2017年5月26日 (金)

永正の乱~越後守護・上杉定実VS守護代・長尾為景

永正十一年(1514年)5月26日、永正の乱と呼ばれる一連の戦いの中で長尾為景が攻めていた岩手城が落城し、城主の宇佐美房忠が討死にしました。

永正の乱とは、永正年間に関東・北陸地方で発生した一連の戦乱で管領家の内紛や古河公方の内紛なども含みますが、今回は「岩手城落城」の日付に合わせ、越後における永正の乱のお話させていただきます)

・・・・・・・・・・

ご存じ、越後(えちご=新潟県)の王者=上杉謙信(うえすぎけんしん)ですが、彼が登場する前の室町幕府政権下での越後は、鎌倉公方(かまくらくぼう=京都にいる将軍に代わって関東を治める足利尊氏の四男・基氏の家系)執事(しつじ=‘管領)の家柄である山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)につながる越後上杉家が代々守護(しゅご=現在の県知事)を務め、その配下としてサポートする守護代(しゅごだい)長尾家でした。

しかし、明応三年(1494年)に、当時の守護だった上杉房定(うえすぎふささだ)が亡くなり、息子の上杉房能(ふさよし)がその後を継いで方針転換した事から、両者の関係がギクシャクし始め、永正四年(1507年)8月、守護代だった長尾為景(ながおためかげ)が、房能の養子の上杉定実(さだざね)を味方に引き入れ、幕府に働きかけて新守護に定実を擁立し、武力で以って房能を追いだして自刃に追い込みました(8月7日参照>>)

この一件に怒り心頭なのが、房能の兄で当時は関東管領を務めていた上杉顕定(あきさだ)・・・その報復とばかりに、永正六年(1509年)に反為景派の勢力を結集して越後へ攻め入り、定実&為景らを越中(えっちゅう=富山県)へと敗走させて、自ら越後を統治します。

ところが、その翌年、曲がりなりにも幕府から守護として認められている定実の「越後奪回」を旗印に為景らは挙兵・・・味方になってくれた信濃衆(しなのしゅう=信濃の国人豪族)高梨政盛(たかなしまさもり)の活躍で長森原(ながもりはら=新潟県南魚沼市)の戦いに勝利し、負けた顕定は自刃に追い込まれました。

こうして、再び越後に戻った定実&為景には、しばらくの間は平穏な日々が続く事になるのですが・・・

お察しの通り・・・
守護の座にありながら、事実上は、国政のほとんどを為景が仕切る事に定実が、徐々に不満を募らせていく・・・当然ですが、越後の中でも皆が皆、為景に好感を持っているワケでは無いですし、守護である以上、その定実を純粋に盛り上げたいと思う者もいるわけで・・・

そんなこんなの永正十年(1513年)、為景は、定実派の宇佐美房忠(うさみふさただ=宇佐美定満の父とされる)らが、先の戦いでの活躍の影響で信濃衆の中で高梨が力を持つ事に懸念を感じていた島津貞忠(しまづさだただ)をはじめとする信濃衆の井上氏(いのうえし)栗田氏(くりたし)海野氏(うんのし)などの仲間を集めて挙兵の準備をしているとの噂を耳にします。

案の定、その年の8月に入ると、彼ら信濃衆は、関川口(せきがわぐち=新潟県妙高市付近)上田口(うえだぐち=新潟県南魚沼s市付近)に集結し、あからさまに侵攻する機会をうかがう様子・・・これを受けた為景は、長尾房長(ながおふさなが=上田長尾家)や、揚北衆(あがきたしゅう=越後北部の国人豪族)中条藤資(なかじょうふじすけ)などに声をかけて出陣を要請しました。

対する宇佐美房忠は、9月29日、揚北衆の一人である安田城(やすだじょう=新潟県阿賀野市)安田長秀(やすだながひで)を攻撃すべく新発田(しばた=新潟県新発田市)を進発します。

これを迎え撃つべく出発した為景方の長尾房景(ながおふさかげ=古志長尾氏)福王寺掃部助(ふくおうじかもんのすけ=友重?)らは、10月21日に沼河(ぬなかわ=新潟県糸魚川市)にて房忠軍と遭遇・・・合戦は房景らの勝利となりました。

一方、それらの遭遇戦と前後して、為景は、自ら兵を率いて房忠の小野城(おのじょう=新潟県上越市柿崎区)を取り囲みます。

しかし、この状況をチャンスと見た上杉定実・・・その為景の小野城攻撃中の留守を狙って、彼の居城である春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)奪い取ったのです。

一報を聞いて、慌てて春日山城に戻った為景は、すぐさまを城を取り囲み、アッ言う間に定実を生け捕りにして、自らの館に幽閉・・・10月28日には、再び小野城に出陣して房忠討伐に取りかかりますが、今度は定実派の信濃衆が房忠を援護すべく為景に対抗・・・

しばらくの間、一進一退の小競り合いが続きますが、翌・永正十一年(1514年)1月16日の上田庄(うえだしょう=新潟県南魚沼市)の戦いに、為景方の長尾房長らが勝利した事で、為景方に形勢が傾き、その年の5月からは兵を増強して、集中的に小野城へ攻撃を仕掛けました。

この集中攻撃に、耐え切れないと判断した房忠は小野城を捨て、守り堅い要害である近くの岩手城(いわてじょう=同・柿崎区)に移動しますが、もはや傾き始めた形勢を逆転する事ができず、永正十一年(1514年)5月26日岩手城は落城し、房忠以下、一族はことごとく討死ににして果てたと言います。

この勝利により、長きに渡った守護VS守護代の戦いは終了となり、以降は、守護=定実は存在するものの、完全無視!
為景が越後の国政の実権を握って采配を振る事になります。

Etigoeisyounorankankeizu
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
(この図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ただ・・・一説には、
岩手城落城の際に、一族の中で房忠の息子ただ一人だけが、片倉壱岐守(かたくらいきのかみ)なる人物に守られながら、伊達稙宗(だてたねむね=独眼竜政宗の曽祖父)を頼って羽前(うぜん=山形県)へ逃れたとの情報も・・・

ご存じの方も多かろうと思いますが、この稙宗さん・・・伊達家を奥州随一に引き上げる名将でありますが、一方で、息子=晴宗(はるむね)との壮大な父子ゲンカ=天文の乱(洞の乱)をやった人でもあります(4月14日参照>>)

実は、そのケンカの原因の一つには、後継ぎ息子のいなかった上杉定実のもとに、自らの三男=伊達実元(さねもと=つまりは晴宗の弟)を養子に出そうとしていた稙宗の計画を、息子の晴宗が猛反対したという事もあったようで・・・

なんか、
   定実
房忠 △ 稙宗

みたいな三者関係が見えて来るような来ないような・・・

結局、この養子縁組は実現せず、定実は後継ぎがいないまま天文十九年(1550年)に病死・・・越後守護家が断絶した事を受けて、時の将軍=足利義輝(あしかがよしてる)の命によって、ここで正式に越後守護職を代行する事になったのが、為景の息子=長尾景虎(ながおかげとら)・・・後の上杉謙信なのですよ。

やはり、コチラも・・・
今後の上杉と伊達の関係が見えて来るような、来ないような・・歴史っていろんな所でつながってるんですね~
と、しみじみo(*^▽^*)o
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2017年5月19日 (金)

謀将と呼ばれた真田の祖~真田幸隆(幸綱)

天正二年(1574年)5月19日、信濃(しなの=長野県)の豪族=真田の祖として知られる真田幸隆がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)・・・
ご存じ!昨年の大河の主役=真田信繁(のぶしげ=幸村)お祖父ちゃんであり、草刈さんの好演が光る真田昌幸(まさゆき)お父ちゃんです。

とは言え、上記の通り、名前も複数あり、生まれた年もだいたいで、果ては、その父親すら決定打がないという謎の人・・・まぁ、あの北条早雲(ほうじょうそううん)しかり、美濃(みの=岐阜県)マムシのおっちゃんしかり・・・戦国に入ってから力をつけた武家の初代っちゅーのは、往々にして謎多き感じなのかも知れませんが・・・

とにもかくにも、
第56代・清和天皇(せいわてんのう)(12月4日参照>>)の第4皇子である貞保親王(さだやすしんのう)の末裔とされる信濃の古い豪族=滋野(しげの)の嫡流で、小県(ちいさがた=長野県東御市)を支配していた海野(うんの)海野棟綱(うんのむねつな)長男もしくは次男、もしくは、もしくは娘婿とされる人物が幸隆・・・なので、海野棟綱につながる人物である事は確かでしょう。

そんな彼が、小県郡の真田庄(さなだしょう)に土着した事から、真田姓を名乗り始めたというのが、一般的で、故に、幸隆は真田の祖と称されます。
(注:娘婿説の場合は真田頼昌(さなだよりまさ)という人物が幸隆の父とされるので、この方が祖という事になりますが…)

Sanadayukitaka300a てな事で、前半生がほぼほぼ謎な幸隆さんですが、そんな謎だらけになってしまう原因の一つと思えるのが、真田が、主家である海野氏もろとも事実上の滅亡に追い込まれた一件・・・

それは、幸隆が、おそらくは20代後半で、未だ弱小の土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の侍)ではあるものの、周辺の領地に点在する海野一族の援護を受けつつ、領国経営に励んでいた物と思われる天文十年(1541年)の事・・・。

そこに、「領地拡大!」とばかりに侵攻して来たのが、大永元年(1521年)の飯田原の戦い(10月16日参照>>)に勝利して甲斐(かい=山梨県)一国を手中に治めた武田信虎(たけだのぶとら)です。

天文四年(1535年)、諏訪(すわ)氏と和睦した信虎は、佐久郡(さくぐん=長野県佐久市・北佐久郡・南佐久郡)へと侵出して海ノ口城(うんのくちじょう=長野県南佐久郡南牧村)を奪取(12月28日参照>>)・・・このために、佐久郡の大部分が武田に降る事となったのですが、真田含む海野一族は未だ抵抗を続けます。

そんな中、これまで敵対していた葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)村上義清(むらかみよしきよ)と和睦した信虎は、その義清と、上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)諏訪頼重(すわよりしげ)との3者連合軍で以って、海野城(うんのじょう=東御市本海野白鳥台)海野棟綱を攻めたのです。

天文十年(1541年)5月14日、最も激戦となった海野平(うんのたいら)の戦いで敗北し、息子の海野幸義(ゆきよし)を失った棟綱は、やむなく逃走・・・関東管領上杉憲政(うえすぎのりまさ)を頼って上野(こうずけ=群馬県)へと亡命したのです。

もちろん、この戦いに、ともに参戦していたとおぼしき幸隆も、一族と同じく、箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)長野業正(ながのなりまさ)を頼って亡命しています。

つまり、ここで事実上、真田は滅亡し、浪人の身となった幸隆・・・一説には、すべてを失い、身一つになったこの時に「残すは三途の川を渡るだけ(渡し賃が六文)「いつでも死ぬ覚悟はできている」という意味で、あの『六連銭(ろくれんせん=一文銭が6つ)』の旗印にしたのだとか・・・
(もともと海野氏の旗印だった説もありますが…(*´v゚*)ゞ)

って事は海野&真田にとってはにっくき武田・・・当然の事ながら、海野&真田は、亡命生活を送りつつも、かの憲政の上杉の威光を頼りに旧領の回復を模索するのですが、この後、幸隆だけは、一族と別行動をとる事になるのです。

実は、この海野平の戦いに勝利した直後、信虎は、その慰労も兼ねて、娘婿(長女=定恵院の結婚相手)であった駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)のもとへ立ち寄るのですが、その間に、先に甲斐に帰国していた息子=晴信(はるのぶ)クーデターを決行し、父=信虎を追放して新政権を樹立したのです(6月14日参照>>)・・・ご存じ、後の武田信玄(たけだしんげん)ですね。

こうして、武田を継いだ・・・いや、父から奪った信玄(当時はまだ晴信ですが信玄と呼ばせていただきます)は、父とは真逆の方針を打ち立て、諏訪とも村上とも同盟を破棄・・・翌・天文十一年(1542年)には諏訪への侵攻を開始(6月24日参照>>)、当然、その後は村上義清とも敵対する(2月14日参照>>)事に・・・

敵の敵は味方・・・
そう、この時、幸隆にとっての1番の重要事項は、自らの領地=真田庄を取り戻す事です。

それを取り戻すためには・・・
先の戦いの後に、この真田庄を占領した村上義清と相対し、今や彼の敵となった信玄に与(くみ)するのが、旧領回復への最短の道!

恨みツラみを捨て、最も合理的な道を瞬時にして判断した幸隆・・・その先見の明は、なかなか大したものですね。

こうして、未だ上杉を頼る一族と離れて上野を脱出した幸隆は、武田への臣従を申し出るのです。

一説には、この時、信玄に幸隆を紹介したのは、名軍師として知られる、あの山本勘助(やまもとかんすけ)(2010年9月10日参照>>)だったとか・・・もちろん、信玄にとっても、ここらあたり=信濃東部の地の利を熟知している幸隆の存在は頼もしい限りですし、幸隆も、そこが自身のアピールポイントだったわけです。

以後、松尾城(まつおじょう=真田本城=長野県小県郡真田町)を本拠とし、武田軍の小県侵攻の先鋒として各地を転戦する幸隆は、信玄が攻めきれなかった戸石城(といしじょう:砥石城=長野県上田市上野)(9月9日参照>>)を、謀略によってアッサリ奪ったり、葛尾城の攻略(4月22日参照>>)にも一役かったり・・・

もちろん、その葛尾城奪取キッカケで越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と信玄が直接対決する事になる永禄四年(1561年)の川中島(9月10日参照>>)でも、嫡男=信綱(のぶつな)らとともに、あの啄木鳥(きつつき)戦法の別働隊として信玄をサポートしました。

永禄六年(1563年)の岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)攻略では、城中に「忍び」を放ち、敵方になっていた海野輝幸(てるゆき)らの内応を誘って、これを奪ったと言います。

さらに永禄九年(1566年)には、亡命でお世話になった箕輪城の長野さん(9月30日参照>>)にまでちゅうちょなく・・・

故に、幸隆は、「猛将」というよりは、『謀略の士』あるいは『謀将』などと呼ばれますが、それは、敵に回せばコワイものの、味方なら、これほど心強い味方はいないわけで・・・

そんなこんなの数々の功績により「信玄の懐刀(ふところがたな)とまで称され、外様でありながら、譜代の家臣と同等の待遇を受けて、武田二十四将(たけだにじゅうよんしょう)の一人にも数えられた幸隆でしたが、いつしか病気がちになり、永禄十年(1567年)頃には隠居して、家督を嫡男の信綱に譲っていたとされます。

なので、義元亡き後の駿河への侵攻(12月13日参照>>)や、三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に代表される一連の「信玄上洛かも?」の戦いには、幸隆は参戦していません。

しかし、ご存じのように、この西上の途中で信玄は命を落とし(1月11日参照>>)、武田の行軍はストップ・・・軍団は、そのまま甲斐へと戻るわけで・・・

その信玄の死から約1年後の天正二年(1574年)5月19日幸隆は戸石城にて病死します。

ところで・・・
死の1週間前の5月12日には、亡き信玄の後を継いだ武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)が、信玄も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落城させています(5月12日参照>>)が、幸隆は、このニュースを聞いたのでしょうか?

先見の明があり、謀略に長けた幸隆が、もし、この一報を聞いていたとしたら、そこに感じた物は、
武田の「頼もしい未来」だったのか?
はたまた「危うき予兆」だったのか?

はたして、この、ちょうど1年後に勃発する長篠の戦い(5月12日参照>>)で、勝頼に従っていた嫡男の信綱、そして次男の昌輝(まさてる)もが討死にしてしまい、真田家は三男の昌幸が継ぐ事に・・・

しかし、ご存じのように、その後、武田は滅んでも(3月11日参照>>)真田は滅びませんでした。

それは、かつて、浪人からのし上がって『謀略の士』『謀将』と呼ばれた父=幸隆から、息子=昌幸が受け継いだ、ただ一つのゆるぎない目標=家を存続させるため智略をフル活用したなればこそ・・・

武田の滅亡から本能寺のゴタゴタにかけて、アッチに行ったりコッチに来たりして、豊臣の奉行たちから「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの=心中が読めないクセ者)と称される事になる昌幸の真意測りかねる動向の数々は、周囲に何と言われようとも、そのただ一つのゆるぎない目標を実現させるための戦術だったわけです(6月4日参照>>)

そして・・・そのただ一つのゆるぎない目標が、幸隆の孫たちである信之(のぶゆき=信幸)&信繁兄弟に受け継がれていく事は、皆さまご存じの通りでおます。
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2017年5月12日 (金)

信玄を越えた?武田勝頼が高天神城を奪取

天正二年(1574年)5月12日、武田勝頼が徳川方の小笠原信興が守る遠江高天神城を包囲し、世に言う「高天神城の戦い」が始まりました。

・・・・・・・

とは言うものの、本邦戦国史上、「高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)と呼ばれる戦いは3度あります。

1度目は元亀二年(1571年)3月から・・・

もともとは、あの源平合戦の頃から、砦のような物が構築されていたらしい高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)ですが、清和源氏の流れを汲む今川氏(いまがわし)が、南北朝時代に駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)守護(しゅご=現在の県知事)になった事から、その配下の福島氏(ふくしまし)城代を務めていましたが、天文五年(1536年)の、あの花倉の乱(6月10日参照>>)で、勝利した今川義元(いまがわよしもと)が今川家の当主となり、逆に福島氏が没落した事で、その後は、やはり今川配下の国衆であった小笠原氏(おがさわらし)が城代として治めていました。

しかし永禄三年(1560年)に、あの桶狭間(おけはざま)で義元が倒れ(5月19日参照>>)、その後を継いだ今川氏真(うじざね)の代になって今川に陰りが見え始めると、時の城主であった小笠原信興(おがさわらのぶおき=長忠とも)は、このタイミングで遠江に侵攻してきていた三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)の傘下へと、ちゃっちゃと鞍替えします。

ところが、ご存じのように、これらの今川の旧領地を狙っているのは家康だけではありません。

そう、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)という大物が・・・

一説には、義元亡き後の今川の領地のうち、駿河を信玄が、遠江を家康が切り取る話し合いが、あの織田信長(おだのぶなが)の仲介で成っていたとも言われる両者の関係ですが、永禄十一年(1568年)に家康が、掛川城攻防戦(12月27日参照>>)にて氏真を攻めて、戦国大名としての今川氏を事実上滅亡させると、今度は、その家康と信玄の直接対決で、お互いの取り分を決める争いと化して来るわけで・・・

とにもかくにも、北条氏とのゴタゴタ(【蒲原城の攻防】参照>>)にも忙しい元亀二年(1571年)3月、信玄は、家臣の内藤昌豊(ないとうまさとよ)に約2万の軍勢をつけ、この高天神城を攻めさせたのです。

この内藤昌豊は武田四天王の一人に数えられる猛将・・・しかも、守る城兵は、わずかに2000。

しかし、この高天神城・・・構築された山の高さ自体はさほど高く無いものの、山の斜面が急な、天然の要害に築かれているうえ、これまた、その要害効果を最大限に活かすナイスな場所にナイスな城郭を配置してある堅固な城で、さすがの大軍を率いても、容易に落とせるものではなく、結局、信玄は、自身の生涯で、この高天神城を落とす事ができないまま、元亀四年(1573年)4月12日、直前の野田城での戦い(1月11日参照>>)を最後に、この世を去ってしまうのです。

Takedakatuyori600a その信玄亡き後の武田を継いだのが、信玄の四男=武田勝頼(たけだかつより)です。

とは言え、ご存じのように、この勝頼は、本来は武田家を継ぐべき息子ではなく、母方の諏訪(すわ・長野県中部)地方を治めるべく育てられた人で、その名も、武田家の通字(とおりじ=その家系で代々に渡って名前に用いられる字)である「信」ではなく、諏訪家に用いられる「頼」の字が当てられ、いち時は諏訪勝頼(すわかつより)と名乗ってたくらい、それは周知の事でした。

よって、巡り巡って家督を継ぐ事になった時点でも、父の代からの重臣たちからは賛否両輪飛び交うばかりか、信玄の残した遺言もが、いかにも勝頼が中継ぎ投手と言わんばかりの内容だった(4月16日参照>>)ために、おそらく勝頼には、当主になった途端から、かなりの重荷を背負わされてる感があったと思われます。

しかし・・・
一般的には、カリスマ的な信玄から受け継いだ武田家を滅亡に導いてしまう事で、なにかと愚将扱いされる勝頼さんですが、実は、戦国最強の猛者だったとも言われ、それこそ、信玄も、そこを見込んでの後継者指名だったでしょうし、勝頼自身も、父に負けてはいない自分を見せたい願望もあった事でしょう。

そう、勝頼は、信玄の死後、ほとんど期間を置かず、父の遺志を引き継ぐかのように、領地拡大に乗り出すのです。

攻めて攻めて攻め抜いて、父の代よりも広大な領地を得て、武田家の強さを見せる・・・これこそが、カリスマ父を越える最短の手段であり、おそらく勝頼は、それが可能な猛将だったはずです。

そんなさ中、信玄の死からわずか2ヶ月後に、武田の傘下だった亀山城(かめやまじょう=愛知県新城市)奥平定能(おくだいらさだよし)信昌(のぶまさ)父子が徳川へと・・・一説には、「信玄死す」の機密情報を手土産しての寝返りだったとも・・・

遺言で「3年は隠せ」と言われた信玄の死ではありますが、そんなこんなで、おそらくは、すでに周囲の諸将に伝わった以上、隣国の家康だけでなく、彼と同盟を結ぶ信長やら、あの人やらこの人やら、戦国の猛者たちが動き出す事は必至なわけで、ヤラねばヤラれる戦国時代・・・まして、2年前の三方ヶ原(12月27日参照>>)で、父がコテンパンにやっちゃってるわけですから、受け継いだ勝頼も、ここで手を緩めるわけにはいきません。

かくして天正二年(1574年)、2月5日に美濃(みの=岐阜県)明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市)を陥落させた(2月5日参照>>)勝頼は、3ヶ月後の5月3日、2万余の大軍を率いて本拠の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・5月12日には、その大軍で、高天神城を包囲したのです。

これが2度目(第2次)高天神城の戦い

迎える信興は、わずかに1000・・・なので、当然の事ながら、包囲と同時に、家康へ救援要請を飛ばします。

一方、父の苦戦を知っている勝頼は、大軍で力攻めをするかたわら、おそらくは容易に落ちない事を踏まえて、家臣の穴山梅雪(あなやまばいせつ)に命じて、話し合いによる説得工作も展開しました。

救援が来るまで時間を稼ぎたい信興は、開城に応じるように見せかけながら、のらりくらりのかわし作戦。

しかし、救援を受けた家康も、「武田が2万以上の大軍」と聞き、さすがにこの時点での徳川には、そこまでの兵力は無かったため、即座に信長へ連絡を入れ、救援の救援を要請します。

その知らせが岐阜(ぎふ)の信長のもとに届いたのは6月4日・・・信長にとっては、この年の正月からややこしい事になっていた越前(えちぜん=福井県)一向一揆(1月20日参照>>)の動向が気になるところではありますが、ソチラは羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)丹羽長秀(にわながひで)らに任せ、自らは6月14日に岐阜を進発し、東へと向かいます。

しかし、当然の事ながら、この間にも勝頼の攻撃&説得工作は継続していたわけで・・・

『真田文書』(信濃史料)によると・・・
武田軍は、すでに5月28日には二&三の曲輪(くるわ=土塁・石垣・堀などで区画された城内の場所)を突破し本曲輪まで到達しており、もはや落城も時間の問題のように見えたのだとか・・・ただ、さすがに堅固をうたわれた城で、そこからなかなか先に進めなかったようですが、

しかし、わずかながらのこう着状態であっても、先の見えない戦時下では不安がつのるもの・・・

攻める勝頼にとっては、今日明日にも援軍が到着するかも知れないので、すばやく決着をつけたい・・・

一方、守る信興にとっては、その勝頼の気持ちがわかるぶん引き延ばしたいけど、いつ来るかわからない援軍を、どんどん窮地になる城内で、ずっと待っていられるのだろうか?という不安・・・

その間にも継続される攻撃と説得・・・やがて6月17日、何度目かの説得交渉で、勝頼から、駿河に1万貫の所領の約束を取り付けた信興は、城を開け渡す事にしたのです。

『横須賀根元記』によれば、
この時、開城を決意した信興は、城兵たちに対し
「この城は開け渡す=自分は武田につくけど、君らは、僕といっしょに武田に行くか、徳川につくかは自由にしてええからな」
と言ったのだとか・・・で、この時、信興とともに武田に降った者を「東退組」、徳川に行った者を「西退組」と呼ぶのだそうです。

ところで、高天神城が開城された17日・・・信長軍は、三河領の吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)に到着していましたが、その開城の一報が届いたのは2日後の19日、今切渡(いまぎれのわたし=静岡県湖西市:浜名湖南部の渡し船発着場)越えようとしていた時でした。

「もはや落城してしまったものはどうしようもない」
とばかりに、信長は、そのまま、吉田城へと引き返したとの事・・・

こうして、偉大なる父=信玄も落とせなかった高天神城を陥落させた勝頼・・・その喜びもひとしおだった事でしょう。

勝頼は、この時の一連の侵攻で、支城を含めて18もの城を落とし、遠江の東半分を制圧・・・まさに破竹の勢いで領地拡大を成し遂げていったわけですが、

そう・・・
このイケイケムードにストップがかかるのは1年後・・・有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いです。

それはもちろん、あの時、徳川に寝返った奥平父子・・・・彼らを、そのままにしておくわけにはいきませんから、当時、彼らが任されていた長篠城を攻めに・・・
勝頼軍が長篠城を囲んだのが4月21日>>
そして設楽ヶ原の決戦が5月21日>>

さらに、皆様ご承知の通り、この長篠で敗れてから7年後に武田は滅亡する事になるのですが、その滅亡に向かう一連の戦いの始まりとも言えるのが、今回の高天神城・・・

皮肉にも、今回、武田に落ちた高天神城を、家康が奪い返す3度目(第3次)高天神城の戦いが、武田滅亡へのカウンドダウンの始まりとなるわけで・・・それは天正九年(1581年)3月22日の事でした。

武田滅亡の関連ページもどうぞm(_ _)m
第3次高天神城の戦い>>
信長が甲州征伐を開始>>
田中城が開城>>
穴山梅雪が寝返る>>
高遠城が陥落>>
武田勝頼、天目山の最期>>
勝頼とともに死んだ妻=北条夫人桂林院>>

で・・・
ご存じのように、この3ヶ月後に本能寺の変があるので、もう、信長さんのエピソードが目白押し・・・さらにくわしくは【織田信長の年表】>>から、気になるページへどうぞm(_ _)m
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2017年5月 5日 (金)

室町幕府管領職・争奪戦~等持院表の戦い

永正十七年(1520年)5月5日、細川高国三好之長を破った等持院表(とうじいんおもて)の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

室町幕府将軍を補佐する立場にある管領(かんれい)が、現将軍=第10代足利義稙(あしかがよしたね:義材・義尹)を廃して、自らの意のままになる将軍=第11代足利義澄(よしずみ)を擁立するというクーデター=明応の政変(めいおうのせいへん)をやってのけた細川政元(ほそかわまさもと)が永正四年(1507年)6月に暗殺され(6月23日参照>>)、その3人の息子=全員養子の間で勃発した後継者争い・・・

関白・九条政基(まさもと)の子=澄之(すみゆき)
阿波(あわ=徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)
備中(びっちゅう=岡山県)細川家の高国(たかくに)

Hosokawasumimoto400a はじめは、お互いに協力して、澄之の追い落としを謀った澄元と高国でしたが、予想通り、澄之亡き後に対立・・・

やがて周防(山口県)の大物=大内義興(よしおき)を味方につけた高国は、亡き政元に追放されていた前将軍の義稙を奉じて京へと上り、永正八年(1511年)8月の船岡山の戦いで勝利・・・一方の澄元は摂津(せっつ=大阪府)へ敗走後、地元の阿波へと逃亡しました(8月24日参照>>)

Hosokawatakakuni600a 勝利した高国と義興は、義稙を将軍職に復帰させて政権を掌握・・・こうして、しばらくの間は、この高国政権下で平穏な日々が続きます。

・・・が、
そう、実は、このしばしの平穏は、高国政権確立のために、しばらくの間京都に滞在していた大内義興のおかげだったようで・・・

案の定、義興が領国の周防に戻った永世十五年(1518年)頃から、澄元の動きが活発になって来ます。

翌・永世十六年(1519年)11月、それまで阿波に引っこんでいた澄元は、阿波細川家に仕える家臣=三好之長(みよしゆきなが)とともに兵を挙げ、海を渡って兵庫へ上陸し、高国配下であった越水城(こしみずじょう=兵庫県西宮市)瓦林政頼(かわらばやしまさより=正頼)を攻めたてます。

これを受けた高国は、その救援のために約5000の兵を従えて向かいますが、その力足りず・・・翌・永正十七年(1520年)の2月3日に越水城が落城してしまったため、やむなく京都へと退こうとします。

が、夜陰に紛れて後退する高国軍を、澄元に同調する国衆=西岡衆(にしのおかしゅう=京都・乙訓地域の自治を担った武士集団)が襲撃・・・動揺した高国は、さらなる襲撃を恐れて近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=大津市)へと逃れます。

この時、将軍=義稙にも、「ともに近江へ…」と声をかけたものの、義稙は、それを拒否・・・残念ながら、義稙の心は、すでに高国から離れ、澄元へと移りつつあったのです。

やむなく、将軍を奉じる事なく近江に向かった高国は、近江守護六角定頼(ろっかくさだより)を頼ります(この時の六角氏は定頼の父=六角高頼が主導の説もあり)

一方、勝利した澄元・・・自身は、その本拠を伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)に置き、3月には、之長率いる三好勢が京都へと入りました。

ここで、一時的に政権を握った形になった澄元側・・・しかし、さすが、近江に逃れたと言えど政権保持者の高国は、この間に、頼った六角氏だけではなく、越前(えちぜん=福井県)美濃(みの=岐阜県)丹波(たんば=兵庫県北東部・京都府中央部)などの有力武将に声をかけ、彼らの援軍を得ていたのです。

こうして、合計=4万とも5万とも言われる大軍となった高国軍・・・5月3日、まずは定頼が、弟の大原高保(おおはらたかやす)を陣代に据えた一軍を、琵琶湖西岸の山越えで京都に入らせ、鴨川東岸の吉田河原(よしだかわら)に布陣させます。

続いて約7000の丹波の援軍が船岡山(ふなおかやま=京都市北区)に到着・・・2日後の5日には、高国自ら率いる本隊が鴨川を渡って上京へと入り相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)付近に到着しました。

こうして、等持院(とうじいん=京都市北区)に待機していた三好軍を北と東から挟む形に・・・

Touziinomotekankeizu
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永正十七年(1520年)5月5日正午頃、政権争奪を賭けた市街戦が等持院の東南で展開される事と相成ります。

士気衰える事無くヤル気満々で決戦に挑んだ三好軍ではありましたが、伝えられるその数は、わずかに4~5000であったと言われ、さすがに4~5万の軍勢に囲まれては太刀打ちできず・・・奮戦も空しく、夕刻には勝敗が決しました。

この敗戦を受けて、之長は逃亡を図りますが、逃げきれずに捕縛され、6日後の5月11日に百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ=京都市左京区)にて切腹・・・同じく捕縛された之長の息子=芥川長光(あくたがわながみつ)三好長則(みよしながのり)兄弟も、父の後を追うようにして切腹して果てました。

知らせを聞いた澄元は、伊丹城を出て播磨(はりま=兵庫県南西部)に向かい、赤松氏の支援を受けて阿波へと逃亡しますが、約1ヶ月後の6月10日、その阿波にて志半ばのまま、32歳の若さで病死してしまいました。

一方、あの時、高国が「ともに近江へ…」と誘ったにも関わらず、行動をともにしなかった将軍=義稙・・・当然ですが、この時に険悪なムードになった二人の関係も修復される事はありませんでした。

その後も、京都を離れて、高国の討伐を画策する義稙ですが、もはや従う家臣もほとんどおらず、淡路島に滞在した後、讃岐(さぬき=香川県)細川家を頼って四国へやって来ますが、わずか3年後の大永三年(1523年)4月、彼もまた阿波国の撫養(むや=徳島鳴門市)にて病死するのです。

この間に高国は、先の第11代将軍=足利義澄の息子である足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立し、あの西岡衆をも攻撃し、確固たる高国政権を樹立するわけですが・・・

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等持院…くわしい場所は、本家HP=京都ぶらり歴史散歩「きぬかけの道」のページでどうぞ>>

細川澄元に三好之長・・・さらに、対立した将軍まで亡くなって、まさにわが世の春となった高国ですが、そんな彼の前に登場するのは、無念の死を遂げた澄元の息子=細川晴元(はるもと)と、之長の孫(息子説もあり)=三好元長(みよしもとなが=長慶の父)・・・

この後、世代交代した澄元勢が、高国打倒に向けて動き始めるのは、今回の等持院表から6年後の大永六年(1526年)10月・・・

そのお話は、
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>で、ご覧あれ!

とにもかくにも、彼らの京都争奪戦が、後の三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)(5月9日参照>>)からの織田信長(おだのぶなが)の畿内掌握(9月29日参照>>)・・・と、皆さまご存じの戦国絵図へとつながっていくわけです。
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2017年4月28日 (金)

大坂夏の陣~樫井の戦いに連動した紀州一揆

慶長二十年=元和元年(1615年)4月28日、大坂夏の陣に連動した紀州一揆による和歌山城襲撃計画が発覚しました。

・・・・・・・・・・

この戦いの結果も、そして、この後の徳川家の繁栄をも知っている私たちには、どうしても、豊臣方が無謀な負け戦に挑んだ感が拭えない大坂の陣・・・

特に、大坂冬の陣の講和の後、堀を埋められて裸城になってもなお、勃発した夏の陣での豊臣大坂方の皆々様は、小説や時代劇なんかでも、プライド満載の意地っ張り上層部に、死に場所を探してるかような浪人衆・・・といった雰囲気で描かれる事が多いですが、

これまでも、何度かお話させていただいております通り、私個人的には、大坂城内も、そして撃って出た武将たちも、皆、最後の最後まで、「勝つため」に奔走していたと考えております。

その「大坂方勝利への構想」の一翼を担っていたのが、今回の紀州一揆(日高・名草一揆)・・・以前、冬の陣に連動して勃発した熊野・北山一揆(12月12日参照>>)について書かせていただきましたが、まさに、それと同様に夏の陣に連動した一揆なのです。

冬の陣の北山一揆の時には、和歌山県の東西牟婁郡(むろぐん)新宮市(しんぐうし)田辺市(たなべし)三重県の一部を含む熊野(くまの)地域の民衆と奈良県吉野郡上北山村下北山村など現在の和歌山県の中央部から南の地域の民衆が中心でしたが、今回の紀州一揆は日高郡(ひだかぐん)名草郡(なぐさぐん)など、和歌山県西部の地域の民衆が中心・・・

おそらくは、先の北山一揆にて、熊野や北山の民衆は、かなりの痛手を受けていて、「一斉に蜂起」とはいかなかったものと思われますが、それでも、紀州には昔ながらの「民衆強し」の威勢があり、今回は西部地域を中心に、大坂方の実質的な指導者であった大野治長(おおのはるなが)工作に応えるように、様々な動きをしていたようです。

以前も書かせていただいたように、なんせ、この地域は、長きに渡って地元の豪族や国人領主が群雄割拠していて(11月4日参照>>)、あの織田信長(おだのぶなが)も散々に手を焼いた場所・・・豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)でやっとこさ中央の傘下になるも、太閤検地(たいこうけんち)(7月8日参照>>)などに反発して度々一揆を起こしたりなんぞ・・・

て事は、紀州の人たちは「豊臣家憎し」なのでは?
と思いきや、その秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでの東軍勝利の功績により、この地を与えられた浅野幸長(あさのよしなが)が石高をあげるため、未だ屈していなかった地侍の土地をはく奪したり、豊臣時代よりさらに厳しい年貢を徴収した事で、

この地を追われた浪人の多くが、大坂の陣勃発直後から大坂城に入っていたらしい事や、彼ら浪人衆を通じて好条件の恩賞の提示もあった事から、結局、現時点での政権=徳川方である浅野家に対抗する形で、紀州の民衆たちの多くが大坂方として参戦したようです。

日高郡では、
かつて日高の湯河氏の家老であったとも、湊城(みなとじょう=和歌山市久保丁)の城主であったとも、はたまた鈴木氏であったとも言われる上野村(御坊市名田町)湊惣左衛門(みなとそうざえもん)なる人物が、
「大坂方に味方すれば所領は望み次第に与える」
という内容の朱印状を持って各地を回り高家村(たいえむら=日高郡日高町)志賀村(しがむら=同日高町)などを取りこむ一方で、

名草郡では、山口村(やまぐちむら=和歌山市)の代官=山口喜内(やまぐちきない=易井喜内)の一族や、園部村(そのべむら=和歌山市)園部兵衛井口村(いのくちむら=同和歌山市)和佐半左衛門(わさはんざえもん)などが中心となって、そこに、かつて雑賀(さいが・さいか)を牛耳っていた土橋(どばし・つちはし)(5月2日参照>>)土橋平次(へいじ)も加わって一揆を扇動します。

この時、一揆を主導した彼らは、かつて…あるいは、今現在も浅野家に仕える侍たちでしたが、やはりこの時は、古き土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の侍)の精神を復活させ、より良き待遇へと夢を追ったのかも知れません。

一方の大坂城側では、主将格の大野治長からの指示を受けた家臣=北村善大夫大野弥五右衛門が工作に当たる中、大坂夏の陣を前にした4月、大和(やまと=奈良県)から紀州方面へと南下する使命を帯びた大野治房(はるふさ=治長の弟)を大将とする一軍が編成されます。

この時、進軍の案内役を務めたのが、先の山口村の山口喜内の息子たち=山口兵内 (へいない)兵吉兄弟など、すでに大坂城内に入っていた紀州浪人たちだったとか・・・

とにもかくにも、大坂方が、和歌山城(わかやまじょう=和歌山県和歌山市)を本拠とする浅野長晟(ながあきら=幸長の弟)を含む徳川勢を、南北で挟み撃ちにする作戦であった事は確かでしょう。

とは言え、この作戦がうまく機能しなかった事は、すでに皆様ご承知の通り・・・

その第一歩は、一揆内から出た密告者・・・

慶長二十年元和元年(1615年)4月28日
冬の陣の時の北山一揆の事もあり、領国における危険を感じつつも、徳川家康(とくがわいえやす)からの出陣要請に応えた長晟が和歌山城を出陣・・・しかし間もなく、浅野軍の先発隊が和泉佐野(いずみさの=大阪府泉佐野市)に差し掛かった時に、この紀州における一揆の計画が発覚します。

そう、先の北山一揆もそうですが、一揆が広範囲になるほど、そのまとまりにも綻びが出るもの・・・なんせ、地元民全員が浅野家に不満を持っているわけではなく、中には、浅野の政権下でウマくやっていた一般市民もいたわけですから

こうして、どこかの誰かの密告によって発覚した一揆の計画・・・一説には、「長晟が城を出たと同時に一揆勢が和歌山城を取り囲んで襲撃した」という話もあるようですが、実際には、もし衝突があったとしても小規模な小競り合い程度の物であったであろうと言われています。

なんせ、この計画発覚からわずかの間で、先手として和泉佐野に潜入していた北村善大夫と大野弥五右衛門が捕縛され、かの山口喜内のもとにも捜査が及んだらしく(喜内自身は、この時は逃亡して後に捕縛されたとされる)『駿府記』によれば、この初期の段階で、主要の約30数名がままたく間に捕縛されたようなので、結局は、計画のほとんどが未発のまま鎮圧されてしまったようです。

一方、大坂城側で編成され、紀州方面に向かった一軍は・・・
そう、この一軍の交戦が、翌4月29日の、あの樫井(かしい)の戦いなのです(【豊臣滅亡を決定づけた?樫井の戦い】参照>>)

ご存じのように、大坂方の有力武将のうちの一人=塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)が命を落とす(2010年4月29日参照>>)戦い・・・コチラの大坂城進発側も、指揮命令系統の乱れから、豊臣にとって手痛い敗北となってしまったのです。

日高では、その後も、首謀者の一人である高家村の西村孫四郎なる者らが、徒党を組んで暴れまわり、意に従わない者を斬り捨てながら、
「さぁ、仲間になれ!」
とばかりに村々に触れ回っていましたが、有田郡の広村(ひろむら=和歌山県有田郡広町)あたりまでやって来たところで浅野の討伐軍に出くわします。

それは、かの樫井の戦いの翌日=4月30日の事・・・樫井での戦いを終えた浅野長晟が、すぐさま和歌山城に戻って一揆討伐に取りかかっていたのです。

おそらくは、こんなに早く、一揆討伐軍がやって来るとは思っていなかったであろう一揆勢・・・いや、なんなら、樫井の戦いで疲弊しまくってる浅野軍を、追撃して来た大坂方の武将らとともにコテンパンにやっちゃうくらいのつもりでいたかも知れません。

しかし、上記の通り、樫井の戦いが徳川方の勝利となったために、大坂方からの援軍は期待できず・・・そうなれば、アチラ=戦いのプロを相手に、コチラ=寄せ集めの烏合の衆という構図になり、到底歯が立つワケもなく、日高郡と有田郡の境にある鹿ヶ瀬峠(ししがせとうげ)や、海部郡と有田郡の境にある蕪坂峠(かぶらざかとうげ)などで激突し、多くの大将分が討ち取られ、あるいは追っ払われ、準備不足感が拭えないままの一揆勢は、本家本元の大坂城落城の日=5月7日を待つことなく、ほぼ壊滅状態となってしまいました。

日高での首謀者の一人=湊惣左衛門ほか何名かは逃げ切れたものの、ほとんどの首謀者が梟首(きょうしゅ=さらし首)、あるいは火あぶりの刑に処せられました。

ちなみに、命助かった湊惣左衛門は、大坂の陣終結後、やはり紀州出身の大坂方として最後まで大坂城内にいたものの、落城の際に家康の孫娘=千姫(せんひめ)を連れて脱出した功績?(2月6日参照>>)によって罪を許されて知行を得たとされる堀内氏久(ほりうじひさ)のもとに身を寄せたと言われます。

乱後に浅野家がまとめた史料=『浅野家文書』によると、
日高郡:5ヵ村=252名、
有田郡:4ヵ村=48名、
名草郡:6ヵ村=114名、
那賀郡&伊都郡:1ヵ村=合わせて29名
合計すると
5郡17ヵ村、石高にして約7千石、人数=443名が処刑・・・

前年の熊野・北山一揆と合わせると49ヵ村、806名もの者が処分された事になります。

以後、江戸時代を通じて、小さな百姓一揆などは起こるものの、これまでのような大規模な一揆が、この紀州に起こることはありませんでした。

群雄割拠して暴れまわった中世の土豪たちから、その血と心意気を受け継ぎ、信長にも屈せず、秀吉にも抵抗し、度々やって来る中央政権の者たちを「中にも紀州は一揆所…」と恐れさせた紀州一揆は、これにて終焉を迎える事となったのです。

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

★大坂夏の陣、
紀州一揆の前後の流れ~関連ページ

慶長二十年=元和元年(1615年)
●4月26日:【大和郡山城の戦い
●4月28日:紀州一揆
●4月29日:【樫井の戦い】
●5月1日:大坂方が平野に出陣】
●5月6日:
 【道明寺誉田の戦い】
 【若江の戦い】
 【八尾の戦い】
●5月7日:落城
 【大坂城総攻撃】
 【天王寺口の戦い】
●5月8日:豊臣秀頼(ひでより)ら自刃
 【渡辺糺と母・正栄尼の最期】
 【大坂城落城&秀頼生存説】
●さらに詳しくは【大坂の陣の年表】>>でどうぞ)
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2017年4月20日 (木)

織田信長、清州城を乗っ取る!

弘治元年(1555年)4月20日、叔父=信光の協力を得た織田信長が清州城を乗っ取りました。

・・・・・・・・・

これまでも何度が書かせていただおておりますが、この尾張(おわり=愛知県西部)という地は、室町幕府の管領家である斯波(しば)が代々守護(知事)を務めていました。

とは言え、その役職の性質上、京都に滞在する事が多い守護・・・なので、その守護に代わって、居城の清州城(きよすじょう=愛知県清須市:清須城)にて普段の政務をこなしていたのが配下の守護代で、織田守護代家=清州織田家の当主が、代々その職務についていたわけですが、

そんな中、織田達勝(たつかつ)が守護代を務めていた時代に力をつけて来たのが、さらにその配下で清州三奉行と呼ばれていた人たち(1月17日前半部分参照>>)・・・その三奉行の中の織田弾正忠家(だんじょうのじょうけ)の当主が織田信定(おだのぶさだ=信長の祖父)で、
その息子が信秀(のぶひで)織田信長(おだのぶなが)のお父ちゃんです。

Odanobunaga400a で、その後、天文二十年(1551年)の父=信秀の死(3月3日参照>>)を受けて織田弾正忠家の家督を継いだのが信長というワケですが、

そんな中で、戦国も半ばになると、守護の斯波氏もすでに名ばかりの状態となっていて、当時守護職についていた斯波義統(しばよしむね)も、もはや傀儡(かいらい=あやつり人形)・・・逆に、守護代家をはじめとする配下の者が台頭しはじめ、結局は尾張一国も統一すらされていない群雄割拠の状態になっていたわけで、

もちろん、信長の織田家も、その祖父の代から流通の要衝を複数牛耳っていた事もあって、経済的には豊かで、徐々に力をつけて来ていたうちの一つでした。

てな事で、そうなると誰かが、「斯波氏に取って代わる下剋上をやってのけよう」と考えてしまうのも時間の問題・・・

そんな中、かつてはモメにモメていた隣国=美濃(みの=岐阜県)斎藤道三(さいとうどうさん)の娘を娶って(4月20日参照>>)北側の国境線の問題を治めた信長は、今度は東の三河(みかわ=愛知県東部)との国境線維持に奔走(1月24日参照>>)していましたが、

そんなこんなの天文二十三年(1554年)、清州城にて、かろうじて守護のイスにまだ座っていた義統の息子の斯波義銀(よしかね)が、多くの家臣団を引き連れて川狩りに出かけた7月12日、当時の守護代であった織田信友(のぶとも)は、「絶好のチャンスを逃すまい」とばかりに、老人や女子供ばかりになった清州城内の守護館を包囲し、一斉に攻撃を仕掛けたのです。

残った者だけで何とか抵抗をしてみるものの、もはや多勢に無勢でいかんともし難く完敗・・・結局、義統は一族30名余りとともに自害しました(清州の変)

もちろん、狩り姿で出かけたままの義銀も、そのまま清州城に戻る事が出来ない・・・で、彼が頼ったのが、当時は那古屋(なごやじょう・愛知県名古屋市中区)にいた信長だったのです。

実は、亡き父=信秀の後継者を巡っての時、信友は、信長の弟である信行(のぶゆき)を推しており、以後、信長とはシックリ行ってはいなかったワケで・・・そもそもは、ここ最近、そんな信長に義統が、何かと近づいていた事も、信友謀反の一つの原因だった事もあり、そりゃ、義銀は信長を頼りますわな。

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清州村古城絵図(蓬左文庫蔵)部分

これを受けた信長は、事件の5日後には配下の柴田勝家(しばたかついえ)に足軽衆をつけて派遣・・・清州側が防戦する山王口(さんのうぐち=三王口)を破り、安食村(あじきむら=愛知県名古屋市北区)を突破します。

防戦の清州勢は、誓願寺(じょうがんじ=同北区:成願寺)前で何とか踏みとどまるものの、多くの関係者が討ち取られてしまいました。(安食の戦い・中市場合戦)

この戦いで織田三位(おださんみ)河尻与一(かわじりよいち=左馬丞)などの有力者を失った清州側・・・当時、信友の家老で、小守護代(代官)と称されていた坂井大膳(だいぜん)は、重臣として清州を守る者が少ない事を懸念して守山城(もりやまじょう=名古屋市守山区)織田信光(のぶみつ)に声をかけます。

この信光という人は、信秀の弟=つまり信長の叔父さんなので、信長とも親しい関係にあり、何度が、ともに出陣した事もありましたが、それこそ生き馬の目を抜く戦国・・・敵側から重要人物をヘッドハンティングする事も日常茶飯事なわけで・・・

大膳が
「お力添えをいただいたあかつきには、信友殿とお二人で守護代を務めていただきたく…」
と、大きなエサをぶら下げての懐柔工作を図れば、
「お望み通りに…」
と、信光も快諾・・・

二心無い証として起請文(きしょうもん=神に誓う誓約書)をしたためて、信友側からその守りを任された清州城の南櫓(みなみやぐら=南矢倉)に入りました。

一方の信長・・・この先の勢力拡大、果ては、尾張統一をするためには、何としてでも信友を倒しておきたいところですが、この清州城がなかなかの堅城で、今のところは手も足も出無い状況・・・

と、そこへ、かの信光からのお誘いが・・・

そう、この信光さん、実は、清州からの誘いを受けたフリをして、実際には信長に協力しようと考えていたのです。

「俺が清州城をだまし取ったるよって、その代わり尾張の下の四郡のうちの東半分をくれるかな?」
「いいとも~ヽ(´▽`)/」
約束が即決するやいなや、

弘治元年(1555年)4月20日清州城内の信光が手勢を率いて謀反を起こすと同時に、信長が城外から攻撃・・・

南櫓のただならぬ雰囲気に気づいた大膳は、ギリギリのところで危険を察知し、今川義元(いまがわよしもと)を頼って駿河(するが=静岡県西部)へと逃亡しますが、逃げる事ができなかった信友は、あえなく討ち取られ、ここに清州織田家は断絶します。

勝利した信長は、那古屋城を信光に渡し、自らは乗っ取ったばかりの清州城へと入りました。

それは・・・そう、
ここに守護の斯波氏がいた事でもお察しの通り、この清州が尾張の覇府(はふ)=今で言うところの尾張国の首都だったからで、まさに、この先の尾張統一(11月1日参照>>)を見据えての行動。

ご存じの通り、清州城はこの後、
信長が桶狭間に出陣する時(5月19日参照>>)
徳川家康(とくがわいえやす)同盟を組む時、
そして、悲しいかな、
その死後に後継者を決める会議(6月27日参照>>)
・・・と、様々な歴史の舞台となる場所です。

ところで、今回、大きく貢献してくれた叔父=信光さん・・・この日から、わずか7ヶ月後の11月にお亡くなりになります。

『信長公記』では、
「11月26日、不慮の事件が起きて死亡、起請文に背いたので天罰が下ったのかも…恐ろしきかな」
と、いたくアッサリと書かれてしまってますが、現段階で信長に最も近い協力者が、こうも短期間に亡くなってしまうのは、やはり不可解・・・

謎が謎呼ぶ信光さんの死・・・って事になるのですが、そのお話は、そのご命日である11月26日に書かせていただいた【信長が指示?謎が謎呼ぶ織田信光・殺害】>>のページでどうぞm(_ _)m
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2017年4月13日 (木)

上杉謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦

永禄十一年(1568年)4月13日、それまで武田信玄についていた越中増山城主=神保長職が上杉謙信に寝返りました。

・・・・・・・・・・

射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による越中(えっちゅう=富山県)争奪戦・・・

Uesugikensin500 ここ越中は、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)にとっても、自らの領地に隣接する場所であり、自国と京の都との間に位置する重要な場所でもあった事から、祖父や父の時代から、度々出兵しては傘下に治めていた場所だったわけです。

つい先日も書かせていただいたように(3月30日【増山城&隠尾城の戦い】参照>>)、永禄三年(1560年)には、勢力拡大を図る神保長職が、謙信のライバルである甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の支援を得て、謙信傘下の椎名康胤を攻撃したわけですが、

この時、負けた長職は、一旦は降伏して謙信の傘下となったものの、謙信が越後へと戻ると、またぞろゴソゴソやり始める・・・
で、椎名康胤の救援のため謙信が大軍率いてやって来て、負けそうになったら和睦して傘下に入るものの、謙信が戻るとまやもやゴソゴソ・・・
てな事をくりかえしていたわけですが・・・

そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月・・・
なんと、それまでずっと謙信と協力体制にあった椎名康胤が、いきなり反旗をひるがえしたのです。

実はコレ、信玄の裏工作・・・信玄が何度も「君が越中を平定してくれへんかなぁ~僕支援するし…」の手紙を送っていたのが、ここに来て康胤を決断させたのです。

ひょっとして・・・康胤の心の内にも、
複数回上洛しても時の将軍と仲良く談笑し、関東管領並(6月26日参照>>)を引き受ける謙信は、おそらく天下を取る気はない?
に対して、天下を狙う気満々っぽい信玄の傘下になっておけば「そのあかつきには越中の大名になれるかも」てな野心が芽生えたのかも知れません。

とは言え、謙信にとって、再三に渡る長職のゴソゴソは、おそらく予想できたものの、一方の康胤の裏切りは想定外・・・

なんせ、この椎名は、特に、謙信の父の長尾為景(ながおためかげ)とじっこんの仲で、譜代の長尾一族から長尾景直(かげなお)康胤の養子に迎えていて、謙信にとっては特に信頼を置いていた武将の一人なわけで・・・だからこそ、これまで何度も救援に出張って来ていたわけで・・・

ショックを受けながらも、知らせを聞くなりすばやく行動に起こし、3月16日、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣した謙信は、康胤を攻めるべく越中へと入りました。

が、しかし・・・ここに来て、またもや予想外の出来事が!

Matukurazyoukoubousenkankeizu
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

越中侵攻から1ヶ月後の永禄十一年(1568年)4月13日、あの神保長職が謙信への協力を申し入れて来たのです。

今回ばかりは、その場まかせのゴソゴソではなく、一門の神保覚広(ただひろ・よしひろ)と家臣の小島職鎮(こじまもとしげ)の尽力による物・・・謙信自身が「長職とメッチャ意気投合したわ~ヽ(´▽`)/」と覚広に報告してますし、長職も、「この感謝は手紙では言い尽くせへん!」と書状で述べていますので、よほど、両者の関係が良い展開になったのでしょう。

しかし、こうして看板となるトップの傘が交代した事で、もとから信玄についてゲリラ戦を展開していた越中の一向一揆は、神保を離れて椎名の味方に・・・

ご存じのように、この時代の一向一揆=武装した本願寺門徒は侮れない・・・たび重なるゲリラ戦法で、長職は、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)放生津城(ほうじょうづじょう=富山県射水市中新湊)を落とされたため、やむなく増山城に逃げ込みます。

ここで謙信は、康胤の松倉城への抑えとして配下の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)河田長親(かわだながちか)を配置して放生津城攻めに向かうと同時に長職と連携して守山城を猛攻撃しました。

ところが、この間に遠く離れた越後にて、信玄の誘いに乗った本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)が反旗をひるがえした・・・との情報が舞い込んで来ます。

やむなく謙信は、直江景綱(なおえかげつな)重臣たちに、この場を任せて、自らは春日山城へと戻り、すぐさま準備を整えて本庄城の攻撃へと向かいます。

謙信自ら指揮を取るその猛攻撃に半年ほど耐えたものの、同年11月、本庄繁長は人質を差し出しての講和を申し出ます。

実は、期待していた信玄からの援軍が思うように得られ無かったのです。

そう・・・この永禄十一年(1568年)という年は、9月に、あの織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあきを奉じて上洛(10月18日参照>>)を果たした年・・・

心情的に、この信長の上洛に影響を受けたか否か?
あるいは「(川中島でゴチャゴチャしっぱなしの)北がダメなら南へ」と思ったか否か?
「このままやったら徳川家康(とくがわいえやす)に駿河取られてまう~」と思ったか否か?
はたまた、信玄に、畿内に目を向けてほしくない信長の「今なら駿河イケまっせ」の誘いに、とりあえず乗ってみたか否か?
その心の内は、ご本人のみぞ知るところですが、ここからの信玄は、この12月には薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)からの今川館の攻防戦(12月13日参照>>)と、完全に駿河(するが=静岡県西部)攻略に向けて舵を切った事は明白なところ・・・なので、おそらく本庄救援まで手が回らなかったのでしょう。

しかも、謙信にとっての信玄の矛先変更の影響は、そればかりではありませんでした。

翌永禄十二年(1569年)の明けてまもなく、信玄の勝手な約束破りの矛先変更に激おこの同盟者=小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏康(ほうじょううじやす)が、謙信との同盟を求めて来たのです。

同年の6月に北条との同盟を締結させた謙信は、その2ヶ月後の8月・・・再び、松倉城攻略に乗り出すのです。

まずは小菅沼城(こすがぬまじょう=魚津市小菅沼)など周辺を攻撃して松倉城を孤立させた後、大軍で以って松倉城に迫る上杉軍でしたが、迎える椎名軍は、防御のために自ら城下町に火を放ち、この孤立状態のまま、約100日間の籠城に耐えぬきます。

もともと松倉城が天然の要害であった事や、例の一向一揆が味方していた事もあって、長期に渡る籠城に耐える事ができたのでしょうが、一方の攻める上杉軍にも人馬の披露激しく、しかも、ここで「信玄が上野(こうずけ=群馬県)に侵攻した」との情報を得た謙信は、やむなく、またもや松倉城を落としきれないまま、10月に兵を退く事になってしまいました。

とは言え、謙信にとって、この松倉は越中の中でも、屈指の手に入れておきたい場所・・・なんせ、松倉城の南には河原波金山松倉金山という金の成る木、いや、山があったのですから・・・

やがて元亀二年(1571年)3月、3度目の松倉城攻略のため、大軍を率いて越中に侵攻した謙信は18日に富山城(とやまじょう=富山県富山市)を陥落させ、神保長職の求めに応じて、奪われた守山城を奪還すべく、庄川(しょうがわ)あたりまで攻め込み、念願の松倉城攻略へとこぎつけました。

一説には・・・
この時も、大軍で包囲したにも関わらず、なかなか落ちなかった松倉城に苦戦していたところ、「実は、宇都呂(うつろ=現在は廃村)の集落から密かに水を引き、同時に信濃からの食糧を運びこんでいるから」との噂を聞きつけた謙信が、宇都呂の集落を焼き払って水路を破壊し、東からの糧路を絶った事により、ようやく松倉城が落ちた・・・との話もあります。

とにもかくにも、この「元亀二年三月に、松倉城を、かの河田長親に与えた」(『三州志』より)との記録が残っていますので、やはり、ここでようやく松倉城を攻略した事は確かでしょう。

一方の康胤・・・この敗北によって椎名は、かなりの痛手を被り、弱体化の一途をたどる事となってしまいます。

一旦は謙信に降伏し傘下に収まるも、天正四年(1576年)に再び反旗をひるがえしたところを、やはり謙信に攻められ、その最期は蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)にて自刃したと伝わります。

ちにみに、前半のところで書かせていただいた通り、椎名康胤の後を継ぐ者は、長尾家から養子に入った長尾景直のみ・・・いち時は椎名小四郎(しいなこしろう)を名乗っていた彼ですが、何年後かの上杉VS織田の月岡野の戦いでは、、シッカリ上杉側の人として登場(9月24日参照>>)します。

なので、戦国武将としての椎名氏は、この康胤を最後に、事実上の滅亡となったのです。
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2017年4月 6日 (木)

浅井亮政VS六角定頼~箕浦合戦

 

享禄四年(1531年)4月6日、六角定頼と浅井亮政による箕浦合戦がありました。

・・・・・・・・・・・

宇多源氏(うだげんじ)佐々木氏(ささきし)の流れを汲む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角氏(ろっかくし)と、同じく佐々木氏の流れを汲む北近江(きたおうみ=滋賀県北部)京極氏(きょうごくし)・・・鎌倉時代より、この二つの名門家によって統治されて来た近江の地。

しかし、かの応仁の乱(5月20日参照>>)での混乱のさ中に当主が急死して後継者でモメる中、やっと決まった14代当主の京極高清(きょうごくたかきよ)の息子同士で、これまた後継者争いが勃発した事で、家中が真っ二つ・・・(2月13日参照>>)

このお家騒動の混乱により、いつしか後継ぎ当事者より、彼らをサポートする家臣や国人(こくじん=土着の武士)が力をつけて来るようになるのですが、その筆頭とも言うべき存在が、京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)・・・あの浅井長政(ながまさ=浅井三姉妹の父)(8月29日参照>>)お祖父ちゃんです。

しかし、被官の浅井が主君の京極氏をしのぐが如くの勢いとなった現状を快く思わないのが、同じ名門=六角氏の六角定頼(ろっかくさだより)

んなもんで、ここのところの定頼は、度々北近江へ出陣しては亮政の頭を抑えるという事を繰り返していたのですが・・・

そんなこんなの大永七年(1527年)、もはや室町幕府将軍よりも権力を持つ事実上の天下人であった前管領(かんれい=将軍の補佐役)細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)の養子たちの間で勃発した後継者争いの中で、一旦は勝利して政権を樹立した細川高国(たかくに)(5月5日参照>>)が、細川晴元(はるもと)に敗れて、第12代将軍=足利義晴(あしかがよしはる)とともに京を追われる事態となった桂川原(かつらかわら)の戦い(2月13日参照>>)が勃発します。

これにより、
坂本(さかもと=滋賀県大津市)に退いた義晴&高国
一方の晴元が擁立した足利義維(よしつな=義晴の弟)堺公方(さかいくぼう)
合戦の勝利により実質的に京都を統治する柳本賢治(やなぎもとかたはる)
と、畿内に3つの政権が存在する異常事態になってしまっていたのですが・・・

当然の事ながら、京を退いた高国らが、そのまま指をくわえて見ているはずは無いわけで・・・かの桂川原から3年・・・

享禄三年(1530年)、高国が播磨(はりま=兵庫県南西部)の名門=赤松氏(あかまつし)の支援を受けた事をキッカケに、摂津(せっつ=大阪府北中部)方面から敵方の諸城を落としつつ、京への侵入を試みる中で、受けて立つ晴元は、以前よりつながりがあった京極高清や、その家臣(実力はともかく、今もまだ身分は家臣ですので…)の浅井亮政らに支援を求めて来たのです。

Minouranotatakai1 この要請にすばやく動く亮政・・・ 

位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

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この時、坂本よりさらに奥まった朽木(くつき・滋賀県高島市)へと引っこんで六角氏に守られていた将軍=義晴を攻撃すべく高島へと兵を進めた浅井軍ではありましたが、それに気づいた義晴が、浅井勢よりさらにすばやく朽木を出て坂本へと移動・・・将軍とともに六角勢も去った事で、この時点では、大きな合戦に至る事はありませんでした。

しかし、敵兵に高島まで乱入された六角定頼も、その一件を黙って見過ごすわけには行かず・・・報復とばかりに北近江へと兵を向けますが、そんなこんなしているうちに、肝心の高国勢に敗北が続き、軍全体の士気も衰えて、結局、大勢を変えられないまま、上洛への動きを中断してしまいます。

しかも、この間に晴元と内輪もめしていた柳本賢治が播磨出陣中に謎の急死(自殺とも暗殺とも)を遂げて、なんとなく晴元の一人勝ち的な雰囲気・・・

こうして、しばしの平和を迎えた京の町・・・・
おかげで都の守りに気を配らねばならない状況が薄らいだ六角定頼は、享禄四年(1531年)4月6日「六角の両藤」との異名を持つ後藤賢豊(ごとうかたとよ)進藤貞治(しんどうさだはる)らをはじめとする重臣たちを大将に据え、約1万7千騎の大軍で以って、箕浦(みのうら=滋賀県米原市)河原に進出したのでした。

一方の浅井軍・・・亮政自らが1万5千余騎の軍勢を率いて出陣し、箕浦の北側、坂田郡山西(滋賀県米原市北部)醒井(さめがい=滋賀県米原市・醒ヶ井)などに兵を分散させて迎え撃つ作戦です。

が、しかし結果的には、この分散作戦が裏目に・・・多勢の六角軍に対し、もとより無勢の浅井軍は、合戦開始まもなくからの劣勢状態を挽回する事ができず、名のある首級を29ほど討ち取られて敗戦となり、やむなく兵を退きあげる事になります。

とは言え、亮政はそのまま居城の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)に戻ることはせず、いずこかに隠れ住んで姿を消すのですが、一方の六角軍も、これを深く追う事なく兵をたたんで引き上げました。

というのも、勝敗としては「六角軍の勝利で浅井軍の負け」とはなったものの、六角側も、結果的に30以上の首を討ち取られるという痛手を被っており、なかなかの激戦であった事がうかがえます。

ここは一つ、六角勢にもしばしの休息を・・・という事だったのでしょう。

なんせ、この亮政さん・・・以前のページ(冒頭の2月13日のページ>>)でも書かせていただいたように、合戦に負けはするものの、負ける度にどんどん強くなって行くんです。

そのページにも、その一因は「負けても負けても、彼に味方してくれた地元国人衆たちにある」と書かせていただきましたが、それは、若き日の亮政の抱いた「権力を握った者は、自らの保身のためではなく、困窮する民衆のためにこその政治手腕をふるうべきである」との精神とともに、例え負けても落ち込む事なく、次回へつなげる不屈の精神に魅力があったからなのかも知れません。

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小谷城より琵琶湖を望む

実は、この戦いのすぐあとに、家臣の三田村又四郎に宛てた亮政の感状(かんじょう=武功を讃える書状)が残っているのですが・・・

「今度箕浦河原において 種々御手を摧かれし候段…」(三田村文書より)ではじまるこの書状には、槍で受けた数ヶ所の傷をものともせずに奮戦した彼を誉め讃えるとともに、
「兵を分散させた事で、お互いの連絡がうまく取れず、イザという時に役に立たなかったのが敗因…もったいない事をした」
と反省し、
「今後はちゃんとしよう」
再起を予感させる文言が並んでいます。

おそらく亮政にとっては「完敗」ではなく、それなりの余力を残し「明日へつなげる敗戦」であった事でしょう。

とは言え、亮政の戦いは、まだまだ続きます

ただし、一方の細川同士の後継者争いについては、まもなく決着がつく事になるのですが、そのお話は、また、関連するいずれかの日付で書かせていただきたいと思います。
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2017年3月30日 (木)

上杉謙信の増山城&隠尾城の戦い

永禄三年(1560年)3月30日、椎名康胤の要請を受けた上杉謙信が神保長職の越中増山城へ攻め入りました。

・・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)を皮切りに始まった、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)による信濃(しなの=長野県)北東方面の争奪戦=川中島の戦い(9月10日参照>>)・・・
(くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】参照>>)

この時、謙信が信玄に目を向けている状況をビッグチャンスと睨んだ神保長職(じんぼうながもと)射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力拡大を図ります。

以前から、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に拠を構える椎名康胤(しいなやすたね)と神保長職との間で越中(えっちゅう=富山県)主導権争いが激しかったこの地域ではありますが、

ちょうど、この時期、越中の本願寺門徒を抱え込んで一向一揆による謙信へのけん制を考えていた信玄が介入し、敵の敵は味方とばかりに、信玄が神保長職を支援・・・後ろ盾を得た長職は、永禄三年(1560年)、謙信に味方する椎名康胤の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)を攻めたのです。

Uesugikensin500 間もなく、椎名康胤より「松倉城ピンチ!」の知らせを受けとった謙信・・・前年に関東管領並となったばかり(6月26日参照>>)の謙信にとっては、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏の動きが気になりつつも、電光石火のハヤワザで越中へと兵を向けました。

というのも、つい先日書かせていただいたように、後に、あの織田信長(おだのぶなが)との越中の争奪戦(3月17日参照>>)に挑む事になる謙信ではありますが、実は、謙信の祖父=が長尾能景(ながおよしかげ)が戦死したのが般若野(はんにゃの=富山県砺波市)で行われた一向一揆鎮圧の戦い(8月7日参照>>)であり、この越中は、父の長尾為景(ながおためかげ)も、その争奪戦に幾度も出兵し、大いに悩まされていた因縁の地でありました。

こうして、救援要請からわずかの永禄三年(1560年)3月30日見事なスピードで越中入りした上杉軍・・・慌てる神保軍をなんなく蹴散らすと、長職は居城の増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)へと逃げ込みますが、今度は、その増山城を囲んで、猛攻撃を仕掛ける上杉軍・・・

「もはやこれまで!」
とばかりに、長職は城を捨てて五箇山(ごかやま=富山県南砺市)へと逃走しました。

この時、主君の逃走を援護すべく奮戦したのが、隠尾城(かくりょうじょう=富山県砺波市庄川町)を任されていた神保の家臣=南部源左衛門尚吉でした。

増山城を落とした勢いのまま隠尾城の攻めに入った上杉軍・・・坂道を登りくる敵軍を天然の要害を駆使して果敢に防戦する尚吉でしたが、さすがに上杉の大軍を相手にしては歯が立たず・・・

やむなく、側近に息子の源右衛門を託して山中に逃がした後、自らの城に火を放ち、上杉軍の真っただ中へと躍り出て、壮絶な戦死を遂げました。

一説には、なんとか逃れた息子主従は、この地の戦乱が治まった後にひっそりと戻り、隠れ住んむようにして代々農業に従事したと言われています。
(そのために隠尾の地名になったという説も…)

Ettyuusoudatusenn位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

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ただ、戦国のならいとは言え、当の長職は、この後は上杉につき、逆に椎名康胤が上杉に反発して武田につき・・・てな感じで、なかなか越中争奪戦が止む事はなかったワケですが・・・(4月13日参照>>)
(ドラマ等ではここは描かない方がよさげ(^-^;)

ところで、
なぜか、関係史料が隠ぺいされた可能性があるとの話があるこの隠尾城の戦い・・・城のあった場所が秘境である事や、その史料の少なさから、現在の隠尾城跡付近では、もはや当時の面影を見る事は困難なようですが、近年になって、放牧場として開墾された際に、その土の下から数多くの塚が見つかったのだとか・・・

また、城跡の主閣部分に積まれて残る石は、「城主の無念を弔うが如く、すすり泣くような音を奏でる」と言われ、隠尾の集落の人々から「泣石(なきいし=啼石)と呼ばれていたのだとか・・・

平成の世となった今は、その隠尾の集落も廃村となって、もはや、住民の方の家も1軒のみとなっているとの事・・

このまま行けば、隠尾城の事も、いずれは歴史の彼方に消え去ってしまう運命にあるのかも知れませんが、
おそらくは、
悲しみに耐えきれぬ村人たちが戦死した皆々を弔ったであろう複数の塚、
長きに渡って伝えられた亡き主君を思う石の伝説
・・・

これらの事を見る限り、隠尾城主であった南部尚吉という武将は、庶民から親しまれ、かつ尊敬される名君であった事でしょう。

戦国武将としては1・2を争う知名度の上杉謙信。
義に篤くてカッコイイ上杉謙信。。。

しかし、そんな謙信と戦って戦場に散った武将の中にも、義に篤く、庶民から尊敬されたであろう戦国武将がいた事も心に留めておきたいですね。
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2017年3月24日 (金)

源平争乱・壇ノ浦の戦い~平知盛の最期

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、ご存じ源平争乱のクライマックス壇ノ浦の戦いがあり、平家方の総司令官である平知盛が入水自殺しました。

・・・・・・・・・・・・

養和元年(1181年)2月の、大黒柱の平清盛(たいらのきよもり)(2月4日参照>>)の死後、相次いで挙兵した伊豆(いず)源頼朝(みなもとのよりとも=源義朝の3男嫡子)(8月17日参照>>)北陸木曽義仲(きそよしなか=源義仲=頼朝の従兄弟)(9月7日参照>>)らの勢いに都を追われた(7月25日参照>>)平家は、

寿永三年(1184年)2月の一の谷の合戦い
生田の森の激戦>>
鵯越の逆落とし>>
忠度の最期>>
青葉の笛>>
に敗れて西へ・・・

その翌年の文治元年(寿永四年・1185年)2月の屋島の戦い
佐藤嗣信の最期>>
扇の的>>
弓流し>>
さらに、西へと逃れ、本州最後の下関(山口県)に近い彦島へと後退した平家・・・退いた平家を追う形で、その地に源義経(みなもとのよしつね=頼朝の弟)率いる源氏軍がやって来たのは、屋島の戦いの1ヶ月後の3月21日に事でした。

「次は海戦になる!」
との予想から、河野水軍熊野水軍などの援軍を得て、800余艘の水軍となった源氏軍と、未だ500余艘を維持する平家軍は、いよいよ寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、約300mを隔てた壇ノ浦の海上に対峙したのです。

Tairanotomomori600a この壇ノ浦の戦いで、事実上の総指揮官だったのが「清盛最愛の息子」とも言われる平知盛(とももり)・・・
清盛の四男で、正室の時子(ときこ=二位尼)が産んだ第2子です。

彼が生まれたのは、あの保元の乱(7月11日参照>>)の4年前で、その3年後=つまり7~8歳頃に平治の乱(12月25日参照>>)ですから、その育った環境は、まさに平家全盛時代・・・

それを象徴するかのように、兄の宗盛とともにトントン拍子で出世していく彼を『平家物語』は、各合戦で指揮を取る「負け知らずの猛将」として描きますが、実際には、猛将というより智将で、未だ京都に腰を据えていた頃は、あまり細かな局地戦に赴く事なく、平家全体の軍事面における総帥のような役割ではなかったか?と考えられています。

それは清盛亡き後も・・・兄の宗盛が政治面を請け負い、知盛は、やはり軍事面を一手に引き受けていた事でしょう。

しかし、そんな智将=知盛が、一連の戦いの中で最も心を痛めたのは、先の一の谷の戦いでの事・・・

『平家物語』によれば・・・
生田の森の総大将として奮戦していた知盛でしたが、例の鵯越の逆落としで形勢逆転となった時、敵兵に組みつかれた知盛を助けようと、息子の知章(ともあきら)が間に入って奮戦するも、逆に敵に斬りつけられて討ち死・・・その混乱の中で知盛は、馬に乗ったまま海へと入り、なんとか味方の舟までたどりついて命拾いしたという事があったのです。

その時、自らは海から舟に乗り移ったものの、重い馬は乗せることができず、やむなく岸辺の方向に誘導していくのですが、その馬は、以前、後白河法皇(ごしらかわほうおう=77代天皇)から賜ったかなりの名馬で、知盛も大変気に入っていて、月一で安全祈願の祭事を行うほど可愛がっていた馬だったのです。

しかし、そのまま岸へと戻れば、おそらく、その名馬を敵の将が手に入れる事になるわけで・・・その事を心配した配下の者が、
「あれほどの名馬が敵の物のなるのは惜しい…射殺しましょうか?」
と聞いたところ、知盛は、
「誰の物になったってかめへん!俺の命を助けてくれた馬やぞ、殺せるわけないやろ!」
と言ったとか・・・

馬を相手にしてさえ心やさしき知盛・・・そんな彼が、混乱の中とは言え、自らの命と引き換えに息子を失ったわけで・・・
「息子が敵と組み合うのを見ていながら、助けられないで自分だけ逃げてしもた。
他の者が同じ事をしたら、きっと俺は非難するやろに…
人間、イザとなったら、自分の命が惜しいもんです。
ホンマ情けない!恥ずかしい!」

と号泣したと言います。

おそらくは、自分自身の情けなさとともに、敵への憎しみ&恨みも大いに抱いた事でしょうが、智将=知盛は、その後も、個人の恨みつらみを押しだす事なく、あくまで、平家の総帥として、一門の事を第一に考え、冷静に指揮を取るのです。

それは、あの一の谷の合戦で捕虜となった平重衡(しげひら=知盛の弟・清盛の五男)と、平家の手中にある安徳天皇(あんとくてんのう=第81代・後白河法皇の孫で清盛の孫)三種の神器(さんしゅのじんぎ=皇室の宝物【三種の神器のお話】参照>>交換しようと持ちかけてきた法皇&源氏側に対して、

『平家物語』の平家は、「アホか!」「できるか!」「けんもほろろに断ったばかりか、その拒否の固さを示すため、使者の頬に『受領』の焼印をして送り返した」となっていて、ドラマ等、一般的には、そのように描写される事が多いのですが、

実は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』での平家から返答は、
「コチラは、はなから安徳天皇と三種の神器をお反しするつもりで、法皇さまのおっしゃる、和平交渉のための停戦命令にも従っておりますが、我々が天皇と神器を携えて京の近くへ行こうとすると、それを阻むがのごとく合戦を仕掛けて来るのはソチラの方ではないですか?
もともと平家も源氏もお互いに恨みは無いのですが、コチラが無理に京都へ帰ろうとすると合戦になってしまいますので、和平をされるのでしたら、その旨を明確にお示し下さい」

てな内容だったとされます。

軍記物の『平家物語』と公式記録の『吾妻鏡』・・・もちろん、その『吾妻鏡』もすべてが正しい内容では無い事が指摘されていますので、鵜呑みにはできませんが、この記述を見る限りでは、私怨を捨てて一門のために事を治めようとする冷静な姿が垣間見えますね。

Dannouranotatakai1000a2
壇ノ浦の戦い(『安徳天皇縁起絵図』より…赤間神宮蔵)

とは言え、ご存じのように、この交渉は決裂(後日、重衡は処刑:3月10日参照>>)、源氏VS平家は最終決戦となる壇ノ浦へ・・・

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、白々と明けた瀬戸内の海上に約300mを隔てて対峙した両者の間で壇ノ浦の戦いの幕が切って落とされたのです。

前半は平家が有利な展開で押し進め、大将の義経ですら危うい場面があったものの、陸に強い源氏に予想以上の数の水軍が味方した事や、瀬戸内特有の潮の流れ、突飛な義経のルール無視・・・などなど(くわしくは壇ノ浦の戦い:2008年3月24日参照>>)様々な事が相まってか?やがて、平家が劣勢に転じたのです。

しばらくして、
「もはや、これまで・・・」と覚悟を決めた知盛が、自らの乗る小舟を、安徳天皇の舟に近づけて、
「これまでです。見苦しい物は全部海に捨ててください」
と言うと、それを聞いた女官たちが、あわてて舟の上を掃除しながら
「中納言殿(知盛の事)、戦況はどうなんですか?」と・・・

その返答に知盛は、
「もうすぐ、今まで見た事のない東国の男たちに会えますよ」
と言って、ケラケラと笑ったと言います。

これで
「あぁ、もう本当にダメなんだ」
と思った平家の人々は覚悟を決め、二位尼も安徳天皇を抱きかかえて海の底へと旅立ちました(先帝身投げ:2007年3月24日参照>>)

『平家物語』では、この「先帝の身投げ」のあと、猛将=平教経(のりつね=知盛の従兄弟)の最期(能登殿最期:2009年3月24日参照>>)が描かれ、その次に知盛の最期が登場します。

・‥…━━━☆

「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害せん」
自らの人生で、見たい物はすべて見たので自害しよう!と、覚悟を決めて、乳母子(めのとご=うばの子・乳兄弟)である平家長(たいらのいえなが=伊賀家長)を近くに呼び寄せて、
「イザという時はともに散るという約束は忘れてないか?」
とたずねると、家長は
「いまさら…言うまでも無い事です」
と、しっかりと答え、

飛び込んだ後に体が浮いて来ないように、家長は、主君=知盛に鎧を二領着せ、自らも二領の鎧を着込んで、ともにしっかりと手を組んで、二人同時に海に飛び込みました。
(一説には、同じく体が浮かないように「碇(いかり)を担いで入水したとも言われ、浄瑠璃や歌舞伎の『義経千本桜』碇知盛として有名です)

これを見て、その場にいた忠義の者ども20名余りが、その後を追って次々と海に飛び込んで行ったのです。

それは・・・
「赤旗 赤符(あかしるし)ども、切り捨てかなぐり捨てたりければ、龍田河の紅葉葉を、嵐の吹き散らしたるに異ならず
(みぎわ)に寄する白波は 薄紅(うすくれない)にぞなりにける」
海上に無残に切り捨てられた平家の赤旗や赤印がおびただしく漂い、まるで竜田川のモミジのようで、波打ち際に寄せる白波も薄紅色に染まって見えた・・・と。

そして・・・
「主(ぬし)もなき空しき舟どもは、潮に引かれ風に随(したが)ひて、いづちを指すともなく、ゆられ行くこそ悲しけれ」
あるじを失くしたカラの舟が、風に吹かれるまま波のまにまに揺られるさまは悲しすぎる~

・‥…━━━☆

こうして源平の合戦は、全行程を終了する事となります。

この時、同じく入水するも、敵兵に引き上げられて捕虜となった人の中には、平家の棟梁であった平宗盛(たいらのむねもり=清盛の三男・知盛の兄)(6月21日参照>>)、安徳天皇の母=建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ=平徳子・清盛の次女で知盛の妹)(12月13日参照>>)などがいます。

また、安徳天皇には生存説もあり(2010年3月24日参照>>)
生き残って何度も頼朝暗殺に挑む平景清(かげきよ)(3月7日参照>>)
清盛嫡流最後の人となった平六代(たいらのろくだい)(2月5日参照>>)
などなど、その後のお話もありますので、それらは
平清盛と平家物語の年表>>
源平争乱の年表>>
でどうぞm(_ _)m

にしても・・・
人の生き死にに関する記述に対して、こう言って良いかどうか悩むところではありますが・・・
平家物語』の言いまわしは、実に美しいですね~
「波間に散乱する赤旗が竜田川の紅葉のようだ」とか・・・

悲しくも美しい散り様ですね。
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