2018年11月21日 (水)

長島一向一揆の小木江城攻め~織田信与の自刃

元亀元年(1570年)11月21日、長島一向一揆に攻められた信長の弟=織田信与が小木江城にて自刃しました。

・・・・・・・・・・・

尾張(おわり=愛知県西部)伊勢(いせ=三重県中北部)の国境を隔てるように流れる木曽三川(きそさんせん=木曽川・揖斐川・長良川)・・・その河口付近の輪中(わじゅう=水害から守るために周囲を囲んだ堤防や集落)地帯である長島(ながしま=三重県桑名市)は、上記の通り、現在では三重県ですが、古文書等には「尾州河内長島」とか「尾張国河内郡」とか表記され、尾張の一部とみなされていました。

とは言え、永禄五年(1562年)に織田信長(おだのぶなが)尾張を統一(11月1日参照>>)した後も、ここ長島は、その支配下に入っておらず、室町中期に、浄土真宗の中興の祖=蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)の息子である蓮淳(れんじゅん)願証寺(がんしょうじ)を建立して以来、寺を中心に本願寺門徒が周辺の国人領主(地元に根付いた武士)を取り込んで、砦などを設けて武装化した本願寺門徒の地でありました。

そんな中、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて信長が上洛した事で、それまで畿内を掌握していた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・・石成友通)阿波(あわ=徳島県)へと追いやられたのです(9月7日参照>>)

しかし、当然、追いやられたままで済むはずはなく、
その三好三人衆が、元亀元年(1570年)6月、越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)を相手にした、あの姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月19日参照>>)のために信長が畿内を留守にする絶好のチャンスを起死回生とばかりに、その年の8月に仕掛けたのが野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の戦い(8月26日参照>>)・・・

そこに、当時、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・現在の大阪城のある場所)を拠点としていた本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)三好側として参戦して来たのです。

信長が上洛した当初は、矢銭(やせん=軍資金)の徴収も言われるがままに支払い、決して信長との関係は悪くなかった本願寺でした。

しかし、ここに来てのいきなりの参戦・・・その理由については、
大阪という土地の中でも、1~2を争う絶好な場所に建つ石山本願寺の地を「僕に譲ってくれへんか?」と信長が言ってきた?
とも、
野田福島での三好三人衆を包囲した信長軍の態勢が、完全に石山本願寺を包囲する態勢だった事にブチ切れた?
とも言われますが、

とにもかくにも、元亀元年(1570年)9月7日、ここに顕如は全国の本願寺門徒に向けて
「今こそ、開山・親鸞聖人の恩誼(おんぎ)に報いる時! その命惜しまず忠節を見せてくれ!参戦せん者は破門にするぞ!」
てな檄文を発したのです(9月12日参照>>)

「総本山の石山本願寺が危ない!」
とばかりに蜂起する全国の本願寺門徒・・・当然、当時の願証寺住職=証意(しょうい=蓮淳の曾孫・證意)以下、長島の一向一揆も立ち上がります。

早速、代々伊藤一族が城主を務めていた長島城(ながしまじょう=三重県桑名市)に大軍で押し寄せて伊藤一族を追放して城を奪い取ります。

そして、この長島城を拠点に、11月16日、信長の弟=織田信与(のぶとも・信與)が守る古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃したのです。

これは明らかに、信長の援軍の手が、この古木江城まで届かないであろう事を計算しての攻撃でした。

というのも、あの8月に勃発し、9月の本願寺の参戦によって三好方が勢いづいた野田福島の戦いが、未だ継続中・・・9月12日に三好勢が川端の堤防を切断して敵方に水を引き寄せた事で、信長の陣屋もろとも周辺が水浸しになり、その水が2~3日引かなかったおかげで、信長勢はかなり苦戦していたようなのです。

そこを見計らった9月20日、今度は、先の姉川の合戦で敗れた浅井&朝倉が、信長の重臣=森可成(もりよしなり)の守る宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)近くの坂本(さかもと=滋賀県大津市)まで琵琶湖の西岸を南下して来たのです。

その姉川のページにも書かせていただきましたが、この合戦での信長は、「ひょっとして判断ミスった??」と思えるほど追撃をかけなかった事で、負けた浅井&朝倉のダメージは意外に少なく、ここで野田福島の戦況を知って「チャンス!」とばかりに仕掛けて来たわけです。

城を死守すべく果敢に撃って出る可成でしたが、その数は、加勢に駆け付けた信長の弟=織田信治(のぶはる)の兵を加えても、わずかに1000・・・そこに浅井&朝倉に加えて本願寺の要請を受けた比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の僧兵が加わった約30000万の軍勢が押し寄せたのです。

少ない人数の中、何とか落城だけは防いだものの、可成と信治は壮絶な討死を遂げます(9月20日参照>>)

この合戦後の9月22日付け、六角氏の重臣に宛てた手紙の中で、浅井長政は、
「今、坂本にいます。一両日中には京都に入ろうと話してますんで、その後は、いよいよ野田福島で行きますよって、安心してください」
というノリノリの手紙を送っています。

この長政の心の内を知ってか知らずか、信長は翌日の9月23日に柴田勝家(しばたかついえ)殿(しんがり=最後尾)として急きょ野田福島の陣を引き払い、翌23日に京都に戻って浅井&朝倉攻撃に備えます。

この間にも浅井&朝倉勢は醍醐(だいご=京都市伏見区)周辺に放火しつつ山科(やましな=京都市山科区)まで進撃して来ていました。

ところが、翌24日、信長勢が侵攻すると浅井&朝倉勢は比叡山方面へ逃げ、そこに布陣して立て籠もったのです。

そこで信長は比叡山に向けて
「僕の味方をしてくれはるんなら、僕の領国内にある比叡山の領地も返還したいと思います。
けど、仏に仕える身やから、どっちかの味方になる事はできん!とおっしゃるんなら中立を保っていて下さい。
もしも、このどっちもイヤ…浅井&朝倉に味方する~っていうのであれば、攻撃しなアカン事になります」

との朱印状を発しますが、比叡山は、返答をせずに無視したばかりか、浅井&朝倉を擁護する姿勢を見せたのです。
(ご存じのように、この比叡山の姿勢が、後の焼き討ちにつながるわけですが…

そこで信長は宇佐山城に置いていた本陣を比叡山の麓に移動して比叡山を包囲するような布陣に整え、京都方面には八瀬(やせ=京都市左京区)大原(おおはら=京都市左京区)口や勝軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川)に、志賀方面には唐崎(からさき=滋賀県大津市)に・・・などに配下の者を配置し、その間に甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)にて本願寺の呼びかけに応じた六角承禎(じょうてい・義堅)を抑えた木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)が合流するなど、他方で戦っていた面々もはせ参じて来るのですが・・・

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長島一向一揆&小木江城と堅田のい戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とまぁ、話がちょいと長くなってしまいましたが、とにもかくにも、この時の信長はこういう状況だったわけで、おそらくは手いっぱいで援軍の派遣はムリなわけです。

そこをチャンスと見た長島一向一揆勢は、数日に渡って古木江城に激しい猛攻を加えます。

何とか防いでいた織田信与でしたが、元亀元年(1570年)11月21日、ついに一揆勢が城門を破って場内に突入して来たのです。

「このまま一揆勢の手にかかって命を落とすのは無念である」
そう言い残した信与は天守に上り、その最上階にて切腹して果てたのです。
(撃って出て討死した説もあり)

この信与は、信長から数えて5番目の弟・・・その生年はわかっていませんが、2か月前の宇佐山城で討死した信治が3番目の弟で天文十四年(1544年)生まれの27歳ですから、おそらく20代前半か10代後半と思われ、信長にとって、立て続けに弟を失ったこのあたりの戦いは、大きな心の傷を負った出来事だったのかも知れません。

なんせ、この滋賀・堅田(かただ=滋賀県大津市)方面での戦いは、1ヶ月ほどの小競り合いの後、12月14日に時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇による合戦中止の綸旨(天皇の命令)が下されて講和が結ばれますが(11月26日参照>>)、そのすぐ後に、秀吉の働きで本拠地の岐阜と京都との動脈を確保した信長は、即座に北伊勢方面への出陣を決意し、翌元亀二年(1571年)5月16日の長島一向一揆戦(5月16日参照>>)へと突入していく事になるのですから・・・

ところで、
このあと続く、8月の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)
天正二年(1574年)9月の長島一向一揆せん滅(9月29日参照>>)

これらは、信長の残虐ぶりを表す出来事として有名な出来事ですが、どうでしょう?
こうして見ると、比叡山も一向一揆も、けっこうヤッちゃってる感じがするんですが・・・
(それも先にヤッちゃってる感が…(^-^;)
(もちろん浅井&朝倉もネ)

もちろん、信長さんが100%正しいとは思いませんし、「そこまでせんでも…」って部分もあるでしょうが、他の武将もそうであるように、そもそも戦国とはそういう時代・・・「戦争は嫌だ」と声高に叫べば、誰かが拾ってくれる現在とは価値観が違うのです。

なので、ドラマ等(「信長協奏曲」は除くww)で、ことさら信長だけを鬼のように描く(他の武将をイイ人に描くためでしょうか?)昨今の風潮には、個人的には、ちょっと疑問を感じているのです。

ドラマ&映画等の関係者の皆々様、そろそろ違うイメージの信長さんを登場させてはいかがでしょう?

今ハヤリの平和を主張する主人公が信長さん・・・てのもアリ???
一歴史ファンとしては期待してしまいますが、やっぱりダークなラスボスっぽく描かれるんでしょうね~まぁ、それもカッコイイならOKやけど(*^-^)
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2018年11月16日 (金)

信長の前に散る…三好義継が切腹す~若江城の戦い

天正元年(1573年)11月16日、居城の若江城を、織田信長に攻められた三好義継が切腹しました。

・・・・・・・・・・・

今回の主役=三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)は、天文十八年(1549年)に、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の弟の十河一存(そごうかずまさ・かずなが=長慶の3番目の弟)長男として生まれたと言います。

この伯父の三好長慶という人は・・・(これまで何度もブログに登場してますが…)
かつて室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として権勢を奮った細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後に、その3人の養子たちによる後継者争いの中で優位に立ち、事実上の政権樹立を勝ち取った細川晴元(はるもと)の家臣でしたが、天文十八年(1549年)6月の江口の戦いにて晴元らに勝利し、彼らを近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させて畿内を掌握(6月4日参照>>)した後、第12代=足利義輝(よしてる=11代諸軍・足利義晴の息子)とも和解して(11月27日参照>>)戦国初の天下人とも称される人物です。

その弟である十河一存は、数々の戦いで兄=長慶をサポートし「鬼十河(おにそごう)と呼ばれた名将でしたが、残念ながら永禄四年(1561年)3月に、この世を去ってしまいます(5月1日参照>>)

Miyosiyositugu500a 可愛い甥っ子として、義継を自らが養育するつもりであった長慶でしたが、その2年後の永禄六年(1563年)、長慶の跡継ぎであった一人息子=三好義興(よしおき)が22歳の若さで病死してしまった事から、長慶は義継を養子として迎え、以後、義継は三好家の嫡流を継ぐ事になったわけです。

しかし、以前も書かせていただいたように、先の十河一存の死を皮切りに、三好家には毎年のように次々と不幸な出来事が起こるのです。

十河一存の死後の将軍地蔵山の戦い(11月24日参照>>)が手痛い負け戦となる中、翌年の永禄五年(1562年)の3月には、長慶のすぐ下の弟=三好義賢(よしかた=元長の次男・実休)久米田(くめだ・大阪府岸和田市)の戦い(3月5日参照>>)にて戦死し、その翌年に先の義興の死・・・さらにのその翌年の永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす)謀反の疑いで長慶自身が謀殺してしまい、しかも、その弟殺害の2ヶ月後に長慶は亡くなるのです(5月9日参照>>)

実は、晩年の長慶はうつ病を発症しており、ほとんど合戦には出ずに引き籠りがちになっていて、実際に三好家を支えていたのは重臣の松永久秀(まつながひさひで)だったとの事・・・

こうして、わずか16歳で三好家を引っ張っていかねばならなくなった義継・・・そんな若き当主をサポートしたのが、先の松永久秀と、後に三好三人衆と呼ばれる三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)ら三好一族の者たちでした。

翌永禄八年(1565年)5月1日には、将軍=義輝の要請により、左京大夫(さきょうのだいぶ=都の行政機関の長官・後の京都所司代)に任じられ、義輝から「義」の一字を賜って、その名を義重と改めますが(ここまでは重存)、そのわずか18日後、三好三人衆らととともに上洛して二条御所(武衛陣御所)を襲撃して義輝を暗殺してしまうのです(5月19日参照>>)

その年齢から考えても、おそらく、この一件を主導したのは三好三人衆ではありましょうが、この件をキッカケに義重から、いよいよ義継へと改名していますので、義継自身も自らの意思で首謀者の一人として参加した事でしょう。

なんせ、この義輝さんは、かの長慶と何度も刃を交えて京都奪回&将軍復権を画策した人(11月27日参照>>)・・・長慶と和睦して京都に戻ったとは言え、もともと傀儡(かいらい=あやつり人形)には収まらず、自らが政務に手腕を発揮シたいタイプですから、おそらく長慶の死は彼にとって、誰の影響も受けずに采配を振るチャンス到来と思っていた可能性大。

一方、長慶を失った側の三好としては、それは困る・・・自分たちの思い通りになる将軍が都合が良い。

Asikagakuboukeizu3 ←足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そこで三好三人衆は、以前に細川晴元とともに三好一族が推し挙げて堺公方(さかいくぼう)を称していた足利義維(よしつな)(2月13日参照>>)の息子=足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)が義輝に代わって第14代将軍になれるよう画策するのです。

一方、その間に、これまで、ともに三好家を支えていた松永久秀と三好三人衆は、どうやら決別したようで・・・というのは、義輝暗殺から半年後の永禄八年(1565年)11月、これまで長慶健在の時から久秀が行っていた大和(やまと=奈良)攻略(11月24日参照>>)での宿敵=筒井順慶(つついじゅんけい=大和の国衆)との筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)攻防戦(11月18日参照>>)にて三好三人衆が順慶の味方として登場するからなのですが・・・

なので義継は、三好三人衆とともに松永久秀と戦う事になるのですが、この頃には三好三人衆の頭の中は足利義栄の事でいっぱい・・・なんせ将軍ですからね~自分たちの意のままに動いてくれる上司なら、三好家当主より将軍の方がイイに決まってますがな。

この三好三人衆に不満を感じた義継は、彼らと離れて松永久秀のもとに・・・永禄十年(1567年)10月の東大寺大仏殿の戦い(10月10日参照>>)ではキッチリ松永方として参戦し、勝利に貢献しています。

そんな中、これまでの経緯や献金の金額不足から足利義栄の将軍就任に難色を示していた朝廷が、永禄十一年(1868年)ようやくOKサインを出し、その年の2月8日に足利義栄への将軍宣下がなされて、義栄は第14代将軍に就任し、もはや三好三人衆の天下か?

と思いきや、この一件によって、義輝暗殺の際に幽閉されていた興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)を脱出(7月28日参照>>)して、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)のもとに身を寄せていた義輝の弟=足利義昭(よしあき・義秋)が動き出すのです。

これまで義昭は、暗殺された前将軍の弟として、その後継者=次代将軍になる希望を抱き、自らを奉じて上洛してくれる大物武将を探して、自身が納得できるような者に声をかけていたものの良い返事が貰えず・・・しかし、上記の通り、義栄の将軍就任で、これ以上ジーッとしているわけにはいかず、おそらくは義昭にとってはキャリア不足の地方侍だとの認識だった・・・けど、だからこそ自分を奉じて上洛してくれそうな尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に接触したのです(10月4日参照>>)

自分を奉じてくれる武将を探していた義昭と、稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現在の岐阜城)を手に入れて(8月15日参照>>)『天下布武』の印鑑を使い始め、上洛のキッカケ=朝廷への大義名分&手土産を探していた信長との利害関係が見事一致・・・永禄十一年(1568年)9月7日、信長は京都に向け、岐阜城を発ったのです(9月7日参照>>)

ご存じのように、この信長の上洛は戦国の一大転換期とも言える出来事・・・当然ですが、その道筋には、上洛に協力する者と敵対する者がいるわけで、

そんな中、美濃(みの=岐阜県)の隣国で敵対しそうな朝倉は、現時点で若狭(わかさ=福井県西部)攻めの真っ最中(8月13日参照>>)なので、この一件にはスルー。

北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)には、妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて懐柔済み(2011年6月28日の前半部分参照>>)

NOと言った南近江(滋賀県南部)六角承禎(じょうてい・義堅)は信長軍に蹴散らされ(9月13日参照>>)ます。

もちろん義栄を仰ぐ三好三人衆も信長に抵抗しますが、籠る勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)などを攻撃され、やむなく義栄を連れて、領国の阿波(あわ=徳島県)へと退去します。

一方、この時、三好義継と松永久秀はチャッカリ信長に協力&服属を約束・・・おかげで義継は若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)を安堵され、久秀は「大和一国切り取り次第」=「奈良で戦って奪った土地は君が治めたらええぇがな」の許可を得ます。

翌・永禄十二年(1569年)1月、三好三人衆らが義昭が仮御所として宿泊していた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃した本圀寺の変では(2月2日参照>>)、義継は、将軍家被官の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らとともに、その防御の一翼を担い、その功績もあってか2ヶ月後には信長の仲介で義昭の妹と結婚し、義継も、もうすっかり織田傘下の人・・・と思いきや、

間もなく義昭と信長の間に亀裂が入り始めたり(1月23日参照>>)、信長と三好三人衆の野田福島の戦い(8月26日参照>>)本願寺顕如(けんにょ=第11代法主)が三好側として参戦した(9月12日参照>>)事などから、やがて義継は松永久秀とともに反信長派に転じ、いわゆる「信長包囲網」の一角となりました。

そして、いよいよ天正元年(1573年)2月(7月に元亀より改元)足利義昭が信長に反旗を翻し(2月20日参照>>)、一旦は和睦するも7月に再び挙兵・・・籠っていた槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)を攻撃され、やむなく息子=足利義尋(ぎじん)人質に差し出して降伏します(7月18日参照>>)

こうして、京都を追われた義昭は、妹婿である義継の若江城に・・・そして冒頭で書かせていただいたように、その後、義継の若江城は信長に攻められるのですが、

一説には、この「義昭を庇護した事」で信長の怒りをかって、その後に若江城を攻められたと言われたりもするのですが、実際には、若江城へ移動するにあたっては羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が護衛した=つまり、昭の若江城入りは信長も承諾済みだったらしい・・・

なんせ、上記の通り、将軍になるには「朝廷の将軍宣下」があるわけで、京都を追放されようが、本人が「もうアカン」と思おうが、朝廷がそれを承諾しない限り、将軍は将軍のままなわけですから、信長に降伏いたとは言え、その後の身の振り方には朝廷やら何やらの周囲の仲介等があったと思われ、信長も、それらの手前もあり、反信長の神輿として担がれない場所であるとともに監視が効き、かつ将軍が滞在するにふさわしい場所として(本意であったかどうかは別として)義昭が若江城の預かりになる事は、信長も認めていた・・・いや、むしろ妹婿のいる若江城選んだというのが正解のように思います。

ただし、その他方、
「あの信長の事やから、おそらく、この一手先も二手先も読んでいるに違いない…ここは慎重に行動せねば!」
と察していた義継は、若江城にやって来た義昭を城中に入れる事無く、そのまま紀州(きしゅう=和歌山県)へ送った・・・
なんていう話もあります。

つまり、義継は、「義昭云々に関係なく、自分は信長から攻められるかも知れない」事を警戒し、信長に心許す事はなかったという事なのでしょう。

とにもかくにも、『信長公記』では、
そのような、信長への警戒心持ち反抗的な義継に対して、もはや揺るぎない信長の力を恐れる三好の家老たち=多羅尾綱知(たらおつなとも)池田教正(いけだのりまさ)野間長前(のまながさき)若江三人衆(わかえさんいんしゅう)が主君と離れて信長に内応し、そこに信長が派遣した佐久間信盛(さくまのぶもり)率いる織田軍が若江城を包囲・・・

義継の近臣であった金山信貞(かなやまのぶさだ)を自刃に追い込んだ後、若江三人衆は佐久間信盛を若江城中に引きいれたと言います。

佐久間勢が天守の真下まで攻め上って来た時、
「もはやこれまで!」
と覚悟を決めた義継は、妻子を刺し殺した後、天守から撃って出て佐久間勢の多くを負傷させた後、側近に介錯を頼んで、自らの腹を十文字に切り裂いたのだとか・・・

それは
「比類なき御働き 哀れなる有様なり」
比類なき活躍であったけれども、哀れであった・・・と、

天正元年(1573年)11月16日、三好義継、享年25・・・天下にその名を馳せた三好本流の最後の人となりました。

ちなみに、京都を追放され、三好義継も失った足利義昭ですが、今度は西国の雄毛利(もうり)を頼って、まだまだネバりはります(7月18日参照>>)
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2018年11月12日 (月)

備前&播磨を巡って赤松義村と浦上村宗の戦い~三石城攻防戦

永正十五年(1518年)11月12日、反旗を翻した浦上村宗赤松義村が攻めた三石城攻防戦が開始されました。

・・・・・・・・・・

村上源氏の流れを汲み、鎌倉幕府政権下で播磨(はりま=兵庫県南西部)地頭職を務めていたとされる赤松(あかまつ)は、その鎌倉討幕から室町への転換期に、赤松則村(あかまつのりむら・円心)討幕軍の一翼を担う多大なる活躍をし(4月3日参照>>)、その後の南北朝でも足利尊氏(あしかがたかうじ)側について貢献(3月2日参照>>)した事から、室町幕府政権下では四職家(他には京極・一色・山名)の1つに数えられ、則村の息子たちに与えられた摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)美作(みまさか=岡山県北東部)備前(びぜん=岡山県南東部)と、もともとの播磨に加えた計4ヶ国の守護(しゅご=県知事みたいな)を務めた名門です。

ただし、嘉吉元年(1441年)に則村の玄孫に当たる赤松満祐(あかまつみつすけ)が第6代将軍=足利義教(よしのり)暗殺した(6月24日【嘉吉の乱】参照>>)事で、その討伐軍だった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)赤松の領地のほとんどが与えられ、一時は事実上の滅亡という一幕もありましたが、満祐の弟の孫にあたる赤松政則(あかまつまさのり)が、以前に、後南朝側(後南朝については後亀山天皇のページ参照>>)に持ち去られていた三種の神器の一つを取り戻した功績により加賀(かが=石川県)半国を与えられて赤松を再興した後、応仁の乱では東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)に与して功績を挙げた事で(5月28日参照>>)播磨・備前・美作の3ヶ国守護に返り咲いたのです。

そうして置塩城(おきしおじょう=兵庫県姫路市)に居を構えた政則は、更なる領地拡大を図って山名政豊(まさとよ=宗全の息子か孫)と戦い(9月4日参照>>)、長享二年(1488年)には播磨一帯から山名勢力の排除に成功(4月7日参照>>)・・・しかも、細川勝元の娘=洞松院(とうしょういん=めし)を嫁に娶り、この戦国の頃の赤松は、以前にも増した全盛期を迎えていたのでした。

しかし、その結婚から、わずか3年後の明応五年(1496年)に赤松政則が急死・・・残念ながら洞松院との間には女の子しか生まれていなかったため、赤松の分家から娘の婿養子として入り、政則の後を継いだのが赤松義村(よしむら)でした。

そんな赤松氏を、かの鎌倉末期の則村の時代から家臣として支えていたのが守護代(しゅごだい=副知事みたいな)浦上(うらがみ)・・・先の政則の時代に、見事な復権を果たせたのも、山名の勢力を一掃できたのも、忠臣の浦上則宗(うらがみのりむね)おればこそ!だったのです。

ただ、それだけの武将であればこそ、いつしか主君より多くの支持者が、その下につき、家内での影響力も大きくなって行くというもの・・・

なんせ上記の通り、赤松政則と洞松院は、わずか3年の結婚生活ですから、政則が亡くなった時点では、その娘さんも幼児なわけで、おそらく、その婿養子の義村も、彼女に見合う同じような年齢だったと思われ(正確な生年は不明)・・・

とは言え、しばらくの間は、義母の洞松院が頑張って義村を支えていた(3月11日参照>>)事もあり、浦上家内での権力闘争はあったものの、赤松と浦上の主従関係に亀裂が入るほどでは無かったわけですが、文亀二年(1502年)に浦上則宗が亡くなり、その後を浦上村宗(むらむね)が引き継いだあたりから、
(*村宗は則宗の甥の子とも息子とも言われ、村宗の前に則宗の養子が家督を継いでいたという話もありますが、そこらへんの経緯はよくわかっていません)
幼かった義村が成長し、自身で政務をこなすようになって来て、これまで、ほぼ思い通りに・・・悪い言い方すると浦上家のやりたい放題だった政務に主君のチェックが入る状態に、浦上村宗は反発するようになっていったのです。

Ukitayosiie300a やがて永正十五年(1518年)秋・・・浦上村宗は、家臣の宇喜多能家(うきたよしいえ=秀家の曽祖父)らとともに居城の三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)に籠り、赤松に反旗を翻したのでした。

もちろん、これをそのままにしておけない赤松義村は、永正十五年(1518年)11月12日三石城へと出兵・・・船坂峠(ふなさかとうげ=兵庫県と岡山県の県境の峠)にて防戦する浦上方を撃破して三石城下へとなだれ込み、城から撃って出た浦上勢と激しい交戦を繰り広げました。

明けて翌13日も城から兵が撃って出て戦闘が始まり、囲む赤松勢が押せば城兵退き、城側の伏兵の出現に赤松が退けば城兵が追撃・・・と、一進一退の状況が続いた事で「これではらちがあかん!」とばかりに義村は、一気に攻め落とさんと15日朝から総攻撃を仕掛けます。

しかし、この時も・・・城側は攻め寄せる赤松勢を引きつけるだけ引きつけておいて、絶好のタイミングで一気に大手&搦め手から同時に出撃し、寄せ手を混乱させて切り崩し、大きな痛手を与えた事で、やむなく赤松軍は本陣の位置を船坂峠まで戻し、態勢を立て直す事に・・・

ところが、この間に、浦上村宗は二人の忍びに武具などを持たせて商人に見せかけて赤松の陣地に送り込み、敵の様子を探らせたばかりか、「村宗は病気で伏せっていて、しばらく動けないかも…」なんてウソの噂を流させたのです。

こうして赤松軍を油断させておいた11月19日夜、70人ばかりの少数精鋭で一気に夜襲を仕掛けます。

突然の火の手と鬨(とき)の声に驚く赤松勢は、応戦どころか、もはや逃げるので精一杯だったとか・・・

かくして年が明けた永正十六年(1519年)正月、赤松義村は作戦の変更・・・香登城(かがとじょう=岡山県備前市)に拠る村宗の弟=浦上宗久(むねひさ)に近づいて
「勝利のあかつきには村宗の領地をそっくりそのまま君にやる…浦上は君が掌握すればえぇ」
と、兄を裏切って赤松につくよう誘いをかけます。

それに乗った宗久は、密かにその準備に取り掛かりますが、その動きを、この時、香登城の二の丸を守備していた宇喜多能家が察知・・・二の丸の守備を強化して籠城すると同時に三石城へ宗久の裏切りを知らせて加勢の軍勢の派遣を要請した事で、逆に窮地に陥った宗久はやむなく城を脱出し、結果的に香登城は宇喜多能家が牛耳る事になってしまいました。

それでも諦めきれない義村は、その年の4月、さらに12月にも攻撃を仕掛け、翌永正十七年(1520年)の正月には、先に浦上傘下の富田松山城(とだまつやまじょう=岡山県備前市)を落としますが、7月に三石城からの救援が駆けつけて赤松軍を襲撃し、結局、このすべてが防がれてしまいます。

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●三石城攻防戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この度重なる敗戦で赤松の家名は地に落ち、それは同時に浦上村宗の名を挙げる形となり、やがて本拠の置塩城にでさえ村宗に同心する者が現れ、同永正十七年(1520年)の11月、やむなく義村は隠居して、嫡子の赤松晴政(はるまさ=才松丸→政村→政祐)を差し出す事で、何とか面目を保ちます。

とは言え、その後も何度か復権を目論んでイロイロ画策するのですが、結局、翌大永元年(1520年)9月に村宗の放った刺客によって義村が暗殺されしまい、その後は晴政が赤松を継承していくワケですが、お察しの通り、もはや浦上村宗の傀儡(かいらい=操り人形)の当主なわけで・・・

ただ・・・後に起こる細川勝元の孫たち(勝元の息子の政元の養子たち)による後継者争いで(2月13日参照>>)、最初は浦上村宗とともに、彼の推す細川高国(たかくに)についていた晴政が、父の仇討ちを目論み、途中で細川晴元(はるもと)側に寝返って、晴元側の三好元長(みよしもとなが=三好長慶の父)と協力して村宗を討つという場面があったのはあったのですが、結局は、この後も浦上村宗の息子たちとモメてる間に、出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまご)氏の台頭を許してしまい、この後、赤松氏が以前のように浮かび上がる事はありませんでした。

その後の赤松は、晴政の孫=赤松則房(のりふさ)の代に豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)の傘下となって置塩城を安堵されてますが、その細々と続いていた血脈も、関ヶ原の戦いで西軍につき、石田三成(いしだみつなり)の居城=佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)(9月17日参照>>)を守っていた赤松則英(のりひで=則房の息子)が、落城後に捕縛されて自害した事によって、名門=赤松の嫡流は断絶する事となるのです。
(庶流の赤松広秀も、その約1ヶ月に自害…10月28日参照>>)

鎌倉から室町を生き抜いた名門の武家が、戦国の世に姿を消す事は少なくありません・・・というより、それが下剋上であり戦国という物なのでしょうが、何とも、難しい時代であります。
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2018年11月 7日 (水)

本庄繁長の乱で上杉謙信が本庄城を攻撃

永禄十一年(1568年)11月7日、反旗を翻した本庄繁長の籠る本庄城を上杉謙信が攻撃しました。

・・・・・・・・・

天文十一年(1542年)に信濃(しなの=長野県)諏訪(すわ)を制し(6月24日参照>>)、さらに北へと勢力を伸ばそうとする甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)(4月22日参照>>)に対し、天文二十二年(1553年)から永禄七年(1564年)にかけて、何度も川中島(かわなかじま=長野県長野市)にて(8月3日参照>>)刃を交えていた越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎・上杉輝虎)・・・

Uesugikensin500 一方で、その両者がともに傘下にしておきたい場所が、越後にも信濃にも接している隣国=越中(えっちゅう=富山県)・・・なんせ上洛するには、ここを通らねばなりませんし、それはイコール物流という観点からも重要ルートなわけで。。。

Takedasingen600b ここ越中は、もともとは南北朝の動乱の後に守護(しゅご=県知事的存在)だった畠山(はたけやま)以下、それをサポートするが守護代(しゅごだい=副知事的)遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)が分割して治めていた場所でしたが、応仁の乱を経た戦国時代に入って畠山氏の力が衰え始める中で越中一向一揆が頻発(9月19日参照>>)したりした事により、徐々にその立ち位置も微妙に・・・

で、この永禄の頃には射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による越中(えっちゅう=富山県)争奪戦を繰り返していましたが、そんな両者の戦いを影で支援していたのが武田信玄(神保を支援)と上杉謙信(椎名を支援)だったわけです(3月30日参照>>)

ところが、そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月、これまで密かに行っていた信玄の裏工作により、椎名康胤が武田側に寝返ったのです。

父の時代からの同盟者であった康胤に裏切られた事にショックを受けつつも、謙信は康胤の松倉城を落とすべく3月16日に居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣します。

一方、この康胤の寝返りを受けて、翌・4月、今度は神保長職が上杉に寝返り・・・すると、これまで信玄の要望(信玄の奥さんの妹の夫は本願寺顕如)で長職とともにゲリラ戦を展開していた一向一揆が、これまた神保から離れて武田側に寝返り(←あ~ややこしい)、長職傘下の守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)放生津城(ほうじょうづじょう=富山県射水市中新湊)を攻撃して陥落させてしまいます。

そこで謙信は、ひとまず松倉城への抑えとして配下の河田長親(かわだながちか)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)に配置して守らせ、自らは、長職と連携して守山城と放生津城への攻撃を開始するのです(4月13日参照>>)

しかし、その陣中に、鳥坂城(とっさかじょう=新潟県胎内市)中条藤資(なかじょうふじすけ)からの書状が届きます。

なんと、その書状の中には、もう一通の書状が・・・それは、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)から中条藤資に宛てた物で、その中身は
「コチラの味方になってくれませんか?」
のお誘い・・・

Honzyousigenaga600 そう・・・この謙信留守の間に武田側に寝返った本庄繁長が、中条藤資に送った寝返りを即す密書を、上杉を裏切る気ゼロの藤資が、そのまま謙信に見せたのです。

激おこの謙信は、すぐに陣を引き払って春日山城へ帰還し、本庄城攻撃の準備に入ります。

一方、その本庄繁長は、中条藤資以外にも、平林城(ひらばやしじょう=新潟県村上市)色部勝永(いろべかつなが)黒川城(くろかわじょう=新潟県胎内市)黒川実氏(くろかわさねうじ)大場沢城(おおばさわじょう=新潟県村上市)鮎川盛長(あゆかわもりなが)ら周辺の武将へ同様の書状を送って寝返りに誘っていたのです。

ところが、これが大きな誤算・・・中条藤資と同じく、彼らにも断られてしまったのです。

結果、本庄繁長は周囲を敵に囲まれた孤立無援の形になってしまい、やむなく本庄城に籠城して武田の援軍を待つしかなくなってしまいます。

そのニュースを得た信玄は、本願寺に向けて繁長救援を要請・・・これを受けた勝興寺(しょうこうじ=富山県高岡市)の一向一揆衆が越後へと侵入する一方で、海津城(かいづじょう=長野県長野市松代町)を出た信玄は、7月10日、謙信側の飯山城(いいやまじょう=長野県飯山市)を攻撃します。

しかし、さすがの謙信はこれを予想しており、すでに配下の者を援軍として送り込んで防戦したため、信玄はそれ以上の進軍ができず、10月13日には、本庄城に、使者とともに兵糧を送り込んで、今後の作戦を練ります。

一方、10月20日に春日山城を出発した謙信は、柏崎(かしわざき=新潟県柏崎市)から出雲崎(いずもざき=新潟県三島郡)を経て新潟に着陣・・・永禄十一年(1568年)11月7日いよいよ本庄城への攻撃を開始します。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

このピンチに繁長は、御大=信玄の出陣を要請しますが・・・残念ながら、この頃の信玄は、今川義元(いまがわよしもと)亡き後の駿河(するが=静岡県東部)への侵攻に忙しい・・・【薩埵峠の戦い】参照>>)【今川館の攻防戦】参照>>)

もちろん、これは「本庄より駿河が大事」って事だけではなく、11月の東北は、もはや雪に閉ざされ、行くに行けない状況だった事もあって、冬でも暖かい駿河への侵攻を優先したのです。

現に、本庄城を攻撃していた謙信方も、かなり雪に悩まされたようで・・・しかも本庄城が堅固な要塞なうえに城兵も少数ながらゲリラ戦をウマく展開し、もはや援軍も望めず籠城を続けるだけの本庄城を、謙信はなかなか落とせずにいました。

この状況を見るに見かねた陸奥(むつ=青森・岩手・宮城・福・秋田北東部)蘆名盛氏(あしなもりうじ)伊達輝宗(だててるむね) が、年も押し迫った12月28日に「繁長を許したって~」と謙信に願い出ますが、未だ激おこの謙信はガンとして首を縦に振らず・・・

そのまま年が明けた永禄十二年(1569年)1月9日には、夜の闇に紛れ本庄方の兵が謙信側の陣地を襲撃します。

しかし本庄方も、少数のゲリラ的攻撃では謙信方に大きなダメージを与える事はできず・・・まだまだヤル気満々の謙信は、周辺の農民に
「槍でも鍬でも鋤でも持って集まれ~~参戦したら褒美をつかわす~」
と呼びかけると同時に、先の色部勝永や黒川実氏らから人質と誓詞(せいし)を取って味方の団結を強めますが、3月に入って、今度は本庄繁長本人から蘆名盛氏と伊達輝宗を通じて赦免の願い出が・・・

さすがに、未だ激おこの謙信ではありましたが、進展の無い戦いが、あまりに長引くのも良く無いし、なんたって先の松倉城が、あのままになってますから、ここは一つ東北の諸将の顔を立てて、「繁長の息子を人質として差し出す事を条件に本庄の所領を安堵する」という事で、この戦いの終わらせる事にしたのです。

こうして本庄繁長の乱と呼ばれる戦いは終結・・・

この後、再び松倉城への攻撃に戻る謙信でしたが、なかなか手ごわい松倉城をようやく落としたのは元亀二年(1571年)3月の事・・・

一方、この一件で上杉の配下となった本庄繁長は、謙信の死後、御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)に勝利して上杉の後継者となった上杉景勝(かげかつ)に仕えて縦横無尽の大活躍・・・「上杉にこの人あり」と言われるほどの勇将となるのですから、世の中わからない物です。

ま、その活躍ぶりは、おいおい、その日付にて書かせていただく事にします。
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2018年11月 1日 (木)

一族とともに生きた北条氏の長老軍師~北条幻庵

天正十七年(1589年)11月1日、戦国時代の関東に君臨した北条氏の長老&ご意見番、北条幻庵が97歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

戦国時代、約100年に渡って関東を牛耳る北条氏(ほうじょうし=鎌倉時代の北条氏と区別するため後北条氏とも)・・・その祖となる北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢盛時(いせもりとき)の末っ子=四男として明応二年(1493年)に誕生した(誕生年には諸説あり)とされる北条幻庵(ほうじょうげんあん)(いみな=実名)長綱(ながつな)法名宗哲(しゅうてつ)と言いますが、隠居後に名乗った幻庵の名前が有名なので、本日は幻庵さんと呼ばせていただきます。

Houzyougenan300as そんな幻庵は、幼くして近江(おうみ=滋賀県)三井寺(みいでら=滋賀県大津市)に入寺し、大永四年(1524年)に出家し、箱根権現(はこねごんげん=神奈川県)を祀る箱根権現社(後の箱根神社)別当寺(べっとうじ=神社を管理するための寺)である金剛王院(こんごうほういん)に入りました。

なんせ、この箱根権現は山岳信仰の中心的存在で、あの源頼朝(みなもとのよりとも)以来関東武士の守り神として崇められていて、大きな力も持ってますから、そこに息子を送り込んでおけば何かと有利・・・なので、当然ですが幻庵本人ではなく、父親の思惑ドップリの出家だったわけですが、そのおかげで、幻庵は、他の兄弟たちとは・・・いや、多くの戦国武将の中でも、かなり特異な立場の人物となるのです。

それは北条一門の武将でありながら箱根権現別当金剛王院の院主(いんじゅ=住職・寺の主)=僧侶であるという事・・・

もちろん、武将ですから、馬術や弓にも長け、合戦の記録も複数あるわけですが、何と言っても他者を寄せ付けないほどトップクラスだったのは和歌や連歌、茶道に築庭、さらに、見事な鞍を作ったり、石工や弓細工などなどの芸術的才能です。

中でも、連歌師の宗牧(そうぼく)とは三井寺での修行時代からの友人で、彼が小田原(おだわら=神奈川県小田原市)にやって来た時には国境まで出迎えて歓待し、連歌会を催したりしています。

そう・・・こういう芸術的お付き合いが非常に重要なんです。

連歌師という人は、歌を作るだけでなく、その指導もするわけで、指導する相手には武将もいれば公家もいる・・・それも全国各地に・・・

宗牧の場合など、公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の邸宅や摂関家の近衛家(このえけ)にも出入りし、第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の間を取り持った記録も残っています。

このような独自の人脈を持つ連歌師は、複数の公家や戦国武将の間を自由に行き来し、近隣の情報を得て来てくれるわけです。

もちろん、それは情報を得ると同時に発信する事も可能・・・

たとえば、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉宗滴(そうてき)の回顧録には
「『北条早雲は、普段はめっちゃケチで金を使おうととせんけど、合戦の時には惜しみなく戦費を投入するらしい』という事を連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)から聞いた」
という話が登場しますが、この宗長という人は宗牧の師匠にあたる人・・・なので、情報は、「北条は強いんやゾ!なめんなよ」てな、けん制の意味を込めて、おそらくは意図的に幻庵から宗牧&宗長を通じて朝倉へと流された物?

しかも幻庵は、推定97歳という長寿を全うした事により、結果的に、初代の北条早雲から氏綱(うじつな=早雲の長男)氏康(うじやす=氏綱の長男)氏政(うじまさ=氏康の次男)氏直(うじなお=氏政の長男)北条5代【北条五代の年表】参照>>)に仕える事になりますから、まさに北条家の諜報機関のトップ・・・半分武将で半分僧侶という立場で様々な情報を得て、その情報で以って北条家を支えていたわけです。

逆に、他家へ嫁ぐ娘に贈るために書いた『幻庵覚書(幻庵おほへ書)では、女性としての礼儀作法や心得とともに
「僧侶や芸能関係者をむやみやたらに近付けたらアカンぞ!」
と、いかにも自分がアブナイ事やって来たからこそのアドバイス感満載な事を言っちゃってます。
(若い時に暴れまくってたヤンキー父ちゃんも、娘には、そんなヤツに引っかからんといて欲しいみたいな?www)

ちなみに、長男を早くに、次男&三男を武田(たけだ)との合戦で亡くした幻庵は、もう一人の娘に氏康の三男を婿養子に迎えて、自身の後継者としていましたが、北条と上杉の同盟のためにその三男は越後(えちご=新潟県)へと行く事になり、娘さんとは離縁・・・その彼が御館(おたて)の乱で自害する上杉景虎(うえすぎかげとら)です(3月17日参照>>)

とにもかくにも、その稀にみる才能で芸術家や公家との交流し、情報を集め、その情報を北条家の戦略に活かしていく・・・一見穏やかに芸術を楽しんでいるように見えるその姿は、ある意味、騎当千の荒武者より怖い存在だった事でしょう。

現に、約100年に渡って関東に君臨した北条は、彼の死から半年余りで滅亡する事となります。

幻庵が亡くなったのは天正十七年(1589年)11月1日・・・享年97。

そのわずか23日後に北条が起こした真田とのトラブル(10月23日参照>>)を理由に、豊臣秀吉(とよとみひでよし)宣戦布告(11月24日参照>>)し、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されるのです(12月10日参照>>)

やはり幻庵の死によって、北条の「何かが外れた感」が否めませんね~

ただ、冒頭にも書かせていただいたように、幻庵さんの誕生年も諸説ありますし、亡くなった日付も現在では疑問視する声も出てきていますので、そうなると享年の97歳ってのもあやしくなって来るのですが、初代の早雲の息子でありながら、天正八年(1580年)に5代目の氏直が当主になってから後も、しっかりと活躍している記録が残っていますので、97歳でないとしても、かなりの長寿であった事は間違いなさそう・・・まさに、北条家とともに生き、北条家とともに去っていったと言えますね。

・‥…━━━☆

ところで、ここからは、
この幻庵さんの97歳という年齢に関連して、私個人が少々気になっている事。

幻庵さん以外にも、
先ほどの朝倉宗滴が79歳(8月13日参照>>)
他にも、
毛利元就(もうりもとなり)=75歳(11月25日参照>>)
細川幽斎(ほそかわゆうさい=藤孝):77歳(8月20日参照>>)
藤堂高虎(とうどうたかとら)=75歳(6月11日参照>>)
本多正信(ほんだまさのぶ)=79歳(9月5日参照>>)
大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)=80歳(2月1日参照>>)
などなど、ご高齢で活躍された方がけっこういてはります。

確かな統計が無いので、あくまで予想の範囲=「そうのように考えられている」というデータではありますが、戦国時代の平均寿命は37歳くらいだったとされています。

で、この方たちが話の中に出て来ると、よく言われるのは、
「平均寿命が37歳くらいの頃に80代や90代なんて、かなりのご長寿」
てな事。

もちろん、80代&90代なら、今現在でもご長寿なのですから、これに関しては正解なのですが、気をつけねばならないのは、
「平均寿命が37歳なら、50代くらいでお年寄り=お爺ちゃんの部類に入るんじゃないの?」
あるいは、
「平均寿命が37歳なら、そんくらいで死んでしまう人がたくさんいたのでは?」
という解釈をしてしまう場合がある事です。

ご存じのように、現在の日本人の平均寿命は男性=81歳、女性=87歳で、街中を歩いていても、そのくらいのお年寄りが元気に闊歩しておられますから、「平均寿命」という言葉を聞いて、その言葉通り「普通にしていたらそんくらいまで生きられる年齢」と思ってしまいますが、

実はコレ、「新生児&子供の死亡率が激減した現在」の感覚です。

ほんの少し前(太平洋戦争の頃)でも、未だ乳幼児の死亡率が高く、平均寿命は50歳くらいだったと言われていますが、だからといって50歳でお年寄りだったわけではなく、まだまだ現役でバリバリ働いてますよね。
(ただし、栄養状態が今ほど良くない時代では年齢より老けて見えるという事はあるかも知れませんが…今の50代は若いww)

以前、【七五三の由来】>>のところで、江戸時代には「七歳までは神のうち」という考え方があって、7歳の時に霊的な試練があり、そこを踏み越えれば大人の階段を上る事ができるというような言い伝えがあった・・・てな事を書かせていただきましたが、

それは、それまでに死んでしまうお子様が数多くいた生まれた赤ちゃんが、無事に大人になる確率が低かったという事で、そのために平均寿命が、今よりグンと下がってしまうというわけです。

もちろん戦国時代は、病気以外の危険も多かったですから、幻庵の場合は、半分僧侶であった事で、特に晩年は、ほとんど戦場に出て無かったおかげで、無事に長寿を全うできたという事なのでしょうけど・・・
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2018年10月28日 (日)

応仁・近江の乱~京極×六角の近江争奪戦

文明七年(1475年)10月28日、応仁の乱に絡む京極政経と六角高頼の戦い「佐々木庄の戦い」がありました。

・・・・・・・・・・

Ouninnoransoukanzu2 第8代室町幕府将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後継者を巡っての争いに、管領家(かんれいけ=将軍の補佐・No.2になる家柄)である斯波(しば)畠山(はたけやま)のそれぞれの後継者争いが加わって、応仁元年(1467年)から約10年に渡って日本全国が東西に分かれて戦った応仁の乱(5月20日参照>>)・・・

この時、近江(おうみ=滋賀県)に拠点を置く京極持清(きょうごくもちきよ)は、甥っ子(妹の子)細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)や娘の嫁ぎ先である畠山政長(はたけやままさなが)が属する東軍につき、同じく近江に拠点を置く西軍の六角高頼(ろっかくたかより)との合戦を展開しておりました。

この京極と六角は、ともに宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、平安時代終盤の源平合戦で活躍した佐々木信綱(ささきのぶつな)の息子の代で枝分かれしたものの、同じ近江源氏と呼ばれ全国に広大な領地を持つ同族であり近江2大勢力だったわけですが、上記の通り、同族でも・・・いや、同族だからこそ、立場や損得によって東西に分かれるのが応仁の乱だったわけで・・・

Kyougokusourankeizu ←京極家略系図

ところが応仁二年(1468年)から文明三年(1471年)にかけて、その京極持清と、すでに家督を譲られていた息子の京極勝秀(かつひで)、さらに勝秀の嫡男であった孫童子丸(まごどうじまる)が相次いで亡くなった事から、持清の三男=京極政経(まさつね・政高)と、孫童子丸の兄(叔父または従兄弟の説あり)京極高清(たかきよ・乙童子丸)との間に京極家の後継者争いが勃発するのです。

この間にも、かの応仁の乱は継続中・・・なので東軍に属している政経と敵対すべく、高清一派は六角氏と和睦して西軍へと寝返ります。

この頃、政経派の主将として活躍していた多賀高忠(たがたかただ)と、六角氏で東軍に属していた六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟)の勢いに押され気味だった六角高頼と京極高清は美濃(みの=岐阜県南部)斎藤妙椿(さいとうみょうちん)に援助を要請します。

妙椿も、その主家である土岐氏(ときし)も、応仁の乱には西軍として参加していますので、高頼&高清からの要請があろうがなかろうが、味方のピンチを救うは必至ですから、当然、要請を受けた妙椿は、即座に出陣して国境を越え米原山(まいばらやま=滋賀県米原市)にて京極と一戦した後、近江南部へと進出します。

これを知った高頼も、身を隠していた甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)を出発して妙椿と合流・・・文明三年(1471年)の3月には京極政経&多賀高忠らに勝利して若狭(わかさ=福井県西部)へと敗走させ、近江の地を奪回しました。

この西軍=高頼の勢いを削ぎたい東軍大将=細川勝元は、六角政堯に高頼討伐を命令・・・これを受けて、政堯の拠る清水鼻城(しみずはなじょう=滋賀県東近江市・後の箕作城)には近隣の西軍武将が集結しはじめますが、この動きを知った高頼は、早速、六角旧臣たちをかき集め、先手必勝とばかりに大挙して清水鼻城を攻めまくり、支えきれなくなった六角政堯は文明三年10月(11月とも)、自ら城に火を放って自害しました。

一方、先の米原山の戦いで敗れて若狭に逃走していた京極政経&多賀高忠は、文明四年(1472年)6月頃に近江へと戻り、高頼勢を小競り合いを繰り返していましたが、一旦美濃へ戻っていた斎藤妙椿が、9月になって美濃の大軍を率いて再び高頼の加勢にやって来た事から、西軍=細川勝元側も政経らに援軍を派遣・・・ここに畠山義就(よしひろ・よしなり=西軍)も加わって江北(こうほく=滋賀県の北側)を中心に大きな戦いへと発展きていきます。

そんな中で、高頼が比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)の寺領の横領を画策した事で、比叡山の僧兵や山門衆徒らが政経の味方につき、文明七年(1475年)頃からは一進一退・・・

しかし、やがて、この江北での戦いにも終止符が打たれる時が来るのです。

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観音寺城・本城跡

文明七年(1475年)10月28日、斎藤妙椿の加勢を受けた高頼が、六角氏の本拠である佐々木庄(ささきしょう=滋賀県近江八幡市・観音寺城)において、比叡山の山門衆徒と連合を組む政経勢と大激戦を繰り広げ、高頼方が大勝利を治めるのです。

上記の通り、すでに寺社の荘園の横領等、好き勝手やり始めていた六角高頼の勝利を見た将軍=義政は、比叡山に、再び政経勢と組んで高頼を討伐するようハッパをかけますが・・・実は、この間の文明五年(1473年)に西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)&東軍総大将の細川勝元の両巨頭が相次いで亡くなった(3月18日参照>>)ために、全国武将を巻き込んだ応仁の乱は急速に勢いを失い、翌文明六年(1474年)には両巨頭の息子たち(山名政豊&細川政元)よって和睦が成立していたのです。

結局、応仁の乱に絡む江北での戦いは、この佐々木庄の戦いが最後になりました。

とは言え、高頼は、今度は将軍家の敵となり、それはやがて近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)へと発展・・・この流れに乗じた京極政経が、逃走先の出雲(いずも=島根県)から、近江奪回=高頼討伐を目指して上洛して来るのは長享元年(1487年)の事ですが、

そのお話は【京極騒乱~祇園館の戦い】の後半部分でどうぞ>>(前半部分は今回のお話とカブッてますが、ご了承を…)

・・・にしても、応仁の乱の時は、ホント、あっちもこっちも後継者争いで・・・結局、それが、同族同士でのつぶし合いとなってしまって、室町幕府政権下で大物として君臨していた武将たちの多くが、その配下である守護代、あるいは、もっと配下の国人に取って代わられる事になっていくのでしょうね。

このあたりの事、もはや描きつくされた織豊時代(しょくほうじだい=信長&秀吉の時代)よりも断然おもしろくなりそうなので、ぜひとも、ドラマ等で見てみたい物ですね~

まぁ、出演者が多すぎて難しいかも知れませんが・・・
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2018年10月23日 (火)

秀吉の但馬攻略~岩州城&竹田城の戦い

天正五年(1577年)10月23日、織田信長の命による但馬攻略のために姫路城に入った羽柴秀吉が播磨諸将の人質を取りました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)、翌10月に、その義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)した事で、一旦、岐阜(ぎふ)へと戻りました。

その翌年の永禄十二年(1569年)、自らが滅ぼした大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)が、その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党に協力する姿勢を見せた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「けん制してほしい」と信長に依頼します。

これを受けて、信長は直ちに配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を大将にした2万の軍を派遣・・・居城の此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)を攻撃された山名祐豊は(さかい=大阪府堺市)へと亡命し、ここで一旦、山名は滅亡となりますが、その後、祐豊が信長に謁見して配下となる事を約束した事で、元亀元年(1570年)、今度は、信長の威光を背景に有子山城(ありこやまじょう=兵庫県豊岡市)主として、祐豊は再び但馬に戻っていました。

その後、信長が、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)北近江(きたおう=滋賀県北部)浅井(あざい)(8月28日参照>>)、さらに将軍=義昭(7月18日参照>>)とも本願寺顕如(けんにょ)(9月12日参照>>)らとも敵対した事から、信長は、彼らを支援する毛利とも敵対関係になり、逆に天正元年(1753年)に尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)が信長の傘下となった事から、その尼子の家臣である山中幸盛(やまなかゆきもり=鹿介)らと協力して山名祐豊も毛利と戦う事になるのですが、

この頃は、山名の但馬を含め、東からの新興勢力の信長と西国に君臨する毛利とのハザマで揺れる丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)播磨(はりま=兵庫県南西部)因幡(いなば=鳥取県東部)美作(みまさか=岡山県東北部)備前(びぜん=岡山県東南部)等の近隣の国人領主たちは皆、どちらの強国に属するべきか?を模索していたわけで・・・

そのため、毛利方についた赤井忠家(あかいただいえ)(8月9日参照>>)武田高信(たけだ たかのぶ)らの侵攻を受けて戦う山名祐豊でしたが、いかんせん、以前に一旦滅亡している事もあってか、家臣団の統率をうまくとる事ができず、ここに来て、山名の宿老であった垣屋氏や八木氏らが毛利と通じるようになってしまうのです。

Hideyositazimakouryaku←クリックで大きく
秀吉の但馬攻略ルート

 (背景は地理院地図>>)

播磨支配を目指す秀吉としては、進行方向の側面に当たる但馬には静かにしておいてもらいたい・・・ちょうどその頃、いち早く信長の才能を見抜いて、自らの主君=小寺政職(こでらまさもと)に信長傘下になる事を進言して、すでに味方になっていた黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=後の如水・当時は小寺孝高)(11月29日参照>>)が、自らの居城であった姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)秀吉に提供する事を申し出たのです。

かくして天正五年(1577年)10月23日官兵衛の迎えで姫路城に入った秀吉は、周辺の諸将に人質を出させて服従を誓わせますが、もちろん、ここに来ても毛利側につく気満々の武将もいるわけで・・・

そんな中、10月28日には「11月の10日頃には決着つくと思います」と報告して信長を大いに喜ばせていた秀吉は、未だ従わない諸城を攻略すべく、11月初め、市川(いちかわ)に沿って北上して朝来(あさご)へと浸行していきます。

このルートは播磨からの防御とともに生野(いくの)銀山という金のなる木を入手できる絶好の要路・・・そのルートの先にあったのが岩州城(いわすじょう=兵庫県朝来市)でした。

この岩州城を守っていた武将については、物部(もものべ)山口(やまぐち)など複数の伝承があるものの、この時の秀吉が、岩州城を攻略した後、間髪入れず、その北側にある竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市)に向かう事を踏まえれば、山名宗全(やまなそうぜん=応仁の乱の西軍大将)の時代から、その竹田城の守備を任されていた太田垣氏(おおたがきし)の将が守っていたとする『武功夜話』の記述が、案外当たっているかも知れません。

ただし、『武功夜話』では、この時の但馬侵攻の総大将は羽柴秀長(ひでなが=秀吉の異父弟)で、秀吉自身は出陣していないと記していますが、11月9日の日付で発給された秀吉の禁制が現地の法宝寺(ほっぽうじ=朝来市和田山町)というお寺に残っているそうなので、やはり秀吉は総大将として現地入りしていたものと思われます。

・・・で、この通り、秀吉のいるいないが疑問になる事や、『信長公記』などの文献でも、この戦いの事がいたくアッサリとしている事から、この岩州城の戦いは、城兵の抵抗も、ほとんど無かったと考えられています。

ほどなく岩州城を攻略した秀吉は、その足で、さらに北に位置する竹田城へ・・・この竹田城を守っていたのは、山名祐豊の重臣でありながら、すでに毛利の吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)に通じていた太田垣輝延(おおたがきてるのぶ)でした。

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竹田城跡(兵庫県朝来市)

今や、天空の城または日本のマチュピチュとして全国的に有名になった竹田城(12月21日参照>>)ですが、雲海に浮かぶ華麗な石垣群が構築されたのは、この竹田城の最後の城主となった赤松広秀(あかまつひろひで)(10月28日参照>>)の頃であったとされ、おそらく、この天正五年の段階では、未だ(とりで)と呼ぶべき小規模な要塞であった事でしょうが、

そんな竹田城に秀吉の大軍が押し寄せたのですから、ひとたまりもありません・・・

なので、かの『信長公記』でも
「小田垣(太田垣)楯籠(たてこも)る竹田へ取り懸(かか)げ、是(こ)れ又、退散」
と、やはりここも、いたくアッサリと攻略した雰囲気で書かれています。

とは言え、山名四天王とまで言われた太田垣氏が、この竹田城の落城で以って滅亡するわけですし、丹波・播磨・因幡を結ぶ要所であるこの地を抑えれば実質的に但馬を制圧したも同然の場所なわけですから、それなりの戦いがあった事は確か・・・そこの詳細な部分は、今後の歴史研究や新発見に期待すべきところでしょう。

とにもかくにも、10月下旬から11月にかけての20日余りの期間に、岩州城から竹田城、そして太田垣氏と同じく山名四天王の一角であった八木氏(やぎし)八木城(やぎじょう=兵庫県養父市八鹿町)三方城(みかたじょう=兵庫県養父市大屋町)などの諸城を攻略した秀吉は、

いよいよ11月29日、赤松政範(あかまつまさのり)上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)に攻めかかるのですが、そのお話はの【信長の山陽戦線~秀吉の上月城攻め】のページ>>でどうぞ
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2018年10月16日 (火)

三好長慶の八上城攻略戦

弘治三年(1557年)10月16日、三好長慶が丹波八上城を攻め、龍蔵寺城を攻略しました。

・・・・・・・・・・・

丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)地方の小さな国人(こくじん=在地の武士)の一人に過ぎなかった波多野稙通(はたのたねみち)が、応仁の乱での功績によって細川勝元(ほそかわかつもと=東軍の大将)配下の有力武将となって築城したとされる八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)

その後の細川家内の後継者争いの真っ最中だった大永六年(1526年)、重臣として仕えていた弟を殺害された事で、その主君であった細川高国(たかくに=勝元の孫(養子))と敵対し(10月23日参照>>)、高国との後継者争いの相手であった細川晴元(はるもと=勝元の孫(養子)の息子)に近づいて、ともに高国を京都から追い出して(2月13日参照>>)晴元政権樹立に成功し、稙通も評定衆(ひょうじょうしゅう=政権下の最高機関)の一人に名を連ねたのです。

とは言え、稙通自身は天文十四年(1545年)頃に死没したようで、波多野の家督は嫡男の波多野晴通(はるみち)が受け継ぎます。

Miyosinagayosi500a ところが、今度は、その晴元が重臣の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と対立・・・長慶は、晴元の領国である阿波(あわ=徳島県)守護代を務める重臣中の重臣で、稙通も自らの娘(晴通の妹)を嫁に出して縁を繋いでいた相手だったのですが、この一件により、その奥さんも離縁の憂き目に・・・

そんな中、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで長慶に完敗した晴元は、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を伴って近江(おうみ=滋賀県)へと逃れました(6月24日参照>>)

ただし、翌年の天文十九年(1550年)5月には、その将軍=義晴が避難場所の坂本にて病死・・・それを受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)足利義輝(よしてる)第13代室町幕府将軍に就任しています。

その後、志賀の戦い(2月16日参照>>)を経た天文二十一年(1552年)の正月には晴元が出家した事で両者の間に和議が成立し、事実上の三好政権が誕生していたわけですが、やはり、京都奪回の夢を捨てきれない晴元は、軍を起こしてなんやかやの動きを見せていたのです。

そんな晴元に同調したのが波多野晴通・・・この動きを知った長慶は、八上城を攻略すべく、この年の4月に、重臣の松永久秀(まつながひさひで)を伴って丹波に出陣します。

しかし、八上城包囲中のさ中に、味方として三好軍に従っていた芥川孫十郎(あくたがわまごじゅうろう=長慶の妹婿もしくは娘婿)池田長正(いけだながまさ)が波多野側に内通して謀反を計画している事を察知した長慶は、5月23日に八上城の包囲を解いて一旦、越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)へと帰還します。

これにより、少しは勢いづいた晴元&晴通側でしたが、翌天文二十二年(1553年)8月、長慶はすかさず反撃・・・芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)を攻めて孫十郎を阿波へと敗走させたうえ、この混乱で京に攻め入っていた丹波勢を破って将軍=義輝を再び近江へと退けて京を制圧し、むしろ三好政権を盤石な物にしたのです。

と、なると、やはり、未だ攻略できていない波多野が目障り・・・って事で9月3日、長慶の命を受けた松永久秀が八上城を包囲します。

しかし、ほどなく、晴元方の香西元成(こうざいもとなり=細川家臣)三好政康(まさやす・宗渭=後の三好三人衆の一人)が背後から奇襲をかけて来たため、やむなく松永勢は退去しました。

次に三好軍が八上城を攻撃するのは天文二十四年(1555年=10月に弘治に改元)の事・・・すでに長慶は、畿内全域と阿波に加え、淡路(あわじ=兵庫県淡路島)播磨(はりま=兵庫県南西部)の東半分も手に入れて、もはや敵無しの状態になっていましたが、それでもやっぱり敵対する八上城の波多野・・・

そこで長慶は、その年の9月になって、いつの間にか長慶の傘下になっていた、かの三好政康を八上城攻略に当たらせる事にし、政康軍は生瀬(なませ=宝塚市)から丹波に入り、八上城を包囲します。

ところが、この時は、晴元自身が援軍を率いてやって来た事から、またもや攻略に失敗してしまいました。

しかし・・・
たび重なる失敗にもめげない長慶は、またまた八上城を攻めるべく軍を起こし、弘治三年(1557年)10月16日、波多野方の龍蔵寺城(りゅうぞうじじょう)を攻略します。

とは言え、ここらあたりの記録は不明な事が多いです。

実は、この龍蔵寺城の位置もハッキリとはわかっておらず、多紀郡(たきぐん)周辺にあったであろう」との事なのですが、この多紀郡は現在の篠山市ですので、おそらくは八上城の近くにあった支城なのでしょう~くらいの事しかわかっていません。

『細川両家記』では
「三筑(長慶)の衆い又 屋上(八上)へ出陣して龍蔵寺責落也」
とあり、ここからしばらく波多野が消息不明となります。

次に波多野が登場するのは、長慶亡き(5月9日参照>>)後の三好から、この八上城を奪回する永禄九年(1566年)2月26日の時の事・・・

そこに
「丹州屋上(八上)城に松永弾正正忠(久秀)の甥松永孫六と申人入城候処」
とあるので、先の弘治三年の八上城攻めで龍蔵寺城を攻略した後に八上城も落とし、そこに松永久秀の甥っ子が入城して城主となっていた事がうかがえます。

ここで、元八上城主だった波多野晴通の息子=波多野秀治(はたのひではる)が、包囲した八上城内の水の手を断って枯渇させたところ、飢えに苦しむ兵士たちが次々に逃亡していく事態となり、やむなく孫六も城を脱出して尼崎(あまがさき=兵庫県尼崎市)へと退却・・・

こうして、新当主=秀治によって、波多野は9年ぶりに八上城を奪回したのでした。

以後、秀治は、ここを拠点に武勇を誇り、
やがて織田信長(おだのぶなが)の命を受けて丹波平定にやって来る明智光秀(あけちみつひで)と対峙する事となるわけです。

※光秀の丹波平定に関しては
【籾井城の戦い】>>
【福知山攻略戦】>>
【八上城攻防戦】>>
【黒井城の戦い】>>
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2018年10月10日 (水)

大仏炎上~東大寺大仏殿の戦いby松永×三好・筒井

永禄十年(1567年)10月10日、松永久秀対三好三人衆&筒井順慶連合軍の東大寺大仏殿・多門城の戦いで大仏殿が炎上しました。

・・・・・・・・・・

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)は、やがて寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちの中から、興福寺に属する『衆徒』の代表格である筒井(つつい)や、春日大社に属する『国民』の代表格=越智(おち)十市(とおち)、さらにこの3家に箸尾(はしお)を加え、『大和四家』と称される者たちが群雄割拠する室町時代を迎えていましたが、ここ奈良の守護(しゅご=室町幕府政権下でも県知事的役割)管領家(かんれいけ=将軍の補佐をする家柄)畠山(はたけやま)であった事もあって、その畠山氏や、同じく管領家の細川(ほそかわ)などの争いに巻き込まれていたわけですが・・・
【京軍の大和侵攻】参照>>
【井戸城・古市城の戦い】参照>>
【天文法華の乱~大和一向一揆】参照>>

そんな中、これまで長年抗争を繰り返していた越智氏に勝利し(9月15日参照>>)、その後、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで大和の大半を手中に治めつつあった筒井順昭(つついじゅんしょう)が天文十九年(1550年)に病死し、わずか3歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が引き継ぐ事になった頃、

このタイミングで新たな支配者となるべく大和に乗り込んで来たのが、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い細川晴元(はるもと)を破って(6月24日参照>>)後、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)とも和睦して(6月9日参照>>)事実上の天下人となっていた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)でした。

永禄二年(1559年)頃から大和への侵攻を開始した久秀は、信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していきます(7月24日参照>>)

しかし、そんな久秀の活躍とはうらはらに、永禄四年(1561年)に3番目の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが)(5月1日参照>>)、翌・永禄五年(1562年)にすぐ下の弟=三好実休(じっきゅう=義賢・之康)(3月5日参照>>)、さらに、その翌年の永禄六年(1563年)に息子の三好義興(よしおき=長慶の長男)を失った三好長慶は一気に病気がちになり、しかも永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入ったを長慶自らの勘違いで手にかけてしまい、その後悔の念からか?その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は廃人のようになってこの世を去ってしまう(5月9日参照>>)のです。

やむなく、三好家では長慶の甥=三好義継(よしつぐ)を当主に迎え、補佐役として三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)の3人=三好三人衆が若き当主を支えていく体制となりますが、そんな三好三人衆は永禄八年(1565年)5月に将軍の足利義輝を暗殺して(5月19日参照>>)、自分たちの意のままになる足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を新将軍に擁立しようと企みます。

この将軍暗殺劇には、晩年に病気がちになっていた長慶に代わって、事実上、三好政権を切り盛りしていた久秀も協力していたとも言われていますが、一方で、その暗殺劇から、わずか半年後の11月には、奈良の支配を巡って未だ久秀と絶賛敵対中だった筒井順慶と三好三人衆が同盟を結んで、久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃していますので、おそらく久秀は、将軍暗殺には関わっていないかも・・・

で、これを受けた久秀は、電光石火の速さで、その2日後に順慶の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲して奪い取りました。

ただし翌年、紀伊(きい=和歌山県)河内(かわち=大阪府東部・南部)の守護でもあった畠山高政(はたけやまたかまさ)らに協力して、(さかい=大阪府堺市)にいた三好の当主=三好義継を攻撃すべく、久秀が本拠の多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を留守にしたスキを狙って筒井順慶は筒井城を奪回しています。

ところが、その堺での合戦の後、久秀と和睦した義継が対立気味だった三好三人衆と決裂・・・永禄十年(1567年)4月に信貴山城に戻ってきた久秀とともに、その義継も信貴山城に入ったのです。

その6日後の4月11日、久秀が多聞山城に戻った事を受けて三好三人衆と筒井勢、さらに池田勝正(いけだかつまさ=摂津池田城主)らを加えた連合軍が奈良近辺の大安寺(だいあんじ=奈良県奈良市)白毫寺(びゃくごうじ=同奈良市)等に布陣を開始・・・その数、約1万~2万

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白毫寺から奈良市街を望む

これを迎撃すべく、久秀は東大寺(とうだいじ=奈良市)戒壇院(かいだんいん)転害門(てがいもん)に軍勢を配置します。

4月24日夜には、すでに南大門(なんだいもん)周辺に両軍が放つ銃声が響き渡り、両者の小競り合いも後を絶たず、僧や市民も眠れぬ夜を過ごす事になる中、三好&筒井連合軍は大乗院山(だいじょういんやま=奈良市高畑)天満山(てんまやま=同高畑)に陣を移動させますが、久秀の本拠である多聞山城は、東大寺より北にあるため距離が遠い・・・

そこで順慶は縁のある興福寺を通じて東大寺の境内に布陣させてもらえないか?打診すると、コレが即OK・・・なんせ、上記の如く、すでに松永勢はことわりもなく布陣しちゃってますから、寺側も「戦火に見舞われないか」必死なわけで、松永勢けん制のためには、彼ら連合軍に近くにいてもらった方が安心というもの・・・

そして、5月2日に連合軍のうち約1万が二月堂(にがつどう)大仏殿回廊に布陣すると、この日から、久秀自らも戒壇院に立て籠もります。

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東大寺:戒壇院           転害門

連合軍は随時、東大寺境内の陣所を変えながら、たまに一隊が多聞山城を攻めつつ、しばらくの間、一進一退のこう着状態が続きますが、この間、連合軍の陣所に利用される事を防ぐべく、松永勢はアチラコチラに火を放ち、一部の門や生垣等が、この時点ですでに焼失・・・少し離れた般若寺(はんにゃじ=奈良市般若寺町)なども、この時に焼失しています。

そんなこう着状態が破られるのは8月25日の事・・・三好三人衆の配下であった飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)の城主=松山安芸守(まつやまあきのかみ)松永方に寝返ったのです。

そのため、やむなく連合軍は、その一部を河内(かわち=大阪府東部)へと派遣せざるを得なくなりますが、もちろん、これは久秀の作戦で、数に劣る松永勢は、このおかげでちょっと楽に・・・この頃には、松永勢が寺院を焼く事も、ほぼ無くなっていたものの、両軍の小競り合いは相変わらず続き、徐々に、数に勝る連合軍が有利になっていくのです。

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東大寺大仏殿の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永禄十年(1567年)10月10日この状況を打開すべく、久秀が動きます。

東大寺の大仏殿付近に布陣していた三好軍に攻撃を仕掛けた松永軍・・・
『多聞院日記』では・・・「数度の合戦の後、穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それが大仏殿回廊へ延焼して深夜に大仏殿が焼失した」

『東大寺雑集録』には・・・
「大仏中門堂へ松永軍が夜討をかけて中門堂と西の回廊に火が放たれて焼失した」
とあります。

しかし、一方で宣教師=ルイス・フロイス『日本史』では、
「連合軍の中に我ら(イエスズ会)の同僚がおり、夜、密かに火を放った」
と、キリシタン兵士が大仏殿に放火した事が書かれています。

この「誰が放火したのか?」の犯人探しについては、未だ様々な説があって結論は出ていないのですが、とにもかくにも、ここで大仏殿が炎上した事で、布陣じていた連合軍は総崩れとなり、備えの兵として残した一部を除いて、ほとんどが摂津(せっつ=大阪府北中部と兵庫県の南東部)山城(やましろ=京都府南部)へと退去していったのです。

焦土と化した一帯では、寺院や宿坊を狙った強盗&略奪・・・いわゆる火事場泥棒が頻発した事により、翌11日には、三好義継と松永久秀、そして松永久通(ひさみち=久秀の息子)の連名で禁制(きんせい=犯行を禁じる)を発布しています。

この禁制発布は、イコール、この奈良の地が彼らの統治する場所になった事を意味しますので、合戦の結果としては松永方の勝利というところは間違いないでしょう。

もちろん、かと言って、三好や筒井らが、このまま引っ込んでしまうはずはなく、その後もチョコチョコ多聞山城に攻撃を仕掛けたりと、小競り合いを展開していくのですが・・・

そんなこんなの永禄十一年(1568年)・・・あの大仏殿炎上から約1年後の9月、三好三人衆に暗殺された前将軍=義輝の弟である足利義昭(よしあき)(10月4日参照>>)を奉じてアノ男が上洛して来ます(9月7日参照>>)

織田信長(おだのぶなが)です。

9月29日に摂津に侵入した信長のもとに、いち早く参じてその傘下となり、領地安堵を取り付ける三好義継と松永久秀・・・一方、敵対覚悟の三好三人衆と出遅れてしまった筒井順慶。

当然ですが、もはや三好三人衆は信長相手に手いっぱいで松永と筒井の抗争に人数を割く余裕すらありません。

こうして信長という後ろ盾を得た久秀は永禄十一年(1568年)10月に筒井城を攻撃し、敗れた順慶は福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して落ちていきました(11月18日後半部分参照>>)

とは言え、乱世の梟雄(きょうゆう)松永久秀が、このまま、親子ほどの年の差がある信長のもとで大人しくしているはずは無いわけで・・・

て事で、そのお話は
【多聞山城の戦い】>>
【信貴山城の戦い】>>
でご覧あれ(o^-^o)

周辺の歴史散歩コースは、姉妹サイト「京阪奈ぶらり歴史散歩」奈良春日野コースで>>(別窓で開きます)
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2018年10月 3日 (水)

長束正家、無念の自刃~関ヶ原・水口岡山城の戦い

慶長五年(1600年)10月3日、関ヶ原での敗戦の後に籠っていた近江水口(岡山)城を出た長束正家が近江桜井谷で自刃しました。

・・・・・・・・・・

豊臣政権下の五奉行の一人=長束正家(なつかまさいえ=「ながつか」とも)は、かつて近江(おうみ=滋賀県)の覇者だった六角氏(ろっかくし)の家臣で、もとは水口城(みなくちじょう滋賀県甲賀市水口町=岡山城)主だった水口盛里(みなくちもりさと)の長男として尾張(おわり=愛知県西部)に生まれたとされますが、そのあたりの事はよくわかっていません。

正家がハッキリと歴史上に登場するのは、織田家の家老として活躍していた丹羽長秀(にわながひで)家臣としての登場・・・

どうやら彼は、もともと計算に長けていたようで、その才能をかわれて長秀のもとに就職していた頃、
「算勘(さんかん)に達し、其外(そのほか)兵術を得たる事、世に隠れなし」(『名将言行録』)
だったようで・・・そのために、彼に「その術を習いたい」という若者が、領国の内外からひっきりなしに訪れ、正家宅は常に人で賑やかだったと・・・

その噂を聞きつけた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が長秀に彼を所望して、正家は金銀出納係として秀吉に仕えるようになります。
(一説には、ここで秀吉に仕える事で、敵に内通した疑いをかけられていた長秀の窮地を救ったと言われています)

まずは試しに金銭にまつわる細かな作業をさせてみると、これがなかなか良い・・・
そこで、諸国からの献上金の入出の運営を任せてみると、これまた、官民誰もが損をしないよう見事に処理してみせる・・・

感心した秀吉は、正家を豊臣の直参として抱えますが、間もなく勃発した小田原攻め(11月24日参照>>)で、兵糧奉行を任された正家は、すばやく兵糧を確保して現地へ輸送したばかりか、小田原周辺の米を買い占めて敵地を兵糧不足に追い込みました。

ちなみに、この時、同じく小田原攻めに従軍していた徳川家康(とくがわいえやす)は、配下の兵糧係が事前に兵糧の準備をしていたものの「現地で調達すれば、運送費もかからんし…」と、その兵糧を沼津(ぬまづ=静岡県)に置いたままにしていたため、その兵糧担当を呼びつけ、
「今回は、してやたれた~合戦には武功も大事やけど、こういう計算も大事や。
せやからこそ秀吉さんもヤツを重用するのやろ~」

と正家の才能を認め、話を聞いた兵糧係は「申し訳ございません!(ノ_-。)」と冷や汗をかいて退散したのだとか・・・

そんな徳川家と正家は、彼が、徳川四天王の本多忠勝(ほんだただかつ)の妹を娶った縁もあって、徳川秀忠(とくがわひでただ=家康の三男)が上洛した際には、その出迎え係をするほどに、徳川家とも密接な関係だったと言います。

その間にも、検地や蔵入地(くらいりち=直轄地)の運営等もこなしていた正家は、文禄4四年(1595年)に近江水口5万石を拝領し水口城主に・・・そして、豊臣政権の五奉行にも名を連ね、ますます政権内での事務方の手腕を発揮する事になるのですが。。。

しかし、やがて訪れた御大=秀吉の死(8月9日参照>>)・・・この慶長三年(1598年)8月の秀吉の死によってバランスを崩し始めた豊臣政権は、その翌年の大御所=前田利家(まえだとしいえ)の死を引き金に、正家らの事務方(文治派)と、加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)武闘派合戦で武功えを挙げる派)との亀裂が表面化するのです(3月4日参照>>)

その亀裂をウマイ事利用し、画策し始めたのが五大老筆頭の徳川家康・・・なんせ、亡き秀吉から豊臣政権を任された五大老のうち、利家が亡くなって、その座を息子の前田利長(としなが)受け継げば、残りの3人は天文二十二年(1553年)生まれの毛利輝元(もうりてるもと)、元亀三年(1572年)生まれの宇喜多秀家(うきたひでいえ)、亡き小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利輝元の叔父)に代わって五大老になった弘治元年(1556年)生まれの上杉景勝(うえすぎかげかつ)・・・と、1番年上の輝元とも10歳の隔てがある家康は、その老獪ぶりを発揮して、まさに豊臣政権の筆頭としてふるまうようになったのです。

こうして徐々に五大老や五奉行の追い落としを図る家康は、上記の文治派と武闘派のモメ事関連で五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)を謹慎処分に追い込んだ後、前田と上杉、そして五奉行の一人の浅野長政(あさのながまさ)「謀反の疑いあり」と主張・・・この時、反発を抑えた前田家は利家の奥さん=まつを江戸へと下向させて(5月17日参照>>)合戦を回避し、浅野家も長政が隠居して恭順姿勢をとります。

しかし、残った上杉は喧嘩上等!とばかりに反発(4月14日参照>>)・・・この上杉に対し、家康が大軍を率いて会津征伐を行うべく東に向けて出陣するのですが、この家康が畿内を留守にしていた間の慶長五年(1600年)7月17日に、諸大名に向けて『内府ちがひの条々』が発布されるのです。

これは、これまでの家康の、秀吉の遺言に背くあんな事やこんな事を書き連ねた告発状で、事実上の宣戦布告・・・その書状の署名は、五奉行のうち謹慎中の石田三成と浅野長政を除いた前田玄以(まえだげんい)増田長盛(ましたながもり)、そして本日の主役=長束正家でした(7月18日参照>>)

つまりは、五大老のうち3人(毛利・上杉・宇喜多)&五奉行のうちの4人(前田・増田・長束・石田)を敵に回した家康・・・
(前田家は兄=利長が東軍(徳川)、弟=利政は西軍…7月14日参照>>

しかし、その見事な手腕で、自分が率いていた会津討伐隊を自身の徳川軍にする事に成功(2012年7月25日参照>>)した家康は、会津征伐を中止し、Uターンして西へと戻ります・・・こうして両者がぶつかったのが、ご存じの関ヶ原の戦い・・・(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)

この時の正家は、上記の『内府ちがひの条々』の一件でもお察しの通り、早い段階から三成主導の西軍として行動し、一説には会津征伐に向かう家康の暗殺まで企てていたと言われますが(その時は家康が水口を素通りしたため決行ならずだったらしい)・・・その後の前哨戦では安濃津城(あのつじょう=三重県津市)を攻略(8月25日参照>>)するなど東海方面で転戦した後、9月15日の本チャンの関ヶ原では南宮山に布陣しました(関ヶ原の合戦・布陣図を別窓で開く>>)

しかし、この時、ともに南宮山に布陣していた毛利勢が・・・実は、家康と密約を交わしていたのです(くわしくは9月28日参照>>)

「戦いに参加しなければ所領を安堵する」
という家康との密約を信じていた吉川広家(きっかわひろいえ=毛利輝元の従兄弟)の判断で、大坂城に詰めていた西軍総大将の輝元の名代で現地にいた毛利軍の大将である毛利秀元(ひでもと=輝元の従兄弟)も、まったく軍勢を動かさなかった事から、その後方に布陣していた正家も、まったく関ヶ原の本戦に参加する事ができなかったのです。

そんな中、ご存じのように、その日の午後2時頃には、西軍の負けがほぼ決定的となり(2008年9月15日参照>>)、やむなく正家は戦線を離脱し、一旦、佐久良(さくら=滋賀県蒲生郡日野町)に身を隠した後、9月の末頃になって、ようやく本拠の水口城に入る事ができました。

しかし、関ヶ原本戦が西軍の負けとなった以上、当然、この水口城にも勝者=東軍の追手がやって来るわけで・・・やがて、この水口城を囲んだのは、池田輝政(いけだてるまさ)の命を受けた池田長吉(ながよし=輝政の弟)率いる池田隊と亀井茲矩(かめいこれのり)らの軍勢でした。

とは言え、なかなかの堅城であった水口城を攻めあぐねた池田勢・・・

そこで、池田の家臣であった舟戸久左衛門なる武将が懐に3~4寸の鉄板を忍ばせて城へと出向き、正家を説得します。

「今、降伏されたなら、あなた方や兵卒の命はもちろん、所領も安堵するとウチの殿様が言うております。
ソチラは安濃津の城攻めに疲れ、関ヶ原では武功を挙げられなかった事に憤り、城を枕に討死覚悟と思っておられるのかも知れませんが、今なら平和的に解決できます」

と、舟戸が、そばにいた小姓に持って来た鉄板を火であぶらせ、同じく懐に用意していた牛王(ごおう=牛王宝印・起請文を書くための牛頭天王の護符)を取り出して、その旨を訴えると、正家は涙を流しながらその説得に応じ、開城を決意したのだとか・・・
(この時代、神に誓う約束事は違えない=破れば神罰が下るという暗黙の了解がありました)

また一説には、
「兄=輝政は、正家殿の事を、幼き頃よりともに育った竹馬の友だと思っていますので、友達とは戦いたくないと言うてます。
もう、西軍は負けました…これ以上は何のために籠城する必要がありましょうか。
速やかに降伏して城を明け渡してくださったなら、命の保証と所領安堵をしてもらえるよう徳川様に取り計らいます」

という池田長吉の説得に応じたとも言われます。

とにもかくにも、何かしらの説得に応じて、水口城を明け渡す決意を固めた正家でしたが、これが池田勢の謀略であり、正家らは城を出たところを捕縛されてしまった後に切腹したとも、
城を出てすぐに欺かれた事に気づき、何とか、再び佐久良まで逃げたものの、追手に囲まれて中之郷にて自刃したとも・・・

また、白装束で池田隊&亀井隊を出迎え、家臣の介錯によって覚悟の自刃を遂げたとも言われますが、いずれにしても、慶長五年(1600年)10月3日長束正家はこの世を去り、その首は、家康の命により、三条橋の袂に晒されたのです。

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長束正家の逃亡経路
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

男盛りの39歳・・・おそらくは、同じ死ぬのであれば、欺かれてからの切腹より、あの天下分け目の戦場にて大いに腕を奮い、華々しく散るのが戦国男子の本望だった事でしょう。

しかも・・・
さらに悲しい事に、この時、臨月だった奥さんは逃亡生活のさ中に出産するも、産後の肥立ちが悪く、間もなく死亡してしまったのだとか・・・悲しすぎる(ρ_;)
(残された男児は生き残った家臣に育てられ、後に僧になったとか…)

一方、今回の関ヶ原での一連の功績で、大幅加増されて播磨(はりま=兵庫県西部)姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)の城主となった池田輝政は、勝利の象徴とも言うべきその城を、現在の国宝&世界遺産になるほどの大きな城に作り替える事になります。

とは言え、その立派な城郭とはうらはらに、姫路城は、輝政の病気がち(7月22日参照>>)を皮切りに、その後も、様々な理由で城主が頻繁に交代する城でもありました。

そこには、噂される怨霊や七不思議(7月28日参照>>)・・・というよりも、友を欺いてでも、勝たねば生き残れなかった戦国武将の苦悩が見え隠れするような気がします。
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