カテゴリー「 家康・江戸開幕への時代」の57件の記事

2008年7月21日 (月)

兄は東に父・西に~真田親子・犬伏の別れ

 

慶長五年(1600年)7月21日、石田三成からの密書を受け取った真田昌幸・信幸(信之)幸村(信繁)親子が、下野(しもつけ・栃木県)犬伏にて議論の結果、東西に分かれる事になりました・・・『犬伏の別れ』

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豊臣秀吉亡き後、豊臣家の持ち城である伏見城に居座って、重要事項を独断で決定し始める徳川家康・・・それを警戒する石田三成は、家康が会津上杉景勝を征伐に向かったのを絶好のチャンスと見て挙兵し、留守で手薄になった伏見城を攻撃します。(7月19日参照>>)

最終的に関ヶ原で激突する事になるこの戦いですが、この時、真田昌幸とその長男・信幸、そして次男の幸村親子は、家康に同行して会津征伐に向かっていました。

そんな真田親子が下野・犬伏に差し掛かった慶長五年(1600年)7月21日、親子のもとに手紙が届きます

それは、前田玄以・増田(ました)長盛・長束正家の三奉行の署名に入った『家康・弾劾状』(家康の悪行を書き並べた物)・・・これは、各地の諸大名に送られた物で檄文の意味も込められていました。

そして、もう一通は、光秀の密書・・・もちろん、毛利輝元を総大将(7月15日参照>>)とする西軍への参加のお誘いです。

密書を受け取った真田親子は、重臣たちをも遠ざけ、今後の身の振り方について協議を始めたのです。

この時に意見の分かれた兄弟は、刀を抜かんがばかりの激論になったと言われますが、上記の通り、重臣をも遠ざけているので、実際のところは、よくわかりません。

結果は、父・昌幸と次男・幸村が西軍につき、長男・信幸が東軍につくという親兄弟で別々の道を歩む事になるのですが、上記のような激論というよりは、天下分け目の戦いで、東軍・西軍どちらが勝っても、真田家が生き残れるようにとの配慮だったでしょうね。

どちらがどちらにつくか?という事に関しては、信幸は、家康の重臣・本多忠勝の娘を、一旦家康の養女にして嫁に貰ってますから、家康と彼は、義理の親子関係になるわけで、ここは長男・信幸が東軍・・・。

反対に、幸村は豊臣方の奉行・大谷吉継の娘と結婚していますので、その点から見ても、幸村が西軍というのが打倒でしょう。

昌幸自身は、西軍につきます。
想像の域をでませんが、これには昌幸の「家康に一泡吹かせてやりたい」という野望的な思いがあったのかも知れません。

昌幸は、かつて、秀吉から「表裏比興(ひょうりひきょう)と呼ばれた事がありましたが・・・
表裏とは読んで字のごとく、オモテとウラ・謀反の事で、比興とは卑怯の事。(秀吉に言われたかぁないかも知れない)

真田家は、小国とは言え、この戦国の荒波を見事に乗りこなし、生き残って来たわけですから・・・いえ、小国だからこそ、その知謀と策略を駆使して、守り抜いて行かなければ、尊属はできないのです。

今回も、その家の存続を一番重要視した対策だったでしょう。

とにもかくにも、ここで親子は袖を分かつ事になります。

その日のうちに、昌幸と幸村は家康陣営を去り、信幸が、二人が去った事を家康に報告すると、家康は「合戦に勝利したら信州はお前にやる!」と大いに喜んだと言います。

さて、「西軍にいく」と言って、去った二人ですが、ご存知のように、彼らは関ヶ原には行っていません。

そうです。
あの上田城に籠って、家康の息子・秀忠を迎え撃つ事になるのです。(9月2日参照>>)

この上田城で足止めを喰らってしまったために、秀忠は、『関ヶ原の合戦に間に合わない』という大失態を起してしまうわけで、合戦が東軍の勝利に終っても、その怒りが収まる事はなく、昌幸・幸村親子の命を取ろうとしますが、それを身体を張って阻止したのが、信幸でした。

「父を処刑するなら、自分が切腹する!」
という勢いに負けて、昌幸・幸村親子の処分は、高野山麓の九度山への流罪という事に収まります。

その後、父の遺領を与えられ、9万5千石・上田城主となった信幸が、九度山の父と弟に、そっと仕送りをしていた事は言うまでもありません。

やがて、父は九度山でその69歳の生涯を閉じますが、弟・幸村は、密かに脱出するのです。(10月9日参照>>)

そう、大坂の陣で、幸村は再び、徳川と戦う事になります。
 

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2008年7月17日 (木)

病死か?毒殺か?織田信包・疑惑の急死

 

慶長十九年(1614年)7月17日、織田信長の弟・織田信包(のぶかね)が、大坂城内での会議中に急死・・・72年の生涯を閉じました。

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あの織田信長の9歳年下の弟・織田信包・・・派手な信長さんに比べて、何となく目立たない、影が薄い気がする人なのですが、それは、、ひとえに、彼の性格によるところ・・・。

燃え盛るような激しさを持つ信長に対して、信包は正反対の穏やかで争いを好まない人だったようです。

だからと言って、武将としてダメな人ではなく、むしろデキる男・・・信長以外は、フツーの人が多い織田家の中では、優秀な人物と言えるでしょう。

そんな信包の優秀さを、ちゃんと信長さんも認めていて、大事な後継ぎ・信忠補佐役を任せていますし、彼も、それに答えるように、兄の一番の理解者であり、協力者でありました。

あの伊勢平定にもつき従い、伊勢上野城を居城とした後、天正八年(1580年)には、津城を築城し、そこを居城としていました。

信長が本能寺で倒れた後は、上記の性格ゆえ、野望を抱くという事もなく、後継者争いに顔を出す事もなかったせいか、すんなりと豊臣(羽柴)秀吉の傘下となり、領地を安堵されるどころか、むしろ加増されて15万石の大名になっています。

しかし、今度は、その争いを好まない性格が仇となってしまいます。

あの小田原征伐の直後、敵将の北条氏政・氏直父子の助命という北条側の嘆願を、そのまま持ち帰った事で、秀吉が激怒してしまうのです。

おかげで津城も、その15万石の領地も没収され、近江2万石に転封され、謹慎処分に・・・。

ところが慶長三年(1598年)、いきなり丹波(兵庫県・北東部)3万6千石を与えられ、見事大名に返り咲きます。

それは、やはり信包の優秀さを秀吉が認めていたからなのでしょう・・・慶長三年と言えば、そう、秀吉が亡くなった年です。

日に々々老いを感じ、もう、あまり長くないのでは?と悟った秀吉が、信包を大名に復帰させ、そして、遺言として、息子・秀頼補佐役に彼を任命するのです。

やがて起こった関ヶ原の合戦でも、彼は西軍に属し、1万5千の兵とともに、細川忠興の居城・丹後(京都府・北部)田辺城を攻撃しています。

この時は、ご存知のように、忠興は、徳川家康とともに、会津征伐の名目で東国に行っていて留守・・・城の守りは手薄でした。

ただ、留守を預かるのが文武両道に長けた忠興の父・細川幽斎だったためか、なかなか落す事ができず、結局、朝廷の仲裁によって田辺城は開城されました。

しかし、信包が参戦したのが、この田辺攻めのみだったせいか、合戦後も、その罪を問われる事はなく、領地は安堵、秀頼の補佐役というのも、家康公認のもとで続けていく事になるのです。

そのまま補佐役として大坂城にいた信包・・・運命の慶長十九年(1614年)7月17日大坂城内での会議中に突然血を吐き、そのまま帰らぬ人となってしまうのです。

慶長十九年7月17日と言えば、大坂の陣のきっかけとなった、あの『方広寺鐘銘事件』(7月21日参照>>)・・・家康が豊臣家にイチャモンをつける4日前の出来事です。

以前、『加藤清正疑惑の死』(6月24日参照>>)でもチラッと書かせていただきましたが、関ヶ原の後、次々と豊臣恩顧の武将がこの世を去っていく中、慶長十七年(1612年)頃から、なぜか写経を趣味としだした家康が、翌年の慶長十八年には、キッパリとその趣味を止めてしまった・・・つまり、それまでは、何となく「そうしたいなぁ」という程度だったのが、ここで、はっきりと豊臣を潰す決意をしたのだと思うのです。

そして、家康は、その潰す口実を探しはじめる・・・それは、いずれ豊臣方にも読めてきます。

ひょっとしたら、先の大坂城内での会議は、来るべき大きな戦の対応策を話し合う会議だったかも・・・

信包は、その来るべき合戦でも、重要な任務を帯びていたと推測できます。
そんな彼が突然の死です。

当然のように囁かれる毒殺説・・・その犯人は片桐且元(かつもと)(片桐さんについては8月20日参照>>)だとも言われています。

しかしながら、犯人はもちろん、その死因さえ、未だはっきりとはしていません。

毒殺か?病死か?

信長と秀吉・・・二人の天下人から、その後継者の補佐役を任された頼れる男・信包
その真相は神のみぞ知るといったところでしょうか。
 

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2008年7月15日 (火)

動かぬ西軍総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算

 

慶長五年(1600年)7月15日、三奉行の連署状を受け取った毛利輝元が、大坂へ向けて、広島城を出陣しました。

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慶長三年(1598年)、幼い秀頼を五大老と五奉行に託し、あの豊臣秀吉が亡くなりました(8月18日参照>>)

それでも、重鎮の前田利家が踏ん張ってた間は、何とかバランスを保っていたものの、利家の死とともに、必然的に豊臣家臣団のトップとなった徳川家康は、豊臣家を軽視しはじめ、横暴な振る舞いが目立つようになります。

亡き秀吉の恩に報いるためにも、家康を許してはおけない・・・五奉行の一人であった石田三成は、家康を排除する決意を固めるのです。

ご存知、関ヶ原の合戦です。

慶長五年(1600年)の正月に、五大老の一人・上杉景勝が、秀頼に年賀の挨拶をしに来なかったのを「謀反の疑いあり」として、景勝を討つという名目で、伏見城を後にし、一路東へ兵を進める家康・・・これを絶好のチャンスと見た三成は、7月2日、家康に合流して会津征伐に向かおうとしていた大谷吉継を、自らの居城・佐和山城に呼び出し、「打倒家康」の気持ちを打ち明けたのです。

初めは、「軽率な行動である」と三成をいさめて、一旦、会津征伐に加わった吉継でしたが、やはり、そこは無二の親友・・・考え直して、もう一度三成と会う事にします。

そして7月11日・・・二人の間で話合われたのは、「実際に戦うとなれば、家康に対抗できる大物に総大将になってもらわねばならない」という大将選び・・・。

そこで、白羽の矢が立ったのが、家康と同じく五大老の一人であった毛利輝元だったのです。

この輝元は、あの毛利元就の孫にあたります。

元就の嫡男であった隆元が早くに亡くなり、幼い頃から後継者とされた輝元・・・「毛利の両川(りょうせん)と呼ばれた元就の次男・吉川元春と三男・小早川隆景が、甥っ子の輝元を盛りたてて、元就亡き後の毛利家を大きくしてきましたが、この盛りたて方がやや過保護気味だったため、輝元はかなりのお坊ちゃんとして成長したようです。

毛利が秀吉の傘下となってからは、四国征伐九州征伐にも出陣していますが、その主力となったのは、やっぱり吉川隊と小早川隊・・・輝元が五大老の一人に名を連ねる事ができたのも、この両おじ様の活躍による物でした。

関ヶ原の頃には、吉川家は元春の息子・広家が当主に・・・、小早川家は隆景の養子の秀秋(秀吉の正室・ねねの甥)が後を継いでいました。

そんな輝元に、三成と吉継は、五奉行のうちの三人・・・前田玄以増田長盛長束正家の名前を連ねた「大坂へ来てちょーだい」という内容の連署状を送りと届けるのです。

7月12日付けのその書状には・・・
「詳細は安国寺に聞いて、早々に大坂に来てね」
・・・と、どうやら、輝元の説得には、安国寺恵瓊(えけい)があたったようです。

この書状を受け取った輝元は、即、準備し、慶長五年(1600年)7月15日広島城を出陣・・・船に乗り、瀬戸内海を一路、大坂へ向かいます。

これに驚いたのは、吉川家を継いでいた広家です。

彼は、「もはや時代は家康である」と読んで、独断で密かに家康と通じ、毛利の領地を安堵してもらう約束で、東軍につく事を決めていたのです。

ただ、輝元は、まだこの時点では総大将に担ぎあげられるとは思ってもいなかったようで、単に「呼ばれたから来た」といった感じだったようです・・・そこが坊ちゃんなんだろうなぁ。

確かに、この日、輝元が大坂に呼ばれた時点では、まだ、三成以下の西軍のほうでも、総大将に決定していたわけではなく、反対意見もあったようですが、結局は三成が推した輝元に総大将を頼む事になり、先の安国寺恵瓊が毛利家の参謀という立場を利用し、言葉巧みに輝元を説得し、あれよあれよと言う間に、総大将に決定してしまったのです。

従兄弟で養子となっていた毛利秀元が・・・
「なに簡単に大坂城に入っとんねん!家康にバレたらどうするんじゃ!」
と、嘆いているところを見ても、この時の毛利家内にも、この西軍参戦に積極派と慎重派があった事をうかがわせます。

とにもかくにも、輝元は、西軍の総大将になっちゃいました。

・・・で、結局、関ヶ原の合戦の当日、毛利の軍勢がとった行動は・・・

秀頼の補佐という名目で、輝元自身は関ヶ原へは行かず、大坂城に留まり、かの秀元を大将にして現地へ派遣

そして、現地では、家康と約束を交わしている広家が、秀元の前面に陣取り、一歩も動かない・・・これで、東西両軍への義理立てができる事になります。

西軍が勝った場合は、はなから西軍として参戦しているわけですから、何の問題もありませんし、東軍が勝った場合でも、密約がすでに交わされているので、こちらもOK!

もしかして、合戦がスゴイ事になって、東西両軍が大ダメージを受けた場合、実際には戦っていない毛利軍は戦力を保持したままなので、天下が向うから転がり込んで来る可能性さえあるのです。

「どう転んでも損はない」・・・それが毛利の勝算だったかも知れません。

結果・・・ご存知のように東軍の大勝利(9月15日参照>>)となりますが、毛利の思惑とはうらはらに、家康の見事な約束やぶりで、領地は大幅に削られてしまいます。

しかし、まぁ、考えてみれば、石田三成や安国寺恵瓊は斬首(10月1日参照>>)されちゃってますから、負けチームの総大将でありながら、家名が残っただけでも儲けモンっちゃぁ、儲けモンなんですが・・・。 
 

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2008年6月24日 (火)

笹の才蔵こと可児才蔵~愛宕にまつわる死の予言

 

慶長十八年(1613年)6月24日、『笹の才蔵』の異名を持つ可児才蔵吉長(かにさいぞうよしなが)60歳でこの世を去りました。

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平安中期に始まり、鎌倉時代にほぼ確立された、武士(もののふ)の道という物は、主君(棟梁)と部下(家人・郎党)との主従関係の上にあります。

主君と部下は、何代にも渡ってともに生活をし、部下は主君に対する忠誠を、主君は部下に対する慈愛を、ともに育み、その信頼関係によって武士団を形成していく・・・まさに、「いざ!鎌倉」「武士は二君に仕えず」の精神です。

しかし、鎌倉時代から江戸時代に渡って受け継がれていく、この武士道精神も、こと戦国という時代だけは別です。

腕力と知力さえあれば、土豪や野武士でも・・・果ては農民や商人でも、大大名にのぼりつめる事が夢じゃないこの時代は、普段とは逆に「主君を七度変えてこそ一人前」などとも言われていました。

そんな中、本日の主役・可児才蔵は、とにかく主君をよく変えた人です。

はじめは斉藤龍興(たつおき)に仕え、柴田勝家森長可(ながよし)明智光秀前田利家神戸信孝・・・このメンツを見ておわかりの通り、中には敗戦して滅亡に追い込まれたために主君を変えたケースもあるわけですが、主君がそのような憂き目に遭っても、才蔵は生き残って、再び乱世の荒波を泳いでいくのですから、なかなかのものです。

その神戸信孝が羽柴(豊臣)秀吉に謀略によって自刃に追い込まれた後、才蔵は秀吉の甥である羽柴(三好)秀次に仕えるですが、その時に、あの小牧・長久手の戦い(4月9日参照>>)が勃発します。

この時、まだ戦いに不慣れな秀次が、はやる心を押さえきれず、ただひたすら軍を進めようとするのを・・・
「今回の敵は強大ですから、無理に進めば大敗します・・・一旦退きましょう」
と進言するのですが、秀次はその言葉を聞かず、さらに進もうとしたました。

いくらアドバイスを聞いてくれなかったとしても、相手は主君ですから、普通なら、ここで「もう・・・しゃぁないなぁ・・・」と、ついていくところですが、さすが、主君から主君へ渡り歩きまくりの才蔵は違います。

「ほな、好きにしなはれ」
と、配下の兵だけを連れて、さっさと自分だけ退いてしまうのです。

かくして、その進んだ先で、徳川家康軍の奇襲を受けた秀次軍は大混乱となり、またたく間に敗北・・・しかも、そのドサクサで秀次は馬を失い、徒歩であたふたと戦場を離脱するのですが、そこに通りかかったのが、颯爽と馬上にまたがった才蔵・・・

「スマン、その馬貸してくれ!」と、主君・秀次・・・
すると、才蔵はひとこと・・・
「雨が降る日に傘を貸すアホはおらん!」
との捨てゼリフを残し、去っていったというのです。

確かに、自分が今必要な物を手放すヤツはいませんが、相手は主君だからなぁ・・・まぁ、そこが才蔵さんの才蔵さんらしさですが・・・。

・・・で、この一件で、浪人の身となった才蔵さん、やがて、秀吉の家臣で賤ヶ岳の七本槍の一人・福島正則の傘下に入り、関ヶ原の合戦へ参戦する事になります。

慶長五年(1600年)の9月15日、この日、徳川軍の先鋒を努める事になった福島隊・・・。

才蔵は、その福島隊の先陣・・・つまり、一番前の位置で、「真っ先に突入してやろう」と、大ハリキリで、開戦を今か今かとテンションも最高潮!

・・・と、その時、スルスル~と、才蔵の横をすり抜けるのは、あの井伊直政です。

実は、この直政、豊臣の家臣である福島隊に、関ヶ原の先陣を切らせる事に、どうも納得が行かない・・・「やはり、ここは、徳川配下の自分が・・・」と、心に決めての行動でした。

直政は、なんだかんだとウマイ事言って、才蔵の前に出て、あれよあれよ言う間に、敵方に攻撃を仕掛けてしまいました。(2月1日参照>>)

まんまと、先を越されてしまった才蔵さん・・・彼の性格が、その屈辱を許すワケがありません。

押えきれぬウップンを、合戦へと向けた才蔵は、鬼神のごとき活躍で、次々と敵を討ち取り、持ちきれない敵の首には、その口に笹の葉をくわえさせ、その場に置いたまま、さらに戦い続けます。

やがて、天下分け目の合戦にも決着が着き、夕方には、本陣で、家康による首実権が開始されるのですが、先の笹をくわえさえた首は、なんと17個・・・この日の徳川軍一の数だったのです。

この才蔵の働きに大喜びの家康は、「今日から“笹の才蔵”と名乗れ」と、直々に異名を与えられたのです。

主君から主君へ渡り歩いてきた才蔵さんは、この福島正則を最後の主君として、その生涯を閉じる事になるのですが、関ヶ原の合戦を終えた晩年の彼は、非常に穏やかで、やさしい人だったと言います。

そんな彼は、一生を通じて愛宕権現を信仰していて、生前は「俺は愛宕の縁日の日死ぬんだ」と予言していたというのですが、果たして、その言葉通り慶長十八年(1613年)6月24日愛宕の縁日の日(1月24日参照>>)に、その60歳の生涯を終えたのでした。
 

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2008年6月11日 (水)

古田織部の家康暗殺計画は本当にあったのか?

 

元和元年(1615年)6月11日、徳川家康の暗殺を企てたとして、『利休七哲』の一人・古田織部が切腹し果てました

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古田織部は、天文十三年(1544年)に美濃(岐阜県)に生まれました。

他の『利休七哲』と呼ばれる人がそうであるように、彼も、最初から茶人ではなく、もとは、れっきとした武将・・・。

始めは荒木村重の与力を務め、次に、17歳で織田信長に仕えますが、信長が本能寺で亡くなった後は、豊臣秀吉のもとで働き、小田原征伐でも大きな武功をあげています。

その間に、30歳頃から学び始めた茶の湯でめきめきと頭角を現し、千利休の弟子の中でもトップクラスになった事から、文禄・慶長の役の頃からは、武将というよりは、茶人として秀吉の側にいる事が多くなります。

ただ、織部の茶の湯は、利休の後を継ぐ・・・というよりは、それをアレンジした新ジャンルのような彼独特の物でした。

利休が、究極の質素な美しさを追及したのに対し、織部は、華麗な動きのある美しさを求める・・・それが武将に好まれ、「利休の侘び茶」に対して「織部の武家茶」と称され、大いにもてはやされる一方で、その行為は師匠・利休を裏切る行為だとも噂され、二人が仲が悪かったような事も言われますが、ご本人たちは、お互いを認め合っていたようです。

利休は、常々、「人と違う事をする事が大切」と、弟子たちに説いていましたから、独創的な茶の湯を試みる織部に、不快感を抱いていたとは思い難いですし、織部は織部で、利休が、秀吉のご機嫌を損ねて、堺での謹慎を言渡された時、秀吉の事を怖がって、皆が姿を見せなかった中、弟子の中でただ一人、京の町を去る利休の見送に行っています。

秀吉との確執が解けないまま、利休が切腹した後は、正真正銘、茶の湯の第一人者となり、彼の生み出した『織部焼』の茶碗や『織部風建築』は、師匠・利休の『利休好み』とともに、安土桃山文化の代表的芸術となります。

やがて、秀吉が亡くなり、その後に起こった関ヶ原の合戦では、徳川家康に着き、最初は石田三成側だった佐竹義宣を中立の立場にさせた功績で、合戦後には1万石を与えられ『将軍家・茶の湯師範』というお墨付きまでいただいて、2代将軍・徳川秀忠に茶道を教えという、まさに、この世の春を迎えます。

ところが・・・です。
大坂の陣の直後、そんな織部の運命が一転・・・家康から切腹を申し渡される事になるのです。

それは、大坂の陣の直前の事・・・決戦を間近に控えた不穏な空気が流れる中、二条城にて、家康・秀忠以下、主だった者たちで軍儀を開いていた時の事・・・京で、一人の男が捕まります。

その男は・・・
「京の町に火を着け、その混乱に乗じて、大坂城を打って出た豊臣方が、二条城にいる家康・秀忠親子を殺害する」
という、暗殺計画の書かれた密書を持っていたというのです。

この密書を持っていた男が、織部の娘婿の使用人だった事で、合戦が終って、豊臣家滅亡後に、織部に嫌疑がかかった・・・というわけです。

しかし、これには、また別の話もあります。

織部自身が、とっくの昔から豊臣方に通じていて、上記の手紙の内容のような暗殺計画の噂も流れていて、家康がその事を疑っていた所、実際に、京都で火事が起こったため、織部に切腹を命じた・・・というもの。

また、豊臣秀頼の小姓をしていた織部の息子・九八郎が、織部の家臣・木村宗喜と結託して、大坂の陣の時、家康父子が、大坂城に向けて出発すると同時に兵を挙げ、家康らを挟み撃ちにする計画があった・・・というのもあります。

いずれにしても、織部自信が関与、あるいは、身内が関与した『家康・秀忠暗殺計画』なる物が存在し、そのために織部に切腹の命令が下った・・・という所は共通しているのですが・・・どうも、納得ができませんねぇ。

上記の通り、将軍家の茶の湯師範にまでなって、それ以上、織部は何を望んで、暗殺計画など立てたのでしょう?

天下ですか?豊臣家の存続ですか?
秀吉存命の時代から、すでに茶人・お伽衆(主君の話し相手になる側近)となっていた織部にとって、いまさら武将としての天下取りの夢を持ち出すのは、何とも考えづらいですし、かと言って豊臣家の存続をうんぬんするなら、こんな大坂の陣直前になって、いきなりの行動を起さずとも、もっと早くに何らかの姿勢を見せていたはず・・・。

動機がつかめないまま、暗殺計画なるものだけが一人歩きして、結果、元和元年(1615年)6月11日、家財を没収された古田織部は、一切の弁解をせず、息子とともに自刃するのです。

しかし、案の定、織部が亡くなった後、徳川家はミョーな行動に出ます。
織部の残した織部焼や織部風建築といって文化財を次々と破壊し、最終的に『武家茶』自体を廃止にして、室町時代から続く伝統的な茶の湯だけを残すのです。

暗殺計画があったのが大坂の陣の直前であったのなら、時代はまさに戦国・・・言っちゃぁ悪いですが、暗殺計画なんて日常茶飯事です。

もし、仮に、本当に暗殺計画があったとしても、それに関わった者たちを、自害させるなり処刑するなりして、そこで幕引きとなるはずで、何も、残した文化財や、一旦浸透した作法を抹消する必要はありません。

これは、どう考えても、家康自信が、織部を抹消したかったとしか思えないような気がしますね。

では、家康は織部の何が怖かったのでしょうか?

それは、仮説になりますが・・・

織部の生き方を見ていると、芸術家の多くが持っている常に新しい物を求めていく探究心のような物を感じます。

戦国という世で、常に時代が変化していく中では、むしろ、織部のような姿勢が頼もしく思えたものの、いざ、天下を取って、この先の徳川の安泰を願った時、その躍進的な思想は、安定を目指す家康にとって、脅威となったのではないでしょうか?

だからこそ、躍進的な武家茶を廃止し、伝統を重んじる侘び茶だけを残したのでは?

家康が、江戸=徳川という物を保守したい!と思った・・・そして、その家康の変化を、織部は、誰よりも感じていたが故の、従順な切腹となったのではないか?と思う次第です。
 

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2008年6月10日 (火)

史上最悪の暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!

 

文禄四年(1595年)6月10日、徳川家康の孫で、あの海音寺潮五郎に日本史上最悪の暴君とまで言わせた松平忠直が誕生しています

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13歳で父の後を継いで藩主となり、時代の波に翻弄された悲しき運命から逃れられず、酒に酔い、女に走り、その凶暴さを見せつけた第2代・福井藩主・松平忠直・・・。

ある時、いつものように酒を飲んで暴れていた忠直に、側室にしたばかりの妖艶な美女が語りかけます。

「そんなに、ムシャクシャするなら、誰かを斬ってみれば?」

「おもしろい!」
とばかりに、罪人を引きずり出して斬る忠直・・・それを見てキャッキャと喜ぶ女・・・

そうなると、徐々にエスカレートしていき、始めは死罪になる予定の罪人を斬っていたのが、だんだんと、軽い罪の者まで斬るようになり、やがて、ちょっとしたミスを犯した家臣まで斬るようになっていきます。

次第に、誰も忠直にダメ出しをする家臣はいなくなり、周囲には、ご機嫌をとる者ばかり・・・そんなご機嫌とり家臣の一人・小山田多聞は、自らすすんで他の者のミスをチクるばかりか、ウソの話をでっち上げてまで忠直に斬らせる始末・・・。

果ては、妊婦のお腹を裂き、取り出した胎児にまで刀を突き刺した・・・福井には、この時に使ったまな板石なる石も残っているのだとか・・・。

そんな中、元和八年(1622年)10月、正室の勝姫(徳川秀忠の娘)に斬りつけ、とっさに身代わりとなった女中二人を斬殺するという事件を起した事で、豊後萩原(大分県大分市)に配流となって、結局、そこで、慶安三年(1650年)9月10日、56歳で病死したというのです。

家康の孫という、ゆるぎない血筋に生まれながら、彼が、こんな事になってしまう原因とも言える逃れられなかった悲しき運命とは・・・

実は、彼の父親からすでに、その悲しき運命が始まります。

忠直のお父さんは、結城秀康・・・家康の次男です。

ご存知のように、家康の長男・信康は、例の織田信長の命により切腹(9月15日参照>>)させられていますから、本来ならこの秀康が徳川家の後継者・2代将軍になっていたはずなのですが・・・ご存知のように2代将軍は三男の秀忠です。

信長亡き後に起こった豊臣秀吉とのあの小牧・長久手の戦い(6月15日参照>>)・・・その幕引きのために、家康から秀吉へと差し出された人質が、この次男の秀康(幼名:於義伊)だったのです。

秀吉の養子となり、羽柴秀康と名乗った彼でしたが、秀吉の側室・淀殿鶴松を出産し、その鶴松が豊臣家の後継者となったため、下総の大名・結城晴朝の姪と結婚し、結城氏の家督を次ぎ、結城秀康となります。

やがて、関ヶ原の合戦に勝利して家康の時代になると、越前(福井)北ノ庄・75万石を与えられ、姓も松平を名乗るようになりますが、そのわずか3年後、34歳の若さで亡くなってしまいます。

そして、その後を継いだのが松平忠直という事になります。
そう、もし、あの小牧・長久手の戦い後に、父・秀康が人質に出されなかったら、おそらく、父が2代将軍となり、その長男である忠直が3代将軍になっていたかも知れないのです。

それなのに、実際には、弟の家系である者たちの下に位置しなければならないというもどかしさ・・・さすがに、この事には、家康も気をつかったと見え、この越前松平家には御三家に次ぐ「御制外」という特権を与えています。

しかし、それも、忠直が家督を継いで間もなくに起こった越前松平家の家臣同士のトップ争い『久世騒動』という内紛劇で、特権は縮小されてしまいます。

それでも、頑張る忠直さん・・・次に訪れた大阪の陣では、最初こそ、20歳という若さを露呈し、おじいちゃん家康にひどく叱られてしまいますが、大坂城総攻撃では、あの真田幸村を討ち取り、大坂城への一番乗りを果たすという大坂の陣最大の功名をあげます(5月8日参照>>)

ところが、そのご褒美は「初花の茶入れ」だけ・・・確かに初花は名器ですが、これだけではちょっとお気の毒・・・。

この時、忠直は、「これでは命を賭けて戦った部下に報いられない!」とくやしがり、この茶いれを投げつけて割ったのだとか・・・事実、今も松平家に伝わる初花の茶入れにはひびが入っています。

そんなこんなの度重なる父への仕打ち、自分への仕打ちが、ウップンとなって、冒頭の酒乱・暴君というお話になっていくわけですが・・・

嫡流でありながら将軍になれず、成績を上げても褒めてもらえない・・・そんなお気の毒な現状に、、さぞかし歯がゆい思いをしたのでしょう。
暴れたくなる気持ちもわかります~。

・・・と言いたいところですが、生い立ちや大坂の陣での話はともかく、酒乱・暴君に関しては、どうも怪しいのです。

確かに、父・秀康が人質に出され将軍になれなかったのも事実、内紛でモメたのも、大阪の陣で功名をあげながら茶入れ一つだったのも事実・・・そして、最後は豊後へ配流となったのも事実のようですが、この酒乱・暴君の話が出てくるのは、『藩翰譜』『越藩史略』『続・片聾記』などといった福井藩・幕府による公式文書ので、しかも、書かれた年代が進むにつれ、忠直さんのご乱行がひどくなっている・・・。

200年も経った幕末に書かれた『続・片聾記』になってようやく登場する「妊婦のお腹を裂く」という行為・・・この行為は、以前書かせていただいた武烈天皇の汚名を晴らしたい(12月8日参照>>)でも登場した行為で、神代の昔から、極悪非道な人物描写の王道と言えるもの・・・この手の話のほとんどが作り話では?と言われています。

ここで、注目は、忠直が配流になって、その後を継いで第3代・福井藩主になったのが、越後(新潟県)高田藩25万石からやって来た弟の松平忠昌であるという事・・・逆に、本来、福井50万石を継ぐはずの、忠直の息子・松平光長が、高田へ追いやられているのです。

つまり、後世の福井藩の公式文書は、ここで福井にやって来た弟の家系が残した文書という事になります。

だんだん、読めてきましたね~。

逆に、公式文書ではない、地元・福井県の鯖江市の言い伝えには、忠直=名君の伝説も残ります。

それまで、荒野だったその地を開発し、道や宅地を整備し、無償で土地を与えて、鯖江という町を発展させたのは忠直さんだというのです。

粗末な土地にでもよく育つ蕎麦の栽培を即したのだとか・・・そう、現在も名物の越前そばです。

配流先の豊後でも、周囲の村人に愛され、亡くなってから100年経った後も、その法要が盛大に行われたという村人の記録が残っていると言います。

しかし、さすがに、その配流の原因となった勝姫殺害未遂事件は、配流という事実がある以上本当の事なんじゃないの?・・・と思いきや、ここにも別の話が・・・

当時、長崎にいたイギリス人・コックスやオランダ人・カンプスが母国に送った手紙には、現皇帝の長兄の子息を、新皇帝にする動きがある」と書かれているのだそうです。

もちろん、この内容については、日本にはまったく記録のない事ですし、どこまで信頼できる物がわかったものではありませんが、それを画策している大名の中には本多正純の名が上げられているのです。

例の『宇都宮釣天井事件』(3月18日参照>>)で、正純が失脚するのが元和八年(1622年)の4月・・・そして、先に書いた通り、忠直の勝姫事件が、半年後の10月。

これは、偶然の一致なのでしょうか?

確かに、たとえ、これが本当だったとしても、それはそれで、謀反という事になって、忠直さんが、配流されるのは仕方の無い事ですが、その配流の原因が、父の代から冷遇されて謀反を起すのと、酒乱の暴君のご乱行とでは、ご本人にかけられる汚名の度合いが違いますよね。

ただし、今日、お話した事は、あくまで仮説・・・歴史では、藩・幕府の公式文書が正史という事になりますからね。

でも、少しは忠直さんに対する、イメージが変わりました。
今後は、新たな公式文書の発見に期待する事にいたしましょう。
 

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2008年5月15日 (木)

長宗我部盛親・起死回生を賭けた大坂夏の陣

 

元和元年(1615年)5月15日、大坂夏の陣で捕らえられた長宗我部盛親が、京都・六条河原にて斬首されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、四国を平定した父・長宗我部元親(もとちか)とともに、『長宗我部元親百箇条』を発布し、一時は土佐(高知県)22万2千石を治める大大名でした。

しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)で歯車が狂い、どん底人生を味わった彼・・・先日の後藤基次(5月6日参照>>)と同じく、彼もまた、この大坂の陣に、人生の起死回生を賭けた一人でした。

その関ヶ原の合戦の時には西軍に属し、安国寺恵瓊らとともに美濃南宮山に布陣していた(9月16日参照>>)盛親でしたが、実際にはまったく動かず、午後になって西軍の旗色が悪くなると、そのまま戦わずして土佐に帰ってしまいます。

これには、合戦の前に、徳川家康から東軍への寝返り要請を受けていて、「OK!寝返りまっせ」の返事を出したものの、その使者が途中で西軍に見つかってしまい、家康まで届かなかった・・・という事があったようで、合戦時の盛親は、「西軍が負けそうなので逃げ帰った」というよりは「最初から戦う気がなかった」ものと思われます。

しかし、西軍として関ヶ原に参戦してしまった事は確か・・・盛親は、あの井伊直政を通じて、家康に謝罪し、早速、領国安堵の交渉に入りました

この交渉の盛親側の窓口であったのが、盛親の兄・津野親忠でした。

親忠は、幼い頃に津野家の養子となったうえ、後には豊臣秀吉への人質に出され・・・と不遇な少年時代を過ごしてきましたが、その人質時代に藤堂高虎と親しくなった事もあって、今回の交渉の窓口となっていたわけです。

しかし、この兄とは、盛親が長宗我部の家督を継ぐ際に後継者争いで争った事があった事から、交渉が長引くにつれ、盛親は、「兄が交渉相手側に付いているのではないか?」という疑いを持ちはじめ、結局、この兄を暗殺してしまうのです。

この暗殺劇を知った家康は、「武士の風上にもおけぬ安易な行動」と批判し、すべての領地を没収され、盛親は改易されてしまいます

浪人の身となった盛親は、京都に出て、相国寺門前の柳ヶ厨子に籠り、名前も大岩祐夢と改めました。

それから14年・・・彼は、子供相手に寺子屋の先生をして生計を立てる事になります。

そんな盛親のところへ・・・やってきました!慶長十五年(1614年)、真田幸村や後藤基次らと同様の豊臣家からのお誘いです。

「勝利したあかつきには、土佐の領地をそっくりそのままお返しする」という条件で、彼は大坂城に入ります。

幸村同様、いざ合戦になれば大坂方につくであろうと思われていた彼は、この少し前に、京都所司代の板倉勝重に呼び出され、詰問されていますが、その時には・・・
「合戦になった時には、徳川様に従い、ご期待にそえる武功をあげたいと思います」
と、平然と笑ってみせたと言います。

ヤルねぇ~盛親・・・

なんせ、彼には、盛親失脚の後に土佐に入った山内一豊を散々悩ませた「一領具足」という半士半農の部隊が味方についています。

未だに、高知県では坂本龍馬さんの次ぎに長宗我部ですから・・・そのあと何百年も統治した山内の影は薄い・・・平成の今でもそうなのですから、盛親が立つとなれば、ともに立ち上がってくれる一領具足の残党たちは、大坂方にとって、かなり心強い存在です。

あの幸村でさえ、大坂城内の軍儀の際、意見を求められると・・・
「まず、長宗我部殿のご意見から・・・」
と、彼を優先していたぐらい・・・大坂の陣に駆けつけた援軍の中では、トップの位置にいたのが盛親なのです。

やがて、勃発した大坂の陣・・・元和元年(1615年)5月6日、後藤基次と真田幸村が道明寺・誉田で大激戦を繰り広げた(5月6日参照>>)、まさにその日、豊臣秀頼の乳兄弟であった木村重成が4700の兵を率いて若江(東大阪市)に向かい、盛親は5000の兵を率いて八尾(八尾市)に向かいました。

これは、基次&幸村が、家康軍本隊が大坂城へ進出する場合に、必ず、そこを通るであろう道明寺で待ち構えたのに対して、その本隊に側面から攻撃を仕掛けようとうする別ルートの作戦でした。

しかし、目的の場所に着く前に、藤堂高虎の軍に見つかり、戦闘が開始されてしまいます。

ここでは大いに奮戦して戦いを有利に進め、撃破寸前まで追い込む長宗我部軍でしたが、途中、若江に向かっていた木村軍が、井伊直孝の襲撃をくらい、重成が討死したとの知らせが飛び込んできます。

大将を討ち取った以上、その井伊軍が、この藤堂軍に合流する事は確実・・・ヘタをすれば挟み撃ちに遭い、孤立状態になってしまいます。

もちろん、この知らせは、相手の藤堂軍にとっては有利な知らせ・・・その士気も高まりますから、盛親は、この先の形成を不利とみて、大坂城へと戻ります。

この夜の大坂城内の士気は、とてつもなく下がってしまいました。
後藤基次・薄田兼相・木村重成の死は、大坂方にとって大変なダメージです。
もはや、戦闘能力の低下は誰の目にも明らかに見えました。

そして、翌日・・・5月7日、大坂城総攻撃が開始され、幸村も討死してしまうのです(5月7日参照>>)

翌・5月8日、炎に包まれて落城する大坂城から脱出した盛親・・・
それは、命を惜しんでの敗走か・・・
起死回生の再起を狙っての敗走か・・・

その心中は、彼のみぞ知るところですが、間もなく、蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の家臣によって、その身柄を確保されてしまいます。

関ヶ原の寝返りの件で一度・・・
戦後の交渉の件で一度・・・
そして、大坂の陣・・・

三度も、家康の期待を裏切ってしまった盛親には、もはや、生きる道はありませんでした。

かくして元和元年(1615年)5月15日、京都・六条河原に引き出された盛親は、合戦の前のここ京都にて「武功をあげてみせます」と笑ってみせた相手・・・板倉勝重の手によって斬首されるのです。

享年・41歳・・・ここに、土佐に威勢を誇った長宗我部は滅亡しました。
 

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2008年5月 8日 (木)

大坂城・落城~脱出した秀頼の娘は・・・

 

元和元年(1615年)5月8日は、大坂夏の陣での大坂城・落城の日・・・

昨年のこの日は、落城の経緯や秀頼・生存説(昨年の5月8日参照>>)なんてのも書かせていただきましたが、ご承知の通り、生存説はあくまで俗説・・・やはり豊臣秀頼と、その母・淀殿は、この日、大坂城と運命をともにしたはずです。

そして、この時、燃え盛る大坂城から脱出したのが、秀頼の正室となっていた徳川家康の孫・千姫・・・以前書かせていただいたように、彼女は、秀頼と淀殿の命乞いのために、決死の脱出を試みるワケですが、残念ながら、その願いは叶えられませんでした(2月6日参照>>)

・・・と、このように、千姫は、わずか7歳の時に、親の勝手で決められた政略結婚にも関わらず、夫・秀頼の事、そして豊臣家の事を、かなり良いように思っていた事がうかがえます。

ままごとのような結婚ではありましたが、意外に仲睦まじかった二人・・・しかし、ご存知のように、秀頼と千姫の間には子供がありません。

ただし、秀頼は、側室との間に、8歳になる男児国松7歳になる女児二人の子供をもうけていました

そう、この千姫と前後して、この秀頼の子供たち二人も、燃え盛る大坂城から脱出していたのです。

どうやら家康は、秀頼に子供がいた事を知らなかったようで、落城後、数日経ってから、慌てて捜索の命令を出しています。

やがて5月21日、国松は伏見にかくまわれていたところを発見され、哀れ国松は京中引き回しの上、六条河原で斬首されてしまうのです。

・・・で、女の子のほうは・・・
実は、国松が発見されるより早く、5月12日に京極忠高によって発見されています。

忠高は、あの京極高次の息子・・・つまり、お母さんは、淀殿の妹・です。

戦国の世のならいではありますが、従兄弟の子供にあたる少女を見つけてしまった彼の心はいかばかりであったでしょうか・・・。

しかし、この少女を体をはって助けようという人が現れます。
そう、先ほどの千姫です。

秀頼と淀殿の命を救うという願いを託され、決死の脱出を計りながら、叶える事ができなかったその思い・・・彼女の心残りが、いっそう、そのような行動に駆り立てたのかも知れませんが、とにかく、千姫は、祖父・家康に訴えるのです。

「この子は、私が育てます。どうか命だけは・・・」と・・・。

自分が攻撃した城から、命からがら脱出してきたカワイイ孫娘が、涙ながらに訴える姿・・・もう、ジィチャンの男心を、100%くすぐりまくりです。

かくして、女の子は千姫の養女となり、彼女のもとでしばらくの間過ごすのです。

やがて、一年後、8歳になった彼女は、鎌倉松ヶ岡東慶寺に入る事なりました。

彼女が、尼になるにあたって、家康は・・・
「何か願いはないか?」
とたずねます。

すると、彼女は・・・
「東慶寺は、開山以来、女性の救済を掲げている寺だと聞きました。
できれば、その女性の救済がより強く、そして永遠に続くよう・・・私の願いは、それだけでございます。」

家康は、「承知した」と・・・

やがて、成長した彼女は、それまでは、ただ単に、困った女性が尼寺へ逃げ込むだけにしか過ぎず、何の権限もなかったシステムから、寺が女性に代わって離縁の調停を行い、夫が応じるまでの間、女性を寺で預かり、必ず解決するという、はっきりとした女性救済のための『縁切り寺法』の確立に尽力するのです。

縁切り寺=駆け込み寺です。

最初は、いくつかあった駆け込み寺も、何やかやと縮小され、結局、江戸時代を通じて、その権限が幕府から認められていたのは、全国に2ヶ所・・・この東慶寺と、上野(群馬県)満徳寺・・・。

それは、この二つの寺にだけ与えられた特権でした。

いつも、どんな時でも、彼女が出家した時に家康としたあの日の約束・・・「家康様のご意向である」というのが、東慶寺の寺法をゆるぎない物にしていたのです。

そして、彼女は、東慶寺中興(復興させた人)の大和尚と呼ばれるようになります。

東慶寺二十世・天秀尼が、その人です。

しかし、彼女は、その東慶寺の隆盛が確実に成ったであろう正保二年(1645年)、その役目を終えたかのように、まだ、37歳という若さでこの世を去ります。

尼僧ですから、もちろん、子供はいません。

ここに、豊臣家の血筋は、完全に絶えてしまうのです。

戦国という世に生まれ、自身の思いとはかけ離れたところで、自分の意志とは無関係の出来事に翻弄された女性たち・・・彼女は、そのような女性たちにも、救われる道を切り開く事に、その生涯を捧げたのでしょう。

ところで、東慶寺と同じく、江戸時代を通じて治外法権を守りきったもう一つのお寺・満徳寺・・・ここは、幼い天秀尼を体をはって守った千姫の入ったお寺です。

ここにも、彼女たち、二人の姫の間に、目に見えない糸がつながっている気がするのは、私だけでしょうか。
 

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2008年5月 7日 (水)

前田玄以~ただ一人生き残った運命の別れ道

 

慶長七年(1602年)5月7日、豊臣家五奉行の一人・前田玄以が64歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前田玄以(げんい)は、もともと織田信長信忠父子に仕えていた武将・・・あの本能寺の変(6月2日参照>>)の時も、信忠とともに、二条御所に滞在していましたが、本能寺での父の異変を聞いた信忠の命で、幼い三法師(信忠の嫡男)を連れて、寸前のところで二条御所を脱出し、京の町から清洲城までの道のり、その三法師を守り抜いた人です。

信長・信忠亡き後は、信長の次男・信雄の家臣となりますが、その信雄さんが例のごとく、羽柴(豊臣)秀吉の傘下に入っちゃったものですから(4月30日参照>>)、当然、彼も、秀吉の家臣となります

玄以さんは、根っからのマジメ人間で、ことのほか地道・・・自分の立身出世に対して野望をもくろみ、「スキあらば、のし上がってやろう」というようなところは、まったく無かった人であったらしく、信長も秀吉も、彼の事をことさら信頼していたようです。

秀吉が、その死のまぎわに、「秀頼を頼む・・・頼む・・・」と、くりかえし懇願した五大老五奉行・・・その五奉行の中に、名を連ねるのも、その信頼の証しと言える物です(8月18日参照>>)

その五奉行とは・・・
石田三成・前田玄以・浅野長政・増田(ました)長盛・長束正家の五人。

やがて、秀吉亡き後の慶長五年(1600年)、彼ら五奉行の運命の別れ道がやってきます。
そう・・・関ヶ原の合戦です。

上記の五奉行の中で、浅野長政は、秀吉の奥さん・ねねさんとは義兄弟という事で、系図的には最も豊臣家の近くにいるのですが、この少し前に起こった家康暗殺未遂事件に関与しているとの疑いがかけられたため、家督を息子・幸長に譲って隠居し、この関ヶ原の合戦の時には、ご本人は武蔵(埼玉県)に籠りっきりの生活を送っていました。

・・・で、結局、残る四人の中で、かの徳川家康へ向けての軍事行動の大義名分を掲げる書状が作成される事になるわけですが・・・

まずは、毛利輝元に西軍の総大将になってもらうための連署状・・・
これは、三成と大谷吉次との密議によっておおむね決定され、玄以・長盛・正家らの名が連なります。

次に、家康の豊臣に対する悪事を書き連ねたチクリ状である弾劾状・・・
これも、三成が草案を考え、玄以・長盛・正家らの署名がある物で、諸大名へと配られ、西軍への参戦の檄文の意味も込められていました。

つまり、この四人は、完全に同じ西軍のみこしの上に乗っていた状態となります。

ところが、この四人の中で、ただ一人、玄以だけが関ヶ原の合戦の後も、生き残るのです。
その違いは何なのでしょうか?

結局、関ヶ原の合戦当日、実際に武器を取り、関ヶ原まで出陣したのは、ご存知、石田三成と長束正家・・・残る二人・増田長盛と前田玄以は、豊臣秀頼の側近として、大坂城内に留まっていました

ご存知のように、合戦の勝敗は、その日のうちに決し、実際に合戦に参加していた三成は捕らえられ斬首(10月1日参照>>)

正家も、西軍壊滅の後に逃走し、居城にたどりつく前に追手に包囲され、その場で自刃してます。

上記の通り、彼ら二人は、実際に出陣していますから、負けた以上、その死は当然の事のように思いますが、後は、大坂城に残っていた二人です。

確かに、玄以は、スパイとして家康に大坂城内の様子を知らせていたと言われていますが、それなら正家も同じ・・・いえ、むしろ正家のほうが、重要な情報を逐一送っていて、その大胆不適なスパイ行為は、大坂城内の噂にもなっていたというのです。

実際に、正家の情報は、戦況を左右するような重要な機密であったと言われています。

それなのに、正家は、家康によって高野山へ追放され、まもなく自害させられています

一方の玄以のほうは、まったくの無傷・・・丹波(京都府・兵庫県)亀山五万石は、そっくりそのまま残りました。

実は、ただ一つ・・・大坂城内の正家と玄以に決定的な違いがありました。

それは、病気・・・。

玄以は、この合戦の直前に持病に中風が悪化していたのです。

それは、様子見ぃの仮病ではなく、本当に重症で、決戦の時には、まるで使い物にならないくらいの状況だったそうです。