2019年8月 7日 (水)

天正壬午の乱~徳川VS北条の若神子の対陣

 

天正十年(1582年)8月7日、織田信長の死後に起こった旧武田領争奪戦=天正壬午の乱で北条氏直が若御子に着陣しました。

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天正十年(1582年)2月9日に始まった織田信長(おだのぶなが)による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)・・・約1ヶ月後の3月11日に天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより)が自刃(2008年3月11日参照>>)して、ここに甲斐(かい=山梨県)に君臨した武田氏が滅亡しました

その甲州征伐での論功行賞で、滅ぼした武田の旧領を与えられたのは、
甲斐国河尻秀隆(かわじりひでたか)
ただし穴山梅雪の支配地は除き、その代替地として諏訪1郡をプラス
駿河国徳川家康(とくがわいえやす)
上野国信濃国(小県・佐久2郡)滝川一益(たきがわかずます)
信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)森長可(もりながよし)
信濃木曽谷2郡木曽義昌(きそよしまさ)に追加
信濃伊那1郡毛利長秀(もうりながひで・秀頼)
岩村(岐阜県恵那市)団忠直(だんただなお)
金山米田島(よねだじま=岐阜県加茂郡)森定長(もりさだなが=長可の弟・蘭丸)
でしたが、ご存知の通り、そのわずか3か月後の6月2日の本能寺(ほんのうじ=京都市中京区)の変にて、かの信長が死亡(2015年6月2日参照>>)します。

上記の中で、その日、信長とともに本能寺にいたた森定長は討死し、嫡男=織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)(2008年6月2日参照>>) の拠る二条御所(にじょうごしょ=京都府京都市)いた団忠直も死亡・・・(さかい=大阪府堺市)見物をしていた徳川家康は決死の伊賀越え(6月4日参照>>)で自身の領国=三河(みかわ=愛知県西部)を目指します。

一方、新領地にいた者たち・・・ 上記の通り、わずか3ヶ月間の統治ゆえ、未だ完全に現地を掌握しきれていない状態なので、ここぞ!とばかりに周辺が動き出しため、
蜂起した武田遺臣の一揆によって河尻秀隆は命を落とし(2013年6月18日参照>>)
行く手を阻む相模(さがみ=神奈川県)北条氏直(ほうじょううじなお)に敗れた滝川一益(2007年6月18日参照>>)は敗走・・・

また、危険を感じて所領を放棄した毛利長秀と、鬼の形相で敵を蹴散らしながら行軍した森長可(4月9日参照>>)は、何とか本国へ戻る事ができました。

…って事は、つまりは、旧武田の領地にいた織田の家臣がいなくなったわけで・・・(ちなみに、木曽義昌は、家康と同じく織田家の家臣ではない独立大名なので、身動きは取れませんが、もとの木曽での領地は確保されてる状況です)

…で、この宙に浮いた旧武田領を、近隣の武将=先の相模の北条と越後(えちご)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と三河の徳川家康らが奪い合う・・・これが天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる戦いですが、

その中でも、北条と徳川が相対したのが若神子の対陣(わかみこのたいじん)・・・今回は、その様子を時系列で見ていきましょう(注:少し時間が戻ります)

・‥…━━━☆

まずは、今回の信長横死に、最も早く反応したのは徳川家康・・・上記の伊賀越え>>のページにも書きましたが、家康が本拠の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に戻ったのは6月7日とされていますが、すでに、その前日の6月6日の段階で配下の岡部正綱(おかべまさつな)に、下山(しもやま=山梨県南巨摩郡身延町)行き、そこに城を構築するよう命じています。

これは、途中まで行動をともにしながらも、本能寺の知らせを聞いて別行動をとり、当時の6月2日の段階で落武者狩りに遭って命を落とした(3月1日参照>>)武田からの寝返り組=穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)の領地である河内(かわち=同南巨摩郡)を確保せんがための工作で、この素早さには「梅雪を暗殺したのて本当は家康なんちゃうん?」と、現代の歴史好きからの疑いの目が向けられるほどに・・・

同時に家康は、家臣の本多信俊(ほんだのぶとし)らを甲斐に向かわせて河尻秀隆に信長の死を報告するとともに「甲斐は危ないから美濃(みの=岐阜県)に戻るように」と伝えますが、これを「家康が甲斐を奪おうとしている」と見た秀隆は、それに応じず、本多信俊を殺害して甲斐に留まります。

一方、6月11日に信長の死を知った北条では、甲斐に残る武田遺臣たちを一揆へと扇動しつつ、滝川一益に探りを入れ、「北条は織田家と相まみえるつもりは無い」旨を伝えますが、結局は、6月18日に上記の神流川の戦い(かんながわのたたかい)>>にて一益をを小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)へと敗走させます。

この間の6月15日頃に、北条からの呼びかけに応じた武田遺臣に、河尻秀隆に殺された本多信俊の配下が接触し、互いに協力して一揆軍が蜂起・・・これまた上記の通り、一揆軍に囲まれた河尻秀隆も神流川と同日の6月18日に死亡>>します。

ここで家康は、本多信俊らの家臣とともに一揆で頑張った旧武田の家臣を自身の配下に加えて掌握すると、旧武田家臣の依田信蕃(よだのぶしげ)(2月20日参照>>)に彼らを率いらせて小諸城へと向わせ、6月26日には滝川一益から小諸城を引き渡させます。

さらに一旦、信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)討伐に西に向かう姿勢を見せつつも、かの山崎の合戦(6月13日参照>>)の結果を見てか?、やっぱり浜松(はままつ=静岡県浜松市)へと戻った後、今度は武田の旧領全体を制圧すべく7月3日に甲府(こうふ=山梨県甲府市)に向けて出陣し、7月9日には自身に味方する知久頼氏(ちくよりうじ)らを、北条に味方する諏訪頼忠(すわよりただ)の拠る高島城(たかしまじょう=長野県諏訪市)攻略へと向かわせます。

これを知った北条側・・・この時、川中島(かわなかじま=長野県長野市)方面まで出陣していた北条氏直は、早速、南下して小諸城へと迫り、7月12日に依田信蕃を小諸城から退去させ、この周辺を掌握した後、さらに南下・・・

そこを、「このまま北条を甲斐へ侵入させてなるものか!」と家康は、配下の酒井忠次(さかいただつぐ)を先の高島城へと向かわせ、7月22日から高島城への総攻撃を開始しますが、そこに大軍を率いた氏直がやって来た事から、さすがに兵数の大差を感じ、8月1日、一旦、城の囲みを解いて甲斐新府(しんぷ=山梨県韮崎市)まで退きます。

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若神子の対陣の関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十年(1582年)8月7日氏直以下、北条軍が若神子(わかみこ=山梨県北杜市須玉町)に着陣したのです。

これを受けた家康は8月10日に、布陣していた甲府を出て新府へ移動・・・と一触即発の雰囲気ではありますが、これが「若神子の対陣」と称されるように、ここから80日間に渡って、両者はほぼ動かずに対峙したままの様相となります。

とは言え、この間に一方で、北条氏忠(うじただ=氏直の叔父)率いる北条別動隊が、氏直を援護すべく御坂峠(みさかとうげ=山梨県南都留郡富士河口湖町と同県笛吹市御坂町にまたがる峠)から甲府目指して進軍して来ていました。

氏直主力部隊と氏忠援護部隊・・・「これでは完全に挟み撃ちにされてしまう!」
とばかりに、家康は、8月12日、鳥居元忠(とりいもとただ)水野勝成(みずのかつなり)らが率いる部隊が黒駒(くろこま=山梨県笛吹市御坂町付近)に派遣して氏忠軍を迎撃させます。

これが、予想以上の徳川の大勝となった事で、氏忠援護部隊はその先へ進めず、北条は動きを封じられてしまうのです。

さらに家康は、北条の背後を脅かすべく、下野(しもつけ=栃木県)宇都宮国綱(うつのみやくにつな)と連絡を密にしたり、依田信蕃を通じて、北条側にいた真田昌幸(さなだまさゆき)を寝返らせたり、木曽義昌に所領安堵の約束をして諏訪(すわ=長野県諏訪市)方面への出兵を取り付けたり、北条に属しながらも黒駒の合戦後に静観し始めた高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市高遠町)保科正直(ほしなまさなお)を味方につけたり・・・とにかく、ありとあらゆる手段を使って自身を有利な方向へと導いていくのです。

そして8月21日には、かの甲斐一揆の時に協力して以来、なんとなくの味方?仮契約?状態だった武田家の遺臣たち800余名から、正式な起請文(きしょうもん=忠誠を神に誓う文書)を提出させて正社員雇用・・・なんだか家康さんが、武田の旧領&旧臣を、まるっといただく?てな雰囲気ですね。

そうなると・・・
もはや、甲斐&信濃における北条の勢力範囲は、ここ若神子周辺のみに・・・しかも、この間、両軍には小競り合いは起こるものの、大きく態勢が変動しないままのこう着状態。

いつしか、北条は和議に向けて動き始めます。

この時、德川との間に入って尽力したのは、今川での人質時代に家康との面識があった北条氏規(うじのり=氏直の叔父)(2月8日参照>>)・・・

一方の家康も、実は信長の息子である織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)織田信孝(のぶたか=信長の三男)から「ちゃっちゃと解決しぃや」の勧告状が届いていたらしく、この状態をあまり長引かせたくはなかったわけで・・・

そこで、対陣から2ヶ月余りが過ぎた天正十年(1582年)10月29日、ようやく北条と徳川の間に講和が結ばれたのです(10月29日参照>>)

その条件は
●甲斐と信濃は家康が、上野は氏直の切り取り次第。
●家康の次女=督姫(とくひめ)が氏直に嫁ぐ。
●今後は北条を離れて徳川に服属する事を表明している真田昌幸の領地は北条の物とし、真田には徳川から代替えの領地を与える。
の三つでした。

一見、「北条は上野だけ?家康の方が得してる?」てな感じに見えてしまいますが、甲斐や信濃には、未だ納得していない国衆もいて、先の依田信蕃なんかは、この後の信濃のゴタゴタで命を落としたりなんかしてますので、逆に上野の支配権がバッチリ確保された事は北条にとってかなりの安心だったのかも・・・

そして、ご存知のように、この三つ目の条件が、後々、ややこしい事になって行くのです・・・が、そのお話は【第1次上田合戦~神川の戦い】で>>

さらにさらに・・・この北条との国境線のゴタゴタは、やがては、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)の引き金となってしまうのですから(10月23日【小田原攻めのきっかけ・名胡桃城奪取】参照>>)、ホント、歴史は巡り巡って永遠に繋がっていく・・・流れを見て行きながら原因→結果を考えていくとワクワクしますです。
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2019年6月26日 (水)

本能寺の変の余波~前田利家に迫る石動荒山の戦い

 

天正十年(1582年)6月26日、本能寺の変での織田信長の死を受けて、能登での前田利家支配に反発する石動山天平寺衆徒による一揆=石動荒山の戦いが起こりました。

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天正十年(1582年)6月2日、ご存知のように京都の本能寺(ほんのうじ)にて、織田信長(おだのぶなが)が、すでに家督を譲っていた嫡男=織田信忠(のぶただ)とともに死亡します(2015年6月2日参照>>)

この時の信長は、すでに天下に1番近い男とは言え、未だ配下の武将たちは、3ヶ月前に切り取ったばかりの武田(たけだ)領地(3月24日参照>>)維持管理や未だ従わぬ者との交戦に翻弄していたので、信長横死の知らせを聞いた諸将は、すぐでも京都に向かい、仇となった明智光秀(あけちみつひで)を討ちたいところではあったものの、なかなか思うようには動けなかったわけで・・・

北陸柴田勢魚津城の攻防>>
中国羽柴勢備中高松城の水攻め>>
甲斐河尻秀隆(かわじりひでたか)武田残党&甲州一揆>> 
上野滝川一益(たきがわかずます)神流川の戦い>>
信濃森長可(もりながよし)東濃制圧戦>> 
美濃の=稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)本田・北方合戦>>

また、当日、本能寺の1番近くにいて1番早く異変を知った徳川家康(とくがわいえやす)は、わずかの側近しか連れていなかったため、決死の伊賀越え(6月4日参照>>)で領国へと戻り、その後は自身の領地拡大を狙って天正壬午の乱へ突入>>
ま、家康は信長の家臣ではなく、あくまで同盟者なので…

そして、ご存知のように・・・
そんな中でいち早く合戦を休止して(6月4日参照>>)中国大返しで以って畿内に戻り(6月6日参照>>)、四国方面への出兵の準備中だった信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)丹羽長秀(にわながひで)らと合流して、6月13日の山崎の合戦(6月13日参照>>)にて光秀を敗走からの死亡に追いやったのが、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)だったわけです。

一方、上記の通り、北陸にて越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と交戦中だった柴田勢・・・上杉配下の魚津城(うおずじょう=富山県魚津市)を陥落させたのが、本能寺の変の翌日の6月3日で、その異変の一報を知ったのが、さらに翌日の6月4日でした。

上杉謙信(けんしん)亡き後の後継者争いのゴタゴタ(3月17日参照>>)があったため、信長サイドに越中(えっちゅう=富山県)奥深くまで侵入され(10月4日参照>>)、今回の魚津城攻防戦でも、援軍として近くまで行ったものの、結局、静観するしかなかった景勝ではありますが、「信長が死んだ」となれば話は別・・・その混乱に乗じて侵撃に転じるやも知れませんから、先の魚津城攻防戦に参加していた織田政権の北陸担当の面々も、うかつに領地を離れられず、むしろ今以上に防備を固める事に力を注がねばならなくなっていたのです。

織田政権下のでの北陸方面担当は、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)柴田勝家(しばたかついえ)を筆頭に、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)佐久間盛政(さくまもりまさ)などなど・・・

Maedatosiie 『高徳公親翰』なる史料には、この時の前田利家が、
「山崎の合戦にて逆臣の光秀が討たれた事は、まことにめだたい事ですが、当地では浪人が一揆の準備をしているとの噂があったので僕は光秀討伐には参加できませんでした」
的な事を、柴田勝家に報告している事が記録されています。

そう、この時、信長死亡のドサクサで一揆を起こしたのが、かねてより能登(のと=石川県の能登半島)にて利家に反発していた石動山天平寺(いするぎざんてんぴょうじ=石川県鹿島郡中能登町)の衆徒でした。

一揆方は、かつて、能登守護であった畠山(はたけやま)氏の内紛の際に上杉に寝返った事で(9月13日参照>>)、逆に信長を味方につけた長連龍(ちょうつらたつ)によって七尾城を追われ(10月22日参照>>)、その後、上杉領内に亡命していた旧畠山の重臣の温井景隆(ぬくいかげたか)三宅長盛(みやけながもり)兄弟と、そのゴタゴタで一族を失った遊佐景光(ゆさかげみつ=遊佐続光の孫?)らに、
「速やかに援軍を出してくれたら、コチラもお宅らをお助けしまっせ」
と声をかけます。

もちろん、彼ら兄弟にとっては失地を回復するまたとないチャンスですから、この船に乗らない手はありません。

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石動・荒山の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十年(1582年)6月23日早朝、上杉景勝の計らいにより、越後の兵・約4千騎(3千とも)を借りた温井らは、海路から越中女良浦(めらのうら=富山県氷見市女良)に上陸し、その日のうちに石動山天平寺へと入り、翌日から早速(とりで)の構築に取り掛かりました。

砦が構築されたのは、七尾街道で芹川(せりかわ=同鹿島郡中能登町)から氷見(ひみ=富山県氷見市)へと抜ける国境にある荒山(あらやま)の北に位置する四方が崖に囲まれた要害の地で、天平寺の南西1kmほどの地点にあり、寺を守るには完璧な場所でした。

とは言え、さすがに、すぐさま完璧な砦が構築できるわけではないですので、この温井らの行動を知った前田利家は、翌日の6月24日付けで、柴田勝家と佐久間盛政宛てに援軍要請の手紙を送り、砦が完成する前に叩く事に・・・

早速、この要請を受けた佐久間盛政が6月25日に兵を率いて出陣して芹川付近に野営すると、前田利家も七尾を出陣して石動山と荒山の中間地点にある芝峠(しばとうげ=同鹿島郡中能登町)に布陣します。

こうして準備を整えた翌日の天正十年(1582年)6月26日、そうとは知らぬ温井勢が一揆の衆徒らとともに荒山砦の修築に石動山を出て来たところに、一気に攻撃を仕掛ける前田軍・・・混乱した一揆軍は、温井&三宅の軍団は石動山へ、遊佐の率いる軍団は荒山の要害へと逃げ込んで体制を整えようとしますが、これが、お察しの通り、前田サイドから見れば、完全に一揆軍を分断した形となったわけです。

これを知った佐久間盛政は、チャンス!とばかりに一斉に荒山砦に向かって攻撃を開始します。

至近距離で銃弾が飛び交う激しい戦いとなる中、温井景隆&三宅長盛兄弟は壮絶な討死を遂げ、天平寺衆徒で「今弁慶」と呼ばれていた猛者=般若院(はんにゃいん)は、まさに弁慶(べんけい)の如く無数の矢を受けて倒れます。

こうして形勢不利となっていく一揆勢・・・温井配下の者には「もはやこれまで!」と自刃する者も出る中、一部の衆徒は石動山目指して逃走しますが、これらの大半は、すでに石動山方面の守備を固めていた拝郷家嘉(はいごういえよし=織田政権の大聖寺城主)によって討たれてしまいました。

一方、早朝に一揆勢の分断に成功した前田利家は、かの長連龍や配下の奥村永福(おくむらながとみ=前田家臣)らを率いて石動山へと進み、仁王門から侵入して天平寺を急襲します。

護摩祈祷中だった僧侶らが驚いて逃げ惑う中、数百人を撫で斬りにする地獄のような光景だったとか・・・

さらに、討ち取った千余りの首を山門に並べたうえ、利家配下の伊賀の忍びによって堂宇(どうう)に火がかけられ、石動山は全山焼亡し、それはまるで、信長の比叡山焼き討ちのようだったと伝わります。

とは言え、これにて前田利家による能登の支配は確立されました。

また一説には、この時、援軍としてやって来ていた佐久間盛政は、実はこのドサクサで利家を背後から攻めて能登を奪い取るつもりでいたので、それを防ぐために長連龍が寺に火を放った・・・てな話もありますが、その話が記されているのが『長氏家譜』という連龍サイドの文献なので、おそらくは、この戦いにより、利家と長連龍との関係が強固な物になって、この後、連龍&その子孫は前田家の家老として加賀藩を支える事になるという、後日談ありきの創作ではないか?とされています。

と、まぁ、ここまで名前だけ登場して本人様が出て来なかった柴田勝家・・・ご存知のように、今回の合戦の翌日が、あの清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)(6月27日参照>>)なので、援軍の手配はしたかも知れませんが、勝家自身は、清須会議への準備に勤しんでいたか?と思われます。

ドラマ等では、本能寺からの秀吉の光秀討伐の後は、話が清須会議に飛ぶ事が多いですが、冒頭に書いたように、甲斐や信濃etcそして今回の荒山と、複数の争いが一斉に起こっています。

信長の死が、かなりの混乱を与えていた事がわかりますね。
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2019年6月14日 (金)

豊臣秀吉の小田原征伐~鉢形城の攻防戦が終結

 

天正十八年(1590年)6月14日、豊臣秀吉の小田原征伐における攻防戦で鉢形城が開城されました。

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織田信長(おだのぶなが)亡き(参照>>)後に、その傘下を引き継ぐ(参照>>)傍ら、畿内(参照>>)、四国(参照>>)、北陸(参照>>)、九州(参照>>)を平定し、ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、
【関白・秀吉の政庁…絢爛豪華聚楽第】参照>>
【太政大臣&豊臣姓賜る】参照>>
【北野大茶会】参照>>
天正十七年(1589年)10月、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪った(10月23日参照>>)事を『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令) に違反する行為として関東に君臨する条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)・・・天正十八年(1590年)3月29日に伊豆半島を縦ラインで結ぶ足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)の同時攻撃にて、小田原征伐の幕が上がったのです。(3月29日参照>>)

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

攻撃開始の当日に山中城を、翌日には足柄城を奪取し、早くも4月2日には大本営の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市を完全包囲した豊臣東海進軍本隊(4月2日参照>>)は、そのまま小田原城を包囲しつつ、一部を武蔵(むさし=東京都・埼玉県・神奈川県の一部)房総(ぼうそう=主に千葉県)下野(しもつけ=栃木県)常陸(ひたち=茨城県)など、関東一円の諸城の攻略に向かわせ、次々と手中に収めていきます。

一方、越後(えちご=新潟県)北陸方面から東山道(とうさんどう)を進軍して関東に入って来た上杉景勝(うえすぎかげかつ)前田利家(まえだとしいえ)らは、4月中には上野(こうずけ=群馬県)の諸城を攻略していましたが、5月13日、秀吉は松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)にあった景勝に鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)の攻略を指示します。

この時の鉢形城主は北条氏政の弟=北条氏邦(うじくに=氏康の5男)

実は、この氏邦さん・・・秀吉の小田原征伐が決まった最初の段階で、
まずは、現当主の北条氏直(うじなお=氏政の息子)自らが出陣して、今は徳川家康(とくがわいえやす)の傘下となっている駿河沼津城(ぬまずじょう=静岡県沼津市大手町)を奪った後、そこを本拠に豊臣軍を迎え撃ち「富士川を越えさせない!」作戦を提案していたのですが、例の小田原評定で、その作戦は却下され、本城の小田原城に籠城する作戦となったため、一旦は小田原城に入るものの、結局、小田原には自身に代わる養子の直定(なおさだ)を入らせて、氏邦自身は配下の留守居役300余名&約2700の雑兵とともに鉢形城に籠城して抵抗する事にしたのでした。

とは言え、この鉢形城周辺には秩父(ちちぶ=埼玉県北西部)領の日尾城(ひおじょう=埼玉県秩父郡小鹿野町)をはじめとする複数の出城が構築されているうえ、かの猪俣邦憲が300余名を率いて加勢に駆け付け、その守備兵力はかなりのもの・・・

かくして5月19日、真田昌幸(さなだまさゆき)依田康国(よだやすくに)らの信濃隊が小前田(埼玉県深谷市)から寄居(よりい=同大里郡)方面に陣取ると、上杉景勝&前田利家・利長父子らの北陸隊は赤浜(あかはま=埼玉県大里郡)を通って鉢形城の東側へと向かい、上杉が大手から、前田が搦手(からめて)から、合計35000余の軍勢で以って攻撃を開始します。

6月3日には津久井城(つくいじょう=神奈川県相模原市)を攻撃していた本多忠勝(ほんだただかつ)鳥居元忠(とりいもとただ)らの徳川勢が攻撃に加わり、28人持ちの大筒で城内に石火矢(いしびや=石を弾丸にした火砲)を撃ち込み、大きな被害を与えたと言います。

そんな中、現在景勝の配下となっている藤田信吉(ふじたのぶよし)が、氏邦が養子(娘婿)に入った藤田家の者(氏邦の義父の息子とも)である縁から使者として赴き、氏邦に降伏するよう説得を開始します。

やがて天正十八年(1590年)6月14日、氏邦は
「家臣たちに代わって、俺が自害するから…」
と言って、鉢形城を開け渡し、剃髪して正龍寺(しょうりゅうじ=埼玉県大里郡寄居町)に入りました。

ここに、小田原征伐における鉢形城の攻防戦は終結しましたが、結局、氏邦の身は前田利家の預かりとなり、その利家が助命嘆願した事から、その命は助かり、氏邦は敵からも味方からの「前代未聞の比興(ひきょう)と言われたとか・・・また、力攻めではなく降伏勧告に終始した利家のやり方には秀吉さんもたいそうご立腹だったようです。

とは言え、戦場で華と散るも戦国武将、生きて一族の血脈を繋ぐも戦国武将・・・このブログでも度々お話させていただいているように、血で血を洗う戦国時代には、「もう、アカン」となった時、一族もろとも滅亡する方が稀で、誰かが生き残っての血筋を残す事の方が多いです。→【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事…】参照>>

そうしないと「家」自体が歴史上から消えてしまうかも・・・「虎は死して皮残す。人は死して名を遺す『十訓抄』どころか、ヘタすりゃ一族もろとも「いなかった事」にされる可能性だってありますからね。

で、今回の小田原征伐での北条氏の場合を見てみると・・・
嫡流(*氏政は次男ですが長男の新九郎が16歳で夭折したため氏政が世子)の前当主の氏政とその息子で現当主の氏直。

一方、氏政の弟たちは・・・
3男で八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)北条氏照(うじてる)
4男で韮山城の北条氏規(うじのり)
5男で今回の鉢形城の氏邦、
以下、6男の北条氏忠(うじただ)と8男か9男の北条氏光(うじみつ)
(7男は上杉家の養子になった景虎(かげとら)=参照>>で、すでに死亡)

この中で上の3人=氏照と氏邦と氏規は、単なる支城の城主ではなく、独立した一大領国支配を行っていた感がありますが、終始小田原に籠城して兄=氏政とともにイケイケムードで徹底抗戦を主張した氏照と、足柄城をすんなり捨てて小田原城内に走った氏光と、はなから小田原籠城組だった氏忠に対し、それぞれの城に残った氏邦と氏規には、ひょっとしたら、その血筋を残す役目があったのかも・・・あくまで私的な解釈ですが、私はそう感じているのです。

今回の氏邦さんに関しては、先々代の北条氏康(うじやす=氏政や氏邦の父)に降伏して傘下となった藤田康邦(ふじたやすくに)の娘と結婚して婿養子となった藤田家の人として藤田氏邦の名前で古文書等に記載されているところから見ても、そんな気がします。

残念ながら、この後、前田家の家臣となった氏邦の血筋は途中で絶えてしまうようですが、以前書かせていただいたように、氏規さんの血筋は脈々と受け継がれ、無事、明治維新を迎えています(2月8日参照>>)

例え「前代未聞の比興」と言われようが、イザという時に「生き残る事」こそが氏邦さんの使命だったのかも知れません。

この前後の小田原征伐は・・・
●5月29日【館林城・攻防戦】>>
●6月16日【忍城・攻防戦】>>
●6月23日【八王子城・攻防戦】>>
●6月26日【石垣山城一夜城】>>
●7月5日【小田原城・開城】>>
へと続きます。
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2019年5月25日 (土)

本多政康の枚方城の面影を求めて枚方寺内町から万年寺山を行く

 

不肖私は、大阪城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を間近に仰ぎ見つつ生まれ育ち、長じて枚方(ひらかた)or高槻(たかつき)にて仕事に従事しつつ、10年間の富山(とやま)生活を経て舞い戻り、今もなお、ドップリのおけいはん(京阪電車を利用する人)なわけですが・・・

そんな京阪電車の主要駅の一つである枚方は、もともと京都と大坂の中間地点にある交通の要所でありましたが、かの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が淀川の氾濫を防ぐため、文禄三年(1594年)に構築を開始した文禄堤(ぶんろくつつみ=完成は慶長元年1596年)に沿って京都と大坂を行き来する京街道(きょうかいどう)を整備した後、徳川家康(とくがわいえやす)が江戸時代になって、東海道を大坂まで延長して、その途中となる伏見(ふしみ)宿(よど)宿枚方宿守口(もりぐち)宿を加えて、正式に「東海道五十七次」とした事で益々賑やかな宿場町へと発展・・・

さらに淀川を三十石船が往来するようになると、その中継場所として、以前にも増して人の往来が盛んになり(2007年8月10日参照>>) 、そこに、先の大坂の陣にて家康一行を救った功績により天下御免のお墨付き=独占営業権をもらった船頭たちが運営する「くらわんか舟」なる名物も登場して、益々賑やかになって行く・・・【枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話】も参照>>)

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三十石船に物を売る             舟宿の賑わい(右)
枚方名物「くらわんか舟」(左)

とまぁ、そのような宿場町としての枚方の話は有名なのですが、実は、未だ江戸になる前の豊臣の時代には、ここ枚方にも枚方城(ひらかたじょう)というお城があったのですよ。

『日本城郭大系』によると、
この枚方城を居城としていたのは百済王氏(くだらのこにきしし)の末裔を称する本多政康(ほんだまさやす)という人物で、城の立地は枚方で最も高く、舌状大地の最突端で三方は深い谷となっている条件の良い場所であるものの、その遺構は残っていない・・・との事で、現在、枚方小学校が建っている場所が城の比定地とされています。

Dscn2774a 実は、この枚方は、かつて朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)に攻められて滅亡した(8月27日参照>>)百済(くだら)の王の一族が亡命して移り住んだ地とされ、奈良時代から平安時代にかけて活躍した彼ら一族は百済王の姓を得て、河内守(かわちのかみ)に任ぜられ、奈良時代中期に建立されたとされる百済王氏の氏寺である百済寺(くだらじ)の跡も、枚方を流れる天野川(あまのがわ)の東側にて発掘されていします。

なので「百済王の末裔」の話も、あながち荒唐無稽とは言い難い雰囲気です。
(ちなみに、長野の善光寺を創建した飛鳥時代の人物=本多善光(ほんだよしみつ=本田善光)と同流とも言われます)

に、しても、推定地が枚方小学校の場所とされていても、現段階では遺構がまったく無い状況では寂しい・・・ここは一つ、地元の地の利を活かし、ちょっくら、在りし日の枚方城の姿を妄想してみるのも一興かと、周辺を散策してみる事に・・・

なんせ、小学校のある場所は、万年寺山(まんねんじやま)と呼ばれる山の、ほぼ1番高い場所なので、戦国後期の城郭の雰囲気を考え、かつ上記の『日本城郭大系』 の記述を踏まえれば、おそらくは、ここを主郭とし、天然の山の高低差をうまく利用した平山城の造りになっていたでしょうかからね・・・(ただし、このあたりはほとんど住宅開発されているので、あくまで、現在の高低差から想像する状況である事は否めないところではありますが)

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写真①枚方大橋南詰から見た万年寺山(正面右寄りに見える小高い森が万年寺山です)

このブログでも度々ご紹介しております通り、現在、この万年寺山には梅林で有名な意賀美(おかみ)神社(2月27日参照>>)が鎮座しますが、もともとは、古墳時代前期と思われる古墳(万年寺山古墳)があったものの、経年により、その存在が忘れ去られた推古天皇(592年~628年)の時代に、高句麗(こうくり)の僧=恵灌(けいかん)が草庵を営み、それが、万年寺の基となりました。

やがて平安時代の僧=聖宝(しょうぼう)が開祖となって名称も万年寺となり、貞観十四年(872年)に流行した疫病の終息祈願のために境内に牛頭天王(ごずてんのう)を祀る須賀(すが)神社を建立・・・明治になる前は神仏習合(しんぶつしゅうごう=仏が神となって現れる考え方)が一般的で、お寺の中に神社があったり、神社にお寺がくっついているのはごくごく当たり前で、その形のまま、平安~江戸を生き抜いた万年寺でしたが、その後、明治維新を迎えますが、ご存知の明治初期の神仏分離&廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により万年寺が廃寺とされ、残った須賀神社に、山の麓の鎮守の神であった意賀美神社と日吉神社を合祀して、現在の意賀美神社に至る・・・という事です。

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万年寺の面影を残す十三重の石塔

また、戦国時代の永禄二年(1559年)には、万年寺より南西側の高台の御坊山(ごぼうやま)周辺に本願寺8代蓮如(れんにょ)の13男である実従(じつじゅう)による枚方御坊順興寺(じゅんこうじ)が営まれ、この順興寺を中心に枚方寺内町(じないちょう・じないまち=寺院や坊を中心に形成された自治集落で濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持つ)ができていましたが、元亀元年(1570年)、 例の織田信長(おだのぶなが)包囲網に本願寺代11代顕如(けんにょ=蓮如の玄孫)が参戦(9月12日参照>>)・・・いわゆる石山合戦が勃発した事から信長の焼き討ちに遭い、順興寺は焼失していまいます。

Dscf4139a650tt ★現在の御坊山(順興寺跡地)には実従上人のお墓があります→

しかしながら、順興寺はなくなったものの、町衆の経済&流通中心の寺内町の機能は残り、 やがて慶長十六年(1611年)に順興寺が枚方御坊(後に願生坊に改名)として現在の場所(枚方元町)に復活(同時期に大隆寺も建立)・・・

万年寺山と御坊山に挟まれたそこは、江戸時代を通じて枚方宿の物資の流通を担う問屋場の一時保管の場所として蔵が建ち並び、ここから三矢の浜(淀川の浜辺です)あたりまでは蔵の谷と呼ばれる地となります。

つまり、豊臣の時代=枚方城があった時代は、万年寺山には万年寺と須賀神社と枚方城があり、順興寺を失った枚方寺内町が京街道の宿場町の様相へと変化する転換期という事になります。

で、そんな中で、その位置を探る1番の目安となるのは、以前もご紹介した意賀美神社の梅林の西側にある御茶屋御殿(おちゃやごてん)跡・・・(9月27日参照>>)

三矢村(みつやむら=現在の枚方市三矢町)に残る記録『奥田家文書』によれば、自らの家臣となった本多政康の娘=乙御前(おとごぜん)をたいそう気に入った秀吉は、文禄四年(1595年)に、京街道を見下ろすこの地に彼女のための御殿を建てて側室とした事で、以来、この万年寺山は御殿山とも呼ばれ、政康の本多家も大いに栄えたものの、あの大坂の陣>>で豊臣方についた本多政康は討死し、本多家も豊臣とともに滅亡して枚方城は廃城となってしまったとか。。。

ただ、その後も御茶屋御殿は残り、元和九年(1623年)には、家康の後を継いだ第2代江戸幕府将軍=德川秀忠(ひでただ)の宿泊施設として大改築されたものの、その後は利用される事無く、倉庫のようになっていた中、延宝七年(1679年)に起こった枚方宿の火災によって延焼&焼失したと伝えられます。

Dscf3884a この御茶屋御殿跡は、万年寺山の北端の位置にあたり、そこから北側はかなり高低差のある斜面となっていて、淀川の流れが望める風光明媚な場所で、すぐ下には京阪電車が走っています(写真②御茶屋御殿付近から北面を望む↑)

また、御殿跡から続く神社参道には、「長松山萬年寺」と刻まれた石柱や十三重の石塔があり、これが万年寺の名残り・・・つまり、この周辺が万年寺の境内だった事がわかりますので、おそらく枚方城の建物などは、ここから南に建っていた物と思われます。

で、ここから、そのまま南に参道沿いを進んで行くと、大きな(むく)の木を従えた田中家鋳物工場跡(たなかけいものこうじょうあと)に行きつきます。

この椋の木は、枚方市の天然記念物に指定されており、樹齢600年~700年と言われていますので、つまりは、ここに枚方城があった時から(こんなに大きくないかも知れないけれど)立っていた事になります。
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↑写真③椋の木の東側の斜面(パノラマ撮影・左上の大きな木が椋の木です)

代々鋳物師(いもじ)として繁栄して来た田中家の歴史は古く、元明天皇の和銅年間(708~15年)の頃には、すでに鋳物職を生業とし、皇室から硬貨の鋳造を命じられたりしていたそうですが、この地に工場を構えたのが確実視されるのは安土桃山時代以降・・・椋の木は鋳物製品の研磨に用いられていた事から、「鋳物師あるところムクノキあり」と言われるそうなので、察するに、枚方城が廃城となるかならないかのあたりに、この大きな椋の木を求めて、田中家が、この地に移転して来られたものと思われますが、この椋の木の東側が、これまた崖のような高低差となっています。

そして、この田中家鋳物工場跡を、さらに南に進んで行くと、枚方城の比定地とされる枚方小学校となるのですが、この枚方小学校のグランドの南東側に隣接する坊主池公園との高低差が、またまたスゴイ事になっているのです。

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(写真④小学校横から坊主池公園への高低差↑左)
(写真⑤坊主池公園側から小学校への高低差を仰ぎ見る↑右)
↑の右写真では、光が飛んで見え難くなってますが、階段を上った上に小学校グランドのネットが肉眼では見えているんです。
小学校の建ってる場所はけっこう平坦なので「わざとやろ?」っていうくらい、いきなりの崖ですww

Dscf4150a1000 (写真⑥御坊山(右手前)麓から万年寺山(奥)を望む→)
また、万年寺山から蔵の谷を挟んで南西側の御坊山(順興寺跡地)には、現在は実従上人の墓所となっていますが、この御坊山の周囲もメチャメチャ崖なんですよ。

・‥…━━━☆

ではでは、
Hirakatazyou1 この周辺の「地理院地図」>>をお借りして、

Hirakatazyou2 そこに高低差(起伏)を示した地図を重ね、

上記の目安となる場所を書き込んでみると……こんな感じ↓

Hirakatazyou3c
万年寺山の高低差を踏まえ、その高低差を天然の要害として利用したとすれば、おそらく、この地図の真ん中あたりに城の様々な建物が構築されていたと思われます。

これなら、上記の『日本城郭大系』にあった「枚方で最も高く、舌状大地の最突端で三方は深い谷となっている」という条件にも当てはまります。

Hirakatazyou4c ←の、未だ宅地開発される前の大正十一年(1922年)の古地図を重ねてみても、なんとなく納得の雰囲気ですね。

京街道沿いには、すでに家屋が建っていますが、万年寺山には田中家あたりに家があるものの、まだ多くが、そのままの状態になっているように見えます。

とは言え、御坊山周囲の崖的な雰囲気を見てもお解りの通り、先の寺内町時代にも、交野(かたの)など、近隣の村々からの侵入を防ぐための土塁や土居堀などが構築されていたようですから、枚方城オリジナルではなく、すでにあったそれらの防御策を利用しての構築だったと思われますので、そこも加味して考えないといけませんが。。。

てな事で、今回は、地の利を活かし、かつて枚方にあった枚方城の痕跡を求めて、周辺を散策してしてみましたが、少しは垣間見えたでしょうか?

写真は地図も含め、すべてクリックで大きく表示されますので、じっくりと、その高低差を確認してみてください。
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2019年5月 6日 (月)

大坂夏の陣・八尾の戦い~桑名吉成の討死

 

慶長二十年(1615年)5月6日、大坂夏の陣の八尾の戦いにて旧主君・長宗我部盛親と戦った桑名吉成が討死しました。

・・・・・・・・

桑名吉成(くわなよしなり=弥次兵衛)桑名家は、もともとは、あの平清盛(たいらのきよもり)と同じ伊勢平氏で、「その手は桑名の焼き蛤」で有名?(って言っていいのかな?)伊勢(いせ=三重県北中部)桑名(くわな)出身だったので、苗字を桑名と名乗ったとされますが・・・

とりあえず、戦国期にはすでに土佐(とさ=高知県)にいて、吉成の父である桑名藤蔵人(とうぞうじ)やその兄(つまり伯父さん)桑名重定(しげさだ)らが長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の下で、その四国統一(10月19日参照>>)に大活躍した事から中村城(なかむらじょう=高知県四万十市)の城代に抜擢された家柄だったとか・・・

しかし、ご存知のように、長宗我部元親が四国を統一した翌年の天正十三年(1585年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)が、弟の羽柴秀長(はしばひでなが)を総大将にした大軍で以って四国に上陸(7月25日参照>>)・・・敗北を喰らった長宗我部元親は降伏し、なんとか土佐一国の所領を安堵され、今度は、秀吉の配下として生きていく事になります。

その秀吉配下としての戦場は、ほどなく訪れます・・・そう、秀吉の九州平定です。

翌天正十四年(1586年)の4月、かつては豊後(ぶんご=大分県)の王と呼ばれた大友宗麟(おおともそうりん)大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を訪れ、秀吉に薩摩(さつま=鹿児島県)の島津(しまづ)討伐への救援を願い出たのです(4月6日参照>>)

九州と言えば、かつては、この宗麟に加え、日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)肥前(ひぜん=佐賀県)熊と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)がなど群雄割拠していましたが、ここに来て島津中興の祖と呼ばれる島津貴久(たかひさ)の血を受け継ぐ、絆バッチリの島津四兄弟(6月23日参照>>)にことごとく敗れ、
耳川の戦い>>
沖田畷の戦い>>
もう誰も島津の勢いを止められなくなっていたわけで・・・その要請を受けて九州平定へ乗り出す秀吉。

この時代のこういう場合には、直前の戦いで敗れて、その傘下となった者が先頭=矢面に立たされるのが常・・・何たって、未だ本気で味方になったかどうかは怪しいわけで、ここで見事、秀吉のために戦って、その忠誠心を見せてこそ信用に値する事になるわけです。

かくして長宗我部元親とともに、讃岐(さぬき=香川県)仙石秀久(せんごくひでひさ)阿波(あわ=徳島県)十河存保(そごうながやす)らで構成した5千の兵が九州に派遣されますが、上記の通り、長宗我部元親は征服された側の四国勢ですが、仙石秀久は秀吉の四国平定後に配置された側で、今回の出兵では軍監(ぐんかん)という役割・・・総大将では無いので、あくまで3人は対等の立場ではありますが、仙石秀久が長宗我部元親の監視役である事は確か・・・

そんな仙石秀久は、「様子見ながら…」を主張する元親の意見を真っ向から反対し「短期決戦あるのみ!」の主張を押し切り、それぞれがギクシャク感満載のまま戦いへ突入してしまいます。

案の定、あちこちで寸断された秀吉勢は、指揮命令系統もグジャグジャになり、この戸次(へつぎ)川の戦い(11月25日参照>>)秀吉側の大敗北・・・元親は大事な跡取り息子=信親(のぶちか)をも失ってしまうのです。

Kuwanayosinari700a この時の撤退戦で、主君を守って活躍するのが、今回の主役=桑名吉成です。

こういう大敗後の撤退は、大抵困難を極める物・・・なんせ、それまで静観していた地元民や、臨時雇いのような末端の兵士たちが、少しでも名のある武将の首を取って、何とか勝った側からの褒美にありつこうと、一瞬にして落武者狩りに回ってしまうからです。

この時も、落ち武者狩りの集団が一揆と化し、敗軍の将に一気に襲い掛かって来ましたが、その事を予想ずみの吉成は、主君の元親を守りつつ、ある時は身を隠し、ある時は堂々と振舞って相手を蹴散らしつつ、無事、土佐に帰還する事に成功しています。

この時の吉成の働きが、いかに素晴らしかったを物語っているのが、元親の遺言・・・元親は、その死の目前に、四男の盛親(もりちか)を呼び寄せ、
「合戦の際は、必ず吉成を先手として采配を振るわせよ」
と言い残したと言います。

その後、天下統一を果たした秀吉のもとで、元親の後を継いだ盛親とともにいた吉成ですが、やがて訪れたのが、あの関ヶ原の戦い・・・(くわしい合戦の内容については【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞ)

この時、本チャンの関ヶ原では西軍の主力であった南宮山(なんぐうさん=岐阜県大垣市)に布陣していた盛親以下長宗我部軍・・・この時、この南宮山に布陣していたのは、西軍総大将であるものの大坂城に留まっていた毛利輝元(もうりてるもと)の名代として現地で来ていた毛利秀元(ひでもと=輝元とは従兄弟)吉川広家(きっかわひろいえ=同じく輝元の従兄弟)安国寺恵瓊(あんこくじえけい=秀吉の側近で石田三成と通通)(9月23日参照>>)長束正家(なつかまさいえ=豊臣五奉行の一人)(10月3日参照>>) 、そして長宗我部盛親でしたが、

この中で安国寺恵瓊と長束正家は西軍ドップリの主力部隊でしたが、先方に布陣していた吉川広家は、すでに東軍総大将=徳川家康(とくがわいえやす)「戦いに参加しない事で所領を安堵する」の密約を交わしており、その約束通りにまったく軍を動かさず、しかも戦いの状況を後方に報告する事もなかったため、その後方に位置する全員がまったく動かないまま、戦いは東軍の勝利となってしまうのです。

結果的に関ヶ原の本チャンには参加しないままに敗戦を知り、伊賀(いが=三重県西部)から和泉(いずみ=大阪府西南部)を抜けて大坂、さらに土佐へ戻った盛親たち・・・実は、この時、盛親も家康からのお誘いを受けていて、東軍に寝返る事を決意しており、その旨を知らせる使者を家康に送ったものの、その使者が土佐弁丸出しで西軍に見つかってしまい、OKの返事を届けられないまま本チャンを迎えてしまったとも言われています。

とにもかくにも、もし、東軍に寝返る気があったのだとしても、返事が届いていないなら、どのみち敗れた西軍側の人なわけで・・・しかも、戦後のなんやかやの交渉中にややこしい事になり、結局、長宗我部家はお取り潰しとなり(5月15日参照>>) 、本拠の浦戸城(うらどじょう=高知県高知市浦戸)は徳川に接収される事になってしまいました。

しかし、負けたとは言え、関ヶ原では無傷だった長宗我部軍の中には、今回の戦後処理を不服とし、城の明け渡しに反対する者も多数・・・それは、浦戸一揆(うらどいっき)と呼ばれる籠城戦(12月5日参照>>)となりますが、
「このまま抵抗しても、全員がつぶされるだけ…」
と判断した吉成は、知り合いの僧侶を派遣したり、自らも説得当たったりつつ、半ば強硬ではあるものの、何とか開城にこぎつけました。

かくして長宗我部盛親は浪人となり、当然、吉成も浪人となったわけですが、実は、これまでの撤退戦や今回の戦後処理など・・・吉成の手腕に惚れ込んでいた武将がいたのです。

それは藤堂高虎(とうどうたかとら)・・・浅井長政(あざいながまさ)から秀吉、そして家康と渡り歩いていながら、どの主君にも重用される築城の名人=高虎(6月11日参照>>)が、吉成のスゴ腕を求めて二千石で以って彼を召し抱えたのです。

このまま平安な時が続けば、高虎の下で、その政治手腕を発揮できたであろう吉成・・・しかし慶長十九年(1614年)、あの大坂の陣が勃発します。

ご存知、大坂の陣は、江戸にて徳川政権の維持をもくろむ徳川家康にとって、未だ朝廷からも一目置かれ、大坂城に居て一定の支持を受ける目の上のタンコブの秀吉の遺児=豊臣秀頼(とよとみひでより)をせん滅せんと、あらゆる手段を使って大坂方を戦場に引きずり出した戦いです。
(くわしくは【大坂の陣の年表】>>でどうぞ)

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

この時、かつての主君=長宗我部盛親は秀頼に招かれて大坂城へと入りますが、吉成は高虎の配下として、当然、徳川方で参戦します。

かくして慶長二十年(1615年)、戦いも後半の夏の陣

Oosakanatunozin0506 大坂夏の陣
 元和元年五月六日の布陣

 クリックで大きく(背景は
地理院地図>>)

去る4月29日の樫井(かしい=大阪府泉佐野市)の戦い(4月19日参照>>)に負け、紀州一揆(4月28日参照>>)との連携も取れなくなった大坂方は、生駒山地の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指す徳川方に対し、木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)らが今福(大阪市城東区)方面に布陣して北側の京街道をやって来る敵に備え、後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが)らを主力とする部隊が大和口方面隊を迎え撃つ事に・・・

慶長二十年(1615年)5月6日のこの日、後者の大和口方面で起こったのが道明寺・誉田(どうみょうじ・こんだ)の戦いですが、ソチラは4月30日のページ>>でご覧しただくとして……

他方、前者の北側の京街道を進む側で繰り広げられたのが若江・八尾(わかえ・やお)の戦い(2011年5月6日参照>>)です。

八幡(やわた=京都府八幡市)付近で京街道から分かれる東高野街道(ひがしこうやかいどう)を南下した徳川勢が、河内八尾村(やおむら=大阪府八尾市)付近で南北に流れる川の東側に布陣します。

迎え撃つ大坂方は、先の今福から南下して川の西岸に布陣した木村重成隊が若江(わかえ=大阪府東大阪市)付近にて徳川方の先鋒=井伊直孝(いいなおたか)隊と衝突。。。同じく、守備していた京橋口(きょうばしぐち=大阪市城東区)から南下した長宗我部盛親は久宝寺(きゅうほうじ=大阪府八尾市)付近にて藤堂高虎隊とぶつかる・・・そうです、この日、桑名吉成は旧主君&旧同僚たちと戦う事になったのです。

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元和元年卯五月六日之陣備図(高知県立歴史民俗資料館蔵)

この日の朝、すでに道明寺で合戦が始まっているとの情報を受け取っていた藤堂隊は、援助すべく、さらに南下しようと考えていたところ、西に連なる堤防の向こう・・・すぐそばに敵がいる事を知り、軍を西に向けて堤防の側までやって来ます。

南北に広がっていた隊列が、堤防をスタートラインのように一つに合わせた後、タイミングを見計らって一斉に攻めかかると、堤近くの森にいた長宗我部盛親からは朝霧の向こうから紺地に真っ白な餅の旗が迫って来るのが見えました。

「堤の上は狭いので戦い難い」
と旗を降ろして低地へと移動した長宗我部隊に対し、
「敵は逃げるゾ!」
と我先に攻め込む藤堂隊・・・

一方の長宗我部隊は、 盛親の、
「間合いが遠いうちは一人も立つな!」
の命令を忠実に守り、敵が近づいてから、並べた槍の矛先で一斉に叩きつけたたため、功を急いでただ突き進んでいた一部の藤堂隊が乱れに乱れ、その乱れが瞬く間に全体の乱れとなり、将クラス63余騎、歩兵約3000名が討たれ、藤堂隊は手痛い敗北を喰らってしまったのです。

そう、その討たれた中には吉成の姿も・・・享年64、かつて命懸けで守った主君に刃を向けた、その心中には複雑な思いがあったやも知れませぬが、戦国を生きた老臣としては、おそらく、ここを死に場所として猛突進して果てたに違いなく、自らの死に様をも、すでに察していたのかも知れません。

その後の戦いの流れは・・・
上記の通り、長宗我部隊に圧倒され、もはや風前の灯だった藤堂隊でしたが、そこに若江にて木村隊を破った井伊隊が援軍に駆け付けて来た事で、分が悪いと判断した盛親が持ち場の京橋口へと退きあげたため、合戦の勝敗としては徳川方の勝利という事になります。

そしてご存知のように、ここを破られ、道明寺も突破された大坂方は、この翌日、徳川勢に本拠大坂城を取り囲まれ、総攻撃を受ける事になります。

参照ページ
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】>>
●【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦い】>>

そして、盛親・・・【長宗我部盛親の起死回生を賭けた大坂夏の陣】>>
大坂の陣で焼け落ちる大坂城から脱出するも、後に捕縛された時、
「赤旗(井伊の赤備え)に妨害されて高虎の首を取れんかったんが悔しい」
と言っていたらしい(『常山紀談』)ので、やはり、井伊の援軍が来なければ、この日の八尾での藤堂隊も、かなりヤバかったのでしょうね。
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2019年4月17日 (水)

秀吉VS勝家の賤ヶ岳前哨戦~滝川一益・峯城歌合戦

 

天正十一年(1583年)4月17日、柴田勝家と羽柴秀吉が戦った賤ヶ岳の戦いの前哨戦で、滝川一益の腹心・滝川儀太夫が守る峯城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後に、織田家家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)と、山崎で主君の仇を討った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)との間で信長の後継を巡って起こった争い=賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い・・・

信長の死から、ここまでの経緯は下記↓関連ページでご覧いただくとして…
●本能寺の変>>
●山崎の戦い>>
●清洲会議>>
●秀吉演出の信長の葬儀>>
●長浜城の戦い>>
●長島城の戦いが始まる>>
●亀山城の戦い>>
●勝家が福井を出陣&秀吉が佐和山に着陣>>
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簡単な流れとしては……
信長亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任するも、納得いかない信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に籠城して反発したので、秀吉が、信孝を推す勝家の支城である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を陥落させると、同じく信孝推しの滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったので、秀吉は城を奪還すべく伊勢方面に出陣して転戦するのです。(←今ココ)

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

こうして、
天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍で三方向から北伊勢に入った秀吉軍の実弟=羽柴秀長(ひでなが)&甥の羽柴秀次(ひでつぐ)らが、滝川一益の甥=滝川儀太夫(ぎたゆう=益重?益氏?)の籠る峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲したのです。
 .

秀吉は川崎村(かわさきむら=三重県亀山市の北東部)に本陣を置いて、ネズミ一匹通さぬように柵で以って城を囲み、堀を埋め、2月16日には城下一帯に火を放って執拗に攻め立てますが、峰続きの天然の要害に囲まれた峯城は、なかなか落ちそうになく、攻め手が近づけば、籠城側は貯めに貯めた糞尿をまき散らして追い払う・・・どちらにも決定打が無いまま小競り合いばかりが続きます。

そんな中、戦線がこう着状態となったある日・・・籠城側から一首の狂歌(きょうか=滑稽な社会風刺や皮肉などを盛り込んだ短歌)が送られて来ます。

♪上野(こうずけ)の ぬけとは鑓(やり)に 会いもせず
 醍醐の寺の 剃刀(かみそり)をとげ ♪
これは、秀吉軍の一人として参戦していながら、未だ大した働きをしていなかった織田信包(のぶかね=信長の弟)に対し、彼がかつて醍醐寺(だいごじ=京都府京都市伏見区)の近くに屋敷を構えていた事を皮肉って
「上野介(こうずけのすけ=信包の事)君は、ヤリやなくて坊主にするためのカミソリを研いどいた方がえぇんちゃうん?」
てな事を歌った物・・・

こういう場合、当然、言われっぱなしにはしておけませんがな!

で、寄せ手側からは中尾新太夫(なかおしんだゆう)なる武将が出て、
♪春雨に 峰々までも くずれ落ち
 つれて流るる 滝川の水 ♪
「峯城が落ちるんと同時に滝川儀太夫も一巻の終わりやっちゅーねん」
と返したのだとか・・・

まぁ、この『峯城歌合戦』の話は、地元に伝わる昔話・伝説の域を越えない話なのでアレですが、この峯城周辺で、1ヶ月近くに渡るこう着状態が続いた事は確か・・・

とにもかくにも城の攻略を1番の目標とする秀吉は、お得意の干殺し(ひごろし・ほしごろし=兵糧攻め)の持久戦法を続ける一方で、金堀り衆にトンネルを掘らせて 土塁(どるい=土制の堤防)近くまで進み、盛んに城内を威嚇します。

しだいに飢えていく城内・・・そんな中、去る3月3日に、この峯城と同時攻撃されていた佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)が落ちた(3月3日参照>>)というニュースが入って来たのです。

そこを、すかさず投降を促し、和平交渉に入る秀吉・・・

「もはや万策尽きた」と感じた滝川儀太夫は、天正十一年(1583年)4月17日、ついに峯城の開城を決意し、今回、秀吉とともにこの戦いの指揮を取っていた織田信雄に、城を明け渡したのでした。

いやはや、もし、この時代にスマホがあって、峯城の儀太夫と湖北に進んだ柴田勝家と連絡をとっていたら・・・もう、ワクワクしますね~

そうです。。。携帯の無い時代、おそらく峯城の城内には、秀吉の動きも、勝家の動きも伝わっていなかったのでしょう。

この時、一旦、湖北方面に戻っていた秀吉は、この峯城陥落の前日の16日に信孝の籠る岐阜城に向かいますが、大雨で長良川が渡れず、やむなく大垣(おおがき=岐阜県大垣市)に留まっていたのですが、実は一方の勝家の方も越前を出て準備万端整えていたのです。

この3日後の4月20日に、勝家は湖北=賤ヶ岳にて秀吉軍に向けて戦闘を開始・・・

そして自軍のピンチを知った秀吉が慌てて、不眠不休で西へと向かう・・・ご存知『美濃の大返し』(4月20日参照>>)となるわけです。
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2019年3月29日 (金)

秀吉の小田原征伐・開始~山中城落城

 

天正十八年(1590年)3月29日、豊臣秀吉による小田原征伐で山中城が落城しました。

・・・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後、天正十三年(1585年)には四国を平定(7月26日参照>>)し、翌・天正十四年(1586年)には九州へも侵出する(4月17日参照>>)と同時に、朝廷からは太政大臣に任命されて豊臣の姓を賜った豊臣秀吉(とよとみひでよし)(12月19日参照>>)は、その同・天正十四年の11月4日付けで『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい)を発布します。

これは、西日本を制した秀吉が、まさに天下人として、未だ戦国の様相を呈している各地に「領地の奪い合い等で私的な合戦をしてはいけない」と命令するもの・・・

なんせ、あの本能寺の直後は、武田を滅亡させたわずか3ヶ月後に信長が亡くなってしまった事で、戦後の論功行賞(3月24日参照>>)で旧武田領を与えられた織田配下の者も未だ旧武田領をしっかりとは治め切れていない状況(6月18日参照>>)なもんで、結果的に宙に浮いた感じになっていた旧武田の領地を、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)相模(さがみ=神奈川県)北条氏直(ほうじょううじなお)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)とで奪い合うわ(10月29日参照>>)、このドサクサでアッチについたりコッチについたりしながらも、ホンネは独立を図りたい旧・武田家臣の真田昌幸(さなだまさゆき)がうごめくわ。。。(8月2日参照>>) で、秀吉も、彼らの間に入ってとりなりしたりなんぞしていたわけで・・・

そんなこんなの天正十七年(1589年)10月、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪ったのです(10月23日参照>>)

これを、上記の関東惣無事令に反する行為だとする秀吉・・・幾度かの交渉も決裂した事を受けて、秀吉は翌11月24日、条氏政(うじまさ=氏直の父)宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)します。

ついに、北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を攻める=世に言う『小田原征伐』が開始される事になります(12月10日参照>>)

Odawaraseibatukougun
●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

迎える北条・・・秀吉が東海道を東に進んで来ると予想し、本拠の小田原城に配下の諸将を集めるとともに、伊豆半島の付け根にあたりを、足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)縦ラインで豊臣の大軍を防ぐべく、それらの城の防備を強化します。

明けて天正十八年(1590年)、2月7日の先発隊に続き、3月1日に京都を出陣した秀吉本隊も19日には駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に到着・・・28日には秀吉自身が山中城周辺を視察して廻り、ここで小田原の防衛線となっている山中城と韮山城の同時攻撃を決定するのです。

かくして天正十八年(1590年)3月29日午前10時頃、総勢約22万の豊臣軍のうち、豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)を総大将とする中村一氏(なかむらかずうじ)田中吉政(たなかよしまさ)山内一豊(やまうちかずとよ)一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)らをはじめとする約6万8千が山中城を攻めにかかります。

それは・・・まずは、岱崎出丸(たいざきでまる=岱崎砦とも)付近から合戦の火蓋が切られました。

対する山中城は、北条家臣の松田康長(まつだやすなが)城番とし、一族の北条氏勝(うじかつ)守将(しゅしょう=戦闘時の1次的な指揮官)間宮康俊(まみややすとし)ら、名だたる武将を含む約4千が守ります。

この出丸の攻防で一柳直末を失う豊臣勢ではありましたが、そもそも両者の数の差がハンパないわけで、結局、お昼頃には勝敗が決したとされます。

この戦いで豊臣方の先陣を務めた中村一氏配下の渡辺了(わたなべさとる=勘兵衛)なる武将の手記によると・・・
この日、秀吉から、
「岱崎出丸を奪い取って、コッチの攻撃ポイントにせよ」
との命令を受けた中村一氏に対し、渡辺了は
「それよりも、出丸前方に小高い丘がいくつかありますよって、その丘に20~30人の軍勢を入らせて、そこから出丸に鉄砲を撃ちかけ、向こうが慌ててる間に、出丸に登る土塁を構築したらよろしいかと……」
と進言したところ、その作戦が採用されたので、早速、渡辺了は3つあるうちの1番向こうの丘に登って周囲を見渡していると、出丸から鉄砲が撃ちかけられます。

怯むことなく、そこから城の端へと押し進み、(とき)の声を挙げつつ、50人ばかりがどゎ~っと堀に飛び込みますが、未だ、この1番乗りの中村一氏隊だけで、後に続く者の姿は見えず・・・

それでも中村隊が城の塀にとりつく頃には、秀吉の陣地から大きなほら貝が響き渡り、その勢いに乗じて、渡辺了は逆茂木(さかもぎ=敵の侵入を防ぐべく先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べて結び合わせた柵)で固められた三の丸に飛び込みます。

しかし、ここまで来ても、まだ後に続く者が来ないので三の丸の隠し扉を開けるわけにはいかず・・・と、そこに前後から鉄砲が撃ちかけられ、ともに1番乗りをしたうちの4人が射殺されます。

やがて三の丸と二の丸に上がっていた煙が薄くなったので、渡辺らは枝折(しおり=木や竹でできて簡素な門)を飛び越えて門を打ち破り三の丸に突入・・・敵と戦いながら二の丸へ侵入すると、敵兵は西の丸の櫓に籠ります。

渡辺らは西の丸の土塁にとりついて、下から槍で突き上げると、敵も、もちろん応戦・・・土塁の下と上で激しい槍戦をしていると大将クラスの2人の武将が登場し、彼らと相まみえている最中に、ようやく寄せ手の大軍が到着し、もう、そこからは敵味方入り乱れての乱戦となりました。

『真書太閤記』を読むと、どうやら、この大将クラスの2人の武将というのは松田康長と間宮康俊の事のようで、歴戦のツワモノであった彼らは、ここで何十人もの豊臣勢を討ち取る勇姿を後輩たちに見せたものの、さすがに数の差には逆らえず、最後は華々しく散って行ったという事です。

800pxyamanakajo_shojibori 山中城の障子堀

ご存知の方も多かろうと思いますが、この山中城は、障子の桟(さん)のように幅の狭い畝(うね)を、わざと堀残して堀の底を細かく仕切った障子堀(しょうじぼり)が特徴的な城・・・障子堀の畝は敵の突進を妨げ、堀に落ちれば脱出し難く、そこを鉄砲で容易に狙う事ができました。

今回の岱崎出丸は城の最南端に位置し、約20000㎡もある縦に長い長方形の出丸で、南と北西に単列の障子堀がほどこされていました。

ここまでの守りを固めた山中城が、わずか半日で落ちてしまったのは、おそらく北条にとっても大誤算だった事でしょう。

また足柄城も、山中城の落城を知ってか、翌日には戦うことなく城を破棄して守備隊は小田原城へと逃避しています。

ただし山中城と同時に攻撃が開始された韮山城は、落ちる事無く持ちこたえ、攻めあぐねた豊臣方は、最終的に、城を守る北条氏規(うじのり=氏政の弟)(2月8日参照>>)と旧知の仲だった徳川家康に彼を説得させ、ようやく6月24日に開城の運びとなっています。

とにもかくにも、翌4月に本城である小田原城を完璧なまでに包囲した豊臣軍・・・ここから約4ヶ月に渡る小田原合戦は、ここ、山中城の落城から始まったわけです。

この後の状況はコチラ↓から……
(まだ書いてない箇所はこれからガンバリます(/ー\*))
●4月2日:小田原城包囲>>
●5月29日:館林城を攻略>>
●6月5日:伊達政宗参陣>>
●6月16日:忍城水攻めの堤防決壊>>
●6月23日:八王子城が陥落>>
●6月26日:石垣山一夜城が完成>>
●7月5日:小田原城・開城>>
小田原征伐・逸話集>>
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2019年3月 3日 (日)

賤ヶ岳の前哨戦~亀山城の戦い

天正十一年(1583年)3月3日、賤ヶ岳の前哨戦となる伊勢での戦いで亀山城が開城されました。

・・・・・・・・・・・・・

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの前哨戦である長島城攻防戦と同時進行で行われていた戦いです。

織田信長(おだのぶなが)亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に決まり(6月27日参照>>)、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任しますが、亡き信長の葬儀(10月15日参照>>)を大々的に行って後継者の雰囲気を醸し出す羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)と彼に同調する信雄に、岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)に拠る信孝が反発・・・

しかし、信孝の1番の味方である柴田勝家(しばたかついえ)の拠点=北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)が雪深い北陸にあって冬場には援軍が望めない事から、信孝は一旦、秀吉と和睦して春を待つ事にしますが、その間に秀吉は勝家所領の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を落とします(12月11日参照>>)

一方の信孝派も・・・もう一人の味方である滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったのです。

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

これを受けた秀吉は天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍を三方に分け、実弟=羽柴秀長(ひでなが)隊は美濃多羅口から、甥の羽柴秀次(ひでつぐ)隊は君畑越えで、秀吉自らは安楽峠越え北伊勢へと侵入し、2月12日には峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲すると同時に一益の本拠=長島城へと迫り(2月12日参照>>)、16日には亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)城下に攻め入ります。

とは言え、今回の亀山城・・・実は、一益に奪われた経緯にはお家騒動が絡んでいました。

この頃、亀山城の城主を務めていた関盛信(せきもりのぶ)は、次男の一政(かずまさ)の嫁に蒲生賢秀(がもうかたひで)(2017年6月2日参照>>)の娘を迎えて後継者とする事と決め、息子とともに秀吉のもとに年賀の挨拶に赴いていたのですが、そのスキに一部の家臣が三男の勝蔵(政盛?)を後継者に擁立・・・つまりクーデターを決行して盛信が留守の間に亀山城を奪ってしまったのです。

で、このクーデターを支援したのが一益で、今回の出陣で峯城を奪った後、この亀山城には腹心の佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)を投入して守りを固めさせていたのです。

そこへやって来た秀吉・・・自ら騎馬で以って、亀山城の構えや防備を視察して回った後、敵方の土塁を破壊して進路を断ち、コチラ側に有利な柵を構築し、かの2月16日に包囲を完了し、即座に攻撃に取り掛かります。

この16日の戦いでは、城内から門を開いて撃って出た城兵に、混乱する寄せ手側が切り崩されて散らされまくりでしたが、細川忠興(ほそかわただおき)陪臣(ばいしん=家臣の家臣)である松井盛秀(まついもりひで)が、同僚の米田是政(こめだこれまさ)とともに、ただ二人で留まり、三の丸に放火して攻勢に転じさせたのだとか・・・

次の24日の戦いでは、病気のために出遅れてしまっていた盛秀の主君=松井康之(まついやすゆき=細川忠興の家臣)が現地に到着し、秀吉軍の先鋒の細川隊として突き進みますが、やはり敵の猛反撃に遭い、先の盛秀は討死・・・三の丸まで攻め込みながらも、城を落とす事はできませんでした。

続く26日の戦いでも、やはり攻め手を押し返す城兵に苦戦していたところ、ただ一人踏ん張る米田是政が、鉄砲の雨あられの中、その槍で以って目の前の将兵を突き倒して、城の中へ中へと奮戦・・・これを本陣から見ていた秀吉は、
「なんや、黄色に日の丸の指物(さしもの=戦場で本人の目印となる旗【姉川の七本槍】参照>>したヤツがメッチャ頑張ってるみたいやけど、誰なん?
忠興のとこの米田みたいに見えるけど、アイツの指物は日の丸ちゃうやんな?」

と、隣にいた小姓に尋ねます。

そこで、戦場を見渡せる位置に行って確認した小姓は、
「やっぱ、アレは米田ですわ。
あの指物は日の丸やなくて、鉄砲の弾が貫通したとこが穴になってて本陣からは日の丸のように見えたようです」

と報告・・・その勇姿に秀吉も大いに感激したのだとか・・・『細川家記』『細川忠興軍功記』

同じく26日の戦いに参加していた山内一豊(やまうちかつとよ)は、50騎ばかりの城兵が城外に出て来たのを確認すると、一豊自ら、1番に駆け出して槍で最前線の敵兵を一突き・・・この様子を本陣のある山上から見ていた秀吉が、歓喜のあまりに床几(しょうぎ=折り畳みイス)から転げ落ちたとか・・・

また、一豊の足軽だった小崎三太夫(こさきさんだいゆう)(たつみ)の櫓(やぐら)の堀下から従者の肩を踏み台に、自らの刀をはしご代わりにして、手傷を負いながらも堀をよじ登り、山内の旗を高々と掲げて
「山内猪右衛門(いえもん=一豊の事)、当城の一番乗り~!」
と叫び、味方を奮起させですが、
その一方で、三太夫の巽の櫓への1番乗りを加勢した父の代からの忠臣=五藤吉兵衛(ごとうきちべえ)一豊の目の前で討死してしまいました。『山内一豊武功記』『御家中名誉』

さらに、細川&山内と同じく、この日の先鋒を任されていた加藤清正(かとうきよまさ)は、敵からの鉄砲をかいくぐって突進し、自慢の長槍を敵の鉄砲の筒へと打ち入れて払い落し、すかさず肩先から突き仕留めました。『清正記』

てな感じですが、御覧の通り・・・これらの記録は『細川家記』やら『山内一豊武功記』やら『清正記』やらと、どう見ても題名の彼らを主人公にじた軍記物だったり、自己申告的な英雄伝であって、おそらく話は盛に盛られているはず・・・

ただ、それでも一豊家臣の吉兵衛が討死した事なんかは事実とされていますので、やはり、この26日の戦いは激しく、亀山城側にとって、かなりの痛手となった戦いであった事は確かでしょう・・・なんせ、このすぐ後、長島城の一益から、開城を勧める使者が亀山城にやって来るのです。

大軍に囲まれてひと月足らず・・・ここまでよく耐えた、いや、むしろ大軍相手に何度も撃退を成功させつつ守りに守った佐治益氏ではありましたが、天正十一年(1583年)3月3日亀山城は秀吉方の蒲生氏郷(うじさと=賢秀の息子・当時は教秀?)開け渡されました。

秀吉は戦後の論功行賞で、氏郷にこの亀山城を与えようとしますが、氏郷が辞退したため、関氏の後継者である一政が治める事に・・・そのおかげで、クーデターを起こした一部の家臣たちも罪を許され、彼らは再び関氏の家臣となって、元のさやに納まったとの事・・・
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とは言え、同時進行の長島城や峯城の攻防戦は、まだ続いています

しかも、何たって、この開城の6日後に、あの勝家がいよいよ出陣・・・ご存知の賤ヶ岳が待っておりますが、それらのお話はコチラをご参照に↓
【賤ヶ岳前夜】>>
美濃の大返し】>>
【賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝・自刃】>>
【佐久間盛政の処刑】>>
(峯城の攻防は書いてませんm(_ _)mいずれ、その日付にて書かせていただきます)
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2019年2月23日 (土)

関白・秀吉の政庁…絢爛豪華な聚楽第

天正十四年(1586)2月23日、羽柴秀吉が聚楽第の普請を開始しました。

・・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)本能寺(6月2日参照>>)倒れて後、その翌年に筆頭家臣だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)で倒し(4月21日参照>>)、三男の織田信孝(のぶたか)を次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)に攻撃させ(5月2日参照>>)、その信雄と徳川家康(とくがわいえやす)小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市)で抑え込んだ(11月15日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

天正十三年(1585年)3月の紀州征伐(3月28日参照>>)を皮切りに、四国(7月26日参照>>)北陸(8月29日参照>>)をと次々と平定して行きますが、その四国平定の真っただ中の7月11日に受けたのが関白宣下(かんぱくせんげ)です。

当時朝廷内を二分し、関白職を争っていた二条昭実(にじょうあきざね)近衛信尹(このえのぶただ)の間をスルッと抜けて、「どっちが関白になりはっても遺恨を残すんやったら僕がやりましょか」と、近衞前久(このえさきひさ)猶子(ゆうし=相続重視では無い親子関係)となった秀吉が、ウマイ事周囲を丸め込んで、あれよあれよという間になちゃった感がありますが、

それでも関白は関白・・・思えば、織田家内の一家臣だった、あの本能寺からわずか3年・・・にしても、すンごいスピードですね~

そんな秀吉が、関白の拠る所として天正十四年(1586年)2月23日構築を開始したのが聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)です。

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『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館蔵)

屏風絵に描かれた姿や、大量の金箔瓦が出土する事から、おそらくは絢爛豪華な大御殿あった事が想像できるものの、上記の通り、この聚楽第は関白のための物・・・

なので、秀吉は、その関白の席を甥の秀次(ひでつぐ)に譲った際に、この聚楽第も彼に譲り、自身は伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)へと移転・・・しかし、その後、ご存知のように、秀次が切腹に追い込まれた事で(7月15日参照>>)、謀反人の城となった聚楽第は破却されてしまうのです。

そのため、地上に痕跡がほとんど残っておらず、聚楽第は『幻の城』と言われていましたが、平成三年(1991年)の発掘調査にて本丸東堀が発見された事をキッカケに、今現在も徐々に解明されつつあるようです。

そもそもは、応仁の乱、
いや、南北朝の頃からの長き々々戦乱による度々の市街戦で荒廃してしまった京の町・・・一説には、「上京から下京へと通れる道は室町通り1本だけだった」と言われるほど荒れていた都を整備すべく始められたのが、秀吉政権による都市改造計画・・・

その中で、秀吉は、「外敵から都を守るため」「鴨川の氾濫から市街地を守るため」に有効な、台形の土塁(どるい)と堀からなる御土居(おどい)なる堤防?壁?みたいなので、京の町をグルリと囲み、要所々々に合計7つの出入口を設け、御土居の内側を洛中(らくちゅう)、外側を洛外(らくがい)と呼んだのです。

今も、丹波口(たんばぐち)粟田口(あわたぐち)なんて地名が残るのはその名残りなんですね。

そんな中、工事の期間や完成の年数は前後するものの、おそらくは、最初の計画段階から、この御土居と聚楽第の位置は決定していたはず・・・で、現在の地図上で、その位置関係を確認してみると・・・

Zyurakudaitizu2
●↑御土居と聚楽第の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一目瞭然!
秀吉は、平安京を囲むように御土居を巡らし、平安京の内裏(だいり=天皇の住まい)の位置に合わせて聚楽第を構築しているんです。

この地図上にある、現在も残る御所というのは、戦火や火事等によって内裏が焼失した際に、再建するまでの天皇の緊急避難場所として複数設けられていた里内裏(さとだいり)の一つだった場所でしたが、結局、もとの内裏が再建されないまま、元弘元年(1331年)に北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう)が、そこで即位された事をキッカケに、その後は、そこが「御所」と呼ばれて天皇の住まう場所となりますが、もともとの平安京の内裏は、上記の左の細かな地図で示したように、聚楽第が建てられたとおぼしき場所だったわけです。

おそらく、これは偶然ではないはず・・・

天正十六年(1588年)4月に、秀吉は、時の天皇=第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を聚楽第に招いて、2日間に渡る儀式や和歌会(わかえ)・舞楽などを盛大に行っていますが、その中で最も重要な事は天皇権限を代行する関白秀吉の姿を、集まった諸大名に見せ、彼らに自分への忠誠を誓わせる事にあったと思います。

そのためには、千年の都と言われる京都の、最も重要な場所に、自らの権勢と財力の象徴を置く必要があったのでしょうね。

ところで、この「聚楽第」の読み方・・・

冒頭には「じゅらくてい」「じゅらくだい」の両方を書かせていただきましたが、以前は、一般的には「じゅらくだい」と言われる事が多かったのですが、『太閤記』「聚楽亭」と書かれいたり、「じゅらくてい」とフリガナが打ってある事から、最近ではドラマやテレビの歴史モノ等では「じゅらくてい」と読まれる事が多いです。

ただ、秀吉本人の書状では「じゅらくやしき」と書いていたり、家臣の日記に「聚楽本丸…」とか、ルイス・フロイスの書には「聚楽という宮殿…」と書いてあったり、別の文献では「聚楽城」の表記もあったりします。

なので、おそらく、本来は単に「聚楽=じゅらく」という名前だったんじゃないか?(←個人の感想です)
山田さんちを山田邸って呼ぶみたいな??

それこそ、秀吉は天下人という武家のトップでありながら、関白という公家のトップでもあるわけで・・・
関白の政庁としては「聚楽第」、武人として守る時は「聚楽城」、毎日住まう場所としては「聚楽屋敷」。。。

とにもかくにも、秀吉にとって一世一代の建物であった事は確かでしょう。

この後、秀吉は、この12月に「豊臣」の姓を賜って太政大臣に任じられ(12月19日参照>>)、その翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定する(4月17日参照>>)事になります。

さらにくわしくは【豊臣秀吉の年表】からどうぞ>>
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2019年2月12日 (火)

賤ヶ岳の前哨戦~長島城の戦い

天正十一年(1583年)2月12日、賤ヶ岳の前哨戦となる戦いで、羽柴秀吉が滝川一益の長島城へと迫りました。

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天正十年(1582年)6月2日、本能寺にて織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)と、すでに家督を譲られていた嫡男の織田信忠(のぶただ)(11月29日参照>>)が共に亡くなった事を受けて、織田家の後継者は、次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)か三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)かと思われましたが、その後に開かれた織田重臣たちによる清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)にて、亡き信忠の嫡男=三法師(さんほうし=後の織田秀信)後継者に、その後見人に信雄&信孝兄弟が就任する事に決定します(6月27日参照>>)

何度か書かせていただいておりますが・・・
以前は、この会議の決定は、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、仇である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市)で討った(6月13日参照>>)事を武器にムリクリで決定したように思われていましたが、近年は至極真っ当な決定であったという考えが主流です。

というのも、すでに他家を継いでいる弟たちより、亡き後継者の嫡子が継ぐのは不思議では無いですし、その幼さをカバーするために信雄と信孝の二人が後見人となったうえに、山崎の合戦のドサクサで燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)を修復する間は、信孝が自身の居城である岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)三法師を預かる事になったのですから、むしろ秀吉は、信孝を後継者に推していた先輩=柴田勝家(しばたかついえ)に華を持たせた感すらあります。

なんせ、他家を継いでてもOKなら、秀吉は、すでに自分の養子になってる「四男の秀勝(ひでかつ)にだって権利ある」って、力で推し通す事もできたかも知れませんからね。

まぁ、領地配分は、秀吉が京都に近いえぇトコを分捕ってますが、もともとそこは敗者=光秀の領地だった場所が主ですので、山崎での功績を考えれば当然のようにも思います。

ただ・・・この後、少々ギクシャクし始めます。

なんせ信孝は、城の修復が終わったら安土に戻す約束の三法師を、いつまでも手放そうとしないばかりか、自分の味方の勝家とお市(いち)の方(信長の妹もしくは姪)の結婚を勝手に決めて、秀吉を排除すべく岐阜城に籠ったのです。

まぁ、一方の秀吉も亡き信長の葬儀を京都で盛大に行って(10月15日参照>>)後継者になりたい感を思いっきり出しちゃってますが・・・

この一触即発の険悪ムードに、勝家は自身の与力である前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)の3人を秀吉のもとに派遣して和議に当たらせますが、これを「雪深い北陸の冬に合戦をしたくないがための時間稼ぎ」と見抜いた秀吉は、12月、池田恒興(いけだつねおき)筒井順慶(つついじゅんけい)細川忠興(ほそかわただおき)ら5万の軍勢とともに近江(おうみ=滋賀県)に入り、勝家領地の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を包囲・・・城主の柴田勝豊(かつとよ=実際には勝家の姉の子)は12月15日、降伏を表明します(12月11日参照>>)

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

この勢いのまま秀吉は岐阜へと兵を向けますが、未だあの本能寺から半年余り・・・さすがに秀吉も、亡き殿様の息子をモロ攻撃しては、他の織田家臣の手前マズイと思ったか?岐阜城を、いつでも攻撃できる布陣で包囲はしたものの、実際に攻撃を仕掛ける事はありませんでした。

一方、籠城する信孝は、こういう場合、稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)(6月8日参照>>)氏家直昌(うじいえなおまさ=卜全の息子)など美濃(みの=岐阜県南部)の国人衆は、皆、自分の味方になってくれる物と踏んでいましたが、稲葉&氏家両者をはじめ多くの者が、すでに秀吉に懐柔されていてアテが外れてしまいます。

なんせ、この時、秀吉は自分ではなく、織田信雄の名前を前面に出して諸将を懐柔しており、名前を出された信雄も、織田家後継者になる気満々の雰囲気を醸し出してますので、あくまで「信雄VS信孝の…」というテイで事を進めていたのでしょう。

なので信孝としては、囲まれた→周辺に味方はいない→北陸の勝家は雪のため援軍は出せない・・・で、この状況を知った伊勢(いせ=三重県南東部)滝川一益(たきがわかずます←彼は信孝の味方です)「ここは一旦和睦して春を待ちなはれ~」と進言し、信孝は、その一益の忠告を聞いて、問題の三法師はもちろん、自らの母や妻子を秀吉のもとに引き渡すとして和睦を交渉。

秀吉も、その申し出を呑む形で三法師らを安土に送り、12月29日に岐阜城の包囲を解いて京都へと戻りました。

しかし、このしばしの休息の間に、一益は、秀吉側についていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)(3月3日参照>>)国府城(こうじょう=三重県鈴鹿市国府町)などを相次いで攻略して、伊勢における守備を固め、来るべき秀吉軍に備えるのです。

それを受けて、天正十一年(1583年)2月12日秀吉軍が3方から北伊勢に侵出し、一益に奪われた支城を囲むと同時に、秀吉自らが3万余騎を率いて一益が拠る長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)へと迫ったのです。
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秀吉の動向を知った一益は、先手を取って各要所に人員を配置し、様々な予防線を張って、その進路を妨害しようとしますが、大軍によって破られ、やむなく、自らが兵を率いて城外へ撃って出ますが、それもかなり押し戻されて城の外構え近くまで攻め入られてしまい、さらに城下に放たれた火によって、民家も寺社も、ことごとく焼き尽くされてしまいます。

その後、秀吉は一旦、桑名(くわな)から数里(約20km)ほど離れた場所に陣を移動させますが、そこでは夜に大きなかがり火を焚いて、滝川勢の夜討ちに備え、沢山の柵も設けました。

そう、実は一益は夜討ちを得意とした武将だったのですが、残念ながら、これまで同じ織田配下の同士であった秀吉は、その事も重々承知・・・「多勢のコチラに対して無勢の一益なら夜討ちしかない」と感づいていたのです。

この毎夜のかがり火に、「夜討ちは見抜かれている」と察した一益は、作戦を変更し、人数の少ない徒歩(かち)組の鉄砲隊を組織してゲリラ戦を展開する事に・・・

3月某日、秀吉軍の先鋒を務めていた中村一氏(ながむらかずうじ)隊が、鉄砲を所持した隊を組織していなかったところを狙われたか?この一益の徒歩組に散々に打ち負かされ、秀吉軍は大打撃を受けてしまいます。

その後も、長島城攻略においては大軍を擁したワリには大きな成果が得られないまま、しばらくの膠着状態が続きます。

他の城も・・・
国府城はほどなく開城されますが、亀山城&峯城にはなかなかの苦戦・・・3月3日、ようやく亀山城を落としますが、その6日後の3月9日、春を待っていた柴田勝家が居城の北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を出陣。。。

この勝家の動きを知った秀吉は、一旦、近江へと戻り、柴田軍と睨み合う形となりますが(3月11日参照>>)、その間に、岐阜城の信孝が挙兵し、伊勢の滝川一益も巻き返しの大暴れ・・・

北ノ庄(福井県)→岐阜城(岐阜県)→長島城(三重県)
このラインが一つにつながって連携してしまっては、ちとヤバイ!

とばかりに、秀吉は再び岐阜へと向かうのですが、これをチャンスと見た勝家が仕掛け、そこに秀吉の大返しが・・・と、ご存知の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いとなるわけです。

関連ページ
【賤ヶ岳前哨戦~亀山城の戦い】>>
【決戦開始!賤ヶ岳…美濃の大返し】>>
【決着!賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】>>
【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝の自刃】>>
【「鬼玄蕃」佐久間盛政の処刑】>>
【福井・九十九橋の怨霊伝説】>>
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