2017年4月20日 (木)

織田信長、清州城を乗っ取る!

弘治元年(1555年)4月20日、叔父=信光の協力を得た織田信長が清州城を乗っ取りました。

・・・・・・・・・

これまでも何度が書かせていただおておりますが、この尾張(おわり=愛知県西部)という地は、室町幕府の管領家である斯波(しば)が代々守護(知事)を務めていました。

とは言え、その役職の性質上、京都に滞在する事が多い守護・・・なので、その守護に代わって、居城の清州城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)にて普段の政務をこなしていたのが配下の守護代で、織田守護代家=清州織田家の当主が、代々その職務についていたわけですが、

そんな中、織田達勝(たつかつ)が守護代を務めていた時代に力をつけて来たのが、さらにその配下で清州三奉行と呼ばれていた人たち(1月17日前半部分参照>>)・・・その三奉行の中の織田弾正忠家(だんじょうのじょうけ)の当主が織田信定(おだのぶさだ=信長の祖父)で、
その息子が信秀(のぶひで)織田信長(おだのぶなが)のお父ちゃんです。

Odanobunaga400a で、その後、天文二十年(1551年)の父=信秀の死(3月3日参照>>)を受けて織田弾正忠家の家督を継いだのが信長というワケですが、

そんな中で、戦国も半ばになると、守護の斯波氏もすでに名ばかりの状態となっていて、当時守護職についていた斯波義統(しばよしむね)も、もはや傀儡(かいらい=あやつり人形)・・・逆に、守護代家をはじめとする配下の者が台頭しはじめ、結局は尾張一国も統一すらされていない群雄割拠の状態になっていたわけで、

もちろん、信長の織田家も、その祖父の代から流通の要衝を複数牛耳っていた事もあって、経済的には豊かで、徐々に力をつけて来ていたうちの一つでした。

てな事で、そうなると誰かが、「斯波氏に取って代わる下剋上をやってのけよう」と考えてしまうのも時間の問題・・・

そんな中、かつてはモメにモメていた隣国=美濃(みの=岐阜県)斎藤道三(さいとうどうさん)の娘を娶って(4月20日参照>>)北側の国境線の問題を治めた信長は、今度は東の三河(みかわ=愛知県東部)との国境線維持に奔走(1月24日参照>>)していましたが、

そんなこんなの天文二十三年(1554年)、清州城にて、かろうじて守護のイスにまだ座っていた義統の息子の斯波義銀(よしかね)が、多くの家臣団を引き連れて川狩りに出かけた7月12日、当時の守護代であった織田信友(のぶとも)は、「絶好のチャンスを逃すまい」とばかりに、老人や女子供ばかりになった清州城内の守護館を包囲し、一斉に攻撃を仕掛けたのです。

残った者だけで何とか抵抗をしてみるものの、もはや多勢に無勢でいかんともし難く完敗・・・結局、義統は一族30名余りとともに自害しました(清州の変)

もちろん、狩り姿で出かけたままの義銀も、そのまま清州城に戻る事が出来ない・・・で、彼が頼ったのが、当時は那古屋(なごやじょう・愛知県名古屋市中区)にいた信長だったのです。

実は、亡き父=信秀の後継者を巡っての時、信友は、信長の弟である信行(のぶゆき)を推しており、以後、信長とはシックリ行ってはいなかったワケで・・・そもそもは、ここ最近、そんな信長に義統が、何かと近づいていた事も、信友謀反の一つの原因だった事もあり、そりゃ、義銀は信長を頼りますわな。

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清州村古城絵図(蓬左文庫蔵)部分

これを受けた信長は、事件の5日後には配下の柴田勝家(しばたかついえ)に足軽衆をつけて派遣・・・清州側が防戦する山王口(さんのうぐち=三王口)を破り、安食村(あじきむら=愛知県名古屋市北区)を突破します。

防戦の清州勢は、誓願寺(じょうがんじ=同北区:成願寺)前で何とか踏みとどまるものの、多くの関係者が討ち取られてしまいました。(安食の戦い・中市場合戦)

この戦いで織田三位(おださんみ)河尻与一(かわじりよいち=左馬丞)などの有力者を失った清州側・・・当時、信友の家老で、小守護代(代官)と称されていた坂井大膳(だいぜん)は、重臣として清州を守る者が少ない事を懸念して守山城(もりやまじょう=名古屋市守山区)織田信光(のぶみつ)に声をかけます。

この信光という人は、信秀の弟=つまり信長の叔父さんなので、信長とも親しい関係にあり、何度が、ともに出陣した事もありましたが、それこそ生き馬の目を抜く戦国・・・敵側から重要人物をヘッドハンティングする事も日常茶飯事なわけで・・・

大膳が
「お力添えをいただいたあかつきには、信友殿とお二人で守護代を務めていただきたく…」
と、大きなエサをぶら下げての懐柔工作を図れば、
「お望み通りに…」
と、信光も快諾・・・

二心無い証として起請文(きしょうもん=神に誓う誓約書)をしたためて、信友側からその守りを任された清州城の南櫓(みなみやぐら=南矢倉)に入りました。

一方の信長・・・この先の勢力拡大、果ては、尾張統一をするためには、何としてでも信友を倒しておきたいところですが、この清州城がなかなかの堅城で、今のところは手も足も出無い状況・・・

と、そこへ、かの信光からのお誘いが・・・

そう、この信光さん、実は、清州からの誘いを受けたフリをして、実際には信長に協力しようと考えていたのです。

「俺が清州城をだまし取ったるよって、その代わり尾張の下の四郡のうちの東半分をくれるかな?」
「いいとも~ヽ(´▽`)/」
約束が即決するやいなや、

弘治元年(1555年)4月20日清州城内の信光が手勢を率いて謀反を起こすと同時に、信長が城外から攻撃・・・

南櫓のただならぬ雰囲気に気づいた大膳は、ギリギリのところで危険を察知し、今川義元(いまがわよしもと)を頼って駿河(するが=静岡県西部)へと逃亡しますが、逃げる事ができなかった信友は、あえなく討ち取られ、ここに清州織田家は断絶します。

勝利した信長は、那古屋城を信光に渡し、自らは乗っ取ったばかりの清州城へと入りました。

それは・・・そう、
ここに守護の斯波氏がいた事でもお察しの通り、この清州が尾張の覇府(はふ)=今で言うところの尾張国の首都だったからで、まさに、この先の尾張統一(11月1日参照>>)を見据えての行動。

ご存じの通り、清州城はこの後、
信長が桶狭間に出陣する時(5月19日参照>>)
徳川家康(とくがわいえやす)同盟を組む時、
そして、悲しいかな、
その死後に後継者を決める会議(6月27日参照>>)
・・・と、様々な歴史の舞台となる場所です。

ところで、今回、大きく貢献してくれた叔父=信光さん・・・この日から、わずか7ヶ月後の11月にお亡くなりになります。

『信長公記』では、
「11月26日、不慮の事件が起きて死亡、起請文に背いたので天罰が下ったのかも…恐ろしきかな」
と、いたくアッサリと書かれてしまってますが、現段階で信長に最も近い協力者が、こうも短期間に亡くなってしまうのは、やはり不可解・・・

謎が謎呼ぶ信光さんの死・・・って事になるのですが、そのお話は、そのご命日である11月26日に書かせていただいた【信長が指示?謎が謎呼ぶ織田信光・殺害】>>のページでどうぞm(_ _)m
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2017年4月13日 (木)

上杉謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦

永禄十一年(1568年)4月13日、それまで武田信玄についていた越中増山城主=神保長職が上杉謙信に寝返りました。

・・・・・・・・・・

射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による越中(えっちゅう=富山県)争奪戦・・・

Uesugikensin500 ここ越中は、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)にとっても、自らの領地に隣接する場所であり、自国と京の都との間に位置する重要な場所でもあった事から、祖父や父の時代から、度々出兵しては傘下に治めていた場所だったわけです。

つい先日も書かせていただいたように(3月30日【増山城&隠尾城の戦い】参照>>)、永禄三年(1560年)には、勢力拡大を図る神保長職が、謙信のライバルである甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の支援を得て、謙信傘下の椎名康胤を攻撃したわけですが、

この時、負けた長職は、一旦は降伏して謙信の傘下となったものの、謙信が越後へと戻ると、またぞろゴソゴソやり始める・・・
で、椎名康胤の救援のため謙信が大軍率いてやって来て、負けそうになったら和睦して傘下に入るものの、謙信が戻るとまやもやゴソゴソ・・・
てな事をくりかえしていたわけですが・・・

そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月・・・
なんと、それまでずっと謙信と協力体制にあった椎名康胤が、いきなり反旗をひるがえしたのです。

実はコレ、信玄の裏工作・・・信玄が何度も「君が越中を平定してくれへんかなぁ~僕支援するし…」の手紙を送っていたのが、ここに来て康胤を決断させたのです。

ひょっとして・・・康胤の心の内にも、
複数回上洛しても時の将軍と仲良く談笑し、関東管領並(6月26日参照>>)を引き受ける謙信は、おそらく天下を取る気はない?
に対して、天下を狙う気満々っぽい信玄の傘下になっておけば「そのあかつきには越中の大名になれるかも」てな野心が芽生えたのかも知れません。

とは言え、謙信にとって、再三に渡る長職のゴソゴソは、おそらく予想できたものの、一方の康胤の裏切りは想定外・・・

なんせ、この椎名は、特に、謙信の父の長尾為景(ながおためかげ)とじっこんの仲で、譜代の長尾一族から長尾景直(かげなお)康胤の養子に迎えていて、謙信にとっては特に信頼を置いていた武将の一人なわけで・・・だからこそ、これまで何度も救援に出張って来ていたわけで・・・

ショックを受けながらも、知らせを聞くなりすばやく行動に起こし、3月16日、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣した謙信は、康胤を攻めるべく越中へと入りました。

が、しかし・・・ここに来て、またもや予想外の出来事が!

Matukurazyoukoubousenkankeizu
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

越中侵攻から1ヶ月後の永禄十一年(1568年)4月13日、あの神保長職が謙信への協力を申し入れて来たのです。

今回ばかりは、その場まかせのゴソゴソではなく、一門の神保覚広(ただひろ・よしひろ)と家臣の小島職鎮(こじまもとしげ)の尽力による物・・・謙信自身が「長職とメッチャ意気投合したわ~ヽ(´▽`)/」と覚広に報告してますし、長職も、「この感謝は手紙では言い尽くせへん!」と書状で述べていますので、よほど、両者の関係が良い展開になったのでしょう。

しかし、こうして看板となるトップの傘が交代した事で、もとから信玄についてゲリラ戦を展開していた越中の一向一揆は、神保を離れて椎名の味方に・・・

ご存じのように、この時代の一向一揆=武装した本願寺門徒は侮れない・・・たび重なるゲリラ戦法で、長職は、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)放生津城(ほうじょうづじょう=富山県射水市中新湊)を落とされたため、やむなく増山城に逃げ込みます。

ここで謙信は、康胤の松倉城への抑えとして配下の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)河田長親(かわだながちか)を配置して放生津城攻めに向かうと同時に長職と連携して守山城を猛攻撃しました。

ところが、この間に遠く離れた越後にて、信玄の誘いに乗った本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)が反旗をひるがえした・・・との情報が舞い込んで来ます。

やむなく謙信は、直江景綱(なおえかげつな)重臣たちに、この場を任せて、自らは春日山城へと戻り、すぐさま準備を整えて本庄城の攻撃へと向かいます。

謙信自ら指揮を取るその猛攻撃に半年ほど耐えたものの、同年11月、本庄繁長は人質を差し出しての講和を申し出ます。

実は、期待していた信玄からの援軍が思うように得られ無かったのです。

そう・・・この永禄十一年(1568年)という年は、9月に、あの織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあきを奉じて上洛(10月18日参照>>)を果たした年・・・

心情的に、この信長の上洛に影響を受けたか否か?
あるいは「(川中島でゴチャゴチャしっぱなしの)北がダメなら南へ」と思ったか否か?
「このままやったら徳川家康(とくがわいえやす)に駿河取られてまう~」と思ったか否か?
はたまた、信玄に、畿内に目を向けてほしくない信長の「今なら駿河イケまっせ」の誘いに、とりあえず乗ってみたか否か?
その心の内は、ご本人のみぞ知るところですが、ここからの信玄は、この12月には薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)からの今川館の攻防戦(12月13日参照>>)と、完全に駿河(するが=静岡県西部)攻略に向けて舵を切った事は明白なところ・・・なので、おそらく本庄救援まで手が回らなかったのでしょう。

しかも、謙信にとっての信玄の矛先変更の影響は、そればかりではありませんでした。

翌永禄十二年(1569年)の明けてまもなく、信玄の勝手な約束破りの矛先変更に激おこの同盟者=小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏康(ほうじょううじやす)が、謙信との同盟を求めて来たのです。

同年の6月に北条との同盟を締結させた謙信は、その2ヶ月後の8月・・・再び、松倉城攻略に乗り出すのです。

まずは小菅沼城(こすがぬまじょう=魚津市小菅沼)など周辺を攻撃して松倉城を孤立させた後、大軍で以って松倉城に迫る上杉軍でしたが、迎える椎名軍は、防御のために自ら城下町に火を放ち、この孤立状態のまま、約100日間の籠城に耐えぬきます。

もともと松倉城が天然の要害であった事や、例の一向一揆が味方していた事もあって、長期に渡る籠城に耐える事ができたのでしょうが、一方の攻める上杉軍にも人馬の披露激しく、しかも、ここで「信玄が上野(こうずけ=群馬県)に侵攻した」との情報を得た謙信は、やむなく、またもや松倉城を落としきれないまま、10月に兵を退く事になってしまいました。

とは言え、謙信にとって、この松倉は越中の中でも、屈指の手に入れておきたい場所・・・なんせ、松倉城の南には河原波金山松倉金山という金の成る木、いや、山があったのですから・・・

やがて元亀二年(1571年)3月、3度目の松倉城攻略のため、大軍を率いて越中に侵攻した謙信は18日に富山城(とやまじょう=富山県富山市)を陥落させ、神保長職の求めに応じて、奪われた守山城を奪還すべく、庄川(しょうがわ)あたりまで攻め込み、念願の松倉城攻略へとこぎつけました。

一説には・・・
この時も、大軍で包囲したにも関わらず、なかなか落ちなかった松倉城に苦戦していたところ、「実は、宇都呂(うつろ=現在は廃村)の集落から密かに水を引き、同時に信濃からの食糧を運びこんでいるから」との噂を聞きつけた謙信が、宇都呂の集落を焼き払って水路を破壊し、東からの糧路を絶った事により、ようやく松倉城が落ちた・・・との話もあります。

とにもかくにも、この「元亀二年三月に、松倉城を、かの河田長親に与えた」(『三州志』より)との記録が残っていますので、やはり、ここでようやく松倉城を攻略した事は確かでしょう。

一方の康胤・・・この敗北によって椎名は、かなりの痛手を被り、弱体化の一途をたどる事となってしまいます。

一旦は謙信に降伏し傘下に収まるも、天正四年(1576年)に再び反旗をひるがえしたところを、やはり謙信に攻められ、その最期は蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)にて自刃したと伝わります。

ちにみに、前半のところで書かせていただいた通り、椎名康胤の後を継ぐ者は、長尾家から養子に入った長尾景直のみ・・・いち時は椎名小四郎(しいなこしろう)を名乗っていた彼ですが、何年後かの上杉VS織田の月岡野の戦いでは、、シッカリ上杉側の人として登場(9月24日参照>>)します。

なので、戦国武将としての椎名氏は、この康胤を最後に、事実上の滅亡となったのです。
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2017年4月 6日 (木)

浅井亮政VS六角定頼~箕浦合戦

 

享禄四年(1531年)4月6日、六角定頼と浅井亮政による箕浦合戦がありました。

・・・・・・・・・・・

宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角氏(ろっかくし)と、同じく佐々木氏の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)・・・鎌倉時代より、この二つの名門家によって統治されて来た近江の地。

しかし、かの応仁の乱(5月20日参照>>)での混乱のさ中に当主が急死して後継者でモメる中、やっと決まった14代当主の京極高清(きょうごくたかきよ)の息子同士で、これまた後継者争いが勃発した事で、家中が真っ二つ・・・(2月13日参照>>)

このお家騒動の混乱により、いつしか後継ぎ当事者より、彼らをサポートする家臣や国人(こくじん=土着の武士)が力をつけて来るようになるのですが、その筆頭とも言うべき存在が、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)・・・あの浅井長政(ながまさ=浅井三姉妹の父)(8月29日参照>>)お祖父ちゃんです。

しかし、被官の浅井が主君の京極氏をしのぐが如くの勢いとなった現状を快く思わないのが、同じ名門=六角氏の六角定頼(ろっかくさだより)

んなもんで、ここのところの定頼は、度々北近江へ出陣しては亮政の頭を抑えるという事を繰り返していたのですが・・・

そんなこんなの大永七年(1527年)、もはや室町幕府将軍よりも権力を持つ事実上の天下人であった前管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)の養子たちの間で勃発した後継者争いの中で、一旦は勝利して政権を樹立した細川高国(たかくに)が、細川晴元(はるもと)に敗れて、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)とともに京を追われる事態となった桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)が勃発します。

これにより、
坂本(さかもと=滋賀県大津市)に退いた義晴&高国
一方の晴元が擁立した足利義維(よしつな=義晴の弟)堺公方(さかいくぼう)
合戦の勝利により実質的に京都を統治する柳本賢治(やなぎもとかたはる)
と、畿内に3つの政権が存在する異常事態になってしまっていたのですが・・・

当然の事ながら、京を退いた高国らが、そのまま指をくわえて見ているはずは無いわけで・・・かの桂川原から3年・・・

享禄三年(1530年)、高国が播磨(はりま=兵庫県南西部)の名門=赤松氏(あかまつし)の支援を受けた事をキッカケに、摂津(せっつ=大阪府北中部)方面から敵方の諸城を落としつつ、京への侵入を試みる中で、受けて立つ晴元は、以前よりつながりがあった京極高清や、その家臣(実力はともかく、今もまだ身分は家臣ですので…)の浅井亮政らに支援を求めて来たのです。

Minouranotatakai1 この要請にすばやく動く亮政・・・ 

位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

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この時、坂本よりさらに奥まった朽木(くつき・滋賀県高島市)へと引っこんで六角氏に守られていた将軍=義晴を攻撃すべく高島へと兵を進めた浅井軍ではありましたが、それに気づいた義晴が、浅井勢よりさらにすばやく朽木を出て坂本へと移動・・・将軍とともに六角勢も去った事で、この時点では、大きな合戦に至る事はありませんでした。

しかし、敵兵に高島まで乱入された六角定頼も、その一件を黙って見過ごすわけには行かず・・・報復とばかりに北近江へと兵を向けますが、そんなこんなしているうちに、肝心の高国勢に敗北が続き、軍全体の士気も衰えて、結局、大勢を変えられないまま、上洛への動きを中断してしまいます。

しかも、この間に晴元と内輪もめしていた柳本賢治が播磨出陣中に謎の急死(自殺とも暗殺とも)を遂げて、なんとなく晴元の一人勝ち的な雰囲気・・・

こうして、しばしの平和を迎えた京の町・・・・
おかげで都の守りに気を配らねばならない状況が薄らいだ六角定頼は、享禄四年(1531年)4月6日「六角の両藤」との異名を持つ後藤賢豊(ごとうかたとよ)進藤貞治(しんどうさだはる)らをはじめとする重臣たちを大将に据え、約1万7千騎の大軍で以って、箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原に進出したのでした。

一方の浅井軍・・・亮政自らが1万5千余騎の軍勢を率いて出陣し、箕浦の北側、坂田郡山西(滋賀県米原市北部)醒井(さめがい=滋賀県米原市・醒ヶ井)などに兵を分散させて迎え撃つ作戦です。

が、しかし結果的には、この分散作戦が裏目に・・・多勢の六角軍に対し、もとより無勢の浅井軍は、合戦開始まもなくからの劣勢状態を挽回する事ができず、名のある首級を29ほど討ち取られて敗戦となり、やむなく兵を退きあげる事になります。

とは言え、亮政はそのまま居城の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)に戻ることはせず、いずこかに隠れ住んで姿を消すのですが、一方の六角軍も、これを深く追う事なく兵をたたんで引き上げました。

というのも、勝敗としては「六角軍の勝利で浅井軍の負け」とはなったものの、六角側も、結果的に30以上の首を討ち取られるという痛手を被っており、なかなかの激戦であった事がうかがえます。

ここは一つ、六角勢にもしばしの休息を・・・という事だったのでしょう。

なんせ、この亮政さん・・・以前のページ(冒頭の2月13日のページ>>)でも書かせていただいたように、合戦に負けはするものの、負ける度にどんどん強くなって行くんです。

そのページにも、その一因は「負けても負けても、彼に味方してくれた地元国人衆たちにある」と書かせていただきましたが、それは、若き日の亮政の抱いた「権力を握った者は、自らの保身のためではなく、困窮する民衆のためにこその政治手腕をふるうべきである」との精神とともに、例え負けても落ち込む事なく、次回へつなげる不屈の精神に魅力があったからなのかも知れません。

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小谷城より琵琶湖を望む

実は、この戦いのすぐあとに、家臣の三田村又四郎に宛てた亮政の感状(かんじょう=武功を讃える書状)が残っているのですが・・・

「今度箕浦河原において 種々御手を摧かれし候段…」(三田村文書より)ではじまるこの書状には、槍で受けた数ヶ所の傷をものともせずに奮戦した彼を誉め讃えるとともに、
「兵を分散させた事で、お互いの連絡がうまく取れず、イザという時に役に立たなかったのが敗因…もったいない事をした」
と反省し、
「今後はちゃんとしよう」
再起を予感させる文言が並んでいます。

おそらく亮政にとっては「完敗」ではなく、それなりの余力を残し「明日へつなげる敗戦」であった事でしょう。

とは言え、亮政の戦いは、まだまだ続きます

ただし、一方の細川同士の後継者争いについては、まもなく決着がつく事になるのですが、そのお話は、また、関連するいずれかの日付で書かせていただきたいと思います。
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2017年3月30日 (木)

上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い

永禄三年(1560年)3月30日、椎名康胤の要請を受けた上杉謙信が神保長職の越中増山城へ攻め入りました。

・・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)を皮切りに始まった、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)による信濃(しなの=長野県)北東方面の争奪戦=川中島の戦い(9月10日参照>>)・・・
(くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】参照>>)

この時、謙信が信玄に目を向けている状況をビッグチャンスと睨んだ神保長職(じんぼうながもと)射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力拡大を図ります。

以前から、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に拠を構える椎名康胤(しいなやすたね)と神保長職との間で越中(えっちゅう=富山県)主導権争いが激しかったこの地域ではありますが、

ちょうど、この時期、越中の本願寺門徒を抱え込んで一向一揆による謙信へのけん制を考えていた信玄が介入し、敵の敵は味方とばかりに、信玄が神保長職を支援・・・後ろ盾を得た長職は、永禄三年(1560年)、謙信に味方する椎名康胤の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)を攻めたのです。

Uesugikensin500 間もなく、椎名康胤より「松倉城ピンチ!」の知らせを受けとった謙信・・・前年に関東管領並となったばかり(6月26日参照>>)の謙信にとっては、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏の動きが気になりつつも、電光石火のハヤワザで越中へと兵を向けました。

というのも、つい先日書かせていただいたように、後に、あの織田信長(おだのぶなが)との越中の争奪戦(3月17日参照>>)に挑む事になる謙信ではありますが、実は、謙信の祖父=が長尾能景(ながおよしかげ)が戦死したのが般若野(はんにゃの=富山県砺波市)で行われた一向一揆鎮圧の戦い(8月7日参照>>)であり、この越中は、父の長尾為景(ながおためかげ)も、その争奪戦に幾度も出兵し、大いに悩まされていた因縁の地でありました。

こうして、救援要請からわずかの永禄三年(1560年)3月30日見事なスピードで越中入りした上杉軍・・・慌てる神保軍をなんなく蹴散らすと、長職は居城の増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)へと逃げ込みますが、今度は、その増山城を囲んで、猛攻撃を仕掛ける上杉軍・・・

「もはやこれまで!」
とばかりに、長職は城を捨てて五箇山(ごかやま=富山県南砺市)へと逃走しました。

この時、主君の逃走を援護すべく奮戦したのが、隠尾城(かくりょうじょう=富山県砺波市庄川町)を任されていた神保の家臣=南部源左衛門尚吉でした。

増山城を落とした勢いのまま隠尾城の攻めに入った上杉軍・・・坂道を登りくる敵軍を天然の要害を駆使して果敢に防戦する尚吉でしたが、さすがに上杉の大軍を相手にしては歯が立たず・・・

やむなく、側近に息子の源右衛門を託して山中に逃がした後、自らの城に火を放ち、上杉軍の真っただ中へと躍り出て、壮絶な戦死を遂げました。

一説には、なんとか逃れた息子主従は、この地の戦乱が治まった後にひっそりと戻り、隠れ住んむようにして代々農業に従事したと言われています。
(そのために隠尾の地名になったという説も…)

Ettyuusoudatusenn位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

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ただ、戦国のならいとは言え、当の長職は、この後は上杉につき、逆に椎名康胤が上杉に反発して武田につき・・・てな感じで、なかなか越中争奪戦が止む事はなかったワケですが・・・(4月13日参照>>)
(ドラマ等ではここは描かない方がよさげ(^-^;)

ところで、
なぜか、関係史料が隠ぺいされた可能性があるとの話があるこの隠尾城の戦い・・・城のあった場所が秘境である事や、その史料の少なさから、現在の隠尾城跡付近では、もはや当時の面影を見る事は困難なようですが、近年になって、放牧場として開墾された際に、その土の下から数多くの塚が見つかったのだとか・・・

また、城跡の主閣部分に積まれて残る石は、「城主の無念を弔うが如く、すすり泣くような音を奏でる」と言われ、隠尾の集落の人々から「泣石(なきいし=啼石)と呼ばれていたのだとか・・・

平成の世となった今は、その隠尾の集落も廃村となって、もはや、住民の方の家も1軒のみとなっているとの事・・

このまま行けば、隠尾城の事も、いずれは歴史の彼方に消え去ってしまう運命にあるのかも知れませんが、
おそらくは、
悲しみに耐えきれぬ村人たちが戦死した皆々を弔ったであろう複数の塚、
長きに渡って伝えられた亡き主君を思う石の伝説
・・・

これらの事を見る限り、隠尾城主であった南部尚吉という武将は、庶民から親しまれ、かつ尊敬される名君であった事でしょう。

戦国武将としては1・2を争う知名度の上杉謙信。
義に篤くてカッコイイ上杉謙信。。。

しかし、そんな謙信と戦って戦場に散った武将の中にも、義に篤く、庶民から尊敬されたであろう戦国武将がいた事も心に留めておきたいですね。
 .

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2017年3月24日 (金)

源平争乱・壇ノ浦の戦い~平知盛の最期

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、ご存じ源平争乱のクライマックス壇ノ浦の戦いがあり、平家方の総司令官である平知盛が入水自殺しました。

・・・・・・・・・・・・

養和元年(1181年)2月の、大黒柱の平清盛(たいらのきよもり)(2月4日参照>>)の死後、相次いで挙兵した伊豆(いず)源頼朝(みなもとのよりとも=源義朝の3男嫡子)(8月17日参照>>)北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲=頼朝の従兄弟)(9月7日参照>>)らの勢いに都を追われた(7月25日参照>>)平家は、

寿永三年(1184年)2月の一の谷の合戦い
生田の森の激戦>>
鵯越の逆落とし>>
忠度の最期>>
青葉の笛>>
に敗れて西へ・・・

その翌年の文治元年(寿永四年・1185年)2月の屋島の戦い
佐藤嗣信の最期>>
扇の的>>
弓流し>>
さらに、西へと逃れ、本州最後の下関(山口県)に近い彦島へと後退した平家・・・退いた平家を追う形で、その地に源義経(みなもとのよしつね=頼朝の弟)率いる源氏軍がやって来たのは、屋島の戦いの1ヶ月後の3月21日に事でした。

「次は海戦になる!」
との予想から、河野水軍熊野水軍などの援軍を得て、800余艘の水軍となった源氏軍と、未だ500余艘を維持する平家軍は、いよいよ寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、約300mを隔てた壇ノ浦の海上に対峙したのです。

Tairanotomomori600a この壇ノ浦の戦いで、事実上の総指揮官だったのが「清盛最愛の息子」とも言われる平知盛(とももり)・・・
清盛の四男で、正室の時子(ときこ=二位尼)が産んだ第2子です。

彼が生まれたのは、あの保元の乱(7月11日参照>>)の4年前で、その3年後=つまり7~8歳頃に平治の乱(12月25日参照>>)ですから、その育った環境は、まさに平家全盛時代・・・

それを象徴するかのように、兄の宗盛とともにトントン拍子で出世していく彼を『平家物語』は、各合戦で指揮を取る「負け知らずの猛将」として描きますが、実際には、猛将というより智将で、未だ京都に腰を据えていた頃は、あまり細かな局地戦に赴く事なく、平家全体の軍事面における総帥のような役割ではなかったか?と考えられています。

それは清盛亡き後も・・・兄の宗盛が政治面を請け負い、知盛は、やはり軍事面を一手に引き受けていた事でしょう。

しかし、そんな智将=知盛が、一連の戦いの中で最も心を痛めたのは、先の一の谷の戦いでの事・・・

『平家物語』によれば・・・
生田の森の総大将として奮戦していた知盛でしたが、例の鵯越の逆落としで形勢逆転となった時、敵兵に組みつかれた知盛を助けようと、息子の知章(ともあきら)が間に入って奮戦するも、逆に敵に斬りつけられて討ち死・・・その混乱の中で知盛は、馬に乗ったまま海へと入り、なんとか味方の舟までたどりついて命拾いしたという事があったのです。

その時、自らは海から舟に乗り移ったものの、重い馬は乗せることができず、やむなく岸辺の方向に誘導していくのですが、その馬は、以前、後白河法皇(ごしらかわほうおう=77代天皇)から賜ったかなりの名馬で、知盛も大変気に入っていて、月一で安全祈願の祭事を行うほど可愛がっていた馬だったのです。

しかし、そのまま岸へと戻れば、おそらく、その名馬を敵の将が手に入れる事になるわけで・・・その事を心配した配下の者が、
「あれほどの名馬が敵の物のなるのは惜しい…射殺しましょうか?」
と聞いたところ、知盛は、
「誰の物になったってかめへん!俺の命を助けてくれた馬やぞ、殺せるわけないやろ!」
と言ったとか・・・

馬を相手にしてさえ心やさしき知盛・・・そんな彼が、混乱の中とは言え、自らの命と引き換えに息子を失ったわけで・・・
「息子が敵と組み合うのを見ていながら、助けられないで自分だけ逃げてしもた。
他の者が同じ事をしたら、きっと俺は非難するやろに…
人間、イザとなったら、自分の命が惜しいもんです。
ホンマ情けない!恥ずかしい!」

と号泣したと言います。

おそらくは、自分自身の情けなさとともに、敵への憎しみ&恨みも大いに抱いた事でしょうが、智将=知盛は、その後も、個人の恨みつらみを押しだす事なく、あくまで、平家の総帥として、一門の事を第一に考え、冷静に指揮を取るのです。

それは、あの一の谷の合戦で捕虜となった平重衡(しげひら=知盛の弟・清盛の五男)と、平家の手中にある安徳天皇(あんとくてんのう=第81代・後白河法皇の孫で清盛の孫)三種の神器(さんしゅのじんぎ=皇室の宝物【三種の神器のお話】参照>>交換しようと持ちかけてきた法皇&源氏側に対して、

『平家物語』の平家は、「アホか!」「できるか!」「けんもほろろに断ったばかりか、その拒否の固さを示すため、使者の頬に『受領』の焼印をして送り返した」となっていて、ドラマ等、一般的には、そのように描写される事が多いのですが、

実は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』での平家から返答は、
「コチラは、はなから安徳天皇と三種の神器をお反しするつもりで、法皇さまのおっしゃる、和平交渉のための停戦命令にも従っておりますが、我々が天皇と神器を携えて京の近くへ行こうとすると、それを阻むがのごとく合戦を仕掛けて来るのはソチラの方ではないですか?
もともと平家も源氏もお互いに恨みは無いのですが、コチラが無理に京都へ帰ろうとすると合戦になってしまいますので、和平をされるのでしたら、その旨を明確にお示し下さい」

てな内容だったとされます。

軍記物の『平家物語』と公式記録の『吾妻鏡』・・・もちろん、その『吾妻鏡』もすべてが正しい内容では無い事が指摘されていますので、鵜呑みにはできませんが、この記述を見る限りでは、私怨を捨てて一門のために事を治めようとする冷静な姿が垣間見えますね。

Dannouranotatakai1000a2
壇ノ浦の戦い(『安徳天皇縁起絵図』より…赤間神宮蔵)

とは言え、ご存じのように、この交渉は決裂(後日、重衡は処刑:3月10日参照>>)、源氏VS平家は最終決戦となる壇ノ浦へ・・・

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、白々と明けた瀬戸内の海上に約300mを隔てて対峙した両者の間で壇ノ浦の戦いの幕が切って落とされたのです。

前半は平家が有利な展開で押し進め、大将の義経ですら危うい場面があったものの、陸に強い源氏に予想以上の数の水軍が味方した事や、瀬戸内特有の潮の流れ、突飛な義経のルール無視・・・などなど(くわしくは壇ノ浦の戦い:2008年3月24日参照>>)様々な事が相まってか?やがて、平家が劣勢に転じたのです。

しばらくして、
「もはや、これまで・・・」と覚悟を決めた知盛が、自らの乗る小舟を、安徳天皇の舟に近づけて、
「これまでです。見苦しい物は全部海に捨ててください」
と言うと、それを聞いた女官たちが、あわてて舟の上を掃除しながら
「中納言殿(知盛の事)、戦況はどうなんですか?」と・・・

その返答に知盛は、
「もうすぐ、今まで見た事のない東国の男たちに会えますよ」
と言って、ケラケラと笑ったと言います。

これで
「あぁ、もう本当にダメなんだ」
と思った平家の人々は覚悟を決め、二位尼も安徳天皇を抱きかかえて海の底へと旅立ちました(先帝身投げ:2007年3月24日参照>>)

『平家物語』では、この「先帝の身投げ」のあと、猛将=平教経(のりつね=知盛の従兄弟)の最期(能登殿最期:2009年3月24日参照>>)が描かれ、その次に知盛の最期が登場します。

・‥…━━━☆

「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害せん」
自らの人生で、見たい物はすべて見たので自害しよう!と、覚悟を決めて、乳母子(めのとご=うばの子・乳兄弟)である平家長(たいらのいえなが=伊賀家長)を近くに呼び寄せて、
「イザという時はともに散るという約束は忘れてないか?」
とたずねると、家長は
「いまさら…言うまでも無い事です」
と、しっかりと答え、

飛び込んだ後に体が浮いて来ないように、家長は、主君=知盛に鎧を二領着せ、自らも二領の鎧を着込んで、ともにしっかりと手を組んで、二人同時に海に飛び込みました。
(一説には、同じく体が浮かないように「碇(いかり)を担いで入水したとも言われ、浄瑠璃や歌舞伎の『義経千本桜』碇知盛として有名です)

これを見て、その場にいた忠義の者ども20名余りが、その後を追って次々と海に飛び込んで行ったのです。

それは・・・
「赤旗 赤符(あかしるし)ども、切り捨てかなぐり捨てたりければ、龍田河の紅葉葉を、嵐の吹き散らしたるに異ならず
(みぎわ)に寄する白波は 薄紅(うすくれない)にぞなりにける」
海上に無残に切り捨てられた平家の赤旗や赤印がおびただしく漂い、まるで竜田川のモミジのようで、波打ち際に寄せる白波も薄紅色に染まって見えた・・・と。

そして・・・
「主(ぬし)もなき空しき舟どもは、潮に引かれ風に随(したが)ひて、いづちを指すともなく、ゆられ行くこそ悲しけれ」
あるじを失くしたカラの舟が、風に吹かれるまま波のまにまに揺られるさまは悲しすぎる~

・‥…━━━☆

こうして源平の合戦は、全行程を終了する事となります。

この時、同じく入水するも、敵兵に引き上げられて捕虜となった人の中には、平家の棟梁であった平宗盛(たいらのむねもり=清盛の三男・知盛の兄)(6月21日参照>>)、安徳天皇の母=建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ=平徳子・清盛の次女で知盛の妹)(12月13日参照>>)などがいます。

また、安徳天皇には生存説もあり(2010年3月24日参照>>)
生き残って何度も頼朝暗殺に挑む平景清(かげきよ)(3月7日参照>>)
清盛嫡流最後の人となった平六代(たいらのろくだい)(2月5日参照>>)
などなど、その後のお話もありますので、それらは
平清盛と平家物語の年表>>
源平争乱の年表>>
でどうぞm(_ _)m

にしても・・・
人の生き死にに関する記述に対して、こう言って良いかどうか悩むところではありますが・・・
平家物語』の言いまわしは、実に美しいですね~
「波間に散乱する赤旗が竜田川の紅葉のようだ」とか・・・

悲しくも美しい散り様ですね。
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2017年3月17日 (金)

信長の動きを受けて~いよいよ謙信が富山へ侵攻

 

天正四年(1576年)3月17日、織田信長と手を切った上杉謙信越中富山へと侵攻を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)を皮切りに度々衝突した有名な川中島の戦い(9月10日参照>>)でご存じのように、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)は、信濃(しなの=長野県)北東方面の国境線を巡って、長きにわたるライバル関係にありました。
(くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】参照>>)

Uesugikensin500 その関係は、天正元年(1573年)に信玄が亡くなって後に息子の武田勝頼(かつより)が当主(4月16日参照>>)となった時代も続いていたわけですが、一方で、武田家は上杉領とは真逆の南西方向の国境線を巡っても、かの駿河(するが=静岡県西部)大物=今川義元(いまがわよしもと)を倒して(5月19日参照>>)出世の階段を2段飛ばしで駆け上がりまくりな尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)を擁する織田信長(おだのぶなが)睨み合っていたわけで・・・

Odanobunaga400a となると、敵の敵は味方とばかりに、この頃の謙信と信長はかなりの仲良し・・・それは、永禄十一年(1568年)に信長が、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)奉じて上洛を果たした(10月18日参照>>)後も変わらず、天正二年(1574年)には信長が謙信センパイに狩野永徳(かのうえいとく)の筆による『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)を贈ってベンチャ攻撃しまくってた話は有名ですね。

ただし、その屏風を受け取った謙信の方は、どうやら、この頃からすでにモヤモヤし始めていたようで・・・と言うのも、その前年の天正元年(1573年)、信長は北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月26日参照>>)越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)を倒していたわけで・・・確かに、ベンチャラしてくるわりには、シレッと越後に近づいて来ている感がしないでもない・・・

それでも、天正二年(1574年)の2月に勝頼が明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻撃(2月5日参照>>)した際には、険しい山中にて攻撃がままならない織田軍の後方支援として、謙信が上野沼田(ぬまた=群馬県沼田市)まで兵を出した・・・なんて事もあったようです。

とは言え・・・
その明智城陥落で勢いづいた勝頼が、信長と同盟関係にある徳川家康(とくがわいえやす)傘下の高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落とし、さらに翌・天正三年(1575年)5月に有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)武田VS織田の全面衝突となると、その一方で信長は、同時進行していた越前一向一揆も制し(8月12日参照>>)、さらに加賀(かが=石川県)に手を伸ばして来たわけで・・・

「コレ、ぜったい近づいて来とるやないかい( ゚皿゚)!!」

もともと、武田という共通の敵を持つが故の同盟・・・しかし、信玄という大きな存在に睨まれていた弱小なる後輩は、浅井朝倉を葬り去り、武田を衰退させ、越前も手に入れて、今や先輩=謙信に追い付き追い越せの勢いなのは明らか・・・

しかも、加賀&越中と言った北陸地方は、謙信にとって、結果的には手中に収めたい因縁の場所(3月30日参照>>)(4月13日参照>>)

そんなこんなの天正四年(1576年)、この2月にはあの安土城の築城(2月23日参照>>)に取りかかる信長・・・この安土という場所への築城は、見ようによっちゃぁ、謙信を上洛させないための通せんぼのようにも見えます。

その事を知ってか知らずか、天正四年(1576年)3月17日謙信は越中(えっちゅう=富山県)へと侵攻を開始したのです。

この富山という場所は、長きに渡って能登畠山(のとはたけやま)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)にて権勢を奮っていた傘下にありましたが、その畠山が長年の内輪もめや重臣同士の争いで次々と城主を失った事で、この頃は、今だ4~5歳の幼児であった畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)を当主に据えて、周りの重臣たちが実権を握っている状態でした。

Kensintoyamasinkoukankeizu 位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

その重臣の一人が、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)富山城(とやまじょう=富山県富山市丸の内)を擁する神保氏張(じんぼううじはる)
・・・

一説には畠山氏から養子に入ったとも言われるほど、畠山とはつながりのある人物でした。

もともと、この頃の富山城は、上杉配下にある魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を脅かす城でしたが、ここに来て信長からの要請を受けた氏張は、息子とともに織田につく事を表明・・・下瀬砦(しもぜとりで=富山市婦中町)を構築して謙信の進路を阻みます。

しかし、さすがは軍神=上杉謙信・・・なんなく神通川(じんつうがわ)を渡り、わずか3日の間に氏張配下の支城や砦を次々と落とし森寺城(もりでらじょう=富山県氷見市森寺・湯山城とも)へと向けて庄川(しょうがわ)左岸の守山城間近へと迫ります。

ただ・・・この時は、大雨による増水で、庄川が渡れず、やむなく守山城攻略を断念して兵を退きました。

やがて半年後の9月
2万の軍勢を引き連れて、再び富山へと侵攻した謙信・・・この時、富山城にいた神保父子は、その猛攻に耐えきれず、富山城を捨てて守山城へと移動し、ここで籠城します。

しかし、ここにいる城兵はわずか2000・・・氏張は城の防備を固めるべく、空堀に湖水を引き込もうとしますが、空いた富山城に配下の諸将を入城させて、そこを拠点に守山城への猛攻を開始した上杉軍のスピードの速さに、防御の準備が間に合わず、やむなく氏張は、堀の底に米を敷いて水に見せかけてゴマかします(米を敷く方が時間がかかる気がしないでもない(゚ー゚;)

ところが・・・
この時、城の上空を舞う鳥たちが、いち早く、この米の水に反応・・・何羽もの鳥が堀に向かって舞い降りた事から不審に思った上杉の兵が、地元住民を使って調べさせて真相を解明してしまったために、その後は怒涛のごとく、上杉軍が米の堀を渡って城内に侵入し、縄張りの各箇所に火を放って難攻不落とされた守山城を落したのだとか・・・

以後しばらくの間、氏張は謙信の傘下に組み込まれます。

守るも攻めるも「ホンマかいな(^-^;」的な攻防戦ではありますが、とにかく、ここで守山城を陥落させた謙信は、その後も猿倉城(さるくらじょう=富山県富山市・栂尾城とも)増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)を落としつつ加賀へと侵攻・・・これまた敵の敵は味方とばかりに、長年敵対関係にあった石山本願寺と正式に和睦(5月18日参照>>)した後、翌・天正五年(1577年)の9月には七尾城を落とし、有名な九月十三夜の美酒に酔う(9月13日参照>>)事になります。

一方の信長は、一向一揆の本拠地=石山本願寺との全面戦争へと突入・・・
【天王寺合戦】>>
【第一次木津川口海戦】>>

今後の謙信との対決は、信長から北陸方面を任された柴田勝家(しばたかついえ)が担当する事になるのです。
【手取川の戦い】参照>>
 .

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2017年3月 9日 (木)

アンケート企画「歴史人物・胸キュン!ワード選手権」~女性編・結果発表

お待たせしました!

本日は、最新アンケート=「歴史人物・胸キュン!ワード~こんなん言われたいゾ選手権(女性編)結果報告で~す

投票にご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

今回は、ちとマニアック過ぎましたかね?
あまりお馴染ではない方々の登場で、なかなか胸キュンとはいかなかったみたいです\(_"_ ) 反省

まぁ、それはそれとして…とにもかくにも結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
7票
式子内親王
読んでなかった私は、個人的には、この方の1位は意外でしたが、どうやらコミックでの印象が良く…選択肢の女性の中で、最もつつましやかな彼女が、堂々の1位を獲得
2位
6票
静御前
居並ぶ女性たちの中では断トツの知名度…やはり親しみがあるのでしょうね~堂々の2位!です。
3位
5票
額田王
万葉の歌姫としては安定の3位というところでしょうか
4位
3票
成尋の母
おそらく、今回の選択肢の中では1・2を争う無名の方ではありましたが、現代にも通じる子を思う母の気持ちにウルル(;ω;)
5位
2票
小野小町
建春門院新大納言局
四天王寺の尼僧
小町はちょいと下ネタでしたか(*ノv`)と反省しておりますデス。
8位
1票
鏡王女
大伯皇女
狭野茅上娘子
橘嘉智子
和泉式部

清少納言
残念ながら、1票ずつしか入りませんでした~(;ω;)
14位
0票
沙本毘売
仏御前

小宰相
(つд⊂)エーン…0票でした~ま、私のチョイスも悪かったのかも知れません。。。反省
その他 2票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

;;;:+*+:;;;:+*+:;;

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

静御前 年代が遠いのが多すぎてピンっと来なかったので比較的近いのを選びました。(男性/神奈川)
「やっぱり馴染が薄かったですかね\(_ _)ハンセイ
大伯皇女 大泊皇女が残した歌によって、この姉弟のことは永遠に語り継がれると思います。泣けます!!(女性/東京)
「奈良へ帰る弟を見送る歌もグッときますね~」
静御前 静御前大好きです?(40歳代/男性/神奈川)
「時代劇ではいつも美しい女優さんが演じられますね~やはり断トツのステキさです」
静御前 楽しく拝読させて頂いてます。今年も頑張ってください!(40歳代/男性/大分)
「ありがとうございますm(_ _)mそのお言葉が励みになります
成尋の母 狭野芽上娘子さんとどちらにしようか悩みました。ほんの…かすかに…母さまで。(女性/愛知)
「やはり、涙を誘いますね~
鏡王女 シンプルだけどこういうの好きです(40歳代/男性/東京)
「秘めたる思いが最も情熱的かも知れませんね
成尋の母 太陽に限りませんが、、、自分の大切な人が、同じときに同じものを見ている!と感じることは、個人的には幸せです(*´ー`*)(30歳代/女性/福岡)
「まだSNSが始まって間もない頃、『今夜はスーパームーンがきれい』とつぶやいたら、今は遠く離れた竹馬の友人の『私も見てる』との即座の返信にドキッとした事があります
その他 いとせめて恋しき時はぬばたまの夜の衣を返してぞきる(小野小町)(60歳代/男性/山口)
「おまじないはいつの世も、恋する女の子のブームですね」
その他 天智天皇の無名の婦人が歌った「うつせみし 神に堪へねば…(万葉集2巻150)」。挽歌ですが、ここまでストレートに言われたらビックリドキドキしそうな気がします。
「愛しき人が目の前からいなくなると、夢でいいから会いたいと思うものですね~切ない」
建春門院
新大納言局
維盛が好きなので…(10歳代/女性/東京)
維盛の都落ちは、平家物語の中でも、とびきりの名場面ですよね~」
額田王 私の中では、やっぱこれです!アンケートの3番目にのせて下さり有難うございます。(40歳代/女性/神奈川)
「情景が生き生きと伝わってきますよね~1300年前の女性の歌とは思えないくらいです
額田王 この歌私も好きです!あとセンテンススプリングがつぼだったので(笑)。(40歳代/女性/愛知)
「昨年はいろんな方々が野守にスッパ抜かれちゃいましたね
式子内親王 コミックで歌を知り、とても好きになりました(20歳代/女性/東京)
「コミックが人気のようですね~ヽ(´▽`)/」
静御前 その他で「しづやしづ~」を入力しようと思ったら、静御前ありましたね。(40歳代/男性/東京)
「私も『しづやしづ』と迷ったんですが、コチラの歌をチョイスしました~」
和泉式部 正集より。心地悪しき頃、「いかが」との給はせければ「絶えし頃 絶えねと思ひし 玉の緒の 君によりまた 惜しまるるかな」いとどしく物ぞ悲しき~の歌と迷いましたがこっちにしました(30歳代/女性/大阪)
「和泉式部は、そっちが良かったですかね?(*^-^)式子内親王も本歌取したかも…の歌ですしね」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧くださいm(_ _)m)
「建春門院新大納言局」
(つらまえさん)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2017年3月 2日 (木)

大河ドラマ「おんな城主 直虎」~信長役に海老蔵さん

 

NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」に、歌舞伎俳優の市川海老蔵さんが織田信長役で出演!

Odanobunaga400a 本日=3月2日のお昼前・・・こんなニュースが飛び込んできました~

不詳わたくし・・・この1日・2日、大河ドラマに関して少々言いたい事があり、感想を書こうか書くまいか、少し悩んでいたんですが・・・あぁ、待ってて良かった~~ヽ(´▽`)/

そう、実は、その言いたいことは、この織田信長がドラマに出るのか?出ないのか?に関しての事・・・

なんせ、もう次回は桶狭間なんですから・・・

本来なら、今川家の方々や徳川家康などを演じる俳優さんたちと同時期に、主役を張れるほどの有名演者さんの名が発表されてもおかしくないほどの重要人物のはずなのに、ここまで発表が無いという事は・・・

もしかして・・・
平成十九年(2007年)の「風林火山」のように、シルエットだけのナレーションスルーになるのか?
もし、そうなら、ちょいと言いたい事を言っちゃうヨ(`ε´)
と、思ってたんですが、

ただ・・・
前回のドラマの中で、桶狭間へ向かう今回の行軍について、井伊家を含む今川方の面々が、あまりにも「当然の勝ちイクサ」とか「負ける気がしない」とかを連呼しはるもんですから、ひょっとして(今川から見ると)織田なんか眼中に無い」=「信長小物感」を出したいがために、あえて、ここまで無視してるのではなかろうか?

と、引っかかったものですから、
もう1週間待ってみよう
桶狭間が過ぎても出てこなかったら言おう

と、思って待ってたら、この「海老蔵さんが織田信長役で…」の発表ですよ~

もちろん、本格的に、重要な役どころとしての出演かどうか?は、作家さん&スタッフさん次第でしょうが、たとえ、セリフのほとんど無い特別出演的なもので、結局は、ほぼナレーションスルーと変わらなかったとしても、主役を張れる俳優さんが演じられる事で、その存在感が違いますからね。

そう・・・
実は、前回が、主役の次郎法師(直虎)の幼馴染の井伊直親(おおなおちか)しの夫婦に「子供ができるの」「できないの」昼ドラさながらの嫁×姑×小姑バトルもどきのドロドロ展開に、丸々一回ぶんを使ってしまった事で、巷では、
「これが大河か?」
「そんなんは朝ドラでやってくれ」

という声も多数聞きました。

かくいう私も、以前の感想(1月12日参照>>)で、韓流時代劇っぽい雰囲気と三角関係のラブストーリー感が気になる」と書いております通り、今回の大河は、女性が主役であるためか?少々、話題がこじんまりしてる感は拭えないないなぁ~と思っている派なのですが、

ただし・・・
この「子供ができるorできない」は、よくよく考えれば、今回の直虎に関しては、かなり重要な事ではあります。

なんせ、この時の井伊家に男子がボコボコ生まれて、後継ぎ選び放題な状況なら、直虎が女だてらに当主になる事は無かったわけですから・・・「おんな城主 直虎」と称する限りは、なかなか子宝に恵まれずに後継ぎ選びに苦労した事を重要事項に持ってくるのもアリかも知れません。

ただ、それより私が気になったのは、前回が、その「子作り」の話題に終始してしまい、今回の桶狭間に至る出兵に関しての事がほとんど語られ無かった事でした。

先にも書いた通り、「当然の勝ちイクサ」や「負ける気がしない」というセリフとともに、「出陣する」という事ばかりで、なぜ出陣するのか?が、主人公の次郎法師が、瀬名姫(後の築山殿)からの手紙から得た知識を、大叔父の南渓(なんけい)和尚に披露する程度でしか語られていませんでした。

もちろん、歴史としては、今回の桶狭間に至る出兵についても、様々な説があって・・・
少し前までは、この時点で、最も天下に近い男であった今川義元(いまがわよしもと)による上洛目的の行軍であったという説が主流でしたが、現在では別の見方も出ています。

私も、以前、このブログで書かせていただいているように、上洛ではなく、「寸前に(今川方へ寝返った武将がいたため)これまでの織田と今川との境界線に変化があったので、あらためて現時点での境界線をハッキリさせる」みたいな感じだったと思っています(2009年5月1日参照>>)

ただ、ドラマは史実がどうこうではなく、作者の方が思うように持って行ってくださって結構ですので、どの説をとるかは自由・・・いや、なんなら独自の考えで以って出兵の理由を語ってくださっても良いのですが、前回のように、「子作り騒動」の合間の伝言めいたよくわからないままの出兵に終始してしまっては非常に残念だな~と思っていたわけで・・・

なんせ、ほとんど史料の無い方が主人公の今年の大河では、数少ない歴史的大事件なわけですからね。

もし、次回の桶狭間の回を以ってしても、信長の登場がなければ、上記のようなウヤムヤな感じになってしまうような予感がしていたのですが・・・

冒頭に書いた通り・・・出はるんですね、信長さん、
それも、海老蔵さんが演じはるのですね~良かったです

やはり、「信長なんか眼中に無い」感を出すための演出だったのですね(◎´∀`)ノ

これで、おそらく、なぜに出兵し、なぜに合戦となり、なぜに死ななければならなかったのかが、ドラマの中で徐々に語られていく事になるのでしょう。

プラス・・・
信長が出る事で、阿部サダヲさん演じる家康と、菜々緒さん演じる瀬名姫の、オモロイ夫婦の掛け合いも、思う存分描かれる方向になるのだとしたら、個人的にウレシイです。

ホント、あのお二人のキャラ設定はおもしろいです。
(逆に、後でロスになるのがコワイ)
これからも、楽しみですね。

関連ページもどうぞ↓
【戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎】>>
【今川義元・出陣の理由は?】>>
【一か八かの桶狭間の戦い】>>
【二つの桶狭間古戦場】>>
【桶狭間で名を挙げた毛利良勝と服部一忠】>>
【桶狭間の戦い~その時、家康は…】>>
【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい】>>
【戦国・群雄割拠の時代の年表】>>
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2017年2月26日 (日)

将軍義輝が朽木へ~三好VS六角の志賀の戦い

 

天文二十年(1551年)2月26日、7日から始まっていた三好VS六角による志賀の戦いが、ほぼ終結しました。

・・・・・・・・・・・

戦国の幕を開けた男とも言われる室町幕府管領(かんれい)細川政元(まさもと)の死後、後継者の座を巡って3人の養子たちが争ったお話は、これまでも何度か書かせていただいておりますが、
【細川政元の暗殺】>>
【船岡山の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>
【箕浦合戦】>>

と、かの桂川原の戦いに敗れたために、大永七年(1527年)、近江(おうみ=滋賀県)へと退いたのが、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)と、彼を擁する細川高国(たかくに)

一方、戦いに勝利した事で、(さかい=大阪府堺市)に拠点を置く堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立したのが細川晴元(はるもと=澄元の息子)と、彼らとともに阿波(あわ=徳島県)からやって来た三好元長(みよしもとなが)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟ら。

そして、もともと高国と対立していた事によって晴元らに味方し、山崎城(やまざきじょう=天王山城・宝寺城とも)から京の都を支配する柳本賢治(やなぎもとかたはる)

こうして、滋賀の坂本、京都の山崎、大阪の堺、と、機内に3つの政権保持者が乱立するわけですが、もともと、それぞれが別々の思惑で動き、別々の利害関係を持っているわけで・・・

結局、享禄三年(1530年)に柳本賢治が暗殺され、それキッカケで京へと攻め上った細川高国が、翌享禄四年(1531年)に自害に追い込まれると、事実上の一人勝ちとなった晴元は、どうやら、一連の抗争が細川家当主&幕府管領というトップのイスに座りたかったためのものだったようで・・・堺公方の件をウヤムヤにして将軍=義晴と和睦してしまいます。

そして・・・その件で晴元と対立した三好元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げ、義維も阿波へと逃れました。

Miyosinagayosi500a そこに登場するのが、三好元長の息子で、後に「戦国初の天下人」と言われる事になる三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と、その兄弟たちです。

とは言え、以前、その長慶さんのページ(5月9日参照>>)でもお話させていただいたように、父の元長が亡くなった時は、未だ長慶11歳の頃・・・しかも、上記の通り、この時、中央で政権を握っていたのは晴元なわけで、しばらくの間、長慶は大人しく晴元の配下につき、そこで腕を磨き、手柄をたてる事によって、むしろ細川晴元政権の中でも、1-2を争う重臣となっていくわけです。

そんな中、かの桂川原の戦い以来、晴元ベッタリの細川政長との仲が徐々にややこしくなっていく長慶・・・その原因としては、

以前は、父の元長が管理していた河内(かわち大阪府北部)の荘園を、その死後に政長が管理していたのですが、それを、「そろそろ俺らに反してぇな」と長慶が頼んでも、政長は知らん顔とか・・・とにかく、ことごとく長慶に敵対する政長の討伐を、長慶は何度も晴元に願い出ますが、許す気配が無いどころか、何かと晴元は政長に同調し味方ばかりするのです。

しかも、このようなタイミングで、亡き高国の後継者(養子)細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて、「打倒!晴元」掲げて挙兵・・・かくして長慶は、この氏綱と連携して、晴元政権からの離脱を決意するのです。

これを幕府への謀反と判断する晴元・・・この両者の対立は、機内の諸将たちをも二分させ、「どちらにつくか?」のそれぞれの立場によって、様々な小競り合いを生んでいく事になるのですが、そのあたりも、いずれは、それぞれの日付にてくわしく書かせていただく事として・・・

そんなこんなの天文十八年(1549年)6月、両者が直接対決した江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで長慶が見事勝利(先の5月9日の真ん中あたり参照>>)した事から、負けた晴元勢は、長慶の追撃を恐れて、将軍=義晴を伴って近江の坂本へと避難し、京都の行政は事実上長慶が牛耳る事となります。

ところが、その翌年の天文十九年(1550年)5月、将軍=義晴が、その避難場所の坂本にて病死・・・それを受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)足利義輝(よしてる)第13代室町幕府将軍に就任します。

当然のことながら、未だ15歳の若き将軍の夢は、今や長慶と氏綱の手にある京都を奪回する事・・・この将軍の夢にまず答えたのは、先の江口の戦いの時にも晴元&政長に加勢し、その後も晴元ベッタリな観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)六角定頼(ろっかくさだより)の息子=六角義賢(よしかた=承禎)でした。

新将軍誕生から、わずか2ヶ月後の7月、義賢は京都に向けて兵を出し、三好勢と東山方面で交戦・・・しかし、この時は勝敗が決しなかった事から、翌天文二十年(1551年)2月7日、今度は長慶自らが軍を率いて戦いの準備を整えると同時に、配下の松永長頼(まつながながより=内藤宗勝・松永久秀の弟)に、近江への侵攻を命じたのです。

これを受けた義賢・・・鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市鯰江町)鯰江貞景(なまずえさだかげ)鎌刃城 (かまはじょう=滋賀県米原市) 堀元積(ほりもとつむ)勢多城(せたじょう=滋賀県大津市・瀬田城)山岡景隆(やまおかかげたか)などの配下の諸将300余を以って迎え撃つ事になります。

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↑志賀の戦い位置関係図…画像をクリックすると、大きいサイズで開きます (このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は地理院地図>>をお借りしました)

こうして始まった三好VS六角の志賀の戦い・・・両者の激戦が、何日も繰り返されたため、2月20日には、将軍=義輝が高島郡の朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと避難する事態になりますが、天文二十年(1551年)2月26日六角勢に押し負けた松永勢が京都へと撤退を開始・・・追う六角勢

翌27日の朝には、追撃して来た六角勢が鹿ヶ谷(ししがだに=京都市左京区)あたりで追い付き、再び激しい戦闘となる中、松永勢の名のある武将が何名か命を落としたところで、六角勢は坂本へと引き返します

しかし、さらに翌2月28日には、京都に侵入して来た六角勢によって、東山一体が焼き払われますが、一方で、反六角氏を表明している北近江京極(きょうごく)浅井(あざい)によって、犬上郡多(たが)が放火されるなどの小競り合いも、三好軍と連携する形で勃発しています。

結果的に、今回の志賀の戦いについては、おおむね六角氏の勝利となりましたが、もちろん、両者の交戦が、これで終わるわけはなく、まもなく、京都の市街戦に突入する事になるのですが、そのお話は、またいずれかの日付にてご紹介させていただきたいと思います。
・・・将軍義輝の今後の動きにも要注意ですしネ(ノ∀`)・゚・。
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2017年2月19日 (日)

源平・屋島の戦い~弓流し

 

文治元年(寿永四年・1185年)2月19日は、源平合戦の屈指の名場面=扇の的で有名な『屋島の戦い』のあった日です。

・・・・・・・・・・

ご存じ、平安末期の源平の戦い・・・

治承四年(1180年)、驕る平家に一矢を報うべく立ち上がった以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が散った(5月26日参照>>)後、その令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書)(4月9日参照>>)を受け取った伊豆(いず)源頼朝(みなもとのよりとも=源義朝の3男嫡子)(8月17日参照>>)や、北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲=頼朝の従兄弟)(9月7日参照>>)らが相次いで挙兵する中、都を福原遷都(せんと)(11月16日参照>>)したり、南都(なんと=奈良)焼き討ち(12月28日参照>>)を決行したりと、未だ堅固であった平家一門でしたが、翌・養和元年(1181年)2月に、大黒柱であった平清盛(たいらのきよもり)熱病に侵されて死亡する(2月4日参照>>)と一気に陰りが見え始め、寿永二年(1183年)5月の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い(5月11日参照>>)etcに勝利して勢いづいた木曽義仲が京へと迫った事から、平家一門は都を後にし西国へと逃れます(7月25日参照>>)

しかし、ここで、義仲と頼朝が源氏トップの座を争った事で(1月16日参照>>)、平家の相手は、そのトップ争奪戦に勝利(1月21日参照>>)した頼朝の弟=源義経(みなもとのよしつね=義朝の9男)に移行・・・寿永三年(1184年)2月には、鵯越(ひよどりごえ)の逆落し>>青葉の笛>>で有名な一の谷の戦い(2013年2月7日参照>>)に敗れ、さらに西へと移動する平家一門・・・

とまぁ、久々の源平合戦のお話なので、ここまでの経緯をサラッとおさらいしてみましたが、さらにくわしくは、【源平争乱の年表】>>で、個々にご覧いただくとして・・・

その一の谷から約1年・・・この間、四国の屋島(やしま=香川県高松市)に落ち着いた平家は、関門海峡の交通を抑えて瀬戸内海の制海権を握りつつ、播磨(はりま=兵庫県)安芸(あき=広島県)などで度々勃発した源氏との交戦では、水軍の機動力を生かした海からの攻撃で、海岸線に展開する源氏軍をかく乱し、むしろ押せ押せムード・・・

対抗策を練る頼朝は、先に平家の退路を断つべく、弟の源範頼(みなもとののりより=義朝の6男)を九州へ派遣しますが、思うような成果が挙げられないばかりか兵糧にも事欠き、やむなく頼朝は、一旦平家追討から離れて京の都で治安維持に当たっていた義経を、再び呼び戻して出陣させたのです。

文治元年(寿永四年・1185年)2月17日未明、荒れ狂う海の中、ムリクリで渡海した義経が(2月16日参照>>)、東岸の勝浦に上陸した後、屋島の対岸に当たる牟礼(むれ)高松の民家に火を放ちつつ屋島を目指した事を受けて、平家の指揮をとる平宗盛(清盛の三男)は、早速、安徳天皇の御座所を船に遷し、建礼門院(清盛の娘で安徳天皇の母)二位の尼(清盛の奥さん=時子)をはじめ、宗盛親子自身も乗り込み、早々に漕ぎ出して沖に停泊・・・そこに到着する源氏軍との間で行われたのが、文治元年(寿永四年・1185年)2月19日屋島の戦い・・・

という事になるのですが、
この時の戦いで命を落とす事になる義経の側近=佐藤嗣信(さとうつぐのぶ)のお話については2008年2月19日のページ>>で、
戦い終わって日が暮れて行われた、有名な扇の的(まと)については2007年2月19日のページ>>で・・・

Yasimanotatakai1000a
源平合戦図屏風・屋島合戦(埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵)

そう、実は、この屋島の戦い・・・最初の戦いの後、夕暮れとなって扇の的なるイベントがあって終わるはずだったのが、上記のページで書いた通り、そのイベントに感動した平家のオッチャンまで射殺してしまった事から、再び戦闘が始まってしまうんです。

てな事で、今回は、その扇の的の続きとなるお話で、やはり有名な『弓流し』のお話を『平家物語』に沿ってご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

源氏の代表として出て来た那須与一(なすのよいち=宗高)が、見事1溌で扇を射止めた事を受けて、その光景のすばらしさに感動した50歳くらいの平家の者が、そのそばで踊り出したのを見て、義経は「アレも射よ」と命令・・・

義経の命により、男も射られると、源氏側からはどよめきの声が挙がったものの、平家側はシ~ンと静まり返ります。

一瞬の静寂の後、
「何するんじゃ!ボケ!」
とばかりに、楯を持って一人、弓を持って一人、長刀(なぎなた)を持って一人・・・と3人の平家の武士が船を下りて海岸に向かって駆け出し
「オラ!かかって来いや!」
と、陸にいる源氏の兵を招きます。

「クソッ!誰か、乗馬のうまいヤツ、アイツら蹴散らして来いや!」
と義経が言うと、美尾屋十郎(みおのやじゅうろう)らが数騎連れだって突撃を開始します。

しかし、そこに向けて平家側が次々と矢を射かけたので、馬が屏風を倒すように崩れていったため、十郎ら乗り手は、すかさず馬から下りて太刀を構えますが、平家の武士もすかさず大太刀にて襲いかかりました。

この平家の大太刀に対して、自らの小太刀では対抗できないと考えた十郎が、屈み伏せながら逃げようとするところを、この平家の武士は追いかけますが、彼は、長刀で襲うのではなく、素手で十郎の甲(かぶと)(しころ=首を保護するために甲の後ろ側に垂れている部分)を掴もうとします。

掴まれまいと逃げる十郎・・・追う平家の武将・・・

3度掴みかけて失敗するも、4度目に見事、ムンズと掴んで、そのまま引っ張る・・・すると、しばらくの停止の後、なんと、甲の錣部分が引きちぎれ、十郎は、そのまま、そばにいた馬の影に隠れて息をひそめます。

すると、その平家の武将は、それ以上深追いはせず、片手で長刀を杖のように立て、片手で引きちぎった錣を天高くかざしながら
「近頃は音にも聞きつらん!今は目にも見たまえ!
我こそは、都の童
(わらべ)も悪の七兵衛と呼ぶ、上総(かずさ)の景清よ!」
と名乗りを挙げたのです。

そう、この時、先頭を切って源氏軍に挑んだこの武士が、平家の生き残りとして、この後、37回もの頼朝暗殺計画を決行する平景清(たいらのかげきよ=藤原景清)(3月7日参照>>)なのです。

この堂々たる名乗りに士気挙がる平家・・・
「悪七兵衛を討たせるな!行け~~!」
とばかりに、200名余りが一気に海岸に向かって突撃し、陸地の源氏軍に迫り、
「オラオラ!来いや!」
と招きます。

「ちょ、待てよ!ヤバイやん」
とばかりに義経が、すかさず80騎ほどの馬で以って態勢を整えると、もともと船から下りて海岸へ向かって突撃している形の平家は馬ではなく生身の人間・・・このままぶつかっても、はじきとばされるだけですから、仕方なく、平家の兵士たちはそそくさと船へ戻るのですが、そこを好機と見た源氏の兵士たちは、馬のお腹が浸かるほどの沖まで入り込んで、敵の船べり間近まで攻め入ります。

と、この勢いのまま、義経自身も、あまりに平家の船に近づいてしまったため、平家の船から差し出された熊手で、甲を2度3度ドツかれ、それを太刀で以って払いのけているうちに、いつの間にか、かけていた弓を海へ落としてしまいます。

慌ててうつ伏せになって、持っていた鞭(むち)で引き寄せて取ろうとしますが、かき寄せてもかき寄せても弓は遠くに行くばかり・・・

「そんなん、捨てときなはれ!」
と周りの兵が言うのも聞かず、必死のパッチで弓をたぐり寄せる義経・・・

やっとの事で、弓をとらえて、ホッと一息・・・ニッコリ笑う義経に
「何をしてはりますねん。
なんぼ高い弓やとしても、命より大切っちゅー事はおまへんやろ。
無茶しなはんなや」

と、怪訝な様子の兵士に対して、義経は、
「いやいや…確かに弓が惜しいだけやったら、そう思うやろけど、ちゃうねん。
この弓が、為朝
(ためとも=【源為朝・琉球王伝説】参照>>のオッチャンのんみたいな大きくてかっこええ弓やったら、わざと落としてでも敵に見せつけたるんやけど、コレ、ちょっと貧弱やんか~
せやから、これ見て『これが源氏の大将の九郎義経の弓やてwww』ってバカにされんのちゃうかと思て、命に代えても敵に渡すか!って思て取り返してん」

と・・・

これを聞いて、人々は納得・・・
さすが大将!カッコイイ~o(*^▽^*)o
となったのだとか・・・(コレ、かっこええんかな?←個人の感想です)

そうこうしているうちの日もドップリ暮れ、源氏軍は牟礼と高松の間にある野山で陣を取り、兵を休息させます。

なんせ、あの嵐の中を船出してから、ほぼ休憩無しの進軍で、もはやヘトヘト・・・皆、泥のように眠りました。

ただ、義経と伊勢義盛(いせのよしもり)だけは、
「もしかして敵の襲撃があるかも…」
と警戒して、眠らずに見張りを続けていました。

一方の平家は海に船を停泊させての休息・・・

そんな中、勇将で知られる平教経(のりつね=清盛の甥)が500騎を率いて夜討ちをかけるべく準備をしていたものの、味方同士で先陣を争ってる間に絶好の機会を逃してしまい、そのまま夜が明けてしまいました。

疲れ果てていた源氏を襲うチャンスを逃してしまった平家は、2日後の21日、屋島を奪還すべく志度寺(しどじ=香川県さぬき市)に籠りますが、義経の追撃に逢ったばかりか、田口教能(たぐちののりよし)河野道信(こうのみちのぶ)らが源氏に加わった事で、結局、屋島奪還を諦め、さらに西へと向かい、やがては壇ノ浦へ・・・という事になるのです。

壇ノ浦の戦いについては・・・
【潮の流れと戦況の流れ】>>
【壇ノ浦・先帝の身投げ】>>
【平家の勇将・平教経の最期】>>
【安徳天皇・生存説】>>
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