2009年10月18日 (日)

関ヶ原後わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩

 

慶長七年(1602年)10月18日、豊臣秀吉の甥で小早川隆景の養子となった小早川秀秋が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

通説では、この小早川秀秋の寝返りによって戦況が変わったとされる、あの関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)から、わずか2年後・・・若干21歳

それも一説には、勝敗を左右する重要な場面での裏切り行為で良心の呵責に耐えかねての狂死だという・・・

前途ある若者が・・・胸が痛みます。

そんな秀秋は、豊臣秀吉の奥さん・おねさんの兄・木下家定の五男として天正十年(1582年)に生まれます。

3歳で秀吉の養子となり、その4年後には、朝鮮出兵の陣中で病死した豊臣秀勝(秀吉の姉・ともの次男)の領地・丹波亀山10万石を与えられ、一時は秀吉の後継者とも考えられていました。

しかし、文禄二年(1593年)に秀吉の側室・淀殿秀頼を生み、その翌年、秀吉の命により、小早川隆の養子となって小早川家に入ります。

隆景亡き後は、その領地であった筑後・筑前(福岡県)など30万7000石を引き継ぎましたが、慶長の役(11月20日参照>>)で秀吉の怒りをかい、越前(福井県)北ノ庄15万石に転封されてしまいます。

秀吉の死後には、徳川家康とりなしで旧領にに復帰したと言われますが、まもなく、勃発したのが、かの関ヶ原の合戦・・・

その時の秀秋の行動は、以前、関ヶ原の前夜のお話として書かせていただいたように(2007年9月14日参照>>)、最初の伏見城への攻撃に参加したものの、それ以降は病気と称して参戦せず、一説には、この間に家康のワビを入れたという話もありつつも、一応、西軍として関ヶ原に向かいますが、合戦前夜に行われた大垣城での西軍の軍儀には参加せす、その夜の直接、関ヶ原の松尾山に陣取ります。

そして、秀秋のところには、東軍・西軍の両方から多大な恩賞と引き換えに味方につくようとのお誘いの誓紙を受け取り、両方に「味方になって参戦します!」の返事を送ります。

・・・で、ご存知のように、結果的には、翌日のお昼頃に東軍として参戦した事により、関ヶ原の戦況が一転し、西軍の敗北へとつながったとされています。

この時の揺れ動く態度から、ドラマや小説などでは、優柔不断な愚将として描かれる事が多く、先日の大河ドラマ「天地人」でも、上地くん演じる秀秋は、終始悩み続け、なにやら、ずっとアタフタしてた感があります。

今回の「天地人」では、合戦後も悩み続け、言われているような「狂死」という最期につながるような描き方でした。

ただ、私の印象は、少し違います。

確かに、関ヶ原に関しては、優柔不断だったかも知れませんが、世間で言われるほど愚将ではなかったと思っています。

その根拠の一番は、家定の息子の中で、彼だけが養子になっている所・・・あとは、皆、秀吉自身に血縁関係のある甥っ子ですので、秀秋の場合は、やはり、優秀な人材だと思ったのではないかと・・・。

ただ、当時の戦国武将としては、少し異質な感じのする人です。

その象徴となるのが、家康との接触・・・

家康は、さすがに最後に天下を取っただけあって、その知略・戦略・計画性などが、他の武将を圧倒する所がありますが、秀秋は、そんな戦国武将とはまったく違う、価値観、考え方を持った人だったような気がします。

なので、家康と深く関わるようになった慶長の役のあとくらいから、彼の人生の歯車が狂ってしまったのではないでしょうか。

もちろん、だからと言って、「家康が悪い」という意味ではなく、家康は、「当時の戦国武将なら、当然、こう考えるだろう」という意識で、秀秋に接触したわけで、秀秋自身が、そうではなかったために歯車がかみ合わなかったという意味です。

たとえば、今回の「天地人」でも、養子となって秀吉の後継者と目されていた秀秋が、秀頼が生まれた事で小早川に出され、落胆しているような描写がありました。

誰でもそう思います。

戦国武将となった以上、誰もが天下を夢見るだろうし、天下人の後継者となって、前途洋洋の未来が約束されていたのに、突然、そのレールから外されたら、誰だって、その事を怨みに思い、「豊臣なんてクソ喰らえ!」と思ってるだろうと・・・

人によっては、この秀吉の後継者から脱落したところで、秀秋の人生の歯車が狂ったと考える方もいらっしゃるようで、だからこそ、家康も、北ノ庄へ追いやられた秀秋を、旧領へと戻して恩を売り、「さぁ、不満ムンムンの豊臣を捨て、東軍へ来いよ!」と誘うわけです。

ただ、個人的には、当の秀秋は、それほどショックではなかったのではないか?と思います。

それは、秀秋は、今、頑張れる事をがんばる人であったように推測するからです。

先の先を見据えるばかりでなく、今現在、目の前にある出来事に一所懸命ぶつかる・・・戦国武将として、2手も3手も先を読む事が名将であるのなら、そう言った意味では、秀秋は愚将だったかも知れませんが、人としては、なかなかの頑張り屋さんとも受け取れます。

さして欲しくも無い天下のイスとはサヨナラして、新天地で心機一転・・・しかも、養子に行った先は、名将・小早川隆景です。

隆景に鍛えられた秀秋は、なかなかの武将に成長したに違いありません。

それが、あの慶長の役の出来事です。

結局、秀吉の怒りをかう事になるのは、この時の作戦での意見の食い違いにあったもので、立てられた作戦に従わず、彼は自ら先頭に立って戦った事が、逆鱗に触れたと言われています。

しかし、一方では蔚山(ウルサン)を包囲されて、風前の灯火だった加藤清正を救うという大きな成果をあげた事も記録されています。

少なくとも、この時点では、歯車が狂っているような印象は受けないのですが・・・。

やはり、この後の家康との急接近で、自分とは価値観の違う周囲の状況に、若き秀秋は悩み始めたのではないでしょうか?

目の前にある国政を精一杯がんばりたいのに、いつまでも、後継者から転落した事をとやかく言われ、関ヶ原で東軍に寝返った事に陰口を叩く・・・そのような周囲との差に、悩み続けたようにも思います。

・・・とは言え、実際のところ、その関ヶ原での寝返りに関しても、最初から東軍として参戦していたという人もいれば、最後の最後まで悩んでいたという人もいるのが現状で、その中の秀秋の心の内に至っては、もはや想像の域を出ないものではあります。

私自身、一貫性がないのが露見するようでお恥ずかしいですが、秀秋さんの印象は、ドラマを見るたび、本を読むたびに変わります。

今日のこのブログの内容も、次に秀秋さんの事を書くときは、まったく違った物になってる可能性も、なきにしもあらずですが、とりあえず、現時点で思うところを書かせていただきました。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)

2009年10月12日 (月)

戦国の水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃

 

慶長五年(1600年)10月12日、水軍を率いて活躍した九鬼嘉隆が、逃亡先の答志島にて自刃しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つい先日、織田信長鉄甲船の完成のお話(9月30日参照>>)にも登場した九鬼嘉隆(くきよしたか)・・・。

熊野大社の別当の末裔とも言われる九鬼一族は、伊勢志摩から熊野灘を活動拠点とする海賊でありましたが、嘉隆の兄・九鬼清隆の時代に、伊勢の国司・北畠氏の関与により、少し後退するも、兄の死後、嘉隆は、兄の息子・澄隆(すみたか)をサポートしつつ勢力挽回に励んでおりました。

やがて、澄隆の死を受けて、嘉隆が当主となった頃に、伊勢に進出してきた信長と出会いますが、その頃は、まだ、海賊あがり小勢力であった彼らを、信長は援助し、紀伊半島に出没していた海賊たちを配下におさめさせ、一大水軍へと成長させていくのです。

その後の長島一向一揆攻め(9月29日参照>>)で活躍して、信長に認められた嘉隆は、さらに、冒頭の鉄甲船を完成させ、2度目の大坂湾海戦で毛利水軍を撃破し、信長を大いに喜ばせました。

この功績で、志摩七島と摂津野田福島など3万5000石の大名となり、鳥羽城を築いて、その城主にもなりました。

しかし、嘉隆の勢いはここまで・・・天正十年(1852年)のあの信長の死とともに、その人生に陰りが見え始めます。

ケチのつき始めは、信長死後の織田家・家臣のトップ争いとなった、あの賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦(4月21日参照>>)でした。

そう、この戦いで嘉隆は、柴田勝家についたのです。

結果は、ご存知の通り・・・勝家は負け、妻・お市の方とともに自刃します(4月24日参照>>)

・・・とは言え、嘉隆自身も無事、所領の没収もありませんでした。

おそらく、羽柴(豊臣)秀吉にとって、九鬼水軍が、この先まだまだ必要だったからでしょう。

それを裏付けるかのように、嘉隆は、この後、小田原攻め海上警備をはじめ、大坂城築城のための巨大な石を海上輸送するなど、「これでもか!」というほど、秀吉の天下取りのお手伝いにまい進します。

あの朝鮮出兵(4月13日参照>>)では、数百隻の造船を担当し、中でも、自らが鬼宿と名付けた全長30m幅10mの大安宅船(おおあたけぶね)には、秀吉も大いに喜び、改めて日本丸と命名したと言います・・・て、気に入ってくれたんはウレシイが、改名は、ちょいとショ~ック(# ゚Д゚)━━!!やろね(口には出せんが・・・)

Ooatakebunecc 大安宅船(肥前名護屋城図屏風・名護屋城博物館蔵)

この船のおかげで、大将扱いで参戦した嘉隆は、その日本丸の指揮を任され、意気揚々と渡海しますが、初戦こそ優位に展開したものの、やがて変化した戦況の中、多くの船が海のもくずと消えました。

帰国した嘉隆は、秀吉が2度目の朝鮮出兵を実行する慶長二年(1597年)に、家督を長男の守隆に譲って隠居します。

やがて、秀吉の死とともに朝鮮出兵は終わりを告げ、またたく間に関ヶ原へ・・・と国内の雲行きが怪しくなってきます。

息子・守隆が、徳川家康とともに会津征伐(4月1日参照>>)へと向かう中、嘉隆のもとには、石田三成からの西軍へのお誘いがかかります。

「もう、そんな歳やないし・・・」
と断る嘉隆に、再三の出陣要請・・・

とうとう、嘉隆は、息子が留守にしている鳥羽城を奪います。

これを知った守隆は、慌てて使者を送って父を責めますが、怒った嘉隆は、この使者を追い返し・・・とありますが、どうやら、これは、例の関ヶ原での親兄弟・東西別れ作戦ではないかと・・・

なんせ嘉隆は、鳥羽城を奪っておきながら、そこには布陣せず、田代城に布陣。

軍を率いて戻ってきた守隆も、鳥羽まで来ておきながら安来(あのう)に布陣・・・嘉隆は、矢は空に向かって放ち、鉄砲は空砲だったとか・・・大事な本拠地である鳥羽城は、無傷でおいておきたかったのでしょうね。

そんなこんなをやってるうちに、父子には、ラッキーな事に、関ヶ原がわずか一日で決着がついてしまいます。

嘉隆は、速やかに鳥羽城を放棄し、答志島(とうしじま)へ逃亡・・・この間に、守隆は、家康に父の助命を嘆願します。

何とか、家康の承諾を得た守隆は、喜び勇んで、すぐに、父のもとに使者を走らせます。

しかし、その使者が、まもなく島に到着するであろう慶長五年(1600年)10月12日・・・嘉隆は、自ら死を選びました。

享年59歳・・・父子、どちらかが生き残る事に賭けた嘉隆の関ヶ原・・・息子が生き残る事が決定した父にとって、もはや、思い残す事はなかったのかも知れません。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)

2009年10月 1日 (木)

自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退

 

慶長五年(1600年)10月1日、上杉の執政・直江兼続が、長谷堂からの撤退を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

会津征伐(4月14日参照>>)のため北へと進行中、留守にした伏見城を、石田三成が攻撃した事を知った徳川家康は、突如、会津征伐を中止し、上方へとUターン・・・。

一方、家康の侵攻がなくなった事を知った会津の上杉景勝は、その矛先を、隣国・最上へと向け、上杉・執政の直江兼続(なおえかねつぐ)が、約2万の軍勢を率いて最上義光(もがみよしあき)配下の支城を次々と陥落させ(9月9日参照>>)、残る支城・長谷堂城へと迫った9月15日・・・西では、ご存知、関ヶ原での合戦が行われますが、ここ、東北では、長谷堂城の戦いが開始されたのです。

迎え撃つ最上勢が、わずか1300にも関わらず、城将・志村光安(あきやす)の地の利を生かしたゲリラ的作戦に苦戦する兼続・・・やがて、本拠地・山形城からの援軍や、救援要請を受けた伊達政宗の派遣軍も到着し、更なる苦戦を強いられる中の9月30日、兼続のもとに、関ヶ原の合戦の勝敗の知らせが届きます(9月16日参照>>)

・・・前回は、ここまで書かせていただきました。

大河ドラマ・天地人では、宮本信子さんのナレーションの後ろで、ガャチャガチャやってる間に終ってしまった長谷堂からの撤退ですが、妻夫木君のボー然とした表情で、「何となく激しかったんだろうな」って事だけは伝わってきました。

合戦は侵攻するより撤退するほうが、はるかに命がけですから・・・

・・・で、その9月30日に、遠く関ヶ原で家康が勝利した事を知った兼続・・・最上も伊達も家康の東軍に組していますから、もはや、この戦いは意味のない物になってしまいました。

たとえ、ここで勝利して領地を拡大したとしても、その後の家康の采配一つで、どうにでもなってしまいますからね。

「この先、どうなるんだ?」
と、動揺する兵士たちに、
「先の事は考えず、とにかく、今は米沢に帰る事だけを考えよう」
と、兼続は自らが殿(しんがり)の指揮を取る事にします。

殿とは、隊列の最後・・・撤退では最も危険な位置です。

しかも、ただでさえ難しい撤退を、今回は山間の険しい場所で2万という大軍を移動させなければならないわけですから、さらに困難です。

北は敵地ですから、当然、撤退するのは南・・・兼続は、まず3000という兵に命じて、帰路となる狐街道の道幅を広げて整備させた後、慶長五年(1600年)10月1日未明、本陣を置いていた菅沢(すげさわ)に火を放って撤退を開始します。

*先日の「長谷堂城・総攻撃」の時にupした布陣図に方向を加えた物ですが、この図の通り、下(南)に向かっての撤退です↓
Hasedoufuzinzu2cc ↑クリックしていただくと大きいサイズで9月16日の布陣図が開きますので参考にしてください
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この時の最上は、すでに義光自身が現地に到着し、自ら陣頭指揮を取って、早速、上杉軍の追撃を開始します。

しかし、これは兼続の作戦・・・実は、道を造ると同時に死角も造り、最上勢が追撃してくるであろう両側に鉄砲を持った伏兵(ふくへい・隠れた兵)をしこんでいたのです。

そうとは知らず、怒涛のごとく追撃する最上勢に、真横から一斉射撃・・・ひるんだところを後続部隊が立ち戻って攻撃します。

ころあいを見計らって、再び撤退を始め、追いすがる敵に、また、一斉射撃!

最後尾の水原親憲(ちかのり)溝口勝路(かつみち)が、巧みにこれを繰り返し、最上勢をかく乱させます。

しかし、全体で2万の大軍と言えど、撤退の最後尾はほんのわずか、この場合は、追撃する最上のほうが、圧倒的に数が勝ってますから、しだいに混戦状態となり、隊列は崩れて、両軍入り乱れての戦いに転じていきます。

兼続としては、とにかく手早く引き揚げたい!・・・しかし、敵を目の前に血気はやる兵士たちは、もはや言う事を聞かず、作戦も連携もあったものかと、個々の戦いにのめり込み、無用な戦闘を続けます。

このグチャグチャモードに
「もはや、これまで!」
と、感じた兼続・・・
「敵に殺されるくらいなら、切腹して果ててやる!」
と、自刃を決意します。

そこに、登場したのが、かの前田慶次郎・・・(6月4日参照>>)

「一軍を率いる大将が、死に急いでどうするんじゃ!」
と、兼続を一喝!

「ここは俺らに任せろ!」
と、同じく浪人崩れの宇佐美民部(うさみみんぶ)とともに殿に加わり、前田家伝来の朱柄の槍を手に、敵陣へと殴り込んで、一気に8人を仕留めます。

この慶次郎の行動に、ハタと我に返った上杉勢は、士気を奮い立たせて次々と敵の猛者を倒しつつも、再び撤退劇に集中・・・そこへ、親憲の鉄砲隊が火を吹き、上杉軍は、最大のピンチを脱します。

なおも追撃する敵をかわしながら、なんとか畑谷(はたや)に到着したのは、翌・2日の事でした。

しかし、ここは、まだ、先日最上へ侵攻した時に落としたばかりの敵の城・・・わずかに置いていた守りの兵を収容し、翌・3日には荒砥(あらと)を経て、さらに翌日の10月4日・・・やっと米沢城にたどりつきました(各城の位置関係は、9月9日にupした関係図でご覧ください 別窓で開きます>>

ただ、さすがに、大急ぎの撤退劇・・・最上に侵攻した時に、別働隊として庄内から入った志駄義秀(しだよしひで)下吉忠(しもよしただ)に、この撤退を知らせる事ができていなかったのです。

それでも、義秀は、何とか自力でこのニュースを知り、速やかに本拠の酒田城へと引き揚げましたが、一方の吉忠は、駐留していた谷地(やち)を敵に囲まれて初めて現状を知り、やむなく義光の勧告に従って降伏しました。

この時の死者の数は、最上の言い分と上杉の言い分で少し差がありますが、いずれにしても、撤退した上杉のほうが数が上なのは確か・・・

それでも、撤退戦の場合は、殿が全滅せずに帰還した事だけでも成功と言えるもの・・・関ヶ原での島津がそうであるように(9月16日参照>>)撤退戦で無事本隊が帰還し、被害を最小限に食い止めた功績は、兼続の武名を高めるものとなりました。

かの義光も、兜に銃弾を受け、危機一髪だった事を振り返りながら
「直江くんは、怖がりもせずに心静かに陣を退き、撤退時にも慌てる事なく、むしろ俺らの兵を数多く討ち取って帰還した。
上杉には、謙信公の武勇が、まだ残ってるんやね」
と、敵ながらあっぱれの言葉を残しています。

ところで、冒頭に書いた通り、大河の兼続は、帰還した時、ただただボー然としていましたが、実際の兼続には、ボー然としている余裕はありませんでした。

今後の上杉の行く末は、もはや、家康の手のひらにあるようなもの・・・何とかしなくては!

なんせ、この上杉を揺るがす事態の全責任は、兼続にあるのですから・・・

大河では、今もなお、殿=景勝さんを立てていますが、実際には、この時の上杉の実権を握っていたのは兼続で、ほとんど独裁政治のような体制であったと言われています。

それは、この後、今回の処分の一件で、景勝とともに上洛する際の記録では、「供の侍の数が、景勝より兼続のほうが多かった」とされているからです。

主君より多い供侍・・・このありえない状況に、「この時の兼続は、すでに上杉家を乗っ取っていたのでは?」と考える専門家もいらっしゃるようですが、さすがに、そればオーバーとしても、数が多かった事が事実だとすると、やはり、独裁体制に近いものである事は間違いないわけで、そうなると、西軍に組して最上に侵攻した事のすべてが兼続の意志だった事になり、それが、失敗に終った以上、当然、その全責任は取らねばならないのです。

さぁ、武将・直江兼続が、政治家・直江兼続として、その腕を発揮するときがやってきます・・・勝手ながら、個人的には、この長谷堂の撤退を境に、兼続は武将から政治家に変わると思っていますので・・・

ところで・・・
ここまで、「わざとですよね?」と聞きなおしたいくらい、武将としての兼続をナレーションでスルーし続けた大河スタッフ・・・

おそらく、スタッフさんが描きたかったのは、これから先の政治家・兼続ではないのかは?と思いますので、今後の大河ドラマの展開に大いに期待したいところですね。

このブログでは、その政治家・兼続さんのお話は、やはり、それにまつわる「その日」に書かせていただく事にいたしますので、今日のところはお許しを・・・
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月28日 (月)

関ヶ原敗戦での毛利の転落と先の読めない天地人2

 

慶長六年(1601年)9月28日、毛利輝元長男・秀就を、江戸へ人質として差し出しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この時、わずか7歳だった秀就(ひでなり)は、その後の10年間を江戸で過ごし、慶長十六年(1611年)に弟・就隆(なりたか)と交代する形で、やっと、本拠地の周防(山口県)に戻ります。

この人質・・・慶長六年(1601年)という年数を見ておわかりの通り、あの関ヶ原の合戦での敗戦後、徳川家への服従の意味が込められた江戸入りなわけですが、ちょうど、昨日の大河ドラマ・天地人で、関ヶ原の敗戦後の毛利家の処分についてやってましたが、ドラマでは中尾さんが血走った目をむいただけで終ってしまったので、本日は、「合戦前にはどのような密約が交わされていたのか?」「その密約を、どんな形で家康が破ったのか?」を、お話させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

このブログでも何度か書かせていただいているように、この関ヶ原合戦では、毛利輝元西軍の総大将という立場で、一方、東軍との密約を交わしていたのは吉川広家です(7月15日参照>>)

彼らは、ともに、あの毛利元就(もとなり)の孫・・・輝元は、元就の長男・隆元の息子で、広家は元就の次男・吉川元春の息子です。

もともと輝元という人は、豊臣秀吉が存命中の頃から、徳川家康とは親密にしていて、秀吉亡き後に、なんとなくきな臭い空気がくすぶり始めた頃などは、わざわざ「今後、何があっても、お互い裏表なく、兄弟のようにやっていこうや」てな誓紙を交わしたりなんかしてました。

一方の広家は、とにかく安国寺恵瓊(あんこくじえけい)がキライ・・・まぁ、この恵瓊という人は、秀吉の天下取りの第一歩となった中国大返しの時に、毛利側の交渉人でありながら、途中から秀吉べったりになった人(9月23日参照>>)ですから、広家にとって気に喰わないのは当然と言えば当然だったわけです。

その恵瓊が、はなから石田三成ベッタリだった事もあって、広家の心の内は早いうちから東軍に味方するつもりでいましたが、事もあろうにその恵瓊に乗せられて輝元が西軍の総大将になっちゃったものだから、広家ビックリです。

合戦前から怪しい動きをする恵瓊を警戒した広家は、やはり同じく輝元の大坂城入城に反対姿勢をとる毛利家臣の益田元祥(もとよし)熊谷元直らとともに、輝元の入城前から、家康の近侍の榊原康政(さかきばらやすまさ)宛てに「恵瓊と輝元とはかかわりはない」旨の手紙を送ったりなんかしてましたが、もはや、入城しちゃった以上、更なる対処が必要です。

そこで、家康の信頼も厚く、また豊臣恩顧で、しかも広家も親交している黒田長政に間に入ってもらい、家康に「輝元は三成側について徳川に敵対しようとしているわけではおませんねん」と、なんだかんだと書き綴った弁明の手紙を出します。

・・・で、その返答は・・・
「君の言うてる事はようくわかったで。輝元とは前から、兄弟のように仲良うしょーなって約束してたのに、おかしいなぁって思ててん・・・君の説明で理解したわ」
と、なかなか好感触。

そして、それに添えられていた長政の手紙には・・・
「家康さんも、アレは恵瓊が勝手にやってる事で、輝元の真意やなって事わかってはるみたいや。
こうなったら、輝元にも、よ~言うてきかして家康はんベッタリになる事や。
まぁ、そのダンドリはワシがやったるけど、勝敗が決まってからではどうもならんさかいに、開戦までにやる事やっとかんとアカンやろな。
くわしくは、この手紙を持っていった使者に言うとくさかいに、よぉ、話聞いたって」

・・・で、その使者がたずさえていた条件というのが、毛利の不戦・・・その日から、約1ヶ月間、徳川との裏工作に奔走する広家でしたが、そんな彼のところに、徳川方の起請文が届いたのは、なんと、関ヶ原の前日=慶長五年(1600年)9月14日でした。

そこには、合戦に参加しなければ、戦後の毛利の処遇は、すべて従来通りで、領国も安堵する事が書かれていたのです。

しかし、広家は、一抹の不安を覚えます。

なぜなら、その起請文の署名は、本多忠勝と井伊直政の連署・・・家康の名前がありません。

できれば、家康の名の入ったお墨付きが欲しかった・・・とは言え、徳川の重臣ふたりの、それも血判の入った起請文に納得した広家は、翌日の関ヶ原当日、ご存知のように、布陣した南宮山からビクとも動かず、合戦には不参加の姿勢をとりました(9月15日参照>>)

この時、広家の後方に陣取り、大坂城に留まった輝元の名代として毛利軍を率いていたのは、輝元の従兄弟で養子の毛利秀元(11月7日参照>>)・・・どうやら、彼には、徳川との密約は知らされていなかったようです。

大将とは言え、秀元は、まだ若干22歳・・・合戦の主導権は、12歳年上の広家が握っていたらしく、密約の相談には一切関わっていなかったのだとか・・・。

また、大坂城の輝元にも知らされていなかったようです。

さすがに、こんな重要事項なのだから輝元に言わないわけはないだろうという見かたもありますが、上記の通り、正式な起請文を受け取ったのが、合戦の前日なのだとしたら、それを知らせる余裕がなかった可能性が高く、この時、密約を承知していたのは、広家と老臣の福原広俊だけだったとされています。

かくして、関ヶ原での西軍は総崩れとなり、夕方にはやむなく撤退する毛利軍・・・広家と広俊は、その日のうちに家康のもとへ戦勝を祝う使者を送り、秀元には、服従の証として人質を差し出すように勧めますが、秀元は納得せず、大坂城へと向かい、輝元に、「ここ大坂城にて家康と再度戦おう」と持ちかけます。

しかし、輝元は、もう、戦う気はゼロ・・・頭を丸めて家康に服従する意志を固めていたのです。

実は、合戦のわずか2日後の17日付けで、輝元には、長政からの「吉川君から、不戦を条件に毛利の安泰をお願いすると言われてた事は、家康さんも充分ご存知やから、今回の輝元には何の処分もないさかいに、今後は、忠節に励んでね」という手紙が届いていたのです。

輝元も大いに喜んで、即刻「ありがとう、手紙見て安心したわ」と返事を送り、22日には「大坂城の西の丸、明け渡しまっせ」の誓紙も送っていたのです。

これには、相手の長政も、輝元宛てに、「毛利の安全を保証する」内容の正式な起請文を、25日付けで届けています。

しかし、「安心した」と書いて送った輝元も、心の底では、未だ安心してはいませんでした。

そう、「安全を保証する」と言ってるのは長政であって、徳川の誰でもないのですから・・・。

長政の起請文と同じ25日・・・輝元は西の丸の明け渡しの起請文を書くのと同時に、広家に、井伊直政からの直接の安全保障を取り付けるよう努力するように言い渡しています。

しかし、広家が、そんな努力をする時間はありませんでした。

家康は、輝元の西の丸明け渡しの起請文を見るなり、即座に明け渡しを要求・・・2日後の27日には、輝元が去った西の丸に入ってしまいました。

そして、10月に入ってまもなく、広家は、長政からのとんでもない書状を受け取る事になります。

そこには・・・

  • 輝元は三成に味方して西の丸に入って采配を揮ってた事が、後々になってわかってきた・・・困るなぁ、毛利の領地は没収されるやろなぁ。
  • 君の働きは、皆、よう知ってるで、中国地方のうち、1ヶ所か2ヶ所を君に与えるべく井伊さんが家康さんに働きかけてるさかい安心しぃ。
  • せやよって、井伊さんから呼ばれたら3~4人の供を連れて会いに行きや、武装なんかしたらあかんで~

「え゙ぇ~(〃゚д゚;A A゚Å゚;)ゝ ゚+:.」

そうです。
輝元が大坂城の西の丸にいて、一応、西軍の味方として動いていた事は、アチラさんも百も承知のはず・・・それを、知らなかった事にして・・・新たに発覚した事にして、以前からの約束をなかった事にしようとしているのです。

さすがに、広家も呆然・・・しかし、落ち込んでる暇はありません。

広家は、長政に・・・福島正則に・・・何とか、毛利の家名を残してくれるよう涙涙の手紙を書き綴ります。

もう、こうなったら、情に訴えるしかありません。

「意外な処置に混乱してます。
僕への事はうれしいですけど、何とか毛利の家名を残してくださるようお願いします。
自分だけ領地をもろて、収まるわけがありません。
輝元は、今後も、家康さんに刃向かう事なく、忠節を尽くします。
いや、もし、万が一の時は、僕が輝元の首を取って差し出しますさかいに・・・」

長政も正則も、もとは豊臣恩顧・・・さすがに、この涙の手紙は心を動かしたようで、10月10日、毛利に対して誓紙が送られます。

そこには、周防・長門の2国を安堵する事、輝元・父子の身の安全を保証する事が書かれてありました。

敗戦の翌日から、輝元&広家が待ちに待っていた、正真正銘の家康の名の入った誓紙でした。

こうして、112万石から36万9千石・・・3分の一以下という、とんでもない減封となってしまいましたが、何とか家名だけは存続した毛利家でした。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

それにしても、今回の天地人・・・ホント、先が読めません。

上杉家が主役ですから、さすがに毛利の戦後処置はナレーションで仕方ないとしても、まさか、長谷堂の撤退がほぼナレーションでスルーされるとは思ってもみませんでした。

そりゃ、前田慶次郎が登場しないわけです・・・あんなに早くちゃ出る間ありません。
(ひょっとしたら、兼続の周辺にいた誰かが慶次郎という設定なのかも・・・)

個人的には、武将としての直江兼続の一番カッコイイところだと思うんですが、どうやら、今回の作り手の皆様は、合戦で武功を挙げる事が、カッコイイ事とは思っていらっしゃらないようです。

なんだか、45分間のうちのほとんどを三成の思い出話で終ったみたいな回でしたね。
まぁ、題名は三成の遺言なので、題名どおりですが・・・

しかも、豊臣恩顧でありながら東軍に降った福島正則と小早川秀秋が、エライ反省の弁をのべ、兼続は亡き三成に「お前の思いは受け継ぐ」みたいな事誓ってましたが・・・

歴史上では、この先、上杉は家康に服従し、あの大坂冬の陣鴫野(しぎの)今福の合戦では先頭に立って大活躍し、その武功を褒めた家康に「あんなの子供のケンカみたいなもんでしたよ」と言ってみせた有名な逸話がありますが、これだけ「三成=正義」「豊臣=大事」を強調してしまって、そこんとこは、どのように処理するのでしょう?

これは、批判ではなく、逆に、見ものという意味です。
この先、どのように展開させるのか、とても楽しみにしています。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←「おもしろかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします(゚ー゚)あなたの応援で元気100倍!

 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)

2009年9月21日 (月)

築城の匠~家康専属大工・中井正清

 

慶長十九年(1614年)9月21日、大工頭・中井正清が、徳川家康に、宇治川開削計画を上申しました。

・・・て事で、本日はブログ初登場の中井正清さんをご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このブログに興味を持って、覗きに来てくださるかたなら、おそらくは奈良法隆寺に行かれたかたも多いと思います。

大仏さんと並んで、奈良観光の定番ですからね。

Houryuuzitizunisisatocc_3 ただ、その場合、大抵は、南大門から入って、金堂五重塔がある西院を見て、次に夢殿のある東院へ・・・という感じで拝観される事が多いでしょうね。

すべての拝観が終っても、あとは、再び南大門から出てJR法隆寺駅へ向かうか、あるいは、西院と東院の間の道を北へ行き、法輪寺法起寺へ・・・というパターンだと思います。

地元の人か、あるいは、よほど藤ノ木古墳に興味のあるかたくらいしか、西大門からはお出になりませんが、実は、この法隆寺の西大門を出てすぐの所から、しっくいで塗り固められた低い築地塀が続く趣のある町並みが現れます

Houryuzisaimoncc
門の向こうに、すでに町並みが見えています

落ち着きのある独特の雰囲気は、まるでタイムスリップしたように、なにやら、ゆっくりと時間が流れている空間のようにも思えます。

Dscn2543a800 ここは、西里(にしさと)と呼ばれる地区で、その昔、法隆寺を建て、そして、その美しさを維持していく工集団が先祖代々に渡って本拠地とした場所だったのです。

中井正清(まさきよ)は、永禄八年(1565年)、この西里で生まれます。

父・正吉(まさよし)は、法隆寺の修理・新築工事を一手に引き受ける大工でした。

正吉が活躍した頃は、ちょうど戦国後半に突入した頃・・・織田信長の後を引き継いだ豊臣秀吉が天下を取り、それまでの争乱で荒廃しきった社寺の修復・再建が急ピッチで行われ始めた頃で、京都や奈良、堺の大工職人たちが大活躍していたのです。

そんな彼らの指導者的な役割を果たしていたのが、中井家でした。

この頃の中井家は豊臣家の大工頭であり、大坂城や京都・方広寺の大仏殿の建設も手掛けていましたから、むしろ豊臣専属・・・他の大名が、中井家に仕事を頼む事など不可能ば状況だったのです。

しかし、やがて、訪れた政権交代・・・秀吉亡き後、その実権を握り始めた徳川家康は、若き後継者・正清を召抱えます

徳川の威信を天皇に見せたい二条城の建設(5月1日参照>>)、征夷大将軍の宣旨を受ける晴れの舞台となった伏見城のリフォーム・・・正清は次々と大事業を手掛けていきます。

正清の腕前とともに、天下人のお抱え大工頭を配下に収めた事を、家康は大いに喜んでいたようで、それまでの徳川家の大工たちも存続させてはいるものの、序列としては中井家をトップに据えています。

正清も、期待に答えるように、その腕をふるいます。

慶長十年(1606年)の法隆寺の大修理の際は、その棟札(むなふだ・建築の記念として建物内部に取り付ける札)には、「番匠大工一朝惣棟梁橘朝臣(たちばなあそん)中井正清」と記して掲げました。

もはや、揺るぎない日本一の大工です。

あの大坂夏の陣では、城攻め用の大はしごなどの道具も製作・・・しかし、この事が怒りをかったのか、そのすぐ後に、正清の生家が豊臣配下の者に焼かれ、その時に、西里の多くの家屋も焼けてしまったと言われています。

ちなみに、正清自身が、それをきっかけに京都へと移り住んだ事で、西里に残った大工も、移転するか転職するかとなり、現在の西里は大工さんの町ではありません。

さらに、家康は、建築だけでなく、土木工事のいっさいも、すべて正清を通すようにと家臣たちに命令し、全信頼をおく事となります。

慶長十九年(1614年)9月21日宇治川開削計画を上申・・・まさにこの頃ですね。

やがて、家康が亡くなってから最初に埋葬された久能山の社殿も、さらに翌年に改葬された(4月10日参照>>)あの日光東照宮も正清が手掛けたのです(現在の建物は後世のものです)

ただ、その家康の後を追うように、3年後の元和五年(1619年)、正清もこの世を去ります。

中井家は、息子・正侶まさとも)に引き継がれ、さらに、その息子・孫へと受け継がれていき、その後も、京都御所下鴨神社上賀茂神社などの大修理を代々に渡って手掛けていく事になります。

思えば、豊臣時代の大坂城を手掛けたのは父・正吉・・・大坂夏の陣で、その城を攻める道具を作ったのは息子・正清・・・。

その時の正清には、父が手塩にかけた豪華絢爛な城が、自らの加勢によって燃えゆく事への迷いはなかったのでしょうか?

正吉の父・正範(まさのり)は、三輪神社(大神神社)の神官をつとめた巨勢(こせ)一族の人で、合戦に赴き戦死し、幼かった正吉は、母方の縁者である中井家にひきとられたと言います。

その息子である正清も、おそらくは、自らの作品に命をかける職人であると同時に、戦国のサムライでもあったのでしょう。

城は戦うために建てるもの・・・戦いに殉じる事こそ、本望なのだと・・・
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月16日 (水)

直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い

 

慶長五年(1600年)9月16日、最上領に侵攻した上杉家の執政・直江兼続が、長谷堂城に総攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「上杉に謀反アリ」のイチャモンをつけて、「会津征伐」と称して上杉にケンカを売っておきながら、畿内での石田三成の挙兵によって、サラリとUターンしちゃった徳川家康さん・・・

「背を向けた相手を攻撃するのは、義に反する」と、追撃を許可しなかった主君・上杉景勝(かげかつ)に従い、泣く泣く、家康との一戦を諦めた直江兼続(かねつぐ)は、そのウップンを晴らすかのように、隣国・最上義光(もがみよしあき)の領地へと侵攻します。

先日の大河ドラマでは「最上が攻めて来た!」と、あたかも、上杉が被害者のようになってましたが、この最上領は、もともと上杉が手に入れたい場所・・・

豊臣秀吉の置き土産となった越後から会津へのお引越しで与えられた領地は、真ん中で分断された形になっていて何かと不便でしたが、この最上の土地が手に入れば、その悩みも解決しますし、万が一、関ヶ原で家康が大勝して、その勢いで再び「会津征伐」を再開したとしても、後方の宿敵=最上がいなければ、挟み撃ちされる心配もありません。

なんせ、この時は、まだ誰も、あの天下分け目の戦いが、わずか一日で決着するとは思ってもいませんでしたから、兼続には、充分な時間があるはずでした。

そんなこんなで、慶長五年(1600年)9月9日に、居城・米沢城を出陣した兼続は、最上配下の支城を次々と落とし、長谷堂城へと迫ります・・・と、先日はここまでお話させていただきました(9月9日参照>>)

長谷堂城は、山形城の南西7kmに位置する小高い丘のうえにあり、その丘が天然の要害となっている最上の支城の中でも、最も堅固な城でした。

9月15日・・・西では、関ヶ原の合戦があったその日に、長谷堂城へ到着した兼続は、城から1,2km離れた菅沢山に本陣を構えました・・・その数、約1万8000!

迎え撃つ長谷堂城には、城将の志村光安(あきやす)以下、わずか1000名!

Hasedoufuzinzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ここが落とされたなら、もはや山形城は風前の灯火・・・とばかりに、義光は、息子・義康(よしやす)北目城に派遣して、あの伊達政宗に救援を要請します。

これまで、東北の覇権を巡って、過去には、散々争ってきた最上と伊達ですが、なんだかんだで、政宗の母は、義光の妹・・・しかも、最上が倒れた後には、上杉は伊達の領地へと侵攻するに違いありませんし、家康の手前も、ここは最上を助けたほうが、政宗にとってもよろしい・・・

しかし、先日の家康のUターンで、後ろ盾を失った政宗は、落としたばかりの白石城を上杉に返還し、和睦を結んだばかりです。

そこで、政宗は自らは動かず、叔父・留守政景(るすまさかげ)3000の兵をつけて山形に派遣しました。

かくして慶長五年(1600年)9月16日長谷堂城への総攻撃を開始する兼続・・・しかし、城門はピッタリと閉ざされ、徹底抗戦の構えの光安は、上杉勢を容易に近づけさせません。

その日の夜の事・・・今度は、最上勢が夜襲をかけます。

この時、菅沢山の上に陣を敷いていた兼続の主力部隊でしたが、春日元忠だけは、その麓に陣を構えていたのです。

少ない兵なれど、地の利がある光安は、そこを狙います。

ふいを突かれた元忠はあわてて山の上の本陣に敗走・・・

その後も、兼続は連日の攻撃を仕掛け、外堀のあたりまでは侵攻するのですが、そこまで来ると山上からの鉄砲の集中放火を浴び、苦戦に次ぐ苦戦を強いられてしまいます。

この結果にいらだつ兼続は、将兵に、周辺の田んぼの苅田を命じて、最上勢を挑発します。

ちなみに、この苅田・・・なんだか、米泥棒のようでセコイ気がしますが、「刈り働き」と呼ばれる、れっきとした作戦の一つです。

収穫間際の刈り働きは、相手の兵糧をピンチにさせるだけでなく、略奪した稲は、自分とこの兵糧となって一石二鳥・・・(って結局泥棒かい!)

また、季節によっては、稲や麦が、まだ、実っていない段階で襲う事にもなりますが、この場合は、自分ところは、ともかく、相手の兵糧は減らせるわけですから、それでも充分効果アリ、これを「青田刈り」と呼びます。
(出世しそうな新人兵士を、他人より先にスカウトする事じゃないですww)

もちろん、「そうはさせるか!」と、敵がおびき出されてくれれば、襲う側としては思う壷・・・そこで、ガツンとやっちゃえるわけです。

ところが、どっこい、今回ばかりは、そんな兼続の上をいく武将が最上におりました。

山形城から、救援に駆けつけたばかりの鮭延秀綱(さけのべひでつな)でした。

まずは、わずか100ほどの人数で、おびき出されたふりをして、苅田を阻止するために城外へ撃って出ます。

「そら、来た!」とばかりに、上杉勢が襲ってきたら、すぐに兵を退いて、大手門あたりへ誘い込む・・・そこには、約300挺の鉄砲隊を潜ませておいて、追ってきた上杉勢に一斉に銃弾を浴びせかけます。

この作戦で、30余名の上杉勢が命を落しますが、最上勢は1兵の損失もなく無事にに帰還・・・お見事でした。

その後も、連日の攻撃に、最上勢は、ある程度打撃を受けるものの、どれも戦況を左右する戦いには至らず、そうこうしている中、24日(29日とも)には、周囲を偵察していた一隊が、敵に遭遇して、そのまま合戦になだれ込みました。

この一隊には、あの前田慶次郎や、新影流の始祖・上泉信綱の孫の上泉泰綱(かみいずみやすつな)もいましたが、気づいたときには、すでに周囲を囲まれてしまって、絶体絶命・・・。

何とか前線に立って10騎ほどを討ち取ったところで、急を聞いた兼続は、慌てて400の兵を現地に向かわせますが、奮戦空しく、泰綱は、ここで命を落としてしまいました。

途中からは、かの伊達の援軍も到着し、最上の士気はますます高くなります。

兼続は、他の最上の支城と同様に、この長谷堂城も、簡単に落せると踏んでいたようですが、その思惑通にはいかなかったようです。

そんなこんなの9月30日・・・さらに、上杉にとって悪い知らせが舞いこんできます。

そうです。

あの関ヶ原で、三成率いる西軍が敗れた事・・・

たとえ、この戦いで上杉が最上に勝ったとしても、天下が家康のものとなれば、何の実りもありません。

動揺する兵士たち・・・なんせ、上杉軍は1万8000という大軍、こうなったら、これを速やかに撤退させなければなりません。

このブログでたびたびお話しているように、撤退が進軍よりもはるかに難しい事は、孫子(そんし)の昔からの定番・・・

ここまで、あまりいいとこのなかった兼続さん、この撤退劇で、その名を残す事になるのですが、そのお話は、撤退戦が行われる10月1日へどうぞ>>
 

にほんブログ村 歴史ブログへ「このブログを応援してやろう」と思ってくださるやさしいあなた・・・そのポチッとが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)

2009年9月15日 (火)

討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近

 

慶長五年(1600年)9月15日、関ヶ原の合戦・・・

関ヶ原の合戦で活躍した重要人物、しかも、人気の武将であるにも関わらず、未だ、このブログにほとんど登場していなかった( ̄Д ̄;;

そうです!島左近(しまさこん)です!

彼は、西軍の主要人物でありながら、大谷吉継とともに、ただ二人、その首が発見されていない人物・・・吉継の首については、昨年、湯浅五助藤堂高刑(たかのり)の逸話(2008年9月15日参照>>)を書かせていただきましたが、左近には、そんな逸話もありません。

関ヶ原にて、この島隊と直接対決した黒田隊・兵士の回顧録『古郷(ふるさと)物語』にも、「その名を聞いただけで身の毛もよだつ」と書かれているように、その『鬼左近』の呼び名にふさわしい猛将ぶりは、江戸時代になっても、黒田の家臣たちの語り草になっていたわけですが、「押し寄せる大軍に呑み込まれるように姿を消した」「深手を負いながらも槍を振るって奮戦し、壮絶な死を遂げた」と、さまざまに語られるものの、皆、記憶があいまいではっきりしない・・・

つまり、その姿が恐ろしすぎて、まともに見る事ができず、誰もその最期を確認していない・・・という事なのですが、もちろん、もし討ち取られていたなら、彼ほどの武将を首実検で見逃すのも、納得のいかないところです。

故に、当然の事ながら、やはりあります!生存説・・・『信長公記』では行方不明、『関ヶ原軍記』では西国へ落ち、『関ヶ原町史』では京都の寺に隠れ住んで、この後32年間も生存していた事になってます。

しかし、それこそ左近ほどの猛将・・・もし、生きていたなら大阪の陣に参戦しないはずはありませんから、やはり、この関ヶ原にて命を落としたのでしょう。

そんな島左近・・・その名は勝猛(かつたけ)とも清興(きよおき)とも言われますが、名前がややこしいところからして、その前半生が謎に包まれている事が垣間見えます。

その出身は、近江(滋賀県)尾張(愛知県西部)対馬などさまざまですが、現在では、大和(奈良県)東部の平群(へぐり)の国人で、筒井氏の家老であった島氏の人であったというのが有力となっています。

興福寺多聞院英俊(たもんいんえいしゅん)『多聞院日記』には、永禄十年(1567年)に、その平群の島城で、25歳の息子が実父である城主や養母など、一族9人を殺害して家督を手に入れた事が書かれており、この息子が左近であったと見られます。

・・・とは言え、はっきりと島左近の名で、歴史上に登場するのは、筒井順慶(つついじゅんけい)のやり手の家老として、松倉右近重信(まつくらうこんしげのぶ)なる武将とともに、「筒井の右近左近」と称されるようになってからの事・・・

しかし、天正十二年(1584年)に、主君・順慶が病死し、その後を継いだ息子・定次(さだつぐ)が、酒に溺れる若輩者であったために対立が生まれ、やがて筒井氏を離れ、蒲生氏郷(がもううじさと)から豊臣秀長秀保(ひでやす)父子に仕えて、朝鮮出兵の時には海を渡ったりもしましたが、その大和豊臣家も秀保の病死で改易となった事で、浪人として不遇の生活を送り、出家も考える日々の中、そんな左近に破格の待遇で声をかけたのが、石田三成だったのです。

この時の有名な話として・・・
当時、近江水口城主だった三成は、自らの知行・4万石の半分の2万石を以って「ぜひとも我が家臣になってもらいたい」と、左近に頭を下げたのだとか・・・

まぁ、左近が三成の家臣になったのは、三成が19万石取りの佐和山城主になってからという話もあり、上記の、「自らの知行の半分」というのは、少々オーバーな話かも知れませんが、「それだけ左近が欲しかった」というのは確かなようで、もし、創作であったとしても、その事を強調したいがための逸話という事でしょう。

それは、以前から度々書かせていただいているように、三成が戦場にて武功を挙げて出世するタイプではなく、その内政匠さで出世するタイプであったため、自らの武功を補ってくれる猛将の誉れ高い左近に目をつけた・・・左近は、左近で、その人物の配下の武将としてもう一花咲かせるにふさわしい智将にめぐり合えたという事で、二人の利害関係が見事に一致したといったところなのかも知れません。

♪三成に 過ぎたるものが二つあり
   島の左近と佐和山の城 ♪

「三成には分不相応な二つのもったないもの=島左近と佐和山城」

三成にとって、頼れるのは、尽くしに尽くしぬいた主君・豊臣秀吉1人・・・その秀吉が亡くなった豊臣政権下で、とても磐石とは言い難い地位にある中、左近は、その歌の通り、三成を唯一の主君として大いに活躍する事となります。

まずは、上杉の態度に激怒し(4月14日:「直江状」参照>>)会津征伐に向かう事になった家康を暗殺するべく、三成に進言します。

「そんな卑怯な手を使うたら、かっこ悪いがな」と、義を重んじる三成に対して、
「手段を選んでたら、目的は達成できまへんで」と、説得を重ねて説き伏せます。

かくして、東国へ下る家康を近江は石部宿で待ち伏せし、夜襲をかけるべく800の兵を用意します。

そう、昨日のページ(2009年9月14日参照>>)で、「五奉行の1人・長束正家(なつかまさいえ)家康・暗殺を計画していた」と書かせていただきましたが、これが、正家&左近の計画です。

ところが、この計画が事前に漏えいして家康の知るところとなり、会津への出発を早めたために未遂に終ってしまい、左近は大いに悔しがったのだとか・・・

今年の大河ドラマでは、「家康を暗殺する!」といきまく小栗三成を、若林左近が「止めたんですけど行っちゃいました」的なセリフをのたまい、妻夫木兼続が止めに行く・・・といった風なくだりがあり、初登場に期待していた左近ファンを悩ませたようですが、実際には、上記のように左近のほうがイケイケキャラだったのですから、ファンの落胆もわかる気がします・・・左近は、いくら歳をとっても、落ち着いたベテランのイメージではなく、常に先頭を走る燃える男であってほしいのです・・・前田慶次郎みたいに(←個人的意見ですが・・・(*v.v)。)

かくして、左近活躍の場は、関ヶ原へと移ります。

前日の杭瀬川の戦い(2008年9月14日参照>>)に勝利して左近のテンションも最高潮!・・・。

慶長五年(1600年)9月15日、午前8時頃に井伊直政隊の発砲によって開始された合戦・・・まずは、先頭にいた宇喜多秀家(うきたひでいえ・西軍)隊と福島正則(東軍)隊がぶつかる中、開戦から1時間ほどした頃、左近は、100名に満たないわずかな手勢を以って、本陣の笹尾山から討って出ます。

相手は黒田長政隊・・・少ない将兵を巧みに操って、鬼神のごとく迫る姿は、黒田隊を翻弄させ、しだいに黒田隊は押され気味になります。

しかし、黒田隊も、はなから正面きっての攻撃だけでは、猛将・左近を討ち取る事は不可能との思いがあり、すでに鉄砲隊を迂回させており、あわやというところで、その迂回部隊が準備完了となり、一斉に銃撃を開始・・・混戦になる中、馬上にあった左近は、狙い撃ちさせ、重傷を負ってしまいます。

この黒田隊の側面攻撃は、左近だけでなく、石田隊・・・さらには西軍に大きな深手を負わせる事になってしまいました。

一旦、柵の中に戻った左近は、やがて、止血もそこそこに、再び馬上の人となり、敵の中でと撃って出て、いつしか群集の中に、その姿を消したのです。

以来、左近を見た者は誰もいません。

あまりの奮戦ぶりに、その姿を直視できなかった黒田家の兵士が、江戸の世になって語った左近のイメージは、ひょっとしたら夢幻の偶像なのかも知れません。

しかし、それこそが戦国武将のロマン・・・400年経った今もなお、左近のファンが尽きないのは、そこに、傷ついても果敢にアタックする戦国武将の理想の姿を抱いているからなのでしょうね。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月14日 (月)

豊臣政権の五奉行~それぞれの関ヶ原

 

慶長五年(1600年)9月14日・・・いよいよ明日は、天下分け目の関ヶ原!!!
って事は、今日は関ヶ原・前夜祭(祭りではないが・・・)

この日の正午頃に赤坂に到着した徳川家康は、赤坂を見下す事ができる小高い丘・岡山に陣取り、作戦会議を開きますが、「野戦に持ち込みたい」がために、逆に、西軍が本陣をおく大垣城「城を水攻めにする作戦である」ウソの情報を流します。

一方、その時、大垣城にいた石田三成は、家康が、思ってた以上に早くついた事に驚き、配下の島左近偵察隊として派遣し、関ヶ原の前哨戦・杭瀬川の戦いとなったわけですが、この戦いに勝利して士気あがる西軍の島津義弘宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、「家康・本陣への夜襲」を提案しますが、三成はこの案を一蹴し、関ヶ原での決戦を決意します(くわしくは2008年9月14日のページで>>)

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

・・・と、9月14日の両軍の現地での様子はこんな感じでしたが・・・

何度か、書かせていただいています通り、結果的に今後の歴史を大きく変え、天下分け目の戦いとなった関ヶ原の合戦ですが、この時点では、あくまで、豊臣家の家臣同士での争い・・・西軍も東軍も、皆、豊臣政権の一員なわけです。

・・・で、この時の豊臣政権の中心と言えば、豊臣秀吉が未だ幼い秀頼を中心にしての政権維持を計るために定めた五大老&五奉行・制度・・・

その五大老は・・・
●五大老
 ・徳川家康
 ・毛利輝元
 ・前田利長
 ・上杉景勝
 ・宇喜多秀家  の5人・・・

このうち、家康は上記の通り東軍の総大将で、輝元は西軍の総大将として大坂城の守備に、利長は東軍として北陸にて戦い(8月8日参照>>)、景勝の上杉は東北にて東軍に属する最上攻めの真っ最中(9月9日参照>>)、秀家は翌日の関ヶ原で福島正則隊と死闘をくりひろげます。

そして、五奉行は・・・
●五奉行
 ・前田玄以
 ・長束正家
 ・浅野長政
 ・増田長盛
 ・石田三成  の5人・・・

・・・て事で、本日は、この五奉行の「それぞれの関ヶ原」と題して書かせていただきますが、三成はご存知の通りです(くわしくは関ヶ原の年表で>>)し、五奉行筆頭の前田玄以(げんい)については、すでに玄以さん主役のページ(5月7日参照>>)を書かせていただいているので、今回は残りのお3人について書かせていただきますね。
 

長束正家(なつかまさいえ)

正家は近江(滋賀県)水口(みなくち)10万石の領主・・・計算力に優れ、豊臣政権下では検地や財政に能力を発揮した人です。

この人は、最初の最初っから三成派で、例の家康の悪行を告発した弾劾状にも積極的に署名し、会津征伐に向かう家康を暗殺する計画までたてていたとか・・・

三成の挙兵後は、伊勢の安濃津城・攻略(8月25日参照>>)にも参戦しています。

もちろん、関ヶ原の本戦にも参戦し、その日は1500の手勢を率いて南宮山に布陣していました(関ヶ原の合戦・布陣図を別窓で開く>>)

しかし、布陣図を見ての通り、すぐそばには、すでに家康との密約を交わしている吉川広家・・・結局、この動かぬ広家の妨害に遭って、まったく兵を動かす事ができず、勝敗が決する頃に、水口へと敗走しますが、東軍の池田輝政らに城を囲まれ、自害して果てます。
 

浅野長政

長政は、秀吉の奥さん・お禰(ね・ねね)さんとは、義理義理兄弟・・・長政の奥さんが、お禰さんの義理の姉妹(または姉妹)だった縁で秀吉に仕え、武功にも行政にもその手腕を発揮し、甲斐(山梨県)22万石を領していました。

もともと家康寄りで、三成とは犬猿の仲だったと言われますが、関ヶ原の前年には家康への暗殺を疑われて謹慎処分となっているので、その話は疑わしいと思います。

家康寄りなら、謹慎させる必要ありませんから、この一件は、むしろ長政が、三成派であって、二人を引き離すために謹慎させた可能性・大ですね。

関ヶ原の当日は、秀忠軍に属していたので本戦には参加せず、息子・幸長が現地にで南宮山に布陣した西軍を牽制しています。
 

増田長盛(ましたながもり)

長盛は、秀吉が織田信長に仕えていた頃からの家臣・・・武功よりも内政面で活躍し、郡山20万石を領し、あの家康の弾劾状にも署名し、積極的に西国の大名を西軍に誘っりもしてましたが、実は、三成が奉行職を解かれて謹慎になった頃から、すでに家康に通じていて、せっせと三成側の動きを家康に知らせていたとも言われます。

関ヶ原の当日には、守備隊として大坂城にいましたが、その時も、城内の仲間内では、家康への内通の噂が耐えなかったという事です。

そのおかげか、戦後、命を取られる事はなかったものの高野山へ追放され、その後、武蔵(埼玉県)岩槻に流罪となりました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆ 

以上、それぞれの思惑、それぞれの関ヶ原・・・三成&玄以も含め、本人たちの行動とはうらはらに、戦後の処分には、家康の思惑が大いに絡んでいる事は確かでしょう。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月13日 (日)

豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原の合戦

 

慶長五年(1600年)9月13日、九州の関ヶ原とも言われる石垣原の合戦がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、石垣原の合戦については、すでに一昨年の9月13日にも書かせていただいたのですが、その時は黒田如水(じょすい・孝高)サイドの話に終始してしまったので、本日は、そのお相手・大友義統(よしむね)中心に合戦の内容をお話させていただきます。
 

義統は、豊後(大分県)の王と呼ばれた、あの大友宗麟(そうりん・義鎮)の息子です。

20歳に満たない段階で宗麟から家督を譲られますが、隠居した宗麟が未だ大きな権力を持ち続けた事で、二元政治となったうえあの耳川の戦い11月11日11月12日参照>>)で大敗してしまいます。

やがて、坂道を転げ落ちるように衰えはじめ、隣国・薩摩(鹿児島県)の島津からの脅威にさらされる中、当時、天下統一しつつあった豊臣(羽柴)吉に救援を求めます。

その後、その秀吉軍が、島津を抑えて九州を平定した事により、豊臣政権のもと、豊後一国を与えられ、義統は領国の統治にまい進しますが、朝鮮出兵の時、かの地で大失態を演じてしまします。

明の使者・沈椎敬(ちんいけい)と和睦交渉を行っていた小西行長が、騙まし討ちに遭って撤退した時に、後方の鳳山(ホンサン)の守りを任されていた義統が、「行長が討死した」との誤報を信じて先に撤退してしまい、救援を求めて城に入った行長隊を、あわや全滅の危険にさらしてしまったのです(1月26日参照>>)

これに激怒した秀吉によって大友家は改易となり、義統は、一旦、周防(すおう・山口県)に送られた後、常陸(茨城県)水戸の佐竹義宣(よしのぶ)のもとに預けられ蟄居(ちっきょ)の身となりました。

やがて、秀吉の死によって罪は許されて、その身は自由になりますが、旧領が復活する事はなく、浪人としての日々を送る事になります。

そんなこんなの慶長五年(1600年)です。

政情がにわかに不安定となり、流れ始めた関ヶ原への不穏な空気・・・
キタ━━━(゜∀゜)━━━ !!!!!
義統にとっては、豊後=大友氏・復活のチャンスです。

・・・とは言え、相手は、早々と東軍参戦への意志を表明した如水・・・一昨年のページでも書かせていただいたように、如水は、あの秀吉に「俺の次に天下を取るのはお前だ」と、言わせた男です。

そんな如水を相手に、ちょいと義統さん、無謀じゃありませんか?・・・と、言いたくもなりますが、それは、やっぱり、この後の歴史を知っているから言える事で、この時の義統にとっては、充分に勝算があったのです。

もともと、この時の彼は浪人の身ですから、東軍につこうが西軍につこうが自由・・・実際、如水や加藤清正から「東軍に参戦するように」との声をかけられたという話もあります。

しかし、義統は、あえて、西軍として如水と戦う事を選びます。

それは、秀吉からの改易の命令を受けた直後に、しばらくの間、周防にいた縁からか、毛利輝元に強く誘われたという事があります。

輝元は、何と言っても西軍の総大将です。

しかも、豊後に帰国するにあたって、大坂城豊臣秀頼から、具足100領、長柄槍100本、鉄砲300挺、銀100枚、馬100頭を引き出物として与えられたほか、勝利のあかつきには、豊後一国を複領する約束も取り付けています。

総大将のお誘いに豊臣家のバックアップ・・・何となく、これならヤル気になるのも、わかるような気がします。

かくして、その態勢を整えるべく、豊後へと向かう義統でしたが、その旅の途中、旧臣・吉弘統幸(よしひろむねゆき)と再会します。

統幸は大友家譜代の重臣で、先日書かせていただいた立花道雪(どうせつ)(9月11日参照>>)とともに大友家を支え、岩屋城で壮絶な最期をとげた高橋紹運(しょううん(7月27日参照>>)の甥にあたる人物・・・

義統が改易の身となった時から、その紹運の息子である立花宗茂(むねしげ)柳川城に身を寄せていたのですが、昨今の不穏な空気を察して、義統の息子・義乗(よしのり)を補佐しようと、九州から江戸に向かっている最中だったのです。

統幸は、義統に東軍での参戦を訴えますが、上記のように、すでに西軍での参戦の決意が固い義統・・・「主君のお気持ちとあらば」と、彼も従う事になりました。

豊後に戻った義統のもとには、旧臣を含め、たちまちのうちに2000ほどの兵が集まります。

早速、集まった兵を率いて、細川忠興(ただおき)が不在の杵築(きつき)(大分県杵築市)を取り囲む義統でしたが、その事を聞きつけた如水が救援に駆けつける事を知り、一旦、杵築城の包囲を解いて、立石(別府市)へと引き揚げ、迎え撃つべく態勢を整えます。

かくして慶長五年(1600年)9月13日、大友軍と黒田・細川連合軍は、石垣原(別府市鶴見一帯)でぶつかる事となります。

その日の未明に、黒田軍の先遣隊が到着した杵築城では、留守を預かる細川家の家臣・松井康之有吉立行らが彼らを迎え入れ、ともに石垣原へと出陣しました。

一方の大友軍は、境川の南に築かれた立石砦を拠点に布陣します。

Isigakiharafuzinzucc_3 ↑クリックしていただくと複数の布陣図が開きます
(このイラストは戦況と位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

細川勢・約200に黒田勢・約2000を加えた連合軍に、約900の大友勢・・・戦端が開かれたのは、その日の正午頃でした。

まずは、大友勢の鉄砲隊が一斉に攻撃を開始・・・それを受けて、黒田勢の先手・久野次左衛門(ひさのじざえもん)が突撃し、続いて実相寺山(じそうじやま)に布陣じていた松井康も突撃します。

しかし、激しい鉄砲隊の攻撃に次左衛門が戦死・・・久野隊が、一旦、後退する中、それでも松井隊は踏ん張り続けますが、「あまりに危険」とばかりに井上之房(ゆきふさ)が康之を説得し、ようやく後退します。

それを期に、大友勢の先手である吉弘統幸と二手の宗像鎮続(むなかたしげつぐ)が前へと押し出ます。

このあたりは、断然・大友勢が優勢・・・一時は、連合軍を実相寺山の麓にまで追い詰めますが、多勢に無勢で、ここらあたりで、少し疲れが・・・

それを、見逃さなかったのが之房・・・すかさず吉弘隊と宗像隊めがけて攻撃を仕掛けます。

一気に形勢逆転となり、味方の劣勢を見た義統は、ここで彼らに退却を命じますが、統幸はそれを聞き入れず、ますます奮戦・・・両軍入り乱れる中、偶然にも、之房と統幸の一騎打ちとなります。

武勇の誉れ高き統幸ではありましたが、この一騎打ちは之房に軍配が上がりました。

さらに、この後、鎮続もに討死してしまい、大友勢のテンションは一気にだだ下がりとなります。

午後6時頃には、大友軍の敗色が決定的となる中、南下してきた如水・本隊が実相寺山の麓に到着・・・義統は立石砦に籠ります。

翌・14日から、「このまま一気に大友を全滅させるべき」との家臣の声に、「大友には私的な怨みはないのに、義統を殺すなんてのは、ちょっと・・・」と、如水がちゅうちょしていたところへ、義統から、配下の田原紹忍(たわらしょうにん)を通じて、黒田配下の母里友信(もりとものぶ)のもとへ降伏の申し出がありました。

こうして、石垣原の合戦は終結・・・奇しくも、その日は、あの関ヶ原で合戦が行われた9月15日でしたが、当然、九州にいる誰1人、その天下分け目の戦いの勝敗を知る者はいませんでした。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月 9日 (水)

関ヶ原の前にやったるで!直江兼続・最上に侵攻

 

慶長五年(1600年)9月9日、上杉景勝配下の直江兼続が、最上領へと侵攻すべく、居城・米沢城を出陣しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

会津上杉景勝(かげかつ)上洛拒否(4月1日参照>>)と、上杉家の執政・直江兼続(かねつぐ)ケンカ売りまくり手紙=直江状(4月14日参照>>)に、会津征伐を決意し、伏見城を出陣した徳川家康・・・

迎え撃つ上杉も、前線となる白河(福島県)付近に土塁や掘を構築し、領内32ヶ所の支城に城代を配置して臨戦態勢のヤル気満々・・・さらに、兼続は弟・大国実頼(おおくにさねより)を通じて、家臣を越後に派遣し、領民による一揆を扇動させて、現・領主の掘秀治(ひではる)を牽制します(7月22日参照>>)

しかし、その間に留守になった伏見城を石田三成が攻撃(7月19日参照>>)した事から、家康は会津征伐を中止し、急遽、上方へと転進します(8月11日参照>>)

・・・と、これで、いよいよ関ヶ原の幕開けとなるわけですが、おそらく、来週の「天地人」では、このあたりをやるのではないかと思われます。

・・・で、本来なら、西へと戻る家康を追撃すべきところなのですが・・・というより、兼続は追撃するつもりだったわけですが、肝心の景勝が「謙信公は敵の背後を襲う事はしなかった」と、かたくなに追撃を許さず、すでにほとんどの事をやりたい放題にやってた兼続も、さすがに、これだけはっきりした主君の命令には逆らえず、泣く泣く諦めます。

・・・で、その代わりと言っちゃぁなんですが、かねてより欲しくてたまらなかった隣国・最上領への侵攻を考えます。

・・・と言うのも、家康は会津征伐に先駆けて、東北の武将たちに協力を要請・・・すでに書かせていただいたように、あの伊達政宗もヤル気満々で、もう、すでに出陣しちゃってました(8月12日参照>>)

ところが、その家康の転進で、状況が一変したわけです。

会津征伐のために、最上義光(よしあき)の居城・山形城に集結していた南部利直戸沢政盛秋田実季(さねすえ)といった東北の大名たちは、会津征伐が中止になって、家康が西へと戻った事で、当然の事ながら、皆、それぞれの居城に帰ってしまいます。

あのハリキリボーイだった政宗も、家康の援護なしでの会津侵攻は不可能と考え、奪ったばかりの白石城を撤退し、停戦を申し入れます。

もちろん、上杉側は、最上への攻撃に集中するためにも、「喜んで!」と、すんなりと和睦が決定・・・義光は、単独で120万石の会津相手に戦わなくてはならなくなったわけです。

8月18日・・・義光は、嫡子・義康(よしやす)を人質に差出し、ほとんど無条件降伏といえる条件での講和を持ちかけますが、兼続はこれを一蹴します。

「兼続ヒドイ・・・講和したれよ」
と、思ってしまいますが、実は、これも、本当に義光が降伏しようとしていたかどうかは微妙です・・・ひょっとしたら、上方の情勢が、どのように展開するか、見極めるための時間稼ぎだっただけかも知れません。

ここは、武将同士の駆け引き&腹の探りあい・・・で、結局、半月近くたっても人質を出す気配がない事で、9月3日、兼続は、諸将に最上攻めの準備を命じました。

Hasedoukankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして慶長五年(1600年)9月9日兼続は、2万4000余りの兵を率いて、居城・米沢城を出陣します。

同時に、与板衆の木村親盛(ちかもり)と中山城代の横田旨俊(むねとし)率いる別働隊が高島城を出陣・・・兼続の本隊は畑谷(はたや)へ、別働隊は上山(かみのやま)へと向かいます。

比較的守りが手薄の周囲の支城から落としていき、徐々に、義光のいる山形城への包囲を狭めていく作戦です。

一方、今は亡き豊臣秀吉の変な転封命令で、分断された形になっている現在の上杉領・・・あっちの庄内側からは、酒田城主志駄義秀(しだよしひで)最上川に沿って、尾浦(おうら)城主下吉忠(しもよしただ)六十里街道を越えて、それぞれ最上領へと攻め込みます

9月13日・・・迫り来る上杉軍を前に、わずか350の兵の畑谷城・・・たまらず、義光は、城将の江口光清(あききよ)に撤退命令を出しますが、光清は聞き入れず、籠城作戦を決行します。

そこで、兼続が、城の南側に位置する片倉山を占拠して、一方の向かい側に鉄砲隊を配置し、両方からの同時攻撃を仕掛けると、さすがに、多勢の猛攻にはひとたまりもなく、光清以下、城兵はことごとく討死し、まもなく畑谷城は落城しました。

その後も、谷地(やち)寒河江(さがえ)白岩城などを次々と落とし、またたく間に最上領内の西半分の城を手に入れた上杉軍・・・いよいよ、西では関ヶ原の合戦が行われる事になる運命の9月15日、最上の支城の中では最も堅固な要害・長谷堂城へと迫のです。

ただし、一方の上山城へと向かった別働隊2000余りは、城兵と伏兵の挟み撃ちに遭って苦戦し、16日には、親盛が討死し、旨俊が中山城へと逃げ帰ったため、こちらは惨敗となりました。

果たして、大河ドラマのように、兼続と三成の密約はあったのか?

いや、京都にいた時点での約束はなかったとしても、三成が毛利輝元に総大将を頼んでから関ヶ原まで、約2ヶ月あるのですから、充分連絡は取れますし、『続武者物語』には、兼続に宛てた6月20日付けの三成の書状が存在した事が書かれているし、『上杉軍記』にも密約をほのめかす文章が書かれている・・・(これが密約ありの根拠となってるわけですが・・・)

ただし、いずれも、まさか関ヶ原が、わずか半日で決着がつくとは想像できなかったわけで、兼続も、このまま長谷堂城の戦いへと突入していく事になります・・・続きは、長谷堂城への総攻撃が開始される9月16日へどうぞ>>

追記:判官びいきのワタクシ・・・このページを書きながら、今日は兼続が主役のはずなのに、ちょっとだけ江口さんを応援してしまいました~兼続ファンのかた、スンマセンo(_ _)o

だって、2万に350はかわいそ過ぎる・・・(;д;)

 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (6) | トラックバック (0)

2009年9月 7日 (月)

石田三成はそんなに嫌われていたのかしら?

 

天下分け目の関ヶ原に向けて、ここンところ大変おもしろくなってきた大河ドラマ・天地人ですが、昨日は、第36回「史上最大の密約」・・・

実際には、あったか?なかったか?は微妙なところの直江兼続石田三成の密約ですが、ドラマとしてはあったほうが断然オモシロイので、そこは、思う存分、徳川家康を倒すシュミレーションで盛りあがっていただきましょう。

ただ、ドラマでは、殿=上杉景勝までもが、合戦必至の敵対心むき出しだったのがチョイと気になりますね~。

京都にいる時点で、ここまでヤル気満々なら、後々、会津征伐の途中から西へ戻る家康を追撃しない(4月14日参照>>)の理由付けが大変なような気がしないではないのですが、そこは、やはり、造り手のかたの手腕で、それなりにうまく処理してくださる事でしょう。

ただ、先週の病身の前田利家VS徳川家康のカッコイイ場面で(第35回・参照>>)、息子・利長の同席をアピールしてくださったのは、てっきり徳川方へと寝返る時の心の描写を表現するための「フリ」だと思っていたんですが、いともたやすく仏壇の前で泣くだけで終ってしまいましたからねぇ・・・本当に放送時間が足りないのかも知れません。

三成を襲撃する福島正則らが(3月4日参照>>)、あれだけ盛り上がって集合していたにも関わらず、実際に襲撃する場面がなかったのも、残りの放送時間と番組予算の関係による大人の事情なのでしょう。

そんなこんなで、襲撃事件のターゲットとなってしまった三成クンは、居城の佐和山城で蟄居の身となり、そこを訪ねた兼続と、題名通りの「史上最大の密約」を交わすわけですが、三成の佐和山城での暮らしが、とても質素な事に驚くという有名な話は、実際には兼続ではなく、関ヶ原の後に佐和山城に乗り込んできた東軍の兵士たちの話・・・。

豊臣秀吉の寵臣として、諸大名とのパイプラインの役割をはたしていた三成なら、各地からのワイロも集まり、さぞや贅沢な暮らしをしていたんだろう・・・と、想像していたところに、みすぼらしい調度品や、チリ一つなく整理整頓された城内を目の当たりにして、非常に驚いたわけです。

つまり、それだけ三成の評判が悪かった・・・そこンところは、ドラマと同じですね。

ただ、実際には、大谷吉継(9月15日参照>>)という小姓時代からの親友がいますが、今回の天地人では、この大谷クンの役割も、兼続がやってくれています(主役なので・・・)。

それにしても、どうして、そんなに評判が悪いのか?

もともと、合戦で命を賭けて挙げた武功で出世の道が開けた戦国時代・・・そんな腕自慢の武将たちにとっては、戦いにも参加せず、後方でぬくぬくしていながら、同じように出世する文治派の彼らが気に食わなかったわけです。

ただ、天下統一をして中央集権を進める秀吉にとっては、検地もできて年貢の徴収もうまく、兵站の処理もできる奉行としての三成ら文治派を重用するのは当然で、戦場の武功と同じように出世するのはしかたのない事ですが、武闘派からは嫌われるかも知れません。

また、ドラマで描かれているような、融通のきかない高飛車な態度の人であった事も確かなようです。

たとえば、ある年の10月頃、毛利輝元から秀吉へ桃が献上された時・・・輝元は、10月という季節外れのめずらしい桃を献上して「さぞや、喜んでくれるだろう」という思いだったのですが、三成は、それを突き返します。

「旬じゃない物を食べて、殿下が腹を壊したら大変!」って事のようで、ハウス栽培のない当時としては、正論っちゃぁ正論なんですが、杓子定規でなんとも・・・こんな事されちゃぁ、やられた側がイラッとする事は間違いないですわな。

・・・とは言え、私自身は、一般に言われているほど、三成は嫌われ者ではなかったのではないか?と思っています。

現在の印象の元となる様々なエピソードは、関ヶ原で勝利者となった徳川の言い分が大いに影響していて、それこそ、必要以上に三成の評判をおとしめているのではないかと・・・

そう思う根拠は、関ヶ原に集結する両軍勢の数です。

確かに、毛利や吉川は動かないし島津も参戦せず、小早川が寝返って、その周辺も一気に・・・と、なると、実際に合戦に参加した兵力は、家康の東軍は関ヶ原にやって来た兵力=8万~9万がそのまま兵力となりますが、西軍は開戦前は8万ちょっと言っても、結果的には3万5000程度だった事になり、現在では、以前から言われているような「拮抗した戦力ではなかった」とおっしゃる論客も、多くおられるようです。

しかし、おそらく、この数字には結果論が含まれているはずです。

合戦が始まってから、状況を見て参戦しなかった者もいるだろうし、状況を見て寝返った者もいるでしょう・・・最終的に東軍についた者が皆、最初から東軍につこうとは考えていなかったと思いますし、ヘタすりゃ、会津征伐の時点で、勢いで家康についた豊臣恩顧の武将の中にでも、もしも、西軍優勢なら寝返っていた者もいたかも知れません。

確かに、最初の8万以上の数字もアテにありませんが、この3万いくらという数字もアテにならないと思います。

そこで、考えなければならないのは、家康×三成の立場の違いです。

かの堺屋太一さんは、その著書の中で、当時、豊臣政権の五大老の筆頭だった家康と、4番め奉行の三成とでは、言わば「豊臣会社の中の、他を圧勝する大副社長と、一企画部長の戦いだった」と書いておられます。

石高をみても、家康=256万石、三成=19万4000石・・・
年齢も家康=59歳、三成=41歳・・。

この差のわりには、寝返り組を含むと言えど、関ヶ原という戦場に8万以上の西軍を集めたのは、大したモンなのでは?

少なくとも、関ヶ原当時の感覚では、天下分け目の戦いではなく、豊臣政権内の派閥争いの形をとっていたわけですから、これはひとえに三成の人望・・・とまではいかなくても、「お前には誰もついて来ない!」と、タヌキジジイに叱責されるほど嫌われてはいなかったのではないでしょうか?

まだ秀吉が生きていた頃・・・殿下のご機嫌をそこねて、取り潰しになりそうになったのを、三成の奔走によって無事切り抜ける事ができた大名や、三成の口添えによって加増された大名も少なくなかったそうで、そんな彼らは、三成に好感を持っていたに違いありません。

また、先ほどの輝元との桃の一件に関しても、あのような高飛車は、人を選ばず、全員に対して、同じ態度をとっていたわけで、相手を見て態度を変える事はありませんでした。

杓子定規で融通がきかないのも、私利私欲ではなく、すべて豊臣のためにやっている事というのは、皆が感じ取っていたはずです。

そんな三成は、エラそうな態度はともかく、「豊臣の事を思う信用のおける人物」と思われていた事は確かでしょう。

以前も、三成の最期のページに書かせていただきましたが(10月1日参照>>)・・・

合戦で負けたのに自刃せずに逃亡した事をバカにした本多正純「その昔、源頼朝公は、その命残して源氏の世を開いた」と言ったという有名なエピソードがあります。

これを・・・
「命を惜しむ武士として恥ずべき行為」ととるか、
「最後の最後まであきらめない不屈の精神」ととるかは、受け手側の自由といったところでしょう。

少なくとも、恥ずべき行為ととったのは、勝者である徳川が大半だったでしょうからね。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←「おもしろかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします(゚ー゚)あなたの応援で元気100倍!

 

 

| コメント (18) | トラックバック (1)

2009年8月31日 (月)

天地人・第35回:「家康の陰謀」より利長が気になる

 

イモトのマラソンに衆院選と、ライバルの多かった昨日の「天地人」ですが・・・

第35回「家康の陰謀」・・・なかなか、よかったですね。

放送時間に限りが出てきたせいか、ホームドラマ的な描写が大幅にカットされ、天下分け目の関ヶ原に向かっての大きなうねりは、合戦中心の戦国モノを期待していた者にはありがたいです。

それでも、「娘が、和歌を詠むようになった」と、嫁のお船兼続に言った時には「まだ言うか!」と思いましたが、さすがに、今回の兼続は一蹴・・・相手にしませんでしたね(笑)。

ところで、今回、気になったのが、前田利家さん・・・

さすがに、徳川家康の首に小刀を当て、「ここで、(お前を)殺す事もできるんだから、豊臣に忠誠を誓え!」と、ドラマのまんま言ったかどうかはともかく、秀吉亡き後の、豊臣家の存亡を、一番気にかけていたのは、やはり、彼と石田三成だったでしょうからね。

この部分はとても重要だったと思います。

来週の予告を見る限りは、このシーンを、次回に活かしてくださるのかどうかは微妙なようですが、このような出来事が本当にあった事はあったでしょうね。

もちろん、細かなシチュエーションはわかりませんが、少なくとも、三成が、「前田家は、豊臣存続の一番の味方になってくれる」と信じた瞬間があったのは確かという事です。

昨日のドラマでは、病気見舞いに訪れた家康を、近くに呼び寄せた利家が、上記のごとく、隠し持っていた小刀を家康の首に当てて、豊臣家に忠誠を誓うのかどうかを問いただし、家康が「誓います」と言ったのを、そばにいた兼続と、利家の息子・利長に・・・

「聞いたか?」
「はい、しっかりと聞きました」
「証人がいたら安心だ」
てな、感じのシーンだったと思いますが、ここに、息子の利長がいた事が、個人的にはとてもウレシイ・・・

それは、三成を含め、後々、関ヶ原で西軍となる武将たちにとって、この前田家(息子)の裏切りが最もショックだったと思われるからです。

実際の利家も、ドラマの通り、織田家家臣の時代からの友人である事もあって、豊臣家の存続を一番に願っており、その遺言も、
「豊臣家に謀反を起す者あれば、必ず討て!」
というものであったはず・・・

つまり、利家自身も、まさか自分亡き後に、嫁さんと息子が家康につくとは思っていなかったわけで、その裏切り行為を強調するために、昨日のシーンで利長の同席をしっかりとアピールさせてくれたのだとすれば、なかなか、今後の展開が楽しみというものです。

・・・とは言え、別に、利家の遺言に背いて家康についた前田家を批判するつもりではありません。

天下分け目の戦となった以上、世は戦国に逆戻りしたのと同じ、義理を立てて上司のもとに居残るか、勝ちが見えているほうについてわが家を守るかは、本人の自由です。

現に、かの利家も、賤ヶ岳の合戦の時に、柴田勝家に無断で、あっさりと兵を退いているわけですから・・・(4月23日参照>>)

いや、むしろ関ヶ原における前田家の場合は、娘婿である宇喜多秀家が先頭に立って参戦した事、弟の前田利政が現地には行かずとも西軍への意思表明をしていた事とのバランスを考えれば、妻・まつが、家康の「加賀征伐」の脅しにあっさりと徳川の人質として江戸に行った事や、利長が関ヶ原の先駆けとばかりに、北陸の豊臣勢を蹴散らす戦いに身を投じる(8月8日参照>>)のは、利に叶ってます。

西軍・東軍のどちらが勝っても前田家が存続するためには、これが最善の方法だった事でしょう。

五大老のうち、家康本人以外の、毛利輝元上杉景勝・・・そして上記の秀家が西軍となる中で、ただひとり東軍につく事にした利長には、おそらく、相当の覚悟が必要だった事でしょう。

そのへんの描写を盛り上げるために、昨日の病気見舞いのシーンで、利長に証人になってもらっているのだとしたら・・・(◎´∀`)ノもう、ワクワクしますねぇ~楽しみです。

いよいよ来週は「三成・襲撃事件」・・・そちらの予習は3月4日のページでどうぞ>>

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

ところで、秀吉が死んだという事は、小早川隆景さんも死んじゃってるわけですから、もう、横内正さんは出てこないんですよね・・・いつの間に(;;;´Д`)(見逃してるのかな?)・・・寂しいです。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←「おもしろかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします(゚ー゚)あなたの応援で元気100倍!

 

 

| コメント (10) | トラックバック (0)

2009年8月12日 (水)

関ヶ原の合戦と伊達政宗

 

慶長五年(1600年)8月12日、宇都宮城に入っていた徳川秀忠が、北目城伊達政宗に、協力して作戦遂行する旨の書状を送りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)8月12日徳川秀忠から伊達政宗協力要請・・・何への協力か?

もう、おわかりですね?
そうです・・・関ヶ原の合戦です。

・・・とは言え、関ヶ原は岐阜県・・・今の政宗は遠く宮城県、しかも、かの宇都宮城の秀忠は、この後、関ヶ原へは間に合わず、東軍の主力となるのは、東海道を西へ行った父の徳川家康とその仲間たち、一方の西軍・総大将の毛利輝元は大坂城に留まったままで、主力は石田三成とその仲間たち・・・。

これまで、ドラマや小説で度々描かれてきた関ヶ原ですが、この時、同時に起こった東北の関ヶ原とも言える一連の戦いは、ほとんど登場してきませんでした。

今年の大河ドラマ「天地人」は、上杉家が主役・・・今年こそ、この東北の関ヶ原が、くわしく描かれるものと期待に胸を膨らませている今日この頃ですが、この時、上杉は西軍側・・・かたや、東軍側に着いて東北の関ヶ原を主役なみで駆け抜けるのが、かの伊達政宗なわけです。

そもそも、生前の豊臣秀吉は、自分にもしもの事があった時、未だ幼い息子・秀頼を盛りたてて豊臣家を守ってくれるよう、五大老五奉行をはじめとする配下の者に、様々な約束事をとりつけていたわけですが、秀吉の死後、その約束事を最初に破ったのは、他ならぬ家康と政宗です。

秀吉の後を追うように前田利家が亡くなると、もともと豊臣家内でくすぶっていた朝鮮出兵の最前線にて命がけで戦った武闘派と、天下人・秀吉の名の下で国家の内政をこなす文治派との亀裂が表に出てきます(3月4日参照>>)

その亀裂をうまく利用しながら京都は伏見城にて政務をこなす家康は、今や、豊臣家内で実力トップの座にいるわけですが、もちろん、家康の本心は、自らが、豊臣家に代わって天下を取る事であり、このまま豊臣家の家臣=五大老の1人として生きていくつもりはありませんから、徐々に、その意思表明・・・その第一歩が慶長四年(1599年)の家康の六男・松平忠輝と、政宗の長女・五郎八(いろは)姫との婚約でした。

かの秀吉との約束事の中には、「大名同士の私的な婚姻は禁止」というのも含まれていますから、これは明らかに約束違反ですが、実は、政宗にとっても渡りに船だったんです。

現在、上杉が治めている会津は、もともと政宗の領地・・・小田原参陣に出遅れ(6月5日参照>>)葛西大崎一揆への関与を疑われ(2月4日参照>>)て大幅減封となってしまい蒲生氏郷(うじさと)の物となった会津は、その氏郷亡き後、上杉の手の中にありました。

豊臣家どっぷりの上杉ですから、このまま豊臣の世が続けば、さらに領地を拡大する可能性もあり・・・なんとか、伊達家開祖の地・伊達郡も含めて、元の領地を取り戻したい政宗にとって、豊臣に反旗をひるがえす気配の家康と結んでおく事に越した事はありませんし、ここで天下が転べば、その混乱に乗じて再び、奥州の覇王になる事も・・・いえ、まだまだ歳若い政宗なら、天下を狙う事だってできるかも知れません。

そりゃ~ハリキリまっせ!

かくして、自らの約束破りは棚の上に置いといて、領国へ戻った上杉景勝(かげかつ)に上洛を求める家康・・・拒否の返事に謀反の疑いありとし、会津征伐を決意します(4月1日参照>>)

この時、家康が命じた諸将のダンドリは・・・
南の白河口家康本人&秀忠
東の仙道口からは佐竹義宣(よしのぶ)
同じく信夫(しのぶ)からは政宗
北の米沢口最上義光(もがみよしみつ)
西の津川口からは前田利長掘秀治

こうして、東北があわただしくなる中、一方の上杉もじっとしてはいられません。

7月22日には、上杉の家老・直江兼続(かねつぐ)が、越後一揆を扇動し、現在の越後の領主である掘秀治を牽制します(7月22日参照>>)

ハリキリボーイ(と言っても30歳過ぎてますが・・・)政宗は、北上してきた家康が小山(おやま・栃木県)に到着した7月24日、早くも、上杉領の最北端にある白石城へ攻撃を仕掛け、翌・25日には開城させてしまいます。

しかし、ここで状況が変わります。

後に、「小山評定(ひょうじょう)と呼ばれる事になる、この25日の軍儀・・・ここで、家康は、ともに会津征伐へとやってきた諸将に、会津征伐を中止して西へと戻る事を発表します。

そうです・・・すでに7月19日から、家康が留守にした伏見城へ、石田三成の命を受けた毛利秀元小早川秀秋らの攻撃が始まっていたのです(7月19日参照>>)

これについては、兼続が家康を東北へ惹きつけておいて、その間に三成が挙兵するという二人の密約があったとか、逆に、家康が三成から攻撃を仕掛けさせるために、わざと会津征伐を口実に伏見城を留守にしたとか・・・後の歴史を知っている私たちから見れば、イロイロな想像を掻き立てられる部分ではありますが、いずれも、確固たる証拠があるわけではありません。

とにかく、家康は、ここで、ともに来た諸将に、「西軍につきたい者は、遠慮せず、この場から去ってくれ、ともに来てくれる者は残ってくれ」と問うたのです。

なんせ、彼らの妻子は大坂城に人質状態となってますから・・・しかし、福島正則山内一豊ら、東海道に城を持つ武将らが率先して、持城と兵糧を提供してまでの全面協力に、その場で西軍へと降った者はほとんどいなかったと言います(9月20日参照>>)

これにより、しばし会津は停戦状態となったのです。

家康は、次男・結城秀康(11月21日参照>>)を宇都宮城に配置して上杉の攻撃に備えるとともに、政宗や義光にも、その動向に注意を払うよう命じ、自らは、居城の江戸城へと向かいますが、ここで気になるのは、佐竹義義宣の行動・・・

実は、上記の会津攻めのメンバーに入っている義宣さんですが、なにやら怪しい動きをしていたのも、事実・・・この先、家康がもっと北へと向かっていたら、白河で上杉と合流して、取って返すつもりであったとも言われています。

さすがに家康も疑っていたようで、北関東の諸将には、佐竹の動向を探るように言い残して、自らは、この後、1ヶ月間江戸城に籠ります。

この時の、家康の江戸城滞在は、一つには、今後の戦況を有利に進めるために全国の諸大名に戦後の恩賞をチラつかせた手紙を送る事・・・細川忠興(ただおき)には但馬(兵庫県)を、加藤清正には肥後筑後(熊本・福岡県)を保証する」といった具合にです。

もちろん、かの政宗にも、8月22日付けで、勝利のあかつきには苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井など旧領7ヶ所=50万石加増の約束・・・世に言う「百万石のお墨付き」を与えています。

100mangokunoosumitukicc これがウワサの「百万石のお墨付き」=『徳川家康領地覚書』(仙台市博物館蔵)

そして、もう一つには、豊臣恩顧の武将を中心に構成した東海道を西へ行く先発隊が、ちゃんと東軍として働いてくれるかどうかを見極めるため(8月11日参照>>)・・・なんせ、昨日まで、豊臣のために働いていた彼らですからね。

・・・と、ここで、上杉が、家康を追撃していたら、実際のところ、家康は相当危なかった・・・。

しかし、上杉は動きませんでした。

以前、「直江状」のところで書かせていただきましたが(4月14日参照>>)、とにかく、景勝が首を縦にふらなかったのです。

この後の歴史を考えれば、この時の上杉の追撃のあるなしが、天下を分けたターニングポイントだったのかも知れません。

結局、ヤル気満々だったのに、殿様に反対されて家康への追撃ができなかった兼続は、次に、国境を接している最上の領地を占領すべく、北へと進攻します。

それが、関ヶ原の合戦と同じ日に勃発する長谷堂の戦い(9月16日参照>>)なのですが、もちろん、これにも東軍側として援軍を出した政宗・・・

ただ、ご存知のように、肝心の関ヶ原が、わずか1日で決着がついてしまいます.

それでも、気持ちが収まらない政宗は、大勢が決まった後も、家康の制止を振り切りながら、福島城をはじめとする上杉領への進攻を度々繰り返しています。

なんせ、「百万石のお墨付き」ですから・・・

しかし、結局、家康ブチ切れの激怒により、しかたなく刀を納める事になった政宗は、わずか2万石が加増されただけでした。

この時、政宗34歳・・・もはや、戦での領地拡大の時代ではない事を悟った政宗は、これからは、内政を重視し、領国をを発展させる事によって石高を増やす近代大名への道を歩む事になります。

・・・と思いきや、まだ、諦めてませんね~

それは支倉常長(はせくらつねなが)の事。

そのお話は・・・
3年も前に書いたページですが、よろしければコチラからどうぞ>>
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←「よかった」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします(゚ー゚)あなたの応援で元気100倍!

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年7月25日 (土)

あっぱれ!真田の嫁~小松姫の内助の功

 

慶長五年(1600年)7月25日、犬伏から舞い戻った真田昌幸・幸村父子に対して、沼田城にて夫の留守を守る小松姫が入城を拒否しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1度目は天正十三年(1585年)(8月2日参照>>)・・・
そして、2度目は関ヶ原直前・・・

わずかな兵で居城の上田城に籠り、大軍の徳川を2度も撃退した父・真田昌幸(さなだまさゆき)と、後の大坂夏の陣徳川家康本陣へと斬り込む大活躍をみせた弟・真田幸村(信繁)・・・

人気の二人に囲まれて、大抵のドラマではカットの憂き目に遭う真田家の長男・真田信幸(信之)さんですが、徳川の時代にも真田家が生き残り、松代藩10万石の大名として明治維新を迎えるまで、その家名を守り抜く事ができた礎は、なんと言っても、藩祖となった信幸さんあってこそ・・・。

Komatuhimecc_2 その信幸を支えた大胆で豪快なゴッドマザーが、本日の主役・小松姫(小松殿)です。

天正元年(1573年)に家康の四天王の1人・本多平八郎忠勝の長女として生まれた小松姫は、天正十四年(1586年)に家康の養女となってから、かの信幸と結婚します。

時に信幸21歳、小松姫14歳・・・

父の忠勝は・・・
♪家康に 過ぎたるものが二つあり 唐の頭と本多平八♪
と唄われたほどの重臣・・・(10月13日参照>>)

その姫として知られていた小松姫は、その婿選びの時、家康の前にズラリと並べられた婿候補の若者のマゲを掴んで、1人1人顔を覗き込んでいったのだとか・・・

その時、皆が家康と忠勝の威光におののいて、冷や汗タラタラだった中、信幸だけが「御免!」と言って、鉄扇で彼女の手を払いのけた!

すわ!怒り爆発かっ!と思いきや、逆に、
「カッコイイ~ヽ(*≧ε≦*)φ」と、気の強いお嬢の乙女心はイチコロに・・・てな、逸話が残りますが、これは、何かと気丈なエピソードを持つ彼女のイメージを描くための伝説の域を出ない物。

おそらくは、その天正十三年の領地問題でゴタゴタした家康と昌幸の関係を改善するための豊臣秀吉の心遣いってトコでしょう。

わざわざ家康の養女にしてからお嫁に出しているところを見ても、両家のための縁組であった可能性大です。

そんな政略的な結婚ではありましたが、上記の「小松姫・信幸にゾッコン」のエピソードが生まれるのも当然と思えるくらい、二人は仲睦まじい夫婦であったようで、間もなく2男・2女という子宝にも恵まれます。

やがて訪れた慶長五年(1600年)・・・ご存知、天下分け目の関ヶ原ですが・・・

この時、秀吉亡き後、実権を握った家康が、上洛要請に応じない上杉景勝(4月1日参照>>)に謀反の疑いをかけ、会津征伐を決行します。

当然の事ながら、居城・上田城にいた昌幸のところにも出兵の要請が届き、昌幸・幸村父子は、すでに沼田城主となっていた信幸とともに、家康の先陣として会津へ向かっていた徳川秀忠(家康の三男)隊と合流すべく北へ向かいます。

しかし7月21日、下野(しもつけ・栃木県)犬伏(いぬふし)宿で、すでに、反家康の行動を起していた石田三成からの密書を受け取った事で、状況が一変します。

家臣抜きの親子3人で話し合った末、父・昌幸と弟・幸村は三成の西軍に、兄・信幸は家康の東軍に参戦する事を決定し、彼ら父子は、ここ犬伏にて袂を分かつ・・・「犬伏の別れ」となったのです(7月21日参照>>)

その日の夜のうちに、闇にまぎれて陣を離れ、上田城へと急ぎ戻る昌幸と幸村・・・途中、通り道であった、息子の城・沼田城へと立ち寄り、休憩を取ろうとします。

それが、慶長五年(1600年)7月25日の事でした。

しかし、城門はピッシリと閉ざされたまま・・・。

「久しぶりに孫の顔か見たいんやけど・・・」
と、昌幸が声をかけると、城門の上には、長刀を持ち、鎧姿に身を固めた小松姫の姿がありました。

会津に向かっているはずの彼らが、戻ってきた事ですべて察した小松姫・・・

「たとえ、父君・弟君であっても、今となっては敵。
城主の留守に敵を城内に入れる事はできません!」

とキッパリ!

「なんて、気のキツイ嫁なんだ!」
と、この仕打ちに怒り心頭なのは、弟の幸村です。

・・・と、確かに、ここで入城させずに、そのまま追いはらっただけなら、ただのキッツイ嫁ですが、さすがは小松姫・・・

ちゃんと、近くの正覚寺に、彼らを迎える準備を整えていたのです。

心づくしの酒肴で暖かくもてなし、子供たちも連れていって、しっかりとオジイチャンとの対面も果たさせました。

この気配りに感服した昌幸・・・

もともとは、忠勝の娘という事で、この結婚には反対していたという彼・・・結局、家康の養女となって「それならば・・・」と、昌幸は、半ば、シブシブ息子との縁談をOKしたとの事ですが、この時ばかりは・・・

「俺は、間違うとった・・・さすがは、日本一と言われる本多の娘や。
皆、見たか!武士の嫁とは、こういうモンや。
この嫁がいる限り、真田の家は安泰や」

と、皆の前で大喜びだったと言います。

かくして、無事、上田城へと戻った昌幸・幸村父子は、会津征伐を中止してUターンして東山道(中山道)を西へと向かう秀忠隊を、その上田城で迎え撃つ事になります)(9月2日参照>>)

そして、真田との上田城攻防戦に手間取った秀忠隊は、肝心の関ヶ原に間に合わないという大失態を演じてしまう事になるわけです。

しかし、ご存知のように、上田城を死守したものの、味方についた西軍が負けた事で、沼田と上田の領地は、すべて信幸のものとなり、昌幸・幸村父子は、九度山へ流罪となります。

その後は、もちろん、小松姫が、夫とともに、その配流地にたびたび便りを送り、金銀や思い出深い長野の名産品を差し入れ、流人生活の彼らを支えたのは言うまでもありません。

Komatuhimecc 久しぶりにイラスト描いてみました~

小松姫の菩提寺である長野県の大英寺蔵の姫の勇ましい肖像画(冒頭のです)・・・以前、大阪城天守閣の特別展で拝見しましたが、そりゃ~もう美しかったです。

それには及びませんが、「描きたい!」って気持ちにしてくれるお姿ですね~。

三つ葉葵の陣羽織に六連銭の胴・・・もう、たまりましぇ~ん
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年7月22日 (水)

関ヶ原に向けて~直江兼続・越後一揆を扇動

 

慶長五年(1600年)7月22日、徳川家康会津征伐を目前に、直江兼続が弟・大国実頼に、越後一揆を扇動するよう命令を発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日に引き続いての関ヶ原関連って事で、昨日とも内容かぶりますが、とりあえず簡単に流れを整理しますと・・・

そもそもは、豊臣秀吉亡き後、合戦での活躍でのし上がって来た加藤清正武闘派と、内政の功績で出世して来た石田三成文治派との対立(3月4日参照>>)につけ込んで、天下の実権を握ろうとする徳川家康が、会津の上杉景勝(かげかつ)に上洛を要請・・・

それを、景勝が拒否し(4月1日参照>>)、さらに、上杉家臣の直江兼続(かねつぐ)が、あの「直江状」を突きつけてダメ押し(4月14日参照>>)をした事で、家康は「会津に謀反の疑いあり」として会津征伐を決意し、軍勢ととも伏見城を出陣・・・

・・・で、家康が畿内を留守にした間に、三成が行動を開始します。

7月15日には西軍の大将をお願いした毛利輝元を大坂城へ招き入れた後、未だ会津征伐には向かっていない諸将の東下を阻止すると同時に、会津へ向かった諸将の妻子を大坂城へと入城させ人質とします。

7月17日には、家康とともに会津に向かった細川忠興(ただおき)の妻・玉子(ガラシャ)が、その大坂城への入城を拒否して自害する(7月17日参照>>)という悲劇もありながら、7月19日には家康が留守となった伏見城を攻撃(7月19日参照>>)し、昨日、7月21日には、その玉子の舅である細川幽斎(ゆうさい)の籠る田辺城への攻撃を開始します(2009年7月21日参照>>)

・・・で、昨日も書かせていただいたように、この田辺城攻撃を同じ日に、会津征伐に向かう途中で三成の書状を受け取った真田昌幸信幸(信之)父子が、東西別々の軍へと袂を分かつ(2008年7月21日参照>>)わけですが・・・(その他の流れは【関ヶ原の合戦の年表】でどうぞ>>)

この時点では、家康は、まだ会津に向けて進攻中・・・家康としては、本当に上杉を討とうとしていたのか?はたまた、畿内を留守にして三成に行動を起させようとしたのか?

その真意のほどは、本人のみぞ知るところですが、まだ、ここでは、畿内の様子は家康には届かず・・・7月21日に江戸城を発った家康以下会津征伐軍は、さらに北東の小山(栃木県)へと向かい、7月24日に小山に到着し、ここで、三成が伏見城を攻撃した事を知り、翌・25日に、あの有名な「小山評定」を開くわけで、その評定の場で、ともに会津に向かっていた諸将に、「このまま東軍につくのか?大坂へ戻って西軍につくのか?」を問い、自らも、会津征伐を中止して、西へのUターンを表明するのです。

つまり、本日7月22日の時点では、ポーズかも知れない疑いはあるものの、まだ、家康は会津征伐をするために北上し、上杉も、家康が来れば迎え撃つ態勢であったわけです。

かくして慶長五年(1600年)7月22日、ご存知、今年の大河の主役・兼続は、弟である大国実頼(おおくにさねより)を通じて、家臣を越後に派遣し、上杉の息のかかった昔馴染みの越後の土豪(どごう・半士半農の地侍)たちに声をかけ、越後の領民たちを一斉蜂起させて、一揆を扇動するように命令を出したのです。

これは、現在、越後を治めている堀秀治(ほりひではる)が、家康寄りである事を受けて、その行動を封じ込めるためのもので、すでに、三成も承諾済み・・・7月14日付けの兼続宛ての三成の書状には、「越後はもともと上杉の所領なので、秀頼公の意向により、上杉に返還する」と、兼続の計画を、むしろ喜んでる雰囲気です。

・・・と、上杉と言えば、ついつい越後を思い浮かべてしまいますが、実は慶長三年(1598年)の10月1日、秀吉からいきなり、会津への加増転封を命じられ、越後から会津へお引越しをしています。

これは、それまで会津を治めていた蒲生氏郷(がもううじさと)が亡くなった事によって、会津の蒲生家が宇都宮へ引越し、その会津に上杉が・・・そして開いた越後に堀が・・・って事なのですが、この奇妙な裁断には、古くから憶測が飛び、諸説あって定まらないのですが、その謎については、また「その日」に、たっぷり書かせていただく事として、実は、このお引越しの際に、すでに、序章は始まっていたのです。

普通、大名の国替えの場合、領民から徴収する年貢米は、前半の半年分のみを徴収し、残りの半年分は、新たにやってくる大名のために残しておくのが常識だったのです。

もちろん、堀秀治はそのつもりで、自分のところの下半期分を新領主に引き継いで越後にやってきましたが、いざ、年貢を徴収しようとすると・・・「すでに渡したので、もう、ありません」と・・・

つまり、上杉が一年分を先に徴収し、それを持ったまま、会津に引っ越してしまっていのです。

当然の事ながら、半年分の年貢の返還を、上杉に求める秀治・・・

しかし、兼続は・・・
「そんなん知らんがな、蒲生も一年分持っていってるし、それをせーへんかったお前とこが悪いんちゃうん」と、秀治の要求を一蹴します。

しかたなく、秀治は、入国後すぐに検地を行い、寺社からは所領を没収し、農民には追加の増税を行います。

当然の事ながら、これで、寺社や農民からの反感を買う事になります。

しかも、その引越しの時、上杉は、秀吉から、家臣団はもちろん、奉公人にいたるすべての関係者を連れて引越しをするように命じられていましたが、越後に勢力を残しておきたい上杉は、これも、ちゃんとやってはおらず、未だ、上杉の息のかかった者が、多く越後に残ったままになっていたのです。

この両方が相まって、兼続が一声かければ、一揆爆発の状態が、すでに越後の中に存在していたのです。
・・・なかなかやりますねぇ~景勝&兼続さん。

かくして、この関ヶ原直前のタイミングで勃発した越後一揆・・・もちろん、会津からも密かに兵を派遣し、一揆勢は、上条城下倉城などを次々と攻略して堀勢を翻弄し、気勢をあげます。

しかし、一揆勢の盛り上がりとはうらはらに、ここで三成から兼続へ「堀は西軍についた」との知らせが入ります。

実は、秀治は、この時、越中へと兵を進め、家康側にたって奮闘する前田利長(8月6日参照>>)を攻撃する構えを見せていました。

三成からの知らせもあり、秀治の動向もあり、で、とにかく、ここで一揆の停止命令を出してしまった兼続でしたが、実は、これは秀治の謀略・・・利長を攻撃する構えは、本当に構えだけで、この秀治の策略に、見事、三成は騙されてしまったのです。

9月に入って、東軍での参戦を明白しにする秀治・・・慌てて兼続は、再び、一揆勢に立つように扇動しますが、もはや手遅れ・・・一揆は急速に勢いを失ってしまいました。

終ってみれば、ある程度、堀勢を苦しめはしたものの、その成果のワリには、越後領内を荒廃させ、国内に深い傷跡を残すだけの一揆となってしまいまいた。

はてさて、またもや、楽しみが増えましたね。

義を重んじる上杉がルール違反の年貢徴収、大事な越後の民に、自ら越後を焦土と化す一揆を扇動・・・果たして、心やさしき今年の妻夫木兼続さんは、ここらあたりをどのように演じてくれるのか?

「天地人」の原作を読んでいない私は、是非とも、大いにかっこよく描いていただきたいと、心待ちにしております。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月21日 (火)

たった500人で関ヶ原の勝敗を左右?田辺城・攻防戦

 

慶長五年(1600年)7月21日、徳川家康とともに会津征伐へと向かい、そのまま東軍となった細川忠興の城・田辺城への攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご存知、天下分け目の関ヶ原の合戦・・・・(一連の流れは【関ヶ原の合戦の年表】でもどうぞ>>)

天下統一を果たした豊臣秀吉の死後(8月18日参照>>)、表面化する加藤清正武闘派の家臣たちと、石田三成文治派の家臣たちによる豊臣家内の対立・・・(3月4日参照>>)

そんな中、豊臣配下の武将の中でトップの座となった徳川家康は、伏見城に居座り、徐々に、亡き秀吉の決めたルールを破りながら、天下人のごとく、会津上杉景勝(かげかつ)上洛を要請します。

しかし景勝が、この上洛要請を拒否した事で(4月1日参照>>)、家康は、「上杉は謀反を企てている」として会津征伐を開始・・・伏見城を後にして、一路、東へと軍を進めます。

この家康の留守を見計らって、三成は行動を開始します。

まずは、西軍の大将として、西国の雄・毛利輝元大坂城へと呼び(7月15日参照>>)、次ぎに、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)ら、会津へ向かわなかった西国の大名の東下を阻止・・・

さらに、家康とともに会津征伐へと向かった諸将の妻子の帰国を禁止し、大坂城に留めおこうとします。

これは、もちろん、家康とともにいる武将を西軍に味方させるための人質で、しかたなく大坂城に入る者もいましたが、当然の事ながら、この強引な人質作戦に抵抗する者も・・・

その中で、加藤清正や黒田如水父子の妻子などは、うまく脱出しますが、悲劇たっだのは、やはり、家康とともに会津へと向かっていた宮津城主・細川忠興(ただおき)の妻・玉子(洗礼名:ガラシャ)・・・

彼女が、大坂城への入城を拒否して自害した事で(7月17日参照>>)、結局、西軍は、この人質作戦を中止せざるをえなくなり、逆に諸将の反感を買う結果となってしまいました。

次ぎに、西軍は、東軍配下の諸将の城への攻撃を開始・・・まずは、家康の留守を守る伏見城・・・(7月19日参照>>)

この西軍の動きに、居城の宮津城(京都府)を捨て、田辺城へと移って守りを固めるのは、すでに嫁が死を選んだ忠興の父・細川幽斎(ゆうさい・藤孝)・・・彼もまた、死を覚悟しての田辺城入城でした。

なんせ、領内に残る兵は、ごくわずか・・・領主の危機を聞いて駆けつけた農民や町民・僧侶たちを含めても、わずか500の軍勢で、田辺城を守らねばなりません。

一方の西軍は、一刻も早い畿内制圧を目標に、援軍を派遣・・・福知山城主・小野木重勝(おのぎしげかつ)を大将に、援軍を含む1万5000で田辺城を囲み慶長五年(1600年)7月21日攻撃を開始しました。

東方では、会津征伐を中止した家康が、従う諸将に、大坂で待つ妻子の事を告げ、「このまま家康の東軍につくか?大坂に戻って西軍にくみするのか?の選択を迫った頃・・・ちょうど、この田辺城への攻撃開始と同じ日、西軍につく決意をした父・真田昌幸と弟・幸村(信繁)と袂を分かち、東軍につく決意をした兄・真田信幸(信之)父子の犬伏の別れ(2008年7月21日参照>>)がありました。

・・・で、話を田辺城に戻しますが・・・

30倍もの数の兵に囲まれた風前の灯火の田辺城・・・もはや、「数日ももたずに落城するだろう」と、誰しもが思うところですが、これがなかなか踏ん張ります。

・・・というのも、籠城する細川側は、当然の事ながら、必死のパッチでの守り・・・なんせ幽斎自らが、死を覚悟しての籠城ですから・・・

しかし、一方の西軍の士気は、さほど高くはなかったのです。

それは、すでに戦いが開始されてまもなくの段階で、朝廷の干渉があったからなのです。

そうです・・・例の『古今伝授(こきんでんじゅ)です。

以前、幽斎さんのご命日のところで書かせていただいたので(8月20日参照>>)、少し内容がかぶりますが・・・この『古今伝授』・・・要するに、「古今和歌集を正しく読める奥儀を身に着けた人」という事なのですが、これが、現代人が思う以上に重要な人物だったわけです。

書面に写すとしても手書き、写真も録音機もビデオも無い時代ですから、こういった伝統ある歌集の解釈が、人から人へと口伝えされていくうちに、間違った解釈をしてしまう事を防ぐため、奥義をマスターした人から、直接その奥義を学び、教えた人が「こいつは完璧にマスターした」と判断した時点で、その生徒に『古今伝授』を授けるというシステムになっていたわけです。

幽斎は、この古今伝授を受けていましたから、彼がいなくなると正統が途絶えてしまう事になるのです。

時の後陽成(ごようぜい)天皇をはじめ、公家たちは、これが気にかかる・・・。

結局、そのために朝廷が介入した事によって、最初の数日間しか激しい戦闘は行われず、後は、ずっと膠着状態が続く事に・・・

7月27日には、後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)が使いを出し、立て籠もる幽斎へ、開城するように説得します。

しかし、幽斎は逆に、その使者に手紙を1通・・・

そこには、
♪古(いにしへ)も 今もかはらぬ 世の中に
  心のたねを のこす言
(こと)の葉(は) 
の歌とともに、智仁親王に古今伝授を行った旨の「証明書」があったのです。

これで、幽斎の決死の覚悟を確認した天皇は、すぐに勅使(ちょくし・天皇の公式な使者)を派遣して、さらに、降伏&開城の説得を続けます。

この間の西軍は、天皇の介入におそれおおき事とひれ伏すばかり・・・攻撃なんてできるわけがありません。

結局、ねばりにねばった幽斎が開城をしたのは、9月13日・・・あの関ヶ原の合戦の2日前まで頑張りました。

この2ヶ月近くの間、西軍は1万5000もの兵を、ただ田辺城を見守るだけに費やしてしまい、この時期の畿内の制圧に大きく影響したとされ、後にこれを知った家康は大いに喜んだと言います。

そういう意味では、幽斎の思惑は見事に成功・・・一般人を含めたたった500人で、関ヶ原の勝敗を左右する事になったわけですからね。

徳川の世で、細川が優遇されるのも、ここに端を発しているのかも知れません。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 5日 (日)

時代別年表:室町時代・後期2(戦国・桃山時代)

 

このページは、桃山時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

歴史上、戦国時代も安土桃山時代という区分もなく、いわゆる室町時代なわけですが、この室町時代は、ブログに書いている出来事が非常に多い・・・って事で、とりあえず、前期・中期・後期・・・そして後期を安土と桃山の計・4つに分けさせていただきました。

安土桃山って「いつ?」という点で、ご意見も多々あろうかと思いますが、とりあえず、信長政権が安土、秀吉政権が桃山って事で、このページでは、前後の年表とのバランスを考えて秀吉が太政大臣になって豊臣の姓を賜る1686年12月19日から、大坂夏の陣が終結する1615年5月8日までを「室町時代・後期2(戦国・桃山時代)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

  Zidaisengoku2



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
1586 12 19 秀吉が太政大臣になり豊臣の姓を賜る
【豊臣の姓に秘められた秀吉のコンプレックス】
1587 4 17 高城・根白坂の戦い
【島津・背水の陣~高城・根白坂の戦い】
6 19 キリシタン禁止令を発令
【秀吉が切支丹禁止令を今日出したワケ】
7 10 ~12日肥後国人一揆
【佐々成政の失態~肥後・国人一揆】
1588 4 14 秀吉が聚楽第に後陽成天皇を招く
【後陽成天皇と豊臣秀吉in聚楽第】
5 14 佐々成政・切腹
【地元だけが知る?呪いの黒百合伝説】
7 8 刀狩り令・海上賊船禁止令を発布
【太閤検地と刀狩】
【瀬戸内水軍全盛期と没落を見た村上武吉】
1589 4 15 毛利輝元が広島城の築城を開始
【毛利輝元と広島城~その出会いと別れ】
6 5 摺上原の戦い
【破竹の独眼竜政宗~摺上原の戦い】
6 12 上杉景勝が佐渡を攻略
【金のなる木は俺のモノ!景勝・佐渡攻略】
10 23 北条が真田の名胡桃城を奪取する
【小田原攻めのきっかけ・名胡桃城奪取】
11 4 石川昭光が伊達政宗の傘下となる
【仙道七郡掌握~伊達政宗に迫る影】
12 10 小田原攻めの軍儀を開く
【小田原攻め開始~その軍儀の内容は?】
1590 3 29 小田原征伐を開始する
【小田原征伐開始・山中城落城】
4 2 小田原城を包囲する
【秀吉VS北条の持久戦・小田原城包囲】
4 5 伊達政宗・毒殺未遂事件
【政宗・毒殺未遂事件は本当にあったのか?】
6 5 伊達政宗が小田原に到着する
【決死の死装束~政宗の小田原参陣】
6 9 石田三成が忍城攻略のため堤防を築く
【攻めに耐えた!水の要塞・忍の浮城】
6 20 天正遣欧少年使節が帰国する
【天正遣欧少年使節の帰国】
6 23 八王子城・陥落
【最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦】
6 26 小田原攻めの対の城・石垣山一夜城・完成
【秀吉・もう一つの一夜城~石垣山城の謎】
7 5 小田原城・落城
【城攻めの天才・秀吉VS北条お得意の籠城】
【小田原城・開城への道】
7 13 家康に関八州が与えられる
【秀吉の失策?小田原城での論功行賞】
8 1 家康が江戸に入る
【八朔と家康・江戸入府】
【家康はなぜ?江戸城を選んだか】
9 20 岩見重太郎の天橋立の仇討ち
【重太郎=薄田隼人~天橋立の仇討ち】
11 24 秀吉軍が葛西・大崎一揆で木村親子を救出
【独眼竜・政宗ピンチ!葛西・大崎一揆】
1591 1 19 秀吉が京都・七条堀川に寺地を寄進
【時代とともに生きた~東西・二つの本願寺】
1 22 豊臣秀長・没
【豊臣政権の要~大和大納言・秀長の死】
2 4 伊達政宗が一揆の弁明に上洛
【政宗、起死回生の弁明劇】
2 28 千利休・切腹
【利休・切腹の謎~その握っていた秘密とは】
9 4 九戸の乱で九戸氏が滅亡
【九戸の乱~秀吉のもと、東北の雄が散る】
9 22 豊臣秀次が関白に就任
【殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい】
1592 3 17 朝鮮出兵の先発隊が九州に向けて出陣
【豪華絢爛!伊達男・政宗の出陣in文禄の役】
3 26 秀吉が肥前に出発
【豊臣秀吉・朝鮮出兵の謎】
4 13 朝鮮へ派遣した第1軍が釜山へ上陸
【文禄の役・釜山上陸】
11 24 本願寺顕如・没
【信長を一番困らせた男~本願寺・顕如】
1593 1 26 碧蹄館の戦い
【泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い】
1594 2 27 秀吉が吉野にて花見を開催
【勝利の聖地・吉野の花見の意味は?】
3 7 秀吉が伏見城の築城を開始する
【幻の伏見城~徳川は何を恐れたのか?】
8 24 石川五右衛門・処刑
【浜の真砂の五右衛門が歌に残せし・・・】
伏見城築城にともなう文禄堤の造営
【東海道は五十七次!】
1595 6 10 家康の孫・松平忠直が誕生する
【暴君・松平忠直の汚名を晴らしたい!】
7 15 秀次が謀反の罪で切腹
【殺生関白・豊臣秀次の汚名を晴らしたい】
7 22 秀吉が藤堂高虎を召抱える
【斬り込み隊長・築城名人~藤堂高虎の転身】
1596 9 1 2度目の朝鮮出兵を決意する
【悲劇の人・おたあジュリア】
10 28 酒井忠次・没
【徳川四天王の筆頭・酒井忠次に何が?】
11 4 服部半蔵正成・没
【服部半蔵に影はあったか?】
【忍者の教科書『万川集海』】
1597 2 5 長崎で26人のキリスト教徒を処刑
【長崎二十六聖人殉教の日】
2 慶長の役で秀吉軍・朝鮮上陸
【慶長の役・終結~悲惨な戦の残した物は】
1598 3 15 秀吉が京都・醍醐寺で花見の宴を催す
【桜花絢爛!醍醐の花見に行ってきました】
8 18 豊臣秀吉・没
【なにわのことも夢のまた夢】
11 20 慶長の役・終結
【慶長の役・終結~悲惨な戦の残した物は】
1599 3 4 加藤清正ら7名が石田三成を襲撃
【徳川家康・天下へのシナリオ】
1600 3 16 三浦按針・日本に漂着
【そしてヤン・ヨーステンの名は・・・】
4 1 上杉景勝が家康の上洛要請を拒否
【関ヶ原の幕開け~上杉景勝・上洛拒否】
4 14 直江兼続が西笑承兌に返書を送る
【本物?ニセ物?直江兼続の「直江状」】
7 15 毛利輝元・広島城を出陣
【西軍総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算】
7 17 大坂城への入城を拒み細川ガラシャ自害
【細川ガラシャ最期の日】
7 19 ~8/1 伏見城・攻防戦
【伏見城攻防戦と養源院の血天井】
7 21 真田昌幸・幸村親子が西軍に降る
【兄は東に父・西に~真田親子・犬伏の別れ】
~9/13田辺城・攻防戦
【たった500人で関ヶ原の勝敗を左右?】
7 22 直江兼続が越後一揆を扇動
【直江兼続・越後一揆を扇動】
7 25 真田信幸の妻が昌幸と幸村の入城を拒否
【あっぱれ!真田の嫁~小松姫の内助の功】
8 8 浅井畷の合戦
【北陸の関ヶ原・浅井畷の合戦・・・】
8 10 東軍・先鋒が岡崎城へ入る
【迫る関ヶ原!先鋒進軍~その時家康は・・・】
8 12 秀忠が伊達政宗に協力を要請
【関ヶ原の合戦と伊達政宗】
8 22 ~23 岐阜城・落城
【信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い】
8 25 伊勢安濃津城・開城
【東海の関ヶ原・安濃津城の攻防戦!】
9 2 信濃上田城攻防戦
【真田のゲリラ戦法炸裂!上田城攻防戦】
9 7 西軍主力部隊・関ヶ原南宮山に着陣
【いよいよ間近の関ヶ原!西軍主力着陣】
【三成と恵瓊が作戦を練った茶室・作夢軒】
9 9 上杉の執政・直江兼続が最上領に侵攻
【関ヶ原の前に!直江兼続・最上に侵攻】
9 13 九州にて石垣原の合戦・勃発
【関ヶ原で天下を狙う第三の男】
【豊後奪回を狙う男・大友義統の石垣原】
9 14 関ヶ原の合戦・前夜祭
【~前哨戦・杭瀬川の戦いと三成の決断】
【~小早川秀秋の長い夜】
【豊臣政権の五奉行~それぞれの関ヶ原】
9 15 関ヶ原の合戦
【天下分け目の関ヶ原】
【ともに命を賭けた戦場の約束】
【討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近】
直江兼続が長谷堂に到着
【長谷堂の戦い~直江兼続・孤軍奮闘!】
9 16 関ヶ原の合戦・反省会
【朝まで生合戦】(このページはフィクションです)
関ヶ原を脱出した島津義弘が大坂へ・・
【敵中突破の「島津の背進」】
直江兼続が長谷堂城に総攻撃
【直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い】
9 17 佐和山城攻め
【関ヶ原の後始末・佐和山城攻め】
大垣城の二の丸・三の丸が開城
【「おあむ物語」戦国女性の生き様】
9 19 小西行長・自首
【「キリシタンゆえ自害はできぬ」】
9 21 石田三成が捕まる
【石田三成、逮捕!】
9 23 安国寺恵瓊が捕まる
【戦国のネゴシエーター・安国寺恵瓊の失敗】
10 1 三成・行長・恵瓊が死刑に
【石田三成、斬首!】
直江兼続が長谷堂から撤退開始
【自刃まで考えた~兼続の長谷堂・撤退】
10 12 九鬼嘉隆・自刃
【戦国の水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃】
11 3 筑後柳川城・開城
【立花宗茂・最後の関ヶ原】
12 5 浦戸一揆・終結
【土佐・一領具足の抵抗】
1601 8 7 加藤清正が熊本城の築城に着手
【熊本城・築城にまつわる怖い話】
9 28 毛利輝元が息子・秀就を江戸へ人質に
【関ヶ原敗戦での毛利の転落】
家康が文禄堤に4宿を設け東海道を整備
【東海道は五十七次!】
1602 2 1 井伊直政・没
【徳川の斬り込み隊長・井伊直政の赤備え】
5 1 家康が諸大名に二条城の築城を命令
【二条城・・・その動乱の歴史】
5 7 前田玄以・没
【ただ一人生き残った運命の別れ道】
10 18 小早川秀秋・没
【わずか2年で早死~小早川秀秋の苦悩】
1603 2 12 徳川家康が征夷大将軍の宣旨を受ける
【徳川家康・征夷大将軍の宣旨を受ける】
【幻の伏見城~幕府は何を恐れたのか?】
7 28 家康の孫・千姫が豊臣秀頼と結婚
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
8 6 宇喜多秀家が伏見へ護送される
【意外に快適?八丈島での宇喜多秀家】
1604 8 22 村上武吉・没
【瀬戸内水軍の全盛と没落を見た村上武吉】
彦根城・築城開始
【彦根城に菊は咲かない?人柱の伝説】
1605 4 16 徳川秀忠が2代将軍となる
【2代将軍・秀忠誕生~縁の下の基礎造り】
9 20 山内一豊・没
【したたかなのは一豊か?】
1607 2 20 江戸城本丸にて阿国歌舞伎上演
【女歌舞伎の禁止令】
3 5 家康の四男・松平忠吉・没
【関ヶ原の先陣を飾った松平忠吉】
9 6 龍造寺高房・没
【佐賀・鍋島藩~化け猫騒動の真相】
1610 2 24 長谷川等伯・没
【智積院と長谷川等伯・障壁画】
8 20 細川幽斎(藤孝)・没
【齢77!芸は身を助く~長寿の秘訣】
1611 3 28 豊臣秀頼と徳川家康が二条城で会見
【二条城で出された饅頭は・・・】
6 24 加藤清正・没
【加藤清正・疑惑の死】
4 11 後水尾天皇・即位
【後水尾天皇・徳川相手に王の意地】
1612 4 13 巌流島の決闘
【宮本武蔵は名人か?非名人か?】
6 4 前田慶次郎・没
【人気の慶次郎~爺ちゃんでもカッコイイ!】
1613 6 24 「笹の才蔵」の異名を賜った可児才蔵・没
【笹の才蔵~愛宕にまつわる死の予言】
8 6 徳川家康が花火を観賞する
【花火の歴史】
12 23 徳川秀忠が2度目のキリシタン禁止令・発令
【切支丹禁止令と戦国日本】
1614 1 5 高山右近・没
【キリシタン大名・高山右近、神に召される】
1 18 最上義光・没
【策士策に溺れる~謀略の将・最上義光】
5 20 前田利長・没
【加賀百万石~前田利長・毒殺疑惑】
7 17 織田信包・急死
【病死か?毒殺か?織田信包・疑惑の急死】
7 21 方広寺・鐘銘事件
【家康のイチャモン・方広寺の鐘銘事件】
8 20 方広寺・鐘銘事件で家康の最後通告
【方広寺鐘銘事件・片桐の交渉空しく・・・】
9 21 中井正清が宇治川開削計画を上申
【築城の匠~家康専属大工・中井正清】
10 9 真田幸村、九度山を脱出する
【真田幸村・九度山を脱出!】
10 大坂城での軍儀
【真田幸村の必勝作戦!】
11 29 大坂冬の陣の野戦
【大坂冬の陣・野田福島の合戦】
12 4 真田丸の攻防
【大坂冬の陣,真田丸の攻防】
12 19 大坂冬の陣の和睦成立
【大坂冬の陣・講和成立】
1615 3 19 真田幸村が姉と兄に手紙を出す
【真田幸村、最後の手紙】
5 6 大坂夏の陣~道明寺・誉田の合戦
【大坂夏の陣・開戦!】
【後藤又兵衛基次・起死回生の大坂夏の陣】
【奮戦!薄田隼人~IN夏の陣】
5 7 大坂夏の陣~大坂城・総攻撃開始
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】
【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】
5 8 大坂夏の陣・終結
【大坂夏の陣・大坂城落城&秀頼生存説】
【自害した淀殿の素顔と生存説】
番外編 【大阪の昔話~大坂城の虎】
【大坂城を脱出した秀頼の娘は・・・】
【佐野道可・事件で内藤元盛が切腹】
【長宗我部盛親・斬首】
【あの東郷ターンを生んだ甲州水軍】
【秀吉の怨念?大阪城の不思議な話】
【石田三成はそんなに嫌われていたの?】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
【天下人だけが成しえた城割の重要性とは?】

 

Dekigoto2cc_3 Dekigoto2cc_3 
 

にほんブログ村 歴史ブログへ
↑より良いブログを目指して参りますヽ(´▽`)/応援クリックよろしくお願いします!

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 4日 (木)

レキジョに人気の前田慶次郎~爺ちゃんでもカッコイイ!

 

慶長十七年(1612年)6月4日、戦国のかぶき者として知られる前田慶次郎が70歳前後でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、上杉側の史料にはありますが、別の史料には慶長十年(1605年)11月9日に73歳で没したというのもあります。

とにかく、謎に包まれた人・・・

空前の戦国ブームと言われる今日この頃ですが、群がるレキジョと呼ばれる歴史好きの女性たちから、真田幸村長宗我部元親伊達政宗らと並んで1・2を争う人気なのが、この前田慶次郎さん。

しかし、上記の通り、本来の歴史にはほとんど登場せず、ゆえに、そのキャラクター設定が極めて広範囲に設定できるところから、様々な小説に取り上げられ、しかも、それらが、かなりのいいデキであるため、今では、そのイメージがバッチリとついてしまった感じですねぇ。

さらに、漫画・花の慶次が大ヒットした事で、最近では、その名前さえ前田慶次という「郎」がつかない形で書かれている書籍もありますが、実は、通称だけでも、慶次郎慶二郎啓次郎宗兵衛と、いくつか存在し、名前も、利益(とします)利太(としたか)利大(としひろ・としおき)利貞(としさだ)利卓(としたか)と色々あります。

なんせ、亡くなった日も定かではないし、その年齢もまちまち・・・当然、生まれた年数もわからなけりゃ、その出自もよくわからないわけです。

・・・で、今日のところは、そのご命日(かもしれない)という事で、「おそらくこれは本当だろう」というようなお話や、よく知られた逸話などをご紹介しながら、前田慶次郎さん(今日はこう呼びます)に迫りましょう!

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

前田慶次郎は、その前田という姓からでも察しがつくように、あの加賀百万石の前田家ゆかりの人物・・・

有名な前田利家の兄である利久の養子・・・つまり、義理の甥っ子になるわけです。

その利久に実子がなく病弱であった事から、織田信長の命により、前田家は弟の利家が継ぐ事になって、逆に、利久・慶次郎父子は、その利家に仕える形となります。

豊臣(羽柴)秀吉徳川家康が戦った小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)の時には、北陸版の末森城の攻防戦(8月28日参照>>)にも出陣しましたし、小田原城攻め(12月10日参照>>)の時も、一翼を任された利家について参戦しています。

しかし、秀吉の天下がほぼ定まり、平和な日々がしばらく続くと、慶次郎の根っからのかぶき者としての性格が、その本性を現してきます。

かぶき者とは「傾奇者」の文字でもわかるように、いわゆるアウトロー=はみだし者的な人の呼び名で、武士社会の上下関係を嫌い、しきたりや礼節を嫌い・・・

そうなると、当然の事ながら、叔父・利家が、自分の若かりし時の事は棚に上げといて、慶次郎に注意するわけですが、もちろん、彼にとっては、「ウザイ」の一語に尽きるわけで・・・。

やがて徐々に反発が強まる中、天正十五年(1587年)、養父の利久が亡くなった事をきっかけに、もはや前田家とは縁がなくなったと思ったのか、その直後(もしくは3年くらい後)前田家を出奔して浪人の身となります。

この時、慶次郎は、利家を屋敷に招待し、「どうぞ、どうぞ・・・」と、お風呂に入るように仕向け、油断して、すすめられるがまま、用意された水風呂に入った利家が、「ギャァー」と叫ぶのを尻目に、そのまま京都へと逃走した・・・なんて、有名なエピソードもありますが、まぁ、これは、それだけ奇行が激しかったという事を伝えたいんでしょうな。

なんせ、冒頭の死没の年齢から考えると、この時点で少なくとも40代後半・・・ヘタすりゃ、50~60歳近くで、こんな、磯野家のカツオみたいな事、やってる場合じゃないですからねぇ。

・・・で、京都での浪人暮らしをはじめた慶次郎は、思う存分、大好きな文化・芸術に接する事になります。

各武将が開く連歌会に出席したり、古田織部からお茶を習ったり、謡曲や仕舞をたしなみ、源氏物語などにも親しんだり・・・

ちょうど、この頃に京都で知り合ったのが、男盛りの40代の直江兼続(かねつぐ)・・・。

武勇の誉れ高かった事から、浪人中にも、いくつかの仕官の話もありながら、自由奔放に暮らしたいがゆえに断り続けていた慶次郎が、この兼続とは意気投合したようで、「気ままな暮らしをさせてくれるなら・・・」と、この後、会津・上杉家へ仕官します。

この時の有名な逸話として・・・

初めて、上杉景勝と会う事になった慶次郎は、手土産として大根を持参して、「俺は、この大根のように、噛めば噛むほど味わい深い人間だ」と自己紹介したのだとか・・・

もう、こうなったら60歳・70歳になってもかぶき者でいてください!・・・って感じですが、のんびりと、風流に浸っている時間はありません。

そう、関ヶ原の戦いが近づいています。

すでに、ブログで書かせていただいているように、慶長五年(1600年)4月1日に景勝が、家康の上洛要請を拒否した(4月1日参照>>)事で、その雲行きは怪しくなり、4月14日の『直江状』(4月14日参照>>)で決定的となり、家康は会津征伐を決意します。

家康が会津を攻めて来たなら、一戦交える覚悟だった景勝でしたが、ご存知のように、家康が畿内を留守にした事で、石田三成伏見城を攻撃(7月19日参照>>)・・・大乱の幕が切って落とされ、家康は西へと戻り、関ヶ原へと突入します。

家康との直接対決は無くなったものの、関ヶ原と同じ9月15日に勃発する家康配下の最上義光との長谷堂の戦い(9月16日参照>>)では、60~70歳前後でありながら、朱塗りの槍に『大ふへん者』の旗指物(はたさしもの・6月28日参照>>で奮戦した慶次郎・・・この時の戦いぶりが、あまりにも猛々しいので、作家さんは、慶次郎を若武者に描きたくなるんですよねぇ~どうしても・・・。

かく言う私も、この長谷堂の戦いでのお話は、ゆっくりたっぷり書きたいので、今日のところは控えさせていただいて、いずれ、「その日」にという事にしますが・・・

その天下分け目の関ヶ原で、西軍についた形となった上杉家は、米沢30万石へと減封される事になりますが、それでも慶次郎は上杉を離れる事なく、景勝&兼続に従って米沢に向かいます。

もっとも、その後は、城下で源氏物語の講義などしながら、風雅に暮らしたという事なので、他の大名に仕官して、またまた武勇伝を残すよりは、こちらのほうが性に合ってたのかも知れませんね。

かくして慶長十七年(1612年)6月4日、その生涯を終えた前田慶次郎さん・・・おそらく、本当の慶次郎は、現代の私たち描く、あのイメージとはかけ離れた人物なのかも知れませんが、もともと、ほとんどが謎に包まれた生涯なのですから、描くときは思いっきりカッコよく、永遠の20代として描かれていても、それはそれで歴史のロマンの一つなのかも知れませんね。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←レキジョ暦がとんでもなく長い私ですが応援クリックよろしくお願いします!

 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月20日 (水)

加賀百万石を守った男~前田利長・毒殺疑惑

 

慶長十九年(1614年)5月20日、加賀百万石の祖・前田利家の長男で、初代・加賀藩主となった前田利長が亡くなりました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

親友・豊臣秀吉の政権下で、五大老の1人として活躍した父・前田利家・・・その利家とまつの間に長男として生まれたのが前田利長(としなが)さんです。

秀吉亡き後、五大老として徳川家康に対抗できる位置にあった利家でしたが、彼も、秀吉の後を追うように亡くなってしまい、その夜には、もう、加藤清正らの武闘派の面々が、文治派の石田三成を襲撃するという事件が起こり(3月4日参照>>)、豊臣家内での内紛の兆しが見え始めます。

利長は、亡き父の家督を継いで五大老の1人となり、秀吉の息子・豊臣秀頼傅役(もりやく)も引き継ぐ事になりますが、ご存知のように、利家という気をつかう相手がいなくなった事で、がぜん家康は、生前の秀吉と交わした約束事を無視して、大名同士の勝手な婚姻を結んだり、勝手に恩賞を与えたり、自らの派閥の形成へと動き出します。

利家は、その死の間際に、遺言として、息子・利長に「三年間は加賀に戻るな」と言い残していましたが、そんな豊臣家内のモメ事や、家康の態度に嫌気がさしたのか、利長は、父との約束を破って、加賀へと戻ってしまいます。

その利長の態度に、「これ幸い」前田家潰しに取り掛かる家康・・・「秀頼の傅役を無断で放棄して加賀に帰ったのは、浅野長政大野治長(はるなが)らと組んで、家康暗殺を企てているのだ」と、根も葉もない暗殺計画をでっち上げ、加賀征伐を仕掛けてきたのです。

この家康からの売られたケンカを、買うのか?買わないのか?・・・前田家の家臣団は真っ二つに分かれます。

そもそも、父・利家の遺言である「三年間は加賀に戻るな」というのは、「幼い秀頼と豊臣家の現状を守れ」という意味ですから、すでに豊臣家のバランスを崩そうとしている家康の味方になる事は、その遺言に反してしまう事になります。

・・・かと言って、家康に対抗して、この先、前田家が存続できるのかどうか・・・

ここで、「亡き利家の遺言に反してでも前田家を存続させる道を選ぶべき」との意見を通したのが、他ならぬ利家の妻=利長の母・まつでした。

まつは、自ら、家康の求めに応じて、人質として江戸へと下る道を選びます。

この時、まつは、「覚悟はできているので、いざという時は、母を捨ててでも家を守りなさい」と、利長に言い残して江戸に向かいます。

それが、慶長五年(1600年)5月の事・・・そう、その前月の4月1日には、会津上杉景勝が家康からの上洛要請を拒否(4月1日参照>>)、4月14日には、景勝の重臣・直江兼続(かねつぐ)が、家康に対して強気の直江状を叩きつけています(4月14日参照>>)

それを受けた家康が、会津征伐と称して大坂をあとにするのが6月16日ですから、もう、すっかり関ヶ原へのカウントダウンが始まっていた時期という事になります。

母の思いをしっかりと受け止めた利長・・・関ヶ原の現地へ出陣する事はありませんでしたが、北陸の関ヶ原とも言える浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)での勝利をはじめ、北陸における反家康勢力を抑えるという役目を果たし、見事、大幅加増で前田家を守り抜きました。

ただ、母の意志を汲み、人質となった母の身の安全のために、関ヶ原で家康についた利長ですが、その心の内が、どうであったかは定かではありません。

いや、おそらく、心から望んで家康の味方になったわけではなかったでしょう。

利長は、関ヶ原から五年後、わずか43歳にて隠居して、異母弟の利常(としつね)に家督を譲ります。

そして、その9年後の慶長十九年(1614年)5月20日53歳でこの世を去る事になるのですが、その利長が、心の底から自分の味方にはなっていない事は、おそらく、家康自身も気づいていたに違いありません。

なぜなら、上記の隠居という事態になっても、まだ、まつが加賀へ返される事はなく、まつが金沢に戻る事ができたのは慶長十九年(1614年)の6月・・・つまり、利長の死の1ヵ月後です。

しかも、この慶長十九年・・・何があったか、もうお解かりですね。

そう、大坂冬の陣です。

その原因となった、あの方広寺の鐘に、家康がイチャモンをつけるのが7月21日・・・(7月21日参照>>)

まさに、利長の死はその直前の出来事となるわけですが、もちろん、徳川幕府の正式な史料には、その死因について「病死」と書かれていて、利長が長い間、病気に苦しんでいた事が記されています。

しかし、このタイミングでの死には、やはり、疑いを持ちたくなってしまうわけで、さらには、病気に苦しむ利長のために、家康から医師を派遣した」なんて事を聞くと、逆に、「その医者に毒を盛られたんちゃうん?」と、思ったりなんかもします。

7月17日には、大坂城にいたあの織田信長の弟・織田信包(のぶかね)急死していて、彼にも毒殺疑惑がある事も、以前書かせていただきました(7月17日参照>>)

やはり、利長の豊臣家への忠誠心は、ずっと、彼の心の奥底に残っていて、家康もそれを脅威に感じていたのかも知れませんね。

ただ、一方では、その忠誠心ゆえ、豊臣家を守りきれない自分の立場に心を痛めていという話もあります。

『懐恵夜話(かいけいやわ)という加賀藩の文書には、その冬の陣の前には豊臣方から「味方につくように」とのお誘いの書状が送られてきてはいたものの、未だ母は人質の身、さらに、家督を譲った弟・利常の奥さんは家康の孫娘・・・しかし、自分の気持ちは・・・と、大いに悩んでいた事が書かれています。

・・・で、結局その葛藤に悩まされた利常は、自ら毒を飲んで自殺したのだとも言われています。

病死・毒殺・自殺・・・もちろん、いずれが事実かは藪の中ですが、彼が、自らの気持ちを押し殺し、母とともに、父の遺言に背いてまで、家康傘下を貫いてくれたおかげで、加賀百万石は守られ、明治に至るまで、その安泰をはかる事ができたわけですから、やはり、以前、利常さんのページのコメント欄で書かせていただいた通り(10月12日参照>>)加賀藩の祖は前田利家でも、初代・藩主は利長さん・・・だと、個人的には思っております。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月 8日 (金)

大坂夏の陣で自害~淀殿の素顔と生存説

 

元和元年(慶長二十年・1615年)5月8日、昨日からの総攻撃により大坂城が炎上、豊臣秀頼とその母・淀殿らが自害し、大坂夏の陣が終結しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

元和元年(慶長二十年・1615年)5月6日に、大坂城へと向かう徳川家康の軍を迎え撃った道明寺・誉田の合戦&若江・八尾の合戦から本格的な合戦が開始された大坂夏の陣

翌・5月7日、大坂城を囲んだ徳川軍によって、正午頃から開始された総攻撃により、大坂城は炎上します。

城外から戻った大野治長は、豊臣秀頼とその母・淀殿の助命を願って、秀頼の妻となっていた家康の孫・千姫を脱出させ(2月6日参照>>)、秀頼・淀殿らは、天守閣の北に位置する山里曲輪の土蔵に身を隠しますが、その土蔵に銃弾が撃ち込まれた事で、助命が拒否された事を察し、ともに自害して果てました

ここに、大坂夏の陣が終結し、豊臣家はわずか2代で滅びる事となったのです。

冬と夏・・・二度に渡って繰り広げられる大坂の陣のそれぞれの出来事・経緯につきましては、すでにイロイロと書かせていただいていますので、【真田幸村と大坂の陣の年表】>>で、くわしく見ていただくとして、本日は、そのヒロインとも言うべき淀殿について・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

天下人・豊臣秀吉が、側室となった彼女のために、現在の京都競馬場近くのの地にお城を建てます。

その時から、淀殿と呼ばれるようになった彼女は、北近江(滋賀県)・小谷城主の浅井長政織田信長の妹・お市の方との間に生まれた3人姉妹の長女・・・その頃は、茶々と呼ばれていました。

やがて、その浅井氏が信長によって滅ぼされると(8月27日参照>>)、母のお市の方とともに信長に引き取られ、その信長が本能寺で果てた後は、織田家の重臣であった柴田勝家と再婚した母について、越前(福井県)北ノ庄で過ごしました。

翌年、秀吉との間に勃発した賤ヶ岳の合戦に敗れた勝家とともに、お市の方は自害・・・3人の娘たちは城から助けられ、秀吉の庇護のもとに置かれます(4月24日参照>>)

やがて、茶々こと淀殿は秀吉の側室となり、すぐ下の妹・お初京極高次に嫁ぎ、この大坂の陣では、豊臣×徳川の講和交渉の使者としても活躍しました。

一番下の妹・小督(おごう・お江与)佐治一成羽柴秀勝の妻を経て、家康の息子・徳川秀忠に嫁いでいます。

・・・と、散々「淀殿」「淀殿」と書いておりますが、淀殿が存命中の史料や文書には、「淀殿」と表記されたものはまったくなく、本来は、単に「淀」あるいは「淀様」と呼ぶのが正しいのだそうですが、もう、慣れ親しんでしまっていますので、とりあえず、このブログでは淀殿(よどどの)と呼ばせていただきます

ちなみに、テレビなどでよく使われる「淀君(よどぎみ)という呼び方は、歴史の史料には一度も出てきません。

一度も出てこないと言えば、秀吉の側室というのも・・・これも、同時代の史料には登場せず、側室・・・まして愛妾ではなく、あのお禰(ね)さんとともに、二人ともが正室とみなされていたようで、二人の事を「両御台様(みだいさま)と記された文書もあるのだとか・・・。

まぁ、江戸時代の武家諸法度によって、武家の様々な事が決められる以前は、正室・側室というのも、もっと曖昧なものだったようですので、正室二人というのも、この時代ならアリなのかも知れません。

ところで、そんな淀殿の印象・・・ドラマなどで描かれるイメージとしては、秀吉の唯一の子供である秀頼を産んだ事によって、その寵愛を一身に受け、秀吉亡き後は、正室のお禰を大坂城から追い出し、実質的に豊臣家をしきっていて、そのプライドの高さから徳川に屈する事を拒み、ついには豊臣家を滅亡へと導いていく・・・

大坂の陣では、諸将の進言を聞かず、あたかも女城主のように振る舞い、ヒステリー気味の采配を振るう・・・こんな感じでしょうか。

しかも、このうえに、「息子可愛さのあまり・・・」という付録もついて、何となく良いイメージで描かれる事が少ないように思いますね。

絶世の美女と噂されるお市の方の娘だけあって、淀殿自身も、母に似た美女として描かれる事が多く、ドラマでは美人でありながら憎まれるという難しい役どころをこなさなければならず、女優さんの演技力が試される見せ場でもあります。

ただし、実際の彼女は、少し違うようです。

確かに武装して自ら兵に檄を飛ばすような事もあったようですが、これは、息子可愛さというよりは、むしろ当たり前の事・・・

大坂の陣の段階では、彼女は秀頼を後見する立場にあり、彼女のような「おふくろ様」「おかか様」と呼ばれた先代の未亡人あるいは現当主の生母が大きな力を持つ事は、戦国のならわしであり当然の事なのです。

しかも、彼女がお禰を追い出したように映る出来事も、実はそうではなく、未だ幼なかった秀頼と豊臣家を守るための二人の御台所の連携プレーのなせるワザなのです。

秀頼の生母である淀殿は、大坂城を離れる事ができませんから、彼女はとにかく大坂城内の事を仕切り、代わりに、自由に動けるお禰が、朝廷や外部との交渉にあたったり、豊国神社の祭祀に関与したり・・・という役割分担が、二人の間にできていたのだろうといのが、現在の見方となっています。

Yodohi40 どうやら、最近では淀殿の印象が変わりつつあるようです。

ところで、そんな淀殿・・・実は、生存説があります。

もちろん、伝説の域を超えないものではありますが、その言い伝えによれば・・・

後に初代総社藩主となる秋元長朝(ながとも)が、まさに夏の陣で奮戦しているその時、いかにも位の高そうな女性が助けを求めてきます。

その気品と美しさから、彼女を淀殿だと確信する長朝・・・彼は、もともと浅井の家臣だった人ですから、世が世なら主君のお嬢様・・・丁重に保護し、自らの領地へと連れ帰ったのだそうです。

このお話だけなら、「あら、そうなの?」って感じですが、群馬県前橋市にある元景寺というお寺には、その時、淀殿が乗っていた駕篭(かご)の引き戸や、着ていた打ち掛けが残っているのだとか・・・

引き戸には、豊臣家の「桐」と浅井家の「菊」の家紋がほどこされており、打ち掛けも天下人の側室にふさわしい、金糸銀糸をふんだんに使った見事なものだそうです。

また、お寺には「心窓院殿華月芳永大姉」と刻印されたお墓があり、これが、淀殿のものだと伝わっているのだそうです。

・・・で、総社にやってきた淀殿は、その後どうしたのか?

それが、淀殿の美しさに負けた長朝が、妻にしようと言い寄るものの、プライドの高さから、それを拒み続ける中、とうとう、長朝が力づくで押し倒してやっちゃったために、傷ついた淀殿が利根川に身を投げて自殺した・・・という話と、

やはり、長朝が言い寄るものの、拒み続けた淀殿に、長朝が逆ギレして、生きたまま箱に詰めて利根川に沈めた・・・というものがあります。

普通、生存説として語られる場合、たとえ地位や名誉やお金がなくなったとしても、天寿を真っ当する・・・いわゆる長生きするものが大多数を占めています。

そんな中での不幸な結末の生存説・・・トンデモ説でさえ、特別扱いのような伝えかたをされる淀殿は、やはり、歴史上まれにみる女性と言えるかも知れません。

戦国の世に生まれた淀殿・・・

燃え盛る北ノ庄城から脱出し、母・お市の方と別れたあの日から、おそらく、自分自身のために生きる事はなかったように思います。

きっと、その日、彼女は決意したに違いありません。

この後は、妹たちを守る父となり母となろうと・・・

やがて、生きる術として、母の仇とも言える秀吉の保護を受け、今度は、家康からわが子を守る・・・娘時代にも増して、自分の素顔をひた隠しに隠しながら・・・。

伝説に伝説をかぶせたようなベールに包まれ、おそらく、未だ誰も知らない彼女の素顔を、いつか見せていただける日が来る事を願って・・・。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (1)

2009年5月 7日 (木)

大坂夏の陣~グッドタイミングな毛利秀元の参戦

 

元和元年(慶長二十年・1615年)5月7日、大坂夏の陣において、この日、開始された総攻撃にギリギリセーフで間に合った毛利秀元が奮戦しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そもそも、西国で強大な力を持ち、豊臣秀吉の時代には五大老に1人に数えられた毛利が、大幅に領地を減らされたのは、あの関ヶ原の合戦毛利輝元西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったため・・・。

以前、【動かぬ総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算】(7月15日参照>>)で書かせていただいたように、この時の毛利氏の動きは・・・

西軍・総大将となった輝元は大坂城に留まったまま、従兄弟で養子の毛利秀元を名代の毛利隊の大将として関ヶ原の現地に派遣

一方で、従兄弟の吉川広家が東軍に通じ、「関ヶ原に兵は出すものの参戦はしない」という約束を本多忠勝井伊直政らと交わし、当時配下に収めていた8カ国の所領は安堵されるはずでした。

もちろん、これには、西軍・東軍、どちらが勝っても毛利が傷つかないという思惑があったのだろうという事も、そのページに書かせていただきました。

ところが、ご存知のように、「その約束したんは、僕やなくて、本多君と井伊君やもん!総大将やっといてお咎めなしなんか、ありえへんやろ」という、タヌキのオッチャン・徳川家康の見事なペテンで、周防・長門(山口県)の2国だけという大幅減封となってしまったわけです。

関ヶ原の合戦は、毛利にとって、合戦で敗戦したというよりは、何やら騙された感の強い遺恨を残す結果となってしまったはず・・・

そして、あれから15年・・・そんな毛利の思いを知ってか知らずか、家康は、今回の大阪の陣にあたって、毛利にも出兵の命令を出してくるのです。

まずは、現地に出兵する前に、瀬戸内を往来する船の検問から始まった毛利の大阪の陣への参戦・・・結局、前半戦の冬の陣では、住吉などの海岸線の警固を任されただけで、最後まで、大坂城を囲む最前線へ行く事はなかったのです。

ところで、以前書かせていただいた【「三本の矢」の毛利を救ったのは4本目の矢(11月7日参照>>)のページで、先ほどの関ヶ原合戦で、輝元の名代として現地・関ヶ原へ向かった秀元の事を、「彼なしでは毛利は語れないほどの重要人物だと思う」という事を書かせていただきましたが、この大阪の陣に於いても、やはり、秀元なしでは、大阪の陣での毛利は語れないほどの活躍をしてくれています。

そもそも、関ヶ原の時も、東軍と密約を交わしてしたのは広家で、一応、輝元と秀元は、その密約の事を知らなかったとされています。

しかも、秀元に至っては、関ヶ原であのような結果になった後も、秀頼のいる大坂城に籠って、もう一戦、家康と構える覚悟であったとも言われ、そんな彼を広家が必死で説得したなんて話もあります。

血気盛んに徹底抗戦を訴える秀元が、「領地は安堵されるのだから・・・」という広家の言葉を信じて、故郷に帰ったにも関わらず、蓋を開けたら大幅減封だったわけですから、その受けた屈辱としては、かなりのものだったはずです。

ところが、この大阪の陣では、その事を忘れたかのように、毛利の先頭を切って参戦しているのです。

冬の陣で、海岸線の警固を命じられた時も、命じられたのは輝元であって、実は、秀元は江戸にいて、彼には出兵の要請がなかったのですが、わざわざ本多正信のもとへと足を運び、「なんで、俺を先鋒にしてくれへんねん!俺の事、信用してくれへんねんやったら、このまま大坂城に行って、秀頼の味方するゾ!」と抗議したのだとか・・・。

そして、その訴えを聞いた家康から大坂へと招かれた秀元は、毛利勢の大将である輝元よりも先に、天王寺・茶臼山(ちゃうすやま)に本陣を構える家康のところに「がんばりまっせ!」と挨拶に立ち寄っています。

まぁ、上記の通り、この時の冬の陣では大坂城包囲には関与する事なく、そのまま秀元は長府(山口県)へと帰ってはいるのですが・・・。

・・・で、その翌年に起こった今回の大坂夏の陣・・・

早速、家康から、諸大名に出撃命令が下ったこの時、輝元は病気療養中ですでに隠居していて、その息子・秀就(ひでなり)が家督を継いでいたのですが、秀元はすぐにでも大坂に行くようにと進言・・・

しかし、なかなか重い腰をあげない秀就・・・ウダウダ言ってるうちに5月になってしまって、「これは、いかん!」とばかりに、秀元は、独自に船団を組んで海路大坂入りして参戦するのです。

実は、これが見事なグッドタイミング!

一昨年の5月6日>>、そして昨日のページ>>に書かせていただいたように、5月6日には、道明寺・誉田の合戦後藤又兵衛薄田隼人が討死し、若江・八尾の合戦では木村重成が討死するという大きな野戦によって、本格的な火蓋が切って落とされた大坂夏の陣・・・布陣図はコチラから>>別窓で開きます)

翌日の元和元年(慶長二十年・1615年)5月7日、大坂城を包囲した徳川方によって、大坂城への総攻撃が開始される事になるのですが、この時、先鋒となって、真っ先に大坂城へと突進していったのは、家康の孫・松平忠直隊・・・

それを迎え撃つ大坂方は、あの真田幸村隊・・・しかし、一昨年のその日のページに書かせていただいたように(2007年5月7日参照>>)幸村の一番の目的は、後方に位置する大将・家康の首・・・なので、先鋒の忠直隊にかまってるヒマはありません。

一方の忠直隊も、一番の目的は大坂城への突入ですから、この忠直隊と幸村隊の激突は、激突というよりも、お互いを蹴散らしながら、どんどんと先へと進む・・・といった感じの戦い方だったわけです。

だからこそ、あれよあれよという間に、忠直隊を突破した幸村隊が、家康の本陣へと切迫し、あわや!という状況に陥ったわけです。

逆に、忠直隊のほうは、大坂城への一番乗りを果たし、数々の戦利品を持ち帰っています(9月8日【陣形と陣立のお話】参照>>)

実は、このタイミングで、この合戦の場に駆けつけたのが、本日の主役・毛利秀元・・・(長い前置き、スンマセンどした)

『毛利家乗』によれば・・・
「公(秀元の事)衆に先んじ高麗橋に薄(せま)り、大に接戦す。諸部往々次を乱して破れ却(しり)ぞく・・・」

大阪の地図を見ていただければ、その位置関係がわかりますでしょう。

大阪城があり、そのまっすぐ南に天王寺・・・大坂方の先頭にいた幸村隊はこの天王寺に近い茶臼山に陣を構え、そこから、さらに南に向かって、家康の本陣へと・・・

その、今、まさに激戦最中の戦場へ、高麗橋付近から秀元が登場・・・つまり、徳川方を攻撃中の大坂方の後方から攻め込んだ形となったわけです。

しかも、バッタバッタと敵をなぎ倒し、敵は敗れ退く・・・です。

幸村隊に迫られ、一度は死を覚悟したと言われるこの時の家康・・・あわやという場面を救った秀元の大活躍は、その奮戦を目にしていた徳川方の諸将の口伝えで家康の耳まで届き、夏の陣終了後、二条城にて、家康は直接秀元に対面し、大いに喜んだと言います。

実は、この時、かの秀就が大坂に到着したのは、合戦終了から数日経ってから・・・そう、全然間に合っていなかったのですが、秀元の活躍に、家康がご機嫌だったおかげで、秀就の遅参は、まったくのお咎めなしとなったのです。

それにしても、関ヶ原であれだけ苦渋を味わったにしては、この積極的な参戦は、いったいどういう事なのでしょうか?

何が、秀元を、そこまで徳川寄りにさせたのか?

一つには、彼の奥さん・・・

実は、大坂冬の陣の前年、彼は、家康の異父弟である松平康元娘を嫁に貰っていのです。

しかし、秀元にとっては、嫁の実家・・・というよりも、これからは、徳川の時代・・・「怨みつらみだけでは、この先、生き残ってはいく事はできない」という、冷静な判断のほうが勝っていた事でしょう。

それには、何よりも、家康からの篤い信頼を得る事・・・先の冬の陣の時の彼のセリフのように「自分を信用できないんですか!」なんて事を言わなくてもいいように、自分の忠誠心を見せつけなければならないと感じていたのではないでしょうか。

ただ、秀元がここまでして、徳川への忠誠をアピールしなければならないのには、未だ徳川から見て、毛利には疑わしい部分があったからなのですが・・・。

もちろん、それは、秀元自身が、生前の秀吉から大変可愛がられており、豊臣の恩への気持ちが強いのではないか?という事もあり~の・・・

それと同時に・・・
先ほどから参照としている一昨年のページを見ていただいた方の中には、「んん?」と、すでに、その名前にお気づきになった方もおられる事でしょうが、大坂方に参戦し、幸村とともに天王寺口を守り、あの本多忠朝を討ち取るという大活躍の武将の名前が・・・毛利勝永

ただし、彼は、同じ毛利という姓ではあるものの主家の毛利氏と血縁関係はない一族ではあります。

しかし、秀元に仕えて豊前2郡を任された小倉城主・毛利勝信の息子なので、元・家臣には間違いないですね。

現に、関ヶ原では秀元の指揮下で南宮山にいたのですから・・・。

関ヶ原の後、土佐(高知県)に流罪となっていたのを、大坂の陣のニュースを聞きつけて、秀頼のもとに馳せ参じた浪人の1人・・・家康に騙された感満載での参戦だったのです。

しかし、家康が毛利に疑いの目を向けるのは、この勝永の一件だけではありませんでした。

さらに、もう一人・・・実は、この大坂の陣には、毛利家の重臣が大坂方として参戦していたのですが・・・

記事も長くなって参りましたので、そのお話は、燃え盛る大坂城から脱出したその者が捕らえられ、切腹の処分を受ける事になる5月21日に書かせていただきたいと思います。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月 6日 (水)

奮戦!薄田隼人~道明寺・誉田の戦いIN夏の陣

 

元和元年(慶長20年・1615年)5月6日、大坂夏の陣の道明寺・誉田の戦いにおいて、薄田隼人兼相が討死を遂げました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

薄田隼人兼相(すすきだはやとかねすけ)は、講談本に描かれた剣豪・岩見重太郎(いわみじゅたろう)と同一人物とも噂され、その生年も含め、謎の前半生を送った武将・・・。

しかし、「柔術・兼相流」の開祖「剣術・無手流」の開祖、などどいう肩書きを見ると、その猛将ぶりは、さぞかし・・・との期待を抱かせてくれる人でもあります。

そんな彼が、歴史の舞台に登場するのは、あの朝鮮出兵=慶長の役の頃・・・当時は、豊臣秀吉の馬廻りを務め、後に豊臣秀頼に仕えて3千石を有したと言いますが、ウソかマコトか、あの大坂冬の陣(11月29日参照>>)の開戦時の11月19日には、娼家で女遊びをしていたため、自らが担当する砦の防御に間に合わなかった・・・なんて、ある意味、豪快なエピソードも残っています。

・・・で、その大坂冬の陣後の和睦交渉の末(12月19日参照>>)、外堀を埋め立てられ、裸城(はだかじろ)になってしまった大坂城に、再び、徳川家康が迫る大坂夏の陣の勃発となるわけですが、その流れについては、一昨年の5月6日のページで見ていただくとして・・・(2007年5月6日を見る>>)

この日、裸城同然の現在の大坂城では、籠城戦は不利と判断した大坂方・・・真田幸村後藤又兵衛基次らは、家康本隊が大坂にやって来る道筋で待ち伏せしようと、道明寺・誉田(ほんだ)へと撃って出ます。

第一軍として、先に向かったのは、後藤又兵衛・・・(又兵衛に関しては2008年5月6日をどうぞ>>)

薄田隼人は、3千の兵とともに、夜明け頃、その第二軍として、ここ道明寺口にやってきます。

ところが、到着してみると、すでに戦闘は終わり、親友の又兵衛は討死した後・・・敗れた大坂方の兵が、こちらに向かって逃げて来ているところで、それを追って来た伊達政宗水野勝成本多忠政らの軍勢と、彼は、相対する事になります。

もはや、親友の死の感傷に浸っているわけにはいきません。

「我こそは当手の大将・・・」
と、大きく名乗りをあげ、大長刀を振り上げながら集団の中に踊り出て、群がり来る敵を斬っては捨て、斬っては捨て・・・

冒頭に書いた通り、武勇優れた隼人は、その配下の者もスゴ腕揃いだったもんだから、「これは強敵だ!」と感じた伊達隊の先鋒・片倉小十郎重長は、彼らの側面から、鉄砲隊による一斉銃撃を加えます。

嵐のような銃撃に、一旦兵を退いた隼人は、高台に上り戦況を見据え、やがて、再び、決死の戦いに挑みます。

次の激戦で長刀が折れた彼は、槍に持ち替え、またまた突いては捨て、突いては捨て・・・しかし、蹴散らしても蹴散らしても、次々に新手の兵が襲い掛かってきます。

槍も使い物にならなくなってからは、三尺六寸の大太刀を振りかざし、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ・・・

鬼神のごとく戦場を駆け抜ける姿に、後に鬼日向の異名で知られる事になる水野勝成が、「もう、誰でもえぇからアイツを討ち取れ!」と、自軍に檄を飛ばします。

すると、水野隊から1人・・・川村新八なる者が飛び出し、馬上の隼人めがけて斬りつけました。

その身を反らせてかわした隼人は、すかさず、大太刀を新八の頭上に振り下ろしますが、鉄の兜がそれを阻み、カチンと火花が散って押し戻され、バランスを崩します。

それを見たた新八は、ここぞとばかりに、隼人の足を掴み、馬から引きずり下ろさんばかりにしがみつきますが、逆に隼人は、新八の体をグイッと引き上げ、その首をねじ切る勢い・・・。

そこへ、同僚の危機を見かねた中川島之介なる者が、隼人の馬をめがけて槍を突きたて、馬の前足が、ガクッと落ち、隼人は、ゴロンと転倒します。

しかし、それでも新八の首を離さず、さらに、馬乗りになったうえ、島之介をも引き寄せ、二人をもろともに・・・

そこへ、勝成の小姓・寺島助九郎が、太刀を振り上げ、二人の馬乗りになっている隼人の足に斬りつけ、その足を斬りおとします。

痛みにのけぞる彼を、新八&島之介が二人同時に胸と胴を貫き元和元年(1615年)5月6日剣豪・薄田隼人は、命果てました。

・・・とは言うものの、また別の史料では、薄田隼人を討ち取ったのは渋谷右馬允(しぶやうまのすけ)なる人物・・・という記述も見え、上記のあまりの細かな描写も、とても事実とは言い難い範ちゅうの物である事は確かです。

・・・というのも、冒頭の岩見重太郎と呼ばれた時代の武者修行&諸国漫遊の伝説めいた過去も含め(岩見重太郎については9月20日参照>>)、薄田隼人という人は、一昔前の少年たちにとって、あこがれのヒーロー

日本に、アニメというジャンルが生まれる前の世代にとって、彼は、鉄腕アトムであり、ドラゴンボールの悟空であったわけですから、より強く、よりかっこよく、少年たちが胸躍らせるヒーローとして、ちょっとだけオーバーに演出してしまったのも、歴史の専門家ではない私にとっては、うれしい創作・・・と言える範囲内のもの。

できれば、再び、伝説のヒーローとして、ブラウン管・・・いや、液晶orプラズマの中で薄田隼人の大活躍を見てみたいものです。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月24日 (金)

大坂夏の陣図屏風を見てきました!

 

昨日、今年3度目の大阪城へ行って参りました~

Ikusabanokoukeip 「何回、行っとんねん!」
とツッコマレつつも、今回は単なる散歩ではなく、大いなる目的が・・・

現在、天守閣にて開催されているテーマ展「いくさ場の光景」を見るためでございます。

この展示は、そのテーマでわかる通り、合戦に関する品々を集めた特別展ですが、何と言っても、戦国合戦図の屏風が11点も!

昨日書かせていただいた賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦長篠の合戦小牧長久手、そしてもちろん関ヶ原・・・

中でも、今回、初公開となる「山崎の合戦図屏風」は、人物描写がいきいきとしています。

本陣に構える羽柴(豊臣)秀吉のもとへ駆け寄り、うやうやしく何物かを差し出す加藤清正・・・。
馬のいななきが聞こえんばかりに、今、走り出そうとする福島正則・・・。
敵に囲まれ奮戦する斉藤利三・・・などなど。

また、おもしろかったのは、「武田信玄配陣図屏風」・・・。

こちらは、上記の山崎の合戦図屏風のように、合戦している場面ではなく、その名の通り、今、まさに合戦が始まろうという時に、見事に整列している姿を描いた物で、手に手に槍を持つ兵士の間には、鉞(まさかり)や鳶口、さらには、大きな荷物をもつ工兵隊員など、陣を設営するための部隊も見え、大将を守るように配置された軍勢の、精かんな姿が描かれています。

そして、やっぱり、見たい「大坂夏の陣図屏風」・・・。

Natunozinbyoubutokubetutenzi_2 大坂夏の陣図屏風(部分)

これは、昨年、NHK「その時歴史が動いた」で、「戦国のゲルニカ」として紹介され、話題となった屏風で、以前、このブログでも、他の合戦図屏風とは少し違う、その画について触れさせていただきましたが(9月12日参照>>)、市街戦となった大坂夏の陣は、兵士だけではなく、一般市民もその巻き添えとなった戦いで、兵士対兵士の合戦の図だけではなく、一般市民に対する略奪や暴行による悲惨な光景が描きだされている物です。

この屏風は、大阪城天守閣の所蔵で、天守閣の5階のフロアすべてを使って、夏の陣の事や、描かれた絵の細かな説明がされている、大阪城でもイチオシの品ですが、普段はそのパネル展示のみ・・・つまり、こういった特別展示の時でないと、本物にはお目にかかれないのですよ。

昨日は、天守閣・最上階の展望フロアでは、けっこうな数のかたがごった返しており、「ゆっくり見る事ができるかな?」と心配しておりましやが、どうしてどうして・・・ちょっと奥まったところに展示してあったせいか、約30分ほど、ほぼ独り占めでじっくりと拝見させていただく事ができました。

修復の仕方が違うのか?保存状態の差なのか?左隻より右隻のほうが、少し色鮮やかに見えましたが、そういった事も、実際にこの目でみないとわからない事・・・しばし、夏の陣の「その日」へとタイムスリップさせていただきました。

そして、見終わった後は、例のごとく図録の購入・・・こういった展示会の図録というものは、パンフレットと違って、少々お高いのですが、記憶の消耗の激しいワタクシにとっては、最重要のアイテムなのですよ。

はっきり言って、予算に限りがあれば、昼ご飯を抜いてでも、図録優先なのです。

・・・で、今回の「いくさ場の光景」の図録は1300円・・・っと、これが、なかなか良かったです。

・・・というのも、展示物が、甲冑や武器、衣類などが多い場合、はっきり言って、写真で見るより実際に見たほうが、細かく、正確に見る事ができるわけですが、今回のように屏風・・・しかも、合戦図となると、その細かさはハンパじゃないんです。

確かに、色や構図などは、写真で見るより、本物を・・・って感じですが、その絵が細かいために、ガラス越しでは、人物ひとりひとりの表情などは、よほどの視力の持ち主でないと確認できません。

それが、今回の図録には、アップで掲載されているのです。

徳川家康秀忠真田幸村大野治長・・・主要な武将とともに、例の悲惨な光景の部分も、いくつかピックアップされて、ドアップで確認できるのです。

最初のほうに書いた「山崎の合戦図屏風」でのいきいきとした姿も、ここで、もう一度確認し放題!

Dscn7958 昨日の大阪城(南側・外堀)

・・・と、あまりの嬉しさに、図録のCMまがいの紹介になってしまいましたが、図録の購入はともかく、「合戦図を見てみたいな」と思われたかたは、ぜひぜひ、どうぞ!

「いくさ場の光景」展は、5月6日まで開催・・・しかも、4月25日~5月6日のGW中は、天守閣の拝観時間が2時間延長になり、朝9時~19時までとなりますから、ちょっと遅くなっても安心です。

この機会に、合戦図屏風の最高傑作と称される「大坂夏の陣図屏風」をご覧になってみて下さい。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←「おもしろそうだ」と思っていただけましたら応援クリックよろしくお願いします(゚ー゚)あなたの応援で元気100倍!

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

追記:遠方にお住まいのかたで、「展覧会には行けそうにないが、図録はほしい」とおっしゃるかた、大阪城天守閣の公式ホ-ムページから通信販売で購入できます。

【大阪城天守閣】>>←トップページの左のメニューにある【展覧会図録】というところに、図録の紹介と購入方法が書いてあります。

ただし、展覧会に行った場合は、見本で中身を確認してから購入できますが、通信販売の場合は確認できませんので、ご自身の責任で以ってご購入をお決めください。
(人それぞれ価値観がちがいますので、実際に手にとってみて、1300円が高いと思うか、安いと思うかまでは保証できませんので・・・)

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月16日 (木)

2代将軍・徳川秀忠誕生~縁の下の基礎造り

 

慶長十年(1605年)4月16日、家康の三男・徳川秀忠江戸幕府・第2代将軍となりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご存知、父・徳川家康は、長きに渡る戦国の世を平定し、江戸時代300年の平和をもたらした偉大な人物・・・。

息子・3代将軍・徳川家光は、生まれながらの将軍にして、参勤交代鎖国制度を築き、幕府による全国支配を確立した名君・・・。

そんな二人に挟まれたうえ、初陣である関ヶ原の合戦では、3万8千という大軍を率いていながら、わずか2千で籠る上田城真田昌幸幸村親子に手こずり、肝心の関ヶ原の開戦に間に合わないという大失態(9月2日参照>>)を演じてしまった事で、この2代将軍の徳川秀忠さんは、あまり有能ではない、影の薄い人物としてのイメージが強いですよね。

確かに、この関ヶ原の直後には、次期将軍には、秀忠よりも、次男の結城秀康のほうがふさわしいのでは?と囁かれた事もあったようです(11月21日参照>>)

しかし、結局、家康は、自らの後継者を、この秀忠にしました。

そこには、やはり、父の目から見た確かな物があったのでしょう・・・というより、秀忠の行った政策をちゃんと見てみると、その選択は正しかったという事がわかります。

なぜなら、この先、300年続く徳川の世を確実な物にするために、家康がやり残した事を行ったのが秀忠だからなのです。

まず、一番は、外様の始末です。

このブログでも度々書かせていただいている通り、関が原の合戦は、あくまで豊臣家の内紛・・・・その時、戦いに挑んだ家康の立場は、豊臣家の一家臣です。

豊臣家が豊臣家と戦うにあたって、一番たいへんな事は、自分(東軍・家康)に味方してくれる者をいかに多く取り込む事ができるか?という事で、この時の家康は、それこそ、なりふりかまわず手紙を書き、恩賞をチラつかせ、味方に引き入れなければなりませんでした。

なんせ、向こう(西軍・石田三成)には、豊臣秀頼というホンモノの豊臣の後継者がついているわけですから・・・。

そうなると、その綱わたり的な策略で味方に引きいれた豊臣恩顧の武将の合戦後の動向は、いたって不安なわけで、それなりの・・・いや、約束以上の恩賞を与えてご機嫌をとっておかなければ、いつなんどき反発を喰らい、皆が一斉に敵に回るとも限らないわけです。

現に、慶長十六年(1611年)の3月に行われた、家康と秀頼の二条城での会見にあたっては、その場に同席した加藤清正池田輝政らといった面々が、皆、いざという時の懐剣をしのばせての参加だったという話もあり、清正に至っては、その時、秀頼に出された毒まんじゅうを身代わりに食べて死んだという噂まであるくらいです(3月23日参照>>)

その話し自体は、単なる噂であったとしても、そんな噂が囁かれるくらい、合戦で東軍についた武将たちも、未だ豊臣だいじの気持ちが大きかったという事なのです。

そのため、家康は、関ヶ原で味方についてくれた彼らに多大な恩賞を与えます。

福島正則:尾張清洲24万石→安芸備後49万8千石
池田輝政:三河吉田15万2千石→播磨姫路52万石
浅野幸長:甲斐府中16万石→紀伊和歌山37万7千石
黒田長政:豊前中津18万1千石→筑前福岡52万3千石
細川忠興:丹後宮津18万石→豊後2郡39万9千石

他にも、藤堂高虎山内一豊堀尾忠氏田中吉政・・・とてつもない大盤振るまいです。

つまり、そのくらいの戦後処理をしないと、不安なくらいの不安定な状態だったという事でしょう。

しかし、これだけ大きい領地を取得した彼らは、今は大喜びでしょうが、後々、徳川家の脅威となる事は目に見えています。

それらの豊臣恩顧の外様大名たちの力を、徐々に徐々に・・・それでいて確実に削いでいったのが、本日の主役・2代将軍・秀忠さんなのです。

まずは、多額の普請費用・・・

神社仏閣や江戸城などの修復をやってもらって、お金を湯水のごとく使っていただくわけです。

戦国の戦乱で焼失した堂搭が、この時代に再建されているケースが多々あるのは、皆様もご存知でしょう。

また、以前、ご紹介した大阪城の石垣巡り(12月11日参照>>)・・・そのページでご紹介した各大名寄進の石垣の中に、いかに外様大名の刻印が多いのかは、ちょっと見てみただけでも、すぐにわかりますよね。

また、蛸石をはじめとする大阪城の巨石は、その1位の蛸石から10位の竜石まで、それらの巨石を寄進したのは、加藤忠広(加藤清正の次男)池田忠雄(ただかつ・池田輝政の三男もしくは六男)で、彼らも外様の息子・・・。

江戸城(皇居)は、大昔に一回行ったっきりで記憶が定かでありませんのでお話する事は避けますが、豊臣滅亡後、江戸城と同じく幕府直轄となった大坂城は、以前、徳川時代の大坂城(1月23日参照>>)で書かせていただいた通り、豊臣時代の遺構をすべて地中に埋めて、まったく新しく構築されたもので、そこに、このような巨石を寄進する・・・もちろん、石の材料費から切り出し費用、運搬費用も全部大名持ちですから、幕府直轄の大坂城に、これらを寄進するのは、イコール・徳川に寄付をするという事ですから・・・。

そうやって、各大名たちに、自分とこの城や武器の調達にお金を使えないくらい、ふんだくってしまうわけですねぇ。

そして、次に、大名を統制する法律・武家諸法度です。

この法律で、がんじがらめにした大名たちの、少しでも違反するところを見つけては、改易を申し渡して、取り潰してしまうのです。

なんだかんだ言って、諸大名を取り潰した数だけで言えば、家康・家光を越えて、この秀忠さんが一番多い・・・もちろん、お取り潰しまではいかなくても、いろんな理由つけて転封させて、その力を削いでいく事も忘れません。

さらに、正式には、家光の代に武家諸法度に加えられる参勤交代の制度ですが、その基礎は、すでに秀忠の時代でできあがっていました。

それが、先の江戸城の普請・・・長期にわたる江戸城の普請には、先に書いたような材料費や運搬費だけでなく、人夫も出さなければならないわけで、それらの人々の給料やら食費やらも大名持ちなわけですし、そんな彼らをほっとらかしにしておくわけにいきませんから、当然、殿様自身が頻繁に江戸にやって来なくてはなりません。

そうこうしているうちに、一定期間、江戸に滞在する事が義務付けられ、やがては、故郷に帰る時には、妻子は江戸に置いていけってな話しになって・・・「そんなんイヤですわ!」と反発すれば、上記の転封・改易処分の嵐・・・となるわけです。

そんな秀忠さんが、晩年、最後の仕上げとばかりにやったのが、朝廷の封じ込み・・・紫衣事件です。

紫衣(しえ)とは、位の高い僧や尼僧が着る紫色の法衣や袈裟の事ですが、これは、朝廷のお許しがあって初めて着用する事ができたものなのです。

ところが寛永四年(1627年)、いきなり、十数年前にまでさかのぼって、幕府がこれを取り消した・・・これが紫衣事件。

朝廷としては、天皇の名で一度出した許しを、幕府に取り消されるなんて、面目丸つぶれ・・・権威もクソもあったもんじゃありません。

実は、これ以前にすでに幕府は、『勅許紫衣法度』『禁中並公家諸法度』などの、朝廷が何かを決める時には幕府の許可が必要という法律を出していて、その当時は、まだ、家康が健在の頃であったため、あまりの威光に逆らえず、いざこざを避けるため、とりあえず朝廷は、その法律を受け入れていたわけですが、その家康が亡くなってからは、何となくうやむやに・・・そして、この頃は、ナイショで紫衣の許しを乱発していて、幕府が許可をしていない紫衣の僧の存在が多数発覚してしまったのです。

そこで、秀忠は、有名無実となっているこの法律が、現在も有効であってきっちり守られなければならない事を、改めて強調したわけです。

おかげで、時の天皇であった後水尾天皇とは、完全に決裂状態となってしまいます(4月12日参照>>)が・・・。

もちろん、この時は、すでに将軍は、3代の家光に譲っていた秀忠でしたが、未だ大御所として君臨しており、平安時代の院政のような体制で、牛耳っていた中の出来事です。

こうしてみると、実は、家光の将軍時代に確立されたとされる幕藩体制は、どうやら、家康が構想したものを秀忠が実現し、家光はその体制の上に乗っかった・・・という形のようですね。

日頃は、あまり目だたない秀忠さん、ちょっぴり見直しましたね。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (10) | トラックバック (0)

2009年4月14日 (火)

本物か?ニセ物か?直江兼続の「直江状」

 

慶長五年(1600年)4月14日、今年の大河ドラマの主役・直江兼続が、西笑承兌に宛てて一通の手紙を送っています・・・これが、あの徳川家康を激怒させたと言われる有名な手紙・『直江状』です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

豊臣秀吉が亡くなって以来、五大老の1人であった上杉景勝は、京を離れる事もままならず、慶長四年(1599年)秋・・・やっと2年前に引っ越した会津に帰って、いざ、内政を行おうとしたところへ、秀吉亡き後に実権を握りつつある徳川家康からの上洛要請・・・で、先日の4月1日、この上洛の要請を、景勝が断ったというお話をさせていただきました(4月1日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、その後、家康は、相国寺の搭頭(たっちゅう)豊光寺の僧・西笑承兌(せいしょうじょうたい)に頼んで、再び、景勝の上洛と釈明を要請する手紙を、家臣の直江兼続宛てに出させたのです。

その返事として、慶長五年(1600年)4月14日、兼続から西笑承兌へと送られたのが、後に『直江状』と呼ばれる手紙です。

16か条からなるその内容を要約させていただきますと・・・

「ウチの景勝が上洛を延期してる事を、なんやかんや噂してはるみたいですけど、越後から会津へと引越しして間もなくに、秀吉はんが亡くならはって、とるもんもとえいあえず上洛してから、去年の9月にやっと帰れたばっかりやのに、また正月に来いって言われても、ほんなら、いつ内政の事やったらよろしいねん。

しかも、ウチは雪国で、10月~3月は動きが取れん事も、東北の事知ってるヤツに聞いたらわかりますやん。

橋や道路を整備する事は、新しい領地を治めるには当たり前の事やし、田舎の武士が武器を集めるのんは、そちらさんら都会の武士が茶器を集めんのとおんなじですがな。
なんで非難されなあきませんのん?・・・だいたい、ウチの景勝とおんなじ五大老の1人である家康さんにゴチャゴチャ言われる筋合いのもんやおまへんやろ。

ウチの景勝は、秀吉さんの時代から律儀な人間で通ってて、それは今も変りません。

逆心がないねやったら、誓詞を出せ出せて言わはりますけど、今まで、何枚も書いた起請文はどないなってますのん?

逆心なんかあるわけないですやん。
ない以上は、上洛も、する必要おませんでっしゃろ?

だいいち、昨日まで逆心を抱いてたくせに、チャンスがなくなった途端に、今日は知らん顔して上洛して誰かさんにとりいったりするような恥もがいぶんもない人間とつき合う事は、ウチの景勝の性格に合わんのんですわ。

正月からこっち、へんな噂がたってんのは、勝手に誰かが言いふらしてるだけなんと違いまっか?
ちゃんと、確かめはりましたか?
それ、確かめてはれへんねやったら、家康さんがウソを信じ込まされてる事になりまっせ・・・世間は、どないな風に見ますやろな。」

長~い文章になってしまいましたが、もとの手紙も、かなり長いです。

ただし、現在複数伝わっている直江状ですが、現実にはすべて後世の写しという物で、本人直筆の原本は残っていません。

また、写しの中でも、内容が少し違っている物もあり、中には・・・
「PS:家康さんか秀忠さんが、こっちへ来はんねやったら、いつでもお相手しまっせ!」
という、メッチャ怪しい雰囲気の追伸つきのものもあり、ひょっとしてニセ物なのではないか?との疑いがかけられているシロモノでもあります。

上記の要約では、少し、挑戦的な表現にしてみましたが、実際の現存する写しの文章も、敬語の使い方が変だという事ですし、そのあまりの過激な内容から、疑いの目が向けられているわけですが、一方では、「当時の雰囲気からみれば違和感はない」と、直江状はホンモノという意見もあります。

歴史の専門家の間でも、ホンモノがニセ物かの意見が分かれているのですから、一般人の私が、その真偽を確かめる余地などないわけですが、この後、家康が会津への出陣を考えた時に、それに反対した五奉行の長束(なつか)正家増田(ました)長盛らの連判状に、「お怒りはごもっともですが・・・」とか、「田舎者の礼儀知らずやと思て・・・」といった文章が見られるところから、現存する直江状が、たとえすべてニセ物であったとしても、この時期に、兼続が、家康を怒らせるような過激な書状を送った事は確かであろうというのが、現在の定説となってします。

専門家のかたが、「過激な書状を送った事は確か」とおっしゃるのですから、おそらくは、その通りなのでしょうが、それならそれで、新たな疑問が湧いてくる事も確かです。

なぜなら、この時、家康は怒りたかった・・・つまり、この時期に家康を怒らせる事は、家康の思う壺であって、もし、本当に兼続がそんな過激な手紙を送ったのだとしたら、見事、家康の策略にハメられた事になります。

この後、「会津征伐」と称して畿内を離れる家康ですが、家康が本当に征伐したいのは、会津の上杉ではなくて、大坂の豊臣です。

しかし、実力はある家康ですが、地位としては未だ豊臣の家臣・・・いきなり豊臣に攻撃すれば、逆心の謀反人となるわけで、ここは、何が何でも豊臣家内で内紛を起してもらって、それに乗じて、自らが一方の豊臣の家臣として、もう一方の豊臣家を叩き潰して、豊臣の力を半減させてしまう事が肝心なのです。

そのために、わざわざ、加藤清正らから襲われた石田三成をかくまって、命を助けてさしあげてるわけですから・・・(3月4日参照>>)

ここで、家康を怒らせて畿内から遠く離してしまう事は、そのスキに豊臣で内紛が勃発し・・・というシナリオに乗っかっちゃった事になりますね。

・・・とは、言え、やっぱり、この推理はアトヅケ・・・、この後の歴史を知っているから、それ以前の様々な家康の行動を関ヶ原へ結びつけて、家康のシナリオだったと言ってるわけで、ひょっとしたら、兼続は本気で家康と一戦かまえる気持ちで、かの書状を書いたのかも知れませんし、受け取った家康も、本気で会津を潰そうと出陣したのかも知れません。

現に、上杉の当時の領地には、この時の、家康の攻めに対抗すべく構築したであろう土塁や堀の遺構が残っている場所もあり、最大で東西3kmに及ぶ塁壁があたのではないか?とも言われています。

ただ、そうだとすると、またまた矛盾が生じてきます。

それは、畿内で三成が挙兵し、家康が小山で軍儀を行い、会津攻めを中止して、軍を西へ向けた時、上杉はなぜ追撃しなかったのでしょうか?

これだけ強気の挑発して、それだけヤル気満々であったとすれば、追撃しなかったのは完全にオカシイ・・・

ここで、家康を追撃していたなら、家康は江戸城から身動きがとれず、その後の関ヶ原での決戦は、西軍有利に進んだ事は、間違いないところでしょう。

この時、小山を撤退した家康が、自分が利根川を渡ったところで、後続部隊がいるにも関わらず、舟橋を切断してしまっている事も、家康が、それだけ、上杉の追撃を警戒していた証拠と言える行動かも知れません。

しかし、上杉は追撃しませんでした。

実は、この時、家康追撃を進言していたのがかの兼続・・・それを、「攻撃をしてこない敵を撃つ事は義に反するとして、かたくなに拒否したのが景勝でした。

そうです。

かの上杉謙信に義があったかどうかは、また別の機会にお話しさせていただくとして、とりあえず、大河ドラマでは、兼続こそが亡き謙信の義を継ぐ者として描かれていますが(主役なので・・・)、どうやら、実際には、義を受け継いでいたのは景勝さんのほうだったようですね。

すでに、この頃には、景勝は、国政から外交までのすべてを兼続にまかせ、むしろ、謙信以来の家臣の水原親憲(ちかのり)などは「主君を軽んじて、自分の思いのままにしている・・・上杉も末だ」と嘆いたりなんかしてる状況であったはずなのですが、なぜか、この家康の追撃だけは、兼続の必死の進言にも首をたてに振らず、「家康が江戸に引き返した以上、コチラも引き返すのが道理というもんだ」と、景勝は、かたくなに拒否をしたと言います。

つまり、上杉も一枚岩ではなくヤル気満々だったのは、兼続だけ・・・という可能性もなきにしもあらず・・・といったところでしょうか。

さらに、ここでよく言われるのは、兼続と三成との間に、なんらかの密約があったのかどうか・・・という話し・・・。

確かに、秀吉の葬儀のために、景勝がずっと京都にいたという事は、当然兼続もいたという事で、そうなると、はなから秀吉のそばにいた三成とは、会津に帰る直前まで、密約を交わすチャンスはあった事になります。

お互い同い年で、けっこう気が合う二人だったと言われてますしね。

もちろん、その密約というのは、兼続が家康を怒らせ、怒った家康が会津へ出陣し、その留守の間に三成が伏見城を攻撃して、両方から挟み撃ち・・・というシナリオの密約という事になります。

とは言え、やはり、この時点での密約があったかどうかは、その証拠もない事で、空想の中にある出来事なわけで、おそらく、この後、長谷堂の戦い(9月16日参照>>)までには、なんらかの連絡をとったものと思われますが・・・

ただ、今年の大河ドラマでは、人気の彼が三成を演じている以上、何らかの密約があったという描かれかたをするのでは?・・・と、ちょっと期待してしまいますね。

やっと御館の乱(3月17日参照>>)が終った「天地人」・・・今年は11月で終っちゃうという事で、あと7ヶ月足らず・・・ちゃんと最後までやっていただけるのか、ちょっとばかり心配ながらも、楽しみに見させていただいている今日この頃です。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年4月 1日 (水)

関ヶ原の幕開け~上杉景勝の上洛・拒否

 

慶長五年(1600年)4月1日、徳川家康の出した上洛要請を上杉景勝が拒否しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

慶長三年(1598年)8月18日の豊臣秀吉の死・・・(8月18日参照>>)

その後、しばらくの間は、秀吉の遺言通り、徳川家康をはじめとする五大老と、石田三成を中心とする五奉行による合議制によって、その政権は運営されていました。

しかし、やがて、家康は、秀吉の遺言を破って、諸大名と私的に婚姻関係を結んだり、独断でお気に入り大名に加増して自らの派閥に入れようとしたりするようになり、五大老と五奉行の均衡が揺るぎ始めてきた事で、大老や奉行らは、度々連署して家康の行動を非難しますが、家康はおかまいなし・・・。

この間に、秀吉恩顧の三成が何度も、家康の暗殺計画をくわだてたとも言われていますが、その三成をターゲットにすべく、家康が画策したのが、もともとあった豊臣家内の派閥の抗争を、さらに広げる作戦・・・。

この豊臣家内の派閥というのは、あの秀吉の晩年の朝鮮出兵に見るように、最前線で命がけで戦った武闘派の家臣と、その監督役、あるいは、日本に滞在したまま内政の事務処理などをやっていた文治派の家臣との間に生まれた派閥で、簡単に言えば、「命がけの仕事と、事務の仕事の功績が同等に扱われるなら、やってられない!それなりの危険手当をよこせ!」と命がけのほうは思うのは当然で、そこに生まれた派閥です。

上記の派閥の文治派のリーダー的存在が三成だったわけです。

それでも、秀吉の友人でもあったあの前田利家が生きていた間は、何とか平静が保たれていましたが、その利家が慶長四年(1599年)の閏3月3日に亡くなると、その夜、早くも、武闘派による三成襲撃事件が発生してしまいます(3月4日参照>>)

この一件で、三成は謹慎処分に・・・

長老とも言える利家が亡くなり、秀吉一筋だった三成が失脚すれば、もう、家康を止める者は誰もいません。

そんな雰囲気に嫌気がさしたのか、故郷の加賀(石川県)へと帰ったのは、亡き利家の後を継いで五大老となっていた息子・前田利長・・・そこを、すかさず家康は、「利長に謀反の疑いあり」として、加賀征伐を公言します。

利長の必死の弁明と、彼の母・まつ徳川への人質として差し出す事で、11月には出兵を取りやめた家康でしたが、その次にターゲットとして目をつけたのが、同じく五大老の1人・会津(福島県)上杉景勝だったわけです。

実は、その利長が畿内を後にしたと同時期の9月頃、景勝も領地の会津に帰国していました。

それも、ちゃんと家康の許可を得て・・・。

なんせ、その時の上杉家は、亡き上杉謙信から受け継いだ領地であった越後(新潟県)から会津へ転封されたばかり・・・。

なのに、五大老の1人として、このところ畿内に滞在していたため、領国の整備が未だ手付かずの状態だったのです。

もちろん、その理由をちゃんと「建物や道路などの整備をしたいから・・・」と告げて、家康も、「あい、わかった」と了承しての帰国・・・。

なのに、景勝が領民を動員して、新しく基点となるべき神指城(こうざしじょう)の築城をはじめ、道路や橋の整備を開始し出すと、難くせをつけてきたわけです。

確かに、上記のような工事には人手がいりますから、浪人を新たに雇いもしましたし、人数が増えれば、それなりの武具や武器を購入した事も確かですが、領国の整備に、それらの条件が含まれている事は、戦国武将として暗黙の了解といったところだったはず・・・しかし、家康は、それを「謀反の準備をしている」として、「上洛して、釈明しろ」と言ってきたわけです。

景勝にしてみれば、上記の通り、秀吉が亡くなって以来、ずっと、中央の政治に翻弄されっぱなしで、ようやく、領国の整備に手をつけはじめたばかり・・・しかも、東北の冬は、動きがとれない事も充分承知したうえの家康のイチャモンに「ほな、すぐ行きますわ」なんて事を言うわけもなく、慶長五年(1600年)4月1日、この上洛命令を拒否したわけです。

この日の拒否の返事を聞いた家康は、次に、西笑承兌(せいしょうじょうたい)なる僧に頼んで、景勝の上洛と同時に人質も差し出すよう要求する手紙を書かせます。

その手紙への返答として、「行くわけないやろが!アホか!」と、キョーレツな手紙を送り返したのが、今年の大河の主役として一躍有名になった景勝の家臣の直江兼続(かねつぐ)・・・。

『直江状』として今に残る、この有名な書状がホンモノか否かに関しては、その直江状が書かれた日づけ4月14日に書かせていただく事として、ともかく、この時に、景勝が上洛をキッパリと断った事によって、家康は会津征伐を決行する事になるわけで、その会津征伐のために留守となった伏見城を三成が攻撃する事で、関が原の合戦へと突入するわけです。

その事を考えれば、まさに、今日、この日が、関ヶ原の戦いのへの幕開けとなるわけで、この後、会津出兵を決定した家康は、伏見城の大広間で大いに笑ったという事ですが、当然の事ながら、この時、景勝が上洛に応じていれば家康の出兵はなく、家康の出兵がなければ、三成の伏見城攻撃もなかったイコール関ヶ原も無かった・・・。

また、たとえ、景勝が上洛を拒んで、家康が出兵したとしても、三成が動かなければ、やはり、関ヶ原は無かった・・・という事になります。

その点から見て、この時の三成と景勝との間に、何かしらの密約があったのではないか?とも囁かれます。

ただ、私の個人的には、この時点では、まだ密約は無かったのでは?と考えています。

のちのち、関ヶ原に至る途中で、約束が交わされたものと思われますが、少なくともこの時点では・・・、いえ、厳密には、三成と景勝の間には無かった・・。

問題は、三成と親交のあった兼続ですが・・・今年の大河でも、三成役をあの人気の彼がやっているところを見れば、やはりドラマでは、そこに密接な関係があったという設定となるのでしょうが、その「直江状」については、手紙の日づけである4月14日のページでどうぞ>>
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2009年3月 5日 (木)

彗星のごとく関ヶ原の先陣を飾った松平忠吉

 

慶長十二年(1607年)3月5日、徳川家康の四男・松平忠吉が亡くなりました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

松平忠吉(ただよし)は、天正八年(1580年)9月10日、徳川家康の四男として浜松で生まれました。

お母さんは、家康の側室の西郷局(さいごうのつぼね・宝台院)と呼ばれる女性で、同じ母を持つすぐ上の兄に、後に2代将軍を継ぐ三男の秀忠がいます。

幼くして三河松平家の一つである東条松平家家忠の養子となって、病弱だった養父の死後、その東条松平家を継ぎます・・・なので、徳川家康の息子ですが、姓は松平です。

家康が関東に入ってからの文禄元年(1592年)には、わずか13歳で下野守(しもつけのかみ)となり、10万石を要する武蔵国(埼玉県)忍城(おしじょう)城主となります。

・・・と、書いてはみましたが、この忠吉さんは、若くして亡くなられてしまったので、歴史の表舞台に登場するのは、ほんの一時期だけ・・・そのエピソードはあまり多くはありません。

そんな忠吉さんが、最も輝いたのは、その初陣である関ヶ原の合戦です。

ご存知のように、この時、家康は、あととり息子である秀忠に、榊原康政大久保忠隣(ただちか)本多正信といった徳川家臣のそうそうたるメンバーに3万8千の軍勢をつけて東山道から西へ向かわせました。

もちろん、家康自身も東海道を西へと向かうわけですが、度々、このブログでも書いている通り、家康の軍は、もともと「豊臣への謀反の疑いあり」として上杉征伐のために北へ向かっていた軍ですから、その中には多くの豊臣恩顧の家臣・・・いわゆる外様が含まれているわけです(8月11日参照>>)

徳川オンリーだけを考えれば、むしろ秀忠の軍が、関ヶ原での東軍の本隊と言っても過言ではない数だったわけですが、東山道を進んだ秀忠軍は、西軍に属する上田城を守る真田昌幸幸村父子とのゲリラ戦(9月2日参照>>)に手こずり、肝心の関ヶ原に間に合わないという大失態を演じてしまいます。

そこで、本来なら、その秀忠の位置だったかも知れない先陣のいい位置で、弟の忠吉が初陣を飾る事になったわけです。

↓は、何度も登場している関ヶ原の布陣図ですが、あったほうがわかりやすいので・・・Sekigaharafuzinzu1cc 見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

徳川四天王のうちの二人・井伊直政本多忠勝に守られるように、かつ先陣の中央部に配置された忠吉・・・初陣とは思えないこの位置は、やはり秀忠の一件のおかげなのでしょうね。

やがて、まもなく開戦という朝・・・その日の先鋒を命じられていたのは、かの福島正則

しかし、それが、どうも井伊直政には、納得がいきません。

直政は、以前から、「今度の戦いが豊臣恩顧の大名たちの活躍によって勝利するような事になれば、戦後の彼らの態度が大きくなる事は必至・・・」と考え、家康にも何度も進言していたんです。

もちろん家康も、その気持ちを汲んでの直政ド真ん中の配置なわけですが、それでも、福島隊先鋒の決定に納得がいかなかった彼・・・

そこで、家康の息子・忠吉が、この関ヶ原が初陣だった事を利用します。

なんせ、忠吉の奥さんは自分の娘・・・つまり、娘婿だった事で、直政は、その後見役も務めていましたから・・・

夜明けからの霧が晴れは始めた午前8時・・・忠吉を連れて、福島隊の前へと出ようとする直政に、福島隊の先頭にいた可児才蔵(かにさいぞう)が声をかけます。

「おいおい、今日の先鋒は、俺ら福島隊や、なに、前へ出ようとしとんねん」と・・・

ここで、直政・・・娘婿の威力を利用・・・
「坊ちゃんが初陣なので、合戦とはどういうものかを間近で、見物させてあげようかと・・・」

見れば、直政の横には、忠吉がいます・・・今回の総大将である家康様の御子ですから、才蔵も、ムリヤリ止めるわけにはいきません。

そのスキを狙って、忠吉&直政とともに前へ出てきたわずかの手勢が、西軍の先頭にいる宇喜多秀家隊に向けて、一斉に発砲・・・この鉄砲が合図となって、天下分け目の関ヶ原が開戦されたのです。

もちろん、福島隊にさとられないように、わずかの精鋭だけを引き連れての前進でしたので、そのまま宇喜多隊と正面でぶつかるという事はなく、あくまで、形として火蓋を切ったという雰囲気でしたが・・・。

結局、宇喜多隊と戦ったのは、福島隊・・・直政&忠吉らは、矛先を変えて島津隊を攻めに向かいますが、忠吉は初陣とは思えない大活躍!

やがて午後になって、戦況が危うくなった西軍は、次々と戦場を離脱していくのですが、その時、島津隊がとったのが、有名な敵中突破=島津の背進(9月16日参照>>)・・・

こちらに向けて鉄砲を撃ちながら背後へ進んでゆく島津隊を、負傷しながらも追撃する忠吉・・・そして彼は、島津隊の大将である島津義弘甥・豊久を討ち取るという、華々しい武功を挙げます。

これには、秀忠の遅刻にイラついていた家康も、手放しで大喜びです。

これが、忠吉・・・忍城10万石から、一気に尾張国(愛知県)清洲城52万石へのオヤジ大奮発!へとつながるのです。

そう、この忠吉さんは、あの御三家=尾張・徳川家の祖となる人物なのです。

将軍の息子として分与されるのが、平均10万石~20万石であった事を考えると、破格の転封だった事がわかりますね。

さらに、慶長十年(1605年)には、官位も従三位近衛中将に昇進して薩摩守(さつまのかみ)と名乗ります。

しかし、その、わずか2年後の慶長十二年(1607年)3月5日28歳の若さでこの世を去ってしまうのです。

関ヶ原で受けた傷が悪化したとも、悪性の腫瘍ができていたとも言われますが、関ヶ原での武功を思えば、大変、残念です~。

しかも、その若さゆえに子供がおらず、尾張松平家は、彼の代で断絶となってしまいます。

代わって尾張を継いだのは、家康の九男・義直・・・後に、御三家の中でもトップの62万石となる尾張徳川家・・・やがては、8代将軍となった徳川吉宗をビビらせるほどの尾張徳川家には、やはり、忠吉さんの52万石が光ってます。

若くして亡くなり、あまり脚光を浴びる事がない忠吉さんですが、尾張徳川家の形成に貢献した偉大なる存在である事は、心にとどめておきたいものです。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月18日 (日)

策士策に溺れる~謀略の将・最上義光

 

慶長十九年(1614年)1月18日、伊達政宗上杉景勝と東北の覇権を巡って堂々と渡りあった出羽国・山形の戦国大名・最上義光が69歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今年の大河ドラマ「天地人」は東北が舞台・・・おそらく、この最上義光(もがみよしあき)さんにもスポットが当たるものと期待しております。

・・・とは言え、義光は謀略の達人、しかも主役が上杉側となれば、にっくきライバルとして描かれるのでしょうが、なにぶん私は原作を読んでいないので、本当にドラマに登場するのかどうかは確信が持てませんのであしからず・・・。

そんな最上義光さんは、天文十五年(1546年)1月1日、清和源氏の流れを汲む足利一門という由緒正しき最上氏の第10代当主・最上義守(よしもり)の長男として生まれます。

16歳の時には、父とともに出かけた高湯(蔵王)温泉にて、自らの手で盗賊を退治したという逸話を残すくらいの勇猛果敢な少年であったようですが、そんな彼は、父とはあまりうまくいっていなかったようです。

・・・というのも、この頃の最上氏は、隣国の伊達氏に完全に押され気味・・・何とかお家を保ってはいましたが、一時はその傘下に組み込まれそうになった事もあり、義守は、娘の義姫伊達輝宗(てるむね)へと嫁に出し、伊達氏とうまくやっていく方向へと持っていっていたのです。

しかし、義光は上記の通り勇猛果敢な性質・・・伊達氏の呪縛から我が最上氏を解き放ち、東北のこの地で、伊達氏と対等に渡りあう覚悟でいたのです。

この時、そんな義光を恐れた義守が、彼を幽閉して次男の義時に家督を譲ろうとしたところを、幽閉先から脱出した義光が、弟・義時を殺害して自らが家督を継いだという話もありますが、どうやら、それは後世の創作のようで、実際には、父と子のモメ事があったにはあったものの、あくまで、父子の話し合いのもと、元亀二年(1571年)に義光が最上氏の当主となったようです。

ちなみに、先ほどの伊達氏にお嫁に行った父・義守の娘・・・つまり、義光の妹の義姫が産んだ息子があの伊達政宗で、この後、義光と政宗は、隣国同士で常にライバル関係・・・一触即発の状態が続く事になります。

やがて、越後上杉も加わりつつ、東北の覇権を巡って争い続けていた義光でしたが、そんな彼に一つの転換期がやってきます。

そう、天下統一を目前に、小田原攻めを開始した豊臣秀吉です(4月3日参照>>)

長年、争ってきた東北の武将たちが、秀吉の采配一つで、その領土を失ったり増やしたり・・・「コイツはズゴイ!」と思って友好関係を結んでいた徳川家康さえも、秀吉の傘下となり(10月17日参照>>)、ライバル政宗も決死の覚悟で弁明にまい進する(8月5日参照>>)・・・全国ネットのスゴさを目の当たりにした瞬間でした。

小田原攻めの後の奥州征伐(11月24日参照>>)で、領地を大幅にカットされた政宗に対して、家康と友好関係にあった義光は、その家康の口添えで最上の領地を安堵され、その後は、家康と、そして秀吉との関係を、最優先する手法へと路線変更・・・もはや、若い時の血気盛んなだけでは、生き抜いていけない事を悟った彼は、その変わり身の早さもスゴイ・・・。

秀吉が、東北の諸将の反感を買いながら行った検地(7月8日参照>>)にも積極的に協力しつつ、美貌の娘・駒姫豊臣(羽柴)秀次が気に入ったようだと聞けば側室として差し出し、次男・家親(いえちか)家康の近侍に・・・、三男・義親(よしちか)秀吉の小姓に・・・と、見事な徹底ぶりです。

しかし、ご存知のように、この後、秀次は、秀吉によって切腹させられ(7月15日参照>>)、側室となっていた義光の娘・駒姫も、わずか15歳という若さで、京都の三条河原にて処刑されてしまうのです

さらに、父である義光自身も謹慎処分に・・・謹慎はさほど期間は長くなく、ほどなく許されますが、この時の一件は、義光の心にグサリと刺さった事でしょう・・・秀吉亡き後の慶長五年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦では、迷う事なく家康の東軍につく事になります。

例のごとく、上杉討伐の名目で伏見城を後にした家康とともに、上杉景勝との合戦準備をする義光でしたが、留守となった伏見城を石田三成が攻撃した事で、計画変更・・・いや、家康にとっては、こっちが計画通りなのかも知れませんが、とにかく、上杉討伐は中止となって、家康は再び西へと戻ります。

家康は、関ヶ原の約2ヶ月前の7月23日付けで、義光宛ての書状を書き、この事を伝えています(9月7日参照>>)

しかし、三成と通じていたとおぼしき景勝は、かの関ヶ原と連動すべく、重臣・直江兼続(かねつぐ)を大将に、義光の持ち城であった長谷堂城(山形市)を攻めたのです。

これが、東北の関ヶ原と言われる長谷堂の戦い(9月16日参照>>)です。

この戦いで兼続が長谷堂城を取り囲んだのが9月15日・・・そう、その関ヶ原と同じ日です。

ところが、その肝心の関ヶ原はご存知のように、わずか半日で決着がついてしまい、東軍の大勝利に終るのですが、その事を知らない東北では、約半月に渡って、一進一退の戦いが繰り広げられます。

やがて、9月の終わり頃になって、関ヶ原での勝敗が東北に伝えられる事になると、もはや上杉側では長谷堂城どころではありません。

他の西軍に加担した武将がそうであるように、上杉の家名そのもが危うい状態となるわけですから、上杉軍も、速やかに軍を退き、家名存続に向けて走り回る事になります。

一方の義光は、これによって57万石という大きな領地を得る事となり、最上氏は最高潮の時代を向かえます。

この頃には、義光も内政に力を注ぎ、城下町の町割や交通網の整備、治水工事なども行い、農業生産も充実し、まさに繁栄を極めるのですが、その全盛は、長くは続きませんでした。

かの全国ネットのスゴさを知ったあの日から、要領よく立ち回ってきた義光でしたが、ここに来て、その要領の良さが仇となります。

実は、家康との関係をより強くしたい義光は、家康のもとへ差し出していた次男・家親に家督を譲ろうと考えるのですが、次男という事は、当然、その上に長男がいます。

さらに、その長男・義康とは、以前はともに戦場で苦楽をともにした仲・・・その父子関係は良好なものでしたが、ここに来て家臣同士の険悪なムードも相まって、何やら不穏な空気だったのです。

ところが、そんな長男・義康が、慶長九年(1604年)・・・このタイミングで変死を遂げてしまいます。

これには、義光の命によるものとのウワサもありながらも、真実のほどはわからばいのですが、ただ・・・この後の義光が、禅と阿弥陀信仰にどっぷりとハマる事を考えれば、かなりアヤシイ気もしないではありません。

もし、本当に家康の世となった事で、より家康に近い次男に家督を継がせるために、長男を暗殺したのだとしたら、苦渋の選択とは言え、思い通りになった事で、義光自身は一安心したのかも知れませんが・・・先ほども言いましたように、これが、最上氏の命取りとなるのです。

慶長十六年(1611年)頃から、病気がちになった義光さん・・・慶長十九年(1614年)1月18日69歳の生涯を閉じるのですが、その後を継いだ次男・家親は、わずか、その6年後の元和三年(1617年)に急死します。

しかも、この家親は、長年、家康のもとにいた・・・つまり、ほとんど国を離れていたため、家臣団との信頼関係がうまく運んでいなかったようなのです。

相次ぐ急死に加え、さらに、その家親の後を継いだ長男(つまり義光の孫)義俊(よしとし)が、わずか12歳という幼さであったため、より家臣との溝が深まり、家臣団の混乱を治める事もできない状態が続き、これらのお家騒動によって、元和八年(1622年)、最上家は改易となってしまいます。

義光の死から、わずか8年後の事でした。

まさに、策士策に溺れる・・・ひょっとしたら、謀将と呼ばれた義光の、その謀略こそが最上を終らせたのかも知れません。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ ←溺れないよう心がけますので(゚ー゚;応援クリックよろしくお願いします

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)

2008年12月 5日 (金)

土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆

 

慶長五年(1600年)12月5日、関ヶ原の合戦後に土佐で勃発した、長宗我部氏の残党による浦戸一揆が平定されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)9月15日、あの天下分け目の関ヶ原の合戦は東軍・徳川家康の勝利に終りました(9月15日参照>>)

その時、土佐(高知県)一国を領地としていた長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、家康からの東軍へのお誘いに、「OK!」の返事を出したものの、使者が途中で捕まってしまったために、その手紙が家康の元へは届かず、西軍の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らとともに、美濃南宮山に布陣・・・つまり、西軍として合戦に参加していたのです。

広家が、すでに家康に内通していた事で、その南宮山に布陣していた西軍は、実際には合戦に参戦する事なく終ってしまうわけですが、西軍として現地に行った事は事実、そして、その西軍が負けた事も事実・・・。

それでも、家康は、最初のうちは、その盛親に対して、土佐一国を安堵するつもりでいたようなのですが、その戦後の交渉中に、交渉の窓口となっていた兄・津野親忠(つのちかただ)を、盛親が殺害するという事件を起してしまい、これに激怒した家康は、即座に土佐を没収し、盛親は浪人となってしまいました(5月15日参照>>)

そして、家康の命を受け、その土佐20万石の新たな領主となったのが、掛川5万石からグ~ンと跳ね上がった山内一豊(やまうちかずとよ)でした。

しかし、その一豊の前に、まずは、本拠地の浦戸城を明渡していただかねば・・・という事で、その受け渡し役となった井伊直政は、この11月、先発隊として家臣の鈴木平兵衛(へいべえ)松井武大夫(たけだゆう)を派遣し、一豊側からは、弟の康豊(やすとよ)が現地に向かいました。

しかし、その浦戸城には、盛親の旧・家臣たちが居座り、彼らの入城を拒みます

実は、関ヶ原の後、すぐに土佐に帰った盛親は、関ヶ原が負け戦となった事で、この先、危うくなるかも知れない事を感じ、もしもの事があれば籠城作戦を決行する準備を整え、家臣らに指示していたのです。

それでも、酸いも甘いも噛み分けた老臣たちは、「もはやこれまで」という事を察し、いさぎよく城を明け渡す覚悟でしたが、血気盛んな下級武士たちは、あくまで抵抗する姿勢を崩しません。

しかたなく平兵衛らは、近くの雪蹊寺(せっけいじ)に入り、作戦の練り直しをするのですが、その間にも、状況を聞きつけた一領具足(いちりょうぐそく)たちが、土佐中から続々と城に集まってきて、城内の士気は高まるばかりです。

一領具足とは、その単語の直訳は、「甲冑ワンセット」という意味ですが、以前、四万十川の戦い(7月16日参照>>)でも書かせていただいたように、ここでは、土佐一帯に散らばる半兵半農の人たちの事を言います。

「すわ!と言えば、鎌・鍬(すき)を投げ捨て走り行き、鎧一領にて差し替えの領もなく、馬一匹にて乗り換えもなく、自身走り回りければ、一領具足と名付けたり」『土佐物語』にあるように、ワンセットの甲冑だけを持ち、いざという時には戦闘集団となる農民たち・・・そんな彼らは、先代の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)四国統一にも大いに貢献した命知らずのツワモノ揃いだったのです。

さらに、彼らにはあとがありません。

正式な武士ならば、新たに領主となった人物の傘下に入る事も可能ですし、他家に仕官するチャンスもありますが、彼らは、その上司が長宗我部氏でなければ、ただの農民ですから・・・。

やがて、竹内惣右衛門(そうえもん)をボスとする集団は、「土佐一国なんていう贅沢は言わへんけど、せめてほんの少しだけでも、領地を残して、長宗我部家を存続させて欲しい」と、平兵衛らのいる雪蹊寺を囲み、「要求が聞き入れられるまで、城は明け渡さない」と主張して籠城を続けるのです・・・世に言う浦戸一揆です。

この事態を知らされた直政は、「一歩も譲るな」と、徹底抗戦を指示・・・困ったのは、いさぎよく城を明け渡す覚悟の老臣たちです。

彼ら重臣は、一領具足とは正反対のパターン・・・特に、その中心的人物であった桑名弥次兵衛(やじべえ)はその名の通り、伊勢の桑名出身の武将で、もう一人の蜷川親長(にながわちかなが)にいたっては、室町幕府の幕臣の子孫ですから、何も、そんなに土佐にこだわる必要もなく、おとなしく従順な態度をとっていれば、新たな領主のもと、もう一花咲かせる事もできますが、こんなゴタゴタを続けていれば、旧・家臣の全員がぶっ潰されるような事になりかねません。

かくして、慶長五年(1600年)12月5日、弥次兵衛ら老臣たちは、こっそりと、かつ、勝手に平兵衛らを城内に招き入れると、下級武士たちの説得にとりかかり、またたく間に開城を決定してしまいます。

驚いたのは、蚊帳の外に置かれた一領具足たち・・・心の中での明け渡す覚悟を、それまでおくびにも出していなかった弥次兵衛は、むしろ籠城組のリーダーに担ぎ上げられていましたので、一領具足たちから見れば、信じていた自分たちのリーダーが、何も言わずにそのまま開城しちゃった事になるわけですから・・・。

慌てて城門へと押し寄せ、抵抗を見せる一領具足でしたが、もはや、井伊の先発隊に老臣&下級武士を加えた集団の数は圧倒的に多く、騒動は一気に鎮圧されました。

平兵衛ら先発隊は、弥次兵衛らから、城に残っている兵糧・武器を受け取り、ここに、浦戸一揆は平定されました。

この時、討ち取られた一領具足の数は273名・・・その首は浦戸の辻にさらされた後、大坂で待つ直政のもとに送られたのだとか・・・。

ちなみに、一昨年の大河ドラマ・功名が辻では、この浦戸一揆の話として、鉄砲を構えて浜辺で待つ一領具足たちの前に、一豊自らが船で近づき・・・というふうになってましたが、あれは造り手の創作で、実際には、一豊が浦戸城に入城するのは、この翌年の事で、城の受け渡しに関しては、一豊はノータッチです。

それは、この土佐の抵抗は、ある程度予想できた事で、「そんな場所に、いきなり一豊を向かわせて、一豊が抵抗勢力を平定して入城すると、何だか、一豊が自らの手で土佐を勝ち取った感が出てしまう」と考えた家康が、「この土佐は、徳川から山内に与えたのだ」という事を強調したかった・・・という事のようです。

なので、あくまで、抵抗勢力を抑えて浦戸城を開城させたのは直政で、徳川の物となった浦戸城に、一豊が入城した・・・という事になります。

しかし、ご存知のように、一豊は、この後も、まだまだ抵抗勢力に悩まされる事となり、その結果できあがったピラミッド型の強固な身分制度は、長宗我部の旧臣たちを押さえつけ、領民たちにも受け入れられる事はありませんでした。

今も、高知県では、一豊の山内家より、長宗我部が人気なのだとか・・・さすがの千代さんの内助の功も、そこまでの効き目はなかったようですね。
 

にほんブログ村 歴史ブログへ←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします

 

 

| コメント (12) | トラックバック (0)

2008年11月 3日 (月)

敵からも愛された名将~立花宗茂・最後の関ヶ原

 

慶長五年(1600年)11月3日、筑後・柳川城立花宗茂が、加藤清正説得に応じて開城しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

立花宗茂(むねしげ)は、豊後(大分県)の戦国大名・大友宗麟(そうりん)の家臣で、島津に攻められた岩屋城全員討死の壮絶な激戦(7月27日参照>>)を繰り広げた高橋紹運(しょううん)の息子・・・そして、やはり宗麟の重臣だった立花道雪の娘婿となっていたので立花宗茂を名乗っていました。

島津に攻められたその合戦の時には、父を失いながらも、自らの立花城を死守し、その後、大友氏の支援に乗り出した豊臣秀吉の力を借りて、見事、島津氏から豊後一国を守りぬきました。

そんな彼の戦術を見ていた秀吉が、戦後には、主君である大友氏を改易して、逆に宗茂を独立した大名として、筑後(福岡県西部)柳川に13万石を与えるのですから、その猛将ぶりがハンパじゃない事がわかります。

秀吉の傘下となった宗茂は、あの朝鮮出兵でも大活躍・・・文禄二年(1593年)の碧蹄館(ビョクジェグァン)での戦いでは、わずか3千の兵で、30万の明軍を煙に巻いたと言います。

やがて、秀吉の死後に起こった関ヶ原の合戦(年表参照>>)では、やはり、自分を直参として重用してくれた恩から、宗茂は西軍側につき近江(滋賀県)の大津城を攻めて開城へと追い込みます

しかし、本家本元の関ヶ原が予想以上に早く決着が着いてしまったために、当日の関ヶ原の現場には参戦できず、しかたなく、そのまま柳川城に戻ってきていたのでした。

そんな柳川城に迫ってきたのが、関ヶ原の合戦の2日前に勃発した九州の関ヶ原と言われる石垣原の合戦で勝利し(9月13日参照>>)、そのまま豊後・豊前を制圧し、このドサクサで九州全土を手に入れんがの勢いの黒田如水(孝高)でした。

如水は、佐賀城主の鍋島直茂(9月6日参照>>)に柳川城攻めの先陣を言渡します。

実は、この時の直茂は、彼自身は徳川家康側について東軍支持を表明していたものの、息子の勝茂が、西軍として伏見城攻め(7月19日参照>>)に加わったために、真意が疑われている立場にあったのです。

その疑いを晴らすためにも、「さぁ、先陣を切れ」というワケです。

さらに、そこに、西軍として関ヶ原に参戦し、すでに10月1日に処刑された小西行長(9月19日参照>>)の、主なき諸城を次々と攻略し終った、あの加藤清正が加わります。

如水・直茂・清正・・・いずれも智将の誉れ高い彼らに囲まれてしまった宗茂・・・城の周囲でいくつかの戦闘が繰り返される中、さすがの宗茂も、窮地へと追い込まれます。

そこへ、助け舟を出したのが、清正でした。

そうです・・・清正と宗茂は、あの朝鮮出兵で、ともに戦った戦友・・・宗茂の武勇も充分承知しています。

それこそ、父・紹運のように、全員討死の悲劇となって、ここで命を捨てるには惜しい武将だと思ったのでしょう・・・清正は和睦を望み、宗茂の説得にあたるのです。

かくして、慶長五年(1600年)11月3日清正の説得に応じて宗茂は、柳川城を開城しました。

如水と交わした和睦の条件は、この先の九州での合戦での先鋒を努める事でした。

そうです。
このまま、さらに九州平定を続けなければ・・・何たって、この先には、関ヶ原にも参戦し、あの的中突破で戦場を去った(9月16日参照>>)島津義弘の兄・島津義久薩摩(鹿児島県)を牛耳っているのですから・・・。

ところが、その後、直茂・宗茂を先陣に肥後(熊本県)から薩摩への国境付近まで陣を進めた11月12日、家康は薩摩への進撃を中止する決定を下したのです。

義久が行った様々な外交交渉が効いた事と、これ以上合戦が長引く事をヨシとしなかった家康の思惑もあり、家康は、この先の島津を攻めない事にしたのです。

一説によれば、この時、如水はこのドサクサで天下を狙っていたという話もあり、彼にしてみれば、まだまだ先に進みたかったでしょうが、とりあえず関ヶ原の合戦の勝者である東軍の総大将は家康・・・その家康が幕を下ろそうとしているのですから・・・。

結局、先の柳川城攻防戦を最後に、この関ヶ原の合戦の幕は下ろされ、降伏という形になった宗茂への処分は家康から下される事になります。

和睦を持ちかけた清正はもちろん、宗茂の武勇を知る者、あるいは、彼の人柄の良さを知る者たちは、その処分が、なるべく軽いものになるよう尽力しますが、やはり西軍に加担した罪を許される事はなく、翌年の慶長六年(1601年)に改易の処分となります。

諸将に惜しまれつつも、京都にて浪人暮らしを始めた宗茂は、家臣たちの再就職のために、せっせと感状を書く毎日を送ります。

感状とは、主君が家臣に書く合戦での武功や内政の評価の証明書・・・つまり勤務評定ですが、宗茂の場合は、完全に推薦状です。

一人でも多く、少しでも良い条件で、再就職ができるようにと書かれた彼の感状によって、旧家臣たちは、あっちこっちから引っ張りだこ・・・なんせ、あの名将の誉れ高い宗茂さんが、褒めて褒めて褒めまくった推薦状を持ってるわけですからね。

浪人という無収入であった彼が、感状書きまくりの生活ができたのも、かの清正が密かに援助していたから・・・なんて話もある事を考えれば、やはり、その武勇もさることながら、人柄も相当いい人だったんでしょうね。

やがて、そんな彼を、2代将軍・徳川秀忠が呼び寄せます。

西国事情や内政相談・戦談義など・・・その話し相手として宗茂を求めてきたのです。

最初、陸奥(青森県)棚倉1万石で秀忠に呼び寄せられた宗茂は、4年後には3万石に加増されるほど重用され、いかに、彼の助言が的を射ていたのかが伺えます。

元和六年(1620年)、宗茂が改易された後に柳川城主となっていた田中氏が跡取りがないまま断絶すると、以前の領地をそのまま与えられ城主として復活・・・そこには、以前、再就職を斡旋された多くの家臣が、尊敬に値する主君を求めて、再び集まったと言います。

そんな宗茂の重用は、3代将軍・徳川家光