2009年11月28日 (土)

関ヶ原後の上杉は?景勝の米沢入城

 

慶長六年(1601年)11月28日、米沢30万石に減封が決まった上杉景勝が米沢城に入りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前年=慶長五年(1600年)の9月15日、関ヶ原での天下分け目の決戦は、わずか一日で決着がついてしまいました(9月15日参照>>)

東北にて、西軍として長谷堂の戦いを展開していた上杉軍は、9月30日にようやくその結果=西軍の負けを知り、翌日の10月1日から、決死の撤退を開始(2009年10月1日参照>>)・・・多くの犠牲をはらいながらも、何とか帰還しました。

畿内では、同じ10月1日に石田三成小西行長安国寺恵瓊(えけい)ら主要人物の斬首刑が執行され(2006年10月1日参照>>)、一応の決着をみましたが、その後も戦いを続ける九州戦線(11月3日参照>>)同様、東北も余談を許さない状況でした。

特に徳川家康からいわゆる「100万石のお墨付き」を貰った伊達政宗は、このドサクサで旧領を回復しようと、家康の停戦命令を無視して、度々、上杉領に進攻してきていたのです(8月12日参照>>)

そんな中、味方の西軍が負けた事によって、もはや積極的な最上領への進攻は中止し、伊達対策のみに集中する上杉は、10月20日、諸将を若松城に召集し、今後の対策を話し合います。

諸将の中には、「同じ西軍の佐竹義宣(よしのぶ)とともに、江戸に攻め上って徳川を討つ」という積極策を主張する者もいましたが、景勝は、家康が持ちかけている和平への道を選択します。

もちろん、負け組となった上杉にとって、この和平は対等ではなく、おそらくは全面降伏となり、家康の出す条件をすべて呑まなければならない事はわかりきった事ですが、もはや、揺るぎない物となった家康の威勢の下では、一か八かの賭けより、何とか生き残る事を優先するしかありません。

翌・慶長六年(1601年)7月1日、家康の上洛要請に応じた景勝が、執政・直江兼続とともに若松城を出発・・・24日に伏見城に到着した後、8月16日に大坂城・西の丸にて、家康と会見しました。

ここで言渡された処置は、米沢30万石への減封・・・謙信時代の越後から会津に移ったとは言え、120万石を要していた上杉が一瞬にして、一地方大名へと格下げになったのです。

家康に恭順すると決めた時から、すでに覚悟も決めていた景勝は、ただ一言「驚くべきにあらず」と冷静だったと言われます。

かくして慶長六年(1601年)11月28日、景勝共々、上杉の皆々が米沢城に入ったのです。

これから後の景勝&兼続は、米沢30万石の藩政を安定させる事のみに、心血を注ぐ事になります。

特に兼続は、以前も書かせていただいたように、上記の家康との会見の際には、殿様である景勝より、供の侍の数が多かったと言われるほど、上杉内の実権を握っていたようなので、自らの過失によって減封となった事への尻拭いは、本人が責任を取らねばならない事であったはずです。

関ヶ原の合戦の前に、上杉が保持していた兵の数は3万余りだったと言われていますが、そのほとんどを解雇したものの、越後以来の家臣=6000名ほどは、ほぼそのまま召抱えたとされていて、当然の事ながら、それだと30万石ではやっていけないので、彼らの給料は削減・・・ほぼ3分の1にしての再出発です。

まずは、下級の家臣たちに城下町の外れのほうにある荒地を宅地として与え、そこで蕎麦や野菜などを栽培しながら、有事の時には兵士として参戦する・・・いわゆる半士半農の生活を送ってもらう事にします・・・彼らはこの後「原方衆(はらかたしゅう)と呼ばれます。

城下には新たな川を開削して水運を確保するとともに、縦横無尽に用水路を張り、大きな川には堤防を設けて叛乱を防ぎました。

また、街道沿いの町人町には有力商人を移転させ、全国の先進地から招いた優れた技術者を中心に染物屋は紺屋町、鍛冶屋は鍛冶屋町と同じ町に住まわせて商工業の発展にも力を入れました。

もちろん、大河ドラマでもあったように学問の向上にも力を注いでいます。

もともと、本の収集家であった兼続は、あの朝鮮出兵で大陸に渡った時も、合戦そっちのけで、兵火の中から多くの書籍を救い出して持ち帰った(戦時なのでドロボー?って事は考えない事にしときましょう)と言われ、それらの貴重な書物を「禅林文庫」と名付けて、新たに建立した禅林寺に整備して、米沢藩士の学問修行の場としました。

これは、後の安永五年(1776年)に設立された藩校・興譲館(こうじょうかん)に引き継がれ、現在も、書籍の一部は米沢図書館に、学校は現役の高校として生き続けています。

そして、先日書かせていただいた大坂の陣では、かの佐竹義宣とともに鴫野・今福の最前線で奮戦(11月26日参照>>)、家康のゴキゲン取りも怠りません。

ゴキゲン取りというと聞こえは悪いですが、現に、この時に家康の出陣要請に答えず、出兵しなかった仙北小野寺義道(よしみち)は改易となって津和野に流されていますから、もはや、生き残るためには、ゴマスリ気味のパフォーマンスも致しかたないところなのです。

おかげで、上杉は、敗者でありながら幕末まで生き残る事ができました。

途中、家督争いのゴタゴタで、30万石を、さらに15万石に減封されるも、上杉鷹山(ようざん)(3月12日参照>>)という改革者の婿殿も現れ、ついに末代まで武名を残せたのですから、まずは誇りを持ってしかり・・・といったところでしょうか。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!
今日もよろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月26日 (木)

激戦!大坂冬の陣~鴫野・今福の戦い

 

慶長十九年(1614年)11月26日、大坂冬の陣の中で、最大の激戦となった鴫野・今福の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご存知、大坂冬の陣・・・

あの関ヶ原の合戦(関ヶ原の合戦の年表・参照>>)に勝利して、もはや天下を手中にした徳川家康・・・合戦から5年後の慶長十年(1605年)には、将軍の座を三男の秀忠に譲り、征夷大将軍を代々継いでいくのが徳川家である事を天下に宣言した形となりましたが、ただ一つの目の上のタンコブは、あの豊臣が、未だ一大名として存続している事・・・

もともと豊臣秀吉の臣下として、もう一つの豊臣家内の勢力であった石田三成を潰すという内紛の形をとった関ヶ原ですから、その時には多くの豊臣恩顧の武将が家康の味方についてくれましたが、この先、成長した秀吉の遺児・秀頼を目の当たりにすれば、豊臣の家臣である彼らが、いつなんどき、秀頼を大将に掲げて徳川に対抗する勢力となってしまうか、わかったもんじゃありません。

そこで、なんとか豊臣家を潰したい家康は、京都に建築中だった方広寺の鐘に書かれた文字にイチャモンをつけ、豊臣に謝罪を要求します(7月21日参照>>)

豊臣側は、片桐且元(かつもと)駿府に派遣して、1ヶ月にわたる交渉をしますが、はなから戦いに持ち込みたい家康は、到底叶いそうにもない無理難題を押し付けて、案の定、交渉は決裂します(8月20日参照>>)

その結果を得て、関ヶ原で敗退して改易となった浪人を中心に兵を集め始める大坂方・・・

10月9日にはあの真田幸村(信繁)が九度山を脱出(10月9日参照>>)・・・他にも、京の都で物乞いするまで落ちぶれた後藤基次(5月6日参照>>)や、寺子屋の先生をして生計を立てていた長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか(5月15日参照>>)、さらに、薄田隼人(すすきだはやと)(9月20日参照>>)塙団右衛門(ばんだんえもん)といった猛者たちが、続々と大坂城へ・・・

一方の家康は、10月1日には江戸城の秀忠に出陣の準備をうながすと同時に、全国の諸大名に参戦するよう命令を下し、自らは、10月11日に500の手勢を従えて駿府城を出陣・・・秀忠も10月23日に江戸を発ち、一路京都へと向かいます。

かくして翌月の11月15日、二条城を出陣した家康は大和路を通り、伏見城を出陣した秀忠は河内路を通って、ともに大坂に到着・・・ここに大坂冬の陣が勃発したのです。

豊臣家宿老(しゅくろう・家老)大野治長(はるなが)の采配で、すでに籠城を決め込んだ大坂方・約10万を囲むように布陣した徳川軍・約20万・・・最初の衝突は、11月19日でした。

博労淵(ばくろうがふち)にて、徳川方の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)浅野長晟(ながあきら)池田忠雄(ただかつ)らが、大坂方の薄田隼人らの守る穢多崎(えたがさき)奇襲をかけて、見事、これを奪い取ったのです。

そしてその1週間後の慶長十九年(1614年)11月26日最も激戦となる鴫野・今福の戦いがあったわけです。

Oosakafuyunozinsiginoimafukuzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この日、先日の博労淵と同様に、築かれた柵の撃破と付け城(攻撃用の簡易な城)の構築を目的に、大和川を挟んだ北側の今福と、南側の鴫野(しぎの)に兵を布陣させた家康・・・

今福には佐竹義宣(よしのぶ)率いる1500、そして、この時、鴫野に最も多くの兵を動員していたのが、今年の大河の主役でもあった上杉です(大河ドラマではナレーションスルーでしたが・・・(;´▽`A``)

すでにご存知でしょうが、上杉家は、関ヶ原の時に西軍の立場で東北にて戦いを展開(9月16日:「長谷堂の戦い」参照>>)・・・つまり、あの関ヶ原で負け組となっていたわけで、それ以来の戦いとなった、この冬の陣では、上杉としては、何とか家康のイイところを見せて少しでも挽回しておきたいし、家康としても、上杉の忠誠心を確かめたい戦いであったわけです。

上杉景勝(かげかつ)は、5000の兵のうち800ほどを本陣の守りにつけ、残りの兵を4隊に分け、執政・直江兼続(かねつぐ)を総大将に、須田長義安井隆元水原親憲(ちかのり)を前線に向かわせます。

先陣を切る上杉の後詰には、堀尾忠晴丹羽長重榊原康勝と続きます。

彼らに応戦するのは、大坂方の井上頼次(よりつぐ)ら2000・・・っと、さすがに、これだけの多勢に無勢ではいかんともしがたく、またたく間に頼次は討死し、柵は突破されてしまいます。

そこで大野治長は、青木一重1万2000の援軍を、すぐさま大坂城内から派遣・・・今度は、上杉軍の最前線にいた須田隊が苦戦を強いられます。

しかし、これには、すかさず、安井隊が鉄砲で援護射撃し、さらに水原隊が槍で助太刀・・・この連携プレーが功を奏し、見事、大坂方の援軍を蹴散らして鴫野の占拠に成功しました。

この上杉の働きぶりに対して、家康の・・・
「ご苦労・・・堀尾隊と交代されたし」
との指示に、景勝は、
「命を賭けて奪った場所を、上意とは言え、他人に渡す事などできません!」
と、拒否し、上杉の意地を見せつけ、さらに大和川を渡って、佐竹軍の援護に向かうのです。

そう、実は、この時、今福の佐竹隊が、大坂方の後藤基次木村重成らに敗退し、援軍を要請してきていたのですが、それに答えて、大和川を渡った水原隊によって、基次は左腕に銃弾を受けてしまいます。

大将の負傷に、まもなく撤退する後藤隊でしたが、結果、最も激戦となった鴫野・今福の戦いは、鴫野では上杉が、今福では後藤と木村の武名が高まるという5分5分の引き分となったのです。

さらに、戦い終わった上杉の本陣に、家康が慰労にやって来る事となった時、兼続が大坂城に向かって威嚇射撃を行い牽制したところ、鴫野の占拠と言い、この牽制と言い・・・一連の行動に感激した家康が、景勝にねぎらいの言葉をかけると、景勝は、
「こんなの、子供のケンカみたいなもんでしたよ」
と、サラ~ッと答えた・・・なんて、ちょっと、かっこ良すぎるエピソードも残っています。

結局、数百人の死者を出す最も大きな戦いとなった鴫野・今福の戦いは、こうして終わりを告げましたが、この3日後の11月29日には、徳川方が大坂方の砦を奪取する野田・福島の戦い(11月29日参照>>)が、その5日後の12月4日には、逆に、大坂方が徳川方に大打撃を与える真田丸の攻防(12月4日参照>>)と、双方、一進一退を繰り返しながらも、大いなる最終章へと進んでいく事になります。

このお話の続きは、【真田幸村と大坂の陣の年表】でお楽しみ下さい>>
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!
よろしくお願いしますo(_ _)oペコッ

 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)

2009年10月18日 (日)

関ヶ原後わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩

 

慶長七年(1602年)10月18日、豊臣秀吉の甥で小早川隆景の養子となった小早川秀秋が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

通説では、この小早川秀秋の寝返りによって戦況が変わったとされる、あの関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)から、わずか2年後・・・若干21歳

それも一説には、勝敗を左右する重要な場面での裏切り行為で良心の呵責に耐えかねての狂死だという・・・

前途ある若者が・・・胸が痛みます。

そんな秀秋は、豊臣秀吉の奥さん・おねさんの兄・木下家定の五男として天正十年(1582年)に生まれます。

3歳で秀吉の養子となり、その4年後には、朝鮮出兵の陣中で病死した豊臣秀勝(秀吉の姉・ともの次男)の領地・丹波亀山10万石を与えられ、一時は秀吉の後継者とも考えられていました。

しかし、文禄二年(1593年)に秀吉の側室・淀殿秀頼を生み、その翌年、秀吉の命により、小早川隆の養子となって小早川家に入ります。

隆景亡き後は、その領地であった筑後・筑前(福岡県)など30万7000石を引き継ぎましたが、慶長の役(11月20日参照>>)で秀吉の怒りをかい、越前(福井県)北ノ庄15万石に転封されてしまいます。

秀吉の死後には、徳川家康とりなしで旧領にに復帰したと言われますが、まもなく、勃発したのが、かの関ヶ原の合戦・・・

その時の秀秋の行動は、以前、関ヶ原の前夜のお話として書かせていただいたように(2007年9月14日参照>>)、最初の伏見城への攻撃に参加したものの、それ以降は病気と称して参戦せず、一説には、この間に家康のワビを入れたという話もありつつも、一応、西軍として関ヶ原に向かいますが、合戦前夜に行われた大垣城での西軍の軍儀には参加せす、その夜の直接、関ヶ原の松尾山に陣取ります。

そして、秀秋のところには、東軍・西軍の両方から多大な恩賞と引き換えに味方につくようとのお誘いの誓紙を受け取り、両方に「味方になって参戦します!」の返事を送ります。

・・・で、ご存知のように、結果的には、翌日のお昼頃に東軍として参戦した事により、関ヶ原の戦況が一転し、西軍の敗北へとつながったとされています。

この時の揺れ動く態度から、ドラマや小説などでは、優柔不断な愚将として描かれる事が多く、先日の大河ドラマ「天地人」でも、上地くん演じる秀秋は、終始悩み続け、なにやら、ずっとアタフタしてた感があります。

今回の「天地人」では、合戦後も悩み続け、言われているような「狂死」という最期につながるような描き方でした。

ただ、私の印象は、少し違います。

確かに、関ヶ原に関しては、優柔不断だったかも知れませんが、世間で言われるほど愚将ではなかったと思っています。

その根拠の一番は、家定の息子の中で、彼だけが養子になっている所・・・あとは、皆、秀吉自身に血縁関係のある甥っ子ですので、秀秋の場合は、やはり、優秀な人材だと思ったのではないかと・・・。

ただ、当時の戦国武将としては、少し異質な感じのする人です。

その象徴となるのが、家康との接触・・・

家康は、さすがに最後に天下を取っただけあって、その知略・戦略・計画性などが、他の武将を圧倒する所がありますが、秀秋は、そんな戦国武将とはまったく違う、価値観、考え方を持った人だったような気がします。

なので、家康と深く関わるようになった慶長の役のあとくらいから、彼の人生の歯車が狂ってしまったのではないでしょうか。

もちろん、だからと言って、「家康が悪い」という意味ではなく、家康は、「当時の戦国武将なら、当然、こう考えるだろう」という意識で、秀秋に接触したわけで、秀秋自身が、そうではなかったために歯車がかみ合わなかったという意味です。

たとえば、今回の「天地人」でも、養子となって秀吉の後継者と目されていた秀秋が、秀頼が生まれた事で小早川に出され、落胆しているような描写がありました。

誰でもそう思います。

戦国武将となった以上、誰もが天下を夢見るだろうし、天下人の後継者となって、前途洋洋の未来が約束されていたのに、突然、そのレールから外されたら、誰だって、その事を怨みに思い、「豊臣なんてクソ喰らえ!」と思ってるだろうと・・・

人によっては、この秀吉の後継者から脱落したところで、秀秋の人生の歯車が狂ったと考える方もいらっしゃるようで、だからこそ、家康も、北ノ庄へ追いやられた秀秋を、旧領へと戻して恩を売り、「さぁ、不満ムンムンの豊臣を捨て、東軍へ来いよ!」と誘うわけです。

ただ、個人的には、当の秀秋は、それほどショックではなかったのではないか?と思います。

それは、秀秋は、今、頑張れる事をがんばる人であったように推測するからです。

先の先を見据えるばかりでなく、今現在、目の前にある出来事に一所懸命ぶつかる・・・戦国武将として、2手も3手も先を読む事が名将であるのなら、そう言った意味では、秀秋は愚将だったかも知れませんが、人としては、なかなかの頑張り屋さんとも受け取れます。

さして欲しくも無い天下のイスとはサヨナラして、新天地で心機一転・・・しかも、養子に行った先は、名将・小早川隆景です。

隆景に鍛えられた秀秋は、なかなかの武将に成長したに違いありません。

それが、あの慶長の役の出来事です。

結局、秀吉の怒りをかう事になるのは、この時の作戦での意見の食い違いにあったもので、立てられた作戦に従わず、彼は自ら先頭に立って戦った事が、逆鱗に触れたと言われています。

しかし、一方では蔚山(ウルサン)を包囲されて、風前の灯火だった加藤清正を救うという大きな成果をあげた事も記録されています。

少なくとも、この時点では、歯車が狂っているような印象は受けないのですが・・・。

やはり、この後の家康との急接近で、自分とは価値観の違う周囲の状況に、若き秀秋は悩み始めたのではないでしょうか?

目の前にある国政を精一杯がんばりたいのに、いつまでも、後継者から転落した事をとやかく言われ、関ヶ原で東軍に寝返った事に陰口を叩く・・・そのような周囲との差に、悩み続けたようにも思います。

・・・とは言え、実際のところ、その関ヶ原での寝返りに関しても、最初から東軍として参戦していたという人もいれば、最後の最後まで悩んでいたという人もいるのが現状で、その中の秀秋の心の内に至っては、もはや想像の域を出ないものではあります。

私自身、一貫性がないのが露見するようでお恥ずかしいですが、秀秋さんの印象は、ドラマを見るたび、本を読むたびに変わります。

今日のこのブログの内容も、次に秀秋さんの事を書くときは、まったく違った物になってる可能性も、なきにしもあらずですが、とりあえず、現時点で思うところを書かせていただきました。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)

2009年10月12日 (月)

戦国の水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃

 

慶長五年(1600年)10月12日、水軍を率いて活躍した九鬼嘉隆が、逃亡先の答志島にて自刃しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つい先日、織田信長鉄甲船の完成のお話(9月30日参照>>)にも登場した九鬼嘉隆(くきよしたか)・・・。

熊野大社の別当の末裔とも言われる九鬼一族は、伊勢志摩から熊野灘を活動拠点とする海賊でありましたが、嘉隆の兄・九鬼清隆の時代に、伊勢の国司・北畠氏の関与により、少し後退するも、兄の死後、嘉隆は、兄の息子・澄隆(すみたか)をサポートしつつ勢力挽回に励んでおりました。

やがて、澄隆の死を受けて、嘉隆が当主となった頃に、伊勢に進出してきた信長と出会いますが、その頃は、まだ、海賊あがり小勢力であった彼らを、信長は援助し、紀伊半島に出没していた海賊たちを配下におさめさせ、一大水軍へと成長させていくのです。

その後の長島一向一揆攻め(9月29日参照>>)で活躍して、信長に認められた嘉隆は、さらに、冒頭の鉄甲船を完成させ、2度目の大坂湾海戦で毛利水軍を撃破し、信長を大いに喜ばせました。

この功績で、志摩七島と摂津野田福島など3万5000石の大名となり、鳥羽城を築いて、その城主にもなりました。

しかし、嘉隆の勢いはここまで・・・天正十年(1852年)のあの信長の死とともに、その人生に陰りが見え始めます。

ケチのつき始めは、信長死後の織田家・家臣のトップ争いとなった、あの賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦(4月21日参照>>)でした。

そう、この戦いで嘉隆は、柴田勝家についたのです。

結果は、ご存知の通り・・・勝家は負け、妻・お市の方とともに自刃します(4月24日参照>>)

・・・とは言え、嘉隆自身も無事、所領の没収もありませんでした。

おそらく、羽柴(豊臣)秀吉にとって、九鬼水軍が、この先まだまだ必要だったからでしょう。

それを裏付けるかのように、嘉隆は、この後、小田原攻め海上警備をはじめ、大坂城築城のための巨大な石を海上輸送するなど、「これでもか!」というほど、秀吉の天下取りのお手伝いにまい進します。

あの朝鮮出兵(4月13日参照>>)では、数百隻の造船を担当し、中でも、自らが鬼宿と名付けた全長30m幅10mの大安宅船(おおあたけぶね)には、秀吉も大いに喜び、改めて日本丸と命名したと言います・・・て、気に入ってくれたんはウレシイが、改名は、ちょいとショ~ック(# ゚Д゚)━━!!やろね(口には出せんが・・・)

Ooatakebunecc 大安宅船(肥前名護屋城図屏風・名護屋城博物館蔵)

この船のおかげで、大将扱いで参戦した嘉隆は、その日本丸の指揮を任され、意気揚々と渡海しますが、初戦こそ優位に展開したものの、やがて変化した戦況の中、多くの船が海のもくずと消えました。

帰国した嘉隆は、秀吉が2度目の朝鮮出兵を実行する慶長二年(1597年)に、家督を長男の守隆に譲って隠居します。

やがて、秀吉の死とともに朝鮮出兵は終わりを告げ、またたく間に関ヶ原へ・・・と国内の雲行きが怪しくなってきます。

息子・守隆が、徳川家康とともに会津征伐(4月1日参照>>)へと向かう中、嘉隆のもとには、石田三成からの西軍へのお誘いがかかります。

「もう、そんな歳やないし・・・」
と断る嘉隆に、再三の出陣要請・・・

とうとう、嘉隆は、息子が留守にしている鳥羽城を奪います。

これを知った守隆は、慌てて使者を送って父を責めますが、怒った嘉隆は、この使者を追い返し・・・とありますが、どうやら、これは、例の関ヶ原での親兄弟・東西別れ作戦ではないかと・・・

なんせ嘉隆は、鳥羽城を奪っておきながら、そこには布陣せず、田代城に布陣。

軍を率いて戻ってきた守隆も、鳥羽まで来ておきながら安来(あのう)に布陣・・・嘉隆は、矢は空に向かって放ち、鉄砲は空砲だったとか・・・大事な本拠地である鳥羽城は、無傷でおいておきたかったのでしょうね。

そんなこんなをやってるうちに、父子には、ラッキーな事に、関ヶ原がわずか一日で決着がついてしまいます。

嘉隆は、速やかに鳥羽城を放棄し、答志島(とうしじま)へ逃亡・・・この間に、守隆は、家康に父の助命を嘆願します。

何とか、家康の承諾を得た守隆は、喜び勇んで、すぐに、父のもとに使者を走らせます。

しかし、その使者が、まもなく島に到着するであろう慶長五年(1600年)10月12日・・・嘉隆は、自ら死を選びました。

享年59歳・・・父子、どちらかが生き残る事に賭けた嘉隆の関ヶ原・・・息子が生き残る事が決定した父にとって、もはや、思い残す事はなかったのかも知れません。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)

2009年10月 1日 (木)

自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退

 

慶長五年(1600年)10月1日、上杉の執政・直江兼続が、長谷堂からの撤退を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

会津征伐(4月14日参照>>)のため北へと進行中、留守にした伏見城を、石田三成が攻撃した事を知った徳川家康は、突如、会津征伐を中止し、上方へとUターン・・・。

一方、家康の侵攻がなくなった事を知った会津の上杉景勝は、その矛先を、隣国・最上へと向け、上杉・執政の直江兼続(なおえかねつぐ)が、約2万の軍勢を率いて最上義光(もがみよしあき)配下の支城を次々と陥落させ(9月9日参照>>)、残る支城・長谷堂城へと迫った9月15日・・・西では、ご存知、関ヶ原での合戦が行われますが、ここ、東北では、長谷堂城の戦いが開始されたのです。

迎え撃つ最上勢が、わずか1300にも関わらず、城将・志村光安(あきやす)の地の利を生かしたゲリラ的作戦に苦戦する兼続・・・やがて、本拠地・山形城からの援軍や、救援要請を受けた伊達政宗の派遣軍も到着し、更なる苦戦を強いられる中の9月30日、兼続のもとに、関ヶ原の合戦の勝敗の知らせが届きます(9月16日参照>>)

・・・前回は、ここまで書かせていただきました。

大河ドラマ・天地人では、宮本信子さんのナレーションの後ろで、ガャチャガチャやってる間に終ってしまった長谷堂からの撤退ですが、妻夫木君のボー然とした表情で、「何となく激しかったんだろうな」って事だけは伝わってきました。

合戦は侵攻するより撤退するほうが、はるかに命がけですから・・・

・・・で、その9月30日に、遠く関ヶ原で家康が勝利した事を知った兼続・・・最上も伊達も家康の東軍に組していますから、もはや、この戦いは意味のない物になってしまいました。

たとえ、ここで勝利して領地を拡大したとしても、その後の家康の采配一つで、どうにでもなってしまいますからね。

「この先、どうなるんだ?」
と、動揺する兵士たちに、
「先の事は考えず、とにかく、今は米沢に帰る事だけを考えよう」
と、兼続は自らが殿(しんがり)の指揮を取る事にします。

殿とは、隊列の最後・・・撤退では最も危険な位置です。

しかも、ただでさえ難しい撤退を、今回は山間の険しい場所で2万という大軍を移動させなければならないわけですから、さらに困難です。

北は敵地ですから、当然、撤退するのは南・・・兼続は、まず3000という兵に命じて、帰路となる狐街道の道幅を広げて整備させた後、慶長五年(1600年)10月1日未明、本陣を置いていた菅沢(すげさわ)に火を放って撤退を開始します。

*先日の「長谷堂城・総攻撃」の時にupした布陣図に方向を加えた物ですが、この図の通り、下(南)に向かっての撤退です↓
Hasedoufuzinzu2cc ↑クリックしていただくと大きいサイズで9月16日の布陣図が開きますので参考にしてください
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この時の最上は、すでに義光自身が現地に到着し、自ら陣頭指揮を取って、早速、上杉軍の追撃を開始します。

しかし、これは兼続の作戦・・・実は、道を造ると同時に死角も造り、最上勢が追撃してくるであろう両側に鉄砲を持った伏兵(ふくへい・隠れた兵)をしこんでいたのです。

そうとは知らず、怒涛のごとく追撃する最上勢に、真横から一斉射撃・・・ひるんだところを後続部隊が立ち戻って攻撃します。

ころあいを見計らって、再び撤退を始め、追いすがる敵に、また、一斉射撃!

最後尾の水原親憲(ちかのり)溝口勝路(かつみち)が、巧みにこれを繰り返し、最上勢をかく乱させます。

しかし、全体で2万の大軍と言えど、撤退の最後尾はほんのわずか、この場合は、追撃する最上のほうが、圧倒的に数が勝ってますから、しだいに混戦状態となり、隊列は崩れて、両軍入り乱れての戦いに転じていきます。

兼続としては、とにかく手早く引き揚げたい!・・・しかし、敵を目の前に血気はやる兵士たちは、もはや言う事を聞かず、作戦も連携もあったものかと、個々の戦いにのめり込み、無用な戦闘を続けます。

このグチャグチャモードに
「もはや、これまで!」
と、感じた兼続・・・
「敵に殺されるくらいなら、切腹して果ててやる!」
と、自刃を決意します。

そこに、登場したのが、かの前田慶次郎・・・(6月4日参照>>)

「一軍を率いる大将が、死に急いでどうするんじゃ!」
と、兼続を一喝!

「ここは俺らに任せろ!」
と、同じく浪人崩れの宇佐美民部(うさみみんぶ)とともに殿に加わり、前田家伝来の朱柄の槍を手に、敵陣へと殴り込んで、一気に8人を仕留めます。

この慶次郎の行動に、ハタと我に返った上杉勢は、士気を奮い立たせて次々と敵の猛者を倒しつつも、再び撤退劇に集中・・・そこへ、親憲の鉄砲隊が火を吹き、上杉軍は、最大のピンチを脱します。

なおも追撃する敵をかわしながら、なんとか畑谷(はたや)に到着したのは、翌・2日の事でした。

しかし、ここは、まだ、先日最上へ侵攻した時に落としたばかりの敵の城・・・わずかに置いていた守りの兵を収容し、翌・3日には荒砥(あらと)を経て、さらに翌日の10月4日・・・やっと米沢城にたどりつきました(各城の位置関係は、9月9日にupした関係図でご覧ください 別窓で開きます>>

ただ、さすがに、大急ぎの撤退劇・・・最上に侵攻した時に、別働隊として庄内から入った志駄義秀(しだよしひで)下吉忠(しもよしただ)に、この撤退を知らせる事ができていなかったのです。

それでも、義秀は、何とか自力でこのニュースを知り、速やかに本拠の酒田城へと引き揚げましたが、一方の吉忠は、駐留していた谷地(やち)を敵に囲まれて初めて現状を知り、やむなく義光の勧告に従って降伏しました。

この時の死者の数は、最上の言い分と上杉の言い分で少し差がありますが、いずれにしても、撤退した上杉のほうが数が上なのは確か・・・

それでも、撤退戦の場合は、殿が全滅せずに帰還した事だけでも成功と言えるもの・・・関ヶ原での島津がそうであるように(9月16日参照>>)撤退戦で無事本隊が帰還し、被害を最小限に食い止めた功績は、兼続の武名を高めるものとなりました。

かの義光も、兜に銃弾を受け、危機一髪だった事を振り返りながら
「直江くんは、怖がりもせずに心静かに陣を退き、撤退時にも慌てる事なく、むしろ俺らの兵を数多く討ち取って帰還した。
上杉には、謙信公の武勇が、まだ残ってるんやね」
と、敵ながらあっぱれの言葉を残しています。

ところで、冒頭に書いた通り、大河の兼続は、帰還した時、ただただボー然としていましたが、実際の兼続には、ボー然としている余裕はありませんでした。

今後の上杉の行く末は、もはや、家康の手のひらにあるようなもの・・・何とかしなくては!

なんせ、この上杉を揺るがす事態の全責任は、兼続にあるのですから・・・

大河では、今もなお、殿=景勝さんを立てていますが、実際には、この時の上杉の実権を握っていたのは兼続で、ほとんど独裁政治のような体制であったと言われています。

それは、この後、今回の処分の一件で、景勝とともに上洛する際の記録では、「供の侍の数が、景勝より兼続のほうが多かった」とされているからです。

主君より多い供侍・・・このありえない状況に、「この時の兼続は、すでに上杉家を乗っ取っていたのでは?」と考える専門家もいらっしゃるようですが、さすがに、そればオーバーとしても、数が多かった事が事実だとすると、やはり、独裁体制に近いものである事は間違いないわけで、そうなると、西軍に組して最上に侵攻した事のすべてが兼続の意志だった事になり、それが、失敗に終った以上、当然、その全責任は取らねばならないのです。

さぁ、武将・直江兼続が、政治家・直江兼続として、その腕を発揮するときがやってきます・・・勝手ながら、個人的には、この長谷堂の撤退を境に、兼続は武将から政治家に変わると思っていますので・・・

ところで・・・
ここまで、「わざとですよね?」と聞きなおしたいくらい、武将としての兼続をナレーションでスルーし続けた大河スタッフ・・・

おそらく、スタッフさんが描きたかったのは、これから先の政治家・兼続ではないのかは?と思いますので、今後の大河ドラマの展開に大いに期待したいところですね。

その政治家・兼続さんのお話は、11月28日:上杉景勝の米沢入城へどうぞ>>
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月28日 (月)

関ヶ原敗戦での毛利の転落と先の読めない天地人2

 

慶長六年(1601年)9月28日、毛利輝元長男・秀就を、江戸へ人質として差し出しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この時、わずか7歳だった秀就(ひでなり)は、その後の10年間を江戸で過ごし、慶長十六年(1611年)に弟・就隆(なりたか)と交代する形で、やっと、本拠地の周防(山口県)に戻ります。

この人質・・・慶長六年(1601年)という年数を見ておわかりの通り、あの関ヶ原の合戦での敗戦後、徳川家への服従の意味が込められた江戸入りなわけですが、ちょうど、昨日の大河ドラマ・天地人で、関ヶ原の敗戦後の毛利家の処分についてやってましたが、ドラマでは中尾さんが血走った目をむいただけで終ってしまったので、本日は、「合戦前にはどのような密約が交わされていたのか?」「その密約を、どんな形で家康が破ったのか?」を、お話させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

このブログでも何度か書かせていただいているように、この関ヶ原合戦では、毛利輝元西軍の総大将という立場で、一方、東軍との密約を交わしていたのは吉川広家です(7月15日参照>>)

彼らは、ともに、あの毛利元就(もとなり)の孫・・・輝元は、元就の長男・隆元の息子で、広家は元就の次男・吉川元春の息子です。

もともと輝元という人は、豊臣秀吉が存命中の頃から、徳川家康とは親密にしていて、秀吉亡き後に、なんとなくきな臭い空気がくすぶり始めた頃などは、わざわざ「今後、何があっても、お互い裏表なく、兄弟のようにやっていこうや」てな誓紙を交わしたりなんかしてました。

一方の広家は、とにかく安国寺恵瓊(あんこくじえけい)がキライ・・・まぁ、この恵瓊という人は、秀吉の天下取りの第一歩となった中国大返しの時に、毛利側の交渉人でありながら、途中から秀吉べったりになった人(9月23日参照>>)ですから、広家にとって気に喰わないのは当然と言えば当然だったわけです。

その恵瓊が、はなから石田三成ベッタリだった事もあって、広家の心の内は早いうちから東軍に味方するつもりでいましたが、事もあろうにその恵瓊に乗せられて輝元が西軍の総大将になっちゃったものだから、広家ビックリです。

合戦前から怪しい動きをする恵瓊を警戒した広家は、やはり同じく輝元の大坂城入城に反対姿勢をとる毛利家臣の益田元祥(もとよし)熊谷元直らとともに、輝元の入城前から、家康の近侍の榊原康政(さかきばらやすまさ)宛てに「恵瓊と輝元とはかかわりはない」旨の手紙を送ったりなんかしてましたが、もはや、入城しちゃった以上、更なる対処が必要です。

そこで、家康の信頼も厚く、また豊臣恩顧で、しかも広家も親交している黒田長政に間に入ってもらい、家康に「輝元は三成側について徳川に敵対しようとしているわけではおませんねん」と、なんだかんだと書き綴った弁明の手紙を出します。

・・・で、その返答は・・・
「君の言うてる事はようくわかったで。輝元とは前から、兄弟のように仲良うしょーなって約束してたのに、おかしいなぁって思ててん・・・君の説明で理解したわ」
と、なかなか好感触。

そして、それに添えられていた長政の手紙には・・・
「家康さんも、アレは恵瓊が勝手にやってる事で、輝元の真意やなって事わかってはるみたいや。
こうなったら、輝元にも、よ~言うてきかして家康はんベッタリになる事や。
まぁ、そのダンドリはワシがやったるけど、勝敗が決まってからではどうもならんさかいに、開戦までにやる事やっとかんとアカンやろな。
くわしくは、この手紙を持っていった使者に言うとくさかいに、よぉ、話聞いたって」

・・・で、その使者がたずさえていた条件というのが、毛利の不戦・・・その日から、約1ヶ月間、徳川との裏工作に奔走する広家でしたが、そんな彼のところに、徳川方の起請文が届いたのは、なんと、関ヶ原の前日=慶長五年(1600年)9月14日でした。

そこには、合戦に参加しなければ、戦後の毛利の処遇は、すべて従来通りで、領国も安堵する事が書かれていたのです。

しかし、広家は、一抹の不安を覚えます。

なぜなら、その起請文の署名は、本多忠勝と井伊直政の連署・・・家康の名前がありません。

できれば、家康の名の入ったお墨付きが欲しかった・・・とは言え、徳川の重臣ふたりの、それも血判の入った起請文に納得した広家は、翌日の関ヶ原当日、ご存知のように、布陣した南宮山からビクとも動かず、合戦には不参加の姿勢をとりました(9月15日参照>>)

この時、広家の後方に陣取り、大坂城に留まった輝元の名代として毛利軍を率いていたのは、輝元の従兄弟で養子の毛利秀元(11月7日参照>>)・・・どうやら、彼には、徳川との密約は知らされていなかったようです。

大将とは言え、秀元は、まだ若干22歳・・・合戦の主導権は、12歳年上の広家が握っていたらしく、密約の相談には一切関わっていなかったのだとか・・・。

また、大坂城の輝元にも知らされていなかったようです。

さすがに、こんな重要事項なのだから輝元に言わないわけはないだろうという見かたもありますが、上記の通り、正式な起請文を受け取ったのが、合戦の前日なのだとしたら、それを知らせる余裕がなかった可能性が高く、この時、密約を承知していたのは、広家と老臣の福原広俊だけだったとされています。

かくして、関ヶ原での西軍は総崩れとなり、夕方にはやむなく撤退する毛利軍・・・広家と広俊は、その日のうちに家康のもとへ戦勝を祝う使者を送り、秀元には、服従の証として人質を差し出すように勧めますが、秀元は納得せず、大坂城へと向かい、輝元に、「ここ大坂城にて家康と再度戦おう」と持ちかけます。

しかし、輝元は、もう、戦う気はゼロ・・・頭を丸めて家康に服従する意志を固めていたのです。

実は、合戦のわずか2日後の17日付けで、輝元には、長政からの「吉川君から、不戦を条件に毛利の安泰をお願いすると言われてた事は、家康さんも充分ご存知やから、今回の輝元には何の処分もないさかいに、今後は、忠節に励んでね」という手紙が届いていたのです。

輝元も大いに喜んで、即刻「ありがとう、手紙見て安心したわ」と返事を送り、22日には「大坂城の西の丸、明け渡しまっせ」の誓紙も送っていたのです。

これには、相手の長政も、輝元宛てに、「毛利の安全を保証する」内容の正式な起請文を、25日付けで届けています。

しかし、「安心した」と書いて送った輝元も、心の底では、未だ安心してはいませんでした。

そう、「安全を保証する」と言ってるのは長政であって、徳川の誰でもないのですから・・・。

長政の起請文と同じ25日・・・輝元は西の丸の明け渡しの起請文を書くのと同時に、広家に、井伊直政からの直接の安全保障を取り付けるよう努力するように言い渡しています。

しかし、広家が、そんな努力をする時間はありませんでした。

家康は、輝元の西の丸明け渡しの起請文を見るなり、即座に明け渡しを要求・・・2日後の27日には、輝元が去った西の丸に入ってしまいました。

そして、10月に入ってまもなく、広家は、長政からのとんでもない書状を受け取る事になります。

そこには・・・

  • 輝元は三成に味方して西の丸に入って采配を揮ってた事が、後々になってわかってきた・・・困るなぁ、毛利の領地は没収されるやろなぁ。
  • 君の働きは、皆、よう知ってるで、中国地方のうち、1ヶ所か2ヶ所を君に与えるべく井伊さんが家康さんに働きかけてるさかい安心しぃ。
  • せやよって、井伊さんから呼ばれたら3~4人の供を連れて会いに行きや、武装なんかしたらあかんで~

「え゙ぇ~(〃゚д゚;A A゚Å゚;)ゝ ゚+:.」

そうです。
輝元が大坂城の西の丸にいて、一応、西軍の味方として動いていた事は、アチラさんも百も承知のはず・・・それを、知らなかった事にして・・・新たに発覚した事にして、以前からの約束をなかった事にしようとしているのです。

さすがに、広家も呆然・・・しかし、落ち込んでる暇はありません。

広家は、長政に・・・福島正則に・・・何とか、毛利の家名を残してくれるよう涙涙の手紙を書き綴ります。

もう、こうなったら、情に訴えるしかありません。

「意外な処置に混乱してます。
僕への事はうれしいですけど、何とか毛利の家名を残してくださるようお願いします。
自分だけ領地をもろて、収まるわけがありません。
輝元は、今後も、家康さんに刃向かう事なく、忠節を尽くします。
いや、もし、万が一の時は、僕が輝元の首を取って差し出しますさかいに・・・」

長政も正則も、もとは豊臣恩顧・・・さすがに、この涙の手紙は心を動かしたようで、10月10日、毛利に対して誓紙が送られます。

そこには、周防・長門の2国を安堵する事、輝元・父子の身の安全を保証する事が書かれてありました。

敗戦の翌日から、輝元&広家が待ちに待っていた、正真正銘の家康の名の入った誓紙でした。

こうして、112万石から36万9千石・・・3分の一以下という、とんでもない減封となってしまいましたが、何とか家名だけは存続した毛利家でした。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

それにしても、今回の天地人・・・ホント、先が読めません。

上杉家が主役ですから、さすがに毛利の戦後処置はナレーションで仕方ないとしても、まさか、長谷堂の撤退がほぼナレーションでスルーされるとは思ってもみませんでした。

そりゃ、前田慶次郎が登場しないわけです・・・あんなに早くちゃ出る間ありません。
(ひょっとしたら、兼続の周辺にいた誰かが慶次郎という設定なのかも・・・)

個人的には、武将としての直江兼続の一番カッコイイところだと思うんですが、どうやら、今回の作り手の皆様は、合戦で武功を挙げる事が、カッコイイ事とは思っていらっしゃらないようです。

なんだか、45分間のうちのほとんどを三成の思い出話で終ったみたいな回でしたね。
まぁ、題名は三成の遺言なので、題名どおりですが・・・

しかも、豊臣恩顧でありながら東軍に降った福島正則と小早川秀秋が、エライ反省の弁をのべ、兼続は亡き三成に「お前の思いは受け継ぐ」みたいな事誓ってましたが・・・

歴史上では、この先、上杉は家康に服従し、あの大坂冬の陣鴫野(しぎの)今福の合戦(11月26日参照>>)では先頭に立って大活躍し、その武功を褒めた家康に「あんなの子供のケンカみたいなもんでしたよ」と言ってみせた有名な逸話がありますが、これだけ「三成=正義」「豊臣=大事」を強調してしまって、そこんとこは、どのように処理するのでしょう?

これは、批判ではなく、逆に、見ものという意味です。
この先、どのように展開させるのか、とても楽しみにしています。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←「おもしろかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします(゚ー゚)あなたの応援で元気100倍!

 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)

2009年9月21日 (月)

築城の匠~家康専属大工・中井正清

 

慶長十九年(1614年)9月21日、大工頭・中井正清が、徳川家康に、宇治川開削計画を上申しました。

・・・て事で、本日はブログ初登場の中井正清さんをご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このブログに興味を持って、覗きに来てくださるかたなら、おそらくは奈良法隆寺に行かれたかたも多いと思います。

大仏さんと並んで、奈良観光の定番ですからね。

Houryuuzitizunisisatocc_3 ただ、その場合、大抵は、南大門から入って、金堂五重塔がある西院を見て、次に夢殿のある東院へ・・・という感じで拝観される事が多いでしょうね。

すべての拝観が終っても、あとは、再び南大門から出てJR法隆寺駅へ向かうか、あるいは、西院と東院の間の道を北へ行き、法輪寺法起寺へ・・・というパターンだと思います。

地元の人か、あるいは、よほど藤ノ木古墳に興味のあるかたくらいしか、西大門からはお出になりませんが、実は、この法隆寺の西大門を出てすぐの所から、しっくいで塗り固められた低い築地塀が続く趣のある町並みが現れます

Houryuzisaimoncc
門の向こうに、すでに町並みが見えています

落ち着きのある独特の雰囲気は、まるでタイムスリップしたように、なにやら、ゆっくりと時間が流れている空間のようにも思えます。

Dscn2543a800 ここは、西里(にしさと)と呼ばれる地区で、その昔、法隆寺を建て、そして、その美しさを維持していく工集団が先祖代々に渡って本拠地とした場所だったのです。

中井正清(まさきよ)は、永禄八年(1565年)、この西里で生まれます。

父・正吉(まさよし)は、法隆寺の修理・新築工事を一手に引き受ける大工でした。

正吉が活躍した頃は、ちょうど戦国後半に突入した頃・・・織田信長の後を引き継いだ豊臣秀吉が天下を取り、それまでの争乱で荒廃しきった社寺の修復・再建が急ピッチで行われ始めた頃で、京都や奈良、堺の大工職人たちが大活躍していたのです。

そんな彼らの指導者的な役割を果たしていたのが、中井家でした。

この頃の中井家は豊臣家の大工頭であり、大坂城や京都・方広寺の大仏殿の建設も手掛けていましたから、むしろ豊臣専属・・・他の大名が、中井家に仕事を頼む事など不可能ば状況だったのです。

しかし、やがて、訪れた政権交代・・・秀吉亡き後、その実権を握り始めた徳川家康は、若き後継者・正清を召抱えます

徳川の威信を天皇に見せたい二条城の建設(5月1日参照>>)、征夷大将軍の宣旨を受ける晴れの舞台となった伏見城のリフォーム・・・正清は次々と大事業を手掛けていきます。

正清の腕前とともに、天下人のお抱え大工頭を配下に収めた事を、家康は大いに喜んでいたようで、それまでの徳川家の大工たちも存続させてはいるものの、序列としては中井家をトップに据えています。

正清も、期待に答えるように、その腕をふるいます。

慶長十年(1606年)の法隆寺の大修理の際は、その棟札(むなふだ・建築の記念として建物内部に取り付ける札)には、「番匠大工一朝惣棟梁橘朝臣(たちばなあそん)中井正清」と記して掲げました。

もはや、揺るぎない日本一の大工です。

あの大坂夏の陣では、城攻め用の大はしごなどの道具も製作・・・しかし、この事が怒りをかったのか、そのすぐ後に、正清の生家が豊臣配下の者に焼かれ、その時に、西里の多くの家屋も焼けてしまったと言われています。

ちなみに、正清自身が、それをきっかけに京都へと移り住んだ事で、西里に残った大工も、移転するか転職するかとなり、現在の西里は大工さんの町ではありません。

さらに、家康は、建築だけでなく、土木工事のいっさいも、すべて正清を通すようにと家臣たちに命令し、全信頼をおく事となります。

慶長十九年(1614年)9月21日宇治川開削計画を上申・・・まさにこの頃ですね。

やがて、家康が亡くなってから最初に埋葬された久能山の社殿も、さらに翌年に改葬された(4月10日参照>>)あの日光東照宮も正清が手掛けたのです(現在の建物は後世のものです)

ただ、その家康の後を追うように、3年後の元和五年(1619年)、正清もこの世を去ります。

中井家は、息子・正侶まさとも)に引き継がれ、さらに、その息子・孫へと受け継がれていき、その後も、京都御所下鴨神社上賀茂神社などの大修理を代々に渡って手掛けていく事になります。

思えば、豊臣時代の大坂城を手掛けたのは父・正吉・・・大坂夏の陣で、その城を攻める道具を作ったのは息子・正清・・・。

その時の正清には、父が手塩にかけた豪華絢爛な城が、自らの加勢によって燃えゆく事への迷いはなかったのでしょうか?

正吉の父・正範(まさのり)は、三輪神社(大神神社)の神官をつとめた巨勢(こせ)一族の人で、合戦に赴き戦死し、幼かった正吉は、母方の縁者である中井家にひきとられたと言います。

その息子である正清も、おそらくは、自らの作品に命をかける職人であると同時に、戦国のサムライでもあったのでしょう。

城は戦うために建てるもの・・・戦いに殉じる事こそ、本望なのだと・・・
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月16日 (水)

直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い

 

慶長五年(1600年)9月16日、最上領に侵攻した上杉家の執政・直江兼続が、長谷堂城に総攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「上杉に謀反アリ」のイチャモンをつけて、「会津征伐」と称して上杉にケンカを売っておきながら、畿内での石田三成の挙兵によって、サラリとUターンしちゃった徳川家康さん・・・

「背を向けた相手を攻撃するのは、義に反する」と、追撃を許可しなかった主君・上杉景勝(かげかつ)に従い、泣く泣く、家康との一戦を諦めた直江兼続(かねつぐ)は、そのウップンを晴らすかのように、隣国・最上義光(もがみよしあき)の領地へと侵攻します。

先日の大河ドラマでは「最上が攻めて来た!」と、あたかも、上杉が被害者のようになってましたが、この最上領は、もともと上杉が手に入れたい場所・・・

豊臣秀吉の置き土産となった越後から会津へのお引越しで与えられた領地は、真ん中で分断された形になっていて何かと不便でしたが、この最上の土地が手に入れば、その悩みも解決しますし、万が一、関ヶ原で家康が大勝して、その勢いで再び「会津征伐」を再開したとしても、後方の宿敵=最上がいなければ、挟み撃ちされる心配もありません。

なんせ、この時は、まだ誰も、あの天下分け目の戦いが、わずか一日で決着するとは思ってもいませんでしたから、兼続には、充分な時間があるはずでした。

そんなこんなで、慶長五年(1600年)9月9日に、居城・米沢城を出陣した兼続は、最上配下の支城を次々と落とし、長谷堂城へと迫ります・・・と、先日はここまでお話させていただきました(9月9日参照>>)

長谷堂城は、山形城の南西7kmに位置する小高い丘のうえにあり、その丘が天然の要害となっている最上の支城の中でも、最も堅固な城でした。

9月15日・・・西では、関ヶ原の合戦があったその日に、長谷堂城へ到着した兼続は、城から1,2km離れた菅沢山に本陣を構えました・・・その数、約1万8000!

迎え撃つ長谷堂城には、城将の志村光安(あきやす)以下、わずか1000名!

Hasedoufuzinzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ここが落とされたなら、もはや山形城は風前の灯火・・・とばかりに、義光は、息子・義康(よしやす)北目城に派遣して、あの伊達政宗に救援を要請します。

これまで、東北の覇権を巡って、過去には、散々争ってきた最上と伊達ですが、なんだかんだで、政宗の母は、義光の妹・・・しかも、最上が倒れた後には、上杉は伊達の領地へと侵攻するに違いありませんし、家康の手前も、ここは最上を助けたほうが、政宗にとってもよろしい・・・

しかし、先日の家康のUターンで、後ろ盾を失った政宗は、落としたばかりの白石城を上杉に返還し、和睦を結んだばかりです。

そこで、政宗は自らは動かず、叔父・留守政景(るすまさかげ)3000の兵をつけて山形に派遣しました。

かくして慶長五年(1600年)9月16日長谷堂城への総攻撃を開始する兼続・・・しかし、城門はピッタリと閉ざされ、徹底抗戦の構えの光安は、上杉勢を容易に近づけさせません。

その日の夜の事・・・今度は、最上勢が夜襲をかけます。

この時、菅沢山の上に陣を敷いていた兼続の主力部隊でしたが、春日元忠だけは、その麓に陣を構えていたのです。

少ない兵なれど、地の利がある光安は、そこを狙います。

ふいを突かれた元忠はあわてて山の上の本陣に敗走・・・

その後も、兼続は連日の攻撃を仕掛け、外堀のあたりまでは侵攻するのですが、そこまで来ると山上からの鉄砲の集中放火を浴び、苦戦に次ぐ苦戦を強いられてしまいます。

この結果にいらだつ兼続は、将兵に、周辺の田んぼの苅田を命じて、最上勢を挑発します。

ちなみに、この苅田・・・なんだか、米泥棒のようでセコイ気がしますが、「刈り働き」と呼ばれる、れっきとした作戦の一つです。

収穫間際の刈り働きは、相手の兵糧をピンチにさせるだけでなく、略奪した稲は、自分とこの兵糧となって一石二鳥・・・(って結局泥棒かい!)

また、季節によっては、稲や麦が、まだ、実っていない段階で襲う事にもなりますが、この場合は、自分ところは、ともかく、相手の兵糧は減らせるわけですから、それでも充分効果アリ、これを「青田刈り」と呼びます。
(出世しそうな新人兵士を、他人より先にスカウトする事じゃないですww)

もちろん、「そうはさせるか!」と、敵がおびき出されてくれれば、襲う側としては思う壷・・・そこで、ガツンとやっちゃえるわけです。

ところが、どっこい、今回ばかりは、そんな兼続の上をいく武将が最上におりました。

山形城から、救援に駆けつけたばかりの鮭延秀綱(さけのべひでつな)でした。

まずは、わずか100ほどの人数で、おびき出されたふりをして、苅田を阻止するために城外へ撃って出ます。

「そら、来た!」とばかりに、上杉勢が襲ってきたら、すぐに兵を退いて、大手門あたりへ誘い込む・・・そこには、約300挺の鉄砲隊を潜ませておいて、追ってきた上杉勢に一斉に銃弾を浴びせかけます。

この作戦で、30余名の上杉勢が命を落しますが、最上勢は1兵の損失もなく無事にに帰還・・・お見事でした。

その後も、連日の攻撃に、最上勢は、ある程度打撃を受けるものの、どれも戦況を左右する戦いには至らず、そうこうしている中、24日(29日とも)には、周囲を偵察していた一隊が、敵に遭遇して、そのまま合戦になだれ込みました。

この一隊には、あの前田慶次郎や、新影流の始祖・上泉信綱の孫の上泉泰綱(かみいずみやすつな)もいましたが、気づいたときには、すでに周囲を囲まれてしまって、絶体絶命・・・。

何とか前線に立って10騎ほどを討ち取ったところで、急を聞いた兼続は、慌てて400の兵を現地に向かわせますが、奮戦空しく、泰綱は、ここで命を落としてしまいました。

途中からは、かの伊達の援軍も到着し、最上の士気はますます高くなります。

兼続は、他の最上の支城と同様に、この長谷堂城も、簡単に落せると踏んでいたようですが、その思惑通にはいかなかったようです。

そんなこんなの9月30日・・・さらに、上杉にとって悪い知らせが舞いこんできます。

そうです。

あの関ヶ原で、三成率いる西軍が敗れた事・・・

たとえ、この戦いで上杉が最上に勝ったとしても、天下が家康のものとなれば、何の実りもありません。

動揺する兵士たち・・・なんせ、上杉軍は1万8000という大軍、こうなったら、これを速やかに撤退させなければなりません。

このブログでたびたびお話しているように、撤退が進軍よりもはるかに難しい事は、孫子(そんし)の昔からの定番・・・

ここまで、あまりいいとこのなかった兼続さん、この撤退劇で、その名を残す事になるのですが、そのお話は、撤退戦が行われる10月1日へどうぞ>>
 

にほんブログ村 歴史ブログへ「このブログを応援してやろう」と思ってくださるやさしいあなた・・・そのポチッとが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)

2009年9月15日 (火)

討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近

 

慶長五年(1600年)9月15日、関ヶ原の合戦・・・

関ヶ原の合戦で活躍した重要人物、しかも、人気の武将であるにも関わらず、未だ、このブログにほとんど登場していなかった( ̄Д ̄;;

そうです!島左近(しまさこん)です!

彼は、西軍の主要人物でありながら、大谷吉継とともに、ただ二人、その首が発見されていない人物・・・吉継の首については、昨年、湯浅五助藤堂高刑(たかのり)の逸話(2008年9月15日参照>>)を書かせていただきましたが、左近には、そんな逸話もありません。

関ヶ原にて、この島隊と直接対決した黒田隊・兵士の回顧録『古郷(ふるさと)物語』にも、「その名を聞いただけで身の毛もよだつ」と書かれているように、その『鬼左近』の呼び名にふさわしい猛将ぶりは、江戸時代になっても、黒田の家臣たちの語り草になっていたわけですが、「押し寄せる大軍に呑み込まれるように姿を消した」「深手を負いながらも槍を振るって奮戦し、壮絶な死を遂げた」と、さまざまに語られるものの、皆、記憶があいまいではっきりしない・・・

つまり、その姿が恐ろしすぎて、まともに見る事ができず、誰もその最期を確認していない・・・という事なのですが、もちろん、もし討ち取られていたなら、彼ほどの武将を首実検で見逃すのも、納得のいかないところです。

故に、当然の事ながら、やはりあります!生存説・・・『信長公記』では行方不明、『関ヶ原軍記』では西国へ落ち、『関ヶ原町史』では京都の寺に隠れ住んで、この後32年間も生存していた事になってます。

しかし、それこそ左近ほどの猛将・・・もし、生きていたなら大阪の陣に参戦しないはずはありませんから、やはり、この関ヶ原にて命を落としたのでしょう。

そんな島左近・・・その名は勝猛(かつたけ)とも清興(きよおき)とも言われますが、名前がややこしいところからして、その前半生が謎に包まれている事が垣間見えます。

その出身は、近江(滋賀県)尾張(愛知県西部)対馬などさまざまですが、現在では、大和(奈良県)東部の平群(へぐり)の国人で、筒井氏の家老であった島氏の人であったというのが有力となっています。

興福寺多聞院英俊(たもんいんえいしゅん)『多聞院日記』には、永禄十年(1567年)に、その平群の島城で、25歳の息子が実父である城主や養母など、一族9人を殺害して家督を手に入れた事が書かれており、この息子が左近であったと見られます。

・・・とは言え、はっきりと島左近の名で、歴史上に登場するのは、筒井順慶(つついじゅんけい)のやり手の家老として、松倉右近重信(まつくらうこんしげのぶ)なる武将とともに、「筒井の右近左近」と称されるようになってからの事・・・

しかし、天正十二年(1584年)に、主君・順慶が病死し、その後を継いだ息子・定次(さだつぐ)が、酒に溺れる若輩者であったために対立が生まれ、やがて筒井氏を離れ、蒲生氏郷(がもううじさと)から豊臣秀長秀保(ひでやす)父子に仕えて、朝鮮出兵の時には海を渡ったりもしましたが、その大和豊臣家も秀保の病死で改易となった事で、浪人として不遇の生活を送り、出家も考える日々の中、そんな左近に破格の待遇で声をかけたのが、石田三成だったのです。

この時の有名な話として・・・
当時、近江水口城主だった三成は、自らの知行・4万石の半分の2万石を以って「ぜひとも我が家臣になってもらいたい」と、左近に頭を下げたのだとか・・・

まぁ、左近が三成の家臣になったのは、三成が19万石取りの佐和山城主になってからという話もあり、上記の、「自らの知行の半分」というのは、少々オーバーな話かも知れませんが、「それだけ左近が欲しかった」というのは確かなようで、もし、創作であったとしても、その事を強調したいがための逸話という事でしょう。

それは、以前から度々書かせていただいているように、三成が戦場にて武功を挙げて出世するタイプではなく、その内政匠さで出世するタイプであったため、自らの武功を補ってくれる猛将の誉れ高い左近に目をつけた・・・左近は、左近で、その人物の配下の武将としてもう一花咲かせるにふさわしい智将にめぐり合えたという事で、二人の利害関係が見事に一致したといったところなのかも知れません。

♪三成に 過ぎたるものが二つあり
   島の左近と佐和山の城 ♪

「三成には分不相応な二つのもったないもの=島左近と佐和山城」

三成にとって、頼れるのは、尽くしに尽くしぬいた主君・豊臣秀吉1人・・・その秀吉が亡くなった豊臣政権下で、とても磐石とは言い難い地位にある中、左近は、その歌の通り、三成を唯一の主君として大いに活躍する事となります。

まずは、上杉の態度に激怒し(4月14日:「直江状」参照>>)会津征伐に向かう事になった家康を暗殺するべく、三成に進言します。

「そんな卑怯な手を使うたら、かっこ悪いがな」と、義を重んじる三成に対して、
「手段を選んでたら、目的は達成できまへんで」と、説得を重ねて説き伏せます。

かくして、東国へ下る家康を近江は石部宿で待ち伏せし、夜襲をかけるべく800の兵を用意します。

そう、昨日のページ(2009年9月14日参照>>)で、「五奉行の1人・長束正家(なつかまさいえ)家康・暗殺を計画していた」と書かせていただきましたが、これが、正家&左近の計画です。

ところが、この計画が事前に漏えいして家康の知るところとなり、会津への出発を早めたために未遂に終ってしまい、左近は大いに悔しがったのだとか・・・

今年の大河ドラマでは、「家康を暗殺する!」といきまく小栗三成を、若林左近が「止めたんですけど行っちゃいました」的なセリフをのたまい、妻夫木兼続が止めに行く・・・といった風なくだりがあり、初登場に期待していた左近ファンを悩ませたようですが、実際には、上記のように左近のほうがイケイケキャラだったのですから、ファンの落胆もわかる気がします・・・左近は、いくら歳をとっても、落ち着いたベテランのイメージではなく、常に先頭を走る燃える男であってほしいのです・・・前田慶次郎みたいに(←個人的意見ですが・・・(*v.v)。)

かくして、左近活躍の場は、関ヶ原へと移ります。

前日の杭瀬川の戦い(2008年9月14日参照>>)に勝利して左近のテンションも最高潮!・・・。

慶長五年(1600年)9月15日、午前8時頃に井伊直政隊の発砲によって開始された合戦・・・まずは、先頭にいた宇喜多秀家(うきたひでいえ・西軍)隊と福島正則(東軍)隊がぶつかる中、開戦から1時間ほどした頃、左近は、100名に満たないわずかな手勢を以って、本陣の笹尾山から討って出ます。

相手は黒田長政隊・・・少ない将兵を巧みに操って、鬼神のごとく迫る姿は、黒田隊を翻弄させ、しだいに黒田隊は押され気味になります。

しかし、黒田隊も、はなから正面きっての攻撃だけでは、猛将・左近を討ち取る事は不可能との思いがあり、すでに鉄砲隊を迂回させており、あわやというところで、その迂回部隊が準備完了となり、一斉に銃撃を開始・・・混戦になる中、馬上にあった左近は、狙い撃ちさせ、重傷を負ってしまいます。

この黒田隊の側面攻撃は、左近だけでなく、石田隊・・・さらには西軍に大きな深手を負わせる事になってしまいました。

一旦、柵の中に戻った左近は、やがて、止血もそこそこに、再び馬上の人となり、敵の中でと撃って出て、いつしか群集の中に、その姿を消したのです。

以来、左近を見た者は誰もいません。

あまりの奮戦ぶりに、その姿を直視できなかった黒田家の兵士が、江戸の世になって語った左近のイメージは、ひょっとしたら夢幻の偶像なのかも知れません。

しかし、それこそが戦国武将のロマン・・・400年経った今もなお、左近のファンが尽きないのは、そこに、傷ついても果敢にアタックする戦国武将の理想の姿を抱いているからなのでしょうね。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月14日 (月)

豊臣政権の五奉行~それぞれの関ヶ原

 

慶長五年(1600年)9月14日・・・いよいよ明日は、天下分け目の関ヶ原!!!
って事は、今日は関ヶ原・前夜祭(祭りではないが・・・)

この日の正午頃に赤坂に到着した徳川家康は、赤坂を見下す事ができる小高い丘・岡山に陣取り、作戦会議を開きますが、「野戦に持ち込みたい」がために、逆に、西軍が本陣をおく大垣城「城を水攻めにする作戦である」ウソの情報を流します。

一方、その時、大垣城にいた石田三成は、家康が、思ってた以上に早くついた事に驚き、配下の島左近偵察隊として派遣し、関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦いとなったわけですが、この戦いに勝利して士気あがる西軍の島津義弘宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、「家康・本陣への夜襲」を提案しますが、三成はこの案を一蹴し、関ヶ原での決戦を決意します(くわしくは2008年9月14日のページで>>)

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

・・・と、9月14日の両軍の現地での様子はこんな感じでしたが・・・

何度か、書かせていただいています通り、結果的に今後の歴史を大きく変え、天下分け目の戦いとなった関ヶ原の合戦ですが、この時点では、あくまで、豊臣家の家臣同士での争い・・・西軍も東軍も、皆、豊臣政権の一員なわけです。

・・・で、この時の豊臣政権の中心と言えば、豊臣秀吉が未だ幼い秀頼を中心にしての政権維持を計るために定めた五大老&五奉行・制度・・・

その五大老は・・・
●五大老
 ・徳川家康
 ・毛利輝元
 ・前田利長
 ・上杉景勝
 ・宇喜多秀家  の5人・・・

このうち、家康は上記の通り東軍の総大将で、輝元は西軍の総大将として大坂城の守備に、利長は東軍として北陸にて戦い(8月8日参照>>)、景勝の上杉は東北にて東軍に属する最上攻めの真っ最中(9月9日参照>>)、秀家は翌日の関ヶ原で福島正則隊と死闘をくりひろげます。

そして、五奉行は・・・
●五奉行
 ・前田玄以
 ・長束正家
 ・浅野長政
 ・増田長盛
 ・石田三成  の5人・・・

・・・て事で、本日は、この五奉行の「それぞれの関ヶ原」と題して書かせていただきますが、三成はご存知の通りです(くわしくは関ヶ原の年表で>>)し、五奉行筆頭の前田玄以(げんい)については、すでに玄以さん主役のページ(5月7日参照>>)を書かせていただいているので、今回は残りのお3人について書かせていただきますね。
 

長束正家(なつかまさいえ)

正家は近江(滋賀県)水口(みなくち)10万石の領主・・・計算力に優れ、豊臣政権下では検地や財政に能力を発揮した人です。

この人は、最初の最初っから三成派で、例の家康の悪行を告発した弾劾状にも積極的に署名し、会津征伐に向かう家康を暗殺する計画までたてていたとか・・・

三成の挙兵後は、伊勢の安濃津城・攻略(8月25日参照>>)にも参戦しています。

もちろん、関ヶ原の本戦にも参戦し、その日は1500の手勢を率いて南宮山に布陣していました(関ヶ原の合戦・布陣図を別窓で開く>>)

しかし、布陣図を見ての通り、すぐそばには、すでに家康との密約を交わしている吉川広家・・・結局、この動かぬ広家の妨害に遭って、まったく兵を動かす事ができず、勝敗が決する頃に、水口へと敗走しますが、東軍の池田輝政らに城を囲まれ、自害して果てます。
 

浅野長政

長政は、秀吉の奥さん・お禰(ね・ねね)さんとは、義理義理兄弟・・・長政の奥さんが、お禰さんの義理の姉妹(または姉妹)だった縁で秀吉に仕え、武功にも行政にもその手腕を発揮し、甲斐(山梨県)22万石を領していました。

もともと家康寄りで、三成とは犬猿の仲だったと言われますが、関ヶ原の前年には家康への暗殺を疑われて謹慎処分となっているので、その話は疑わしいと思います。

家康寄りなら、謹慎させる必要ありませんから、この一件は、むしろ長政が、三成派であって、二人を引き離すために謹慎させた可能性・大ですね。

関ヶ原の当日は、秀忠軍に属していたので本戦には参加せず、息子・幸長が現地にで南宮山に布陣した西軍を牽制しています。
 

増田長盛(ましたながもり)

長盛は、秀吉が織田信長に仕えていた頃からの家臣・・・武功よりも内政面で活躍し、郡山20万石を領し、あの家康の弾劾状にも署名し、積極的に西国の大名を西軍に誘っりもしてましたが、実は、三成が奉行職を解かれて謹慎になった頃から、すでに家康に通じていて、せっせと三成側の動きを家康に知らせていたとも言われます。

関ヶ原の当日には、守備隊として大坂城にいましたが、その時も、城内の仲間内では、家康への内通の噂が耐えなかったという事です。

そのおかげか、戦後、命を取られる事はなかったものの高野山へ追放され、その後、武蔵(埼玉県)岩槻に流罪となりました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆ 

以上、それぞれの思惑、それぞれの関ヶ原・・・三成&玄以も含め、本人たちの行動とはうらはらに、戦後の処分には、家康の思惑が大いに絡んでいる事は確かでしょう。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧