2018年4月21日 (土)

信長VS顕如・石山合戦~高屋・新堀城の戦い

天正三年(1575年)4月21日、織田信長と本願寺顕如による石山合戦での高屋・新堀城の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした織田信長(おだのぶなが)・・・

信長上洛の際、それまで畿内を牛耳っていた三好(みよし)では、嫡流の三好義継(よしつぐ=長慶の甥で養子)と重臣の松永久秀(まつながひさひで)は恭順したものの、三好三人衆と呼ばれた三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)らは信長を受け入れる事ができずに敵対します。

2年後の元亀元年(1570年)、そんな三好三人衆と信長がぶつかった野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)の戦い(8月26日参照>>)をキッカケに、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を本拠とする本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)対信長戦に参戦を表明(9月12日参照>>)した事から、10年の長きに渡る石山合戦(いしやまかっせん)が始まるのです。

野田福島の後に一旦は停戦するものの、全国に信者を持つ本願寺の教祖様が再び扇動し始めると、元亀二年(1571年)の5月には長島(ながしま=三重県桑名市)にて長島一向一揆(5月16日参照>>)、同年の9月には近江の一向一揆(9月3日参照>>)、天正二年(1574年)1月からは越前一向一揆(1月20日参照>>)と各地で一揆が勃発しますが、

Odanobunaga400a 一方の信長も、元亀四年(天正元年=1573年)には反発する足利義昭を追放(7月18日参照>>)し、浅井(あさい)(8月28日参照>>)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)滅亡させ・・・と、一つ一つ敵を潰していく中、天正二年(1574年)9月には、一向一揆の中で最も信長を困らせていた長島一向一揆をせん滅した(9月29日参照>>)事で、本家本元の石山本願寺への直接攻撃を画策しはじめます。

翌天正三年(1575年)3月に上洛した信長は、「この年の秋には大坂を攻めるゾ!」とばかりに、この戦闘の担当与力(よりき)細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)に命じるとともに、配下の諸将たちに、その準備を整えるよう指示しました。

そして、信長自身は、その要路である平野(ひらの=大阪市平野区)周辺に戦闘時の禁令を発布して準備を整え、4月6日に河内(かわち=大阪府東部)に向け、軍勢を率いて出立しました。

『兼見卿記』によれば、その数は約1万余であったとか・・・

京都から八幡(やわた=京都府八幡市)を通り、7日に若江(わかえ=大阪府東大阪市)に到着した信長は、翌8日に、石山本願寺に与する三好康長(やすなが=長慶の叔父)の拠る高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市古市)を攻撃したのです。

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古室山古墳より駒ヶ谷方面を望む

『信長公記』によれば、駒ヶ谷山(こまがだにやま=同羽曳野市)に本陣を構えて、眼下の合戦の様子を観望する信長は、自軍の伊藤与三右衛門(いとうよそうえもん)の弟=伊藤二介(ふたすけ)が、数か所の傷を負いながらも、先駆けとして何度も敵方に突進した後、壮絶な最期を遂げる姿を見て「晴れがましい働きである」と絶賛したのだとか・・・

その日、四方八方から高屋城に攻撃を仕掛けた織田軍は、佐久間信盛(さくまのぶもり)丹羽長秀(にわながひで)柴田勝家(しばたかついえ)塙直政(ばんなおまさ)らの諸将が、谷間やら田畑やら、近辺をくまなく焼き払ったと言います。

その後、12日に、本陣を住吉(すみよし=大阪市住吉区)に移した信長のもとには、畿内(山城・摂津・河内・和泉・大和)からはもちろん、若狭(わかさ=福井県西部)近江(おうみ=滋賀県)美濃(みの=岐阜県)尾張(おわり=愛知県西部)伊勢(いせ=三重県中北部)丹後(たんご=京都府北部)丹波(たんば=兵庫県北東部・京都府北部)紀伊(きい=和歌山県)根来衆(ねごろしゅう)まで、続々と援軍が集まって来ます。

信長はそれらの軍勢を天王寺から住吉・遠里小野(おりおの=大阪市住吉区)方面へと展開して石山本願寺をけん制・・・14日には石山本願寺周辺へ押し寄せて刈田を行い、大いに騒ぎ立てますが、その頃には軍勢の数は、なんと10万余に達していたとか・・・

16日からは、本陣を遠里小野に移し、近隣の刈田を実行した後、次のターゲットである新堀城(しんぼりじょう=堺市北区新堀町)を包囲するべく(さかい=大阪府堺市)に向かいます。

ここ新堀城には、先の三好康長と結んだ十河一行(そごういっこう)香西長信(こうざいながのぶ)立て籠もっていたのです。

17日に城を取り囲んだ織田軍は、19日の夜には火矢を射かけ、草で以って堀を埋め、大手と搦め手の二方向から攻撃を開始し、すばやく両門を突破・・・大将の一人である十河一行をはじめとする170余の首を挙げ、香西長信を生け捕りにした後、斬首にしました。

この新堀城の落城を知った高屋城の三好康長が、信長の側近である松井友閑(まついゆうかん)を通じて降伏を申し出て来たため、信長は康長を許し、高屋城も接収したのです。

天正三年(1575年)4月21日、ここに高屋・新堀城の戦いは終結しました。

その後、信長は、塙直政に命じて、高屋城&新堀城をはじめとする河内の城や砦をことごとく破却させました。

さぁ、これで、残るは石山本願寺そのものだけ!
いよいよ・・・という事になるはずだったのですが・・・

この高屋・新堀城の戦いの終結と、まさに同じ4月21日・・・遠く三河(みかわ=愛知県東部)で、今は亡き甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の後を継いだ四男=勝頼(かつより)が、信長の同盟者である徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)の娘婿=奥平貞昌(おくだいらさだまさ)長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市)を取り囲んだのです(4月21日参照>>)

家康からの援軍要請に応える信長・・・ご存じ、長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いです(5月21日参照>>)

上記に書いた通り、おそらくはご本人は「この秋に…」と考えていたであろう信長による石山本願寺への直接攻撃は、翌天正四年(1576年)5月の天王寺合戦へと持ち越される事になりました。

その後のお話は関連ページで↓
【天王寺合戦】>>
【第1次・木津川口海戦】>>
【信長の鉄甲船完成】>>
第2次木津川口海戦】>>
【石山合戦の終結】>>
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2018年4月16日 (月)

永享の乱後の結城合戦~関東と大和と東北と…

永享十三年(1441年)4月16日、幕府に反発した結城氏朝らによる結城合戦で、結城城が陥落しました。

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南北朝の不穏な空気が収まらなかった事から、本拠地が関東でありながら京都室町(むろまち=京都市上京区)にて幕府を開く事になった足利尊氏(あしかがたかうじ)(8月11日参照>>)は、将軍職を三男の義詮(よしらきら)に継がせ、四男の基氏(もとうじ)鎌倉公方(かまくらくぼう)として関東の支配を任せます。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

以来、室町幕府将軍は義詮の息子らが、鎌倉公方は基氏の息子ら継いでいくわけですが、応永三十二年(1425年)2月に、第5代将軍の足利義量(あしかがよしかず)が若くして亡くなった事で、後継者選びが難航し、結局、くじ引きで決まった足利義教(よしのり)第6代将軍となります(2016年6月24日参照>>)

この決定に不満を持ったのが、第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)・・・「将軍家に物申さん」と上洛を思案する持氏を関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)上杉憲実(うえすぎのりざね)が静止しますが、これがキッカケとなって持氏と憲実との溝が深まり、とうとう持氏が挙兵したところを、将軍=義教が派遣した幕府軍に攻められ、永享十一年(1439年)2月10日、持氏は自刃・・・続いて嫡男の義久(よしひさ)も自害に追い込まれました。

これが永享の乱(えいきょうのらん)と呼ばれる一件です(くわしくは2018年2月10日参照>>)

こうして公方が不在となった関東は、憲実はじめとする重臣たちが政務をこなすことになりますが、不仲になったとは言え、上司として仰いでいた持氏を自刃にまで追い込んでしまった事に悩む憲実は、関東管領職を辞任し、伊豆にて隠居してしまいます。

次の鎌倉公方に、自らの息子を派遣しようと考えていた義教でしたが、信頼できる憲実がいないとなると、可愛い息子を関東にやるのは不安・・・もちろん、このまま上杉家の家督が宙に浮いたまま、というわけにもいかず、

とりあえず、上杉の本拠である越後(えちご=新潟県)にいた憲実の弟=上杉清方(きよまさ・きよかた)が関東に入り、上杉家の中心となって、何とか関東も落ち着きを取り戻します。

しかし、もともとは公方として関東を支配していた持氏・・・当然の事ながら、その息のかかった者たちは、持氏が死のうが嫡男が果てようが、そのへんにウジャウジャいるわけで・・・

Yuukiuzitomo500a 翌・永享十二年(1440年)正月、持氏派の一部の者が決起し、これをキッカケに関東の諸将が動きはじめ、3月には、持氏の次男&三男である春王(しゅんのう・はるおう)安王(あんのう・やすおう)常陸(ひたち=茨城県)で蜂起した事を知った結城城(ゆうきじょう=茨城県結城市)結城氏朝(ゆうきうじとも)が、彼らを自らの城へと招き入れ、幕府に対抗する姿勢を見せたのです。

それによって、持氏に恩義を感じている武将たちが、続々と結城城に集まって来ました。

この動きを知った京都・・・早速、将軍=義教の命により幕府軍が編成される一方で、隠居していた憲実も鎌倉へと戻り、弟=清方を大将とする討伐軍が鎌倉を出発したのです。

まさに関東が一触即発状態のこの5月15日、大和(やまと=奈良県)で事件が起こります。

もともと、興福寺(こうふくじ)春日大社(かすがたいしゃ)の勢力が強かった大和の地は、やがて興福寺に属する『衆徒』、春日大社に属する『国民』など、寺社そのものよりも、在地の者が力を持つようになる中で、南北朝時代に『衆徒』の筒井(つつい)北朝につき、『国民』の越智(おち)南朝についた事で、南北朝が終わった後も、未だ両者の争乱はくすぶり続けていたわけですが、

ご存じのように、室町幕府は北朝・・・って事で、将軍=義教は、配下の一色義貫(いっしきよしつら)土岐持頼(ときもちより)らを越智討伐軍として大和に派遣するのです。

一節には、「今回の永享の乱や、その後の結城の動きに同調するような動きが越智氏にあった」とも言われていますが、そこはハッキリしないものの、とにかく一色義貫&土岐持頼は、義教の命令で以って、幕府軍を率いて大和に来ていたわけです。

ところが、この二人が、その大和にて殺害されてしまいます。

それも、越智との合戦で、ではなく味方に・・・

一色義貫は安芸武田(あきたけだ=広島県)武田信栄(たけだのぶひで)に朝食を誘われて向ったところ、その席で襲われ、側近たちが討たれた後に義貫は自害・・・陣中に残っていた息子や家族たちも細川持常(ほそかわもちつね)に襲撃され、こちらも討死もしくは自害しました。

一方の土岐持頼も・・・コチラは伊勢(いせ=三重県中北部)長野(ながの=長野工藤)の者に討たれたと言われています。

さらに翌日には、京都にあった一色義貫の邸宅が一色教親(のりちか)に襲撃され、出陣せずに残っていた息子たちも捕えられてしまいました。

いずれも、一色義貫&土岐持頼にとっては、これまでともに戦って来た仲間たち・・・教親なんかは義貫の甥っ子ですし・・・

しかし驚くのは、その後の采配・・・死んだ義貫は若狭(わかさ=福井県南部)丹後(たんご=京都府北部)三河(みかわ=愛知県東部)の守護だったわけですが、この事件後、その若狭の守護となるのは武田信栄、丹後の守護は一色教親、三河の守護には細川持常、そして土岐持頼の伊勢守護も一色教親が獲得します。

もっと先の戦国も群雄割拠する頃になると、力ずくで守護を倒して自らがその領地を統治する=下剋上で支配する武将なんかもいますが、彼らとて、あくまで自称=勝手に守護の役割を分捕って実行してるだけで、正式な守護では無い・・・なんせ、正式な守護は幕府=将軍が決めるはずですから・・・

つまり、この結果を見る限り、一色義貫&土岐持頼の殺害は、将軍=義教の命令だった事になるわけで・・・とは言え、関係者以外、誰も、「将軍が命令を出した」という確かな事はわからないわけで、結局、疑惑を持ちながらも表面上は何事も無かったように政務は続けられました。

まぁ、あまり騒ぎ立てると、今度は自分に火の粉が降りかかって来るやも知れませんからね~

そんなこんなの6月24日、今度は東北で事件が起こります。

第2代鎌倉公方=足利氏満(うじみつ)の息子で篠川公方( ささがわくぼう)と称された足利満直(みつなお・みつただ)が、奥州の諸将に襲撃され自殺したのです。

この満直という人は、第3代鎌倉公方である兄の足利満兼(みつかね)の命を受けて、足利による東北支配を強固にすべく派遣され、篠川御所(ささがわごしょ=福島県郡山市)にて政務を行っていた人物・・・なので、永享の乱で死んだ持氏とは叔父⇔甥の仲になるわけですが、その永享の乱の時は幕府より錦の御旗(にしきのみはた=官軍の証)を頂いて、持氏を攻める側に回っていたわけで・・・

なので、春王&安王らの命を受けた奥州石川(おうしゅういしかわ)をはじめとする持氏派の諸将の襲撃に遭ってしまったわけです。

それから間もなくの7月頃、かの上杉清方を総大将とする幕府軍が結城城の周辺に集結しはじめます。

それは、関東はもちろん、上州(じょうしゅう=群馬県)武州(ぶしゅう=東京都・埼玉県)に越後や信濃(しなの=長野県)などなど、まさに東国の幕府軍を総動員したほどの大軍であったようですが、対する結城城側だって、すでに持氏恩顧の武将たちが集結していたわけですから、堅固な造りの結城城は、そう簡単に落ちはしませんでした。

長引く籠城戦・・・睨み合いが続く中、幕府側ではいつ総攻撃をかけるべきか?の話し合いが何度も行われますが、何も決定しないままズルズルと時が過ぎるばかり・・・

やがて、年が明けた永享十三年(1441年)元旦には、逆に結城城内から撃って出た兵に陣を襲撃される始末・・・まぁ、さすがに多勢の幕府軍は、襲撃勢を蹴散らして、さほどのダメージを受ける事もなく、この日の戦いは幕府勝利となりますが、さりとて結城城側も、かなりの数の兵士が無事城内に戻ったと見え、態勢が崩れる事無く、そのまま籠城戦は継続されて行きます。

しかし、所詮は多勢に無勢・・・しかも、大軍に囲まれた籠城戦には、時間に限りがあるという物・・・静かなる籠城戦が始まってからほぼ9カ月めの永享十三年(1441年)4月16日幕府方の総攻撃により結城城は陥落し、結城氏朝をはじめとする籠城組の将は、ことごとく討取られました。

この時、未だ13歳の春王と11歳の安王は、女装して城を脱出しますが、まもなく発見され捕縛・・・京都の将軍のもとに護送される途中の5月16日、美濃垂井(たるい=岐阜県不破郡垂井町)にて斬首されました(くわしくは2008年2月10日の後半参照>>)

こうして、結城城に集結していた持氏派は、ほぼ一掃され、結城合戦は終結・・・関東の支配は上杉家に任されて安定するか?に見えましたが、おっとドッコイ!

例え配下の者でも、例え謀反など起こさずとも、自身の気にそぐわぬ者は成敗する・・・強気の将軍=義教の、あの一色義貫&土岐持頼殺害事件の余波が、ここに来て表面化するのです。

「このままでは、自分も、いつ始末されるかわからない」
と恐怖を感じた播磨(はりま=兵庫県南西部)備前(びぜん=岡山県東南部)美作(みまさか=岡山県東北部)の守護=赤松満祐(あかまつみつすけ)が、嫡子の教康(のりやす)らに命じ、結城合戦の祝勝会と称して将軍=義教を呼び出し、あの春王&安王の死から、わずか1ヶ月の6月24日、宴会の席で義教を暗殺してしまうのです。

世に嘉吉の乱(かきつのらん)と呼ばれる将軍暗殺事件(6月24日参照>>)・・・このため幕府内の政情は一転し、関東の情勢も大きく変わります。

結城合戦の時、わずか1歳だった持氏の4男=永寿丸(永寿王とも)は、この将軍の死によって赦免され、やがて成長して足利成氏(しげうじ)と名乗り、関東を暴れまわる事になるのですが、そのお話は9月30日のページでどうぞ>>
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2018年4月 7日 (土)

赤松VS山名の最終決戦~英賀坂本城の戦い

長享二年(1488年)4月7日、山名政豊の播磨坂本城を赤松政則が攻めた英賀坂本城の戦いがありました。

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嘉吉元年(1441年)、播磨備前美作(みまさか=岡山県北東部)守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)であった赤松満祐(あかまつみつすけ)が、時の室町幕府将軍=足利義教(あしかがよしのり=第6代)を暗殺した嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)・・・

この事件により赤松家は衰退する一方で、満祐を討伐した山名宗全(そうぜん=持豊)は、赤松の旧領を賜って武家のトップクラスに躍り出、その後の応仁元年(1467年)に起きた将軍家や管領家の後継者争いが絡む、あの応仁の乱(5月20日参照>>)でも西軍の総大将を務めました。

Akamatumasanori600 一方、この応仁の乱の時に、東軍の総大将だった細川勝元(ほそかわかつもと)に近づいて功を挙げ、旧領の守護に返り咲いていた(5月28日参照>>)のが満祐の甥=赤松政則(あかまつまさのり=満祐の甥の子)でした。

その後、両総大将の死を受けて和睦交渉し、文明九年(1477年)に応仁の乱を終結させたのは、彼らの息子=細川政元(まさもと=勝元の息子)山名政豊(やまなまさとよ=宗全の息子か孫)でしたが、こうして京都の情勢にかかりっきりになっていた政豊の領国では、更なる領地拡大を狙う政則の動きに加え、一揆などの混乱も起きていたわけです。

それは新たな将軍=足利義尚(よしひさ=義政と富子の息子・第9代)の静止を振り切ってでも帰国しなければならない状態でした(9月4日参照>>)

政則にしてみれば、もともと赤松家の物だった領地・・・
しかし、政豊にとっては功績の恩賞に先代が貰った領地・・・
それを、うまく采配仕切れない将軍家・・・
こうして出来上がったのが山名VS赤松の戦いの構図でした。

もちろん、実際にはそんな単純な構図ではなく、その混乱に乗じて取って代わろうとする地元の豪族たちも、両者の間に入り乱れて来るわけで・・・

そんなこんなの文明十六年(1484年)、赤松配下の福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)が、山名政豊と組んだ松田元成(もとなり)からの攻撃を受けて陥落してしまうのです(1月6日参照>>)

しかも、この時、赤松政則は福岡城の救援に向かう援軍を浦上則国(うらがみのりくに)に任せ、自身はかつての赤松の所領であった但馬(たじま=兵庫県北部)朝来(あさご)を奪回すべく向った真弓峠(まゆみとうげ=兵庫県朝来市生野町)山名軍とぶつかり、大敗を喰らってしまったのです。

つまり、独自の判断で兵を分散させてしまったために、福岡城も落ちるわ、真弓峠でも負けるわ、という大失態をやっちまったわけで・・・

これに激怒したのが、福岡城への援軍を要請した守護代浦上則宗(うらがみのりむね)でした。

なんせ、この則宗は、守護=政則を守護代としてずっと支えていた人・・・かの応仁の乱の頃は政則は未だ13歳で、一方の則宗は脂の乗った38歳でしたから、冒頭に書いた「応仁の乱キッカケで守護に返り咲いた」てのは、どう見ても若き領主をサポートしていた則宗の功績も大きく、当然、両者の力関係も微妙なわけで・・・

このため赤松家内は分裂し、実権を握った則宗によって、一時的に政則が追放されるという一件も起こりますが、このドサクサに乗じて山名が攻めまくって美作と備前を奪い取って来たため、家臣たちの要望の末、足利義政(よしまさ=第8代将軍)の仲介で政則と則宗は和解・・・協力して山名に当たる事となりました。

確かに・・・内輪モメしてる場合では無いです!

おかげで、文明十七年(1485年)に再び真弓峠でぶつかった時も、翌文明十八年(1486年)に、赤松の拠点の一つである英賀(あが=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)に攻め込まれた時も、見事、山名軍に勝利します。

一方の山名軍は、この敗戦により、保持する城が坂本城(さかもとじょう=兵庫県姫路市書写)ほか数ヶ所という窮地に立たされてしまいました。

翌年・・・近江(滋賀県)南部六角高頼(ろっかくたかより)が幕府に刃向かった近江鈎(まがり・滋賀県栗東)の陣(12月13日参照>>)に、赤松は守護代の浦上則宗を、山名は嫡男の山名俊豊(としとよ=後に廃嫡)を派遣中の長享二年(1488年)4月7日赤松政則は、長き抗争に決着をつけるべく、山名政豊を坂本城に攻めたのです。

7日→8日→9日の3日間に渡って行われた戦いで、赤松軍は戦死者を出しつつも勝利し、大いに気を吐きましたが、一方で、これらの城外戦には勝利したものの、城の一ヶ所に集まった山名勢を完全に崩す事ができず、戦いは籠城戦に持ち込まれます。

しかし、この時、一方の坂本城内では、何やらややこしい雰囲気に・・・

『蔭凉軒日録』によると・・・
実は、これまでの一連の敗戦により、山名の中には厭戦(えんせん=戦いに嫌気がさす)気分が漂っており、山名政豊自身も、すっかりヤル気を失っていたのです。

もちろん、未だヤル気満々の者もいました・・・てか、世は戦国ですから、そっちの方が多いくらいです。

特に、山名配下の但馬の国人領主たちが、これまでの犠牲を考えると「むしろ撤退は許され無い事」として猛反対・・・徐々に政豊は城内で孤立していきます。

未だ合戦上等の彼らから、嫡子の俊豊を当主に推す声さえも出始めた7月18日の夜10時頃・・・結局、政豊は、わずかの部下と馬廻りだけを連れて、闇に紛れて坂本城を出奔して但馬に帰ってしまうのです。

さすがの抗戦派も、この政豊のいきなりのトンズラまでは考えていなかったのか?
城内に動揺が走りまくりで、見事に彼らも戦意喪失・・・備後(びんご=広島県東部)からの加勢組も、一人、また一人と去って行きました。

となれば、いずれは坂本城からの山名の完全撤退が・・・と言っても、実はその日付はよくわかっていないのです。
先の『蔭凉軒日録』によれば、かの福岡城に詰めていた山名勢が、政豊の行動を知り、7月20日に、彼らも福岡城も退去したとの事なので、おそらく坂本城からの山名の完全撤退の日付も、その7月20日前後・・・

こうして文明十六年(1484年)の真弓峠に始まった・・・いや、もとはと言えば、あの嘉吉の乱に始まった赤松VS山名の直接対決は、政豊のトンズラで幕を閉じたのです。

まぁ、長い戦いでしたからね~
メンタルが鬼でなければ、戦国を生きてはいけませぬ。

この5年後の明応二年(1493年)、政則は、細川勝元の娘=洞松院(とうしょういん=めし)継室(けいしつ=後妻)に娶り、その弟で、時の権力者である細川政元と縁を深めますが、その結婚生活は政則の死を以って、わずか3年で終了・・・その後の赤松家は、鬼瓦のニックネームも勇ましい新婚の奥さんが守っていく事になりますが、そのお話は【鬼瓦と呼ばれた細川勝元の娘・洞松院】でどうぞ>>
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2018年4月 1日 (日)

秀吉の中国攻め~播磨英賀城の戦い

天正八年(1580年)4月1日、織田信長の命で中国攻略中の羽柴秀吉播磨英賀城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

天正元年(1573年)・・・7月に第15代室町幕府将軍足利義昭(よしあき・義秋)槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)に攻め(7月18日参照>>)、翌8月には越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)と、北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月28日参照>>)を倒し、天正三年(1575年)には、甲斐(かい=山梨県)の名門・武田勝頼(たけだかつより)長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)(5月21日参照>>)に破った織田信長(おだのぶなが)・・・

そんな上り調子の信長の目下の敵は、
かつて畿内を掌握していた三好(みよし=三好長慶の一族)相手に戦っていた野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の合戦キッカケで「対信長戦」に参戦して来た(9月12日参照>>)本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が扇動する一向一揆=本願寺門徒との抗争。

長島一向一揆>>に、
越前一向一揆>>と、
各地で起こる一向一揆をせん滅して行く信長でしたが、天正四年(1576年)、その一向宗徒の本拠地である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦い(6月3日参照>>)で、本願寺側に味方し、まんまと兵糧を運び込んだ(7月13日参照>>)のが安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)でした。

ここに来て本願寺と和睦し、再び北陸に手を出して来た越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)(8月4日参照>>)が東の強敵なら、この毛利は西国一の大大名・・・なんせ、信長に追放された足利義昭も、この頃には、この毛利を頼ってますしね。。。

これは、何とかせねばなりません。

そこで信長は、北陸方面を柴田勝家(しばたかついえ)(9月18日参照>>)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)の平定を明智光秀(あけちみつひで)(10月29日参照>>)当たらせるとともに、すでに赤松則房(あかまつのりふさ)小寺政職(こでらまさもと=黒田官兵衛の上司)などの播磨(はりま=兵庫県南西部)の諸将を味方につけつつあった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)中国地方の攻略を命じたのです。

以来、赤松政範(あかまつまさのり)上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)(11月29日参照>>)や、その支城の福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)(12月1日参照>>)、今や「天空の城」として大人気の竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市)(12月21日参照>>)などの西国攻略を進める秀吉でしたが、

その上月城に、当時は毛利配下であった備前(びぜん=岡山県東南部)宇喜多直家(秀家の父)がチョッカイ出したり、味方だと思っていた別所長治(べっしょながはる)三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)で籠城したり(3月29日参照>>)一進一退です。

年が明けた天正八年(1580年)1月にやっとこさ三木城を攻略しますが、この間に上月城が毛利の手に落ち(5月4日参照>>)、守りを任されていた出雲(いずも=島根県)の名門=尼子(あまご)も滅亡(7月17日参照>>)・・・そこで、鉾先を東播磨から西播磨へと向ける秀吉でしたが、

一方で、この三木城籠城戦が続いた、この2年の間に、信長が石山本願寺戦に鉄甲船を出して来たり【(11月6日参照>>)、信長に反発して有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城)に籠った荒木村重(あらきむらしげ)が開城させられたり(12月16日参照>>)、逆に反信長の最大勢力だった上杉家が謙信という大黒柱を失い継者を巡って内輪もめ(3月17日参照>>)し始めたり・・・てなアレコレが、その気持ちを変えさせたのか?ここに来て、毛利配下だった宇喜多直家が降伏して(10月30日参照>>)織田に寝返っていたのです。

この直家の寝返りを受けて、毛利が攻撃目標を播磨から美作(みまさか=岡山県北東部)へと変更した事を受けて、一旦、本拠の長浜(ながはま=滋賀県長浜市)に帰還していた秀吉は、再び軍勢を率いて播磨に戻り、閏3月2日には、備前との国境付近に陣を張りますが、この動きを見た毛利方の吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男) は、「秀吉と直家の両方を相手にするには態勢を整えねば!」1度撤退する事に・・・

Hideyosiharimaheiteicc 秀吉の播磨平定・関係図
←クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そこで秀吉は、兵を西播磨に戻して、織田から毛利へと寝返った宇野政頼(うのまさより)宇野祐清(すけきよ)父子の長水城(ちょうずいじょう=兵庫県宍粟市山崎)と、三木通秋(みきみちあき)英賀城(あがじょう=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)を攻める事にしたのです。

この英賀という場所は、かつて本願寺の蓮如(れんにょ)上人が播磨での布教活動の拠点とした場所で、当時は英賀御堂(あがみどう)と呼ばれる壮大な伽藍を中心にする本願寺門徒衆の強い土地・・・ここを抑える事は、未だ交戦中の石山本願寺(石山合戦はこの年の8月に終結>>)にも少なからず影響を与えるはず・・・

かくして天正八年(1580年)4月1日秀吉は2万余兵で以って英賀城を攻撃するのです。

ちなみに、この英賀城攻防戦は、
『英城日記』では、「かなり苦戦した秀吉が、和睦交渉で以って内応者を作り、やっとこさ2月13日に落とした」となっているのですが、
『信長公記』では、「はなから戦う気が無かった通秋が、そそくさと舟で逃亡してしまったため、戦闘らしい戦闘もなく4月26日に陥落した」となっています。

アレレ?両者の言い分の食い違いったらww
まぁ誰だって、味方のほうをカッコ良く下記残したいですからね~

そんな中、今回は4月1日の日付で書かせていただきます。

というのは、直家宛ての秀吉の書状に
「英賀城の八町(約900m)西に土塁が築かれていたのを4月1日に奪取してぶっ壊したった」と自慢げに報告しいるので・・・もちろん、これも自分をカッコ良く書いてるのかも知れませんが、何たってご本人の書状なので、とりあえず、今の所は1番確かな事ではないかと・・・

これに対し、英賀側では、やはり
「英賀が落ちたら、石山本願寺もタダでは済みまへんで!」
と、本願寺方の下間頼廉(しもつま らいれん=石山本願寺の坊官)雑賀(さいが・さいか)による300~500挺の鉄砲隊を援軍として派遣してくれるよう要求しています。

Agazyoukouryaku
秀吉の英賀城攻略図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一方、上記の通り、4月1日に英賀城の土塁を破壊して西の丸を奪取した秀吉方でしたが、英賀城は東西に二つの川が流れ、南は播磨灘に面した湿地帯という自然の要害の地・・・容易に攻められる物ではありませんでした。

そこで秀吉は、陸上ではなく、船で海上から奇襲をかける作戦を実行・・・フイを突かれた英賀城内は大混乱に陥り、この時の戦いで800人以上の戦死者を出してしまって、あえなく陥落します。

城主の通秋は、落城の混乱のさ中の4月24日・・・舟で城を脱出し、海路で九州へと落ちのびたという事です。
(フムフム…ここは『信長公記』と一緒ですな)

史料によって少しずつ内容が違うので、未だ謎多き英賀城攻めですが、この英賀城と長水城長水城攻防戦は2015年4月25日参照>>)を落とした事で、秀吉の播磨平定は一応完了・・・信長の命による西国攻略は次の段階へ進む事になります。
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2018年3月27日 (火)

徳川家康、徹底根絶やし~気賀堀川城一揆

永禄十二年(1569年)3月27日、徳川家康の最大の汚点とも言われる気賀・堀川一揆がありました。

・・・・・・・・・・・

昨年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、その賑やかさが記憶に新しい気賀(きが=浜松市北区細江)

ドラマでもあったように、この町は、南に浜名湖(はまなこ=静岡県浜松市から湖西市)を持ち、東に川が流れ、北を街道が通るという陸路&水路の便利さがあるとともに、満潮になると周辺が湿地帯となるその地形が天然の要害であった事から、古くから人の往来する交通の要所として栄えていました。

しかし、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦い(2007年5月19日参照>>)で、当時「東海一の弓取り」と称されていた遠江(とおとうみ=静岡県西部)の支配者=今川義元(いまがわよしもと)織田信長(おだのぶなが)に討たれると、息子の今川氏真(うじざね)が後を継ぐも、義元時代のような勢いは徐々に薄れつつあった今川家・・・

そこを狙ったのが、隣国=甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、かの桶狭間キッカケで今川から独立(2008年5月19日参照>>)した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)でした。

Tokugawaieyasu600 永禄五年(1562年)に尾張(おわり=愛知県東部)統一(11月1日参照>>)を果たした信長は、この二人を結びつけ、やがて信玄と家康は阿吽の呼吸で以って遠江に侵攻を開始するのですが・・・

この家康の動きを知った土地の人々が、その侵攻に備えるために構築したのが、今回の堀川城(ほりかわじょう=静岡県浜松市北区細江町気賀)です。

土地の者が自分たちで建てた・・・という経緯から、おそらくは城というよりは砦のような物であったと思われますが、それ故、築城年数も、その様相も、ほとんどわかっていません。

ただ、『瀬戸文書』に残る永禄十一年(1568年)9月14日付けの氏真が発給した「徳政令を凍結する」旨の書かれた瀬戸方久(えとほうきゅう)宛ての安堵状には、
「…然者今度新城取立之条…」
と、新しい城を建てる?or建てた?事が記されていますので、おそらく、この頃に構築したとみられます。

以前、この3年後に起こる「伊平・仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)の戦い」のページ(10月22日参照>>)で、この家康の遠江侵攻の時、近藤康用(こんどうやすもち)をはじめとする井伊谷三人衆(いいのやさんいんしゅう)が道案内をしたと書かせていただきましたが、このように、遠江には、家康の侵攻を歓迎する者もいた反面、その仏坂で戦いがあった事でもお察しのように、家康の侵攻を拒む者も多くいたのです。

なんせ、もともとが今川の領地ですから・・・

そんな中、ここ気賀は後者=家康の侵攻を歓迎しない立場にあったのですね。

おそらく堀川城が構築されたであろうその永禄十一年(1568年)には、暮れの12月12日に、信玄が薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)で今川とぶつかり、翌日の13日には氏真の居館=今川館を攻撃(12月13日参照>>)・・・やむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川))へと逃げる氏真を、今度は家康が包囲したのが12月27日の事でした(12月27日参照>>)

これだけの今川相手の合戦が行われれば、当然、戦いに敗れて、気賀に落ちて来る者も多数・・・やがて、それらの今川の落武者たちに扇動されるように、気賀の住人は堀川城に立て籠もり、家康の支配に抵抗する事になります。

一説には、この頃、気賀には3000人ほどの住人がいた中、そのうちの約2000人~2500人が堀川城に籠城したとも言われています。

「気賀一揆」あるいは「堀川一揆」「堀川城の戦い」とも呼ばれる、この籠城戦・・・もちろん、ここには、近隣の土豪(どごう=半士半農の土着武士)は当然、商人や農民、非戦闘員とおぼしき女子供も含まれています。

この時、籠城戦を率いていた大将とされるのは、今川の家臣で、当時、居城の堀江城(ほりえじょう=静岡県浜松市西区)を家康勢に攻められていた大沢基胤(おおさわもとたね)被官(ひかん=部下)であった尾藤主膳(びとうしゅぜん)山村修理(やまむらしゅり)らであったとか・・・

『常山紀談』によれば・・・
堀川城に籠った彼らは、家康の暗殺を企てていたところ、「三河に戻る徳川軍が城の近くを通る」という情報を入手・・・

鉄砲にて討ち取らんと構えていたところ、その事を知らない家康が、無防備に、わずか7騎でその場所を通過・・・あまりの数の少なさに、一揆勢は、それとは知らずやり過ごして、「家康はまだか?」と、そのまま待ち構えていましたが、やがて、その後を石川数正(いしかわかずまさ)の大軍が通ったのを見て、やっと
「さては、もう家康は通り過ぎてしまったか…」
「簡単に討つ事ができたはずの好機を逃してしまった」

と大いに悔やんだ・・・さすが、神君家康公は神仏に見守られておる!
てな逸話が残ってますが・・・

さすがに、これは、後の江戸開幕を知ってるからこその家康ageでしょうが、長引く掛川城攻防戦のさ中に、家康が、堀川城の近くまで来たのに攻撃せず、一旦、三河に戻ったという話は確かな事で・・・実は、家康は干潮が最大になるのを待っていたのだとか・・・

そう、先にも書かせていただいた通り、この堀川城は、浜名湖のほとりに建っており、満潮の時には、舟で自由に出入りができるものの、干潮時には1ヶ所の出入口でしか通行できなかったのです。

かくして永禄十二年(1569年)3月27日、干潮時を狙って、約3000の家康軍が堀川城に一斉に攻撃を仕掛けます。

ちなみに、『浜松御在城記』には、「辰ノ三月七日」に堀川城への攻撃があったと記載されている事から、「辰の年=永禄十一年(1568年)」なので、「永禄十一年(1568年)の3月7日に1度めの堀川城への攻撃があった」とする説もありますが、上記の通り、遠江への侵攻が始まるのが永禄十一年(1568年)の12月頃からなので、それ以前の攻撃というは、おそらく無かった物と思われます。

とにもかくにも、上記の通り、干潮時には、ほとんど逃げ場が無かった堀川城・・・

『三河物語』によれば・・・
この戦いで1番乗りの大活躍をした17歳の若武者=大久保忠栄(おおくぼただなが・ただひで)が、一揆勢の鉄砲に当たって討死したした事とともに、
「男女供ニナデ切リニゾシタリケル」
と、かなりの人数の籠城組を撫で斬り(なでぎり=たくさんの人を片端から切り捨てる事)にした事が記されています。

一説には、このわずか一日の戦いで戦死した一揆勢の人数は1000人に達したのだとか・・・

その後、生き残った者の探索が行われ、捕縛された700人が半年後の9月9日に処刑され、その全員の首を、堀川城近くの小川に沿った土手に並べて晒したとの事・・・その場所は「獄門畷(ごくもんなわて)と呼ばれ、現在も、「堀川城将士最期の地」と刻まれた慰霊碑が建っています。

に、しても、住人が3000人ほどいて、そのうち約2000人~2500人が立て籠もって、1日の合戦で1000人が死んで、逃げたうちの700人が討首って・・・ホンマかいな?と思われる数字ですが・・・

そもそも、一般市民のほとんどが立て籠もるなんて事があるのか?

いや、「立て籠もる」というよりは、「そこに避難して来た」という事なら、あり得るかも知れません。

また、立て籠もった中で武士は100人ほどだったとも言われていますので、その多くが非戦闘員レベルの農民や女子供なら、一日の戦闘で1000人が討死にというのも、あり得るかも知れません。

ただ、捕縛された700人が一斉に斬首というのは・・・
もちろん、700人が一斉に捕まるわけでは無いので、約半年で何人かずつなのでしょうが、そんなに多くの者を押し込めておく場所は?

そもそも、住民がそんなに死んで、その後の気賀はどないなったん?
と、色々な疑問が残りますが・・・

ただ、この『三河物語』は徳川方の記録ですし、他の文献にも、かなり悲惨な状況だった事が記されていますので、やはり、この堀川城で、厳しい一件があった事は確かであろうと考えられており、今でも、その残虐さに、
「家康、やり過ぎ」とか
「家康、最大の汚点」とか
って言われる一件でもあります。

とは言え、この堀川城の一件は合戦というより一揆・・・一揆と言えば、家康は、この6年前に、あの三河一向一揆(みかわいっこういっき)(9月5日参照>>)を経験しています。

徳川を真っ二つに分け、徳川の存続が危ぶまれるほどの経験をした家康にとって、その記憶は鮮明に残っているでしょうから、「中途半端なやり方では根を残す」とばかりに、徹底的に根絶やしにした・・・という事なのかも、

いずれにしても、その残虐さ非情さも、現在の価値観と同じ物差しでは測れない物であります。
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2018年3月19日 (月)

小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防戦

天正十二年(1584年)3月19日、小牧長久手北伊勢方面の戦いである松ヶ島城の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後(6月2日参照>>)、仇となった明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府)に討って(6月13日参照>>)織田家家臣内で優位に立ち、その後の清州(清須)会議(6月27日参照>>)を仕切った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を味方につけ、後継のライバルでもあった弟=織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)を追い落とし(5月2日参照>>)、その後推しをしていた柴田勝家(しばたかついえ)をも葬り去って(4月23日参照>>)、未だ幼い後継者=三法師(さんほうし=信長の孫・後の織田秀信に代わって、事実上の織田家後継者となっていた織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意・信長の次男)でしたが、

今度は、これまで西の出来事を静観(10月29日参照>>)していた徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけて秀吉に反発・・・天正十二年(1584年)3月6日、信雄は、自らの長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)重臣たちを呼び出して「秀吉に通じた」という名目で殺害したのです(3月6日参照>>)

『常山紀談(じょうざんきだん)によれば、その重臣殺害事件の発端となったのは、津川義冬(つがわよしふゆ)岡田重孝(おかだしげたか)浅井長時(あざいながとき=浅井田宮丸とも)滝川雄利(たきがわかつとし)という信雄の重臣4名が、秀吉に呼び出されて内応する約束をさせられたという出来事で、他の3人を裏切って、この事を信雄にチクッたのが滝川雄利、殺されたのは残りの3人という事になっています。

細かな経緯の真偽はともかく、ここで、重臣3人が謀反の疑いで殺害された事は確か・・・その勢いのまま、信雄は津川義冬の伊勢松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)を没収して滝川雄利に与えるとして、配下の佐久間正勝(さくままさかつ=信盛の息子・佐久間信栄)山口重政(やまぐちしげま)らを派遣します。

Komakinagakutekankeizu
小牧長久手の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

正勝&重政らは、その松ヶ島城へ向う道すがら、秀吉方の関盛信(せきもりのぶ)一政(かずまさ)父子が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)を攻撃しますが、これは城兵の強固な守りに阻まれてしまいます(3月12日参照>>)

そんな亀山城攻防のあった同日深夜の3月13日には、東海地方にて犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)攻略戦(3月13日参照>>)が勃発するさ中、松ヶ島城に向った佐久間らではありましたが、留守を預かる津川義冬の一族が籠城を固めた城を思うように攻める事ができず、『大剛の人』として名を馳せた木造長政(こづくりながまさ=木造具康と同一人物か?)の援軍を得て、何とか包囲攻撃を仕掛けます。

寄せ手の猛攻に、さすがの松ヶ島城兵も数百人の死者を出し、あえなく開城・・・生き残った者は、ことごとく大和(やまと=奈良県)方面へと逃走して行きました。

こうして松ヶ島城に入城した滝川雄利に対し、信雄は「秀吉からの攻撃に備えるように」と指示し、更なる援軍を差し向けますが、その中には、家康から預かった服部半蔵(はっとりはんぞう=正成)率いる伊賀衆甲賀衆の鉄砲隊もいたとか・・・

一方、信雄による重臣殺害の一件を3月8日に耳にした秀吉は、早速、配下の堀尾吉晴(ほりおよしはる)らに北伊勢出陣の準備をさせ、自らも10日過ぎには近江(おうみ=滋賀県)へと向かいます。

そんな中、秀吉が目を付けたのが、信雄方が北伊勢守備の拠点としていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)・・・ここは、かの佐久間正勝の城でしたが、南北朝時代からの古城ゆえ、未だ城壁の補修が完璧では無かったのです。

そこを秀吉は、蒲生氏郷(がもううじさと)を総大将に長谷川秀一(はせがわひでかず)滝川一益(たきがわかずます)以下、1万余の軍勢で以って攻めさせたのです。

上記の通り、未だ守りが完璧でない峯城内は、「籠城戦は不利」と考え、城外へと撃って出ます。

しかし、これは秀吉の思惑通り・・・なんせ城外戦となれば、数に圧倒する秀吉軍が有利ですから・・・

激戦が展開されるも、所詮は多勢に無勢・・・多くの死者を出した信雄方の主将らは、やむなく城へと戻りました。

この敗戦を悔やんで自害しようとまで考えた佐久間正勝を、山口重政が思い留まらせたと言いますが、そんな中、家康配下の酒井忠次(さかいただつぐ)奥平信昌(おくだいらのぶまさ)らの援軍がコチラに向かっているとの知らせ・・・

この一報が秀吉方にも届いた事で、峯城を取り囲んでいた秀吉方の寄せ手が一里(約4km)ほど退きますが、この移動を見て取った峯城内の将兵は、その日の夜、闇に乗じて城を脱出し、尾張(おわり=愛知県西部)方面へと逃走していったのです。

秀吉方の将兵が峯城へと入城したのは、その翌朝の事・・・3月14日でした。

Toyotomihidenaga500a こうして峯城を攻略した秀吉軍は、つい先日奪い取られた松ヶ島城奪還に向けて、先の蒲生氏郷に加え、新たに羽柴秀長(ひでなが=秀吉の弟)羽柴秀勝(ひでかつ=秀吉の甥で養子)筒井順慶(つついじゅんけい)織田信包(おだのぶかね=信長の弟)ら、そして亀山城の関信盛父子に、もちろん津川義冬の一族も加わり、万全の態勢で松ヶ島城を包します。

秀吉は、この軍勢に田丸直息(たまるなおやす・なおおき)を通じて書状を送り、
「皆で分担して堀柵を構築し、一人として逃がさんように…さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)の水軍で以って岸に舟を寄せ、これも縄で柵に結んで一人も逃がさんようにしろよ」
と、伊勢湾に面した城への攻略指南をしています。

もちろん、これは敵兵を逃がさないようにするとともに、海路からの兵糧の運び込みも防ごうとの作戦・・・『勢州軍記』によれば、この時の秀吉の軍勢は約5万との事ですが、さすがに、そこまで多くはなくとも、自らの弟や養子たちを大将に据えている所からみても、秀吉は、かなりの数で以って完全勝利を狙った物と思われます。

一方、この態勢を見て、「兵糧攻めにする気やな」と察した松ヶ島城内は、16日・17日・18日に3日間に渡って、しばしば門を開いて撃って出て、囲む諸将の陣所などを襲撃して回りますが、なんせ相手が多い・・・

対する秀吉方は力攻めをせず、ただひたすら相手の体力消耗を待つ・・・と、なると、やがては根負けして投降して来る者もチラホラ出始める。

で、結局、天正十二年(1584年)3月19日交渉に応じた城兵が開城し、秀吉軍は大した痛手を被る事無く松ヶ島城を取り戻す事に成功・・・大将の秀長は、ここを岡本良勝(おかもとよしかつ=重政とも)に守らせました。

とは言え、一方の小牧長久手方面では、この間の3月17日、羽黒の戦いは秀吉軍の森長可(ながよし・森蘭丸の兄で池田恒興の娘婿)にとって屈辱の戦いとなるのですが、それらのお話は、以下の関連ページでどうぞm(_ _)m

関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城←今ココ
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>

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2018年3月12日 (月)

小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い

天正十二年(1584年)3月12日、小牧長久手の戦いの北伊勢方面の攻防となる亀山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日の『本能寺の変』によって命を落とした織田信長(おだのぶなが)・・・(6月2日参照>>)

信長と同時に、すでに家督を譲られていた嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)も亡くなってしまった事から、織田家の後継者は、信長の次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意)か?、もしくは三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)か?と思われましたが、

その3ヶ月後に行われた清州(清須)会議では、変の寸前まで父=信忠とともにた息子の三法師(さんほうし=つまり信長の孫・後の織田秀信織田家の後継者と決まり(6月27日参照>>)、炎上した安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)を修復する間、三男の信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて後見人として三法師を預かるという形で、一旦は落ち着きます。

・・・が、水面下でのモメ事は、すでに動きつつあったのです。

なんせ後継者となった三法師は未だ3歳ですから、実質的には、その後ろにいる誰かが織田家を仕切る事になるわけで・・・

そんな中、かの信孝が、岐阜城に抱え込んだ三法師を、なかなか安土に戻そうとしなかった事から、次男の信雄が不満をつのらせる事になります。

こうして起こったのが、有名な賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)です。

この後の歴史の流れを知ってる私たちからすれば、どうしても、信長が座りかけた天下のイスを狙う羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、織田家家臣の筆頭である邪魔な柴田勝家(しばたかついえ)を消そうとした戦いのように思っちゃいますが・・・てか、それが一般的な見方かも知れませんが、

もちろん、実際に両者は戦ってますし、秀吉主導の信長の葬儀(10月15日参照>>)の雰囲気や、初の検地を実施したり(7月8日参照>>)なんぞを見ても、秀吉の心の中には、そのような思惑もあったのだろうとは思いますが、あくまで、この合戦開始の時点での表向きは、父の後を継ぎたい三男=信孝と彼を応援する勝家に、「ちょー待て!俺が次男や」と信雄が対抗した戦いで、秀吉は、そんな信雄のお手伝い・・・というのが前提の戦いだったように感じます。
(でないと、信雄は秀吉に協力しないし、信雄という看板無しに秀吉が信孝や勝家を攻撃すれば、謀反扱いになるかもですから…)

で、信雄に攻められた信孝は自刃し(4月23日参照>>)戦いに敗れた勝家も、奥さん=お市の方(信長の妹)とともに自害しました(5月2日参照>>)

Odanobuo400 すでに、この戦いの前から、父=信長が使用した「天下布武」のハンコに似せた「威加海内(天下に威力を示す)というハンコを使用し、信長の弟や自分の妹の徳姫(とくひめ=信長の長女・徳川信康室)をはじめとする織田一族を庇護下に置いたりなんぞしていた信雄は、こうして事実上の織田家後継者となったわけですが、ここで、信雄と秀吉の間に亀裂が生じます。

なんせ、信雄を後押してたはずの秀吉が、上記の一連の過程で、かなりの力をつけてしまっていて、この前年の天正十一年(1583年)には、かの清州会議で得た大坂の一等地に、巨大な大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)まで築城しちゃったりしてますから・・・

で、そんな中で事件が起こります。

どこかの誰かの画策で、その方向に行っちゃったのか?
それとも、複数の誤解が重なって、そうなっちゃったのか?
いやいや、自らが率先して、秀吉と対立する気になったのか?

そこらへんの心の内は本人のみぞ知るところでしょうが、とにもかくにも、天正十二年(1584年)3月6日、信雄は、自らの長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)重臣たちを呼び出して「秀吉に通じた」という名目で殺害してしまうのです(3月6日参照>>)

これはつまり・・・秀吉との縁を切る=秀吉に宣戦布告したという事になるわけですが、そんな信雄にも、もちろん勝算はあります。

なんせ、今、秀吉側にいる者も、もとはと言えば、お父ちゃん=信長の配下だったわけですし、今回は、信長の死後には、宙に浮いた武田の旧領を切り取る事に目を向けていて(10月29日参照>>)西の出来事(賤ヶ岳etc)を静観していた大物=徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけてますから・・・

かくして、その重臣殺害事件から、わずか3日の3月9日・・・信雄から伊勢松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)の守備を命じられた佐久間正勝(さくままさかつ=信盛の息子・佐久間信栄)山口重政(やまぐちしげま)らは、松ヶ島城への道すがら、5000余の兵力で以って、秀吉方の関盛信(せきもりのぶ)一政(かずまさ)父子が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)に押し寄せたのです。

この亀山城は、前年の賤ヶ岳の時には、滝川一益(たきがわかずます)方の佐治新(さじしんすけ=一益の従弟の滝川益氏と同一人物か?)が、関盛信から奪ったものの、その後の戦いの経過により、戦後は再び関盛信が預かっていた城だったのですが、もともと秀吉にとって北伊勢を守る重要な位置にあるばかりか、今回の相手が信雄&家康となれば、特に重視しなければならない城だったわけで・・・

とは言え、今は、単に松ヶ島城へ向う道すがら・・・この日は城下に放火して回っただけで、本格的な城への攻撃は無かったものの、これは、あくまで、宣戦布告した信雄側のごあいさつなわけで、当然、このままでは終わりません。

かくして天正十二年(1584年)3月12日、信雄方の林正武(はやしまさたけ=神戸与五郎)率いる500の軍兵が亀山城を奇襲したのです。

実は、この時、秀吉軍の主力は、未だ、その修復が未完成でありながらも信雄方が北伊勢の守りの拠点としていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を、修復が完了する前に崩すべく準備していたところだったので、逆に、この亀山城の守りは手薄になっていたのです。

もちろん、信雄方は、そこを狙って先制攻撃を仕掛けて来たわけですが、一方の守る亀山城は、関盛信父子以下、名のある武士は、わずか13名・・・何とかせねばなりません。

そこで盛信は、侍だけでなく(足軽とか)も合わせた2~30名の部隊を編成し、敵勢を引きつけたところで、城下に放火・・・その煙に紛れて敵へと撃って出たのです。

煙で何も見えない中、城兵の数を把握できない林勢は、前に進むどころか、その気勢に圧倒されて後ずさり・・・混乱してワケがわからないまま、それぞれ近隣の村々へと退却して行ったのです。

敵の退却を確認した盛信は、深追いせず、急ぎ兵を城へと戻し、すぐさま、籠城戦への備えを固めます。

しかし、その後に籠城戦となる事は無く、結局、信雄方は、そのまま亀山城攻めを断念する事になります。

そうです。
実は、この亀山城の戦いと同じ日の深夜に決行されたのが秀吉方による奇襲=犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)攻略戦(3月13日参照>>)・・・秀吉VS家康の一連の直接対決として有名な、あの小牧長久手(こまき&ながくて)の戦いの勃発となるわけです。

しかも、犬山城が秀吉勢の手に落ちた翌日の14日には、準備していた峯城への攻撃も開始し、翌15日には、この城も秀吉方が制圧しています。

ご存じのように、小牧長久手方面での個々の戦いは微妙・・・というより、負けた感が濃い秀吉ですが、ここ北伊勢方面では、この後、松ヶ島城をも落としているのです【(3月19日参照>>)

まぁ、結局、この小牧長久手の戦いは、大きな合戦だったワリには、信雄の単独行動によって勝敗がハッキリしないまま終わっちゃうんですけど・・・そのお話は、下記のそれぞれのページでご覧あれm(_ _)m

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
●3月12日:亀山城の戦い←今ココ
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2018年3月 5日 (月)

久米田の戦い~三好実休が討死す

永禄五年(1562年)3月5日、久米田の戦いで三好実休が討死しました。

・・・・・・・・・・

室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として絶大な力を持っていた細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後の主導権争いに打ち勝って政権を握った細川晴元(はるもと)に対し、天文十八年(1549年)に江口の戦い(6月4日参照>>)にて勝利して彼を近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させた三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)は、自らは芥川山城(あくたがわやまじょう=大阪府高槻市)を拠点として畿内を掌握し、京都には重臣の松永久秀(まつながひさひで)を所司代として置き、晴元に代わる政権を樹立したのです。

さらに、近江守護の六角義賢(よしかた=承禎)を味方につけて敵対していた第12代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる=義晴の息子)とも、永禄元年(1558年)の白川口の戦い(北白川の戦い)(6月9日参照>>)をキッカケに和睦し、事実上の天下人となった長慶・・・

しかし、そんな全盛期真っただ中の永禄四年(1561年)5月、これまで長慶の右腕として活躍してくれていた弟で岸和田城(きしわだじょう=言大阪府岸和田市)十河一存(そごうかずまさ・かずなが=長慶の3番目の弟)を亡くします(5月1日参照>>)

これまでに畿内を追われた敵方の面々が、この有能な弟の死を挽回のチャンスと見るは必至・・・

案の定、かの六角義賢は、晴元に代わる息子の細川晴之(ほそかわはるゆき=晴元の次男)を看板に掲げて、三好家に対抗するのですが、これが永禄四年(1561年)11月の将軍地蔵山の戦い(11月24日参照>>)です。

そのページで書かせていただいたように、近江(おうみ=滋賀県)に拠点を持つ義賢は、滋賀と京都の間にある将軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川:瓜生山:将軍山)に籠って・・・つまり、北東から京都を攻めるスタイルに・・・

一方、この時、その義賢と連携して、南から同時攻撃しようと動いたのが、紀伊(きい=和歌山県)河内(かわち=大阪府東部)の守護でありながら、事実上、河内を三好家に掌握されていた畠山高政(はたけやまたかまさ=畠山政長>>の曾孫)でした。

この時、飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市)にて指揮を取る長慶は、息子の三好義興(よしおき=長慶の嫡男で嗣子)とともに松永久秀らを地蔵山城の備えとして北へ向かわせ、すぐ下の弟=三好実休(じっきゅう=義賢・之康)らを、岸和田城の備えとして南へ向かわせました。

一存亡き後、この岸和田城を治めているのは、長慶2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=長慶の2番目の弟)・・・

Miyosizikkyuu500a 弟のピンチに駆けつける実休は、三好長逸(ながやす=三好三人衆)三好政康(まさやす=同三人衆・政勝・政生・宗渭)らなどの三好一族とともに、阿波(あわ=徳島県)淡路(あわじ=兵庫県淡路島)の軍勢を加えた7000余を岸和田に集結させますが、すでに、岸和田城が畠山勢に包囲されていたため、少し離れた久米田寺(くめだでら=大阪府岸和田市)周辺に布陣し、貝吹山城(かいぶきやまじょう=同岸和田市)に本陣を置いたのです。

京都側の地蔵山の戦いと同じ=まさに永禄四年(1561年)11月24日のその日、コチラ和泉(いずみ=大阪府南西部)側でも戦闘が開始されますが、コチラは三好勢がやや劣勢・・・

対峙と小競り合いを繰り返しつつ、12月25日には、飯盛山城の支城であった三箇城(さんがじょう=大阪府大東市)が畠山勢と、それに加勢する根来衆(ねごろしゅう=和歌山県岩出市の根来寺周辺の宗徒)の奇襲に遭って陥落し、城主の三好政成(まさなり=政康の兄で三好の重鎮)討死してしまいます。

年が明けた永禄五年(1562年)になっても、京都方面は、両者の一進一退が続くも、コチラ和泉は、どうも三好の分が悪い・・・

『西國太平記』によれば、
そんな小競り合いのさ中の、ある日、実休は不思議な夢を見たと言います。

それは、以前、自らの手で死に追いやった阿波守護の細川持隆(もちたか=晴元の従兄弟)が夢枕に現れ、実休を殺そうと刀を向けたという物・・・

「このまま斬られるわけにはいかぬ!」
とばかりに、実休は、取りあえずの時間稼ぎをすべく
「わかった!わかったけど、死ぬ前に時世の句を詠ませてくれ」
と言って、夢の中で句を詠みます。

それが
♪草枯らす 霜又今日の 日に消えて
 因果はここに 巡り来にけり ♪

「今日、露のように消えて行くのも、これまでして来た事の報いなんや」

句を詠み終えて、覚悟を決めた所で、夢が覚めた・・・にしても、我ながら不吉な句を詠んだ物やなぁ、と思いつつ、この話を、弟の安宅冬康にすると、

「確かに不吉な夢ですが、それは、きっと逆夢やと思います。ご心配なら、俺が、歌を返して、不吉な歌の厄払いをしましょう」
と・・・

♪因果とは はるか車の 輪の外に
 巡るも遠き 三好野々原 ♪

「俺らは、因果が巡る場所からメッチャ遠い所にいてます」

と詠んで、兄を勇気づけたのだとか・・・

そんなこんなの
永禄五年(1562年)3月5日、日付が変わった真夜中の0時、実休らの布陣する久米田に畠山勢が夜襲をかけたのです。

両者激しくぶつかり合う中、三好配下の篠原長房(しのはらながふさ)らが撃って出て根来衆の一団を崩します。

この勢いに乗じて押せ押せムードの三好勢・・・しかし、ここで三好の諸隊が一気に敵陣に撃って出たため、逆に総大将の実休の周辺が馬廻りや旗本のみの100騎前後と手薄になってしまいました。

ここを見逃さなかった畠山・・・この隙間を突いて実休めがけて突撃します。

『細川両家記』によれば、これを迎えた実休は、大傷を負いながらも一歩も退かず、そのまま周辺の30余名ともども、討ち取られたと言います。

『厳助大僧上記』では、「鉄砲により…」と記され、根来衆の放った鉄砲が致命傷となったとなっています。

こうして大将を討ち取られた三好軍は総崩れとなり、篠原長房や三好長逸らは、追撃して来る畠山勢をかわしながら飯盛山城へと敗走・・・安宅冬康も淡路へと逃走して行きました。

ただし、『常山紀談』によれば、
この日、飯盛山城にて連歌会に出席していた兄の長慶が、ちょうど、
♪すゝきにまじる 蘆の一むら…♪
「ススキの大群の中の蘆
(あし)の一群が…」
という句に、出席者の誰もが、次の句を付けあぐねて、皆がしばらく考え込んでいた状態だった時、ふと届いた書状に目をやりながら、
♪古沼の あさき潟より 野となりて…♪
「古い沼が浅い方から野原に変わって…」

と、次の句を付け加えた後、
「実休が討死にしたと言う…今日の連歌は、これにて…」
と、すぐさま、弟の仇を討つべく、兵を率いて出陣し、見事、畠山勢を破っています。

また、この和泉周辺での畠山勢の敗北を知った、京都の六角勢も、一旦、近江へと退いていますので、弟を失ったとは言え、未だ、この時点では三好の強さは維持されていたわけですが、ご存じのように、このあたりから三好家内では、家臣の松永久秀が力を持ち始め(11月18日参照>>)、やがて織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)によって決定打を放たれる事になるのですが・・・(9月28日参照>>)

ところで・・・
先程の実休が見た夢の話・・・

微妙に違う複数の逸話が残っているので、その真偽のほどはわかりませんが、実際に、
♪草枯らす 霜又今日の 日に消えて
 報いのほどは 終
(つい)に逃れず ♪
というのが、三好実休の時世の句とされ、どうやら、実休は本当に、敵将を死に追いやった自責の念にかられていたのではないか?と言われています。

以前、長兄の三好長慶さんのページでも
【やさし過ぎる戦国初の天下人…】>>
と題する記事を書かせていただきましたが、もし、本当に「自責の念にかられていた」のだとしたら、やはり、三好家の人々は、兄も弟も・・・戦国に生きるには難しいほどにやさしい人たちだったのかも知れません。

血で血を洗う戦国の世において、「これで良いのか?」と自問自答しながらも、殺らねば殺られる現状に奮起して生きていたのかな?と・・・ふと、

とは言え、実際問題として、そんなに弱気では戦国武将としてやって行けないし、ここまでの勢力を維持する事はできないでしょうから、あくまで話半分の逸話という感じなのかも・・・
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2018年3月 1日 (木)

島津斉彬の江戸入りと「お庭方」西郷隆盛

嘉永七年(安政元年=1854年)3月1日、島津斉彬の江戸入りに西郷隆盛が随行し、「お庭方」役につきました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ!今年の大河ドラマ「西郷どん」の主役=西郷隆盛(さいごうたかもり=本名:隆永、通称:吉之助善兵衛吉兵衛→1周回って吉之助です。
(実は「隆盛」はお父さんの名前…維新後、位階を受ける際に友人が間違って父親の名を提出してしまったため、以後、自ら「隆盛」と名乗る事にしたらしい)←他に菊池源吾大島三右衛門とかの変名を名乗っている時期もあって、ややこしいので今日は「隆盛」の名前で通させていただきます。

Saigoutakamori700a 身長は180cm近くあり、(想像画→)
体重も100kgほどあったので、
見た目も大きく、その性格も細かい事にこだわらない大物感を感じさせるような人だったようですが、口数は少なく、重要な事しか話さなかったらしいので、ドラマのようなハッチャケ感は無かったものと思われます。

そんな隆盛は、鹿児島城下では下級武士が住む下加冶屋町(したかじやまち=鹿児島県鹿児島市加冶屋町)にて、薩摩藩の勘定方小頭(かんじょうがたこがしら)という役職の西郷吉兵衛隆盛(きちべえたかもり)の長男として文政十年(1828年)に生まれました。

ドラマでも描かれていたように、12歳の時に仲間と連れだって神社にお参りに行った際、ツレが上級武士の子とケンカし、そのケンカ相手の刀が、仲裁に入った隆盛の右腕を斬ってしまい重傷を負ったとされています(学校からの帰宅途中に暴漢に襲われた説もあり)

幸いにして命を落とす事はありませんでしたが、傷は神経に達しており、そのせいで刀が握れなくなったために、以後は、剣術ではなく、学問で身を立てて行こうと考えるようになりました。

やがて弘化元年(1844年)=17歳の時に、郡奉行(こおりぶぎょう=知行地の管理&徴税etc担当)迫田利済(さこたとしなり)を補助する役職=郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に採用されました。

これって・・・「藩の土地を管理して税を徴収する」=農政って事ですから、当然、年貢を納める側の農民とも親しく接する事になるわけで・・・

ここで、武家としては下っ端の下っ端である自分よりも、さらに下にいる農民たちの厳しい実態を垣間見た隆盛が、「何とか年貢を下げてもらえない物だろうか」と迫田に訴えると、真面目で硬派な迫田も同じ思いを抱き、その事を藩に訴えますが聞き入れられず・・・憤慨した迫田は、そのまま辞職してしまいます

貧乏一家の長子として弟や妹たちを養わねばならない立場の隆盛は、さすがに辞職する事はしませんでしたが、おそらく心の内では、藩政の不合理に対する不満など抱いた事でしょう。

そんなこんなの嘉永二年(1849年)に勃発したのが、現藩主=島津斉興(しまづなりおき)の後継者争いです。

斉興の正室=弥姫(いよひめ=周子)が生んだ長男=斉彬(なりあきら)と、側室=由羅(ゆら)が生んだ五男=久光(ひさみつ)との間で起こった次期藩主の座を巡るお家騒動・・・世に「お由羅騒動」「高崎くずれ」とか呼ばれます(12月3日参照>>)

結局、このゴタゴタは、密貿易事件や幕府も巻き込んだ末、嘉永四年(1851年)に斉興が隠居して斉彬が第11代薩摩藩主となる事で落ち着くのですが、その過程で、隆盛の父が御用人(ごようにん=庶務係)を務めていた赤山靭負(あかやまゆきえ)が自刃に追い込まれてしまい、この一件は隆盛にとっても大きな衝撃を受ける事件となりました。

一方、その頃に、徳川将軍家から島津家への打診があったのが、後に第13代将軍となる徳川家定(とくがわいえさだ)正室(継室=いわゆる後妻さん)選びの一件・・・実は、家定は、この時すでに公卿出身の正室を2人、病気で亡くしてしていて、今回の嫁選びは3人目の嫁となるわけですが、先のお2人がひ弱なお育ちとも思える公家のお姫様だった事で「今度こそは丈夫な嫁を」と考え、島津家へ打診したのです。

と言うのも、第11代将軍=徳川家斉(いえなり)が正室に娶った姫が、この島津家出身・・・第8代藩主=島津重豪(しげひで)の娘で、元気で丈夫、夫を見送って72歳まで生きた篤姫(あつひめ=茂姫・後に近衛寔子)という女性だったのです。

もちろん、この篤姫の結婚自体が、それ以前に将軍家から島津へお嫁に来た竹姫(たけひめ)が両家の架け橋となり(12月5日参照>>)、将軍家と島津家の信頼関係を築いて、そのレールを敷いていた結果でもあるわけですが、

とにもかくにも、ここで将軍家が、かの「丈夫な篤姫の血筋」を要望した事で、斉彬は島津一門の中から一人の姫を選ぶ事になるのです。

一方、斉彬が将軍の嫁候補を吟味していたであろう嘉永五年(1852年)、最初の結婚をする隆盛でしたが、それから間もなく、父と母を相次いで亡くし、家督を相続して一家を支えていかねばならない立場となりますが、役職は相変わらず郡方書役助のまんま・・・

西郷家の苦しい家計がいっそう苦しくなる中、皆様ご存じの嘉永六年(1853年)6月・・・「イヤでござるよペリーさん」黒船来航です(6月3日参照>>)

さらに、同じ6月には第12代将軍=徳川家慶(いえよし=家斉の次男で家定の父)が死去、その2ヶ月後の8月には、品川沖にて砲台場の建設が開始(8月28日参照>>)されるという慌ただしさMAXの、まさにその頃、斉彬は、一門の島津忠剛(ただたけ)の長女であった(いち)を家定の正室候補として選び、自らの養女として江戸へと発たせたのです。

彼女は、先の丈夫で長生きな姫にあやかって、その名を篤姫(あつひめ)と改め、家慶亡き今となっては、「将軍御台所候補」として江戸に向かったのでした。

その篤姫が江戸に到着した10月には、ロシアプチャーチン下田(しもだ=静岡県下田市)に来航し(10月14日参照>>)、年が明けた嘉永七年(安政元年=1854年)の2月には、早くもペリーさん(2月24日参照>>)が再びの来日を果たし、その騒ぎを鎮静化させるため幕府が黒船見物禁止令を発布(2月3日参照>>)したり・・・
(ちなみに前回放送=第8回の大河ドラマは、まさに「今ココ↑」でしたね(*^-^))

とまぁ、色んな事が目まぐるしく起こる中、この嘉永七年(安政元年=1854年)の3月1日斉彬ご一行が江戸へと到着・・・そのお供の一人に抜擢され、斉彬の江戸入りに随行していたのが隆盛でした。

以前、かの農政に関する真摯な意見書を提出していた事が斉彬の目にとまっての抜擢です。

斉彬という人は、嘉永四年(1851年)に10年ぶりにアメリカから戻って来たジョン万次郎(まんじろう=中浜万次郎)を手厚くもてなして(1月3日参照>>)藩士たちへの西洋技術の指導を頼んだり、すでに嘉永五年(1852年)の段階で大砲鋳造のための反射炉の建設に着手したり・・・と、かなり先進的な考えの持ち主でしたから、おそらく、その人材登用も、身分にこだわることなく、実力重視で行っていたのでしょう。

そして、この江戸にて、隆盛は「お庭方(にわかた)という役を命じられます。

これは、その名の通り、斉彬の邸宅の庭園を管理する役職ですが、お察しの通り、それは表向き・・・ドラマ上では主役の特権で、藩主様とも何度か出会って会話し、相撲大会では恐れ多くも投げ飛ばしちゃった西郷どんではありますが、実際には、隆盛の身分があまりに低すぎて、殿様とは直接お話などできない立場だったんですね~

しかし、そんなエライお殿様でも、気晴らしにお屋敷のお庭を散歩なさる事は度々あるわけで・・・そんなお庭の散歩中に、たまたまお庭を手入れしている者に出会い、「この花は何という名じゃ?」ってな声をかける事もあるわけで・・・

そうです・・・斉彬から、公にできないような密命を直接受け、その手足となって江戸の町を駆け巡る・・・これが、隆盛に与えられた使命だったわけです。

この江戸滞在中には、奥さんの実家から離縁の相談を持ちかけられ、1度目の結婚が破たんしてしまうという出来事もあったりしましたが、若き隆盛にとっては、大抜擢してくれた斉彬への恩に感動し、忠誠を誓い、人生の一大転機となった事は確かでしょう。

なんせ、ここは江戸・・・尊王のカリスマ的存在の、あの藤田東湖(ふじたとうこ)(10月2日参照>>)橋本左内(はしもとさない)(10月7日参照>>)、後に天狗党のリーダーとなる武田耕雲斎(こううんさい)(10月25日参照>>)などなど、時代の最先端を行く人々と出会う事になるのですから・・・

ちなみに、かの篤姫の正式な婚儀が行われるのは、江戸入りから3年後の安政三年(1856年)12月・・・この間に準備された婚礼道具の数々は、贅の限りを尽くした将軍正室の腰入れにふさわしい豪華な品々でしたが、その道具類を吟味するに当たっても、隆盛は大いに活躍したとの事・・・

とは言え、皆様ご存じのように、この後、ほどなく幕末の動乱がやって来る事になります。

安政五年(1858年)7月に、尊敬して止まなかった斉彬が亡くなり(7月16日参照>>)、一時は殉死(じゅんし=主君の死をいたんで臣下や近親者が死を選ぶ事)を決意した隆盛を、清水寺成就院(じょうじゅいん=京都市東山区)の僧=月照(げっしょう)が思いとどまらせますが、間もなく、追いつめられた二人は心中をはかる事に・・・と、そのお話は、未だブログを始めて間もない頃の未熟なページではありますが、11月16日参照>>でどうぞm(_ _)m

★特別公開情報
普段は非公開の成就院(月の庭)ですが、
今年2018年
●冬の旅イベントの1月27日~3月18日
  (10時~16時)
●春の4月28日~5月6日

  (9時~16時)
●秋の11月17日~12月2日

  (9時~16時、夜間公開=18時~20時半)
の3度、特別公開が予定されています。
(予定は変更される場合もありますのでお出かけの際は事前に再確認を)

Zyouzyuintukinoniwa
清水寺成就院「月の庭」
…西郷と月照が、月影を愛でながら日本の未来を語り合った庭です
(内部は撮影禁止ですので右の庭園の写真は建物正面にあるイベントポスターの転載です)
成就院のくわしい場所は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末編」でご紹介しています>>(←別窓で開きます)

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2018年2月22日 (木)

織田信長の雑賀攻め序盤~孝子峠の戦いと中野落城

天正五年(1577年)2月22日、織田信長による雑賀攻め初の交戦=孝子峠の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

元亀四年(天正元年=1573年)には、自らが担いでいた神輿(9月7日参照>>)=第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)追放(7月18日参照>>)し、その1ヶ月後には、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あさいながまさ)滅亡させ(8月28日参照>>)、2年後の天正三年(1575年)5月には長篠で武田勝頼(たけだかつより)破り(5月18日参照>>)、翌・天正四年(1576年)には安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)構築に着手(2月23日参照>>)、まさに天下への上り調子を見せつけていた織田信長(おだのぶなが)でしたが・・・

Odanobunaga400a 一方で、その間、そんな信長を最も手こずらせていたのが、各地の一向一揆を扇動する本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)でした。

そもそもは元亀元年(1570年)9月、本拠の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)に近い野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)で勃発した信長VS三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)の戦い(8月26日参照>>)に、教祖様自らが参戦を表明(9月12日参照>>)して以来、翌・元亀二年(1571年)の5月には長島(ながしま=三重県桑名市)にて長島一向一揆が勃発(5月16日参照>>)し、同年の9月には近江の一向一揆(9月3日参照>>)、天正二年(1574年)1月からは越前一向一揆(1月20日参照>>)と・・・

まぁ、とにかく、上記の武将たちと戦いながら、一方でそれらの一向一揆を潰して行く信長ではありますが、
長島一向一揆の終結】>>
【越前一向一揆の終結】>>
当然、本家本元の石山本願寺を何とかせねばならないわけで・・・

そんな中、上記の越前一向一揆を制しついでに加賀(かが=石川県)をも配下に治めたうえに、安土築城でルンルン気分の信長に迫るように、天正四年(1576年)3月、越中(えちゅう=富山県)に侵攻して来た上杉謙信(うえすぎけんしん)(3月17日参照>>) ・・・

その2ヶ月後の5月には、信長VS顕如の直接対決=石山合戦の中でも屈指の激戦である天王寺合戦(5月3日参照>>)が起こったばかりか、その半月後には、長年対立していた本願寺と謙信が、敵の敵は味方とばかりに和睦・・・(5月18日参照>>)

しかも、7月には第一次木津川口の海戦(7月13日参照>>)で本願寺に悩まされ、8月には謙信が飛騨制圧(8月4日参照>>)で信長のヤバさは倍増します。

そこで信長、石山本願寺を直接潰す事より先に、かの天王寺合戦で、かなり目立つ加勢をしていた雑賀(さいが・さいか)を潰す事にします。

この雑賀衆というのは、紀州(きしゅう=和歌山県)紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団の事・・・このあたりは、もはや名ばかりとなった守護=畠山氏をしり目に、高野山(こうやさん=金剛峯寺を中心とした宗教都市・和歌山県伊都郡高野町)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)といった宗教勢力や彼らのような土着民が、それぞれに自治をする状況となっていたのですが、

そんな中で、雑賀衆と呼ばれる人たちは、現在の和歌山市から海南市あたりを支配していたものの、そこは、農業に適した土地もある一方で適さない地域もあって、その土地争いが激しかったり、農業に頼らず、その経済基盤を交易に求める者もいたり・・・

で、自然と利益を守るための武装も強化されるし、交易するならするで、和歌山という土地柄、船で海路を行くのが手っ取り早いし、各地を移動すれば、当然、最新のハヤリ物にも敏感になるわけで・・・結果お抱えの水軍も保持し、大量の鉄砲も保有し、その操作に熟練した者も、雑賀衆には数多くいたわけで、その戦闘力もハンパない。

そんな彼らが、石山本願寺側に付いて、あの天王寺合戦で・・・となったわけです。

おそらく信長は、この天王寺合戦のあたりから、「本願寺より、まずは雑賀を…」と考え始めたようで・・・というのも、雑賀衆と一口に言っても、決して一枚岩ではなく、彼らは、それぞれの利害関係によって別々に動く集団でもあったわけで・・・

たとえば、雑賀衆の支配圏は、大まかに分けて雑賀庄(さいかのしょう)十ヶ郷(じっかごう)宮郷(みやごう)中郷(なかつごう)南郷(なんごう)という五つの(そう=地域の共同体)に分かれていたとされますが、宮豪・中郷・南郷と呼ばれる農業が盛んな三組は、はなから信長側についていたわけで、信長としては、そこに攻撃の余地があったという事でしょう。

しかも、ここに来て、紀伊の宗教勢力の一角である根来寺も信長の味方・・・と言っても、コチラは積極的な味方ではなく、「敵には回らない」「道案内くらいならするよ」という感じで話をつけていたようですが・・・

とにもかくにも、信長一代の戦史でもトップクラスの数の多さ=数万(あるいは15万とも)と言われる大軍となった織田軍は、天正五年(1577年)2月13日に京都を出発・・・

途中、悪天候により、少々ストップしたものの、17日には雑賀衆の前線拠点である貝塚(かいづか=大阪府貝塚市)に到着・・・ここを襲撃するはずでしたが、ここの守りの者たちが、いち早く退却したため、ここでは、逃げ遅れた若干名が討ち取られたものの、大きな交戦とはなりませんでした。

これについては、「どうやら、信長軍を雑賀支配圏の奥深くまで行かせようとの作戦で、前線はさっさと退却をさせたのでは?」と言われていますが・・・

Saigazeme
信長の雑賀攻め・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして、その5日後の天正五年(1577年)2月22日志立(しだち=大阪府泉南市信達)に到着した織田軍は、ここから、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していきます。

孝子峠(きょうしとうげ=大阪府泉南郡岬町と和歌山市の境)を越えて、紀ノ川の北岸の雑賀の支配地制圧を目指す浜手には、滝川一益(たきがわかずます)明智光秀(あけちみつひで)丹羽長秀(にわながひで)細川藤(ほそかわふじたか=幽斎)などの面々・・・

一方、風吹峠(かざふきとうげ=和歌山県岩出市)を越えて根来に入り、紀ノ川をを越えて小雑賀(こさいが)に迫ろうとする山方には、佐久間信盛(さくまのぶもり)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)荒木村重(あらきむらしげ)別所長治(べっしょながはる)堀秀政(ほりひでまさ)根来や雑賀の味方衆を加えた面々・・・内陸を進むには地の利が重要ですからね。

こうして2手に分かれたうちの浜手は、さらに、その軍を3手に分け、中央には細川&明智、2の手に信長の息子たち=信忠(のぶただ)信雄(のぶお・のぶかつ)信孝(のぶたか)を据え、残りはもう1手・・・とに分かれて、浜から山から谷からと、入り乱れて進み、この22日の内に淡輪(たんのわ=丹和)から孝子峠まで進み、そこを守る雑賀衆と一戦を交えました。

雑賀衆にとっては、この孝子峠は貝塚の次ぎに控える重要な守りポイントであったわけですが、上記の通り、信長の息子3人が皆、この浜手に属している事からみても、おそらく、コチラが織田軍の主力?・・・その動員数はすざまじく、ここをまたたく間に突破した浜手軍はそのままの勢いで峠を下り、中野城(なかのじょう=和歌山県和歌山市)を包囲します。

この中野城は、現在、その遺構が残っていないので、どれほどの規模だったのか?微妙な所もあるようですが、「砦」ではなく「城」と言う限りは、それなりの装備を整えていたはず・・・しかし、
やはり、この数の差は何ともし難かったのか?
信長自身が淡輪まで進んで来たからなのか?
はたまた織田側の懐柔工作が功を奏したのか?

いずれにしても、1週間後の2月28日、中野城は降伏し、開城となったのです。

さらに3月1日、細川&明智らに命じて、雑賀衆の主将格である鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)居城(位置関係から見ておそらく平井城)を包囲して猛攻撃を仕掛け、コチラも、即日落城してしまいました(落城の日付に関しては3月1日もしくは2日etc諸説あり)

一方、内陸を進んだ山方は・・・と、コチラの戦いぶりに関しては、今回の雑賀攻めが一応の決着を迎える3月15日の日付で、すでに書かせていただいていますので(2011年3月15日参照>>)…ただし、前半部分の雑賀攻めに至る経緯etcについて書いておりますので、その部分は内容がだだカブリであります事、ご了承くださいませm(_ _)m

ところで・・・
浜手の戦いぶりを見れば、突破→落城→落城と来て、なんだか織田軍の大勝利みたいに・・・
一方の山方の戦いぶりを見れば、雑賀側の様々なゲリラ的作戦に少々苦戦の織田軍・・・

てな感じに見受けられますが、実際のところは、よくわかっていません。

織田も雑賀も、双方ともに「俺とこが勝った」と言い、公家の日記もイロイロで、それぞれの覚書も微妙に違う・・・

結局のところは、「ゲリラ的にチョッカイを出す雑賀に対し、織田側は大軍で押し寄せて各地に放火して回る」的な戦いぶりで、最終的にはこう着状態に陥ったようで・・・

ハッキリしている事は、天正五年(1577年)3月15日付けで信長が発給した朱印状くらい?

ただし、これも・・・
「本当やったら成敗すべきだが、今回は赦免してやる」
的な?まるで、吉本新喜劇の池乃めだか兄やんバリの、
(散々ヤラれた末の)
「今日は、これくらいにしといたろかい!」
てな感じのハッタリに見えなくもない
わけで・・・

とは言え、この後、かの本願寺顕如が雑賀の本願寺門徒に対して
「中野の城兵が敵に同心した事は言語道断!」
と激おこの書状を出しているので、中野城が織田の手に落ちた事は事実なのでしょう。

『信長公記』では、疲労困憊した雑賀の一揆勢は、主要人物=7名の連名による誓(せいし=誓いの言葉)を信長の提出し、「今後、石山本願寺には協力しない」事、「信長に従う」事を約束したので赦免にした・・・てな事が書かれていますが、

この後すぐにゴタゴタがあるし、翌・天正六年(1578年)には、先の第一次木津川口の海戦での教訓を活かして、鉄鋼船を完成(9月30日参照>>)しつつあった信長に対抗すべく、顕如が雑賀へ、水軍の出陣要請の書状を何度も送ってるところから見ても、雑賀と本願寺の関係は切れていない感じですね。

やはり今回は、その勝敗はウヤムヤで、天正五年(1577年)3月15日に取りあえずの休戦をした・・・というところでしょうね。

その後いくつかの、史料の乏しいゴタゴタがあった後、天正八年(1580年)3月に本家本元の石山合戦が終結した後、雑賀の内紛もあり、徐々に時代は、群雄割拠から、一人の天下人による統一の時代へと流れて行き、雑賀衆も、その時代の波に呑まれていく事になります。

●関連ページ:
【織田信長の高野山攻め】>>
【重秀・重兼・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一】>>
【「鳥居忠政の仁義」…雑賀孫一とのイイ話】>>
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