2017年1月 6日 (金)

真田信繁の討死~そして幸村伝説へ…

2017coco
明けましておめでとうございます。

新たな年に、新たな気持ちで、
本年も、どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m

と言いながら、新年一発目は真田信繁(のぶしげ=幸村)のお話・・・

思いっきりの『真田丸ロス』を引きずりながら・・・というワケでは無いですが、今年の大河ドラマが始まって、脳内が井伊直虎(いいなおとら)に切り替わる、その前に、以前から思っていた事を、チョコッと吐露させていただきたいと思います。

それは、昨年の大河の主役=真田信繁の最期について・・・

もう、タイトルにしちゃってますので、先に結論を言わせていただきますと、私、個人的には、この信繁の最期が「討死」であった事こそが、後に伝説のヒーローと化していく大きな要因だと思っております。(もちろん、それだけが要因ではありませんが…)

残念ながら、昨年の大河では、安居神社っぽい場所で、信繁が腹に刃を当て、佐助が介錯するべく刀を振り上げる場面からの、別シーン・・・となっていて、自刃したのやら?してないのやら?が曖昧で、おそらくは「その後は想像してみてね」てな事なのでしょうけど・・・

あ・・・くれぐれも誤解の無いように、またまた言わせていただいときますが、私は、ドラマはドラマなので創作は大いにあって良く、大河ドラマとて史実に忠実である必要は無いと思っております。

そもそも、その史実自体が、どこまで真実に近いのか?、誰も確認する事ができませんし、その史実という物も、あくまで「こうであろう」という「現段階での最も納得のできる仮説」でしか無いわけですから・・・

しかも、史実の通りだとテンションだだ下がりになるエピソードもあるので、そこは文字通り、ドラマではドラマチックに描いていただきたいです。

たとえば、今回の大河で、
「総大将の豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)の出馬をうながす命を帯びて、信繁の息子=真田大助(だいすけ=幸昌)が大坂城内へと向かうも結果的に秀頼とともに自刃する」という『大坂御陣覚書』等に残るエピソードがありましたが、一方では(信繁は息子を大坂城へ)人質として差し出したる」と、信繁が裏切らないように、大坂方が人質として取っていたとする文書も複数あります。

また、信繁が、道明寺・誉田の戦い(4月30日参照>>) での戦いぶりで、その器量の大きさを感じた伊達政宗(だてまさむね)に、娘の阿梅(おうめ)を託すシーンがありましたが、これも、実は、阿梅は逃げる途中で伊達家の片倉重長( しげなが=片倉景綱の息子)の家臣からの「乱取り(戦時における略奪)」に遭って連れ去られ、そこで下女として働いていたところ、後日、信繁の娘である事が発覚したので、重長の後妻となったという話が有力です。

だいたい、なんの盟約も無い中、戦場にて「その戦いぶりを見て信頼を置く」からの「(戦いのあった日の夜に)阿吽の呼吸でその敵の娘を預かるもしくは預ける」なんて事は、実際問題として、かなりハードル高いですから、おそらく史実は後者=「乱取り」であろうとの見方が強いんです。

いずれにしても、何が史実に近いのかはわかりかねるものの、やはりドラマでは、大助は父の命を受けて颯爽と大坂城へ戻っていて欲しいし、阿梅ちゃんはやさしい独眼竜が保護してくれた方が、見てる側はウレシイです。

なので、ドラマに対してどーのこーの言う気は毛頭ございませんが、今回の大河の場合・・・
ドラマの主人公の名を、有名な幸村ではなく、あえて「信繁」にした事や、逸話の端々に、新説やマニアックなシーンを織り込んだ事などで、「今回の大河は史実に近い」あるいは「これこそ史実だ」と思っていらっしゃる方も多いと聞きます。

そもそも、ドラマや小説などでは、秀逸な創作ほど「本当の事だ」と思ってしまう視聴者&読者が多く、いまや完全に小説のイメージがついてしまった坂本龍馬(さかもとりょうま)を見て、晩年の司馬遼太郎氏が「私は読者をミスリードしてしまったかも知れない」とポツリとつぶやかれた・・・なんて噂も耳にします。

この噂は、とある歴史系雑誌で読んだだけなので、どこまで正しい話かは不明ですが、もしも本当に司馬氏が、そのような事をおっしゃたのだとしたら、注意しなければならないのは読者の方ですよね?

司馬氏は、あえて本当の坂本龍馬本人が、その生涯で1度も使用しなかった「坂本竜馬」という表記(「龍馬」「良馬」「りょうま」の表記は使用してます)の人物を、自らが理想とする主人公として最高にカッコよく描いただけなのですから・・・

そういう意味でも、小説やドラマと歴史は分けて考えないといけないと思います。

てな事で、やっと本題に入りますが・・・(←今まで、本題ちゃうかったんかい!!(゚ロ゚屮)屮)

Ca3e0007a900
信繁の最期の地とされる安居神社(大阪市天王寺区)…くわしい場所は本家HP「京阪奈ぶらり歴史散歩」上町台地で>>

今回の大河ドラマの中での信繁最期のシーン・・・確か、ドラマ内では、その場所は特定されていなかったように思いますが、上記の安居神社の写真と、ドラマの信繁最期のシーンを見比べていただければお解りの通り、セットの雰囲気はどっからどう見ても、完全に、この安居神社です。

もちろん、実際に、この安居神社は「信繁最期の地」と言われていますので、ドラマのスタッフさんも、その点を意識してセットを作られたのでしょうが、もし、本当に、ドラマ内の設定でも、ここが安居神社なのだとしたら、「安居神社で信繁が自害」という流れは、史実としては多分無いように思います(←個人の感想です…安居神社では無く別の場所なら、もう少し可能性高いかも)

信繁最期のシーンの可能性としては・・・
1、安居神社で討死
2、別の場所で自害
3、遠くに逃げた

この中の「1」については、先日の【日本史の新発見&発掘…2016年総まとめ】のページ>>にも書かせていただいた通り、2016年の10月に福井県立図書館にて、「自分が槍を交えて討ち取りました」と記した本人の手紙の写しが発見されて、以前からあった説を後押しする形となっていますが、
それが・・・
「戦いに疲れた信繁が安居神社で休憩していたとこに偶然通りがかった、松平忠直(まつだいらただなお=家康の孫で後の越前藩主)の家臣=西尾宗次(にしおむねつぐ=仁左衛門)によって討ち取られたという説。

上記の通り、討ち取ったご本人の手紙の写しが発見されたのは昨年ですが、「西尾が安居神社で討ち取った話」自体は、『大坂御陣覚書』『落穂集』、合戦報告として記録された『越前兵首取状』諸将の手紙など、他にも数多くの史料に登場・・・てか、信頼できる史料としては、ほぼほぼ、この「西尾が安居神社で討ち取った話」しか出て来ません(希少ながら討死した場所が生國魂神社近くとの史料あり)

なので、現在のところ、この「安居神社で討死説」が突出して有力なのですが・・・
なら、なぜ?「2」や「3」の説が出て来るのか?と言えば・・・実は、「誰も信繁の顔を知らなかった」=つまり、なかなか本人確認できなかった、プラス、討ち取った西尾という人が有名人じゃ無かったために、「ホンマかいな?」という雰囲気ムンムンだったのですよ。

なんせ『武邊咄聞書』には、
「西尾が、たまたま討ち取った武者を鼻にしよう(大きな合戦の場合、討ち取った武将の首を持ってるとかさばるので耳や鼻を落として討ち取った証拠として持ち帰る)としていたところ、近くを通りがかった真田信尹(のぶただ=信繁の叔父)が「それ、僕の甥っ子の信繁かも知れん…前歯2本抜けてるやろ?近くに兜は無かったか?」と聞くので、歯を確認し、そばにあった兜を見せたところ、「この兜!やっぱ信繁や!」となって、首ごと家康の所へ持って行ったとあります。

また『落穂集』では、
「絶対、まともに戦って無いて…仁左衛門ごときが討ち取れる相手やないやろ!
と言われ、

合戦の1週間後の5月15日付けの細川忠興(ほそかわただおき)の手紙では、信繁の戦いっぷりを「古今無之大手柄」と褒めちぎった後に、
「アイツ(西尾)、絶対、もう倒れて動けんようなってる所に近寄って首取ったに違いないわ!そんなん手柄として認めたらアカンで!」
と散々な言われよう・・・

さらに『真武内伝追加』には、
「西尾が首を差し出した時、周囲はもちろん、家康自身も信繁の顔を知らなかったため、それが信繁かどうか確認できず、例の真田信尹を呼んで来ますが、「いやぁ、僕、生きてる時の信繁しか知らんので、死んだ顔ではよーわかりませんわ」との言い訳に、家康は激おこだった\(*`∧´)/」
とか・・・

なので、安居神社で討たれたのは別人・・・もしくは(兜がホンモノとの事なので)影武者ではないか?

・・・となって、「2」と「3」の説も可能性はあるとなるわけですが・・・

とは言え、上記の通り、安居神社にて誰かが討ち取られた事は確かなようなので、もし、信繁が自害しているとすれば別の場所という事になるのですが、不肖私、「自刃かも」という説もあるとは聞いておりますが、その出典が何なのか?どの文献に記されているのか?を存じ上げませんので、その事について、今ここで言及する事は避けさせていただいときます。

・・・で、「3」は皆様ご存じの、鹿児島への逃亡説

これは、やはり『真武内伝追加』に、例の
♪花のようなる秀頼様を
 鬼のようなる真田がつれて
 退きものいたり加護
(かご・鹿児)島へ♪
の歌とともに、船に乗って逃げる様が記されています。

また『先公実録』にも、
「鹿児島の南の谷山村という所に秀頼公の子孫がいる」
てな事が書かれています(2007年5月8日の後半部分参照>>)

とは言え、やはり「2」と「3」は、あくまで噂の域を越えないわけで、かくいう私も「安居神社で討死説」だと思っているわけですが・・・

そうなると、ふと思うのは、大坂の陣における、いわゆる「七人衆」などと呼ばれる大坂方の有名武将の中で、慶長二十年(1615年)5月7日最終決戦=天王寺口・岡山口の戦い(2015年5月7日参照>>)で討死したのは、信繁だけだという事・・・上記の通り、歴史上は未だ謎がありますが、少なくとも、当時の徳川方の武将は討ち取ったと思っていたはずなので…

七人衆(-信繁で=残り6人)のうち
後藤又兵衛基次(またべえもとつぐ)木村重成(しげなり)は、それぞれ前日の、又兵衛は上記の道明寺誉田の戦いで、重成は若江の戦い(5月5日参照>>)で戦死しているので、この最終決戦の時にはいない・・・

で、残った4人のうち、毛利勝永(かつなが)は、その日、信繁と同じく家康本陣に突入しながらも、その後の撤退戦で殿(しんがり)を努めて大坂城へと戻り、秀頼や、その母=淀殿(よど=茶々)、主将格の大野治長(はるなが)ほか、城中の皆々とともに自刃(4月24日の後半部分参照>>)・・・

大坂城炎上のドサクサで城を脱出した長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は後に捕縛され処刑(5月15日参照>>)・・・

同じく、大坂城から秀頼の息子を連れて脱出した大野治長の弟=大野治房(はるふさ)途中で捕まって処刑(【秀頼の二人の息子】参照>>)・・・

唯一、死亡が確認されていない行方不明の明石全登(あかしたけのり・てるずみ=景盛)(2012年5月8日参照>>)・・・

もちろん、5月7日の最終決戦は多くの戦死者が出てますから、信繁以外にも、あの仙石秀久(せんごくひでひさ)(9月18日参照>>)の息子の仙石秀範(ひでのり)や、結城秀康(ゆうきひでやす)の元家臣=御宿政友(みしゅくまさとも=勘兵衛)などの有名どころも、この日の最終決戦で討死してますが、やはり、七人衆とはインパクトが違う?(←ファンの方スンマセンm(_ _)m個人の印象です)

先ほどの細川忠興の手紙なんかでも、「木村・後藤・薄田(隼人=道明寺で討死)・明石…いづれも比類無き働き」と褒めながらも、彼らとは別の場所に「真田左衛門佐、古今無大手柄」と例の一文を記していますし、信繁ageの代名詞とも言える「真田日本一の兵(つわもの)(6月11日参照>>)島津忠恒(後の家久)の手紙などに代表されるように・・・何となく別格の雰囲気を醸し出してる感ありますよね?

当然ですが、信繁には例の真田丸の攻防(12月4日参照>>)をはじめとする数々の比類なき武功があった事は確かで、私自身も、それらの功績を絶賛する者の一人ではありますが、やはり、彼ら徳川方の「古今無之大手柄」「真田日本一の兵」という、別格のような褒め言葉が、後世の私たちの「真田スゴイ!」の印象に拍車をかけているような気がするのです。

しかし、そんな徳川方の武将たちによる褒め言葉・・・
イケズな見方をさせていただくと・・・
そのウラには「そんな強いヤツに、俺らは勝った」=「討ち取った」という気持ちが見え隠れしているんじゃないか?と・・・

厳しいようですが、やはり生き馬の目を抜く戦国乱世・・・
そこには、「本拠に戻って自刃した」のと「逃亡後に捕縛されて処刑された」のとは違う、「戦場で討ち取られた」という最期があったのだと思います。

それ故に、諸将から称賛された信繁像が、年月が経つうち、戦場に散った潔さとともに、さらに美しくカッコ良く軍記物に描かれ、猛将=信繁は、英雄=幸村へと変化していき、そして、伝説となったと・・・

なので、私の個人的な思いではありますが・・・
やはり、信繁には、
「最後の最後まで生きる事を諦めない」
「槍の、刀の、最後の一振りまで戦う」
武将であってほしい
と・・・

そして、その討死の姿があったからこそ、日本一の兵=真田幸村なのだと思います。

年始早々の長文、最後まで読んでくださってありがとうございましたm(_ _)m
 .

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2016年12月12日 (月)

ドラマでは描かれない豊臣方~熊野・北山一揆in大坂の陣

慶長十九年(1614年)12月12日、大坂冬の陣に連動した紀州での大規模一揆=熊野・北山一揆での戦闘がありました。

・・・・・・・・・・

大河ドラマ「真田丸」残すところ最終回のみ・・・まさに1番の盛り上がりを見せていますね。

何年か前の「姫たちの妄想」「愛の兜の人」よりは、なかなかに見応えのある今年の「真田丸」ではありますが、個人的にちと残念なのは、大詰めを迎えた大坂の陣での場面のほとんどが大坂城内や浪人衆ばかりで語られていて、一般市民がほぼほぼ登場しない事・・・
(大坂の陣全体のアレコレについては「大坂の陣の年表」>>で、それぞれご覧あれ)

皆様もご存じの通り、本来の大坂の陣は、戦国屈指の市街戦で、多くの一般市民が関与もし、犠牲にもなった合戦・・・

確かに、にぎやかだった範囲は、現在の大阪ほど広くは無かったでしょうし、都だった京都よりは人も少なかったかも知れませんが、合戦の舞台となるのは、当時は首都にも匹敵する政治の中心だった大坂城なわけで、すぐそばに武家屋敷や一般の家屋が建っていたし、城の近くには、賑やかな市も立っていたわけですから、当然、一般市民も否応なく巻き込まれていく・・・いや、巻き込まれざるを得ない状況だったと想像しています。

Ca3e0035a800 新鴫野橋から見た大阪城天守閣

まぁ、そこのところは、
街中だと、合戦シーンが原っぱというワケに行かずセットを作らねばならない=予算の都合もあり、出演される俳優さんやエキストラさんの都合もあり、放送の時間の都合なんかもあって、どうしてもドラマで描かれる範囲は限られてしまうわけで・・・一般市民なんざ描きだしたらキリが無いですからね。

ただ、そのために、大坂城が孤立無援で、集まった浪人たちが「死に場所を探してる」的な描き方や、「負け戦に挑み鮮やかに散る事を望む」みたいな雰囲気ばかりがドラマの中で強調されるとしたら、私的にはちょっと・・・(;ω;)
まぁ、それも、
ドラマとしてはそっちの方が、文字通りドラマチックなので仕方ないですかねぇ~(*^-^)

とりあえずは物語として面白く、その世界の中で辻褄が合っていればドラマとしてはOKだと思いますが、やはり実際には、戦国武将という人たちは最後の最後まで「勝つ方法」を模索して戦いに挑んでいたんじゃないかな?と思ってます。(←あくまで個人の印象です)

そして、その、わずかながらの勝算の影には、歴史には記録されない&数も把握できない一般庶民という強い味方がいたわけで・・・

もちろん、そんな数を把握できない味方は城下に住む一般市民だけでなく・・・そう、この時、紀州(きしゅう=和歌山県)吉野(よしの=奈良県南部)で、豊臣方の強い味方となったのが、今回の熊野・北山一揆(くまの・きたやまいっき=紀州一揆とも)です。
(浅野家側の記録では、この後の夏の陣と同時発生の一揆と合わせて紀伊国一揆と呼ばれます)

以前、この後の大坂夏の陣での樫井(かしい=泉佐野市)の戦いのページ(4月29日参照>>)でも書かせていただきました通り、もし大坂城から出馬する武将たちが、この樫井で勝利し、紀州の一揆勢が北へ北へと進む事ができていたなら、ひょっとして大坂方の勝利になっていたかも・・・

ブログで、何度か書かせていただいております通り、身も心も大坂方な私=羽柴茶々としましては、この大坂の陣の直前でも、豊臣家が一大名に成り下がっていたとは思いたくないのですが(5月10日参照>>)、文献として残っている事は事実ですので、仮に200年後の徳川幕府がおっしゃる通り、この時の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)さんの領地が、摂津(せっつ=大阪府北部)河内(かわち=大阪府東部)和泉(いずみ=大阪府西南部)の三ヵ国だけであったとしても、なんだかんだで紀州はその隣国となるわけですから、

いざ合戦となれば、大坂城のたった一つの弱点である南側(12月4日参照>>)から攻撃を仕掛けたい徳川家康(とくがわいえやす)にとっては、さらに南の紀州から北上する彼らは、もしかして挟み討ち?となるわけで、これはかなりの脅威・・・とは言え、世の中、そうそう予定通りにいかないので、ご存じの結果なわけですが(*´v゚*)ゞ

とにもかくにも、
おそらくドラマでは、描かれないであろう熊野・北山一揆・・・

熊野(くまの)というのは、ご存じ、世界遺産の「熊野古道」「熊野三山(くまのさんざん=熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)で有名な、現在の和歌山県の東西牟婁郡(むろぐん)新宮市(しんぐうし)田辺市(たなべし)など、他にも三重県の一部を含む、あの広範囲の地域の事。

北山(きたやま)は、現在の和歌山県と奈良県の県境にある奈良県吉野郡上北山村下北山村の北山で、当時も熊野は紀州に属し、北山は吉野に属していたわけですが、両者は、大台ケ原を源流とする北山川が途中で熊野川と合流し、紀伊半島南端の熊野灘(くまのなだ)に注ぐという関係から、かなり古くから良質な木材の生産&運搬という交易ルートが構築されており、ともに強い絆で結ばれた地域だったのです。

しかも、この一帯は、先日の「安宅一乱(あたぎいちらん)のページ(11月4日参照>>)に書かせていただいたように、長きに渡って地元の豪族や国人領主が群雄割拠していた場所で、豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)を終えた後も、太閤検地(たいこうけんち)(7月8日参照>>)などに反発して度々一揆を起こしていた反骨精神バリバリで、なかなかの武装集団だったのです。
(ちなみに、豊臣政権下の天正十四年年(1586年)8月にも大きな一揆が勃発しており、コチラも「北山一揆」という名称なのでご注意を…)

んん?って事は・・・
彼らは、自分たちが直で治めていた場所を、天下統一の名のもとに、秀吉に力づくで、その特権を奪われた形になっているわけなので、本来なら豊臣=大坂方の敵なのでは?

と思ってしまいますが、そこはそう・・・
彼らとて、もはや戦国の世も終焉に向かいつつあるのは重々承知で、今さら以前の群雄割拠の時代には戻れない事もお察し・・・

と、なると、自分たちが直で統治する事は無理でも、現段階で望める最も良い形で、何とか少しでも待遇が良くならないものか?と考えるのが人の常・・・

で、当時、紀州の統治を任されていたのは・・・
先の安宅一乱のドサクサで那智を掌握し(先の1月4日参照>>)、安土桃山=織豊時代に熊野水軍を率いた堀内氏堀内氏善(うじよし)が、あの関ヶ原で西軍についてしまったために没落・・・逆にその関ヶ原で東軍についたおかげで、戦後に紀伊国和歌山37万6千石を与えられたのが浅野幸長(あさのよしなが)で、この大坂の陣当時は幸長の死亡を受けて、その弟の浅野長晟(ながあきら)が治めていたのです。

つまり東軍=徳川方の武将が紀州を治めていた・・・

なので、現状を打開したい彼らにとっては、今を変えてくれそうな方に味方したいし、敵の敵は味方だしで、豊臣に気持ちが傾くわけで・・・まぁ、彼ら熊野&北山の国人たちの心の内は記録には残っていませんから、あくまで推測ですが・・・

そんな中、豊臣VS徳川の不穏な空気が出始めたタイミングで、先の関ヶ原での敗戦を受けて浅野家の配下に組み込まれていた、かの堀内氏善の息子たち=堀内氏弘(うじひろ=新宮行朝=兄・叔父の説あり)氏久(うじひさ=弟)兄弟が、浅野家を出奔(しゅっぽん)して大坂城へと入るのです。

ほどなく、大坂方の主将格である大野治長(おおのはるなが)(12月16日参照>>)が、ここ熊野&北山に援軍要請の使者を送るって来るのです。

浅野家の史料『浅野考譜』には、この時、大坂城内からの命を受けて、熊野&北山の村々の触れ状を回した者は堀内大学という者だった事が記録されていますが、状況を見る限り、この人物は上記の堀内兄弟の縁者でしょう。

もともとは新宮を本拠した国人出身である堀内の縁者が、おそらく、彼ら=紀州の国人たちが魅かれるような好条件をチラつかせて彼らを誘ったわけで・・・

かくして慶長十九年(1614年)12月、豊臣方となった熊野&北山の国人&土豪(どごう=半士半農の地侍)たちは進軍を開始するのです。

もちろん、対する浅野家も、この状況を、ただ見ているわけではありません。

浅野家としては居城である和歌山城(わかやまじょう=和歌山県和歌山市)を本城に、田辺城(たなべじょう=和歌山県田辺市)新宮城(しんぐうじょう=和歌山県新宮市)を支城として、それぞれに一族の者を配置して守りを固めますが、実はこの時、当主の浅野長晟も、そして新宮城を任されてる浅野忠吉(あさのただよし)も、すでに先月の11月から勃発している大坂冬の陣に出陣中・・・

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

ちなみに、この頃の大坂冬の陣とは・・・
11月16日:【博労淵・野田・福島の戦い】>>
11月26日:【鴫野・今福の戦い】>>
12月4日:【真田丸の攻防】>>
などがありますが・・・もちろん、熊野・北山一揆の彼らからすれば、その手薄な所を狙ったわけです。

そんな中、まもなく一揆軍が迫って来る事を知った新宮城の留守を預かる城代の戸田勝直(とだかつまさ)は、とりあえず様子見ぃで、鉄砲隊の4~50名を最先端へ派遣しますが、彼らは、
「ムリっす!ムリっす!(´Д`;≡;´Д`)」
と、とても少人数で防御しきれないと、交戦せずに戻って来てしまいます。

この時、一揆軍を率いていたのは・・・
と、実は一揆という性質上、はっきりしたリーダーは不明なのですが、記録では、「大昔に役行者(えんのぎょうじゃ=役小角)(5月24日参照>>)の配下となった鬼の子孫」と称する五鬼前鬼鬼五郎鬼助などと呼ばれていた複数(もしくは一人)の山伏だったとされています。

彼らが仲間の山伏に声をかけると同時に、関ヶ原で敗れて浪人となっていた者も加わって、周辺の村々に
「勝利のあかつきには山林や田畑を分配するゾ!」
と宣伝して回り、また、村の中に一人でも参加しない者がいると
「こんな雰囲気の中で、お前らだけ参加せーへんって、アリや思てんの?」
と、ちょっと脅しをかけたりしたおかげで、おそらくは、かなりの人数が集まっていたのでしょう。

「これは…ゲロヤバやん!!!(゚ロ゚屮)屮」
と思った勝直は、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ=新宮)社人を味方に引き入れたり、周辺住民から人質をとってその家族らを徴兵したり、新宮城下町の要所に柵を設けて防戦を張り、熊野川につないであった舟という舟をすべて城下に引き入れて・・・と、もはや、なりふりかまわず打つ手はすべて打って準備を整えました。

その間に一揆軍は、大里村(三重県南牟婁郡)に集結し、一路、熊野川を挟んでの新宮の対岸となる鮒田村(同じく南牟婁郡)に到着しますが、川を渡ろうにも舟が一隻もありません。

上記の「熊野川につないであった舟という舟をすべて城下に引き入れて・・・」という勝直の作戦が功を奏したわけですが、もちろん、一揆側もこの事は予想しており、仲間に、あらかじめ舟の手配をするよう命じていたのですが、その仲間が裏切って、舟の手配もせず、川に1隻も舟が無い事も伝えず、すでに逃げてしまっていたのです。

やむなく、対岸の浅野の守備兵に対して、川越しに鉄砲を撃つと同時に自力で筏(いかだ)など組みはじめる一揆軍・・・

そんなこんなの慶長十九年(1614年)12月12日、一揆軍が渡河の準備をしている間に、新たな援軍を得た浅野勢は、正面の対岸&海側&山側の三ヶ所から、一気に襲いかかり、完成寸前だった筏を壊して若干名を討ち取り、一揆勢を蹴散らしたのです。

多くの土豪や国人が一揆に賛同したのと同時に、現政権である浅野家の味方になった者も少なからずいたのですね。

もちろん、
「これで終わるか!」
と態勢を立て直す一揆軍でしたが、ご存じの通り、12月19日には大坂にて和睦が成立(12月19日参照>>)・・・大坂冬の陣が終結となってしまいます。

陣中にて熊野・北山一揆の一報を聞いていた浅野長晟は、この和睦が成立したと同時に、家康の指示を得受けて帰国・・・12月24日もしくは25日に、本隊を率いて本拠の和歌山城に到着し、休む間もなく、一揆の討伐に出陣します。

大きな戦闘があったのは12月27日、大沼村(東牟婁郡北山村)付近とされています。

山育ちの一揆軍の者たちは鉄砲のウデも確かな物ではありましたが、全神経を集中して追う浅野勢は、何たってプロの武装集団・・・しかも、その人数もハンパなく多く、結局のところ、一揆勢は散り々々になって山中へと逃げるのが精いっぱいでした。

その日、捕縛された者は360余名にのぼり、翌年の1月には全員が処刑されたのだとか・・・

こうして、大坂冬の陣に連動した熊野・北山一揆は、勃発から約1ヶ月ほどで終了してしまうものの、彼らは、翌年の大坂夏の陣に連動して、またまた一揆を繰り広げる事になるのですが、この時は熊野&北山だけでなく、有田や日高をはじめとする和歌山城に近い民衆も加わって・・・となるのですが、そのお話は、いずれまたの機会に、ご紹介させていただきたいと思います。

ただし最後に、今回の一揆の先導者とも言える堀内兄弟についてチョコッと・・・

この大坂の陣では、残党狩りが非常に厳しく、討死を免れるも捕縛された大坂方の武将はことごとく処刑されていたので、本来なら、処罰を受けるはずの彼らですが、実は、秀頼の正室である千姫(せんひめ=家康の孫・秀忠の娘)を連れて、燃える大坂城を脱出(大野治長の命であったとされる)したのが、この堀内兄弟の弟=氏久だった(2月6日参照>>)とされているのです。

そのおかげで、彼は大坂方だったにも関わらず、戦後に下総国内に500石を与えられ、おそらく、その弟の功績により、兄の氏弘も、一旦は捕縛されるものの、後に罪を許されて、藤堂高虎(とうどうたかとら)の家臣となって生きのびたという事です。
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2016年10月10日 (月)

関ヶ原余波~西軍・田丸直昌の岩村城が開城

慶長五年(1600年)10月10日、関ヶ原の戦いで、西軍に属していた田丸直昌が城主を勤める岩村城を、東軍が接収しました。

・・・・・・・・・・・・

またまたの関ヶ原で恐縮ですが・・・
(合戦への経緯は【関ヶ原の戦いの年表】でどうぞ>>)

伊勢(いせ=三重県)の名門=北畠氏の一族で、もともとは田丸城(たまるじょう・三重県度会郡玉城町)の城主だった田丸直昌(たまる なおまさ)でしたが、かの織田信長(おだのぶなが)伊勢侵攻(11月25日参照>>)にて信長傘下となった後、蒲生氏郷(がもううじさと)(2月7日参照>>)の娘と結婚した縁から、豊臣秀吉(とよとみひでよし)政権下では氏郷の与力として活躍し、慶長五年(1600年)の関ヶ原勃発当時は岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)の城主でありました。

この時、直昌は、会津征伐(4月14日参照>>)として東北に向かった徳川家康(とくがわいえやす)軍に従軍していましたが、例の石田三成(いしだみつなり)らの伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃(8月1日参照>>)を知った家康が、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にてUターンする決意を表明した事を受けて、直昌は西軍に属すべく、心を同じくした苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)城主の河尻秀長(かわじりひでなが)とともに、すぐさま家康軍と決別して領国へと戻り、家老の田丸主水(もんど)に留守を頼んで、自らは大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)へと向かったのでした。

とは言え、留守を預かる主水も、ただただ城を守っているわけではなく、当然、このスキに、敵対する近隣の諸城の攻撃に向かいます。

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岩村城攻防における関連諸城の位置関係図(背景地図は地理院>>からお借りしました)

まず向かったのが妻木頼忠(つまきよりただ)妻木城(つまきじょう=岐阜県土岐市)・・・主水からの攻撃を受けた頼忠は、逆に撃って出て、田丸領に放火したり、直昌の支城である明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)を攻略しようと試みます。

その事を知った家康は、ともに豊臣政権下でのゴタゴタで、自らの城を失っていた、かつての両城主である明知城の遠山利景(とおやまとしかげ)と、小里城の小里光明(おりみつあき)を呼び寄せ、頼忠への支援をしつつ、両城の奪回を命じたのでした。

明知城の利景、小里城の光明、さらに、ここに、去る8月16日に上記の河尻秀長の苗木城を落とした(8月16日参照>>)遠山友政(ともまさ)も加わった三将は、8月末頃から両城への攻撃を開始し、9月2日に明知城、翌3日に小里城の奪回に成功しています。

そんな中、9月15日の関ヶ原本戦の結果報告が、この岩村城にも届きます。

言うまでもなく、東軍の大勝利!(2008年9月15日参照>>)・・・が、しかし、留守を預かる主水は
「例え西軍が敗退したとしても、主君の指示があるまでは、この城を死守する!」
と、東軍に城を開け渡す事をヨシとせず、徹底抗戦の構えを見せます。

この状況に、家康はあらためて、かの三将に岩村城の攻撃を命令・・・10月9日、約500の兵を率いる友政は、岩村城の北にあたる阿木(あぎ)飯羽間(いいばま)方面に、約300を率いる利景&光明は城の南側にそれぞれ布陣し、守る主水は300余騎の手勢とともに死を覚悟しての籠城に入ります。

ただ、この岩村城は、なかなかに険しい山間部に築かれており、大軍の移動がかなり難しく、猛攻撃しようにも思うようにはいかず・・・

結局は、包囲して監視しつつ、この先の作戦を練る状況になってしまうのですが、ちょうどその時、関ヶ原での結果を受けて、すでに東軍に降伏していた主君=直昌の
「今や東軍に抵抗して自滅している場合では無いで!犠牲を最小限に抑えて開城して、君らも生き延びるように…」
との命令が、岩村城へと届けられました。

そこで主水は、大将の友政に使いを出し、
「開城して退去する決意を固めました。
その後は剃髪して高野山に入るつもりですが、いかんせん長期の籠城で貯えも底を尽いてしもて、旅費がおませんので、ちょっとだけ融通してもらえませんやろか?
それと、さすがに白昼堂々と城を出るのはカッコ悪いんで、夜に退出しよかと思てますねんけど、国境までの警備もよろしくお願いします」

と・・・

友政もこの申し出を快諾・・・まずは、女子供の80余人ばかりを城から退出させた後、夕方からは下級の者たち全員を立ち退かせ、夜になってから、主水主従をはじめとする主だった者たちが退去・・・

こうして慶長五年(1600年)10月10日、主水らが夜陰にまぎれて西美濃方面へと落ちて行き、岩村城が東軍に明け渡されたのでした。

その後の岩村城は、しばらくの間は友政が預かった後、翌慶長六年(1601年)正月に松平家乗(まつだいらいえのり)が2万石で入りました。

一方、前城主の直昌は、関ヶ原では大坂城の守備についていただけで、現地には行っていなかったおかげでか、命は助かったものの、お家はお取り潰しで本人も流罪・・・越後(えちご=新潟県)堀秀治(ほりひではる=堀秀政の息子)に預けられて、その越後で余生を過ごし、関ヶ原から9年後の慶長十四年(1609年)、76歳の生涯を閉じたという事です。
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2016年10月 2日 (日)

九州の関ヶ原~富来城が開城

慶長五年(1600年)10月2日、九州の関ヶ原と呼ばれる一連の合戦で富来城が開城しました。

・・・・・・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した豊臣家臣団の亀(3月4日参照>>)を利用しつつ五大老筆頭として主導権を握る徳川家康(とくがわいえやす)と、その主導権の握りっぷりに不満を抱いた五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)の対立に端を発した天下分け目の関ヶ原の戦い・・・・

先日も書かせていただきましたが、この関ヶ原の戦いは慶長五年(1600年)9月15日の本チャンの関ヶ原だけでなく、その前後には様々な合戦があったわけですが、それは、このドサクサで領地を増やそうとしたり、失っていた旧領を回復しようと奔走した武将たちの戦いでもあったわけで・・・
(くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】でどうぞ>>)

その中での九州での諸将の動き・・

まず、行動を起こしたのは、西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)から声をかけられた大友義統(よしむね)でした。

この義統は、豊後(大分県)の王と呼ばれた大友宗麟(そうりん・義鎮)の息子ですが、この頃は浪人の身・・・輝元を通じて、大坂城の豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)から勝利したあかつきには、豊後一国を回復する確約を取り付けての参戦でした。

手始めに、家康と行動を共にしている細川忠興(ただおき)杵築(きつきじょう=木付城・大分県杵築市)をターゲットとする義統ですが、ここで九州における東軍として腰を上げたのが豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)にいた黒田如水(じょすい=黒田官兵衛孝高)でした。

9月9日に中津城を出陣した如水は、竹中重利(たけなかしげとし=竹中半兵衛の従兄弟)高田城(大分県豊後高田市)を開城させ、その足で、西軍に属する垣見一直(かきみかずなお・家純)富来城(とみくじょう=大分県国東市国東町)熊谷直盛(くまがいなおもり)安岐城(あきじょう=大分県国東市安岐町)を囲みます。

が、しかし、この同じ日に大友勢が杵築城への攻撃を開始(9月10日参照>>)・・・杵築城ピンチの知らせを聞いた如水は城の救援を優先し、富来城と安岐城にわずかな囲みの兵だけを残して、一路、杵築城へと向かい、9月13日、両者は石垣原でぶつかります。
関ヶ原で天下を狙う第三の男】参照>>
【豊後奪回を狙う男・大友義統石垣原】参照>>)

Kitukikoubousenjpgcc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この石垣原に勝利した如水は、すぐさま取って返して富来城&安岐城への攻撃を再開するのです。

この時、両城の城主は二人とも、関ヶ原現地の大垣城(岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)に詰めていて留守・・・

9月17日、まずは安岐城を包囲した如水は、留守を預かる城将=熊谷外記(げき=直盛の叔父)投降の呼び掛けをします。

実は、先日の最初の包囲の時の攻撃で、一旦は如水が勝利していたため、もはや安岐城が落ちるのも時間の問題となっていた状況でしたので、今回の再度の包囲で「城兵の罪を問わない」「自由に退去して良い」という条件出したところ、城内は一気に開城へと傾き、それを受けた外記も、すんなりと無血開城を承諾したのでした。

ただし、ここで「自由に退去して良い」とした城兵のほとんどは、そのまま如水の軍に加わり、東軍となって次の富来城へ・・・

上記の通り、この富来城も城主が留守だったため、城代の垣見利右衛門(りえもん)が、わずかな城兵だけで守っていましたが、この富来城は北と東が海に面し、南に流れる富来川が堀の役割を果たす天然の要害で、なかなかに攻めるに難しい城・・・

何度が総攻撃を仕掛ける如水ですが、一向に落ちる気配はなく、長いこう着状態が続きます。

そんな中、海から富来城へ近づこうとした1隻の船を、如水側が拿捕します。

そして、その船から1通の密書を発見するのです。

その手紙は、富来城城主の一直から、留守を預かる利右衛門に宛てた物・・・そこには、関ヶ原で西軍が敗れた事、そして、負けた以上、もはや東軍に抵抗するのは意味が無いという事とともに
「城兵をムダに死なせる事が無いように、上手くやってくれ」
との、一直の思いがしたためられていました。

如水からの使者のよって、この手紙を手にした利右衛門は、主君の思いを汲み、慶長五年(1600年)10月2日ようやく、富来城を開城したのでした。

安岐城と同様に、コチラの城兵も「自由に退去して良い」としたため、多くの兵が如水の軍勢に加わったと言います。

で、その如水は、この後も次々と城を攻略し、北九州を制覇する事になりますが、あまりの攻略ぶりに、如水は関ヶ原のドサクサで天下を狙っていたのでは?との憶測も流れるほどですが、そのお話は10月14日【小倉城開城で黒田如水が北九州制圧】>>でどうぞo(_ _)o

また、九州の関ヶ原関連として
【関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃】>>
【九州の関ヶ原~加藤清正の動き】>>
も参照いただければ幸いです。

ところで、今回、主君の思いを汲んで富来城を開城した利右衛門・・・実は、この手紙を、彼が受け取った時には、当の一直は、大垣城内でいち早く東軍に寝返った高橋元種(もとたね)によって殺害されてしまっていました(9月17日参照>>)

城兵の無駄死にを心配した主君が、その城兵の誰よりも先に亡くなっていた事実・・・戦国の世のならいとは言え、そこはかとない空しさを感じたのでしょうか?
その後の利右衛門は武士を捨て、農業に勤しみながら、主君の菩提を弔ったという事です。
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2016年9月27日 (火)

関ヶ原余波~細川忠興VS小野木重次の福知山城攻防戦

慶長五年(1600年)9月27日、関ヶ原での合戦に勝利した東軍の細川忠興が、西軍に属する小野木重次の籠る福知山城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した豊臣家臣団の亀(3月4日参照>>)を利用しつつ五大老筆頭として主導権を握る徳川家康(とくがわいえやす)に不満を抱いた五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)が、会津征伐(4月14日参照>>)と称して東北に向かった事で家康が留守となった伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)を攻撃した(8月1日参照>>)事を皮切りに、東西に分かれて戦う事になった世紀の大合戦ですが、

これまでも度々登場していますように、慶長五年(1600年)9月15日の本チャンの関ヶ原だけでなく、その前後には様々な合戦があったわけで・・・
(くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】でどうぞ>>)

その中の一つが、7月21日~9月13日まで行われた田辺城攻防戦(7月21日参照>>)でした。

この田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)は、当時、丹後(たんご=京都府北部)の支配を任されていた細川忠興(ほそかわただおき)の城でしたが、その忠興は、家康が会津に挙兵した当初からベッタリと行動を共にしており、しかも、その奥さんである玉子(たまこ=ガラシャ)は、三成の要請である大坂城への入城を拒否して自害する(7月17日参照>>)という命がけの行動を示す東軍所属・・・

で、そこを攻撃したのが、西軍所属小野木重次(おのぎしげつぐ=重勝・公郷とも)を大将とした前田茂勝(まえだ しげかつ=前田玄以の三男)織田信包(おだのぶかね=信長の弟)らの面々だったわけですが、その経緯は上記の【7月21日:田辺城攻防戦】のページ>>で見ていただくとして・・・

とにもかくにも、急きょ息子の留守を預かって田辺城に入った忠興の父=細川幽斎(ゆうさい・藤孝は、攻撃開始から2ヶ月近く持ちこたえた後、時の後陽成(ごようぜい)天皇や公家たちの関与にて、9月13日に開城する事になりますが・・・

そう、その2日後の関ヶ原本チャンが、わずか半日で東軍の大勝利(2008年9月15日参照>>)となってしまったわけで・・・

この状況に不満プンプンなのは、息子=忠興・・・あと2~3日、あと2~3日開城を遅らせておけば、関ヶ原での結果を知った西軍が勝手に兵を退いてくれて、田辺城は「勝った城」の名誉を受けるはずだったわけで・・・
「なんで、もうちょっと頑張ってくれへんかってん!あのクソオヤジ(*`∧´)」と・・・

なんせ、「開城=負け」なわけで、この時、同じく籠城して、関ヶ原当日の15日未明に開城した大津城(おおつじょう=滋賀県大津市)京極高次(きょうごくたかつく)(9月20日参照>>)なんかは、一旦は死を覚悟して高野山へと向かったくらいですから・・・

ただ、一方の父=幽斎も息子に言いたい事が・・・

それは、忠興が会津征伐に出陣した時、丹波(たんば=京都府中央部と兵庫県北東部)若狭(わかさ=福井県南部)を経由して近江(おうみ=滋賀県)へと出ようとしたところ、その先に、西軍として参戦した大谷吉継(おおたによしつぐ)が関所を設けている(7月14日参照>>)と聞き、その真偽を確かめないまま、大きく迂回し、伏見を経由して向かった事に
「お前はビビリか!」と・・・

とは言え、そこは父子・・・開城した事で、前田の居城である亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)にて謹慎状態にある父を取り戻すべく、忠興は家康から、亀山城以下、田辺城攻撃に参戦した西軍諸将の城攻めの許可を得て出発するのです。

こうして、亀山城を攻撃する気満々で向かった忠興でしたが、いざ、到着して幽斎の面会が叶うと、その幽斎から、
「前田家は、表面上は大坂方につくと見せかけておいて、実は、とっくの昔に内通してたんや」
と聞かされます。

しかも、茂勝は現地での和睦交渉にもかなり尽力してくれたらしく、幽斎自身が
「大変世話になった」
と言っている・・・そのうえ、茂勝は、
「その本心を証明するためにも、福知山城攻めの先鋒(せんぽう)を勤めたい!」
と、自ら志願・・・

という事で、忠興は亀山城への攻撃を中止して、すぐさま茂勝を先鋒に、小野木重次の福知山城を攻撃すべく、軍勢を丹波方面へと向けたのです。

途中、丹波山家(やまが=京都府福知山市&綾部市の一部)谷衛友(たにもりとも)丹波上林(かんばやし=同綾部市)藤掛永勝(ふじかけながかつ)丹波何鹿郡(いかるがぐん)内に所領を持つ川勝秀氏(かわかつひでうじ)丹波の三将が、国境にて忠興勢をを出迎え、福知山城攻めの軍に加わります。

実は、彼らも、かの田辺城攻撃に加わってはいたのですが、昔から幽斎と親しい関係にあった事から、積極的に攻撃には参加しておらず、戦うフリだけしていた事を、家政婦が…いや、幽斎の奥さんが見て記録していたらしく、その事を幽斎から聞いていた忠興は、すんなりと彼らを許したとの事・・・

一方、かの田辺城攻防戦を終えて福知山へと戻っていた小野木重次・・・近江長浜(ながはま=滋賀県長浜市)時代から苦楽をともにして来た3歳年上の三成に、親しみと恩義を感じていた彼は、降伏をヨシとせず、約500の城兵とともに籠城しての徹底抗戦を決意していました。

幾度となく行われた降伏勧告にも応じる気配が無かった事を受けて、福知山の城下町を見下ろす長田野(おさだの=福知山市長田野町)付近にて全軍の指揮を取る忠興は、、谷・藤掛・川勝を先陣に据えて、一気に城下へと押し寄せさせ、本隊と前田茂勝隊は山の手へと回らせて、こちらからも総攻撃を仕掛けます。

しかし、福知山城は三方を崖に囲まれた天然の要害であるうえに、城兵の奮戦ぶりもなかなかの物で容易に落とせそうになく、長期戦を決意する忠興でしたが、そんな時、「三成、捕縛」(9月21日参照>>)のニュースが飛び込んで来たため、忠興は一旦、由良川(ゆらがわ)を下って自らの田辺城に入った後、家康のいる大津城へと向かいました。

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由良川と福知山城…福知山城とその周辺の史跡については本家HP『明智光秀の足跡を訪ねて城下町・福知山を歩く』でどうぞ>>

大津で家康に謁見した後、挨拶もそこそこに、再び舞い戻った慶長五年(1600年)9月27日、再び、福知山城への攻撃を開始するのですが、なんと、この攻防戦、2ヶ月以上も続きます。

『田辺旧記』によれば・・・
この時、力攻めを望んでいなかった家康が、すぐに開城するなら処分は剃髪のみにして助命する」事を条件に開城させるようにと、山岡道阿弥(やまおかどうあみ=山岡景友)なる僧を使者として忠興のもとへ派遣して説得したところ、さすがに2ヶ月も続いた籠城戦にて、城内の兵糧も尽き、兵士も飢えに苦しむ状態となっていた事から、重次も降伏開城を決意して城を退去したとの事・・・

ところが、どうしても重次を許せない忠興は、見事な約束破りで、家臣に重次の後を追跡させて捕縛し、亀山城へと連れ戻しで、自らの目の前で切腹させたのだとか・・・

一方、『佐々木旧記』によれば・・・
2ヶ月間戦い抜いて、その間、敵を一兵たりとも寄せ付けなかった福知山城の城兵たちでしたが、さすがの長期戦に疲労困憊となっていたところを、細川方の数人の兵が闇にまぎれて城内へ忍び込み、内側から大手門を開けると同時に、一斉に兵がなだれ込んでいく中、天守閣にて、家老の寺田舎人なる人物が、
「我こそは小野木縫殿助(ぬいのすけ=重次の事)なり~!」
と名乗って、
「アホ!ボケ!カス!」
と、散々に細川家の悪口を言った後に壮絶な切腹を遂げて細川軍の注意を惹いている間に、重次が城を抜け出して、亀山城下の浄土寺(じょうどじ=寿仙院)に入って、自ら剃髪したものの、それだけで許さぬ忠興が、そこで切腹させた、と・・・

って、結局、どっちも切腹させるんか~い!( ̄○ ̄;)!
ウワサ通りコワイ忠興さん・・・

その後、重次の首は、京都の三条河原に晒されたのだとか・・・

関ヶ原に散った猛将=島左近(しまさこん=清興)(2009年9月15日参照>>)の娘とされる重次の奥さん=シメオン(洗礼名)は、夫の死を聞き、間もなく、その後を追ったと言います。

そして、ご存じのように、関ヶ原の余波は、もうしばらく続く事になります。
●【関ヶ原の戦いの年表】>>)
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2016年9月 6日 (火)

まさに神回?大河ドラマ真田丸、第35回「犬伏」の感想

 

いやはや・・・

あくまで、個人的な感想ではありますが…
実は、先週までは「どーした?真田丸!」と心の底では思っていて、あまりよろしくない感想を書き連ねようかと思っていた不肖茶々でありますが、

どうしてどうして、今回の「犬伏の別れ」の描き方で、心の中が一気に挽回されました~まぁ、女心と秋の空と言いますから・・・ww

もちろん、これらの感想は、あくまで個人の好みによる物です。

そもそも、万民の好みに合うドラマなど作れるはずは無いわけで、誰かに好かれれば、誰かに好かれないというのが世の常でありまして、私が悶々とした一年を過ごした昨年の大河だって、予想の斜め上をいく展開で何度もコケそうになった姫たちの妄想だって、好きな人にとっては良きドラマであったわけで、その事自体をどーのこーの言うつもりは毛頭ございません。

なんせ、逆に、私が「良かった」と思っている「清盛」は一般的には酷評なわけですので、それこそ、「好み」は人それぞれ・・・いや、むしろ、そうだからこそ、社会が成り立っているわけで・・・てな事で、あくまで個人の趣味のブログで素人が放つ個人的な感想とご理解くださいませ・・・

・‥…━━━☆

で、なぜ、ここ最近まで「どーした?真田丸!」と思っていたのかと言いますと、やはり創作のチョイスですかね~

それこそ、ドラマは創作物なので、創作が入ってるのは大いに歓迎すべき所ですが、なんか、その「創作が肌に合っていなかった」感が拭えませんでした。

主役の特権として、大きな出来事に関与しまくりなのはドラマの常としても、ちょっと関与し過ぎの感じがあるのと、緩急つけるべく、ところどころに挿入されるお笑い部分の担当者が、ほぼほぼ女性だったという事・・・

厳しい戦国の世の中で緩急つけるためには、合戦や調略に関与しない女性をお笑い担当に・・・という事なのでしょうが、おかげで、出て来る女性出て来る女性が皆、バカップルの片割れのようになってしまっていて・・・

はじめは、そのKYぶりがカワユクもあった茶々(淀)殿も打掛をはおった途端に魅力薄となり、実際には秀吉の側でその領国経営を一手に引き受けて(特に留守の時は=9月6日参照>>いたであろうおね(寧々)様までもが現実を見据えない人となり、きりちゃんに至っては初回から邪魔ばかりするうっとぉしい女に描かれ、主人公の母のさんはただただ保身ばかりを気にし、奥さんのさんまでもが思いが通らないと「キーッ」と逆上する豹変キャラとは・・・何とも悲しいです。

また、一方で、創作の挿入に関しては、歴史好きだと言われる三谷氏であるからこその難しさもあったと思います。

例えば、大坂の陣以前の史料の少なさもあってか、真田信繁(のぶしげ=幸村)が秀吉の馬廻(うままわり)という設定は、ドラマとしては今回が初めて?(すべてのドラマを見てるわけでは無いのでアレですが…)ではないかと思うのですが、それは最近発見された史料で確認された新説による物。
(秀吉なら馬廻もかなりの数いたと思いますが、ドラマで信繁一人に見えたのは役者さんの出演料という大人の事情として理解しますww)

また、あの豊臣秀次(とよとみひでつぐ=三好秀次・羽柴秀次)自刃のくだりも、秀次自ら高野山へと行き、自ら死を選んだという、これまでのドラマとは違う、今話題の新説を採用し、

あの第1次上田合戦も、ドラマ定番の原っぱでの騎馬同志のぶつかり合い合戦では無い、往年の「風雲たけし城」を思わせるようなセットでの、熱湯掛けたり、石投げたり・・・と、たぶんコッチが史実に近いんじゃないか?と、歴史好きをも唸らせる仕上がりとなってました。

なので、そこにブチ込んだ、三成による家康暗殺未遂までもが、「本当の事」のように思えてしまうという現象に・・・

もちろん、私も、その時代に生きてたわけじゃないし、すべての史料を知ってるわけでは無いので「絶対に無かった」とは、言いきれませんが、少なくとも史料として残っている一般的な見方としては、「家康を暗殺しよう」と提案する島左近に対して、「今は、その時では無い」と冷静に判断する三成のイメージです。

だって、あの時点で先に手出しちゃダメでしょ?
おかげで、私としては、ドラマの中での三成の株が大暴落しちゃった感が否めませんでした。

なのに一方では、秀吉の晩年は・・・そこは、豊臣ファンとしては、これまでに無いしっかりした秀吉さんでいてほしかったですが、結局、ドラマの定番通りに、朝鮮出兵も無謀で無茶苦茶な出兵のように言われ、哀れで老いさらばえたように描かれてましたね(つд⊂)エーン
●私個人的なイメージ
 秀吉の晩年:【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】>>
 朝鮮出兵:【地球分割支配と秀吉の朝鮮出兵】>>

とは言え、それらこれらを覆して余りある見事な描き方だったのが、今回の『犬伏(いぬぶし)の別れ』・・・

ドラマの中には、父子3人で戦々恐々と作戦を練る中でケンカ別れをしたように描かれた場合もあるようですが、やはり、私としては、以前にも書かせていただいたように(7月21日参照>>)家と血筋の存続を1番に考えた「どっちか生き残り作戦」だと思っています。

これは、真田家だけではなく、けっこう多くの武将がやってます。

以前、前田利政(まえだとしまさ)さんのご命日のページで、前田家を例に出して【「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事】>>を、お話させていただきましたが、真田家、前田家以外にも、ザッと見ただけで、毛利(もうり)(9月23日参照>>)九鬼(くき)(10月12日参照>>)蜂須賀(はちすか)(12月30日参照>>)生駒(いこま)小出(こいで)に・・・と、関ヶ原本戦以外の前後も含めて、ちゃんと調べたら、たぶん、もっといるでしょう。

それだけ勝敗の行方が見て取れなかった戦いであったのでしょうが、やはり、この「どっちか生き残り作戦」は、ドラマの中の戦国武将には戦場に花と散るカッコ良さを求めてしまう現代の私たちから見れば、「二股かけた」あるいは「保険をかけた」ように見えてしまい、なんとなく、せこくてコスイ手段に思えてしまう物で、これをカッコ良く描くのは、なかなかに難しい・・・

そこを、今回の「真田丸」は見事に、感動的かつカッコ良く描いてくれはりました。

お兄ちゃん=信幸(のぶゆき)の大泉さんの「絶対に守る」の見事なセリフに、父=昌幸(まさゆき)の草刈さんが「最善の策じゃ!」と賛同するくだりは、これまで、何かややこしい事がある度に、「ワカラン」と悩んだり、昨日言った事が今日変わっていたりという優柔不断な感じだった草刈昌幸さんの態度が、このシーンへのフリだったのか?と思わせるほどの、見事なまとめ方だったと思います。

なにやら、巷では、この第35回「犬伏」は「神回」と呼ばれているとか・・・私も、もうちょっとで「どーした?真田丸!」を書くところでしたが、1週間待って良かったです。

しかも、予告編を見たところでは、どうやら来週は、あの稲姫(小松姫)の名シーン(2009年7月25日参照>>)をやってくれはるようです。

その真田の嫁のページのコメント欄でもご指摘があったように、最近の研究では、その時の稲姫は大阪城に人質になっていたはずとも言われていますが、一方では、家康が勝手に、妻子が領地に戻る事を許可していたとの話もある・・・とは言え、やはり、ドラマではやって欲しい名シーン・・・

どうするのかな?と思っていたら、
なるほど・・・細川ガラシャ(玉)さんの死(7月17日参照>>)に危険を感じた稲姫が自ら大坂城を脱出したというテイで、お父ちゃんと弟のご帰還に間に合わせるわけですね~まさに、「そう来たか」という感じ・・・これなら、「大坂城にいたはず」からの「稲姫の雄姿」にも、一応の辻褄合ってますね。

これで、今までは、怒ってばかりの稲姫も、一気に好感度アップですな~

それを匂わせる今回は、やはり「神回」でしたね。

今後の流れとしては・・・
この稲姫の逸話と同じ日に、東では家康の小山評定(おやまひょうじょう)(2012年7月25日参照>>)伊達政宗(だてまさむね)白石城(しろいしじょう=宮城県白石市)攻略(2015年7月25日参照>>)がありますが、その後は、いよいよ本チャンの関ヶ原に向けて・・・
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)

一足早く、真田父子は、第2次上田合戦(9月7日参照>>)となりますね。

ドラマも一つの山場を迎えそうです。
楽しみですヽ(´▽`)/
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2016年8月19日 (金)

関ヶ原へ~高須城&駒野城&津屋城の戦い

慶長五年(1600年)8月19日、まもなく関ヶ原・・・西上する東軍が南美濃の高須城&駒野城&津屋城を開城させました。

・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原の戦い・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した家臣団の亀裂(3月4日参照>>)を利用て家内分裂を図る徳川家康(とくがわいえやす)が、会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて会津征伐に出発したスキに、留守となった伏見城石田三成(いしだみつなり)が攻撃(=西軍)(8月1日参照>>)・・・それを知った家康は、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にて会津征伐を中止・・・Uターンして畿内へ戻る事を表明(=東軍)します。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】からどうぞ>>)

その評定の席で、ノリノリで東軍参戦を表明した福島正則(ふくしままさのり)は、池田輝政(てるまさ)ともに先鋒を任され、一足先に西へと向かい、8月11日には、自らの居城である清州城(きよすじょう=愛知県清須市)へと入ると、そこを拠点として続々と東軍の諸将が集まる中、前日の10日に三成が着陣した大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)を睨みつつ、未だ西軍に属している近隣の諸城を攻略していくのです。

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 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

織田信長(おだのぶなが)の嫡孫=織田秀信(おだひでのぶ=清州会議(6月27日参照>>)で後継者となった三法師です)西軍についていた事から、この周辺の武将の多くが西軍についてしまっていたために、数少ない東軍として孤立していた今尾城(いまおじょう=岐阜県海津市平田町)市橋長勝(いちはしながかつ)松ノ木城(岐阜県海津市海津町)徳永寿昌(とくながながまさ)・・・

福島正則の命を受けた両者は、8月16日、西軍に属する周辺の諸城のうち、まずは丸毛兼利(まるもかねと)福束城(ふくつかじょう=岐阜県安八郡)を落としました。(8月16日参照>>)

次に狙うは高木盛兼(たかぎもりかね)高須城(たかすじょう=岐阜県海津市)・・・今尾城と高須城は揖斐川(いびがわ)を挟んで、わずか4kmの距離です。

寿昌は早速、高須城に使者を送り、開城降伏をうながします。

しかし、実は高須城周辺の駒野城(こまのじょう=岐阜県海津市)には高木帯刀(たてわき)、その向こうの津屋城(つやじょう=岐阜県海津市)には高木正家(まさいえ)・・・と、この両城は、盛兼と同族の武将が治める城だったので、盛兼は
「同族の浮き沈みにも関わる事…戦わずして開城する事は武人としできない」
と、無血開城を拒否します。

そこで両者相談のうえ、仮の戦=戦ったポーズだけのウソ合戦をチョコっとやってから開城しよう」というダンドリをつけます。

「ポーズだけの合戦って、そんなんアリ?」
と思いますが、実はコレ、室町時代の建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)の時に登場した『二条河原の落書』にも、「此頃都ニハヤル物」の一つとして挙げられている虚軍(そらいくさ)という武将ご用達の手段・・・

とは言え・・・
以前にも、薩摩(さつま=鹿児島県)島津義久(しまづよしひさ)(6月23日参照>>)日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義佑(いとうよしすけ)(8月5日参照>>)との間で迷走した大隅(鹿児島県東部と奄美群島の一部)肝付良兼(きもつきよしかね)ウソ合戦の話(12月21日参照>>)を書かせていただきましたが、この時のように、ウソ合戦がうまく機能しない場合もあるわけで・・・

今回の場合は東軍の裏切りでした。

慶長五年(1600年)8月19日、高須城の北東に着陣した東軍は、本来なら空砲を撃ち合って、その後開城する約束だったにも関わらず、おもいっきし実弾込めての総攻撃をかけて来たのです。

騙された事に気づいた盛兼は、怒り心頭で兵たちにゲキを飛ばして応戦するよう命じますが、「今回は大丈夫」と油断していた城兵がすぐに動けるわけはなく、またたく間に窮地に陥り、やむなく高須城を捨て、津屋城や駒野城をめざして逃走したのです。

こうして高須城を陥落させた東軍は、その勢いのまま揖斐川を渡って駒野城と津屋城へ・・・

早速、駒野城を包囲した東軍が投降を呼びかけます。

前もってウソ合戦のダンドリを聞かされていた駒野城は、すでに高須城から撤退して来る兵の受け入れ体制を整えてはいましたが、その準備は、あくまでダンドリ通りのウソ合戦用の受け入れ体制・・・

そう、予定通りの撤退が予想外の敗走になってしまったため、予想以上に押し寄せる敗走組で城内は大混乱・・・さらにそんな中で、同族の中でただ一人東軍に属している高木貞友 (さだとも).が帯刀への説得を開始した事もあって、駒野城は抗戦する事なく開城されました。

一方の津屋城・・・コチラも駒野城と同様に、高須城からの受け入れた体制を整えていましたが、いまさら「実はホンマモンやねん」と聞かされても、もはや軌道修正する事も不可能・・・

しかしながら、そんな大混乱な中でも何とか高須城敗走組を収容し、城を包囲している東軍めがけて応戦していましたが、そこへ駒野城を落として来た東軍の別働隊が民家に放火しながら攻撃に加わって来たため、まもなく城に火の手が上がり、あえなく撃沈・・・正家らは大垣城めざして逃走していきました。

こして、南美濃一帯は東軍が制圧・・・

この後、美濃における関ヶ原関連は。
8月22日の
【竹ヶ鼻城攻防戦】>>
【岐阜城の戦い】>>
へと続いていく事になります。
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2016年8月 5日 (金)

関ヶ原直前~石田三成&真田昌幸&上杉景勝の連携

慶長五年(1600年)8月5日付けの書状で、石田三成が真田昌幸に、恩賞の確約と西軍有利の報告と上杉景勝への協力を要請しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原ですが・・・
そもそもは、豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、五大老筆頭の座を良い事に、秀吉の遺言に背く行為をしていた徳川家康(とくがわいえやす)に対して不満を持っていた五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)・・・

一方の家康は、先の朝鮮出兵後のゴタゴタで決定的となった豊臣家臣団の亀(3月4日参照>>)をを利用して、豊臣家内の反家康派の一掃を画策します。

そんな中で、上洛要請に応じない会津(あいづ)上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)に対して「豊臣への謀反の疑いあり」とした家康が、五大老筆頭として諸将に出兵を要請するとともに、自らも会津に向けて出陣しますが、その時に、留守となった伏見城を三成が攻撃・・・ここに、関ヶ原へ向けての合戦の火蓋が切られたわけです。
(さらに詳しい経緯は【関ヶ原の年表】で>>)

そんな中、その要請を受けて会津に向かう家康勢と合流するべく出陣した真田昌幸(さなだまさゆき)と息子の真田信幸(のぶゆき=後の信之・兄)真田幸村(ゆきむら=信繁・弟)父子のもとに、三成が反家康の挙兵した事を知らせるとともに、西軍へのお誘いの手紙が届くのです。

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犬伏にて真田父子が受け取ったとされる豊臣三奉行蓮署状(長野・真田宝物館蔵)

7月17日付けのこの書状は、4日後の7月21日に犬伏(いぬぶし=栃木県佐野市)にいた昌幸らのもとに届き、ここで父子話し合いのもと、父=昌幸と弟=幸村は西軍に、兄=信幸は東軍につくという決断をした真田父子は、有名な「犬伏の別れ」(7月21日参照>>)となるのですが・・・

以前のページにも書かせていただきましたが、一般的には、ここで父子の意見がの分かれ、刀を抜かんがばかりの激論になったとされますが、おそらく、それは今後の事を考えたポーズ・・・たぶん「例のどちらが勝ってもOK」の二股保険作戦(【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」事】参照>>) だと思われ、常日頃から、万が一の時は、娘を三成の義弟=宇多頼次(うだよりつぐ)に嫁がせている父=昌幸と、三成の盟友である大谷吉継(おおたによしつぐ)(7月14日参照>>)の娘を正室に迎えている弟=幸村は西軍につき、家康の重臣=本多忠勝(ほんだただかつ)の娘=小松姫(こまつひめ=稲姫)を正室に迎えている兄=信幸は東軍に・・・というダンドリが、すでに話し合われていたのでしょう。

てか、戦国の婚姻は、そのための婚姻でもあります。

で、この後、信幸はそのまま、会津征伐に向かっている家康と合流する事になるのですが、7月25日には、三成が伏見城を攻撃した事を知った家康が小山評定(おやまひょうじょう)に会津征伐中止の決意表明(2012年7月25日参照>>)してUターンを開始する一方で、領国へと戻る音にした昌幸らには小松姫による沼田への入城拒否(2009年7月25日参照>>)なんかもありながら、8月1日には西軍からの攻撃に耐えていた伏見城が陥落して城将の鳥居元忠(とりいもとただ)が自刃し(8月1日参照>>)・・・

と、めまぐるしく展開していきますが、この間の7月24日と7月27日の2度に渡って、家康は、兄=信幸に書状を送って、父弟と袂を分かってまで味方についてくれた事を大いに喜ぶとともに、「勝利したあかつきには父=昌幸の領地はソックリ君の物やからな」との確約をしています。

一方、伏見が落城した事で、一旦、佐和山城(さわやま じょう=滋賀県彦根市)(2月1日参照>>)へと帰還した三成は、8月9日には、3000ばかりの兵を率いて、美濃(岐阜県)垂井(たるい)に向かい、その翌日の10日には、関ヶ原の本営となる大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)に入ることになりますが・・・

この、一旦、佐和山に戻っていた8月5日の日付けで三成が書いた昌幸宛ての書状がコチラ↓です。

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石田三成書状(長野・真田宝物館蔵)

この手紙の後半部分には・・・
先の伏見城攻防戦の経緯をはじめ、細川幽斎(ほそかわゆうさい)田辺城(たなべじょう=京都府舞鶴市)攻防戦(7月21日参照>>)や、その息子=忠興(ただおき)の大坂の屋敷が燃えて家臣が自刃した事(7月17日参照>>)など、合戦の近況を、いかにも西軍有利のように報告するとともに、「頑張ってくれはったら、いっぱい領地差し上げまっせ」の約束もしたためてあり、この書状を手にした昌幸は、大いに奮起したと言います。

とは言え、歴史好きとして注目すべきは、前半部分・・・

そこには、
上杉の関東出兵に関して、真田家からも(秀頼の名前をチラつかせて)念を押すように、例え困難な状況であったとしても、人を雇ったり、真田の手勢をつけるなどして必ず飛脚を派遣する事」

また、
「小諸(こもろ=長野県小諸市:書状では小室)・深瀬・川中島(かわなかじま=長野県長野市)・諏訪(すわ=長野県諏訪市)など信濃(しなの=長野県)地方への出兵を、早々に実施する事」
が、書かれています。

そう、昔から囁かれている(関ヶ原における)三成と上杉の密約説』ですね。

厳密には、「三成×上杉」というよりは、三成と、当時、上杉の執政だった直江兼続(なおえかねつぐ)との密約ですが・・・

三成と兼続は同い年で、ともに、低い身分の出身ながら、小さな事からコツコツとやって来て殿さまに気に入られて出世してきたという、良く似た人生を歩んできたせいか、上杉が上洛した際、知り合ってすぐに二人は意気投合し、その後もかなり仲が良かったらしい・・・

現に、今回も、そもそもは兼続が、家康に対し、強気の直江状(4月14日参照>>)を送った事がキッカケで「会津征伐」が開始され、家康が出陣じたそのスキに三成が伏見城を攻撃・・・その3日後の7月22日には、兼続が越後(えちご=新潟県)にて一揆を扇動しています(7月22日参照>>)

また、『続武者物語』には6月20日付けの兼続宛ての三成の書状に「調略の通りに事が運んでウレシイわ」と書いてあったと記されてたり、『上杉軍記』にも「兼続が三成に賛同して、景勝に挙兵するよう説得した」と書かれていたりします。

もちろん、今回の昌幸への書状も、その『三成×兼続、密約説』に一役買っているわけです。

なんせ、書状の通りだと、真田は、三成と上杉の連絡役であるとともに、信濃周辺を押さえる役割なのですから・・・

とは言え、やはり、この『密約説』は、あくまで「説」止まりであって決定打に欠けます

伏見城攻撃からの一揆扇動は見事なタイミングですが、残念ながら、このタイミングで事を起こした武将は、三成と上杉だけではありません。

家康が西へのUターンを決意した同日には、すでに伊達政宗(だてまさむね)が東軍として動き始め(2015年7月25日参照>>)ていますし、伏見落城2日後の8月3日には、前田利長(まえだとしなが)加賀大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)を攻略(8月3日参照>>)、8月16日には苗木城(なえぎじょう)(2014年8月16日参照>>)福束城(ふくつかじょう=岐阜県安八郡)(2015年8月16日参照>>)に・・・など、様々な武将がそれぞれ同時進行しています。

つまり、西につくか?東につくか?・・・まさに、全国の武将が東西に分かれる天下分け目の戦が一斉に動き出したのが、この時期です。

そんな中で、家康が西へとUターンした時に上杉が追撃しなかったところを見ると、やはり「三成との密約」と言えるほどの連携感は無いように見えます。

確かに、家康Uターン時には、兼続が追撃を猛プッシュしたものの、景勝がガンとして承知しなかったと言われていますが、結局は、この後の9月9日に兼続が東北を制覇すべく出陣する(9月9日参照>>)のも、それは、他の武将と同様の「このドサクサで一発かましたれ!」の合戦であって、「密約」とまではいかない感じに見受けられます。

と言っても、今回の書状が現存する事でも明らかなように、頻繁に連絡をとっていた事は確かですが・・・

ただ、それは家康側も同じ・・・というより、この頃の家康が江戸城に籠って、味方になってくれそうな武将に、せっせと手紙を書きまくっていた(8月11日参照>>)のは有名な話で、だからこそ、家康の西へのUターンをキッカケに、あっちでもこっちでも動き始めるのですから・・・

とは言え、今回、この三成の書状を受け取った昌幸は、信濃周辺を制圧すべく・・・というよりも、結局、この後は居城の上田城(うえだじょう=長野県上田市二の丸)に籠って、徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)の軍を迎え撃つ事になります(2009年9月7日参照>>)

ただし、これはこれで、おそらくは関ヶ原における東軍の本隊であったであろう秀忠軍=約3万8000の軍勢を翻弄して、8日間に渡る足止めを喰らわせ、結局は「本番の関ヶ原に間に合わない」という状況を作り出した(2011年9月7日参照>>)わけで、まさに、真田昌幸ここにあり!の見事な籠城戦でしたね。

まもなく、大河ドラマ『真田丸』は、このあたりの事が描かれるのでしょうが、おそらく、この第2次上田合戦が、ドラマ中盤戦の最大の山場になる事は間違いないでしょう・・・楽しみです(○゚ε゚○)
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2016年5月 7日 (土)

大坂夏の陣~渡辺糺と母・正栄尼の最期

 

慶長二十年(1615年)5月7日、大坂の陣で負傷した渡辺糺が、母の正栄尼とともに自害しました。

・・・・・・・・・・

渡辺糺(わたなべただす)については、合戦で討死した説、この翌日=5月8日に主君の豊臣秀頼(とよとみひでより)淀殿(よどどの=浅井茶々)らとともに自刃した説もありますが、今回は、個人的好みで『難波戦記』『落穂集』などに残る、母=正栄尼(しょうえいに)と迎える感涙の最期の情景とともに、糺さん母子を、ご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

天下人=豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、関ヶ原の戦いに勝利して(2008年9月15日参照>>)豊臣家内の反対派を一掃した五大老筆頭徳川家康(とくがわいえやす)が、いよいよ豊臣家を潰すべく、秀吉の遺児=秀頼が進めていた大仏建立事業に難癖(7月26日参照>>)をつけた事をキッカケに始まった家康による豊臣潰し=大坂の陣・・・
(くわしくは【大坂の陣の年表】から>>)

そもそもは平安の昔、源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)坂田金時(さかたのきんとき=昔話の金太郎)とともに酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治(12月8日参照>>)した英雄として知られる渡辺綱(わたなべのつな)の末裔とされる渡辺糺ですが、この大阪の陣がほぼ初登場です。

糺の父である渡辺昌(わたなべまさ)は、もともとは室町幕府・第十五代将軍足利義昭(よしあき・義秋)に仕えていた武将でしたが、元亀四年(天正元年=1573年)の槇島(まきしま)城の戦い(7月18日参照>>)で、その義昭が織田信長(おだのぶなが)に負けた事をキッカケに織田方へと転向・・・その後、例の本能寺で信長が亡くなった(2015年6月2日参照>>) 事を受けて、事実上、その後継者のような位置についた豊臣秀吉の馬廻り(側近)となった人でした。

ご存じのように、信長の草履取りから1代で出世した秀吉ですから、それを踏まえれば、この渡辺昌&糺父子は、言わば譜代の家臣のような物・・・まして昌の奥さんで糺の母である正栄尼は豊臣秀頼の乳母・・・

なので、その出自から見れば、豊臣家内ではエリート中のエリートですが、なぜか大阪の陣以前の史料がほとんどなく、それまでの事は「槍の名手だったので、秀頼には槍の指南役として仕えていた」程度しかわかりません。

以前書かせていただいた、やはり秀頼の乳母である宮内卿局(くないきょうのつぼね)の息子の木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)も、『秀頼四天王』の一人と称されながらも、歴史への登場は大阪の陣がほぼ初登場で、かなり史料が少ないのですが、今回の糺さんは、それ以上に少ない・・・

実は、母の正栄尼も、本当に秀頼の乳母だったかどうかもハッキリとはしてないのですが、それこそ、今回の大坂の陣において、淀殿の妹=常高院(じょうこういん=初)(12月19日参照>>)や、先日ご紹介した淀殿の乳母=大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)(4月24日参照>>)とともに、家康のもとに度々使者として派遣されて戦争回避への交渉を行っているので、おそらく大蔵卿局と同じような立場にある人であろうと見るのが一般的なわけで・・・

で、その大蔵卿局の息子である大野三兄弟がそうであるように、糺も、
大坂冬の陣直前の慶長十九年(1614年)7月17日に織田信包(のぶかね=信長の弟)急死(7月17日参照>>)し、
続く9月27日に織田信雄(おだのぶお・のぶかつ=信長の次男)(4月30日参照>>)が、
翌10月1日に片桐且元(かつもと)(8月20日参照>>)が、
さらに冬と夏の間の和睦中の2月26日には織田長益有楽斎(ながますうらくさい=信長の弟)(12月13日参照>>)と、
次々と豊臣家の家老たちが大坂城を退去してしまった事を受けて、言わば心太(ところてん)式に、大坂城内での実権を握る役割に上がって来たという事なのでしょう。

なんせ、上記の信包や信雄や有楽斎・・・本能寺で信長が亡くなって久しい今となっては、「信長の…」というよりは、秀頼の母である淀殿と血の繋がる叔父であり従兄弟であるわけですし、且元も、もともとは浅井の家臣ですから、言うなれば淀殿の身内として豊臣家に仕え、家老という立場にあったはず・・・

Oosakanozinzyounaisosikizu なので、彼ら重臣が去った後には、やはり身内と言うべき人たちが采配を振るう事になるわけで、それが殿の乳兄弟である大野三兄弟であり、秀頼の乳兄弟である重成や糺という事だったのでしょうが・・・

悲しいかな、彼らは、実戦経験がほぼゼロの状態で老獪な家康と相まみえる事になるわけで・・・

そんな中、糺はこの頃から、大坂の陣における豊臣方の主将格となった大野治長(おおのはるなが=大野三兄弟の長男)と、時に相談しつつ、時に口論となりつつ、出自も立場もバラバラな浪人衆のまとめ役のごとく、各文献に登場して来るようになります。

実は、かの片桐且元が、自らの身の危険を感じて大坂城を出て徳川へ走るキッカケとなった『且元暗殺計画』・・・徳川と交渉中の且元に最も疑念を抱いて、暗殺計画の中心人物だったのは、この糺だったとも言われています。

ひょっとして、かなりイケイケな性格だったのかも・・・いや、乳兄弟の秀頼が、この時に23歳なんですから、おそらく糺も同世代と考えられ、未だ20代前半の血気盛んなお年頃だったのかも知れません(生年不明なので、あくまで予想ですが…)。

とにもかくにも、その槍の腕前もあってか、味方からも「鬼神の如き猛将」と一目置かれていた糺でしたが、そんなこんなで勃発した大坂冬の陣で、手痛い敗北を喰らってしまいます。

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大坂冬夏陣立図=夏の陣図(大阪城天守閣蔵)部分上下反転…真田や明石の名とともに「渡辺内蔵介」の名が見えます

それは慶長十九年(1614年)11月の今福・鴫野の戦い(11月26日参照>>)・・・この日、大坂城のそばを東西に流れる大和川を挟んだ北側と南側に二手に分かれて攻め入った徳川を迎え撃つ形となった豊臣方・・・

結果的には、北側では豊臣優勢、南側は徳川優勢で幕を閉じたこの日の戦いではあったのですが・・・そう、糺は、南側を守っていたんです。

そこを攻めて来た景勝(うえすぎかげかつ)の執政・直江兼続(なおえかねつぐ)を総大将とする上杉軍に苦戦して、自慢の槍を振るう間もなく、早々に兵を撤退させてしまった事から、
♪渡辺が 浮き名を流す 鴫野川
 敵に逢
(おう)てや 目はくらの介 ♪
(糺の官位が内蔵介なので…)
と、敵から揶揄(やゆ)されたのだとか・・・

上記の通り、おそらく負けん気が強かったと思われる糺にとっては、この上無い屈辱であった事でしょうが、その汚名返上とばかりに、再び起こった夏の陣でも大いに奮戦するのです。

が、そんな糺に運命の時がやってくるのは、慶長二十年(元和元年・1615年)5月6日・・・先日、後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)を中心に書かせていただいた、あの道明寺・誉田(こんだ)の戦い(4月30日参照>>)です。

そのページの末尾の方に書かせていただきましたが、午後になって、同時進行していた若江の戦い(2011年5月6日の後半部分参照>>)八尾の戦い(2010年5月6日参照>>)が敗戦となってしまった事を受けて、大坂城内から「大坂城へ戻れ」との命令が放たれ、撤退する豊臣方の殿(しんがり=最後尾)真田幸村(さなだゆきむら=信繁)が務めた事をお話させていただきましたが、この時、幸村とともに殿を務めたのが糺でした。

ここで、最も彼らを攻め立てたのは、徳川方の伊達政宗(だてまさむね)隊・・・豊臣方が、敵の進路に伏兵を潜ませ、敵が進んできたところを一斉に槍を突きかける『槍ぶすま』作戦で、午前中に又兵衛を討ち取った伊達隊の先手=片倉小十郎重長(かたくらこじゅうろうしげなが=景綱の息子)を翻弄して、じりじりと後退させたりしつつも、やはり、最も難しい殿の役目・・・この激戦の中で、糺は負傷してしまうのです。

これが、なかなかの重傷だったようですが、この日は何とか大坂城へと生還・・・とは言え、ご存じのように、この翌日が、あの総攻撃の日なわけで・・・

こうして迎えた翌慶長二十年(元和元年・1615年)5月7日・・・
重傷の体を押して、幸村や毛利勝永(もうりかつなが)らとともに天王寺口の戦い(2015年5月7日参照>>)にて奮戦する糺でしたが、その勝永らに本陣まで攻め込まれた事にビビッた康が、途中で馬印うまじるし=大将の居場所を示す目印)をたたんで群衆に紛れてしまったために、目標を見失った豊臣方の武将たちは、やむなく大坂城へと戻ろうとするのですが・・・(ちなみに、真田幸村は、この退却時に討たれます…2007年5月7日の後半部分参照>>

昨日の重傷に加えて、さらに負傷し、もはやフラフラの状態で杖をつきながら、何とか大坂城に戻って来た糺は、母=正栄尼のもとに向かいます。

「なんや、死に遅れたんか?」
と母・・・
「もう1度、母さんに会いたかったんです」
と息子・・・

「そこまでの深手を負うてしもて、敵に首を取られでもしたら、どないするんよ!
死に場所を失うのは武人の恥やで!」

と、正栄尼は、糺に切腹を進めます。

「ならば、お先に…」
と、見事な切腹を果たした息子を正栄尼は、自ら介錯したのだとか・・・

そして、
「これで、やっと安心して死ねる」
と、短刀で自らの喉を突き、息子の屍を抱き抱えるように倒れ込んで、彼女は命尽きたのです。

自ら、息子に切腹を即し、自らの手で介錯する・・・戦国の母は、どこまで強き母なのか?と胸がいっぱいになりますね。
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2016年4月30日 (土)

後藤又兵衛の大和口要撃作戦~道明寺誉田の戦い

 

慶長二十年(元和元年・1615年)4月30日、大坂の陣を迎えた大坂城内にて軍議が開かれ、後藤又兵衛の提案した要撃作戦が採用される事が決定しました。

・・・・・・・・・・・・

天下人=豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、関ヶ原の戦いに勝利して(2008年9月15日参照>>)豊臣家内の反対派を一掃した五大老筆頭徳川家康(とくがわいえやす)が、いよいよ豊臣家を潰すべく、秀吉の遺児=豊臣秀頼(ひでより)が進めていた大仏建立事業に難癖(7月26日参照>>)をつけた事をキッカケに勃発したのが大坂の陣・・・
(くわしくは【大坂の陣の年表】から>>)

前半戦である冬の陣では、真田丸の攻防(2015年12月4日参照>>)で徳川方が痛手を被るも、一方の豊臣方も、徳川の大砲が天守閣に命中(12月16日参照>>)して痛手を被り、慶長十九年(1614年)12月19日に和睦が成立(2011年12月19日参照>>)・・・しかし、かりそめの講和は、ほどなく破られ、後半戦=夏の陣へと突入していくわけですが・・・

一般的には、講和の条件で外堀を埋められた大坂城は裸城同然で、夏の陣は、最初から、浪人ばかりの豊臣方に勝ち目は無かった・・・なんて事も言われたりしますが、それこそ歴史の見方は様々・・・

身も心も豊臣方の私としては、個人的な思いではありますが・・・確かに、すでに冬の陣の時点で、老獪な家康に翻弄されていた感があるので、五分五分とは言えない状態だったかも知れませんが、かと言って負けが見えていたわけではなく、まだまだ勝つ見込みはあったと感じています。

そのページにも書かせていただきましたが、紀州一揆との繋がりができており、樫井(かしい・泉佐野市)の戦い(2013年4月29日参照>>)で勝っていれば、すでに豊臣側を表明していた一揆勢と合流して、その数はとてつもない大軍になるはずでした。

しかし、残念ながら、連携がうまく行かず敗北・・・結局、後世にはターニングポイントだった言われるこの戦いに負けてしまいました・・・が、いやいや、まだ見込みはあります!

それが、今回の後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)の提案した道明寺要撃作戦!

これまた一般的には、夏の陣での豊臣方は籠城作戦一辺倒で、今回の又兵衛の作戦も軍議では一蹴され、やむなく、基次の案に賛成した真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが)だけが、ともに撃って出た・・・なんて事も言われますが、冒頭に書かせていただいた通り、その案が採用されたとする記述もあります。

『豊内記』によれば、慶長二十年(元和元年・1615年)4月30日に大坂城内にて開かれた軍議で、又兵衛の意見を採用して大和口にて要撃する事が決定した・・・とあります。

要撃とは「待ち伏せて攻撃する事」・・・
で、大和口とは・・・そう、この場所を守る事こそが、起死回生のポイントだったんです。

この時、豊臣方の主将格の大野治長(はるなが)の采配により、夏の陣の野戦は、すでに始まっていたわけで・・・

4月26日には、大和郡山城(こおりやまじょう)先制攻撃(4月26日参照>>)、続く27日には、和泉の岸和田城を攻撃し、徳川方の兵の待機場所となっていた堺の町に火を放ち、さらに2日後の4月29日が例の樫井の戦い・・・つまり、豊臣方は、未だ家康の本体が来る前に、徳川配下となっている城と町を攻撃して押さえたわけですが、残念ながら、かの樫井の戦いで負けてしまったために、作戦は練り直し・・・

この間の徳川方は、4月18日に家康が京都二条城に入り、4月21日には将軍:徳川秀忠(ひでただ=家康の息子)伏見城に入城・・・25日は各部隊の編成を定め、26日には家康&秀忠以下、主だった者を集めて、二条城にて軍議を開いています。

つまり、この先は、京都から攻めてくる徳川を、大阪の豊臣が迎え撃つ・・・となるわけですが、まずは衛星写真と地図の比較を見てみましょう。

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●衛星写真はJAXA>>から、地図は国土地理院>>からお借りしました
注:掲載した図は、地理院からお借りした地図に、管理人:茶々が文献などを参考に趣味の範囲で制作した物で、その正確さを保証できる物ではありません。

で、ご覧の通り、大軍を率いて京都から大阪へ向かう場合、大阪の東側にドッカリと生駒山地があるため、秀吉が整備した京街道と昔ながらの西国街道が淀川の両岸を通る例の場所か、奈良を経由して、これまた昔ながらの竹内街道付近を通る大和口か・・・実は、この2か所しか無いのです。

Yamazakidougatougecc 「淀川の両岸を通る例の場所」とは、このブログで度々登場しているアノ場所…西に天王山を望み、淀川を挟んで東に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が建つ男山を望む、神代の昔から(真偽のほどは定かではありませんが日本書紀にも出てきます)鎌倉時代にも、南北朝にも、山崎の合戦にも、そして、かの鳥羽伏見の戦いにもと・・・日本の歴史上、数限りなく戦場になって来た場所ですね。

上記の衛星写真で見ると、生駒(いこま)山地の北端と天王山の間が、少し空いているように見えますが、これは、現在の大阪⇔京都間が、ほぼ切れ目なく家々が建ち、町として開発されている場所なので衛星から撮ると山や森林のように写っていないだけで、実際には、ここも山で、住宅開発もされていない当時は、淀川の両岸に山が迫って来ている感じ・・・なので、どうしてもこの淀川河岸を通らなくちゃいけなくなるわけで・・・

102pa1000 木津川に架かる御幸橋から見る男山(左)…川を挟んで右側手前に見えるのが天王山
男山&石清水八幡宮周辺、写真に写り込んでいる桜の名所の背割堤への行き方は本家HP:京都歴史散歩「男山周辺散策」でどうぞ>>

で、一方の大和口・・・ここは、大阪と奈良を東西に分ける、かの生駒山地が終わり、すぐ南側から、今度は金剛(こんごう)山地が始まる、まさに、一瞬の切れ目の部分・・・やはり、攻めるならココを通るしかない場所で、しかも、その南側には、まさに、そこを通る敵を見降ろせる小松山がある絶好の場所だったんですね。

とまぁ、長い前置きスンマセンでしたm(_ _)m
近畿地方にお住まいの方や土地勘がある方にとっては「そんなんわかってるわ!」てな、お話だったかも知れませんが、この後の道明寺の戦い&若江の戦い&八尾の戦いを語る上では、やはり、この位置関係は大事かと思い、長々とご紹介させていただきました。

一方の徳川方・・・
豊臣方の作戦が大和口要撃に決まった事を知ってか知らずか、この日=4月30日には、松平忠輝(まつだいらただてる=家康の六男)を総大将にした徳川軍大和方面隊の本多忠政(ほんだただまさ=本多忠勝の息子)松平忠明(まつだいらただあき=家康の外孫)らが奈良に着陣し。

同じく徳川方の伊達政宗(だてまさむね)木津(きづ)に陣を敷いています『本光國師日記』より)
ちなみに、家康と秀忠は、この時点では、まだ二条城と伏見城にいます。

翌・5月1日、大和口での要撃作戦で道明寺付近が戦場となると予想した又兵衛平野村に陣を置き、幸村&勝永は後陣として、そこから少し西の位置となる天王寺方面に陣取りました(5月1日参照>>)

5月3日には、木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)今福(大阪市城東区)方面に布陣し、北側の京街道をやって来る敵に備えます。

さらに5月5日には、又兵衛&幸村&勝永が平野にて軍議を開き、作戦の最終確認をするとともに、別れの盃を交わす酒宴を開きますが、同じ、この日、家康は二条城を、秀忠は伏見城を出て京街道を下り河内星田(大阪府交野市・枚方市)あたりに着陣しました。

かくして翌慶長二十年(元和元年・1615年)5月6日、京街道をやって来る家康&秀忠らを重成らが向かえる若江の戦いと、大和口からやって来る忠輝&政宗らを又兵衛らが要撃する道明寺・誉田の戦いが火蓋を切るのです。

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玉手山ふれあい公園(小松山付近)から激戦が展開された眼下を望む

この日の夜明け前、先発隊として平野を出た又兵衛は、未明のうちに藤井寺・道明寺付近にやって来ますが、なんと、その時すでに、間近に敵が迫っている事に気づきます。

本来なら、続く第2弾の薄田隼人兼相(すすきだはやとかねすけ)や、さらに幸村&勝永らとこの地で合流してから、小松山の向こう側の国分にて敵を迎える手はずでしたが、又兵衛が来た時には、すでに徳川方は、その国分まで来ていたのです。

『孫子:行軍編』(6月17日参照>>)にもあるように、こういう地形の場合、高きに処(お)り、隆(たか)きに戦いて登ることなかれ」視界の開けた高い所に陣を敷き、決して登る側になって戦かってはいけない」てのが戦の定石・・・おそらく敵も狙っているであろう小松山を取るためには、味方の到着を待っているわけにはいかない!

Dscf1036a600 やむなく午前4時頃・・・又兵衛は単独で石川を渡って、まずは小松山を占領し、そこから徳川方の諸隊めがけて攻撃を仕掛けます。

しかし、この時の軍勢は、わずかに2800騎程度・・・なんせ、まだ又兵衛しか来てませんから・・・

一方の徳川方は本多=約5000松平=約3800伊達=約10000などなど・・・合計で約25000もの大軍でした。

さすがの又兵衛も、最初こそ善戦したものの、所詮は多勢に無勢・・・まもなく三方から攻められてしまいます。

戦いは数時間続き、昼頃になってようやく、薄田隼人や明石全登(あかしたけのり・てるずみ=景盛)らか到着・・・さらに遅れて幸村たち、さらに勝永たち・・・と次々に、豊臣方の武将が到着しますが、その頃にはすでに後藤又兵衛も薄田隼人(2009年5月6日参照>>)も討死し、徳川方も石川を越えてしまった後だったのです。

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道明寺・誉田・小松山の戦い布陣図
●布陣図は
国土地理院>>からお借りした地図に、管理人:茶々が文献などを参考にポイント等を付けくわえて趣味の範囲で制作した物で、その正確さを保証できる物ではありません。

この連携ミス・・・『北側覚書』によると「霞故に夜の明候を不存」=つまり、「濃霧だったので夜明けに気づかなかった」と・・・

上記の布陣図を見る限り、豊臣諸隊の出遅れ感満載で、ホントに残念無念・・・

『落穂集』にても幸村は、「手前義時を取違へ刻限遅くなり又兵衛、隼人其外討死と承り此上ハ手立も不入、責ての申訳と存シ一戦に及ひ候」「自分が時間を間違えて遅れたために又兵衛と隼人を死なせてしまったので、その責任を感じて申し訳ないと思い、次の一戦に至った」との言葉通り、

この後の真田隊は、日本第2位の大きさを誇る古墳=応神天皇陵(誉田陵)の西側にて、伊達隊との激戦を展開させるのですが、午後2時頃になって若江の戦い(2011年5月6日の後半部分参照>>)と八尾の戦い(2010年5月6日参照>>)が敗戦となってしまった事を受けて、大坂城内から放たれた「大坂城へ戻れ」との命令が届き、午後4時頃までに豊臣方は徐々に撤退・・・殿(しんがり=最後尾)をつとめた幸村も、無事、大坂城まで撤退しました。

かの『北側覚書』では、
「傍輩(ほうばい=同僚)を討せ面目(めんもく)なく…泪(なみだ)を流し申(そうろう)
と、大坂城に戻った武将たちが、自分たちの連係ミスによって後藤又兵衛と薄田隼人を死なせてしまった事に涙を流しながらくやしがる様子が垣間見えます。

とは言え、大坂の北東と南東を突破した徳川軍・・・

いよいよこの翌日の5月7日大坂城総攻撃を仕掛ける事になりますが、そのお話は、
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】>>
【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦い】>>
【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】>>
【大坂夏の陣~決死の脱出byお菊物語】>>
後藤又兵衛については
【後藤又兵衛は黒田官兵衛の実の息子?】>>
【後藤又兵衛基次・起死回生の大坂夏の陣】>>
などなどでどうぞm(_ _)m
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