カテゴリー「 明治・大正・昭和」の89件の記事

2008年7月14日 (月)

一か八かの廃藩置県~県名の由来は戊辰戦争の復讐?

 

明治四年(1871年)7月14日、明治政府により、藩を廃止して県を設置する詔書・廃藩置県が発布されました。

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江戸時代には、という独立国家の集合体であった日本・・・戊辰戦争(6月18日参照>>)に勝利した明治新政府は、旧徳川の領地を直轄地としたものの、それ以外の場所は未だ江戸時代の統治の状況のままでした。

欧米列強が徐々にアジアに進出してくる中、日本が植民地とならないためにも、一刻も早く全国が一つの国家=中央集権国家になる事が必要です。

そこで、行われたのが明治二年(1869年)の藩籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)という藩の領地と領民の戸籍を天皇・新政府に返すという物でしたが、それは結局、藩主知藩事という名前に変わっただけで、政治的なシステムとしてはほとんど変わらない状態・・・何とか、中央に力を集めようと、各藩の兵力の縮小を行えば、かえって反感を買うばかり、といった状況でした。

「これではいかん!何とか中央集権を推し進めなければ・・・」
・・・と、新政府メンバーは考えるのですが、実はこの時、バラバラだったのは日本の国だけではなく、新政府のメンバーもまったくバラバラの状態だったのです。

改革をしなければいけないという思いだけは同じですが、なら、具体的にどうする?となると意見はまとまらない・・・それぞれの出身藩の思惑もからむし、それぞれが個性的なメンバーばかりですし・・・。

制度改革の会議を開けば、あの大久保利通は初日から欠席。

「そんなんされたら、まともに会議でけへんやんけ!」
と、大久保の欠席を知った西郷隆盛が途中から欠席し始めると、今度は、それを見た木戸孝允も欠席・・・。

こりゃ、アカン!と、政府内の人事を大改造・・・全参議が辞任し、西郷と木戸が新参議となり、三条実美(さねとみ)岩倉具視以外の公卿は、全員排除される事に・・・。

そして、このゴチャゴチャ状態を一気に打開するため、長州(山口県)出身の鳥尾小弥太野村靖井上馨(かおる)らによって行われたのが廃藩置県です。

全国の知藩事を東京に集め、密かに長州・薩摩・土佐から約1万人の兵=御親兵(ごしんぺい)を用意し、武力にで断行・・・有無を言わさず知藩事全員をクビにし、藩は305府県・・・さらに併合されて75府県という地方行政区とし、中央政府から地方官として知事県令を派遣したのです。

諸藩の抵抗が爆発しかねない一か八かのクーデターとも言えるほど、半強制的に行われた廃藩置県でしたが、これで一気に中央集権がなされ、日本は一つにまとまる事となったのです。

ところで、この廃藩置県の時の県名の命名に関するウワサがあるのをご存知でしょうか?

現在の全国47都道府県の中で、県名とその県庁所在地の名前が同じでない県が18県あるのですが、これは、その県名を命名した明治新政府による戊辰戦争の復讐・処罰であるというのです。

これは、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト・宮武外骨(みやたけがいこつ)が、そのミョーな法則に気づき、指摘した物なのですが・・・

最初に廃藩置県が成った305府県(北海道開拓使をのぞく)の時は、すべての県名が以前の藩名と一致していたものの、それが75府県に統合されていく中で、戊辰戦争で新政府軍についた藩の藩名はそのまま県名と県庁所在地名にし、幕府軍についた藩には、藩名より格下の郡や村などの名前を県名という冠にして、その下に来る県庁所在地名に藩名を持ってくるというイケズをやったのではないか?と言うのです。

たとえば、鹿児島・山口・高知・秋田・広島・岡山・鳥取・佐賀・福岡などは、藩の名前が県名となり、しかも県庁所在地も同じ名前です。

逆に、宮城(仙台藩)島根(松江藩)石川(金沢藩)などは、確かに県名の下に来る県庁所在地の名前が旧藩の名前となってます。

しかし、もちろん、これには異論もあります。

幕末期に歴史での重要な役割を果たし、新政府側であった宇和島藩の名前は県名にはなっていません。

また、仙台県が宮城県に変更されたのには、「藩の名前のままだと、県民がいつまでたっても、藩の時代の習慣から抜けきれない」との訴えがあったからで、強制的に名前を変えたのではないという事も伝わっているとの事・・・。

それに、当時の一般的な考えとして、戦いに敗れた場所ほど、「その名前を一新して、新たなステップを踏み出したい」と願ったとも考えられます・・・なんせ、この時代は、新たな気持ちで出発点に立った時には、人も自分自身で、名前を変えていた時代ですから、一つの名前を、ずっと貫くという事にさほどこだわりがなかったかも知れません。

果たして、この論争・・・決着がつく日が来るのやら・・・。

ただ、本当に戊辰戦争の復讐だとしたら、誰かが、後にそのパターンに気づく前に、県名が決まった時点で、すでにウワサになっていなきゃオカシイ気がしないではありませんが・・・。
 

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2008年6月20日 (金)

日本初の女医が二人?楠本イネと荻野吟子

明治十七年(1884年)6月20日、政府が、女性の医術開業試験の受験を認可しました。

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ネットで「日本初の女医」というキーワードで検索すると、二人の女性の名前がヒットします。

一人は楠本イネさん、もう一人は荻野吟子さんです。

日本初・・・なのに、二人・・・?

実は、それには、明治八年(1875年)に始まった医術開業試験制度と、明治十七年(1884年)に許された女性の医術開業試験制度への受験認可が、深く関わっていたのです。

つまり、江戸時代の頃は、今のように国家試験などは無いわけで、極端な話、看板をあげてそれらしく開業すれば、皆お医者さんだったわけです。

ただし、実際には、しっかりと医学を勉強し、ちゃんとした治療をしなければ、患者さんの信頼は得られませんし、多くの病人を助けた実績がないと名医とは呼ばれませんが・・・。

そんな中、文政十年(1827年)に生まれた楠本イネさん・・・父親は、長崎の出島に滞在して鳴滝塾(なるたきじゅく)を開いたあのドイツ人医師・シーボルト
母は、彼の日本人妻・たきさんです。

出島へは、基本的に日本人は立ち入り禁止でしたが、それはそこ・・・当時は、遠く海を渡ってやって来る外国人は、ほとんどが男性ですから、たきさんのような遊女たちは例外だったのです。

そんなたきさんに一目惚れして妻に迎えたシーボルトでしたが、例の日本地図を持ち出そうとした『シーボルト事件』(5月17日参照>>)で、国外追放となってしまいます。

父がいなくなった後、イネは、再婚した母とともに、連れ子として再婚相手のもとで暮らしますが、成長するにつれて、自分が、他の子供たちとは違う事に気づきます。

もちろん、それは、連れ子という立場ではなく、ハーフという事・・・なんせ、当時はメチャメチャ珍しいですから・・・。

やがて、彼女は父の歩んだ道と同じ、医師の道へ進もうと決意します。

イネは、父の教え子だった伊予(愛媛県)宇和島二宮敬作の元へ行き、そこで医学の基礎から勉学に励むのですが、やはり、女性である事を活かして産科医の専門知識を身につけよと考えます。

そして、敬作の勧めもあって、同じく父の弟子であった石井宗謙(そうけん)を頼って岡山に行きます。

しかし、ここで事件が起こりました。

実は、彼女はかなりの美人!ハーフ独特の彫りの深い顔立ちに、パッチルした目元・・・その美貌に目がくらんだ宗謙から、なんと!レイプされてしまうのです。

しかも、その一度の行為で、彼女は妊娠してしまいます。

やがて、女の子を出産した彼女は、失意のまま、故郷・長崎へと帰ります。

そんな彼女を救ったのは、やはり、父の弟子だったあの大村益次郎でした。

落ち込む彼女を励まし、再び宇和島の敬作の元へ連れて行きます。

もちろん、敬作も宗謙の仕打ちには怒り心頭でしたし、自分が紹介した負い目もありますから、快くもう一度イネを受け入れ、イネは再び敬作のもとで医学の勉強に励む事に・・・そして、ここでは、さらに外科医としての技術も身につけます

やがて、益次郎に誘われて江戸へ行き、そこで開業医となったのです。
ここに、日本初の女医が誕生しました。

腕もよく、評判の医師でした。

明治二年(1869年)に、恩人・益次郎が暗殺(11月5日参照>>)された時には、彼女は外科医として、しっかりと恩人の最期を看取ったと言います。

しかし、そこへ先の医術開業試験制度です。

制度ができた以上、その試験に合格しなければ、医師として開業する事ができませんが、この時の、この制度には、女性の受験は許されていませんでした

そして、その9年後、やっと医術開業試験に女性の受験も認められるようになるのですが、実は、これには、陸軍軍医・石黒忠悳(ただのり)の強い気持ちがありました。

彼は、ある一人の女性のために、受験規制を隅から隅まで熟読し、そこに女性の受験に関する明確な事が書かれていない事を知ったうえで、内務省衛生局長の長与専斎(ながよせんさい)に直談判して、何とか認可させたのです。

その女性が、荻野吟子です。

嘉永四年(1851年)埼玉県に生まれた吟子(当時はギン)は、16歳の時に結婚しますが、その間もなく、夫から性病を移され、あげく果てに、その病気のせいで離婚されてしまいます。

治療のため、維新がなったばかりの東京・順天堂で2年間を過ごしますが、この時の男性の医師に診察される恥かしさが、彼女を医学の道へと進ませるのです。

一大決意をした吟子は、東京女子師範学校を卒業し、さらに東京下谷の医塾好寿院に入学、働きながら明治十五年(1882年)には、学問としての医学をすべて身に着けます。

しかし、やっぱり、ここで医術開業試験・・・すでに7年前に始まっていたこの制度のため、彼女は2年間の空白を持つ事に・・・

・・・で、彼女の事を知った忠悳の応援で、明治十七年(1884年)6月20日女性も受験ができる事となったのです。

時に吟子・33歳・・・

そう、実は、この時、イネは57歳になっていたのです。

現在よりも、ずっと平均寿命が短い頃の57歳です。

イネはしかたなく、受験をあきらめます・・・しかし、医療の道はあきらめません。

医師ではなくても、その経験は活かせます。
彼女は、その後、産婆として多くの命を助けるのです。

一方の吟子さん・・・受験が認可された3ヶ月後の9月には、浅草東本願寺で行われた試験を受験します。

受験者583人のうち、合格者は153人・・・この時、吟子と一緒に試験を受けた女性は、彼女を含めて五人いましたが、受かったのは、彼女一人でした。

彼女は東京の下町で開業し、ここに、二人目の日本初の女医が誕生しました。

後に、彼女は、明治女学校の校医も勤めます。

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はてさて、二人の日本初の女医さん・・・
ともに、苦しみながら医学を学び、
ともに、女性の医師への道を開いたお二人・・・
「もう、両方とも初でいいやん!」と、思わせてくれる感動の人生ですよね。

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2008年6月17日 (火)

四民平等を謳った明治政府が華族制度を造ったワケは?

 

明治二年(1869年)6月17日、明治政府は『版籍奉還』の命令を発布し、公卿・諸侯を「華族」と称する事を布告しました

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版籍奉還(はんせきほうかん)各藩の領地はその領地に住む領民の戸籍という意味です。

江戸時代の藩という物は、今で言うアメリカ合衆国の州のような物・・・日本という国は、藩という独立国家の集合体のような物でした。

つまり、「その独立国家の領地と領民を天皇=新政府に返せ」というのが版籍奉還です。

ただし、この命令を出したからと言って、いきなり全部返されても、新政府がすべてを統治できるわけもありませんから、あくまで、建前・・・実際のところは、江戸時代に藩主だった大名が、明治政府から知藩事という名前の地方官に任命され、昔からの領地の支配を、以前と同じように治めているというのが現状でした。

ちなみに、余談ですが、この時の知藩事という役職名がついた時から、領地の事を藩と呼ぶようになります。

つまり、江戸時代には藩という呼び方は無く、時代劇のセリフでよく登場する「わが藩は・・・」とか「薩摩藩では・・・」なんて言い方は、現代人にわかりやすくするための架空の言い回しで、江戸時代の武士は、単に「わが領地は・・・」「薩摩の地では・・・」という言い方をしてたんですねぇ。

そして、この明治二年に初めて呼ばれた藩という名称は、二年後の明治四年(1871年)の『廃藩置県』で廃止され、になりますので、この藩という呼び方は、日本の歴史上ではたった二年間だっという事になります。(ちょっと、びっくり!)

少し、脱線していまいました~話を戻します。

・・・で、この版籍奉還するにあたって、それまで藩主である大名を「諸侯」と呼んでいたのを、公卿(上層階級の公家)らとともに「華族」と称するように変えたのです。

当初は、公家と旧大名家、合わせて427家が華族となりました。

2年後の明治四年に制定された戸籍法では、士族(旧・武士)平民(旧・農工商)とともに、華族は正式な呼称となりました。

ところで、士族の特権を奪ってまで四民平等を訴えていたはずの明治政府が華族制度を作ったのにはワケがありました

まず最初の時点では、「天皇と皇室を守護し、国民の模範となってもらいたい」という物でした。

とにかく、海外留学でも何でもして見聞を広め、知識を吸収し、多方面でリーダー的存在となれば、一般国民も学問の大切さを知り、国民全体の教養が高まって、文明開化が進み、日本も欧米に追いつく事ができる・・・歩み始めたばかりの明治政府は、欧米に追いつく事を第一の目標にしていましたから・・・。

しかし、例の廃藩置県によって、旧・大名だった華族には、いわゆる家禄(石高に応じて貰う給料)がストップしてしまったワケで、経済状態が一発で苦しくなり、学問どころか、日々の暮らしにさえ事欠くようになっていきます。

そこで、元公家の岩倉具視らが中心となって、国立第十五銀行を造ったり、日本鉄道株式会社を設立して、その収益を華族の支援にあてたりなんかして、旧大名の華族を援助・・・華族会館も創設して、華族同士の団結を強めるよう努力しました。

この華族会館が、華族の子息たちの教育機関として設置したのが学習院です。

そんなこんなしているうちに、明治政府が華族制度を強固な物にしなければならない時がやってきます。

自由民権運動の高まりです。

最初は、不平不満を持った士族たちから始まった反政府運動でしたが、それが、豪農や一般農民に広がりを見せ、民間人の政治参加を主張する一大運動となってブームを巻き起こしていました。

彼らは、「一刻も早く国会を開いて、我々を政治に参加させろ」と主張します。
しかし、政府も現体制を壊したくはありません。

やがて、国会の開催に関しては、政府内でも「すぐに開催すべき」の声が出るようになり、しかたなく、明治十四年(1881年)に、政府は「十年以内に国会を開きましょう」と約束します。

皇帝の権限の強いドイツの国会を視察した伊藤博文は、ドイツにならって、日本の国会も上院・下院の二院制を導入し、衆議院(下院)を選挙によって代表を選ぶシステムにしようと考えました。

しかし、そうすると、今の段階で選挙すれば、敵対勢力(政党勢力)が過半数を占めのは目に見えています。

そこで、彼が目をつけたのが華族です。

衆議院に対抗すべく、上院を貴族院と称して、皇族や華族たちの中から任命する形で議員を選び、政府に味方する勢力としたのです。

その思惑通り、貴族院で多数を占める華族議員たちは、やがて政党が力をつけるその日まで、政府の擁護にまわり続ける事になるのです。

なかなか、道は遠いですねぇ。
 

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2008年6月12日 (木)

海道一の大親分・清水次郎長の知られざる後半生

 

明治二十六年(1893年)6月12日、海道一の大親分、ご存知!清水次郎長こと、山本長五郎が74歳でこの世を去りました

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小さい頃、時代劇で見た頃のイメージだと、「江戸も真っ只中のお話なのかな?」と思っていましたが、意外にも幕末から明治の人だったんですね~

しかも、若い頃、あれだけ大暴れしていたワリには、奥さんや大勢の子分に囲まれての穏やかな最期・・・静かに畳の上でお亡くなりになったワケですから・・・。

・・・というのも、時代劇では、任侠の世界に生きる次郎長一家の親分としての次郎長さんばかりが描かれますが、晩年は、やくざな世界から足を洗い、実業家として社会事業に貢献するといった、まっとうな余生を送った人だったからなのです。

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清水の次郎長こと山本長五郎は、文政三年(1820年)1月1日に、清水港の船頭頭・三衛門の次男として生まれ、後に、母方の叔父にあたる山本次郎八の養子となります。

次郎長という呼び名は、この養父の次郎八さんからきています。
つまり、「次郎八さんとこの長五郎」というのを短縮して、通称・次郎長という事です。

この次郎八さんが、甲田屋という米屋を営んでいて、その後継ぎとして養子に迎えられた次郎長でしたが、これが、子供の頃から、手のつけられない暴れん坊・・・読み書きを習わせようと寺子屋へ通わせれば同級生とケンカをして追い出され、ちょっとは礼儀を学ばせようとお寺へ奉公に出せば、言う事を聞かずに、またまた追い出され・・・店の金を持ち出しちゃぁ、バクチに女につぎ込んでの繰り返し・・・。

そんな次郎長も、さすがに養父が亡くなった時には、「これではいかん!」とばかりに反省し、マジメに商売に打ち込むようになります。

その矢先・・・次郎長が20歳の時です。

たまたま、清水を通りがかった旅の僧が、次郎長の顔を見るなり・・・
「死相が出ておる・・・あと五年の命じゃぁ~」
・・・次郎長さんの時代劇は、大抵ここから始まります。

この通りすがりの僧の無責任?とも言える一言で、すべてが元の木阿弥・・・。
「どうせ五年の命なら、思う存分、やりたい事をやろう!」と、またまたバクチと女に明け暮れる生活に逆戻りです。

そんなこんなの23歳の時、賭場でイカサマをした、しないの口論となり、人二人を斬って、そのまま逃亡・・・清水から姿を消します。

ほとぼりが冷めた5年後、清水に戻った次郎長は、江尻の親分の妹・お蝶と結婚・・・この頃には、5年間の逃亡生活でつちかったやくざな度胸にほれ込んだ子分も何人かでき、清水一家のような物が生まれはじめていたのですが、またまた賭場でモメて人を斬り、逃亡の旅に出るのです。

今度は、ちょっと長い12年・・・次郎長も40歳になっていたこの時、清水に残していたお蝶が病気で亡くなってしまいます。

お蝶病死の知らせに、慌てて清水へ帰る途中、彼を捕まえようとした十手持ちの保下田(ほげた)の久六を斬りました

その久六を斬った刀を、次郎長の名代で、四国の金毘羅さんに奉納に行くのが森の石松・・・あの浪曲の「寿司食いねぇ」のくだりでの名場面です。

無事に、刀を奉納して帰る途中、江州の親分から、お蝶さんの香典として渡された25両の大金・・・この大金が石松の命取りとなります。

浜松まで戻ってきて、都田の吉兵衛の賭場に出かけた石松・・・石松が大金を持っている事を知った吉兵衛は、その金を奪って、石松を殺してしまうのです。

もちろん、次郎長親分はすぐに報復・・・吉兵衛を斬ります

ちょうどその頃、以前から敵対関係にあった黒駒の勝蔵との関係が悪化し、慶応二年(1866年)、有名な伊勢荒神山の抗争へと発展していくのです。

数百人規模の大合戦となったこの抗争で、次郎長は吉良の仁吉法印大五郎を失いますが、抗争には何とか勝利・・・一気にに名を上げ、まさに海道一の大親分となったのです。

しかし、時は幕末・・・明治政府が誕生するとともに、次郎長も48歳・・・大きな転換期がやってきます。

慶応四年(明治元年・1868年)8月、榎本武揚が、幕府の軍艦を率いて北へ向かう途中、台風に遭って咸臨丸が流され、清水の港に非難してくるのですが、それを知った新政府軍が、軍艦3隻で猛攻撃を仕掛け、咸臨丸の乗組員は全員死亡してしまいます。

勝利した新政府軍は、幕府軍の兵士の死体を清水港に放置したまま、咸臨丸だけを曳航して去って行ってしまいました。

鳥羽伏見の戦い以来、賊軍となってしまった幕府軍・・・そんな幕府軍の死体を、次郎長は、子分を総動員して片付けにかかのです。

当時、静岡県権大参事(ごんだいさんじ)を務めていた山岡鉄舟は、その話を聞いて、次郎長の取調べを行います。
なんせ、賊軍=罪人なわけですから・・・。

すると、次郎長は「死んだら皆、仏様・・・官軍も賊軍も俺らには関係ねぇ!」とキッパリ!

この言葉に感激した鉄舟は、以来、次郎長と親しく接するようになり、新田開発や私塾の建設、造船などの様々な事業を彼に勧めました

中には、失敗もありましたが、それらの事業は清水港の発展につながり、次郎長は大きく社会貢献する事となります。

今では、名物となったお茶も、この時に勧められた事業の一つだそうです。

ところが、次郎長・65歳の明治十七年(1884年)、大規模な博徒狩りに引っかかり、逮捕されてしまいます

しかし、翌年の台風で、次郎長のいた監獄が倒壊して大怪我をしてしまった事をきっかけに(ウラでは鉄舟の働きかけもあったようです)釈放され、すでにやくざな世界からキッパリ足を洗ったその後は、船宿を経営するのですが、これが海軍の宿として利用され、大いに繁盛します。

あの「杉野はいずこ」で有名な広瀬中佐とも友人関係にあったようで、あの斬りに斬りまくった前半生からは想像もできない穏やかな晩年を送られたようです。

ところで、次郎長はその生涯の中で、三度結婚しているのですが、2人めの奥さんの事も、3人めの奥さんの事も「お蝶」と呼んでいたそうで、人を斬っては逃げまくって、迷惑をかけてばかりだった最初のお蝶さんに「すまない」と思う気持ちが強かったようです。

そんな次郎長さんは、明治二十六年(1893年)6月12日、3代目・お蝶さんに看取られながら、初代・お蝶さんのもとへ、静かに旅立ったのです。

葬儀に参列した人は数千人・・・「侠客次郎長之墓」と書かれた墓碑の文字は、あの榎本武揚の筆によるものだと言われています。
 

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2008年6月 7日 (土)

大阪城・マイナー史跡~旧大阪砲兵工廠化学分析場

 

それは、まるで、時間が止まったような空間でした。

天守閣はいつも大勢の観光客で賑わい、
大阪城ホールには人々が集い、
四季折々の花が咲く大阪城公園の一角に、ひっそりと静かに・・・

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豊臣時代の天守を模して再現された天守閣よりも、時の重さを感じる風景・・・それは、やはり、この建物の時間が、60年前の敗戦で止まっているからなのでしょうか?

それでも、当時の事を知っているかたに言わせれば「ずいぶん変わった」のだそうです。

そりゃぁ、この一角以外は、美しい公園として整備されていますから・・・

ひょっとして、時が止まって見えるのは、むしろ、その周囲の変貌によるものなのかも知れません。

以前、大阪城の不思議な話(8月18日参照>>)でも触れさせていただきましたように、豊臣家滅亡の後、徳川の物となった大坂城は、維新とともに、明治新政府の物となり、以来、太平洋戦争が終結するまで、軍の管理下に置かれました。

昭和六年(1931年)に大阪市民の寄付によって天守閣が再建され、一部が市民に開放された後も、近くに移転した軍事施設とともに、現在のビジネスパークにあたりには、東洋一と言われる砲兵工廠(こうしょう・軍需工場)がありました。

6万人とも言われる人々が、ここで小銃から戦車など、あらゆる兵器を生産していた事で、戦時中のここは、アメリカ軍の集中砲火のターゲットとなり、戦争終盤には、空襲で壊滅状態となります。

やがて、昭和二十年(1945年)8月15日、敗戦後、廃墟となったこの地・・・この地が長い眠りから覚めるのは、万国博覧会が大阪で開催された昭和四十五年(1970年)の頃。

まずは、天守閣周辺が公園として整備されはじめ、やがて90年代には、大阪ビジネスパークが形成されました。

今日、ご紹介するこの建物は、そんな大阪城周辺の変貌を、その目で見てきた生き残り・・・『旧大阪砲兵工廠化学分析場』です。

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大阪城の北側に流れる寝屋川に架かる、京都への玄関口・・・京橋。

Kagakubunsekizyoutizucc この京橋がここにある事で、ここから大阪城内へ入る入り口を「京橋口」と呼びますが、その京橋口と、寝屋川に挟まれた部分の一角に、それは建っています。

煉瓦造りの2階建て、地下1階・・・左右対称=シンメトリーのそれは、ルネッサンス風の堂々とした洋風建築で、文化財クラスの優れた建築物です。

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しかし、とかく、こういった戦争の遺構という物は、歴史認識の違いによって評価が異なり、「保存か」「撤去か」で意見が別れるもの・・・

「軍国主義の遺物は撤去すべき」との声が高まった昭和五十六年(1981年)5月、この化学分析場の近くにあった旧砲兵工廠本館は、明治六年(1873年)建築の重文クラスの建築物であったにも関わらず、取り壊されてしまいました。

その翌年の昭和五十七年、この化学分析場が、有名建築家・置塩(おしお)の手による大正八年(1919年)の作品である事が判明します。

それでも、当時は、悪しき時代の遺構は排除しようという意見が多くありました。

Kagakubunsekizyoutumesyocc 向かい側には、当時の守衛詰所もそのままに・・・

しかし、結局、結論が出ないまま、今に至っているわけですが・・・

現在、各地で戦争の遺構が文化財に指定され、保存の方向に向きつつある中、大阪の戦争遺構の保存状況はあまり良いとは言えません。

この化学分析場も、今では保存の動きがあるようですが、まだ、決定段階ではありませんので、宙ぶらりんの状態・・・保存するのなら、修復して整備すべきところですが、何もしないまま廃墟のようになってしまっています。

Kagakubunsekizyoutekkoncc 近くには、溶鉱炉の底に残っていた鉄塊がそのまま放置され、くぼみには雨水が溜まっていました。

私個人的には、軍国主義の遺物とは言え、それも歴史の一つ・・・歴史を生で伝える証言者として、彼らを後世に残していただきたと思うのですが・・・。

皆さんも、今度、大阪城へ行かれたら、ちょこっと寄り道してみてください。
いつもの、大阪城公園とは少し違った印象を味わえる事でしょう。
 

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2008年5月31日 (土)

明治の珍騒動~未成年・喫煙禁止令

 

今日、5月31日は、世界保健機構(WHO)が制定した世界禁煙デーという国際デーの一つなのだそうです。

今日から一週間は禁煙週間として、禁煙を促進する様々な行事が行われるそうです。

ところで、健康志向も相まって、どんどん禁煙スペース増えつつある今日この頃では、信じられないようなお話ですが、この日本でも、明治三十三年(1900年)3月に、未成年者に対する喫煙禁止令なる法律が公布されるまでは、少年少女の喫煙は野放し状態でした。

丁稚奉公の小僧さんがくわえ煙草で仕事をしたり、煙草をふかしながら学校に通う小学生の姿もあったとか・・・

もちろん、それまでにも、規制がなかったわけではありません。

明治二十七年(1894年)には、文部省から小学生の喫煙を禁止する訓令が出されてはいましたが、ほとんど守られる事はなく、中学生においては、それぞれの学校の校則での禁止にゆだねられ、法的に禁止するには至っていなかったのです。

・・・で、上記のように、やっとこさ明治三十三年の3月に公布、翌4月から施行という事に相成ったわけですが、これが決定されるやいなや意外なところから反対の声があがります。

それは、花柳界・・・芸者さんや遊女などの、いわゆる花街の世界からの反発でした。

当時の新聞によれば・・・
「こいつぁ、一つ、廃案運動に出かけにゃなるめぇと、くりからもんもん(2月21日参照>>)の腕をやくして、吉原はいうに及ばず日本国中の遊郭連合して、岩戸がくれのはじめより、女なしでは夜の明けぬ大勢を示さん」
との、大騒動になったのだそうです。

実は、江戸の昔から、遊郭において煙草は重要な小道具・・・うらぶれた場末の見世にでも、粗末な一室に、ほの暗い灯りや布団とともに、煙草盆と煙管(きせる)が置いてある・・・。

俗に、遊女遊びの一連の流れは、茶煙草盆(ちゃたばこぼん)の礼に始まると言われたくらいの必須アイテムでした。

特に、まだ、客あしらいに慣れていない新米の芸妓にとっては、お客を和ませるための最大の道具を取り上げられては死活問題・・・商売がやっていけないというのです。

なんせ、新米=未成年ですから、絶対に引っかかります。

しかし、大騒ぎしたわりには、実際の反対運動に発展する事はなく、この喫煙禁止令はすんなりと施行される事に・・・

ただし、すんなり施行されはしたものの、実際には守らない者が多数・・・。

芸妓や娼婦に限らず、一般の未成年者も、警察の補導を受ける者が耐えなかったのだとか・・・

現在では当たり前となっている事も、それが、定められた直後には、スッタモンダがあるもんですねぇ。

この大騒ぎも、日本が近代国家へと向かう明治の珍騒動の一と言える物でしょう。

Utamarokiserucc
今日のイラストは、

煙管・・・という事で、歌麿の『歌撰恋之部・深く忍恋』を描かせていただきました~。
 

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2008年5月27日 (火)

日本海海戦・伝説の東郷ターンは?

 

明治三十八年(1905年)5月27日、東郷平八郎率いる日本海軍連合艦隊と、ロシア・バルチック艦隊日本海海戦が勃発しました

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明治三十七年(1904年)2月10日の、日本からロシアへの宣戦布告で始まった日露戦争(2月10日参照>>)は、おおむね日本優勢で、戦局は進んでいました。

翌年の1月には、203高地を占領する事によって、難攻不落と言われた旅順(りょじゅん)を砲撃範囲の収めて陥落、3月には、日露戦争最大の陸戦であった奉天(ほうてん)の会戦にも勝利します。

しかし、結果的には陥落・占領してはいますが、その過程では、大きな犠牲を払っていましたから、人員・弾薬ともに底をつき、もはや、先は見えていました。

一方のロシアは、先の旅順・奉天では負けたとは言え、未だロシア本土を占領されたわけでもなく、極東へ派遣している兵士の数も、全体から見れば半数ほど・・・さすがは、大国、まだまだ、いくらでも戦える状態でした。

その最たるものがバルチック艦隊です。

ロシアには、極東に配備している太平洋艦隊と、ヨーロッパに配備しているバルチック艦隊とがあり、日本を相手に戦っているのは、太平洋艦隊・・・その中のさらに枝分かれした主力の旅順艦隊と、神出鬼没にゲリラ作戦を行うウラジオストック艦隊の二つでした。

しかし、日本の優勢を見たロシアは、バルチック艦隊を極東へ派遣する事を決定し、明治三十七年10月15日、母港・リバウ軍港を出航します。

このバルチック艦隊が、太平洋艦隊と合流してしまっては、一気に形勢が逆転しかねませんから、バルチック艦隊を無傷でウラジオストックへ入港させる事は、何としてでも阻止しなければなりません。

・・・で、その前に・・・
連合艦隊は、まず、旅順の陥落で、居場所を失った旅順艦隊を、黄海海戦で大破させ、その直後、たまたま遭遇したウラジオストック艦隊を蔚山(うるさん)沖海戦で壊滅状態にさせました。

残るは、今現在、極東に向かっている最中のバルチック艦隊・・・しかし、これが、朝鮮海峡を通るのか?、津軽海峡を通るのか?、それとも宗谷海峡を通るのか?

はなから、バルチック艦隊よりも、総艦隊重量が劣る連合艦隊を、三つに分散させての迎撃は不可能ですから、どこかの一つのコースに絞るしかありません。

ここで、連合艦隊最高司令官・東郷平八郎は、朝鮮半島に賭けます

いえ、これは賭けではありません。
緻密な計算のもと、はじき出された結果なのです。

実は、このための、黄海海戦であり蔚山沖海戦でした。

太平洋艦隊が壊滅状態となった今・・・バルチック艦隊は、一刻も早くウラズオストックへ向かおうと、最短距離である朝鮮海峡を通るに違いないと、東郷は予想したのでした。

やがて、5月26日、バルチック艦隊の輸送船が上海に入港したという知らせが届きます。

ここで、東郷の予想は確信へと変わりました。

かくして、日本近海に数十隻の船を配備し、警戒にあたる中、運命の明治三十八年(1905年)5月27日午前2時、五島列島西方の信濃丸から・・・
「敵の戦艦見ゆ」
の無線が発進されます。

これを聞いた東郷は、すぐに全艦を率いて、西へ・・・
「ただちに出動・・・本日晴天なれど波高し」
と打電します。

午後1時半、沖ノ島西方にて敵艦を確認・・・旗艦・三笠Z旗が掲げられました。

正面から全速力で、バルチック艦隊に向かって行く連合艦隊・・・
両艦隊の距離は8500m・・・しかし、東郷は何の指示も出しません。

さらに、距離は縮まって8000m・・・
まだ、指示はありません。

我慢できなくなった部下が「どうされますか?」と・・・
その時、高々と右手を挙げ、おもむろに左に円を描いて下ろします。

取り舵いっぱい・・・全艦が一斉に左へと船首を向けます。

Nihonkaikaisenzucc (このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

これが、伝説の東郷ターン・・・この陣形は、敵の進行方向を横切る形で、攻撃を加える事からT字戦法と呼ばれました。

そして、距離が7000mにまで、近づいた時、バルチック艦隊の先頭に位置していたスワロフから31インチ砲が放たれ、それが合図であったかのように、次ぎから次へと砲撃を仕掛けてきました。

敵の一番の目標は、やはり東郷が乗る旗艦・三笠でしたが、こちらは、未だ砲撃せず、敵の砲撃をかいくぐって、さらにお近づきます。

やがて、距離が6500mまで近づいた時、連合艦隊は一斉に砲撃を開始し・・・その砲弾は、正確に敵艦隊に着弾し、大打撃を与えるのです。

勝敗は、わずか30分で決し、バルチック艦隊は散り散りになって敗走しはじめます。

さらに、これを追い、次々と敵の戦艦・巡洋艦・駆逐艦を撃沈。
午後7時に、連合艦隊・本隊の攻撃は終了しますが、その後は、小回りのきく駆逐艦・水雷艇によって、夜を徹しての追撃を加えました。

結局、40隻あった艦隊の中で、最終的にウラジオストックへ逃げ込む事ができたのは、巡洋艦1隻と、駆逐艦2隻の、わずか3隻でした。

まさに、日本海海戦は、連合艦隊の空前の勝利となります。

バルチック艦隊・全滅の知らせを受けたロシア皇帝・ニコライ2世(あの大津事件の・・・5月11日参照>>)は、ついに講和を決意しました。

冒頭に書いたように、これ以上、日露戦争を続けていく事が不可能だった日本にとっては、戦争長期化による敗北を免れる事ができたわけです。

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もっとも、近年では、この伝説の東郷ターンは無かったのではないか?という説も多く囁かれます。

・・・というのも、艦隊のトン数こそ、ロシアが80万トン、日本が25万トンという大差があるものの、ロシアが大きな戦艦をいくつか所有しているかわりに、日本は巡洋艦・駆逐艦・水雷艇などの小さめの船をロシアの数倍持っていた事、備えている砲門の数も日本がロシアの倍近くあった事、また、火薬の性能も、日本のほうが上だった事などを考えると、あえて奇抜な方法を取る事もなく、正攻法でも勝てたはずだから・・・なのだそうです。

この海戦のキーポイントは、バルチック艦隊が、ウラジオストックに入港する前に、発見して射程距離に収められるかどうかであって、朝鮮海峡に網を張り、そこにバルチック艦隊が現れた時点で、連合艦隊の勝利は、ほぼ決まったような物だったと推理できるわけです。

確かに、バルチック艦隊は、母港を出てから7ヶ月・・・途中の港に、ほぼ、立ち寄る事なく、延々と航海を続けて、ここまでやってきたわけで、乗組員たちは、もう、それだけでヘトヘト状態。

逆に、ここで待ち伏せている連合艦隊のほうは、充分な補給・休養がとれていたのですから、勝つべくして勝った戦いだったのかも知れません。

しかし、歴史を楽しむ立場から見れば、やはり伝説の東郷ターンは魅力的!

ただ、この、あまりにもパーフェクトな勝利は、海軍全体に大艦隊&大型戦艦がベストという考えを生む事になります。

日本は、あのパールハーバーで、自らが戦闘機の時代を告げておきながら、戦艦大和(4月7日参照>>)が海のもくずと消えるまでの40年間、この日の夢を追い続ける事となるのです。

 
海戦に興味アリの方は・・・11月7日【あの東郷ターンを生んだ武田信玄の甲州水軍】もどうぞ>>
 

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2008年5月23日 (金)

明治の珍事件~風の神様の落し物?~初の気球実験

 

2日連続の明治の三面記事的事件ですが・・・今日のは、大いに笑える珍事件です。

明治十年(1877年)5月23日のお昼過ぎ、千葉県東葛飾郡堀江村(浦安市)の小さな漁村で、それは起こります。

朝からの漁も終わり、船や網の手入れなどしながら、村の漁師たちが浜辺でおしゃべりをしてる・・・そんな、のどかな、いつもと変わらぬ風景の中、ふと、空を見上げると、北西の方角から、何やら巨大な物体が近づいてきます。

「何じゃ?アリャ」
「クラゲのバケモンか?」

それは、空から落ちてくる・・・というよりは、ふわりふわりといった感じで、ゆっくりと降りてきます。

やがて、それは、浜辺にストンと・・・

近づいてみると、いやはや、思った以上に大きい・・・

その物体の高さは九間(約16m)幅五間(約9m)周囲十七間(約30m)

大きな球形の物体で、全体に太い綱が張り巡らされていて、その綱の内部には、綱に沿うような形で、猫の皮のようなヌメっとした白い物が納まっています。

しかも、その綱の内側の物は、クラゲのようにブヨブヨ・・・。

おりからの風にあおられ、物体は、浜辺の上を回転しながら、あるいは、ズルズルと引きずられるように動き回ります。

知らせを聞いた村人が続々と集まってきて、浜辺は大騒ぎです。

「なんや、ラッキョウの化け物みたいだな」
「いや、デケェ袋のようだべ」
「ひょっとしたら、風の神さんの落し物じゃぁねーけ?」

そう言いながら、はじめは遠巻きに見ていた漁師たちも、そのヌメヌメした皮の部分をさわりはじめる者、船の櫂(かい)でつっつきはじめる者・・・イロイロです。

しかし、コチラをつっつけば、アチラがポコンと膨れあがり、アチラをつっつけば、またコチラがポコンを膨れあがり・・・やがて、力自慢の若者が、「ウリャ~」とばかりに力任せに蹴りあげると・・・

鈍い音とともに、皮が破れたかと思うと・・・プシュ~ッ!!!
その裂け目から、大量の臭いにおいの空気が、風のように吹き出しました。

「うわぁ!毒を吐きやがった!」
「逃げろ!逃げろ!」

もう、腰を抜かす者。
あわてて転ぶ者。
毒気をあびて倒れる者・・・

あたりは騒然となります。

・・・で、後に判明するのですが・・・

実は、この明治十年という年・・・そう、頃は、ご存知、西南戦争(9月24日参照>>)の、真っ只中であります。

その西南戦争が始まったばかりの3月に、西郷軍に包囲された熊本城は、何とか籠城作戦で守りきり、その後の田原坂での勝利によって無事だったもの、50日間という長きわたって、城は孤立状態となり、中と外でまったく連絡が取れないという、とても危険な状態となっていました。

そこで、新政府軍は、緊急時の連絡用の新兵器の開発馬場新八に依頼していたのです。

それは、奉書紙(ほうしょがみ・キメの細かい厚手の和紙)、130反(1反=約11m)をミシンで縫い合わせ、表面にゴムを塗った風船状の物で、中に蒸気ポンプで瓦斯(ガス)を送り込み、綱を編んだ物をかぶせて、その綱から伸びた先に、籠を取り付け、そこに人間が乗って、空を飛ぼうというシロモノでした。

Sainansensoukikyuucc つまり、軍事用の気球だったという事です。

明治十年(1877年)5月23日築地の海軍兵学校で行われた実験では、海軍はもちろん陸軍の軍人・関係者が多数見守る中、金杉の瓦斯会社から運ばれた瓦斯を注入された2個の気球が、空高く舞い上がる・・・予定だったのですが・・・

残念ながら、一つの気球は、飛行直前に破裂。

・・・で、もう一つが、上記の大騒ぎの気球だったわけです。

コチラは、飛ぶには飛んだものの、つないでいた綱が切れ、あれよあれよという間に、風に乗り、東南の空へと消えてしまっていたのでした。

これが、日本初の気球の実験でした。

結局、この西南戦争で、実際に気球が使用される事はありませんでしたが、その後、気球は、イベント用の見世物として、一般の人々の知るところとなります。

やがて訪れた暗い時代には、日露戦争で偵察用に使用されたり、太平洋戦争の風船爆弾として、その技術が、軍事用に引き継がれていく事になりますが、現在は、ご存知のように、夢あふれる乗り物として、その飛距離を競うスポーツとしてもお馴染みですね。

それにしても、何も知らされていなかった明治の頃の一般ピーポーは、さぞかし驚いた事でしょうね。

「風の神さんの落し物」・・・なんだかわかる気がします。
 

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2008年5月22日 (木)

夏目漱石をも悩ませた一高生の投身自殺

 

明治三十六年(1903年)5月22日、第一高等学校一年生の藤村操(みさお)さん18歳が、日光・華厳(けごん)の滝にて、投身自殺をはかりました

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当時の新聞報道によりますと・・・
“22日の5時頃、旅宿に命じてビール少しばかりを呑み、鶏卵を食し、服装を整えて華厳の滝に至り、ここを死地と定めて懸崖(けんがい)の巌端より、滝壺めがけて真向に身を躍らし、永劫の眠を致せしものならん”
とあります。

時は明治三十六年・・・日露戦争を前にした人々の不安が、重苦しく感じはじめた頃。

ずいぶん前の、尾崎紅葉さんのご命日に『金色夜叉』の大ヒットのお話(10月30日参照>>)を書かせていただきましたが、ちょうどその頃、急激に資本主義が勢いを増し、世間には成金が登場し、高学歴&高収入が一番理想的という考え方が目立つようになった時代背景がありました。

そんな時、エリート中のエリートで未来を約束されたような存在である一高生が、突然自殺する・・・確かに、センセーショナルではありますが、それだけなら、一学生の自殺事件として、さほど話題にもならなかったかも知れません。

ところが、この学生が、かたわらに立つ大樹をナイフで削って、『巌頭(がんとう)之感』なる遺書を残していた事で、一大事件として報道される事になるのです。

その文とは・・・
“悠々たる哉(かな)天壌
 遼々たる哉古今
 5尺の小軀
(しょうく)を以て
 この大をはからむとす。
 ホレーショ
(ハムレットの登場人物)の哲学
 竟
(つい)に何等(ら)オーソリティーを價(あたい)するものぞ、
 万有の真相は唯一言にて悉
(つく)す。
 曰く『不可解』
 我この恨を懐
(いだ)いて煩悶(ほんもん)
 (つい)に死を決するに至る。
 既に巌頭に立つに及んで胸中何等不安あるなし
 始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを

なのだそうですが・・・

文章がスゴすぎて何を言ってるのかさっぱりワカラン・・・

とにかく、
人生とは何だ?
何のために生きるのか?

てな哲学的な事を、ものすご~く悩んでおられたようです。

この遺書が名文だとして、たちまち世間の絶賛を浴び、ちまたには「人生不可解」「煩悶」なる言葉が流行語となるのです。

『万朝(よろず)報』社長の黒岩涙香(るいこう)という人は、自身の著作や講演で、
「この少年は、日本で初めての哲学者だ」
「近来、このような名文を見た事がない」

などと、絶賛しまくります。

しかし、そこまで、持ち上げると当然、その反対意見も登場します。
「自殺とは個人の満足以外の何物でもない」by長谷川天渓

しばらくの間は、賛否両論、様々な意見が新聞紙上を賑わす事になるのですが、こういう出来事があると必ず、連鎖反応が起こるのは困ったものです。

なんと、この自殺事件の後の5年間で、華厳の滝に身を投げた人が200人近くになったのだとか・・・もはや、社会現象です。

そして、ここに、もう一人・・・この事件の事で悩んでいた人がいました。

かの夏目漱石です。

漱石は、一高で、彼・藤村君を受け持っていたのです。

しかも、数日前、最近、英語の授業をバックレてばかりいる彼に「やる気がないなら、もう学校に来なくていい!」叱ったばかりだったのです。

悩みに悩んで、心の病気なってしまった漱石は、2ヶ月後に奥さんと別居するまでになってしまっています。

まぁ、その気分を紛らわすために、執筆活動に専念し、文壇デビューとなったのですから、悩んだ甲斐もあったのかも知れませんが、結局、漱石は最後まで、心の病と縁が切れなかったわけですし・・・。

しかし、やがて、彼の自殺の原因が哲学的な物ではなかった事が明らかになります。

実は、彼は、ちょっとした知り合いであった菊池松子さんという年上の女性に恋をしていて、彼女が憲法学者の美濃部達吉との結婚が決まった事にショックを受けての自殺だったのです。

もちろん、ご本人が亡くなっていますので、絶対とは言い切れませんが、日光へ出かける際、彼女に会いに行き、「これを読んでください」と、重要な箇所に線引きをした(ラブレターともとれる)本を一冊手渡してから失踪したと言われています。

結局、この事がわかってからは、新聞は、「高尚な哲学ではなく、単なる失恋だった」と、この事件の事を嘲笑的に報道するのですが・・・

それはそれで、藤村君が気の毒な気がします。

もちろん、自殺はいけませんが、失恋は失恋で、18歳の少年にとっては大きな悩みです。

まして、恋の相手の松子さんは当時の文部大臣の娘・・・その結婚相手が憲法学者となると、学生であるが故の、自分の力の無さ、年齢の若さを痛感したはずです・・・それが叶わぬ恋と知りつつ・・・。

ワタクシ個人的には長谷川天渓さんの「自殺は個人の満足のみ」という意見に賛成しますが、だからと言って、嘲笑はないだろうと思います。

持ち上げたかと思うと、嘲笑する・・・何だか、マスコミのそんな部分が引っかかって、後味の悪い一件になったような気がしてなりません。

もちろん、連鎖反応もいけません。
本当に悩んでいるかたは、『いのちの電話』というキーワードで検索してみてください。

 

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2008年5月12日 (月)

ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋・2

 

今日は、明治二十四年(1891年)5月11日に起こった『ロシア皇太子襲撃事件=大津事件』の後半・・・・・・犯人である津田三蔵の処分についてのお話です。

昨日の記事がまだの方は、そちらから先に読んでいただいたほうがわかりやすいです・・・コチラから5月11日のページへどうぞ>>

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さて、その後もマスコミは連日のように書きたてます。

「こんな一巡査の軽率な行動で、ロシアの機嫌をそこねたら、どうするのか!国賊・津田三蔵をただちに処刑すべきだ!」と・・・。

もちろん、政府高官も同様です。

苦労して幕末の攘夷色をやっと払拭して、国際社会へと乗り出した日本が、また、外国から野蛮な国として色眼鏡で見られるような事にでもなれば、ロシアだけでなく、他の国との様々な交渉に影響を及ぼすかも知れません。

政府は直ちに動き始めます。

彼らの目的はただ一つ、一刻も早く裁判を終らせ、すみやかに犯人の津田を死刑にする事です。

その言い分は・・・
「刑法第116条:天皇や皇族を殺害、あるいは殺そうとした者は死刑」
という条項を、特例としてロシア皇太子にも適用し、津田を極刑に処すべきであるというもの・・・。

早速、5月18日には、本来なら、大津で起こったこの事件は、大津地方裁判所にゆだねるべきところを、現在の最高裁である大審院(だいしんいん)で扱い、しかも一審終審(裁判は一度だけで上訴を認めない)とする・・・という異例の発表するのです。

さらに、山田顕義(あきよし)司法大臣や西郷従道(つぐみち)内務大臣らが、大審院の裁判長や判事たちに、津田を死刑にするよう働きかけます。

しかし・・・
政府が躍起になり、マスコミがあおりたて、まさに、国民世論も死刑一色にに染まっていたこの時・・・ただ一人、冷静に、この事件を見つめている人物がいたのです。

当時の大審院の頂点である大審院長を務めていた児島惟謙(こじまこれかた)です。

彼は、「この大津事件に第116条を適用する事はあり得ない」と考えていました。

第116条では、あくまで日本の天皇と皇族・・・ロシア皇太子は、天皇でも皇族でもないのですから、適用されるべき物は一般の傷害事件・殺人未遂事件の法律であるべきです