2008年1月28日 (月)

1月28日は「初不動」、不動明王のお話

 

毎月28日は『不動明王の縁日』です。
中でも、1月28日『初不動』という事で、今日は『不動明王のお話』を・・・。
(1月は「初○○」が多いな・・・(^o^;))

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そもそも、明王というのは、国や人民、仏法や信者を守る天の仏神で、大日如来の命を受けて、悪を退治するところから、多くは怒りの形相をしています。

不動明王・降三世明王・軍茶利夜叉明王・金剛夜叉明王・大威徳明王五大明王と呼ばれ、その中でも、大日如来の化身(裏側)とされて、一番有名なのが『不動明王』です。

サンスクリット語のお名前は阿修羅(アシュラ・Acala)で、これが「動かない」という意味なので訳して不動です。

『不動』とは、「道心の大にして寂(しず)かなるの義」だそうで(なんでこんな難しい表現のしかたするかな~(汗))「見ため穏やかに微動だにせず、それでいて心の中は道心(正しい道を求める心)を大きく」という事らしいです。

『大日経』という仏典では、仏教の守護神として、明王の中でも最高位の位置に、不動明王を置いています。

顔が四面あったり、手が4本あったりという異形のお不動さんもおられますが、多くは、左手に絹索(けんさく・縄)を持ち、右手に剣を持っています。

これは、左手の縄で悪しき心を縛り、右手の剣で悪しき心を断つためです。

右手に持つ剣は『黒龍の剣』で、この剣が不動明王の化身として独立したのが倶利伽羅(くりから)竜王・・・倶利伽羅竜王が剣に巻きついた像は倶利伽羅不動として、不動明王とは別に祀られている事もあります(2月21日参照>>)

不動明王はその髪を七つに結んで垂れさせていますが、これは古代インドの奴隷の髪型で、その身にまとった衣も奴隷の姿をしています。

その意味は、外見の醜さをものともせず、内面の美しさを重視しなければならないという事を教えるとともに、奴隷が荷物を運ぶように、迷える人々を悟りの岸(彼岸)へ導く事を現しているのだとか・・・。

後ろに火を背負っているのは、火生三昧(かしょうざんまい・火渡りのような捨て身の行の事)に入っても不動である事を象徴し、座っている石に水が流れているのは、その清らかな水で、人々の火のような苦しみを流し消すという意味が込められているそうです。

悪しき悪魔を断ち切るため、恐ろしい形相の不動明王は、人が道を踏み外した時に、すべてを包み込むように諭す大日如来に対して、叱咤激励して正しい道に導いてくれる・・・その表の顔と裏の顔は別々でも、心の内は同じなのです。
 

Fudoumyououcc 久しぶりにイラストを書いてみました~。

今日は、もちろん『不動明王』で・・・。

仏像ではなく、人物として描いてみましたが・・・
 

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2008年1月24日 (木)

1月24日は「初愛宕」、愛宕神社のお話

 

毎月24日は『愛宕の縁日』・・・中でも、今日1月24日『初愛宕』という一年で最初の愛宕の縁日。

・・・という事で今日は『愛宕神社』について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あの十返舎一九『東海道中膝栗毛』にも、そして、『浄瑠璃・糸桜本町育(いとざくらほんちょうそだち)にも、
「伊勢へ七度(ななたび)、熊野へ三度(みたび)、愛宕様へは月参り・・・」
と、まったく同じフレーズが登場します。

どうやら、これは江戸時代の当時、今で言うところの流行語大賞となるような大ヒットのフレーズらしい・・・。

もちろん、フレーズが流行っただけではなく、実際に愛宕へお参りするのも、かなりのブームだったようです。

Atagozinzyatizucc 愛宕・愛当・愛太子・阿多古・愛宕護・・・と書いて、すべて「あたご」と読みますが、これら日本の各地に点在する愛宕神社のおおもとは、京都市右京区嵯峨愛宕町愛宕山の山頂にある愛宕神社です。

古くから『愛宕権現』の名で親しまれ、多くの信仰を集めた愛宕山は、比叡・比良・伊吹・神峰(しんぽう)・葛城・金峯(きんぷ)とともに『七高山』と呼ばれていた霊山でした。

あの桓武天皇が、怨霊から身を護りたい一心で究極の魔界封じをほどこした京の都(10月22日参照>>)では、東の比叡山とともに、西の愛宕山が王宮守護の神とされていました。

あの徳川家康も、慶長八年(1603年)に江戸城に入ってすぐ、城の西方、芝の小山に、京都の愛宕大権現を分霊して愛宕神社を建立し、江戸の護りを固めています。
(江戸の場合の東の護りは、東叡山寛永寺となります)

明治の始めの神仏分離によって、お寺を廃し、本宮の祭神は稚産日科(わくむすびのかみ)伊弉冉尊(いざなぎのみこと)で、若宮には雷神(いかづちがみ)火之迦具土命(ほのかぐづちのみこと)を祀って、名称も愛宕神社となりましたが、それ以前は、真言宗の白雲寺を別当寺として、勝軍地蔵泰澄大師不動明王毘沙門天竜樹菩薩の五尊をお祀りし、奥の院には、役行者宍戸司前(ししどしぜん)太郎坊栄術を祀り、愛宕山大権現と呼ばれていました。

先の五尊の中でも、本尊とされていた勝軍地蔵は、冥界と現世の境界線に立って、人々を護ってくれるという菩薩で、以前、『左義長の由来』のページ(1月14日参照>>)でも書かせていただいた日本古来の「さいの神」と同じ性格を持つ神様だと言われています。

やはり、昔は丹波との国境であったこのあたりに祀られたというのも、ここで、災いをくい止める・・・災難除けの意味合いが大きかったのでしょうね。

その頃は、お山には六つの宿坊があり、京都・嵯峨の大覚寺が管理する修験の道場でもありました。

今も、毎年9月28日の愛宕神社の例大祭に行われる、お神輿の大覚寺参拝は、この名残だそうです。

その他にも、京都では、3歳になった子供が、この愛宕山にお参りすると、一生涯、火からの災難に遭わないとされていたり、7月31日の『千日詣り』の日に参拝すると、日頃の千日分の御利益があるとして、現在でも多くの信仰を集めています。

大和朝廷が成立する以前から、そして、仏教が伝来する以前から、日本にあった神々への信仰・・・あらためて京都の長い歴史と伝統を感じさせてくれますね。
 

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2008年1月18日 (金)

1月18日は「初観音」、観音様のお話

 

毎月18日は、観音さまの縁日です。

その中でも1月18日が、新年になって初めての縁日という事で『初観音』と呼ばれ、各地の寺院は大いに賑わいます。

・・・という事で、今日は観音さまのお話をさせていたきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昔、あるところに、早離(そうり)即離(そくり)という幼い兄弟がいました。

しかし、ふたりの両親は、彼らの成長を見る事なく、亡くなってしまいます。

途方に暮れている兄弟に、ある男が「両親に会わせてやろう」と声をかけます。

その幼さゆえ、悪人の言う事を真に受けて、ついて行った先は無人島・・・。

騙されたふたりは、この無人島に置き去りにされてしまいます。

疲れと飢えに絶えながら何日か暮らしますが、幼いふたりは、何も無い無人島でどうする事もできず、もう死を待つ事しかできません。

「僕たちは、なんて不幸なんだ!
両親を亡くして、人に騙されて、このまま、人知れず死んでいくなんて・・・」

嘆き悲しむ弟に、兄が語りかけます。

「僕も最初はそう思ったよ。
でも、嘆いても仕方ないじゃないか。

僕たちは、こうして、親と別れる悲しさ、人に騙される悔しさ、そして、飢えと疲れの苦しさを、他人の何倍も知る事ができた。

どうだろう?
今度、生まれてくる時は、この経験を生かして、同じ悲しみに泣く人々を救っていこう。

他をなぐさめる事で、自分もなぐさめられるんだよ。」

兄の言葉を聞いて、弟の心の中にも何かが目覚めました。
死を前にして、悲しいという気持ちはなくなり、なにやら晴れ晴れとした気分になりました。

兄弟は、ともに誓いをたて、ほどなく、静かに息をひきとります。

その死に顔は、とてもおだやかで、静かなほほえみをたたえていたと言います。

この兄が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
弟が勢至菩薩(せいしぼさつ)です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もちろん、これは『華厳経(けごんきょう)という経典の中にある仏教説話です。

観音さまのもともとは、インドアバロキテーシュバラという神様が中国に伝わり、あの『西遊記』でお馴染みの玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)さんが『観自在菩薩』と訳したとされています。

しかし、上記の説話は、観音さまがどのような仏様なのか?という事が、すごく理解しやすので、紹介させていただきました。

観音さまと勢至さまは、阿弥陀如来の両側に立ち、今も、その時の兄弟の誓いを貫くためにおられるのです。

勢至さまは、単独で信仰の対象になる事はほとんどありません。
大抵、阿弥陀如来の右側に・・・そして、左側のお兄さんとともにおられます。

しかし、観音さまはご存知のように、「○○観音」という様々な名前がついて、単独で信仰されている事があります。

それは観音さまが、ありとあらゆるものに変身・変化されるからです。

観音さまは、性別を越えた存在で、すべての生き物を越えた存在。
ときには馬や魚や蛤などの姿で現される事もあります。

もちろん、別の形をした仏様にも・・・

十一面観音は・・・
東西南北に四方と、東南・東北・西南・西北の四維(けい)と、天と地の二方。
全部で十方向に自分という者をプラスして十一面・・・つまり、「すべて」という事を現しています。

千手観音は・・・
千というのは無数・無量・いっぱいを現してして、その一本一本の手には目がついていて、物を見極める」「実行する」事を現しています(8月19日参照>>)

不空羂索(ふくうけんさく観音は・・・
羂は鳥獣を捕える網、索は魚を釣る糸の事です。
これで、苦しみの山野や悲しみの海にいる人々を救うのです。
不空とは、失敗しない・・・必中という事です。

如意輪(にょいりん)観音は・・・
如意とは、思いのままという事、輪は、そのものズバリ始めも終わりも無いという事。
この如意輪で、心にやすらぎを与えるのです。

・・・と、とりあえず有名どころをご紹介しました。

まだまだ、色々な観音さまがおられますが、悲しむ人を救うという基本は同じです。

このように、観音さまは、ありとあらゆるものに変身するのです。

ときには獣に、ときには仏の姿に・・・
そして、ときは人に・・・

「他をなぐさめる事で、自分もなぐさめられる」
この心を感じる事があれば、その人が観音さま。

人にやさしくしてあげたい・・・と思うその瞬間、あなた自身の中に、観音さまがおられるのです。
 

Kannonsamacc 今日のイラストは、
一応、『観音さま』を書いてみましたが・・・

いやぁ~難しい・・・
ほのかに微笑んで、そして気品にあるお顔・・・

なかなか描けません・・・日々勉強ですね~
 

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2008年1月 2日 (水)

いい夢見ろよ~初夢と七福神のお話

 

今日は、『初夢』のお話です。

初夢とは、年が明けて、初めて見る夢ですから、本来、1月1日の夜明け前か、その夜から2日のかけての睡眠中というのが、本当の「初」となるのでしょうが、一般的には1月2日・・・つまり、今日の夜から3日の朝にかけての睡眠中に見る夢の事を言うそうです。

2日の夜・・・というのが一般的になったのは、江戸時代頃からで、これは、初荷、初売り、書初め・・・等等、民間の事始が2日に多い事から、「1月2日が最初の日」という考えに基づいての事と思われます。

やはり、江戸期の町民文化の発展とともに、「2日の夜=初夢」というのが一般的になったようです。

一般的と言えば、「夢判断」で、最もめでたいとされる吉夢の種類は・・・
「一富士・二鷹・三茄子」
というのが、一般的ですよね。

このあとに、
「四扇・五煙草・六座頭」
と、続くそうですが、全国的に知られているのは、先の「三なすび」まで・・・。

しかし、これが、由来となると、まったくもってお手上げ状態・・・様々な説があるものの、どれも、あとづけ、こじつけっぽい雰囲気です。

一説には、あの徳川家康が隠居した後に・・・
「俺の国で、1番高いのは富士山。
 2番目が足高
(愛鷹)山。
 値段が高いのは初茄子だ」
と、言ったから
・・・というのがありますが、「なんで、3番目だけ値段の高さなの?」という違和感残りまくりです。

よく似た説では、家康が言った言わないに関わらず、これが駿河の「三大名物だ!」とするのもありますが、これも「山・山・野菜」となる事の不可思議さは同じです。

「三大仇討ち説」というのもあります。
以前、このブログでも登場した「日本三大仇討ち」・・・

・建久四年(1193年)5月28日の
 曽我兄弟の仇討ち(5月28日参照>>)
・元禄十五年(1702年)12月14日の
 赤穂浪士の討ち入り(12月14日参照>>)
・寛永十一年(1634年)11月7日の
 伊賀上野鍵屋の決闘(11月7日参照>>)

これが、その三大仇討ちなのですが・・・
富士の裾野の宴会場に突入した曽我兄弟は100%ヨシとしても、「赤穂浪士の紋が『鷹の羽』なので」というのは、ちょっと・・・って感じです。

それでも、何とか五分五分で許される範囲内としても、最後の「三に名を成す(茄子)伊賀上野」は苦し過ぎます。

「名を成す」「茄子」が当てはまるなら、何だって当てはまりますからね。

単に「縁起が良いから」という説でも、日本一で雄大な富士山と、勇猛果敢に獲物を捕え、空高く滑空する鷹は、何となくわかりますが、やっぱり3番目の茄子は、なぜ?たくさんある野菜から茄子が選ばれたのかが、今一つ納得できませんよね。

やっぱり謎です。

ところで、そんな良い夢を見るための方法として、昔から言い伝えられているのが・・・
「枕の下に、七福神の乗った宝船の絵を入れて眠る」
という、おまじないのような物・・・。

絵には、
♪ながきよの とおのねふりの みなめざめ
  なみのりふねの おとのよきかな♪

という、「上から読んでも下から読んでも同じ=回文の歌が書かれていて、寝る前に、この歌を3回唱えて寝ると、良い夢が見られるという言い伝えです。

宝船以外にも、七福神と(ばく)が書かれた物もあるのですが、これは、獏が「悪い夢を食べてくれる動物」とされていた事に由来するもので、昔は、旧暦の正月・・・つまり、節分の夜に、枕の下に入れて寝ました。

七福神というのは、ご存知・・・

恵比須:蛭子尊と同一視(10月2日参照>>)
大黒天:大国主命と同一視(12月21日参照>>)
弁財天:音楽・弁才を司るインドの神様。
福禄寿:北極星のこと。
寿老人:中国の福寿の神様。
毘沙門天:四天王で十二天の一つ別名・多聞天。
布袋和尚:禅僧・契此(かいし)のこと。

以上の七神で、この七福神の信仰は室町時代・末期・・・商業が盛んになった頃から始まったとされています。

由来は、『仁王般若波羅密経(におうはんにゃはらみきょう)の下巻にある「七難即滅、七福即生」という言葉から七人の神様が創りだされたそうです。

そんな七福神を、最初に絵にしたのは、狩野派の3代目・狩野松栄(しょうえい・1519~1592年)で、あの桃山文化の代表的絵師・狩野永徳のお父さん・・・家康が、あの天海僧正から七福神の話を聞いて描かせたとも言われています。

この中で、福禄寿と寿老人は、ともに北極星を神格化した神様で、同一視されるところから、江戸時代の元禄の頃には福禄寿の代わりに吉祥天を入れて七福神とされていたそうです。

現在の7人が不動のメンバーになったのは、江戸も末期になってからの事だそうで、神社への七福神詣でなども生まれ、七福神信仰が最も栄えたのがこの頃。

初夢の宝船の絵の話も、どうやらこの頃に生まれたようです。
 

Hatuyumetakarabunecc 今日のイラストは、
やっぱり、『宝船と七福神』ですよね~。

クールなイメージの絵だと、神様の手持ちの道具など・・・こだわり過ぎて、とてつもなく時間がかかりそうなので、ギャグっぽい感じの絵にしてみました~。

枕の下に入れれば、今夜はいい夢が見られそう・・・かな?

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2007年12月21日 (金)

大豊神社の狛鼠~オオクニヌシとねずみの関係

 

Ootoyozinzyatizucc  ♪もう、いくつ寝ると~♪
新年には、やはり初詣・・・

京都・銀閣寺から南禅寺まで続く、琵琶湖疏水沿いの哲学の道にある大豊神社・・・

この大豊神社の中にある末社の大国社の両脇には、狛犬ならぬ、かわいい狛鼠(こまねずみ)がいるのです。
Ootoyozinzyacc 向かって左のねずみはを持ち、向かって右のねずみは巻物を持っています。

Ootoyokomanezumicc 玉ねずみは、安産・長寿・豊穣。
巻物ねずみは学問成就のご利益があるそうです。

来年はねずみ年・・・なんだか、いつも以上にご利益がありそうですね。

ところで、この大国社・・・
その名前でおわかりの通り、あの大国主命(おおくにぬしのみこと)を神とする神社です。

そこに「狛鼠」いるわけで、このねずみは、大国主神の使いという事になるのだそうです。

オオクニヌシと言えば、あの『因幡の白うさぎ』を思い出してしまいますが、意外にも、このねずみとも関係か深いのです。

それは、『古事記』の中・・・その「因幡の白うさぎ」のお話の後に出てきます。

♪大きな袋を肩にかけ~大黒(大国)様が来かかると
  そこに因幡の白うさぎ~皮を剥がれて赤裸♪

最近は、あまり歌われなくなった「だいこくさま」の歌ですが、有名な神話なので、歌を知らなくても、このお話は、よくご存知だと思います。

そもそも、オオクニヌシが因幡(鳥取県)に大きな荷物を持ってやって来たわけというのは、80人(多い・・・)のお兄さんの荷物持ち

その80人のお兄さんたちは、「因幡にヤカミヒメ(八上比売)というメッチャ美人がいる」というのを聞きつけて、80人全員が彼女に結婚を申し込むために、因幡へ旅をする事になります。

・・・で、日頃から、この兄貴たちにいじめられていたオオクニヌシが「荷物持ちとして着いて来い!」と言われてついて来て、例のうさぎに出会って、うさぎを助けたというわけです。

そして、その後、80人の兄さんたちは、ヤカミヒメにプロポーズしますが、姫の返事は・・・
「アンタたちなんてキラ~イ!私は、男前のオオクニヌシと結婚する~!」
と、ピシャリとフラれてしまいます。

激怒した兄貴たちは、「アイツさえいなければ・・・」と、一斉にオオクニヌシを攻撃!

死にかけ・・・いや、一旦、死んでしまったあと、母の愛で快復したオオクニヌシは、「このままでは危険だから(相手80人やもんなぁ)おじいちゃん所へ行きなさい。きっと良いアイデアをくれるわよ。」という母の助言に従って、祖父・スサノヲノミコト(須佐之男命)のいる黄泉(よみ)の国へと逃走します。
もちろん、ヤカミヒメと結婚の約束をして・・・。

根国(ねのくに・黄泉の国の別名)に着いたオオクニヌシは早速、スサノヲの宮殿へ・・・。

すると、出迎えてくれた宮殿の受付嬢・スセリビメ(須勢理毘売)が、メッチャかわいいじゃあ~りませんか!

スセリビメとしても、人も寄りつかないような辺ぴな場所での受付業務に、いいかげん飽き飽きしていた所へ、目の前に現れた男は80人の兄貴の上をいく、超イケメンのオオクニヌシ・・・久々の大ヒットですから、これまた一目惚れ。

ふたりは、その場で恋をして、その場で・・・・
(ヤカミヒメの立場は・・・?)

そして、スッキリしたオオクニヌシは、そもそもの目的だったスサノヲに会うのですが、なぜか、スサノヲはオオクニヌシを蛇だらけの部屋に一泊させます。

だって、スセリビメはスサノヲの娘ですから、オヤジに挨拶する前に、手ぇつけるなんざ・・・そりゃ、オヤジもカンカン。

スサノヲの仕打ちも、わからんでもありませんが、もう、すでに、彼まっしぐらのスセリビメは、「このままでは、彼氏の命が危ない!」
と、ばかりに、蛇を追い払う「魔法のひれ」を手渡します。

そのひれに助けられ、翌朝、無事に部屋を出てきたオオクニヌシでしたが、2日めの夜、今度はムカデと蜂の部屋に泊まらされてしまいます。

しかし、またもやスセリビメの渡したムカデと蜂用の魔法のひれで助かります。

そして、次ぎにスサノヲは、矢を一本、果てしない野原の中に射込んで「あれを取って来い!」と命令します。

健気にも、その命令どおり、野原へ向かうオオクニヌシ。
期を見計らって、彼のまわりに火を放つスサノヲ。

気がつけば、オオクニヌシは360度の火に囲まれてしまっていました
さすが、のオオクヌヌシも今回ばかりは絶体絶命・・・諦めかけたところに、現れたのが一匹のねずみでした。(やっと出た~)

「内はほらほら、外はすぶすぶ・・・」と、洞穴なら安心だと教えてくれます。

草を掻き分けて見ると、そこには、うつろな洞穴が・・・
そこに、身をひそめていると、炎は上を通りすぎて行き、オオクニヌシは助かったのです。

しかも、オオクニヌシが持って帰らなければならない、あの矢を・・・ねずみたちの親が矢の鏑(かぶら)の方を、子が羽根の方を持ってきてくれたのです。

一方のスサノヲは、あまりの激しい炎に「さすがにこれでは生きていないだろう」と思いながら・・・そして、スセリビメも葬式の道具を持って泣きながら、その焼け焦げた野原へとやってきます。

しかし、そこには、命じられた矢を高々と差し出す爽やかイケメンヒーローの姿が・・・カッコイイ~。

・・・て、事は、ねずみは大国主神の使い・・・というよりは、恩人・・・いや、恩鼠ですやん!
という、疑問は置いといて、こういう経緯で、オオクニヌシとねずみには密接な関係があるのです。

結局、この後、スサノヲの眠っているすきに、おじいちゃんの宝物コレクションの数々を手に、スセリビメと駆け落ちするオオクニヌシ君。

気づいて追ってきたスサノヲは、咎めることなく「幸せに暮らせよ~」とお見送り・・・おじいちゃんの数々の意地悪は、かわいい孫に与えた試練・・・って事なんでしょうか?

しかし、本当の試練はここからです。
そう、国に戻れば、結婚の約束をしたヤカミヒメがいるじゃありませんか!
どうするんです?オオクニヌシ君。

・・・と、ここで、帰宅したオオクニヌシ君、早速、何事もなかったかのように、ヤカミヒメと寝所でシッポリ・・・。(えぇ?)

でも、何事もなかった事にできないのが女の嫉妬という物で、当然のごとく激怒するのは、スセリビメ。

結局、スセリビメのしつこいまでの嫉妬に嫌気がさしたヤカミヒメは、オオクニヌシとの間に生まれた子供を隠して、実家に帰ってしまったとさ。

燃え盛る炎から脱出した爽やかヒーローが、一転、ドロドロまみれの昼ドラヒーローになっちゃいましたね・・・。

とにかく、来年はねずみ年・・・狛鼠に願いをかければ、満願成就も夢じゃない!・・・かも
 

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2007年10月20日 (土)

神様が出張する神無月~留守番役の神様は?

 

10月の別名は「神無月(かんなづき)
(・・・て、あぁ、あの武藤のモノマネする人・・・って、それは神奈月!)

もとい・・・これには、神嘗祭の月だから「神嘗(かんなめ)月」
雷が少ないだから「雷無月(かみなづき)
新嘗祭のための新酒を醸造するので「醸成(かみなん)月」

・・・などなど、諸説ありますが、一般的なのは、八百万の神様が出雲大社に集まるため、地方の神様が留守になるので「神無月」という・・・逆に、出雲地方は10月の事を「神在月(かみありつき)呼び、出雲大社では10月11日から10月17日まで「神在祭」なるお祭りも行われる事で、この説が一番有力です。

神々は、9月30日に各地方を出発して、10月10日から18日まで神魂神社(かもす神社・旧県神社)で過ごし、10月18日から20日を出雲大社、21日から25日までを佐陀神社(さだ神社・旧国幣神社)で過ごした後、帰途につき、10月30日には各地方へご到着・・・という細かな旅のスケジュールまであったりなんかします。

・・・で、何で10月に神様が出雲大社に集まるのかというのは、10月16日が伊邪那美命(イザナミノミコト)のご命日で、その日のための酒造りをするためという説と、巷の男女の縁結び・・・つまり、誰と誰をくっつけるか的な話し合いをするためという説の2種類があります。

この期間に未婚の男女が出雲大社にお参りすると良縁に恵まれる・・・という言い伝えもありますので、まぁ、命日を口実に集まって、お酒を飲みながら、「アイツとアイツがうまくいきそうだ」とか、「コイツとコイツは合わねぇ~な」なんて事を話し合うんだと思っておけば間違いなさそうです。

ところで、全国の神様が出雲に出張してしまって・・・「いったい、その間はどうなるんだ?神様はいないの?」
・・・って事で、留守役をたのまれているのが、あの商売繁盛でお馴染みの恵比寿さまです。

なぜ、恵比寿さまが神無月の留守番役に?
それは、やがて万民の福の神となる恵比寿さまの、変貌する過程にあるようです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

満面の笑みで鯛をかかえ、釣竿を片手にした老人の姿で描かれる恵比寿さまは、「恵比須」「夷」「戎」「蛭子」など、様々な漢字が当てられますが、もともと「えびす」という名称自体が、異国の人を意味する言葉で、本来は異国から降臨して幸をもたらす神様であったのが、後に記紀神話に登場する神様と同一視されるようになったものと思われます。

恵比寿さまが、イザナギとイザナミの間に生まれた第三子・蛭子尊(ひるこのみこと)ではないか?という説では、記紀神話で「蛭子」と書いて「えびす」と読ませている事と、未熟で生まれた蛭子尊が天磐樟船(あまのいわくすふね)に乗せられて捨てられた後、その船が摂津の国・西宮の浦(兵庫県)に漂着し、祀られた・・・とあるところから、全国的に有名な夷神社(西宮神社)が、それではないか?という事のようです。

ただ、この説だと個人的には、イロイロと詮索してしまいます。
だって、「イザナミさんのご命日に酒を飲む会」に出席するために、神様がいなくなり、その留守番が恵比寿さま・・・って事は、息子が母親の命日に出席しないって事で、親子の断絶もはなはだしいって感じですが、逆に、恵比寿さまが捨てられた恨みを、まだ根に持って出席を拒否してる・・・とも考えられ、何やらどろどろした親子関係が渦巻いてそうです。

他には、釣り好きというところから、大国主命(おおくにぬしのみこと)の子供で、やはり漁猟が大好きな事代主命(ことしろぬしのみこと)ではないか?という説や、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)山幸彦ではないか?という説があります。

山幸彦の場合、彼自身は山の民ですが、有名な「海幸・山幸神話」では、兄・海幸彦に借りた釣り針を失くしてしまい、竜宮まで探しに行って海神の娘・豊玉媛命(とよたまひめのみこと)と結婚し海神の力を借りて、兄・海幸彦を倒すわけですから、名前とはうらはらに、山幸彦のほうが海に近い・・・という事になります。

いずれの神様が恵比寿さまなのかという決定打はありませんが、どの神様も海に深い関係のある神様です。

共通点から考えると、やはり、恵比寿さまは、海の向うから来た神様。
そして、本来は漁民に幸せをもたらす神だったのです。

漁民の幸せ・・・つまり、大漁・豊漁です。
それは、地方によっては、クジラや鮫、イルカなどを「えびす」と呼ぶ事があるということでもうかがえます。
クジラ・鮫・イルカが小さな魚を追い、追われた魚が海岸近くにやって来る事で、結果、豊漁となるわけで、そのように呼ばれるようになったと言います。

このように、古代より漁民たちから、豊漁の神様として崇められていた恵比寿さまが、いつしか農民にも崇められるようになります。

漁民の豊漁は、イコール農民の豊作・・・という事で、豊作の神様となった恵比寿さま。

五穀豊穣・豊作となると、そのお祝いは実りの秋に行われるのが常・・・そうして始まったのが、毎年10月20日に行われる「夷講(恵比須講・えびすこう)と呼ばれる年中行事です。
そう、今日10月20日えびす講の日です。

この日には、各・家々で恵比須神の像を祀り、家にある金銭を1升枡などの入れ、尾頭付きの鯛とともにお供えしたりします。

つまり、恵比須さまは、この時期、農家に豊作をもたらす・・・という大切な仕事があって休めないんです。
「10月に休めない神様がいるんなら、ソイツに留守番してもらっちゃえ!」
・・・て事で、恵比須さまが、神無月のお留守番役になったのではないか?と思います。

やがて、地方によっては、この「えびす講」の日を、「恵比寿神が出稼ぎから帰る日」あるいは「恵比寿神が商いを始める日」とされていた事から、当然、商人も、その幸せ・・・つまり商売繁盛を恵比須さまに願うようになるわけです。

もう、こうなると恵比寿さまは、誰にでも幸せをもたらしてくれる福の神。

「えびす講」は1月10日も行われるようになり、こちらは「十日戎」と呼ばれます。
また、商人は商いの駆け引きとして、時にはハッタリをかましたり、ウソを言ったりする・・・その罪を償うために神社のお参りする事で、10月20日の「えびす講「誓文祓い(せいもんばらい)とも言われます。

このように、漁民や農民の間でも行われていた「えびす講」ですが、やはり、一番派手なのは商人です。

宴の席を設け、招待客を招き、鯛や酒を振舞い、飲めや歌えの大騒ぎ・・・そんなところから、いつしか、恵比寿さまのご利益の中で、商売繁盛が一番目立つようになったのです。

大阪は、商売人が多いからでしょうか、えべっさんは今日よりも、1月10日の「十日戎」のほうが盛んなような気がします。

あちこちの戎神社から聞こえる、あの「商売繁盛で笹持って来い!」という、楽しげで、リズミカルで、神様にあるまじき命令形の言い回しが、私は、けっこう好きです。
 

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2007年10月 9日 (火)

「金毘羅?」「金刀比羅?」~こんぴらさんのお話

 

♪金毘羅(こんぴら)船々 追い手に帆かけて
 シュラシュシュシュ
 回れば四国は讃州
(さんしゅう)那珂郡(なかのごおり)
 象頭山
(ぞうずさん)金毘羅大権現(だいごんげん)
 一度回れば・・・ 金毘羅船々・・・♪

これは、江戸末期から明治の初めに大ヒットした歌で、私の頃はたしか音楽の教科書にも載っていたはず・・・。

この歌の大ヒットのおかげで金毘羅(こんぴら)さんという呼び方をされる事が圧倒的に多いのでしょうが、全国に約600社ある金毘羅神社琴平(ことひら)神社金刀比羅(ことひら)神社などの本源である香川県に鎮座する神社の正式名称は『金刀比羅宮(ことひらぐう)

今日10月9日は、そんな金刀比羅宮の大祭・・・という事で、今日は金毘羅さんについてのお話を・・・

正式名称・・・なんて書きましたが、もちろん金毘羅さんと呼んでも怒られはしないと思いますが・・・。

もともと創建当時は「金毘羅大権現」と称していたのが、途中で琴平神社に変わり、次に金刀比羅宮となって、さらに明治の初めに事比羅宮

そして、明治二十二年(1889年)に、またまた金刀比羅宮に改名して現在に至る・・・という風に神社名自体が、コロコロ変っているんです。

金毘羅とはサンスクリットのクンビーラ(Kum-bhira)の漢訳で、ガンジス川に生息する(わに)を神格化したものです。
仏教では薬師如来に従う十二神将のひとり・宮毘羅(くびら)大将

鰐神は、竜王(竜神)や海神として、海難防止の祈願をしたり、雨乞いをしたりという水にまつわる神様・・・という事で、この信仰が日本に伝わり金毘羅大権現として、航海の安全を願う神様となったのです。

平安時代の初期に象頭山金光院松尾寺という薬師如来を信仰する真言宗のお寺が、象頭山に金毘羅神を祀ったのが始まりだと言われていますが、長い間、社務を兼務していた松尾寺が、明治になり、神仏分離令が出て神社とお寺が分かれる事になります。

お寺と分かれた神社の祭神は、廃仏の嵐の中、仏教関連の神・金毘羅神から、記紀神話に登場する神に変るのです。

実は、先ほどの改名は、この時の生き残りのための改名だったのですね。

そして、現在の社伝によれば、大物主神(おおものぬしのかみ)が、琴平山(象頭山)に本拠を置いて、中国・四国・九州地方を治めたのが神社の始まりとされています。

・・・なので、祭神は大物主神。
この大物主神は先日ブログで書かせていただいた『運命の赤い糸の伝説』(8月21日参照>>)の神様で、『日本書紀』では大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名だとされています。

そして、もう一人・・・崇徳天皇が祀られています・・・って、出た~!
また、ここでも祀られている崇徳天皇(8月26日参照>>)

崇徳天皇の配流先が讃岐(香川県)白峯であった事もあって、生前、この金毘羅大権現を崇拝していたのだとか。

失意のまま亡くなった翌年の永万元年(1165年)には、金刀比羅宮に合祀されています。
さすがは、日本三大怨霊の一人。
よっぽど、皆さん怖かったんですね~神様になるスピードが早っ!って感じですね。

江戸時代には、伊勢神宮と並んで、「一生に一度はお参りすべき」とされていた金毘羅さん・・・名前が変ろうが祭神が変ろうが、金毘羅詣でをする老若男女が、航海の安全を願う気持ちには変りはありません。

参拝者は785段の石段を登り、象頭山の中腹にある本殿にお参りをします。
さらに奥の山上には奥宮・・・その向うには、国の天然記念物に指定された北限の樟(くすのき)の生育地が広がるとか・・・。

遠い昔・・・まだ子供だったために、上まで登れなかったくやしさが、今、よみがえって来ました~。
もう一度、挑戦してみたくなりましたね。

今度は、年のとり過ぎで登れなかったりして・・・。
 

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2007年10月 5日 (金)

ダルマさんのご命日

 

10月5日は、『達磨忌』
あの縁起物のダルマさんのモデルである達磨大師(だるまたいし)のご命日です。
(マグマ大使じゃないゾ!)

お亡くなりになった年は、はっきりわかりませんが、大体、西暦528年頃だそうです。
年がわからないのに、日にちがわかるっつーのも「ん?」って気がしないではありませんが、まぁ詮索はやめときましょう。

達磨大師は、別名・円覚大師とも呼ばれ、インド・バラモン王国の王子として生まれました。

いつしか、仏教を志すようになり、ある日突然、辺地への布教を思い立って、海路、中国北部のに向かいます。

各地で、禅の布教活動を行いながら、洛陽東方の崇山(すうざん)少林寺に到着。
(少林寺は、拳法で有名なアノ少林寺です)

ここで、少し落ち着き、しばらく滞在するのですが、この時、壁観(へきかん)という、長時間、壁に向かって坐禅を組む修行を行い、「心は本来、清浄なものである」という悟りを開くのです。

この壁観の修行の話が『面壁九年』・・・つまり9年間坐禅を組んでたという坐禅伝説として伝わり、その時の姿が、手足を出さず、ジ~っと座り続けるあのダルマさんの像となったわけです。

それで、「七転八起」などに代表されるように、ダルマさんには、忍耐・・・じっと我慢して頑張れば、いずれ必ず成功する・・・といった思いが込められ、選挙事務所に置かれているあの縁起物の張子のダルマさんの誕生となるのです。

願いを込めて、ダルマさんの片目を墨で書いて、願いが叶ったら、もう一方に目を入れるというアレです。

ただし、張子のダルマさんは日本独特の物で、他の国にはありません。

赤い色は、高僧が身につける緋の衣を表しているとも言われていますが、もともと日本には、神代の昔から、赤い色は魔よけの色とされていたので(8月21日参照>>)、その意味も込められています。

ですから、あの張子のダルマ像は、昔は、目標達成の縁起物・・・というよりも、魔よけとして病気見舞いなどに、よく用いられていたようで、疱瘡(ほうそう)麻疹(はしか)を治す守護神とされていました。

『残念さ 孫は達磨を 供(とも)に連れ』
という古い川柳もあるようで、これは、「孫が病気で死んで、棺おけの中に達磨を一緒に入れる」という事だそうです。
今とは随分と違う使われ方をしてるのがわかりますね。
疱瘡や麻疹というのは、昔の子供にとって命取りとなる病気でしたからね。

ところで、少林寺で悟りを開いた達磨大師は、その後、中国禅法の基礎を築き、禅宗の第一祖として仰がれる事になります。

達磨大師の教えは、その後、北宗禅南宗禅に分かれ、その南宗禅が、さらに五家七宗に分かれて、そのうちの一つである臨済宗(りんざいしゅう)印可(いんか・お墨付き)を貰った栄西上人(千光国師)が、建久二年(1191年)お茶とともに中国から持ち帰り、日本に根付いたのです。(10月31日参照>>)

ところで、まったくの余談ですが、達磨さんと言えば、あの『ダルマさんがころんだ』という遊び・・・。

私が子供の頃は、『最初の第一歩』と呼んでいました。
もちろん、大阪ですから、十を数える数え方は「ぼんさんがへをこいた」で、ダルマさんのダの字も無い遊びでした。

しかし、いつの頃からか、『ダルマさんがころんだ』という言い方が全国ネットになって、最近では大阪の子も、あの遊びの事を『ダルマさんがころんだ』と呼ぶみたいです。

でも、数え方はやっぱり「ぼんさんがへをこいた」なんですよね~。
これは、やっぱ、「ダルマさんがころんだ」より「ぼんさんがへをこいた」のほうが秒数的に早く終るからだと思うんですけど・・・。

「ぼんさんがへをこいた」で十を数える場合、「ん」の部分は実質的には、ほとんど発音しませんから、実際には八文字分しか数えない事になり、絶対こっちのほうが早い!

昨日、「県民性何たら」という番組で、大阪は日本一『いらち(せっかち)だと言ってましたが、たとえ遊びの名前が『ダルマさんがころんだ』に変わっても、数え方が「ぼんさんがへをこいた」のままだというところに、何となくその県民性を感じた気がしました。

・・・と、話がメチャメチャそれてしまいましたが、今日は達磨大師のご命日です。

Darumacc 今日のイラストは、
やっぱ『ダルマさん』でしょう。

このブログの発展・・・という願いを込めて、片目だけ入れてみました~。
 

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2007年8月19日 (日)

千手観音の手は千本あるの?

 

いつも、次の日の記事を前の日に書くんですが、昨日はHPのほうに集中してしまって、ブログのほうは一日お休みにしようかと思っていたんですが、何やら、ネット上で、『千手観音』が話題になっているようで・・・私は見てなかったんですが、24時間テレビでやったのかな?

・・・で、そう言えば、中学くらいの時に、「千手観音の手って本当に千本あるのかな?」って気になって、数えたりなんかしたなぁ~・・・なんて事を思い出し、急遽『千手観音』について書いてみたくなりました~。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

『千手観音』は正式には『千手千眼観音菩薩(せんじゅせんげんかんのんぼさつ)と言い、その千本あるらしき手の指先には一つ一つ目がついています。

もともと観音様の本願は「慈悲の心」で私たちをい救ってくださる事にあるわけですが、その千という数字は実際の数字ではなく、「無数・無限・・・とにかくいっぱい」ってな感じの数字を意味していて、その無数の目で、「物を見極める大切さ」「実行する大切さ」を表現しています。

もちろん、慈悲の心も無数という事で「大悲観音」とも呼ばれます。

ただ、実際の仏像では、千本もの手を彫刻するのはたいへん難しいので、左右に21本ずつ・・・合計42本というのが多く、一番大きな腕が合掌している場合が多いです。

この太い42本の腕の途中から、細い腕がのびて、もっとたくさんの手の数になっていて、それで「千手」にかえる場合もあります。

33gena有名な、京都の三十三間堂の千手観音様は、みな42本の手を持っておられます。

ただ、例外的なものとして、奈良・唐招提寺の金堂の千手観音様は、本当に左右500本ずつ、千本の手をお持ちです。

本当に千本とは、スゴイ・・・。
 

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2007年7月24日 (火)

河童忌なので、河童のお話

 

昭和二年(1927年)7月24日は、作家・芥川龍之介さんのご命日です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

後世にまで残るすばらしい作品を残して、子供たちに『人生は死に至る戦いなることを忘れるべからず。従って汝らの力の恃(たの)むことを忘る勿(なか)れ。汝の力を養うのを旨とせよ』という遺書を残して、35歳という若さで服毒自殺をはかった芥川龍之介

その代表作にちなんで、この日を『河童忌』と言うのだそうです。

・・・で、今日はそんな『河童』のお話を・・・
(芥川龍之介の話でなくてすいません<(_ _)>)

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

河童って・・・そう、河童ほど有名な妖怪はいないんじゃないかと思うくらい有名な妖怪。

緑色の身体をして背中に甲羅、頭に皿を乗せ、手足には水かきがついている・・・どこかユーモラスで憎めないそのキャラクターは、日本全国にその伝説を残し、「カワタロウ」「ミヅチ」「カワウソ」「カワランペ」など、180種以上にも及ぶ名前で呼ばれています。

あの柳田国男先生がおっしゃるには「水の神が落ちぶれて妖怪となったもの」・・・なのだそうですが、確かに、神様のように人に幸せを与えてくれるかと思えば、妖怪のようにイタズラをしたり、時には、人を死に追いやる事も・・・。

しかし、こんなに有名かつ全国ネットでそのイメージが定着している河童さんですが、今ひとつそのルーツがはっきりしません。

中国の河の神様「河伯」が日本に伝わったという説が有力ですが、中国には「河伯」の姿がどのようなものなのかは残っていませんし、肝心の「頭にお皿」というのも、どうやら日本独自の物のようです。

また、明治の頃に神戸で総領事となっていたポルトガルの文学者・ベンセスラオ・デ・モラエスは、あの鉄砲伝来以来、様々な物がポルトガルから輸入された事によって、ポルトガル語がそのまま日本語として使われている事に大変興味を持ち、その分類をした本を書いているのですが、その中には、あの有名な「天ぷら=テンペロ」「金平糖=コンフェイト」「煙草=タバコ」に混じって、「河童=カーパ」という単語が書かれています。

・・・って事は、河童はポルトガル語?
ポルトガルにも河童はいるの?

もしかしたら雨合羽=アマガッパの事?
でも、文字は確かに『河童』となっています。
やっぱり、妖怪のカッパの事なんでしょうかね。

河童は、人や馬を水中に引き入れたり、水中で尻子玉(昔、お尻にあると信じられていた玉)を抜いたり、誰かれ無しに相撲を挑んで田畑を荒らしたり・・・。

しかし、トイレに潜んで女性のお尻を触った時には、人間に捕まって片腕を斬られてしまい、「もう、しません」と証文を書かされ、斬られた腕を返してもらう代わりに、その斬られた腕が元通りに治るという妙薬の作り方を伝授したりもしています。

また、「助けてくれたお礼に」と、お酒の湧き出る徳利を置いて帰り、その徳利をもらった酒びたりの男が、もらった途端にピタッと酒を断って、まじめに働き出した・・・なんていう善行の伝説も残っています。

この良い事の伝説は、なぜか九州に多く、九州には妖怪としてではなく、徳の神・安産の神・水難除けの神として河童を祀る神社もあるのです。

久留米水天宮には、その近くを流れる筑後川に住んでいた河童の総大将が、水天宮の祭神にさとされ、イタズラをやめて神様の子分になった・・・なんていう伝説も残っています。

ちなみに、水天宮の祭神って、源平の壇ノ浦の合戦で、海のもくずとなった安徳天皇(3月24日参照>>)なのですが・・・神代の昔の伝説ではなく、けっこう最近の話なんですね~と思ってしまいました。

もう一つ。
門司天疫神社には、海御前(あまごぜん)という女性の河童の神様が祀られているのですが、実はコチラも壇ノ浦の平家関連のお話です。

壇ノ浦の合戦に敗れ、やはり身を投げた能登の守教経(のりつね)の奥さんが、死後、童の総元締となり(なぜ?)、河童のイタズラをやめさせたため、河童の被害が激減した事から、この地方の人々が感謝して、神と崇めたのだそうです。

こうしてみると、やはり河童は妖怪というより神様に近いような気がしますね。

河童が「キュウリ好き」(お寿司のカッパ巻きの由来になった)というのも、水神信仰と結びついている証拠ですし、水霊が嫌う「金物」を河童も嫌うという事なので、どうやらと河童は水神様の子供(童)いうのが、本当の姿なのでしょうね。

イタズラは、子供ゆえの「若気の至り」ってとこでしょうか。

Kappacc 今日のイラストは、
かわいい『河童ちゃん』を書いてみました~。

天気の良い日は「甲羅干し」って感じで・・・。
 

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2007年7月16日 (月)

半年に一度・地獄の釜開き~閻魔大王のお話

 

今日、7月16日は、半期に一度のバーゲン・・・ではなく、半年に一度の「地獄の釜開き」

1月16日と、7月16日は『閻魔斎日』と言って、地獄の釜の蓋が開いてエンマ様も地獄の鬼もお休み・・・で、「地獄の釜開き」と呼ばれたり「亡者の骨休み」と呼ばれる地獄の定休日なのです。

地獄に落ちたが最後、永遠に苦しむものだと思っていましたが、年に2回は休ませていただけるんですね~(安心してる場合か!)

・・・て、事で、今日はエンマ(閻魔)様について、色々と書いてみたいと思います。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

エンマ様はご存知のように、死んだ人の霊魂を支配して、その生前の行いに対して、審判をし、賞罰を与えるという裁判官のような役どころをする地獄の王・・・閻魔大王とも呼ばれます。

しかし、最初はエンマ様は地獄の王ではなかったのです。

エンマ様は古代・インドのお生まれ。
そこではヤマ」と呼ばれていました。

そのヤマという名前には双子という意味も含まれていて、妹を「ヤミー」と言い、二人の間に最初の人類が誕生したとされていました。

その後、亡くなってから、人類最初の死として、天上界へ行き、王として天上を支配するという事になり、信仰の対象となり崇められていました。

古代インドでは、エンマ様は天上界の王だったのです。

最初は、天国の王とされていたものが、時代が経つにしたがい、「最初の死者として死者の国を支配する」というところから、しだいにその居場所が地獄へと変わって行き、インドから中国へ伝わり道教の影響を大きく受ける事になります。

梵語の『ヤマ』を漢音訳で、琰魔・炎摩・夜摩などと表記され、閻魔となります。

道教と結びついた事によって、冥界で死者に善悪の審判を下す10人の中の一人となったエンマ様・・・今でも仏教では『仏神十王』という10人の裁判官が、現世での罪の重さの判決を下す事になっています。

十王の名前をあげておきますと・・・、
・初江王(しょこうおう)
・秦広王(しんこうおう)
・宋帝王
(そうていおう)
・五官王
(ごかんおう)
・変成王
(へんせいおう)
・太山王
(たいさんおう)
・平等王
(びょうどうおう)
・都市王
(としおう)
・五道転輪王
(ごどうてんりんおう)
・閻羅王
(えんらおう・閻魔王)
以上の十王です。

仏教の世界では、人が死んだら、まず、葬頭河(そうずか・三途の川)を渡りますが、浅瀬と深淵と橋の3通りの渡り方があります。(深淵はちょっと・・・)

3通りあるけれど、どの方法をとっても行き着く先は同じ場所。
(・・・なら、全員橋にしてほしい・・・)

そして、渡った所に、衣領樹(いりょうじゅ)と呼ばれる大きな木が立っていて、その木のたもとに、奪衣婆(だつえば)懸衣翁(けんえおう)という鬼が待っています。

そこで、奪衣婆が死者の衣服を剥ぎ取って、懸衣翁に渡します。
懸衣翁は、その衣服を衣領樹の枝にかけて、その垂れ下がり具合で罪の増減を定めます。

そして、諸官庁が建ち、十王が待つ初江(しょこう)という場所で、裁判が行われるのです。
初江王が裁判長で、その他の九王が判事とう役割ですが、その中でも閻魔王は、検事的な役割を荷っています。

しかし、仏教世界では10人の裁判官だったのが、日本に伝わって民間信仰に移行する際に、この10人の王の中で、なぜか閻魔王がピックアップされる事になって、10人の役割を一手に引き受ける形となったのが、現在、一般によく知られているエンマ様・・・という事になります。

『閻魔斎日』が1月と7月の年2回という事になったのも、日本の民間信仰の影響を受けていると思われます。

日本では、畑作と稲作の年2回収穫が行われる事から、何かと年2回という分け方をするという風習が古くからあったのだそうです。

そこで、日本に古来からあるお正月にやってくる「年神様」の信仰(2月3日【節分・豆まきの起源と鬼】参照>>)に対して、仏教で年6回ある「魂祭(たままつり)の一つのお盆が、お正月と一対になるように、設定されたのではないでしょうか?

お盆には、あの世の御先祖様が帰って来るのだから、当然、あの世の裁判所もストップしてるはず、そして、この日本人の根底にある年2回という観念から、お盆とお正月だけは、何もかもお休み~。

さすがの、地獄の釜の蓋も開放されるのだから、働きづめの奉公人も、いびられっぱなしのも、年2回は開放される「薮入り」というお休みの日が生まれ、奉公人は田舎に帰ったり先祖の墓参りをしたり、エンマ様の縁日に行ったり・・・そして、嫁は実家に帰ったり・・・。

・・・と、すっかり、日本人の生活の中に溶け込んで行ったんですね。

とにかく、インドで生まれて、中国を旅して、長い時をかけて、日本にたどりついたエンマ様は、日本の民間信仰と、ものの見事にミックスされて、今も地獄の大王として睨みを利かす事になったようです。

最近は、すっかり労働形態も変わって、「薮入り」なんていうのは過去の事。
今じゃ、お休みは盆と正月だけじゃありませんからね~。

嫁も、実家に帰りっぱなし・・・

ひょっとしたら、地獄の釜の蓋も開きっぱなし・・・てな事は、
・・・さすがにありませんよね~。

Enmacc 今日のイラストは、
そのものズバリ!『閻魔大王さま』で・・・

なんか、顔がデカくなってしまった・・・アラレちゃんに出てくる「ニコちゃん大王」みたい・・・

閻魔大王のもう一つのお顔・・・お地蔵様については【1月24日:お地蔵様のお話】へどうぞ>>
 

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2007年7月 9日 (月)

異常気象と富士山信仰

 

慶長二十年(1615年)7月9日、江戸一帯に雪が降るという異常現象がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現在、気象庁に残る正式な観測記録での、最も遅い時期に降った雪は、昭和十六年(1941年)6月8日の北海道・根室での観測記録です。

太平洋戦争の勃発した年ですね・・・何やら因縁めいた物を感じてしまいますね~。

異常気象というと、本来は科学で割り切れる物。

きっと、どこかにその原因となる物があるはずなんですが、今現在でも異常気象と悪い出来事を、つい、結びつけてしまいますね。

この科学が発達した現代でもそうなんですから、江戸の人々は、「驚いた」というより「恐怖」を感じた事でしょうね。

旧暦では、慶長二十年6月1日
新暦になおして、1615年の7月9日ですから、まさに今の・・・夏のこの時期に、江戸一帯に雪が降ったというのですから・・・・。

1ヶ月前の5月の始め(新暦では6月4日)、あの大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした(5月8日参照)ばかりの徳川幕府・・・夏の陣のページにも書いたように、この頃にはすでに、豊臣秀頼生存の噂もチラホラ出始めた頃。

さすがの徳川幕府のサムライも、大江戸の町民たちも、恐怖におののいた事でしょう。

それを裏付けるかのように、すぐさま本郷(東京都文京区)富士神社が建立され、毎年6月1日に例祭が行われるようになったのです。

雪が降ったから、富士神社・・・
天変地異と富士山信仰・・・

実は、「富士山の神様は女神なので、女性が富士山に登ると天変地異が起こる」という伝説があって、長い間、富士山は女人禁制だったわけで・・・

天変地異が起こる→富士山の神様怒ってる→鎮めるために富士山に参拝しなくちゃ→でも、江戸から遠くていけないわ→富士神社建立という事なのでしょうね。

その富士山の女神というのは、天孫降臨のニニギノミコト(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)と結婚するコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売・木花開耶媛)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ある日、サクヤヒメが日向の国の海岸を歩いていた時、ニニギノミコトがその美しさに一目ぼれ。

そして、いきなり「ボクは君を妻にして、一緒に寝たいんだけど、どう?」と、直球にも程がある誘い方で彼女に猛アタック!

「あの・・・お父さんに聞いてみないと・・・」とサクヤヒメ。
(そりゃぁ、そうやろ!いきなりOKするワケないがな!)

・・・で、早速、世の男性諸君が、皆、経験する緊張の一瞬。
「娘さんを、ボクにください」
と、父親のオオヤマツミノカミ(大山津見神・大山祇神)にご挨拶に行ったところ、メッチャ喜んだオオヤマツミさんは、「姉のイワナガヒメ(石長比売・磐長姫)も・・・」と、姉妹ふたりともをお嫁さんに出しちゃいます。

しかし、このイワナガヒメがメチャメチャブサイクだったため、ミコトはサクヤヒメだけをそばに置いて、イワナガヒメを実家に送り返してしまいます。

実は、イワナガヒメにはその名が示す通り、岩のように頑丈に末永くという意味が込められていました。
しかし、そのイワナガヒメを返し、サクヤヒメだけを手元に置いたニニギノミコト。

イワハガヒメは「あなたの子孫は、きっと花が散るようにはかない命になる事でしょう」
と、捨てゼリフを残して去って行きます。

かたや、サクヤヒメは一夜にして妊娠し、即日出産のきざし・・・。
当然のごとく
「それ、オレの子とちゃうんちゃうん?」
と疑うミコトに、
「そんな疑うんやったら、、ウチが出産する時、産屋に火つけたらええがな!ホンマの神の子やったら、焼けんと無事に生まれて来るさかい。ウチの潔白、証明したるっちゅーねん!」
と、いきまくサクヤヒメ。

はたして姫は、ホデリノミコト(火照命)ホスセリのミコト(火須勢理命)ホヲリノミコト(火遠理命)の三人子供を、無事に出産します。

長男のホデリノミコトは海幸彦、末っ子のホヲリノミコトは山幸彦で、このお二人の昔話は有名ですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、記紀神話ではこんな風に登場するコノハナサクヤヒメ。
山の神であるオオヤマツミの娘である事。
美しい姿かたち。
出産の時に火を鎮めた。
・・・というところのイメージから、富士山の神様となったのです。

「富士山を崇拝する」という信仰は、あの修験道の始祖・役小角(えんのおづね)が始めたとされていますが、本格的になったのは中世の頃からで、室町時代の末期・戦国時代の頃から登山が盛んなり、東国一帯に、その信仰が広がっていきました。

まずは、麓と山頂にサクヤヒメを祀る神社が建てられ、浅間(あさま)大神として崇拝されるようになります。

「あさま」という言葉は信州の浅間山、伊勢の朝熊(あさま)に代表されるように火山と何かしらの関係のある言葉。

それが、後に仏教の浅間菩薩(せんげんぼさつ)と一緒になって、いつしか浅間(せんげん)神社と呼ばれるようになります。

戦国時代頃から、盛んになった富士登山。
しかし、富士山は日本一高い山ですし、先ほども書いたように江戸からはけっこうな距離で、登山するには7日ほどかかり、しかも途中には、厳しい箱根の関所があります。

関所を越える通行手形も、申請すれば誰にでも出してくれるという物でもありませんから、一生に何度も行けるものでもありません。

それで、あの雪の日以降も、ますます盛んになる富士山信仰で、「登りたいけど登れない」という人のために、江戸市中に浅間社を建てて、境内には富士山の溶岩でミニチュア富士山を造って、その小山に登れば参拝したと同じ事とされたのです。

江戸の各地に造られたミニ富士山では、旧暦の6月1日に白衣に身を包み、金剛杖をついて、「六根清浄」と唱えながら、小山に登って登拝したのです。
 

Konohanasakuyacc 今日のイラストは、
やはり『木花之佐久夜毘売』で・・・

やっぱ、一目見て「寝てみたい」と思うんだから、色っぽくないと・・・と思って色っぽく書いてみました~。
 

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2007年4月28日 (土)

鬼子母神のお話

 

毎月28日は、鬼子母神の縁日・・・という事で、今日は鬼子母神について書かせていただきます。

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「恐れ入ります・・・恐縮します」と言うところを「恐れ入谷(いりや)の鬼子母神」という、昔懐かしいダジャレで有名な東京・入谷の鬼子母神堂をはじめ、多くの信仰を集めている鬼子母神は、一般的には、出産や保育の神様・・・時には盗難よけの神様として、各地で祀られています。

鬼子母神は、もともとインドの神様で、サンスクリット語で「ハーリティー(Hariti)」と言い、それを音訳して「訶利帝(かりてい)と呼ばれたり、意訳して「鬼子母神(きしもじん・きしぼじん)と呼ばれたり、「鬼女」と言われる事もあります。

『雑宝蔵経』第九では、彼女は老鬼神主・般闍迦(はんじゃか)=パーンチカ(Pancika)の奥さんで、かなりのべっぴんさん・・・しかも、子供が一万人!(←どんだけ産んでんねん!)

ただし『鬼子母経』では、子供は天上に500人、世間に500人の合わせて千人・・・となっていますが、とにかくメッチャたくさんの子供がいたわけです。

しかし、彼女は「鬼女」・・・主食は人間の子供なのです。
そして、子育ては体力が勝負。
彼女は自分のかわいい子供たちを育てるために、せっせと人間の子供をさらってきては食べていたのです。

恐れおののいた人々は、彼女の事をお釈迦様に相談します。

お釈迦様は人々の訴えを聞いて一計を案じ、彼女が、旅に出ている隙に、彼女がわが子の中でもたいへんかわいがっている末っ子の嬪伽羅(ひんぎゃら)を、鉢の底に隠したのです。

7日間の旅から帰って、嬪伽羅がいない事に気づいた彼女は、気も狂わんばかりに探し回りますが、どこを探しても見つかりません。

困り果ててお釈迦様のところに訪ねていきますと、お釈迦様は物静かに、やさしく彼女を諭します。
「お前には、1万人の子供がいるのに、たった一人の子供を失っただけで、そんなに取り乱すとはどーゆーこっちゃ。
人間には、お前ほどたくさんの子供は産む事はできひんねんで。
そのかわいく尊い命を、お前は奪ってたんやで~。」

彼女は子を持つ親の心を知り、嬪伽羅が無事に戻るのであれば、必ず世の子供たちの守護神になろう」と誓い、その後は人間の子供を食べる事をやめ修行に励んだので、保育の神様として崇められるようになったのです。

鬼子母神は『法華経』を大事にする事、大事にする者を護ると誓っている事から『法華経』を経典とする日蓮宗では、特にこの鬼子母神が崇拝されています。

懺悔した鬼子母神は、とても美しい天女として描かれます。
ふところには、赤ちゃんを抱き、やさしく左手を添えて、右手には「ざくろ」を捧げ持ちます。

この「ざくろ」は、その味が人間の肉に似ているので、人間の子供を食べるのを我慢するために好んで食べた物だと言われたりもしますが、それは鬼子母神の名誉のためにも、「間違い」である事を知っていてあげて下さい。

本当の理由は・・・「ざくろ」の実は中にたくさんの種を持っていて、それぞれがまた「ざくろ」に成長して実をつけるという、子孫がたくさん増えるという意味が一つ。
そして、その実は固い外皮に覆われて大事に守られている事から、子供を守るという彼女の思いがこめられている、という意味とで「ざくろ」を持っています。
彼女が持つ「ざくろ」は「吉祥花(きっしょうか)と呼ばれます。

また、鬼子母神の「鬼」という文字。
鬼子母神という名前に用いる時だけ、この「鬼」という字の上の点をを取って
Kisibozinmozicc_1と表記します。

実際には無い文字ですが、改心して頭の角が無くなったという意味でこの字を使うのだそうです。

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Kisibozincc_1 今日のイラストは、
やはり『鬼子母神』で・・・

鬼女ではなく、慈愛に満ちた女神の姿で・・・

 

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2007年1月24日 (水)

お地蔵様のお話

 

毎月24日はお地蔵様の縁日で、中でも1月24日は“初地蔵”という事で、特に賑わいます。

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お地蔵様の本名(梵名)は、トロチーカルテバー

仏教の世界では、「お釈迦様が亡くなった後も、仏教は輝き、世界に広がっていくであろうけれども、何千年・何万年か後にその光が衰えを見せた時、お釈迦様の生まれ変わりとも言うべき人が現れ、再び再生するだろう」と考えられています。

その、お釈迦様の生まれ変わりとなる人の象徴が“弥勒菩薩”です。
「弥勒菩薩は、釈尊よりもはるか昔に悟りを開き、釈尊の仏法が絶滅に瀕した時、代わって人類の救済にあたる」のだそうです。

Zizou2cc_2 そして、お釈迦様が亡くなってから弥勒菩薩が出現するまでの期間、人を教え、救済し、守るという任務を背負っているのが、お地蔵様です。

「生みなさぬものとてはなし土の徳・・・」
この「生む」というのは、生み育てる事。
どんな汚い物でも、土の中ではぐくまれ、いずれは清らかな水となり、肥沃な大地の肥料となる・・・土はスゴイ!という事です。

この土のように、お地蔵様の教えによって、醜い心に犯された人間でも浄化される。
だから、お地蔵様はりっぱなお堂の中ではなく、道端の土の上に立っています。
特に、人が道に迷う別れ道に立ち、これから先の道筋を見守ってくれるのです。

そして、「天を父とすると、地は母になる」という考えから、「母なる大地の慈悲」として、子供を守る守護神の信仰もあいまっています。

また、閻魔大王の変身した姿がお地蔵様でもある事から、厳しさと慈愛の心の両方を持たねばならない事も教えてくれています。
人は死んだ時、閻魔大王の裁きを受けて地獄に落とされた後、お地蔵様の慈悲で救われるのだそうです。

Zizou5cc 仏教の伝来とともに伝わったお地蔵様への信仰が、日本で盛んになったのは平安時代頃から・・・。

そして、鎌倉時代から室町・戦国の戦乱の相次ぐ時代になって、明日をも知れぬ命・・・死への恐怖から、人々は救いを求めるようになり、特に一般庶民の間で地蔵信仰は急速に広まっていったのです。

やがて、先程の母の慈愛の考えから子供を守る“子安地蔵”も生まれ、“耳だれ地蔵”“いぼとり地蔵”といった病気を治療する地蔵様も誕生します。

また、現世と冥界の境目に立って守ってくれる・・・という考えから“勝軍(将軍)地蔵”
冥界への入り口=“六道の辻”から、“六地蔵”も各地に祀られるようになりました。
 

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一番身近で、一番たくさん出会う道端のお地蔵様・・・。
無神論者の私でも、ついつい手を合わせてしまいます。

あの、幼くも見える慈しみに満ちたお顔は、少しの間見入ってしまいますね。

お地蔵様のもう一つの顔・閻魔大王については【7月16日:半年に一度・地獄の釜開き~閻魔大王のお話】へどうぞ>>

  

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2006年7月31日 (月)

茅の輪くぐり神事のお話

 

7月30日・31日は、神社で、『茅の輪くくり』という神事が行われます。

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これは、『夏越大祓』(なごしのはらえ)などとも言われ、正月からこっちの半年間の罪・けがれをはらう行事で、昨日・今日だけに限らず6月の半ば頃から7月にかけて全国各地で行われます。

京都の神社では、6月30日に行われる所も多いように思います。

この神事は、『備後風土記』に書かれた素戔鳴尊(スサノオノミコト)の神話がもとになっています。

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昔、スサノオノミコトが旅の途中病にかかり、ある村で一夜の宿を求めました。

その村には、『蘇民将来』と『巨旦将来』という兄弟が住んでいました。

弟の巨旦将来は裕福な暮らしぶりでしたが、冷たく宿を拒みました。

しかし兄の蘇民将来は貧しい暮らしにもかかわらず、「たいした事はできませんが・・・」と、茅のふとんと粟の食事で暖かくもてなしました。

そのおかげで、ミコトも元気になり、その後何年かのちに、ふたたびこの村を訪問した時、蘇民将来の家を訪れ、こう教えました。

「近く、この村で疫病が流行るだろう。その時、ちがやで輪を作り腰にぶらさげておきなさい。そうすれば疫病から免れる事ができるだろう」

しばらくして、ミコトの言ったとおり村で疫病が流行りました。

巨旦将来をはじめたくさんの村人が病に倒れる中、蘇民将来の家族だけは、茅の輪を腰にさげていたので、助かりました。

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多くの神社では、罪けがれを託した人形(ひとがた)を、川に流したり、焼いたりしてけがれをはらい、この故事にちなんで、茅萱でつくった茅の輪を、左回り、右回り・・・と∞を描くようにしてくぐります。
そして、この茅萱を抜いて持ち帰り、輪にして吊るしておくと厄除けになるとされています。

Tinowa

京都・椰神社の『茅の輪くぐり』
ここもやはり素戔鳴尊をおまつりする神社です

 

 
 

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