2020年9月24日 (木)

戦国乱世を駆け抜けた異彩~松永久秀の甥っ子・内藤如安

 

 慶長十九年(1614年)9月24日、三好長慶や足利義昭や小西行長に仕えた内藤如安が、キリシタン禁止令を受けて国外追放となりました。

・・・・・・・・

内藤如安(ないとうじょあん)の如安は、永禄七年(1564年)=15歳の頃にキリスト教に入信した時の洗礼名のジョアンの音の響きを漢字で表した物で、本名は内藤忠俊(ただとし)なのですが、本日は有名な方の内藤如安さんと呼ばせていただきます。

で、本日の主役=内藤如安は天文十九年(1550年)頃(はっきりしません)八木城(やぎじょう=京都府南丹市八木町)内藤宗勝(ないとうそうしょう)の息子として生まれます。

お父さんの内藤宗勝は、あの戦国初の天下人と言われる三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣で、もと名を松永長頼(まつなが ながより)と言い、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも大活躍の松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)の弟なのですが(つまり如安は久秀の甥っ子、実は、三好政権内で先に頭角を現したのは、この弟の方で、なんなら、兄=久秀は「弟の七光りで出世した」なんて陰口たたかれてたくらいの大活躍で、長慶からの信頼も篤かったんです。

 なんせ天文二十二年(1553年)には、丹波(たんば=兵庫県北東部・大阪府北西部)一国を牛耳る波多野晴通(はたのはるみち=波多野秀治の父)八上城(やかみじょう=兵庫県丹波篠山市)を攻撃中に、敵方が守護代(しゅごだい=副知事)内藤国貞(ないとうくにさだ)を討ち取って、国貞の八木城を奪った事を聞くないなや、即座に八木城に取って返してまたたく間に奪還したばかりか、その後に波多野晴通を降伏させて、逆に丹波のほとんどを手中に収めたくらいですから・・・

そして、その八木城奪還後に亡き国貞の娘(妹説もあり)と結婚して松永長頼から内藤宗勝に名を変えて内藤家を継ぐ立場になった人なのです。
(実際には国貞の息子=貞勝が後を継ぎ、宗勝は後見人ですが、事実上は家内を掌握していたとされます)

そんな松永長頼改め内藤宗勝を父に持つ内藤如安は、三好家が衰退の一途をたどる中でも足利将軍家を仰ぐ内藤家の代表の如く、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋・覚慶)が、上洛後に、あの織田信長(おだのぶなが)と対立した元亀四年(天正元年=1573年)(7月18日参照>>)も、槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)にて将軍=義昭方として奮戦しています。

しかし、ご存知のように、この戦いに敗れた義昭は京都を追われ、身を寄せていた若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)も自刃したため(11月16日参照>>)、義昭は毛利輝元(もうりてるもと)を頼って備後(びんご=広島県東部)鞆の浦(とものうら=広島県福山市)に下向しますが、この時にも、内藤如安は、義昭と行動をともにしていたと言います。

ところが、この間の天正四年(1576年)、父の宗勝が、信長の命を受けた明智光秀(あけちみつひで)の侵攻によってゴタゴタになっていた丹波内での戦い=和藤合戦(わとうがっせん)(6月20日参照>>)にて討死してしまいます。
(宗勝の死亡時期については永禄六年(1563年)説&永禄八年(1565年)説もあり)

これによって内藤家は、名実ともにあの国貞の息子=内藤貞勝(さだかつ)が継ぐ事になり、如安は、その執政(しっせい=家老)の立場となりますが、宗勝を失った影響は大きく、天正六年(1578年)に丹波平定まい進中の明智光秀に攻められて八木城は落城・・・内藤本家は滅亡してしまいます。

その後、ご存知のように天正十年(1582年)6月に信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)、謀反を起こした明智光秀を倒して(6月13日参照>>)、まるで織田政権を引き継ぐようにトップに躍り出て来た豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月24日参照>>)をおっぱじめた天正十三年(1585年)頃、如安は、しばしの沈黙を破り、その秀吉の家臣である小西行長(こにしゆきなが)に仕える武将として、再び表舞台に登場します。

これは、行長の小西家が、内藤家と親戚だった(3代前に枝分かれ?)事で、同族のよしみで召し抱えたとも言われますが、ご存知のように小西行長も敬虔なクリスチャンなので、そのあたりのよしみもあったのかも知れません。

Bunrokunoekipusan700a とにもかくにも、もともとは商人だった小西行長は、武将として戦略や采配に長けた如安の能力に大いに惚れ込んで重臣に取り立て、小西姓を名乗らせるくらい重用したのです。

それに応えるように如安も、文禄元年(1592年)に起こった朝鮮出兵=文禄の役(1月26日参照>>)では、先鋒を務める事になった行長に従って各地を転戦する一方で、行長の密命を受けて(みん=中国)との和睦交渉の使者となり、粘り強い交渉を何度も重ねて和睦をまとめました。
(結局は合意内容に納得しなかった秀吉によって慶長の役が起こりますが…11月20日参照>>

その後、秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦い(年表>>)では、ご存知のように小西行長は西軍として参戦し、大敗の末に捕縛され(9月19日参照>>)石田三成(いしだみつなり)(9月21日参照>>)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月23日参照>>)とともに10月1日に処刑されます(10月1日参照>>)

この時、内藤如安は、行長の弟=小西行景(ゆきかげ)とともに地元である行長の居城=宇土城(うとじょう=熊本県宇土市)におりましたが、ここを攻めて来たのが九州の地にて東軍に与する加藤清正(かとうきよまさ)・・・

9月20日に宇土城近くに陣を構えた清正は、翌・21日に宇土城下を焼き払って宇土城を完全包囲しますが、未だ、関ヶ原での一戦の状況を知らぬ宇土城内の行景&如安らは徹底抗戦の構え・・・実質的な指揮者である如安は、大砲を駆使して迫りくる敵を撃退し続け、約1ヶ月間、宇土城は耐え抜きました。

しかし、やがて九州にも関ヶ原現地の状況が伝えられるようになって兄=行長の死を知った行景は、自らの自決と引き換えに城兵の命を助ける事を条件に、10月14日(23日とも)宇土城は開城となったのでした。

「自らの自決と引き換えに城兵の命を…」
の城兵の中には如安も含まれていたわけで・・・命ながらえた如安は、同じキリシタン大名である有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地である肥前(ひぜん=佐賀県・長崎県)平戸(ひらど=長崎県平戸市)にて、しばらくの間、隠居生活を送る事になりますが、その後、その武勇を惜しんだ加藤清正に客将として迎え入れられます。

さらに慶長八年(1603年)頃には、前田利長(まえだとしなが=前田利家の息子)4000石で迎え入れられ金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に・・・ここでは、やはりキリシタン大名で、すでに前田家の客将となっていた高山右近(たかやまうこん=高山友祥)とともに、前田家の政治や軍事の相談役をこなしながら、キリスト教の布教活動にも力を注ぎました。

しかし、慶長十八年(1613年)12月、あの関ヶ原の戦いに勝利して、現政権内でも確固たる地位を築きつつあった徳川家康(とくがわいえやす)からキリシタン禁止令が発布されます。
(実際には自分=家康の領地のみだった禁教令を全国に広げた物)

キリシタン禁止令そのものは、これまでにも、秀吉時代に、
天正十五年(1587年)の6月18日付けと6月19日付けの物
『天正十五年六月十八日付覚(「御朱印師職古格」神宮文庫)>>
と、慶長元年12月(1597年2月)のサン・フェリペ号事件(2月5日参照>>)のあった時の2回発布されていますが、いずれもバテレン(主にフランシスコ会の宣教師)追放令であって、神社仏閣への破壊行為や奴隷売買などは禁止するものの、信者に対する迫害や無理やり改宗させたりする物では無かったのです。

しかし、今回の家康の禁教令は、いわゆる「キリシタン追放」「キリスト教弾圧」と言われて思い浮かべる、あのキリシタン禁止令そのものだったわけで・・・

かくして 慶長十九年(1614年)9月24日、頑としてキリスト教への信仰を曲げない内藤如安に、国外追放命令が出されます。

もちろん、ともにいる高山右近にも・・・

それから約2週間後の10月7日、如安は妹のジュリア、そして高山右近夫妻(1月5日参照>>)とともに、フィリピンのマニラに向けて旅立ったのです。

ご存知のように、この年は、7月21日には方広寺(ほうこうじ=京都市東山区)鐘銘事件(7月21日参照>>)が勃発し、その5日後には家康が、その方広寺の大仏開眼供養を中止(7月26日参照>>)させたり、翌8月には、何とか衝突を収めようとする大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)側に最後通告を出したり(8月20日参照>>)・・・家康が完全に大坂城の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)潰しにかかって来てた=つまり大坂の陣(年表>>)をおっぱじめる気満々な時期だったわけで・・・

現に、この10月6日~9日にかけては、後の大坂の陣で活躍する真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが=吉政)といった面々が続々と大坂城に入城して来ていたわけで(10月7日参照>>)・・・

一説には、如安と右近の追放を知った大坂方が、彼らを大坂城に招くべく慌てて使者を走らせたものの、港に到着した時には船が出ていった後で間に合わなかった・・・てな話も囁かれます。

もし、使者が間に合っていたら・・・如安や右近の大坂の陣での活躍が見られたのかも知れませんが、一方で、これが家康の「如安らを大坂城に入らせない」作戦だったのだとしたら、その徹底ぶりはお見事ですな。

マニラに到着後も、もと執政としての手腕をかわれて、現地の日本人町の首長を任されて、その運営に活躍したとされる内藤如安は、右近よりも長く生き、寛永三年(1626年)に70代半ばで死去したとの事ですが、そんな如安の活躍を縁として、現在、かつて八木城のあった京都府南丹市八木町とマニラは姉妹都市の提携がなされているのだとか。。。

三好政権の終焉を経験し、織田政権から豊臣政権で奮闘し、江戸幕府を見ずして去った内藤如安・・・まさに戦国を生き抜いた武将と言えるでしょう。

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2020年8月28日 (金)

陰に日向に徳川家康を支えた生母~於大の方(伝通院)

 

慶長七年(1602年)8月28日、徳川家康の生母である於大の方が75歳で死去しました。

・・・・・・・

晩年に出家して伝通院(でんづういん)と号した徳川家康(とくがわいえやす)のお母ちゃんは、江戸時代の記録に「御大方」とあり、朝廷から官位を賜った時の(いみな)「大子」なので、実名は「大」であったというのが一般的ですが、思うに、コレ、家康さんが将軍になったから「大」って名前になった?気がしないでもない・・・

とは言え、この呼び方が一般的なので、本日は於大の方(おだいのかた)と呼ぶことにさせていただきます。

・‥…━━━☆

で、この於大の方は、享禄元年(1528年)に、尾張(おわり=愛知県西部)知多(ちた)郡に勢力を持つ水野(みずの)緒川城(おがわじょう=愛知県知多郡東浦町)にて水野忠政(みずのただまさ)と、その妻の於富の方(おとみのかた=華陽院・於満の方とも)との間に生まれます(養女説あり)

この頃の水野氏は尾張南部や西三河に勢力を持つ豪族でしたが、世は戦国群雄割拠の真っただ中・・・水野としても安心してはいられない状況でした。

そんなこんなの享禄二年(1529年)11月に、念願の三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たしたのが岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に拠点を持つ松平清康(まつだいらきよやす=家康の祖父)でした。

一説には、この頃、一触即発状態だった水野と松平の中で、メッチャ美人だった忠政嫁の於富の方に惚れ込んだヤモメの清康が「嫁に欲しい」と言って、忠政と離縁して松平に嫁ぐことになった・・・らしいですが、

さすがに、政略結婚全盛のご時世に「そんな事あるんかいな?」って気がしないでもない・・・

どちらかと言うと、勢力を増して来た隣国の松平に対して、敵意が無い事を示すための和睦の証としての人質みたいな?感じだったような気がしますが、とにもかくにも、ここで水野忠政と離縁した於富の方は、幼い娘=於大の方を連れて、松平清康の継室(けいしつ=後妻)として嫁ぎます(異説あり)

ところが、それから10年も経たない天文四年(1535年)12月5日、当時は清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めていた陣中で、清康は家臣に斬殺されてしまうのです(12月5日参照>>)

25歳の若さの上り調子だった当主=清康を失ったうえ、後継ぎの息子=松平広忠(ひろただ=家康の父)が未だ10歳の若年とあって、松平は瞬く間に衰退し、広忠も一時は流浪の身となり、領国へ戻る事すらできませんでしたが、やがて天文六年(1537年)に旧臣の大久保忠俊(おおくぼただとし)が、内紛で占領されていた岡崎城を奪回した事や、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと=氏輝の弟)(6月10日参照>>)の支援を受けた事で、何とか広忠は三河に戻る事ができたのでした。

以来、松平は今川に従属する形で生きていく事になります。

Odainokata700a 一方、清康の死で以って、松平との縁が切れたと感じた水野忠政は、再び縁を結ぶべく、新当主の広忠と於富の方の連れ子=於大の方との縁組を進め、天文十年(1541年)広忠16歳&於大14歳の若き夫婦が結ばれました。

翌・天文十一年(1542年)、二人の間に長男の竹千代(たけちよ)=後の徳川家康が誕生します。
(名前が変わるとややこしいので、以下、竹千代君は家康さんの名で呼ばせていただきます)

完全なる政略結婚とは言え、いや、むしろ、松平&水野両家の架け橋となるべく役目を担っての結婚だからこそ、仲睦まじい日々を送りつつ、後継ぎとなるべく男子を無事出産できた事は、於大の方にとっても、最高の幸せだった事でしょう。

しかし、その幸せは長くは続きませんでした。

天文十二年(1543年)、実家の父の水野忠政が亡くなり、その後を継いだ於大の方の兄=水野信元(のぶもと)が、現在、今川と絶賛敵対中の織田信秀に協力する姿勢を見せたのです。

しかも、この同時期に松平家で起こった内紛で広忠の後見人だった叔父=松平信孝(のぶたか=清康の弟)織田方につく事になり(8月27日参照>>)松平と織田の関係はますます険悪な物になって行きますが、未だ弱小の松平・・・そうなれば、今川の庇護無しでは生き抜いていけません。

おそらく悩んだであろう広忠は「於大の方を切る」という決断をします。
(ア…「斬る」やなくて「縁を切る」の「切る」です)

於大の方を離縁して、実家の水野に送り返したのです。

もちろん、跡取り息子の家康は松平のまま・・・つまり、わずか3歳の家康と母=於大の方は、ここで生き別れとなってしまったのです。

水野の実家に戻された於大の方は、水野氏の刈谷城(かりやじょう=愛知県刈谷市)内の椎の木屋敷(しいのきやしき)に住んでいたとされますが、やがて天文十六年(1547年)、兄=信元の意向により、阿古居城(あこいじょう=愛知県知多郡阿久比町・後の坂部城)の城主である久松俊勝(ひさまつとしかつ)再婚します。

しかし、この於大の方の再婚と同じ年・・・更なる関係強化を図る広忠が、未だ6歳の家康を今川へ人質に差し出すのですが、それが、あろうことか、駿府(すんぷ=静岡県静岡市・今川の本拠)に行く途中で敵対する織田信秀に奪われ尾張の古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市中区)に送られてしまうのです(8月2日参照>>)
(現在では奪われたのではなく、はなから織田への人質として送られた説も浮上しています)

とにもかくにも、この先2年間、家康は織田の下で人質生活を送る事になるのですが、その間の天文十八年(1549年)3月、父の松平広忠が、未だ24の若さで祖父と同じような亡くなり方=家臣によって殺されてしまうのです(3月6日参照>>)(死因については異説あり)

これによって松平の後継は唯一の正室腹の男子である家康・・・という事になるわけですが、現時点では織田の人質状態なわけで・・・

そこで、松平を今川傘下につなぎとめておきたい今川義元は、配下の太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)を総大将に、織田信秀の息子=織田信広(のぶひろ・信長の異母兄)が城主を務めていた安祥城(あんしょうじょう=愛知県安城市)を攻めて信広を生け捕りにし、信広と家康の人質交換を持ちかけます(11月6日参照>>)

こうして、家康は、この人質交換で以って、本来の形である今川傘下の人となるわけですが、そこは、やはり人質という事で、松平の本拠である岡崎城には入らせてもらえず(岡崎城には今川の家臣が城番として入ってました)、今川義元のお膝元である駿府にて過ごす事になりますが、唯一の救いは、この駿府に祖母である於富の方がいた事・・・

於富の方は清康亡き後、3回結婚してますが、いずれも夫に先立たれ、今川義元を頼って駿府に来て、ここで尼となっていたのですが、可愛い孫の駿府入りを聞き、義元に頼みまくって家康のそば近くにて、元服するまでの間だけ、その養育する事を許されたのです。

おそらく巷の噂にてこの事を知ったであろう母=於大の方も、ホッと胸をなでおろした事でしょう。

というのも、再婚相手の久松俊勝とはなかなかに仲睦まじく、最終的には、二人の間に三男四女をもうける於大の方ですが、やはり遠く離れた長男の家康の事が1番に心配で、常に気を配り、この間にも、バレたら処分の危険を覚悟してコッソリと衣類やお菓子などを家康のもとに送り続けていたと言います。

私事で恐縮ですが、今も、私の中にある於大の方のイメージは、懐かしアニメ「少年徳川家康」での、一休さんの母上様ソックリ(笑)の、あのイメージのまんまです。

まるで大河ドラマのOPを思わせる甲冑(実写)がスモークから現れる中、アニメらしからぬ軍歌のようなテーマソングをバックに、「竹千代を影ながら支えたのは、母・於大の方の深い愛であった」というナレーション。。。

やはり、あのアニメのように、離れていても母子の心はつながっていてほしいなぁ~と・・・いや、おそらく、本当につながっていたのでしょう。

なんせ、この後・・・
今川義元の下で成長し、元服&初陣(【寺部城の戦い】参照>>)を済ませた家康は、あの永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市)の戦い(2015年5月19日参照>>)の先鋒として尾張に侵攻してきた際、こっそりと阿古居城を訪れ16年ぶりの母子の再会を果たしているのです。

しかも、ご存知のように、家康は、この桶狭間キッカケに今川からの独立を果たす(2008年5月19日参照>>)わけですが、その時、即座に於大の方を迎え入れたばかりか、於大の方と現夫の久松俊勝、さらにその子供たちをも松平に迎え入れています。

ただし、久松俊勝が於大の方と結婚する前にもうけていた先妻の子=家康と血縁関係の無い長男の久松信俊(のぶとし)は、清須同盟(1月15日参照>>)が成った後に久松家を継ぎ、松平ではなく、同盟関係となった織田信長(のぶなが=信秀の息子)の家臣となっています。

ここで、ようやく家康と於大の方は同じ屋根の下で暮らす事になり、しばし平穏な母子の時を過ごせたのかも知れませんが、世は未だ戦国・・・悲しい出来事は、また起こります。

天正三年(1560年)、信長から謀反の疑いをかけられた於大の方の兄=水野信元を、同盟を重視する家康が殺害・・・それも、疑いを晴らそうと家康を頼った信元に三河への道案内したのが久松俊勝だったのです。

何も知らず道案内をした後に信元への処分を知った俊勝は、ショックを受け隠居してしまいます。

さらに天正五年(1577年)には、俊勝の連れ子=久松信俊も信長から謀反の疑いをかけられて自害してしまいます。

とは言え、そんな信長も天正十年(1582年)、ご存知の本能寺に倒れてしまう(6月2日参照>>)わけですが、その信長亡き後の主導権争いとも言える天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦い(11月16日参照>>)で、その和睦の条件として、家康側から、相手の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)に人質を差し出す事になった時、

はじめ家康は、あの時、於大の方とともに迎え入れた異父弟(久松俊勝と於大の方の3番目の男子)松平定勝(まつだいらさだかつ)を差し出そうと考えるのですが、於大の方の猛反対により、結局、家康自身の息子=松平秀康(ひでやす=結城秀康・母は於万の方)に決定した(11月21日参照>>)と言います。

一説には、家康の正室である瀬名姫(せなひめ=築山殿・今川義元の姪とされる)が、家康独立後に岡崎に迎え入れられたにも関わらず、岡崎城には入れてもらえなくて、近くの築山(つきやま)に住んでいた(8月29日参照>>)という一件も、今川を嫌う於大の方の猛反対によるものとも言われ、

どうやら、家康は母ちゃんに頭が上がらなかった可能性大・・・って、事は、意外に、あのアニメの美しくか弱いイメージからかけ離れた、強い肝っ玉母ちゃんだったのかも知れませんね。

天正十五年(1587年)には、夫の久松俊勝を亡くし、尼となって伝通院と号した後も、強くしたたかに生きた於大の方は、秀吉亡き後のあの関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡)の戦い(9月15日参照>>)に家康が勝利した後も、

未だ豊臣に忠誠を誓うポーズを取る息子の援護射撃をするように、高台院(こうだいいん=秀吉の正室・おね)に面会したり、秀吉を神と祀る豊国神社(ほうこくじんじゃ)(7月9日参照>>)にお参りしたり・・・と、いかに德川家が豊臣家に対して敵意を持っていないかを演出する役目を果たしています。

もちろん、この後の出来事を知る後世の者からすれば、これは機が熟すまでのかりそめの服従ポーズですが・・・
(一般的には、この関ヶ原の戦いに勝利した事で徳川家康が天下を取ったようなイメージで描かれますが、私個人としては、大坂の陣の直前まで豊臣家が政権を握っていたと考えております。
それについては…
【豊臣秀頼と徳川家康の二条城の会見】>>
●【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】>>
●【関ヶ原~大坂の陣の豊臣と徳川の関係】>>
などをご覧ください)

ただ、残念ながら於大の方は、息子=家康が征夷大将軍に任命される姿を見る事無く、慶長七年(1602年)8月28日、滞在していた伏見城(ふしみじょう=京都府京都市伏見区)にて75歳の生涯を閉じます。

とは言え、すでに家康は、この年の5月から二条城(にじょうじょう=京都市中京区二条通堀川)の建設に着手しています(5月1日参照>>)から、於大の方には、遥か先の徳川の繁栄が見えていたかも知れませんね。。。

なんせ、於大の方が亡くなった、この伏見城にて、この半年後、家康は征夷大将軍の宣旨を受ける事になるのですから・・・
【徳川家康・征夷大将軍への道】>>
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたか?】>>
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2020年6月24日 (水)

小牧長久手の余波&越中征伐の前哨戦~前田利家と佐々成政の阿尾城の戦い

 

天正十三年(1585年)6月24日、小牧長久手の戦いの後、前田利家に寝返った菊池武勝が守る阿尾城を、佐々成政配下の神保氏張が攻撃しました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)(本能寺の変>>)亡き後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄)を取り込んで、三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)と信孝を推す柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)に破った(賤ヶ岳>>)(信孝自刃>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でしたが、

やがて、その秀吉の勢いを警戒するようになった信雄(3月6日参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)を頼り、両者が「秀吉VS(信雄+家康)」の構図で、天正十二年(1584年)3月の亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)の攻防(3月12日参照>>)を皮切りに始まったのが、一連の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦いです。

そして、それに連動するように北陸でも「秀吉派VS(信雄+家康)派」による闘いが展開されたのです。

織田政権下で加賀(かが=石川県南部)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市丸の内)にあった秀吉派=前田利家(まえだとしいえ)と、越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)にあった信雄&家康派=佐々成政(さっさなりまさ)の戦いです。
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>

しかし、その年の11月に戦いの看板であるべき信雄が、単独で秀吉との講和を成立させてしまったために、ハシゴをはずされた形となった家康も兵を退くしかなく、勝敗もウヤムヤなまま戦いは小牧長久手は終結してしまいます(11月16日参照>>)

納得いかない佐々成政は、真冬の立山・北アルプスさらさら越え浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)の家康に会いに行き、徹底抗戦を訴えますが(11月11日参照>>)、家康がその願いを聞き入れる事はなく、信雄にも迷惑がられて、空しく富山城へと戻ったのでした。

ちなみに・・・
俗説では、成政が、このさらさら越えで富山城を留守にしている間に、例の「黒百合伝説」(浮気したとして成政が愛人を成敗した事件:くわしくは5月14日の後半で>>)が起こった事になってますが、これは、あくまで伝承です。

Maedatosiie とにもかくにも、小牧長久手も終ったし、冬の北陸は雪深い・・・って事で、一旦、前田VS佐々の戦いも休戦となったわけですが、年が明けた天正十三年(1585年)の春、先に仕掛けたのは前田利家の方でした。

その年の2月に、利家配下の村井長頼(むらいながより)が1千余りの兵を率いて、成政側の重要拠点である蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を急襲し、これを焼き討ちにしたのです。

Sassanarimasa300 もちろん、成政も黙ってはおらず、翌3月、この報復として鷹巣城(たかのすじょう=石川県金沢市湯桶町)を攻撃しますが、この同時期に展開されていた秀吉の紀州征伐(3月28日参照>>)での連勝の勢いを背負う利家は、さらに加賀と越中の国境に近い鳥越城(とりごえじょう=津藩町鳥越)を攻撃します。

強気の利家は、さらに成政配下の阿尾城(あおじょう=富山県氷見市)を落とすべく、4月20日、6000の兵を率いて阿尾城に迫ります。

ところが、これを見た阿尾城主の菊池武勝(きくちたけかつ)は、あっさりと城門を開け、前田軍を受け入れたのです。

つまり、この時の武勝は、はなから利家側につく気であったと・・・実は、これには、その理由とおぼしき、こんな話が伝えられています。

前年の春に富山城下に新しい馬場を整備した成政が、その周囲の桜を植え、完成祝いと同時に花見の宴を催した際、配下の一人として招かれた武勝が、その場を盛り上げようと、

「これは、かの謙信公より賜った紀新大夫の名刀なんですが…」
と1本の短刀を取り出し、
「これにて、北陸七ヶ国平定されるとの願いを込めて、殿に献上させていただきます」
と差し出したのです。

それを受けた成政は、
「俺、謙信なんか尊敬してないし…」
と急に機嫌が悪くなり、
「もともと北陸七ヶ国なんか眼中に無いっちゅーねん、俺が狙てるんわ天下じゃ!」
と言って武勝をにらみつけたのだとか・・・

賑やかな宴会から一転、シラケた空気が流れたものの、そばにいた他の武将のとりなしによって何とかその場は収まりますが、収まらなかったのは武勝の気持ち・・・

「大勢の前で部下に恥をかかせるなんざ、天下取りの器やない!アイツは愚将や」
と憤慨し、以後、成政に反感を持つようになっていたのだとか・・・

もちろん、これは噂の域を出ない話ですが、一方で、前年の11月頃=北陸の戦闘が一旦休止となった頃から、武勝側へ、利家からの好条件での懐柔のお誘いが頻繁に行われていたとの記録(『前田金沢家譜』)もありますので、おそらくは、上記のような事件があろうがなかろうが、すでに武勝の気持ちは前田側に傾いていた物と思われます。

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阿尾城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、この菊池武勝の寝返りは、佐々側に大きな衝撃を与え、形勢悪しと判断した成政は、戦備の立て直しに着手・・・その結果、鳥越城と倶利伽羅城(くりからじょう=石川県河北郡津幡町)の2城を諦め、北から守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)木舟城(きふねじょう=同高岡市)井波城(いなみじょう=富山県南砺市)南北に結ぶ線を最前線とし、

守山城には神保氏張(じんぼううじはる)以下4500余、木舟城には佐々政元(さっさまさもと=成政の叔父の養子?)以下2500余、井波城には前野小兵衛 ( まえのこへえ )以下3000余りを、それぞれ配置して防備を固め、背後の脅威となる上杉(うえすぎ)に備えて越後(えちご=新潟県)の国境付近にも兵を置きました。

これに対し、利家は、自軍の最前線を越中領内にまで進ませ今石動城(いまいするぎじょう=富山県小矢部市)に弟の前田秀継(ひでつぐ)を、倶利伽羅城に近藤長広(こんどうながひろ)岡島一吉(おかじまかずよし)らを置いて、コチラも防御万全です。

そんなこんなの天正十三年(1585年)6月24日、守山城の神保氏張が約5000の兵を率いて阿尾城を攻撃したのです。

守る阿尾城は、菊池武勝以下わずか2000余・・・必死に防戦に努めますが、成政が、武勝を謀反人として、その首に賞金を懸けていた事もあって、神保勢の攻撃は、かなり激しい物となり、あわや!落城寸前!となりますが、

そこに、たまたま村井長頼ら300余りの偵察隊が近くを通りがかって、この状況を前に、すぐに参戦・・・この村井らの小隊が側面から攻撃を仕掛けた事で、突き進んでいた神保勢はリズムを崩されてしまいます。

これに勢いづいた菊池勢が盛り返し、次第に形勢は逆転・・・500余が討たれたところで、やむなく神保勢は守山城へと退去していきました。

ちなみに、『加賀藩史稾』
「二十四日 越中の将神保氏張兵を出し 阿尾城襲ふ
 守将慶次利太 片山延高等出でてこれを禦(ふせ)ぐ」
とある事から、この戦いに、あの前田慶次郎(まえだけいじろう)(6月4日参照>>)も参戦していて、この後しばらくの間は、阿尾城に滞在していたとされています。

とにもかくにも、小牧長久手の後からは、すっ飛ばされる事の多い北陸での前田利家と佐々成政の戦いですが、どうぞ、お見知りおきを・・・

そして、この3月~4月の間に例の紀州征伐を終え、7月には四国を平定した秀吉が、ここ北陸にやって来る(越中征伐・富山の役)のは、この2ヶ月後の8月の事。

ご存知のように、ヤル気満々だった成政も、あえなく秀吉の軍門に下る事になります。
【金森長近が飛騨攻略】>>
●【富山城の戦い】>>
【佐々成政が秀吉に降伏】>>
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2020年6月 4日 (木)

本能寺の変の余波~鈴木孫一VS土橋重治の雑賀の内紛

 

天正十年(1582年)6月4日、本能寺の変=織田信長死亡の一報を受け、雑賀衆同士の内紛が勃発し、土橋重治が鈴木重秀(雑賀孫一)の平井城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

紀州(きしゅう=和歌山県)は、あの応仁の乱以降の守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い(7月12日参照>>)の舞台となった場所で、それ故、時と場合により、その戦いに介入したり静観したり・・・守護や守護代の影響を受けながらも、高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市・根來寺)粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)などの宗教勢力も含め、独自の武装勢力を以って生き残って来た民が多くいました。

その中で紀の川流域一帯に勢力を持ち、水運に強く鉄砲を駆使する独自の武装をした土着の民であった雑賀(さいが・さいか)・・・

天下を狙う織田信長(おだのぶなが)が、抵抗する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:本願寺の総本山)と戦った石山合戦で、本願寺に味方して活躍する(【丹和沖の海戦】参照>>)事から、何となく信長の敵のイメージが強いですが、これまで何度か書かせていただいているように、もともといくつかの郷の集合体であって、雑賀と言っても一括りにはできない=一枚岩とは言い難い集団であったわけです。

とは言え、長きに渡って雑賀衆の中でもトップの勢力を誇っていた土橋(どばし・つちばし)が、一貫した本願寺派であった事から、上記のように、雑賀衆もおおむね反信長として戦っていた事から天正五年(1577年)には信長の紀州征伐が決行されてしまい、この時は、折れる形で信長と和睦するも、
●【信長の雑賀攻め、開始】>>
●【雑賀攻め、終結】>>
その2年後には、紀州征伐で織田に味方した一部の者も、結局、抑え込まれて本願寺に恭順させられるほど(【雑賀同志の戦い】参照>>)雑賀では反信長派の勢力が強かったのです。

Saigamagoiti400a しかし、それが徐々に崩れてくる・・・それは、一連の石山合戦で名を挙げた鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)です。

長年に渡りトップに君臨して来た土橋から見れば新参者の鈴木ですが、一説には鈴木重秀は土橋トップの土橋守重(つちばしもりしげ=平次・若太夫)の娘婿だったという話もあり、両者の関係は決して悪い物では無かったものの、ここらあたりで徐々に両者のバランスが微妙になって来る中、天正八年(1580年)8月、本家本元の石山本願寺が信長と和睦してしまいます(8月2日参照>>)

もともと信長に恭順的であった鈴木重秀とその一派は、これを雑賀の頂点を狙うチャンスとばかりに、その機会を模索しはじめ、いよいよ天正十年(1582年)1月23日土橋守重を殺害・・・雑賀の内紛が始まりました。

もちろん、この守重殺害には、鈴木派だけではなく、それに同調した土橋一門の一部も加わっている事から、単に鈴木VS土橋の権力争いではなく、時代の流れ&周辺の状況を見て「織田についた方が得」と考える者が雑賀衆内に増えて来ていた事や、土地関係のモメ事が治まらなかった事など、あちこちに不満の種はあったわけですが、それを鈴木派が利用してクーデターを起こしたという雰囲気が見えます。

また、一説には、この暗殺計画はすでに信長に承認されていた=信長の了解があって決行されたとの話もあります。

とにもかくにも、父の暗殺を知った息子(弟とも)土橋重治(しげはる=平之丞・平尉)は、本拠の粟村(あわむら=和歌山県和歌山市粟)の城に立て籠もって抵抗しますが、さすがに背後に織田軍がいてはいかんともしがたく、たまたまこの時、石山本願寺を出て雑賀荘の鷺ノ森(さぎのもり=和歌山県和歌山市鷺ノ森)に滞在していた本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)の勧めにより重治らは城を退去し、四国の土佐(とさ=高知県)に落ちて行き、2月の8日には、鈴木派の手によって城は焼かれました。

こうして雑賀一帯の主導権は鈴木重秀らが握る事になるのですが、その4か月後の6月2日未明・・・

そう、ご存知、あの本能寺の変(6月2日参照>>)が起こり、信長が横死してしまったのです。

その一報は、早くも翌3日の朝に雑賀にもたらされます。

たちまち騒然となる雰囲気に、反信長派からの攻撃を恐れた鈴木重秀は、6月3日の夜に信長配下の織田信張(のぶはる=尾張三奉行の藤左衛門家の人)を頼って岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)へと逃げ込みます。

案の定、翌・天正十年(1582年)6月4日早朝、結集した反信長派が、鈴木重秀の居城である平井城(ひらいじょう=和歌山県和歌山市)を襲撃して城に火を放ち、その勢いのまま、続いて重秀に同調して、かの土橋守重殺害に関与した土橋平太夫(へいだゆう)の城を包囲して平太夫を討ち取ります。

ちなみに、事の前夜に鈴木重秀が岸和田城に逃げた行為は、敵側からは「夜逃げ」と称して笑い者になったらしいですが、上記の通り、もしその日に逃げていなければ土橋平太夫と同様に討たれていた可能性が高いので、鈴木重秀としては笑われようが何しようが「逃げるが勝ち」で命拾いした事になります。

一方、『石山軍記』『大谷本願寺通記』他、本願寺側の複数の記録には、この6月3日夜から4日早朝にかけてのこの騒動を、信長の三男=織田信孝(のぶたか=神戸信孝)配下の者による鷺ノ森の本願寺別院(上記の顕如が滞在してた場所です)への攻撃・・・つまり、信長の紀州征伐の一環であるかのように書かれています。

それら本願寺側に記録では、
6月3日に信孝の命を受けた丹羽長秀(にわながひで)が3千の兵を率いて鷺ノ森を襲撃して来たのを、急を聞いてはせ参じて来た鈴木孫一(孫一を名乗る人は複数いるので鈴木重秀本人の事かどうかは不明)をはじめとする在地の宗徒たちが賢明に防戦するも、やがて織田勢に新手の援軍が加わり、もはやこれまで!・・・となったところに「本能寺の変(信長死す)の一報」が入り、織田方は散り々々に去って行った。。。と、

「あらめでたや法敵亡(ほろ)び 宗門は末広がりに御繁昌」
と、あの高野山攻め(【織田信長の高野山攻め】参照>>)と同じような展開になってるところは、いかにも本願寺側の記録・・・って感じです。

なので、現在では、今回の雑賀での騒動は「信長VS本願寺の戦い」ではなく、おそらくは、信長の死によって再燃した雑賀の内紛であろうととの見方がされています。

とは言え、全部違うかと言うと、そうではなく、実際に本能寺の変の混乱によって雑賀衆の一部の誰かに鷺ノ森が襲撃された事も複数の史料に見られるので、本願寺別院がこのドサクサで襲われた事は事実のようで・・・

さらに、 当時、信孝の配下であった九鬼広隆(くきひろたか=九鬼嘉隆の甥)の覚書には、信孝は、この日、実際に紀州方面に出向いていた事が記されています。

それは、この2~3日後に決行されるはずだった四国攻め(【本能寺の変:四国説】参照>>)の準備のため・・・渡海用の船の用意を雑賀衆に頼んでいたので、その最終の打合せに向かっていたようなのですが、
堺にて本能寺の異変を知った九鬼広隆が慌てて紀州方面に向かったところ「ちょうど貝塚(かいづか=大阪府貝塚市)のあたりで、紀州から戻って来た信孝と落ち合う事が出来た」との事・・・

当然ですが、四国攻めの総大将である織田信孝がたった一人で紀州に出向くはずはなく、ある程度の人員を連れて紀州に入っていたはずですから、おそらくは、上記の鷺ノ森別院が襲われた話と、この信孝が紀州にいた話とがいっしょくたになって「本願寺側の記録」として残されたものと思われます。

とにもかくにも、今回の信長の死によって、雑賀を去った鈴木重秀は没落・・・一方、ここまで何処かに身を潜めていた土橋重治は、重秀と入れ替わるように雑賀に戻って来て、報復作戦に取り掛かります。

ただ、鈴木重秀が去ったとは言え、まだまだ鈴木重秀一派の者は多く残っており、その抵抗も激しく、すぐさま雑賀一帯を掌握するというわけにはいかず、なかなか不安定な状態が続いていたようですが、

そんな中でも、土橋重治らは、信長を討った明智光秀(あけちみつひで)と連絡を取り、6月12日付けの光秀の返書には高野山根来衆(ねごろしゅう=根来寺の宗徒)らとともに和泉(いずみ=大阪府南西部)河内(かわち=大阪府南東部)方面に出兵してほしい」との記述があり、援軍の要請を受けていたようで・・・(2017年の新発見「9月」の項参照>>)

おそらく土橋重治らは、この先、光秀の力を後ろ盾に雑賀一帯の統治を画策していたものと思われますが・・・

ご存知のように、この返書の日付の翌日=6月13日に光秀は羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)との山崎の合戦に敗れて(6月13日参照>>)命を落としてしまい、実際に土橋と明智が連携する事はありませんでした。

後の、秀吉による紀州征伐(3月28日参照>>)の際には、
鈴木重秀は秀吉の使者として雑賀へ出向いて交渉係をし、土橋重治は秀吉軍と抗戦し、敗れて四国へ逃れ・・・と、ともに命はつなぐものの、雑賀にいた頃の隆盛を味わうような事は、2度と無かったのです。

鈴木重秀にしろ土橋重治にしろ、おそらく彼らの理想としては、雑賀の独立を保ったままの状態がベストだったのかも知れませんが、天下=中央集権を目指す武将の登場によって、「大きな傘の下でしか生き残る事ができない」と悟った以上、誰につくのか?どうするのか?の選択をし、それぞれの生き方を模索するしかなかったのでしょうね。
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2020年4月16日 (木)

秀吉の紀州征伐~高野攻め回避と木食応其

 

天正十三年(1585年)4月16日、秀吉紀州征伐で使者・木食応其が高野山の意向を伝え、高野攻めが回避されました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)本能寺に倒れた(6月2日参照>>)後、変の首謀者である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒した(6月13日参照>>)事で織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

その後、家臣団の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)に破り、信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追い込み、

さらに天正十二年(1584年)、徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けてた信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)との小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納めました(11月16日参照>>)

Toyotomihideyoshi600 ここで、この先おそらくは(最終的には)中央集権を目指すつもり?の秀吉は、未だ独立を保って抵抗していた雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手するのです。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ独立独行を目指す土着の民で、亡き信長を何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

一方の根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、同じく武力をを保有する宗教勢力の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)

そして、もう一つ・・・紀州には高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)という一大宗教勢力がありますが、コチラも信長時代から抵抗勢力でありました(10月2日参照>>)

かくして天正十三年(1585年)3月、秀吉は紀州征伐(きしゅうせいばつ)を決行します。

これを受けた根来ら紀州の諸勢力は、複数の砦で構成された前線基地(現在の貝塚市付近)で迎え撃ちますが、10万越えという予想以上の大軍に、あっけなく崩壊・・・

前線を突破した秀吉軍は3月23日に根来寺を、翌・3月24日に粉河寺を占領(3月24日参照>>)、さらに3月28日には雑賀衆の太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市)を囲みます(3月28日参照>>)

一方、この太田城攻防と同時進行で行われていたのが、高野山攻めの計画・・・とは言え、こういう場合、まずは交渉です。

ドラマ等では、よくスッ飛ばされてるので忘れがちですが、信長さんのあの比叡山焼き討ちも、信長の出した和睦の条件を比叡山が呑まなかったので焼き討ちを決行してます。。。
もちろん、今回の根来寺や粉河寺や雑賀にも先に交渉してますが、結果、決裂して蜂起となったので→武力征伐という事なわけで、、、

そんなこんなで4月7日、秀吉は細井新助(ほそいしんすけ)なる者を使者として高野山へと向かわせ「提示する三つの条件をのまねば攻撃する」旨を伝えます。

残念ながら、その手紙の現物は残っていませんが、伝えられるところによると、その三つの条件とは
1:もともとの寺領以外の領地の返還
2:武装蜂起(謀反人を匿う事も禁止)
3:弘法大師の教えの通りに仏道に専念する事
の三つだったと言います。

これを受け取った高野山側では、山内挙げての協議となりますが、その中には「武力に屈する事無く、徹底抗戦!」を訴える僧も少なくありませんでしたた。

しかし、現実問題として反発した根来&粉河は焼き討ちからの占領となり、現在抗戦中の太田城も、もはや風前の灯である事も伝えられており、大軍である秀吉軍なら、紀州各地に兵を配置しながらでも、ここ高野山へもある程度の兵の数を確保できる事は明白・・・「ここは一つ、神聖なる高野山の伝統を守る事を1番に考えるべきだ」との声が挙がり、そのためには、「これらの条件を無条件受諾するしかない」との意見にまとまります。

かくして天正十三年(1585年)4月16日、高野山にて「すべての条件を受諾する」旨の請状(うけじょう)が作成され、それに神文(しんもん=起請の内容に偽が無い事を神に誓う文・今回の場合は空海の手印を添付)を添えて、学侶(がくりょ=仏教を学び研究する僧=学僧)の代表者と行人(ぎょうにん=施設等の管理をする僧)の代表者とともに、客僧として高野山に入っていた木食応其(もくじきおうご)を使者として、太田城水攻め中の秀吉のもとに派遣しました。

この時、彼らに面会した秀吉は、木食応其の事を大いに気に入ったと見え、
「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべし」
(木食応其は単に高野山の木食僧なのではなく、木食応其が高野山を代表すると思え)
と評して、即座に高野山攻めを取り止めるとともに、今後の高野山の運営を、この木食応其に委ねるよう命じたのです。

ちなみに木食応其の「木食(もくじき)とは穀物を絶って木の実や山菜・野草のみを食し仏道に励んでいる状況=つまり、そういう修行をしているという事で、今回の木食応其の場合は、学侶でも行人でもなく、この時にたまたま客僧として高野山にて木食をしていた・・・という感じだったようです。

そもそも木食応其は、近江源氏佐々木(ささき)の家臣だった父を持ち、織田信長が観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)を攻めた時には六角承禎(ろっかくじょうてい・義堅)とともに抵抗し(9月13日参照>>)、その後、高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)越智(おち)(9月15日参照>>)を頼って奈良に落ちたものの、その越智氏も没落したため、戦いの空しさを痛感して中年になって出家したと言われる異色の経歴の持ち主・・・この経歴に関しては異説があるものの「基々は武将だった」というのは本当のようで、

そういう意味で、武士の立場も理解し、また客僧という立場ゆえにしがらみも無く・・・秀吉から見れば、そこが大いに使い勝手が良く、この後、木食応其を重用し、木食応其もまた、秀吉を後ろ盾として高野山の再興に力を注ぐ事になるのです。

故に、この木食応其を「高野山の中興の祖」と見る場合もあるようです。
ま、存続の危機から一転、現在につながる繁栄を遂げる事になるわけですから。。。

後に秀吉は、山上に興山寺(こうざんじ)を建立し、木食応其を開山第一世 とし、さらに興山寺の隣 に亡き母を弔うための青厳寺(せいがんじ)を建立・・・これが、明治になって興山寺と青厳寺が合併して真言宗総本山金剛峯寺と称するようになり、現在に至るという事になるのです。

また、木食応其は橋本(和歌山県橋本市)の発展にも力をつくしました。

大和街道と高野街道が交わり、そこに紀ノ川の水運が重なる交通の要所でもあるこの場所に、自らの草庵(現在の応其寺)を結んで商工業の町として整備するとともに、高野山往還のために紀ノ川に234mの橋を架けたりして・・・これが「橋本」の地名の由来とも伝えられています。

とまぁ、秀吉を大いに利用しつつも、政権下に組み込まれる事もなく・・・と、ウマイ事立ちまわってる感がある所は、さすがにタダの僧では無い感が漂いますが、それでいて、同じ近江出身として意気投合した石田三成(いしだみつなり)が関ヶ原で負けた時には、すかさず光成三男を保護して出家させ、その命を守るところなど、なかなか義理堅い人でもあったようです。

とにもかくにも、これで高野山攻めが回避され、今に残った事は、誰もがヨシとするところではないでしょうか?
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2020年3月24日 (火)

秀吉の紀州征伐~根来寺&粉河寺の焼き討ちは無かった?

 

天正十三年(1585年)3月23日に根来寺が、24日に粉河寺が、秀吉の紀州征伐によって焼失しました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)亡き後、仇となった明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒して(6月13日参照>>)織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、家臣団の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)で破って信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追いやった後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けて起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納めた(11月16日参照>>)のが、天正十二年(1584年)の11月の事でした。

Toyotomihideyoshi600 ここで、ようやくの一息をついた秀吉は、先の小牧長久手の岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)攻防の際に、信雄&家康側に立って抵抗した雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手します。

ここは、かねてより秀吉が「何とかしたい」と思っていた場所・・・いや、何なら信長の時代から「何とかせねば」ならなかった場所です。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ土着の民・・・農業に従事する者もいれば水産&海運に従事する者もあり、彼らは自らを守るために武装し、鉄砲を自在に操り、水軍も持っていて、信長をも何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

一方の根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、この戦国時代には50万石とも70万石とも言われる膨大な寺領を所有しており、それらを守るために、一部が僧兵として武装していた集団です。

そして、もう一つ・・・根来寺より少し東=紀の川の上流に位置する粉河観音宗総本山の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)←コチラも寺務を司るだけでなく、武力も保有する集団でした。

雑賀衆が独立独行を目指す(3月7日参照>>)のに対し、根来衆は、これまで度々起こっていた紀州守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い等に積極的に参加する中央介入派(7月12日参照>>)、粉河寺は根来ほどの規模や積極性を持たないものの、各地へ遠征してチョイチョイ戦乱に参戦していたわけで・・・

信長同様、この先、各地を平定し最終的には中央集権体制を目指す事になる秀吉にとっては、こういった独立的な勢力は、規模の大小&抵抗のあるなしに関わらず、そのままにしておくわけにはいかない集団であったわけです。

かくして天正十三年(1585年)3月、秀吉は、これまで何度も計画しながらも、上記の勝家や信雄や家康やらのゴタゴタで延び延びになっていた紀州征伐(きしゅうせいばつ)を決行する事にしたのです。

これを受けた根来ら紀州の諸勢力は、和泉(いずみ=大阪府南西部)近木川(こぎがわ)流域(大阪府貝塚市付近)に、千石堀(せんごくぼり=貝塚市橋本)高井(たかい=貝塚市名越)積善寺(しゃくぜんじ=貝塚市橋本)畠中(はたけなか=貝塚市畠中)などに複数の砦を構え、得意の鉄砲集団を配置し、秀吉の大軍を迎え撃ちます。

しかし、10万越えという予想以上の大軍に、まずは3月21日、千石堀があっけなく陥落した事をキッカケに、堰を切ったように次々と陥落あるいは開城となり、23日に文字通りの最後の砦となった沢城(さわじょう=貝塚市畠中)が開城されてしまった事で、紀州勢力の前線基地は、わずか3日で崩壊してしまうのです。

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秀吉の紀州征伐の位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

しかも、これら紀州前線隊と戦っていたのは、秀吉軍の一部・・・未だ無傷の予備隊=約6万は、同時進行で根来寺へ向かい、秀吉自身も根来寺の寺域に布陣します。

これほど早くに寺内までやって来るとは予想していなかった根来側・・・ここで、剛力の僧兵が鉄棒を振るって敵をなぎ倒したとか、荒法師が敵陣に斬り込んで壮絶な最期を遂げたとか、鉄砲隊による奮戦とか、激しい戦闘が来る広げらる中で火が放たれ、23日の夜から24日の朝にかけて、根来寺の堂塔は、ことごとく焼き尽くされ、さらに粉河寺に向かった秀吉軍の将兵により、粉河寺の堂塔&坊舎までもが焼き尽くされてしまったのです。

これは、天正十三年(1585年)3月23日根来寺の焼き討ち、翌・3月24日粉河寺の焼き討ちと伝えられています。

とは言え、実は、これ、信長の比叡山焼き討ちと同様に(【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】参照>>)「焼き討ち」では無かった可能性があるのです。

もちろん、多くの堂坊が燃えた事は確かなようなのですが・・・

竹中重門(たけなかしげかど=半兵衛重治の息子)の手記によれば、
「寺々はみな明けうせ 僧俄(にわか)に落行(おちゆき)たりと覚えて…」
と、先ほどのような荒法師や鉄砲隊の活躍もなく、根来衆はただただ逃げるばかりであった・・・と、

しかも出火は
「申の刻ばかり…」
つまり、午後3時~5時の、ほぼ昼間に火が出たと・・・

他のいくつかの記録にも、
「秀吉軍の宿所となっている場所から火が上がって、秀吉も山へ逃げた」
とか、
「休憩中の兵士たちが慌てて避難し、具足が燃えた者もいた」
てな事が書かれているのです。

もし、これが、秀吉軍による焼き討ちであるなら、ほぼ無抵抗の明け渡しで占領した場所を、その後に秀吉側が、しかも自分たちの近くに火をつけて燃やした・・・って事になりますよね?

さらに・・・
この時、一部、燃え残った部分があるのですが、それが本堂大塔(多宝塔)という、寺内で最も重要な建物だったのだとか・・・ご存知のように、根来寺に現存する国宝の多宝塔には、今も、秀吉の焼き討ちの時につけられたとされる火縄銃の弾痕が残っています→つまり、ここ=最も重要な部分はこの時に燃えてないわけですね。

粉河寺の焼き討ちに関しても、一連の出来事を伝え聞いた本願寺の記録で「自滅」と記されています。

「自滅」とは、寺の人間が自ら火をつけた・・・という意味です。

そうです。。。ひょっとして、寺側の彼らは、自分たちで火をつけたのかも?

負けて他人の手に渡るなら、自らの手で・・・という考え方もあったのかも知れません。

もちろん、だからと言って「焼き討ちは無かった」と断言する事もできません。

根来周辺の寺々には、この時に焼かれたという記録が複数残っていますし、実際に、この後、秀吉軍は雑賀衆の太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市太田)への攻撃に向かっているわけですしね【紀州征伐~太田城攻防戦】参照>>)

ただ、当時の記録を見る限りでは「無血占領の後、なんらかの原因で焼けちゃった」感が強く、最近では「焼き討ち」と呼べるほどの物では無かった可能性が高いと考えられているようです。

ちなみに、秀吉の後に天下を取った徳川家康は、生前の秀吉が、幼くして亡くなった愛児=鶴松(つるまつ)を弔うために建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)を、そっくりそのまま根来寺の復興のために寄進・・・これが、その名を根来寺智積院と改められ、現在も、京都は七条通りの一等地に建つ智積院(ちしゃくいん=京都市東山区)です。

信長の比叡山焼き討ちにしろ、今回の秀吉の根来寺&粉河寺焼き討ちにしろ、政権確保のために寺を攻撃するという行為・・・現代の感覚では、無抵抗の信者たちを襲う仏も恐れぬ非情な行為に受け止められるかも知れませんが、その後の家康の行為でもお察しの通り、政権が変れば、前政権の影を払拭するように、次の新政権がかつて攻撃された寺を復興する・・・

この時代は今と違って、政権と寺勢力が、そのように絡み合っていた時代だったという事を忘れてはなりませんね。
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2020年1月 4日 (土)

目の前の命を救う~戦国の名医・曲直瀬道三

 

文禄三年(1594年)1月4日、戦国の名医で当代第一の文化人でもあった曲直瀬道三が病死しました。

・・・・・・・

これまで、このブログでも、そのお名前だけがチョイチョイ登場している曲直瀬道三(まなせどうさん=正盛)

  • 天正五年(1577年)、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部) 平定に、プラス石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との天王寺合戦(5月3日参照>>)やら、雑賀(さいか・さいが)の陣(3月15日参照>>)やら、松永久秀(まつながひさひで)謀反(10月3日参照>>)やらで忙し過ぎの明智光秀(あけちみつひで)が体調を崩して曲直瀬道三の治療を受けて回復した(10月29日参照>>)とか、
  • 天正十二年(1584年)、病をおして合戦に出陣していた筒井順慶(つついじゅんけい)曲直瀬道三の治療を受けるため京都を訪れた(8月11日参照>>)とか、
  • 後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の主治医として福祉に活躍する施薬院全宗(やくいんぜんそう)が、寺を出てまず医学の教えを請うたのが曲直瀬道三だった(12月10日参照>>)とか、

そう・・・曲直瀬道三は戦国時代のお医者さん。
それも天下の名医と呼ばれた人なのです。

近江源氏(おうみげんじ)の流れを汲む佐々木氏(ささきし)庶流の父と多賀氏(たがし)の母との間に永正四年(1507年)に生まれたという曲直瀬道三ですが、自身の出産で母を亡くし、そのすぐ後に父も戦死してしまったため、叔母に育てられたのち、幼くして出生地である滋賀県守山市(もりやまし)の寺に入ったと言います。

Manasedousan590as その後、13歳の時に京都の相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)に入って修行したのち、二十歳を過ぎた頃に関東に下って足利学校(あしかががっこう=栃木県足利市)で学びますが、ここで、すでに関東にて名医の誉れ高かった田代三喜斎(たしろさんきさい)に出合って医学の道に進む事を決意・・・三喜斎から李朱医学(りしゅいがく)を学びます。

李朱医学とは、
病気になった時、発汗や嘔吐を則したり、あるいは下剤等を使って「とにかく体の中にある悪い物を出す」という考え方だったこれまでの治療法とは一線を画す、栄養補給を中心とした体内環境の改善を目的とした治療法で、それを中国で学んで来た第一人者が田代三喜斎だったのです。

三喜斎のもとで10数年学んで、その奥義を取得した道三は、関東を出る気が無かった三喜斎に別れを告げ、自身は天文十五年(1546年)京都へと戻り、ここで還俗(げんぞく=僧を辞めて一般人に戻る事)して本格的に医師に専念する事になりますが、その噂は瞬く間に広まり、やがて道三宅の門の前には治療してもらいたい人々が群れをなして訪れるようになったのだとか・・・

そんな時、未だ坂本(さかもと=滋賀県大津市)に避難中だった若き将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第13代室町幕府将軍:当時は義藤)の病をたちまちに治した事から、さらに評判に・・・

しかも、その後に義輝が、時の権力者=細川晴元(ほそかわはるもと)と和睦した事から、その晴元や、家臣の三好長慶(みよしながよし)など、今をときめく武将らをも診察する有名医師となります。
(この頃の晴元や三好長慶について嵯峨の戦い参照>>)

特に、三好長慶の家臣の松永久秀(まつながひさひで)とは、中国の書をヒントに道三自らが記した夜のマニュアル本=『黄素妙論(こうそみょうろん)を伝授するほどの仲だったとか・・・
(久秀がコッソリ読んで「なるほど…欲望にまかせた自分本位のHはアカンのか~」とか考えてる所を想像すると笑てしまう(#^o^#))

もちろん、後進の育成も怠る事なく・・・京都に啓迪院(けいてきいん=京都府京都市上京区上長者町付近)なる学校を創建して800人とも3000人とも言われる門徒に医学を教えたのです。

永禄五年(1562年)には、将軍=義輝から、ただいま絶賛戦闘中↓
(石見銀山争奪戦参照>>)
(白鹿城攻防戦参照>>)
安芸(あき=広島県)毛利(もうり)出雲(いずも=島根県)尼子(あまご)の仲を調停させるべく命を受けて中国地方へと下向・・・その時、病気療養中だった毛利元就(もうりもとなり)の治療をするかたわら、その元就にも、敵対する尼子義久(あまごよしひさ)にも粘り強く和睦を働きかけます。

ただ、ご存知のように毛利×尼子の戦闘は収まる事無く、結局、尼子の本拠=月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)は毛利によって落とされるので(11月28日参照>>)、和睦に関してはかたくなな姿勢を崩さなかった元就ではありましたが、一方で道三の安芸滞在中には、彼に対してかなり気を使い、様々な便宜を図っていた様子もうかがえますので、和睦交渉人としての成果は薄かったものの、病気の治療の方はウマくいったようで、この間に道三は、門弟たちに語った療法をまとめた『雲陣夜話(うんじんやわ)を残しています。

また、天正二年(1574年)には自らが記した8巻にわたる医学書『啓迪集(けいてきしゅう)正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)に献上するとともに、天皇を診察します。

さらに、あの織田信長(おだのぶなが)が上洛した(9月7日参照>>)後には、その信長も診察し、喜んだ信長から蘭奢待(らんじゃたい=東大寺の香木)(3月28日参照>>)もプレゼントされたとか・・・

天正十二年(1584年)にはイエズス会宣教師オルガンティノを診察して洗礼を受けたり、天正二十年(1592年)には第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から、(たちばな)の姓を賜ったり・・・と、まさに、ここに医師の頂点を極めり!!

こうして、時の権力者とのつながりも持った道三でしたが、一方で、彼が権力者の力を頼る事はありませんでした。

冒頭にも書いた、道三の弟子である施薬院全宗は、その紹介ページにも書かせていただいたように、時の権力者である豊臣秀吉の力をフル活用して医師の道を究めました(再び12月10日参照>>)

もちろん、私個人としては、それも悪い事では無いと思っています・・・なんせ、福祉にはお金がかかりますから。

薬を手配するにも、従事する人手を集めるにも、第一、施設の建設費や設備費もハンパ無いですから、そこの部分を権力者に頼りながら、自身の理想を叶えていくやり方も、一つの方法だと考えます。

ただ、道三は、それをせず、あくまで在野の一医師としての道を選び、数多くの著書を残し、後進の育成と、今、目の前にいる一つの命を救う事に理想を求めたのです。

文禄三年(1594年2月23日)1月4日 、長男をすでに亡くしていた道三は、娘婿の玄朔(げんさく)を養子に向かえ、2代目曲直瀬道三を名乗らせてバトンタッチ・・・静かに89年の生涯を閉じました。

その後も、かの施薬院全宗を頂点としつつ、曲直瀬玄朔を含めた曲直瀬一門の医療体制が確立されていき、日本の医療界を主導していく事となります。
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2019年12月 8日 (日)

那須七騎の一人~無念の千本資俊・謀殺

 

天正十三年(1585年)12月8日、太平寺に誘い出された千本資俊&資政父子が大関高増らによって殺害されました。

・・・・・・・・・

千本資俊(せんぼんすけとし)千本家は、鎌倉時代から 下野(しもつけ=栃木県)那須郡(なすぐん=栃木県の北東地域)に根を張り、一説には源平屋島の戦いの「扇の的」>>で有名な那須与一(なすのよいち)の子孫(あくまで伝説です)とも言われる那須(なす)の家臣で、「那須七騎(なすしちき)の一つにも数えられる名家でした。

ところが、そんな主家=那須氏の第19代当主=那須高資(なすたかすけ)の時代にお家騒動が勃発します。

そもそもは、先代である父=政資(まさすけ)から息子=高資への交代劇の時も、未だ譲る気のない父と、新当主=高資を擁立しようとする家臣=大関宗増(おおぜきむねます=那須七騎の一人)との間でモメにモメた末の当主交代だったのですが、父亡き後、今度は異母弟である資胤(すけたね)との間に、後継者争いが勃発したのです。

長男の高資の母は陸奥(むつ=福島県・宮城県・岩手県・青森県)大館城(おおだてじょう=福島県いわき市)主の岩城常隆(いわきつねたか)の娘、次男の資胤の母は那須氏家臣の大田原資清(おおたわらすけきよ=那須七騎の一人)の妹・・・この抗争には、当然、それぞれの実家が絡んでいるわけですが・・・

資胤を那須家の跡継ぎにしたい大田原氏は、資胤を大田原城(おおたわらじょう=栃木県大田原市)に招いて高資討伐を進言・・・一方、これをうけた高資側も資胤を亡き者にしようと画策します。

身の危険を感じた資胤は、熊野参詣を理由に一時的に身を隠します。

そんなこんなの天文十八年(1549年)、かねてより宇都宮(うつのみや=栃木県の中部地域)への侵攻を目論んでいた那須高資が宇都宮領内へと侵攻し、喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい=栃木県さくら市喜連川付近)で宇都宮氏当主=宇都宮尚綱(うつのみやひさつな)とぶつかりますが、この戦いで尚綱は討死してしまいます。

しかも、そのドサクサで家臣の壬生綱房(みぶつなふさ)宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)を乗っ取られてしまったのです。

この時、わずか5歳の幼子であった尚綱の息子=宇都宮広綱(ひろつな)は、家臣の芳賀高定(はがたかさだ)に守られて、何とか城から脱出して落ち延びましたが、その2年後の天文二十年(1551年)、その芳賀高定が高根沢(たかねざわ=栃木県高根沢町・栃木県中央東部地域)の領地と資胤の次期那須当主の座を約束に千本資俊に支援を求めて来たのです。

かくして天文二十年(1551年)1月22日、千本資俊は自らの千本城(せんぼんじょう=栃木県芳賀郡)に、主君=那須高資を招待し、泥酔したところを殺害したのです。

高資の死によって、那須家の当主の座が資胤に転がり込んだ事で、千本資俊と息子=資政(すけまさ)は、資胤の腹心として大いに権勢を振るうとともに、資政は大関高増(たかます=大田原資清の息子で大関宗増の養子)の娘を正室に娶り、那須家内の家臣同志の繋がりも固くなったかに見えました。

しかし結局は、千本家と大関家による那須家内の主導権争いは収まらず・・・永禄九年(1566年)には、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)の力を借りた大関高増に攻められ、激しい戦いに発展した事もありました。
(この時に千本城が佐竹側に奪取されたとの話もあり…秋田藩家蔵文書)

ところが、天正十一年(1583年)に資胤が死去し、その息子の那須資晴(すけはる)が当主となって2年が過ぎた天正十三年(1585年)、那須資晴は大関や大田原に対して、「太平寺(たいへいじ=栃木県那須烏山市)にて千本父子を追討せよ」との命令を出したのです。

その理由としては・・・
実は、資政が生まれる前、まだ子供がいなかった千本資俊は茂木城(もてぎじょう=栃木県芳賀郡)に拠る茂木治清(もてぎはるきよ)の息子を養子に向かえ、千本義隆(よしたか)として彼に千本家を継がせるつもりでいたのですが、やがて実子の資政が生まれた事によって義隆がうっとぉしくなり、配下の田野辺重之(たのべしげゆき)に義隆を預けて田野辺隆継(たかつぐ)と名乗らせたりしていましたが、結局、居場所がなくなった彼=義隆は、実家の茂木に戻ったのですが、当然、その心の内はよろしくない

また、もう一人の大関も・・・
先に書いた通り千本資政の奥さんは大関家の娘だったわけですが、これが嫁×姑バトルの果てに離縁となって奥さんが実家に戻っており、那須家臣内での主導権争いに加えて、ますます千本父子は許しがたいわけで・・・

Oozekitakamasu700a で、千本義隆と大関高増が結託して、そこに高増弟の大田原綱清(おおたわらつなきよ)が加わり、主君である那須資晴を味方に誘って説得し、上記の命令を出させたわけです。

なんせその資晴も、後継者争いの末とは言え、千本資俊に先々代=伯父の那須高資を騙し討ちされてますから・・・

さらに千本義隆の実家の茂木も誘います。

はじめ茂木家は、この計略に乗り気ではりませんでしたが、大関高増による再三の説得と、成功のあかつきには大谷津(おおやつ=栃木県芳賀郡市貝町大谷津周辺)の地を与えるという条件により、仲間に加わりました。

かくして、使者によってもたらされた
「那須上庄の家臣が謀叛を企てて奥州の白河(しらかわ=福島県白河)に寝返ったので、まずは大関&大田原が現地に向かいますが、その前にもろもろ相談したいので、急ぎ太平寺にお越しください」
との知らせを受けた千本資俊&資政父子は、天正十三年(1585年)12月8日、従者17~8人を連れて千本城を出立したのです。

途中、千本資俊の馬の前を「白狐が横切りつつ、しきりに鳴いた」という事があり、「不吉だ」として資俊は1度引き返そうとしますが、息子の資政が、
「この季節になるとキツネが鳴く事なんてよくあります。これで引き返したら臆病者と言われますよ」
と言って父をなだめた事から、そのまま一同は太平寺への道を急ぎます。

まぁ、那須資晴から、そんな命令が出てるなんで知る由もありませんからね。

やがて到着した太平寺では、僧が出迎え、千本父子の来訪を大いに喜びますが、「内々の密談があるので…」と供の者たちを門外に留め置いて、千本父子を奥の間へと招き入れます。

そして千本資俊が奥に入ろうとしたところを、福原資孝(ふくはらすけたか=那須七騎の一人)「上意!」と叫びつつ、正面より左の肩先から右胸にかけて斬りつけました。

息子=資政は一礼していたところを大田原綱清が太刀を抜きざまに討ちました。

資政は一太刀で絶命するも、資俊は反撃しようと試みますが、そこを背後から大関高増が斬りつけました。

千本資俊=享年67、千本資政=享年25の生涯でした。

千本父子の叫び声に気づいた従者が、壁を打ち破って寺内に駆け込もうとしますが、そこに大関&大田原&福原の配下の者=数十名が躍り出て、門外にて戦闘状態となりますが、当然、多勢に無勢では勝ち目はなく、一部を除いてほとんどの者が討ち取られてしましました。。。ちなみにかつての一時期、千本義隆を養父となっていた田野辺重之も、この時に討死したと言います。

この出来事を千本城にて聞いた資俊の奥さんは、はじめは自害しようとするものの、家臣によって実家の長倉(ながくら)に戻るよう説得され、川上実三(かわかみじつぞう?)なる者を共に連れて逃避するものの、途中で、その川上が荷物やら何やらを持ったまま逃げてしまい、途方に暮れているところ山里の住人に助けられて近くの庵に宿泊させてもらう事ができました。

その時、病に伏せっていた住人の子供に持っていた薬を与えて助けた事から、感謝した住人たちによって無事に実家に送り届けられたのだとか・・・やがて、敗軍の城となった千本城には多くの浪人や百姓たちが押し寄せ、財宝の略奪行為が行われたとの事なので、奥さん無事に実家に戻れて、何よりでしたね。

奥さんを助けたのも名も無き戦国の人々なら、千本城に略奪に入るのも名も無き戦国の人々・・・平時に持つ人間のやさしさと戦時下に持つ狂気、このどちらもが人が本来持つ姿なのだと感じさせられますね。

千本父子の死によって、再び千本義隆が嫡子となって千本城を継ぎ、その領地は千本義隆や大関高増らによって分配されました。

この頃と言えば・・・
西では、織田信長(おだのぶなが)亡き後に勢いをつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)四国を手に入れ(7月26日参照>>)、東は飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月10日参照>>)越中(えっちゅう=富山県)(8月6日参照>>)にまで手を伸ばした頃・・・

東北では、この半月ほど前にあの伊達政宗(だてまさむね)人取橋(ひととりばし)の戦い(2007年11月17日参照>>)が展開されていたわけですが、それらに挟まれたこの場所で展開されていた彼らの勢力争いも、やがて天下統一の波に呑まれていく事になります。
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2019年11月17日 (日)

伊達政宗の人取橋の戦い~老臣・鬼庭良直の討死

 

天正十三年(1585年)11月17日、伊達政宗と佐竹率いる連合軍が戦った人取橋の戦いで鬼庭良直が討死しました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月に、あの本能寺で横死(6月2日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)に代わって、山崎の戦いで主君の仇を討った羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が勢いを増すものの、その後は四国(7月26日参照>>)九州(4月6日参照>>)の平定に忙しく、北は北陸(8月29日参照>>)どまりで、関東や東北は未だ手つかずの状態であった頃、

東北では、
米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市)を本拠とした伊達(だて)出羽(でわ)南部(山形県と秋田県南部)陸奥(むつ)南部(宮城県南部・福島県北部)という広大な領地を有してはいたものの、
周辺には
山形城(やまがたじょう=山形県山形市)最上(もがみ)や、
寺池城(てらいけじょう=宮城県登米市)葛西(かさい)
名生城(みょうじょう=宮城県大崎市)大崎(おおさき)に、
小高城(おだかじょう=福島県南相馬市)相馬(そうま)
大館城(おおだてじょう=秋田県大館市)岩城(いわき)に、
黒川城(くろかわじょう=福島県会津若松市・後のの若松城)蘆名(あしな)
須賀川城(すかがわじょう=福島県須賀川市)二階堂(にかいどう)・・・

さらに南の常陸(ひたち=茨城県)から北への侵攻を狙う佐竹(さたけ)などなど、様々な有力大名がしのぎを削りながら、時には味方になり、時には敵に回りという群雄割拠の状態だったのです。

そんな中、天正十二年(1584年)10月、父の伊達輝宗(だててるむね)から家督を譲られ、伊達家の若き当主となった伊達政宗(だてまさむね=当時18歳)に対し、はじめは恭順な態度を取っていた小浜城(おばまじょう=福島県二本松市)大内定綱(おおうちさだつな)蘆名に寝返るという事件が起こります。

これに対し、政宗は大内の支城である小手森城(おでもりじょう=福島県二本松市)を攻撃し、城兵はおろか婦女子まで根絶やしにするという倍返しどころやない非常な仕返しをしたのです。

これに恐怖したのが二本松城(にほんまつじょう=福島県二本松市)畠山義継(はたけやまよしつぐ)・・・なんせ、陰で大内を支援していて、この時、小手森城を脱出した大内定綱が逃げ込んで来ていたのですから、次はコチラに矛先が向くやも知れません。

ここはひとまず降伏・・・とばかりに畠山義継は、領地の半分を伊達家に献上して、後継ぎの国王丸(くにおうまる)を人質に出すという条件で伊達との和睦を成立させますが、その和睦成立から、わずか2日後の10月8日、伊達輝宗が陣所にしていた宮森城(みやもりじょう=同二本松市)に和睦の挨拶をしに来たはずの畠山義継が、いきなり刀を抜いて伊達輝宗を拉致して逃亡してしまいます。

父の異変を知った政宗が、すぐに後を追い、川を越えたら二本松城という阿武隈川(あぶくまがわ)のほとりで追いついたものの、どうする事もできず、やむなく義継もろとも父=輝宗を鉄砲で撃ち殺してしまったのです(10月8日参照>>)

義継を失った二本松城では、国王丸を人質に出すどころか、この幼い新当主を中心に気勢を挙げ、籠城して政宗を迎え撃つ覚悟・・・一方の政宗も父の弔い合戦とばかりに10月15日、二本松城を囲みます。

しかし二本松城は天然の要害を備えた堅城で、しかもこの旧暦の10月15日は、新暦で言えば12月6日・・・包囲を開始した翌日から雪が降り始め、やがてそれは大雪となり、やむなく政宗は、一旦包囲を解いて小浜城に引き上げました。

するとこの間に畠山は、佐竹をはじめ、蘆名や相馬、岩城や二階堂などなど伊達領の南に位置する武将らに援軍を求めます。

常日頃から伊達が南下して来る事を警戒していた彼らは、すんなりと畠山の要請に応じ、佐竹義重(さたけよししげ)を総大将とする3万もの連合軍となって伊達領に向かって北上して来たのです。

Oniwayosinao500a この一報を受けた政宗は、天正十三年(1585年)11月17日、小浜城を出て観音堂山(かんのんどうやま)に布陣しますが、味方の軍勢はわずかに8千・・・政宗にとっては明らかに不利な戦いに突入する事になりますが、

この戦いで先陣を務めたのが、代々伊達家に仕える鬼庭(おにわ)氏の13代目=鬼庭良直(おにわよしなお=左月斎)でした。

良直自身も、伊達稙宗(たねむね)晴宗(はるむね)そして輝宗→政宗と4代の当主に仕えていて、この時73歳・・・高齢のために重い甲冑を帯びる事ができず、水色の法被(はっぴ)に黄色の綿帽子という装備を身に着け、政宗から拝領した金色の采配を手に出陣していたのでした。

伊達VS連合軍・・・両者は観音堂山の麓の瀬戸川(せとがわ=阿武隈川の支流)周辺でぶつかります。

Hitotoribasioniwayosinao
人取橋の戦いと東北諸将の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

瀬戸川に架かる一本橋を、約60騎の自隊を率いて先陣を切る鬼庭隊・・・それを見た政宗の右腕=片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)(10月14日参照>>)が機転をきかせ、
「政宗がここにおる!」
と良直を援護すべく、主君の声をまねて高らかに宣言すると、
その心中を察した良直が、
「おぉ!御屋形様(おやかたさま)が来てくださったぞ!」
と叫び、味方の士気を高めると同時に、敵を怯ませます。

敵が景綱に気を取られ動揺するスキを狙って一本橋を突進する良直は、その細い橋の上を向かって来る敵を一人ずつ待ち伏せて討っていくのです。

この橋の上で200余の敵兵を討ち取った良直率いる鬼庭隊でしたが、さすがに多勢に無勢・・・やがて押されはじめた伊達軍に迫る連合軍は本陣近くまで押し寄せ、政宗自身も鉄砲を受ける事態となり、伊達軍は撤退を余儀なくされますが、そうなると先陣だった鬼庭隊が、今度は殿(しんがり=軍の最後尾)となるわけで・・・

主君を逃がすべく踏ん張った良直は、ともに戦った多くの兵とともに、ここで壮絶な討死を遂げました。

良直らの活躍によって無事引き上げる事に成功した政宗は、夜を迎えるとともに野営し、明日に向かっての態勢を整えるのですが、なんとその夜に、留守にしている領国を水戸城(みとじょう=茨城県水戸市)江戸重通(えどしげみち)安房(あわ=千葉県南部)里見義頼(さとみよしより)が攻めに来る」という一報を受けた佐竹が自軍を連れて撤退してしまうのです。

この一報には、政宗発進のフェイクニュースとの見方もあるようですが、とにかく、連合軍と言えど、ほとんどが佐竹隊だった敵側は、もはや伊達軍を相手にする兵力は残っておらず、今回の戦闘は、このまま終焉を迎えるのです。

勝敗としては連合軍の勝利と言えますが、全滅を免れた政宗も次回に賭ける事ができるわけで、翌日の明らかなる負け戦を回避できた事は政宗にとって一安心・・・良直の功績を讃えた政宗は、残された彼の妻に多くの知行を与えたと言います。

また、ここで多くの兵を討ち取られた事で、瀬戸川に架かるこの一本橋は、人取橋(ひととりばし)と呼ばれるようになり、本日のこの戦いも「人取橋の戦い」と呼ばれます。
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2019年10月27日 (日)

飛騨の関ヶ原~八日町の戦いで江馬輝盛が討死

 

天正十年(1582年)10月27日、飛騨八日町にて姉小路頼綱(三木自綱)と戦っていた江馬輝盛が討死し、江馬氏が滅亡しました。

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「飛騨の関ヶ原」とも呼ばれる八日町(ようかまち=岐阜県高山市国府町八日町)の戦い・・・

このブログでは「〇〇の関ヶ原」と呼ばれる戦いを、いくつかご紹介していますが、それらは、あの関ヶ原の戦いと同時期に起こった東西それぞれに味方する武将が別の場所で戦った合戦の事で、たとえば、石田三成(いしだみつなり)と懇意にする会津(あいづ=福島県西部)直江兼続(なおえかねつぐ=西軍) が、徳川家康(とくがわいえやす)に通じる最上義光(もがみよしあき=東軍)と戦った長谷堂の戦い(10月1日参照>>)「東北の関ヶ原」と呼んだり、豊後(ぶんご=大分県)奪回を狙う大友義統(おおともよしむね=西軍)黒田如水(くろだじょすい・官兵衛孝高=東軍)と戦う石垣原の戦い(9月13日参照>>)「九州の関ヶ原」と呼んだりします。

しかし、今回の八日町の戦いの「関ヶ原」はそういう意味ではなく、飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の戦国に決着をつけるような・・・いわゆる「天下分け目の関ヶ原」なら、コチラは「飛騨分け目の八日町」という意味で「飛騨の関ヶ原」と呼ばれているのです。

なんせ、飛騨という場所は、これまで、越後(えちご=新潟県)から南西へ=信濃(しなの=長野県)北陸をと狙う上杉謙信(うえすぎけんしん)と、甲斐(かい=山梨県)から、やはり信濃を牛耳る武田信玄(たけだしんげん)という大物二人に挟まれ、あの川中島での勝敗に左右されたり、両者の動向に翻弄されたりしながら、

飛騨大野(おおの=岐阜県北西部)を本領する小鷹利城(こたかりじょう=岐阜県飛騨市河合町)牛丸(うしまる)
隣接する吉城(よしき=岐阜県北東部)を本領とする高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)江馬(えま)
益田(ました=岐阜県中東部)に拠点を持ち鍋山城(なべやまじょう=岐阜県高山市松ノ木)を居城とする三木(みき)
飛騨国府(こくふ=岐阜県高山市周辺)高堂城(たかどうじょう=岐阜県高山市国府町)を居城とする広瀬(ひろせ)
の彼ら飛騨に根付く武将たちは、血で血を洗う戦国を生き抜いて来ていたのです。

そんな中、三木氏の三木自綱(みつきよりつな)が、飛騨の国司であった姉小路(あねのこうじ)の名跡を乗っ取って姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)と名を改め、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じての上洛(9月7日参照>>)で上り調子の尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)の奥さん=(のう)妹を娶って親族となり、その力を借りて勢力を伸ばし始めます

それでも、まだ謙信&信玄の目の黒いうちは、大きく情勢が変わる事はありませんでしたが(8月4日参照>>)、天正元年(1573年)に信玄が亡くなって(4月16日参照>>)その2年後に後を継いだ武田勝頼(かつより)長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)織田&徳川連合軍に敗退し(5月21日参照>>)、天正六年(1578年)には謙信が亡くなった(3月13日参照>>)上杉家で後継者争いが勃発(3月17日参照>>)・・・

戦国の力関係が大きく変わる中で、上杉との月岡野(つきおかの=富山県富山市)の戦い(10月4日参照>>)に織田の親族として参戦して勝利した姉小路頼綱が、勢いを増して松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山松倉町)を新築します。

すると、それを脅威に感じた広瀬城(ひろせじょう=同高山市国府町)広瀬宗域(ひろせむねくに)は、頼綱の三木氏と政略的婚姻関係を結んで脅威を取り除き、逆にこれまで懇意にしていた牛丸親綱(うしまるちかつな)牛丸氏の名跡を奪おうと小鷹利城を攻めますが、それはウマく行かず・・・

ところが、そうこうしている間に、またもや戦国の情勢が目まぐるしく変わります。

天正十年(1582年)3月に、あの武田が滅ぶと(3月11日参照>>)、そのわずか3ヶ月後の6月に、武田を滅亡させた信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)したのです。

このゴタゴタを見逃さなかったのが姉小路頼綱&と広瀬宗域&牛丸親綱・・・今度は、この三者が連合を組んで、これまで何かと目障りだった名門家=江馬氏の江馬輝盛(えまてるもり)をぶっ潰して、飛騨の覇権を抑えてしまおうと画策したのです。

もちろん、江馬輝盛の方も、このゴタゴタが絶好のチャンスなのは重々承知・・・ここで、長年の悲願であった古川盆地への進出を画策するのです。

八日町の戦い・位置関係図
八日町の戦い・位置関係図
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(背景は地理院地図>>)

かくして信長横死から約5か月後の天正十年(1582年)10月下旬、江馬輝盛は3000余騎を率いて(数については諸説あり)高原諏訪城を出立して古川盆地への侵攻を開始したのです。

これを知った姉小路頼綱は、始め、鉄壁の要害と自負する自身の松倉城に敵を引き寄せて討とうか?とも考えましたが、たとえ籠城が長期に渡ったとしても、今以上に新手の援軍が来るわけでもない今回の戦いでは籠城戦は難しいと判断し、広瀬宗域&牛丸親綱らと組んで撃って出る作戦に切り替えます。

そして、敵を大坂峠(おおさかとうげ=岐阜県高山市)付近から荒城川(あらきがわ)河畔に追い込んで、そこを戦場にして雌雄を決する覚悟で準備を開始し、自身は八日町付近に布陣して江馬勢を待ち受けました。
その数、約2000(数については諸説あり)

かくして天正十年(1582年)10月26日午後2時頃、江馬勢は姉小路配下である小島時光(こじまときみつ)の拠る小島城(こじまじょう=岐阜県飛騨市古川町沼町)へと迫ります。

しかし、ここで激しい抵抗に遭い、小島城を落とす事ができず、その日は態勢を整えるべく荒城方面へと引き返しました。

Youkamatiema700a 翌・10月27日江馬輝盛は一気に敵を攻め潰すべく、再び姉小路勢に押し寄せ、広瀬方面にまで進んで来ます。

姉小路頼綱としては、ここで江馬氏の支城である梨打城(なしうちじょう=岐阜県高山市国府町八日町)を基点に扇状に広がった江馬勢を相手にすれば分が悪い・・・そのため、敵の態勢を崩すべく、あらかじめ八日町付近にかくしていた伏兵を使い、これを一気に江馬輝盛のいる本隊向けて発進させたのです。

この伏兵の存在に気づいていなかった江馬勢大いに慌て、隊が一気に乱れます

すかざす輝盛が陣を立て直そうとしたその時・・・姉小路側から放たれた銃弾が輝盛を貫きました。

ひるむ輝盛を牛丸配下の者が討ち取り、その首を挙げます。

大将の討死に、江馬勢は総崩れとなり、完全に形勢逆転・・・江馬勢は討ち取られるか、敗走するか。。。

この時、江馬輝盛の側近13名が大坂峠で自害して、その後地元民に葬られた事から、この大坂峠は地元では通称「十三墓峠」と呼ばれているとか・・・

このあと姉小路勢は、江馬の本拠である高原まで攻め込み、ここに11代続いた江馬氏は滅亡しました。

ちなみに、この八日町の戦いは、この飛騨で初めて鉄砲が使用された戦いと言われていますが、それも、織田信長に近づいた姉小路頼綱が、(さかい=大阪府堺市)にて、いち早く鉄砲を手に入れた事で、この飛騨では一歩先に出た・・・という所でしょうか。。。

とは言え、それぞれの武将の本心は、自分自身が飛騨のすべてを手に入れる事・・・今回は、江馬駆逐のために連合しただけで、そもそもはライバル同士なわけで・・・

案の定、この八日町の戦いから3ヶ月後の天正十一年(1583年)1月27日、姉小路頼綱は牛丸親綱を攻撃し、さらにその翌年に広瀬宗域を騙し討ちして広瀬城を奪い、頼綱は晴れて飛騨統一する事になるのですが(1月27日後半部分参照>>=前半は内容がカブッてますがお許しを…)

その頼綱の短い春を終わらせるのが、賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)(4月21日参照>>)を終え、小牧長久手(愛知県小牧市ほか)(11月16日参照>>)真っ最中で、天下の見えて来た羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)という事になります(8月28日参照>>)
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