2020年12月31日 (木)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2020年総まとめ

 

忘れられない年になった2020年も、いよいよ終わりに近づきました・・・

未だ禍中の今日ではありますが、ここは一応、歴史ブログ・・・今年も様々な新発見や発掘があったわけで・・・

とりあえずは一年の締めくくりとして、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 兵庫県神戸市西区にある弥生時代から鎌倉時代の集落遺跡=玉津田中遺跡から縄文時代の道具が見つかりました。
発掘されたのは弥生時代に使われていた土器と縄文時代の祭りに使われていたとされる人の顔を描いた土偶と石棒でどちらもおよそ2300年前の弥生時代前期の地層から見つかりました。
同じ年代の地層から弥生時代のものと縄文時代のものが発掘されるのは珍しいということです。
  愛媛県松山市下難波下難波腰折(こしおれ)遺跡から6世紀中ごろ~7世紀前半の古墳4基が見つかりました。
このうちの1基から木炭を敷き詰めた「木炭床」と呼ばれる施設を確認したという事で、全国的にも珍しい貴重な発見との事。
2月 京都市上京区京都府庁内の発掘調査で室町時代後期(戦国時代)に築かれた大規模な堀跡が見つかりました。
この堀跡は建物を守る防御施設(構=かまえ)の一部とみられ、最大3本が併存した可能性もあり、戦国期には社寺も民家も自力で守らねばならぬ緊迫した京の情勢を物語っています。
今回の堀は出土した遺物から応仁の乱(参照>>)後に築かれ、法華宗と延暦寺が衝突した天文法華の乱(参照>>)の終息に伴い埋められたとみられるそうです。
3月 戦国時代の下克上を代表する武将、松永久秀(まつながひさひで)(参照>>)を描いたとみられる江戸時代の肖像画が見つかりました。
大阪府高槻市市立しろあと歴史館によれば、これまで久秀の肖像画は、裏切りを繰り返すなどの悪人イメージで描かれた複数の浮世絵しかなかった中、貴重な資料として注目されるとの事。
  滋賀県草津市南笠町黒土(くろつち)遺跡国内最古級(7世紀末~8世紀初頭)の鉄製品鋳造施設跡が見つかりました。
これまでで最大となる口径1m以上の大型鍋釜が製造されていたことも分かり、近隣に、同時代の鋳造工房跡が出た榊差(さかきざし)遺跡(同市野路町)や製鉄施設の遺構も多い事から、「周辺が国家主導で整備された鉄製品の一大生産拠点だった可能性がある」との事。
  滋賀県長浜市は、地元ゆかりの江戸時代の科学技術者、国友一貫斎(いっかんさい)が描いた飛行機の設計図「阿鼻機流(あびきる)大鳥秘術(おおとりひじゅつ)について、各部位の詳細を記した冊子が見つかったと発表しました。
「一貫斎が実際に飛行機を製作しようと考えていたことが裏付けられた」とみています。
4月 京都市東山区五条坂にある、明治から昭和にかけての京焼(清水焼)の窯「道仙窯」跡の発掘調査で、窯の構造や改修の変遷が分かりました。
窯の規模は時期によって3段階に分かれ、需給に応じて大きくしたり小さくしたりしていたと考えられ、京都の近代産業の一端が明らかになる成果。
  「花の御所」と呼ばれた室町時代の足利家の邸宅「室町殿(むろまちどの)」跡(京都市上京区)で、庭園に使われたとみられる長径3m近い石や、池の一部が見つかりました。
Dscn6369a600 専門家によると、ほかの庭園跡では例のない石の大きさで、将軍家の絶大な権力を示す貴重な資料との事。
滝をイメージした「滝石組」とみられる配置で発見された石は周辺に水が流れていた形跡がないため、枯れ滝だった可能性があると見られます。
5月 京都市上京区相国寺北側の旧境内地で、戦国時代の16世紀中頃にあった礎石建物跡が見つかりました。
大規模な寺院建築とみられるものの、文献には見当たらず、戦火などで同世紀のうちに廃絶したとみられます。
周辺では、建物に先んじた同年代の堀や溝の痕跡もあり、築造と廃絶を短期間に繰り返した乱世の政情不安を反映した遺構とみられています。
  豊臣秀吉が死去する前年の慶長2年(1597年)に築いた「京都新城(しんじょう)の遺構とされる石垣と堀の跡が、京都御苑(京都市)の一角で初めて見つかりました。
新城に関する史料はほとんどなく、どのような建物だったかを示す物証もなかったため、専門家は極めて貴重な発見だとしています。
  江戸時代に作られた国内最大の「木造豊臣秀吉坐像」大阪市旭区大宮神社で見つかりました。
秀吉は1598年の没後、「豊国大明神」として神格化されましたが、徳川幕府下では公に信仰できなかったとされ、その木像は全国でも二十数例しか確認されていません。
今回発見された木像は寄せ木造りで頭部の冠は欠けていますが、像高は81,9cmとこれまでの最大で、「秀吉信仰が大阪でもあったことを文献以外で示す初めての例で、極めて貴重だ」としています。
6月 琵琶湖竹生島にある宝厳寺の「観音堂」など4つの建物は、豊臣秀吉が築いた大坂城から移築された可能性が高いことが、滋賀県の調査でわかりました。
宝厳寺は滋賀県長浜市の竹生島にあり、国宝の「唐門」は、豊臣秀吉が築いた大坂城で本丸と二の丸をつなぐ「極楽橋」と呼ばれた建物の一部を、息子の秀頼が移築したことで知られています。
滋賀県が寺の修繕工事にあわせて、「唐門」の周辺にある4つの建物を調べたところ、構造などからいずれも、大坂城の「極楽橋」から移築された可能性が高いことがわかったということです。
  豊臣秀吉や養子の秀次の言動などを、そばで仕えた武将・駒井重勝が記した「駒井日記」自筆原本の一部が見つかりました。
調査にあたった専門家は「当時の武将の日記の原本が出てくることはほとんどなく、重要文化財クラスの価値がある」と指摘しています。
「駒井日記」は秀吉や秀次の言動などが記されていることから、当時の出来事を知る上で重要な歴史資料ですが、江戸時代の写しが数巻分残されているだけで原本は失われていると考えられていた中、東京大学史料編纂所がその一部とみられる日記をインターネットオークションで購入し、内容などを調べた結果、写しがある部分の自筆の原本そのものと判断されたのです。
  室町幕府の15代将軍足利義昭のため織田信長が築いた旧二条城(二条御所=参照>>(京都市上京区)で、城の最中心部「内郭」を囲ったとみられる堀跡が市の発掘調査で見つかりました。
室町通という幕府が最も重視したメインストリートを横切る異例の形で築かれ、乱世の緊迫を背景にした近世移行期の遺構とみられています。
専門家は「室町期のメインストリートを横断してまで出隅を設けた意図は何か。どのような建物があったのか。近世への移行期の城郭や京都を考える史料になる」としています。
7月 明智光秀本能寺の変(参照>>)織田信長を倒した直後、光秀の重臣・明智秀満(左馬助)船で瀬田川を渡ろうとし、瀬田城主・山岡景隆戦になったと記された文書が、石山寺(大津市)で見つかりました。
明智軍が船戦をしたとされる文書の発見は初めてで、「ほとんど分かっていない光秀、秀満の足跡に関する貴重な資料」との事。
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歌川豊宣の筆による「明智左馬助の湖水渡り」(新撰太閤記)
専門家は、例の秀満の「湖水渡り」の伝説↑(参照>>)「瀬田橋の船戦が脚色されて、伝説になった可能性もあるのでは?」と分析しています。
  織田信長が築いた安土城(近江八幡市)の城跡の北部で、建物を建てたり、兵が戦に使ったりする平たん地(郭=くるわ・曲輪)が4ヶ所、最新のレーザー測量で見つかりました。
北部は発掘調査がこれまで行われておらず、「想像以上に城の遺構が安土山全体に広がっていることが分かり、これまで知られていなかった遺構の発見が期待できる」と考えられます。
  戦国時代から江戸時代にかけて鉄砲(火縄銃)の一大生産地だったで、鉄砲鍛冶と下請け職人が取り交わした納品台帳「通(かよい)」が見つかりました。
堺市に現存する最古の鉄砲生産現場である鉄砲鍛冶屋敷「井上関右衛門(せきえもん)家」(堺区)の調査で発見された物で、「鉄砲製造がどのように分業されていたかや、鉄砲鍛冶と下請けとの関係性が分かる貴重な資料。堺のものづくりの原点につながる発見」との事で、これらの記録によって、江戸時代などの鉄砲製造がシステマティックな分業制だったことが裏付けられました。
8月 湖東三山の一つ、西明寺(滋賀県甲良町池寺)の本堂内陣の柱絵を調査・分析していた広島大大学院の安嶋(あじま)紀昭教授(美術学史)が、1300年以上前の絵画を「発見」しました。
黒くすすけた柱から赤外線撮影で確認したところ、絵は飛鳥時代に描かれた菩薩(ぼさつ)立像で、飛鳥時代に描かれた法隆寺の国宝・玉虫厨子(たまむしのずし)の扉の菩薩像に酷似した描式から日本最古級の絵画とみられます。
  江戸~明治時代に、現在のJR大阪駅北側再開発区域「うめきた」(大阪市北区)にあった「梅田墓(はか)の発掘調査で1500体以上の埋葬人骨が出土しました。
市内でこれほど多くの埋葬跡が一度に見つかるのは初めて
で、全国的にも珍しく、庶民階級の墓とみられ、今後は骨を調べたりして葬送文化や生活環境などを詳しく分析するとの事。
「墓が密集しているのが都市的で、短時間でこれほど大規模に造るのは農村では考えられない」と指摘されています。
  高野山奥之院(和歌山県高野町)「豊臣家墓所」にある石塔11基の一つが、前田利家の四女で豊臣秀吉の養女となった豪姫の五輪塔とみられることが明らかになりました。
豊臣家墓所は奥之院の参道沿いの一角にあり、秀吉の母や弟の秀長の五輪塔など石塔が並んでいますが、今回豪姫の物と判明した五輪塔はこれまで調べられていませんでした。
銘文にある「秀吉公御養立」とは秀吉が養育したという意味で、専門家は「豪姫は自分が秀吉の養女だったと強調している。豊臣家の一員という強い意識を持っていたことが分かる」と解説。
  大津市南志賀南滋賀遺跡で古墳時代後期(6世紀後半~7世紀前半)木製のこまが見つかりました。
木製のこまとしては国内最古で、祭祀に使われた可能性があるとの事。
一緒に出土した土器などから古墳時代後期のものと判明し、これまで最古とされていた藤原宮(奈良県橿原市)で見つかった7世紀後半のこまより古いことが分かりました。
こまの付近からは、斎串(いぐし)や桃の種など祭祀に用いられる道具も見つかり、市教委は「こまも祭祀で使われた道具の一つだった可能性があり、祭祀の実態を考える上で貴重な史料だ」としています。
9月 徳川家とゆかりのある酒々井町上本佐倉の浄土宗の寺院「清光寺」にて、昨秋の台風被害で建て替え方針が打ち出されている事で歴史調査をしたところ、江戸幕府との関係性などを示す書状の写しなど多数の古文書が、封じ込めてあったふすまの中から見つかりました。
桶狭間の戦い後、故郷に戻り独立した家康の書状の写しなどもあり、専門家は「中世の史料は相対的に少なく、史料的価値は高い。徳川家、江戸幕府と清光寺の関係解明のきっかけにもなる」と期待…「まさにタイムカプセル」と驚きを隠せない様子だったとの事。
  和歌山市出水に残る堤状の土盛りの発掘調査で、1585年に羽柴(豊臣)秀吉太田城を水攻めした(参照>>)際に築いた堤防である可能性が高い事がわかりました
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総光寺由来太田城水責図=部分(惣光寺蔵)
今回の初めて発掘調査で、土盛りの中からは中世の土器や鉄砲玉が出土。
中世末~江戸時代に築かれた大規模構造物で、専門家は「これまで根拠があいまいだったが、水攻めの堤防である可能性が高まった。太田城の攻防は紀州の中世と近世の転換点。秀吉軍の堤を築いた工法が判明したことは重要だ」と見ています。
  浜松市役所に隣接する旧元城小跡地(同市中区)で進めている浜松城の発掘調査で、本丸北東隅の石垣と本丸東側の堀の一部を確認しました。
本丸を囲む堀跡が見つかるのは初めてで、これまで絵図でしか分からなかった城の中枢部の全容解明に向け、一歩前進…発掘地点では、堀に向けて崩れ落ちたとみられる石垣の一部も見つかりました。
今後は周辺にあった本丸裏門や徳川秀忠が生まれた場所との伝承がある「御誕生場」の遺構の確認も期待できるそうです。
  京都を追われ、鞆の浦に滞在した室町幕府最後の十五代将軍・足利義昭を支援するため、戦国大名・毛利輝元が周防・長門・出雲の寺社に課したとされる労役(鞆夫=ともふ)について記した新史料が見つかりました。
史料は輝元が天正四年(1576年)~天正十年(1582年)ごろ、周防と長門の支配を担当した重臣3人に送った書状で、冒頭に「防長諸郡江鞆夫之事 申付候」とあり、輝元が防長諸郡へ鞆夫を課していたことが記されているそうです。
鞆夫の記述がある史料はこれまで8点しか確認されておらず、詳しい解明が進んでいない中、専門家は「労役に鞆の地名を冠している点が興味深く、郡単位で徴発されたことがわかる点も貴重だ」とコメントしています。
10月 奈良市「子どもセンター(仮称)の建設予定地となっている平城京域の柏木公園(同市柏木町)で、奈良時代の大型建物群跡が出土しました。
調査した市教委の担当者は「役人の邸宅ではないか」と推察し、専門家は「護衛に関する役所の可能性もありうる」と指摘しています。
最も立派なのが北側の建物で、南向きの庇が付き、柱の直径は約30cm、柱間の幅が3mと長いことなどから、京域でもかなり格の高い建物と推定されています。
現場は、平城京のメインストリートである朱雀大路に近い「左京七条一坊七坪」の区画で、殿上人の貴族か、それに次ぐクラスの役人の邸宅であった可能性があるとの事。
  戦国武将の上杉謙信武田信玄の軍勢が激突した川中島の戦い(参照>>)の直前に、謙信が家臣に宛てた書状が見つかりました。
東京大史料編纂所村井祐樹准教授によると、合戦前夜に出された書状の発見は、両軍を通じて初めてで「地名や人名を含め、戦いへと向かう当時の情勢が具体的に記されており、極めて貴重な発見だ」と話しています。
  小浜出身の幕末の志士梅田雲浜(参照>>)が安政の大獄(参照>>)の4か月前に書いた直筆の手紙が福井市内で見つかりました。
手紙は1858年の安政の大獄のおよそ4ヶ月前に、越前福井藩の坂部簡助に宛てたものと見られていて、長州藩へ送る木材の材木置き場を借りたいとの依頼や北潟湖を埋め立てて水田にする相談など福井藩とのやり取りが記されており、雲浜と福井藩との繋がりや幅広い人脈を知ることができるとか…
雲浜は安政の大獄の前に手紙などを井戸に捨てたため、残された資料は非常に少なく、直筆の手紙は当時の活動を知る貴重な発見だとの事です。
11月 奈良県橿原市藤原宮跡で長年進められてきた発掘調査で、重要な儀式が行われた大極殿を取り囲む回廊の全容が、ほぼ明らかになりました。
藤原宮跡の東北部にあたる区画で発掘調査の結果、大極殿の東側にあった回廊の様子が、今回の調査で大極殿をカタカナの「ロ」の字形に囲む東西約120m、南北、約165mの回廊の全容がほぼ明らかとなりました。
  JR兵庫駅南東に広がる「兵庫津遺跡」(神戸市兵庫区中之島2)で、江戸時代中期の町屋の遺構が見つかりました。
これまで兵庫城を中心とする大規模な町屋跡が発掘されてきましたが、規模はさらに広がることが確認されました。
同遺跡では、織田信長が西国進出の拠点として築城を指示した兵庫城を中心に、江戸時代の町屋や寺院の遺構が出土していましたが、今回新たに見つかったのは江戸中期の町屋8・9棟で、街路の造りは、江戸~明治期の絵図と一致しており、「町屋の遺構には火災で炭化したり、補修したりした跡があり、当時の生活を生々しく感じられる」との事です。
  瀬戸内海で活躍した村上海賊の主要家系の一つ・来島(くるしま)村上氏の重臣・村上吉郷(よしさと)に、戦国武将・大名の毛利元就が出した書状が確認されました。
書状は古書目録に記されていましたが、花押(かおう)の形状、文書の内容などから元就の書状に間違いないと判断されました。
出された年は不明なれど、内容は、年頭のあいさつを述べるとともに、太刀一腰(1本)と鳥目百疋(ひき)(銭1貫文)を贈ることがつづられている事から「吉郷が来島村上氏の重臣というだけでなく、ひとりの独立した海賊衆として元就から見られていたことが分かる。双方の関係を考えるうえで貴重な手がかりとなる」と評価されます。
12月 明治十八年(1885年)に大阪一帯が大きな被害を受けた淀川の大洪水を記録した石碑が大阪市東成区の蔵から見つかりました。(参照>>)
地元の郷土資料館や専門家による調査によると「濁流は滔々(とうとう)と流れ込み」「財産を集めるいとまもなく」などと氾濫した川からの水が家々を襲った様子が生々しく刻まれており、「石碑を見ることで、過去の水害を頭の片隅に置いて教訓としたい」との事。
  東京都内の男性が古美術商から購入した肖像画を東京大学史料編纂所などが調査したところ、室町幕府の将軍=足利義満の姿を、義満の死後150年ほどたった1550年前後に描かれたとみられる物である事がわかりました。
足利義満を描いた肖像画はこれまでに数点しか確認されておらず、黒々としたあごひげや若々しい表情などが特徴…専門家は「新しい義満像を読み取ることができる重要な発見だ」と指摘しています。

 

こうして見ると、今年も様々な新発見がありました。

個人的に気になったのは、6月の竹生島の唐門のニュースですかね。

ずいぶん前に竹生島に行った時に、すでに、
「この唐門は大坂城の極楽橋を移築した物」
って話を聞いた気がしてたのですが…

おそらくは、伝承的だった話が調査によって「その可能性が高くなった」という事なんでしょうね。

うめキタの梅田墓もそうですね。
梅田墓は、つい最近まで、いくつかのお墓が端っこの方に残されているままになってましたが、それを撤去すると同時に、地中に埋まってしまっている区域を発掘して、様々な事が新しく解明されたという事ですね。

明智秀満の湖水渡りが後世の創作だったのは、ちと残念ではありますが、
ま、落ち着いて考えたら、
「そら、そやろww」
という気もします。

そんな中でも、今年、特に驚いたのは、
「建て替えしようとしたお寺の襖の下から…」とか、
「ネットオークションで見つけて…」とか、
「普通に古物商から購入した」とか、
びっくりする偶然からびっくりするような史料が発見された事…

あるんですね~こういう事。。。

もちろん、それ以外の発見も「絶対!」なんて事はなく、研究者の方々のスルドイ推察や探究の末に導いた「ここぞ!」という場所を掘り進んでこその発見なわけで…

日々、こうして新たなる発見がされていくのだなぁ~とつくづく感じました。

私たちは、普段、
歴史の教科書を読んだり、書籍を読んだり、小説や時代劇で見たり…

そういう流れがあるために、ついつい
「ここで、こうなって」
「この人が登場して来て」
「ほんで、こうなって…」
歴史を一つの物語のように考えていきます。

もちろん、歴史を物語のように読み進んで行く事は大事です。

なぜなら、それによって、歴史の流れがス~ッと頭の中に入って来るから…
むしろ、私はそっち(物語)です。

「何年に何があって」
「アレが何年で…」
てな覚え方は、テストのための丸暗記であって、ちっとも面白くありません。

やはり、歴史を楽しむなら、とめどなく流れる大河のように、長い長い物語として思いめぐらす方が、ずっと楽しいです。

しかし、おおもとの「発見」という物は、まさに一つの「点」

私は、これら
新しく発見された「点」と、
以前に発見された「点」、
さらに昔からある「点」、
それぞれを一つ一つ、「もしかしたら、こうかも知れない?」と、考えられる(可能性のある)線でつないでいって、歴史という壮大な物語が紡がれていくと思うのです。

この先、また新しい発見があれば、その都度、新しい線をつなぎなおし…

もちろん、つなぎ合わせる線は複数あり、
ここは赤い線でつなぐ?
こことここをつなぐのはメッチャ太い線が良い
いや、反対に青くて細い線が良い?

なんて事を考えながら…
歴史は、そこが楽しいんですよね~(←個人の感想ですww)

「これが絶対正しい!」ではなく「…かも知れない」を許容できなきゃ、歴史は楽しめません(笑)

・‥…━━━☆

てな事で、今年一年やってまいりましたが、
コロナ禍の中、1番に思う事は「悪疫退散!」

いつもブログを見に来てくだる皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年も、よろしくお願いします
 .

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2020年1月 1日 (水)

新年のごあいさつ…そして今年は「麒麟がくる」

 

新年 明けましておめでとうございます

2020coco

今年も、歴史のあんな事、こんな事、
色々と楽しんでいきましょう!

ところで…
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」

私も、かなり昔からの大河ドラマファンですが、やはり大好きな戦国時代の一年だとウレシさ倍増です。

題名にある「麒麟」は、ご存知のように動物園にいるあのキリンではなく、中国の神話に登場する想像上の生き物・・・いわゆる霊獣(れいじゅう)とされる麒麟(きりん)ですね。

霊獣は瑞獣(ずいじゅう)とも言われ、この世に存在するありとあらゆる動物たちのご先祖、あるいは、その種の根源であり長であるとされ、瑞兆(ずいちょう=良い事が起こる前兆・吉兆)=つまり、良い事が起こる時に姿を現すとされています。

霊獣の中でも、四霊(しれい=あるいは四神)に含まれる4種の瑞獣は特別視されていて、麒麟は、その4種の中に入っています。

4種の中で、最もよく知られているのが(りゅう=応竜)・・・日本でも多くの伝説や昔話に登場し、竜神伝説など恵みの雨をもたらす神獣としても知られていますが、中国では徳のある皇帝のシンボルとされ、建物や絵画等にも多く用いられています。

一方、徳のある皇后のシンボルに用いられるのが鳳凰(ほうおう)・・・クジャクのような鳥の姿で、雄が「鳳(ほう)、雌が「凰(おう)なので、つまりは鳳凰と言えば雄雌一対の事を指しますので「皇帝の龍に対する皇后の鳳凰」とされる一方で、鳳凰だけでも徳の高い王者の出現を指す場合もあるようです。

次に霊亀(れいき)・・・字でお察しの通り、霊的な亀の事で、仙人が住むとされる蓬莱山(ほうらいざん)を背負う姿である事から、長寿を表すとともに、治水に長けた帝王の出現を現しているとされます。

そして麒麟・・・あらゆる獣の長であり、仁の心を持つ君主が出現する時に姿を現すとされ、一方で、殺生を嫌いどんな生命も傷つけない。。。移動する時には小さなアリも避けて通るのだとか・・・

大河ドラマの麒麟は、この「仁の心を持つ君主」「殺生を嫌う」あたりから発展した「麒麟がくる」なのでしょうね。

瑞獣には、四霊のほかにも、
平安な世に現れる霊鳥=(らん)
善悪を冷静に判断できる優れた審判者が現れる前兆で羊に似た一角獣の獬豸(かいち)
王の守り神でありながら、その王に徳が無いと見るや革命を起こすという九尾の狐(きゅうびのきつね)
などがあります。

・・・で、ここまで書いててお察しの通り、私個人的に抱く明智光秀(あけちみつひで)という人のイメージは、麒麟というよりは九尾の狐のなのですが、「九尾の狐がくる」では、リズムが合わないし、なんか化けて騙されそうでコワイww

ただ、公式サイトによると麒麟出現の対象者が光秀とは決まってない(←メイン画面の長谷川博巳さんの後ろに麒麟おるけどね)みたいですが、なんだかんだで主役なんですから、主役の特権を満載しつつ、「仁の心を持つ」と「殺生を嫌う」のイメージで、ダイナミックに麒麟がやって来る所を描いていただきたと思っています。

またもや信長さんが殺生しまくりの悪人に描かれそうですが、そこンとこはドラマなので「是非に及ばず」。。。ホント楽しみにしてます。

ちなみに、おそらくは序盤あたりで放送されるであろう明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)の落城については【光安の自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?】>>で、

それ以外の明智光秀の関連ページは、
 ●将軍・足利義昭擁立で初登場!謎の明智光秀
 ●信長上洛後…本圀寺の変と桂川の戦い
 ●明智光秀の丹波攻略・前半戦~籾井城の戦い
 ●織田信長軍による福知山攻略戦
 ●八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけとなったか?
 ●「丹波の赤鬼」赤井直正と明智光秀の黒井城・攻略
 ●明智光秀の丹波攻略~和藤合戦と山家城の戦い
 ●明智光秀と丹波・福知山の明智藪
 ●愛宕山での連歌会の句は本能寺の意思表明か?
 ●天正十年6月1日~本能寺・前夜
 ●本能寺の変~『信長公記』より
 ●本能寺~その日の安土城と留守役・蒲生賢秀
 ●本能寺の変~数時間のタイム・ラグを埋める物は?
 ●本能寺の変~家康、暗殺計画説
 ●明智光秀と細川幽斎~二人の別れ道
 ●洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀
 ●古文書の虚偽と真実~これぞ歴史の醍醐味!
 ●明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…
 ●天下分け目の天王山!山崎の合戦
 ●黒衣の宰相・天海=明智光秀説
 ●光秀の手紙の原本発見(2017年ニュース)
 ●本能寺へのルート?明智越(史跡巡り)
 ●戦国・安土の年表
などからご覧いただければ幸いです。

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文末になりましたが、
昨年同様、本年もよろしくお願い致します。
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2019年12月30日 (月)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2019年総まとめ

 

いよいよ、2019年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 江戸時代初期に描かれたものの、全容がわからないために「幻」とも呼ばれる「盛安本源氏物語絵巻」のうち、ヒロインの一人である夕顔の死を描いた場面の図が、新たにフランスで見つかりました。
源氏物語絵巻で不幸な場面を描いたものは、極めて珍しいそうです。
  中城城跡14世紀前半に積まれたとみられる新たな城壁が見つかりました。
城壁は19世紀末以降に築かれた城壁の内側に積まれていて、城壁修理のために石積みの解体作業中に発見されました。
先中城按司の時代に築かれたとみられる物で、これまで中城城の築城は14世紀後半とされてきましたが、時期がさかのぼり、城の歴史が書き換わることになります。
2月 奈良市にある奈良大が、所蔵する木造四天王像から「行基大菩薩御作 菅原寺」と墨で記された銘文が見つかったと発表しました。
銘文は江戸時代に書かれた可能性があるものの、奈良時代の僧・行基(ぎょうき)が創建したとされる菅原寺(奈良市、喜光寺)で安置されていたという伝承を裏付ける銘文となります。
  江戸幕府最後の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が書いたとみられる書が、「広辞苑」の編者として知られる言語学者・新村出(しんむらいずる)の旧宅(京都市北区)で見つかりました。
書かれた時期は不明ですが、専門家は「劇的な人生を歩んだ慶喜の人物像を知る上でとても貴重な史料」との見解です。
3月 奈良県大和郡山市平城京南方遺跡右京域(西部分)で、京を碁盤目状に整備した都市区画「条坊」と同規格の道路跡が新たに見つかりました。
調査地は、京の南端とされる九条大路にあった正門「羅城門」跡付近(同市野垣内町)で、道路を拡幅した跡があったことから、羅城門やそこから延びる城壁「羅城」と一体的に再整備された可能性が高いとの事。
  豊臣秀吉(とよとみひでよし)が造成した大坂城の三ノ丸跡から、推定100坪ほどの屋敷跡が見つかりました。
石を基礎にして柱を立てた跡があり、一緒に見つかった瓦に刻まれた家紋から、秀吉臣下の大名・佐竹義宣(さたけよしのぶ)の屋敷である可能性が高いということです。
  豊臣秀吉が加藤清正(かとうきよまさ)朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかりました。
横125.5cm、縦21.5cmの朱印状には、「小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」という内容が記されているとの事。
同様の命令書が中国や九州の大名へ広く出された事は推測されていましたが、3月23日付の命令書の実物が発見されたのは初めてだそうです。
4月 四天王寺(大阪市天王寺区)にある亀形石造物は、酒船石遺跡(奈良県明日香村)で出土した亀形石造物と同じ7世紀に造られ、2つの水槽がつながる構造やサイズも同じだったことが分かりました。
酒船石遺跡の亀形石は硬くて加工しにくい石材ですが、四天王寺は軟らかい凝灰岩であることや、四天王寺のほうがより忠実に亀を表現していることから酒船石遺跡よりも古い可能性があるとの事。
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四天王寺の亀井堂(参照>>)
5月 「日本一の石橋群」で知られる大分県宇佐市院内町で新たに4基の石橋が見つかりました。
市道下の地下水路(暗きょ)などに埋もれていたもので、保存状態も良好とみられ、同町で確認された石橋はこれで計79基になりました。
  平安時代後期に勢力を伸ばした平家一門の屋敷の一部とみられる堀の跡などが京都市内の発掘現場で見つかりました。
この付近に平家が拠点を築いたことは記録に残っていましたが、実際に遺構が見つかるのは初めてだという事です。
6月 大坂夏の陣で焼失の後、徳川家が城跡を埋め立てて再建したため(1月23日参照>>)、現在は地中に埋まっている豊臣秀吉が築いた大坂城の本丸周辺の地盤をボーリング調査したところ、天守台北側の地表面と天守台の東西で石垣とみられる傾斜も確認しました。
専門家は「絵図で従来あるだろうと思われたものが確実に存在することを把握できた」としています。。
(姉妹サイト:豊臣大坂城の歴史散歩コース>>)
  戦国武将の三好長慶(みよしながよし)が居城とした飯盛城跡(大阪府大東市、四條畷市)広い範囲を覆う石垣が見つかりました。
発見された石垣約100ヶ所のうち約半数が、長慶が居城した時期に整備されたとみられ、これまでの「築城に石垣を用いる手法は織田信長が最初だ」とされていた歴史の常識が覆る事になりそうです。
7月 アゼルバイジャンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会が、日本が推薦していた「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)を世界文化遺産に登録することを決めました。
日本の世界文化遺産の登録は7年連続で19件目。世界自然遺産も含めた世界遺産は23件目となります。
(姉妹サイト:古市古墳群の歴史散歩コース>>)
  江戸時代前期に描かれた最古の鳥羽城絵図が発見されました。
天守や本丸御殿、石垣、お堀などが克明に記され、鳥羽城が「海の城」と呼ばれた当時の面影がうかがえる貴重な資料となりそうです。
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遠く(左奥)伊勢湾を望む鳥羽城跡
  奈良時代に都があった奈良市の「平城京跡」で、当時の権力者・長屋王(ながやおう)のものと同じ規模を持つ広大な宅地の跡が見つかりました。
専門家は「歴史書に出てくる有名な人物が住んでいた可能性がある」とみています。
8月 国内初の本格的な宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村「飛鳥京跡苑池(えんち)で南北二つの人工池のうち北池から、全長約11.5mに及ぶ石組みの溝と石敷きの遺構が見つかりました。
7世紀後半にわき水を流す流水施設として造られたとみられ、古墳時代から続く「水のまつり」の宮廷儀式を行っていた可能性が高まりました。
  豊臣秀吉から関白職を継承しながらも失脚して切腹したとされる養子の秀次(ひでつぐ)について(7月15日参照>>)死の約3ヶ月前の時点では、秀吉が秀次の息子を要衝である大和(奈良)の「国主」に取り立てる意向だったことを示す新史料が見つかりました。
秀吉は淀殿(よどどの)との間に実子の秀頼(ひでより)が誕生したことで関白秀次と不仲になったとする通説に一石を投じる内容だそうです。
9月 11世紀前半の平安時代の上流貴族の墓跡と墓前に置かれたとみられる石製の笠塔婆(かさとうば)が平安京の墓所「鳥部野(とりべの=京都市東山区)の一角で出土ししました。
笠塔婆は石製として最古とみられ「当時の埋葬の実態を明らかにする史料」と考えられます。
(平安京の墓所について…参照>>)
10月 奈良県橿原市四条町藤原京跡(12月6日参照>>)3棟の建物跡が見つかりました。
中枢部の藤原宮跡から西に2km以上離れた場所で大規模な建物跡が見つかったのは初めてで、貴族の邸宅だったとみられます。
  平安京の玄関口に建てられた官寺「西寺」跡(京都市南区)で、中心建物の講堂跡の基壇が見つかりました。
基壇は造営した平安時代前期の姿をとどめており、同じ時期に築かれた初期平安宮の建物や寺院の解明につながる重要な遺構だとか…
五重塔とみられる建物の跡も初めて見つかり、東寺と西寺の主要伽藍(がらん)が朱雀大路を軸に、左右対称の位置に配置されていた可能性がより高まりました。
(平安京について…参照>>)
11月 世界遺産・東大寺(奈良市)の東塔跡の発掘調査で奈良時代の東門の跡が初めて確認されました。
規模は東西約7.1m、南北約12.7mで、創建当時の全体の規模を知る手がかりになると期待されます。
  京都市右京区嵯峨遺跡から、14世紀中ごろの南北朝時代以降に創業したとみられる酒造りの遺構が出土しました。
天龍寺などの寺院が手がけた僧房酒(そうぼうしゅ)の関係遺構とみられています。
搾りから貯蔵までの工程がわかる遺構としては、これまでは延宝二年(1674年)の旧岡田家住宅(兵庫県伊丹市)が最古とされていたので、その歴史は約300年さかのぼる事になります。
12月 奈良時代に遣唐使として中国に渡り、帰国後に官僚として活躍した吉備真備(きびのまきび)(4月25日参照>>)が書いた可能性の高い『墓誌(ぼし=亡くなった人の伝記)中国で発見されました。
本当に真備の筆であるならば国内はもちろん世界で初めての物で古代東アジアの実像を知る貴重な史料になりそうです。

こうして見ると、今年も様々な新発見がありました。

個人的には、やはり、8月の
「秀次の死の3か月前にも秀吉が秀次を優遇しようとしていたと考えられる史料」の発見ですかね~

私としては、ドラマや小説で、いつも、信長さんや秀吉さんが悪く描かれている事に悲しい気持ちになります。
(来年の大河も光秀主役なら織豊二人は敵やしね~)

信長や秀吉が殺戮や非道を繰り返し、最後に家康が、それらを払拭するように平和な世にした?みたいな?

もちろん、家康さんも嫌いでは無いですし、戦乱の無い平和な300年時代を築いた功績は、日本の歴史上トップクラスの快挙であると認識しておりますが、そこに至るまでにあった何やかんやのアカン部分が無かったかのようになってるのがチョイとね~
(戦乱の無い平和な時代は、一旦、秀吉の時代にできちゃってますし…)

まぁ、「勝てば官軍」「歴史は勝者が書く物」なので仕方ないですが、信長や秀吉のやさしさが垣間見える史料が発見されると、やっぱウレシイです。

あと、伊丹市が「酒造りの元祖の地」みたいな感じで推してるのを、つい最近のテレビで見た気がするので、11月の京都での遺構発見は、ちょっとお気の毒な気が・・・でも、それこそ、新発見で常に歴史は変わっていくのですから・・・
 .

最後に…
今年のニュースとして、やはり真っ先に思い出すのが10月の首里城焼失ですね~

新発見ではなく悲しいニュースですが…何より、保管されていた貴重な宝物や資料が失われた事は、とても残念です。

奈良や京都の寺社に行くと、伽藍や社殿とは別の「宝物館」や「収蔵館」といった博物館仕様の建物に国宝や重要文化財が収められている事が多々ありますが、「そういう事やねんな~」と改めて痛感させられました。

私見で恐縮ですが…
寛文五年(1665年)に焼失した徳川時代の大阪城天守閣は、300年の時を越えて昭和の大阪市民の寄付により再建され(11月7日参照>>)、現在は法令上の「博物館相当施設」として運営されています。

期待を以って遠方から見物に来られた方々には、
「あんなん復元天守ちゃうやん!ただのコンクリートのビルやん」
とボロカスに言われる昭和の天守閣ですが、貴重な文化財を収め展示する以上、そのような仕様の建物にするのがベストではないか?と個人的には思います。
もちろん、それ以前に、そもそもの火の用心が最重要ですが…

・‥…━━━☆

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2019年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年=2020年はいよいよ東京オリンピックの年(麒麟もくるヨ~)・・・今後とも、よろしくお願いします
 .

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2019年7月26日 (金)

当方滅亡!~上杉を支えた名執事=太田道灌の最期

 

文明十八年(1486年)7月26日、主君=上杉定正の命により、太田道灌が暗殺されました。

・・・・・・・・

太田道灌(おおたどうかん=資長)戦国初期に登場する屈指の名将です。

そもそもは、初代の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自身の地元が関東でありながら、南北朝の動乱やら何やらで京都にて室町幕府を開く事になり、そうなると、足利家のトップである将軍は京都におらねばならないため、その間、留守となった地元=関東の支配を誰かに任せねばならない・・・

Asikagakuboukeizu3 ←足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そこで尊氏は自身の三男の 義詮(よしあきら)に将軍職を譲り、その弟の四男=基氏(もとうじ)を地元を支配する鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東に派遣し、以来、義詮の血筋が将軍を、基氏の血筋が公方を、代々継承していったわけですが、その公方の補佐役が執事(しつじ)・・・後に関東管領(かんとうかんれい)と呼ばれる役職で、それを交代々々で歴任していたのが両上杉家(うえすぎけ)=惣領家が山内上杉(やまのうちうえすぎ)と言い、分家が扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)です。

ところが、やがて「京都の将軍家とは距離を置いて、関東は関東でやっていきたい!」と考える第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)が登場・・・それを時の将軍である第6代=足利義教(よしのり)が何とか鎮圧しますが(永享の乱>>)(結城合戦>>)、その後、持氏の遺児の足利成氏(しげうじ)次期公方を勝手に名乗って関東で大暴れ・・・そのために、幕府から任命された新たな公方が鎌倉に入る事ができないという事態に・・・

そうなると、ここで何とか関東をまとめなければならないのが、最初っから公方の補佐として関東にいる両上杉家なわけですが、そんな扇谷上杉家の執事だったのが太田道灌です。

Ootadoukan600 幼き頃からその天才ぶりはズバ抜けていて、その優秀さを心配した父=太田資清(すけきよ)が、
「障子は直立してこそ役に立つけど、曲がって倒れてたら役に立たんのやぞ」
(↑「過ぎるほどの才能をまっすぐに良い方向へ使え」という意味)
と忠告すると
「障子はそうですやろけど、屏風はまっすぐやと立ちません。屏風は曲がってこそ役に立ちます」
と言い返して父を黙らせたとか・・・

なんと、生意気な憎ったらしい子供・・・と思いますが、成長した道灌は周囲から反感を買う事は少なかったのだとか・・・思うに、本当に頭が良くて、周囲から見ても別格なんでしょうね~もう、そんじょそこらの人じゃ太刀打ちできないくらいの差があるとか…たぶん。

長禄元年(1457年)には、そんな自称公方らから関東を守るべく江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築し(4月8日参照>>)扇谷上杉家のため、八面六臂の活躍をする道灌・・・

中でも特筆すべきは、この後の時代の手本となるような足軽(あしがる)の扱い方・・・

以前書かせていただいたように、大乱を聞きつけて近隣の農村から集まって来る喰いっぱぐれた農民くずれや無頼の輩・・・いわゆる雑兵(ぞうひょう)を雇い入れ、鎧も兜も身に着けず刀も槍も持たないまま軽装で大量に自軍に参加させ、これまでの一騎撃ちスタイルから、互いに集団戦で戦う、まさに、私たちが思う戦国合戦スタイルに劇的に変化させたのは、あの応仁の乱で東軍総大将となった細川勝元(ほそかわかつもと)ではありますが(3月21日参照>>)、この勝元の時代は、なんだかんで、ただただ集団でワーワーやるだけの烏合(うごう)の衆でしかなかったのです。

それを、統率のとれた組織編制をして、大河ドラマ等で描かれるような足軽集団にしたのが道灌と言われています。

『太田家記』には、道灌が作ったとされる
♪小机は まづ手習ひの 初めにて
 いろはにほへと 散り散りになる ♪
という戯れ歌が書かれているのですが、

この小机というのは、道灌の良きライバルである長尾景春(ながおかげはる)小机城(こづくえじょう=神奈川県横浜市)の事・・・

この景春の長尾家は、代々、山上上杉家の執事を務める家柄ですから、扇谷上杉家執事の太田道灌とは、まさに同じ立場の人だったのですが、その長尾家の後継者の決定に主君の山上上杉家が介入して来た事で、それに不満を持った長尾景春が反旗を翻した。。。この時、道灌はちょっと景春の気持ちが理解できる雰囲気で、それ察した景春が道灌を自軍に誘う場面もあったようですが、やはり道灌は主君を裏切れず、結局、その良きライバルを攻める事になるのですが・・・
【江古田・沼袋(東京都中野区)の戦い】参照>>
【武蔵・用土原(埼玉県深谷市)の戦い】参照>>

この時に、上記の歌を繰り返し、呪文のように口ずさませながら、足軽たちの士気を高めるとともに、太鼓の音の代わりに、それぞれの隊に一斉にタイミングを合わせる行動を取らせて攻撃を仕掛け、勝利に導いたのです。

今で言うなら、ラジオ体操のピアノと掛け声みたいな感じ?
あのピアノとリーダーの掛け声があるからこそ、公園に集まった人たちは、同じタイミングで同じ動きをするわけで・・・これにより、烏合の集団だった素人戦士の足軽たちが、まさに軍隊へと変貌したわけです。

おかげで、いつしか分家の扇谷上杉が惣領家の山内上杉をしのぐ勢いを示すようになるのです。

しかし、この道灌のあまりの優秀さが、文字通り、命取りとなります。

文明十八年(1486年)7月26日、道灌は、相模糟屋(かすや=神奈川県伊勢原市)にある主君=上杉定正(うえすぎさだまさ)の招きを受けます。

江戸城から上杉邸まで、距離にして約50kmほど・・・その労をねぎらうように風呂を勧められ、やがて出ようとした、その時、定正の命を受けた曽我兵庫(そがひょうご)なる武将が太刀で斬りつけ、道灌を暗殺したのです。

道灌は倒れながら、「当方滅亡!」と一言叫んだのだとか・・・

「当方滅亡」とは、
「俺のいない上杉家は滅びるぞ!」
という意味です。

一般的には、そのあまりの優秀さに、定正が「いつか取って代わられるのではないか?」との不安にかられたため殺害に至った・・・とされています。

ただし『北条記』では、定正が道灌討伐のために糟屋へと出陣したのを、迎え撃った道灌が、馬上にて槍に突かれて落とされ、
♪かかる時 さこそ命の 惜しからめ
 かねてなき身と 思い知らずば ♪
「はなから、(自分は)この世にはいない物やと悟ってるから、こんな時でも命推しくはないんや!」
との辞世の句を残して首を取られた・・・つまり、合戦での討死だとされています。

また、別の史料では糟屋の洞昌院(とうしょういん=公所寺)で殺害されたとの記録もありますが、かの『太田家記』では、この洞昌院は道灌が荼毘に付された場所とされていて、現在も、隣接する境内に道灌の胴塚と伝えられる塚があります。

さらに、近くの大慈寺(だいじじ)にも道灌の首塚とされる塚があって、江戸時代の太田家は、お参りの際には、この両方の墓所に参詣していたと伝えられていますので、暗殺にしろ、討死にしろ、道灌は斬首されたという事なのかも知れません。

それから何年後かに上杉定正は、
「道灌は、江戸城を堅固にして上杉顕定(あきさだ=山内上杉家当主)に歯向かおうとしたので、俺が度々注意しててけど、言う事聞かへんから成敗した」
てな内容を手紙に書き残していますが、これは、あくまで定正の言い分・・・

ただ、先の江古田・沼袋>>用土原>>のページにも書かせていただいたように、道灌自身も両上杉家に対し、少々の不満があった事も確かだし、分家の定正が惣領家の山内上杉家に気をつかっていた事も確かで、「いつしか惣領家に分家が取って代わるのではないか?」道灌の強さに脅威を抱いていたのは、直接の主君である定正ではなく上杉顕定の方だったかも知れませんね。

果たして・・・この後、
長尾景春という執事を失った山内上杉家と、太田道灌という執事を失った扇谷上杉家は、同族で激しく争う事になり、やがて、そのゴタゴタの合間を縫って関東に勢力を伸ばし始めた北条(ほうじょう)によって、道灌の予言通り、扇谷上杉家は滅亡する事となるのです【戦国屈指の夜襲で公方壊滅~河越夜戦】参照>>)
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2019年6月20日 (木)

明智光秀の丹波攻略最終段階~和藤合戦と山家城の戦い

 

天正八年(1580年)6月20日、城の破却に応じない和久左衛門佐の山家城を明智光秀が攻撃しました。

・・・・・・・・

兵庫県の北東部と京都府の中部にまたがる広大な丹波(たんば)の地は、室町幕府政権下において守護=細川氏が長きに渡って支配する所でありましたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の時に、東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の下で活躍した功績により多紀郡(たきぐん=現在の兵庫県丹波篠山市付近)を与えられた波多野(はたの)一族が、その後の、細川家内のゴタゴタ(2月13日参照>>)の隙間を縫って力をつけて行き、波多野稙通(はたのたねみち)の時代に、八上城(やかみじょう=兵庫県丹波篠山市)にて独立し、その孫の波多野秀治(ひではる)の頃に全盛期を迎え、もはや丹波一円を支配するほどになっていきます。

しかし、そんな中、天正の頃から、畿内より西の中国地方(山陽&山陰)に手をのばしはじめたのが、ご存知、織田信長(おだのぶなが)

とは言え、この信長の中国地方侵出も、はじめは・・・
永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛して(9月7日参照>>)、ほぼほぼ畿内を制していた信長に対し、自らが滅ぼした周防(すおう=山口県)大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党と交戦中の安芸(あき=広島県)毛利元就もうりもとなり)が、その背後を突こうとする出雲(いずも=島根県)尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党と、それに協力する但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「けん制してほしい」と依頼して来た事がキッカケだったわけですが、

その後、山名も尼子も信長の傘下となるのですが、逆に、足利義昭が信長と敵対する越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)北近江(きたおう=滋賀県北部)浅井(あざい)に味方し、そこに本願寺顕如(けんにょ)が参戦(9月12日参照>>)し・・・となって、結局、毛利も信長に敵対するに至って、この中国地方は西の大物=毛利と、畿内の織田に挟まれる形となったのです。

で、元亀四年(天正元年=1573年)の7月には、その義昭を追放(7月18日参照>>)、続く8月には朝倉(8月20日参照>>)と浅井(8月28日参照>>)を倒した信長は、各地に起こる本願寺門徒の一向一揆も徐々に制圧していった(長島>>越前>>)天正三年(1575年)頃から、いよいよ中国地方の平定に乗り出し、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)但馬播磨(はりま=兵庫県南西部)方面の攻略を(10月23日参照>>)明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波丹後(たんご=京都府北部)方面の攻略を命じたのです。

はじめは信長に好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)が途中で毛利に転じ、それに同調した波多野も敵に回る中、籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)こそ、すんなり落とせたものの(10月29日参照>>)、波多野の八上城(1月15日参照>>)と赤井の黒井城は(8月9日参照>>)は、なかなかの苦戦だったわけで・・・

そこに同調したのが、丹波の土豪(どごう=土地に根付く小豪族)たちでした。

一旦、丹波をほぼ制覇していた波多野が、今回、ゴタゴタしている事で勢いづいた彼らが、チャンスとばかりに領地拡大に動き出したのです。

その一人が八木城(やぎじょう=京都府南丹市八木町)内藤宗勝(ないとうそうしょう)・・・この人は、もとの名を松永長頼(まつなが ながより)と言い、江口の戦い (6月24日参照>>)に勝利して戦国初の天下人となるあの三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣として頭角を現し、信長からも一目置かれていた松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)の弟ですが、遅咲きの兄より、むしろ彼の方が先に三好政権下で大活躍をし、長慶の信頼も厚かった中で、波多野稙通らに八木城を攻められて戦死した内藤国貞(くにさだ)に代わって城を奪還し、その国貞の娘と結婚して内藤氏を継いでいたのでした。

『内藤丹波年代記』等によると・・・
天正四年(1576年)、この機会に綾部(あやべ=京都府綾部市)福知山(ふくちやま=同福知山市)方面を抑えようと考えた宗勝は、その2月、高津(たかつ=綾部市高津町)に入り、綾部に根を張る大槻(おおつき)高津城(たかつじょう=綾部市高津町)栗城(くりじょう=綾部市栗町)を陥落させて、4月には山家城(やまがじょう=綾部市広瀬町)に拠る和久左衛門佐(わくさえもんのすけ=義国?)を攻めたのです。

和久左衛門佐は山家(やまが=綾部市東山町)から和知(わち=京都府船井郡京丹波町)口上林(かんばやし=綾部市武吉町)一帯を領域としていた丹波の武将で、福知山一帯を領していた横山城(よこやまじょう=京都府福知山市・後の福知山城)城主=塩見頼勝(しおみよりかつ)の3男か4男とされ、もともと本城としていたのは福知山にあった和久城(わくじょう=福知山市厚安尾)でコチラの山家城は支城の一つだったようですが、丹波内の紛争により、どこかの段階で和久城を捨て、山家に移っていたらしい・・・(←このあたりは不明瞭)

とにもかくにも、ここで約3000の大軍を率いて下原(しもばら=綾部市下原町)まで侵攻して来た内藤軍を迎え撃つべく、和久方は客将の白浪瀬忠次(しらはせただつぐ=白波瀬忠義とも)が家臣16名と郷土民=数百名を率いて防戦を試みますが、なんせ多勢に無勢・・・劣勢に次ぐ劣勢で、どうにも勝ちが見えないため、やむなく一旦、休戦&和議を申し出る事に、、、

しかし、実はこれが、相手を油断させる作戦で、和議をすると見せかけて下原にある庵に内藤方を誘い込み、真夜中に急襲したのです。

おりしもその日の夜は、激しい風雨吹き荒れる真っ暗な夜・・・いきなりの襲撃に慌てて敗走する内藤勢でしたが、ここは和久領にて地の利もなく、ましてや雨風にさらされて逃げる足取りも重く疲れる。。。

なんとか八木城を目指していた内藤宗勝自身も、途中で力尽きたところを白波瀬の兵に囲まれて討たれしまったとの事。

この天正四年(1576年)の戦いが和藤合戦(わとうがっせん)と呼ばれる戦いです。

ただ、この一連の流れは、上記の『内藤丹波年代記』他、複数の文献で天正四年(1576年)8月4日の出来事としていますが、永禄六年(1563年)の出来事としている文献もあり、また、内藤宗勝の討死の時期&場所については、永禄八年(1565年)の8月2日の黒井城攻撃中とする説もあるようなのですが、

現在の綾部下原には、今回の和藤合戦の古戦場とされる場所があり、宗勝は古戦場内にある戦死したその場所=備州ヶ尾に葬られていると伝えられています。

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★山家城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところで・・・
そんなこんなしてるうちの天正七年(1579年)、各地の籠城戦に手間取っていた信長の丹波攻略が一気に動き始めます。

この年の5月になって、信長が光秀の支援をすべく、羽柴秀長(はしばひでなが=秀吉の弟)丹羽長秀(にわながひで)丹波に派遣します。

その5月4日に羽柴秀長が波多野の支城である氷上城(ひかみじょう=兵庫県丹波市・霧山城とも)を落とすと、丹羽長秀が19日に玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)を攻略し、6月4日には、明智光秀もようやく八上城を落とし、続いて、8月9日には黒井城を攻略し、さらに8月20日には塩見氏の横山城猪崎城(いざきじょう=同福知山・猪ノ崎城)(7月22日参照>>)も落とします。

その後、その横山城は福知山城と名を変えて明智の城となり、10月にはウキウキモードで丹波の平定を信長に報告しています(10月24日参照>>)

この横山城の塩見とは・・・そう、山家城の和久左衛門佐の本家です。

この時の和久左衛門佐は、自身の城の破却を条件にいち早く降伏し、一族の皆が自刃あるいは討死する中で、なんとか、その血脈を残す事に成功しました(5月19日参照>>)

とは言え、どうにもこうにもかなわぬ大軍相手に一応、条件を呑んで降伏はしてみたものの、和久左衛門佐としては何とか山家城の破却は免れたいわけで・・・

そこで左衛門佐・・・山家城の城郭内には照福寺(しょうふくじ=現在は綾部市鷹栖町)という寺が建っていた事を理由に、
「ここは城ではなく、寺なんで…」
と、光秀からの再三の破却命令を、のらりくらりとかわしながら約1年間やり過ごして来たのですが、そんなこんなの天正八年(1580年)6月20日さすがにブチ切れた光秀が山家城に攻撃を開始します。

そうなると、「さすがに太刀打ちできない」と判断した左衛門佐は、城を捨てていずくともなく逃げ延びて行ったとか、
また、この年の8月に光秀に誘い出されて騙し討ちされたという話もあります。

とにもかくにも、これにて明智光秀の丹波攻略は完全に終了した・・・という事になります。

・‥…━━━☆

これ、来年の大河ドラマでやってくれるのかな?
友人に(本人曰く)この後は綾部の山奥に隠れ住んで血脈をつないだという和久さんの子孫がいてはるので、やってくれるとウレシイかも・・・
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2019年6月14日 (金)

豊臣秀吉の小田原征伐~鉢形城の攻防戦が終結

 

天正十八年(1590年)6月14日、豊臣秀吉の小田原征伐における攻防戦で鉢形城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き(参照>>)後に、その傘下を引き継ぐ(参照>>)傍ら、畿内(参照>>)、四国(参照>>)、北陸(参照>>)、九州(参照>>)を平定し、ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、
【関白・秀吉の政庁…絢爛豪華聚楽第】参照>>
【太政大臣&豊臣姓賜る】参照>>
【北野大茶会】参照>>
天正十七年(1589年)10月、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪った(10月23日参照>>)事を『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令) に違反する行為として関東に君臨する条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)・・・天正十八年(1590年)3月29日に伊豆半島を縦ラインで結ぶ足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)の同時攻撃にて、小田原征伐の幕が上がったのです。(3月29日参照>>)

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

攻撃開始の当日に山中城を、翌日には足柄城を奪取し、早くも4月2日には大本営の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市を完全包囲した豊臣東海進軍本隊(4月2日参照>>)は、そのまま小田原城を包囲しつつ、一部を武蔵(むさし=東京都・埼玉県・神奈川県の一部)房総(ぼうそう=主に千葉県)下野(しもつけ=栃木県)常陸(ひたち=茨城県)など、関東一円の諸城の攻略に向かわせ、次々と手中に収めていきます。

一方、越後(えちご=新潟県)北陸方面から東山道(とうさんどう)を進軍して関東に入って来た上杉景勝(うえすぎかげかつ)前田利家(まえだとしいえ)らは、4月中には上野(こうずけ=群馬県)の諸城を攻略していましたが、5月13日、秀吉は松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)にあった景勝に鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)の攻略を指示します。

この時の鉢形城主は北条氏政の弟=北条氏邦(うじくに=氏康の5男)

実は、この氏邦さん・・・秀吉の小田原征伐が決まった最初の段階で、
まずは、現当主の北条氏直(うじなお=氏政の息子)自らが出陣して、今は徳川家康(とくがわいえやす)の傘下となっている駿河沼津城(ぬまずじょう=静岡県沼津市大手町)を奪った後、そこを本拠に豊臣軍を迎え撃ち「富士川を越えさせない!」作戦を提案していたのですが、例の小田原評定で、その作戦は却下され、本城の小田原城に籠城する作戦となったため、一旦は小田原城に入るものの、結局、小田原には自身に代わる養子の直定(なおさだ)を入らせて、氏邦自身は配下の留守居役300余名&約2700の雑兵とともに鉢形城に籠城して抵抗する事にしたのでした。

とは言え、この鉢形城周辺には秩父(ちちぶ=埼玉県北西部)領の日尾城(ひおじょう=埼玉県秩父郡小鹿野町)をはじめとする複数の出城が構築されているうえ、かの猪俣邦憲が300余名を率いて加勢に駆け付け、その守備兵力はかなりのもの・・・

かくして5月19日、真田昌幸(さなだまさゆき)依田康国(よだやすくに)らの信濃隊が小前田(埼玉県深谷市)から寄居(よりい=同大里郡)方面に陣取ると、上杉景勝&前田利家・利長父子らの北陸隊は赤浜(あかはま=埼玉県大里郡)を通って鉢形城の東側へと向かい、上杉が大手から、前田が搦手(からめて)から、合計35000余の軍勢で以って攻撃を開始します。

6月3日には津久井城(つくいじょう=神奈川県相模原市)を攻撃していた本多忠勝(ほんだただかつ)鳥居元忠(とりいもとただ)らの徳川勢が攻撃に加わり、28人持ちの大筒で城内に石火矢(いしびや=石を弾丸にした火砲)を撃ち込み、大きな被害を与えたと言います。

そんな中、現在景勝の配下となっている藤田信吉(ふじたのぶよし)が、氏邦が養子(娘婿)に入った藤田家の者(氏邦の義父の息子とも)である縁から使者として赴き、氏邦に降伏するよう説得を開始します。

やがて天正十八年(1590年)6月14日、氏邦は
「家臣たちに代わって、俺が自害するから…」
と言って、鉢形城を開け渡し、剃髪して正龍寺(しょうりゅうじ=埼玉県大里郡寄居町)に入りました。

ここに、小田原征伐における鉢形城の攻防戦は終結しましたが、結局、氏邦の身は前田利家の預かりとなり、その利家が助命嘆願した事から、その命は助かり、氏邦は敵からも味方からの「前代未聞の比興(ひきょう)と言われたとか・・・また、力攻めではなく降伏勧告に終始した利家のやり方には秀吉さんもたいそうご立腹だったようです。

とは言え、戦場で華と散るも戦国武将、生きて一族の血脈を繋ぐも戦国武将・・・このブログでも度々お話させていただいているように、血で血を洗う戦国時代には、「もう、アカン」となった時、一族もろとも滅亡する方が稀で、誰かが生き残っての血筋を残す事の方が多いです。→【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事…】参照>>

そうしないと「家」自体が歴史上から消えてしまうかも・・・「虎は死して皮残す。人は死して名を遺す『十訓抄』どころか、ヘタすりゃ一族もろとも「いなかった事」にされる可能性だってありますからね。

で、今回の小田原征伐での北条氏の場合を見てみると・・・
嫡流(*氏政は次男ですが長男の新九郎が16歳で夭折したため氏政が世子)の前当主の氏政とその息子で現当主の氏直。

一方、氏政の弟たちは・・・
3男で八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)北条氏照(うじてる)
4男で韮山城の北条氏規(うじのり)
5男で今回の鉢形城の氏邦、
以下、6男の北条氏忠(うじただ)と8男か9男の北条氏光(うじみつ)
(7男は上杉家の養子になった景虎(かげとら)=参照>>で、すでに死亡)

この中で上の3人=氏照と氏邦と氏規は、単なる支城の城主ではなく、独立した一大領国支配を行っていた感がありますが、終始小田原に籠城して兄=氏政とともにイケイケムードで徹底抗戦を主張した氏照と、足柄城をすんなり捨てて小田原城内に走った氏光と、はなから小田原籠城組だった氏忠に対し、それぞれの城に残った氏邦と氏規には、ひょっとしたら、その血筋を残す役目があったのかも・・・あくまで私的な解釈ですが、私はそう感じているのです。

今回の氏邦さんに関しては、先々代の北条氏康(うじやす=氏政や氏邦の父)に降伏して傘下となった藤田康邦(ふじたやすくに)の娘と結婚して婿養子となった藤田家の人として藤田氏邦の名前で古文書等に記載されているところから見ても、そんな気がします。

残念ながら、この後、前田家の家臣となった氏邦の血筋は途中で絶えてしまうようですが、以前書かせていただいたように、氏規さんの血筋は脈々と受け継がれ、無事、明治維新を迎えています(2月8日参照>>)

例え「前代未聞の比興」と言われようが、イザという時に「生き残る事」こそが氏邦さんの使命だったのかも知れません。

この前後の小田原征伐は・・・
●5月29日【館林城・攻防戦】>>
●6月16日【忍城・攻防戦】>>
●6月23日【八王子城・攻防戦】>>
●6月26日【石垣山城一夜城】>>
●7月5日【小田原城・開城】>>
へと続きます。
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2019年6月 8日 (土)

細川高国が自刃…大物崩れ~中嶋・天王寺の戦い

 

享禄四年(1531年)6月8日、天王寺の戦いに敗れて大物崩れとなった細川高国が自刃しました。

・・・・・・・・

応仁の乱後に、明応の政変(4月22日参照>>)で以って政権を握った室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)は、その政変の前後の状況変化ゆえ、3人の養子を迎える事になりますが、その死後に、3人の養子=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)の間で後継者争いが勃発・・・その中で、永正八年(1511年)の船岡山の戦い(8月24日参照>>)と永正十七年(1520年)の等持院表(とうじいんおもて)の戦い (5月5日参照>>)に勝利して一人勝ちとなった高国は足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立確固たる高国政権樹立に成功します。

Hosokawatakakuni600a しかし大永六年(1526年)、高国は自らの勘違いで重臣の香西元盛(こうざいもともり)を上意討ちしてしまった事から、その実兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が高国に反旗を翻し(10月23日参照>>)、しかも、このタイミングで阿波(あわ=徳島県)に退いていた亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)と配下の三好元長(みよし もとなが)らが挙兵して上洛して来ます。

大永七年(1527年)2月13日、波多野&柳本勢に合流した晴元は桂川原(かつらかわら)の戦い に勝利(2月13日参照>>)・・・負けた高国は将軍=義晴とともに近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退きます。

その後、しばらくは京都の奪回に向けて奔走する高国は、享禄元年(1528年)11月には伊賀(いが=三重県西部)仁木義広(にっきよしひろ)のもとに、翌年1月には娘婿に当たる伊勢(いせ=三重県中北部)北畠晴具(きたばたけはるとも)のもとに、5月には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉孝景(あさくらたかかげ)に、8月には出雲(いずも=島根県東部)尼子経久(あまごつねひさ)に、翌9月には三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)浦上村宗(うらがみむらむね)に会い・・・と、あちこちを転々として各人に出兵を要請して廻ります。

浦上滞在中の享禄三年(1530年)6月29日に播磨依藤城(よりふじじょう=兵庫県小野市・豊地城)を攻撃中の柳本賢治に刺客を派遣して暗殺に成功したうえに浦上の援軍を得た高国は、ここ最近、晴元と元長の関係がギクシャクし始めて元長が阿波に戻っていた事をチャンスと見て、いよいよ摂津(せっつ=大阪府中北部)に出陣します。

7月には別所就治(べっしょなりはる)三木城(みきじょう=兵庫県三木市)を攻略し、8月には神呪寺(かんのうじ=兵庫県西宮市・神咒寺)に、本陣を設けて後、9月から11月にかけて、晴元派の富松城(とまつじょう=兵庫県尼崎市)を陥落させ、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)尼崎城(あまがさきじょう=兵庫県尼崎市)での戦いにも勝利します。

一方の晴元も、諸城の守りを強化して防戦に努めますが、高国勢の勢いは止まらず、京都の各所に出没して禁裏(きんり=天皇の住まい)をも脅かすようになります。

さらに勢いづく高国勢が、年が明けた享禄四年(1531年)3月に池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を落とすと、近江の朽木(くつき=滋賀県高島市)に身を隠していた将軍=義晴も坂本まで進出し、京都奪回の機会をうかがいます。

この高国勢の快進撃に、いよいよヤバくなって来た晴元は京都を脱出し、自らが擁立した堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)のいる(さかい=大阪府堺市)へ・・・そんな晴元は、これまで頼りにしていた柳本賢治も今は亡く、ここは何とか、あの三好元長に戻って来てもらいたい(^人^) オ・ネ・ガ・イ♪

実は元長・・・先の等持院表の戦いで祖父(もしくは父)三好之長(みよしゆきなが)を亡くしています。。。つまり高国は、元長にとって、もともと祖父の仇なわけで、、、

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四天王寺・西門

かくして享禄四年(1531年)3月、元長は、堺を制圧すべく住吉(すみよし=大阪市住吉区)に出撃して来た高国勢に対し、摂津中嶋(なかじま=現在の天王寺周辺)に布陣して高国勢の先鋒を少し後退させますが、高国も天王寺(てんのうじ)難波(なんば)今宮(いまみや)に陣取り、浦上勢も野田福島(のだ・ふくしま=大阪市福島区)に布陣します。

これから5月頃まで、天王寺表にて小競り合いはあるものの、決着のつかないこう着状態が続く両者でしたが、6月2日に高国の援軍として神呪寺に布陣していた赤松晴政(あかまつはるまさ=政祐)が、晴元の要請に応じて寝返って浦上軍を背後から奇襲した事でこう着状態が崩れます。

実はコッチも・・・赤松晴政の父=赤松義村(よしむら)を暗殺したのが、誰あろう浦上村宗なわけでして(11月12日参照>>)(どんだけ恨み買うとんねん(><))、いつか仇を討とうと機会を狙っていたわけですが、この赤松の寝返りについては、高国側にもかなりの動揺があったようで・・・「赤松旧好の侍吾も吾もと神咒寺の陣に加わり」『備前軍記』と、名門赤松なればこそ、それに追随する者も少なくなかったようです。

とにもかくにも、この状況を受けた元長は、その2日後の6月4日高国陣営に総攻撃を仕掛けたのです。

もはや流れはすっかり変わりました。

かの浦上村宗をはじめ、松田元陸(まつだもとみち)伊丹国扶(いたみくにすけ)薬師寺国盛(やくしじくにもり)など、主だった武将の多くを失い、多大なる戦死者を出して、高国軍は大敗してしまうのです。

この戦いで中嶋を流れる野里川は死体で埋め尽くされ、まるで塚のようになってしまったのだとか・・・

敗戦の混乱の中、戦場を脱出した高国は、大物城(だいもつじょう=兵庫県尼崎市大物町・尼崎城と同一説あり)へと向かいますが、すでに追手が回っていたため、尼崎町内の藍染屋に逃げ込み、カメの中で身を潜めていたところを翌6月5日に発見され、享禄四年(1531年)6月8日、晴元の命により、広徳寺(こうとくじ=兵庫県尼崎市寺町)にて切腹・・・享年48でした。

この時、高国が詠んだ時世の句は
♪絵にうつし 石をつくりし 海山を
 後の世までも 目からずや見む  ♪
娘婿の北畠晴具に送った物で、三重県津市の北畠神社(きたばたけじんじゃ)に今も残る庭園の事を詠んだ物だそうで・・・この時の高国は、永遠に残る庭園の美しさと、散りゆく自らの儚さを感じていたのかも知れません。

今回の戦いは、その地名をとって「中嶋の戦い」と呼ばれたり「天王寺の戦い」とも言われますが、高国が最後に目指した場所とその衰退を含んで「大物崩れ(だいもつくずれ)とも呼ばれます。

これにて長きに渡った細川管領家を巡る争いは終わる事に・・・と言いたいところですが、実は、高国の養子である細川氏綱(うじつな)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい=元長の息子) の力を借りて晴元を倒し、最後の管領になるのです。

・・・と、そのお話は9月14日 【最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】でどうぞ>>
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2019年6月 2日 (日)

信長とともに散った織田政権ただ一人の京都所司代…村井貞勝

 

天正十年(1582年)6月2日、織田信長の家臣で京都所司代を担っていた村井貞勝が、本能寺の変で討死しました。

・・・・・・・・・

 村井貞勝(むらいさだかつ)は、その生年や出身などは不明なものの、かなり早くから織田信長(おだのぶなが)に仕えて信頼を得、重用された家臣です。

Muraisadakatu600a 弘治二年(1556年)に、弟の織田信行(のぶゆき=信勝とも)を推すメンバーが信長に謀反(8月24日参照>>)を起こした時には、母の土田御前(どたごぜん)の要請を受けて間に入り、敵対勢力と和平交渉して治めたばかりか、

敵チームの主力の一人であった柴田勝家(しばたかついえ)を取り込んで、最終的に勝家にその信行を葬り去る(11月2日参照>>)お手伝いをさせちゃうくらいの信長チームメイトにさせたのが彼=村井貞勝だったとか・・・

そう、勝は、戦の最前線に立って武功を挙げるというよりは、交渉術に長けた内政に手腕を発揮する軍師的な家臣だったのです。

その後、稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)攻略に向けての美濃三人衆(みのさんにんしゅう=稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)の懐柔(8月1日参照>>)や、あの足利義昭(あしかがよしあき=15代室町幕府将軍)を奉じての信長上洛(9月7日参照>>)の際の義昭の受け入れ準備も担当しました。

さらに上洛後の一大事業=二条御所(義昭御所)の造営(2月2日参照>>)にも手腕を発揮・・・
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参考=信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、この頃の信長は、未だ複数の家臣たちに京都の市政を分担させていましたが、元亀元年(1570年)に重臣の森可成(もりよしなり)が討死した(9月20日参照>>)事、浅井&朝倉との戦いに本願寺(2014年9月12日参照>>)やら比叡山(2006年9月12日参照>>)やら色んな敵が参戦して来て世に言う信長包囲網ができあがっていく中で、佐久間信盛(さくまのぶもり)明智光秀(あけちみつひで)といった畿内周辺担当の家臣たちの合戦への出陣も増えて来た事で、

反旗を翻した足利義昭(7月18日参照>>)を追放した元亀四年(天正元年=1573年)、貞勝を天下所司代=いわゆる京都所司代(きょうとしょしだい)に任じたのです。

これは、今で言えば京都府知事と警視総監(京都が首都なので…)を兼務したうえに、朝廷とのなんやかやもあるので宮内庁長官まで兼ねたような?要職です。

そんな中で貞勝は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)禁裏(きんり=京都御所)の修復や、新しい二条御所(二条御新造・信長の宿舎)の築造等の工事も担当しつつ、京都の治安維持や、最難関の朝廷や貴族や寺社との関係改善にも尽力していきます。

ご存知のように、天下目前のこの時期の信長さんは、次々と大きな政策を打ち出していきますので(←これは史実なので)ドラマ等で描かれる時は、少々強引に高圧的な人物に表現されていたりします。

それでなくとも、大体の時代において、政権を握った武門と朝廷&寺社の関係は、アッという間にギスギスした感じになっていくの常なんですが・・・

しかし、以前に、あの東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)削り事件のページ(3月22日参照>>)で書かせていただいたように、実際には朝廷&寺社と信長の関係は、それほど悪い物では無かったようです。

それもこれも、貞勝が間に立って、あれやこれやの食い違いをウマイ事まとめていった故・・・あの一大イベントの御馬揃え(おうまぞろえ)(2月28日参照>>)に天皇様自らお出ましになるのも、交渉上手の貞勝のなせる業といったところでしょう。

ところで、この村井貞勝が関わったとされる事で、「三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)というのがあります。

これは、もはや天下目前の信長が、未だ上位の官職についていない事で、天正十年(1582年)5月、公家の勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)が村井貞勝のもとを訪れ、信長が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=部門の最高位)太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職・名誉職)関白(かんぱく=天皇の補佐役で実質上の公家の最高位)のうちどれかに任官することについて話し合った・・・てな事が晴豊本人の日記『晴豊公記』に記されているのですが、これを、信長側から申し出たのか?朝廷側から言い出したのか?がわからないために「問題」となっているのです。

しかも、ご存知のように、この少し後の6月に、信長がその返答をしないまま本能寺(ほんのうじ)で亡くなってしまう(6月2日参照>>) ため、信長の朝廷に対する考えや、両者の関係が謎なままになってしまう・・・もちろん、どちらが言い出したかわからないのには、肝心かなめの貞勝自身も、かの本能寺で死んでしまうから・・・

そう・・・天正十年(1582年)6月2日、本能寺の向かいにある自宅にいた村井貞勝は、異変を知るや息子たちとともに、すぐさま自邸を飛び出しますが、その時には、もうすでに本能寺は火の海・・・やむなく、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)が宿所としていた妙覚寺(みょうかくじ=京都府京都市上京区)に駆け込みます。

「もはや本能寺は敗れて、御殿も焼け落ちましたよって、敵は必ずここも攻めて来るでしょう。ここより、二条の新御所(同中京区)の方が、守りが堅固で立て籠もりやすいと思います」
と貞勝が進言した事で、隣接する二条御所へと移動した信忠は、御所にいた誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第5皇子)和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子で後の後陽成天皇)
「ここは戦場となりますので、お二人は内裏(だいり)の方へお移りください」
と、別れの挨拶をして送り出し、ここで明智勢を迎え撃つ事にしますが、残念ながら、ご存知のように事態は多勢に無勢・・・(一般的には、明智軍=1万3000に対し、織田勢は、信長=100名、この後の信忠=500名と言われています)

「もはや、これまで!」
を悟った信忠は自刃し、最後まで主君を守った村井貞勝も討死しました。

一説には、先の三職推任の話は「貞勝が朝廷に強要した」という説もあるようですが、交渉上手な貞勝なら、強要というよりは、両者納得の良い話にまとめていたような気がしないでもありませんが、今は何とも・・・これに関する新しい史料の発見が待ち遠しいですね。
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2019年5月19日 (日)

粉河寺と高野山領の水争い~野上村の戦い

 

応仁元年(1467年)5月19日、紀州和歌山にて根来衆を巻き込みつつ、粉河寺領高野山領の間で起こった抗争・野上村の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

紀伊の国(和歌山県)丹生屋村(にゅうのやむら=和歌山県紀の川市・丹生谷とも)粉河寺(こかわでら=同紀の川市)内の北東部分にあたる場所にありましたが、東隣の名手荘(なてのしょう=同紀の川市)高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に属しているので、言わば国境・・・なので、この両者の間には、平安~鎌倉の頃以来、断続的に争いが続いていた場所でした。

「隣」という理由だけで「争う」???
今ではピンと来ないかも知れませんが、実は、農業の盛んな地域ではごくごく最近、昭和の時代にでもあった事・・・そう、「水争い」というヤツです。

そもそもは、日本の国土の70%を占める山々に降り注ぐ雨は、大河となって平野部へと流れ、古代には度々の氾濫を繰り返していたのを、昔の人々は土地を畔(あぜ)で囲い、大河をいくつもの川に分散して水路を張り巡らし、肥沃な農地に変えていったわけですが、

この水路というのは川の一部をせき止めて、横道にそれさせているわけですので、当然、大量に横道に誘導すれば、その後の川の水の量は減る事になる・・・雨が多い時期は、それでも大丈夫ですが、雨が少なくなると、上流の場所で大量に横道に流されては、下流に住む人々の場所まで水が流れて来ない事になっちゃいます。

そうなると、
「ちょっと、せき止める量を少なくしてよ~」
って事になりますが、ここまでになった場合、大抵、日照り続きの大干ばつ状態ですから、上流に住む農民たちにとっても生きるか死ぬかの状態なわけで、そう簡単に
「ほな、流しまっせ~」
とはいかないわけで・・・

で、結局、どうにもならない下流の住人は力づくで上流の堰(せき)を壊しに行ったり、相手の村を襲撃したり・・・って事になるわけで、ここでは椎尾山(しいのおやま)の山林資源と水無川(みなせがわ=名手川)の水の領有を巡って、度々争っていたのです。

永享五年(1433年)には、粉河寺を攻撃しようとした高野山側を、守護の畠山満家(はたけやまみついえ)が出張って来て制止し、何とか止めさせたものの、これに不満を持つ暴徒が高野山の坊舎に放火して多くの建物が燃えてしまったという事もありました。

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野上×丹生屋の水争い位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの応仁元年(1467年)、都では、あの応仁の乱がくすぶり始めた5月、またもや丹生屋村と名手荘の水争いを発端に大きな戦いが起こってしまうのです。

5月8日、まずは名手荘側の人間が丹生屋村に押し寄せて村に火をつけてまわって焼き払うと、それに怒った丹生屋村の住人が粉河寺に相談・・・すると、今度は粉河寺衆も加わって名手荘に属する野上(のがみ)に放火して報復を開始します。

当時の名手荘には、野上村の他にも馬宿(うまやど)村など5つの村があったようですが、野上は、その中でも比較的在家数が多い村で、おそらくは、そこの代表格で在地の土豪(どごう=土地に根付く武士)であろうと思われる野上九郎左衛門なる者が、籠城して戦った事が『粉河寺旧記』に記されています。

やがて、そこに、名手荘周辺の高野山領各地の荘の土豪たちが応援に駆け付けた事から、粉河寺側も大伴弥三右衛門なる人物を大将に立てて、粉河寺領内の村々から人数を集めて、連日連夜の小競り合いを繰り返していたのですが、

5月14日になって、粉河寺からの応援要請に応えた根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)の衆徒たちが、粉河の西の長田(ながた=同紀の川市)まで浸出して来た事で、合戦が大規模になる様相を呈して来て、緊張はピークに達します。

さすがに、ここまで来ると「村同士のモメ事」の域を超えていたと見え、守護の畠山もシカトするわけにいかず・・・って、何たって上記の通り、この年には応仁の乱が!!

そもそも、応仁の乱の発端となるのが、この応仁元年(1467年)1月17日に勃発した御霊(ごりょう)合戦(1月17日参照>>)畠山政長(はたけやままさなが=東軍)畠山義就(よしなり=西軍) による畠山の後継者争いなのですから、そっちに集注したい両畠山にとって、同時期に起こった領国内での争いは一刻も早く片付けてしまいたいわけで・・・

早速、守護代の神保(じんぼう)現地に派遣して仲裁に当たらせます。

かくして応仁元年(1467年)5月19日「流水は従来の通りにして、お互いに妨害しない」事を約束して両者が和解に至り、今回の騒動は一件落着となりました。

とは言え、ご存知のように、実は、粉河寺と根来寺もなかなかに抗争を繰り返していた仲なわけで・・・現に、この数年前にも、同じような水争いで、けっこう大きなドンパチをやらかしちゃってます。

なので、本当に「粉河寺のひと声で根来衆が動くのか?」てな疑問も残りますが、以前書かせていただいた【織田信長の高野山攻め】>>でも垣間見えるように、 その時々の利害関係によって立ち位置を変える柔軟さと独立性を持っていたのが中世の彼らの姿のようにも思えますので、そういう事もあったのかな?と思います。

そして、いよいよ、この水争い終結の翌日・・・畠山がらみの、あの応仁の乱が京都にて勃発する事となります(5月20日参照>>)
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2019年5月 6日 (月)

大坂夏の陣・八尾の戦い~桑名吉成の討死

 

慶長二十年(1615年)5月6日、大坂夏の陣の八尾の戦いにて旧主君・長宗我部盛親と戦った桑名吉成が討死しました。

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桑名吉成(くわなよしなり=弥次兵衛)桑名家は、もともとは、あの平清盛(たいらのきよもり)と同じ伊勢平氏で、「その手は桑名の焼き蛤」で有名?(って言っていいのかな?)伊勢(いせ=三重県北中部)桑名(くわな)出身だったので、苗字を桑名と名乗ったとされますが・・・

とりあえず、戦国期にはすでに土佐(とさ=高知県)にいて、吉成の父である桑名藤蔵人(とうぞうじ)やその兄(つまり伯父さん)桑名重定(しげさだ)らが長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の下で、その四国統一(10月19日参照>>)に大活躍した事から中村城(なかむらじょう=高知県四万十市)の城代に抜擢された家柄だったとか・・・

しかし、ご存知のように、長宗我部元親が四国を統一した翌年の天正十三年(1585年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)が、弟の羽柴秀長(はしばひでなが)を総大将にした大軍で以って四国に上陸(7月25日参照>>)・・・敗北を喰らった長宗我部元親は降伏し、なんとか土佐一国の所領を安堵され、今度は、秀吉の配下として生きていく事になります。

その秀吉配下としての戦場は、ほどなく訪れます・・・そう、秀吉の九州平定です。

翌天正十四年(1586年)の4月、かつては豊後(ぶんご=大分県)の王と呼ばれた大友宗麟(おおともそうりん)大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を訪れ、秀吉に薩摩(さつま=鹿児島県)の島津(しまづ)討伐への救援を願い出たのです(4月6日参照>>)

九州と言えば、かつては、この宗麟に加え、日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)肥前(ひぜん=佐賀県)熊と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)がなど群雄割拠していましたが、ここに来て島津中興の祖と呼ばれる島津貴久(たかひさ)の血を受け継ぐ、絆バッチリの島津四兄弟(6月23日参照>>)にことごとく敗れ、
耳川の戦い>>
沖田畷の戦い>>
もう誰も島津の勢いを止められなくなっていたわけで・・・その要請を受けて九州平定へ乗り出す秀吉。

この時代のこういう場合には、直前の戦いで敗れて、その傘下となった者が先頭=矢面に立たされるのが常・・・何たって、未だ本気で味方になったかどうかは怪しいわけで、ここで見事、秀吉のために戦って、その忠誠心を見せてこそ信用に値する事になるわけです。

かくして長宗我部元親とともに、讃岐(さぬき=香川県)仙石秀久(せんごくひでひさ)阿波(あわ=徳島県)十河存保(そごうながやす)らで構成した5千の兵が九州に派遣されますが、上記の通り、長宗我部元親は征服された側の四国勢ですが、仙石秀久は秀吉の四国平定後に配置された側で、今回の出兵では軍監(ぐんかん)という役割・・・総大将では無いので、あくまで3人は対等の立場ではありますが、仙石秀久が長宗我部元親の監視役である事は確か・・・

そんな仙石秀久は、「様子見ながら…」を主張する元親の意見を真っ向から反対し「短期決戦あるのみ!」の主張を押し切り、それぞれがギクシャク感満載のまま戦いへ突入してしまいます。

案の定、あちこちで寸断された秀吉勢は、指揮命令系統もグジャグジャになり、この戸次(へつぎ)川の戦い(11月25日参照>>)秀吉側の大敗北・・・元親は大事な跡取り息子=信親(のぶちか)をも失ってしまうのです。

Kuwanayosinari700a この時の撤退戦で、主君を守って活躍するのが、今回の主役=桑名吉成です。

こういう大敗後の撤退は、大抵困難を極める物・・・なんせ、それまで静観していた地元民や、臨時雇いのような末端の兵士たちが、少しでも名のある武将の首を取って、何とか勝った側からの褒美にありつこうと、一瞬にして落武者狩りに回ってしまうからです。

この時も、落ち武者狩りの集団が一揆と化し、敗軍の将に一気に襲い掛かって来ましたが、その事を予想ずみの吉成は、主君の元親を守りつつ、ある時は身を隠し、ある時は堂々と振舞って相手を蹴散らしつつ、無事、土佐に帰還する事に成功しています。

この時の吉成の働きが、いかに素晴らしかったを物語っているのが、元親の遺言・・・元親は、その死の目前に、四男の盛親(もりちか)を呼び寄せ、
「合戦の際は、必ず吉成を先手として采配を振るわせよ」
と言い残したと言います。

その後、天下統一を果たした秀吉のもとで、元親の後を継いだ盛親とともにいた吉成ですが、やがて訪れたのが、あの関ヶ原の戦い・・・(くわしい合戦の内容については【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞ)

この時、本チャンの関ヶ原では西軍の主力であった南宮山(なんぐうさん=岐阜県大垣市)に布陣していた盛親以下長宗我部軍・・・この時、この南宮山に布陣していたのは、西軍総大将であるものの大坂城に留まっていた毛利輝元(もうりてるもと)の名代として現地で来ていた毛利秀元(ひでもと=輝元とは従兄弟)吉川広家(きっかわひろいえ=同じく輝元の従兄弟)安国寺恵瓊(あんこくじえけい=秀吉の側近で石田三成と通通)(9月23日参照>>)長束正家(なつかまさいえ=豊臣五奉行の一人)(10月3日参照>>) 、そして長宗我部盛親でしたが、

この中で安国寺恵瓊と長束正家は西軍ドップリの主力部隊でしたが、先方に布陣していた吉川広家は、すでに東軍総大将=徳川家康(とくがわいえやす)「戦いに参加しない事で所領を安堵する」の密約を交わしており、その約束通りにまったく軍を動かさず、しかも戦いの状況を後方に報告する事もなかったため、その後方に位置する全員がまったく動かないまま、戦いは東軍の勝利となってしまうのです。

結果的に関ヶ原の本チャンには参加しないままに敗戦を知り、伊賀(いが=三重県西部)から和泉(いずみ=大阪府西南部)を抜けて大坂、さらに土佐へ戻った盛親たち・・・実は、この時、盛親も家康からのお誘いを受けていて、東軍に寝返る事を決意しており、その旨を知らせる使者を家康に送ったものの、その使者が土佐弁丸出しで西軍に見つかってしまい、OKの返事を届けられないまま本チャンを迎えてしまったとも言われています。

とにもかくにも、もし、東軍に寝返る気があったのだとしても、返事が届いていないなら、どのみち敗れた西軍側の人なわけで・・・しかも、戦後のなんやかやの交渉中にややこしい事になり、結局、長宗我部家はお取り潰しとなり(5月15日参照>>) 、本拠の浦戸城(うらどじょう=高知県高知市浦戸)は徳川に接収される事になってしまいました。

しかし、負けたとは言え、関ヶ原では無傷だった長宗我部軍の中には、今回の戦後処理を不服とし、城の明け渡しに反対する者も多数・・・それは、浦戸一揆(うらどいっき)と呼ばれる籠城戦(12月5日参照>>)となりますが、
「このまま抵抗しても、全員がつぶされるだけ…」
と判断した吉成は、知り合いの僧侶を派遣したり、自らも説得当たったりつつ、半ば強硬ではあるものの、何とか開城にこぎつけました。

かくして長宗我部盛親は浪人となり、当然、吉成も浪人となったわけですが、実は、これまでの撤退戦や今回の戦後処理など・・・吉成の手腕に惚れ込んでいた武将がいたのです。

それは藤堂高虎(とうどうたかとら)・・・浅井長政(あざいながまさ)から秀吉、そして家康と渡り歩いていながら、どの主君にも重用される築城の名人=高虎(6月11日参照>>)が、吉成のスゴ腕を求めて二千石で以って彼を召し抱えたのです。

このまま平安な時が続けば、高虎の下で、その政治手腕を発揮できたであろう吉成・・・しかし慶長十九年(1614年)、あの大坂の陣が勃発します。

ご存知、大坂の陣は、江戸にて徳川政権の維持をもくろむ徳川家康にとって、未だ朝廷からも一目置かれ、大坂城に居て一定の支持を受ける目の上のタンコブの秀吉の遺児=豊臣秀頼(とよとみひでより)をせん滅せんと、あらゆる手段を使って大坂方を戦場に引きずり出した戦いです。
(くわしくは【大坂の陣の年表】>>でどうぞ)

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「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

この時、かつての主君=長宗我部盛親は秀頼に招かれて大坂城へと入りますが、吉成は高虎の配下として、当然、徳川方で参戦します。

かくして慶長二十年(1615年)、戦いも後半の夏の陣

Oosakanatunozin0506 大坂夏の陣
 元和元年五月六日の布陣

 クリックで大きく(背景は
地理院地図>>)

去る4月29日の樫井(かしい=大阪府泉佐野市)の戦い(4月19日参照>>)に負け、紀州一揆(4月28日参照>>)との連携も取れなくなった大坂方は、生駒山地の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指す徳川方に対し、木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)らが今福(大阪市城東区)方面に布陣して北側の京街道をやって来る敵に備え、後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが)らを主力とする部隊が大和口方面隊を迎え撃つ事に・・・

慶長二十年(1615年)5月6日のこの日、後者の大和口方面で起こったのが道明寺・誉田(どうみょうじ・こんだ)の戦いですが、ソチラは4月30日のページ>>でご覧しただくとして……

他方、前者の北側の京街道を進む側で繰り広げられたのが若江・八尾(わかえ・やお)の戦い(2011年5月6日参照>>)です。

八幡(やわた=京都府八幡市)付近で京街道から分かれる東高野街道(ひがしこうやかいどう)を南下した徳川勢が、河内八尾村(やおむら=大阪府八尾市)付近で南北に流れる川の東側に布陣します。

迎え撃つ大坂方は、先の今福から南下して川の西岸に布陣した木村重成隊が若江(わかえ=大阪府東大阪市)付近にて徳川方の先鋒=井伊直孝(いいなおたか)隊と衝突。。。同じく、守備していた京橋口(きょうばしぐち=大阪市城東区)から南下した長宗我部盛親は久宝寺(きゅうほうじ=大阪府八尾市)付近にて藤堂高虎隊とぶつかる・・・そうです、この日、桑名吉成は旧主君&旧同僚たちと戦う事になったのです。

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元和元年卯五月六日之陣備図(高知県立歴史民俗資料館蔵)

この日の朝、すでに道明寺で合戦が始まっているとの情報を受け取っていた藤堂隊は、援助すべく、さらに南下しようと考えていたところ、西に連なる堤防の向こう・・・すぐそばに敵がいる事を知り、軍を西に向けて堤防の側までやって来ます。

南北に広がっていた隊列が、堤防をスタートラインのように一つに合わせた後、タイミングを見計らって一斉に攻めかかると、堤近くの森にいた長宗我部盛親からは朝霧の向こうから紺地に真っ白な餅の旗が迫って来るのが見えました。

「堤の上は狭いので戦い難い」
と旗を降ろして低地へと移動した長宗我部隊に対し、
「敵は逃げるゾ!」
と我先に攻め込む藤堂隊・・・

一方の長宗我部隊は、 盛親の、
「間合いが遠いうちは一人も立つな!」
の命令を忠実に守り、敵が近づいてから、並べた槍の矛先で一斉に叩きつけたたため、功を急いでただ突き進んでいた一部の藤堂隊が乱れに乱れ、その乱れが瞬く間に全体の乱れとなり、将クラス63余騎、歩兵約3000名が討たれ、藤堂隊は手痛い敗北を喰らってしまったのです。

そう、その討たれた中には吉成の姿も・・・享年64、かつて命懸けで守った主君に刃を向けた、その心中には複雑な思いがあったやも知れませぬが、戦国を生きた老臣としては、おそらく、ここを死に場所として猛突進して果てたに違いなく、自らの死に様をも、すでに察していたのかも知れません。

その後の戦いの流れは・・・
上記の通り、長宗我部隊に圧倒され、もはや風前の灯だった藤堂隊でしたが、そこに若江にて木村隊を破った井伊隊が援軍に駆け付けて来た事で、分が悪いと判断した盛親が持ち場の京橋口へと退きあげたため、合戦の勝敗としては徳川方の勝利という事になります。

そしてご存知のように、ここを破られ、道明寺も突破された大坂方は、この翌日、徳川勢に本拠大坂城を取り囲まれ、総攻撃を受ける事になります。

参照ページ
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】>>
●【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦い】>>

そして、盛親・・・【長宗我部盛親の起死回生を賭けた大坂夏の陣】>>
大坂の陣で焼け落ちる大坂城から脱出するも、後に捕縛された時、
「赤旗(井伊の赤備え)に妨害されて高虎の首を取れんかったんが悔しい」
と言っていたらしい(『常山紀談』)ので、やはり、井伊の援軍が来なければ、この日の八尾での藤堂隊も、かなりヤバかったのでしょうね。
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