2019年4月22日 (月)

戦国の幕開け~細川政元による将軍交代クーデター「明応の政変」

 

明応二年(1493年)4月22日、室町幕府将軍を足利義稙から足利義澄に交代させる細川政元によるクーデター「明応の政変」が決行されました。

・・・・・・・・

もともと、応仁の乱の原因の一つである室町幕府将軍の継承問題・・・(5月20日参照>>)

応仁の乱の時は、当時、子供がいなかった第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が、出家していた弟=足利義視(よしみ)を、わざわざ還俗(げんぞく=出家した人が俗世間に戻る事)させてまで、次期将軍に…と約束したにも関わらず、その直後に正室=日野富子(ひのとみこ)との間に男子=後の足利義尚(よしひさ)が生まれたために、話がややこしくなって・・・

もちろん、それだけではなく、代々管領(かんれい=将軍の補佐)を受け継いでいた三管領家(細川・斯波・畠山)のうち斯波(しば)畠山(はたけやま)の後継者争い(1月17日参照>>) や、やっぱり次代の家督を巡ってモメていた各地の武家や同じ領地を取り合ってた武将同士がそれぞれに分かれて縦ラインでくっついて~みたいな、様々な要因があるわけですけどね。

とにもかくにも、色んなところの色んなモメ事が合体しつつ10年以上に渡って行われた応仁の乱は、東軍の総大将であった細川勝元(ほそかわかつもと)&西軍の総大将だった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)の両巨頭の死(3月18日参照>>)を以って下火となり、それぞれの息子である細川政元(まさもと)山名政豊(まさとよ)によって和睦交渉が成され、第9代将軍は義政の実子=義尚が継ぐ事で落ち着きました。
(それぞれの武家の争いには、まだまだ続く物もあります(12月12日参照>>)

ところが、その後を継いだ息子=義尚が、幕府に歯向かうの六角氏討伐にあたっていた近江鈎(まがり)(12月2日参照>>)の陣中にて25歳の若さで病死(3月26日参照>>)・・・しかも、未だ後継者ももうけておらず・・・

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

で、8代将軍の嫁で亡き9代将軍の生母である富子の要望もあって、結局、義視の息子の足利義稙(よしたね=義材)が10代将軍を継ぐことに・・・なんせ、義視の正室は富子の妹なので、つまりは甥っ子ですから、以前はモメたものの、なんだかんだで息子の代わりは彼しかいないわけで・・・

とは言え、将軍就任の当初から、この義稙の将軍には反対の意を示す者も少なからずいたのです。

なんせ、現在、政権の中枢にいる人たちは、あの応仁の乱では義視&義稙父子とは敵の立場にあった人たちなわけですから、今回、義稙が将軍に就任するとなると、当然、その応仁の乱直後に義稙とともに逃げ隠れしていた側近たちもついて来る事になるわけで、今度は逆に、自分たちの地位が彼らに取って代わられる事になるかも・・・

すでに3度の管領を経験している細川政元も、その一人・・・しかも、あの応仁の乱時代には、細川とともに管領を継ぐ立場にあった斯波氏と畠山氏が、ともに乱後も続きっぱなしの後継者争いに目いっぱいで自ら衰退の道をたどり、三管領家のうち、 もはや幕府の中枢にいるのは自分とこの細川のみ・・・

そこで、幕府内政権を掌握すべく動く政元は、まずは延徳三年(1491年)に九条政基(くじょうまさもと)の息子をわずか2歳で養子に迎え、細川家の後継ぎが代々名乗る聡明丸(そうめいまる)を名乗らせます。

摂関家のおぼっちゃまを細川家の養子に迎えるというのは初めての事で極めて異例ですが、彼の母親が、足利義政の弟である足利政知まさとも)の奥さんの妹だった事から、その足利政知との関係を重視しての養子縁組だったわけです。

 この足利政知は、第6代の将軍=足利義教(よしのり=義政の父)の時代に中央幕府に歯向かった鎌倉公方足利持氏(もちうじ)(2月10日参照>>)に代わって、正式な鎌倉公方として東国に派遣された人物(戦乱で鎌倉に入れなかったため堀越に御所を設け堀越公方と呼ばれる)で、彼の三男である潤童子(じゅんどうじ)は次期公方に予定されていたのです。

そして、政元が次期将軍に推していたのが、政知の次男である足利義澄(よしずみ=清晃)・・・
つまり、
将軍=義澄に、
その弟が鎌倉公方、
そこに母親が姉妹同志
(=従兄弟)の聡明丸が管領細川家を継ぐ
という政権の構図が政元の中にあったわけです。

しかも、ここに来て幕府は、先の将軍=義尚と現将軍=義稙、この2人の将軍を要しても、近江(おうみ=滋賀県)にて反発する六角高頼(ろっかくたかより)という一武将すら、まともに制する事ができないという、将軍の体たらくを露見させてしまいます(12月13日参照>>)

 なのに将軍=義稙は、明応二年(1493年)正月、畠山義豊(はたけやまよしとよ=基家)討伐のため、河内(かわち=大阪府東部)出陣の大号令を各大名に向けて発するのです。

これは、例の応仁の乱以来モメている畠山氏の家督争い(7月12日参照>>)の一方(畠山政長側)の味方を幕府=将軍がする事になるわけで・・・

政元が反義稙派を着々と集める中、さすがの日野富子も、ここに来て政元の側につく中、先の六角との戦いの時には将軍=義稙ベッタリだった大物=赤松政則(あかまつまさのり)に自らの妹を嫁がせて(3月11日参照>>)味方につけた政元は、いよいよ、将軍すげ替えクーデターを決行します。

Hosokawamasamoto700明応二年(1493年)4月22日の夜、例の河内に出陣した義稙に随行せず、京都に留まっていた細川政元は、 留守中の義稙の将軍職を廃し、僧となっていた義澄を還俗させて保護し、第11代将軍として擁立したのです。

さらに、義稙の関係者の邸宅や寺院を襲撃して京都を掌握・・・金に物を言わせて朝廷も味方につけていますが、さすがに将軍宣下までは受けられず、この時は官位を授かるのみに留まりましたが・・・

その後、翌閏4月、義稙らの籠る正覚寺(しょうがくじ=大阪市平野区加美)を政元配下の上原元秀(うえはらもとひで)らが率いる4万の軍勢が攻撃します。

一方の義稙側には、同行する畠山政長(はたけやままさなが)の地元=紀州(きしゅう=和歌山県)から援軍が駆け付けるはずでしたが、コチラは(さかい=大阪府堺市)に集結していた政元方によって行く道を阻まれて進めず・・・結局、援軍が望めない事を知った政長が閏4月25日に自害した事で、義稙は投降を決意し、その後、政元らによって幽閉されました。

ここに、細川政元によるクーデター「明応の政変」は完結したのです。

しかし、世の中、そう思い通りにはいかない物・・・

実は、この政変の2年前の延徳三年(1491年)、父=足利政知の死を受けた長男の足利茶々丸(ちゃちゃまる)弟の潤童子とその母を殺害して、事実上の堀越公方になっていたのです。

彼=茶々丸は、一説には、素行が悪く乱暴者だったため、父=政知の命令によって幽閉されていたとも、我が子を次期公方にしたい潤童子の母親によって幽閉されていたとも言われますが、とにもかくにも、何かの事情で廃嫡(はいちゃく=後継者から除外される事)されて20歳過ぎても元服すらさせてもらえずに牢獄に閉じ込められていた茶々丸が牢番を殺害して脱獄&実力行使で、堀越公方の座を弟から乗っ取ったわけです。

なので、将軍&公方&管領後継者を、自身の思い通りに構成する政元の思惑は、この政変の時点で、すでに消えていたわけですが、それはそこ、「将軍さえ思い通りなら、何とか修正可能」と、まだ思っていはず・・・

ところがドッコイ、政変から、わずか半年後の明応二年(1493年)10月、この茶々丸の堀越館が伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき=北条早雲)に襲撃され、堀越公方が事実上滅亡してしまうのです(「伊豆討ち入り」10月11日参照>>)

ご存知のように、その後の北条は、これキッカケで約100年に渡って関東を牛耳る事に・・・くわしくは【北条・五代の年表】で>>

一方の政元・・・政変の翌年に、無事、義澄の将軍宣下はなされるものの、事態はヤバし・・・やむなく政元は、文亀三年(1503年)に細川家の支族である阿波(あわ=徳島県)細川家から養子を迎えて、その子に細川家の通字(とおりじ=その家系に代々受け継がれる字)である「元」のつく細川澄元(すみもと)を名乗らせ、先の聡明丸を澄之(すみゆき)と名乗らせる・・・つまり、聡明丸=澄之を後継者から外したわけです。

あ~あ┐( -"-)┌ 、自ら後継者争いフラグを立てちゃいましたよ~

わずかの間に大きく狂ってしまった政元の幕府掌握計画・・・やがて成長した義澄は自身の思う政治をやろうとして政元との間がギクシャクし始める中、澄元の出現によって追い払われた感が拭えない澄之派の家臣によって、永正四年(1507年)6月、細川政元は暗殺され、細川家は見事なまでの後継者争いに突入してしまうわけです(8月1日参照>>)

 さらに、澄元&澄之に加え、もう一人の養子であった細川高国(たかくに)も入って三つ巴の後継者争い様相を呈する中、翌永正五年(1508年)には、この混乱の乗じて幽閉先から脱出した前将軍=義稙が、周防(すおう=山口県)大内義興(おおうちよしおき)の支援を受けて上洛して将軍の座を・・・と、世はまさに戦国の幕開けへと向かっていくのです。

★その後の流れ
【船岡山の戦い】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>
【東山・川勝寺口の戦い】>>
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2019年4月17日 (水)

秀吉VS勝家の賤ヶ岳前哨戦~滝川一益・峯城歌合戦

 

天正十一年(1583年)4月17日、柴田勝家と羽柴秀吉が戦った賤ヶ岳の戦いの前哨戦で、滝川一益の腹心・滝川儀太夫が守る峯城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後に、織田家家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)と、山崎で主君の仇を討った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)との間で信長の後継を巡って起こった争い=賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い・・・

信長の死から、ここまでの経緯は下記↓関連ページでご覧いただくとして…
●本能寺の変>>
●山崎の戦い>>
●清洲会議>>
●秀吉演出の信長の葬儀>>
●長浜城の戦い>>
●長島城の戦いが始まる>>
●亀山城の戦い>>
●勝家が福井を出陣&秀吉が佐和山に着陣>>
Sizugatakezikeiretu

簡単な流れとしては……
信長亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任するも、納得いかない信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に籠城して反発したので、秀吉が、信孝を推す勝家の支城である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を陥落させると、同じく信孝推しの滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったので、秀吉は城を奪還すべく伊勢方面に出陣して転戦するのです。(←今ココ)

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

こうして、
天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍で三方向から北伊勢に入った秀吉軍の実弟=羽柴秀長(ひでなが)&甥の羽柴秀次(ひでつぐ)らが、滝川一益の甥=滝川儀太夫(ぎたゆう=益重?益氏?)の籠る峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲したのです。
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秀吉は川崎村(かわさきむら=三重県亀山市の北東部)に本陣を置いて、ネズミ一匹通さぬように柵で以って城を囲み、堀を埋め、2月16日には城下一帯に火を放って執拗に攻め立てますが、峰続きの天然の要害に囲まれた峯城は、なかなか落ちそうになく、攻め手が近づけば、籠城側は貯めに貯めた糞尿をまき散らして追い払う・・・どちらにも決定打が無いまま小競り合いばかりが続きます。

そんな中、戦線がこう着状態となったある日・・・籠城側から一首の狂歌(きょうか=滑稽な社会風刺や皮肉などを盛り込んだ短歌)が送られて来ます。

♪上野(こうずけ)の ぬけとは鑓(やり)に 会いもせず
 醍醐の寺の 剃刀(かみそり)をとげ ♪
これは、秀吉軍の一人として参戦していながら、未だ大した働きをしていなかった織田信包(のぶかね=信長の弟)に対し、彼がかつて醍醐寺(だいごじ=京都府京都市伏見区)の近くに屋敷を構えていた事を皮肉って
「上野介(こうずけのすけ=信包の事)君は、ヤリやなくて坊主にするためのカミソリを研いどいた方がえぇんちゃうん?」
てな事を歌った物・・・

こういう場合、当然、言われっぱなしにはしておけませんがな!

で、寄せ手側からは中尾新太夫(なかおしんだゆう)なる武将が出て、
♪春雨に 峰々までも くずれ落ち
 つれて流るる 滝川の水 ♪
「峯城が落ちるんと同時に滝川儀太夫も一巻の終わりやっちゅーねん」
と返したのだとか・・・

まぁ、この『峯城歌合戦』の話は、地元に伝わる昔話・伝説の域を越えない話なのでアレですが、この峯城周辺で、1ヶ月近くに渡るこう着状態が続いた事は確か・・・

とにもかくにも城の攻略を1番の目標とする秀吉は、お得意の干殺し(ひごろし・ほしごろし=兵糧攻め)の持久戦法を続ける一方で、金堀り衆にトンネルを掘らせて 土塁(どるい=土制の堤防)近くまで進み、盛んに城内を威嚇します。

しだいに飢えていく城内・・・そんな中、去る3月3日に、この峯城と同時攻撃されていた佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)が落ちた(3月3日参照>>)というニュースが入って来たのです。

そこを、すかさず投降を促し、和平交渉に入る秀吉・・・

「もはや万策尽きた」と感じた滝川儀太夫は、天正十一年(1583年)4月17日、ついに峯城の開城を決意し、今回、秀吉とともにこの戦いの指揮を取っていた織田信雄に、城を明け渡したのでした。

いやはや、もし、この時代にスマホがあって、峯城の儀太夫と湖北に進んだ柴田勝家と連絡をとっていたら・・・もう、ワクワクしますね~

そうです。。。携帯の無い時代、おそらく峯城の城内には、秀吉の動きも、勝家の動きも伝わっていなかったのでしょう。

この時、一旦、湖北方面に戻っていた秀吉は、この峯城陥落の前日の16日に信孝の籠る岐阜城に向かいますが、大雨で長良川が渡れず、やむなく大垣(おおがき=岐阜県大垣市)に留まっていたのですが、実は一方の勝家の方も越前を出て準備万端整えていたのです。

この3日後の4月20日に、勝家は湖北=賤ヶ岳にて秀吉軍に向けて戦闘を開始・・・

そして自軍のピンチを知った秀吉が慌てて、不眠不休で西へと向かう・・・ご存知『美濃の大返し』(4月20日参照>>)となるわけです。
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2019年4月12日 (金)

主君からの独立に動く宇喜多直家~天神山城の戦い

 

天正三年(1575年)4月12日、浦上からの独立を画策する宇喜多直家が挙兵しました。

・・・・・・・・・

長きに渡って中国地方を二分していた山陰の雄=出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)と、山陽の雄=周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)を倒して西国の雄となった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)・・・はじめは、その毛利の要請によって畿内(きない=山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国)より西へと進出しはじめた尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)でしたが、元亀二年(1571年)に、その元就が亡くなって、その後を孫の毛利輝元(てるもと)が引き継ぐ頃には、世に言う「信長包囲網」が敷かれて周囲は敵ばかり。

さらに、信長に京都を追われた第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)が毛利に身を寄せた事から、完全に敵対関係になる両者・・・

信長の命を受けた羽柴秀吉はしばひでよし=後の豊臣秀吉)但馬(たじま=兵庫県北部)を、明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)を平定するようになって来ると、御大の毛利との間に挟まれた形となる備中(びっちゅう=岡山県西部)やら備前(びぜん=岡山県東南部)やら但馬(たじま=兵庫県北部)やら播磨(はりま・兵庫県南西部)・・・とにかく、そのあたりの諸将は、これまでの領地の取り合いに加え、その身の置き所も模索せねばならないわけで・・・

Ukitanaoie300a そんな中、備前天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の家臣でありながら、主君に匹敵するほどの力をつけていた宇喜多直家(うきたなおいえ)は、事実上の備中の覇者となっていた三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)を暗殺してさらに力をつけ、主家=浦上からの独立を画策して毛利に近づきます。

一方の浦上宗景は、主家を凌ぐ勢いを持つようになった直家を恐れ、信長を頼ります。

おりしも今は、備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる一連の戦いが繰り広げられている真っ最中・・・そこで、まず直家は、流浪の身となっていた浦上久松丸(ひさまつまる)を自身の居城=岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)に招いて保護します。

…というのも、そもそもは、
現在の当主である浦上宗景の父=浦上宗村(むねむら)が享禄四年(1531年)に細川管領家(ほそかわかんれいけ=室町幕府管領を代々受け継ぐ細川家)の後継者争いに巻き込まれて亡くなって(11月12日参照>>)、未だ幼き長男(つまり宗景の兄)浦上政宗(まさむね)播磨室山城(はりまむろやまじょう=兵庫県たつの市御津町・室津城)にて浦上家を継いだのですが、その兄弟が成長して後、兄と不仲になった宗景が天神山城を築いて離反し、備前の地を横領したといういきさつがありました。

しかもその後、浦上と敵対していた赤松政秀(あかまつまさひで)が政宗の息子の清宗(きよむね)の婚礼の席を襲撃して父子を殺害し、清宗の花嫁になるはずだった黒田職隆(くろだもとたか)の娘を、その弟の誠宗(なりむね・あきむね)の嫁として迎えて、これを浦上の後継ぎとしたのですが、さらにその後、その誠宗を宗景が暗殺・・・つまり、宗景の浦上当主の座は兄一家から奪った物だったわけで……

で、その誠宗の遺児が、上記の久松丸・・・つまり、直家は主家を討つ=謀反ではなく、あくまで「久松丸が正統な跡継ぎである」と主張して宗景の追放を目論んだわけです。

天正三年(1575年)1月、毛利と敵対する美作三浦(みうら)氏との戦い(1月22日参照>>)に参戦する事で毛利の傘下である事=宗景からの離反を明白にした直家は、その年の4月、ついに宗景打倒に動き出します。

天正三年(1575年)4月12日、天神山城の支城の1つである日笠頼房(ひかさよりふさ)の守る青山城(あおやまじょう=岡山県和気郡和気町)を攻略しようと城下にて野戦を展開しますが、この時は日笠勢の勢いに阻まれて撤退・・・

以後5月~7月にかけて、両者の配下の城を巡って、いくつかの小競り合いがあり、ともに取ったり取られたりとなりますが、この間、本家本元の天神山城が堅固な山上に築かれた山城で「ただ単に力攻めしても味方の損失が大きくなるだけ」と察していた直家は、得意の調略で以って城内にいる一部の重臣を味方にすべく誘うと同時に、周辺の国衆にも根回しして天神山城を徐々に孤立させていくのです。

やがて、例の備中兵乱(びっちゅうひょうらん)で毛利と戦っていた松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)が5月に陥落し、翌6月には城主の三村元親(みむらもとちか)が自刃し(6月2日参照>>)周囲との連携も断たれた天神山城は完全に孤立してしまいます。

Tenzinyamazyou
天神山城合戦・位置関係図

↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなのある夜(日付については諸説あり)・・・
その日は天神山一帯に、とてつもない風が吹き荒れたのです。

こんな日を待っていたのが、すでに直家に同調している天神山城内の内応者・・・かねてからの計画通り、城内のあちこちに火を放つと、強風にあおられてたちまち燃え上がり、城中は瞬く間に大混乱となります。

この、火が上がるのを待っていた直家が、それを合図に一斉に天神山に攻め登ると、未だ宗景に忠義を貫く譜代の家臣らが応戦しますが、残念ながら次第に討ち取られ、その大半を失ってしまいます。

しばらくは、その様子を見ていた浦上宗景でしたが、敗戦が濃くなる中で側近に勧められ、山の背後から尾根伝いに益原(ますばら=岡山県和気郡和気町)へと脱出し、片上(かたかみ=岡山県備前市)から播磨へと逃走・・・

そこに隠れ住みつつ、幾度か上洛して、お家再興を図るべく信長に謁見するも支援は得られなかったとか・・・

あるいは、一族の浦上景行(かげゆき)が城主を務めていた富田松山城(とだまつやまじょう=岡山県備前市東片上)に籠城しつつ、天正五年(1577年)から天正七年(1579年)にかけて、天神山城奪回に撃って出るも敗戦したとか・・・

あるいは、ほとぼりがさめた頃に姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)黒田如水(じょすい=官兵衛孝高・職隆の息子)の保護を受けた後、黒田家の筑前(ちくぜん=福岡県西部)転封にともなって福岡へ行き、そこで80余歳にて病死したとか・・・

浦上宗景のその後については複数の説がありますが、いずれも大勢の変化はなく、結果的に、この天神山城の戦いにて浦上も事実上の滅亡となります。

一方の宇喜多直家は・・・
彼にとっては、この天神山城攻めは、あくまで浦上を追放するための戦いであり、城自体は戦略的価値がなかったと見え、ほどなく城は廃城となり、直家が備前全土の覇者となります。

とは言え、
ご存知のように、直家にとっては毛利との蜜月も浦上追放のためだったようで・・・

勢いづいた信長配下の秀吉が三木城(みきじょう=兵庫県三木市)にやって来る(3月29日参照>>)天正六年(1578年)頃には、今度は信長の傘下に鞍替えして毛利と戦う事になるのですが、そのお話は【宇喜多VS毛利の作州合戦】>>でどうぞm(_ _)m
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2019年4月 8日 (月)

ほぼ満開!枚方~渚の院跡の桜と在原業平

 

枚方は、京阪電車の御殿山駅近くにある「渚の院跡」に行ってきました~
ちょうどが見頃でした。

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渚の院跡(京阪・御殿山駅より徒歩10分)

「渚の院」「桜」と言えば、やはり『伊勢物語』ですよね~

『伊勢物語』は、むかし男ありけり・・・で始まる 平安初期に成立したとされる歌物語。

この物語の主人公である「男」は、物語の中では誰とは特定されないものの、かなりの史実が含まれている事から、平安一のモテ男=在原業平(ありわらのなりひら)であろうというのが定説です。

在原業平は、第51代=平城(へいぜい)天皇の孫にあたりますが、弟の嵯峨(さが)天皇に皇位を譲った後に復権を願って事を起こしてしまった(9月11日参照>>)ため、平城天皇の皇子である高丘親王(たかおかしんのう=高岳親王)(1月23日参照>>)阿保親王(あぼしんのう=業平の父)も失脚・・・当然、その息子である業平もエリートコースから除外される事になります。

しかし、その後、嵯峨天皇の孫にあたる文徳(もんとく)天皇が第55代天皇として即位した事から、その第1皇子であった惟喬親王(これたかしんのう)に仕えていた業平にも復活のチャンスが訪れたかに見えたものの、時の権力者である藤原(ふじわら)藤原明子(あきらけいこ)が生んだ惟仁(これひと)親王が、わずか生後8ヶ月にて皇太子に据えられ、後に、わずか9歳で第56代清和(せいわ)天皇として即位(12月4日参照>>)してしまう・・・つまり、惟喬親王も失脚してしまったわけです。

そんな惟喬親王の別荘だったのが「渚の院」です。

現在の京阪電車の御殿山駅から枚方市駅あたりは、この平安時代には「禁野(きんや)と呼ばれる一般人立ち入り禁止の皇室専用の狩り場で、若き日の業平も惟喬親王のお供をして、度々狩りに訪れた場所でしたが、皇位継承の争いに敗れた惟喬親王は、失意のまま隠遁生活に入り、この渚の院に来ては、狩りをするでもなく、お酒を飲みながら和歌など詠む日々を過ごしていたのだとか・・・

そんな頃の一場面を語るのが『伊勢物語』第八十二段『渚の院』です。

Isemonogatari82a700 「むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり…(中略)…いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし」

渚の院にやって来た惟喬親王は、「ここの桜は事に美しい」と、一行はその桜の下で集い、歌を詠む事に・・・

そばにいた右馬頭(うまのかみ=朝廷の馬係・官職)
♪世の中に たえてさくらの なかりせば
 春の心は のどけからまし♪
「この世に、桜という物が無かったら、春でも心静かにしておれるのに…」
(桜があるから、もう咲いたか?散ったか?と心がソワソワするんや)
と詠むと、

そばにいたもう一人が
♪散ればこそ いとど桜は めでたけれ
 憂き世になにか 久しかるべき♪
「散るからこそ桜は良いんです。いつまでもある物や無いからこそ…」
と詠んだ。。。と、

『伊勢物語』では、この『渚の院』の場面で歌を詠んだ人を「右馬頭」と呼び、「その名前は忘れた」と、あえて名を明かしませんが、前後の関係から見て、当然、この右馬頭は在原業平の事です。

なぜ、わざわざ名を明かさないのか??

もちろん、作者の真意は藪の中ですが、私としては、この時のこの歌に詠まれている「桜」が単に、そこに咲く「桜」を意味しているのでは無いからではないか?と推測しています。

以前、業平さんのご命日の日に書かせていただいたページ(5月28日参照>>)で、清和天皇のもとに嫁ぐ予定の藤原高子(こうし・たかいこ)を略奪したり、藤の花を愛でる酒宴の席で「藤の花にちなんで、藤原家の繁栄を歌に詠んでくれ」と言われたのに「思った事はそのまま口にしないほうがいい」という意味深な歌を詠んだり・・・と、「藤原氏によってはじかれたであろう業平の、ささやかな抵抗が垣間見える」とさせていただきましたが、

その感じでいくと、この歌も・・・
「それが無ければ静かにしていられる物」は、桜ではなく「後継者争い」では無かったか?と・・・

だからこそ、詠んだ人物を特定しなかったのかな?…と思うのです。

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渚の院跡

惟喬親王の別荘だった渚の院の場所には、その後、観音寺というお寺が建立されますが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、現在は、その梵鐘だけが残ります。

訪れる人も少ないこの場所に、今年もひっそりと咲く桜・・・
遠い昔に思いを馳せつつも、何やら時が止まったようにも見えました。

Nagisanointizu ←渚の院跡への地図
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(背景は地理院地図>>)

 
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2019年4月 4日 (木)

六角と浅井の代理戦争~大溝打下城の戦い

 

天文十八年(1549年)4月4日、浅井の援軍を得た海津政元が、海津政義の拠る大溝打下城を攻めました。

・・・・・・・・

これまで何度か登場しておりますが、中世の頃の近江(おうみ=滋賀県)は・・・

第59代宇多天皇(うだてんのう)の流れを汲む宇多源氏(うだげんじ)で、平安時代から鎌倉時代に活躍した佐々木信綱(ささきのぶつな)の子孫たちが勢力を誇る場所でありました。

ご存知の江南(こうなん=滋賀県南部)六角氏(ろっかくし)江北(こうほく=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)、さらに大原庄(おおはらしょう=現在の彦根市・長浜市付近)大原氏(おおはらし)・・・そして琵琶湖の北西付近を牛耳っていたのが六角や京極と同じく佐々木氏を先祖に持つ高島氏(たかしまし)でした。

その高島氏を中心に朽木氏(くつきし)永田氏(ながたし)平井氏(ひらいし)横山氏(よこやまし)田中氏(たなかし)、そこに別系統の山崎氏(やまざきし)を加え高島七頭(たかしましちとう・たかしましちかしら)と呼ばれる彼らが西近江に君臨していたのですが、

やはりここも、例の応仁の乱のゴタゴタで(10月28日参照>>)、その力関係が微妙に変わって来た六角&京極&浅井の影響を受けてしまうのです。

以前書かせていただいたように、応仁の乱の真っただ中でお家騒動が勃発した京極氏は(8月7日参照>>)自ら衰退の道をたどり、いつしか京極家の家臣であった浅井亮政(あざいすけまさ)に仕切られるようになり(3月9日参照>>)、それを快く思わない六角定頼(ろっかくさだより)と対立・・・

そして、もはや将軍家でさえ手を焼く存在となって(12月13日参照>>)来る六角氏は、さらに領地を増やすべく高島方面へと進出していくのですが、当然、この六角氏の侵攻をヨシとしない京極&浅井とは更なる対立を生む事になって行きます(4月6日参照>>)

そんな中、天文十一年(1542年)に亮政が亡くなった事を受けて、息子の浅井久政(ひさまさ)の時代になって7年後の天文十八年(1549年)、大溝打下城(おおみぞうちおろしじょう=滋賀県高島市勝野)海津政義(かいづまさよし)浅井から六角に寝返ろうとしている事を、海津城(かいづじょう=同高島市)海津政元(かいづまさもと)が久政に報告して来たのです。

そもそもは京極の配下だった海津氏・・・それが、ここのところの京極の失速で、そのまま浅井の配下となっていたのですが、先の浅井亮政によって、甥である政元が海津城にて筆頭とされていた事に、叔父の政義が不満に思っていると聞きつけた六角配下で志賀(しが=滋賀県志賀町付近)を牛耳る佐々木義時(ささきよしとき)が、政義に声をかけたのです。

Utiorosizyou位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『浅井三代記』によれば・・・
小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)にて、この報告を受けた久政は怒り心頭・・・早速、配下の浅井政澄(まさずみ)赤尾清定(あかおきよさだ)らに800余騎をつけて海津に派遣したのです。

天文十八年(1549年)4月4日、浅井の援軍を従え、先鋒として打下城に押し寄せた海津政元隊・・・迎える打下城も、すでに佐々木の援軍を得ており、城を撃って出た事で、両者は源氏浜(げんじはま=高島市新旭町)にて合戦となります。

その後、2~3日に渡って両者はぶつかりましたが、なかなか決着がつかず・・・お互いに勝敗が見えない中にも、やや打下城側が優勢であった事から、4月10日になって浅井勢は引き上げ、海津城へと戻りました。

そして4月14日に体制を立て直して出陣・・・再び打下城へと迫りますが、しばらく引き付けた後、絶好のタイミングを見計らって城から撃って出た500余騎の佐々木勢に押されて、浅井勢はまたもや敗退してしまいます。

ちょうど、その頃、伊黒城(いくろじょう=高島市高島)新庄俊長(しんじょうとしなが=法泉坊俊長)という者が仲裁に入ってくれました。

 俊長が政義に対してその思いを聞いてみたところ
「そもそも、浅井家には恨みは無い。。。けど、なんで俺が政元の下に付かなアカンねん!
下になるのは嫌や!と思てた所に佐々木から声かけられて……つい」
との事・・・

「ほな、海津政元の配下やなくて、直接、浅井久政の配下になったらえぇやん」
と俊長さん、見事な回答・・・

以後、政義は浅井の配下となり、この後、何度六角氏が誘っても、浅井を離れる事は無かったのです。

一方、このゴタゴタに関与した佐々木義時は、「亮政の置き土産に付け込んで同族同士を争わせようとした人物」として、その後、高島一帯の諸将から総スカンを喰らったのだとか・・・

やがて、この近江の地に、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと)息子たちによる後継者争いが持ち込まれ、その争いの中心人物であった細川晴元(はるもと=澄元の息子)の配下である三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)が頭角を現しはじめ、六角・京極・浅井、ともに戦国後半戦の波に呑まれていく事になります。

●その後の出来事・関連ページ
【江口の戦い】>>
【三好VS六角の志賀の戦い】>>
【菖蒲嶽城の戦い】>>
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2019年3月29日 (金)

秀吉の小田原征伐・開始~山中城落城

 

天正十八年(1590年)3月29日、豊臣秀吉による小田原征伐で山中城が落城しました。

・・・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後、天正十三年(1585年)には四国を平定(7月26日参照>>)し、翌・天正十四年(1586年)には九州へも侵出する(4月17日参照>>)と同時に、朝廷からは太政大臣に任命されて豊臣の姓を賜った豊臣秀吉(とよとみひでよし)(12月19日参照>>)は、その同・天正十四年の11月4日付けで『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい)を発布します。

これは、西日本を制した秀吉が、まさに天下人として、未だ戦国の様相を呈している各地に「領地の奪い合い等で私的な合戦をしてはいけない」と命令するもの・・・

なんせ、あの本能寺の直後は、武田を滅亡させたわずか3ヶ月後に信長が亡くなってしまった事で、戦後の論功行賞(3月24日参照>>)で旧武田領を与えられた織田配下の者も未だ旧武田領をしっかりとは治め切れていない状況(6月18日参照>>)なもんで、結果的に宙に浮いた感じになっていた旧武田の領地を、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)相模(さがみ=神奈川県)北条氏直(ほうじょううじなお)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)とで奪い合うわ(10月29日参照>>)、このドサクサでアッチについたりコッチについたりしながらも、ホンネは独立を図りたい旧・武田家臣の真田昌幸(さなだまさゆき)がうごめくわ。。。(8月2日参照>>) で、秀吉も、彼らの間に入ってとりなりしたりなんぞしていたわけで・・・

そんなこんなの天正十七年(1589年)10月、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪ったのです(10月23日参照>>)

これを、上記の関東惣無事令に反する行為だとする秀吉・・・幾度かの交渉も決裂した事を受けて、秀吉は翌11月24日、条氏政(うじまさ=氏直の父)宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)します。

ついに、北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を攻める=世に言う『小田原征伐』が開始される事になります(12月10日参照>>)

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

迎える北条・・・秀吉が東海道を東に進んで来ると予想し、本拠の小田原城に配下の諸将を集めるとともに、伊豆半島の付け根にあたりを、足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)縦ラインで豊臣の大軍を防ぐべく、それらの城の防備を強化します。

明けて天正十八年(1590年)、2月7日の先発隊に続き、3月1日に京都を出陣した秀吉本隊も19日には駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に到着・・・28日には秀吉自身が山中城周辺を視察して廻り、ここで小田原の防衛線となっている山中城と韮山城の同時攻撃を決定するのです。

かくして天正十八年(1590年)3月29日午前10時頃、総勢約22万の豊臣軍のうち、豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)を総大将とする中村一氏(なかむらかずうじ)田中吉政(たなかよしまさ)山内一豊(やまうちかずとよ)一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)らをはじめとする約6万8千が山中城を攻めにかかります。

それは・・・まずは、岱崎出丸(たいざきでまる=岱崎砦とも)付近から合戦の火蓋が切られました。

対する山中城は、北条家臣の松田康長(まつだやすなが)城番とし、一族の北条氏勝(うじかつ)守将(しゅしょう=戦闘時の1次的な指揮官)間宮康俊(まみややすとし)ら、名だたる武将を含む約4千が守ります。

この出丸の攻防で一柳直末を失う豊臣勢ではありましたが、そもそも両者の数の差がハンパないわけで、結局、お昼頃には勝敗が決したとされます。

この戦いで豊臣方の先陣を務めた中村一氏配下の渡辺了(わたなべさとる=勘兵衛)なる武将の手記によると・・・
この日、秀吉から、
「岱崎出丸を奪い取って、コッチの攻撃ポイントにせよ」
との命令を受けた中村一氏に対し、渡辺了は
「それよりも、出丸前方に小高い丘がいくつかありますよって、その丘に20~30人の軍勢を入らせて、そこから出丸に鉄砲を撃ちかけ、向こうが慌ててる間に、出丸に登る土塁を構築したらよろしいかと……」
と進言したところ、その作戦が採用されたので、早速、渡辺了は3つあるうちの1番向こうの丘に登って周囲を見渡していると、出丸から鉄砲が撃ちかけられます。

怯むことなく、そこから城の端へと押し進み、(とき)の声を挙げつつ、50人ばかりがどゎ~っと堀に飛び込みますが、未だ、この1番乗りの中村一氏隊だけで、後に続く者の姿は見えず・・・

それでも中村隊が城の塀にとりつく頃には、秀吉の陣地から大きなほら貝が響き渡り、その勢いに乗じて、渡辺了は逆茂木(さかもぎ=敵の侵入を防ぐべく先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べて結び合わせた柵)で固められた三の丸に飛び込みます。

しかし、ここまで来ても、まだ後に続く者が来ないので三の丸の隠し扉を開けるわけにはいかず・・・と、そこに前後から鉄砲が撃ちかけられ、ともに1番乗りをしたうちの4人が射殺されます。

やがて三の丸と二の丸に上がっていた煙が薄くなったので、渡辺らは枝折(しおり=木や竹でできて簡素な門)を飛び越えて門を打ち破り三の丸に突入・・・敵と戦いながら二の丸へ侵入すると、敵兵は西の丸の櫓に籠ります。

渡辺らは西の丸の土塁にとりついて、下から槍で突き上げると、敵も、もちろん応戦・・・土塁の下と上で激しい槍戦をしていると大将クラスの2人の武将が登場し、彼らと相まみえている最中に、ようやく寄せ手の大軍が到着し、もう、そこからは敵味方入り乱れての乱戦となりました。

『真書太閤記』を読むと、どうやら、この大将クラスの2人の武将というのは松田康長と間宮康俊の事のようで、歴戦のツワモノであった彼らは、ここで何十人もの豊臣勢を討ち取る勇姿を後輩たちに見せたものの、さすがに数の差には逆らえず、最後は華々しく散って行ったという事です。

800pxyamanakajo_shojibori 山中城の障子堀

ご存知の方も多かろうと思いますが、この山中城は、障子の桟(さん)のように幅の狭い畝(うね)を、わざと堀残して堀の底を細かく仕切った障子堀(しょうじぼり)が特徴的な城・・・障子堀の畝は敵の突進を妨げ、堀に落ちれば脱出し難く、そこを鉄砲で容易に狙う事ができました。

今回の岱崎出丸は城の最南端に位置し、約20000㎡もある縦に長い長方形の出丸で、南と北西に単列の障子堀がほどこされていました。

ここまでの守りを固めた山中城が、わずか半日で落ちてしまったのは、おそらく北条にとっても大誤算だった事でしょう。

また足柄城も、山中城の落城を知ってか、翌日には戦うことなく城を破棄して守備隊は小田原城へと逃避しています。

ただし山中城と同時に攻撃が開始された韮山城は、落ちる事無く持ちこたえ、攻めあぐねた豊臣方は、最終的に、城を守る北条氏規(うじのり=氏政の弟)(2月8日参照>>)と旧知の仲だった徳川家康に彼を説得させ、ようやく6月24日に開城の運びとなっています。

とにもかくにも、翌4月に本城である小田原城を完璧なまでに包囲した豊臣軍・・・ここから約4ヶ月に渡る小田原合戦は、ここ、山中城の落城から始まったわけです。

この後の状況はコチラ↓から……
(まだ書いてない箇所はこれからガンバリます(/ー\*))
●4月2日:小田原城包囲>>
●5月29日:館林城を攻略>>
●6月5日:伊達政宗参陣>>
●6月16日:忍城水攻めの堤防決壊>>
●6月23日:八王子城が陥落>>
●6月26日:石垣山一夜城が完成>>
●7月5日:小田原城・開城>>
小田原征伐・逸話集>>
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2019年3月24日 (日)

景勝、初の富山侵攻~上杉VS織田の小出城の戦い

 

天正九年(1581年)3月24日、謙信の後を継いだ上杉景勝による織田信長配下の小出城攻めが終結しました。

・・・・・・・・・・・・

戦国時代の越中(えっちゅう=富山県)・・・

そもそもは、室町幕府政権下での越中の守護(しゅご=今で言う県知事)だった(はたけやま)が、かの応仁の乱の火種ともなった後継者争い(1月17日参照>>)に忙しくて畿内の領地を離れる事ができなかったため、越中の事は守護代(しゅごだい=副知事)だった遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)といった面々らが、ほぼほぼ仕切っていたわけですが、やがて起こった加賀一向一揆(かがいっこういっき)(6月9日参照>>)の勢力が隣国の越中にまで伸びて来た事で、当時の守護だった畠山尚順(はたけやまひさのぶ)が隣国の守護である越後(えちご=新潟県)守護の上杉房能(うえすぎふさよし)越前(えちぜん=福井県東部)守護の朝倉貞景(あさくらさだかげ)らに越中の救援を依頼し、それを受けて越中平定に派遣されて来たのが越後守護代の長尾能景(ながおよしかげ)=あの上杉謙信(うえすぎけんしん)のジッチャン・・・(9月19日参照>>)

そんな謙信は、天文二十二年(1553年)から始まった甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)との一連の川中島(かわなかじま)(9月1日参照>>)のさ中にも、永禄二年(1559年)に関東管領(かんとうかんれい=室町幕府政権下での関東支配者)並みの格式を得た(6月26日参照>>)時でも、おそらくジッチャンや父ちゃんの悲願であった越中平定の事は頭にあったはず・・・

すでにこの頃の越中は、神通川(じんつうがわ)の西に勢力を持つ神保長職(じんぼうながもと)と東の椎名康胤(しいなやすたね)との2大勢力の時代となっていましたが、その川中島に謙信の目が向いているのを絶好のチャンスと見た長職が勢力拡大を図って康胤の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)を攻める勢力争いは、神保を支援する武田と椎名を支援する上杉の代理戦争のようにもなっていたわけで・・・(3月30日参照>>)

その抗争は支援する側される側が入れ替わりながらもしばらく続きますが、
●永禄十一年(1568年)松倉城攻防戦>>
●元亀三年(1572年)日宮城攻防戦>>
こうして謙信と信玄がドンパチやってる間に登場して来るのが、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)・・・

ここで、かの信玄が完全に今川潰しにシフトチェンジ(12月12日参照>>)した事もあって、川中島に終止符を打った謙信は越中へと侵攻するのです(3月17日参照>>)

そこに反対側から忍び寄って来るのが、越前一向一揆を制して(8月12日参照>>)加賀(かが=石川県西部)へと触手を伸ばし始めた信長・・・

そんな中、敵の敵は味方とばかりに一向一揆の教祖様=石山本願寺顕如(けんにょ)と和睦した(5月15日参照>>)謙信の戦いの相手は、これまでの一向一揆から、コチラも完全に織田へとチェンジ・・・「これ以上、信長を北上させるものか!」とばかりに、
●天正四年(1576年)8月:飛騨侵攻>>
●天正五年(1577年)9月:七尾城>>
その5日後には信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)との手取川(9月13日参照>>)となるのですが、ご存知のように、その翌年の春の出兵の前に、謙信は亡くなってしまうのです(3月13日参照>>)

しかも、ここで、謙信の後継者を巡って養子同士の争いが勃発(2007年3月17日参照>>)した事から、上杉家では越中どころではなくなり、この間、大きな戦いも無いままに織田勢に越中の奥深くまで入られてしまいました(10月4日参照>>)

天正七年(1579年)3月、なんとかライバルの上杉景虎(かげとら)を死に追いやって(2010年3月17日参照>>)上杉を継いだ上杉景勝(かげかつ)は、そのお家騒動のさ中に黄金で以って味方につけた武田勝頼(かつより=信玄の四男)を後ろ盾に、加賀・能登・越中の一向一揆の残党を取り込んで織田への逆襲の機会を狙います。

一方の信長は、この天正八年(1580年)に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市・加賀一向一揆の拠点)を陥落(3月9日参照>>)させ、本拠の石山本願寺との戦いも終わらせて(8月2日参照>>)、事実上、一向一揆は解散状態だったわけですが、当然の事ながら、おおもとが「終わり~」と言ったからとて、まだまだヤル気満々の宗徒は大勢いるわけで、すぐに一揆の衆がいなくなる事は無いですから・・・

この時、織田側の越中最前線にいたのは小出城(こいでじょう=富山県富山市水橋)を守る神保長住(ながずみ=長職の息子)・・・しかし、さすがに、ここだけで上杉の侵攻を阻むのはムリがあろうというもの・・・

そこで信長は、守備強化を図るべく佐々成政(さっさなりまさ)を越中に派遣します。

成政は、かつて越前の朝倉を倒した際(8月6日参照>>)に織田の北陸担当として北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を与えられた柴田勝家の与力として北陸に配置された前田利家(まえだとしいえ)不破光治(ふわみつはる)とともに「府中三人衆」と呼ばれて小丸城(福井県越前市)を守り、信長の信頼を得ていた剛の者。

「まことに心強い!」
と長住も歓迎する中、富山城(とやまじょう=富山県富山市)に入った成政は、神通川を天然の堀とし、その支流を城の東側まで延長し、さらに土塁や櫓を要所々々に配置するなど、1年ほどかけて富山城を整備し、上杉の来襲に備えたと言います(現在の富山城より数段大きかったらしい)

そんなこんなの天正九年(1581年)、信長にとっての一大イベントが京都にて開催されます。

ご存知、天正九年(1581年)2月28日の御馬揃え(おうまぞろえ)です(2月28日参照>>)

さすがの一大イベントですから、もちろん柴田勝家以下、北陸の面々は越前衆として、これに参加・・・これを見逃さなかったのが、謙信の時代から越後の最前線=魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を任され、現在は松倉城を居城とする河田長親(かわだながちか)

『信長公記』によれば、
3月6日に挙兵した長親は、越後から上杉景勝の軍を招き入れるとともに一向一揆の残党たちを引き連れて、3月9日に小出城を包囲し、即座に攻撃にかかったとか・・・

一方、留守となっている小出城を守るのは成政配下の久世但馬(くぜたじま)。。。

自らの城兵の10倍を超える敵を目の当たりにした小出城ではありますが、この城は平城とは言え、少し丘になった部分に構築されており、しかも「浮かぶ陸の孤島」と称されるほど、周囲が沼地となった要害の中にありました。

久世は、そんな城内をくまなく巡回して
「越後勢に沼を渡らせてはならぬゾ」
「力を尽くして戦ってくれ」

と城兵一人一人に声をかけて、彼らの士気を高めます。

おかげで、近づこうとすれば沼地に足を取られ、遠くからの鉄砲もなかなか命中せず、徹底包囲しながらも、小競り合いばかりで大きな戦いには発展せず・・・

そんな中、未だ小出城の異変を知らず、馬揃えの後片づけしながら安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)に滞在していた成政&長住・・・彼らに、その情報がもたらされたのは3月15日の事でした。

「すぐに小出城を救え!」
信長の激励とともに安土城を新発した彼らが、小出城周辺にやって来たのは天正九年(1581年)3月24日の事・・・

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●↑小出城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところが、そこは、すでに上杉勢が去ったあとでした。

どうやら、約1ヶ月にも渡って城を囲みながらも、大した成果を挙げられずにいたところ
「成政の軍勢が戻って来る」
との知らせが入り、囲みを解いて魚津城へと退きあげていった模様・・・

その時、三里(約12km)ほど先に火の手が上がっている様子を見た成政は、
「まだ、あそこにいる!」
とばかりに常願寺川を越え、小出も越えて追撃しますが、思いのほか上杉勢の撤退が早く、追いつけないまま・・・

結局、
「これ以上の深追いは得策ではない」
との判断により、成政自身は一戦も交える事無く、この戦いは終了しました。

とは言え、現在も、この小出周辺には多くの五輪塔が存在し、その中には「首塚」と呼ばれている物もあるとか・・・成政らの軍勢が到着するまで、ここで、この城を死守しようと踏ん張った人々が、数多くいた事がうかがえますね。

一方で、現在伝わるところの河田長親さんのご命日も、実は天正九年(1581年)3月24日・・・上杉勢がこの日に撤退したのも、何か関係があるのでしょうか?

長親自身は未だ39歳の若さ・・・

しかし、記録には松倉城にて急死(病死)とあるので・・・この時代、合戦にて亡くなったのなら名誉な事なので、おそらく、そういう風に書き残すでしょうから、やはり、たまたまこの日に亡くなったという事なのかな?(気になる(゚ー゚;)

とにもかくにも、謙信の跡目を継いだ勝にとっては、曾祖父→祖父→父からバトンを渡された初めての越中平定だったわけですが、謙信時代からの、その中心人物であった長親の死を受けて、ここ越中では、さらに織田勢が勢いづく事になるわけで・・・

しかし、その一方で、未だくすぶる本願寺門徒による一向一揆・・・この半年後に起こる、成政&長住の瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)・井波(いなみ)の合戦については9月8日のページ>>でどうぞm(_ _)m

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2019年3月19日 (火)

織田信秀VS今川義元&松平広忠~第2次小豆坂の戦い

 

天文十七年(1548年)3月19日、今川&松平連合軍と織田が戦った第2次小豆坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

享禄二年(1529年)、祖父の代からの念願だった三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たした松平清康(まつだいらきよやす)は、次に隣国の尾張(おわり=愛知県西部)へと手を伸ばし、当時、清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人で尾張古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市)主だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めたのですが、その陣中にあった天文四年(1535年)、家臣によって斬殺されてしまいます(12月5日参照>>)

24歳という若さで亡くなった清康の後を継いだのは、わずか10歳の息子=松平広忠(ひろただ)でしたが、案の定、このドサクサを狙って、一族の松平信定(のぶさだ)が謀反を起こし、居城の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)を追われて流浪の身となってしまったのです。

Imagawyosimoto600a やむなく叔母(父の妹)の嫁ぎ先である吉良持広(きらもちひろ)のもとへ身を寄せますが、その関係で、この後、駿河遠江(静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)からの支援を受ける事になって(*吉良と今川はともに足利宗家の流れを汲む関係)、何とか岡崎城を奪還・・・その後、ようやく三河に帰還します。

この頃に起こったのが第一次小豆坂(あずきざか=愛知県岡崎市)の戦い・・・(日付に関しては天文十一年(1542年)の8月説と12月説あり)

とは言え、日付も曖昧な時点でお察しのように、その勝敗も、一応、今川&松平連合軍の勝利だとされていますが、負けた織田側にも、さほど大きなダメージはなさげな雰囲気です。

その翌年=天文十二年(1543年)には、松平家内で叔父=松平信孝(のぶたか=清康の弟)との内紛が勃発し(8月27日参照>>)、その信孝が織田に降った事で、松平×織田の関係はますます悪化していきます。

一方の織田信秀は、松平が弱体化したこの間に三河へと侵攻し、松平に属する安祥城(あんじょうじょう=愛知県安城市)を奪い取ります。
(奪い取った時期に関しては天文九年(1540年)説と天文十三年(1544年)説あり)

これに対し、安祥城の奪還を図る広忠でしたが、あえなく敗北・・・しかも、この天文十三年(1544年)には、広忠の正室=於大の方(おだいのかた)の兄である水野信元(みずののぶもと)織田方に降る事態に・・・この一件により於大の方は広忠に離縁され、実家に戻っています。

ますますの織田からの攻撃に耐えかねるとともに、かの水野信元が松平に仕える一方で今川に仕えていた事もあって、ここらで、今一度、今川との関係を強固にして、その支援を仰ごうと考えた広忠は、於大の方との間にもうけた嫡男=竹千代(たけちよ=後の徳川家康)を今川への人質として送りますが、この大事な人質が、途中で織田方に奪われてしまうという大失態(8月2日参照>>)

もちろん、これを機会に、信秀は広忠に織田の傘下に入るよう要求するのですが、広忠は断固拒否・・・現状のまま、今川を頼って織田と戦う事を選びます。

そんなこんなの織田信秀ですが、ここんとこ尾張の北東部分に勢力拡大を図っていた彼は、実は、松平=三河&その向こうの今川=遠江という東側と同時に、北側の隣国=美濃(みの=岐阜県南部)斎藤道三(さいとうどうさん=利政)とも度々衝突していた(9月23日参照>>)わけで・・・

しかし、天文十六年(1547年・天文十三年説もあり)加納口(かのうぐち=岐阜県岐阜市)の戦い(9月22日参照>>)で大敗を喰らった信秀は、とりあえずは北の脅威を削いで東の三河攻略に専念すべく、自らの息子=信長(のぶなが)と道三の娘=帰蝶(きちょう=濃姫)の結婚話(2月24日参照>>)を進めて、美濃の斎藤とは和睦をする事にします。

こうして天文十七年(1548年)3月、岡崎城の奪取を狙い、4000余の兵を率いて安祥城を出陣する信秀・・・

一方の今川義元も、織田×松平の境界の最前線となる安祥城は、味方の手に入れておきたいわけで・・・松平救援のために太原雪斎(たいげんせっさい=崇孚)を大将に据え、朝比奈泰能(あさひなやすよし)(2011年3月19日参照>>)とともに出陣させます。

矢作川(やはぎがわ)を渡って上和田(かみわだ=愛知県岡崎市)に着陣する織田軍・・・その向こうの小豆坂の頂上付近に陣取る今川軍・・・

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↑第2次小豆坂の戦い・合戦図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天文十七年(1548年)3月19日未明、小豆坂にてぶつかった両者でしたが、『孫子の兵法・行軍編』(6月17日参照>>)でお馴染みの通り、こういう場合、高い位置に布陣してる側が断然有利・・・って事で、最初は今川勢が優勢で、織田の第一の備えは完全に崩されてしまいますが、

劣勢を悟った織田勢は、第二の備えが本隊付近まで後退して踏ん張り、本隊の力を借りて巻き返し、今度は今川勢の先陣を務めていた松平勢が崩れ始めます。

しかし、この時、これを予期していたかのように仕込まれていた岡部元信(おかべもとのぶ)率いる今川の伏兵が、勢いづいて突進する織田勢の横から突きかかりました。

予期せぬ方向から本隊を脅かされた織田勢は、それがキッカケとなり軍全体が総崩れとなり、あれよあれよという間に今川勝利に織田の負け・・・信秀は兵を退きあげて安祥城へと戻るしかありませんでした。

とまぁ、川&松平の勝利とは言え、結果的には信秀が安祥城を失う事もなく、両者の関係に大きな変化は無かったわけですが、その翌年の両者の運命が真逆に!

信秀は配下の謀反を見事抑える(1月17日参照>>)一方で、広忠は、自らの家臣によって殺害されてしまう(3月6日参照>>) のです。

このために岡崎城の城主はいなくなってしまったわけですが、先に書いた通り、この時、広忠の後を継ぐべき息子=竹千代は、今現在、織田のもとにいるわけで・・・

そこで、今川は、何とか松平の後継ぎ=後の家康を自らの保護下に置こうと、織田信広(のぶひろ=信秀の長男)が拠る安祥城へ迫る事になるのですが、そのお話は11月6日【安祥城の戦い~信長&家康に今川と絡む運命の糸】>>でどうぞ

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2019年3月13日 (水)

小早川隆景が宇喜多忠家に…「辛川崩れ」の大敗

天正八年(1580年)3月13日、小早川隆景率いる毛利軍を宇喜多勢が迎え撃った辛川合戦がありました。

・・・・・・・・・・・・

弘治元年(1555年)に周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)(10月1日参照>>)を、永禄九年(1566年)に出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)(11月28日参照>>)を事実上の滅亡へと追いやって、西国の雄となった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)

一方、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)は、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦いを繰り返しつつ(9月12日参照>>)、天正元年(元亀四年=1573年)には、かの義昭を京都から追放(7月18日参照>>)・・・その義昭が毛利を頼った事から、両者は敵対関係となり、信長から中国地方の平定を任された羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が西へと迫りくる(10月23日参照>>)

これまで様々なぶつかりを継続する中で(2月15日参照>>) 、ここに来て西と東の両者に挟まれた形となった備中(びっちゅう=岡山県西部)備前(びぜん=岡山県東南部)但馬(たじま=兵庫県北部)あたりの諸将たちですが、

Ukitanaoie300a そんな中で、毛利の力を借りて(6月2日参照>>)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)からの独立を成功させた元家臣の宇喜多直家(うきたなおいえ)は、天正五年(1577年)に信長配下の明智光秀(あけちみつひで)籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)を攻略(10月29日参照>>)した事、毛利から自身が任されていた上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を但馬を平定(10月23日参照>>)した秀吉に落とされた事、等々から方針を変えたか?天正七年(1579年)頃から毛利とは距離を置き、その年の10月、宇喜多直家は正式に織田の配下となります(10月30日参照>>)

とは言え、それ以前の天正七年(1579年)2月、すでに織田に寝返りそうな雰囲気を醸し出していた直家に、毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)は、叔父の吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)に3000の兵をつけて美作(みまさか=岡山県東北部)へ派遣し、宇喜多配下の諸城を攻撃させてはいたのです。

しかし、これが・・・序盤こそ、いくつかの城を落としたものの、後半に宇喜多勢の反撃に遭い、取った城も奪回されて、結局は、大きな成果が得られないまま断念・・・(2月17日参照>>)

とは言え、このまま宇喜多の離反を見過ごすわけにはいかない毛利・・・

天正八年(1580年)、今度は小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)をが1万5千の兵を率いて備前から備中へと侵攻・・・宇喜多家の宿老=戸川秀安(とがわひでやす)の息子=戸川逵安(みちやす=達安)が拠る辛川城(からかわじょう=岡山県岡山市北区)間近へと迫ります。

早速、迎え撃つ宇喜多勢・・・この時、すでに病に伏せっていた直家に代わって、弟の富山城(とみやまじょう=同北区)宇喜多忠家(ただいえ)が総大将を務めます。

この時、流れた「毛利軍は直家居城の岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)を攻略するのが目的」との噂に、「させるか!」とばかりに忠家が選んだ作戦は、辛川城に近い一宮(いちのみや)から、自身の富山城近くの矢坂(やさか)まで、7段の陣を立てて防戦を張り、辛川城から逵安率いる一隊を分けて、辛川村の北にある山陰に伏兵として潜ませるというもの・・・

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●↑辛川合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

Ukitamourisakusyukassen位置の参考として
作州合戦の位置関係図(広域)
 も参照下さい

 .
かくして天正八年(1580年)3月13日備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山市北区)から加茂城(かもじょう=同北区)を経て辛川城近くへと進んだ毛利勢は、真正面に陣取る宇喜多勢めがけて襲いかかります。

先頭同士で激しいぶつかり合いとなりますが、この戦いは宇喜多側にとっては、敵を誘い込むエサ・・・適当に戦って負けた感を出しつつ、間もなく退却を開始します。

そうとは知らぬ小早川の先陣が、武功を挙げんと我先に後を追い、自然と、これに続く形で隆景の本陣が進み、さらに後陣が進む・・・その後陣が辛川村を通り過ぎた時!

まさに、この時、山陰に潜んでいた逵安率いる伏兵が一斉に飛び出し、小早川軍の背後から襲い掛かったのです。

逵安、わずか13歳の初陣でした。

さらに、この伏兵の登場と同時に、忠家は7段に構えた宇喜多軍に一斉出撃をかけた事から、小早川勢は、前からも後ろからも攻撃を受ける事に・・・

さすがの小早川も陣形が乱れるところを、隆景自らが采配を打ち振って踏ん張りますが、そこへ、隆景の本陣めがけて宇喜多軍が突入・・・少し、後ずさりする所に、今度は、近くの山上から、弓隊と鉄砲隊の一斉連射をお見舞い

さすがに総崩れとなった小早川軍は、結果的に一返しもできないまま、領国へと退却していきました。

この様子を見た忠家は
「敵は大軍…深追いは禁物である」
として、辛川村の入口あたりまで追撃しただけで、宇喜多軍も退きあげさせました。

これが、世に「辛川崩れ」と呼ばれる、毛利の大敗です。

ただし、今回の辛川合戦・・・(岡山藩士なのでたぶん)宇喜多側の史料となる『備前軍記』では「天正七年(1579年)8月の事」とされていますので、書籍によってはその日付になっている場合もあるのですが、毛利側の『湯浅文書』では「天正八年(1580年)3月13日辛川口敗戦」となっているのです。

この前後の出来事を踏まえ、近年では、おそらくは、この3か月後の6月に起こる祝山(いわいやま=岡山県津山市)合戦(6月15日参照>>)に向けての地固め&準備戦の意味合いでの出兵であるとの見方が強く、天正八年(1580年)3月13日が正しいのでは?とされているという事で、本日は、この日付でご紹介させていただきました。

辛川の次は、上記の祝山(いわいやま=岡山県津山市)合戦(6月15日参照>>)に突入・・・その後の毛利は宇喜多・・・というより、その上にいる織田を相手に~と展開していきます。

・・・にても、もともと毛利勢の中では小早川隆景が戦上手として1番カッコイイんじゃないか?と思っていたところに、今回は、その上をいく宇喜多忠家・・・しかも、13歳初陣の戸川逵安の勇姿を思い浮かべると・・・もう、戦国女子はメロメロですがな゜.+:。(*´v`*)゜.+:。

ま、出どころが軍記物なので、話半分な感じではありますが、本日は、この宇喜多勢のカッコ良さに浸らせていただきましょう~---------(*^ 0 ^A----------ドップリ
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2019年3月 7日 (木)

信長の雑賀攻め後に…雑賀同志の太田城の戦い

天正七年(1579年)3月7日、石山本願寺の下間頼廉が紀州の本願寺門徒に雑賀衆が味方についた事を報告しました。

・・・・・・・・・・・・

天正五年(1577年)2月~3月に行われた織田信長(おだのぶなが)による雑賀攻め・・・
孝子峠の戦いと中野落城>>
雑賀攻め・和睦>>

雑賀(さいが・さいか)とは、紀州(きしゅう=和歌山県)紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団で、小説やドラマ当では鉄砲を駆使し、石山本願寺の要請に応えて信長と戦った集団」のイメージが強いですが、水軍を保有して交易をする人たちや、農業でお生計をたてる者もいて、決して一枚岩では無い地元民の集合体みたいな感じです。

以前、その雑賀衆のリーダーとされる雑賀孫一(まごいち・孫市?)をご紹介したページ(5月2日参照>>)で、その冠に「傭兵」とつけるかどうか悩んだ事なんかもお話させていただきましたが、私としては、やはり「傭兵」の冠が合うように思います。

もちろん、それは金銭だけではなく、「利害関係」や「主義主張」等が絡むので「100%金で雇われた傭兵」とは違うわけですが、信長と敵対する本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)の要請で「信者ではない彼らが本願寺を手助けする」という構図は、やっぱ傭兵?って感じます。

現に、上記の通り一枚岩では無い雑賀衆は、この雑賀攻めの時も、信長と敵対する側と信長を受け入れる側に分かれていたわけですから・・・

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●↑雑賀衆の太田城攻防戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そもそも、この雑賀衆は、その支配圏により雑賀庄(さいかのしょう)十ヶ郷(じっかごう)宮郷(みやごう)中郷(なかつごう)南郷(なんごう)という五つの(そう=地域の共同体)に大まかに分かれていて、同郷の仲間とは言え、その境界線や利害関係でちょくちょくモメてる間柄でもあったのです。

で、結局、例の天正五年(1577年)の雑賀攻めの時は、宮郷&中郷&南郷の3ヶ所の土豪(どごう=その地に根付いた半農の武士たち)たちは、信長の味方だったわけで・・・

そんな中で、天正五年(1577年)2月に始まった雑賀攻めは、翌3月に和睦を結び、一応の終結となるのですが(双方が勝利したと言ってますので、結局は引き分けかな?)この雑賀の地には遺恨が残りました。

そう、味方した彼らに対してです。

特に太田党を中心とする宮郷の者たちが、道案内等、積極的に信長に協力していた事から、信長と戦った側の彼らは、信長軍が撤退して間もなく、報復を開始するのです。

ただし、ここらあたりの記録は文献によって曖昧で、そのキッカケも・・・

雑賀攻め以前に、宮郷の中にいた「本願寺に味方にしよう」と説いて回っていた者たちを、イザその時となったら追放して信長の味方になった事が、そもそもの原因・・・とされたり、

いやいや、
そもそも農耕に適した地に乏しい雑賀庄の者が、農業が盛んだった宮郷の地を「力づくで奪ったレ!」って暴れだしたのが発端・・・という話もあります。

結局は、信長云々というより、これまでの積年の恨みという感じだったのかも知れません。

なんせ、先に書いた「境界線でちょくちょくモメてる」というのも、雑賀庄の者たちが、農耕に適した豊かな土地を求めて進行していく中で、どんどん奥へ奥へと宮郷の地を侵食して行く・・・という形の境界線争いで、決して宮郷側から雑賀庄へ仕掛ける事は無かったのです。

つまり、今回も、たまたま雑賀攻めの直後だっただけで、通例の雑賀庄からの宮郷への押し込み・・・って事なのかも知れません。

というのも、今回の戦いで宮郷が本拠とする太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市太田)への攻撃側には、雑賀攻めで宮郷と同じように信長の味方となった中郷や南郷、そして十ヶ郷に属する貴志(きし=和歌山県紀の川市貴志川町)の人たちも加わっていたようなので、やはり、信長の件とは、また別の話かも・・・

とにもかくにも、こうして始まった雑賀衆による太田城攻め・・・

太田城を取り囲んだ攻め手の一手は、鍬(くわ)で以って城の堀を叩き崩し、もう一手は、城外にいる宮郷の者や、太田の援軍として迫りくる根来衆(ねごろしゅう=根来寺(和歌山県岩出市)を中心に居住する僧兵集団)を城へと近づかせないために、中間の要路を遮断しました。

そこに、応援に駆け付けた者たちと遮断組とが激しい戦いに・・・

このように、完全に周囲敵ばかりの状態となった太田城ではありましたが、最初の攻撃から約1ヶ月経っても城は落ちず、結局、和議となって、攻め手の雑賀衆が立ち去り、今回の一件は終了となりました。

しかし、直接的な戦いは終了したとは言え、この後も、何らかの圧迫は続けられていたのか?
結局、宮郷は、雑賀の(みなと)の人々に間に入ってもらって本願寺に頭を下げ、
「これからは、他の雑賀衆たちと心を一つにして、本願寺の奉仕します」
と許しを請うたのです。

おそらく天正七年(1579年)と思われる3月7日の日付の文書にて、石山本願寺の坊官(ぼうかん=寺の事務的方面の長)である下間頼廉(しもつまらいれん)が、紀州の本願寺門徒に宛てて
「アイツら、詫び入れて来よったから許したった」
との報告をしている事から、この頃に、雑賀の里から信長派が一掃された物と思われます。

しかし、現実とは皮肉なもの・・・
この翌年の天正八年(1580年)3月、顕如と信長との間に和睦が成立して、約半年後の8月に顕如が本願寺を退去した事で、約10年に渡った石山合戦が終結となります(8月2日参照>>)

信仰ではなく、あくまで雇われ?要請?によって信長と戦う立場だった雑賀衆の行く末は・・・?

石山合戦での活躍で一躍名を挙げた例の雑賀孫一(拠点は平井城)は、早速、信長に近づいて昔ながらの雑賀の筆頭であった土橋(どばし・つちはし)を倒したりなんぞしますが、その信長も天正十年(1582年)の本能寺で亡くなってしまうわけで・・・(6月2日参照>>)

しかも、先の5月2日のページ>>で書かせていただいたように、孫一自身も行方知れず?あるいは世代交代しちゃってる?可能性もあり・・・

一旦、その動向が読めなくなる雑賀の彼らたちですが、その後、信長の後に天下を狙う豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)の前に登場して来る事になるのですが・・・

そのお話は
小牧長久手~岸和田城・攻防戦】>>
【秀吉の紀州征伐~太田城攻防戦】>>
で、ご覧くださいませ~m(_ _)m
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