2020年9月24日 (木)

戦国乱世を駆け抜けた異彩~松永久秀の甥っ子・内藤如安

 

 慶長十九年(1614年)9月24日、三好長慶や足利義昭や小西行長に仕えた内藤如安が、キリシタン禁止令を受けて国外追放となりました。

・・・・・・・・

内藤如安(ないとうじょあん)の如安は、永禄七年(1564年)=15歳の頃にキリスト教に入信した時の洗礼名のジョアンの音の響きを漢字で表した物で、本名は内藤忠俊(ただとし)なのですが、本日は有名な方の内藤如安さんと呼ばせていただきます。

で、本日の主役=内藤如安は天文十九年(1550年)頃(はっきりしません)八木城(やぎじょう=京都府南丹市八木町)内藤宗勝(ないとうそうしょう)の息子として生まれます。

お父さんの内藤宗勝は、あの戦国初の天下人と言われる三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣で、もと名を松永長頼(まつなが ながより)と言い、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも大活躍の松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)の弟なのですが(つまり如安は久秀の甥っ子、実は、三好政権内で先に頭角を現したのは、この弟の方で、なんなら、兄=久秀は「弟の七光りで出世した」なんて陰口たたかれてたくらいの大活躍で、長慶からの信頼も篤かったんです。

 なんせ天文二十二年(1553年)には、丹波(たんば=兵庫県北東部・大阪府北西部)一国を牛耳る波多野晴通(はたのはるみち=波多野秀治の父)八上城(やかみじょう=兵庫県丹波篠山市)を攻撃中に、敵方が守護代(しゅごだい=副知事)内藤国貞(ないとうくにさだ)を討ち取って、国貞の八木城を奪った事を聞くないなや、即座に八木城に取って返してまたたく間に奪還したばかりか、その後に波多野晴通を降伏させて、逆に丹波のほとんどを手中に収めたくらいですから・・・

そして、その八木城奪還後に亡き国貞の娘(妹説もあり)と結婚して松永長頼から内藤宗勝に名を変えて内藤家を継ぐ立場になった人なのです。
(実際には国貞の息子=貞勝が後を継ぎ、宗勝は後見人ですが、事実上は家内を掌握していたとされます)

そんな松永長頼改め内藤宗勝を父に持つ内藤如安は、三好家が衰退の一途をたどる中でも足利将軍家を仰ぐ内藤家の代表の如く、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋・覚慶)が、上洛後に、あの織田信長(おだのぶなが)と対立した元亀四年(天正元年=1573年)(7月18日参照>>)も、槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)にて将軍=義昭方として奮戦しています。

しかし、ご存知のように、この戦いに敗れた義昭は京都を追われ、身を寄せていた若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)も自刃したため(11月16日参照>>)、義昭は毛利輝元(もうりてるもと)を頼って備後(びんご=広島県東部)鞆の浦(とものうら=広島県福山市)に下向しますが、この時にも、内藤如安は、義昭と行動をともにしていたと言います。

ところが、この間の天正四年(1576年)、父の宗勝が、信長の命を受けた明智光秀(あけちみつひで)の侵攻によってゴタゴタになっていた丹波内での戦い=和藤合戦(わとうがっせん)(6月20日参照>>)にて討死してしまいます。
(宗勝の死亡時期については永禄六年(1563年)説&永禄八年(1565年)説もあり)

これによって内藤家は、名実ともにあの国貞の息子=内藤貞勝(さだかつ)が継ぐ事になり、如安は、その執政(しっせい=家老)の立場となりますが、宗勝を失った影響は大きく、天正六年(1578年)に丹波平定まい進中の明智光秀に攻められて八木城は落城・・・内藤本家は滅亡してしまいます。

その後、ご存知のように天正十年(1582年)6月に信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)、謀反を起こした明智光秀を倒して(6月13日参照>>)、まるで織田政権を引き継ぐようにトップに躍り出て来た豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月24日参照>>)をおっぱじめた天正十三年(1585年)頃、如安は、しばしの沈黙を破り、その秀吉の家臣である小西行長(こにしゆきなが)に仕える武将として、再び表舞台に登場します。

これは、行長の小西家が、内藤家と親戚だった(3代前に枝分かれ?)事で、同族のよしみで召し抱えたとも言われますが、ご存知のように小西行長も敬虔なクリスチャンなので、そのあたりのよしみもあったのかも知れません。

Bunrokunoekipusan700a とにもかくにも、もともとは商人だった小西行長は、武将として戦略や采配に長けた如安の能力に大いに惚れ込んで重臣に取り立て、小西姓を名乗らせるくらい重用したのです。

それに応えるように如安も、文禄元年(1592年)に起こった朝鮮出兵=文禄の役(1月26日参照>>)では、先鋒を務める事になった行長に従って各地を転戦する一方で、行長の密命を受けて(みん=中国)との和睦交渉の使者となり、粘り強い交渉を何度も重ねて和睦をまとめました。
(結局は合意内容に納得しなかった秀吉によって慶長の役が起こりますが…11月20日参照>>

その後、秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦い(年表>>)では、ご存知のように小西行長は西軍として参戦し、大敗の末に捕縛され(9月19日参照>>)石田三成(いしだみつなり)(9月21日参照>>)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月23日参照>>)とともに10月1日に処刑されます(10月1日参照>>)

この時、内藤如安は、行長の弟=小西行景(ゆきかげ)とともに地元である行長の居城=宇土城(うとじょう=熊本県宇土市)におりましたが、ここを攻めて来たのが九州の地にて東軍に与する加藤清正(かとうきよまさ)・・・

9月20日に宇土城近くに陣を構えた清正は、翌・21日に宇土城下を焼き払って宇土城を完全包囲しますが、未だ、関ヶ原での一戦の状況を知らぬ宇土城内の行景&如安らは徹底抗戦の構え・・・実質的な指揮者である如安は、大砲を駆使して迫りくる敵を撃退し続け、約1ヶ月間、宇土城は耐え抜きました。

しかし、やがて九州にも関ヶ原現地の状況が伝えられるようになって兄=行長の死を知った行景は、自らの自決と引き換えに城兵の命を助ける事を条件に、10月14日(23日とも)宇土城は開城となったのでした。

「自らの自決と引き換えに城兵の命を…」
の城兵の中には如安も含まれていたわけで・・・命ながらえた如安は、同じキリシタン大名である有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地である肥前(ひぜん=佐賀県・長崎県)平戸(ひらど=長崎県平戸市)にて、しばらくの間、隠居生活を送る事になりますが、その後、その武勇を惜しんだ加藤清正に客将として迎え入れられます。

さらに慶長八年(1603年)頃には、前田利長(まえだとしなが=前田利家の息子)4000石で迎え入れられ金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に・・・ここでは、やはりキリシタン大名で、すでに前田家の客将となっていた高山右近(たかやまうこん=高山友祥)とともに、前田家の政治や軍事の相談役をこなしながら、キリスト教の布教活動にも力を注ぎました。

しかし、慶長十八年(1613年)12月、あの関ヶ原の戦いに勝利して、現政権内でも確固たる地位を築きつつあった徳川家康(とくがわいえやす)からキリシタン禁止令が発布されます。
(実際には自分=家康の領地のみだった禁教令を全国に広げた物)

キリシタン禁止令そのものは、これまでにも、秀吉時代に、
天正十五年(1587年)の6月18日付けと6月19日付けの物
『天正十五年六月十八日付覚(「御朱印師職古格」神宮文庫)>>
と、慶長元年12月(1597年2月)のサン・フェリペ号事件(2月5日参照>>)のあった時の2回発布されていますが、いずれもバテレン(主にフランシスコ会の宣教師)追放令であって、神社仏閣への破壊行為や奴隷売買などは禁止するものの、信者に対する迫害や無理やり改宗させたりする物では無かったのです。

しかし、今回の家康の禁教令は、いわゆる「キリシタン追放」「キリスト教弾圧」と言われて思い浮かべる、あのキリシタン禁止令そのものだったわけで・・・

かくして 慶長十九年(1614年)9月24日、頑としてキリスト教への信仰を曲げない内藤如安に、国外追放命令が出されます。

もちろん、ともにいる高山右近にも・・・

それから約2週間後の10月7日、如安は妹のジュリア、そして高山右近夫妻(1月5日参照>>)とともに、フィリピンのマニラに向けて旅立ったのです。

ご存知のように、この年は、7月21日には方広寺(ほうこうじ=京都市東山区)鐘銘事件(7月21日参照>>)が勃発し、その5日後には家康が、その方広寺の大仏開眼供養を中止(7月26日参照>>)させたり、翌8月には、何とか衝突を収めようとする大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)側に最後通告を出したり(8月20日参照>>)・・・家康が完全に大坂城の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)潰しにかかって来てた=つまり大坂の陣(年表>>)をおっぱじめる気満々な時期だったわけで・・・

現に、この10月6日~9日にかけては、後の大坂の陣で活躍する真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが=吉政)といった面々が続々と大坂城に入城して来ていたわけで(10月7日参照>>)・・・

一説には、如安と右近の追放を知った大坂方が、彼らを大坂城に招くべく慌てて使者を走らせたものの、港に到着した時には船が出ていった後で間に合わなかった・・・てな話も囁かれます。

もし、使者が間に合っていたら・・・如安や右近の大坂の陣での活躍が見られたのかも知れませんが、一方で、これが家康の「如安らを大坂城に入らせない」作戦だったのだとしたら、その徹底ぶりはお見事ですな。

マニラに到着後も、もと執政としての手腕をかわれて、現地の日本人町の首長を任されて、その運営に活躍したとされる内藤如安は、右近よりも長く生き、寛永三年(1626年)に70代半ばで死去したとの事ですが、そんな如安の活躍を縁として、現在、かつて八木城のあった京都府南丹市八木町とマニラは姉妹都市の提携がなされているのだとか。。。

三好政権の終焉を経験し、織田政権から豊臣政権で奮闘し、江戸幕府を見ずして去った内藤如安・・・まさに戦国を生き抜いた武将と言えるでしょう。

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2020年8月28日 (金)

陰に日向に徳川家康を支えた生母~於大の方(伝通院)

 

慶長七年(1602年)8月28日、徳川家康の生母である於大の方が75歳で死去しました。

・・・・・・・

晩年に出家して伝通院(でんづういん)と号した徳川家康(とくがわいえやす)のお母ちゃんは、江戸時代の記録に「御大方」とあり、朝廷から官位を賜った時の(いみな)「大子」なので、実名は「大」であったというのが一般的ですが、思うに、コレ、家康さんが将軍になったから「大」って名前になった?気がしないでもない・・・

とは言え、この呼び方が一般的なので、本日は於大の方(おだいのかた)と呼ぶことにさせていただきます。

・‥…━━━☆

で、この於大の方は、享禄元年(1528年)に、尾張(おわり=愛知県西部)知多(ちた)郡に勢力を持つ水野(みずの)緒川城(おがわじょう=愛知県知多郡東浦町)にて水野忠政(みずのただまさ)と、その妻の於富の方(おとみのかた=華陽院・於満の方とも)との間に生まれます(養女説あり)

この頃の水野氏は尾張南部や西三河に勢力を持つ豪族でしたが、世は戦国群雄割拠の真っただ中・・・水野としても安心してはいられない状況でした。

そんなこんなの享禄二年(1529年)11月に、念願の三河(みかわ=愛知県東部)統一を果たしたのが岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に拠点を持つ松平清康(まつだいらきよやす=家康の祖父)でした。

一説には、この頃、一触即発状態だった水野と松平の中で、メッチャ美人だった忠政嫁の於富の方に惚れ込んだヤモメの清康が「嫁に欲しい」と言って、忠政と離縁して松平に嫁ぐことになった・・・らしいですが、

さすがに、政略結婚全盛のご時世に「そんな事あるんかいな?」って気がしないでもない・・・

どちらかと言うと、勢力を増して来た隣国の松平に対して、敵意が無い事を示すための和睦の証としての人質みたいな?感じだったような気がしますが、とにもかくにも、ここで水野忠政と離縁した於富の方は、幼い娘=於大の方を連れて、松平清康の継室(けいしつ=後妻)として嫁ぎます(異説あり)

ところが、それから10年も経たない天文四年(1535年)12月5日、当時は清洲三奉行(きよすさんぶぎょう=尾張国守護代の清洲織田に仕える奉行)の一人だった織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の弟=織田信光(のぶみつ)の守る守山城(もりやまじょう=愛知県名古屋市守山区)を攻めていた陣中で、清康は家臣に斬殺されてしまうのです(12月5日参照>>)

25歳の若さの上り調子だった当主=清康を失ったうえ、後継ぎの息子=松平広忠(ひろただ=家康の父)が未だ10歳の若年とあって、松平は瞬く間に衰退し、広忠も一時は流浪の身となり、領国へ戻る事すらできませんでしたが、やがて天文六年(1537年)に旧臣の大久保忠俊(おおくぼただとし)が、内紛で占領されていた岡崎城を奪回した事や、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する今川義元(いまがわよしもと=氏輝の弟)(6月10日参照>>)の支援を受けた事で、何とか広忠は三河に戻る事ができたのでした。

以来、松平は今川に従属する形で生きていく事になります。

Odainokata700a 一方、清康の死で以って、松平との縁が切れたと感じた水野忠政は、再び縁を結ぶべく、新当主の広忠と於富の方の連れ子=於大の方との縁組を進め、天文十年(1541年)広忠16歳&於大14歳の若き夫婦が結ばれました。

翌・天文十一年(1542年)、二人の間に長男の竹千代(たけちよ)=後の徳川家康が誕生します。
(名前が変わるとややこしいので、以下、竹千代君は家康さんの名で呼ばせていただきます)

完全なる政略結婚とは言え、いや、むしろ、松平&水野両家の架け橋となるべく役目を担っての結婚だからこそ、仲睦まじい日々を送りつつ、後継ぎとなるべく男子を無事出産できた事は、於大の方にとっても、最高の幸せだった事でしょう。

しかし、その幸せは長くは続きませんでした。

天文十二年(1543年)、実家の父の水野忠政が亡くなり、その後を継いだ於大の方の兄=水野信元(のぶもと)が、現在、今川と絶賛敵対中の織田信秀に協力する姿勢を見せたのです。

しかも、この同時期に松平家で起こった内紛で広忠の後見人だった叔父=松平信孝(のぶたか=清康の弟)織田方につく事になり(8月27日参照>>)松平と織田の関係はますます険悪な物になって行きますが、未だ弱小の松平・・・そうなれば、今川の庇護無しでは生き抜いていけません。

おそらく悩んだであろう広忠は「於大の方を切る」という決断をします。
(ア…「斬る」やなくて「縁を切る」の「切る」です)

於大の方を離縁して、実家の水野に送り返したのです。

もちろん、跡取り息子の家康は松平のまま・・・つまり、わずか3歳の家康と母=於大の方は、ここで生き別れとなってしまったのです。

水野の実家に戻された於大の方は、水野氏の刈谷城(かりやじょう=愛知県刈谷市)内の椎の木屋敷(しいのきやしき)に住んでいたとされますが、やがて天文十六年(1547年)、兄=信元の意向により、阿古居城(あこいじょう=愛知県知多郡阿久比町・後の坂部城)の城主である久松俊勝(ひさまつとしかつ)再婚します。

しかし、この於大の方の再婚と同じ年・・・更なる関係強化を図る広忠が、未だ6歳の家康を今川へ人質に差し出すのですが、それが、あろうことか、駿府(すんぷ=静岡県静岡市・今川の本拠)に行く途中で敵対する織田信秀に奪われ尾張の古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市中区)に送られてしまうのです(8月2日参照>>)
(現在では奪われたのではなく、はなから織田への人質として送られた説も浮上しています)

とにもかくにも、この先2年間、家康は織田の下で人質生活を送る事になるのですが、その間の天文十八年(1549年)3月、父の松平広忠が、未だ24の若さで祖父と同じような亡くなり方=家臣によって殺されてしまうのです(3月6日参照>>)(死因については異説あり)

これによって松平の後継は唯一の正室腹の男子である家康・・・という事になるわけですが、現時点では織田の人質状態なわけで・・・

そこで、松平を今川傘下につなぎとめておきたい今川義元は、配下の太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)を総大将に、織田信秀の息子=織田信広(のぶひろ・信長の異母兄)が城主を務めていた安祥城(あんしょうじょう=愛知県安城市)を攻めて信広を生け捕りにし、信広と家康の人質交換を持ちかけます(11月6日参照>>)

こうして、家康は、この人質交換で以って、本来の形である今川傘下の人となるわけですが、そこは、やはり人質という事で、松平の本拠である岡崎城には入らせてもらえず(岡崎城には今川の家臣が城番として入ってました)、今川義元のお膝元である駿府にて過ごす事になりますが、唯一の救いは、この駿府に祖母である於富の方がいた事・・・

於富の方は清康亡き後、3回結婚してますが、いずれも夫に先立たれ、今川義元を頼って駿府に来て、ここで尼となっていたのですが、可愛い孫の駿府入りを聞き、義元に頼みまくって家康のそば近くにて、元服するまでの間だけ、その養育する事を許されたのです。

おそらく巷の噂にてこの事を知ったであろう母=於大の方も、ホッと胸をなでおろした事でしょう。

というのも、再婚相手の久松俊勝とはなかなかに仲睦まじく、最終的には、二人の間に三男四女をもうける於大の方ですが、やはり遠く離れた長男の家康の事が1番に心配で、常に気を配り、この間にも、バレたら処分の危険を覚悟してコッソリと衣類やお菓子などを家康のもとに送り続けていたと言います。

私事で恐縮ですが、今も、私の中にある於大の方のイメージは、懐かしアニメ「少年徳川家康」での、一休さんの母上様ソックリ(笑)の、あのイメージのまんまです。

まるで大河ドラマのOPを思わせる甲冑(実写)がスモークから現れる中、アニメらしからぬ軍歌のようなテーマソングをバックに、「竹千代を影ながら支えたのは、母・於大の方の深い愛であった」というナレーション。。。

やはり、あのアニメのように、離れていても母子の心はつながっていてほしいなぁ~と・・・いや、おそらく、本当につながっていたのでしょう。

なんせ、この後・・・
今川義元の下で成長し、元服&初陣(【寺部城の戦い】参照>>)を済ませた家康は、あの永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市)の戦い(2015年5月19日参照>>)の先鋒として尾張に侵攻してきた際、こっそりと阿古居城を訪れ16年ぶりの母子の再会を果たしているのです。

しかも、ご存知のように、家康は、この桶狭間キッカケに今川からの独立を果たす(2008年5月19日参照>>)わけですが、その時、即座に於大の方を迎え入れたばかりか、於大の方と現夫の久松俊勝、さらにその子供たちをも松平に迎え入れています。

ただし、久松俊勝が於大の方と結婚する前にもうけていた先妻の子=家康と血縁関係の無い長男の久松信俊(のぶとし)は、清須同盟(1月15日参照>>)が成った後に久松家を継ぎ、松平ではなく、同盟関係となった織田信長(のぶなが=信秀の息子)の家臣となっています。

ここで、ようやく家康と於大の方は同じ屋根の下で暮らす事になり、しばし平穏な母子の時を過ごせたのかも知れませんが、世は未だ戦国・・・悲しい出来事は、また起こります。

天正三年(1560年)、信長から謀反の疑いをかけられた於大の方の兄=水野信元を、同盟を重視する家康が殺害・・・それも、疑いを晴らそうと家康を頼った信元に三河への道案内したのが久松俊勝だったのです。

何も知らず道案内をした後に信元への処分を知った俊勝は、ショックを受け隠居してしまいます。

さらに天正五年(1577年)には、俊勝の連れ子=久松信俊も信長から謀反の疑いをかけられて自害してしまいます。

とは言え、そんな信長も天正十年(1582年)、ご存知の本能寺に倒れてしまう(6月2日参照>>)わけですが、その信長亡き後の主導権争いとも言える天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦い(11月16日参照>>)で、その和睦の条件として、家康側から、相手の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)に人質を差し出す事になった時、

はじめ家康は、あの時、於大の方とともに迎え入れた異父弟(久松俊勝と於大の方の3番目の男子)松平定勝(まつだいらさだかつ)を差し出そうと考えるのですが、於大の方の猛反対により、結局、家康自身の息子=松平秀康(ひでやす=結城秀康・母は於万の方)に決定した(11月21日参照>>)と言います。

一説には、家康の正室である瀬名姫(せなひめ=築山殿・今川義元の姪とされる)が、家康独立後に岡崎に迎え入れられたにも関わらず、岡崎城には入れてもらえなくて、近くの築山(つきやま)に住んでいた(8月29日参照>>)という一件も、今川を嫌う於大の方の猛反対によるものとも言われ、

どうやら、家康は母ちゃんに頭が上がらなかった可能性大・・・って、事は、意外に、あのアニメの美しくか弱いイメージからかけ離れた、強い肝っ玉母ちゃんだったのかも知れませんね。

天正十五年(1587年)には、夫の久松俊勝を亡くし、尼となって伝通院と号した後も、強くしたたかに生きた於大の方は、秀吉亡き後のあの関ヶ原(せきがはら=岐阜県不破郡)の戦い(9月15日参照>>)に家康が勝利した後も、

未だ豊臣に忠誠を誓うポーズを取る息子の援護射撃をするように、高台院(こうだいいん=秀吉の正室・おね)に面会したり、秀吉を神と祀る豊国神社(ほうこくじんじゃ)(7月9日参照>>)にお参りしたり・・・と、いかに德川家が豊臣家に対して敵意を持っていないかを演出する役目を果たしています。

もちろん、この後の出来事を知る後世の者からすれば、これは機が熟すまでのかりそめの服従ポーズですが・・・
(一般的には、この関ヶ原の戦いに勝利した事で徳川家康が天下を取ったようなイメージで描かれますが、私個人としては、大坂の陣の直前まで豊臣家が政権を握っていたと考えております。
それについては…
【豊臣秀頼と徳川家康の二条城の会見】>>
●【秀吉が次世代に託す武家の家格システム】>>
●【関ヶ原~大坂の陣の豊臣と徳川の関係】>>
などをご覧ください)

ただ、残念ながら於大の方は、息子=家康が征夷大将軍に任命される姿を見る事無く、慶長七年(1602年)8月28日、滞在していた伏見城(ふしみじょう=京都府京都市伏見区)にて75歳の生涯を閉じます。

とは言え、すでに家康は、この年の5月から二条城(にじょうじょう=京都市中京区二条通堀川)の建設に着手しています(5月1日参照>>)から、於大の方には、遥か先の徳川の繁栄が見えていたかも知れませんね。。。

なんせ、於大の方が亡くなった、この伏見城にて、この半年後、家康は征夷大将軍の宣旨を受ける事になるのですから・・・
【徳川家康・征夷大将軍への道】>>
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたか?】>>
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2020年6月11日 (木)

弘前藩・津軽家を支えた家老=兼平綱則

 

寛永二年(1625年)6月11日、戦国から江戸初期にかけて津軽家を支えた兼平綱則が死去しました。

・・・・・・・

兼平綱則(かねひらつなのり)は、陸奥(むつ)北部の津軽(つがる=青森県西部)地方を支配した津軽大浦(つがつおおうら)大浦為則(おおうらためのり)、その養子の津軽為信(つがるためのぶ=大浦為信)、さらにその息子の津軽信枚(のぶひら)3代に仕えた重臣で、 小笠原信浄(おがさわらのぶきよ)森岡信元(もりおかのぶもと)とともに「大浦三老」と呼ばれて、その軍事や政事に貢献しました。

その中でも大きな功績は、大浦為則から津軽為信へのお代替わりの時・・・

Tugarutamenobu500 南部(なんぶ)一族の久慈治義(くじはるよし)の次男だったとも、大浦為則の弟の子(つまり甥っ子)とも言われる津軽為信(当時は大浦為信)ですが、

一説には、 津軽為信は、上記のいずれかの後妻の子で、先妻の子供からヒドイ虐待を受けたため、母子ともども大浦為則を頼って保護してもらっていたところ、為則の娘である阿保良(おうら=戌姫)と恋仲になったのだとか・・・

とは言え、そんな美しいロマンスがあったかどうかは微妙なところです。

なんせ、この大浦為則さん・・・陸奥大浦城(おおうらじょう=青森県弘前市)の城主でありましたが、生来、体が弱く病気がちで、政務はほとんど家臣に任せていたらしい中で、為則が後継者に恵まれなかったとして、降ってわいた阿保良姫の恋の話から婿養子として為信が入って家督を継いだという事になってるのですが・・・

実は為則さんには、男子が6人もいたらしい・・・もちろん、この時代ですから、6人の男子がいたとしても全員無事成人するとは限らないし、成人しても後継者に相応しく無い場合もありますが、後々、この6人のうちの二人(つまり阿保良姫の弟2人)が川遊び中に溺死してしまう所なんか、何らかのお家騒動があった感が拭えません。

どうやら、為信の武将としての器量を見抜いていた兼平綱則らが、為信婿入りの一件を強く推し、各方面に十分な根回しをして擁立に成功し・・という感じのようですが、この後、この為信が、江戸時代を通じての弘前藩の祖となった事を見る限り、兼平綱則ら重臣の思いは正しかったような気がします。(津軽為信については12月5日参照>>)

とにもかくにも、こうして大浦家を継いだ為信は大浦姓から津軽姓に変え、その領地を拡大しつつ、奥州南部氏の家臣という立場からの脱却=独立に向けて動き出すのですが、もちろん、その戦いに兼平綱則は従軍して大いに活躍します。

なんせ兼平綱則は重臣ですから、その役割も津軽軍団全体の統率や直轄部隊の采配など多岐にわたります。

主家である南部氏の後継者争いのゴタゴタのスキを突いて、天正十七年(1589年)には、津軽地方にあった南部氏の諸城を津軽為信がほぼ制圧してしまいますが、そこには常に軍師として従う兼平綱則がいたのです。

また兼平綱則は外交交渉にも長けていたと言われ、翌年の天正十八年(1590年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(12月10日参照>>)の際にも、兼平綱則は水面下で奔走し、その生き残りを図ったのだとか・・・

そうです。。。先の津軽為信さんのページ>>にも書かせていただきましたが、この時、秀吉は東北の武将にも、この小田原征伐に参戦するよう大号令をかけますが、この時、東北の多くの武将が迷う中、津軽為信は、取る者もとりあえず、わずか18名の手勢を連れて真っ先に駆け付けて、未だ小田原に向かっている途中の秀吉に謁見・・・

人数こそ少ないものの、最も遠い津軽から、いち早くやって来た彼らに感動した秀吉は、為信に「津軽三郡、会わせ浦一円の所領安堵」=合計3万石の領地を認めた朱印状を与えるのです。

天下人から認めてもらった津軽の地・・・ここで完全に南部氏からの独立を果たしたわけです。

ま、おかげで、宗家の南部氏からは「勝手に独立した裏切者」とみなされ、両者の間に生まれた確執が消える事は無かったみたいですが・・・

やがて、秀吉亡き後に起きた関ヶ原の戦いでは、為信嫡男の津軽信建(のぶたけ)豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の小姓として大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)に詰める一方で、父=為信は三男の津軽信枚(のぶひら)とともに東軍として参戦=どっちか生き残り作戦(【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事】のページ参照>>)で、見事やり過ごしました。

慶長十二年(1607年)には、為信と信建がたった2ヶ月の間に病死してしまった事から、信建の息子と信枚の間で後継者争いが生じますが、何とか信枚を後継者とする事で収まりました。

その後、慶長十九年(1614年)に兼平綱則は現役を引退しますが、元和五年(1619年)に幕府から津軽信枚の信濃国川中島藩(かわなかじまはん=長野県長野市松代町→後の松代藩)への転封(てんぽう=国替え・引越)通告が出た際には、いち早く登城して主君=信枚の基にはせ参じて皆を集め、転封反対の大演説を行ったのだとか・・・

彼の見事な演説によって一門&家臣の心が一つになり、一致団結した反対運動を起こします。

おそらくは、やみくもに反対するばかりではなく、お得意の根回しや水面下での色々もやってのけたんでしょうね~
いつしか、その転封の話は無かった事に・・・

それから数年後の寛永二年(1625年)6月11日兼平綱則は、その生涯を閉じました。

お家騒動やら何やらありながらも、江戸時代を通じて存続し、無事、明治維新を迎える弘前藩(ひろさきはん=青森県弘前市)・・・その初代藩主の津軽為信は、独立して一代で大名となった事から
『天運時至り 武将其の器に中(あた)らせ給う』(津軽一統志より)
(独立の)チャンス到来!その力を持つ武将が登場した」
と称され、今でも地元の英雄として親しまれているそうですが、

そこには、先手必勝で主君の前を駆け抜け、その舞台を整えた兼平綱則の姿もあったのです。
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2020年5月20日 (水)

江戸幕府の基礎固め~家康のブレーンで足利学校の校長・閑室元佶

 

慶長十七年(1612年)5月20日、戦国の終りから江戸時代初めに活躍した軍師=閑室元佶が死去しました。

・・・・・・・

閑室元佶(かんしつ げんきつ)は、あの関ヶ原の開戦の日取りを決めた軍配者的軍師として知られる僧・・・別号が三要でもあるので三要元佶(さんようげんきつ)とも、後に京都の円光寺(えんこうじ=現在は京都市左京区)を開山する事から円光寺元佶(えんこうじげんきつ)とも呼ばれます。

その生まれは肥前(ひぜん=佐賀県)で、父は、晴気城(はるけじょう=佐賀県小城市小城町)主の千葉胤連(ちばたねつら)で、その愛妾が野辺田伝之助に嫁いでから生まれたというご落胤説もありますが、一般的にはその野辺田伝之助の実子とされてます。

幼い頃に京に上り、円通寺(えんつうじ=京都市左京区岩倉)にて出家して勉学に励んだ後、京都の南禅寺(なんぜんじ=京都市左京区)を経て足利学校(あしかががっこう=現在の栃木県足利市にあった平安か鎌倉時代に創設されたとされる中世の高等教育機関)の9代目庠主(しょうしゅ=校長)となり、足利学校の中興の祖と称されます。

というのは・・・
上記の通り平安か鎌倉の時代に創立した足利学校も、幾度かの政権交代での浮き沈みがあったわけですが、

室町時代に衰退していたのを、その後の室町後半=戦国の時代に関東管領(かんとうかんれい=将軍の代わりに関東を支配する鎌倉公方の補佐役)だった上杉憲実(うえすぎのりざね)が再興し、さらに、その後に関東を牛耳る事になった北条氏政(ほうじょううじまさ)が支援していた頃には、あのフランシスコ・ザビエル「日本一のアカデミー」と称するほどだったものの、

その北条が、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(おだわらせいばつ)(7月5日参照>>)で滅びた後に、所領も奪われ、さらに古典モノが大好きだった秀吉の甥っ子=豊臣秀次(ひでつぐ)が足利学校の蔵書を大量に持ち出そうとした事があったようで・・・

その時にそれを阻止したのが徳川家康(とくがわいえやす)・・・で、この時に家康に働きかけたのが閑室元佶だったらしく、無事、蔵書が守られたと同時に、この時の交渉の際のアレやコレやで、家康と元佶の間には、かなりの信頼関係が生まれたのだとか・・・

つまり、ここから徳川の支援を受ける事になって、足利学校は再び繁栄期を迎える事になるので、元佶は足利学校の中興の祖という事になるわけです。

もちろん、ここで家康と親しくなった元佶は、吉凶を占ったりする僧としての役割だけでなく、足利学校の長としての知識をフル活用して、軍師的な役割も担い、家康のブレーンの一人に数えられるようになります。

「関ヶ原御出陣の節 日取 御吉凶等考差上之也」
と、関ヶ原における開戦の日取りや家康の動向も元佶がアドバイス・・・ご存知のように、その結果は見事に家康の勝利でした。

Nabesimakatusige700a また、この関ヶ原では、自らの故郷である肥前の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が、始め西軍として参加した(10月20日参照>>)事で、戦後に窮地に立たされるのですが、すかさず家康に働きかけた元佶の尽力により、無事、改易を回避したのだとか・・・

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この同じ年(慶長五年=1600年)に南禅寺の住持(じゅうじ=寺主)となりますが、家康の希望もあって開幕したばかりの江戸幕府の政治にも関与する事になります。

具体的には、板倉勝重(いたくらかつしげ)金地院崇伝(こんちいんすうでん=以心崇伝)らととも寺院の訴訟に関する事務的処理=いわゆる寺社奉行(じしゃぶぎょう)のような職務をこなしたり、

慶長十二年(1607年)に亡くなった相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)西笑承兌(せいしょうじょうたい)の後を引き継いで、朱印状(しゅいんじょう=海外渡航許可証)の発行や、それを携帯する朱印船(しゅいんせん=海外交易を行う船)の管理などの役割をこなしています。

さらに元佶は、やはり家康の肝いりで京都の伏見(ふしみ=京都市伏見区)足利学校の分校(伏見学校)を開設して、自らの持てる知識を後輩に与えて軍配者的軍師や軍医などの育成を考えてカリキュラムを組み、多くの人材を輩出するのですが、

やがて彼の思いとはうらはらに、江戸時代という平和が訪れた日本では、軍事よりも平時の事務的役割が重用されるようになった事から、結局は、伏見学校も、そして本家の足利学校も、日本の最高学府というよりは地元の人が学ぶ場所、あるいは豊富な蔵書を持つ図書館のような存在になっていったようです。

一方、その伏見学校の開校と同時に、その敷地の一角に円光寺を開山した元佶は、これまでは人の手によって書き写して残していた仏典や古書などを活版印刷で活字化して出版します。

それは、『孔子家語(こうしけご=『論語』に漏れた孔子説話)『六韜(りくとう=中国の兵法書)にはじまり、『貞観政要(じょうがんせいよう=中国唐の太宗の言行録)』『吾妻鏡(あづまかがみ=鎌倉幕府公式の歴史書)などなど・・・

これらは円光寺版(伏見版)と呼ばれ、この先、江戸時代を通じて日本人の文化&教育の水準が世界最高水準に導かれる事の第1段階となるわけです。

晩年には、例の関ヶ原での一件を感謝した鍋島家から、出身地の佐賀県小城市(おぎし)に寺領120石を寄進され、そこに三岳寺(さんがくじ)を開山しました。

それからほどない慶長十七年(1612年)5月20日閑室元佶は、この世を去ります。

同じ家康のブレーンとして、逆らう者には容赦なく鉄槌を加えた金地院崇伝(1月20日参照>>)とは違い、

どちらかと言えば穏やかで地味なブレーンではありましたが、江戸幕府初期の基礎固めに関与したその功績は大きく、まさに縁の下の力持ちという人だったのです。
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2020年1月23日 (木)

徳川幕府の初期を支えた学者~林羅山の最期

 

明暦三年(1657年)1月23日、徳川幕府初期の4代の将軍に仕えた学者・林羅山が死去しました。

・・・・・・・

林羅山(はやしらざん)は、加賀(かが=石川県南西部)の国の武士の末裔と言われる林信時(のぶとき)の長子として天正十一年(1583年)に京都の四条にて生まれたとされますが、当時、父が病弱で働けず、かなりの貧乏生活だったらしい・・・

Hayasirazan600a そんな中、父がある人から「鐘の銘文を書いてほしい」と頼まれたものの、病気のために思うように事が進んでしなかったところ、見かねた羅山がサラッと書いて見せ、それが見事な銘文だった事で周囲は大いに驚いたのだとか・・・これが羅山7歳の時。

さらに8歳の時は、となりで、とある武士が『太平記』を読むのを聴いていて、すぐさま、そのすべてをそらんじて、
「この子は、1度聞いた物を全部覚えるスゴイ子供だ」
と人々は驚いたのだとか・・・

とは言え、いくら聡明でも貧乏は貧乏・・・あまりの貧乏っぷりに、ほどなく米穀商を営んでいた叔父の吉勝(よしかつ)のもとに養子に出されますが、その後、13歳にて建仁寺(けんにんじ=京都市東山区)に入って仏教を学びます。

しかし僧になる事は無く・・・というより、むしろ仏教を嫌って儒学(じゅがく=孔子の教え)の書を読みふけり、朱子学(しゅしがく=儒教の新体制)に没頭するのです。

さらに独学で勉強を続けていた中、20歳の頃に朱子学の大家=藤原惺窩(ふじわらせいか)に出会い即座に入門・・・与えた知識をどんどん吸収していく羅山の天才ぶりを大いに喜んだ惺窩は、慶長十年(1605年)、二条城(にじょうじょう=京都市中京区)に赴いて羅山を徳川家康(とくがわいえやす)に紹介します。

有名学者の惺窩の紹介という事もあって、家康はすぐに羅山を召し抱え、羅山は23歳の若さで家康のブレーンの一人となったのです。

その後、京都と駿河(するが=静岡県東部)を行き来して、徳川の家臣たちへの朱子学研修に務めるかたわら、例の大坂の陣の発端となった方広寺(ほうこうじ=京都府京都市東山区)の銘文事件(7月21日参照>>)にも関与・・・

豊臣秀頼(とよとみひでより=豊臣秀吉の息子)が寄進した方広寺の鐘の銘文にかかれていた『国家安康』の文字列を「家康の名を分断して呪っている」、同じく『君臣豊楽』の文字列を「豊臣家の繁栄を願う」、という意味だとイチャモンをつけた金地院崇伝(こんちいん すうでん=以心崇伝)南光坊天海(なんこうぼうてんかい)ら両家康ブレーンを後押しするがの如く、羅山も『右僕射源朝臣家康』「家康を射る」という意味だと称しています。

ま、この数年前には、家康の命令によって、嫌っていたはずの僧になって道春(どうしゅん)と号していますので、もはや身も心も徳川ドップリの人になっていたのでしょうね。

と言っても、コレ↑は悪口じゃないですよ~
なんせ家康に雇われて、徳川家のもとで出世していってるわけですから、僧で学者と言えど、徳川家のために&徳川に有利なように行動するのは当たり前の事・・・なんせ、この頃は、まだまだ家康の前に豊臣が立ちはだかってた頃ですから(【関ヶ原~大坂の陣・徳川と豊臣の関係】参照>>)

家康に始まった徳川ドップリは、その後、徳川秀忠(ひでただ)家光(いえみつ)家綱(いえつな)と、4代の将軍に仕えた羅山は、江戸幕府初期の土台造りに大きく貢献していきます。

それは、伝記や歴史書の編さん、古書&古記録の整理にはじまり、『武家諸法度(ぶけしょはっと)(7月7日参照>>)の制定にまで・・・多岐にわたりました。

寛永七年(1630年)には、江戸は上野(うえの=東京都大東区)忍岡に1353坪の土地を与えられ、そこで私塾と文庫と孔子廟を設けて、朱子学の発展と後進の育成に尽力しました。

この私塾は、後に昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ=湯島聖堂)と呼ばれる江戸幕府直轄の教学施設に発展しています。

晩年になっても年間700冊の本を読んで勉学に励んでいたと言われる羅山・・・そんな本の虫だった羅山は、最後の最後に、その命を縮める大きな出来事に遭遇します。

明暦三年(1657年)1月18日に起こったあの明暦の大火です。
【げに恐ろしきは振袖火事】>>
【江戸都市伝説~明暦の大火の謎】>>

三日三晩燃え続け、江戸の町を焦土と化したこの火事で、羅山は自身の邸宅と書庫を焼失してしまいます。

この時、蔵書の中で残ったのは、慌てて手に持って逃げた1冊だけだったとか・・・これに相当なショックを受けたであろう羅山は、火事の4日後の明暦三年(1657年)1月23日75歳にして、この世を去りました。

ところで・・・
羅山に関して、こんな話が残っています。 

ある時、羅山が史記(しき)『樊噲伝(はんかいでん=前漢時代の中国の武将の伝記)について講義をしていると、そばで聞いていた彦根2代藩主の井伊直孝(いいなおたか=井伊直政の息子)が、こんな事を言いました。

樊噲(はんかい)はスゴイ武将で真っ先に弓矢をかいくぐり敵陣に攻めて行ったと言いますが、敵陣に突っ込む勇気なら、僕も負けてません」
と・・・

すると羅山は
「樊噲は卑しい身分の出身ですから、血筋においても、あなた様の方が勝っているでしょうね。
けど、合戦で真っ先に突っ込んでいくのは、むしろ下っ端がやる事で、彼が讃えられるのは、そんな事ではありません。

合戦で活躍するのも武勇ですが、それは武士なら当たり前…樊噲がスゴイのは、例え相手が主君であっても、堂々と諫言(かんげん=目上の人の過失などを指摘して忠告すること)した事です。

敵ばかりではなく、内側も、そして自らの事もじっくりと考えなければなりません。
どうですか?あなたには、それができていますか?」
と答えたのです。

実は、この頃、周囲のあまりのイエスマンぶりに嫌気がさした徳川家光が、病気と称して諸大名に会う事を避けていた事を受けての助言だったとか・・・もちろん、井伊直孝は、心にズシーンと来て、自らの軽さを恥じ、大いに反省したのです。

『常山紀談』によると、この言葉は、世間では「羅山一生の格言」と称されているのだそうです。

人生の最後に失意に見舞われた羅山でしたが、その生涯は、自らの知識と知恵をおしみなく徳川に捧げた有意義な一生だった事でしょう。
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2019年5月 6日 (月)

大坂夏の陣・八尾の戦い~桑名吉成の討死

 

慶長二十年(1615年)5月6日、大坂夏の陣の八尾の戦いにて旧主君・長宗我部盛親と戦った桑名吉成が討死しました。

・・・・・・・・

桑名吉成(くわなよしなり=弥次兵衛)桑名家は、もともとは、あの平清盛(たいらのきよもり)と同じ伊勢平氏で、「その手は桑名の焼き蛤」で有名?(って言っていいのかな?)伊勢(いせ=三重県北中部)桑名(くわな)出身だったので、苗字を桑名と名乗ったとされますが・・・

とりあえず、戦国期にはすでに土佐(とさ=高知県)にいて、吉成の父である桑名藤蔵人(とうぞうじ)やその兄(つまり伯父さん)桑名重定(しげさだ)らが長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の下で、その四国統一(10月19日参照>>)に大活躍した事から中村城(なかむらじょう=高知県四万十市)の城代に抜擢された家柄だったとか・・・

しかし、ご存知のように、長宗我部元親が四国を統一した翌年の天正十三年(1585年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)が、弟の羽柴秀長(はしばひでなが)を総大将にした大軍で以って四国に上陸(7月25日参照>>)・・・敗北を喰らった長宗我部元親は降伏し、なんとか土佐一国の所領を安堵され、今度は、秀吉の配下として生きていく事になります。

その秀吉配下としての戦場は、ほどなく訪れます・・・そう、秀吉の九州平定です。

翌天正十四年(1586年)の4月、かつては豊後(ぶんご=大分県)の王と呼ばれた大友宗麟(おおともそうりん)大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を訪れ、秀吉に薩摩(さつま=鹿児島県)の島津(しまづ)討伐への救援を願い出たのです(4月6日参照>>)

九州と言えば、かつては、この宗麟に加え、日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)肥前(ひぜん=佐賀県)熊と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)がなど群雄割拠していましたが、ここに来て島津中興の祖と呼ばれる島津貴久(たかひさ)の血を受け継ぐ、絆バッチリの島津四兄弟(6月23日参照>>)にことごとく敗れ、
耳川の戦い>>
沖田畷の戦い>>
もう誰も島津の勢いを止められなくなっていたわけで・・・その要請を受けて九州平定へ乗り出す秀吉。

この時代のこういう場合には、直前の戦いで敗れて、その傘下となった者が先頭=矢面に立たされるのが常・・・何たって、未だ本気で味方になったかどうかは怪しいわけで、ここで見事、秀吉のために戦って、その忠誠心を見せてこそ信用に値する事になるわけです。

かくして長宗我部元親とともに、讃岐(さぬき=香川県)仙石秀久(せんごくひでひさ)阿波(あわ=徳島県)十河存保(そごうながやす)らで構成した5千の兵が九州に派遣されますが、上記の通り、長宗我部元親は征服された側の四国勢ですが、仙石秀久は秀吉の四国平定後に配置された側で、今回の出兵では軍監(ぐんかん)という役割・・・総大将では無いので、あくまで3人は対等の立場ではありますが、仙石秀久が長宗我部元親の監視役である事は確か・・・

そんな仙石秀久は、「様子見ながら…」を主張する元親の意見を真っ向から反対し「短期決戦あるのみ!」の主張を押し切り、それぞれがギクシャク感満載のまま戦いへ突入してしまいます。

案の定、あちこちで寸断された秀吉勢は、指揮命令系統もグジャグジャになり、この戸次(へつぎ)川の戦い(11月25日参照>>)秀吉側の大敗北・・・元親は大事な跡取り息子=信親(のぶちか)をも失ってしまうのです。

Kuwanayosinari700a この時の撤退戦で、主君を守って活躍するのが、今回の主役=桑名吉成です。

こういう大敗後の撤退は、大抵困難を極める物・・・なんせ、それまで静観していた地元民や、臨時雇いのような末端の兵士たちが、少しでも名のある武将の首を取って、何とか勝った側からの褒美にありつこうと、一瞬にして落武者狩りに回ってしまうからです。

この時も、落ち武者狩りの集団が一揆と化し、敗軍の将に一気に襲い掛かって来ましたが、その事を予想ずみの吉成は、主君の元親を守りつつ、ある時は身を隠し、ある時は堂々と振舞って相手を蹴散らしつつ、無事、土佐に帰還する事に成功しています。

この時の吉成の働きが、いかに素晴らしかったを物語っているのが、元親の遺言・・・元親は、その死の目前に、四男の盛親(もりちか)を呼び寄せ、
「合戦の際は、必ず吉成を先手として采配を振るわせよ」
と言い残したと言います。

その後、天下統一を果たした秀吉のもとで、元親の後を継いだ盛親とともにいた吉成ですが、やがて訪れたのが、あの関ヶ原の戦い・・・(くわしい合戦の内容については【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞ)

この時、本チャンの関ヶ原では西軍の主力であった南宮山(なんぐうさん=岐阜県大垣市)に布陣していた盛親以下長宗我部軍・・・この時、この南宮山に布陣していたのは、西軍総大将であるものの大坂城に留まっていた毛利輝元(もうりてるもと)の名代として現地で来ていた毛利秀元(ひでもと=輝元とは従兄弟)吉川広家(きっかわひろいえ=同じく輝元の従兄弟)安国寺恵瓊(あんこくじえけい=秀吉の側近で石田三成と通通)(9月23日参照>>)長束正家(なつかまさいえ=豊臣五奉行の一人)(10月3日参照>>) 、そして長宗我部盛親でしたが、

この中で安国寺恵瓊と長束正家は西軍ドップリの主力部隊でしたが、先方に布陣していた吉川広家は、すでに東軍総大将=徳川家康(とくがわいえやす)「戦いに参加しない事で所領を安堵する」の密約を交わしており、その約束通りにまったく軍を動かさず、しかも戦いの状況を後方に報告する事もなかったため、その後方に位置する全員がまったく動かないまま、戦いは東軍の勝利となってしまうのです。

結果的に関ヶ原の本チャンには参加しないままに敗戦を知り、伊賀(いが=三重県西部)から和泉(いずみ=大阪府西南部)を抜けて大坂、さらに土佐へ戻った盛親たち・・・実は、この時、盛親も家康からのお誘いを受けていて、東軍に寝返る事を決意しており、その旨を知らせる使者を家康に送ったものの、その使者が土佐弁丸出しで西軍に見つかってしまい、OKの返事を届けられないまま本チャンを迎えてしまったとも言われています。

とにもかくにも、もし、東軍に寝返る気があったのだとしても、返事が届いていないなら、どのみち敗れた西軍側の人なわけで・・・しかも、戦後のなんやかやの交渉中にややこしい事になり、結局、長宗我部家はお取り潰しとなり(5月15日参照>>) 、本拠の浦戸城(うらどじょう=高知県高知市浦戸)は徳川に接収される事になってしまいました。

しかし、負けたとは言え、関ヶ原では無傷だった長宗我部軍の中には、今回の戦後処理を不服とし、城の明け渡しに反対する者も多数・・・それは、浦戸一揆(うらどいっき)と呼ばれる籠城戦(12月5日参照>>)となりますが、
「このまま抵抗しても、全員がつぶされるだけ…」
と判断した吉成は、知り合いの僧侶を派遣したり、自らも説得当たったりつつ、半ば強硬ではあるものの、何とか開城にこぎつけました。

かくして長宗我部盛親は浪人となり、当然、吉成も浪人となったわけですが、実は、これまでの撤退戦や今回の戦後処理など・・・吉成の手腕に惚れ込んでいた武将がいたのです。

それは藤堂高虎(とうどうたかとら)・・・浅井長政(あざいながまさ)から秀吉、そして家康と渡り歩いていながら、どの主君にも重用される築城の名人=高虎(6月11日参照>>)が、吉成のスゴ腕を求めて二千石で以って彼を召し抱えたのです。

このまま平安な時が続けば、高虎の下で、その政治手腕を発揮できたであろう吉成・・・しかし慶長十九年(1614年)、あの大坂の陣が勃発します。

ご存知、大坂の陣は、江戸にて徳川政権の維持をもくろむ徳川家康にとって、未だ朝廷からも一目置かれ、大坂城に居て一定の支持を受ける目の上のタンコブの秀吉の遺児=豊臣秀頼(とよとみひでより)をせん滅せんと、あらゆる手段を使って大坂方を戦場に引きずり出した戦いです。
(くわしくは【大坂の陣の年表】>>でどうぞ)

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

この時、かつての主君=長宗我部盛親は秀頼に招かれて大坂城へと入りますが、吉成は高虎の配下として、当然、徳川方で参戦します。

かくして慶長二十年(1615年)、戦いも後半の夏の陣

Oosakanatunozin0506 大坂夏の陣
 元和元年五月六日の布陣

 クリックで大きく(背景は
地理院地図>>)

去る4月29日の樫井(かしい=大阪府泉佐野市)の戦い(4月19日参照>>)に負け、紀州一揆(4月28日参照>>)との連携も取れなくなった大坂方は、生駒山地の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指す徳川方に対し、木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)らが今福(大阪市城東区)方面に布陣して北側の京街道をやって来る敵に備え、後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが)らを主力とする部隊が大和口方面隊を迎え撃つ事に・・・

慶長二十年(1615年)5月6日のこの日、後者の大和口方面で起こったのが道明寺・誉田(どうみょうじ・こんだ)の戦いですが、ソチラは4月30日のページ>>でご覧しただくとして……

他方、前者の北側の京街道を進む側で繰り広げられたのが若江・八尾(わかえ・やお)の戦い(2011年5月6日参照>>)です。

八幡(やわた=京都府八幡市)付近で京街道から分かれる東高野街道(ひがしこうやかいどう)を南下した徳川勢が、河内八尾村(やおむら=大阪府八尾市)付近で南北に流れる川の東側に布陣します。

迎え撃つ大坂方は、先の今福から南下して川の西岸に布陣した木村重成隊が若江(わかえ=大阪府東大阪市)付近にて徳川方の先鋒=井伊直孝(いいなおたか)隊と衝突。。。同じく、守備していた京橋口(きょうばしぐち=大阪市城東区)から南下した長宗我部盛親は久宝寺(きゅうほうじ=大阪府八尾市)付近にて藤堂高虎隊とぶつかる・・・そうです、この日、桑名吉成は旧主君&旧同僚たちと戦う事になったのです。

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元和元年卯五月六日之陣備図(高知県立歴史民俗資料館蔵)

この日の朝、すでに道明寺で合戦が始まっているとの情報を受け取っていた藤堂隊は、援助すべく、さらに南下しようと考えていたところ、西に連なる堤防の向こう・・・すぐそばに敵がいる事を知り、軍を西に向けて堤防の側までやって来ます。

南北に広がっていた隊列が、堤防をスタートラインのように一つに合わせた後、タイミングを見計らって一斉に攻めかかると、堤近くの森にいた長宗我部盛親からは朝霧の向こうから紺地に真っ白な餅の旗が迫って来るのが見えました。

「堤の上は狭いので戦い難い」
と旗を降ろして低地へと移動した長宗我部隊に対し、
「敵は逃げるゾ!」
と我先に攻め込む藤堂隊・・・

一方の長宗我部隊は、 盛親の、
「間合いが遠いうちは一人も立つな!」
の命令を忠実に守り、敵が近づいてから、並べた槍の矛先で一斉に叩きつけたたため、功を急いでただ突き進んでいた一部の藤堂隊が乱れに乱れ、その乱れが瞬く間に全体の乱れとなり、将クラス63余騎、歩兵約3000名が討たれ、藤堂隊は手痛い敗北を喰らってしまったのです。

そう、その討たれた中には吉成の姿も・・・享年64、かつて命懸けで守った主君に刃を向けた、その心中には複雑な思いがあったやも知れませぬが、戦国を生きた老臣としては、おそらく、ここを死に場所として猛突進して果てたに違いなく、自らの死に様をも、すでに察していたのかも知れません。

その後の戦いの流れは・・・
上記の通り、長宗我部隊に圧倒され、もはや風前の灯だった藤堂隊でしたが、そこに若江にて木村隊を破った井伊隊が援軍に駆け付けて来た事で、分が悪いと判断した盛親が持ち場の京橋口へと退きあげたため、合戦の勝敗としては徳川方の勝利という事になります。

そしてご存知のように、ここを破られ、道明寺も突破された大坂方は、この翌日、徳川勢に本拠大坂城を取り囲まれ、総攻撃を受ける事になります。

参照ページ
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】>>
●【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦い】>>

そして、盛親・・・【長宗我部盛親の起死回生を賭けた大坂夏の陣】>>
大坂の陣で焼け落ちる大坂城から脱出するも、後に捕縛された時、
「赤旗(井伊の赤備え)に妨害されて高虎の首を取れんかったんが悔しい」
と言っていたらしい(『常山紀談』)ので、やはり、井伊の援軍が来なければ、この日の八尾での藤堂隊も、かなりヤバかったのでしょうね。
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2019年2月 8日 (金)

「真実」を貫いた交渉の達人…北条氏規

 

慶長五年(1600年)2月8日、北条氏康の息子で小田原征伐から生き残った北条氏規が、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

天文十四年(1545年)に、相模(さがみ=神奈川県)を制する北条(ほうじょう=鎌倉時代の北条と区別して後北条とも)の第3代当主=北条氏康(ほうじょう じやす)の四男として生まれた北条氏規(うじのり)は、幼い頃に駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)に、人質として送られたと言います。

もともと、今川家内での後継者争いの時に、北条初代の北条早雲(そううん)こと伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)が、自らの姉(もしくは妹)が嫁いでいた縁から、その息子の今川氏親(うじちか)を支援して第9代当主に据える事に成功し、その後も家臣として補佐(6月21日の前半部分参照>>)した事から、本来、北条と今川の関係は良かったはずだったのですが、

ご存知のように、その後の早雲が、堀越公方(ほりごえくぼう)から伊豆(いず)を奪い(10月11日参照>>)小田原城(おだわらじょう)を奪取し(2月16日参照>>)、さらに立河原(たちがわら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)から相模制覇(7月13日参照>>)へと、どんどん関東に侵出していき、これが、今川との亀裂を生じさせてしまうのです。

なんせ、自力で奪い取った以上、その場所は、当然、北条自身が支配する事になる・・・つまり、一応、今川の配下という立場を取りながらも、実質支配している領地が増えていくわけです。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そんな北条は、公方(古河公方&小弓公方=室町幕府政権下での公式関東支配者)関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)両上杉家(扇谷上杉&山内上杉)などの旧来の関東支配者から見ると、いわゆる「成り上がりのヨソ者」ように感じるわけで・・・

そんな中、早雲が没して第2代当主の北条氏綱(うじつな=早雲の息子)の時代に入ると、敵の敵は味方とばかりに、それまで敵対していた両上杉家は和睦し、そこに公方らも加わり、さらに甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)安房(あわ=千葉南部)里見(さとみ)も味方につけ、まるで北条包囲網のような物が形成されていくのですが、

そんなこんなの天文六年(1537年)、後継者争いに打ち勝って(6月10日参照>>)、亡き先代=氏親の後を継いだ今川義元(よしもと)が、北条包囲網の一翼である武田信虎の娘を娶って同盟を結んだ事から、氏綱は今川と完全に決別し、逆に、公方同士でモメはじめた小弓公方(おゆみくぼう)を倒して、古河公方(こがくぼう)足利晴氏(あしかがはるうじ)に接近・・・娘を嫁がせて、足利の身内となったばかりか、晴氏から関東管領職に任じられ『伊佐早文書』に依る)、両上杉をよそに、もはや「関東を支配してもイイヨ権」を獲得したような状態になっていくわけで(11月28日参照>>)

さらにノリノリの北条は駿河へと侵攻し、北条と今川の間には世に河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる戦いが展開されますが、間もなく、北条&武田&今川には三者三様の転換期が訪れるのです。

北条では、氏綱の後を継いだ北条氏康(うじやす)が戦国三大奇襲の一つに数えられる川越(かわごえ=埼玉県川越市)夜戦を成功させて(4月20日参照>>)、公方や上杉を壊滅状態に追い込み(天文十五年=1546年)

武田家では信虎の嫡子=武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信)による父の追放劇(6月14日参照>>)政権交代(天文十年=1541年)して方針転換・・・新当主の信玄の目は駿河&関東ではなく隣国=信濃(しなの=長野県)→北東方面へと向く事に(6月24日参照>>)・・・

さらに今川でも、支援を望む三河(みかわ=愛知県東部)松平広忠(まつだいらひろただ=徳徳川家康の父)との関係から、三河の向こうにある尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(のぶひで=信長の父)との対立が激しくなり(3月6日参照>>)、どっちかと言うとそっちに集注したい義元としては、自身の後方と側面にあたる甲斐や関東とはモメたくないわけで・・・

で、天文二十三年(1554年)、北条&今川&武田による甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれるわけですが、ご存知のように、その同盟の証となるのが、三者それぞれの息子と娘による婚姻・・・
武田義信(よしのぶ=信玄の息子)×嶺松院(れいしょういん=義元の娘)
北条氏政(うじまさ=氏康の息子)×黄梅院(おうばいいん=信玄の娘)
今川氏真(うじざね=義元の息子)×早川殿(はやかわどの=氏康の娘)

以前、「偶然にも、この時のそれぞれの息子たちが全員同い歳」てな事を書かせていただきましたが、息子は同じ歳でも、娘はそうでは無かったようで・・・北条の早川殿の生年が不明なので確実な事は言えないのですが、どうやら、この同盟の話が出た時点での早川殿は、未だ結婚できるような年齢では無かったようなのです。

上記の天文二十三年(1554年)という年号は、最後までお預けだった氏真と早川殿の婚姻が行われた事によって「正式に同盟が締結された」年でありますが、当然、同盟がその日一日で成る事はないわけで・・・現に、他の2組は、前年や前々年に正式に婚姻してます。

つまり、同盟の話が出始めた段階では、未だ婚姻の年齢に達していなかった早川殿の代わりに北条氏規は今川へと送られた・・・という事のようです。
(書いてるうちに、ものすご~く長い前置きになってしまって申し訳ないデスm(_ _)m)

なんせ、この氏規でさえ、天文二十三年(1554年)なら9歳か10歳くらいですから、その妹である早川殿で、しかも同盟の話が出始めたであろう3~4年前なら、かなり幼いですので、その話もアリかな?と思います。

とは言え、早川殿が今川に嫁に行き、正式に同盟が成された後も、氏規は、しばらくの間は駿河に留まっていたようですが、ご存知のように、この頃には、あの徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平竹千代→元信)も、今川にて人質生活を送っており(2月5日参照>>)、2歳違いで同じ人質という境遇の二人ですから、おそらくは互いを知る間柄であった事でしょう。

そんな中、永禄五年(1562年)もしくは永禄六年(1563年)に北条家に戻ったとおぼしき氏規は、韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)館林城(たてばやしじょう=群馬県館林市安房)の城主を歴任しつつ、安房の里見や上総(かずさ=千葉県中部)武田(たけだ)との戦いで功を挙げる武勇の持主でありましたが、何と言っても、特筆すべきは、他国との交渉術・・・

永禄十二年(1569年)の上杉謙信(うえすぎけんしん)との越相同盟(えつそうどうめい)(上杉景虎のページ参照>>)やら、天正四年(1576年)の足利義昭(よしあき=第15代室町幕府将軍)との交渉やら、天正五年(1577年)の武田勝頼(かつより=信玄の息子)との甲相同盟(こうそうどうめい)強化(北条夫人のページ参照>>)やら、天正十年(1582年)の信長横死直後の天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)(10月29日参照>>)でも・・・とにもかくにも、こういった同盟や和睦交渉の舞台に、氏規は頻繁に登場して来ます。

そんな氏規の一世一代の交渉となったのが天正十八年(1590年)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)の時です。

信長亡き後のこの数年・・・賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)に勝利して織田家内の主導権を握った秀吉は、小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月15日参照>>)織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)を丸め込んで家康を黙らせた後、紀州(きしゅう=和歌山県)(3月28日参照>>)四国(7月25日参照>>)北陸飛騨(8月6日参照>>)九州(4月17日参照>>)次々に平定し、天正十四年(1586年)には太政大臣に任命されて豊臣の姓を賜る(12月19日参照>>)という快挙を成し遂げ、北野大茶会を開く(10月1日参照>>)わ、自身の豪邸=聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)を招く(4月14日参照>>)わ、もはや、ほぼほほ天下人だったわけですが、その秀吉にとって未だ手つかずの場所だったのが、関東の北条と、その向こうにある東北一帯(←ただし越後を除く…上杉景勝(かげかつ=謙信の養子)は天正十四年に上洛して臣従…6月15日参照>>だったのです。

ただし、そんな北条も、いち時は秀吉の傘下となるそぶりを見せていた事で、あの天正壬午の乱以来、徳川と北条の境界線あたりで、どちらにも属さぬ独立を模索していた元武田の家臣=真田昌幸(さなだまさゆき)とのゴタゴタ(8月2日参照>>)では、秀吉が彼らの間に入って話を収める一幕もあった事はあったのですが、

一方で、かの後陽成天皇の聚楽第行幸の際に、傘下の武将はもちろん東国の武将までもが使者を派遣したにも関わらず、北条が完全スルーして未だに支配地域の拡大姿勢を見せていた事に、秀吉は少々カチンと来ていたようで・・・

そこで、天正十六年(1588年)には、その弁明のために氏規が上洛して秀吉に謁見・・・今年中には前当主の氏政(すでに当主の座は氏直に譲るも実権は握っていた)を上洛させるので…との約束を交わし、何とか、このきな臭い雰囲気を払拭しようとしていたのです。

しかし、そんな氏規の思いは、喧嘩上等イケイケ満杯の兄ちゃんたち=氏政&北条氏照(うじてる=氏康の三男)らには届かなかったようで、結果的にその約束は果たされる事はありませんでした。

そんなこんなの天正十七年(1589年)、北条が真田の名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪取する(10月23日参照>>)という出来事が起こります。

戦国の世を終わらせるべく、秀吉は、有名な太閤検地(たいこうけんち)刀狩り令(7月8日参照>>)とともに、すでに天正十四年の11月4日付けで『関東惣無事令』を、翌・天正十五年の12月3日付けで『奥両国惣無事令』を発布しています。

この『惣無事令(そうぶじれい)というのは、「これまで、戦国の世のおいて武力で以って行われていた領地の奪い合いなど、大名の私的な争いを禁止する」という事で、秀吉が関白の権限で以って行った、まさに、天下統一の証とも言える命令だったわけですが、今回の北条の行為は、完全に違反しているわけで・・・

かくして天正十七年(1589年)11月24日、秀吉は当主=北条氏直宛てに、宣戦布告状を送り、小田原征伐が開始されるのです(11月24日参照>>)

聚楽第での軍議を経て(12月10日参照>>)迫りくる豊臣軍・・・迎え撃つ北条でも、何度も軍議が開かれますが、これが小田原評定(おだわらひょうじょう)=後に長いワリには何も決まらない会議の例えにされるような軍議だったわけで・・・

結局、天正十八年(1590年)の4月に20万の大軍に完全包囲(4月3日参照>>)された小田原城は、3ヶ月後の7月5日、北条の降伏によって開城される事になるのです(7月5日参照>>)

この間には、あの『のぼうの城』のモデルとなった忍城(おしじょう)(6月16日参照>>)や、最も悲惨な八王子城(はちおうじじょう)(6月23日参照>>)、秀吉の巧みさが見える石垣山(いしがきやま)一夜城(6月26日参照>>)・・・など、様々な場面があるのですが、一つ一つは【北条五代の年表】>>(最後のの氏直のところ)から見ていただくとして、

この開城のページにも書かせていただいたように、この小田原城が開城に至った背景には、6月26日の韮山城の開城が大きく影響しているのです。

そう、この時に韮山城の城主だったのが氏規さんで、その説得をしたのが家康・・・今川にて同じ境遇で育った二人が、ここで話し合い、氏規は落城して開城するのではなく、方針転換による開城をしたのでした。

そして氏規は、そのまま小田原城へと入って、未だヤル気満々だった兄たちを説得し、ようやく7月5日の開城となったのです。

もちろん、この後の北条家への処分に関しても、彼はその交渉術を発揮したかも知れません。

なんせ、「自分が切腹する代わりに城兵の命は助けてやってくれ」と願った当主=氏直は高野山への追放に留まり、イケイケだった氏政と氏照の切腹で以って幕が閉じられるのですから・・・(氏直の正室が家康の娘=督姫(とくひめ)だった事も影響していると言われますが)

一族のうちの多くが命断たれる中、その交渉術で、見事、北条宗家の血脈を残した氏規・・・残念ながら、氏直はほどなく病死しますが、氏直とともに高野山に送られていた氏規自身は、その後、秀吉の配下として狭山(さやま=大阪府狭山市)6980石を与えられて生き残り、慶長五年(1600年)2月8日56歳の生涯を閉じます。

その少し前、氏直の死を受けて池田輝政(いけだてるまさ)と再婚する事になった督姫が、氏直の肩身の品だったお守りを、「あなたこそ北条を継ぐ人」とばかりに氏規に渡しにに来るエピソード(11月4日参照>>)は戦国の世に咲く一輪の花のように美しい~ヽ(´▽`)/

Ujinorisyuin ところで、この北条家は、それぞれの武将が、それぞれ特殊な印文が書かれている印判を使用していましたが、今回の氏規さんが用いていたのは『真実』と書かれた印判。
(印判画像は神奈川県立歴史博物館>>様から引用させていただきました→)

その神奈川県立歴史博物館>>(別窓で開きます)によれば、氏規は、高野山へ追放になって以降、この印判を使用するのを止めた?ようなのだとか・・・何か思う所があったのでしょうか?

ひょっとして・・・
その若き頃、真実を胸に秘めて戦場を駆け回り、敵陣に乗り込んで交渉を重ねて来た氏規は、小田原落城で一族を見送り、戦国の終わりを見、血気盛んな武将の心を封印して、北条を残す事、北条を守る事に徹する決意を固めた・・・という事なのかも知れません。
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2018年10月 3日 (水)

長束正家、無念の自刃~関ヶ原・水口岡山城の戦い

慶長五年(1600年)10月3日、関ヶ原での敗戦の後に籠っていた近江水口(岡山)城を出た長束正家が近江桜井谷で自刃しました。

・・・・・・・・・・

豊臣政権下の五奉行の一人=長束正家(なつかまさいえ=「ながつか」とも)は、かつて近江(おうみ=滋賀県)の覇者だった六角氏(ろっかくし)の家臣で、もとは水口城(みなくちじょう滋賀県甲賀市水口町=岡山城)主だった水口盛里(みなくちもりさと)の長男として尾張(おわり=愛知県西部)に生まれたとされますが、そのあたりの事はよくわかっていません。

正家がハッキリと歴史上に登場するのは、織田家の家老として活躍していた丹羽長秀(にわながひで)家臣としての登場・・・

どうやら彼は、もともと計算に長けていたようで、その才能をかわれて長秀のもとに就職していた頃、
「算勘(さんかん)に達し、其外(そのほか)兵術を得たる事、世に隠れなし」(『名将言行録』)
だったようで・・・そのために、彼に「その術を習いたい」という若者が、領国の内外からひっきりなしに訪れ、正家宅は常に人で賑やかだったと・・・

その噂を聞きつけた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が長秀に彼を所望して、正家は金銀出納係として秀吉に仕えるようになります。
(一説には、ここで秀吉に仕える事で、敵に内通した疑いをかけられていた長秀の窮地を救ったと言われています)

まずは試しに金銭にまつわる細かな作業をさせてみると、これがなかなか良い・・・
そこで、諸国からの献上金の入出の運営を任せてみると、これまた、官民誰もが損をしないよう見事に処理してみせる・・・

感心した秀吉は、正家を豊臣の直参として抱えますが、間もなく勃発した小田原攻め(11月24日参照>>)で、兵糧奉行を任された正家は、すばやく兵糧を確保して現地へ輸送したばかりか、小田原周辺の米を買い占めて敵地を兵糧不足に追い込みました。

ちなみに、この時、同じく小田原攻めに従軍していた徳川家康(とくがわいえやす)は、配下の兵糧係が事前に兵糧の準備をしていたものの「現地で調達すれば、運送費もかからんし…」と、その兵糧を沼津(ぬまづ=静岡県)に置いたままにしていたため、その兵糧担当を呼びつけ、
「今回は、してやたれた~合戦には武功も大事やけど、こういう計算も大事や。
せやからこそ秀吉さんもヤツを重用するのやろ~」

と正家の才能を認め、話を聞いた兵糧係は「申し訳ございません!(ノ_-。)」と冷や汗をかいて退散したのだとか・・・

そんな徳川家と正家は、彼が、徳川四天王の本多忠勝(ほんだただかつ)の妹を娶った縁もあって、徳川秀忠(とくがわひでただ=家康の三男)が上洛した際には、その出迎え係をするほどに、徳川家とも密接な関係だったと言います。

その間にも、検地や蔵入地(くらいりち=直轄地)の運営等もこなしていた正家は、文禄4四年(1595年)に近江水口5万石を拝領し水口城主に・・・そして、豊臣政権の五奉行にも名を連ね、ますます政権内での事務方の手腕を発揮する事になるのですが。。。

しかし、やがて訪れた御大=秀吉の死(8月9日参照>>)・・・この慶長三年(1598年)8月の秀吉の死によってバランスを崩し始めた豊臣政権は、その翌年の大御所=前田利家(まえだとしいえ)の死を引き金に、正家らの事務方(文治派)と、加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)武闘派合戦で武功えを挙げる派)との亀裂が表面化するのです(3月4日参照>>)

その亀裂をウマイ事利用し、画策し始めたのが五大老筆頭の徳川家康・・・なんせ、亡き秀吉から豊臣政権を任された五大老のうち、利家が亡くなって、その座を息子の前田利長(としなが)受け継げば、残りの3人は天文二十二年(1553年)生まれの毛利輝元(もうりてるもと)、元亀三年(1572年)生まれの宇喜多秀家(うきたひでいえ)、亡き小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利輝元の叔父)に代わって五大老になった弘治元年(1556年)生まれの上杉景勝(うえすぎかげかつ)・・・と、1番年上の輝元とも10歳の隔てがある家康は、その老獪ぶりを発揮して、まさに豊臣政権の筆頭としてふるまうようになったのです。

こうして徐々に五大老や五奉行の追い落としを図る家康は、上記の文治派と武闘派のモメ事関連で五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)を謹慎処分に追い込んだ後、前田と上杉、そして五奉行の一人の浅野長政(あさのながまさ)「謀反の疑いあり」と主張・・・この時、反発を抑えた前田家は利家の奥さん=まつを江戸へと下向させて(5月17日参照>>)合戦を回避し、浅野家も長政が隠居して恭順姿勢をとります。

しかし、残った上杉は喧嘩上等!とばかりに反発(4月14日参照>>)・・・この上杉に対し、家康が大軍を率いて会津征伐を行うべく東に向けて出陣するのですが、この家康が畿内を留守にしていた間の慶長五年(1600年)7月17日に、諸大名に向けて『内府ちがひの条々』が発布されるのです。

これは、これまでの家康の、秀吉の遺言に背くあんな事やこんな事を書き連ねた告発状で、事実上の宣戦布告・・・その書状の署名は、五奉行のうち謹慎中の石田三成と浅野長政を除いた前田玄以(まえだげんい)増田長盛(ましたながもり)、そして本日の主役=長束正家でした(7月18日参照>>)

つまりは、五大老のうち3人(毛利・上杉・宇喜多)&五奉行のうちの4人(前田・増田・長束・石田)を敵に回した家康・・・
(前田家は兄=利長が東軍(徳川)、弟=利政は西軍…7月14日参照>>

しかし、その見事な手腕で、自分が率いていた会津討伐隊を自身の徳川軍にする事に成功(2012年7月25日参照>>)した家康は、会津征伐を中止し、Uターンして西へと戻ります・・・こうして両者がぶつかったのが、ご存じの関ヶ原の戦い・・・(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)

この時の正家は、上記の『内府ちがひの条々』の一件でもお察しの通り、早い段階から三成主導の西軍として行動し、一説には会津征伐に向かう家康の暗殺まで企てていたと言われますが(その時は家康が水口を素通りしたため決行ならずだったらしい)・・・その後の前哨戦では安濃津城(あのつじょう=三重県津市)を攻略(8月25日参照>>)するなど東海方面で転戦した後、9月15日の本チャンの関ヶ原では南宮山に布陣しました(関ヶ原の合戦・布陣図を別窓で開く>>)

しかし、この時、ともに南宮山に布陣していた毛利勢が・・・実は、家康と密約を交わしていたのです(くわしくは9月28日参照>>)

「戦いに参加しなければ所領を安堵する」
という家康との密約を信じていた吉川広家(きっかわひろいえ=毛利輝元の従兄弟)の判断で、大坂城に詰めていた西軍総大将の輝元の名代で現地にいた毛利軍の大将である毛利秀元(ひでもと=輝元の従兄弟)も、まったく軍勢を動かさなかった事から、その後方に布陣していた正家も、まったく関ヶ原の本戦に参加する事ができなかったのです。

そんな中、ご存じのように、その日の午後2時頃には、西軍の負けがほぼ決定的となり(2008年9月15日参照>>)、やむなく正家は戦線を離脱し、一旦、佐久良(さくら=滋賀県蒲生郡日野町)に身を隠した後、9月の末頃になって、ようやく本拠の水口城に入る事ができました。

しかし、関ヶ原本戦が西軍の負けとなった以上、当然、この水口城にも勝者=東軍の追手がやって来るわけで・・・やがて、この水口城を囲んだのは、池田輝政(いけだてるまさ)の命を受けた池田長吉(ながよし=輝政の弟)率いる池田隊と亀井茲矩(かめいこれのり)らの軍勢でした。

とは言え、なかなかの堅城であった水口城を攻めあぐねた池田勢・・・

そこで、池田の家臣であった舟戸久左衛門なる武将が懐に3~4寸の鉄板を忍ばせて城へと出向き、正家を説得します。

「今、降伏されたなら、あなた方や兵卒の命はもちろん、所領も安堵するとウチの殿様が言うております。
ソチラは安濃津の城攻めに疲れ、関ヶ原では武功を挙げられなかった事に憤り、城を枕に討死覚悟と思っておられるのかも知れませんが、今なら平和的に解決できます」

と、舟戸が、そばにいた小姓に持って来た鉄板を火であぶらせ、同じく懐に用意していた牛王(ごおう=牛王宝印・起請文を書くための牛頭天王の護符)を取り出して、その旨を訴えると、正家は涙を流しながらその説得に応じ、開城を決意したのだとか・・・
(この時代、神に誓う約束事は違えない=破れば神罰が下るという暗黙の了解がありました)

また一説には、
「兄=輝政は、正家殿の事を、幼き頃よりともに育った竹馬の友だと思っていますので、友達とは戦いたくないと言うてます。
もう、西軍は負けました…これ以上は何のために籠城する必要がありましょうか。
速やかに降伏して城を明け渡してくださったなら、命の保証と所領安堵をしてもらえるよう徳川様に取り計らいます」

という池田長吉の説得に応じたとも言われます。

とにもかくにも、何かしらの説得に応じて、水口城を明け渡す決意を固めた正家でしたが、これが池田勢の謀略であり、正家らは城を出たところを捕縛されてしまった後に切腹したとも、
城を出てすぐに欺かれた事に気づき、何とか、再び佐久良まで逃げたものの、追手に囲まれて中之郷にて自刃したとも・・・

また、白装束で池田隊&亀井隊を出迎え、家臣の介錯によって覚悟の自刃を遂げたとも言われますが、いずれにしても、慶長五年(1600年)10月3日長束正家はこの世を去り、その首は、家康の命により、三条橋の袂に晒されたのです。

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長束正家の逃亡経路
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

男盛りの39歳・・・おそらくは、同じ死ぬのであれば、欺かれてからの切腹より、あの天下分け目の戦場にて大いに腕を奮い、華々しく散るのが戦国男子の本望だった事でしょう。

しかも・・・
さらに悲しい事に、この時、臨月だった奥さんは逃亡生活のさ中に出産するも、産後の肥立ちが悪く、間もなく死亡してしまったのだとか・・・悲しすぎる(ρ_;)
(残された男児は生き残った家臣に育てられ、後に僧になったとか…)

一方、今回の関ヶ原での一連の功績で、大幅加増されて播磨(はりま=兵庫県西部)姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)の城主となった池田輝政は、勝利の象徴とも言うべきその城を、現在の国宝&世界遺産になるほどの大きな城に作り替える事になります。

とは言え、その立派な城郭とはうらはらに、姫路城は、輝政の病気がち(7月22日参照>>)を皮切りに、その後も、様々な理由で城主が頻繁に交代する城でもありました。

そこには、噂される怨霊や七不思議(7月28日参照>>)・・・というよりも、友を欺いてでも、勝たねば生き残れなかった戦国武将の苦悩が見え隠れするような気がします。
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2018年9月 1日 (土)

関ヶ原に向けて~徳川家康が江戸城を出陣

慶長五年(1600年)9月1日、関ヶ原の合戦に向けて、徳川家康が江戸城を出陣しました。

・・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原・・・
(一つ一つの出来事や全体の流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>で見ていただけるとありがたいです)

慶長三年(1598年)8月の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後(8月9日参照>>)、かの朝鮮出兵のなんやかんやで、豊臣政権内にて武闘派(ぶとうは=合戦で武功を挙げる派)文治派(ぶんじは=後方支援と事務的管理する派)の対立が起き始める中(3月4日参照>>)五大老(ごたいろう=豊臣政権下でのトップの5人)筆頭を良い事に、秀吉の遺言を無視しはじめた徳川家康(とくがわいえやす)「何とかせねば!」と考えた元五奉行の一人で文治派の石田三成(いしだみつなり)は、慶長五年(1600年)6月、家康が「謀反の疑いあり」として会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を征伐すべく、兵を率いて北へ向った留守を狙って行動を起こします。

7月11日には、家康とともに会津に向かっていた親友の大谷吉継(おおたによしつぐ)を引き戻して北陸の諸将の勧誘に当たらせ(7月14日参照>>)、翌・7月15日には家康に対抗できる大物=毛利輝元(もうりてるもと)大坂城(おおさかじょう=大阪市中央区)に入ってもらい、

続く7月16日には、家康と行動を共にしている諸将の妻子を大坂城内で預かり、翌・7月17日には『内府ちがひの条々』家康がこんな違反行為してまっせの報告=弾劾状)を諸大名に発して正式に家康に宣戦布告し、続く7月18日には家康に味方するであろう本多利久(ほんだとしひさ)高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)を攻撃し(7月18日参照>>)、7月19日からは家康配下の鳥居元忠(とりいもとただ)が守る伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)への攻撃を開始しました(8月1日参照>>)

Tokugawaieyasu600 一方、この三成の動きを北に向かっている途中で知った家康は、7月25日、下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま)にて評定を開き、「このまま自分について三成らに対抗するか?戻ってアチラにつくか?」を共に来ていた諸将に尋ねるのですが、すでに話を着けていた福島正則(ふくしままさのり)に真っ先に手を挙げさせる事によって、その場の雰囲気を「家康推し」にさせ、本来なら上杉を討つために出発したはずの豊臣の軍を、ほとんどそのまま自身の軍にする事に成功したのです(2012年7月25日参照>>)

この先の流れを知っている後世の者から見れば「なんで豊臣恩顧の武将が家康に…」と思ってしまいますが、この時点では家康の行動も豊臣のため=ここで三成派を一掃する事が、将来の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)のためになるという雰囲気を醸し出していたわけです。

さらに、ここで、やはり豊臣恩顧の武将である山内一豊(やまうちかずとよ)が、自身の掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を家康のために提供する事を申し出て、以下、東海道沿いに城を持つ諸将が、その意見に同調した事から、家康はここからUターンして西へ向う道すがらに兵糧や弾薬の確保も容易にできるようになったわけです。

こうして会津攻めを中止して戻る事にした家康は、次男の結城秀康(ゆうきひでやす)宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市本丸町)に留めて会津へのけん制とし、自身は江戸城(えどじょう=東京都千代田区)へと向かったのです。

8月5日に江戸城に到着した家康は、すぐには出陣せず・・・というか、そこを動く事ができず、そのまま江戸に滞在して、諸大名にせっせと手紙を書き始めます。

なんせ上記の通り、三成からの(実際の署名は豊臣の三奉行)『ちがひの条々』が諸大名に発せられてますから、それを受け取った中で誰がアチラに味方をするのかを見極めねば動けませんし、同時に、自らも書状を発して、より多くの大名を味方につけねばなりませんからね

特に東北には、今回の発端である上杉がいますし、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義宣(さたけよしのぶ)等も、かの条々を受け取って西軍(三成派)に与してますから、彼らが徒党を組んで北から侵攻してくれば江戸もヤバイです。

この間、かの小山からUターンして西へ西へと向かっていた東軍(家康派)の先鋒が、8月11日になって岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に到着します。

なんせ、かの小山評定で盛り上がったおかげで、山内一豊の掛川城や福島正則の清州城(きよすじょう=愛知県清須市)以外にも沼津城(ぬまづじょう=静岡県沼津市)浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)等々、東海道沿いの諸城が家康に提供されてましたから、彼らの移動は早い・・・

しかし、そんな中、清州城に集結しはじめた東軍諸将の中で、未だ江戸城を動こうとしない家康への不信感が生まれ始めます。

そんなこんなの8月19日、家康からの使者として村越直吉(むらこしなおよし)が清州に到着・・・早速、福島正則らは、家康がなぜ出陣しないのか?の質問を投げかけます。

すると直吉、家康からの伝言として
「御出馬あるまじきにてはなく候(そうら)へ共(ども)、各(おのおの)の手出しなく候故(そうろうゆえ)、御出馬無く候。手出しさへあらば急速御出馬にて候はん」と・・・

つまり
「いやいや、俺が出陣してないって言うより、君らの方こそ、まだ何もしてないやん。君らが本気出してくれたら、すぐにでも出陣する気満々なんやぞ」

そう、ここまでは、すでに味方である諸城を通って来ただけで、特別な軍事行動を起こしているわけではない・・・

実際の家康は、上記の通り、杉の動きを見定めるまでは江戸を離れられないし、なんたって先鋒の彼ら=福島正則ら諸将は、もともと豊臣恩顧の武将たちですから、いつ西軍に寝返るかも知れない・・・それ故に家康は出陣する事ができなかったわけですが、そこを「君らが何もせーへんから出陣できへんねん」と話をすり替えて、彼らに、先に軍事行動を起こすように促したわけですが、

これを聞いた福島正則は、「ほな、やったろやないかい!」と奮い立ったのだとか・・・

その4日後の8月23日に、彼らが西軍の拠点の一つである岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を落とす(8月22日参照>>)と、そのニュースを8月27日に聞いた家康には、もはや出陣を引き延ばす理由もなくなったわけで、

おそらくは、もうチョイ引き延ばそうと思っていたとおぼしき家康は、去る8月23日に「出陣は9月3日に…」と延期したばかりでしたが、その予定を前倒しして9月1日に出陣する事に決定・・・やっとこさ重い腰をあげるのです。

この決定をそばで聞いた家臣の石川家成(いしかわいえなり)が、
「9月1日は西ふさがりの悪日ですが…」
と、その運気の悪さを指摘すると、家康は、
「そのふさがった西を、この手で開けに行くのだ」
と言ったとか・・・

もちろん、上杉への脅威はまだ残っていますので、本丸は異父弟の松平康元(まつだいら やすもと)に、西の丸は五男の武田信吉(たけだのぶよし=松平信吉)にと、信頼のおける身内に任せて留守の間の江戸城の守りを固めました。

Sekigaharaieyasuroot
関ヶ原の進路図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして慶長五年(1600年)9月1日3万2千余の軍勢を率いて江戸城を出発した家康は、その日のうちに神奈川(かながわ)に到着し、翌日には藤沢(ふじさわ)、さらに翌日には小田原(おだわら)・・・と、東海道を着々と進み、11日には清須城に到着・・・ここで、「ちょっと体調悪いねん」と2日間の休憩を取りますが、実は、中山道を通ってやって来る息子の徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)の到着を待っていたのだとか・・・

しかし、ご存じのように、真田(さなだ)父子上田城(うえだじょう=長野県上田市)攻め(2010年9月7日参照>>)に手こずっていた秀忠の軍は、いっこうに到着の気配もなく・・・

これ以上の引き延ばしは不可能と踏んだ家康は、やむなく移動して9月13日には岐阜城に着陣します。

ここ岐阜城は、すでに三成が入城している大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)とは目と鼻の先・・・翌日には前哨戦の杭瀬川(くいせがわ)(9月14日参照>>)、そしてその翌日は・・・いよいよ天下分け目の関ヶ原です。

【ともに命を賭けた戦場の約束】>>
【討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近】>>
【島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳】>>
【関ヶ原の合戦の年表】>>)
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2018年7月18日 (水)

関ヶ原合戦~最初の戦い…高取城の攻防

慶長五年(1600年)7月18日、ご存じ、天下分け目の関ヶ原の戦い・・・その最初のぶつかり合いとなった高取城の攻防戦がありました。

・・・・・・・・・・

自らの死後も、幼き息子=秀頼(ひでより)をサポートしてくれるよう、独自の家格システムを構築し(7月15日参照>>)数々の遺言を残した(8月9日参照>>)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、慶長三年(1598年)8月、亡くなります。

その死を以って半島から撤退する事になり(11月20日参照>>)、結果的に負け戦となってしまった朝鮮出兵の影響で、政権内の武闘派(ぶとうは=戦場で戦う派)文治派(ぶんじは=事務方)の間に亀裂が生じ始めるも、政権トップの五大老
徳川家康(とくがわいえやす)
前田利家(まえだとしいえ)
毛利輝元(もうりてるもと)
上杉景勝(うえすぎかげかつ)
宇喜多秀家(うきたひでいえ)
ら、全員が健在の間は何とか均衡が保てていたものの、翌年の3月に、秀吉の親友で政権の重鎮である前田利家が亡くなる(3月3日参照>>)、早くも翌日、武闘派の加藤清正(かとうきよまさ)らが文治派の石田三成(いしだみつなり)襲撃する事件が起き(3月4日参照>>)、バランスの崩れが表面化します。

利家の死によって五大老の中で家康より年上はいなくなり、宇喜多秀家に至っては親子ほど年が違う・・・また、先の三成襲撃事件を家康が治めた事もあり、利家を引き継いだ息子の前田利長(としなが)が五大老に収まる頃には、もう家康のやりたい放題の様相を呈して来るのです。
(もちろん表面上は豊臣政権の一員としての姿勢を保っていますが…)

すでに、この年の1月に秀吉の遺言を破って自分の息子と伊達政宗(だてまさむね)の娘の婚約を決めちゃってる家康ですが、その後も、9月には、大坂城(おおさかじょう=大阪市中央区)を退去した秀吉の正室=おねと交代するがの如く、伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区桃山)を出て大坂城の西の丸に入り、天守閣のような建物を建て始めたり・・・年が明けて慶長五年(1600年)になると、上杉景勝と前田利長に「謀反の疑いあり」として両者の追い落としを開始します。

前田家は母のまつを江戸へと人質に出して(5月17日参照>>)何とか事を治めますが、上杉は屈せず(4月14日参照>>)・・・で、これを受けた家康が、上杉を討伐すべく、6月18日、大軍を率いて会津(あいづ=福島県)へと向う事になるのですが、この家康の会津出兵は三成をおびき出すための作戦とも言われています。

Isidamitunari600a そう、この家康の留守を狙って動いたのが三成だったのです。

7月11日には、すでに家康の会津征伐に合流すべく北に向かっていた大谷吉継(おおたによしつぐ)を引きもどして(7月11日参照>>)北陸諸将の勧誘に走らせ(7月14日参照>>)、7月15日には、家康に対抗できるコチラの総大将として毛利輝元に大坂城に来てもらいます(7月15日参照>>)
(なんせ会社で言えば、家康は副社長か専務クラスで、三成は営業部長くらいですから…)

さらに7月16日の夜には、家康とともに会津攻めに向かった諸将の妻子を人質の形として大坂城に収容しようとしますが、これは、細川忠興(ただおき)の妻=ガラシャ(玉子)を死に追いやるという悲劇を生んだり(7月17日参照>>)、加藤清正や黒田如水(くろだじょすい=官兵衛孝高)長政(ながまさ)の嫁を逃がしてしまったりで、あまりうまく行かなかったようですが・・・

そして、いよいよ7月17日、三成は『内府ちがひの条々』を諸将に送りつけ、家康に宣戦布告するのです。

ただし、書状での署名は、豊臣政権の五奉行のうちの前田玄以(まえだげんい)増田長盛(ましたながもり)長束正家(なつかまさいえ)の3人で、ここに三成の名はありませんが、三成は先の襲撃事件云々で五奉行を退いていますし、残るの浅野長政(あさのながまさ)も、先の前田利長の一件で謹慎処分になってるので、現時点での五奉行はこの3人だけですので・・・

この「内府」というのは内大臣=家康の事。
「ちがひ」は「違い」で、つまりは家康が秀吉の遺言に背いた13条に及ぶ行動を明記した告発状って事です。

  1. 約束したのに奉行(浅野&石田)を追い込んだ
  2. 前田家を人質とって追い込んだ
  3. 謀反の疑いで上杉を討伐しようとした
  4. 自身のお気に入り武将に勝手に知行を与えた
  5. 伏見城を乗っ取ってる
  6. 勝手に誓紙を取り交わしている
  7. 奥さんの場所であった西の丸に居座ってる
  8. その西の丸にデカイ天守を建ててる
  9. 親しい大名の妻子を勝手に領国に返してる
  10. 勝手に縁組を決めている
  11. 若輩の武将を扇動して徒党を組ませてる
  12. 五大老全員でやるべき事を1人でやってる
  13. 側室のお亀の縁者を優遇してる
  14. 公用車でヨガに…(←スンマセンふざけました)

ごくごく簡単に言うと、こんな感じの内容なのですが、当然、これらは、現段階で家康とともに会津征伐へ向っている諸将たちに向けても発せられたわけで・・・

だからこそ、父や夫が、おそらく徳川方につくであろうと予測した加藤清正&黒田父子の妻子は密かに大坂を脱出し、細川ガラシャは夫の邪魔にならないよう命を断ったのです。

この後、三成ら大坂方の動きを知った家康は、会津征伐を中止してUターンして来るのですが、その時、これらの事を、ともに会津征伐に向かっていた諸将に正直に話し、「妻子が大坂にいる者もいるやろから、このまま俺に付くか、大坂に戻って向こうに付くか、自分の好きにしたら良いゾ」と問うたのが、世に「小山評定(おやまひょうじょう)(2012年7月25日参照>>)・・・ただし、実は、皆に発表する前に、すでに福島正則(ふくしままさのり)を抱き込んでいて、その評定の場で、1番の豊臣恩顧の武将である正則に、堂々と「俺は家康っさんについて行きます!」と手を挙げさせる事で、その場の雰囲気を「家康推し」一色にしちゃったとも言われています~ウマイですね~家康さん。

とは言え、家康のもとに、今回の知らせが届くのは、もう少し後・・・

一方の三成は、今回の宣戦布告をした翌日の7月18日、まずは、家康が留守となった伏見城に降伏開城を求めるのですが、城将の鳥居元忠(とりいもとただ)は拒絶・・・結局7月19日から攻撃が開始されますが、そのお話は8月1日の【伏見城・落城…鳥居元忠の本望】のページ>>でご覧いただくとして・・・

この伏見城へ開城勧告を出したと同日の慶長五年(1600年)7月18日・・・数ある関ヶ原の戦いにおいて、最初の戦闘となったのが、高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)だったのです。

南北朝時代頃から大和(やまと=奈良県)一帯に勢力を誇っていた越智(おち)の城であった(9月25日参照>>)高取城は、やがて戦国の混乱で頭角を現して来た筒井順慶(つついじゅんけい)の配下となった状態で越智頼秀(おちよりひで)が城将を務めていたものの、その越智氏が滅亡した事&筒井氏が臣従した織田信長(おだのぶなが)一国一城=つまり、大和を治める城は郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)一つとした事から一旦廃城となりますが、信長亡き後の豊臣政権下では、その郡山城に秀吉の弟=豊臣秀長(とよとみひでなが)が入った事により、 この高取城も復活して、やがて秀長の重臣であった本多利久(ほんだとしひさ)城将を務める事になったのです。

ただし、関ヶ原当時は、すでに秀長も、そして、その後を継いだ息子=豊臣秀保(ひでやす)も亡くなってしまっていたので、主君いなくなったために、秀吉の直臣となった利久の息子=本多俊政(としまさ)が1万5千石を与えられて、ここ高取城は本多の居城となっていたのです。

が、しかし・・・そう、関ヶ原直前のこの時には、その本多利久&俊政父子は、今、会津に向かう家康軍とともにいます。

留守を守るのは利久の甥っこ=本多正広(まさひろ)と家老たち・・・そこに、毛利輝元の命を受けた使者が派遣されて来るのです。

「太閤秀吉様の恩顧を受けた君らは、大坂方に味方するのが当然やろが!もし徳川に味方するのやったら、すぐにでも兵を差し向けるゾ!」
と口上を述べる使者でしたが、すでに、その背後には2千の兵が迫っていたのです。

まぁ、先の宣戦布告前に大坂を脱出した妻子の件や細川ガラシャの一件を見てもわかるように、おそらくは、どっちに付くかは、それまでのなんやかんやで、大体予想がついていたんでしょうね。

ご存じの真田(さなだ)なんかも、大坂方に付く真田真幸(さなだまさゆき)幸村(ゆきむら=信繁・真幸の次男)は、小山評定の前に家康と合流する事も無くトットと戻っちゃてます(7月21日参照>>)、逆に徳川に付く長男の信幸(のぶゆき=信之)嫁さんはサッサと大坂を出ちゃってた(2009年7月25日参照>>)ようですから・・・

そんな彼らと同様に、本多家の動向は、すでに周知の事実となっていたのでしょうね。

とは言え、使者を目の当たりにした高取城内では、「どうしたものか?」と評定が行われ・・・てか、おそらくは、「YESかNOか」ではなく「どう守るか」って内容の評定だったのかも知れませんが、肝心の殿様がいない中で返答するのは、やはり迷うところでありまして・・・

そんなこんなしているうちに大坂方の兵は城へと迫り、今や遅しと城内からの返答を待っています。

そのな中を
「主君の意向がまだ届かないので…」
と、のらりくらりかわして、ちゃんとした返答をしぶる高取城・・・

すると、シビレを切らせた寄せ手の一部が、血気にはやって城下の武家屋敷や町屋へ押し入り、金になりそうな物を略奪しはじめたのです。

この暴挙を知った城内は怒りまくり・・・
「こんなん許されへん!コッチもいてまえ!」
と撃って出ようとする者を何とか抑えなりゆきを見守ります。

そう、実は、この高取城・・・メチャメチャ堅固な城なのです。

ご存じの方も多かろうと思いますが、幕末の動乱の際、この高取城を奪おうと攻撃してきた1000以上の天誅組(てんちゅうぐみ)を、わずか200人で守りぬいた高取の城兵・・・(11月15日参照>>)

Takatorizyouezu600a もともと、この高取城は備中松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)(2月15日参照>>)美濃岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市)(10月10日参照>>)とともに日本三大山城の一つに数えられるほどに険しい山の上に建てられた天然の要害を持つ城でしたが、そこに、様々な櫓や大小天守を複雑に構築して、「孤城窟壁に拠って並び無き要害」と称されるほどの堅固な城にしたのが本多利久で、幕末のソレは、まさに、この堅城があっての守りだったのです。

とは言え、攻める側もその事は重々承知・・・やみくもに攻め登っても落とせないと考えた大坂方は、甲賀忍者の中でも精鋭を選りすぐって、真夜中に忍び入らせて火を放ち、焼き落とす作戦に出ます。

その夜、手に手に松明を持って密かに山を登って行く甲賀者たち・・・しかし、城内とて、城の特性を生かした防御は怠っていません。

あちこちに仕掛けた警戒網に、夜なればこそ気がつきにくい侵入者によって、普段は静かな山の夜に、鳥たちの羽音がざわめき、城兵は侵入者に気づく事になります。

そこで、城側も密かに精鋭を派遣して、暗闇の中を捜索させると、勝手知ったる高取山とあって、幾人かの侵入者を捕える事に成功・・・早速、警告のために、その者らに手傷を負わせて敵方に送り返します。

傷つけられた味方の姿に激怒する大坂方は、
「気づかれたからには力づくで!」
とばかりに、あちらこちらに火を放ちながら、その炎と煙に紛れて、一斉に山肌を攻めのぼって来ます。

しかし、そこは地の利のある城兵たち・・・見晴らしの良い場所に出て上から見れば、眼下の炎と煙の位置にによって、敵の居場所がハッキリ解り、そこを目がけて、弓と鉄砲をお見舞いします。

それでも、数に勝る大坂方は、果敢に攻め登りますが、急な山肌に阻まれ、その登るスピードは一向に速まらず・・・そこに向けて弓&鉄砲の雨あられに加え、はなから準備していた大木や大石がどんどん落とされて来ます。

たまらず撤退を開始する大坂方・・・結局、大きな犠牲を払いながらも、城を落とせないまま兵を退く事になってしまいました。

この高取城攻防戦の話は『三河風土記』にくわしいですが、不肖私・・・長い間、関ヶ原の最初の戦いは伏見城だと思っていました。

一応、「関ヶ原検定」を持ってるんですが、その公式本にも、この高取城の事は出て来ません。

なので、合戦の細かな経緯については、ひょっとしたら確定的では無いのかも知れませんが、この関ヶ原の戦いで本多家が家康側についた事&主君が留守の高取城を死守した事は確かでしょう。

なんせ、この後の徳川の時代、本多俊政は、見事、高取藩の初代藩主の座についていますから・・・ただ、俊政の息子の政武(まさたけ)が、男子をもうけないまま死去してしまったために、本多家は2代藩主で最後となってしまうのが残念ではありますが・・・
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