2017年3月24日 (金)

源平争乱・壇ノ浦の戦い~平知盛の最期

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、ご存じ源平争乱のクライマックス壇ノ浦の戦いがあり、平家方の総司令官である平知盛が入水自殺しました。

・・・・・・・・・・・・

養和元年(1181年)2月の、大黒柱の平清盛(たいらのきよもり)(2月4日参照>>)の死後、相次いで挙兵した伊豆(いず)源頼朝(みなもとのよりとも=源義朝の3男嫡子)(8月17日参照>>)北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲=頼朝の従兄弟)(9月7日参照>>)らの勢いに都を追われた(7月25日参照>>)平家は、

寿永三年(1184年)2月の一の谷の合戦い
生田の森の激戦>>
鵯越の逆落とし>>
忠度の最期>>
青葉の笛>>
に敗れて西へ・・・

その翌年の文治元年(寿永四年・1185年)2月の屋島の戦い
佐藤嗣信の最期>>
扇の的>>
弓流し>>
さらに、西へと逃れ、本州最後の下関(山口県)に近い彦島へと後退した平家・・・退いた平家を追う形で、その地に源義経(みなもとのよしつね=頼朝の弟)率いる源氏軍がやって来たのは、屋島の戦いの1ヶ月後の3月21日に事でした。

「次は海戦になる!」
との予想から、河野水軍熊野水軍などの援軍を得て、800余艘の水軍となった源氏軍と、未だ500余艘を維持する平家軍は、いよいよ寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、約300mを隔てた壇ノ浦の海上に対峙したのです。

Tairanotomomori600a この壇ノ浦の戦いで、事実上の総指揮官だったのが「清盛最愛の息子」とも言われる平知盛(とももり)・・・
清盛の四男で、正室の時子(ときこ=二位尼)が産んだ第2子です。

彼が生まれたのは、あの保元の乱(7月11日参照>>)の4年前で、その3年後=つまり7~8歳頃に平治の乱(12月25日参照>>)ですから、その育った環境は、まさに平家全盛時代・・・

それを象徴するかのように、兄の宗盛とともにトントン拍子で出世していく彼を『平家物語』は、各合戦で指揮を取る「負け知らずの猛将」として描きますが、実際には、猛将というより智将で、未だ京都に腰を据えていた頃は、あまり細かな局地戦に赴く事なく、平家全体の軍事面における総帥のような役割ではなかったか?と考えられています。

それは清盛亡き後も・・・兄の宗盛が政治面を請け負い、知盛は、やはり軍事面を一手に引き受けていた事でしょう。

しかし、そんな智将=知盛が、一連の戦いの中で最も心を痛めたのは、先の一の谷の戦いでの事・・・

『平家物語』によれば・・・
生田の森の総大将として奮戦していた知盛でしたが、例の鵯越の逆落としで形勢逆転となった時、敵兵に組みつかれた知盛を助けようと、息子の知章(ともあきら)が間に入って奮戦するも、逆に敵に斬りつけられて討ち死・・・その混乱の中で知盛は、馬に乗ったまま海へと入り、なんとか味方の舟までたどりついて命拾いしたという事があったのです。

その時、自らは海から舟に乗り移ったものの、重い馬は乗せることができず、やむなく岸辺の方向に誘導していくのですが、その馬は、以前、後白河法皇(ごしらかわほうおう=77代天皇)から賜ったかなりの名馬で、知盛も大変気に入っていて、月一で安全祈願の祭事を行うほど可愛がっていた馬だったのです。

しかし、そのまま岸へと戻れば、おそらく、その名馬を敵の将が手に入れる事になるわけで・・・その事を心配した配下の者が、
「あれほどの名馬が敵の物のなるのは惜しい…射殺しましょうか?」
と聞いたところ、知盛は、
「誰の物になったってかめへん!俺の命を助けてくれた馬やぞ、殺せるわけないやろ!」
と言ったとか・・・

馬を相手にしてさえ心やさしき知盛・・・そんな彼が、混乱の中とは言え、自らの命と引き換えに息子を失ったわけで・・・
「息子が敵と組み合うのを見ていながら、助けられないで自分だけ逃げてしもた。
他の者が同じ事をしたら、きっと俺は非難するやろに…
人間、イザとなったら、自分の命が惜しいもんです。
ホンマ情けない!恥ずかしい!」

と号泣したと言います。

おそらくは、自分自身の情けなさとともに、敵への憎しみ&恨みも大いに抱いた事でしょうが、智将=知盛は、その後も、個人の恨みつらみを押しだす事なく、あくまで、平家の総帥として、一門の事を第一に考え、冷静に指揮を取るのです。

それは、あの一の谷の合戦で捕虜となった平重衡(しげひら=知盛の弟・清盛の五男)と、平家の手中にある安徳天皇(あんとくてんのう=第81代・後白河法皇の孫で清盛の孫)三種の神器(さんしゅのじんぎ=皇室の宝物【三種の神器のお話】参照>>交換しようと持ちかけてきた法皇&源氏側に対して、

『平家物語』の平家は、「アホか!」「できるか!」「けんもほろろに断ったばかりか、その拒否の固さを示すため、使者の頬に『受領』の焼印をして送り返した」となっていて、ドラマ等、一般的には、そのように描写される事が多いのですが、

実は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』での平家から返答は、
「コチラは、はなから安徳天皇と三種の神器をお反しするつもりで、法皇さまのおっしゃる、和平交渉のための停戦命令にも従っておりますが、我々が天皇と神器を携えて京の近くへ行こうとすると、それを阻むがのごとく合戦を仕掛けて来るのはソチラの方ではないですか?
もともと平家も源氏もお互いに恨みは無いのですが、コチラが無理に京都へ帰ろうとすると合戦になってしまいますので、和平をされるのでしたら、その旨を明確にお示し下さい」

てな内容だったとされます。

軍記物の『平家物語』と公式記録の『吾妻鏡』・・・もちろん、その『吾妻鏡』もすべてが正しい内容では無い事が指摘されていますので、鵜呑みにはできませんが、この記述を見る限りでは、私怨を捨てて一門のために事を治めようとする冷静な姿が垣間見えますね。

Dannouranotatakai1000a2
壇ノ浦の戦い(『安徳天皇縁起絵図』より…赤間神宮蔵)

とは言え、ご存じのように、この交渉は決裂(後日、重衡は処刑:3月10日参照>>)、源氏VS平家は最終決戦となる壇ノ浦へ・・・

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、白々と明けた瀬戸内の海上に約300mを隔てて対峙した両者の間で壇ノ浦の戦いの幕が切って落とされたのです。

前半は平家が有利な展開で押し進め、大将の義経ですら危うい場面があったものの、陸に強い源氏に予想以上の数の水軍が味方した事や、瀬戸内特有の潮の流れ、突飛な義経のルール無視・・・などなど(くわしくは壇ノ浦の戦い:2008年3月24日参照>>)様々な事が相まってか?やがて、平家が劣勢に転じたのです。

しばらくして、
「もはや、これまで・・・」と覚悟を決めた知盛が、自らの乗る小舟を、安徳天皇の舟に近づけて、
「これまでです。見苦しい物は全部海に捨ててください」
と言うと、それを聞いた女官たちが、あわてて舟の上を掃除しながら
「中納言殿(知盛の事)、戦況はどうなんですか?」と・・・

その返答に知盛は、
「もうすぐ、今まで見た事のない東国の男たちに会えますよ」
と言って、ケラケラと笑ったと言います。

これで
「あぁ、もう本当にダメなんだ」
と思った平家の人々は覚悟を決め、二位尼も安徳天皇を抱きかかえて海の底へと旅立ちました(先帝身投げ:2007年3月24日参照>>)

『平家物語』では、この「先帝の身投げ」のあと、猛将=平教経(のりつね=知盛の従兄弟)の最期(能登殿最期:2009年3月24日参照>>)が描かれ、その次に知盛の最期が登場します。

・‥…━━━☆

「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害せん」
自らの人生で、見たい物はすべて見たので自害しよう!と、覚悟を決めて、乳母子(めのとご=うばの子・乳兄弟)である平家長(たいらのいえなが=伊賀家長)を近くに呼び寄せて、
「イザという時はともに散るという約束は忘れてないか?」
とたずねると、家長は
「いまさら…言うまでも無い事です」
と、しっかりと答え、

飛び込んだ後に体が浮いて来ないように、家長は、主君=知盛に鎧を二領着せ、自らも二領の鎧を着込んで、ともにしっかりと手を組んで、二人同時に海に飛び込みました。
(一説には、同じく体が浮かないように「碇(いかり)を担いで入水したとも言われ、浄瑠璃や歌舞伎の『義経千本桜』碇知盛として有名です)

これを見て、その場にいた忠義の者ども20名余りが、その後を追って次々と海に飛び込んで行ったのです。

それは・・・
「赤旗 赤符(あかしるし)ども、切り捨てかなぐり捨てたりければ、龍田河の紅葉葉を、嵐の吹き散らしたるに異ならず
(みぎわ)に寄する白波は 薄紅(うすくれない)にぞなりにける」
海上に無残に切り捨てられた平家の赤旗や赤印がおびただしく漂い、まるで竜田川のモミジのようで、波打ち際に寄せる白波も薄紅色に染まって見えた・・・と。

そして・・・
「主(ぬし)もなき空しき舟どもは、潮に引かれ風に随(したが)ひて、いづちを指すともなく、ゆられ行くこそ悲しけれ」
あるじを失くしたカラの舟が、風に吹かれるまま波のまにまに揺られるさまは悲しすぎる~

・‥…━━━☆

こうして源平の合戦は、全行程を終了する事となります。

この時、同じく入水するも、敵兵に引き上げられて捕虜となった人の中には、平家の棟梁であった平宗盛(たいらのむねもり=清盛の三男・知盛の兄)(6月21日参照>>)、安徳天皇の母=建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ=平徳子・清盛の次女で知盛の妹)(12月13日参照>>)などがいます。

また、安徳天皇には生存説もあり(2010年3月24日参照>>)
生き残って何度も頼朝暗殺に挑む平景清(かげきよ)(3月7日参照>>)
清盛嫡流最後の人となった平六代(たいらのろくだい)(2月5日参照>>)
などなど、その後のお話もありますので、それらは
平清盛と平家物語の年表>>
源平争乱の年表>>
でどうぞm(_ _)m

にしても・・・
人の生き死にに関する記述に対して、こう言って良いかどうか悩むところではありますが・・・
平家物語』の言いまわしは、実に美しいですね~
「波間に散乱する赤旗が竜田川の紅葉のようだ」とか・・・

悲しくも美しい散り様ですね。
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2017年3月17日 (金)

信長の動きを受けて~いよいよ謙信が富山へ侵攻

 

天正四年(1576年)3月17日、織田信長と手を切った上杉謙信越中富山へと侵攻を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)を皮切りに度々衝突した有名な川中島の戦い(9月10日参照>>)でご存じのように、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)は、信濃(しなの=長野県)北東方面の国境線を巡って、長きにわたるライバル関係にありました。
(くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】参照>>)

Uesugikensin500 その関係は、天正元年(1573年)に信玄が亡くなって後に息子の武田勝頼(かつより)が当主(4月16日参照>>)となった時代も続いていたわけですが、一方で、武田家は上杉領とは真逆の南西方向の国境線を巡っても、かの駿河(するが=静岡県西部)大物=今川義元(いまがわよしもと)を倒して(5月19日参照>>)出世の階段を2段飛ばしで駆け上がりまくりな尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)を擁する織田信長(おだのぶなが)睨み合っていたわけで・・・

Odanobunaga400a となると、敵の敵は味方とばかりに、この頃の謙信と信長はかなりの仲良し・・・それは、永禄十一年(1568年)に信長が、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)奉じて上洛を果たした(10月18日参照>>)後も変わらず、天正二年(1574年)には信長が謙信センパイに狩野永徳(かのうえいとく)の筆による『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)を贈ってベンチャ攻撃しまくってた話は有名ですね。

ただし、その屏風を受け取った謙信の方は、どうやら、この頃からすでにモヤモヤし始めていたようで・・・と言うのも、その前年の天正元年(1573年)、信長は北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月26日参照>>)越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)を倒していたわけで・・・確かに、ベンチャラしてくるわりには、シレッと越後に近づいて来ている感がしないでもない・・・

それでも、天正二年(1574年)の2月に勝頼が明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻撃(2月5日参照>>)した際には、険しい山中にて攻撃がままならない織田軍の後方支援として、謙信が上野沼田(ぬまた=群馬県沼田市)まで兵を出した・・・なんて事もあったようです。

とは言え・・・
その明智城陥落で勢いづいた勝頼が、信長と同盟関係にある徳川家康(とくがわいえやす)傘下の高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落とし、さらに翌・天正三年(1575年)5月に有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)武田VS織田の全面衝突となると、その一方で信長は、同時進行していた越前一向一揆も制し(8月12日参照>>)、さらに加賀(かが=石川県)に手を伸ばして来たわけで・・・

「コレ、ぜったい近づいて来とるやないかい( ゚皿゚)!!」

もともと、武田という共通の敵を持つが故の同盟・・・しかし、信玄という大きな存在に睨まれていた弱小なる後輩は、浅井朝倉を葬り去り、武田を衰退させ、越前も手に入れて、今や先輩=謙信に追い付き追い越せの勢いなのは明らか・・・

そんなこんなの天正四年(1576年)、この2月にはあの安土城の築城(2月23日参照>>)に取りかかる信長・・・この安土という場所への築城は、見ようによっちゃぁ、謙信を上洛させないための通せんぼのようにも見えます。

その事を知ってか知らずか、天正四年(1576年)3月17日謙信は越中(えっちゅう=富山県)へと侵攻を開始したのです。

この富山という場所は、長きに渡って能登畠山(のとはたけやま)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)にて権勢を奮っていた傘下にありましたが、その畠山が長年の内輪もめや重臣同士の争いで次々と城主を失った事で、この頃は、今だ4~5歳の幼児であった畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)を当主に据えて、周りの重臣たちが実権を握っている状態でした。

Kensintoyamasinkoukankeizu 位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

その重臣の一人が、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)富山城(とやまじょう=富山県富山市丸の内)を擁する神保氏張(じんぼううじはる)
・・・

一説には畠山氏から養子に入ったとも言われるほど、畠山とはつながりのある人物でした。

もともと、この頃の富山城は、上杉配下にある魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を脅かす城でしたが、ここに来て信長からの要請を受けた氏張は、息子とともに織田につく事を表明・・・下瀬砦(しもぜとりで=富山市婦中町)を構築して謙信の進路を阻みます。

しかし、さすがは軍神=上杉謙信・・・なんなく神通川(じんつうがわ)を渡り、わずか3日の間に氏張配下の支城や砦を次々と落とし森寺城(もりでらじょう=富山県氷見市森寺・湯山城とも)へと向けて庄川(しょうがわ)左岸の守山城間近へと迫ります。

ただ・・・この時は、大雨による増水で、庄川が渡れず、やむなく守山城攻略を断念して兵を退きました。

やがて半年後の9月
2万の軍勢を引き連れて、再び富山へと侵攻した謙信・・・この時、富山城にいた神保父子は、その猛攻に耐えきれず、富山城を捨てて守山城へと移動し、ここで籠城します。

しかし、ここにいる城兵はわずか2000・・・氏張は城の防備を固めるべく、空堀に湖水を引き込もうとしますが、空いた富山城に配下の諸将を入城させて、そこを拠点に守山城への猛攻を開始した上杉軍のスピードの速さに、防御の準備が間に合わず、やむなく氏張は、堀の底に米を敷いて水に見せかけてゴマかします(米を敷く方が時間がかかる気がしないでもない(゚ー゚;)

ところが・・・
この時、城の上空を舞う鳥たちが、いち早く、この米の水に反応・・・何羽もの鳥が堀に向かって舞い降りた事から不審に思った上杉の兵が、地元住民を使って調べさせて真相を解明してしまったために、その後は怒涛のごとく、上杉軍が米の堀を渡って城内に侵入し、縄張りの各箇所に火を放って難攻不落とされた守山城を落したのだとか・・・

以後しばらくの間、氏張は謙信の傘下に組み込まれます。

守るも攻めるも「ホンマかいな(^-^;」的な攻防戦ではありますが、とにかく、ここで守山城を陥落させた謙信は、その後も猿倉城(さるくらじょう=富山県富山市・栂尾城とも)増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)を落としつつ加賀へと侵攻・・・これまた敵の敵は味方とばかりに、長年敵対関係にあった石山本願寺と正式に和睦(5月18日参照>>)した後、翌・天正五年(1577年)の9月には七尾城を落とし、有名な九月十三夜の美酒に酔う(9月13日参照>>)事になります。

一方の信長は、一向一揆の本拠地=石山本願寺との全面戦争へと突入・・・
【天王寺合戦】>>
【第一次木津川口海戦】>>

今後の謙信との対決は、信長から北陸方面を任された柴田勝家(しばたかついえ)が担当する事になるのです。
【手取川の戦い】参照>>
 .

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2017年3月 9日 (木)

アンケート企画「歴史人物・胸キュン!ワード選手権」~女性編・結果発表

お待たせしました!

本日は、最新アンケート=「歴史人物・胸キュン!ワード~こんなん言われたいゾ選手権(女性編)結果報告で~す

投票にご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

今回は、ちとマニアック過ぎましたかね?
あまりお馴染ではない方々の登場で、なかなか胸キュンとはいかなかったみたいです\(_"_ ) 反省

まぁ、それはそれとして…とにもかくにも結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
7票
式子内親王
読んでなかった私は、個人的には、この方の1位は意外でしたが、どうやらコミックでの印象が良く…選択肢の女性の中で、最もつつましやかな彼女が、堂々の1位を獲得
2位
6票
静御前
居並ぶ女性たちの中では断トツの知名度…やはり親しみがあるのでしょうね~堂々の2位!です。
3位
5票
額田王
万葉の歌姫としては安定の3位というところでしょうか
4位
3票
成尋の母
おそらく、今回の選択肢の中では1・2を争う無名の方ではありましたが、現代にも通じる子を思う母の気持ちにウルル(;ω;)
5位
2票
小野小町
建春門院新大納言局
四天王寺の尼僧
小町はちょいと下ネタでしたか(*ノv`)と反省しておりますデス。
8位
1票
鏡王女
大伯皇女
狭野茅上娘子
橘嘉智子
和泉式部

清少納言
残念ながら、1票ずつしか入りませんでした~(;ω;)
14位
0票
沙本毘売
仏御前

小宰相
(つд⊂)エーン…0票でした~ま、私のチョイスも悪かったのかも知れません。。。反省
その他 2票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

;;;:+*+:;;;:+*+:;;

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

静御前 年代が遠いのが多すぎてピンっと来なかったので比較的近いのを選びました。(男性/神奈川)
「やっぱり馴染が薄かったですかね\(_ _)ハンセイ
大伯皇女 大泊皇女が残した歌によって、この姉弟のことは永遠に語り継がれると思います。泣けます!!(女性/東京)
「奈良へ帰る弟を見送る歌もグッときますね~」
静御前 静御前大好きです?(40歳代/男性/神奈川)
「時代劇ではいつも美しい女優さんが演じられますね~やはり断トツのステキさです」
静御前 楽しく拝読させて頂いてます。今年も頑張ってください!(40歳代/男性/大分)
「ありがとうございますm(_ _)mそのお言葉が励みになります
成尋の母 狭野芽上娘子さんとどちらにしようか悩みました。ほんの…かすかに…母さまで。(女性/愛知)
「やはり、涙を誘いますね~
鏡王女 シンプルだけどこういうの好きです(40歳代/男性/東京)
「秘めたる思いが最も情熱的かも知れませんね
成尋の母 太陽に限りませんが、、、自分の大切な人が、同じときに同じものを見ている!と感じることは、個人的には幸せです(*´ー`*)(30歳代/女性/福岡)
「まだSNSが始まって間もない頃、『今夜はスーパームーンがきれい』とつぶやいたら、今は遠く離れた竹馬の友人の『私も見てる』との即座の返信にドキッとした事があります
その他 いとせめて恋しき時はぬばたまの夜の衣を返してぞきる(小野小町)(60歳代/男性/山口)
「おまじないはいつの世も、恋する女の子のブームですね」
その他 天智天皇の無名の婦人が歌った「うつせみし 神に堪へねば…(万葉集2巻150)」。挽歌ですが、ここまでストレートに言われたらビックリドキドキしそうな気がします。
「愛しき人が目の前からいなくなると、夢でいいから会いたいと思うものですね~切ない」
建春門院
新大納言局
維盛が好きなので…(10歳代/女性/東京)
維盛の都落ちは、平家物語の中でも、とびきりの名場面ですよね~」
額田王 私の中では、やっぱこれです!アンケートの3番目にのせて下さり有難うございます。(40歳代/女性/神奈川)
「情景が生き生きと伝わってきますよね~1300年前の女性の歌とは思えないくらいです
額田王 この歌私も好きです!あとセンテンススプリングがつぼだったので(笑)。(40歳代/女性/愛知)
「昨年はいろんな方々が野守にスッパ抜かれちゃいましたね
式子内親王 コミックで歌を知り、とても好きになりました(20歳代/女性/東京)
「コミックが人気のようですね~ヽ(´▽`)/」
静御前 その他で「しづやしづ~」を入力しようと思ったら、静御前ありましたね。(40歳代/男性/東京)
「私も『しづやしづ』と迷ったんですが、コチラの歌をチョイスしました~」
和泉式部 正集より。心地悪しき頃、「いかが」との給はせければ「絶えし頃 絶えねと思ひし 玉の緒の 君によりまた 惜しまるるかな」いとどしく物ぞ悲しき~の歌と迷いましたがこっちにしました(30歳代/女性/大阪)
「和泉式部は、そっちが良かったですかね?(*^-^)式子内親王も本歌取したかも…の歌ですしね」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧くださいm(_ _)m)
「建春門院新大納言局」
(つらまえさん)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

アンケートが「おもしろかった」と思っていただけましたら
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2017年3月 2日 (木)

大河ドラマ「おんな城主 直虎」~信長役に海老蔵さん

 

NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」に、歌舞伎俳優の市川海老蔵さんが織田信長役で出演!

Odanobunaga400a 本日=3月2日のお昼前・・・こんなニュースが飛び込んできました~

不詳わたくし・・・この1日・2日、大河ドラマに関して少々言いたい事があり、感想を書こうか書くまいか、少し悩んでいたんですが・・・あぁ、待ってて良かった~~ヽ(´▽`)/

そう、実は、その言いたいことは、この織田信長がドラマに出るのか?出ないのか?に関しての事・・・

なんせ、もう次回は桶狭間なんですから・・・

本来なら、今川家の方々や徳川家康などを演じる俳優さんたちと同時期に、主役を張れるほどの有名演者さんの名が発表されてもおかしくないほどの重要人物のはずなのに、ここまで発表が無いという事は・・・

もしかして・・・
平成十九年(2007年)の「風林火山」のように、シルエットだけのナレーションスルーになるのか?
もし、そうなら、ちょいと言いたい事を言っちゃうヨ(`ε´)
と、思ってたんですが、

ただ・・・
前回のドラマの中で、桶狭間へ向かう今回の行軍について、井伊家を含む今川方の面々が、あまりにも「当然の勝ちイクサ」とか「負ける気がしない」とかを連呼しはるもんですから、ひょっとして(今川から見ると)織田なんか眼中に無い」=「信長小物感」を出したいがために、あえて、ここまで無視してるのではなかろうか?

と、引っかかったものですから、
もう1週間待ってみよう
桶狭間が過ぎても出てこなかったら言おう

と、思って待ってたら、この「海老蔵さんが織田信長役で…」の発表ですよ~

もちろん、本格的に、重要な役どころとしての出演かどうか?は、作家さん&スタッフさん次第でしょうが、たとえ、セリフのほとんど無い特別出演的なもので、結局は、ほぼナレーションスルーと変わらなかったとしても、主役を張れる俳優さんが演じられる事で、その存在感が違いますからね。

そう・・・
実は、前回が、主役の次郎法師(直虎)の幼馴染の井伊直親(おおなおちか)しの夫婦に「子供ができるの」「できないの」昼ドラさながらの嫁×姑×小姑バトルもどきのドロドロ展開に、丸々一回ぶんを使ってしまった事で、巷では、
「これが大河か?」
「そんなんは朝ドラでやってくれ」

という声も多数聞きました。

かくいう私も、以前の感想(1月12日参照>>)で、韓流時代劇っぽい雰囲気と三角関係のラブストーリー感が気になる」と書いております通り、今回の大河は、女性が主役であるためか?少々、話題がこじんまりしてる感は拭えないないなぁ~と思っている派なのですが、

ただし・・・
この「子供ができるorできない」は、よくよく考えれば、今回の直虎に関しては、かなり重要な事ではあります。

なんせ、この時の井伊家に男子がボコボコ生まれて、後継ぎ選び放題な状況なら、直虎が女だてらに当主になる事は無かったわけですから・・・「おんな城主 直虎」と称する限りは、なかなか子宝に恵まれずに後継ぎ選びに苦労した事を重要事項に持ってくるのもアリかも知れません。

ただ、それより私が気になったのは、前回が、その「子作り」の話題に終始してしまい、今回の桶狭間に至る出兵に関しての事がほとんど語られ無かった事でした。

先にも書いた通り、「当然の勝ちイクサ」や「負ける気がしない」というセリフとともに、「出陣する」という事ばかりで、なぜ出陣するのか?が、主人公の次郎法師が、瀬名姫(後の築山殿)からの手紙から得た知識を、大叔父の南渓(なんけい)和尚に披露する程度でしか語られていませんでした。

もちろん、歴史としては、今回の桶狭間に至る出兵についても、様々な説があって・・・
少し前までは、この時点で、最も天下に近い男であった今川義元(いまがわよしもと)による上洛目的の行軍であったという説が主流でしたが、現在では別の見方も出ています。

私も、以前、このブログで書かせていただいているように、上洛ではなく、「寸前に(今川方へ寝返った武将がいたため)これまでの織田と今川との境界線に変化があったので、あらためて現時点での境界線をハッキリさせる」みたいな感じだったと思っています(2009年5月1日参照>>)

ただ、ドラマは史実がどうこうではなく、作者の方が思うように持って行ってくださって結構ですので、どの説をとるかは自由・・・いや、なんなら独自の考えで以って出兵の理由を語ってくださっても良いのですが、前回のように、「子作り騒動」の合間の伝言めいたよくわからないままの出兵に終始してしまっては非常に残念だな~と思っていたわけで・・・

なんせ、ほとんど史料の無い方が主人公の今年の大河では、数少ない歴史的大事件なわけですからね。

もし、次回の桶狭間の回を以ってしても、信長の登場がなければ、上記のようなウヤムヤな感じになってしまうような予感がしていたのですが・・・

冒頭に書いた通り・・・出はるんですね、信長さん、
それも、海老蔵さんが演じはるのですね~良かったです

やはり、「信長なんか眼中に無い」感を出すための演出だったのですね(◎´∀`)ノ

これで、おそらく、なぜに出兵し、なぜに合戦となり、なぜに死ななければならなかったのかが、ドラマの中で徐々に語られていく事になるのでしょう。

プラス・・・
信長が出る事で、阿部サダヲさん演じる家康と、菜々緒さん演じる瀬名姫の、オモロイ夫婦の掛け合いも、思う存分描かれる方向になるのだとしたら、個人的にウレシイです。

ホント、あのお二人のキャラ設定はおもしろいです。
(逆に、後でロスになるのがコワイ)
これからも、楽しみですね。

関連ページもどうぞ↓
【戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎】>>
【今川義元・出陣の理由は?】>>
【一か八かの桶狭間の戦い】>>
【二つの桶狭間古戦場】>>
【桶狭間で名を挙げた毛利良勝と服部一忠】>>
【桶狭間の戦い~その時、家康は…】>>
【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい】>>
【戦国・群雄割拠の時代の年表】>>
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2017年2月26日 (日)

将軍義輝が朽木へ~三好VS六角の志賀の戦い

 

天文二十年(1551年)2月26日、7日から始まっていた三好VS六角による志賀の戦いが、ほぼ終結しました。

・・・・・・・・・・・

戦国の幕を開けた男とも言われる室町幕府管領(かんれい)細川政元(まさもと)の死後、後継者の座を巡って3人の養子たちが争ったお話は、これまでも何度か書かせていただいておりますが、
【細川政元の暗殺】>>
【船岡山の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>

と、その桂川原の戦いに敗れたために、大永七年(1527年)、近江(おうみ=滋賀県)へと退いたのが、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)と、彼を擁する細川高国(たかくに)

一方、戦いに勝利した事で、(さかい=大阪府堺市)に拠点を置く堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立したのが細川晴元(はるもと=澄元の息子)と、彼らとともに阿波(あわ=徳島県)からやって来た三好元長(みよしもとなが)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟ら。

そして、もともと高国と対立していた事によって晴元らに味方し、山崎城(やまざきじょう=天王山城・宝寺城とも)から京の都を支配する柳本賢治(やなぎもとかたはる)

こうして、滋賀の坂本、京都の山崎、大阪の堺、と、機内に3つの政権保持者が乱立するわけですが、もともと、それぞれが別々の思惑で動き、別々の利害関係を持っているわけで・・・

結局、享禄三年(1530年)に柳本賢治が暗殺され、それキッカケで京へと攻め上った細川高国が、翌享禄四年(1531年)に自害に追い込まれると、事実上の一人勝ちとなった晴元は、どうやら、一連の抗争が細川家当主&幕府管領というトップのイスに座りたかったためのものだったようで・・・堺公方の件をウヤムヤにして将軍=義晴と和睦してしまいます。

そして・・・その件で晴元と対立した三好元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げ、義維も阿波へと逃れました。

Miyosinagayosi500a そこに登場するのが、三好元長の息子で、後に「戦国初の天下人」と言われる事になる三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と、その兄弟たちです。

とは言え、以前、その長慶さんのページ(5月9日参照>>)でもお話させていただいたように、父の元長が亡くなった時は、未だ長慶11歳の頃・・・しかも、上記の通り、この時、中央で政権を握っていたのは晴元なわけで、しばらくの間、長慶は大人しく晴元の配下につき、そこで腕を磨き、手柄をたてる事によって、むしろ細川晴元政権の中でも、1-2を争う重臣となっていくわけです。

そんな中、かの桂川原の戦い以来、晴元ベッタリの細川政長との仲が徐々にややこしくなっていく長慶・・・その原因としては、

以前は、父の元長が管理していた河内(かわち大阪府北部)の荘園を、その死後に政長が管理していたのですが、それを、「そろそろ俺らに反してぇな」と長慶が頼んでも、政長は知らん顔とか・・・とにかく、ことごとく長慶に敵対する政長の討伐を、長慶は何度も晴元に願い出ますが、許す気配が無いどころか、何かと晴元は政長に同調し味方ばかりするのです。

しかも、このようなタイミングで、亡き高国の後継者(養子)細川氏綱(うじつな)が旧臣らをかき集めて、「打倒!晴元」掲げて挙兵・・・かくして長慶は、この氏綱と連携して、晴元政権からの離脱を決意するのです。

これを幕府への謀反と判断する晴元・・・この両者の対立は、機内の諸将たちをも二分させ、「どちらにつくか?」のそれぞれの立場によって、様々な小競り合いを生んでいく事になるのですが、そのあたりも、いずれは、それぞれの日付にてくわしく書かせていただく事として・・・

そんなこんなの天文十八年(1549年)6月、両者が直接対決した江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦いで長慶が見事勝利(先の5月9日の真ん中あたり参照>>)した事から、負けた晴元勢は、長慶の追撃を恐れて、将軍=義晴を伴って近江の坂本へと避難し、京都の行政は事実上長慶が牛耳る事となります。

ところが、その翌年の天文十九年(1550年)5月、将軍=義晴が、その避難場所の坂本にて病死・・・それを受けて、義晴の嫡子である義藤(よしふじ)足利義輝(よしてる)第13代室町幕府将軍に就任します。

当然のことながら、未だ15歳の若き将軍の夢は、今や長慶と氏綱の手にある京都を奪回する事・・・この将軍の夢にまず答えたのは、先の江口の戦いの時にも晴元&政長に加勢し、その後も晴元ベッタリな観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)六角定頼(ろっかくさだより)の息子=六角義賢(よしかた=承禎)でした。

新将軍誕生から、わずか2ヶ月後の7月、義賢は京都に向けて兵を出し、三好勢と東山方面で交戦・・・しかし、この時は勝敗が決しなかった事から、翌天文二十年(1551年)2月7日、今度は長慶自らが軍を率いて戦いの準備を整えると同時に、配下の松永長頼(まつながながより=内藤宗勝・松永久秀の弟)に、近江への侵攻を命じたのです。

これを受けた義賢・・・鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市鯰江町)鯰江貞景(なまずえさだかげ)鎌刃城 (かまはじょう=滋賀県米原市) 堀元積(ほりもとつむ)勢多城(せたじょう=滋賀県大津市・瀬田城)山岡景隆(やまおかかげたか)などの配下の諸将300余を以って迎え撃つ事になります。

Siganotatakaiitikankeizu900b
↑志賀の戦い位置関係図…画像をクリックすると、大きいサイズで開きます (このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は地理院地図>>をお借りしました)

こうして始まった三好VS六角の志賀の戦い・・・両者の激戦が、何日も繰り返されたため、2月20日には、将軍=義輝が高島郡の朽木谷(くつきだに・滋賀県高島市)へと避難する事態になりますが、天文二十年(1551年)2月26日六角勢に押し負けた松永勢が京都へと撤退を開始・・・追う六角勢

翌27日の朝には、追撃して来た六角勢が鹿ヶ谷(ししがだに=京都市左京区)あたりで追い付き、再び激しい戦闘となる中、松永勢の名のある武将が何名か命を落としたところで、六角勢は坂本へと引き返します

しかし、さらに翌2月28日には、京都に侵入して来た六角勢によって、東山一体が焼き払われますが、一方で、反六角氏を表明している北近江京極(きょうごく)浅井(あざい)によって、犬上郡多(たが)が放火されるなどの小競り合いも、三好軍と連携する形で勃発しています。

結果的に、今回の志賀の戦いについては、おおむね六角氏の勝利となりましたが、もちろん、両者の交戦が、これで終わるわけはなく、まもなく、京都の市街戦に突入する事になるのですが、そのお話は、またいずれかの日付にてご紹介させていただきたいと思います。
・・・将軍義輝の今後の動きにも要注意ですしネ(ノ∀`)・゚・。
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2017年2月19日 (日)

源平・屋島の戦い~弓流し

 

文治元年(寿永四年・1185年)2月19日は、源平合戦の屈指の名場面=扇の的で有名な『屋島の戦い』のあった日です。

・・・・・・・・・・

ご存じ、平安末期の源平の戦い・・・

治承四年(1180年)、驕る平家に一矢を報うべく立ち上がった以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)が散った(5月26日参照>>)後、その令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書)(4月9日参照>>)を受け取った伊豆(いず)源頼朝(みなもとのよりとも=源義朝の3男嫡子)(8月17日参照>>)や、北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲=頼朝の従兄弟)(9月7日参照>>)らが相次いで挙兵する中、都を福原遷都(せんと)(11月16日参照>>)したり、南都(なんと=奈良)焼き討ち(12月28日参照>>)を決行したりと、未だ堅固であった平家一門でしたが、翌・養和元年(1181年)2月に、大黒柱であった平清盛(たいらのきよもり)熱病に侵されて死亡する(2月4日参照>>)と一気に陰りが見え始め、寿永二年(1183年)5月の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い(5月11日参照>>)etcに勝利して勢いづいた木曽義仲が京へと迫った事から、平家一門は都を後にし西国へと逃れます(7月25日参照>>)

しかし、ここで、義仲と頼朝が源氏トップの座を争った事で(1月16日参照>>)、平家の相手は、そのトップ争奪戦に勝利(1月21日参照>>)した頼朝の弟=源義経(みなもとのよしつね=義朝の9男)に移行・・・寿永三年(1184年)2月には、鵯越(ひよどりごえ)の逆落し>>青葉の笛>>で有名な一の谷の戦い(2013年2月7日参照>>)に敗れ、さらに西へと移動する平家一門・・・

とまぁ、久々の源平合戦のお話なので、ここまでの経緯をサラッとおさらいしてみましたが、さらにくわしくは、【源平争乱の年表】>>で、個々にご覧いただくとして・・・

その一の谷から約1年・・・この間、四国の屋島(やしま=香川県高松市)に落ち着いた平家は、関門海峡の交通を抑えて瀬戸内海の制海権を握りつつ、播磨(はりま=兵庫県)安芸(あき=広島県)などで度々勃発した源氏との交戦では、水軍の機動力を生かした海からの攻撃で、海岸線に展開する源氏軍をかく乱し、むしろ押せ押せムード・・・

対抗策を練る頼朝は、先に平家の退路を断つべく、弟の源範頼(みなもとののりより=義朝の6男)を九州へ派遣しますが、思うような成果が挙げられないばかりか兵糧にも事欠き、やむなく頼朝は、一旦平家追討から離れて京の都で治安維持に当たっていた義経を、再び呼び戻して出陣させたのです。

文治元年(寿永四年・1185年)2月17日未明、荒れ狂う海の中、ムリクリで渡海した義経が(2月16日参照>>)、東岸の勝浦に上陸した後、屋島の対岸に当たる牟礼(むれ)高松の民家に火を放ちつつ屋島を目指した事を受けて、平家の指揮をとる平宗盛(清盛の三男)は、早速、安徳天皇の御座所を船に遷し、建礼門院(清盛の娘で安徳天皇の母)二位の尼(清盛の奥さん=時子)をはじめ、宗盛親子自身も乗り込み、早々に漕ぎ出して沖に停泊・・・そこに到着する源氏軍との間で行われたのが、文治元年(寿永四年・1185年)2月19日屋島の戦い・・・

という事になるのですが、
この時の戦いで命を落とす事になる義経の側近=佐藤嗣信(さとうつぐのぶ)のお話については2008年2月19日のページ>>で、
戦い終わって日が暮れて行われた、有名な扇の的(まと)については2007年2月19日のページ>>で・・・

Yasimanotatakai1000a
源平合戦図屏風・屋島合戦(埼玉県立歴史と民俗の博物館蔵)

そう、実は、この屋島の戦い・・・最初の戦いの後、夕暮れとなって扇の的なるイベントがあって終わるはずだったのが、上記のページで書いた通り、そのイベントに感動した平家のオッチャンまで射殺してしまった事から、再び戦闘が始まってしまうんです。

てな事で、今回は、その扇の的の続きとなるお話で、やはり有名な『弓流し』のお話を『平家物語』に沿ってご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

源氏の代表として出て来た那須与一(なすのよいち=宗高)が、見事1溌で扇を射止めた事を受けて、その光景のすばらしさに感動した50歳くらいの平家の者が、そのそばで踊り出したのを見て、義経は「アレも射よ」と命令・・・

義経の命により、男も射られると、源氏側からはどよめきの声が挙がったものの、平家側はシ~ンと静まり返ります。

一瞬の静寂の後、
「何するんじゃ!ボケ!」
とばかりに、楯を持って一人、弓を持って一人、長刀(なぎなた)を持って一人・・・と3人の平家の武士が船を下りて海岸に向かって駆け出し
「オラ!かかって来いや!」
と、陸にいる源氏の兵を招きます。

「クソッ!誰か、乗馬のうまいヤツ、アイツら蹴散らして来いや!」
と義経が言うと、美尾屋十郎(みおのやじゅうろう)らが数騎連れだって突撃を開始します。

しかし、そこに向けて平家側が次々と矢を射かけたので、馬が屏風を倒すように崩れていったため、十郎ら乗り手は、すかさず馬から下りて太刀を構えますが、平家の武士もすかさず大太刀にて襲いかかりました。

この平家の大太刀に対して、自らの小太刀では対抗できないと考えた十郎が、屈み伏せながら逃げようとするところを、この平家の武士は追いかけますが、彼は、長刀で襲うのではなく、素手で十郎の甲(かぶと)(しころ=首を保護するために甲の後ろ側に垂れている部分)を掴もうとします。

掴まれまいと逃げる十郎・・・追う平家の武将・・・

3度掴みかけて失敗するも、4度目に見事、ムンズと掴んで、そのまま引っ張る・・・すると、しばらくの停止の後、なんと、甲の錣部分が引きちぎれ、十郎は、そのまま、そばにいた馬の影に隠れて息をひそめます。

すると、その平家の武将は、それ以上深追いはせず、片手で長刀を杖のように立て、片手で引きちぎった錣を天高くかざしながら
「近頃は音にも聞きつらん!今は目にも見たまえ!
我こそは、都の童
(わらべ)も悪の七兵衛と呼ぶ、上総(かずさ)の景清よ!」
と名乗りを挙げたのです。

そう、この時、先頭を切って源氏軍に挑んだこの武士が、平家の生き残りとして、この後、37回もの頼朝暗殺計画を決行する平景清(たいらのかげきよ=藤原景清)(3月7日参照>>)なのです。

この堂々たる名乗りに士気挙がる平家・・・
「悪七兵衛を討たせるな!行け~~!」
とばかりに、200名余りが一気に海岸に向かって突撃し、陸地の源氏軍に迫り、
「オラオラ!来いや!」
と招きます。

「ちょ、待てよ!ヤバイやん」
とばかりに義経が、すかさず80騎ほどの馬で以って態勢を整えると、もともと船から下りて海岸へ向かって突撃している形の平家は馬ではなく生身の人間・・・このままぶつかっても、はじきとばされるだけですから、仕方なく、平家の兵士たちはそそくさと船へ戻るのですが、そこを好機と見た源氏の兵士たちは、馬のお腹が浸かるほどの沖まで入り込んで、敵の船べり間近まで攻め入ります。

と、この勢いのまま、義経自身も、あまりに平家の船に近づいてしまったため、平家の船から差し出された熊手で、甲を2度3度ドツかれ、それを太刀で以って払いのけているうちに、いつの間にか、かけていた弓を海へ落としてしまいます。

慌ててうつ伏せになって、持っていた鞭(むち)で引き寄せて取ろうとしますが、かき寄せてもかき寄せても弓は遠くに行くばかり・・・

「そんなん、捨てときなはれ!」
と周りの兵が言うのも聞かず、必死のパッチで弓をたぐり寄せる義経・・・

やっとの事で、弓をとらえて、ホッと一息・・・ニッコリ笑う義経に
「何をしてはりますねん。
なんぼ高い弓やとしても、命より大切っちゅー事はおまへんやろ。
無茶しなはんなや」

と、怪訝な様子の兵士に対して、義経は、
「いやいや…確かに弓が惜しいだけやったら、そう思うやろけど、ちゃうねん。
この弓が、為朝
(ためとも=【源為朝・琉球王伝説】参照>>のオッチャンのんみたいな大きくてかっこええ弓やったら、わざと落としてでも敵に見せつけたるんやけど、コレ、ちょっと貧弱やんか~
せやから、これ見て『これが源氏の大将の九郎義経の弓やてwww』ってバカにされんのちゃうかと思て、命に代えても敵に渡すか!って思て取り返してん」

と・・・

これを聞いて、人々は納得・・・
さすが大将!カッコイイ~o(*^▽^*)o
となったのだとか・・・(コレ、かっこええんかな?←個人の感想です)

そうこうしているうちの日もドップリ暮れ、源氏軍は牟礼と高松の間にある野山で陣を取り、兵を休息させます。

なんせ、あの嵐の中を船出してから、ほぼ休憩無しの進軍で、もはやヘトヘト・・・皆、泥のように眠りました。

ただ、義経と伊勢義盛(いせのよしもり)だけは、
「もしかして敵の襲撃があるかも…」
と警戒して、眠らずに見張りを続けていました。

一方の平家は海に船を停泊させての休息・・・

そんな中、勇将で知られる平教経(のりつね=清盛の甥)が500騎を率いて夜討ちをかけるべく準備をしていたものの、味方同士で先陣を争ってる間に絶好の機会を逃してしまい、そのまま夜が明けてしまいました。

疲れ果てていた源氏を襲うチャンスを逃してしまった平家は、2日後の21日、屋島を奪還すべく志度寺(しどじ=香川県さぬき市)に籠りますが、義経の追撃に逢ったばかりか、田口教能(たぐちののりよし)河野道信(こうのみちのぶ)らが源氏に加わった事で、結局、屋島奪還を諦め、さらに西へと向かい、やがては壇ノ浦へ・・・という事になるのです。

壇ノ浦の戦いについては・・・
【潮の流れと戦況の流れ】>>
【壇ノ浦・先帝の身投げ】>>
【平家の勇将・平教経の最期】>>
【安徳天皇・生存説】>>
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2017年2月13日 (月)

畿内に三政権~天下分け目の桂川原の戦い

 

大永七年(1527年)2月13日、丹波の柳本賢治らが三好勝長らと連合し、桂川原で細川高国を破る桂川原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

応仁の乱(5月20日参照>>)の東軍の大将として有名な細川勝元(ほそかわかつもと)の息子=細川政元(まさもと)は、室町幕府管領(かんれい)という立場にありながら、現将軍を廃して自らの思い通りになる将軍を擁立するという「明応の政変」なるクーデターをやってのけ、戦国の幕を開けた男とも称されますが、実子がいなかった事から、その死後に、3人の養子の間で後継者争いが勃発します(6月20日参照>>)

関白九条政基(まさもと)の子供=細川澄之(すみゆき)
阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の細川高国(たかくに)

まずは永正八年(1511年)、タッグを組んだ澄元&高国に澄之が追い落とされます(8月24日参照>>)が、その後、周防(すおう=山口県)の戦国大名=大内義興(よしおき)を味方につけた高国が、澄元に味方する三好之長(みよしゆきなが)を追い落とし、阿波へ逃れた澄元は病死・・・勝利した高国は、永正十八年(1521年)に第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して畿内に自らの政権を樹立したのです。

こうして末永く続くかに見えた高国政権でしたが、そのわずか5年後、重臣の香西元盛(こうざいもともり)に謀反の疑いをかけて上意討ちしてしまった事から、元盛の兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)反旗をひるがえしたのです。

これが大永六年(1526年)10月の神尾山城の戦い(10月23日参照>>)・・・

この時、八上城と神尾山城にて籠城する両者を一気に潰そうと考えて、配下の者総動員で兵を挙げた高国でしたが、波多野&柳本の激しい抵抗に逢い、手痛い敗北を喰らってしまいます。

これを見逃さなかったのが・・・いや、むしろ反旗をひるがえした彼らと連絡をとってチャンスをうかがっていたのが、阿波に追われて病死した澄元の息子=細川晴元(はるもと)と、ともに機会を待っていた之長の息子=三好元長(みよし もとなが=長慶の父)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=之長の甥)兄弟らでした。

神尾山城の戦いに敗れ、京都へ逃げ帰った高国勢を追うがの如く、京都方面へとやって来た波多野&柳本勢は、明けて大永七年(1527年)2月11日、京都山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に着陣して、ここで、阿波から到着した晴元勢と合流・・・

その間に、高国傘下の薬師寺国長(やくしじくになが=九郎左衛門尉)らが守る山崎城(やまざきじょう=天王山城・宝寺城とも)を落として占領し、ここを最前線として、高国配下の
芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)
太田城(おおだじょう=大阪府茨木市)
茨木城(いばらきじょう=同茨木市)
安威城(あいじょう=同茨木市)
福井城(ふくいじょう=同茨木市)
三宅城(みやけじょう・みあけじょう=同茨木市)諸城を攻略して行きました。

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山崎城(天王山城)本丸跡付近

一方の高国は、室町幕府の縁をフル活用して、
若狭(わかさ=福井県南部)の守護=武田元光(たけだもとみつ)
をはじめ、
近江(おうみ=滋賀県)守護の六角定頼(ろっかくさだより)
播磨(はりま=兵庫県南西部)備前(びぜん=岡山県東南部)美作(みまさか=岡山県東北部)の守護=赤松晴政(あかまつはるまさ)
尾張(おわり=愛知県西部)の守護=斯波義統(しばよしむね)
など、幕府の有力者に援軍を要請しますが、すぐに行動を起こしてくれたのは若狭の武田くらいだったとか・・・

やがて、2月12日には、阿波から(さかい=大阪府堺市)に上陸した三好勢も晴元&波多野&柳本勢に合流して、桂川の西岸に到着・・・同日、一方の高国勢も桂川に布陣し、その夜には、川を挟んで対峙した両者が矢を射かけ合って、互いをけん制しました。

かくして大永七年(1527年)2月13日戦国序盤の天下分け目・・・世に桂川原(かつらかわら)の戦いと称される大合戦が開始されたのです。

Katuragawaranotatakai この時、桂川の東岸の鳥羽(とば=京都市南区)から鷺の森辺付近まで不気味なほど一直線に主力部隊を布陣させた高国は、本陣となる将軍=義晴の陣を後方の六条に置き、その手前に高国自身の本陣を、武田の軍勢を西七条へと布陣させ、桂川の西岸からやって来る波多野&柳本勢を迎え撃つ作戦でした。

ところが、イザ!開戦となって川を渡って来た波多野&柳本勢は、主力部隊との交戦もそこそこに、一翼を率いる三好勢が、いきなり後詰めの武田勢へと攻めかかったのです。

不意をつかれて乱れる大軍・・・もちろん、集中砲火となっている武田勢はまたたく間に敗戦となり、いきなり80余名が戦死します。

武田の窮地を聞いた高国は、自ら兵を率いて救援に向かいますが、もはや敵方の勢いは止まらず・・・防戦一方の中、精鋭部隊を10余名失ったあげく、雑兵も2~300人が討ち取られてしまったため、やむなく兵を退きあげました。

こうして、波多野&柳本勢側にも多くの戦死者を出す激戦となった桂川原の戦いでしたが、結果は波多野&柳本勢の勝利・・・

大敗した高国は2月14日、将軍=義晴を奉じて、北白川(きたしらかわ=京都市東山区)から間道を抜けて近江は坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと逃れて行ったのです。

その後の京都は、柳本賢治が山崎城にて支配する事となりますが、一方では晴元&三好一派が、義晴の弟=足利義維(よしつな)を擁して堺に居を構え、堺公方(さかいくぼう)として政権を樹立します。

この時の高国の都落ちには、配下の武将はもちろん、上記の通り、現将軍=義晴が同行したほか、一部の公家も下った事から、なんだかんだで政権は握ったままの格好・・・

一方、実質的に京の都を掌握しているのは山崎城の柳本賢治・・・

そして堺に堺公方・・・

と、畿内に三勢力がひしめき合うオカシナ雰囲気に・・・当然の事ながら、もともと一枚岩ではない彼らは、この後、様々な紆余曲折を迎える事になりますが、そのお話は、また、それぞれの出来事の日付けでお話させていただく事にします。
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2017年2月 5日 (日)

若き徳川家康の初陣~三河寺部城の戦い

 

永禄元年(1558年)2月5日、松平元康=後の徳川家康が、今川義元の命を受けて、三河寺部城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・

ご存じ徳川家康(とくがわいえやす)・・・
(ややこしいので、この文中ではずっと家康の名で呼ばせていただきます)

Tokugawaieyasu600 この家康が生まれた頃は、父=松平広忠(まつだいらひろただ)=率いる松平家も、敵対する尾張(愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで=信長の父)駿河(静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)の間で、未だ今川の援護なくしては生き残れないような状態でした(くわしくは3月6日参照>>)

そのため、広忠の嫡男として生まれた家康(幼名は竹千代)は、その同盟の証として、天文十六年(1547年)にわずか6歳で今川への人質として差し出される事になるのですが、なんと、その途中で織田方に奪われ、その身はしばらく織田の人質として暮らす事に・・・(8月2日参照>>)

もちろん、これは息子の命を餌に広忠にコチラ側について貰おうという織田信秀の作戦なわけですが、それでも心揺るがぬ広忠は、ガンとして今川傘下を離れることは無かった・・・

しかし、そんな広忠が、そのわずか2年後に家臣の裏切りによって殺害されてしまった事から、松平家内は揺れます。

なんせ、その後継ぎが織田に人質になってる状況で当主を失ったわけですから・・・その時、松平一族の中には、すでに織田傘下となっている者もチラホラ・・・
「そんなら、このまま俺らも織田に…」
との空気が流れる
中、それをヨシとしなかったのが今川義元のブレーン=今川家軍師の太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)でした。

「今後、今川家が領地拡大を計るおり、松平のい存在は重要」
と考えた雪斎は自ら兵を率いて信秀の息子・織田信広が守る安祥城へと攻め込むみ(11月6日参照>>)信広を生け捕りにして、家康との人質交換を交渉・・・天文十八年(1549年)11月、見事、人質交換が成立し、8歳になっていた家康は駿府(すんぷ=静岡市葵区)へと移ったのでした。

そう、松平家の本拠地である岡崎(愛知県岡崎市)ではなく、今川家の本拠地である駿府・・・まぁ、織田から今川に移っただけで、人質生活は変わらないので・・・

とは言え、ここでちょっと付け加えておきたいのは、この人質の意味について・・・

現代の私たちが思い描く人質という言葉のイメージは、いわゆる誘拐事件や監禁事件なんかの人質を想像し、ついつい、その置かれた状況は、自由を奪われ、常に命の危険に晒されている感じを思い浮かべてしまいますね。

実際、今年の大河ドラマの中でも、主人公の子役ちゃんが、今川の人質になるのをかなり嫌がってました。
(本来は、もし人質を差し出すと決まったあの状況では、子供が嫌がろうが何をしようが、その約束は揺らぐ事はほぼほぼ無いですが、ドラマはエンタメなので…)

しかし、戦国時代の、いわゆる同盟や、その傘下に入るための証として送られる人質は、そんなに過酷な生活を強いられるわけではありません

もちろん、例外もあるしケースバイケースで決められない面もありますが、そもそもは、上記の通り同盟の証ですから、どちらかが裏切らない限りは、ある程度良い待遇で扱ってさしあげるのが武士としての心得だし、裏切ってもいないのに相手側で邪険な扱いされてたら、お互いの信頼関係も成り立たないでしょうしね。

北風と太陽の童話じゃないですが、逆に、その人質くんに超一流の師匠を提供して、キッチリ育てて差し上げたなら、そこに恩も感じるだろうし、ともに生活するうちに情も湧いて来るでしょうし、そうなると成長したあかつきには、心底今川家に尽くす武将となるかも知れないわけですから・・・実際、今川時代の家康の教育係は雪斎自身だったという説も存在します。

現に、同盟の証=人質のような意味で政略結婚しながらも、最期には、夫や嫁ぎ先の家に殉じる戦国の姫もいたわけですし(もちろん、家康のお母さんのように、同盟崩れたら離縁なんて例もありますが…)、昨年の大河の主役=真田幸村(さなだゆきむら=信繁)だって豊臣秀吉(とよとみひでよし)の馬廻りとして、ちゃんと扱われてしましたしね。

ただ、領主たるもの常に独立は夢見るでしょうし、あくまで自分の領地で生活してるわけでは無いので行動も制限させるでしょうから、どんだけ待遇が良かったとしても、結局は肩身が狭い=精神的苦痛があるかも知れませんし、それこそ当事者同士の様々がケースが存在する事でしょうが・・・

ともあれ、そんなこんなで多感な少年時代を今川家で過ごした家康・・・

天文二十四年(1555年)、駿府にて、義元自らが烏帽子親(えぼしおや=元服の際の親代わりで本当の親子に近い関係)となって元服した家康は、義元の一字を賜って松平元信(もとのぶ=後に元康と改名)と名乗ります。

それと同時に、、今川家の重臣=関口親永(せきぐちちかなが=瀬名義広)の娘で、今川義元の姪にあたる瀬名姫(せなひめ=後の築山殿)(8月29日参照>>)を娶る事になるのですが・・・

今年の大河ドラマでも、そして先日このブログ(1月12日参照>>)でもお話したように、この瀬名姫のお母さんが、大河の主人公である井伊直虎(いいなおとら)大叔母(祖父の妹)にあたる女性で、もともと、今川家と井伊家の同盟の証として駿府に送られ、いち時は義元の側室だったのを後に重臣の関口親永が正室として迎えて、生まれたのが瀬名姫だとされます。

で、関口の正室として迎えるにあたって、名目上、義元の妹(義妹)という事にしての輿入れであるので、瀬名姫は義元の姪って事になるわけですが・・・

この流れが、
現代の私たち
(視聴者)には理解しがたい?
あるいは、
物語の流れ上、今川家を悪にしておかないといけない?
などなどがあってなのか?

先日の大河ドラマでは、10歳前後の姫に向かって、世話係の侍女が
佐名さま(瀬名姫の母の名)ボロ雑巾のように捨てられたのでございます」
的な暴言をのたまう展開wwになったのでしょうが、

上記の人質のところでもお話しましたように、同盟の証として送られて来た姫を、そんな扱いしたらお互いの同盟関係が破たんしてしまいます。

もちろん、後の家康さんのように、気に入った女性を連れて来て側室にする武将は、当時もいたと思いますが、同じ側室でも、好きで側に置いている女性と、同盟の証として送られて来た女性を、いっしょくたにしてはいけません。
:ドラマは「今川憎し」で話が進んで行きますので、創作物語としてはアリですが…)

そもそも、以前書かせていただいたように、恋愛結婚は身分の低い者がする「はしたない行為」とされていたこの時代・・・まして武家のお姫様なら、格上の家との交渉相手として自らが向かうなら本望でしょう(4月22日参照>>)

また、現代人には理解しがたいですが、「貴人の側にいた女性を配下の臣に譲る」というのは昔からある事で、これは殿様が家臣を信頼している証であり、家臣にとっては、むしろ名誉な事(【平清盛の御落胤説】参照>>)・・・まして、義理の妹という名目なのですから、関口親永は義元の義弟とになるわけで、さらに親密度は増すわけで・・・

なんせ、同じ戦国には、自ら、家臣の押しかけ女房となって龍造寺家を守った慶誾尼(けいぎんに)さん(3月1日参照>>)なるツワモノもいるわけで、それが、血で血を洗う戦国の世に「自らの血脈で家を守る」という姫たちの誇り高き使命でもあるのです。

で、そんな関口親永の娘である瀬名姫を家康が・・・て事は、家康も義元と姻戚関係になるわけですし、もちろん、義父の関口家とも、果ては井伊家ともつながるわけで・・・これ、今川家にとってはかなりの大盤振る舞いだと思います。

今川義元が、いかに松平家を&家康を大事に思っていたか!・・・まぁ、もちろん、これも、家康は心の中で、「大きなお世話」「こんなんしていらん」と思っていたかも知れませんけど、本来は、未だ弱小の松平家にとっては、このうえなき喜ばしい事だと思います(大河ドラマではたぶん、今川家の横暴みたいに描かれるんでしょうけどww)

と、まぁ、今川家の下ではありますが、こうして、元服もした、妻も娶った・・・となると、武士として迎えるのは初陣(ういじん)です。

もともと、三河の領地を巡って松平との交戦を続けていたものの、この頃は、その三河に進出してきていた今川の傘下となっていた寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の城主=鈴木日向守(すずきひゅうがのかみ=重辰)が、ここに来て織田へと通じたため、義元が家康に、この寺部城を命じたのが、この戦いの発端とされます。

この時、一旦、岡崎城へと戻った家康は、そこで合戦の準備を整え、自らの岡崎衆を率いて出陣・・・これまで、当主の家康がいないまま、今川軍の先鋒として、数々の合戦に駆り出されていた岡崎衆の皆々は、
「ようやく殿のもとで働ける!」
と、大いに喜んだといいます。

しかも、家康は
「寺部を落とした後に、周辺の諸城から後詰めを喰らえば、コチラのピンチとなる事は明白・・・まずは周辺を落としてしまおう」
と、家臣の進言も聞かずに、鈴木に同調する周辺の広瀬城(ひろせじょう)拳母城(こもろじょう=七州城)梅坪城(うめうぼじょう)伊保城(いぼじょう)など(いずれも愛知県豊田市周辺)への攻撃を早々に開始し、その後に寺部城へと向かいますが、これがなかなかの猛将ぶりだったようで、初めて主君の雄姿を見た松平家の老臣たちは皆、
清康(家康の祖父)の再来だ~~」
とばかりに、涙また涙の状態だったのだとか・・・

かくして永禄元年(1558年)2月5日、寺部城を囲んだ家康軍は、寺部城の外曲輪を押し破った後、本来の目的である寺部城を見事に落とし、17歳の若き主君=家康の初陣を飾ったのでした。

この大活躍を大いに喜んだ義元は、自身の太刀を家康に与えたほか、旧領のうち300貫文の地を返還したのです。

「痛みに耐えて、よく頑張った!感動した!」

この後、家康が事実上独立する事になる、あの桶狭間の戦い(5月12日参照>>)まで、わずか2年・・・

この先の歴史を知っている者の個人的な思いではありますが・・・
大喜びでの大盤振る舞いっぷりの義元さんが、人がイイと言うか・・・少々お気の毒な気が・・・
これでも、今年の大河ドラマでは悪く描かれるのかなぁ~(ρ_;)ちょっとウルウル・・・
 .

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2017年1月29日 (日)

アンケート企画「歴史人物・胸キュン!ワード選手権」~女性編

さて、本年初のアンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「歴史人物・胸キュン!ワード~こんなん言われたいゾ選手権(女性編)という事で、アンケート募集したいと思います。

「女性編」とした限りは、いずれ「男性編」もするつもりなのですが・・・(*´v゚*)ゞ

とは言え、今回は、「歴史上の女性が発信した言葉」という事で、その性質上、どうしても、短歌や軍記物のセリフに選択肢が偏ってしまい、かつ、本人の好みもあって、『百人一首』や『万葉集』、『平家物語』などからの出典が多くなってしまいました~スミマセン

ま、お気軽なアンケートという事で、そこンところは、広い心でお許しを…o(_ _)oペコッ

で、男性は素直な気持ちで、女性は男性になったつもりで「こんなん言われたらジビれるわ~」てな感じの胸キュン!ワードを、一つ選んでいただけるとありがたいです・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

ちなみに、今回、出典史料は『』で、出典史料からの引用部分は【】で、引用の歌は♪~♪で、その意訳は「」で表示しました。

ではでは、選択肢をどうぞ~

  1. 『古事記』より…垂仁天皇の后である沙本毘売が、天皇への謀反を企む兄から、【孰愛夫與兄歟】=「お前は夫と兄のどっちが好きか?」と聞かれた時の返答
    【愛兄】
    「サポリン…お兄ちゃんが好き!」
    「萌え~」が止まらん(*゚∀゚)…(参照ページ>>)
  2. 『万葉集』より…鏡王女が、恋人の天智天皇に詠んだ歌
    秋山の 樹(こ)の下隠り逝く水の
     われこそ益さめ 御思いよりは

    「落葉の下の隠れて流れていく水のように表に見えないけど、アナタが思ってる以上に私はアナタの事が好きなのよ」
    秘めたる思いはつのるばかり…(参照ページ>>)
  3. 『万葉集』より…額田王が、すでに天智天皇の恋人であったにも関わらず、野原の園遊会で会った元カレの天武天皇に詠んだ歌
    あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き
     野守
    (のもり)は見ずや 君が袖振る
    「夕陽に染まる野原を歩いていると、遠くであなたが手を振ってるのが見える…イャン!そんな大胆な事したら、誰かに見られてしまうやんか!」
    センテンススプリ~ング!むしろオフィシャルになるだけ…(参照ページ>>)
  4. 『万葉集』より…処刑された弟=大津皇子が二上山に葬られた事を受けて、伊勢から奈良に戻った姉の大伯皇女が詠んだ歌
    うすそみの 人なる吾や 明日よりは
     二上山
    ふたかみやま)を兄弟(いろせ)とわが見む
    「ぬけがらとなった私は、明日から、あの山をあなただと思って見ながら暮らすわ」
    実際には姉弟ではありますが、まるで恋人を想うがのごとく…(参照ページ>>)
  5. 『万葉集』より…宮廷官女の狭野茅上娘子が流罪になった恋人=中臣宅守に宛てて詠んだ歌
    わが背子が 帰り来まさむ 時のため
     命残さむ 忘れたまうな
     
    「あなたが帰って来る時のために、私は生きてるんよ…その事、忘れんといてな」
    有名な「…天の火もがも」にしようかと思いましたが、コッチの方がグサッと来るので~って重い!重いゾ…(参照ページ>>)
  6. 『後撰和歌集』より…皇后である橘嘉智子が自宅前で待つ嵯峨天皇に詠んだ歌
    言繁(ことしげ)し しばしは立てれ 宵の間に
      おけらむ露は いでてはらはむ  

    「メッチャ噂になってますから、人目が無くなる時間まで、チョットの間、外で待っててください。 その間についた夜露は、後で私がキレイにしてさしあげますよって…」
    毎晩、彼女のもとに通う嵯峨天皇の姿が目に浮かぶ…(参照ページ>>)
  7. 『後撰和歌集』より…小野小町が参詣したお寺でたまたま会った僧に詠んだ歌
    岩の上に 旅ねをすれば いと寒し
     苔の衣を われにかさなむ
      ♪

    「今夜、このまま一人で寝たら寒いやん、あんたンとこで団貸してくれる?」
    そりゃ、あ~た、掛布団でも敷布団でも肉布団でも貸しまっせ~(参照ページ>>)
  8. 『百人一首』より…病気になった和泉式部が恋人に詠んだ歌
    あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
     今ひとたびの 逢ふこともがな

    「病気でしんどいの~私、もう死んじゃうかも…死ぬ前に、もう一回アナタに会いたいワ」
    「か弱い私」を演出する恋のテクニック女王ここにあり…(参照ページ>>)
  9. 『百人一首』より…前夜、意外に早く帰ってしまった藤原行成の、その言い訳を聞いた清少納言がちょっとスネで詠んだ歌
    夜をこめて 鳥のそら寝は はかるとも
     世に逢坂
    (あふさか)の 関はゆるさじ
    (函谷関の関守がニワトリの鳴きマネに騙され、朝だと思って関所を開けてしまったという中国の故事を踏まえて)ニワトリの鳴きマネして門を開けようとしても、私とあなたの逢坂(おうさか)の関は、そう簡単には開かへんからネ」
    「なんやかんや理由つけて、ソソクサ帰るなんて、もう会うたれへんからな!」と怒ってみる…(参照ページ>>)
  10. 『百人一首』より…恋を禁じられた斎宮=式子内親王の詠んだ歌
    玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
     忍ぶることの 弱りもぞする 

    「命の糸なんか、切れるやったら切れたらえぇねん!
    どうせこのままやったら、あの人との事が隠し通せんようなって、皆に知られて引き離されてしまうだけやもん!」

    秘めた恋に身を投じる女性の思い~忍びあう恋、なみだ恋♪…(参照ページ>>)
  11. 『成尋阿闍梨母集』より…大陸に渡った僧=成尋の母が異国にいる息子に詠んだ歌
    もろこしも 天(あめ)の下にぞ ありと聞く
     照る日の本を 忘れざらなん
     ♪

    「そっちも、この国と同じ太陽が照らす空の下にあると聞きました…その同じ太陽が照らすこの国におる私の事、忘れんとってな」
    コチラも母子ですが、遠距離恋愛の男女のような切なさを感じます…(参照ページ>>)
  12. 『平家物語』より…平清盛の前で仏御前が初めて披露した今様
    君をはじめて見る折は
     千代も経ぬべし姫小松
      御前の池なる亀岡に
     鶴こそ群れゐてあそぶめれ 

    「あなたに初めて会うた時、あまりにもカッコ良くて眩しくて、私なんか1000年長生きするかと思うほどでしたわ」
    白拍子として雇うてほしいので、ちょっとベンチャラ入ってます…(参照ページ>>)
  13. 『平家物語』より…平維盛が都落ちする時に別れを惜しむ奥さん=建春門院新大納言局が言ったセリフ
    【いづくまでも伴(ともない)奉り、同じ野原の露とも消え、一つ底の水屑(みくず)とならんとこそ契りしに、さればさ夜の寝覚めのむつごとは、皆いつはりになりにけり】 
    「同じ野原の朝露のように消え、一つの海底のモクズとなるまで一緒にいようと約束してくれはりましたのに、あれはウソやったんですか?」
    悲しい別れのシーンです…(参照ページ>>)
  14. 『平家物語』より…小宰相が、一の谷の戦いで戦死した恋人=平通盛を追って入水自殺をする時に言ったセリフ
    【…本願誤たず浄土へ導き給いつつ、飽かで別れし妹背(いもせ)の仲らい、必ず一つ蓮(はちす)に迎えたまえ】 
    「心ならずも別れた二人…どうか、あの世では、同じ一枚のハスの葉の上で過ごさせてください」
    ホンマ、切のうて切のうて…(参照ページ>>)
  15. 『義経記』より…吉野にて源義経と別れる事になった静御前が、「この手鏡を僕やと思って大事にしてな」と手渡された時に詠んだ歌
    見るとても 嬉しくもなし 増鏡
     恋しき人の 影を止めねば 

    「あなたの顔を写さない手鏡なんか…見てもうれしい事ないのに…」
    あの「しづやしづ~」と迷いましたが…(参照ページ>>)
  16. 『今物語』より…かつて天皇と一夜を過ごした四天王寺の尼僧が詠んだ歌
    なかなかに 訪(と)はぬも人の うれしきは
     憂き世をいとふ たよりなりけり 

    「あなたが来てくれへん事が、むしろ良かったかも知れません。
    なんでって…それで世を捨てる決心ができましたから」

    好きな人を待つのはツライ…もう来ないのなら、いっそ尼になって諦めた方が~いや、現代やったら、完全な皮肉に聞こえるかも…(参照ページ>>)
  17. その他
    「やっぱ、アレでしょう」っていう項目がありましたらお知らせください
      

勝手ながら、このアンケートは2月28日に締め切りとさせていただきました。

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラからどうぞ>>

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2017年1月20日 (金)

信長VS越前一向一揆~富田長繁の桂田長俊攻め

 

天正二年(1574年)1月20日、織田信長から越前守護代を命じられていた桂田長俊が、一向一揆と結んだ富田長繁に一乗谷を攻められて討死しました。(『朝倉始末記』より)

・・・・・・・・・・・・・

*桂田長俊の死亡は、『信長公記』では「19日に自害」となっていますが、本日は『朝倉始末記』に沿ってお話させていただきます。

元亀元年(1570年)、4月の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)からの有名な姉川の戦い(6月28日参照>>)に始まる、織田信長(おだのぶなが)VS浅井・朝倉の戦い・・・3年の年月を経た天正元年(1573年)、小谷城北近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷越前(福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月6日参照>>)信長はいよいよ越前を手に入れたわけですが・・・
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)

Dscf1245pa1000
越前一乗谷朝倉氏遺跡

この時、最初の金ヶ崎から平定まで、3~4年の月日がある事から、その間に朝倉を見限って織田方に寝返った元朝倉家臣も多くいました。

ご存じのように、刃向かう者には徹底抗戦の信長さんですが、降伏して来たり、寝返って来たり、従順な態度をとる者には意外にやさしい・・・今回の対朝倉においても、織田の傘下となった元朝倉家臣に対して、旧領を安堵してそれぞれの役に任命し、彼ら自身によって、越前の各地を治めるよう指示していたのです。

そんな中の一人が、この織田傘下への転向を機会に、その名を前波吉継(まえばよしつぐ)から改名した桂田長俊(かつらだながとし)でした。

信長は、浅井の本拠だった小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)に直臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀)を置いて近江から北部に睨みを効かせ、朝倉の本拠だった一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)に、桂田長俊を越前の守護代として置いたのです。

実は、今回の信長の越前攻めの時、いち早く寝返って、道案内までかって出たのが桂田長俊・・・おかげで、越前の守護代という破格の待遇を得たわけですが、上記の通り、この時、朝倉から織田へ寝返ったのは、彼だけでは無かったわけで、当然、同時期に少しだけ遅れて寝返った元朝倉の家臣たちからは
「ちょっと早いだけで、アイツが守護代かい!\(*`∧´)/」
てな不満も湧いて来るわけで・・・

そんな中、当の桂田は、信長さんのご機嫌を取るべく、贈物三昧を決行・・・城下の職人たちからは、あれやこれやの名品を取りたてるわ、農民たちには増税を強いるわで、ほどなく領民たちの不満も頂点に達し、地元の本願寺に訴えます。

もとより、この越前の地は、朝倉とも上杉とも交戦(8月6日参照>>)を続けた一向一揆の盛んな地・・・この状況に本願寺門徒が黙っているはずはありません。

そこに目をつけたのが、元朝倉家臣で、かの寝返り組の一人=府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)でした。

彼は、早速、加賀一向一揆で一翼の大将を担う杉浦玄任(すぎうらげんにん=げんとう・壱岐)と連絡を取り、援軍を要請します。

『朝倉始末記』によれば・・・
天正二年(1574年)1月19日、一揆勢を加えて3万3千余りに膨れ上がった富田長繁の軍は、あちこちで騒動を起こしながら一乗谷に攻め寄せたのです。
(『朝倉始末記』では総勢10万以上となっていますが、一般的には上記の3万3千とされます)

Dscf1178a 上城戸下城戸の2手に分かれて一乗谷に押し寄せる一揆軍・・・

上城戸には富田長繁自らが大将となって突っ込み、下城戸には、杉浦玄任の配下である大野衆(福井県大野市の本願寺門徒)らがけたたましく攻め寄せ、両方の木戸はアッと言う間に破られて、一揆勢が一気に城内へと乱入しました。

さすがに、これだけの大軍に攻め込まれるとは思ってもいなかった一乗谷城の城兵は、一揆勢に押しまくられるばかりで逃げ場を失い、多くの者が討死したと言います。

そして、一揆勢は、いよいよ、城主の桂田長俊のもとへ迫ります。

なかなかの剛の者であったとも言われる桂田長俊さんですが、実は、この頃には失明していたらしく・・・

それでも、桂田長俊は馬に乗って出陣し、馬上から果敢に敵兵に立ち向かいますが、残念ながら彼の刀先は空を切るばかり・・・戦場の真っただ中では、音を頼りにする事もできずに敵を見失い、最後の最後には呆然と立ち尽くしているところを敵兵に囲まれ、馬から引きずり降ろされて首を切られたのです。

開戦の翌日=天正二年(1574年)1月20日・朝・・・桂田長俊は戦場の露と消えました。

勢い止まらぬ一揆勢は、そのまま、桂田長俊の一族郎党を皆殺しにし、逃げる途中だった息子や母も追いつめて殺害したとの事・・・

♪上モナク 昇リ昇リテ 半天ノ
 ミツレバカクル 月ノ桂田
 桂田ノ 實
(実)リモアヘヌ 領地マデ
 稲妻ノ間ニ 穂頸
(くび)切ラル ♪
「昇りに昇った半天の月も満ちれば欠ける
桂田は、未だ成果もあげないうちに、
またたく間に殺られてしまった」

これは、「桂田長俊が亡くなった翌日に、何者かが在所に残した落書だ」と『朝倉始末記』は言ってますが、おそらくは、始末記を書いている作者の思いを詠んだ物でしょう。

『信長公記』では、守護代となった桂田長俊が、我が世の春を謳歌し、勝手気ままに振る舞ってエラそうにして反感をかったために自害に追い込まれた(『信長公記』での死亡日は19日)のだと淡々と書いてあり、実際には、そんな感じなのでしょうけど、

なんか、『朝倉始末記』の方は「盛者必衰のコトワリをあらわす」みたいで、泣けて来ますね~やっぱ、『朝倉始末記』は軍記物ですから、描き方がドラマチックです。

ところで、まだまだ勢い止まらぬ一揆勢・・・扇動する富田長繁は、同月21日には、信長が北ノ庄に置いていた代官所も襲撃して、目付として赴任していた3人の奉行まで追放し、その3日後の24日には、やはり自分と同時期に織田方へ寝返った元朝倉家臣で、現在は鳥羽野城(とばのじょう=福井県鯖江市)の城主となっているの魚住景固 (うおずみかげかた) を、

しかも、コッチは宴会に誘って父子ともども殺害しちゃうという騙し討ちというセコイ手まで使って、越前一国を、ほぼ手中に収めますが・・・

おいおいおい・・・そうです、富田長繁は織田傘下のはずだったのに、何やってんの?

かの『信長公記』も書いてますが、「これで越前は一向一揆の持つ国」になってしまったわけで・・・勢いのまま突き進んではみたものの、果たして、富田長繁は、信長を相手に戦う覚悟はあったんでしょうか?

一方、信長さんは、当然の如く激おこプンプン丸・・・羽柴秀吉や丹羽長秀(にわながひで)といった面々を敦賀(つるが)に派遣する事になるのですが、この続きのお話は、
長繁最期の日となる2月18日のページ>>で・・・
更なる展開の
越前平定8月12日のページ>>でどうぞm(_ _)m
(続きのお話なのでおおまかな経緯の部分は内容がかぶっていますが、お許しを)
 .

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