2022年5月11日 (水)

大坂の陣で捕まった長宗我部盛親…処刑までの最後の4日間

 

慶長二十年(元和元年・1615年)5月11日、大坂夏の陣での敗戦を受けて逃亡していた 長宗我部盛親が捕らえられました。

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長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、四国を統一するも豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敗れて(【一宮城攻防戦】参照>>)配下となり、土佐(とさ=高知県)一国を預かる大名として存続した猛将=長宗我部元親(もとちか)四男です。 

父亡き(5月19日参照>>)後、家督を継ぎますが、あの関ヶ原の戦いで、事実上の参戦はしなかったものの、西軍の一員として南宮山なんぐうさん)に布陣していた事から、勝者である東軍の徳川家康(とくがわいえやす)に謝罪し、領国安堵の交渉に入っていましたが、その交渉の窓口であった兄の津野親忠(つのちかただ)とモメて殺害してしまい、激おこの家康から土佐を没収されてしまいました。

そのため、土佐は山内一豊(やまうちかずとよ)に与えられ、盛親自身は浪人の身となってしまったのです(【浦戸一揆】参照>>)

Tyousokabemoritika600ats その後、京都にて寺子屋の先生をして生計を立てていたところ、ご存知、大坂の陣の勃発で豊臣家からお誘いを受け、真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが=吉政)らと同様に、慶長十九年(1614年)の10月7日に大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)入城しました(10月7日参照>>)

その後、大坂冬の陣夏の陣を経て
(詳しい経緯は【大坂の陣の年表】>>で)
(盛親活躍は【夏の陣~八尾の戦い】>>

…で、ご存知のように慶長二十年(1615年)5月8日、大坂城は落城します(5月8日参照>>)

この日、炎に包まれる大坂城から脱出した盛親は、北へ北へと逃れ、八幡(やわた=京都府八幡市)橋本(はしもと)近く、淀川沿いの葦(よし)の河原に潜んでいましたが、ある日、その隠れ家に家臣の中内三安(なかうちみつやす=惣右衛門)が食べ物を持って行こうとしていた所を、一人の足軽が目に止めます。

その足軽は、もとは土佐の人で、中内とは顔見知り・・・そこで、すぐさま戻って、現在所属している蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)配下の長坂三郎左衛門(ながさかさぶろうざえもん)に、その事を報告したのです。

かくして慶長二十年(元和元年・1615年)5月11日長宗我部盛親は、中内といっしょにいる所を長坂に捕縛されてしまったのです。

伏見(ふしみ=京都市伏見区)に護送される盛親は、
「あの時、赤備え(井伊直孝隊)に妨害されて藤堂高虎(とうどうたかとら)の首が取れんかった事が無念や!」
5日前の八尾の戦いの事を悔しがっていたとか・・・

やがて伏見の城に到着・・・その玄関口に連座するは、
かの井伊直孝(いいなおたか)安藤重信(あんどうしげのぶ)土井利勝(どいとしかつ)

彼らが合戦についての尋問をすると、盛親は、
「6日の晩に決死の反撃をしようと思っていたが、軍兵も疲れていて残念やった」
と述べたという。

この時、格子の向こうで、前面に2~3人の近臣を立たせて、その影から自分を見ている徳川秀忠(ひでただ=家康の三男・2代将軍)に気づいた盛親は、怯むことなく、キ~ッと秀忠を睨みつけたとか。。。

その後、白洲(しらす=裁きの場)に引き出された盛親は、中央に座る秀忠に代わって、側の侍が、
「数千の兵を預かる大将が、本来なら自害すべきところを、そうしないのはなぜか?」
と尋ねると、

「一方の大将たる者、端武者(はむしゃ)みたいに軽々しく討死すべきではないです」
と、そこには、
「何が何でも命をつなぎ、少しでもチャンスがあれば、再び兵を起こして汚名を雪ぎたい」
という思いが込められていのです。

やがて引っ立てられていった牢では、ご飯をうずたかく盛って罪人に差し出すかような出され方をされた時、その警固の者に対して、
「あんな、昔から、どんな名将でも捕まる時は捕まるねんから、捕まる事は恥とは思えへんけど、こんな下品な食事を出されんのは屈辱や!それやったら、さっさと首をはねてくれへんかな?」
とスゴんだのです。

その場に、たまたま通りがかった井伊直孝が、その様子を見て、
「確かに、礼法も何もないですな~」
と、厨房に命じて、料理を整えさせ、

盛親の縄を解いて座敷に招き入れ、
「疲れをお休めください」
と、丁寧に対応したところ、
「おぉ、これぞ礼儀を知る武士道やの~」
とご機嫌で、敗者として怯える様子はみじんも無い、堂々たる姿だったのだとか・・・

こうして、捕縛から4日後の5月15日、盛親は京都市中を引き回された後、六条河原(ろくじょうがわら=鴨川の河原の刑)にて処刑されたのです。
(内容カブってるし、ずいぶん昔(2008年)のページですが、処刑された日付けでupした【長宗我部盛親~起死回生を賭けた大坂夏の陣】>>もどうぞ)

ちなみに、ともに捕まった中内は、主君に最期までつき従った忠誠心が買われて助命され、その後は蜂須賀の家臣となったそうですが、盛親の子供たちは・・・

長男は伏見で斬首、土佐に逃げた次男と三男は山内一豊に処刑され、四男&五男も八幡にて捕縛されて処刑されたため、これにて長宗我部氏は滅亡となりました。

一説には、慶安四年(1651年)に德川幕府転覆を企てる由比正雪(ゆいしょうせつ)(7月23日参照>>)の一番弟子とされる丸橋忠弥(まるばしちゅうや)盛親の息子(側室の子)という噂もありますが、確かな話ではありません。
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2022年4月26日 (火)

関ケ原後の後に…伊達政宗VS上杉景勝の松川の戦い

 

慶長六年(1601年)4月26日、関ヶ原の戦いでの東軍勝利に乗じて福島へと南下する伊達政宗上杉景勝の軍とが戦った松川の戦いがありました。

・・・・・・・・

慶長五年(1600年)6月18日、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)「謀反の疑いあり」(直江状>>)として、豊臣五大老筆頭徳川家康(とくがいえやす)会津征伐を決行すべく伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を出陣したすきに、家康こそ豊臣の敵と考える(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、留守となったその伏見城を攻撃した(7月19日参照>>)事に始まる関ケ原の戦い・・・

ご存知のようにこの戦いは東軍=徳川家康の勝利(9月15日参照>>)となるわけですが・・・

Uesugikagekatu600a この時、東北では、東軍に与する伊達政宗(だてまさむね)最上義光(もがみよしあき)らは、その上杉との長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市)争奪戦を繰り広げていましたが、上記の関ヶ原の結果を得た以上、上杉景勝の軍は撤退するしかありませんでした(10月1日参照>>)

関ケ原の本チャン以前から上杉方の白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)を攻略(7月25日参照>>)したりして、家康からも、勝利のあかつきには苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井など旧領7ヶ所=50万石加増の約束するという「百万石のお墨付き」(8月12日参照>>)を得ていた伊達政宗は、

東軍の勝利に乗じて、関ヶ原本チャンが終わった後の慶長五年(1600年)10月に、上杉の重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)の守る福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)への攻撃を開始していたのです(10月6日参照>>)が、

一説には、この時に、政宗が福島城を落とす事無く撤退する事になった要因だともされるのが松川の戦い(福島県福島市)・・・

とは言え、実は、この松川の戦いに関しては複数の文献に複数の記述があり、文献によっては上杉×伊達の両方が「自分たちが優勢だった」と書いてあったり、戦いのあった日も上記の福島城と関連ありな慶長五年(1600年)10月と、その翌年の慶長六年(1601年)4月の2種類あるのです。

てな事で、なかなかに曖昧ではありますが、
本日のところは慶長六年(1601年)4月26日の日付で『常山紀談』に沿ってお話を進めさせていただきます。

・‥…━━━☆

とにもかくにも、上記の通り、関ヶ原の勝利に乗じて上杉領の切り取りを狙う伊達政宗は、地元のお百姓を間者に仕立てて敵の様子を探らせていました。

福島県から宮城県へと流れて仙台平野に至る阿武隈川(あぶくまがわ)の支流である松川は、当時は信夫山(しのぶやま=福島県福島市街地北部)の南側を流れており(現在の祓川が古い松川の名残とされる)、上杉領と伊達領の境目であった事から、この時は本庄繁長のほかに、上杉配下の甘糟景継(あまかすかげつぐ)岡定俊(おかさだとし=岡左内・岡野佐内)らなど約5000の兵が警備をしていました。

そこに、国見峠を越え、信夫郡から瀬ノ上(せのうえ=福島県福島市)で川を渡って後、かつては伊達の城だったものの豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命による転封で、今は上杉の物となっている梁川城(やながわじょう=福島県伊達市梁川町)に約5000を向かわせた伊達政宗が、松川を目指して押し寄せて来たのです。

この情報を得た上杉方・・・
「先に川を渡ってから戦うか?向こうが渡って来るところを討つか?」
と、本庄繁長が思案すると、

松本内匠(まつもとたくみ)が、
「向こうは不意を突いて先手必勝とばかりにやって来るのですから、コチラが先に川向こうに渡って待っていたなら『思てたんと違う~』ってなってスピード緩めるかも知れません。渡りましょう」
と進言しますが、

栗生美濃(くりゅうみの)は、
「この川は中央が深くなってるので、簡単には渡れませんから、敵が川を渡ってる途中を討つのが有利や思います」

また、岡定俊は
「いやいや~敵は大軍でっせ。ここで待ってたら、なんや敵を怖がってるように見えますよって、さっさと川を渡ってしまいましょう」
と言います。

そして栗生が、
「孫子(そんし=中国の兵法書)にも『少を以て衆に合ふ是を北と言う(少数で多くの敵と戦う事は敗北だ)(第10章「地形篇」参照>>)ってありますから、無謀な戦はあきません」
と、言い合ってる所に甘粕がやって来て、
「とりあえず、物見に敵の様子を探らせましょう」
となって、物見を派遣します。

こうして、敵の様子を見て来た者の一人は
「敵は馬の沓を取らず、障泥(あおり=鞍の下に敷く布)も外さず、空穂(うつぼ=矢を入れとくヤツ)を平常時のようにしてるんで政宗は川を渡っては来ないでしょう」
と言い、もう一人は、
「僕が見たんも同じですけど、まだ政宗は五~六町(600mくらい?)先にいて、川岸には到着ません。政宗が川岸に到着してすぐに支度したら、大して時間かからんと川を渡り始めるでしょう。2万の軍率いてやって来て、そのまま引き返したりしませんやろ」
と言います。

そこで、河端から二町ほど手前の所に陣を整えて敵を待つ事にしますが、岡定俊が真っ先に馬で駆けて川の中へ・・・
「川を渡るな!」
と、栗生と甘粕が命じて止め、後方の兵は何とか押し止めたものの、前にいた約20騎ほどが川に乗り入れてしまいます。

そうこうしているうちに伊達政宗以下、伊達隊が押し寄せて来て、先陣の片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)勢がドォ~っと斬りかかって来ました。

迎え撃つ岡勢も真向から火花散らして激しく戦いますが、大軍に囲まれて斬られる者も多く、やむなく岡定俊は、この場を切り抜けて、一旦退こうとしますが、そこに馬で駆け寄せて、2太刀ほど岡に斬りつけて来た武将・・・

Kabutosikorocc 岡定俊は振り返って、その武将の兜から鞍にかけて真向から斬りつけ、返す刀で兜の錣(しころ=右のイラスト参照→)を切り払い、相手の右膝口に斬りかかると、敵の馬が飛んで退きました。

その武将の甲冑が大した見た目では無かったので、岡定俊は、さらに追い詰める事無く退きましたが、実はコレ、伊達政宗本人だったと・・・

後で、これを聞いた岡定俊は、
「もう一太刀で、大将を討ち取れたのに~」
とメチャ悔しがったとか・・・

こうして一進一退の激戦が続く中、栗生が陣を整えて敵を待ち、片倉の軍を追い崩して川へと追い詰めたものの、予想以上に多い敵がその後ろから重なるように攻め寄せて来たので、やむなく上杉勢は福島城に退きあげる事に・・・

追う政宗は
「どこまでも逃すな!」
馬煙を立てて続いてきます。

そのスピードに、持って逃げられない武具を打ち捨てて後退する上杉軍・・・

この時、上杉軍の殿(しんがり=撤退する軍の最後尾)を務めた青木新兵衛(あおきしんべえ)なる武将は、小さな馬に乗り、短い槍を持っていた事から、その小回り利く状況を活かし、取って返しては突きはらい、何度も敵を防ぎます。

やがて、岡が福島城に到着・・・その後、甘粕や栗生も城に入ったところで、伊達勢が押し寄せて来たので城の門を閉じてしまったため、青木は、ただ一騎で迎え撃つ事に・・・

そんな青木に馬で駆け寄る伊達政宗・・・
青木は十文字の槍で以って政宗の兜の三日月の立物を突き折りますが、政宗は青木の鎧を蹴って、そのまま駆け過ぎて行きます。

「もう、一突きで討てたのに…口惜しい」
と悔しがる青木・・・

と、そんな時、上杉方の梁川城から須田長義(すだながよし)が撃って出て、阿武隈川を前に陣を敷く伊達勢を狙います。

さらに地の利を知る須田長義は、自軍を二手に分け、自身の率いる一隊を川上へと移動させます。

それを見た政宗の兵も二手に分かれ敵を防ごうとしますが、上手くいかずゴチャらゴチャらやってる間に、須田隊は一気に川を渡って斬りかかり、先の戦いで分捕られた甲冑やら武具を取り返しつつ進みます。

松川にて奮戦中、背後に敵が現れたと聞いた政宗は、一旦、退く事にしますが、そこに本庄繁長が追いうちをかけて来た事で敗色が濃くなったため、伊達勢は信夫山に退きあげようとした所、総大将=上杉景勝が後巻(うしろまき=味方を攻撃する敵を背後から取り巻く)のために出陣します。

Kagetatukonhata100 景勝隊が掲げる「紺地に日の丸」の旗←が山上になびくのを見た政宗は、やむなく全軍を退きあげたのでした。

後々、岡定俊と会った政宗は、松川での思い出話を語りはじめて、
「お前を斬った事、今も忘れてないで~」
と言うと、岡定俊も、
「大将の刀の跡ですから、金糸で縫い合わせて、我が家宝としてます」
と言って、その羽織を見せたところ、政宗は大いに喜んだものの、

続けて、
「そのあと、兜の錣をなぐり切りにしましたけどねww」
と言うと、政宗は不機嫌そうに去って行ったのだとか・・・

にしても、伊達政宗、総大将やのに前に出過ぎやろwww

・‥…━━━☆

このあと、8月には上杉の大幅減封が決定され(8月24日参照>>)、景勝は米沢(よねざわ=山形県米沢市)にお引越し(11月28日参照>>)・・・

さらに翌年の4月には最後までネバった島津義久(しまづよしひさ)が、家康から所領を安堵され(4月11日参照>>)関ヶ原の戦いに関連する出来事には、ほぼ終止符が打たれる事になるのです。

★関ヶ原の戦いの全般のアレコレについては【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞm(_ _)m
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2022年1月26日 (水)

戦国を生き抜いた鹿野藩初代藩主~亀井茲矩

 

慶長十七年(1612年)1月26日、鹿野藩初代藩主となった亀井茲矩が死去しました。

・・・・・・・・・

亀井茲矩(かめいこれのり)は、父の湯永綱(ゆながつな)が、月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)を拠点に山陰地方で栄華を誇った尼子(あまご)の家臣であった事から、自身も尼子氏に仕えていましたが、 

ご存知のように永禄九年(1566年)11月、尼子義久(あまごよしひさ)の代に安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)に攻められて降伏(11月28日参照>>)・・・事実上、尼子氏滅亡となったため、亀井茲矩も浪人の身となって各所を点々としていました。

そんな時、因幡(いなば=鳥取県東部)にて、尼子一族の生き残り=尼子勝久(かつひさ=義久のまた従兄弟)還俗(げんぞく=僧となった人が一般人に戻る事)させ、彼を新当主に担ぎ上げて尼子を再興&月山富田城奪回を考える旧尼子家臣の山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)に出会い、天正元年(1573年)から、本格的に鹿介の案に賛同して尼子再興軍(1月22日参照>>)に加わり、各地を転戦します。

ここらあたりで、山中鹿介の養女となっていた同じく尼子の旧一門格家臣の亀井秀綱(かめいひでつな=先の月山富田城の戦いで戦死したと思われます)娘を妻に娶ると同時に、その亀井の家名を継いで、以後、亀井茲矩と名乗るようになります。

しかし、この頃の中国地方は備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる混乱状態で、幾度転戦しようが、勝ち負けは一時的な物で、頭一つ抜け出した西国の雄=毛利には、どうしても歯が立たない・・・

そこで、尼子勝久と山中鹿介は、永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)して後、しばらくして本願寺顕如(けんにょ)とモメた(9月12日参照>>)事で、その本願寺に味方する毛利輝元(てるもと=元就の孫)とも敵対(7月13日参照>>)し始めた織田信長(おだのぶなが)の後ろ盾を得るべく信長の元へはせ参じ、その傘下となった事から、当然、亀井茲矩も彼らとともに・・・

ただし、ここで、勝久&鹿介が、織田家内で但馬(たじま=兵庫県北部)からの中国攻略(10月23日参照>>)を任されている羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の配下に配属されたのに対し、亀井茲矩は、途中から丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)攻め(10月29日参照>>)明智光秀(あけちみつひで)の配下に配属された事で、運命の分かれ道・・・

天正五年(1577年)12月に、秀吉が播磨(はりま=兵庫県南西部)上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)を落とした事で(12月2日参照>>)、その上月城の守りを任された尼子勝久&山中鹿介は、翌天正六年(1578年)7月に上月城を奪回しようと攻めて来た毛利を防ぎきれず、尼子勝久は籠城のうえ自害(7月3日参照>>)、山中鹿介は捕縛された後に殺害されてしまったのです(7月17日参照>>) 。

尼子再興は風前の灯となったものの、その夢は一門を継いだ亀井茲矩自身に引き継がれ、勝久&鹿介の生き残りの部下たちとともに、その後も秀吉軍に属して戦い続け

Kameikorenori400a 天正九年(1581年)の 鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)攻略(10月25日参照>>)で武功を挙げ、因幡の守りの最前線である鹿野城(しかのじょう=鳥取県鳥取市鹿野町)を任されました。
(亀井茲矩像:出典>>)

翌年の天正十年(1582年)6月の本能寺の変(6月2日参照>>)の時は、やはり秀吉と行動をともにしいていた亀井茲矩は、あの中国大返し(6月6日参照>>)で、万が一、毛利が追って来た時の対処をすべく、途中から別れて鹿野城へと戻り、後詰として睨みを効かせたのでした。

ご存知のように、それからしばらくは清須会議(6月27日参照>>)やら、信長の葬儀(10月15日参照>>)やら、賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)やらに忙しく、中国方面に目を向けられなくなった秀吉・・・

そこで、秀吉は、その中国方面の玄関口を、鳥取城主となっていた宮部継潤(みやべけいじゅん)(3月25日参照>>)に守らせますが、亀井茲矩は、その宮部の配下となって活躍・・・

天正十五年(1587年)の九州征伐にも(4月17日参照>>)、天正十八年(1590年)の小田原征伐にも(3月29日参照>>)従軍し、さらに、文禄元年(1592年)からの文禄&慶長(ぶんろく&けいちょう)朝鮮出兵(4月13日参照>>)でも水軍を率いて渡海し、かなりの奮戦ぶりでした。

その間の(文禄の役後の休戦中)文禄四年(1595年)には、秀吉から西播磨で発見された日野山銀山の経営を任されたとか・・・(1年ほどで吉川広家の所領となって権利を奪われたらしい)

と、ここまで、かなり波乱万丈な人生を送っている亀井茲矩・・・(言うの忘れてましたが)この時点での茲矩さんは、未だ30代半ばの男盛りなんですが、おそらくは、亀井茲矩の名を頻繁に聞くようになるのは、ここらあたりから・・・

そう、あの関ヶ原の戦いです。
(戦いのイロイロは【関ヶ原の戦いの年表】>>で)

秀吉の死を受けて、早いうちから徳川家康(とくがわいえやす)に近づいていた亀井茲矩は、関ヶ原本戦では家康の東軍に属して参戦しますが、布陣した場所が南宮山(なんぐうさん=岐阜県大垣市)の毛利&吉川勢をけん制する位置で、

結局、毛利&吉川は家康との約束通り、最後までまったく動かなかったため(9月28日参照>>)亀井茲矩自身は大した武功を挙げる事ができていませんでした。

そこで茲矩は、すぐさま因幡へと戻り、約400の手勢を率いて西軍についていた垣屋恒総(かきやつねふさ)桐山城(きりやまじょう=鳥取県岩美郡岩美町)接収し、木下重堅(きのしたしげかた)若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう=鳥取県八頭郡若桜町)無血開城させ、最後に残った鳥取城へと向かうのですが、これがなかなか落ちず・・・

やむなく茲矩は、西軍として丹後田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)の攻撃(7月21日参照>>)に参戦した友人の赤松広秀(あかまつひろひで=広通・広英・斎村政広)を東軍に寝返らせて、ともに城に総攻撃を仕掛けて落城させたのです(10月5日参照>>)

ところが、その後、この鳥取城攻めの際に城下を焼いてしまった事を家康に咎められて赤松広秀が切腹させられてしまうのです(10月28日参照>>)

しかし亀井茲矩は無傷、てか、むしろ加増・・・そのため、今では、鳥取城下を焼いた責任を赤松広秀一人になすりつけたのではないか?と言われています。

また、これまた亀井茲矩と仲が良かった水口城(みなくちじょう=滋賀県甲賀市水口町)長束正家(なつかまさいえ=「ながつか」とも)を攻めた際は、
「すんなり開城したら本領を安堵する」
約束しておきながら、正家が城を出て来た所を捕縛したとか・・・(10月3日参照>>)

なんだか、後味悪いよ~亀井さん!

…と思っちゃいますが、赤松さん&長束さん、それぞれのページで書かせていただいたように、

これは、実際には、友人として、初めは西軍にて参戦していた赤松広秀の罪を、
「ちょっとでも軽くしてあげよう」
として亀井茲矩が鳥取城攻めに誘ったものの、生野銀山(いくのぎんざん)を管轄している赤松の領地を德川の直轄地にしたかった家康のせいかも知れないし、

長束さんを騙したのも、ともに水口城を攻めていた池田長吉(いけだながよし=池田輝政の弟)かも知れないわけで・・・

本日は亀井茲矩さんのご命日で、このページは亀井茲矩さんが主役・・・って事で、ちょっとだけ名誉快復して差し上げたい気分です。

なんせ、この後、德川政権下で鹿野藩初代藩主となった亀井茲矩は、湖山池(こやまいけ=鳥取県鳥取市)干拓に力を注いだり、暴れ川だった千代川に農業用水路の大井手(おおいで)用水を造って新田開発をしたり、

幕府からの朱印状を得てシャム(現在のタイ中部にあったアユタヤ王朝の国)交易船を派遣したり・・・と、かなりの名君ぶりを発揮してくれています。

まぁ、内政が良いからイイ人とも限らないですが、農業用水路を開発した地元では、今も「亀井さんのおおいで」と呼ばれて親しまれているようですので、今日の所はヨシとしましょう。

そんな亀井茲矩は、慶長十七年(1612年)1月26日56歳でこの世を去りました。

当主の座は、嫡子の亀井政矩(まさのり)が継いで、その後も代々江戸時代を生き抜き、亀井家は無事、明治維新を迎えています。
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2021年11月10日 (水)

天下の三大家老~池田家に仕えた姫路築城の総奉行…伊木忠次

 

慶長八年(1603年)11月10日 、戦国時代から江戸時代初期にかけて、池田恒興輝政父子に仕えた家老=伊木忠次が病死しました。

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織田信長(おだのぶなが)に仕えていた伊木忠次(いぎただつぐ)は、永禄四年(1561年)に、信長が美濃(みの=岐阜県南部)の 斉藤龍興(さいとうたつおき)を攻めた際、
 (【森部の戦い】参照>>)
 (【美濃十四条の戦い】参照>>)
伊木山にて多くの斎藤勢を討つ活躍を見せた事から、信長から伊木の姓を賜って伊木忠次と名乗るようになり、さらに築城も許されて、その伊木山に伊木城(いぎやまじょう=岐阜県各務原市)を構築したとされています。

Ikedatuneoki600a その後、有能な家臣を探していた織田家重臣の池田恒興(いけだつねおき=信長の乳兄弟)にスカウトされ、恒興の与力(よりき=主君は信長だけど指揮命令系統は恒興から受ける)となりました。

…と言っても、実は、このへんは曖昧・・・伊木忠次が歴史上に登場して活躍し始めるのは、その信長が、あの本能寺(ほんのうじ)に倒れた(6月2日参照>>)天正十年(1582年)以降なのです。

それは、天正十二年(1584年)の、あの小牧長久手(こまきながくて=愛知県長久手市周辺)の戦い・・・

ご存知のように、この戦いは、信長の後継者を決める清須会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)で、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)の両者で争う中、

山崎の戦い(6月13日参照>>)で仇の明智光秀(あけちみつひで)を討つという功績のあった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、信長とともに死んだ嫡男の織田信忠(のぶただ)の遺児である三法師(さんほうし=後の織田秀信)を推し、その後見人に信雄と信孝を据える事で、双方文句無いように収めたはずだったのですが・・・

本能寺の後に燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)の修復をしてる間だけ、居城の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて三法師を預かる約束だった織田信孝が、いつまで経っても三法師を放さないばかりか、

そのまま岐阜城にて籠城し、そんな信孝を重臣の柴田勝家(しばたかついえ)が応援した事から、これまたご存知の賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦いが勃発しました(2月12日参照>>)

この時、柴田勝家を倒したのは、ご存知、秀吉です(4月21日参照>>)信孝を攻めたのは兄の信雄だった(5月2日参照>>)わけで・・・そのため、どうやら信雄は「信孝亡き後は我こそが織田家の後継者」てな事を考えていたようなのですが、

一方で、大々的に行った信長の葬儀を仕切り(10月15日参照>>)、天正十一年(1583年)9月には、信長が築城を夢見ていた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)跡地に、天下無双の大坂城(おおさかじょう)を築き始めた(9月1日参照>>)秀吉の事を、信雄は、徐々に脅威に感じ

父の長年の同盟者であり、秀吉に対抗できる力を持つ徳川家康(とくがわいえやす)に相談して、共に歩調を合わせる約束をし、翌年=天正十二年(1584年)3月に、自らの配下である3人の家老を「秀吉に通じている疑いがある」として殺害してしまうのです(3月6日参照>>)

こうして始まったのが小牧長久手の戦い・・・秀吉と、信雄を担ぐ家康の直接対決となった戦い。。。

つまり、この時点での恒興は、清須会議にて秀吉とともに三法師を推したとは言え、信長とは乳兄弟だし、本能寺の時の所属は嫡男=信忠の付属だったわけですから、どちらに味方しようが本人次第だったわけです。

そんな中で家康は、さすがに自分と信雄だけでは勝ち目は無いと考え、行動を起こすと同時に、各地の大名に「羽柴筑前、許し難し」の書状を送って味方になってくれるよう呼びかけ四国長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)越前(えちぜん=福井県東部)佐々成政(さっさなりまさ)などが、これに応えていたわけですが、

この時、家康が密かに頼りにしていたのが、信長の乳兄弟である池田恒興だったわけです。

ところが、実際の直接対決の幕開けとなった天正十二年(1584年)3月12日、信雄方の林正武(はやしまさたけ=神戸与五郎)率いる500の軍兵が亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)を奇襲(3月12日参照>>)すると、

その日の深夜(厳密には13日の夜明け前)、秀吉方が犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)を攻撃(3月13日参照>>)・・・この犬山城攻撃の中心となったのが池田恒興だったのです。

…とまぁ、
長い前置きになりましたが、何が言いたいかと言いますと、この時、どちらにつくが悩む恒興に、これからの状況を予測して、
「秀吉っさんにしなはれ」
進言したのが伊木忠次だったのです。

結果的に、この戦いで秀吉は揺らぐことなく、なんなら、うまいこと信雄を誘導して、家康の知らぬ間に単独講和に持ち込み(11月16日参照>>)、最終的には、その人たらしの術で家康をも文句言わせない状況に持ち込んだ(10月27日参照>>)わけですから、秀吉に味方するよう進言した伊木忠次の読みは正しかった事になります。

ただし、誤算もありました。

それは、この一連の戦いの中で天正十二年(1584年)4月9日に起こった長久手の戦い(2007年4月9日参照>>) ・・・

この時、伊木忠次は、池田恒興の嫡男である池田元助(もとすけ=之助)の命を受けて岩崎城(いわさきじょう=愛知県日進市)への攻撃に出陣していたのですが、そのさ中に池田恒興&池田元助父子は、森長可(もりながよし=恒興の娘婿・森蘭丸の兄)(2008年4月9日参照>>)らとともに、家康&信雄連合軍の攻撃を受けて父子もろとも討死してしまったのです。

その一報を聞いた伊木忠次は、ともに岩崎城攻撃に参戦していた恒興の次男=池田輝政(てるまさ)とともに、何とか戦場からの離脱に成功して戻ったわけですが、

この敗戦のせいで、秀吉は輝政の池田家相続を認めず、逆に恒興に進言した功により、忠次を田原城(たはらじょう=愛知県田原市)の城主に抜擢して大名にしようとしたらしい・・・

ただ、この時は忠次が固持して輝政の池田家相続を願ったので、秀吉は、輝政の池田家相続を許し、忠次には引き続き輝政を補佐するよう命じた・・・という話もあるようですが、

一方で、輝政を恒興同様に盛り立てる事を約束する4月11日(戦いの2日後)付けのメッチャ良い人っぽい秀吉の手紙(4月11日参照>>)も残っているので、そこの所はどうなんでしょうね?(そこが人たらしなのかも知れんww)

とにもかくにも、結果的には輝政の相続で池田家は残り、5年後の天正十七7年(1589年)には、忠次は、秀吉から(池田家を飛び越えて)直接に美濃葉栗郡(はぐりぐん=現在の一宮市&江南市の一部)で5000石の知行を与えられ、

背にヒョウタンが描かれた自ら愛用の陣羽織を与えられたという事なので、やはり、池田家というよりは、伊木忠次その人が秀吉のお気に入りだったのかも知れません。

とは言え、その後も忠政は、小田原征伐(7月5日参照>>)奥州仕置き(9月4日参照>>)での功績にて、東三河(ひがしみかわ=愛知県東部)15万2000石の吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)主となった池田輝政を支えていく事になるのです。

そんなこんなの文禄三年(1594年)、秀吉の仲介で、徳川家康の次女= 督姫(とくひめ)を娶る話が持ち上がります。

実は輝政・・・すでに、中川清秀(なかがわきよひで)の娘である糸姫(いとひめ)を正室に迎えていたのですが、この方が嫡男の池田利隆(としたか)を産んだ天正十二年(1584年)に体調を崩して実家に戻ったまま・・・中川家とは絶縁状態にはなってないものの、もはや、周囲から再婚を勧められるような状態だったようで・・・

一方の督姫も、以前ブログで書かせていただいたように、あの北条嫡流最後の人=北条氏直(ほうじょううじなお)との離縁を経験しています(11月4日参照>>)

この時、
「家康は父と兄の仇」
との思いが抜けない輝政は、督姫との結婚を何とか断れないか?と忠次に相談していたようなのですが、上記の通り、秀吉の勧めでもある事から、有効な手立ては見つからず、結局、輝政は糸姫と正式に離縁して督姫を継室として迎える事に・・・

しかし、やがて・・・
時は慶長五年(1600年)、あの関ヶ原

男輝政・・・今度は、嫁さんが家康の娘である事が功を奏します。

その縁でバッチリ德川についた輝政に従い、忠次も東軍の一員として岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)攻め(8月22日参照>>)など美濃を転戦しました。

おかげで、戦後は、輝政は姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)52万石に大加増・・・筆頭家老となった忠次も三木3万7000石を与えられ、あの姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)築城に関して、輝政から総奉行を命じられたのです

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姫路城:5層7階の現在の天守は、池田輝政が慶長六年(1601年)から8年間の歳月を費やして完成させました。

こうして恒興&輝政父子2代に渡って忠誠を尽くした伊木忠次は、慶長八年(1603年)11月10日 、病を得て61歳でこの世を去りますが、

その晩年、姫路に大幅加増された事によって、新規の家臣を召し抱える事に必死になっていた輝政に対し、
「新規の家臣を召し抱える事ばっかりせんと、譜代の家臣を労り、大事にせなあきまへんで」
切々と諫言し、

見舞いに訪れた輝政は、この言葉に感激の涙を流しながら大いに反省し、
「忠政の諫言は生涯忘れぬ」
と受け入れたのだとか・・・

忠次の子孫は、池田家が備前岡山(おかやま=岡山県岡山市)に転封となってからも、代々、筆頭家老の職を世襲し、
仙台(せんだい=宮城県仙台市)伊達(だて)に仕えた片倉(かたくら)
阿波(あわ=徳島県)蜂須賀(はちすか)に仕えた稲田(いなだ)
並んで「天下の三大家老」の一つに数えられる一家となり、やがて明治維新を迎える事になるのです。
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2021年10月 6日 (水)

東北の関ヶ原~伊達政宗と本庄繁長の福島城攻防

 

慶長五年(1600年)10月6日、関ヶ原のドサクサで展開された長谷堂城の戦いの撤退戦のドサクサで、伊達政宗が福島城を攻めました。

・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)6月18日、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)「謀反の疑いあり」(直江状>>)として、会津征伐を決行した出陣した豊臣五大老筆頭徳川家康(とくがいえやす)に対し、反対派(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を攻撃した(7月19日参照>>)事に始まる関ケ原の戦い

この時、家康の会津攻めに先立って、岩出山城(いわでやまじょう=現・宮城県大崎市)を居城としていた伊達政宗(だてまさむね)は、北目城(きためじょう=宮城県仙台市太白区)へと入ります。

…というのも、未だ豊臣政権盛隆なる頃、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命で、かの上杉家が越後(えちご=新潟県)から会津に転封した際(1月10日参照>>)刈田(かった=現在の宮城県刈田郡付近)信夫(しのぶ=福島県福島市付近)といった、かつての伊達領が、そこに組み込まれ、現在は上杉領となっていたため、このドサクサで旧領を回復させようと考えたから・・・

Datemasamune650 もちろん、この時の政宗は、家康から会津攻めを信夫口にてサポートする命も受けておりましたから、上杉との境界線への出兵は、はなから計算していた事だったわけですが。。。

そして、そのまま上杉の目をくぎ付けにすべく上杉配下の河股城(かわまたじょう=福島県伊達郡 )を攻撃しておいて、そのスキに、同じく上杉の白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)へ向かい、7月25日、白石城を開城に追い込み(7月25日参照>>)ここを拠点に上杉領深くへ攻め込むつもりでした。

ところがドッコイ・・・
なんと、その同じ日に、上記の三成による伏見城攻撃を知った家康が、会津征伐を中止してUターンを決意するのです(【小山評定】参照>>)

西での決戦を意識した家康は、政宗に上杉をあまり刺激しないよう進言しつつも、一方で、西へ戻る自身の背後を突かれぬために、上杉へのけん制を怠らないよう釘を刺し、勝利のあかつきには、かつての伊達領+αの恩賞を政宗に与える覚書=世に言う「100万石のお墨付き」を送ったのです(8月12日参照>>)

ここで実際に、上杉が、西へ戻る家康を追撃していたら、家康は相当マズかったわけですが、幸いな事に上杉は動かず・・・一説には上杉執政(しっせい=政務を行う役職)直江兼続(なおえかねつぐ)は、追撃する気満々だったものの、景勝が許さなかったとも言われていますが、

とにかく、御大家康からの制止要請が入り、上杉の追撃も無い以上、うかつに動けぬ伊達政宗は、白石城を石川昭光(いしかわあきみつ)に任せ、北目城に戻り、心ならずも上杉との和睦交渉に入ります。

伊達と同じく、この時、東軍の家康についていた出羽(でわ=山形県・秋田県)最上義光(もがみよしあき)も上杉との和睦交渉に入りますが、おそらくこれは、両者とも(関ヶ原の動向を)様子見ぃの時間稼ぎ・・・

上杉側も、それは百も承知で、上杉自身も西の様子は気になるところではありますが、ヤル気満々な中、家康の追撃を景勝の命で諦めざるを得なかった直江兼続が、

ここで最上義光の山形城(やまがたしょう=山形県山形市)を落とすべく、9月9日、出羽への侵攻を開始し、まずは、最上配下の志村光安(しむらあきやす)が守る長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと迫ります(くわしくは9月9日参照>>)

長谷堂城は、本拠である山形城の守りの要・・・
「ここを落とされて、上杉軍に山形に殺到されては困る」
と思った最上義光は、伊達政宗に援軍の要請をしますが、

つい先日に和睦を進めた手前、
「自らが出陣するのはマズイ」
と思った政宗は、叔父の留守政景(るすまさかげ)を最上の援軍として向かわせした。

そんなこんなの9月29日、ようやく伊達政宗は北目城を出陣し、翌9月30日に白石城に入って、ここから、宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)にいる結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男)らと連携して上杉領へと侵攻・・・するつもりでしたが、

ここで、あの関ヶ原の戦いが、たった半日で勝敗が決し、東軍=家康が勝ったとの知らせが入ったため、再び、家康からの停戦命令が入るかも知れないと思い、政宗は、またまた北目城へと戻ります。

しかし、停戦命令は出なかった・・・

しかも、かの長谷堂での合戦真っただ中の直江兼続も、同じ9月30日に関ヶ原での一報を聞き、翌10月1日から撤退を開始し始めたのです(10月1日参照>>)

ならば!
と、10月3日、再び北目城を出陣した伊達政宗は、白石城で1日休憩した後、
「またとない好機!」
とばかりに、信夫郡に侵攻を開始・・・

かくして慶長五年(1600年)10月6日、伊達政宗は、上杉の重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)の守る福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)総攻撃を仕掛けたのです。

もちろん、この福島城は、元をただせば伊達の城・・・平城ではあるものの、城の東方と南方には阿武隈川(あぶくまがわ)荒川(あらかわ)が流れて天然の要害を成す堅城です。

とは言え、攻める伊達は2万の兵に、守る城側はその半分くらい・・・しかも、政宗は、うまく会津との連絡線を断ち切っていたため、この福島の事態は上杉景勝のもとには届かず、おそらく援軍は期待できない状況でした。

Honzyousigenaga700a そんな中で、本庄繁長は、
「まずは迎撃!」
とばかりに大宝寺義勝(だいほうじよしかつ=本庄繁長の次男)とともに野戦へと挑みますが、上記の通り、伊達勢の数の多さには叶わず・・・

やむなく、城に引き返し、籠城戦へと入りますが、数に物を言わせた伊達勢は、ままたく間に城下へと押し寄せ、福島城を完全包囲したかと思うと、城門を打ち破って突入・・・福島城は、落城寸前となります。

しかし、この時・・・
本庄繁長らとともに福島城に籠城していた協力者である梁川城(やながわじょう=福島県伊達市梁川町)須田長義(すだながよし)が、密かに城外へと向かい、伊達の小荷駄隊(こにだたい=合戦用の備品を運ぶ部隊)を襲撃(松川の戦いと呼ばれる)・・・

これが、かなりの敵勢を討ち取ったらしく、大きな痛手を被った伊達政宗は、やむなく、翌10月7日、そのまま北目城へと戻って行く事になります。

とは言え、実は、この松川の戦いは、その日付も内容も文献によって複数あり、どれが正しいのか?よくわかっていません。

今回の福島城の攻防においても、伊達と上杉、両者もが「勝った」と言い張ってるように記録されているので、実際のところは、落城寸前まで追い込んだ福島城をそのままに、伊達政宗が翌日に北目城に戻った理由も不明なのです。

一説には、未だ家康の攻撃許可が出ていなかった事を懸念したのではないか?とも考えられています。

後の、関ヶ原の論功行賞でも、政宗は結局2万石しか増加されず、先の「百万石のお墨付き」とは、ほど遠い結果になった事を見ても、家康は、伊達政宗によるヤリ過ぎ単独行動を、あまり快く思っていなかったように感じますので、やはり、そのへんの事を気使ったのかも知れません。

とにもかくにも、ここで本庄繁長の福島城は守られました。

その後、上杉家で以って開かれた軍議で、この先も家康との徹底抗戦を訴える直江兼続に対し、
「恭順な姿勢を見せて和睦交渉するべき」
と主張した本庄繁長・・・

結局、この繁長の案が採用され、上杉家は平謝りの和睦交渉の末、大幅減封とななるものの、お取り潰しにも主君景勝の首を取られる事も無く、大名として生き残る事となったわけです(そのお話は8月24日参照>>)
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2021年9月29日 (水)

東北の関ヶ原~長谷堂の戦い…猛将・上泉奏綱=上泉憲元の討死

 

慶長五年(1600年)9月29日、長谷堂の戦い=慶長出羽合戦にて上泉奏綱=上泉憲元が討死しました。

・・・・・・・

本日は、『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)に残る上泉憲元(かみいずみのりもと)長谷堂(はせどう)の戦いでの勇姿をご紹介させていただきますが、

実は、『常山紀談』に、新陰流(しんかげりゅう)の開祖&剣聖と称えられる上泉信綱(のぶつな)(1月16日参照>>)の弟として登場する上泉憲元とは、上泉家の伝承での上泉信綱の孫の上泉泰綱(やすつな)に比定されています。

なので、今回の長谷堂の戦いでの逸話も、一般的には上泉泰綱の話ではあるとされているのですが、今回は『常山紀談』に沿ってお話を進めさせていただきますので、本当は上泉泰綱の話かも知れないですが、本文は上泉憲元の名で書かせていただきますm(_ _)m

・‥…━━━☆

上泉憲元が浪人の身となって、京都の相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)に身を寄せていた頃、世は、まさに豊臣政権の真っただ中でありました。

この時期に上洛した上杉景勝(うえすぎかげかつ)のお供をして、京都にやって来ていた上杉家執政(しっせい=政務を執る役職)直江兼続(なおえかねつぐ)が、
「相国寺に剣聖の弟がいる」
と聞き伝えて、
「会いたい」
と言って、彼をもてなしたところ、その立ち居振る舞いを見て一発で気に入り

「会津(あいづ=福島県西部)は遠いですが、貴殿なら、景勝は3000石の禄(ろく=給料)を差し上げるでしょう」
と上杉家にお誘い・・・
「喜んで!」
と、憲元は、一発内定をゲットします。

やがて迎えた慶長五年(1600年)・・・

ご存知、、、
この年の4月に上杉景勝の上洛拒否(4月1日参照>>)と、直江兼続のケンカ売りまくり直江状(4月14日参照>>)に、「上杉に謀反あり!」と会津征伐を決意した豊臣五大老筆頭の徳川家康(とくがわいえやす)・・・

でしたが、その北上途中に留守にした伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を、家康と敵対する石田三成(いしだみつなり)らに攻撃(7月19日参照>>)された事を知り、すぐさまUターンして(7月25日参照>>)、三成率いる西軍と戦う事に・・・そう、あの関ヶ原の戦いの勃発です。(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)

家康の攻めを回避した上杉としては、本来なら戻る家康を追撃すべきところなのですが、当主の上杉景勝がそれを許さず・・・ならば!と直江兼続は、このチャンスに、隣国で、東軍の家康を支持している最上義光(もがみよしあき)を潰そうと出羽(でわ=山形県・秋田県)への侵攻を開始・・・最上配下の支城を次々と落として、志村光安(しむらあきやす)の守る長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと迫ります(くわしくは9月9日参照>>)

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『長谷堂合戦図屏風』右隻(最上義光歴史観蔵)

長谷堂城内の志村の兵は、わずか1000・・・なれど、周囲には、最上義光の居城=山形城(やまがたじょう=山形県山形市霞城町)から救援に駆け付けた鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>)や、義光の要請を受けた伊達政宗(だてまさむね)配下の留守政景(るすまさかげ)などの諸隊が睨みを効かせているうえ、何たってこの長谷堂城はなかなかの堅城で、ぞの城門をピタリと閉めて、上杉軍を寄せ付けない雰囲気を醸し出しています。

この時、上泉憲元は、直江兼続に、
「この先の山形城は、沼に囲まれ何重にも柵を張り巡らしたメッチャ優れた城ですし、最上は先祖代々この地に何百年も住み、地の利もあります。
すでに何10もの支城を落として、コチラの力も見せつけてるので、ここは一旦、下がりませんか?」
と、進言しますが、ヤル気満々の直江兼続は、
「今更、退けるかい!弱気な事を言うな」
と、まったく聞き入れず、9月16日、長谷堂城への総攻撃を開始するのです。

しかし最上方は、連日の上杉からの攻撃に、ある程度ダメージは受けるものの、いずれも決定打には至らず、両者の小競り合いが続きます(このあたりは2009年9月16日のページ参照>>)

そんなこんなの慶長五年(1600年)9月29日、長谷堂城側が城下の谷に沿う川をせき止めて水を蓄えていると感じた上杉側が、こっそり物見の兵を差し向け、そのついでに焼働き(放火)をしようとしたところ、城中から完全武装の800ほどの城兵が出て来て暴れ回ったのです。

「今は合戦の時でなはい」
と判断した直江兼続は、(←…て言うても放火しとるけどね)
使者を出して
「今は退け」
と指示をだしますが、両者にらみ合って、誰も退かない・・・てか、行った使者まで帰って来ない。。。

やがて、近づく両者は、いつしか鉄砲を撃ち合い、合戦が始まってしまいます。

それでも兼続は「早く引き揚げられよ!」と命じたところ、上泉憲元が、
「思うとこがあります。私が参りましょう」
と進み出ます。

そこを、上泉の組に属していた大高七左衛門(おおたかしちざえもん)なる武将が馬で書け寄せ、
「侍大将たる者が、ただ一騎で駆け出る事などあってはなりません」
と、止めに入りますが、上泉は聞く耳もたず駆け出したので、やむなく大高も後に従います。

その様子を見ていた前田慶次郎(まえだけいじろう=利益?利太?(6月4日参照>>)宇佐美民部(うさみみんぶ)は、すぐさま上泉の陣に向かい、
「一陣の大将が攻めかかろうというのに、ただ見てるだけなんは武士の本意ではないやろ!さぁ、攻めかかれ」
と周囲の者に声をかけるも、誰も憲元らに続こうとしないので、やむなく、前田慶次郎ら、約20騎ばかりが駆け向かいました。

先に突っ込んで行った上泉と大高が、馬から下りて槍を以って敵に突き込むと、瞬く間に城兵内を突破し、敵は後ずさり・・・

「よし!これで良い」
とばかりに、上泉らが引き揚げようとした時、伊達から派遣されていた留守政景の兵・約300ほどが、横合いから斬ってかかります。

一歩も退く気のない上泉は、再び、その新手と合戦に突入・・・もちろん、前田や宇佐美ら剛の者も参戦し、両者入り乱れての戦いを繰り広げました。

やがて、
「日も暮れかかった。これ以上は進めん。引き揚げろ!」
との直江兼続の号令が響きます。

「承知した!」
と上泉・・・しかし、その返答とはうらはらに
「俺は、上泉とう申す剛の者である。我と思わん者は討ち取れ!」
と名乗るが早いか、たちまちのうちに数十人を斬り伏せるも、とうとう、その場で討死をしたのです。

首を取ったのは金原加兵衛(かなはらかへい)なる者・・・上泉憲元、享年34でした。

上泉の討死に勢いづく伊達勢は、乱れた上杉勢を追撃しますが、その先には、未だ無傷の上杉勢が控えていた事、退く兵が何度も取って返して反撃した事で、お互いに負傷者多数・・・結局、両軍ともに退く事となり、この日の戦いは終わりました。

それぞれに7~8本の矢を鎧に受け、槍も刀もボロボロに、人馬ともに血まみれになって戻って来た前田慶次郎ら・・・

そこに控えていた上泉の組の前を通った前田慶次郎は、
「お前ら、大将を見捨てたよな?これからは男や言うな!武士は大高だけや!」
と罵りましたが、誰一人ぐうの音も出なかったのだとか・・・

…にしても、
そもそもは、西で起こっている関ヶ原を意識しての、この東北での戦い・・・

ご存知のように、かの関ヶ原は、去る9月15日に、わずか半日で決着がついて、東軍の徳川家康の勝利となっています。

長谷堂城を囲む直江兼続が、その関ケ原の結果を知るのは、この憲元討死の翌日・・・9月30日の事でした。

もはや勝敗が決まった以上、西軍に与する上杉は全面撤退するしかありません。

その撤退戦は、翌・10月1日から開始されますが、そのお話は【自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退】>>のページでどうぞm(_ _)m
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2021年9月14日 (火)

関ヶ原前日~本陣勝山にて軍議を開いた家康の思惑は…

 

慶長五年(1600年)9月14日、明日の関ヶ原決戦を控えて、勝山を本営とした徳川家康ら東軍が軍議を開きました。

・・・・・・・・・

いよいよ関ヶ原です。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、豊臣五大老の筆頭となった徳川家康(とくがわいえやす)が、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)に謀反の疑いあり(4月14日参照>>)として会津討伐に出向いたスキに、これまでの家康の行動に不満を持つ豊臣家臣の石田三成(いしだみつなり)が、家康を告発する『内府ちがひの条々』を諸将に送りつけ(書状の内容については下記【高取城攻防】を参照>>)家康に宣戦布告し、留守となった伏見城(ふじみじょう=京都市伏見区)を攻撃(7月19日参照>>)した事で火蓋を切った関ヶ原の戦い。。。

一方、それを受けた家康は、会津征伐を中止して西へとUターン小山評定>>)
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で)

家康につく福島正則(ふくしままさのり)池田輝政(いけだてるまさ)ら東軍諸将の先発隊が西へ向かう中、迎え撃つべく大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)に本陣を構える三成ら西軍。

…で、8月23日に長良川を渡った東軍は、さらに赤坂(あかさか=岐阜県多治見市赤坂町)まで進み、ここで御大の家康を待つ事に・・・
(8月23日参照>>:ここまでの流れを少しくわしく書いてます)

Tokugawaieyasu600 かくして、東軍先発隊の西反転から遅れる事1ヶ月・・・

ようやく9月1日に江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を出陣した家康は(9月1日参照>>)、9日には岡崎(おかざき=愛知県岡崎市)、13日には岐阜(ぎふ=岐阜県岐阜市)に到着します。

そして翌・慶長五年(1600年)9月14日、朝早くに岐阜を出発した家康は、正午頃に赤坂に到着し、そのまま岡山の本陣に入ります。

岡山は、先の赤坂の南側にあたり、三成が拠る大垣城から見て北西約4kimの場所に位置する小高い丘(標高51m)・・・

先発の諸将が、すでに家康を迎えるべく普請を行っており、総大将が着陣したここから、この岡山が本営となります。

ちなみに、この岡山は、今回の関ヶ原の戦いに家康=東軍が結果的に勝利する事で、この後は「勝山」と呼ばれるようになりますので、ここからは勝山と呼ばせていただきます。

…で、この後、さっそく東軍諸将を集めて、軍議を開く事になるのですが・・・

最初に出たのは、井伊直政(いいなおまさ)池田輝政(いけだてるまさ)らによる、大垣城力攻めの案でした。

一方、本多忠勝(ほんだただかつ)や福島正則らは、大垣城をスルーして西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)が拠る大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に向かう事を主張したとか・・・

この時、家康が1番心配したのが、西軍が大垣城に籠ってしまった事で、今回の戦いが長期に渡る籠城戦になってしまう事・・・「そうなると、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)を奉じて出陣して来るかも知れない」という事でした。

それだけは避けたい家康は、秀頼が西軍として出陣する前に大坂城を抑えようと考え、軍議では、大垣城には抑えの兵だけを置いて、まずは佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市・三成の本拠)落としてから大坂方面へ向かう事を決定したのです。

さらに、何としても籠城戦を避けて短期決戦したい家康は、この情報を意図的に西軍に流し、彼らを城に籠らせない=つまり、城から出て来て戦うよう仕向けたって事らしい・・・

というのが、この9月14日、関ヶ原本チャンの直前に行われた勝山本営での軍議の内容・・・てな事が、一般的解釈です。

しかし、個人的には、どーも引っかかる・・・(←あくまで個人の見解です)

上記の
「そうなると、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼を奉じて出陣して来るかも知れない」
という部分。

これじゃ、まるで、今回の関ヶ原の戦いが「德川VS豊臣」の戦いみたいじゃないですか?

これまで、何度かブログに書かせていただいてますが、私としては、この関ヶ原は、あくまで、豊臣政権内での主導権争い・・・

五大老筆頭である家康についていく派か、
秀頼が若いのを良い事にまるで自分の政権かのように主導する家康に反対する派か、
どちらが主導権を握るかの戦いだったと思っています。

あくまで、この時点では、東西の両方ともが豊臣の配下・・・もちろん、家康の腹の奥には「豊臣を倒して天下を取る」という構想があったかも知れませんが(淀殿に結婚式をドタキャンされた恨みもあるしねww(12月16日参照>>)、それは、家康の心の内だけで、少なくとも、表向きは豊臣配下で秀頼を敵に回す気持ちなど、みじんも見せていなかったはずです。

…でないと、この関ケ原での勝利の後、9月27日に大坂城に入って秀頼と淀殿(よどどの=秀吉の側室で秀頼の母・浅井茶々)謁見し、戦勝報告をするとともに、更なる忠誠を誓い、そのまま西の丸に住む事に対する辻褄が合いません。

さらに、関ヶ原の戦いの論功行賞などが落ち着いた11月27日には、家康の三男=德川秀忠(ひでただ=後の2代将軍)と、四男=松平忠吉(まつだいらただよし)が、兄弟そろって豊国神社(とよくにじんじゃ=当時は東山にあった秀吉を「豊国大明神」として祀る神社)に参拝している意味もわかりません。

これらの、一家総出の行動は、心中いかであろうとも、あくまで見た目は家康(德川)が「豊臣政権下での内部抗争を落ち着かせた」という演出だったに違いない・・・

でないと、後々、政権握った途端(夏の陣の2ヶ月後)に有無を言わさず破却命令を出す神社に(7月9日参照>>)わざわざ息子二人を行かせますか?っつー話ですよ。

もちろん、家康が、この関ケ原の戦いを短期決戦にしたかったのは確かでしょう。

なんせ、東軍についた諸将も、豊臣の家臣なわけですから、グダグダやってて、秀頼もしくは朝廷などから停戦命令が出たひにゃ、政権内の敵対勢力を一掃する事できませんからね。

しかし、「長引くと、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼を奉じて出陣して来るかも知れない」的な見方は、おそらく、この先の家康さんの天下取りを知ってる人のリップサービス的な匂いがしますね。

よく「天下分け目の関ヶ原」と言いますが、関ヶ原で天下が決まったわけではなく、関ヶ原から家康の天下取りモードが始まった・・・今風に言えば「豊臣の終わりの始まり」が関ヶ原だったわけです。

家康は、ここから徐々に、15年かけてジワジワと、それこそ「鳴くまで待とうホトトギス」の精神で、豊臣を滅亡へと追い込んで行ったのですね~

この関ケ原と大坂の陣の間に、加藤清正(かとうきよまさ)など、多くの豊臣恩顧の武将たちが次々と亡くなってしまった(6月24日参照>>)事も、家康有利に働きましたが、実にウマイですなぁ~家康さん。。。

ちなみに、関ケ原から大坂の陣にかけての豊臣と德川の関係については、家康の上洛要請を秀頼が拒否する5月10日のページ>>で見ていただくとありがたいです。

ちなみのちなみに慶長十六年(1611年)3月に行われた家康と秀頼の二条城(にじょうじょう=京都市)の会見(3月28日参照>>)でも、一応、家康は秀頼に気を使ってるポーズ継続中ですので、お見知りおきをwww

Sekigaharakosenzyouzu
笹尾山(三成陣)から見た関ヶ原古戦場 

この同日の午後には杭瀬川の戦い>>、さらに翌日は本チャンの関ヶ原>>ですが、くわしい流れは、やはり【関ヶ原の戦いの年表】>>でどうぞm(_ _)m
 .

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2021年8月23日 (月)

まもなく関ヶ原~中山道でぶつかる河渡の戦い

 

慶長五年(1600年)8月23日、関ヶ原の戦いで、中山道を西へと進む東軍と、それを阻止しようとする西軍がぶつかった河渡の戦いがありました。

・・・・・・・・

ご存知、関ヶ原の戦いです。
この日までの経緯は・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、朝鮮出兵の時に率先して戦った武闘派(ぶとうは)と事務方だった文治派(ぶんじは)の間に入った亀裂が、約1年後、御大前田利家(まえだとしいえ)の死をキッカケに武闘派の加藤清正(かとうきよまさ)らが文治派の石田三成(いしだみつなり)襲撃する事件によって表面化(3月4日参照>>)・・・

五大老筆頭徳川家康(とくがわいえやす)が何とか納めたものの、石田三成は謹慎処分となる一方で、なんだかんだで、もはや豊臣家臣のトップとなった家康は、自身は徐々に秀吉の遺言(8月9日参照>>)を無視しつつ、逆に豊臣恩顧の大名には、ちょっとした行動でイチャモンつけるように・・・

謀反の疑いをかけられた加賀(かが=石川県西南部)前田利長(としなが=利家の息子)は、母のまつ江戸に人質に出して、何とか回避しますが(5月17日参照>>)、同じく謀反の疑いをかけられた会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)屈せず(4月14日参照>>)・・・

そこで家康は、上杉を討伐すべく慶長五年(1600年)6月18日、豊臣政権の大老として、大軍を率いて会津征伐へと向う事になります。

この家康の出兵は、現在では三成をおびき出す(三成に先にこぶしを挙げさせる)ための作戦だった?とも言われてますが、それは今後の状況を知ってる後世の人間だからわかる事で、この時点では、やはり、この家康の会津遠征を「チャンス」と見た三成が、

すでに家康の会津征伐に合流すべく北に向かっていた大谷吉継(おおたによしつぐ)を引き戻すして、(7月11日参照>>)北陸諸将の勧誘に走ってもらい(7月14日参照>>)、家康に対抗できるコチラ側の総大将として毛利輝元(もうりてるもと)大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に入ってもらい(7月15日参照>>)、いよいよ7月17日、三成は、13項目に及ぶ『内府ちがひの条々』(家康が行った亡き秀吉との約束破りを告発する書状)を諸将に送りつけ、家康に宣戦布告したわけです。(書状の内容については下記【高取城攻防】を参照>>)

かくして最初の戦いとなったのは、
7月18日:高取城の攻防>>
以下、
7月19日~:伏見城の攻防・開始>>
7月21日~:田辺城の攻防・開始>>
7月25日:家康が小山評定>>にて
     会津征伐を中止し西に戻る事を表明
8月10日:三成が西軍本拠となる大垣城に着陣>>
8月11日:戻って来た東軍先鋒が岡崎城へ入城>>
8月16日:東軍が苗木城を奪取>>
     東軍が福束城を奪取>>
8月19日:東軍が南美濃の諸城を奪取>>
8月22日:東軍が竹ヶ鼻城を奪取>>

と、西へ戻る東軍が、西軍方の諸城を次々と落としていく中、西軍の織田秀信(おだひでのぶ=信長の孫・三法師)が守る岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を東軍の福島正則(ふくしままさのり)池田輝政(いけだてるまさ)山内一豊(やまうちかずとよ)らが落としたのが、慶長五年(1600年)8月23日の朝の事でした(8月22日参照>>)

この間も、大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)にて東軍の動向を逐一報告を受けていた三成は、竹ヶ鼻城を落とした東軍が、大垣に来襲するかも・・・と、島津義弘(しまづよしひろ)を長良川西岸に位置する墨俣(すのまた=大垣市安八郡)に派遣して美濃路を備え、自らも小西行長こにしゆきなが)とともに大垣城を出て揖斐川(いびがわ)右岸の沢渡(さわたり=大垣市東町)に布陣します。

しかし、8月22日に、岐阜城勢が米野(こめの=岐阜県羽島郡)での戦いに敗れた事を知り、東軍が、そのまま岐阜城を無視して、一気に西に向かって来るかも知れないとの考えから、舞兵庫(まいひょうご)を一軍の将として約1000の兵をつけ、長良川西岸の河渡(ごうど=岐阜県岐阜市・合渡)に向かわせました。

河渡は中山道の宿場町ですから、西へと進む東軍勢が中山道を通った場合、ここで食い止める事ができます。

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「河渡の戦い位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

一方、上記の通り、22日~23日にかけての攻撃で、23日朝に岐阜城を落とした東軍は、おそらく垣城から岐阜城への救援が来るものと予想し、黒田長政(くろだながまさ)田中吉政(たなかよしまさ)藤堂高虎(とうどうたかとら)らが率先して、この援軍を阻止せんと中山道を西へと進みます。

で、この東軍の彼らが、長良川東岸に到着した時には、上記の通り、すでに西岸に舞兵庫らが布陣していたわけです。

しかし、この時、(西軍にとっては運悪く)川面には霧が立ち込めていて、西軍の兵は対岸に東軍が到着した事に気づけず、一部の兵は朝食をとっていたのです。

「向こうは気づいてない」
と察した東軍は、「今が好機」とばかりに、一斉に銃撃を開始・・・田中隊が、いきなり川を渡って奇襲をかける一方で、黒田隊は少し下流の位置から川を渡り、宿場の西側に迂回して舞兵庫の本陣に突撃します。

突然の攻撃に驚いた西軍は、持ちこたえる事が出来ず、やむなく後退・・・西軍の殿(しんがり=軍の最後尾)を務めた杉江勘兵衛(すぎえかんべえ)討死するも、何とか一軍は大垣を目指して敗走して行きました。

一方、墨俣の島津隊を警戒する藤堂隊は、 さらに一里(=約4km)ほど下流にて川を渡って黒田隊&田中隊と呼応しつつ、更なる西へと進撃し、この日は揖斐川の左岸で宿営しました。

こうして、河渡の戦いで西軍を破った黒田隊・田中隊・藤堂隊・・・

翌24日には、中山道をさらに西へ進み、赤坂(あかさか=岐阜県多治見市赤坂町)に着陣し、

ほどなく岐阜城を落とした福島隊や池田隊も赤坂に到着し、以後しばらくは、この赤坂が東軍の拠点となり、未だ西軍についている周辺の諸城を攻略しつつ、まもなく江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を出発して来るであろう徳川家康(9月1日【家康出陣】参照>>)の本陣の準備をする事になります。

ご存知のように、このあとも、本チャンの関ヶ原までは、まだイロイロあるんですが、
それら関ヶ原の戦いの全体の流れについては…
【関ヶ原の戦いの年表】>>からどうぞm(_ _)m
 .

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2021年5月 6日 (木)

大坂夏の陣~藤堂高虎と渡辺了の八尾の戦い

 

慶長二十年(1615年:元和元年)5月6日は、大坂夏の陣での若江・八尾の戦いのあった日ですが、今回は、『常山紀談』に残る渡辺了の八尾の戦いでの逸話をご紹介させていただきます。

・・・・・・・・

ご存知、大坂の陣(おおさかのじん)は、
豊臣秀吉(とよみひでよし)亡き後、豊臣政権内の主導権争いでもある関ヶ原の戦いに勝利して家臣団の中でもトップの位置についた徳川家康(とくがわいえやす)が、徐々に力をつけていき、主君である豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)がやろうとしていた一大プロジェクトである大仏建立にイチャモンをつけた(7月21日参照>>)事をキッカケに始まった「豊臣追い落とし作戦」
(↑スンマセンm(_ _)m一般的な経緯と違い、ちょいと大阪生まれ大阪育ちの主観入ってますが、その思いは下記↓のページで…)
●【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】>>
●【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】>>

慶長十九年(1614年)11月に(11月29日参照>>)勃発した大坂冬の陣は、12月19日に講和が成立し(12月19日参照>>)、一応の決着がついたものの、くすぶる火種が消える事無く、翌年=慶長二十年(1615年・元和元年)4月26日の大和郡山城(やまとこおりやまじょう=奈良県大和郡山市)の戦い(4月26日参照>>)を皮切りに、大坂夏の陣が勃発します。

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

南から迫る紀州一揆(きしゅういっき=和歌山周辺の一揆勢)(4月28日参照>>)と連携して守りを固めるはずだった樫井(かしい=大阪府泉佐野市)の戦い(4月29日参照>>)に敗れた大坂方は、いよいよ、北東から迫る德川方を、大阪平野の東を南北に連なる生駒山地の切れ目にて迎え撃つ事になります。

Oosakanatunozinyaowatanabe 航空写真にポイントした右図→
(クリックで大きくなります→)
をご覧いただければ一目瞭然・・・

生駒の山越えしないで大阪平野に入るには、北東の枚方(ひらかた)方面からと、生駒山地の切れ目の藤井寺・道明寺(どうみょうじ=大阪府藤井寺市あたりの大和口から入る2ルートしかないわけで、

案の定、二条城(にじょうじょう=京都府京都市)からの徳川家康と伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)からの德川秀忠(ひでただ=家康の三男)は、枚方の星田方面の京街道ルートを取り、

伊達政宗(だてまさむね)本多忠政(ほんだただまさ)らは大和口からやって来る事に・・・

そこで豊臣方は、4月30日の軍議にて後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)が提案した大和口要撃作戦を決行・・・

北東方面を今福(いまふく=大阪市城東区)に陣取る木村重成(きむらしげなり)らが、少し南下した若江(わかえ=大阪府東大阪市)にて迎え撃ち(【若江の戦い】参照>>)、大和口を後藤又兵衛・真田幸村(さなだゆきむら=真田信繁)らが迎え撃つ事とし(【道明寺・誉田の戦い】参照>>)慶長二十年(1615年)5月6日その戦いの火蓋が切られたわけです。

・・・・・・・

Watanabesatoru700 近江(おうみ=滋賀県)土豪(どごう=土地に根付く武士)出身で、「槍の勘兵衛」と称されるほどの腕前だった渡辺了(わたなべさとる)は、この日、德川方の藤堂高虎(とうどうたかとら)の配下として先陣の中の手を受け持っておりました。

6日の朝、道明寺に軍を進めるべきか?否か?未だ作戦が決まらなかったため、
「地の利がないので、見て参ります」
と、自ら物見に出ると、先に物見に行った堺与右衛門(さかいよえもん)なる味方に出会ったので、たずねてみると
「すでに道明寺にて後藤又兵衛と思しき者が水野(みずの勝成)殿と鉄砲を交えております」
との事・・・

そこで了は、堺に従者をつけて陣に帰らせ、自らは、もう少し先の高台に進んで西を見渡せば、案の定、八尾から若江にかけて豊臣の軍勢が、馬の鼻先を揃えるように密集して押し寄せて来ていました。

「やはり…」
と確認して、すぐに取って返し、今より道明寺へ指して向かおうとしている味方を押し止めます。

「なぜ、止める?」
と問う藤堂高刑(たかのり=高虎の甥)に、
「見てみなはれ!すぐそこに敵がウヨウヨしてるのに、それを捨てて、わざわざ道明寺に行く事もないですやろ?」
と・・・

高刑は「なるほど」と納得してくれたものの、大将の藤堂高虎は、納得しれくれず・・・なので、続けて
「このあたりはぬかるんでますから、先陣を配置する場所なんてありません。
敵との間合いは四十町(約4km)ほど…そこに続く横堤まで十町(約1km)、その横堤には4本のあぜ道が見えますから、殿様は北2本を指揮して進んで行ってください。
僕は、南側2本を指揮します。
馬印は後方に控えさせておき、細いあぜ道を少数の馬で進んで行って、
敵を横堤で押し止めて、そこで隊列を整え、南北で以って挟み撃ちにすれば、必ず勝てましょう」
と説得しました。

ところが、作戦を練ってるその間に、藤堂良勝(よしかつ=高虎の従兄弟)藤堂良重(よししげ=高虎の従兄弟の息子)らが単騎にて馬で乗り出し、我先にと西へ向かって進んで行ってしまったのです。

実は彼ら・・・
昨年の冬の陣の時、主君~高虎と作戦において口論となった了が、
「こんなとこ、辞めたらぁ~!!」
と言い放って少々モメた事に、今も腹を立てていて、

今回、その一件が無かったかのように、またぞろ、自身の作戦をあーだこーだと指示する姿を苦々しく思っており、
「渡辺憎し!アイツより、もっとスゴイ武功を立てたるで~!」
と、了の意見を無視して先に出ていったのです。

その状況を見た了は、
「アカン!
こうなっては、作戦もクソもありませんわ!
早々に攻めかかられませ!」
と言い放ち、自身は佐堂(さどう=八尾市佐堂町…現在の近鉄大阪線:久宝寺口駅付近)側へと向かったのでした。

未だ朝霧かすむ中を、もはや我先にと進む藤堂隊を迎えたのは、豊臣方の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)の軍でした。

「今いる堤の上では戦い難い」
と思った盛親は、旗を下ろして後方の堤の下へと隊列を移動・・・
これを「逃げるゾ!」
っと思った藤堂隊の面々は、さらに我先に追いかけ、乱れた藤堂隊は、ものの見事に敗北してしまうのです。

この時、ともに藤堂隊の一員として戦っていた元長宗我部家臣=桑名吉成(くわなよしなり=弥次兵衛)(桑名の戦いぶりに関しては=2019年5月6日参照>>)が、藤堂高刑に対し、
「陣の指揮をすべき大将が、一騎駆けするのは良くないですよ」
と注意するも、高刑は、
「渡辺ひとりが武勇を誇るなんか、許せん!アカンかったら討死するまでよ!」
と言って走り抜け、その通りに討死する事になってしまいました。

高刑だけではなく、了に負けじと単騎で行った藤堂良勝と藤堂良重も、そして主君に進言した桑名までもが、ここで討死しています。

そんな中、佐堂に回った了が、追い来る敵を蹴散らしつつ南側を見ると、今まさに藤堂隊が崩れまくって、敗れた藤堂先陣が旗を捨てて逃げて行くのが見えます。

Oosakanatunozin0506 大坂夏の陣
 元和元年五月六日の布陣

 クリックで大きく(背景は
地理院地図>>)

そこで、すぐに南方向に転じ、藤堂高刑が戦死した場所を、なんとか占拠しますが、もはや了の手勢も、わずかに30騎ばかり・・・

そこへ総大将の藤堂高虎から、
「退け!」
の命令が何度も届きますが、了はいっこうに退かず・・・

7度の撤退命令を無視する了に高虎が、
「なぜ?退かぬ」
と聞けば、
「旗を押し進めてさえ下されば、我ら一陣で敵を切り崩し、逃げる敵を追いかけて大勝利をご覧にいれます」

更なる説得も聞かず、
「ウチの部隊長は戦い方をわかってません。
まばらに駆けて崩されて、見方を見殺しにする事を忠義と思てはるんですか?
僕は、今朝から、少ない軍兵でありながら、そこかしこで毎度打ち勝ち、横から敵を攻め破りました。
この渡辺がいなければ、もっと死者が、いや、全員死んでたかも知れません。
見たところ、長宗我部軍も、残りわずか…これを討ち漏らしたら殿の恥になりまっせ!
早々に旗本を進めてください。
僕が盛親を討ってみせます」
と、ますます退こうとしません。

と、そこに、若江の戦いで豊臣方の木村重成を破った井伊直孝(いいなおたか=井伊直政の息子)の軍が赤旗をなびかせて加勢にやって来るのが見え、長宗我部軍は新手の出現に動揺・・・了が「好機!」とばかりにドッと斬りかかると、長宗我部は乱れて、一斉に敗走していきます。

それを、「逃すまい!」と久宝寺から鉄砲を撃ちかけて追い詰める了・・・盛親は旗竿までも折られて、這う這うの体で何とか逃げ去りました。

さらに了は、その勢いのまま北西へ進んで平野(ひらの=大阪市平野区)を占拠したので、道明寺から大坂城内へと敗走する豊臣方は道を塞がれてしまいます。

ここで、了は
「軍兵さえいただければ、ここで疲れ果てている敵を一掃してみせます。
早く軍勢をよこしてください」
と使者を立てますが、高虎は、了の案をなったく聞き入れず、
ただただ
「早く、引き返せ」
「なんで、戻って来んのや」
と言うばかり・・・

しかたなく了は、大坂城に戻る敵軍を少しでも食い止めるべく、平野一帯に火をかけて本陣に戻りました。

後に、
もし、ここで渡辺了が退かなければ、真田幸村も、あの毛利勝永(もうりかつなが)も、ひょっとしたら大坂城へは帰還できなかったかも知れないと、世間の噂になったのだとか・・・

その後、戦い終わって藤堂高虎の陣を井伊直孝が訪れた際、
「同族が多く討死してしまい、無念です」
という高虎に、
「我らが、逃げる敵を追いかけて近くに来た時、筵(むしろ)の旗指物をした侍大将がいて、強敵を切り崩して見事に軍兵を指揮していた姿がアッパレでしたが、あの武将はどうなりましたか?」
と直孝が尋ねました。

そう、それは渡辺了、その人の事・・・

「いやぁ、筵の指物は僕ですわ~
まさか、井伊殿が目に止めて下さるとは!」
と、了が大声で答えたので、高虎は、ますます機嫌が悪くなったのだとか・・・

この後、了は案の定、高虎とはウマく行かず、藤堂家を出奔して、他家への再就職を試みますが、藤堂家から奉公構(ほうこうかまい=他家に「仕官させるな」の願いを出す事)=いわゆる「お前、ほすゾ」の命が出ていたため、他家への仕官は叶わなず、京都で僧になったそうな。

ま、今回の場合は、結果的にウマく行って、井伊さんにも褒められたので、了としてはウキウキだったかも知れませんが、一軍をまとめようとする大将から見れば、命令を無視して自分の意見ばかりグイグイ推して来る者は、モンスター家臣以外の何者でも無かったでしょうね。
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2020年12月 4日 (金)

内助の功で貞女の鑑~山内一豊の妻・見性院

 

元和三年(1617年)12月4日、貞女の鑑として知られる山内一豊の妻=見性院がこの世を去りました。

・・・・・・・

戦国時代を生き抜き、江戸幕府のもとで土佐(とさ=高知県)藩初代藩主となった山内一豊(やまうちかずとよ)の奥さんである見性院(けんしょういん)は、『内助の功』で知られた女性です。

一昔前は、夫を影から支える献身的な姿が「理想の女性像」とされ、その逸話が教科書等に掲載され、戦国の女性としては一二を争う有名人となっています。

その中でも有名な代表的逸話は・・・

・‥…━━━☆

逸話…1ッめ『常山紀談』より

一豊が織田信長(おだのぶなが)に仕えていた頃、安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)下にて馬の市がたち、そこで東国一の駿馬と称される見事な馬を見つけたものの、未だ下っ端の一豊にとってはかなりの高額で、しかたなく諦めて帰って来たところ、

奥さんが、鏡の中に隠していた持参金を差し出して
「そんなに良い馬なら、これで買うてきなはれ」
と・・・

「ヤッター!!」
と、一豊は、一瞬、喜んだものの、一方で
「今まで、メッチャ貧乏して来て喰う物にも困っっとたのに、お前は、こんな大金隠し持ってたんか!」
と、ちょっとご機嫌ナナメ
(NHKのドラマ「一億円のさよなら」みたい…上川さん大河で一豊やってたしww)

すると奥さんは、
「これは、私が嫁に来る時に、父が、『常の事には使わんと、夫の一大事にこそ、お出しなさい』と持たせてくれた物です。
日頃の貧しさは、なんぼでも我慢できます。
今度、馬揃えがあると聞きました。
それだけの良い馬なら、それに乗って見参しなはれ。
天下の見ものとなりましょう」
と・・・

果たして、奥さんの言った通り・・・馬揃えにて、一豊の乗った馬が信長の目にとまり
「山内は長く浪人していたと聞いたが、見事な馬を準備して馬揃えに挑んだ姿勢は武士の誉れ…そんな家臣を持った俺も鼻高々やで!」
と喜び、以後の一豊の出世の足掛かりになったとか・・・

逸話…2ッめ『旧記』より

一豊が近江(おうみ=滋賀県)長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)にいた頃、奥さんが、古い着物の使える部分だけを、細かいはぎれにして集めて縫い合わせ、一つの小袖(着物)に仕上げたのを見て、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大いに感激し、「皆の嫁さんに作り方を教えてあげるように」と勧めた・・・と、

そう、要するに、廃品となるはずの着物をパッチワークでオシャレな別の着物にしたわけですが、その手際も見事で、人々を驚かせたとか・・・

逸話…3ッめ『藩翰諸』より

秀吉亡き後の関ヶ原の戦いの時、上洛要請を拒む会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討伐(4月1日参照>>)すべく、東北へと出陣した豊臣五大老の一人=徳川家康(とくがわいえやす)に従って、ともに出陣していた山内一豊

一方、奥さんは、その留守を大坂屋敷にて守っていたわけですが、その時、家康に敵対して景勝と連携を取る石田三成(いしだみつなり)(7月19日参照>>)は、家康とともに出陣している武将の妻子を大坂城に集めて、言わば人質のように抱え込んだのです。
(この時、大坂城への入城を拒んだ細川忠興の妻ガラシャ(玉)は自害しています)>>

これを知った家康は、会津に向かう途中の小山評定(おやまひょうじょう)にて、この事実を、ともに行軍する皆に知らせて、どちら(家康か?三成か?)に味方するか?を問うわけですが、当然、大坂にいる妻子の様子がわからぬ武将たちには動揺が走ります(7月25日参照>>)

しかし、この時すでに、妻からの詳細な知らせを密かに受け取っていた一豊は慌てず、
「このまま、家康様のお味方ををします!」
1番に声を挙げて、その評定の場の雰囲気を、一気に家康派に傾かせて家康を大いに喜ばせ、その後の土佐藩主就任の糸口となったのだとか・・・

皆が右往左往する中で、彼女だけが冷静に、夫に現状を報告したおかげ・・・てな事です。(実際には他にもいる…黒田の嫁とか真田の嫁とか)

・‥…━━━☆

てな感じで・・・有名ではありますが、どれも後世に書かれた物・・・『常山紀談』と『藩翰諸』は江戸時代で、『旧記』に至っては明治に編さんされた書物です。

もちろん、著者の創作ではなく、ちゃんとした出典のある逸話ではあるものの、あくまで逸話・・・史実かどうかはわかりません。

なので、ここまで有名なエピソードを持ちながらも、見性院さんの本名も、「千代」「まつ」が有力なれど、それは誰かと混同されていて、それ以外の名前の可能性もあり、その生年も、亡くなった時の記録=「元和三年(1617年)12月4日に61歳で亡くなった」から逆算するしかなく、その出自も、近江(滋賀県米原市)美濃(みの=岐阜県南部)郡上八幡(ぐじょうはちまん)など、諸説あります。

つまり、これだけ豊富かつ有名なエピソートを持ちながらも、史実としての彼女は謎だらけ・・・

もちろん、これは彼女に限った事ではありません。

戦国の女性というのは、夫を亡くして若い後継者の後見人のような立場(淀殿とか)になるなど、よほど政治的に重要な立場にならない限り、歴史上の表舞台にな登場しないのです。

それは、逆に考えれば、一豊の妻=見性院さんは、その生涯のほとんどを夫とともに生活し、夫が新しい領地に移れば、自分も同じ場所に行き、(戦国なので平穏無事とはいかないまでも)夫婦仲良く過ごしていた事になります。

そんな中で、夫=一豊は、合戦での武功があまり聞かれない中で浪人から順調に出世し、最後には土佐藩の藩祖となる事から、「そこには、影で夫を支えた賢い奥さんがいたんじゃないか?」てな事から、これらのエピソードが生まれるべくして生まれたのだと思います。
(実際には後方支援などの地味な活躍が多数あったと思いますが…)

ただ、戦前は「貞女の鑑」「夫を支える妻」として、「男尊女卑」のお手本みたいにもてはやされた彼女の逸話ですが、今、改めて読んで見ると、ちょっと違う気がします。

と、いうのも、実は、戦国時代は日本の歴史上、最も女性の権利が高かった時代と言われており、この後の明治~戦前などのように、嫁いだ女性が夫にかしずき、言われるがまま家政婦のように働く存在では無かったのですね。

たとえば、最初の馬買う逸話で登場する「奥さんの持参金」・・・

今だと、金持ちのお嬢様が多額の持参金持って結婚すれば、そのお金は夫婦の物(どっちがどんだけ稼いでいようが二人の物)・・・って感覚になりますが、この時代の持参金=いわゆる化粧料は、その名の如く「奥さんの私物」なのです。

なので、万が一離婚となると、夫は妻に、その持参金全額を持たせて実家に戻さねばならないという事もしばしば。。。

当然、この時の奥さんも、反論して、怪訝がる夫に自分の意見をハッキリ言ってます。

小袖のパッチワークの時も、「貧乏だから…」とコソコソやるのではなく、堂々と「これドヤ!」くらいの勢いで皆に披露するし、関ヶ原の時も、敵情視察的な行動ですばやく夫に内情を知らせています。

つまり、彼女は、夫にかしずき、言われるがままの嫁ではなく、むしろ、自身の意見をしっかり持った独り立ちした女性だったのだと思います。

それが垣間見えるのが、夫=一豊が亡くなった後・・・そう、ここからは逸話ではなく、史実と言われる史料(主に手紙ですが…)に、彼女がチョイチョイ登場して来るのです。

慶長十年(1605年)9月20日、彼女が49歳の時に夫=一豊が亡くなり、彼女は、その約半年後の3月7日に土佐を出て、まずは京都は伏見(ふしみ=京都市伏見区)の山内家の屋敷に入った後、6月13日に新しく建てた京都桑原町の屋敷に移り住んだとの事なのですが、

実はコレ・・・土佐を出て京都に行くことも、さらにそこから引越する事も、回りは全員反対していたのに、ガンと聞く耳持たずの強行突破なんです。

家臣の手紙に・・・
上洛に関しては、
「康豊様が、強くお止めになりましたが、上洛されます」
とあり、
その後の伏見から桑原への引越に関しても、
「侍女までもが何度も御止まりになるよう申し上げましたが、見性院様がお決めになったので、もう何も申し上げられません」
と、もはや諦めムードですよね。

上記の「康豊様」というのは、一豊の弟=山内康豊(やすとよ)の事で、夫亡き今となっては、彼女にとって1番身近で1番頼れる人物だったわけですが、そんな人の言う事もハネのけるくらいのガンコさ・・・

いや、ガンコとかワガママというのではなく、ひょっとしたら、彼女の心の内には、何かしらの譲れない思いがあったのかも知れません。

ご存知の方も多かろうと思いますが、彼女は、天正十三年(1585年)に居城のある長浜一帯を襲った地震によって一豊との間に授かった愛娘=与祢(よね=享年6)を亡くして涙に暮れていた時、たまたま長浜城外で捨てられていた男の子(実は家臣の北村十右衛門の子?)を拾い、我が子のように育てますが、その子が10歳になった頃に、一豊の命により出家させています。

これには文禄四年(1595年)に起こった、豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)の切腹事件(7月15日参照>>)が絡んでいるとか・・・この事件に少なからず関わっていた一豊が、
「山内家の血筋でない彼に家督を継がせると後々問題になるのではないか?」
と考えた事に端を発するようで、事実、その後、弟の康豊の息子=山内忠義(ただよし)を養子に迎えて、山内家の後継者としています。

…で、見性院さんが土佐を出て京都に来た頃には、かの捨て子だった坊やが、湘南宗化(しょうなんそうけ)と号して妙心寺(みょうしんじ=京都市右京区花園)塔頭(たっちゅう=大寺院の付属する寺)大通院(だいつういん)2代目住職をやっていたのです。

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山内家の菩提寺=妙心寺大通院

しかも、その頃の湘南宗化は、朝廷から紫衣(しい・しえ=高僧が身に着ける色の衣)を許されるほどの高僧になっていたわけで・・・もちろん、京都に着いた彼女は、すぐさま湘南宗化に会いに行きますが、おそらくは、ただ会うだけではなく、(拾い子とは言え)愛情注いで育てた息子の近くに、彼女はいたかったのでしょう。

ただ、さすがは貞女の鑑・・・理由はそんな個人的な物だけではありません。

一豊死去の半年ほど前の慶長十年(1605年)4月に、後継者=忠義と徳川家康の養女=阿姫(くまひめ=家康の姪・松平定勝の娘)との結婚が成立して徳川家との太いつながりができた事、また、その忠義の後見人に実父の康豊が就任した事・・・

つまり、ここで、山内家の系統(けいとう)が弟=康豊の血筋に移り、しかも、上記の通り、その家系は徳川家と深い関係を構築したわけで。。。

そう、土佐の事&山内家の行く末を彼女が心配する必要がなくなったのです。

いや、残る心配はただ一つ、いかにして、現在の良い状況を維持するか?です。

それには、刻一刻と移り変わるであろう日々の情報を得て、この先の動向を見極めねばなりません。

ひょっとしたら、彼女は京都にて、様々な世間の情報を得ようとしていたのではないでしょうか?

生前の一豊には二人の妹がいましたが、すぐ下の妹が、当時は京都所司代(きょうとしょしだい=京都の治安維持)だった前田玄以(まえだげんい)の家臣の松田政行(まつだまさゆき)と再婚しており、もう一人の妹が産んだ男子は、その松田政行の養子になっていて、その妹たちも京都にいたのです。

湘南宗化と言い、二人の妹と言い、その旦那と言い・・・身近な人が、距離的にも身近な場所にいて、しかも、こんなに情報を得やすい関係性は無いわけで・・・

おそらく彼女は、単なるワガママで京都に引っ越したわけではない・・・それが垣間見えるのが、晩年の彼女が出したいくつかの手紙です。

後継者となった養子=忠義に宛てたある手紙では
「常に徳川家への忠誠を示す事を忘れたらアカン」
とカツを入れたり、
高台院(こうだいいん=秀吉の正室・おね)さんに、ちゃんと土佐の名物を贈っときや」
と、德川にも、豊臣家にも、気を使うよう指示しています。

また、義弟の康豊への手紙には、
「なんや、伏見の屋敷には、土佐からしょっちゅう飛脚が来てるみたいやけど、私のとこには去年の7月から、ぜんぜん手紙が来てへんねんけど、どないなってんの?」
と、自分の所に情報が入って来ない事に少々ご立腹のご様子・・・

もちろん、隠居の身となった寂しさもあったであろうと思いますが、やはり、情報の集まる京都にて、あちこちに様々なアンテナを張り巡らせていたようにも感じます。

とは言え、
一方で、普段は自身の屋敷にて『古今和歌集』『徒然草』などの古典を読みながら、静かな日々を過ごしていたという彼女・・・元和三年(1617年)12月4日、最愛の息子である湘南宗化に看取られながら、彼女は61歳の生涯を閉じました。

戦国という波乱万丈な世を生きながらも、常に夫とともに生活し、実子を失いながらも、その生まれ代りのような息子に看取られ・・・「山内一豊の妻」なる彼女は、戦国の渦の中でも自らの意思を貫き、強くたくましく生きた女性だったに違いありません。
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