2017年8月29日 (火)

秀吉VS佐々成政~富山城の戦いin越中征伐

天正十三年(1585年)8月29日、織田信長の後継者的な位置をキープした秀吉の越中征伐(富山の役)で、富山城主の佐々成政が降伏しました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月の本能寺にて織田信長(おだのぶなが)がこの世を去った(6月2日参照>>)後、その後継者を決める清州会議(6月27日参照>>)で優位に立ち、天正十一年(1583年)に織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月20日参照>>)に破って葬り去った(4月23日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、翌・天正十二年(1584年)には、信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と、彼を支援する徳川家康(とくがわいえやす)相手に、小牧長久手(こまきながくて)の戦いをおっぱじめますが、戦況が不利にも関わらず、信雄を丸めこんで講和に持ち込んでしまいました(11月16日参照>>)

Toyamazyou この信長死後の一連の戦いで、賤ヶ岳では勝家に、小牧長久手では信雄&家康に味方して、秀吉側の前田利家(まえだとしいえ)と戦っていた(8月28日参照>>)越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)主=佐々成政(さっさなりまさ)は、「俺らコッチで頑張ってんのに、何してくれてんねん!」と信雄の単独講和に納得がいかず、冬の立山を越えて(11月11日参照>>)、直接、家康に面会して抗議しますが、合戦が終わってしまった以上は、どうにもならず・・・

小牧長久手の勝敗がウヤムヤなまま、秀吉は、翌・天正十三年(1585年)3月には紀州征伐(3月28日参照>>)を、7月には四国を平定(7月26日参照>>)し、破竹の勢いで天下へとまっしぐら・・・

と、ここで・・・
「そやん、賤ヶ岳でも小牧長久手でも敵に回ったアイツ…まして、未だに僕の親友の前田君にチョッカイ出しとんのに、なんか、そのままになってるやん」
と思ったかどうかはわかりませんが、

とにもかくにも、ここで秀吉は、北陸遠征の決意を固めたのです。

天正十三年(1585年)7月17日付けで前田利家に宛てた手紙には、
「来る4日に、越中に出陣するよって、しっかり準備しといてや~僕の考えは使者に伝えてあるよって、彼と、よ~く相談しといてネ」
と綴っています。

その手紙の通り、8月4日に先発隊が大坂(大阪府大阪市)を出陣・・・その数は約10万人、しかも秀吉は、自らが出陣した6日に、途中の京都へ寄って、朝廷から成政討伐の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)まで取って・・・そう、秀吉お得意の威光放ちまくりの「どや!これでもやんのか?」作戦です。

なんせ、軍勢は、織田信雄はもとより、織田信包(のぶかね=信長の弟)丹羽長(にわながしげ=長秀の長男)細川忠興(ほそかわただおき)山内一豊(やまうちかずとよ)蒲生氏郷(がもううじさと)などなど・・・他にも名だたる有名武将を揃えた、名実ともにエース軍団ですな。

一方、秀吉の大軍がやって来る事を知った成政は、領内にあった30余の支城や砦を撤去して、居城の富山城にすべての兵力を集め、対決の体制を整えます。

19日、前田利家を先頭に金沢(かなざわ=石川県金沢市)を出発した越中征伐軍は、途中の櫛田神社(くしだじんじゃ=富山県射水市)にて勝利を祈った後、一旦、太閤山(たいこうやま=同射水市:秀吉が布陣したのでこの名がついた)に陣を置き、その後、東に富山平野が一望できる呉羽丘陵(くれはきゅうりょう=呉羽山)白鳥城(しらとりじょう=同富山市)に本営を構えたので、他の武将たちも、こぞって呉羽丘陵のあちこちに自身の陣を構え、一斉に(とき)の声を挙げては、眼下の富山城を威嚇しました。

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呉羽山より立山連峰を望む…眼下は富山市街

また『上杉古文書』によれば、この時、秀吉に味方すべく、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)越後と越中の国境(現在の富山県下新川郡朝日町あたり)まで出兵していたとか・・・

さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)など水軍に長けた武将たちは、数千隻の船で以って富山湾に侵入し、伏木(ふしき)から水橋(みずはし=同富山市)へと上陸して富山城を睨みます。

まず動いたのは、征伐軍の中の金森長近(かなもりながちか)・・・といっても、コチラは富山城への攻撃では無く、越中の南に位置する飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の平定を、秀吉に命じられての別働隊・・・秀吉の期待通り、長近は、成政に同調していた飛騨の諸城を次々と落として行ったのです(8月10日参照>>)

西に大軍、東に上杉、北に水軍、南に金森・・・さぁ、どうする?成政

ちなみに、「敵の土地や住民は無傷で手に入れたいタイプ」だった秀吉は、この時、配下の者には徹底して略奪行為や狼藉を禁止していたそうですが、四方を敵に囲まれた富山城下は、着の身着のまま逃げる人、子供を背負って山奥に避難する人などでごった返し、大変な有り様だったようですが・・・

そんな中、富山城内では毎日のように軍議が繰り広げられていましたが、
「もはや秀吉の威勢はランク外のレベルでっせ、佐々だけで対抗しても、どないもなりませんがな」
と降伏を進言する者もいれば、
「今さら降伏したって、助かるかどうか…大軍に対してはゲリラ戦です!奇策で以ってゲリラ戦で行きましょ」
と、意見は真っ二つ・・・

とは言え、時が経つにつれ、あまりに数に差がある秀吉軍を目の前にして、誰もが「こりゃ、アカン」との思いが、増して来るわけで・・・結局、織田信雄を通じて降伏の意思を伝える事に決まったのです。

この頃、秀吉は、眼下の神通川(じんつうがわ)をせき止めて、富山城を水攻めにしようとも考えていたと言いますが、そんな時に、信雄からの「成政降伏」の知らせが届きました。

その信雄からも、そして親友の利家からも
「命は許したって」
との嘆願があった事から、秀吉は、成政から、すべての領地は没収するものの、命は取らないと決め、面会を承諾・・・

かくして天正十三年(1585年)8月29日、利家の呉羽山の陣所近くで頭を丸めた成政は、僧衣を身にまとって秀吉の本営に登場・・・敵陣の中を歩いて行くその姿に、ドッと笑いが起こったと言いますが、秀吉自身は、何も言葉をかけなかったのだとか・・・

こうして、秀吉の越中征伐は幕を閉じました。

ここですべての領地を失った成政は、この後、天正十五年(1587年)の九州征伐(11月25日参照>>)で武功を挙げ、肥後(ひご=熊本県)一国を与えられる事になりますが、それがまた、彼の運命を大きく変える事になります。
 

関連ページ↓
この戦い以前の成政については…
迅速・勇猛・果敢…武勇の佐々成政>>
肥後熊本の出来事については…
佐々成政の失態~肥後・国人一揆>>
また、こんな伝説も…
黒百合事件と呪いの黒百合伝説>>
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2017年8月10日 (木)

金森長近の飛騨攻略作戦

天正十三年(1585年)8月10日、秀吉から飛騨攻略の命を受けた金森長近の軍勢が、向牧戸城を陥落させました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後(6月27日参照>>)、織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)(4月23日参照>>)と、信長の三男=神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)(5月2日参照>>)を葬り去った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正十二年(1584年)には、信長の次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお)と、彼を支援する徳川家康(とくがわいえやす)相手に小牧長久手(こまきながくて)の戦いに突入していました。
●信雄の重臣殺害事件…(3月6日参照>>)
●犬山城攻略戦…(3月13日参照>>)
●羽黒の決戦…(3月17日参照>>)
●岸和田城・攻防戦…(3月22日参照>>)
●小牧の陣…(3月28日参照>>)
●長久手の戦い…(4月9日参照>>)
●蟹江城攻防戦…(6月15日参照>>)

戦況は、おおむね信雄&家康勢有利に進んだものの、秋になって、なぜか信雄が単独で秀吉と講和してしまった事で、あくまで「信雄坊ちゃんのお手伝い」で参戦していた家康は、大義名分を失い兵を退く事に・・・(11月16日参照>>)

しかし、北陸方面で信雄&家康派として戦って(8月28日参照>>)いた越中(えっちゅう=富山県)佐々成政(さっさなりまさ)は、この終戦に納得がいかず、自ら、真冬の立山を越えて(【北アルプスさらさら越え】>>)家康に抗議に向かいますが、「終わってもたもんは終わってもた」で聞き入れてもらえず、空しく帰国・・・

しかし、それでもまだ納得いかない成政は、その後も抵抗を続けていましたが、翌・天正十三年(1585年)、自ら北陸に乗り込んできた秀吉の前に屈し、8月29日、成政は降伏して秀吉の傘下となりました(8月29日参照>>)

Kanamorinagatika400 ・・・と、この間、秀吉は、自らが出馬する越中に隣接する飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の攻略を、配下の金森長近(かなもりながちか)に命じていました。

この頃の飛騨は、天正四年(1576年)に上杉謙信(うえすぎけんしん)が平定した(8月4日参照>>)ものの、ほどなく、その謙信が亡くなって、上杉家がその後継者争いに夢中(3月17日参照>>)になっている間に、多くが信長の傘下となりましたが、その信長も本能寺に倒れた後、その後の争奪戦に打ち勝った三木氏の姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=三木自綱から改名)が、おおむね支配するようになっていましたが、当然、ここも秀吉の傘下に治めておかねばなりませんからね。

7月下旬、居城である大野城(おおのじょう=福井県大野市)を発った長近は、軍勢を二手に分け、自らは一方の大将となり、もう一つの別働隊は、養子の金森可重(よししげ)を大将とし、自らは背後を突くために白川郷(しらかわごう)の尾上村(岐阜県高山市荘川町)へ・・・別働隊は鷲見村(わしみむ=郡上市高鷲)を経て白川郷野々俣村(ののまたむら=同高山市荘川町)へ入り、両隊で以って向牧戸城(むかいまきどじょう=同高山市荘川町・牧戸城とも)を挟みます。

向牧戸城を守るのは、飛騨の国人で白川郷帰雲城(かえりくもじょう=岐阜県大野郡白川村保木脇)の城主=内ヶ島氏理(うちがしまうじよし)の娘婿=尾上氏綱(おのうえうじつな)・・・これが、少数ながら、なかなかの守備力を発揮して長近軍は、かなりの苦戦を強いられますが、天正十三年(1585年)8月10日に総攻撃をした際に、城内から内応者が出て放火し、このドサクサに乗じて長近軍が一斉に城内になだれ込んだ事で、何とか向牧戸城を陥落させました。

翌・11日、やはり二手に分かれた長近軍は、長近本隊が小鳥郷(おどりごう)から山を越えて吉城(よしき)に向かい、一方の可重隊は馬瀬村(まぜむら=岐阜県下呂市)から和良村(わらむら=岐阜県郡上市)を経て下原(しもはら)へ・・・つまり、飛騨地方の北をグルリ、南をグルリと行軍して、通り道の支城を落としながら、姉小路の本拠である松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山市)へ迫ろう!というわけです。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

8月13日、長近本隊は稲越(いなごえ=飛騨市河合町)に進出し、小鷹利城(こだかりじょう=同河合町)を搦め手から襲撃して陥落させ、その勢いのまま突き進み、その日の夜には小島城(こじまじょう=飛騨市古川町)落城させ、さらに、向小島城(むかいこじまじょう=同古川町)野口城(のぐちじょう=同古川町)古川城(ふるかわじょう=同古川町)と、次々と落城させていきます。

8月15日からは、勝ち取った古川城を本営とし、姉小路頼綱の拠る田中城(たなかじょう=高山市国府町・広瀬城とも)へと迫ります。

この田中城は、もともとは、武田信玄の傘下だった広瀬宗域(ひろせむねくに)の城でしたが、武田滅亡後に頼綱が奪い取り、本拠の松倉城を息子の姉小路秀綱(ひでつな)に譲って、頼綱の方が、この城に入っていたのです。

長近は2度に渡って、降伏を促す使者を田中城に派遣しますが、頼綱からの返事はなく籠城の構えです。

そこで、長近は総攻撃を仕掛けますが、敵もなかなかの防戦を展開・・・しかし、やはり数の差は大きく、わずか1日の攻防戦の後、頼綱は降伏を申し出、命は助かったものの京都への追放となりました。

さらに進んだ長近隊は、鍋山城(なべやまじょう=高山市松ノ木)を攻略して、次は、ここを本営としますが、ちょうど、その頃、桜洞城(さくらぼらじょう=岐阜県下呂市)を攻略して南側から高山盆地に入って来た可重隊が鍋山城に到着し、無事、長近隊と合流します。

続く8月16日、休む間もなく鍋山城を出立した可重隊が松倉城の包囲へ向かい、一方の長近隊は、宮村の山下城(やましたじょう=高山市一之宮町)を攻撃し、城主で頼綱の娘婿であった三木国綱(みつきくにつな=一宮国綱とも)敗走させました。

長近隊が山下城を攻略中の間に、松倉城への包囲を完了した可重隊は、いよいよ8月17日、松倉城へ総攻撃を仕掛けます。

翌・18日には、長近の本隊も松倉城の攻撃に合流し、コチラは搦め手から攻めまくります。

さらに20日は、いよいよ要害を攻めのぼりはじめ、阻止する防衛隊と、アチラコチラで激しいぶつかり合いとなりますが、この時に城中にいた内応者が、城に放火・・・さすがの堅固な松倉城も、この炎に包まれて落城したのです。

城主の秀綱らは、何とか城を脱出し、一旦は信濃(しなの=長野県)へと逃亡しますが、途中で地元民の落ち武者狩りに遭い、「もはや、これまで!」と覚悟の自刃を遂げました。

また、この時、佐々成政に協力して越中へと出陣して留守だった帰雲城の内ヶ島氏理は、成政が秀吉に降伏した事で、すぐさま飛騨へと戻り、これまた、すぐさま鍋山城に滞在していた長近に面会して詫びを入れた事で許され、領地も安堵となりました。

その後、残党による一揆や反乱も鎮圧され、長近の飛騨平定は完了となりました。

この功績により、長近は飛騨に3万3000石を与えられ、越前大野から転封・・・以後、この地を治めていく事になりますが、その3年後には、城下町整備に便利な高山城(たかやまじょう=岐阜県高山市)を構築して、そこを本拠としたため、松倉城は廃城となりました。

★松倉城にまつわる、悲しくて怖い人柱伝説2012年8月20日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2016年7月16日 (土)

豊臣秀次事件に連座…熊谷直之と7人の小姓たち

文禄四年(1595年)7月16日、豊臣政権への謀反を企てたとして、関白の豊臣秀次が切腹に追い込まれた、世に言う「秀次事件」に連座して、秀次の家老であった熊谷直之が自害しました。

・・・・・・・・・・

豊臣の姓に関白の座・・・もはや、手に入れるべき物は、全部手に入れた感のある豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、晩年になってやっと、淀殿(よどどの=浅井茶々)との間に授かった鶴松(つるまつ)が、わずか3歳で亡くなります。

そのショックとともに、56歳という年齢もあって、「もはや子供は望めない」と思ったのか?秀吉は、姉・とも三好吉房(みよしよしふさ)との間に生まれた甥っ子の豊臣秀次(とよとみひでつぐ=三好秀次・羽柴秀次)(4月4日参照>>)に関白を譲った事から、事実上、秀次が豊臣家の跡取りに・・・

しかし、その後、またまた淀殿が懐妊し、文禄二年(1593年)に男の子を産んだ(8月3日参照>>)事から、秀吉×秀次の間に重~い空気が漂い始め、結局、謀反をはじめとする様々な罪に問われた秀次は切腹となり、その一族までもが処刑されてしまうのです。
【摂政関白~豊臣秀次の汚名を晴らしたい!】参照>>
【豊臣秀次一族の墓所~瑞泉寺】参照>>

世に「秀次事件」と呼ばれる有名な出来事ではありますが、一方で、その原因や、その結果も、未だ謎多き出来事でもあります。

もともと、謀反だ殺生だご乱行だという話はでっち上げだろうと囁かれていますし、最近では、その結果となった切腹も、秀吉が、秀次が送られる事になった高野山に対して、秀次の食事や身の回りの世話を手厚くするよう手配していたとおぼしき記録の存在などから、秀吉は「切腹しろ」とは言って無いんじゃないか?との見方も出て来ていますし、秀次自身が、自ら高野山に入って自ら切腹したなんて話も出て来ていますが・・・

とにもかくにも、一般的には・・・
罪に問われた秀次は切腹し、彼に連なる一族郎党&側室や子供たちまでもが犠牲になるこの事件・・・ここに連座して命を落とす一人が本日の主役=熊谷直之(くまがいなおゆき=直澄)です。

この「熊谷」という苗字でお気づきかも知れませんが、この熊谷さんは、源平の戦い「青葉の笛」の逸話(2月7日参照>>)で有名な熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)の子孫・・・ご存じのように、直実自身は合戦後に戦いの空しさに悩んで出家します(11月25日参照>>)が、その後も脈々と続いて枝分かれしつつ、子孫たちは戦国時代を迎えていたのです。

この当時、直之は若狭(わかさ=福井県西部)武田氏の家臣として活躍していましたが、永禄十年(1567年)に当主が第9代武田元明(たけだもとあき)に交代した頃に、ここのところの主家の衰退ぶりに我慢できなくなり、その支配下から脱し若狭大倉見城(井崎城=福井県三方上中郡)の城主として、事実上の独立を果たしていたと言われます。

この少し前には、直之と同族で、安芸(あき=広島県)武田氏に仕えていた熊谷家が、毛利との戦いで熊谷元直(もとなお)(10月22日参照>>)が討死した事をキッカケに、息子の熊谷信直(のぶなお)は愛娘の新庄局(しんじょうのつぼね)を、毛利元就(もうりもとなり)の息子=吉川元春(きっかわもとはる)と結婚させて(8月30日参照>>)武田から毛利へと鞍替えしていますので、時代の流れという物かも知れません。

そんなこんなの元亀元年(1570年)、越前(えちぜん福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)手筒山城&金ヶ崎城を攻撃(4月26日参照>>)すべく出陣した織田信長(おだのぶなが)が、若狭の熊河(くまかわ=熊川=福井県三方上中郡若狭町)で陣宿した際に、直之は信長とよしみを通じる事に成功し、以来、織田家の傘下となって各地を転戦しますが、

ご存じのように、その信長が本能寺に倒れたため、その後は秀吉の傘下となって、やがて秀次の家老という役職についておりました。

しかし、冒頭に書いた「秀次事件」・・・

軍記物などでは、直之が「秀次に謀反を勧めた」と描かれたりもしますが、先に書かせていただいた通り、「秀次事件」そのものが謎多き物なので、何とも・・・

とにもかくにも、古文書の記録としては、主君の秀次が逝った翌日の文禄四年(1595年)7月16日、京都は嵯峨野の二尊院(にそんいん=京都市右京区:倉山二尊教院華台寺)にて、熊谷直之は切腹するのです。

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紅葉の二尊院…黒門付近

以下、『柳庵雑筆 (りゅうあんざっぴつ)によりますと・・・

・‥…━━━☆

蔵に保管してあった金銀や米などを家臣たちに分配した後、小姓7人だけを連れて二尊院へやって来た直之は、門前で、小姓に持たせていた袋を受け取り、その中から黄金を小分けにして包んであった物を7つ、彼ら7人にそれぞれ手渡し、自らその袋を持って堂内へと入り、しばらくご本尊の前で祈りを捧げました。

♪あはれとも 問ふひとならで とふべきか
  嵯峨野ふみわけて おくの古寺 ♪ 
熊谷直之辞世

その後、7人の小姓たちに、
「ここまでついて来てもろたけど、ここからは自由やさかい。
暇をやるよって、好きなようにしたらええからな」

と・・・

しかし、7人が7人とも
「殿の最期を見届けてから、僕らもすぐに、殿のおそばに参りますよって…」
と、自分たちの覚悟を伝えます。

「いやいや、後は追わんでええ。どこかで自由に…」
「いえお供します、僕らは退きません!」
と、問答が続きますが、

そうこうしている中、検使役の見届け人が時間を知らせて急かすと、直之は
「心得た」
と返答した後、見事、腹を掻っ捌いて自刃しました。

直之の最期を見届けた検使役が、二尊院の僧に遺骸を葬るよう申し渡して立ち去ると、7人の小姓が裏手の山を掘って、主の棺を納めた後、本尊の前にてしばらく念仏を唱えた後、誰がリードするでもなく、7人輪になって、今後の事を話始めました。

7人の中でも最も年若い、未だ16~7と思しき少年は、
「殿の仇は、あの石田三成(いしだみつなり)や!アイツをこのままには、しておけん!殺ったる!」
と息巻きますが、少し年上の者は
「お前なぁ…ここから東に見えるあの山見てみぃ…三成には、あの山々の向こうに、トンデモ無い数の兵を持ってるんやゾ。
俺らだけで、どうやって刃向かえって言うねん」

と、たしなめます。

「そない言うても、このまま退かれへん」
「何とか、ええ作戦が無いか?」
と、口々に意見を交わす彼らでしたが、やがて時間が経つにつれ、主を亡くして直後は興奮気味だった心の内も、少しずつ落ちついて来て

ある一人が
「俺は…殿の菩提を弔うために諸国を巡礼しようと思う」
と言うと、さらに皆が落ち着きを取り戻し、
「ほな、僕は、町人になって、これからは平穏に暮らすわ」
という者も・・・

結局、7人のうち3人が町人になり、4人が諸国を巡礼するという事になり、その決意を二尊院の僧に告げて、直之が最後に持っていた袋を手渡しながら
「これは主君の遺品なんですが…数年後に、皆で、また、ここに集まろうと約束してますんで、それまで預かっといて下さい」
と頼み、その後、それぞれが東西へ分かれ、どこへともなく立ち去って行きました。

果たして5年後の慶長五年(1600年)9月、誰とも知らぬ若者5人が二尊院を訪れ、直之のお墓の前で高らかに念仏を唱えた後、それぞれが一同に腹を斬って果てたのです。

異変に気付いた僧が、慌てて駆け寄ると、直之のお墓の前で自刃した若者たちは、まさに、あの時の7人の小姓のうちの5人でした。

僧が、
「…にしても、あの時は7人やったけど、あと二人は…?」
と、思っていたところに、一人の男が息を切らせながら走って来ます。

彼は、その脚力を買われて、「この文を届けてくれ」と頼まれた飛脚役の青年・・・
「おそらく、ここ(二尊院)に、熊谷の小姓衆が来るだろうから…」
と手渡されたその手紙は、残りの二人からの物でした。

「今度、京都の侍所(さむらいどころ=現在の警察署)に士官できる事になりました。
彼らに会うたら、
(あとの5人も就職できそうなので)京都に来るよう伝えて下さい」
という物でした。

しかし、その5人は、すでに・・・

二尊院から戻って来た使いの者から、5人が自刃した事を聞いた二人は、すぐさま上司に暇をもらい二尊院へ直行・・・境内へと入るや否や、かの直之のお墓の前で、彼ら二人も自刃して果てたのでした。

・‥…━━━☆

と、まぁ、最初に、この逸話を知った時、「5人が自刃する」のと、「2人の手紙が届く」のとが見事なタイミング過ぎて、ホンマかいな?・・・と思っていたんですが・・・

『柳庵雑筆』には慶長五年(1600年)9月としか書いていないので、あくまで推測ですが・・・

そう、慶長五年(1600年)9月と言えば、あの関ヶ原です。

ひょっとして、関ヶ原で三成側が敗戦したタイミングのなのか?と考えると、
なるほど・・・
あの時は、バラバラに去って行ったものの、三成の失脚を知った5人が、誰が先にという事もなくお墓の前に集まる・・・

一方、残りの二人は、合戦が終わって組織の体制が変わる事で就職できるようになって・・・という事なのか?
と考えると、同時に7人全員の心が二尊院に向いた事も無きにしも非ずと思えて来ました。

とは言え、悲しい物語ではありますが、これが、武士の忠義、武士の誇りという物なのかも知れませんね。
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2016年5月25日 (水)

大河ドラマ「真田丸」の感想~大坂編~第20回前兆

 

なんとかかんとか、
ぼちぼちと調子が戻って参りました~ヽ(´▽`)/

てな事で、本日は、久々に、大河ドラマ「真田丸」の感想など・・・というのも、先日の茶々(後の淀殿)心の描写が実に良かった!!o(*^▽^*)o

この件に関しては、久々のHITな描き方でした(←個人の感想です)

そう、あの茶々様が、豊臣秀吉(とよとみひでよし)側室
(この時代には、未だ「正室は一人」という認識が確定していないと思われ、実際には多分、寧さん&淀殿の二人ともが正室だと思いますが…)
となる決意をする、あの心の描写です。

これまで、時代劇で何度となく描かれて来た場面・・・

戦国時代とまで行かなくとも、ひと昔前までは、お金持ちの実業家や、権力を握った政治家さんなんかには、「お妾(めかけ)さん」と呼ばれる女性がいて、それがバレてもセンテンススプリングに叩かれる事も、ほとんど無かったです。

おそらくは、戦前&戦中&戦後間もなくは、貧富の差も激しかったし、一生馬車馬のように働きながらも飢えに苦しむような生活をするなら、お金持ちに囲われた生活の方が幸せだったりする事もあったわけですし、なんだかんだで、現在の「不倫」とは違う次元の、そーゆー方たちがいた事も確かですし、

なんたって、生まれた子供が、そのまま元気に成人する確率も、戦前&戦中&戦後間もなく位までは低かったわけですし、

もちろん、以前、昨年の大河の話で書かせていただいたように(「花燃ゆ」最終回の感想を参照>>)、そもそもは、結婚そのものが恋愛を伴う結婚では無かったですしね。

・・・で、何が言いたいかと言いますと、そういう時代を知っている人たちが、テレビの視聴者だった時代には、時代劇での側室の存在は、当然の事で、ごくごく普通に描かれていたわけですが、

昭和30年代の高度成長期を経て、一億総中流と言われるようになり、男女平等ジェンダーフリー男も女も共同参画・・・と、ひと昔前の、かの時代の事をほとんど知らない人たちが大半を占めるようになった、今現在の平成の時代は、結婚には愛がなくてはいけないし、愛し合って結婚した以上は不倫なんてもってのほかだし、ましてや、奥さん意外に子供がいるなんて!!!

もはや友達では押し通せないこの状況に、やむなく、ここ何年かの大河では、側室をまったく無視したり、側室が正室のように描かれていたり、側室の産んだ後継ぎを正室の子にしてみたり、今回の「真田丸」でも、早々とお梅ちゃんに去っていってもらったりの苦肉の策をとっているわけで・・・

そんな中でも、最も微妙なのが茶々様の存在・・・彼女が、秀頼(ひでより)という、豊臣家にとってなくてはならない後継者を産む事で、その存在は無視できないし、かと言って、秀吉をずっと支えたゴッドマザー=(ねい=寧々・おね)さんをスルーすることもできない・・・

なので、ここ何年かの大河では、秀吉だけには側室がいる状態で描かれつつも、このへんの茶々様はじめ女性陣の心情が、うまく表現されないままドラマが進んで行く事が多々ありました(特に「姫たちの○○」はスゴかった(^-^;)

しかし、今回の「真田丸」の竹内茶々様の描写はスゴかった(もちろん、「姫たち」とは別の意味でww)

それこそ、その「姫たち」のページ(2011年5月30日参照>>)でも書かせていただきましたが、「強さ」は男の魅力でもあります・・・特に、この戦国の時代には、

そんな中、その命令一つで何万もの軍勢を動かし、その黄金で天下無双の城を建ててしまう男が、たった一人の女=自分のために右往左往し、何とか、その気を惹こうとアノ手コノ手で機嫌をとって来る・・・これを、気持ちよく思わない女性は、なかなかいませんよ!
(山本リンダの♪狙い撃ち♪の世界ですなぁ( ̄ー ̄)ニヤリ)

「なぁ、なぁ、1回だけ…な?」
てな感じで迫られて、ついつい情にほだされてしまう・・・いやはや、お見事な描写でした。

以前、「三谷さんが描く男性は魅力的なんだけど、女性は…」と書かせていただきましたが、なんのなんの、この大坂編になってからは、女性陣が魅力的ですね~イイです(*^-^)

ただ、そのぶん、大坂編での主人公=真田信繁(幸村)影が薄くなってしまっている気がしないでもない・・・

まぁ、そもそも、これまでは、「大坂での信繁は、ほぼ幽閉状態で部屋に籠りっきり」てのが定番だったわけで、やっとこさ最近になって「秀吉の馬廻り」という情報が発掘されたばかり・・・言うなれば、それだけ、大坂における信繁に関する史料は少ないわけで、ムリクリで、茶々様とのほのかな恋心を描いたり、落書き事件に絡ませたりはしてみるものの、それにも限界ありで、そこのところの影の薄さは致し方無い部分もありますね。

本来なら、大坂城の様子を、ただ見てる状態だったかも知れないわけですが、それでは、ドラマとしてはおもしろくないわけですから、そこは主役の特権をフル活用するしか手立てはないです。

それにしても、
あのお姉ちゃんの記憶喪失事件は何だったんでしょうね?

あんなにアッサリ思い出すなら、記憶喪失の設定は無かってもよかった気もしますが、やはり、あの思い出すシーンでの軽妙な家族のやり取りおんぶするとオシッコ+鼻にカニ+ひからびたカエルwwをやってみたかった?て事なのでしょうか?
(アレはアレでオモシロかったかも)

あと、親戚(信幸とは従兄弟)のはずなのに、あたかも他人のように扱われて嫁から侍女になっちゃったお兄ちゃん=信幸(のぶゆき)の奥さん=こうは・・・おそらく、このまま侍女でいくのではなく、結局は夫婦として繋がったままなんでしょうけど、お婆様の草笛とりさんにとっては、信幸もこうも同じ孫なのに、そのこうさんに「帰る場所がありません」と言わせる設定には、ちょっと悲しい思いがしてしまいましたね。

とは言え、なんだかんだで気になる信繁ときりちゃんの関係・・・ひょっとしたらプラトニックなまま最後までいくのかも知れませんね。

後に仙台藩の片倉家に嫁に行く信繁の娘=阿梅(おうめ)ちゃんは、一般的には高梨内記の娘(ドラマではきり)が産んだ事になってるので、てっきり、信繁ときりちゃんは、いずれはくっつく物だと思ってましたが、一説には、信繁の正室である竹林院(ちくりんいん=大谷吉継の娘)さんの子供と言う話もあるそうで・・・そうなると、きりちゃんの恋は実らない可能性も・・・一途なだけに、ちょっと可哀そう(。>0<。)

最後に、豊臣ファンとして、ちと寂しいのは、なんとなく秀吉さんが壊れていく雰囲気が漂い始めてるところ・・・今週は、まさに、その「前兆」でしたね。

このブログでも度々書かせていただいているように、私個人的には、やはり、秀吉さんは、死ぬ寸前までしっかりしてはったんじゃないか?(8月9日参照>>)と思ってます。

今では、秀吉が高野山の僧侶に対して、秀次のための料理人や世話人の手配をしていた事が明らかになり、「秀吉は秀次を高野山に蟄居させただけで切腹の命令は出していない」という見方も登場してますし、あの朝鮮出兵も、当時の世界情勢(10月12日参照>>)を見れば、無謀とは言い切れないわけですし・・・

でも、やはりドラマでは、これまでの一般的な見方のままの、無謀で、ちょっとタガが外れた秀吉さんになるんでしょうねぇ~

いや、でも三谷氏の事ですから・・・アッと驚く伏線があるかも(゚m゚*)

いずれにしても、今後も大いに期待し、大坂の陣のあの日まで・・・楽しみに視聴していきたいと思っておりますので、いつかまた次の感想など書かせていただく機会もあるやも知れませぬ故、よろしゅーお願いします・・・m(_ _)m

Toyotomikioosakazubyoubu
豊臣期大坂図屏風・部分(関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター蔵)

*これまでの「真田丸」の感想は・・・・
 ●大河ドラマ「真田丸」の1~2回の感想
 ●
大河ドラマ「真田丸」の感想~青春編
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2015年4月 4日 (土)

豊臣秀次と近江八幡~八幡堀巡り

先日、桜咲く近江八幡(おうみはちまん)へと行って参りました~(*゚▽゚)ノcherryblossom

近江八幡は、滋賀県琵琶湖の東岸に位置する城下町・・・と言っても、実は、お城があったのは、意外に短い期間だけだったのですけどね。

Toyotomihidetugu600a ご存じ、豊臣秀吉(とよとみひでよし)甥っ子(秀吉の姉=ともの息子)で、後に秀吉から関白を引き継ぐ事になる豊臣秀次(とよとみひでつぐ=三好秀次・羽柴秀次)が、天正十三年(1585年)の四国攻め(7月25日参照>>)で副将として活躍した事で近江・四十三万石を賜り、ここ近江八幡に八幡山城を構築して城下町を整備し、現在に至る近江八幡の基礎を築いたわけですが、秀次さんの生涯については2007年7月15日参照>>)

その後、天正十八年(1590年)に、秀次が尾張(おわり=愛知県西部)清州(きよす)へと転封となった事から、八幡山城には京極高次(きょうごくたかつぐ)(9月3日参照>>)が入りますが、まもなく、これまたご存じの疑惑ありまくり&汚名着せられまくりの事件によって秀次が自刃に追い込まれた(2010年7月15日参照>>)影響から、八幡山城が廃城となって、高次も大津城へと移って行ったのでした。

つまり、近江八幡は城下町でありますが、そこにお城があったのは、わずか10年間という事になります。

しかしながら、城はなくなっても近江八幡の町はすたれる事なく、戦国→江戸→明治と、どんどん発展し続けるのです。

もちろん、そこには、中山道66番目の宿場町=武佐宿(むさしゅく、むさじゅく)など、他にも様々な発展理由があろうかと思いますが、やはり、秀次が行った城下町整備が大きかったのではないか?と思います。

Dscf3513a800 豊臣秀次が構築した「八幡堀」…(八幡堀巡り:大人=1000円)

その中でも、八幡山城の防御の一環として造った『八幡堀(はちまんぼり)・・・これを運河として利用し、近江八幡を琵琶湖を往来する船の寄港としたのです。

さらに、かつての安土のように楽市楽座を取り入れて商業を大いに発展させた・・・そう、後に「三方よし」(売り手&買い手&社会の三方)と呼ばれる商魂でお馴染みの『近江商人』を産んだのが、この近江八幡です。

Dscf3509aaa800 同じく豊臣秀次が構築した「八幡堀」…両側に建ち並ぶ蔵が商人の町をしのばせます

ふとんの西川さん住友さんみずほさん・・・もう、数えたらキリが無いくらいの大社長さんたちを輩出し、近江八幡は商人の町として長きに渡る時代を生き抜いて来たのですね。

とは言え、その商業の礎となった八幡堀も、高度成長期の昭和三十年代にはドブ川と化して埋め立て計画が浮上し、その存続が危ぶまれた時期もありましたが、市民ボランティアによる清掃活動など、有志による活動が実を結んで、在りし日の姿を取り戻し、今や、近江八幡のシンボル的存在となっています。

Dscf3557a800 古い町並みが残る新町通

今回は、その八幡堀を舟で巡った後、千年の歴史を誇る近江八幡の総社=日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)や、古い町並みが残る新町通りなど散策して来ましたが、少し時間が足りなくて、八幡山に登る事ができませんでした。

次回は是非登りたいヽ(´▽`)/

なんせ八幡山は、西に琵琶湖、東に西の湖と、その展望のすばらしさもさることながら、八幡山城の跡もあるので、石垣なんか、時間をかけてっくりと見てみたいですね~

とにもかくにも、時代劇のロケにも使用される八幡堀の桜舞い散る姿は、なかなかのタイムスリップ感があり、心落ち着くひとときでした~
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2015年3月28日 (土)

秀吉の紀州征伐~太田城攻防戦

天正十三年(1585年)3月28日、紀州攻めに出陣した羽柴秀吉が、太田城の周囲を堤で囲みました。
(3月26日とも言われる出来事ですが、本日書かせていただきます)

・・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)亡き後、仇となった明智光秀(あけちみつひで)を倒して(6月13日参照>>)織田家内での力を増幅させた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、家臣団の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)で破り、信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)を自刃(5月2日参照>>)に追いやった後、天正十二年(1584年)、次男・織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康と手を組んで起こした小牧長久手の戦いをも、その人たらし術を大いに発揮して、何とか治めました(11月16日参照>>)

その小牧長久手の戦いの時、秀吉が東海へと遠征して留守となった畿内を、信雄&家康に呼応して脅かした(【小牧長久手~岸和田城・攻防戦】参照>>)が、根来寺(ねごろでら)の雑兵を中心とする根来衆雑賀(さいが・さいか)太田党といった紀州を本拠とする者たちでした。

その後・・・小牧長久手が終わったとは言え、当然、彼らをそのままにしておけない秀吉は、天正十三年(1585年)3月21日、6万(10万とも)の大軍率いて紀州征伐を開始するのです。

まずは根来寺を焼き討ちして根来衆を追いやった後(紀州征伐の大まかな流れは3月21日参照>>)、一部の雑賀衆が寝返った事で、残った太田党に焦点を絞ります。

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太田城水攻配陣の図(国立国会図書館蔵)

とは言え、大軍で囲むも、太田左近宗正(おおたさこんむねまさ)の守る太田城(和歌山県和歌山市)は、なかなかに堅固・・・容易に落とせそうに無いと判断した秀吉は、
「速やかに城を明け渡して退いてちょ」
と講和を持ちかけますが、左近らは
「今さら、大軍を恐れて降参せんこと勇士の義に非ず!」
と、左近は徹底交戦の姿勢を崩しません。

なおも説得を続ける秀吉側でしたが、城兵は弓を射かけて使者を攻撃してしまうほどヤル気満々・・・

これを見た秀吉は
「向こうは死に物狂いでかかってくるつもりやな…このまま、力づくで攻撃したら、こっちにも大きな損失が出る!ここは、水攻めや!」
とばかりに作戦変更・・・

かくして天正十三年(1585年)3月28日(25日・26日とも)、明石則実(のりざね)に命じて、城から三町ほど離れた周囲に堤を構築させたのです。

一説には、この時の人夫に469200人を要したのだとか・・・

おかげで堤はまもなく完成し、いよいよ4月1日、の川をせき止めて水を流し入れ始めますが、最初の1日~2日は静かな物でしたが、4月3日から大雨が降り続いた事から、城の周囲はまたたく間に泥の海と化しました。

その泥の海に、寄せ手の大将を命じられた中川秀政(なかがわひでまさ=中川清秀の息子)が舟を浮かべて、城壁の間近へと迫り、弓と鉄砲で攻撃を仕掛ければ、城兵も、「ここが防御の最前線!」とばかりに命がけで防ぐ一方で、泳ぎの上手い者を水に潜らせ、舟に穴を開けて水中に引きずり込みます。

もちろん、この間に城からも舟に向かって弓矢&鉄砲が雨のように降り注ぎますが、その中を尼崎吉兵衛なる武将が数百人の兵士を率いて城近くに上陸を試みます。

が・・・しかし、そこを上から鉄砲で狙い撃ちされて吉兵衛が倒れ込むと、寄せ手には「城兵強し!」の雰囲気が一気にたち込め、もはや、このあとに続く者もいませんでした。

Ootazyoumizuzeme800a
総光寺由来太田城水責図=部分(惣光寺蔵)

とは言え、事は持久戦の水攻め・・・

力攻めはせずとも、すでに孤立した城内の士気は、日に日に衰えていくもの・・・しかも、雨は降り止まず、水かさはどんどん増えていきます。

ただ、その雨は、攻める秀吉側にも被害をもたらします。

9日には東側の堤が決壊し、宇喜多秀家(うきたひでいえ)の陣が水没・・・多くの溺死者を出してしまいました。

やがて、籠城戦も1ヶ月を過ぎた頃になると、寄せ手も攻めあぐね、城中も守り疲れ・・

ここに来て秀吉は、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)を使者にたて、「城内の主要人物51人(53人とも)の首を差し出せば、残り全員の命を助ける」という条件を提示して、講和を打診・・・

この条件を呑んだ左近は、自ら51人の仲間とともに自刃し、4月22日(24日とも)太田城は開城となりました。

この太田城攻防戦の勝利により、この地域はほぼ平定され、紀伊一国は、この戦いで副将を務めていた羽柴秀長(はしばひでなが=秀吉の弟)に与えられます。

ちなみに、その秀長が、この地に和歌山城を構築し、それまで「若山」と呼ばれていた場所は和歌山と呼ばれる事になります。

この後、秀吉は、いよいよ四国攻めへと取りかかる事になりますが、そのお話は2008年7月25日【一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏】でどうぞ>>
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2014年10月 1日 (水)

北野大茶会~秀吉と「茶の湯御政道」

 

天正十五年(1587年)10月1日、京都の北野天満宮にて、豊臣秀吉による大規模な茶会・・・世に言う「北野大茶会」が開催されました。

・・・・・・・・・・・・

この日をさかのぼる事2ヶ月ほど前の7月末、京都・大坂・奈良・堺など、畿内の主だった場所に、豊臣秀吉(とよとみひでよし)からの高札が立ちます。

その文面は・・・

  • 北野の森において、十月朔日(ついたち)より十日の間、天気次第、大茶湯御沙汰(おおちゃのゆごさた)さるるに付(つい)て、御名物共残らず相揃えられ数寄執心(すきしゅうしん)の者に見せられるべき御ため、御催成(おんもよおしな)され候事。 
  • 茶湯執心においては、また若党、町人、百姓以下によらず、釜一(かまひとつ、つるべ一、呑物一、茶なき者はこがし(米を煎って塩を加えた茶の代用品)にても苦しからず候間、提来(さげき)たり仕(つかまつ)るべく候事。 
  • 座鋪(ざしき)の儀は松原にて候間、畳二畳。但し、侘者(わびもの)は綴継(とじつぎ)にても、稲掃(いねばき)にても苦しかる間敷事。着所の儀は次第不同たるべし。 
  • 日本の儀は申すに及ばず、数寄心懸けこれある者は、唐国の者までも罷(まか)り出べく候事。 
  • 遠国(おんこく)の者まで見せられるべきため、十月朔日まで日限御延ばしなされ候事。 
  • かくのごとく仰せ出さるるは、侘者不便(ふびん)に思(おぼ)し召しの儀候ところに、今度罷り出ざる者は、向後(こうご)においてこがしも点て候事、無用との御意見事に候。罷り出ざる者の所へ参り候者も、同前たるべき事。 
  • 侘者においては、誰々遠国の者によらず、御手前にて御茶下さるべき旨、仰せ出され候事。
    …右以上
    『北野大茶湯之記』より

の7項目からなる物で、北野の松原にそれぞれ畳・2畳ぶんの場所を確保して行う事や、茶の湯が好きなら誰でも=中国人の参加もOKとし、心得のある者には、秀吉自らが茶の接待をする事などが明記されていました。

逆に、「俺が、こんだけ広く門を開いたってんねんから、これでも参加せぇへん者は、今後、茶の湯をやったらアカンからな!」というペナルティも・・・

ちなみに北野天満宮のHPの「宝物殿のご案内」のページ高札の現物写真がありますので→コチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

もちろん、これ以前に、公家や各地の大名や茶人などには朱印状を通じて通達済み・・・公家の日記には、この秀吉の要請に、慌てて準備する様子が記録されていて、中には、資金の工面がつかず、茶室の完成がギリギリになる人もいたようですが・・・

Dscn1968b330 北野天満宮

そんなこんなでやって来た「北野大茶会(きたのだいさのえ)本番の天正十五年(1587年)10月1日・・・天気はうってつけの晴天となりました。

豪華絢爛な衣装を身につけて、小姓や家来を引き連れた秀吉は、早朝から北野の森へと足を運びますが、到着したその目の前にあるのは、昨夜、天満宮の拝殿に組み立てられた、あの黄金の茶室・・・

その黄金の茶室を背に秀吉が座ると、その両側に、今井宗久(いまいそうきゅう)津田宗及(つだそうぎゅう)千利休(せんのりきゅう=宗易)らをはじめとする茶人や前田利家(まえだとしいえ)などの武将ら15名が着座し、おもむろに秀吉が濃茶を点て、一同が頂きます。

その後、周囲に造られた4つの茶室に、秀吉、宗久、宗及、利休の4人が入り、参加者は、各茶室の入口から入って茶を頂き、別の出口から出て行く・・・という、まさに、どこぞのアイドル48の握手会方式で、彼らのお点前を頂いたのです。

なんと!この日、秀吉ら4人は、一人200人以上を接待したと言います。

とは言え、さすがに途中から疲労が濃くなった秀吉は、午前中で自ら茶を点てる事は中止したものの、会場には、公家・武家・庶民らの茶屋が800軒余りも建ち並んでいましたから、それらを満足げに見て回ったりしつつ、

披露した黄金の茶室や、そこに飾られた名物名器を、一目見ようと押し寄せる群衆を眺めながら、終始、上機嫌だったそうな。

Kitanooosanoyuzu600
北野大茶の湯図(北野天満宮蔵)

ところが・・・・

翌日の10月2日、前日とは打って変わって、茶会はいきなりの中止・・・しかも、その後再開される事なく終了してしまいます。

つまり、高札では「10日まで」と言っていたのが、10月1日の1日こっきりで終わってしまったのです。

一般的には、その理由として、肥後(ひご=熊本県)の国人一揆(7月10日参照>>)が挙げられます。

1日の午後に、この肥後での一揆の知らせを聞いた秀吉が不機嫌になって中止・・・という事なのですが、

未だ、その真相は明らかではなく、それ以外にも、「思ってたほど人が集まらず盛り上がらなかった」=「イベントの失敗」をウヤムヤにするために、一揆うんぬんを持ちだして早いうちにやめる事にした、なんて事も言われてます。

また、そもそもは、この半年前に九州を平定(4月17日参照>>)、京都に聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)(4月14日参照>>)を建設して、天下人としてノリノリの秀吉が、自らの権威を見せびらかしたいための茶会であり、その気持ちに1日で満足したので終わったとか、

上記の通り、何百人もの相手をする事になってしまったので疲れてやめたとか、
高札を立てた段階では10日だったけど、途中で変更され、結局は、はなから1日の予定で開催されたとか・・・

また、「京都の人の反応を見ていた」という説もあります。

秀吉は、この4年前から、あの石山本願寺(8月2日参照>>)の跡地に大坂城の築城を開始していますが、ちょうどこの頃、自らの拠点を京都にするか?大坂にするか?迷っていて、今回の茶会の反応を見て大坂に決めたんじゃ?(1日やってみて決心がついた?)・・・てな事だとも、

もちろん、それらすべてが絡み合った結果という事もありますし、まったく別の事が理由かも・・・なんせ、この北野大茶会、秀吉の文化的な大変革ではなかったのか?と思えてならないのです。

それは、秀吉の茶の湯が、元主君=織田信長の茶の湯に対抗するような・・・

以前も書かせていただいたように、そもそもは鎌倉時代の初めに栄西(えいさい)中国から持ち帰ったお茶(2006年10月31日参照>>)という物が、南北朝時代に闘茶(2008年10月31日参照>>)という形で武士に親しまれた後、室町時代に禅の精神と融合し、やがて村田珠光(しゅこう)や、その弟子の武野紹鷗(たけのじょうおう)(10月29日参照>>)らによって、茶の湯=茶道という形で戦国武将の間で大流行する(3月4日参照>>)わけですが、

信長は、この茶の湯に「一部の選ばれた者の特権」という価値をつけます。

それは、天下を平定した後には、「与える恩賞が無くなるかも」という事への危機感かも知れません。

そう、鎌倉時代の昔から、命をかけて戦場を駆け抜ける武士の最大の恩賞といえば土地=領地ですが、もしかして日本全国を制覇してしまったら、その先、家臣への給料はどうやって支払ましょう?・・・って事です。

この信長の時代、茶会を開くためには、信長の許可が必要でした。

秀吉場合、天正五年(1577年)に上月城など播磨(兵庫県)備前(岡山県)に点在する毛利の諸城を制圧した褒美として、信長からの許可を得て、翌・天正六年(1578年)10月15日に三木城攻め(3月29日参照>>)の陣中で初めての茶会を開いています。

さらに、信長時代の茶頭(さどう=茶の湯の師匠)であった今井宗久・津田宗及・千利休らに、彼らの美的感覚で評価を高めた、いわゆる名物と呼ばれる茶道具を生み出させ、信長自らが、それを買いまくって、さらに希少化してその物の価値を上げて・・・そうすれば、先の秀吉のように、茶会を開く事ができる事が褒美となり、めずらしい高価な茶道具を拝領する事が褒美となるわけです。

これが、信長の「茶の湯御政道」・・・

しかし、今回の秀吉の北野大茶会・・・冒頭の高札にある通り、釜一つ、つるべ一つ持って「老いも若きも百姓も町民も、みんな集まれ~~!」となってます。

これは、その信長の「茶の湯御政道」とは、相反する物のように思えてならないわけで・・・

もちろん、茶の湯に価値があり、名物茶道具が褒美となる価値観は、この後もしばらく続きますが、今回の秀吉の北野大茶会には、上は天皇や公家から下は一般庶民までに、自らの権威を見せびらかし、自己顕示欲を満足させる事だけでは無い何かか、秀吉の中にあったという事が見え隠れしてなりません。
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2014年7月 3日 (木)

島津を翻弄した阿蘇の軍師:甲斐宗運

 

天正十三年(1585年)7月3日、戦国期の九州にて、阿蘇氏の軍師的存在として活躍した甲斐宗運こと甲斐親直が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

肥後(ひご=熊本県)阿蘇氏の家臣の子として生まれた甲斐親直(かいちかなお)・・・出家後の宗運(そううん)の名号が有名なので、本日は宗運さんと呼ばせていただきますが、没年に関しては天正十一年(1583年)ありますのでご注意を・・・

で、そんな宗運が仕えていた阿蘇氏は、その名でお察しの通り、熊本の阿蘇地方を治める豪族で、代々、阿蘇神社大宮司(だいぐうじ)を務める家柄・・・そのご先祖は神代の昔にさかのぼる事もできるという由緒正しきにもほどがある家系だったのです。

ところが、戦国という時代になって、ご存じの通り、九州には、豊後(ぶんご=大分県)大友(2月10日参照>>)肥前(ひぜん=佐賀県)龍造寺(8月20日参照>>)薩摩(さつま=鹿児島県)島津(6月23日参照>>)といった戦国大名が力をつけはじめ、やがて、この三者による三つ巴の様相を呈するに至って、名門の阿蘇家も、その中での生き残りを図らねばならないわけで・・・

そこで活きて来るのは、巧みな交渉術と策略・・・そう、おそらくは、神代からの名門のプライドが許さないようなセコイ(イイ意味で)策略を、主君に代わってやってのけたのが、今回の宗運というワケです。

もちろん、名門のプライドだけでは生き残っていけない戦国の世を感じていた当時の阿蘇家の当主=阿蘇惟将(あそこれまさ)も、そんな宗運の素質を見抜いて、彼を重用する事になりますが、

そんなこんなの天文十年(1541年)、阿蘇家と敵対した御船房行(みふねふさゆき)を討伐した功績により、御船城(みふねじょう=熊本県上益城郡御船町)を与えられ、おそらく、この頃から、主君=惟将より阿蘇家の外交面を一手に任されるようになったとおぼしき宗運・・・

迷わず豊後の大友宗麟(おおともそうりん=義鎮)同盟を結んで、より近づくため、大友の重臣たちとも親しく交流します。

しかし、そんな宗麟が天正六年(1578年)、耳川の戦い(11月12日参照>>)で島津に大敗してしまいます。

それでも、しばらくの間は、大友との同盟を重視し、耳川の戦い後に大友から離反する勢力を抑え込んでいたりしたのですが、やはり、坂道を転げ落ちるがごとき大友の衰退を見るに見かねたのか?天正九年(1581年)の春に、大友との断交を決意・・・今度は肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に接近し、人質と一族連盟の起請文を差し出して、龍造寺家と同盟を結びました。

これを知った島津は、すぐさま、傘下に入ったばかりの相良義陽(さがらよしひ・よしはる)に、宗運の御船城を攻略するよう命じますが、両者が相対した天正九年(1581年)の12月2日、戦場となった響ヶ原(ひびきがはら=熊本県宇城市)にて義陽は討死とあいなります。

というのも、上記の通り、義陽は島津の傘下となったばかり・・・実はそれまでは、阿蘇家と同じく大友と同盟を結んでいたために、その天正九年(1581年)に島津からの侵攻を受けて、やむなく領地の一部を差し出して降伏・・・

つまり、それまでの義陽が親しくしていたのは、大友であり阿蘇家であり宗運だったわけで・・・当然の事ながら、そんな宗運の城を攻める事には、はなから乗り気じゃなかったのです。

そこを突いた宗運・・・本陣だけを一点集中で一気に突入し、アッと言う間に攻め勝ったのでした。

この頃から「阿蘇にその人あり」と九州全土にその名を轟かせる宗運ですが、一方では、先の同盟を結ぶ際に龍造寺家に差し出した人質が、彼の手かせ足かせとなって苦しむ事になります。

そう、おそらく宗運には、すでにこの先の龍造寺家の行く末が見えていたでしょう。

・・・なので、本来なら、ここらあたりでアッサリと龍造寺家を見限って島津家へ・・・と行きたいところですが、龍造寺へ人質を送っているという事実が、彼の決断を鈍らせるのです。

それをカバーするがの如く、ここらあたりで、強くなる一方の島津に対する様々な駆け引きを試みる宗運・・・

腰を思いっきり低くして降伏を申し出たと思えば、急に上から目線になって和睦交渉を決裂させたり、和睦してないのに、「同盟を結んでくれてありがとう」と、お礼の贈答品を使者に持って行かせたり・・・

もちろん、この頃の島津が、対・龍造寺との合戦に主力を置いていて、阿蘇まで手が伸びない事を見越しての生き残り駆け引きだったわけで、事実、島津は、この宗運の作戦に翻弄され、彼が健在の間は、阿蘇に手を出す事はできなかったわけで・・・

しかし、その最期はいきなり訪れます。

冒頭に書いた通り、その死亡の時期は、天正十一年(1583年)と天正十三年(1585年)とあるのですが、もし前者の天正十一年なら、島津が龍造寺に勝利する沖田畷(おきたなわて)(3月24日参照>>)の1年前という事になり、後者の天正十三年なら、やはり沖田畷の戦いの1年後となるわけですが・・・

天正十三年(1585年・もしくは天正十一年)7月3日、突然訪れた宗運の死は、一説には毒殺だったと・・・それも、息子の嫁による毒殺・・・

実は、宗運は、阿蘇家を守るためなら、身内同族をも、ちゅうちょする事なく抹殺するという一面もあったのです。

もちろん、宗運から言わせれば、それは戦国を生き残るための手段・・・上記の通り、周辺の大勢が変わる度に、その姿勢を変化させて生き抜く宗運に、保守的な考えの者が「ついて行けない」と離反すれば、それは謀反となるわけで、当然の事ながら、謀反を起こした者をそのままにしておけば、残った者の士気が乱れます。

たとえば、日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)と同調して謀反を起こそうとした二男・親正、三男・宣成、四男・直武の3人の息子を、宗運自ら成敗しています。

また、嫡男・親英(ちかひで)の舅である黒仁田豊後守(くろにたぶんごのかみ)や一族の甲斐守昌(かいもりまさ)なども・・・

それは、父の行動におそれおののいた嫡男の親英が、宗運の殺害計画を練るほど・・・事前に発覚したこの計画は未遂に終わり、宗運は、その嫡男をも抹殺しようとしますが、この時は、家臣たちが間に入って、なんとか収めたものの、結局は、「いつか夫が殺されるかも知れない」と不安にかられた親英の嫁によって毒を盛られたとの事・・・

と言っても、毒殺はあくまで噂で、一般的には病死と言われていますが、宗運の死を天正十三年(1585年)とする『上井覚兼日記』では、その死はわずか10日後に島津の知るところとなり、すぐさま、島津は戦いの準備をはじめたのだとか・・・

しかし、そうとは知らぬ嫡男・親英・・・亡き父に代わって家老となるが早いか、島津との直接対決を避けていた父・宗運の思いとはうらはらに、島津傘下の花の山城(はなのやまじょう=熊本県宇城市)を攻撃します。

が・・・反撃されて、あえなく降伏・・・親英は捕縛され、当時、わずか2歳だった当主の阿蘇惟光(これみつ=惟将の甥)は逃亡・・・

この惟光は、後に、九州を平定した豊臣秀吉の保護を受ける(梅北の乱にて斬首=6月15日参照>>)事になりますが戦国大名としての阿蘇家は、ここに滅亡する事となります。

一説には、宗運の理想形は・・・
「コチラから島津を攻める事なく、もちろん潰される事も無く、距離を置いて耐え続け、いつか天下を取る者が現れた時に、その者に従う・・・というのが、阿蘇家の生き残りの方法」
だったらしいのですが、果たして、その理想通りには事が運ばないのも世の常であります。
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2014年6月18日 (水)

2日連続で秀吉から出された二つの『切支丹禁止令』

 

天正十五年(1587年)6月18日、豊臣秀吉が『天正十五年六月十八日付覚』を発布しました。

・・・・・・・・・・

ご存じの豊臣秀吉による『切支丹禁止令』あるいは『バテレン追放令』というヤツですが、一般的に『切支丹禁止令』『バテレン追放令』という場合、天正十五年(1587年)6月19日に発布された『天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)の事を指しますが、以前、このブログでもお話させていただいた通り(2007年6月19日参照>>)、秀吉は、その前日=天正十五年(1587年)6月18日にも文書を発布しており、『切支丹禁止令』『バテレン追放令』の中に、この6月18日に発布した『天正十五年六月十八日付覚(「御朱印師職古格」神宮文庫)内容も含まれる場合もあります。

そもそもは、江戸の昔より周知の存在だった長崎の松浦家に伝わる『松浦文書』(6月19日の分です)があった中で、昭和の初めに伊勢神宮神宮文庫から『御朱印師職古格』なる物が発見され、その中に『天正十五年六月十八日付覚』と言われる6月18日発布された11カ条の覚書があり、以来、連続で出されたとおぼしき二つの文書の関係を巡って、様々な研究がなされて来ました。

  • 秀吉の気持が短時間で寛容な対応から厳重注意に変化したため連続して出され、18日の分ではキリスト教の信仰に制限を加えるという通告をし、19日の分でそれを取り締まる事を明記したのでは?
  • 二つの文書は、18日分は上方(畿内・近畿地方)、19日分は九州と公布の対象が違っていたのではないか?(前者が伊勢、後者が長崎で発見されている)
  • 18日の分が基本法で19日の分が追加法なのではないか?
  • 18日の分は一般庶民への国内向け、19日の分はイエズス会の宣教師など外国人向けに発布したのでは?

などなど・・・もちろん、歴史研究は日々進化しますので、上記以外の見方もあるでしょう。

また、わずか1日の差で微妙に違う二つの文書・・・そこに、何があったのか?については、先の2007年6月19日のページ>>にも書かせていただきましたが、もちろん、それは仮説の域を出ない一つの説であり、他にも様々な推理が成り立ちます。

・・・で、その19日に発布された『朱印』の内容についてはその2007年6月19日のページ>>でご覧いただくとして、このページでは、18日のぶんの11カ条をご紹介・・・

  1. 伴天連門徒之儀者、共著之心次第たるべき事。 
  2. 国郡在所を御扶持ニ被遣侯を、其知行中之寺請百性(姓)以下を、心さしも無之処、押付而給人伴天連門徒ニ可成由申、理不尽ニ成侯段、曲事候事。 
  3. 其国郡知行之儀、給人ニ被下僕事ハ、当時之儀ニ候、給人は替り候といへとも、百性(姓)ハ不替者ニ候条、理不尽之儀、何かに付て於有之者、給人を曲事被仰出侯間、可成其意侯事。 
  4. 弐百町二三千貫より上之者、伴天連ニ成侯おゐてハ、奉得、公儀御意次第ニなり可申事。 
  5. 右之知行より下を取候老ハ、八宗九宗之義侠間、其主l人宛ハ心次第可成候事。 
  6. 伴天連門徒之儀ハ、一向宗よりも外ニ申合侯条、被聞召侯、一向宗其国郡ニ寺内を立、給人へ年貢を不成、 加賀国一国門徒ニ成侯而、国主之富樫を追出、一向宗之坊主もとへ令知行、共上越前迄取侯而、天下之さわりニ成侯義、無其隠之事。 
  7. 本願寺門徒、其坊主天満に寺を立させ、錐免置侯、寺内ニ如前々ニハ、不被仰付候事。 
  8. 国郡又は在所を持侯大名、其家中之者共、伴天連門徒ニ押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内空止しよりも太不可然義侠問、天下之さわりニ可成侯粂、其分別無之老ハ 可被加御成敗侯事。 
  9. 伴天連門徒心さし次第ニ下々成侯義ハ、八宗九宗之義侯間、不苦辛。 
  10. 大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。 
  11. 牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。

ちょっと長くてややこしいですが・・・
要するに、加賀で起こった一向一揆(2010年7月26日参照>>)を例にあげ、キリシタン大名が強制的に改宗を迫ったり、理不尽な事をするのさえ無ければ、下層の武士や一般庶民がキリスト教を信仰する事は「心次第たるべき」=思い通りにしてイイヨ、というのが1~9までに書いてある・・・

なんせ、秀吉が自身で言ってるように、自分も京都に大仏建立の計画を立てたり(2011年7月26日参照>>)、本願寺に土地を寄進したり(1月19日参照>>)するような人ですから、それらの神道や仏教への信仰と一緒に、キリスト教の信仰も統合してしまおうという考えなので、限度をわきまえて信仰するならOK!というのがこの『天正十五年六月十八日付覚』の主旨だと思われます。

しかし、先にも書いた通り、翌・19日に発布される『松浦文書』では、一転、キリスト教排除へと転換するのです。

そんな中で、今回のこのページで注目したいのは、19日の分には一切登場しない、『天正十五年六月十八日付覚』の10条と11条・・・

実は、この天正十五年(1587年)の春、秀吉が、当時、日本イエズス会の副管区長をやっていた宣教師=ガルパス・コエリヨに会見した際に、複数の質問を投げかけている事が、イエズス会の記録やルイス・フロイス『日本史』に見えます。

  • なんで?ポルトガル人は大勢の日本人を買い、奴隷として連れて行くのか? 
  • 牛馬は、人間の力仕事を手伝うてくれる有意義な動物やのに、それを食べよっていうのがワカランわ~

まさに、この10条&11条の内容です。

まぁ、11条に関しては、食文化の違いですし、すでに食べちゃってる平成の私たちには、単なる習慣&価値観の違いによる物としか言いようがありませんが、肝心なのは10条・・・そう、人身売買です。

これに対するコエリヨの返答は、
「日本人が売るから買うんです。
僕ら宣教師は、この事を大いに悲しんでて、何とか防止しよ思てるんですが、力不足で…
殿下
(秀吉の事)がお望みでしたら、各地の大名に、売る事を禁止して、違反した者に重い刑を科したらよろしいねん。
ほたら、誰も売りませんし、売る者がいてなければ買いもしませんがな」

と・・・(なんか「物も言いよう」てな返答のような気がしないでもない)

ずいぶん前に書かせていただきましたが、天正九年(1581年)に織田信長に謁見したヴァリアーノ神父が黒人奴隷を連れていて、その彼を気に入った信長が、その黒人さんをもらいうけ、弥介という名で従者の一人に加えて、ずいぶんと可愛がっていたというお話・・・(2月23日参照>>)

この時代、宣教師と言えど、奴隷を連れている事は珍しくない時代で・・・実は、1454年当時のローマ教皇=ニコラス5世が自ら
「この状態(奴隷になった状態)神の恩恵である」
的な発言をしているとか・・・

つまり、「異教徒ある彼らが、奴隷として長期に渡ってキリスト教の国に住む事で、いずれキリスト教信者になれば、それは彼らにとって良い事なのだ」てな事らしいです(10月12日参照>>)

これは、同時期にヨーロッパへと派遣された天正遣欧少年使節(6月20日参照>>)の彼らも、日本人が奴隷として海外に売られる事に関して、同じような事を言っているので、やはり、それが、この時代のキリスト教側の考え方で、キリシタン大名たちの多くも、そのような考えていたのかも知れません。

Toyotomihideyoshi600 しかし、秀吉には許せなかった・・・
いや、けっこう怒ってはります。

かの『日本史』によれば、この時、秀吉は
「これまでに外国へ売られた日本人を、君らが連れ戻してくれへんやろか?
もし、それが、距離的に難しい事やねんやったら、せめて、今現在ポルトガル人が購入した日本人奴隷をすぐに釈放してくれ。
商人が彼らを購入した費用は、全部、俺が出すさかいに…」

と言ったのだとか・・・

しかし、それに対する宣教師の返答も
「いや、せやから、僕らも心痛めてますねん。
幸いな事に、この状況は未だ九州のみで、畿内や関東まで広がってません。
根本的な解決は、やはり、殿下が、大名たちに禁止を勧告する以外に無いと思います」

という先の回答と似たり寄ったりな物・・・

実は、秀吉が平定する以前は、島津大友に代表される武将たちによる戦乱に明け暮れた九州地方では、いわゆる「乱取り」という名の略奪行為が行われ、捕虜として確保された一般領民たちが、その後に海外に売られて行く・・・という現状がありました。

いや、九州だけでなく、乱取りは日本各地であった行為でした(10月2日の後半部分参照>>)

なんせ、殿様クラスの武将なら、合戦で領地を増やして、それを自分のモノにする・・・という勝利後のお得がありますが、下っ端の足軽や、まして、普段は農業やってる百姓兵なんで、乱取りでもしないと、命がけの合戦に出ても、何も得る物が無いのが戦国の現実ですから・・・

しかし、秀吉の考えは少し違っていました。

戦いに勝利して奪い取った土地が、たび重なる合戦によって荒れ果てているにも関わらず、その土地に住む者まで略奪して売り飛ばしたら、誰がコメを作るんだ?
てな事です。

まさに、武士では無い秀吉ならではの考え・・・なので、上記の人身売買への秀吉の怒りも、純粋に人道的な観点からの中に、商人的な損得勘定がプラスされた物なのかも知れませんが、とにもかくにも、秀吉にとっては、合戦に勝利したあかつきには、そこに住む領民もろとも自分のトコに来てもらう・・・っていうのがベストだったわけです。

で無いと、マトモに年貢を徴収する事ができませんから・・・

この後、秀吉は、天正十六年(1588年)の8月に、肥後国(ひご=熊本県)の北と南を与えた加藤清正(かとうきよまさ)小西行長(こにしゆきなが)に向けて、
「豊後(ぶんご=大分県)の百姓や女子供が肥後に売られて行ったてな話を聞いたけど、見つけたら、すぐに連れ戻す事…(買い手による)拒否は許さんし、金も払わん。
買うた者は買い損やという事を知らせとけ」

という内容の書状を送っていますが、悲しいかな、禁止したらすぐに無くなるという物では無いというのも現状・・・

とは言え、秀吉の『切支丹禁止令』『バテレン追放令』の発布の理由の一つには、ポルトガルやスペインによる日本占領の危機とともに、この人身売買禁止の一件もあったという事が、この6月18日付けの覚書によってわかるのです。

そして、18日と19日の間に「何か」があり、秀吉の気持が、統合から排除へと変わった・・・
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2014年6月15日 (日)

本能寺の後…明智秀満の湖水渡り

 

天正十年(1582年)6月15日、明智光秀の重臣・明智秀満が坂本城に火を放ち、残された光秀の妻子とともに自害しました。

・・・・・・・・・・・・

左馬助(さまのすけ=左馬之助)の通称で知られる明智秀満(あけちひでみつ)は、もとの名を三宅弥平次(みやけやへいじ)と名乗っていた明智光秀(みつひで)の重臣ですが、その出自や前半生がほとんどわからず、他にも光春や秀俊など、複数の名前が残っている謎の人です。

そんな秀満が歴史の表舞台に登場するのは、主君である光秀が、そのまた主君の織田信長から丹波地方(たんば=兵庫県北部・京都府北部)の平定(1月15日参照>>)を命じられていた頃・・・

やがて天正六年から天正七年(1579年)にかけての、あの荒木村重(あらきむらしげ)摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県東南部)有岡城での謀反・・・

この時、光秀は、自らの娘が村重の息子に嫁いでいた縁から、有岡城に籠城する村重のもとへ、開城するよう説得に行く役目も果たしたわけですが、説得を聞き入れない村重は、逆に、光秀の娘を息子と離縁させて送り返して来たのです(10月16日参照>>)

・・・で、その離縁された光秀の娘を娶ったのが、今回の秀満さん・・・

おそらく、その事があって明智姓を授けられ、以後、明智秀満と名乗る事になりますが、その名前が、正式な文献に登場するのは、あの本能寺の変の直前・・・

娘を娶り、明智姓を授かった秀満が、丹波一国(10月24日参照>>)を任されて福知山城代となっていた事を思えば、光秀からの信頼もかなり篤かったと思われ、天正十年(1582年)6月2日の、あの本能寺の変(6月2日参照>>)では先鋒を努めて大活躍しました。

変の後に、安土城に派遣された秀満は、その安土城の守りを固めるとともに、近江(滋賀県)の平定に尽くす事になりますが、その間に・・・

そうです。

信長の命令で中国地方を平定していた(6月4日参照>>)羽柴(後の豊臣)秀吉が、奇跡の如き中国大返し(6月6日参照>>)で畿内に戻り、あの山崎の地にて弔い合戦・・・光秀は敗北して逃走します(6月13日参照>>)

安土にて、この知らせを聞いた秀満は、光秀を救うべく、安土城を出て、琵琶湖の東岸を京都へ向かいますが、途中で、光秀が山科小栗栖(おぐるす)にて討たれてしまったとの一報・・・

やむなく、「それならば坂本城へ…」と、粟津から大津へと向かっていたところで、秀吉軍の堀秀政(ほりひでまさ)(5月27日参照>>)と遭遇・・・

多勢に無勢の秀満は、またたく間に本道を封鎖されてしまい、そこから先に進めなくなってしまいました。

すると秀満・・・いきなり、馬で湖水へと乗り入れ、琵琶湖をどんどんと泳いで行ったのです。

水際からは堀の兵士たちが
「ほれ、皆、ここから、アイツが溺れるところを見ようぜ!」
と岸に群がりながら笑い合います。

ところが・・・
白絹に狩野永徳の筆による雲竜を描いた羽織に、二の谷という兜をかぶり、大鹿毛(おおかげ)という名馬にまたがった秀満の姿は、沈む事なく湖水に浮かび、とうとう対岸の唐崎へ・・・有名な『左馬助の湖水渡り』です。

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歌川豊宣の筆による「明智左馬助の湖水渡り」(新撰太閤記)

実は、長年坂本で暮らしていた秀満は、大津から唐崎まで、遠浅の場所を熟知していたのですね・・・そう、泳いでいるのではなく、浅瀬をを渡っていたのです。

こうして、なんなく唐崎浜にたどりついた秀満は、湖岸の一本松のところで、疲れた馬に気つけの薬を与えた後、しばらくは追って来る敵を監視していましたが、小休止の後、再び馬に乗って坂本城を目指します。

途中、十王堂という御堂の前で馬を下り、馬の手綱を御堂につないで、ササッと筆を取り、
「左馬助が湖水を渡った馬である」
と札に書いて、その馬のたてがみに結びつけました。

その後、坂本城に入った秀満は、光秀の妻子を天守に集め、逆に、安土からの戦利品であった宝物の数々を天守から投げ落とし、妻子たちを手に掛けた後、天正十年(1582年)6月15日城に火を放って、自らも自害をしたのです。

この時、秀満が身につけていた白絹の羽織と兜は、いずれも人手に渡るか行方不明となりますが、馬だけは無双の駿馬と讃えられ、後に、秀吉が賤ヶ岳の戦い(4月20日参照>>)の時に、この馬に乗ったとされています。

と、本日は『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)に沿ってご紹介させていただきましたが、細かな部分は文献によって諸説ありますので、そこのところはヨロシクです。

ちなみに、この秀満さんは、安土城に放火した犯人とも言われますが、私個人的には違うような気がしています(2010年6月15日参照>>)
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