2021年9月 1日 (水)

未だ謎多き~豊臣秀吉の大坂城

 

天正十一年(1583年)9月1日、羽柴秀吉が大坂城の築城を開始しました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き(6月2日【本能寺の変】参照>>)後、

いち早く畿内に戻って、主君の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)事により、

少し後れを取った(【石動荒山の戦い】参照>>) 家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)に対して、

信長後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)にて、織田重臣の丹羽長秀(にわながひで)池田恒興(いけだつねおき)を味方につけて、うまく立ち回る事に成功した羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、

事実上、織田家臣団のトップを決める事になる賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦いに勝利して(4月21日参照>>)

本拠の北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)に退いた柴田勝家を自刃に追い込んだ(4月23日参照>>)のは、天正十一年(1583年)4月24日の事でした。

柴田勝家と組んで秀吉に敵対していた織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)も、翌月の5月2日に、秀吉を後ろ盾に信長の後継を狙う織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄・信長の次男)追い詰められて自刃します(5月2日参照>>)

勝家&信孝に味方して長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)で籠城して孤軍奮闘していた滝川一益(たきがわかずます)(2月12日参照>>)、彼ら亡き今、この7月に降伏しました。

こうして、
もはや織田家の後継は、あの清須会議で後継者と定められた幼い三法師(さんほうし=後の織田秀信・信長の孫)現時点で秀吉に丸め込まれ中の信雄のみだし、重臣の丹羽&池田は味方だし・・・

てな事で、天正十一年(1583年)9月1日、秀吉は、いよいよ大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)の築城を開始するのです。

いよいよ…と書いたのは、この少し前、秀吉は、自身の手紙の中で、
「大坂を受け取り候て
 人数入れ置き
 国々城割り候て
 これ以後無法無き様に致し申し候て
 五十年も国々鎮まり候様に申し付け候」
と・・・

つまり、
「大坂を本拠として、戦いの無い平和な世を作る」
との並々ならぬ決意を語っているから・・・

これまでも秀吉は、いくつか城を構築してはいますが、この決意を見る限り、まさに天下統一を見据えた国家の政庁としての城が、この大坂城であった事が伺えます。

その場所は、現在も大阪城が建つ、あの場所で、それ以前は、信長と約10年に渡る戦いを繰り広げた一向一揆(いっこういっき)(8月2日参照>>)の本拠地である石山本願寺(いしやまほんがんじ)が建っていた場所でした(【春日井堤の戦い】参照>>)

ちなみに、かつては本願寺は京都の山科に本拠を構えていましたが、日蓮宗や法華宗との戦い(【山科本願寺の戦い】参照>>)で山科を追われた時に移った先が、中興の祖と言われる蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が隠居所として建てた石山御坊(いしやまごぼう)で、以後、ここを石山本願寺として一向宗の拠点としていたのでした。

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「石山戦争図」部分(和歌山市立博物館蔵) 

あの『信長公記』にも、ここは
「日本一の境地なり」
と表現されているように、この場所は、奈良京都にも近く、淀川大和川などの大河に守られつつ、そこから派生して縦横無尽に走る川に囲まれていながら(↑の通り、当時の大阪平野は未だ海っぽかった)

この建造予定の場所だけは神代から陸地だった上町台地という高台となるわけで、

守りに強く、外国からの大船にも対応できるし、もちろん貿易にも有利な、まさに日本一の場所だったわけです。

おそらく、信長もそのつもりであり、もし本能寺で倒れなければ、彼もまた、この場所に城を構築していた事でしょうね。

とにもかくにも、そんな天下の一等地に、上記のような意気込みで構築する城・・・まして、秀吉の城づくりを見る限り、それは戦う城というよりも見せる城なんですから、巨大かつ豪華絢爛でなくてはなりません。

そう、
「こんなスゴイの建てる人と戦って勝てるワケない」
と思わせるような城でなくては。。。

もちろん、工事は天下普請(てんかぶしん)・・・一般的には、江戸幕府が始まってから、徳川将軍が全国の諸大名に命令して行わせた土木工事の事を天下普請と言いますが、

吉田兼見(よしだかねみ)の書いた『兼見卿記』によれば、大名たちだけでなく公家にも負担が課されたというし、
『イエズス会日本年報』によれば、連日5万名に及ぶ人々が従事していたと言いますから、やはり、これは天下普請。

天正十一年(1583年)9月1日に始まり、まずは3ヶ月後には、三段からなる見上げるような石垣の天守台が完成し、この先、その上に建つであろう五重の大天守は、黄金の装飾がふんだんに用いられた豪華な造り・・・

その構築と同時に、周囲は、石山本願寺の遺構を組み込みつつ、本丸から二の丸を二重の堀が囲み、さらに秀吉の邸宅となる奥御殿から、政庁となる表御殿が建造され、草庵や茶室が点在する山里曲輪(やまざとくるわ)と進み、

Toyotomioosakazyoukamae 一方では、北に淀川、東に平野川猫間川を天然の外堀とし、そこに城下町を取り込んだ総構(そうがまえ)横堀(現在の東横堀川)が開削され、南には空堀(からほり)が掘られていきます。
(現在の大阪城の4~5倍くらいか?→)

天正十四年(1586年)の4月に、今まさに建築中の大坂城をおとずれた大友宗麟(おおともそうりん)も、国許(くにもと)への手紙で「見事結構」「比類無き」「仰天申候」と絶賛してます(4月6日参照>>)

そんな、周囲約8kmに及ぶ巨大な城郭の姿が露わになっのは、文禄三年(1594年)頃・・・最終的な完成に至ったのは慶長三年(1598年)の事でした。

とは言え、秀吉は、天正十三年(1585年)に関白に任ぜられて、関白としての政庁である聚楽第(じゅらくてい=京都市上京区周辺)を建造し(2月23日参照>>)

その関白を退いてからは隠居所として建てた伏見城(ふじみじょう=京都市伏見区)(3月7日参照>>)にいましたし、上記の最終的な完成からわずかしか経たない慶長三年(1598年)の8月に亡くなってしまいます(8月9日参照>>)ので、

実際に秀吉自身が滞在した時間は、現在の私たちが「太閤(たいこう=関白の職を退いた人・ここでは秀吉の事)さんの城」という頭で描くイメージよりは、かなり短かったわけですが、

死の間際には、自分が亡くなった後は一人息子の秀頼(ひでより)淀殿(よどどの=浅井茶々・秀吉の側室で秀頼の母)が大坂城に入って、五大老の助けを借りながら政権を維持するよう遺言を残していますので、

やはり秀吉にとって、大坂城は天下人の拠点とすべき城だった事でしょう。

しかし、ご存知のように、その大坂城は、五大老筆頭であった徳川家康(とくがわいえやす)の攻撃を受け、慶長二十年(1615年)5月の大坂夏の陣にて炎上&落城してしまいます。(くわしくは【大坂の陣の年表】参照>>)

そして、難儀な事に、勝利した德川家が、豊臣時代の大坂城を縄張りごとスッポリと土で覆ってしまい、

その上に江戸幕府の大坂城を構築してしまったために(1月23日参照>>)(←これが現在の大阪城です)、以来、豊臣時代の遺構は地中深く埋まったままになってしまったのです。

それから約300年・・・
なぜか、すっかり、その事を忘れていた大阪市民。。。

昭和の当時、そこにある大阪城を太閤さんの城と信じて疑わなかった大阪市民は、昭和六年(1931年)、すでに焼失していた天守閣を市民の全面寄付により復興・・・

しかし、それは大坂夏の陣図屏風(11月13日参照>>)に描かれた「豊臣デザインの天守閣を徳川時代の天守台に復興してしまう」という大勘違いだったわけですが(11月7日参照>>)、これも、何事にもおおらかなお笑いの聖地ならではのご愛敬・・・

なんせ、秀吉の大坂城と現在(德川)の大阪城が、別々の縄張りだとわかるのは、第二次大戦後、占領軍から大阪市に変換された事により、昭和三十四年(1959年)に行われた「大坂城総合学術調査」にて・・・

そこでようやく、現在の堀や石垣が豊臣時代の物では無い事が周知されるようになるのです。

最初の簡単な調査で、もともとあった強固な地盤の上に10m以上の盛り土をした上に築城されている事がわかり、さらに本丸・天守閣で行われたコア・ボーリング調査にて地下7.5mの所から、未知の石垣が発見されたのです。

Dscn4113a_1←コア・ボーリング調査で発見された石垣

しかし、この時点ではまだ石垣は謎の石垣とされ、豊臣時代の物と断定するには至りませんでした。

なんせ、上記の通り、ここはもともと石山本願寺があった場所ですし、近くには大化の改新の時の都だった難波宮跡(12月11日参照>>)もあり、縄文人の住居跡も発見されている復号遺跡でしたから。。。

Oosakazyouhonmarunakai1500a ところが、その翌年、偶然にも徳川幕府の京都・大工頭をしていた中井家(【中井正清】参照>>)のご子孫のお家から、

豊臣時代の『大阪城本丸図→』が発見され、その図と地下の石垣の位置を照合した結果、

この石段は、3段に築かれた豊臣時代の本丸御殿を囲む石垣のうちの2段目・中ノ段帯曲輪(なかのだんおびくるわ)の石垣の一部であることが確定され、現在の大阪城の下には、豊臣時代の大坂城の縄張りが埋まっている事が確定となったわけです。

そして豊臣時代の遺構は、今現在も発掘中・・・

Eggenbergj また、2006年には、オーストリアエッゲンベルグ城の壁に飾られていた絵画(←)が

豊臣期の大坂城を描いた8曲1隻の屏風である事が判明し、その全容解明に一役買った事もありました(9月21日参照>>)

今も毎年のように新たな遺構が発見される大阪城・・・今後の、更なる発見に期待ですね。

ちなみに、天満橋駅京阪東口近くのドーンセンターのビル前には、この下から発掘された三の丸の遺構である石垣が、そのままの状態で地上へと移転されて展示されています。
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↑ドーンセンター前の石垣
(くわしい行き方は本家ホームページ「京阪奈ぶらり歴史散歩」で>>

ところで、この大阪城は、別名を「金城」あるいは「錦城」と書いて、どちらも「きんじょう」と呼ばれます。

どちらも同じ読みだし、どっちでも良いっちゃぁ良いんですが、個人的には「錦城」の表記が好みです。

不肖私、大阪城を朝な夕なに仰ぎ見る場所で生まれ育ちましたが、出身校の校歌の歌詞も「錦城」で、

愛唱歌には♪淀の流れに姿を映し~錦(にしき)のお城と背丈を競う♪というフレーズもあり、なにより、昭和の天守閣復興時の設計者である古川重春ふるかわしげはる)の著書も『錦城復興期』ですから・・・

信長が(みん=中国)の瓦師だった一観( いっかん)を招いて、安土城の屋根に明風瓦を使用した事は有名ですが、奇抜な事が大好きば秀吉ですから、ひょっとしたら彼も、普通には思いつかないような色の瓦を使っていた可能性も無きにしもあらず・・・

実際には、遺構からは数多くの金箔瓦が出土しており、天守閣の屋根は金箔の瓦で豪華に造られていたんだろうなぁ~と思いますが、その表現は「金ピカ」というよりは、「錦を織りなすような」色であったのでは?と想像している茶々であります。

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大阪城全景

ま、金城湯池(きんじょうとうち)という四字熟語もあり、その「金城」は堅固な城の代名詞でもあるので、結局は、どちらも良い別名なんで、あくまで好みなんですけどね。
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2021年5月19日 (水)

土佐の出来人~長宗我部元親が逝く

 

慶長四年(1599年)5月19日、土佐から四国統一を果たした長宗我部元親が61歳で死去しました。

・・・・・・・

天正十八年(1590年)、天下を阻む最後の大物とも言える小田原(おだわら=神奈川県小田原市)北条(ほうじょう)氏を倒した豊臣秀吉(とよとみひでよし)・・・
●小田原征伐開始>>
●小田原城開城>>

関東から凱旋帰国して、自らの聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい=京都府京都市)に出陣した諸将を招いて、その労をねぎらった秀吉は、その饗応の席で、この小田原征伐水軍を率いて参戦し、見事、下田城(しもだじょう=静岡県下田市)を落とした(4月1日参照>>)長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を呼び寄せて、こう言ったといいます。

Tyousokabemototika600 「元親クンは四国をご所望か?
それとも…本心は天下を狙ってる…とか?」

すると元親は、
「四国だけなんて…当然、天下が欲しいです」

「君に天下はムリやろww」
と秀吉が茶化すと、

「悪しき時代に生まれ来て、天下の主(あるじ)に成り損じてございます」『土佐物語』より)
と、元親か返したのだとか・・・

「ん?どういう意味?」
と考える秀吉に、元親はすかさず、
「他の方の天下やったら、おそらく僕にもチャンスがあったかと思いますが、秀吉様ほどの器量の持ち主の天下では、僕なんか太刀打ちできませんよって。
たまたたま、僕が、秀吉様の時代に生まれてしもて、天下への望みを失うてしもたので、
あぁ、悪い時代に生まれて来てしもたなぁ~て思う…って意味ですわ」

これを聞いた秀吉は、笑いながら
「ほな、今度、茶の湯でもごちそうになろかな~」
と上機嫌だったのだとか。。。

ちなみに、この「茶の湯でもごちそうになろかな~」というこの言葉・・・
以前、【北野大茶会】>>のところでもチョコッと書かせていただきましたが、信長の時代から、茶会を開くには殿様の許可が必要でした。

しかも、その許可は「茶会を開く許可」ではなく、様々な功績を挙げて忠義を尽くし、主君が「コイツなら!」と認めた人に「茶会を開いても良い権利を許可する」という、その人自身に与える物なので、今回の秀吉の「茶の湯でもごちそうになろかな~」は、単に「お茶が飲みたい」わけではなく、秀吉が元親を認めた…という意味があるわけです。

なので、このあと、元親は大喜びで、いそいそと千利休(せんのりきゅう)のもとへ向かい、茶会の打ち合わせをして、その準備に入ったのだとか・・・

と、ちょっと話がソレましたが・・・(元に戻して…)

この上記の聚楽第での秀吉と元親のやりとり・・・どこまで本心なんでしょう?

あくまで想像ですが、
おそらくは、半分本気で半分ベンチャラ…といった感じ?

そもそも、これまでの元親は・・・

永禄三年(1560年)の長浜表(ながはまおもて=高知県高知市長浜)で初陣(5月26日参照>>)を飾って以来、
永禄七年(1564年)には長年のライバルだった本山親茂(ちかしげ・当時は貞茂)を配下に組み込み(4月7日参照>>)
永禄十二年(1569年)には安芸城(あきじょう=高知県安芸市)を陥落させ(8月11日参照>>)
天正三年(1575年)には四万十川(しまんとがわ)の戦いに勝利して、初陣から、わずか15年で土佐(とさ=高知県)統一(7月16日参照>>)を成し遂げていますが、

当然の事ながら、これ全部、自力で勝ち取って来たわけです。

ここで元親は、更なる野望=四国統一を果たすべく、今現在、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)田勝頼(たけだかつより)を破って上り調子満載で本拠の安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(2月23日参照>>)を構築しつつあった織田信長(おだのぶなが)に、

「この勢いのまま四国統一しちゃってイイっすか?」
をお伺いをたてたところ、
「えぇゾ!いてまえ~」
と、信長が快諾・・・

そうして、伊予(いよ=愛媛県)阿波(あわ=徳島県)讃岐(さぬき=香川県)への侵攻を開始するのです。

一方の信長は、この頃から、あの石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・一向宗の総本山)との戦いが激化・・・天正四年(1576年)7月の第一次木津川口の海戦(7月13日参照>>)では、本願寺を支援する毛利(もうり)水軍村上(むらかみ)水軍のゲリラ戦に翻弄され、まんまと兵糧を運び込まれてしまいます。

2年後の天正六年(1578年)第二次木津川口での海戦(11月6日参照>>)の時には、あの鉄甲船(てっこうせん)(9月30日参照>>)を登場させて、何とか大阪湾の制海権を確保した信長でしたが、本願寺を支援して敵対する西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)との関係もあって、是非とも、瀬戸内海の制海権が欲しいわけで・・・

そこで信長は、かつての高屋(たかや=大阪府羽曳野市古市)・新堀城(しんぼりじょう=堺市北区新堀町)の戦い(4月21日参照>>)で信長に降って以降、織田配下となって活躍している三好康長(みよしやすなが)織田の四国担当とします。

この三好康長は、一時期畿内を制した三好長慶(ながよし)(5月9日参照>>)の叔父にあたる人で、信長上洛(9月7日参照>>)の際には三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)とともに信長に敵対してましたが、上記の通り今は味方・・・しかも、ご存知のように、かの三好氏の本拠は阿波ですから、康長はもともと阿波には強い地盤を持っていたわけです。

で、信長は元親に、
「阿波だけは三好クンに譲ったてネ」
と方針転換。。。。

「えぇっ(ノ°ο°)ノそんなん今更…約束ちゃいますやん!」
と元親・・・当然、信長と元親の関係は悪化します。

そんなこんなの天正十年(1582年)、四国攻めを決意した信長から四国先鋒担当を任された康長は、一足先(2月頃から?)に四国に入って、シレッと長宗我部側の武将を寝返らせたりなんぞしながら、四国攻めの総大将となった信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)の四国入りを待ちます。

ところが、ここで起こったのが、あの天正十年(1582年)6月2日の本能寺の変です(6月2日参照>>)

まもなく四国に入るはずだった信孝は、織田軍をまとめきれず右往左往してる間に、中国攻略中(5月7日参照>>)だった秀吉(当時は羽柴秀吉)神ワザ的速さで畿内へ帰還(6月6日参照>>)・・・その秀吉が信孝を総大将に担いでくれ、ともに父の仇である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府八幡&大山崎付近)破り(6月13日参照>>)、何とか息子としての信孝の面目は保たれました。

実は、この時・・・一説には、明智光秀と元親は連携して、北東(光秀)と南西(元親)で秀吉軍を挟み撃ちする作戦があったとか・・・ご存知のように、元親の奥さんは、明智光秀の重臣=斎藤利三(さいとうとしみつ)の妹(?諸説あり)だったとも言われ、光秀が謀反に至る動機の一つに「信長に四国攻めを止めさせたかった=四国説」(6月11日参照>>)があるくらいですから、さもありなんという感じですが、

とは言え、結果的には、その挟み撃ちは決行されず、むしろ信長死すのゴタゴタの間に、元親は阿波を平定(9月21日参照>>)しています。

さらに、織田政権の派閥者争いで秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)がモメた賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(2011年4月21日参照>>)では、勝家側についた元親を警戒した秀吉が淡路島(あわじしま=兵庫県洲本市)に派遣していた仙石秀久(せんごくひでひさ)と、まさに賤ヶ岳のあったその日=天正十一年(1583年)4月21日に引田表(ひけたおもて)で戦い(2010年4月21日参照>>)勝利して讃岐を手に入れました。

ただ、ご存知のように、一方の勝家の方は秀吉に敗北して自刃しています(4月23日参照>>)

さらにさらに・・・
その後、秀吉と袂を分かった信長次男の織田信雄(のぶお=のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)を後ろ盾にして、天正十二年(1584年)起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知・岐阜・三重など)の戦い(11月16日参照>>)でも、元親は信雄&家康と結んで秀吉と敵対し、戦いのどさくさ真っただ中の天正十二年(1584年)10月19日に西園寺公広(さいおんじきんひろ)黒瀬城(くろせじょう=愛媛県西伊予市)を陥落させて伊予を手中に治め(10月19日参照>>)、ここに於いて、一応の四国統一を果たしたとされます(統一範囲には諸説ありなので…)

・・・・とまぁ、長々と長宗我部元親の戦いの経緯を書いてしまいましたが、

何が言いたいかというと、
ここまでの元親さんは
「とにかく秀吉に敵対し続けていた人」
という事。。。

当然の事ながら、そんな元親を秀吉も警戒し「潰しておかねばならない相手」と認識し、紀州征伐(きしゅうせいばつ=和歌山県の根来・雑賀・高野山など)(3月28日参照>>)を終えた天正十三年(1585年)、弟の豊臣秀長(ひでなが=羽柴秀長)を総大将に約11万の大軍を四国に送り込んで元親を降伏させ、長宗我部を土佐一国に押し込めたのです(7月25日参照>>)

こうして元親は、その後は秀吉の配下として生き残る事になるわけですが。。。

どうやら、その後の秀吉、、、
ここまで徹底的に敵対していたワリには、配下となってから後の元親の事は、意外と気に入っていた?フシがあります。

というのも、一旦降伏してからの元親は、秀吉に対し、忠誠を尽くしに尽くしまくるからで、まぁ、ベンチャラあるいはゴマスリと言えばそうなんですが、そりゃ、秀吉だって愛想悪いよりは、少々オーバー気味でも、一所懸命ご機嫌とってくれてる人の方が「愛い奴…」と思うのもごもっとも・・・

降伏した先の四国攻めの7月25日のページ>>でも書かせていただいたように、この時は未だ秀吉方の攻撃を受けていたのが四国全土に及ばない段階で、戦わずして降伏したわけで・・・つまりは、「命かけて守る」とか「死んでも恨む」といった雰囲気ではなく、「無理な戦いはしない」合理的な判断や、良いように解釈すれば先を見る力もあったとも言えます。

また、戦いの後に上洛して秀吉と謁見した際には、元親自身が聚楽第の壮麗さに見る桃山文化のすばらしさに感銘を受けた事も確か・・・

だからこそ、秀吉の配下になったからにはトコトン忠誠を尽くしてやろう!という気持ちの切り替えをやってのけたのかも知れません。

降伏直後の天正十四年(1586年)に、秀吉が、奈良の東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)の大仏をしのぐ大きな大仏と大仏殿を、京都に建立する事を計画した時(7月28日の前半部分参照>>)には、数百艘の船を連ねて、土佐の山奥から伐り出した大木を誰よりも早く送り届け、秀吉を大いに喜ばせたとか・・・

その年の戸次(へつぎ)川の戦い(11月25日参照>>)では、最前線で戦って嫡男の長宗我部信親(のぶちか)を失い、そのショックで以前の勇猛さが無くなったとも言われますが(12月12日参照>>)

一方で、冒頭に書いたように、小田原征伐でもしっかり功績を残しています。

その翌年には、浦戸湾に迷い込んだ鯨9頭を生け捕りにし、そのまま数十隻の船で大坂城まで運んで、これまた秀吉を大いに喜ばせたとか・・・

文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(4月23日参照>>)にも従軍し、その水軍力は大いに期待されました。

しかし、やはり優秀な後継ぎであった信親を失ったのは大きかったのでしょう。

次男の親和(ちかかず=香川親和)と三男の親忠(ちかただ=津野親忠)が他家を継いでいる事もあってか、元親は四男の盛親(もりちか)を後継者に指名しますが、これが家臣たちからの猛反対を受けます。

その反対を押し切って盛親に後を継がせた事、また、慶長三年(1598年)8月に御大秀吉が亡くなった(8月9日参照>>)事で政情も不安定に・・・

その後は、徳川家康と誼(よしみ)を通じたものの、やがて体調を崩した元親は、慶長四年(1599年)5月19日病状の悪化して61歳で、この世を去るのです。

若き頃は、色白で部屋に籠りっきりだったため「姫若子(ひめわかご)と言われたものの、その後、見事な初陣を飾り、いつしか「土佐の出来人(できびと)と呼ばれるようになった元親・・・

しかし、彼が後継者に選んだ息子=盛親は、関ヶ原では西軍につき、兵を動かさないまま敗報に接し、家康によって土佐一国の国主の座を奪われる事になってしまい、

残念ながら、元親の夢が子々孫々と受け継がれる事は無かったのです。

★その後の長宗我部↓
 ●土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆>>
 ●大坂夏の陣・八尾の戦い~桑名吉成の討死>>
 ●盛親・起死回生を賭けた大坂夏の陣>>
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2021年4月 1日 (木)

秀吉の小田原征伐~水軍による下田城の戦い

 

天正十八年(1590年)4月1日、豊臣秀吉小田原征伐にて、豊臣水軍を受け持った長宗我部元親らが、軍艦大黒丸で北条方の清水康英の籠もる下田城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

ご存知、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)の時のお話です。

天正十年(1582年)の本能寺(ほんのうじ)にて織田信長(おだのぶなが)が倒れた(6月2日参照>>)後、その後継者を決める清須会議(きよすかいぎ)で主導権の握り(6月27日参照>>)、さらに信長の葬儀を仕切って(10月15日参照>>)、信長の三男である織田信孝(のぶたか)と織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を倒し(4月21日参照>>)、信長次男の織田信雄(のぶお=のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)を抑え込んだ(11月16日参照>>)豊臣秀吉は、

天正十三年(1585年)には紀州征伐(3月24日参照>>)四国平定を成し遂げ(7月26日参照>>)、翌天正十四年(1586)には京都に政庁とも言える聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)の普請を開始(2月23日参照>>)する一方で、太政大臣になって朝廷から豊臣の姓を賜り(12月19日参照>>)、さらに翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定(4月17日参照>>)して「北野大茶会」を開催【北野(10月1日参照>>)・・・

と、まさに天下人へまっしぐら~だったわけですが、一方で、未だ関東から東はほぼ手つかず状態・・・

そんな中、天正十七年(1589年)10月、北条(ほうじょう)配下沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)に拠る猪俣邦憲(いのまたくにのり)が、秀吉が真田昌幸(さなだまさゆき)の物と認めていた名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を力づくで奪うという事件が発生します(10月23日参照>>)

これは、秀吉が発布した『関東惣無事令(かんとうそうぶじれい=大名同士の私的な合戦を禁止する令) に違反する行為・・・かねてより、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を本拠に、約100年渡って関東を支配し続けていた北条氏「何とかせねば!」と思っていた秀吉は、「コレ幸い」と、この関東惣無事令違反を大義名分として小田原征伐の開始を決定し、北条氏政(うじまさ=先代当主・現当主氏直の父)宛てに宣戦布告状を送ったのです(11月24日参照>>)

12月10日の小田原攻め軍議の決定(12月10日参照>>)にて、陸上は、北陸方面から進む上杉景勝(うえすぎかげかつ)前田利家(まえだとしいえ)らと東海道を進む本隊+途中合流の家康と、大きく分けて2方向から小田原に向かいます。

天正十八年(1590年)3月29日の足柄城(あしがらじょう=静岡県駿東郡小山町と神奈川県南足柄市の境)山中城(やまなかじょう=静岡県三島市)韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)同時攻撃にて小田原征伐の幕が上がり(3月29日参照>>)、瞬く間に箱根(はこね)を越えた秀吉は、4月3日には小田原城の包囲を完了(4月3日参照>>)するのですが、

この時、陸上を行く部隊とは別に、海上から小田原に向かったのが豊臣水軍=船手勢です。

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●↑小田原征伐・豊臣軍進攻図:下田版
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そのメンバーは長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)=2500、九鬼嘉隆(くきよしたか)=1500、脇坂安治(わきさかやすはる)=1300に加藤嘉明(かとうよしあきら)らも加わって、総勢1万以上と言われる大水軍でした。

そして、陸上部隊の小田原城包囲の2日前の天正十八年(1590年)4月1日・・・長宗我部元親ら水軍部隊が、北条方の清水康英(しみずやすひで)の籠もる下田城(しもだじょう=静岡県下田市)を攻撃するのです。

守る清水康英は、 先々代=北条氏康(うじやす=氏政の父)乳兄弟(母が氏康の乳母)傅役(もりやく)でもあり、北条五家老の一人にも数えられる重臣ですが、この時点で持つ城兵は、わずかに600ほど・・・

それは、この小田原攻めでの北条側の軍議の際に、「豊臣軍は下田沖を通り=つまりは下田城をスルーして小田原城沖に直接入って来る可能性か高い」という意見があったため、それならば「下田城に多くの兵を配置するのはもったいない」と言われますが、

しかし一方で、現在残る文書(「清水文書」)によれば、現当主の北条氏直(うじなお=氏政の息子)は、「豊臣水軍の攻撃を想定して構築した下田城であり、水の備えとして戦上手の清水康英を配している…なのでこの度は康英にすべてを任す…口出し無用と言ったのだとか・・・

むしろ清水康英なら少数精鋭で守りきれる!と言わんばかり・・・主君からの篤い信頼がうかがえます。

かくして数千艘の船で以って海上から城を囲みつつ、豆州浦(ずしゅううら)から上陸した豊臣勢が下田城目掛けて攻撃を開始し、軍船から降ろした大砲を、下田城を見下ろす高台に設置して、威嚇射撃を行います。

しかし、抵抗する下田城は、なかなか落城せず・・・

そうこうしているうちに、上記の通り、豊臣本隊が4月3日に小田原城の包囲を完了した事から、豊臣水軍は長宗我部元親の長宗我部水軍だけを下田城攻めに残し、あとは小田原城の海上からの包囲に向かいます。

最大の危機を脱した下田城ですが、それでも相手は2500・・・しかも、あの高台の大砲は相変わらずの元気ハツラツで威嚇して来ます。

わずかの兵で踏ん張るものの、「もはやこれまで!」となった4月24日、豊臣の使者として脇坂安治と安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が放った「降伏勧告」の書かれた矢文を受け取った清水康英は、両者と起請文(きしょうもん=約束状)を交わし、下田城を明け渡したのでした。

攻撃から1ヶ月、最初の包囲からは約50日ほど耐えた下田城でしたが、やはり、ここまでの多勢に無勢では致し方なかった・・・という所でしょうか。。。

このあと、清水康英は、菩提寺である三養院(さんよういん=静岡県賀茂郡河津町)に入って隠居・・・おそらくは、この3ヶ月後に小田原城が開城されるのを憂いつつ過ごしたものと思われますが、その翌年の天正十九年(1591年)6月に60歳で死去しました。

それから、わずか5ヶ月・・・切腹を免れて高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)に入っていた北条最後の当主である氏直が30歳の若さで亡くなってしまい、北条宗家も絶える事になってしまいました(11月4日参照>>)

氏直は、小田原落城の際のその潔い姿に感銘した秀吉によって、再び大名に復帰できる予定になっていただけに、先に逝った清水康英にとっても、氏直の死は、さぞかし無念であった事でしょう。
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2020年12月15日 (火)

宇都宮国綱が守り切った宇都宮城~長きに渡る北条との戦い

 

天正十三年(1585年)12月15日、日光山衆徒と北条氏直の配下が宇都宮国綱の宇都宮領へと侵攻しました。

・・・・・・・・

藤原北家の流れを汲み、平安時代から宇都宮(うつのみや=栃木県の中部地域)一帯を領地として来た宇都宮氏でありましたが、天文十八年(1549年)に、喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい=栃木県さくら市喜連川付近)で宇都宮20代当主の宇都宮尚綱(うつのみやひさつな)が討死して、わずか5歳の幼子であった尚綱の息子=宇都宮広綱(ひろつな)が家督を継いだ事で家臣同志が覇権を巡って争い、そのドサクサで家臣の壬生綱房(みぶつなふさ)に、本拠の宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)を乗っ取られ、一時は守りの堅固な山城=多気城(たげじょう=栃木県宇都宮市)に移った事もありました。

しかも、その広綱も若くして病死した天正四年(1576年)に、息子の宇都宮国綱(くにつな)が、わずか9歳で当主となった事で、家中の乱れは治まる気配もありませんし、そこに付け込んで、関東支配を目論む北条(ほうじょう)の動きも活発に・・・

そこで国綱は常陸(ひたち=茨城県の大部分)佐竹(さたけ)や、下総(しもうさ=千葉県北部と茨城・埼玉・東京の一部)結城(ゆうき)甲斐(かい=山梨県)武田(たけだ)などと手を結んで北条に対抗しますが、天正六年(1578年)には、その武田勝頼(たけだかつより)からの侵攻を受ける始末・・・

そして、もちろん、周囲の戦国の世の情勢も目まぐるしく変わります。

天正十年(1582年)3月には勝頼自刃で武田が滅び(3月11日参照>>)、6月には、その武田を滅ぼした織田信長おだのぶなが)本能寺(ほんのうじ=京都府京都市)に倒れ(6月2日参照>>)、翌・天正十一年(1583年)には織田家内の家臣筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を、同じく織田家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が破り(4月23日参照>>)、その秀吉の勢いに織田家後継者を自負する織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)を巻き込んで天正十二年(1584年)に起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦いが終結を見(11月16日参照>>)、信雄を味方に引き込んだ秀吉が紀州(きしゅう=和歌山県北西部)征伐(3月28日参照>>)から四国平定(7月26日参照>>)(←この間に秀吉は関白就任)、そして北陸へ(8月29日参照>>)と向き始めた天正十三年(1585年)12月15日

北条方に扇動された日光山(にっこうさん=栃木県日光市にある輪王寺)の僧兵らとともに北条勢が出陣し、宇都宮と宇都宮大明神(うつのみやだいみょうじん=宇都宮二荒山神社)をことごとく破却したのです。

Houzyouuzinao300 さらに5日後の12月20日には、北条氏直(ほうじょううじなお=第5代当主)自らが軍勢を率いて宇都宮に乱入し、大明神の御殿や楼門・回廊、さらに東勝寺(とうしょうじ=栃木県宇都宮市)など周辺の社寺を焼き討ちします。

さらにのさらに12月25日にも合戦がありましたが、この時に駆け付けた、同盟者=佐竹義重(さたけよししげ)の援軍の活躍で、何とか、これ以上の侵攻を防ぐ事ができました。

ところが案の定・・・翌・天正十四年(1586年)に、またもや宇都宮に侵攻して来た北条氏政(うじまさ=氏直の父)が、当時は宇都宮傘下に属していた皆川広照(みながわひろてる)皆川城(みながわじょう=栃木県栃木市皆川城内町)を攻略すると、その勢いのまま、攻略したばかりの皆川氏と、未だにお家騒動上等の壬生氏を先鋒に据えて、宇都宮城へと迫ったのです。

しかし、この時、宇都宮城を守っていた宇都宮家臣の玉生高宗(たまにゅう・たもうたかむね)が、雨あられと降り注ぐ火矢攻撃を見事に防ぎ切り、後に「武功の仁」と賞賛されたのだとか・・・

そんな中、天正十七年(1589年)には、これまで宇都宮方であった真岡城(もおかじょう=栃木県真岡市)主の芳賀高継(はがたかつぐ)が北条側に寝返ったとの噂が立った5月に、下野(しもつけ=栃木県)那須郡(なすぐん=栃木県の北東地域)に根を張る那須(なす)と、その家臣の大関(おおぜき)(12月8日参照>>)多気城を攻め、8月には日光山衆徒が宇都宮方の塩谷(しおや・しおたに)倉ヶ崎城(くらがさきじょう=栃木県さくら市・喜連川城とも) を落城させました。

さらに9月には北条氏邦(うじくに=氏政の弟)率いる8000騎が宇都宮へ侵攻し、城下を焼き討ちしながら多気城へと迫りましたが、結局落とせぬまま、翌10月には囲みを解いて引き揚げていきました。

そう・・・
周辺武将がほぼほぼ北条へとなびき、その北条に何度にも渡って侵攻され、もはや風前の灯のギリギリ状態となっていた宇都宮城でありましたが、結局、最後まで、北条が、この宇都宮城を落とす事は無かったのです。

そして、
この翌年の天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されるのです(6月14日参照>>)

この時、同盟者の佐竹義宣(よしのぶ=義重の息子)とともに、いち早く小田原に参陣し、秀吉に謁見して恭順姿勢を見せた宇都宮国綱は、見事、そのまま、豊臣政権の大名として生き残る事に成功し、ご存知のように、北条は秀吉の前に散る事になります(7月5日参照>>)

ただし、国綱自身はこの7年後に改易を言い渡され(10月13日参照>>)、大名としての宇都宮氏は無くなりますが、家名と血筋は脈々と受け継がれ、水戸藩の一員として明治維新を迎えています。

まぁ、なんだかんだで、戦国は生き残ったモン勝ちかも…ですね。
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2020年12月 4日 (金)

内助の功で貞女の鑑~山内一豊の妻・見性院

 

元和三年(1617年)12月4日、貞女の鑑として知られる山内一豊の妻=見性院がこの世を去りました。

・・・・・・・

戦国時代を生き抜き、江戸幕府のもとで土佐(とさ=高知県)藩初代藩主となった山内一豊(やまうちかずとよ)の奥さんである見性院(けんしょういん)は、『内助の功』で知られた女性です。

一昔前は、夫を影から支える献身的な姿が「理想の女性像」とされ、その逸話が教科書等に掲載され、戦国の女性としては一二を争う有名人となっています。

その中でも有名な代表的逸話は・・・

・‥…━━━☆

逸話…1ッめ『常山紀談』より

一豊が織田信長(おだのぶなが)に仕えていた頃、安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)下にて馬の市がたち、そこで東国一の駿馬と称される見事な馬を見つけたものの、未だ下っ端の一豊にとってはかなりの高額で、しかたなく諦めて帰って来たところ、

奥さんが、鏡の中に隠していた持参金を差し出して
「そんなに良い馬なら、これで買うてきなはれ」
と・・・

「ヤッター!!」
と、一豊は、一瞬、喜んだものの、一方で
「今まで、メッチャ貧乏して来て喰う物にも困っっとたのに、お前は、こんな大金隠し持ってたんか!」
と、ちょっとご機嫌ナナメ
(NHKのドラマ「一億円のさよなら」みたい…上川さん大河で一豊やってたしww)

すると奥さんは、
「これは、私が嫁に来る時に、父が、『常の事には使わんと、夫の一大事にこそ、お出しなさい』と持たせてくれた物です。
日頃の貧しさは、なんぼでも我慢できます。
今度、馬揃えがあると聞きました。
それだけの良い馬なら、それに乗って見参しなはれ。
天下の見ものとなりましょう」
と・・・

果たして、奥さんの言った通り・・・馬揃えにて、一豊の乗った馬が信長の目にとまり
「山内は長く浪人していたと聞いたが、見事な馬を準備して馬揃えに挑んだ姿勢は武士の誉れ…そんな家臣を持った俺も鼻高々やで!」
と喜び、以後の一豊の出世の足掛かりになったとか・・・

逸話…2ッめ『旧記』より

一豊が近江(おうみ=滋賀県)長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)にいた頃、奥さんが、古い着物の使える部分だけを、細かいはぎれにして集めて縫い合わせ、一つの小袖(着物)に仕上げたのを見て、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大いに感激し、「皆の嫁さんに作り方を教えてあげるように」と勧めた・・・と、

そう、要するに、廃品となるはずの着物をパッチワークでオシャレな別の着物にしたわけですが、その手際も見事で、人々を驚かせたとか・・・

逸話…3ッめ『藩翰諸』より

秀吉亡き後の関ヶ原の戦いの時、上洛要請を拒む会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討伐(4月1日参照>>)すべく、東北へと出陣した豊臣五大老の一人=徳川家康(とくがわいえやす)に従って、ともに出陣していた山内一豊

一方、奥さんは、その留守を大坂屋敷にて守っていたわけですが、その時、家康に敵対して景勝と連携を取る石田三成(いしだみつなり)(7月19日参照>>)は、家康とともに出陣している武将の妻子を大坂城に集めて、言わば人質のように抱え込んだのです。
(この時、大坂城への入城を拒んだ細川忠興の妻ガラシャ(玉)は自害しています)>>

これを知った家康は、会津に向かう途中の小山評定(おやまひょうじょう)にて、この事実を、ともに行軍する皆に知らせて、どちら(家康か?三成か?)に味方するか?を問うわけですが、当然、大坂にいる妻子の様子がわからぬ武将たちには動揺が走ります(7月25日参照>>)

しかし、この時すでに、妻からの詳細な知らせを密かに受け取っていた一豊は慌てず、
「このまま、家康様のお味方ををします!」
1番に声を挙げて、その評定の場の雰囲気を、一気に家康派に傾かせて家康を大いに喜ばせ、その後の土佐藩主就任の糸口となったのだとか・・・

皆が右往左往する中で、彼女だけが冷静に、夫に現状を報告したおかげ・・・てな事です。(実際には他にもいる…黒田の嫁とか真田の嫁とか)

・‥…━━━☆

てな感じで・・・有名ではありますが、どれも後世に書かれた物・・・『常山紀談』と『藩翰諸』は江戸時代で、『旧記』に至っては明治に編さんされた書物です。

もちろん、著者の創作ではなく、ちゃんとした出典のある逸話ではあるものの、あくまで逸話・・・史実かどうかはわかりません。

なので、ここまで有名なエピソードを持ちながらも、見性院さんの本名も、「千代」「まつ」が有力なれど、それは誰かと混同されていて、それ以外の名前の可能性もあり、その生年も、亡くなった時の記録=「元和三年(1617年)12月4日に61歳で亡くなった」から逆算するしかなく、その出自も、近江(滋賀県米原市)美濃(みの=岐阜県南部)郡上八幡(ぐじょうはちまん)など、諸説あります。

つまり、これだけ豊富かつ有名なエピソートを持ちながらも、史実としての彼女は謎だらけ・・・

もちろん、これは彼女に限った事ではありません。

戦国の女性というのは、夫を亡くして若い後継者の後見人のような立場(淀殿とか)になるなど、よほど政治的に重要な立場にならない限り、歴史上の表舞台にな登場しないのです。

それは、逆に考えれば、一豊の妻=見性院さんは、その生涯のほとんどを夫とともに生活し、夫が新しい領地に移れば、自分も同じ場所に行き、(戦国なので平穏無事とはいかないまでも)夫婦仲良く過ごしていた事になります。

そんな中で、夫=一豊は、合戦での武功があまり聞かれない中で浪人から順調に出世し、最後には土佐藩の藩祖となる事から、「そこには、影で夫を支えた賢い奥さんがいたんじゃないか?」てな事から、これらのエピソードが生まれるべくして生まれたのだと思います。
(実際には後方支援などの地味な活躍が多数あったと思いますが…)

ただ、戦前は「貞女の鑑」「夫を支える妻」として、「男尊女卑」のお手本みたいにもてはやされた彼女の逸話ですが、今、改めて読んで見ると、ちょっと違う気がします。

と、いうのも、実は、戦国時代は日本の歴史上、最も女性の権利が高かった時代と言われており、この後の明治~戦前などのように、嫁いだ女性が夫にかしずき、言われるがまま家政婦のように働く存在では無かったのですね。

たとえば、最初の馬買う逸話で登場する「奥さんの持参金」・・・

今だと、金持ちのお嬢様が多額の持参金持って結婚すれば、そのお金は夫婦の物(どっちがどんだけ稼いでいようが二人の物)・・・って感覚になりますが、この時代の持参金=いわゆる化粧料は、その名の如く「奥さんの私物」なのです。

なので、万が一離婚となると、夫は妻に、その持参金全額を持たせて実家に戻さねばならないという事もしばしば。。。

当然、この時の奥さんも、反論して、怪訝がる夫に自分の意見をハッキリ言ってます。

小袖のパッチワークの時も、「貧乏だから…」とコソコソやるのではなく、堂々と「これドヤ!」くらいの勢いで皆に披露するし、関ヶ原の時も、敵情視察的な行動ですばやく夫に内情を知らせています。

つまり、彼女は、夫にかしずき、言われるがままの嫁ではなく、むしろ、自身の意見をしっかり持った独り立ちした女性だったのだと思います。

それが垣間見えるのが、夫=一豊が亡くなった後・・・そう、ここからは逸話ではなく、史実と言われる史料(主に手紙ですが…)に、彼女がチョイチョイ登場して来るのです。

慶長十年(1605年)9月20日、彼女が49歳の時に夫=一豊が亡くなり、彼女は、その約半年後の3月7日に土佐を出て、まずは京都は伏見(ふしみ=京都市伏見区)の山内家の屋敷に入った後、6月13日に新しく建てた京都桑原町の屋敷に移り住んだとの事なのですが、

実はコレ・・・土佐を出て京都に行くことも、さらにそこから引越する事も、回りは全員反対していたのに、ガンと聞く耳持たずの強行突破なんです。

家臣の手紙に・・・
上洛に関しては、
「康豊様が、強くお止めになりましたが、上洛されます」
とあり、
その後の伏見から桑原への引越に関しても、
「侍女までもが何度も御止まりになるよう申し上げましたが、見性院様がお決めになったので、もう何も申し上げられません」
と、もはや諦めムードですよね。

上記の「康豊様」というのは、一豊の弟=山内康豊(やすとよ)の事で、夫亡き今となっては、彼女にとって1番身近で1番頼れる人物だったわけですが、そんな人の言う事もハネのけるくらいのガンコさ・・・

いや、ガンコとかワガママというのではなく、ひょっとしたら、彼女の心の内には、何かしらの譲れない思いがあったのかも知れません。

ご存知の方も多かろうと思いますが、彼女は、天正十三年(1585年)に居城のある長浜一帯を襲った地震によって一豊との間に授かった愛娘=与祢(よね=享年6)を亡くして涙に暮れていた時、たまたま長浜城外で捨てられていた男の子(実は家臣の北村十右衛門の子?)を拾い、我が子のように育てますが、その子が10歳になった頃に、一豊の命により出家させています。

これには文禄四年(1595年)に起こった、豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)の切腹事件(7月15日参照>>)が絡んでいるとか・・・この事件に少なからず関わっていた一豊が、
「山内家の血筋でない彼に家督を継がせると後々問題になるのではないか?」
と考えた事に端を発するようで、事実、その後、弟の康豊の息子=山内忠義(ただよし)を養子に迎えて、山内家の後継者としています。

…で、見性院さんが土佐を出て京都に来た頃には、かの捨て子だった坊やが、湘南宗化(しょうなんそうけ)と号して妙心寺(みょうしんじ=京都市右京区花園)塔頭(たっちゅう=大寺院の付属する寺)大通院(だいつういん)2代目住職をやっていたのです。

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山内家の菩提寺=妙心寺大通院

しかも、その頃の湘南宗化は、朝廷から紫衣(しい・しえ=高僧が身に着ける色の衣)を許されるほどの高僧になっていたわけで・・・もちろん、京都に着いた彼女は、すぐさま湘南宗化に会いに行きますが、おそらくは、ただ会うだけではなく、(拾い子とは言え)愛情注いで育てた息子の近くに、彼女はいたかったのでしょう。

ただ、さすがは貞女の鑑・・・理由はそんな個人的な物だけではありません。

一豊死去の半年ほど前の慶長十年(1605年)4月に、後継者=忠義と徳川家康の養女=阿姫(くまひめ=家康の姪・松平定勝の娘)との結婚が成立して徳川家との太いつながりができた事、また、その忠義の後見人に実父の康豊が就任した事・・・

つまり、ここで、山内家の系統(けいとう)が弟=康豊の血筋に移り、しかも、上記の通り、その家系は徳川家と深い関係を構築したわけで。。。

そう、土佐の事&山内家の行く末を彼女が心配する必要がなくなったのです。

いや、残る心配はただ一つ、いかにして、現在の良い状況を維持するか?です。

それには、刻一刻と移り変わるであろう日々の情報を得て、この先の動向を見極めねばなりません。

ひょっとしたら、彼女は京都にて、様々な世間の情報を得ようとしていたのではないでしょうか?

生前の一豊には二人の妹がいましたが、すぐ下の妹が、当時は京都所司代(きょうとしょしだい=京都の治安維持)だった前田玄以(まえだげんい)の家臣の松田政行(まつだまさゆき)と再婚しており、もう一人の妹が産んだ男子は、その松田政行の養子になっていて、その妹たちも京都にいたのです。

湘南宗化と言い、二人の妹と言い、その旦那と言い・・・身近な人が、距離的にも身近な場所にいて、しかも、こんなに情報を得やすい関係性は無いわけで・・・

おそらく彼女は、単なるワガママで京都に引っ越したわけではない・・・それが垣間見えるのが、晩年の彼女が出したいくつかの手紙です。

後継者となった養子=忠義に宛てたある手紙では
「常に徳川家への忠誠を示す事を忘れたらアカン」
とカツを入れたり、
高台院(こうだいいん=秀吉の正室・おね)さんに、ちゃんと土佐の名物を贈っときや」
と、德川にも、豊臣家にも、気を使うよう指示しています。

また、義弟の康豊への手紙には、
「なんや、伏見の屋敷には、土佐からしょっちゅう飛脚が来てるみたいやけど、私のとこには去年の7月から、ぜんぜん手紙が来てへんねんけど、どないなってんの?」
と、自分の所に情報が入って来ない事に少々ご立腹のご様子・・・

もちろん、隠居の身となった寂しさもあったであろうと思いますが、やはり、情報の集まる京都にて、あちこちに様々なアンテナを張り巡らせていたようにも感じます。

とは言え、
一方で、普段は自身の屋敷にて『古今和歌集』『徒然草』などの古典を読みながら、静かな日々を過ごしていたという彼女・・・元和三年(1617年)12月4日、最愛の息子である湘南宗化に看取られながら、彼女は61歳の生涯を閉じました。

戦国という波乱万丈な世を生きながらも、常に夫とともに生活し、実子を失いながらも、その生まれ代りのような息子に看取られ・・・「山内一豊の妻」なる彼女は、戦国の渦の中でも自らの意思を貫き、強くたくましく生きた女性だったに違いありません。
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2020年9月24日 (木)

戦国乱世を駆け抜けた異彩~松永久秀の甥っ子・内藤如安

 

 慶長十九年(1614年)9月24日、三好長慶や足利義昭や小西行長に仕えた内藤如安が、キリシタン禁止令を受けて国外追放となりました。

・・・・・・・・

内藤如安(ないとうじょあん)の如安は、永禄七年(1564年)=15歳の頃にキリスト教に入信した時の洗礼名のジョアンの音の響きを漢字で表した物で、本名は内藤忠俊(ただとし)なのですが、本日は有名な方の内藤如安さんと呼ばせていただきます。

で、本日の主役=内藤如安は天文十九年(1550年)頃(はっきりしません)八木城(やぎじょう=京都府南丹市八木町)内藤宗勝(ないとうそうしょう)の息子として生まれます。

お父さんの内藤宗勝は、あの戦国初の天下人と言われる三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣で、もと名を松永長頼(まつなが ながより)と言い、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも大活躍の松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)の弟なのですが(つまり如安は久秀の甥っ子、実は、三好政権内で先に頭角を現したのは、この弟の方で、なんなら、兄=久秀は「弟の七光りで出世した」なんて陰口たたかれてたくらいの大活躍で、長慶からの信頼も篤かったんです。

 なんせ天文二十二年(1553年)には、丹波(たんば=兵庫県北東部・大阪府北西部)一国を牛耳る波多野晴通(はたのはるみち=波多野秀治の父)八上城(やかみじょう=兵庫県丹波篠山市)を攻撃中に、敵方が守護代(しゅごだい=副知事)内藤国貞(ないとうくにさだ)を討ち取って、国貞の八木城を奪った事を聞くないなや、即座に八木城に取って返してまたたく間に奪還したばかりか、その後に波多野晴通を降伏させて、逆に丹波のほとんどを手中に収めたくらいですから・・・

そして、その八木城奪還後に亡き国貞の娘(妹説もあり)と結婚して松永長頼から内藤宗勝に名を変えて内藤家を継ぐ立場になった人なのです。
(実際には国貞の息子=貞勝が後を継ぎ、宗勝は後見人ですが、事実上は家内を掌握していたとされます)

そんな松永長頼改め内藤宗勝を父に持つ内藤如安は、三好家が衰退の一途をたどる中でも足利将軍家を仰ぐ内藤家の代表の如く、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋・覚慶)が、上洛後に、あの織田信長(おだのぶなが)と対立した元亀四年(天正元年=1573年)(7月18日参照>>)も、槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)にて将軍=義昭方として奮戦しています。

しかし、ご存知のように、この戦いに敗れた義昭は京都を追われ、身を寄せていた若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)も自刃したため(11月16日参照>>)、義昭は毛利輝元(もうりてるもと)を頼って備後(びんご=広島県東部)鞆の浦(とものうら=広島県福山市)に下向しますが、この時にも、内藤如安は、義昭と行動をともにしていたと言います。

ところが、この間の天正四年(1576年)、父の宗勝が、信長の命を受けた明智光秀(あけちみつひで)の侵攻によってゴタゴタになっていた丹波内での戦い=和藤合戦(わとうがっせん)(6月20日参照>>)にて討死してしまいます。
(宗勝の死亡時期については永禄六年(1563年)説&永禄八年(1565年)説もあり)

これによって内藤家は、名実ともにあの国貞の息子=内藤貞勝(さだかつ)が継ぐ事になり、如安は、その執政(しっせい=家老)の立場となりますが、宗勝を失った影響は大きく、天正六年(1578年)に丹波平定まい進中の明智光秀に攻められて八木城は落城・・・内藤本家は滅亡してしまいます。

その後、ご存知のように天正十年(1582年)6月に信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)、謀反を起こした明智光秀を倒して(6月13日参照>>)、まるで織田政権を引き継ぐようにトップに躍り出て来た豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月24日参照>>)をおっぱじめた天正十三年(1585年)頃、如安は、しばしの沈黙を破り、その秀吉の家臣である小西行長(こにしゆきなが)に仕える武将として、再び表舞台に登場します。

これは、行長の小西家が、内藤家と親戚だった(3代前に枝分かれ?)事で、同族のよしみで召し抱えたとも言われますが、ご存知のように小西行長も敬虔なクリスチャンなので、そのあたりのよしみもあったのかも知れません。

Bunrokunoekipusan700a とにもかくにも、もともとは商人だった小西行長は、武将として戦略や采配に長けた如安の能力に大いに惚れ込んで重臣に取り立て、小西姓を名乗らせるくらい重用したのです。

それに応えるように如安も、文禄元年(1592年)に起こった朝鮮出兵=文禄の役(1月26日参照>>)では、先鋒を務める事になった行長に従って各地を転戦する一方で、行長の密命を受けて(みん=中国)との和睦交渉の使者となり、粘り強い交渉を何度も重ねて和睦をまとめました。
(結局は合意内容に納得しなかった秀吉によって慶長の役が起こりますが…11月20日参照>>

その後、秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦い(年表>>)では、ご存知のように小西行長は西軍として参戦し、大敗の末に捕縛され(9月19日参照>>)石田三成(いしだみつなり)(9月21日参照>>)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月23日参照>>)とともに10月1日に処刑されます(10月1日参照>>)

この時、内藤如安は、行長の弟=小西行景(ゆきかげ)とともに地元である行長の居城=宇土城(うとじょう=熊本県宇土市)におりましたが、ここを攻めて来たのが九州の地にて東軍に与する加藤清正(かとうきよまさ)・・・

9月20日に宇土城近くに陣を構えた清正は、翌・21日に宇土城下を焼き払って宇土城を完全包囲しますが、未だ、関ヶ原での一戦の状況を知らぬ宇土城内の行景&如安らは徹底抗戦の構え・・・実質的な指揮者である如安は、大砲を駆使して迫りくる敵を撃退し続け、約1ヶ月間、宇土城は耐え抜きました。

しかし、やがて九州にも関ヶ原現地の状況が伝えられるようになって兄=行長の死を知った行景は、自らの自決と引き換えに城兵の命を助ける事を条件に、10月14日(23日とも)宇土城は開城となったのでした。

「自らの自決と引き換えに城兵の命を…」
の城兵の中には如安も含まれていたわけで・・・命ながらえた如安は、同じキリシタン大名である有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地である肥前(ひぜん=佐賀県・長崎県)平戸(ひらど=長崎県平戸市)にて、しばらくの間、隠居生活を送る事になりますが、その後、その武勇を惜しんだ加藤清正に客将として迎え入れられます。

さらに慶長八年(1603年)頃には、前田利長(まえだとしなが=前田利家の息子)4000石で迎え入れられ金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に・・・ここでは、やはりキリシタン大名で、すでに前田家の客将となっていた高山右近(たかやまうこん=高山友祥)とともに、前田家の政治や軍事の相談役をこなしながら、キリスト教の布教活動にも力を注ぎました。

しかし、慶長十八年(1613年)12月、あの関ヶ原の戦いに勝利して、現政権内でも確固たる地位を築きつつあった徳川家康(とくがわいえやす)からキリシタン禁止令が発布されます。
(実際には自分=家康の領地のみだった禁教令を全国に広げた物)

キリシタン禁止令そのものは、これまでにも、秀吉時代に、
天正十五年(1587年)の6月18日付けと6月19日付けの物
『天正十五年六月十八日付覚(「御朱印師職古格」神宮文庫)>>
と、慶長元年12月(1597年2月)のサン・フェリペ号事件(2月5日参照>>)のあった時の2回発布されていますが、いずれもバテレン(主にフランシスコ会の宣教師)追放令であって、神社仏閣への破壊行為や奴隷売買などは禁止するものの、信者に対する迫害や無理やり改宗させたりする物では無かったのです。

しかし、今回の家康の禁教令は、いわゆる「キリシタン追放」「キリスト教弾圧」と言われて思い浮かべる、あのキリシタン禁止令そのものだったわけで・・・

かくして 慶長十九年(1614年)9月24日、頑としてキリスト教への信仰を曲げない内藤如安に、国外追放命令が出されます。

もちろん、ともにいる高山右近にも・・・

それから約2週間後の10月7日、如安は妹のジュリア、そして高山右近夫妻(1月5日参照>>)とともに、フィリピンのマニラに向けて旅立ったのです。

ご存知のように、この年は、7月21日には方広寺(ほうこうじ=京都市東山区)鐘銘事件(7月21日参照>>)が勃発し、その5日後には家康が、その方広寺の大仏開眼供養を中止(7月26日参照>>)させたり、翌8月には、何とか衝突を収めようとする大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)側に最後通告を出したり(8月20日参照>>)・・・家康が完全に大坂城の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)潰しにかかって来てた=つまり大坂の陣(年表>>)をおっぱじめる気満々な時期だったわけで・・・

現に、この10月6日~9日にかけては、後の大坂の陣で活躍する真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが=吉政)といった面々が続々と大坂城に入城して来ていたわけで(10月7日参照>>)・・・

一説には、如安と右近の追放を知った大坂方が、彼らを大坂城に招くべく慌てて使者を走らせたものの、港に到着した時には船が出ていった後で間に合わなかった・・・てな話も囁かれます。

もし、使者が間に合っていたら・・・如安や右近の大坂の陣での活躍が見られたのかも知れませんが、一方で、これが家康の「如安らを大坂城に入らせない」作戦だったのだとしたら、その徹底ぶりはお見事ですな。

マニラに到着後も、もと執政としての手腕をかわれて、現地の日本人町の首長を任されて、その運営に活躍したとされる内藤如安は、右近よりも長く生き、寛永三年(1626年)に70代半ばで死去したとの事ですが、そんな如安の活躍を縁として、現在、かつて八木城のあった京都府南丹市八木町とマニラは姉妹都市の提携がなされているのだとか。。。

三好政権の終焉を経験し、織田政権から豊臣政権で奮闘し、江戸幕府を見ずして去った内藤如安・・・まさに戦国を生き抜いた武将と言えるでしょう。

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2020年8月28日 (金)

陰に日向に徳川家康を支えた生母~於大の方(伝通院)

 

慶長七年(1602年)8月28日、徳川家康の生母である於大の方が75歳で死去しました。

・・・・・・・

晩年に出家して伝通院(でんづういん)と号した徳川家康(とくがわいえやす)のお母ちゃんは、江戸時代の記録に「御大方」とあり、朝廷から官位を賜った時の(いみな)「大子」なので、実名は「大」であったというのが一般的ですが、思うに、コレ、家康さんが将軍になったから「大」って名前になった?気がしないでもない・・・

とは言え、この呼び方が一般的なので、本日は於大の方(おだいのかた)と呼ぶことにさせていただきます。

・‥…━━━☆

で、この於大の方は、享禄元年(1528年)に、尾張(おわり=愛知県西部)知多(ちた)郡に勢力を持つ水野(みずの)緒川城(おがわじょう=愛知県知多郡東浦町)にて水野忠政(みずのただまさ)と、その妻の於富の方(おとみのかた=華陽院・於満の方とも)との間に生まれます(養女説あり)

この頃の水野氏は尾張南部や西三河に勢力を持つ豪族でしたが、世は戦国群雄割拠の真っただ中・・・水野としても安心してはいられない状況でした。

そんなこんなの享禄二年(1529年)11月に、念願の三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たしたのが岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に拠点を持つ松平清康(まつだいらきよやす=家康の祖父)でした。

一説には、この頃、一触即発状態だった水野と松平の中で、メッチャ美人だった忠政嫁の於富の方に惚れ込んだヤモメの清康が「嫁に欲しい」と言って、忠政と離縁して松平に嫁ぐことになった・・・らしいですが、

さすがに、政略結婚全盛のご時世に「そんな事あるんかいな?」って気がしないでもない・・・

どちらかと言うと、勢力を増して来た隣国の松平に対して、敵意が無い事を示すための和睦の証としての人質みたいな?感じだったような気がしますが、とにもかくにも、ここで水野忠政と離縁した於富の方は、幼い娘=於大の方を連れて、松平清康の継室(けいしつ=後妻)として嫁ぎます(異説あり)

ところが、それから10年も経たない天文四年(1535年)12月5日、当時は清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めていた陣中で、清康は家臣に斬殺されてしまうのです(12月5日参照>>)

25歳の若さの上り調子だった当主=清康を失ったうえ、後継ぎの息子=松平広忠(ひろただ=家康の父)が未だ10歳の若年とあって、松平は瞬く間に衰退し、広忠も一時は流浪の身となり、領国へ戻る事すらできませんでしたが、やがて天文六年(1537年)に旧臣の大久保忠俊(おおくぼただとし)が、内紛で占領されていた岡崎城を奪回した事や、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと=氏輝の弟)(6月10日参照>>)の支援を受けた事で、何とか広忠は三河に戻る事ができたのでした。

以来、松平は今川に従属する形で生きていく事になります。

Odainokata700a 一方、清康の死で以って、松平との縁が切れたと感じた水野忠政は、再び縁を結ぶべく、新当主の広忠と於富の方の連れ子=於大の方との縁組を進め、天文十年(1541年)広忠16歳&於大14歳の若き夫婦が結ばれました。

翌・天文十一年(1542年)、二人の間に長男の竹千代(たけちよ)=後の徳川家康が誕生します。
(名前が変わるとややこしいので、以下、竹千代君は家康さんの名で呼ばせていただきます)

完全なる政略結婚とは言え、いや、むしろ、松平&水野両家の架け橋となるべく役目を担っての結婚だからこそ、仲睦まじい日々を送りつつ、後継ぎとなるべく男子を無事出産できた事は、於大の方にとっても、最高の幸せだった事でしょう。

しかし、その幸せは長くは続きませんでした。

天文十二年(1543年)、実家の父の水野忠政が亡くなり、その後を継いだ於大の方の兄=水野信元(のぶもと)が、現在、今川と絶賛敵対中の織田信秀に協力する姿勢を見せたのです。

しかも、この同時期に松平家で起こった内紛で広忠の後見人だった叔父=松平信孝(のぶたか=清康の弟)織田方につく事になり(8月27日参照>>)松平と織田の関係はますます険悪な物になって行きますが、未だ弱小の松平・・・そうなれば、今川の庇護無しでは生き抜いていけません。

おそらく悩んだであろう広忠は「於大の方を切る」という決断をします。
(ア…「斬る」やなくて「縁を切る」の「切る」です)

於大の方を離縁して、実家の水野に送り返したのです。

もちろん、跡取り息子の家康は松平のまま・・・つまり、わずか3歳の家康と母=於大の方は、ここで生き別れとなってしまったのです。

水野の実家に戻された於大の方は、水野氏の刈谷城(かりやじょう=愛知県刈谷市)内の椎の木屋敷(しいのきやしき)に住んでいたとされますが、やがて天文十六年(1547年)、兄=信元の意向により、阿古居城(あこいじょう=愛知県知多郡阿久比町・後の坂部城)の城主である久松俊勝(ひさまつとしかつ)再婚します。

しかし、この於大の方の再婚と同じ年・・・更なる関係強化を図る広忠が、未だ6歳の家康を今川へ人質に差し出すのですが、それが、あろうことか、駿府(すんぷ=静岡県静岡市・今川の本拠)に行く途中で敵対する織田信秀に奪われ尾張の古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市中区)に送られてしまうのです(8月2日参照>>)
(現在では奪われたのではなく、はなから織田への人質として送られた説も浮上しています)

とにもかくにも、この先2年間、家康は織田の下で人質生活を送る事になるのですが、その間の天文十八年(1549年)3月、父の松平広忠が、未だ24の若さで祖父と同じような亡くなり方=家臣によって殺されてしまうのです(3月6日参照>>)(死因については異説あり)

これによって松平の後継は唯一の正室腹の男子である家康・・・という事になるわけですが、現時点では織田の人質状態なわけで・・・

そこで、松平を今川傘下につなぎとめておきたい今川義元は、配下の太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)を総大将に、織田信秀の息子=織田信広(のぶひろ・信長の異母兄)が城主を務めていた安祥城(あんしょうじょう=愛知県安城市)を攻めて信広を生け捕りにし、信広と家康の人質交換を持ちかけます(11月6日参照>>)

こうして、家康は、この人質交換で以って、本来の形である今川傘下の人となるわけですが、そこは、やはり人質という事で、松平の本拠である岡崎城には入らせてもらえず(岡崎城には今川の家臣が城番として入ってました)、今川義元のお膝元である駿府にて過ごす事になりますが、唯一の救いは、この駿府に祖母である於富の方がいた事・・・

於富の方は清康亡き後、3回結婚してますが、いずれも夫に先立たれ、今川義元を頼って駿府に来て、ここで尼となっていたのですが、可愛い孫の駿府入りを聞き、義元に頼みまくって家康のそば近くにて、元服するまでの間だけ、その養育する事を許されたのです。

おそらく巷の噂にてこの事を知ったであろう母=於大の方も、ホッと胸をなでおろした事でしょう。

というのも、再婚相手の久松俊勝とはなかなかに仲睦まじく、最終的には、二人の間に三男四女をもうける於大の方ですが、やはり遠く離れた長男の家康の事が1番に心配で、常に気を配り、この間にも、バレたら処分の危険を覚悟してコッソリと衣類やお菓子などを家康のもとに送り続けていたと言います。

私事で恐縮ですが、今も、私の中にある於大の方のイメージは、懐かしアニメ「少年徳川家康」での、一休さんの母上様ソックリ(笑)の、あのイメージのまんまです。

まるで大河ドラマのOPを思わせる甲冑(実写)がスモークから現れる中、アニメらしからぬ軍歌のようなテーマソングをバックに、「竹千代を影ながら支えたのは、母・於大の方の深い愛であった」というナレーション。。。

やはり、あのアニメのように、離れていても母子の心はつながっていてほしいなぁ~と・・・いや、おそらく、本当につながっていたのでしょう。

なんせ、この後・・・
今川義元の下で成長し、元服&初陣(【寺部城の戦い】参照>>)を済ませた家康は、あの永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市)の戦い(2015年5月19日参照>>)の先鋒として尾張に侵攻してきた際、こっそりと阿古居城を訪れ16年ぶりの母子の再会を果たしているのです。

しかも、ご存知のように、家康は、この桶狭間キッカケに今川からの独立を果たす(2008年5月19日参照>>)わけですが、その時、即座に於大の方を迎え入れたばかりか、於大の方と現夫の久松俊勝、さらにその子供たちをも松平に迎え入れています。

ただし、久松俊勝が於大の方と結婚する前にもうけていた先妻の子=家康と血縁関係の無い長男の久松信俊(のぶとし)は、清須同盟(1月15日参照>>)が成った後に久松家を継ぎ、松平ではなく、同盟関係となった織田信長(のぶなが=信秀の息子)の家臣となっています。

ここで、ようやく家康と於大の方は同じ屋根の下で暮らす事になり、しばし平穏な母子の時を過ごせたのかも知れませんが、世は未だ戦国・・・悲しい出来事は、また起こります。

天正三年(1560年)、信長から謀反の疑いをかけられた於大の方の兄=水野信元を、同盟を重視する家康が殺害・・・それも、疑いを晴らそうと家康を頼った信元に三河への道案内したのが久松俊勝だったのです。

何も知らず道案内をした後に信元への処分を知った俊勝は、ショックを受け隠居してしまいます。

さらに天正五年(1577年)には、俊勝の連れ子=久松信俊も信長から謀反の疑いをかけられて自害してしまいます。

とは言え、そんな信長も天正十年(1582年)、ご存知の本能寺に倒れてしまう(6月2日参照>>)わけですが、その信長亡き後の主導権争いとも言える天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦い(11月16日参照>>)で、その和睦の条件として、家康側から、相手の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)に人質を差し出す事になった時、

はじめ家康は、あの時、於大の方とともに迎え入れた異父弟(久松俊勝と於大の方の3番目の男子)松平定勝(まつだいらさだかつ)を差し出そうと考えるのですが、於大の方の猛反対により、結局、家康自身の息子=松平秀康(ひでやす=結城秀康・母は於万の方)に決定した(11月21日参照>>)と言います。

一説には、家康の正室である瀬名姫(せなひめ=築山殿・今川義元の姪とされる)が、家康独立後に岡崎に迎え入れられたにも関わらず、岡崎城には入れてもらえなくて、近くの築山(つきやま)に住んでいた(8月29日参照>>)という一件も、今川を嫌う於大の方の猛反対によるものとも言われ、

どうやら、家康は母ちゃんに頭が上がらなかった可能性大・・・って、事は、意外に、あのアニメの美しくか弱いイメージからかけ離れた、強い肝っ玉母ちゃんだったのかも知れませんね。

天正十五年(1587年)には、夫の久松俊勝を亡くし、尼となって伝通院と号した後も、強くしたたかに生きた於大の方は、秀吉亡き後のあの関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡)の戦い(9月15日参照>>)に家康が勝利した後も、

未だ豊臣に忠誠を誓うポーズを取る息子の援護射撃をするように、高台院(こうだいいん=秀吉の正室・おね)に面会したり、秀吉を神と祀る豊国神社(ほうこくじんじゃ)(7月9日参照>>)にお参りしたり・・・と、いかに德川家が豊臣家に対して敵意を持っていないかを演出する役目を果たしています。

もちろん、この後の出来事を知る後世の者からすれば、これは機が熟すまでのかりそめの服従ポーズですが・・・
(一般的には、この関ヶ原の戦いに勝利した事で徳川家康が天下を取ったようなイメージで描かれますが、私個人としては、大坂の陣の直前まで豊臣家が政権を握っていたと考えております。
それについては…
【豊臣秀頼と徳川家康の二条城の会見】>>
●【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】>>
●【関ヶ原~大坂の陣の豊臣と徳川の関係】>>
などをご覧ください)

ただ、残念ながら於大の方は、息子=家康が征夷大将軍に任命される姿を見る事無く、慶長七年(1602年)8月28日、滞在していた伏見城(ふしみじょう=京都府京都市伏見区)にて75歳の生涯を閉じます。

とは言え、すでに家康は、この年の5月から二条城(にじょうじょう=京都市中京区二条通堀川)の建設に着手しています(5月1日参照>>)から、於大の方には、遥か先の徳川の繁栄が見えていたかも知れませんね。。。

なんせ、於大の方が亡くなった、この伏見城にて、この半年後、家康は征夷大将軍の宣旨を受ける事になるのですから・・・
【徳川家康・征夷大将軍への道】>>
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたか?】>>
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2020年6月24日 (水)

小牧長久手の余波&越中征伐の前哨戦~前田利家と佐々成政の阿尾城の戦い

 

天正十三年(1585年)6月24日、小牧長久手の戦いの後、前田利家に寝返った菊池武勝が守る阿尾城を、佐々成政配下の神保氏張が攻撃しました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)(本能寺の変>>)亡き後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄)を取り込んで、三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)と信孝を推す柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)に破った(賤ヶ岳>>)(信孝自刃>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でしたが、

やがて、その秀吉の勢いを警戒するようになった信雄(3月6日参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)を頼り、両者が「秀吉VS(信雄+家康)」の構図で、天正十二年(1584年)3月の亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)の攻防(3月12日参照>>)を皮切りに始まったのが、一連の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦いです。

そして、それに連動するように北陸でも「秀吉派VS(信雄+家康)派」による闘いが展開されたのです。

織田政権下で加賀(かが=石川県南部)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市丸の内)にあった秀吉派=前田利家(まえだとしいえ)と、越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)にあった信雄&家康派=佐々成政(さっさなりまさ)の戦いです。
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>

しかし、その年の11月に戦いの看板であるべき信雄が、単独で秀吉との講和を成立させてしまったために、ハシゴをはずされた形となった家康も兵を退くしかなく、勝敗もウヤムヤなまま戦いは小牧長久手は終結してしまいます(11月16日参照>>)

納得いかない佐々成政は、真冬の立山・北アルプスさらさら越え浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)の家康に会いに行き、徹底抗戦を訴えますが(11月11日参照>>)、家康がその願いを聞き入れる事はなく、信雄にも迷惑がられて、空しく富山城へと戻ったのでした。

ちなみに・・・
俗説では、成政が、このさらさら越えで富山城を留守にしている間に、例の「黒百合伝説」(浮気したとして成政が愛人を成敗した事件:くわしくは5月14日の後半で>>)が起こった事になってますが、これは、あくまで伝承です。

Maedatosiie とにもかくにも、小牧長久手も終ったし、冬の北陸は雪深い・・・って事で、一旦、前田VS佐々の戦いも休戦となったわけですが、年が明けた天正十三年(1585年)の春、先に仕掛けたのは前田利家の方でした。

その年の2月に、利家配下の村井長頼(むらいながより)が1千余りの兵を率いて、成政側の重要拠点である蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を急襲し、これを焼き討ちにしたのです。

Sassanarimasa300 もちろん、成政も黙ってはおらず、翌3月、この報復として鷹巣城(たかのすじょう=石川県金沢市湯桶町)を攻撃しますが、この同時期に展開されていた秀吉の紀州征伐(3月28日参照>>)での連勝の勢いを背負う利家は、さらに加賀と越中の国境に近い鳥越城(とりごえじょう=津藩町鳥越)を攻撃します。

強気の利家は、さらに成政配下の阿尾城(あおじょう=富山県氷見市)を落とすべく、4月20日、6000の兵を率いて阿尾城に迫ります。

ところが、これを見た阿尾城主の菊池武勝(きくちたけかつ)は、あっさりと城門を開け、前田軍を受け入れたのです。

つまり、この時の武勝は、はなから利家側につく気であったと・・・実は、これには、その理由とおぼしき、こんな話が伝えられています。

前年の春に富山城下に新しい馬場を整備した成政が、その周囲の桜を植え、完成祝いと同時に花見の宴を催した際、配下の一人として招かれた武勝が、その場を盛り上げようと、

「これは、かの謙信公より賜った紀新大夫の名刀なんですが…」
と1本の短刀を取り出し、
「これにて、北陸七ヶ国平定されるとの願いを込めて、殿に献上させていただきます」
と差し出したのです。

それを受けた成政は、
「俺、謙信なんか尊敬してないし…」
と急に機嫌が悪くなり、
「もともと北陸七ヶ国なんか眼中に無いっちゅーねん、俺が狙てるんわ天下じゃ!」
と言って武勝をにらみつけたのだとか・・・

賑やかな宴会から一転、シラケた空気が流れたものの、そばにいた他の武将のとりなしによって何とかその場は収まりますが、収まらなかったのは武勝の気持ち・・・

「大勢の前で部下に恥をかかせるなんざ、天下取りの器やない!アイツは愚将や」
と憤慨し、以後、成政に反感を持つようになっていたのだとか・・・

もちろん、これは噂の域を出ない話ですが、一方で、前年の11月頃=北陸の戦闘が一旦休止となった頃から、武勝側へ、利家からの好条件での懐柔のお誘いが頻繁に行われていたとの記録(『前田金沢家譜』)もありますので、おそらくは、上記のような事件があろうがなかろうが、すでに武勝の気持ちは前田側に傾いていた物と思われます。

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阿尾城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、この菊池武勝の寝返りは、佐々側に大きな衝撃を与え、形勢悪しと判断した成政は、戦備の立て直しに着手・・・その結果、鳥越城と倶利伽羅城(くりからじょう=石川県河北郡津幡町)の2城を諦め、北から守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)木舟城(きふねじょう=同高岡市)井波城(いなみじょう=富山県南砺市)南北に結ぶ線を最前線とし、

守山城には神保氏張(じんぼううじはる)以下4500余、木舟城には佐々政元(さっさまさもと=成政の叔父の養子?)以下2500余、井波城には前野小兵衛 ( まえのこへえ )以下3000余りを、それぞれ配置して防備を固め、背後の脅威となる上杉(うえすぎ)に備えて越後(えちご=新潟県)の国境付近にも兵を置きました。

これに対し、利家は、自軍の最前線を越中領内にまで進ませ今石動城(いまいするぎじょう=富山県小矢部市)に弟の前田秀継(ひでつぐ)を、倶利伽羅城に近藤長広(こんどうながひろ)岡島一吉(おかじまかずよし)らを置いて、コチラも防御万全です。

そんなこんなの天正十三年(1585年)6月24日、守山城の神保氏張が約5000の兵を率いて阿尾城を攻撃したのです。

守る阿尾城は、菊池武勝以下わずか2000余・・・必死に防戦に努めますが、成政が、武勝を謀反人として、その首に賞金を懸けていた事もあって、神保勢の攻撃は、かなり激しい物となり、あわや!落城寸前!となりますが、

そこに、たまたま村井長頼ら300余りの偵察隊が近くを通りがかって、この状況を前に、すぐに参戦・・・この村井らの小隊が側面から攻撃を仕掛けた事で、突き進んでいた神保勢はリズムを崩されてしまいます。

これに勢いづいた菊池勢が盛り返し、次第に形勢は逆転・・・500余が討たれたところで、やむなく神保勢は守山城へと退去していきました。

ちなみに、『加賀藩史稾』
「二十四日 越中の将神保氏張兵を出し 阿尾城襲ふ
 守将慶次利太 片山延高等出でてこれを禦(ふせ)ぐ」
とある事から、この戦いに、あの前田慶次郎(まえだけいじろう)(6月4日参照>>)も参戦していて、この後しばらくの間は、阿尾城に滞在していたとされています。

とにもかくにも、小牧長久手の後からは、すっ飛ばされる事の多い北陸での前田利家と佐々成政の戦いですが、どうぞ、お見知りおきを・・・

そして、この3月~4月の間に例の紀州征伐を終え、7月には四国を平定した秀吉が、ここ北陸にやって来る(越中征伐・富山の役)のは、この2ヶ月後の8月の事。

ご存知のように、ヤル気満々だった成政も、あえなく秀吉の軍門に下る事になります。
【金森長近が飛騨攻略】>>
●【富山城の戦い】>>
【佐々成政が秀吉に降伏】>>
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2020年6月 4日 (木)

本能寺の変の余波~鈴木孫一VS土橋重治の雑賀の内紛

 

天正十年(1582年)6月4日、本能寺の変=織田信長死亡の一報を受け、雑賀衆同士の内紛が勃発し、土橋重治が鈴木重秀(雑賀孫一)の平井城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

紀州(きしゅう=和歌山県)は、あの応仁の乱以降の守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い(7月12日参照>>)の舞台となった場所で、それ故、時と場合により、その戦いに介入したり静観したり・・・守護や守護代の影響を受けながらも、高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市・根來寺)粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)などの宗教勢力も含め、独自の武装勢力を以って生き残って来た民が多くいました。

その中で紀の川流域一帯に勢力を持ち、水運に強く鉄砲を駆使する独自の武装をした土着の民であった雑賀(さいが・さいか)・・・

天下を狙う織田信長(おだのぶなが)が、抵抗する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:本願寺の総本山)と戦った石山合戦で、本願寺に味方して活躍する(【丹和沖の海戦】参照>>)事から、何となく信長の敵のイメージが強いですが、これまで何度か書かせていただいているように、もともといくつかの郷の集合体であって、雑賀と言っても一括りにはできない=一枚岩とは言い難い集団であったわけです。

とは言え、長きに渡って雑賀衆の中でもトップの勢力を誇っていた土橋(どばし・つちばし)が、一貫した本願寺派であった事から、上記のように、雑賀衆もおおむね反信長として戦っていた事から天正五年(1577年)には信長の紀州征伐が決行されてしまい、この時は、折れる形で信長と和睦するも、
●【信長の雑賀攻め、開始】>>
●【雑賀攻め、終結】>>
その2年後には、紀州征伐で織田に味方した一部の者も、結局、抑え込まれて本願寺に恭順させられるほど(【雑賀同志の戦い】参照>>)雑賀では反信長派の勢力が強かったのです。

Saigamagoiti400a しかし、それが徐々に崩れてくる・・・それは、一連の石山合戦で名を挙げた鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)です。

長年に渡りトップに君臨して来た土橋から見れば新参者の鈴木ですが、一説には鈴木重秀は土橋トップの土橋守重(つちばしもりしげ=平次・若太夫)の娘婿だったという話もあり、両者の関係は決して悪い物では無かったものの、ここらあたりで徐々に両者のバランスが微妙になって来る中、天正八年(1580年)8月、本家本元の石山本願寺が信長と和睦してしまいます(8月2日参照>>)

もともと信長に恭順的であった鈴木重秀とその一派は、これを雑賀の頂点を狙うチャンスとばかりに、その機会を模索しはじめ、いよいよ天正十年(1582年)1月23日土橋守重を殺害・・・雑賀の内紛が始まりました。

もちろん、この守重殺害には、鈴木派だけではなく、それに同調した土橋一門の一部も加わっている事から、単に鈴木VS土橋の権力争いではなく、時代の流れ&周辺の状況を見て「織田についた方が得」と考える者が雑賀衆内に増えて来ていた事や、土地関係のモメ事が治まらなかった事など、あちこちに不満の種はあったわけですが、それを鈴木派が利用してクーデターを起こしたという雰囲気が見えます。

また、一説には、この暗殺計画はすでに信長に承認されていた=信長の了解があって決行されたとの話もあります。

とにもかくにも、父の暗殺を知った息子(弟とも)土橋重治(しげはる=平之丞・平尉)は、本拠の粟村(あわむら=和歌山県和歌山市粟)の城に立て籠もって抵抗しますが、さすがに背後に織田軍がいてはいかんともしがたく、たまたまこの時、石山本願寺を出て雑賀荘の鷺ノ森(さぎのもり=和歌山県和歌山市鷺ノ森)に滞在していた本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)の勧めにより重治らは城を退去し、四国の土佐(とさ=高知県)に落ちて行き、2月の8日には、鈴木派の手によって城は焼かれました。

こうして雑賀一帯の主導権は鈴木重秀らが握る事になるのですが、その4か月後の6月2日未明・・・

そう、ご存知、あの本能寺の変(6月2日参照>>)が起こり、信長が横死してしまったのです。

その一報は、早くも翌3日の朝に雑賀にもたらされます。

たちまち騒然となる雰囲気に、反信長派からの攻撃を恐れた鈴木重秀は、6月3日の夜に信長配下の織田信張(のぶはる=尾張三奉行の藤左衛門家の人)を頼って岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)へと逃げ込みます。

案の定、翌・天正十年(1582年)6月4日早朝、結集した反信長派が、鈴木重秀の居城である平井城(ひらいじょう=和歌山県和歌山市)を襲撃して城に火を放ち、その勢いのまま、続いて重秀に同調して、かの土橋守重殺害に関与した土橋平太夫(へいだゆう)の城を包囲して平太夫を討ち取ります。

ちなみに、事の前夜に鈴木重秀が岸和田城に逃げた行為は、敵側からは「夜逃げ」と称して笑い者になったらしいですが、上記の通り、もしその日に逃げていなければ土橋平太夫と同様に討たれていた可能性が高いので、鈴木重秀としては笑われようが何しようが「逃げるが勝ち」で命拾いした事になります。

一方、『石山軍記』『大谷本願寺通記』他、本願寺側の複数の記録には、この6月3日夜から4日早朝にかけてのこの騒動を、信長の三男=織田信孝(のぶたか=神戸信孝)配下の者による鷺ノ森の本願寺別院(上記の顕如が滞在してた場所です)への攻撃・・・つまり、信長の紀州征伐の一環であるかのように書かれています。

それら本願寺側に記録では、
6月3日に信孝の命を受けた丹羽長秀(にわながひで)が3千の兵を率いて鷺ノ森を襲撃して来たのを、急を聞いてはせ参じて来た鈴木孫一(孫一を名乗る人は複数いるので鈴木重秀本人の事かどうかは不明)をはじめとする在地の宗徒たちが賢明に防戦するも、やがて織田勢に新手の援軍が加わり、もはやこれまで!・・・となったところに「本能寺の変(信長死す)の一報」が入り、織田方は散り々々に去って行った。。。と、

「あらめでたや法敵亡(ほろ)び 宗門は末広がりに御繁昌」
と、あの高野山攻め(【織田信長の高野山攻め】参照>>)と同じような展開になってるところは、いかにも本願寺側の記録・・・って感じです。

なので、現在では、今回の雑賀での騒動は「信長VS本願寺の戦い」ではなく、おそらくは、信長の死によって再燃した雑賀の内紛であろうととの見方がされています。

とは言え、全部違うかと言うと、そうではなく、実際に本能寺の変の混乱によって雑賀衆の一部の誰かに鷺ノ森が襲撃された事も複数の史料に見られるので、本願寺別院がこのドサクサで襲われた事は事実のようで・・・

さらに、 当時、信孝の配下であった九鬼広隆(くきひろたか=九鬼嘉隆の甥)の覚書には、信孝は、この日、実際に紀州方面に出向いていた事が記されています。

それは、この2~3日後に決行されるはずだった四国攻め(【本能寺の変:四国説】参照>>)の準備のため・・・渡海用の船の用意を雑賀衆に頼んでいたので、その最終の打合せに向かっていたようなのですが、
堺にて本能寺の異変を知った九鬼広隆が慌てて紀州方面に向かったところ「ちょうど貝塚(かいづか=大阪府貝塚市)のあたりで、紀州から戻って来た信孝と落ち合う事が出来た」との事・・・

当然ですが、四国攻めの総大将である織田信孝がたった一人で紀州に出向くはずはなく、ある程度の人員を連れて紀州に入っていたはずですから、おそらくは、上記の鷺ノ森別院が襲われた話と、この信孝が紀州にいた話とがいっしょくたになって「本願寺側の記録」として残されたものと思われます。

とにもかくにも、今回の信長の死によって、雑賀を去った鈴木重秀は没落・・・一方、ここまで何処かに身を潜めていた土橋重治は、重秀と入れ替わるように雑賀に戻って来て、報復作戦に取り掛かります。

ただ、鈴木重秀が去ったとは言え、まだまだ鈴木重秀一派の者は多く残っており、その抵抗も激しく、すぐさま雑賀一帯を掌握するというわけにはいかず、なかなか不安定な状態が続いていたようですが、

そんな中でも、土橋重治らは、信長を討った明智光秀(あけちみつひで)と連絡を取り、6月12日付けの光秀の返書には高野山根来衆(ねごろしゅう=根来寺の宗徒)らとともに和泉(いずみ=大阪府南西部)河内(かわち=大阪府南東部)方面に出兵してほしい」との記述があり、援軍の要請を受けていたようで・・・(2017年の新発見「9月」の項参照>>)

おそらく土橋重治らは、この先、光秀の力を後ろ盾に雑賀一帯の統治を画策していたものと思われますが・・・

ご存知のように、この返書の日付の翌日=6月13日に光秀は羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)との山崎の合戦に敗れて(6月13日参照>>)命を落としてしまい、実際に土橋と明智が連携する事はありませんでした。

後の、秀吉による紀州征伐(3月28日参照>>)の際には、
鈴木重秀は秀吉の使者として雑賀へ出向いて交渉係をし、土橋重治は秀吉軍と抗戦し、敗れて四国へ逃れ・・・と、ともに命はつなぐものの、雑賀にいた頃の隆盛を味わうような事は、2度と無かったのです。

鈴木重秀にしろ土橋重治にしろ、おそらく彼らの理想としては、雑賀の独立を保ったままの状態がベストだったのかも知れませんが、天下=中央集権を目指す武将の登場によって、「大きな傘の下でしか生き残る事ができない」と悟った以上、誰につくのか?どうするのか?の選択をし、それぞれの生き方を模索するしかなかったのでしょうね。
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2020年4月16日 (木)

秀吉の紀州征伐~高野攻め回避と木食応其

 

天正十三年(1585年)4月16日、秀吉紀州征伐で使者・木食応其が高野山の意向を伝え、高野攻めが回避されました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)本能寺に倒れた(6月2日参照>>)後、変の首謀者である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒した(6月13日参照>>)事で織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

その後、家臣団の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)に破り、信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追い込み、

さらに天正十二年(1584年)、徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けてた信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)との小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納めました(11月16日参照>>)

Toyotomihideyoshi600 ここで、この先おそらくは(最終的には)中央集権を目指すつもり?の秀吉は、未だ独立を保って抵抗していた雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手するのです。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ独立独行を目指す土着の民で、亡き信長を何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

一方の根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、同じく武力をを保有する宗教勢力の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)

そして、もう一つ・・・紀州には高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)という一大宗教勢力がありますが、コチラも信長時代から抵抗勢力でありました(10月2日参照>>)

かくして天正十三年(1585年)3月、秀吉は紀州征伐(きしゅうせいばつ)を決行します。

これを受けた根来ら紀州の諸勢力は、複数の砦で構成された前線基地(現在の貝塚市付近)で迎え撃ちますが、10万越えという予想以上の大軍に、あっけなく崩壊・・・

前線を突破した秀吉軍は3月23日に根来寺を、翌・3月24日に粉河寺を占領(3月24日参照>>)、さらに3月28日には雑賀衆の太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市)を囲みます(3月28日参照>>)

一方、この太田城攻防と同時進行で行われていたのが、高野山攻めの計画・・・とは言え、こういう場合、まずは交渉です。

ドラマ等では、よくスッ飛ばされてるので忘れがちですが、信長さんのあの比叡山焼き討ちも、信長の出した和睦の条件を比叡山が呑まなかったので焼き討ちを決行してます。。。
もちろん、今回の根来寺や粉河寺や雑賀にも先に交渉してますが、結果、決裂して蜂起となったので→武力征伐という事なわけで、、、

そんなこんなで4月7日、秀吉は細井新助(ほそいしんすけ)なる者を使者として高野山へと向かわせ「提示する三つの条件をのまねば攻撃する」旨を伝えます。

残念ながら、その手紙の現物は残っていませんが、伝えられるところによると、その三つの条件とは
1:もともとの寺領以外の領地の返還
2:武装蜂起(謀反人を匿う事も禁止)
3:弘法大師の教えの通りに仏道に専念する事
の三つだったと言います。

これを受け取った高野山側では、山内挙げての協議となりますが、その中には「武力に屈する事無く、徹底抗戦!」を訴える僧も少なくありませんでしたた。

しかし、現実問題として反発した根来&粉河は焼き討ちからの占領となり、現在抗戦中の太田城も、もはや風前の灯である事も伝えられており、大軍である秀吉軍なら、紀州各地に兵を配置しながらでも、ここ高野山へもある程度の兵の数を確保できる事は明白・・・「ここは一つ、神聖なる高野山の伝統を守る事を1番に考えるべきだ」との声が挙がり、そのためには、「これらの条件を無条件受諾するしかない」との意見にまとまります。

かくして天正十三年(1585年)4月16日、高野山にて「すべての条件を受諾する」旨の請状(うけじょう)が作成され、それに神文(しんもん=起請の内容に偽が無い事を神に誓う文・今回の場合は空海の手印を添付)を添えて、学侶(がくりょ=仏教を学び研究する僧=学僧)の代表者と行人(ぎょうにん=施設等の管理をする僧)の代表者とともに、客僧として高野山に入っていた木食応其(もくじきおうご)を使者として、太田城水攻め中の秀吉のもとに派遣しました。

この時、彼らに面会した秀吉は、木食応其の事を大いに気に入ったと見え、
「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべし」
(木食応其は単に高野山の木食僧なのではなく、木食応其が高野山を代表すると思え)
と評して、即座に高野山攻めを取り止めるとともに、今後の高野山の運営を、この木食応其に委ねるよう命じたのです。

ちなみに木食応其の「木食(もくじき)とは穀物を絶って木の実や山菜・野草のみを食し仏道に励んでいる状況=つまり、そういう修行をしているという事で、今回の木食応其の場合は、学侶でも行人でもなく、この時にたまたま客僧として高野山にて木食をしていた・・・という感じだったようです。

そもそも木食応其は、近江源氏佐々木(ささき)の家臣だった父を持ち、織田信長が観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)を攻めた時には六角承禎(ろっかくじょうてい・義賢)とともに抵抗し(9月13日参照>>)、その後、高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)越智(おち)(9月15日参照>>)を頼って奈良に落ちたものの、その越智氏も没落したため、戦いの空しさを痛感して中年になって出家したと言われる異色の経歴の持ち主・・・この経歴に関しては異説があるものの「基々は武将だった」というのは本当のようで、

そういう意味で、武士の立場も理解し、また客僧という立場ゆえにしがらみも無く・・・秀吉から見れば、そこが大いに使い勝手が良く、この後、木食応其を重用し、木食応其もまた、秀吉を後ろ盾として高野山の再興に力を注ぐ事になるのです。

故に、この木食応其を「高野山の中興の祖」と見る場合もあるようです。
ま、存続の危機から一転、現在につながる繁栄を遂げる事になるわけですから。。。

後に秀吉は、山上に興山寺(こうざんじ)を建立し、木食応其を開山第一世 とし、さらに興山寺の隣 に亡き母を弔うための青厳寺(せいがんじ)を建立・・・これが、明治になって興山寺と青厳寺が合併して真言宗総本山金剛峯寺と称するようになり、現在に至るという事になるのです。

また、木食応其は橋本(和歌山県橋本市)の発展にも力をつくしました。

大和街道と高野街道が交わり、そこに紀ノ川の水運が重なる交通の要所でもあるこの場所に、自らの草庵(現在の応其寺)を結んで商工業の町として整備するとともに、高野山往還のために紀ノ川に234mの橋を架けたりして・・・これが「橋本」の地名の由来とも伝えられています。

とまぁ、秀吉を大いに利用しつつも、政権下に組み込まれる事もなく・・・と、ウマイ事立ちまわってる感がある所は、さすがにタダの僧では無い感が漂いますが、それでいて、同じ近江出身として意気投合した石田三成(いしだみつなり)が関ヶ原で負けた時には、すかさず光成三男を保護して出家させ、その命を守るところなど、なかなか義理堅い人でもあったようです。

とにもかくにも、これで高野山攻めが回避され、今に残った事は、誰もがヨシとするところではないでしょうか?
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