2018年6月 8日 (金)

本能寺のドサクサで…稲葉一鉄VS安藤守就の本田・北方合戦

天正十年(1582年)6月8日、本能寺の変のドサクサで旧領を回復しようとした安藤守就と、それを阻止する稲葉一鉄が戦った本田・北方合戦がありました。

・・・・・・・・・

永禄十年(1567年)8月に、あの織田信長(おだのぶなが)が、斎藤道三(さいとうどうさん=利政)の孫にあたる龍興(たつおき)を破って手に入れた美濃(岐阜県)稲葉山城(いなばやまじょう)(8月15日参照>>)・・・ご存じのように、信長は、この稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と改め、ここを拠点として天下への一歩を踏み出したわけですが、

それには、この半月ほど前に、主君を見限って織田方に内応してくれた西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)の影響が大きかったのです(8月1日参照>>)

その西美濃三人衆とは、
西美濃曾根城主稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)
西美濃大垣城主氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)
西美濃北方城主安藤守就(あんどうもりなり)
の三人・・・

いずれも、斎藤以前に美濃の守護であった土岐頼芸(ときよしなり)の時代からの家臣たちですから、内々の事や地の利を知りつくした彼らが内通してくれたおかげで、その後に続く者も多数出て、一気に城を落とす事ができた事は確か・・・

その後の彼らは、もちろん、信長直属の部隊として各地で活躍・・・元亀元年(1570年)の、あの姉川(あねがわ)の戦いなどは、彼ら西美濃三人衆の側面攻撃失くしては信長の勝利も危うかったかも(6月28日参照>>)

それ故、危険も多く、信長最大のピンチとも言われる元亀二年(1571年)5月の最初の長島一向一揆戦では、退却の殿(しんがり=最後尾)を務めた氏家卜全が討死しています(5月16日参照>>)

しかし、残る二人は、その後も柴田勝家(しばたかついえ)の援軍として加賀(かが=石川県南部)に行ったり、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の援軍として中国攻めに向かったり・・・と、西に東に転戦していたわけですが、

そんなこんなの天正八年(1580年)、安藤守就は、突然、信長から謀反を疑われて息子=定治(さだはる=尚就とも)共々、追放されてしまうのです。

『信長公記』では、石山合戦でゴチャゴチャやってた信長が1番ややこしい時期に「野心含み申す」=つまり、信長のピンチに乗じて謀反を計画したという事になってますが、一説には、息子の定治が、絶賛敵対中の武田勝頼(たけだかつより)に通じた・・・という話もあり。

ただし、それも、本当に、この父子に謀反や裏切りの気持ちあったのか?信長の疑心暗鬼の思い違いなのか?は定かでなく・・・なんせ、この6年前の天正二年(1574年)には、稲葉一鉄も謀反の疑いをかけられ追放されかけた事もありましたから。

この時の一鉄は、見事にその疑いを晴らしたわけですが(11月19日参照>>)、安藤父子の場合は残念ながら、美濃の武儀郡(むぎぐん=岐阜県関市付近)蟄居(ちっきょ=謹慎)となり、その身は一鉄に預けられたのです。

そんなこんなの天正十年(1582年)6月2日、京都で、あの本能寺の変が起こり、信長が横死(6月2日参照>>)・・・これを機に、安藤父子が旧領の回復に立ちあがったのです。

そこには散り々々になっていた一族や旧家臣たちが続々と集まって来て、鏡島城(かがしまじょう=岐阜県岐阜市鏡島)河渡城(こうとじょう=岐阜県岐阜市河渡)北方城(きたがたじょう=岐阜県本巣郡北方町)本田城(ほんでんじょう=岐阜県瑞穂市本田)軽海西城(かるみにしじょう=岐阜県本巣市軽海)などの旧領周辺の諸城に立ち返り、防備を固める修復作業に入ったのです。

Inabaittetu700a これを知った稲葉一鉄・・・「このままでは美濃が無法地帯となってしまう」とばかりに、まずは、この時、岐阜城内にいた甥っ子である斎藤利堯(さいとうとしたか=一鉄の妹と斎藤道三の子)城内を掌握させて、周辺に禁制を掲げて、織田×明智の両方に味方しない=中立の立場を取るとして不動の構とさせました。

また、安藤父子に対しては、もともとは彼らの持城であったとは言え、現段階では自分の領地の城に無断で入って勝手に合戦の準備をされてしまっている状況・・・

ただ、畿内の慌てぶりも想像に難くない中で、この急を要する事態の采配を上層部に問うている場合では無いわけで・・・

しかも、上記の甥っ子への指示なんか見ると、ひょっとしたら一鉄には、これを機に独立しようとの考えもあったかも知れず・・・

とにもかくにも、一鉄は、織田×明智のどちらにも連絡する事無く、自身の判断で以って、安藤父子の討伐を決意するのです。

まずは、安藤の重臣である稲葉長右衛門(いなばちょうえもん)が籠る本田城へ・・・一鉄方は、稲葉左近(いなばさこん)加納雅楽(かのううた)数十騎が一丸となって攻めかかって激しく交戦しますが、痛手も多く、一旦退却しようとしている所へ村瀬大隅(むらせおおすみ)率いる精鋭80余騎が駆けつけ、城将の長右衛門を討ち取ったほか、多くの首級を挙げ、残党も追撃して、一鉄側の大勝利となります。

幸先の良いスタートにゴキゲンの一鉄は、次に安藤父子らメインキャストの籠る北方城へと駒を進めます。

さすがにコチラは城下にいくつもの陣を設けて、安藤側も万全の守備態勢・・・

かくして天正十年(1582年)6月8日未明・・・北方城下に一鉄が押し寄せて、戦闘開始となります。

激しいぶつかり合いの末、午前10時頃には双方ともに100名以上の戦死者を出しますが、その死者の中には安藤守就も・・・84歳という高齢ながら、見事に自軍を指揮し千代保ヶ淵(ちよぼがふち=北方城の西側)付近で、壮絶な討死を遂げたとの事。

息子の定治も一族&旧臣らとともによく戦ったものの、数に勝る一鉄勢に押され、やはり討死します。

主を失った軍団は、やがてバラバラになって敗走し、北方城が陥落・・・ここに戦国武将の美濃安藤氏は滅亡しました。

こうして、北方での合戦に勝利した一鉄は、息子の貞通(さだみち)を軽海西城に、自らは河渡城へと向かったと言います。

その後、安藤父子の遺体は、一鉄の手配にて、配下の者から、すでに仏門に入っていた守就の弟=湖叔(こしゅく?)のもとに送られ、龍峰寺(りゅうほうじ=岐阜県岐阜市)に葬られました。

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本田・北方合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、ここらあたりの事は、残っている史料が少なく、実はかなり曖昧で、今回の安藤父子の場合、「本田や北方の城に入って防備を固める」どころか、城を奪い返す前に合戦状態となって、そのまま鎮圧されたとも言われます(←つまり城は奪い取ってない?)

また、一説には、この時の安藤の敗戦を伝え聞いた岐阜城の池田信輝(のぶてる)が、救援のために2000騎を率いて河渡城へと向かい、先鋒として迎え撃った稲葉家臣=石川三衛門(いしかわさんえもん)なる武将の部隊を全滅させてしまった事で、この池田隊の襲撃を恐れた一鉄が、自らの居城=根城(そねじょう=岐阜県大垣市)に戻って、周辺の百姓たちを総動員して数百の幟(のぼり)を立て、一晩中かがり火を焚かせて警戒していたものの、池田隊の、それ以上の攻撃は無かった・・・なんて話もあるとか・・・

でも、この池田信輝って、あの池田恒興(つねおき)の事ですよね?

確か、この本能寺の変の頃の恒興は、荒木村重(あらきむらしげ)との花隈城(はなくまじょう=兵庫県神戸市中央区)戦い(3月2日参照>>)の功績により、摂津(せっつ=大阪府北中部)一帯を領地としていたはず・・・まぁ、恒興は、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)の付属なので、当時は信忠が城主だった岐阜城にいたとしてもおかしくは無いのかも知れませんが、一般的には、本能寺の一報を聞いて、あの「中国大返し」(6月6日参照>>)で戻って来た秀吉らに、摂津富田(とんだ=大阪府高槻市)で6月12日に合流して、ともに山崎の合戦にて明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)というのが定説です。

その恒興が、その4日前に稲葉勢と相まみえるとは非常に考え難い・・・しかも、上記の通りだとすると、岐阜城は中立の立場にあったわけですし・・・

で、勝手な妄想をお許しいただくなら・・・この時の池田は恒興ではなく、ひょっとしたら恒興の四男で、軽海西城主の池田家家老=片桐俊元(かたぎりとしもと)の養子となっていた池田長政(ながまさ)の事なのでは?

後に大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)主となった恒興とともに、その出城である池尻城(いけじりじょう=同大垣市)へと片桐俊元が移るのは、この本能寺の変の翌年ですから、直後この頃は、未だ、自らの軽海西城にいたはず・・・なら養子の長政も~と思いきや長政は天正三年(1575年)生まれだから、まだ8歳だったww

て事は、稲葉配下の石川隊を全滅させたのは片桐俊元自身なのか?

だって、この時、安藤父子に奪われていないのであれば、軽海西城は片桐俊元の城なわけですから、そこに、ひょっとしたらこのチャンスに独立しようとしているかも知れない一鉄の息子=貞通が侵攻して来た事になるわけで・・・そりゃ守りますわな~

いやいや、あくまで妄想ですが、そう考えると、やれ数十騎だ、80余の援軍だって合戦に、「2000騎を率いて参戦する池田隊」の辻褄が合う気はします。

いやはや、辻褄の合わない記述を引っ張り出して、アレコレ想像するのは楽しいです。

ただ、今回の本能寺の変のドサクサで、信長傘下の者同志、あるいは旧武田の遺臣などとの戦いがアチコチ起こった事は確かで、細かな事はよくわからない部分が多いものの、おそらくは、この美濃一帯でも、そのような、ドサクサ紛れの領地の奪い合いがあったものと思われます。

★参照:本能寺のドサクサで起こった戦い
神流川の戦い>>
河尻秀隆と武田残党>>
長宗我部元親の阿波平定>>
天正壬午の乱>>
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2018年5月12日 (土)

賤ヶ岳で敗れ~「鬼玄蕃」佐久間盛政の最期

 

天正十一年(1583年)5月12日、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた佐久間盛政が処刑されました。

・・・・・・・・・・

佐久間盛政(さくまもりまさ)は、織田家の家臣であった佐久間盛次(もりつぐ=佐久間信盛の従兄弟)の長男として尾張(おわり=愛知県西部)で生まれました。

父の盛次が永禄十一年(1568年)の記録を最後に姿を消す事から、おそらく、それから間もなくに父が亡くなったとみられますが、母が、柴田勝家(しばたかついえ)の姉もしくは妹だったという事で、以後、叔父の勝家を父とも頼み、その傍らで勇猛な武者に成長していくのです。

おそらく父が亡くなったとおぼしき永禄十一年(1568年)・・・主君と仰ぐ織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)を阻む、南近江(滋賀県南部)六角承禎(じょうてい・義堅)との観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)の戦い(9月15日参照>>)にて15歳で初陣を飾った盛政は、

信長大ピンチの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市金ヶ崎町)からの撤退(4月27日参照>>)時に勝家の大手柄となった野洲川(やすがわ=滋賀県)の戦い(6月4日参照>>)でも大いに活躍した事でしょう。

なんせ、その体格は六尺(182cm)という当時としてはかなりの大柄で、、勝家が北陸方面の攻略担当となり、越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆を平定(8月12日参照>>)、越前8郡を与えられた天正三年(1575年)頃には、役職名の玄蕃允(げんばのじょう)に由来する『鬼玄蕃(おにげんば)なる通り名で、その名を轟かせていたのだとか・・・

天正五年(1577年)には南下して来た越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と戦い(9月18日参照>>)、その後、天正八年(1580年)、100年続いた加賀一向一揆を、勝家とともに壊滅させた
【金沢御坊の落城】参照>>
【鳥越城の戦い】参照>>
時には、その功績によって加賀(かが=石川県西部)半国を与えられ、金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)を築城し、その城主となりました。

時に盛政=27歳・・・叔父=勝家の配下として、最も将来を期待される存在となっていました。

その後、越後の謙信の後を継いだ養子の上杉景勝(かげかつ)と抗戦する中、もはや、越後の制圧は時間の問題と見えた魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)陥落(6月3日参照>>)の翌日、2日遅れで、京都は本能寺(ほんのうじ)にて信長が自刃した(6月2日参照>>)事を知るのです。

「天正十年(1582年)6月2日、信長死す」・・・この情報は、ほどなく敵陣にも知られる事となり、意気上がる上杉軍が、越中(えちゅう=富山県)能登(のと=石川県北東部)の国人たちを扇動してかく乱して来たため、容易に上洛できなかった勝家ら・・・

その後、何とか少しずつ撤退した勝家は、富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさ なりまさ)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)、そして金沢城主の盛政に、それぞれの防備を固めさせ、自らは養子の柴田勝豊(しばたかつとよ=勝家の甥・盛政の母の姉の子)らを先鋒に上洛し、信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討つ・・・はずでしたが、

ご存じの通り、電光石火の早業で、西国から舞い戻った(6月6日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、あの山崎の合戦で光秀を討ち破ってしまった(6月13日参照>>)ため、勝家ら北陸勢は、空しく矛を収めるしかありませんでした。

しかも、その後の清州会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)での後継者決めでも、何となく仇討ちを成功させた秀吉に主導権を握られた感が拭えない感じ???

まぁ、実際には時代劇や小説で描かれるようなドラマチック感はなく、
(後継者は、信長次男の信雄(のぶお・のぶかつ)か三男の信孝のぶたか)か?と争う中で、秀吉が信長の孫の三法師(さんほうし=織田秀信)を抱いて登場して、皆がハハァとひれ伏すみたいなあの場面の事です)
すでに織田家の家督を譲られていた嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)が信長とともに亡くなった以上、その遺児である三法師が、幼いとは言え嫡流として後を継ぐのは至極当然の事・・・その中で、信孝は三法師の後見人になるわけですから、信孝を推していた勝家としては、むしろ納得の結果だった事でしょう。

まぁ、領地配分で京都に近いえぇ位置を秀吉に持ってかれたしまった感はありますが、それこそ、光秀を倒したのは秀吉ですから、その領地をモノにするのは当然と言えば当然・・・

ただ、信長の死から4ヶ月後に、秀吉主導で行った、あの派手々々葬儀(10月15日参照>>)には、やはり信孝&勝家はカチンと来たかも・・・なんか、「これからは俺が仕切るで!」感強いですもんね~

こうして、ともに父の後を継ぎたい信雄VS信孝・・・そこに、仕切る感満載の秀吉VS家臣筆頭で信孝推しの勝家という対立の構図が生じ、ご存じの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いへ突入という事になります。

この時、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)に本拠を持つ勝家が雪で動けない冬を見据えた秀吉は、まずは天正十年(1582年)12月、柴田勢の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を開城させた後、信孝の本拠である岐阜方面へ・・・さらに、信孝の味方となっている滝川一益(たきがわかずます)の守る伊勢(いせ=三重県)にも転戦します。

明けて天正十一年(1583年)、春の訪れとともに、ようやく勝家らが出陣し、余呉湖(よごこ=滋賀県長浜市)の北まで進出・・・この時、盛政は、勝家が本陣とした玄蕃尾城(げんばおじょう=福井県敦賀市刀根・内中尾山城)の前方(南側)に位置する行市山(ぎょういちやま=滋賀県長浜市余呉町)に砦を築き、ここに布陣しました。

一方の秀吉も、柴田勢の動きに合わせ長浜城に入り、両者、一触即発の睨み合い状態となりますが、この間にも、一旦押さえた美濃(みの=岐阜県)の地が、信孝と結託した一益に襲撃され続けていたために、秀吉は、再び美濃へ・・・(くわしくは3月11日参照>>)

これをチャンスとみたのが盛政でした。

「秀吉のいない間に、この余呉湖周辺に展開した羽柴勢の諸将の砦を潰してしまおう!」と・・・

敵方の砦のうち、大岩山(おおいわやま)岩崎山(いわさきやま)の砦が手薄になっている事を調べ上げた盛政は、早速、この二つの砦に奇襲をかけたい旨を勝家に申し出ますが、この作戦は、敵の懐深く入る事から、かなり危険・・・勝家は反対しますが、盛政の決意は固く、やむなく勝家は、「砦を落としたら、速やかに陣に戻って来る事」を約束させて送り出します。

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賤ヶ岳の戦いの経緯
画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

天正十一年(1583年)4月20日・・・さすがの盛政は、見事、砦を落として勝利しますが、ここで、その勇猛さが裏目に出てしまいます。

どうしても、もう一つ、この勢いの冷めぬまま・・・明日の朝一で、すぐ目の前の賤ヶ岳砦を落としておきたい盛政は、勝家との約束を破って夕方になっても本陣へと戻らず、占領した大岩山砦にて一夜を明かすのです(くわしくは4月20日参照>>)

そこに、あの本能寺の時と同様に、電光石火の早業で美濃から戻って来る秀吉・・・日付が変わった4月21日の午前0時、まさかまさかの南からやって来る秀吉軍の松明の列に気づいた盛政は、後方の飯浦(はんのうら)の切通しに陣取っていた柴田勝政(盛政の弟で勝家の養子)撤退命令を出すとともに、自軍もすかさず撤退を開始します。

おかげで盛政隊は、ほぼ無傷で撤退に成功しますが、勝政は討死・・・それでも、まだ挽回のチャンスはありましたが、ここで、そのチャンスを砕くように、勝家本隊の近くにいた前田利家父子が戦線離脱してしまうのです(くわしくは4月23日参照>>)

反撃を開始しようとした矢先の撤退劇に、北陸勢全体のバランスが崩れ、態勢は一気に敗色へ・・・やむなく勝家は、家臣の毛受勝照(めんじょう・めんじゅかつてる)に後を託して北陸方面へと敗走し、盛政も、それに続きます(くわしくは4月21日参照>>)

その後、勝家は本拠の北ノ庄城まで戻る事ができましたが、盛政は、敗戦のその日、加賀へ戻る途中の越前にて捕えられてしまうのです。

そして、皆様ご存じのように、その後、秀吉軍に北ノ庄城を包囲された勝家は、敗戦から3日後の4月24日、自ら城に火を放ち、妻のお市の方(信長の妹もしくは姪)とともに自害(4月23日参照>>)・・・勝家が推していた信孝も、兄の信雄に攻められ、5月2日に自刃しました(5月2日参照>>)
(ちなみに滝川一益は7月に降伏して出家します)

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賤ヶ岳より余呉湖と古戦場周辺を望む(左手前側が切通し)

そんなこんなの5月7日、生け捕られた盛政は、秀吉の前へと引き出されます。

大きな体格に、いかにも武勇誇る姿の盛政を目の前にした秀吉は、
「君の強さは噂に聞いてるで…どや?この先、九州を平定したら、お前に、そのうちの一国を与えるよって、俺の配下になれへんか?」
と、誘いますが、盛政は、冷やかに笑いながら、
「ウレシイお言葉ですけど、僕を助けて国を与えなんぞしたら、僕は秀吉さんを、今の僕のように生け捕りにして、縄をかけるでしょう。
いくら新たな恩を与えられても、その前に柴田の叔父から与えられた恩を忘れる事はできませんので…」

と言い、「速やかに殺してくれ」と願います。

「ならば、せめて武士らしく切腹を…」
と言うと、盛政は
「願わくば、大紋を染め抜いた紅裏(もみうら=真紅の裏地)の小袖(こそで)に、香を焚き込めた白帷子(かたびら=麻の着物)を賜りたいです。
それを着て人生最期の風流を尽くしたいんです」

と、続けて
「ほんで、縄を打たれた姿で市中を引きまわして、市民に見せびらかしたなら、秀吉さんの名も挙がりますし、それこそ、僕の一世一代の晴れ姿ですわ」
と、罪人として斬刑に処せられる事を願ったのです。

かくして天正十一年(1583年)5月12日、京市中を車で引き回された後、宇治槙島(まきしま=京都府宇治市槇島町)にて斬首されるのですが、その時、検使役(けんしやく=検視する役人・見届人)として同席していた浅野長政(あさのながまさ=秀吉正室・おねの義弟)を前に、
「叔父の進言を聞かずに、このような結果になってしもうたわけやけど…あの猿面郎(さるめんろう・えんめんろう=サル顔の奴)を倒せんかった事だけが、ただ一つ悔やまれる」

Sakumamorimasazansyuehontaikouki その言動に、長政が怒ると、
「君らに武士の志として言い聞かしとくけど…
あの頼朝
(よりとも=源頼朝)さんは、一旦捕まって流罪の身になりながらも諦める事無く、ついには平家を倒して父の仇を討ったんや(2月9日参照>>)
これこそが、大将の志や!
あぁ、気の毒に…その事を、お前は知らんのやな」

と吐き捨てるように言いながら顔をあげ、長政をキッと睨みつけたのだとか・・・

京都市中からここまで、派手々々衣装で引き回されて来たおかげで、この処刑の場にも大勢の見物人が集まって来ていましたが、それらの人々から
「おぉ!」「あっ晴れ」「さすが、噂の剛の者!」
と、次々に声が挙がったにだとか・・・

その後、辞世の和歌を詠じる時も顔色一つ変えず・・・平然と斬首されたという事です。

♪世の中を 廻りも果てぬ 小車は
 火宅の門を 出づるなりけり ♪
 盛政辞世

享年=30・・・

いやぁ~カッコイイ(゚▽゚*)
最期のシーンは、豊臣が滅んだ後に書かれた複数の軍記物等の記述を統合した物なので、話半分な所はありつつも・・・やっぱりカッコイイ!

近代の出来事だと、人の生き死に関わる事について、あれやこれや考えてしまい、素直に表現しづらいのですが、現代とは、価値観もまったく違う戦国の世の事ですから、ここは一つ素直に「カッコイイ~」という事で、お許しを・・・
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2018年4月29日 (日)

秀吉VS家康…小牧長久手~美濃の乱

天正十二年(1584年)4月29日、長久手の戦い後のこう着状態の中、秀吉が犬山の本陣を出立し、その鉾先を美濃の諸城に向けました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)亡きあと、ともに「邪魔だ」と感じていた織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)(5月2日参照>>)柴田勝家(しばたかついえ)(4月23日参照>>)を排除した織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意・信長の次男)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)でしたが、

その後、以前の清州(清須)会議(6月27日参照>>)で後継者に決まった三法師(さんほうし=信長の孫・後の織田秀信の後見人となって織田の後継者を自負する信雄は、秀吉の醸し出す、織田を継ぐ・・・ではなく、織田を飛び越えての天下を画策し始めた雰囲気に不快感を示し、東の大物であると徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけて、「秀吉に通じた」として自らの3人の重臣を殺害する事で、秀吉に宣戦布告したのです(3月6日参照>>)

これが小牧・長久手(こまきながくて)の戦いですが、その経過は・・・

上記の信雄の重臣殺害事件(3月6日)>>の後、伊勢方面の秀吉傘下の亀山城を信雄方が攻撃(3月12日)>> しますが、一方で、信雄方に与すると見られた池田恒興(いけだつねおき=信長の乳兄弟)が秀吉に味方して犬山城を攻略(3月13日)>>します。

秀吉勢に、テリトリー内に入って来られた清州城(きよすじょう=愛知県清須市)の信雄側は、3月15日、家康がいち早く小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)を占拠・・・この周辺で戦う場合、この小牧山は要所となる場所であるため、実は秀吉側にとっても、ここは確保しておきたい場所だったのです。

そこで、秀吉傘下の森長可(ながよし・森蘭丸の兄で池田恒興の娘婿)が小牧山を落とすべく羽黒(はぐろ=愛知県犬山市)に陣を置くのですが、その作戦をお見通しの家康の奇襲に遭い長可は敗北(3月17日)>>

この敗戦を受けて自らの出馬を考える秀吉は、紀州から大坂進出を試みる雑賀衆(さいかしゅう)根来衆(ねごろしゅう)を撃退して(3月22日)>>、いよいよ小牧長久手の現場に向かいます。

ちなみに、その頃には、伊勢方面での戦い(3月19日)>>では秀吉側が勝利して、伊勢を抑えています。

とは言え、総動員数から見れば圧倒的に不利な家康は、小牧山に本陣を構えて防御を固め、そこを動こうとはせず、しばらくの間睨み合いが続きます(3月28日)>>

そんな中、先の羽黒の戦いで屈辱を味わった森長可が一矢報いるべく「家康の本拠である三河に奇襲したい!」と提案し出陣しますが、この動きも家康側に見破られており、長可&恒興が討死(4月9日)>>するという敗戦となってしまいました。

Toyotomihideyoshi600 この大きな戦い=長久手の戦いの後、しばらくのこう着状態が続いた事で、天正十二年(1584年)4月29日秀吉は一旦大坂に戻るべく、犬山の本陣を後にしました。

実は、この小牧長久手の戦いの間、こう着状態が続くと、秀吉自身は度々大坂へと戻っています。

それは、大坂城構築とともに大坂の町の整備もしていたので、その様子をチョイチョイ見にいかねばならなかったとも言えますし、チョッカイ出してくる雑賀や根来も気になるとも言えますが、上記の通り、「小牧山から動いたら損!」と考える家康を、何とか動かすために、自らがチョイチョイ動いて様子見ぃしていたとも言えます。

その一つが、尾張(おわり=愛知県西部)に隣接する美濃(みの=岐阜県)における信雄傘下の諸将を攻撃する事・・・これによって家康の誘い出しを試みていたわけです。

Sekigaharafukutukazyoucc 以前、関ヶ原の戦いでのページにupした位置関系図ですが、今回のご参考に…
(クリックしていただくと大きいサイズで開きます)

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そのターゲットとなったのが、加賀野井城(かがのいじょう=岐阜県羽島市)竹ヶ鼻城(たけがはなじょう=岐阜県羽島市)脇田城(わきだじょう=岐阜県海津市)駒野城(こまのじょう=岐阜県海津市)でした。

かくして、本陣を後にした秀吉は、大良(おおら=岐阜県羽島市)戸島東蔵坊(とうぞうぼう)まで来た時、羽柴小吉(こきち=甥で養子・秀勝)に、この場に留まって加賀野井城と竹ヶ鼻城をけん制しつつ監視するよう命じます。

この時、加賀野井城には、城主の加賀野井重望(かがのいしげもち=弥八郎)以下、信雄から加勢として派遣されていた千種三郎左衛門(ちぐささぶろえもん)など2千余騎が立て籠もっていましたが、2日後の5月1日に城を包囲した秀吉軍は、2重3重に柵を張り巡らせて、ネズミ一匹逃がさぬ態勢を整えます。

「このまま籠城すれば、やがて飢えてしまう」・・・と判断した加賀野井城内の諸将は、5月5日夜半、城兵が一丸となって撃って出ますが、数に物を言わせる秀吉軍は、蒲生氏郷(がのううじさと)を先頭に、一人残らず討ち取るべく猛戦し、ウムを言わさず400余の首を挙げました。

城主の加賀野井重望と信雄からの派遣要員は、この間に搦め手より城から脱出し、夜陰に紛れて清州城へと逃れたので、戦闘が一段落して陽が昇る頃には、この城内には、深手を負って動けない状態の敵兵しか残っていないという、殺伐とした風景になっていたのでした。

こうして加賀野井城を落とした秀吉勢・・・次に、すぐ近くにある竹ヶ鼻城。

実は、秀吉側は、加賀野井城を落とせば、すぐに竹ヶ鼻城も降伏して来るだろうと踏んでいたのですが、逆に、城主の不破源六(ふわげんろく=広綱)は、より守りを固めて抗戦の構えを見せます。

5月10日、秀吉勢は竹ヶ鼻城へと攻めかかりますが、何重もの濠に囲まれた堅固な要塞は、容易に落ちる事無く、このまま力攻めを続ければ、おそらく秀吉側も無傷ではいられない・・・

Komakinagakutetakegahanamizuzeme_2 竹ヶ鼻城水攻めの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

 

そこで、秀吉は近くに砦を築き、境川(さかいがわ=逆川)を堰き止めて城の周囲を水浸しにする水攻めとするべく、諸将に、それぞれ五間~十五間(一間=約1.8m)を割り当て、周辺の住民たちも総動員して昼夜問わずの工事を実施し、数日の内に堤を完成させ、その後、川の水をドッと引き入れると、たちまち、周辺の町屋は浸水し、竹ヶ鼻城は湖上の城となりました。

やがて城の曲輪(くるわ)までが浸水しはじめると、もはや戦う術も無く、見守る城兵のテンションも下がりっぱなし・・・16日になって、さすがの不破源六も降伏し、開城した後、伊勢方面へと退去して行きました。

竹ヶ鼻城を攻略した秀吉軍は、信雄派の織田信照(のぶてる=信長の弟)の拠る奥城(おくじょう=愛知県一宮市)を陥落させた後、6月には脇田城を陥落させ、一方で蟹江城(かにえじょう=愛知県海部郡蟹江町)攻防戦(6月15日参照>>)を展開しつつ、

8月には、筒井順慶(つついじゅんけい)と美濃の諸将を先鋒とする大軍が、信雄に仕える高木(たかぎ)一族の守る津屋城(つやじょう=岐阜県海津市南濃町)攻め落とし、いよいよ駒野城へと迫りますが、ここに、信雄の要請を受けた法泉寺(ほうせんじ=三重県桑名市多度町)の僧=空明(くうみょう)本願寺門徒を率いて参戦して来ます。

本願寺は、あの信長をも困らせた一向一揆の門徒衆ですから、ここに加勢して来た人数はしれていても、門徒は全国にまだまだいるわけで、さすがの秀吉も、全国の本願寺門徒相手に一戦を交えるかどうかについては一考を要するわけで・・・

ここは一旦兵を退き、先に落とした津屋城に、配下の稲葉貞通(いなばさだみち=一鉄の息子)父子を置いて監視させるだけにしておきました。

という事で、結果的には、この美濃での戦線において、駒野城だけは落城せずに済んだわけですが・・・

と、そんなこんなやってるうちに、秀吉の信雄懐柔作戦が実を結び始め、9月頃からは、家康そっちのけで信雄との和睦交渉が開始され、この年の11月15日に、桑名付近で行われた信雄と秀吉の会見にて、信雄から秀吉に人質を差し出すとともに犬山城と河田城(こうだじょう・ともに一宮市)を差し出す事、その代わり、秀吉は北伊勢の4郡を信雄に返還する事を条件に、正式に講和が成立・・・そうなると、家康も兵を退くしかなくなってしまいました(11月16日参照>>)

こうして、最初で最後の秀吉VS家康の直接対決となった小牧・長久手の戦いは終了したのです。

・・・にしても、
一般的に、小牧長久手の戦いを語る時、あるいはドラマや小説等で描かれる時は、激しい戦いとなったうえに、重要人物である森長可&池田恒興が討死にした事もあって、何かと長久手の戦い中心になってしまうため、「秀吉負けた感」が強いですが、その小牧長久手以外は、意外に秀吉が優位だったのですね~

と言うのも、この合戦での総動員数は、秀吉が9万なのに対し、家康は1万7千ほどだったとされ、上記にも書いた通り、「家康は小牧を動いたら負け」状態で、その他の場所で大きく戦いを展開する事は、たぶん無理だったのではないか?と考えます。

そういう意味では、勝ち負けがウヤムヤのまま、勝手に講和して合戦を終わらせてくれた信雄さまも、案外、家康にとって良い働きをしてくれた感じ?なのかも知れませんね。

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱←今ココ
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2018年3月19日 (月)

小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防戦

天正十二年(1584年)3月19日、小牧長久手北伊勢方面の戦いである松ヶ島城の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後(6月2日参照>>)、仇となった明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府)に討って(6月13日参照>>)織田家家臣内で優位に立ち、その後の清州(清須)会議(6月27日参照>>)を仕切った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を味方につけ、後継のライバルでもあった弟=織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)を追い落とし(5月2日参照>>)、その後推しをしていた柴田勝家(しばたかついえ)をも葬り去って(4月23日参照>>)、未だ幼い後継者=三法師(さんほうし=信長の孫・後の織田秀信に代わって、事実上の織田家後継者となっていた織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意・信長の次男)でしたが、

今度は、これまで西の出来事を静観(10月29日参照>>)していた徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけて秀吉に反発・・・天正十二年(1584年)3月6日、信雄は、自らの長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)重臣たちを呼び出して「秀吉に通じた」という名目で殺害したのです(3月6日参照>>)

『常山紀談(じょうざんきだん)によれば、その重臣殺害事件の発端となったのは、津川義冬(つがわよしふゆ)岡田重孝(おかだしげたか)浅井長時(あざいながとき=浅井田宮丸とも)滝川雄利(たきがわかつとし)という信雄の重臣4名が、秀吉に呼び出されて内応する約束をさせられたという出来事で、他の3人を裏切って、この事を信雄にチクッたのが滝川雄利、殺されたのは残りの3人という事になっています。

細かな経緯の真偽はともかく、ここで、重臣3人が謀反の疑いで殺害された事は確か・・・その勢いのまま、信雄は津川義冬の伊勢松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)を没収して滝川雄利に与えるとして、配下の佐久間正勝(さくままさかつ=信盛の息子・佐久間信栄)山口重政(やまぐちしげま)らを派遣します。

Komakinagakutekankeizu
小牧長久手の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

正勝&重政らは、その松ヶ島城へ向う道すがら、秀吉方の関盛信(せきもりのぶ)一政(かずまさ)父子が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)を攻撃しますが、これは城兵の強固な守りに阻まれてしまいます(3月12日参照>>)

そんな亀山城攻防のあった同日深夜の3月13日には、東海地方にて犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)攻略戦(3月13日参照>>)が勃発するさ中、松ヶ島城に向った佐久間らではありましたが、留守を預かる津川義冬の一族が籠城を固めた城を思うように攻める事ができず、『大剛の人』として名を馳せた木造長政(こづくりながまさ=木造具康と同一人物か?)の援軍を得て、何とか包囲攻撃を仕掛けます。

寄せ手の猛攻に、さすがの松ヶ島城兵も数百人の死者を出し、あえなく開城・・・生き残った者は、ことごとく大和(やまと=奈良県)方面へと逃走して行きました。

こうして松ヶ島城に入城した滝川雄利に対し、信雄は「秀吉からの攻撃に備えるように」と指示し、更なる援軍を差し向けますが、その中には、家康から預かった服部半蔵(はっとりはんぞう=正成)率いる伊賀衆甲賀衆の鉄砲隊もいたとか・・・

一方、信雄による重臣殺害の一件を3月8日に耳にした秀吉は、早速、配下の堀尾吉晴(ほりおよしはる)らに北伊勢出陣の準備をさせ、自らも10日過ぎには近江(おうみ=滋賀県)へと向かいます。

そんな中、秀吉が目を付けたのが、信雄方が北伊勢守備の拠点としていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)・・・ここは、かの佐久間正勝の城でしたが、南北朝時代からの古城ゆえ、未だ城壁の補修が完璧では無かったのです。

そこを秀吉は、蒲生氏郷(がもううじさと)を総大将に長谷川秀一(はせがわひでかず)滝川一益(たきがわかずます)以下、1万余の軍勢で以って攻めさせたのです。

上記の通り、未だ守りが完璧でない峯城内は、「籠城戦は不利」と考え、城外へと撃って出ます。

しかし、これは秀吉の思惑通り・・・なんせ城外戦となれば、数に圧倒する秀吉軍が有利ですから・・・

激戦が展開されるも、所詮は多勢に無勢・・・多くの死者を出した信雄方の主将らは、やむなく城へと戻りました。

この敗戦を悔やんで自害しようとまで考えた佐久間正勝を、山口重政が思い留まらせたと言いますが、そんな中、家康配下の酒井忠次(さかいただつぐ)奥平信昌(おくだいらのぶまさ)らの援軍がコチラに向かっているとの知らせ・・・

この一報が秀吉方にも届いた事で、峯城を取り囲んでいた秀吉方の寄せ手が一里(約4km)ほど退きますが、この移動を見て取った峯城内の将兵は、その日の夜、闇に乗じて城を脱出し、尾張(おわり=愛知県西部)方面へと逃走していったのです。

秀吉方の将兵が峯城へと入城したのは、その翌朝の事・・・3月14日でした。

Toyotomihidenaga500a こうして峯城を攻略した秀吉軍は、つい先日奪い取られた松ヶ島城奪還に向けて、先の蒲生氏郷に加え、新たに羽柴秀長(ひでなが=秀吉の弟)羽柴秀勝(ひでかつ=秀吉の甥で養子)筒井順慶(つついじゅんけい)織田信包(おだのぶかね=信長の弟)ら、そして亀山城の関信盛父子に、もちろん津川義冬の一族も加わり、万全の態勢で松ヶ島城を包します。

秀吉は、この軍勢に田丸直息(たまるなおやす・なおおき)を通じて書状を送り、
「皆で分担して堀柵を構築し、一人として逃がさんように…さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)の水軍で以って岸に舟を寄せ、これも縄で柵に結んで一人も逃がさんようにしろよ」
と、伊勢湾に面した城への攻略指南をしています。

もちろん、これは敵兵を逃がさないようにするとともに、海路からの兵糧の運び込みも防ごうとの作戦・・・『勢州軍記』によれば、この時の秀吉の軍勢は約5万との事ですが、さすがに、そこまで多くはなくとも、自らの弟や養子たちを大将に据えている所からみても、秀吉は、かなりの数で以って完全勝利を狙った物と思われます。

一方、この態勢を見て、「兵糧攻めにする気やな」と察した松ヶ島城内は、16日・17日・18日に3日間に渡って、しばしば門を開いて撃って出て、囲む諸将の陣所などを襲撃して回りますが、なんせ相手が多い・・・

対する秀吉方は力攻めをせず、ただひたすら相手の体力消耗を待つ・・・と、なると、やがては根負けして投降して来る者もチラホラ出始める。

で、結局、天正十二年(1584年)3月19日交渉に応じた城兵が開城し、秀吉軍は大した痛手を被る事無く松ヶ島城を取り戻す事に成功・・・大将の秀長は、ここを岡本良勝(おかもとよしかつ=重政とも)に守らせました。

とは言え、一方の小牧長久手方面では、この間の3月17日、羽黒の戦いは秀吉軍の森長可(ながよし・森蘭丸の兄で池田恒興の娘婿)にとって屈辱の戦いとなるのですが、それらのお話は、以下の関連ページでどうぞm(_ _)m

関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城←今ココ
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>

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2018年3月12日 (月)

小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い

天正十二年(1584年)3月12日、小牧長久手の戦いの北伊勢方面の攻防となる亀山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日の『本能寺の変』によって命を落とした織田信長(おだのぶなが)・・・(6月2日参照>>)

信長と同時に、すでに家督を譲られていた嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)も亡くなってしまった事から、織田家の後継者は、信長の次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意)か?、もしくは三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)か?と思われましたが、

その3ヶ月後に行われた清州(清須)会議では、変の寸前まで父=信忠とともにた息子の三法師(さんほうし=つまり信長の孫・後の織田秀信織田家の後継者と決まり(6月27日参照>>)、炎上した安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)を修復する間、三男の信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて後見人として三法師を預かるという形で、一旦は落ち着きます。

・・・が、水面下でのモメ事は、すでに動きつつあったのです。

なんせ後継者となった三法師は未だ3歳ですから、実質的には、その後ろにいる誰かが織田家を仕切る事になるわけで・・・

そんな中、かの信孝が、岐阜城に抱え込んだ三法師を、なかなか安土に戻そうとしなかった事から、次男の信雄が不満をつのらせる事になります。

こうして起こったのが、有名な賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)です。

この後の歴史の流れを知ってる私たちからすれば、どうしても、信長が座りかけた天下のイスを狙う羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、織田家家臣の筆頭である邪魔な柴田勝家(しばたかついえ)を消そうとした戦いのように思っちゃいますが・・・てか、それが一般的な見方かも知れませんが、

もちろん、実際に両者は戦ってますし、秀吉主導の信長の葬儀(10月15日参照>>)の雰囲気や、初の検地を実施したり(7月8日参照>>)なんぞを見ても、秀吉の心の中には、そのような思惑もあったのだろうとは思いますが、あくまで、この合戦開始の時点での表向きは、父の後を継ぎたい三男=信孝と彼を応援する勝家に、「ちょー待て!俺が次男や」と信雄が対抗した戦いで、秀吉は、そんな信雄のお手伝い・・・というのが前提の戦いだったように感じます。
(でないと、信雄は秀吉に協力しないし、信雄という看板無しに秀吉が信孝や勝家を攻撃すれば、謀反扱いになるかもですから…)

で、信雄に攻められた信孝は自刃し(4月23日参照>>)戦いに敗れた勝家も、奥さん=お市の方(信長の妹)とともに自害しました(5月2日参照>>)

Odanobuo400 すでに、この戦いの前から、父=信長が使用した「天下布武」のハンコに似せた「威加海内(天下に威力を示す)というハンコを使用し、信長の弟や自分の妹の徳姫(とくひめ=信長の長女・徳川信康室)をはじめとする織田一族を庇護下に置いたりなんぞしていた信雄は、こうして事実上の織田家後継者となったわけですが、ここで、信雄と秀吉の間に亀裂が生じます。

なんせ、信雄を後押してたはずの秀吉が、上記の一連の過程で、かなりの力をつけてしまっていて、この前年の天正十一年(1583年)には、かの清州会議で得た大坂の一等地に、巨大な大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)まで築城しちゃったりしてますから・・・

で、そんな中で事件が起こります。

どこかの誰かの画策で、その方向に行っちゃったのか?
それとも、複数の誤解が重なって、そうなっちゃったのか?
いやいや、自らが率先して、秀吉と対立する気になったのか?

そこらへんの心の内は本人のみぞ知るところでしょうが、とにもかくにも、天正十二年(1584年)3月6日、信雄は、自らの長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)重臣たちを呼び出して「秀吉に通じた」という名目で殺害してしまうのです(3月6日参照>>)

これはつまり・・・秀吉との縁を切る=秀吉に宣戦布告したという事になるわけですが、そんな信雄にも、もちろん勝算はあります。

なんせ、今、秀吉側にいる者も、もとはと言えば、お父ちゃん=信長の配下だったわけですし、今回は、信長の死後には、宙に浮いた武田の旧領を切り取る事に目を向けていて(10月29日参照>>)西の出来事(賤ヶ岳etc)を静観していた大物=徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけてますから・・・

かくして、その重臣殺害事件から、わずか3日の3月9日・・・信雄から伊勢松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)の守備を命じられた佐久間正勝(さくままさかつ=信盛の息子・佐久間信栄)山口重政(やまぐちしげま)らは、松ヶ島城への道すがら、5000余の兵力で以って、秀吉方の関盛信(せきもりのぶ)一政(かずまさ)父子が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)に押し寄せたのです。

この亀山城は、前年の賤ヶ岳の時には、滝川一益(たきがわかずます)方の佐治新(さじしんすけ=一益の従弟の滝川益氏と同一人物か?)が、関盛信から奪ったものの、その後の戦いの経過により、戦後は再び関盛信が預かっていた城だったのですが、もともと秀吉にとって北伊勢を守る重要な位置にあるばかりか、今回の相手が信雄&家康となれば、特に重視しなければならない城だったわけで・・・

とは言え、今は、単に松ヶ島城へ向う道すがら・・・この日は城下に放火して回っただけで、本格的な城への攻撃は無かったものの、これは、あくまで、宣戦布告した信雄側のごあいさつなわけで、当然、このままでは終わりません。

かくして天正十二年(1584年)3月12日、信雄方の林正武(はやしまさたけ=神戸与五郎)率いる500の軍兵が亀山城を奇襲したのです。

実は、この時、秀吉軍の主力は、未だ、その修復が未完成でありながらも信雄方が北伊勢の守りの拠点としていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を、修復が完了する前に崩すべく準備していたところだったので、逆に、この亀山城の守りは手薄になっていたのです。

もちろん、信雄方は、そこを狙って先制攻撃を仕掛けて来たわけですが、一方の守る亀山城は、関盛信父子以下、名のある武士は、わずか13名・・・何とかせねばなりません。

そこで盛信は、侍だけでなく(足軽とか)も合わせた2~30名の部隊を編成し、敵勢を引きつけたところで、城下に放火・・・その煙に紛れて敵へと撃って出たのです。

煙で何も見えない中、城兵の数を把握できない林勢は、前に進むどころか、その気勢に圧倒されて後ずさり・・・混乱してワケがわからないまま、それぞれ近隣の村々へと退却して行ったのです。

敵の退却を確認した盛信は、深追いせず、急ぎ兵を城へと戻し、すぐさま、籠城戦への備えを固めます。

しかし、その後に籠城戦となる事は無く、結局、信雄方は、そのまま亀山城攻めを断念する事になります。

そうです。
実は、この亀山城の戦いと同じ日の深夜に決行されたのが秀吉方による奇襲=犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)攻略戦(3月13日参照>>)・・・秀吉VS家康の一連の直接対決として有名な、あの小牧長久手(こまき&ながくて)の戦いの勃発となるわけです。

しかも、犬山城が秀吉勢の手に落ちた翌日の14日には、準備していた峯城への攻撃も開始し、翌15日には、この城も秀吉方が制圧しています。

ご存じのように、小牧長久手方面での個々の戦いは微妙・・・というより、負けた感が濃い秀吉ですが、ここ北伊勢方面では、この後、松ヶ島城をも落としているのです【(3月19日参照>>)

まぁ、結局、この小牧長久手の戦いは、大きな合戦だったワリには、信雄の単独行動によって勝敗がハッキリしないまま終わっちゃうんですけど・・・そのお話は、下記のそれぞれのページでご覧あれm(_ _)m

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
●3月12日:亀山城の戦い←今ココ
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2017年11月 4日 (土)

小田原北条家最後の人~北条氏直の肌の守りと督姫と

天正十九年(1591年)11月4日、小田原北条家最後の人となった北条氏直が30歳でこの世を去りました。

・・・・・・・

あの北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢新九郎盛時)に始まり(10月11日参照>>)5代=100年に渡って関東に君臨した北条家・・・鎌倉時代執権の北条と区別するため後北条とか小田原北条とか呼ばれたりします。

そんな北条家が、室町幕府政権下で関東管領(かんとうかんれい)に任命されていた上杉氏に取って代わって、事実上の関東支配をする(4月20日参照>>)ようになったのは、3代目当主の北条氏康(ほうじょううじやす)の頃からですが、追われた上杉が越後(えちご=新潟県)長尾景虎(ながおかげとら=後の上杉謙信)を頼った(6月26日参照>>)事から、この関東支配を盤石な物にするためには、駿河(するが=静岡県中北部)今川義元(いまがわよしもと)と、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)との関係を良好にしておかねばならなかったのです。

一方の武田信玄も、自国の北側に位置する信濃(しなの=長野県)に侵攻するためには、東に位置する今川と北条との関係が危ぶまれていては安心して北へ行けない・・・

また、自国の西に位置する遠江(とおとうみ=静岡県西部)三河(みかわ~愛知県東部)へと侵出している今川義元も、北の武田&東の北条とは衝突を避けたいわけで・・・

こうして利害関係が一致した三者は、天文二十三年(1554年)、相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んだのです。

その同盟の証として行われたのが、お互いの息子と娘の婚儀・・・
氏康の娘=早川殿(はやかわどの)が義元の息子=今川氏真(うじざね)に嫁ぎ、
義元の娘=嶺松院(れいしょういん)が信玄の息子=武田義信(よしのぶ)に嫁ぎ、
信玄の娘=黄梅院(おうばいいん)が氏康の息子=北条氏政(うじまさ)に嫁ぐ、
というテレコ&テレコの結婚でした。

Houzyouuzinao300 そう、今回の主役=北条氏直(ほうじょううじなお)は、この時に結婚した氏政と黄梅院の次男として永禄五年(1562年)に生まれました。

しかし、その2年前の永禄三年(1560年)に起こった桶狭間の戦い(2007年5月19日参照>>)で、かの今川義元が亡くなってしまった後、信玄が一方的に同盟を破棄して、今川の駿河を狙い始めた事から関係が悪化・・・永禄十一年(1568年)に、信玄が、義元の後を継いでいた氏真の今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃した(12月13日参照>>)事から、母の黄梅院は離縁されて武田に送り返され、その1年後に27歳の若さでこの世を去ってしまうのです(6月17日参照>>)

この同じ年には、氏直が、追われた氏真の猶子(ゆうし=社会的な親子関係)となって家督を継ぎ、いずれ駿河を譲られる事になりましたが、実際には、もはや駿河は武田の物・・・しかも、その武田と連携した三河の徳川家康(とくがわいえやす)によって掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を攻撃された(12月27日参照>>)氏真が、保護を求めて北条へと駆け込んで来て、事実上、戦国大名としての今川家は滅亡してしまいます。

この、今川が無くなった事と、祖父の氏康が亡くなった事を受けて元亀二年(1571年)には北条と武田の関係は一旦修復されますが、天正六年(1578年)に越後の謙信が亡くなった(3月13日参照>>)後継者争いの中で、北条から養子に入っていた上杉景虎(かげとら=氏康の七男)に敵対する上杉景勝(かげかつ)側に、信玄の後を継いでいた武田勝頼(かつより)が味方した事で(2010年3月17日参照>>)またもや北条と武田の関係が崩れます

そんな中、天正八年(1580年)には父=氏政の隠居に伴い、氏直は第5代目の北条当主となりますが、これはあくまで戦略的な代替わりであって、実権は未だ父の氏政が握ったままだったと言われます。

そんなこんなの天正十年(1582年)、あの本能寺(ほんのうじ=京都市右京区)織田信長(おだのぶなが)横死(2015年6月2日参照>>)・・・それが、信長が武田を滅亡させてからまだ2ヶ月余りの時期だった事から、旧武田領は、北の上杉&西の徳川&東の北条の間で取り合いとなりますが(6月18日参照>>)、そんな中で、北条は家康と同盟を結んで、何とか上野(こうずけ=群馬県)を確保し、未だ関東に君臨する状態を保っていました。

この時、同盟の証として行われたのが、氏直と家康の次女=督姫(とくひめ)婚儀でした(10月29日参照>>)

やがて、信長亡き後に後継者のごとき位置に立ち(6月27日参照>>)、四国を平らげ(7月29日参照>>)、九州を平らげ(4月17日参照>>)、どんどんと力をつけて来たのが豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)・・・それでも、初代早雲の息子で97歳という高齢まで生きた北条幻庵(げんあん=長綱)の生存中は、なんとなく気を使っていた感がアリ?

しかし、その幻庵が天正十七年(1589年)11月1日に亡くなると、そのわずか23日後の11月24日に、北条が起こした真田とのトラブル(10月23日参照>>)を理由に、秀吉が宣戦布告(11月24日参照>>)・・・こうして、秀吉による北条壊滅作戦=小田原征伐(おだわらせいばつ)が始まったのです(12月10日参照>>)

北条の誇る小田原城は、これまで信玄に攻められても、謙信に攻められても落ちなかった城・・・それ故、「この堅固な城さえあれば、何日でも籠城でき、やがて疲弊した攻め手側の方が諦めて撤退するだろう」とのもくろみもあったわけですが、皆様ご存じの通り、城攻め得意の秀吉は、別働隊(6月9日参照>>)に裏工作&一夜城(6月26日参照>>)など、大軍で包囲(4月2日参照>>)してのジワジワ作戦で追い込んでいき、ついに天正十八年(1590年)7月5日、北条は小田原城の開城を決定するのです。

この和平交渉の時、当主である氏直は、弟=氏房(うじふさ)を伴って秀吉方の滝川雄利(たきがわかつとし=一益の娘婿)の陣を訪れ、「自分が、すべての責任を負って切腹をするので、城兵の命は助けてほしい…」 と申し出たと言います(2008年7月5日参照>>)

秀吉は、この氏直の、当主としての潔い姿に感銘するとともに、実際には、小田原城内での主導権を握っていたのは父の氏政や叔父の氏照(うじてる=氏政の弟)らであった事、また上記の通り、氏直が家康の娘婿にあたる事などを考慮し、氏政と氏照らには切腹を申し渡したものの、氏直は、その命を助け高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に入る事とさせたのです。

『翁草』には、この時の氏直の逸話が記されています。

高野山へと向かう事になった氏直は、この一件から離縁させられる事になった督姫と最後の別れの時、これまで肌身離さず持っていたお守りを懐から出し、
「これは、北条の祖の早雲が、相模(さがみ=神奈川県)を攻める際の出陣の儀式の時に、先例にならって勝ち栗を半分だけ食べ、残りの半分を懐にしまって出陣して大勝利を得た事から、吉例のお守りとして錦の袋に入れ、代々の北条当主が身につけていた物です。
しかし、もはや世捨て人となった僕には意味もなく…どうか、君が持っていて下さい。
もし、いつか、北条一門の生き残り中に『これは!』という人物を見つけたら、その人に譲ってくれたら良いです」

と言って、そのお守りを督姫に渡したのです。

それから1年・・・秀吉からの赦免を受けた氏直は、大坂(おおさか=大阪市)に屋敷を与えられて秀吉とも面会して、近々、伯耆(ほうき=鳥取県中西部)一国を与えられて大名に復帰できる予定となりましたが、そんなさ中の天正十九年(1591年)11月4日30歳の若さで、いきなり亡くなってしまうのです。

死因は天然痘(てんねんとう)だったとされていますが、同じ大坂にいて、この死の一報を聞いた督姫・・・とにもかくにも、これにて北条宗家の血脈は絶える事となりました。

Tokuhime500 やがて文禄三年(1594年)、秀吉からの働きかけにより、再びの政略結婚で池田輝政(いけだてるまさ)と再婚する事になった督姫は、その結婚前に、狭山城(さやまじょう=大阪府大阪狭山市)北条氏規(うじのり=氏直の叔父)のもとへ向います。
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この氏規は、氏政の弟ですが、例の小田原征伐の際、家康らの説得に応じて韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)を明け渡すという柔軟な姿勢であった事から、戦後には、やはり氏直とともに高野山へ送られたものの、同じく赦免され、ちょうど、この文禄三年(1594年)に狭山6980石を与えられたばかりでした。

そこにやって来た督姫・・・
「このお守りは、氏直様からいただいた物で、以来、肌身離さず、私が持っていた物です」
と、あの氏直のお守りを出したのです。

「本来、これは北条嫡流が受け継ぐ高祖のお守りですが、嫡流も絶え、この私も他家へ嫁ぐ以上、小国とは言え、一国一城の主で、北条の名を継ぐあなた様が持っておられるのが1番良いのではないかと思い、持参しました」
と、涙ながらに、そのお守りを手渡したと言います。

そう・・・彼女は、ずっと持っていたのです。

離縁させられて氏直が高野山へ行ってからも・・・
同じ大坂にいながらも会えぬままに彼が亡くなった後も・・・

しかし、他家へ嫁ぐ以上、その思いも断ち切らねばならないのが戦国の女・・・

彼女たち戦国の女は、現在人の私たちが思い描くほど、か弱くもなく、乱世の犠牲者でもなく、したたかで強く、それでいて情が深い・・・

自分が果たせる役目を知り、自分が背負うべき責任をしっかりと見据る事のできる女性たちだったのだと思います。

果たして、池田家に嫁いだ彼女は、あの姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)にて、輝政との間に5男2女をもうける肝っ玉母さんとなります。

ちなみに、一方の北条氏規の家系も、江戸時代を通じて狭山藩主としての地位を全うして、無事、明治維新を迎えていますので、ご安心を・・・
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2017年10月14日 (土)

前田利家VS佐々成政~鳥越城の攻防

天正十二年(1584年)10月14日、前田利家が鳥越城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後の天正十一年(1583年)に、織田家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月23日参照>>)に破った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)と、信長の三男=織田信孝(のぶたか=神戸信孝)を自害(5月2日参照>>)に追い込んだ信長の次男=織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)・・・・

上記の通り、初めは協力体制にあった両者でしたが、徐々に秀吉に不信感を抱いた信雄が、もう一人の大物=徳川家康(とくがわいえやす)に支援を求めて対抗したのが、天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて)の戦いです。
(戦いについてはページの末尾参照)

戦況は、おおむね信雄&家康勢有利に進んだものの、この年の秋になって、なぜか信雄が単独で秀吉と講和してしまった事で、あくまで「信雄から頼まれて」参戦していた家康は、大義名分を失って兵を退く事になって、戦いは幕引き(11月16日参照>>)となるのですが・・・

この一連の合戦の際、開始当初は秀吉寄りを表明していたはずの越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)が、戦況が家康優位だった事や、隣国=加賀(かが=石川県南部)前田利家(まえだとしいえ)が、かの賤ヶ岳で戦線離脱(4月23日参照>>)してから秀吉側についている事などから、途中から家康派に転じたのです。

つまり、この小牧長久手のドサクサに乗じて前田を倒し、北陸の覇者になってやろう!と・・・

天正十二年(1584年)8月28日、突如、反秀吉の旗を挙げた成政は、加賀の最前線である朝日山砦(あさひやまとりで=石川県金沢市加賀朝日町)を攻撃しますが、この時は、前田家臣の村井長頼(むらいながより)何とか砦を守り切りました。

もちろん、まだまだ諦めない成政は、翌・9月9日に能登(のと=石川県北部)末森城(すえもりじょう=石川県羽咋郡宝達志水町)を攻撃します。

しかし、ここも・・・なかなか落ちない末森城に手こずっている間に、利家自らが率いる援軍が到着して、やむなく撤退するハメに・・・(8月28日参照>>)

とは言え、さすがは戦上手の成政・・・この撤退劇はなかなかの物で、敗軍とは思えない見事な撤退ぶりだったそうで、前田軍に追撃の余地を与えないばかりか、行き掛けの駄賃(この場合は帰り掛けか?)とばかりに途中にあった津幡城(つばたじょう=石川県河北郡津幡町)をも攻略しようとしていたのだとか・・・

ただ、この時は、津幡城近くにやって来た佐々勢に対して、利家の命を受けた近隣の百姓たちが、前田軍に似せた紙製の幟旗(のぼりばた)をいくつも掲げていたのを、数千の兵が守っている物と勘違いして、結局、佐々勢は城を攻撃しないまま撤退してしまったのでした。

2度の失敗に苛立つ成政・・・自らも戦上手との自信があったからこそ、その歯がゆい思いもひとしおだったと想像しますが、そんな成政が、再びの帰り掛けの駄賃として津藩から吉倉(よしくら=同津幡町吉倉)に布陣したのは、末森城攻防から3日後の9月12日の事でした。

今度は越中との境に近い鳥越城(とりごえじょう=津藩町鳥越)を攻略しようと、城を包囲したのです。

一方、城を守るは利家配下の丹羽源十郎(にわげんじゅうろう)目賀田又右衛門(めがたまたえもん)・・・といきたいところですが、残念ながら、すでに鳥越城はカラッポ・・・

実は、これ以前に、丹羽と目賀田のもとに「末森城が落ちた」との情報が入っていたのです。

これは、佐々方が意図的に流した嘘情報なのか?
あるいは、合戦のドサクサで流れた単純な誤報だったのか?

とにもかくにも、その情報を信じた丹羽と目賀田は、「末森城の戦いで前田軍が敗北した以上、鳥越城を守る意味は無い」と考え、すでに城を空にして立ち去ってしまっていたのです。

当然、包囲すれど、何の変化も無い城内を不審に思った佐々方は、寄せ手の幾人かを物見に出し、やがて、すでに城内が空っぽである事を知るに至り
「天は我らに味方した!」
とばかりに、難なく鳥越城を占拠したのです。

そうとは知らない利家は、津藩に着陣してすぐ、自軍の守りを固めようと、配下の各城に更なる兵を動員して防備の増強をするよう命じますが、鳥越城に向かった者からの報告で、城が、すでに佐々勢に占拠されている事を知ります。

当然の事ながら利家は怒り心頭・・・
「すぐに取り返したんねん!」
と息巻きますが、
「ここは、ひとつ、一旦金沢の戻られてから、再びの方が…」
と家臣に説得され、とりあえず利家は金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市丸の内)に戻る事にします。

一方の成政も、奪った鳥越城は、配下の久世但馬(くぜたじま)に任せて、自らは富山城に戻りました。

そんな中の9月16日付けの秀吉の書状では、今回の末森城を死守した事を喜ぶ一方で、
「もうすぐ、越前守(丹羽長秀の事)が帰陣するので、僕の気持ち察して待っててね」
と・・・つまり、秀吉は、自身が東海で展開した小牧長久手に決着がつかないうちに、北陸がややこしい事になって欲しく無いと考えていたようで・・・

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鳥越城攻防戦・位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

しかし、この後も、加賀・能登・越中の国境線では、しばしば、佐々と前田の小競り合いが繰り広げられている中で、どうしても鳥越城を奪回したくてたまらない利家は、天正十二年(1584年)10月14日、佐々方の守る鳥越城に攻撃を仕掛けたのです。

「なんの!こんな小城…落とすに難しい事もない!」
と、檄を飛ばす利家に応えるように、前田勢は一斉に攻めかかりますが、この日は、攻めるに難しいアラレ混じりの悪天候・・・そのうえ、守る久世勢も、一斉に矢を放ち、大石を投げ落として抵抗したため、前田方には多くの死傷者が出てしまいます。

やむなく、利家はこの日の奪還をあきらめ、城付近の民家に火を放って兵を退きました。

この後、翌年の2月には、鳥越城の代わり!とばかりに、利家は成政の蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を焼き討ちにしますが、対する成政も、翌・3月に鷹巣城(たかのすじょう=石川県金沢市湯桶町)を攻撃して報復・・・さらに4月には、再び鳥越城を囲む利家でしたが、またまた奪い切れずに撤退する・・・

こうして、互いの国境線にて一進一退を繰り返していたさ中、成政は、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を味方に引き入れようと画策します。

しかし、その返事は・・・
「君の領地のうちの新川郡あたりは、もともと、僕のジッチャンやお父ちゃん(上杉謙信)らが必死で奪い取ってた場所(3月17日参照>>)やんか。
せやから、その土地を返還してくれるのと同時に人質も差し出してくれたら、僕も出陣しますわ」

と・・・到底承諾できない条件に、成政は怒りのあまり、使者を投獄してしまいます。

これに不満を持った景勝は、配下の者に命じて、越中の宮崎城(みやざきじょう=富山県下新川郡朝日町)を攻めさせ、付近に火を放って脅しをかけます。

一方、この時、上杉家に身を寄せていた土肥政繁(どいまさしげ=元越中弓庄城主)らが、利家の兄=前田安勝(やすかつ)を通じて
「上杉と前田で連携しませんか」
との書状を送り、仲介役をかって出た事から、上杉は前田と結ぶ事に・・・もちろん、そこには、すでに終了した小牧長久手の戦いの結果、その合戦を終えても揺るぎない秀吉の勢力を垣間見て、「朋友である利家を通じて秀吉に近づきたい」という景勝の思惑も見え隠れするわけですが・・・

ご存じのように、かの小牧長久手の戦いの終了直後には、命がけの北アルプスさらさら越え(11月23日参照>>)で家康に会いに行き、
「まだまだ戦いを続けて下さい」
と懇願した成政にとっては、まさに、家康&信雄が秀吉に対抗し続ける事が頼みの綱だったわけですが、残念ながら、合戦は終わるし、それとともに上杉まで秀吉に近づいて行くしで、成政は、北陸において孤立無援となってしまうのです。

そして天正十三年(1585年)の8月・・・かの秀吉は大軍を率いて、成政を屈服させるため、越中へやって来る事になるわけですが、そのお話は2017年8月29日にupした【富山城の戦いin越中征伐】のページ>>でどうぞm(_ _)m

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2017年8月29日 (火)

秀吉VS佐々成政~富山城の戦いin越中征伐

天正十三年(1585年)8月29日、織田信長の後継者的な位置をキープした秀吉の越中征伐(富山の役)で、富山城主の佐々成政が降伏しました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月の本能寺にて織田信長(おだのぶなが)がこの世を去った(6月2日参照>>)後、その後継者を決める清州会議(6月27日参照>>)で優位に立ち、天正十一年(1583年)に織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月20日参照>>)に破って葬り去った(4月23日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、翌・天正十二年(1584年)には、信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と、彼を支援する徳川家康(とくがわいえやす)相手に、小牧長久手(こまきながくて)の戦いをおっぱじめますが、戦況が不利にも関わらず、信雄を丸めこんで講和に持ち込んでしまいました(11月16日参照>>)

Toyamazyou この信長死後の一連の戦いで、賤ヶ岳では勝家に、小牧長久手では信雄&家康に味方して、秀吉側の前田利家(まえだとしいえ)と戦っていた越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)主=佐々成政(さっさなりまさ)(8月28日参照>>)「俺らコッチで頑張ってんのに、何してくれてんねん!」と信雄の単独講和に納得がいかず、冬の立山を越えて(11月11日参照>>)、直接、家康に面会して抗議しますが、合戦が終わってしまった以上は、どうにもならず・・・

小牧長久手の勝敗がウヤムヤなまま、秀吉は、翌・天正十三年(1585年)3月には紀州征伐(3月28日参照>>)を、7月には四国を平定(7月26日参照>>)し、破竹の勢いで天下へとまっしぐら・・・

と、ここで・・・
「そやん、賤ヶ岳でも小牧長久手でも敵に回ったアイツ…まして、未だに僕の親友の前田君にチョッカイ出しとんのに、なんか、そのままになってるやん」
と思ったかどうかはわかりませんが、

とにもかくにも、ここで秀吉は、北陸遠征の決意を固めたのです。

天正十三年(1585年)7月17日付けで前田利家に宛てた手紙には、
「来る4日に、越中に出陣するよって、しっかり準備しといてや~僕の考えは使者に伝えてあるよって、彼と、よ~く相談しといてネ」
と綴っています。

その手紙の通り、8月4日に先発隊が大坂(大阪府大阪市)を出陣・・・その数は約10万人、しかも秀吉は、自らが出陣した6日に、途中の京都へ寄って、朝廷から成政討伐の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)まで取って・・・そう、秀吉お得意の威光放ちまくりの「どや!これでもやんのか?」作戦です。

なんせ、軍勢は、織田信雄はもとより、織田信包(のぶかね=信長の弟)丹羽長(にわながしげ=長秀の長男)細川忠興(ほそかわただおき)山内一豊(やまうちかずとよ)蒲生氏郷(がもううじさと)などなど・・・他にも名だたる有名武将を揃えた、名実ともにエース軍団ですな。

一方、秀吉の大軍がやって来る事を知った成政は、領内にあった30余の支城や砦を撤去して、居城の富山城にすべての兵力を集め、対決の体制を整えます。

19日、前田利家を先頭に金沢(かなざわ=石川県金沢市)を出発した越中征伐軍は、途中の櫛田神社(くしだじんじゃ=富山県射水市)にて勝利を祈った後、一旦、太閤山(たいこうやま=同射水市:秀吉が布陣したのでこの名がついた)に陣を置き、その後、東に富山平野が一望できる呉羽丘陵(くれはきゅうりょう=呉羽山)白鳥城(しらとりじょう=同富山市)に本営を構えたので、他の武将たちも、こぞって呉羽丘陵のあちこちに自身の陣を構え、一斉に(とき)の声を挙げては、眼下の富山城を威嚇しました。

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呉羽山より立山連峰を望む…眼下は富山市街

また『上杉古文書』によれば、この時、秀吉に味方すべく、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)越後と越中の国境(現在の富山県下新川郡朝日町あたり)まで出兵していたとか・・・(上杉との連携については10月24日参照>>)

さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)など水軍に長けた武将たちは、数千隻の船で以って富山湾に侵入し、伏木(ふしき)から水橋(みずはし=同富山市)へと上陸して富山城を睨みます。

まず動いたのは、征伐軍の中の金森長近(かなもりながちか)・・・といっても、コチラは富山城への攻撃では無く、越中の南に位置する飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の平定を、秀吉に命じられての別働隊・・・秀吉の期待通り、長近は、成政に同調していた飛騨の諸城を次々と落として行ったのです(8月10日参照>>)

西に大軍、東に上杉、北に水軍、南に金森・・・さぁ、どうする?成政

ちなみに、「敵の土地や住民は無傷で手に入れたいタイプ」だった秀吉は、この時、配下の者には徹底して略奪行為や狼藉を禁止していたそうですが、四方を敵に囲まれた富山城下は、着の身着のまま逃げる人、子供を背負って山奥に避難する人などでごった返し、大変な有り様だったようですが・・・

そんな中、富山城内では毎日のように軍議が繰り広げられていましたが、
「もはや秀吉の威勢はランク外のレベルでっせ、佐々だけで対抗しても、どないもなりませんがな」
と降伏を進言する者もいれば、
「今さら降伏したって、助かるかどうか…大軍に対してはゲリラ戦です!奇策で以ってゲリラ戦で行きましょ」
と、意見は真っ二つ・・・

とは言え、時が経つにつれ、あまりに数に差がある秀吉軍を目の前にして、誰もが「こりゃ、アカン」との思いが、増して来るわけで・・・結局、織田信雄を通じて降伏の意思を伝える事に決まったのです。

この頃、秀吉は、眼下の神通川(じんつうがわ)をせき止めて、富山城を水攻めにしようとも考えていたと言いますが、そんな時に、信雄からの「成政降伏」の知らせが届きました。

その信雄からも、そして親友の利家からも
「命は許したって」
との嘆願があった事から、秀吉は、成政から、すべての領地は没収するものの、命は取らないと決め、面会を承諾・・・

かくして天正十三年(1585年)8月29日、利家の呉羽山の陣所近くで頭を丸めた成政は、僧衣を身にまとって秀吉の本営に登場・・・敵陣の中を歩いて行くその姿に、ドッと笑いが起こったと言いますが、秀吉自身は、何も言葉をかけなかったのだとか・・・

こうして、秀吉の越中征伐は幕を閉じました。

ここですべての領地を失った成政は、この後、天正十五年(1587年)の九州征伐(11月25日参照>>)で武功を挙げ、肥後(ひご=熊本県)一国を与えられる事になりますが、それがまた、彼の運命を大きく変える事になります。
 

関連ページ↓
この戦い以前の成政については…
迅速・勇猛・果敢…武勇の佐々成政>>
肥後熊本の出来事については…
佐々成政の失態~肥後・国人一揆>>
また、こんな伝説も…
黒百合事件と呪いの黒百合伝説>>
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2017年8月10日 (木)

金森長近の飛騨攻略作戦

天正十三年(1585年)8月10日、秀吉から飛騨攻略の命を受けた金森長近の軍勢が、向牧戸城を陥落させました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後(6月27日参照>>)、織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)(4月23日参照>>)と、信長の三男=神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)(5月2日参照>>)を葬り去った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正十二年(1584年)には、信長の次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお)と、彼を支援する徳川家康(とくがわいえやす)相手に小牧長久手(こまきながくて)の戦いに突入していました。
●信雄の重臣殺害事件…(3月6日参照>>)
●犬山城攻略戦…(3月13日参照>>)
●羽黒の決戦…(3月17日参照>>)
●岸和田城・攻防戦…(3月22日参照>>)
●小牧の陣…(3月28日参照>>)
●長久手の戦い…(4月9日参照>>)
●蟹江城攻防戦…(6月15日参照>>)

戦況は、おおむね信雄&家康勢有利に進んだものの、秋になって、なぜか信雄が単独で秀吉と講和してしまった事で、あくまで「信雄坊ちゃんのお手伝い」で参戦していた家康は、大義名分を失い兵を退く事に・・・(11月16日参照>>)

しかし、北陸方面で信雄&家康派として戦って(8月28日参照>>)いた越中(えっちゅう=富山県)佐々成政(さっさなりまさ)は、この終戦に納得がいかず、自ら、真冬の立山を越えて(【北アルプスさらさら越え】>>)家康に抗議に向かいますが、「終わってもたもんは終わってもた」で聞き入れてもらえず、空しく帰国・・・

しかし、それでもまだ納得いかない成政は、その後も抵抗を続けていましたが、翌・天正十三年(1585年)、自ら北陸に乗り込んできた秀吉の前に屈し、8月29日、成政は降伏して秀吉の傘下となりました(8月29日参照>>)

Kanamorinagatika400 ・・・と、この間、秀吉は、自らが出馬する越中に隣接する飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の攻略を、配下の金森長近(かなもりながちか)に命じていました。

この頃の飛騨は、天正四年(1576年)に上杉謙信(うえすぎけんしん)が平定した(8月4日参照>>)ものの、ほどなく、その謙信が亡くなって、上杉家がその後継者争いに夢中(3月17日参照>>)になっている間に、多くが信長の傘下となりましたが、その信長も本能寺に倒れた後、その後の争奪戦に打ち勝った三木氏の姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=三木自綱から改名)が、おおむね支配するようになっていましたが、当然、ここも秀吉の傘下に治めておかねばなりませんからね。

7月下旬、居城である大野城(おおのじょう=福井県大野市)を発った長近は、軍勢を二手に分け、自らは一方の大将となり、もう一つの別働隊は、養子の金森可重(よししげ)を大将とし、自らは背後を突くために白川郷(しらかわごう)の尾上村(岐阜県高山市荘川町)へ・・・別働隊は鷲見村(わしみむ=郡上市高鷲)を経て白川郷野々俣村(ののまたむら=同高山市荘川町)へ入り、両隊で以って向牧戸城(むかいまきどじょう=同高山市荘川町・牧戸城とも)を挟みます。

向牧戸城を守るのは、飛騨の国人で白川郷帰雲城(かえりくもじょう=岐阜県大野郡白川村保木脇)の城主=内ヶ島氏理(うちがしまうじよし)の娘婿=尾上氏綱(おのうえうじつな)・・・これが、少数ながら、なかなかの守備力を発揮して長近軍は、かなりの苦戦を強いられますが、天正十三年(1585年)8月10日に総攻撃をした際に、城内から内応者が出て放火し、このドサクサに乗じて長近軍が一斉に城内になだれ込んだ事で、何とか向牧戸城を陥落させました。

翌・11日、やはり二手に分かれた長近軍は、長近本隊が小鳥郷(おどりごう)から山を越えて吉城(よしき)に向かい、一方の可重隊は馬瀬村(まぜむら=岐阜県下呂市)から和良村(わらむら=岐阜県郡上市)を経て下原(しもはら)へ・・・つまり、飛騨地方の北をグルリ、南をグルリと行軍して、通り道の支城を落としながら、姉小路の本拠である松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山市)へ迫ろう!というわけです。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

8月13日、長近本隊は稲越(いなごえ=飛騨市河合町)に進出し、小鷹利城(こだかりじょう=同河合町)を搦め手から襲撃して陥落させ、その勢いのまま突き進み、その日の夜には小島城(こじまじょう=飛騨市古川町)落城させ、さらに、向小島城(むかいこじまじょう=同古川町)野口城(のぐちじょう=同古川町)古川城(ふるかわじょう=同古川町)と、次々と落城させていきます。

8月15日からは、勝ち取った古川城を本営とし、姉小路頼綱の拠る田中城(たなかじょう=高山市国府町・広瀬城とも)へと迫ります。

この田中城は、もともとは、武田信玄の傘下だった広瀬宗域(ひろせむねくに)の城でしたが、武田滅亡後に頼綱が奪い取り、本拠の松倉城を息子の姉小路秀綱(ひでつな)に譲って、頼綱の方が、この城に入っていたのです。

長近は2度に渡って、降伏を促す使者を田中城に派遣しますが、頼綱からの返事はなく籠城の構えです。

そこで、長近は総攻撃を仕掛けますが、敵もなかなかの防戦を展開・・・しかし、やはり数の差は大きく、わずか1日の攻防戦の後、頼綱は降伏を申し出、命は助かったものの京都への追放となりました。

さらに進んだ長近隊は、鍋山城(なべやまじょう=高山市松ノ木)を攻略して、次は、ここを本営としますが、ちょうど、その頃、桜洞城(さくらぼらじょう=岐阜県下呂市)を攻略して南側から高山盆地に入って来た可重隊が鍋山城に到着し、無事、長近隊と合流します。

続く8月16日、休む間もなく鍋山城を出立した可重隊が松倉城の包囲へ向かい、一方の長近隊は、宮村の山下城(やましたじょう=高山市一之宮町)を攻撃し、城主で頼綱の娘婿であった三木国綱(みつきくにつな=一宮国綱とも)敗走させました。

長近隊が山下城を攻略中の間に、松倉城への包囲を完了した可重隊は、いよいよ8月17日、松倉城へ総攻撃を仕掛けます。

翌・18日には、長近の本隊も松倉城の攻撃に合流し、コチラは搦め手から攻めまくります。

さらに20日は、いよいよ要害を攻めのぼりはじめ、阻止する防衛隊と、アチラコチラで激しいぶつかり合いとなりますが、この時に城中にいた内応者が、城に放火・・・さすがの堅固な松倉城も、この炎に包まれて落城したのです。

城主の秀綱らは、何とか城を脱出し、一旦は信濃(しなの=長野県)へと逃亡しますが、途中で地元民の落ち武者狩りに遭い、「もはや、これまで!」と覚悟の自刃を遂げました。

また、この時、佐々成政に協力して越中へと出陣して留守だった帰雲城の内ヶ島氏理は、成政が秀吉に降伏した事で、すぐさま飛騨へと戻り、これまた、すぐさま鍋山城に滞在していた長近に面会して詫びを入れた事で許され、領地も安堵となりました。

その後、残党による一揆や反乱も鎮圧され、長近の飛騨平定は完了となりました。

この功績により、長近は飛騨に3万3000石を与えられ、越前大野から転封・・・以後、この地を治めていく事になりますが、その3年後には、城下町整備に便利な高山城(たかやまじょう=岐阜県高山市)を構築して、そこを本拠としたため、松倉城は廃城となりました。

★松倉城にまつわる、悲しくて怖い人柱伝説2012年8月20日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2016年7月16日 (土)

豊臣秀次事件に連座…熊谷直之と7人の小姓たち

文禄四年(1595年)7月16日、豊臣政権への謀反を企てたとして、関白の豊臣秀次が切腹に追い込まれた、世に言う「秀次事件」に連座して、秀次の家老であった熊谷直之が自害しました。

・・・・・・・・・・

豊臣の姓に関白の座・・・もはや、手に入れるべき物は、全部手に入れた感のある豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、晩年になってやっと、淀殿(よどどの=浅井茶々)との間に授かった鶴松(つるまつ)が、わずか3歳で亡くなります。

そのショックとともに、56歳という年齢もあって、「もはや子供は望めない」と思ったのか?秀吉は、姉・とも三好吉房(みよしよしふさ)との間に生まれた甥っ子の豊臣秀次(とよとみひでつぐ=三好秀次・羽柴秀次)(4月4日参照>>)に関白を譲った事から、事実上、秀次が豊臣家の跡取りに・・・

しかし、その後、またまた淀殿が懐妊し、文禄二年(1593年)に男の子を産んだ(8月3日参照>>)事から、秀吉×秀次の間に重~い空気が漂い始め、結局、謀反をはじめとする様々な罪に問われた秀次は切腹となり、その一族までもが処刑されてしまうのです。
【摂政関白~豊臣秀次の汚名を晴らしたい!】参照>>
【豊臣秀次一族の墓所~瑞泉寺】参照>>

世に「秀次事件」と呼ばれる有名な出来事ではありますが、一方で、その原因や、その結果も、未だ謎多き出来事でもあります。

もともと、謀反だ殺生だご乱行だという話はでっち上げだろうと囁かれていますし、最近では、その結果となった切腹も、秀吉が、秀次が送られる事になった高野山に対して、秀次の食事や身の回りの世話を手厚くするよう手配していたとおぼしき記録の存在などから、秀吉は「切腹しろ」とは言って無いんじゃないか?との見方も出て来ていますし、秀次自身が、自ら高野山に入って自ら切腹したなんて話も出て来ていますが・・・

とにもかくにも、一般的には・・・
罪に問われた秀次は切腹し、彼に連なる一族郎党&側室や子供たちまでもが犠牲になるこの事件・・・ここに連座して命を落とす一人が本日の主役=熊谷直之(くまがいなおゆき=直澄)です。

この「熊谷」という苗字でお気づきかも知れませんが、この熊谷さんは、源平の戦い「青葉の笛」の逸話(2月7日参照>>)で有名な熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)の子孫・・・ご存じのように、直実自身は合戦後に戦いの空しさに悩んで出家します(11月25日参照>>)が、その後も脈々と続いて枝分かれしつつ、子孫たちは戦国時代を迎えていたのです。

この当時、直之は若狭(わかさ=福井県西部)武田氏の家臣として活躍していましたが、永禄十年(1567年)に当主が第9代武田元明(たけだもとあき)に交代した頃に、ここのところの主家の衰退ぶりに我慢できなくなり、その支配下から脱し若狭大倉見城(井崎城=福井県三方上中郡)の城主として、事実上の独立を果たしていたと言われます。

この少し前には、直之と同族で、安芸(あき=広島県)武田氏に仕えていた熊谷家が、毛利との戦いで熊谷元直(もとなお)(10月22日参照>>)が討死した事をキッカケに、息子の熊谷信直(のぶなお)は愛娘の新庄局(しんじょうのつぼね)を、毛利元就(もうりもとなり)の息子=吉川元春(きっかわもとはる)と結婚させて(8月30日参照>>)武田から毛利へと鞍替えしていますので、時代の流れという物かも知れません。

そんなこんなの元亀元年(1570年)、越前(えちぜん福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)手筒山城&金ヶ崎城を攻撃(4月26日参照>>)すべく出陣した織田信長(おだのぶなが)が、若狭の熊河(くまかわ=熊川=福井県三方上中郡若狭町)で陣宿した際に、直之は信長とよしみを通じる事に成功し、以来、織田家の傘下となって各地を転戦しますが、

ご存じのように、その信長が本能寺に倒れたため、その後は秀吉の傘下となって、やがて秀次の家老という役職についておりました。

しかし、冒頭に書いた「秀次事件」・・・

軍記物などでは、直之が「秀次に謀反を勧めた」と描かれたりもしますが、先に書かせていただいた通り、「秀次事件」そのものが謎多き物なので、何とも・・・

とにもかくにも、古文書の記録としては、主君の秀次が逝った翌日の文禄四年(1595年)7月16日、京都は嵯峨野の二尊院(にそんいん=京都市右京区:倉山二尊教院華台寺)にて、熊谷直之は切腹するのです。

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紅葉の二尊院…黒門付近

以下、『柳庵雑筆 (りゅうあんざっぴつ)によりますと・・・

・‥…━━━☆

蔵に保管してあった金銀や米などを家臣たちに分配した後、小姓7人だけを連れて二尊院へやって来た直之は、門前で、小姓に持たせていた袋を受け取り、その中から黄金を小分けにして包んであった物を7つ、彼ら7人にそれぞれ手渡し、自らその袋を持って堂内へと入り、しばらくご本尊の前で祈りを捧げました。

♪あはれとも 問ふひとならで とふべきか
  嵯峨野ふみわけて おくの古寺 ♪ 
熊谷直之辞世

その後、7人の小姓たちに、
「ここまでついて来てもろたけど、ここからは自由やさかい。
暇をやるよって、好きなようにしたらええからな」

と・・・

しかし、7人が7人とも
「殿の最期を見届けてから、僕らもすぐに、殿のおそばに参りますよって…」
と、自分たちの覚悟を伝えます。

「いやいや、後は追わんでええ。どこかで自由に…」
「いえお供します、僕らは退きません!」
と、問答が続きますが、

そうこうしている中、検使役の見届け人が時間を知らせて急かすと、直之は
「心得た」
と返答した後、見事、腹を掻っ捌いて自刃しました。

直之の最期を見届けた検使役が、二尊院の僧に遺骸を葬るよう申し渡して立ち去ると、7人の小姓が裏手の山を掘って、主の棺を納めた後、本尊の前にてしばらく念仏を唱えた後、誰がリードするでもなく、7人輪になって、今後の事を話始めました。

7人の中でも最も年若い、未だ16~7と思しき少年は、
「殿の仇は、あの石田三成(いしだみつなり)や!アイツをこのままには、しておけん!殺ったる!」
と息巻きますが、少し年上の者は
「お前なぁ…ここから東に見えるあの山見てみぃ…三成には、あの山々の向こうに、トンデモ無い数の兵を持ってるんやゾ。
俺らだけで、どうやって刃向かえって言うねん」

と、たしなめます。

「そない言うても、このまま退かれへん」
「何とか、ええ作戦が無いか?」
と、口々に意見を交わす彼らでしたが、やがて時間が経つにつれ、主を亡くして直後は興奮気味だった心の内も、少しずつ落ちついて来て

ある一人が
「俺は…殿の菩提を弔うために諸国を巡礼しようと思う」
と言うと、さらに皆が落ち着きを取り戻し、
「ほな、僕は、町人になって、これからは平穏に暮らすわ」
という者も・・・

結局、7人のうち3人が町人になり、4人が諸国を巡礼するという事になり、その決意を二尊院の僧に告げて、直之が最後に持っていた袋を手渡しながら
「これは主君の遺品なんですが…数年後に、皆で、また、ここに集まろうと約束してますんで、それまで預かっといて下さい」
と頼み、その後、それぞれが東西へ分かれ、どこへともなく立ち去って行きました。

果たして5年後の慶長五年(1600年)9月、誰とも知らぬ若者5人が二尊院を訪れ、直之のお墓の前で高らかに念仏を唱えた後、それぞれが一同に腹を斬って果てたのです。

異変に気付いた僧が、慌てて駆け寄ると、直之のお墓の前で自刃した若者たちは、まさに、あの時の7人の小姓のうちの5人でした。

僧が、
「…にしても、あの時は7人やったけど、あと二人は…?」
と、思っていたところに、一人の男が息を切らせながら走って来ます。

彼は、その脚力を買われて、「この文を届けてくれ」と頼まれた飛脚役の青年・・・
「おそらく、ここ(二尊院)に、熊谷の小姓衆が来るだろうから…」
と手渡されたその手紙は、残りの二人からの物でした。

「今度、京都の侍所(さむらいどころ=現在の警察署)に士官できる事になりました。
彼らに会うたら、
(あとの5人も就職できそうなので)京都に来るよう伝えて下さい」
という物でした。

しかし、その5人は、すでに・・・

二尊院から戻って来た使いの者から、5人が自刃した事を聞いた二人は、すぐさま上司に暇をもらい二尊院へ直行・・・境内へと入るや否や、かの直之のお墓の前で、彼ら二人も自刃して果てたのでした。

・‥…━━━☆

と、まぁ、最初に、この逸話を知った時、「5人が自刃する」のと、「2人の手紙が届く」のとが見事なタイミング過ぎて、ホンマかいな?・・・と思っていたんですが・・・

『柳庵雑筆』には慶長五年(1600年)9月としか書いていないので、あくまで推測ですが・・・

そう、慶長五年(1600年)9月と言えば、あの関ヶ原です。

ひょっとして、関ヶ原で三成側が敗戦したタイミングのなのか?と考えると、
なるほど・・・
あの時は、バラバラに去って行ったものの、三成の失脚を知った5人が、誰が先にという事もなくお墓の前に集まる・・・

一方、残りの二人は、合戦が終わって組織の体制が変わる事で就職できるようになって・・・という事なのか?
と考えると、同時に7人全員の心が二尊院に向いた事も無きにしも非ずと思えて来ました。

とは言え、悲しい物語ではありますが、これが、武士の忠義、武士の誇りという物なのかも知れませんね。
 .

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