2018年9月20日 (木)

光安自刃で明智城落城~明智光秀は脱出?

弘治二年(1556年)9月20日、斎藤義龍に攻められた明智城が落城し、明智光安が自刃しました。

・・・・・・・・・・・

清和源氏の流れを汲む美濃(みの=岐阜県)守護(しゅご=現代の県知事みたいな)であった土岐(とき)から枝分かれした明智(あけち)は、明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を拠点として室町幕府に直接仕える奉公衆を務めていましたが、戦国時代に入って、あの美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん=利政)が、守護の土岐頼芸(よりなり)に取って代わって美濃一国を掌握するようになります(12月4日参照>>)

当時の明智氏は、先代の明智光綱(あけちみつつな)が若くして亡くなったため、その嫡子の明智光秀(みつひで)が家督を継いでいたものの、未だ幼かったため、叔父(光綱の弟)明智光安(みつやす)光秀の後見人となって明智家の政務をこなしていた状態でしたが、この道三の台頭に対しては、ちゃっかりと自らの妹=小見の方(おみのかた)を道三の継室(けいしつ=正室が亡くなったあとの次の正室・後妻)に送りこんで、生き残りを図っていたのです。

ちなみに、この小見の方と道三の間に生まれたのが、織田信長(おだのぶなが)に嫁いだ濃姫(のうひめ=帰蝶)です(2月24日参照>>)

しかし、その濃姫の結婚からわずか6年後の弘治元年(1555年)・・・道三の長男(濃姫の異母兄)である斎藤義龍(よしたつ)が、二人の弟を殺害し(10月22日参照>>)、父=道三に反旗を翻すのです。

光安は迷います。
なんだかんだで親子ゲンカ・・・どっちにも義理がある。
しかし、合戦となった以上、どちらかが勝ってどちらかが負ける中で、明智はどちらにつくべきか・・・

結果、光安は、若き光秀にわずかの兵をつけて義龍のもとに参陣させて土岐氏への義理を果たし、自らは中立の立場を守り、事を静観するという選択をしたのです。

かくして弘治二年(1556年)4月20日、道三×義龍による父子対決=長良川の戦いが決行され、ご存じのように、義龍の大勝となって道三は命を落とします(4月20日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、この合戦の時点で義龍は道三の6倍ほどの兵を維持=つまり、臣下の者の多くが義龍に味方していた状況でしたから、光安としても、「例え妹婿であっても道三側につくのは分が悪い」と感じていたのかも知れません。

とは言え、事が落ち着いた後も、光安は義龍の居る稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)へも出仕する事無く、心の中では悶々とする日々を過ごしていたのです。

自身のとった行動が果たして本当に良かったのか?
道三に対し、また土岐家に対して申し訳が立つのか?
誇りある家名を汚す事になりはしないか?

また、
軍治のおりには何もせず静観しておいて、義龍の世になったからと、ホイホイと出仕して臣下の列に座する事を、他人はどう思うだろう?

様々な思いが胸を過る・・・
♪人間~五十年~♪と言われたこの時代に、すでに50代半ばを過ぎていた光安は、ここで決断するのです。
「もはや命は惜しくない」
と・・・

ここに、「死を以って義理を果たし、武名を残す事こそ本意」と決めた光安は、弘治二年(1556年)9月、義龍に手切れの使者を送り、一族870人を集めて明智城に籠城したのです。

これを受けた義龍は、叔父(もしくは弟)長井道利(ながいみちとし)に3700余騎の兵をつけ明智討伐軍として出陣させました。

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●明智城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

9月19日に稲葉山城を出発した軍勢は、土田(どた)の渡しより木曽川(きそがわ)を渡り、さらに可児川(かにがわ)左岸に布陣した後、明智城へと迫りますが、城は天然の要害であるうえに明智勢の反撃も鋭く稲葉山勢が城を抜く事はできず・・・この日は双方に死傷者を出しながらも、決着つかぬまま日が暮れました。

その夜・・・「明日は決戦になる事必至」と悟った光安は、皆を集めて酒宴を催し、
「明日は城外へ撃って出て、思う存分に戦った後、本丸に火を放ち、潔く果てようぞ!」
と全将士と別れの盃を交わしました。

かくして弘治二年(1556年)9月20日、数倍の兵に囲まれた明智城・・・予想通り、早朝から稲葉山勢による総攻撃が開始されました。

敵に埋め尽くされた城下にて奮戦する明智勢ではありましたが、所詮は多勢に無勢・・・やがて押され始めた明智勢が城内へと退き始めると、光安も覚悟を決め「もはや、これまで」と、そばに光秀を呼び寄せて、
「本来なら、(光秀の死を)見定めた後、我ら殉死すべきところですが、それをしてしまうと明智家は断絶してしまいます。
祖父
(光秀の祖父=明智光継の遺言でもありますし、志も大きいですので、どうかその身を守り落ちのびて、後々、家名を再興してください。
その時は、どうか、我が長男の秀満
(ひでみつ)と次男の光忠(みつただ)を盛りたててやってください」
と頼み、切腹したのです。

光安の死を見届けた光秀は、妻子と従者10人余りとともに城を脱出・・・叔父(光綱の弟で光安の兄)山岸光信(やまぎしみつのぶ)を頼って西美濃(現在の岐阜県揖斐郡大野町付近)へと落ちていったのです。

ここに明智城は落城し、明智家も没落したのですが・・・

その数年後、西美濃に妻子と従者を預けた光秀は、諸国を転々と武者修行したり、京都の嵯峨(さが)嵐山付近に潜伏して学問をしたりの全国遍歴の旅に・・・

やがて永禄十一年(1568年)、自らを将軍として担いでくれる武将を探していた足利義昭(あしかがよしあき=義秋)と、上洛する大義名分を求めていた織田信長を結びつける仲介役として、光秀は華々しく歴史の表舞台に登場する事となります。
【義昭の上洛希望】参照>>
【信長の上洛】参照>>

・‥…━━━☆

とは言え、ご存じのように、実際の明智光秀の前半生はまったくの謎・・・

今回お話は『美濃國諸奮記』という江戸時代に書かれた軍記物に記された内容ですが、軍記物とは、今で言うところの歴史小説のような物で、すべてが創作では無いでしょうが、かと言って一級史料とは言い難い=「史実をもとにしたフィクションです」みたいなシロモノです。

ここに、光安の息子として登場する秀満や光忠も、実際には光秀が信長の配下となって活躍する時に、その家臣として登場して来ますが、それ以前の事はよくわからず、当然、光安の息子かどうかもわかりませんし、なんなら光安自身が、別人(遠山景行)だった話まであります。

もちろん、光秀が明智家の嫡流だったかどうかも、この時に落城した明智城にいたのかどうかも不明・・・信長らと接触する以前の光秀の事は、ほぼほぼ、上記のような軍記物にしか登場しないのが現状なんです。

ただ、光秀は、無名の状態から、いきなり登場したワリには、すでに一流の兵法を見につけていて、鉄砲を自在に操り、オシャレな京言葉を話し、都会的で世間の状勢にもくわしく、頭も良い(10月18日参照>>)・・・いわゆる即戦力で、
「おい君、彼はいったいどこで?」からの
「ビズリ~チ」d(゜ー゜)状態の登場だったわけで・・・

しかも、その後、中途採用なのにも関わらず、社内で1番最初に独立を勝ち取る(城主になる)スピード出世を果たしておきながらの、いきなりの謀反(本能寺の変)・・・には、誰しもが首をかしげるワケで・・・

てな事で、
彼が最初っからデキる男だったのにはワケがあるんだろう?
いきなりの謀反には、それ相当の理由があるんだろう?

てな疑問が湧くのは当然・・・

で、この二つの謎を解くためには、その明智という苗字から推測して、
はなから文武両道で都会的だったのは明智家の嫡流だから・・・
謀反を起こすのは、明智&土岐氏の再興を夢見ていたから・・・

てな、憶測が生まれ、このような軍記物が登場する事になるのでしょうね。
(*ちなみに土岐惣領家を継いでいた土岐頼芸は道三に追放された後も各地を転々した後、武田の庇護受けていたところに信長の甲州征伐で元家臣の稲葉一鉄に保護され、本能寺の変の時も失明&病気がちではあるもののギリ存命でした)

おそらくは、実際に明智城落城の一件があり、そこに後に登場する光秀の謎の部分を絡ませた感じでしょうか?

もちろん、今回の話が、すべて事実の可能性もありますが・・・そこに明確な答えが出ないのが、歴史のオモシロイところでもあります。
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2018年9月14日 (金)

最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転

天文十五年(1546年)9月14日、細川氏綱が亡き養父の仇を撃つべく細川晴元を攻めた嵯峨の戦いがありました。(細川家内訌)

・・・・・・・・・・

父=細川勝元(ほそかわかつもと)の後を継いで応仁の乱を収め、自らの意のままになる将軍を擁立する明応の政変をやってのけた室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(まさもと)・・・

その後継者を争った3人の養子の中で、一歩抜け出て、第12代室町幕府将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して我が世の春を迎えた細川高国(たかくに)でしたが(5月5日参照>>)、大永六年(1526年)、自らの重臣に謀反の疑いをかけて殺害してしまった事から、その遺族の恨みをかい、土台が揺らぎ始めると(10月23日参照>>)、以前の養子同士の後継者争いで負けた細川澄元(すみもと)の遺児=細川晴元(はるもと)が、このタイミングで畿内へと攻め登り(2月13日参照>>)、大敗した高国は近江(おうみ=滋賀県)へと逃走・・・その後も、何度か刃を交える高国VS晴元でしたが、享禄四年(1531年)6月、高国は京都を奪回する事無く戦いに敗れて自害します。

その遺志を継いで政権奪回を計り、細川晴元と戦ったのは、高国の弟の細川晴国(はるくに)でしたが、彼もまた、晴元に通じた三宅国村(みやけくにむら)の反乱によって天文五年(1536年)8月に命を落とします。

そして、その後を継いだのが高国の養子であった細川氏綱(うじつな)でした。

氏綱は、高国の従兄弟(父の弟の子)に当たる細川尹賢(ただかた)の実子でしたが、高国の嫡男である細川稙国(たねくに)が18歳の若さで病死してしまったため、そのタイミングで、後継者候補として養子に迎え入れられていたのでした。

また、氏綱の実父=尹賢は、高国没落のおりには晴元に同調していたものの、結局、その後に晴元の命によって殺害されてしまうという・・・つまり、氏綱にとっては養父と実父の両方が(もちろん叔父も…)晴元によって死に追いやられた事になるわけで・・・

当然、跡目を継いだ氏綱は、晴元に抵抗すべく、天文十二年(1543年)7月、槇尾山城(まきおやまじょう=大阪府和泉市)に拠って旧臣たちをかき集め、反晴元の狼煙を挙げたのです。

氏綱出兵の報を受けて摂津(せっつ=大阪府中北部と兵庫県南東部)芥川城(あくたがわじょう=大阪府高槻市)に出陣した晴元に対し、氏綱勢は(さかい=大阪府堺市)を攻撃しますが、この時には、晴元の重臣=三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)らに敗れて兵を退きました。

しかし、その後、本願寺証如(しょうにょ=證如・第10世)から兵糧や金子の援助を受け、畠山稙長(はたけやまたねなが=河内・紀伊・越中守護)遊佐長教(ゆさながのり=河内国守護代)らと連絡を取り合って態勢を立て直してた氏綱は、河内(かわち=大阪府東部)から大和(やまと=奈良県)へと入り、天文十四年(1545年)5月には、晴元傘下の上野元全(うえのもとたけ)井手城(いでじょう=京都府綴喜郡井手町)に攻撃を仕掛けますが、またもや三好長慶らに阻まれて敗走・・・しかも、この同時期には蔭ながら氏綱を支援してくれていた畠山稙長も病死。

翌々月後の7月には氏綱方の内藤顕勝(ないとうあきかつ)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)関城(せきじょう=京都府京丹後市久美浜町)にて反晴元の兵を挙げますが、これまた長慶らに攻められて開城を余儀なくされます。

なんせ世は、高国政権に代わって、堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)を看板に据えた晴元政権の時代ですから戦う相手は現時点で最強の敵・・・そう簡単には行きません。

しかし、氏綱のヤル気はまだまだ衰えず・・・ようやく、翌・天文十五年(1546年)夏、一矢報いる時が来ます。

三宅城(みやけじょう=大阪府茨木市)の三宅国村を寝返らせ、池田城(いけだじょう=大阪府池田市)池田信正(いけだのぶまさ=久宗)など摂津の有力国衆を味方につけた氏綱勢は、長慶が戦闘準備のために堺に入ったのをキッカケに、摂津や山城(やましろ=京都府南部)方面の各地で一気に兵を挙げ、晴元方の大塚城(おおつかじょう=大阪市天王寺区茶臼山町)を占拠した後、天文十五年(1546年)9月14日には京都嵯峨に展開する晴元勢を攻め立て、晴元本人を丹波神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)にまで退け、芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)も開城させたのです。

Tyausuyama900 大塚城址=茶臼山:池中のこんもりした森が茶臼山…戦国最後の大坂の陣の陣跡として知られる茶臼山ですが、それ以前には大塚城がありました。

これを受けて長慶は、15日に高雄(たかお=京都市右京区)まで出陣して戦いますが、氏綱方の上野元治(うえのもとはる)に敗れ、丹波へと敗走する事に・・・さらに9月19日には、この丹波にも追撃をかけられ、ほうほうのていで何とか越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)まで移動し、 ここで態勢を整えます。

こうして一時的に京都を追われた晴元勢でしたが、11月に入って長慶の弟たち=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>十河一存(そごうかずまさ・かずなが=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った=5月1日参照>>)らが合流するに至って、形勢は一気に逆転します。

翌・天文十六年(1547年)の2月~6月にかけて、総勢2万もの大軍となった晴元方は、三宅城&池田城を落とし、芥川山城を奪回し・・・さらに、晴元を支援する近江の六角定頼(ろっかくさだより)の援軍が加わると、氏綱のために勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう=京都市左京区北白川)まで出張っていた足利義晴も撤退を開始・・・大勝利の晴元は約1年ぶりに京を奪回しました。

・・・て、氏綱さん、結局、負けたんか~い゚゚(´O`)°゚
どうしても勝てない!!もはや万策尽きたか???

と、思いきや、思わぬ所から思わぬ助っ人が登場します。

そう・・・これまで晴元政権の片翼を担っていたはずの三好長慶が、舅の遊佐長教に接触・・・晴元に反旗を翻したのです。

もともと、故郷の阿波(あわ=徳島県)時代から晴元の重臣であった三好家ではありますが、長慶の父=三好元長(みよしもとなが)は、主君=晴元との亀裂の中で無念の死を遂げた(7月17日参照>>)という過去があります。

それでも長慶は、恨む気持ちを抑えて仕えていたにも関わらず、血筋から見れば三好の総帥である長慶よりも、三好勝長&政長(かつなが&まさなが=元長の従兄弟)兄弟や政長の息子=三好政康(まさやす=宗渭・政勝、三好三人衆の一人)らを、相も変わらず晴元が重用する事に、とうとう堪忍袋の緒が切れちゃった・・・てな感じ??(ま、他にもイロイロあるでしょうが…)

こうして、氏綱側についた長慶が晴元勢とぶつかったのが天文十八年(1549年)6月の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)・・・この戦いで政長を討ち取り大勝利を収めた長慶に対し、一方の晴元は京都を追われ近江へと敗走。

ここに細川氏綱を冠にした三好政権が誕生します。

さらに永禄元年(1558年)6月には、復権をもくろむ若き新将軍(第13代)足利義輝(よしてる=義晴の嫡男)と京都・白川口(北白川付近)にて交戦しますが(6月9日参照>>)、その戦いをキッカケに将軍家と三好家の和睦が成立した事で、義輝は5年ぶりに京都に戻り(11月27日参照>>)、氏綱は晴れて幕府管領の座に就いて細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=細川家の嫡流家)の家督を継ぐ事になるという万々歳な結果に・・・

とは言え、上記の通り、氏綱の勝利&管領就任&家督継承は、どう見ても長慶が味方についてくれたおかげ・・・

なので、この後の実権は完全に長慶が握っており、氏綱は長慶の傀儡(かいらい=あやつり人形)、あるいはお飾りの管領とも言われますが、一方では、この時点での長慶は、未だ細川家に仕える一武将・・・氏綱という看板無くして晴元に抵抗すれば、それは幕府への謀反になるわけで、自らの戦いを正当化&すんなりと晴元を排除するためにも、氏綱の存在は重要だった事でしょう。

ただし、やはり世は戦国・・・ご存じのように、これで事実上の天下人となった三好長慶によって三好政権が畿内を牛耳る事となり、この後の氏綱には政治的出番がないまま、永禄六年(1564年)12月に静かにこの世を去った事で、管領という役職もウヤムヤに・・・なので、氏綱は最後の管領とも言われます。

思えば、建武三年(1336年)に室町幕府初代将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)の補佐として高師直(こうのもろなお)(2月26日参照>>)が就任した執事(しつじ)に始まる管領という役職は、約230年に渡って引き継がれ、この細川氏綱を最後に姿を消す事になったのです。
(上記の通り、最後の方はウヤムヤなので…細川高国の自害を以って管領は消滅したという見方もあります)
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2018年9月 8日 (土)

佐々成政の越中一向一揆攻め~瑞泉寺・井波の合戦

天正九年(1581年)9月8日、佐々成政神保長住らが一向一揆の瑞泉寺を攻めた井波の合戦がありました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)の上洛によって畿内を追われた三好(みよし)の残党の反激戦であった元亀元年(1570年)8月の野田・福島(大阪市福島区)の戦い(8月26日参照>>)に、本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が参戦する(9月12日参照>>)事によって始まった織田VS本願寺の石山合戦・・・

それは、全国の本願寺門徒を一向一揆という形で巻き込みながら約10年に渡って繰り広げられたわけですが、やがて天正八年(1580年)3月、時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇の仲介によって和睦を決意した顕如が、本拠である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市中央区)を退去・・・その和睦に反対して、更なる籠城を続けていた長男の教如(きょうにょ)も8月2日には退去し、ここに石山合戦は終結しました(8月2日参照>>)

しかし、この、素直に和睦に応じた父と和睦に反対して抵抗した息子に表される通り、本願寺門徒の中にも、この停戦に賛成する顕如派と反対する教如派がいたわけで・・・(ちにみに、これが本願寺が東西に分かれる原因の一つ…1月19日参照>>

まして、これだけ全国的に展開された一向一揆ですから、おおもとが終結したとて、まだまだイケイケムードの者たちはたくさんいたわけで・・・そんな、まだまだ屈しない気満々の本願寺門徒たちがいたのが北陸だったのです。

信長はすでに天正三年(1575年)に越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆を鎮圧しており(8月12日参照>>)、この天正八年(1580年)には、信長配下の北陸担当=柴田勝家(しばたかついえ)らが3月に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市)(3月9日参照>>)、11月に鳥越城(とりごえじょう=石川県白山市を)陥落させて(11月17日参照>>)、約100年に渡った「百姓の持ちたる国」=加賀一向一揆を鎮圧させていましたが、もちろん、まだまだ警戒は必要・・・

Sassanarimasa300 そこで信長は、かの勝家を総大将として北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)に置き、府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)拝郷家嘉(はいごういえよし)小松城(こまつじょう=石川県小松市)村上頼勝(むらかみよりかつ)、金沢御坊改め金沢城(尾山城)佐久間盛政(さくまもりまさ)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)菅屋長頼(すがやながより)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)…等々配置して、万全の態勢を整えます。

なんせ、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)が、これまでも度々南下して来ている(3月17日参照>>)うえに、天正四年(1576年)5月には長年反目していた本願寺と和睦して(5月18日参照>>)一向一揆の味方となり、天正五年(1577年)9月の手取川(てどりがわ=石川県白山市付近)では織田勢と一戦交えていましたから(9月13日参照>>)・・・

ただし、当の謙信が天正六年(1578年)3月に病死し(3月13日参照>>)、その後継者争いの内乱=御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)が約1年間続いた事で、その間に織田方はほとんど上杉勢と戦う事無く、越中の奥深くまで入る事に成功していた(9月24日参照>>)わけですが、ここに来て、その内乱も終結し、上杉の後継者も養子の上杉景勝(かげかつ)に落ち着き、景勝がその目を越中(えっちゅう=富山県)に向けた事により、本願寺門徒がこれに同調し、両者のぶつかり合いは、もはや時間の問題となっていたのです。

かくして天正九年(1581年)9月8日、佐々成政は、謙信の侵攻によってその地位を奪われたために現在は信長の配下となっているかつての越中守護=神保長住(じんぼうながずみ)と連合軍を組み、越中一向一揆の最大の拠点である瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)に進軍を開始したのです。

史料(歴代古案)に残る黒金景信(くろがねかげのぶ=上杉の家臣)宛て9月8日付けの手紙で瑞泉寺顕秀(ずいせんじけんしゅう・佐運)は、
「佐々成政と神保長住が瑞泉寺に攻めて来て、3日から今日にかけて堀際まで来てますが、コチラは武器も弾薬も充分に準備してましたので、なんなら、このチャンスに佐々方を粉砕したいと思い、皆で山中を固めています。
なのに、上杉景勝様の出馬が無いのはなぜなんですか?
瑞泉寺のためにも、是非支援お願いします。
引き延ばしはコチラの士気にも関わりますので早急に軍を整えて、越後の誠意を見せてください」

的な内容の援助要請を行っています。

この瑞泉寺の寺地内には、本願寺中興の祖と称される、かの蓮如(れんにょ)吉崎(よしざき=福井県あわら市)に滞在(8月21日参照>>)していた文明(1469年~1486年)の頃に、その蓮如の呼びかけに応じて、イザという時に武装して戦うための堀を備えた城郭のような物が構築され、文明十二年(1480年)には福光城(ふくみつじょう=富山県南砺市旧福光町)主の石黒光義(いしぐろみつよし)を破って(2月18日参照>>)砺波(となみ)一帯を領地とし、瑞泉寺の勢力は「坊主大名」と呼ばれるまでに・・・

そんな越中の一向一揆勢は、永禄(1558年~1570年)から元亀(1570年~1573年)・天正(1573年~)にかけては、かの上杉謙信とも戦い(6月15日参照>>)、瑞泉寺内の城郭も、今や井波城(いなみじょう)と呼ばれて、背後に迫る八乙女山(やおとめやま)が自然の盾となった難攻不落の堅城として、その名を知られていたのです。

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井波合戦・位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、数に物を言わせて攻めかかる佐々&神保連合軍に対し、数こそ劣るものの「仏法のためならば命惜しまず」の井波側は、蓄えていた弾薬を惜しみなく使い必死の抵抗・・・両軍一進一退の攻防が続きます。

しかし、やがて金に目のくらんだ城下の焼き餅売りの老婆が、勝手知ったる井波の城内に通じる秘密の抜け道を教えた事から形成は一気に連合軍側に・・・天正九年(1581年)9月9日井波城は援軍を待ち切れずに陥落してしまいました。

この戦いによって町はほとんど破壊&焼失し、瑞泉寺も焼かれてしまったため、瑞泉寺顕秀は一旦、五箇山(ごかやま=富山県南砺市の旧平村ほか)に身を隠したのだとか・・・

瑞泉寺を裏切った老婆の話が、どこまで信憑性のある物か?は微妙なところではありますが、その老婆の墓とされる墓石が残っていたり、井波城本丸跡に現在建つ井波八幡宮(いなみはちまんぐう)には、そこから城外へと抜け出る事のできる間道のような痕跡も発見されている事から、その時の佐々&神保軍が、何らかの方法でこの抜け道の事を知り、一進一退の攻防戦から一気に逆転に持って行ったという流れは、本当の話なのかも知れませんね。

以後の佐々成政は、一向一揆を懐柔する事で、その力を削ぎつつ越中の統治を進めていくわけですが、やがて、信長亡き後の小牧長久手(こまきながくて)の戦いで敵対(末森城攻防戦>>鳥越城攻防戦>>)した豊臣秀吉(とよとみひでよし)の前に屈する事になりますが、そのお話は、【武勇の佐々成政が秀吉に降降伏】でどうぞ>>
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2018年9月 1日 (土)

関ヶ原に向けて~徳川家康が江戸城を出陣

慶長五年(1600年)9月1日、関ヶ原の合戦に向けて、徳川家康が江戸城を出陣しました。

・・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原・・・
(一つ一つの出来事や全体の流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>で見ていただけるとありがたいです)

慶長三年(1598年)8月の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後(8月9日参照>>)、かの朝鮮出兵のなんやかんやで、豊臣政権内にて武闘派(ぶとうは=合戦で武功を挙げる派)文治派(ぶんじは=後方支援と事務的管理する派)の対立が起き始める中(3月4日参照>>)五大老(ごたいろう=豊臣政権下でのトップの5人)筆頭を良い事に、秀吉の遺言を無視しはじめた徳川家康(とくがわいえやす)「何とかせねば!」と考えた元五奉行の一人で文治派の石田三成(いしだみつなり)は、慶長五年(1600年)6月、家康が「謀反の疑いあり」として会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を征伐すべく、兵を率いて北へ向った留守を狙って行動を起こします。

7月11日には、家康とともに会津に向かっていた親友の大谷吉継(おおたによしつぐ)を引き戻して北陸の諸将の勧誘に当たらせ(7月14日参照>>)、翌・7月15日には家康に対抗できる大物=毛利輝元(もうりてるもと)大坂城(おおさかじょう=大阪市中央区)に入ってもらい、

続く7月16日には、家康と行動を共にしている諸将の妻子を大坂城内で預かり、翌・7月17日には『内府ちがひの条々』家康がこんな違反行為してまっせの報告=弾劾状)を諸大名に発して正式に家康に宣戦布告し、続く7月18日には家康に味方するであろう本多利久(ほんだとしひさ)高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)を攻撃し(7月18日参照>>)、7月19日からは家康配下の鳥居元忠(とりいもとただ)が守る伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)への攻撃を開始しました(8月1日参照>>)

Tokugawaieyasu600 一方、この三成の動きを北に向かっている途中で知った家康は、7月25日、下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま)にて評定を開き、「このまま自分について三成らに対抗するか?戻ってアチラにつくか?」を共に来ていた諸将に尋ねるのですが、すでに話を着けていた福島正則(ふくしままさのり)に真っ先に手を挙げさせる事によって、その場の雰囲気を「家康推し」にさせ、本来なら上杉を討つために出発したはずの豊臣の軍を、ほとんどそのまま自身の軍にする事に成功したのです(2012年7月25日参照>>)

この先の流れを知っている後世の者から見れば「なんで豊臣恩顧の武将が家康に…」と思ってしまいますが、この時点では家康の行動も豊臣のため=ここで三成派を一掃する事が、将来の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)のためになるという雰囲気を醸し出していたわけです。

さらに、ここで、やはり豊臣恩顧の武将である山内一豊(やまうちかずとよ)が、自身の掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を家康のために提供する事を申し出て、以下、東海道沿いに城を持つ諸将が、その意見に同調した事から、家康はここからUターンして西へ向う道すがらに兵糧や弾薬の確保も容易にできるようになったわけです。

こうして会津攻めを中止して戻る事にした家康は、次男の結城秀康(ゆうきひでやす)宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市本丸町)に留めて会津へのけん制とし、自身は江戸城(えどじょう=東京都千代田区)へと向かったのです。

8月5日に江戸城に到着した家康は、すぐには出陣せず・・・というか、そこを動く事ができず、そのまま江戸に滞在して、諸大名にせっせと手紙を書き始めます。

なんせ上記の通り、三成からの(実際の署名は豊臣の三奉行)『ちがひの条々』が諸大名に発せられてますから、それを受け取った中で誰がアチラに味方をするのかを見極めねば動けませんし、同時に、自らも書状を発して、より多くの大名を味方につけねばなりませんからね

特に東北には、今回の発端である上杉がいますし、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義宣(さたけよしのぶ)等も、かの条々を受け取って西軍(三成派)に与してますから、彼らが徒党を組んで北から侵攻してくれば江戸もヤバイです。

この間、かの小山からUターンして西へ西へと向かっていた東軍(家康派)の先鋒が、8月11日になって岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に到着します。

なんせ、かの小山評定で盛り上がったおかげで、山内一豊の掛川城や福島正則の清州城(きよすじょう=愛知県清須市)以外にも沼津城(ぬまづじょう=静岡県沼津市)浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)等々、東海道沿いの諸城が家康に提供されてましたから、彼らの移動は早い・・・

しかし、そんな中、清州城に集結しはじめた東軍諸将の中で、未だ江戸城を動こうとしない家康への不信感が生まれ始めます。

そんなこんなの8月19日、家康からの使者として村越直吉(むらこしなおよし)が清州に到着・・・早速、福島正則らは、家康がなぜ出陣しないのか?の質問を投げかけます。

すると直吉、家康からの伝言として
「御出馬あるまじきにてはなく候(そうら)へ共(ども)、各(おのおの)の手出しなく候故(そうろうゆえ)、御出馬無く候。手出しさへあらば急速御出馬にて候はん」と・・・

つまり
「いやいや、俺が出陣してないって言うより、君らの方こそ、まだ何もしてないやん。君らが本気出してくれたら、すぐにでも出陣する気満々なんやぞ」

そう、ここまでは、すでに味方である諸城を通って来ただけで、特別な軍事行動を起こしているわけではない・・・

実際の家康は、上記の通り、杉の動きを見定めるまでは江戸を離れられないし、なんたって先鋒の彼ら=福島正則ら諸将は、もともと豊臣恩顧の武将たちですから、いつ西軍に寝返るかも知れない・・・それ故に家康は出陣する事ができなかったわけですが、そこを「君らが何もせーへんから出陣できへんねん」と話をすり替えて、彼らに、先に軍事行動を起こすように促したわけですが、

これを聞いた福島正則は、「ほな、やったろやないかい!」と奮い立ったのだとか・・・

その4日後の8月23日に、彼らが西軍の拠点の一つである岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を落とす(8月22日参照>>)と、そのニュースを8月27日に聞いた家康には、もはや出陣を引き延ばす理由もなくなったわけで、

おそらくは、もうチョイ引き延ばそうと思っていたとおぼしき家康は、去る8月23日に「出陣は9月3日に…」と延期したばかりでしたが、その予定を前倒しして9月1日に出陣する事に決定・・・やっとこさ重い腰をあげるのです。

この決定をそばで聞いた家臣の石川家成(いしかわいえなり)が、
「9月1日は西ふさがりの悪日ですが…」
と、その運気の悪さを指摘すると、家康は、
「そのふさがった西を、この手で開けに行くのだ」
と言ったとか・・・

もちろん、上杉への脅威はまだ残っていますので、本丸は異父弟の松平康元(まつだいら やすもと)に、西の丸は五男の武田信吉(たけだのぶよし=松平信吉)にと、信頼のおける身内に任せて留守の間の江戸城の守りを固めました。

Sekigaharaieyasuroot
関ヶ原の進路図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして慶長五年(1600年)9月1日3万2千余の軍勢を率いて江戸城を出発した家康は、その日のうちに神奈川(かながわ)に到着し、翌日には藤沢(ふじさわ)、さらに翌日には小田原(おだわら)・・・と、東海道を着々と進み、11日には清須城に到着・・・ここで、「ちょっと体調悪いねん」と2日間の休憩を取りますが、実は、中山道を通ってやって来る息子の徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)の到着を待っていたのだとか・・・

しかし、ご存じのように、真田(さなだ)父子上田城(うえだじょう=長野県上田市)攻め(2010年9月7日参照>>)に手こずっていた秀忠の軍は、いっこうに到着の気配もなく・・・

これ以上の引き延ばしは不可能と踏んだ家康は、やむなく移動して9月13日には岐阜城に着陣します。

ここ岐阜城は、すでに三成が入城している大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)とは目と鼻の先・・・翌日には前哨戦の杭瀬川(くいせがわ)(9月14日参照>>)、そしてその翌日は・・・いよいよ天下分け目の関ヶ原です。

【ともに命を賭けた戦場の約束】>>
【討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近】>>
【島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳】>>
【関ヶ原の合戦の年表】>>)
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2018年8月24日 (金)

長篠の直後…徳川VS武田~諏訪原城の戦い

天正三年(1575年)8月24日、徳川家康が武田勝頼方の諏訪原城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・

海道一の弓取りと称された天下に最も近い男=駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)によって桶狭間(おけはざま)に敗れて(5月19日参照>>)のち、後を継いだ今川氏真(うじざね)を北と西から挟み撃ちするがの如く、協力して倒した甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)・・・
今川館の攻防戦>>
掛川城・攻防戦>>

しかし、その後、両者は対立・・・元亀三年(1572年)10月に甲斐を出陣した信玄は、
一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(10月13日参照>>)
二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)(10月14日参照>>)
仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)(10月22日参照>>)
と来て、12月にはご存じ三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)の戦いで、家康は惨敗してしまいます(12月22日参照>>)

ところが、その勢いのまま上洛するかに見えた武田軍は天正元年(1573年)1月の野田城(のだじょう=愛知県新城市)の戦い(1月11日参照>>)を最後にUターン・・・そう、御大=信玄が亡くなったのです。

その遺言(4月16日参照>>)「自分の死は3年隠せ」と言われた後継者の武田勝頼(かつより=信玄の四男)ではありましたが、むしろ、カリスマ的な父の影を払しょくするがの如く領地拡大へと突き進み、天正二年(1574年)2月には織田傘下の明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻略(2月5日参照>>)、5月には父=信玄さえ落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)をモノにします(5月12日参照>>)

そして、翌・天正三年(1575年)4月、家康の長女=亀姫(かめひめ)と婚約して武田から徳川へと寝返った奥平貞昌(おくだいらさだまさ)が城主を務める長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市)を取り囲んだのです(4月21日参照>>)

この包囲された長篠城を救うべく家康、そして援護する織田が、近くの設楽ヶ原(したらがはら)にてぶつかったのが、有名な長篠設楽ヶ原の戦いです。
史上最強の伝令・鳥居強右衛門>>
設楽原到着で…>>
長篠を救ったもう1人の伝令>>
鳶ヶ巣山砦・奇襲作戦>>
決戦!長篠の戦い>>

これまで、ブログにも書かせていただいている通り、この戦いにおいて、有名な3段撃ちは無かったかも知れないし、伝えられるほどの大差も、言われるほどの織田&徳川連合軍の圧勝という事も無かったかも知れませんが、信玄以来の重鎮と呼ばれる家臣が多く亡くなった事は事実でしょうし、先の遺言のページ>>で書かせていただいてるように、当主である勝頼と家臣団との間に少なからずの亀裂を生み、武田にとってこの長篠設楽ヶ原の戦いは良く無い戦いであった事は確かでしょう。

なんせ、ご存じのように、ここから織田&徳川の台頭が、歴史の流れからも見えて来るわけですから・・・

Tokugawaieyasu600 もちろん、その事は、戦い終えた家康も感じていたわけで・・・長篠の勢いのまま間髪入れず、武田の物となっていた遠江(とおとうみ=静岡県西部)諸城の奪取を計画します。

その第1の目標となったのが、先の元亀三年(1572年)の信玄の侵攻で三方ヶ原の前哨戦で奪われていた二俣城でした。

かの長篠設楽ヶ原から1ヶ月と経たない天正三年(1575年)6月24日、二俣城の支城である光明城(こうみょうじょう=静岡県浜松市天竜区)を落とした家康は、二俣城の周辺に4つの付城(つけじろ=攻撃のための城)を構築する一方で、次の諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)に狙いを定めます。

この諏訪原城は、信玄が亡くなって勝頼に引き継がれたばかりの武田が、まさに、この先の徳川との領地争奪戦を意識して構築した東海道沿いの要所に佇む城・・・現時点で武田の最前線である高天神城への補給路を確保するためにも重要な城でした。

まず掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)に入った家康は、配下の松平忠正(まつだいらただまさ)に命じて、ここにも付城を構築して守らせたうえ、先鋒として攻撃の最前線に放ちます。

命を受けた忠正が諏訪原城の出丸である亀甲曲輪(きっこうくるわ)を攻め落とす一方で、菊川(きくがわ)方面から松平真乗(さねのり=家康の又従兄弟)が攻めかかります。

しかし、コチラ=真乗勢は武田流の巧みな縄張り(城の造り)に阻まれうまく進めず・・・一旦敗走し、再び城門まで押し寄せるも、やはり、それ以上攻め込む事はできませんでした。

それから約1ヶ月ほど、包囲と籠城の攻防が繰り広げられますが、8月23日になって家康自らが出陣・・・日坂(にっさか=静岡県掛川市)久延寺(きゅうえんじ=同掛川市)に本陣を移動させて、本格的な城攻めを開始します。

この時、諏訪原城を守っていたのは、武田譜代の家臣=今福友清(いまふくともきよ)以下、武田配下の海野(うんの)遠山(とおやま)の面々・・・

しかし、上記の通り、武田方は長篠の敗戦後のゴタゴタが未だ治め切れておらず、この時、援軍を出せる状況では無かったのだとか・・・

結局、天正三年(1575年)8月24日諏訪原城は落城します。

一説には、この日に大将である今福友清が討死にした事+この先の援軍を期待できない事から、残った城兵は、夜陰に紛れて小山城(こやまじょう=静岡県榛原郡吉田町)へ逃げ去ったとされます(実際には友清はここでは討死してないっぽいですが…)

落城の日付に関しては諸説あるようですが、
『武徳編年集成』「廿四日 諏訪原の城兵諸賀…夜密ニ是を避て小山城に走る」
『参河国聞書』「八月廿四日、諏訪原城を攻め、落ちて…」
とあり、
『今川氏真詠草』にも、
♪朝霧や 下に立ちらむ ふしのねの
 山なき空に 近く浮へる… ♪

氏真作の歌とともに「八月廿四日諏訪原新城降参」
とある事から、おそらく8月24日に落城した物と思われます。

そう・・・実は、
この勝利により、諏訪原城を手に入れた家康は、古代中国の故事(周(しゅう)の武王(ぶおう)が殷(いん)の帝辛(ていしん)を牧野(ぼくや)に破ったという話)にちなんて、この城を牧野城 (まきのじょう)という名に改めるのですが、

その時、配下の松井忠次(まついただつぐ=松平康親)牧野康成(まきのやすなり)城番として入城させているのですが、名目上の城主としているのが、あの今川氏真なのです。

上記の通り今川氏真は、信玄と家康によって掛川城を追われ、戦国武将としての今川が事実上滅亡となった後、同盟者であった北条(ほうじょう)を頼って小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)にいたものの、その北条と武田が同盟を結んだ事で居づらくなって、その後は、家康の保護を受けていた・・・と、

つまり家康は、武田と対抗するにあたって、駿河や遠江の元領主である今川の当主=氏真を厚遇して、もともとこの地に根付いていた者たちの勢力を自らの側に引き寄せようと考えたわけです。

とは言え、2年後の天正五年(1577年)頃には、すでに、この牧野城周辺の支配は盤石になったと見え、氏真の城主の座は解任してるんですけどね。

現に、その翌年=天正六年(1578年)、
『家忠日記』によれば、
この年の8月28日に、武田軍がこの牧野城間近まで襲来して来た事が記録されていますが、ただ襲来して来たというだけで「だから何」という事も無かったようで・・・おそらくは、もはや手出しはできないような状況であった雰囲気が読み取れますから・・・

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(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところで、かの長篠の後、光明城からの、今回の諏訪原城と来た家康は、この12月には、光明&諏訪原を落とされて孤立していた二俣城を攻略し、さらに周辺の武田方の諸城へと攻撃を仕掛けていくのですが、さすがの武田方の守りはなかなかの物で、その状況はしばらくの間一進一退・・・

しかし、流れ始めた歴史の大河は、やがて天正九年(1581年)3月の高天神城の戦いへと進んで行き、窮地に陥ったこの城に援軍を出せないまま徳川に奪回されてしまった形(3月22日参照>>)となった武田が、翌・天正十年(1582年)3月、勝頼の自害で以って滅亡する(3月11日参照>>)事は、皆様ご存じの通りです。

ドラマ等ではすっ飛ばされがちなので、あの長篠の戦いの後、すぐに武田が滅んでしまったかのように思いがちですが、そのあと7年間武田は耐え・・・言いかえれば、家康は7年かけて徐々に武田方だった諸城を攻略していったわけです。

この間の勝頼は、自身の家臣団との意思疎通がうまく行かず、それゆえ、各城への援軍派遣もままならない状態だった・・・それこそが1番の武田滅亡の要因だったのかも知れません。
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2018年8月18日 (土)

宇喜多&毛利の境目合戦~難攻不落の矢筈城と草刈重継

天正十一年(1583年)8月18日、本能寺の変の直後の秀吉と毛利の和睦によって決定した城の明け渡しに不満を持った草刈重継が佐良山城山下にて合戦しました。

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西への勢力拡大を図る主君=織田信長(おだのぶなが)に命じられ、天正四年(1576年)頃から中国地方の平定にまい進していた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正八年(1580年)の1月には三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)(3月29日参照>>)、天正九年(1581年)10月には鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)(10月25日参照>>)攻略して、徐々に駒を進めていきます。

一方、その中国地方には西国の雄とうたわれた大大名=安芸(あき=広島県)毛利(もうり)がおり、その間に立たされる多くの国人領主や地侍たちは、大きな勢力のハザマで独立して生き抜く事は難しく、当然「どちらに味方すべきか」の選択を迫られつつ、織田に降る者or毛利に着いて戦う者、様々いたわけです。

やがて天正十年(1582年)4月、いよいよ秀吉は、未だ毛利の傘下にある備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市)へと迫り、ここを水攻めに・・・5月21日には毛利の援軍も現地に駆けつけますが(5月7日参照>>)、その時はすでに城は湖の上・・・

そんな中の6月2日、ご存じ、京都で本能寺の変が起こります(6月2日参照>>)

嘘かマコトか、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)が毛利に放った密書が間違って秀吉に届くというラッキーサプライズで、多くの織田家臣たちより早く信長の死を知った秀吉は、一刻も早く、ここを片づけて京都へ戻りたい・・・

そこで秀吉は、信長の死を隠したまま安国寺恵瓊(えけい)を通じて「高松城主=清水宗治(むねはる)の自刃を以って、すべてを収める」旨の交渉をし、天正十年(1582年)6月4日に和睦を成立させ(6月4日参照>>)、一路京都へ・・・これが有名な中国大返し(6月6日参照>>)で、電光石火で舞い戻った秀吉が光秀を葬り去るのが6月13日に山崎の戦い(6月13日参照>>)という事になるのですが・・・

一方、今回の毛利との和睦によって高梁川(たかはしがわ=岡山県西部を流れる)を境界線とした西側は毛利の所領・・・そして東側になる美作(みまさか=岡山県東北部)のほとんどを割譲される事になったのが、途中で毛利から織田へと鞍替えした宇喜多直家(うきたなおいえ)(6月15日参照>>)の息子=宇喜多秀家(ひでいえ)でした(直家は天正九年(1581年)頃に死去)

しかし、和睦したとは言え、そう簡単に毛利が撤退するわけもないし、その傘下がアッサリ城を明け渡してくれるわけでもなく・・・まして「信長が死んだ」となれば、その状況も微妙に変わります。

そもそも、この美作あたりの武将には、現段階で大国である毛利の傘下となっているだけで、毛利がこれほど大きくなる以前から、すでに、このあたりを領地としていた国人領主もいたわけで、そんな彼らにとっては「宇喜多領になったから…」と言われて「ハイ、そうですか」と先祖伝来の領地を手放すわけにはいかない・・・

Dscf0478c800aa 矢筈城跡(岡山県津山市)

そんな、この地に根付いていた国人領主の一人が、矢筈山(やはずやま=別名:高山)に築かれた壮大な山城=矢筈城(やはずじょう=岡山県津山市加茂町山下:高山城・草刈城とも)を本拠としていた草刈重継(くさかりしげつぐ)でした。

なんせ、この重継の草刈氏は、そのご先祖様が藤原鎌足(ふじわらのかまたり)・・・その後、平安時代の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を経て鎌倉期に陸奥国斯波郡(しわぐん=岩手県盛岡市付近)草刈郷地頭職を賜った事から草刈と名乗りはじめ、その後、南北朝時代に美作の地頭となったので、この地にやって来た(もちろん諸説ありですが…)とされる名家ですから、その誇りもあろうという物・・・

しかも、この少し前、「織田に内通した」とされた兄=草刈景継(かげつぐ)死に追いやってまで毛利に忠誠を誓い、迫りくる秀吉傘下の武将たちと戦って来た重継ですから、ここに来てもなお、我が城を死守すべく宇喜多に対抗する事となります。

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矢筈城と周辺の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十一年(1583年)8月18日、草刈重継は、秀吉軍への備えとして因幡(いなば=鳥取県東部)に兵を派遣すると同時に、宇喜多の傘下である川端家長(かわばたいえなが)の居城=佐良山城(さらやまじょう=津山市加茂町公卿)を攻め、主たる合戦場となった山下(さんげ)多くの首級を挙げる勝利を収め、家長を城から退去させたのです。

さらに、その勢いのまま因幡口へと展開し、そこを守っていた荒木重堅(あらきしげかた=木下重堅)の軍勢にも勝利します。

9月1日には、合戦勝利の報告を受けた毛利輝元(もうりてるもと)から、その功績を賞賛されたものの、その一方で秀吉の領地割譲の方針が変わる事はなく、それ以降は、先の和議の使者であった安国寺恵瓊の説得工作も強くなって来て、徐々に輝元の意向も傾き始めたと見え、この天正十一年(1583年)という年が暮れようとする頃には、本格的に、城の明け渡しの交渉がなされるようになって来ます。

翌・天正十二年(1584年)になって、草刈重継は仕方なく矢筈城を明け渡し、その後は小早川 隆景(こばやかわたかかげ=毛利輝元の叔父)に仕えたと言いますが、この矢筈城は、結果的に、築城以来1度も落城した事の無い難攻不落の堅城として、広く知られる事になったのだとか・・・

その後、この周辺で、最後まで抵抗していた美作岩屋城(いわやじょう=岡山県津山市中北上)中村頼宗(なかむらよりむね)が、7月になってようやく明け渡しを承諾して安芸に退去した事で、秀吉の支援によって抵抗勢力に対峙していた若き秀家の美作統治が完了する事となります。

一般的には、草刈重継の動向を含む、この美作割譲における一連の戦いは、「宇喜多・毛利 境目(さかいめ)合戦」と称されます。

ちなみに、矢筈城について・・・
後の江戸時代に、この矢筈山を訪れた津山藩士=正木輝雄(まさきてるお)は、その著書の中で
「凡(およ)そ高山は国中無双の一奇峰にして絶頂の巖壁(がんぺき)実に矢筈(やはず=掛軸を掛ける時の棒)の如く或(あるい)は天を仰ぎて口を開く獅子吼(ししく=周囲を覚えさせるように獅子が吠える様子)のさまにも髣髴(ほうふつ)たり」
と、この山が、険しい断崖絶壁を擁している様子を記しています。
(津山城に行った時にコチラも訪問しましたが、実際、メッチャ山の中でした(゚ー゚;)

現在の矢筈城跡は、まさしく城跡で、石垣や石塁などの遺構のみで建物類は残っていませんが、それでも岡山県内最大規模の中世山城史跡なのです。
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2018年8月13日 (月)

朝倉から若狭を守る~粟屋勝久の国吉籠城戦

永禄十一年(1568年)8月13日、朝倉義景の命を受けた軍勢が若狭に侵攻しました。

・・・・・・・・・・

今回の舞台となる国吉城(くによしじょう=福井県美浜町)は、現在の美浜駅から、少し東へ行った佐柿(さがき)の背後にある城山の山頂から尾根づたいに構築されていた山城です。

『若狭国志』によると、この城は、「かつて国吉(くによし)なる人物が構築した物を天文~弘治年間(1532年~1557年)頃に粟屋勝久(あわやかつひさ)が修復再興して、旧名をそのまま呼称した」とあります。

この粟屋勝久は、若狭(わかさ=福井県西部)守護(しゅご=現在の県知事)であった名門=若狭武田氏の被官ですので、つまりは、この城は、武田が本城とする小浜城(おばまじょう=福井県小浜市:現在の後瀬山城)出城の役割を果たしていた城です。

Asakurayosikage500a そんな中、隣国=越前(えちぜん=福井県東部)では、これまで守護であった斯波(しば)に取って代わり、去る応仁の乱(5月20日参照>>)で功績を挙げた朝倉孝景(あさくらたかかげ)越前守護に就任・・・その息子で、父亡き後に朝倉を継いだ朝倉義景(あさくらよしかげ)は、管領(かんれい=将軍補佐で幕府のNo.2)家で時の権力者である細川晴元(ほそかわはるもと)の娘を娶った事もあって、さらに力をつけて行く事に・・・

しかし一方の若狭武田氏では先代の武田信豊(のぶとよ)と息子で現守護の武田義統(よしずみ)の対立がお家騒動に発展して、力が衰えていくばかり・・・しかも、窮地に立った義統が朝倉に援助を求めた事から、他家の介入を不服に思う粟屋勝久は義統の息子=武田元明(もとあき)を擁立して抵抗します。

この状況・・・時の当主から支援を求められた朝倉義景にとっては、すでに若狭は自身が間接的に支配してるつもりなわけで、それに抵抗する粟屋らはせん滅するのみ・・・

そんな朝倉義景が、最初に若狭に侵攻したのは永禄六年(1563年)・・・この先、6年間に渡って繰り広げられる国吉城の戦いの始まりでした。

8月下旬、義景の命を受けた約1000騎が若狭に侵入すると、これを察した粟屋勝久は一円の地侍たちを即座に招集・・・地侍=約200と百姓=約800が国吉城に集結する中、その一部に弓や鉄砲を持たせて関峠(せきとうげ=福井県敦賀市と同県三方郡美浜町の境)にて防戦するように命じるとともに、残りの者で籠城の準備を開始します。

9月2日の未明、関峠に侵入して来た朝倉勢を待ち伏せていた粟屋方が一斉に迎撃を開始すると、フイを突かれた朝倉勢は大混乱となり、ここで一旦撤退・・・翌日は、朝倉勢も身構えつつ軍を進めますが、今度は城の間近まで引き寄せる作戦の粟屋方。

こうして城の城壁間近まで充分引き寄せたところで、百姓600人が一斉に、用意していた大石や木材を投げ落とします。

『国吉籠城記』によれば、朝倉勢は「大石や古木に当たる者が続出し、当たらない者も、その巻き添えを喰らって、皆、麓へとごろげ落ちて行った」とか・・・見ていた粟屋方は、このタイミングで城から出て追討を開始し、この最初の戦いは国吉城側の大勝利となったのです。

2度目の戦いは翌・永禄七年(1564年)またも夏の終わり・・・
この時の朝倉勢は、昨年のように直接城には向かわず、近くの芳春寺(ほうしゅんじ=福井県三方郡美浜町)に本陣を構えた後、弓や鉄砲を放ちながら尾根づたいに国吉城へと迫って来ますが、これが、なかなか城に当たらない・・・なんせ、国吉城は木々に囲まれた山城ですから・・・

やむなく、今度は反対方向から城へと向かって行きますが、これに対抗する粟屋方は、弓の名手を1組=14~15名の少人数に分けて木々の間に潜ませ、敵を間近まで引き寄せてゲリラ的戦法で対抗・・・まったく城に近づけない朝倉勢はまたしても退きます。

こうして長期戦を視野に入れた朝倉勢は、芳春寺に裏山に付城(つけじろ=攻撃の拠点となる城)芳春寺砦を築いて、ここを拠点に城・・・ではなく、近隣の村々に乱入して稲や野菜など農産物を略奪して自軍の兵糧を確保したのです。

これには地侍や百姓が激怒・・・自ら率先して砦に夜襲をかけて火を放つと同時に、別働隊が朝倉の本陣を襲撃し、またしても朝倉勢を退散させたのです。

このおかげか、翌永禄八年(1565年)は、朝倉勢による国吉城への直接攻撃は無く、8月下旬頃の近隣の村々への青田刈りで城内を枯渇させる心理戦、あるいは付城を修復するにとどまりました。

明けて永禄九年(1566年)8月下旬、もはや夏の恒例行事のように佐田村(さたむら=福井県三方郡美浜町)に押し寄せた朝倉勢は、馳倉山(ちくらやま=福井県三方郡美浜町:狩倉山城?)に、新たな付城を築いて、そこを前線基地として、またまた近隣の村々への略奪や放火を決行・・・しかし、「国吉城の籠城組が出撃!」の知らせを聞くなり、そそくさと城へと逃げ帰ったのだとか・・・

続いて、翌永禄十年(1567年)日本の夏・朝倉の夏・・・やって来ました8月下旬。

と言っても、この8月というのは旧暦なので、実は、その下旬ともなれば、そろそろ稲が実る時期・・・で、今回の侵攻の目的は、あくまで稲を刈る事だったようで、その作業を終えるとさっさと退散したようです。

もちろん、これも、敵の兵糧を失くして自軍の兵糧にするという、プラマイ大きい重要な作戦ではあるのですが・・・

Kuniyosizyounotatakaikankeizu_2
国吉城の戦い・関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなで、またもや!事実上の最終決戦となる永禄十一年(1568年)・・・安定の8月13日

しかし、今回の朝倉は少し違う・・・

国吉城を攻撃せず・・・いや、むしろ避けるように三方方面へ抜け、熊谷直之(くまがいなおゆき)が守る大倉見城(おぐらみじょう=福井県三方上中郡:井崎城)を攻めたのです。

しかし、結局、この大倉見城も落城させる事はできなかったのですが、その代わり(と言っては何ですが…)大倉見城攻撃の勢いのままに小浜へと向かい、粟屋勝久が担ぎあげた武田元明を拉致する事に成功します。

というより、先に書いた通り、すでに若狭を間接支配している気満々の義景から見れば「武田元明を保護した」・・・つまり、一部の抵抗者のために内乱が治まらないので当主を自分のお膝元に置いて、何とか収拾させようという事です。

現に、この後、朝倉の本拠地である一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)朝倉館に移住した武田元明は、再三に渡って粟屋勝久に対し「朝倉に同調するように」と勧告しています。

しかし「例え元明を敵に回しても!」の思いが強い粟屋勝久は、それでも国吉城に籠城を続けます。

再び『国吉籠城記』によれば、この国吉城攻防は、永禄十二年(1569年)にも、何かしらの小競り合いがあったようですが、さすがの国吉籠城組も、こう毎年々々「夏の元気なごあいさつ」をされても、うんざり気味・・・長陣に嫌気がさし始めた元亀元年(1570年)、あの男が登場します。

そう、この2年前に室町幕府第15代将軍=足利義昭を奉じての上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)です(9月7日参照>>)

将軍の名のもと再三に渡って呼び掛けた上洛要請に応じない朝倉義景に対して、信長が攻撃を仕掛けた・・・あの「手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦」(4月26日参照>>)

この時、仲間の若狭国人衆とともに信長のもとにはせ参じた粟屋勝久は、自身の国吉城を信長の宿所として提供したばかりか、朝倉本拠の一乗谷での戦い(8月6日参照>>)でも一番乗りの功名を挙げる大活躍をし、見事、武田元明を救出しています。

その後は、元明の守護復帰は叶わなかったものの、仲間とともに「若狭衆」として、織田政権下で若狭を与えられた重臣=丹羽長秀(にわながひで)の配下に組み込まれ、あの天正九年(1581年)2月の御馬揃え(おんうまそろえ)でも先頭を飾った(2月28日参照>>)と言います。

粟屋勝久自身は、本能寺の変のすぐ後の頃に亡くなったと言われ、当主と仰いでいた武田元明も、その本能寺で明智光秀(あけちみつひで)に味方した事で命を落としますが(10月22日参照>>)、その元明の美人の奥さんが、夫の死後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室になった=京極龍子(きょうごくたつこ=松の丸殿)だった縁もあり、粟屋の子孫たちは秀吉の配下を経て藤堂高虎(とうどうたかとら)に従い・・・江戸時代を生き抜いたようです。

見事な身の振り方で、結果的に戦国を生き残った粟屋勝久・・・国吉城を譲らなかったのは、ただの意地っ張りではなく先見の明があったという事でしょうか。
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2018年8月 7日 (火)

京極政経VS高清の家督争い…京極騒乱~祇園館の戦い

延徳二年(1490年)8月7日、京極家の家督争い=京極騒乱の最中、京極政経が将軍=足利義稙より『高清追討の内書(ないしょ=内密&直接の書状)』を受け取りました。

・・・・・・・・・・

第59代宇多天皇(うだてんのう)の皇子=敦実親王(あつみしんのう)の第3皇子が臣籍に降下して源雅信(みなもとのまさざね)と名乗った事に始まる宇多源氏(うだげんじ)は、その4男の源扶義(みなもとのすけのり)の子孫が武家=佐々木氏を称して近江(おうみ=滋賀県)本貫(ほんがん=基となる地)とした後、平安から鎌倉にかけての佐々木信綱(ささきのぶつな)の息子たちのうち、兄が嫡流の六角氏(ろっかくし)となり、弟が京極氏(きょうごくし)と名乗って繁栄します。

その後、信綱から5代目の佐々木道誉(どうよ=京極高氏(12月7日参照>>)の活躍で、室町幕府政権下での京極家は出雲(いづも=島根県)隠岐(おき=島根県隠岐諸島)飛騨(ひだ=岐阜県北部)守護(しゅご=今の県知事)を務めるまでになり、六角氏とともに近江の2大勢力となっていました(近江源氏)

Ouninnoransoukanzu2 そんなこんなの応仁元年(1467年)・・・室町幕府政権下で管領(かんれい=将軍の補佐・No.2)職に就任する3つ家柄=三管領(執事別当)のうち細川(ほそかわ)以外の斯波(しば)畠山(はたけやま)によるそれぞれの家督争いを発端に、将軍家の家督争いが加わり、全国を真っ二つに分けて戦った、ご存じ応仁の乱(5月20日参照>>)が勃発します。

この時、京極持清(きょうごくもちきよ)は、甥っ子(妹の子)細川勝元(ほそかわかつもと=東軍総大将)や娘の嫁ぎ先である畠山政長(はたけやままさなが)が属する東軍につき、息子の京極勝秀(かつひで)とともに、近江にて、西軍についた六角高頼(ろっかくたかより)との合戦を展開していました。

しかし、翌・応仁二年(1468年)6月に、すでに家督を継いでいた息子の勝秀が、さらに文明二年(1470年)8月に父の持清自身が相次いで病死してしまった事で、勝秀の嫡子(ちゃくし=後継ぎ)であった孫童子丸(まごどうじまる)が家督を継ぐ事になりましたが、その翌年に、わずか6歳で、これまた孫童子丸も病死・・・

そのため、孫童子丸の叔父で後見人でもあった持清の三男=京極政経(まさつね・政高)と、かねてより当主の座を争っていた孫童子丸の兄=京極高清(たかきよ・乙童子丸)&その一派との間でお家騒動が勃発するのです。
(高清については、孫童子丸の兄でありながらも側室の子であったので嫡子では無かったとされますが、異説には政経の弟、あるいは勝秀の弟だったの説もあり)

この間にも例の応仁の乱は続いていますから、「敵同士になったからには!」とばかりに、高清を当主に推す派の持清の次男(政経の兄)京極政光(まさみつ)多賀清直(たがきよなお)は、未だ幼き高清とともに六角高頼と和睦して西軍へと寝返ります。

Kyougokusourankeizu ←京極騒乱・関係図

こうして
政経とその配下の多賀高忠(たがたかただ)(東軍)
 VS
高清と彼を推す京極政光&多賀清直(西軍)
の構図が出来上がります。

そんな中、文明三年(1471年)には、同じ東軍として政経についていた六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟)が高清派に討たれます。

しかし、反撃して来た政経派に今度は高清派が推され、困った高清らは美濃(みの=岐阜県南部)斎藤妙椿(さいとうみょうちん)に援助を要請し、文明四年(1472年)には、その助けを借りて政経派に勝利し、政経らは越前(えちぜん=福井県東部)へと逃れ、ここで一旦、京極家の家督を継ぐ形になる高清でしたが、まもなく、後見人だった政光が病死します。

それから3年経った文明七年(1475年)、出雲の国人衆などを味方につけて体勢を整えた政経派が上洛し、幕府からの近江奪回の許可を得て近江に侵攻・・・六角氏の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)を攻撃して高清派に大勝利し、彼らは江北(こうほく=滋賀県の北側)に追いやられてしまいます。

とは言え、未だ継続中の応仁の乱ですから「西軍に属する彼らがヤバイ」となると、当然、西軍の武将ら=美濃の土岐成頼(とき しげより)尾張(おわり=愛知県西部)斯波義廉(しばよしかど)などが援軍を派遣し、仲間を得た高清派が反撃し・・・と、近江を巡って一進一退の攻防が何度も繰り広げられた末、ここは高清派が勝利

しかし、そんなこんなの文明五年(1473年)の西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん=持豊)&東軍総大将の細川勝元の両巨頭の相次ぐ死(3月18日参照>>)により、京都における応仁の乱絡みの動きは徐々に下火となっていき、翌文明六年(1474年)に両巨頭の息子たち(山名政豊&細川政元)が和睦した事で都に駐屯していた地方の武将たちもだんだん領国へと戻りはじめ、やがて文明九年(1477年)11月、最後まで京都に残っていた周防(すおう=山口県)大内政広(おおうちまさひろ)が帰国して、応仁の乱が終結したのです(11月11日参照>>)

でも、中央政府が都にて「ハイ!しゅう~りょう~~」と言ったところで、それまで戦っていた武将たちが「ほな、おわろか~」なるわきゃない・・・てか、むしろ地方に戻った武将たちは、その領国にて、自身の家督争いや領国拡大の戦いをする事になるわけで・・・(【応仁の乱後も戦い続けた畠山義就】参照>>)

しかも、このドサクサで、かなり強引に事を起こす者も出て来て・・・と、その一人が、応仁の乱終了後に政経に代わって近江守護となっていた六角高頼だったわけですが、そうなると、治安維持のためにも幕府=将軍が、それらの横暴を抑えねばならないわけで・・・

そこで、応仁の乱時代の第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)の後を継いだ第9代将軍=足利義尚(よしひさ=義政の息子)が、自ら大軍を率いて六角高頼を成敗すべく出陣・・・これが近江鈎(まがり)の陣(12月2日参照>>)と呼ばれる戦いなのですが、残念ながら、義尚は、未だ六角氏を制する事ができていない長享三年(1489年)、この陣中にて病死してしまいます(3月26日参照>>)

やむなく、この六角成敗の一件は、その後を継いだ第10代将軍=足利義稙(よしたね=当時は義材)に引き継がれるのですが、そのお話は【将軍・足利義材による六角征討】>> で見ていただくとして、当然、この間も京極家の争いは継続中・・・未だ取ったり取られたりを繰り返していたわけですが、

そんなこんなの長享元年(1487年)、領国の出雲に戻っていた京極政経は近江を奪回すべく上洛・・・翌年には近江松尾(現在の長浜市付近)にて高清らと交戦するも敗退・・・しかし、その翌年の延徳二年(1490年)8月7日、政経は将軍=義稙より『高清追討の内書(ないしょ=内密&直接の書状)』を受け取るのです。

そう、上記の通り・・・この時の将軍は六角高頼を成敗中ですから、あの応仁の乱の以来、西軍同士のよしみで未だ高頼とツウツウな高清は、今回の近江鈎でもバッチリ六角勢として参戦しちゃってますから、将軍としては、そんな高清らに1発カマしてやってほしいわけです。

こうして、将軍のお墨付きを得た政経は、江北の豪族で京極の重臣でもある上坂治部(こうさか=家信?)浅井直種(あざいなおたね=浅井長政の曽祖父)といった面々を味方に引き入れ、祇園館(ぎおんやかた=滋賀県長浜市祇園町)の高清を攻めたのです。

将軍威力による重臣クラスの面々の離反で「太刀打ちできない」と判断した高清は、攻撃を防ぎつつ余呉(よご=長浜市余呉町)まで撤退した後、なおも続く厳しい追撃に耐えつつ、坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと身を隠しました。

この功績により将軍=義稙から太刀を賜り、息子=京極材宗(きむね)とともに江北を任される事になった政経・・・(南には、まだ六角がいるのでね)

ところが、そのわずか2年後の明応元年(1492年)、とりあえずの六角征討を果たした(厳密には高頼が逃走しただけ…くわしくは先程の【将軍・足利義材による六角征討】参照>>)義稙は、突如として六角政堯(まさたか=高頼の従兄弟?)の養子=虎千代近江守護に任命し、逃れていた高清を呼び戻して京極家の後継とし、政経を排除したのです。

実は、これには、あの『明応の政変(めいおうのせいへん)が・・・これは、細川勝元の後を継いだ息子=細川政元(ほそかわまさもと)によって明応二年(1493年)に決行される政変で、管領である政元が、現将軍を廃し、自らの意のままになる将軍に首を挿げ替えた、まさに戦国下剋上の幕を開けたとも言われる政変。

つまり、現将軍=義稙から、政元お気に入りの足利義澄(よしずみ=義稙の従兄弟…義遐・義高)へと交代させるわけですが、どうやら、ここらあたりで義稙自身が、その政元の動きに気づいたらしい・・・

その中心人物である政元→斯波義寛(しばよしひろ=義敏の息子)赤松 政則(あかまつ まさのり)ラインは、まさに応仁の乱の東軍ラインなわけで、当然、政経も、このライングループだったのですね。

こうして明応元年(1492年)に高清に京極家の家督が認められ政経は失脚するのですが、先の戦いで重臣たちの多くが政経に味方した事は、高清にとっては何とも心細い・・・しかも、上記の通り、義稙の抵抗空しく翌・明応二年(1493年)に明応の政変が起こって立場が逆転し、高清の運命も風前の灯となります。

そこで高清は以前も助けてくれた斎藤妙椿の息子=斎藤妙純(みょうじゅん=利国)力を借りて挽回を図ります。

かくして明応四年(1495年)に美濃の内乱である船田合戦(ふなだがっせん)に勝利した妙純が、その勢いのまま近江へと侵出して来ると、たまらず政経は出雲へと逃走・・・さらに進む妙純は高頼らと交戦しますが、激しく展開された戦いは両者ともに大きな犠牲を払いながらも決着が付かないでいたところ、明応五年(1496年)に妙純が一揆に襲われて死亡してしまい(12月7日参照>>)、後ろ盾を失った高清も没落して、その後は斎藤氏を頼って美濃に向かったとか・・・

やがて明応八年(1499年)、重臣の上坂家信の助けによって北近江へと戻った高清は、政経の息子=材宗と和睦して、ここでようやく京極家の一連のお家騒動が終了するのです。

この京極家のお家騒動は、応仁の乱が終わった後も約30年に渡って繰り広げられ、文明の乱あるいは文明の内訌(ないこう)とも京極騒乱(きょうごくそうらん)とも呼ばれます。

・・・にしても、このお家騒動は京極家にとって命取りでしたね。

なんせ、武家の名門として出雲&隠岐&飛騨&近江の守護だったのが、騒乱が終わった後に残ったのは北近江だけ・・・

かの政経は妙純の侵攻で出雲へ退くも、その後の事はよくわからず、和睦の後に自刃に追い込まれた息子の材宗には吉童子丸という息子がいて、彼が出雲の守護となったとも言われますが、ご存じのように、この出雲は、京極配下で出雲の守護代(しゅごだい=今の副知事)だった尼子経久(あまごつねひさ)の尼子氏が、隠岐も含めて仕切るようになり、彼らの名は登場しません。

飛騨も、やはり家臣で守護代だった三木氏(みきし=姉小路氏)に取って代わられ、しかも、この後、高清の息子たちの間でまたもや後継者争いが起き、その間に、残った北近江までもが重臣の浅井亮政(あざいすけまさ=直種の息子で直政の婿養子)に仕切られる事になってしまうわけで・・・(3月9日参照>>)

そして、ご存じのように高清の孫にあたる京極高次(きょうごくたかつぐ)が、美人の姉ちゃん(もしくは妹)京極竜子(たつこ)豊臣秀吉(とよとみひでよし)に見染められて側室となった縁で表舞台に登場するまで、少々の間、浅井家に庇護のもと、大人しくしているしか無かったわけです(5月3日参照>>)

と、まぁ、本日は、ご覧の通り、京極騒乱についてダーっと駆け足で書かせていただきましたが、上記のように、この京極家の争いは応仁の乱と連動していたり、合戦の数も複数あり・・・本日のところは、その大まかな流れをサラッと書かせていただいたところで、いずれまた個々の戦いを、それぞれの日付にてご紹介していきたいと思います。
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2018年8月 1日 (水)

細川政元の後継を巡って~永正の錯乱と百々橋の戦い

永正四年(1507年)8月1日、細川京兆家の後継者を巡っての戦いで細川澄元と細川高国に攻められた細川澄之が自害しました。

・・・・・・・・・・・

あの応仁の乱(5月28日参照>>)の東軍・総大将として知られる細川勝元(ほそかわかつもと)・・・彼が息を引き取る時、わずか8歳の息子=政元(まさもと)をそばに呼び、
「この政元あらば、細川家は安泰だ」
と言って息をひきとったと言われるほど、政元は優れた息子でした。

その期待通り、政元は「半将軍」「観音の申し子」「八幡太郎の生まれ変わり」と呼ばれるほどの人物となって政権を掌握・・・管領(かんれい=室町幕府で将軍に次ぐ最高の役職)時代の明応二年(1493年)には、自らの意のままになる将軍に挿げ替える(第10代・足利義稙→第11代・足利義澄)という明応の政変(めいおうのせいへん)をやってのけ、もはや敵無しの状態でしたが、ただ一つ・・・

いや、これは噂の域を出ない話ですが、どうやら彼は男色一本=まったく女性を側に寄せ付けない人だったのだとか・・・

それだと、当然、子供は望めないわけですが、室町幕府政権下でのトップクラスの細川家を絶やすわけにはいかないわけで・・・で、かの明応の政変の少し前の延徳三年(1491年)2月に、養子として彼のもとにやって来たのが、前関白九条政基(くじょうまさもと)の息子=澄之(すみゆき)でした。

この時、まだ2歳だった澄之に、自らも名乗った細川京兆家(細川の嫡流)の世子(後継ぎ)が代々名乗る幼名=聡明丸(そうめいまる)を名乗らせ、13歳になった文亀二年(1502年)には、正式に嫡子(ちゃくし=後継者)に指名し、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)の守護としました。

これで澄之も細川も安泰・・・と思いきや、その翌年、いきなり澄之を廃嫡(はいちゃく=嫡子でなくなる・相続権はく奪)して、分家の阿波(あわ=徳島県)細川家の細川澄元(すみもと)を養子にして、コッチを後継者に指名したのです。

実は、澄之が元服して聡明丸から澄之になったのは、この澄元が養子になった翌年の永正元年((1504年)の事・・・ジッチャンが勝元、父ちゃんが政元でお察しの通り、本来なら細川家の後継ぎが継承していく通字(とおりじ=代々受け継いでいく文字)は「元」だったわけですが、その文字はキッチリ前年の養子縁組と同時に元服しちゃった澄元に取られてしまってたわけで・・・

しかも、この二つの養子縁組の前後には(高国を養子…の時期はハッキリしてない)、やはり分家の野洲(やす)細川家からの高国(たかくに)という養子もプラスされ、何となく、後継者候補は三つ巴感満載に・・・

そりゃ~そもそもは最初に後継者指名されていたんですから、聡明丸澄之くんが激おこプンプン丸にならないはずは無いわけで・・・永正三年(1506年)には、父=政元の命を受けて、澄元らの細川勢とともに丹後(たんご=京都府北部)一色義有(いっしきよしあり)の討伐に向かってますが、そんなもん形だけで、ホントは、はなやからヤル気ゼロ・・・いや、ヤル気ゼロなら、まだ良かった。

逆に、別の方向にヤル気満々な澄之は、他の細川勢をよそにそそくさと撤退してしまったばかりか、この討伐劇キッカケで家老=三好之長(みよしゆきなが)らの大軍を従えて上洛して来た澄元に危機感を持った政元の重臣=薬師寺長忠(やくしじながただ)らとくっつくのでした。

薬師寺らは、三好が阿波の実力者で澄元との信頼関係もハンパない事から、「このまま次代が澄元になれば、もともとの細川家の重臣である自分たちの立場と彼ら三好家が逆転するのでは?」との思いを抱いていたのです。

かくして、澄之と結んだ薬師寺長忠は、同じく細川家家臣の香西元長(こうざいもとなが)と組んで政元の暗殺を計画・・・永正四年(1507年)6月23日、スピリチュアルな魔法体験が大好きな政元が、修行のための行水を行おうと湯殿に入ったところを家臣に襲わせて殺害したのです。(6月23日参照>>)

ところで・・・
その名の通りの聡明であるはずの政元が、あきらかに後々の争いのタネになるであろう3人を養子に迎えた要因については、様々に語られますが、

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

澄之の場合は、前関白という摂関家の看板とともに、澄之の母が、政元の推す第11代将軍=足利義澄(あしかがよしずみ)の母と姉妹の関係にあるという将軍家との繋がりを考えての事と推測されます。

しかしその養子縁組が行われた、わずか5ヶ月後の延徳三年(1491年)7月、義澄の弟で、将来は堀越公方(ほりこしくぼう=幕府公認の関東支配者)(堀越公方については「永享の乱」参照>>)になるはずだった足利潤童子(じゅんどうじ)が、幽閉状態から脱走した長兄の足利茶々丸(ちゃちゃまる)に殺害され・・・と同時に茶々丸が堀越公方を名乗り始めたところ、その7年後の明応七年(1498年)8月に、その茶々丸が、あの北条早雲(ほうじょうそううん)に滅ぼされてしまうという・・・(10月11日参照>>)

澄之を養子にして→後継者にして→やっぱ澄元を養子にして後継者に~の間に、関東ではこのような変化があったわけで・・・つまりは、明応の政変にて、自らの意のままになる将軍=義澄を擁立して、同じく意のままになる堀越公方を~という政元の構想が崩れてしまった事で、その後の政元は、後継者を模索せねばならない状況になっていたと・・・

ただ、この後の細川家の展開を踏まえれば、政元が自らの意のままになる将軍や公方を推したと同じように、今度は政元自身が家臣や被官(ひかん)たちの力に押されて政元と配下が分裂、さらに、その配下たち同士の分裂等々により、細川家自身が、力のある配下の意のままになるトップを据えなけらばならない争いに巻き込まれていった感があります。

つまり、これまでは幕府トップに将軍がいて、各地の守護を統率して~という感じだったのが、ここらあたりから、畿内や近国内の領国争いが将軍自身に、また畿内の守護たちにも影響を及ぼすようになり・・・と、そうなると、当然、畿内や近国以外の地方では、守護云々より力のある者が、その領国拡大によって力を持つようになり~と、まさに、この後の群雄割拠の戦国時代への幕を開けてしまったのが、この細川家の後継者争いなのではないか?と・・・

とにもかくにも、そんな中で起きたのが政元の暗殺で、それを実行したのが澄之派の者たち・・・未だ一色との抗戦中だった残りの細川勢は、この政元暗殺の一報を受けて、すぐに撤退を開始しますが、おそらく澄之らとの和睦の際に、すでに約束事ができていたとおぼしき一色義有は、反撃を開始して細川勢の一翼であった赤沢朝経(あかざわともつね)を自害に追い込んでいます。

その後、政元暗殺の勢いのまま、澄之派は澄元の屋敷を襲撃しますが、澄元は三好之長らに守られつつ、甲賀(こうか=滋賀県甲賀市・湖南市)山中長俊(やまなかながとし)を頼って近江(おうみ=滋賀県)への逃走を図ります。

そんな中で、すかざず政元の葬儀を行い、将軍=義澄の承認を得て、正式に細川京兆家の後継者となった澄之でしたが、ここで、もう一人の養子=高国が澄元側につき、反撃を模索し、もちろん、澄元自身も近江で態勢を整えます。

こうして、かの暗殺劇から1ヶ月後の7月28日、畿内の澄元派の諸将をまとめた高国が香西元長の居城である嵐山城(あらしやまじょう=京都市西京区嵐山)を攻め落とします。

Dscn6589a800_2 現在の宝鏡寺の門前には「宝鏡寺門跡」の文字とともに「百々御所跡」と刻まれた石碑が…宝鏡寺については11月19日参照>>

それから遅れる事2日・・・永正四年(1507年)8月1日、近江の国人たちを加えた澄元&之長軍が京へと攻め上り、百々橋(どどばし=京都市上京区百々町)近くにあった澄之の居館=百々館(現在の宝鏡寺の付近)攻め、さらに、高国勢と合流して、澄之を最後の砦となった遊初軒(ゆうしょけん=嵐山付近)へと追い込み、覚悟を決めた澄之は自害・・・未だ19歳の短い生涯でした。

澄之を推した薬師寺長忠や香西元長らも討死に、もしくは自害して、ここにわずか40日の澄之短期政権が終わったのでした。

勝利した澄元は、ソッコー翌8月2日、将軍=義澄に承認してもらい、晴れて細川京兆家の後継者に・・・

しかし案の定・・・ほどなく争いが

先の明応の政変で、細川政元によって交代させられて周防(すおう=山口県)に流れていた前将軍の足利義稙(よしたね=義材・義尹)が、西国の大物=大内義興(おおうちよしおき)に奉じられて上洛し、その復権を画策すると、いち早く高国が同調・・・高国に先を越されて義稙との和睦の機会を逃した澄元は、そのまま義澄とともに、彼らと敵対する事になり、永正八年(1511年)の船岡山(ふなおかやま=京都府京都市北区)の戦いへと突入するのです(8月24日参照>>)

そこから、世代を越えての長い々々細川同士の政権争いが展開していく事になります。

★その後の流れ
直後の【船岡山】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>
【東山・川勝寺口の戦い】>>

ま、結局、最後の最後に畿内を制するのは、この時に澄元の家老として畿内にやって来た三好之長の曾孫(もしくは孫)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)なんですけどね【江口の戦い】参照>>
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2018年7月24日 (火)

松永久秀の奈良攻略~最初の戦い…第2次井戸城の戦い

永禄三年(1560年)7月24日、大和の攻略を開始した松永久秀が、井戸良弘が守る井戸城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

古くから興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)などの寺社勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地は、いつしか興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』など、寺社そのものよりも、在地の者が力を持つようになる中で、南北朝時代には『衆徒』の代表格=筒井(つつい)北朝に、『国民』の代表格越智(おち)南朝についたりして争って後、

あの応仁の乱(5月20日参照>>)では、その発端の一つが、ここ大和の守護(しゅご=県知事みたいな)であった畠山(はたけやま)の後継者争い(10月18日参照>>)であった事から、その後継者候補である畠山政長(はたけやままさなが=東軍)VS畠山義就(よしなり・よしひろ=西軍)の浮き沈みに翻弄されつつ、度々の戦場となるのですが(7月12日参照>>)

皆様ご存じの通り、こんな感じで守護大名たちがゴチャゴチャやってる間に在地の国人や土豪(どごう)たちが力をつけて来て、その実力で以って土地を支配しようとする戦国大名へと成長していき、やがて室町幕府政権下での守護が名ばかりとなる戦国へ突入・・・となって来ます。

そんな中、応仁の乱後の明応二年(1493年)に起こった山城(やましろ=京都府南部)の国一揆(12月11日参照>>)を鎮圧した功績で、中央にも認められ、大和の半分を支配する実力者となった古市城(ふるいちじょう=奈良市古市町)古市澄胤(ふるいちちょういん)(12月18日参照>>)、永正元年(1504年)、筒井氏の傘下であった井戸城(いどじょう=奈良県天理市石上町)を攻めます・・・これが第1次の井戸城の戦い(9月21日参照>>)

その時は、筒井の援助を受けて城を守ったばかりか、逆に古市勢を猛攻し、筒井は古市城を手に入れています。

やがて時代はそれぞれの次世代へと変わって行き、大和守護は畠山義堯(はたけやまよしたか=義就の曾孫・義宣)の代となりますが、その義堯の配下で山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)であった木沢長政(きざわながまさ)が、管領家=細川氏の後継者争いに打ち勝った細川晴元(はるもと)(2月13日参照>>)とくっついて争乱をおっぱじめた事から、天文元年(1532年)には、大和の住人たちも、彼らの戦いに翻弄される状況となります(7月17日参照>>)

しかし一方で、長年抗争を繰り返していた(9月15日参照>>)越智氏以下、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで、ここに来て大和の大半を手中に治めつつあったのが筒井順昭(つついじゅんしょう)でした。

ところが、筒井氏を大和一に押し上げた、その順昭が天文十九年(1550年)に病死・・・当主の座は、わずか3歳の息子=筒井順慶(じゅんけい)が引き継ぐ事になります。

Matunagahisahide600a やがてそこに、新たに大和の支配をもくろんで乗り込んで来たのが、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣=松永久秀(まつながひさひで)です。

長慶は、細川晴元の重臣だった三好元長(みよしもとなが)息子で、天文十八年(1549年)の江口(大阪市東淀川区江口周辺)の戦い(6月24日参照>>)にて、主君である晴元を破って京都を制し、永禄元年(1558年)には第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)とも和睦して(6月9日参照>>)事実上の天下人となっている有力者です。

京を制したなら大和も・・・とばかりに、永禄二年(1559年)頃から大和への侵攻を開始した久秀は、信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、奈良盆地に点在した諸城を攻略していく事になるのですが、その最初のターゲットとなったのが井戸城でした。

上記の第1次の戦いでもお解りの通り、井戸氏は筒井の傘下・・・いきなり、目的の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を攻撃するのではなく、筒井にとっても重要な拠点である井戸城を先に落として、筒井城を孤立化する作戦です。

この時の井戸城を守るのは、筒井順昭の娘を妻に持つ井戸良弘(いどよしひろ)以下、家老や一族の者たち・・・数は多く無いものの、なかなかの武者揃いであったと伝わります。

しかし、久秀には思惑が・・・未だ幼い当主が率いる筒井には、この城を救援する能力が無いであろう事を見越して、「数に勝る自軍の勝利は間違い無し!」とばかりに、永禄三年(1560年)7月24日井戸城に攻めかかったのです。

「井戸城が窮地に立っている!」
この一報は、ほどなく筒井城に届きます。

この時の筒井城には、亡き順昭の弟で、幼き順慶を後見人として支えていた筒井順政(じゅんせい)や、後に、あの石田三成(いしだみつなり)の右腕として知られる事になる島左近(しまさこん= 清興)など、一騎当千の精鋭たちが詰めていましたが、やはり久秀の予想通り・・・評定の場で様々な意見が飛び交うものの、いっこうに何も決まらず、時間ばかりが過ぎてしまいます。

結局、順政率いる援軍が井戸城に到着したのは、攻撃開始から数日経ってからの事・・・

それでも、松永勢の猛攻に数日耐えていた井戸城内からは、援軍の登場に歓喜の声が上がりますが、もはや、四方を松永軍に囲まれた状態では、援軍は城へ近づく事もできず、せっかくの援軍は久秀の術中にハマってしまうのです。

「散々ニ打負(うちまけ)筒井方廿四人マテ討死ス」『足利季世記』
と、この時の援軍は大敗となってしまったようです。

それでも、なおも籠城を続ける井戸良弘・・・

その犠牲は大変なものでしたが、長期の籠城戦ともなれば、一方の松永勢にも少なからずの犠牲は出て来るわけで・・・

結局、城攻め開始から一ヶ月余りの8月24日、話し合いの末の停戦協定が結ばれ、井戸城は開城されたのです。

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●第2次井戸城攻防戦の位置関係図
 クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

このあと、久秀は、11月には沢城(さわじょう=奈良県宇陀市榛原区)を攻略して(11月24日参照>>)、そこを配下の高山友照(たかやまともてる=右近の父)に守らせた後、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城し、筒井氏と同様の立場だった十市氏も味方につけ、取り込んだ寺社には多額の献金で文句を言わせず・・・

それは・・・
ご存じのように、この翌年の永禄八年(1565年)5月には、三好長慶の後継の立場となった三好三人衆三好長逸三好政康石成友通とともに、将軍の足利義輝を暗殺(5月19日参照>>)して、自らの推す阿波御所足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立しようと企んだとされているくらいですから・・・ま、暗殺には久秀は関与してない説もありますが、それほどの人物になっていた事は確かですから、

そして、その年の秋には、いよいよ筒井城を攻略する(11月18日参照>>)・・・という事になります。

とは言え・・・
先に書かせていただいた通り、話し合いの末の停戦協定で開城した事で、命取られる事無かった井戸良弘は、この後の風向きの変化で筒井城を奪回した筒井順慶とともに、彼もまた井戸城に戻る事になり、

この次は、元亀元年(1570年)の第3次井戸城の戦いにて、再び松永久秀と相まみえる事になるのですが、そのお話は、いずれまた、合戦のあった「その日」に書かせていただく事にします。

とにもかくにも、父の死によって若くして井戸城主となった井戸良弘は、なかなかの長生きですから、この後も、久秀や順慶に絡みつつ、織田政権下&豊臣政権下でも生き抜いていきますので、また機会がありましたら、色々とご紹介していきたいと思います。
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