2009年12月 9日 (水)

「明暗」を書き終えたら・・・夏目漱石のやり残した事

 

大正五年(1916年)12月9日、明治・大正時代の文豪・夏目漱石が50歳の生涯を終えました。

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もはや、説明もいらぬほど、超有名な夏目漱石さん・・・一昨年のこの日には、そのペンネーム・漱石の由来など書かせていただきましたが(2007年12月9日参照>>)、本日は、その執筆中に亡くなった事から、結果的に最後の作品となった『明暗』・・・

実は、漱石さんには、「この『明暗』を書き終えたらやりたい事があった」というお話をさせていただきます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

明治三十八年(1905年)、大学講師のかたわら『吾輩は猫である』で作家デビューを果たした翌年・・・そのデビュー作が大人気となっていた頃の漱石を訪ねて、ある人物がやってきました。

それは、三崎座という芝居一座の興行主の男で、
「今、人気の小説を、ぜひ舞台化したい!」
と、原作者である漱石の許可を得るためにやって来たのでした。

そこで、漱石・・・
「・・・で、どんな芝居になるのかな?」

「ハイ、役者を全員、女の役者にしまして、彼女らに男装して演じてもらいます。
もちろん、作品のこっけいな部分を充分に活かしたオモシロイ芝居に仕上げてみせます」

「ふ~~ん」
「コレ、絶対!当たりまっせ~」

結局、漱石は、この芝居興行を許可し、出来上がった芝居は、なかなかの評判となります。

未だ、教師の仕事をしていた時ですから、教え子の中には、
「先生! 先生の『猫』の芝居、見てきましたよ!」
「なかなかおもしろかったですよ」
「一度、先生もご覧になれば?」

と、言う生徒も多くいたのだとか・・・

ところが、漱石自身は、この芝居の話にはあまり良い顔をせず、もちろん、その勧めに応じることもなく、・・・結局、一度も芝居見る事がなかったので、生徒たちは、皆、「先生は、お芝居がお嫌いなんだ~」なんて事を、思っていたようです。

しかし、後日、漱石が友人に宛てた手紙には・・・
『猫』を芝居にするんなら、どんな演出にしたらえぇか、俺に聞きにきたらえぇもんを・・・三崎座のヤツは、まったく聞きに来よらん!」
「女の役者を使たりなんかして、小手先だけの演出なんぞ・・・」
『猫』は、俺が監督せなアカンのや!」

と、不満ムンムンのご様子・・・

そうです。
漱石が、一度も芝居を見に行かなかったのは、芝居が嫌いなのではなく、むしろ「大好き!」・・・

それも、自らが演出をつけたいほど大好きだったのです。

30代の頃、英語の教育者であった漱石の専門はイギリス文・・・それも、シェイクスピアの研究に没頭していたようなのです。

ちょうど、その時期に、英語教育研究のため、イギリス留学した漱石は、その間に何度も現地の芝居を見にいきました。

ヴィクトリア朝時代の最盛期だった当時のイギリスでは、その舞台衣装は華やかで、舞台装置にも、本物の噴水を用意したり、煌びやかな電飾を配したりと、その演出も最盛期でした。

ロンドンから送られきた漱石の手紙には、
「こっちの舞台は、まるで竜宮城だ!」
なんて、感激のコメントも書かれていたそうです。

一方で、作家となってからの新聞の文化欄などへの批評として、
「歌舞伎の演出はオーバーすぎる」とか
「人間の動作として不自然」とか、
痛烈な批判を書いています。

まぁ、歌舞伎の動作の不自然さは、むしろ、それが歌舞伎の魅力であって、それは、ミュージカルを見て、「あの場面で、急に唄い出すのはオカシイ」と言ってるようなものなのですが、漱石としては、どうしても好きになれなかったようです。

とは言うものの、歌舞伎の衣装の煌びやかさ、踊りの美しさは認めていたようですので、漱石としては、
1、リアルで自然な演技
2、派手な衣装と演出
3、とにかく楽しい

・・・てのが、お好みだったようです。

そんな漱石に、千載一遇のチャンスがやってきます。

それが、最後の作品=『明暗』を執筆していた大正五年(1916年)の事・・・

新聞連載に忙しくペンを走らせる漱石に、弟子であり、当時は演出家をしている小宮豊隆(こみやとよたか)という人物が訪ねてきて、
「先生!この連載が終ったら、今度は、新聞で芝居の脚本を連載されたらどうですか?」

おそらく、この小宮という人は、漱石の弟子であった時代に、彼の「芝居好き」「演出やりたい」の気持ちを見抜いていたのかも知れませんねぇ~~しかも、漱石が、自らそれの口火を切る人ではなく、誰かから背中を押されてやるタイプだという事も・・・

しかし、元弟子の手前、師匠としては、うれしい提案に小躍りしてしまう軽さを見せるわけにはいきませんから・・・

「そんな事・・・新聞社が納得するわけないだろう
 
(小宮エライ!お前、えぇ事言う!)
「ええ!って事は新聞社がOKなら、先生はヤル気アリなんですね?」
「おいおい、小説枠に芝居脚本など前代未聞だゾ~
 
(ええぞ!小宮!新聞社に掛け合うて来い!)
「いいですか?聞いてきますよ!」
「おいおい、君は何を考えているんだね~
 (はよ、行って来いや!小宮!)

・・・と、一旦、退席した小宮が、再び戻り・・・

「先生!担当者も、それはオモシロイかも・・・って言ってくれました!OK出ましたよ!明暗の次は、芝居の脚本です!楽しみだなぁ~」
「おいおい、君は書く私の気持ちも確認しないまま、勝手に決めて来たのかい?
 (ヨッシャー!!!)
「そ、そうですよね・・・スミマセンヾ(_ _*)つい、気持ちがハヤッてしまいました。
一つの芝居脚本をコマギレに連載なんて無理ですよね~やっぱ、もう一度、新聞社に言って断ってきますね」

「いや、いいよ、向こうは君の事を、僕の代理と思ってるかも知れない。そしたら、僕は、自分で提案しておきながら、すぐに断った事になって、それはそれで失礼だろう
 (アカン アカン・・・断ったらアカンでぇ)
「そうですかぁ・・・」
「『明暗』の次には、脚本を書く事にしよう
 (小宮、ようやった!俺、頑張るからな!)
-以上()内は漱石の心の叫び(想像)-

しかし、漱石は、未だ『明暗』執筆中の大正五年(1916年)12月9日胃潰瘍(いかいよう)の悪化によってこの世を去ります。

小宮は、漱石の死から、ずっと後に発行された岩波文庫の『漱石全集』の解説文で、「先生の脚本を楽しみにしていたのに・・・」と語っていますが、小宮ならずとも、残念でなりませんねぇ。

リアルで自然でギャグ満載のド派手な舞台・・・いったい、どのような作品になったのやら・・・

日本の近代文学史に燦然と輝く最高の小説家=夏目漱石・・・しかし、そんな彼も、やはり志半ばで無念の死を遂げた事になります。
 

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2009年12月 7日 (月)

形なき未来への遺産~佐野常民の博愛精神

 

明治三十五年(1902年)12月7日、日本赤十字社の創始者として知られる佐野常民が80歳の生涯を終えました。

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佐野常民(つねたみ)は、文政五年(1822年)に、佐賀藩士・下村充贇(みつよし)の五男として肥前国佐賀郡に生まれました。

12歳の時に、藩医だった佐野常微(つねあき)の養子となって佐野の姓を名乗り、その後、藩の命令で江戸や京都・大坂で遊学します。

あの緒方洪庵(こうあん)適塾で学んだ時は、大村益次郎をはじめとする将来の大物との交流も篤かったのだとか・・・

この間、養父の事もあって医学を中心に学ぶ常民でしたが、同時に物理学や化学も学びつつ、嘉永六年(1853年)には、佐賀に戻って佐賀藩精錬方主任となります。

そこで、蒸気船や蒸気機関車の模型制作などを行いながら、幕府が長崎に設立した海軍伝習所では、航海術や造艦、砲術なども習得していき、文久三年(1863年)には、日本初の蒸気船・凌風丸(りょうふうまる)を完成させたと言いますから、そのマルチな才能は限界を知らず・・・といった感じですね~

この間に藩主・鍋島直正に海軍の必要性を説き、自ら海軍所の責任者となって三重津海軍所も創設しています。

やがて、慶応三年(1867年)に開催されたパリ万博に、佐賀藩が出展していた関係から、佐賀藩団長として万国博覧会に派遣された常民は、そこで、人生を変える二つの物と出会います。

一つは、産業を発展させる万国博覧会そのもの・・・そして、もう一つは、その会場でスイス人・アンリー・デュナンが提唱した赤十字社の活動でした。

やがて、明治維新となった後、海軍の知識をかわれて兵部省(ひょうぶしょう)に入った常民は、日本海軍の近代化に尽力する・・・はずでしたが、薩長中心の政府首脳との関係が、必ずしも良好でなかった彼は、志半ばで別の世界へ飛び込む事になります。

明治五年(1872年)には、日本の産業近代化をめざして湯島聖堂にて日本初の博覧会を開催したり、その翌年には、多数の技術者を率いてウィーン博覧会へとおもむき、最先端の技術を見学する貴重な体験をしたり・・・

彼の体験は、膨大な報告書として記録され、日本産業の近代化への指針となりました。

一方で、この頃から士族の叛乱が立て続けに勃発します。

常民と同郷の江藤新平が起した佐賀の乱(2月16日参照>>)
そして、ご存知、西郷隆盛西南戦争(1月30日参照>>)

かつて目指した医術の世界・・・
パリで聞いた赤十字の精神・・・

常民は、戦場で敵味方の区別なく看護する救護組織の必要性を訴え、博愛社という組織の設立を政府に提出しますが、その理念を理解できない政府首脳陣は、その嘆願を却下・・・

やむなく、常民は、同じ志を持つ大給恒(おぎゅうゆずる)とともに、自ら戦場となった熊本へと向かい、征討軍総督の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)への直訴を決行したのです。

そんな彼らの熱意と精神に胸を打たれた親王は、なんと!中央に確認する事なく、その場で、即、許可をしてくれました。

博愛社=後の日本赤十字社の誕生です。

その後、日本赤十字社の初代・社長に就任した常民は、日本を万国赤十字条約に加盟させ、その保険衛生と人道福祉が、欧米にもひけをとらない近代的なものである事を、世界に示しました。

国内では、磐梯山噴火災害濃尾大地震に災害救援を派遣し、日清戦争の時には、病院船を発案&建造して戦時の救援活動にも尽力・・・明治二十三年(1890年)のオスマン帝国海軍のエルトゥールル号遭難事件でも救護隊を派遣して、その精神が揺るぎない事を証明してみせます。

やがて、明治三十五年(1902年)10月に開かれた日本赤十字社の創業25周年式典の席で、常民は、最高の栄誉である名誉社員に推薦されました。

彼にとって、名誉社員の栄誉は確かにうれしい事であったかも知れませんが、ひょっとしたら、そんな事よりも、初めは誰も理解してくてなかった博愛の精神が、こうして多くの人に浸透し、盛大な式典を催す事ができるまでに成長した事のほうに喜びを感じていたのかも知れません。

集まった人々を目の当たりにして、自らの役目が終った・・・
そう、感じたのでしょうか?

式典から、わずか2ヵ月後の明治三十五年(1902年)12月7日常民は東京の自宅で、静かに、その生涯を閉じました。

そして、彼の遺志を受け継いだ日本赤十字社は、未だ、記憶に新しい2004年のスマトラ島沖地震、2005年のパキスタン北部地震などで、被災者の救護活動や復興支援に尽力し、今現在も活躍を続けています。
 

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2009年11月25日 (水)

新語・流行語~生まれては消える死語の世界

 

昭和三十七年(1962年)11月25日、東京で、全国初の「愚連隊防止条例」が施行されました。

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愚連隊(ぐれんたい)・・・まさに、昭和は遠くなりにけりですね~

今や、ほとんど使わなくなりましたが、愚連隊というのは、戦後のゴタゴタの中で生まれた暴力行為を行う不良青少年集団・・・

古くは、歌舞伎者町奴ならず者・・・近くは、チーマーカラーギャングてな感じで呼ばれる集団とでも言いましょうか。

もちろん、厳密には、それぞれ細かに違った別物ですが、描くイメージとしては、そんな感じですよね。

・・・で、昭和三十七年(1962年)11月25日に施行された、この愚連隊防止条例・・・正式には「公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例」と言い、今では「迷惑防止条例」と呼ばれているアレです。

「迷惑防止条例」と聞けば、痴漢つきまとい盗聴などのイメージと結びつく条例ですが、当時は繁華街に横行するダフ屋ショバ屋景品買、さらに押し売りなどにも適用されたのだとか・・・もちろん、報道されてないだけで、今でも、しっかり適用されてるんでしょうが・・・

ところで、愚連隊はもちろん、今や、チーマーやカラーギャングなんて言葉も、過ぎ去った過去の言葉のようなイメージを受けます。

「古から伝わる美しい日本語を残したい」
あるいは、
「残さねば!」
という話を聞きます。

確かに、その通りですし、残していけるなら残していただきたいとは思いますが、本来、言葉というものは、生まれては消えていくものです。

おそらく、現在の私たちが「古から伝わる美しい日本語」と思っている言葉も、古の人たちから見れば、眉をひそめたくなる浅はかな新語である可能性もあります。

よく聞く話ですが
「近頃の若者は・・・」
というのは、ギリシャ時代の碑文にも書かれていて、おそらくは、神代の昔より、長老的立場の人は、常に若い世代の使う言葉に、苦言を呈していた事でしょう。

いつの世も、新しく生まれた言葉の中から自然淘汰され、使い勝手の良い物や響きの良い物だけが残り、それ以外は死語となって消えていく・・・言葉とはそういう運命にあるのかも知れません。

そんな中で、新しい言葉が生まれに生まれた一番の時代と言えば、やはり、文明開化の明治維新・・・その時に生まれた新語にも、もはや消えてしまった物もあれば、生き残っている物もあるのです。

たとえば・・・
「人権」
「社会主義」
「皇居」
「○○世紀」
などなど・・・これらは、現在も同じ意味で使われる現役の明治の新語。

同時期に「国会」という言葉も生まれていますが、こちらは「国民大会議」の略称で、明治二十三年(1890年)に大日本帝国議会が成立して、一旦、死語となっていたのが、太平洋戦争後に、現在の意味として復活しました。

意味が変わったと言えば、最初の頃は、警察の事を、警官が集まってる場所という事で屯所と読んでいたのですが、いつしか、その「屯」を訓読みにして「屯=たむろ」と呼ばれ、さらに、現在では、警官より、むしろ一般人が多く集まっている様子「たむろする」というようになりました。

生き残る言葉があれば、もちろん、消えた言葉もあります。

「カメ」
これは、亀の事ではなく、洋犬の事・・・
外国人が、犬を呼ぶのに「come、come」と言っていたのを聞いて、そうなったのだとか・・・

「ホコトン」
これは、関西の県議会で「矛盾」の事を「ホコトン」と読んだ議員がいた事から、「学がない」という事を「ホコトン」とバカにして呼んだのだそうです。
そう遠くない過去に、コレに似た「未曾有=みぞうゆ」なる言葉を聞いた気が・・・

そう言えば、以前も書いたかも知れませんが、
「新しい」という言葉・・・

これは、少し前までは「新しい=あらたしい」が正解でした。

「新」の一字では「あらた」と読みますし、「新たに=あらたに」「新たなる=あらたなる」という言葉が残っている事でも、本来は「新しい=あらたしい」である事がわかりますが、「あらたしい」が大変言い難く、「あたらしい」と言い間違える人が続出したので、今では「あたらしい」が正解となっています。
「お騒がせ」=「おさわがせ」「おさがわせ」・・・危ない((・(ェ)・;))

それほど、言葉という物は流動的な物という事なのでしょう。

古くは、勇猛果敢な武将の褒め言葉だった「鬼」は、いつしか冷酷で非情な人の例えとなり、今では、「スゴイ」<「ものスゴイ」<「超スゴイ」<「鬼スゴイ」と、「超」の上をいく様子の例えに使われるようになりました。

現代の若者は、この「鬼」という言葉を、悪いイメージではなく、「他をしのいでいる」という意味で使っているのですから、考えようによっては、現代の若者言葉に苦言を呈する世代より、もとの意味に近い形で使っている事になります。

つい先日は、「大河ドラマには変えてはいけない暗黙のルールがある」的な発言をした私ではありますが、個人的には、この言葉(セリフ)に関しては、むしろ、もっと現代的な言葉遣いでもかまわないのではないか?と思っています。

これほど流動的な言葉という物を、リアルに再現しようとしてもできる物ではありませんし、逆に、現在の言語学などの学問を駆使して、出来うる限りリアルに再現すれば、字幕スーパーを出さないと一般視聴者には理解できない事になるかも知れません。

そして、それより、何より、細かな表現ができないように思います。

たとえば、あの平家物語などには、北陸から攻め上った木曽義仲方言満載の言葉を理解できない宮中の公家たちの戸惑う様子が描かれていますが、現在の時代劇での義仲は、ほぼ標準語をしゃべっているので、こういった事が表現できずにいるような気がします。

また、織田信長明智光秀を重用した理由の一つとして、未だ、都から見れば田舎扱いされていた尾張という地の出身である信長が、京言葉を自由に話せる光秀を、自らの家臣とする事で、公家たちの前でちょっとイイカッコができただろう事を、以前に書かせていただきましたが(10月24日参照>>)、これも、今の時代劇では、信長がほとんど標準語の武士的言葉を話すので表現できませんよね。

もちろん、方言だけではなく、同じ武士でも、脱藩浪人官僚的な武士とは、言葉が違うだろうし、同じ人でも、相手が上司と友人とでは話し方が違うだろうし、ちょっとだけ不良っぽい人の表現なんて、現代風にしないと表現できない気がします。

宮中の女官を、女性官僚や丸の内のOLに例えるとしても、お局的なキャリアウーマン新人さんでは言葉遣いが微妙に違うし、同じお嬢様(お姫様)でも成り金タイプ(下克上)生まれながらのお嬢様(守護大名)との違いは今風のほうが表現しやすい気がします。
まぁ、あくまで、個人的な意見ですが・・・

・・・と、本日は愚連隊から大いに脱線してしまった(汗)感のある内容となってしまいましたが、広いお心でお許しをば・・・o(_ _)oペコッ
 

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2009年11月15日 (日)

恋多き人たらし~坂本龍馬と妻・お龍

 

明治三十九年(1906年)11月15日、坂本龍馬の妻として知られるお龍楢崎龍(ならさきりょう)が66歳で亡くなりました。

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奇しくも、最愛の夫・坂本龍馬さんのご命日(2006年11月11日参照>>)と同じ11月15日なんですね~

まぁ、龍馬さんは、旧暦の慶応三年(1867年)なので、厳密には同じ日ではないのかも知れませんが・・・

お龍(りょう)は、医師・楢崎将作(ならさきしょうさく)の長女として天保十二年(1841年)に生まれましたが、父・将作が、尊王攘夷派の頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らと親しかった事から、安政の大獄(10月7日参照>>)に連座して捕らえられ、その後、獄中で死んだとも、釈放後に病死したとも・・・

とにかく、働き手の父が亡くなった事で、長女のお龍は、幼い弟・妹たちを養うために旅館に奉公したりなんかしますが、大した稼ぎにもならず一家はかなりの貧乏・・・そんな時に、龍馬と知り合います。

龍馬から、彼が定宿にしている京都・伏見の寺田屋を紹介され、今度は、そこで働きます。

そんな中の慶応二年(1866年)1月・・・龍馬が、薩長同盟を成立(1月21日参照>>)させた2日後に寺田屋で襲撃された時、彼女の機転によって、なんとか危険を回避したお話は、何度もドラマ化された名シーンですよね(1月23日参照>>)

その時に負傷して、しばらく西郷隆盛の宿所で療養した龍馬は、3月になってから、身の安全と療養を兼ね、お龍を連れて、薩摩・霧島の旅に出ます。

この時に、薩摩藩の小松帯刀(たてわき)に、お龍を「妻」と紹介した事から、二人は、寺田屋事件きっかけで結婚して、この鹿児島旅行は、日本初の新婚旅行・・・なんて事も言われますが、ご存知のように、その翌年の11月に龍馬は暗殺されますので、二人の密月は、わずかに2年もなかった事になります。

ところで、龍馬と言えば、来年の大河も楽しみではありますが、今、現在放送中の「JIN-仁-」にも、内野さん演じる龍馬が出てますね。

あの軽快な演技に、
「龍馬はあんなに軽くない」
「もっと、どっしりと構えていてもらわないと・・・」
てな、意見もあるようですが、ワタクシ個人的には、あーいう龍馬さん、好きです。

・・・ていうか、実際にはもっと軽いと思ってます。
今風に言うなら「チャラ男」?

昔ながらの年季の入った龍馬ファンの方には怒られるかも知れませんが、もともと少ない史料の上に、ほぼ小説でつけられた現在の龍馬のイメージですから、想像するのは自由・・・って事で、今回は、言わせていただきますと、大事を成した人というのは、その成した事柄から、どうしても大器をイメージしてしまいますが、必ずしも、そうとは限らないと思います。

私のイメージする龍馬は、公と私、職務と休暇、仕事と遊び・・・このONとOFFを、きっちり分ける人ではなかったかと・・・めちゃめちゃヤンキーなのに、成績は学年トップみたいな?

しかも、交友関係を見るにつけ、かなりの「人たらし」であった事は確実だし・・・。

もちろん、この「人たらし」は「人を騙す」という意味ではなく、いつの間にか、相手を自分のペースに引き入れて「なんで、こんな事までしたらなアカンねん!」と思うような事まで、ついつい龍馬さんのためならしてしまう・・・という感じ。

さらに、彼は幼い頃から姉たちに可愛がられて育った経験から、女性に対しても、そのテクニックが見事に発揮される・・・

あの寺田屋の事件がドラマチックな事と、その後の新婚旅行などから、時代劇では、お龍さんしか登場しない事が多々ありますが、現実には、彼女以外にも、龍馬さんにはカノジョがいたわけで、それらのおネーサン方が、皆「自分が妻だ」と思ってるてな状態を保ち続ける事ができるほど、モテたと思いますし、自分でもモテようとしてたと思いますね。

実際、あの暗殺された日も、お龍さんではない、別のカノジョを部屋に呼んでますからね~(断られてますが・・・)

10代の少年時代から、姉の嫁ぎ先に泊まっては女中部屋に夜這いをかけ、、江戸に出れば道場の千葉佐那子(さなこ)と婚約までしておきながらほったらかして、そのまま土佐に戻れば、漢方医の娘・お徳と恋仲になり、脱藩の際には、おさななじみの平井加尾(かお)に無理難題を頼み、長崎では、毎日、遊郭遊び・・・この長崎で親しくしていた中江兆民(ちょうみん)が、龍馬の頭髪について、「あの薄毛は、梅毒のせい」と言ってる事からも、その遊びっぷりがわかります。

しかし、その誰もが、「龍馬が憎い」とは思わない・・・
もちろん、当時は、一夫一婦でなくてはないらない事はないのですから、ご両人さえ良ければ、何人妻がおりやしょうと結構なんでござんすが、それがわかっていても、許してしまう魅力が、龍馬にはあったという事でしょうね。

そして、もう一つ、私がチャラ男だと思うところは、例の薩摩旅行・・・知ってる人は知ってる有名な話ですが、この時、お龍とともに高千穂の峰に登った龍馬が、その頂上に突き刺さっていた「天ノ逆鉾(あめのさかほこ)を抜いちゃうくだりです。

この「天ノ逆鉾」というのは、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上に降りた天孫降臨の時に、目印として投げた物が頂上に刺さったとされる、由緒のある、言わば遺跡or旧跡です。

それを、お龍と二人で抜いて「わずか4~5尺しかなかった」とか、「大いに笑った」とか・・・普通、抜きますか?
抜きませんよね?

龍馬の逸話だから、「やっぱ、器が違う」となりますが、普通はその名に傷がつきます。
(世界遺産に落書無用)

そんなチャラ男的要素を、見事に魅力に変えるのが、龍馬の龍馬たる所以・・・と、話が龍馬さんに傾きすぎましたので、お龍さんに戻しますが・・・

龍馬を亡くしたお龍は、彼の友人であった三吉慎造(みよししんぞう)のもとに身を寄せます。

これは、龍馬が常々「自分に万が一の事があったら・・・」と頼んでいたもので、「気の強いお龍を実家に預ければ、おそらく、気の強い姉・乙女(8月31日参照>>)とは、うまくいかないだろう」という事を考えて三吉に預けたなんて事が言われますが、案の定、その後、龍馬の実家に身を寄せたお龍は、家族とは折り合いが悪く、「非行がある」として、追い出されるような形で、高知をあとにします。

それから、親戚の家を点々とした後、明治二年(1869年)に京都に戻り、やがて明治十八年(1885年)、横須賀に住む妹の家に身を寄せていた45歳の時、隣家に住む西村松兵衛という商人と知り合い、結婚します。

しかし、再婚しても、龍馬の妻だったというプライドが捨てきれず、晩年は、お酒に溺れ、酒場で飲んだくれては「あたしは龍馬の妻よ!」と、周囲に絡んでいたのだとか・・・。

よく、ドラマでは賢女のカガミのように描かれるお龍さんですが、土佐藩士・佐々木高行が言うように、「美人だし悪い人間ではないが、賢婦とは言い難い」人だったと、私も思います。

・・・が、これはお龍さんの悪口ではないですよ!
むしろ、彼女は、龍馬にとって賢い女でなくてもよかったんだと思っています。

龍馬が何をやってる人なのかも知らなくていいし、日本の未来なんてどうでもいい・・・むしろ、それこそが、緊迫した日々の続く、京都での龍馬が求めていたカノジョだったのではないかと思います。

国の大事に奔走する時だからこそ、スイッチがOFFの時は、大いに遊んで、大いに笑って、大いにバカができるお龍が好きだったんでしょうね。

やがて明治三十九年(1906年)11月15日、晩年は、アルコール依存症状態になっていたお龍は、66歳の生涯を閉じます。

その墓石には、「阪本龍馬之妻龍子」と刻まれているのだとか・・・

そう、再婚した松兵衛さん・・・自らが建立する妻のお墓に、「西村松兵衛之妻」とせずに、「龍馬の妻」と・・・なんともいい人にお龍さんは巡り会えたものです。

ちなみに、婚約したままほったらかしにした佐那子さんのお墓にも「坂本龍馬室」と刻まれているそうですが、それこそ「憎めないアイツ」の人たらしのなせるワザ・・・と言ったところでしょうか。

★追記:2001年に見つかったお龍さんとおぼしき写真は、昨年、ほぼ本人である事が断定されました・・・今後は、ドラマでもあのイメージで登場するのでしょう。
楽しみです。

 

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2009年10月30日 (金)

今こそ教育勅語を・・・明治の教育改革

 

明治二十三年(1890年)10月30日、「教育に関する勅語」=教育勅語(ちょくご)が発布されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1年ほど前、関西の名門私立大学で・・・
「私語で授業に大きな支障が出ている」
「大学生にこのような事を伝えなくてはならないのは慙愧
(ざんき)に耐えない」
などと、学生の自覚を促す学部長名の掲示が教室にあった』

・・・というニュースが話題になった事がありました。

それに関連した実例として、授業中に私語を注意すると「先生は、私たちの授業料で食ってんでしょ?」・・・『だから威張るな!』なんて事を言い返す生徒もいるとか・・・

また、それらの生徒の親は親で、
「風邪で学校を休んだ日の給食費は払いたくない」
「希望する大学に入れなかったので授業料を返せ」
「自分の子供がリレー選手に選ばれないのは不自然だ」

と、いわゆるモンスターペアレントなどは、ドラマにもなって大きな話題となりました。

さらに、今年に入ってからのニュースでは・・・
「日本の医療制度には納得してないから、診療代は払わない」
「医者1人では足りないから、もう一人呼べ!」

と、無理難題をふっかける患者の急増に、「医者や看護婦の身か持たない」と病院側が嘆いているなどという話も登場しました。

なにやら、個性と自由をはき違えた感のする今日このごろ・・・

以前、聖徳太子十七条憲法(4月3日参照>>)のところでも少し書かせていただきましたが、公共の場で騒ぐのも個性、順番に並ばないのも自由、果ては、大人になって働かないのも・・・

本来なら、自由と責任はワンセットになってるもので、自由な行動の結果、起こった出来事には、己自身で責任も負わなけらばならないものですが、こういった場合、大抵、自由を主張するワリには、その結果の不利益は他人のせいだったりします。

こんな光景に眉をひそめる人がいる・・・という事は、皆が皆、そうではないわけですが、逆に、こうして話題になるという事は、やはり、こういった人が現実に増えているという事なのでしょう。

「こんな事って、初めてじゃないの?」と思ってしまいますが、実は、これと同じような事が、明治の時代にありました。

よく、「人は、何か問題が起きた時、過去の例を踏まえて、一番良い解決法を見つけるために歴史を学ぶ」なんて話を聞きますが、私自身は、ただ気がついたら歴史が好きだっただけで、歴史を学ぶ意義なと考えた事もなく、そこのところはよくわかりません。

なので、歴史ブログと銘打っておきながら、おそらくは、学校の授業に役立つ話などは、ほとんど出て気やしないこのブログではありますが、「歴史はくり返される」というのはちょっとあるような気がします。

まさに、明治十年(1877年)頃から、今と同じような教育の崩壊が叫ばれはじめ、それを何とか修復するために、教育勅語が生まれたのです。

それは、あの自由民権運動(10月18日参照>>)・・・自由党が主張する自由主義・平和主義が日本の津々浦々まで浸透すると同時に、政府は欧米主義に走って西洋人の生活様式や思想を最先端と考える・・・

確かに、それまでの江戸時代の封建社会から解き放たれた自由はすばらしい物ではありますが、上記の通り、その自由をはき違えると、どんどんとあらぬ方向へ行ってしまうものです。

そのため、自分の欲望のおもむくままに好き勝手に生き、公共心も失われ、日本古来からつちかわれてきた道徳心も失われていったというのが、その頃の現実です。

特に、自由民権運動を支えたのが地方の農民であった事から、危機感を抱きはじめた各地の県知事たちから、「何とか道徳観を養う教育を・・・」との声が政府にもたらされ、明治二十三年(1890年)10月30日「教育に関する勅語」=教育勅語が発布されるのです。

教育勅語を起草したのは、井上毅(こわし)元田永孚(ながざね)という人物・・・彼らは、この教育勅語が、思想信条の自由をうたっている大日本帝国憲法に触れないよう気を使い、大臣の署名はつけずに、天皇の名前だけを記し、その天皇が「国民とともに、自ら実践していこう」と呼びかける形式としました。

その原文と口語訳が【明治神宮のサイト】(別窓で開きます>>)にあるので、引用させていただきます。

ー引用ー
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。
そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
ー引用ここまでー

ご覧の通り、現在でも通用する見事な内容だと思います。

この時代の物ですので、少し忠君に関するところが気になりはしますが、それさえ排除すれば・・・そうです、先ほど、自由をはき違えると・・・と書きましたが、こちらの名文もはき違えると別の意味へと変化してしまうのです。

そもそも、この教育勅語を作った井上らは、この文章は、文部大臣のもとで非公開にするか、公開しても教育関係者にだけに行きわたる程度にと考えていたのですが、政府がそれを許しませんでした。

時の首相・山県有朋(やまがたありとも)伊藤博文らは、「欧米がキリスト教の精神に基づいているのに対して、心の拠り所となる精神的なものが少ない日本では、天皇の権威を拠り所としよう」と考え、この教育勅語を、文部大臣から各学校に配布して、「学校の式典などで奉読せよ」との訓令を出したのです。

これには、当時、勢いづいていた民権運動に対抗するという政治的背景もあったようですが、いつしか、この教育勅語を各学校で奉読する事が義務となり、その精神は「修身」の教科書とともに、子供たちに教え込まれる事になります。

それでも、この段階では、その内容をはき違えてはいませんから、おそらく、崩壊しつつあった教育現場を修復する事には成果があった事でしょう。

しかし・・・です。

「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません」
もう、すでにお気づきの通り、ここの部分の解釈が、昭和の始め頃から変化・・・いつしか「国のために死になさい」と、軍国主義のスローガンのような使い方をされてしまうのです。

ゆえに、現在の教育現場で、この教育勅語が教えられる事はありません。

有名な昔話の桃太郎(12月1日参照>>)は、その解釈の仕方によって、勧善懲悪の英雄伝にもなり、他国を侵略する物語にもなる・・・

今や、教科書ではほとんど扱われない記紀神話も、日本のルーツをたどる壮大な叙事詩ととるか、神国ニッポンのプロパガンダととるかで、その扱いは大いに変わります。

しかし、教育勅語の中でうたっている孝行・友愛・夫婦愛・博愛、さらに謙遜啓発などなど・・・その多くの事は、現代でも決して失ってはならない物であるはずです。

もし、本当に、歴史という学問が、過去の経験を踏まえる事で解決策を導くための物であるならば、今一度、教育勅語を読み直し、新たな教育改革に活かしていただきたいと思う次第です。
 

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2009年10月29日 (木)

東京で起こった士族の反乱~永岡久茂の思案橋事件

 

明治九年(1876年)10月29日、昨日勃発した萩の乱に同調した永岡久茂らが、東京の思案橋に集結中にて逮捕された事件・・・思案橋事件がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここんとこ、連日のように書かせていただいている明治維新後に起こった士族の反乱・・・

まずは、明治七年(1874年)に勃発した江藤新平佐賀の乱(2月16日参照>>)ですが、こちらは、大きな反乱ではありましたが、その後の乱との連動ではなく、単発・・・

ただ、この最初に起こった佐賀の乱から、最終段階で最大の反乱となる西南戦争(1月30日参照>>)まで、いずれも、単に武士の特権を剥奪されたという不満だけではなく、腐敗し、墜落してゆく新政府に対し、その道を正すべく立ち上がった不平士族による反乱という点で一致する事は確かです。

そして佐賀の乱から二年後の明治九年(1876年)、今度は、連携した者同士・・・いわゆる同時多発テロが決行されるわけです。

10月24日、熊本神風連の乱(10月24日参照>>)
10月27日、福岡秋月の乱(10月27日参照>>)
10月28日、山口萩の乱(10月28日参照>>)

・・・と、歴史年表などでは、ほとんどこの3つの乱が立て続けに書かれているわけですが、実は、もう一つ、萩の乱の翌日に、東京で決起した人たちがいたのです。

その人数も少なく、未遂に終ってしまったために、あまり扱われる事はありませんが、明らかにこの3つの乱と連動した士族の反乱であったのです。

それは、昨日書かせていただいた萩の乱の主役である前原一誠(いっせい)・・・彼は、この萩の乱勃発の前年に、同郷の木戸孝允(たかよし・桂小五郎)に呼ばれて東京へ行き、再び政府で働くよう頼まれますが、結局、その話を蹴って萩へと戻っています。

その時、東京に滞在中の前原に数度の面会した人物・・・それが、本日の主役・永岡久茂です。

おそらく、その時に、何等かの密約をかわしたものと思われますが、そんな永岡・・・実は、あの戊辰戦争の時は、北越戦線で大活躍した前原と、真っ向から戦った会津の人です。

まさしく「昨日の敵は今日の友」・・・

天保十一年(1840年)、若松城下に生まれた永岡は、17歳で日新館(会津藩校)に入学し、翌・18歳で大学へ・・・豪快で明朗で、弁も立ち、秀才の誉れ高い少年でした。

戊辰戦争の時は、会津が戦場になる前から北越へとおもむき、あの長岡藩家老・河井継之助(5月13日参照>>)にも協力し、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の締結にも尽力しました。

その後、会津が戦場となり、もはや風前の灯火となった9月に、あの榎本武揚(えのもとたけあき)が艦隊を率いて北上途中に立ち寄った時(10月20日参照>>)「まだ、あきらめない!」と言わんばかりに、その榎本から兵を借りて一戦を交えた事もありました。

しかし、ご存知のように会津は敗れます。

会津藩主・松平容保(かたもり)に領地没収の処分を下した明治新政府は、容保の息子・容大(かたはる)に家名再興を許し、「猪苗代(いなわしろ)もしくは下北に3万石の領地を与える」としましたが、この時、「猪苗代にしよう」という町野主水(もんど)らに対して、山川浩(大蔵)らとともに、下北半島への移住を主張したのも永岡でした。

最終的に下北への移住が決まり、斗南(となみ)と名を改めた会津の国替えは、「全藩流刑」と称されるくらい過酷なものでしたが、そこで永岡は小参事となり、藩政に尽力します。

しかし、やがて迎えた廃藩置県(7月14日参照>>)で藩は消滅・・・その後、田名部(たなぶ)支庁長を命じられますが、間もなく辞職して、東京にて「評論新聞社」を立ち上げます。

そう、ここで永岡は、言論によって政府と対抗する事を考えたのです。

「薩長は王政復古の名を借り、幕府を倒して政権を握りながら、私利私欲に走り、墜落し、あまつさえ外国の奴隷のようだ」
などと、政府批判の記事を書き、何度も発禁処分を喰らいますが、これが、なかなかスルドイ意見を展開してくれます。

その才を生かしてもらおうと、伊藤博文井上馨(かおる)といった面々が、再三に渡って政府への出仕を要請しますが、彼は断り続け、言論での戦いに没頭します。

しかし、そんな永岡もいつしか・・・
「言論を以って矯正するのはムリかも・・・こうなったら、力を以って政府を転覆させるしかない」
と考えるようになっていくのです。

それが、前原らと同調する事でした。

明治九年(1876年)10月29日、永岡をはじめとする旧会津藩士などの士族・13名は、東京思案橋(中央区日本橋小網町・現在、橋はありません)に集合し、千葉県は登戸(のぶと)に向けて船を出そうとしていたところを見咎められ、現場に駆けつけてきた警察官らと斬り合いになってしまったのです。

彼らの計画では、千葉県庁を襲撃した後、佐倉鎮台を襲い、日光あたりで同志を募って人数を増やし、皆で会津へと押し寄せるつもりでした。

しかし、結局、13名のうち永岡ら4名がその場で逮捕され、残りは、一旦逃走を計り、そのうちの何人かは新潟まで逃げ延びたりもしますが、結局、全員捕縛されてしまいます。

しかも、その時の闇夜での斬り合いにて負傷した永岡は、翌年・1月12日に獄中にて死亡してしまいます。

未だ38歳の志半ばでした。

ちなみに、あの時、斗南藩の再出発で、ともに永岡と奔走した山川は、廃藩置県後に政府に出仕し、佐賀の乱や西南戦争で武功を挙げました。

まさしく「昨日の友は今日の敵」・・・

ただ、山川の場合は、佐賀は肥前、鹿児島は薩摩という事で、その戦いを会津の亡き友の復讐ととらえていたところもあるようで、それぞれの敵味方を単純に論じる事はできないようです。

ともに故郷の亡き友を思い、
ともに日本の明日を憂いていた者同士・・・

少し、やるせない思いのする一連の士族たちの反乱です。
 

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2009年10月28日 (水)

天皇をお諌めしたい~前原一誠の萩の乱・勃発

 

明治九年(1876年)10月28日、長州士族による反乱萩の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前原一誠(いっせい)長州(山口県)の下級武士・・・松下村塾(11月5日参照>>)で学んだ後、高杉晋作とともに四境戦争第二次長州征伐:5月22日参照>>)を戦い、その後の戊辰戦争では北越戦線(4月25日参照>>)で活躍し、その功績で明治新政府では参議となり、後に兵部大輔(ひょうぶたいふ)まで務めますが、軍事に関しての意見が合わず辞職して故郷・萩に戻っていた人でした。

当然の事ながら、中央で活躍した経験のある彼には、新政府に不満を持つ士族の期待が集まりますし、彼自身も、明倫館(旧藩校)などで、政府を批判する時事論を展開し、熊本や秋月の不平士族たちと交流したりもしていました。

そんなこんなの明治九年(1876年)10月24日・・・熊本城下にて神風連の乱が勃発!(10月24日参照>>)

この時、前原の一派だった玉木正誼(まさよし)小倉にいました。

松下村塾の創設者だった玉木文之進(ぶんのしん)の養子となったため、彼は玉木姓を名乗っていましたが、実は、あの乃木希典(のぎまれすけ)・・・もちろん、この時は、兄を自分たちの仲間に引き入れるべく、小倉に来ていたわけですが、昨日書かせていただいた通り、乃木は、神風連の乱と連携して起こる27日の秋月の乱の鎮圧に向かう事になります(10月27日参照>>)

兄の勧誘には失敗しましたが、小倉にいたおかげで、いち早く神風連の乱の勃発を知った玉木は、慌てて萩へと戻り、「神風連が挙兵した!秋月や、その他の同志もこれに応じるらしい」と報告します。

前原は早速、主だった者たちを明倫館に集め、「山口を占領した後、東上して不正を働く政府役人を排除する!」と宣言・・・同時に、側近の奥平謙輔(おくだいらけんすけ)徳山(山口県徳山市)の同志に、決起を促す使者を派遣します。

27日には、明倫館の門前に「殉国軍(じゅんこくぐん)の札を掲げ、同志を集め、武器・弾薬の準備を始めます。

一方、前原の様子を聞きつけた山口県令・関口隆吉(たかよし)は、側近の百村発蔵を現地に派遣し、「九州はすみやかに鎮圧されたから、すぐに解散せよ」との命令を下します。

これに対して、前原は、とりあえずは「OK!わかりました~」と、従順な態度の返事をしておいて、一方では「向こうにバレた以上は、山口への進軍を中止し、直で山陰道を東上する」と密かに方針転換します。

かくして明治九年(1876年)10月28日、前原のもとに集結した約1500名が気勢を挙げます・・・萩の乱の勃発です。

翌・29日の午前2時に明倫館を出発した彼らは、その日は行く手を阻む者には遭遇せず、戦闘がないまま、翌・30日には須佐(萩市須佐)まで到着します。

ここで、陸路と海路に分かれて、さらに東の浜田(島根県浜田市)を目指す手はずでした・・・が、出発直前、ニュースが舞いこ込んできます。

「萩に残った家族が虐待されている」
「反対勢力に明倫館が占拠された」

実際には、これは誤報だったのですが、そうとは知らない彼らの間には、動揺が走り、このままの東上は不可能であると判断した前原は、一旦、海路にて萩に戻る事に・・・

この誤報の出所は、やはり県令・・・もちろん、家族を虐待したりも、未だ明倫館を占拠したりもしてはいませんでしたが、県令の関口が30日に萩に入ったのは事実、すでに、政府側が騒動を鎮圧すべく動いていたのも事実でした。

翌・31日、急遽引き返して来た前原らが、船にて上陸し直行した先は、関口のいる役所・・・いきなりの奇襲攻撃をかけられ、関口は命からがら脱出します。

初めて行われた萩での市街戦・・・午後には、萩の中心である橋本大橋を挟んでの激戦となります。

この戦いで、かの玉木が銃弾に倒れて戦死・・・徐々に形勢が不利となった前原らは、とりあえず、この場を側近の1人である小倉信一(おぐらしんいち)に任せ、自らは、わずかの人数で東上を続けるべく、海路、須佐へと戻る事にします。

残った小倉らは、翌日も戦闘を続け、一進一退の激戦をこなしますが、11月5日には、政府軍に援軍が到着し、翌・6日からは総攻撃が開始され、そうなると、わずかの人数の彼らはひとたまりもなく、散り散りに逃走・・・ある者は身を隠し、ある者は逮捕され、8日には、すっかり鎮圧されてしまいました。

一方の前原らも、5日に出雲にて逮捕されてしまいます。

松山へと護送され、取調べを受ける前原・・・

しかし、ここで、かすかな希望がつながります。

島根県令の佐藤信寛です。

彼は、
「君らが、島根で逮捕されてくれた事は幸いや。
僕に、まかしといてくれ。
君らを東京へ護送して、天皇へ訴えるチャンスを与えたい」

と約束するのです。

そう、実は、挙兵の際、前原はこの乱を決起するにあたっての声明文を発表していたのです。

「最近の争乱は、よこしまな心を持ち不正を働く政府の役人に対する怒りが爆発した物や。
僕は、田舎者やけど、民衆が苦しんでるのを見過ごすなんて事はでけへん。
山陰道を東へ進んで上京し、誠意を持って天皇をお諌めしたいんや。
もし、僕らの意見を聞いてもらわれへんかったら、死を以って、その意志を伝える。
あえて、戦いはしたないけど、行く手を阻む者あれば、蹴散らして前へ進むのみや!」

佐藤は、この声明文を読んだのかも知れません。

さらに、前原は、今回の戦線離脱も、逃亡したのではなく、そもそもの挙兵が国を正さんがためのもので、朝廷への叛逆の意味ではない事を上京して訴えるためであった事を佐藤に告げます。

やはり、この萩の乱もそうでした。

武士の特権を奪われた事で、「もとの徳川の時代のほうが良かった!」などの不平不満だけで反乱を起したのではなく、墜落の一途をたどり、腐敗する新政府への激しい怒が、そこにあったのです。

記録によれば、現在のお金にして数百億円もの公金を、私的に流用した者もいたようですから、島根県令の佐藤のように、同じ新政府の者から見ても、前原らの怒りが理解できたのかも知れませんね。

はてさて、この先、前原の願いが叶えられるのかどうか、気になるところではありますが、そのお話は、更なる展開がある12月3日のページへ>>

ところで、神風連→秋月→萩と来た不平士族の反乱・・・ご存知のように、最終かつ最大の反乱=西南戦争(1月30日参照>>)へと向かう事になりますが、実はその前に、もう一つ・・・

この萩の乱と同調していたであろう反乱が東京で勃発する・・・・はずでした。

思案橋事件と呼ばれるそのお話については、勃発する明日、10月29日のページへどうぞ>>
 

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2009年10月27日 (火)

福岡で起こった士族の反乱~秋月の乱

 

明治九年(1876年)10月27日、不平士族による反乱・秋月の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

元来、合戦というものは、戦いで武功を挙げた者に恩賞が与えられるものでした。

それがあるからこそ頑張れるし、それがあるからこそ命をかけて戦う意味もあったわけですが、その定義がくつがえされたのが明治維新でした。

明治四年(1871年)に新政府が断行した廃藩置県(7月14日参照>>)によって藩という物が無くなり、政治のもろもろは官吏へ、明治六年(1873年)に発令した徴兵令国民皆兵(かいへい)となり軍事も、広く国民全員から徴集する事に・・・

維新に貢献したと言われる薩長土肥(さっちょうどひ:薩摩・長州・土佐・肥前)の武士たちにとっては、戊辰戦争を戦いぬいた勝利者であるにも関わらず、恩賞どころか、政治と軍事という武士の生きる道さえ奪われてしまう事になったわけです。

さらに、政治の中核にあって膨大な富を得て贅沢な暮らしをしている一部の者は、その特権によって得た甘い汁を吸いまくり、腐敗の一途をたどる・・・この報われない状況に不満がつのるのは当然でした。

それに加え、その中央政府でも征韓論による深刻な対立が生まれ、西郷隆盛板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣(そえじまたねおみ)といった面々が政界を去ります明治六年の政変=10月24日参照>>)

その後、西郷は鹿児島にて私学校を開き、板垣は自由民権運動に没頭し・・・と、下野した彼らはそれぞれの道を歩む事になりますが、そんな中の江藤新平・・・

現政権に不満を抱く士族たちを抑えようと故郷・佐賀(旧・肥前)に戻った江藤でしたが、もはや爆発寸前の彼らを止める手立てがないばかりか、政府からの挑発的行為を受け、ついに、明治七年(1874年)2月、最初の士族の反乱である佐賀の乱が勃発します(2月16日参照>>)

しかし、首謀者と見られる江藤を捕らえた政府は、見せしめとも言える梟首刑(ちょうしゅけい・さらし首)で彼を処刑し、乱を終結させます(4月13日参照>>)

こうして、断固とした処罰によって不平士族を抑えようとした政府でしたが、明治九年(1876年)3月の廃刀令(刀を持ち歩く事を禁止)、続く8月には秩禄処分(ちつろくしょぶん・元武士への給料停止)を発した事で、不平士族の不満は頂点に達します。

こうして、佐賀の乱から2年後の明治九年(1876年)10月24日、熊本城下で国学講義する林桜園(おうえん)の門徒らを中心に結成された敬神党(けいしんとう)が蜂起・・・彼らが、通称・神風連(じんぷうれん)と呼ばれていた事から、この乱を神風連の乱と言います(10月24日参照>>)

・・・とは言え、最初こそ気勢をあげたものの、わずか2日で鎮圧された神風連の乱・・・しかし、実は、彼らは無軌道に決起したわけではなく、すでに挙兵の前に他の不平士族に、同時に決起するように連絡をとっていたのです。

そして、3日後、福岡県下で秋月の乱が勃発するのです。

福岡藩の支藩である秋月藩は、5万石の小藩・・・士族は600名ほどでしたが、未だ攘夷思想が根強く残る土地柄で、現政府を「西洋かぶれ」と言って批判してはばからず、同志たちと連絡を取りなから、その決起の時を待っていたのです。

そんな彼らの所へ、かの神風連の乱・勃発のニュースです。

旧秋月藩の士族・磯淳(いそじゅん)宮崎車之助(くるまのすけ)今村百太郎(ひゃくたろう)土岐清(とききよし)戸原安浦(とばらやすら)らのメンバーを中心に結成された、彼ら秋月党は、早速、現地に蒲池作之進(かまちさくのしん)らを派遣し、様子を探ります。

前半の勢いづく反乱軍を目の当たりにして戻って来た彼らは、「今すぐ、我らも蜂起すべき」と意気を挙げますが、中心人物である磯や宮崎は、「先走るな!少し様子を見よう」と慎重です。

しかし、血気盛んな急進派の今村らは、有志だけを誘って城下の田中天満宮に集結・・・明治九年(1876年)10月27日の朝、挙兵したのです。

彼らの行動を知った磯は、かねてから連携をとっていた豊津(旧小倉藩)の不平士族に連絡し、ともに決起するようにうながしますが、どうやら、豊津の彼らは動かない様子・・・

やむなく、磯と宮崎らも加わり、約240名(諸説あり)となった秋月党は、まずは明元寺(みょうげんじ・朝倉市甘水)にて、警部の穂波半太郎(ほなみはんたろう)血祭りにして気勢を挙げます。

ちなみにこの穂波さんは、日本で最初の警察官の殉職として記録されているのだとか・・・

そして、秋月街道を通って、かの豊津へと向かいます。

もちろん、合流して直接彼らに決起を迫るためです。

翌・28日、豊津に到着した彼らは、早速、豊津の士族らに面会しますが、彼らは、なんだかんだと理由をつけて、はっきりとした意見を避け、チンタラチンタラと、ただ実のない話し合いに終始し、いっこうに結論を出しません。

・・・と、実は、この豊津・・・すでに、穏健派がその主導権を握っていて、秋月党とともに決起しない事が、決定していたのです。

なのに、ダラダラと・・・なんと、それは、時間稼ぎだったのです。

すでに、この秋月党の行動を政府側に報告し、小倉鎮台(政府軍)に出動の要請をしていて、その政府軍の到着を待っていたのでした。

そうとは知らず、夕刻まで話し合いを続けていた秋月党・・・気づけば、周囲を小倉鎮台兵に囲まれてしまっています。

「農民あがりの鎮台兵に、武士の我らが負けてなるものか!」と奮起する秋月党でしたが、あの乃木希典(のぎまれすけ)率いる鎮台兵は、最新鋭の様式武装・・・その戦いは、もはや、武士が刀を揮う時代ではない事を物語っておりました。

17名ほどの死者を出して敗走する秋月党・・・一方の鎮台兵の死者は、わずか2名でした。

31日、栗河内(くりごうち・朝倉市江川)という場所まで逃れてきた彼らは、もはや数十名に減ってしまっていました。

覚悟を決めた磯は、ここで解散宣言・・・今後は、どのような行動を取ろうとも自由として、自らは、宮崎ら7名とともに、その場で自刃しました。

しかし、未だ徹底抗戦の姿勢を崩さない今村ら27名は、そのまま秋月へと戻り、県の役人たを殺害して逃走・・・

けれども、逃げた彼らも、結局は11月中には拘束され、首謀者らは処刑、その他、約100名ほどが、士族を剥奪され平民へと処分されました。

2年前の佐賀の乱もそうですが、彼ら不平士族は、単に武士の特権を奪われた怒りだけではなく、新政府の腐敗した政治そのものにも、それなりの言い分を持っていた人たちですから、もう少し何とかならなかったのか?と、ちょっとはがゆさが残る結末となってしまいましたが・・・

実は、神風連と連絡を取っていたのは、彼ら秋月党だけではありません。

もう、すでに、水面下で動き始めていたのは、それこそ維新の中心であった長州の出身者たち・・・そんな彼らの行動が、翌日の10月28日、表面化します。

萩の乱が勃発します(明日のページへ>>)
 

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2009年9月 5日 (土)

ポーツマス条約の調印と日比谷焼き討ち事件

 

明治三十八年(1905年)9月5日、日本とロシアの間で日露講和条約=ポーツマス条約が締結し、日露戦争が終結しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「今日は何の日?」という事で、年ではなく日づけで気まぐれに記事を書くもんだから、昨日も日露、今日も日露の話題となると、あたかも次の日に起こった出来事のようで非常にややこしい・・・スンマセンm(_ _)m

・・・って事で、一応、すでにブログに書いている日露戦争に関係する記事を出来事が起こった順に並べますと・・・

明治三十七年(1904年)
 ●2月10日:日露戦争勃発>>
 ●8月10日:黄海海戦>>
 ●9月 4日:遼陽・入城>>
明治三十八年(1905年)
 ●1月 2日:旅順・陥落>>
 ●3月10日:奉天・占領>>
 ●5月27日:日本海海戦>>

・・・と、まだ、ブログに書いていない事もありつつも、一応、戦況を左右する大きな出来事は、だいたい出ているものと思いますが、こうして見ると、確かに、日本が勝利している感じではありますが、奉天(ほうてん)が占領されようが、バルチック艦隊が壊滅しようが、未だ、ロシアの皇帝・ニコライ2世戦争を終らせる気は、まったくありませんでした。

なんせロシアは大国・・・日本とドンパチやってるのは、東の端のほうなので、まだまだ西には、たくさんの兵力を温存したまま、しかも、シベリア鉄道が全線開通したばかりで、その兵力&物資を、どんどんと東へと送り込める状態にあったわけですから・・・。

一方、ギリギリの状態になっていたのは日本のほうです。

上記の出来事を一つ一つ見ていただければ一目瞭然ですが、勝利に酔いしれるような勝ちは海戦のみで、陸戦はどれも、多大な犠牲を払っての紙一重の勝利・・・もはや、物資も兵力も崩壊寸前の危機にさらされて、むしろ、戦争を終結させたいのは日本のほう・・・。

ただ、この頃のロシアは、国内に爆弾を抱えていました。

この年の1月には、“血の日曜日”と呼ばれる軍隊が反発する一般民衆へ発砲する事件が起こっていましたし、6月にも、戦艦・ポチョムキンが叛乱を起すという事件が起こっていて、いずれも、この後のロシア革命への波を感じさせる事件です。

そこで、日本海海戦から10日後の6月6日、ルーズベルト大統領のメッセージを持ったアメリカ大使が、直接、ニコライ2世に拝謁して、日本との講和交渉を呼びかけたのです。

重い腰をあげたロシア、その代表は非戦派のウィッテ・・・一方、日本の代表は小村寿太郎外相・・・

8月5日、ふたりは、大統領専用ヨット・メイフラワー号の船上で、初めて顔を合わせます。

しかし、この時、ウィッテは、皇帝から「領土の割譲と賠償金の支払いには、絶対に応じるな」という使命を課せられていました・・・なんせ、皇帝は未だ、「このまま戦争を続けて長期化させれば、絶対に負ける事はない」と思ってましたから、かなり強気です。

・・・で、話し合いの末に迎えた明治三十八年(1905年)9月5日ポーツマス海軍工廠(こうしょう)で開催された会議にて、講和条約が調印されたのです。

その主な条件は・・・

  1. 韓国における日本の優越的地位の承認
  2. 北緯50゜以南の樺太を日本へ永遠譲渡
  3. 両軍の満州・撤退
  4. 清国の承認下での満州鉄道の日本への譲渡
  5. ロシア沿岸の漁業権を日本へ許与

確かに、ロシア本土の領地の割譲も、賠償金の支払いも入ってません。

しかし、戦争の実情を知っていた内閣・軍部・元老・・・そして、もちろん明治天皇にとっては、まったく以って納得のいく条件でした。

ロシア本土は未だに無傷・・・かたや日本は虫の息・・・

この状態で、ロシアという大国に勝ったという名誉を得ただけでも、大きな成果です。

しかし、納得がいかなかったのは、勝利の成果に期待していた日本の一般庶民・・・彼らが、期待していたのは、やはり領土の割譲と賠償金の支払い。

 

戊辰戦争 日清戦争 日露戦争
動員兵力
死者
負傷者
12万人
約3600人
3800人
12万人
1万3309人
108万人
約12万人
17万人
戦費 約2億円 約15億円
(国史大辞典ほか)

日露戦争よりも犠牲が少なかった10年前の日清戦争では、台湾を獲得し、当時の清国の国家予算の3年半分に相当する巨額の賠償金を得ていたわけですから、これだけ大きな犠牲が払われたなら、それ相当の見返りを期待していたわけで、その二つが含まれない講和は、あってはならない物だったのです。

・・・で、ポーツマス条約が調印されたその日から、各地で衝動が発生する事になるのですが、中でも、東京・日比谷公園で開催された講和反対国民大会・・・

●内閣と全権(交渉した小村の事)の謝罪
●条約の破棄
●再度の抗戦で敵を粉砕
Hibiyayakiuti ・・・を求めて開催されたこの大会では、暴徒と化した参加者が政府系新聞社や内務省に乱入・・・さらに、交番や電車まで焼き討ちされ、死者も出る大惨事となりました
・・・世に言う日比谷焼き討ち事件です。

本来なら、国を挙げて祝うべき勝利の日に、このような騒動が起こった事は、その後の日本の運命を暗示しているかのようですが、欧米列強の支配に苦しんでいた有色人種に、この時の日本勝利のニュースが、一筋の希望を与えた事だけは、少し誇りに思います。
 

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2009年9月 4日 (金)

日露戦争・初めての大野戦~遼陽会戦

 

明治三十七年(1904年)9月4日、日露戦争において、日本軍が遼陽入城を果たしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この年の2月に、日本側の宣戦布告によって始まった日露戦争・・・(2月10日参照>>)

2月の開戦後まもなく、仁川(じんせん)沖海戦に勝利して朝鮮半島に上陸した日本軍・第1軍は、5月には鴨緑江(おうりょくこう)を越えて満州へと進出しました。

*黄海海戦でご紹介した地図ですが、位置関係を知るために・・・
Nitirotizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ここから北にある遼陽(りょうよう)には、ロシア満州軍の司令部があり、満州に展開する以上、その遼陽での決戦は避けられないと判断した日本軍は、まずは、第1軍を北へと進撃させます。

一方、同じく5月に遼東半島の中央部分にある塩大澳(えんだいおう)に上陸した第2軍は、遼東半島を南下・・・5月26日には、旅順(りょじゅん)の北側に位置する金州(きんしゅう)と南山(なんざん)を陥落させて半島を分断し、旅順を孤立させました。

しかし、その旅順には、未だ4万4000とも言われるロシアの守備軍がいますから、このまま2軍だけで、旅順を陥落させる事はおそらく不可能・・・しかも、この時期は、開戦当初から、この旅順に停泊しているロシア艦隊を撃破すべく展開していた日本海軍の連合艦隊も、なかなかの苦戦を強いられ、旅順の攻略は陸軍の手にゆだねられる方向へと進みつつある時期でした。

そうなると、陸軍でも、旅順攻略のための新たな第3軍を編制する必要があり・・・って事で、ともかく、第2軍はこのまま南へは向かわず、北東へと進路を変え、第1軍と合流して、ともに遼陽攻略をめざす事になりました。

・・・とは言え、この間に、海上では、先日書かせていただいたロシア艦隊に連合艦隊が大勝利を収める黄海海戦(8月10日参照>>)が展開される事になるのですが・・・。

そんな8月、こちらの陸戦部隊でも、第1軍と第2軍に加え、新たに姫路第10師団を中心に編制された第4軍が合流し、遼陽を攻略をめざして、徐々に包囲を狭めていく中、やがて訪れた8月24日、いよいよ遼陽に向けて本格的な進撃を開始します。

日本側の作戦は、第2軍と第4軍が正面からの攻撃・・・そして第1軍が迂回して側面からの攻撃という物でした。

一方のロシア軍は、この遼陽は、あくまで突出した最前線という事で、最初のうちは遼陽での決戦に消極的だったのですが、ここに来て、本国から大量の援軍が派遣されてきた事もあって、遼陽司令部を率いるクロパトキン大将も、決戦を決意・・・

こうして始まった遼陽会戦ですが、2日後の26日、迂回部隊が想定位置に到着したところで、正面の部隊からロシア軍主力に向けて攻撃が開始されます。

ところが、ロシア軍は、あっさりと撤退・・・ほぼ無抵抗のまま、日本軍は遼陽のすぐ手前にまでやってきます。

実は、これはロシア側の作戦・・・ロシアは遼陽の手前に堅固な守備陣地を構築しており、「決戦はここで・・・」という事だったようです。

・・・よって、ここでの戦いは激戦となります。

歩兵部隊による接近戦が繰り返され、一進一退の戦闘・・・やがて、日本軍の弾薬が底をつきはじめ、兵士の疲れもピークに達し、窮地に立たされた日本軍が「もはや限界か・・・」と、やや、あきらめムードになった時・・・

なぜか、ロシア軍が撤退を開始・・・理由は明白ではありませんが、一進一退の激戦になっていたという事は、日本側だけでなくロシア側にも、それ相当のダメージがあったという事でしょう。

とにもかくにも、クロパトキン大将が、遼陽を放棄し、さらに北に位置する奉天(ほうてん)での決戦に切り替えてくれた事で、日本軍は救われた形となりました。

かくして明治三十七年(1904年)9月4日日本軍は遼陽入城を果たしたのです。

一方、同じ8月から同時進行で行われていた旅順攻略・・・そのために新しく編制された第3軍の司令官は、ご存知、乃木希典(のぎまれすけ)大将です。

日露戦争のキーポイントともなる旅順での激戦は、1月2日のページでどうぞ>>。
 

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