2017年7月22日 (土)

信長の小谷侵攻~山本山城の戦いと虎御前山城構築

元亀三年(1572年)7月22日、翌年の浅井家の滅亡小谷城落城につながる山本山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)、第15代室町幕府将軍足利義昭(よしあき・義秋)奉じて上洛(10月18日参照>>)を果たした織田信長(おだのぶなが)・・・その後、再三に渡って「新将軍に挨拶に来んかい」と呼びかけるも、上洛に応じなかった越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)に対して、元亀元年(1570年)4月、信長は、義景の本拠であった金ヶ崎城(かながさきじょう=福井県敦賀市金ヶ崎町)天筒山城(てづつやまじょう)を攻めますが【4月28日参照>>)、そのさ中に、自身の妹(もしくは姪)お市の方を嫁にやって味方についけていたはずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)が朝倉についた事を知り、挟み撃ち寸前のところをギリギリセーフで撤退に成功し、岐阜(ぎふ)へと戻る事ができました。
金ヶ崎の退き口】参照>>
【信長を狙撃した杉谷善住坊】参照>>
【瓶割柴田の野洲川の戦い】参照>>)

怒り心頭の信長は、その2ヶ月後の6月に、浅井を倒すべく、仲良しの徳川家康(とくがわいえやす)クンを誘って、長政の居城=小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)近くに侵攻・・・これが姉川の戦いです。
【姉川の合戦】参照>>
【姉川の七本槍】参照>>

この戦い自体は織田&徳川連合軍の勝利に終わったものの、信長が撤退する敵を深追いしなかった事から、力を温存できた浅井&朝倉は、その後もゲリラ的合戦を続け
【宇佐山城の戦い~森可成・討死】参照>>
信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い】参照>>
それは、その翌年には、戦場から逃げた浅井&朝倉の残党をかくまう比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)にも飛び火します。
【信長の比叡山焼き討ち】参照>>
【比叡山焼き討ちは無かった?】参照>>

とは言え、配下&傘下の者は、上記の通りのゲリラ的動きを繰り返すものの、本家本元の長政は小谷に籠ったまま・・・信長は、姉川近くの横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)を置き、その周辺にも配下の武将を配置して誘いをかけるなど、「城からおびき出し作戦」を続けつつ監視していました。

そんなこんなの元亀三年(1572年)7月19日、具足初め(ぐそくはじめ=初めて具足をつける儀式)を終えたばかりの嫡男=織田信忠(のぶただ=当時は奇妙丸)を連れた信長が、横山城に着陣・・・翌日、小谷へと向かって進撃を開始し、秀吉をはじめ、佐久間信盛(さくまのぶもり)柴田勝家(しばたかついえ)丹羽長秀(にわながひで)など、そうそうたるメンバーに小谷城を攻めさせたのです。

城下に火を放ち、城門近くまで迫って数十人を討ち取りましたが、城内からは、さほどの抵抗も無く、この日の戦いは終了・・・その日のうちに、勝家らを、近くの虎御前山(とらごぜやま=滋賀県長浜市)に陣取らせて守りを固めました。

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小谷城跡からの眺望…眼下に見えるのが虎御前山、右奥に木々の影から伸びているのが山本山、正面の琵琶湖上右奥に浮かぶのが竹生島

翌・7月22日には、秀吉に、山本山城(やまもとやまじょう=同長浜市)に籠る阿閉貞征(あつじさだゆき)を攻めさせました。

秀吉が城山の麓を焼き払うと100人ほどの城兵が撃って出て来たので、応戦して50人ほど討ち取りますが、それ以上の出撃はなく、守りを固めるいっぽう・・・なので、山本山に対してはこれまでとし、次に蜂須賀(はちすか)らが湖上へと回り、湖側から小谷へとチョッカイを出し続けますが、やはり、守りを固めるいっぽう・・・

最後には、「アホ~」「バカ~」「マヌケ~」「アホ言うヤツがアホじゃぁ~」と散々に罵り、悪態をついて相手を挑発してみますが、やっぱり小谷はノッて来ない・・・なので、この日は諦めて兵を退く事に・・・

翌・23日には、与語(よご=余呉)木之本(きのもと=長浜市)も焼き払い、さらに24日には、秀吉や長秀らが草野(くさの=同長浜市)に攻め入り、近隣の村から農民や一向一揆衆が逃げ込んで籠城する大吉寺(だいきちじ=長浜市)へと迫り、一揆勢の僧兵らを多数討ったと言います。

同時に、琵琶湖の湖上からは打下(うちおろし=滋賀県高島市)林員清(はやしかずきよ)堅田(かただ=滋賀県大津市)猪飼野昇貞(いかいの のぶさだ=正勝)坂本(さかもと=同大津市)明智光秀(あけちみつひで)など、琵琶湖西岸を本拠とする武将たちが、武装した船で海津(かいづ=高島市)塩津(しおづ=長浜市)の浜に漕ぎ寄せて周辺を焼いたほか、沖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま=長浜市)にも攻撃を仕掛けました。

こうして、信長が様々な挑発行為を行うも、やはり小谷城の長政は打って出ては来ない・・・なので、信長は、小谷のすぐ近くにある虎御前山に城を構築する事とし、7月27日から、その工事に取り掛かります。

一方の浅井長政・・・この状況を見据え、すでに、朝倉への援軍要請の使者を派遣しておりました。
「今の織田軍は、あの長島一向一揆相手に戦って、メッチャ疲れてますよって、今、朝倉さんが出てくれはったら、絶対イケます!チャンスでっせ!」
と・・・とまぁ、確かに長島一向一揆は前年の5月頃勃発(5月16日参照>>)してますので、一揆の事は本当ですが、「織田軍が疲れてる」というのは、ちょっと盛った感じ?ですが、そこはご愛敬で・・・で、この後、義景自らが率いる朝倉の援軍が到着するのが7月29日

しかし、到着してみると、すでにあちらこちらに織田軍がウヨウヨ状態で、信長自らが陣を置いて城の準備に勤しんでいる様子・・・さすがに、すぐに何かを仕掛ける事はできず、やむなく義景は小谷の北側の高山に布陣しました。

当時の虎御前山は、かなり見晴らしが良く、北には山々の朝倉軍の動きも見え、西は比叡山、南は遠く石山寺(いしやまでら=滋賀県大津市石山寺)まで望めたとか・・・とは言え、虎御前山から横山城までは約12kmあり、しかも、途中が悪路であったため、信長は、両所の間に2ヶ所の砦を築き、その一つの宮部(みやべ)の砦には宮部継潤(みやべけいじゅん)(3月25日参照>>)を配置して守りを強化する一方で、敵の進路を阻む築地(ついじ=泥土をつき固めて作った塀)を造ったり、逆に、味方には川をせき止めて渡りやすくしたりと、戦場となるであろう周辺に万全の準備を整えます。

しかし、ここに来ても長政はいっこうに動こうとはせず、義景も、着陣したからと言って何の動きもない・・・なので、信長は堀秀政(ほりひでまさ)(5月27日参照>>)を使者にたてて、
「せっかく、ここまで出て来はったんですから、日付なと決めて、一戦交えましょうや」
と、義景に誘いをかけてみますが、何日経っても知らん顔・・・

結局、何の進展も無いままだったので、信長は、虎御前山城には、秀吉を指揮官として残し、自らは横山城へと戻ったのです。

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信長の小谷侵攻~山本山城の戦い位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この後、浅井&朝倉勢が、例の築地を壊しに来たりして、ゲリラ的なちょっとした小競り合いは度々起こるものの、大きなぶつかり合いになる事はなく、12月には義景も越前へと退去・・・そのまま運命の天正元年(1573年)を迎える事になります。

この年、2月に反発をあらわにした将軍=義昭に対して、ただ1度のための大船を建造して琵琶湖を渡って(7月3日参照>>)力の差を見せつけた信長が、その義昭の拠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻撃(7月18日参照>>)したのが7月・・・

そして翌月の8月8日・・・小谷城落城=浅井家の滅亡となるその戦いが開始される事になるのですが、皮肉な事に、そのキッカケとなるのは、今回の前哨戦で、浅井のために山本山城を死守してくれたはずの阿閉貞征の寝返りだったのです。

てな事で、つづきのお話=浅井&朝倉の滅亡については
朝倉氏滅亡とともに一乗谷は歴史の彼方…】>>
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】>>
でどうぞo(_ _)oペコッ
 .

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2017年7月17日 (月)

天文法華の乱~飯盛城の戦いと大和一向一揆

天文元年(1532年)7月17日、後の天文法華の乱につながっていく大和一向一揆がありました。

・・・・・・・・・・・

京都の市街を戦場とした事で、町中が焦土と化したと言われる応仁の乱ですが、実は、その応仁の乱よりも被害が大きかったとされるのが、天文五年(1536年)7月に起こった天文法華(てんぶんほっけ・てんもんほっけ)の乱(7月27日参照>>)です。

そのページには、有名な京都の祇園祭(ぎおんまつり)の山鉾巡行で、先頭を行く長刀鉾(なぎなたぼこ)に飾られる長刀は、この乱で法華宗(ほっけしゅう=日蓮宗)宗徒に八坂神社が勝利した証の長刀で、街中を練り歩いて、それを京都市民に披露する意味もあった事を書かせていただきましたが・・・

もともとは奈良の興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の末社だったのが、平安時代に比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)に属するようになった八坂神社・・・その後、室町時代には延暦寺から切り離されてはいましたが、未だ、そのつながりが強固な物だったようで・・・

つまり、上記の天文法華の乱は、天台宗VS法華宗の争乱という事になりますが、ここに至るまでには本願寺も絡んでいるうえ、もともとは武士同士の権力争いが宗教勢力を巻き込んで(≧ヘ≦)・・・と実にややこしいんですが、どうぞ、最後までお付き合いを・・・

・‥…━━━☆

応仁の乱(5月20日参照>>)の後、その東軍の大将=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いだ息子=細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)は、自らの意のままになる傀儡(かいらい=あやつり人形)の室町幕府将軍を擁立するほどの権力を持つ管領(かんれい=将軍の補佐)となりますが、その死後に起こった政元の養子同士の後継者争いの中で、大永七年(1527年)の桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)などに勝利してライバルの細川高国(たかくに)を追い落とした細川晴元(はるもと)が、堺公方足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立して京都を掌握し、ようやく、わずかばかりの平和が訪れた頃、

先の高国討伐で、ともに功を挙げた、阿波(あわ=徳島県)にいた頃からの晴元の家臣=三好元長(みよし もとなが=長慶の父)と、山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)との間に亀裂が生じ始めていました。

その原因は・・・
上記の通り、そもそもは義維を擁立して政権を握るつもりだったはずの晴元が、高国という敵を排除した途端に、その高国とツルんでいた第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる=義維の兄)和睦を働きかけて近づいて行った事に、元長が苦言を呈した事で、両者がギクシャクし始めたところに、

このタイミングで、かの高国討伐をキッカケに晴元に急接近した木沢長政が、晴元の威を借りて、そもそもの主君であった河内(かわち=大阪府東部)山城(やましろ=京都府南部)守護(しゅご=今でいう県知事みたいな感じ)であり、室町幕府の管領家でもある畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)から独立を企てた事にありました。

当然、激怒した義堯は、元長の一族の三好一秀(みよしかずひで=勝宗)に命じて、長政の居城の飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻めさせますが、一方の長政は、即座に晴元に救援を要請・・・ここに、元長とは一族でありながらも、何かと敵対していた三好政長(みよしまさなが=之長の甥)が加わって、
「細川晴元+木沢長政+三好政長」
 VS
「畠山義堯+三好元長+三好一秀」

となったわけですが、

そんな中、享禄四年(1531年)8月と天文元年(享禄五年=1532年)6月の2度に渡って一秀らから飯盛山城を攻められ、分が悪い晴元&長政らは、山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)第10世法主=証如(しょうにょ=蓮如の曾孫)宗徒の出陣を要請します。

かつて、本願寺中興の祖である蓮如(れんにょ)上人が、あの加賀一向一揆で「過激な事はするな」と言い残して越前(えちぜん=福井県)を退去した(8月21日参照>>)ように、また、先代である実如(じつにょ=蓮如の息子で証如の祖父)「武士を敵としてはいけない」と言い残したように(…と言いながら自分も細川政元に協力して朝倉と戦ってますが…)、本来、戦いに関わらない姿勢にあった本願寺法主でしたが、当時、未だ血気盛んな17歳だった証如は、この要請を引き受けてしまいます。

実は、この時、都の宗教界を本願寺と二分していたのが法華宗で、その法華宗の大スポンサーだったのが元長さん・・・未だ若い証如は、宗教上での敵対勢力を弱体化させる絶好のチャンス!と思ったのでしょう。

もちろん、教祖様の呼びかけに応じて終結した本願寺宗徒=一向一揆衆たちはズブの素人の烏合の衆・・・本来なら、とてもプロの武将に太刀打ちできませんが、この時「集まった人数は3万を超えた」と言われるほど大人数で、飯盛山城を囲む三好勢を取り囲んで猛攻撃を開始します。

さすがに、突然現れた大軍になす術のない三好勢・・・勢いずく一揆勢は天文元年(1532年)6月15日一秀を討ち取った後、撤退しようとする義堯を追撃して自刃に追い込んだのです(飯盛城の戦い)

さらに、その5日後の6月20日には、10万ほどに膨れ上がった人数で、元長のいる顕本寺(けんぽんじ=大阪府堺市堺区)を取り囲み、元長をも自害させました。

こうして、晴元&長政は飯盛山城を死守する事ができたわけですが・・・

この時、天文元年の2度目の飯盛山城攻めから、畠山の要請により参戦していた大和(やまと=奈良県)の国衆=筒井順興(つついじゅんこう=順慶の祖父)は、速やかに撤退して、居城である筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)に、無事、戻る事ができましたが、なんと、この後、河内で暴れまわった一向一揆が、その勢いのまま奈良へとやって来るのです。

と、言っても、河内の一揆衆がそのまま奈良に・・・というよりは、「その動きが波及して来た」という感じ・・・

なんせ、この奈良には、古くからの一大宗教勢力=興福寺があったわけで・・・

これまでも、あの全盛期の平家相手に真っ向から立ちふさがったり(12月28日参照>>)、中央政府に度々強訴(ごうそ=僧兵の武力で以って集団で訴え要求する事)を起こしたり(10月5日参照>>)と、かなりの武力行使で当地に君臨していたわけで・・・
*【僧兵~僧侶の武装と堕落】も参照>>

しかし、この頃の奈良には、すでにかなりの数、本願寺に帰依する者も出て来ていて、そんな彼らの中には、今もって権勢をふるう興福寺に嫌悪感を持っていた者も少なく無かったのです。

そんな彼らが、教祖様=証如の呼びかけに立ち上がるのは当然の事・・・

かくして天文元年(1532年)7月17日、集結した大和の一向一揆衆は、ホラ貝を吹き鳴らし、鐘をけたたましく打ちまくりながら、興福寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する坊寺院)に放火して回ったのです。

記録によれば、興福寺の伽藍(がらん=寺院の主要建築群)そのものと、一乗院(いちじょういん=奈良県奈良市)大乗院(だいじょういん=同奈良市)を除いて、他の僧坊はほとんど、焼かれるか破壊されるか・・・

大事な経典は破られ、高価な法事の道具は盗まれ・・・さらに、その勢いは春日神社(かすがじんじゃ=現在の春日大社)にまで及び、蔵や神主さんの家まで破壊されたのだとか・・・この時、抵抗する術もなかった奈良在住の興福寺宗徒たちは、手に手を取って、南の高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)を目指して落ちて行ったのです。

勢いが、ようやく終息に向かった8月9日の夜・・・残った物はほとんど無く、奈良中がすっかり焦土となっていたと言います。

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大乗院庭園…庭園へのくわしい行き方は本家HP:奈良歴史散歩「ならまち」で>>

こうして「天文法華の乱~大和一向一揆」は、終焉を迎えました~~
って、延暦寺+八坂神社VS法華衆は?

そうなんです。
本チャンは、まだ先の先・・・

この戦いで分が悪いと本願寺に支援を求めた細川晴元・・・開けちゃいけないパンドラの箱を開けちゃいました~

この争乱で勢いづいた・・・
いや、勢いがつき過ぎた本願寺を法華宗でおさえ、
ほたら、また法華宗が勢いづいて・・・
と、エンドレスな宗教勢力争いに武士が関与して、
あんな事やこんな事が・・・

とにもかくにも、この続き=山科本願寺の戦いについては、その日の日付で書かせていただくつもりでおりますので、少々のお待ちを・・・m(_ _)m
 .

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2017年7月12日 (水)

応仁の乱が終わっても~続く畠山義就VS政長の戦い

延徳二年(1490年)7月12日、応仁の乱後も続いた畠山氏の主導権争いの中で、大きな衝突となった一乗山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府将軍家の後継者争いに管領家の後継者争いがくっついて、その配下となる全国の大名を巻き込み、全国を東西真っ二つに分ける大乱となった応仁の乱・・・

モメた原因の一つが、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県・三重県の一部)大和(やまと=奈良県)などの重要地の守護(しゅご=現在の県知事)を任されていた畠山氏の後継者争いでした。

Hatakeyamayosinari400 そもそもは、幕府管領(かんれい=将軍の補佐役・執事)だった畠山持国(はたけやまもちくに)が、自らの後継者を弟の畠山持富(もちとみ)に定めていたにもかかわらず、途中で「やっぱ、ヤメた~」と持富を廃して、息子の畠山義就(よしひろ・よしなり)に譲ろうとしたために、持富の家臣や息子の畠山弥三郎(やさぶろう=政久)が抵抗・・・持国も持富も弥三郎も亡くなった後は、弥三郎の弟である畠山政長(まさなが)が父と兄の遺志を受け継いで、義就との後継者争いを繰り広げる事になったわけです。

ただ、これには、単に持国が後継者決めに優柔不断だったり、家内で両者がウダウダやってたり・・・の畠山家ばかりのせいではなく、そこには、その力があまり大きくならないように守護大名を内部分裂させておきたい将軍家の思惑なんかもあったわけですが・・・。

なんせ、これまで、文安五年(1448年)11月に持国が義就を後継者に指名してから後、
享徳三年(1454年)9月
 =細川勝元の支持を受け弥三郎が上洛
 義就は京都を追われる
同年12月
 =義政の承認を受け義就が家督を継ぐ
 =弥三郎は京都を追われる
康正三年(1457年)7月
 =義就の勝手な出兵に義政激怒で所領没収
長禄三年(1459年)9月
 =弥三郎が死亡で派閥は弟の政長を擁立
長禄四年(1460年)9月
 =義就が朝敵(ちょうてき=国家の敵)
 =政長が畠山の家督を継ぐ
寛正四年(1463年)9月
 =恩赦により義就は赦免
寛正五年(1464年)
 =義政が管領に
文正元年(1466年)
 =義就が挙兵して上洛して義政に謁見
 =義政が管領職を辞めさせられる

とまぁ、このように、武力で以ってどっちかが上洛すれば、相手が退去・・・しかも、それをいちいち幕府が認めたり、辞めさせたりのくりかえし・・・(10月16日参照>>)

Ouninnoransoukanzucc で、上記のように、管領職を辞めさせられた義政が、名誉挽回とばかりに起こしたのが、応仁の乱勃発(5月20日参照>>)の直接の引き金となる応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)なのです。

勃発後、すぐには、5月の五月合戦(5月28日参照>>)、10月の相国寺の戦い(10月3日参照>>)など、京都市街で大きなぶつかり合いがありましたが、ご存じのように、この応仁の乱・・・
途中から、東西の武将が入れ替わったり、総大将がトンズラしたり(11月13日参照>>)してるうちに、徐々にグダグダ感満載の戦いと化していくわけで・・・

で、東西の大将である細川勝元(ほそかわかつもと)山名宗全(やまなそうぜん=持豊)が、文明五年(1473年)に相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事をキッカケに、8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が息子の足利義尚(あしかがよしひさ=9代)将軍職を譲って正式に隠居した事を受けて、その翌年には、それぞれの大将の息子=細川 政元(ほそかわまさもと)山名政豊(やまなまさとよ)が和睦・・・さらに文明九年(1477年)9月には義就が領国の河内に、11月には、最後までゴネまくっていた大内政弘(おおうちまさひろ)周防(すおい=山口県)にと(11月11日参照>>)・・・それぞれ京都を去って行った事で、やっとこさ応仁の乱は終結となるのです。

しかし、応仁の乱は終わっても、両畠山の抗争は終わりませんでした。

なんせ、上記の経緯の通り、幕府から認められた管領職についているのは義政なので、河内や紀伊など畠山の領国の守護は政長なわけですが、実際に河内の誉田城こんだじょう=大阪府羽曳野市誉田)に入って実権を握っているのは義就なわけで・・・未だに、どっちも譲らないんですから、当然です。

河内が難しいならば・・・と、政長が紀州への侵入を試みるも失敗した文明十四年(1482年)7月の戦闘をキッカケに、再び両畠山氏の戦闘が頻繁に行われるようになります。

戦場になった地では、田畑は荒らされるうえに、配下の者は、土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の地侍)はもちろん、農民に至るまで兵士として駆り出されるわけで・・・この頃、頻繁に戦場となっていた河内や山城の一般人から見れば、「もう、えぇかんげんにしてくれ!」ってなるのも当然で、この文明十四年(1482年)の12月には、歴史教科書でも有名な山城の国一揆(12月11日参照>>)が起こり、住民が話し合いで以って両畠山氏の撤退を要求するという前代未聞の下剋上を成功させています。

それでもまだ、あちらこちらで小競り合いを続ける両者・・・そんなこんなの延徳二年(1490年)7月12日大きな戦闘が起こります。

記録によって記述が様々なのですが、それらを合理的に統合して、現時点では、
あれからずっと、紀伊への侵入を画策しつつも、実現できずに苦労していた政長に、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)周辺の根来衆(ねごろしゅう=根来寺一帯に居住した僧兵集団)が協力を快諾した事から、それを足がかりに、イザ紀州へ攻め込もうと政長勢が駐屯していた一乗山(いちじょうざん=同岩出市)に、義就勢が押し寄せて猛攻撃を仕掛けた・・・という見方がされています。

結果としては、義就側の大敗・・・政長の主力であった根来衆相手に、数百余りが討死にし、その中には高野山の法師も多数含まれていたとされ、かなりの大戦だったと都でも評判になったとの記録が残っています。

また、主だった者の70余りの首が、その後京都に送られて「政長が首実検をした」との記録もある事から、この戦いに政長自身は出陣しておらず、その時は京都にいたものと考えられています。

とにもかくにも、この大敗は義就にとってはかなりの痛手であったようで、義就は翌・延徳二年(1491年)12月に、この世を去ります(内容かぶる部分ありますが…12月12日参照>>)

父の死を受けて息子の畠山義豊(よしとよ=基家)が後を継ぎますが、そこを一気に潰そうと考えたのか?政長は「義豊討伐」を願い出、時の第10代将軍=足利義稙(よしたね:義材・義尹=義政の弟の子)を擁して、根来衆やら紀伊の国衆やらを引き連れて義豊攻撃に向かうのですが・・・

ところが、将軍と元管領(時の管領は細川政元)が留守となったこの間、京都で、どえらい出来事が・・・有名な明応の政変(めいおうのせいへん)です。

これは、時の管領の細川政元が義稙を廃して、自らの意のままになるであろう足利義澄(よしずみ:義遐・義高=義政の兄の子)を第11代将軍に擁立して政権を掌握するという明応二年(1493年)に起こったクーデター・・・

この政変によって、将軍=義稙とそこにつながる政長が率いる軍団は、一夜にして賊軍となってしまったのです。

やむなく、元将軍=義稙は義豊側に投降し、政長は失意のまま自殺(討死にとも)・・・戦場を逃れた政長の息子=畠山尚順(ひさのぶ)は紀州へと身を隠し・・・おかげで、義豊は、政長に奪われたままとなっていた守護職を取り戻す事に成功したのです。

Dscn1713a900 応神天皇陵(誉田御廟山古墳・大阪府羽曳野市誉田)…誉田城は、この天皇陵を利用して構築した城と言われています。

しか~し・・・畠山両者の戦いは、ま~だ終わりません。

逃れた尚順が地元=紀州を味方につけ、勢力を挽回した事から、早くも、政変から約半年後の10月に両者の衝突が起こったのを皮切りに、
明応四年(1495年)、
明応六年(1497年)、
明応八年(1499年)・・・さらに、この明応八年(1499年)1月の戦いで義豊が戦死すると、その息子の畠山義英(はたけやまよしひで)が引き継いで
明応八年(1499年)12月、
翌・明応九年(1500年)・・・と、

とにかく、義豊側が尚順を紀州に追い込めば、ほとぼり冷めた頃に尚順が河内に侵攻・・・それが治まれば、また義豊側が紀州に・・・と、両者の戦いは続いていくのです。

とは言え、両者が、そんなこんなしているうちにも時代はどんどん進んでいくわけで・・・やがて、大和の派遣争い(9月21日参照>>)、政元亡き後の細川家の後継者争い(2月13日参照>>)、両者ともに巻き込まれつつあるうちに、徐々に他の武将たちが力をつけてくる下剋上・・・

結果的には・・・
義就系統は、上記の義英の息子の畠山義堯(よしたか=義宣)が、守護代の木沢長政(きざわながまさ)に裏切られて自刃に追い込まれた(7月17日参照>>)後、そのまた息子の畠山在氏(ありうじ)の時代に、その木沢長政が三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)に敗北した事から、事実上の滅亡となります。

一方の政長系統は、尚順から5代後の畠山高政(たかまさ)の時代に、やはり台頭していた三好(9月28日参照>>)と敵対した関係から、足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛して来た織田信長(おだのぶなが)(10月18日参照>>)に近づき、その子孫たちは織田→豊臣→徳川の流れで生き残り、伝統ある名家を重んじる徳川家康(とくがわいえやす)によって、あの今川家(3月16日参照>>)と同様に、江戸幕府内の高家(こうけ=江戸幕府内で儀式や典礼を担当する役職)として幕末まで続く事になります。

戦国の世で生き残っていくのは大変ですね~
振り返ってみると、この畠山両家は、戦国の幕開けとも言われる応仁の乱から、信長の上洛まで、ずっと戦っていたわけですから・・・
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2017年7月 5日 (水)

春日源助殿へ~武田信玄のラブレター❤

天文十五年(1546年)7月5日、武田信玄が、あの有名なラブレターを送りました。

・・・・・・・・・・

文春砲が鳴りやまない今日この頃ですが、いつの時代も、有名人というのは大変なものです。

古くは舎人(とねり)親王(11月14日参照>>)にしろ、近くは昭和の歌人=斉藤茂吉(もきち)(2月25日参照>>)にしろ、そして、今回の武田信玄(たけだしんげん)にしろ・・・
まさか、自分の書いたラブレターが日本中に公開されるとは!(lll゚Д゚)

まぁ、前回ご紹介させていただいた上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)『出家願望の手紙』(6月28日参照>>)でも、ご本人は「他人に見られたら恥ずかしい」っておっしゃっていますので、その内容に関わらず、手紙という物が、宛てた人以外の人に見られるのは、だいたいにおいて恥ずかしい物ではあります。

とは言え、歴史上の有名人となると、やはり、「その手紙が残っている」というだけで価値があるわけで、ましてや、それが、包み隠さずホンネを吐露した感じの内容であるなら尚更・・・

ただし、歴史が大好きで、歴史上の人物は全員大好きな不肖茶々・・・決して、こういった類の物を、バカにしたり、貶めるつもりでご紹介するわけではありません。

以前、別のページのコメントにも書かせていただいたのですが・・・

芸能事務所がアイドルやタレントを売り出すのに使う心理学を応用したテクニックの一つに『二重構造の原理』というのがあるんですが、それは、大衆の支持を得るためには、物質的な異質性心情的な同一性の二つを兼ね備えていないと人気が出ないという事なのだそうで、

物質的な異質性というのは、アイドルやタレントの場合は、カワイイ容姿だったり歌のうまさだったり…一方の歴史上の人物の場合は、強さだったり天才的な策略だったり、歴史に残るような偉業を成し遂げていたり…これは、一般人とは比較できないほど優れていなければなりません。

しかし、その一方で、心情的には同一=つまり一般大衆と同じように悩み苦しみ失敗する…心情的には一般大衆と同質の物を持っていないと共感を呼ぶ事ができず、大衆の支持を得られないって事なのですね。

邪魔だと思えば父も追放(6月14日参照>>)、敵をビビらせるためには3千人の生首を並べたり(8月17日参照>>)、三方ヶ原に勝利した翌日には、あの織田信長(おだのぶなが)を挑発(12月23日参照>>)したり・・・

そんな絶対的猛者の信玄が、大好きな男の子の心を捕まえておきたくて右往左往してる様子・・・心理学をカジった事のある茶々としては、このギャップが魅力的で、むしろ、「だからこそ人気がある」のだと思っているのです。

ちなみに、たまに、このラブレターの相手が男だという事に注目してしまう場合がありますが、以前、江戸時代に流行った若衆歌舞伎(6月20日参照>>)のページに書かせていただいてるように、この時代の男同士の恋愛は、特別珍しい事ではありませんので、そこではなく、人間味あふれる信玄さんの様子に、ご注目を・・・

・‥…━━━☆

一、弥七郎に頻(しきり)に度々申し候へども、虫気(むしけ)のよし申し候あひだ、了簡(りょうけん)なく候。全くわが偽(いつわり)になく候。
一、弥七郎伽
(とぎ)に寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いはんや昼夜とも弥七郎とその儀なく候。なかんずく今夜存知よらず候のこと。
一、別して知音
(ちいん)申したきまゝ、色々走り廻り候へば、かへって御疑ひ迷惑に候。 

この条々、いつはり候はば、当国一、ニ、三明神、富士、白山、殊(こと)に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、諏訪上下(すわかみしも)大明神、罰を蒙(こうむ)るべきものなり。よって件(くだん)の如し。
内々宝印にて申すべく候へども、甲役人多く候あひだ、白紙にて、明日重ねてなりとも申すべく候。
 

 七月五日
     晴信
(←花押)
  春日源助との

・‥…━━━☆

現代風に意訳すると・・・

・‥…━━━☆

「弥七郎には、何回か言い寄ったんは言い寄ったんやけど、腹痛やって断られて、結局は何も無かったんや~これ、ホンマ、嘘ちゃうからな」
「弥七郎の夜の相手をさした事は無い!それは、前から無い!もちろん、夜だけやなくて昼間も無いって事やで。
まして、今夜なんて事、あるわけないやろ」
この事、知ってほしくて、色々動きまわるんやけど、かえって疑いをかけられて、ホンマ困ってんねん。
 

もし、この手紙に書いた事が嘘やったら、神様の罰でも何でも受けるつもりやから、ホンマ、わかってな?
ほんまやったら、正式な誓いの紙に書かなアカンところやねんけど、今夜は
庚申(こうしん)待ちでみんな起きてるよって、他人の目があるさかい、明日、もっかい、ちゃんとした誓いの紙に書くからね~」

・‥…━━━☆

てな感じ・・・て、
何回か言い寄っとんのかい!(*`ε´*)ノ
断られて無かったらいっとったんかい!(=゚ω゚)ノ

というツッコミはさておき、

なんだか、右往左往する様子が目に浮かぶような、見てるコチラの顔も思わずニンマリしてしまうような、リアル感満載の手紙です。

正式には『春日源助宛武田晴信誓詞(東京大学史料編纂所蔵)と呼ばれるこの手紙・・・

この時の信玄は未だ出家前なので名前は晴信(はるのぶ)、この手紙自体には、年号がありませんが、最後の方に出て来る「甲役人多く候」「庚申待ちをしている人が多いので…」という風に解釈できるところから、7月5日が庚申の日(庚申待ちとは=3月6日参照>>)だった天文十五年(1546年)の手紙であろうと推測されているのです。

また、宛先の「春日源助との」とは、『甲陽軍鑑』(9月9日参照>>)の原本を記録したとも言われる武田四天王の一人=春日虎綱(かすがとらつな=高坂昌信)と一般的には言われています(異説もあり)

とは言え本当に、相手がイケメンの誉れ高い春日虎綱で、書いたのが天文十五年なのだとしたら、信玄25歳で虎綱19歳・・・まさかまさかの、見るに耐える、いや、むしろ見てみたいボーイズラブシーンのような気がしないでもない・・・

Singenkoicc_1

とまぁ、アホな事を言うとりますが・・・

実は、この手紙・・・まったく別の見方もできます。

冒頭に書いた、江戸時代に流行した若衆歌舞伎(再び6月20日参照>>)などは、ほぼほぼ趣味嗜好の世界ですが、そのページにも書かせていただいたように、戦国時代の男同士の関係は、単に恋愛だけではなかったわけで・・・

もちろん、おおもとには「戦場に女性を連れていけない」からの「夜のお相手」という部分もあったでしょうが、結果的に、それがあったればこそ、そこに揺るぎない主従関係が生まれた事も確かでしょう。

その関係が保たれている限り、主君から見れば「忠義を貫いてくれる部下」であり、家臣から見れば「自分を引き上げてくれる上司」だったという事です。

裏切りが当たり前の戦国の世で、主君の命令に忠実な家臣を育てる場合、パワハラ気味な強い態度で、力で以って言う事を聞かせる事もアリかも知れませんが、「この上司のためなら死んでもイイ(゚▽゚*)」というまでの信頼関係を構築する事も大事で、そのための一つの手段が「体のつながりを持つ」という事だったワケです。

今回の信玄の手紙も、主君から年下の家臣に宛てたにしては、けっこう丁寧な書き方で、だからこそ、必死のパッチで疑いを晴らそうとしているように感じてしまうわけですが、

戦国時代には、それこそ、「体の切れ目が縁の切れ目」とばかりに、その一族もろともに謀反を起こした例も少なく無い・・・なんせ、美少年の後ろには、その一族もついていて、美少年の肩には、その一族の未来ものしかかっているわけで・・・
【あんなに愛した仲なのに…陶晴賢・大寧寺の変】参照>>)

てな事で、一見、アタフタして浮気の弁解をしているように見えるこの信玄の手紙は、実は、家臣をつなぎとめておくための、計算ずくのしたたかな手段?・・・いや、物事を穏便に済ますための、信玄独特の気配り?の現れだったのかも知れません。
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2017年6月28日 (水)

上杉謙信の出家願望と大熊朝秀~駒返の戦い

弘治二年(1556年)6月28日、上杉謙信天室光育「出家を決意した」との手紙を送りました。

・・・・・・・・・

謹而言達 於今度宗心身上之儀ニ 以両使條々申展候段 定而可被聞召届候…

で始まる弘治二年(1556年)6月28日付けの、この手紙・・・上記の部分の内容は
「謹んで言わせてもらいますが、このたび、宗心の身の上に関して、2名の使者を派遣しましたので、おそらく願いは、お聞き届けいただいた事でしょう…」
てな感じ、

Uesugikensin500 「宗心」というのが上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)が自身で名乗った出家名で、(聞き届けてほしい)願い」というのは「出家」です。

そう、謙信は、この時、本気で「出家する!」と宣言して高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)へと向かっているのです。

この手紙・・・
実際には、この文章の後に、自身が若くして後を継いだ時の事やら、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)主になった経緯やら、領主としていかに国内を平定したかなどが、滔々と、半ば「俺ってスゴイやろ?」的な雰囲気を醸し出しつつ書いてある、けっこう長い手紙なわけですが・・・

そこは、そう・・・手紙の相手が、謙信が幼い頃から信頼を寄せ、ホンネを吐露できる親しい相手であった林泉寺(りんせんじ=新潟県上越市・上杉氏の菩提寺)天室光育(てんしつこういく )という僧侶だったのもあって、ついつい書いちゃった~って感じなのかな?

なんせ、手紙の最後のほうには、
「後先考えず、筆の向くまま書いてしもたので、誤字脱字も多いでしょうから、(この手紙を)他人に見られて笑われたらどないしょと思いますわ~けど、節目になる事なので、お知らせだけはしときたいという、僕の気持はわかってもらえたかと…」
てな、感じで締めくくっていますから。

で、その中には「出家したい」と思った理由めいた物も書かれていて・・・

「国内をやっとこさ平定し、五穀豊穣で一安心…僕がやる事も、もう無くなったし、昔から『功名を遂げた者が身を退いた』例もある事ですし…」
という一方で
「僕が、必死のパッチで外敵を撃退して平和を取り戻したのに、家臣らは、それぞれが自分勝手な事ばっかり言うて、味方同士でモメ倒して…そんなんしてたら僕の苦労も水の泡になるから、ここで身を退く事にしますわ」
てな、家臣へのグチとも、脅しとも言える内容が書いてあるのだとか・・・

そんな感じなので、謙信に「出家願望」があって、実際に、この時期に「高野山に向かった」事は確かなれど、出家の理由については、今も謎・・・色々と推理はできますが、「コレだ!」という決め手は無いようで、

上記のように、
「とりあえず、国内平定して一旦平和になったから」
「自分の苦労を理解してくれない家臣に嫌気がさしたから」

あるいは、家臣たちをちょっとビビらせて、逆に結束を強めるための「偽りの出家」「お芝居の出家」だったなんて話もあります(←今風に言うと「出家するする詐欺」?)

・・・で、謙信が、この手紙を受け取った天室光育に、
「手紙の内容を家臣のみんなに伝えといてね~」
と言って春日山城を去った事もあって、

間もなく、急使によってこの一報を聞いた上田長尾家(うえだながおけ)長尾政景(ながおまさかげ=謙信の姉婿・景勝の実父)(7月5日参照>>)は、取るものも取りあえず一門のもとにはせ参じ、国中に知らせて方々を招集し、皆の総意のもとに、主君の出家をストップさせるべく、政景自ら、謙信の後を追ったのです。

かくして、関山権現(せきやまごんげん=新潟県妙高市関山)祈祷中だった謙信に追いついた政景(場所は奈良の葛城山の麓だったとも)、涙ながらに
「そのお心はお察ししますが、殿さまあってこそ治められるこの国…今、出家された事が知れ渡れば、騒動を起こす者もおるかも知れません。
国の難は民の悲しみ…何とか、決心を覆してお戻りになって、国の安泰を維持してください。
家臣一同が皆、そう願ってますねん」
『上杉謙信言行録』より)
と説得したのだとか・・・

で、この説得に応じた謙信は、還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)して春日山城へと戻り、家臣たちに今後の忠誠を誓う「誓紙(せいし=誓いの言葉を記した紙・起請文)を差し出させて、この出家騒動は一件落着となるのですが・・・

実は、このゴタゴタの中で、騒ぎに乗じて反旗をひるがえした人物がいました。

それは、父の時代から長尾家に仕える重臣の一人=大熊朝秀(おおくまともひで)・・・彼だけは、上記の誓紙を出す場にはいなかったのです。

この頃の謙信の重臣と言えば、この大熊朝秀と本庄実乃(ほんじょうさねより)、そして直江景綱(なおえかげつな=直江兼続の義父)の名前が挙げられますが、実は、もともと朝秀と実乃の仲が悪く、事あるごとに反目していた事から、その下となる家臣も2派に分かれて対立していたとも言われます。

その原因となったのは、あの謙信の家督相続・・・ご存じのように、謙信には長尾晴景(ながおはるかげ)という兄がいて、父=長尾為景(ながおためかげ=越後長尾家)が隠居する際に家督を譲られたのは、このお兄さんの方・・・

しかし、父が亡くなり、仏門に入っていた弟が還俗して活躍し始めると、「温厚な性格で融和政策をとる兄より、イケイケで勝ちまくりの弟の方が良くネ?」てな事になって、結局、天文十七年(1548年)に、兄は隠居して弟に家督を譲ったという経緯があったわけで・・・

そうです。
この時に、朝秀は兄=晴景派で、実乃は弟=謙信(景虎)だったという話も・・・まぁ、この時は、守護の上杉定実(うえすぎさだざね)が間に入った事で家中分裂の危機を回避したので、その後は両者ともが謙信に仕えていたわけですが、それからずっと、その確執が埋まる事が無かった可能性も・・・

ただし、一方で、この謙信の家督相続の際には朝秀自身が謙信擁立に尽力したという説もあるので、あくまで、諸説あるうちの一つの可能性という事なのかも知れませんが・・・

また、それ以外にも、
朝秀自身は謙信の信頼を得ていたものの、周囲は長尾家の家臣ばかりで、その身の置き所に悩んでいたとか、
朝秀が、守護である上杉家を、もとの強い上杉家に再興したいと思っていた事が、結果的に守護代の長尾家に反発するような形になってしまったのだとか、
様々な要因が考えられていますが・・・

理由はともかく、このタイミングで大熊朝秀は、謙信と敵対していた武田信玄(たけだしんげん)からの再三の誘いに応じ、自らの城であった箕冠城(みかぶりじょう=新潟県上越市板倉区)を捨てて、越中(えっちゅう=富山県)へと退いて一揆を扇動し、信玄の援軍を待ったのです。

これが、弘治二年(1556年)8月23日の事・・・

そう、上記の涙ながらの説得に応じて、出家を止めて戻って来たとされる謙信ですが、一方では、この「大熊朝秀謀反の知らせを聞いて戻って来た」とも言われます。

なので、この一連の流れが、実は、分裂した家臣団のどちらか一方を切り、一つにまとめるための策だったとも・・・

とにもかくにも、還俗して春日山城に戻った謙信は、すばやく軍を編成して、越後(えちご=新潟県)へと進撃して来た朝秀軍を駒返(駒帰:こまがえし=新潟県糸魚川市)にて打ち破ったのです。

敗れた朝秀は、甲斐(かい=山梨県)の信玄のもとに身を寄せ、以降、大熊家は武田の家臣として生きていく事になります。

もし、上記のように、出家うんぬんの話からのすべてが、家臣を一つにまとめるための策だったとしたら、あまりに計画通りに事が運び過ぎの感もあり、切られた大熊朝秀の立場は???

って事にもなりますが、実は、ここで武田の家臣となった大熊家・・・信玄亡き後の織田&徳川連合軍の怒涛の進撃で多くの武田の家臣が裏切る中、朝秀は、武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)の最期となる、あの天目山(3月11日参照>>)まで従って、その忠義を貫き、主君とともに果てているのです。

ちなみに、朝秀の長男=大熊常光(おおくまつねみつ)は、この武田滅亡のゴタゴタの中で見事に生き残った真田昌幸(さなだまさゆき)(6月4日参照>>)に仕えていた事で、彼は無事・・・大熊家はその後も、真田の家臣として代々仕えたとの事なので、その点はご安心を・・・

謙信とは離れても、武田とは離れなかった朝秀・・・そこには、彼にしかわからない戦国武士の意地の貫き方があったという事なのかも知れませんね。
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2017年6月24日 (土)

三好長慶が天下を取る~江口の戦い

天文十八年(1549年)6月24日、三好長慶三好政長に勝利して事実上、戦国初の天下人となる江口の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後、3人の養子によって行われた後継者争いで、故郷の阿波(あわ=徳島県)に退去して無念の死を遂げた父=細川澄元(すみもと)に代わって敵対勢力を倒し(2月13日参照>>)、時の将軍=第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)とも和睦して、事実上、政権を掌握した細川晴元(はるもと)・・・

阿波時代から、晴元の重臣として活躍していたのが、三好元長(みよしもとなが)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟ら三好一族でしたが、そんな晴元が政権樹立が見えたタイミングで、もともと次期将軍候補として擁立していた足利義維(よしつな=義晴の弟)をアッサリ捨てて、上記の義晴に乗り換えた事に不満を持った元長が反発・・・結局、元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げました。(7月17日参照>>)

しかし、そんな元長の後を継いだ息子の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、その身が未だ11歳の若さであった故か?父の仇を討つ事無く従順に晴元に仕え、着々と細川政権内での地位を獲得していき、やがて1-2を争う重臣となっていくのですが、一方で、父の一件のせいか?晴元は何かと政長を優遇し、あのドサクサで政長の物となっていた亡き父の官職も返してはもらえぬまま・・・

政長は阿波時代からの長老とは言え、血筋から見れば、三好の総帥は長慶・・・一族の中で政長だけが突出してしまうと一族間での乱れも生じる事から、長慶はその旨、晴元に様々訴えるのですが、晴元は聞く耳持たず、相変わらず、政長と、その息子=三好政康(まさやす=宗渭・政勝、三好三人衆の一人)にベッタリ。

その間の天文十二年(1543年)には、後継者争いの3人の養子のうちの一人=細川高国(ほそかわたかくに)の後継者(養子)細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて挙兵したりの一件もありながらも、まだ平静を保っていた長慶でしたが、

やがて天文十七年(1548年)、政康のたび重なる不祥事?あるいは、父の死に政長が関与していた事をこの時点で知った?(様々な理由が推理されます)などなど・・・とにもかくにも、ここで「もう我慢できひん!」となった長慶は、晴元に政長父子の討伐を願い出ますが、やはりこれも却下・・・

「そこまで政長の味方しはるんやったら、晴元さんも敵とみなしまっせ!」
とばかりに軍事行動に出る覚悟を決めた長慶は、舅(側室の父)若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)主=遊佐長教(ゆさながのり)に声をかけます。

一方、この長慶の行動を、謀反と判断した晴元の舅でもある近江(おうみ=滋賀県)の雄=六角定頼(ろっかくさだより)は、和泉(いずみ=大阪府南部)細川元常(ほそかわもとつね)紀州(きしゅう=和歌山県)根来衆(ねごろしゅう=根来寺を中心とする僧兵たちの集団)などに出兵を要請します。

Egutinotatakai
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして翌・天文十八年(1549年)2月、尼崎に出陣した長慶は、3月に入って、別働隊を駆使して政長に与する細川晴賢(ほそかわはるかた)中嶋城(なかじまじょう=大阪市淀川区)を攻める一方で、その東に位置する柴島城(くにじまじょう=大阪市東淀川区)も攻め、その南にあたる政康の居る榎並城(えなみじょう=大阪市城東区)を追い込んで包囲・・・政長はなんとか伊丹城へと退却しましたが、長慶勢に包囲された榎並城は、以後、籠城戦となります。

これに対して晴元は近江へと赴いて、六角定頼らの出陣を要請した後、摂津多田の塩川城(しおかわじょ=兵庫県川西市)に入り、4月28日には武庫郡(むこぐん=兵庫県西宮市の大部分と宝塚市&尼崎市の1部)一帯に放火・・・翌日には、晴元に与する伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)伊丹親興(いたみちかおき)尼崎周辺に放火して回りました。

これは、上記の榎並城を包囲する別働隊と、越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)の長慶本隊とを分断する作戦・・・こうやっておいて、晴元&政長で以って政康を援護しようというわけです。

5月2日には、これから来てくれるであろう六角軍に備えて、三宅城(みやけじょう=大阪府茨木市)の城将=香西元成(こうざいもとなり)に、長慶方の芥川孫十郎(あくたがわまごじゅうろう)が守る芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)を攻めさせようとしますが、

それを阻止すべく惣持寺(そうじじ)西川原(大阪府茨木市西川原)で待ち構えていたのが三好長逸(ながやす=三好三人衆の一人で元長の従兄弟とも)でした。

ここで香西隊の行軍が阻止されたため、政長は伊丹城から三宅城へと移動・・・晴元も塩川城から三宅城へと移動しました。

そんなこんなの6月11日、政長は三宅城を出て江口城(えぐちじょう=大阪市東淀川区)に入ります。

この江口は、北中島の東北隅に位置しており、淀川と神崎川によって3方を囲まれた天然の要害・・・ここを拠点にゲリラ戦を試みて三好軍を妨害しつつ、やがて北東方面からやって来るであろう六角氏の援軍を待つ作戦でした。

この動きを見た長慶は、自らの弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った)(5月1日参照>>)別府(べふ=大阪府摂津市)の川畔に派遣・・・三宅城と江口城の連絡を断ち、兵糧の道を断ち、かつ東西から江口を挟み込む作戦です。

かくして天文十八年(1549年)6月12日、世にいう江口の戦い=長慶VS政長&晴元の最終決戦の幕が上がったのです。

開始からまもなく、近江からはせ参じてくれた政長方の新庄直昌(しんじょうなおまさ)が討死にするも、六角氏の援軍を待つつもりの政長軍は、守りを固める姿勢を崩さず、徹底した守勢を貫きます。

そう・・・実は、六角定頼の息子=六角義賢(ろっかくよしかた=承禎)率いる大軍が、この6月24日には、すでに山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)まて来ていたのです。

そこから江口までは、わずか半日の行程です。

しかし、一方で、この時、政長は、
♪川舟を  留て近江の 勢もこず
 問んともせぬ 人を待
(つ)かな♪
という歌を詠んだとされ、なんだか援軍の到着に一抹の不安を感じている様子がうかがえます『足利季世記』より)

携帯やスマホの無い時代・・・待ち合わせ場所に遅れた友達が、今、どこまで来てのるか?
ひょっとして、その情報が政長まで届いていなかった???

その状況を見透かしていたのか?否か?
長慶は、ここで一気に勝負に出ます。

天文十八年(1549年)6月24日、六角氏の援軍が江口に到着する直前に、長慶は、弟らと江口を東西から挟み込むように連携し、江口城の政長を急襲したのです。

政長が江口に入ってから約2週間・・・
しかも、上記の通り、長慶によって三宅城との連絡も、兵糧の補給路も断たれた状態・・・

さらに、この江口城は、この戦い以前には文献に登場せず、戦いの後に、この城が長慶の物となったものの、そもそもの記録がほとんど無い謎の城なわけで、ひょっとしたら、城と言っても、この時点では、今回の戦いのために構築した急ごしらえの櫓(やぐら)のような物だった可能性も??

だとしたら、そこに仕掛けられた長慶方の総攻撃+挟み撃ちには、もはやひとたまりも無い状態だった事でしょう。

間もなく、政長をはじめとする800名が討死し、江口城は陥落しました。

また、一説に政長は、榎並城へと逃走を図ろうとしたものの、淀川で水死したとも伝わります『応仁以来年代記』による)

この敗戦によって、政長を援護するべく三宅城にいた細川晴元は、戦わずして京へと戻りますが、長慶の追撃を恐れて、将軍=義晴とともに、近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと避難していきました。

また、勝敗が決した事で榎並城の政康も、城を退去して逃亡・・・伊丹城の伊丹親興は和睦を結んで長慶の傘下となりました。

こうして、これまでの細川政権は崩れ、細川氏綱を冠にした三好政権が誕生する事になるのですが・・・

このあとは、坂本へと逃れた将軍=義晴の後を継いだ足利義輝(よしてる)による、アノ手コノ手の京都奪回作戦が繰り広げられる事になるのですが、そのお話は、それぞれの関連ページ「でどうぞm(_ _)m

★関連ページ
【三好VS六角の志賀の戦い】>>
【義輝VS三好長慶~白川口の戦い】>>
【剣豪将軍・義輝~京都奪回作戦の日々】>>
【三好を支えた「鬼十河」~十河一存】>>
【やさし過ぎる天下人…三好長慶】>>
【剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期】>>
【信長の上洛を阻む六角承禎】>>
【信長の登場で崩壊する三好三人衆】>>

これだけの死闘を繰り広げた三好×六角×細川が、この後の織田信長の登場で、三者ともに崩れてしまうのは、何とも・・・

悲しくもあり、盛者必衰のコトハリでもあり(´;ω;`)ウウ・・・それが戦国のならい&時代の流れという物かも知れません。
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2017年6月20日 (火)

長尾為景が上杉顕定に勝利~長森原の戦い

永正七年(1510年)6月20日、越後守護代の長尾為景が、関東管領の上杉顕定を死においやった長森原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

永正四年(1507年)、越後(えちご=新潟県)守護(しゅご=現在の県知事みたいな)を務めていた上杉房能(ふさよし)に対し、守護代(守護の補佐役)長尾為景(ながおためかげ=越後長尾家)が、房能の養子の上杉定実(さだざね)を次期守護に掲げて反旗をひるがえし、房能を死に追いやりました。(8月7日参照>>)

まさに下剋上(げこくじょう)ですが、これを捨て置けなかったのが、房能の兄で、現在は関東管領(かんとうかんれい=関東を治める足利公方の補佐役)を務める上杉顕定(あきさだ)でした。

その一件から2年後の永正六年(1509年)7月、顕定は、自ら8千騎の軍勢を従えて越後に乗り込みますが、その時には、すでに先陣として入っていた養子の上杉憲房(のりふさ)の誘い込み作戦によって現地の反為景勢力を結集させており、その代表格でもあった長尾房長(ながおふさなが=上田長尾家・上杉景勝の実祖父)坂戸城(さかどじょう=新潟県南魚沼市)を進駐基地として決戦の準備を整えます。

ちなみに、顕定に味方した者は、他にも、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄房長(ほんじょうふさなが)平林城(ひらばやしじょう=新潟県村上市)色部昌長(いろべまさなが)竹俣城(たけまたじょう=新潟県新発田市)竹俣清綱(たけのまたきよつな)などの揚北衆(あがきたしゅう=越後北部の国人豪族)・・・また、定実&顕定・両者の実家にあたる上条上杉家(じょうじょううえすぎけ)上条定憲(じょうじょうさだのり)も顕定側に・・・

一方の為景側は、山本寺上杉家(さんぼんじうえすぎけ)山本寺左京進(さんぼんじさきょうのしん)をはじめ、中条藤資(なかじょうふじすけ)安田長秀(やすだながひで)などの越後国人衆市川(いちかわ)小笠原(おがさわら)高梨(たかなし)などの信濃衆(しなのしゅう=信濃の国人豪族)・・・など

やがて8月に入って各地で交戦が勃発すると、顕定方は破竹の勢いで為景方を蹴散らして行き、勢いが止められなかった定実&為景は、一旦、越中(えっちゅう=富山県)へと退きます。

為景らが越中に敗走した後も、為景方の武将たちは転戦を続けますが、一方で、越後を抑えた顕定は国政の采配に着手します。

『鎌倉管領九代記』には、この時の顕定は法制を厳しくして、為景に味方した者を殺害したり領地を没収したりなどの暴挙を行ったために、他国への逃亡者が相次ぎ、結局、越後の住人で彼に味方する者がほとんどいない状態になってしまった・・・的な事が書かれていますが、そこンところは、顕定には顕定なりの言い分が・・・

なんせ、数々の戦いで、自分に味方してくれた者たちに恩賞を与えねば、士気も下がるし、ヤル気もなくなるわけですが、顕定は関東管領で、今回も関東から出張して来てるわけですので、現時点で越後の人では無い顕定は、結局は、敵となった誰かの領地を奪って味方に分け与えるしか無いわけですよ。

とは言え、『鎌倉管領九代記』の記述が少しオーバーであったとしても、ムリクリの顕定出張政治は、多かれ少なかれ、そのような恐怖政治的な部分があったようで、結局、これが、この後の為景方巻き返しに影響を与えたように見えます。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
(この図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

明けて永正七年(1510年)春・・・4月2日の紙屋庄(かみやのしょう=新潟県長岡市付近)、4月7日の荒浜(あらはま=新潟県刈羽郡から柏崎市付近)などの戦いを経て、5月20日の今井・黒岩(糸魚川市付近)の戦いで為景方の村山直義が顕定方に勝利し、糸魚川付近に布陣して、越後府中(ふちゅう=現在の県庁所在地みたいな?)奪回の機会を狙うまでに態勢を回復させました。

ただし、信濃衆の一人の高梨政盛(たかなしまさもり)も、このタイミングで越後に侵入し、5月28日&29日の両日に渡って顕定軍と交戦しますが、この合戦は顕定軍の勝利・・・さらに6月6日には、顕定方の長尾房長が、為景方の蔵王堂城(ざおうどうじょう=新潟県長岡市)を攻略して数百人を信濃川に追い込んだり、為景方の拠点の一つであった黒滝城(くろたきじょう=新潟県西蒲原郡)を攻略するなど、まだまだ、その強さを見せつけていました。

しかし、やがて、その流れが変わります。

こうして、為景方が再三に渡る越後府中奪回作戦を展開した事で、徐々に、越後の武将たちの寝返りが相次いで来るのです。

その流れを決定的にしたのが、上条上杉家の看板を背負った上条定憲・・・各合戦の展開を読んだ定憲は、ここに来て、いきなり、軍港として重要な役割を果たしていた寺泊(てらどまり=新潟県長岡市)から、顕定軍を追いだしたのです。

おかげで、為景方が寺泊港を占領・・・さらに進撃して6月12日には椎谷(しいや=柏崎市)にて為景軍が勝利し、16日には柏崎(かしわざき)に陣を置いて府中に迫ります。

風向きが変わった事をすばやく察知した顕定は、一旦、兵を関東へ戻した方が良いを考え、すぐに行動に移したのですが、それを阻むかのように、このタイミングで寝返ったのが坂戸城の長尾房長・・・

かくして永正七年(1510年)6月20日、越後の長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市下原新田付近)にて、後退する顕定軍が、それを阻止しようとする為景軍に包囲されたのです。

『鎌倉管領九代記』などによれば・・・
顕定軍800余騎に対して、為景軍は500余騎・・・数の差から、合戦開始当初から為景軍は押され気味となり、後退を余儀なくされ、「あわや!」という場面もあったようですが、そんな中で顕定軍が体制を立て直そうとしたその瞬間、横から、高梨政盛の700余騎が現れて突撃を開始したのだとか・・・

新手の大軍への防戦に戸惑っている中、混乱の間を縫うように大将めがけて突進した政盛は、馬上のまま顕定に組みついて、そのまま両者ともに落馬したところを、マウンティング状態で討ち取り、鉾先(ほこさき)にその首を掲げて
「上杉顕定入道、高梨摂津守が討ち取ったり~~!」
と叫びました。

大将を失った顕定軍は総崩れとなり、兵も散り々々になっていったのだとか・・・

ただし、顕定の死には、討死説の他にも、負けが濃くなった時点で自刃した説もあり、上記の記述が、どこまで史実なのか?は微妙なところではありますが、この後の展開を踏まえれば、この戦いで高梨政盛がかなりの活躍を見せた事、為景軍の勝利によって、越後内での合戦が治まったという事は、おそらく間違いのないところでしょう。

なんせ、この越後に荘園の支配権を持っていた公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)も、自身の日記に、
「顕定が死んだ事は残念やけど、越後が平和になってウレシイ」
と、戦乱から解放されて荘園の特権が当てにできる状態になった事を喜んでますから・・・

こうして、しばらくの間、定実を冠に据えた為景政権が越後を牛耳る事になります。

とは言え、この敗戦を受けて、白井城(しろいじょう=群馬県渋川市)へと戻った顕定の養子=憲房は、
「アイツ(為景)は家来のくせして、2人の主君(房能&顕定)を殺害しやがった~こんなん前代未聞やで!」と怒り心頭のご様子。

また、冠に据えられた定実も、やがては為景の操り人形状態に、徐々に不満を持って来る事になるのですが、そのお話は、先日書かせていただいた
【永正の乱~越後守護・上杉定実VS守護代・長尾為景】のページ>>でどうぞm(_ _)m

ちなみに、今回登場した上杉憲房の息子が上杉憲政(うえすぎのりまさ)・・・あの上杉謙信(うえすぎけんしん=為景の息子)関東管領職を譲渡し、その後は越後府中に近い御館(おたて=憲政の屋敷の意味)にて余生を送る事になるアノお方です。(2010年3月17日【景虎VS景勝~御館の乱】参照>>)
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2017年6月15日 (木)

上杉謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防戦

 

元亀三年(1572年)6月15日、上杉配下の鰺坂長実山本寺定長らが越中・加賀一向一揆と呉羽山にて交戦して敗れ、日宮城が開城されました。

・・・・・・・・・・

これまでも、何度かご紹介しています戦国期の越中(えっちゅう=富山県)争奪戦・・・

射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)

新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)
などなど

もともと、この越中に根を張る彼らの争いに、越中を支配下に治めたい越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=輝虎・長尾景虎)と、謙信を叩いておきたい甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)が関与して、時には敵味方が入れ替わったりなんぞしながら、何度も合戦をくりかえしていたわけですが・・・

★これまでの戦い
永禄三年(1560年):増山城&隠尾城の戦い>>
永禄十一年(1568年):松倉城攻防戦>>

↑この間に、謙信と信玄が何度も川中島で戦ったり(8月5日参照>>)、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)が暗殺されたり(5月19日参照>>)、信玄が信濃(しなの=長野県)を攻略したり(8月7日参照>>)

また、永禄十一年(1568年)の松倉城攻防戦の直後には、その前年に美濃(みの=岐阜県)を手に入れた(8月15日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が次期将軍の足利義昭(よしあき=義輝の弟)を奉じて上洛したり(10月18日参照>>)信玄が完全に今川潰しにシフトチェンジしたり(12月12日参照>>)
と、情勢がめまぐるしく変わります。

そんなこんなの元亀二年(1571年)、3度目の松倉城攻撃で、やっと城を陥落させた謙信は、この時点で越中のほぼ半分を手に入れた事に・・・(上記の松倉城攻防戦の後半部分参照>>)

しかし謙信がこの北陸方面の戦いに夢中になっていたばっかりに・・・

その松倉城のページでも書かせていただいたように、実は、甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐×相模×駿河の同盟)を勝手に破棄して駿河(するが=静岡県西部)今川を攻めはじめた信玄に、激おこの元同盟者=相模(さかみ=神奈川県)小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏康(ほうじょううじやす)が、敵の敵は味方とばかりに、この時点で謙信に同盟を申し込んで来て、両者は同盟を締結させていたわけですが、

その後、信玄が度々北条傘下の城を攻撃したりして来た(3月17日参照>>)ので、その都度、氏康は謙信に援軍を要請していたにも関わらず、上記の通り、忙しい謙信は、ほとんどその要請を無視していたわけで・・・

しかも、謙信は、すでに永禄二年(1559年)の時点で関東管領並み(6月26日参照>>)だったわけで、事実上関東支配している北条と仲良くいくはずもなく・・・

結局、元亀二年(1571年)10月の氏康の死(10月3日参照>>)をキッカケに、後を継いでいた息子の北条氏政(うじまさ)は、謙信と縁を切って武田との同盟を復活させたのです。

この間、自身は、この4ヶ月後に出発する例の西行(上洛目的?)(10月3日参照>>)の、すでに準備段階に入っていたとおぼしき信玄は、「さすがに北陸まで手が回らない」とばかりに、奥さん=三条の方(さんじょうのかた=妹が本願寺顕如の嫁)の縁をフル活用して加賀&越中の一向一揆を焚きつけて、謙信の行く手を阻もうと画策する一方で、今は謙信の味方となっている神保長職を説得工作で味方に引き入れて、これまで敵対していた越中一向一揆とも和睦させました。

しかし、信玄の呼びかけに応じてアッサリ寝返る事に納得がいかない長職の家臣=神保覚広(じんぼうただひろ)小島職鎮(こじまもとしげ=日宮城代)は、謙信への義を重んじて長職に反発・・・覚広が城主を務める日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)に立て籠もったのです。

明けて元亀三年(1572年)5月、信玄の呼びかけに応じた形で砺波(となみ=富山県南西部)五位庄(ごいのしょう=富山県高岡市)などに集結した加賀&越中の一向一揆連合軍は、そこから北陸街道を東に向けて進発したのです。

この一報を聞いた覚広は、すぐさま新庄城(しんじょうじょう=富山市新庄町)鰺坂長実(あじさかながざね)に援軍を要請・・・それを受けた長実は、これまたすぐに、この状況を春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)謙信に報告します。

それを受けた謙信は、味方の戦勝祈願をするとともに山本寺上杉家(さんぼんじうえすぎけ=越後上杉家の一つ)の当主=山本寺定長(さんぽんじさだなが)援軍として派遣しました。

そうこうしている間にも、一向一揆衆の進軍は進み、やがて日宮城は一揆衆に包囲されてしまいます。

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呉羽山より立山連峰を望む…眼下は富山市街

未だ到着せぬ援軍に心焦る覚広は、再び新庄城に急使を派遣し、
「もし、到着が遅れるようなら、一部の兵を呉羽山(くれはやま:五福山=富山市の西部)に登らせて景気づけの声援を送ってくれ!」
と頼みます。

そこで、味方となってくれた魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)主の河田長親(かわだながちか)とも協議の末、早速、鰺坂長実&山本寺定長らは呉羽山に討って出る事になりましたが、予想以上の大軍に膨れ上がった一揆軍の攻撃は激しく、結局、呉羽山を支える事が出来ずに退却をし始めますが、その時に神通川(じんつうがわ)の渡し場で猛攻を受けた事で、一揆側に神通川を抑えられてしまいます。

そうなれば、もはや援軍も期待できず・・・日宮城は孤立状態となってしまいました。

かくして元亀三年(1572年)6月15日「もはや勝ち目なし」と悟った覚広らは、やむなく一向一揆衆に和睦を申し入れ、日宮城は開城となったのです。

開け渡しの隙に、主だった武将たちは、なんとか城を脱出・・・山づたいに石動山(いするぎやま)天平寺(てんぴょうじ=石川県鹿島郡中能登町付近)へと逃げ込んだのでした。

一方、勢い止まらぬ一揆勢は、その日のうちに、富山城(とやまじょう=富山県富山市)をも占拠してしまいました。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして日宮城の戦いは上杉勢の敗戦に終わりましたが、この結果を聞いて激怒した謙信は、この2ヶ月後の8月15日、今度は、謙信自ら兵を率いて春日山城を出陣し、一路越中へ・・・新庄城を拠点に、一向一揆衆が占拠する富山城を囲む事になるのですが、そのお話は、いずれまた、その日付で書かせていただきたいと思います。

にしても・・・
普段、デレビ等の歴史番組で見かける謙信さんのお話は、ほとんどが川中島で、北陸なら、天正に入ってからの信長との七尾城(9月13日参照>>)手取川(9月18日参照>>)なんかにお目にかかるくらい?で,すが、

こうやって見ると、意外に、頻繁に富山に来てはるんですね~~~っと、仕事の関係で10年間富山に住んでいた事のある茶々は、親しみを感じるのであった(*^-^)
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2017年6月 9日 (金)

足利義輝VS三好長慶、和睦のキッカケ~白川口(北白川)の戦い

永禄元年(1558年)6月9日、京都白川口で、将軍=足利義輝細川晴元勢が三好松永勢と交戦した白川口の戦い(北白川の戦い)がありました。

・・・・・・・・・・・

これまでも、何度か書かせていただいている室町幕府管領細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)息子たちによる後継者争い・・・周辺の戦国武将たちをも巻き込んで展開された一連の合戦は、永正十七年(1520年)5月の等持院表の戦い(5月5日参照>>)に勝利した細川高国(たかくに)が第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)擁立して、一旦は政権を握るものの、高国に敗れた細川澄元(すみもと)の遺児=細川晴元(はるもと)が大永七年(1527年)2月の桂川原の戦い(2月13日参照>>)で高国に勝利し、その後の天文法華(てんぶんほっけ)の乱(7月27日参照>>)でも、支援してくれる六角定頼(ろっかくさだより)(4月6日参照>>)とともにウマく立ち回った事、出身地の阿波(あわ=徳島県)からの重臣である三好元長(みよしもとなが)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟らの協力なんかもあり、ほぼ、晴元が政権を握った形となっていました

ところが、政権を握った晴元が、自らが擁立していた足利義維(よしつな=義晴の弟)を捨て、敵の高国が擁立していた将軍=義晴と和睦した事に元長が反発・・・元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げ、義維も阿波へと逃れました。(7月17日参照>>)

しかし、元長の後を継いだ、わずか11歳の息子の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、父の仇のはずである晴元に反発する事なく従い、やがて晴元政権下で1-2を争う重臣となって力をつけていくのですが・・・

ご存じのように、後に「戦国初の天下人」と称される先見の明ある名武将の長慶は・・・ひょっとして、このタイミングを待ってたのか???

天文十二年(1543年)、亡き高国の後継者(養子)細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて、「打倒!晴元」掲げて挙兵すると、長慶は晴元政権から離脱します。

こうして、氏綱と連携して晴元政権と真っ向から対立する中、天文十八年(1549年)6月の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)で長慶が見事勝利し、晴元らが将軍=義晴を伴って近江の坂本へと避難した事から、長慶が事実上京都を掌握しました。

翌天文十九年(1550年)の5月には、将軍=義晴が避難場所の坂本にて病死した事を受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)足利義輝(よしてる)第13代室町幕府将軍に就任・・・当然のごとく、若き新将軍は京都奪回を目標に掲げて、アノ手コノ手で三好政権に対抗するわけですが、そんな中、天文二十年(1551年)には、六角定頼の息子=六角義賢(よしかた=承禎)と長慶の間で志賀の戦い(2月26日参照>>)が展開されたりしました。

その後も一進一退の攻防戦が繰り広げられる中、永禄元年(1558年)5月、義輝は、大規模な京都奪回作戦を画策します。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

警戒する長慶は、5月19日、家臣の松永久秀(まつながひさひで)三好長逸(ながやす=三好三人衆の一人で元長の従兄弟とも)らが、1万5千の兵を率いて、鳥羽(とば)から九条大宮を北上し、御霊神社(ごりょうじんじゃ=京都市上京区)から大原口へ出て、富小路の東を通って鳥羽に戻るというコースをたどって市街を巡回させました。

これには、
「義輝&晴元勢に東山を越えさせない」
「京都市中の守りを強固にする」の2つの意味がありました。

そのうえで、6月2日には長逸が勝軍山(しょうぐんやま=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に布陣して、更なる備えを固めます。

一方、6月4日に六角勢の援軍を得て近江坂本(さかもと=滋賀県大津市)を出陣した義輝は、6月8日に東山の如意ヶ嶽(にょいがたけ=京都市左京区と滋賀県大津市の境・西側に大文字山がある)を占拠します。

かくして永禄元年(1558年)6月9日、洛中へと乱入して来た義輝勢と三好・松永勢が激突・・・白川口(北白川付近)にて激しい戦いを展開しました。

戦況としては・・・
六角の支援で参戦した甲賀(こうが=滋賀県甲賀)の武士や、義輝の近臣など数十名が討ち取られましたが、一方の三好勢も戦死者が3~400人に上りました。

とは言え、はなから数の多さに違いがあったため、戦況としてはおおむね三好勢が優勢・・・

勝ちに乗じた三好勢が、勝軍山の陣を焼き払って洛中へと戻ると、それを追うかの如く、今度は義輝&晴元勢が如意ヶ嶽から勝軍山へと陣を移動して、態勢を整え直して洛中へと進軍し、三好勢と交戦・・・

このような状況が何日も続きますが、結局、義輝勢は思うような成果が得られず・・・いつまでも続くこう着状態になった事から、11月27日に至って、六角義堅の提案による和睦が成立したのです。

大規模な洛中への侵攻であったにも関わらず、結果的には三好政権をくつがえすどころか、逆に「三好強ぇ~」ってなった感のある一連の戦いではありますが、ここで和睦した事により、将軍=義輝は5年ぶりに京都に戻る事ができて(11月27日参照>>)、めでたしめでたし・・・

しかも、かの長慶が、上下関係を大切にしてくれる体育会系の人だった(5月9日参照>>)おかげで、その後の義輝は将軍としての腕も振るう事ができたわけですが、結果的には、その有能さが、かえって松永久秀&三好三人衆のあの行動を産んでしまう原因となるのは、何とも・・・義輝の最期となるそのお話は【剣豪将軍・足利義輝の壮絶最期】>>でどうぞ。
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2017年6月 2日 (金)

本能寺にて信長横死~その日の安土城と留守居役・蒲生賢秀

天正十年(1582年)6月2日、戦国最大のミステリーとも言われる『本能寺の変』がありました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日未明・・・ご存じ、主君=織田信長(おだのぶなが)と、その嫡男=信忠(のぶただ)を死に追いやった明智光秀(あけちみつひで)による謀反です。

【本能寺・前夜】参照>>
【本能寺の変~『信長公記』より】>>

未明に起こったこの出来事が、信長の本拠=安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市安土町)に、噂のように流れて来たのは、その日の午前10時頃だったと言います。

これだけの重大ニュースですから、またたく間に広がり、上層部はもちろん、一兵卒の耳にまで届きますが、未だ噂の段階ではウッカリした事は言えず・・・とりあえずは、皆がお互いの行動を見つつ、表面的には普段と変わらずにいましたが、そうこうしているうちに、京都から逃げて来た下働きの者たちの話も入って来て、事は具体的かつ現実的に・・・

やがて、午後4時頃には、京からの急使によって正しき情報が確認された事で、早速、その情報が騎馬で以って城下の各面々にも知らされると、城下は大変な騒ぎとなっていきます。

泣き悲しんで取りみだす者もいれば、「この際、家財なんかいらん!」とばかりに、妻子だけを連れて、身一つで本国(美濃=岐阜県)目指し、安土を退去する者も・・・

もちろん、この「身一つで退去」というのは、おそらく、これから安土を制圧しに来るであろう明智軍を恐れての事・・・それは城下の一般市民も同じで、市街戦なんて事になれば一大事ですから。

とは言え、この日、本能寺(ほんのうじ=現在は京都市中京区)で信長を、二条御所(にじょうごしょ=京都市上京区)で息子の信忠を自害させた光秀は、次に、逃亡者&落人を求めて京都市街をしらみつぶしに探索した後、すぐ、その日のうちに京都から勢田(せた=滋賀県大津市・瀬田)へと軍を進め、勢多城(せたじょう)主の山岡景隆(やまおかかげたか)
「人質を差し出して明智軍に協力してくれへんか」
と申し入れますが、景隆も、そして、ともにいた弟の山岡景佐(かげすけ)も、
「信長さんには、恩があるんで協力できません!」
とキッパリ断り、勢田城に火を放ち、勢田橋(せたばし=瀬田の唐橋)を落として、山中へと逃れたのです。

その後の山岡兄弟は、その身を隠しつつ、西からやってくる豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)(6月6日参照>>)に、畿内の明智軍の様子を逐一報告して、光秀の動きの邪魔をしていたとか・・・

とにもかくにも、山岡兄弟が、ここで橋を落として城を燃やしてくれたおかげで、この日の明智軍は、これ以上琵琶湖(びわこ)の東岸を進む事ができず、新手の軍勢を加える事もできなかったため、やむなく光秀は、この橋のたもとに守備隊を置いて、自身は居城である坂本城(さかもとじょう=滋賀県大津市下阪本)へと向かったのです。

なので、結果的には、今すぐに明智軍の襲撃を受けるという事はなかった安土ですが、それこそ、情報は錯そうするし、パニックになる人もいるしで、右往左往の状態が鎮まる事がない中、その日の夜になって山崎片家(やまざきかたいえ=秀家・堅家とも)が、安土にあった自らの邸宅に火を放って、いち早く居城の山崎山城(やまざきやまじょう=滋賀県彦根市)に引き籠ってしまった事から、ますます周囲のパニックが加速します。

そんな中で、安土城の二の丸の留守居役の一人だった蒲生賢秀(がもうかたひで)は、主君=信長の妻子たちを、自らの居城である日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町)に避難させて、いずれやって来るであろう明智軍との籠城戦を決意し、すぐさま日野城にいる息子=蒲生氏郷(うじさと)に、その意を伝えて準備を手配させました。

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安土城跡大手口より城下を望む

しとしとと降り続いていた雨が大雨に変わった翌・6月3日、息子=氏郷は、輿(こし)51鞍をつけた馬100匹伝達用の馬200匹を用意して出立・・・早朝には、安土城下まで駆けつけました。

いよいよ安土城からの脱出が始まりますが、信長の妻子たち&侍女たち&近衆たちの中には、城を出る事を拒む者や、出るにあたっても
「城内にある金銀財宝がもったいない」
と、持って逃げようとする者も少なくありませんでしたが、賢秀は、
「そんな見苦しい事はやめなはれ!」
と諌めます。

「せやけど、このまま明智に奪われるのも悔しいですやん。
いっその事、城に火を放って、全部、燃やしてから立ち退いたら…」

という意見にも、
「信長公が心をこめて造らはった壮麗な城を、俺の一存で燃やすなんか、恐れ多いですわ!」
とこれまた一蹴・・・何も持ち去らず、どこも傷つけずに、秀らは安土城を退去して行きました。

こうして、日野城に籠ったのは約1500人ほど・・・明智軍が来れば一戦交える覚悟で籠城戦の準備に取り掛かり、本願寺門徒などの武装勢力に声をかけたり、氏郷の娘を人質に出して織田信雄(おだのぶお・のぶかつ=信長の次男)に援軍を要請するなど、様々な策を講じました。

実際に、この時の信雄は、伊勢(いせ)から鈴鹿(すずか)を越えて、甲賀(こうが・こうか)あたりまで出張っていたのだとか・・・

Honnouziadutizu
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

やがて6月5日・・・ここで光秀が、堅秀らが退去した安土城に入ります。

早速、近江(おうみ=滋賀県)諸豪に降伏を呼び掛け、旧知の諸将に援軍を要請すると、北近江の阿閉貞征(あつじさだゆき)若狭(わかさ=福井県南部)武田元明(たけだもとあき)、その義兄弟の京極高次(きょうごくたかつぐ=姉か妹の京極龍子が元明の嫁)などが次々に味方を表明。

ただ、ご存じのように、光秀の娘婿&舅の細川忠興(ほそかわただおき)幽斎(ゆうさい=藤孝)父子(6月9日参照>>)や、期待していた筒井順慶(つついじゅんけい)(2007年6月11日参照>>)などは、味方する事はありませんでしたが・・・

一方で光秀は、6月7日には朝廷からの勅使(ちょくし=天皇からの使者)を安土城に迎えるとともに、未だ城主が留守となっている丹羽長秀(にわながひで=堺にてと四国出兵の準備中=4月16日の真ん中あたり参照>>佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)や、秀吉(高松城攻撃中=6月4日参照>>長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を奪い取るなどして、着々と周辺を平定して行きます。

そんなこんなの同じく7日、
「味方をすれば近江半国を与える」
との破格の条件を携えた明智側の使者が、秀のもとにやって来ますが、賢秀は、
「あんだけ信長公に世話になっておきながら、一旦変が起これば光秀につくんかい!」
と、逆に使者としてやって来た旧信長の家臣たちに怒り、会う事すらせずに追い返したと言います。

この時点で、光秀から安土城の事を任されていた明智秀満(あけちひでみつ=光秀の娘婿)は、この使者の返答を聞き、日野城攻めを決意・・・早速、軍を編成して攻撃の準備を整えますが、そこに入って来たのが、疾風のごとき速さで備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区)(6月4日参照>>)から戻って来た秀吉が、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に出陣して来たという一報でした。

慌てて、日野城攻撃のために準備した軍勢を山崎の合戦(天王山の戦い)(6月13日参照>>)の先鋒として派遣し、自らも向かおうとしますが間に合わず・・・やむなく坂本へ行こうとするところを、あの有名な湖水渡りの名場面となりますが、そのお話は2014年6月15日の【明智秀満の湖水渡り】のページ>>で。。。

戦わずして安土から退去した賢秀の一連の行動は、一部には「弱腰」との批判もあるようですが、結果的には、
安土を退去からの~
日野城籠城からの~
秀吉の天王山到着で籠城戦回避

となったワケで、「信長の縁者の命を守る」という点においては、秀の判断は「正しかった」という事なのかも知れません。

ただし、
残念なのは、本能寺から13日後の6月15日、安土城が不明の出火で炎上してしまう事・・・(2010年6月15日参照>>)

その権威の象徴でもあった安土城が、主の死とともにこの世から消え去るのは、劇的であるとも思えますが、歴史好きとしては何ともくやしいですね。

★本能寺の変、関連ページ
光秀の連歌会の句は本能寺の意思表明?>>
本能寺・前夜>>
本能寺の変~『信長公記』より>>
堺の商人・黒幕説>>
豊臣秀吉・黒幕説>>
徳川家康・黒幕説>>
家康暗殺計画説(431年目の真実)>>
突発的な単独犯>>
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信長の首は静岡に?>>
アンケート「本能寺の真相は?」>>
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