2017年11月19日 (日)

京都の覇権を巡って~東山・川勝寺口の戦い

大永七年(1527年)11月19日、京都奪回を目指す足利義晴細川高国勢が三好元長柳本賢治らと激戦を繰り広げた東山・川勝寺口の戦いがありました。

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応仁の乱の混乱修復後、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として政権を掌握した細川政元(まさもと)・・・

Hosokawatakakuni600a その政元亡き後に勃発した、細川澄之(すみゆき)細川澄元(すみもと)細川高国(たかくに)の3人の養子たちによる後継者争いに打ち勝った高国は、永正十八年(1521年)に第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)を擁立して畿内に自らの政権を樹立しました。

しかし、わずか5年後の大永六年(1526年)、重臣の香西元盛(こうざいもともり)に謀反の疑いをかけて上意討ちした事から、元盛の兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が反発・・・籠城して抵抗する彼らに、高国は兵を派遣しますが、この時は手痛い敗北を喰らいます(10月23日参照>>)

Hosokawasumimoto400a そこをチャンスと見たのが、今は亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)・・・

配下の三好元長(みよし もとなが=長慶の父)三好勝長&政長(かつなが&まさなが=之長の甥)兄弟らとともに京へと攻め寄せたかと思うと波多野や柳本と連携して桂川(かつらがわ)の東岸にて激戦の末、大永七年(1527年)2月、高国らを近江(おうみ=滋賀県)へと追いやり、今度は、勝利した晴元らが、義晴の弟=足利義維(よしつな)を奉じて京都を掌握する事となったのです(2月13日参照>>)

とは言え・・・もちろん、将軍=義晴&高国も、このまま黙ってはいられません。

近江守護の六角定頼(ろっかくさだより)を頼って長光寺(ちょうこうじ=滋賀県近江八幡市)に拠った義晴は、その将軍の威勢をフルに使って、諸国の武将に「出陣せよ!」の声をかけ、京都奪回を画策します。

桂川原から5ヶ月後の7月・・・越前(えちぜん=福井県)朝倉(あさくら)能登(のと=石川県北部)畠山(はたけやま)越中(えっちゅう=富山県)椎名(しいな)美濃(みの=岐阜県)斎藤(さいとう)などの援軍を得た義晴は、27日に出陣

これに同調する六角定頼も、1万5千余りの兵を自ら率いて琵琶湖を渡り、坂本(さかもと=滋賀県大津市)にて義晴を出迎えます。

ここに集結した軍勢は約3万騎・・・これらを率いた義晴と高国は、10月13日に坂本を出発し、一路、京都へと向かい、義晴が若王子(にゃくおうじ=京都市左京区)、高国が神護寺(じんごじ=京都市右京区高雄)朝倉教景(あさくらのりかげ=宗滴)建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)に陣を置き、京都を抑える柳本&三好勢と対峙します。

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東山・川勝寺口の戦い布陣図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして大永七年(1527年)11月19日、いよいよ戦いの幕があがります。

『続応仁後記』によれば・・・
この日、義晴は、その軍勢で、東寺(とうじ=京都市南区九条町)から西七条(にししちじょう=京都市下京区)唐橋(からはし=京都市南区唐橋)鳥羽(とば=伏見区)などに隙間なく兵を配置し、高国も、自ら兵を率いて南方に向けて布陣し、おそらくは南方面から向かって来るであろう敵を待ち構えていたと言います。

しかし、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)方面から京都に入った三好勢は、丹波(たんば=京都府北部・兵庫県北部・大阪府北部)方面からの柳本勢らと連携し合って、京都の北方に進出・・・三好は西院(さいいん=京都市右京区)、波多野&柳本勢が五条(ごじょう=京都市東山区)から七条(しちじょう=同東山区)にかけての法華系寺院に展開し、北からの攻撃を仕掛けたのです。

想定外の方向からの攻撃に戸惑う義晴勢・・・

一方、亡き澄元の娘婿という立場であった河内(かわち=大阪府東部)畠山氏の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)が三好勢に加担すべく参戦・・・500余りの軍勢を率いて川勝寺口(せんしょうじぐち=京都市下京区西京極・泉乗寺口とも)を抑えて、西院に展開する三好勢を合流しようとしますが、そこを朝倉の越前兵が迎え撃ち、こちらも激しい合戦となりました。

この日の戦いは敵味方に多くの死者を出し、それでも決着がつかず・・・疲弊した両者は、ひとまず兵をを退き、しばし対陣する事となりましたが、その後もこう着状態が続いたため、年が明けた1月頃からは一部で和睦交渉が行われるようになります。

やがて、その交渉の主導者であった六角定頼と朝倉教景が、三好元長と和睦した事で、まずは3月に入って朝倉勢が帰国・・・これを受けて諸将も兵を収めて、次々と帰国して行きますが、そもそものモメ事の発端だった柳本賢治は、この和睦劇に不満ムンムン・・・

一方の発端の人である将軍=義晴と細川高国も、和睦には不満だったようですが、どちらも、諸将の加勢が無ければ戦えないのが現状・・・やむなく、彼らも兵を退き、またまた近江へと逃れたのでした。

とは言え、この和睦は、あくまで、今回の東山・川勝寺口の戦いにおける和睦・・・義晴&高国VS義維&晴元の抗争が終わったわけではありませんので、この後も、享禄四年(1531年)4月の箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原での合戦(4月6日参照>>)などの戦いが繰り広げられた後、いよいよ、高国最後の戦いとなる大物崩れ(だいもつくずれ)の戦いへと向かって行きますが、そのお話は、また、その戦いが起こる日付けにて、お話させていただきたいと思いますm(_ _)m

・・・にしても、今回も京都市街真っただ中の市街戦、周辺の建物にも被害が多くあった事が想像できます。
世は戦国とは言え、多くの一般市民も巻き込まれたかと思うと胸が痛いですね。
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2017年11月11日 (土)

桓武天皇渾身の新都~幻の都・長岡京遷都

延暦三年(784年)11月11日、桓武天皇の勅命により、平城京から長岡京へと遷都されました。

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長岡京(ながおかきょう=京都府向日市・長岡京市・京都市西京市)は、天応元年(781年)に即位した第50代=桓武(かんむ)天皇によって、延暦三年(784年)11月11日から平安京に移る延暦十三年(794年)10月22日までの10年間、日本の都とされた場所です。

余談ですが、あらためて教科書の年表など調べてみると、平安時代という時代区分は平安京に遷都された延暦十三年(794年)からなんですね~

なので、この長岡京は時代区分で言うと奈良時代になる・・・個人的にはちょっと??な感じがしないでもないですが、まぁ、時代区分なんて物は、後世の人がわかりやすいように考えた文字通りの単なる区分でしょうし、都が平安京なので平安時代という名称なのだから、平安京ではない長岡京が含まれないのは致し方ないのかも知れないですね。

と言うのも、この長岡京は、『幻の都』と呼ばれる謎多き都なのです。

もちろん、この長岡京の話は『続日本記』にも登場しますし、当時の(みことのり=天皇の命を直接伝える文書)にも「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とありますので、長岡京という都があった事自体は古くから知られていました。

また、向日神社(むこうじんじゃ=京都府向日市)の建つ丘陵を中心とした一帯が、昔から『長崗』と呼ばれていた事もありましたから、「おそらく、このあたりに都が…」という予想はされてはいたのですが、明確な場所というのは特定されていなかったのです。

Dscf1950a600 そんな中・・・それまで、明治になって天皇が東京に移った事で寂れる一方だった京都の町を復活すべく立ち上げられた明治二十八年(1894年)の『平安遷都千百年祭』(3月16日参照>>)なる京都復活イベントの一環として長岡京の遺跡保存の気運が高まり、有志により『長岡宮跡』の石碑が建立されたりもしましたが、本格的な発掘調査が始まったのは昭和二十九年(1954年)12月・・・翌年の1月に初めて遺跡の存在が確認されたのです。

さらに昭和三十四年(1959年)の宅地開発をキッカケに、大極殿(だいごくでん=最重要な儀礼施設)の跡が確認&調査され、京都府による保存&整備が決定し、その事業は、平成の今も継続中・・・なので、今後も新たな発掘&発見がある事でしょう。

Dscf1946a1000
保存&整備された大極殿公園(京都府向日市)…大極殿公園や向日神社・乙訓寺など長岡京の史跡へのくわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「長岡京へ行こう」でどうぞ>>

ちなみにですが・・・
上記の大極殿跡などがあるこの場所は長岡京跡ではなく長岡宮跡・・・(もちろん、広域に点在する関連史跡を含む場合は長岡京跡ですが…)

それは・・・奈良の平城京もそうですが、遷都された後の都というのは、宮殿は取り壊されてリサイクルされたりするので、跡かたも無くなって田んぼや畑になる可能性が高く、後に発掘調査されて公園として整備される事が多々ありますが、都そのものは、神社仏閣があったり人が住んでいたりするので、徐々に姿を変えつつも、結局はそのまま町になっている事も多々あります。
(奈良の平城京も、現在公園のように整備されている場所は平城宮=宮殿跡で、都そのものは東は東大寺~春日大社、南は現在の大和郡山市あたりまでありました:2月25日参照>>

なので、上記のように、宅地開発で更地になって発見されたりする以外は、すでに建物が建っているのを壊してまで発掘調査する事はしない方向ですので、なかなか都そのものの全容を確認するのは難しい・・・逆に、平安京のように、町が発展しまくって、大極殿跡などの宮殿施設のほとんどが石碑のみになっちゃってる場合もあります(現在の京都御所は里内裏という一時的な皇居だった場所です=11月8日参照>>

とは言え、近年の発掘調査で、幻の都の姿は、かなり解明されるようになって来たわけで・・・以前は、そのあまりの幻っぷりに、「未完成のまま破棄された」と言われていましたが、発掘が進むにつれ、その大きさも、東西4.3km南北5.3kmと平城京や平安京に匹敵する大きな都で、向日神社周辺の丘陵地域を確保した宮殿のあたりは、一段高い位置にあって広大な都を見下ろせる絶好のロケーション・・・宮殿から中央を貫く朱雀大路(すざくおおじ)を中心に碁盤の目のような大路小路も整備され、役所や貴族の邸宅などがその重要度に応じて配置された、かなりの完成形を成していた事などがわかって来ています。

Nagaokakyoub ←長岡京の位置図 
クリックで大きくなります
(背景は地理院地図>>)

また、朱雀大路の最南端にある羅城門(らじょうもん)を出てを南に行けば、すでに奈良時代には水路の要所として栄えていた山崎津(やまざきのつ=京都府乙訓郡大山崎町)があり、ここを都の表玄関として、人や物資の往来もたやすく、政治・経済・文化の中心となり得る、すばらしい都であった事がうかがえます。

まさに、桓武天皇渾身の都・・・それが長岡京だったのです。

今回の平城京からの遷都の理由については、未だ謎多く、様々な説がありますが、私としては、やはり、奈良時代のモロモロを払しょくして心機一転する事にあったと考えています。

Tennouketofuziwarakekeizukouzin 以前、桓武天皇の父で、第49代天皇である光仁(こうにん)天皇のページ(10月1日参照>>)でくわしく書かせていただきましたが、この光仁天皇が100年ぶりの天智(てんじ)天皇系の天皇であった事・・・

これまで、かつて飛鳥時代に起こった壬申の乱(じんしんのらん)(7月23日参照>>)という皇位継承争いに勝利して政権を握った天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)系の天皇が仕切っていた奈良時代・・・

藤原氏がその外戚(がいせき=天皇の母の家系)を手放したく無いために打った奥の手が第46代孝謙(こうけん)天皇という生涯独身の女性天皇(←天皇の子供が後を継ぐパターンは不可能)だった事で、
(これまでの女性天皇はすべて、后という立場を経験しており、今は幼くとも、将来的には後を継ぐべき皇子がいる中継ぎの天皇でした)
一旦、第47代淳仁(じゅんにん)天皇に皇位を譲ったものの、またぞろ第48代称徳(しょうとく)天皇として自らが返り咲き、さらにそこに道鏡(どうきょう)という僧が関与して来て、あわや「道鏡が天皇に???」という事件まで発生してしまっていたのです。
【藤原仲麻呂の乱】参照>>
【道鏡事件】参照>>
淳仁天皇・崩御】参照>>
【和気清麻呂、流罪】参照>>

もちろん、それらの出来事に至る真相については、まだまだ謎な部分はあるのですが、いずれにしても、これらのゴタゴタは、当事者個人が起こしたというよりは、彼らの利権に群がる仏教勢力や貴族の派閥やらが複雑に関与していたわけで・・・

で、結局、これらの勢力とは、ほぼ無関係の天智系の人だった桓武天皇の父=光仁天皇に100年ぶりに皇位が廻って来る事になった・・・つまりは、桓武天皇父子だけでなく、周囲の人たちも、奈良時代色を消し去り心機一転=大きな改革が必要だと思っていたわけで・・・

そのため・・・
飛鳥→藤原→平城と、これまで都が移転する度に、ともに移転していた大寺院は、そのまま奈良に残しての遷都、
なんだかんだで飛鳥時代から、副都心として維持されていた難波宮
(なにわのみや=大阪府大阪市中央区)(12月11日参照>>)を全面撤去しての遷都、
これまで水運の中心だった港を、浪速津
(なにわづ=大阪市中央区)から山崎津に変更しての遷都、
となったわけです。

このように、天皇自ら政治を行う親政(しんせい)を目指し、一大決心で挑んだ長岡京遷都だったわけですが、冒頭にも書かせていただいたように、歴史の授業でも超有名な「鳴くよウグイス平安京」=平安京に都が遷されるのは794年・・・つまり、この長岡京は、わずか10年の短い命だったのです。

そう、大きな改革であればこそ、それだけ多くの反対派が存在するのも道理というもの・・・

延暦三年(784年)6月頃に始まった新都の工事が着々と進んでいたはずの延暦四年(785年)の9月24日、早くも事件は起こります。

桓武天皇の信頼も厚く、もともと「新都をこの長岡に地にしては?」とのアドバイスをした人物であり、その造営に関する事をほぼほぼ任されていた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が、工事の検分中に反対派に襲われ、翌日、死亡してしまったのです。

Dscf2066a1000 しかも、その事件に桓武天皇の弟で皇太子だった早良(さわら)親王が関与していたとされ、親王は皇太子を廃され、乙訓寺(おとくにでら=京都府長岡京市)に10日ほど幽閉された後、淡路島(あわじしま=兵庫県)への流罪となります。

幽閉直後から食を絶ち、無実を訴えた親王でしたが、その訴えが聞き入れられる事無く流罪が決行され、衰弱した親王は、島に到着する前に亡くなってしまうのです。

この事件によって、いち時は工事が中断されたものの、延暦六年(787年)の10月には、桓武天皇自らが、未だ皇居が未完成な新都へと移り、翌七年の12月には、紀古佐美(きのこさみ)征夷大将軍として蝦夷(えぞ)に出兵する(7月2日参照>>)など、遷都への意気込みはもちろん、更なる強気を見せる桓武天皇・・・

しかし、またまた不幸が襲います。

延暦八年(790年)の12月には、天皇の母の高野新笠(たかののにいがさ)が、翌年の閏3月には皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が相次いで崩じ、さらに、亡き早良親王の代わりに、新しく皇太子に立てた天皇の実子=安殿(あて)親王(後の平城天皇)まで病気にかかってしまったのです。

お気づきの通り、最初の不幸は人為的ないわゆる事件ですが、後者の不幸は病(疫病だったとも言われます)・・・そこで、慌てて皇太子=安殿親王の病を占うと、なんと、その原因は「早良親王の祟り」と出ます。

しかも、その占いの結果が出た直後の延暦十一年(792年)6月22日、激しい雷雨によって式部省(しきぶしょう=会社でいう所の人事部)南門が倒れ、約1ヶ月半後の8月9日には、大雨による洪水で桂川が氾濫・・・2日後の11日には、天皇自らが高台に上って、その洪水の様子を目の当たりにしたと言いますが、おそらくここで、天皇も「これはアカン!」と思ったのでしょう(←心の内なので、あくまで予想です)、なんせ、この頃は怨霊や祟りが本当に信じられていた時代ですから・・・

翌・延暦十二年(793年)の年が明けて早速の1月15日には、使者を山背国葛野郡宇太村(やましろこくかどのぐんうたむら) に派遣して現地視察をさせ、1月21日には、もう長岡京の一部解体工事が開始され、2月2日には遷都の意思を賀茂大神に告げ、3月1日には、天皇自ら山背国に行幸して現地視察をしています(早っ!)

そう、この山背国葛野郡宇太村が、怨霊を封じ込める四神相応(しじんそうおう=東西南北の四方の神に守られている=くわしくは下記平安京のページで)の地=風水によるベストな地だった後に平安京となる場所でした。

着々と工事は進む中、翌・延暦十三年(794年)7月には、東西の市も新都(平安京)に移され、10月22日、正式に平安京遷都となったのです。

平安京については・・・
以前から、何度か書かせていただいてますので、内容がカブり気味で恐縮ですが、
【究極の魔界封じの都・平安京】>>
【早良親王・怨霊伝説~お彼岸行事の由来】>>
【平安京の変化~朱雀大路と千本通】>>
【平安京はいつから京都に?】>>
など参照いただければありがたいです。

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2017年11月 4日 (土)

小田原北条家最後の人~北条氏直の肌の守りと督姫と

天正十九年(1591年)11月4日、小田原北条家最後の人となった北条氏直が30歳でこの世を去りました。

・・・・・・・

あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)に始まり(10月11日参照>>)5代=100年に渡って関東に君臨した北条家・・・鎌倉時代執権の北条と区別するため後北条とか小田原北条とか呼ばれたりします。

そんな北条家が、室町幕府政権下で関東管領(かんとうかんれい)に任命されていた上杉氏に取って代わって、事実上の関東支配をする(4月20日参照>>)ようになったのは、3代目当主の北条氏康(ほうじょううじやす)の頃からですが、追われた上杉が越後(えちご=新潟県)長尾景虎(ながおかげとら=後の上杉謙信)を頼った(6月26日参照>>)事から、この関東支配を盤石な物にするためには、駿河(するが=静岡県中北部)今川義元(いまがわよしもと)と、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)との関係を良好にしておかねばならなかったのです。

一方の武田信玄も、自国の北側に位置する信濃(しなの=長野県)に侵攻するためには、東に位置する今川と北条との関係が危ぶまれていては安心して北へ行けない・・・

また、自国の西に位置する遠江(とおとうみ=静岡県西部)三河(みかわ~愛知県東部)へと侵出している今川義元も、北の武田&東の北条とは衝突を避けたいわけで・・・

こうして利害関係が一致した三者は、天文二十三年(1554年)、相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んだのです。

その同盟の証として行われたのが、お互いの息子と娘の婚儀・・・
氏康の娘=早川殿(はやかわどの)が義元の息子=今川氏真(うじざね)に嫁ぎ、
義元の娘=嶺松院(れいしょういん)が信玄の息子=武田義信(よしのぶ)に嫁ぎ、
信玄の娘=黄梅院(おうばいいん)が氏康の息子=北条氏政(うじまさ)に嫁ぐ、
というテレコ&テレコの結婚でした。

Houzyouuzinao300 そう、今回の主役=北条氏直(ほうじょううじなお)は、この時に結婚した氏政と黄梅院の次男として永禄五年(1562年)に生まれました。

しかし、その2年前の永禄三年(1560年)に起こった桶狭間の戦い(2007年5月19日参照>>)で、かの今川義元が亡くなってしまった後、信玄が一方的に同盟を破棄して、今川の駿河を狙い始めた事から関係が悪化・・・永禄十一年(1568年)に、信玄が、義元の後を継いでいた氏真の今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃した(12月13日参照>>)事から、母の黄梅院は離縁されて武田に送り返され、その1年後に27歳の若さでこの世を去ってしまうのです(6月17日参照>>)

この同じ年には、氏直が、追われた氏真の猶子(ゆうし=社会的な親子関係)となって家督を継ぎ、いずれ駿河を譲られる事になりましたが、実際には、もはや駿河は武田の物・・・しかも、その武田と連携した三河の徳川家康(とくがわいえやす)によって掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を攻撃された(12月27日参照>>)氏真が、保護を求めて北条へと駆け込んで来て、事実上、戦国大名としての今川家は滅亡してしまいます。

この、今川が無くなった事と、祖父の氏康が亡くなった事を受けて元亀二年(1571年)には北条と武田の関係は一旦修復されますが、天正六年(1578年)に越後の謙信が亡くなった(3月13日参照>>)後継者争いの中で、北条から養子に入っていた上杉景虎(かげとら=氏康の七男)に敵対する上杉景勝(かげかつ)側に、信玄の後を継いでいた武田勝頼(かつより)が味方した事で(2010年3月17日参照>>)またもや北条と武田の関係が崩れます

そんな中、天正八年(1580年)には父=氏政の隠居に伴い、氏直は第5代目の北条当主となりますが、これはあくまで戦略的な代替わりであって、実権は未だ父の氏政が握ったままだったと言われます。

そんなこんなの天正十年(1582年)、あの本能寺(ほんのうじ=京都市右京区)織田信長(おだのぶなが)横死(2015年6月2日参照>>)・・・それが、信長が武田を滅亡させてからまだ2ヶ月余りの時期だった事から、旧武田領は、北の上杉&西の徳川&東の北条の間で取り合いとなりますが(6月18日参照>>)、そんな中で、北条は家康と同盟を結んで、何とか上野(こうずけ=群馬県)を確保し、未だ関東に君臨する状態を保っていました。

この時、同盟の証として行われたのが、氏直と家康の次女=督姫(とくひめ)婚儀でした(10月29日参照>>)

やがて、信長亡き後に後継者のごとき位置に立ち(6月27日参照>>)、四国を平らげ(7月29日参照>>)、九州を平らげ(4月17日参照>>)、どんどんと力をつけて来たのが豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)・・・それでも、初代早雲の息子で97歳という高齢まで生きた北条幻庵(げんあん=長綱)の生存中は、なんとなく気を使っていた感がアリ?

しかし、その幻庵が天正十七年(1589年)11月1日に亡くなると、そのわずか23日後の11月24日に、北条が起こした真田とのトラブル(10月23日参照>>)を理由に、秀吉が宣戦布告(11月24日参照>>)・・・こうして、秀吉による北条壊滅作戦=小田原征伐(おだわらせいばつ)が始まったのです(12月10日参照>>)

北条の誇る小田原城は、これまで信玄に攻められても、謙信に攻められても落ちなかった城・・・それ故、「この堅固な城さえあれば、何日でも籠城でき、やがて疲弊した攻め手側の方が諦めて撤退するだろう」とのもくろみもあったわけですが、皆様ご存じの通り、城攻め得意の秀吉は、別働隊(6月9日参照>>)に裏工作&一夜城(6月26日参照>>)など、大軍で包囲(4月2日参照>>)してのジワジワ作戦で追い込んでいき、ついに天正十八年(1590年)7月5日、北条は小田原城の開城を決定するのです。

この和平交渉の時、当主である氏直は、弟=氏房(うじふさ)を伴って秀吉方の滝川雄利(たきがわかつとし=一益の娘婿)の陣を訪れ、「自分が、すべての責任を負って切腹をするので、城兵の命は助けてほしい…」 と申し出たと言います(2008年7月5日参照>>)

秀吉は、この氏直の、当主としての潔い姿に感銘するとともに、実際には、小田原城内での主導権を握っていたのは父の氏政や叔父の氏照(うじてる=氏政の弟)らであった事、また上記の通り、氏直が家康の娘婿にあたる事などを考慮し、氏政と氏照らには切腹を申し渡したものの、氏直は、その命を助け高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に入る事とさせたのです。

『翁草』には、この時の氏直の逸話が記されています。

高野山へと向かう事になった氏直は、この一件から離縁させられる事になった督姫と最後の別れの時、これまで肌身離さず持っていたお守りを懐から出し、
「これは、北条の祖の早雲が、相模(さがみ=神奈川県)を攻める際の出陣の儀式の時に、先例にならって勝ち栗を半分だけ食べ、残りの半分を懐にしまって出陣して大勝利を得た事から、吉例のお守りとして錦の袋に入れ、代々の北条当主が身につけていた物です。
しかし、もはや世捨て人となった僕には意味もなく…どうか、君が持っていて下さい。
もし、いつか、北条一門の生き残り中に『これは!』という人物を見つけたら、その人に譲ってくれたら良いです」

と言って、そのお守りを督姫に渡したのです。

それから1年・・・秀吉からの赦免を受けた氏直は、大坂(おおさか=大阪市)に屋敷を与えられて秀吉とも面会して、近々、伯耆(ほうき=鳥取県中西部)一国を与えられて大名に復帰できる予定となりましたが、そんなさ中の天正十九年(1591年)11月4日30歳の若さで、いきなり亡くなってしまうのです。

死因は天然痘(てんねんとう)だったとされていますが、同じ大坂にいて、この死の一報を聞いた督姫・・・とにもかくにも、これにて北条宗家の血脈は絶える事となりました。

Tokuhime500 やがて文禄三年(1594年)、秀吉からの働きかけにより、再びの政略結婚で池田輝政(いけだてるまさ)と再婚する事になった督姫は、その結婚前に、狭山城(さやまじょう=大阪府大阪狭山市)北条氏規(うじのり=氏直の叔父)のもとへ向います。
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この氏規は、氏政の弟ですが、例の小田原征伐の際、家康らの説得に応じて韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)を明け渡すという柔軟な姿勢であった事から、戦後には、やはり氏直とともに高野山へ送られたものの、同じく赦免され、ちょうど、この文禄三年(1594年)に狭山6980石を与えられたばかりでした。

そこにやって来た督姫・・・
「このお守りは、氏直様からいただいた物で、以来、肌身離さず、私が持っていた物です」
と、あの氏直のお守りを出したのです。

「本来、これは北条嫡流が受け継ぐ高祖のお守りですが、嫡流も絶え、この私も他家へ嫁ぐ以上、小国とは言え、一国一城の主で、北条の名を継ぐあなた様が持っておられるのが1番良いのではないかと思い、持参しました」
と、涙ながらに、そのお守りを手渡したと言います。

そう・・・彼女は、ずっと持っていたのです。

離縁させられて氏直が高野山へ行ってからも・・・
同じ大坂にいながらも会えぬままに彼が亡くなった後も・・・

しかし、他家へ嫁ぐ以上、その思いも断ち切らねばならないのが戦国の女・・・

彼女たち戦国の女は、現在人の私たちが思い描くほど、か弱くもなく、乱世の犠牲者でもなく、したたかで強く、それでいて情が深い・・・

自分が果たせる役目を知り、自分が背負うべき責任をしっかりと見据る事のできる女性たちだったのだと思います。

果たして、池田家に嫁いだ彼女は、あの姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)にて、輝政との間に5男2女をもうける肝っ玉母さんとなります。

ちなみに、一方の北条氏規の家系も、江戸時代を通じて狭山藩主としての地位を全うして、無事、明治維新を迎えていますので、ご安心を・・・
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2017年10月29日 (日)

天正壬午の乱の徳川と北条の和睦で井伊の赤備え誕生

天正十年(1582年)10月29日、徳川家康と北条氏政の和睦が成立し、甲斐と南信濃は徳川領、上野は北条領と決まりました。

・・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)2月9日、織田信長(おだのぶなが)によって開始された『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)・・・

約1ヶ月後の3月11日、天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより)が自刃(2008年3月11日参照>>)した事で、ここに甲斐(かい=山梨県)に君臨した武田氏が滅亡したのです。

その2週間後の3月29日に行われた論功行賞により、信長は11ヶ条に及ぶ訓令とともに、武田の旧領の配分を行い、それは、
甲斐国河尻秀隆(かわじりひでたか)
ただし穴山梅雪の支配地は除き、その代替地として諏訪1郡をプラス
駿河国徳川家康
上野国信濃国(小県・佐久2郡)滝川一益
信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)森長可(もりながよし)
信濃木曽谷2郡木曽義昌に追加
信濃伊那1郡毛利長秀(もうりながひで)
岩村((岐阜県恵那市)団忠直(だんただなお)
金山米田島(よねだじま=岐阜県加茂郡)森定長(もりさだなが=長可の弟・蘭丸)
、と決定したわけですが・・・

しかし・・・
皆様ご存じの通り、このわずか2ヶ月後の6月2日・・・本能寺の変が起こり(2015年6月2日参照>>) 、信長は炎の中で自害します。

たった2ヶ月ですから、当然、武田の旧領を与えられた上記の武将たちは、未だ新しい領国を治め切れてもいないわけで・・・

武田勢力の中心地であった甲斐を与えられた河尻秀隆は、武田遺臣が起こした一揆によって命を落とし(2013年6月18日参照>>)、知らせを聞いた森長可は取るものも取りあえず本国へと戻り(4月9日参照>>)北条氏直(ほうじょううじなお)に行く手を阻まれた滝川一益も戦いに敗れ(2007年6月18日参照>>)清洲会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)にも間に合わず・・・

と、思えば、この3人は信長の家臣・・・あと、森定長は本能寺で信長とともに亡くなり、団忠直も二条御所(にじょうごしょ=京都府京都市)信忠(のぶただ=信長の嫡男)(2008年6月2日参照>>)とともに逝き・・・毛利長秀は出自がよくわからない(斯波氏とも)ので何とも言えませんが、

とにかく、織田の直臣は武田の旧領から姿を消したわけで・・・ほんで、残ったのは独立大名である徳川家康と木曽義昌。

つまり、武田の旧領のうち甲斐&上野&信濃の半分ほどから織田勢力が一掃された事で、ここが宙に浮いた=周辺の大名たちの切り取り次第って事になったわけですが、もちろん、そこには滝川一益を破った北条も参戦し、武田滅亡で織田についた真田昌幸(さなだまさゆき)、そして越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)もイッチョ噛んで来る事に・・・

これが、天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる戦いです。

ただし・・・
木曽義昌は、信濃から逃げて来た森長可に乱入されて従わざるを得ず、真田も未だ単独で周囲を相手にするほどの力は維持しておらず、結局は、徳川VS北条VS上杉の三つ巴の様相となるのですが、

そんな中、本能寺の変の勃発当時は堺にいた家康は、決死の伊賀越え(2007年6月2日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)へと戻り、信長を葬り去った明智光秀(あけちみつで)への討伐軍と整えるとともに、甲斐や信濃に向けて出兵しますが、まもなく織田家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)から「光秀を討った」(6月13日参照>>)との知らせが舞い込んだ事で、光秀の討伐軍も反転させて甲斐&南信濃方面軍に進軍し、北条へと迫ります。

一方、先の御館(おたて)の乱(2007年3月13日参照>>)の混乱の後、織田家臣の柴田勝家(しばたかついえ)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を落とされて(6月3日参照>>)、まもなく決戦!の様相を呈していた上杉も、信長の死によって勝家が撤退した事で、「今がチャンス!」とばかりに信濃方面に手を伸ばします。

北に上杉、西に徳川・・・となった北条は、ここで北信濃を諦めて上杉と和睦し、甲斐を巡って徳川と抗争して若神子(わかみこ=山梨県北杜市須玉町)などで対峙しますが、やがて両者ともに「ここで戦い合う事は得策にあらず」と判断し、和睦交渉に入ります。

かくして天正十年(1582年)10月29日、甲斐と南信濃は徳川の切り取り次第、上野(こうずけ=群馬県)は北条の切り取り次第としたうえ、北条氏直に家康の次女=督姫(とくひめ)が嫁ぐという条件で和睦が成立したのです。

この後、上記の条件に不満を持った真田昌幸によって上田城の戦い(8月2日参照>>)に発展するものの、いわゆる天正壬午の乱と呼ばれる戦いは、この徳川&北条の和睦によって終結となります。

『寛政重修諸家譜』によれば、
「十月かつて甲斐国に御出馬ありて…直政御つかひをうけたまはりて、かの陣におもむき、そのこふところにまかせらるべきむね仰をつたへ、かつ氏直がもとへ姫君婚儀の事を契約す…」
とあり、この重要な交渉を敵陣に赴いて成功させたのが、後に徳川四天王と謳われるあの井伊直政(いいなおまさ)であった事が記されています。

さらに、直政は、家康の旧武田の家臣たちへの本領安堵を約束する取次役としても奔走します。

もちろん、この取次役は直政以外にもいますが、11月を過ぎてもなお、最後まで奔走したのは直政のようです。

未だ22歳の若き直政に、なぜに大役が任されたのかは定かではありませんが、この交渉劇と取次役を精一杯こなした結果なのか?今回の恩賞により、直政には、駿河に4万石を与えられたうえ、武田の旧臣:74名、関東の従士:43名の計:117名が直政の付属とされ、彼は一軍の指揮をする侍大将となったのです。

Iinaomasa700 しかも・・・
「その兵器みな赤色を用ふべきむね鈞命かうぶり…」
と・・・そう、井伊の赤備え(あかぞなえ)の誕生です。

軍勢が使用する甲冑や旗指物などの武具を、赤や朱を主体とした色彩で整えた、
あのカッコイイ赤備え(*゚▽゚)ノ

この赤備えは、もともと武田家臣の山県昌景(やまがたまさかげ)の朱色の軍装を模した物で、特に武勇に秀でた武田軍の中心となる存在で、まさに武田の象徴・・・

この時、本領を安堵されて家康の傘下となった旧武田の者は、全体で800名ほどいたとされますが、そのうちの74名を引き継いだ直政にこそ与えられた、名誉ある赤備えだったのです。

その後の井伊直政は、皆様ご存じの通りの大活躍をする事になり(2月1日参照>>)、幕末には、あの井伊直弼(いいなおすけ)(2009年3月3日参照>>)を生み、平成の世には、彦根(ひこね=滋賀県)ひこにゃんが、この赤備えを継承してますがww・・・

Sekigaharakassennzubyoubu1200
赤備えの井伊隊「関ヶ原合戦図屏風」部分(関ヶ原民俗資料館蔵)

果たして、本年の大河ドラマ・・・主人公である井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)が、信長の死の、わずか3ヶ月後に亡くなってしまうので、この赤備えが出るのやら出ないのやら・・・楽しみデス
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2017年10月22日 (日)

三方ヶ原前哨戦~井伊・伊平城の仏坂の戦い

元亀三年(1572年)10月22日、武田信玄配下の山県昌景が井伊谷の伊平小屋山城を攻撃した仏坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)に桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)で当主の今川義元(いまがわよしもと)が討死にして後、息子の今川氏真(うじざね)が領国経営に奔走するも、かつての勢いを失っていく今川家・・・

そんな中、天文二十二年(1553年)に相模(さがみ=神奈川県)北条(ほうじょう)駿河(するが=静岡県西部)の今川との間に相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んでいた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)は、この今川の現状とともに桶狭間キッカケで独立を果たした徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)(2008年5月19日参照>>)の事や、川中島で何度も戦いながらも(8月3日参照>>)決着が付きそうにない越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)との事などを踏まえて、ここで大きく舵を切ります。

つまり、北=信濃(しなの=長野県)&越後方面へ注いでいた心血を、南=今川領方面へと・・・それは、その方針転換に反対する長男=武田義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)までの固い決意でした。

『浜松御在城記』よれば・・・
桶狭間の後に尾張(おわり=愛知県西部)を統一(11月1日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)が、ちょうどその頃、信玄に、
「大井川を境として、東の駿河は武田、西の遠江(とおとうみ=静岡県西部)は徳川クンが切り取ったらえぇんちゃうん?」と、家康への協力を呼びかけて来たのだとか・・・

間も無くの永禄十一年(1568年)9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて信長が上洛をする(9月7日参照>>)事を知っている私たちから見れば、おそらく、怖いオッチャン=信玄の目を京都に向けさせないための信長の策とも取れますが、信玄とて、このチャンスに今川の領地を奪わない手は無いですし、出遅れているうちに、家康がどんどん駿河に侵攻しちゃうかも知れないわけですから、むしろ、積極的に、この案を受け入れた事でしょう。

こうして駿河に侵攻した信玄は、12月12日の薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)から、翌13日には、氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)したのです。

この攻撃に耐えきれず、掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと避難した氏真を、今度は、信玄とほぼ同日に軍事行動を起こしていた家康が攻撃しするわけですが・・・

この時、家康が今川領へと入る道案内をしたとされるのが井伊谷三人衆(いいのやさんいんしゅう)と称される菅沼忠久(すがぬまただひさ)近藤康用(こんどうやすもち)鈴木重時(すずきしげとき)の3人。

ただ、『武徳編年集成』によると・・・
家康派だった東三河の菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が、強固な今川配下たちの壁を崩すべく、同族の菅沼忠久に声をかけ、その忠久が近藤らを引っ張り込んで家康の道案内をする事になり、約束通り海側に出向いて待っていたものの、家康勢が道を間違えて中宇利(なかうり=愛知県新城市中宇利)の方に行ってしまったため、実際に出向いたのは定盈だけで、その後、定盈が3人を家康に紹介したようですが・・・

ただ、行き違いがあったとは言え、この三人衆が道案内を買って出てくれた事は事実だし、その影響もあっての、今回の遠江への進撃だったわけで・・・家康は、この時、面会した3人に
「今度両三人以馳走、井伊谷筋を遠州口江可打出之旨、本望也」
(君らの働きで井伊谷筋を通って遠州に討ち入る事ができた事は本望や)
として起請文(きしょうもん=神仏に誓って約束を守る契約書)を出し、井伊谷における跡職(あとしき=跡目・家督や財産)を与える事を約束しています。

このあと、家康は引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・曳馬城)に入って、今川方の武将に調略(ちょうりゃく=政治的工作・はかりごと)をかけ、幾人かがなびいいて来たところで攻撃を開始しますが、敵もさるものでなかなか掛川を落とせないでいたところで、信玄の「早よっ!落とさんかい!」の催促もありつつ・・・で以って、催促で家康が本気出したのか否か?はともかく、翌・永禄十二年(1569年)5月に、ようやく開城となり、氏真は、奥さんの実家=北条氏政(ほうじょううじまさ)を頼って相模へと逃走したのです(12月27日参照>>)

ここに戦国大名としての今川家は滅亡となりました→その後も今川家の血脈は続きますが(3月16日参照>>)

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三方ヶ原前哨戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、駿河は信玄が、遠江は家康の支配下となったわけですが・・・しかし、このつかの間の落ち着きは、まもなく崩れます。

その要因の一つは、家康が信玄のライバルだった謙信と結んだ事・・・もちろん、それ以前に、上洛した信長の勢いがどんどん大きくなっていく事を警戒心した信玄が、信長と同盟関係にある家康をも警戒して、今川から奪った田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を大幅改修して、駿河西部の守りを強くしていたという事もあったわけですが、

そんな信玄の警戒心を感じた故か・・・家康は、元亀元年(1570年)10月8日に、
「自分が武田とは手切れする」事
「上杉と織田とがイイ関係になるよう自身が仲介役になる」事
「織田
(信忠)と武田(松姫)の縁談を破棄させる努力をする」事
などの盛り込んだ起請文を謙信に送ったうえに、かの引馬城を大幅改修&拡大して浜松城(はままつじょう)と名を改め、これまでの岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)を息子の徳川信康(のぶやす=松平信康)に譲って、自身の居城を浜松城としたのです。

おそらく、この家康の上杉へのアプローチを聞きつけたであろう信玄が、翌・元亀二年(1571年)、奥三河(おくみかわ=設楽郡あたり)の地侍だった山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)の切り崩しに成功するのです。

この山家三方衆とは、作手(つくで=愛知県北東部の南設楽郡)奥平氏(おくだいらし)長篠(ながしの=愛知県新城市長篠)菅沼氏(すがぬまし)田峰(だみね=愛知県北設楽郡設楽町)菅沼氏の3家で、本来なら、信玄の三河侵攻を阻む最前線であったはずが、信玄の作戦がウマかったのか?今回は3家とも、見事なまでに家康から離反して信玄のもとに走ったのです。

ちなみに、同じ菅沼氏でも離反しなかった菅沼定盈は、この時、本拠の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)に籠って抵抗したとされていましたが、最近では、このお話は別の年の話とされているようです。

とにもかくにも、山家三方衆を懐柔した信玄は、年が明けた元亀三年(1572年)10月3日、2万5千の大軍を率いて、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・「上洛するつもりだった?」とも言われる有名な西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始するのです。

この時、信玄本隊が飯田からほぼ天竜川に沿って南下し、青崩峠(あおくずれとうげ)を越えて侵攻するのと同時に、別働隊を任された重臣の山県昌景(やまがたまさかげ)が東三河から遠江に入って来たわけですが、上記の通り、山家三方衆が味方になっているので菅沼正貞(すがぬままささだ)長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)あたりまで、ごくごくすんなり入って来たかと思うと、ほどなく、その長篠城の南東に位置する柿本城(かきもとじょう=愛知県新城市下吉田)に攻め寄せたのです。

柿本城は、先の井伊三人衆の一人=鈴木重時の城・・・この時、城を守っていたのは重時の息子=鈴木重好(すずきしげよし)でしたが、彼は未だ14~5歳の少年・・・しかも、その柿本城自体も未だ改修中で、塀があるのは本丸のみで、二の丸は小さな柵があるだけの粗末な物・・・

「このままでは、まともに戦えない!」
と判断した重好らは、一旦、柿本城を捨て、仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)まで撤退・・・その時、伊平城(いだいらじょう=静岡県浜松市北区・小屋山城とも井伊小屋とも)に近藤康用らが籠っている事を知り、重好らも合流して籠城しました。

かくして元亀三年(1572年)10月22日山県隊が伊平城に押し寄せて来たのです。

大手を山県隊、裏は山家三方衆が率いる多勢で迫る武田勢に対し、近藤、鈴木重俊(すずきしげとし=重時の弟・重好の叔父)井伊飛騨守(いいひだのかみ=井伊氏の一族=伊平井伊氏?と思われるが史料は皆無)の3名が大手の小屋口で防戦するも、敵から放たれた鉄砲が飛騨守に命中・・・重俊も頬当ての下に弾丸を受けて、両者ともに討死してしまいました。

さらに、戦場は仏坂へも広がり、この周辺で多くの兵士が戦死したと見られ、現在も戦国期の物とおぼしき五輪塔などが建ち、地元では「ふろんぼ様」と呼ばれているのだとか・・・

こうして仏坂の戦いとも伊平小屋城の戦いとも呼ばれる井伊谷(いいのや=同浜松市北区)周辺での戦いに勝利した山県昌景は、一言坂(ひとことざか)の戦い(10月13日参照>>)を終え、二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)を攻略中(10月14日参照>>)信玄本隊と合流します。

ちなみに、この時に、山県同様に、美濃(みの=岐阜県)方面から侵攻する別働隊を任されていた秋山信友(あきやまのぶとも=晴近・虎繁)が展開していたのが、未亡人LOVE岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)攻防戦(3月2日参照>>)です。

この後、有名な三方ヶ原(みかたがはら)の戦い(12月22日参照>>)から、翌日の犀ヶ崖(さいががけ)の戦い(12月23日参照>>)・・・そして、年が明けた天正元年(1573年)1月には野田城の攻防戦(1月11日参照>>)へと向かう事になるのですが、ご存じのように、この野田城を最後に信玄の西上はストップし、武田軍は甲斐へと戻る事になります。

そう、信玄の死です(4月12日参照>>)

信玄の遺言(4月16日参照>>)に従って、その死が隠されていたため、この時に奪われた井伊谷一帯は、しばらくの間は武田の手に落ちていましたが、それが、家康によって奪回されるのは3年後の天正三年(1575年)頃の事だという事です。

残念ながら、本年の大河ドラマの主役=井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)は、このあたりの史料には出て来ませんが・・・

にしても、「伊」と「井」の文字の出現頻度が高い記事でしたなww(*^-^)
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2017年10月14日 (土)

前田利家VS佐々成政~鳥越城の攻防

天正十二年(1584年)10月14日、前田利家が鳥越城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後の天正十一年(1583年)に、織田家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月23日参照>>)に破った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)と、信長の三男=織田信孝(のぶたか=神戸信孝)を自害(5月2日参照>>)に追い込んだ信長の次男=織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)・・・・

上記の通り、初めは協力体制にあった両者でしたが、徐々に秀吉に不信感を抱いた信雄が、もう一人の大物=徳川家康(とくがわいえやす)に支援を求めて対抗したのが、天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて)の戦いです。
●信雄の重臣殺害事件…(3月6日参照>>)
●犬山城攻略戦…(3月13日参照>>)
●羽黒の決戦…(3月17日参照>>)
●岸和田城・攻防戦…(3月22日参照>>)
●小牧の陣…(3月28日参照>>)
●長久手の戦い…(4月9日参照>>)
●蟹江城攻防戦…(6月15日参照>>)

戦況は、おおむね信雄&家康勢有利に進んだものの、この年の秋になって、なぜか信雄が単独で秀吉と講和してしまった事で、あくまで「信雄から頼まれて」参戦していた家康は、大義名分を失って兵を退く事になって、戦いは幕引き(11月16日参照>>)となるのですが・・・

この一連の合戦の際、開始当初は秀吉寄りを表明していたはずの越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)が、戦況が家康優位だった事や、隣国=加賀(かが=石川県南部)前田利家(まえだとしいえ)が、かの賤ヶ岳で戦線離脱(4月23日参照>>)してから秀吉側についている事などから、途中から家康派に転じたのです。

つまり、この小牧長久手のドサクサに乗じて前田を倒し、北陸の覇者になってやろう!と・・・

天正十二年(1584年)8月28日、突如、反秀吉の旗を挙げた成政は、加賀の最前線である朝日山砦(あさひやまとりで=石川県金沢市加賀朝日町)を攻撃しますが、この時は、前田家臣の村井長頼(むらいながより)何とか砦を守り切りました。

もちろん、まだまだ諦めない成政は、翌・9月9日に能登(のと=石川県北部)末森城(すえもりじょう=石川県羽咋郡宝達志水町)を攻撃します。

しかし、ここも・・・なかなか落ちない末森城に手こずっている間に、利家自らが率いる援軍が到着して、やむなく撤退するハメに・・・(8月28日参照>>)

とは言え、さすがは戦上手の成政・・・この撤退劇はなかなかの物で、敗軍とは思えない見事な撤退ぶりだったそうで、前田軍に追撃の余地を与えないばかりか、行き掛けの駄賃(この場合は帰り掛けか?)とばかりに途中にあった津幡城(つばたじょう=石川県河北郡津幡町)をも攻略しようとしていたのだとか・・・

ただ、この時は、津幡城近くにやって来た佐々勢に対して、利家の命を受けた近隣の百姓たちが、前田軍に似せた紙製の幟旗(のぼりばた)をいくつも掲げていたのを、数千の兵が守っている物と勘違いして、結局、佐々勢は城を攻撃しないまま撤退してしまったのでした。

2度の失敗に苛立つ成政・・・自らも戦上手との自信があったからこそ、その歯がゆい思いもひとしおだったと想像しますが、そんな成政が、再びの帰り掛けの駄賃として津藩から吉倉(よしくら=同津幡町吉倉)に布陣したのは、末森城攻防から3日後の9月12日の事でした。

今度は越中との境に近い鳥越城(とりごえじょう=津藩町鳥越)を攻略しようと、城を包囲したのです。

一方、城を守るは利家配下の丹羽源十郎(にわげんじゅうろう)目賀田又右衛門(めがたまたえもん)・・・といきたいところですが、残念ながら、すでに鳥越城はカラッポ・・・

実は、これ以前に、丹羽と目賀田のもとに「末森城が落ちた」との情報が入っていたのです。

これは、佐々方が意図的に流した嘘情報なのか?
あるいは、合戦のドサクサで流れた単純な誤報だったのか?

とにもかくにも、その情報を信じた丹羽と目賀田は、「末森城の戦いで前田軍が敗北した以上、鳥越城を守る意味は無い」と考え、すでに城を空にして立ち去ってしまっていたのです。

当然、包囲すれど、何の変化も無い城内を不審に思った佐々方は、寄せ手の幾人かを物見に出し、やがて、すでに城内が空っぽである事を知るに至り
「天は我らに味方した!」
とばかりに、難なく鳥越城を占拠したのです。

そうとは知らない利家は、津藩に着陣してすぐ、自軍の守りを固めようと、配下の各城に更なる兵を動員して防備の増強をするよう命じますが、鳥越城に向かった者からの報告で、城が、すでに佐々勢に占拠されている事を知ります。

当然の事ながら利家は怒り心頭・・・
「すぐに取り返したんねん!」
と息巻きますが、
「ここは、ひとつ、一旦金沢の戻られてから、再びの方が…」
と家臣に説得され、とりあえず利家は金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市丸の内)に戻る事にします。

一方の成政も、奪った鳥越城は、配下の久世但馬(くぜたじま)に任せて、自らは富山城に戻りました。

そんな中の9月16日付けの秀吉の書状では、今回の末森城を死守した事を喜ぶ一方で、
「もうすぐ、越前守(丹羽長秀の事)が帰陣するので、僕の気持ち察して待っててね」
と・・・つまり、秀吉は、自身が東海で展開した小牧長久手に決着がつかないうちに、北陸がややこしい事になって欲しく無いと考えていたようで・・・

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鳥越城攻防戦・位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

しかし、この後も、加賀・能登・越中の国境線では、しばしば、佐々と前田の小競り合いが繰り広げられている中で、どうしても鳥越城を奪回したくてたまらない利家は、天正十二年(1584年)10月14日、佐々方の守る鳥越城に攻撃を仕掛けたのです。

「なんの!こんな小城…落とすに難しい事もない!」
と、檄を飛ばす利家に応えるように、前田勢は一斉に攻めかかりますが、この日は、攻めるに難しいアラレ混じりの悪天候・・・そのうえ、守る久世勢も、一斉に矢を放ち、大石を投げ落として抵抗したため、前田方には多くの死傷者が出てしまいます。

やむなく、利家はこの日の奪還をあきらめ、城付近の民家に火を放って兵を退きました。

この後、翌年の2月には、鳥越城の代わり!とばかりに、利家は成政の蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を焼き討ちにしますが、対する成政も、翌・3月に鷹巣城(たかのすじょう=石川県金沢市湯桶町)を攻撃して報復・・・さらに4月には、再び鳥越城を囲む利家でしたが、またまた奪い切れずに撤退する・・・

こうして、互いの国境線にて一進一退を繰り返していたさ中、成政は、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を味方に引き入れようと画策します。

しかし、その返事は・・・
「君の領地のうちの新川郡あたりは、もともと、僕のジッチャンやお父ちゃん(上杉謙信)らが必死で奪い取ってた場所(3月17日参照>>)やんか。
せやから、その土地を返還してくれるのと同時に人質も差し出してくれたら、僕も出陣しますわ」

と・・・到底承諾できない条件に、成政は怒りのあまり、使者を投獄してしまいます。

これに不満を持った景勝は、配下の者に命じて、越中の宮崎城(みやざきじょう=富山県下新川郡朝日町)を攻めさせ、付近に火を放って脅しをかけます。

一方、この時、上杉家に身を寄せていた土肥政繁(どいまさしげ=元越中弓庄城主)らが、利家の兄=前田安勝(やすかつ)を通じて
「上杉と前田で連携しませんか」
との書状を送り、仲介役をかって出た事から、上杉は前田と結ぶ事に・・・もちろん、そこには、すでに終了した小牧長久手の戦いの結果、その合戦を終えても揺るぎない秀吉の勢力を垣間見て、「朋友である利家を通じて秀吉に近づきたい」という景勝の思惑も見え隠れするわけですが・・・

ご存じのように、かの小牧長久手の戦いの終了直後には、命がけの北アルプスさらさら越え(11月23日参照>>)で家康に会いに行き、
「まだまだ戦いを続けて下さい」
と懇願した成政にとっては、まさに、家康&信雄が秀吉に対抗し続ける事が頼みの綱だったわけですが、残念ながら、合戦は終わるし、それとともに上杉まで秀吉に近づいて行くしで、成政は、北陸において孤立無援となってしまうのです。

そして天正十三年(1585年)の8月・・・かの秀吉は大軍を率いて、成政を屈服させるため、越中へやって来る事になるわけですが、そのお話は2017年8月29日にupした【富山城の戦いin越中征伐】のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2017年10月 7日 (土)

名門・六角氏の運命を変えた観音寺騒動

永禄六年(1563年)10月7日、重臣殺害の一件で近江の国人衆と対立した六角義治が観音寺城から逃走しました。

・・・・・・・・・・・・

六角氏(ろっかくし)は、宇多源氏(うだげんじ)の流れを汲み、鎌倉時代に近江(おうみ=滋賀県)六郡(犬山・愛智・神崎・蒲生・栗太・志賀)を与えられた佐々木氏(ささきし)の嫡流が、六角東洞院(京都市中京区)に館を構えた事から、六角氏と名乗るようになったと言います。

室町時代には同族の佐々木道誉(ささきどうよ=京極高氏)に代わって近江守護となり、大名として実力を存分に発揮し、応仁の乱後のいち時には、幕府との対立があったものの、戦国に入った六角定頼(ろっかくさだより)の時代には、細川家の管領職争奪戦に関与したり(5月5日参照>>)、その管領に味方して出陣したり(8月23日参照>>)と、何かと、中央政権から頼りにされる存在=それだけ力がある武将だったわけです。

さらに、定頼の息子=六角承禎(じょうてい=義賢)は、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)と対立する(6月24日参照>>)第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)を援助する(2月26日参照>>)事もしばしば・・・

そんな、三好と将軍の抗争も、永禄元年(1558年)6月の白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)を最後に和睦となって後、義輝が京都に戻った(11月27日参照>>)事で、一応の落ち着きを見せますが、一方で、この三好の京都完全掌握状態に不満をつのらせる者もおりました。

大徳寺(だいとくじ=京都府京都市北区)竜安寺(りょうあんじ=京都市右京区)といった宗教勢力に公卿や町人・・・勝者であるが故に、時に横暴な態度に出る三好勢に眉をひそめる彼らは、もはや京都の治安維持さえままならない幕府に代わって、六角氏の力に都の平穏を望んだのです。

永禄五年(1562年)3月、承禎は、自らの息子=義治(よしはる)義定(よしさだ)とともに、近江武士や伊賀武士の軍勢を率いて入洛して清水坂に布陣・・・三好や、その配下の松永久秀(まつながひさひで)軍勢を蹴散らして、彼らを山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)へと追いやりました。

・・・と言っても、これは、あくまで京都市内の治安維持を要求するのための出陣・・・3か月後の6月に三好義興(みよしよしおき=長慶の嫡男で嗣子)との和睦が成立した事で、承禎父子はアッサリと近江に戻りました。

この後、すでに出家していた承禎は、箕作城(みつくりじょう=滋賀県東近江市五個荘山本町)に入って隠居し、六角氏内の政権と、本城の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)嫡男の義治に譲りました。

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観音寺城・本丸への石垣

しかし、これがケチのつき始め・・・そう、実は、この義治さんは、未だ18歳。

かの応仁の乱以来、同族で江北(こうほく=滋賀県北部・湖北、現在の彦根あたりより北)を統治する京極氏(きょうごくし)との抗争や、その京極氏に取って代わろうとする浅井氏(あざいし)との争い(4月6日参照>>)など、数あるゴタゴタを何とか治めて、江南(こうなん=滋賀県南部・現在の近江八幡とか安土とかのあたり)地方を制圧して、六角氏を絶頂期に導いたのは、ほぼほぼ、先の六角定頼&承禎の力によるもの・・・

それらを支えて来た重臣たちにとっては、若き義治は実績の無い青二才・・・もちろん、誰だって当主になりたての時は、実績も信用も無い若者なわけですが、そこを、古くからの重臣たちの意見を踏まえつつ、人心を掌握して、うまくまとめあげるのが信任当主の腕の見せ所。

しかし、義治の場合は、それがウマくいかなかった・・・。

義治のやる事なす事にことごとく批判し、何でもかんでも口出しする家臣の筆頭=執権である後藤賢豊(ごとうかたとよ)をうっとぉしく思い、「このままでは、京極氏に取って代わる浅井のようになってしまうのではないか?」との不安を抱いていったのです。

そんなこんなの永禄六年(1563年)10月1日、観音寺城へ賢豊&壱岐守(賢豊の長男・実名は不明)父子を呼び出した義治は、配下の者に命じて老蘇の森(おいそのもり=滋賀県近江八幡市安土町東老蘇)付近で殺害してしまったのです。

なんと、この時の配下の者は武装兵500を引き連れて完全包囲のうえでの殺害という事なので、いわゆる暗殺ではなく、完全に、その威勢を見せつけるための殺害・・・義治にとっては、「俺こそが当主」と、その上下関係を知らしめるための行為だったのかも知れません。

なんせ、この直後、他の重臣たち全員に、今すぐ観音寺城に集まるよう緊急命令を出しているのですから・・・

しかし、彼ら重臣が集まったのは呼び出された観音寺城ではなく、かの後藤とともに『六角氏の両藤』と称された、もう一人の大物家臣=進藤賢盛(しんどうかたもり)の屋敷だったのです。

未だ強固な信頼関係が構築されていない中での主君の暴挙に、彼らは次々と不満を噴出・・・進藤をはじめ、目賀田(めかた)馬淵(まぶち)伊庭(いば)平井(ひらい)三雲(みくも)などなどの主要家臣たちは、ここに反旗をひるがえす決意を固めたのです。

まずは、後藤と縁続きで最も親しかった永田景弘(ながたかげひろ)三上恒安(みかみつねやす)らが、観音寺城本丸の周囲にあった自邸に火を放ち、一族を本領に戻させた後、進藤賢盛らととともに、六角氏と敵対する浅井の支援を求めるべく浅井長政(あざいながまさ)小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)へと使者を走らせます。

かくして永禄六年(1563年)10月7日、進藤をはじめとする永田・平井・三上などなど・・・もちろん後藤一族も、そして、支援を快諾した浅井もが一斉に反旗をひるがえし、観音寺城の建つ繖山(きぬがさやま)を、約1万の軍勢で包囲して、攻め上っていったのです。

Kannonzisoudou 位置関係図→
クリックで大きくなります
(背景は地理院地図>>)

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迎え撃つ義治の手勢は、わずかに300・・・またたく間に観音寺城は炎に包まれ、さらに、愛知川(えちがわ=湖東(愛知郡周辺)を流れる)周辺に陣を張った浅井軍が、これを応援します。

さすがに、ここまでの多勢に無勢では何ともならず・・・やむなく義治は、搦手(からめて)から尾根伝いに安土へと脱出し、反旗に加わっていなかった重臣=蒲生賢秀(がもうかたひで=氏郷の父)を頼って日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町:中野城とも)へと落ちて行きました。

また、箕作城に隠居していた承禎も、息子の暴挙には怒りつつも身の安全のために甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)方面へと逃れて行ったのです。

知らせを聞いた賢秀は1000余騎で以って出陣して主君の義治を出迎えた後、城に籠城しますが、当然、これを追って来た反旗の六角家臣たちと浅井勢との攻防へと突入・・・と、これがなかなかの奮戦ぶりで、六角家臣&浅井勢は苦戦&苦戦、なかなか城を落とせずにいたところ、10月も下旬になって、この賢秀が間に入り、和睦を提案します。

その条件は・・・

  • 浅井は愛知川を境とし、それより南には兵を出さない事 
  • 殺された後藤賢豊の次男=後藤高治(たかはる)に後藤の家督を相続させて、所領も安堵し、今後も六角氏の家臣として以前と変わらぬ待遇をする事 
  • 義治は隠居して政務から離れ、弟の義定が六角家督を相続する事

この3つの条件を提示したことで、六角家臣は納得し、10月21日に和睦が成立しました。

おかげで、何とか観音寺城に戻る事ができた義治ではありましたが、もはや覆水(ふくすい)盆に返らず・・・主君と家臣の間に入った亀裂が元通りに修復される事は無く、六角氏の勢いは、これを以って減速の一途をたどる事になります。

そして、この数年後に、やって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)・・・

永禄十一年(1568年)、第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての信長の上洛に(9月7日参照>>)、道を譲った浅井は生き残り、「通さない!」と阻んだ
六角=【信長の上洛を阻む六角承禎】参照>>
&三好三人衆=【信長の登場で崩壊する三好三人衆】参照>>
は、畿内を追われる事に・・・

もちろん、その後も、信長最大のピンチである金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)の時には、野洲川の戦い(6月4日参照>>)で信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)を攻めもしましたが、もはや以前のような勢いが無くなっていた事は否めません。

まさに・・・
この観音寺騒動が、六角氏のその後の運命を変えた騒動だったのです。
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2017年10月 2日 (月)

織田信長の高野山攻め

天正九年(1581年)10月2日、高野山攻めを決意した織田信長の先陣が紀伊根来に到着しました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じ・・・高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)は、平安時代初期の僧=空海(くうかい=弘法大師)が開いた高野山真言宗総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)を中心に100か所以上の寺院や宿坊などが集まる宗教都市です。

創建以来、その重要さ故、内外の紛争に巻き込まれる事も多かった高野山ですが、やはり戦国期になってからは、その規模も大きくなったと言います。

そんな中での天正九年(1581年)からの、織田信長(おだのぶなが)による高野攻め・・・

その高野攻めの発端となったのは、信長の傘下となって以来、なかなかのお気に入りで出世コースを歩んでいたはずの荒木村重(あらきむらしげ)の謀反でした。

謀反の要因は様々に語られ、未だ村重自身の心の奥底は読めないのですが、とにかく、村重は、信長とただ今交戦中の石山本願寺に内通し、天正六年(1578年)10月21日、突如として居城の有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城とも)に籠ってしまうのです。

これを受けた信長は何度も使者を出して説得しますが、村重は断固拒否・・・有岡城が危うくなると、妻子を残してわずかな側近だけを連れて尼崎城(兵庫県尼崎市)へと逃走し(12月16日参照>>)、さらに移った花隈城(はなくまじょう=兵庫県神戸市)でも、またもや落城寸前に逃走し(3月2日参照>>)・・・

そんなこんなの天正八年(1580年)閏3月5日、有岡城攻防戦のさ中に城を脱出した荒木方の落武者5名を、高野山内にある寺が匿っている事が発覚したのです。

例の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)でもそうであったように、発覚した以上、信長としては捨て置くわけにはいきません。

その年の7月、信長は前田利家(まえだとしいえ)不破光治(ふわみつはる)の両名を使者として送り、彼らを引き渡すよう交渉しますが、窮鳥入懐(きゅうちょうにゅうかい)すれば猟師も殺さず=懐に逃げ込んできた鳥は猟師でも助けるとばかりに完全拒否・・・ただし、この段階では、あくまで冷静な話し合いであって、未だ高圧的かつ暴力的な事はまったく無かったようです。

翌・8月には、信長と石山本願寺の間で約10年に渡って繰り広げられた石山合戦が終結(8月2日参照>>)し、その合戦絡みで信長からの叱責を受けて追放された佐久間信盛(さくまのぶもり)父子が高野山へと落ちて来ましたが、コチラは長居する事無く、さらに熊野方面へと落ちて行きました(7月24日参照>>)

しかし、それと前後して事件が起こります

当時、信長から(さかい=大阪府堺市)代官を任されていた松井友閑(まついゆうかん)配下(一説には秀吉の配下?)の足軽32名が「荒木浪人の探索」と称して高野山に乱入し、土足で堂塔に上がり込んで内外を捜索しまくったのです。

これに怒った高野山側は、その怒りを隠しつつ、彼らを3か所の坊に分散して、お酒など振舞ってもてなし、その最中に一斉に合図の鐘をを鳴らして、32名全員を殺害したのです。

確かに配下の先走り&無礼はあったものの、これにブチ切れた信長は御室御所(おむろごしょ=仁和寺の事)におわす任助法親王(にんじょほうしんのう=伏見宮貞敦親王の第4子で後奈良院の猶子)令旨(りょうじ=皇太子などの命令を伝えるために出した文書)を得て、諸国を巡っている高野聖(こうやひじり=全国で布教活動している僧)片っ端から捕えたのです。

驚いたのは高野山・・・どうやら、高野山側には、未だ信長と武力による徹底抗戦するつもりは無かったようで、慌てて安土へと使者を派遣して謝罪したり、先の法親王を通じて和解を申し込んできたり・・・と、この8月は何度も使者が行き交ったようです。

一方の信長も・・・・
この時の9月21日の日付で高野山に対して「大和での領地を安堵する」内容の朱印状を発行していますので、武力で以って一気に焼き討ち~ではなく、まだまだ話し合いで解決しようろ思っていたようです。

しかし、結局はいつまで経っても交渉は前に進まず、あげくに高野山側が「彼らは、もう逃走した」と言い始めたため、いよいよ信長は出兵を決意し、捕えていた高野聖や僧たちを処刑したのです。

かくして天正九年(1581年)10月2日、織田方の先陣として堀秀政(ほりひでまさ)紀伊(きい=和歌山県)侵出・・・早速、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)の近くに陣を張りました。

実は、同じような武装集団を抱える紀伊の寺という事で、根来寺は高野山に味方するんじゃないか?と考え、まずは様子見ぃで、近くに布陣したわけですが、この頃の高野山と根来寺は仲が良いわけでもなかったようで、根来寺はアッサリと人質を差し出して無関係を表明し、傍観の構え・・・なので秀政は悠々と根来に布陣したと言います。

ただし・・・今回の信長による高野攻めのお話は『高野春秋(こうやしゅんじゅう)なる文献に書かれているお話・・・他の史料には、ほとんと登場しません。

たとえば、信長の史料として特に有名な『信長公記』では、「高野山が荒木の残党を匿って使者を殺害したので高野聖を成敗した」話は出て来ますが「その後に高野山を攻めた」という話は出て来ません。

実は、この『高野春秋』は、文字通り高野山の歴史をまとめた物で、史料的価値があり、高野山についてはかなりくわしく書かれている物なのですが、いかんせん書いたのが高野山の学僧なので、高野山を愛するあまりの偏見や、少々の間違い&感違いもあり・・・

なので、上記の堀秀政なんかは、『高野春秋』では1番に紀伊へ入り、この後も、高野攻め総大将の織田信孝(おだのぶたか=信長の三男・神戸信孝)に代わって大将代理を務めた重要人物のように書かれていますが、実際には、この時の秀政は、同時期に起こった伊賀攻め(9月3日参照>>)やら甲州征伐(VS武田)(2月9日参照>>)やらに派遣されており、この高野山攻めにはいなかった可能性が高いとされています。

てな事で、「鬼畜の信長軍が全力を挙げて攻め込んで来た」とするような『高野春秋』の内容をすべて鵜呑みにするわけにはいかないのですが、一方で、信長が現地の土豪(どごう=土地に根付いた地侍)「兵を派遣するのでヨロシク」と協力を打診する手紙も出したりしてますし、上記の甲州征伐の時に高野山を警戒している様子もうかがえます。

また、公家の日記にも「まもなく出兵されるらしい」と書かれていたり、この年の12月に入っても、まだ朝廷の勅使(ちょくし=天皇からの使者)や両者の使者が行き来していた様子も見て取れ、他にも複数の文献に「高野攻め」の話自体は断片的に出てきますので、おそらく何かしらの衝突があった事は確かかと思われます。

そうなると、やはりこの高野攻めについて1番くわしいのは『高野春秋』・・・という事で、上記のような事を踏まえつつ、今回は『高野春秋』に沿ってお話を進めて参ります。

Nobunagakouyasan
信長の高野攻めの位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

で、高野山には「高野七口(こううやななくち)と呼ばれる高野山へつながる7つの道があるのですが『高野春秋』では、その七口を、
西からの保田口(大門口)
同じく西の麻生津(おうず)
北からの学文路(かむろ)
北東の大和(やまと)
東からの大峯口
南からの熊野口
同じく南方の竜神口
の7つとしています(七口の呼び方には諸説アリ)が、上記の通り天正九年(1581年)10月2日に先陣が根来に入った織田勢は、そのうちの大手にあたる西方から北方にかけてを中心に、背山城(せやまじょう=和歌山県伊都郡かつらぎ町)に総大将の信孝、名古曾(なごそ=和歌山県橋本市高野口町)付近に松山庄五郎橋本岡田重孝(おかだしげたか)、それをサポートするが如く大和口に筒井順慶(つついじゅんけい)父子・・・そして、西方の粉河(こかわ=和歌山県紀の川市粉河)付城(つけじろ)に堀秀政などなど、総勢13万7千余りが紀ノ川の北岸に沿って布陣した・・・

って、さすがにこの数字は『高野春秋』の盛り過ぎかと・・・おそらくは「こんな大軍に立ち向かった高野山スゴイヽ(´▽`)/」というアピールなのでしょうが、この時の信長は、例の伊賀攻めに、西の毛利に、東の武田も健在な時期ですから、ここに、これだけの戦力を投入する事は、おそらくできなかったでしょうから、やはり、戦闘の規模としては『高野春秋』が言うほどの大きな物では無かったのでしょうね。

とは言え、高野山側の守りもなかなかのもの・・・同じく『高野春秋』によれば、
高野山内の衆徒に寺領の兵士、近隣の浪人などを集めて3万6千余りになった軍団の中から選りすぐりを七口の守備に当たらせ、重要な麻生津口には南蓮上院弁仙(なんれんじょういんべんせん)、学文路口には花王院快翁(けおういんかいおう=花王院快応)をそれぞれの大将として配置しています。

実はこの二人・・・ 弁仙は、かつて河内(かわち=大阪府東部)守護代を務めた遊佐信教(ゆさのぶのり)の息子で、快翁は、その信教に謀反で殺された主君=守護畠山昭高(はたけやまあきたか)の息子という因縁の関係

しかし、両者ともに有能な武将の父を持ち、彼ら自身も僧になる前は、武士としての鍛錬を受けていた身・・・ここは互いにかつての恨みを捨て、その武将時代に身に付けたノウハウを遺憾なく発揮すべく戦いに挑んだ事でしょう。

さらに、高野山側は茶臼山城(ちゃうすやまじょう=和歌山県紀の川市)脇庵(わきあん)の砦をはじめとする高野七砦を構築しつつ、本職の怨敵退散の祈祷の護摩焚きも怠る事なく・・・こうして、紀ノ川挟んだ北に織田方、南に高野山衆徒が対峙する事となります。

そんな中、年内はなんだかんだで交渉が続けられていたものの、明けて天正十年(1582年)に入ってからは、両陣営のアチラコチラで頻繁に戦闘が勃発するようになります。

2月には織田方の武将=松山重治(まつやましげはる=新介)多和(たわ=橋本市菖蒲谷)に砦を構築し、ここを拠点に九度山(くどやま=和歌山県伊都郡九度山町)方面に連日ように仕掛ける一方で、負けてない高野山側も同じく2月に大和口の筒井順慶の担当場所を襲い、ここを乗っ取ったのだとか・・・

2月末日には、信長方の岡田重孝らが学文路口の砦を襲撃・・・快翁らが奮戦して何とか撃退し、3月3日には、今度は高野山側から多和に夜襲をかけて織田勢を蹴散らしました。

4月に入ると、織田方の総大将を務めていた織田信孝が来たる四国攻めの準備を命じられて戦線を離脱・・・代わって堀秀政が本陣に入りますが、「堀に負けてはならじ!」とばかりに、最初からこの周辺に陣を置いていた武将らが麻生津口を攻めます。

しかし、高野山側は弁仙を中心に城と砦を守りぬいて、逆に、織田方の兜首を131も挙げたため、織田勢は総崩れとなって慌てて退散したため紀ノ川にて溺れる者で、その流れが止まった・・・て、これもやっぱり『高野春秋』の盛り過ぎかな?(堀秀政もいないはずだしネ)

ただし、高野山LOVE感が強過ぎのオーバーな描写ではありますが、何らかの戦闘があった事は事実でしょうし、あの天下の織田勢相手に、高野山がよく防いだ事も確かでしょう。

なんせ、そんなこんなしているうちに、日付は、あの運命の6月2日=本能寺の変(6月2日参照>>) を迎えてしまうのですから・・・

それも『高野春秋』によれば、
その日、いつものように怨敵退散の祈祷を行っていると、「夜には風も無いのに灯明が消えたり、葛城山(かつらぎさん)から黒雲が立ち込めたかと思うと、天井から生首が二つ落ちて来て、その後3度舞い上がったり落ちたりした後にスッと消えた」という怪現象があって、皆が「何かあったな」と不思議に思っていると、その日の夕刻になって「信長死す」の知らせが届いたと・・・ま、高野山側から見れば、そういう事になるでしょうね~そのために連日、祈祷しているのですから・・・

そして、変からほどなく、高野山にも、そして対陣している織田方にも、異変の報告が届いたのでしょう。

まもなく、織田方が包囲を解き、慌てて退陣していった事で、高野山は危機を脱しました。

・‥…━━━☆

というわけで、本日はほぼほぼ『高野春秋』に沿ってお話をさせていただきましたが、上記の通り、この記録は完全に高野山側に立った人の書いた物・・・と言えど、すべてが嘘かというと、おそらくはそうでは無いわけで、

こうして、玉石混淆の物語を、自分なりにアレコレ推理していくのも、歴史の楽しみの一つですね。
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2017年9月25日 (月)

奈良の戦国~越智党と貝吹山城攻防戦

天文十五年(1546年)9月25日、越智氏の貝吹山城を筒井順昭が攻めました。

・・・・・・・・・・・

貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)は、極彩色の壁画が発見されて一躍有名になった高松塚古墳(たかまつづかこふん)などがある明日香(あすか)から近鉄電車を挟んで西側にある標高200mほどの貝吹山の山頂に築かれた山城です。

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和(やまと=奈良県)の地でしたが、南北朝の動乱を経て寺社勢力そのものよりも、寺社の荘園の管理などを任されていた在地の者たちが、興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』などとして力を持ちはじめ、やがて戦乱の世を生き抜く武士として群雄割拠するようになるのです。

ちなみに『衆徒』の代表格が筒井(つつい)、『国民』の代表格が越智(おち)十市(とおち)で、この3家に箸尾(はしお)を加えて『大和四家』と称されます。

Kaibukiyamazyoukoubousen●位置関係図→
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

 
で、今回の貝吹山城は、この中の越智氏が構築したとされる城で、この南西にある越智館越智城(おちじょう=同高取町)詰の城(つめのしろ)=万が一越智本城が落ちた時に、一旦退いて最後の決戦を挑む城として構築されたと言います。

とは言え、戦国に入って、この城は何度も戦場になっています。

天文四年(1535年)には、ライバルに撃ち勝って管領(かんれい=室町幕府内の将軍補佐役)の細川家後継者の座を得た細川晴元(はるもと)と組んで、主家の畠山義堯(はたけやまよしたか=義宣)三好元長(みよし もとなが=長慶の父)を追い落として(7月17日参照>>)ノリノリ気分満載だった木沢長政(きざわながまさ)攻め落とされ、一時は高取城(たかとりじょう==同高取町)へと避難するという一幕もありました。

おかげで、かつては互角に戦い、大和を二分する勢力だった筒井と越智の間に、ここらあたりから大きな差ができ始め、これから後の越智は、何かと筒井の圧迫を受けるようになるのです。

そんなこんなの天文十五年(1546年)、筒井氏は筒井順昭(つついじゅんしょう)の代になって、さらに勢いを増し、抵抗する勢力を次々と傘下に組みこんで大和の大半を手中に治めていましたが、ここに来ても、まだ越智氏は存在し、その存在が順昭の目の上のタンコブでもありました。

これまで、群雄割拠&戦国と言えども、大和ではそこまで兵士を大動員した大きな戦いは少なく、少人数の小競り合いのような戦いが多かったのですが、ここに来て大和統一に手が届くようになった順昭は、まさに兵を大動員して越智氏壊滅に乗り出したわけです。

一方の越智氏は、その歴史が古いぶん、いくつもの家系が入り乱れていて、一党を統率するには難しい状況だったのだとか・・・

かくして天文十五年(1546年)9月25日、自ら約5000の軍勢を率いた筒井順昭が貝吹山城を攻めたのです。

順昭の叱咤に士気上がる筒井軍と、積極的な戦闘を避けたい越智陣営・・・城に籠って出て来ない敵に対し、筒井勢は周辺の家々に火を放って挑発して回りました。

そんな中でも何とか防戦を続ける越智勢でしたが、結局のところ、その兵力の差はいかんともし難く・・・ほどなく和睦して城を明け渡し、越智勢は高取城へと撤退したのでした。

『多聞院日記』では、この貝吹山城攻防戦に撃ち勝った事で、「筒井は大和を統一した」と称していますが、実際には、まだもう一波乱・・・

3年後の天文十八年(1549年)には、筒井から貝吹山城を任された城将が私用で出かけた留守を見計らって、急いで軍兵をかき集めた越智勢が一気に攻めかかり、堀を破って本丸間近まで攻め寄せ、「あわや落城」の寸前までいった事もありました。

ただ、この時は、寸前のところで、筒井の援軍が駆けつけ、越智の寄せ手の背後を突いた事で形勢が逆転し、越智による城の奪還は成功しなかったのですが・・・

とは言え、勢力を増す筒井に対し、越智の士気も徐々に低迷し、やがて順昭の晩年期には、越智は、彼らが持つ城とともに筒井の傘下となって存続していく事になるのですが、そんな貝吹山城に手を伸ばして来たのが、大和へと侵入して来た松永久秀(まつながひさひで)でした。

もともとは、畿内で一大勢力を誇った三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として歴史上に登場する久秀ですが、永禄二年(1559年)から大和への侵攻を開始し、奈良盆地に点在した諸城を攻略しつつ(11月24日参照>>)、同年には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、いつしか主家に取って代わるほどの勢いを持ちはじめ、

翌・永禄八年(1565年)には、三好氏の縁者である三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)とともに第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)して(暗殺には久秀は関与していない説もアリ)第14代将軍=足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立し、さらに、順昭の死を受けて筒井氏を継いだ嫡男の筒井順慶(つついじゅんけい)筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)をも攻め立てて奪取していたのです(11月18日参照>>)

そんな勢いに、いち時は、その久秀に奪われた貝吹山城でしたが、このわずかの間で久秀と三好三人衆が決裂し、三人衆が順慶の味方となった事で翌・永禄九年(1566年)には、順慶が筒井城を奪回・・・これをチャンスと見た越智伊代守(おちいよのかみ=越智家増?)は、貝吹山城に詰めていた久秀方の生田(いくた)という者を調略して味方につけ、彼の手引きにより貝吹山城を奪い返したのでした。

しかし、この貝吹山城は奈良から吉野(よしの)へと出る交通の要所・・・永禄十一年(1567年)に、またもや久秀に、この城を狙われます。

しかも、この時の久秀は、この9月に第15代将=足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たし(10月18日参照>>)、かの三好三人衆をも蹴散らした(9月29日参照>>)織田信長(おだのぶなが)の傘下にチャッカリと納まり、イザとなったら、その援軍も期待できるイケイケムードだったわけで・・・

ところが、この時の越智軍は、見事な籠城戦を演じ久秀方は撃沈・・・多くの戦死者を出して撤退する事となしました。

しかし・・・当然、久秀は諦めません。

翌・永禄十二年(1569年)5月10日、またもや久秀は貝吹山城を攻めます。

力に物を言わせて猛攻撃を仕掛ける久秀軍でしたが、越智も必死のパッチの抵抗・・・やはり多くの戦死者を出した久秀は、やむなく力攻めから長期の持久戦へと戦略を変更し、城と外部の連絡を遮断して貝吹山城を兵糧攻めにするのです。

閉ざされた中で、約半年間耐えた貝吹山城でしたが、それも時間の問題・・・やがて襲い来る激しい飢えに力尽き、同年の11月4日、久秀方に城は明け渡される事となったのです。

こうして貝吹山城は久秀の物となり、越智氏一党は高取城を目指して落ちて行きましたが、ご存じのように、その後の久秀は信長と敵対(10月3日参照>>)し、代わって順慶が信長派となった頃、信長が命じた城割(しろわり=後の一国一城制のような物)(8月19日参照>>)により、貝吹山城は破却されました。

また、越智氏は・・・
信長死後に羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の傘下となった順慶とともに存続していましたが、天正十一年(1583年)、順慶側に寝返った家臣によって当主が暗殺されて滅亡・・・おそらくは悠久の古代物部(もののべ)からの流れを汲む越智氏の血筋は、ここに終焉となったのでした。
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2017年9月19日 (火)

謙信の祖父・長尾能景が討死~般若野の戦い

永正三年(1506年)9月19日、越中で起こった一向一揆の鎮圧に侵入した長尾能景が般若野の戦い(芹谷野の戦いとも)で討死しました。

・・・・・・・・・・

比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の勢力から逃れて、北陸へとやって来た本願寺第8代=蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)が、文明三年(1471年)にその拠点となる吉崎御坊(よしざきごぼう=福井県あわら市)を建てた事で、北陸が一気に本願寺宗徒の聖地となる中、長享二年(1488年)に、加賀(かが=石川県)守護の富樫(とがし)家内の勢力争い(7月26日参照>>)に乗じてその富樫を倒し、以後100年に渡る百姓(本願寺宗徒)の持ちたる国を誕生させたのが、有名な加賀一向一揆です(6月9日参照>>)

当然ですが・・・
この一向一揆勢力が加賀一国に留まるワケはなく、徐々に勢力拡大を計っていく事になりますが、そんなこんなの永正三年(1506年)、春頃から北越で一向一揆の動きが活発になって来て、やがて越中(えっちゅう=富山県)が脅かされるようになって来ます。

『本朝通鑑(ほんちょうつうがん)には、
「永正三年六月、加賀一向一揆群起こし越中の国を寇す。国土遊佐、神保、土肥、椎名、戦に敗れ、越後国に至りて、援を長尾能景に求む」
とあります。

ご存じのように、室町時代は、幕府から任命された守護(しゅご=県知事)が各地を治めていましたが、その領地が複数あるため、当然、一人では治め切れないので、各地には守護代(しゅだい)という配下の者を置いて、事実上、守護代がその現地を治めていたわけです。

しかし、中央の勢力が衰え始める戦国時代になると、力で以って守護代が守護にとって代わる下剋上(げこくじょう)が頻繁に起こるようになり、その最たるものが上記の加賀一向一揆=百姓が守護にとって代わったという事になるワケですが、

そんな中で、当時の越中守護は畠山尚順(はたけやまひさのぶ)・・・この尚順は、あの応仁の乱の主要メンバーの一人=畠山政長(まさなが)(1月17日参照>>)の息子ですが、以前も書かせていただいたように、畿内の畠山の領地の攻防に必死のパッチ(7月12日参照>>)状態で、もはや「越中守護=畠山」の時代は政長の死を以って終わった感がハンパなく・・・

なので、越中に加賀一向一揆が侵攻してきた場合、その盾となるのは、守護代の遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)といった面々・・・しかしながら、現時点ではなかなかその対策が立てられない状況でした。

となると、いくら、ほぼほぼ名ばかり状態となっていても守護は守護・・・尚順は、同じ守護仲間の越後(えちご=新潟県)守護の上杉房能(うえすぎふさよし)越前(えちぜん=福井県)守護の朝倉貞景(あさくらさだかげ)らに援助を要請・・・受けた彼らとて、加賀一向一揆がどんどん大きくなって越中を侵食すれば、いずれは隣接する越前や越後にも波及して来るわけですから、ここは一つ、連携を組んで対処しなければ!

てな事で、房能は配下である越後守護代の長尾能景(ながおよしかげ)を越中へと派遣するのです。

この能景さんは、ご存じ上杉謙信(うえすぎけんしん)ジッチャンに当たる人物で、実のところは、先代守護の上杉房定(ふささだ)とはウマくいっていたものの、その息子の房能とはあまりシックリいっていなかったようですが、現時点では上司&部下の関係ですし、今は自国が危険に晒されている一大事ですので、個人的な肌の合わなさをアレコレ言ってる場合じゃござんせん。

かくして能景は、永正三年(1506年)8月、大軍を率いて春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣したのです。

おりしも、この8月9日、越前では、貞景の叔父である朝倉宗滴(そうてき・教景)九頭竜川(くずりゅうがわ・福井市)にて一向一揆に勝利(8月9日参照>>)したばかりですから、おそらく隣国越前の本願寺門徒は疲弊しているはず・・・このチャンスを逃すわけにはいきません。

ちなみに、この時、越中一向一揆に味方していた越後の武将たちを鎮圧するべく蒲原方面(かんばら=新潟県三条市や長岡市付近)に出陣していたため、息子の長尾為景(ためかげ=謙信の父)は、父に同行しませんでした。

こうして越中へと侵入した長尾軍・・・越中に入るやいなや、敵対する鈴木国重(すずきくにしげ)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)府久呂兼久(ふくろかねひさ)滑川城(なめりかわじょう=富山県滑川市)赤川久次(あかがわひさつぐ)東岩瀬城(ひがしいわせじょう=富山県富山市)などを次々と撃破して進み、8月18日には、越中守護代家の神保一族の神保慶明(じんぼうよしあき=神保良衡の説もあり)と合流して、蓮台寺(れんだいじ=富山県富山市)周辺でも一揆勢を撃ち破り、いよいよ、越中一向一揆の本拠地である砺波(となみ=富山県礪波市周辺)あたりへと攻め込んでいきます。

とは言え、一向一揆衆もなかなかの奮戦・・・しかも、ここで加賀や越前の一向一揆衆にも援軍を求めます。

先に書いたように、戦いに敗れたばかりの越前の一向一揆衆ではありましたが、「死なば極楽!」との合言葉のもと、彼らが命知らずの軍団である事、また、ここ越中を占領されたならば、当然、加賀へも越前へも敵が侵攻して来る事は明白で、そうなれば、せっかく樹立した本願寺共和国も潰されるが必至・・・という状況に、必死で立ち向かって来るのでした。

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般若野の位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの永正三年(1506年)9月19日、長尾軍は越中増山城(ますやまじょう=富山県礪波市)の麓に広がる般若野(はんにゃの)において一向一揆衆と戦う事になるのです。

古くは源平の昔、あの木曽義仲(きそよしなか=源義仲)が戦った般若野の地(5月9日参照>>)・・・東部に丘陵を見てとれる草原に布陣する両者・・・開戦を知らせるホラ貝の音とともに、長尾軍は一気に南西方面へと押しまくるのです。

数の上では一向一揆側が有利ではありますが、長尾軍は戦闘のプロ・・・越中に入った後も、これまで何度も蹴散らして来たように、ここでも、難なく一向一揆を撃破できる・・・

・・・はずでした。

ところがドッコイ、ここで守山城(もりやまじょう=富山県高岡市・二上城とも)から撃って出て、今まさに南西に向かって押しまくる長尾軍の背後へと回ったのが越中守護代家の当主である神保慶宗(じんぼうよしむね)・・・

そう、実は、これまで一向一揆は、越中の守護代たちに再三に渡って使者を送り、一揆側の味方になってくれるよう呼び掛ける懐柔策を取っていたのです。

慶宗ら守護代の心の内としては・・・
「守護の畠山尚順も、えぇかげんうっとぉしいヤツやのに、そんな中で命令聞いて一向一揆を破ったとしても、結局、状況は今のままやん。
それやったら、このチャンスに守護側を蹴散らして、名実ともに俺らが支配した方が得策やんけ」
(←心の内なので、あくまで推測です)
と思っていた・・・そこを、一向一揆の懐柔策がくすぐったわけです。

激戦の中で、いきなり背後に立たれ、退路を失った長尾軍は、さすがに大混乱となります。

その大混乱の中、奮戦する能景は戦死・・・主だった武将たちも次々と討たれ、長尾軍は壊滅しました。

増山城跡の近くには、この時、能景の死を悼んだ神保一族の神保良衡によって、その首と胴体をつないで埋葬されたとされる能景塚(砺波市頼成新)が、今も存在します。

ところで・・・
かの戦地にて父の死を知った息子の為景・・・・
「コレって、大した戦略も無いままにそもそもの出陣命令を出した上杉房能に軍事的責任があるんちゃうん?」
と、命令しっぱなしで実質的に動かなかった房能に激怒・・・

翌・永正四年(1507年)に、房能の養子の定実(さだざね)を抱き込んで謀反を起こし、結局は越後守護代の長尾家が守護に取って代わるのですが、そのお話は2009年8月9日の長尾為景~守護を倒して戦国大名への第一歩】>>でどうぞ

一方、越中国内ではこの戦いの後、神保をはじめとする越中の有力武士たちは、一向一揆との協調路線で進んで行く事になりますが、それはそれで、国内全土を統率する者を持たないそれぞれの武士同士の覇権争いとなって国内は混乱したままなわけで・・・

やがて、祖父&父の無念を晴らすがのごとく、この越中に侵出して来るのが為景の息子=長尾景虎(ながおかげとら)・・・ご存じ上杉謙信ですが、そのお話は約半世紀後の3月30日【上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い】>>でご覧あれ。。。

もちろん、そこには、それぞれに世代交代した神保&椎名らも登場します。
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