2009年11月19日 (木)

頑固一徹で天寿を全うした稲葉一鉄

 

天正十六年(1588年)11月19日、美濃三人衆の1人として知られる稲葉一鉄が、74歳でこの世を去りました。

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もともとは、美濃国(岐阜県)の守護・土岐頼芸(よりなり)に仕えていた稲葉一鉄(いなばいってつ)・・・っと、本当のお名前は稲葉良通(よしみち)で、途中で剃髪して一鉄と号するようになるのですが、一鉄のお名前のほうが断然有名なので、本日は一鉄さんで通させていただきます。

やがて、あの斉藤道三が国盗りで美濃を制するようになってからは、その斉藤家に仕えるようになりますが、道三の孫・斉藤龍興(たつおき)の代になって、主君との間に亀裂が生じるようになります。

そこで、ともに土岐氏の時代からの仲間であった氏家卜全(うじいえぼくぜん)安藤守就(もりなり)らとともに、当時、斉藤家の居城・稲葉山城を攻めあぐねていた織田信長の傘下へと鞍替えしたのです。

彼ら美濃三人衆の協力を得た信長は、永禄十年(1567年)8月、見事、稲葉山城を攻略し、龍興を美濃から追放したのでした(8月15日参照>>)

その後、約20年間に渡って信長に仕えた一鉄は、その間に80回以上もの合戦に出陣し、一度の負けも経験しなかったという武勇伝の持ち主です。

元亀元年(1570年)6月の姉川の合戦では、窮地に陥った織田軍を、さらに攻める浅井軍に対して、側面からの猛攻撃で加勢し、見事、勝利に導きました(6月28日参照>>)

この時、一鉄の臨機応変な素早い動きを喜んだ信長から、「長」の一字を与えられ、「長通(ながみち)を名乗るように勧められましたが、一鉄は・・・
「今回の勝利は、三河はん(徳川家康の事)の力が大きかったんですわ。
僕の働きなんて大した事ないです・・・こんなんで、武勇やなんて言われたら恥ずかしいですわ」

と言って、信長の提言を断り続けて、譲らなかったのだとか・・・

この一件から、周囲の説得に応じず、自論を曲げない頑固者の事を「一鉄(徹)者」「頑固一徹」なんて呼ぶようになったとされています。(あくまで伝説ですが・・・)

また、一鉄は、武功の誉れのみならず、学識の豊かさも兼ね備えていました。

特に、漢詩は得意中の得意だったようで・・・

天正二年(1574年)のある日、信長は、岐阜城の茶室に一鉄を招きます

実は、信長は、ある者から「一鉄に謀反の疑いあり」との密告を受けていて、その報告が本当であるかどうかを確かめるために、一鉄を呼んだわけだったのですが、もし、本当に謀反の兆しがあったなら、その場で殺害するつもりで、茶室の壁の向こうで身を潜めて待っていたのです。

すでに不穏な空気を察していた一鉄は、何喰わぬ顔で、茶室へと入り、接待役の武将を対面しながら、何とか弁明の糸口を探ります。

ふと、床の間を見ると、そこに一服の掛け軸が・・・そこには、禅僧の筆による漢詩が書かれていました。

送茂侍者
木葉辞阿霜気清、虎頭載角出禅扃、
東西南北無人処、急急帰来話此情

*注:私は読めないので、何と書いてあったかは聞かないでください

漢詩をすらすらと読んでみせた一鉄は、その意味を聞かれて、くわしい解説をするとともに、自分には、まったく謀反の気持ちなどなく、今後も、信長にひたすら尽くすつもりである事を切々と話しました。

壁のむこうで、一鉄の言葉を聞いていた信長は、武勇だけでなく、その学識の深さにも感銘を覚え、自ら、一鉄の前に進み出て、つまらない密告を信じてしまった事を詫びるとともに、今後とも自分を支えてくれるよう申し出たのです。

結局、一鉄があまりにも信長に重用される事を妬んだ者によるウソの密告だったようですが、これを境に、信長は、ますます一鉄を信頼するようになり、一鉄も、信長が亡くなるまで、その思いに答えるべく尽くしました。

信長亡き後、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の合戦(3月11日参照>>)羽柴(豊臣)秀吉の味方をしてからは、秀吉に仕えるようになりますが、翌・天正十二年の小牧・長久手の戦い(3月28日参照>>)で、対・小牧山の岩崎山砦の守備を任されたのを最後に、戦場へのお出ましは、どうやら引退されたようで、それから四年後の天正十六年(1588年)11月19日美濃清水城にて静かに息をひきとりました。

享年74歳・・・乱世の真っ只中に生きた武将としては、数少ない天寿を全うできた人・・・その生き抜く事ににおいても頑固一徹を貫いたと言ったところでしょうか。
 

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2009年11月 4日 (水)

忍者の教科書『万川集海』~服部半蔵の命日に因んで

 

慶長元年(1596年)11月4日、徳川家康の配下で伊賀衆の棟梁となって活躍した服部半蔵正成が55歳の生涯を閉じました

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ご存知、伊賀忍者の服部半蔵(はっとりはんぞう)ですが、実際には、この服部半蔵という名前は、服部家が代々受け継いでいく名前なので、複数の服部半蔵さんが存在するわけですが、一般的には、徳川家康とともに江戸入りして、その配下となって活躍した二代目・服部半蔵である正成(まさなり)の事を指します。

・・・てな事は、未だ書き足りない部分はあるものの、一応、すでに書かせていただいていますので・・・

・・・で見ていただくとして、本日は12月2日のページにもチョコッと登場した忍術伝書『万川集海(ばんせんしゅうかい)について書かせていただきます。

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『万川集海』とは、「すべての川は海に集まる」という意味で、延宝四年(1676年)に、伊賀忍者の上忍・藤林長門守の子孫とされる藤林保武(ふじばやしやすたけ)という人が著した書物・・・

その序文に・・・
「伊賀・甲賀の11人の忍者の裏ワザや秘密アイテムの、悪いところは除き、良いところだけを厳選し、名将が編み出した秘策などをあますことなく集めて・・・」
と、あるように、まさに、流派を超えた忍者の教科書ともいえる物で、かの服部半蔵の言葉なども掲載されているのです。

残念ながら、原本はありませんが、複数の写本は今も残っているようです。

それぞれの内容は微妙に違うものの、おおむね7巻に分かれます。

  1. 「序文」「凡例」「目録」「問答」
  2. 「正心(しょうしん)
  3. 「将知(しょうち)
  4. 「陽忍(ようにん)
  5. 「陰忍(いんにん)
  6. 「天時(てんじ)
  7. 「忍器」

忍者の心構えだけでなく、天文学のような科学的な知識、実際の行動方法、そして秘密道具などなど・・・

その中でも、「忍器」で紹介されてる鉄砲についての記述が興味深いです。

なんとなく、忍者と言えば、手裏剣撒菱(まきびし)鎖鎌(くさりがま)なんて武器を思い浮かべますが、意外と鉄砲っていうのも、忍者御用達なんですね。

そう言えば、織田信長朝倉義景を攻めた金ヶ崎城の攻防戦からの撤退(4月27日参照>>)の途中で、まさに危機一髪の狙撃を受けますが、火縄銃で信長を撃ったその犯人は杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)・・・甲賀忍者だったと言われていますよね。

また、信長の鉄甲船完成のページ(9月30日参照>>)で、最新鋭の大砲を完成させた事をご紹介した近江・国友村の鍛冶職人・・・甲賀はもちろん、伊賀とも大変近い場所ですから、おそらく、他よりも、いち早く手にした事も想像できますね~。

また、東京・新宿区には鉄砲坂と呼ばれる坂がありますが、ここは、江戸時代に伊賀者の屋敷が建ち並んでいた場所で、その訓練場が近くにあったから、その名がついた・・・なんて話もあります。

ただ、『万川集海』では、その撃ち方の技術的な記述よりも、火薬の調合や弾の製造法に重きを置いているようです。

そりゃそうですね。
撃ち方なら、武将や鉄砲隊なども訓練するでしょうから、忍者たるもの、それ以上の+αを習得しておかなくてはいけませんからね~。

「皮袋に砂を固く詰めた物を玉状にして・・・」
なんて記述を見ると、もはや散弾銃ですよね。

それでは、最後に、『万川集海』から名言を一つ・・・

「およそ兵は国の大事 死生(ししょう)存亡の危機なり」
兵=軍事は、国の一大事で死ぬか生きるかだ~~

・・・て、これは孫子の「始計篇」(4月5日参照>>)のパクリでは?
なんて、硬い事を言うのは、やめときましょう・・・国を越えても、時代を超えても、名言は名言だという事で・・・。
 

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2009年10月15日 (木)

後継者へのパフォーマンス~秀吉演出の信長の葬儀

 

天正十年(1582年)10月15日、羽柴秀吉が、去る6月2日に亡くなった織田信長の葬儀を、京都・大徳寺にて盛大に行いました。

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戦国最大のミステリーと言われる、ご存知、本能寺の変・・・これまで、このブログでも、何度となく書かせていただきました。

良い機会なので、ここで、本能寺関係の記事へのリンクをまとめさせていただいときます・・・気になるのがあったら読んでみてくださいな。

世の中には、まだまだ・・・
「イエズス会・黒幕説」「朝廷・黒幕説」「光秀・うつ病説」・・・などなど、多くの仮説があり、今後も、おりにふれて、このブログでご紹介していきたいと思いますが・・・

私の個人的見解としましては、愛宕山の連歌会やタイムラグのところで書かせていただいたように、光秀のこの謀反に計画性はなく、あくまで突発的であり、かつ、天下を取る目的ではなかったと判断しております。

・・・と、その部分は、今のところ揺るぎないのですが、こと動機となると、これが、まったくわからない・・・もちろん、わからないからミステリーなんですが・・・

信長の光秀に対する仕打ち的なものは、ほとんど後世の創作だと思っていますし、むしろ、光秀は、中途採用のわりには、一番優遇されていました。

信長の行動に、さしたる原因がないとすれば・・・何となく、鬱の傾向があり、更年期障害も相まって、その時の光秀は、被害妄想的な心境におちいっていたのではないか?と思いますが、それこそ、そのような病気は、ご本人すら気づいていない可能性もあり、そうなると、もはや想像するしかないわけですが・・・

とにもかくにも、この明智光秀という人のおかげで、天下に一番近い位置にある座席が、空席となってしまったわけで、信長の息子たちと家臣たちによるイス取りゲームが勃発する事となります。

・・・で、この時、京都の一番近くにいて、一番先に信長の死を知った徳川家康決死の伊賀越えを試み(6月4日参照>>)、その次にニュースを聞いた豊臣(羽柴)秀吉中国大返しをおっぱじめ(6月6日参照>>)、北陸の柴田勝家魚津城を落とした翌日に、主君の死を知る(6月3日参照>>)・・・。

滝川一益北条に足止めされ(6月18日参照>>)森長可武田の残党をなぎ倒し(4月9日参照>>)、四国征伐の準備中だった信長の三男・神戸信孝丹羽長秀は大坂城の津田信澄を襲撃する(4月16日参照>>)・・・。

そして、ご存知のように、この中で、誰に邪魔される事もなく、中国から舞い戻った秀吉が、信孝を大将に据え、あの山崎の合戦で光秀を倒した(6月13日参照>>)事で、織田家内での、秀吉の名声が高まった事は間違いありませんが・・・とは言え、そう簡単に家中の序列が変わるものでもありません。

以前、小牧長久手の戦後交渉で、見事に家康の上をいった秀吉を「人たらし」の天才であると書かせていただきました(10月17日参照>>)が、この「人たらし」というのは、いわゆる「人を騙す」というよりは、「いつの間にか、何となく、知らないうちに、そっちの方へ持ってってしまう」という感じでしょうか・・・。

その最たるものが、この信長亡き後の後継者争いでの、清洲会議と、検地の開始と、そして、本日の信長の葬儀だと思います。

もちろん、世は戦国ですので、のちのち賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)信孝の自刃(5月2日参照>>)といった血なまぐさい出来事も起こりますが、その最終段階の前に、極力、自分の有利な方向へともって行く「人たらし」のテクニックは、他に類を見ない見事なものだと思います。

まずは、信長の死から半月後に行われた清洲会議で、信孝と彼を推す勝家に対して、信長とともに死んだ長男・信忠の遺児・三法師を推して自らが後見人となる事を提案し、会議の前の根回しを怠らず、見事、後継者を三法師に決定させます(6月27日参照>>)

この時、三法師は、わずか3歳ですから、当然、その後見人である秀吉が実権を握る事になり、そのすぐ後に行われた領地配分でも、すでに、自らが采配をふるっています。

そのすぐ後の7月8日は、近江(滋賀県)にて初の検地を行い、自らが号令する立場にある事をアピール(7月8日参照>>)

かくして天正十年(1582年)10月15日、京都・大徳寺にて行われた信長の葬儀・・・という事になるのですが、この法要自体は、10月11日から17日まで、7日間に渡って行われ、その中の15日に葬儀という事です。

軒や欄干に金や銀を散りばめた豪華な葬儀殿に、金紗金襴で包まれた、これまた豪華な棺・・・。

その後ろに、秀吉自らが信長の太刀を持ってうやうやしく従い、さらに後ろには3000名に及ぶ烏帽子や藤衣(ふじごろも)の装束に身を包んだ出席者・・・。

そして、火葬場への道筋には、弓・槍・鉄砲をたずさえた3万の警護の侍が配置され、その見物人の数は、ハンパじゃなかったと言います。

この秀吉ならではのド派手な演出は、織田家内にも、そして、世間の一般民衆にも、信長の後継者が誰であるのかを知らしめるパフォーマンス=人たらしのための演出だったわけです。

ちなみに、ご存知のように、信長の遺体は見つかっていませんから、この葬儀の時の棺の中には、信長をモデルに造らせた木像が入っていたと言われています。

そして、もう一つ、この大々的な葬儀に、信孝&勝家はもちろん、次男の織田信雄(4月30日参照>>)も招待されていません。

この先を予感させる、秀吉のパフォーマンスでしたね。
 

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2009年9月20日 (日)

岩見重太郎=薄田隼人~天橋立の仇討ち

 

天正十八年(1590年)9月20日、日本三景の一つ・天橋立岩見重太郎の大仇討ちがありました。

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この日、天橋立(あまのはしだて)は、大変な見物客で賑わっていました。

丹後(京都府北部)宮津城主・中村一氏(かずうじ)が、恒例の軍馬調練を行うというのです・・・が、実は見物人は、それを見に来たのではありません。

諸国武者修行でその名を馳せた噂の剣豪・岩見重太郎(じゅうたろう)が、本日、ここで、父の仇討ちをするという事を聞き伝えて集まった人たちなのです。

重太郎の父・重左衛門(じゅうざえもん)は、あの毛利家傘下の小早川家の剣術指南役をめぐって広瀬軍蔵(ぐんぞう)という人物と試合をしますが、試合に負けた軍蔵が、そのはらいせに仲間二人とともに重左衛門を闇討ちにして逃亡していたのです。

偶然、この地で、一氏と知り合い、もともと指南役を争うほどの腕前の持ち主の重蔵ですから、その腕に惚れた一氏が、指南役として召抱えていたのでした。

一方、重太郎は、父・重左衛門、兄・重蔵、妹・の恨みを晴らすべく、諸国をめぐりながら、軍蔵と、その仲間である大川八右衛門(やえもん)鳴尾大学(なるおだいがく)の3名を探し続け、ここ宮津で見つけたのです。

・・・とは言え、最初は、重太郎が小早川家から受けた仇討免状を提示して仇討ちを願い出ても、もはや、かわいい家臣となった軍蔵らをかばって、なかなかOKサインを出さなかった一氏・・・ここに来てやっと許しが出たのです。

家老の福原一平太が、重太郎を呼び寄せて言います。

「来る9月20日に、軍馬調練を天橋立で行うので、現地に来て念願の仇討ちをされるがよかろうと、主君からの許しが出た。
当日は、家中の若者にも、後学のために、その一戦を拝見させたいというのがその意向である。
ただし、軍蔵は、今や指南役・・・家中の者は、皆、彼の門弟という事になるので、師匠のピンチを黙って見ているかどうかまでは保証できない」

思いっきり、助太刀する気満々ですやん!

しかし、重太郎、ひるみません・・・いや、むしろ、決死の覚悟を固め、戦いに挑むのです。

かくして、天正十八年(1590年)9月20日・・・

竹垣を張りめぐらした内側の一番奥、一段高くなった中央に座るは城主・一氏・・・。

そのそばには、家老をはじめ近侍が約30名・・・さらに、両側に源平に見立てた赤備えと白備えの武将がズラリと旗指物も勇ましく並びます。

そう、この日の調練は、源平打ち込み大調練=武将が、それぞれ、源氏と平氏に分かれて合戦シュミレーションを行いながらの訓練・・・まさに、彼らは完全武装です。

そこへ、重太郎がやってくる・・・

「おのれ!狼藉者!」
「それ!曲者を討ってしまえ!」

「おいおい、後学のために拝見やなかったんかい!」
と、突っ込む間もなく、罵声を浴びせながら、重太郎に斬りかかる武者たち・・・。

重太郎は、槍を打ち振り、邪魔者をなぎ倒しながら、目指す相手を求めて、奥へ奥へと進みます。

しかし、なにぶん、敵は大勢、こちらは1人・・・次から次への新手の登場に、なかなか前へは進めません。

・・・と、そこへ、どこからともなく、六尺はあるかという鉄棒を手にした巨漢の男が、群がる武者の前に躍り出て・・・

「我こそは、伊予松山城主・加藤左馬頭嘉明(さまのかみよしあき)が家臣・塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)なり!
義弟・岩見重太郎の仇討ち、卑怯にも多勢で返り討ちにせんとする計画を、遠く大坂にて聞きつけ、助勢のために馳せ散じた!」

そして、もう一人、新たな助太刀・・・

「我こそは、黒田甲斐守長政(かいのかみながまさ)が家臣・後藤又兵衛基次(またべえもとつぐ)である!
義兄弟の契りを結んだ岩見重太郎が敵討ちと聞いて助太刀に参った!」

名乗りもそこそこに暴れまわる剣豪3人に、中村配下の者たちは、もはやたじたじに・・・やがて、形勢不利と見た一氏は、そそくさと帰り支度をはじめます。

「こうなったら勝負するしかない・・・」
しかたなく、軍蔵ら3人は、太刀を抜いて構えます。

「おぉ、広瀬、大川、鳴尾・・・探したぞ!
本日、これほどの見物人の前で仇討ちできるも神の思し召し、いざ!尋常に勝負におよべ!」

使いきった槍を捨て、重太郎も太刀を抜きます。

団右衛門と又兵衛は、その脇にて、邪魔する者を蹴散らさんと立ちはだかりますが、もはや城主が帰り支度をしている段階で、軍蔵らを助けようという者もいません。

しかし、そんな軍蔵だって、腐っても(腐ってないが)剣術指南役・・・彼らも剣豪なのです。

疲れきった身体を、目指す敵が現れた事で、今一度奮い立たせる重太郎・・・。

斬りつけた軍蔵をヒラリとかわして振り下ろした刀は、見事、その肩をとらえ、左右から襲い掛かった八右衛門と大学を受け流しつつ舞い踊る・・・大学を左肩から袈裟がけにすると、逃げようとする八右衛門の背中へ一刺し・・・

重太郎がめでたく本望を成し遂げるさまを、竹垣の向こうから見守っていた数万人の見物人がはやしたて、たちまちにして、あたりは歓喜の渦に包まれる・・・

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以上が、岩見重太郎の大仇討のお話ですが、お察しの通り、怪しさ満載

実は、彼は講談・歌舞伎のヒーローで、一時代前はアムロ仮面ライダーにも負けないくらいの少年たち憧れの存在・・・このお話も超有名な物語でした。

それこそ、真田幸村猿飛佐助日本武尊(ヤマトタケルノミコト)などど並び称される豪傑として人気があり、その諸国武者修行時代の「ヒヒ退治」のサブストーリーまで誕生しています。

そのおおもととなったのは、安政五年(1858年)に出版された一龍斎貞山(いちりゅうさいていざん)『岩見重太郎実記』なる書物だそうですが、その後も歌舞伎やお芝居などで多くの作家が手掛けています。

講談では、この仇討ちの後、重太郎の伯父という人物が登場して、彼は、その縁から関ヶ原の合戦へと向かいますが、そこで、その伯父・薄田七左衛門(すすきだしちざえもん)の姓を名乗り、その名を、薄田隼人正兼相(すすきだはやとのしょうかねすけ)と改めて参戦するのです。

出た~!

大坂夏の陣のヒーロー・薄田隼人だぁぁぁぁヽ(´▽`)/

それで、助太刀が後藤又兵衛と塙団右衛門だったんですね・・・って、浸ってる場合ではないな・・・

あまりのヒーロー揃いぶみに、ウルトラ6兄弟のようになってしまっているあたりは、さすがに講談の世界なんだろうなぁという感じです。

そのため、宮津の城主も中村大輔だったり一色小輔だったりと、作家によってまちまちですし、重太郎が相手にした人数も、300人から、果ては3000人と、あり得ない数にまで膨らみます。

肝心の仇討ちの日づけさえ、今回の9月説あり、10月説あり、中には寛永九年(1632年)9月20日とするものもあって、「そんなん、もう薄田さん死んでますやん!」てな事にも・・・。

また、以前、書かせていたように(5月6日参照>>)薄田隼人自身がすでに伝説に彩られた謎の人なので、大坂夏の陣で戦死した時の年齢さえ定かではありませんが、彼の武技だった「兼相流」の秘儀を伝える『武家諸派辞典』なる書物によれば、没年齢が23歳となっているので、こちらはこちらで、仇討ちのあった天正十八年(1590年)には生まれていない事になってしまいます。

とは、言うものの、現在の天橋立には、岩見重太郎の試し斬りの石仇討ち跡という史跡も残されていて、まったくの作り話ではないようです。

その人物が岩見重太郎と名乗っていかどうか、そして、その人物が薄田隼人なのかどうかは別にして、おそらくは、ここ天橋立で、仇討ち事件のような事があった事はあったのでしょう。

そして、いつしか、そこに、剣豪と呼ばれるヒーローたちを結びつける事によって、よりストーリーが盛り上がる・・・

ただ、「伝説だ」「作り話だ」と言って、これをあなどってはいけません。

これらは、その内容が事実かどうかよりも、伝説や作り話が生まれ、それらが人々に受け入れられ、そして長く言い伝えられる事に意味があるのです。

平将門の怨霊しかり(2月14日参照>>)
豊臣秀頼&真田幸村の生存説しかり(5月8日参照>>)・・・

そこには、現在の政権にあらがいながら敵となって散っていったヒーローへの、庶民のささやかな希望が込められているのです。

はてさて、この平成の世の岩見重太郎=薄田隼人は、いずこにおわします事やら・・・。
 

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2009年9月18日 (金)

失敗してもくじけるな!どん底からの復活・仙石秀久

 

天正十四年(1586年)9月18日、仙石秀久が、羽柴秀吉島津討伐軍・先鋒の軍監として豊後・府内に着陣しました。

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あの耳川の合戦(11月12日参照>>)の勝利以来、その勢力を九州全土に広げんが勢いで豊後(大分県)大友を圧迫する薩摩(鹿児島県)島津・・・。

島津の攻撃に耐えかねた大友宗麟(そうりん)は、天正十四年(1586年)4月、前年に四国を平定して、今、まさに、天下統一を目前にした羽柴(豊臣)秀吉援軍を依頼します。

この時、秀吉の命を受け、先鋒の大将として駆けつけたのが讃岐(香川県)高松城主の仙石秀久(せんごくひでひさ)でした。

彼は、自称・土岐氏で、はじめは美濃(岐阜県)斉藤氏に仕え、斎藤氏が織田信長に滅ぼされると信長に、信長が本能寺で倒れると秀吉に・・・と、順に主君を変えて、その都度武功を挙げてきました。

そして、賤ヶ岳の合戦のあった天正十一年(1583年)頃、これまでの功績により、淡路洲本を与えられ、5万石の大名となります。

天正十三年(1585年)にはじまった四国征伐(7月25日参照>>)では、宇喜多秀家(うきたひでいえ)黒田孝高(如水)らとともに讃岐ルートで参戦し、その時の活躍によって讃岐高松10万石を与えられたのです。

・・・で、冒頭に書いた宗麟からの救援要請です。

かくして、秀吉から先鋒を命じられた秀久は、天正十四年(1586年)9月18日軍監として豊後・府内に着陣しました。

軍監とは読んで字の如く、軍を監督するという役どころ・・・この時、彼の率いる先鋒軍の他に、讃岐虎丸城主の十河存保(そごうまさやす)土佐岡豊(おこう)城主の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)も軍を率いて参戦したわけですが、そんな他の軍も含めて、軍全体を監視し、チェックする役割です。

簡単に言うと、上記の二人=存保と元親の監視です。

なんせ、この二人、これまで四国を巡って争っていた敵同士なわけですから・・・

存保は讃岐&阿波(徳島県)に勢力を誇った三好義賢(みよしよしかた)の息子。

元親は土佐(高知県)出身で、そんな彼らを倒して、一旦は四国統一を果たした人物・・・存保は、元親から追われた後に、秀吉の傘下となり、四国征伐に従軍した事で旧領を取り戻していたのです。

そして、その元親を抑えて四国を平定した秀吉から、この軍団のまとめ役を任されたのが秀久というわけですが、そんな因縁の二人を、そう簡単にまとめられるはずもなく、まして、軍監というのは、総大将ではなく、作戦の指揮・命令を出せる立場ではないので、合戦の方針は、3人で相談して決めなければならない・・・

嵐の予感が満載ですが、そんな中で突入したのが、11月25日の戸次(へつぎ)川の合戦(11月25日参照>>)・・・。

大友の軍を加えても1万足らずの秀吉軍に、対する島津は2万5000・・・ただでさえ数が劣るのに、意見がまとまらずギクシャクしたままでの開戦は、予想通りの大敗を喫してしまいます。

しかも、かの存保自身と元親の嫡男・信親(のぶちか)が討死するという大きな犠牲を出したうえ、自分だけが戦場を先に離れて逃げ帰るという大失態を演じてしまいます。

この状況に激怒した秀吉は、秀久から所領を没収・・・高野山へと追放してしまいます。

いや、これだけの大失態、命があっただけでも儲けモンです。

しかし秀久・・・これにめげずに、拾った命を大切に使います。

その後、秀吉が島津を屈服させて、残る最後の大物=北条の小田原城を囲んだ事を知ると、秀久は20人余りの家臣を率いて参陣するのです。

もちろん、一旦追放された以上、そのまま、すんなり受け入れられるわけがありませんから、徳川家康陣を借りての仮参戦・・・

ところが、ここで秀久・・・一世一代の大パフォーマンス!

なるべく、秀吉の目を惹くように、最高に目だつ格好で、自らが最前線に立って奮戦しまくり・・・小田原城の要所の出入り口を占領するという大手柄を挙げます。

ちなみに、諸説あるものの、あの箱根仙石原は、彼が奮戦した事によって、その名で呼ばれるようになったという話が残るくらいの大活躍・・・

そして、わずかな人数での命がけのパフォーマンスは、その願い通り秀吉の目に止まり、その活躍に大喜びした秀吉から、信濃(長野県)小諸5万石を与えられ、再び大名に返り咲いたのです。

その後も、朝鮮出兵伏見城の建築に尽力し、秀吉亡き後は、ちゃっかりと家康につき、江戸時代には初代・小諸藩主となって、城下町の整備に力を注く秀久の姿がありました。

どん底から、見事、這い上がった数少ない武将・仙石秀久・・・人間、追放くらいで諦めちゃぁいけません。
 

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2009年9月11日 (金)

ハンディを克服して大友氏を支えた立花道雪

 

天正十三年(1585年)9月11日、大友宗麟に仕えた名将・立花道雪が、龍造寺氏配下の柳川城攻めの途中、高良山の陣中で病死しました。

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立花道雪(たちばなどうせつ)は、大友氏の一族・戸次(べっき)の13代目だった豊後(大分県)鎧ヶ嶽(よろいがだけ)城主戸次親家(べっきちかいえ)の息子で、幼名は八幡丸と言いました。

ちなみに、立花道雪という名前・・・立花という姓は、大友氏から毛利氏へと寝返った立花鑑載(あきとし)を自刃に追い込み(5月3日参照>>)、立花城を落とした功績から、後に道雪が、立花城主となった時に、立花の名跡を継いで名乗ったもの。

道雪の名は、主君の大友宗麟(そうりん)が出家する時に、自らも、ともに出家して道雪と名乗ったもので、本名は戸次鑑連(べっきあきつら)と言います。

でも、ややこしいので、今日は立花道雪の名で通させていただきます。

・・・で、少年・道雪の初陣は、まだ元服も済ませていなかった14歳の頃・・・病気がちだった父に代わって、老臣・3名とともに2000の兵を率いて、周防(山口県)の名門・大内義隆を相手に、見事な勝利を収めました。

才気あふれる勇敢なわが子に大喜びし、戸次氏の将来を託して父は亡くなりますが、そんな前途洋洋&将来有望だった道雪に、まもなく人生の転機が訪れます。

『大友興廢記(おおともこうはいき)によれば、ある時道雪が、大木の下で昼寝しながら涼んでいると、突然!閃光が走ります。

慌てて、枕元にあった千鳥の太刀を抜き、その者を斬りますが、その直後から道雪の足は動かなくなり、以降、千鳥の太刀は『雷斬(らいきり)と呼ばれた・・・とあります。

つまり、道雪が、雷に中にいた雷神を斬ったと・・・もちろん、これは、道雪の勇敢さをアピールする書き方で、実のところ、雷に打たれて半身不随になってしまったという事です。

この後、道雪は、出陣も乗り物=輿(こし)に乗ってするしかなくなりました。

しかし、彼はめげません・・・というより、むしろ、そのハンディこそが、彼をさらに強くしたようです。

自らの手足となってくれる配下の者を、誰よりも愛し、誰よりも信じ、誰よりもうまく使いこなす見事な指揮官となるのです。

『常山紀談(じょうざんきだん)には、道雪の残した言葉として、こんな言葉があります。

「勇将の下に弱卒なし」「武士に弱い者はおらん、もし、弱いと思われる者がおるんやったら、それは、その大将が悪いんや」と・・・

さらに続けて・・・
「俺の配下にも、そのさらに配下にも、弱いヤツはおらん!
もし、他んとこにおって、“俺って弱いんちゃうん?”と思てるヤツおったら、俺んとこへ来い!
みちがえるくらいに強したんでぇ」
と・・・

合戦の前には、下っ端の者とも、気軽に話しかけ、酒を酌み交わし・・・
「合戦の時に挙げる武功には、運不運っちゅーのがある。
お前が、強いって事は、俺が一番よ~ぉ知ってるねんから、変に手柄たてようと思て、抜け駆けなんかして、討死するなよ。
それは、忠義とは言わへんで」

んも~、優秀な上司に、こんな事言われて、ついて行かない部下はいません。

道雪のまわりには、常に100人ばかりの長い刀を持った若者が徒歩で周囲を固めていました。

定衆(じょうしゅう)と呼ばれる彼らは、いざ、合戦が始まると、そのうちの幾人かが、道雪の乗る輿の担ぎ手となり、さらに、敵が迫ってくると、道雪が三尺(約1m)ほどの棒にて、輿を叩いて拍子を取りながら、大声で指示を出し、敵陣に突っ込ませたりもしました。

そうなんです・・・道雪は、輿だからと言って、後方の座って指示を出すだけではなく、自ら、戦いの中に乗り込んで行ったのです。

そんな戦いの最中、多人数で担ぐ輿ですから、当然、乱れる事がありますが、そんな時は、その持っている棒で、容赦なく担ぎ手をポカリ!

「オイオイ!輿を担がされて、敵の中に突っ込まされて、オマケに棒で打たれるなんて・・・やってられねぇよ!」・・・と、思いきや、これが、皆、「愛のムチ」と受け止めていたのだと・・・

つまり、それだけ、家臣の心をつかんでいた・・・「この人のためなら、何だってやってやる!」と思わせる事ができていたって事のようなのです。

そんな担ぎ手には・・・
「ホンマにヤバイと思た時は、俺を、敵の真っ只中に担ぎ入れて、お前らは逃げろ」とも言ってたそうですから、そりゃ、命預けます!って言いたくもなりますわな。

現に、輿には、いざという時のために、常に二尺七寸(約82cm)の刀と、鉄砲・一挺も置いてあったのだとか・・・。

さらに、こんな事もありました。

ある時、家臣の1人が、道雪の側女に手をつけてしまいます。

事が発覚した以上、もはや、その命はないものと覚悟を決めるその家臣・・・

ところが道雪は、
「若い者が色恋に走るのは当然やないかい!
そんな、しょーもない事で、主君と呼ばれる者が人を殺したら、人は主君を信用できんようになる・・・法を犯したわけやないねんから、ほっとけ、ほっとけ」

と、笑ってすましたのだそうです。

ちなみに、その話を直接の上司から伝え聞いたその家臣は、後に、島津との合戦の中で道雪が窮地にたった時、「今こそ、報いる時!」とばかりに、敵の中に突入して命果てたのだとか・・・

ほんまかいな?と疑いたくなるほど良い事づくめの道雪さんですが・・・まだ、あります。

今度は、部下ではなく、主君・宗麟に対してのお話・・・

道雪は、宗麟よりも14歳年上だったのですが、その宗麟が30歳で北九州6ヶ国の守護と日向(宮崎県)の一部と伊予(愛媛県)の一部を手に入れた、まさに絶頂期・・・ちょっと、レールを踏み外します。

いわゆる天狗になる・・・というヤツ。

昼間っから酒を飲み、女をはべらせ、重臣が面会を求めても、部屋から出て来ない・・・当然の事ながら、内政も家臣に任せっぱなしだし、注意しようにも、その部屋から出て来ないんじゃ、できやしない。

・・・で、一計を案じた道雪・・・京都から、飛びっきり美人ダンサーを集団で呼んで、朝から晩まで休みなく躍らせます。

あの女好きの宗麟が、都一の人気アイドル集団に食いつかないわけがありません。

「ちょっと、覗いたれ」と、部屋を出た瞬間・・・
「国のため、家臣のため、そして、自分自身のために・・・やめとくなはれ!」と一喝!
宗麟、シュ~ン(´・ω・`)

まぁ、宗麟がおとなしくなるのは、怒られた時だけで、また、ほとぼりが冷めると、なんやかんやとやり出すんですが、道雪は、そのたんびに、諭していたのだそうです。

やがて訪れた、あの耳川の合戦・・・

実は、道雪は、この合戦にも反対していたらしいのですが、この合戦は、すでに立花城主になった後の事・・・耳川の合戦は、南側、薩摩(鹿児島県)の島津との戦いで、道雪が任されていた立花城は、毛利と取ったり取られたりの北の守りの要・・・

て、事で、結局、宗麟は戦いに突き進み、道雪は、従軍しなかったわけですが、ご存知のように、宗麟は大敗してしまいます11月11日11月12日参照>>)

大友氏のターニングポイントとも言えるこの合戦の後も見捨てる事なく、大友家一筋を貫いた道雪。

やがて、天正十二年(1584年)に起きた沖田畷の戦いで、龍造寺隆信(11月26日参照>>)が戦死した事をチャンスととらえ、当時は龍造寺の物となっていた筑後(福岡県)の奪回を目指して出陣しますが、その途中で発病・・・天正十三年(1585年)9月11日、3ヶ月の闘病空しく、北野・高良山の陣中で70歳(73歳とも)の生涯を閉じました。

この後、大友氏が坂道を転げ落ちるように衰退していくのは、皆様、すでにご承知の通りです。
 

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2009年7月17日 (金)

先の読めない「天地人」から目が離せない

コネタマ参加中: あなたのベストオブ大河ドラマといえば何?

 

見ての通り、私は「ココログ」を利用して、日々、ブログを書かせていただいておりますが、そのココログに「コネタマ」というサービスがあります。

なにやら、ココログが提供するテーマに沿った内容の記事を書くのだそうですが、このブログは歴史をテーマにしていますので、あまり関係ないのかな?と思っていたのですが、今回の募集テーマが、上記の通り「あなたのベストオブ大河ドラマは何?」というテーマだったので「これは、書かねば!」と、未だ要領が呑み込めないまま、参加してみる事にしました。

歳がバレるので、最初に夢中になった作品名は言わずにおきますが、大河ドラマとは、かなり以前からのおつきあいである事は確かです。

その後、人生の浮き沈みとともに見たり見なかったりしていましたが、2004年の「新選組!」からは、1週も欠かす事なく拝見させていただいております。

そんな中、私のベストオブ大河ドラマは、タイトル通り、今年の「天地人」です。

ブログを始めてから丸3年・・・現在は4年めに突入しておりますが、その間に・・・
2006年=功名が辻
2007年=風林火山
2008年=篤姫

そして、2009年=天地人ときましたが、今年の天地人ほど、このブログに何度も登場する大河ドラマは、今までにありませんでした。

功名ヶ辻に関してはほとんど書いていませんし、風林火山は、それに因んだ「孫子の兵法」(12月28日参照>>)については書かせていただきましたが、ドラマの内容には、やはり、ほとんど触れていません。

あんなにオモシロかった篤姫でも、一年間で書いた関係するページは五つほど・・・(くわしくは【大河ドラマに思う事イロイロ】からどうぞ>>)

なのに、今年の天地人に関しては、今現在ですでに七つ・・・このページを入れて八つめになります・・・これは、やっぱり「好きだ」という事でしょう。

確かに、これまでに書いております記事は、見ようによっては「批判」ともとれるものですが、本当にキライなら、次週からは見ません。

何度も申しております通り、これは「愛するがゆえのツッコミ」なのです。

以前、コメント欄に書かせていただいたように、私は、未だに特撮ヒーローモノが大好きで、現在も欠かさず見ておりますが、それは、あのシュールな愛すべき主人公と敵軍団に、お茶の間からツッコミを入れるのがたまらなく好きだからなのです。

正面玄関に堂々と「ショッカー秘密基地」という看板を掲げてみたり、世界征服が目的なのに、なぜか幼稚園を襲撃したり・・・さすがに、大河ドラマでそんな事はやってくれませんが、これからどうなるのか?先が読めない」という点では、それに似た感じがあります。

歴史が好きな者にとっては、その先に何が起こるかをある程度知っているので、これまでの大河ドラマなら、何となくこの先の展開の予想が何パターンが浮かぶわけですが、今回の天地人はかなり大胆な発想で、その予想をくつがえしてくれるわけです。

いきなり猿飛佐助が登場したり、福島正則が宙を舞ったり、真田が上杉の筆頭家老に向かって手裏剣投げたのに何の問題にもならなかったり・・・

つい先日は、伊達政宗が初登場でしたが、隣国の芦名に進攻しようとする政宗を極悪非道よばわりしたしりから、我らが上杉は佐渡を侵略・・・いや、上杉に言わせれば、これは侵略ではなく平定なんだとか・・・

実際には、炎に包まれた河原田城にて自刃したはずの本間高統(たかつな)(6月12日参照>>)から、妻夫木兼続は、見事な話し合いで佐渡を譲ってもらっていましたね。

まさに、予想外でした。

予想外と言えば、遠山康光(やすみつ)の再登場にも驚きました。

このかたは、御館の乱で敗れた上杉景虎が、上杉謙信の養子になった時に、北条家からともにやってきた景虎の家臣・・・実際の歴史では、景虎が自刃した時に殉死するはずなのですが、確かに、ドラマでは景虎とともには死なず、なにやら不適な笑みを浮かべて去って行ったままになってました。

それは、再登場するって事だったんですね。

しかし、御館の乱の時も、いつもブラックな雰囲気満載で、なにやらこの人のせいでモメ事が大きくなったような設定でしたが、またもや、影となって暗躍するのでしょうか?

確か、来週は、そろそろ小田原城の攻防戦が始まるはず・・・ひょっとして、八王子城で上杉が行う悲惨な戦い(6月23日参照>>)を、この人のせいにしようとしているのでは?

まさかのナレーションでのスルーも含めて、まさに予想外の展開をしてくれる天地人から、今年は目が離せません。
 

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2009年7月 5日 (日)

時代別年表:室町時代・後期2(戦国・桃山時代)

 

このページは、桃山時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

歴史上、戦国時代も安土桃山時代という区分もなく、いわゆる室町時代なわけですが、この室町時代は、ブログに書いている出来事が非常に多い・・・って事で、とりあえず、前期・中期・後期・・・そして後期を安土と桃山の計・4つに分けさせていただきました。

安土桃山って「いつ?」という点で、ご意見も多々あろうかと思いますが、とりあえず、信長政権が安土、秀吉政権が桃山って事で、このページでは、前後の年表とのバランスを考えて秀吉が太政大臣になって豊臣の姓を賜る1686年12月19日から、大坂夏の陣が終結する1615年5月8日までを「室町時代・後期2(戦国・桃山時代)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

  Zidaisengoku2



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
1586 12 19 秀吉が太政大臣になり豊臣の姓を賜る
【豊臣の姓に秘められた秀吉のコンプレックス】
1587 4 17 高城・根白坂の戦い
【島津・背水の陣~高城・根白坂の戦い】
6 19 キリシタン禁止令を発令
【秀吉が切支丹禁止令を今日出したワケ】
7 10 ~12日肥後国人一揆
【佐々成政の失態~肥後・国人一揆】
1588 4 14 秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招く
【後陽成天皇と豊臣秀吉in聚楽第】
5 14 佐々成政・切腹
【地元だけが知る?呪いの黒百合伝説】
7 8 刀狩り令・海上賊船禁止令を発布
【太閤検地と刀狩】
【瀬戸内水軍全盛期と没落を見た村上武吉】
11 19 稲葉一鉄・没
【頑固一徹で天寿を全うした稲葉一鉄】
1589 4 15 毛利輝元が広島城の築城を開始
【毛利輝元と広島城~その出会いと別れ】
6 5 摺上原の戦い
【破竹の独眼竜政宗~摺上原の戦い】
6 12 上杉景勝が佐渡を攻略
【金のなる木は俺のモノ!景勝・佐渡攻略】
10 23 北条が真田の名胡桃城を奪取する
【小田原攻めのきっかけ・名胡桃城奪取】
11 4 石川昭光が伊達政宗の傘下となる
【仙道七郡掌握~伊達政宗に迫る影】
12 10 小田原攻めの軍儀を開く
【小田原攻め開始~その軍儀の内容は?】
1590 3 29 小田原征伐を開始する
【小田原征伐開始・山中城落城】
4 2 小田原城を包囲する
【秀吉VS北条の持久戦・小田原城包囲】
4 5 伊達政宗・毒殺未遂事件
【政宗・毒殺未遂事件は本当にあったのか?】
6 5 伊達政宗が小田原に到着する
【決死の死装束~政宗の小田原参陣】
6 9 石田三成が忍城攻略のため堤防を築く
【攻めに耐えた!水の要塞・忍の浮城】
6 20 天正遣欧少年使節が帰国する
【天正遣欧少年使節の帰国】
6 23 八王子城・陥落
【最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦】
6 26 小田原攻めの対の城・石垣山一夜城・完成
【秀吉・もう一つの一夜城~石垣山城の謎】
7 5 小田原城・落城
【城攻めの天才・秀吉VS北条お得意の籠城】
【小田原城・開城への道】
7 13 家康に関八州が与えられる
【秀吉の失策?小田原城での論功行賞】
8 1 家康が江戸に入る
【八朔と家康・江戸入府】
【家康はなぜ?江戸城を選んだか】
9 20 岩見重太郎の天橋立の仇討ち
【重太郎=薄田隼人~天橋立の仇討ち】
11 24 秀吉軍が葛西・大崎一揆で木村親子を救出
【独眼竜・政宗ピンチ!葛西・大崎一揆】
1591 1 19 秀吉が京都・七条堀川に寺地を寄進
【時代とともに生きた~東西・二つの本願寺】
1 22 豊臣秀長・没
【豊臣政権の要~大和大納言・秀長の死】
2 4 伊達政宗が一揆の弁明に上洛
【政宗、起死回生の弁明劇】
2 28 千利休・切腹
【利休・切腹の謎~その握っていた秘密とは】
9 4 九戸の乱で九戸氏が滅亡
【九戸の乱~秀吉のもと、東北の雄が散る】
9 22 豊臣秀次が関白に就任
【殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい】
1592 3 17 朝鮮出兵の先発隊が九州に向けて出陣
【豪華絢爛!伊達男・政宗の出陣in文禄の役】
3 26 秀吉が肥前に出発
【豊臣秀吉・朝鮮出兵の謎】
4 13 朝鮮へ派遣した第1軍が釜山へ上陸
【文禄の役・釜山上陸】
11 24 本願寺顕如・没
【信長を一番困らせた男~本願寺・顕如】
1593 1 26 碧蹄館の戦い
【泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い】
1594 2 27 秀吉が吉野にて花見を開催
【勝利の聖地・吉野の花見の意味は?】
3 7 秀吉が伏見城の築城を開始する
【幻の伏見城~徳川は何を恐れたのか?】
8 24 石川五右衛門・処刑
【浜の真砂の五右衛門が歌に残せし・・・】
伏見城築城にともなう文禄堤の造営
【東海道は五十七次!】
1595 6 10 家康の孫・松平忠直が誕生する
【暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!】
7 15 秀次が謀反の罪で切腹
【殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい】
7 22 秀吉が藤堂高虎を召抱える
【斬り込み隊長・築城名人~藤堂高虎の転身】
1596 9 1 2度目の朝鮮出兵を決意する
【悲劇の人・おたあジュリア】
10 28 酒井忠次・没
【徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?】
11 4 服部半蔵正成・没
【服部半蔵に影はあったか?】
【忍者の教科書『万川集海』】
1597 2 5 長崎で26人のキリスト教徒を処刑
【長崎二十六聖人殉教の日】
2 慶長の役で秀吉軍・朝鮮上陸
【慶長の役・終結~悲惨な戦の残した物は】
1598 3 15 秀吉が京都・醍醐寺で花見の宴を催す
【桜花絢爛!醍醐の花見に行ってきました】
8 18 豊臣秀吉・没
【なにわのことも夢のまた夢】
11 20 慶長の役・終結
【慶長の役・終結~悲惨な戦の残した物は】
1599 3 4 加藤清正ら7名が石田三成を襲撃
【徳川家康・天下へのシナリオ】
1600 3 16 三浦按針・日本に漂着
【そしてヤン・ヨーステンの名は・・・】
4 1 上杉景勝が家康の上洛要請を拒否
【関ヶ原の幕開け~上杉景勝・上洛拒否】
4 14 直江兼続が西笑承兌に返書を送る
【本物?ニセ物?直江兼続の「直江状」】
7 15 毛利輝元・広島城を出陣
【西軍総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算】
7 17 大坂城への入城を拒み細川ガラシャ自害
【細川ガラシャ最期の日】
7 19 ~8/1 伏見城・攻防戦
【伏見城攻防戦と養源院の血天井】
7 21 真田昌幸・幸村親子が西軍に降る
【兄は東に父・西に~真田親子・犬伏の別れ】
~9/13田辺城・攻防戦
【たった500人で関ヶ原の勝敗を左右?】
7 22 直江兼続が越後一揆を扇動
【直江兼続・越後一揆を扇動】
7 25 真田信幸の妻が昌幸と幸村の入城を拒否
【あっぱれ!真田の嫁~小松姫の内助の功】
8 8 浅井畷の合戦
【北陸の関ヶ原・浅井畷の合戦・・・】
8 10 東軍・先鋒が岡崎城へ入る
【迫る関ヶ原!先鋒進軍~その時家康は・・・】
8 12 秀忠が伊達政宗に協力を要請
【関ヶ原の合戦と伊達政宗】
8 22 ~23 岐阜城・落城
【信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い】
8 25 伊勢安濃津城・開城
【東海の関ヶ原・安濃津城の攻防戦!】
9 2 信濃上田城攻防戦
【真田のゲリラ戦法炸裂!上田城攻防戦】
9 7 西軍主力部隊・関ヶ原南宮山に着陣
【いよいよ間近の関ヶ原!西軍主力着陣】
【三成と恵瓊が作戦を練った茶室・作夢軒】
9 9 上杉の執政・直江兼続が最上領に侵攻
【関ヶ原の前に!直江兼続・最上に侵攻】
9 13 九州にて石垣原の合戦・勃発
【関ヶ原で天下を狙う第三の男】
【豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原】
9 14 関ヶ原の合戦・前夜祭
【~前哨戦・杭瀬川の戦いと三成の決断】
【~小早川秀秋の長い夜】
【豊臣政権の五奉行~それぞれの関ヶ原】
9 15 関ヶ原の合戦
【天下分け目の関ヶ原】
【ともに命を賭けた戦場の約束】
【討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近】
直江兼続が長谷堂に到着
【長谷堂の戦い~直江兼続・孤軍奮闘!】
9 16 関ヶ原の合戦・反省会
【朝まで生合戦】(このページはフィクションです)
関ヶ原を脱出した島津義弘が大坂へ・・
【敵中突破の「島津の背進」】
直江兼続が長谷堂城に総攻撃
【直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い】
9 17 佐和山城攻め
【関ヶ原の後始末・佐和山城攻め】
大垣城の二の丸・三の丸が開城
【「おあむ物語」戦国女性の生き様】
9 19 小西行長・自首
【「キリシタンゆえ自害はできぬ」】
9 21 石田三成が捕まる
【石田三成、逮捕!】
9 23 安国寺恵瓊が捕まる
【戦国のネゴシエーター・安国寺恵瓊の失敗】
10 1 三成・行長・恵瓊が死刑に
【石田三成、斬首!】
直江兼続が長谷堂から撤退開始
【自刃まで考えた~兼続の長谷堂・撤退】
10 12 九鬼嘉隆・自刃
【戦国の水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃】
11 3 筑後柳川城・開城
【立花宗茂・最後の関ヶ原】
12 5 浦戸一揆・終結
【土佐・一領具足の抵抗】
1601 8 7 加藤清正が熊本城の築城に着手
【熊本城・築城にまつわる怖い話】
9 28 毛利輝元が息子・秀就を江戸へ人質に
【関ヶ原敗戦での毛利の転落】
11 28 30万石に減封された上杉景勝が米沢入城
【関ヶ原後の上杉は?景勝の米沢入城】
家康が文禄堤に4宿を設け東海道を整備
【東海道は五十七次!】
1602 2 1 井伊直政・没
【徳川の斬り込み隊長・井伊直政の赤備え】
5 1 家康が諸大名に二条城の築城を命令
【二条城・・・その動乱の歴史】
5 7 前田玄以・没
【ただ一人生き残った運命の別れ道】
10 18 小早川秀秋・没
【わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩】
1603 2 12 徳川家康が征夷大将軍の宣旨を受ける
【徳川家康・征夷大将軍の宣旨を受ける】
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたのか?】
7 28 家康の孫・千姫が豊臣秀頼と結婚
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
8 6 宇喜多秀家が伏見へ護送される
【意外に快適?八丈島での宇喜多秀家】
1604 8 22 村上武吉・没
【瀬戸内水軍の全盛と没落を見た村上武吉】
彦根城・築城開始
【彦根城に菊は咲かない?人柱の伝説】
1605 4 16 徳川秀忠が2代将軍となる
【2代将軍・秀忠誕生~縁の下の基礎造り】
9 20 山内一豊・没
【したたかなのは一豊か?】
1607 2 20 江戸城本丸にて阿国歌舞伎上演
【女歌舞伎の禁止令】
3 5 家康の四男・松平忠吉・没
【関ヶ原の先陣を飾った松平忠吉】
9 6 龍造寺高房・没
【佐賀・鍋島藩~化け猫騒動の真相】
1610 2 24 長谷川等伯・没
【智積院と長谷川等伯・障壁画】
8 20 細川幽斎(藤孝)・没
【齢77!芸は身を助く~長寿の秘訣】
1611 3 28 豊臣秀頼と徳川家康が二条城で会見
【二条城で出された饅頭は・・・】
6 24 加藤清正・没
【加藤清正・疑惑の死】
4 11 後水尾天皇・即位
【後水尾天皇・徳川相手に王の意地】
1612 4 13 巌流島の決闘
【宮本武蔵は名人か?非名人か?】
6 4 前田慶次郎・没
【人気の慶次郎~爺ちゃんでもカッコイイ!】
1613 6 24 「笹の才蔵」の異名を賜った可児才蔵・没
【笹の才蔵~愛宕にまつわる死の予言】
8 6 徳川家康が花火を観賞する
【花火の歴史】
12 23 徳川秀忠が2度目のキリシタン禁止令・発令
【切支丹禁止令と戦国日本】
1614 1 5 高山右近・没
【キリシタン大名・高山右近、神に召される】
1 18 最上義光・没
【策士策に溺れる~謀略の将・最上義光】
5 20 前田利長・没
【加賀百万石~前田利長・毒殺疑惑】
7 17 織田信包・急死
【病死か?毒殺か?織田信包・疑惑の急死】
7 21 方広寺・鐘銘事件
【家康のイチャモン・方広寺の鐘銘事件】
8 20 方広寺・鐘銘事件で家康の最後通告
【方広寺鐘銘事件・片桐の交渉空しく・・・】
9 21 中井正清が宇治川開削計画を上申
【築城の匠~家康専属大工・中井正清】
10 9 真田幸村、九度山を脱出する
【真田幸村・九度山を脱出!】
10 大坂城での軍儀
【真田幸村の必勝作戦!】
11 26 大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い
【激戦!大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い】
11 29 大坂冬の陣~野田・福島の戦い
【大坂冬の陣・野田福島の合戦】
12 4 真田丸の攻防
【大坂冬の陣,真田丸の攻防】
12 19 大坂冬の陣の和睦成立
【大坂冬の陣・講和成立】
1615 3 19 真田幸村が姉と兄に手紙を出す
【真田幸村、最後の手紙】
5 6 大坂夏の陣~道明寺・誉田の合戦
【大坂夏の陣・開戦!】
【後藤又兵衛基次・起死回生の大坂夏の陣】
【奮戦!薄田隼人~IN夏の陣】
5 7 大坂夏の陣~大坂城・総攻撃開始
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】
【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】
5 8 大坂夏の陣・終結
【大坂夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説】
【自害した淀殿の素顔と生存説】
番外編 【大阪の昔話~大坂城の虎】
【大坂城を脱出した秀頼の娘は・・・】
【佐野道可・事件で内藤元盛が切腹】
【長宗我部盛親・斬首】
【あの東郷ターンを生んだ甲州水軍】
【秀吉の怨念?大阪城の不思議な話】
【石田三成はそんなに嫌われていたの?】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
【天下人だけが成しえた城割の重要性とは?】

 

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2009年6月25日 (木)

秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床

 

今や、夏の京都の風物詩ともなった鴨川の納涼川床・・・

二条あたりから五条のへんまで、ずらりと約90軒ほどが軒をつらねていて、川風に提灯が揺られるさまは、見ているだけでも涼しげです。

少し前までは、6月1日から8月16日のあの五山の送り火(8月13日参照>>)の日まで・・・というのが定番でしたが、最近では、5月1日に始まり、9月いっぱい楽しめるのが一般的となっています。

ツウの間では、5月の床を「皐月(さつき)の床」と呼び、お盆から後の床を「後涼み」、もともとの期間を「本床」と呼ぶらしい・・・

「床は、やっぱり、本床がええなぁ」って人も多いらしいですが、なかなか本格的な懐石料理に手が出ないワタクシとしては、予約もいらず、格安の値段でランチを提供してくれる5月の床はたいへんありがたい!

ちなみに、この鴨川の川床は「川床」と書いて「ゆか」と呼び、貴船は、同じく「川床」と書きますが、呼び方は「かわどこ」と呼びます。

Dscn3096a800 五条大橋あたりの鴨川床・・・雨の日で開放感に欠けますが・・・

ところで、この鴨川の川床は、いつから、どんな風に始まったのか?

もちろん、現在のような形で、お店の一部を床として、木の板を張って薄縁(うすべり・ゴザの高級なヤツ)を敷いて座敷机に座布団に・・・という形のものには、「ウチが元祖だ!」と名乗りをあげるお店もありましょうが、もともと、この鴨川の河原自体が、都の人々のお手軽リゾートであり、夕涼みの定番の場所であったという歴史があります。

現在、京都・南座の横に「阿国歌舞伎発祥の地」なる石碑が立っていますが、もちろん、現在の南座の場所のような「地」の上で、阿国歌舞伎が行われたわけではなく、阿国が本邦初でもありません。

昔の鴨川は、もっともっと幅が広く、間にはいくつもの砂州ができていて、何本にも枝分かれした鴨川がその間を縫うように走っていたわけで、そのような、だだっ広い河原や砂州に、簡単な舞台を作って、阿国歌舞伎よりも前から、猿楽などが披露されていたようです。

考えて見れば、もともと、そういった芸能は大道芸で、現在のように劇場内で披露するものではなかったわけで、都のような人のいっぱい集まるところでやりたいけど、街中でやって、予想以上に人が集まれば、近所の店屋から怒られるだろうし、かと言って、人が多く集まらないと見物料は稼げない・・・

そうなると・・・
都のすぐそばにあって、迷惑のかからないだだっ広い場所・・・う~ん、納得ですね~。

この鴨川での猿楽興行は、以前【将軍・義政の贅沢猿楽興行】(4月1日参照>>)でも書かせていただいたように、南北に流れる鴨川のあちらこちらで、阿国歌舞伎が始まる以前から行われていた事でしょう。

この義政の時は、糺河原(ただすがわら)・・・現在の、下鴨神社の近く、京阪電車の出町柳駅から橋を越えた川が枝分かれする所でしたね。

ただ、このように、以前から行われていた鴨川での猿楽興行を一変するのが阿国歌舞伎・・・それは、阿国という女性の登場と、グッドタイミングな時代の変貌が、見事に重なりあった事で、この鴨川での芸能の歴史が塗り替えられるのです。

それは、豊臣秀吉による平安京の大改造にあります。

平安京=京の都と言えば、やはり、延暦十三年(794年)に平安遷都した桓武天皇の平安京(10月22日参照>>)を思い浮かべてしまいますが、現在の京都のような町を造ったのは、豊臣秀吉なのです。

この時、応仁の乱をはじめとする度重なる戦乱で破壊され、昔の内裏のあたりは田んぼとなり、都は上京と下京に分断され、上下を行き交う事ができるのは室町通の一本だけという状態だったのだとか・・・

現在の京都市街に建つお寺で、応仁の乱以前の建物が、大報恩寺(千本釈迦堂)だけという事を考えてみても、いかに乱世の戦火がはげしかったかがわかりますよね。

そんな京都の町に、道を造り、町を造り、都らしい景観を整えていった秀吉・・・。

そして、秀吉が京都の町を造るのと同時に行ったのが、あの聚楽第(じゅらくだい)を中心に京都の町をお土居(どい)という塀で囲った事・・・

今や、そのお土居の跡が、とぎれとぎれに発掘されている状態で、その全貌は未だ謎ですが、おそらく、当時は、守りに弱い京都の町を、堅固な城塞都市にするがのごとく、囲まれていたわけで、そんな塀に囲まれた町から外に出るには、何箇所か作られた狭い出入口を通って外へ出なければならなかったはず・・・

ただでさえ塀で囲まれているという日頃の精神的圧迫感がある中、狭い出口を通り抜けたその先に、広々とした鴨川が流れていたら・・・もはや、それだけで、都の人々の開放感はMAXになった事でしょう。

つまり、その開放感が、たまに「多くの人が集まって芸能を見物する、都のはずれの広い場所」というのから、「一大リゾート地」へ変貌する要因になったのではないでしょうか。

そんな場所に阿国は陣取り、歌や踊りを披露する・・・阿国が最初の場所に四条周辺の河原を選んだのは、やはり八坂神社の影響があったのかも知れません。

古すぎてその歴史ははっきりしませんが、おそらく八坂神社は、平安京が平安京になる以前からあの場所にあって、八坂神社を基点に四条通りを西に伸ばした可能性が高い事を考えると、その囲われた都から、四条通を通って外に出る人の数もハンパなく多かったでしょうからね。

やがて、その開放感は、手軽なリゾートを求める人々の間で、舞台での芸能を見ながら、友人と話しながら、ゆっくりと休日を過ごす場所となっていき、そうなると、当然、そこには食事も持参する事になります。

やがて、江戸時代には、裕福な商人が、河原や砂州に床をしつらえ、取引先の接待をする・・・

その後、寛文年間(1661年~72年)に行われた大規模な治水工事で、両岸に石積の護岸ができた事で、そこに茶店や出店が出現し、現在とよく似た雰囲気に・・・

それでも、現在のような茶店の床だけでなく、河原には一般の人がしつらえた床もあり、川に足を浸しながら、夕涼みを楽しんだようです。

新撰組の前身・浪士隊を組織して、京都に乗り込んだ幕末の志士・清河八郎も、「京都は、食べ物の好みも、趣味もまったく肌に合わない最悪の場所」と言いながらも、この夏の鴨川の夕涼みだけは大絶賛で、「砂州をさらえて、一面に床を敷き、客を待つのはタマラン」のだそうです。

秀吉の築いたお土居が、もはやほんの少しの跡形を残すだけになった現在も、人は、開放感と涼しさを求めて鴨川に集まる・・・今も昔も変らぬ、京都の夏の風物詩です。
 

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2009年6月23日 (火)

小田原攻めで最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦

 

天正十八年(1590年)6月23日、この年の3月から開始された豊臣秀吉による小田原征伐に於いて、別働隊による八王子城攻撃が開始され、この日のうちに八王子城は陥落しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

すでに、たびたび書かせてはいただいておりますが・・・

天正十三年(1585年)に四国を平定(7月25日参照>>)、翌・天正十四年から十五年にかけて九州を平定した(4月17日参照>>)豊臣秀吉・・・その間に、越後上杉景勝(かげかつ)に上洛を要請して臣下におさめ(6月15日参照>>)徳川家康をもまんまと配下に加えました(10月17日参照>>)

残るは、関東と東北ですが・・・
こちらには、やはり天正十四年から十五年にかけて、関白の名において『関東惣無事令』『奥両国惣無事令』発布します。

『惣無事令』とは、「大名同士の私的な争いを禁じる」という事で、未だ実質的には配下に治めていない関東と東北に対してのこの令は、まさに、豊臣政権下でこの国を治めるという天下統一の号令でもあります。

そんな中で、未だ関東での勢力を維持し、再三に渡る上洛要請をダラダラと先のばしにする北条は、秀吉にとって目の上のタンコブだったわけですが、ラッキーな事に、その北条が、天正十七年(1589年)10月23日、真田昌幸配下の名胡桃城(なぐるみじょう)を奪取するという事件を起してくれます(10月23日参照>>)

上記の『関東惣無事令』に違反してます。

北条を攻める大義名分を得た秀吉は、早速、11月24日には北条氏政宛てに宣戦布告の書状を送りつける一方で、配下におさめた諸将はもちろん、東北の武将たちにも出陣を要請・・・未だ、秀吉の配下となっていない東北の武将にとっては、これは秀吉につくか?敵対するか?の二者択一の難問でもあったわけですが、12月10日に京都の聚楽第(じゅらくだい)で開かれた軍儀では、「出陣は天正十八年2月1日から3月1日までとする」という文言を決定し、まさに、その姿勢を問うたのです(12月10日参照>>)

かくして、その期限通り、3月1日に京を出陣した秀吉は、小田原征伐を開始(3月29日参照>>)・・・4月3日は小田原城を包囲しました(4月3日参照>>)

小田原城は、かつて、あの武田信玄上杉謙信も落せなかった天下の名城・・・当然、その事を百も承知の秀吉は、小田原を見下ろす石垣山に有名な一夜城を構築して(6月26日参照>>)、はなから長期戦の構えで挑む一方で、別働隊による関東一円の北条配下の支城への攻撃を開始します。

北陸から参戦した秀吉の親友・前田利家を大将とする北国連合軍は、2月15日、信濃松代城にて、越後の上杉景勝、真田昌幸と合流して東山道から挑みます。

前田隊=約1万8千、上杉隊=約1万、真田隊=約3千・・・総勢・3万5千の堂々の別働隊は、碓氷(うすい)峠から北条領内へと侵入し、まずは、その国境を守る松井田城(群馬県安中市)を攻撃します。

この時、今年大人気の景勝の重臣・直江兼続(かねつぐ)は、城下を焼き討ちしたり、再三に渡って城の外郭に突撃したりと、なかなかの活躍をしてくれたようですが、大河ドラマでは、きっと、焼き討ちなんてアコギなまねはしないんでしょうねぇ・・・。

・・・で、結局、激戦の末、4月22日・・・北条の重臣であった城主・大道寺政繁(だいどうじまさしげ)は降伏し、松井田城は開城となります。

この頃には、すでに小田原城の包囲を固めた事もあり、もともと本隊であった浅野長政木村吉清といった直臣や、徳川家康配下の本多忠勝鳥居元忠といった面々も、北条の各支城の攻略に当たっています。

ちなみに、あの石田三成武蔵忍城(おしじょう)の攻撃(6月9日参照>>)へと向かったのも、この頃です。

次ぎに、北条氏康の四男・北条氏邦の籠る鉢形城(埼玉県大里郡)を攻める別働隊でしたが、強固な防備に阻まれ、北国連合軍は大苦戦してしまいます。

結局、最後は、徳川配下の忠勝らの助けを借り、ようやく6月14日に降伏・開城させますが、この時は、さすがに秀吉お気にの兼続も、こっぴどく怒られたようです。

かくして天正十八年(1590年)6月23日、次ぎのターゲットとして北条氏照(北条氏政の弟)が城主を務める八王子城へと攻撃を開始するのです。

この八王子城は、標高445mの山の上の構築された山城で、東西2km、南北1kmに渡る広大な敷地を持つ、言わば戦国山城の完成形ともいえるものでしたが、城主・氏照は、ただ今、小田原城にて籠城中・・・留守を預かるのは、家臣の狩野一庵(かのういちあん)以下、わずか1000名。

しかも、その中には、大軍の接近を聞きつけて、急遽集められた領民の奥さん&子供が多数含まれており、とてもプロの戦闘員を相手にできる体制ではなかったのです。

まずは、6月23日未明・・・先日、豊臣に降ったばかりの松井田城の大道寺政繁が先鋒を務め、大手門から突撃し、北条勢は早くも城の奥へと退き下がる以外にありませんでした。

八王子城は、本丸を中心に構成された要害地区と、その手前にある住居地区の二つに分かれていたのですが、前田隊は、その住居地区の中心にあたる金子曲輪に突入・・・さらに後退する城兵は、自然と要害地区へと追い込まれます。

前田隊が、金子曲輪で金子家重らを討ち取っている間に、直で、山頂の本丸方面に向かった上杉軍は、北条勢をさらに追い込みます。

やがて、乱戦の中、多くの兵士とともに一庵が討死すると、残った兵も、果敢にアタックして討死するか、主君の後を追って自刃するか・・・さらに、非情な攻撃を仕掛ける上杉軍の前に、討死も自刃もできない領民の妻や子は、皆、櫓のそばにあった御主殿の滝に身を投げたのだとか・・・

こうして、わずか一日で決着がついた八王子城の戦いは、非戦闘員の婦女子を含む全員が死亡するという小田原攻めで最も悲惨な戦いとなりました。

さぁ、この八王子城の一件を、今年のラブ&ピースのいい人兼続は、どのように処理してくれるのか?

とても楽しみです。

できるなら、戦国の空しさ悲惨さを含む、ちゃんとした理由での戦いに持っていっていただきたい・・・くれぐれも、兼続の預かり知らぬところで、誰の仕業かもわからぬまま、勝手に殺戮が行われたってな事にはしないでね!

まさかのナレーションスルーも無しヨ!
 

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