の153日間に渡り、大阪の天王寺一帯で開催された第五回内国勧業博覧会は、欧米をはじめとする世界18ヶ国が参加する、事実上日本初の万国博覧会であった事から、
(↑これまでの東京&京都での博覧会は、日本がパリ条約に加盟していなかったために外国からの出品はありませんでした)
これまでの最高=前回の京都(4月1日参照>>)の5倍近くの約500万人の入場者数を記録する大成功イベントとなりました。

その博覧会を成功に導いたのが土居通夫(どいみちお)という実業家・・・彼が、実際にフランスパリへと飛び、そこでパリ万博のノウハウを吸収して来た事が大きかったのです。

Tuutenkaku1912a700 で、その彼がパリで見たエッフェル塔凱旋門に魅了され「日本にもあんなん造りたい!」と構想・・・

と、同時に、明治四十四年(1911年)に起こった火災によって閉園を余儀なくされた遊園地=東京の浅草ルナパーク(ニューヨーク=コニーアイランドのルナパーク がモデル)の後を引き継ぐ遊園地の設立を模索していた河浦謙一が、未だ開発中だった、かの博覧会の跡地に2番目となるルナパークの建設を決意します。

後に「新世界」と呼ばれる事になるこの場所ですが、実はこの、土居さんの夢見たパリと、河浦さんの目指したニューヨーク合体作品だったんですね~
・・・てか、そもそも通天閣だけで、エッフェル塔と凱旋門が合体してるんですがww

なので、通天閣の北側は、パリの凱旋門を中心にのびる放射状の道路と同様の構造となっており、大阪の新名所的な意味を持つ「新世界」という名称になる前は「新巴里」と呼ばれた時もあったのだとか・・・

とは言え、結果的に遊園地のシンボルとなる通天閣・・・
設計したのは建築家=設楽貞雄(しだらさだお)で、通天閣と命名したのは儒学者の藤沢南岳(ふじさわなんがく)、その意味は「天に通じる高い建物」という意味だと言われますが、実は通天閣の「通」は通夫さんの「通」らしい・・・てな事も。

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誕生した新世界…左奥が通天閣で右がホワイトタワー、その手前の木々のある部分がルナパーク

とにもかくにも、こうして・・・
明治四十五年(1912年)7月3日大阪天王寺界隈の博覧会の跡地に、通天閣とルナパークが誕生します。

通天閣の高さは75m(諸説あり)で東洋一とのフレコミ・・・世界初の円形エレベーターが装備され、現在でもお馴染みのネオン広告も、誕生の時から、すでにあったとか・・・

一方のルナパークには、現在の絶叫マシーン的な物やメリーゴーランド演芸場映画館ローラースケート場スパワールドコンサートホールと、平成のテーマパークに勝るとも劣らない設備の数々・・・

Luna_park2a550 また、メインとなる展望塔=ホワイトタワー(白塔=現在の「づぼらや」付近に建っていた)は通天閣と対峙する形の高さ40mで、両塔の間には飛行機型のゴンドラに乗って移動できるイタリア直輸入のロープウェイが!
(写真→)

いやはや、明治の遊園地とは思えませんねぇ~

で、そのホワイトタワーの下部にあった白雨亭という休憩所の奥に、お堂建てて祭ってあったのが、アメリカ生まれのビリケン像でした。

いつの間にやら、すっかり有名になって、今じゃ大阪のあちこちで見かけるビリケンさんですが、もともとは1908年(日本では明治四十一年)にフローレンス・プレッツというアメリカの芸術家が、自身の夢に出て来た人物をモデルに造った像が、「幸運の神様」として世界中に大流行・・・
(ちなみにビリケンという名前は、当時のアメリカ大統領=タフトのニックネームだそうな)

Billiken700a 日本では、明治四十四年(1911年)に大阪の繊維会社=神田屋田村商店(現在の田村駒株式会社)が、同社商品の販売促進キャラクターとして広告で使用した事から大人気となり、おそらくは、その人気にあやかってルナパークにもビリケン像が設置されたと思われ・・・って事は、今で言うところの「お台場のガンダム」「神戸の鉄人28号」みたいな物かしらん?
(ちなみに現在のビリケンさんは3代目で←写真のビリケンさんは2代目…最近はどんどん人気が出てどんどん神様っぽいキンキラの飾り付けが増えて来ている気が…(>0<)

とは言え、時代の流れは酷な物・・・

大正時代に入ってからすぐには隣接する天王寺公園動物園が誕生したものの、それ以降は、ほぼ同じ敷地の南側に大相撲を中心とした興業を行う大阪国技館が、南東側には、当時、日本最大級の遊郭街と称された飛田新地が・・・と、次々と町並みが変化していく中で、徐々に新世界は大人の遊び場=歓楽街へと姿を変えていく事になります。

となると、当然、家族連れは少なくなって行き、やがて人出もまばらになった遊園地ルナパークは大正十二年(1923年)に閉鎖・・・

一方の通天閣は、それでも残っていたのですが、昭和十八年(1943年)の第二次世界大戦真っただ中の1月に、ねきにある大橋座火災発生した事から足元部分を損傷・・・
これを受けて、通天閣が高い建物であるが故に空襲での標的にされやすい事、金属類不足による鉄材供出などを理由に翌・2月に解体されたのでした。

そう、現在の通天閣は2代目!・・・コチラが建設されたのは昭和三十一年(1956年)なんです。

大阪が日本一の人口を誇った大大阪と呼ばれる時代・・・明治の終わりから大正の初めにかけて、その大大阪の象徴のごとく隆盛を誇った通天閣は、一度は壊されながらも、戦後の高度成長期を迎えて再び活気づく大阪の空によみがえったのです。

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清水寺(大阪市天王寺区伶人町)の舞台から望む2代目通天閣

平成の世となった今、東洋一&日本一どころか、あべのハルカスから見下ろされ、大阪一の高さでもなくなった通天閣に、初めて訪れた人は「思たより低いな」と言わはりますが、そこには、高さだけやない、大阪人の夢と希望と憧れがつまってますのや!

てな事で、もし、新世界に来られて通天閣に登られる機会がありましたら、展望台からの風景に、古き良き大大阪の時代を垣間見ていただけましたら幸いです。

ほな、今日は、これくらいにしといたろww
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2016年6月17日 (金)

明治の大阪を襲った災害~明治十八年淀川大洪水

明治十八年(1885年)6月17日~18日にかけて、枚方から下流の淀川南岸の堤防が次々に決壊し、大阪府中南部の広範囲にわたって洪水被害を出しました・・・『明治十八年淀川洪水』または『明治の大洪水』と呼ばれます。

・・・・・・・・・・

Oosakaheiya2000cc 琵琶湖を水源に、滋賀→京都→大阪を大阪湾へと流れる淀川は、未だ大阪平野が河内湖と呼ばれる大きな湖であった神代の昔から(6月18日【日本最古の『つるの橋』】参照>>)、周辺に大きな恵みをもたらす一方で、災害をももたらすあばれ川でもありました。

Dscn3734a1000 古くは、第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)(1月16日参照>>)の時代(5世紀前半頃?)日本書紀「北の河(淀川)の澇(こみ・浸水)を防がんとして、茨田堤を築く」 と記され、 古事記でも「秦人を役てて、茨田堤を造りたまい」 と記録されている日本最古の堤防茨田堤(まんだのつつみ→)が築かれますが、今に伝わる民話(6月25日参照>>)では、その後も、たびたび堤が決壊して被害をもたらしていた事をうかがわせます。

その後、河内湖の陸地化が進み、河口付近に堆積する土砂によって沖積平野(ちゅうせきへいや)形勢されて行き、長い年月をかけて、いくつもの川が縦横無尽に走る大阪平野ができあがっていくのです。

やがて中世になると、その縦横無尽の川によっての水運が発達し、水の都となっていく大阪平野ですが、
Tennouzikassenzucc ←以前に書かせていただいた織田信長(おだのぶなが)VS石山本願寺天王寺合戦の布陣図(5月3日参照>>)でも解るように、この頃でも、まだまだ大阪平野は川だらけだったわけで・・・

とは言え、ご存じのように、信長の後に天下を取った豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって大坂は大きく変わります。

Dscn5300a1100 堤防と街道を兼ね備えた文禄堤(ぶんろくつつみ=京街道→)が築かれて(8月10日参照>>)大坂⇔京都間を多くの人が行き交うようになり、川の付け替えや開削工事も行われ、江戸時代の頃には、ほぼ現在の大阪平野のようになって来るのですが、堤防を高くして流れを押しこめるようになると、川の水面は周辺の平地より高くなってしまうわけで、1度洪水が起こると、その被害は、とても大きな物となるのです。

そんな中で、近代における最も大きな被害となったのが『明治十八年淀川洪水』『明治の大洪水』です。

明治十八年(1885年)6月15日に北朝鮮北部に現れた低気圧と、17日に瀬戸内海西部に現れた低気圧・・・二つの低気圧によって、6月15日から降り始めた雨が夜半には豪雨なり、さらに17日夜まで降り続いた事で淀川の水位は上昇し続けたのです。

大阪府から内務省に提出された『水害概況報告』によると
Hirakatakouzui700_2←水没した伊加賀一帯

「河内国茨田郡伊加賀村(現在の大阪府枚方市)堤防17日午後10時30分決壊、わずかに30分にして破壊20余間。
ただちに三矢・伊加賀2ヵ村の家屋24戸流失す。
よって堰止方法につき百方計画するも、水勢猛烈にして堰内に奔注することあたかも瀑布のごとく、切断しだいに広大となり、19日にいたりついに5、60間におよぶ」

と・・・

また6月21日付けの『朝日新聞』は・・・
18日の午前3時、ついに堤防が決壊し、水の勢いは白浪をうちガウガウと鳴響した」
と伝えました。
(下記の『淀川洪水碑』の説明板では、この日付け=6月18日午前3時に三矢村と伊加賀村の堤防が決壊したとの説明になっています)

さらに、未だ堰止めの工事が完全で無い中、25日からの再度の暴風雨により、三矢村淀川字安居堤防と新町村天野川堤防(いずれも現在の枚方市)が決壊して、その濁流が大阪市内へと達する中、淀川上流の宇治川木津川桂川などの堤防も決壊して、水は低い方へ低い方へと流れて行き、上町台地と呼ばれる、現在の大阪城~天王寺あたりの一部の高台を除いて大阪はほぼ浸水・・・まさに2000年前の河内湖を思わせる一面の湖水状態となり、中心部である淀屋橋をはじめ大阪市内の橋も30余りが流され、市内の交通も完全にマヒしてしまいました。

その後も、明治二十二年(1889年)と明治二十九年(1896年)に、枚方付近での堤防の決壊が相次いだ事から、大阪府民による「淀川改修工事運動」が起こり、その声を聞いた政府は、その明治二十九年(1896年)から15年に渡る改修工事を実施します。

川幅の拡張や堤防の構築を行い、さらに、上流となる瀬田川洗堰(あらいぜき)を設置して水量を調節する一方で、下流は長柄から大阪湾までの約8kmを直線で結ぶ新淀川(現在の淀川)を開いて、川の流れがまっすぐに大阪湾に流れるようにしました。

また、旧淀川(現在の大川→堂島川&土佐堀川→安治川)には毛馬(けま)に閘門(こうもん)を設けて、これまた水量を調節・・・もちろん、府民自らも「防水組合」を立ち上げ力を合わせて洪水を防ぐ対策を整えていったのです。

おかげで、以後の災害は劇的に少なくなりました。

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三矢・伊加賀付近に建つ『明治十八年淀川洪水碑』と枚方市付近を流れる淀川

とは言え、淀川の治水に関する取り組みは、今現在も続いています。

災害への教訓を忘れまいと、洪水の翌年=明治十九年(1886年)に、最初の決壊場所となった枚方三矢・伊加賀地区の淀川沿いに建立された『明治十八年淀川洪水碑』は、淀川治水の重要性を、この平成の世にも伝えようとしています。
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2016年2月18日 (木)

幕末維新の公卿で政治家…三条実美

明治二十四年(1891年)2月18日、幕末~明治の公家で大臣等を歴任した政治家でもある三条実美が死去しました。

・・・・・・・・・

三条実美(さんじょうさねとみ=三條實美)の三条家は五摂家に次ぐ格式の清華(せいが)の一つ・・・三条実万(さねつむ)の息子として天保八年(1837年)に生まれた実美は、6歳まで洛北の豪農=楠六左衛門に養育されました。

その後、邸宅に戻ってからは、三条家の用人であった富田織部(とみたおりべ)が、実美の教育係となりますが、この織部がバリバリの尊王攘夷(そんのうじょうい=天皇を尊び外国を排除)であった事から、当然の事ながら実美も尊攘思想へと傾いていく事になります。

この頃は、例の嘉永六年(1853年)の黒船来航(6月3日参照>>)を受けて、開国か攘夷かで日本が真っ二つに分かれていた頃・・・

しかし、米国総領事・ハリス(7月21日参照>>)から日米修好通商条約を迫られた幕府は、安政五年(1858年)、時の第121代天皇・孝明(こうめい)天皇からの勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ずに条約を締結・・・幕府大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、反対する者を次々と弾圧していきます。

これが世に言う安政の大獄(たいごく)(10月7日参照>>)ですが、実美の父も、辞職して出家という処分を受け、実美自身も政争に巻き込まれた事から、より一層、尊王攘夷の思いを高めるのでした。

Sanzyousanetomi600 そんなこんなの文久二年(1862年)、すでに兄の病死等を受けて三条家を継ぐ身となっていた実美は、公武合体(こうぶがったい=天皇家と幕府が協力)(8月26日参照>>)を主張する岩倉具視(いわくらともみ)薩摩(さつま=鹿児島県)などと対立・・・

反幕府で攘夷派の長州(ちょうしゅう=山口県)と組んで京都での主導権を握りはじめ、公家攘夷派の中心人物となっていくのです。

この年の8月には、自ら江戸へと赴いて、
時の14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)攘夷の決行を約束させたり(5月10日の前半部分参照>>)
弾劾意見書を提出して岩倉を蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)に追い込んだ(7月20日の真ん中あたり参照>>)
孝明天皇の大和(やまと=奈良県)行幸を企画したり(9月27日の真ん中あたり参照>>)・・・
と、まさに縦横無尽の活躍ぶりだったわけですが・・・

だがしかし・・・
ここで、ご存じの八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)です。

実は、孝明天皇自身が考えておられたのは、あくまで幕府が行う攘夷であって、倒幕すら視野に入れた過激な尊王攘夷派には少し違和感を持っておられたようで、朝廷内も一枚岩では無かったのです。

・・・で、その孝明天皇を意を汲んだ中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)(2009年8月18日参照>>)は、京都守護職を務めていた会津藩と、トップクラスの軍備を持つ薩摩藩に同盟を組ませ、彼らに御所の警備を任せる事にして、この文久三年(1863年)8月18日の朝に攘夷派の長州藩を禁門(蛤御門・御所の門の一つ)の警備から外したのです。

出勤しようと門の前まで来た尊王攘夷派の公卿たちは、会津&薩摩の警備陣に阻まれて御所の中に入れてもらえず、この日を境に警備から外された長州藩も京都から追い出される事になりました。

中心人物だった実美はもちろん、彼以外にも、
三条西季知(さんじょうにしすえとも)
東久世通禧(ひがしくぜみつとみ)
壬生基修(みぶもとなか)
四条隆謌(しじょうたかうた)
錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)
澤宣嘉(さわのぶよし)
の合計7人が、長州藩士に守られながら一路長州へ・・・これを、七卿落ち(しちきょうおち)と言います。

その翌年、何とか巻き返しを図ろうと集まっていた長州藩士たちのところに、会津藩預かりとなった新撰組が踏み込んだのが元治元年(1864年)6月に起こった池田屋騒動(6月5日参照>>)・・・

さらに、その1ヶ月後、かの八月十八日の政変での処分に不満を持つ長州が、その処分の撤回を求めて、武装して大挙上洛し、「御所に入れろ」「入れない」でドンパチ・・・これが禁門の変(7月19日参照>>)ですが、この時に長州藩の放った弾丸が御所に命中した事から、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家に反逆した者)となってしまいました。

これで、幕府による長州征伐(第一次)が開始される事になりますが、この時は、長州藩自ら、変の首謀者とされる3人の家老の首を差し出す事で、何とか交戦を回避しました(11月12日参照>>)

とは言え、揺れ動く長州藩内・・・禁門の変の失敗で、一旦は保守派が牛耳る事になった藩の上層部でしたが、功山寺で挙兵した(12月16日参照>>)高杉晋作(たかすぎしんさく)によって再び革新派が返り咲いています。

この間に、七卿のうちの澤宣嘉は長州を出て生野(兵庫県生野)にて別行動をし、錦小路頼徳が病死したため、5人となっていた実美以下公卿たち・・・彼らが危険に晒される事を案じた長州藩は、慶応元年(1865年)2月に、彼ら五卿を、筑前大宰府(福岡県太宰府市)にある延寿王院(えんじゅおういん=太宰府天満宮の宿坊)へと移しました。

ここで、しばらくの間、実美は幽閉生活を送る事になるのですが、この時、かの禁門の変で負傷して長州に逃げて来ていた土佐(高知県)中岡慎太郎(なかおかしんたろう)が、実美のもとへ足しげく通い、薩摩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と交渉したり、以前は公武合体を叫んでいた岩倉具視をコチラ側に向けたりの大活躍・・・(8月6日参照>>)

その努力が実って慶応二年(1866年)1月21日、ご存じの薩長同盟の成立(1月21日参照>>)・・・その年の6月から開始された第二次長州征伐(四境戦争)(6月8日参照>>)は、なんと長州優位のまま、将軍=家茂の死(7月20日参照>>)によって幕が閉じられました

さらに年末の孝明天皇の崩御(12月25日参照>>)によって、加速する倒幕への波は留まる事を知らず・・・翌慶応三年(1867年)10月14日には第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)による大政奉還(10月14日参照>>)が行われる一方で、その前日と同日には、薩摩と長州に「討幕の密勅」が下る(10月13日参照>>)というスピード展開の中、12月9日の王政復古の大号令(12月9日参照>>)をキッカケに、実美は京都へと戻り、やっと表舞台に復帰する事ができました。

その後は、戊辰戦争の勝利によって維新が成った明治新政府の要人として、副総裁から右大臣を経て太政大臣まで務めますが、なぜか、新政府内での実美の影は薄い・・・

どうやら実美さん、政治的な決断力に欠ける人だったようで・・・

そもそも、その地位や立場から、尊王攘夷の旗印のように掲げられたものの、ご本人の性格はいたって温和な公家風おじゃる丸・・・新政府内で誰かと誰かが対立する度に、その板挟みとなって苦悩する毎日だったようで・・・

結局、名誉職などにはついたものの、あまり存在感が無いまま第1線を退き、明治二十四年(1891年)2月18日55歳でこの世を去ったのです。

高熱で病床についたとの事で、おそらくは流感(りゅうかん)インフルエンザだったらしい・・・

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萩が盛りの梨木神社(京都)

墓所は東京都文京区の護国寺、その御霊は、かつて三条邸が建っていた場所(京都御所の近く)に建立された梨木神社に合祀されました。

ドラマなどでは、主役を張る長州藩の志士たちに対して、薄暗いすだれの向こうから「あーしろ」「こーしろ」とか「まだやらんのか?」とかばかり言ってそうなイメージの実美さんですが、意外に、争いを好まない、心やさしい方だったのかも知れませんね。
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2016年2月 7日 (日)

幕末維新を駆け抜けた実業家…「東洋男子」岩崎弥太郎

明治十八年(1885年)2月7日、近代日本屈指の実業家=岩崎弥太郎がこの世を去りました。

・・・・・・・・・

「三菱商会会長の岩崎弥太郎殿は、深川清住(きよすみ)町なる前島密(ひそか)君の旧邸より引続き、同地所四万余坪を買入れ、吾朝の阿房宮(あぼうきゅう)とも称すべき壮麗なる高堂を建設される。
入費凡
(およそ)四万円の見積もりにて、公園内にも、稀なる巨大の珍石花木等蒐集(しゅうしゅう)の為め、既に千有余円を出して毎日エンサカエンサカ曳き入る云々」

Iwasakiyatarou500a これは、明治十一年(1878年)7月19日付けの『東京曙新聞』の記事・・・この時、まさに実業家として絶頂期にあった岩崎弥太郎(いわさきやたろう)ですが、去る平成二十二年(2010年)の大河ドラマ『龍馬伝』で、演技派の香川照之(かがわてるゆき)さんが、記憶に残る好演された事で覚えておいでの方も多いかと思います。

なので、このブログでも、大河ドラマ関連で、弥太郎と海援隊&龍馬の関係など(1月31日参照>>)書かせていただいたり、彼が実業家に至る経緯(10月9日参照>>)なんかも書かせていただいておりますので、弥太郎さんの前半生は、そちらのページでご覧いただくとして、本日は、ご命日という事で、その最期の姿をご紹介させていただきます。

かの『龍馬伝』での弥太郎さんの立ち位置が、極悪人では無いにしろ、小憎たらしい役だったからなのかも知れませんが、亡くなるシーンは、自宅の部屋?お屋敷?みたいな場所で、ものすごく変わったポーズで動かなくなってる姿が一瞬映っただけの、何か不思議な最期の描き方だったですが、当時の報道を見る限りでは、実際にはしっかり&キッチリとした亡くなり方だったようですヨ。

・‥…━━━☆

幕末維新の流れの中で、土佐藩の貿易業務を引き継いだ三菱商会で成功を収めた弥太郎は、明治十年(1877年)に勃発した西南戦争(9月24日参照>>)での軍事輸送で更なる利益を上げ、冒頭に紹介させていただいた新聞記事のように、まさに時代の寵児となったわけですが、そうなれは当然、それに反発する勢力もあるわけで・・・

今のところ、海運を独占する形になっている三菱商会に対して、ライバルとなる三井を中心とした勢力が政党や経済学者を巻き込んで反発し、三井VS三菱の抗争は社会問題にまでなっていたのですが、

そんなこんなの明治十八年(1885年)2月7日午後・・・

付き添い人や取り巻きを遠ざけた後、奥さんの喜勢(きせと息子の久弥(ひさや)と弟の弥之助(やのすけ)のみを側に呼んで、奥さんと息子には
「俺亡き後は、弥之助を俺やと思て、言う事聞けよ」
と言い、弟には
「万事、お前に任す…俺に代わって、何でもやってくたらええけど、俺が雇た使用人たちは、そのまま使うたってくれ。
他に言う事は無いわ」

と言うと、少しの間、目を閉じて横になりました。

実は、この7~8年前から、頭痛に悩まされて体調を崩していた弥太郎・・・少し前からは、もはや、以前のように仕事こなす事も難しくなっていた上に、この1年前には胃がんが発覚し、それからは、仕事はシャットアウトして、すべて弟の弥之助にやってもらっていたのですが、ここに来て、彼自身「いよいよか…」と思ったのでしょうか・・・

しばらくして目を開けた弥太郎は、よほど気がかりなのか?もう一度
「俺の雇うた使用人たちの事、頼むで…くれぐれも遠ざけるような事無く、世話したってくれよ」
と言い残したとか・・・

その後、母親の美和(みわ)さんが会いに来てくれたので、笑みを浮かべながら、
「今日は、随分と気分がええんですが、喉に何かつっかえた感じがあって、それだけが気がかりですわ。
けど、明日にでも床上げしますさかいに、心配せんといて下さい」

と言いながら、カッカッと大声で笑って、年老いた母を安心させたそうです。

しかし、それから間もなく、弥太郎は瞑想するがの如く、深く目を閉じ、その目が開く事は2度と無かったのです。

かくして明治十八年(1885年)2月7日午後6時30分、岩崎弥太郎は51年の生涯を閉じたのです。

その日の『東京日日新聞』は、
「世に並々の人ならんには、身を惜しみ財を惜しみて、臨終を潔くする能はざるべきに、此等の事共は恰(あたか)も土芥(どかい=土やゴミのような値打ちの無い物)の如く、臨終の一言只母を痛はり人を憐むのみなりし」
と、その最期の場面を報じています。

一説には、
「俺は、東洋男子として恥ずかしく無い生き方をして来たつもりだ」
という言葉を、日頃から口癖にしていた事を受けてか、
“東洋男子!”と大きく叫んで亡くなった=それが最期の言葉だった」という話もあるらしいですが、個人的には、お母さんを気づかうやさしい言葉の方が好みデス(*´v゚*)ゞ

その後の2月13日、午前中から行われた葬儀の後、午後3時半頃から墓地にて行われた埋葬式では、会葬者のために約6000坪の畑を借り受け、そこ一面に筵(むしろ)を2重に敷き詰めて人が座れるようにし、6万人分の料理やお菓子を用意をしていた岩崎家でしたが、身分の上下を問わず、来る者拒まず受け入れたので、午後4時半頃には、ほとんど無くなっってしまったそうで、その光景から察して、約7万人ほどの人々が参列したのではないか?と言われています。

なんか・・・スケールが違うな...(A;´・ω・)アセアセ

ちなみに、そんな弥太郎がやり残した事=三井VS三菱の抗争ですが・・・

ご安心を・・・
この弥太郎の死から約半年後の明治十八年(1885年)9月29日、お互いの共同出資という形で合同する事となり、日本郵船(にっぽんゆうせん)が設立される事となります。
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2015年7月31日 (金)

江戸城無血開城に尽力した「江戸幕府の三本柱」…大久保一翁

明治二十一年(1888年)7月31日、幕末維新の時代に政治家として活躍し、「江戸幕府の三本柱」の一人と称される大久保一翁がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

文化十四年(1817年)、旗本の大久保家に生まれた大久保一翁(おおくぼいちおう)・・・本名は大久保忠寛(ただひろ)さんですが、本日は、有名な方の一翁さん(隠居&剃髪後の名)で呼ばせていただきます。

Ookuboichio600a ・・・と、この一翁さんの大久保家は・・・そう、あの徳川家康(とくがわいえやす)三河時代からの譜代の家臣である、あの大久保の一門・・・

そんな中、それまでの通例通り、小姓に始まって、あれやこれやの役職をこなし、旗本としては最高の大目付にまで出世する一翁ですが、その先・・・本来なら大名の息子がなるべき若年寄まで出世するのは、やはり彼の実力と、そんな一翁の力を見出した阿部正弘(あべまさひろ)(6月17日参照>>)の先見の明・・・

そう、この先の歴史の流れを見て行くと、まさに、一翁が、いち早く描いていた流れの通りに進んで行くのです・・・つまり、一翁自身も、先を見る目を持っていたという事です。

そんな一翁が、その才能を見出して大抜擢したのが、あの勝海舟(かつかいしゅう)ですが、その海舟の話によると、一翁は幕府が倒れる12年前・・・と言いますから安政三年(1856年)頃でしょうか?
自宅を新築した際に、その海舟に対して
「この屋敷が完成するより、幕府が倒れる方が早いんちゃうかな」
と、冗談まじりに言っていたとか・・・

安政三年(1856年)と言えば、後に初代アメリカ駐日総領事となるハリス(7月21日参照>>)下田に初めてやって来た年ですやんか!!(゚ロ゚屮)屮早っ

実は、一翁さんは、幕府内でいち早く、あの大政奉還の青写真を描いていた人なんです。

「朝廷から任されている尊王攘夷(そんのうじょうい=天皇を大事に外国を排除)を実行できずにいて、天皇からの信頼が得られないのであれば、将軍職を返上して旧領の三河・遠江・駿河を領する一大名となったらええねん。
ほんで、全国の大名で作る議会によって国を運営すんねん」

と・・・

未だ初期の段階では、この一翁の案は一蹴され、幕府内部からは冷笑されたと言いますが、ご存じの通り、結果的には幕府の最終手段は大政奉還となっていきます。

なので、そんな一翁さんは、反対派を力で抑えて弾圧する井伊直弼(いいなおすけ)安政の大獄(2012年10月7日参照>>)にも大反対しており、おかげで、免職されて、しばらくの間失脚する事になりますが、この間にも
「内輪モメしてる間、外国への防御対策がストップすんのが残念」
と漏らしていたとか・・・

やがて、ご存じの桜田門外の変(3月3日参照>>)で井伊直弼が倒れた後に復帰・・・再び幕政に参加する事になった一翁は、その後、外国奉行などの要職を歴任しますが、この間にも先ほどの「将軍職を返上して…」の意見を度々プッシュした事から、その都度、上司から怒られ、職務を罷免されちゃぁ、また、別の要職に任命されをくりかえす中で、そんな状況にイヤ気がさしたのか?49歳で早々と隠居して、実際には、ここから一翁を名乗ります。

そして慶応二年(1866年)6月には、あの第2次長州征伐=四境戦争(6月8日参照>>)も開始されますが、これまでの様子でお察しの通り、この戦いに対しても一翁は
「無意味な戦いはやめなはれ」
と言っていたとか・・・

結局、この第2次長州征伐での幕府の手こずりぶり(7月27日参照>>)が幕末の動乱に拍車をかけ、翌年10月の大政奉還(たいせいほうかん)(10月14日参照>>)へとつながるのは、皆様ご承知の通り・・・ここで、ようやく一翁が描いていた青写真と重なりました。

しかし、その裏で「討幕の密勅(みっちょく)(10月13日参照>>)が薩長に下され、もはや事は、大政を奉還しただけでは済まされない状況となっていたわけで、12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)、さらに薩摩藩邸焼き討ち事件(12月25日参照>>)をキッカケにした薩摩討伐を訴える幕府の隊列を、薩長が阻止しようとして慶応四年(明治元年・1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)が勃発します。
(厳密には、その前日に海戦が勃発してます…1月2日参照>>

この鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗(にしきのみはた)を掲げてイケイケムードの薩長に押され気味だった幕府軍(1月5日参照>>)を察してか?幕府側の総大将であった第15代江戸幕府将軍=徳川慶喜(とくがわよしのぶ=厳密には大政奉還してるので、もう将軍ではありませんが…)が、掟破りの敵前逃亡・・・1月6日に、わずかな側近だjけを連れて本陣である大坂城を捨てて江戸へと戻ってしまったのです(1月6日参照>>)

その後、1月9日には大坂城が開城(1月9日参照>>)となって一旦終結した鳥羽伏見の戦いは、ここからは戊辰戦争と名を変え、薩長軍は江戸城を目指して東へと進む事になります。

ここで、抗戦ではなく恭順姿勢を貫く事を決意した慶喜(1月23日参照>>)の意を受けて、徳川家の存続に奔走するのが一翁たちです。

冒頭に「江戸幕府の三本柱」と書かせていただきましたが、その3本=3人は江戸無血開城に尽力した3人で、有名な西郷隆盛(さいごうたかもり)との会見を行って江戸城総攻撃を中止させた勝海舟(3月14日参照>>)、その会見のダンドリを組んだ山岡鉄舟(やまおかてっしゅう=鉄太郎)(2007年4月11日参照>>)、そして、江戸城内にて、未だ徹底交戦を訴える幕府の者たちの説得当たった一翁・・・この3人なのです。

さらに一翁は、この時、未だ江戸城内にいた第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の奥さんである和宮(かずのみや・静寛院宮=孝明天皇の妹)(1月17日参照>>)と第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の奥さんである天璋院・篤姫(てんしょういんあつひめ=薩摩からお嫁に…)(2008年4月11日参照>>)身の安全にも心を配ると同時に、イギリス公使パークスの説得も行っています。

上記の西郷と勝の会見のページにも、書かせていただきましたが、この話し合いで、西郷が江戸総攻撃を中止した要因の一つとして、パークスをはじめとする欧米列強が「総攻撃を決行した場合は薩長に協力しない」との姿勢をとっていた事が挙げられますが、それを説得したのが一翁だったわけです。

こうして、江戸城無血開城が成された後、残るは徳川家の存続ですが・・・開城から1ヶ月半後の5月24日、大総督府により、わずか6歳の徳川家達(いえさと)駿河70万石が与えられ、徳川家の存続が決定したのです(5月24日参照>>)

わずか6歳の駿河藩主・・・当然、未だ政務はこなせませんから、一翁が徳川家始末担当として補佐する事になりました。

維新後の版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)の時には静岡藩権大参事、明治四年(1871年)の廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)では静岡県参事に就任し、翌年には東京へと呼ばれて文部省二等から東京府知事まで・・・一翁は、様々な役職で様々な政務をこなし、新政府の議会政治の立ち上げにも尽力しました。

明治二十一年(1888年)7月31日大久保一翁は、病にて72歳の生涯を閉じますが、その直前、彼のお屋敷に勅使(ちょくし=天皇の使者)が訪れ、子爵従二位を授かった後、間もなく息を引き取ったと言います。

子爵(ししゃく)とは、華族制度の中の公爵(こうしゃく)とか男爵(だんしゃく)とかのアレですが、この位を授かるのは、武家の場合は、ほとんどが大名=元藩主・・・そんな中で、徳川家の家臣であった一翁が授かったのは、まさに、大久保家の出世頭と言える功績で、いかに、皇室からも信頼されていたかがうかがえますね。

幕末維新の動乱の時代を生き抜くには、時には、ズル賢く、要領よく波に乗らなくてはいけないかも知れません・・・なので、ドラマや小説の世界では、志半ばで散って逝く人とか滅びの美学やらにスポットが当たる事が多いです。

しかし、絶妙な駆け引きで生き残った人の中でも、一翁さんに悪い印象を持つ人は少ないでしょう・・・それは、やはり、彼の思いが私利私欲ではなく、「徳川家の存続」ただ一つであった事にあるのかも知れません。

三河の時代から、主君を守り続けてきた大久保家・・・その最後の最後を締めくくったのが一翁だったのです。
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2014年5月 3日 (土)

近代日本の教育者…伊沢修二

 

大正六年(1917年)5月3日、明治から大正にかけて教育者として活躍した伊沢修二が、67歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

嘉永四年(1851年)に信州(長野県)の高遠藩士の家に生まれた伊沢修二(いさわしゅうじ)ですが、家は20俵2人扶持の下級武士・・・しかし、そんな下級武士の彼らにも勉学の機会が与えられ、頑張りようによっては、その才能を以って世に出る事ができる土壌があったのが、夢多き幕末維新の頃・・・

Izawasyuuzi400 そんな幕末に、江戸や京都に出て蘭学を学んだ修二は、維新後の新政府にて文部省の出仕して文教官僚となり、明治七年(1874年)に愛知師範学校(後の愛知教育大学)校長となります。

翌・明治八年(1875年)には、「その目で先進国を見て来い」とばかりに、3年間のアメリカ留学の機会を与えられますが、これが、帰国後の修二の生き方を大きく左右する転機となりました。

後の彼に大きな影響を与える事になる二人の人物に出会うのです。

一人は、電話の発明で有名なアレキサンダ・グラハム・ベル・・・ずいぶん前にチョコッとだけ書かせていただきましたが、その電話が完成して間もなくの頃、「日本語でも通じるのか?」という疑問を抱いて研究室を訪問した日本人留学生の一人が、彼=修二だったのです(12月16日参照>>)

伝記などでご存じの方も多いかと思いますが、ベルは、お母さんが聴覚障害を持っていて、母の苦悩を少しでも和らげようと様々な事を学び、電話の発明も、「母に音の波長を見せたかったから」なんて事も言われますね。

なのでベルは、手話視話法(口の開き方など見た目からの発音の指導法)もマスターしており、そのような障害を持つ人たちへの教育方法についても研究していたのです。

後に東京盲唖学校(後の筑波大学附属視覚特別支援学校)の校長になった時には、その時ベルから教わった視話法を日本の教育現場に取り入れる事になります。

そして、もう一人・・・ルーサー・メーソンという人物です。

アメリカ留学中にはハーバード大学にて理化学を学んだり地質研究などもこなしていた修二ですが、同時に、そのメーソンから音楽教育も学んでおりました。

留学を終えて帰国した翌年の明治十二年(1879年)、修二は東京師範学校(後の筑波大学)の校長になりますが、その時感じたのが、日本における音楽教育の遅れ・・・

なんせ、当時は、教えるべき教材もなければ、教える事のできる先生さえいない・・・なので修二は、それらの問題を指摘し、文部省に音楽教育機関の設置をかけあったのです。

進言が聞き入れられて、文部省内に立ちあげられた音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)に任命された修二は、早速、音楽の恩師であるメーソンをお雇い外国人として日本に招きます。

そして、彼らが最初に行った仕事が『唱歌集』の編集でした。

「唱歌」という言葉自体は、平安の昔から雅楽の世界で使われており、室町時代にも歌の歌詞の事を「唱歌」と称する事もあったようですが、ここで言う『唱歌』は、いわゆる「学校の音楽で習う歌」という意味の唱歌・・・

いや、むしろ、ここで言う「学校で習う唱歌」が、この後、あまりにも一般的になってしまった事で、現在では「唱歌と言えば学校で習う物」という認識が強く、いわゆる英語で言うところの「song」「歌曲」「楽曲」などと呼ばれ、古来使われていた雅楽の譜面を声に出す意味の唱歌も、逆に「譜唱」などと言われるほどに、唱歌=学校のイメージがついちゃうわけですが・・・

それは、言いかえれば、そんだけ「学校で習う唱歌がスゴかった」という事なんです。

そう、これまでの日本人のほとんどが接する事が無かった洋楽というモノ・・・そんな洋楽、あるいは洋楽風の曲を、それも、子供でも覚えやすい短い曲に仕上げ、そこに、見事にマッチした日本語の美しい歌詞を付け、初等・中等の学校で一斉に教える・・・

今の今まで、これだけ独自の文化を育んで来た国民が、この唱歌のおかげで、短期間に、かつ一斉にして他民族が造り上げた音階やリズムに親しみを持ち、吸収する事になったわけで・・・こんな事って、世界広しと言えど、なかなか無いのでは?

皆様よくご存じの「蝶々」スペイン民謡
「蛍の光」スコットランド民謡
「霞か雲か」ドイツ民謡・・・『唱歌集・初編』に掲載されたこれらの歌は、今でも、歌われます。

もちろん、日本の伝統的な音楽を引き継いでいく事も重要ですが、明治維新を迎えて、世界に広く目を向け、近代的な文化を身につけねばならない頃のやり方としては、なかなかの物じゃないでしょうか?

アホみたいな例えですが、ひと昔前のアニメソングに似てる気が…(*゚ー゚*)

あくまで、個人的な考えですが・・・今では、アーチストやアイドルのヒット曲の一つのようになってしまってるアニソンですが、ひと昔前は、小さな子供が世界の音楽に触れる機会であったように思います。

イタリアの少年が南米を旅する「母を訪ねて三千里」のテーマ曲は、その頃には、未だ一般的には馴染みの薄かったケーナの伴奏によるフォルクローレ風の曲で、しかも、南米特有の途中で曲調が変わるフーガの形式を取り入れたような曲でした。

アメリカの農村が舞台だった「あらいぐまラスカル」は、バンジョーを使ったカントリー調、ご存じの「アルプスの少女ハイジ」に至っては、ホルンはもちろん、スイスで録音した本物のヨーデルのコーラスから始まる・・・といった具合。

それは「世界名作劇場」やからやないかい!とお思いかも知れませんが、いえいえ、当時の子供たちは、あの「妖怪人間ベム」ジャズっぽいテーマ曲に、怪しげな夜の大人の世界を感じた物です~。

・・・とまぁ、話が脱線してしまいましたが、そんな感じで、テレビもCDもYouTubeも無い時代に、子供たちを世界の音楽に触れさせ、それを楽しむ機会を与えてくれたのが、修二たちの作った『唱歌』だったという事なのです。

その後も、教科書検定制度を実施たり、台湾総督府学務部長になって台湾に行ったり、貴族院議員として学制改革に力を入れたり・・・と、とにかく教育改革に奔走した修二・・・

何でもやってのける行動力があるぶん、感情のままに突っ走るところがあり、これだけ教育に力を入れながら、結局のところ、文部大臣にさえなれなかったと言われる彼ですが、大臣の椅子に座るより、立って行動する方が、彼の性分には合っていたのかも知れませんね。
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2014年1月23日 (木)

新しい時代を担う後継者を育てたい~新島襄の思い

 

明治二十三年(1890年)1月23日、明治初頭の宗教家で教育者・・・最近では、昨年の大河ドラマの主役であった新島八重さんの旦那さんとして知られる新島襄がこの世を去りました。

・・・・・・・・・

天保十四年(1843年)、江戸の上州安中藩江戸屋敷にて、安中藩士・新島民治(たみはる)の息子として生まれた新島襄(にいじまじょう=本名は七五三太(しめた))は、13歳から蘭学を学び始め、ある時、『連邦史略(れんぽうしりゃく・連邦志略)という書物に出会います。

これは、アメリカの地理や歴史をわかりやすく紹介した、言わばアメリカの入門書のような物で、アメリカの牧師さんが書いた物を中国語に訳したもの・・・

後に彼が
「脳髄がとろけ出るほど驚いた」
と語っているように、襄少年は、この書物にてアメリカを知り、人生の転機となったのです。

そうです・・・まさに、彼が、この本を読みふけっている時に起こっていたのが、嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)に始まる幕末の動乱・・・

天皇の許可なくアメリカとの条約を結んだ大老の井伊直弼(いいなおすけ)(10月7日参照>>)は、安政六年(1859年)に、それに反発する攘夷派を押さえこむ安政の大獄を実施・・・しかし、その直弼は翌年の3月に桜田門外の変で暗殺され(3月3日参照>>)・・・

と、佐幕派(幕府寄り)尊王攘夷派(外国を排除)に真っ二つに分かれ、命がけで日本の明日を模索する志士たち・・・

そんなさ中の元治元年(1864年)、襄も、彼らのように命をかける決意を固めるのですが、それは佐幕だ攘夷だと言うのではなく、その目でアメリカを学ぶ事・・・襄は、その理想を日本の外に求めたのです。

当時は、外国への渡航はもちろんご法度・・・それを、脱藩して、さらに密航という形で外国へ行くというのは、まさに、命をかけた旅立ちでした。

函館に停泊していたアメリカ船に忍び込み、日本を飛び出した襄は、途中で乗り換えた船でボーイとして働き、ここで「Joe(ジョー)と呼ばれた事から、以後、自ら襄と名乗るようになりました。

旅の途中、上海やら香港やらを経由する中、彼が見たのは欧米列強の下で負け組となってしまっていた東洋の姿・・・この状況を見て、おそらくは日本の未来を憂いたであろう襄は、自身が持っていた日本刀を船長に売ります。

それは襄にとって、古い日本との決別であった事でしょう。

そして、その得たお金で聖書を購入・・・こうして襄は、キリスト教の教えを通じて、外国の事を学びはじめるのです。

やがてボストンに上陸した彼は、乗って来た船の船主であるA.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学し、アカデミー卒業後は、名門のアマースト大学に進学し、ここも見事、卒業・・・

この間に、日本は維新を迎えるわけですが、そんなこんなの明治5年(1872年)、アメリカに派遣されていた岩倉使節団(10月8日参照>>)の通訳を頼まれます。

あの木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)が襄の語学力に目をつけたのです。

しかし、官費で語学力を身につけた他の留学生と違って、自分は、言わばフリーランス・・・抵抗もありましたが、一方では、これは、日本の首脳陣に、ナマの外国を自身の言葉で紹介できる絶好のチャンスでもありました。

快く引き受けた襄は、通訳のかたわら、自らが見聞きした外国のすばらしさを使節団に厚く語ったと言います。

また、一方で、この通訳の一件から、襄は、日本へ戻る事を考えるようになります。

それは、後世へとつなげる人材育成・・・単に、外国の進んだ制度を学んで導入するのではなく、彼は、そんな進んだ制度を構築した人物に目をつけ、日本において、そんな人材を育てたいと思うようになっていたのです。

Niizimazyo400 こうして、アンドーヴァー神学校を卒業した後、明治8年(1875年)には宣教師志願者の試験に合格し、宣教師として日本に帰国した襄・・・

当初は大阪にて、人材育成のためのキリスト教の学校を設立しようと奮闘した彼でしたが、ご存じの通り、未だ日本では、キリスト教は邪教扱い・・・周囲の猛反対でなかなかうまく行かず・・・

やむなく、京都での開校を目指していたところ、京都府知事槇村正直(まきむらまさなお)京都府顧問山本覚馬(やまもとかくま)(5月13日参照>>)の賛同を得る事に成功し、明治八年(1875年)、晴れて同志社英学校を開校する事ができたのです。

大河ドラマをご覧になった方は、よくご存じでしょうが、覚馬の妹の八重さん(6月14日参照>>)と出会って結婚するのもこの頃ですね。

そして、ドラマにもあったように、その後の襄は、宣教師として伝導活動を続けるかたわら、同志社を大学にするべく奔走する事となるのですが、一方で、その一所懸命さゆえに、知らず知らずのうちに無理をしていた体が、徐々に悲鳴をあげはじめるのです。

やがて医師から、彼が心臓病であり、余命がそう長く無い事が告げられるのですが、それでも大学設立のための募金活動をやめようとしない襄に対して、心配する八重は度々キレるのですが、そんなこんなの明治二十二年(1889年)、温暖な地で療養に励むべく、神奈川県大磯の百足屋旅館の離れで静養する事となりました。

この時、本来なら片時も離れたくなかった奥さんの八重さんですが、襄が「80歳になる母の面倒をみてほしい」と頼んだ事から、彼女は同行しませんでした。

ところが・・・
年が明けて間もなくの正月19日午後・・・京都にいる八重のもとに「新島危篤」の電報が届くのです。

早速、翌日の朝一の電車に飛び乗り、午後10時頃大磯に到着した八重に向かって、襄は、
「今日ほど、あなたを待つのが長かった一日は無かったですよ」
と・・・

この襄の言葉には、あの気の強い八重が、ひと目もはばからず泣きじゃくったのだとか・・・

やがて同志社の卒業生や学生が集まる中、死期を悟った襄は。
「私はまもなく天に召されます」
と言い、後述筆記にて30もの遺書を残します。

八重には
「私の死後に記念碑など建てないでほしい…1本の木に『新島襄の墓』と書いておいてくれれば十分です」
と・・・

こうして、明治二十三年(1890年)1月23日の深夜・・・
「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」
との最期の言葉を残した新島襄は、愛する八重さんの手を枕に、その48歳の生涯を終えたのです。

奥さんの八重さんをはじめ、彼の志しを継ぐ、残された人々にとっては、それこそ、まだまだ続く苦難の道が多々あった事でしょうが、襄の残した同志社大学が、この平成の世に、関西屈指の名門大学として名を馳せている事が、襄の抱いた志しが、今も現在進行形で受け継がれているという証だと言えますね。
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2013年9月 1日 (日)

幕末と維新後でイメージ違う…志道聞多こと井上馨

 

大正四年(1915年)9月1日、幕末維新に活躍した長州藩出身の政治家・井上馨が、79歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

先日ご紹介した同世代の黒田清隆(きよたか)さん(8月23日参照>>)の時も「その評価が分かれる」と書かせていただきましたが、本日ご紹介する井上馨(いのうえかおる)さんも・・・ただ、この方は、人によって、あるいか解釈の仕方でというのではなく、幕末期と維新後で大きく評価が変わる人なのです。

Inouekaoru600 天保六年(1836年)に、長州藩士・井上五郎三郎光亨の次男として、周防国(山口県)湯田村(山口市湯田温泉)に生まれた井上馨は、一旦、長州藩士・志道家の養嗣子となって、通称:志道聞多(ぶんた)を名乗った後、再び井上家に復籍・・・なので、幕末期は井上聞多の名前で有名ですね。

・・で、この井上家も志道家も、代々毛利家に仕えていた名門で、下級武士の活躍が目立つ幕末の志士の中では、けっこうなお坊ちゃんだったわけですが、それにも関わらす、幕末時代はかなり危険な事をやってのけていて、何度か危機一髪を味わった事もありました。

あの高杉晋作(たかすぎしんさく)らとともにイギリス公使館を焼き打ち(12月12日参照>>)した時には、一人取り残されて、あわや焼死の寸前に・・・

また、禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)の後のゴタゴタでは、それこそ命を狙われて、もはやあきらめムードも漂いましたが、見事、復活・・・(9月25日参照>>)

このあたり・・・かの晋作や伊藤博文(いとうひろぶみ=俊輔)らとともに、文字通り命を賭けて縦横無尽に活躍するところから、勤皇の志士としてのイメージは良好なわけですが・・・

そうです。
冷静になって考えれば、彼ら勤皇の志士は、討幕&革命という大義名分があり、最終的にその目標を果たして勝ち組になるので、それが罪に問われる事は無いわけですが、本当なら、そのやって来た事は、完全に犯罪となる行動です。

維新が成って、法律の名のもとに歩み始めた近代国家では、「勝ち組だから何でも許される」わけでは無いわけで、そこのところは、速やかなる気持ちの切り替えが望まれるわけですが、それこそ、人智を越えたスピードで変化を遂げる維新の渦中では、それも、なかなかに難しいわけで・・・

そんな中で、新政府のもと外務卿として活躍する井上は、あの鹿鳴館(ろくめいかん)(11月28日参照>>)を建設します。

この鹿鳴館は、外国に追いつき追い越せとと頑張る新生日本にとって、その外国人との交渉をうまく進めるための社交場としての重大な役目を担って、鳴り物入りで建設されたわけですが、実際には、急務であった条約改正も問題山積みで思うように進まず(10月8日参照>>)、結局は、金持ちの遊び場のようになってしまい、彼も外務卿を辞任せざるをえませんでした。

さらに、井上薫の評判を悪くしたのは、尾去沢銅山事件です。

これは、あの佐賀の乱を起こした江藤新平(4月13日の真ん中あたり参照>>)のところでもチョコッと書かせていただきましたが、旧南部藩(岩手県)の御用商人だった村井茂兵衛(もへい=鍵屋)に、当時、大蔵大輔(たいふ)だった井上が、

江戸時代の証文をたてに借金の返済を迫り、茂兵衛の所有していた尾去沢鉱山(秋田県)を没収・・・しかも、自分の腹心だった岡田平蔵に競売で払下げたのです。

・・・で、納得のいかない茂兵衛が、初代・司法卿を務めていた江藤新平に訴えて、江藤が厳重な処分をすようとしたところ長州閥の木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)が阻止・・・

その後、司法卿が大木喬任(これとう)に代わってから、再び取り調べが再開され、厳重な処分を求める声も出ましたが、結局、大蔵省から茂兵衛に2万5千円の還付金を支払う事と井上が30円の罰金を支払う事を決定しただけで、なんとなくウヤムヤな形で事件解決となります。

その理由としては・・・
「維新が成った後、井上は、旧時代の各藩の財政を中央政府にまとめるにあたって、わずかの期間でこれをこなしたのだから、その時に、多少の不備ややり間違いがあっても仕方ない」
のだそうです。

なんか、よくワカラン曖昧な表現・・・

しかも、かの銅山はそのまま岡田が所有し、井上も元老院議員として政治生命が保たれたのですから、納得がいかないモヤモヤ感満載・・・

ただ、それが、幕末から明治への転換期という事なのかも知れません。

政治に貪欲で敏腕でなければ、事をうまくこなせませんが、そんな人は、政治以外の事にも貪欲で敏腕なわけで・・・井上の場合は、それがお金に関する事だったわけで・・・

こうして、明治初期の汚職に関しては酷評を受ける井上さんですが、一方では「電光石火の如く難問を解決する政治手腕を持っていた」とか「世話好きの人の良いオッチャンだった」なんて話もあり・・・

だからこそ、汚職まみれでも、必要とされたのかも知れません。

大正四年(1915年)9月1日最後まで政財界へのい影響力を持ちつつ、井上薫は79歳の生涯を閉じました。
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2013年8月23日 (金)

北海道開拓に尽力した黒田清隆

明治三十三年(1900年)8月23日、薩摩藩出身で、明治維新後には政治家として活躍した黒田清隆が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

天保十一年(1840年)に薩摩・鹿児島城下の下級武士の家に生まれた黒田清隆(くろだきよたか)は、20歳を過ぎた文久二年(1862年)に、随行員の一人として、あの生麦事件(8月21日参照>>)に遭遇します。

その後に起こった薩英戦争(7月4日参照>>)で初陣を飾った後、同じ薩摩藩の大山巌(いわお)らとともに、江戸にて西洋砲術をミッチリ勉強・・・翌・元治元年(1864年)の禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)にも参戦しました。

Kurodakiyotaka600 慶応二年(1866年)の薩長同盟(8月6日参照>>)の時には、西郷隆盛(たかもり)大久保利通(としみち)の下で連絡役として長州(山口県)に赴いて長州側を説得・・・最終的に西郷と桂小五郎(後の木戸孝允)対面を実現させた功労者の一人でもあります。
 .

慶応四年(1868年)に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)では薩摩藩の小銃第一隊長として参戦した後、新政府軍の参謀となって北越戊辰戦争(5月19日参照>>)へと展開・・・この時には、庄内藩の降伏に関して寛大な処置をとったと言います。

戊辰戦争も最終段階となった函館戦争にも参謀として赴き、抵抗を見せる榎本武揚(えのもとたけあき)を説得・・・結局、榎本は大切な『海律全書(かいりつぜんしょ=国際法の原書)を黒田に託して降伏しました(5月18日参照>>)

この時、榎本の才気と心意気に惚れ込んだ清隆は、頭を丸坊主にして榎本の助命嘆願に奔走したのです。

さらに維新後には、北海道開拓次官から長官に任命され、北海道の開拓に従事・・・この時に先の函館戦争で敗戦した将兵を起用して実務能力を発揮させるほか、同時に育て上げた屯田兵(とんでんへい)(1月12日参照>>)は、あの西南戦争(4月15日参照>>)の時にも大活躍しました。

もちろん、「少年よ!大志を抱け」でお馴染のクラーク博士(4月16日参照>>)をはじめとするお雇い外国人を積極的に招いて、次世代の人材育成にも尽力・・・

また、明治二十一年(1888年)には、あの伊藤博文(12月22日参照>>)の後を継いで、第2代内閣総理大臣に・・・

・・・と、ここまで華麗な経歴をご紹介して参りましたが、幕末維新にこれだけの活躍をしていたなら、けっこうな頻度でドラマの主役になっていそうですが、今のところ、そうでもない・・・

実はこの黒田清隆さん・・・その評価が分かれます。。。てか、あまり評判が良くありません。

そもそも、ものずごい酒乱だったようで、度々泥酔しては手のつけられない暴れようで、開拓長官として乗った船での宴会で酔った際には、その勢いで船の大砲を試し打ち・・・誤って島の住民を殺害してしまった事も・・・

その時は、示談で内々に済ませたものの、明治十一年(1878年)に奥さんが亡くなった時には、病死だったにも関わらず、「酒に酔った清隆が殺害した」なんて噂が飛び交い、同じ薩摩出身の大警視・川路利良(としよし)が、「病死に間違いない」という声明を正式に発表せざるを得ないほどの騒ぎになったとか・・・。

また、北海道開拓に関しても独断専行が目立つうえ、明治十五年(1882年)で廃止が決まっていた開拓使が行っていた事業を、法外な安価で民間に払い下げる事を決定し、しかも、それが同郷の薩摩出身者ばかりを優遇しているとして大問題となり、これは、大隈重信(おおくましげのぶ)の失脚劇=明治十四年の政変(10月11日参照>>)にもつながりました。

とは言え、この時に大隈と同調した三菱の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)も、「肥前(佐賀県=大隈)と土佐(高知県=弥太郎)で薩摩閥を倒す」なんて息巻いていたようで、何となく、明治政府内外と藩閥の利益不利益が複雑に絡んでいて、一概に、何が悪で何が善かなんて事は言えないようなのですが・・・

とにもかくにも、精一杯、北海道の開拓に心血を注いだ事は確かですし、ただの酒乱オジサンなら、近代国家として動き始めたばかりの明治という時代に、総理大臣になれるはずもなく・・・そこには、やはり国のリーダーとしての器を持っていたという事でしょう。

明治三十三年(1900年)8月23日脳出血で61歳の生涯を閉じた黒田清隆・・・葬儀委員長は、あの函館戦争で、清隆が助命に奔走した榎本武揚が務めたという事です。
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2013年7月31日 (水)

大阪駅の変貌~大火で消えた幻の曽根崎川

明治四十二年(1909年)7月31日、後に「キタの大火」と呼ばれる事になる大きな火災が、現在の大阪駅南側で発生しました。

・・・・・・・・・・・

少し、大阪ローカルな話題で恐縮ですが・・・
その昔、現在の北新地のあたりには川が流れていた・・・というお話。。。

とは言え、JR大阪駅は、さすがに大阪の玄関口でもありますから、たとえ遠方にお住まいの方でも、1度は立ち寄られた事があるかも知れません。

そんな大阪駅周辺は、一般に「梅田」と呼ばれますが、これは、梅田宗庵(そうあん)なる人物の所有地だったからとか、その昔は低湿地帯で水浸しだったこの地を泥や土で埋めて田畑にした事から「埋田」と呼ばれていたのが、何となく字の雰囲気が悪いとして「梅田」とするようになったとか言われていますが、そもそも、江戸時代には、ここに火葬場がありました。

以前、江戸時代の「大坂市中引き回し」のコースを歩いた時のページ(12月17日参照>>)で、千日前に刑場があったお話をさせていただきましたが、江戸時代の大坂の南の果てが千日前なら、北の果てが、この梅田あたりだったわけです。

江戸時代の初期には、城下の復興事業の一環として、それまでバラバラに点在していたお墓を、曽根崎周辺に移転させた事で、「梅田墓」と呼ばれ、近松西鶴の作品にも、その名が登場する有名な墓地でした。

ちなみに、その墓地の名残りは、ごくごく最近まで、大阪駅北側の貨物の梅田駅の所に、一部が残っていたのですが、ここ数年の梅田北ヤードの開発で存亡の危機となり・・・現在の所、どうやら、阪急の梅田駅の所のように、後に1か所に集めて供養される方向にあるらしく、一旦撤去されているようです。

もちろん、周辺全部がお墓だったわけではなく、そばには美しい田園風景が広がっており、「梅田の牛駆け」という、菖蒲やツツジの花でキレイに着飾らせた牛を農夫が引きながら周辺を練り歩いて粽(ちまき)をまくという、農業中心ならではのお祭りも、江戸時代には行われていたのだとか・・・

そんな梅田周辺の風景が一転するのが明治時代・・・

そう、あの新橋⇔横浜間に日本初の鉄道が開通した(9月12日参照>>)2年後の明治七年(1874年)に大阪⇔神戸間の鉄道が開通し、それと同時に、ゴシック風赤レンガ造りの駅舎が誕生・・・これが、現在のJR大阪駅で、当時は、「大阪停留所」とか「梅田すてんしょ」と呼ばれました。

とは言え、その敷地内には、例の梅田墓地が健在であり、周辺は水田と草原だった事もあり、終電が終わると真っ暗闇に包まれ、人っ子一人寄りつかないような場所だったようです。

なんせ、もともと、駅は、江戸時代から蔵屋敷などが建ち並ぶ繁華街だった堂島あたりに造られる予定だったのが、住民の反対やら、土地買収の資金不足やらによって、地価の安い辺鄙な場所だった梅田に変更されたという経緯があったわけで、駅ができたとて、駅以外は何も無いところだったのですね。

しかし、開業当時は貨物の輸送が中心だった運輸業も、しだいに旅客運送が増加するようになり、やがて、大阪市電が乗り入れた明治三十八年(1905年)には、駅の敷地も北東側に大きく広がって現在の位置に移転する中、

翌・明治三十九年(1906年)には阪神電気鉄道が、やがて明治四十三年(1910年)には箕面有馬電気軌道(現在の阪急電車)が開業し、大阪駅周辺は飛躍的に発展する事になるのですが、その阪急電車参入の1年前の明治四十二年(1909年)7月31日に起こっていたのが、今回の「キタの大火」です。
(ちなみに、ウチの近所の爺ちゃん婆ちゃんなどは「天満の大火」と呼んでましたが…)

もちろん、火事はあってはならない悲しむべき出来事ですが、江戸時代の明暦の大火(7月18日参照>>)を見ても解る通り、それによって、古い町並みが再構築され、その悲しみをバネに新たなる発展を遂げる事も確か・・・。

この日=7月31日の早朝、空心町(現在の天満橋界隈)から出火した火は、強い東風にあおられて、西へ西へと広がって堂島小橋あたりまで到達・・・丸1日燃え続け、鎮火したのは、翌・8月1日の午後4時頃だったそうです。

焼失面積は約120万平方メートルにおよび、多数の人が焼け出されました。

実は、この時の瓦礫の捨て場となったのが、大阪駅のそばを流れていた曽根崎川だった・・・そう、この曽根崎川は、大火の瓦礫によって埋め立てられ、その姿を消す事になったのです。

↓は、現在のグーグルマップ

大きな地図で見る

↓は、ほぼ同じ位置の明治三十年(1897年)発行の大阪市全図(大阪駅周辺部分)ですが、
Oosakasizennsum30a800
大阪駅と堂島川(中之島の北側の川です)の間にあった川が、現在は無くなっているのがよくわかります。

この曽根崎川の跡地に誕生したのが、現在の北新地・・・ご存じのように、そこは、この先、大阪屈指の繁華街となって、大阪駅周辺の発展に拍車をかける事になるのです。

(※グーグルマップを大きくして見ていただくとわかるのですが、大阪駅南側を東西に走る国道2号線の交差点名が、「桜橋」「出入橋」「浄正橋」となっていて、昔に川が流れていた名残りが感じられます…ちなみに、昔は「出入橋」と「浄正橋」の間に「梅田橋」という橋も架かっていました。)
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