2021年10月 6日 (水)

東北の関ヶ原~伊達政宗と本庄繁長の福島城攻防

 

慶長五年(1600年)10月6日、関ヶ原のドサクサで展開された長谷堂城の戦いの撤退戦のドサクサで、伊達政宗が福島城を攻めました。

・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)6月18日、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)「謀反の疑いあり」(直江状>>)として、会津征伐を決行した出陣した豊臣五大老筆頭徳川家康(とくがいえやす)に対し、反対派(7月18日参照>>)石田三成(いしだみつなり)らが、留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を攻撃した(7月19日参照>>)事に始まる関ケ原の戦い

この時、家康の会津攻めに先立って、岩出山城(いわでやまじょう=現・宮城県大崎市)を居城としていた伊達政宗(だてまさむね)は、北目城(きためじょう=宮城県仙台市太白区)へと入ります。

…というのも、未だ豊臣政権盛隆なる頃、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命で、かの上杉家が越後(えちご=新潟県)から会津に転封した際(1月10日参照>>)刈田(かった=現在の宮城県刈田郡付近)信夫(しのぶ=福島県福島市付近)といった、かつての伊達領が、そこに組み込まれ、現在は上杉領となっていたため、このドサクサで旧領を回復させようと考えたから・・・

Datemasamune650 もちろん、この時の政宗は、家康から会津攻めを信夫口にてサポートする命も受けておりましたから、上杉との境界線への出兵は、はなから計算していた事だったわけですが。。。

そして、そのまま上杉の目をくぎ付けにすべく上杉配下の河股城(かわまたじょう=福島県伊達郡 )を攻撃しておいて、そのスキに、同じく上杉の白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)へ向かい、7月25日、白石城を開城に追い込み(7月25日参照>>)ここを拠点に上杉領深くへ攻め込むつもりでした。

ところがドッコイ・・・
なんと、その同じ日に、上記の三成による伏見城攻撃を知った家康が、会津征伐を中止してUターンを決意するのです(【小山評定】参照>>)

西での決戦を意識した家康は、政宗に上杉をあまり刺激しないよう進言しつつも、一方で、西へ戻る自身の背後を突かれぬために、上杉へのけん制を怠らないよう釘を刺し、勝利のあかつきには、かつての伊達領+αの恩賞を政宗に与える覚書=世に言う「100万石のお墨付き」を送ったのです(8月12日参照>>)

ここで実際に、上杉が、西へ戻る家康を追撃していたら、家康は相当マズかったわけですが、幸いな事に上杉は動かず・・・一説には上杉執政(しっせい=政務を行う役職)直江兼続(なおえかねつぐ)は、追撃する気満々だったものの、景勝が許さなかったとも言われていますが、

とにかく、御大家康からの制止要請が入り、上杉の追撃も無い以上、うかつに動けぬ伊達政宗は、白石城を石川昭光(いしかわあきみつ)に任せ、北目城に戻り、心ならずも上杉との和睦交渉に入ります。

伊達と同じく、この時、東軍の家康についていた出羽(でわ=山形県・秋田県)最上義光(もがみよしあき)も上杉との和睦交渉に入りますが、おそらくこれは、両者とも(関ヶ原の動向を)様子見ぃの時間稼ぎ・・・

上杉側も、それは百も承知で、上杉自身も西の様子は気になるところではありますが、ヤル気満々な中、家康の追撃を景勝の命で諦めざるを得なかった直江兼続が、

ここで最上義光の山形城(やまがたしょう=山形県山形市)を落とすべく、9月9日、出羽への侵攻を開始し、まずは、最上配下の志村光安(しむらあきやす)が守る長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと迫ります(くわしくは9月9日参照>>)

長谷堂城は、本拠である山形城の守りの要・・・
「ここを落とされて、上杉軍に山形に殺到されては困る」
と思った最上義光は、伊達政宗に援軍の要請をしますが、

つい先日に和睦を進めた手前、
「自らが出陣するのはマズイ」
と思った政宗は、叔父の留守政景(るすまさかげ)を最上の援軍として向かわせした。

そんなこんなの9月29日、ようやく伊達政宗は北目城を出陣し、翌9月30日に白石城に入って、ここから、宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)にいる結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男)らと連携して上杉領へと侵攻・・・するつもりでしたが、

ここで、あの関ヶ原の戦いが、たった半日で勝敗が決し、東軍=家康が勝ったとの知らせが入ったため、再び、家康からの停戦命令が入るかも知れないと思い、政宗は、またまた北目城へと戻ります。

しかし、停戦命令は出なかった・・・

しかも、かの長谷堂での合戦真っただ中の直江兼続も、同じ9月30日に関ヶ原での一報を聞き、翌10月1日から撤退を開始し始めたのです(10月1日参照>>)

ならば!
と、10月3日、再び北目城を出陣した伊達政宗は、白石城で1日休憩した後、
「またとない好機!」
とばかりに、信夫郡に侵攻を開始・・・

かくして慶長五年(1600年)10月6日、伊達政宗は、上杉の重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)の守る福島城(ふくしまじょう=福島県福島市)総攻撃を仕掛けたのです。

もちろん、この福島城は、元をただせば伊達の城・・・平城ではあるものの、城の東方と南方には阿武隈川(あぶくまがわ)荒川(あらかわ)が流れて天然の要害を成す堅城です。

とは言え、攻める伊達は2万の兵に、守る城側はその半分くらい・・・しかも、政宗は、うまく会津との連絡線を断ち切っていたため、この福島の事態は上杉景勝のもとには届かず、おそらく援軍は期待できない状況でした。

Honzyousigenaga700a そんな中で、本庄繁長は、
「まずは迎撃!」
とばかりに大宝寺義勝(だいほうじよしかつ=本庄繁長の次男)とともに野戦へと挑みますが、上記の通り、伊達勢の数の多さには叶わず・・・

やむなく、城に引き返し、籠城戦へと入りますが、数に物を言わせた伊達勢は、ままたく間に城下へと押し寄せ、福島城を完全包囲したかと思うと、城門を打ち破って突入・・・福島城は、落城寸前となります。

しかし、この時・・・
本庄繁長らとともに福島城に籠城していた協力者である梁川城(やながわじょう=福島県伊達市梁川町)須田長義(すだながよし)が、密かに城外へと向かい、伊達の小荷駄隊(こにだたい=合戦用の備品を運ぶ部隊)を襲撃(松川の戦いと呼ばれる)・・・

これが、かなりの敵勢を討ち取ったらしく、大きな痛手を被った伊達政宗は、やむなく、翌10月7日、そのまま北目城へと戻って行く事になります。

とは言え、実は、この松川の戦いは、その日付も内容も文献によって複数あり、どれが正しいのか?よくわかっていません。

今回の福島城の攻防においても、伊達と上杉、両者もが「勝った」と言い張ってるように記録されているので、実際のところは、落城寸前まで追い込んだ福島城をそのままに、伊達政宗が翌日に北目城に戻った理由も不明なのです。

一説には、未だ家康の攻撃許可が出ていなかった事を懸念したのではないか?とも考えられています。

後の、関ヶ原の論功行賞でも、政宗は結局2万石しか増加されず、先の「百万石のお墨付き」とは、ほど遠い結果になった事を見ても、家康は、伊達政宗によるヤリ過ぎ単独行動を、あまり快く思っていなかったように感じますので、やはり、そのへんの事を気使ったのかも知れません。

とにもかくにも、ここで本庄繁長の福島城は守られました。

その後、上杉家で以って開かれた軍議で、この先も家康との徹底抗戦を訴える直江兼続に対し、
「恭順な姿勢を見せて和睦交渉するべき」
と主張した本庄繁長・・・

結局、この繁長の案が採用され、上杉家は平謝りの和睦交渉の末、大幅減封とななるものの、お取り潰しにも主君景勝の首を取られる事も無く、大名として生き残る事となったわけです(そのお話は8月24日参照>>)
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 PVアクセスランキング にほんブログ村

 

| コメント (0)

2021年9月29日 (水)

東北の関ヶ原~長谷堂の戦い…猛将・上泉奏綱=上泉憲元の討死

 

慶長五年(1600年)9月29日、長谷堂の戦い=慶長出羽合戦にて上泉奏綱=上泉憲元が討死しました。

・・・・・・・

本日は、『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)に残る上泉憲元(かみいずみのりもと)長谷堂(はせどう)の戦いでの勇姿をご紹介させていただきますが、

実は、『常山紀談』に、新陰流(しんかげりゅう)の開祖&剣聖と称えられる上泉信綱(のぶつな)(1月16日参照>>)の弟として登場する上泉憲元とは、上泉家の伝承での上泉信綱の孫の上泉泰綱(やすつな)に比定されています。

なので、今回の長谷堂の戦いでの逸話も、一般的には上泉泰綱の話ではあるとされているのですが、今回は『常山紀談』に沿ってお話を進めさせていただきますので、本当は上泉泰綱の話かも知れないですが、本文は上泉憲元の名で書かせていただきますm(_ _)m

・‥…━━━☆

上泉憲元が浪人の身となって、京都の相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)に身を寄せていた頃、世は、まさに豊臣政権の真っただ中でありました。

この時期に上洛した上杉景勝(うえすぎかげかつ)のお供をして、京都にやって来ていた上杉家執政(しっせい=政務を執る役職)直江兼続(なおえかねつぐ)が、
「相国寺に剣聖の弟がいる」
と聞き伝えて、
「会いたい」
と言って、彼をもてなしたところ、その立ち居振る舞いを見て一発で気に入り

「会津(あいづ=福島県西部)は遠いですが、貴殿なら、景勝は3000石の禄(ろく=給料)を差し上げるでしょう」
と上杉家にお誘い・・・
「喜んで!」
と、憲元は、一発内定をゲットします。

やがて迎えた慶長五年(1600年)・・・

ご存知、、、
この年の4月に上杉景勝の上洛拒否(4月1日参照>>)と、直江兼続のケンカ売りまくり直江状(4月14日参照>>)に、「上杉に謀反あり!」と会津征伐を決意した豊臣五大老筆頭の徳川家康(とくがわいえやす)・・・

でしたが、その北上途中に留守にした伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を、家康と敵対する石田三成(いしだみつなり)らに攻撃(7月19日参照>>)された事を知り、すぐさまUターンして(7月25日参照>>)、三成率いる西軍と戦う事に・・・そう、あの関ヶ原の戦いの勃発です。(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)

家康の攻めを回避した上杉としては、本来なら戻る家康を追撃すべきところなのですが、当主の上杉景勝がそれを許さず・・・ならば!と直江兼続は、このチャンスに、隣国で、東軍の家康を支持している最上義光(もがみよしあき)を潰そうと出羽(でわ=山形県・秋田県)への侵攻を開始・・・最上配下の支城を次々と落として、志村光安(しむらあきやす)の守る長谷堂城(はせどうじょう=山形県山形市長谷堂)へと迫ります(くわしくは9月9日参照>>)

Hasedounotatakaiuyoku1000a
『長谷堂合戦図屏風』右隻(最上義光歴史観蔵)

長谷堂城内の志村の兵は、わずか1000・・・なれど、周囲には、最上義光の居城=山形城(やまがたじょう=山形県山形市霞城町)から救援に駆け付けた鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>)や、義光の要請を受けた伊達政宗(だてまさむね)配下の留守政景(るすまさかげ)などの諸隊が睨みを効かせているうえ、何たってこの長谷堂城はなかなかの堅城で、ぞの城門をピタリと閉めて、上杉軍を寄せ付けない雰囲気を醸し出しています。

この時、上泉憲元は、直江兼続に、
「この先の山形城は、沼に囲まれ何重にも柵を張り巡らしたメッチャ優れた城ですし、最上は先祖代々この地に何百年も住み、地の利もあります。
すでに何10もの支城を落として、コチラの力も見せつけてるので、ここは一旦、下がりませんか?」
と、進言しますが、ヤル気満々の直江兼続は、
「今更、退けるかい!弱気な事を言うな」
と、まったく聞き入れず、9月16日、長谷堂城への総攻撃を開始するのです。

しかし最上方は、連日の上杉からの攻撃に、ある程度ダメージは受けるものの、いずれも決定打には至らず、両者の小競り合いが続きます(このあたりは2009年9月16日のページ参照>>)

そんなこんなの慶長五年(1600年)9月29日、長谷堂城側が城下の谷に沿う川をせき止めて水を蓄えていると感じた上杉側が、こっそり物見の兵を差し向け、そのついでに焼働き(放火)をしようとしたところ、城中から完全武装の800ほどの城兵が出て来て暴れ回ったのです。

「今は合戦の時でなはい」
と判断した直江兼続は、(←…て言うても放火しとるけどね)
使者を出して
「今は退け」
と指示をだしますが、両者にらみ合って、誰も退かない・・・てか、行った使者まで帰って来ない。。。

やがて、近づく両者は、いつしか鉄砲を撃ち合い、合戦が始まってしまいます。

それでも兼続は「早く引き揚げられよ!」と命じたところ、上泉憲元が、
「思うとこがあります。私が参りましょう」
と進み出ます。

そこを、上泉の組に属していた大高七左衛門(おおたかしちざえもん)なる武将が馬で書け寄せ、
「侍大将たる者が、ただ一騎で駆け出る事などあってはなりません」
と、止めに入りますが、上泉は聞く耳もたず駆け出したので、やむなく大高も後に従います。

その様子を見ていた前田慶次郎(まえだけいじろう=利益?利太?(6月4日参照>>)宇佐美民部(うさみみんぶ)は、すぐさま上泉の陣に向かい、
「一陣の大将が攻めかかろうというのに、ただ見てるだけなんは武士の本意ではないやろ!さぁ、攻めかかれ」
と周囲の者に声をかけるも、誰も憲元らに続こうとしないので、やむなく、前田慶次郎ら、約20騎ばかりが駆け向かいました。

先に突っ込んで行った上泉と大高が、馬から下りて槍を以って敵に突き込むと、瞬く間に城兵内を突破し、敵は後ずさり・・・

「よし!これで良い」
とばかりに、上泉らが引き揚げようとした時、伊達から派遣されていた留守政景の兵・約300ほどが、横合いから斬ってかかります。

一歩も退く気のない上泉は、再び、その新手と合戦に突入・・・もちろん、前田や宇佐美ら剛の者も参戦し、両者入り乱れての戦いを繰り広げました。

やがて、
「日も暮れかかった。これ以上は進めん。引き揚げろ!」
との直江兼続の号令が響きます。

「承知した!」
と上泉・・・しかし、その返答とはうらはらに
「俺は、上泉とう申す剛の者である。我と思わん者は討ち取れ!」
と名乗るが早いか、たちまちのうちに数十人を斬り伏せるも、とうとう、その場で討死をしたのです。

首を取ったのは金原加兵衛(かなはらかへい)なる者・・・上泉憲元、享年34でした。

上泉の討死に勢いづく伊達勢は、乱れた上杉勢を追撃しますが、その先には、未だ無傷の上杉勢が控えていた事、退く兵が何度も取って返して反撃した事で、お互いに負傷者多数・・・結局、両軍ともに退く事となり、この日の戦いは終わりました。

それぞれに7~8本の矢を鎧に受け、槍も刀もボロボロに、人馬ともに血まみれになって戻って来た前田慶次郎ら・・・

そこに控えていた上泉の組の前を通った前田慶次郎は、
「お前ら、大将を見捨てたよな?これからは男や言うな!武士は大高だけや!」
と罵りましたが、誰一人ぐうの音も出なかったのだとか・・・

…にしても、
そもそもは、西で起こっている関ヶ原を意識しての、この東北での戦い・・・

ご存知のように、かの関ヶ原は、去る9月15日に、わずか半日で決着がついて、東軍の徳川家康の勝利となっています。

長谷堂城を囲む直江兼続が、その関ケ原の結果を知るのは、この憲元討死の翌日・・・9月30日の事でした。

もはや勝敗が決まった以上、西軍に与する上杉は全面撤退するしかありません。

その撤退戦は、翌・10月1日から開始されますが、そのお話は【自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退】>>のページでどうぞm(_ _)m
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2021年9月14日 (火)

関ヶ原前日~本陣勝山にて軍議を開いた家康の思惑は…

 

慶長五年(1600年)9月14日、明日の関ヶ原決戦を控えて、勝山を本営とした徳川家康ら東軍が軍議を開きました。

・・・・・・・・・

いよいよ関ヶ原です。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後、豊臣五大老の筆頭となった徳川家康(とくがわいえやす)が、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)に謀反の疑いあり(4月14日参照>>)として会津討伐に出向いたスキに、これまでの家康の行動に不満を持つ豊臣家臣の石田三成(いしだみつなり)が、家康を告発する『内府ちがひの条々』を諸将に送りつけ(書状の内容については下記【高取城攻防】を参照>>)家康に宣戦布告し、留守となった伏見城(ふじみじょう=京都市伏見区)を攻撃(7月19日参照>>)した事で火蓋を切った関ヶ原の戦い。。。

一方、それを受けた家康は、会津征伐を中止して西へとUターン小山評定>>)
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で)

家康につく福島正則(ふくしままさのり)池田輝政(いけだてるまさ)ら東軍諸将の先発隊が西へ向かう中、迎え撃つべく大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)に本陣を構える三成ら西軍。

…で、8月23日に長良川を渡った東軍は、さらに赤坂(あかさか=岐阜県多治見市赤坂町)まで進み、ここで御大の家康を待つ事に・・・
(8月23日参照>>:ここまでの流れを少しくわしく書いてます)

Tokugawaieyasu600 かくして、東軍先発隊の西反転から遅れる事1ヶ月・・・

ようやく9月1日に江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を出陣した家康は(9月1日参照>>)、9日には岡崎(おかざき=愛知県岡崎市)、13日には岐阜(ぎふ=岐阜県岐阜市)に到着します。

そして翌・慶長五年(1600年)9月14日、朝早くに岐阜を出発した家康は、正午頃に赤坂に到着し、そのまま岡山の本陣に入ります。

岡山は、先の赤坂の南側にあたり、三成が拠る大垣城から見て北西約4kimの場所に位置する小高い丘(標高51m)・・・

先発の諸将が、すでに家康を迎えるべく普請を行っており、総大将が着陣したここから、この岡山が本営となります。

ちなみに、この岡山は、今回の関ヶ原の戦いに家康=東軍が結果的に勝利する事で、この後は「勝山」と呼ばれるようになりますので、ここからは勝山と呼ばせていただきます。

…で、この後、さっそく東軍諸将を集めて、軍議を開く事になるのですが・・・

最初に出たのは、井伊直政(いいなおまさ)池田輝政(いけだてるまさ)らによる、大垣城力攻めの案でした。

一方、本多忠勝(ほんだただかつ)や福島正則らは、大垣城をスルーして西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)が拠る大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に向かう事を主張したとか・・・

この時、家康が1番心配したのが、西軍が大垣城に籠ってしまった事で、今回の戦いが長期に渡る籠城戦になってしまう事・・・「そうなると、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)を奉じて出陣して来るかも知れない」という事でした。

それだけは避けたい家康は、秀頼が西軍として出陣する前に大坂城を抑えようと考え、軍議では、大垣城には抑えの兵だけを置いて、まずは佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市・三成の本拠)落としてから大坂方面へ向かう事を決定したのです。

さらに、何としても籠城戦を避けて短期決戦したい家康は、この情報を意図的に西軍に流し、彼らを城に籠らせない=つまり、城から出て来て戦うよう仕向けたって事らしい・・・

というのが、この9月14日、関ヶ原本チャンの直前に行われた勝山本営での軍議の内容・・・てな事が、一般的解釈です。

しかし、個人的には、どーも引っかかる・・・(←あくまで個人の見解です)

上記の
「そうなると、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼を奉じて出陣して来るかも知れない」
という部分。

これじゃ、まるで、今回の関ヶ原の戦いが「德川VS豊臣」の戦いみたいじゃないですか?

これまで、何度かブログに書かせていただいてますが、私としては、この関ヶ原は、あくまで、豊臣政権内での主導権争い・・・

五大老筆頭である家康についていく派か、
秀頼が若いのを良い事にまるで自分の政権かのように主導する家康に反対する派か、
どちらが主導権を握るかの戦いだったと思っています。

あくまで、この時点では、東西の両方ともが豊臣の配下・・・もちろん、家康の腹の奥には「豊臣を倒して天下を取る」という構想があったかも知れませんが(淀殿に結婚式をドタキャンされた恨みもあるしねww(12月16日参照>>)、それは、家康の心の内だけで、少なくとも、表向きは豊臣配下で秀頼を敵に回す気持ちなど、みじんも見せていなかったはずです。

…でないと、この関ケ原での勝利の後、9月27日に大坂城に入って秀頼と淀殿(よどどの=秀吉の側室で秀頼の母・浅井茶々)謁見し、戦勝報告をするとともに、更なる忠誠を誓い、そのまま西の丸に住む事に対する辻褄が合いません。

さらに、関ヶ原の戦いの論功行賞などが落ち着いた11月27日には、家康の三男=德川秀忠(ひでただ=後の2代将軍)と、四男=松平忠吉(まつだいらただよし)が、兄弟そろって豊国神社(とよくにじんじゃ=当時は東山にあった秀吉を「豊国大明神」として祀る神社)に参拝している意味もわかりません。

これらの、一家総出の行動は、心中いかであろうとも、あくまで見た目は家康(德川)が「豊臣政権下での内部抗争を落ち着かせた」という演出だったに違いない・・・

でないと、後々、政権握った途端(夏の陣の2ヶ月後)に有無を言わさず破却命令を出す神社に(7月9日参照>>)わざわざ息子二人を行かせますか?っつー話ですよ。

もちろん、家康が、この関ケ原の戦いを短期決戦にしたかったのは確かでしょう。

なんせ、東軍についた諸将も、豊臣の家臣なわけですから、グダグダやってて、秀頼もしくは朝廷などから停戦命令が出たひにゃ、政権内の敵対勢力を一掃する事できませんからね。

しかし、「長引くと、大坂城に拠る毛利輝元が、豊臣秀頼を奉じて出陣して来るかも知れない」的な見方は、おそらく、この先の家康さんの天下取りを知ってる人のリップサービス的な匂いがしますね。

よく「天下分け目の関ヶ原」と言いますが、関ヶ原で天下が決まったわけではなく、関ヶ原から家康の天下取りモードが始まった・・・今風に言えば「豊臣の終わりの始まり」が関ヶ原だったわけです。

家康は、ここから徐々に、15年かけてジワジワと、それこそ「鳴くまで待とうホトトギス」の精神で、豊臣を滅亡へと追い込んで行ったのですね~

この関ケ原と大坂の陣の間に、加藤清正(かとうきよまさ)など、多くの豊臣恩顧の武将たちが次々と亡くなってしまった(6月24日参照>>)事も、家康有利に働きましたが、実にウマイですなぁ~家康さん。。。

ちなみに、関ケ原から大坂の陣にかけての豊臣と德川の関係については、家康の上洛要請を秀頼が拒否する5月10日のページ>>で見ていただくとありがたいです。

ちなみのちなみに慶長十六年(1611年)3月に行われた家康と秀頼の二条城(にじょうじょう=京都市)の会見(3月28日参照>>)でも、一応、家康は秀頼に気を使ってるポーズ継続中ですので、お見知りおきをwww

Sekigaharakosenzyouzu
笹尾山(三成陣)から見た関ヶ原古戦場 

この同日の午後には杭瀬川の戦い>>、さらに翌日は本チャンの関ヶ原>>ですが、くわしい流れは、やはり【関ヶ原の戦いの年表】>>でどうぞm(_ _)m
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2021年8月23日 (月)

まもなく関ヶ原~中山道でぶつかる河渡の戦い

 

慶長五年(1600年)8月23日、関ヶ原の戦いで、中山道を西へと進む東軍と、それを阻止しようとする西軍がぶつかった河渡の戦いがありました。

・・・・・・・・

ご存知、関ヶ原の戦いです。
この日までの経緯は・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、朝鮮出兵の時に率先して戦った武闘派(ぶとうは)と事務方だった文治派(ぶんじは)の間に入った亀裂が、約1年後、御大前田利家(まえだとしいえ)の死をキッカケに武闘派の加藤清正(かとうきよまさ)らが文治派の石田三成(いしだみつなり)襲撃する事件によって表面化(3月4日参照>>)・・・

五大老筆頭徳川家康(とくがわいえやす)が何とか納めたものの、石田三成は謹慎処分となる一方で、なんだかんだで、もはや豊臣家臣のトップとなった家康は、自身は徐々に秀吉の遺言(8月9日参照>>)を無視しつつ、逆に豊臣恩顧の大名には、ちょっとした行動でイチャモンつけるように・・・

謀反の疑いをかけられた加賀(かが=石川県西南部)前田利長(としなが=利家の息子)は、母のまつ江戸に人質に出して、何とか回避しますが(5月17日参照>>)、同じく謀反の疑いをかけられた会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)屈せず(4月14日参照>>)・・・

そこで家康は、上杉を討伐すべく慶長五年(1600年)6月18日、豊臣政権の大老として、大軍を率いて会津征伐へと向う事になります。

この家康の出兵は、現在では三成をおびき出す(三成に先にこぶしを挙げさせる)ための作戦だった?とも言われてますが、それは今後の状況を知ってる後世の人間だからわかる事で、この時点では、やはり、この家康の会津遠征を「チャンス」と見た三成が、

すでに家康の会津征伐に合流すべく北に向かっていた大谷吉継(おおたによしつぐ)を引き戻すして、(7月11日参照>>)北陸諸将の勧誘に走ってもらい(7月14日参照>>)、家康に対抗できるコチラ側の総大将として毛利輝元(もうりてるもと)大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に入ってもらい(7月15日参照>>)、いよいよ7月17日、三成は、13項目に及ぶ『内府ちがひの条々』(家康が行った亡き秀吉との約束破りを告発する書状)を諸将に送りつけ、家康に宣戦布告したわけです。(書状の内容については下記【高取城攻防】を参照>>)

かくして最初の戦いとなったのは、
7月18日:高取城の攻防>>
以下、
7月19日~:伏見城の攻防・開始>>
7月21日~:田辺城の攻防・開始>>
7月25日:家康が小山評定>>にて
     会津征伐を中止し西に戻る事を表明
8月10日:三成が西軍本拠となる大垣城に着陣>>
8月11日:戻って来た東軍先鋒が岡崎城へ入城>>
8月16日:東軍が苗木城を奪取>>
     東軍が福束城を奪取>>
8月19日:東軍が南美濃の諸城を奪取>>
8月22日:東軍が竹ヶ鼻城を奪取>>

と、西へ戻る東軍が、西軍方の諸城を次々と落としていく中、西軍の織田秀信(おだひでのぶ=信長の孫・三法師)が守る岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を東軍の福島正則(ふくしままさのり)池田輝政(いけだてるまさ)山内一豊(やまうちかずとよ)らが落としたのが、慶長五年(1600年)8月23日の朝の事でした(8月22日参照>>)

この間も、大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)にて東軍の動向を逐一報告を受けていた三成は、竹ヶ鼻城を落とした東軍が、大垣に来襲するかも・・・と、島津義弘(しまづよしひろ)を長良川西岸に位置する墨俣(すのまた=大垣市安八郡)に派遣して美濃路を備え、自らも小西行長こにしゆきなが)とともに大垣城を出て揖斐川(いびがわ)右岸の沢渡(さわたり=大垣市東町)に布陣します。

しかし、8月22日に、岐阜城勢が米野(こめの=岐阜県羽島郡)での戦いに敗れた事を知り、東軍が、そのまま岐阜城を無視して、一気に西に向かって来るかも知れないとの考えから、舞兵庫(まいひょうご)を一軍の将として約1000の兵をつけ、長良川西岸の河渡(ごうど=岐阜県岐阜市・合渡)に向かわせました。

河渡は中山道の宿場町ですから、西へと進む東軍勢が中山道を通った場合、ここで食い止める事ができます。

Goudonotatakai
「河渡の戦い位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は「地理院」>>よりお借りしました)

一方、上記の通り、22日~23日にかけての攻撃で、23日朝に岐阜城を落とした東軍は、おそらく垣城から岐阜城への救援が来るものと予想し、黒田長政(くろだながまさ)田中吉政(たなかよしまさ)藤堂高虎(とうどうたかとら)らが率先して、この援軍を阻止せんと中山道を西へと進みます。

で、この東軍の彼らが、長良川東岸に到着した時には、上記の通り、すでに西岸に舞兵庫らが布陣していたわけです。

しかし、この時、(西軍にとっては運悪く)川面には霧が立ち込めていて、西軍の兵は対岸に東軍が到着した事に気づけず、一部の兵は朝食をとっていたのです。

「向こうは気づいてない」
と察した東軍は、「今が好機」とばかりに、一斉に銃撃を開始・・・田中隊が、いきなり川を渡って奇襲をかける一方で、黒田隊は少し下流の位置から川を渡り、宿場の西側に迂回して舞兵庫の本陣に突撃します。

突然の攻撃に驚いた西軍は、持ちこたえる事が出来ず、やむなく後退・・・西軍の殿(しんがり=軍の最後尾)を務めた杉江勘兵衛(すぎえかんべえ)討死するも、何とか一軍は大垣を目指して敗走して行きました。

一方、墨俣の島津隊を警戒する藤堂隊は、 さらに一里(=約4km)ほど下流にて川を渡って黒田隊&田中隊と呼応しつつ、更なる西へと進撃し、この日は揖斐川の左岸で宿営しました。

こうして、河渡の戦いで西軍を破った黒田隊・田中隊・藤堂隊・・・

翌24日には、中山道をさらに西へ進み、赤坂(あかさか=岐阜県多治見市赤坂町)に着陣し、

ほどなく岐阜城を落とした福島隊や池田隊も赤坂に到着し、以後しばらくは、この赤坂が東軍の拠点となり、未だ西軍についている周辺の諸城を攻略しつつ、まもなく江戸城(えどじょう=東京都千代田区)を出発して来るであろう徳川家康(9月1日【家康出陣】参照>>)の本陣の準備をする事になります。

ご存知のように、このあとも、本チャンの関ヶ原までは、まだイロイロあるんですが、
それら関ヶ原の戦いの全体の流れについては…
【関ヶ原の戦いの年表】>>からどうぞm(_ _)m
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2021年5月 6日 (木)

大坂夏の陣~藤堂高虎と渡辺了の八尾の戦い

 

慶長二十年(1615年:元和元年)5月6日は、大坂夏の陣での若江・八尾の戦いのあった日ですが、今回は、『常山紀談』に残る渡辺了の八尾の戦いでの逸話をご紹介させていただきます。

・・・・・・・・

ご存知、大坂の陣(おおさかのじん)は、
豊臣秀吉(とよみひでよし)亡き後、豊臣政権内の主導権争いでもある関ヶ原の戦いに勝利して家臣団の中でもトップの位置についた徳川家康(とくがわいえやす)が、徐々に力をつけていき、主君である豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)がやろうとしていた一大プロジェクトである大仏建立にイチャモンをつけた(7月21日参照>>)事をキッカケに始まった「豊臣追い落とし作戦」
(↑スンマセンm(_ _)m一般的な経緯と違い、ちょいと大阪生まれ大阪育ちの主観入ってますが、その思いは下記↓のページで…)
●【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】>>
●【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】>>

慶長十九年(1614年)11月に(11月29日参照>>)勃発した大坂冬の陣は、12月19日に講和が成立し(12月19日参照>>)、一応の決着がついたものの、くすぶる火種が消える事無く、翌年=慶長二十年(1615年・元和元年)4月26日の大和郡山城(やまとこおりやまじょう=奈良県大和郡山市)の戦い(4月26日参照>>)を皮切りに、大坂夏の陣が勃発します。

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

南から迫る紀州一揆(きしゅういっき=和歌山周辺の一揆勢)(4月28日参照>>)と連携して守りを固めるはずだった樫井(かしい=大阪府泉佐野市)の戦い(4月29日参照>>)に敗れた大坂方は、いよいよ、北東から迫る德川方を、大阪平野の東を南北に連なる生駒山地の切れ目にて迎え撃つ事になります。

Oosakanatunozinyaowatanabe 航空写真にポイントした右図→
(クリックで大きくなります→)
をご覧いただければ一目瞭然・・・

生駒の山越えしないで大阪平野に入るには、北東の枚方(ひらかた)方面からと、生駒山地の切れ目の藤井寺・道明寺(どうみょうじ=大阪府藤井寺市あたりの大和口から入る2ルートしかないわけで、

案の定、二条城(にじょうじょう=京都府京都市)からの徳川家康と伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)からの德川秀忠(ひでただ=家康の三男)は、枚方の星田方面の京街道ルートを取り、

伊達政宗(だてまさむね)本多忠政(ほんだただまさ)らは大和口からやって来る事に・・・

そこで豊臣方は、4月30日の軍議にて後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)が提案した大和口要撃作戦を決行・・・

北東方面を今福(いまふく=大阪市城東区)に陣取る木村重成(きむらしげなり)らが、少し南下した若江(わかえ=大阪府東大阪市)にて迎え撃ち(【若江の戦い】参照>>)、大和口を後藤又兵衛・真田幸村(さなだゆきむら=真田信繁)らが迎え撃つ事とし(【道明寺・誉田の戦い】参照>>)慶長二十年(1615年)5月6日その戦いの火蓋が切られたわけです。

・・・・・・・

Watanabesatoru700 近江(おうみ=滋賀県)土豪(どごう=土地に根付く武士)出身で、「槍の勘兵衛」と称されるほどの腕前だった渡辺了(わたなべさとる)は、この日、德川方の藤堂高虎(とうどうたかとら)の配下として先陣の中の手を受け持っておりました。

6日の朝、道明寺に軍を進めるべきか?否か?未だ作戦が決まらなかったため、
「地の利がないので、見て参ります」
と、自ら物見に出ると、先に物見に行った堺与右衛門(さかいよえもん)なる味方に出会ったので、たずねてみると
「すでに道明寺にて後藤又兵衛と思しき者が水野(みずの勝成)殿と鉄砲を交えております」
との事・・・

そこで了は、堺に従者をつけて陣に帰らせ、自らは、もう少し先の高台に進んで西を見渡せば、案の定、八尾から若江にかけて豊臣の軍勢が、馬の鼻先を揃えるように密集して押し寄せて来ていました。

「やはり…」
と確認して、すぐに取って返し、今より道明寺へ指して向かおうとしている味方を押し止めます。

「なぜ、止める?」
と問う藤堂高刑(たかのり=高虎の甥)に、
「見てみなはれ!すぐそこに敵がウヨウヨしてるのに、それを捨てて、わざわざ道明寺に行く事もないですやろ?」
と・・・

高刑は「なるほど」と納得してくれたものの、大将の藤堂高虎は、納得しれくれず・・・なので、続けて
「このあたりはぬかるんでますから、先陣を配置する場所なんてありません。
敵との間合いは四十町(約4km)ほど…そこに続く横堤まで十町(約1km)、その横堤には4本のあぜ道が見えますから、殿様は北2本を指揮して進んで行ってください。
僕は、南側2本を指揮します。
馬印は後方に控えさせておき、細いあぜ道を少数の馬で進んで行って、
敵を横堤で押し止めて、そこで隊列を整え、南北で以って挟み撃ちにすれば、必ず勝てましょう」
と説得しました。

ところが、作戦を練ってるその間に、藤堂良勝(よしかつ=高虎の従兄弟)藤堂良重(よししげ=高虎の従兄弟の息子)らが単騎にて馬で乗り出し、我先にと西へ向かって進んで行ってしまったのです。

実は彼ら・・・
昨年の冬の陣の時、主君~高虎と作戦において口論となった了が、
「こんなとこ、辞めたらぁ~!!」
と言い放って少々モメた事に、今も腹を立てていて、

今回、その一件が無かったかのように、またぞろ、自身の作戦をあーだこーだと指示する姿を苦々しく思っており、
「渡辺憎し!アイツより、もっとスゴイ武功を立てたるで~!」
と、了の意見を無視して先に出ていったのです。

その状況を見た了は、
「アカン!
こうなっては、作戦もクソもありませんわ!
早々に攻めかかられませ!」
と言い放ち、自身は佐堂(さどう=八尾市佐堂町…現在の近鉄大阪線:久宝寺口駅付近)側へと向かったのでした。

未だ朝霧かすむ中を、もはや我先にと進む藤堂隊を迎えたのは、豊臣方の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)の軍でした。

「今いる堤の上では戦い難い」
と思った盛親は、旗を下ろして後方の堤の下へと隊列を移動・・・
これを「逃げるゾ!」
っと思った藤堂隊の面々は、さらに我先に追いかけ、乱れた藤堂隊は、ものの見事に敗北してしまうのです。

この時、ともに藤堂隊の一員として戦っていた元長宗我部家臣=桑名吉成(くわなよしなり=弥次兵衛)(桑名の戦いぶりに関しては=2019年5月6日参照>>)が、藤堂高刑に対し、
「陣の指揮をすべき大将が、一騎駆けするのは良くないですよ」
と注意するも、高刑は、
「渡辺ひとりが武勇を誇るなんか、許せん!アカンかったら討死するまでよ!」
と言って走り抜け、その通りに討死する事になってしまいました。

高刑だけではなく、了に負けじと単騎で行った藤堂良勝と藤堂良重も、そして主君に進言した桑名までもが、ここで討死しています。

そんな中、佐堂に回った了が、追い来る敵を蹴散らしつつ南側を見ると、今まさに藤堂隊が崩れまくって、敗れた藤堂先陣が旗を捨てて逃げて行くのが見えます。

Oosakanatunozin0506 大坂夏の陣
 元和元年五月六日の布陣

 クリックで大きく(背景は
地理院地図>>)

そこで、すぐに南方向に転じ、藤堂高刑が戦死した場所を、なんとか占拠しますが、もはや了の手勢も、わずかに30騎ばかり・・・

そこへ総大将の藤堂高虎から、
「退け!」
の命令が何度も届きますが、了はいっこうに退かず・・・

7度の撤退命令を無視する了に高虎が、
「なぜ?退かぬ」
と聞けば、
「旗を押し進めてさえ下されば、我ら一陣で敵を切り崩し、逃げる敵を追いかけて大勝利をご覧にいれます」

更なる説得も聞かず、
「ウチの部隊長は戦い方をわかってません。
まばらに駆けて崩されて、見方を見殺しにする事を忠義と思てはるんですか?
僕は、今朝から、少ない軍兵でありながら、そこかしこで毎度打ち勝ち、横から敵を攻め破りました。
この渡辺がいなければ、もっと死者が、いや、全員死んでたかも知れません。
見たところ、長宗我部軍も、残りわずか…これを討ち漏らしたら殿の恥になりまっせ!
早々に旗本を進めてください。
僕が盛親を討ってみせます」
と、ますます退こうとしません。

と、そこに、若江の戦いで豊臣方の木村重成を破った井伊直孝(いいなおたか=井伊直政の息子)の軍が赤旗をなびかせて加勢にやって来るのが見え、長宗我部軍は新手の出現に動揺・・・了が「好機!」とばかりにドッと斬りかかると、長宗我部は乱れて、一斉に敗走していきます。

それを、「逃すまい!」と久宝寺から鉄砲を撃ちかけて追い詰める了・・・盛親は旗竿までも折られて、這う這うの体で何とか逃げ去りました。

さらに了は、その勢いのまま北西へ進んで平野(ひらの=大阪市平野区)を占拠したので、道明寺から大坂城内へと敗走する豊臣方は道を塞がれてしまいます。

ここで、了は
「軍兵さえいただければ、ここで疲れ果てている敵を一掃してみせます。
早く軍勢をよこしてください」
と使者を立てますが、高虎は、了の案をなったく聞き入れず、
ただただ
「早く、引き返せ」
「なんで、戻って来んのや」
と言うばかり・・・

しかたなく了は、大坂城に戻る敵軍を少しでも食い止めるべく、平野一帯に火をかけて本陣に戻りました。

後に、
もし、ここで渡辺了が退かなければ、真田幸村も、あの毛利勝永(もうりかつなが)も、ひょっとしたら大坂城へは帰還できなかったかも知れないと、世間の噂になったのだとか・・・

その後、戦い終わって藤堂高虎の陣を井伊直孝が訪れた際、
「同族が多く討死してしまい、無念です」
という高虎に、
「我らが、逃げる敵を追いかけて近くに来た時、筵(むしろ)の旗指物をした侍大将がいて、強敵を切り崩して見事に軍兵を指揮していた姿がアッパレでしたが、あの武将はどうなりましたか?」
と直孝が尋ねました。

そう、それは渡辺了、その人の事・・・

「いやぁ、筵の指物は僕ですわ~
まさか、井伊殿が目に止めて下さるとは!」
と、了が大声で答えたので、高虎は、ますます機嫌が悪くなったのだとか・・・

この後、了は案の定、高虎とはウマく行かず、藤堂家を出奔して、他家への再就職を試みますが、藤堂家から奉公構(ほうこうかまい=他家に「仕官させるな」の願いを出す事)=いわゆる「お前、ほすゾ」の命が出ていたため、他家への仕官は叶わなず、京都で僧になったそうな。

ま、今回の場合は、結果的にウマく行って、井伊さんにも褒められたので、了としてはウキウキだったかも知れませんが、一軍をまとめようとする大将から見れば、命令を無視して自分の意見ばかりグイグイ推して来る者は、モンスター家臣以外の何者でも無かったでしょうね。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2020年12月 4日 (金)

内助の功で貞女の鑑~山内一豊の妻・見性院

 

元和三年(1617年)12月4日、貞女の鑑として知られる山内一豊の妻=見性院がこの世を去りました。

・・・・・・・

戦国時代を生き抜き、江戸幕府のもとで土佐(とさ=高知県)藩初代藩主となった山内一豊(やまうちかずとよ)の奥さんである見性院(けんしょういん)は、『内助の功』で知られた女性です。

一昔前は、夫を影から支える献身的な姿が「理想の女性像」とされ、その逸話が教科書等に掲載され、戦国の女性としては一二を争う有名人となっています。

その中でも有名な代表的逸話は・・・

・‥…━━━☆

逸話…1ッめ『常山紀談』より

一豊が織田信長(おだのぶなが)に仕えていた頃、安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)下にて馬の市がたち、そこで東国一の駿馬と称される見事な馬を見つけたものの、未だ下っ端の一豊にとってはかなりの高額で、しかたなく諦めて帰って来たところ、

奥さんが、鏡の中に隠していた持参金を差し出して
「そんなに良い馬なら、これで買うてきなはれ」
と・・・

「ヤッター!!」
と、一豊は、一瞬、喜んだものの、一方で
「今まで、メッチャ貧乏して来て喰う物にも困っっとたのに、お前は、こんな大金隠し持ってたんか!」
と、ちょっとご機嫌ナナメ
(NHKのドラマ「一億円のさよなら」みたい…上川さん大河で一豊やってたしww)

すると奥さんは、
「これは、私が嫁に来る時に、父が、『常の事には使わんと、夫の一大事にこそ、お出しなさい』と持たせてくれた物です。
日頃の貧しさは、なんぼでも我慢できます。
今度、馬揃えがあると聞きました。
それだけの良い馬なら、それに乗って見参しなはれ。
天下の見ものとなりましょう」
と・・・

果たして、奥さんの言った通り・・・馬揃えにて、一豊の乗った馬が信長の目にとまり
「山内は長く浪人していたと聞いたが、見事な馬を準備して馬揃えに挑んだ姿勢は武士の誉れ…そんな家臣を持った俺も鼻高々やで!」
と喜び、以後の一豊の出世の足掛かりになったとか・・・

逸話…2ッめ『旧記』より

一豊が近江(おうみ=滋賀県)長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)にいた頃、奥さんが、古い着物の使える部分だけを、細かいはぎれにして集めて縫い合わせ、一つの小袖(着物)に仕上げたのを見て、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大いに感激し、「皆の嫁さんに作り方を教えてあげるように」と勧めた・・・と、

そう、要するに、廃品となるはずの着物をパッチワークでオシャレな別の着物にしたわけですが、その手際も見事で、人々を驚かせたとか・・・

逸話…3ッめ『藩翰諸』より

秀吉亡き後の関ヶ原の戦いの時、上洛要請を拒む会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を討伐(4月1日参照>>)すべく、東北へと出陣した豊臣五大老の一人=徳川家康(とくがわいえやす)に従って、ともに出陣していた山内一豊

一方、奥さんは、その留守を大坂屋敷にて守っていたわけですが、その時、家康に敵対して景勝と連携を取る石田三成(いしだみつなり)(7月19日参照>>)は、家康とともに出陣している武将の妻子を大坂城に集めて、言わば人質のように抱え込んだのです。
(この時、大坂城への入城を拒んだ細川忠興の妻ガラシャ(玉)は自害しています)>>

これを知った家康は、会津に向かう途中の小山評定(おやまひょうじょう)にて、この事実を、ともに行軍する皆に知らせて、どちら(家康か?三成か?)に味方するか?を問うわけですが、当然、大坂にいる妻子の様子がわからぬ武将たちには動揺が走ります(7月25日参照>>)

しかし、この時すでに、妻からの詳細な知らせを密かに受け取っていた一豊は慌てず、
「このまま、家康様のお味方ををします!」
1番に声を挙げて、その評定の場の雰囲気を、一気に家康派に傾かせて家康を大いに喜ばせ、その後の土佐藩主就任の糸口となったのだとか・・・

皆が右往左往する中で、彼女だけが冷静に、夫に現状を報告したおかげ・・・てな事です。(実際には他にもいる…黒田の嫁とか真田の嫁とか)

・‥…━━━☆

てな感じで・・・有名ではありますが、どれも後世に書かれた物・・・『常山紀談』と『藩翰諸』は江戸時代で、『旧記』に至っては明治に編さんされた書物です。

もちろん、著者の創作ではなく、ちゃんとした出典のある逸話ではあるものの、あくまで逸話・・・史実かどうかはわかりません。

なので、ここまで有名なエピソードを持ちながらも、見性院さんの本名も、「千代」「まつ」が有力なれど、それは誰かと混同されていて、それ以外の名前の可能性もあり、その生年も、亡くなった時の記録=「元和三年(1617年)12月4日に61歳で亡くなった」から逆算するしかなく、その出自も、近江(滋賀県米原市)美濃(みの=岐阜県南部)郡上八幡(ぐじょうはちまん)など、諸説あります。

つまり、これだけ豊富かつ有名なエピソートを持ちながらも、史実としての彼女は謎だらけ・・・

もちろん、これは彼女に限った事ではありません。

戦国の女性というのは、夫を亡くして若い後継者の後見人のような立場(淀殿とか)になるなど、よほど政治的に重要な立場にならない限り、歴史上の表舞台にな登場しないのです。

それは、逆に考えれば、一豊の妻=見性院さんは、その生涯のほとんどを夫とともに生活し、夫が新しい領地に移れば、自分も同じ場所に行き、(戦国なので平穏無事とはいかないまでも)夫婦仲良く過ごしていた事になります。

そんな中で、夫=一豊は、合戦での武功があまり聞かれない中で浪人から順調に出世し、最後には土佐藩の藩祖となる事から、「そこには、影で夫を支えた賢い奥さんがいたんじゃないか?」てな事から、これらのエピソードが生まれるべくして生まれたのだと思います。
(実際には後方支援などの地味な活躍が多数あったと思いますが…)

ただ、戦前は「貞女の鑑」「夫を支える妻」として、「男尊女卑」のお手本みたいにもてはやされた彼女の逸話ですが、今、改めて読んで見ると、ちょっと違う気がします。

と、いうのも、実は、戦国時代は日本の歴史上、最も女性の権利が高かった時代と言われており、この後の明治~戦前などのように、嫁いだ女性が夫にかしずき、言われるがまま家政婦のように働く存在では無かったのですね。

たとえば、最初の馬買う逸話で登場する「奥さんの持参金」・・・

今だと、金持ちのお嬢様が多額の持参金持って結婚すれば、そのお金は夫婦の物(どっちがどんだけ稼いでいようが二人の物)・・・って感覚になりますが、この時代の持参金=いわゆる化粧料は、その名の如く「奥さんの私物」なのです。

なので、万が一離婚となると、夫は妻に、その持参金全額を持たせて実家に戻さねばならないという事もしばしば。。。

当然、この時の奥さんも、反論して、怪訝がる夫に自分の意見をハッキリ言ってます。

小袖のパッチワークの時も、「貧乏だから…」とコソコソやるのではなく、堂々と「これドヤ!」くらいの勢いで皆に披露するし、関ヶ原の時も、敵情視察的な行動ですばやく夫に内情を知らせています。

つまり、彼女は、夫にかしずき、言われるがままの嫁ではなく、むしろ、自身の意見をしっかり持った独り立ちした女性だったのだと思います。

それが垣間見えるのが、夫=一豊が亡くなった後・・・そう、ここからは逸話ではなく、史実と言われる史料(主に手紙ですが…)に、彼女がチョイチョイ登場して来るのです。

慶長十年(1605年)9月20日、彼女が49歳の時に夫=一豊が亡くなり、彼女は、その約半年後の3月7日に土佐を出て、まずは京都は伏見(ふしみ=京都市伏見区)の山内家の屋敷に入った後、6月13日に新しく建てた京都桑原町の屋敷に移り住んだとの事なのですが、

実はコレ・・・土佐を出て京都に行くことも、さらにそこから引越する事も、回りは全員反対していたのに、ガンと聞く耳持たずの強行突破なんです。

家臣の手紙に・・・
上洛に関しては、
「康豊様が、強くお止めになりましたが、上洛されます」
とあり、
その後の伏見から桑原への引越に関しても、
「侍女までもが何度も御止まりになるよう申し上げましたが、見性院様がお決めになったので、もう何も申し上げられません」
と、もはや諦めムードですよね。

上記の「康豊様」というのは、一豊の弟=山内康豊(やすとよ)の事で、夫亡き今となっては、彼女にとって1番身近で1番頼れる人物だったわけですが、そんな人の言う事もハネのけるくらいのガンコさ・・・

いや、ガンコとかワガママというのではなく、ひょっとしたら、彼女の心の内には、何かしらの譲れない思いがあったのかも知れません。

ご存知の方も多かろうと思いますが、彼女は、天正十三年(1585年)に居城のある長浜一帯を襲った地震によって一豊との間に授かった愛娘=与祢(よね=享年6)を亡くして涙に暮れていた時、たまたま長浜城外で捨てられていた男の子(実は家臣の北村十右衛門の子?)を拾い、我が子のように育てますが、その子が10歳になった頃に、一豊の命により出家させています。

これには文禄四年(1595年)に起こった、豊臣秀次(ひでつぐ=秀吉の甥)の切腹事件(7月15日参照>>)が絡んでいるとか・・・この事件に少なからず関わっていた一豊が、
「山内家の血筋でない彼に家督を継がせると後々問題になるのではないか?」
と考えた事に端を発するようで、事実、その後、弟の康豊の息子=山内忠義(ただよし)を養子に迎えて、山内家の後継者としています。

…で、見性院さんが土佐を出て京都に来た頃には、かの捨て子だった坊やが、湘南宗化(しょうなんそうけ)と号して妙心寺(みょうしんじ=京都市右京区花園)塔頭(たっちゅう=大寺院の付属する寺)大通院(だいつういん)2代目住職をやっていたのです。

Dscn0049kwat3k
山内家の菩提寺=妙心寺大通院

しかも、その頃の湘南宗化は、朝廷から紫衣(しい・しえ=高僧が身に着ける色の衣)を許されるほどの高僧になっていたわけで・・・もちろん、京都に着いた彼女は、すぐさま湘南宗化に会いに行きますが、おそらくは、ただ会うだけではなく、(拾い子とは言え)愛情注いで育てた息子の近くに、彼女はいたかったのでしょう。

ただ、さすがは貞女の鑑・・・理由はそんな個人的な物だけではありません。

一豊死去の半年ほど前の慶長十年(1605年)4月に、後継者=忠義と徳川家康の養女=阿姫(くまひめ=家康の姪・松平定勝の娘)との結婚が成立して徳川家との太いつながりができた事、また、その忠義の後見人に実父の康豊が就任した事・・・

つまり、ここで、山内家の系統(けいとう)が弟=康豊の血筋に移り、しかも、上記の通り、その家系は徳川家と深い関係を構築したわけで。。。

そう、土佐の事&山内家の行く末を彼女が心配する必要がなくなったのです。

いや、残る心配はただ一つ、いかにして、現在の良い状況を維持するか?です。

それには、刻一刻と移り変わるであろう日々の情報を得て、この先の動向を見極めねばなりません。

ひょっとしたら、彼女は京都にて、様々な世間の情報を得ようとしていたのではないでしょうか?

生前の一豊には二人の妹がいましたが、すぐ下の妹が、当時は京都所司代(きょうとしょしだい=京都の治安維持)だった前田玄以(まえだげんい)の家臣の松田政行(まつだまさゆき)と再婚しており、もう一人の妹が産んだ男子は、その松田政行の養子になっていて、その妹たちも京都にいたのです。

湘南宗化と言い、二人の妹と言い、その旦那と言い・・・身近な人が、距離的にも身近な場所にいて、しかも、こんなに情報を得やすい関係性は無いわけで・・・

おそらく彼女は、単なるワガママで京都に引っ越したわけではない・・・それが垣間見えるのが、晩年の彼女が出したいくつかの手紙です。

後継者となった養子=忠義に宛てたある手紙では
「常に徳川家への忠誠を示す事を忘れたらアカン」
とカツを入れたり、
高台院(こうだいいん=秀吉の正室・おね)さんに、ちゃんと土佐の名物を贈っときや」
と、德川にも、豊臣家にも、気を使うよう指示しています。

また、義弟の康豊への手紙には、
「なんや、伏見の屋敷には、土佐からしょっちゅう飛脚が来てるみたいやけど、私のとこには去年の7月から、ぜんぜん手紙が来てへんねんけど、どないなってんの?」
と、自分の所に情報が入って来ない事に少々ご立腹のご様子・・・

もちろん、隠居の身となった寂しさもあったであろうと思いますが、やはり、情報の集まる京都にて、あちこちに様々なアンテナを張り巡らせていたようにも感じます。

とは言え、
一方で、普段は自身の屋敷にて『古今和歌集』『徒然草』などの古典を読みながら、静かな日々を過ごしていたという彼女・・・元和三年(1617年)12月4日、最愛の息子である湘南宗化に看取られながら、彼女は61歳の生涯を閉じました。

戦国という波乱万丈な世を生きながらも、常に夫とともに生活し、実子を失いながらも、その生まれ代りのような息子に看取られ・・・「山内一豊の妻」なる彼女は、戦国の渦の中でも自らの意思を貫き、強くたくましく生きた女性だったに違いありません。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2)

2020年9月24日 (木)

戦国乱世を駆け抜けた異彩~松永久秀の甥っ子・内藤如安

 

 慶長十九年(1614年)9月24日、三好長慶や足利義昭や小西行長に仕えた内藤如安が、キリシタン禁止令を受けて国外追放となりました。

・・・・・・・・

内藤如安(ないとうじょあん)の如安は、永禄七年(1564年)=15歳の頃にキリスト教に入信した時の洗礼名のジョアンの音の響きを漢字で表した物で、本名は内藤忠俊(ただとし)なのですが、本日は有名な方の内藤如安さんと呼ばせていただきます。

で、本日の主役=内藤如安は天文十九年(1550年)頃(はっきりしません)八木城(やぎじょう=京都府南丹市八木町)内藤宗勝(ないとうそうしょう)の息子として生まれます。

お父さんの内藤宗勝は、あの戦国初の天下人と言われる三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣で、もと名を松永長頼(まつなが ながより)と言い、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも大活躍の松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)の弟なのですが(つまり如安は久秀の甥っ子、実は、三好政権内で先に頭角を現したのは、この弟の方で、なんなら、兄=久秀は「弟の七光りで出世した」なんて陰口たたかれてたくらいの大活躍で、長慶からの信頼も篤かったんです。

 なんせ天文二十二年(1553年)には、丹波(たんば=兵庫県北東部・大阪府北西部)一国を牛耳る波多野晴通(はたのはるみち=波多野秀治の父)八上城(やかみじょう=兵庫県丹波篠山市)を攻撃中に、敵方が守護代(しゅごだい=副知事)内藤国貞(ないとうくにさだ)を討ち取って、国貞の八木城を奪った事を聞くないなや、即座に八木城に取って返してまたたく間に奪還したばかりか、その後に波多野晴通を降伏させて、逆に丹波のほとんどを手中に収めたくらいですから・・・

そして、その八木城奪還後に亡き国貞の娘(妹説もあり)と結婚して松永長頼から内藤宗勝に名を変えて内藤家を継ぐ立場になった人なのです。
(実際には国貞の息子=貞勝が後を継ぎ、宗勝は後見人ですが、事実上は家内を掌握していたとされます)

そんな松永長頼改め内藤宗勝を父に持つ内藤如安は、三好家が衰退の一途をたどる中でも足利将軍家を仰ぐ内藤家の代表の如く、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋・覚慶)が、上洛後に、あの織田信長(おだのぶなが)と対立した元亀四年(天正元年=1573年)(7月18日参照>>)も、槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)にて将軍=義昭方として奮戦しています。

しかし、ご存知のように、この戦いに敗れた義昭は京都を追われ、身を寄せていた若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)も自刃したため(11月16日参照>>)、義昭は毛利輝元(もうりてるもと)を頼って備後(びんご=広島県東部)鞆の浦(とものうら=広島県福山市)に下向しますが、この時にも、内藤如安は、義昭と行動をともにしていたと言います。

ところが、この間の天正四年(1576年)、父の宗勝が、信長の命を受けた明智光秀(あけちみつひで)の侵攻によってゴタゴタになっていた丹波内での戦い=和藤合戦(わとうがっせん)(6月20日参照>>)にて討死してしまいます。
(宗勝の死亡時期については永禄六年(1563年)説&永禄八年(1565年)説もあり)

これによって内藤家は、名実ともにあの国貞の息子=内藤貞勝(さだかつ)が継ぐ事になり、如安は、その執政(しっせい=家老)の立場となりますが、宗勝を失った影響は大きく、天正六年(1578年)に丹波平定まい進中の明智光秀に攻められて八木城は落城・・・内藤本家は滅亡してしまいます。

その後、ご存知のように天正十年(1582年)6月に信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)、謀反を起こした明智光秀を倒して(6月13日参照>>)、まるで織田政権を引き継ぐようにトップに躍り出て来た豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月24日参照>>)をおっぱじめた天正十三年(1585年)頃、如安は、しばしの沈黙を破り、その秀吉の家臣である小西行長(こにしゆきなが)に仕える武将として、再び表舞台に登場します。

これは、行長の小西家が、内藤家と親戚だった(3代前に枝分かれ?)事で、同族のよしみで召し抱えたとも言われますが、ご存知のように小西行長も敬虔なクリスチャンなので、そのあたりのよしみもあったのかも知れません。

Bunrokunoekipusan700a とにもかくにも、もともとは商人だった小西行長は、武将として戦略や采配に長けた如安の能力に大いに惚れ込んで重臣に取り立て、小西姓を名乗らせるくらい重用したのです。

それに応えるように如安も、文禄元年(1592年)に起こった朝鮮出兵=文禄の役(1月26日参照>>)では、先鋒を務める事になった行長に従って各地を転戦する一方で、行長の密命を受けて(みん=中国)との和睦交渉の使者となり、粘り強い交渉を何度も重ねて和睦をまとめました。
(結局は合意内容に納得しなかった秀吉によって慶長の役が起こりますが…11月20日参照>>

その後、秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦い(年表>>)では、ご存知のように小西行長は西軍として参戦し、大敗の末に捕縛され(9月19日参照>>)石田三成(いしだみつなり)(9月21日参照>>)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月23日参照>>)とともに10月1日に処刑されます(10月1日参照>>)

この時、内藤如安は、行長の弟=小西行景(ゆきかげ)とともに地元である行長の居城=宇土城(うとじょう=熊本県宇土市)におりましたが、ここを攻めて来たのが九州の地にて東軍に与する加藤清正(かとうきよまさ)・・・

9月20日に宇土城近くに陣を構えた清正は、翌・21日に宇土城下を焼き払って宇土城を完全包囲しますが、未だ、関ヶ原での一戦の状況を知らぬ宇土城内の行景&如安らは徹底抗戦の構え・・・実質的な指揮者である如安は、大砲を駆使して迫りくる敵を撃退し続け、約1ヶ月間、宇土城は耐え抜きました。

しかし、やがて九州にも関ヶ原現地の状況が伝えられるようになって兄=行長の死を知った行景は、自らの自決と引き換えに城兵の命を助ける事を条件に、10月14日(23日とも)宇土城は開城となったのでした。

「自らの自決と引き換えに城兵の命を…」
の城兵の中には如安も含まれていたわけで・・・命ながらえた如安は、同じキリシタン大名である有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地である肥前(ひぜん=佐賀県・長崎県)平戸(ひらど=長崎県平戸市)にて、しばらくの間、隠居生活を送る事になりますが、その後、その武勇を惜しんだ加藤清正に客将として迎え入れられます。

さらに慶長八年(1603年)頃には、前田利長(まえだとしなが=前田利家の息子)4000石で迎え入れられ金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に・・・ここでは、やはりキリシタン大名で、すでに前田家の客将となっていた高山右近(たかやまうこん=高山友祥)とともに、前田家の政治や軍事の相談役をこなしながら、キリスト教の布教活動にも力を注ぎました。

しかし、慶長十八年(1613年)12月、あの関ヶ原の戦いに勝利して、現政権内でも確固たる地位を築きつつあった徳川家康(とくがわいえやす)からキリシタン禁止令が発布されます。
(実際には自分=家康の領地のみだった禁教令を全国に広げた物)

キリシタン禁止令そのものは、これまでにも、秀吉時代に、
天正十五年(1587年)の6月18日付けと6月19日付けの物
『天正十五年六月十八日付覚(「御朱印師職古格」神宮文庫)>>
と、慶長元年12月(1597年2月)のサン・フェリペ号事件(2月5日参照>>)のあった時の2回発布されていますが、いずれもバテレン(主にフランシスコ会の宣教師)追放令であって、神社仏閣への破壊行為や奴隷売買などは禁止するものの、信者に対する迫害や無理やり改宗させたりする物では無かったのです。

しかし、今回の家康の禁教令は、いわゆる「キリシタン追放」「キリスト教弾圧」と言われて思い浮かべる、あのキリシタン禁止令そのものだったわけで・・・

かくして 慶長十九年(1614年)9月24日、頑としてキリスト教への信仰を曲げない内藤如安に、国外追放命令が出されます。

もちろん、ともにいる高山右近にも・・・

それから約2週間後の10月7日、如安は妹のジュリア、そして高山右近夫妻(1月5日参照>>)とともに、フィリピンのマニラに向けて旅立ったのです。

ご存知のように、この年は、7月21日には方広寺(ほうこうじ=京都市東山区)鐘銘事件(7月21日参照>>)が勃発し、その5日後には家康が、その方広寺の大仏開眼供養を中止(7月26日参照>>)させたり、翌8月には、何とか衝突を収めようとする大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)側に最後通告を出したり(8月20日参照>>)・・・家康が完全に大坂城の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)潰しにかかって来てた=つまり大坂の陣(年表>>)をおっぱじめる気満々な時期だったわけで・・・

現に、この10月6日~9日にかけては、後の大坂の陣で活躍する真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが=吉政)といった面々が続々と大坂城に入城して来ていたわけで(10月7日参照>>)・・・

一説には、如安と右近の追放を知った大坂方が、彼らを大坂城に招くべく慌てて使者を走らせたものの、港に到着した時には船が出ていった後で間に合わなかった・・・てな話も囁かれます。

もし、使者が間に合っていたら・・・如安や右近の大坂の陣での活躍が見られたのかも知れませんが、一方で、これが家康の「如安らを大坂城に入らせない」作戦だったのだとしたら、その徹底ぶりはお見事ですな。

マニラに到着後も、もと執政としての手腕をかわれて、現地の日本人町の首長を任されて、その運営に活躍したとされる内藤如安は、右近よりも長く生き、寛永三年(1626年)に70代半ばで死去したとの事ですが、そんな如安の活躍を縁として、現在、かつて八木城のあった京都府南丹市八木町とマニラは姉妹都市の提携がなされているのだとか。。。

三好政権の終焉を経験し、織田政権から豊臣政権で奮闘し、江戸幕府を見ずして去った内藤如安・・・まさに戦国を生き抜いた武将と言えるでしょう。

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2020年8月28日 (金)

陰に日向に徳川家康を支えた生母~於大の方(伝通院)

 

慶長七年(1602年)8月28日、徳川家康の生母である於大の方が75歳で死去しました。

・・・・・・・

晩年に出家して伝通院(でんづういん)と号した徳川家康(とくがわいえやす)のお母ちゃんは、江戸時代の記録に「御大方」とあり、朝廷から官位を賜った時の(いみな)「大子」なので、実名は「大」であったというのが一般的ですが、思うに、コレ、家康さんが将軍になったから「大」って名前になった?気がしないでもない・・・

とは言え、この呼び方が一般的なので、本日は於大の方(おだいのかた)と呼ぶことにさせていただきます。

・‥…━━━☆

で、この於大の方は、享禄元年(1528年)に、尾張(おわり=愛知県西部)知多(ちた)郡に勢力を持つ水野(みずの)緒川城(おがわじょう=愛知県知多郡東浦町)にて水野忠政(みずのただまさ)と、その妻の於富の方(おとみのかた=華陽院・於満の方とも)との間に生まれます(養女説あり)

この頃の水野氏は尾張南部や西三河に勢力を持つ豪族でしたが、世は戦国群雄割拠の真っただ中・・・水野としても安心してはいられない状況でした。

そんなこんなの享禄二年(1529年)11月に、念願の三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たしたのが岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に拠点を持つ松平清康(まつだいらきよやす=家康の祖父)でした。

一説には、この頃、一触即発状態だった水野と松平の中で、メッチャ美人だった忠政嫁の於富の方に惚れ込んだヤモメの清康が「嫁に欲しい」と言って、忠政と離縁して松平に嫁ぐことになった・・・らしいですが、

さすがに、政略結婚全盛のご時世に「そんな事あるんかいな?」って気がしないでもない・・・

どちらかと言うと、勢力を増して来た隣国の松平に対して、敵意が無い事を示すための和睦の証としての人質みたいな?感じだったような気がしますが、とにもかくにも、ここで水野忠政と離縁した於富の方は、幼い娘=於大の方を連れて、松平清康の継室(けいしつ=後妻)として嫁ぎます(異説あり)

ところが、それから10年も経たない天文四年(1535年)12月5日、当時は清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めていた陣中で、清康は家臣に斬殺されてしまうのです(12月5日参照>>)

25歳の若さの上り調子だった当主=清康を失ったうえ、後継ぎの息子=松平広忠(ひろただ=家康の父)が未だ10歳の若年とあって、松平は瞬く間に衰退し、広忠も一時は流浪の身となり、領国へ戻る事すらできませんでしたが、やがて天文六年(1537年)に旧臣の大久保忠俊(おおくぼただとし)が、内紛で占領されていた岡崎城を奪回した事や、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと=氏輝の弟)(6月10日参照>>)の支援を受けた事で、何とか広忠は三河に戻る事ができたのでした。

以来、松平は今川に従属する形で生きていく事になります。

Odainokata700a 一方、清康の死で以って、松平との縁が切れたと感じた水野忠政は、再び縁を結ぶべく、新当主の広忠と於富の方の連れ子=於大の方との縁組を進め、天文十年(1541年)広忠16歳&於大14歳の若き夫婦が結ばれました。

翌・天文十一年(1542年)、二人の間に長男の竹千代(たけちよ)=後の徳川家康が誕生します。
(名前が変わるとややこしいので、以下、竹千代君は家康さんの名で呼ばせていただきます)

完全なる政略結婚とは言え、いや、むしろ、松平&水野両家の架け橋となるべく役目を担っての結婚だからこそ、仲睦まじい日々を送りつつ、後継ぎとなるべく男子を無事出産できた事は、於大の方にとっても、最高の幸せだった事でしょう。

しかし、その幸せは長くは続きませんでした。

天文十二年(1543年)、実家の父の水野忠政が亡くなり、その後を継いだ於大の方の兄=水野信元(のぶもと)が、現在、今川と絶賛敵対中の織田信秀に協力する姿勢を見せたのです。

しかも、この同時期に松平家で起こった内紛で広忠の後見人だった叔父=松平信孝(のぶたか=清康の弟)織田方につく事になり(8月27日参照>>)松平と織田の関係はますます険悪な物になって行きますが、未だ弱小の松平・・・そうなれば、今川の庇護無しでは生き抜いていけません。

おそらく悩んだであろう広忠は「於大の方を切る」という決断をします。
(ア…「斬る」やなくて「縁を切る」の「切る」です)

於大の方を離縁して、実家の水野に送り返したのです。

もちろん、跡取り息子の家康は松平のまま・・・つまり、わずか3歳の家康と母=於大の方は、ここで生き別れとなってしまったのです。

水野の実家に戻された於大の方は、水野氏の刈谷城(かりやじょう=愛知県刈谷市)内の椎の木屋敷(しいのきやしき)に住んでいたとされますが、やがて天文十六年(1547年)、兄=信元の意向により、阿古居城(あこいじょう=愛知県知多郡阿久比町・後の坂部城)の城主である久松俊勝(ひさまつとしかつ)再婚します。

しかし、この於大の方の再婚と同じ年・・・更なる関係強化を図る広忠が、未だ6歳の家康を今川へ人質に差し出すのですが、それが、あろうことか、駿府(すんぷ=静岡県静岡市・今川の本拠)に行く途中で敵対する織田信秀に奪われ尾張の古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市中区)に送られてしまうのです(8月2日参照>>)
(現在では奪われたのではなく、はなから織田への人質として送られた説も浮上しています)

とにもかくにも、この先2年間、家康は織田の下で人質生活を送る事になるのですが、その間の天文十八年(1549年)3月、父の松平広忠が、未だ24の若さで祖父と同じような亡くなり方=家臣によって殺されてしまうのです(3月6日参照>>)(死因については異説あり)

これによって松平の後継は唯一の正室腹の男子である家康・・・という事になるわけですが、現時点では織田の人質状態なわけで・・・

そこで、松平を今川傘下につなぎとめておきたい今川義元は、配下の太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)を総大将に、織田信秀の息子=織田信広(のぶひろ・信長の異母兄)が城主を務めていた安祥城(あんしょうじょう=愛知県安城市)を攻めて信広を生け捕りにし、信広と家康の人質交換を持ちかけます(11月6日参照>>)

こうして、家康は、この人質交換で以って、本来の形である今川傘下の人となるわけですが、そこは、やはり人質という事で、松平の本拠である岡崎城には入らせてもらえず(岡崎城には今川の家臣が城番として入ってました)、今川義元のお膝元である駿府にて過ごす事になりますが、唯一の救いは、この駿府に祖母である於富の方がいた事・・・

於富の方は清康亡き後、3回結婚してますが、いずれも夫に先立たれ、今川義元を頼って駿府に来て、ここで尼となっていたのですが、可愛い孫の駿府入りを聞き、義元に頼みまくって家康のそば近くにて、元服するまでの間だけ、その養育する事を許されたのです。

おそらく巷の噂にてこの事を知ったであろう母=於大の方も、ホッと胸をなでおろした事でしょう。

というのも、再婚相手の久松俊勝とはなかなかに仲睦まじく、最終的には、二人の間に三男四女をもうける於大の方ですが、やはり遠く離れた長男の家康の事が1番に心配で、常に気を配り、この間にも、バレたら処分の危険を覚悟してコッソリと衣類やお菓子などを家康のもとに送り続けていたと言います。

私事で恐縮ですが、今も、私の中にある於大の方のイメージは、懐かしアニメ「少年徳川家康」での、一休さんの母上様ソックリ(笑)の、あのイメージのまんまです。

まるで大河ドラマのOPを思わせる甲冑(実写)がスモークから現れる中、アニメらしからぬ軍歌のようなテーマソングをバックに、「竹千代を影ながら支えたのは、母・於大の方の深い愛であった」というナレーション。。。

やはり、あのアニメのように、離れていても母子の心はつながっていてほしいなぁ~と・・・いや、おそらく、本当につながっていたのでしょう。

なんせ、この後・・・
今川義元の下で成長し、元服&初陣(【寺部城の戦い】参照>>)を済ませた家康は、あの永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市)の戦い(2015年5月19日参照>>)の先鋒として尾張に侵攻してきた際、こっそりと阿古居城を訪れ16年ぶりの母子の再会を果たしているのです。

しかも、ご存知のように、家康は、この桶狭間キッカケに今川からの独立を果たす(2008年5月19日参照>>)わけですが、その時、即座に於大の方を迎え入れたばかりか、於大の方と現夫の久松俊勝、さらにその子供たちをも松平に迎え入れています。

ただし、久松俊勝が於大の方と結婚する前にもうけていた先妻の子=家康と血縁関係の無い長男の久松信俊(のぶとし)は、清須同盟(1月15日参照>>)が成った後に久松家を継ぎ、松平ではなく、同盟関係となった織田信長(のぶなが=信秀の息子)の家臣となっています。

ここで、ようやく家康と於大の方は同じ屋根の下で暮らす事になり、しばし平穏な母子の時を過ごせたのかも知れませんが、世は未だ戦国・・・悲しい出来事は、また起こります。

天正三年(1560年)、信長から謀反の疑いをかけられた於大の方の兄=水野信元を、同盟を重視する家康が殺害・・・それも、疑いを晴らそうと家康を頼った信元に三河への道案内したのが久松俊勝だったのです。

何も知らず道案内をした後に信元への処分を知った俊勝は、ショックを受け隠居してしまいます。

さらに天正五年(1577年)には、俊勝の連れ子=久松信俊も信長から謀反の疑いをかけられて自害してしまいます。

とは言え、そんな信長も天正十年(1582年)、ご存知の本能寺に倒れてしまう(6月2日参照>>)わけですが、その信長亡き後の主導権争いとも言える天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦い(11月16日参照>>)で、その和睦の条件として、家康側から、相手の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)に人質を差し出す事になった時、

はじめ家康は、あの時、於大の方とともに迎え入れた異父弟(久松俊勝と於大の方の3番目の男子)松平定勝(まつだいらさだかつ)を差し出そうと考えるのですが、於大の方の猛反対により、結局、家康自身の息子=松平秀康(ひでやす=結城秀康・母は於万の方)に決定した(11月21日参照>>)と言います。

一説には、家康の正室である瀬名姫(せなひめ=築山殿・今川義元の姪とされる)が、家康独立後に岡崎に迎え入れられたにも関わらず、岡崎城には入れてもらえなくて、近くの築山(つきやま)に住んでいた(8月29日参照>>)という一件も、今川を嫌う於大の方の猛反対によるものとも言われ、

どうやら、家康は母ちゃんに頭が上がらなかった可能性大・・・って、事は、意外に、あのアニメの美しくか弱いイメージからかけ離れた、強い肝っ玉母ちゃんだったのかも知れませんね。

天正十五年(1587年)には、夫の久松俊勝を亡くし、尼となって伝通院と号した後も、強くしたたかに生きた於大の方は、秀吉亡き後のあの関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡)の戦い(9月15日参照>>)に家康が勝利した後も、

未だ豊臣に忠誠を誓うポーズを取る息子の援護射撃をするように、高台院(こうだいいん=秀吉の正室・おね)に面会したり、秀吉を神と祀る豊国神社(ほうこくじんじゃ)(7月9日参照>>)にお参りしたり・・・と、いかに德川家が豊臣家に対して敵意を持っていないかを演出する役目を果たしています。

もちろん、この後の出来事を知る後世の者からすれば、これは機が熟すまでのかりそめの服従ポーズですが・・・
(一般的には、この関ヶ原の戦いに勝利した事で徳川家康が天下を取ったようなイメージで描かれますが、私個人としては、大坂の陣の直前まで豊臣家が政権を握っていたと考えております。
それについては…
【豊臣秀頼と徳川家康の二条城の会見】>>
●【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】>>
●【関ヶ原~大坂の陣の豊臣と徳川の関係】>>
などをご覧ください)

ただ、残念ながら於大の方は、息子=家康が征夷大将軍に任命される姿を見る事無く、慶長七年(1602年)8月28日、滞在していた伏見城(ふしみじょう=京都府京都市伏見区)にて75歳の生涯を閉じます。

とは言え、すでに家康は、この年の5月から二条城(にじょうじょう=京都市中京区二条通堀川)の建設に着手しています(5月1日参照>>)から、於大の方には、遥か先の徳川の繁栄が見えていたかも知れませんね。。。

なんせ、於大の方が亡くなった、この伏見城にて、この半年後、家康は征夷大将軍の宣旨を受ける事になるのですから・・・
【徳川家康・征夷大将軍への道】>>
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたか?】>>
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2)

2020年6月11日 (木)

弘前藩・津軽家を支えた家老=兼平綱則

 

寛永二年(1625年)6月11日、戦国から江戸初期にかけて津軽家を支えた兼平綱則が死去しました。

・・・・・・・

兼平綱則(かねひらつなのり)は、陸奥(むつ)北部の津軽(つがる=青森県西部)地方を支配した津軽大浦(つがつおおうら)大浦為則(おおうらためのり)、その養子の津軽為信(つがるためのぶ=大浦為信)、さらにその息子の津軽信枚(のぶひら)3代に仕えた重臣で、 小笠原信浄(おがさわらのぶきよ)森岡信元(もりおかのぶもと)とともに「大浦三老」と呼ばれて、その軍事や政事に貢献しました。

その中でも大きな功績は、大浦為則から津軽為信へのお代替わりの時・・・

Tugarutamenobu500 南部(なんぶ)一族の久慈治義(くじはるよし)の次男だったとも、大浦為則の弟の子(つまり甥っ子)とも言われる津軽為信(当時は大浦為信)ですが、

一説には、 津軽為信は、上記のいずれかの後妻の子で、先妻の子供からヒドイ虐待を受けたため、母子ともども大浦為則を頼って保護してもらっていたところ、為則の娘である阿保良(おうら=戌姫)と恋仲になったのだとか・・・

とは言え、そんな美しいロマンスがあったかどうかは微妙なところです。

なんせ、この大浦為則さん・・・陸奥大浦城(おおうらじょう=青森県弘前市)の城主でありましたが、生来、体が弱く病気がちで、政務はほとんど家臣に任せていたらしい中で、為則が後継者に恵まれなかったとして、降ってわいた阿保良姫の恋の話から婿養子として為信が入って家督を継いだという事になってるのですが・・・

実は為則さんには、男子が6人もいたらしい・・・もちろん、この時代ですから、6人の男子がいたとしても全員無事成人するとは限らないし、成人しても後継者に相応しく無い場合もありますが、後々、この6人のうちの二人(つまり阿保良姫の弟2人)が川遊び中に溺死してしまう所なんか、何らかのお家騒動があった感が拭えません。

どうやら、為信の武将としての器量を見抜いていた兼平綱則らが、為信婿入りの一件を強く推し、各方面に十分な根回しをして擁立に成功し・・という感じのようですが、この後、この為信が、江戸時代を通じての弘前藩の祖となった事を見る限り、兼平綱則ら重臣の思いは正しかったような気がします。(津軽為信については12月5日参照>>)

とにもかくにも、こうして大浦家を継いだ為信は大浦姓から津軽姓に変え、その領地を拡大しつつ、奥州南部氏の家臣という立場からの脱却=独立に向けて動き出すのですが、もちろん、その戦いに兼平綱則は従軍して大いに活躍します。

なんせ兼平綱則は重臣ですから、その役割も津軽軍団全体の統率や直轄部隊の采配など多岐にわたります。

主家である南部氏の後継者争いのゴタゴタのスキを突いて、天正十七年(1589年)には、津軽地方にあった南部氏の諸城を津軽為信がほぼ制圧してしまいますが、そこには常に軍師として従う兼平綱則がいたのです。

また兼平綱則は外交交渉にも長けていたと言われ、翌年の天正十八年(1590年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(12月10日参照>>)の際にも、兼平綱則は水面下で奔走し、その生き残りを図ったのだとか・・・

そうです。。。先の津軽為信さんのページ>>にも書かせていただきましたが、この時、秀吉は東北の武将にも、この小田原征伐に参戦するよう大号令をかけますが、この時、東北の多くの武将が迷う中、津軽為信は、取る者もとりあえず、わずか18名の手勢を連れて真っ先に駆け付けて、未だ小田原に向かっている途中の秀吉に謁見・・・

人数こそ少ないものの、最も遠い津軽から、いち早くやって来た彼らに感動した秀吉は、為信に「津軽三郡、会わせ浦一円の所領安堵」=合計3万石の領地を認めた朱印状を与えるのです。

天下人から認めてもらった津軽の地・・・ここで完全に南部氏からの独立を果たしたわけです。

ま、おかげで、宗家の南部氏からは「勝手に独立した裏切者」とみなされ、両者の間に生まれた確執が消える事は無かったみたいですが・・・

やがて、秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦いでは、為信嫡男の津軽信建(のぶたけ)豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の小姓として大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に詰める一方で、父=為信は三男の津軽信枚(のぶひら)とともに東軍として参戦=どっちか生き残り作戦(【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事】のページ参照>>)で、見事やり過ごしました。

慶長十二年(1607年)には、為信と信建がたった2ヶ月の間に病死してしまった事から、信建の息子と信枚の間で後継者争いが生じますが、何とか信枚を後継者とする事で収まりました。

その後、慶長十九年(1614年)に兼平綱則は現役を引退しますが、元和五年(1619年)に幕府から津軽信枚の信濃国川中島藩(かわなかじまはん=長野県長野市松代町→後の松代藩)への転封(てんぽう=国替え・引越)通告が出た際には、いち早く登城して主君=信枚の基にはせ参じて皆を集め、転封反対の大演説を行ったのだとか・・・

彼の見事な演説によって一門&家臣の心が一つになり、一致団結した反対運動を起こします。

おそらくは、やみくもに反対するばかりではなく、お得意の根回しや水面下での色々もやってのけたんでしょうね~
いつしか、その転封の話は無かった事に・・・

それから数年後の寛永二年(1625年)6月11日兼平綱則は、その生涯を閉じました。

お家騒動やら何やらありながらも、江戸時代を通じて存続し、無事、明治維新を迎える弘前藩(ひろさきはん=青森県弘前市)・・・その初代藩主の津軽為信は、独立して一代で大名となった事から
『天運時至り 武将其の器に中(あた)らせ給う』(津軽一統志より)
(独立の)チャンス到来!その力を持つ武将が登場した」
と称され、今でも地元の英雄として親しまれているそうですが、

そこには、先手必勝で主君の前を駆け抜け、その舞台を整えた兼平綱則の姿もあったのです。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2020年5月20日 (水)

江戸幕府の基礎固め~家康のブレーンで足利学校の校長・閑室元佶

 

慶長十七年(1612年)5月20日、戦国の終りから江戸時代初めに活躍した軍師=閑室元佶が死去しました。

・・・・・・・

閑室元佶(かんしつ げんきつ)は、あの関ヶ原の開戦の日取りを決めた軍配者的軍師として知られる僧・・・別号が三要でもあるので三要元佶(さんようげんきつ)とも、後に京都の円光寺(えんこうじ=現在は京都市左京区)を開山する事から円光寺元佶(えんこうじげんきつ)とも呼ばれます。

その生まれは肥前(ひぜん=佐賀県)で、父は、晴気城(はるけじょう=佐賀県小城市小城町)主の千葉胤連(ちばたねつら)で、その愛妾が野辺田伝之助に嫁いでから生まれたというご落胤説もありますが、一般的にはその野辺田伝之助の実子とされてます。

幼い頃に京に上り、円通寺(えんつうじ=京都市左京区岩倉)にて出家して勉学に励んだ後、京都の南禅寺(なんぜんじ=京都市左京区)を経て足利学校(あしかががっこう=現在の栃木県足利市にあった平安か鎌倉時代に創設されたとされる中世の高等教育機関)の9代目庠主(しょうしゅ=校長)となり、足利学校の中興の祖と称されます。

というのは・・・
上記の通り平安か鎌倉の時代に創立した足利学校も、幾度かの政権交代での浮き沈みがあったわけですが、

室町時代に衰退していたのを、その後の室町後半=戦国の時代に関東管領(かんとうかんれい=将軍の代わりに関東を支配する鎌倉公方の補佐役)だった上杉憲実(うえすぎのりざね)が再興し、さらに、その後に関東を牛耳る事になった北条氏政(ほうじょううじまさ)が支援していた頃には、あのフランシスコ・ザビエル「日本一のアカデミー」と称するほどだったものの、

その北条が、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(おだわらせいばつ)(7月5日参照>>)で滅びた後に、所領も奪われ、さらに古典モノが大好きだった秀吉の甥っ子=豊臣秀次(ひでつぐ)が足利学校の蔵書を大量に持ち出そうとした事があったようで・・・

その時にそれを阻止したのが徳川家康(とくがわいえやす)・・・で、この時に家康に働きかけたのが閑室元佶だったらしく、無事、蔵書が守られたと同時に、この時の交渉の際のアレやコレやで、家康と元佶の間には、かなりの信頼関係が生まれたのだとか・・・

つまり、ここから徳川の支援を受ける事になって、足利学校は再び繁栄期を迎える事になるので、元佶は足利学校の中興の祖という事になるわけです。

もちろん、ここで家康と親しくなった元佶は、吉凶を占ったりする僧としての役割だけでなく、足利学校の長としての知識をフル活用して、軍師的な役割も担い、家康のブレーンの一人に数えられるようになります。

「関ヶ原御出陣の節 日取 御吉凶等考差上之也」
と、関ヶ原における開戦の日取りや家康の動向も元佶がアドバイス・・・ご存知のように、その結果は見事に家康の勝利でした。

Nabesimakatusige700a また、この関ヶ原では、自らの故郷である肥前の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が、始め西軍として参加した(10月20日参照>>)事で、戦後に窮地に立たされるのですが、すかさず家康に働きかけた元佶の尽力により、無事、改易を回避したのだとか・・・

 .
この同じ年(慶長五年=1600年)に南禅寺の住持(じゅうじ=寺主)となりますが、家康の希望もあって開幕したばかりの江戸幕府の政治にも関与する事になります。

具体的には、板倉勝重(いたくらかつしげ)金地院崇伝(こんちいんすうでん=以心崇伝)らととも寺院の訴訟に関する事務的処理=いわゆる寺社奉行(じしゃぶぎょう)のような職務をこなしたり、

慶長十二年(1607年)に亡くなった相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)西笑承兌(せいしょうじょうたい)の後を引き継いで、朱印状(しゅいんじょう=海外渡航許可証)の発行や、それを携帯する朱印船(しゅいんせん=海外交易を行う船)の管理などの役割をこなしています。

さらに元佶は、やはり家康の肝いりで京都の伏見(ふしみ=京都市伏見区)足利学校の分校(伏見学校)を開設して、自らの持てる知識を後輩に与えて軍配者的軍師や軍医などの育成を考えてカリキュラムを組み、多くの人材を輩出するのですが、

やがて彼の思いとはうらはらに、江戸時代という平和が訪れた日本では、軍事よりも平時の事務的役割が重用されるようになった事から、結局は、伏見学校も、そして本家の足利学校も、日本の最高学府というよりは地元の人が学ぶ場所、あるいは豊富な蔵書を持つ図書館のような存在になっていったようです。

一方、その伏見学校の開校と同時に、その敷地の一角に円光寺を開山した元佶は、これまでは人の手によって書き写して残していた仏典や古書などを活版印刷で活字化して出版します。

それは、『孔子家語(こうしけご=『論語』に漏れた孔子説話)『六韜(りくとう=中国の兵法書)にはじまり、『貞観政要(じょうがんせいよう=中国唐の太宗の言行録)』『吾妻鏡(あづまかがみ=鎌倉幕府公式の歴史書)などなど・・・

これらは円光寺版(伏見版)と呼ばれ、この先、江戸時代を通じて日本人の文化&教育の水準が世界最高水準に導かれる事の第1段階となるわけです。

晩年には、例の関ヶ原での一件を感謝した鍋島家から、出身地の佐賀県小城市(おぎし)に寺領120石を寄進され、そこに三岳寺(さんがくじ)を開山しました。

それからほどない慶長十七年(1612年)5月20日閑室元佶は、この世を去ります。

同じ家康のブレーンとして、逆らう者には容赦なく鉄槌を加えた金地院崇伝(1月20日参照>>)とは違い、

どちらかと言えば穏やかで地味なブレーンではありましたが、江戸幕府初期の基礎固めに関与したその功績は大きく、まさに縁の下の力持ちという人だったのです。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

より以前の記事一覧