2018年12月11日 (火)

賤ヶ岳の前哨戦~秀吉の長浜城攻防

天正十年(1582年)12月11日、賤ヶ岳の前哨戦となる戦いで、羽柴秀吉が長浜城を囲みました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、天下目前にして本能寺に散った織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)・・・すでに家督を譲られていた嫡男(11月29日参照>>)織田信忠(のぶただ)も共に亡くなった事から、織田家の後継者は次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)か三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)かと思われましたが、6月27日に開かれた織田重臣たちによる清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)にて、亡き信忠の嫡男=三法師(さんほうし=後の織田秀信)後継者に、その後見人に信孝が就任する事に決定します(6月27日参照>>)

この時、織田家の筆頭家老だった柴田勝家(しばたかついえ)は三男の信孝を推していたものの、本能寺の変当時は北陸にて合戦中(6月3日参照>>)ですぐには戻れずにいて、その間に中国大返し(6月6日参照>>)の離れ業で舞い戻って信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市)で討った(6月13日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、その功績を笠に、自分の推す三法師をムリクリで後継者に決めた的な雰囲気で語られる事が多いですが、

このブログの清須会議のページで追記させていただいているように、最近では「これは至極真っ当な決定であった」という考え方がされるようになっています。

なんせ上記の通り、すでに次男の信雄は北畠家を、三男の信孝は神戸家を継いでおり、織田家の家督は信忠に譲られていたのですから、幼いとは言え、その嫡男が家を継ぐのは正当で、なんなら、その後見人に信孝を据えている所なんざ、むしろ秀吉が勝家に気を使った感ありなわけです。
(この清須会議は、あくまで織田家の後継者を決める会議で、「天下云々」または別の話ですので…)

なので、この時点では勝家と秀吉の間には何の懸念も危惧もなかったわけですが、ただ、この後の信孝の態度により、両者の間に亀裂が生じてしまうのです。

それは・・・
ご存知のように、山崎の合戦の後、あの安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)が炎上する(6月15日参照>>)という出来事があったわけですが、そのために、安土城を修復する間、岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)を任されていた後見人の信孝が三法師を預かっていたのですが、その後、修復が完了したので安土に移すように(←これが会議で決まった事ですから)秀吉が求めても、いっこうに聞き入れないばかりか、叔母(信長の妹もしくは姪)であるお市(いち)の方と勝家の結婚を勝手に決めて連携を強化し、秀吉との敵対姿勢をあらわにして来たのです。

しかも一方の秀吉も、亡き信長の葬儀を京都で盛大に行う(10月15日参照>>)ものの、そこに信孝と勝家の姿はなく・・・とまぁ、誰もが感じ始める険悪なムード。

と、そんなこんなの11月2日、勝家は前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)の3人を秀吉のもとに派遣して和議に当たらせます。

と言っても、これは完全なる時間稼ぎ・・・北陸の冬は雪深く、この先、しばらくは身動き取れない状態になるだろうし、もし秀吉と渡り合う事になるのであれば、今のうちに各地の諸大名と連絡を取っておいて、来年の雪解けを待って行動を起こし、そこに、すでに連絡済みの諸大名との連プレーで・・・てな思惑があったわけです。

しかし、その思惑を秀吉はお見通し・・・とりあえずは和議OKの返事を口頭でしつつも、正式な書面での返答には
丹羽長秀(にわながひで)君や池田恒興(いけだつねおき)君とも相談してみんと…」
と言って応じなかったのです。

そして、その交渉から1ヶ月後の12月7日(9日とも)、秀吉は5万の大軍を率いて、江北(こうほく=滋賀県北部)に侵出しました。

先の池田恒興に、筒井順慶(つついじゅんけい)細川忠興(ほそかわただおき)らを率いて北上する道すがら、安土に点在する城々に兵を配置しつつ、天正十年(1582年)12月11日には、堀秀政(ほりひでまさ)佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)に入った秀吉は、すかさず、勝手知ったる長浜城を寸分のぬかりなく囲みます。

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長浜城・本丸跡と復元天守 

そもそも秀吉が、信長から最初に与えられた城が長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)だった事もあり、この辺の地理には精通している秀吉ですから・・・

この時の長浜は・・・
先の清須会議にて、秀吉が光秀の旧領であった丹波(たんば=京都府中東部)山城(やましろ=京都府南西部)河内(かわち=大阪府南東部)を得た代わりに、勝家が、これまでの越前(えちぜん=福井県東部)北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)に加えて、新たに得たのが近江三郡とこの長浜城で、この時は、勝家の養子である柴田勝豊(かつとよ=実際には勝家の姉の子)が城主を務める、言わば柴田方の最前線の城でした。

こうして秀吉は、大軍で囲んだ、この長浜城に向けて、本領安堵等の条件を提示して降伏を呼びかけるのです。

もちろん、この冬場に越前からの援軍が望めない事も重々承知・・・しかも、どうやらこの勝豊は、勝家の養子でありながらも比較的冷遇されていたようで、勝家が甥の佐久間盛政(さくまもりまさ=勝家の姉もしくは妹の子)(5月12日参照>>)や、自分と同じ養子だけれど、もしかしたら実子かも知れない柴田勝政(かつまさ)らを厚遇する事に少々の不満を抱えていたとか・・・

その心理をうまく突いた秀吉が大谷吉継(おおたによしつぐ)を使って、
「なんなら越前一国の主として迎えても…」
「重臣たちも大名に取り立てる」

てな甘い言葉で誘ったのです。

長浜城内での話し合いの末、家老の意見を受け入れた勝豊は、17か条に及ぶ勝家への不満を列挙して絶縁を宣言し、
「不満のある者は越前に戻って勝家に仕えよ」
と固い決意をあらわにして、12月15日、秀吉方に降ったのでした。

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長浜城の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

これを受けた秀吉は、長浜城を監視すべく、改修した横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市堀部町)蜂須賀家政(はちすかいえまさ)を置き、佐和山城には丹羽長秀を置いて、自らは、勝家と心をともにする信孝の岐阜城の攻撃へと向かい、この岐阜でのアレコレに続くように賤ヶ岳(しずがたけ)の闘いへと突入していく事になります。

岐阜の乱と呼ばれるこの出来事については、また、いずれかの日付で書かせていただくつもりですが、その後のおおまかな流れとしては、年が明けた
4月20日:【賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し】
4月21日:【賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】
4月23日:前田利家の戦線離脱】
4月24日:北ノ庄城・炎上前夜】
5月2日:【織田信孝の自刃】
をご覧いただければありがたいです。
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2018年11月28日 (水)

佐々成政の城生城の戦い

天正十一年(1583年)11月28日、越中城生城を攻撃中の佐々成政と神保氏張が聞名寺を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)が天正元年(1573年)8月に越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月6日参照>>)、天正三年(1575年)8月に越前一向一揆を鎮圧(8月12日参照>>)した頃には、織田政権の北陸担当となった北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)柴田勝家(しばたかついえ)のもと、府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)龍門寺城(りゅうもんじじょう=福井県越前市)の不破光治(ふわみつはる)とともに「府中三人衆」と呼ばれた小丸城(福井県越前市)佐々成政(さっさなりまさ)でしたが、

Sassanarimasa300 天正八年(1580年)に、織田が、あの加賀一向一揆を壊滅(11月17日参照>>)させた事やら、その後に不破光治が亡くなった?(←生没年不明なので)事やら、成政が神保長住(じんぼうながずみ)とともに越中一向一揆を攻めた(9月8日参照>>)事やら・・・そんな、なんやかんやで、天正九年(1581年)頃には、利家は七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)にて能登(のと=石川県北部)一国を預かり、成政は富山城(とやまじょう=富山県富山市)にて越中(えっちゅう=富山県)一国を支配する立場となっていました。

ところがここで、ご存じ天正十年(1582年)6月の本能寺での信長の死(6月2日参照>>)・・・

その10日後の山崎の戦い(6月13日参照>>)で主君の仇を撃った事で、何となく主導権の握った感のある羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の思い通りに清洲会議(6月27日参照>>)が進み、さらに、わずか9カ月後の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(4月21日参照>>)で秀吉が勝って勝家が敗れてしまいます。

この賤ヶ岳の時は勝家派につくものの、隣国=越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)へのけん制で動けなかった佐々成政は、剃髪する事で何とかこれまで通りの越中一国を安堵されますが、秀吉お仲間の前田利家は能登に加えて加賀(かが=石川県南部)を与えられ本拠を金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に移し、同じくお仲間の丹羽長秀(にわながひで)は越前と若狭(わかさ=福井県西部)を与えられ、元勝家の北ノ庄城を居城とする・・・とまぁ、急転直下で北陸の勢力図が大きく塗りかえられてしまったのです。

越中一国は安堵されたものの、信長さんに気に入られて「これから頑張るゾ!」と思っていた成政にとっては、どこの馬の骨ともわからぬ秀吉に大きな顔をされるのは、何とも不満・・・悶々とした気持ちを拭い去れない成政は、秀吉ドップリの西の隣国=利家か、はなから敵対関係にある東の隣国=上杉か、どちらかをを何とかしたいわけで。。。

なんせ、この上杉・・・かつて柴田勝家が最前線の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を落として(6月3日参照>>)「さぁ、これから上杉の本拠地へ…」となった、その時に、あの本能寺の変が起きてしまい、そのまま織田軍が撤退したために魚津城も上杉に回復されており、その後に起こった織田勢が去った旧武田の領地を巡っての天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)でも上杉は北信濃(長野県北部)を獲得して和睦を図り(10月29日参照>>)、しかも、すでに秀吉と通じていて、先の賤ヶ岳の時には勝家派の成政を威嚇していた=だからこそ成政は動けなかったわけで。。。

で、ふと自身の越中を見渡してみると・・・城生城(じょうのじょう=富山県富山市八尾町)斎藤信利(さいとうのぶとし=信和)が上杉と仲良さげな雰囲気。

この斎藤信利は、上杉謙信(けんしん=景勝の養父)の死後、いち時は織田方についていたものの、かつて飛騨(ひだ=岐阜県北部)の国人=塩屋秋貞(しおやあきさだ)に城生城を攻められた際に上杉の援軍によって救われた事があり、結局、ここに来て再び上杉に与して、越中にありながら成政には従わずにいたのです。

そこで天正十一年(1583年)8月、佐々成政と、それに臣従する神保氏(じんぼううじはる)城生城を攻めたのです。

この動きを見た斎藤信利は聞名寺(もんみょうじ=富山市八尾)に援助を求めます。

実は、この聞名寺は、かつて飛騨にありましたが、その地の真宗との対立を避けるためにコチラに移転して来たという経緯があり、その時に大きく支援したのが城生城の斎藤氏であったと・・・そこで、末寺や門徒に呼びかけ、全身全霊で以って城生城のピンチに立ち上がります。

この事を知った神保氏張は聞名寺へも攻撃を仕掛けますが、これが、自然の要害を盾としたなかなかの堅固・・・しかも門徒がゲリラ戦を展開し、むしろ次第に押され気味に・・・

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城生城の攻防・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そこで氏張は、まずは富山への街道沿いに関所を設けて八尾(やつお)への救援路を遮断したうえ、石戸(せきど)付近の木陰にワラ人形を並べ、周囲にかがり火をガンガン焚いて大勢の兵が駐屯しているように見せかけます。

なんだかんだで戦のプロでは無い聞名寺門徒たち・・・寺の北側に出現したがこのワラ人形に門徒たちの注意が向いた天正十一年(1583年)11月28日早朝、井田川の西岸を南下して聞名寺の南に位置する桐山峠(きりやまとうげ=現在の城ヶ山公園付近?)に移動した神保軍が一気に聞名寺に奇襲をかけたのです。

奇襲に驚く聞名寺では、僧侶や門徒たちが次々に逃げだしますが、この日の、しかもこの時は親鸞(しんらん)上人の法要の真っ最中・・・しかし、読経を中断する事ができない住職は超特急で読経をやりきった後、寺宝を抱えて逃走井波(いなみ=富山県南砺市)に隠れ住んだとか・・・

その一方で、一部の門徒は城生城に走って防戦を続けますが、ここ城生城も難攻とされる堅城だったため、神保氏張は一旦包囲を解いて引き挙げました。

しかし、当然、佐々成政は諦めません。

ほどなく井栗谷(いくりだに=富山県砺波市)(とりで)を築いた成政は、近隣の諸将を取り込み、もちろん神保も連れて城生城を包囲して攻撃を開始します。

『肯構泉達録』によれば・・・
この時、さすがに聞名寺も落ち、周囲を囲まれて孤立無援となった状況では打つ手なく、城中より神保の陣に向けて和睦の使者がやって来ますが、氏張の出した和睦の条件は「信利の父=斎藤常丹(じょうたん=利基)の首」でした。

世は戦国・・・
「この首一つで収まるならば…」と決意する主君を、涙を呑んで家臣の斎藤喜左衛門(きざえもん)豊嶋茂手木(とよしまもてぎ)が介錯をし、常丹の首を差し出しますが、なんと氏張は、「そんな約束はしてない」と突っぱね、攻撃を続行したのです。

「騙された!」
と怒り心頭の城内ですが、もはや、どうしようもなく、ほどなく城生城は陥落しました。

何とか脱出した斎藤信利は、常陸(ひたち=茨城県)の国へと落ちて行ったという事です。

こうして城生城は佐々成政の物となりますが、それも、この翌年の
小牧長久手(こまきながくて)の戦い(↓下記参照)
【末森城攻防戦】>>
【利家VS佐々成政~鳥越城の攻防】>>
【小牧長久手の決着】>>
の後、天正十三年(1585年)の秀吉の富山侵攻により、降伏した成政(8月6日参照>>)に代わって前田利長(としなが=利家の息子)が拝領する事となります。

ところで、この地に語り継がれる伝承を一つ・・・
その伝承では、この城生城の落城は、昔、この地で退治された大蛇の恨みによる物で、城が攻め込まれた際、にわかに現れた怪雲渦巻く中から登場した大蛇が、すわっと城に巻きついて落城させたのだとか・・・

これで積年の恨みが晴れたのか?落城を見た後、その怪雲から大蛇の体がドサリと落ち、そこには転々と白い石を並べたような大蛇の骨が半里ほどに渡って残っていた・・・と。。。

どうやらコレ、城生城の近くにあって、現在は富山県の天然記念物に指定されている天狗平化石層(てんぐびらかせきそう)の事らしい・・・
確かに、白と黒の地層が縞をなして露わに連なる不思議な光景は、昔の人から見れば大蛇の骨に見えたかも知れませんね。
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2018年11月 1日 (木)

一族とともに生きた北条氏の長老軍師~北条幻庵

天正十七年(1589年)11月1日、戦国時代の関東に君臨した北条氏の長老&ご意見番、北条幻庵が97歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

戦国時代、約100年に渡って関東を牛耳る北条氏(ほうじょうし=鎌倉時代の北条氏と区別するため後北条氏とも)・・・その祖となる北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢盛時(いせもりとき)の末っ子=四男として明応二年(1493年)に誕生した(誕生年には諸説あり)とされる北条幻庵(ほうじょうげんあん)(いみな=実名)長綱(ながつな)法名宗哲(しゅうてつ)と言いますが、隠居後に名乗った幻庵の名前が有名なので、本日は幻庵さんと呼ばせていただきます。

Houzyougenan300as そんな幻庵は、幼くして近江(おうみ=滋賀県)三井寺(みいでら=滋賀県大津市)に入寺し、大永四年(1524年)に出家し、箱根権現(はこねごんげん=神奈川県)を祀る箱根権現社(後の箱根神社)別当寺(べっとうじ=神社を管理するための寺)である金剛王院(こんごうほういん)に入りました。

なんせ、この箱根権現は山岳信仰の中心的存在で、あの源頼朝(みなもとのよりとも)以来関東武士の守り神として崇められていて、大きな力も持ってますから、そこに息子を送り込んでおけば何かと有利・・・なので、当然ですが幻庵本人ではなく、父親の思惑ドップリの出家だったわけですが、そのおかげで、幻庵は、他の兄弟たちとは・・・いや、多くの戦国武将の中でも、かなり特異な立場の人物となるのです。

それは北条一門の武将でありながら箱根権現別当金剛王院の院主(いんじゅ=住職・寺の主)=僧侶であるという事・・・

もちろん、武将ですから、馬術や弓にも長け、合戦の記録も複数あるわけですが、何と言っても他者を寄せ付けないほどトップクラスだったのは和歌や連歌、茶道に築庭、さらに、見事な鞍を作ったり、石工や弓細工などなどの芸術的才能です。

中でも、連歌師の宗牧(そうぼく)とは三井寺での修行時代からの友人で、彼が小田原(おだわら=神奈川県小田原市)にやって来た時には国境まで出迎えて歓待し、連歌会を催したりしています。

そう・・・こういう芸術的お付き合いが非常に重要なんです。

連歌師という人は、歌を作るだけでなく、その指導もするわけで、指導する相手には武将もいれば公家もいる・・・それも全国各地に・・・

宗牧の場合など、公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の邸宅や摂関家の近衛家(このえけ)にも出入りし、第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の間を取り持った記録も残っています。

このような独自の人脈を持つ連歌師は、複数の公家や戦国武将の間を自由に行き来し、近隣の情報を得て来てくれるわけです。

もちろん、それは情報を得ると同時に発信する事も可能・・・

たとえば、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉宗滴(そうてき)の回顧録には
「『北条早雲は、普段はめっちゃケチで金を使おうととせんけど、合戦の時には惜しみなく戦費を投入するらしい』という事を連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)から聞いた」
という話が登場しますが、この宗長という人は宗牧の師匠にあたる人・・・なので、情報は、「北条は強いんやゾ!なめんなよ」てな、けん制の意味を込めて、おそらくは意図的に幻庵から宗牧&宗長を通じて朝倉へと流された物?

しかも幻庵は、推定97歳という長寿を全うした事により、結果的に、初代の北条早雲から氏綱(うじつな=早雲の長男)氏康(うじやす=氏綱の長男)氏政(うじまさ=氏康の次男)氏直(うじなお=氏政の長男)北条5代【北条五代の年表】参照>>)に仕える事になりますから、まさに北条家の諜報機関のトップ・・・半分武将で半分僧侶という立場で様々な情報を得て、その情報で以って北条家を支えていたわけです。

逆に、他家へ嫁ぐ娘に贈るために書いた『幻庵覚書(幻庵おほへ書)では、女性としての礼儀作法や心得とともに
「僧侶や芸能関係者をむやみやたらに近付けたらアカンぞ!」
と、いかにも自分がアブナイ事やって来たからこそのアドバイス感満載な事を言っちゃってます。
(若い時に暴れまくってたヤンキー父ちゃんも、娘には、そんなヤツに引っかからんといて欲しいみたいな?www)

ちなみに、長男を早くに、次男&三男を武田(たけだ)との合戦で亡くした幻庵は、もう一人の娘に氏康の三男を婿養子に迎えて、自身の後継者としていましたが、北条と上杉の同盟のためにその三男は越後(えちご=新潟県)へと行く事になり、娘さんとは離縁・・・その彼が御館(おたて)の乱で自害する上杉景虎(うえすぎかげとら)です(3月17日参照>>)

とにもかくにも、その稀にみる才能で芸術家や公家との交流し、情報を集め、その情報を北条家の戦略に活かしていく・・・一見穏やかに芸術を楽しんでいるように見えるその姿は、ある意味、騎当千の荒武者より怖い存在だった事でしょう。

現に、約100年に渡って関東に君臨した北条は、彼の死から半年余りで滅亡する事となります。

幻庵が亡くなったのは天正十七年(1589年)11月1日・・・享年97。

そのわずか23日後に北条が起こした真田とのトラブル(10月23日参照>>)を理由に、豊臣秀吉(とよとみひでよし)宣戦布告(11月24日参照>>)し、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されるのです(12月10日参照>>)

やはり幻庵の死によって、北条の「何かが外れた感」が否めませんね~

ただ、冒頭にも書かせていただいたように、幻庵さんの誕生年も諸説ありますし、亡くなった日付も現在では疑問視する声も出てきていますので、そうなると享年の97歳ってのもあやしくなって来るのですが、初代の早雲の息子でありながら、天正八年(1580年)に5代目の氏直が当主になってから後も、しっかりと活躍している記録が残っていますので、97歳でないとしても、かなりの長寿であった事は間違いなさそう・・・まさに、北条家とともに生き、北条家とともに去っていったと言えますね。

・‥…━━━☆

ところで、ここからは、
この幻庵さんの97歳という年齢に関連して、私個人が少々気になっている事。

幻庵さん以外にも、
先ほどの朝倉宗滴が79歳(8月13日参照>>)
他にも、
毛利元就(もうりもとなり)=75歳(11月25日参照>>)
細川幽斎(ほそかわゆうさい=藤孝):77歳(8月20日参照>>)
藤堂高虎(とうどうたかとら)=75歳(6月11日参照>>)
本多正信(ほんだまさのぶ)=79歳(9月5日参照>>)
大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)=80歳(2月1日参照>>)
などなど、ご高齢で活躍された方がけっこういてはります。

確かな統計が無いので、あくまで予想の範囲=「そうのように考えられている」というデータではありますが、戦国時代の平均寿命は37歳くらいだったとされています。

で、この方たちが話の中に出て来ると、よく言われるのは、
「平均寿命が37歳くらいの頃に80代や90代なんて、かなりのご長寿」
てな事。

もちろん、80代&90代なら、今現在でもご長寿なのですから、これに関しては正解なのですが、気をつけねばならないのは、
「平均寿命が37歳なら、50代くらいでお年寄り=お爺ちゃんの部類に入るんじゃないの?」
あるいは、
「平均寿命が37歳なら、そんくらいで死んでしまう人がたくさんいたのでは?」
という解釈をしてしまう場合がある事です。

ご存じのように、現在の日本人の平均寿命は男性=81歳、女性=87歳で、街中を歩いていても、そのくらいのお年寄りが元気に闊歩しておられますから、「平均寿命」という言葉を聞いて、その言葉通り「普通にしていたらそんくらいまで生きられる年齢」と思ってしまいますが、

実はコレ、「新生児&子供の死亡率が激減した現在」の感覚です。

ほんの少し前(太平洋戦争の頃)でも、未だ乳幼児の死亡率が高く、平均寿命は50歳くらいだったと言われていますが、だからといって50歳でお年寄りだったわけではなく、まだまだ現役でバリバリ働いてますよね。
(ただし、栄養状態が今ほど良くない時代では年齢より老けて見えるという事はあるかも知れませんが…今の50代は若いww)

以前、【七五三の由来】>>のところで、江戸時代には「七歳までは神のうち」という考え方があって、7歳の時に霊的な試練があり、そこを踏み越えれば大人の階段を上る事ができるというような言い伝えがあった・・・てな事を書かせていただきましたが、

それは、それまでに死んでしまうお子様が数多くいた生まれた赤ちゃんが、無事に大人になる確率が低かったという事で、そのために平均寿命が、今よりグンと下がってしまうというわけです。

もちろん戦国時代は、病気以外の危険も多かったですから、幻庵の場合は、半分僧侶であった事で、特に晩年は、ほとんど戦場に出て無かったおかげで、無事に長寿を全うできたという事なのでしょうけど・・・
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2018年8月18日 (土)

宇喜多&毛利の境目合戦~難攻不落の矢筈城と草刈重継

天正十一年(1583年)8月18日、本能寺の変の直後の秀吉と毛利の和睦によって決定した城の明け渡しに不満を持った草刈重継が佐良山城山下にて合戦しました。

・・・・・・・・

西への勢力拡大を図る主君=織田信長(おだのぶなが)に命じられ、天正四年(1576年)頃から中国地方の平定にまい進していた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正八年(1580年)の1月には三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)(3月29日参照>>)、天正九年(1581年)10月には鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)(10月25日参照>>)攻略して、徐々に駒を進めていきます。

一方、その中国地方には西国の雄とうたわれた大大名=安芸(あき=広島県)毛利(もうり)がおり、その間に立たされる多くの国人領主や地侍たちは、大きな勢力のハザマで独立して生き抜く事は難しく、当然「どちらに味方すべきか」の選択を迫られつつ、織田に降る者or毛利に着いて戦う者、様々いたわけです。

やがて天正十年(1582年)4月、いよいよ秀吉は、未だ毛利の傘下にある備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市)へと迫り、ここを水攻めに・・・5月21日には毛利の援軍も現地に駆けつけますが(5月7日参照>>)、その時はすでに城は湖の上・・・

そんな中の6月2日、ご存じ、京都で本能寺の変が起こります(6月2日参照>>)

嘘かマコトか、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)が毛利に放った密書が間違って秀吉に届くというラッキーサプライズで、多くの織田家臣たちより早く信長の死を知った秀吉は、一刻も早く、ここを片づけて京都へ戻りたい・・・

そこで秀吉は、信長の死を隠したまま安国寺恵瓊(えけい)を通じて「高松城主=清水宗治(むねはる)の自刃を以って、すべてを収める」旨の交渉をし、天正十年(1582年)6月4日に和睦を成立させ(6月4日参照>>)、一路京都へ・・・これが有名な中国大返し(6月6日参照>>)で、電光石火で舞い戻った秀吉が光秀を葬り去るのが6月13日に山崎の戦い(6月13日参照>>)という事になるのですが・・・

一方、今回の毛利との和睦によって高梁川(たかはしがわ=岡山県西部を流れる)を境界線とした西側は毛利の所領・・・そして東側になる美作(みまさか=岡山県東北部)のほとんどを割譲される事になったのが、途中で毛利から織田へと鞍替えした宇喜多直家(うきたなおいえ)(6月15日参照>>)の息子=宇喜多秀家(ひでいえ)でした(直家は天正九年(1581年)頃に死去)

しかし、和睦したとは言え、そう簡単に毛利が撤退するわけもないし、その傘下がアッサリ城を明け渡してくれるわけでもなく・・・まして「信長が死んだ」となれば、その状況も微妙に変わります。

そもそも、この美作あたりの武将には、現段階で大国である毛利の傘下となっているだけで、毛利がこれほど大きくなる以前から、すでに、このあたりを領地としていた国人領主もいたわけで、そんな彼らにとっては「宇喜多領になったから…」と言われて「ハイ、そうですか」と先祖伝来の領地を手放すわけにはいかない・・・

Dscf0478c800aa 矢筈城跡(岡山県津山市)

そんな、この地に根付いていた国人領主の一人が、矢筈山(やはずやま=別名:高山)に築かれた壮大な山城=矢筈城(やはずじょう=岡山県津山市加茂町山下:高山城・草刈城とも)を本拠としていた草刈重継(くさかりしげつぐ)でした。

なんせ、この重継の草刈氏は、そのご先祖様が藤原鎌足(ふじわらのかまたり)・・・その後、平安時代の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を経て鎌倉期に陸奥国斯波郡(しわぐん=岩手県盛岡市付近)草刈郷地頭職を賜った事から草刈と名乗りはじめ、その後、南北朝時代に美作の地頭となったので、この地にやって来た(もちろん諸説ありですが…)とされる名家ですから、その誇りもあろうという物・・・

しかも、この少し前、「織田に内通した」とされた兄=草刈景継(かげつぐ)死に追いやってまで毛利に忠誠を誓い、迫りくる秀吉傘下の武将たちと戦って来た重継ですから、ここに来てもなお、我が城を死守すべく宇喜多に対抗する事となります。

Yahazuzyoukusakari
矢筈城と周辺の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十一年(1583年)8月18日、草刈重継は、秀吉軍への備えとして因幡(いなば=鳥取県東部)に兵を派遣すると同時に、宇喜多の傘下である川端家長(かわばたいえなが)の居城=佐良山城(さらやまじょう=津山市加茂町公卿)を攻め、主たる合戦場となった山下(さんげ)多くの首級を挙げる勝利を収め、家長を城から退去させたのです。

さらに、その勢いのまま因幡口へと展開し、そこを守っていた荒木重堅(あらきしげかた=木下重堅)の軍勢にも勝利します。

9月1日には、合戦勝利の報告を受けた毛利輝元(もうりてるもと)から、その功績を賞賛されたものの、その一方で秀吉の領地割譲の方針が変わる事はなく、それ以降は、先の和議の使者であった安国寺恵瓊の説得工作も強くなって来て、徐々に輝元の意向も傾き始めたと見え、この天正十一年(1583年)という年が暮れようとする頃には、本格的に、城の明け渡しの交渉がなされるようになって来ます。

翌・天正十二年(1584年)になって、草刈重継は仕方なく矢筈城を明け渡し、その後は小早川 隆景(こばやかわたかかげ=毛利輝元の叔父)に仕えたと言いますが、この矢筈城は、結果的に、築城以来1度も落城した事の無い難攻不落の堅城として、広く知られる事になったのだとか・・・

その後、この周辺で、最後まで抵抗していた美作岩屋城(いわやじょう=岡山県津山市中北上)中村頼宗(なかむらよりむね)が、7月になってようやく明け渡しを承諾して安芸に退去した事で、秀吉の支援によって抵抗勢力に対峙していた若き秀家の美作統治が完了する事となります。

一般的には、草刈重継の動向を含む、この美作割譲における一連の戦いは、「宇喜多・毛利 境目(さかいめ)合戦」と称されます。

ちなみに、矢筈城について・・・
後の江戸時代に、この矢筈山を訪れた津山藩士=正木輝雄(まさきてるお)は、その著書の中で
「凡(およ)そ高山は国中無双の一奇峰にして絶頂の巖壁(がんぺき)実に矢筈(やはず=掛軸を掛ける時の棒)の如く或(あるい)は天を仰ぎて口を開く獅子吼(ししく=周囲を覚えさせるように獅子が吠える様子)のさまにも髣髴(ほうふつ)たり」
と、この山が、険しい断崖絶壁を擁している様子を記しています。
(津山城に行った時にコチラも訪問しましたが、実際、メッチャ山の中でした(゚ー゚;)

現在の矢筈城跡は、まさしく城跡で、石垣や石塁などの遺構のみで建物類は残っていませんが、それでも岡山県内最大規模の中世山城史跡なのです。
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2018年7月 3日 (火)

本能寺直後~森長可の東濃制圧後半戦…加治田・高山・妻木城攻略

天正十年(1582年)7月3日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する加治田城を攻めました。

・・・・・・・・・

先日の【本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦】の続きのお話です。

くわしくは、その6月26日のページ>>でご覧しただくとして、おおまかな流れは・・・

Morinagayosi300a 天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)での武功により、主君=織田信長(おだのぶなが)から、武田の旧領のうち信濃(しなの=長野県)4郡(高井・水内・更科・埴科)海津城(かいづじょう=長野県長野市・現在の松代城)40万石を与えられた(3月24日参照>>)森長可(もりながよし)は、新領地の統治に取りかかりつつも、これを機に越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と結ぶ者も多かった事から、次に越後への侵攻を開始しますが、このタイミングで本能寺の変(6月2日参照>>) が起こって信長が死亡・・・敵地深く入っていた長可は窮地に立ちながらも、6月23日に何とか旧領地の美濃(みの=岐阜県)金山城(かねやまじょう=岐阜県可児市)へと帰還します。

しかしその間に、信長の死を知った東美濃では、米田城(よねだじょう=岐阜県加茂郡川辺町)肥田忠政(ひだただまさ)をはじめ、上恵土城(かみえどじょう=岐阜県可児郡御嵩町)今渡城(いまわたりじょう=岐阜県可児市今渡・金屋城)長谷川兄弟大森城(おおもりじょう=岐阜県可児市)奥村元広(おくむらもとひろ=又八郎)などが織田へ反旗をひるがえしていたため、帰還の翌日=6月24日から、これらの諸城を一つ一つ制圧して行くのです。

7月2日には米田城を陥落させますが、城主の肥田忠政が加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)へと逃走したため、これを追撃する事に・・・

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森長可の東美濃攻略戦~位置関係図(広範囲)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

さて・・・
本能寺の変当時の加治田城の城主は、あの斎藤道三(さいとうどうさん)の末息子=斎藤利治(さいとうとしはる=新五郎)でしたが、彼は、信長の嫡男で岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)主の織田信忠(のぶただ)の側近であったので、主君とともに籠った二条御所で討死してしまいます。

つまり、城主が亡くなってしまったので、その直後の加治田城は、利治の兄で城代の斎藤利堯(としたか)がトップという事になるのですが、その利堯も、この時は、やはり城主が留守の岐阜城の留守居役を務めていたらしく、どうやら伯父(母の兄)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)に同調して岐阜城を占拠して不動の構えを見せていたようで(6月8日参照>>)・・・

かつて肥田忠政が信長に降った際、所領を安堵された後、この利治の配下に組み込まれていますので、おそらくは、そんな忠政にとっては勝手知ったる加治田城へ逃げ込んだ・・・という事だったのでしょう。

一方、先の米田城とともに、すでに馬串山砦(まぐしやまとりで=岐阜県 美濃加茂市下米田)も占拠している長可・・・加治田城へと向かうには飛騨川(ひだがわ)を越えなくてはなりませんが、肥田忠政はは、その飛騨川を挟んだ、すぐ向こう側の牛ヶ鼻(うしがはな=岐阜県美濃加茂市森山町)に砦を構えて、川を渡って来る森勢をせん滅せんと陣取っていました。

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森長可の東美濃攻略戦~戦闘&位置関係図:後半戦

↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

天正十年(1582年)7月3日、牛ヶ鼻から川を挟んだ小山砦に陣取った森勢が、目の前の河岸から張り出した突起部分が砦となっている牛ヶ鼻に果敢にアタックする事で戦闘が開始されましたが、崖をよじ登ろうとして討たれる者や崖を踏み外して川に落ちる者多数で、初戦は失敗に・・・

しかし、なおも攻める森勢は、崖登りもそこそこに、とにかく川を渡って対岸に行き、砦を包囲します。

そうなると多勢に無勢・・・数に勝る森勢が徐々に勢いを増して来て、ついに砦を支えられなくなった加治田勢は、やむなく砦を放棄して加治田城方面へと逃走し、牛ヶ鼻と加治田城の中間にある堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)で態勢を立て直そうとしますが、森勢の追撃が早すぎて断念し、そのまま加治田城へ合流しました。

その日の夕方、加治田勢を追うかたちで堂洞城址に登った長可は、17年前の合戦で敗れて以来廃城となっているこの城跡から、眼下に見える加治田城の防備を眺めながら作戦を練ったと言います。

一方の加治田城内には、城主の斎藤利治の嫡子(義興?)もいましたが未だ幼く、肥田忠政が代行するかたちで指揮を取り、準備を進めていきました。

明けて7月4日早朝より、今度は加治田城前を流れる川浦川(かわうらがわ)を挟んで、両軍合戦となります。

森勢は、正面の本隊で以って激しく攻めながら、林為忠(はやしためただ)率いる別働隊を川浦川の上流へと迂回させ、加治田勢の長沼三徳(ながぬまさんとく)の陣へ突入させ、敵の側面を崩す中を本隊が一気に突っ切る・・・

加治田勢は、山の麓に諸将の陣を分散して配置し、イザとなった時には、一斉に山上の主郭へと集中して籠城する作戦でしたが、勢いづく森勢を抑えきれず、この河畔の戦いにて崩れ去り、山上の主郭は戦場にもならないうちの昼過ぎに加治田城は落城し、結局、肥田忠政はどこへともなく落ちて行きました(討死説あり)

合戦後は、長沼をはじめとする井戸宇右衛門(いどうえもん)湯浅新六(ゆあさしんろく)など、この戦いに出た多くの将が長可の配下となって、やがて加治田衆(かじたしゅう)と呼ばれて、後の豊臣政権下で活躍する事になるのです。

とは言うものの、実は、この合戦の経緯&結果は諸説あって、よくわかっていないのです。

河畔で合戦になったものの、森勢が押し返されて引き分けになったとか、後半には加治田勢が盛り返して勝利したとか・・・

しかし、上記の豊臣政権下での加治田衆の話を見ても、あるいは、この後の長可の行動を見ても、完全勝利とは行かないまでも、おそらくは森勢が優位に立った状態で、今回の合戦を終えたのではないか?と私は考えています。

なんせ、この後、森長可は、
「この東美濃は、もちもと我が領地であるので、刃向かう者は討伐する!」
と宣言して、高山城(たかやまじょう=岐阜県土岐市土岐津町)平井頼母(ひらいたのも)妻木城(つまぎじょう=岐阜県土岐市)妻木頼忠(つまきよりただ)に、速やかに城を明け渡すよう要求し、拒否した彼らを、平井頼母は自刃に、妻木頼忠は捕えて人質として金山城下に住まわせるという事をやってますから・・・

これは、やはり、加治田城での戦いに勝った状態でないとできないように思います。

まして、この後、この長可の勢いを恐れた明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)遠山利景(とおやまとしかげ)小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)小里光明(おりみつあき)は戦う事無く、徳川家康(とくがわいえやす)を頼って、一旦、城を去っていますから、やはり森勢の方に軍配が上がっていたのではないかと・・・

ただし、同じように、長可が城の明け渡しを求めたものの苗木城(なえぎじょう=岐阜県中津川市)遠山友忠(とおやまともただ)友政(ともまさ)父子は、この直後の天正十年(1582年)8月の戦いに勝利し、長可を撤退させています。

その後、態勢を立て直した長可は、翌天正十一年(1583年)の5月に苗木城へと攻め寄せ・・・と、この苗木城に戦いについては、後日あらためて、その日付でくわしく書かせていただくつもりですが、

その2度目の苗木城攻めに勝利した事で、加茂(かも)可児(かに)土岐(とき)恵那(えな)の4郡を平定した長可は12万7千石の領主となり、信長亡き後は、東美濃の大勢力で以って、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の配下として活躍する事になるのです。
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2018年6月26日 (火)

本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦…前野・大森・米田城攻略

天正十年(1582年)6月26日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する大森城を包囲しました。

・・・・・・・・・

わずか13歳の時に、織田家重臣だった父=森可成(もりよしなり)と兄=可隆(よしたか)宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)の戦い(9月20日参照>>)で同時に亡くして家督を継いだ森長可(もりながよし)は、以来、主君=織田信長(おだのぶなが)の下で、年上の重臣たちに交じって、彼らに引けを取らぬ働き・・・いや、むしろ年齢が若いぶん、数々の戦いで先陣を切って縦横無尽に戦場を駆け抜ける大活躍ぶりで、天正(1572年~)に入った20歳頃からは、信長の嫡男=信忠(のぶただ)配下の与力として軍の一翼を担う武将となります。

Morinagayosi300a 天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)でも先陣を切って武田領へと入り、高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)攻め(3月2日参照>>)等で活躍・・・その功績により、戦後の論功行賞で、武田の旧領のうちの信濃(しなの=長野県)4郡(高井・水内・更科・埴科)海津城(かいづじょう=長野県長野市・現在の松代城)40万石を与えられます(3月24日参照>>)

ちなみに・・・
これにより、父から受け継いだ美濃(みの=岐阜県)金山城(かねやまじょう=岐阜県可児市)は弟の森蘭丸(らんまる=成利)が譲り受けています。

で、翌4月に海津城に入った長可は、早速、新領地の統治に取りかかるわけですが、当然、これまで敵地であった場所を治めるのは容易ではなく、まして、未だ健在の上杉景勝(うえすぎかげかつ)越後(えちご=新潟県)に近い信濃北部には、これを機に上杉と結ぶ残党もいたわけで・・・

そんな中、織田軍の北陸方面担当だった柴田勝家(しばたかついえ)が絶賛攻撃中の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)(6月3日参照>>)への救援に、景勝率いる上杉本隊が向った事を知った長可は、信濃の国衆らと交渉しつつ、翌5月には留守となった越後への侵攻も開始します。

ところが、そんなこんなの6月2日・・・ご存じ、あの本能寺の変(6月2日参照>>) が起こります。

主君=信長の死とともに、小姓として本能寺にいた弟たち=蘭丸&坊丸(ぼうまる=長隆)力丸(りきまる=長氏)の死も知った長可。

しかし悲しんでる暇はありません。

当然、仇も討たねばなりませんが、それより、敵地の真っただ中にいる自身の身の安全も・・・早速、撤退を開始した長可ですが、「信長死す」のニュースはまたたく間に敵にも知られる事となり、なんと信濃の国衆では、埴科郡(はにしなぐん)出浦盛清(いでうら もりきよ)以外、全員が驚きの手のひら返しで敵に回ったのだとか・・・

しかも、ともに甲州征伐を成し遂げて、その功績で信濃木曽谷2郡を与えられたばかりの木曽義昌(きそよしまさ)までもが「長可の命を狙っている」てな噂も・・・

なんせ、旧武田の本拠だった甲斐(かい=山梨県)を与えられた河尻秀隆(かわじりひでたか)などは、この時、武田の残党による一揆で、その命落としてます(6月11日参照>>)からね。

この状況を、絶好のチャンスと見たのが、米田城(よねだじょう=岐阜県加茂郡川辺町)肥田忠政(ひだただまさ)でした。

実は忠政は、もともと、本拠としていたこの米田城以外にも、前野城(まえのじょう=岐阜県加茂郡八百津町)という支城や馬串山砦(まぐしやまとりで=岐阜県 美濃加茂市下米田)を持つ、このあたりの有力武将でしたが、信長が美濃に侵攻した際に、いち早く味方になった事で、その領地を安堵されたものの、その後に、信長直臣の長可が、自らの領地に隣接する金山城に入った事に嫌悪感を抱きながらいるところを、さらにその後、前野城と馬串山砦を長可に譲渡というか占拠されてしまっていたのです。

しかし、それも、バックに信長が居る事を踏まえて、波風立てないように我慢していたところわけで・・・

その信長がいなくなったわけですから・・・しかも長可は、未だ敵地です。

信長の死の翌日=6月3日の夕刻に、このニュースを知った肥田忠政は早速、兵を集め、5日の早朝に出陣し、わずかの守護兵がいるだけの前野城と馬串山砦を攻撃するのです。

守護兵は守る間もなく金山城へと逃走・・・こうして城と砦を奪還した肥田忠政は、ほどなく金山城から敵がやって来るものと想定していましたが、さすがに、この状況に金山城も右往左往していたのか?(城主の蘭丸も死んでるので)、金山城から新たな兵が来る事は無かったため、しっかりとその動きが無い事を確認した後、守りの兵を置いて、自らは米田城へと引き揚げ、次は、長可が、この美濃に戻って来るところを討ち果たさんと、その準備に入ります。

一方、この間にも、命がけの撤退を決行していた長可・・・近寄る残党を斬って捨て、襲いかかる者すべてをなぎ倒し、鬼の形相で駆け抜けた長可は、6月24日、何とか旧領の金山へと帰還します。
(この事で、その後の長可は、『鬼武蔵』と呼ばれるようになる…らしい)

翌25日、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に立ち寄って織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)らに挨拶を済ませた長可は、留守の間の肥田忠政に行動に怒り爆発な中、彼に味方する東美濃を攻略すべく、その日のうちに出陣したのです。

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森長可の東美濃攻略戦~位置関係図(広範囲)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

まず向ったのは金山城の南西に位置する上恵土城(かみえどじょう=岐阜県可児郡御嵩町)・・・当時の城主だった長谷川五郎右衛門は、森勢の攻撃を予想して、すでに防御を固めてはいましたが、城に集う兵はわずかに100・・・

一方の森勢は300ほど・・・しかも可児川(かにがわ=岐阜県木曽川水系)河畔に建つ上恵土城は、河畔側の大手(おおて=正面)は、その段差を利用する絶壁となっていましたが、搦手(からめて=裏面)は緩やかな丘陵でわずかな堀しかなく、いたって守りが弱い。

それを百も承知の森勢は、その数を武器に搦手から一気に攻めまくり、無勢の城側は、またたく間に窮地に陥り、ほどなく落城・・・城内の者は近くの今渡城(いまわたりじょう=岐阜県可児市今渡・金屋城)を目指して敗走していきます。

この今渡城には、長谷川五郎右衛門の弟=長谷川彦右衛門が、兄に同調して立て籠もっていましたが、コチラは防御策もほとんど無い、城というよりは居館のような建物であったため、上恵土城からの逃走者を追撃する形で森勢が押し寄せると、その勢いにひとたまりも無く陥落・・・長谷川兄弟も、いずこともなく逃走していきました。

この両城の落城の知らせを聞いて、「いよいよ次は我が城への森勢来襲!」を悟ったのは、大森城(おおもりじょう=岐阜県可児市)奥村元広(おくむらもとひろ=又八郎)・・・要所に柵を配し、女子供を非難させて臨戦態勢を整えた天正十年(1582年)6月26日、森家の重臣=林為忠(はやしためただ)率いる300の先陣が、大森城を取り囲みました。

ただ・・・もはや援軍を望めない大森城が決死の覚悟で防戦したため、容易に落とす事ができなかったため、林為忠は金山城へと援軍の要請をし、合計500となった攻め手で猛攻を仕掛けます。

やがて、多くの死傷者を出すに至った大森城は、「これ以上支える事は不可能」と判断した奥村元広によって火が放たれて落城・・・元広は、この混乱の中、雑兵に紛れて逃走しました。

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森長可の東美濃攻略戦~戦闘&位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

さて、この頃、長可は、本能寺で亡くなった弟たちの葬儀を7月2日に執り行おうと準備を整えていましたが、これを知った肥田忠政は近隣の諸将に声をかけ、この機会に金山城を襲撃しようと計画します。

もちろん、この計画を知った長可の怒りはMAX・・・葬儀そっちのけで2日の未明に木曽川(きそがわ)を渡って前野城と馬串山砦をすぐさま奪い返し、その足で米田城に先制攻撃を仕掛けます。

「夜が明けたら…」と思っていたところの思いがけない襲撃に驚いた肥田忠政は、にわかに腹痛に襲われたとかで、応戦を家臣に任せて、自らは素早く加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)へと逃れます。

残った城兵は、家老の指揮のもと、なかなかの戦いぶりを見せますが、さすがの大軍相手にはどうにもならず、やがて城に火が放たれて、米田城は落城しました。

こうして、米田城を落とした長可は、すぐさま金山城へと戻り、当初の予定通り葬儀を行ったのだとか・・・

さぁ!次は当然、肥田忠政が逃げ込んだ加治田城~という事になりますが、その続きのお話は、城への攻撃が開始される7月3日のページ【森長可の東濃制圧後半戦】>>でどうぞ・・・m(_ _)m
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2018年6月 8日 (金)

本能寺のドサクサで…稲葉一鉄VS安藤守就の本田・北方合戦

天正十年(1582年)6月8日、本能寺の変のドサクサで旧領を回復しようとした安藤守就と、それを阻止する稲葉一鉄が戦った本田・北方合戦がありました。

・・・・・・・・・

永禄十年(1567年)8月に、あの織田信長(おだのぶなが)が、斎藤道三(さいとうどうさん=利政)の孫にあたる龍興(たつおき)を破って手に入れた美濃(岐阜県)稲葉山城(いなばやまじょう)(8月15日参照>>)・・・ご存じのように、信長は、この稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と改め、ここを拠点として天下への一歩を踏み出したわけですが、

それには、この半月ほど前に、主君を見限って織田方に内応してくれた西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)の影響が大きかったのです(8月1日参照>>)

その西美濃三人衆とは、
西美濃曾根城主稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)
西美濃大垣城主氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)
西美濃北方城主安藤守就(あんどうもりなり)
の三人・・・

いずれも、斎藤以前に美濃の守護であった土岐頼芸(ときよしなり)の時代からの家臣たちですから、内々の事や地の利を知りつくした彼らが内通してくれたおかげで、その後に続く者も多数出て、一気に城を落とす事ができた事は確か・・・

その後の彼らは、もちろん、信長直属の部隊として各地で活躍・・・元亀元年(1570年)の、あの姉川(あねがわ)の戦いなどは、彼ら西美濃三人衆の側面攻撃失くしては信長の勝利も危うかったかも(6月28日参照>>)

それ故、危険も多く、信長最大のピンチとも言われる元亀二年(1571年)5月の最初の長島一向一揆戦では、退却の殿(しんがり=最後尾)を務めた氏家卜全が討死しています(5月16日参照>>)

しかし、残る二人は、その後も柴田勝家(しばたかついえ)の援軍として加賀(かが=石川県南部)に行ったり、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の援軍として中国攻めに向かったり・・・と、西に東に転戦していたわけですが、

そんなこんなの天正八年(1580年)、安藤守就は、突然、信長から謀反を疑われて息子=定治(さだはる=尚就とも)共々、追放されてしまうのです。

『信長公記』では、石山合戦でゴチャゴチャやってた信長が1番ややこしい時期に「野心含み申す」=つまり、信長のピンチに乗じて謀反を計画したという事になってますが、一説には、息子の定治が、絶賛敵対中の武田勝頼(たけだかつより)に通じた・・・という話もあり。

ただし、それも、本当に、この父子に謀反や裏切りの気持ちあったのか?信長の疑心暗鬼の思い違いなのか?は定かでなく・・・なんせ、この6年前の天正二年(1574年)には、稲葉一鉄も謀反の疑いをかけられ追放されかけた事もありましたから。

この時の一鉄は、見事にその疑いを晴らしたわけですが(11月19日参照>>)、安藤父子の場合は残念ながら、美濃の武儀郡(むぎぐん=岐阜県関市付近)蟄居(ちっきょ=謹慎)となり、その身は一鉄に預けられたのです。

そんなこんなの天正十年(1582年)6月2日、京都で、あの本能寺の変が起こり、信長が横死(6月2日参照>>)・・・これを機に、安藤父子が旧領の回復に立ちあがったのです。

そこには散り々々になっていた一族や旧家臣たちが続々と集まって来て、鏡島城(かがしまじょう=岐阜県岐阜市鏡島)河渡城(こうとじょう=岐阜県岐阜市河渡)北方城(きたがたじょう=岐阜県本巣郡北方町)本田城(ほんでんじょう=岐阜県瑞穂市本田)軽海西城(かるみにしじょう=岐阜県本巣市軽海)などの旧領周辺の諸城に立ち返り、防備を固める修復作業に入ったのです。

Inabaittetu700a これを知った稲葉一鉄・・・「このままでは美濃が無法地帯となってしまう」とばかりに、まずは、この時、岐阜城内にいた甥っ子である斎藤利堯(さいとうとしたか=一鉄の妹と斎藤道三の子)城内を掌握させて、周辺に禁制を掲げて、織田×明智の両方に味方しない=中立の立場を取るとして不動の構とさせました。

また、安藤父子に対しては、もともとは彼らの持城であったとは言え、現段階では自分の領地の城に無断で入って勝手に合戦の準備をされてしまっている状況・・・

ただ、畿内の慌てぶりも想像に難くない中で、この急を要する事態の采配を上層部に問うている場合では無いわけで・・・

しかも、上記の甥っ子への指示なんか見ると、ひょっとしたら一鉄には、これを機に独立しようとの考えもあったかも知れず・・・

とにもかくにも、一鉄は、織田×明智のどちらにも連絡する事無く、自身の判断で以って、安藤父子の討伐を決意するのです。

まずは、安藤の重臣である稲葉長右衛門(いなばちょうえもん)が籠る本田城へ・・・一鉄方は、稲葉左近(いなばさこん)加納雅楽(かのううた)数十騎が一丸となって攻めかかって激しく交戦しますが、痛手も多く、一旦退却しようとしている所へ村瀬大隅(むらせおおすみ)率いる精鋭80余騎が駆けつけ、城将の長右衛門を討ち取ったほか、多くの首級を挙げ、残党も追撃して、一鉄側の大勝利となります。

幸先の良いスタートにゴキゲンの一鉄は、次に安藤父子らメインキャストの籠る北方城へと駒を進めます。

さすがにコチラは城下にいくつもの陣を設けて、安藤側も万全の守備態勢・・・

かくして天正十年(1582年)6月8日未明・・・北方城下に一鉄が押し寄せて、戦闘開始となります。

激しいぶつかり合いの末、午前10時頃には双方ともに100名以上の戦死者を出しますが、その死者の中には安藤守就も・・・84歳という高齢ながら、見事に自軍を指揮し千代保ヶ淵(ちよぼがふち=北方城の西側)付近で、壮絶な討死を遂げたとの事。

息子の定治も一族&旧臣らとともによく戦ったものの、数に勝る一鉄勢に押され、やはり討死します。

主を失った軍団は、やがてバラバラになって敗走し、北方城が陥落・・・ここに戦国武将の美濃安藤氏は滅亡しました。

こうして、北方での合戦に勝利した一鉄は、息子の貞通(さだみち)を軽海西城に、自らは河渡城へと向かったと言います。

その後、安藤父子の遺体は、一鉄の手配にて、配下の者から、すでに仏門に入っていた守就の弟=湖叔(こしゅく?)のもとに送られ、龍峰寺(りゅうほうじ=岐阜県岐阜市)に葬られました。

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本田・北方合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、ここらあたりの事は、残っている史料が少なく、実はかなり曖昧で、今回の安藤父子の場合、「本田や北方の城に入って防備を固める」どころか、城を奪い返す前に合戦状態となって、そのまま鎮圧されたとも言われます(←つまり城は奪い取ってない?)

また、一説には、この時の安藤の敗戦を伝え聞いた岐阜城の池田信輝(のぶてる)が、救援のために2000騎を率いて河渡城へと向かい、先鋒として迎え撃った稲葉家臣=石川三衛門(いしかわさんえもん)なる武将の部隊を全滅させてしまった事で、この池田隊の襲撃を恐れた一鉄が、自らの居城=根城(そねじょう=岐阜県大垣市)に戻って、周辺の百姓たちを総動員して数百の幟(のぼり)を立て、一晩中かがり火を焚かせて警戒していたものの、池田隊の、それ以上の攻撃は無かった・・・なんて話もあるとか・・・

でも、この池田信輝って、あの池田恒興(つねおき)の事ですよね?

確か、この本能寺の変の頃の恒興は、荒木村重(あらきむらしげ)との花隈城(はなくまじょう=兵庫県神戸市中央区)戦い(3月2日参照>>)の功績により、摂津(せっつ=大阪府北中部)一帯を領地としていたはず・・・まぁ、恒興は、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)の付属なので、当時は信忠が城主だった岐阜城にいたとしてもおかしくは無いのかも知れませんが、一般的には、本能寺の一報を聞いて、あの「中国大返し」(6月6日参照>>)で戻って来た秀吉らに、摂津富田(とんだ=大阪府高槻市)で6月12日に合流して、ともに山崎の合戦にて明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)というのが定説です。

その恒興が、その4日前に稲葉勢と相まみえるとは非常に考え難い・・・しかも、上記の通りだとすると、岐阜城は中立の立場にあったわけですし・・・

で、勝手な妄想をお許しいただくなら・・・この時の池田は恒興ではなく、ひょっとしたら恒興の四男で、軽海西城主の池田家家老=片桐俊元(かたぎりとしもと)の養子となっていた池田長政(ながまさ)の事なのでは?

後に大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)主となった恒興とともに、その出城である池尻城(いけじりじょう=同大垣市)へと片桐俊元が移るのは、この本能寺の変の翌年ですから、直後この頃は、未だ、自らの軽海西城にいたはず・・・なら養子の長政も~と思いきや長政は天正三年(1575年)生まれだから、まだ8歳だったww

て事は、稲葉配下の石川隊を全滅させたのは片桐俊元自身なのか?

だって、この時、安藤父子に奪われていないのであれば、軽海西城は片桐俊元の城なわけですから、そこに、ひょっとしたらこのチャンスに独立しようとしているかも知れない一鉄の息子=貞通が侵攻して来た事になるわけで・・・そりゃ守りますわな~

いやいや、あくまで妄想ですが、そう考えると、やれ数十騎だ、80余の援軍だって合戦に、「2000騎を率いて参戦する池田隊」の辻褄が合う気はします。

いやはや、辻褄の合わない記述を引っ張り出して、アレコレ想像するのは楽しいです。

ただ、今回の本能寺の変のドサクサで、信長傘下の者同志、あるいは旧武田の遺臣などとの戦いがアチコチ起こった事は確かで、細かな事はよくわからない部分が多いものの、おそらくは、この美濃一帯でも、そのような、ドサクサ紛れの領地の奪い合いがあったものと思われます。

★参照:本能寺のドサクサで起こった戦い
神流川の戦い>>
河尻秀隆と武田残党>>
長宗我部元親の阿波平定>>
天正壬午の乱>>
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2018年5月12日 (土)

賤ヶ岳で敗れ~「鬼玄蕃」佐久間盛政の最期

 

天正十一年(1583年)5月12日、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた佐久間盛政が処刑されました。

・・・・・・・・・・

佐久間盛政(さくまもりまさ)は、織田家の家臣であった佐久間盛次(もりつぐ=佐久間信盛の従兄弟)の長男として尾張(おわり=愛知県西部)で生まれました。

父の盛次が永禄十一年(1568年)の記録を最後に姿を消す事から、おそらく、それから間もなくに父が亡くなったとみられますが、母が、柴田勝家(しばたかついえ)の姉もしくは妹だったという事で、以後、叔父の勝家を父とも頼み、その傍らで勇猛な武者に成長していくのです。

おそらく父が亡くなったとおぼしき永禄十一年(1568年)・・・主君と仰ぐ織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)を阻む、南近江(滋賀県南部)六角承禎(じょうてい・義堅)との観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市安土町)の戦い(9月15日参照>>)にて15歳で初陣を飾った盛政は、

信長大ピンチの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市金ヶ崎町)からの撤退(4月27日参照>>)時に勝家の大手柄となった野洲川(やすがわ=滋賀県)の戦い(6月4日参照>>)でも大いに活躍した事でしょう。

なんせ、その体格は六尺(182cm)という当時としてはかなりの大柄で、、勝家が北陸方面の攻略担当となり、越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆を平定(8月12日参照>>)、越前8郡を与えられた天正三年(1575年)頃には、役職名の玄蕃允(げんばのじょう)に由来する『鬼玄蕃(おにげんば)なる通り名で、その名を轟かせていたのだとか・・・

天正五年(1577年)には南下して来た越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と戦い(9月18日参照>>)、その後、天正八年(1580年)、100年続いた加賀一向一揆を、勝家とともに壊滅させた
【金沢御坊の落城】参照>>
【鳥越城の戦い】参照>>
時には、その功績によって加賀(かが=石川県西部)半国を与えられ、金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)を築城し、その城主となりました。

時に盛政=27歳・・・叔父=勝家の配下として、最も将来を期待される存在となっていました。

その後、越後の謙信の後を継いだ養子の上杉景勝(かげかつ)と抗戦する中、もはや、越後の制圧は時間の問題と見えた魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)陥落(6月3日参照>>)の翌日、2日遅れで、京都は本能寺(ほんのうじ)にて信長が自刃した(6月2日参照>>)事を知るのです。

「天正十年(1582年)6月2日、信長死す」・・・この情報は、ほどなく敵陣にも知られる事となり、意気上がる上杉軍が、越中(えちゅう=富山県)能登(のと=石川県北東部)の国人たちを扇動してかく乱して来たため、容易に上洛できなかった勝家ら・・・

その後、何とか少しずつ撤退した勝家は、富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさ なりまさ)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)、そして金沢城主の盛政に、それぞれの防備を固めさせ、自らは養子の柴田勝豊(しばたかつとよ=勝家の甥・盛政の母の姉の子)らを先鋒に上洛し、信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討つ・・・はずでしたが、

ご存じの通り、電光石火の早業で、西国から舞い戻った(6月6日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、あの山崎の合戦で光秀を討ち破ってしまった(6月13日参照>>)ため、勝家ら北陸勢は、空しく矛を収めるしかありませんでした。

しかも、その後の清州会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)での後継者決めでも、何となく仇討ちを成功させた秀吉に主導権を握られた感が拭えない感じ???

まぁ、実際には時代劇や小説で描かれるようなドラマチック感はなく、
(後継者は、信長次男の信雄(のぶお・のぶかつ)か三男の信孝のぶたか)か?と争う中で、秀吉が信長の孫の三法師(さんほうし=織田秀信)を抱いて登場して、皆がハハァとひれ伏すみたいなあの場面の事です)
すでに織田家の家督を譲られていた嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)が信長とともに亡くなった以上、その遺児である三法師が、幼いとは言え嫡流として後を継ぐのは至極当然の事・・・その中で、信孝は三法師の後見人になるわけですから、信孝を推していた勝家としては、むしろ納得の結果だった事でしょう。

まぁ、領地配分で京都に近いえぇ位置を秀吉に持ってかれたしまった感はありますが、それこそ、光秀を倒したのは秀吉ですから、その領地をモノにするのは当然と言えば当然・・・

ただ、信長の死から4ヶ月後に、秀吉主導で行った、あの派手々々葬儀(10月15日参照>>)には、やはり信孝&勝家はカチンと来たかも・・・なんか、「これからは俺が仕切るで!」感強いですもんね~

こうして、ともに父の後を継ぎたい信雄VS信孝・・・そこに、仕切る感満載の秀吉VS家臣筆頭で信孝推しの勝家という対立の構図が生じ、ご存じの賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いへ突入という事になります。

この時、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)に本拠を持つ勝家が雪で動けない冬を見据えた秀吉は、まずは天正十年(1582年)12月、柴田勢の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を開城させた(12月11日参照>>)後、信孝の本拠である岐阜方面へ・・・さらに、信孝の味方となっている滝川一益(たきがわかずます)の守る伊勢(いせ=三重県)にも転戦します。

明けて天正十一年(1583年)、春の訪れとともに、ようやく勝家らが出陣し、余呉湖(よごこ=滋賀県長浜市)の北まで進出・・・この時、盛政は、勝家が本陣とした玄蕃尾城(げんばおじょう=福井県敦賀市刀根・内中尾山城)の前方(南側)に位置する行市山(ぎょういちやま=滋賀県長浜市余呉町)に砦を築き、ここに布陣しました。

一方の秀吉も、柴田勢の動きに合わせ長浜城に入り、両者、一触即発の睨み合い状態となりますが、この間にも、一旦押さえた美濃(みの=岐阜県)の地が、信孝と結託した一益に襲撃され続けていたために、秀吉は、再び美濃へ・・・(くわしくは3月11日参照>>)

これをチャンスとみたのが盛政でした。

「秀吉のいない間に、この余呉湖周辺に展開した羽柴勢の諸将の砦を潰してしまおう!」と・・・

敵方の砦のうち、大岩山(おおいわやま)岩崎山(いわさきやま)の砦が手薄になっている事を調べ上げた盛政は、早速、この二つの砦に奇襲をかけたい旨を勝家に申し出ますが、この作戦は、敵の懐深く入る事から、かなり危険・・・勝家は反対しますが、盛政の決意は固く、やむなく勝家は、「砦を落としたら、速やかに陣に戻って来る事」を約束させて送り出します。

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賤ヶ岳の戦いの経緯
画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

天正十一年(1583年)4月20日・・・さすがの盛政は、見事、砦を落として勝利しますが、ここで、その勇猛さが裏目に出てしまいます。

どうしても、もう一つ、この勢いの冷めぬまま・・・明日の朝一で、すぐ目の前の賤ヶ岳砦を落としておきたい盛政は、勝家との約束を破って夕方になっても本陣へと戻らず、占領した大岩山砦にて一夜を明かすのです(くわしくは4月20日参照>>)

そこに、あの本能寺の時と同様に、電光石火の早業で美濃から戻って来る秀吉・・・日付が変わった4月21日の午前0時、まさかまさかの南からやって来る秀吉軍の松明の列に気づいた盛政は、後方の飯浦(はんのうら)の切通しに陣取っていた柴田勝政(盛政の弟で勝家の養子)撤退命令を出すとともに、自軍もすかさず撤退を開始します。

おかげで盛政隊は、ほぼ無傷で撤退に成功しますが、勝政は討死・・・それでも、まだ挽回のチャンスはありましたが、ここで、そのチャンスを砕くように、勝家本隊の近くにいた前田利家父子が戦線離脱してしまうのです(くわしくは4月23日参照>>)

反撃を開始しようとした矢先の撤退劇に、北陸勢全体のバランスが崩れ、態勢は一気に敗色へ・・・やむなく勝家は、家臣の毛受勝照(めんじょう・めんじゅかつてる)に後を託して北陸方面へと敗走し、盛政も、それに続きます(くわしくは4月21日参照>>)

その後、勝家は本拠の北ノ庄城まで戻る事ができましたが、盛政は、敗戦のその日、加賀へ戻る途中の越前にて捕えられてしまうのです。

そして、皆様ご存じのように、その後、秀吉軍に北ノ庄城を包囲された勝家は、敗戦から3日後の4月24日、自ら城に火を放ち、妻のお市の方(信長の妹もしくは姪)とともに自害(4月23日参照>>)・・・勝家が推していた信孝も、兄の信雄に攻められ、5月2日に自刃しました(5月2日参照>>)
(ちなみに滝川一益は7月に降伏して出家します)

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賤ヶ岳より余呉湖と古戦場周辺を望む(左手前側が切通し)

そんなこんなの5月7日、生け捕られた盛政は、秀吉の前へと引き出されます。

大きな体格に、いかにも武勇誇る姿の盛政を目の前にした秀吉は、
「君の強さは噂に聞いてるで…どや?この先、九州を平定したら、お前に、そのうちの一国を与えるよって、俺の配下になれへんか?」
と、誘いますが、盛政は、冷やかに笑いながら、
「ウレシイお言葉ですけど、僕を助けて国を与えなんぞしたら、僕は秀吉さんを、今の僕のように生け捕りにして、縄をかけるでしょう。
いくら新たな恩を与えられても、その前に柴田の叔父から与えられた恩を忘れる事はできませんので…」

と言い、「速やかに殺してくれ」と願います。

「ならば、せめて武士らしく切腹を…」
と言うと、盛政は
「願わくば、大紋を染め抜いた紅裏(もみうら=真紅の裏地)の小袖(こそで)に、香を焚き込めた白帷子(かたびら=麻の着物)を賜りたいです。
それを着て人生最期の風流を尽くしたいんです」

と、続けて
「ほんで、縄を打たれた姿で市中を引きまわして、市民に見せびらかしたなら、秀吉さんの名も挙がりますし、それこそ、僕の一世一代の晴れ姿ですわ」
と、罪人として斬刑に処せられる事を願ったのです。

かくして天正十一年(1583年)5月12日、京市中を車で引き回された後、宇治槙島(まきしま=京都府宇治市槇島町)にて斬首されるのですが、その時、検使役(けんしやく=検視する役人・見届人)として同席していた浅野長政(あさのながまさ=秀吉正室・おねの義弟)を前に、
「叔父の進言を聞かずに、このような結果になってしもうたわけやけど…あの猿面郎(さるめんろう・えんめんろう=サル顔の奴)を倒せんかった事だけが、ただ一つ悔やまれる」

Sakumamorimasazansyuehontaikouki その言動に、長政が怒ると、
「君らに武士の志として言い聞かしとくけど…
あの頼朝
(よりとも=源頼朝)さんは、一旦捕まって流罪の身になりながらも諦める事無く、ついには平家を倒して父の仇を討ったんや(2月9日参照>>)
これこそが、大将の志や!
あぁ、気の毒に…その事を、お前は知らんのやな」

と吐き捨てるように言いながら顔をあげ、長政をキッと睨みつけたのだとか・・・

京都市中からここまで、派手々々衣装で引き回されて来たおかげで、この処刑の場にも大勢の見物人が集まって来ていましたが、それらの人々から
「おぉ!」「あっ晴れ」「さすが、噂の剛の者!」
と、次々に声が挙がったにだとか・・・

その後、辞世の和歌を詠じる時も顔色一つ変えず・・・平然と斬首されたという事です。

♪世の中を 廻りも果てぬ 小車は
 火宅の門を 出づるなりけり ♪
 盛政辞世

享年=30・・・

いやぁ~カッコイイ(゚▽゚*)
最期のシーンは、豊臣が滅んだ後に書かれた複数の軍記物等の記述を統合した物なので、話半分な所はありつつも・・・やっぱりカッコイイ!

近代の出来事だと、人の生き死に関わる事について、あれやこれや考えてしまい、素直に表現しづらいのですが、現代とは、価値観もまったく違う戦国の世の事ですから、ここは一つ素直に「カッコイイ~」という事で、お許しを・・・
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2018年4月29日 (日)

秀吉VS家康…小牧長久手~美濃の乱

天正十二年(1584年)4月29日、長久手の戦い後のこう着状態の中、秀吉が犬山の本陣を出立し、その鉾先を美濃の諸城に向けました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)亡きあと、ともに「邪魔だ」と感じていた織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)(5月2日参照>>)柴田勝家(しばたかついえ)(4月23日参照>>)を排除した織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意・信長の次男)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)でしたが、

その後、以前の清州(清須)会議(6月27日参照>>)で後継者に決まった三法師(さんほうし=信長の孫・後の織田秀信の後見人となって織田の後継者を自負する信雄は、秀吉の醸し出す、織田を継ぐ・・・ではなく、織田を飛び越えての天下を画策し始めた雰囲気に不快感を示し、東の大物であると徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけて、「秀吉に通じた」として自らの3人の重臣を殺害する事で、秀吉に宣戦布告したのです(3月6日参照>>)

これが小牧・長久手(こまきながくて)の戦いですが、その経過は・・・

上記の信雄の重臣殺害事件(3月6日)>>の後、伊勢方面の秀吉傘下の亀山城を信雄方が攻撃(3月12日)>> しますが、一方で、信雄方に与すると見られた池田恒興(いけだつねおき=信長の乳兄弟)が秀吉に味方して犬山城を攻略(3月13日)>>します。

秀吉勢に、テリトリー内に入って来られた清州城(きよすじょう=愛知県清須市)の信雄側は、3月15日、家康がいち早く小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)を占拠・・・この周辺で戦う場合、この小牧山は要所となる場所であるため、実は秀吉側にとっても、ここは確保しておきたい場所だったのです。

そこで、秀吉傘下の森長可(ながよし・森蘭丸の兄で池田恒興の娘婿)が小牧山を落とすべく羽黒(はぐろ=愛知県犬山市)に陣を置くのですが、その作戦をお見通しの家康の奇襲に遭い長可は敗北(3月17日)>>

この敗戦を受けて自らの出馬を考える秀吉は、紀州から大坂進出を試みる雑賀衆(さいかしゅう)根来衆(ねごろしゅう)を撃退して(3月22日)>>、いよいよ小牧長久手の現場に向かいます。

ちなみに、その頃には、伊勢方面での戦い(3月19日)>>では秀吉側が勝利して、伊勢を抑えています。

とは言え、総動員数から見れば圧倒的に不利な家康は、小牧山に本陣を構えて防御を固め、そこを動こうとはせず、しばらくの間睨み合いが続きます(3月28日)>>

そんな中、先の羽黒の戦いで屈辱を味わった森長可が一矢報いるべく「家康の本拠である三河に奇襲したい!」と提案し出陣しますが、この動きも家康側に見破られており、長可&恒興が討死(4月9日)>>するという敗戦となってしまいました。

Toyotomihideyoshi600 この大きな戦い=長久手の戦いの後、しばらくのこう着状態が続いた事で、天正十二年(1584年)4月29日秀吉は一旦大坂に戻るべく、犬山の本陣を後にしました。

実は、この小牧長久手の戦いの間、こう着状態が続くと、秀吉自身は度々大坂へと戻っています。

それは、大坂城構築とともに大坂の町の整備もしていたので、その様子をチョイチョイ見にいかねばならなかったとも言えますし、チョッカイ出してくる雑賀や根来も気になるとも言えますが、上記の通り、「小牧山から動いたら損!」と考える家康を、何とか動かすために、自らがチョイチョイ動いて様子見ぃしていたとも言えます。

その一つが、尾張(おわり=愛知県西部)に隣接する美濃(みの=岐阜県)における信雄傘下の諸将を攻撃する事・・・これによって家康の誘い出しを試みていたわけです。

Sekigaharafukutukazyoucc 以前、関ヶ原の戦いでのページにupした位置関系図ですが、今回のご参考に…
(クリックしていただくと大きいサイズで開きます)

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そのターゲットとなったのが、加賀野井城(かがのいじょう=岐阜県羽島市)竹ヶ鼻城(たけがはなじょう=岐阜県羽島市)脇田城(わきだじょう=岐阜県海津市)駒野城(こまのじょう=岐阜県海津市)でした。

かくして、本陣を後にした秀吉は、大良(おおら=岐阜県羽島市)戸島東蔵坊(とうぞうぼう)まで来た時、羽柴小吉(こきち=甥で養子・秀勝)に、この場に留まって加賀野井城と竹ヶ鼻城をけん制しつつ監視するよう命じます。

この時、加賀野井城には、城主の加賀野井重望(かがのいしげもち=弥八郎)以下、信雄から加勢として派遣されていた千種三郎左衛門(ちぐささぶろえもん)など2千余騎が立て籠もっていましたが、2日後の5月1日に城を包囲した秀吉軍は、2重3重に柵を張り巡らせて、ネズミ一匹逃がさぬ態勢を整えます。

「このまま籠城すれば、やがて飢えてしまう」・・・と判断した加賀野井城内の諸将は、5月5日夜半、城兵が一丸となって撃って出ますが、数に物を言わせる秀吉軍は、蒲生氏郷(がのううじさと)を先頭に、一人残らず討ち取るべく猛戦し、ウムを言わさず400余の首を挙げました。

城主の加賀野井重望と信雄からの派遣要員は、この間に搦め手より城から脱出し、夜陰に紛れて清州城へと逃れたので、戦闘が一段落して陽が昇る頃には、この城内には、深手を負って動けない状態の敵兵しか残っていないという、殺伐とした風景になっていたのでした。

こうして加賀野井城を落とした秀吉勢・・・次に、すぐ近くにある竹ヶ鼻城。

実は、秀吉側は、加賀野井城を落とせば、すぐに竹ヶ鼻城も降伏して来るだろうと踏んでいたのですが、逆に、城主の不破源六(ふわげんろく=広綱)は、より守りを固めて抗戦の構えを見せます。

5月10日、秀吉勢は竹ヶ鼻城へと攻めかかりますが、何重もの濠に囲まれた堅固な要塞は、容易に落ちる事無く、このまま力攻めを続ければ、おそらく秀吉側も無傷ではいられない・・・

Komakinagakutetakegahanamizuzeme_2 竹ヶ鼻城水攻めの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

 

そこで、秀吉は近くに砦を築き、境川(さかいがわ=逆川)を堰き止めて城の周囲を水浸しにする水攻めとするべく、諸将に、それぞれ五間~十五間(一間=約1.8m)を割り当て、周辺の住民たちも総動員して昼夜問わずの工事を実施し、数日の内に堤を完成させ、その後、川の水をドッと引き入れると、たちまち、周辺の町屋は浸水し、竹ヶ鼻城は湖上の城となりました。

やがて城の曲輪(くるわ)までが浸水しはじめると、もはや戦う術も無く、見守る城兵のテンションも下がりっぱなし・・・16日になって、さすがの不破源六も降伏し、開城した後、伊勢方面へと退去して行きました。

竹ヶ鼻城を攻略した秀吉軍は、信雄派の織田信照(のぶてる=信長の弟)の拠る奥城(おくじょう=愛知県一宮市)を陥落させた後、6月には脇田城を陥落させ、一方で蟹江城(かにえじょう=愛知県海部郡蟹江町)攻防戦(6月15日参照>>)を展開しつつ、

8月には、筒井順慶(つついじゅんけい)と美濃の諸将を先鋒とする大軍が、信雄に仕える高木(たかぎ)一族の守る津屋城(つやじょう=岐阜県海津市南濃町)攻め落とし、いよいよ駒野城へと迫りますが、ここに、信雄の要請を受けた法泉寺(ほうせんじ=三重県桑名市多度町)の僧=空明(くうみょう)本願寺門徒を率いて参戦して来ます。

本願寺は、あの信長をも困らせた一向一揆の門徒衆ですから、ここに加勢して来た人数はしれていても、門徒は全国にまだまだいるわけで、さすがの秀吉も、全国の本願寺門徒相手に一戦を交えるかどうかについては一考を要するわけで・・・

ここは一旦兵を退き、先に落とした津屋城に、配下の稲葉貞通(いなばさだみち=一鉄の息子)父子を置いて監視させるだけにしておきました。

という事で、結果的には、この美濃での戦線において、駒野城だけは落城せずに済んだわけですが・・・

と、そんなこんなやってるうちに、秀吉の信雄懐柔作戦が実を結び始め、9月頃からは、家康そっちのけで信雄との和睦交渉が開始され、この年の11月15日に、桑名付近で行われた信雄と秀吉の会見にて、信雄から秀吉に人質を差し出すとともに犬山城と河田城(こうだじょう・ともに一宮市)を差し出す事、その代わり、秀吉は北伊勢の4郡を信雄に返還する事を条件に、正式に講和が成立・・・そうなると、家康も兵を退くしかなくなってしまいました(11月16日参照>>)

こうして、最初で最後の秀吉VS家康の直接対決となった小牧・長久手の戦いは終了したのです。

・・・にしても、
一般的に、小牧長久手の戦いを語る時、あるいはドラマや小説等で描かれる時は、激しい戦いとなったうえに、重要人物である森長可&池田恒興が討死にした事もあって、何かと長久手の戦い中心になってしまうため、「秀吉負けた感」が強いですが、その小牧長久手以外は、意外に秀吉が優位だったのですね~

と言うのも、この合戦での総動員数は、秀吉が9万なのに対し、家康は1万7千ほどだったとされ、上記にも書いた通り、「家康は小牧を動いたら負け」状態で、その他の場所で大きく戦いを展開する事は、たぶん無理だったのではないか?と考えます。

そういう意味では、勝ち負けがウヤムヤのまま、勝手に講和して合戦を終わらせてくれた信雄さまも、案外、家康にとって良い働きをしてくれた感じ?なのかも知れませんね。

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱←今ココ
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2018年3月19日 (月)

小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防戦

天正十二年(1584年)3月19日、小牧長久手北伊勢方面の戦いである松ヶ島城の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後(6月2日参照>>)、仇となった明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府)に討って(6月13日参照>>)織田家家臣内で優位に立ち、その後の清州(清須)会議(6月27日参照>>)を仕切った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を味方につけ、後継のライバルでもあった弟=織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)を追い落とし(5月2日参照>>)、その後推しをしていた柴田勝家(しばたかついえ)をも葬り去って(4月23日参照>>)、未だ幼い後継者=三法師(さんほうし=信長の孫・後の織田秀信に代わって、事実上の織田家後継者となっていた織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意・信長の次男)でしたが、

今度は、これまで西の出来事を静観(10月29日参照>>)していた徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけて秀吉に反発・・・天正十二年(1584年)3月6日、信雄は、自らの長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)重臣たちを呼び出して「秀吉に通じた」という名目で殺害したのです(3月6日参照>>)

『常山紀談(じょうざんきだん)によれば、その重臣殺害事件の発端となったのは、津川義冬(つがわよしふゆ)岡田重孝(おかだしげたか)浅井長時(あざいながとき=浅井田宮丸とも)滝川雄利(たきがわかつとし)という信雄の重臣4名が、秀吉に呼び出されて内応する約束をさせられたという出来事で、他の3人を裏切って、この事を信雄にチクッたのが滝川雄利、殺されたのは残りの3人という事になっています。

細かな経緯の真偽はともかく、ここで、重臣3人が謀反の疑いで殺害された事は確か・・・その勢いのまま、信雄は津川義冬の伊勢松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)を没収して滝川雄利に与えるとして、配下の佐久間正勝(さくままさかつ=信盛の息子・佐久間信栄)山口重政(やまぐちしげま)らを派遣します。

Komakinagakutekankeizu
小牧長久手の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

正勝&重政らは、その松ヶ島城へ向う道すがら、秀吉方の関盛信(せきもりのぶ)一政(かずまさ)父子が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)を攻撃しますが、これは城兵の強固な守りに阻まれてしまいます(3月12日参照>>)

そんな亀山城攻防のあった同日深夜の3月13日には、東海地方にて犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)攻略戦(3月13日参照>>)が勃発するさ中、松ヶ島城に向った佐久間らではありましたが、留守を預かる津川義冬の一族が籠城を固めた城を思うように攻める事ができず、『大剛の人』として名を馳せた木造長政(こづくりながまさ=木造具康と同一人物か?)の援軍を得て、何とか包囲攻撃を仕掛けます。

寄せ手の猛攻に、さすがの松ヶ島城兵も数百人の死者を出し、あえなく開城・・・生き残った者は、ことごとく大和(やまと=奈良県)方面へと逃走して行きました。

こうして松ヶ島城に入城した滝川雄利に対し、信雄は「秀吉からの攻撃に備えるように」と指示し、更なる援軍を差し向けますが、その中には、家康から預かった服部半蔵(はっとりはんぞう=正成)率いる伊賀衆甲賀衆の鉄砲隊もいたとか・・・

一方、信雄による重臣殺害の一件を3月8日に耳にした秀吉は、早速、配下の堀尾吉晴(ほりおよしはる)らに北伊勢出陣の準備をさせ、自らも10日過ぎには近江(おうみ=滋賀県)へと向かいます。

そんな中、秀吉が目を付けたのが、信雄方が北伊勢守備の拠点としていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)・・・ここは、かの佐久間正勝の城でしたが、南北朝時代からの古城ゆえ、未だ城壁の補修が完璧では無かったのです。

そこを秀吉は、蒲生氏郷(がもううじさと)を総大将に長谷川秀一(はせがわひでかず)滝川一益(たきがわかずます)以下、1万余の軍勢で以って攻めさせたのです。

上記の通り、未だ守りが完璧でない峯城内は、「籠城戦は不利」と考え、城外へと撃って出ます。

しかし、これは秀吉の思惑通り・・・なんせ城外戦となれば、数に圧倒する秀吉軍が有利ですから・・・

激戦が展開されるも、所詮は多勢に無勢・・・多くの死者を出した信雄方の主将らは、やむなく城へと戻りました。

この敗戦を悔やんで自害しようとまで考えた佐久間正勝を、山口重政が思い留まらせたと言いますが、そんな中、家康配下の酒井忠次(さかいただつぐ)奥平信昌(おくだいらのぶまさ)らの援軍がコチラに向かっているとの知らせ・・・

この一報が秀吉方にも届いた事で、峯城を取り囲んでいた秀吉方の寄せ手が一里(約4km)ほど退きますが、この移動を見て取った峯城内の将兵は、その日の夜、闇に乗じて城を脱出し、尾張(おわり=愛知県西部)方面へと逃走していったのです。

秀吉方の将兵が峯城へと入城したのは、その翌朝の事・・・3月14日でした。

Toyotomihidenaga500a こうして峯城を攻略した秀吉軍は、つい先日奪い取られた松ヶ島城奪還に向けて、先の蒲生氏郷に加え、新たに羽柴秀長(ひでなが=秀吉の弟)羽柴秀勝(ひでかつ=秀吉の甥で養子)筒井順慶(つついじゅんけい)織田信包(おだのぶかね=信長の弟)ら、そして亀山城の関信盛父子に、もちろん津川義冬の一族も加わり、万全の態勢で松ヶ島城を包します。

秀吉は、この軍勢に田丸直息(たまるなおやす・なおおき)を通じて書状を送り、
「皆で分担して堀柵を構築し、一人として逃がさんように…さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)の水軍で以って岸に舟を寄せ、これも縄で柵に結んで一人も逃がさんようにしろよ」
と、伊勢湾に面した城への攻略指南をしています。

もちろん、これは敵兵を逃がさないようにするとともに、海路からの兵糧の運び込みも防ごうとの作戦・・・『勢州軍記』によれば、この時の秀吉の軍勢は約5万との事ですが、さすがに、そこまで多くはなくとも、自らの弟や養子たちを大将に据えている所からみても、秀吉は、かなりの数で以って完全勝利を狙った物と思われます。

一方、この態勢を見て、「兵糧攻めにする気やな」と察した松ヶ島城内は、16日・17日・18日に3日間に渡って、しばしば門を開いて撃って出て、囲む諸将の陣所などを襲撃して回りますが、なんせ相手が多い・・・

対する秀吉方は力攻めをせず、ただひたすら相手の体力消耗を待つ・・・と、なると、やがては根負けして投降して来る者もチラホラ出始める。

で、結局、天正十二年(1584年)3月19日交渉に応じた城兵が開城し、秀吉軍は大した痛手を被る事無く松ヶ島城を取り戻す事に成功・・・大将の秀長は、ここを岡本良勝(おかもとよしかつ=重政とも)に守らせました。

とは言え、一方の小牧長久手方面では、この間の3月17日、羽黒の戦いは秀吉軍の森長可(ながよし・森蘭丸の兄で池田恒興の娘婿)にとって屈辱の戦いとなるのですが、それらのお話は、以下の関連ページでどうぞm(_ _)m

関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城←今ココ
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>

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