2009年6月25日 (木)

秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床

 

今や、夏の京都の風物詩ともなった鴨川の納涼川床・・・

二条あたりから五条のへんまで、ずらりと約90軒ほどが軒をつらねていて、川風に提灯が揺られるさまは、見ているだけでも涼しげです。

少し前までは、6月1日から8月16日のあの五山の送り火(8月13日参照>>)の日まで・・・というのが定番でしたが、最近では、5月1日に始まり、9月いっぱい楽しめるのが一般的となっています。

ツウの間では、5月の床を「皐月(さつき)の床」と呼び、お盆から後の床を「後涼み」、もともとの期間を「本床」と呼ぶらしい・・・

「床は、やっぱり、本床がええなぁ」って人も多いらしいですが、なかなか本格的な懐石料理に手が出ないワタクシとしては、予約もいらず、格安の値段でランチを提供してくれる5月の床はたいへんありがたい!

Dscn3096a800 五条大橋あたりの鴨川床・・・雨の日で開放感に欠けますが・・・

ところで、このような川床は、いつから、どんな風に始まったのか?

もちろん、現在のような形で、お店の一部を床として、木の板を張って薄縁(うすべり・ゴザの高級なヤツ)を敷いて座敷机に座布団に・・・という形のものには、「ウチが元祖だ!」と名乗りをあげるお店もありましょうが、もともと、この鴨川の河原自体が、都の人々のお手軽リゾートであり、夕涼みの定番の場所であったという歴史があります。

現在、京都・南座の横に「阿国歌舞伎発祥の地」なる石碑が立っていますが、もちろん、現在の南座の場所のような「地」の上で、阿国歌舞伎が行われたわけではなく、阿国が本邦初でもありません。

昔の鴨川は、もっともっと幅が広く、間にはいくつもの砂州ができていて、何本にも枝分かれした鴨川がその間を縫うように走っていたわけで、そのような、だだっ広い河原や砂州に、簡単な舞台を作って、阿国歌舞伎よりも前から、猿楽などが披露されていたようです。

考えて見れば、もともと、そういった芸能は大道芸で、現在のように劇場内で披露するものではなかったわけで、都のような人のいっぱい集まるところでやりたいけど、街中でやって、予想以上に人が集まれば、近所の店屋から怒られるだろうし、かと言って、人が多く集まらないと見物料は稼げない・・・

そうなると・・・
都のすぐそばにあって、迷惑のかからないだだっ広い場所・・・う~ん、納得ですね~。

この鴨川での猿楽興行は、以前【将軍・義政の贅沢猿楽興行】(4月1日参照>>)でも書かせていただいたように、南北に流れる鴨川のあちらこちらで、阿国歌舞伎が始まる以前から行われていた事でしょう。

この義政の時は、糺河原(ただすがわら)・・・現在の、下鴨神社の近く、京阪電車の出町柳駅から橋を越えた川が枝分かれする所でしたね。

ただ、このように、以前から行われていた鴨川での猿楽興行を一変するのが阿国歌舞伎・・・それは、阿国という女性の登場と、グッドタイミングな時代の変貌が、見事に重なりあった事で、この鴨川での芸能の歴史が塗り替えられるのです。

それは、豊臣秀吉による平安京の大改造にあります。

平安京=京の都と言えば、やはり、延暦十三年(794年)に平安遷都した桓武天皇の平安京(10月22日参照>>)を思い浮かべてしまいますが、現在の京都のような町を造ったのは、豊臣秀吉なのです。

この時、応仁の乱をはじめとする度重なる戦乱で破壊され、昔の内裏のあたりは田んぼとなり、都は上京と下京に分断され、上下を行き交う事ができるのは室町通の一本だけという状態だったのだとか・・・

現在の京都市街に建つお寺で、応仁の乱以前の建物が、大報恩寺(千本釈迦堂)だけという事を考えてみても、いかに乱世の戦火がはげしかったかがわかりますよね。

そんな京都の町に、道を造り、町を造り、都らしい景観を整えていった秀吉・・・。

そして、秀吉が京都の町を造るのと同時に行ったのが、あの聚楽第(じゅらくだい)を中心に京都の町をお土居(どい)という塀で囲った事・・・

今や、そのお土居の跡が、とぎれとぎれに発掘されている状態で、その全貌は未だ謎ですが、おそらく、当時は、守りに弱い京都の町を、堅固な城塞都市にするがのごとく、囲まれていたわけで、そんな塀に囲まれた町から外に出るには、何箇所か作られた狭い出入口を通って外へ出なければならなかったはず・・・

ただでさえ塀で囲まれているという日頃の精神的圧迫感がある中、狭い出口を通り抜けたその先に、広々とした鴨川が流れていたら・・・もはや、それだけで、都の人々の開放感はMAXになった事でしょう。

つまり、その開放感が、たまに「多くの人が集まって芸能を見物する、都のはずれの広い場所」というのから、「一大リゾート地」へ変貌する要因になったのではないでしょうか。

そんな場所に阿国は陣取り、歌や踊りを披露する・・・阿国が最初の場所に四条周辺の河原を選んだのは、やはり八坂神社の影響があったのかも知れません。

古すぎてその歴史ははっきりしませんが、おそらく八坂神社は、平安京が平安京になる以前からあの場所にあって、八坂神社を基点に四条通りを西に伸ばした可能性が高い事を考えると、その囲われた都から、四条通を通って外に出る人の数もハンパなく多かったでしょうからね。

やがて、その開放感は、手軽なリゾートを求める人々の間で、舞台での芸能を見ながら、友人と話しながら、ゆっくりと休日を過ごす場所となっていき、そうなると、当然、そこには食事も持参する事になります。

やがて、江戸時代には、裕福な商人が、河原や砂州に床をしつらえ、取引先の接待をする・・・

その後、寛文年間(1661年~72年)に行われた大規模な治水工事で、両岸に石積の護岸ができた事で、そこに茶店や出店が出現し、現在とよく似た雰囲気に・・・

それでも、現在のような茶店の床だけでなく、河原には一般の人がしつらえた床もあり、川に足を浸しながら、夕涼みを楽しんだようです。

新撰組の前身・浪士隊を組織して、京都に乗り込んだ幕末の志士・清河八郎も、「京都は、食べ物の好みも、趣味もまったく肌に合わない最悪の場所」と言いながらも、この夏の鴨川の夕涼みだけは大絶賛で、「砂州をさらえて、一面に床を敷き、客を待つのはタマラン」のだそうです。

秀吉の築いたお土居が、もはやほんの少しの跡形を残すだけになった現在も、人は、開放感と涼しさを求めて鴨川に集まる・・・今も昔も変らぬ、京都の夏の風物詩です。
 

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2009年6月23日 (火)

小田原攻めで最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦

 

天正十八年(1590年)6月23日、この年の3月から開始された豊臣秀吉による小田原征伐に於いて、別働隊による八王子城攻撃が開始され、この日のうちに八王子城は陥落しました。

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すでに、たびたび書かせてはいただいておりますが・・・

天正十三年(1585年)に四国を平定(7月25日参照>>)、翌・天正十四年から十五年にかけて九州を平定した(4月17日参照>>)豊臣秀吉・・・その間に、越後上杉景勝(かげかつ)に上洛を要請して臣下におさめ(6月15日参照>>)徳川家康をもまんまと配下に加えました(10月17日参照>>)

残るは、関東と東北ですが・・・
こちらには、やはり天正十四年から十五年にかけて、関白の名において『関東惣無事令』『奥両国惣無事令』発布します。

『惣無事令』とは、「大名同士の私的な争いを禁じる」という事で、未だ実質的には配下に治めていない関東と東北に対してのこの令は、まさに、豊臣政権下でこの国を治めるという天下統一の号令でもあります。

そんな中で、未だ関東での勢力を維持し、再三に渡る上洛要請をダラダラと先のばしにする北条は、秀吉にとって目の上のタンコブだったわけですが、ラッキーな事に、その北条が、天正十七年(1589年)10月23日、真田昌幸配下の名胡桃城(なぐるみじょう)を奪取するという事件を起してくれます(10月23日参照>>)

上記の『関東惣無事令』に違反してます。

北条を攻める大義名分を得た秀吉は、早速、11月24日には北条氏政宛てに宣戦布告の書状を送りつける一方で、配下におさめた諸将はもちろん、東北の武将たちにも出陣を要請・・・未だ、秀吉の配下となっていない東北の武将にとっては、これは秀吉につくか?敵対するか?の二者択一の難問でもあったわけですが、12月10日に京都の聚楽第(じゅらくだい)で開かれた軍儀では、「出陣は天正十八年2月1日から3月1日までとする」という文言を決定し、まさに、その姿勢を問うたのです(12月10日参照>>)

かくして、その期限通り、3月1日に京を出陣した秀吉は、小田原征伐を開始(3月29日参照>>)・・・4月3日は小田原城を包囲しました(4月3日参照>>)

小田原城は、かつて、あの武田信玄上杉謙信も落せなかった天下の名城・・・当然、その事を百も承知の秀吉は、小田原を見下ろす石垣山に有名な一夜城を構築して(6月26日参照>>)、はなから長期戦の構えで挑む一方で、別働隊による関東一円の北条配下の支城への攻撃を開始します。

北陸から参戦した秀吉の親友・前田利家を大将とする北国連合軍は、2月15日、信濃松代城にて、越後の上杉景勝、真田昌幸と合流して東山道から挑みます。

前田隊=約1万8千、上杉隊=約1万、真田隊=約3千・・・総勢・3万5千の堂々の別働隊は、碓氷(うすい)峠から北条領内へと侵入し、まずは、その国境を守る松井田城(群馬県安中市)を攻撃します。

この時、今年大人気の景勝の重臣・直江兼続(かねつぐ)は、城下を焼き討ちしたり、再三に渡って城の外郭に突撃したりと、なかなかの活躍をしてくれたようですが、大河ドラマでは、きっと、焼き討ちなんてアコギなまねはしないんでしょうねぇ・・・。

・・・で、結局、激戦の末、4月22日・・・北条の重臣であった城主・大道寺政繁(だいどうじまさしげ)は降伏し、松井田城は開城となります。

この頃には、すでに小田原城の包囲を固めた事もあり、もともと本隊であった浅野長政木村吉清といった直臣や、徳川家康配下の本多忠勝鳥居元忠といった面々も、北条の各支城の攻略に当たっています。

ちなみに、あの石田三成武蔵忍城(おしじょう)の攻撃(6月9日参照>>)へと向かったのも、この頃です。

次ぎに、北条氏康の四男・北条氏邦の籠る鉢形城(埼玉県大里郡)を攻める別働隊でしたが、強固な防備に阻まれ、北国連合軍は大苦戦してしまいます。

結局、最後は、徳川配下の忠勝らの助けを借り、ようやく6月14日に降伏・開城させますが、この時は、さすがに秀吉お気にの兼続も、こっぴどく怒られたようです。

かくして天正十八年(1590年)6月23日、次ぎのターゲットとして北条氏照(北条氏政の弟)が城主を務める八王子城へと攻撃を開始するのです。

この八王子城は、標高445mの山の上の構築された山城で、東西2km、南北1kmに渡る広大な敷地を持つ、言わば戦国山城の完成形ともいえるものでしたが、城主・氏照は、ただ今、小田原城にて籠城中・・・留守を預かるのは、家臣の狩野一庵(かのういちあん)以下、わずか1000名。

しかも、その中には、大軍の接近を聞きつけて、急遽集められた領民の奥さん&子供が多数含まれており、とてもプロの戦闘員を相手にできる体制ではなかったのです。

まずは、6月23日未明・・・先日、豊臣に降ったばかりの松井田城の大道寺政繁が先鋒を務め、大手門から突撃し、北条勢は早くも城の奥へと退き下がる以外にありませんでした。

八王子城は、本丸を中心に構成された要害地区と、その手前にある住居地区の二つに分かれていたのですが、前田隊は、その住居地区の中心にあたる金子曲輪に突入・・・さらに後退する城兵は、自然と要害地区へと追い込まれます。

前田隊が、金子曲輪で金子家重らを討ち取っている間に、直で、山頂の本丸方面に向かった上杉軍は、北条勢をさらに追い込みます。

やがて、乱戦の中、多くの兵士とともに一庵が討死すると、残った兵も、果敢にアタックして討死するか、主君の後を追って自刃するか・・・さらに、非情な攻撃を仕掛ける上杉軍の前に、討死も自刃もできない領民の妻や子は、皆、櫓のそばにあった御主殿の滝に身を投げたのだとか・・・

こうして、わずか一日で決着がついた八王子城の戦いは、非戦闘員の婦女子を含む全員が死亡するという小田原攻めで最も悲惨な戦いとなりました。

さぁ、この八王子城の一件を、今年のラブ&ピースのいい人兼続は、どのように処理してくれるのか?

とても楽しみです。

できるなら、戦国の空しさ悲惨さを含む、ちゃんとした理由での戦いに持っていっていただきたい・・・くれぐれも、兼続の預かり知らぬところで、誰の仕業かもわからぬまま、勝手に殺戮が行われたってな事にはしないでね!

まさかのナレーションスルーも無しヨ!
 

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2009年6月15日 (月)

上杉景勝・上洛!・・・の前の一大事

 

いや~、今回の「天地人」は、放送日がピッタリでしたね。

上杉景勝の上洛は、天正十四年(1586年)6月14日の事・・・実際には、旧暦なので、梅雨というよりは夏真っ盛りの季節だったでしょうが、とにかく、都の皆様は、皆やさしくてよかったですね~。

以前、今回の「天地人」は、ツンデレばかりがご登場で・・・と書かせていただきましたが(ツンデレの意味も含めて5月25日参照>>)、今回ばかりは、皆さん、初対面からデレデレ

途中に立ち寄った金沢のガードマン利家さんも、豊臣秀吉の奥さんの緋牡丹おねさんも・・・まるで、息子を諭すように親切に教えてくださり、あの福島天気予報士のウザイもてなしだって、悪意があってやってるわけではなく、都になじませてやろうという親切心からきているのですから・・・戦国の腹の探り合いとは無縁のやさしさです。

果ては、利休の娘まで、ほぼ、初対面で愛の告白・・・

それにしても、なんで、皆、あの兜の前たての「愛」の文字の意味を聞きたがるんだろう?

このブログでも、あの「愛」の文字は、愛染明王の「愛」か愛宕権現の「愛」・・・個人的には、おそらく、愛宕神社の「愛」だと思うという事と、戦国時代には、現在の私たちが「愛」という言葉を聞いて思い描くような意味で「愛」という文字は使われてはいなかったであろうという事を書かせていただきました(3月23日参照>>)

しかし、そこを、あえて、現代の私たちが「愛」という言葉を聞いて、即、思い描くようなそのまま意味でドラマの中で使用して、愛溢れる武将として描きたいという事なのでしょうとも書かせていただきましたが、どうやら、違うみたいですね。

だって、今現在、私たちの回りで、胸に「LOVE」という文字が書かれたTシャツを着ている人に、「なんでLOVEて書いてるの?」「LOVEってどういう意味?」と聞く人はいませんよね。

それは、皆が「LOVE=愛」という事を知っていて、その「愛」という言葉が表す意味も知っているからなのですが、会う人会う人が、「なんで?」と聞くという事は、ドラマの中でその意味を知っているのは、兼続と奥さんだけって事?

おかげで、デ~ンと「愛」という文字を掲げている事が、とってもカッコ悪い事のようになってませんでしたか?・・・いったいどう描きたいのか?とても不可解です。

京都でのとまどいぶりは良かったですね。

やはり、あの時代、越後から初めて都に行くとなると、現在の海外旅行の比じゃないくらいの一大事だったと思います。

ましてや、冒頭に書いた通り、真夏の京都・・・ジリジリと太陽が照りつける中、オッサン連中への挨拶まわりとなれば、耳鳴りもすりゃ頭痛もして、倒れるのもムリはありません・・・そのワリには兼続はメチャメチャ元気なご様子だったので、何となく、倒れた景勝が我がママ適応傷害ようになってしまってましたが・・・。

ところで、景勝も初の上洛で大冒険だったでしょうが、大河ドラマもイロイロと冒険してくれてますね~。

本能寺の変の時に、「サブリミナルでは?」と疑われたために、さすがに今回は少しゆっくりめではあったものの、まるで外国ドラマのようなカット割りとBGM・・・

さらに、ワイヤーアクションで福島天気予報士が飛んだ時は、「めちゃイケの色とり忍者」よろしく、庭一面に粉があるのでは?と思ってしまいましたが、さすがにそれはなかったです~(当たり前だ!(*´v`*))

まぁ、ドラマなので、こんなお笑い色の強いのんびりした回があっても、それはそれでよいのですが、やはり、歴史として押えておきたい事が・・・。

それは、先日の落水での秀吉との対面から真田幸村の人質うんぬんと、今回の上洛との間の起こった出来事・・・。

ドラマでは、その間、兜の「愛」の文字の決定と、オヤジがやたら若い後妻を連れて訪問し、その嫁が、「ひとりでは寝られないのぅ」と、久々の親子水入らずの夜をジャマするという鬼のようなママ母ぶりを披露しただけで終ってしまいましたが、歴史上では、上条政繁の出奔という一大事が巻き起こっています。

この上条政繁(まさしげ)という人は、畠山氏の出身で、上杉謙信の養子となっていた人・・・つまり、景勝、景虎と同じく、謙信の後継者だったわけですが、謙信が亡くなった時には、すでに上杉の一門である上条家を継いでいたので、あの御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)では、景勝についた人なのです。

・・・というより、実は、ドラマでは兼続がやった事になってた春日山城の占拠・・・謙信が亡くなる前に、いち早く占拠したのは、この政繁さんなのです(3月13日参照>>)

上記の5月25日「ツンデレ満載」のページで、「天地人」には、新発田重家(しばたしげいえ)さんは出て来ないかも・・・と書かせていただきましたが、この重家さんは、あの武田勝頼を寝返らせるために大金を手土産に交渉に行ったとされている人なのです。

つまり、本来は御館の乱では、ほとんど史料に登場しない兼続の見せ場として、ドラマでは、あの春日山城の占拠と、武田との交渉という重要事項を兼続がした事にしてしまっているので、重家を登場させる事ができない状況なのだと・・・
(注:ドラマでは主人公に見せ場を与えるのは当然ですので、ドラマを批判しているのではありません)

なので、この政繁さんも・・・・

ただ、まったく登場しない重家さんとは違い、この政繁さんは、すでにチョコッとだけドラマに登場してましたが、どこかに救援に向かったきり戻ってきてない状態ですので、この後どのような扱いになるのやら・・・

とにかく、史実とされているのは・・・

今回の上洛で秀吉の傘下となる上杉は、救援を求めてきた真田がそうであったように、景勝の上洛にさきがけて、秀吉へ人質を差し出すわけですが、子供がいなかった景勝は、この政繁さんの孫(養子の子)を養子に迎えて、その子を人質として差し出しています。

景勝と同じように謙信公の養子という立場にあった人ですから、血縁関係はなくとも、彼の孫を人質に・・・というのは当然、しかも、先に書いたように、御館の乱の時は、いち早く春日山城を占拠して、その後も一門の重臣として大活躍していた人なのですから・・・。

・・・で、そんな政繁なら、さぞかし景勝も大事に・・・と思いきや、これが、ご存知、兼続が大出世して、結果的に、彼をも追い越す力を持ってしまった事で、政繁は、上杉を出奔し、秀吉のもとへと走ったわけです。

これが、景勝が上洛するより前の事だとされているので、おそらく、ドラマでは描かれないのではないかと、本日は書かせていただきました。

★それにしても、木村佳乃がミョーにカワユかったのはなぜだろう??「流転の王妃」の時は常盤ちゃんのほうがキレイだったのに・・・
 

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2009年6月12日 (金)

金のなる木は俺のモノ!景勝と兼続の佐渡攻略

 

天正十七年(1589年)6月12日、越後上杉景勝佐渡へ渡り、河原田城を攻撃・・・城主・本間高統が自害しました。

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ご存知、佐渡は日本で最大級の金の産地・・・古くは、『今昔物語』に登場する西三川(にしみかわ)砂金山、戦国時代には鶴子(つるし)銀山が有名でした。

ちなみに、佐渡金山の代名詞とも言える相川金山は、発見が慶長六年(1601年)なので、今日のお話には登場しません。

・・・で、すでに、書かせていただいている毛利尼子銀山争奪戦(12月24日参照>>)でもわかるように、金のなる木・・・いや、金のなる山は、やはり、誰しもが手に入れたい物・・・。

この佐渡島は、鎌倉時代から佐渡守護代として本間氏が統治する島で、上杉謙信の時代には、金堀人足を送り込んで、何かしらの関係を築いてはいましたが、完全に支配下に治めるまでには至っていませんでした。

ただ、そんな本間氏も一枚岩ではなく、当時は、

  • 西三川金山・・・羽茂(はもち)本間氏
  • 新穂(にいぼ)金山・・・久知くじ)本間氏潟上(かたがみ)本間氏
  • 鶴子銀山・・・河原田(かわはらだ)本間氏沢根(さわね)本間氏

という5つの氏族に分裂していたのです。

やがて、天正十四年(1586年)、豊臣秀吉の要請に応じて上洛を果たし、正式に豊臣の傘下となった上杉景勝(かげかつ)は、その秀吉から佐渡討伐の許可を得た後、再三に渡って、その本間氏に春日山城への出仕を要請します。

秀吉の要請に答えて上洛したら豊臣の傘下となる・・・この事でもわかるように、景勝の要請に応じて春日山城へ出向く事は、イコール上杉の傘下となる事を意味します。

もちろん、狙いは佐渡の金山を支配下に治めて、その利益を得る事・・・。

しかし、当然の事ながら、すんなり応じるはずはありません。

良い返事が帰って来ない事にいらだつのは、景勝の重臣、ご存知、直江兼続(かねつぐ)です。

上記の通り、もともと一つの家だったところが分裂したとなると、やはり、そこには少なからずの確執があるのも当然の事・・・中でも、現在の佐渡では、羽茂城主の羽茂本間高茂(たかもち)と、河原田城主の河原田本間高統(たかつな)が勢力を誇っていました。

そこで、自ら佐渡攻めの総司令官となった兼続が目をつけたのは、そんな一番手の下に隠れた沢根氏と潟上氏・・・

兼続は、この2氏に、刃向かえば出兵も辞さない事を予告しつつ、半ば脅迫めいた書状を再三に渡って送りつけ、上杉への協力・・・つまり寝返りを要請するのです。

そんな圧迫に耐え切れなかったのか、本間氏のトップへの野望があったのか、沢根城主の沢根本間左馬助が上杉に内通します。

Uesugisadocc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして、天正十七年(1589年)6月12日、景勝・兼続自らが1000余艘の大船団を組んで佐渡へと向かい、密かに真野湾へ侵入・・・左馬助の案内により、3千とも数万とも言われる大軍が沢根から上陸します。

上杉の上陸を知った本間氏は、続々と河原田城へと集結し、5手に分かれて立ち向かおうと試みますが、悲しいかな、すべてを合わせても500ほどの数です。

しかも、彼らは、これまで島内での小規模な戦闘の経験しかないような国人たち・・・その相手となるのは、秀吉に服従したとは言え、戦国の屈指の大名・上杉です。

圧倒的な武力の差に、たちまちのうちに大混乱となり、間もなく、沢根の兵に放たれた火によって、河原田城は炎に包まれて落城・・・高統も、その城の中で自刃しました。

河原田城の落城を知った国人たちは、続々と沢根へと降りますが、まだ、佐渡の南側に位置する羽茂城が残っていました。

16日、羽茂城近くに陣取った上杉軍が総攻撃を開始・・・竹林に隠れて狙撃するというゲリラ作戦を展開した羽茂本間氏でしたが、すでに他の佐渡の国人を味方に引きいれて、さらに多勢となった上杉軍には、到底かないませんでした。

結局、この羽茂城もこの日のうちに落城し、城主・高茂は、城を脱出して秋田へ逃亡・・・

しかし、出航した船が嵐のため、秋田ではなく越後へと漂着し、上杉方に捕らえられ、まもなく処刑されました。

こうして、佐渡の金山は上杉の物となります。

佐渡の支配を任された兼続は、例の上田衆与板衆を代官として佐渡に置き、金山経営でガッポガッポ儲ける事に・・・

ただし、ご存知のように、関ヶ原と同時に勃発した長谷堂の戦い(9月20日参照>>)で西軍についたため、その後は、金山の経営は徳川のものとなり、さらに冒頭に書いたように、新たに最大の金山も見つかって、今度は、徳川がガッポガッポ儲ける事になります。
 

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2009年6月11日 (木)

古文書の虚偽と真実~これぞ歴史の醍醐味!

 

天正十年(1582年)6月11日午後、尼崎に到着した羽柴秀吉の陣に、中川清秀と高山右近が合流しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

例の明智光秀の謀反・本能寺の変織田信長が倒れたの後の羽柴(豊臣)秀吉中国大返し・・・この時の、諸将の動きについては、すでにいくつか書かせていただいておりますが、同時進行でイロイロと動きまわられるので、とりあえず、流れをまとめてみますと・・・

2日 早朝 光秀 本能寺で信長を襲撃の後、二条御所の信忠を襲撃
午後 光秀 安土に向かうが瀬田橋が落とされていたため、断念して坂本城へ入る
家康 飯盛山(四条畷市)で本能寺の変を知り、交野にて一夜を明かす(伝承)
3日 光秀 佐和山城・長浜城など近江各地の城を平定しながら諸将に手紙を書く
勝家 魚津城を落す
家康 津田・穂谷を抜け宇治へと向かい宇治田原で宿泊
秀吉 本能寺の変を知る
4日 秀吉 備中高松城を攻略
勝家 本能寺の変を知る
家康 信楽に到着
5日 家康 伊賀越え中
6日 夕刻 秀吉 毛利の撤退を確認し京へ発つ
秀吉 亀山城へ到着
家康 白子浦から乗船し海路、岡崎へ
7日 光秀 安土城の光秀のもとに朝廷からの使いが来る
秀吉 80kmを移動し姫路城へ到着
家康 岡崎へ到着
8日 秀吉 姫路城で軍を休息させる
9日 秀吉 姫路を発つ
10日 光秀 秀吉がまもなく尼崎へ到着の知らせを聞き京を発つ
秀吉 移動中
11日 秀吉 尼崎へ到着

・・・てな感じになります。

個々の出来事につきましては・・・

・・・で、天正十年(1582年)6月11日、上記の通り、秀吉は尼崎に到着し、一方の光秀は洞ヶ峠に陣を置く(2007年6月11日参照>>)という事になります。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

そして、ちょうど、この頃の事でしょうか・・・有名な『太閤記』には、京都から移動中の光秀のもとに、「チマキ」を献上に行った農民たちの話が出てきます。

「戦いに勝てますように」との祈りを込めて、農民たちが持ってきたチマキを受け取った光秀は・・・

「おぉ、みんなよぉ聞け!
主君に悪行があった時は、その主君を殺すのは、この国だけやない。
中国でも、昔、悪名高い主君を倒し、民衆を救って周王朝を開き、860年もの長きに渡って平安をもたらした者がおるんや。
俺も、京都の町に平和をもたらしたんゾ~!」

と、声高らかに宣言しますが、なんと、そのチマキの包みを開けずに、そのままパクリ!

見た目は平静を装っていても、内心はドキドキ・・・心の動揺を隠しきれなかった光秀の様子を見た農民たちは・・・

「大将がアレでは、明智は負けやなぁ。
こんな軍のところにいててもしゃぁない・・・行こ、行こ」

と、さっさと立ち去ったのたとか・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

・・・と、長い長い前置きをしていましたが(前置きやったんかい!)、今日、お話したいのは、これら一つ一つのストーリーではありません。

上記の逸話の中の農民のセリフをお聞きになって、どう、思われました?

どう考えても、この先の合戦の勝敗を知っている人のセリフですよね。

確かに、この時、すでに秀吉のところには、続々と助っ人が駆けつけ、光秀のところには地元のわずかな味方しか来ていないわけですから、その事を踏まえれば、ある程度、この後の山崎の合戦の予想が付けられるかも知れませんが、それこそ、ヘリでも飛ばして、秀吉の陣から光秀の陣までを駆け巡り、両方の様子をほぼ同時刻にでも観察しなければ、そんな事は不可能ですよね。

つまり、この逸話は、この後の歴史を知っている人が、後世に付け加えた可能性が高い・・・もちろん、すべてがウソだとは言いませんが、少なくとも、最後の農民の勝敗予想は、結果ありきの発言のように思います。

実は、この『太閤記』には、この後、織田家家臣内のトップ争いの場となる賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)のお話も出てくるのですが、そこでは、勝家の敗因として「柴田勝家の撤退命令も聞かず、先走りすぎた佐久間盛政が無謀の攻撃を仕掛けたのが敗因である」てな感じの事が書かれています。

そのため、今、現在でも盛政は愚将扱いされ、さらに、部下をちゃんと管理できなかった勝家の評価までもが低いのが現状です。

しかし、以前、【前田利家の戦線離脱】(四月22日参照>>)のところでも書かせていただきましたように、私自身は、賤ヶ岳での勝家の敗因は、中国大返し並みのスピードで秀吉が美濃から戻ってきた事と、その利家の戦線離脱にあると思っています。

特に、利家の戦線離脱によって柴田軍の足並みが乱れ、形を整えたままの撤退が出来なくなった事が大きいように思います。

しかし、『太閤記』には、そうとは書いてない・・・

実は、この『太閤記』を書いた人・・・小瀬甫庵(おぜほあん)という人なのですが、この人は、この『太閤記』を書いた時は、前田家に籍を置いていた人なのです。

そうなんです。
出版社なんてない昔は、不特定多数の読者を対象にして本を書く・・・なんて事はないわけで、大抵は、この甫庵さんのように、どこかの大名に仕えて、その大名をスポンサーとして書くわけです。

たとえば、昔の画家の場合も、自分で好きなものを好きなように描いて、その絵が高く売れてプロとして生計を立てられるなんてのは、ごく一部の有名な画家さんだけで、それができない場合は、好きな絵を描きつつも、貴族やお金持ちの注文を受けて、その肖像画を描いたりして報酬を得るわけです。

当然、そういう場合は、相手をメッチャ男前、あるいは美人に描かなくては、高くは買ってもらえないわけで、実際よりは、数段、美しく描く事になります。

つまり、このような書物にも、そういう脚色がしてあるのでは?・・・いや、おそらくしているものと思って見てよいと思います。

確かに、利家は、勝家の家臣ではなく、織田家の家臣・・・ともに織田家の家臣である秀吉の味方をしようが、勝家の味方をしようが自由なわけですが、最初っから秀吉に味方していたならともかく、戦場に出てからの、いきなりの撤退は、なんとなく、ルール違反の臭いがします。

裏切り・寝返りとまではいかないまでも、やっぱり、コスイというかズルイというか・・・そんな印象が拭えません。

だから、利家の撤退の事はサラッと書いて、「敗因は盛政と、それを止められなかった勝家」という事にしておかなくてはならないのです。

そして、もちろん『太閤記』ですから、そのご主人様である利家が味方した秀吉も、強くかっこよく書かなければ・・・そうなると、自然と、敵である光秀をかっこ悪く書かなくてはならないわけです。

これらの歴史的文書というものは、この『太閤記』に限らず、そして、この時代に限らず、たとえ、一級の史料と称されるものでも、その時代背景と、書いた人物の立場というものを踏まえながら、読み解いていく事が重要なのです。

たとえば、冒頭に書いた本能寺の変の後の7日の出来事・・・安土城にいた光秀のもとに朝廷からの使者がやってきています。

この事は、その使者であった吉田兼見(かねみ)の日記に書かれているのですが、「訪問して談笑した」という事以外は、すべて削除されているのです。

おそらくは、そこには本能寺の変が謀反ではなく革命の類であるとか、光秀を新たなトップとして認めようかといったような内容が書かれていたからこそ排除しなければならなかったのではないでしょうか。

このように、日記でさえ、後世に力を持った人間によって書き換えられるのですから、古文書というものも、やはり・・・。

以前、【信長とキリスト教】(4月8日参照>>)でご紹介したフロイスの見た信長・・・果たして本当に信長は神になろうとしていたのか?

また、【比叡山焼き討ちは無かった?】(5月12日参照>>)で書かせていただいたように、信長の魔王のような殺戮は、敵である延暦寺の僧が流した噂を書いただけではないのか?

かと言って「そんなんだったら、何も信用できない!」・・・というのではありません。

必ず、その中には真実もあります。

書いた人物の立場から、時代の背景から、何が本当で、何が違うのか?を読み解く・・・

特に、敗戦後、その地位も名誉も失くしてしまった、信長、光秀・勝家などに関しては、注意深くその真意を探っていきたい!

それこそが、歴史を楽しむ醍醐味のような気がします。
 

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2009年5月25日 (月)

ツンデレ満載の「天地人」~忘れちゃいけない新発田城

 

tulipキレイな花にはとげがある・・・tulip

昨日、放送されたNIHK大河ドラマ「天地人」・第21回:三成の涙の冒頭での「書」・・・

コレって、本当は女性に対する表現なのでは?と思いつつも、「イケメン三成の小栗クン(花)には、横暴な態度(とげ)がある」っていう事のようです。

番組冒頭では、発掘された頭蓋骨の鑑定にも触れられていましたが、これは、明治四十年(1907年)に渡辺世祐(よすけ)さんという日本史研究の大家が、三成の伝記を執筆するにあたって、京都の大徳寺三玄院を調査された時に発見された遺骨を、解剖学者の足立文太郎教授が鑑定したもの・・・

「身長は156cm前後で、頭はやや前後に出た木槌頭、細面で鼻筋の通ったヤサ男で、やや反っ歯」
・・・て事だそうで、鼻筋が通ってるとは言え、誰も、「キレイな花=男前」とは言ってないが、まぁ、そこはドラマなので、主人公の友人となるのであれば、男前にこした事はござんせん。

それにしても、このドラマは・・・
原作者がお好きなのか、脚本家がお好きなのか、それともスタッフがお好きなのか・・・

次から次へと「ツンデレ」のご登場です。

「ツンデレ」とは=「初めはツンツンして敵対視しているが、何かのきっかけでデレデレの大好き状態に変化する、あるいは、他の人にはツンツンしてるが、特定の人物にだけやさしくする」みたいな感じのキャラクター設定の事で、アニメファンがよく使う言葉です。

そもそもは、子供時代から・・・
まったく話さないツンツン状態の殿が、雪の中を少年・与六を迎えに行って主従関係を確立・・・他のゆかいな仲間たちも、イジメから始まっての友人関係・・・。

今は主人公の直江兼続の奥さんとなったお船さんも、初めての時は、「男のくせに馬も操れんのか」的な言葉を吐くツンツンでのご登場だったのが、いつのまにやらラブラブ状態。

殿のところに嫁に来た菊姫も、懐剣突き立てた直後に「武田をお救いください」と涙を流し、引き籠った後に心を開く・・・

途中で去っていかれた吉江どのや、お船さんの前のダンナの信綱さんも、「お前は嫌いだ」の後に「上杉を頼む」という言葉とともに逝かれました。

ひょっとして、あの初音という神出鬼没のお姉さんも、最初は敵のような雰囲気で登場してませんでしたっけ?

もちろん、昨日の三成さんも・・・。

家族だけが「ツンデレ」でなく、最初っから愛情たっぷりな事がせめてもの救いですが、来週の予告を見る限りでは、次週から登場する真田幸村までもが「ツンデレ」のご様子・・・どうやら、女性層をターゲットにしている今回の大河ドラマでは、「そのツンツンキャラが心を開く瞬間が、一番盛り上がる」という事なのでしょう。

戦闘シーンよりも多い夫婦の会話、兼続と三成の友情物語、子供ができたのできないのと嫁×姑バトル・・・まぁ、あくまでドラマなので、ほのぼのとしたそんな感じも、それはそれでおもしろいかも知れません。

・・・とは言え、わがブログは「歴史ブログ」・・・ドラマの筋書きとは別に、ここらあたりで知っておいたほうが良いのでは?と思うところがありますので、ちょいとだけ、そのお話を・・・

ドラマでは、かなり平和な日々を送っている兼続さんたちですが、歴史上では、この時、上杉家は、まだ、戦闘中です。

昨日の放送でも、三成との会話の中で、「越後の民のために・・・」的な事を、あたかも上杉家が越後のすべてを統一したかのようにおっしゃっていましたが、まだ、越後の統一はなされていません。

・・・というのも、例の上杉謙信の死後の後継者争いとなった御館の乱(3月17日参照>>)で、上杉景勝側について戦った新発田重家(しばたしげいえ)という人物・・・

実は、主役なのでしかたないですが、ドラマでは兼続がやった事になっていた武田を寝返らせる交渉・・・あの大金を持って勝頼のところへ行ったのは、実際には、この重家だったとされています。

ドラマでおわかりのように、とても重要な交渉です。

・・・で、その活躍ぶりから、当然、重家は戦後の恩賞を期待していたわけですが、例のごとく、上田衆ばかりが優遇されたために不満を抱いていたところ、天正九年(1581年)に織田信長からのお声がかかり、信長の傘下となったのです

重家は、新発田城(新発田市)を本拠に、現在の新潟市から三条市周辺あたりまでを支配していた国人ですから、それまで上杉の重臣として働いてきた彼が、織田へ寝返ったとなると、その領地もそっくりそのまま上杉の支配から外れるという事になります。

ドラマでは、南側の魚津城を信長配下の柴田勝家に攻められ、留守にした春日山城へは、信州側から森長可滝川一益に迫られ、最大のピンチだった上杉ですが、北側もこの重家もろとも離反して織田の傘下となり、本当に風前の灯火だったわけです。

その後、魚津城が落城する前日に信長が本能寺で倒れ(6月3日参照>>)、上杉は急死に一生を得たわけですが、この重家は、独立した大名になる事を最終目標としていましたから、信長の死後も当然抵抗を続けます。

兼続らは、天正十年(1582年)から約5年間に渡って、たびたび重家討伐のために新発田城攻めへと出陣していますが、堅固な守りに阻まれ、ずっと攻めあぐねていたのです。

途中、徳川家康との関係が緊張状態となった豊臣秀吉に和睦を勧められ、和解への道を考えたりもしましたが、結局、天正十五年(1587年)10月、新発田城を落城させ、重家を自刃へと追い込みました。

ドラマで描かれた落水での秀吉との会談が天正十三年(1585年)の8月、来週放送の真田幸村の人質・越後入りが同じ天正十三年の7月ですから、本来なら描かれても良い頃・・・その新発田城から2年後に配下に治める佐渡(6月12日参照>>)も含めて、越後統一は、本当なら、上杉にとって最重要な出来事で、歴史としては知っておきたい事・・・

なのに、ひょっとして、この「天地人」では新発田城の事は、スルーもしくはナレーションのみで終ってしまうのではないか?と・・・本日は、チョコッとだけ心配になって書かせていただきました。

もう、こうなったら、この後登場する人も、皆「ツンデレ」にしていただいて、歴史は歴史、ドラマはドラマで楽しんでいきたいと思っています。
 

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2009年5月 2日 (土)

織田信孝・自刃~報いを待つのは秀吉か?信雄か?

 

天正十一年(1583年)5月2日、織田信長の三男・信孝が、兄・信雄に追い詰められ、尾張・内海の野間大御堂寺で自刃しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

織田信孝は、永禄元年(1558年)に織田信長の三男として生まれます。

上記の通り、最終的に彼を死に追いやる兄の信雄(のぶかつ・のぶお)ですが・・・実は、彼も永禄元年生まれ。

本当は、信孝のほうが何日か早く生まれていたものの、母親の身分が低かったため、信雄を次男とし、信孝を三男としたとも言われますが、その真偽はともかく、そのような噂が囁かれるくらい、二人は同時期に誕生したようです。

信孝11歳の時、父の信長が北伊勢一帯を配下に治めた事で、その時、信長の傘下となった神戸城(三重県鈴鹿市)の城主・神戸具盛(かんべとももり)の養子となって神戸氏を継いだので、その後は神戸信孝と名乗ります。

神戸となった後も、父・信長に従い、長島や越前の一向一揆の平定に参戦したり、長兄の信忠に従って有岡城攻めも行っています。

天正十年(1582年)の本能寺の変の直前に、信長は、いよいよ四国征伐に乗り出しますが、この時、四国攻めの総司令官に任命されたのが信孝でした。

その前年の馬揃えの順番でいけば、one長男・信忠、two次男・信雄、three信長の弟・信包・・・と、信孝はfour番目となるのですが、すでに信長の後継者に決定していた長男の信忠を除けば、この中で、地方征伐の指揮官に任命されたのは、信孝のみ・・・

母親の身分が低く、すでに神戸氏を継いでいる事で、織田家内の地位としては4番目の信孝でしたが、その武将としての力量には、父・信長も期待していた事がうかがえます。

しかし、彼が、重臣の丹羽長秀(にわながひで)とともに、大坂にて、その四国攻めの準備をしている時に、かの本能寺の変が勃発するのです。

四国攻めのために集めた兵が、信長の死に動揺して散り々々になってしまったため、信孝は、備中・高松城がら、奇跡の中国大返しで戻ってきた羽柴(豊臣)秀吉と合流して、山崎の合戦(6月13日参照>>)で、父の仇・明智光秀を倒します。

この山崎の合戦の時、秀吉の要請で、総大将となった信孝ですが、それが、主君の敵討ちを前面に推したい秀吉の策略である事は、すぐ後の清洲会議(6月27日参照>>)で明らかとなります。

山崎の合戦では、「ぜひ総大将に・・」と、自分を推してくれた秀吉が、信長の後継者を決める清洲会議では、信長とともに亡くなった長男・信忠の息子・三法師を推し、信孝を推した柴田勝家を押さえ込んで、半ば強引に、織田家後継者を三法師に決めてしまったのです。

結局、美濃(岐阜県)一国・岐阜城の城主と決まった信孝・・・とは言え、信長健在の頃でも、上記の通り、4番目という地位に納得していた信孝ですから、信長も信忠も亡き後は、その息子・・・いわゆる直系の筋である三法師が後継者となる事には、まったく文句なく、おそらく納得していた事でしょう。

ただ、彼が許せなかったのは、その三法師が幼い事を良いことに、好き勝手にふるまう秀吉の態度・・・で、結局、同じように、それが許せなかった勝家とともに、秀吉に対抗する事となるのです。

これが、あの賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦(3月11日参照>>)・・・この時、越前(福井県)の勝家、伊勢滝川一益、そして自らの岐阜と、見事に一直線の秀吉包囲網を形成した信孝でしたが、相手の秀吉が、次男の信雄を看板に掲げて美濃の国人衆を仲間に引き入れたうえ、ご存知のように、賤ヶ岳の合戦で勝利し、勝家を自刃に追い込んでしまいます(4月24日参照>>)

この時、秀吉側について、北伊勢で戦っていた信雄は、勝家死すのニュースを聞いて、すぐに軍を美濃へと移動させ、信孝の岐阜城を包囲しました。

取り囲まれた城からは逃げ出す者が続出して、最後まで信孝のもとに残ったのは、わずか27人だったとも言われていますが、この状況に、さすがの信孝も、岐阜城・開城に踏み切ります。

岐阜城開城の時点では、その命を保証されていた信孝でしたが、その後、尾張国・内海(愛知県知多郡)の野間大御堂寺(おおみどうじ)に移され、天正十一年(1583年)5月2日、兄・信雄に切腹を命じられたのです。

この後の時代の流れを知っている私たちから見れば・・・
「信雄!なに、秀吉の思う壺にハメられとんねん!兄弟で潰し合ってる場合か!」
と、思ってしまいますね。

なんせ、ご存知のように、結局は、信雄を後継者にする気なんてさらさらない秀吉との間で、この信雄さんは小牧・長久手で戦い(3月13日参照>>)、最終的に織田家に取って変わられる事になってしまうわけですからね。

ただ、この時期の信雄さん・・・信長の弟や、自分の妹の徳姫など、織田一族を保護下に置いており、自分自身も、そして周囲も、織田家の惣領=信長の地位の継承者としての認識があったようなのです。

実際に、天正十四年(1586年)7月23日付けの書状で、父・信長が使用した「天下布武」のハンコに似せた「威加海内(天下に威力を示す)という、信雄のハンコが押された物が滋賀県で発見されており、どうやら、天下統一の意思が・・・というより、この信孝の死後、しばらくは、信長の後継者として、信雄が、実際に活動していた可能性もあります。

・・・と、なると、秀吉に踊らされたというよりは、「後継者になりたい」という野望があって、弟・信孝を死に追いやったという事なのかも知れません。

これまで、小牧長久手の戦いは、天下を狙う秀吉と、それを阻止したい徳川家康が主流で、信雄は、あくまで、家康が秀吉と戦う大義名分のために用意した看板であったかのように思われており、このブログでも、散々、そのように書いてきましたが、実際には、信雄のほうがヤル気満々だったのかも・・・ですね。

小牧長久手の戦いが天正十二年(1584年)で、その年の11月に、信雄は、家康にナイショで単独講話(10月17日参照>>)して戦いが終結・・・さらに、その翌年の2月に信雄が上洛して秀吉と面会し、7月に秀吉が関白に・・・

しかし、上記の書状の日づけを見る限りでは、それでも、まだ、天下への夢は捨てていなかった?のかもしれませんね。

ただ、あの15代室町幕府将軍・足利義昭が、信長に京都を追放された後も、しぶとく生き残り、後に、秀吉の説得で将軍職を辞任した後も、秀吉から「室町内府公」なんて称号で呼ばれて、朝鮮出兵の時には、喜んで名護屋まで出陣していますので、それこそ、人たらしの秀吉のワザで、淡い夢を見させられていただけなのかも知れませんが・・・

かくして、兄から切腹を命じられた信孝・・・有名な辞世が残っています。

♪昔より 主をうつみ(内海・討つ身)の 野間なれば
   報
(むく)いを待てや 羽柴筑前♪  信孝・辞世

これは、その昔、あの平治の乱に敗れた源義朝が、家来の長田忠致(おさだただむね)を頼って来た時、恩賞に目がくらんだ忠致が、風呂に入っていた義朝を騙まし討ちするという話(1月4日参照>>)・・・その舞台が、この野間という場所だったのです。

結局、後に平氏を倒した義朝の息子・源頼朝によって、この忠致は処刑されるわけですが、その話になぞらえて・・・

「昔から、主君を裏切る地であった野間・・・そのうち報いが来るだろうから待っていろ!羽柴秀吉め!」

てな、感じの、まさに、強烈な怨み節なわけですが、さすがに、こんなモロに名指しの歌を詠んで、そのまま、それが後世に伝えられるとは、とても考えられないですから、おそらく、豊臣家が滅亡した後の、江戸時代に作られたものでしょうね。

それを、見事に証明してくれるのが、先の「威加海内」のハンコ・・・上記の通り、あの日づけの時点でも、信雄がこのハンコを使用していたとなると、信孝が、この切腹の時点で怨むべき相手は、秀吉ではなく、信雄ですからね。

後に、秀吉が天下を取る事を知っている人しか、この歌は詠めません。

ただ、この歌を作った人も、悪気はなく、おそらく「とてつもない怨みを抱いて死んでいったのだろう」という思いからの創作であった事でしょうが・・・。
 

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2009年4月23日 (木)

賤ヶ岳の合戦~前田利家の戦線離脱

 

天正十一年(1583年)4月23日、先日の賤ヶ岳の合戦で、戦線を離脱した前田利家が、羽柴秀吉軍の先鋒として北ノ庄に入りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先日、「賤ヶ岳の七本槍」(2009年4月21日参照>>)について書かせていただいた賤ヶ岳(しずげたけ)の合戦・・・そのおおまかな流れについては、一昨年のその日のページ(2007年4月21日参照>>)を見ていただくとして、いずれは、個々の戦いの様子をもっとくわしく書かせていただくつもりではありますが、まずは本日の前田利家の賤ヶ岳合戦での行動について・・・

上記の両ページでも書かせていただいた通り、3月半ばから、こう着状態のにらみ合いが続いていたこの賤ヶ岳の合戦が、わずか最後の1~2日で・・・それも、なかなかの戦上手の柴田勝家が、羽柴(豊臣)秀吉に大敗を喫してしまうのには、いくつかのポイントがあります。

よく言われるのは、柴田配下の佐久間盛政がハリキリすぎて、勝家の撤退命令を聞かなかったため・・・というのを聞きますが、私としては、これは、負け戦という結果からくる後づけのような気がします。

確かに、果敢なアタックは、時として行き過ぎの状態となりもしますが、これが、勝っていれば、「よくやった!」と褒められるわけで、ある程度の勝算があるのであれば、100%の失策とは言い切れない部分があると思います。

・・・で、私が思う、
賤ヶ岳での戦況を左右した出来事は二つ・・・

その一つは、あの本能寺の時の中国大返しを彷彿とさせるスピードで秀吉が美濃(岐阜県)から戻ってきた事。

そして、もう一つは、前田利家の戦線離脱だと思っています。

その日、中川清秀大岩山砦を落とした盛政らは、そのイケイケムードのまま、勝家の撤退命令を聞かず、余呉湖の南岸に駐屯していましたが、日づけが4月20日から21日に変わろうとする午前0時頃・・・南側の遠くに明るく照らされた松明(たいまつ)を見て、秀吉が戻ってきた事を知ります。

そこで、さらに先頭に位置していた弟・柴田勝政(勝家の養子となっていたので柴田姓)撤退命令を出し、自らも撤退を開始したところを、徐々に到着した秀吉軍が追撃を開始しますが、これがけっこう秀吉軍の苦戦で、それほど成果をあげる事ができていなかったのです。

そこで、秀吉は、最も最前線の勝政隊だけにターゲットを絞って追撃・・・ここで、この勝政隊の追撃に大活躍にたのが、冒頭の賤ヶ岳の七本槍の9人で、この時、その勝政も討ち取られています。

ただ、このように、勝政隊こそは秀吉の追撃の犠牲となりましたが、この時点では、盛政の本隊は、未だ、ほとんど無傷の状態だったのです。

それを、くつがえしたのが、ここにきての前田利家の戦線離脱・・・利家は、この盛政隊の後方に位置していましたが、利家配下の2000ほどの軍勢がいきなり敦賀方面(北)へ向かって撤退しはじめたわけです。

つまり、南から1番=盛政、2番=利家、と並んでいる2番手の団体がサ~ッといなくなるという状況・・・これは、3番手、4番手に控えている諸将から見れば、まるで盛政隊自身が総崩れしているかのように見えてしまったんです。

・・・で、この状況を見た3番手・4番手の部隊からは脱落者が続出し、当然、ここも崩れていきますし、さらにその光景を見た勝家本隊からも、逃げ出す者が続出してしまう結果となり、最終的に、柴田軍全体が北へ向かって敗走する事になってしまったわけです。

考えようによっちゃぁ、秀吉軍の追撃よりも、前田軍の戦線離脱のほうが、影響が大きかったとも言えるわけです。

この件に関して、『川角太閤記』では、秀吉が美濃から戻る途中に・・・
「かがり火が見えたら合戦と考えといてちょ。
モロに裏切る事はできんやろけど、そのかわり参戦もしないでネ」

と、利家に連絡していて、利家も「OK!」の返事を出していたと記されていますが、中国大返しさながらの、猛スピードで駆け抜けているときに、こんな約束ができたかどうかは微妙なところではあります。

なので、この時・・・というよりは、むしろ、もっと以前から、秀吉と利家の密約ができていと考えるのが妥当でしょう。

・・・でないと、まだまだ戦える状況・・・いや、むしろ、今から反撃に出ようという意気込みさえあった盛政を先頭に、1番手・2番手と並んでる中、いきなり撤退を開始したりしませんからね。

ところで、この利家の戦線離脱・・・結果から見れば、完全に「裏切り」となるわけですが、はたして本当に、裏切り行為だったのか、どうだったのか?

答えは・・・NO!
裏切り行為ではありません。

それは、周囲の武将たちも、そして勝家自身も理解しているところです。

なんせ、勝家は、賤ヶ岳から撤退して北ノ庄に帰る途中、利家の息子・前田利長府中城に立ち寄って、先に戦線離脱した利家と、普通に対面しているのですから・・・。

この時、勝家は、「戦いで疲れたわが軍の兵士たちに、湯漬けを食わしてやってくれないか」と頼み、利家も、快く、「湯漬けと言わず、お酒もどうぞ」と、酒の肴まで用意しています。

そして、ひとときの話す機会にめぐまれた二人・・・

勝家は、利家に対して、戦線離脱に関しての事は一言も口にせず、ともに織田家の者として頑張った北陸での支配にからむ苦労をねぎらいながら・・・
「お前は、秀吉と仲がいいんだから、秀吉が誘ってきたら仲間になってやれよ」

そう言って、領国の北ノ庄へと戻って行ったのだとか・・・
カッコイイぞ!勝家(≧∇≦)

翌・4月22日に府中城を囲んだ秀吉は、利家を説得・・・そのまま、戦わずして秀吉に投降した利家は、天正十一年(1583年)4月23日、その秀吉軍の先鋒として、勝家の領地・北ノ庄へと入ったのです。

・・・で、なぜ、この利家の行為が裏切り行為とはならないのか?

それは、勝家と利家は、ともに織田信長の家臣という同等の立場にあったからです。

信長が、当時、越前を支配していた朝倉義景を滅ぼし(8月6日参照>>)、その朝倉の領地であった場所を、家臣である勝家が賜った時、同時に、利家と佐々成政不破光治(ふわみつはる)の3人も越前の一部に領地を与えられ、一家臣から大名へと出世しています。

ただ、独立した大名ではあるものの役職は、勝家の与力・・・つまり、織田家の北陸支部長である勝家の指揮下で、その手伝いをする役職なわけで、指揮・命令系統は受けるものの、勝家の家臣ではなく、主君は信長・・・つまり、織田家本社から北陸支部への出向みたいな事になるのです。

ですから、さきほども書いたように、勝家と利家は、同じ信長の家臣という立場で、これが、北陸での一向一揆に再び火がついて、その一揆軍を制圧しなければならないというような時なら、利家は勝家の命令を受けて、ともに織田家として戦わねばならない立場にありますが、今回の場合は、戦う相手である秀吉も、織田家の家臣なわけで、あくまで、織田家内のトップ争いなのです。

家臣同士の織田家トップ争いなら、同じ家臣である利家は、どちらに味方しようが本人の自由・・・という事になります。

それは、おそらく、利家以外の、秀吉の味方となった織田家家臣たちも、同じであった事でしょう。

なぜなら、この後、北ノ庄城が落城しようとした時、秀吉に味方した武将たちの間で勝家の助命運動なる物が巻き起こっているからです。

利家を含む、多くの信長の家臣たちは、これは、織田家家臣による主導権を握るための争いであり、勝負がついたところで、また、もとのさやに納まると思っていたのかも知れません。

ただ、秀吉だけには、すでに、天下統一へのシナリオが見えていたのかも知れませんが・・・。
 

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2009年4月21日 (火)

9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」

 

天正十一年(1583年)4月21日、織田信長亡き後に起こった織田家内の後継者争いで、主君の仇を討った羽柴豊臣)秀吉と、織田家・筆頭家老の柴田勝家との『賤ヶ岳の合戦』がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、一昨年の4月21日も、この『賤ヶ岳の合戦』について書かせていただいた(2007年4月21日参照>>)のですが、前日に大岩山砦中川清秀が討死し、そして、翌日のこの日に、あの賤ヶ岳の七本槍に代表されるような激戦が繰り広げられた事によって、何となく野戦のようなイメージを抱いてしまう賤ヶ岳の戦いですが、すでに書かせていただいたように、3月9日に柴田勝家が北ノ庄を出陣し、2日後の11日には、羽柴秀吉が佐和山城に入城する(3月11日参照>>)わけですので、賤ヶ岳の合戦自体は、この頃から始まり、どちらかと言えば、持久戦に位置づけられる戦い・・・両者ともに複数の陣城や砦を築き、お互いの動きを探りながらのにらみ合いが続けられていたのです。

その陣城や砦は、柴田軍では、やはり勝家の本陣である玄蕃尾城げんばおじょう)が最も大きく、深い堀や天守台もあり、当時は、高い物見櫓まで建っていたそうですが、それ以外のものは、曲輪に土塁を巡らす程度の単純な構造だったと言われています。

・・・というのも、越前(福井県)からやって来て、琵琶湖の東岸を南へと下る勝家にとって、その理想とする戦いは、ここで秀吉の敷く戦線を突破し、北伊勢(三重県)で踏ん張る滝川一益や、美濃(岐阜県)にいる神戸(織田)信孝と合流する事であったはずだからです。

一方の秀吉も、東野山神明山などに陣城を構築しますが、こちらは、曲輪と土塁の構造が複雑で攻めにくい造りになっていたのだとか・・・秀吉としては、逆に、勝家に、この一線を突破させないための防衛を強化した造りになっていたわけです。

・・・で、先の3月11日のページに書かせていただいたように、約1ヶ月に渡って3kmほどの距離を置いての、小競り合い&膠着状態が続いていたわけですが、秀吉が、ここ近江(滋賀県)に釘付けになっている間に、一益や信孝が動きを見せます。

そのために、秀吉が伊勢・美濃のほうへ向うと、今度は、こちらの近江のほうで、勝家側の佐久間盛政による大岩山砦への攻撃という形で、激戦への火蓋が切られるわけです。

そして、その一報を聞いた秀吉が、あの本能寺の変の後の中国大返しを彷彿とさせる猛スピードで再び近江へ戻り最後の合戦の突入・・・となるのです(くわしくは2007年4月21日のページでどうぞ>>)

ところで、冒頭でも書かせていただいた、この戦いで一躍有名となる賤ヶ岳の七本槍・・・一昨年も書かせていただいたように、福島正則加藤清正加藤嘉明(よしあき)片桐且元(かつもと)脇坂安治(やすはる)平野長泰(ながやす)糟屋助右衛門尉(かすやすけえもんのじょう)桜井佐吉石河兵助の9人で、なぜか9人なのに七本槍・・・てな話もさせていただきましたが・・・

そもそも七本槍が最初に登場するのは、小瀬甫庵(おぜほあん)『太閤記』で、ここでは桜井と石河を除く七人が七本槍として登場します・・・つまり、ここでの人数はちゃんと7人だったわけです。

もともと「○○の七本槍」というくくりに関しては、織田信秀今川義元が戦った小豆坂(あずきざか)の合戦で、勇猛果敢に活躍した織田方の七人を「小豆坂の七本槍」と呼んだのがはじまりだそうで、その後も、以前ご紹介した「姉川の七本槍」(6月28日参照>>)などもあったわけですが、やはり、聞いてわかる通り、なんとなく響きがよくカッコイイ!

それで、『太閤記』を書くに当たって、先の甫庵さんが、何かの史料をもとに、かの7人を選んで書き記したところ、これが評判となって、賤ヶ岳の合戦と言えば、『賤ヶ岳の七本槍』というのが定着したようです。

しかし、巷で『賤ヶ岳の七本槍』が評判になる一方で、『柴田合戦記』など、複数の史料には、この賤ヶ岳の合戦の後に秀吉から感状と恩賞を賜った者として、上記の9人の名前が書かれている事で、賤ヶ岳において特筆すべき活躍をしたのは、本当は9人なんだろうと考えられるわけですが、かの七本槍を選んだ甫庵さんが、桜井と石河を外した選択基準がわからないため、とりあえず「活躍したのは9人」でも、呼び方は「七本槍」という事で、今は落ち着いているようです。

まぁ、甫庵さんも、悪気はなく、何となく響きの良い「七本槍」と呼ばせたいために、9人いる事を承知で、7人に絞ったのでしょうが・・・

もちろん、その判断基準にも様々な推理がされていますが、最も言われているのは、七本槍の7人は、いわゆる秀吉の直臣・・・しかし、桜井と石河は、弟の家臣だったり養子の家臣だったりするので、この二人を外したという理由・・・。

また、石河はこの合戦で討死し、桜井も2年後に病死したので、甫庵が『太閤記』を書く頃(嘉永3年・1626年)には、すでに過去の人となっていたので・・・という事も言われますが、これに関しては桜井さんはそんなに早く死んでない説もあり、微妙です。

果ては、単に、複数の史料に載ってる名前リストの順番で、最後の二人を外しただけというのもあり、もはや、これは甫庵さん、ご本人に聞いてみないとわからない事なのでしょう。

・・・で、結局、七本槍として有名どころとなったかの7人も、
糟屋さんは関ヶ原で西軍について、早くも没落・・・
福島正則は広島城の修復工事を咎められて改易・・・
加藤清正の加藤家は松平忠長がらみで取り潰され(12月26日参照>>)
片桐且元も徳川と豊臣の板ばさみで苦労し(8月20日参照>>)

残りの3人・・・加藤・脇坂・平野の三家だけが、徳川幕府の下で江戸時代を過ごし、明治になるまで大名として存続されました。

いつの時代も生き残るのは大変です。
 

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2009年4月17日 (金)

島津義久・背水の陣~高城・根白坂の戦い

 

天正十五年(1587年)4月17日、豊臣秀吉九州征伐の最後の戦いとなった高城・根白坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

織田信長亡き後、柴田勝家を破り、徳川家康を傘下に収め、今や天下に一番近い男となった羽柴秀吉・・・さらに、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を攻めて四国を手に入れた秀吉にとって、未だ手付かずなのは九州でした。

そこへ、かつては豊後(大分県)の王と呼ばれ、一大キリシタン王国を夢見た大友宗麟(そうりん)が、薩摩(鹿児島県西部)島津勢に来襲され、秀吉に救援を求めてきます。

さらに、天正十四年(1586年)7月には、傘下にある岩屋城を落され(7月27日参照>>)、もはや、大友は風前のともしび・・・秀吉とて、今では九州全土を手に入れんが勢いの島津を、このままにしておくわけにはいきませんし、コレ幸いと、九州征伐に乗り出します。

しかし、平定したばかりの四国勢中心の秀吉軍は天正十四年(1586年)11月の戸次川の戦いで手痛い敗北を喫してしまいます(11月25日参照>>)

その翌月の12月、太政大臣となって豊臣の姓を賜った秀吉は、明けて天正十五年(1587年)3月、自ら20万(12万とも)の大軍を率いて、九州征伐に出陣します。

まずは軍勢を2隊に分けて、一つは自らが率いて肥後(熊本県)から薩摩へと・・・、もう一隊は、弟の豊臣秀長が率いて、豊後日向(宮崎県)から大隅(鹿児島県東部)へ入る事にします。

「さすがに、この大部隊とまともに戦ってはマズイ!」とばかりに、とりあえず九州北部を放棄した島津は、日向&薩摩を徹底的に守る作戦に出ます。

その最前線で食い止める防波堤の役割を荷ったのが、日向高城(たかじょう)城主・山田有信です。

そう、ここは、かつて、耳川の戦いの舞台となった場所・・・その時、有信は、わずかの城兵で、宗麟の大軍勢から、この高城を守り抜き、駆けつけた島津勢は、秘策・釣り野伏(のぶせ)で、大友勢に多大な損害を与えて大勝したのでした。
  (耳川の戦い・初日:11月11日参照>>
  (耳川の戦い・2日目:
11月12日参照>>

逆に、この敗戦によって陰りが見えはじめた大友が、坂道を転げ落ちるように衰退の道をたどる事になった戦いでありました。

そんな運命の場所を攻める事になったのは、豊後から日向へと南下してきた弟・秀長率いる8万の軍勢・・・まずは、数にものを言わせて高城を囲み、攻撃を仕掛けます。

Takazyoufuzinzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

その数の差の多さにしては、よく守った有信ですが、さすがにコレは違いすぎ・・・兵糧の補給路も断たれ、間もなく陥落寸前となるのですが、もちろん、島津も黙って見ていたわけではありません。

すぐに高城の救援へと向かう島津勢・・・しかし、島津が高城の救援へと向かう時に、必ず通るであろうと予想した野白坂には、すでに豊臣配下の蜂須賀家政黒田孝高藤堂高虎らが配置され、行く手を阻みます。

しかも、豊臣勢は、高城を取り囲むように、51箇所にも及ぶ付城(攻撃用の仮の城)を構築し、すでに完全な包囲網を築きあげていたのです。

数に劣る島津が、この包囲網を破るには、奇襲しかありません。

かくして天正十五年(1587年)4月17日島津義弘(義久の弟)率いる一軍が、根白坂に布陣する豊臣勢に夜討ちをかけました。

本来なら、油断していた兵士が、突然の奇襲に驚き、総崩れとなる・・・ところなのでしょうが、もはや、数々の激戦をこなしてきた豊臣勢は、数だけではなく、そのすべてにおいて島津勢を圧倒していたのです。

彼らが敷いたのは、包囲網だけではなく、情報網も・・・この義弘の奇襲は、事前に豊臣の知るところとなっていて、むしろ、彼らが待ち構えているところへ突入するかたちになってしまった奇襲軍だったのです。

そうなったら、ひとたまりもなく、島津勢は大打撃を受けてしまいました。

この時、慌てふためく島津勢に対して、豊臣勢がいかに冷静で余裕があったかのエピソードが『菅氏世譜(かんしせいふ)という文書に語られています。

戦いも終わりを告げようとする頃、1人の逃げ遅れた島津の足軽を発見した黒田配下の一隊は、われ先にその者を討ち取ろうとしましたが、その中の菅正利(かんまさとし)なる人物が、「あれは味方だ!討ち取るな!」と言った事で、皆、追撃をやめ、その足軽も、そのまま姿を消しました。

しかし、戦いが終ってから、やはり、あの足軽は敵であった事がわかり、皆が「アイツを逃したのはお前のせいだ」と言って正利を責めたのですが、その時、正利は・・・

「あの足軽を討ち取るのが一番な事は確かやけど、足軽のような身分の低い者を討ち取ったところで戦況が変わるわけやあれへん・・・けど、あれ以上追い込んで、もし、窮鼠猫を噛むで、あの足軽が向かってきたら、あの鉄砲で何人かは撃たれてたかも知れんやろ?
敵1人のために味方数人の損害が出たらアカンと思て、皆を止めたんや」

それを聞いて、皆、彼の冷静な判断に感心したという事です。

結局、この高城・根白坂の戦いで、もはや抵抗しがたい事を悟った総大将・島津義久は、薩摩に戻り、泰平寺にて剃髪し、秀吉に降伏の申し入れをします。

一方、援軍の見込みもなくなった高城でしたが、さすがは勇将の誉れ高き有信・・・その後も、しばらく抵抗を続け、豊臣の再三の降伏勧告にも屈せずにいましたが、ついに義久がじきじきに開城命令を出すに至って、やっと有信も降伏を決意したのでした。

九州の雄・島津を配下とした秀吉・・・この後は、関東の北条と、東北が残るのみとなりました。
 

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2009年4月11日 (土)

池田恒興の母に送った豊臣秀吉の手紙

 

天正十二年(1584年)4月11日・・・今日は、この日づけにまつわるエピソードを一つ・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

上記の日づけで書かれた、かの豊臣秀吉の手紙が現存します。

宛先は養徳院(ようとくいん)という女性・・・。

この養徳院という女性は、その昔、織田信長の乳母をやっていた女性で、信長さん誕生の日のページ(5月12日参照>>)に、その幼い頃のエピソードを書かせていただきましたが、赤ん坊の頃はたいへんなカンシャク持ちで、乳母がおっぱいを与えると、その乳首を噛み切ってしまって、しょっちゅう乳母が交代したというお話・・・。

しかし、若くて美しい一人の乳母だけには、そのカンシャクを起さなかったと・・・その乳母が、若き日の養徳院さんだったと言われています。

そのせいか、信長はことのほか彼女への情が深く、彼女が夫を亡くしてからは、その息子を武将として取り立て、家臣の1人として重用しました。

その息子というのが、池田恒興(つねおき)です。

本能寺で信長が自刃してからの恒興は、秀吉に従い、その後、秀吉と徳川家康の間で勃発した小牧長久手の戦いの最初の最初に、犬山城を奪取した人物です(3月13日参照>>)

しかし、その一連の合戦の中の長久手の戦いで、ともに参加していた娘婿の森長可(もりながよし)とともに、討死してしまいます。

その長久手の戦いがあったのは4月9日・・・(2077年4月9日参照>>)

そう、その秀吉の手紙は、その長久手の戦いの2日後にしたためられた物なのです。

「この度は勝入(しょうにゅう・恒興の事)親子の儀、なかなか、申すばかりも御座なく 候」で始まるこの手紙・・・

いつもの私的解釈で恐縮ですが・・・
「あなたの悲しんでおられる姿が目に浮かびます。
我々の軍も、もう、敵のすぐそばまで進軍していたので、彼らの不慮の出来事については、皆、たいへん悲しんでおります。

(恒興の)次男の輝政くんや、三男の長吉くんが無事だったのは、不幸中の幸い・・・悲しみの中の一筋の光です。

今後は、せめて、このお二人を取り立てて、面倒をみて差し上げたいと思います。

あなたの悲しみはたいへんなものでありましょうが、亡き恒興や長可のためにも、残されたお孫さんたちの面倒をみてあげてください。

これからは、今まで恒興の事を見ていたように、息子だと思って、僕の事を見ていただきたいと思います。

困った事があればおっしゃってください。
あなたの息子さんの代わりに、僕がなんでもしますから・・・」

以前、恒興さんとともに討死した森長可さんのページで、小牧の戦いで屈辱の敗戦をしてから、この長久手の戦いに挑む直前に書いたであろう遺言状をご紹介させていただきました(2008年4月9日参照>>)

その手紙も涙を誘うものでしたが、今日の秀吉の手紙も、かなり泣ける手紙ですね。

戦国・・・合戦・・・と言えば、華々しく活躍する武将や、美しく散っていく武将にばかりスポットが当たりがちですが、勝った者にも、負けた者にも、それぞれの親が兄弟が、そして子供たちがいる事を痛感させられます。

生き馬の目を抜く下克上の戦国・・・ひとたび合戦となれば、明日をも知れぬ命ですから、その時代に生きる女性たちは、おそらく、それなりの覚悟はいつでもできてはいた事でしょうが・・・でも、悲しいものは悲しい・・・

この長久手の戦いの後、最終戦である蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)にも敗れ、一連の小牧長久手の戦いが負け戦となったにも関わらず、その離れ業で、見事に家康を臣下にしてしまった秀吉の事を、「人たらし」(10月17日参照>>)・・・つまり、騙す=ハメるようなやり方で人を攻略すると書かせていただきましたが、悪く考えれば、この手紙も、その人たらしの一つなのかも知れません。

手紙に書いても、そのとおり思ってるかどうかなんて、心の中までは読めませんから・・・

しかし、たとえ、それが、人たらしの天才の八方美人的な発言であったとしても、この時の養徳院さんは、おそらく、この手紙に涙し、ありがたいと思い、その悲しみが多少なりとも癒えた事でしょう。

Dscn7634a800 姫路城:5層7階の現在の天守は、池田輝政が慶長六年(1601年)から8年間の歳月を費やして完成させました。

この時、すでに70歳を越えていたという養徳院さん・・・夫にも、長男にも、娘婿にも先立たれた彼女は、その後、秀吉よりも長く生き、あの関ヶ原の合戦の後に、次男の輝政が、播磨(兵庫県)姫路52万石の大大名に出世するまでを見届けて、慶長十三年(1608年)・・・94歳で、この世を去ったという事です。
 

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2009年4月 7日 (火)

桜花絢爛!醍醐の花見に行ってきました~

 

豊臣秀吉に思いを馳せながら醍醐の花見に行って参りました~

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

京都伏見近くにある醍醐寺(だいごじ)は、真言宗醍醐派の総本山。

弘法大師の孫弟子にあたる理源(りげん)大師・聖宝(しょうほう)が、山岳信仰の霊山であった笠取山一帯に貞観十六年(874年)に創建しました。

しかし、何と言っても、この醍醐寺の有名どころと言えば、あの天下人・豊臣秀吉の醍醐の花見ですよね。

Daigonohanami800 醍醐の花見

その醍醐の花見が催されたのは、慶長三年(1598年)3月15日の事・・・。

その頃の秀吉は、この国のすべてを手中に治め、まさに、夢のまた夢の生活を送っていた事でしょうが、一方では、前年からおこなっていた2度目の朝鮮出兵(11月20日参照>>)も思うように進まず、イライラもしていたでしょうし、何より、自らの老いをひしひしと感じていたのかも知れません。
この年の8月に亡くなります8月18日参照>>

Daigosidaret600以前、秀吉の吉野の花見でも書かせていただいたように、お花見は見るタマフリ(2月27日参照>>)・・・活き活きと花を咲かせ、今盛りの樹木の発する色の波長を全身に浴び、あるいは、目から体内に取り込む事で、その生命力を分けていただこうというもの・・・。

お祝いというよりは、落ち込んだ時、停滞の時期に、運気を好転させるために行うのがお花見・・・まさに、この時の秀吉は、そういった思いがあったのでしょう。

「こんな時だからこそ盛大にやろう!」

その準備は、かなり前から行われたようです。

当時、ちょうど親交を深めていた義演(ぎえん)が、第80代座主を務める醍醐寺で花見を行う事を決定した秀吉は、自ら下見に赴いたと言います。

しかし、この醍醐寺・・・歴史はあるものの、応仁の乱の戦火に遭い、当時はかなり荒れ果てた状態だったのです。

秀吉は、建物を再建し、庭を整備し、自分のため・・・というよりは、周囲の皆をいかに楽しませるかに重点を置いて、自ら指揮をとりながら、この醍醐寺の修復にあたったと言います。

特に、三宝院の庭園は、基本設計をしたのも秀吉・・・桃山文化の華やかさを今に伝える見事なお庭です。
*お庭は撮影禁止ですので、その目でお確かめください。

かくして3月15日・・・各大名を含む、従者1300人を従えて、盛大に行われた醍醐の花見・・・

Dscn7810at686 北政所・ねねを先頭に、淀殿・・・以下、側室の輿のあとには、あの前田利家の妻・まつの姿もあったとか・・・。

★醍醐寺では、毎年4月の第二日曜に、この時の花見を再現した『豊太閤花見行列』行われています。

当日の秀吉は、多くの女性たちと、多くの家臣に囲まれて、まさに、最後の一花を咲かせたといった感じであった事でしょうが、昨日の醍醐寺も、今盛りの桜が、人々を魅了していましたよ。

最も美しいポイントと言われる仁王門ですが・・・
やっぱり、最も、人の多いところでもあるわけで、平日とは言え春休み・・・人を、写さないように撮影するのは、ほぼ不可能の状態なので、仕方なく、こんなアングルで・・・

Dscn7830a800 醍醐寺・仁王門

秀吉ゆかりの三宝院は、建物内の見物も数珠つなぎで、波に乗って、何がなんやら、ワカラン間に出口のところまで来てしまいました~

三宝院の門内には、CMで有名(関西だけのCMだったらゴメンナサイ)な、クローンの桜と、DNA提供者の桜さんが・・・

Dscn7803a800 手前の左がクローンです

わたしも、従者を従えて盛大に・・・とは、いかないですが、豪華絢爛ならぬ桜花絢爛のタマフリをいただいて英気を養ってまいりました~といっても、昨日は、醍醐寺だけでなく、平重衡輔子さん(3月10日参照>>)を偲んでの日野一帯から奈良街道を通って、小野小町ゆかりの小野まで、全15kmほどを歩いてきましたので、ちょいバテ気味ではありますが・・・
 

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2009年3月28日 (土)

秀吉VS家康のにらみ合い~膠着・小牧の陣

 

天正十二年(1584年)3月28日、小牧長久手の戦いに出陣した羽柴(豊臣)秀吉が、小牧山城の北東・楽田城に着陣しました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

織田信長亡き後、血族としてその後継者となりたい信長の次男・織田信雄と、臣下としてその後を引き継いでいきたい羽柴秀吉が戦った小牧長久手の戦い・・・

武将としては、あまり力のない信雄が、秀吉に匹敵する相手・徳川家康に援助を求めたため、この一連の戦いは、歴史上唯一の秀吉VS家康の直接対決となった戦いです。

天正十二年(1584年)3月13日、秀吉傘下の池田恒興(つねおき)犬山城・攻略(3月13日参照>>)で火蓋を切ったこの合戦は、信雄という真の信長の跡継ぎを看板に掲げた東海一の実力者の家康と、ライバル・柴田勝家を倒して(4月24日参照>>)畿内の中枢を押さえ、もはや全国最大の武将にのし上がった秀吉との戦い・・・おそらく、勝ったほうが、今にも天下を治めんがばかりにあった、かの信長の位置に立つ事ができるのは明白です。

この戦いは、そういう意味で、全国の武将に大きな影響を与えた戦いでもありました。

もちろん、どちらにつくのか?という事です。

この時、家康は、次女・督姫(とくひめ)を嫁に出して同盟を結んでいた関東の北条氏直からの援軍を断りますが、一方では、いの一番に家康側に手を挙げた紀州(和歌山県)根来衆(ねごろしゅう)雑賀衆(さいかしゅう)とは、うまく連携を取り、畿内での彼らのゲリラ戦に悩まされる秀吉は、合戦の勃発後も大坂城を離れる事ができないでいたのです。

しかし、3月17日の羽黒での敗戦(3月17日参照>>)で、そうも言ってられなくなり、3月21日、秀吉自ら3万の大軍を率いて大坂城を出陣したのです。

もちろん、秀吉出陣のニュースを聞いた根来・雑賀衆は、翌日の22日には秀吉の南の最前線であった岸和田城を攻撃・・・その勢いで、26日には、大坂城近くにまで攻め上り、城にいた女子供たちが近江(滋賀県)坂本まで避難する事態となります。

・・・が、さすがに城の守りを預かる武将も、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)黒田長宇喜多秀家(うきたひでいえ)といった名将揃いとあって、この時は、根来・雑賀衆を追い返しています。

一方、近江を経由して美濃(岐阜県)に入った秀吉は、27日に犬山城に到着・・・到着後すぐに周囲を視察すると同時に戦況を把握し、天正十二年(1584年)3月28日小牧山城の北東約2kmのあたりの楽田城に布陣しました。

かたや信雄も、翌・29日に、伊勢長島から小牧山に移動し、家康と合流しました。

ここに、秀吉・8万と家康+信雄・1万6千は、わずかの距離を挟んだだけの一触即発の状態のまま、にらみ合う事となります。

・・・と書きましたが、以前の羽黒の戦いの後半にもチョコッと書かせていただいたように、ここでは、家康が、秀吉到着前の時間を利用して土塁などの構築を行い、完璧な守備を固めていたほか、お互いの出方をお互いが見極めようとしたため、大きなぶつかり合いはなく、いずれも小競り合い程度で、最初から最後まで、ほとんどにらみ合いのままでした。

一連の小牧長久手の戦いの中で、犬山城攻略から、ここまでを小牧の戦い」と、後半の長久手と区別して呼ぶ場合もありますが、上記のように、ここ小牧では大きな衝突がなかっため、この小牧での事だけを区別する場合は、小牧の陣、あるいは、小牧の対峙と呼びます。

ところで、この小牧の陣・・・大きなぶつかり合いはありませんでしたが、そのぶん、水面下での戦いが繰り広げられていました

それは、悪口の言い合い・・・そんなん効果あるんかいな?と以前も書かせていただきましたが、複数の史料にこの事が記されているところから、実際にあった事はあったようです。

有名なところでは、徳川四天王のひとり・榊原康政檄文・・・
「秀吉は野人の子で、馬を引く小者でしかなかったのが、信長の恩で出世して一人前の武将になれたのに、信長が死んだとたんに、その恩を忘れて国家を奪おうとしている非道の男である」といった内容のもの・・・

これを、周囲にばら撒いて、秀吉の悪口を言いふらしたのだとか・・・

ただ、これは、榊原側の史料にしか書かれていないため、この戦いでの榊原の活躍を強調するための作り話であるという向きもありますが、一方では、数々のよからぬウワサに対して、秀吉が最前線の、敵からよく見える位置に登場し、「おのれら、これでも喰らえ!」と、相手にケツを向けて、「お尻ペンペン」をした・・・なんて有名な話も、『大三川志(だいみかわし)『常山紀談(じょうざんきだん)には見られます。

そこには、秀吉のほうからも家康への挑戦状を送った・・・とありますので、きっと、お互いにやってたんでしょうねぇ・・・。

ただ、このように、現地では、ちょっとトボけた感じのする小牧の陣ですが、冒頭に書いたように、未だ傘下に入っていない地方の諸大名にとっては、秀吉・家康、どちらの味方をするのかは、今後の人生に関わる一大事なわけです。

信濃(長野県)では秀吉側の木曽義昌上杉景勝が家康側の保科正直(ほしなまさなお)小笠原貞慶(さだよし)と、関東では秀吉側の佐竹義重が家康の娘婿の北条氏直と、四国では仙石(せんごく)久秀長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と・・・そして、最も有名なところでは、秀吉の親友・前田利家VS佐々成政(さっさなりまさ)末森城の攻防戦(8月28日参照>>)があります。

このように、秀吉VS家康の火種が全国に飛び火する中、この現地でのこう着状態の悪口合戦にイライラ気味の二人が・・・

最初の口火こそ切ったものの、羽黒の戦いで手痛い負けを喰らってしまった池田恒興と森長可(ながよし・恒興の娘婿)・・・この二人を先頭に、汚名返上とばかりに突入していくのが、4月9日に勃発する後半戦・長久手の戦いという事なのですが、そのお話は・・・

・・・の、いずれかでお楽しみいただければ幸いです。
 

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2009年3月23日 (月)

大河ドラマ「天地人」に思うこと

 

本日は、歴史の話・・・というより、自分の見解or意見です。

今回の大河ドラマ「天地人」・・・歴史好きの間では、けっこうな不評となっています。

特に、言われているのは、主人公のミス・キャスト・・・

確かに、歴史が好きで、直江兼続の事をある程度知っている者から見れば、あのかたの兼続はあり得ない気がします。

直江兼続という人は、知略・計略に溢れる計算高い人で、どちらかと言えば戦争好き、さらに、その態度はいつも高飛車で「主君を軽んじている」とウワサされたのも確か・・・ただ、その分、実績も残してはいますが・・・。

イメージとしては、とてもじゃないが、少し気弱で心穏やかな愛あふれる人ではないような気がします。

歴史好きの中には、「大河ドラマは史実に忠実であってほしい」と願う人も多くいて、そんな視聴者から見れば、あの兼続は完全にミス・キャストで、毎回、驚くような内容が展開されているのが、今回の「天地人」です。

今回、全面に推しだされている「愛」というキーワード・・・

そもそもは、ご存知のように、兼続が、その兜の前立てに大きく「愛」の文字を掲げた事から、そのイメージが愛溢れる武将となり、それが全面に推しだされる形となったのでしょうが、一般的な歴史的見解では、あの「愛」は、愛染(あいぜん)明王愛宕(あたご)神社「愛」だと言われています。

愛染明王は中世から近世にかけて、恋愛の成功を叶えてくれる神様として、遊女や花柳界からもてはやされた、どちらかと言えば、煩悩丸出しの愛欲の「愛」・・・つまり、現代風に言えば「H」とか「エロい」という事になりましょうか。

そのため、遊女や花柳界の女性たちからは、人気を得るために祈りを捧げられた傾向があるようで、戦国武将の兜に掲げた理由としては、ちょっとないような気がします。

・・・って事で、以前、このブログの【長谷堂の戦い】(9月20日参照>>)のところでも書かせていただいたように、私個人的には、あの「愛」の文字は、愛宕神社の「愛」だと思っています。

愛宕神社自体は火災除けの神様・愛宕権現(1月24日参照>>)ですが、愛宕山のご本尊は勝軍地蔵・・・その名の通り、戦いに勝利をもたらす神として、戦国武将の間で大いにもてはやされた神様で、その姿も、武装して馬にまたがっておられます。

あの徳川家康が、江戸に転封となった際、いち早く、京都の愛宕神社を分霊して、江戸城の西に置き、江戸の町の守りを固めた事でも、当時の武将の信仰の篤い事がわかります。

もちろん、この愛宕神社は、越前・越後・陸前・安房・・・などなど、ここには、書ききれないくらいの場所に分霊され、その各地に今も愛宕の地名が残ります。

また、当時の武将で、「愛」の前立てを兜につけた武将も兼続だけではなく、他にいく人かの武将の物が残っているようですので、やはり勝利の神への意味合いが強いのではないかと思います。

さらに、「愛」という文字自体が、いわゆる現代人がイメージするような意味ではなかった可能性が大いにあります。

ご存知のかたも多いかも知れませんが、夏目漱石の逸話の中に、こういう話が出てきます。

弟子たちが多く集まった勉強会で、ある英語で書かれた恋愛小説の「I Love You」というセリフを、「どう日本語に訳すかね?」と漱石が問うたところ、皆、首をひねる・・・

・・・で、「漱石先生は、どう訳されますか?」と逆に質問され、
「今日は月がとってもきれいですね」
と答えたと言います。

また、あの二葉亭四迷も、この「I Love You」「死んでもいい」と訳しています。

つまり、当時は、まだ「愛してる」とか「愛する」という言葉が、日本語には存在せず、もっぱら男女のそういう場面には「情」という言葉が使われて、相手を「好きだ」という事の表現に「愛」という文字を用いる事はなかったらしいのです。

明治の頃でもそうなのですから、戦国の世に「愛」という言葉や文字が、現在のような意味で使用されていたとは、とても考え難い事ですね。

・・・と、長々と「愛」について書いてしまいましたが、「天地人」の原作者である火坂雅志氏は、この「天地人」のあとがきの中で、この兼続を小説の主人公にした動機を・・・

“中学時代に野球部に所属していた時、帽子のつばの裏に「愛」という字を書いていたが、歴史小説を書き始めた頃、自分と同じように「愛」の字を兜の前立てにした直江兼続という武将の存在を知り、「下克上の乱世に『愛』という優艶な言葉をキャッチフレーズにした男がいた」と感動して・・・”

という風に語っておられるようです。

そこらへんの歴史好きより、はるかに歴史におくわしいであろう火坂さんですから、おそらく、この兜の「愛」愛宕神社の「愛」かも知れないという事は、とっくにご存知のはず・・・上記のコメントは、『そこを、あえて、現代で言うところの「愛」を全面に推しだした愛溢れる武将として描きたかった』という事なのでしょう。

そこに、賛同したのが、大河のスタッフという事・・・

大河ドラマのホームページには、その企画意図として・・・
上杉家・景勝の家臣でありながら、豊臣秀吉徳川家康を魅了し、また、恐れられた男・・・上杉謙信を師と仰ぎ、兜に「愛」の文字を掲げた兼続は、その波乱の生涯を通じて、民・義・故郷への愛を貫きました。

「利」を求める戦国時代において、「愛」を信じた兼続の生き様は、弱者を切り捨て、利益追求に邁進する現代人には鮮烈な印象を与えます。
大河ドラマは失われつつある「日本人の義と愛」を描き出します!”

と書かれています。

つまり、女にハッパをかけられるくらい気弱な泣き虫で、敵でさえも斬る事をためらい、「ラブ&ピース」の博愛精神に溢れた兼続というのは、今回のドラマの作り手の意図なのです。

そう考えると主人公もミス・キャストではないような気がします。

ただ、やはり、冒頭に書いたように、「大河ドラマだからこそ史実に忠実に・・・」という歴史ファンも多くいて、もちろん、そういう意見がある事も認めますが、私個人的には、おりに触れて書いております通り、史実と、ドラマや小説は別物だと思っていて、それは、大河ドラマであっても変わりなく、主人公をどのように描くのかは、作り手の自由だと考えております。

第一、今、現在、知り得る限りの歴史に忠実・・・となると、当然、セリフの言い回しや時代考証なんかも、その対象になるわけで、おそらく、セリフは字幕スーパーなしでは、何を言ってるかわからず、時代考証通りにお化粧した女優陣は、お歯黒の白塗りで、とても現代人には美人とは思えないようなのがズラリと並うえ、普段の挨拶から座り方かた、立ち居振る舞いまでいちいち説明を加えなければならない状態で、そんなのを見て楽しいかどうかは、はなはだ疑問です。

さらに、誰かのやった事を別の主役クラスの人に置き換える事ができないため、その主人公が一生がかりで出会ったちょっとした人物までを、たった一年間に出演させねばならず、役者の多い事、山の如し」となってしまいます。

しかも、一番の問題は、何度も大河で登場する、義経や秀吉や龍馬やといった人物が、毎回役者が変わるだけで、史実にもとづいた同じような描き方をする事になってしまいます・・・これは、いけません。

・・・なので、たとえ、大河ドラマであっても、史実に忠実に描く必要はないと思っています。

しかし、そのぶん、見る側にも、一つの姿勢が必要です。

ドラマや小説で描かれた事が、そのまま歴史の事実だと思わずに、興味を持った事から、いろいろな史料を読んで、自分なりの人物像、自分なりの歴史の解釈をする事が大事な事だと思います。

ただし、作り手の自由に描いていいとは思いますが、出来上がった作品が物語としておもしろいかどうかは、また別の問題・・・そういう意味でも、この先、楽しみながら大河ドラマを見ていきたいと思います。

主人公が「泣かない」と言ったしりから号泣したり、冒頭で景虎「北条に上杉を乗っ取らせはせん」と言っておきながら、最後には、「三国峠で北条の軍勢に・・・」と、実家に頼り気味になる支離滅裂ぶりなところが少々気がかりではありますが・・・
 

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2009年3月17日 (火)

豪華絢爛!伊達男・政宗の出陣in文禄の役

 

文禄元年(1592年)3月17日、朝鮮出兵のため、全国から京都に集まっていた諸大名のうち、先発隊が九州に向けて出陣を開始しました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご存知、豊臣秀吉による朝鮮出兵=文禄の役ですが、その経緯や謎については、以前、秀吉自身が京都を出立する日に書かせていただいた【豊臣秀吉の朝鮮出兵の謎】(3月26日参照>>)を見ていただくとして、本日は、その出立の様子・・・

朝鮮出兵の際に、その本拠地となったのは、肥前(佐賀県)唐津にあった名護屋(なごや)・・・一旦、京都に集まった諸大名は、文禄元年(1592年)3月17日、隊列を組んで、その名護屋城に向けて出陣したのです。

彼らの勇姿を一目見ようと沿道には大勢の人だかり・・・見守る京都の町びとになったつもりで・・・

まず、先頭を行く一番隊は、前田利家隊・・・

加賀梅鉢紋をあしらった旗も勇ましく、鉄黒(かねぐろ)の甲冑・・・およそ2000の隊列は、加賀百万石にふさわしい威厳をかもし出しています。

やがて、その隊列が終ろうとすると、その向こうには、三つ葉葵の軍旗が見えてきました。

およそ3500の軍勢の中ほどには、あの金扇の馬標(うまじるし・馬印)が、朝日に光ります。
(金扇の馬標がどんな物かは、15代・慶喜が大坂城に忘れたお話とともにコチラでどうぞ>>

二番隊の徳川家康隊です。

・・・と、その時。

集まった民衆から、どよめきの声があがります。

竹に雀・・・仙台笹の家紋の軍旗に、紺地に金の日の丸をあしらった(のぼり)を、30本ほど風になびかせながら、黒の漆(うるし)の具足で統一された兵士たち・・・その黒一色の中に、ところどころ金の装飾が光ます。

刀と脇差は、朱色に銀の装飾で統一され、馬上の武者は、それぞれ豹や虎の馬鎧(うまよろい)に、金色の半月が書かれた黒の母衣(ほろ・背後からの矢を防ぐ布製の防具)で揃え、中には、孔雀の羽根でさらに豪華に演出する者も・・・

名のある武将は九尺(2m73cm)の太刀を背負い、それを金の鎖で肩に結ぶという画期的なスタイルで登場・・・

京都の人々のド肝を抜いた、この三番隊の武将は・・・ご存知、独眼竜・伊達政宗です。

華麗を極めたこの隊列のご本人は・・・

黒羅紗(らしゃ)の地、背中に大きな金色の家紋をあしらった陣羽織は、裾にいくにつけ紅羅紗の大小の水玉模様・・・さらに、袴は黒羅紗に金モールが放射状に広がり、おりからの春の日差しにキラキラと輝く・・・

赤の錦のひれ垂に、黒漆の五枚胴・・・もちろん、兜は、細く金に光る三日月の前たて・・・

金をふんだんに使った豪華さはあれど、派手になり過ぎないセンスの良さです。

政宗の幼い頃からつちかった芸術的センスが遺憾なく発揮された見事な隊列・・・

京の人々は、「さながら動く絵巻物を見るようだ」と絶賛したと言います。

皆口々に・・・
「さすがは伊達者は違う」
「あれが、伊達者か!」

と歓喜の嵐です。

オシャレな男の代名詞・伊達男(だておとこ)という言葉は、こうして生まれました。

まさに満開の桜吹雪の下、薄いピンクの花びらに、黒と金の豪華絢爛な隊列は、春の光を受けて、まばゆいばかりに輝いていた事でしょう。

カッコイイ・・・(≧∇≦)見たかったなぁ~

お詫び:個人的好みのため、政宗隊ばかりに密着で・・・ゴメンナサイです。
 

Dateotokocc こんな感じかな?と、久々にイラストを書いてみました。

もちろん、伊達男伊達政宗さんですよ!

陣羽織の模様は、黒地のは見た事ないのですが、以前、何かの雑誌で、紫地に水玉模様の入った政宗さんの陣羽織を見かけましたので、その雰囲気で描いてみました~

少し、イラスト書くのに時間がかかりすぎてしまいましたが、なかなかカッコよく仕上がりました~一応・・・満足・満足
 

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2009年3月11日 (水)

秀吉VS勝家~一触即発の賤ヶ岳前夜

 

天正十一年(1583年)3月11日、柴田勝家の北ノ庄出陣を聞いた羽柴秀吉が、来たるべき決戦に向けて近江佐和山城へ入りました

来たるべき決戦とは、ご存知、『賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦』です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、天下目前の織田信長本能寺(6月2日参照>>)にて倒れた後、山崎の合戦(6月13日参照>>)明智光秀を討ち、主君の仇を討った形になった羽柴(豊臣)秀吉は、その後開かれた織田家の後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)を有利に進め、後継者は、秀吉の推す信長の孫・三法師(さんほうし)に決定します。

その清洲会議のページで書かせていただいたように、その決定に不満なのは、対立後継者であった信長の三男・神戸(織田)信孝と、彼を推す織田家重臣の柴田勝家です。

その勝家はもちろん、会議に欠席した滝川一益(神流川の戦い:8月18日参照>>)も、秀吉に不満をブチまけますが、いずれも秀吉は一蹴・・・聞く耳を持ちません。

一方、岐阜城の信孝も、その時まだ、岐阜城にいた三法師を安土に移すよう秀吉が要請しても、それに応じないという抵抗姿勢を見せ、もはや、両者の関係は修復不可能な状態となってしまいます。

・・・が、しかし、11月2日になって、勝家は、前田利家らを派遣して、秀吉との関係を取り戻そうとします。

実は、コレ、勝家のその場しのぎの冬対策・・・本当に仲良くしようなんて気はさらさらありません。

そう、勝家の本拠地である北ノ庄は、豪雪地帯の越前(福井県)・・・先の清洲会議で決まった勝家の領地の最南端は、あの近江(滋賀県)長浜城ですから、もし、冬場に長浜を攻められでもしたら、援軍を派遣する事も容易ではありません。

さらに、勝家には、信長が畿内を手中に収めた時に石山本願寺や延暦寺と諸将が手を組んで包囲網を敷いたように、安芸(広島県)毛利氏四国長宗我部氏とともに、秀吉包囲網を造るという思惑もあり、そのための時間稼ぎでもありました。

しかし、秀吉もさる者・・・この勝家の和睦の申し入れに
「しても、いいよ!」
という口約束だけで、書面のほうは、
「みんなと話し合ってみないと・・・」
と、うまくゴマかしてしまいます。

・・・というか、その舌の根も乾かない12月7日、筒井順慶池田恒興(つねおき)らとともに、5万の大軍を率いて長浜城を囲んでしまうのです。

上記の通り、この時期の越前からの援軍が期待できない事は、長浜城主の柴田勝豊(勝家の養子)も承知していますから、半月も経たないうちに、この長浜城は開城されてしまいます。

次に狙うは、信孝の岐阜城・・・12月20日、秀吉は、岐阜城に向けて進軍を開始しますが、稲葉一鉄(いなばいってつ)をはじめとする美濃(岐阜県)国人(地元の半農の武将)たちは、すでに、秀吉の掌中に・・・

実は、この時、秀吉は、信長のもう一人の息子・次男の織田信雄の名前をフルに活用しています。

なんせ、勝家は、織田家の重臣・・・秀吉にとっては上司なわけですし、信孝にいたっては社長の息子なんですから・・・。

ただ単に、長浜城を囲んだり、岐阜城に兵を向けたりしたら、謀反人=反逆者になってしまいます。

とにかく、「この一連の行動は、信雄坊ちゃんの意向なのだ」という事を強調して事を運んでいたのです。

美濃の国人衆が早々と味方についたのも、この信雄坊ちゃんの署名した文書の効き目が大いにあったわけです。

・・・で、結局、地元の国人衆なしでは、決戦は不可能と判断した信孝は、あっさりと降伏・・・この時、何とか抵抗を見せる事ができたのは、伊勢方面を預かる一益だけでした。

一益は、秀吉方に属していた亀山城をはじめ、峯城国府(こう)関城などを奪い、秀吉との国境線の守備の強化を計ります。

何とか、踏ん張る一益相手に、少々苦戦気味の秀吉・・・勝家にとって、この時ほど春が待ち遠しい事はなかった事でしょう。

「自分たちが動けるようになるまで、何とか一益よ、踏ん張ってチョーダイ」と・・・

やがて訪れた2月28日・・・前田利長を先鋒に、佐久間盛政前田利家ら、北陸組先発隊が出陣します。

この日づけは、旧暦では4月の後半・・・待ちに待った春がやってきました~!

しかしながら、この年は、大変な豪雪だったらしく、春とは名ばかりの雪をかき分けかき分けの行軍だったようですが、何とか、一益がネをあげる前に出陣する事ができました。

そして、続く3月9日・・・いよいよ勝家が北ノ庄を出陣したのです。

一方、伊勢で苦戦中に、この勝家出陣の一報を聞いた秀吉は、すぐさま近江を目指し、天正十一年(1583年)3月11日佐和山城へと入ります。

秀吉側に集まったその数は4万・・・・。
対する勝家側は2万・・・。

翌・3月12日には、余呉湖の北にあたる最前線の行市山(ぎょういちやま)盛政が着陣・・・勝家も後方の内中尾山に陣を敷きます

その同じ日、秀吉は、長浜城へと場所を変え、両者、南北に分かれてのにらみ合い状態となり、3月17日には、秀吉がちょっかいをかけるも、勝家は、なかなか、その誘いに応じません。

・・・というのも、勝家は、今もなお、毛利や長宗我部の援助をあきらめてはいなかったのです。

彼らの返事を待ちつつ勝家は、自らの周辺に砦を築き始めます。

一方、秀吉が近江に行った事で、余裕ができた一益は、信孝と結託して、秀吉になびいた国人衆への攻撃を開始・・・

しかし、そうなると、近江の秀吉は、またしても動くしかなく、4月16日、今度は2万の軍勢だけを率いて、再び岐阜へと向かいます。

これを最大のチャンスと見て取った盛政は、自ら勝家に奇襲攻撃を提案・・・かくして、佐久間盛政の先制攻撃によって、賤ヶ岳の合戦の火蓋が切って落とされる事となりますが・・・。

その賤ヶ岳の合戦については、4月21日のページをご覧ください>>
 

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2009年1月26日 (月)

泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い

 

文禄二年(1593年)1月26日、文禄の役で、宇喜多秀家率いる大軍が、漢城北部の碧蹄館で、明&朝鮮軍と激突した『碧蹄館の戦い』がありました。

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大陸への野望か?老人の暴走か?

今以って、その理由が様々に取りざたされる豊臣秀吉朝鮮出兵・・・(3月26日参照>>)

文禄元年(1592年)4月13日の夜明け頃、釜山(プサン)に上陸した秀吉軍は、その昼には釜山城を攻略し、首都・漢城(ハンソン・現ソウル)を目指して北上・・・(4月13日参照>>)

当初は、朝鮮王朝に対して不満を持つ朝鮮人自身の協力もあって、3日後には慶州(キョンジュ)を攻略した加藤清正の2番隊を筆頭に、別働隊で動く小西行長の2番隊・黒田長政の3番隊が、破竹の勢いで進攻します。

Bunrokunoekikankeizucc↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

危険を感じた国王は、4月30日に漢城を脱出し、高麗時代の古都・開城(ケソン)へと向かいました。

その後、5月2日の夕方には、小西隊が漢城への無血入城を果たし、まもなく加藤隊も入城し、一方の国王はさらに北上して平壌(ピョンヤン)を目指しました。

翌日には、漢城を出て、さらに北上する小西隊や黒田隊と別れて、北東を目指した加藤隊は、一時は、国境を越えてロシアに迫る勢いでしたが、押されっぱなしの朝鮮王朝側も、ここらで一つ、反撃に転じます

5月7日、李舜臣(イスンシン)の率いる海軍が、巨済島(コジェド)沖に停泊する日本軍の船団に攻撃を仕掛けたのを皮切りに、それに同調した義兵が、陸上の各地でゲリラ戦を展開します。

戦況の変化に加えて、母・なかの危篤の知らせを聞いた秀吉は、自らの大陸への出陣を中止し、一旦京都へ・・・(11月7日参照>>)、代わりに、石田三成増田長盛(ましたながもり)大谷吉継(よしつぐ)奉行が朝鮮半島に向かいました

8月7日、奉行らを交えて漢城で開かれた軍儀では、「これ以上無理な北上はせず、漢城の防衛に重点を置くべき」との意見が大半を占め、これを受けて細川忠興(ただおき)が漢城を出陣・・・10月には晋州(チンジュ)を取り囲みます。

一方、すでに平壌まで北上していた小西行長は、8月29日、明国(みんこく・中国)の使者・沈椎敬(しんいけい)和睦交渉に入っていました

沈椎敬が、和睦の条件を北京にいる皇帝に伝えるというので、その間、休戦に入っていたのですが、これが彼の計略で、翌・1月、休戦中の小西隊を、明&朝鮮連合軍の大軍が、いきなり襲撃するのです。

不意の攻撃を受けて、やむなく撤退する小西隊は、とるものもとりあえず、後方にある鳳山(ポンサン)へと退却するのですが、ここを守っていたはずの大友義統(よしむね・大友宗麟の息子)は、すでに逃亡し、城はもぬけの殻・・・しかたなく小西隊も漢城まで戻りました

もはや、漢城の目の前までの敵軍の南下を確認した秀吉軍・諸将は、その目標を、漢城の徹底防衛一本に絞ります。

かくして文禄二年(1593年)1月26日宇喜多秀家率いる2万の軍勢が、漢城の北方にある碧蹄館(ビョクジェグァン)に布陣し、今後の戦況を左右する起死回生の一戦に賭けたわけです。

一方の明&朝鮮連合軍も、最前線である開城から4万の大軍を出陣させます。

前日から続く雨の中で繰り広げられた死闘は、何とか宇喜多隊が勝利し、連合軍は平壌へと撤退するのですが、もはや勝利した側にも疲れの色が濃く、追撃する力もありません。

さらに、先の細川隊が挑む晋州城も落せずじまいで、戦況の膠着(こうちゃく)状態が続く中、やはり、徐々に、秀吉軍にのしかかってくる問題となるのが兵糧です。

腹が減っては何とやら・・・もはや、兵士の士気もあがらず、漢城からの撤退も時間の問題で、城内は和睦ムード一色

そこで、行長を中心に和睦交渉が進められ、やがて、明の講和使節が、行長と三成に伴われて日本へとやって来る事になるのですが・・・。

ご存知のように、一旦和睦は成立するも、慶長元年(1596年)に再び・・・という事になるのですが、そのお話は、2度目の朝鮮出兵が終わりを告げる11月20日のページでどうぞ>>

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2009年1月22日 (木)

豊臣政権の要~大和大納言・秀長の死

 

天正十九年(1591年)1月22日、豊臣秀吉の弟・大納言秀長が51歳の生涯を閉じました。

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豊臣(羽柴)秀長は、秀吉の生母・なかが、再婚相手・築阿見(ちくあみ)との間にもうけた3歳年下の異父弟(同父の説もあり)と言われています。

永禄五年(1562年)、織田信長のもとで足軽頭に出世した秀吉が、故郷の尾張(愛知県)中村に立ち寄った時に、まだ農民として暮らしていた秀長を、自分のもとで働くよう誘ったのです。

温厚でおとなしい性格の秀長は、「自分に戦はできない」と言って断りますが、信長や家康のように、父の代からの家臣を従えている殿様と違って、裸一貫・農民から身を起し、未だ家来と呼べる家来がいなかった秀吉にとって、最も信頼できる家臣は、やっぱ身内・・・半強制的に連れ帰ります。

しかし、そのワリには、「よくもまぁ、こんな身近なところに、ここまですごいサポート役がいたものだ」と思うくらい、秀長は優秀な人物です。

ひょっとして、秀長がいなかったら、秀吉の天下はなかったかも・・・派手なパフォーマンスを好み、時に暴走しがちなほどの個性を持つ兄を、彼は、見事にサポートするのです。

長島一向一揆(5月16日参照>>)では、近江(滋賀県)今浜(長浜)を与えられたばかりで、築城や町づくりに忙しい秀吉に代わって先陣を努め、その後の秀吉の中国平定にもつき従います。

本能寺の変の後は、秀吉の天下分け目となった山崎の合戦(6月13日参照>>)はもちろん、賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)紀州征伐(3月21日参照>>)でも活躍し、但馬・播磨(兵庫県西部)和泉(大阪府)紀伊(和歌山県)を拝領します。

・・・とは言うものの、秀長の、合戦における具体的な活躍ぶりは、あまりくわしくは伝わってはいないのです。

それは、おそらく、常に副将として影に徹していたからかも知れません。

そんな彼が、大将として出陣する時がやってきます。

あの四国征伐・・・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)との決戦です。

体調を崩していた秀吉に代わって、3万の軍勢の総大将となった秀長・・・四国上陸直後から、破竹の勢いで次々と諸城を陥落させ、最後に残ったのは一宮城

しかし、この一宮城を守るのは、音に聞こえた名将の谷忠澄(たにただすみ)江村親俊(ちかとし)・・・ここで、少しばかり手こずってしまいます(7月25日参照>>)

ちょうど、その時、体の調子が良くなった秀吉は、「ほな、いっちょ、ワシが・・・」と、何やら四国へと出陣する様子・・・

今まで、影に徹してきた秀長・・・ここで、はじめて兄に逆らいます。
「出陣、御無用」
自分に任せてくれと、きっぱりと断るのです。

はたして、まもなく一宮城は陥落し、あの元親は秀吉の臣下となるのです。

ここに、温厚でおとなしい秀長に秘められた強い意志を感じます。

そんな彼だからこそ、個性的な兄と一度も衝突する事なく、猛スピードで駆け抜ける天下人のブレーキとなる事ができたのでしょう。

Kooriyamazyousi800 大和郡山城跡

この四国征伐の恩賞で大和(奈良県)44万石を加増された秀長は、大和郡山城に入り、これで、和泉・紀伊・大和の3カ国を支配する事になるわけですが、ここで、彼の内政手腕が発揮されます。

実は、彼の与えられた土地は、いずれも土豪や寺社勢力の強い場所で、本来ならとても新参者が治めきれないような場所・・・そこを、秀長は見事に、何の問題もなく治めます。

特に、大和郡山(こおりやま)では、本格的な城の改築とともに、城下町の整備を行い、「箱本(はこもと)という自治制度を定めました。

箱本とは、各町にそれぞれの営業独占権や地代免除などの特権を与えるとともに、当番制で町政を仕切る独特の自治制度で、これによって商工業が大いに発展し、現在の郡山の基礎となったと言われています。

わずか6年間の支配だったにも関わらず、今も、地元・郡山に秀長さんのファンが多いのは、そういったところにあるのかも知れません。

やがて、九州を平定し、太政大臣となって豊臣の姓も賜り、名実ともに天下人となった秀吉の政権下で、要となった彼の存在は・・・
『内々の儀は宗易、広義の事は宰相』「私的な事は千利休に、公の事は秀長に頼め」と称されるまでになっていました。

最終的に、従二位・権大納言(ごんだいなごん)にまで昇進した秀長は、これ以降、大和大納言と呼ばれます。

しかし、そんな秀長は、湯治に訪れた有馬温泉で病となり、郡山城に戻っても快復せず、天正十九年(1591年)1月22日、帰らぬ人となりました。

Dainagonduka800 大納言塚:秀長の墓所(大和郡山市)

秀長が、秀吉にとって、いかに重要であったか・・・

彼の死後、わずか3ヶ月で起こったのが千利休切腹事件(2月28日参照>>)

一年後には、朝鮮出兵(3月26日参照>>)

さらに、その2年後に秀吉は、甥・豊臣(羽柴)秀次を切腹に追いやり(7月15日参照>>)、その2年後には、再びの朝鮮出兵(11月20日参照>>)に、長崎でのキリスト教徒の処刑(2月5日参照>>)と・・・。

秀長の死から、わずか6年間で、まるで、タガが外れたかのような秀吉の一連の行動・・・後世の人々が、「秀長がもう少し長く生きていたら、豊臣の滅亡はなかったかも知れない」と思ってしまうのも無理はありません。

現在、その、奈良県大和郡山市にある秀長の墓所:大納言塚の前には、『お願いの砂』という砂が置かれています。

願い事を唱えながら塚の前の砂を持ち帰り、願い事が叶えば返しに来るというその砂・・・これは、その昔、庶民の願い事をしっかりと聞いてくれたという秀長さんに由来する言い伝えなのだとか・・・
その人柄がうかがえるエピソードです。

秀吉を影で支えた、名サポーターの死とともに、豊臣家の悲惨な末路が決定づけられたのかも知れません。

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秀長がその基礎を築いた「大和郡山」の城下町を、HPの歴史散歩で紹介しています・・・
よろしければコチラからどうぞ>>
 

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2009年1月19日 (月)

時代とともに生きた~東西・二つの本願寺

 

天正十九年(1591年)1月19日、豊臣秀吉七条堀川の寺地を、十一世法主・顕如に寄進・・・本願寺が京都に移る事になりました。

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本願寺については、すでにブログで度々書かせていただいていますので、以前のページと少し内容がかぶるかも知れませんが、ここは一つ、秀吉が寺地を寄進したのをきっかけに、東西の本願寺について書かせていただきたいと思います。

開祖の親鸞聖人(11月28日参照>>)より続いた浄土真宗は、中興の祖・蓮如(2月25日参照>>)によって、加賀信徒の国を誕生させる程の発展を遂げます(6月9日参照>>)

やがて、天下統一をもくろむ織田信長と対立した本願寺は、長島一向一揆(9月29日参照>>)加賀一向一揆(11月17日参照>>)と連動した10年に及ぶ石山合戦(11月6日参照>>)の末、天正八年(1580年)3月17日、正親町(おおぎまち)天皇の仲介によって和睦交渉が成立し、本拠地である大坂石山本願寺を明け渡す事となります。

この時の法主(ほっす)は第11代の顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)・・・そのページでも書かせていただいたように、4月9日に顕如が石山本願寺を出た後も、長男・教如(きょうにょ)は、なおも籠城を続け、信徒に対して徹底抗戦を呼びかける教如と、戦いを終らせようと呼びかける顕如のハザマで、信徒は大きく揺れ動きます。

そして、兄・教如が石山本願寺に居座り続ける数ヶ月の間に、顕如が弟の准如(じゅんにょ)を後継者に指名してしまった事で、後に話がややこしくなるのですが・・・とりあえずは、明け渡し期限ギリギリの8月2日、教如も石山本願寺を退去し、ようやく信長に渡されます。

しかし、その本願寺を手に入れた信長は、その跡地に手をつける事なく、その2年後、本能寺で亡くなってしまいます。・・・(この石山本願寺の跡地には、後に秀吉によって大坂城が築城されます)

信長の死後、天正十一年(1583年)に、事実上の後継者争いとなった織田家重臣の柴田勝家VS羽柴(豊臣)秀吉賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦(4月21日参照>>)の時には、本願寺坊官(ぼうかん・世話係の僧侶)下間頼廉(しもつまらいれん)が、「加賀の信徒を動員してお味方しまっせ」と、秀吉に囁いたのだとか・・・。

戦国乱世には、政治にまで介入し、徹底的に権力と戦った本願寺も、どうやら、このあたりで、その方向性を、権力への対抗から権力の庇護のもと生きる事に変えたようです。

そうなると、独立国家を造るほどの激しさはなくなったとは言え、まだまだ全国各地に大勢の信徒をかかえる本願寺ですから、彼らが味方につくかつかないかで、戦況が左右される事も考えられます。

その方向転換をいち早く察した徳川家康は、賤ヶ岳の合戦から8ヶ月後の12月、かつて領国で勃発した三河一向一揆(9月5日参照>>)のせいで実施していた三河国内での浄土真宗の禁制を、ここで解除しています。

そして、翌年、やはり信長の後継者を巡って、家康を味方につけた信長の次男・織田信雄と、秀吉の間で勃発した小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)で、家康は、ここぞとばかりに、昨年、禁制を解除したばかりの本願寺信徒を味方につけようと、かの顕如に働きかけますが、顕如はこれを拒否します。

当然、秀吉は、この顕如の態度に大喜びし、早速、顕如に対して、大坂・天満に寺地を寄進・・・さらに、天正十九年(1591年)1月19日、京都の七条堀川という一等地に広大な寺地を寄進したというワケです。

Karamon800 西本願寺:唐門

かくして、本願寺は天文元年(1532年)に山科(やましな)本願寺という本拠地を消失して以来、約60年ぶりに発祥の地・京都に戻ってくる事になりました。

この京都の本願寺の建設中に、顕如が亡くなった事で、第12代法主として後を継いだのは、あの教如でした。

この後継ぎは、すでに秀吉の許可を得たものでありましたが、そこに「待った!」をかけたのが・・・そう、顕如から後継者として指名されたと主張する弟・准如です。

しかも、准如には生母の如春尼(にょしゅんに)が味方についており、顕如直筆の「譲状(ゆずりじょう)もあると・・・

ちなみに、この如春尼さんは、教如さんの生母でもあるんですが、どうやら兄貴とは仲が悪く、末っ子を可愛がっていたようですね。

・・・で、結局、秀吉が中に入って、「10年間は教如が宗主を務め、その後、准如に譲る」という約束を両者にとりつけて、何とか、この後継者争いに、一応の決着をつけました。

ところが、その采配に不満を持った教如側の僧侶たちが「譲状はニセ物だ!」と騒ぎはじめ、再び一触即発の状態へと戻ってしまいます。

これに怒った秀吉が、「ワシの采配が気に入らんのかい!」と逆ギレ・・・「ほな、10年と言わず、今すぐ譲れや!」と、教如を引退に追い込み、准如を第12代法主と定めたのでした。

その後、しばらくの間、不遇の生活を余儀なくされた教如でしたが、再び、日の目を見る時がやってきます。

そう、慶長三年(1597年)に秀吉が亡くなった後、時は慶長五年(1600年)・・・関ヶ原の合戦の直前に、家康の陣中見舞いに訪れた教如・・・あの小牧長久手の戦いの時に、冷たくあしらわれた家康は、ここですり寄って来た教如を全面的にバックアップする決意を固め、准如を排除するつもりでいました。

ところが、ここで進言したのが、重臣・本多正信・・・彼は、あの三河一向一揆の時、浄土真宗にどっぷりハマり、家康に対抗して一度は徳川を去った人です。

「どちらか一方に味方すれば、他方に不満が残り、また争いになるかも知れません。ここは一つ、准如の本願寺はそのままに、教如に別の寺地を寄進してはどうでしょう?」

Dscn3490a600h さすがに、一度ハマッた人の言う事は違う・・・これで、本願寺信徒の力を半分にする事ができます!

たとえ、全国に信徒がいて、その信仰心が厚くとも、もはや、戦況に介入する事はありません。

こうして、慶長七年(1602年)、家康は教如に対して、六条烏
東本願寺           (からすま)寺地を寄進します。

こうして、先の准如が、そのまま第12代法主を務めたのが西本願寺、新たに教如が第12代法主を務めたのが東本願寺・・・ここに、東西二つの本願寺が誕生しました。

東西本願寺への行きかたは
   
HPの「七条通りを歩く」へどうぞ>>
 

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2008年12月30日 (火)

阿波の古ダヌキ~蜂須賀家政

 

永禄元年(1558年)12月30日、智略に長けた戦国武将・蜂須賀家政が誕生しています。

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蜂須賀(はちすか)・・・という名字で、お気づきかと思いますが、本日の主役・蜂須賀家政さんは、蜂須賀党という野武士軍団を統率して、豊臣秀吉の天下統一に一役買った、あの蜂須賀小六(正勝)の長男です。

永禄元年(1558年)12月30日、父・小六と、宮後村八幡社(愛知県江南市)の神官の家系であった母・まつとの間に生まれ、幼い頃は、母の縁から本誓院(ほんぜいん・江南市)に預けられ、手習いなどの勉学に励みました。

やがて、父とともに秀吉に仕え、中国の毛利攻めや山崎の合戦にも参戦・・・特に、天正十三年(1585年)の四国征伐(7月25日参照>>)では、宇喜多秀家らとともに屋島から讃岐方面の攻撃を担当し、木津城・一宮城・脇城を攻めて武功をあげました。

その恩賞として蜂須賀家に与えられた阿波(徳島県)18万石・・・父の小六が、大名の座を固辞し、秀吉の側近として生きる事を望んだため、父に与えられるはずの、その18万石を譲り受けて、息子・家政が当主となり、徳島城を築城・・・これは、後々阿波藩の基礎を築く事になります。

翌年の天正十四年(1586年)に父が亡くなった後も、九州征伐、そして、朝鮮出兵と大活躍し、ここまで、どっぷりと秀吉の忠臣として生きてきた家政でしたが、その秀吉が亡くなった後の、例の関ヶ原の合戦で・・・さぁ、困った!

なんせ、家政の息子・至鎮(よししげ)の嫁さんは、あの徳川家康の養女・・・しかも、その息子は、その時、家康とともに上杉討伐軍として出陣しています。

・・・かと言って、今までの蜂須賀家の経緯から考えたなら、当然恩義ある豊臣家を裏切る事もできません。

しかし、家政には、すでに、この後の徳川の世が見えていたようで、ここから、その智略の達人の本領発揮!

後に、あの伊達政宗から、「阿波の古狸(ふるだぬき)なるニックネームをいただく事になる、一連の行動のスタートです。

まず、自分は西軍(豊臣)につき、豊臣家への義理を果たします。

そして、息子・至鎮は、そのまま東軍(徳川)に残り、これで、ひとます、西軍・東軍、どちらが勝っても蜂須賀家が生き残れる状態に・・・。

さらに、戦闘が始まると、自分は病気と称して大坂城にとどまったまま、家老を代理の大将にして合戦の現場に向かわせたのです。

・・・で、結局、その関ヶ原の合戦は、ご存知のように東軍の勝利となるのですが、その後、帰国した家老を、即日、蟄居(ちっきょ・謹慎の重いヤツ)にして、最終的に自刃に追い込みます。

そうです。
後々、家康に、「西軍に味方をしたのでは?」と責められた時、
「あれは、家臣が勝手にやった事」・・・

しかも、すでに、その罪を問い詰めて、切腹という処分を下し、解決済みだと・・・

さらに、とどめの一発として、すぐさま剃髪し、蓬庵と号して隠居・・・即座に息子・至鎮に家督を譲ったのです。

結果、蜂須賀家は、何のお咎めもなしで、阿波の所領は安堵となりました。

卑怯と言えば卑怯なやり方ですが、世は戦国・・・おかげで蜂須賀家は、代々生き残り、無事に明治維新を迎えるわけですから・・・

良くも悪くも、さすが・・・イヨッ!古狸・・・
 

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2008年12月10日 (水)

いよいよ小田原攻め開始~その軍儀の内容は?

 

天正十七年(1589年)12月10日、京都聚楽第において、北条氏の小田原城攻めの軍儀が行われました。

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四国・九州を平定し、関白の座の手に入れた豊臣秀吉にとって、残るは関東と東北・・・東北では、米沢城伊達政宗山形城最上義光(よしあき)が2大勢力であったわけですが、関東は何と言っても北条早雲以来100年に渡って君臨してきた北条氏・・・。

当時の北条は、家督こそ、息子の北条氏直が継いでいたものの、実権は未だ父の氏政が握っており、しかも、秀吉にはやや反抗的な態度をとり続けていました

その強気の奥底には、未だ秀吉の勢力圏外の東北が背後に控えている事と、前方の東海地方に勢力を持つ徳川家康の娘を嫁に取り、同盟を結んでいた事があったでしょう。

氏政にしてみれば、「北条と伊達と徳川が協力すれば、秀吉に対抗できる」とのもくろみがあったに違いありません。

しかし、ここに来て、あの小牧長久手の戦いの結果、事態は大きく変化しました。

家康は、秀吉の妹・旭姫と結婚して同盟が結ばれ、秀吉に従う決意を固め(10月27日参照>>)、このところは、秀吉の意向を受けて、北条を説得する立場となっていました。

再三再四、氏政・氏直親子に、上洛して秀吉に挨拶するように働きかけ、(挨拶に)来にゃーなら、娘を離縁して返してちょ」とまで言っていて、さすがの氏政も、韮山(にらやま)城主で弟の氏規(うじのり)を上洛させたりしますが、やはり、本人がやって来る事はありませんでした。

そんな中、起きたのが例の北条による名胡桃城(なぐるみじょう)奪取事件(10月23日参照>>)です。

秀吉は、すでに2年前の天正十五年(1587年)12月3日付けで『関東・奥両国惣無事令』という、関東と東北の大名同士の私的な争いを禁じる法律を関白の名のもとに出していますから、これは、明らかに違反行為・・・。

この北条の違反行為は、もともと、「自分の傘下に入る気がないのならぶっ潰したる」と思っていた秀吉には、好都合・・・「待ってました!」と言わんばかりに、事件の1ヶ月後の天正十七年(1589年)11月24日付けで、5か条からなる書状を氏政・氏直親子に叩きつけ、小田原攻めの宣戦布告をしたのです。

かくして、天正十七年(1589年)12月10日、秀吉は、徳川家康・前田利家・上杉景勝らといった面々を聚楽第に呼び、小田原攻めの作戦会議を開くのです。

そこで決められた内容は・・・

  1. 長束正家(なつかまさいえ)を兵糧奉行とし、黄金2万枚で伊勢・尾張・三河・遠江・駿河の米を買占め、20万石を収集する。
  2. 東海道の各駅を整備し、そこに軍用の伝馬(でんま)50頭を用意する。
  3. 出陣は天正十八年2月1日から3月1日までとする。
  4. 伊賀より東の東海道沿線諸国+近江・美濃の兵で東海道を攻め上る・・・先鋒は徳川家康隊・3万、大将は豊臣秀吉本隊・14万。
  5. 越後+信濃の兵で東山道から上野・武蔵に南下・・・先鋒は真田昌幸隊、大将は前田利家と上杉景勝隊・合計3万5千。
  6. 中国+四国&紀伊+伊勢の水軍・合計1万は東海道沿岸を航行して東へ行き、小田原を海から囲む。

以上のような基本方針のもとに、翌日から、早速、準備が開始されますが、この他にも、沿線の各城の守備隊を含め、小田原攻めは総勢22万の大軍となりました。

東海道を行く本隊の先鋒に家康を据えたのは、もちろん、家康に北条との決別をはっきりとつけさせるため・・・その忠誠心を確かめるためです。

後の、関ヶ原の合戦の時に、家康が、自分は江戸城に居ながら、豊臣恩顧の武将たちを先に西へと向かわせたのとまったく同じ・・・(8月11日参照>>)

さすがに、家康も、この事は重々承知で、秀吉への忠誠心をより表すべく、このタイミングで三男の長丸(ちょうまる)を、人質として秀吉のもとに差し出しています。

秀吉も、「未だ北条に未練があるのでは?」と気になっていた家康のこの行為を大いに喜んで、長丸を聚楽第にて元服させ、自らの一字を与えた秀忠と名乗らせます。

そう、あの2代将軍となる秀忠です。

かくして、先鋒の家康隊のさらに先発隊として本多忠勝・井伊直政・榊原康政らが2月7日に出陣・・・秀吉自身も、3月1日に京都を発ち、あの小田原攻めが開始される事になるのですが、そのお話は、すでに書かせていただいておりますので、続きは2008年3月29日のページでどうぞ>>
 

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2008年12月 1日 (月)

大阪城に生きた虎が?~大阪の昔話・大坂城の虎

 

まずは、大阪に伝わる昔話『大坂城の虎』をご紹介しましょう。

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豊臣秀吉朝鮮出兵(3月26日参照>>)・・・これがたいした負け戦で、このまま日本に帰ったらカッコわるいと思った加藤清正は、せめてもの手土産にと、虎を生け捕りにして日本につれて帰ってきました。

そして大坂城の門のところに大きな檻を作って飼うことになりましたが、これがまたたいへんな大飯食らい・・・。

困った秀吉は「毎日、1匹ずつ、町の者たちから犬を差し出さして虎の餌にする」というおふれを出し、命令を受けた役人たちは、大坂中の犬を次々と引っ立てていきました。

犬を飼ってる人達にとっては大変なことですが、とりあえず太閤さんの命令にさからうわけには行きませんので、皆、しかたなく差し出したのです。

こうして、毎日々々、虎を見ただけでふるえあがり、身動きできない犬たちを、虎はペロリと1口で食べてしまうのでした。

そんなある日、天満で金物屋を営んでいた徳八という男のところにも、役人がやってきて飼い犬のリキを差し出すよう命令しました。

リキをたいへんかわいがっていた徳八は、「かんべんしてやってくれ」と頼みましたが、逆に「犬を差し出さないならお前が虎の餌になれ」と役人に言われ、泣く泣く・・・最後にたっぷりと餌を食べさせて、やさしく毛並みをなでてやって、お城へ連れていきました。

役人は荷物を受け取るようにリキを受け取ると、ポ~ン!っと虎の檻に投げ込みました。

とたん、リキは身構えます。
他の犬みたいに震えあがりませんでした。

虎のほうも、コイツはいつもと様子が違う・・・というのに気づいてすぐには手を出さず、じ~っと様子を見ます。

長い沈黙のあと・・・リキは、虎の首根っこめがけて飛びかかり、みごと虎の首にガブリと噛み付きました。

虎は「ウォーッ!」と叫び声をあげて暴れ、リキの体を前足の爪で引っかきますが、リキは「放すものか」と噛み付いたまま・・・。

しかし、虎の爪はたいへん鋭く、やがて、リキはぱったりと倒れて息耐えてしまいましたが、虎は虎で、首からどくどくと血が流れてぐったりとなり、ほどなく死んでしまいました。

驚いた役人は、「犬の罪は、飼い主の罪や!」と、徳八をしばりあげてつれていってしまいました。

しかし、犬を飼っていた大阪の人々は大喜びして、天満の町の片隅に名犬リキの墓をたててやったということです。

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以上が、大阪に伝わる昔話ですが、かくいう私が生まれ育ったのは大阪城のすぐ近く・・・子供の頃には、「豊臣秀吉は、虎の脳みそを食べて死んだ」というのがもっぱらの噂で、ずっと信じておりました。

ところで、上記の昔話の、細かなところはともかくとして、「生きた虎」というのが、本当に大坂城にいた可能性というものはどうなんでしょうか?

そんな中、虎退治として有名なのは、やはり昔話にも出てきた、かの加藤清正で、昔から端午の節句の武者人形の題材になったり、錦絵になったり・・・『常山紀談(じょうざんきだん)『名将言語禄』など文書としても多く語られます。

ただ、さすがの清正も、あの勇猛果敢な虎を、錦絵のように単独で捕獲したという事は考え難いですが、文禄二年(1593年)頃の話として、虎は長寿の薬と伝え聞いた秀吉が虎狩りを指示し、朝鮮半島の渡った大名たちが、太閤殿下のご機嫌を取ろうと、こぞって虎退治を行ったという話もあり、虎狩り自体は、どうやら事実のようです。

しかも、虎狩りのために何人もの死傷者が出たために、最後には「虎狩り中止」の命令も出たようですから、やはり、諸大名こぞって・・・というのは本当のようですね。

朝鮮半島の人々が、日本軍の侵攻を恐れて山に逃げた時、「夜になると、虎防止のための火が焚かれるため、日本軍の兵士たちから見れば、彼らがどこに隠れているのかが丸わかりだった」なんていう話もあり、半島では、そこらへんに虎が出没していたのも事実のようですしね。

内臓は塩漬けにされて秀吉のもとに送られ、皮はしとめた大名の物になった・・・というような記録は残っているものの、上記の昔話のように「生きたまま・・・」というのは、どうなんでしょう?

京都の二条城には、狩野派の手による『竹林虎群図(ちくりんこぐんず)という襖絵が残っていますが、虎群図と言いながら、書かれているのは虎と豹・・・実は、江戸時代でも、縦縞の大きな虎が虎のオスで、それより小ぶりなまだら模様の豹が虎のメスだと思われていたようで、やはり、それだけ珍しい、見た事もない動物という認識が高かったように思います。

犬や猫のように飼う・・・というよりは、どちらかというと、鳳凰や龍のように、神様にも似た崇める対象だったようにも思いますね。

昔話の内容は、ちょっと権力を掴んだせいで調子に乗って、大阪弁で言うところの「イキリ過ぎ」の太閤さんに、「難波の庶民のド根性見せたろか!」てな雰囲気が込められているような気がします。
 

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2008年11月24日 (月)

信長を一番困らせた男~本願寺・顕如

 

文禄元年(1592年)11月24日、浄土真宗・本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)が50歳でこの世を去りました。

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考えて見れば、あの織田信長を一番悩ませた人は、当時、群雄割拠していた戦国武将ではなく、この顕如だったのかも知れませんね。

浄土真宗の中興の祖・第8代の蓮如(れんにょ)の時代に大きく信徒を増やした真宗は、蓮如がいさめるにも関わらず、長享二年(1488年)6月、加賀一向一揆を起し、武士の支配下とならない百姓の持ちたる国を誕生させました(6月6日参照>>)

以来、武力を持つ巨大な集団は、時には対立する武将と衝突しながら、時には援助してくれる武将と同盟を結びながら・・・第10代・証如(しょうにょ)の頃には、「戦って討死した者の極楽浄土は間違いない!」というような考えが蔓延し、「進めば極楽、退けば地獄」のスローガンのもと、各地に巨大な信徒の都を造りあげていました。

その証如の時代に、本願寺は、京都・山科から、大坂・石山(現在の大阪城公園付近)へと本拠地を移し、堀をめぐらし土塁を築き、大阪湾のデルタ地帯に、一大自由都市として出現するのです。

Isiyamahonganzimokei330 石山本願寺(模型)

天下統一を狙う信長にとって、支配下に治まらない自由都市はあってはならない物・・・宗教が政治に圧力をかける事もあってはならない物・・・

やがて、証如の後を継いだ第11代・顕如は、ことごとく対立する信長を仏敵とみなし、元亀元年(1570年)8月、「打倒!信長」を、諸国の信徒に呼びかけるのです。

10年にわたる石山合戦の勃発です。

各地から信徒たちが、続々と石山本願寺に集結するとともに、越前(福井県)長島をはじめ、各地で大規模な同時多発一揆。

特に長島一向一揆では、信長の弟・信興が一揆衆の攻撃によって自刃に追い込まれただけでなく、信長自身もが命の危険を感じるという、最大のピンチを経験しています(5月16日参照>>)

さらに顕如は、信徒だけでなく、奥さん・如春(にょしゅん)の姉が武田信玄の正室・三条の方であるという戦国武将の政略結婚さながらのパイプを使って信玄をも動かし姉川の合戦(6月28日参照>>)で信長に負けた浅井・朝倉とも連携し、越後の上杉とも和解し、支援を求めます。

Nobunagahouimouisiyama 以前、長島一向一揆のページにupした図ですが・・・

西国の雄・毛利などは、わざわざ大量の水軍を動員して、海からの兵糧補給に努める大サービス!

信長にそのプライドをズタズタにされた15代将軍・足利義昭がらみとは言え、信長を360度取り囲むこの包囲網を造りあげるあたりの顕如さん、僧侶にしておくのはもったいないくらいの大した政治力です。

もはや、信長も風前のともしび・・・・と思いきや、やがて、信玄と謙信が亡くなり、大阪湾での海上戦に毛利が敗れた(11月6日参照>>)頃から、徐々に形勢が逆転しはじめます。

海上が信長に制圧されてしまっては、さすがの石山本願寺も、いずれ飢えが訪れる事は必至・・・ちょうど、そのタイミングで、信長から正親町(おおぎまち)天皇を通じての、講和が持ちかけられます。

信長とて、すべての敵を一度に相手にすれば己が危ない・・・一つ一つ個々にケリを着ける作戦に路線変更したのです。

天正八年(1580年)3月17日、顕如は、7月までに本願寺を明け渡す約束で、信長との講和を成立させ、ここに石山合戦が終了しました。

約束に従って、顕如は、4月9日に本願寺を退去し、紀州(和歌山県)鷺森(さぎのもり)へと身を寄せましたが、顕如の長男・教如(きょうにょ)は、なおも、本願寺内に居座りつづけ、各地の信徒に戦い続けるよう檄文を送ります。

対して、顕如は、各地の信徒に「戦いをやめよう」との手紙を送り、従わない教如に代わって、弟・准如(じゅんにょ)を、自分の後継者に指名します。

ただし、この親子の反目には、本当は芝居だったというウワサもあります。

つまり、ともに信長のその後の行動に不審を持っていた二人が協力して・・・
父・顕如が先に本願寺を出て信長の様子を見ぃ~の、教如が期限ギリギリまで踏ん張りぃ~の、牽制しぃ~ので、講和を守らせようとした・・・というのです。

本当のところは、藪の中ですが、結果的に講和は守られ、教如は期限ギリギリの4ヶ月後に本願寺を退去・・・8月2日に信長に引き渡されました。

しかし、この引渡しの前後で失火が起こり、石山本願寺は炎上してしまいます。

しかも、こうまでして手に入れた石山本願寺の跡地に、何の手を加える事もないまま、信長は2年後の本能寺の変で亡くなってしまいます。

その後、天下を取った豊臣秀吉と、顕如は良好な関係を築き、引き籠っていた紀州から、和泉・願泉寺へとその身を移しますが、この時期に、あの徳川家康が動きます。

それは、以前、三河領内で起こった一向一揆(9月5日参照>>)で、手痛い目に遭った家康が、それ以来、領内で浄土真宗を禁止にしていたのを、突如として禁制を解除したのです。

おそらく、秀吉と本願寺が、あまりに親密な関係になる事を恐れたものと思われますが、これは、あまり効果がなかったようですね・・・。

なぜなら、その後、秀吉と家康の間で勃発した、あの小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)の時に、その武力に期待して、家康は顕如に支援を求めますが、顕如はあっさりと断っています。

そのおかげか、一旦、大坂・天満に移っていた顕如は、天正十九年(1591年)1月19日に、あの山科本願寺以来の京都、しかも七条堀川という一等地に広大な土地を、秀吉から寄進して貰い、ここに本願寺を再興するのです。

これが、現在の西本願寺・・・・。

しかし、その伽藍造営中の文禄元年(1592年)11月24日顕如は、新しい本願寺を見る事なく、50歳でこの世を去りました。

・・・で、完成した本願寺で第12代法主となったのは、教如・・・って、顕如さんは、あの時に、「弟の准如を後継者に・・」って、言ってなかったっすかぁ?

そうなんです。

ここで勃発しちゃうのが、後継者問題・・・結局、ここで二つの派閥に分かれてしまった事で、本願寺には、西本願寺と東本願寺があるわけですが、そのお話は、1月19日のページでどうぞ>>

ちなみに、このページでも散々、一向一揆、一向一揆と言ってますが、実は、浄土真宗と一向宗は、別物・・・本当は、・・・と、これも別のページでちゃんと書いていますので、そのお話は11月28日のページでどうぞ>>
 

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2008年11月21日 (金)

結城秀康~その運命の分かれ道

 

天正十二年(1584年)11月21日、羽柴秀吉徳川家康の講和が成立し、小牧長久手の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

織田信長亡き後、その後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)で、信長の孫・三法師を立てて自らが後見人となり、実権を握ろうとする羽柴(豊臣)秀吉に対して、納得がいかない信長の次男・織田信雄が、徳川家康を味方につけて秀吉に対抗した、一連の小牧長久手の戦い・・・

 小牧長久手の戦いの詳細はコチラで・・・
  ・犬山城・攻略戦>>
  ・羽黒の戦い>>
  ・長久手の戦い>>
  ・蟹江城・攻防戦>>

この中で、最初の犬山城攻略戦以外は、ほぼ勝利を収めていた信雄+家康連合軍でしたが、秀吉の人たらしの術中にハマった信雄が、単独で秀吉との講和を結んでしまい、肝心の担ぐ後継者がいなくなった家康は、その振り上げたこぶしを下ろすしかなく、天正十二年(1584年)11月21日家康も、秀吉との講和を成立させ、浜松へと帰還する事になります。

結局は、その後、秀吉の要請に応じて上洛し、その臣下となるわけですが(10月17日参照>>)、この講和を結んだ時、その条件として、秀吉のもとに人質として送られたのが、家康の次男で、この時10歳だった於義伊(於義丸)・・・後の結城秀康(ゆうきひでやす)です。

ご存知のように家康は、長男・信康を自刃に追い込んでいます(9月15日参照>>)から、本来なら、この秀康がその後継者となるべき人なのでしたが・・・

・・・てな事で、本日は、この小牧長久手の戦いの講和によって、その運命が大きく変わる結城秀康さんについて書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この時、運命が変わる・・・とは言いましたが、実は、彼が生まれた時から、その兆しともいうべきものはありました。

彼は、なぜか、家康に嫌われている・・・というか冷淡な扱いをされていたんです。

当時の家康の居城は浜松城でしたが、彼は、別の場所で生まれ、育てられています・・・いや、それだけではなく、3歳になるまで、一度も、父・家康に会った事がなかったんです。

まだ、長男の信康が健在の頃に、さすがに、この冷酷な仕打ちをかわそうに思い、そのとりなして親子の対面が果たされた・・・それが、その3歳の時。

家康が彼に会わなかった理由としては、自分の子供かどうか疑っていたとか、顔がブサイクだったとか(コレはヒドイ!)、彼が側室の子供だったために、正室の築山殿に気をつかったとか言われていますが・・・

秀康のお母さんは、その築山殿の奥女中をしていた於万の方・・・つまり、家康さんは、嫁の侍女に手を出しちゃったって事で、それで気をつかったのか?とも思えますが、それにしても、まだ妊娠中の間に、於万の方を重臣の本多重次のもとに預けて、そのまま、そのお屋敷で出産して、その後も会おうとしないなんて、ちょっと冷たすぎやしませんか!って感じですね。

しかも、結局、人質として手放すんかい!と文句の一つも言いたくなりますが、秀康にとっては、この時秀吉のもとへ行った事は、案外良かったのかも知れません。

・・・というのも、誇り高く、豪快で武勇優れた彼を、秀吉はたいそう気に入って羽柴秀康と名乗らせて、実子がいないぶん、本当の子供のように可愛がっていたようですから・・・。

その気持ちに答えるべく、秀康も、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵と次々と大活躍・・・しかし、例のごとく、秀吉に実子・鶴松が生まれた事で、またまた彼の運命が変わります。

ここで、秀吉の勧めによって、下総(千葉県)結城晴友の姪と結婚して養子となり、結城秀康となったのです。

それでも、結城家は関東の名族ですし、その後継者として11万石を継いだのですから、そのまま秀吉のもとにいて、鶴松の母である、あの淀殿に、後々睨まれるよりは、よっぽど幸せっちゅーもんです。

やがて、秀吉が亡くなった後に、再び、彼が武勇を発揮できるチャンスが訪れます。

それは、あの関ヶ原の合戦・・・。

もともと、越後(新潟県)上杉景勝を征伐すると言って、畿内を後にした家康・・・その留守に乗じて石田三成が挙兵して始まった合戦ですから、その後、家康が決戦のために西へ戻るとなると、当然、その景勝に対する牽制も必要になります。

秀康は、関ヶ原に向かうのではなく、東国に残って、その牽制の役を任されます。

次男の秀康に上杉を任せ、三男の秀忠に大軍を預けて東山道を西に、自らは東海道を西へ・・・この家康の采配を、またまた秀康への冷遇とする見方もあるようですが、ここでの上杉対策は、地味ではありますが、徳川の本拠地である関東を守るという重要な役割ですから、そうとも言えないでしょう。

現に、この関ヶ原の合戦から、家康の彼を見る目が変わります

ご存知のように、東山道を進んだ秀忠は、真田昌幸・幸村父子の守る上田城の攻略に手こずって、肝心の関ヶ原の合戦に間に合わなかったという大失態を起してしまいます(9月2日参照>>)

逆に、秀康は宇都宮城に入って睨みをきかして、上杉の南下を防ぐという任務を、見事に果たしました。

この時、家康は、すでに秀忠を後継者に決めていたにも関わらず、徳川家の家督問題について、新たに重臣たちに、その意見を聞いたとされています。

もちろん、秀忠より秀康を後継者にしたほうが良いのではないか?・・・という話です。

結局は、2代将軍は秀忠って事に変わりはなかったのですが、それは、やはり、一度は他家を継いだ人ですから、その人を後継者にといのはマズイ・・・というのと、関ヶ原に勝利した家康には、すでに天下が見えていますから、天下を取った後の事を考えると武勇に優れた秀康より、実直な秀忠のほうが良いのでは?・・・というのとを合わせての決断で、この時ばかりは、決してえこひいきではないようです。

その証拠と言ってはなんですが、この関ヶ原の合戦の第1位の恩賞を彼に与えています。

秀康は、越前(福井県)北ノ庄75万石を与えられ、松平の姓に戻り、「御制外」という特権も貰っています。

「御制外」とは、将軍も命令が出せない・・・つまり、将軍の臣下ではなく同等という事・・・石高の75万石も、後にできる御三家の尾張=62万石、紀州=55万石と比較しても負けない、水戸=25万石なんか及びもしない大判振る舞いです。

しかし、そうは言っても、やはり、秀康にとって、弟である将軍・秀忠の次・・・二番手という意識が拭えなかったのも確かなようです。

そのささやかな抵抗が伺えるのは、彼は、この時、上記の通り松平姓に戻る事を許されたにも関わらず、死ぬまで結城秀康という名前を使用したのだとか・・・。

なので、歴史人物として紹介される彼の名も結城秀康・・・松平とは、ほとんど書かれません。

そのせいか、飲むお酒の量も多く、慶長十二年(1607年)4月8日、34歳の若さで、父よりも先に亡くなってしまいます。

自らも秀頼を弟のようにかわいがり「もし、徳川が大坂城を攻めたら、俺は秀頼を守りに行く」と言っていたという秀康さん・・・ひょっとしたら、秀吉のもとで、本当の子供のように可愛がられたあの頃が、一番幸せだったのかも知れません。

父親に翻弄された悲しい運命・・・彼が心配した家康の大坂攻め=大坂冬の陣は、その死から7年後に勃発します。 

秀康の息子・松平忠直も悲しい運命をたどります・・・そのお話は6月10日のページで>>
 

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2008年11月13日 (木)

石川数正・出奔事件の謎

 

天正十三年(1585年)11月13日、徳川家康の幼少時代からの重臣で、徳川家の筆頭家老だった石川数正が、突然、一族郎党百余人を伴って出奔・・・豊臣秀吉の傘下となりました。

この石川数正出奔事件については、11月12日と11月13日の2つの説がありますが、とりあえず、本日書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戦国屈指の謎とされる石川数正の出奔・・・

なんせ、数正は、徳川家譜代の家臣で、徳川家康幼少の頃からの補佐役、あの人質時代(11月6日参照>>)にも、警護役を兼ねた遊び相手として同行しているのですから、もう、その人生は徳川一色だったはずです。

そんな彼が、家康を裏切って豊臣秀吉のもとへ走るのですから、その心中が謎とされるのも無理はありません。

その家康も、当時交戦中だった真田昌幸との神川の戦いで、それまでは何度も痛い目を見ながらも諦めずに上田城(長野県上田市)を攻め続けていたのを、この数正出奔のニュースを聞いて、一気に兵を退いてしまうくらいのショックを受けたのですから・・・(8月2日参照>>)

その神川の戦いのページでも書かせていただきましたが、どーも、この数正の出奔には、あの信康と築山殿殺害の一件が絡んでいるような気がしてならないのです。

そもそもは、当時、今川の人質となっていた家康が、あの永禄三年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いのドサクサで、そのまま、父の居城であった岡崎城(愛知県岡崎市)に戻った(5月19日参照>>)わけですから、当然、妻子は今川の領地・駿府におきざり状態・・・その二人を岡崎へ連れ戻したのが数正でした。

そして、家康が岡崎城主となってから2年後、三河西郡城(にしこおりじょう・愛知県蒲郡市)を攻めた時、城将の鵜殿長照(うどのながてる)の二人の息子を生け捕りにした(生け捕りにされたのは長照本人の説もあり)のですが、その二人の人質と妻子を交換すべく、単身駿府に乗り込んのです。

もはや駿府は敵地・・・「そこに乗り込む事は危険だ」と家康が止めたにも関わらず、「若君(後の信康)に殉ずるなら本望」と笑ってみせた数正・・・。

駿府にて、秘密裏に瀬名姫(家康の妻で後の築山殿)の父・関口氏広と交渉し、見事、二人の奪回に成功したのです。

後に、この事を知った今川氏真(うじざね・義元の息子)が、氏広とその妻を自害に追い込んだ事をみても、この人質交換がいかに重要であったかがわかります。

しかし、そうまでして取り戻した妻・瀬名姫は、敵将の従兄弟(瀬名姫の母は義元の妹)という事で、岡崎城には入れてもらえず城外の築山近くの館にて生活する事となり、以降、彼女は築山殿と呼ばれます。

その後、数正は、家康と織田信長の同盟にも力を注ぎます。

その同盟の象徴は、あの時取り戻した家康の長男・竹千代と信長の娘・徳姫との結婚・・・そして、その竹千代が、両父親の一字ずつを取った信康という名前への改名するのです。

そして、元亀元年(1570年)には、成長した信康に岡崎城を譲り、家康は目下の敵・武田との最前線・浜松城へと移ります。

この時期に数正は岡崎城の城代家老に任ぜられ、信康の後見人とも言える立場となります。

自らが、命がけで救った若君の下で・・・おそらく数正にとって、このうえない幸せだったに違いありません。

ところが・・・です。

天正七年(1579年)に事件は起こります。

その信康と築山殿に武田側と内通したとの疑いがかけられ、信長からの命令で、家康によって殺害&自害に追い込まれてしまったのです。

通説によれば・・・
「謀反の疑いあり」とした徳姫の手紙を受け取った信長が、家康の重臣・酒井忠次に確認し、忠次がそれを認めたために、家康への妻子殺害命令が出たとされています(8月29日参照>>)

もし、その通りなら、数正の心中はいかばかりか・・・なんせ、命を賭けて取り戻した若君と奥さんを、自分が推し進めた結婚相手にチクられ、家康の人質時代からともに警護役として過ごしてきた同僚が、それを認めてしまったのですから・・・。

が、しかし、やはり私は、個人的には、以前、信康さん自刃のページ(9月15日参照>>)で書かせていただいたように、この事件は、もはや収拾がつかなくなってしまった岡崎城と浜松城の対立関係・・・徳川家内の内部抗争によるものではないか?との疑いを持っております。

『東照宮御実記』『改正後三河風土記』『三河物語』などなど・・・いわゆる徳川幕府公式史料とされる文書には、「上記の通説=信長の命令で妻子を殺害」となっているわけですが、それとともに、この時の数正の行動がまったく書かれていないという共通点があります。

あれだけ手塩にかけた若君ですよ。
岡崎城の城代家老ですよ。

この主君と城の一大事に、彼が動かなかったとは考えられないですよね。

おそらく、この時、数正は何もしなかったのではなく、彼の行動そのものが公式史料には残されなかったと考えるべきでしょう。

それは、家康を神とする徳川の公式史料には書けない事だったのではないでしょうか?

そう考えると、この時の家康の行動の中に、数正の心に引っかかる物があった事も想像できます。

おそらく、数正は、今まで、尽くして尽くしぬいた家康に、何かしらの不信感を抱いた事でしょう。

しかし、それでも数正は、天正十年(1582年)、あの信長が倒れた本能寺の変の直後の決死の伊賀越え(6月4日参照>>)の時には、家康を守って行動をともにしています。

ただ、その直後です。

信長亡き後、家臣団の中でトップにのしあがった秀吉に対しての戦勝祝いの使者という大役を任されます。

戦いに勝ってその領地を広げる事とともに、すでに配下に収めている領地や領民を維持するのも戦国大名にとっては重要な事・・・主君が、その攻める要なら、守りの要という立場が家老という職ですから、隣国との和を保つ事も家老の役目という事になります。

ここで、秀吉の使者として派遣された数正は、その後、秀吉と家康の間で勃発した小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)後始末の講和の交渉役としても、頻繁に秀吉と会う事になります。

もちろん、彼は上記の通り、信長と家康の同盟にも尽力していますから、ずっと以前から秀吉との面識はあったでしょうが、やはり、ここにきて秀吉の魅力にとりつかれたとも言いましょうか・・・秀吉の人扱いのうまさに心魅かれたのかも知れません。

この小牧長久手の交渉の後ぐらいから、「数正は秀吉にかぶれているらしい」とか、「密かに通じているんじゃないか?」とかの噂が、徳川の家臣たちの間で囁かれはじめたというのも、あながち間違いではないのかも知れません。

かくして、天正十三年(1585年)11月13日、数正は、突然、一族郎党百余人を伴って出奔し、秀吉のもとへと走るのです。

ちなみに、秀吉のもとへと行った数正が、長年の主君を裏切ったという事実が豊臣の家臣からも嫌われ、結局は豊臣にも馴染めずに冷遇され、寂しい晩年を送ったというのは違うように思います。

彼は、豊臣に行った途端、和泉10万石(石高については諸説あり)を与えられ、いきなり大名になっていますし、九州征伐や小田原征伐にも出陣し、その功績によって信州の松本も与えられています。

あの朝鮮出兵の時にも、肥前(佐賀県)名護屋まで、兵を率いて赴いています。

ただ、そこで病気にかかってしまい、朝鮮半島へ渡るという事がないまま亡くなったようですが、こうしてみると、通説で言われているような寂しい晩年ではなかったと思われます。

寂しい晩年というのは、おそらく、最後の最後に天下を取った徳川の人間が、あの信康の事件の時と同じように、数正の行動を排除したからに他ならないでしょう。

徳川から見れば、裏切り者の数正が、行った先で活躍していられては困るわけですからね。

おそらくは、謎とされる数正の出奔は、信康の事件の行動と豊臣での活躍を、徳川方が抹消したために謎となってしまったような気がします。

結局、数正の出奔とは、彼の家康への不信感と、破格の待遇でのヘッドハンティングがぴったりと重なったという事なのではないでしょうか。
 

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2008年11月 7日 (金)

「三本の矢」の毛利を救ったのは4本目の矢

 

天正七年(1579年)11月7日、中国地方一帯に勢力を誇った毛利元就の四男・穂田元清の息子で、後に輝元の養子となって、さらに長門長府の初代藩主となる毛利秀元が誕生しています。

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この毛利秀元さん・・・個人的には、毛利家にとって、とても重要な人だと思うのですが、ドラマなどでは、あまり大きく扱われる事がありませんねぇ。

毛利家と言えば、あの「三矢(さんし)の訓(おし)え」=三本の矢の逸話・・・毛利家を、西国の雄に押し上げた毛利元就が、その死を間際にして、3人の息子に言ってきかせた一家団結の教訓です。

それは、Jリーグチームがサンフレッチェ広島(サン=3・フレッチェ=矢)と名付けられるほど有名なエピソード・・・。

「1本だと折れやすい矢も、3本束ねると相当な力を以ってしても折る事ができない・・・だから、兄弟3人で力を合わせて頑張れ」というもので、地元には、3人の息子に、教訓を言ってきかせる元就親子の銅像なんかもあるようですが、残念ながら、このエピソードは後世の創作です。

第一、元就の長男の毛利隆元は、父より先に亡くなっていますので、元就の臨終の時に、3人の息子に言いきかせる事はできないわけですから・・・。

かと言って、まったくのウソではありません。

それは、まだ隆元が元気だった弘治三年(1557年)・・・11月25日付けで、元就が、長男・隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景の3人の息子宛てに「三子(さんし)教訓状」なる書状を送っている事に由来します(11月25日参照>>)

そこには、「3人の間に少しでも亀裂が生じたら、3人とも滅亡すると思え」てな事が書いてあって、この書状の内容がもととなって、3本の矢の逸話が生まれたのです。

実際の、元就の息子たちも、この父の教えをよく守り、父の死後は、若くして亡くなった隆元の息子・毛利輝元を、毛利家の当主として元春と隆景が見事にサポート・・・この二人の名字に川がついていたところから、毛利の両川(りょうせん)と呼ばれていた事は、このブログでも度々書かせていただいています。

・・・と、こうしてみると、あたかも、元就には3人の子供しかいなかったように思ってしまいますが、実は、元就さん、70代になっても、まだ子づくりに励んでいた元気満々ジィチャンで、男女それぞれ12人のお子さんを設けております。

そのうち、9人の男の子と2人の女の子は無事成人しています・・・って、キュ・・・9人?

そうなんです。

今後、毛利家を盛りたてていくであろう男の子が9人もいるのにも関わらず、先の教訓の手紙は3人にだけ・・・だから、逸話も3本の矢・・・

実は、この3人が正室・妙玖(みょうきゅう)さんとの間にできた子供・・・この時代、どうしても、正室の子供と側室の子供との間に、格段に差が出てしまうのは、しかたのない事なのでしょうね。

・・・で、今日ご紹介する毛利秀元さんのお父さん・元清さんは、元就と乃美(のみ)の方との間に生まれた、元就にとって4番目の男の子です。

ただ、乃美の方は、正室が亡くなった後に、継室・・・つまり後妻となるので結局は正室なのですが、やはり、上の3人の息子とは扱いが違ったようですね。

そんな元清は、17歳の時に伊予水軍に属する来島通康(くるしまみちやす)の娘を妻にし、24歳の時に毛利配下の穂田資元(すけもと)の養子となって穂田元清と名乗り、28歳の天正七年(1579年)11月7日宮松丸・・・後の秀元が生まれたのです。

ところで、今日の本題・・・なぜ、この秀元さんが、毛利にとって重要なのか?というお話ですが・・・

それは、文禄元年(1592年)7月20日の事・・・

その時、かの豊臣秀吉は例の朝鮮出兵(3月26日参照>>)の指揮をとるため、備前(佐賀県)名護屋に滞在していたのですが、母・なか(大政所)危篤の知らせを聞き、いてもたってもいられず、急遽、京都に戻る事になり、瀬戸内海を船で航行中でした。

しかし、その日は大変波が荒く、船は、小さな岩礁にぶつかってしまうのです。
(武蔵VS小次郎の決闘で知られる巌流島だと言われています)

かろうじて岩につかまり、何とか助けを求めますが、荒波はいやおうなく身体を痛めつけ、老いた秀吉にとっては、その命も時間の問題・・・

すると、向こうのほうから、荒波をものともせず近づいてくる小さな舟がありました。

小舟の操りに慣れた少年は、震えながら岩にしがみついている老人を助けますが、助けたその老人が太閤秀吉と聞いて、びっくり。

秀吉が、命の恩人となった少年に何か褒美をやろうと、その名前を聞くと、「毛利元就の四男・四郎元清の息子だ」と言います・・・これには、秀吉もびっくり。

そう、この少年が宮松丸・・・秀吉は、早速、大坂城に連れ帰って、自分の一字を与え、秀元と名乗らせたのです。

その後、この秀元は、実子がいなかった輝元の養子となるのですが、秀吉は「周防・長門(山口県)の2国は秀元の物・・・誰も、これを奪ってはならない」という約束を、徳川家康五大老に連判させたのだとか・・・。

やがて、秀吉が亡くなった後に勃発した関ヶ原の合戦で、その輝元は西軍の総大将として大坂城に(7月15日参照>>)、秀元は、大坂城に留まる輝元の代理という立場で、毛利勢を率いて関ヶ原に向かいます(9月15日参照>>)

結果は、ご存知の通り、家康率いる東軍の大勝利となります。

事前に家康との密約を交わしていた吉川広家(元春の息子)の指示によって、現地で参戦する事はなかったので、合戦を見ていただけの毛利は、約束通り領地が安堵される・・・はずでした。

しかし、家康は見事な約束破りで、領地を大幅にカットしてしまうのです。

結局、毛利に残った領地は、周防・長門の2国・・・そう、あの秀吉が、「秀元の物、誰も奪うな」と言って、家康に連判させた、あの2国だけだったのです。

先ほどの、瀬戸内海での遭難のエピソードが、どこまで事実に近いのかはわかりませんが、もし、本当に何らかの約束事があったのだとしたら、おそらく、未だ、「豊臣家のために関ヶ原の合戦をやった」というポーズをとっている段階の家康にとって、毛利から周防・長門の2国までを奪い取る事は、豊臣恩顧の家臣たちの反感を買う事としてできなかったのではないか?と思います。

かくして、周防・長門の2国に押し込められた毛利・・・その後、輝元に実子が生まれた事で、秀元は、毛利家当主の座を辞退し、長門長府の初代藩主となります。

この毛利本家の当主を辞退するのは、もちろん、偉大なジッチャンの教えを守っての事です。

この行動を見ただけでも、秀元が、冷静な判断のもとに先を読む力のある名将であった事がわかります。

あの小早川隆景が、秀元の事を「家族(孫含む)の中で、一番オヤジ(元就)に似てる」と言ったというのもわかる気がします。

その後、輝元の直系が耐えた後も、それを引き継いで萩藩主となったのは、秀元の子孫でした。

こうして、江戸時代を通じて、毛利の家を守り続けてきた秀元の末裔たち・・・やがて徳川300年の後、長州藩は、幕末の表舞台に登場する事となるのです。

ね・・・秀元さんなくしては毛利は語れないくらい重要人物だと思いませんか?

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

更なる秀元さんの大活躍【大坂夏の陣~グッドタイミングな毛利秀元の参戦】もどうぞ>>
 

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2008年11月 4日 (火)

仙道七郡掌握~奥州の覇王・伊達政宗に迫る影

 

天正十七年(1589年)11月4日、仙道七郡石川昭光が、伊達政宗の傘下となりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天正十七年(1589年)6月5日の摺上原(すりあげはら)の戦いで、勝利を収めた独眼竜・伊達政宗・・・一方の芦名(蘆名)は、その退路を川に阻まれ多くの犠牲者を出してしまいました(6月5日参照>>)

総大将の芦名盛重(義広)は、何とか居城・黒川城(福島県会津若松市)に戻り、この先、おそらく攻め寄せてくるであろう伊達勢に対して、籠城するのか?はたまた、体制を立て直して撃って出るのか?の作戦を練るべきところでありました。

もちろん、勝利した政宗とて同じ・・・合戦に勝ったとは言え、芦名氏を滅ぼしたわけではありませんから、居城に戻った盛重らの軍勢を、さらに追撃しなければなりません。

政宗は、一旦、猪苗代城(福島県猪苗代町)に戻り、自軍を休ませるとともに、敵の情報収集を開始します。

しかし、そんな政宗のもとに飛び込んで来たニュースは・・・・芦名の自滅でした。

盛重自身は、挽回を図るべく戻った黒川城でしたが、そこで開かれた軍儀では、雪辱戦どころか、籠城を訴える家臣すら、ひとりもいなかったのです。

実は、この盛重さん、隣国・佐竹義重の息子で、芦名氏には養子として入った身分・・・芦名のもともとの家臣たちに言わせれば・・・
「アンタが連れてきた佐竹の家臣&援軍が体たらくやったために、こんな結果になってしもたがな!こうなったら実家に帰ってもらうか、それでも大将として居座るんやったら、その首もらいまっせ!」
と、脅迫まがいの説得を開始する一方で、次から次へと、政宗に対して降伏をする者が続出・・・。

結果、摺上原の戦いから、わずか5日後の10日に、盛重は、わずかのお供だけを連れて、実家の佐竹を頼って落ちのびていったのです。

合戦の勝利から労せずして名門・芦名氏を滅亡に追いやった政宗が、堂々、黒川城に入城したのは、その翌日・・・18歳で家督を相続し、その翌年の父の死(10月8日参照>>)を乗り越えてから、わずか4年の事でした。

すぐに、その居城を米沢城(山形県米沢市)から黒川城へと移した政宗・・・芦名氏の残党によるわずかな抵抗はあったものの、鎌倉時代からの名家の滅亡を目の当たりにした周辺の小勢力組の武将たちは、次々と伊達傘下へと入ってきたのです。

そんな中の天正十七年(1589年)11月4日石川城(福島県石川郡)を居城とする石川昭光が、伊達傘下に服属する事を表明・・・これで、政宗は仙道七郡すべてを傘下におさめた形となりました。

この時の政宗の領地は、陸奥(東北の太平洋側)出羽(秋田と山形)合わせて66郡のうちの約半分・・・まさに、奥州の覇王と呼ぶにふさわしい大大名にのし上がったのです。

翌年の正月7日の連歌会では・・・
♪七種(ななくさ)を 一葉によせて つむ根芹(ねぜり)
と、高らかな勝利宣言!

正月7日の七草と、仙道七郡をかけて、それを、「この一つ手で摘んだったゾ~!」と、大喜びの一句ですねぇ。

確かに、父の弔い合戦だった人取橋の合戦(11月17日参照>>)で少々痛い目を見て、10代の頃のイケイケ一点ばりの戦法から、作戦重視の智将に変わったとは言え、まだ23歳の若者ですから・・・たった5年で奥州の半分を手に入れる事ができたのなら、あと何十年もある人生の中で、天下を取るのも夢じゃない!と思ってしまうのも無理はありません。

その若さは、この後、芦名氏とよしみを通じていたあの豊臣秀吉からの「なんで芦名を滅ぼしちゃったの?理由を聞かせてちょ」という再三の上洛要請を断るという無謀とも思える行為に出てしますのです。

ただ、秀吉の力を存分に知っている者から見れば無謀だったかも知れませんが、この時の政宗は、まだ秀吉の事を熟知していなかったでしょうから、おそらく、関東に君臨する北条氏がまだ健在の間は、秀吉は奥州に手を出す事はないだろうという見方をしていたのでしょう。

ところが、ここに来て、その北条が危うくなってくるのです。

四国・九州を平定し、越後(新潟県)上杉景勝とも主従関係を結んだ秀吉は、すでに天正十四年(1586年)11月4日付けで『関東惣無事令』を、翌・天正十五年12月3日付けで『奥両国惣無事令』を発布していました。

『惣無事令』とは、「大名同士の私的な争いをしてはいけない」というお触れで、『奥両国』とは陸奥出羽の事・・・つまりは、「関東から東北一帯にかけての武将に、自らが天下を掌握したので、戦国時代のように勝手に合戦してはいかん!」という、天下目前の秀吉からの命令って事です。

しかし、この政宗が仙道七郡を掌握した天正十七年と同じ年の10月23日には、北条は、その『惣無事令』を破って、真田氏の名胡桃(なぐるみ)城を奪取するという事件を起しています(10月23日参照>>)

これは、結果的に、北条をぶっ潰したい秀吉に、小田原城を攻撃する大義名分を与えてしまう事になるわけですが、確かに、現時点では、北条と伊達が組めば、秀吉に対抗できるかも知れないと考えてしまうのも無理はありません。

やがて、始まった秀吉による小田原城総攻撃(4月3日参照>>)・・・政宗は、このまま秀吉の上洛要請を断り続けるのか?、それとも、従順に秀吉の傘下となるのか?

二つに一つの決断を迫られる事になるのですが、そのお話は、政宗が小田原へ参陣した(言っちゃいましたが・・・sweat016月5日のページでどうぞ>>。
 

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2008年10月28日 (火)

徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?

 

慶長元年(1596年)10月28日、徳川家の重臣で徳川四天王の一人・酒井忠次が病没しました・・・享年70歳でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

徳川四天王と言えば、榊原康政井伊直政本多忠勝・・・そして、その四天王の筆頭が、本日の酒井忠次(ただつぐ)です。

そんな忠次は、『酒井の太鼓』で有名・・・その逸話は、あの家康のおもらし事件で知られる三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)で登場します。

ご存知のように、徳川家康武田信玄の生涯唯一の合戦となるこの戦いは、まだまだケツの青かった家康の惨敗となるのですが、この時、命からがら居城の浜松城に逃げ帰った家康がやった一か八かの作戦が『空城の計(くうじょうのけい)・・・。

これは、こちら側が兵力で劣り、完全に勝負にならないと判断した時に、敵の攻撃をかわすために、あの三国志の中で諸葛孔明(しょかつこうめい)が行った作戦なのですが・・・

はっきり言って、その三国志の丸写し・・・はたして実際に家康が行ったのかどうかは微妙なところではあります。

まぁ、当時の家康も、三国志や孫子は読んでいたでしょうから、その逸話をヒントに実際にやった可能性もありますが、家康が読んでるなら、信玄も読んでいるはずですから、三国志の司馬仲達(しばちゅうたつ)が騙されるまったく同じ方法で、見事に騙されるのもなんだかなぁ・・・って感じなので、おそらくは、天下泰平の徳川時代の人物が、東照大権現・家康公の賛美のために付け加えた可能性大なのですが、とりあえず、どのようなものかと言いますと・・・

諸葛孔明が、わずか2500の兵で、西城にいる時、司馬仲達が15万の大軍で攻めてきたのですが、さすがの孔明も、この兵力の差ではとても勝ち目がありません。

そこで、孔明は四方の城門を開け放ち、防具を脱ぎ捨てたわずかの人数で、城楼に上り、そこで香を焚いて、琴を奏で宴会を開いたのです。

すると、それを見た仲達が、「孔明は用意周到な人物なのに、敵兵の前であのように城門を開け放っているのは、きっと、多くの伏兵を隠して、何かの仕掛けを造り、俺らをおびき寄せて、城内で一網打尽にする作戦に違いない」と思って、城を攻めるのをやめて、兵を退いた・・・というものです。

家康の場合も、おもらしするほど恐怖におののいて逃げ帰った浜松城の城門を開け放ち、思いっきりガンガンにかがり火を焚いて、琴ならぬ大きな太鼓をドンドンと打ち鳴らしたのです。

そう、この時、自ら櫓に登って太鼓を打ち鳴らしたのが、酒井忠次・・・もちろん、敗走した家康を追撃してきた武田軍は、三国志の逸話の通りに何か、計略があるのではないか?」と疑って、浜松城へは入らなかったというわけです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

酒井忠次は、家康の父の代からの松平家譜代の家臣・・・家康とは姻戚関係もあり、子供の時から、すでに行動をともにしていた重臣です。

家康が人質となって今川義元のもとにいた時も(11月27日参照>>)、彼はそばに仕え、身の回りの世話をしていたと言います。

もちろん、家康が今川から離れて独立した後も(5月19日参照>>)家老として大活躍!

多くの者が家康のもとを離れた三河一向一揆(9月5日参照>>)でも、決して主君の側を離れる事はありませんでした。

その後、家康が豊臣秀吉の傘下となってからも、その秀吉から、家康一番の家臣として重要視されていました。

長い長い年月をかけて築き上げてきた主君と家臣の信頼関係・・・だからこそ、家臣の中の家臣である徳川四天王の中でも、忠次が筆頭だったのです。

ところがです。

小田原征伐が終って、いよいよ秀吉の天下となり、家康が関東への転封を言渡された時(7月13日参照>>)の事です。

今までの領地にプラスされたのではなく、三河を譲っての江戸への引越しですから、当然、家臣たちへもそれぞれ新たな所領が与えられる事になるわけですが、その時、井伊直政が12万石本多忠勝と榊原康政にはそれぞれ10万石が与えられたにも関わらず、忠次の後を継いでいた息子・家次には、わずか3万石だったのです。

忠次がすでに、隠居しているとは言え、これは、さすがに他の四天王と格差ありすぎではありませんか!

驚いた忠次は、早速家康のもとへ不服を申し立てるのですが、そんな忠次を見て家康、は一言・・・
「そんなお前でも、わが子はカワイイんやな」

実は、この忠次冷遇の原因は、以前書かせていただいたあの築山殿と信康の事件(8月29日9月15日参照>>)にあると言われています。

そう、あの時、娘・徳姫の手紙で、家康の妻・築山殿と長男・信康に謀反の疑いを持った織田信長に、その弁明のために、家康から派遣されたのが、忠次だったのです。

結局は、忠次が、その弁明に失敗したために、信長からの、築山殿と信康の殺害命令が出てしまうわけで、家康は、わが手で妻と息子を葬らねばならなくなったわけです。

その事をずっと恨みに思っていたと・・・。

しかし、そのページでも書かせていただいたように、その時、徳姫の手紙や信長の命令が本当にあったのかどうかは、非常に疑わしい部分もありますので、なんともいえませんが・・・。

ただし、四天王の筆頭であった忠次が、晩年になって冷遇されたのは事実・・・いったい、家康と忠次の間に何があったのでしょうか?

果たして、人質時代からの、一番の家臣との信頼関係が崩れるほどの出来事とは?

とても気になります。
 

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2008年10月23日 (木)

小田原征伐のきっかけとなった名胡桃城奪取事件

 

天正十七年(1589年)10月23日、北条氏直配下の沼田城を預かる猪俣邦憲が、真田名胡桃城を突然奪った事件・・・名胡桃城奪取事件がありました。

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ご存知のように、もともと甲斐(山梨県)武田の家臣だった真田昌幸は、あの天目山で武田勝頼が自刃(3月11日参照>>)して武田が滅亡した後、武田の旧領地は、勝者である織田信長のものとなるであろうと考え、織田の傘下となっていました。

ところが、その信長が、そのわずか3ヶ月後の天正十年6月に、本能寺で倒れてしまうのです(6月2日参照>>)

直後、宙に浮いた形の旧武田領は、たちまちのうちに、三河(愛知県東部)徳川相模(神奈川県)北条越後(新潟県)上杉三強から狙われる事になりました。

そんな中、父・幸綱の時代から、本拠地の信濃(長野県)小県(ちいさがた)上野(こうずけ・群馬県)東部に位置する沼田領(利根・吾妻の2郡)を、勝頼からまかされていた真田昌幸にとっては、本来は、この領地を維持したまま、独立した戦国大名になるのが目標でしたが、なんせ、その三強が、真田氏とはケタ違いの大大名ですから、この時点では、とりあえず直接対決を避けるしかありませんでした。

そのため、不満ながらも、その7月に小県に進攻してきた北条氏直主従関係を結んだ昌幸でしたが、今度は、その北条と交戦中の徳川家康から、小県と沼田はもちろん、それプラス上野の箕輪と信濃の諏訪郡をあげるから・・・という好条件でのお誘いがあり、わずか2ヶ月後の9月には、徳川の傘下となります。

ところが、その家康が、翌月の10月に、北条と和睦を結んでしまうのです。

しかも、その条件が「旧武田領争奪戦から手を退くかわりに、関東上野領を全部チョーダイな」という事だったのです。

上野領全部という事は、当然、沼田領が入ってます。

ここは、昌幸が父とともに自力で沼田城を落として、その北条から勝ち取った場所・・・こないだ主人になったばっかりの家康に勝手に決められて、「渡せ」と言われても、納得できるわけがありません。

沼田城の北条への返還を拒否し続けながら、後に居城となる上田城の建設にとりかかる昌幸でしたが、ちょうどこの頃、家康は、天正十二年(1584年)3月から始まった信長の後継者を巡っての羽柴(豊臣)秀吉との小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)に必死で、徳川VS真田の関係にはラッキーな空白が生まれる事になります。

その年の11月に信長の次男・織田信雄の秀吉との単独講和で終焉を迎えた小牧長久手の戦い(11月11日参照>>)・・・やがて、翌年の4月になって、家康は、棚上げになっていた返還要求を再開したのです。

危機感を抱いた昌幸は、その7月、三強の残りの一人・越後の上杉景勝(かげかつ)に、次男・弁丸(後の幸村)差し出して親交を深めますが、それにブチ切れた家康が、いよいよ真田討伐に取りかかります。

これが、第一次上田合戦=神川の戦いです(8月2日参照>>)

見事なゲリラ作戦で、徳川の総攻撃をかわした真田勢・・・やがて、徳川の重臣・石川数正の秀吉への寝返りという、徳川家内のサプライズで動揺した家康が、兵を退いた事で上田城は守られました。

その後、昌幸は、上杉の人質となっていた弁丸を、今度は秀吉のもとに出仕させ、秀吉の傘下となりますが、対する秀吉も「近々、あの家康のアホをやったるさかいに安心しとき」と、なかなか好意的・・・。

しかし、実は、秀吉は家康にも、「近々、真田をやったるさかいに・・・」と、言ったりなんかしてます。

なんせ、この頃は、妹&母親総動員で、何とか家康を自分の臣下にしようと必死の頃でしたから・・・(10月17日参照>>)

・・・で、結局、その秀吉のとりなしで、天正十七年(1589年)春に、昌幸と家康は仲直り・・・なんせ、今となっては、二人ともが秀吉の臣下ですからね。

秀吉も、一応、元家康の家臣という事で、名目上、真田を徳川の臣下とし、羽柴>徳川>真田という関係にしていますが、事実上は、昌幸は秀吉の直臣のような状況で、かなり重要視していたようです。

そして、モメにモメていた先の沼田領の問題は、3分の2を北条に返還し、残りの3分の1と箕輪を足して昌幸の領地とし、そのかわり北条氏直が秀吉の傘下となり、その証しとして大坂城に臣下に加わった挨拶に来るよう要求します。

「氏直が秀吉の臣下となるなら・・・」と、沼田城を明渡す決意をした昌幸は、沼田城から手を退き、利根川を挟んで向かい側にある名胡桃城(なぐるみじょう)に、家臣の鈴木重則(主水)を配置し、一方の北条は、北条氏邦(氏直の叔父)の家臣・猪俣邦憲(くにのり)沼田城に入城しました。

ところが、その明け渡しから半年もたたない天正十七年(1589年)10月23日邦憲は突然、名胡桃城を襲撃し奪ってしまったのです。

北条の誘いで、その時、城を留守にしていた重則は、騙されたと知り、切腹をしてその無念さをアピールして死んでいきました。

昌幸からこの報告を受けた秀吉・・・当然、許すわけにはいきません。

そう、この名胡桃城奪取事件が、きっかけで、あの小田原征伐が開始される事になるのです(3月29日参照>>)

もちろん、天下統一を狙う秀吉にとっては渡りに船・・・臣下に入らないんなら、潰すしかない北条に、格好の攻撃理由ができたわけですから・・・。

この小田原攻めの時、秀吉は、大大名の家康をはじめ、配下の名だたる武将がいる中、城を奪われ、一番隅っこのほうで小さくなっていた昌幸に、「中山道の先手はお前に任せる」と言ったのだとか・・・地の利を生かせる信濃の地で先頭に立って仇を討てと・・・

さすがは人たらし・・・いや、部下の使い方がウマイなぁ・・・秀吉さん。

もちろん、この小田原征伐が初陣となるかの弁丸=真田幸村も、後の名将を予感させる大活躍をする事になります。
 

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2008年10月17日 (金)

負けたのに勝った?人たらし秀吉の離れ業

 

天正十四年(1586)10月17日、羽柴(豊臣)秀吉からの再三の要請に応じて、徳川家康上洛を決意・・・この日から家康は、秀吉の臣下という事になります。

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日本の歴史に、天下人としてその名を残す二人・・・豊臣秀吉徳川家康

この二人の生涯たった一度の直接対決が、かの小牧長久手の戦いです。

前半の小牧の戦い(犬山城攻略戦と羽黒の戦いの総称)と後半の長久手の戦い、そしてラストの蟹江城攻防戦・・・これらをひっくるめて小牧長久手の戦いと呼びますが、果たしてこの戦いは、家康の勝利なのか?それとも秀吉の勝利なのか?

そもそもは、織田信長亡き後の織田家後継者の中で、まんまと秀吉の口車に乗せられ、弟の神戸信孝(信長の三男)を葬り去った(5月2日参照>>)兄・織田信雄(信長の次男)が、遅ればせながら「秀吉は織田家を支えようとしているのではなく、自らが天下を取ろうとしている」という事に気づいて、徳川家康を頼って、秀吉に対抗しようとしたのが、小牧長久手の戦いの発端です。

その信雄と家康の動きを察した秀吉・・・まずは、天正十二年(1584年)3月13日に信雄傘下の中川定家が城主を務める犬山城を、配下の池田恒興(つねおき)に攻略させました(3月13日参照>>)

しかし、秀吉勢の調子が良かったのは、この犬山城攻略戦だけ・・・。

直後の羽黒の戦い(3月17日参照>>)では、森長可(ながよし)が見事に家康にしてやられ、4月9日の長久手の戦い(07年4月9日参照>>)に至っては、犬山城を攻略した恒興も、汚名返上を賭けた長可も討死してしまう(08年4月9日参照>>)という大惨事となってしまいます。

さらに、最終戦となった蟹江合戦(6月15日参照>>)では、一旦手に入れた蟹江城を奪い返され、屈辱的な敗退となってしまいました。

つまり、一連の小牧長久手の戦いのそれぞれの戦いは、ほぼ、織田・徳川連合軍の勝利に終っているのです。

ところが・・・です。

ところが、冒頭に書いた通り・・・
家康はこれだけ勝っておきながら、秀吉の臣下となるのです。

局地戦に勝ったのは家康・・・しかし、一連の小牧長久手の戦いに勝ったのは秀吉なのです。

この奇妙な現象は、ひとえに、合戦ではないところでの秀吉の巧みさと、その秀吉に策略に見事なまでに乗ってくれた戦国屈指の憎めないキャラ・信雄くん(その生涯は4月30日参照>>)の成せるワザ・・・。

おそらく、その時点での総兵力は秀吉のほうがまさっていたでしょうから、その蟹江合戦の後に、秀吉が全勢力を傾けて家康に対したなら、普通に合戦して勝利したかも知れません。

しかし、秀吉には、まだまだ他に、平定したい相手がいました。

信長がやろうとしていた西国の毛利や四国の長宗我部、さらに紀州(和歌山県)根来衆も・・・。

されど、片手間にそっちをやりながら、家康と相まみえても、勝利できない事は、この小牧長久手で充分悟りました。

そこで、秀吉は、作戦変更・・・強い家康をそのままほっといて、弱い信雄にターゲットにを絞るのです。

蟹江合戦のあと、一旦大坂城に戻っていた秀吉は、8月に再び出陣し、家康がすぐには駆けつけられない距離にある戸木城(へきじょう・三重県津市)を、蒲生氏郷(がもううじさと)に落とさせて、信雄を圧迫した後、そっと講和を持ちかけるのです。

どこをどうウマくやったのか・・・
家康にまったく悟られる事なく、信雄ひとりに接近し、11月11日、伊勢4郡を信雄に戻すという条件で、見事に講和を成功させます。

家康にとっては青天の霹靂です。

もともとは、信雄から「一緒に戦かってぇ~」と持ちかけられた合戦です。
それを、独断で勝手に講和されちゃぁ・・・何のために戦ってるんだか・・・。

こっちはそうでもないのに、「好き好き」言われて、しかたなくつき合った彼女に、思いっきりフラれるようなもんです。
「お前から言うて来たんやないかい!」と返したいくらいです。

この時の、家康派の動揺は、あの佐々成政が、命がけで極寒の北アルプス越え(11月11日参照>>)をして、家康に会いに来た事でも伺えます。

信雄の単独講和で、秀吉と戦う大義名分を無くした家康は、振り上げたこぶしを収めるしかなくなってしまい、10日後の11月21日、家康も秀吉との講和を結んで浜松へ帰還(11月21日参照>>)・・・これで、小牧長久手の戦いは終了するわけですが、その後、秀吉は、家康に対し、再三の上洛を求めます。

しぶる家康に、妹・(あさひ)を嫁として差し出しますが、この時代の政略結婚はイコール人質です。

この時、秀吉の妹・旭は44歳・・・10代での結婚があたりまえで、22歳のお市の方でさえ、晩婚の部類に入るこの時代に44歳はケタ違い・・・しかも、別の人と結婚していたにも関わらず、それを離縁させてまでの家康との結婚です。

さらに、その旭姫の病気見舞いと称して、実母・なかまでもを、家康のもとへ差し出した秀吉・・・。

こうして、結局、家康は、天正十四年(1586)10月17日上洛して秀吉との会見をする決意をしたワケです。

その10日後に、大坂城で行われる事になった会見・・・その前日、大坂に入って、秀吉の弟・秀長の屋敷に宿泊していた家康のもとへ、秀吉は、いそいそとやってきます。

「わが弟よ!よく来てくれた!」と、大喜び。

そして・・・
「明日、大坂城で、皆に君を紹介するから、一瞬だけ頭を下げてちょ」
と、メチャメチャ軽いノリで頼んだのです。

とりあえず、「わかりました」と返答した家康・・・。

かくして、10月27日の大坂城・・・

大広間に諸大名が居並ぶ中、「三河殿」と呼ばれて、約束通り、チョコッとだけ、挨拶がわりのつもりで頭を下げた家康・・・そこに間髪入れず・・・

「上洛、大儀であった!」
と、昨晩の軽いノリからは、想像もできない、りんとした態度で、力強く言い放った秀吉・・・この一瞬、さすがの家康も、「してやられた・・・」と思ったに違いありません。

威厳たっぷりに家康を見下ろす秀吉と、頭を下げた家康・・・まわりの大名から見れば、どこをどう見ても、家康が秀吉の臣下に入ったとしか見えないこの状況・・・。

あの信長にでさえ、同盟関係であって家臣ではなかった家康が・・・

こうして、秀吉はその人たらしの見事なワザで、小牧長久手の戦いに負けながら勝ったのです。
 

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2008年10月 8日 (水)

伊達政宗の父親射殺事件の謎

 

天正十三年(1585年)10月8日、父・伊達輝宗を拉致して逃走した畠山義継を、追撃した伊達政宗が、父もろとも義継を銃殺しました。

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西では、織田信長亡き後、その後継者の位置をキープした羽柴(豊臣)秀吉が、畿内を平定し、さらに西の四国へと手を伸ばした頃・・・東北は、未だ、群雄割拠の状態でした。

米沢城(米沢市)を本拠地とする伊達氏山形城(山形市)最上氏寺池城(宮城県北部)葛西氏名主城(宮城県北部)大崎氏小高城(福島県相馬市)相馬氏大館城(福島県いわき市)岩城氏黒川城(福島県会津若松市)芦名氏など・・・さらに南の常陸(茨城県)には佐竹氏が控えます。

これらは、お互いの家族・親戚による複雑な政略結婚でつながり、敵対と和睦をくりかえしながら、一応の力関係が保たれてはいましたが、そのぶん、いつ誰が敵に回るかの予測もつかない状況でした。

さらに、これらの諸大名に囲まれた場所に位置しているのが、二本松城(福島県二本松市)畠山氏小浜城(福島県二本松市)大内氏三春城(福島県田村郡)田村氏須賀川城(福島県須賀川市)二階堂氏石川城(福島県石川郡)石川氏といった面々・・・。

そんな中、徐々に、勢力を拡大しつつあった伊達氏は、芦名氏の勢力圏とのぶつかりを見せるようになります。

ちょうど、その両勢力に挟まれた形となったのが、小浜城主の大内定綱と二本松城主の畠山義継・・・彼らがどちらにつくかで、その勢力範囲は大きく変わる事になります。

そんなこんなの天正十二年(1584年)10月、伊達政宗は、父・輝宗から家督を譲られます。

輝宗は41歳の現役バリバリで、政宗はまだ18歳の若さという、一見、不自然な家督相続は、政宗の母・義姫が、次男の竺丸(じくまる・後の小次郎)ばかりを可愛がるため、徐々に伊達家内に、「政宗ではなく弟を後継者に・・・」という空気が流れ始めた事を心配しての父の配慮でした。

母が冷たくする事で、不憫に思った父は、政宗の事を可愛がっていましたし、何より、その武将としての器を評価しての決定でした。

しかし、その当主の交代をチャンスと見た畠山義継は、もともと芦名寄りだった姿勢をさらに強調し、一旦、伊達に恭順の態度を示していた大内定綱を寝返らせたのです。

これに激怒した政宗は、早速、定綱の支城・小手森城(おてのもりじょう・二本松市)を攻撃・・・城兵から女子供にいたるまで約8百人を、一人残らず殺してしまったのです。

定綱自身は、いち早く小手森城を脱出し、義継の二本松城へ逃げ込みます。

これに慌てふためいたのが義継・・・「このままでは、俺んとこも皆殺しにされるがな!(´Д`;≡;´Д`)アワアワ」とばかりに、すぐさま、領地の半分を差し出す条件で、降伏を願い出ますが、ここで、政宗の出した条件は、『5つの村を残して、ほとんどの領地の没収と、後継者である国王丸を人質として差し出す』という義継にとって、たいへん厳しいものでした。

しかし、背に腹は変えられません・・・義継は、内心不満に思いながらも、表面は穏やかに、天正十三年(1585年)10月6日、伊達と畠山の和睦が成立したのです。

その2日後・・・10月8日の事です。

当時、宮森城(みやのもりじょう・二本松市)にいた輝宗のもとに、「和睦成立の御礼に来ました~」と、義継が面会を求めてきたのです。

彼らは30人ほどの団体でしたが、義継と家老の3名だけが中に入り、残りの者は城門の外に待たせていましたので、輝宗も、家臣たちも、誰も疑う事なく、すんなりと彼らを城内へと招き入れました。

やがて、和やかムードの会見も終わり、義継が玄関へと向かうと、輝宗もその見送りにと表へ向かいます。

その時、義継の家老・鹿子田(かのこだ)和泉が、なにやら、義継にコソコソと耳うちをしたかと思うと、「なんやと!?」と、叫び、いきなり義継は、輝宗の胸ぐらを掴み、持っていた脇差を突きつけ「ホンマか!俺を殺そうとしとるんか!」と言いながら、引きずるように表へと連れ出し、自分の馬に乗せて、そのまま拉致してしまったのです。

建物から、外へ出るまで、ずっと脇差の刃が輝宗に向けられていましたから、回りにいた家臣たちも、どうする事もできませんでした。

そばにいた重臣・留守(伊達)政景伊達成実(しげざね)は、すぐに追手を出して追撃を開始するとともに、この日、小浜城外で鷹狩りを楽しんでいた政宗に、この事を知らせます

輝宗を連れ、居城・二本松城へと逃げる畠山勢・・・追う伊達勢・・・8kmほど進んだ阿武隈川・河畔で、政宗が彼らに追いつくと、すでに、そこには、畠山勢を取り囲む伊達の鉄砲隊の姿がありました。

川を越えれば、もう、畠山の領地です。

・・・その時、
「かまわん!ワシもろとも撃て!」

一瞬、迷った政宗でしたが、父が何度も叫ぶの聞き、心を決め、指示を出します。

猛烈な銃撃音とともに、騒然となるあたり一面・・・銃撃音が鳴り止み、静寂に戻ったそこには、畠山勢全員の横たわった姿とともに、父・輝宗の無残な姿も・・・。

自らの手で、父を死に追いやってしまった政宗・・・その無念の思いから、父の初七日を過ぎてまもなく、政宗は、挙兵するのです。

父の弔い合戦となる人取橋の合戦(11月17日参照>>)です。

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・・・という、一連の流れなのですが、どうも腑に落ちない点が・・・

まずは、輝宗と義継の会見の後の、家老とのヒソヒソ話・・・

義継の、「ホンマか!俺を殺そうとしとるんか!」という言葉通りに受け止めたなら、家老の話の内容は、「殿のお命を狙っているとの情報が・・・」てな感じが想像できます。

しかし、この家老のヒソヒソ話が、周りの家臣の油断ぶりを、その目で確かめた後に拉致を決行する合図だったとしたら、この時の訪問自体が、はなから拉致を視野に入れての謀反という事になります。

この拉致事件が、突発的に発生したものなのか?
それとも、事前に計画されたものなのか?

そこで、もう一つ気になるのは、政宗の行動・・・

上記のように、一般的には、政宗が阿武隈川・河畔にたどりついた時には、鉄砲隊が取り囲んでいて、鉄砲を撃つか撃たないかの最終判断は、政宗が下したとされていあますが、伊達家側の記録によれば、この時、まだ政宗は現場に到着していなかった事になっています。

しかし、実際に輝宗が撃たれて亡くなっている以上、誰かが鉄砲隊に命令を下したわけですが、息子で、すでに家督を継いでる政宗ならともかく、家臣が殿様を撃つ命令を下すとは、とても考え難いので、やっぱり、その場に政宗がいたのだろうとは思います。

・・・が、いずれにせよ、政宗より先に鉄砲隊が到着していたという事は、疑いのないところです。

輝宗とともに宮森城にいて、拉致された時に慌てて追いかけた家臣たちは、突発的な出来事のために何の準備もせぬまま、とるものもとりあえず追撃した・・・とされていますが、一緒にいたものでさえ、その状態なのに、事件発生の後に連絡を聞いて駆けつけた政宗の鉄砲隊は、見事に追いついています

それも、すぐに銃撃できるように火縄に火をつけて・・・

鷹狩りなので、すぐに撃てる状態の鉄砲を持っていた・・・と言いますが、この時代、獲物を鉄砲で撃つという事があったのでしょうか?

鳥や獣を鉄砲でしとめるようになるのは、もう少し後のような気がします。

しかも、銃での狩りと鷹狩りは、明らかに別物・・・現代でさえ、別々の趣味で、お互い相まみえる事はありません。

江戸時代でも、鷹狩りは一部の身分の高い者にだけ許されるセレブな狩りで、鉄砲は下等とされていたようですので、それを同時に行うのは、どうでしょう?
考え難い気がしませんか?。

かと、言って、政宗からの連絡を受けた鉄砲隊が陣屋から出発して、別働隊として畠山勢に追撃をしたのなら、準備があまりにも早い・・・まるで、今日、出撃する事がわかっていたようなすばやさです。

なんせ、一度に30人前後を全員殺傷できる数の鉄砲ですから、1挺や2挺の鉄砲では、そうはいきませんから・・・。

そこで、気になるのは、『政宗記』の記述・・・

そこには・・・
政宗は鷹狩りには行っておらず、小浜城の陣屋にいて義継を討つべく武器の準備をしていた・・・とあります。

つまり、これを感づいた義継の家臣が、その事を報告し、先の「俺を殺そうとしとるんか!」となり、やむを得ず輝宗を拉致した・・・となるわけです。

もちろん、父親を巻き添えにしてしまったのは、政宗の予見するところではなかったのかも知れませんが、それを口実に相手を攻める事ができ、結果的に領地を拡大する事になるのですから、武士・輝宗としては、武士らしい死と言えるかも知れません。

歴史の通説では、もちろん、義継の「輝宗・拉致」という謀反が発端となるわけですが、別の角度から見てみるのも一興かと思い、書かせていただきました。
 

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2008年9月21日 (日)

ラッキーサプライズ?~長宗我部元親の阿波平定

 

天正十年(1582年)9月21日、長宗我部元親十河存保勝瑞城を落とし、阿波を平定しました。

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天正三年(1575年)7月の四万十川の戦い(7月16日参照>>)に勝利し、土佐(高知県)を統一してルンルン気分の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、その3ヶ月前の5月に長篠の合戦(5月21日参照>>)武田勝頼に勝利して、やはりルンルン気分の織田信長に一声かけていました・・・なんせ、時の一番の権力者ですから、一応気を使っとかないとね。

「この勢いのまま四国を統一しちゃっていいかな?」
「いいとも~(*゚▽゚)ノ」

上機嫌の信長から、四国統一の許可を得た元親は、早速、阿波(徳島)へ進攻を開始、同時に讃岐(香川県)へも出兵して、徐々にその勢力範囲を広げていったのです。

ところが、途中で気が変わった信長さん、
「やっぱ、讃岐と阿波の北半分は三好康長君にあげる~。
長宗我部君は土佐と阿波の南部でガマンしといてよ」

と、言い出し、その先鋒として、康長を阿波北部の勝瑞城(しょうずいじょう)へと送り込みます。

この康長は、もともと阿波の岩倉城主だった人物で、現在は信長の配下となり、河内(大阪府)に領地を与えてもらっている人・・・つまり、信長は完全に四国を自分の配下としようと考えを変えたのです。

もちろん「ハイそうですか」と、納得するわけにはいかない元親は、徹底抗戦する覚悟・・・信長は信長で、三男の神戸信孝(かんべのぶたか)に重臣・丹羽長秀(にわながひで)をつけて、四国に送り込む準備を始めます。

これが、天正十年(1582年)の事・・・しかし、今まさに信孝が出陣しようとした直前、ご存知、本能寺の変(6月2日参照>>)が勃発したのです。

信長の異変を知った信孝ら四国攻め組は四国どころではなくなり、勝瑞城にいた康長も、慌てて河内へと向かいました。

留守になった勝瑞城を守るのは、康長の兄の孫に当たる十河存保(とごうまさやす)

一方、織田家の異変は、ほどなく長宗我部の知るところとなりますが、血気にはやって、すぐに勝瑞城を攻め落とそうと海部城(かいふじょう)に入った長男・信親(のぶちか)をなだめて、岡豊城(おこうじょう)にて、じっくりと作戦を練る元親・・・。

Mototikaawaheiteicc もともと、信長との直接対決を覚悟していた元親にとっては、「織田家の後ろ盾を失った三好勢など、敵ではない!」てな感じだったのかも知れません。

じっくりと、軍儀を重ねた元親らは、8月27日に海岸沿いと吉野川沿いの二手に分かれて出陣・・・吉野川の南岸にて合流した2万3千の大軍の指揮を任されたのは、元親の弟・香宗我部親泰(こうそかべちかやす)・・・。

一方、勝瑞城を出て、勝興寺に本陣を置いた存保率いる三好軍は約6千。

翌・8月28日、中富川を挟んで決戦は開始されます。

まずは、先に川に乗り入れた三好軍に対して、あらかじめ構築してあった堰(せき)を破り、上流からの水を一気に流してダメージを与え、ころあいを見計らって、川に乗り入れる長宗我部軍・・・。

壮絶な戦いの中、やがて、一人、また一人と三好軍の有力武将が討ち取られ、壊滅状態になった中、存保は、勝瑞城へと逃げ帰り、その日のうちに中富川の戦いは終結・・・その後は勝瑞城での籠城戦となります。

さらに、本格的な籠城戦の前に、周辺にある一宮城・牛岐城(うしきじょう)のなどの城も落した後、勝瑞城を取り囲む長宗我部軍でしたが、しばらくの間、豪雨が続き、さすがの元親も攻めあぐねます。

やがて、約1ヶ月ほど経った天正十年(1582年)9月21日、ついに勝瑞城は落城・・・存保は、讃岐の虎丸城(とらまるじょう)へと逃れ、ここに、長宗我部元親の阿波平定が成されのです。

多くの戦国大名に影響を与えた信長さんの死ですが、元親にとっては、この上なくラッキーな出来事となった事は確かです。

信長の大軍が相手なら、四国統一はちょっと難しかったかも知れませんからね。

もちろん、今回は、ラッキーなサプライズにはやる事なく、じっくりと見据えて勝瑞城への攻撃を仕掛けた元親の好判断の勝利でもありますが・・・。
 

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2008年9月 9日 (火)

滝川一益の人生波乱万丈

 

天正十四年(1586年)9月9日、流浪の身から関東管領へと大出世した滝川一益が、隠居先の越前にて、52歳の生涯を閉じました。

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近江(滋賀県)滝川一勝の息子・滝川一益(かずます)は、甲賀忍者の本拠地・甲賀郡で生まれ育ちます。

甲賀の出身だから忍者であると、安易に決めつけられないという見方もありますが、もともと前半生が謎に包まれている人なので、なきにしもあらず・・・忍者だったほうが何かとオモシロイので、そうあってほしいという願いも込めて、お話を進めていきましょう。

それに、少年の頃から観音寺城主・六角義賢(ろっかくよしかた)に仕えたという事を考えると、幼い頃からある程度の武術的な訓練を受けていた可能性も考えられますしね。

ところが、そんな少年・一益は、ある日、些細な事で同僚とモメ事を起こしてしまい、相手を殺害してしまいます。

これが、主君・義賢の怒りに触れて追放され、しかたなく、叔父の家に厄介になるのですが、今度は、ここで、叔父のお妾さんとデキちゃったために、またまた叔父の怒りを買ってしまいます。

怒った叔父が、一益を殺そうとした事で、逆に叔父を殺害・・・殺人の罪を背負ったまま流浪の身となった一益・・・

当時、一番、活気のある町・へとやってきます。

その堺の町で、鉄砲職人と知り合いになった彼は、その職人の弟子となり、その製造法や使い方を学び、銃の腕も磨きます。

そんな一益の前にに登場するのが、若き日の織田信長です。

鉄砲に興味を持っていた信長が、度々、堺の商人たちと接触しているのを目の当たりにした一益は、「自分が仕えるなら、この人しかない!」と思うのでした。

早速、信長に働きかける一益・・・運良く、信長に面会が叶った彼は、仕官したいと思っている事を伝え、自分自身を猛アピールします。

もともと、良いと思えば、新しい物をどんどん取り入れる革新派の信長さん・・・それは人材に関しても同じ事・・・。

この時一益は、信長の目の前で、銃の腕を披露し、100発中72発を命中させたと言います。

その鉄砲の腕を買われて、見事、信長の配下となった一益は、次々と武功を挙げていきます。

まずは、徳川家康(松平元康)との同盟を成功させ、永禄十年(1567年)から始まった伊勢討伐では蟹江城を奪取し、自らが傘下に加えた九鬼水軍とともに大活躍・・・それは、信長に「先駆けは一益 殿(しんがり)も一益」と言わせるくらいの評価を受けました。

その後の、長島一向一揆や、石山本願寺との合戦でも、配下の水軍を擁して戦い、天正十年(1582年)の甲州征伐では、まだ年若き織田信忠(信長の長男)をサポートして、武田勝頼を自刃に追い込みます(3月11日参照>>)

この時の活躍で、事実上の関東管領職まで任せれるようになった一益・・・殺人を犯して故郷を追われ、流浪した頃から見ると、とてつもない出世を果たしました。

しかし、ここで、ご存知の本能寺の変・・・信長が亡くなってしまいます(6月2日参照>>)

やはり、信長あっての一益だったのでしょうか?

ここから、一益の人生も大きく狂いはじめます。

まずは、主君の急を知って、すぐに上洛を果たそうとしますが、やはり信長の死を知って、目の前に立ちはだかった北条氏政・氏直親子に神流川の戦いで敗れて上洛できず・・・(6月18日参照>>)

その余波で、信長の後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)にも出席できず、その後の豊臣(羽柴)秀吉柴田勝家との対立では、勝家につきますが、ご存知のように賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で、勝家は大敗を喫して自刃してしまい、一益自身も攻められて降伏・・・その後は、秀吉の配下となります。

しかし、そこも安住の地ではありませんでした。

家康を味方につけた信長の次男・織田信雄と秀吉が戦った小牧・長久手の戦い蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)で、せっかく手に入れた城を開城し、徳川方に降るという大失態・・・。

しかも、その3ヶ月後には和睦が成立してしまい、居場所が無くなった一益は、京都妙心寺にて剃髪し、越前大野で隠居暮らしをする事に・・・。

『小牧戦話』『老人雑話』では、「居場所が無くなった一益が、あちこちと、さまよい歩き、最後には餓死した」と失意の行き倒れになった事にされてしまっていますが、さすがに、実際に餓死する事なかったようですが、そんな噂が立つほどに、悲惨な転落ぶりだった事がうかがえます。

ただ、関東管領に大抜擢された頃の京都の知人に宛てた手紙には・・・
「武田討伐の褒美には、小茄子(こなすび・名物茶器の名前)を貰うつのりでおったんやけど、上野(こうずけ)というえらい遠い国を貰てしもて・・・これで、しばらく茶の湯から遠のいてしまうますわ~」
と、いうような心情を話してもいるので、もし、その気持ちが本心だとしたら、秀吉と家康のハザマで、苦悩するよりも、案外、越前での隠居生活が気楽で良かったのかも知れません。

天正十四年(1586年)9月9日、そんな滝川一益が、隠居先の越前にて、波乱万丈の人生を終えました。

 

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2008年8月28日 (木)

小谷落城の生き残り~海北友松の熱い思い

 

天正元年(1573年)8月28日、織田信長による攻撃で、城主・浅井長政が自刃し、小谷城が落城しました。

*長政の自刃は、8月29日とも9月1日とも言われますが、とりあえず本日の話題として書かせていただきます

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天正元年(1573年)8月20日、越前朝倉義景を自刃(8月6日参照>>)に追い込んだ織田信長は、8月27日、孤立した小谷城への攻撃に主力を投入します。

羽柴(豊臣)秀吉の怒涛の攻撃で城内が分断され、その日のうちに父・浅井久政が自刃、そして、翌8月28日、城主・浅井長政の自刃によって小谷城は落城・・・浅井氏は滅亡しました(8月27日参照>>)

この小谷城・落城の日、城主・浅井長政と運命をともにした海北綱親(かいほうつなちか)・・・彼は、「家中第一の剛の者」と称された浅井家の重臣で、近江源氏の流れを汲む武門の家柄の人物でした。

赤尾清綱雨森清貞とともに浅井(海赤雨)三将と恐れられた綱親も、この日の落城にとともに主君に殉じ、長男もろとも命果てました。

しかし、綱親には、他にもまだ、紹益という息子がいました。

幼い頃から京都・東福寺に預けられていたため、落城の難を逃れた紹益は、父や兄の死を知ると、すぐに還俗(仏教の道に入っていた人が、一般人に戻る事)して、海北家再興のために奔走するのです。

弓・馬・剣と武芸に励むかたわら、狩野永徳(永徳の祖父・元信とも)に教えを乞い、絵画の修行もし、里村紹巴には連歌を習い、茶の湯にも親しみます。

ただし、この一連の修行・・・あくまで、前者の武芸のほうが主流で、後者の芸術面の修行は、彼にとっては、名のある武将と交流を持つための手段であり、自分自身の価値を高めるためのステップだったのです。

力のある武将と親しくなって、自分の事を認めてもらう事ができたら、お家再興の道も、より早くなるかも知れませんからね。

おかげで、明智光秀の家老だった斉藤利三や、天台宗の僧侶・真如堂東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)らとも、かなり親しくなっていたようです。

利三が、かの山崎の合戦(6月13日参照>>)で敗れた後に処刑された時は、東陽坊とともに、その遺体を奪い、真如堂へ埋葬するなんて事もしています。

しかし、世の中、思い通りにはいかないものです。

文禄二年(1593年)、紹益60歳の時、施薬院全宗(やくいんぜんそう・秀吉の側近の医者)の開いた茶会で、今や、天下人となった豊臣秀吉に、その絵画の才能のほうを見いだされのです。

その時から彼は、絵画の道に生きる事になりました。

Yuusyouunryuzucc_2  

海北友松
「雲龍図」

本物は貴重なので、パンフレットの転載ですが、ご参考までに・・・

 

 
妙心寺
「花卉図」や、建仁寺「雲龍図」「竹林七賢図」などの傑作で知られる、桃山時代~江戸時代初期を代表する絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)が、その人です。

そんな彼は、一般的には、秀吉に画才を認められてからは、画業に専念して武士への道を諦めたと言われていますが、どうやら、そうではなさそうです。

・・・というのも、友松の孫にあたる海北友竹「海北友松夫婦像」という作品があるのですが、その(絵に題することば)には、友松自身の言葉として・・・

「近江源氏の流れを汲む武門に生まれたにも関わらず、こともあろうに芸家に身を落としてしもた・・・もしも、まだ、この先にチャンスがあるなら、何とかして海北の武門復興したい」
てな事が記されているのです。

つまり、彼は、絵師として成功した後でも、まだ、お家の復興を諦めていなかったという事です。

彼の作品は、簡素な水墨画からも、煌びやかな金箔画からも・・・いずれも力強く、息を呑むほどの鋭さ、野心、意気込みを感じとる事ができます。

それは、きっと彼が、元和元年(1615年)の6月2日に、83歳で亡くなるその日まで、武門・海北家への思いを捨てなかった・・・その気迫が、作品の中に込められているからこそ、独特の美しさが感じられるのでしょう。

彼のお墓は、その遺言に従って、真如堂の斉藤利三のお墓の隣にあるそうです。

お家再興を願って寺を飛び出したものの、武士にはなりきれなかった友松の、最初で最後の武功・・・それが、親友・利三の遺体の確保にあったのかも知れません。

利三の娘で、後に大奥で実権を握った春日局(かすがのつぼね)が、友松の妻・妙貞と、息子・忠左衛門を優遇するのも、そこに、武門としての熱い思いを感じたから・・・というところではないでしょうか。
 

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2008年8月 5日 (火)

雅を夢みた日向の王者~伊東義祐の最期

 

天正十三年(1585年)8月5日、自ら「三州太守」と称した日向の戦国大名・伊東義祐が亡くなりました。

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日向(宮崎県)中央部に勢力を誇る伊東氏・・・室町時代から続く名門の10代目・当主となったのは、武勇に優れた伊東義祐(よしすけ)でした。

義祐は、婚姻を結んでいた木原氏の家督相続争いに乗じて木原氏を滅ぼした後、代々、日向南部を巡って繰り返されていた島津氏との抗争でも、分家の島津忠親(ただちか)を倒して飫肥(おび・宮崎県飫肥市)一帯を手に入れます。

さらに、佐土原城(さどはらじょう・宮崎市)を本拠地に、「伊東惣四十八城」と呼ばれる48の支城を日向国内に配置し、自らを、日向・薩摩・大隈「三州太守(さんしゅうたいしゅ)と称して、まさに、頂点を向かえます。

義祐の上り調子は、留まるところを知らず、あの豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)も、何とかよしみを通じようと縁戚関係を結んできます。

しかし、義祐さん・・・ここで、ちょっとばかり調子に乗りすぎました~。

「わが世の春」とばかりに、本拠地・佐土原に京風文化を取り入れ、酒池肉林の贅沢三昧・・・金閣寺をまねて金箔を張りめぐらした仏殿を造ってみたり、貴族にあこがれ、歌や酒に溺れる生活を続けます。

いくら戦上手でも、これでは・・・

しかも、お隣の島津では、新たに当主となった島津義久(よしひさ)が虎視眈々と挽回のチャンスを狙っています。

そんなこんなの元亀二年(1572年)5月、島津方に属する飯野城(宮崎県えびの市)を攻めるべく進軍する伊東勢・3000を、木崎原(きざきばる)で待ち受ける島津義弘(よしひろ・義久の弟)率いるわずか300の兵が奇襲します。

不意をつかれた伊東勢は総崩れとなり、またたく間に大敗・・・この木崎原の合戦は、無勢が多勢を倒したところから「九州の桶狭間」とも呼ばれます。

この敗戦をきっかけに、伊東氏は坂道を転げ落ちるように衰退していきます。

四年後の天正四年(1576年)になって、攻撃の手を強めた義久に対して、あの48もあった支城は、ほとんど戦わずして次々と降伏し、島津の勢いに押されて寝返る者も数知れず・・・。

さらに、翌・天正五年(1577年)になって、譜代の家臣までもが寝返るという状況に至り、12月8日には義弘が野尻に着陣・・・たまりかねた義祐は、翌日の12月9日、佐土原城を捨てて、命からがら大友宗麟のもとへ逃げ込みました。

この伊東氏のあまりの衰退ぶりは「伊東崩れ」と呼ばれ、これで、宮崎の南半分は島津の物となってしまいました。

ちょうど、その頃の宗麟は、キリスト教にどっぷりと浸かりたいがため、奥さんとも離婚し、家督も息子に譲っていて、自由このうえない身の上です。

そこに転がり込んできた義祐が言うには・・・
「日向を取り返してくれたら、その半分をあ・げ・る」
と、これまた、魅力たっぷりなお誘い・・・。

「そうだ!日向にキリシタンの王国を造ろう。ついでに南蛮貿易で大儲けしよう。」
宗麟は、島津を相手に戦う決意を固めます。

この大友VS島津の一連の戦いのクライマックスがあの耳川の戦い(11月11日参照>>)です。

もちろん、義祐も、大友勢の片翼として参戦しますが、この合戦が、大友氏をも傾けさせるほどの大敗を喫してしまします。

この敗戦では、宗麟でさえ、ギリギリで母国へ逃げ帰ったような状況でしたから、当然、居候の義祐が、またまた大友氏を頼るわけにもいきません。

義祐は、そのまま、元家臣や知り合いのところを転々とする流浪生活に入ります。

やがて、息子・伊東祐兵(すけたか)が、羽柴(豊臣)秀吉に仕えるようになった縁で、「秀吉傘下に入らないか?」というお誘いを受けますが・・・
「従三位の俺が、秀吉ごときの臣下になれるか!」
と、この期におよんでも、名門のプライドを捨てきれない強気の発言で、さらに流浪生活を続ける義祐さん・・・。

そして、天正十三年(1585年)8月5日、大阪はの浜辺で行き倒れになっているところを発見されたのです。

享年74歳・・・豪腕の誉れ高き武将は、雅な貴族にあこがれて、没落の一途をたどりながらも、その夢を曲げる事ができませんでした。

うまく立ち回って生き残るのか?
死んでも信念を貫くのか?

生きるも死ぬも両極端・・・それが、戦国の世というものなのでしょうね。
 

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2008年8月 1日 (金)

家康はなぜ?江戸城を選んだか

 

天正十八年(1590年)8月1日は、徳川家康豊臣秀吉の命により、関東に入国した日・・・『江戸御打ち入り』の日です。

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もちろん、実際には、もう少し前から関東入りしていた家康さんですが、一昨年書かせていただいたように、この日が『八朔(はっさく)(2006年の8月1日参照>>)という豊穣の祝日だった事で、キリの良い8月1日を記念日=入国セレモニーの日と定めたわけで、後に徳川が政権を握った江戸時代を通じて、この8月1日が『江戸御打ち入り』の日と呼ばれるようになります。

ところで、この徳川家康の江戸入りは、あの小田原征伐の後の論功行賞(7月13日参照>>)で、滅亡した北条氏の治めていた関八州を、豊臣秀吉が家康に与えた事で、家康は、北条氏の支城であった江戸城を本拠地とする事に決め、この日の江戸入りとなったわけですが、これには、家康が・・・というより、譜代の家臣団にとって、相当なショックだったようです。

何と言っても、父の代から三河(愛知県)に根をはり、武田今川の抗争に乗じて、駿河・遠江(静岡県)を手に入れ、織田信長亡き後に、秀吉が天下へとまい進する影で、甲斐(山梨県)信濃(長野県)を自力で切り取り、五ヶ国の大大名に成長していたにも関わらず、それを、まるまる捨てて、まだ未開発の関東への転封となるわけですから・・・。

「それなら、せめて、居城を難攻不落の小田原城にしたい」
それは、家臣団だけではなく、ひょっとしたら家康自身も、そう思っていたかも知れません。

小田原は、その城下町をも含めた城塞都市・・・城は天下に聞こえた名城です。

多少の攻防戦はあったものの、結果的には、北条氏直による降伏の申し入れで、ほとんどダメージを受ける事なく開城されています(7月5日参照>>)から、前年に駿府城を完成させたばかりの家康のホンネは、ほぼ手入れなしでOKな、この名城がよかったのかも知れません。

また、家康が『吾妻鏡』を愛読し、自らを源頼朝の再来と位置づけていた事から、本当は、鎌倉を本拠地にしたかったのではないか?との見方もあります。

しかし、家康は江戸を選びました。

もちろん、それには、論功行賞の時に書かせていただいたように、秀吉の・・・
「江戸っちゅーとこに、居城を構えたほうがえぇで」
という言葉に、気をつかったという事もあったのかも知れませんが、あくまで最終決断を下したのは家康本人です。

ひょっとしらた、そこには家康の、将来を見据えた大いなる構想があったのかも知れません。

目の当たりにしてきた足利氏の衰退・・・そして信長と秀吉の生き様・・・。
そこには、それらの人々に関与する朝廷の影が見え隠れします。

政教をきっちりと分離し、自らが王になろうとした信長でさえ、ギクシャクしながらも天皇との関係を密にしていましたし、農民出身の秀吉などは、なりふりかまわず関白の座を手に入れました。

それを見てきた家康は、朝廷に左右される事のない、新たな武家政権を造ろうと考えたのではないでしょうか?

それには、天皇のおわす京の都に匹敵するような、幕府を置くための大きな都が必要となります。

小田原城は、すでに出来上がった難攻不落の名城・・・。
鎌倉もすでに出来上がったいにしえの都・・・。

その点、江戸は、広い関東平野を有する未開の地・・・オソマツな江戸城は、この先いくらでも改築できますし、まわりにある小さな漁村も、いくらでも開発ができます。

確かに、この時点で家康が300年の長きに渡る政権を見越していたとも思えませんが、少なくとも、朝廷と距離を置く事で、「足利氏や信長・秀吉の轍を踏まない」と考えたのではないでしょうか?

家康が、京都に構築を開始した二条城(5月1日参照>>)・・・それは、主に、朝廷に睨みをきかすためと、将軍が上洛した際の宿泊所とするために建てられたわけですが、その二条城には、それを完成させた3代将軍・徳川家光から、次に訪れる幕末期の14代将軍・徳川家茂まで、230年間の長きに渡って、将軍が入城する事がなかった事を考えると、やはり、結果論ではありますが、朝廷と距離を置く事が、長期政権の鍵だったのではないでしょうか?。

果たして、家康は、その居城に、江戸城を選んだのか?選ばされたのか?

ご本人の心の内は、想像するしかありませんが、少なくとも、家康が江戸城を居城とした事で、この先の江戸時代という時代が・・・、そして、世界一の大都市である江戸という町が生まれた事は確かです。
 

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