2019年6月14日 (金)

豊臣秀吉の小田原征伐~鉢形城の攻防戦が終結

 

天正十八年(1590年)6月14日、豊臣秀吉の小田原征伐における攻防戦で鉢形城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き(参照>>)後に、その傘下を引き継ぐ(参照>>)傍ら、畿内(参照>>)、四国(参照>>)、北陸(参照>>)、九州(参照>>)を平定し、ほぼ天下を手中に収めた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、
【関白・秀吉の政庁…絢爛豪華聚楽第】参照>>
【太政大臣&豊臣姓賜る】参照>>
【北野大茶会】参照>>
天正十七年(1589年)10月、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪った(10月23日参照>>)事を『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令) に違反する行為として関東に君臨する条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)・・・天正十八年(1590年)3月29日に伊豆半島を縦ラインで結ぶ足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)の同時攻撃にて、小田原征伐の幕が上がったのです。(3月29日参照>>)

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

攻撃開始の当日に山中城を、翌日には足柄城を奪取し、早くも4月2日には大本営の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市を完全包囲した豊臣東海進軍本隊(4月2日参照>>)は、そのまま小田原城を包囲しつつ、一部を武蔵(むさし=東京都・埼玉県・神奈川県の一部)房総(ぼうそう=主に千葉県)下野(しもつけ=栃木県)常陸(ひたち=茨城県)など、関東一円の諸城の攻略に向かわせ、次々と手中に収めていきます。

一方、越後(えちご=新潟県)北陸方面から東山道(とうさんどう)を進軍して関東に入って来た上杉景勝(うえすぎかげかつ)前田利家(まえだとしいえ)らは、4月中には上野(こうずけ=群馬県)の諸城を攻略していましたが、5月13日、秀吉は松井田城(まついだじょう=群馬県安中市松井田町)にあった景勝に鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)の攻略を指示します。

この時の鉢形城主は北条氏政の弟=北条氏邦(うじくに=氏康の5男)

実は、この氏邦さん・・・秀吉の小田原征伐が決まった最初の段階で、
まずは、現当主の北条氏直(うじなお=氏政の息子)自らが出陣して、今は徳川家康(とくがわいえやす)の傘下となっている駿河沼津城(ぬまずじょう=静岡県沼津市大手町)を奪った後、そこを本拠に豊臣軍を迎え撃ち「富士川を越えさせない!」作戦を提案していたのですが、例の小田原評定で、その作戦は却下され、本城の小田原城に籠城する作戦となったため、一旦は小田原城に入るものの、結局、小田原には自身に代わる養子の直定(なおさだ)を入らせて、氏邦自身は配下の留守居役300余名&約2700の雑兵とともに鉢形城に籠城して抵抗する事にしたのでした。

とは言え、この鉢形城周辺には秩父(ちちぶ=埼玉県北西部)領の日尾城(ひおじょう=埼玉県秩父郡小鹿野町)をはじめとする複数の出城が構築されているうえ、かの猪俣邦憲が300余名を率いて加勢に駆け付け、その守備兵力はかなりのもの・・・

かくして5月19日、真田昌幸(さなだまさゆき)依田康国(よだやすくに)らの信濃隊が小前田(埼玉県深谷市)から寄居(よりい=同大里郡)方面に陣取ると、上杉景勝&前田利家・利長父子らの北陸隊は赤浜(あかはま=埼玉県大里郡)を通って鉢形城の東側へと向かい、上杉が大手から、前田が搦手(からめて)から、合計35000余の軍勢で以って攻撃を開始します。

6月3日には津久井城(つくいじょう=神奈川県相模原市)を攻撃していた本多忠勝(ほんだただかつ)鳥居元忠(とりいもとただ)らの徳川勢が攻撃に加わり、28人持ちの大筒で城内に石火矢(いしびや=石を弾丸にした火砲)を撃ち込み、大きな被害を与えたと言います。

そんな中、現在景勝の配下となっている藤田信吉(ふじたのぶよし)が、氏邦が養子(娘婿)に入った藤田家の者(氏邦の義父の息子とも)である縁から使者として赴き、氏邦に降伏するよう説得を開始します。

やがて天正十八年(1590年)6月14日、氏邦は
「家臣たちに代わって、俺が自害するから…」
と言って、鉢形城を開け渡し、剃髪して正龍寺(しょうりゅうじ=埼玉県大里郡寄居町)に入りました。

ここに、小田原征伐における鉢形城の攻防戦は終結しましたが、結局、氏邦の身は前田利家の預かりとなり、その利家が助命嘆願した事から、その命は助かり、氏邦は敵からも味方からの「前代未聞の比興(ひきょう)と言われたとか・・・また、力攻めではなく降伏勧告に終始した利家のやり方には秀吉さんもたいそうご立腹だったようです。

とは言え、戦場で華と散るも戦国武将、生きて一族の血脈を繋ぐも戦国武将・・・このブログでも度々お話させていただいているように、血で血を洗う戦国時代には、「もう、アカン」となった時、一族もろとも滅亡する方が稀で、誰かが生き残っての血筋を残す事の方が多いです。→【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事…】参照>>

そうしないと「家」自体が歴史上から消えてしまうかも・・・「虎は死して皮残す。人は死して名を遺す『十訓抄』どころか、ヘタすりゃ一族もろとも「いなかった事」にされる可能性だってありますからね。

で、今回の小田原征伐での北条氏の場合を見てみると・・・
嫡流(*氏政は次男ですが長男の新九郎が16歳で夭折したため氏政が世子)の前当主の氏政とその息子で現当主の氏直。

一方、氏政の弟たちは・・・
3男で八王子城(はちおうじじょう=東京都八王子市)北条氏照(うじてる)
4男で韮山城の北条氏規(うじのり)
5男で今回の鉢形城の氏邦、
以下、6男の北条氏忠(うじただ)と8男か9男の北条氏光(うじみつ)
(7男は上杉家の養子になった景虎(かげとら)=参照>>で、すでに死亡)

この中で上の3人=氏照と氏邦と氏規は、単なる支城の城主ではなく、独立した一大領国支配を行っていた感がありますが、終始小田原に籠城して兄=氏政とともにイケイケムードで徹底抗戦を主張した氏照と、足柄城をすんなり捨てて小田原城内に走った氏光と、はなから小田原籠城組だった氏忠に対し、それぞれの城に残った氏邦と氏規には、ひょっとしたら、その血筋を残す役目があったのかも・・・あくまで私的な解釈ですが、私はそう感じているのです。

今回の氏邦さんに関しては、先々代の北条氏康(うじやす=氏政や氏邦の父)に降伏して傘下となった藤田康邦(ふじたやすくに)の娘と結婚して婿養子となった藤田家の人として藤田氏邦の名前で古文書等に記載されているところから見ても、そんな気がします。

残念ながら、この後、前田家の家臣となった氏邦の血筋は途中で絶えてしまうようですが、以前書かせていただいたように、氏規さんの血筋は脈々と受け継がれ、無事、明治維新を迎えています(2月8日参照>>)

例え「前代未聞の比興」と言われようが、イザという時に「生き残る事」こそが氏邦さんの使命だったのかも知れません。

この前後の小田原征伐は・・・
●5月29日【館林城・攻防戦】>>
●6月16日【忍城・攻防戦】>>
●6月23日【八王子城・攻防戦】>>
●6月26日【石垣山城一夜城】>>
●7月5日【小田原城・開城】>>
へと続きます。
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2019年5月25日 (土)

本多政康の枚方城の面影を求めて枚方寺内町から万年寺山を行く

 

不肖私は、大阪城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を間近に仰ぎ見つつ生まれ育ち、長じて枚方(ひらかた)or高槻(たかつき)にて仕事に従事しつつ、10年間の富山(とやま)生活を経て舞い戻り、今もなお、ドップリのおけいはん(京阪電車を利用する人)なわけですが・・・

そんな京阪電車の主要駅の一つである枚方は、もともと京都と大坂の中間地点にある交通の要所でありましたが、かの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が淀川の氾濫を防ぐため、文禄三年(1594年)に構築を開始した文禄堤(ぶんろくつつみ=完成は慶長元年1596年)に沿って京都と大坂を行き来する京街道(きょうかいどう)を整備した後、徳川家康(とくがわいえやす)が江戸時代になって、東海道を大坂まで延長して、その途中となる伏見(ふしみ)宿(よど)宿枚方宿守口(もりぐち)宿を加えて、正式に「東海道五十七次」とした事で益々賑やかな宿場町へと発展・・・

さらに淀川を三十石船が往来するようになると、その中継場所として、以前にも増して人の往来が盛んになり(2007年8月10日参照>>) 、そこに、先の大坂の陣にて家康一行を救った功績により天下御免のお墨付き=独占営業権をもらった船頭たちが運営する「くらわんか舟」なる名物も登場して、益々賑やかになって行く・・・【枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話】も参照>>)

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三十石船に物を売る             舟宿の賑わい(右)
枚方名物「くらわんか舟」(左)

とまぁ、そのような宿場町としての枚方の話は有名なのですが、実は、未だ江戸になる前の豊臣の時代には、ここ枚方にも枚方城(ひらかたじょう)というお城があったのですよ。

『日本城郭大系』によると、
この枚方城を居城としていたのは百済王氏(くだらのこにきしし)の末裔を称する本多政康(ほんだまさやす)という人物で、城の立地は枚方で最も高く、舌状大地の最突端で三方は深い谷となっている条件の良い場所であるものの、その遺構は残っていない・・・との事で、現在、枚方小学校が建っている場所が城の比定地とされています。

Dscn2774a 実は、この枚方は、かつて朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)に攻められて滅亡した(8月27日参照>>)百済(くだら)の王の一族が亡命して移り住んだ地とされ、奈良時代から平安時代にかけて活躍した彼ら一族は百済王の姓を得て、河内守(かわちのかみ)に任ぜられ、奈良時代中期に建立されたとされる百済王氏の氏寺である百済寺(くだらじ)の跡も、枚方を流れる天野川(あまのがわ)の東側にて発掘されていします。

なので「百済王の末裔」の話も、あながち荒唐無稽とは言い難い雰囲気です。
(ちなみに、長野の善光寺を創建した飛鳥時代の人物=本多善光(ほんだよしみつ=本田善光)と同流とも言われます)

に、しても、推定地が枚方小学校の場所とされていても、現段階では遺構がまったく無い状況では寂しい・・・ここは一つ、地元の地の利を活かし、ちょっくら、在りし日の枚方城の姿を妄想してみるのも一興かと、周辺を散策してみる事に・・・

なんせ、小学校のある場所は、万年寺山(まんねんじやま)と呼ばれる山の、ほぼ1番高い場所なので、戦国後期の城郭の雰囲気を考え、かつ上記の『日本城郭大系』 の記述を踏まえれば、おそらくは、ここを主郭とし、天然の山の高低差をうまく利用した平山城の造りになっていたでしょうかからね・・・(ただし、このあたりはほとんど住宅開発されているので、あくまで、現在の高低差から想像する状況である事は否めないところではありますが)

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写真①枚方大橋南詰から見た万年寺山(正面右寄りに見える小高い森が万年寺山です)

このブログでも度々ご紹介しております通り、現在、この万年寺山には梅林で有名な意賀美(おかみ)神社(2月27日参照>>)が鎮座しますが、もともとは、古墳時代前期と思われる古墳(万年寺山古墳)があったものの、経年により、その存在が忘れ去られた推古天皇(592年~628年)の時代に、高句麗(こうくり)の僧=恵灌(けいかん)が草庵を営み、それが、万年寺の基となりました。

やがて平安時代の僧=聖宝(しょうぼう)が開祖となって名称も万年寺となり、貞観十四年(872年)に流行した疫病の終息祈願のために境内に牛頭天王(ごずてんのう)を祀る須賀(すが)神社を建立・・・明治になる前は神仏習合(しんぶつしゅうごう=仏が神となって現れる考え方)が一般的で、お寺の中に神社があったり、神社にお寺がくっついているのはごくごく当たり前で、その形のまま、平安~江戸を生き抜いた万年寺でしたが、その後、明治維新を迎えますが、ご存知の明治初期の神仏分離&廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により万年寺が廃寺とされ、残った須賀神社に、山の麓の鎮守の神であった意賀美神社と日吉神社を合祀して、現在の意賀美神社に至る・・・という事です。

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万年寺の面影を残す十三重の石塔

また、戦国時代の永禄二年(1559年)には、万年寺より南西側の高台の御坊山(ごぼうやま)周辺に本願寺8代蓮如(れんにょ)の13男である実従(じつじゅう)による枚方御坊順興寺(じゅんこうじ)が営まれ、この順興寺を中心に枚方寺内町(じないちょう・じないまち=寺院や坊を中心に形成された自治集落で濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持つ)ができていましたが、元亀元年(1570年)、 例の織田信長(おだのぶなが)包囲網に本願寺代11代顕如(けんにょ=蓮如の玄孫)が参戦(9月12日参照>>)・・・いわゆる石山合戦が勃発した事から信長の焼き討ちに遭い、順興寺は焼失していまいます。

Dscf4139a650tt ★現在の御坊山(順興寺跡地)には実従上人のお墓があります→

しかしながら、順興寺はなくなったものの、町衆の経済&流通中心の寺内町の機能は残り、 やがて慶長十六年(1611年)に順興寺が枚方御坊(後に願生坊に改名)として現在の場所(枚方元町)に復活(同時期に大隆寺も建立)・・・

万年寺山と御坊山に挟まれたそこは、江戸時代を通じて枚方宿の物資の流通を担う問屋場の一時保管の場所として蔵が建ち並び、ここから三矢の浜(淀川の浜辺です)あたりまでは蔵の谷と呼ばれる地となります。

つまり、豊臣の時代=枚方城があった時代は、万年寺山には万年寺と須賀神社と枚方城があり、順興寺を失った枚方寺内町が京街道の宿場町の様相へと変化する転換期という事になります。

で、そんな中で、その位置を探る1番の目安となるのは、以前もご紹介した意賀美神社の梅林の西側にある御茶屋御殿(おちゃやごてん)跡・・・(9月27日参照>>)

三矢村(みつやむら=現在の枚方市三矢町)に残る記録『奥田家文書』によれば、自らの家臣となった本多政康の娘=乙御前(おとごぜん)をたいそう気に入った秀吉は、文禄四年(1595年)に、京街道を見下ろすこの地に彼女のための御殿を建てて側室とした事で、以来、この万年寺山は御殿山とも呼ばれ、政康の本多家も大いに栄えたものの、あの大坂の陣>>で豊臣方についた本多政康は討死し、本多家も豊臣とともに滅亡して枚方城は廃城となってしまったとか。。。

ただ、その後も御茶屋御殿は残り、元和九年(1623年)には、家康の後を継いだ第2代江戸幕府将軍=德川秀忠(ひでただ)の宿泊施設として大改築されたものの、その後は利用される事無く、倉庫のようになっていた中、延宝七年(1679年)に起こった枚方宿の火災によって延焼&焼失したと伝えられます。

Dscf3884a この御茶屋御殿跡は、万年寺山の北端の位置にあたり、そこから北側はかなり高低差のある斜面となっていて、淀川の流れが望める風光明媚な場所で、すぐ下には京阪電車が走っています(写真②御茶屋御殿付近から北面を望む↑)

また、御殿跡から続く神社参道には、「長松山萬年寺」と刻まれた石柱や十三重の石塔があり、これが万年寺の名残り・・・つまり、この周辺が万年寺の境内だった事がわかりますので、おそらく枚方城の建物などは、ここから南に建っていた物と思われます。

で、ここから、そのまま南に参道沿いを進んで行くと、大きな(むく)の木を従えた田中家鋳物工場跡(たなかけいものこうじょうあと)に行きつきます。

この椋の木は、枚方市の天然記念物に指定されており、樹齢600年~700年と言われていますので、つまりは、ここに枚方城があった時から(こんなに大きくないかも知れないけれど)立っていた事になります。
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↑写真③椋の木の東側の斜面(パノラマ撮影・左上の大きな木が椋の木です)

代々鋳物師(いもじ)として繁栄して来た田中家の歴史は古く、元明天皇の和銅年間(708~15年)の頃には、すでに鋳物職を生業とし、皇室から硬貨の鋳造を命じられたりしていたそうですが、この地に工場を構えたのが確実視されるのは安土桃山時代以降・・・椋の木は鋳物製品の研磨に用いられていた事から、「鋳物師あるところムクノキあり」と言われるそうなので、察するに、枚方城が廃城となるかならないかのあたりに、この大きな椋の木を求めて、田中家が、この地に移転して来られたものと思われますが、この椋の木の東側が、これまた崖のような高低差となっています。

そして、この田中家鋳物工場跡を、さらに南に進んで行くと、枚方城の比定地とされる枚方小学校となるのですが、この枚方小学校のグランドの南東側に隣接する坊主池公園との高低差が、またまたスゴイ事になっているのです。

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(写真④小学校横から坊主池公園への高低差↑左)
(写真⑤坊主池公園側から小学校への高低差を仰ぎ見る↑右)
↑の右写真では、光が飛んで見え難くなってますが、階段を上った上に小学校グランドのネットが肉眼では見えているんです。
小学校の建ってる場所はけっこう平坦なので「わざとやろ?」っていうくらい、いきなりの崖ですww

Dscf4150a1000 (写真⑥御坊山(右手前)麓から万年寺山(奥)を望む→)
また、万年寺山から蔵の谷を挟んで南西側の御坊山(順興寺跡地)には、現在は実従上人の墓所となっていますが、この御坊山の周囲もメチャメチャ崖なんですよ。

・‥…━━━☆

ではでは、
Hirakatazyou1 この周辺の「地理院地図」>>をお借りして、

Hirakatazyou2 そこに高低差(起伏)を示した地図を重ね、

上記の目安となる場所を書き込んでみると……こんな感じ↓

Hirakatazyou3c
万年寺山の高低差を踏まえ、その高低差を天然の要害として利用したとすれば、おそらく、この地図の真ん中あたりに城の様々な建物が構築されていたと思われます。

これなら、上記の『日本城郭大系』にあった「枚方で最も高く、舌状大地の最突端で三方は深い谷となっている」という条件にも当てはまります。

Hirakatazyou4c ←の、未だ宅地開発される前の大正十一年(1922年)の古地図を重ねてみても、なんとなく納得の雰囲気ですね。

京街道沿いには、すでに家屋が建っていますが、万年寺山には田中家あたりに家があるものの、まだ多くが、そのままの状態になっているように見えます。

とは言え、御坊山周囲の崖的な雰囲気を見てもお解りの通り、先の寺内町時代にも、交野(かたの)など、近隣の村々からの侵入を防ぐための土塁や土居堀などが構築されていたようですから、枚方城オリジナルではなく、すでにあったそれらの防御策を利用しての構築だったと思われますので、そこも加味して考えないといけませんが。。。

てな事で、今回は、地の利を活かし、かつて枚方にあった枚方城の痕跡を求めて、周辺を散策してしてみましたが、少しは垣間見えたでしょうか?

写真は地図も含め、すべてクリックで大きく表示されますので、じっくりと、その高低差を確認してみてください。
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2019年5月 6日 (月)

大坂夏の陣・八尾の戦い~桑名吉成の討死

 

慶長二十年(1615年)5月6日、大坂夏の陣の八尾の戦いにて旧主君・長宗我部盛親と戦った桑名吉成が討死しました。

・・・・・・・・

桑名吉成(くわなよしなり=弥次兵衛)桑名家は、もともとは、あの平清盛(たいらのきよもり)と同じ伊勢平氏で、「その手は桑名の焼き蛤」で有名?(って言っていいのかな?)伊勢(いせ=三重県北中部)桑名(くわな)出身だったので、苗字を桑名と名乗ったとされますが・・・

とりあえず、戦国期にはすでに土佐(とさ=高知県)にいて、吉成の父である桑名藤蔵人(とうぞうじ)やその兄(つまり伯父さん)桑名重定(しげさだ)らが長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の下で、その四国統一(10月19日参照>>)に大活躍した事から中村城(なかむらじょう=高知県四万十市)の城代に抜擢された家柄だったとか・・・

しかし、ご存知のように、長宗我部元親が四国を統一した翌年の天正十三年(1585年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)が、弟の羽柴秀長(はしばひでなが)を総大将にした大軍で以って四国に上陸(7月25日参照>>)・・・敗北を喰らった長宗我部元親は降伏し、なんとか土佐一国の所領を安堵され、今度は、秀吉の配下として生きていく事になります。

その秀吉配下としての戦場は、ほどなく訪れます・・・そう、秀吉の九州平定です。

翌天正十四年(1586年)の4月、かつては豊後(ぶんご=大分県)の王と呼ばれた大友宗麟(おおともそうりん)大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を訪れ、秀吉に薩摩(さつま=鹿児島県)の島津(しまづ)討伐への救援を願い出たのです(4月6日参照>>)

九州と言えば、かつては、この宗麟に加え、日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)肥前(ひぜん=佐賀県)熊と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)がなど群雄割拠していましたが、ここに来て島津中興の祖と呼ばれる島津貴久(たかひさ)の血を受け継ぐ、絆バッチリの島津四兄弟(6月23日参照>>)にことごとく敗れ、
耳川の戦い>>
沖田畷の戦い>>
もう誰も島津の勢いを止められなくなっていたわけで・・・その要請を受けて九州平定へ乗り出す秀吉。

この時代のこういう場合には、直前の戦いで敗れて、その傘下となった者が先頭=矢面に立たされるのが常・・・何たって、未だ本気で味方になったかどうかは怪しいわけで、ここで見事、秀吉のために戦って、その忠誠心を見せてこそ信用に値する事になるわけです。

かくして長宗我部元親とともに、讃岐(さぬき=香川県)仙石秀久(せんごくひでひさ)阿波(あわ=徳島県)十河存保(そごうながやす)らで構成した5千の兵が九州に派遣されますが、上記の通り、長宗我部元親は征服された側の四国勢ですが、仙石秀久は秀吉の四国平定後に配置された側で、今回の出兵では軍監(ぐんかん)という役割・・・総大将では無いので、あくまで3人は対等の立場ではありますが、仙石秀久が長宗我部元親の監視役である事は確か・・・

そんな仙石秀久は、「様子見ながら…」を主張する元親の意見を真っ向から反対し「短期決戦あるのみ!」の主張を押し切り、それぞれがギクシャク感満載のまま戦いへ突入してしまいます。

案の定、あちこちで寸断された秀吉勢は、指揮命令系統もグジャグジャになり、この戸次(へつぎ)川の戦い(11月25日参照>>)秀吉側の大敗北・・・元親は大事な跡取り息子=信親(のぶちか)をも失ってしまうのです。

Kuwanayosinari700a この時の撤退戦で、主君を守って活躍するのが、今回の主役=桑名吉成です。

こういう大敗後の撤退は、大抵困難を極める物・・・なんせ、それまで静観していた地元民や、臨時雇いのような末端の兵士たちが、少しでも名のある武将の首を取って、何とか勝った側からの褒美にありつこうと、一瞬にして落武者狩りに回ってしまうからです。

この時も、落ち武者狩りの集団が一揆と化し、敗軍の将に一気に襲い掛かって来ましたが、その事を予想ずみの吉成は、主君の元親を守りつつ、ある時は身を隠し、ある時は堂々と振舞って相手を蹴散らしつつ、無事、土佐に帰還する事に成功しています。

この時の吉成の働きが、いかに素晴らしかったを物語っているのが、元親の遺言・・・元親は、その死の目前に、四男の盛親(もりちか)を呼び寄せ、
「合戦の際は、必ず吉成を先手として采配を振るわせよ」
と言い残したと言います。

その後、天下統一を果たした秀吉のもとで、元親の後を継いだ盛親とともにいた吉成ですが、やがて訪れたのが、あの関ヶ原の戦い・・・(くわしい合戦の内容については【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞ)

この時、本チャンの関ヶ原では西軍の主力であった南宮山(なんぐうさん=岐阜県大垣市)に布陣していた盛親以下長宗我部軍・・・この時、この南宮山に布陣していたのは、西軍総大将であるものの大坂城に留まっていた毛利輝元(もうりてるもと)の名代として現地で来ていた毛利秀元(ひでもと=輝元とは従兄弟)吉川広家(きっかわひろいえ=同じく輝元の従兄弟)安国寺恵瓊(あんこくじえけい=秀吉の側近で石田三成と通通)(9月23日参照>>)長束正家(なつかまさいえ=豊臣五奉行の一人)(10月3日参照>>) 、そして長宗我部盛親でしたが、

この中で安国寺恵瓊と長束正家は西軍ドップリの主力部隊でしたが、先方に布陣していた吉川広家は、すでに東軍総大将=徳川家康(とくがわいえやす)「戦いに参加しない事で所領を安堵する」の密約を交わしており、その約束通りにまったく軍を動かさず、しかも戦いの状況を後方に報告する事もなかったため、その後方に位置する全員がまったく動かないまま、戦いは東軍の勝利となってしまうのです。

結果的に関ヶ原の本チャンには参加しないままに敗戦を知り、伊賀(いが=三重県西部)から和泉(いずみ=大阪府西南部)を抜けて大坂、さらに土佐へ戻った盛親たち・・・実は、この時、盛親も家康からのお誘いを受けていて、東軍に寝返る事を決意しており、その旨を知らせる使者を家康に送ったものの、その使者が土佐弁丸出しで西軍に見つかってしまい、OKの返事を届けられないまま本チャンを迎えてしまったとも言われています。

とにもかくにも、もし、東軍に寝返る気があったのだとしても、返事が届いていないなら、どのみち敗れた西軍側の人なわけで・・・しかも、戦後のなんやかやの交渉中にややこしい事になり、結局、長宗我部家はお取り潰しとなり(5月15日参照>>) 、本拠の浦戸城(うらどじょう=高知県高知市浦戸)は徳川に接収される事になってしまいました。

しかし、負けたとは言え、関ヶ原では無傷だった長宗我部軍の中には、今回の戦後処理を不服とし、城の明け渡しに反対する者も多数・・・それは、浦戸一揆(うらどいっき)と呼ばれる籠城戦(12月5日参照>>)となりますが、
「このまま抵抗しても、全員がつぶされるだけ…」
と判断した吉成は、知り合いの僧侶を派遣したり、自らも説得当たったりつつ、半ば強硬ではあるものの、何とか開城にこぎつけました。

かくして長宗我部盛親は浪人となり、当然、吉成も浪人となったわけですが、実は、これまでの撤退戦や今回の戦後処理など・・・吉成の手腕に惚れ込んでいた武将がいたのです。

それは藤堂高虎(とうどうたかとら)・・・浅井長政(あざいながまさ)から秀吉、そして家康と渡り歩いていながら、どの主君にも重用される築城の名人=高虎(6月11日参照>>)が、吉成のスゴ腕を求めて二千石で以って彼を召し抱えたのです。

このまま平安な時が続けば、高虎の下で、その政治手腕を発揮できたであろう吉成・・・しかし慶長十九年(1614年)、あの大坂の陣が勃発します。

ご存知、大坂の陣は、江戸にて徳川政権の維持をもくろむ徳川家康にとって、未だ朝廷からも一目置かれ、大坂城に居て一定の支持を受ける目の上のタンコブの秀吉の遺児=豊臣秀頼(とよとみひでより)をせん滅せんと、あらゆる手段を使って大坂方を戦場に引きずり出した戦いです。
(くわしくは【大坂の陣の年表】>>でどうぞ)

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

この時、かつての主君=長宗我部盛親は秀頼に招かれて大坂城へと入りますが、吉成は高虎の配下として、当然、徳川方で参戦します。

かくして慶長二十年(1615年)、戦いも後半の夏の陣

Oosakanatunozin0506 大坂夏の陣
 元和元年五月六日の布陣

 クリックで大きく(背景は
地理院地図>>)

去る4月29日の樫井(かしい=大阪府泉佐野市)の戦い(4月19日参照>>)に負け、紀州一揆(4月28日参照>>)との連携も取れなくなった大坂方は、生駒山地の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指す徳川方に対し、木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)らが今福(大阪市城東区)方面に布陣して北側の京街道をやって来る敵に備え、後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが)らを主力とする部隊が大和口方面隊を迎え撃つ事に・・・

慶長二十年(1615年)5月6日のこの日、後者の大和口方面で起こったのが道明寺・誉田(どうみょうじ・こんだ)の戦いですが、ソチラは4月30日のページ>>でご覧しただくとして……

他方、前者の北側の京街道を進む側で繰り広げられたのが若江・八尾(わかえ・やお)の戦い(2011年5月6日参照>>)です。

八幡(やわた=京都府八幡市)付近で京街道から分かれる東高野街道(ひがしこうやかいどう)を南下した徳川勢が、河内八尾村(やおむら=大阪府八尾市)付近で南北に流れる川の東側に布陣します。

迎え撃つ大坂方は、先の今福から南下して川の西岸に布陣した木村重成隊が若江(わかえ=大阪府東大阪市)付近にて徳川方の先鋒=井伊直孝(いいなおたか)隊と衝突。。。同じく、守備していた京橋口(きょうばしぐち=大阪市城東区)から南下した長宗我部盛親は久宝寺(きゅうほうじ=大阪府八尾市)付近にて藤堂高虎隊とぶつかる・・・そうです、この日、桑名吉成は旧主君&旧同僚たちと戦う事になったのです。

Yaokassentki
元和元年卯五月六日之陣備図(高知県立歴史民俗資料館蔵)

この日の朝、すでに道明寺で合戦が始まっているとの情報を受け取っていた藤堂隊は、援助すべく、さらに南下しようと考えていたところ、西に連なる堤防の向こう・・・すぐそばに敵がいる事を知り、軍を西に向けて堤防の側までやって来ます。

南北に広がっていた隊列が、堤防をスタートラインのように一つに合わせた後、タイミングを見計らって一斉に攻めかかると、堤近くの森にいた長宗我部盛親からは朝霧の向こうから紺地に真っ白な餅の旗が迫って来るのが見えました。

「堤の上は狭いので戦い難い」
と旗を降ろして低地へと移動した長宗我部隊に対し、
「敵は逃げるゾ!」
と我先に攻め込む藤堂隊・・・

一方の長宗我部隊は、 盛親の、
「間合いが遠いうちは一人も立つな!」
の命令を忠実に守り、敵が近づいてから、並べた槍の矛先で一斉に叩きつけたたため、功を急いでただ突き進んでいた一部の藤堂隊が乱れに乱れ、その乱れが瞬く間に全体の乱れとなり、将クラス63余騎、歩兵約3000名が討たれ、藤堂隊は手痛い敗北を喰らってしまったのです。

そう、その討たれた中には吉成の姿も・・・享年64、かつて命懸けで守った主君に刃を向けた、その心中には複雑な思いがあったやも知れませぬが、戦国を生きた老臣としては、おそらく、ここを死に場所として猛突進して果てたに違いなく、自らの死に様をも、すでに察していたのかも知れません。

その後の戦いの流れは・・・
上記の通り、長宗我部隊に圧倒され、もはや風前の灯だった藤堂隊でしたが、そこに若江にて木村隊を破った井伊隊が援軍に駆け付けて来た事で、分が悪いと判断した盛親が持ち場の京橋口へと退きあげたため、合戦の勝敗としては徳川方の勝利という事になります。

そしてご存知のように、ここを破られ、道明寺も突破された大坂方は、この翌日、徳川勢に本拠大坂城を取り囲まれ、総攻撃を受ける事になります。

参照ページ
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】>>
●【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦い】>>

そして、盛親・・・【長宗我部盛親の起死回生を賭けた大坂夏の陣】>>
大坂の陣で焼け落ちる大坂城から脱出するも、後に捕縛された時、
「赤旗(井伊の赤備え)に妨害されて高虎の首を取れんかったんが悔しい」
と言っていたらしい(『常山紀談』)ので、やはり、井伊の援軍が来なければ、この日の八尾での藤堂隊も、かなりヤバかったのでしょうね。
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2019年4月17日 (水)

秀吉VS勝家の賤ヶ岳前哨戦~滝川一益・峯城歌合戦

 

天正十一年(1583年)4月17日、柴田勝家と羽柴秀吉が戦った賤ヶ岳の戦いの前哨戦で、滝川一益の腹心・滝川儀太夫が守る峯城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後に、織田家家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)と、山崎で主君の仇を討った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)との間で信長の後継を巡って起こった争い=賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い・・・

信長の死から、ここまでの経緯は下記↓関連ページでご覧いただくとして…
●本能寺の変>>
●山崎の戦い>>
●清洲会議>>
●秀吉演出の信長の葬儀>>
●長浜城の戦い>>
●長島城の戦いが始まる>>
●亀山城の戦い>>
●勝家が福井を出陣&秀吉が佐和山に着陣>>
Sizugatakezikeiretu

簡単な流れとしては……
信長亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任するも、納得いかない信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に籠城して反発したので、秀吉が、信孝を推す勝家の支城である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を陥落させると、同じく信孝推しの滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったので、秀吉は城を奪還すべく伊勢方面に出陣して転戦するのです。(←今ココ)

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

こうして、
天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍で三方向から北伊勢に入った秀吉軍の実弟=羽柴秀長(ひでなが)&甥の羽柴秀次(ひでつぐ)らが、滝川一益の甥=滝川儀太夫(ぎたゆう=益重?益氏?)の籠る峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲したのです。
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秀吉は川崎村(かわさきむら=三重県亀山市の北東部)に本陣を置いて、ネズミ一匹通さぬように柵で以って城を囲み、堀を埋め、2月16日には城下一帯に火を放って執拗に攻め立てますが、峰続きの天然の要害に囲まれた峯城は、なかなか落ちそうになく、攻め手が近づけば、籠城側は貯めに貯めた糞尿をまき散らして追い払う・・・どちらにも決定打が無いまま小競り合いばかりが続きます。

そんな中、戦線がこう着状態となったある日・・・籠城側から一首の狂歌(きょうか=滑稽な社会風刺や皮肉などを盛り込んだ短歌)が送られて来ます。

♪上野(こうずけ)の ぬけとは鑓(やり)に 会いもせず
 醍醐の寺の 剃刀(かみそり)をとげ ♪
これは、秀吉軍の一人として参戦していながら、未だ大した働きをしていなかった織田信包(のぶかね=信長の弟)に対し、彼がかつて醍醐寺(だいごじ=京都府京都市伏見区)の近くに屋敷を構えていた事を皮肉って
「上野介(こうずけのすけ=信包の事)君は、ヤリやなくて坊主にするためのカミソリを研いどいた方がえぇんちゃうん?」
てな事を歌った物・・・

こういう場合、当然、言われっぱなしにはしておけませんがな!

で、寄せ手側からは中尾新太夫(なかおしんだゆう)なる武将が出て、
♪春雨に 峰々までも くずれ落ち
 つれて流るる 滝川の水 ♪
「峯城が落ちるんと同時に滝川儀太夫も一巻の終わりやっちゅーねん」
と返したのだとか・・・

まぁ、この『峯城歌合戦』の話は、地元に伝わる昔話・伝説の域を越えない話なのでアレですが、この峯城周辺で、1ヶ月近くに渡るこう着状態が続いた事は確か・・・

とにもかくにも城の攻略を1番の目標とする秀吉は、お得意の干殺し(ひごろし・ほしごろし=兵糧攻め)の持久戦法を続ける一方で、金堀り衆にトンネルを掘らせて 土塁(どるい=土制の堤防)近くまで進み、盛んに城内を威嚇します。

しだいに飢えていく城内・・・そんな中、去る3月3日に、この峯城と同時攻撃されていた佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)が落ちた(3月3日参照>>)というニュースが入って来たのです。

そこを、すかさず投降を促し、和平交渉に入る秀吉・・・

「もはや万策尽きた」と感じた滝川儀太夫は、天正十一年(1583年)4月17日、ついに峯城の開城を決意し、今回、秀吉とともにこの戦いの指揮を取っていた織田信雄に、城を明け渡したのでした。

いやはや、もし、この時代にスマホがあって、峯城の儀太夫と湖北に進んだ柴田勝家と連絡をとっていたら・・・もう、ワクワクしますね~

そうです。。。携帯の無い時代、おそらく峯城の城内には、秀吉の動きも、勝家の動きも伝わっていなかったのでしょう。

この時、一旦、湖北方面に戻っていた秀吉は、この峯城陥落の前日の16日に信孝の籠る岐阜城に向かいますが、大雨で長良川が渡れず、やむなく大垣(おおがき=岐阜県大垣市)に留まっていたのですが、実は一方の勝家の方も越前を出て準備万端整えていたのです。

この3日後の4月20日に、勝家は湖北=賤ヶ岳にて秀吉軍に向けて戦闘を開始・・・

そして自軍のピンチを知った秀吉が慌てて、不眠不休で西へと向かう・・・ご存知『美濃の大返し』(4月20日参照>>)となるわけです。
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2019年3月29日 (金)

秀吉の小田原征伐・開始~山中城落城

 

天正十八年(1590年)3月29日、豊臣秀吉による小田原征伐で山中城が落城しました。

・・・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後、天正十三年(1585年)には四国を平定(7月26日参照>>)し、翌・天正十四年(1586年)には九州へも侵出する(4月17日参照>>)と同時に、朝廷からは太政大臣に任命されて豊臣の姓を賜った豊臣秀吉(とよとみひでよし)(12月19日参照>>)は、その同・天正十四年の11月4日付けで『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい)を発布します。

これは、西日本を制した秀吉が、まさに天下人として、未だ戦国の様相を呈している各地に「領地の奪い合い等で私的な合戦をしてはいけない」と命令するもの・・・

なんせ、あの本能寺の直後は、武田を滅亡させたわずか3ヶ月後に信長が亡くなってしまった事で、戦後の論功行賞(3月24日参照>>)で旧武田領を与えられた織田配下の者も未だ旧武田領をしっかりとは治め切れていない状況(6月18日参照>>)なもんで、結果的に宙に浮いた感じになっていた旧武田の領地を、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)相模(さがみ=神奈川県)北条氏直(ほうじょううじなお)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)とで奪い合うわ(10月29日参照>>)、このドサクサでアッチについたりコッチについたりしながらも、ホンネは独立を図りたい旧・武田家臣の真田昌幸(さなだまさゆき)がうごめくわ。。。(8月2日参照>>) で、秀吉も、彼らの間に入ってとりなりしたりなんぞしていたわけで・・・

そんなこんなの天正十七年(1589年)10月、沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る北条配下の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、真田の物となっていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪ったのです(10月23日参照>>)

これを、上記の関東惣無事令に反する行為だとする秀吉・・・幾度かの交渉も決裂した事を受けて、秀吉は翌11月24日、条氏政(うじまさ=氏直の父)宛てに宣戦布告(11月24日参照>>)します。

ついに、北条の本拠である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を攻める=世に言う『小田原征伐』が開始される事になります(12月10日参照>>)

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

迎える北条・・・秀吉が東海道を東に進んで来ると予想し、本拠の小田原城に配下の諸将を集めるとともに、伊豆半島の付け根にあたりを、足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)縦ラインで豊臣の大軍を防ぐべく、それらの城の防備を強化します。

明けて天正十八年(1590年)、2月7日の先発隊に続き、3月1日に京都を出陣した秀吉本隊も19日には駿府(すんぷ=静岡県静岡市)に到着・・・28日には秀吉自身が山中城周辺を視察して廻り、ここで小田原の防衛線となっている山中城と韮山城の同時攻撃を決定するのです。

かくして天正十八年(1590年)3月29日午前10時頃、総勢約22万の豊臣軍のうち、豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)を総大将とする中村一氏(なかむらかずうじ)田中吉政(たなかよしまさ)山内一豊(やまうちかずとよ)一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)らをはじめとする約6万8千が山中城を攻めにかかります。

それは・・・まずは、岱崎出丸(たいざきでまる=岱崎砦とも)付近から合戦の火蓋が切られました。

対する山中城は、北条家臣の松田康長(まつだやすなが)城番とし、一族の北条氏勝(うじかつ)守将(しゅしょう=戦闘時の1次的な指揮官)間宮康俊(まみややすとし)ら、名だたる武将を含む約4千が守ります。

この出丸の攻防で一柳直末を失う豊臣勢ではありましたが、そもそも両者の数の差がハンパないわけで、結局、お昼頃には勝敗が決したとされます。

この戦いで豊臣方の先陣を務めた中村一氏配下の渡辺了(わたなべさとる=勘兵衛)なる武将の手記によると・・・
この日、秀吉から、
「岱崎出丸を奪い取って、コッチの攻撃ポイントにせよ」
との命令を受けた中村一氏に対し、渡辺了は
「それよりも、出丸前方に小高い丘がいくつかありますよって、その丘に20~30人の軍勢を入らせて、そこから出丸に鉄砲を撃ちかけ、向こうが慌ててる間に、出丸に登る土塁を構築したらよろしいかと……」
と進言したところ、その作戦が採用されたので、早速、渡辺了は3つあるうちの1番向こうの丘に登って周囲を見渡していると、出丸から鉄砲が撃ちかけられます。

怯むことなく、そこから城の端へと押し進み、(とき)の声を挙げつつ、50人ばかりがどゎ~っと堀に飛び込みますが、未だ、この1番乗りの中村一氏隊だけで、後に続く者の姿は見えず・・・

それでも中村隊が城の塀にとりつく頃には、秀吉の陣地から大きなほら貝が響き渡り、その勢いに乗じて、渡辺了は逆茂木(さかもぎ=敵の侵入を防ぐべく先端を鋭くとがらせた木の枝を外に向けて並べて結び合わせた柵)で固められた三の丸に飛び込みます。

しかし、ここまで来ても、まだ後に続く者が来ないので三の丸の隠し扉を開けるわけにはいかず・・・と、そこに前後から鉄砲が撃ちかけられ、ともに1番乗りをしたうちの4人が射殺されます。

やがて三の丸と二の丸に上がっていた煙が薄くなったので、渡辺らは枝折(しおり=木や竹でできて簡素な門)を飛び越えて門を打ち破り三の丸に突入・・・敵と戦いながら二の丸へ侵入すると、敵兵は西の丸の櫓に籠ります。

渡辺らは西の丸の土塁にとりついて、下から槍で突き上げると、敵も、もちろん応戦・・・土塁の下と上で激しい槍戦をしていると大将クラスの2人の武将が登場し、彼らと相まみえている最中に、ようやく寄せ手の大軍が到着し、もう、そこからは敵味方入り乱れての乱戦となりました。

『真書太閤記』を読むと、どうやら、この大将クラスの2人の武将というのは松田康長と間宮康俊の事のようで、歴戦のツワモノであった彼らは、ここで何十人もの豊臣勢を討ち取る勇姿を後輩たちに見せたものの、さすがに数の差には逆らえず、最後は華々しく散って行ったという事です。

800pxyamanakajo_shojibori 山中城の障子堀

ご存知の方も多かろうと思いますが、この山中城は、障子の桟(さん)のように幅の狭い畝(うね)を、わざと堀残して堀の底を細かく仕切った障子堀(しょうじぼり)が特徴的な城・・・障子堀の畝は敵の突進を妨げ、堀に落ちれば脱出し難く、そこを鉄砲で容易に狙う事ができました。

今回の岱崎出丸は城の最南端に位置し、約20000㎡もある縦に長い長方形の出丸で、南と北西に単列の障子堀がほどこされていました。

ここまでの守りを固めた山中城が、わずか半日で落ちてしまったのは、おそらく北条にとっても大誤算だった事でしょう。

また足柄城も、山中城の落城を知ってか、翌日には戦うことなく城を破棄して守備隊は小田原城へと逃避しています。

ただし山中城と同時に攻撃が開始された韮山城は、落ちる事無く持ちこたえ、攻めあぐねた豊臣方は、最終的に、城を守る北条氏規(うじのり=氏政の弟)(2月8日参照>>)と旧知の仲だった徳川家康に彼を説得させ、ようやく6月24日に開城の運びとなっています。

とにもかくにも、翌4月に本城である小田原城を完璧なまでに包囲した豊臣軍・・・ここから約4ヶ月に渡る小田原合戦は、ここ、山中城の落城から始まったわけです。

この後の状況はコチラ↓から……
(まだ書いてない箇所はこれからガンバリます(/ー\*))
●4月2日:小田原城包囲>>
●5月29日:館林城を攻略>>
●6月5日:伊達政宗参陣>>
●6月16日:忍城水攻めの堤防決壊>>
●6月23日:八王子城が陥落>>
●6月26日:石垣山一夜城が完成>>
●7月5日:小田原城・開城>>
小田原征伐・逸話集>>
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2019年3月 3日 (日)

賤ヶ岳の前哨戦~亀山城の戦い

天正十一年(1583年)3月3日、賤ヶ岳の前哨戦となる伊勢での戦いで亀山城が開城されました。

・・・・・・・・・・・・・

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの前哨戦である長島城攻防戦と同時進行で行われていた戦いです。

織田信長(おだのぶなが)亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に決まり(6月27日参照>>)、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任しますが、亡き信長の葬儀(10月15日参照>>)を大々的に行って後継者の雰囲気を醸し出す羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)と彼に同調する信雄に、岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)に拠る信孝が反発・・・

しかし、信孝の1番の味方である柴田勝家(しばたかついえ)の拠点=北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)が雪深い北陸にあって冬場には援軍が望めない事から、信孝は一旦、秀吉と和睦して春を待つ事にしますが、その間に秀吉は勝家所領の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を落とします(12月11日参照>>)

一方の信孝派も・・・もう一人の味方である滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったのです。

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

これを受けた秀吉は天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍を三方に分け、実弟=羽柴秀長(ひでなが)隊は美濃多羅口から、甥の羽柴秀次(ひでつぐ)隊は君畑越えで、秀吉自らは安楽峠越え北伊勢へと侵入し、2月12日には峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲すると同時に一益の本拠=長島城へと迫り(2月12日参照>>)、16日には亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)城下に攻め入ります。

とは言え、今回の亀山城・・・実は、一益に奪われた経緯にはお家騒動が絡んでいました。

この頃、亀山城の城主を務めていた関盛信(せきもりのぶ)は、次男の一政(かずまさ)の嫁に蒲生賢秀(がもうかたひで)(2017年6月2日参照>>)の娘を迎えて後継者とする事と決め、息子とともに秀吉のもとに年賀の挨拶に赴いていたのですが、そのスキに一部の家臣が三男の勝蔵(政盛?)を後継者に擁立・・・つまりクーデターを決行して盛信が留守の間に亀山城を奪ってしまったのです。

で、このクーデターを支援したのが一益で、今回の出陣で峯城を奪った後、この亀山城には腹心の佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)を投入して守りを固めさせていたのです。

そこへやって来た秀吉・・・自ら騎馬で以って、亀山城の構えや防備を視察して回った後、敵方の土塁を破壊して進路を断ち、コチラ側に有利な柵を構築し、かの2月16日に包囲を完了し、即座に攻撃に取り掛かります。

この16日の戦いでは、城内から門を開いて撃って出た城兵に、混乱する寄せ手側が切り崩されて散らされまくりでしたが、細川忠興(ほそかわただおき)陪臣(ばいしん=家臣の家臣)である松井盛秀(まついもりひで)が、同僚の米田是政(こめだこれまさ)とともに、ただ二人で留まり、三の丸に放火して攻勢に転じさせたのだとか・・・

次の24日の戦いでは、病気のために出遅れてしまっていた盛秀の主君=松井康之(まついやすゆき=細川忠興の家臣)が現地に到着し、秀吉軍の先鋒の細川隊として突き進みますが、やはり敵の猛反撃に遭い、先の盛秀は討死・・・三の丸まで攻め込みながらも、城を落とす事はできませんでした。

続く26日の戦いでも、やはり攻め手を押し返す城兵に苦戦していたところ、ただ一人踏ん張る米田是政が、鉄砲の雨あられの中、その槍で以って目の前の将兵を突き倒して、城の中へ中へと奮戦・・・これを本陣から見ていた秀吉は、
「なんや、黄色に日の丸の指物(さしもの=戦場で本人の目印となる旗【姉川の七本槍】参照>>したヤツがメッチャ頑張ってるみたいやけど、誰なん?
忠興のとこの米田みたいに見えるけど、アイツの指物は日の丸ちゃうやんな?」

と、隣にいた小姓に尋ねます。

そこで、戦場を見渡せる位置に行って確認した小姓は、
「やっぱ、アレは米田ですわ。
あの指物は日の丸やなくて、鉄砲の弾が貫通したとこが穴になってて本陣からは日の丸のように見えたようです」

と報告・・・その勇姿に秀吉も大いに感激したのだとか・・・『細川家記』『細川忠興軍功記』

同じく26日の戦いに参加していた山内一豊(やまうちかつとよ)は、50騎ばかりの城兵が城外に出て来たのを確認すると、一豊自ら、1番に駆け出して槍で最前線の敵兵を一突き・・・この様子を本陣のある山上から見ていた秀吉が、歓喜のあまりに床几(しょうぎ=折り畳みイス)から転げ落ちたとか・・・

また、一豊の足軽だった小崎三太夫(こさきさんだいゆう)(たつみ)の櫓(やぐら)の堀下から従者の肩を踏み台に、自らの刀をはしご代わりにして、手傷を負いながらも堀をよじ登り、山内の旗を高々と掲げて
「山内猪右衛門(いえもん=一豊の事)、当城の一番乗り~!」
と叫び、味方を奮起させですが、
その一方で、三太夫の巽の櫓への1番乗りを加勢した父の代からの忠臣=五藤吉兵衛(ごとうきちべえ)一豊の目の前で討死してしまいました。『山内一豊武功記』『御家中名誉』

さらに、細川&山内と同じく、この日の先鋒を任されていた加藤清正(かとうきよまさ)は、敵からの鉄砲をかいくぐって突進し、自慢の長槍を敵の鉄砲の筒へと打ち入れて払い落し、すかさず肩先から突き仕留めました。『清正記』

てな感じですが、御覧の通り・・・これらの記録は『細川家記』やら『山内一豊武功記』やら『清正記』やらと、どう見ても題名の彼らを主人公にじた軍記物だったり、自己申告的な英雄伝であって、おそらく話は盛に盛られているはず・・・

ただ、それでも一豊家臣の吉兵衛が討死した事なんかは事実とされていますので、やはり、この26日の戦いは激しく、亀山城側にとって、かなりの痛手となった戦いであった事は確かでしょう・・・なんせ、このすぐ後、長島城の一益から、開城を勧める使者が亀山城にやって来るのです。

大軍に囲まれてひと月足らず・・・ここまでよく耐えた、いや、むしろ大軍相手に何度も撃退を成功させつつ守りに守った佐治益氏ではありましたが、天正十一年(1583年)3月3日亀山城は秀吉方の蒲生氏郷(うじさと=賢秀の息子・当時は教秀?)開け渡されました。

秀吉は戦後の論功行賞で、氏郷にこの亀山城を与えようとしますが、氏郷が辞退したため、関氏の後継者である一政が治める事に・・・そのおかげで、クーデターを起こした一部の家臣たちも罪を許され、彼らは再び関氏の家臣となって、元のさやに納まったとの事・・・
Sizugatakezikeiretu

とは言え、同時進行の長島城や峯城の攻防戦は、まだ続いています

しかも、何たって、この開城の6日後に、あの勝家がいよいよ出陣・・・ご存知の賤ヶ岳が待っておりますが、それらのお話はコチラをご参照に↓
【賤ヶ岳前夜】>>
美濃の大返し】>>
【賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝・自刃】>>
【佐久間盛政の処刑】>>
(峯城の攻防は書いてませんm(_ _)mいずれ、その日付にて書かせていただきます)
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2019年2月23日 (土)

関白・秀吉の政庁…絢爛豪華な聚楽第

天正十四年(1586)2月23日、羽柴秀吉が聚楽第の普請を開始しました。

・・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)本能寺(6月2日参照>>)倒れて後、その翌年に筆頭家臣だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)で倒し(4月21日参照>>)、三男の織田信孝(のぶたか)を次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)に攻撃させ(5月2日参照>>)、その信雄と徳川家康(とくがわいえやす)小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市)で抑え込んだ(11月15日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

天正十三年(1585年)3月の紀州征伐(3月28日参照>>)を皮切りに、四国(7月26日参照>>)北陸(8月29日参照>>)をと次々と平定して行きますが、その四国平定の真っただ中の7月11日に受けたのが関白宣下(かんぱくせんげ)です。

当時朝廷内を二分し、関白職を争っていた二条昭実(にじょうあきざね)近衛信尹(このえのぶただ)の間をスルッと抜けて、「どっちが関白になりはっても遺恨を残すんやったら僕がやりましょか」と、近衞前久(このえさきひさ)猶子(ゆうし=相続重視では無い親子関係)となった秀吉が、ウマイ事周囲を丸め込んで、あれよあれよという間になちゃった感がありますが、

それでも関白は関白・・・思えば、織田家内の一家臣だった、あの本能寺からわずか3年・・・にしても、すンごいスピードですね~

そんな秀吉が、関白の拠る所として天正十四年(1586年)2月23日構築を開始したのが聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)です。

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『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館蔵)

屏風絵に描かれた姿や、大量の金箔瓦が出土する事から、おそらくは絢爛豪華な大御殿あった事が想像できるものの、上記の通り、この聚楽第は関白のための物・・・

なので、秀吉は、その関白の席を甥の秀次(ひでつぐ)に譲った際に、この聚楽第も彼に譲り、自身は伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)へと移転・・・しかし、その後、ご存知のように、秀次が切腹に追い込まれた事で(7月15日参照>>)、謀反人の城となった聚楽第は破却されてしまうのです。

そのため、地上に痕跡がほとんど残っておらず、聚楽第は『幻の城』と言われていましたが、平成三年(1991年)の発掘調査にて本丸東堀が発見された事をキッカケに、今現在も徐々に解明されつつあるようです。

そもそもは、応仁の乱、
いや、南北朝の頃からの長き々々戦乱による度々の市街戦で荒廃してしまった京の町・・・一説には、「上京から下京へと通れる道は室町通り1本だけだった」と言われるほど荒れていた都を整備すべく始められたのが、秀吉政権による都市改造計画・・・

その中で、秀吉は、「外敵から都を守るため」「鴨川の氾濫から市街地を守るため」に有効な、台形の土塁(どるい)と堀からなる御土居(おどい)なる堤防?壁?みたいなので、京の町をグルリと囲み、要所々々に合計7つの出入口を設け、御土居の内側を洛中(らくちゅう)、外側を洛外(らくがい)と呼んだのです。

今も、丹波口(たんばぐち)粟田口(あわたぐち)なんて地名が残るのはその名残りなんですね。

そんな中、工事の期間や完成の年数は前後するものの、おそらくは、最初の計画段階から、この御土居と聚楽第の位置は決定していたはず・・・で、現在の地図上で、その位置関係を確認してみると・・・

Zyurakudaitizu2
●↑御土居と聚楽第の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一目瞭然!
秀吉は、平安京を囲むように御土居を巡らし、平安京の内裏(だいり=天皇の住まい)の位置に合わせて聚楽第を構築しているんです。

この地図上にある、現在も残る御所というのは、戦火や火事等によって内裏が焼失した際に、再建するまでの天皇の緊急避難場所として複数設けられていた里内裏(さとだいり)の一つだった場所でしたが、結局、もとの内裏が再建されないまま、元弘元年(1331年)に北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう)が、そこで即位された事をキッカケに、その後は、そこが「御所」と呼ばれて天皇の住まう場所となりますが、もともとの平安京の内裏は、上記の左の細かな地図で示したように、聚楽第が建てられたとおぼしき場所だったわけです。

おそらく、これは偶然ではないはず・・・

天正十六年(1588年)4月に、秀吉は、時の天皇=第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を聚楽第に招いて、2日間に渡る儀式や和歌会(わかえ)・舞楽などを盛大に行っていますが、その中で最も重要な事は天皇権限を代行する関白秀吉の姿を、集まった諸大名に見せ、彼らに自分への忠誠を誓わせる事にあったと思います。

そのためには、千年の都と言われる京都の、最も重要な場所に、自らの権勢と財力の象徴を置く必要があったのでしょうね。

ところで、この「聚楽第」の読み方・・・

冒頭には「じゅらくてい」「じゅらくだい」の両方を書かせていただきましたが、以前は、一般的には「じゅらくだい」と言われる事が多かったのですが、『太閤記』「聚楽亭」と書かれいたり、「じゅらくてい」とフリガナが打ってある事から、最近ではドラマやテレビの歴史モノ等では「じゅらくてい」と読まれる事が多いです。

ただ、秀吉本人の書状では「じゅらくやしき」と書いていたり、家臣の日記に「聚楽本丸…」とか、ルイス・フロイスの書には「聚楽という宮殿…」と書いてあったり、別の文献では「聚楽城」の表記もあったりします。

なので、おそらく、本来は単に「聚楽=じゅらく」という名前だったんじゃないか?(←個人の感想です)
山田さんちを山田邸って呼ぶみたいな??

それこそ、秀吉は天下人という武家のトップでありながら、関白という公家のトップでもあるわけで・・・
関白の政庁としては「聚楽第」、武人として守る時は「聚楽城」、毎日住まう場所としては「聚楽屋敷」。。。

とにもかくにも、秀吉にとって一世一代の建物であった事は確かでしょう。

この後、秀吉は、この12月に「豊臣」の姓を賜って太政大臣に任じられ(12月19日参照>>)、その翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定する(4月17日参照>>)事になります。

さらにくわしくは【豊臣秀吉の年表】からどうぞ>>
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2019年2月12日 (火)

賤ヶ岳の前哨戦~長島城の戦い

天正十一年(1583年)2月12日、賤ヶ岳の前哨戦となる戦いで、羽柴秀吉が滝川一益の長島城へと迫りました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、本能寺にて織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)と、すでに家督を譲られていた嫡男の織田信忠(のぶただ)(11月29日参照>>)が共に亡くなった事を受けて、織田家の後継者は、次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)か三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)かと思われましたが、その後に開かれた織田重臣たちによる清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)にて、亡き信忠の嫡男=三法師(さんほうし=後の織田秀信)後継者に、その後見人に信雄&信孝兄弟が就任する事に決定します(6月27日参照>>)

何度か書かせていただいておりますが・・・
以前は、この会議の決定は、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、仇である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市)で討った(6月13日参照>>)事を武器にムリクリで決定したように思われていましたが、近年は至極真っ当な決定であったという考えが主流です。

というのも、すでに他家を継いでいる弟たちより、亡き後継者の嫡子が継ぐのは不思議では無いですし、その幼さをカバーするために信雄と信孝の二人が後見人となったうえに、山崎の合戦のドサクサで燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)を修復する間は、信孝が自身の居城である岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)三法師を預かる事になったのですから、むしろ秀吉は、信孝を後継者に推していた先輩=柴田勝家(しばたかついえ)に華を持たせた感すらあります。

なんせ、他家を継いでてもOKなら、秀吉は、すでに自分の養子になってる「四男の秀勝(ひでかつ)にだって権利ある」って、力で推し通す事もできたかも知れませんからね。

まぁ、領地配分は、秀吉が京都に近いえぇトコを分捕ってますが、もともとそこは敗者=光秀の領地だった場所が主ですので、山崎での功績を考えれば当然のようにも思います。

ただ・・・この後、少々ギクシャクし始めます。

なんせ信孝は、城の修復が終わったら安土に戻す約束の三法師を、いつまでも手放そうとしないばかりか、自分の味方の勝家とお市(いち)の方(信長の妹もしくは姪)の結婚を勝手に決めて、秀吉を排除すべく岐阜城に籠ったのです。

まぁ、一方の秀吉も亡き信長の葬儀を京都で盛大に行って(10月15日参照>>)後継者になりたい感を思いっきり出しちゃってますが・・・

この一触即発の険悪ムードに、勝家は自身の与力である前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)の3人を秀吉のもとに派遣して和議に当たらせますが、これを「雪深い北陸の冬に合戦をしたくないがための時間稼ぎ」と見抜いた秀吉は、12月、池田恒興(いけだつねおき)筒井順慶(つついじゅんけい)細川忠興(ほそかわただおき)ら5万の軍勢とともに近江(おうみ=滋賀県)に入り、勝家領地の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を包囲・・・城主の柴田勝豊(かつとよ=実際には勝家の姉の子)は12月15日、降伏を表明します(12月11日参照>>)

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

この勢いのまま秀吉は岐阜へと兵を向けますが、未だあの本能寺から半年余り・・・さすがに秀吉も、亡き殿様の息子をモロ攻撃しては、他の織田家臣の手前マズイと思ったか?岐阜城を、いつでも攻撃できる布陣で包囲はしたものの、実際に攻撃を仕掛ける事はありませんでした。

一方、籠城する信孝は、こういう場合、稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)(6月8日参照>>)氏家直昌(うじいえなおまさ=卜全の息子)など美濃(みの=岐阜県南部)の国人衆は、皆、自分の味方になってくれる物と踏んでいましたが、稲葉&氏家両者をはじめ多くの者が、すでに秀吉に懐柔されていてアテが外れてしまいます。

なんせ、この時、秀吉は自分ではなく、織田信雄の名前を前面に出して諸将を懐柔しており、名前を出された信雄も、織田家後継者になる気満々の雰囲気を醸し出してますので、あくまで「信雄VS信孝の…」というテイで事を進めていたのでしょう。

なので信孝としては、囲まれた→周辺に味方はいない→北陸の勝家は雪のため援軍は出せない・・・で、この状況を知った伊勢(いせ=三重県南東部)滝川一益(たきがわかずます←彼は信孝の味方です)「ここは一旦和睦して春を待ちなはれ~」と進言し、信孝は、その一益の忠告を聞いて、問題の三法師はもちろん、自らの母や妻子を秀吉のもとに引き渡すとして和睦を交渉。

秀吉も、その申し出を呑む形で三法師らを安土に送り、12月29日に岐阜城の包囲を解いて京都へと戻りました。

しかし、このしばしの休息の間に、一益は、秀吉側についていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)(3月3日参照>>)国府城(こうじょう=三重県鈴鹿市国府町)などを相次いで攻略して、伊勢における守備を固め、来るべき秀吉軍に備えるのです。

それを受けて、天正十一年(1583年)2月12日秀吉軍が3方から北伊勢に侵出し、一益に奪われた支城を囲むと同時に、秀吉自らが3万余騎を率いて一益が拠る長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)へと迫ったのです。
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秀吉の動向を知った一益は、先手を取って各要所に人員を配置し、様々な予防線を張って、その進路を妨害しようとしますが、大軍によって破られ、やむなく、自らが兵を率いて城外へ撃って出ますが、それもかなり押し戻されて城の外構え近くまで攻め入られてしまい、さらに城下に放たれた火によって、民家も寺社も、ことごとく焼き尽くされてしまいます。

その後、秀吉は一旦、桑名(くわな)から数里(約20km)ほど離れた場所に陣を移動させますが、そこでは夜に大きなかがり火を焚いて、滝川勢の夜討ちに備え、沢山の柵も設けました。

そう、実は一益は夜討ちを得意とした武将だったのですが、残念ながら、これまで同じ織田配下の同士であった秀吉は、その事も重々承知・・・「多勢のコチラに対して無勢の一益なら夜討ちしかない」と感づいていたのです。

この毎夜のかがり火に、「夜討ちは見抜かれている」と察した一益は、作戦を変更し、人数の少ない徒歩(かち)組の鉄砲隊を組織してゲリラ戦を展開する事に・・・

3月某日、秀吉軍の先鋒を務めていた中村一氏(ながむらかずうじ)隊が、鉄砲を所持した隊を組織していなかったところを狙われたか?この一益の徒歩組に散々に打ち負かされ、秀吉軍は大打撃を受けてしまいます。

その後も、長島城攻略においては大軍を擁したワリには大きな成果が得られないまま、しばらくの膠着状態が続きます。

他の城も・・・
国府城はほどなく開城されますが、亀山城&峯城にはなかなかの苦戦・・・3月3日、ようやく亀山城を落としますが、その6日後の3月9日、春を待っていた柴田勝家が居城の北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を出陣。。。

この勝家の動きを知った秀吉は、一旦、近江へと戻り、柴田軍と睨み合う形となりますが(3月11日参照>>)、その間に、岐阜城の信孝が挙兵し、伊勢の滝川一益も巻き返しの大暴れ・・・

北ノ庄(福井県)→岐阜城(岐阜県)→長島城(三重県)
このラインが一つにつながって連携してしまっては、ちとヤバイ!

とばかりに、秀吉は再び岐阜へと向かうのですが、これをチャンスと見た勝家が仕掛け、そこに秀吉の大返しが・・・と、ご存知の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いとなるわけです。

関連ページ
【賤ヶ岳前哨戦~亀山城の戦い】>>
【決戦開始!賤ヶ岳…美濃の大返し】>>
【決着!賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】>>
【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝の自刃】>>
【「鬼玄蕃」佐久間盛政の処刑】>>
【福井・九十九橋の怨霊伝説】>>
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2019年2月 8日 (金)

「真実」を貫いた交渉の達人…北条氏規

 

慶長五年(1600年)2月8日、北条氏康の息子で小田原征伐から生き残った北条氏規が、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

天文十四年(1545年)に、相模(さがみ=神奈川県)を制する北条(ほうじょう=鎌倉時代の北条と区別して後北条とも)の第3代当主=北条氏康(ほうじょう じやす)の四男として生まれた北条氏規(うじのり)は、幼い頃に駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)に、人質として送られたと言います。

もともと、今川家内での後継者争いの時に、北条初代の北条早雲(そううん)こと伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)が、自らの姉(もしくは妹)が嫁いでいた縁から、その息子の今川氏親(うじちか)を支援して第9代当主に据える事に成功し、その後も家臣として補佐(6月21日の前半部分参照>>)した事から、本来、北条と今川の関係は良かったはずだったのですが、

ご存知のように、その後の早雲が、堀越公方(ほりごえくぼう)から伊豆(いず)を奪い(10月11日参照>>)小田原城(おだわらじょう)を奪取し(2月16日参照>>)、さらに立河原(たちがわら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)から相模制覇(7月13日参照>>)へと、どんどん関東に侵出していき、これが、今川との亀裂を生じさせてしまうのです。

なんせ、自力で奪い取った以上、その場所は、当然、北条自身が支配する事になる・・・つまり、一応、今川の配下という立場を取りながらも、実質支配している領地が増えていくわけです。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そんな北条は、公方(古河公方&小弓公方=室町幕府政権下での公式関東支配者)関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)両上杉家(扇谷上杉&山内上杉)などの旧来の関東支配者から見ると、いわゆる「成り上がりのヨソ者」ように感じるわけで・・・

そんな中、早雲が没して第2代当主の北条氏綱(うじつな=早雲の息子)の時代に入ると、敵の敵は味方とばかりに、それまで敵対していた両上杉家は和睦し、そこに公方らも加わり、さらに甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)安房(あわ=千葉南部)里見(さとみ)も味方につけ、まるで北条包囲網のような物が形成されていくのですが、

そんなこんなの天文六年(1537年)、後継者争いに打ち勝って(6月10日参照>>)、亡き先代=氏親の後を継いだ今川義元(よしもと)が、北条包囲網の一翼である武田信虎の娘を娶って同盟を結んだ事から、氏綱は今川と完全に決別し、逆に、公方同士でモメはじめた小弓公方(おゆみくぼう)を倒して、古河公方(こがくぼう)足利晴氏(あしかがはるうじ)に接近・・・娘を嫁がせて、足利の身内となったばかりか、晴氏から関東管領職に任じられ『伊佐早文書』に依る)、両上杉をよそに、もはや「関東を支配してもイイヨ権」を獲得したような状態になっていくわけで(11月28日参照>>)

さらにノリノリの北条は駿河へと侵攻し、北条と今川の間には世に河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる戦いが展開されますが、間もなく、北条&武田&今川には三者三様の転換期が訪れるのです。

北条では、氏綱の後を継いだ北条氏康(うじやす)が戦国三大奇襲の一つに数えられる川越(かわごえ=埼玉県川越市)夜戦を成功させて(4月20日参照>>)、公方や上杉を壊滅状態に追い込み(天文十五年=1546年)

武田家では信虎の嫡子=武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信)による父の追放劇(6月14日参照>>)政権交代(天文十年=1541年)して方針転換・・・新当主の信玄の目は駿河&関東ではなく隣国=信濃(しなの=長野県)→北東方面へと向く事に(6月24日参照>>)・・・

さらに今川でも、支援を望む三河(みかわ=愛知県東部)松平広忠(まつだいらひろただ=徳徳川家康の父)との関係から、三河の向こうにある尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(のぶひで=信長の父)との対立が激しくなり(3月6日参照>>)、どっちかと言うとそっちに集注したい義元としては、自身の後方と側面にあたる甲斐や関東とはモメたくないわけで・・・

で、天文二十三年(1554年)、北条&今川&武田による甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれるわけですが、ご存知のように、その同盟の証となるのが、三者それぞれの息子と娘による婚姻・・・
武田義信(よしのぶ=信玄の息子)×嶺松院(れいしょういん=義元の娘)
北条氏政(うじまさ=氏康の息子)×黄梅院(おうばいいん=信玄の娘)
今川氏真(うじざね=義元の息子)×早川殿(はやかわどの=氏康の娘)

以前、「偶然にも、この時のそれぞれの息子たちが全員同い歳」てな事を書かせていただきましたが、息子は同じ歳でも、娘はそうでは無かったようで・・・北条の早川殿の生年が不明なので確実な事は言えないのですが、どうやら、この同盟の話が出た時点での早川殿は、未だ結婚できるような年齢では無かったようなのです。

上記の天文二十三年(1554年)という年号は、最後までお預けだった氏真と早川殿の婚姻が行われた事によって「正式に同盟が締結された」年でありますが、当然、同盟がその日一日で成る事はないわけで・・・現に、他の2組は、前年や前々年に正式に婚姻してます。

つまり、同盟の話が出始めた段階では、未だ婚姻の年齢に達していなかった早川殿の代わりに北条氏規は今川へと送られた・・・という事のようです。
(書いてるうちに、ものすご~く長い前置きになってしまって申し訳ないデスm(_ _)m)

なんせ、この氏規でさえ、天文二十三年(1554年)なら9歳か10歳くらいですから、その妹である早川殿で、しかも同盟の話が出始めたであろう3~4年前なら、かなり幼いですので、その話もアリかな?と思います。

とは言え、早川殿が今川に嫁に行き、正式に同盟が成された後も、氏規は、しばらくの間は駿河に留まっていたようですが、ご存知のように、この頃には、あの徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平竹千代→元信)も、今川にて人質生活を送っており(2月5日参照>>)、2歳違いで同じ人質という境遇の二人ですから、おそらくは互いを知る間柄であった事でしょう。

そんな中、永禄五年(1562年)もしくは永禄六年(1563年)に北条家に戻ったとおぼしき氏規は、韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)館林城(たてばやしじょう=群馬県館林市安房)の城主を歴任しつつ、安房の里見や上総(かずさ=千葉県中部)武田(たけだ)との戦いで功を挙げる武勇の持主でありましたが、何と言っても、特筆すべきは、他国との交渉術・・・

永禄十二年(1569年)の上杉謙信(うえすぎけんしん)との越相同盟(えつそうどうめい)(上杉景虎のページ参照>>)やら、天正四年(1576年)の足利義昭(よしあき=第15代室町幕府将軍)との交渉やら、天正五年(1577年)の武田勝頼(かつより=信玄の息子)との甲相同盟(こうそうどうめい)強化(北条夫人のページ参照>>)やら、天正十年(1582年)の信長横死直後の天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)(10月29日参照>>)でも・・・とにもかくにも、こういった同盟や和睦交渉の舞台に、氏規は頻繁に登場して来ます。

そんな氏規の一世一代の交渉となったのが天正十八年(1590年)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)の時です。

信長亡き後のこの数年・・・賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)に勝利して織田家内の主導権を握った秀吉は、小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月15日参照>>)織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)を丸め込んで家康を黙らせた後、紀州(きしゅう=和歌山県)(3月28日参照>>)四国(7月25日参照>>)北陸飛騨(8月6日参照>>)九州(4月17日参照>>)次々に平定し、天正十四年(1586年)には太政大臣に任命されて豊臣の姓を賜る(12月19日参照>>)という快挙を成し遂げ、北野大茶会を開く(10月1日参照>>)わ、自身の豪邸=聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)を招く(4月14日参照>>)わ、もはや、ほぼほほ天下人だったわけですが、その秀吉にとって未だ手つかずの場所だったのが、関東の北条と、その向こうにある東北一帯(←ただし越後を除く…上杉景勝(かげかつ=謙信の養子)は天正十四年に上洛して臣従…6月15日参照>>だったのです。

ただし、そんな北条も、いち時は秀吉の傘下となるそぶりを見せていた事で、あの天正壬午の乱以来、徳川と北条の境界線あたりで、どちらにも属さぬ独立を模索していた元武田の家臣=真田昌幸(さなだまさゆき)とのゴタゴタ(8月2日参照>>)では、秀吉が彼らの間に入って話を収める一幕もあった事はあったのですが、

一方で、かの後陽成天皇の聚楽第行幸の際に、傘下の武将はもちろん東国の武将までもが使者を派遣したにも関わらず、北条が完全スルーして未だに支配地域の拡大姿勢を見せていた事に、秀吉は少々カチンと来ていたようで・・・

そこで、天正十六年(1588年)には、その弁明のために氏規が上洛して秀吉に謁見・・・今年中には前当主の氏政(すでに当主の座は氏直に譲るも実権は握っていた)を上洛させるので…との約束を交わし、何とか、このきな臭い雰囲気を払拭しようとしていたのです。

しかし、そんな氏規の思いは、喧嘩上等イケイケ満杯の兄ちゃんたち=氏政&北条氏照(うじてる=氏康の三男)らには届かなかったようで、結果的にその約束は果たされる事はありませんでした。

そんなこんなの天正十七年(1589年)、北条が真田の名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪取する(10月23日参照>>)という出来事が起こります。

戦国の世を終わらせるべく、秀吉は、有名な太閤検地(たいこうけんち)刀狩り令(7月8日参照>>)とともに、すでに天正十四年の11月4日付けで『関東惣無事令』を、翌・天正十五年の12月3日付けで『奥両国惣無事令』を発布しています。

この『惣無事令(そうぶじれい)というのは、「これまで、戦国の世のおいて武力で以って行われていた領地の奪い合いなど、大名の私的な争いを禁止する」という事で、秀吉が関白の権限で以って行った、まさに、天下統一の証とも言える命令だったわけですが、今回の北条の行為は、完全に違反しているわけで・・・

かくして天正十七年(1589年)11月24日、秀吉は当主=北条氏直宛てに、宣戦布告状を送り、小田原征伐が開始されるのです(11月24日参照>>)

聚楽第での軍議を経て(12月10日参照>>)迫りくる豊臣軍・・・迎え撃つ北条でも、何度も軍議が開かれますが、これが小田原評定(おだわらひょうじょう)=後に長いワリには何も決まらない会議の例えにされるような軍議だったわけで・・・

結局、天正十八年(1590年)の4月に20万の大軍に完全包囲(4月3日参照>>)された小田原城は、3ヶ月後の7月5日、北条の降伏によって開城される事になるのです(7月5日参照>>)

この間には、あの『のぼうの城』のモデルとなった忍城(おしじょう)(6月16日参照>>)や、最も悲惨な八王子城(はちおうじじょう)(6月23日参照>>)、秀吉の巧みさが見える石垣山(いしがきやま)一夜城(6月26日参照>>)・・・など、様々な場面があるのですが、一つ一つは【北条五代の年表】>>(最後のの氏直のところ)から見ていただくとして、

この開城のページにも書かせていただいたように、この小田原城が開城に至った背景には、6月26日の韮山城の開城が大きく影響しているのです。

そう、この時に韮山城の城主だったのが氏規さんで、その説得をしたのが家康・・・今川にて同じ境遇で育った二人が、ここで話し合い、氏規は落城して開城するのではなく、方針転換による開城をしたのでした。

そして氏規は、そのまま小田原城へと入って、未だヤル気満々だった兄たちを説得し、ようやく7月5日の開城となったのです。

もちろん、この後の北条家への処分に関しても、彼はその交渉術を発揮したかも知れません。

なんせ、「自分が切腹する代わりに城兵の命は助けてやってくれ」と願った当主=氏直は高野山への追放に留まり、イケイケだった氏政と氏照の切腹で以って幕が閉じられるのですから・・・(氏直の正室が家康の娘=督姫(とくひめ)だった事も影響していると言われますが)

一族のうちの多くが命断たれる中、その交渉術で、見事、北条宗家の血脈を残した氏規・・・残念ながら、氏直はほどなく病死しますが、氏直とともに高野山に送られていた氏規自身は、その後、秀吉の配下として狭山(さやま=大阪府狭山市)6980石を与えられて生き残り、慶長五年(1600年)2月8日56歳の生涯を閉じます。

その少し前、氏直の死を受けて池田輝政(いけだてるまさ)と再婚する事になった督姫が、氏直の肩身の品だったお守りを、「あなたこそ北条を継ぐ人」とばかりに氏規に渡しにに来るエピソード(11月4日参照>>)は戦国の世に咲く一輪の花のように美しい~ヽ(´▽`)/

Ujinorisyuin ところで、この北条家は、それぞれの武将が、それぞれ特殊な印文が書かれている印判を使用していましたが、今回の氏規さんが用いていたのは『真実』と書かれた印判。
(印判画像は神奈川県立歴史博物館>>様から引用させていただきました→)

その神奈川県立歴史博物館>>(別窓で開きます)によれば、氏規は、高野山へ追放になって以降、この印判を使用するのを止めた?ようなのだとか・・・何か思う所があったのでしょうか?

ひょっとして・・・
その若き頃、真実を胸に秘めて戦場を駆け回り、敵陣に乗り込んで交渉を重ねて来た氏規は、小田原落城で一族を見送り、戦国の終わりを見、血気盛んな武将の心を封印して、北条を残す事、北条を守る事に徹する決意を固めた・・・という事なのかも知れません。
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2019年1月27日 (日)

三木×広瀬×牛丸×江馬~戦国飛騨の生き残り作戦

天正十一年(1583年)1月27日、三木&広瀬の連合軍が、牛丸親綱小鷹利城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・

飛騨(ひだ=岐阜県北部)大野(おおの=岐阜県北西部)を本領とし、小鷹利城(こたかりじょう=岐阜県飛騨市河合町)を居城とする牛丸(うしまる)は、一説に平氏の流れを汲むとする古くからの名族でしたが、隣接する吉城(よしき=岐阜県北東部)を本領とする高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)江馬(えま)も、同じく平氏の流れを汲む名門で、これまで両者の間には少なからずのぶつかりがありました。

さらに室町時代頃になると、そこに、京極(きょうごく)の一族で益田(ました=岐阜県中東部)に拠点を持ち鍋山城(なべやまじょう=岐阜県高山市松ノ木)を居城とする三木(みき)、飛騨国府(こくふ=岐阜県高山市周辺)高堂城(たかどうじょう=岐阜県高山市国府町)を居城とする広瀬(ひろせ)も台頭して来ます。

やがて、室町幕府の力が衰え始めた戦国の世になると、上杉謙信(うえすぎけんしん)越後(えちご=新潟県)と、武田信玄(たけだしんげん)甲斐(かい=山梨県)、という大物の地に挟まれた形となる飛騨一帯の武将は、常に、この大物たちの動向に左右されつつ、この戦国の世を生き抜いていく事になります。

そんな中、飛騨南部に勢力を伸ばし始めた三木氏の三木自綱(みつきよりつな)は、南北朝時代から飛騨の国司であった姉小路(あねのこうじ)の名跡を乗っ取って姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)と名を改め、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じての上洛(9月7日参照>>)を果たして上り調子の尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に近づいて信長の奥さん=(のう)の妹を娶って親族となり、その力を借りて飛騨統一せんが勢いを見せ始めます。

ただ、天正四年(1576年)に、それを脅威に感じた大野郡の国人=塩屋秋貞(しおやあきさだ)の要請によって駆け付けた上杉謙信に攻められ、頼綱は降伏して(8月4日参照>>)、その傘下となるのですが、ご存知のように、その後、ほどなくして謙信が亡くなり(3月13日参照>>)、上杉家は後継者争いで飛騨云々言ってる場合じゃなくなってしまう(3月17日参照>>)わけで・・・

その後、天正六年(1578年)の月岡野(富山市上栄周辺)の戦い(10月4日参照>>)にも信長側親族として参戦して上杉に勝利し、ますます勢いづく頼綱は、新たに松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山松倉町)を構築(築城年数には諸説あり)して、そこに拠点を移します。

この頼綱の行動に脅威を感じたのが、先の高堂城から広瀬城(ひろせじょう=同高山市国府町)に拠点を移していた広瀬氏の広瀬宗域(ひろせむねくに)でした。

頼綱と宗域は、かつてはともに天神山城(てんじんやまじょう=岐阜県高山市八軒町・現在の高山城)高山外記(こうやまげき)を倒す等、連合を組んでいた時もありましたが、一方で織田に近づく頼綱に対して、宗域は信玄によしみを通じて敵意を見せた事もあり・・・

しかし、ご存知の通り、大黒柱の信玄を失った(4月16日参照>>)武田は、天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)の戦い(5月21日参照>>)で織田&徳川家康(とくがわいえやす)連合軍に敗れるなど、ここに来て少々分が悪い・・・

そこで宗域は、頼綱の三木氏と政略的婚姻関係を結んで一方の脅威を取り除き、その一方で、これまで懇意にしていた牛丸親綱(うしまるちかつな)小鷹利城を攻め、牛丸氏の名跡を奪おうと考えます。

天正八年(1580年)10月、家臣の磯村(いそむら)長十郎らに200の兵をつけて小鷹利城へと差し向けました。

迎える牛丸側も一族を中心にした200余名の兵を出陣させ、両者は古川(ふるかわ=岐阜県飛驒市古川町)付近でぶつかり合戦に至りましたが、なかなかに両者の戦力は互角・・・小競り合いがあるものの決着がつかなかった事から、翌天正九年(1581年)になって和平の話が進み、両者ともに兵を撤退させて、広瀬×牛丸は和睦の運びとなりました。

こうしてしばらくの平穏がおとずれますが、ここに来て時代の転換期が・・・

そう、翌天正十年(1582年)3月には、あの武田が滅び(3月11日参照>>)、その3ヶ月後の6月には、武田を滅亡させた信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)・・・と、戦国の勢力図が目まぐるしく変わります。

このゴタゴタを見逃さなかったのが綾小路頼綱と広瀬宗域、そして牛丸親綱も・・・

この三者が連合を組んで、これまで何かと目障りだった名門家=江馬氏の江馬輝盛(えまてるもり)をぶっ潰して、飛騨の覇権を抑えてしまおうと画策したのです。

それは、本能寺から約5ヶ月後の10月下旬・・・飛騨での覇権争いであった事から、後に「飛騨の関ヶ原」とも呼ばれる八日町(ようかまち=岐阜県高山市国府町八日町)の戦いですが、戦いの詳細については、いずれ、その日に書かせていただくとして、

一説には、連合軍1000に対して絵馬勢はわずか300騎だったとも言われ、多勢に無勢ゆえか、この戦いで江馬輝盛は討死し、絵馬氏は滅亡します。

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●↑戦国飛騨周辺の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところが、一方で、この頃から、その威勢に衰えが見え始めた牛丸氏・・・これをチャンスと見た綾小路頼綱と広瀬宗域は、天正十一年(1583年)1月27日、再び連合を組み、大軍を擁して小鷹利城を攻めたのです。

懇意にしていた両者に裏切られた牛丸親綱・・・特に広瀬宗域はわずかな間の2度めの裏切り。。。

なんとも悔しい思いが残る親綱でしたが、不意を突かれた事で城内は完全に準備不足・・・「このまま戦っても勝ち目はない」と踏んだ親綱は、その夜、城内のあちこちにかがり火を焚かせて、さも大勢がスタンバイしているように見せかけておいて、そのスキに、主だった者60余人が城を抜け出し越中(えっちゅう=富山県)目指して逃走を図ったのです。

これを知った広瀬&三木連合軍は、すぐさま追跡を開始し、角川(つのかわ=岐阜県飛騨市河合町)付近で激しい戦いとなりました。

牛丸側は24名を失うものの、親綱以下30余名が逃げ切り、何とか越中にたどり着いたものの、富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)断られ、さらに西へ・・・当時、越前(えちぜん=福井県東部)大野城(おおのじょう=福井県大野市)主であった金森長近(かなもりながちか)の下に逃げ込み、何とか生き延びました。

しかし、その翌年・・・酒宴と称して、広瀬宗域を自らの松倉城に招いた綾小路頼綱は、その宴の席で宗域を騙し討ちにし、広瀬城を奪い取ってしまうのです。

何とか難を逃れた宗域の嫡子=広瀬宗直(むねなお)は・・・そう、彼もまた越前の金森長近のもとへと逃げ込んだのです。

こうして、飛騨でひとり勝ちとなり、飛騨統一を果たした綾小路頼綱は、織田軍の旧北陸方面部隊であった柴田勝家(しばたかついえ)や、かの佐々成政と懇意な間柄になるわけですが、

天正十三年(1585年)、そこに乗り込んで来るのが、その柴田勝家を倒した後(4月21日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)です(8月29日参照>>)

この時に飛騨攻略を任されたのが金森長近(8月10日参照>>)・・・長近のもとで逃げ延びた牛丸親綱&広瀬宗直の部隊が、その恨み晴らすべく先頭となって戦い、大きな功績を挙げた事は言うまでもありません。

結局、佐々成政も綾小路頼綱も、秀吉の前に屈する事となり、飛騨国は金森長近が統治する事となったのです。

ちなみに、その後の牛丸親綱&広瀬宗直・・・

広瀬宗直は、金森長近の領国運営に反発して一揆を先導して追放されたようですが、牛丸親綱は、ずっと長近の配下として戦い、あの関ヶ原の前哨戦=郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)の戦い(9月1日参照>>)でも、やはり先頭に立って戦い、戦場の露と消えたのだとか・・・

にしても、今日のお話は、
メッチャ出演者が多かった(^-^;・・・まさに群雄割拠。。。生きるも死ぬも紙一重の世界です。
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