2020年1月 1日 (水)

新年のごあいさつ…そして今年は「麒麟がくる」

 

新年 明けましておめでとうございます

2020coco

今年も、歴史のあんな事、こんな事、
色々と楽しんでいきましょう!

ところで…
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」

私も、かなり昔からの大河ドラマファンですが、やはり大好きな戦国時代の一年だとウレシさ倍増です。

題名にある「麒麟」は、ご存知のように動物園にいるあのキリンではなく、中国の神話に登場する想像上の生き物・・・いわゆる霊獣(れいじゅう)とされる麒麟(きりん)ですね。

霊獣は瑞獣(ずいじゅう)とも言われ、この世に存在するありとあらゆる動物たちのご先祖、あるいは、その種の根源であり長であるとされ、瑞兆(ずいちょう=良い事が起こる前兆・吉兆)=つまり、良い事が起こる時に姿を現すとされています。

霊獣の中でも、四霊(しれい=あるいは四神)に含まれる4種の瑞獣は特別視されていて、麒麟は、その4種の中に入っています。

4種の中で、最もよく知られているのが(りゅう=応竜)・・・日本でも多くの伝説や昔話に登場し、竜神伝説など恵みの雨をもたらす神獣としても知られていますが、中国では徳のある皇帝のシンボルとされ、建物や絵画等にも多く用いられています。

一方、徳のある皇后のシンボルに用いられるのが鳳凰(ほうおう)・・・クジャクのような鳥の姿で、雄が「鳳(ほう)、雌が「凰(おう)なので、つまりは鳳凰と言えば雄雌一対の事を指しますので「皇帝の龍に対する皇后の鳳凰」とされる一方で、鳳凰だけでも徳の高い王者の出現を指す場合もあるようです。

次に霊亀(れいき)・・・字でお察しの通り、霊的な亀の事で、仙人が住むとされる蓬莱山(ほうらいざん)を背負う姿である事から、長寿を表すとともに、治水に長けた帝王の出現を現しているとされます。

そして麒麟・・・あらゆる獣の長であり、仁の心を持つ君主が出現する時に姿を現すとされ、一方で、殺生を嫌いどんな生命も傷つけない。。。移動する時には小さなアリも避けて通るのだとか・・・

大河ドラマの麒麟は、この「仁の心を持つ君主」「殺生を嫌う」あたりから発展した「麒麟がくる」なのでしょうね。

瑞獣には、四霊のほかにも、
平安な世に現れる霊鳥=(らん)
善悪を冷静に判断できる優れた審判者が現れる前兆で羊に似た一角獣の獬豸(かいち)
王の守り神でありながら、その王に徳が無いと見るや革命を起こすという九尾の狐(きゅうびのきつね)
などがあります。

・・・で、ここまで書いててお察しの通り、私個人的に抱く明智光秀(あけちみつひで)という人のイメージは、麒麟というよりは九尾の狐のなのですが、「九尾の狐がくる」では、リズムが合わないし、なんか化けて騙されそうでコワイww

ただ、公式サイトによると麒麟出現の対象者が光秀とは決まってない(←メイン画面の長谷川博巳さんの後ろに麒麟おるけどね)みたいですが、なんだかんだで主役なんですから、主役の特権を満載しつつ、「仁の心を持つ」と「殺生を嫌う」のイメージで、ダイナミックに麒麟がやって来る所を描いていただきたと思っています。

またもや信長さんが殺生しまくりの悪人に描かれそうですが、そこンとこはドラマなので「是非に及ばず」。。。ホント楽しみにしてます。

ちなみに、おそらくは序盤あたりで放送されるであろう明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)の落城については【光安の自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?】>>で、

それ以外の明智光秀の関連ページは、
 ●将軍・足利義昭擁立で初登場!謎の明智光秀
 ●信長上洛後…本圀寺の変と桂川の戦い
 ●明智光秀の丹波攻略・前半戦~籾井城の戦い
 ●織田信長軍による福知山攻略戦
 ●八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけとなったか?
 ●「丹波の赤鬼」赤井直正と明智光秀の黒井城・攻略
 ●明智光秀の丹波攻略~和藤合戦と山家城の戦い
 ●明智光秀と丹波・福知山の明智藪
 ●愛宕山での連歌会の句は本能寺の意思表明か?
 ●天正十年6月1日~本能寺・前夜
 ●本能寺の変~『信長公記』より
 ●本能寺~その日の安土城と留守役・蒲生賢秀
 ●本能寺の変~数時間のタイム・ラグを埋める物は?
 ●本能寺の変~家康、暗殺計画説
 ●明智光秀と細川幽斎~二人の別れ道
 ●洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀
 ●古文書の虚偽と真実~これぞ歴史の醍醐味!
 ●明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…
 ●天下分け目の天王山!山崎の合戦
 ●黒衣の宰相・天海=明智光秀説
 ●光秀の手紙の原本発見(2017年ニュース)
 ●本能寺へのルート?明智越(史跡巡り)
 ●戦国・安土の年表
などからご覧いただければ幸いです。

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文末になりましたが、
昨年同様、本年もよろしくお願い致します。
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2019年12月30日 (月)

日本史の新発見&発掘…歴史のニュース2019年総まとめ

 

いよいよ、2019年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
ただの歴史好きである茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 江戸時代初期に描かれたものの、全容がわからないために「幻」とも呼ばれる「盛安本源氏物語絵巻」のうち、ヒロインの一人である夕顔の死を描いた場面の図が、新たにフランスで見つかりました。
源氏物語絵巻で不幸な場面を描いたものは、極めて珍しいそうです。
  中城城跡14世紀前半に積まれたとみられる新たな城壁が見つかりました。
城壁は19世紀末以降に築かれた城壁の内側に積まれていて、城壁修理のために石積みの解体作業中に発見されました。
先中城按司の時代に築かれたとみられる物で、これまで中城城の築城は14世紀後半とされてきましたが、時期がさかのぼり、城の歴史が書き換わることになります。
2月 奈良市にある奈良大が、所蔵する木造四天王像から「行基大菩薩御作 菅原寺」と墨で記された銘文が見つかったと発表しました。
銘文は江戸時代に書かれた可能性があるものの、奈良時代の僧・行基(ぎょうき)が創建したとされる菅原寺(奈良市、喜光寺)で安置されていたという伝承を裏付ける銘文となります。
  江戸幕府最後の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が書いたとみられる書が、「広辞苑」の編者として知られる言語学者・新村出(しんむらいずる)の旧宅(京都市北区)で見つかりました。
書かれた時期は不明ですが、専門家は「劇的な人生を歩んだ慶喜の人物像を知る上でとても貴重な史料」との見解です。
3月 奈良県大和郡山市平城京南方遺跡右京域(西部分)で、京を碁盤目状に整備した都市区画「条坊」と同規格の道路跡が新たに見つかりました。
調査地は、京の南端とされる九条大路にあった正門「羅城門」跡付近(同市野垣内町)で、道路を拡幅した跡があったことから、羅城門やそこから延びる城壁「羅城」と一体的に再整備された可能性が高いとの事。
  豊臣秀吉(とよとみひでよし)が造成した大坂城の三ノ丸跡から、推定100坪ほどの屋敷跡が見つかりました。
石を基礎にして柱を立てた跡があり、一緒に見つかった瓦に刻まれた家紋から、秀吉臣下の大名・佐竹義宣(さたけよしのぶ)の屋敷である可能性が高いということです。
  豊臣秀吉が加藤清正(かとうきよまさ)朝鮮出兵を命じた朱印状が見つかりました。
横125.5cm、縦21.5cmの朱印状には、「小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」という内容が記されているとの事。
同様の命令書が中国や九州の大名へ広く出された事は推測されていましたが、3月23日付の命令書の実物が発見されたのは初めてだそうです。
4月 四天王寺(大阪市天王寺区)にある亀形石造物は、酒船石遺跡(奈良県明日香村)で出土した亀形石造物と同じ7世紀に造られ、2つの水槽がつながる構造やサイズも同じだったことが分かりました。
酒船石遺跡の亀形石は硬くて加工しにくい石材ですが、四天王寺は軟らかい凝灰岩であることや、四天王寺のほうがより忠実に亀を表現していることから酒船石遺跡よりも古い可能性があるとの事。
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四天王寺の亀井堂(参照>>)
5月 「日本一の石橋群」で知られる大分県宇佐市院内町で新たに4基の石橋が見つかりました。
市道下の地下水路(暗きょ)などに埋もれていたもので、保存状態も良好とみられ、同町で確認された石橋はこれで計79基になりました。
  平安時代後期に勢力を伸ばした平家一門の屋敷の一部とみられる堀の跡などが京都市内の発掘現場で見つかりました。
この付近に平家が拠点を築いたことは記録に残っていましたが、実際に遺構が見つかるのは初めてだという事です。
6月 大坂夏の陣で焼失の後、徳川家が城跡を埋め立てて再建したため(1月23日参照>>)、現在は地中に埋まっている豊臣秀吉が築いた大坂城の本丸周辺の地盤をボーリング調査したところ、天守台北側の地表面と天守台の東西で石垣とみられる傾斜も確認しました。
専門家は「絵図で従来あるだろうと思われたものが確実に存在することを把握できた」としています。。
(姉妹サイト:豊臣大坂城の歴史散歩コース>>)
  戦国武将の三好長慶(みよしながよし)が居城とした飯盛城跡(大阪府大東市、四條畷市)広い範囲を覆う石垣が見つかりました。
発見された石垣約100ヶ所のうち約半数が、長慶が居城した時期に整備されたとみられ、これまでの「築城に石垣を用いる手法は織田信長が最初だ」とされていた歴史の常識が覆る事になりそうです。
7月 アゼルバイジャンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会が、日本が推薦していた「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)を世界文化遺産に登録することを決めました。
日本の世界文化遺産の登録は7年連続で19件目。世界自然遺産も含めた世界遺産は23件目となります。
(姉妹サイト:古市古墳群の歴史散歩コース>>)
  江戸時代前期に描かれた最古の鳥羽城絵図が発見されました。
天守や本丸御殿、石垣、お堀などが克明に記され、鳥羽城が「海の城」と呼ばれた当時の面影がうかがえる貴重な資料となりそうです。
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遠く(左奥)伊勢湾を望む鳥羽城跡
  奈良時代に都があった奈良市の「平城京跡」で、当時の権力者・長屋王(ながやおう)のものと同じ規模を持つ広大な宅地の跡が見つかりました。
専門家は「歴史書に出てくる有名な人物が住んでいた可能性がある」とみています。
8月 国内初の本格的な宮廷庭園跡とされる奈良県明日香村「飛鳥京跡苑池(えんち)で南北二つの人工池のうち北池から、全長約11.5mに及ぶ石組みの溝と石敷きの遺構が見つかりました。
7世紀後半にわき水を流す流水施設として造られたとみられ、古墳時代から続く「水のまつり」の宮廷儀式を行っていた可能性が高まりました。
  豊臣秀吉から関白職を継承しながらも失脚して切腹したとされる養子の秀次(ひでつぐ)について(7月15日参照>>)死の約3ヶ月前の時点では、秀吉が秀次の息子を要衝である大和(奈良)の「国主」に取り立てる意向だったことを示す新史料が見つかりました。
秀吉は淀殿(よどどの)との間に実子の秀頼(ひでより)が誕生したことで関白秀次と不仲になったとする通説に一石を投じる内容だそうです。
9月 11世紀前半の平安時代の上流貴族の墓跡と墓前に置かれたとみられる石製の笠塔婆(かさとうば)が平安京の墓所「鳥部野(とりべの=京都市東山区)の一角で出土ししました。
笠塔婆は石製として最古とみられ「当時の埋葬の実態を明らかにする史料」と考えられます。
(平安京の墓所について…参照>>)
10月 奈良県橿原市四条町藤原京跡(12月6日参照>>)3棟の建物跡が見つかりました。
中枢部の藤原宮跡から西に2km以上離れた場所で大規模な建物跡が見つかったのは初めてで、貴族の邸宅だったとみられます。
  平安京の玄関口に建てられた官寺「西寺」跡(京都市南区)で、中心建物の講堂跡の基壇が見つかりました。
基壇は造営した平安時代前期の姿をとどめており、同じ時期に築かれた初期平安宮の建物や寺院の解明につながる重要な遺構だとか…
五重塔とみられる建物の跡も初めて見つかり、東寺と西寺の主要伽藍(がらん)が朱雀大路を軸に、左右対称の位置に配置されていた可能性がより高まりました。
(平安京について…参照>>)
11月 世界遺産・東大寺(奈良市)の東塔跡の発掘調査で奈良時代の東門の跡が初めて確認されました。
規模は東西約7.1m、南北約12.7mで、創建当時の全体の規模を知る手がかりになると期待されます。
  京都市右京区嵯峨遺跡から、14世紀中ごろの南北朝時代以降に創業したとみられる酒造りの遺構が出土しました。
天龍寺などの寺院が手がけた僧房酒(そうぼうしゅ)の関係遺構とみられています。
搾りから貯蔵までの工程がわかる遺構としては、これまでは延宝二年(1674年)の旧岡田家住宅(兵庫県伊丹市)が最古とされていたので、その歴史は約300年さかのぼる事になります。
12月 奈良時代に遣唐使として中国に渡り、帰国後に官僚として活躍した吉備真備(きびのまきび)(4月25日参照>>)が書いた可能性の高い『墓誌(ぼし=亡くなった人の伝記)中国で発見されました。
本当に真備の筆であるならば国内はもちろん世界で初めての物で古代東アジアの実像を知る貴重な史料になりそうです。

こうして見ると、今年も様々な新発見がありました。

個人的には、やはり、8月の
「秀次の死の3か月前にも秀吉が秀次を優遇しようとしていたと考えられる史料」の発見ですかね~

私としては、ドラマや小説で、いつも、信長さんや秀吉さんが悪く描かれている事に悲しい気持ちになります。
(来年の大河も光秀主役なら織豊二人は敵やしね~)

信長や秀吉が殺戮や非道を繰り返し、最後に家康が、それらを払拭するように平和な世にした?みたいな?

もちろん、家康さんも嫌いでは無いですし、戦乱の無い平和な300年時代を築いた功績は、日本の歴史上トップクラスの快挙であると認識しておりますが、そこに至るまでにあった何やかんやのアカン部分が無かったかのようになってるのがチョイとね~
(戦乱の無い平和な時代は、一旦、秀吉の時代にできちゃってますし…)

まぁ、「勝てば官軍」「歴史は勝者が書く物」なので仕方ないですが、信長や秀吉のやさしさが垣間見える史料が発見されると、やっぱウレシイです。

あと、伊丹市が「酒造りの元祖の地」みたいな感じで推してるのを、つい最近のテレビで見た気がするので、11月の京都での遺構発見は、ちょっとお気の毒な気が・・・でも、それこそ、新発見で常に歴史は変わっていくのですから・・・
 .

最後に…
今年のニュースとして、やはり真っ先に思い出すのが10月の首里城焼失ですね~

新発見ではなく悲しいニュースですが…何より、保管されていた貴重な宝物や資料が失われた事は、とても残念です。

奈良や京都の寺社に行くと、伽藍や社殿とは別の「宝物館」や「収蔵館」といった博物館仕様の建物に国宝や重要文化財が収められている事が多々ありますが、「そういう事やねんな~」と改めて痛感させられました。

私見で恐縮ですが…
寛文五年(1665年)に焼失した徳川時代の大阪城天守閣は、300年の時を越えて昭和の大阪市民の寄付により再建され(11月7日参照>>)、現在は法令上の「博物館相当施設」として運営されています。

期待を以って遠方から見物に来られた方々には、
「あんなん復元天守ちゃうやん!ただのコンクリートのビルやん」
とボロカスに言われる昭和の天守閣ですが、貴重な文化財を収め展示する以上、そのような仕様の建物にするのがベストではないか?と個人的には思います。
もちろん、それ以前に、そもそもの火の用心が最重要ですが…

・‥…━━━☆

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2019年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年=2020年はいよいよ東京オリンピックの年(麒麟もくるヨ~)・・・今後とも、よろしくお願いします
 .

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2019年7月26日 (金)

当方滅亡!~上杉を支えた名執事=太田道灌の最期

 

文明十八年(1486年)7月26日、主君=上杉定正の命により、太田道灌が暗殺されました。

・・・・・・・・

太田道灌(おおたどうかん=資長)戦国初期に登場する屈指の名将です。

そもそもは、初代の足利尊氏(あしかがたかうじ)が、自身の地元が関東でありながら、南北朝の動乱やら何やらで京都にて室町幕府を開く事になり、そうなると、足利家のトップである将軍は京都におらねばならないため、その間、留守となった地元=関東の支配を誰かに任せねばならない・・・

Asikagakuboukeizu3 ←足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そこで尊氏は自身の三男の 義詮(よしあきら)に将軍職を譲り、その弟の四男=基氏(もとうじ)を地元を支配する鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東に派遣し、以来、義詮の血筋が将軍を、基氏の血筋が公方を、代々継承していったわけですが、その公方の補佐役が執事(しつじ)・・・後に関東管領(かんとうかんれい)と呼ばれる役職で、それを交代々々で歴任していたのが両上杉家(うえすぎけ)=惣領家が山内上杉(やまのうちうえすぎ)と言い、分家が扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)です。

ところが、やがて「京都の将軍家とは距離を置いて、関東は関東でやっていきたい!」と考える第4代鎌倉公方=足利持氏(もちうじ)が登場・・・それを時の将軍である第6代=足利義教(よしのり)が何とか鎮圧しますが(永享の乱>>)(結城合戦>>)、その後、持氏の遺児の足利成氏(しげうじ)次期公方を勝手に名乗って関東で大暴れ・・・そのために、幕府から任命された新たな公方が鎌倉に入る事ができないという事態に・・・

そうなると、ここで何とか関東をまとめなければならないのが、最初っから公方の補佐として関東にいる両上杉家なわけですが、そんな扇谷上杉家の執事だったのが太田道灌です。

Ootadoukan600 幼き頃からその天才ぶりはズバ抜けていて、その優秀さを心配した父=太田資清(すけきよ)が、
「障子は直立してこそ役に立つけど、曲がって倒れてたら役に立たんのやぞ」
(↑「過ぎるほどの才能をまっすぐに良い方向へ使え」という意味)
と忠告すると
「障子はそうですやろけど、屏風はまっすぐやと立ちません。屏風は曲がってこそ役に立ちます」
と言い返して父を黙らせたとか・・・

なんと、生意気な憎ったらしい子供・・・と思いますが、成長した道灌は周囲から反感を買う事は少なかったのだとか・・・思うに、本当に頭が良くて、周囲から見ても別格なんでしょうね~もう、そんじょそこらの人じゃ太刀打ちできないくらいの差があるとか…たぶん。

長禄元年(1457年)には、そんな自称公方らから関東を守るべく江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を構築し(4月8日参照>>)扇谷上杉家のため、八面六臂の活躍をする道灌・・・

中でも特筆すべきは、この後の時代の手本となるような足軽(あしがる)の扱い方・・・

以前書かせていただいたように、大乱を聞きつけて近隣の農村から集まって来る喰いっぱぐれた農民くずれや無頼の輩・・・いわゆる雑兵(ぞうひょう)を雇い入れ、鎧も兜も身に着けず刀も槍も持たないまま軽装で大量に自軍に参加させ、これまでの一騎撃ちスタイルから、互いに集団戦で戦う、まさに、私たちが思う戦国合戦スタイルに劇的に変化させたのは、あの応仁の乱で東軍総大将となった細川勝元(ほそかわかつもと)ではありますが(3月21日参照>>)、この勝元の時代は、なんだかんで、ただただ集団でワーワーやるだけの烏合(うごう)の衆でしかなかったのです。

それを、統率のとれた組織編制をして、大河ドラマ等で描かれるような足軽集団にしたのが道灌と言われています。

『太田家記』には、道灌が作ったとされる
♪小机は まづ手習ひの 初めにて
 いろはにほへと 散り散りになる ♪
という戯れ歌が書かれているのですが、

この小机というのは、道灌の良きライバルである長尾景春(ながおかげはる)小机城(こづくえじょう=神奈川県横浜市)の事・・・

この景春の長尾家は、代々、山上上杉家の執事を務める家柄ですから、扇谷上杉家執事の太田道灌とは、まさに同じ立場の人だったのですが、その長尾家の後継者の決定に主君の山上上杉家が介入して来た事で、それに不満を持った長尾景春が反旗を翻した。。。この時、道灌はちょっと景春の気持ちが理解できる雰囲気で、それ察した景春が道灌を自軍に誘う場面もあったようですが、やはり道灌は主君を裏切れず、結局、その良きライバルを攻める事になるのですが・・・
【江古田・沼袋(東京都中野区)の戦い】参照>>
【武蔵・用土原(埼玉県深谷市)の戦い】参照>>

この時に、上記の歌を繰り返し、呪文のように口ずさませながら、足軽たちの士気を高めるとともに、太鼓の音の代わりに、それぞれの隊に一斉にタイミングを合わせる行動を取らせて攻撃を仕掛け、勝利に導いたのです。

今で言うなら、ラジオ体操のピアノと掛け声みたいな感じ?
あのピアノとリーダーの掛け声があるからこそ、公園に集まった人たちは、同じタイミングで同じ動きをするわけで・・・これにより、烏合の集団だった素人戦士の足軽たちが、まさに軍隊へと変貌したわけです。

おかげで、いつしか分家の扇谷上杉が惣領家の山内上杉をしのぐ勢いを示すようになるのです。

しかし、この道灌のあまりの優秀さが、文字通り、命取りとなります。

文明十八年(1486年)7月26日、道灌は、相模糟屋(かすや=神奈川県伊勢原市)にある主君=上杉定正(うえすぎさだまさ)の招きを受けます。

江戸城から上杉邸まで、距離にして約50kmほど・・・その労をねぎらうように風呂を勧められ、やがて出ようとした、その時、定正の命を受けた曽我兵庫(そがひょうご)なる武将が太刀で斬りつけ、道灌を暗殺したのです。

道灌は倒れながら、「当方滅亡!」と一言叫んだのだとか・・・

「当方滅亡」とは、
「俺のいない上杉家は滅びるぞ!」
という意味です。

一般的には、そのあまりの優秀さに、定正が「いつか取って代わられるのではないか?」との不安にかられたため殺害に至った・・・とされています。

ただし『北条記』では、定正が道灌討伐のために糟屋へと出陣したのを、迎え撃った道灌が、馬上にて槍に突かれて落とされ、
♪かかる時 さこそ命の 惜しからめ
 かねてなき身と 思い知らずば ♪
「はなから、(自分は)この世にはいない物やと悟ってるから、こんな時でも命推しくはないんや!」
との辞世の句を残して首を取られた・・・つまり、合戦での討死だとされています。

また、別の史料では糟屋の洞昌院(とうしょういん=公所寺)で殺害されたとの記録もありますが、かの『太田家記』では、この洞昌院は道灌が荼毘に付された場所とされていて、現在も、隣接する境内に道灌の胴塚と伝えられる塚があります。

さらに、近くの大慈寺(だいじじ)にも道灌の首塚とされる塚があって、江戸時代の太田家は、お参りの際には、この両方の墓所に参詣していたと伝えられていますので、暗殺にしろ、討死にしろ、道灌は斬首されたという事なのかも知れません。

それから何年後かに上杉定正は、
「道灌は、江戸城を堅固にして上杉顕定(あきさだ=山内上杉家当主)に歯向かおうとしたので、俺が度々注意しててけど、言う事聞かへんから成敗した」
てな内容を手紙に書き残していますが、これは、あくまで定正の言い分・・・

ただ、先の江古田・沼袋>>用土原>>のページにも書かせていただいたように、道灌自身も両上杉家に対し、少々の不満があった事も確かだし、分家の定正が惣領家の山内上杉家に気をつかっていた事も確かで、「いつしか惣領家に分家が取って代わるのではないか?」道灌の強さに脅威を抱いていたのは、直接の主君である定正ではなく上杉顕定の方だったかも知れませんね。

果たして・・・この後、
長尾景春という執事を失った山内上杉家と、太田道灌という執事を失った扇谷上杉家は、同族で激しく争う事になり、やがて、そのゴタゴタの合間を縫って関東に勢力を伸ばし始めた北条(ほうじょう)によって、道灌の予言通り、扇谷上杉家は滅亡する事となるのです【戦国屈指の夜襲で公方壊滅~河越夜戦】参照>>)
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2019年6月26日 (水)

本能寺の変の余波~前田利家に迫る石動荒山の戦い

 

天正十年(1582年)6月26日、本能寺の変での織田信長の死を受けて、能登での前田利家支配に反発する石動山天平寺衆徒による一揆=石動荒山の戦いが起こりました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、ご存知のように京都の本能寺(ほんのうじ)にて、織田信長(おだのぶなが)が、すでに家督を譲っていた嫡男=織田信忠(のぶただ)とともに死亡します(2015年6月2日参照>>)

この時の信長は、すでに天下に1番近い男とは言え、未だ配下の武将たちは、3ヶ月前に切り取ったばかりの武田(たけだ)領地(3月24日参照>>)維持管理や未だ従わぬ者との交戦に翻弄していたので、信長横死の知らせを聞いた諸将は、すぐでも京都に向かい、仇となった明智光秀(あけちみつひで)を討ちたいところではあったものの、なかなか思うようには動けなかったわけで・・・

北陸柴田勢魚津城の攻防>>
中国羽柴勢備中高松城の水攻め>>
甲斐河尻秀隆(かわじりひでたか)武田残党&甲州一揆>> 
上野滝川一益(たきがわかずます)神流川の戦い>>
信濃森長可(もりながよし)東濃制圧戦>> 
美濃の=稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)本田・北方合戦>>

また、当日、本能寺の1番近くにいて1番早く異変を知った徳川家康(とくがわいえやす)は、わずかの側近しか連れていなかったため、決死の伊賀越え(6月4日参照>>)で領国へと戻り、その後は自身の領地拡大を狙って天正壬午の乱へ突入>>
ま、家康は信長の家臣ではなく、あくまで同盟者なので…

そして、ご存知のように・・・
そんな中でいち早く合戦を休止して(6月4日参照>>)中国大返しで以って畿内に戻り(6月6日参照>>)、四国方面への出兵の準備中だった信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)丹羽長秀(にわながひで)らと合流して、6月13日の山崎の合戦(6月13日参照>>)にて光秀を敗走からの死亡に追いやったのが、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)だったわけです。

一方、上記の通り、北陸にて越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と交戦中だった柴田勢・・・上杉配下の魚津城(うおずじょう=富山県魚津市)を陥落させたのが、本能寺の変の翌日の6月3日で、その異変の一報を知ったのが、さらに翌日の6月4日でした。

上杉謙信(けんしん)亡き後の後継者争いのゴタゴタ(3月17日参照>>)があったため、信長サイドに越中(えっちゅう=富山県)奥深くまで侵入され(10月4日参照>>)、今回の魚津城攻防戦でも、援軍として近くまで行ったものの、結局、静観するしかなかった景勝ではありますが、「信長が死んだ」となれば話は別・・・その混乱に乗じて侵撃に転じるやも知れませんから、先の魚津城攻防戦に参加していた織田政権の北陸担当の面々も、うかつに領地を離れられず、むしろ今以上に防備を固める事に力を注がねばならなくなっていたのです。

織田政権下のでの北陸方面担当は、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)柴田勝家(しばたかついえ)を筆頭に、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)佐久間盛政(さくまもりまさ)などなど・・・

Maedatosiie 『高徳公親翰』なる史料には、この時の前田利家が、
「山崎の合戦にて逆臣の光秀が討たれた事は、まことにめだたい事ですが、当地では浪人が一揆の準備をしているとの噂があったので僕は光秀討伐には参加できませんでした」
的な事を、柴田勝家に報告している事が記録されています。

そう、この時、信長死亡のドサクサで一揆を起こしたのが、かねてより能登(のと=石川県の能登半島)にて利家に反発していた石動山天平寺(いするぎざんてんぴょうじ=石川県鹿島郡中能登町)の衆徒でした。

一揆方は、かつて、能登守護であった畠山(はたけやま)氏の内紛の際に上杉に寝返った事で(9月13日参照>>)、逆に信長を味方につけた長連龍(ちょうつらたつ)によって七尾城を追われ(10月22日参照>>)、その後、上杉領内に亡命していた旧畠山の重臣の温井景隆(ぬくいかげたか)三宅長盛(みやけながもり)兄弟と、そのゴタゴタで一族を失った遊佐景光(ゆさかげみつ=遊佐続光の孫?)らに、
「速やかに援軍を出してくれたら、コチラもお宅らをお助けしまっせ」
と声をかけます。

もちろん、彼ら兄弟にとっては失地を回復するまたとないチャンスですから、この船に乗らない手はありません。

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石動・荒山の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十年(1582年)6月23日早朝、上杉景勝の計らいにより、越後の兵・約4千騎(3千とも)を借りた温井らは、海路から越中女良浦(めらのうら=富山県氷見市女良)に上陸し、その日のうちに石動山天平寺へと入り、翌日から早速(とりで)の構築に取り掛かりました。

砦が構築されたのは、七尾街道で芹川(せりかわ=同鹿島郡中能登町)から氷見(ひみ=富山県氷見市)へと抜ける国境にある荒山(あらやま)の北に位置する四方が崖に囲まれた要害の地で、天平寺の南西1kmほどの地点にあり、寺を守るには完璧な場所でした。

とは言え、さすがに、すぐさま完璧な砦が構築できるわけではないですので、この温井らの行動を知った前田利家は、翌日の6月24日付けで、柴田勝家と佐久間盛政宛てに援軍要請の手紙を送り、砦が完成する前に叩く事に・・・

早速、この要請を受けた佐久間盛政が6月25日に兵を率いて出陣して芹川付近に野営すると、前田利家も七尾を出陣して石動山と荒山の中間地点にある芝峠(しばとうげ=同鹿島郡中能登町)に布陣します。

こうして準備を整えた翌日の天正十年(1582年)6月26日、そうとは知らぬ温井勢が一揆の衆徒らとともに荒山砦の修築に石動山を出て来たところに、一気に攻撃を仕掛ける前田軍・・・混乱した一揆軍は、温井&三宅の軍団は石動山へ、遊佐の率いる軍団は荒山の要害へと逃げ込んで体制を整えようとしますが、これが、お察しの通り、前田サイドから見れば、完全に一揆軍を分断した形となったわけです。

これを知った佐久間盛政は、チャンス!とばかりに一斉に荒山砦に向かって攻撃を開始します。

至近距離で銃弾が飛び交う激しい戦いとなる中、温井景隆&三宅長盛兄弟は壮絶な討死を遂げ、天平寺衆徒で「今弁慶」と呼ばれていた猛者=般若院(はんにゃいん)は、まさに弁慶(べんけい)の如く無数の矢を受けて倒れます。

こうして形勢不利となっていく一揆勢・・・温井配下の者には「もはやこれまで!」と自刃する者も出る中、一部の衆徒は石動山目指して逃走しますが、これらの大半は、すでに石動山方面の守備を固めていた拝郷家嘉(はいごういえよし=織田政権の大聖寺城主)によって討たれてしまいました。

一方、早朝に一揆勢の分断に成功した前田利家は、かの長連龍や配下の奥村永福(おくむらながとみ=前田家臣)らを率いて石動山へと進み、仁王門から侵入して天平寺を急襲します。

護摩祈祷中だった僧侶らが驚いて逃げ惑う中、数百人を撫で斬りにする地獄のような光景だったとか・・・

さらに、討ち取った千余りの首を山門に並べたうえ、利家配下の伊賀の忍びによって堂宇(どうう)に火がかけられ、石動山は全山焼亡し、それはまるで、信長の比叡山焼き討ちのようだったと伝わります。

とは言え、これにて前田利家による能登の支配は確立されました。

また一説には、この時、援軍としてやって来ていた佐久間盛政は、実はこのドサクサで利家を背後から攻めて能登を奪い取るつもりでいたので、それを防ぐために長連龍が寺に火を放った・・・てな話もありますが、その話が記されているのが『長氏家譜』という連龍サイドの文献なので、おそらくは、この戦いにより、利家と長連龍との関係が強固な物になって、この後、連龍&その子孫は前田家の家老として加賀藩を支える事になるという、後日談ありきの創作ではないか?とされています。

と、まぁ、ここまで名前だけ登場して本人様が出て来なかった柴田勝家・・・ご存知のように、今回の合戦の翌日が、あの清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)(6月27日参照>>)なので、援軍の手配はしたかも知れませんが、勝家自身は、清須会議への準備に勤しんでいたか?と思われます。

ドラマ等では、本能寺からの秀吉の光秀討伐の後は、話が清須会議に飛ぶ事が多いですが、冒頭に書いたように、甲斐や信濃etcそして今回の荒山と、複数の争いが一斉に起こっています。

信長の死が、かなりの混乱を与えていた事がわかりますね。
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2019年6月20日 (木)

明智光秀の丹波攻略最終段階~和藤合戦と山家城の戦い

 

天正八年(1580年)6月20日、城の破却に応じない和久左衛門佐の山家城を明智光秀が攻撃しました。

・・・・・・・・

兵庫県の北東部と京都府の中部にまたがる広大な丹波(たんば)の地は、室町幕府政権下において守護=細川氏が長きに渡って支配する所でありましたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の時に、東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の下で活躍した功績により多紀郡(たきぐん=現在の兵庫県丹波篠山市付近)を与えられた波多野(はたの)一族が、その後の、細川家内のゴタゴタ(2月13日参照>>)の隙間を縫って力をつけて行き、波多野稙通(はたのたねみち)の時代に、八上城(やかみじょう=兵庫県丹波篠山市)にて独立し、その孫の波多野秀治(ひではる)の頃に全盛期を迎え、もはや丹波一円を支配するほどになっていきます。

しかし、そんな中、天正の頃から、畿内より西の中国地方(山陽&山陰)に手をのばしはじめたのが、ご存知、織田信長(おだのぶなが)

とは言え、この信長の中国地方侵出も、はじめは・・・
永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛して(9月7日参照>>)、ほぼほぼ畿内を制していた信長に対し、自らが滅ぼした周防(すおう=山口県)大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党と交戦中の安芸(あき=広島県)毛利元就もうりもとなり)が、その背後を突こうとする出雲(いずも=島根県)尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党と、それに協力する但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「けん制してほしい」と依頼して来た事がキッカケだったわけですが、

その後、山名も尼子も信長の傘下となるのですが、逆に、足利義昭が信長と敵対する越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)北近江(きたおう=滋賀県北部)浅井(あざい)に味方し、そこに本願寺顕如(けんにょ)が参戦(9月12日参照>>)し・・・となって、結局、毛利も信長に敵対するに至って、この中国地方は西の大物=毛利と、畿内の織田に挟まれる形となったのです。

で、元亀四年(天正元年=1573年)の7月には、その義昭を追放(7月18日参照>>)、続く8月には朝倉(8月20日参照>>)と浅井(8月28日参照>>)を倒した信長は、各地に起こる本願寺門徒の一向一揆も徐々に制圧していった(長島>>越前>>)天正三年(1575年)頃から、いよいよ中国地方の平定に乗り出し、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)但馬播磨(はりま=兵庫県南西部)方面の攻略を(10月23日参照>>)明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波丹後(たんご=京都府北部)方面の攻略を命じたのです。

はじめは信長に好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)が途中で毛利に転じ、それに同調した波多野も敵に回る中、籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)こそ、すんなり落とせたものの(10月29日参照>>)、波多野の八上城(1月15日参照>>)と赤井の黒井城は(8月9日参照>>)は、なかなかの苦戦だったわけで・・・

そこに同調したのが、丹波の土豪(どごう=土地に根付く小豪族)たちでした。

一旦、丹波をほぼ制覇していた波多野が、今回、ゴタゴタしている事で勢いづいた彼らが、チャンスとばかりに領地拡大に動き出したのです。

その一人が八木城(やぎじょう=京都府南丹市八木町)内藤宗勝(ないとうそうしょう)・・・この人は、もとの名を松永長頼(まつなが ながより)と言い、江口の戦い (6月24日参照>>)に勝利して戦国初の天下人となるあの三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣として頭角を現し、信長からも一目置かれていた松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)の弟ですが、遅咲きの兄より、むしろ彼の方が先に三好政権下で大活躍をし、長慶の信頼も厚かった中で、波多野稙通らに八木城を攻められて戦死した内藤国貞(くにさだ)に代わって城を奪還し、その国貞の娘と結婚して内藤氏を継いでいたのでした。

『内藤丹波年代記』等によると・・・
天正四年(1576年)、この機会に綾部(あやべ=京都府綾部市)福知山(ふくちやま=同福知山市)方面を抑えようと考えた宗勝は、その2月、高津(たかつ=綾部市高津町)に入り、綾部に根を張る大槻(おおつき)高津城(たかつじょう=綾部市高津町)栗城(くりじょう=綾部市栗町)を陥落させて、4月には山家城(やまがじょう=綾部市広瀬町)に拠る和久左衛門佐(わくさえもんのすけ=義国?)を攻めたのです。

和久左衛門佐は山家(やまが=綾部市東山町)から和知(わち=京都府船井郡京丹波町)口上林(かんばやし=綾部市武吉町)一帯を領域としていた丹波の武将で、福知山一帯を領していた横山城(よこやまじょう=京都府福知山市・後の福知山城)城主=塩見頼勝(しおみよりかつ)の3男か4男とされ、もともと本城としていたのは福知山にあった和久城(わくじょう=福知山市厚安尾)でコチラの山家城は支城の一つだったようですが、丹波内の紛争により、どこかの段階で和久城を捨て、山家に移っていたらしい・・・(←このあたりは不明瞭)

とにもかくにも、ここで約3000の大軍を率いて下原(しもばら=綾部市下原町)まで侵攻して来た内藤軍を迎え撃つべく、和久方は客将の白浪瀬忠次(しらはせただつぐ=白波瀬忠義とも)が家臣16名と郷土民=数百名を率いて防戦を試みますが、なんせ多勢に無勢・・・劣勢に次ぐ劣勢で、どうにも勝ちが見えないため、やむなく一旦、休戦&和議を申し出る事に、、、

しかし、実はこれが、相手を油断させる作戦で、和議をすると見せかけて下原にある庵に内藤方を誘い込み、真夜中に急襲したのです。

おりしもその日の夜は、激しい風雨吹き荒れる真っ暗な夜・・・いきなりの襲撃に慌てて敗走する内藤勢でしたが、ここは和久領にて地の利もなく、ましてや雨風にさらされて逃げる足取りも重く疲れる。。。

なんとか八木城を目指していた内藤宗勝自身も、途中で力尽きたところを白波瀬の兵に囲まれて討たれしまったとの事。

この天正四年(1576年)の戦いが和藤合戦(わとうがっせん)と呼ばれる戦いです。

ただ、この一連の流れは、上記の『内藤丹波年代記』他、複数の文献で天正四年(1576年)8月4日の出来事としていますが、永禄六年(1563年)の出来事としている文献もあり、また、内藤宗勝の討死の時期&場所については、永禄八年(1565年)の8月2日の黒井城攻撃中とする説もあるようなのですが、

現在の綾部下原には、今回の和藤合戦の古戦場とされる場所があり、宗勝は古戦場内にある戦死したその場所=備州ヶ尾に葬られていると伝えられています。

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★山家城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところで・・・
そんなこんなしてるうちの天正七年(1579年)、各地の籠城戦に手間取っていた信長の丹波攻略が一気に動き始めます。

この年の5月になって、信長が光秀の支援をすべく、羽柴秀長(はしばひでなが=秀吉の弟)丹羽長秀(にわながひで)丹波に派遣します。

その5月4日に羽柴秀長が波多野の支城である氷上城(ひかみじょう=兵庫県丹波市・霧山城とも)を落とすと、丹羽長秀が19日に玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)を攻略し、6月4日には、明智光秀もようやく八上城を落とし、続いて、8月9日には黒井城を攻略し、さらに8月20日には塩見氏の横山城猪崎城(いざきじょう=同福知山・猪ノ崎城)(7月22日参照>>)も落とします。

その後、その横山城は福知山城と名を変えて明智の城となり、10月にはウキウキモードで丹波の平定を信長に報告しています(10月24日参照>>)

この横山城の塩見とは・・・そう、山家城の和久左衛門佐の本家です。

この時の和久左衛門佐は、自身の城の破却を条件にいち早く降伏し、一族の皆が自刃あるいは討死する中で、なんとか、その血脈を残す事に成功しました(5月19日参照>>)

とは言え、どうにもこうにもかなわぬ大軍相手に一応、条件を呑んで降伏はしてみたものの、和久左衛門佐としては何とか山家城の破却は免れたいわけで・・・

そこで左衛門佐・・・山家城の城郭内には照福寺(しょうふくじ=現在は綾部市鷹栖町)という寺が建っていた事を理由に、
「ここは城ではなく、寺なんで…」
と、光秀からの再三の破却命令を、のらりくらりとかわしながら約1年間やり過ごして来たのですが、そんなこんなの天正八年(1580年)6月20日さすがにブチ切れた光秀が山家城に攻撃を開始します。

そうなると、「さすがに太刀打ちできない」と判断した左衛門佐は、城を捨てていずくともなく逃げ延びて行ったとか、
また、この年の8月に光秀に誘い出されて騙し討ちされたという話もあります。

とにもかくにも、これにて明智光秀の丹波攻略は完全に終了した・・・という事になります。

・‥…━━━☆

これ、来年の大河ドラマでやってくれるのかな?
友人に(本人曰く)この後は綾部の山奥に隠れ住んで血脈をつないだという和久さんの子孫がいてはるので、やってくれるとウレシイかも・・・
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2019年6月14日 (金)

豊臣秀吉の小田原征伐~鉢形城の攻防戦が終結

 

天正十八年(1590年)6月14日、豊臣秀吉の小田原征伐における攻防戦で鉢形城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き(参照>>)後に、その傘下を引き継ぐ(参照>>)傍ら、畿内(参照>>)、四国(参照>>)、北陸(参照>>)、九州(参照>>)を平定し、ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、
【関白・秀吉の政庁…絢爛豪華聚楽第】参照>>
【太政大臣&豊臣姓賜る】参照>>
【北野大茶会】参照>>
天正十七年(1589年)10月、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪った(10月23日参照>>)事を『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令) に違反する行為として関東に君臨する条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)・・・天正十八年(1590年)3月29日に伊豆半島を縦ラインで結ぶ足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)の同時攻撃にて、小田原征伐の幕が上がったのです。(3月29日参照>>)

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

攻撃開始の当日に山中城を、翌日には足柄城を奪取し、早くも4月2日には大本営の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市を完全包囲した豊臣東海進軍本隊(4月2日参照>>)は、そのまま小田原城を包囲しつつ、一部を武蔵(むさし=東京都・埼玉県・神奈川県の一部)房総(ぼうそう=主に千葉県)下野(しもつけ=栃木県)常陸(ひたち=茨城県)など、関東一円の諸城の攻略に向かわせ、次々と手中に収めていきます。

一方、越後(えちご=新潟県)北陸方面から東山道(とうさんどう)を進軍して関東に入って来た上杉景勝(うえすぎかげかつ)前田利家(まえだとしいえ)らは、4月中には上野(こうずけ=群馬県)の諸城を攻略していましたが、5月13日、秀吉は松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)にあった景勝に鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)の攻略を指示します。

この時の鉢形城主は北条氏政の弟=北条氏邦(うじくに=氏康の5男)

実は、この氏邦さん・・・秀吉の小田原征伐が決まった最初の段階で、
まずは、現当主の北条氏直(うじなお=氏政の息子)自らが出陣して、今は徳川家康(とくがわいえやす)の傘下となっている駿河沼津城(ぬまずじょう=静岡県沼津市大手町)を奪った後、そこを本拠に豊臣軍を迎え撃ち「富士川を越えさせない!」作戦を提案していたのですが、例の小田原評定で、その作戦は却下され、本城の小田原城に籠城する作戦となったため、一旦は小田原城に入るものの、結局、小田原には自身に代わる養子の直定(なおさだ)を入らせて、氏邦自身は配下の留守居役300余名&約2700の雑兵とともに鉢形城に籠城して抵抗する事にしたのでした。

とは言え、この鉢形城周辺には秩父(ちちぶ=埼玉県北西部)領の日尾城(ひおじょう=埼玉県秩父郡小鹿野町)をはじめとする複数の出城が構築されているうえ、かの猪俣邦憲が300余名を率いて加勢に駆け付け、その守備兵力はかなりのもの・・・

かくして5月19日、真田昌幸(さなだまさゆき)依田康国(よだやすくに)らの信濃隊が小前田(埼玉県深谷市)から寄居(よりい=同大里郡)方面に陣取ると、上杉景勝&前田利家・利長父子らの北陸隊は赤浜(あかはま=埼玉県大里郡)を通って鉢形城の東側へと向かい、上杉が大手から、前田が搦手(からめて)から、合計35000余の軍勢で以って攻撃を開始します。

6月3日には津久井城(つくいじょう=神奈川県相模原市)を攻撃していた本多忠勝(ほんだただかつ)鳥居元忠(とりいもとただ)らの徳川勢が攻撃に加わり、28人持ちの大筒で城内に石火矢(いしびや=石を弾丸にした火砲)を撃ち込み、大きな被害を与えたと言います。

そんな中、現在景勝の配下となっている藤田信吉(ふじたのぶよし)が、氏邦が養子(娘婿)に入った藤田家の者(氏邦の義父の息子とも)である縁から使者として赴き、氏邦に降伏するよう説得を開始します。

やがて天正十八年(1590年)6月14日、氏邦は
「家臣たちに代わって、俺が自害するから…」
と言って、鉢形城を開け渡し、剃髪して正龍寺(しょうりゅうじ=埼玉県大里郡寄居町)に入りました。

ここに、小田原征伐における鉢形城の攻防戦は終結しましたが、結局、氏邦の身は前田利家の預かりとなり、その利家が助命嘆願した事から、その命は助かり、氏邦は敵からも味方からの「前代未聞の比興(ひきょう)と言われたとか・・・また、力攻めではなく降伏勧告に終始した利家のやり方には秀吉さんもたいそうご立腹だったようです。

とは言え、戦場で華と散るも戦国武将、生きて一族の血脈を繋ぐも戦国武将・・・このブログでも度々お話させていただいているように、血で血を洗う戦国時代には、「もう、アカン」となった時、一族もろとも滅亡する方が稀で、誰かが生き残っての血筋を残す事の方が多いです。→【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事…】参照>>

そうしないと「家」自体が歴史上から消えてしまうかも・・・「虎は死して皮残す。人は死して名を遺す『十訓抄』どころか、ヘタすりゃ一族もろとも「いなかった事」にされる可能性だってありますからね。

で、今回の小田原征伐での北条氏の場合を見てみると・・・
嫡流(*氏政は次男ですが長男の新九郎が16歳で夭折したため氏政が世子)の前当主の氏政とその息子で現当主の氏直。

一方、氏政の弟たちは・・・
3男で八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)北条氏照(うじてる)
4男で韮山城の北条氏規(うじのり)
5男で今回の鉢形城の氏邦、
以下、6男の北条氏忠(うじただ)と8男か9男の北条氏光(うじみつ)
(7男は上杉家の養子になった景虎(かげとら)=参照>>で、すでに死亡)

この中で上の3人=氏照と氏邦と氏規は、単なる支城の城主ではなく、独立した一大領国支配を行っていた感がありますが、終始小田原に籠城して兄=氏政とともにイケイケムードで徹底抗戦を主張した氏照と、足柄城をすんなり捨てて小田原城内に走った氏光と、はなから小田原籠城組だった氏忠に対し、それぞれの城に残った氏邦と氏規には、ひょっとしたら、その血筋を残す役目があったのかも・・・あくまで私的な解釈ですが、私はそう感じているのです。

今回の氏邦さんに関しては、先々代の北条氏康(うじやす=氏政や氏邦の父)に降伏して傘下となった藤田康邦(ふじたやすくに)の娘と結婚して婿養子となった藤田家の人として藤田氏邦の名前で古文書等に記載されているところから見ても、そんな気がします。

残念ながら、この後、前田家の家臣となった氏邦の血筋は途中で絶えてしまうようですが、以前書かせていただいたように、氏規さんの血筋は脈々と受け継がれ、無事、明治維新を迎えています(2月8日参照>>)

例え「前代未聞の比興」と言われようが、イザという時に「生き残る事」こそが氏邦さんの使命だったのかも知れません。

この前後の小田原征伐は・・・
●5月29日【館林城・攻防戦】>>
●6月16日【忍城・攻防戦】>>
●6月23日【八王子城・攻防戦】>>
●6月26日【石垣山城一夜城】>>
●7月5日【小田原城・開城】>>
へと続きます。
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2019年6月 8日 (土)

細川高国が自刃…大物崩れ~中嶋・天王寺の戦い

 

享禄四年(1531年)6月8日、天王寺の戦いに敗れて大物崩れとなった細川高国が自刃しました。

・・・・・・・・

応仁の乱後に、明応の政変(4月22日参照>>)で以って政権を握った室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)は、その政変の前後の状況変化ゆえ、3人の養子を迎える事になりますが、その死後に、3人の養子=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)の間で後継者争いが勃発・・・その中で、永正八年(1511年)の船岡山の戦い(8月24日参照>>)と永正十七年(1520年)の等持院表(とうじいんおもて)の戦い (5月5日参照>>)に勝利して一人勝ちとなった高国は足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立確固たる高国政権樹立に成功します。

Hosokawatakakuni600a しかし大永六年(1526年)、高国は自らの勘違いで重臣の香西元盛(こうざいもともり)を上意討ちしてしまった事から、その実兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が高国に反旗を翻し(10月23日参照>>)、しかも、このタイミングで阿波(あわ=徳島県)に退いていた亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)と配下の三好元長(みよし もとなが)らが挙兵して上洛して来ます。

大永七年(1527年)2月13日、波多野&柳本勢に合流した晴元は桂川原(かつらかわら)の戦い に勝利(2月13日参照>>)・・・負けた高国は将軍=義晴とともに近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退きます。

その後、しばらくは京都の奪回に向けて奔走する高国は、享禄元年(1528年)11月には伊賀(いが=三重県西部)仁木義広(にっきよしひろ)のもとに、翌年1月には娘婿に当たる伊勢(いせ=三重県中北部)北畠晴具(きたばたけはるとも)のもとに、5月には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉孝景(あさくらたかかげ)に、8月には出雲(いずも=島根県東部)尼子経久(あまごつねひさ)に、翌9月には三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)浦上村宗(うらがみむらむね)に会い・・・と、あちこちを転々として各人に出兵を要請して廻ります。

浦上滞在中の享禄三年(1530年)6月29日に播磨依藤城(よりふじじょう=兵庫県小野市・豊地城)を攻撃中の柳本賢治に刺客を派遣して暗殺に成功したうえに浦上の援軍を得た高国は、ここ最近、晴元と元長の関係がギクシャクし始めて元長が阿波に戻っていた事をチャンスと見て、いよいよ摂津(せっつ=大阪府中北部)に出陣します。

7月には別所就治(べっしょなりはる)三木城(みきじょう=兵庫県三木市)を攻略し、8月には神呪寺(かんのうじ=兵庫県西宮市・神咒寺)に、本陣を設けて後、9月から11月にかけて、晴元派の富松城(とまつじょう=兵庫県尼崎市)を陥落させ、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)尼崎城(あまがさきじょう=兵庫県尼崎市)での戦いにも勝利します。

一方の晴元も、諸城の守りを強化して防戦に努めますが、高国勢の勢いは止まらず、京都の各所に出没して禁裏(きんり=天皇の住まい)をも脅かすようになります。

さらに勢いづく高国勢が、年が明けた享禄四年(1531年)3月に池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を落とすと、近江の朽木(くつき=滋賀県高島市)に身を隠していた将軍=義晴も坂本まで進出し、京都奪回の機会をうかがいます。

この高国勢の快進撃に、いよいよヤバくなって来た晴元は京都を脱出し、自らが擁立した堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)のいる(さかい=大阪府堺市)へ・・・そんな晴元は、これまで頼りにしていた柳本賢治も今は亡く、ここは何とか、あの三好元長に戻って来てもらいたい(^人^) オ・ネ・ガ・イ♪

実は元長・・・先の等持院表の戦いで祖父(もしくは父)三好之長(みよしゆきなが)を亡くしています。。。つまり高国は、元長にとって、もともと祖父の仇なわけで、、、

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四天王寺・西門

かくして享禄四年(1531年)3月、元長は、堺を制圧すべく住吉(すみよし=大阪市住吉区)に出撃して来た高国勢に対し、摂津中嶋(なかじま=現在の天王寺周辺)に布陣して高国勢の先鋒を少し後退させますが、高国も天王寺(てんのうじ)難波(なんば)今宮(いまみや)に陣取り、浦上勢も野田福島(のだ・ふくしま=大阪市福島区)に布陣します。

これから5月頃まで、天王寺表にて小競り合いはあるものの、決着のつかないこう着状態が続く両者でしたが、6月2日に高国の援軍として神呪寺に布陣していた赤松晴政(あかまつはるまさ=政祐)が、晴元の要請に応じて寝返って浦上軍を背後から奇襲した事でこう着状態が崩れます。

実はコッチも・・・赤松晴政の父=赤松義村(よしむら)を暗殺したのが、誰あろう浦上村宗なわけでして(11月12日参照>>)(どんだけ恨み買うとんねん(><))、いつか仇を討とうと機会を狙っていたわけですが、この赤松の寝返りについては、高国側にもかなりの動揺があったようで・・・「赤松旧好の侍吾も吾もと神咒寺の陣に加わり」『備前軍記』と、名門赤松なればこそ、それに追随する者も少なくなかったようです。

とにもかくにも、この状況を受けた元長は、その2日後の6月4日高国陣営に総攻撃を仕掛けたのです。

もはや流れはすっかり変わりました。

かの浦上村宗をはじめ、松田元陸(まつだもとみち)伊丹国扶(いたみくにすけ)薬師寺国盛(やくしじくにもり)など、主だった武将の多くを失い、多大なる戦死者を出して、高国軍は大敗してしまうのです。

この戦いで中嶋を流れる野里川は死体で埋め尽くされ、まるで塚のようになってしまったのだとか・・・

敗戦の混乱の中、戦場を脱出した高国は、大物城(だいもつじょう=兵庫県尼崎市大物町・尼崎城と同一説あり)へと向かいますが、すでに追手が回っていたため、尼崎町内の藍染屋に逃げ込み、カメの中で身を潜めていたところを翌6月5日に発見され、享禄四年(1531年)6月8日、晴元の命により、広徳寺(こうとくじ=兵庫県尼崎市寺町)にて切腹・・・享年48でした。

この時、高国が詠んだ時世の句は
♪絵にうつし 石をつくりし 海山を
 後の世までも 目からずや見む  ♪
娘婿の北畠晴具に送った物で、三重県津市の北畠神社(きたばたけじんじゃ)に今も残る庭園の事を詠んだ物だそうで・・・この時の高国は、永遠に残る庭園の美しさと、散りゆく自らの儚さを感じていたのかも知れません。

今回の戦いは、その地名をとって「中嶋の戦い」と呼ばれたり「天王寺の戦い」とも言われますが、高国が最後に目指した場所とその衰退を含んで「大物崩れ(だいもつくずれ)とも呼ばれます。

これにて長きに渡った細川管領家を巡る争いは終わる事に・・・と言いたいところですが、実は、高国の養子である細川氏綱(うじつな)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい=元長の息子) の力を借りて晴元を倒し、最後の管領になるのです。

・・・と、そのお話は9月14日 【最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】でどうぞ>>
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2019年6月 2日 (日)

信長とともに散った織田政権ただ一人の京都所司代…村井貞勝

 

天正十年(1582年)6月2日、織田信長の家臣で京都所司代を担っていた村井貞勝が、本能寺の変で討死しました。

・・・・・・・・・

 村井貞勝(むらいさだかつ)は、その生年や出身などは不明なものの、かなり早くから織田信長(おだのぶなが)に仕えて信頼を得、重用された家臣です。

Muraisadakatu600a 弘治二年(1556年)に、弟の織田信行(のぶゆき=信勝とも)を推すメンバーが信長に謀反(8月24日参照>>)を起こした時には、母の土田御前(どたごぜん)の要請を受けて間に入り、敵対勢力と和平交渉して治めたばかりか、

敵チームの主力の一人であった柴田勝家(しばたかついえ)を取り込んで、最終的に勝家にその信行を葬り去る(11月2日参照>>)お手伝いをさせちゃうくらいの信長チームメイトにさせたのが彼=村井貞勝だったとか・・・

そう、勝は、戦の最前線に立って武功を挙げるというよりは、交渉術に長けた内政に手腕を発揮する軍師的な家臣だったのです。

その後、稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)攻略に向けての美濃三人衆(みのさんにんしゅう=稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)の懐柔(8月1日参照>>)や、あの足利義昭(あしかがよしあき=15代室町幕府将軍)を奉じての信長上洛(9月7日参照>>)の際の義昭の受け入れ準備も担当しました。

さらに上洛後の一大事業=二条御所(義昭御所)の造営(2月2日参照>>)にも手腕を発揮・・・
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参考=信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、この頃の信長は、未だ複数の家臣たちに京都の市政を分担させていましたが、元亀元年(1570年)に重臣の森可成(もりよしなり)が討死した(9月20日参照>>)事、浅井&朝倉との戦いに本願寺(2014年9月12日参照>>)やら比叡山(2006年9月12日参照>>)やら色んな敵が参戦して来て世に言う信長包囲網ができあがっていく中で、佐久間信盛(さくまのぶもり)明智光秀(あけちみつひで)といった畿内周辺担当の家臣たちの合戦への出陣も増えて来た事で、

反旗を翻した足利義昭(7月18日参照>>)を追放した元亀四年(天正元年=1573年)、貞勝を天下所司代=いわゆる京都所司代(きょうとしょしだい)に任じたのです。

これは、今で言えば京都府知事と警視総監(京都が首都なので…)を兼務したうえに、朝廷とのなんやかやもあるので宮内庁長官まで兼ねたような?要職です。

そんな中で貞勝は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)禁裏(きんり=京都御所)の修復や、新しい二条御所(二条御新造・信長の宿舎)の築造等の工事も担当しつつ、京都の治安維持や、最難関の朝廷や貴族や寺社との関係改善にも尽力していきます。

ご存知のように、天下目前のこの時期の信長さんは、次々と大きな政策を打ち出していきますので(←これは史実なので)ドラマ等で描かれる時は、少々強引に高圧的な人物に表現されていたりします。

それでなくとも、大体の時代において、政権を握った武門と朝廷&寺社の関係は、アッという間にギスギスした感じになっていくの常なんですが・・・

しかし、以前に、あの東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)削り事件のページ(3月22日参照>>)で書かせていただいたように、実際には朝廷&寺社と信長の関係は、それほど悪い物では無かったようです。

それもこれも、貞勝が間に立って、あれやこれやの食い違いをウマイ事まとめていった故・・・あの一大イベントの御馬揃え(おうまぞろえ)(2月28日参照>>)に天皇様自らお出ましになるのも、交渉上手の貞勝のなせる業といったところでしょう。

ところで、この村井貞勝が関わったとされる事で、「三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)というのがあります。

これは、もはや天下目前の信長が、未だ上位の官職についていない事で、天正十年(1582年)5月、公家の勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)が村井貞勝のもとを訪れ、信長が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=部門の最高位)太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職・名誉職)関白(かんぱく=天皇の補佐役で実質上の公家の最高位)のうちどれかに任官することについて話し合った・・・てな事が晴豊本人の日記『晴豊公記』に記されているのですが、これを、信長側から申し出たのか?朝廷側から言い出したのか?がわからないために「問題」となっているのです。

しかも、ご存知のように、この少し後の6月に、信長がその返答をしないまま本能寺(ほんのうじ)で亡くなってしまう(6月2日参照>>) ため、信長の朝廷に対する考えや、両者の関係が謎なままになってしまう・・・もちろん、どちらが言い出したかわからないのには、肝心かなめの貞勝自身も、かの本能寺で死んでしまうから・・・

そう・・・天正十年(1582年)6月2日、本能寺の向かいにある自宅にいた村井貞勝は、異変を知るや息子たちとともに、すぐさま自邸を飛び出しますが、その時には、もうすでに本能寺は火の海・・・やむなく、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)が宿所としていた妙覚寺(みょうかくじ=京都府京都市上京区)に駆け込みます。

「もはや本能寺は敗れて、御殿も焼け落ちましたよって、敵は必ずここも攻めて来るでしょう。ここより、二条の新御所(同中京区)の方が、守りが堅固で立て籠もりやすいと思います」
と貞勝が進言した事で、隣接する二条御所へと移動した信忠は、御所にいた誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第5皇子)和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子で後の後陽成天皇)
「ここは戦場となりますので、お二人は内裏(だいり)の方へお移りください」
と、別れの挨拶をして送り出し、ここで明智勢を迎え撃つ事にしますが、残念ながら、ご存知のように事態は多勢に無勢・・・(一般的には、明智軍=1万3000に対し、織田勢は、信長=100名、この後の信忠=500名と言われています)

「もはや、これまで!」
を悟った信忠は自刃し、最後まで主君を守った村井貞勝も討死しました。

一説には、先の三職推任の話は「貞勝が朝廷に強要した」という説もあるようですが、交渉上手な貞勝なら、強要というよりは、両者納得の良い話にまとめていたような気がしないでもありませんが、今は何とも・・・これに関する新しい史料の発見が待ち遠しいですね。
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2019年5月19日 (日)

粉河寺と高野山領の水争い~野上村の戦い

 

応仁元年(1467年)5月19日、紀州和歌山にて根来衆を巻き込みつつ、粉河寺領高野山領の間で起こった抗争・野上村の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

紀伊の国(和歌山県)丹生屋村(にゅうのやむら=和歌山県紀の川市・丹生谷とも)粉河寺(こかわでら=同紀の川市)内の北東部分にあたる場所にありましたが、東隣の名手荘(なてのしょう=同紀の川市)高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に属しているので、言わば国境・・・なので、この両者の間には、平安~鎌倉の頃以来、断続的に争いが続いていた場所でした。

「隣」という理由だけで「争う」???
今ではピンと来ないかも知れませんが、実は、農業の盛んな地域ではごくごく最近、昭和の時代にでもあった事・・・そう、「水争い」というヤツです。

そもそもは、日本の国土の70%を占める山々に降り注ぐ雨は、大河となって平野部へと流れ、古代には度々の氾濫を繰り返していたのを、昔の人々は土地を畔(あぜ)で囲い、大河をいくつもの川に分散して水路を張り巡らし、肥沃な農地に変えていったわけですが、

この水路というのは川の一部をせき止めて、横道にそれさせているわけですので、当然、大量に横道に誘導すれば、その後の川の水の量は減る事になる・・・雨が多い時期は、それでも大丈夫ですが、雨が少なくなると、上流の場所で大量に横道に流されては、下流に住む人々の場所まで水が流れて来ない事になっちゃいます。

そうなると、
「ちょっと、せき止める量を少なくしてよ~」
って事になりますが、ここまでになった場合、大抵、日照り続きの大干ばつ状態ですから、上流に住む農民たちにとっても生きるか死ぬかの状態なわけで、そう簡単に
「ほな、流しまっせ~」
とはいかないわけで・・・

で、結局、どうにもならない下流の住人は力づくで上流の堰(せき)を壊しに行ったり、相手の村を襲撃したり・・・って事になるわけで、ここでは椎尾山(しいのおやま)の山林資源と水無川(みなせがわ=名手川)の水の領有を巡って、度々争っていたのです。

永享五年(1433年)には、粉河寺を攻撃しようとした高野山側を、守護の畠山満家(はたけやまみついえ)が出張って来て制止し、何とか止めさせたものの、これに不満を持つ暴徒が高野山の坊舎に放火して多くの建物が燃えてしまったという事もありました。

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野上×丹生屋の水争い位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの応仁元年(1467年)、都では、あの応仁の乱がくすぶり始めた5月、またもや丹生屋村と名手荘の水争いを発端に大きな戦いが起こってしまうのです。

5月8日、まずは名手荘側の人間が丹生屋村に押し寄せて村に火をつけてまわって焼き払うと、それに怒った丹生屋村の住人が粉河寺に相談・・・すると、今度は粉河寺衆も加わって名手荘に属する野上(のがみ)に放火して報復を開始します。

当時の名手荘には、野上村の他にも馬宿(うまやど)村など5つの村があったようですが、野上は、その中でも比較的在家数が多い村で、おそらくは、そこの代表格で在地の土豪(どごう=土地に根付く武士)であろうと思われる野上九郎左衛門なる者が、籠城して戦った事が『粉河寺旧記』に記されています。

やがて、そこに、名手荘周辺の高野山領各地の荘の土豪たちが応援に駆け付けた事から、粉河寺側も大伴弥三右衛門なる人物を大将に立てて、粉河寺領内の村々から人数を集めて、連日連夜の小競り合いを繰り返していたのですが、

5月14日になって、粉河寺からの応援要請に応えた根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)の衆徒たちが、粉河の西の長田(ながた=同紀の川市)まで浸出して来た事で、合戦が大規模になる様相を呈して来て、緊張はピークに達します。

さすがに、ここまで来ると「村同士のモメ事」の域を超えていたと見え、守護の畠山もシカトするわけにいかず・・・って、何たって上記の通り、この年には応仁の乱が!!

そもそも、応仁の乱の発端となるのが、この応仁元年(1467年)1月17日に勃発した御霊(ごりょう)合戦(1月17日参照>>)畠山政長(はたけやままさなが=東軍)畠山義就(よしなり=西軍) による畠山の後継者争いなのですから、そっちに集注したい両畠山にとって、同時期に起こった領国内での争いは一刻も早く片付けてしまいたいわけで・・・

早速、守護代の神保(じんぼう)現地に派遣して仲裁に当たらせます。

かくして応仁元年(1467年)5月19日「流水は従来の通りにして、お互いに妨害しない」事を約束して両者が和解に至り、今回の騒動は一件落着となりました。

とは言え、ご存知のように、実は、粉河寺と根来寺もなかなかに抗争を繰り返していた仲なわけで・・・現に、この数年前にも、同じような水争いで、けっこう大きなドンパチをやらかしちゃってます。

なので、本当に「粉河寺のひと声で根来衆が動くのか?」てな疑問も残りますが、以前書かせていただいた【織田信長の高野山攻め】>>でも垣間見えるように、 その時々の利害関係によって立ち位置を変える柔軟さと独立性を持っていたのが中世の彼らの姿のようにも思えますので、そういう事もあったのかな?と思います。

そして、いよいよ、この水争い終結の翌日・・・畠山がらみの、あの応仁の乱が京都にて勃発する事となります(5月20日参照>>)
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2019年5月12日 (日)

長島一向一揆の討伐に織田信長が出陣



元亀二年(1571年)5月12日、織田信長が長島一向一揆討伐のため5万の大軍を率いて尾張津島へ出陣しました。

・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月、今は亡き第13代将軍=足利義輝(あしかがよしてる)の弟=足利義昭(よしあき=義秋)を奉じて(10月4日参照>>)上洛する織田信長(おだのぶなが)は、その行く手を阻む南近江(滋賀県南部)六角承禎(ろっかくじょうてい・義堅)を蹴散らし(9月13日参照>>)、畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通らを、彼らが担ぐ14代将軍=足利義栄(よしひで)&管領=細川昭元(ほそかわあきもと)もろとも阿波(あわ=徳島県)へと退かせ(9月7日参照>>)、無事、義昭を第15代室町幕府将軍の座に座らせました(10月18日参照>>)

しかし、その後、何度かの打診にも関わらず、いっこうに新将軍への挨拶に来ない越前(福井県)一乗谷朝倉義景(あさくらよしかげ)に対し、信長が、元亀元年(1570年)4月、その最前線となる手筒山・金ヶ崎城(かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始する(4月26日参照>>)と妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけていたはずの北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(2011年6月28日の前半部分参照>>)が、朝倉方にて参戦して来た事から、挟み撃ちを恐れた信長が撤退・・・これが有名な「金ヶ崎の退き口」ですが(4月27日参照>>)、、、

ここで危機一髪の苦汁をなめさされた信長は、2か月後に近江へ侵攻して、浅井朝倉連合軍との姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦いに勝利します(6月28日参照>>)

しかし、ここで深追いせずにいた事で、ある程度の力を温存できた浅井朝倉が南下して来て、宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)の戦い(9月20日参照>>)堅田(かただ=同大津市)の戦い(11月26日参照>>)などで抵抗し、そこから逃げた残党を比叡山延暦寺(えんりゃくじ=同大津市)が匿った事が翌年の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)へと発展して~と、ここらあたりから、いわゆる「信長包囲網」が形成されていくわけですが・・・
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信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな浅井朝倉とドンパチやってる真っただ中でも信長は忙しい・・・畿内に舞い戻って信長に抵抗していた三好三人衆との野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の戦い(8月26日参照>>)さ中の元亀元年(1570年)9月、この野田福島の戦いに本願寺第11代法主顕如(けんにょ)参戦して来たのです(9月13日参照>>)

実は、
もともと本拠としていた山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を40年ほど前に焼き討ちされた(8月23日参照>>)後、浄土真宗本願寺が現在本拠としていたのが、かつて第8代法主=蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)の隠居所だった大坂御坊(3月25日の後半部分参照>>)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市・現在の大阪城の場所)だったのですが、ここ最近、この絶好の場所を「譲ってほしい」と信長が言って来ており、それに対抗すべく全国の信徒に向けて一揆を蜂起するよう檄文を発布し、自らが先頭に立っての参戦でした。

・・・で、
「教祖様が立ちあがったひにゃ、ワシらも!」
とばかりに蜂起したのが、木曽三川(きそさんせん=木曽川・揖斐川・長良川)の河口付近の輪中(わじゅう=水害から守るために周囲を囲んだ堤防や集落)地帯である長島(ながしま=三重県桑名市)の本願寺門徒・・・ここは、室町中期に蓮如の息子である蓮淳(れんじゅん)願証寺(がんしょうじ)を建立して以来、寺を中心に本願寺門徒が周辺の国人領主(地元に根付いた武士)を取り込んで、砦などを設けて武装化した本願寺門徒の一大拠点となっていた場所でした。

元亀元年(1570年)11月、武装した一揆衆は、代々伊藤一族が城主を務めていた長島城(ながしまじょう=三重県桑名市)に大軍で押し寄せて伊藤一族を追放して城を奪取した後、この長島城を拠点に、信長の弟=織田信与(のぶとも・信與)が守る古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃し、信与を自害に追い込んだのです(11月12日参照>>)

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長島一向一揆&小木江城の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

弟が犠牲になったのですから、そりゃもう、信長さんも激おこMAX!!

早速信長は、未だ絶賛戦闘中の六角承禎父子らと和睦したり、足利義昭などを通じて浅井朝倉などとも和睦調停を結び、とりあえずこの年の暮れには、一旦、周辺を落ち着かせる事に成功します。

ところが、翌元亀二年(1571年)早々、信長配下で横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を任されていた木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が浅井方の磯野員昌(いそのかずまさ)佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)をごと寝返らせた(2月24日参照>>)事から、5月 6日、今度は浅井長政が、その前年に浅井から織田へと転身した堀秀村(ほりひでむら)らが守る箕浦城(みのうらじょう=滋賀県米原市箕浦)を襲撃・・・これに近江の一向一揆が浅井を加勢します。

しかし、即座に反応した秀吉が見事これを鎮圧・・・(5月6日参照>>)

これに気をよくした信長は、元亀二年(1571年)5月12日長島一向一揆をせん滅すべく5万の大軍を長島に派遣し、自らも尾張津島(つしま=愛知県津島市)まで出陣します。

津島に着陣すると同時に信長は、佐久間信盛(さくまのぶもり)以下、浅井政貞(あざいまささだ)和田定利(わださだとし)らの一隊を中筋口(長島町大鳥居)の島東部から、柴田勝家(しばたかついえ)以下、氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)不破光治(ふわ みつはる)らの一隊を揖斐(いび)西岸の多岐(たぎ)山麓から太田口に向かって進撃させました。

5月16日、周辺の村々に放火した織田軍は、この日は、そのまま退去するつもりで兵を退きあげようとしますが、一揆勢は、そこをすかさず山側に移動・・・待ち伏せの体制を取り、眼下の道を織田軍の最後尾が通るタイミングで以って、待機していた弓&鉄砲の名手が一斉に射撃を開始すると同時に歩兵がドッと攻めかかります。

右は揖斐川、左は一揆の射撃隊がいる山の崖・・・しかも崖の下のこの道は、騎馬なら一騎ずつしか通れないような細い道で、もし敵に出会おうものならお互いに一騎打ちで対戦するしかないような場所でした。

そう・・・地の利を知る一揆勢が、少数で大軍を迎え撃つために選んだ最高の場所だったというワケです。

混乱する中でも戦う織田勢・・・織田軍本隊と、少し先を行っていた佐久間隊は、すぐに兵を退かせる事に成功しますが、殿(しんがり=軍隊の最後尾)を務めていた柴田隊は完全にピンチ!

それでも、踏ん張って防戦する柴田隊でしたが、惜しくも勝家自身が負傷したため撤退します。

その後、殿の2番手だった氏家隊が敵を受け止めて戦いを継続しますが、残念ながら氏家卜全は討死してしまいました。

もちろん、彼らの配下の将兵の死傷者は数知れず・・・信長による長島一向一揆攻めの初回は、見事な敗北となってしまったのです。

この後、9月には
【近江一向一揆】>>
例の
【信長の比叡山焼き討ち】>>
さらに、その翌年には
【越中一向一揆】>>(←これは上杉謙信との戦いですが)
と、一向一揆は激しさを増していきますが、

どうやら、一揆側も一枚岩では無いようで・・・と、そのお話は【石山本願寺の総大将・下間頼総の追放】>> でどうぞm(_ _)m
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