2018年7月10日 (火)

堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説

元和九年(1623年)7月10日に第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠が、その約1ヶ月後の8月18日に第3代将軍に就任した徳川家光堺・南宗寺を参詣しました。

・・・・・・・・・・・

大阪にある南宗寺(なんしゅうじ=大阪府堺市堺区)臨済宗大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)のお寺で、もともとは南宗庵(なんしゅうあん)と呼ばれていた(いおり)を、その3代目法嗣(ほうし)となっていた大林宗套(だいりんそうとう)に帰依した三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)が、無念の死を遂げた父=三好元長(もとなが)(7月17日参照>>)を弔うために壮大な伽藍を建てて、その名を南宗寺としたのが始まりです。

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南宗寺の坐雲亭

その境内に、現存する建物としては最古の物とされる坐雲亭(ざうんてい)という下層が茶室となっている2階建ての建物があるのですが、この建物の内部に、
「征夷大将軍徳川秀忠公 元和九年七月十日  御成」
「征夷大将軍徳川家光公 同年八月十八日  御成」

(現物は非公開です)
てな事が書かれた板額があるのです。

徳川秀忠(とくがわひでただ)家光(いえみつ)父子は元和九年(1623年)の6月に上洛し、7月27日に伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)にて将軍宣下を受け、晴れて家光が第3代将軍となっていますので、まさに、その交代の時期にやって来た事になりますが・・・

Dscn0947a600 ところで、この南宗寺の一角には、「葵」の紋が描かれた瓦(←)がズラリと並ぶ回廊に囲まれた部分があります。
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実は、この回廊の内側には文政年間(1818年~1831年)に建立されたとされる東照宮(とうしょうぐう)があったのです。

Dscn0946a600 残念ながら太平洋戦争の空襲により焼失してしまい、今は「東照宮跡」の石碑(→)が建つだけになってしまいましたが、現在も、回廊とつながる南側に残る重要文化財の立派な唐門は、この東照宮にお参りするための物だったのです。

東照宮とは、ご存じのように、東照大権現(とうしょうだいごんげん)となった徳川家康(とくがわいえやす)を祀る神社で(4月10日参照>>)、現在では日光(にっこう)が有名ですが、江戸時代には全国各地に・・・当時は700社ほどあったと言われています。

大阪にも、この堺以外に、あの大塩平八郎の乱の時、皮肉にも幕府に刃向かう者たちの集合場所となった川崎東照宮(かわさきとうしょうぐう=大阪市北区)というのがありました(2月19日参照>>)

なので、江戸時代の南宗寺は、徳川家にとって重要な場所であった事は確かなのですが、上記の通り、秀忠&家光が参詣した時には、まだ東照宮は建立されていなかったわけで・・・

・・・で、ここで有名なアノ話・・・

この東照宮跡の北側に位置する開山堂(かいざんどう)の跡というところに、物議と妄想をかきたてる、「徳川家康の墓」と伝わる墓石があるのです。
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南宗寺の伝承によれば・・・
「大坂夏の陣、最後の戦いとなった慶長二十年(1615年)5月7日、天王寺茶臼山(ちゃうすやま=大阪市天王寺区)(4月14日参照>>)に本陣を構えていた家康でしたが、その日の天王寺口の戦いで、大坂方の毛利勝永(もうりかつなが)(2015年5月7日参照>>)真田幸村(ゆきむら=信繁)(2017年1月6日参照>>)に本陣間近まで迫られ、命の危険を感じて撤退を開始するのですが、敵にさとられぬよう、死者を運ぶ駕籠に乗って脱出します。 

しかし、逃げる途中に後藤又兵衛(ごとうまたべえ=基次)に見抜かれて追撃され、その槍に突かれてしまいます。 

とっさに持っていた布で槍の穂先についた血を拭い、相手に何事も無かったように見せかけたおかげで、確かに手ごたえがあったものの、血がついていない状況を見た又兵衛は、それ以上追撃して来る事は無かったので、そのまま、味方の町衆がいる堺にまで逃げて来たものの、南宗寺の前まで来た時に家臣が駕籠の中を確認すると、すでに絶命していたと・・・ 

やむなく、遺骸を南宗寺の軒下に埋葬して、後に、静岡の久能山(くのうさん)に埋葬し、さらに、ご存じの日光に至る」・・・と、

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徳川家康の墓とされる墓石

つまり、徳川家康が亡くなったのは、幕府公式記録にある元和二年(1616年)4月17日(4月17日参照>>)ではなく、慶長二十年(1615年)5月7日のここ堺であったものの、未だ江戸幕府が安定していない状態だったため、その死は隠され、後に別の日付で正式発表されたのだという事らしい。。。

この話は、『歴史ミステリー』的なテレビ番組でもやったりしてますので、ご存じの方も多かろうと思いますが、お察しの通り、この伝承には、いくつかのツッコミどころがあります。

まず、家康を仕留めたとされる後藤又兵衛は、前日の5月6日に道明寺(どうみょうじ=大阪府羽曳野市)の戦いにて戦死してしまっています(5月6日参照>>)

仮に、この家康と又兵衛の云々が前日の5月6日の戦い中に起きた出来事だったとしても・・・
この時、大坂を攻めるために、東からやって来る徳川軍は、大軍での生駒(いこま)山地越えが困難である事から、軍は、生駒の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指したのですが、又兵衛が戦った道明寺は大和口=松平忠輝(まつだいらただてる=家康の六男)を総大将にした本多忠政(ほんだただまさ=本多忠勝の息子)伊達政宗(だてまさむね)といった面々との戦いだった(4月30日参照>>)わけで、枚方方面を行った家康や秀忠と又兵衛は直接対決もしていないのです。

また、この堺自体も・・・
実は、同じく夏の陣の中の4月29日に起こった樫井(かしい・泉佐野市)の戦い(4月29日参照>>)の時に、豊臣方の大野治胤(はるたね=道賢・道犬)によって焼き打ちされ(6月27日参照>>)、堺の町はことごとく焦土と化していて、この南宗寺も瓦を残して、ほぼ焼失しまった事が記録されています。

しかも、その焼失した南宗寺の場所はここではないのです!
なんとお寺の由緒には、
「大坂夏の陣で焼失したため、当時の住職であった沢庵宗彭(たくあんそうほう)と堺奉行=喜多見勝忠(きたみかつただ)の尽力によって、元和五年(1619年)に現在の場所に再建された」
と書いてある・・・つまり、「大坂夏の陣の時点では、南宗寺は別の場所にあって、その後、ここに移転して来た」って事です。

大阪の陣の時の南宗寺が今とは違う場所だったなんて!!
「そら!完全にアウトですやん!」
と、言いたいところですが・・・

実は、この南宗寺の家康の墓には、まだ付録があります。

このお墓とされる石の右側・・・四角い石があるの見えますか?

この石・・・かなり古くなっているので写真(左)では見えにくいので、白文字で書き起こして(右)みますが・・・                          

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『無銘ノ塔 家康サン諾ス 観自在』
つまり「この名前の無い塔は家康さんの墓で間違いない」と書かれているのです。

で、コレを書いたのは山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)らしい・・・江戸時代には徹底的に伏せられいて、いつしかその場所がわからなくなっていた家康の墓を、幕末になって「南宗寺にある」と聞きつけた鉄舟が、第15代将軍=徳川慶喜(よしのぶ)の意向を受けて、資料調べと現地調査を行って、ここに書き残して行ったのだそうで・・・

つまり、幕府の公認を受けた事になりますが・・・
ただ・・・それにしては『家康サン』って書くかな??
普通『家康公』でしょ。

ちなみに、祖父=家康をリスペクトして止まなかった3代将軍の家光が、自身の心の支えとして常に持っていた直筆のメモには
『生きるも 死ぬるも みな 大権現さま次第に』
と書かれていたらしい・・・つまり、家光は家康の事を「大権現さま」と呼んでいたと・・・

普通、尊敬するご先祖様や主君を「サン」づけでは呼ばないですよね~

ただ、言葉ってのは変化しますからね~
たとえば、主君の「君」なんかも、
『君が代』の歌詞の元になったと言われている『古今和歌集』にある
♪我が君は 千代にやちよに
 さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで♪

でわかるように、この「君」とは天皇の事なのに、現在では、「○○くん」と呼んだり「きみは…」と言ったりすると、親しい同僚や目下の人に対して言ってる感じなるわけで・・・

そして「公」も、
家康公の「公」は、公人の「公」でもちろん敬意を表す言葉ですが、一方で、上から目線のさげすむ感じで、犬の事を「わん公」(今はカワイイ感じでワンコと言いますが)と言ったり猿を「エテ公」と言ったり、不良が、先生を「先公」とか警察を「ポリ公」とかって言い方したりする場合もあるわけで・・・

言葉という物は時と場合と昔と今でイロイロある・・・その場その場に立ち会わない限り「絶対に言ってない」と言いきれない物ですよね~

そんな中、最大に引っかかるのは、やはり、冒頭の秀忠&家光の連続参詣ですよ!

何たって、将軍宣下を挟んで前と後・・・

将軍を息子に譲って、これからは、父=家康がしたように大御所となって政務を行う
秀忠が元和九年(1623年)7月10日・・・

そして、将軍宣下を受け、
第3代将軍となった家光が8月18日・・・

まるで、その交代を初代に報告するかのような訪問は、何とも不可解さを感じます。

それを踏まえると、先の寺地移転お話にさえ信憑性が・・・

家康が寺の門前で絶命したので南宗寺に葬ったのではなく、家康が絶命した場所に南宗寺を移転させた・・・むしろ、ここが家康最期の地であるからこそ、わざとこの場所に南宗寺を持って来て、山門やら仏殿やらの大伽藍に整備し、さらに、その後には東照宮まで建てて・・・と、すべてが、この無銘の塔を守るために廻っていたと考える事もできるわけで~

ワォ!!!(゚ロ゚屮)屮
ミステリーですね~

個人的には、横にある碑文よりも、秀忠&家光の連続参詣の真偽の方が、よっぽど気になるんですけど・・・

いつか謎は解けるのでしょうか?
楽しみです。
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2018年7月 3日 (火)

本能寺直後~森長可の東濃制圧後半戦…加治田・高山・妻木城攻略

天正十年(1582年)7月3日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する加治田城を攻めました。

・・・・・・・・・

先日の【本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦】の続きのお話です。

くわしくは、その6月26日のページ>>でご覧しただくとして、おおまかな流れは・・・

Morinagayosi300a 天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)での武功により、主君=織田信長(おだのぶなが)から、武田の旧領のうち信濃(しなの=長野県)4郡(高井・水内・更科・埴科)海津城(かいづじょう=長野県長野市・現在の松代城)40万石を与えられた(3月24日参照>>)森長可(もりながよし)は、新領地の統治に取りかかりつつも、これを機に越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と結ぶ者も多かった事から、次に越後への侵攻を開始しますが、このタイミングで本能寺の変(6月2日参照>>) が起こって信長が死亡・・・敵地深く入っていた長可は窮地に立ちながらも、6月23日に何とか旧領地の美濃(みの=岐阜県)金山城(かねやまじょう=岐阜県可児市)へと帰還します。

しかしその間に、信長の死を知った東美濃では、米田城(よねだじょう=岐阜県加茂郡川辺町)肥田忠政(ひだただまさ)をはじめ、上恵土城(かみえどじょう=岐阜県可児郡御嵩町)今渡城(いまわたりじょう=岐阜県可児市今渡・金屋城)長谷川兄弟大森城(おおもりじょう=岐阜県可児市)奥村元広(おくむらもとひろ=又八郎)などが織田へ反旗をひるがえしていたため、帰還の翌日=6月24日から、これらの諸城を一つ一つ制圧して行くのです。

7月2日には米田城を陥落させますが、城主の肥田忠政が加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)へと逃走したため、これを追撃する事に・・・

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森長可の東美濃攻略戦~位置関係図(広範囲)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

さて・・・
本能寺の変当時の加治田城の城主は、あの斎藤道三(さいとうどうさん)の末息子=斎藤利治(さいとうとしはる=新五郎)でしたが、彼は、信長の嫡男で岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)主の織田信忠(のぶただ)の側近であったので、主君とともに籠った二条御所で討死してしまいます。

つまり、城主が亡くなってしまったので、その直後の加治田城は、利治の兄で城代の斎藤利堯(としたか)がトップという事になるのですが、その利堯も、この時は、やはり城主が留守の岐阜城の留守居役を務めていたらしく、どうやら伯父(母の兄)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)に同調して岐阜城を占拠して不動の構えを見せていたようで(6月8日参照>>)・・・

かつて肥田忠政が信長に降った際、所領を安堵された後、この利治の配下に組み込まれていますので、おそらくは、そんな忠政にとっては勝手知ったる加治田城へ逃げ込んだ・・・という事だったのでしょう。

一方、先の米田城とともに、すでに馬串山砦(まぐしやまとりで=岐阜県 美濃加茂市下米田)も占拠している長可・・・加治田城へと向かうには飛騨川(ひだがわ)を越えなくてはなりませんが、肥田忠政はは、その飛騨川を挟んだ、すぐ向こう側の牛ヶ鼻(うしがはな=岐阜県美濃加茂市森山町)に砦を構えて、川を渡って来る森勢をせん滅せんと陣取っていました。

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森長可の東美濃攻略戦~戦闘&位置関係図:後半戦

↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

天正十年(1582年)7月3日、牛ヶ鼻から川を挟んだ小山砦に陣取った森勢が、目の前の河岸から張り出した突起部分が砦となっている牛ヶ鼻に果敢にアタックする事で戦闘が開始されましたが、崖をよじ登ろうとして討たれる者や崖を踏み外して川に落ちる者多数で、初戦は失敗に・・・

しかし、なおも攻める森勢は、崖登りもそこそこに、とにかく川を渡って対岸に行き、砦を包囲します。

そうなると多勢に無勢・・・数に勝る森勢が徐々に勢いを増して来て、ついに砦を支えられなくなった加治田勢は、やむなく砦を放棄して加治田城方面へと逃走し、牛ヶ鼻と加治田城の中間にある堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)で態勢を立て直そうとしますが、森勢の追撃が早すぎて断念し、そのまま加治田城へ合流しました。

その日の夕方、加治田勢を追うかたちで堂洞城址に登った長可は、17年前の合戦で敗れて以来廃城となっているこの城跡から、眼下に見える加治田城の防備を眺めながら作戦を練ったと言います。

一方の加治田城内には、城主の斎藤利治の嫡子(義興?)もいましたが未だ幼く、肥田忠政が代行するかたちで指揮を取り、準備を進めていきました。

明けて7月4日早朝より、今度は加治田城前を流れる川浦川(かわうらがわ)を挟んで、両軍合戦となります。

森勢は、正面の本隊で以って激しく攻めながら、林為忠(はやしためただ)率いる別働隊を川浦川の上流へと迂回させ、加治田勢の長沼三徳(ながぬまさんとく)の陣へ突入させ、敵の側面を崩す中を本隊が一気に突っ切る・・・

加治田勢は、山の麓に諸将の陣を分散して配置し、イザとなった時には、一斉に山上の主郭へと集中して籠城する作戦でしたが、勢いづく森勢を抑えきれず、この河畔の戦いにて崩れ去り、山上の主郭は戦場にもならないうちの昼過ぎに加治田城は落城し、結局、肥田忠政はどこへともなく落ちて行きました(討死説あり)

合戦後は、長沼をはじめとする井戸宇右衛門(いどうえもん)湯浅新六(ゆあさしんろく)など、この戦いに出た多くの将が長可の配下となって、やがて加治田衆(かじたしゅう)と呼ばれて、後の豊臣政権下で活躍する事になるのです。

とは言うものの、実は、この合戦の経緯&結果は諸説あって、よくわかっていないのです。

河畔で合戦になったものの、森勢が押し返されて引き分けになったとか、後半には加治田勢が盛り返して勝利したとか・・・

しかし、上記の豊臣政権下での加治田衆の話を見ても、あるいは、この後の長可の行動を見ても、完全勝利とは行かないまでも、おそらくは森勢が優位に立った状態で、今回の合戦を終えたのではないか?と私は考えています。

なんせ、この後、森長可は、
「この東美濃は、もちもと我が領地であるので、刃向かう者は討伐する!」
と宣言して、高山城(たかやまじょう=岐阜県土岐市土岐津町)平井頼母(ひらいたのも)妻木城(つまぎじょう=岐阜県土岐市)妻木頼忠(つまきよりただ)に、速やかに城を明け渡すよう要求し、拒否した彼らを、平井頼母は自刃に、妻木頼忠は捕えて人質として金山城下に住まわせるという事をやってますから・・・

これは、やはり、加治田城での戦いに勝った状態でないとできないように思います。

まして、この後、この長可の勢いを恐れた明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)遠山利景(とおやまとしかげ)小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)小里光明(おりみつあき)は戦う事無く、徳川家康(とくがわいえやす)を頼って、一旦、城を去っていますから、やはり森勢の方に軍配が上がっていたのではないかと・・・

ただし、同じように、長可が城の明け渡しを求めたものの苗木城(なえぎじょう=岐阜県中津川市)遠山友忠(とおやまともただ)友政(ともまさ)父子は、この直後の天正十年(1582年)8月の戦いに勝利し、長可を撤退させています。

その後、態勢を立て直した長可は、翌天正十一年(1583年)の5月に苗木城へと攻め寄せ・・・と、この苗木城に戦いについては、後日あらためて、その日付でくわしく書かせていただくつもりですが、

その2度目の苗木城攻めに勝利した事で、加茂(かも)可児(かに)土岐(とき)恵那(えな)の4郡を平定した長可は12万7千石の領主となり、信長亡き後は、東美濃の大勢力で以って、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の配下として活躍する事になるのです。
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2018年6月26日 (火)

本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦…前野・大森・米田城攻略

天正十年(1582年)6月26日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する大森城を包囲しました。

・・・・・・・・・

わずか13歳の時に、織田家重臣だった父=森可成(もりよしなり)と兄=可隆(よしたか)宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)の戦い(9月20日参照>>)で同時に亡くして家督を継いだ森長可(もりながよし)は、以来、主君=織田信長(おだのぶなが)の下で、年上の重臣たちに交じって、彼らに引けを取らぬ働き・・・いや、むしろ年齢が若いぶん、数々の戦いで先陣を切って縦横無尽に戦場を駆け抜ける大活躍ぶりで、天正(1572年~)に入った20歳頃からは、信長の嫡男=信忠(のぶただ)配下の与力として軍の一翼を担う武将となります。

Morinagayosi300a 天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)でも先陣を切って武田領へと入り、高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)攻め(3月2日参照>>)等で活躍・・・その功績により、戦後の論功行賞で、武田の旧領のうちの信濃(しなの=長野県)4郡(高井・水内・更科・埴科)海津城(かいづじょう=長野県長野市・現在の松代城)40万石を与えられます(3月24日参照>>)

ちなみに・・・
これにより、父から受け継いだ美濃(みの=岐阜県)金山城(かねやまじょう=岐阜県可児市)は弟の森蘭丸(らんまる=成利)が譲り受けています。

で、翌4月に海津城に入った長可は、早速、新領地の統治に取りかかるわけですが、当然、これまで敵地であった場所を治めるのは容易ではなく、まして、未だ健在の上杉景勝(うえすぎかげかつ)越後(えちご=新潟県)に近い信濃北部には、これを機に上杉と結ぶ残党もいたわけで・・・

そんな中、織田軍の北陸方面担当だった柴田勝家(しばたかついえ)が絶賛攻撃中の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)(6月3日参照>>)への救援に、景勝率いる上杉本隊が向った事を知った長可は、信濃の国衆らと交渉しつつ、翌5月には留守となった越後への侵攻も開始します。

ところが、そんなこんなの6月2日・・・ご存じ、あの本能寺の変(6月2日参照>>) が起こります。

主君=信長の死とともに、小姓として本能寺にいた弟たち=蘭丸&坊丸(ぼうまる=長隆)力丸(りきまる=長氏)の死も知った長可。

しかし悲しんでる暇はありません。

当然、仇も討たねばなりませんが、それより、敵地の真っただ中にいる自身の身の安全も・・・早速、撤退を開始した長可ですが、「信長死す」のニュースはまたたく間に敵にも知られる事となり、なんと信濃の国衆では、埴科郡(はにしなぐん)出浦盛清(いでうら もりきよ)以外、全員が驚きの手のひら返しで敵に回ったのだとか・・・

しかも、ともに甲州征伐を成し遂げて、その功績で信濃木曽谷2郡を与えられたばかりの木曽義昌(きそよしまさ)までもが「長可の命を狙っている」てな噂も・・・

なんせ、旧武田の本拠だった甲斐(かい=山梨県)を与えられた河尻秀隆(かわじりひでたか)などは、この時、武田の残党による一揆で、その命落としてます(6月11日参照>>)からね。

この状況を、絶好のチャンスと見たのが、米田城(よねだじょう=岐阜県加茂郡川辺町)肥田忠政(ひだただまさ)でした。

実は忠政は、もともと、本拠としていたこの米田城以外にも、前野城(まえのじょう=岐阜県加茂郡八百津町)という支城や馬串山砦(まぐしやまとりで=岐阜県 美濃加茂市下米田)を持つ、このあたりの有力武将でしたが、信長が美濃に侵攻した際に、いち早く味方になった事で、その領地を安堵されたものの、その後に、信長直臣の長可が、自らの領地に隣接する金山城に入った事に嫌悪感を抱きながらいるところを、さらにその後、前野城と馬串山砦を長可に譲渡というか占拠されてしまっていたのです。

しかし、それも、バックに信長が居る事を踏まえて、波風立てないように我慢していたところわけで・・・

その信長がいなくなったわけですから・・・しかも長可は、未だ敵地です。

信長の死の翌日=6月3日の夕刻に、このニュースを知った肥田忠政は早速、兵を集め、5日の早朝に出陣し、わずかの守護兵がいるだけの前野城と馬串山砦を攻撃するのです。

守護兵は守る間もなく金山城へと逃走・・・こうして城と砦を奪還した肥田忠政は、ほどなく金山城から敵がやって来るものと想定していましたが、さすがに、この状況に金山城も右往左往していたのか?(城主の蘭丸も死んでるので)、金山城から新たな兵が来る事は無かったため、しっかりとその動きが無い事を確認した後、守りの兵を置いて、自らは米田城へと引き揚げ、次は、長可が、この美濃に戻って来るところを討ち果たさんと、その準備に入ります。

一方、この間にも、命がけの撤退を決行していた長可・・・近寄る残党を斬って捨て、襲いかかる者すべてをなぎ倒し、鬼の形相で駆け抜けた長可は、6月24日、何とか旧領の金山へと帰還します。
(この事で、その後の長可は、『鬼武蔵』と呼ばれるようになる…らしい)

翌25日、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に立ち寄って織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)らに挨拶を済ませた長可は、留守の間の肥田忠政に行動に怒り爆発な中、彼に味方する東美濃を攻略すべく、その日のうちに出陣したのです。

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森長可の東美濃攻略戦~位置関係図(広範囲)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

まず向ったのは金山城の南西に位置する上恵土城(かみえどじょう=岐阜県可児郡御嵩町)・・・当時の城主だった長谷川五郎右衛門は、森勢の攻撃を予想して、すでに防御を固めてはいましたが、城に集う兵はわずかに100・・・

一方の森勢は300ほど・・・しかも可児川(かにがわ=岐阜県木曽川水系)河畔に建つ上恵土城は、河畔側の大手(おおて=正面)は、その段差を利用する絶壁となっていましたが、搦手(からめて=裏面)は緩やかな丘陵でわずかな堀しかなく、いたって守りが弱い。

それを百も承知の森勢は、その数を武器に搦手から一気に攻めまくり、無勢の城側は、またたく間に窮地に陥り、ほどなく落城・・・城内の者は近くの今渡城(いまわたりじょう=岐阜県可児市今渡・金屋城)を目指して敗走していきます。

この今渡城には、長谷川五郎右衛門の弟=長谷川彦右衛門が、兄に同調して立て籠もっていましたが、コチラは防御策もほとんど無い、城というよりは居館のような建物であったため、上恵土城からの逃走者を追撃する形で森勢が押し寄せると、その勢いにひとたまりも無く陥落・・・長谷川兄弟も、いずこともなく逃走していきました。

この両城の落城の知らせを聞いて、「いよいよ次は我が城への森勢来襲!」を悟ったのは、大森城(おおもりじょう=岐阜県可児市)奥村元広(おくむらもとひろ=又八郎)・・・要所に柵を配し、女子供を非難させて臨戦態勢を整えた天正十年(1582年)6月26日、森家の重臣=林為忠(はやしためただ)率いる300の先陣が、大森城を取り囲みました。

ただ・・・もはや援軍を望めない大森城が決死の覚悟で防戦したため、容易に落とす事ができなかったため、林為忠は金山城へと援軍の要請をし、合計500となった攻め手で猛攻を仕掛けます。

やがて、多くの死傷者を出すに至った大森城は、「これ以上支える事は不可能」と判断した奥村元広によって火が放たれて落城・・・元広は、この混乱の中、雑兵に紛れて逃走しました。

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森長可の東美濃攻略戦~戦闘&位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

さて、この頃、長可は、本能寺で亡くなった弟たちの葬儀を7月2日に執り行おうと準備を整えていましたが、これを知った肥田忠政は近隣の諸将に声をかけ、この機会に金山城を襲撃しようと計画します。

もちろん、この計画を知った長可の怒りはMAX・・・葬儀そっちのけで2日の未明に木曽川(きそがわ)を渡って前野城と馬串山砦をすぐさま奪い返し、その足で米田城に先制攻撃を仕掛けます。

「夜が明けたら…」と思っていたところの思いがけない襲撃に驚いた肥田忠政は、にわかに腹痛に襲われたとかで、応戦を家臣に任せて、自らは素早く加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)へと逃れます。

残った城兵は、家老の指揮のもと、なかなかの戦いぶりを見せますが、さすがの大軍相手にはどうにもならず、やがて城に火が放たれて、米田城は落城しました。

こうして、米田城を落とした長可は、すぐさま金山城へと戻り、当初の予定通り葬儀を行ったのだとか・・・

さぁ!次は当然、肥田忠政が逃げ込んだ加治田城~という事になりますが、その続きのお話は、城への攻撃が開始される7月3日のページ【森長可の東濃制圧後半戦】>>でどうぞ・・・m(_ _)m
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2018年6月21日 (木)

遠江の支配を巡って今川氏親VS大河内貞綱&斯波~引馬城の戦い×3

永正十四年(1517年)6月21日、遠江を巡る争いで引馬城に籠った大河内貞綱斯波義達に対し、今川氏親が攻撃を仕掛けました・・・第3次・引馬城の戦いです。

・・・・・・・・・

引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区)は、引間城とも曳馬城とも表記され、住所をご覧になってお察しの通り、現在の浜松城(はままつじょう)の場所に、かつてあったお城です。

かの武田信玄(たけだしんげん)と協力して今川氏真(いまがわうじざね)を倒した(12月27日参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)が、遠江(とおとうみ=静岡県西部)に乗り込んだ(3月27日参照>>)元亀元年(1570年)に、この引馬城に入城して、その名を浜松城に改称したわけですが、その浜松城内の北東部分が、かつての引馬城の中心部分で、あの元亀三年(1572年)の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)時にも、浜松城の本丸を捨てて、コチラ=北東部分の防備を固めたとされるくらい、この引馬城の建ってた場所は重要拠点だったようです。

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安政元年に描かれた浜松城絵図…二の丸右上の出っ張り部分が引馬城の痕跡

そんな引馬城のあった遠江・・・そもそも、室町幕府政権下で、この遠江の守護(しゅご=県知事みたいな)を任されていたのは今川(いまがわ)でした。

ご存じのように、この今川は、足利(あしかが)一門の吉良(きら)の分家にあたる名門で代々駿河(するが=静岡県東部)の守護を世襲するとともに、この遠江も支配していたわけですが、応永年間(1394年~1427年)の終わり頃から、遠江今川家5代の今川範将(のりまさ)が一揆に関わった事や、守護代の狩野(かのう)が力をつけて来た事などから、息子で6代目の今川貞延(さだのぶ)遠江を追い出されて駿河の今川義忠(よしただ=義元の祖父)を頼り、以後、この遠江は斯波(しば)が守護となったという経緯がありました。

このため、今川と斯波の間には大きな亀裂が・・・

とは言うものの、一方の斯波氏も、室町幕府将軍家の足利一門であり、なんなら細川(ほそかわ)畠山(はたけやま)とともに、三管領(さんかんれい=将軍を補佐する執事を輩出する3つの家柄)の一つ=つまり、室町幕府政権下ではメッチャ中心部の力のある家柄だったわけで、代々守護を任されていた領国も、越前(えちぜん=福井県東部)尾張(おわり=愛知県西部)と広大でしたし、義忠の時代には、あの応仁の乱(5月28日参照>>)も絡んで敵味方の入り乱れ状態となっていましたから、何度か刀を合わせつつも、遠江の情勢は混沌としたまま、結局、文明八年(1476年)の2月、不意を突いた一揆勢に襲われて、義忠は命を落とします。

当主の急死に、後継者を巡る家督争いが勃発した今川家でしたが、そこに仲裁に入ってくれた叔父=北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:氏親の母は早雲の姉もしくは妹のおかげで、無事、義忠の長男の今川氏親(うじちか)が家督を継ぐ事で落ち着きました。

こうして、今川の当主となった氏親は、父の時代にウヤムヤになっていた遠江を奪回すべく侵攻を試みるのです。

永正十年(1513年)、この氏親の動きを受けて、遠江引馬荘の代官で引馬城主の大河内貞綱(おおこうちさだつな)反今川の狼煙を挙げ、そこに見付城(みつけじょう=静岡県磐田市見付・見付端城とも)堀越貞基(ほりこしさだもと=用山・今川貞延の息子)も加わったため、氏親は即座に討伐隊を構成し、引馬城へ攻撃を仕掛けました。

これを見込んで、すでに斯波義達(しばよしたつ)に援軍を要請していた大河内貞綱でしたが、氏親軍の動きが予想以上に早く、援軍が未だ来ない永正十年(1513年)3月7日引馬城は陥落し、第1次・引馬城の戦いは終結しました。

この時、敗軍の将となった大河内貞綱は、当然、その命奪われるはずでしたが、貞綱の主家である吉良家が仲裁に入って謝罪したため・・・と、先に書かせていただいた通り、今川家と吉良家は同族なので、その好で氏親は城を奪っただけで、貞綱の命を取る事はしなかったのです。

こうして、貞綱に代わって城には、同じく吉良を主家に持つ、親今川派の飯尾賢連(いのおかたつら)が入ったのですが・・・

ところが、その翌年・・・貞綱は、氏親が軍勢とともに領国へ戻ったのを見計らって、弟の巨海道綱(こみみちつな・おおみみちつな)と組んで飯尾賢連を追い落とし、引馬城に立て籠もってしまったのです。

永正十一年(1514年)8月18日、再び戻って来た氏親軍は、引馬城へと総攻撃を仕掛けるのですが、これがなかなか手ごわい・・・

しかし、やがて一人の武将が、うまく塀を乗り越えて城内へと侵入し、城門を開ける事に成功・・・怒涛の如く流入する兵士を抑えきれず引馬城は陥落し、大河内貞綱らは、裏門から逃走して行ったのです。

これが第2次・引馬城の戦い・・・またしても引馬城を追われた大河内貞綱でしたが、まだ諦めません。

やがてチャンスがやって来ます。

永正十年(1513年)頃から始まった甲斐(かい=山梨県)河内領(かわちりょう=山梨県の西八代郡と南巨摩郡)を領していた穴山(あなやま)(甲斐武田氏の一族)の内紛の末、当主の座を得た穴山信風(あなやまのぶかぜ)が今川派となった事、また、周辺の国衆もが乗っかって今川指示の姿勢を見せた事で、「これはイケる!」とばかりに、氏親が永正十二年(1515年)10月、大軍を率いて甲斐に出陣したのです。

当然、駿河や遠江は手薄になるわけで・・・

こうして、翌・永正十三年(1516年)3月、大河内貞綱が氏親に対する反乱を起こした事で、第3次・引馬城の戦いが始まったのです。

その3ヶ月後の6月には斯波義達も引馬城へと入り、反今川派によって城は占拠されてしまいます。

この状況に、一刻も早く甲斐を出て遠江に向かいたい氏親は、配下の宗長(そうちょう)を使者として、交戦中だった武田信虎(たけだのぶとら=信玄の父)のもとに送ります。

この宗長という人は、島田(しまだ=静岡県島田市)出身の僧で、京都の大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)にて一休宗純(いっきゅうそうじゅん)から禅を学び、宗祇(そうぎ)から連歌を教わった連歌師・・・当時は、氏親に仕えていた今川お抱え連歌師でしたが、ご存じのように、僧という立場は現世とは無縁ですし、連歌師もまた合戦とは無縁の者・・・

宗長の尽力により、何とか、武田との戦いを講和に持ちこんだ氏親は永正十四年(1517年)6月、連日の雨により、川幅が大幅アップし、海のようになっている天竜川に船橋を架けて渡り、永正十四年(1517年)6月21日引馬城に到着後、早速、城への攻撃を開始します。

しかし、正面から力づくでぶつかっても、なかなか落とせない堅固な守りに苦戦した氏親は、長期戦へと方向転換・・・梅ヶ島金山(うめがしまきんざん=静岡県静岡市葵区・安倍金山とも)の金堀り職人を召集し、穴を掘らせて井戸の水を抜き、引馬城の水の手を断ちます。

籠城戦において、最も重要な水・・・これを断たれては、もはや時間の問題です。

案の定、合戦開始から約3ヶ月後の8月19日・・・枯渇による飢餓状態に陥った城兵が、作戦も何もなく、無我夢中で撃って出て来たところを迎え撃って一網打尽にしたのです。

この戦いで大河内貞綱&巨海道綱兄弟は覚悟の自殺を図りますが、斯波義達は普済寺(ふさいじ=静岡県浜松市中区)に入って頭を丸めて、家督を息子の斯波義統(よしむね)に譲って降伏の意を表明した事で、その命は守られ、尾張へと送られました。

ただし、引退して後継に命つないだとは言え、その失脚感はハンパなく・・・しかも、この一連の対今川の戦いに反対して参戦していなかった斯波配下の尾張守護代=織田(おだ)が、義達の失脚によって盛り返して来て、やがて、頭角を現してくる織田信秀(おだのぶひで)(3月3日参照>>)からの織田信長(おだのぶなが)・・・と、最終的に尾張は織田の物になってしまうわけで・・・

一方、完全勝利となった氏親は、これによって、この先、浜名湖周辺を抑える事ができ、その支配は、息子の今川氏輝(うじてる)からの弟=今川義元(いまがわよしもと)海道一の弓取りへと引き継がれる事になります。

に、しても・・・ドラマで戦国、と言えば、この後の時代から~てのばかりですが、なんで?このあたりのドラマをやらないのだろう???

やっぱ有名どころが出ないと視聴率が取れないのでしょうか?
いつか、信長や義元の父ちゃんたちの時代劇も見てみたい物ですね~
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2018年6月15日 (金)

織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦

天正八年(1580年)6月15日、織田方へと降った宇喜多直家が、毛利方の湯原春綱らが守る美作祝山城を包囲しました。

・・・・・・・・・・・

戦国時代の中国地方を、長きに渡って二分して来たのが、山陰を牛耳る出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)と、山陽に勢力を広げる周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)・・・中国地方の国人領主たちは、その大物の間に挟まれて、度々揺れ動く状態でしたが、

いつしか、その両者の間を縫うように頭角を現して来たのが安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)でした。

始めは尼子傘下だったのが、途中で大内に鞍替えし(1月13日参照>>)、やがて、その両方を倒して西国の覇者となりつつあった元就・・・
厳島の戦い(10月1日参照>>)
月山富田城の開城(11月28日参照>>)

それと前後して、上り調子の毛利の力を借りて、備中(びっちゅう=岡山県西部)の覇者となった松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)主=三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)、毛利と敵対する備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下の宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまった事で、父の死を受けて後を継いだ息子の元親(もとちか)は直家を敵視するようになるのですが、

そんなこんなの天正元年(1573年)、5年前に上洛を果たして(9月7日参照>>)畿内を制していた織田信長(おだのぶなが)を、毛利に攻められて一旦滅亡した尼子が頼った事から(5月14日参照>>)、信長の中国攻めが確定的となり、当然、織田は毛利と敵対関係に・・・同じ頃には浦上宗景も信長を頼り、領地安堵の約束を取り付け、コチラも織田傘下という事になっています。

Ukitanaoie300a そうなった所で、主君=浦上からの独立を試みる宇喜多直家が、敵の敵は味方とばかりに、天正二年(1574年)に毛利の傘下となった事から、「父の仇」の恨みを持つ三村元親は、やっぱり敵の敵は味方とばかりに、逆に織田へ通じてコチラも毛利から鞍替え・・・

この三村の離反に怒った元就は、翌天正三年(1575年)、孫の毛利輝元(てるもと)と息子の小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)を派遣して松山城を攻め、三村をせん滅します(6月2日参照>>)

その後も、毛利の傘のもと備中から美作(みまさか=岡山県東部)へと支配地域を拡大し、浦上宗景の追放をも果たす宇喜多直家でしたが、信長軍の中国方面攻略担当の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の攻撃戦線が本格的となった天正五年(1577年)には、支城としていた上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を落とされ、そこに、あの尼子の残党が入城・・・

当然、毛利はこれを奪い返そうとするわけですが・・・実は直家、この上月城奪還戦には参戦してません。

どうやら、このあたりから、日和見=つまり、毛利と織田のどっちが強いか?二股かけて様子見ぃしてたっぽい・・・もちろん、イケる方に味方しようと考えてたわけですが、

さりとて、他の城の攻略に忙しい織田方は、上月城への援軍に数を割けず、結局、上月城は天正六年(1578年)7月に落城し、毛利の手に・・・(5月4日参照>>)

そんなこんなの天正七年(1579年)、2月~3月頃から、ちょくちょく毛利への反発の姿勢を見せ、秀吉を通じて織田への内応を打診し始めた直家は、10月になって従兄弟の宇喜多基家(もといえ=直家の養子?)を信長のもとに派遣して降伏します。

こうして、正式に織田の傘下となった直家は、一族を動員して、備中で忍山城(しのぶやまじょう=岡山県岡山市北区)を陥落させ、天正八年(1580年)6月15日には、毛利方の属城である祝山城(いわいやまじょう=岡山県津山市)を包囲したのです。

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祝山合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この祝山城は、医王山城(いおうやまじょう)岩尾山城(いわおやまじょう)とも呼ばれ、津山から加茂川に沿って鳥取方面へと抜ける街道沿いにある事から、古くから攻防の要所として、絶え間なく取ったり取られたりしていた場所で、戦国時代に入って、しばらくは尼子の物となっていたのを浦上が奪い、それをまた尼子が奪い返し、尼子の滅亡後は毛利の物となって、毛利配下の福田盛雅(ふくだ もりまさ)が城主を務め、この時は、湯原春綱(ゆはらはるつな)らが援軍として入城していました。

直家が祝山周辺に数ヶ所の付城(つけじろ=攻撃のための出城)を設置して完全包囲した事から、やがて祝山城は兵糧不足に陥り窮地に立たされます。

この状況を救援すべく、毛利輝元自らが小早川隆景とともに出陣・・・そこに吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)も加わって、まずは忍山城を総攻撃し、またたく間に陥落させます。

しかし、備前の忍山城から美作の祝山城までの間には、虎倉城(こくらじょう=岡山県岡山市北区)篠向城(ささぶきじょう=岡山県真庭市・篠葺城)など、まだまだいくつかの城が立ちはだかっていました。

それらの諸城に対し、城下に火を放って包囲したり、あるいは陥落させつつ、着々と侵攻していく毛利軍・・・しかし、やがて織田の支援を受けた宇喜多軍が反撃に出ます。

これまで、宇喜多家臣の江原親次(えばらちかつぐ)から昨年奪った大寺畑城(おおてらはたじょう=岡山県真庭市)を拠点に宇喜多に属する諸城を攻撃していた毛利方でしたが、今回の猛反撃で形成が不利となって陣を南下せざるを得なくなり、ここに来て祝山城の救援は限りなく難しくなって来ます。

それでも輝元は、9月には一旦戻っていた本拠=吉田郡山城(よしだこおりやまじょう=広島県安芸高田市)を再び出陣し、同じく小早川隆景とともに高田(たかだ=岡山県真庭市)に着陣しますが、宇喜多勢に阻まれて、どうしても、その先に進めません。

11月15日になって、未だ籠城して踏ん張る祝山城に向けて、銀10枚とともに、
「宇喜多が数か所の付城で包囲して昼夜を問わず攻撃して来るため、かなり進み難い…にも関わらず、籠城して持ち堪えている君らの忠義は素晴らしい!
救援の事は元春らと相談して早めに何とかするので、それまで、守りを固めて頑張ってくれ」

と激励の手紙を送っていますが、結局、その元春の救援を待つ事ができず、祝山城は、この年の12月下旬に城を明け渡す事になり、城を守っていた諸将も退去します。

このため、輝元&隆景の両人も、美作から撤退して備中へと帰還したのでした。

と言っても、もちろん、これはつかの間の休戦・・・これ以降も、直家は周辺を転戦して毛利傘下の諸将と合戦する事になりますが、一方で、秀吉も、この時すでに播磨(はりま=兵庫県南西部)を平定しており、
●4月1日:【英賀城の戦い】>>
●4月24日:【長水城の戦い】>>
翌・天正九年(1581年)10月には鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)を干殺しにし(10月25日参照>>)、さらに、その翌年の天正十年(1582年)には、有名な備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山県岡山市)の水攻め(6月4日参照>>)・・・となりますが、ご存じのように、ここで、あの本能寺(6月2日参照>>)

本能寺で死んだ信長の弔い合戦をすべく、一旦、毛利と和睦して京都へと向かう秀吉(6月6日参照>>)・・・一方で、その和睦で以って、美作一帯は宇喜多の物となったものの、本能寺の一件が影響したのか?毛利も簡単には撤退せず、宇喜多&毛利、両者の関係はさらに悪化するのですが、

実は、直家自身は、すでに天正九年(1581年)の末、もしくは天正十年(1582年)の正月に、居城の岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)にて病死しており、この後の毛利とのアレやコレやは、幼くして宇喜多の家督を継いだ息子の秀家(ひでいえ)が、秀吉のサポートを受けながら挑んでいく事になるのですが、そのお話は、いずれまたの機会にさせていただきたいと思います。
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2018年6月 8日 (金)

本能寺のドサクサで…稲葉一鉄VS安藤守就の本田・北方合戦

天正十年(1582年)6月8日、本能寺の変のドサクサで旧領を回復しようとした安藤守就と、それを阻止する稲葉一鉄が戦った本田・北方合戦がありました。

・・・・・・・・・

永禄十年(1567年)8月に、あの織田信長(おだのぶなが)が、斎藤道三(さいとうどうさん=利政)の孫にあたる龍興(たつおき)を破って手に入れた美濃(岐阜県)稲葉山城(いなばやまじょう)(8月15日参照>>)・・・ご存じのように、信長は、この稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と改め、ここを拠点として天下への一歩を踏み出したわけですが、

それには、この半月ほど前に、主君を見限って織田方に内応してくれた西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)の影響が大きかったのです(8月1日参照>>)

その西美濃三人衆とは、
西美濃曾根城主稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)
西美濃大垣城主氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)
西美濃北方城主安藤守就(あんどうもりなり)
の三人・・・

いずれも、斎藤以前に美濃の守護であった土岐頼芸(ときよしなり)の時代からの家臣たちですから、内々の事や地の利を知りつくした彼らが内通してくれたおかげで、その後に続く者も多数出て、一気に城を落とす事ができた事は確か・・・

その後の彼らは、もちろん、信長直属の部隊として各地で活躍・・・元亀元年(1570年)の、あの姉川(あねがわ)の戦いなどは、彼ら西美濃三人衆の側面攻撃失くしては信長の勝利も危うかったかも(6月28日参照>>)

それ故、危険も多く、信長最大のピンチとも言われる元亀二年(1571年)5月の最初の長島一向一揆戦では、退却の殿(しんがり=最後尾)を務めた氏家卜全が討死しています(5月16日参照>>)

しかし、残る二人は、その後も柴田勝家(しばたかついえ)の援軍として加賀(かが=石川県南部)に行ったり、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の援軍として中国攻めに向かったり・・・と、西に東に転戦していたわけですが、

そんなこんなの天正八年(1580年)、安藤守就は、突然、信長から謀反を疑われて息子=定治(さだはる=尚就とも)共々、追放されてしまうのです。

『信長公記』では、石山合戦でゴチャゴチャやってた信長が1番ややこしい時期に「野心含み申す」=つまり、信長のピンチに乗じて謀反を計画したという事になってますが、一説には、息子の定治が、絶賛敵対中の武田勝頼(たけだかつより)に通じた・・・という話もあり。

ただし、それも、本当に、この父子に謀反や裏切りの気持ちあったのか?信長の疑心暗鬼の思い違いなのか?は定かでなく・・・なんせ、この6年前の天正二年(1574年)には、稲葉一鉄も謀反の疑いをかけられ追放されかけた事もありましたから。

この時の一鉄は、見事にその疑いを晴らしたわけですが(11月19日参照>>)、安藤父子の場合は残念ながら、美濃の武儀郡(むぎぐん=岐阜県関市付近)蟄居(ちっきょ=謹慎)となり、その身は一鉄に預けられたのです。

そんなこんなの天正十年(1582年)6月2日、京都で、あの本能寺の変が起こり、信長が横死(6月2日参照>>)・・・これを機に、安藤父子が旧領の回復に立ちあがったのです。

そこには散り々々になっていた一族や旧家臣たちが続々と集まって来て、鏡島城(かがしまじょう=岐阜県岐阜市鏡島)河渡城(こうとじょう=岐阜県岐阜市河渡)北方城(きたがたじょう=岐阜県本巣郡北方町)本田城(ほんでんじょう=岐阜県瑞穂市本田)軽海西城(かるみにしじょう=岐阜県本巣市軽海)などの旧領周辺の諸城に立ち返り、防備を固める修復作業に入ったのです。

Inabaittetu700a これを知った稲葉一鉄・・・「このままでは美濃が無法地帯となってしまう」とばかりに、まずは、この時、岐阜城内にいた甥っ子である斎藤利堯(さいとうとしたか=一鉄の妹と斎藤道三の子)城内を掌握させて、周辺に禁制を掲げて、織田×明智の両方に味方しない=中立の立場を取るとして不動の構とさせました。

また、安藤父子に対しては、もともとは彼らの持城であったとは言え、現段階では自分の領地の城に無断で入って勝手に合戦の準備をされてしまっている状況・・・

ただ、畿内の慌てぶりも想像に難くない中で、この急を要する事態の采配を上層部に問うている場合では無いわけで・・・

しかも、上記の甥っ子への指示なんか見ると、ひょっとしたら一鉄には、これを機に独立しようとの考えもあったかも知れず・・・

とにもかくにも、一鉄は、織田×明智のどちらにも連絡する事無く、自身の判断で以って、安藤父子の討伐を決意するのです。

まずは、安藤の重臣である稲葉長右衛門(いなばちょうえもん)が籠る本田城へ・・・一鉄方は、稲葉左近(いなばさこん)加納雅楽(かのううた)数十騎が一丸となって攻めかかって激しく交戦しますが、痛手も多く、一旦退却しようとしている所へ村瀬大隅(むらせおおすみ)率いる精鋭80余騎が駆けつけ、城将の長右衛門を討ち取ったほか、多くの首級を挙げ、残党も追撃して、一鉄側の大勝利となります。

幸先の良いスタートにゴキゲンの一鉄は、次に安藤父子らメインキャストの籠る北方城へと駒を進めます。

さすがにコチラは城下にいくつもの陣を設けて、安藤側も万全の守備態勢・・・

かくして天正十年(1582年)6月8日未明・・・北方城下に一鉄が押し寄せて、戦闘開始となります。

激しいぶつかり合いの末、午前10時頃には双方ともに100名以上の戦死者を出しますが、その死者の中には安藤守就も・・・84歳という高齢ながら、見事に自軍を指揮し千代保ヶ淵(ちよぼがふち=北方城の西側)付近で、壮絶な討死を遂げたとの事。

息子の定治も一族&旧臣らとともによく戦ったものの、数に勝る一鉄勢に押され、やはり討死します。

主を失った軍団は、やがてバラバラになって敗走し、北方城が陥落・・・ここに戦国武将の美濃安藤氏は滅亡しました。

こうして、北方での合戦に勝利した一鉄は、息子の貞通(さだみち)を軽海西城に、自らは河渡城へと向かったと言います。

その後、安藤父子の遺体は、一鉄の手配にて、配下の者から、すでに仏門に入っていた守就の弟=湖叔(こしゅく?)のもとに送られ、龍峰寺(りゅうほうじ=岐阜県岐阜市)に葬られました。

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本田・北方合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、ここらあたりの事は、残っている史料が少なく、実はかなり曖昧で、今回の安藤父子の場合、「本田や北方の城に入って防備を固める」どころか、城を奪い返す前に合戦状態となって、そのまま鎮圧されたとも言われます(←つまり城は奪い取ってない?)

また、一説には、この時の安藤の敗戦を伝え聞いた岐阜城の池田信輝(のぶてる)が、救援のために2000騎を率いて河渡城へと向かい、先鋒として迎え撃った稲葉家臣=石川三衛門(いしかわさんえもん)なる武将の部隊を全滅させてしまった事で、この池田隊の襲撃を恐れた一鉄が、自らの居城=根城(そねじょう=岐阜県大垣市)に戻って、周辺の百姓たちを総動員して数百の幟(のぼり)を立て、一晩中かがり火を焚かせて警戒していたものの、池田隊の、それ以上の攻撃は無かった・・・なんて話もあるとか・・・

でも、この池田信輝って、あの池田恒興(つねおき)の事ですよね?

確か、この本能寺の変の頃の恒興は、荒木村重(あらきむらしげ)との花隈城(はなくまじょう=兵庫県神戸市中央区)戦い(3月2日参照>>)の功績により、摂津(せっつ=大阪府北中部)一帯を領地としていたはず・・・まぁ、恒興は、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)の付属なので、当時は信忠が城主だった岐阜城にいたとしてもおかしくは無いのかも知れませんが、一般的には、本能寺の一報を聞いて、あの「中国大返し」(6月6日参照>>)で戻って来た秀吉らに、摂津富田(とんだ=大阪府高槻市)で6月12日に合流して、ともに山崎の合戦にて明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)というのが定説です。

その恒興が、その4日前に稲葉勢と相まみえるとは非常に考え難い・・・しかも、上記の通りだとすると、岐阜城は中立の立場にあったわけですし・・・

で、勝手な妄想をお許しいただくなら・・・この時の池田は恒興ではなく、ひょっとしたら恒興の四男で、軽海西城主の池田家家老=片桐俊元(かたぎりとしもと)の養子となっていた池田長政(ながまさ)の事なのでは?

後に大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)主となった恒興とともに、その出城である池尻城(いけじりじょう=同大垣市)へと片桐俊元が移るのは、この本能寺の変の翌年ですから、直後この頃は、未だ、自らの軽海西城にいたはず・・・なら養子の長政も~と思いきや長政は天正三年(1575年)生まれだから、まだ8歳だったww

て事は、稲葉配下の石川隊を全滅させたのは片桐俊元自身なのか?

だって、この時、安藤父子に奪われていないのであれば、軽海西城は片桐俊元の城なわけですから、そこに、ひょっとしたらこのチャンスに独立しようとしているかも知れない一鉄の息子=貞通が侵攻して来た事になるわけで・・・そりゃ守りますわな~

いやいや、あくまで妄想ですが、そう考えると、やれ数十騎だ、80余の援軍だって合戦に、「2000騎を率いて参戦する池田隊」の辻褄が合う気はします。

いやはや、辻褄の合わない記述を引っ張り出して、アレコレ想像するのは楽しいです。

ただ、今回の本能寺の変のドサクサで、信長傘下の者同志、あるいは旧武田の遺臣などとの戦いがアチコチ起こった事は確かで、細かな事はよくわからない部分が多いものの、おそらくは、この美濃一帯でも、そのような、ドサクサ紛れの領地の奪い合いがあったものと思われます。

★参照:本能寺のドサクサで起こった戦い
神流川の戦い>>
河尻秀隆と武田残党>>
長宗我部元親の阿波平定>>
天正壬午の乱>>
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2018年6月 2日 (土)

備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親の自刃

天正三年(1575年)6月2日、備中兵乱第3次・備中松山合戦で、毛利元就に敗れた三村元親が、松山城下の松連寺にて自刃しました。

・・・・・・・・・・・

周防(すおう=山口県の東南部)の名門=大内(おおうち)とを倒し、西国の雄となった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)・・・

その元就の援助を得た成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)は、永禄二年(1559年)の猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)への攻撃を皮切りに庄為資(しょうためすけ=荘為資)を打ち破り、自らの長男=元祐(もとすけ)を為資の養子とし、庄元資(しょうもとすけ=・荘元祐・穂井田元祐)と名乗らせて猿掛城に置き、自身は松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)の城主となり、成羽城は弟の三村親成(ちかしげ)に任せて、事実上の備中覇者となります(2月15日参照>>)

しかし、その家親は、永禄九年(1566年)、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下にあった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまいます。

父の死を受けて三村家の当主となった家親の次男=元親(もとちか)は、兄=元資とともに父の弔い合戦をすべく、翌永禄十年(1567年)に直家の明禅寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市・明善寺城)に夜襲をかけますが、

この合戦は、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれるほどの三村側の敗退となって、その追撃戦で兄も討死にしてしまい(元資の死に関しては諸説あり)、かえって直家の浦上家内での地位を上げてしまう事になってしまったのです。

こうして力をつけた直家は、やがて浦上家からの独立を画策し、主君=宗景と敵対していた毛利と結ぶ事になります。

この同盟に関しては、直家が暗殺&謀略&騙し討ちと腹の中真っ黒けの男だった事で、吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)をはじめ、毛利家内では反対する者も多かったと言いますが、結果的に毛利と宇喜多の同盟が成った以上、ここまで毛利とともに生きて来た元親とて、父の仇&兄の仇と結んだ毛利に対して、物申さぬわけはござんせん。

天正二年(1574年)、「敵の味方は己の敵」&「敵の敵は味方」とばかりに元親は、畿内を制し、さらに西へと進みつつあった織田信長(おだのぶなが)と通じ、浦上宗景とも連携を取る事に・・・となると、毛利も黙ってはいられません。

天正二年(1574年)11月、父=元就の命を受けた小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)が、配下の諸将に激を飛ばし、甥の輝元(てるもと=元就の孫)とともに、三村討伐のため、備中へと侵攻したのです(吉川元春は尼子と抗戦中)

第3次・備中松山合戦(びちゅうまつやまかっせん)、または備中兵乱(びっちゅうひょうらん)と呼ばれる一連の戦いです。

まずは小田(おだ=岡山県矢掛町)に陣を置き、天然の要害と名高い松山城を避けて、先に備中に点在する三村方の諸城を攻略する事にした隆景は、これを機に元親と袂を分かち毛利方に降った三村親成を先鋒に、国吉城(くによしじょう=岡山県高梁市)を攻撃・・・城主の三村政親(みむらまさちか=元親の叔父)は脱出して松山城へと向かうものの、城は年が明けた正月元旦に落城し、残っていた城兵は、ことごとく惨殺されました。

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備中兵乱・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

1週間後の1月8日には、楪城(ゆずりはじょう=岡山県新見市・杠城)を陥落させて城主の三村元範(もとのり=元親の弟)を討ち取ります(城外へ逃走後に討たれた説あり)

次に、元親の親類筋にあたる家臣=河西之秀(かわにしゆきひで=川西之秀)の守る荒平山城(あらひらやまじょう=岡山県総社市)を囲みますが、城兵による鉄壁の守りに阻まれたため、一旦、元親の弟=上田実親(うえださねちか)の守る鬼身城(きのみじょう=岡山県総社市)を数日の攻防の末1月29日に落として実親を自刃させた後、鬼身城の落城を知って戦意を消失した荒平山城を奪いました。

この勢いに、荒平山城の東南に位置していた幸山城(こうざんじょう岡山県総社市)の城主=石川久式(いしかわひさのり・久孝=元親の妹婿)は、松山城を救援すべく、この城を諦めて脱出したため、この幸山城も3月中に陥落しました。

残る三村方の城は、本拠の松山城と、元親の妹が嫁いだ上野隆徳(たかのり)が守る常山城(つねやまじょう=岡山県岡山市)の二つとなってしまいました。

2月の末に宇喜多直家軍が合流した毛利方では、先に常山城を包囲して松山城との連絡を断ち、3月16日、いよいよ松山城への攻撃を仕掛けるのです。

午前6時、高梁川を渡って鶏足山(けいそくさん=岡山県高梁市)に陣取った毛利軍が、城の麓の陣屋を襲撃すると松山城から三村軍の精鋭部隊が押し寄せ、激しい攻防・・・4月4日に、再び毛利軍が、別の陣屋の攻めかかると、今度は陣屋に火をつけて三村軍は一旦、城へ戻る・・・

この攻防戦の後、いよいよ戦場は山城本体へと移りますが、これまでの攻防を見た小早川隆景は、4月24日、長期戦を視野に入れて、松山城の西に位置する成羽の本陣に仮の城を構築します。

なんせ、以前もお話させていただいたように、この松山城は、あの竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市・12月21日参照>>に勝るとも劣らない雲海に浮かぶ「天空の城」として有名な山城・・・ご存じの方も多かろうと思いますが、日本で最も高所に建つ城で、主郭へと向かう道は、完全に登山道です。

つまり、松山城は複雑な山の地形を利用した天然の要害・・・現存する建物は江戸時代の物ですが、この時代も、山に沿って下から下太鼓丸上太鼓丸小松山天神丸大松山と、複数の櫓が効果的に配置された防御に富んだ造りで、しかも、本城の小松山にはいくつかの出丸も用意されていましたから、そう簡単に落とせない事は、小早川隆景は百も承知・・・

しかし、ここに来て、先の仮城の構築、そして、同時進行で行っていた三村親成による「内応してくれたら命と身分の保障を約束する」の旧友懐柔作戦が、徐々に功を奏して来たと見え、ポツポツと三村から毛利へ降る者が登場し始めます。

やがて、有力な諸将までもが内応してしまう中、5月20日になって、いよいよ天神丸からの内応者が出て、石川久式の妻子を人質にして数百人が反旗をひるがえして味方に攻撃をし、ほどなく天神丸は陥落したのです。

上記の通りの位置関係で連なっていた松山城・・・中ほどの天神丸が落ちた事によって、本城の小松山と大松山が遮断されてしまい、ここで一気に小松山の本陣から、元親の近習約50名が城外へと逃亡してしまいました。

奪った天神丸を軸に他所も占領する毛利軍は、いよいよ小松山本城の出丸へと迫りますが、真正面からぶつかっても、落とすにはかなりの時間がかかる様子・・・そこで隆景は、今度は、この出丸の諸将に向けて「今すぐ降伏すれば、身分を保障する」の矢文を、5月21日の早朝に射かけます。

すると、その日のうちに出丸の将兵も降伏を申し出・・・残る小松山は完全に孤立してしまいました。

そうなると、さらに離反者が加速し、とうとう元親の近習は石川久式をはじめとするわずかの者だけとなってしまいます。

「もはやこれまで!」
と元親は自刃を決意しますが、家臣に説得されて城外への脱出を試みます。

天正三年(1575年)5月22日・・・・ここで、備中松山城は落城という事になります。

こうして逃走を図る元親でしたが、この脱出の途中に足を踏み外して山道から転落し、しばらくの間気を失っていたところ、悲しいかな、この間に大部分の将兵が逃亡し、残ったのは、わずかに5名の家来たち・・・

彼らに支えられるように高梁川を渡り、阿部山(あべさん=岡山県南西部)へと入る元親ご一行でしたが、今度は、大事な太刀(たち)を鞘走り(さやばしり=刀が自然に鞘から抜け出る事)させてしまい、その拍子に右ひざを深く傷つけてしまいます。

「どんだけ運ないねん!」
と、お気の毒になってきますが、さすがに元親自身も、「これで己の天命が尽きた」と悟り、松山城下の松連寺(しょうれんじ=岡山県高梁市)へと入り、毛利側に使者を送って、
「自刃するので検分(けんぶん=見届け)を…」
と願い出て、

天正三年(1575年)6月2日・・・もともと歌の才能に長けていた元親は、数首の辞世を残した後、切腹・・・旧知の仲(もともとは毛利と同盟関係やったので)であった毛利の家臣=粟屋元方(あわや もとかた)の介錯により、この世をさりました。

♪人といふ 名をかる程や 末の露
 きえてぞかへる もとの雫に ♪ 
三村元親 辞世

その5日後の6月7日、松山城と同時に囲まれていた常山城も落城します(6月7日参照>>)

また、間際まで近くにいた石川久式は、元親と離れた後、すでに落城していた幸山城へ戻る事ができないため、部下の友野高盛(とものたかもり)のもとに身を寄せますが、彼の裏切りにより居場所を密告されて殺害されたとも(『桂岌円覚書』)、その密告により毛利方に囲まれ、主君が逝った20日後の6月23日に自刃したとも(『備中兵乱記』)・・・

さらに、その後、捕縛された元親の息子が小早川隆景によって殺害された事で、事実上、戦国武将としての三村家は滅亡したのです。

「昨日の友は今日の敵」・・・毛利と三村の関係を見ても、戦う相手が瞬時に変わる事は戦国の常ではありますが、この後、先の同盟成立時に吉川元春が疑念を抱いた通り、かの宇喜多直家が、信長に降伏して傘下となり、毛利の敵となるのは4年後の天正七年(1579年)10月の事でした(10月30日参照>>)

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2018年5月24日 (木)

前田利家~最大の汚点?越前一向一揆虐殺「呪いの瓦」

天正四年(1576年)5月24日、越前で起こった一向一揆にて前田利家が1000人を処刑しました。

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第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)に反発した三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)との、元亀元年(1570年)に起こった野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)の戦い(8月26日参照>>)に参戦した事で、反信長を表明した石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)

そんな教祖様の扇動もあって、翌元亀二年(1571年)から、各地の本願寺門徒が蜂起して一向一揆を起こします。
長島一向一揆(5月16日参照>>)
近江の一向一揆(9月3日参照>>)

その中の一つが天正二年(1574年)1月からの越前一向一揆です。

この越前(えちぜん=福井県東部)の地は、ご存じ朝倉義景(あさくらよしかげ)が領地としていましたが、天正元年(1573年)に、その朝倉を倒した(8月6日参照>>)信長によって、その本拠だった一乗谷城(いちじょうだにじょう=福井県福井市)を与えられて越前守護代に任ぜられたのが前波吉継改め桂田長俊(かつらだながとし)、そして龍門寺城(りゅうもんじじょう=福井県越前市)を与えられて府中領主に任じられていたのが富田長繁(とみたながしげ)だったわけですが、この二人の間に内紛が勃発し、長繁は一向一揆勢の力を借りて長俊を倒し、越前一国をほぼ掌握・・・(1月20日参照>>)

しかし、上記の通り信長と本願寺は抗戦中なわけで、越前を掌握した後に信長配下に戻る事を、ともに戦った一向一揆勢が許すはずもなく、長繁が、慌てて信長宛てに詫状を書いて領主の座を認めてもらおうとした途端、今度は一向一揆と町衆によって長繁は討たれてしまったのです(2月18日参照>>)

つまり、信長が朝倉から奪った越前が一向一揆の物になったわけで・・・

そこで天正三年(1575年)8月、信長は自ら越前へと出陣し、10日余りで一向一揆をせん滅するのですが、この戦いは、一向一揆側の死者と捕縛者とを合わせた数が3~4万にも達し、「府中の町は死体だらけで隙間もない」ほどだったのだとか・・・(8月12日参照>>)

こうして再び越前を平定した信長は、配下の柴田勝家(しばたかついえ)に越前8郡を与えて統治を命じ、以後、勝家は、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を居城としました。

Maedatosiie 同時に、この勝家の目付役=世に言う「府中三人衆」となったのが、小丸城(こまるじょう=福井県越前市)佐々成政(さっさ なりまさ)、龍門寺城の不破光治(ふわみつはる)、そして府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)でした。

この時、佐々成政の小丸城の築城には、捕虜となった一向一揆衆の多くが駆り出されたと言います。

当然、彼ら本願寺門徒の中には「いつかチャンスがあれば!!」との思いが残る物・・・

やがて年が明けて天正四年(1576年)・・・
2月に信長が安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)の築城に着手(2月23日参照>>)する一方で、北陸では、あの越後(えちご=新潟県)の雄=上杉謙信(うえすぎけんしん)富山に侵攻して来ます(3月17日参照>>)

さらに5月3日には、総本山=石山本願寺と信長との直接対決があり(5月3日参照>>)、その5日後には、長年に渡って反目していた謙信が石山本願寺と和睦し、反信長を表明したのです(5月18日参照>>)

これをチャンスと見た一向一揆衆は再び、あちこちから立ち上がり、かの府中三人衆を襲撃したのです。

しかし所詮は、急きょ集まった烏合の衆・・・プロの戦闘集団相手には太刀打ちできず、ほどなく鎮圧され、多くの者が捕縛されました。

かくして天正四年(1576年)5月24日、この時捕えられた1000人ほどの信者が、前田利家によって、ある者は(はりつけ)にされ、ある者は釜茹で(この頃の釜茹の刑は熱湯ではなく油)にされて殺されたのだとか・・・

この信長をも真っ青な大量虐殺は、前田利家の残虐性を示す物で、利家・・・いや、前田家最大の汚点!なんて事も囁かれたりします。

しかし、それは、現代の価値観を戦国に持ちこんだ故の錯覚???

実は、この出来事が世に知られるキッカケとなったのは、昭和七年(1932年)に、先の小丸城跡の本丸付近から発見された1枚の瓦・・・

この瓦に、瓦が焼きあがる前=まだ生乾きのうちに釘か何かで書かれたであろう文字が刻まれていたのです。

『一向一揆文字瓦』と名付けられたこの瓦に書かれていたのは、
『此書物後世ニ御らんじら□れ御物がたり可有候(あるべく)
然者(しからば)五月廿四日いき(一揆)おこり候まま
前田又左衛門尉殿いき
(一揆)千人ばかりいけどりさせられ候也
御せいばいハはっつけ
(磔)かま(釜)にいれられあぶられ候也
如此候
(かくのごとく) 一ふで書きとどめ候』

これは、
「この話が後世まで語られるよう…
5月24日に一揆が起こり、
前田利家殿が1000人ほど生捕りにされ、
その処刑は磔や釜茹ででした。
このような事があった事を一筆書き残しておきます」

という事なのですが、

ここに書かれてあった文字が達筆過ぎて怪しかった事や、
未だ文献の記録として残っていたのは、先の天正三年(1575年)8月の越前一向一揆の記録だけであったため、この瓦に書かれている「5月24日」は天正三年(1575年)の5月の事だと推測され、その頃には、鉄砲隊を率いて長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)に出ていたはずの利家にできるわけない・・・と考えられた事から、発見当時、この瓦は偽物説が有力だったのです。

また、もしかして本物だったとしても、その内容がかなり衝撃的な事から、利家を恨みに思う一向一揆側の生き残りが、後世にその悪行を伝えるために、密かに書き残したのでは?と思われていて、『呪いの瓦』なんて別名で呼ばれたりもしていたのですが・・・

しかし、近年になって同時代の城や遺構の発掘調査も進み、また最新技術による最新の解析等によって、この瓦は確かに信長の時代に作られた物、しかも、信長配下の職人集団の手による作品である事が有力になって来たのです。

んん?信長側の人が書いたの???
という事を踏まえて、あらためで原文を読むと、
『前田又左衛門尉殿』
『…いけどりさせられ候』
『…いれられあぶられ候』

どう見ても敬語で書いてます。

そう!
これは「呪いの瓦」ではなく、「自慢の瓦」だった・・・

つまり、彼らにとって、この一件は、悪行でも汚点でもなく、むしろ後世に残したいほど誇れる武勇だったわけです。

当時の「大量虐殺して鬼のように恐れられる」という表現は悪口はなく、誉め言葉でしたからね。

古くは「悪源太(あくげんた)と呼ばれた源義平(みなもとのよしひら)(1月25日参照>>)・・・
近くは、森長可(もりながよし)「鬼武蔵(おにむさし)しかり(4月9日参照>>)
佐久間盛政(さくまもりまさ)「鬼玄蕃(おにげんば)しかり、
そう言えば、柴田勝家も「鬼柴田」でした~

て事は、信長さんの長島比叡山(9月12日参照>>)も・・・
家康さんの気賀(きが)のアレ(3月27日参照>>)も・・・
汚点ではなく名誉・・・

もちろん、現代社会において殺戮や虐殺は許される事ではありません。

しかし、平和な時ではなく戦時下・・・それも戦国時代の事を現在と同じ物差しで測っては、本当の歴史を見失ってしまうと思います。

そこを踏まえつつ、歴史のあれやこれやを考えねば!!

戦国とは、ここまで人の価値観を変えてしまう物なのですから・・・
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2018年5月19日 (土)

織田信長軍による福知山攻略戦

天正七年(1579年)5月19日、織田信長の命により、丹波平定を進める明智光秀をサポートすべく、丹羽長秀が丹波玉巻城を攻めました。

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室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)でしたが、その後、義昭との関係がギクシャクし始めた事から、もともとの反信長勢力と義昭絡みの反信長勢力が入れ替わり立ち替わり&入り乱れつつ形成されていた、世に言う『信長包囲網』・・・

そんな包囲網を一つ一つ崩すべく、信長は配下の武将たちを各地に派遣するわけですが、そんな中で天正三年(1575年)頃に、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)の平定を命じられたのが明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らでした。

とは言っても、当然、一朝一夕には事は進まない・・・初めは好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)の裏切りに手間取ってる間に、初戦で奪った亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)を奪い返され、やはり最初は味方してくれた八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野秀治(はたのひではる)も、この間に裏切り・・・

まぁ、ここらあたりの武将たちは、東に京都&畿内があり、西に毛利という大大名が控えるという、常に微妙な立ち位置に苛まれており、今回の信長の台頭にあたっても、旧知の毛利につくか?新勢力の信長につくか?・・・そこが、その運命の分かれ道だったわけで・・・

信長の味方になってみたり、イヤやっぱり毛利よね?と寝返ってみたり、ジィ~っと様子見ぃしてみたりと、イロイロと難しかったのです。

Aketimituhide600 そんなこんなの天正五年(1577年)、いよいよ信長は、西国の雄毛利輝元(もうりてるもと)との直接対決を決意して、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)播磨(はりま=兵庫県南西部)へ派遣し、光秀には、その側面や背面を援助すべく、再びの丹波攻略を命じ、それに応えるがの如く、光秀らは、天正五年(1577年)の10月に、奪い返した亀山城を拠点に籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)をはじめとする丹波諸城の攻略を、徐々に成功させて行くのですが(10月29日参照>>)

もちろん波多野側もジ~っとしているわけではなく、翌天正六年(1578年)には波多野配下の江田行範(えだゆきのり)が支城の綾部城(あやべじょう=京都府綾部市)の守りを固めて抵抗の姿勢を見せます。

こうして迎えた天正七年(1579年)・・・一説には、この頃、波多野氏は、一旦偽りの和睦の話を持ちかけて信長を殺す計画を立てていたものの、家臣の小野木吉澄(おのぎよしずみ)の密告によって発覚して失敗したとも言われていますが、

そんな事件があったからか?どうなのか?
この年の5月になって、信長は光秀の支援をすべく、羽柴秀長(はしばひでなが=秀吉の弟)丹羽長秀(にわながひで)丹波に派遣したのです。

もちろん、これに対して波多野側も、配下の者を集結して対抗しますが、5月4日に西丹波に侵入した羽柴軍は、鬼ヶ城(おにがじょう=京都府福知山市)を落とし、綾部城を落とし、さらに翌・5月5日には、籠城戦となっていた氷上城(ひかみじょう=兵庫県丹波市・霧山城とも)も陥落させ、城主の波多野宗長(むねなが)宗貞(むねさだ)父子が自害しました。

一方、この間に丹羽長秀軍は、久下重治(くげしげはる)の籠る玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)を攻めました。

一説には、この時、玉巻城の救援に駆けつけたのが波多野宗貞で、その命を惜しんで降伏を勧告する長秀を突っぱねて力戦に挑み、かなりの抵抗を試みながらも、ついに天正七年(1579年)5月19日「もはや、これまで!」とばかりに、城に火を放ち、重治・宗貞以下、久下一族も、皆ことごとく自害し、綾部城を落とされてここに逃げ込んでいた江田行範も戦死したと・・・つまり宗貞は、父とともにではなく、この玉巻城で自害したという話もあります。

その後、6月4日には、明智光秀がようやく波多野の本拠である八上城を落とし(1月15日参照>>)、残るは例の黒井城の赤井、山家城(やまがじょう=京都府綾部市)和久(わく)横山城(よこやまじょう=京都府福知山市・現在の福知山城)猪崎城(いざきじょう=同福知山・猪ノ崎城)(7月22日参照>>)塩見・・・といったところ。。。

そこで、光秀は黒井城等を目の当たりにできる位置に金山城(きんざんじょう=兵庫県丹波市)を築いて、ここを拠点をして攻略を継続し、8月9日には黒井城を攻略します(8月9日参照>>)

続いて8月20日には、四王天政春(しおうてんまさはる)林半四郎(はやしはんしろう)らを加えて横山城への攻撃を開始すると、その日の内に抵抗空しく城は陥落・・・塩見信房(しおみのぶふさ)信勝(のぶかつ)兄弟も自刃して果てました。

これを知った猪崎城の塩見利勝(としかつ)自ら城に火を放って逃走しますが、その途中で林半四郎に追撃されて討死します。

これらと同時に山家城にも攻撃が仕掛けられますが、コチラは城の破却を条件に降伏・・・(翌年、約束通りに城を破却しなかった事で再び攻められ逃走しますが)

こうして、福知山一帯が攻略された事で、明智光秀主導による丹波の平定は完成されました。

その後、10月に、今回の丹波平定を信長に報告した光秀は、塩見の拠点だった横山城を、近世城郭へと大幅改築し、それを福知山城(ふくちやまじょう)と名付けます。

これが、現在、JR福知山駅近くにある復元天守の建つ福知山城址ですね。

Dscn0829a1000
現在の福知山城天守閣から見る猪崎城址と城下…奥に連なる山のうち、アーチ型の橋の右側にある1番手前の小ぶりな山が猪崎城址です。

よく、ドラマや小説では、この丹波平定に、光秀が、思いのほか手間取った事に信長の怒り爆発で、その時の叱責やなんやかんやが、光秀が後に起こす本能寺の変の原因の一のように描かれる事がありますが、それは後の世の(本能寺の動機探しとしての)勝手な想像で、実際には、この丹波平定を、信長さんはメッチャ喜んでいたらしい・・・

この翌年に佐久間信盛(さくまのぶもり)に対して出したとされる折檻状(7月24日参照>>)で、「光秀の働きはスゴイ!」とベタ誉だった事を踏まえても、やはり、叱責等は無かったのではないか?と、私は考えております。
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2018年5月12日 (土)

賤ヶ岳で敗れ~「鬼玄蕃」佐久間盛政の最期

 

天正十一年(1583年)5月12日、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた佐久間盛政が処刑されました。

・・・・・・・・・・

佐久間盛政(さくまもりまさ)は、織田家の家臣であった佐久間盛次(もりつぐ=佐久間信盛の従兄弟)の長男として尾張(おわり=愛知県西部)で生まれました。

父の盛次が永禄十一年(1568年)の記録を最後に姿を消す事から、おそらく、それから間もなくに父が亡くなったとみられますが、母が、柴田勝家(しばたかついえ)の姉もしくは妹だったという事で、以後、叔父の勝家を父とも頼み、その傍らで勇猛な武者に成長していくのです。

おそらく父が亡くなったとおぼしき永禄十一年(1568年)・・・主君と仰ぐ織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)を阻む、南近江(滋賀県南部)六角承禎(じょうてい・義堅)との観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)の戦い(9月15日参照>>)にて15歳で初陣を飾った盛政は、

信長大ピンチの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市金ヶ崎町)からの撤退(4月27日参照>>)時に勝家の大手柄となった野洲川(やすがわ=滋賀県)の戦い(6月4日参照>>)でも大いに活躍した事でしょう。

なんせ、その体格は六尺(182cm)という当時としてはかなりの大柄で、、勝家が北陸方面の攻略担当となり、越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆を平定(8月12日参照>>)、越前8郡を与えられた天正三年(1575年)頃には、役職名の玄蕃允(げんばのじょう)に由来する『鬼玄蕃(おにげんば)なる通り名で、その名を轟かせていたのだとか・・・

天正五年(1577年)には南下して来た越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と戦い(9月18日参照>>)、その後、天正八年(1580年)、100年続いた加賀一向一揆を、勝家とともに壊滅させた
【金沢御坊の落城】参照>>
【鳥越城の戦い】参照>>
時には、その功績によって加賀(かが=石川県西部)半国を与えられ、金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)を築城し、その城主となりました。

時に盛政=27歳・・・叔父=勝家の配下として、最も将来を期待される存在となっていました。

その後、越後の謙信の後を継いだ養子の上杉景勝(かげかつ)と抗戦する中、もはや、越後の制圧は時間の問題と見えた魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)陥落(6月3日参照>>)の翌日、2日遅れで、京都は本能寺(ほんのうじ)にて信長が自刃した(6月2日参照>>)事を知るのです。

「天正十年(1582年)6月2日、信長死す」・・・この情報は、ほどなく敵陣にも知られる事となり、意気上がる上杉軍が、越中(えちゅう=富山県)能登(のと=石川県北東部)の国人たちを扇動してかく乱して来たため、容易に上洛できなかった勝家ら・・・

その後、何とか少しずつ撤退した勝家は、富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさ なりまさ)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)、そして金沢城主の盛政に、それぞれの防備を固めさせ、自らは養子の柴田勝豊(しばたかつとよ=勝家の甥・盛政の母の姉の子)らを先鋒に上洛し、信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討つ・・・はずでしたが、

ご存じの通り、電光石火の早業で、西国から舞い戻った(6月6日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、あの山崎の合戦で光秀を討ち破ってしまった(6月13日参照>>)ため、勝家ら北陸勢は、空しく矛を収めるしかありませんでした。

しかも、その後の清州会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)での後継者決めでも、何となく仇討ちを成功させた秀吉に主導権を握られた感が拭えない感じ???

まぁ、実際には時代劇や小説で描かれるようなドラマチック感はなく、
(後継者は、信長次男の信雄(のぶお・のぶかつ)か三男の信孝のぶたか)か?と争う中で、秀吉が信長の孫の三法師(さんほうし=織田秀信)を抱いて登場して、皆がハハァとひれ伏すみたいなあの場面の事です)
すでに織田家の家督を譲られていた嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)が信長とともに亡くなった以上、その遺児である三法師が、幼いとは言え嫡流として後を継ぐのは至極当然の事・・・その中で、信孝は三法師の後見人になるわけですから、信孝を推していた勝家としては、むしろ納得の結果だった事でしょう。

まぁ、領地配分で京都に近いえぇ位置を秀吉に持ってかれたしまった感はありますが、それこそ、光秀を倒したのは秀吉ですから、その領地をモノにするのは当然と言えば当然・・・

ただ、信長の死から4ヶ月後に、秀吉主導で行った、あの派手々々葬儀(10月15日参照>>)には、やはり信孝&勝家はカチンと来たかも・・・なんか、「これからは俺が仕切るで!」感強いですもんね~

こうして、ともに父の後を継ぎたい信雄VS信孝・・・そこに、仕切る感満載の秀吉VS家臣筆頭で信孝推しの勝家という対立の構図が生じ、ご存じの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いへ突入という事になります。

この時、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)に本拠を持つ勝家が雪で動けない冬を見据えた秀吉は、まずは天正十年(1582年)12月、柴田勢の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を開城させた後、信孝の本拠である岐阜方面へ・・・さらに、信孝の味方となっている滝川一益(たきがわかずます)の守る伊勢(いせ=三重県)にも転戦します。

明けて天正十一年(1583年)、春の訪れとともに、ようやく勝家らが出陣し、余呉湖(よごこ=滋賀県長浜市)の北まで進出・・・この時、盛政は、勝家が本陣とした玄蕃尾城(げんばおじょう=福井県敦賀市刀根・内中尾山城)の前方(南側)に位置する行市山(ぎょういちやま=滋賀県長浜市余呉町)に砦を築き、ここに布陣しました。

一方の秀吉も、柴田勢の動きに合わせ長浜城に入り、両者、一触即発の睨み合い状態となりますが、この間にも、一旦押さえた美濃(みの=岐阜県)の地が、信孝と結託した一益に襲撃され続けていたために、秀吉は、再び美濃へ・・・(くわしくは3月11日参照>>)

これをチャンスとみたのが盛政でした。

「秀吉のいない間に、この余呉湖周辺に展開した羽柴勢の諸将の砦を潰してしまおう!」と・・・

敵方の砦のうち、大岩山(おおいわやま)岩崎山(いわさきやま)の砦が手薄になっている事を調べ上げた盛政は、早速、この二つの砦に奇襲をかけたい旨を勝家に申し出ますが、この作戦は、敵の懐深く入る事から、かなり危険・・・勝家は反対しますが、盛政の決意は固く、やむなく勝家は、「砦を落としたら、速やかに陣に戻って来る事」を約束させて送り出します。

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賤ヶ岳の戦いの経緯
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

天正十一年(1583年)4月20日・・・さすがの盛政は、見事、砦を落として勝利しますが、ここで、その勇猛さが裏目に出てしまいます。

どうしても、もう一つ、この勢いの冷めぬまま・・・明日の朝一で、すぐ目の前の賤ヶ岳砦を落としておきたい盛政は、勝家との約束を破って夕方になっても本陣へと戻らず、占領した大岩山砦にて一夜を明かすのです(くわしくは4月20日参照>>)

そこに、あの本能寺の時と同様に、電光石火の早業で美濃から戻って来る秀吉・・・日付が変わった4月21日の午前0時、まさかまさかの南からやって来る秀吉軍の松明の列に気づいた盛政は、後方の飯浦(はんのうら)の切通しに陣取っていた柴田勝政(盛政の弟で勝家の養子)撤退命令を出すとともに、自軍もすかさず撤退を開始します。

おかげで盛政隊は、ほぼ無傷で撤退に成功しますが、勝政は討死・・・それでも、まだ挽回のチャンスはありましたが、ここで、そのチャンスを砕くように、勝家本隊の近くにいた前田利家父子が戦線離脱してしまうのです(くわしくは4月23日参照>>)

反撃を開始しようとした矢先の撤退劇に、北陸勢全体のバランスが崩れ、態勢は一気に敗色へ・・・やむなく勝家は、家臣の毛受勝照(めんじょう・めんじゅかつてる)に後を託して北陸方面へと敗走し、盛政も、それに続きます(くわしくは4月21日参照>>)

その後、勝家は本拠の北ノ庄城まで戻る事ができましたが、盛政は、敗戦のその日、加賀へ戻る途中の越前にて捕えられてしまうのです。

そして、皆様ご存じのように、その後、秀吉軍に北ノ庄城を包囲された勝家は、敗戦から3日後の4月24日、自ら城に火を放ち、妻のお市の方(信長の妹もしくは姪)とともに自害(4月23日参照>>)・・・勝家が推していた信孝も、兄の信雄に攻められ、5月2日に自刃しました(5月2日参照>>)
(ちなみに滝川一益は7月に降伏して出家します)

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賤ヶ岳より余呉湖と古戦場周辺を望む(左手前側が切通し)

そんなこんなの5月7日、生け捕られた盛政は、秀吉の前へと引き出されます。

大きな体格に、いかにも武勇誇る姿の盛政を目の前にした秀吉は、
「君の強さは噂に聞いてるで…どや?この先、九州を平定したら、お前に、そのうちの一国を与えるよって、俺の配下になれへんか?」
と、誘いますが、盛政は、冷やかに笑いながら、
「ウレシイお言葉ですけど、僕を助けて国を与えなんぞしたら、僕は秀吉さんを、今の僕のように生け捕りにして、縄をかけるでしょう。
いくら新たな恩を与えられても、その前に柴田の叔父から与えられた恩を忘れる事はできませんので…」

と言い、「速やかに殺してくれ」と願います。

「ならば、せめて武士らしく切腹を…」
と言うと、盛政は
「願わくば、大紋を染め抜いた紅裏(もみうら=真紅の裏地)の小袖(こそで)に、香を焚き込めた白帷子(かたびら=麻の着物)を賜りたいです。
それを着て人生最期の風流を尽くしたいんです」

と、続けて
「ほんで、縄を打たれた姿で市中を引きまわして、市民に見せびらかしたなら、秀吉さんの名も挙がりますし、それこそ、僕の一世一代の晴れ姿ですわ」
と、罪人として斬刑に処せられる事を願ったのです。

かくして天正十一年(1583年)5月12日、京市中を車で引き回された後、宇治槙島(まきしま=京都府宇治市槇島町)にて斬首されるのですが、その時、検使役(けんしやく=検視する役人・見届人)として同席していた浅野長政(あさのながまさ=秀吉正室・おねの義弟)を前に、
「叔父の進言を聞かずに、このような結果になってしもうたわけやけど…あの猿面郎(さるめんろう・えんめんろう=サル顔の奴)を倒せんかった事だけが、ただ一つ悔やまれる」

Sakumamorimasazansyuehontaikouki その言動に、長政が怒ると、
「君らに武士の志として言い聞かしとくけど…
あの頼朝
(よりとも=源頼朝)さんは、一旦捕まって流罪の身になりながらも諦める事無く、ついには平家を倒して父の仇を討ったんや(2月9日参照>>)
これこそが、大将の志や!
あぁ、気の毒に…その事を、お前は知らんのやな」

と吐き捨てるように言いながら顔をあげ、長政をキッと睨みつけたのだとか・・・

京都市中からここまで、派手々々衣装で引き回されて来たおかげで、この処刑の場にも大勢の見物人が集まって来ていましたが、それらの人々から
「おぉ!」「あっ晴れ」「さすが、噂の剛の者!」
と、次々に声が挙がったにだとか・・・

その後、辞世の和歌を詠じる時も顔色一つ変えず・・・平然と斬首されたという事です。

♪世の中を 廻りも果てぬ 小車は
 火宅の門を 出づるなりけり ♪
 盛政辞世

享年=30・・・

いやぁ~カッコイイ(゚▽゚*)
最期のシーンは、豊臣が滅んだ後に書かれた複数の軍記物等の記述を統合した物なので、話半分な所はありつつも・・・やっぱりカッコイイ!

近代の出来事だと、人の生き死に関わる事について、あれやこれや考えてしまい、素直に表現しづらいのですが、現代とは、価値観もまったく違う戦国の世の事ですから、ここは一つ素直に「カッコイイ~」という事で、お許しを・・・
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