2019年6月14日 (金)

豊臣秀吉の小田原征伐~鉢形城の攻防戦が終結

 

天正十八年(1590年)6月14日、豊臣秀吉の小田原征伐における攻防戦で鉢形城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き(参照>>)後に、その傘下を引き継ぐ(参照>>)傍ら、畿内(参照>>)、四国(参照>>)、北陸(参照>>)、九州(参照>>)を平定し、ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、
【関白・秀吉の政庁…絢爛豪華聚楽第】参照>>
【太政大臣&豊臣姓賜る】参照>>
【北野大茶会】参照>>
天正十七年(1589年)10月、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪った(10月23日参照>>)事を『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令) に違反する行為として関東に君臨する条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)・・・天正十八年(1590年)3月29日に伊豆半島を縦ラインで結ぶ足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)の同時攻撃にて、小田原征伐の幕が上がったのです。(3月29日参照>>)

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

攻撃開始の当日に山中城を、翌日には足柄城を奪取し、早くも4月2日には大本営の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市を完全包囲した豊臣東海進軍本隊(4月2日参照>>)は、そのまま小田原城を包囲しつつ、一部を武蔵(むさし=東京都・埼玉県・神奈川県の一部)房総(ぼうそう=主に千葉県)下野(しもつけ=栃木県)常陸(ひたち=茨城県)など、関東一円の諸城の攻略に向かわせ、次々と手中に収めていきます。

一方、越後(えちご=新潟県)北陸方面から東山道(とうさんどう)を進軍して関東に入って来た上杉景勝(うえすぎかげかつ)前田利家(まえだとしいえ)らは、4月中には上野(こうずけ=群馬県)の諸城を攻略していましたが、5月13日、秀吉は松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)にあった景勝に鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)の攻略を指示します。

この時の鉢形城主は北条氏政の弟=北条氏邦(うじくに=氏康の5男)

実は、この氏邦さん・・・秀吉の小田原征伐が決まった最初の段階で、
まずは、現当主の北条氏直(うじなお=氏政の息子)自らが出陣して、今は徳川家康(とくがわいえやす)の傘下となっている駿河沼津城(ぬまずじょう=静岡県沼津市大手町)を奪った後、そこを本拠に豊臣軍を迎え撃ち「富士川を越えさせない!」作戦を提案していたのですが、例の小田原評定で、その作戦は却下され、本城の小田原城に籠城する作戦となったため、一旦は小田原城に入るものの、結局、小田原には自身に代わる養子の直定(なおさだ)を入らせて、氏邦自身は配下の留守居役300余名&約2700の雑兵とともに鉢形城に籠城して抵抗する事にしたのでした。

とは言え、この鉢形城周辺には秩父(ちちぶ=埼玉県北西部)領の日尾城(ひおじょう=埼玉県秩父郡小鹿野町)をはじめとする複数の出城が構築されているうえ、かの猪俣邦憲が300余名を率いて加勢に駆け付け、その守備兵力はかなりのもの・・・

かくして5月19日、真田昌幸(さなだまさゆき)依田康国(よだやすくに)らの信濃隊が小前田(埼玉県深谷市)から寄居(よりい=同大里郡)方面に陣取ると、上杉景勝&前田利家・利長父子らの北陸隊は赤浜(あかはま=埼玉県大里郡)を通って鉢形城の東側へと向かい、上杉が大手から、前田が搦手(からめて)から、合計35000余の軍勢で以って攻撃を開始します。

6月3日には津久井城(つくいじょう=神奈川県相模原市)を攻撃していた本多忠勝(ほんだただかつ)鳥居元忠(とりいもとただ)らの徳川勢が攻撃に加わり、28人持ちの大筒で城内に石火矢(いしびや=石を弾丸にした火砲)を撃ち込み、大きな被害を与えたと言います。

そんな中、現在景勝の配下となっている藤田信吉(ふじたのぶよし)が、氏邦が養子(娘婿)に入った藤田家の者(氏邦の義父の息子とも)である縁から使者として赴き、氏邦に降伏するよう説得を開始します。

やがて天正十八年(1590年)6月14日、氏邦は
「家臣たちに代わって、俺が自害するから…」
と言って、鉢形城を開け渡し、剃髪して正龍寺(しょうりゅうじ=埼玉県大里郡寄居町)に入りました。

ここに、小田原征伐における鉢形城の攻防戦は終結しましたが、結局、氏邦の身は前田利家の預かりとなり、その利家が助命嘆願した事から、その命は助かり、氏邦は敵からも味方からの「前代未聞の比興(ひきょう)と言われたとか・・・また、力攻めではなく降伏勧告に終始した利家のやり方には秀吉さんもたいそうご立腹だったようです。

とは言え、戦場で華と散るも戦国武将、生きて一族の血脈を繋ぐも戦国武将・・・このブログでも度々お話させていただいているように、血で血を洗う戦国時代には、「もう、アカン」となった時、一族もろとも滅亡する方が稀で、誰かが生き残っての血筋を残す事の方が多いです。→【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事…】参照>>

そうしないと「家」自体が歴史上から消えてしまうかも・・・「虎は死して皮残す。人は死して名を遺す『十訓抄』どころか、ヘタすりゃ一族もろとも「いなかった事」にされる可能性だってありますからね。

で、今回の小田原征伐での北条氏の場合を見てみると・・・
嫡流(*氏政は次男ですが長男の新九郎が16歳で夭折したため氏政が世子)の前当主の氏政とその息子で現当主の氏直。

一方、氏政の弟たちは・・・
3男で八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)北条氏照(うじてる)
4男で韮山城の北条氏規(うじのり)
5男で今回の鉢形城の氏邦、
以下、6男の北条氏忠(うじただ)と8男か9男の北条氏光(うじみつ)
(7男は上杉家の養子になった景虎(かげとら)=参照>>で、すでに死亡)

この中で上の3人=氏照と氏邦と氏規は、単なる支城の城主ではなく、独立した一大領国支配を行っていた感がありますが、終始小田原に籠城して兄=氏政とともにイケイケムードで徹底抗戦を主張した氏照と、足柄城をすんなり捨てて小田原城内に走った氏光と、はなから小田原籠城組だった氏忠に対し、それぞれの城に残った氏邦と氏規には、ひょっとしたら、その血筋を残す役目があったのかも・・・あくまで私的な解釈ですが、私はそう感じているのです。

今回の氏邦さんに関しては、先々代の北条氏康(うじやす=氏政や氏邦の父)に降伏して傘下となった藤田康邦(ふじたやすくに)の娘と結婚して婿養子となった藤田家の人として藤田氏邦の名前で古文書等に記載されているところから見ても、そんな気がします。

残念ながら、この後、前田家の家臣となった氏邦の血筋は途中で絶えてしまうようですが、以前書かせていただいたように、氏規さんの血筋は脈々と受け継がれ、無事、明治維新を迎えています(2月8日参照>>)

例え「前代未聞の比興」と言われようが、イザという時に「生き残る事」こそが氏邦さんの使命だったのかも知れません。

この前後の小田原征伐は・・・
●5月29日【館林城・攻防戦】>>
●6月16日【忍城・攻防戦】>>
●6月23日【八王子城・攻防戦】>>
●6月26日【石垣山城一夜城】>>
●7月5日【小田原城・開城】>>
へと続きます。
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2019年6月 8日 (土)

細川高国が自刃…大物崩れ~中嶋・天王寺の戦い

 

享禄四年(1531年)6月8日、天王寺の戦いに敗れて大物崩れとなった細川高国が自刃しました。

・・・・・・・・

応仁の乱後に、明応の政変(4月22日参照>>)で以って政権を握った室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐)細川政元(ほそかわまさもと)は、その政変の前後の状況変化ゆえ、3人の養子を迎える事になりますが、その死後に、3人の養子=細川澄元(すみもと)細川澄之(すみゆき)細川高国(たかくに)の間で後継者争いが勃発・・・その中で、永正八年(1511年)の船岡山の戦い(8月24日参照>>)と永正十七年(1520年)の等持院表(とうじいんおもて)の戦い (5月5日参照>>)に勝利して一人勝ちとなった高国は足利義晴(あしかがよしはる)第12代室町幕府将軍として擁立確固たる高国政権樹立に成功します。

Hosokawatakakuni600a しかし大永六年(1526年)、高国は自らの勘違いで重臣の香西元盛(こうざいもともり)を上意討ちしてしまった事から、その実兄である八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野稙通(はたのたねみち)神尾山城(かんのおさんじょう=京都府亀岡市)柳本賢治(やなぎもとかたはる)が高国に反旗を翻し(10月23日参照>>)、しかも、このタイミングで阿波(あわ=徳島県)に退いていた亡き澄元の息子=細川晴元(はるもと)と配下の三好元長(みよし もとなが)らが挙兵して上洛して来ます。

大永七年(1527年)2月13日、波多野&柳本勢に合流した晴元は桂川原(かつらかわら)の戦い に勝利(2月13日参照>>)・・・負けた高国は将軍=義晴とともに近江(おうみ=滋賀県)坂本(さかもと=滋賀県大津市)へと退きます。

その後、しばらくは京都の奪回に向けて奔走する高国は、享禄元年(1528年)11月には伊賀(いが=三重県西部)仁木義広(にっきよしひろ)のもとに、翌年1月には娘婿に当たる伊勢(いせ=三重県中北部)北畠晴具(きたばたけはるとも)のもとに、5月には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉孝景(あさくらたかかげ)に、8月には出雲(いずも=島根県東部)尼子経久(あまごつねひさ)に、翌9月には三石城(みついしじょう=岡山県備前市三石)浦上村宗(うらがみむらむね)に会い・・・と、あちこちを転々として各人に出兵を要請して廻ります。

浦上滞在中の享禄三年(1530年)6月29日に播磨依藤城(よりふじじょう=兵庫県小野市・豊地城)を攻撃中の柳本賢治に刺客を派遣して暗殺に成功したうえに浦上の援軍を得た高国は、ここ最近、晴元と元長の関係がギクシャクし始めて元長が阿波に戻っていた事をチャンスと見て、いよいよ摂津(せっつ=大阪府中北部)に出陣します。

7月には別所就治(べっしょなりはる)三木城(みきじょう=兵庫県三木市)を攻略し、8月には神呪寺(かんのうじ=兵庫県西宮市・神咒寺)に、本陣を設けて後、9月から11月にかけて、晴元派の富松城(とまつじょう=兵庫県尼崎市)を陥落させ、伊丹城(いたみじょう=兵庫県伊丹市)尼崎城(あまがさきじょう=兵庫県尼崎市)での戦いにも勝利します。

一方の晴元も、諸城の守りを強化して防戦に努めますが、高国勢の勢いは止まらず、京都の各所に出没して禁裏(きんり=天皇の住まい)をも脅かすようになります。

さらに勢いづく高国勢が、年が明けた享禄四年(1531年)3月に池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を落とすと、近江の朽木(くつき=滋賀県高島市)に身を隠していた将軍=義晴も坂本まで進出し、京都奪回の機会をうかがいます。

この高国勢の快進撃に、いよいよヤバくなって来た晴元は京都を脱出し、自らが擁立した堺公方(さかいくぼう)足利義維(よしつな=義晴の弟)のいる(さかい=大阪府堺市)へ・・・そんな晴元は、これまで頼りにしていた柳本賢治も今は亡く、ここは何とか、あの三好元長に戻って来てもらいたい(^人^) オ・ネ・ガ・イ♪

実は元長・・・先の等持院表の戦いで祖父(もしくは父)三好之長(みよしゆきなが)を亡くしています。。。つまり高国は、元長にとって、もともと祖父の仇なわけで、、、

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四天王寺・西門

かくして享禄四年(1531年)3月、元長は、堺を制圧すべく住吉(すみよし=大阪市住吉区)に出撃して来た高国勢に対し、摂津中嶋(なかじま=現在の天王寺周辺)に布陣して高国勢の先鋒を少し後退させますが、高国も天王寺(てんのうじ)難波(なんば)今宮(いまみや)に陣取り、浦上勢も野田福島(のだ・ふくしま=大阪市福島区)に布陣します。

これから5月頃まで、天王寺表にて小競り合いはあるものの、決着のつかないこう着状態が続く両者でしたが、6月2日に高国の援軍として神呪寺に布陣していた赤松晴政(あかまつはるまさ=政祐)が、晴元の要請に応じて寝返って浦上軍を背後から奇襲した事でこう着状態が崩れます。

実はコッチも・・・赤松晴政の父=赤松義村(よしむら)を暗殺したのが、誰あろう浦上村宗なわけでして(11月12日参照>>)(どんだけ恨み買うとんねん(><))、いつか仇を討とうと機会を狙っていたわけですが、この赤松の寝返りについては、高国側にもかなりの動揺があったようで・・・「赤松旧好の侍吾も吾もと神咒寺の陣に加わり」『備前軍記』と、名門赤松なればこそ、それに追随する者も少なくなかったようです。

とにもかくにも、この状況を受けた元長は、その2日後の6月4日高国陣営に総攻撃を仕掛けたのです。

もはや流れはすっかり変わりました。

かの浦上村宗をはじめ、松田元陸(まつだもとみち)伊丹国扶(いたみくにすけ)薬師寺国盛(やくしじくにもり)など、主だった武将の多くを失い、多大なる戦死者を出して、高国軍は大敗してしまうのです。

この戦いで中嶋を流れる野里川は死体で埋め尽くされ、まるで塚のようになってしまったのだとか・・・

敗戦の混乱の中、戦場を脱出した高国は、大物城(だいもつじょう=兵庫県尼崎市大物町・尼崎城と同一説あり)へと向かいますが、すでに追手が回っていたため、尼崎町内の藍染屋に逃げ込み、カメの中で身を潜めていたところを翌6月5日に発見され、享禄四年(1531年)6月8日、晴元の命により、広徳寺(こうとくじ=兵庫県尼崎市寺町)にて切腹・・・享年48でした。

この時、高国が詠んだ時世の句は
♪絵にうつし 石をつくりし 海山を
 後の世までも 目からずや見む  ♪
娘婿の北畠晴具に送った物で、三重県津市の北畠神社(きたばたけじんじゃ)に今も残る庭園の事を詠んだ物だそうで・・・この時の高国は、永遠に残る庭園の美しさと、散りゆく自らの儚さを感じていたのかも知れません。

今回の戦いは、その地名をとって「中嶋の戦い」と呼ばれたり「天王寺の戦い」とも言われますが、高国が最後に目指した場所とその衰退を含んで「大物崩れ(だいもつくずれ)とも呼ばれます。

これにて長きに渡った細川管領家を巡る争いは終わる事に・・・と言いたいところですが、実は、高国の養子である細川氏綱(うじつな)三好長慶(みよしながよし・ちょうけい=元長の息子) の力を借りて晴元を倒し、最後の管領になるのです。

・・・と、そのお話は9月14日 【最後の管領~細川氏綱の抵抗と三好長慶の反転】でどうぞ>>
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2019年6月 2日 (日)

信長とともに散った織田政権ただ一人の京都所司代…村井貞勝

 

天正十年(1582年)6月2日、織田信長の家臣で京都所司代を担っていた村井貞勝が、本能寺の変で討死しました。

・・・・・・・・・

 村井貞勝(むらいさだかつ)は、その生年や出身などは不明なものの、かなり早くから織田信長(おだのぶなが)に仕えて信頼を得、重用された家臣です。

Muraisadakatu600a 弘治二年(1556年)に、弟の織田信行(のぶゆき=信勝とも)を推すメンバーが信長に謀反(8月24日参照>>)を起こした時には、母の土田御前(どたごぜん)の要請を受けて間に入り、敵対勢力と和平交渉して治めたばかりか、

敵チームの主力の一人であった柴田勝家(しばたかついえ)を取り込んで、最終的に勝家にその信行を葬り去る(11月2日参照>>)お手伝いをさせちゃうくらいの信長チームメイトにさせたのが彼=村井貞勝だったとか・・・

そう、勝は、戦の最前線に立って武功を挙げるというよりは、交渉術に長けた内政に手腕を発揮する軍師的な家臣だったのです。

その後、稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)攻略に向けての美濃三人衆(みのさんにんしゅう=稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)の懐柔(8月1日参照>>)や、あの足利義昭(あしかがよしあき=15代室町幕府将軍)を奉じての信長上洛(9月7日参照>>)の際の義昭の受け入れ準備も担当しました。

さらに上洛後の一大事業=二条御所(義昭御所)の造営(2月2日参照>>)にも手腕を発揮・・・
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参考=信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、この頃の信長は、未だ複数の家臣たちに京都の市政を分担させていましたが、元亀元年(1570年)に重臣の森可成(もりよしなり)が討死した(9月20日参照>>)事、浅井&浅倉との戦いに本願寺(2014年9月12日参照>>)やら比叡山(2006年9月12日参照>>)やら色んな敵が参戦して来て世に言う信長包囲網ができあがっていく中で、佐久間信盛(さくまのぶもり)明智光秀(あけちみつひで)といった畿内周辺担当の家臣たちの合戦への出陣も増えて来た事で、

反旗を翻した足利義昭(7月18日参照>>)を追放した元亀四年(天正元年=1573年)、貞勝を天下所司代=いわゆる京都所司代(きょうとしょしだい)に任じたのです。

これは、今で言えば京都府知事と警視総監(京都が首都なので…)を兼務したうえに、朝廷とのなんやかやもあるので宮内庁長官まで兼ねたような?要職です。

そんな中で貞勝は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)禁裏(きんり=京都御所)の修復や、新しい二条御所(二条御新造・信長の宿舎)の築造等の工事も担当しつつ、京都の治安維持や、最難関の朝廷や貴族や寺社との関係改善にも尽力していきます。

ご存知のように、天下目前のこの時期の信長さんは、次々と大きな政策を打ち出していきますので(←これは史実なので)ドラマ等で描かれる時は、少々強引に高圧的な人物に表現されていたりします。

それでなくとも、大体の時代において、政権を握った武門と朝廷&寺社の関係は、アッという間にギスギスした感じになっていくの常なんですが・・・

しかし、以前に、あの東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)削り事件のページ(3月22日参照>>)で書かせていただいたように、実際には朝廷&寺社と信長の関係は、それほど悪い物では無かったようです。

それもこれも、貞勝が間に立って、あれやこれやの食い違いをウマイ事まとめていった故・・・あの一大イベントの御馬揃え(おうまぞろえ)(2月28日参照>>)に天皇様自らお出ましになるのも、交渉上手の貞勝のなせる業といったところでしょう。

ところで、この村井貞勝が関わったとされる事で、「三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)というのがあります。

これは、もはや天下目前の信長が、未だ上位の官職についていない事で、天正十年(1582年)5月、公家の勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)が村井貞勝のもとを訪れ、信長が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=部門の最高位)太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職・名誉職)関白(かんぱく=天皇の補佐役で実質上の公家の最高位)のうちどれかに任官することについて話し合った・・・てな事が晴豊本人の日記『晴豊公記』に記されているのですが、これを、信長側から申し出たのか?朝廷側から言い出したのか?がわからないために「問題」となっているのです。

しかも、ご存知のように、この少し後の6月に、信長がその返答をしないまま本能寺(ほんのうじ)で亡くなってしまう(6月2日参照>>) ため、信長の朝廷に対する考えや、両者の関係が謎なままになってしまう・・・もちろん、どちらが言い出したかわからないのには、肝心かなめの貞勝自身も、かの本能寺で死んでしまうから・・・

そう・・・天正十年(1582年)6月2日、本能寺の向かいにある自宅にいた村井貞勝は、異変を知るや息子たちとともに、すぐさま自邸を飛び出しますが、その時には、もうすでに本能寺は火の海・・・やむなく、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)が宿所としていた妙覚寺(みょうかくじ=京都府京都市上京区)に駆け込みます。

「もはや本能寺は敗れて、御殿も焼け落ちましたよって、敵は必ずここも攻めて来るでしょう。ここより、二条の新御所(同中京区)の方が、守りが堅固で立て籠もりやすいと思います」
と貞勝が進言した事で、隣接する二条御所へと移動した信忠は、御所にいた誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第5皇子)和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子で後の後陽成天皇)
「ここは戦場となりますので、お二人は内裏(だいり)の方へお移りください」
と、別れの挨拶をして送り出し、ここで明智勢を迎え撃つ事にしますが、残念ながら、ご存知のように事態は多勢に無勢・・・(一般的には、明智軍=1万3000に対し、織田勢は、信長=100名、この後の信忠=500名と言われています)

「もはや、これまで!」
を悟った信忠は自刃し、最後まで主君を守った村井貞勝も討死しました。

一説には、先の三職推任の話は「貞勝が朝廷に強要した」という説もあるようですが、交渉上手な貞勝なら、強要というよりは、両者納得の良い話にまとめていたような気がしないでもありませんが、今は何とも・・・これに関する新しい史料の発見が待ち遠しいですね。
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2019年5月25日 (土)

本多政康の枚方城の面影を求めて枚方寺内町から万年寺山を行く

 

不肖私は、大阪城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を間近に仰ぎ見つつ生まれ育ち、長じて枚方(ひらかた)or高槻(たかつき)にて仕事に従事しつつ、10年間の富山(とやま)生活を経て舞い戻り、今もなお、ドップリのおけいはん(京阪電車を利用する人)なわけですが・・・

そんな京阪電車の主要駅の一つである枚方は、もともと京都と大坂の中間地点にある交通の要所でありましたが、かの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が淀川の氾濫を防ぐため、文禄三年(1594年)に構築を開始した文禄堤(ぶんろくつつみ=完成は慶長元年1596年)に沿って京都と大坂を行き来する京街道(きょうかいどう)を整備した後、徳川家康(とくがわいえやす)が江戸時代になって、東海道を大坂まで延長して、その途中となる伏見(ふしみ)宿(よど)宿枚方宿守口(もりぐち)宿を加えて、正式に「東海道五十七次」とした事で益々賑やかな宿場町へと発展・・・

さらに淀川を三十石船が往来するようになると、その中継場所として、以前にも増して人の往来が盛んになり(2007年8月10日参照>>) 、そこに、先の大坂の陣にて家康一行を救った功績により天下御免のお墨付き=独占営業権をもらった船頭たちが運営する「くらわんか舟」なる名物も登場して、益々賑やかになって行く・・・【枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話】も参照>>)

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三十石船に物を売る             舟宿の賑わい(右)
枚方名物「くらわんか舟」(左)

とまぁ、そのような宿場町としての枚方の話は有名なのですが、実は、未だ江戸になる前の豊臣の時代には、ここ枚方にも枚方城(ひらかたじょう)というお城があったのですよ。

『日本城郭大系』によると、
この枚方城を居城としていたのは百済王氏(くだらのこにきしし)の末裔を称する本多政康(ほんだまさやす)という人物で、城の立地は枚方で最も高く、舌状大地の最突端で三方は深い谷となっている条件の良い場所であるものの、その遺構は残っていない・・・との事で、現在、枚方小学校が建っている場所が城の比定地とされています。

Dscn2774a 実は、この枚方は、かつて朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)に攻められて滅亡した(8月27日参照>>)百済(くだら)の王の一族が亡命して移り住んだ地とされ、奈良時代から平安時代にかけて活躍した彼ら一族は百済王の姓を得て、河内守(かわちのかみ)に任ぜられ、奈良時代中期に建立されたとされる百済王氏の氏寺である百済寺(くだらじ)の跡も、枚方を流れる天野川(あまのがわ)の東側にて発掘されていします。

なので「百済王の末裔」の話も、あながち荒唐無稽とは言い難い雰囲気です。
(ちなみに、長野の善光寺を創建した飛鳥時代の人物=本多善光(ほんだよしみつ=本田善光)と同流とも言われます)

に、しても、推定地が枚方小学校の場所とされていても、現段階では遺構がまったく無い状況では寂しい・・・ここは一つ、地元の地の利を活かし、ちょっくら、在りし日の枚方城の姿を妄想してみるのも一興かと、周辺を散策してみる事に・・・

なんせ、小学校のある場所は、万年寺山(まんねんじやま)と呼ばれる山の、ほぼ1番高い場所なので、戦国後期の城郭の雰囲気を考え、かつ上記の『日本城郭大系』 の記述を踏まえれば、おそらくは、ここを主郭とし、天然の山の高低差をうまく利用した平山城の造りになっていたでしょうかからね・・・(ただし、このあたりはほとんど住宅開発されているので、あくまで、現在の高低差から想像する状況である事は否めないところではありますが)

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写真①枚方大橋南詰から見た万年寺山(正面右寄りに見える小高い森が万年寺山です)

このブログでも度々ご紹介しております通り、現在、この万年寺山には梅林で有名な意賀美(おかみ)神社(2月27日参照>>)が鎮座しますが、もともとは、古墳時代前期と思われる古墳(万年寺山古墳)があったものの、経年により、その存在が忘れ去られた推古天皇(592年~628年)の時代に、高句麗(こうくり)の僧=恵灌(けいかん)が草庵を営み、それが、万年寺の基となりました。

やがて平安時代の僧=聖宝(しょうぼう)が開祖となって名称も万年寺となり、貞観十四年(872年)に流行した疫病の終息祈願のために境内に牛頭天王(ごずてんのう)を祀る須賀(すが)神社を建立・・・明治になる前は神仏習合(しんぶつしゅうごう=仏が神となって現れる考え方)が一般的で、お寺の中に神社があったり、神社にお寺がくっついているのはごくごく当たり前で、その形のまま、平安~江戸を生き抜いた万年寺でしたが、その後、明治維新を迎えますが、ご存知の明治初期の神仏分離&廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により万年寺が廃寺とされ、残った須賀神社に、山の麓の鎮守の神であった意賀美神社と日吉神社を合祀して、現在の意賀美神社に至る・・・という事です。

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万年寺の面影を残す十三重の石塔

また、戦国時代の永禄二年(1559年)には、万年寺より南西側の高台の御坊山(ごぼうやま)周辺に本願寺8代蓮如(れんにょ)の13男である実従(じつじゅう)による枚方御坊順興寺(じゅんこうじ)が営まれ、この順興寺を中心に枚方寺内町(じないちょう・じないまち=寺院や坊を中心に形成された自治集落で濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持つ)ができていましたが、元亀元年(1570年)、 例の織田信長(おだのぶなが)包囲網に本願寺代11代顕如(けんにょ=蓮如の玄孫)が参戦(9月12日参照>>)・・・いわゆる石山合戦が勃発した事から信長の焼き討ちに遭い、順興寺は焼失していまいます。

Dscf4139a650tt ★現在の御坊山(順興寺跡地)には実従上人のお墓があります→

しかしながら、順興寺はなくなったものの、町衆の経済&流通中心の寺内町の機能は残り、 やがて慶長十六年(1611年)に順興寺が枚方御坊(後に願生坊に改名)として現在の場所(枚方元町)に復活(同時期に大隆寺も建立)・・・

万年寺山と御坊山に挟まれたそこは、江戸時代を通じて枚方宿の物資の流通を担う問屋場の一時保管の場所として蔵が建ち並び、ここから三矢の浜(淀川の浜辺です)あたりまでは蔵の谷と呼ばれる地となります。

つまり、豊臣の時代=枚方城があった時代は、万年寺山には万年寺と須賀神社と枚方城があり、順興寺を失った枚方寺内町が京街道の宿場町の様相へと変化する転換期という事になります。

で、そんな中で、その位置を探る1番の目安となるのは、以前もご紹介した意賀美神社の梅林の西側にある御茶屋御殿(おちゃやごてん)跡・・・(9月27日参照>>)

三矢村(みつやむら=現在の枚方市三矢町)に残る記録『奥田家文書』によれば、自らの家臣となった本多政康の娘=乙御前(おとごぜん)をたいそう気に入った秀吉は、文禄四年(1595年)に、京街道を見下ろすこの地に彼女のための御殿を建てて側室とした事で、以来、この万年寺山は御殿山とも呼ばれ、政康の本多家も大いに栄えたものの、あの大坂の陣>>で豊臣方についた本多政康は討死し、本多家も豊臣とともに滅亡して枚方城は廃城となってしまったとか。。。

ただ、その後も御茶屋御殿は残り、元和九年(1623年)には、家康の後を継いだ第2代江戸幕府将軍=德川秀忠(ひでただ)の宿泊施設として大改築されたものの、その後は利用される事無く、倉庫のようになっていた中、延宝七年(1679年)に起こった枚方宿の火災によって延焼&焼失したと伝えられます。

Dscf3884a この御茶屋御殿跡は、万年寺山の北端の位置にあたり、そこから北側はかなり高低差のある斜面となっていて、淀川の流れが望める風光明媚な場所で、すぐ下には京阪電車が走っています(写真②御茶屋御殿付近から北面を望む↑)

また、御殿跡から続く神社参道には、「長松山萬年寺」と刻まれた石柱や十三重の石塔があり、これが万年寺の名残り・・・つまり、この周辺が万年寺の境内だった事がわかりますので、おそらく枚方城の建物などは、ここから南に建っていた物と思われます。

で、ここから、そのまま南に参道沿いを進んで行くと、大きな(むく)の木を従えた田中家鋳物工場跡(たなかけいものこうじょうあと)に行きつきます。

この椋の木は、枚方市の天然記念物に指定されており、樹齢600年~700年と言われていますので、つまりは、ここに枚方城があった時から(こんなに大きくないかも知れないけれど)立っていた事になります。
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↑写真③椋の木の東側の斜面(パノラマ撮影・左上の大きな木が椋の木です)

代々鋳物師(いもじ)として繁栄して来た田中家の歴史は古く、元明天皇の和銅年間(708~15年)の頃には、すでに鋳物職を生業とし、皇室から硬貨の鋳造を命じられたりしていたそうですが、この地に工場を構えたのが確実視されるのは安土桃山時代以降・・・椋の木は鋳物製品の研磨に用いられていた事から、「鋳物師あるところムクノキあり」と言われるそうなので、察するに、枚方城が廃城となるかならないかのあたりに、この大きな椋の木を求めて、田中家が、この地に移転して来られたものと思われますが、この椋の木の東側が、これまた崖のような高低差となっています。

そして、この田中家鋳物工場跡を、さらに南に進んで行くと、枚方城の比定地とされる枚方小学校となるのですが、この枚方小学校のグランドの南東側に隣接する坊主池公園との高低差が、またまたスゴイ事になっているのです。

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(写真④小学校横から坊主池公園への高低差↑左)
(写真⑤坊主池公園側から小学校への高低差を仰ぎ見る↑右)
↑の右写真では、光が飛んで見え難くなってますが、階段を上った上に小学校グランドのネットが肉眼では見えているんです。
小学校の建ってる場所はけっこう平坦なので「わざとやろ?」っていうくらい、いきなりの崖ですww

Dscf4150a1000 (写真⑥御坊山(右手前)麓から万年寺山(奥)を望む→)
また、万年寺山から蔵の谷を挟んで南西側の御坊山(順興寺跡地)には、現在は実従上人の墓所となっていますが、この御坊山の周囲もメチャメチャ崖なんですよ。

・‥…━━━☆

ではでは、
Hirakatazyou1 この周辺の「地理院地図」>>をお借りして、

Hirakatazyou2 そこに高低差(起伏)を示した地図を重ね、

上記の目安となる場所を書き込んでみると……こんな感じ↓

Hirakatazyou3c
万年寺山の高低差を踏まえ、その高低差を天然の要害として利用したとすれば、おそらく、この地図の真ん中あたりに城の様々な建物が構築されていたと思われます。

これなら、上記の『日本城郭大系』にあった「枚方で最も高く、舌状大地の最突端で三方は深い谷となっている」という条件にも当てはまります。

Hirakatazyou4c ←の、未だ宅地開発される前の大正十一年(1922年)の古地図を重ねてみても、なんとなく納得の雰囲気ですね。

京街道沿いには、すでに家屋が建っていますが、万年寺山には田中家あたりに家があるものの、まだ多くが、そのままの状態になっているように見えます。

とは言え、御坊山周囲の崖的な雰囲気を見てもお解りの通り、先の寺内町時代にも、交野(かたの)など、近隣の村々からの侵入を防ぐための土塁や土居堀などが構築されていたようですから、枚方城オリジナルではなく、すでにあったそれらの防御策を利用しての構築だったと思われますので、そこも加味して考えないといけませんが。。。

てな事で、今回は、地の利を活かし、かつて枚方にあった枚方城の痕跡を求めて、周辺を散策してしてみましたが、少しは垣間見えたでしょうか?

写真は地図も含め、すべてクリックで大きく表示されますので、じっくりと、その高低差を確認してみてください。
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2019年5月19日 (日)

粉河寺と高野山領の水争い~野上村の戦い

 

応仁元年(1467年)5月19日、紀州和歌山にて根来衆を巻き込みつつ、粉河寺領高野山領の間で起こった抗争・野上村の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

紀伊の国(和歌山県)丹生屋村(にゅうのやむら=和歌山県紀の川市・丹生谷とも)粉河寺(こかわでら=同紀の川市)内の北東部分にあたる場所にありましたが、東隣の名手荘(なてのしょう=同紀の川市)高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に属しているので、言わば国境・・・なので、この両者の間には、平安~鎌倉の頃以来、断続的に争いが続いていた場所でした。

「隣」という理由だけで「争う」???
今ではピンと来ないかも知れませんが、実は、農業の盛んな地域ではごくごく最近、昭和の時代にでもあった事・・・そう、「水争い」というヤツです。

そもそもは、日本の国土の70%を占める山々に降り注ぐ雨は、大河となって平野部へと流れ、古代には度々の氾濫を繰り返していたのを、昔の人々は土地を畔(あぜ)で囲い、大河をいくつもの川に分散して水路を張り巡らし、肥沃な農地に変えていったわけですが、

この水路というのは川の一部をせき止めて、横道にそれさせているわけですので、当然、大量に横道に誘導すれば、その後の川の水の量は減る事になる・・・雨が多い時期は、それでも大丈夫ですが、雨が少なくなると、上流の場所で大量に横道に流されては、下流に住む人々の場所まで水が流れて来ない事になっちゃいます。

そうなると、
「ちょっと、せき止める量を少なくしてよ~」
って事になりますが、ここまでになった場合、大抵、日照り続きの大干ばつ状態ですから、上流に住む農民たちにとっても生きるか死ぬかの状態なわけで、そう簡単に
「ほな、流しまっせ~」
とはいかないわけで・・・

で、結局、どうにもならない下流の住人は力づくで上流の堰(せき)を壊しに行ったり、相手の村を襲撃したり・・・って事になるわけで、ここでは椎尾山(しいのおやま)の山林資源と水無川(みなせがわ=名手川)の水の領有を巡って、度々争っていたのです。

永享五年(1433年)には、粉河寺を攻撃しようとした高野山側を、守護の畠山満家(はたけやまみついえ)が出張って来て制止し、何とか止めさせたものの、これに不満を持つ暴徒が高野山の坊舎に放火して多くの建物が燃えてしまったという事もありました。

Kiimizuarasoi 
野上×丹生屋の水争い位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなの応仁元年(1467年)、都では、あの応仁の乱がくすぶり始めた5月、またもや丹生屋村と名手荘の水争いを発端に大きな戦いが起こってしまうのです。

5月8日、まずは名手荘側の人間が丹生屋村に押し寄せて村に火をつけてまわって焼き払うと、それに怒った丹生屋村の住人が粉河寺に相談・・・すると、今度は粉河寺衆も加わって名手荘に属する野上(のがみ)に放火して報復を開始します。

当時の名手荘には、野上村の他にも馬宿(うまやど)村など5つの村があったようですが、野上は、その中でも比較的在家数が多い村で、おそらくは、そこの代表格で在地の土豪(どごう=土地に根付く武士)であろうと思われる野上九郎左衛門なる者が、籠城して戦った事が『粉河寺旧記』に記されています。

やがて、そこに、名手荘周辺の高野山領各地の荘の土豪たちが応援に駆け付けた事から、粉河寺側も大伴弥三右衛門なる人物を大将に立てて、粉河寺領内の村々から人数を集めて、連日連夜の小競り合いを繰り返していたのですが、

5月14日になって、粉河寺からの応援要請に応えた根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)の衆徒たちが、粉河の西の長田(ながた=同紀の川市)まで浸出して来た事で、合戦が大規模になる様相を呈して来て、緊張はピークに達します。

さすがに、ここまで来ると「村同士のモメ事」の域を超えていたと見え、守護の畠山もシカトするわけにいかず・・・って、何たって上記の通り、この年には応仁の乱が!!

そもそも、応仁の乱の発端となるのが、この応仁元年(1467年)1月17日に勃発した御霊(ごりょう)合戦(1月17日参照>>)畠山政長(はたけやままさなが=東軍)畠山義就(よしなり=西軍) による畠山の後継者争いなのですから、そっちに集注したい両畠山にとって、同時期に起こった領国内での争いは一刻も早く片付けてしまいたいわけで・・・

早速、守護代の神保(じんぼう)現地に派遣して仲裁に当たらせます。

かくして応仁元年(1467年)5月19日「流水は従来の通りにして、お互いに妨害しない」事を約束して両者が和解に至り、今回の騒動は一件落着となりました。

とは言え、ご存知のように、実は、粉河寺と根来寺もなかなかに抗争を繰り返していた仲なわけで・・・現に、この数年前にも、同じような水争いで、けっこう大きなドンパチをやらかしちゃってます。

なので、本当に「粉河寺のひと声で根来衆が動くのか?」てな疑問も残りますが、以前書かせていただいた【織田信長の高野山攻め】>>でも垣間見えるように、 その時々の利害関係によって立ち位置を変える柔軟さと独立性を持っていたのが中世の彼らの姿のようにも思えますので、そういう事もあったのかな?と思います。

そして、いよいよ、この水争い終結の翌日・・・畠山がらみの、あの応仁の乱が京都にて勃発する事となります(5月20日参照>>)
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2019年5月12日 (日)

長島一向一揆の討伐に織田信長が出陣



元亀二年(1571年)5月12日、織田信長が長島一向一揆討伐のため5万の大軍を率いて尾張津島へ出陣しました。

・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月、今は亡き第13代将軍=足利義輝(あしかがよしてる)の弟=足利義昭(よしあき=義秋)を奉じて(10月4日参照>>)上洛する織田信長(おだのぶなが)は、その行く手を阻む南近江(滋賀県南部)六角承禎(ろっかくじょうてい・義堅)を蹴散らし(9月13日参照>>)、畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通らを、彼らが担ぐ14代将軍=足利義栄(よしひで)&管領=細川昭元(ほそかわあきもと)もろとも阿波(あわ=徳島県)へと退かせ(9月7日参照>>)、無事、義昭を第15代室町幕府将軍の座に座らせました(10月18日参照>>)

しかし、その後、何度かの打診にも関わらず、いっこうに新将軍への挨拶に来ない越前(福井県)一乗谷朝倉義景(あさくらよしかげ)に対し、信長が、元亀元年(1570年)4月、その最前線となる手筒山・金ヶ崎城(かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始する(4月26日参照>>)と妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけていたはずの北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(2011年6月28日の前半部分参照>>)が、浅倉方にて参戦して来た事から、挟み撃ちを恐れた信長が撤退・・・これが有名な「金ヶ崎の退き口」ですが(4月27日参照>>)、、、

ここで危機一髪の苦汁をなめさされた信長は、2か月後に近江へ侵攻して、浅井浅倉連合軍との姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦いに勝利します(6月28日参照>>)

しかし、ここで深追いせずにいた事で、ある程度の力を温存できた浅井浅倉が南下して来て、宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)の戦い(9月20日参照>>)堅田(かただ=同大津市)の戦い(11月26日参照>>)などで抵抗し、そこから逃げた残党を比叡山延暦寺(えんりゃくじ=同大津市)が匿った事が翌年の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)へと発展して~と、ここらあたりから、いわゆる「信長包囲網」が形成されていくわけですが・・・
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信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな浅井浅倉とドンパチやってる真っただ中でも信長は忙しい・・・畿内に舞い戻って信長に抵抗していた三好三人衆との野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の戦い(8月26日参照>>)さ中の元亀元年(1570年)9月、この野田福島の戦いに本願寺第11代法主顕如(けんにょ)参戦して来たのです(9月13日参照>>)

実は、
もともと本拠としていた山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を40年ほど前に焼き討ちされた(8月23日参照>>)後、浄土真宗本願寺が現在本拠としていたのが、かつて第8代法主=蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)の隠居所だった大坂御坊(3月25日の後半部分参照>>)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市・現在の大阪城の場所)だったのですが、ここ最近、この絶好の場所を「譲ってほしい」と信長が言って来ており、それに対抗すべく全国の信徒に向けて一揆を蜂起するよう檄文を発布し、自らが先頭に立っての参戦でした。

・・・で、
「教祖様が立ちあがったひにゃ、ワシらも!」
とばかりに蜂起したのが、木曽三川(きそさんせん=木曽川・揖斐川・長良川)の河口付近の輪中(わじゅう=水害から守るために周囲を囲んだ堤防や集落)地帯である長島(ながしま=三重県桑名市)の本願寺門徒・・・ここは、室町中期に蓮如の息子である蓮淳(れんじゅん)願証寺(がんしょうじ)を建立して以来、寺を中心に本願寺門徒が周辺の国人領主(地元に根付いた武士)を取り込んで、砦などを設けて武装化した本願寺門徒の一大拠点となっていた場所でした。

元亀元年(1570年)11月、武装した一揆衆は、代々伊藤一族が城主を務めていた長島城(ながしまじょう=三重県桑名市)に大軍で押し寄せて伊藤一族を追放して城を奪取した後、この長島城を拠点に、信長の弟=織田信与(のぶとも・信與)が守る古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃し、信与を自害に追い込んだのです(11月12日参照>>)

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長島一向一揆&小木江城の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

弟が犠牲になったのですから、そりゃもう、信長さんも激おこMAX!!

早速信長は、未だ絶賛戦闘中の六角承禎父子らと和睦したり、足利義昭などを通じて浅井浅倉などとも和睦調停を結び、とりあえずこの年の暮れには、一旦、周辺を落ち着かせる事に成功します。

ところが、翌元亀二年(1571年)早々、信長配下で横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を任されていた木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が浅井方の磯野員昌(いそのかずまさ)佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)をごと寝返らせた事から、5月 6日、今度は浅井長政が、その前年に浅井から織田へと転身した堀秀村(ほりひでむら)らが守る箕浦城(みのうらじょう=滋賀県米原市箕浦)を襲撃・・・これに近江の一向一揆が浅井を加勢します。

しかし、即座に反応した秀吉が見事これを鎮圧・・・(5月6日参照>>)

これに気をよくした信長は、元亀二年(1571年)5月12日長島一向一揆をせん滅すべく5万の大軍を長島に派遣し、自らも尾張津島(つしま=愛知県津島市)まで出陣します。

津島に着陣すると同時に信長は、佐久間信盛(さくまのぶもり)以下、浅井政貞(あざいまささだ)和田定利(わださだとし)らの一隊を中筋口(長島町大鳥居)の島東部から、柴田勝家(しばたかついえ)以下、氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)不破光治(ふわ みつはる)らの一隊を揖斐(いび)西岸の多岐(たぎ)山麓から太田口に向かって進撃させました。

5月16日、周辺の村々に放火した織田軍は、この日は、そのまま退去するつもりで兵を退きあげようとしますが、一揆勢は、そこをすかさず山側に移動・・・待ち伏せの体制を取り、眼下の道を織田軍の最後尾が通るタイミングで以って、待機していた弓&鉄砲の名手が一斉に射撃を開始すると同時に歩兵がドッと攻めかかります。

右は揖斐川、左は一揆の射撃隊がいる山の崖・・・しかも崖の下のこの道は、騎馬なら一騎ずつしか通れないような細い道で、もし敵に出会おうものならお互いに一騎打ちで対戦するしかないような場所でした。

そう・・・地の利を知る一揆勢が、少数で大軍を迎え撃つために選んだ最高の場所だったというワケです。

混乱する中でも戦う織田勢・・・織田軍本隊と、少し先を行っていた佐久間隊は、すぐに兵を退かせる事に成功しますが、殿(しんがり=軍隊の最後尾)を務めていた柴田隊は完全にピンチ!

それでも、踏ん張って防戦する柴田隊でしたが、惜しくも勝家自身が負傷したため撤退します。

その後、殿の2番手だった氏家隊が敵を受け止めて戦いを継続しますが、残念ながら氏家卜全は討死してしまいました。

もちろん、彼らの配下の将兵の死傷者は数知れず・・・信長による長島一向一揆攻めの初回は、見事な敗北となってしまったのです。

この後、9月には
【近江一向一揆】>>
例の
【信長の比叡山焼き討ち】>>
さらに、その翌年には
【越中一向一揆】>>(←これは上杉謙信との戦いですが)
と、一向一揆は激しさを増していきますが、

どうやら、一揆側も一枚岩では無いようで・・・と、そのお話は【石山本願寺の総大将・下間頼総の追放】>> でどうぞm(_ _)m
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2019年5月 6日 (月)

大坂夏の陣・八尾の戦い~桑名吉成の討死

 

慶長二十年(1615年)5月6日、大坂夏の陣の八尾の戦いにて旧主君・長宗我部盛親と戦った桑名吉成が討死しました。

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桑名吉成(くわなよしなり=弥次兵衛)桑名家は、もともとは、あの平清盛(たいらのきよもり)と同じ伊勢平氏で、「その手は桑名の焼き蛤」で有名?(って言っていいのかな?)伊勢(いせ=三重県北中部)桑名(くわな)出身だったので、苗字を桑名と名乗ったとされますが・・・

とりあえず、戦国期にはすでに土佐(とさ=高知県)にいて、吉成の父である桑名藤蔵人(とうぞうじ)やその兄(つまり伯父さん)桑名重定(しげさだ)らが長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の下で、その四国統一(10月19日参照>>)に大活躍した事から中村城(なかむらじょう=高知県四万十市)の城代に抜擢された家柄だったとか・・・

しかし、ご存知のように、長宗我部元親が四国を統一した翌年の天正十三年(1585年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)が、弟の羽柴秀長(はしばひでなが)を総大将にした大軍で以って四国に上陸(7月25日参照>>)・・・敗北を喰らった長宗我部元親は降伏し、なんとか土佐一国の所領を安堵され、今度は、秀吉の配下として生きていく事になります。

その秀吉配下としての戦場は、ほどなく訪れます・・・そう、秀吉の九州平定です。

翌天正十四年(1586年)の4月、かつては豊後(ぶんご=大分県)の王と呼ばれた大友宗麟(おおともそうりん)大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を訪れ、秀吉に薩摩(さつま=鹿児島県)の島津(しまづ)討伐への救援を願い出たのです(4月6日参照>>)

九州と言えば、かつては、この宗麟に加え、日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)肥前(ひぜん=佐賀県)熊と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)がなど群雄割拠していましたが、ここに来て島津中興の祖と呼ばれる島津貴久(たかひさ)の血を受け継ぐ、絆バッチリの島津四兄弟(6月23日参照>>)にことごとく敗れ、
耳川の戦い>>
沖田畷の戦い>>
もう誰も島津の勢いを止められなくなっていたわけで・・・その要請を受けて九州平定へ乗り出す秀吉。

この時代のこういう場合には、直前の戦いで敗れて、その傘下となった者が先頭=矢面に立たされるのが常・・・何たって、未だ本気で味方になったかどうかは怪しいわけで、ここで見事、秀吉のために戦って、その忠誠心を見せてこそ信用に値する事になるわけです。

かくして長宗我部元親とともに、讃岐(さぬき=香川県)仙石秀久(せんごくひでひさ)阿波(あわ=徳島県)十河存保(そごうながやす)らで構成した5千の兵が九州に派遣されますが、上記の通り、長宗我部元親は征服された側の四国勢ですが、仙石秀久は秀吉の四国平定後に配置された側で、今回の出兵では軍監(ぐんかん)という役割・・・総大将では無いので、あくまで3人は対等の立場ではありますが、仙石秀久が長宗我部元親の監視役である事は確か・・・

そんな仙石秀久は、「様子見ながら…」を主張する元親の意見を真っ向から反対し「短期決戦あるのみ!」の主張を押し切り、それぞれがギクシャク感満載のまま戦いへ突入してしまいます。

案の定、あちこちで寸断された秀吉勢は、指揮命令系統もグジャグジャになり、この戸次(へつぎ)川の戦い(11月25日参照>>)秀吉側の大敗北・・・元親は大事な跡取り息子=信親(のぶちか)をも失ってしまうのです。

Kuwanayosinari700a この時の撤退戦で、主君を守って活躍するのが、今回の主役=桑名吉成です。

こういう大敗後の撤退は、大抵困難を極める物・・・なんせ、それまで静観していた地元民や、臨時雇いのような末端の兵士たちが、少しでも名のある武将の首を取って、何とか勝った側からの褒美にありつこうと、一瞬にして落武者狩りに回ってしまうからです。

この時も、落ち武者狩りの集団が一揆と化し、敗軍の将に一気に襲い掛かって来ましたが、その事を予想ずみの吉成は、主君の元親を守りつつ、ある時は身を隠し、ある時は堂々と振舞って相手を蹴散らしつつ、無事、土佐に帰還する事に成功しています。

この時の吉成の働きが、いかに素晴らしかったを物語っているのが、元親の遺言・・・元親は、その死の目前に、四男の盛親(もりちか)を呼び寄せ、
「合戦の際は、必ず吉成を先手として采配を振るわせよ」
と言い残したと言います。

その後、天下統一を果たした秀吉のもとで、元親の後を継いだ盛親とともにいた吉成ですが、やがて訪れたのが、あの関ヶ原の戦い・・・(くわしい合戦の内容については【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞ)

この時、本チャンの関ヶ原では西軍の主力であった南宮山(なんぐうさん=岐阜県大垣市)に布陣していた盛親以下長宗我部軍・・・この時、この南宮山に布陣していたのは、西軍総大将であるものの大坂城に留まっていた毛利輝元(もうりてるもと)の名代として現地で来ていた毛利秀元(ひでもと=輝元とは従兄弟)吉川広家(きっかわひろいえ=同じく輝元の従兄弟)安国寺恵瓊(あんこくじえけい=秀吉の側近で石田三成と通通)(9月23日参照>>)長束正家(なつかまさいえ=豊臣五奉行の一人)(10月3日参照>>) 、そして長宗我部盛親でしたが、

この中で安国寺恵瓊と長束正家は西軍ドップリの主力部隊でしたが、先方に布陣していた吉川広家は、すでに東軍総大将=徳川家康(とくがわいえやす)「戦いに参加しない事で所領を安堵する」の密約を交わしており、その約束通りにまったく軍を動かさず、しかも戦いの状況を後方に報告する事もなかったため、その後方に位置する全員がまったく動かないまま、戦いは東軍の勝利となってしまうのです。

結果的に関ヶ原の本チャンには参加しないままに敗戦を知り、伊賀(いが=三重県西部)から和泉(いずみ=大阪府西南部)を抜けて大坂、さらに土佐へ戻った盛親たち・・・実は、この時、盛親も家康からのお誘いを受けていて、東軍に寝返る事を決意しており、その旨を知らせる使者を家康に送ったものの、その使者が土佐弁丸出しで西軍に見つかってしまい、OKの返事を届けられないまま本チャンを迎えてしまったとも言われています。

とにもかくにも、もし、東軍に寝返る気があったのだとしても、返事が届いていないなら、どのみち敗れた西軍側の人なわけで・・・しかも、戦後のなんやかやの交渉中にややこしい事になり、結局、長宗我部家はお取り潰しとなり(5月15日参照>>) 、本拠の浦戸城(うらどじょう=高知県高知市浦戸)は徳川に接収される事になってしまいました。

しかし、負けたとは言え、関ヶ原では無傷だった長宗我部軍の中には、今回の戦後処理を不服とし、城の明け渡しに反対する者も多数・・・それは、浦戸一揆(うらどいっき)と呼ばれる籠城戦(12月5日参照>>)となりますが、
「このまま抵抗しても、全員がつぶされるだけ…」
と判断した吉成は、知り合いの僧侶を派遣したり、自らも説得当たったりつつ、半ば強硬ではあるものの、何とか開城にこぎつけました。

かくして長宗我部盛親は浪人となり、当然、吉成も浪人となったわけですが、実は、これまでの撤退戦や今回の戦後処理など・・・吉成の手腕に惚れ込んでいた武将がいたのです。

それは藤堂高虎(とうどうたかとら)・・・浅井長政(あざいながまさ)から秀吉、そして家康と渡り歩いていながら、どの主君にも重用される築城の名人=高虎(6月11日参照>>)が、吉成のスゴ腕を求めて二千石で以って彼を召し抱えたのです。

このまま平安な時が続けば、高虎の下で、その政治手腕を発揮できたであろう吉成・・・しかし慶長十九年(1614年)、あの大坂の陣が勃発します。

ご存知、大坂の陣は、江戸にて徳川政権の維持をもくろむ徳川家康にとって、未だ朝廷からも一目置かれ、大坂城に居て一定の支持を受ける目の上のタンコブの秀吉の遺児=豊臣秀頼(とよとみひでより)をせん滅せんと、あらゆる手段を使って大坂方を戦場に引きずり出した戦いです。
(くわしくは【大坂の陣の年表】>>でどうぞ)

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

この時、かつての主君=長宗我部盛親は秀頼に招かれて大坂城へと入りますが、吉成は高虎の配下として、当然、徳川方で参戦します。

かくして慶長二十年(1615年)、戦いも後半の夏の陣

Oosakanatunozin0506 大坂夏の陣
 元和元年五月六日の布陣

 クリックで大きく(背景は
地理院地図>>)

去る4月29日の樫井(かしい=大阪府泉佐野市)の戦い(4月19日参照>>)に負け、紀州一揆(4月28日参照>>)との連携も取れなくなった大坂方は、生駒山地の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指す徳川方に対し、木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)らが今福(大阪市城東区)方面に布陣して北側の京街道をやって来る敵に備え、後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが)らを主力とする部隊が大和口方面隊を迎え撃つ事に・・・

慶長二十年(1615年)5月6日のこの日、後者の大和口方面で起こったのが道明寺・誉田(どうみょうじ・こんだ)の戦いですが、ソチラは4月30日のページ>>でご覧しただくとして……

他方、前者の北側の京街道を進む側で繰り広げられたのが若江・八尾(わかえ・やお)の戦い(2011年5月6日参照>>)です。

八幡(やわた=京都府八幡市)付近で京街道から分かれる東高野街道(ひがしこうやかいどう)を南下した徳川勢が、河内八尾村(やおむら=大阪府八尾市)付近で南北に流れる川の東側に布陣します。

迎え撃つ大坂方は、先の今福から南下して川の西岸に布陣した木村重成隊が若江(わかえ=大阪府東大阪市)付近にて徳川方の先鋒=井伊直孝(いいなおたか)隊と衝突。。。同じく、守備していた京橋口(きょうばしぐち=大阪市城東区)から南下した長宗我部盛親は久宝寺(きゅうほうじ=大阪府八尾市)付近にて藤堂高虎隊とぶつかる・・・そうです、この日、桑名吉成は旧主君&旧同僚たちと戦う事になったのです。

Yaokassentki
元和元年卯五月六日之陣備図(高知県立歴史民俗資料館蔵)

この日の朝、すでに道明寺で合戦が始まっているとの情報を受け取っていた藤堂隊は、援助すべく、さらに南下しようと考えていたところ、西に連なる堤防の向こう・・・すぐそばに敵がいる事を知り、軍を西に向けて堤防の側までやって来ます。

南北に広がっていた隊列が、堤防をスタートラインのように一つに合わせた後、タイミングを見計らって一斉に攻めかかると、堤近くの森にいた長宗我部盛親からは朝霧の向こうから紺地に真っ白な餅の旗が迫って来るのが見えました。

「堤の上は狭いので戦い難い」
と旗を降ろして低地へと移動した長宗我部隊に対し、
「敵は逃げるゾ!」
と我先に攻め込む藤堂隊・・・

一方の長宗我部隊は、 盛親の、
「間合いが遠いうちは一人も立つな!」
の命令を忠実に守り、敵が近づいてから、並べた槍の矛先で一斉に叩きつけたたため、功を急いでただ突き進んでいた一部の藤堂隊が乱れに乱れ、その乱れが瞬く間に全体の乱れとなり、将クラス63余騎、歩兵約3000名が討たれ、藤堂隊は手痛い敗北を喰らってしまったのです。

そう、その討たれた中には吉成の姿も・・・享年64、かつて命懸けで守った主君に刃を向けた、その心中には複雑な思いがあったやも知れませぬが、戦国を生きた老臣としては、おそらく、ここを死に場所として猛突進して果てたに違いなく、自らの死に様をも、すでに察していたのかも知れません。

その後の戦いの流れは・・・
上記の通り、長宗我部隊に圧倒され、もはや風前の灯だった藤堂隊でしたが、そこに若江にて木村隊を破った井伊隊が援軍に駆け付けて来た事で、分が悪いと判断した盛親が持ち場の京橋口へと退きあげたため、合戦の勝敗としては徳川方の勝利という事になります。

そしてご存知のように、ここを破られ、道明寺も突破された大坂方は、この翌日、徳川勢に本拠大坂城を取り囲まれ、総攻撃を受ける事になります。

参照ページ
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】>>
●【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦い】>>

そして、盛親・・・【長宗我部盛親の起死回生を賭けた大坂夏の陣】>>
大坂の陣で焼け落ちる大坂城から脱出するも、後に捕縛された時、
「赤旗(井伊の赤備え)に妨害されて高虎の首を取れんかったんが悔しい」
と言っていたらしい(『常山紀談』)ので、やはり、井伊の援軍が来なければ、この日の八尾での藤堂隊も、かなりヤバかったのでしょうね。
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2019年4月28日 (日)

信長ピンチの「金ヶ崎の退き口」で殿の木下藤吉郎秀吉は…

 

元亀元年(1570年)4月28日、金ヶ崎城の戦いにて浅井と浅倉の挟み撃ちに遭った織田信長が無事に退くため、織田軍の殿を務めた木下藤吉郎が金ヶ崎城より撤退しました。

・・・・・・・

永禄十一年(1568年)7月に、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)のもとに身を寄せていた足利義昭(あしかがよしあき・義秋)からの要請を受けた(10月4日参照>>)織田信長(おだのぶなが)は、義昭を奉じて上洛すべく、妹(もしくは姪)お市の方を嫁にやって縁を結んでいた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)の下を、出発の前月に訪れて上洛の道筋を再確認(6月28日前半部分参照>>)、永禄十一年(1568年)9月7日、いよいよ岐阜(きふ=岐阜県岐阜市)を出立しました(9月7日参照>>)

途中、浅井とは逆に上洛の道筋を譲ってはくれなかった六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)(9月13日参照>>)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通)(9月23日参照>>)などを蹴散らして、無事、上洛を果たし、10月18日に朝廷からの将軍宣下を受けた義昭が第15代室町幕府将軍に就任する(10月18日参照>>)という、ご存知の展開・・・

その後、信長は将軍=義昭の名のもとに、各地の諸将に将軍就任の挨拶に上洛するよう要請するのですが、それを拒んだのが、かの朝倉義景でした。

Asakurayosikage500a それは、かつては同じ主君=斯波(しば)氏のもとにいた織田へのプライドなのか?それとも、すでにギクシャクし始めていた義昭と信長の関係(1月23日参照>>)を見据えてか?・・・とにかく、翌年になっても信長の要請を拒みつづけます。

かくして元亀元年(1570年)4月20日、信長は3万の軍勢を率いて越前への遠征に出立し、同月25日から、朝倉の前線である天筒山金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始したのです(4月26日参照>>)

これに困惑したのが近江の浅井長政です。

なんせ浅倉とは長期に渡って同盟を結んでいる旧知の友・・・一方の信長とも、嫁の兄(もしくは叔父)として同盟を結んでいるわけで。

悩んだ末に結局、浅倉に味方する事とした長政に対し、この状況を知った信長が、「このままでは挟み撃ちになる!」とばかりに、即座に撤退を決断し、わずかの手勢を連れて金ヶ崎を出発する・・・という、有名な「金ヶ崎の退き口」ですが、
Anegawaitikankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この信長さんの状況については、以前の4月27日のページ>>を見ていただくとして、本日は、その殿(しんがり)を務めたとされる木下藤吉郎秀吉(きのしたとうきちろうひでよし=後の豊臣秀吉)のお話を、『絵本太閤記』に沿ってご紹介させていただきたいと思います。

ご存知のように、殿とは、軍を撤退する時の最後尾の位置・・・合戦における行軍は、向かう時よりも撤退する時の方がはるかに難しく、その中でも最後尾は、敵に追われながらの死を覚悟の乱戦となるは必至な場所ですから、最も危険な任務なわけで・・・

そんな危険な任務に秀吉が自ら名乗り出て・・・と、言いましても、実のところ、この「秀吉が殿軍の大将」という一件に関しては信ぴょう性が疑われる部分もあり、まして「太閤記」などは主人公が秀吉=殿下様々なので、まさにヒーロー伝説盛りまくりな部分も感じられるのではありますが、本日は、そこンとこを踏まえつつ、話半分な感じでよろしくお願いします。

・‥…━━━☆

絶賛攻撃中の4月27日、「浅井長政の挙兵に合わせ、浅倉義景も自らが本拠=一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市城戸ノ内町)を出馬する」。。。との一報が届いた織田軍の陣中にて、すぐに行われた評議の席にて、
「大量の旗を立てて、本隊が本道を退いて行って、本隊に信長さんがおると思って、浅倉の目をソチラに向けて食い止めてる間に信長さんは側近を連れて間道を進んで下さい。
例え浅倉勢が何千何万とおろうとも、この藤吉郎が殿を務め、2~3日は食い止めてみせますから安心しといて下さい」
と、秀吉が殿軍の大将を買って出ると、信長は
「よし!」
と・・・

かくして元亀元年(1570年)4月28日夜、佐久間信盛(さくまのぶもり)佐々成政(さっさなりまさ)など、一部の諸将を連れて陣を引き払い、西近江路を避けて若狭(わかさ=福井県西部)方面から琵琶湖(びわこ)の西岸を抜けるルートをひた走ります。

一方、柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)池田勝正(いけだかつまさ)らが率いる総勢6万の本隊(←盛ってるっぽい)は、信長の旗をド真ん中に守りつつ、堂々と本来の近江方面へ向けて撤退を開始します。

これを迎え撃つ浅井長政は、地の利を持つ本願寺門徒が示す要所に軍を配置して、信長と雌雄を決すべく構え、やって来た本隊に向けて鉄砲をお見舞いしますが、やがて、その本隊に信長がいない事を知って、
「どうやら、他の道で逃げたようだ」と察し、
ならば、戦うはムダと判断して、そのまま兵を退きます。

この間に手勢3千人(ホンマかいな?)で以って金ヶ崎に留まっていた秀吉は、残った彼らに向かって、
「俺は、ここで浅倉の大軍相手に稀代の武功を挙げ、先輩たちをアッと言わせたるねん」
と言って、その作戦を伝えます。

おそらく大軍を率いてやって来る義景は、もはや夜の10時を過ぎた今、到着後すぐに戦いを仕掛けて来る事は無いだろうと、まずは蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)又十郎(またじゅうろう)兄弟に千人を与えて城から離れた(敵をおびき寄せる予定の)道筋に伏兵として隠し、次に堀尾吉晴(ほりおよしはる)らの諸将に500人を付けて、それぞれに松明(たいまつ)と紙で作った旗らしき物を持たせ周辺の山や谷に放ち、合図に応じて一斉に松明に火をつけて旗を照らしつつ徘徊するよう手はずを整えます。

さらに浅野長政(あさのながまさ)に500人を付けて周辺の山々でかがり火を焚き、いかにも大軍がいるように見せ書けるよう頼み、秀吉自身は千余人で以って、城の前面にて構えます。

そこへ、3万5千余騎(←同じく盛ってるっぽい)を率いた浅倉義景が金ヶ崎城周辺に到着・・・しかし、まわりは日暮れはとうに過ぎた暗闇。

その中を遥かに望めば、左右の山におびただしい数の陣がかがり火を焚いて夜営中、
「さては、未だ信長は退いてはいなかったか?」
と思うものの、さすがにこの闇夜では大軍の統率も取り難く、味方の人馬の疲れもあり、浅倉勢も、この近くにて夜営をすべく陣を構えます。

「浅倉が夜営を敷いた」
との知らせを聞いた秀吉は
「計画どおり」
とほくそ笑みつつ、その夜も更けた頃・・・「今だ!」
とばかりに、まずは自身が1500人で以って浅倉の陣営を襲撃します。

浅倉勢が驚いて迎え撃つところに、秀吉の合図にて、四方の山々に隠れていた諸将の軍勢が一斉に松明に火をつけて鬨(とき)の声を挙げると、昼間のように明るくなる中で数え切れぬほどの旗が翻るさまは、まるで大軍が忽然と目の前に現れたかに見え、さらに驚く浅倉軍は、たちまち崩れ、散り散りに敗走していくのです。

そこをすかさず斬りこんで、あたりは瞬く間に屍の山と・・・

もちろん、中には冷静な将もいて、
「慌てるな!敵は小勢や。味方同士で同士撃ちするな!」
と声かけますが、もはや大勢がパニック状態になっている中では崩れていく一方です。

そこを何とか逃げ出せた者にも、前方に待ち構えていた蜂須賀隊が斬って入る・・・そうなると、もはやどうしようもなく、大軍は総敗軍となって、それぞれに落ちて行くのが精いっぱい。

やがて白々と夜が明けると・・・
「…敵を討つ事八千余人、味方の手負い一人もなく…」(『絵本太閤記』談)
(さすがに、これ↑は盛り過ぎか?)
3千余兵は威風堂々と引き取った・・・と、、

・‥…━━━☆

と、まぁ、さすがに秀吉側の死傷者ゼロな点は、話半分どころか、話4分の1くらいな盛り感満載ですが、ご承知の通り、この時の信長が無事この窮地を脱した事は事実ですし、琵琶湖の西を行った信長に対し、越前から近江にかけての敗走の道で、織田軍の殿が頑張った事は確か・・・

また、永禄六年(1563年)から続いていた若狭の武田(たけだ)氏との戦い(8月13日参照>>)の影響で、この頃の浅倉軍はかなり疲弊していたとも言われ、そこに、相手が大軍と言えど、殿軍が奮戦できる余地があったのかも知れませんね。
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2019年4月22日 (月)

戦国の幕開け~細川政元による将軍交代クーデター「明応の政変」

 

明応二年(1493年)4月22日、室町幕府将軍を足利義稙から足利義澄に交代させる細川政元によるクーデター「明応の政変」が決行されました。

・・・・・・・・

もともと、応仁の乱の原因の一つである室町幕府将軍の継承問題・・・(5月20日参照>>)

応仁の乱の時は、当時、子供がいなかった第8代将軍=足利義政(あしかがよしまさ)が、出家していた弟=足利義視(よしみ)を、わざわざ還俗(げんぞく=出家した人が俗世間に戻る事)させてまで、次期将軍に…と約束したにも関わらず、その直後に正室=日野富子(ひのとみこ)との間に男子=後の足利義尚(よしひさ)が生まれたために、話がややこしくなって・・・

もちろん、それだけではなく、代々管領(かんれい=将軍の補佐)を受け継いでいた三管領家(細川・斯波・畠山)のうち斯波(しば)畠山(はたけやま)の後継者争い(1月17日参照>>) や、やっぱり次代の家督を巡ってモメていた各地の武家や同じ領地を取り合ってた武将同士がそれぞれに分かれて縦ラインでくっついて~みたいな、様々な要因があるわけですけどね。

とにもかくにも、色んなところの色んなモメ事が合体しつつ10年以上に渡って行われた応仁の乱は、東軍の総大将であった細川勝元(ほそかわかつもと)&西軍の総大将だった山名宗全(やまなそうぜん=持豊)の両巨頭の死(3月18日参照>>)を以って下火となり、それぞれの息子である細川政元(まさもと)山名政豊(まさとよ)によって和睦交渉が成され、第9代将軍は義政の実子=義尚が継ぐ事で落ち着きました。
(それぞれの武家の争いには、まだまだ続く物もあります(12月12日参照>>)

ところが、その後を継いだ息子=義尚が、幕府に歯向かうの六角氏討伐にあたっていた近江鈎(まがり)(12月2日参照>>)の陣中にて25歳の若さで病死(3月26日参照>>)・・・しかも、未だ後継者ももうけておらず・・・

Asikagakuboukeizu3 ●足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

で、8代将軍の嫁で亡き9代将軍の生母である富子の要望もあって、結局、義視の息子の足利義稙(よしたね=義材)が10代将軍を継ぐことに・・・なんせ、義視の正室は富子の妹なので、つまりは甥っ子ですから、以前はモメたものの、なんだかんだで息子の代わりは彼しかいないわけで・・・

とは言え、将軍就任の当初から、この義稙の将軍には反対の意を示す者も少なからずいたのです。

なんせ、現在、政権の中枢にいる人たちは、あの応仁の乱では義視&義稙父子とは敵の立場にあった人たちなわけですから、今回、義稙が将軍に就任するとなると、当然、その応仁の乱直後に義稙とともに逃げ隠れしていた側近たちもついて来る事になるわけで、今度は逆に、自分たちの地位が彼らに取って代わられる事になるかも・・・

すでに3度の管領を経験している細川政元も、その一人・・・しかも、あの応仁の乱時代には、細川とともに管領を継ぐ立場にあった斯波氏と畠山氏が、ともに乱後も続きっぱなしの後継者争いに目いっぱいで自ら衰退の道をたどり、三管領家のうち、 もはや幕府の中枢にいるのは自分とこの細川のみ・・・

そこで、幕府内政権を掌握すべく動く政元は、まずは延徳三年(1491年)に九条政基(くじょうまさもと)の息子をわずか2歳で養子に迎え、細川家の後継ぎが代々名乗る聡明丸(そうめいまる)を名乗らせます。

摂関家のおぼっちゃまを細川家の養子に迎えるというのは初めての事で極めて異例ですが、彼の母親が、足利義政の弟である足利政知まさとも)の奥さんの妹だった事から、その足利政知との関係を重視しての養子縁組だったわけです。

 この足利政知は、第6代の将軍=足利義教(よしのり=義政の父)の時代に中央幕府に歯向かった鎌倉公方足利持氏(もちうじ)(2月10日参照>>)に代わって、正式な鎌倉公方として東国に派遣された人物(戦乱で鎌倉に入れなかったため堀越に御所を設け堀越公方と呼ばれる)で、彼の三男である潤童子(じゅんどうじ)は次期公方に予定されていたのです。

そして、政元が次期将軍に推していたのが、政知の次男である足利義澄(よしずみ=清晃)・・・
つまり、
将軍=義澄に、
その弟が鎌倉公方、
そこに母親が姉妹同志
(=従兄弟)の聡明丸が管領細川家を継ぐ
という政権の構図が政元の中にあったわけです。

しかも、ここに来て幕府は、先の将軍=義尚と現将軍=義稙、この2人の将軍を要しても、近江(おうみ=滋賀県)にて反発する六角高頼(ろっかくたかより)という一武将すら、まともに制する事ができないという、将軍の体たらくを露見させてしまいます(12月13日参照>>)

 なのに将軍=義稙は、明応二年(1493年)正月、畠山義豊(はたけやまよしとよ=基家)討伐のため、河内(かわち=大阪府東部)出陣の大号令を各大名に向けて発するのです。

これは、例の応仁の乱以来モメている畠山氏の家督争い(7月12日参照>>)の一方(畠山政長側)の味方を幕府=将軍がする事になるわけで・・・

政元が反義稙派を着々と集める中、さすがの日野富子も、ここに来て政元の側につく中、先の六角との戦いの時には将軍=義稙ベッタリだった大物=赤松政則(あかまつまさのり)に自らの妹を嫁がせて(3月11日参照>>)味方につけた政元は、いよいよ、将軍すげ替えクーデターを決行します。

Hosokawamasamoto700明応二年(1493年)4月22日の夜、例の河内に出陣した義稙に随行せず、京都に留まっていた細川政元は、 留守中の義稙の将軍職を廃し、僧となっていた義澄を還俗させて保護し、第11代将軍として擁立したのです。

さらに、義稙の関係者の邸宅や寺院を襲撃して京都を掌握・・・金に物を言わせて朝廷も味方につけていますが、さすがに将軍宣下までは受けられず、この時は官位を授かるのみに留まりましたが・・・

その後、翌閏4月、義稙らの籠る正覚寺(しょうがくじ=大阪市平野区加美)を政元配下の上原元秀(うえはらもとひで)らが率いる4万の軍勢が攻撃します。

一方の義稙側には、同行する畠山政長(はたけやままさなが)の地元=紀州(きしゅう=和歌山県)から援軍が駆け付けるはずでしたが、コチラは(さかい=大阪府堺市)に集結していた政元方によって行く道を阻まれて進めず・・・結局、援軍が望めない事を知った政長が閏4月25日に自害した事で、義稙は投降を決意し、その後、政元らによって幽閉されました。

ここに、細川政元によるクーデター「明応の政変」は完結したのです。

しかし、世の中、そう思い通りにはいかない物・・・

実は、この政変の2年前の延徳三年(1491年)、父=足利政知の死を受けた長男の足利茶々丸(ちゃちゃまる)弟の潤童子とその母を殺害して、事実上の堀越公方になっていたのです。

彼=茶々丸は、一説には、素行が悪く乱暴者だったため、父=政知の命令によって幽閉されていたとも、我が子を次期公方にしたい潤童子の母親によって幽閉されていたとも言われますが、とにもかくにも、何かの事情で廃嫡(はいちゃく=後継者から除外される事)されて20歳過ぎても元服すらさせてもらえずに牢獄に閉じ込められていた茶々丸が牢番を殺害して脱獄&実力行使で、堀越公方の座を弟から乗っ取ったわけです。

なので、将軍&公方&管領後継者を、自身の思い通りに構成する政元の思惑は、この政変の時点で、すでに消えていたわけですが、それはそこ、「将軍さえ思い通りなら、何とか修正可能」と、まだ思っていはず・・・

ところがドッコイ、政変から、わずか半年後の明応二年(1493年)10月、この茶々丸の堀越館が伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき=北条早雲)に襲撃され、堀越公方が事実上滅亡してしまうのです(「伊豆討ち入り」10月11日参照>>)

ご存知のように、その後の北条は、これキッカケで約100年に渡って関東を牛耳る事に・・・くわしくは【北条・五代の年表】で>>

一方の政元・・・政変の翌年に、無事、義澄の将軍宣下はなされるものの、事態はヤバし・・・やむなく政元は、文亀三年(1503年)に細川家の支族である阿波(あわ=徳島県)細川家から養子を迎えて、その子に細川家の通字(とおりじ=その家系に代々受け継がれる字)である「元」のつく細川澄元(すみもと)を名乗らせ、先の聡明丸を澄之(すみゆき)と名乗らせる・・・つまり、聡明丸=澄之を後継者から外したわけです。

あ~あ┐( -"-)┌ 、自ら後継者争いフラグを立てちゃいましたよ~

わずかの間に大きく狂ってしまった政元の幕府掌握計画・・・やがて成長した義澄は自身の思う政治をやろうとして政元との間がギクシャクし始める中、澄元の出現によって追い払われた感が拭えない澄之派の家臣によって、永正四年(1507年)6月、細川政元は暗殺され、細川家は見事なまでの後継者争いに突入してしまうわけです(8月1日参照>>)

 さらに、澄元&澄之に加え、もう一人の養子であった細川高国(たかくに)も入って三つ巴の後継者争い様相を呈する中、翌永正五年(1508年)には、この混乱の乗じて幽閉先から脱出した前将軍=義稙が、周防(すおう=山口県)大内義興(おおうちよしおき)の支援を受けて上洛して将軍の座を・・・と、世はまさに戦国の幕開けへと向かっていくのです。

★その後の流れ
【船岡山の戦い】>>
【腰水城の戦い】>>
【等持院表の戦い】>>
【神尾山城の戦い】>>
【桂川原の戦い】>>
【東山・川勝寺口の戦い】>>
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2019年4月17日 (水)

秀吉VS勝家の賤ヶ岳前哨戦~滝川一益・峯城歌合戦

 

天正十一年(1583年)4月17日、柴田勝家と羽柴秀吉が戦った賤ヶ岳の戦いの前哨戦で、滝川一益の腹心・滝川儀太夫が守る峯城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後に、織田家家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)と、山崎で主君の仇を討った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)との間で信長の後継を巡って起こった争い=賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い・・・

信長の死から、ここまでの経緯は下記↓関連ページでご覧いただくとして…
●本能寺の変>>
●山崎の戦い>>
●清洲会議>>
●秀吉演出の信長の葬儀>>
●長浜城の戦い>>
●長島城の戦いが始まる>>
●亀山城の戦い>>
●勝家が福井を出陣&秀吉が佐和山に着陣>>
Sizugatakezikeiretu

簡単な流れとしては……
信長亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任するも、納得いかない信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に籠城して反発したので、秀吉が、信孝を推す勝家の支城である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を陥落させると、同じく信孝推しの滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったので、秀吉は城を奪還すべく伊勢方面に出陣して転戦するのです。(←今ココ)

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

こうして、
天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍で三方向から北伊勢に入った秀吉軍の実弟=羽柴秀長(ひでなが)&甥の羽柴秀次(ひでつぐ)らが、滝川一益の甥=滝川儀太夫(ぎたゆう=益重?益氏?)の籠る峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲したのです。
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秀吉は川崎村(かわさきむら=三重県亀山市の北東部)に本陣を置いて、ネズミ一匹通さぬように柵で以って城を囲み、堀を埋め、2月16日には城下一帯に火を放って執拗に攻め立てますが、峰続きの天然の要害に囲まれた峯城は、なかなか落ちそうになく、攻め手が近づけば、籠城側は貯めに貯めた糞尿をまき散らして追い払う・・・どちらにも決定打が無いまま小競り合いばかりが続きます。

そんな中、戦線がこう着状態となったある日・・・籠城側から一首の狂歌(きょうか=滑稽な社会風刺や皮肉などを盛り込んだ短歌)が送られて来ます。

♪上野(こうずけ)の ぬけとは鑓(やり)に 会いもせず
 醍醐の寺の 剃刀(かみそり)をとげ ♪
これは、秀吉軍の一人として参戦していながら、未だ大した働きをしていなかった織田信包(のぶかね=信長の弟)に対し、彼がかつて醍醐寺(だいごじ=京都府京都市伏見区)の近くに屋敷を構えていた事を皮肉って
「上野介(こうずけのすけ=信包の事)君は、ヤリやなくて坊主にするためのカミソリを研いどいた方がえぇんちゃうん?」
てな事を歌った物・・・

こういう場合、当然、言われっぱなしにはしておけませんがな!

で、寄せ手側からは中尾新太夫(なかおしんだゆう)なる武将が出て、
♪春雨に 峰々までも くずれ落ち
 つれて流るる 滝川の水 ♪
「峯城が落ちるんと同時に滝川儀太夫も一巻の終わりやっちゅーねん」
と返したのだとか・・・

まぁ、この『峯城歌合戦』の話は、地元に伝わる昔話・伝説の域を越えない話なのでアレですが、この峯城周辺で、1ヶ月近くに渡るこう着状態が続いた事は確か・・・

とにもかくにも城の攻略を1番の目標とする秀吉は、お得意の干殺し(ひごろし・ほしごろし=兵糧攻め)の持久戦法を続ける一方で、金堀り衆にトンネルを掘らせて 土塁(どるい=土制の堤防)近くまで進み、盛んに城内を威嚇します。

しだいに飢えていく城内・・・そんな中、去る3月3日に、この峯城と同時攻撃されていた佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)が落ちた(3月3日参照>>)というニュースが入って来たのです。

そこを、すかさず投降を促し、和平交渉に入る秀吉・・・

「もはや万策尽きた」と感じた滝川儀太夫は、天正十一年(1583年)4月17日、ついに峯城の開城を決意し、今回、秀吉とともにこの戦いの指揮を取っていた織田信雄に、城を明け渡したのでした。

いやはや、もし、この時代にスマホがあって、峯城の儀太夫と湖北に進んだ柴田勝家と連絡をとっていたら・・・もう、ワクワクしますね~

そうです。。。携帯の無い時代、おそらく峯城の城内には、秀吉の動きも、勝家の動きも伝わっていなかったのでしょう。

この時、一旦、湖北方面に戻っていた秀吉は、この峯城陥落の前日の16日に信孝の籠る岐阜城に向かいますが、大雨で長良川が渡れず、やむなく大垣(おおがき=岐阜県大垣市)に留まっていたのですが、実は一方の勝家の方も越前を出て準備万端整えていたのです。

この3日後の4月20日に、勝家は湖北=賤ヶ岳にて秀吉軍に向けて戦闘を開始・・・

そして自軍のピンチを知った秀吉が慌てて、不眠不休で西へと向かう・・・ご存知『美濃の大返し』(4月20日参照>>)となるわけです。
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