2018年1月18日 (木)

武田VS北条~薩埵峠の戦い(第2次)

永禄十二年(1569年)1月18日、北条氏政武田信玄を攻撃するため四万五千の軍を率いて駿河に出陣し、薩埵峠に布陣しました。

・・・・・・・・・・・

北東方面へと手を伸ばしたい甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)、上洛を見据えて西へと手を広げたい駿河(するが=静岡県中北部)今川義元(いまがわよしもと)、関東支配を強めたい相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(ほうじょううじやす)・・・お互いの利害関係が一致した、この3者の間で相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれたのは天文二十三年(1554年)の事でした。

しかし、その6年後の永禄三年(1560年)・・・強固な同盟の一角であった今川義元が、未だ領国の尾張(おわり=愛知県西部)一国すら統一していない若造(←失礼m(_ _)m)織田信長(おだのぶなが)に、あの桶狭間の戦い(2015年5月参照>>)敗れ、命を落としてしまったのです。

父の死を受けて義元の嫡男=今川氏真(うじざね)後を継ぎますが、これが、なかなかうまく行かない・・・氏真は、世間で言われているほどボンクラなボンボンではありませんが(3月16日参照>>)、なんせ、父の義元が大物過ぎましたから、早々に見切りをつけて離反する者もチラホラ・・・

それでも、しばらくは様子見ぃで同盟関係を保っていた信玄・・・なんたって、あの永遠のライバル=越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)との川中島(9月10日参照>>)だって、未だ決着ついて無いワケですし・・・

ところが、かの桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立(2008年5月19日参照>>)した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)が、このドサクサで旧領を自分の物にしたばかりか、隣国の織田信長と同盟を結んで、今川領の遠江(とおとうみ=静岡県西部)にまで手を伸ばす姿勢を見せ始めます。

Takedasingen600 「イカン!このままでは全部家康に取られてしまう~」
とばかりに、今川との同盟破棄に反対する息子の義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)まで信玄は方針転換・・・信長が間に入って「信玄が駿河を、家康が遠江奪う」という両者間の約束事を取り決めたのです。

もちろん、氏真から見れば
「何、勝手に取り決めとんねん!」です。

かくして永禄十一年(1568年)12月、信玄の南下を知った氏真は、重臣の庵原安房守(いはらあわのかみ)らに1万5千の兵をつけて薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)に出陣させます。

そこは甲斐から駿府(すんぷ=駿河国府)へ侵攻する際に必ず通るであろう重要箇所・・・氏真としては意地でも守らねばなりません。

「ここで武田軍を喰い止めておけば、遅かれ早かれ、必ず背後から北条が援助してくれるはず」・・・でした。

しかし、残念ながら、この薩埵峠で起こったのは小競り合い程度の小さな衝突のみ・・・現地に赴いた今川配下の者が早々に離脱し、戦いらしい戦いも無いままに、今川方は崩れてしまったのです(薩埵峠の戦い~第1次:12月12日参照>>)

これが第1次薩埵峠の戦いと言われる合戦です。

この勢いのまま翌12月13日、信玄は、氏真の本拠である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区)の攻防戦へと突入(12月13日参照>>)・・・猛攻を抑えきれない氏真は、妻子を連れて掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走します。

そんな掛川城を包囲したのは信玄・・・ではなく家康
年が明けた永禄十二年(1569年)1月12日、いよいよ総攻撃を仕掛けるのですが・・・

そんなこんなの永禄十二年(1569年)1月18日、信玄の勝手な同盟破棄に激おこの北条氏政(うじまさ=氏康の息子)は、「敵の敵は味方」とばかりに謙信と結んだ後、武田と徳川に挟まれて窮地に追い込まれた氏真を支援すべく、4万5千の軍勢を率いて出陣し、かの薩埵峠へとやって来たのです。

氏政は、まず、掛川城への援軍として下田城(しもだじょう=静岡県下田市)の城将=清水康英(しみずやすひで)らに約300の兵をつけて海路より送り込み、主力は陸路を蒲原(かんばら=静岡県の中部)まで進み、信玄の背後を狙おうという作戦です。

Hojoujimasa200a ところが、この薩埵峠で1万8千もの武田軍に阻まれ、なかなか前へ進めません。

結局、この1月18日から4月20日までの間、小競り合い程度はあったものの、両者ほぼ対峙したままのこう着状態が続く事になるのです。

最終的に、掛川城にいた氏真が、謙信に信玄の背後を突く事を要請した事で、信玄は兵を甲斐へと戻し、一方の氏政も、信玄が常陸国(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)などに工作を要請していた事を知って、自軍を一旦、相模へと戻しました。

結果、この第2次薩埵峠の戦いは「引き分け」という形で幕を閉じます。

ただし、この間も、徳川相手に籠城戦を続けていたかの掛川城は、結局、永禄十二年(1569年)5月17日に北条の仲介により開城を決意し、徳川と北条の和睦交渉が展開される中、氏真は北条を頼って相模へと逃れました(12月27日参照>>)

氏真が相模へ去った後も信玄は、駿河における更なる優位性を求めて関東各地を転戦するのですが、そんな信玄を、北条は三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)にて待ち伏せして奇襲(10月6日参照>>)・・・互いに多くの死者を出しながらも、コチラもなんだかんだで引き分けに・・・

そんなこんなの11月28日、氏真の重臣であった岡部正綱(おかべまさつな)が、かの今川館を襲撃し、一時的に占拠します。

時を同じくして、北条に庇護を受ける氏真も、氏政の息子=北条氏直(うじなお)を養子に迎え、彼が駿河領有の正統な後継者である事を主張したのです。

こうして、さらに深刻化する武田VS北条・・・ここで武田を一気に潰そうと周辺の諸将への大動員をかける北条でしたが、一方の信玄も、「負けてはならじ!」とばかりに、12月6日には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を攻撃して、城主の北条綱重(ほうじょうつなしげ=氏信・氏康の従兄弟)を討ち取り(12月6日参照>>)、続く12日には、北条勢が薩埵峠付近に展開していた砦(とりで)を次々に落として行ったのです。

これらの信玄の怒涛の進撃により、やむなく北条は駿河周辺から撤退する事に・・・

とは言え・・・
皆様ご存じのように、そんなこんなしている間に、将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて永禄十一年(1568年)に上洛を果たした(9月7日参照>>)あの織田信長が、畿内にて、その将軍にさえ物申す大きな存在になりつつあった(1月23日参照>>)わけで・・・

こうして、戦国は、更なる時代へと突入していく事となります。
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2018年1月10日 (水)

細川管領家後継者争い~高国VS澄元の腰水城の戦い

永正十七年(1520年)1月10日、細川高国摂津越水城を包囲する細川澄元三好之長勢に決戦を挑みました。

・・・・・・・・・・・・

あの応仁の乱に終止符を打ち乱世の梟雄と呼ばれた管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(ほそかわまさもと=細川勝元の息子)・・・

この政元に実子がいなかった事から、その死後に3人の養子
関白・九条政基(まさもと)の子・澄之(すみゆき)
阿波(徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)
備中(岡山県)細川家の高国(たかくに)
の間で繰り広げられた後継者争奪戦で、

Hosokawatakakuni600aはじめは、澄元と高国が組んで澄之を追い落としたものの、澄之がいなくなると、今度は澄元と高国の争いに・・・

永正八年(1511年)8月、京都の船岡山(京都市)でぶつかった両者(8月24日参照>>)・・・この船岡山の戦いで勝利した高国は事実上京都を制し、負けた澄元は、摂津(せっつ=大阪府北部)に逃亡した後、領国の阿波に戻って、態勢を立て直す事に・・・

Hosokawasumimoto400a やがて永正十六年(1519年)、秋頃になって、態勢を立て直した澄元が、四国勢を率いて、まもなく上洛するとの噂が立ち始めます。

この情報を知った池田城(いけだじょう=大阪府池田市)池田信正(いけだのぶまさ)は、父=貞正が命を落とした永正五年(1508年)の敗戦以来、奪われたままになっている領地を回復せんと、いち早く澄元に連絡をつけて田中城(たなかじょう=兵庫県三田市)に籠城し、
「その時には先陣を務めますので、ここを足がかりに上洛を…」
と、洛中へ入る拠点としての場所を提供します。

もちろん、高国方も、コレにすばやく反応・・・瓦林正頼(かわらばやしまさより=政頼)はじめとする高国配下の者が、すばやく集結し、永正十六年(1519年)10月22日夜、突如として田中城を攻撃したのです。

しかし、この時、敵方に内応者がいたため瓦林勢の動きは、池田側に筒抜け・・・しかも、この攻撃を察知して事前準備も万全にしていた事や、当日たまたま雨が降って、攻めるに困難を極めた事から、ほどなく瓦林勢は大敗し、兵は夜陰に紛れて敗走して行き、正頼自身は居城の腰水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)に籠城しました。

勝利した池田信正は、恩賞により弾正忠(だんじょうのちゅう=警察)に任ぜられ、豊島郡(てしまぐん=大阪府池田市周辺)を領地として与えられました。

こうして上洛の足がかりを得た澄元は、その10月のうちに、三好之長(みよしゆきなが)をはじめ、1万とも2万とも言われる四国勢を率いて兵庫(ひょうご)に上陸し、神呪寺(神咒寺=かんのうじ=兵庫県西宮市)に本陣を置いて、瓦林正頼らが籠った腰水城を包囲したのです。

一方、この澄元の状況を知った高国も、山城(やましろ=京都府南部)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県東部)摂津など支配下の諸国人たちをかき集めて翌・11月21日に京都を出陣し、12月2日(もしくは6日)には池田城に入城し、ここを拠点として臨戦態勢に入ります

その後、高国勢は武庫川(むこがわ)に沿うように、その上流から下流に向けての昆陽(こや=兵庫県伊丹市)野間(のま=同伊丹市)瓦林(かわらばやし=兵庫県西宮市)浜田(はまだ=兵庫県尼崎市)などに布陣し、しばらくの間、睨み合いが続きました。

そんな中、こう着状態をたち割るように12月19日(18日とも)に大きな戦闘が行われ、四国勢数百人が討死にし、「その中には三好之長父子も…」という噂も流れましたが、三好父子の討死には誤報でした。

とは言え、この時は大きな痛手を受けた四国勢・・・しかも、瓦林勢には「那須与一(なすのよいち=参照>>の再来」とうたわれた弓の名手=一宮三郎なる人物がいて、四国勢もなかなか攻めあぐねていたのです。

そんなこんなの永正十七年(1520年)1月10日いよいよ両者は大決戦となります。

さすがに現政権派とあって、高国軍も、この頃には2万ほどにふくれあがっておりました。

『細川両家記』によれば・・・
午後4時頃から開始された戦いは、高国方の伊丹国扶(いたみくにすけ)中村口(伊丹市)から切り崩しを開始し、四国勢に襲いかかると同時に腰水城からは瓦林勢が撃って出て四国勢の諸将を相手に奮戦・・・この局地戦では高国方が大いに成果をあげました。

しかし、この日の午後8時頃まで・・・約4時間に渡って繰り広げられた戦いは、上記の夕方の局地戦では高国側が有利だったものの、全体では、四国勢の戦死者は100余名、高国勢は、その倍の200余名の犠牲者を出してしまっていたのです。

その後も、断続的に戦いは繰り広げられていきましたが、やがて腰水城の兵糧が枯渇しはじめ、籠城を維持できなくなってしまった事から、永正十七年(1520年)の2月3日、劣勢を挽回できないまま城将の瓦林正頼は、腰水城を放棄し、武庫川の左岸へと逃亡したのです。

この時、高国自身は、腰水城の救援に向かうべく本隊を移動させていましたが、腰水城の落城には間に合わず・・・やむなく撤退するところを、澄元に同調する国衆=西岡衆(にしのおかしゅう=京都・乙訓地域の自治を担った武士集団)に襲撃されたため、六角定頼(ろっかくさだより)を頼って(この時の六角氏は定頼の父=六角高頼が主導の説もあり)近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=大津市)へと逃れて行きました。

こうして、京の町は、一時的に澄元派が牛耳る事になりますが、もちろん高国も、このままでは終われません・・・いや、むしろ、ここから、ラッキーも加わって、高国はこの世の春を迎える事になるのですが、その続きのお話は、わずか4ヶ月後の永正十七年(1520年)5月5日に勃発する等持院表(とうじいんおもて)の戦い(5月5日参照>>)でどうぞo(_ _)oペコッ
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2018年1月 5日 (金)

恭賀新春!「おんな城主 直虎」と「アシガール」の感想とか

 

C330

明けましておめでとうございますfuji

本年も、どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m

・‥…━━━☆

早速ですが・・・
新しき年の大河ドラマが始まって、気持ちがソッチに切り替わらないうちに、昨年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」ドハマリした「アシガール」について、あくまで、個人的な感想をチョコチョコと書かせていただきたいと思います。

まずは、「おんな城主 直虎」・・・
と、言っても、昨年の冒頭に1度チョコッと書かせていただいた限りで(昨年1月のページ>>)、ほとんど感想は書いていないのですが、その冒頭に書かせていただいた通り、結局は韓流時代劇っぽい少女漫画のようなドラマでしたね。

あ、でも、これは「悪い」という意味では無いです~私は韓流時代劇も見ますし、少女漫画も大好きです。

ただ、大河ドラマでのソレはちょっと残念かな?
個人的な思い込みの問題ですが、大河では、もう少しダイナミック感?重量感?みたいな物が欲かったように思います。

・・・にしても、これほど合戦シーンの無い戦国モノも珍しいと思いますが、そこは、合戦に出た記録が無い・・・てか、そもそも史料自体がほとんど残っていない女性が主人公なのだから、戦国モノと言えどいたしかたない部分もありますね。

ただ、やっぱり、あの少女漫画のようなラブラブシーンには、もともと恋愛モノ自体が苦手な私には受け入れがたく・・・(←個人の感想です)

最近の回で言えば、本能寺の変の時に、南蛮人の協力を得るために美人局(つつもたせ)的な事やってましたが・・・
惹かれ合う男女が、その思いを素直に表現できず、
不良っぽい男が、「そんなら、お前、援助交際やってみろや!(そんな勇気もないくせに)みたいな雰囲気で言えば、
お嬢様な女は、(できないと思ってるのね)やるわよ!」と意地になって・・・

けど、実際に、その場面になれば、結局、彼女を救おうと、愛しい男が、現場に助けに来る・・・て、
往年の学園ドラマか?・・・「愛と誠」かいな?

いや、私は「愛と誠」は毎週少年マガジン買ってたし、学園ドラマもメッチャ見てましたが、これは、やっぱり青春真っただ中の10代の二人がやるべき展開なのでは?

確かに、演じている柴咲コウさんは36歳で、柳楽優弥さんは27歳なので絵的には大丈夫ですが、物語の設定としては、直虎は、すでに50歳前後ですよね?
もそっと、大人の恋をしても良いお年頃かと・・・

直虎の死を連想させる場面では、直虎以下、井伊直親小野政次龍雲丸らが子供時代の姿に戻って井戸を覗き込むシーンがありましたが、これが、一人の女=直虎に、男3人が恋をしているイケメンパラダイス状態かと思うと、なんだか複雑ですな。

とは言え、最終回はかなり良かったです。
天正壬午の乱からの井伊の赤備えの誕生(10月29日参照>>)もやってくれはりましたしね。
直虎主演で最終回を迎えるなら、ここがベストというポイントでの見事な最終回でした。

ただ、その一つ前の本能寺の変は、やはりサブタイトル通り「本能寺が変」でしたね。

もちろん、これまでドラマ等では描かれて来なかった『信長による家康暗殺計画説』を採用されたのは斬新でした。

私は、以前も書かせていただいていますように、この『信長による家康暗殺計画説』(2016年6月2日参照>>)には否定的ですが、ドラマや小説などの創作物語として描くぶんには、なかなかオモシロイと思います。

ただ、これも・・・
昨年最後の更新のページ=「日本史の新発見&発掘…2017年総まとめ」(12月31日参照>>)でお話させていただいたように、本来ならばトップシークレットで秘密裏に進めないといけない謀反の話を、ドラマでは、いろんな人がいろんなところにしゃべりまくり・・・よく、この状態で、信長側に謀反がバレなかったな~と
(まぁ、ドラマの中では、「家康暗殺計画」自体が信長の命なのか?光秀の虚言なのか?がハッキリしてませんでしたが…)

しかも、ターゲットがもし信長なら約100名、もし家康なら約4~50名ほどを相手に戦うはずなのに(信忠の馬回りを入れても数百です)、結局、明智光秀は自軍の1万3000もの大軍を率いて謀反を起こす・・・この状況に、人質まで差し出して今川氏真や直虎や徳川家康に、何を協力してほしかったのか???

さらに、
案の定、織田信忠(信長の嫡男)の件は、「二条御所で合戦になっております」の一言でスルーされてしまったし・・・
秀吉は出てこないし・・・
そんで、かの南蛮人相手の美人局(←未遂)だし・・・
残念ながら、アホな私には理解できない展開でした~ゴメンナサイ。

ほんで以って、戦国を終わらせ平和を願うという直虎が、「それができるのは家康様」って・・・
そりゃ、井伊家は徳川によって盛りたてられたので、ドラマ的には仕方ないとは思いますが、いち秀吉ファンといたしましては、
「家康の前に秀吉が天下統一して、一旦、平和な日本を造ってますやん」
「それを家康が一度壊してから、新政権樹立するんですやん」

と、あまりの秀吉シカトぶりが悲しい・・・

そんな中、今回の大河ドラマと並行するように、この10月~12月にかけて、個人的に楽しんでいたのが、同じくNHKの土曜時代ドラマ「アシガール」です。

いや、楽しんだでは済まされ無いほど・・・不肖ワタクシ、ウン10年生きて来た中で1位・2位を争うほどに面白いドラマでしたホント。

原作は少女漫画で、土曜日の18時代の放送・・・つまり、主たるターゲットは10代の女子だと思われる時代劇ドラマで、出て来る人は全員架空の人物。

陸上部員で、走る事が得意なだけの普通の女子高生が、発明が得意な弟が作ったタイムマシンで戦国時代に行って、そこで出会った若君に一目惚れをする中、その若君の一族が、まもなくの永禄二年(1559年)に滅亡する事を知って、何とか若君を助けようと足軽になって奔走するという(足の速い女子高生が足軽=なのでアシガールです)
まさに荒唐無稽な内容で、実際にはあり得ないようなご都合主義な展開が繰り広げられます。

なんせ、よくあるタイムスリップと違って、コチラはタイムマシンなので、平成と戦国を行き来でき、負けるはずの戦いに勝つためのアイテムを平成で調達して戦国に飛ぶとか、ひん死の重傷を負った若君を平成に送って治療しちゃうとか・・・もう、やりたい放題です。

そんなこんなで、フツーの平成の女子高生が、危険いっぱいの戦国時代を見事に生き抜くどころか、氏素性もわからないまま若君に近づいて、最終的には、その若君とラブラブになっちゃうわけですから・・・

少女漫画原作ならではの主人公と若君の胸キュン場面もワンサカで、それこそ直虎のラブラブシーンどころの騒ぎじゃありません。

ところが、この「アシガール」は、なぜか嫌悪感を抱かせない・・・この違いは何だろう???
(上記の通り、本来は恋愛モノはあまり好きじゃないんですが…)

てな事で、自分なりに色々分析してみましたが・・・
1番は、何といっても、大河で鍛えたNHK様の戦国時代の再現度の素晴らしさ!です。

その放送時間帯をみても・・・
大河で使用された衣装がリサイクルされる事山の如しなところからみても、
おそらくは大河よりはるかに少ない予算で撮影されているであろうにも関わらず、これまで培った、さすがのNHK様の時代劇作りのスキルを生かしての戦国再現がお見事!

ストーリーはおおむね原作に沿いながらも、少女向けの作品を、見事に老若男女が楽しめるドラマになるよう、うまく変更された脚本や演出もさることながら、

原作では、天守閣が描かれていた若君の居城が、ドラマでは、まさに永禄二年っぽい、居館の周囲に柵や土塁を張り巡らせたような造りになっていたり(天守閣は永禄七年(1564年)の多聞山城参照>>、もしくは天正四年(1576年)の安土城が初かと…参照>>

同じく原作では、その名の通りの女性だった主人公を助ける猿楽一座のあやめ姉さんが、ドラマでは女形の男性役者になっていたり・・・(出雲阿国の登場は、もうチョイ先…慶長の頃かな?=参照>>

セットに関しても、
若君のお城は、ほとんどが板の間で、殿様の座る部分にだけ畳があるのに対して、敵方の武将の城には畳敷きの広間があって、この永禄二年(1559年)の段階で(数は多く無いものの)鉄砲隊もいる(鉄砲伝来は天文十二年頃(1543年=参照>>)で、例の長篠の合戦は天正三年(1575年=参照>>)・・・つまり、ナレーションも説明も無しに両者の力関係がわかる造りになってたり・・・

と、ストーリーは荒唐無稽ながら、戦国時代の再現度は、歴史好きを満足させるに充分なレベルなわけで・・・。

ちなみに、原作にも登場する主人公の家来になる黒人さんについてはギリセーフ?(日本に来た黒人さんの初記録は天文十五年(1546年)=参照>>
また、最終回で兄上様が「西の丸に美しい桜がある」と、「曲輪(くるわ=郭)の事を「丸」と言ったのは、ご愛敬という事で・・・(←ちょいと早い気もするけど、もともと曲輪が丸に変化した理由や時期がハッキリしないし曲輪だとお城とかに興味の無い人には解り難いでしょう)

さらに、予算の都合上、やや小ぶりではあるものの、最近の大河では、とんとお目にかかれなくなった合戦シーンもちゃんと描かれ、そこここに登場する太刀合いもなかなかの迫力!!
そして、何といっても、キャストの皆様の立ち居振る舞いが美しい~

あの戦国武将が床に座る時の胡坐(こざ・あぐら)・・・その胡坐の姿勢から、上半身をほとんど動かさず、膝もつかず、手も使わず、スッと立つ、あの感じ。

また、ピンとした姿勢で音も無くスススッと廊下を歩いたり、
部屋に入って来て、クルリと回って上座を向いて、そのまま胡坐する、一連の流れるような動作とか・・・若君もジイも、ちゃんと右側から乗馬するしねww

合戦も太刀合いも所作も、まるで往年の大河ドラマを見ているよう・・・だからこそ、戦国時代の人々が、まるで、そこに生きているかのようにリアルに感じられて感情移入ができ、視聴者が嫌悪感を抱かないのだと思います。

もともと、主役からチョイ役に至るまで、「神か」と思うほど役にピッタリな俳優さんたちが生き生きと動く・・・
(もちろん、現代のシーンの俳優さんたちもピッタリ役にハマッてますが…)

そんな、往年の大河のような立ち居振る舞いは、何度も時代劇を経験されているベテラン勢は、すでに身につけておられるのかも知れませんが、主人公の相手役の若君を演じた健太郎さんは、今回が時代劇初出演だとか・・・おそらく、かなりの練習をされたのだと思います。

主人公の黒島結菜さんとともに、主役を張った若いお二人は、その演技力も含め、これからの活躍に目が離せません。
(なんせ、この3ヶ月の撮影の間にも、どんどん成長してはったので…
若いってイイなぁ(*^-^))

残念ながら、最近の大河での若手の方は、乗馬や太刀合いの場面もほとんどなく・・・特に胡坐から立ち上がるシーンでは、途中から上半身や顔へのズームアップになっていて、全身や足元が、あまり映らず、何となく、カメラワークで誤魔化されてる?感が拭えない・・・
まぁ、それもスタッフ様のテクニックの一つでしょうし、そもそも最近は時代劇自体が少なく、若い俳優さんが経験を積む場も、ほぼ無いのが現状なので仕方ない事なのかも知れませんし。。。

とにもかくにも、
昨年秋の「アシガール」を見ていて、つくづく感じたのは、物語の中でつじつまが合っていて、時代考証がしっかりしていて、俳優さんの立ち居振る舞いが美しければ、例えストーリーがファンタジー満載でも、見ている側は嫌悪感を抱かないのだという事・・・

どうぞ、NHK様、これからも、このような時代劇を作って行ってくださいませ。
(原作が、まだ継続中のようですので、良かったら続編をm(_ _)m)
まぁ、タイムマシンありきのドラマが時代劇か?と言われると困るんですけどね(*´v゚*)ゞ

以上、
年が明けた今も、どっぷりハマったまま、「アシ抜け」できない茶々のつぶやきでした~

さぁ!今年の大河に期待するゾ~~~o(*^▽^*)o

・‥…━━━☆

追記:「アシガール」の一挙再放送が決定しました!
 2018年2月15日(木)0時15分~(水曜深夜)
 一日3話ずつ4日間に分けての連続放送だそうです。
このブログを見て「見たいな」と思って下さった皆様、チャンスです。
こんなに早い段階での再放送は異例だそうですヨ!
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2017年12月31日 (日)

日本史の新発見&発掘…2017年総まとめ

 

いよいよ、2017年も終わりに近づきました・・・て事で、またまた一年の締めくくりに、今年に報じられた様々な日本史の発見や発掘のニュースを総まとめにして振り返ってみたいと思います。

ただ、いつものように・・・
専門家で無い茶々の知り得るところのニュースでありますので、あくまで一般に公表&公開された公共性のある物である事、

また、私が関西在住という事もあっての地域性(他の場所のニュースはなかなか知り得ない)・・・さらにそこに個人的な好みも加わっておりますので、少々、内容に片寄りがあるかも知れませんが、そこのところは、「今日は何の日?徒然日記」独自の注目歴史ニュースという事で、
ご理解くださいませo(_ _)oペコ

1月 坂本龍馬(さかもとりょうま)が京都で暗殺される5日前に、福井藩重臣の中根雪江(なかねせっこう)に宛てた直筆の書状が見つかった高知県が発表…封紙には「坂本先生遭難(暗殺)直前ノ書状ニテ他見ヲ憚(はばか)ルモノ也」朱書きの付箋が貼られていて“トップシークレット”の扱いになっていた事がうかがえ、この付箋を、いつ誰が書いたのかが気になるところです。
3月 方墳の(ほり)とみられる巨大な石溝が見つかった奈良県明日香村小山田遺跡で、新たに石室への通路跡が見つかった県立橿原考古学研究所が発表しました…出土した瓦片などから640年頃の築造とみられ飛鳥時代(7世紀)最大級の方墳と確定。当時の最高権力者である舒明(じょめい)天皇か大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(そがのえみし)(参照>>)の墓ではないか?とみられています。
4月 米子城跡(米子市久米町)がある湊山で見つかった石垣が、豊臣秀吉(とよとみひでよし)朝鮮出兵=文禄・慶長の役(参照>>)に参加した武将らに広まった、全国5例目、中国地方では初の「登り石垣」である事が分かりました…出兵にも参加し、米子城の大部分を築城した吉川広家(きっかわひろいえ)(参照>>)が取り入れたと見られています。
5月 群馬県と長野県の境=碓氷峠(安中市松井田町峠)で、戦国時代末期のものとみられる城跡が見つかりました…天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐(参照>>)の際に、前田利家(まえだとしいえ)上杉景勝(うえすぎかげかつ)真田昌幸(さなだまさゆき)らによる連合軍=北国勢(参照>>)が、北条(ほうじょう)側の支城へと侵攻する足がかりのための陣地(陣城)として急造した可能性が高いと見られます。
6月 戦国時代のキリシタン大名=高山右近(たかやまうこん)(参照>>)が城主だった高槻城(たかつきじょう=高槻市城内町)の二の丸跡内堀から、右近が城主だった時代に拡張したとみられる堅牢なつくりの大堀や、これまで記録になかった木橋橋脚などが見つかりました…今後、城の築造過程や実態などを知る上で貴重な資料となりそうです。
坂本龍馬が兄=権平(ごんぺい)家族に宛てた手紙を新たに6枚発見…龍馬が慶応二年(1867年)12月4日に記した手紙の存在は写本で知られ、原本の一部も見つかっていたましたが、この6枚は初めて原本が確認されたそうです。
7月 兵庫県豊岡市出石町の旧家に、豊臣秀吉が側室の茶々(ちゃちゃ=淀殿)(参照>>)に宛てた手紙が残されていた事が判明…病気だった茶々を気遣う愛情溢れる内容の手紙で、数多く残る秀吉の手紙の中でも、茶々宛ては、これまで3通しか発見されていないとの事。
9月 奈良=興福寺の国宝=阿修羅像(あしゅらぞう)の3面ある顔のうち、下唇をかむ右側の顔が原型の段階では口を開き、やや穏やかな表情だったことが分かりました…九州国立博物館のCT撮影で判明した物で、完成前に修正されたとみられます。
兵庫県姫路市埋蔵文化財センターが姫路城の西の玄関口だった「備前門」の石垣跡が、同市魚町の地中で見つかったと発表しました…石垣の構造から江戸初期に造られた可能性が高いそうです。
江戸時代に日本各地で見られた巨大なオーロラは史上最大の磁気嵐が原因だったと、国立極地研究所の研究グループが米学術誌に発表しました…オーロラを詳しく記した日記が新たに京都で見つかった事から正確に分析&コンピュータで再現できたのだとか
本能寺の変(参照>>)織田信長(おだのぶなが)を討った明智光秀(あけちみつひで)が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかりました…変の直後の12日付けで、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)(参照>>)で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはししげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)と光秀が通じているとの内容。本能寺の変に関する書状で光秀の直筆は、かなり珍しいそうです。
10月 兵庫県立歴史博物館(姫路市)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)家臣に宛てた自筆文書が見つかったと発表しました…「俸禄(ほうろく=給与)」をさらに下の家臣に与えるよう指示する内容で、時期は姫路城主だった頃の物とみられ「秀吉が下級家臣の少額の給与まで自筆で指示していたことがうかがえ、秀吉と家臣団との関係を考える上で興味深い」物との事。
11月 幕末の「禁門の変」で戦死した来嶋又兵衛(きじままたべえ)(参照>>)の、人柄などを表す資料山口県美祢市(みねし)で発見されました…見つかった資料は来嶋の日記や手紙など約50点で、資料からは来嶋が長州藩の財政や、江戸屋敷の運営などで力を発揮していたことや、家族思いだったことがうかがえるそうです。
北東北最大の戦国大名・三戸南部氏の居城跡「三戸城跡(城山公園)の発掘調査で、16世紀後半~17世紀初め頃の本丸に通じる正門「大御門(おおごもん)」の柱を建てた礎石7個が発見されました年代を示す建物跡の発見は初めてで、三戸南部氏関連の城館跡では、江戸時代の本城・盛岡城を除いて最大の大きさの門という事になり、来年度以降の調査で、大御門の築造年代をさらに絞り込んでいくとの事。
12月 奈良時代に造営された恭仁京(参照>>)の中心の恭仁宮跡(木津川市加茂町)の発掘調査で、高官が執務や儀式をした「朝堂院」の北端とみられる柱穴を発見…隣接する「大極殿院」の区画が柱穴の位置から推定され、「続日本紀(しょくにほんぎ)に聖武天皇の時代に平城宮(参照>>)の大極殿を移築して恭仁宮の大極殿が建てられたとの記録がある事から、建材だけでなく、形態も譲り受けたのではないかと考えられ、恭仁京も平城宮と同形態の可能性が高くなったとの事。
関ケ原の合戦の前哨戦「伏見城の戦い」(参照>>)で焼けたとみられる城の石垣が、京都市伏見区桃山町の集合住宅の建設に伴う調査で見つかりました…石垣はひび割れて赤く変色しており、かなりの高温で焼かれて崩れ落ちたとみられ、激しい攻防があった事が想像されます。

こうして見てみると、この1年、様々な発見があった事がわかりますが、個人的には、やはり本能寺の時の明智光秀の書状ですかね~

来年、年明けしょっぱなのブログ更新で、今年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』についても感想など書かせていただくつもりでおりますので、ドラマの中の本能寺の変については、ソチラでお話したいと思いますが、今回のドラマでの本能寺の描き方はなかなか斬新ではありました。

ドラマで描かれた「信長による家康暗殺説」(参照>>)をはじめ、一昨年(2015年参照>>)に発見された四国説(参照>>)を後押しする『石谷家文書』などなど・・・やはり、この本能寺の変は謎が謎よびますね~

で、
今回の光秀の書状には、「将軍=義昭の入洛については…」という内容がある事から、「光秀には反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想があったのではないか?」との見方がされています。

確かに、この手紙を書いた時点で、そのような構想を持っていた事は確かでしょうが、難しいのは、この書状の日付が、本能寺の10日後の12日だという事・・・

光秀が、事を起こす前=最初から、このような構想を持っていたのなら、まさに「室町幕府再興のために本能寺の変を起こした」事になるのでしょうが、ひょっとしたら、やっちゃった後で、思うように畿内が掌握できない事やら、意外に支持してくれる武将が少ない事やら、のアテ外れがあり、急きょ、皆が仰ぐような看板として義昭を引っ張り出し、自らの謀反を正当化しようとした可能性も無くはないわけで・・・

かと言って、「信長暗殺」なんで重要事項は秘密裏に準備を進めねばならず、事を起こす前に手紙を書いたり、ペラペラ周囲にしゃべっちゃったりなんて事はしてはならない・・・てのも一理。

たとえば・・・
「信長による家康暗殺説」を主張される方で、よく、『本城惣右衛門覚書』にある
「…我等ハ 其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ  いゑやすさまとばかり存候…」
「↑(中国方面に行くと思っていた明智軍が京都に向かったので)我々は家康を討ちに行くのだと思った」
という一文を挙げて、「皆が、家康を暗殺するんだと思っていた」=「信長による家康暗殺説はアリ」とおっしゃる方がいらっしゃいますが、これを書いた本城惣右衛門(ほんじよそうえもん)なる人は、野武士程度の雑兵だった人で、失礼ながら、この時点では、なかなかの下っ端・・・もし、そんな下っ端の面々までもが「光秀が信長の命で家康を暗殺しようとしている」事を知っていたなら、逆に、秘密ダダ漏れで、戦略としては終わってますから、
むしろ、この記述に関しては、その逆=「家康暗殺はなかった」を意味しているような気がしないでもない。

つまり、今回発見の「変の後には義昭帰京云々」は、トップシークレットだったからこそ、書状などという後に残る物には、事を起こした後でないと書けなかった可能性もあるわけで・・・

いやはや(*´v゚*)ゞ
書状が出て来たから、謎の解明に近づくと思いきや、よけいにドロ沼にはまらされるとは!!

ま、そこが楽しいんですけどね。。。

・‥…━━━☆

てな事で、とりあえずは、年内最後のブログ更新という事で、本日は、2017年の歴史ニュースをまとめさせていただきました~

ブログを見に来てくださった皆様、
今年一年、本当にありがとうございました・・・
良いお年をお迎えくださいm(_ _)m

そして、来年=2018年は平成最後の年・・・今後とも、よろしくお願いします
 .

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2017年12月26日 (火)

松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い

天正元年(1573年)12月26日、筒井順慶を主力にるす織田信長軍に攻められた松永久秀父子が多聞城を明け渡しました。

・・・・・・・・

畿内を制する三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として活躍していた松永久秀(まつながひさひで)・・・主君の命を受けて永禄二年(1559年)頃から大和(やまと=奈良県)への侵攻を開始(11月24日参照>>)、間もなく信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城。

その後、長慶の死によって衰退し始めた三好家を盛りたてる中心人物の一人となった久秀は、永禄八年(1565年)には三好氏の縁者である三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)とともに第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)して(暗殺には久秀は関与していない説もアリ)第14代将軍=足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立し、大和国衆の二大巨頭である筒井(つつい)筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)攻め(11月18日参照>>)や、越智(おち)貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)攻防戦(9月25日参照>>)など繰り返していましたが、やがて永禄十一年(1568年)9月、亡き義輝の弟で室町幕府第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて織田信長(おだのぶなが)が上洛(9月7日参照>>)すると、敵対する筒井氏の筒井順慶(つついじゅんけい)よりも先に、三好家の後継者である三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)とともに、いち早く信長に降伏して傘下となり、その後ろ盾を以って、更なる奈良の支配を進めていました。

Matunagahisahide600a しかし、その信長と久秀の関係は、まもなく崩れます。

久秀の心が、どのあたりから反信長に移ったのかは定かではありませんが、信長上洛から2年後の元亀元年(1570年)には、すでに、信長と将軍義昭との間にギクシャク感が出始め(1月27日参照>>)、その年の6月には、信長VS浅井(あざい)&朝倉(あさくら)との姉川の戦い(6月28日参照>>)があり、9月には野田福島戦で、本願寺のおおもと=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が参戦し(9月12日参照>>)、その流れから、翌年には比叡山(ひえいざん)(9月12日参照>>)や本願寺門徒による長島一向一揆(5月16日参照>>)も反信長に参戦・・・さらに翌年の元亀三年(1572年)には、上洛の気配を見せる武田信玄(たけだしんげん)三方ヶ原(12月22日参照>>)で、信長の同盟者である徳川家康(とくがわいえやす)と激突し、その翌日には犀ヶ崖(さいががけ)で討死にした平手汎秀(ひらてひろひで=信長の傅役・平手政秀の三男?)の首が、これ見よがしに信長のもとに送られて来る(12月23日参照>>)・・・いわゆる、義昭の呼びかけによる信長包囲網的な物に信玄が参戦して来たわけで・・・

この信玄という大物の包囲網参戦には、久秀の心も、大いに揺れた事でしょう。

さらに、翌・天正元年(1573年:7月に元亀より改元)1月には、信玄は野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)へと駒を進め(1月11日参照>>)、翌2月には、義昭自身が決起(2月20日参照>>)します。

信長包囲網ここに極まれり!!
嫡男の松永久通(ひさみち)を信貴山城に入れ、自らは多聞山城にあった久秀が、明確な反信長の狼煙を挙げたのは、この年の5月の事でした。

久秀の反旗を知った信長は、これまで度々久秀と敵対していた筒井順慶に、「多聞城を潰したれ!」と合力の援軍を出して攻めさせたのです。

『二条宴乗日記』によれば・・・
5月16日に順慶が奈良の三条に進出・・・これを受けて多聞山城の松永勢も出陣したと・・・

しかし、皆様ご存じのように、実は、この時点で、あの大物=武田信玄は、すでに亡くなっています。

あまりにドラマっぽくで「ホンマかいな?」と思ってしまいますが、『武田文書』などの記述によれば、久秀がこの信玄の死を知ったのは、上記の出陣の翌日=5月17日の事だったとか・・・

この少し前に、久秀が「信長包囲網の一員として頑張るんで、是非とも信玄さんのご協力を…」てな内容の手紙を出していたところ、この日に武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)からの返書が届き、そこに信玄の死の事が書いてあったのだとか・・・(4月16日参照>>)(←3年間隠すんやなかったんか~い☆\(^^;))

とは言え、例え巨頭が死んだとて、久秀にはまだ希望はあります。
なんたって、将軍が挙兵してるんだし、浅井&朝倉もいるんだし・・・

ところが、この年の7月に槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻められた義昭は、息子を人質に出して信長に降伏(7月18日参照>>)・・・続く8月に越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月23日参照>>)信長に攻められ、ともに自害して果てました。

さらに11月16日には、以前、久秀とともに信長に降ったものの、やはり義昭絡みで反発した三好義継が、信長に若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)攻められ自刃し、同じ11月には残る本願寺も、どうやら信長との休戦の協定が結ばれた様子・・・この11月には、本願寺の第11代法主=顕如(けんにょ)から贈られた白天目茶碗(はくてんもくちゃわん)で信長が茶会を開いた事が記録され、『本願寺文書』にも、顕如のもとに信長からの礼状が届いた事が記録されています。

もちろん、この間も順慶率いる筒井を主力とした織田軍の多聞城攻撃は続けられていたわけで、その連日に渡って響き渡る銃声は、あの東大寺まで聞こえて来ていたとか・・・

もはや完全なる孤立無援となってしまった久秀・・・やむなく天正元年(1573年)12月26日、突如として織田軍の将=佐久間信盛(さくまのぶもり)多聞山城を明け渡したのです。

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多聞山城のい戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その後の多聞山城は明智光秀(あけちみつひで)が城番として入り、その後も柴田勝家(しばたかついえ)細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)、さらに塙直政(ばんなおまさ=原田直政)大和守護に任じられて城に入り、大和や河内一帯を治めていましたが、この直政が本願寺との合戦で死亡したため、天正四年(1576年)5月に、今回の多聞山城戦キッカケで信長の傘下となった筒井順慶が、大和一国を賜ると同時に多聞山城に入城しますが、そのわずか2ヶ月後に多聞山城は破却されました。

とは言え、ご存じのように、この天正元年の多聞山城落城の時には、信長は久秀父子を許しています。

翌・天正二年(1574年)1月早々、赦免のお礼のために岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を訪れ、信長に謁見した久秀は、名刀=不動国行(ふどうくにゆき)を献上したという・・・
※ちなみに、この天正二年(1574年)の3月には、奈良を掌握した事を内外に知らしめるかのように、信長は東大寺正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)削り取りに来てます(3月28日参照>>)

以前も書かせていただきましたが(2009年12月26日参照>>)、やはり久秀は、信長にとって、魅力的なチョイワルオヤジ(←古いww)だったのかも知れません。

ただ・・・それこそ、皆様ご存じのように、このチョイワルオヤジは、この5年後に、またまた信長に反旗をひるがえします。。。と、そのお話は信貴山城の戦いでどうぞ>>
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2017年12月18日 (月)

赤沢朝経率いる京軍の大和侵攻~奈良の戦国

明応八年(1499年)12月18日、赤沢朝経率いる京軍が大和衆の籠る秋篠城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

日本が真っ二つに分かれて戦った応仁の乱(5月20日参照>>)・・・約10年に渡るこの大乱は文明九年(1477年)11月に終わりを告げました(11月11日参照>>)が、もともと、将軍家や管領家などの複数の後継者争いが発端だった事や、そのそれぞれを支持する地方の武将が、それぞれ東西に分かれて戦った事、結果的にどっちが勝ったというハッキリした物も無かった事などがあって、京都を中心とした応仁の乱自体が終結しても、それぞれの地方の武将たちや、その配下の者の地元では、未だ小競り合いが続いていたわけで・・・

そんな地元のうちの一つが大和国(やまとのくに=奈良県)でした。

ここは、かの応仁の乱の口火を切る御霊合戦(ごりょうがっせん)(1月17日参照>>)をおっぱじめた畠山義就(よしなり・よしひろ)畠山政長(はたけやままさなが)らの河内畠山氏ドロ沼家督争い(7月17日参照>>)の影響をドップリ受けてる場所だったのです。

この河内畠山氏は、河内(かわち=大阪府東部)紀伊(きい=和歌山県&三重県南部)山城(やましろ=京都府南部)越中(えっちゅう=富山県)の守護を務め、足利将軍家の一門でもあり、室町幕府の三管領家(さんかんれいけ=幕府管領職(将軍の補佐役)をこなす三家:細川&斯波&畠山)の一つというスゴイ家柄・・・この時期、未だコレという突出する武将がいなかった大和地域では、それぞれの畠山家を支持する諸将が、応仁の乱さながらに東西に分かれて入り乱れ、反目を繰り返していたのです。
(大和衆の関わった応仁の乱の前哨戦=高田城の戦いは10月16日を参照>>)

しかし明応八年(1499年)10月、
大和の武士たちは「これではイカン!」と気がついた・・・

同じ大和の者同士で争い合うバカバカしさを悟った彼らは、それぞれの派閥トップである筒井(つつい)越智(おち)の間で10月27日に和議が結ばれた事をキッカケに、河内の争いを大和に持ち込まない事を約束し、今後は、大和を平和に導く事を誓い合ったのです。

残念ながら、古市(ふるいち)だけは、その合意に加わりませんでしたが・・・ま、この古市澄胤(ふるいちちょういん)は、去る明応二年(1493年)に山城の国一揆(12月11日参照>>)を鎮圧した事で大出世を遂げたうえ、時の管領=細川政元(ほそかわまさもと=応仁の乱東軍大将の細川勝元の息子)にも通じていたので、大和の国人衆の中でも一歩抜け出た雰囲気・・・なので「俺はお前らみたいなんとはツルまへんで~」てな感じだったのかも知れません。

ところが、「まだまだ河内の争乱に大和衆の勢力が必要だ」と思っていた政元が、今回の大和衆の合意に激おこ・・・大和の分裂を図るべく、配下の赤沢朝経(あかざわともつね=澤蔵軒宗益)を大和へ差し向けたのです。

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京軍の大和侵攻・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、朝経率いる数千の京軍が大和に隣接する南山城(みなみやましろ=京都府相楽郡付近)に押し寄せたのは12月12日・・・16日には、早くも、歌姫越えで大和に入り、秋篠村(あきしのむら=奈良県奈良市秋篠町)へ侵攻します。

迎える秋篠氏は、本拠の秋篠城(秋篠平城)に籠って徹底抗戦の構えを見せます。

この秋篠氏は、古代の渡来系埴輪作り集団=土師(はじ)の末裔とされる人物が、平安時代の初期に移り住んだ地名にちなんで秋篠安人(あきしののやすひと)と名乗ったのが始まりと言われますが、いずれかの頃からは、興福寺一乗院方の衆徒となっており、同じく興福寺に属していた筒井氏とは旧知の仲・・・ここ秋篠城には、筒井氏をはじめとする面々が籠っていたのです。

激しい戦闘が起こったのは、明応八年(1499年)12月18日でした。

大和衆の中で京側についた古市の軍を先頭に、大軍で押し寄せた京軍に対し、大和側は筒井に秋篠に宝来(ほうらい)超昇寺(ちょうしょうじ)といった弱小連合軍であったため、未だ全軍の統率がとれておらず・・・

逆に、一方の京軍は、その後ろ盾による武器の準備も万全なうえ兵糧の補給路などもすでに確保澄み・・・それゆえの士気の高さは最高潮です。

それでも、午前10時頃から始まった合戦では、大和勢も奮起して戦い、迎撃の軍勢を2度3度と繰り出して精一杯戦いますが、約6時間の戦闘の末、午後4時頃には、さすがの大和勢も疲弊し、まもなく、秋篠城は陥落しました。

敗れた者たちは散り々々に逃げ去り、勢いづいた京軍は、近くの法華寺(ほっけじ=奈良県奈良市法華寺町)喜光寺(きこうじ=奈良県奈良市菅原町:菅原寺)などの堂塔や僧坊に乱入し、破壊と略奪の限りを尽くし、しばらくの間奈良で大暴れしたのだとか・・・

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東大寺大仏殿のモデルとされる喜光寺本堂
(喜光寺への行き方は本家HP:奈良歴史散歩「西の京」のページでどうぞ>>)

その後、文亀元年(1501年)に、朝経は、古市と越智そして河内の遊佐(ゆさ)を、改めて大和の代官に任命して、一応の落ち着きを見せるのですが、やはり、「大和は大和武士の手で治めるべき」という考えが消える事は無く、永正二年(1505年)に再び、大和の国衆の間で盟約が成立したりしますが、翌年の3月には、またもや朝経率いる京軍が侵攻・・・

と、とにもかくにも、この間、春日大社(かすがたいしゃ)の御神木を持ち出して抗議したり、京軍の守りが手薄になる頃合いを見計らっては、手を変え品を変え場所を変え、メンバーも入れ替わったりしつつ、ゲリラ的活動を続けて行く大和の国衆たちと、それを鎮圧すべくやって来る京軍の戦いが続く事に・・・(9月21日参照>>)

しかし・・・
やがて、この堂々巡りな戦いが終わる時がやって来ます。

それは永正四年(1507年)・・・細川政元&赤沢朝経率いる京軍が、若狭(わかさ=福井県西部)丹後(京都府北部)の守護を務める若狭武田氏の第5代当主=武田元信(たけだもとのぶ)のピンチを聞きつけ、武田と対立する一色義有(いっしきよしあり)を攻めていた時、天皇からの帰京命令に、慌てて京都へと戻った政元が、自らの養子同士の後継者争いに巻き込まれて6月23日に暗殺(6月23日参照>>)・・・

その3日後の6月26日には、攻撃のさ中に、政元の死を知って京に戻ろうとした赤沢朝経も、不穏分子である丹後の国衆が起こした一揆によって命を落としてしまったのです。

こうして、大和侵攻のおおもとであった細川政元と、当事者であった赤沢朝経が、相次いで亡くなった事で、京軍からの脅威が無くなった大和の地・・・

これで、やっとこさ、大和の諸将は、自らの本拠地に戻って、領国の治世に力を注ぐ事ができる日々がやって来るわけです。

とは言え、世は戦国・・・奈良とて他者の影響を受けずにスルーし続けられるはずもなく、やがて、この大和の地も戦国の波に呑まれていく事になります。
天文十五年(1546年):貝吹山城攻防戦>>
永禄八年(1565年):筒井城攻防戦>>
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2017年12月13日 (水)

戦国の幕開け~将軍・足利義材による六角征討

明応元年(1492年)12月13日、足利義材による六角高頼の征討が終わり、義材が帰京の途につきました。

・・・・・・・・・・・

そもそもは・・・
さっさと将軍を辞めて趣味の世界に生きたい第8代室町幕府将軍の足利義政(あしかがよしまさ)が、仏門に入っていた弟=足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)を呼び戻して次期将軍に指名したものの、その途端に正室=日野富子(ひのとみこ)との間に男の子=足利義尚(よしひさ)が生まれちゃって・・・そうなると、当然わが子を将軍にしたい富子と、指名されちゃってヤル気満々の義視が対立。

そこに、畠山(はたけやま)やら斯波(しば)家やらの管領家の後継者争いが絡んだ事で日本全国の武将を東西に分ける大乱となってしまったのが、あの応仁の乱・・・(5月20日参照>>)

最初こそ激しいものの(5月28日参照>>)、途中からは、なかなかのグダグダ感を醸し出しつつ(11月13日参照>>)、結局、西軍大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)(3月18日参照>>)&東軍大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の両巨頭の死を以って、文明九年(1477年)、約10年に渡る大乱は幕を閉じました(11月11日参照>>)

その後、そもそもの渦中の人である義政は、文明十四年(1482年)に将軍職を息子の義尚に譲る事を表明・・・この間に、もう一方の渦中の人である義視は美濃(みの=岐阜県)へと亡命して行きました。

そんなこんなで父の後を受け継いだ若き第9代将軍=義尚・・・彼に課せられた使命は、まずは世紀の大乱で失墜していく室町幕府将軍の権威を、少しでも回復させる事

それには、応仁の乱のゴタゴタに乗じて、武力で以って好き勝手やり始めた者を、足利将軍家の威力で以って抑えなければ・・・実は、この混乱に乗じて近江(滋賀県)南部の戦国大名=六角高頼(ろっかくたかより)が、武力で以って近江内の公家領や寺社領を占拠し続けるという暴挙に出ていたのです。

公家や寺社からの依頼を受けた義尚は、長享元年(1487年)、有力武将を従えた約2万の軍勢で以って六角氏の本拠=を攻撃して高頼を敗走させますが、高頼は、配下の甲賀武士の所に逃げ込み、彼らとともにゲリラ戦を展開・・・(12月2日参照>>)

そして、1年半にも渡るこのゲリラ戦のさ中、義尚は近江(まがり・滋賀県栗東)陣中にて、25歳の若さで病死してしまうのです(3月27日参照>>)

その死を受けて、第10代将軍となったのが、父=義視とともに美濃にいたその息子=足利義材(よしき=後の義稙)・・・息子を失った義政&富子の推薦での将軍就任という事もあり、当然、義尚の遺志をついで、彼もまた、六角氏と戦う事になります。

延徳三年(1491年)、高頼の追討命令を諸国の武将に発し、時の天皇=第103代後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)からの征討綸旨(りんじ=天皇家の命令書)も賜った義材は、8月27日、軍を率いて京を出立し、まずは三井寺(みいでら=滋賀県大津市・園城寺)に陣取ります。

これを知った高頼は、舞い戻っていた自身の本城=観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)をアッサリ捨てて、またもや甲賀の山中へ、その身を隠します。

この間、将軍自らの出陣にビビッって義材側に降る者、あるいは、個々の攻撃にて砦を落とされる者など、様々な小競り合いが勃発しつつも、甲賀山中に拠る高頼は、配下の者と連絡を取りつつゲリラ戦を展開していくのですが・・・

Syougunyoshikirokkakuseitou
足利義材の六角征討関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな中、年が明けた明応元年(1492年=実際には7月19日に延徳四年より改元)5月、飯道寺(はんどうじ=滋賀県甲賀市)に拠った高頼は、諸所の防備をさらに固める一方で、密かに北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極高清(きょうごくたかきよ)に援軍を求めて、幕府軍の混乱を図ろうとします。

この要請を受けて、市原谷から八風峠(はっぷうとうげ=三重県三重郡~滋賀県東近江市)まで出張って来る京極軍・・・この状況に義材は、自軍を2手に分け、一つは甲賀の高頼に備えつつ、主力部隊を市原谷に向けて進撃させました。

義材より、この合戦の大将を任された赤松政則(あかまつまさのり)は、9月15日に野洲川(やすがわ)沿いの立入(たていり=滋賀県守山市)から、浦上則宗(うらがみのりむね)桐原(きりはら=滋賀県近江八幡市)から、蒲生野(こもうの=滋賀県東近江市)を越え、17日には芝原(しばはら)に到着し、ここでぶつかった京極勢を蹴散らし甲津畑(こうづはた=同東近江市)まで進出します。

さらに幕府軍の一手は八風峠付近に火を放ち、近くの永源寺(えいげんじ=滋賀県東近江市)を焼き払います。

この勢いに耐えきれなくなった京極軍は退却・・・赤松政則は土岐成頼(ときしげより)に京極の追撃を命じ、自らの本隊は陣所へと帰還しました。

この京極軍の退却によって敗戦の色濃くなった高頼は、甲賀山中にて甲賀武士に守られながらも、より安全な場所を求めて、鈴鹿(すずか)を越えて伊勢(いせ=三重県北中部)へと逃走・・・これに前後して将軍=義材は、朽木貞綱(くつきさだつな=佐々木貞綱)の息子で六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟?)の養子となっていた虎千代高頼に代わる新しい近江守護として任命して統治に当たらせる事に・・・

これで、「近江には新守護を配置して高頼が去った」という事で、明応元年(1492年)12月13日、義材は金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市)に置いていた自らの本陣を払い、帰京の途についたのでした。

しかし、この状況・・・お気づきの通り、ただ、事が沈静化しただけで、六角高頼自身を征伐したわけではありません。

つまり、これは・・・
「義尚&義材=二人の将軍が自ら軍を率いたにも関わらず、近江の一大名さえ討ち滅ぼす事ができなかった」
という結果なわけで、ここで義材が陣を払った事は、むしろ足利将軍家の力不足をまざまざと見せてしまった事になるわけで・・・

応仁の乱を経ても、まだ何とか保っていた室町幕府将軍の権威が、ここから、見事に崩れていく事になります。

なんせ、義材の帰京を知った六角軍の諸将は、結局その後、もといたそれぞれの領地へと復帰してしまうのですから・・・

結果的に、今回の将軍=義材による六角征討は、戦国の幕開けとなった出来事と言えるかも知れません。

ちなみに、関東での戦国の幕開けと言える北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)による「伊豆討ち入り」は、この前後年=延徳三年(1491年)もしくは明応二年(1493年)の事とされます(10月11日参照>>)

近畿も関東も・・・そろって、戦国時代に突入!!ですな。
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2017年12月 7日 (木)

家康愛刀「ソハヤノツルキ」の持ち主~斎藤妙純の最期

明応五年(1496年)12月7日、近江の六角高頼を攻めた斎藤妙純父子が、土一揆に襲われて死亡しました。

・・・・・・・・・・・・

斎藤妙純(さいとうみょうじゅん=利国)は、美濃(みの=岐阜県)守護代だった斎藤利永(としなが)の次男で、叔父である斎藤妙椿(みょうちん)の養子となって、妙椿の家系である持是院家(じぜいんけ)を継いでいます。

応仁の乱の際には、西軍として、養父=妙椿とともに伊勢周辺に出兵し、この乱のドサクサで多くの領地の切り取りに成功・・・この頃には、すでに美濃守護である土岐成頼(ときしげより)の上を行く勢力を持っていたと言われています。

しかし、応仁の乱後に妙椿が死去すると、残された領地を巡って、異母兄の斎藤利藤(としふじ=利永の長男)と妙純との間に争いが勃発します。

まぁ、長男の利藤にしてみれば、父の死後に守護代を継いだのは自分なのに、実際には叔父の妙椿に実権を握られて抑えつけられたあげく、妙椿が死んだと思いきや、今度は実弟が仕切るんかい!てな感じでしょうか?

結局、合戦にまで発展した兄弟ゲンカは、妙純が勝利し、負けた利藤は六角氏を頼って亡命・・・後に和睦して美濃守護代に帰り咲きますが、もはや、実権を握るのは妙純だったわけで・・・

そんなこんなの明応四年(1495年)、今度は、美濃守護の土岐成頼の後継者を巡っての争いが勃発します。

成頼が、「自らの後継者を嫡男の政房(まさふさ)より、末息子の元頼(もとより)に継がせたい」と言いだしたのです。

成頼の意向を知った兄=利藤は「ここが挽回のチャンス!」とばかりに、政房を奉じる弟=妙純に対抗して元頼を奉じ、妙椿の家臣だった石丸利光(いしまるとしみつ)を味方に引き入れて、妙純排除を画策します。

これが妙純VS石丸利光の船田合戦(ふなだがっせん)・・・これが、利光と姻戚関係にあった織田敏定(おだとしさだ=信長の曽祖父?)や利藤を保護した六角高頼(ろっかくたかより=承禎の祖父)、かたや妙椿の娘婿であった朝倉貞景(あさくらさだかげ=義景の祖父)京極高清(きょうごくたかきよ=高次の祖父)などを巻き込んでの大きな合戦となったのです。

明応四年(1495年)3月から翌明応五年(1496年)6月まで続いた船田合戦ではありましたが、最後の最後に城田寺城(きだじじょう=岐阜県岐阜市城田寺)に追い詰められた利光が、自らの切腹と引き換えに、ともに城に籠っていた主君=成頼と利藤の息子の助命を願い出て、元頼とともに自殺・・・こうして、1年3ヶ月に渡る合戦が終結しました。

しかし、おおもとの合戦が終結しても、そのまま納まらなかったのが、それぞれの援助者たちのギクシャク感・・・

妙純は、京極高清と連携して、石丸方に味方した六角高頼を討つべく、六角氏のお膝元である近江(おうみ=滋賀県)に出陣します。

この動きを察知した高頼は、自らの金剛寺城(こんごうでらじょう=滋賀県近江八幡市金剛寺町)とともに諸所にある支城や砦の再構築を行いつつ、高島(たかしま=滋賀県高島市)朽木材秀(くつきえだひで=直親)蒲生貞秀(がもうさだひで=秀郷の高祖父)などに出陣を要請して合戦の準備を整えます。

かくして船田合戦終了から4ヶ月後の11月6日、数千の兵を率いて破竹の勢いで国境を越えた妙純は、周辺に火を放ちながら進軍し、またたく間に蒲生郡(がもうぐん=滋賀県蒲生郡)一帯が焦土と化します。

勇ましく防戦を展開する六角勢ではありましたが、斎藤勢の勢いはハンパなく・・・やがて高頼は金剛寺城に、蒲生貞秀は日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町・中野城とも)にと、ともに居城に追い詰められ、両者とも籠城戦に突入します。

まだまだ蒲生平野に火を放ちながら、やがて日野城を包囲した斎藤勢・・・しかし、これがなかなか強い!

囲まれ、攻められながらも奮闘する日野城兵は、攻める斎藤勢を1000人ほど討ち取り、その勢いで撃って出て、逆に追撃をかけるほどの奮闘ぶり・・・やむなく斎藤勢は、作戦変更して日野城を諦め、高頼の金剛寺城をターゲットとしますが、こちらもなかなか強く、容易に落とす事ができませんでした。

仕方なく、兵を退き始める斎藤軍・・・それを見た高頼は、城を出て追撃を開始して50余人を討ち取りますが、一方の六角方の被害も大きく、この日の戦いはここまで・・・

その後も、しばらくの小競り合いが続きましたが、やがて合戦開始から1ヶ月ほど経った明応五年(1496年)12月7日、こう着状態に終止符を打つべく、両者の間で講和の話が持ち上がり、船田合戦からの流れを汲んだ、この日野口(ひのぐち)の戦いは、ここに終結するのです。

こうして和睦を成立させ、陣を明け渡す事になった妙純・・・しかし、この一瞬を、諸所の六角と郷土民たちが襲います。

長期の侵攻や地元を焦土とされた事に不満を抱いた郷民たちの土一揆・・・妙純は、これらを何とか防ぎつつ、なんなら、一揆に加勢する日野勢への攻めに転じる様相を見せますが、なんせ、一揆はその人数がハンパ無い・・・

相手は一揆の烏合の衆とは言え、明らかに不利な動員人数・・・自らが囲まれた事を察した妙純は、息子の斎藤利親(としちか)とともに、ここで自害するのでした。

『大乗院寺社雑事記』では斎藤方74人が自害
『後法興院記』では千人以上の斎藤方が、この一揆の襲撃で戦死したと記録されています。

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観音寺城跡=観音正寺より南西方面を望む

この時、妙純と連携して観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)まで出張って来ていた京極高清は、妙純の死を知り、慌てて夜陰に紛れ、船で琵琶湖を渡って湖西へと出た後、本拠の江北(こうほく=北近江)へと戻ったと言います。

また、妙純の苦戦を聞いて援軍を出した朝倉貞景も、やはり江北のあたりで、妙純の死亡と高清の敗走を知り、本国の越前(えちぜん=福井県)へと戻っていきました。

猛将と言われた斎藤妙純のあっけない最期・・・

後に、妙純の孫に当たる斎藤利良(としなが)が病死した時、その名跡を継いで斎藤新九郎利政(としまさ)と名乗ったのが、あの美濃のマムシこと斎藤道三(さいとうどうさん)です。(道三の経歴については諸説ありますが…)

ところで、余談ではありますが・・・
現在、重要文化財に指定され、徳川家康(とくがわいえやす)の遺言に従って久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう=静岡市駿河区)に安置されている「革柄蝋色鞘刀(かわづかろいろさやかたな)という名刀があります。

この刀は、天正十二年(1584年)頃に、家康が織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)から譲り受けた物で、家康が生涯で最も愛し、常に身につけ、その死の直前に振りまわした(4月17日参照>>)、あの刀だとされているのですが、この刀の指裏(腰に差した時に体側になる面)には「妙純傳持」「ソハヤノツルキ」、反対側の指表には「ウツスナリ」と刻まれているとか・・・

「ソハヤノツルキ」とは、平安の昔に征夷大将軍となって蝦夷(えぞ)を平定した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(7月2日参照>>)の愛刀で清水寺(きよみずでら=兵庫県加東市)が所蔵する騒速(そはや)の事で、「ウツスナリ」は、その刀の写しという事、

そして、「妙純傳持」は、それを斎藤妙純が持っていたという意味です。

そんな刀を、家康は、自らが最も警戒する西国=西に、「その切っ先を向けて安置せよ」と遺言したのです・・・もちろん、自分の死後も、徳川を永遠に守るために・・・

そこには、田村麻呂の武勇とともに、彼に勝るとも劣らない斎藤妙純という武将への敬意と憧れがあったと思えてなりません。
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2017年12月 1日 (金)

秀吉の中国攻め~黒田&竹中=二兵衛が迫る福原城の戦い

天正五年(1577年)12月1日、信長の命を受けた秀吉の中国攻めの福原城の戦いで、福原則尚の福原城が開城されました。

・・・・・・・・・・

元亀四年(天正元年=1573年)7月に、第15代室町幕府将軍足利義昭(あしかがよしあき)槇島城(まきしまじょう)を攻撃し(7月18日参照>>)、続く8月に越前の朝倉と北近江の浅井を倒し(8月28日参照>>)、翌・天正二年(1574年)に長島一向一揆をせん滅し(9月29日参照>>)、さらにその翌年の天正三年(1575年)5月に、あの武田を長篠で撃ち破った(5月21日参照>>)織田信長(おだのぶなが)・・・

その年の11月に、これまで本拠としていた岐阜城美濃(岐阜県)尾張(愛知県西部)2国の家督を、嫡男の織田信忠(のぶただ)に譲り(11月28日参照>>)、翌・天正四年(1576年)の2月から安土城の築城に取りかかった(2月23日参照>>)信長は、この時点で、日本の中央部を抑えつつありましたが、そんな中で、信長とって気になる存在越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と、安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと)でした。

どちらも、誰もが一目置く大大名ですので、これまでは、お互いを尊重し、表向きには争わない雰囲気を醸し出していましたが、ここに来て、北陸へと手を伸ばした謙信(3月17日参照>>)が、すでに元亀元年(1570年)から信長とは石山合戦を展開中(9月12日参照>>)の本願寺第11代・顕如(けんにょ)と和睦した事(5月18日参照>>)、また、畿内を追われた義昭が毛利を頼った事、などから、上杉&本願寺&毛利という三者の共通の敵が信長~という状況に・・・

この天正四年(1576年)の7月には、信長勢の警戒を破って毛利傘下の村上水軍が顕如の籠る石山本願寺に兵糧を運び込む事に成功する第一次木津川口海戦(7月13日参照>>)もありつつ、刻々と迫りくる謙信の影も・・・(8月14日参照>>)

そんな中で、織田家内では、
北陸方面を柴田勝家(しばたかついえ)(9月18日参照>>)
山陰方面を明智光秀(あけちみつひで)(10月29日参照>>)
伊勢方面を織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)(11月25日参照>>)
などに担当させる中、
西国の雄=毛利と対峙する山陽方面を担当させたのが羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)でした。

Kurodazyosui500 この時、播磨(はりま=兵庫県南西部)御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)主の寺政職(こでらまさもと)の家臣=黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)など、いち早く味方についてくれる(11月29日参照>>)者もいましたが、一方で、毛利の色濃い備前(びぜん=岡山県南東部)との国境に近い西播磨の国衆たちは、やはり毛利への思いが強く、そう簡単に織田方の秀吉へなびこうとはしなかったのです。

そんな中の一人が上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)赤松政範(あかまつまさのり)でした。

Takenakahanbee600 天正五年(1577年)11月27日、能見川(のうみがわ=千種川支流)を渡った秀吉は、この上月城へと攻撃を仕掛けるのですが(11月29日参照>>)、それと同時に、周辺の支城を落とす多面的作戦を展開・・・自らの本隊は、上月城正面の仁位山(にいざん=兵庫県佐用町)へと向かう一方で、かの黒田官兵衛と竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)ら2千余騎を福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)へ派遣したのです。

実は、この時、福原城にいた高倉山城(たかくらやまじょう=同佐用町)主=福原助就(ふくはら すけなり)は、福原城主の福原則尚(のりひさ)とは同族であり、未だ信長に従わぬ宇喜多(うきた)(10月30日参照>>)の家臣であると同時に、上月城の赤松政範の妹婿でもあった関係から、今回の秀吉の進軍に対しては、かなり強い抵抗を抱いていたわけです。

Fukuharazyoynotatakai
福原城の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『播州佐用軍記』によれば、
翌・11月28日、千種川(ちくさがわ=兵庫県南西端部を流れる)上津の渡しから川を渡った竹中軍は、福原城内から撃って出た福原方の兵により、かなり多くの犠牲者を出しつつも、何とか福原軍を城内へと追い込みます。

その後、ただちに周辺の山麓に火を放って、あぶり出しの総攻撃にかかりますが、この作戦は失敗に・・・

ここで、本隊から加勢にやって来た蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)が猛攻撃を仕掛けますが、やはり福原城を落とす事はできず・・・

とは言え、上記の通り、すでに敵を城内へ追い込み、そこをネズミ一匹逃がさぬ状態で包囲は完了しているわけで・・・ならば、このまま、長期に渡る籠城戦=兵糧攻めに持ち込むべきか?

との案も浮上しますが、そんなこんなの天正五年(1577年)12月1日、搦(から)め手からの鉄砲一斉射撃を開始した蜂須賀勢勢に歩調を合わせるように、大手を攻める黒田軍&竹中軍も一斉射撃を開始・・・

これを受けた城内では大手と搦め手の応戦に手勢を分散せねばならないばかりか、これまでの連日に渡る射撃攻撃に応戦していたため、今回の二刻ほどの一斉射撃に応戦している間に、城内の弾薬が尽きてしまう事態に・・・

この状況に浮き足立つ城内・・・その様子を見て取った黒田官兵衛の采配のより、黒田軍が一気に城内へと突入し、福原城の開城を成功させたのです。

この時、孫子(そんし)の兵法『囲師(いし)には必ず闕(か)き』「囲む時は逃げ道を作っておく」(本家HP:孫子の兵法「軍争編」参照>>)を実践した官兵衛によって用意された一方向の逃げ道に敗走の兵士が殺到する中、同じく脱出を図った助就は、潜んでいた伏兵に追い詰められて自害したとも、秀吉方の平塚為広(ひらつかためひろ)なる武将に討ち取られたとも言われます。

また、別の説では、高倉山を守っていた赤松の兵が、秀吉本隊の猛威に恐れをなして戦線離脱してしまったために、助就が、その高倉山城を救援に向かうべく福原城を出たところで、竹中軍と遭遇・・・激戦となってしまい、高倉山に向かう事を断念した助就は、福原城内へと戻って自害したとも伝わります。

いずれにしても、この日の戦いによって福原城は開城となり、助就が命を落とした・・・という事は確かな事だと思われます。

この間、秀吉本隊の猛攻を受けていた上月城では、翌・12月2日に敵陣に夜襲をかけるも失敗・・・コチラは12月3日に陥落し、尼子氏(あまこし)の再興を願う山中鹿之介(やまなかしかのすけ・幸盛)(7月17日参照>>)に、この上月城の守りを任せた秀吉は、更なる三木城攻防戦へと向かう事になります。

この後の出来事の参照ページ
三木の干殺し~別所長治の籠城戦>>
信長に見捨てられた上月城>>
山中鹿之介奮戦!上月城の攻防>>
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2017年11月24日 (金)

三好長慶に衰退の影迫る~将軍地蔵山の戦い

永禄四年(1561年)11月24日、三好義興松永久秀とともに山城勝軍地蔵山に布陣中の六角義賢に攻めた将軍地蔵山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後の混乱する主導権争いに打ち勝ち、畿内に政権を樹立した細川晴元(はるもと)・・・もちろん、政権樹立と言っても、時は室町時代なので、晴元は管領で時の将軍は第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)だったわけですが。。。

その晴元の天下取りに貢献した重臣が三好元長(みよしもとなが)でした。

しかし、もともとの晴元が義晴の弟=足利義維(よしつな=義晴の弟)を擁立していたにも関わらず、政権を握った途端にアッサリと捨てて、それまで敵対していた義晴に乗り換えた事に不満を持った元長が晴元に反発・・・結局、元長は享禄五年(1532年)に無念の死を遂げました。(7月17日参照>>)

Miyosinagayosi500a 父の死を受けて、わずか11歳で家督を継いだ三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、おそらくは「自分自身が未だ若過ぎる」と判断してか?しばらくは晴元の従順な家臣として仕えますが、やがて28歳となった天文十八年(1549年)6月、弟たちとの見事な連携プレーによる江口の戦いにて、晴元&彼に味方する三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟らに勝利し、彼らを近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させて畿内を掌握します(6月4日参照>>)

これによって、自らは芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)に拠ったまま、重臣の松永久秀(まつながひさひで)を京都所司代として都の治安維持に当たらせる長慶・・・

この頃には、すでに義晴と晴元は分裂状しつつありましたが、そんな中で坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴が病死すると、第12代=足利義輝(よしてる=義晴の息子)が将軍職を継ぎ、近江守護の六角義賢(よしかた=承禎)らと組んで、対三好の京都奪回作戦を展開していきます(2月26日参照>>)

そんなこんなの永禄元年(1558年)6月の白川口の戦い(北白川の戦い)後の和睦交渉をキッカケに(6月9日参照>>)将軍=義輝は長慶と和解して5年ぶりに京都へと戻るものの(11月27日参照>>)、晴元は近江に留まり、しばらくの間は、反三好の姿勢を崩しませんでした。

もともとの出身地だった阿波(あわ=徳島県)讃岐(さぬき=香川県)に加え、摂津(せっつ=大阪府北中部・兵庫県南東部)の国人たちをも傘下に入れ、都も掌握し、もはや関東の北条氏に勝るとも劣らない・・・いや、都も、そして畿内も抑えた分、事実上の天下人となった長慶・・・

しかし、そんな三好家にも、間もなく陰りが見え始めます。

そのキッカケとも言うべき出来事が、「鬼十河(おにそごう)なる異名で恐れられていた長慶の弟=十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入っていた)の死でした。

もちろん、この「恐れられていた」というのは「怖い」という意味では無く、「武将としてスルドイ」という意味ですが、それだけ長慶にとっては重要な右腕だった弟が、永禄四年(1561年)の3月、湯治先の有馬温泉で突然亡くなってしまったのです(5月1日参照>>)

一般的には病没とされますが、あまりに突然だったため、落馬説や暗殺説もあり・・・しかも、この有馬行きに同行していたのが、かの松永久秀であった事、また、この後、三好家に立て続けに不幸が起って衰退の一途をたどる事から、軍記物などでは、久秀を「主人殺しの悪党」とする物もあるくらい・・・

かと言って証拠はどこにも無いので、あくまでその噂は、三好家が衰退した後に活躍する久秀の姿ありきの「推理小説の基本=1番得をした者が犯人」的な論理の域を超えない物なのでしょうが・・・(松永久秀については10月3日参照>>)

その犯人探しは別の機会にさせていただくこととし、
とにもかくにも、この優秀な弟の死で片翼をもがれた形になった長慶・・・これをチャンスと見た六角義賢は、すでに出奔して力を失くしていた晴元に代わって、その息子の細川晴之(ほそかわはるゆき=晴元の次男)を看板に掲げて、三好家に対抗するのです。

永禄四年(1561年)7月28日、同じくここをチャンスと見て亡き十河一存の城=岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)にチョッカイを出していた畠山高政(はたけやまたかまさ=畠山政長の曾孫)と連携した六角義賢は、将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に籠って、長慶側の三好義興(よしおき=長慶の嫡男で嗣子)と対峙するのです。

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●位置関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

義賢自身は、神楽岡(かぐらおか=京都府京都市左京区吉田)に陣取り、馬淵(まぶち)源左衛門蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)永原安芸守(ながはらあきのかみ)らを一軍の将として上洛をうかがいます。

これを受けた三好側では、松永久秀が兵を率いて出陣し、義興勢と連携して六角勢と対陣・・・7月から11月下旬までは、お互いに遠矢(とおや=弓矢による遠距離戦)での交戦程度でありましたが、永禄四年(1561年)11月24日、六角勢のスキを突いた三好勢が白川口(北白川付近)に来襲し、永原&細川の陣営に襲いかかったのです。

勢いに乗じて、ここを突破した三好勢は、馬淵の陣へと迫り、激戦・・・三好軍の将であった三郷修理亮(しゅりのすけ)が馬を刺されて、人馬もろとも転倒し、そこを堀伊豆守(ほりいずのかみ)なる武将が襲いかかって首を討ち取りますが、一方の細川勢にも多くの死者が発生して乱戦に次ぐ乱戦。

そんな中、永原安芸守を討ち取った松永勢は、そのまま将軍山城を突破し、六角義賢の本陣=神楽岡へ1万の軍勢で以って突入します。

そこで六角方では、家臣の三雲定持(みくもさだもち)に命じて、川守城(かわもりじょう=滋賀県竜王町川守・野寺城)の城主=吉田出雲守(よしたいずものかみ)の門下生で日置流弓術(へきりゅうきゅうじゅつ)の名手300余名を選出して高所に陣取らせ、タイミングを見計らって一斉に松永勢に向けて射撃させたのです。

思わぬ攻撃に多くの犠牲者を出してしまった松永軍・・・やむなく、ここで敗走に転じます。

これを見た義賢はすぐに、逃げる松永勢を追撃しようとしますが、蒲生賢秀が
「今のは、タイミングが良く、ゲリラ戦的な形でウマくいきましたけど、寡兵(かへい=少ない兵)で以って大軍を追撃したなら、いずれ、こっちがヤバなりまっせ」
と進言・・・これ以上の深追いは止め、この日の戦いは終わりました。

結局、この戦いは三好家にとっては負け戦となってしまいましたが、一方の六角方でも、義賢に担がれた細川晴之がこの戦いで戦死したとされ、まだまだ三好政権の大勢に影響を及ぼすほどでは無く・・・その後もガッツリと京都を掌握しつつ、義賢らとの攻防が続くのですが、前途したように、結果的には、このあたりから三好家の衰退が始まった事は否めません。

というのも、この戦いの翌年=永禄五年(1562年)の3月に起こった久米田(くめだ・大阪府岸和田市)の戦いにて、すぐ下の弟=三好義賢(よしかた=元長の次男・実休)が戦死・・・さらに翌年には息子の義興が、22歳の若さで病死・・・さらにさらにのその翌年の永禄七年(1564年)には謀反を疑い、2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす)を長慶自身が謀殺してしまうのです。

この、長慶による冬康殺害の要因も様々に語られますが、実のところは、義賢の戦死の後くらいから、長慶はうつ病にかかっていて籠りがちになり、ちゃんとした判断ができていたのかが微妙だったようで、この頃から実際に合戦に出陣して三好家の力となっていたのは松永久秀だったと言われています。

結局、その冬康の死から、わずか2ヶ月後に長慶は亡くなり(5月9日参照>>)、十河一存の長男であった三好義継(よしつぐ)が、長慶の養子となって三好家を継ぎますが、未だ若い義継の権力地盤は弱く、彼を補佐する松永久秀と三好三人衆三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)らが、三好家の実権を握る事となったうえ、そんな彼らも一枚岩とは言い難く・・・(11月18日参照>>)

そんな時に京都へとやって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・という事になります。
【織田信長の上洛】参照>>
【信長の前に散る三好三人衆】参照>>)
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