2019年5月 6日 (月)

大坂夏の陣・八尾の戦い~桑名吉成の討死

 

慶長二十年(1615年)5月6日、大坂夏の陣の八尾の戦いにて旧主君・長宗我部盛親と戦った桑名吉成が討死しました。

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桑名吉成(くわなよしなり=弥次兵衛)桑名家は、もともとは、あの平清盛(たいらのきよもり)と同じ伊勢平氏で、「その手は桑名の焼き蛤」で有名?(って言っていいのかな?)伊勢(いせ=三重県北中部)桑名(くわな)出身だったので、苗字を桑名と名乗ったとされますが・・・

とりあえず、戦国期にはすでに土佐(とさ=高知県)にいて、吉成の父である桑名藤蔵人(とうぞうじ)やその兄(つまり伯父さん)桑名重定(しげさだ)らが長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の下で、その四国統一(10月19日参照>>)に大活躍した事から中村城(なかむらじょう=高知県四万十市)の城代に抜擢された家柄だったとか・・・

しかし、ご存知のように、長宗我部元親が四国を統一した翌年の天正十三年(1585年)、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)が、弟の羽柴秀長(はしばひでなが)を総大将にした大軍で以って四国に上陸(7月25日参照>>)・・・敗北を喰らった長宗我部元親は降伏し、なんとか土佐一国の所領を安堵され、今度は、秀吉の配下として生きていく事になります。

その秀吉配下としての戦場は、ほどなく訪れます・・・そう、秀吉の九州平定です。

翌天正十四年(1586年)の4月、かつては豊後(ぶんご=大分県)の王と呼ばれた大友宗麟(おおともそうりん)大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)を訪れ、秀吉に薩摩(さつま=鹿児島県)の島津(しまづ)討伐への救援を願い出たのです(4月6日参照>>)

九州と言えば、かつては、この宗麟に加え、日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)肥前(ひぜん=佐賀県)熊と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)がなど群雄割拠していましたが、ここに来て島津中興の祖と呼ばれる島津貴久(たかひさ)の血を受け継ぐ、絆バッチリの島津四兄弟(6月23日参照>>)にことごとく敗れ、
耳川の戦い>>
沖田畷の戦い>>
もう誰も島津の勢いを止められなくなっていたわけで・・・その要請を受けて九州平定へ乗り出す秀吉。

この時代のこういう場合には、直前の戦いで敗れて、その傘下となった者が先頭=矢面に立たされるのが常・・・何たって、未だ本気で味方になったかどうかは怪しいわけで、ここで見事、秀吉のために戦って、その忠誠心を見せてこそ信用に値する事になるわけです。

かくして長宗我部元親とともに、讃岐(さぬき=香川県)仙石秀久(せんごくひでひさ)阿波(あわ=徳島県)十河存保(そごうながやす)らで構成した5千の兵が九州に派遣されますが、上記の通り、長宗我部元親は征服された側の四国勢ですが、仙石秀久は秀吉の四国平定後に配置された側で、今回の出兵では軍監(ぐんかん)という役割・・・総大将では無いので、あくまで3人は対等の立場ではありますが、仙石秀久が長宗我部元親の監視役である事は確か・・・

そんな仙石秀久は、「様子見ながら…」を主張する元親の意見を真っ向から反対し「短期決戦あるのみ!」の主張を押し切り、それぞれがギクシャク感満載のまま戦いへ突入してしまいます。

案の定、あちこちで寸断された秀吉勢は、指揮命令系統もグジャグジャになり、この戸次(へつぎ)川の戦い(11月25日参照>>)秀吉側の大敗北・・・元親は大事な跡取り息子=信親(のぶちか)をも失ってしまうのです。

Kuwanayosinari700a この時の撤退戦で、主君を守って活躍するのが、今回の主役=桑名吉成です。

こういう大敗後の撤退は、大抵困難を極める物・・・なんせ、それまで静観していた地元民や、臨時雇いのような末端の兵士たちが、少しでも名のある武将の首を取って、何とか勝った側からの褒美にありつこうと、一瞬にして落武者狩りに回ってしまうからです。

この時も、落ち武者狩りの集団が一揆と化し、敗軍の将に一気に襲い掛かって来ましたが、その事を予想ずみの吉成は、主君の元親を守りつつ、ある時は身を隠し、ある時は堂々と振舞って相手を蹴散らしつつ、無事、土佐に帰還する事に成功しています。

この時の吉成の働きが、いかに素晴らしかったを物語っているのが、元親の遺言・・・元親は、その死の目前に、四男の盛親(もりちか)を呼び寄せ、
「合戦の際は、必ず吉成を先手として采配を振るわせよ」
と言い残したと言います。

その後、天下統一を果たした秀吉のもとで、元親の後を継いだ盛親とともにいた吉成ですが、やがて訪れたのが、あの関ヶ原の戦い・・・(くわしい合戦の内容については【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞ)

この時、本チャンの関ヶ原では西軍の主力であった南宮山(なんぐうさん=岐阜県大垣市)に布陣していた盛親以下長宗我部軍・・・この時、この南宮山に布陣していたのは、西軍総大将であるものの大坂城に留まっていた毛利輝元(もうりてるもと)の名代として現地で来ていた毛利秀元(ひでもと=輝元とは従兄弟)吉川広家(きっかわひろいえ=同じく輝元の従兄弟)安国寺恵瓊(あんこくじえけい=秀吉の側近で石田三成と通通)(9月23日参照>>)長束正家(なつかまさいえ=豊臣五奉行の一人)(10月3日参照>>) 、そして長宗我部盛親でしたが、

この中で安国寺恵瓊と長束正家は西軍ドップリの主力部隊でしたが、先方に布陣していた吉川広家は、すでに東軍総大将=徳川家康(とくがわいえやす)「戦いに参加しない事で所領を安堵する」の密約を交わしており、その約束通りにまったく軍を動かさず、しかも戦いの状況を後方に報告する事もなかったため、その後方に位置する全員がまったく動かないまま、戦いは東軍の勝利となってしまうのです。

結果的に関ヶ原の本チャンには参加しないままに敗戦を知り、伊賀(いが=三重県西部)から和泉(いずみ=大阪府西南部)を抜けて大坂、さらに土佐へ戻った盛親たち・・・実は、この時、盛親も家康からのお誘いを受けていて、東軍に寝返る事を決意しており、その旨を知らせる使者を家康に送ったものの、その使者が土佐弁丸出しで西軍に見つかってしまい、OKの返事を届けられないまま本チャンを迎えてしまったとも言われています。

とにもかくにも、もし、東軍に寝返る気があったのだとしても、返事が届いていないなら、どのみち敗れた西軍側の人なわけで・・・しかも、戦後のなんやかやの交渉中にややこしい事になり、結局、長宗我部家はお取り潰しとなり(5月15日参照>>) 、本拠の浦戸城(うらどじょう=高知県高知市浦戸)は徳川に接収される事になってしまいました。

しかし、負けたとは言え、関ヶ原では無傷だった長宗我部軍の中には、今回の戦後処理を不服とし、城の明け渡しに反対する者も多数・・・それは、浦戸一揆(うらどいっき)と呼ばれる籠城戦(12月5日参照>>)となりますが、
「このまま抵抗しても、全員がつぶされるだけ…」
と判断した吉成は、知り合いの僧侶を派遣したり、自らも説得当たったりつつ、半ば強硬ではあるものの、何とか開城にこぎつけました。

かくして長宗我部盛親は浪人となり、当然、吉成も浪人となったわけですが、実は、これまでの撤退戦や今回の戦後処理など・・・吉成の手腕に惚れ込んでいた武将がいたのです。

それは藤堂高虎(とうどうたかとら)・・・浅井長政(あざいながまさ)から秀吉、そして家康と渡り歩いていながら、どの主君にも重用される築城の名人=高虎(6月11日参照>>)が、吉成のスゴ腕を求めて二千石で以って彼を召し抱えたのです。

このまま平安な時が続けば、高虎の下で、その政治手腕を発揮できたであろう吉成・・・しかし慶長十九年(1614年)、あの大坂の陣が勃発します。

ご存知、大坂の陣は、江戸にて徳川政権の維持をもくろむ徳川家康にとって、未だ朝廷からも一目置かれ、大坂城に居て一定の支持を受ける目の上のタンコブの秀吉の遺児=豊臣秀頼(とよとみひでより)をせん滅せんと、あらゆる手段を使って大坂方を戦場に引きずり出した戦いです。
(くわしくは【大坂の陣の年表】>>でどうぞ)

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

この時、かつての主君=長宗我部盛親は秀頼に招かれて大坂城へと入りますが、吉成は高虎の配下として、当然、徳川方で参戦します。

かくして慶長二十年(1615年)、戦いも後半の夏の陣

Oosakanatunozin0506 大坂夏の陣
 元和元年五月六日の布陣

 クリックで大きく(背景は
地理院地図>>)

去る4月29日の樫井(かしい=大阪府泉佐野市)の戦い(4月19日参照>>)に負け、紀州一揆(4月28日参照>>)との連携も取れなくなった大坂方は、生駒山地の北側=枚方(ひらかた=大阪府枚方市)を抜ける本隊と、生駒と金剛の合間を抜ける大和(やまと=奈良県)方面隊の2手に分かれて大阪平野を目指す徳川方に対し、木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)らが今福(大阪市城東区)方面に布陣して北側の京街道をやって来る敵に備え、後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが)らを主力とする部隊が大和口方面隊を迎え撃つ事に・・・

慶長二十年(1615年)5月6日のこの日、後者の大和口方面で起こったのが道明寺・誉田(どうみょうじ・こんだ)の戦いですが、ソチラは4月30日のページ>>でご覧しただくとして……

他方、前者の北側の京街道を進む側で繰り広げられたのが若江・八尾(わかえ・やお)の戦い(2011年5月6日参照>>)です。

八幡(やわた=京都府八幡市)付近で京街道から分かれる東高野街道(ひがしこうやかいどう)を南下した徳川勢が、河内八尾村(やおむら=大阪府八尾市)付近で南北に流れる川の東側に布陣します。

迎え撃つ大坂方は、先の今福から南下して川の西岸に布陣した木村重成隊が若江(わかえ=大阪府東大阪市)付近にて徳川方の先鋒=井伊直孝(いいなおたか)隊と衝突。。。同じく、守備していた京橋口(きょうばしぐち=大阪市城東区)から南下した長宗我部盛親は久宝寺(きゅうほうじ=大阪府八尾市)付近にて藤堂高虎隊とぶつかる・・・そうです、この日、桑名吉成は旧主君&旧同僚たちと戦う事になったのです。

Yaokassentki
元和元年卯五月六日之陣備図(高知県立歴史民俗資料館蔵)

この日の朝、すでに道明寺で合戦が始まっているとの情報を受け取っていた藤堂隊は、援助すべく、さらに南下しようと考えていたところ、西に連なる堤防の向こう・・・すぐそばに敵がいる事を知り、軍を西に向けて堤防の側までやって来ます。

南北に広がっていた隊列が、堤防をスタートラインのように一つに合わせた後、タイミングを見計らって一斉に攻めかかると、堤近くの森にいた長宗我部盛親からは朝霧の向こうから紺地に真っ白な餅の旗が迫って来るのが見えました。

「堤の上は狭いので戦い難い」
と旗を降ろして低地へと移動した長宗我部隊に対し、
「敵は逃げるゾ!」
と我先に攻め込む藤堂隊・・・

一方の長宗我部隊は、 盛親の、
「間合いが遠いうちは一人も立つな!」
の命令を忠実に守り、敵が近づいてから、並べた槍の矛先で一斉に叩きつけたたため、功を急いでただ突き進んでいた一部の藤堂隊が乱れに乱れ、その乱れが瞬く間に全体の乱れとなり、将クラス63余騎、歩兵約3000名が討たれ、藤堂隊は手痛い敗北を喰らってしまったのです。

そう、その討たれた中には吉成の姿も・・・享年64、かつて命懸けで守った主君に刃を向けた、その心中には複雑な思いがあったやも知れませぬが、戦国を生きた老臣としては、おそらく、ここを死に場所として猛突進して果てたに違いなく、自らの死に様をも、すでに察していたのかも知れません。

その後の戦いの流れは・・・
上記の通り、長宗我部隊に圧倒され、もはや風前の灯だった藤堂隊でしたが、そこに若江にて木村隊を破った井伊隊が援軍に駆け付けて来た事で、分が悪いと判断した盛親が持ち場の京橋口へと退きあげたため、合戦の勝敗としては徳川方の勝利という事になります。

そしてご存知のように、ここを破られ、道明寺も突破された大坂方は、この翌日、徳川勢に本拠大坂城を取り囲まれ、総攻撃を受ける事になります。

参照ページ
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】>>
●【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦い】>>

そして、盛親・・・【長宗我部盛親の起死回生を賭けた大坂夏の陣】>>
大坂の陣で焼け落ちる大坂城から脱出するも、後に捕縛された時、
「赤旗(井伊の赤備え)に妨害されて高虎の首を取れんかったんが悔しい」
と言っていたらしい(『常山紀談』)ので、やはり、井伊の援軍が来なければ、この日の八尾での藤堂隊も、かなりヤバかったのでしょうね。
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2019年2月 8日 (金)

「真実」を貫いた交渉の達人…北条氏規

 

慶長五年(1600年)2月8日、北条氏康の息子で小田原征伐から生き残った北条氏規が、この世を去りました。

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天文十四年(1545年)に、相模(さがみ=神奈川県)を制する北条(ほうじょう=鎌倉時代の北条と区別して後北条とも)の第3代当主=北条氏康(ほうじょう じやす)の四男として生まれた北条氏規(うじのり)は、幼い頃に駿河(するが=静岡県東部)今川(いまがわ)に、人質として送られたと言います。

もともと、今川家内での後継者争いの時に、北条初代の北条早雲(そううん)こと伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)が、自らの姉(もしくは妹)が嫁いでいた縁から、その息子の今川氏親(うじちか)を支援して第9代当主に据える事に成功し、その後も家臣として補佐(6月21日の前半部分参照>>)した事から、本来、北条と今川の関係は良かったはずだったのですが、

ご存知のように、その後の早雲が、堀越公方(ほりごえくぼう)から伊豆(いず)を奪い(10月11日参照>>)小田原城(おだわらじょう)を奪取し(2月16日参照>>)、さらに立河原(たちがわら=東京都立川市)の戦い(9月27日参照>>)から相模制覇(7月13日参照>>)へと、どんどん関東に侵出していき、これが、今川との亀裂を生じさせてしまうのです。

なんせ、自力で奪い取った以上、その場所は、当然、北条自身が支配する事になる・・・つまり、一応、今川の配下という立場を取りながらも、実質支配している領地が増えていくわけです。

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そんな北条は、公方(古河公方&小弓公方=室町幕府政権下での公式関東支配者)関東管領(かんとうかんれい=公方の補佐役)両上杉家(扇谷上杉&山内上杉)などの旧来の関東支配者から見ると、いわゆる「成り上がりのヨソ者」ように感じるわけで・・・

そんな中、早雲が没して第2代当主の北条氏綱(うじつな=早雲の息子)の時代に入ると、敵の敵は味方とばかりに、それまで敵対していた両上杉家は和睦し、そこに公方らも加わり、さらに甲斐(かい=山梨県)武田信虎(たけだのぶとら)安房(あわ=千葉南部)里見(さとみ)も味方につけ、まるで北条包囲網のような物が形成されていくのですが、

そんなこんなの天文六年(1537年)、後継者争いに打ち勝って(6月10日参照>>)、亡き先代=氏親の後を継いだ今川義元(よしもと)が、北条包囲網の一翼である武田信虎の娘を娶って同盟を結んだ事から、氏綱は今川と完全に決別し、逆に、公方同士でモメはじめた小弓公方(おゆみくぼう)を倒して、古河公方(こがくぼう)足利晴氏(あしかがはるうじ)に接近・・・娘を嫁がせて、足利の身内となったばかりか、晴氏から関東管領職に任じられ『伊佐早文書』に依る)、両上杉をよそに、もはや「関東を支配してもイイヨ権」を獲得したような状態になっていくわけで(11月28日参照>>)

さらにノリノリの北条は駿河へと侵攻し、北条と今川の間には世に河東一乱(かとういちらん)と呼ばれる戦いが展開されますが、間もなく、北条&武田&今川には三者三様の転換期が訪れるのです。

北条では、氏綱の後を継いだ北条氏康(うじやす)が戦国三大奇襲の一つに数えられる川越(かわごえ=埼玉県川越市)夜戦を成功させて(4月20日参照>>)、公方や上杉を壊滅状態に追い込み(天文十五年=1546年)

武田家では信虎の嫡子=武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信)による父の追放劇(6月14日参照>>)政権交代(天文十年=1541年)して方針転換・・・新当主の信玄の目は駿河&関東ではなく隣国=信濃(しなの=長野県)→北東方面へと向く事に(6月24日参照>>)・・・

さらに今川でも、支援を望む三河(みかわ=愛知県東部)松平広忠(まつだいらひろただ=徳徳川家康の父)との関係から、三河の向こうにある尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(のぶひで=信長の父)との対立が激しくなり(3月6日参照>>)、どっちかと言うとそっちに集注したい義元としては、自身の後方と側面にあたる甲斐や関東とはモメたくないわけで・・・

で、天文二十三年(1554年)、北条&今川&武田による甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれるわけですが、ご存知のように、その同盟の証となるのが、三者それぞれの息子と娘による婚姻・・・
武田義信(よしのぶ=信玄の息子)×嶺松院(れいしょういん=義元の娘)
北条氏政(うじまさ=氏康の息子)×黄梅院(おうばいいん=信玄の娘)
今川氏真(うじざね=義元の息子)×早川殿(はやかわどの=氏康の娘)

以前、「偶然にも、この時のそれぞれの息子たちが全員同い歳」てな事を書かせていただきましたが、息子は同じ歳でも、娘はそうでは無かったようで・・・北条の早川殿の生年が不明なので確実な事は言えないのですが、どうやら、この同盟の話が出た時点での早川殿は、未だ結婚できるような年齢では無かったようなのです。

上記の天文二十三年(1554年)という年号は、最後までお預けだった氏真と早川殿の婚姻が行われた事によって「正式に同盟が締結された」年でありますが、当然、同盟がその日一日で成る事はないわけで・・・現に、他の2組は、前年や前々年に正式に婚姻してます。

つまり、同盟の話が出始めた段階では、未だ婚姻の年齢に達していなかった早川殿の代わりに北条氏規は今川へと送られた・・・という事のようです。
(書いてるうちに、ものすご~く長い前置きになってしまって申し訳ないデスm(_ _)m)

なんせ、この氏規でさえ、天文二十三年(1554年)なら9歳か10歳くらいですから、その妹である早川殿で、しかも同盟の話が出始めたであろう3~4年前なら、かなり幼いですので、その話もアリかな?と思います。

とは言え、早川殿が今川に嫁に行き、正式に同盟が成された後も、氏規は、しばらくの間は駿河に留まっていたようですが、ご存知のように、この頃には、あの徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平竹千代→元信)も、今川にて人質生活を送っており(2月5日参照>>)、2歳違いで同じ人質という境遇の二人ですから、おそらくは互いを知る間柄であった事でしょう。

そんな中、永禄五年(1562年)もしくは永禄六年(1563年)に北条家に戻ったとおぼしき氏規は、韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆の国市)館林城(たてばやしじょう=群馬県館林市安房)の城主を歴任しつつ、安房の里見や上総(かずさ=千葉県中部)武田(たけだ)との戦いで功を挙げる武勇の持主でありましたが、何と言っても、特筆すべきは、他国との交渉術・・・

永禄十二年(1569年)の上杉謙信(うえすぎけんしん)との越相同盟(えつそうどうめい)(上杉景虎のページ参照>>)やら、天正四年(1576年)の足利義昭(よしあき=第15代室町幕府将軍)との交渉やら、天正五年(1577年)の武田勝頼(かつより=信玄の息子)との甲相同盟(こうそうどうめい)強化(北条夫人のページ参照>>)やら、天正十年(1582年)の信長横死直後の天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)(10月29日参照>>)でも・・・とにもかくにも、こういった同盟や和睦交渉の舞台に、氏規は頻繁に登場して来ます。

そんな氏規の一世一代の交渉となったのが天正十八年(1590年)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)の時です。

信長亡き後のこの数年・・・賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)に勝利して織田家内の主導権を握った秀吉は、小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月15日参照>>)織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)を丸め込んで家康を黙らせた後、紀州(きしゅう=和歌山県)(3月28日参照>>)四国(7月25日参照>>)北陸飛騨(8月6日参照>>)九州(4月17日参照>>)次々に平定し、天正十四年(1586年)には太政大臣に任命されて豊臣の姓を賜る(12月19日参照>>)という快挙を成し遂げ、北野大茶会を開く(10月1日参照>>)わ、自身の豪邸=聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)後陽成天皇(ごようぜいてんのう=第107代)を招く(4月14日参照>>)わ、もはや、ほぼほほ天下人だったわけですが、その秀吉にとって未だ手つかずの場所だったのが、関東の北条と、その向こうにある東北一帯(←ただし越後を除く…上杉景勝(かげかつ=謙信の養子)は天正十四年に上洛して臣従…6月15日参照>>だったのです。

ただし、そんな北条も、いち時は秀吉の傘下となるそぶりを見せていた事で、あの天正壬午の乱以来、徳川と北条の境界線あたりで、どちらにも属さぬ独立を模索していた元武田の家臣=真田昌幸(さなだまさゆき)とのゴタゴタ(8月2日参照>>)では、秀吉が彼らの間に入って話を収める一幕もあった事はあったのですが、

一方で、かの後陽成天皇の聚楽第行幸の際に、傘下の武将はもちろん東国の武将までもが使者を派遣したにも関わらず、北条が完全スルーして未だに支配地域の拡大姿勢を見せていた事に、秀吉は少々カチンと来ていたようで・・・

そこで、天正十六年(1588年)には、その弁明のために氏規が上洛して秀吉に謁見・・・今年中には前当主の氏政(すでに当主の座は氏直に譲るも実権は握っていた)を上洛させるので…との約束を交わし、何とか、このきな臭い雰囲気を払拭しようとしていたのです。

しかし、そんな氏規の思いは、喧嘩上等イケイケ満杯の兄ちゃんたち=氏政&北条氏照(うじてる=氏康の三男)らには届かなかったようで、結果的にその約束は果たされる事はありませんでした。

そんなこんなの天正十七年(1589年)、北条が真田の名胡桃城(なぐるみじょう=群馬県利根郡)を奪取する(10月23日参照>>)という出来事が起こります。

戦国の世を終わらせるべく、秀吉は、有名な太閤検地(たいこうけんち)刀狩り令(7月8日参照>>)とともに、すでに天正十四年の11月4日付けで『関東惣無事令』を、翌・天正十五年の12月3日付けで『奥両国惣無事令』を発布しています。

この『惣無事令(そうぶじれい)というのは、「これまで、戦国の世のおいて武力で以って行われていた領地の奪い合いなど、大名の私的な争いを禁止する」という事で、秀吉が関白の権限で以って行った、まさに、天下統一の証とも言える命令だったわけですが、今回の北条の行為は、完全に違反しているわけで・・・

かくして天正十七年(1589年)11月24日、秀吉は当主=北条氏直宛てに、宣戦布告状を送り、小田原征伐が開始されるのです(11月24日参照>>)

聚楽第での軍議を経て(12月10日参照>>)迫りくる豊臣軍・・・迎え撃つ北条でも、何度も軍議が開かれますが、これが小田原評定(おだわらひょうじょう)=後に長いワリには何も決まらない会議の例えにされるような軍議だったわけで・・・

結局、天正十八年(1590年)の4月に20万の大軍に完全包囲(4月3日参照>>)された小田原城は、3ヶ月後の7月5日、北条の降伏によって開城される事になるのです(7月5日参照>>)

この間には、あの『のぼうの城』のモデルとなった忍城(おしじょう)(6月16日参照>>)や、最も悲惨な八王子城(はちおうじじょう)(6月23日参照>>)、秀吉の巧みさが見える石垣山(いしがきやま)一夜城(6月26日参照>>)・・・など、様々な場面があるのですが、一つ一つは【北条五代の年表】>>(最後のの氏直のところ)から見ていただくとして、

この開城のページにも書かせていただいたように、この小田原城が開城に至った背景には、6月26日の韮山城の開城が大きく影響しているのです。

そう、この時に韮山城の城主だったのが氏規さんで、その説得をしたのが家康・・・今川にて同じ境遇で育った二人が、ここで話し合い、氏規は落城して開城するのではなく、方針転換による開城をしたのでした。

そして氏規は、そのまま小田原城へと入って、未だヤル気満々だった兄たちを説得し、ようやく7月5日の開城となったのです。

もちろん、この後の北条家への処分に関しても、彼はその交渉術を発揮したかも知れません。

なんせ、「自分が切腹する代わりに城兵の命は助けてやってくれ」と願った当主=氏直は高野山への追放に留まり、イケイケだった氏政と氏照の切腹で以って幕が閉じられるのですから・・・(氏直の正室が家康の娘=督姫(とくひめ)だった事も影響していると言われますが)

一族のうちの多くが命断たれる中、その交渉術で、見事、北条宗家の血脈を残した氏規・・・残念ながら、氏直はほどなく病死しますが、氏直とともに高野山に送られていた氏規自身は、その後、秀吉の配下として狭山(さやま=大阪府狭山市)6980石を与えられて生き残り、慶長五年(1600年)2月8日56歳の生涯を閉じます。

その少し前、氏直の死を受けて池田輝政(いけだてるまさ)と再婚する事になった督姫が、氏直の肩身の品だったお守りを、「あなたこそ北条を継ぐ人」とばかりに氏規に渡しにに来るエピソード(11月4日参照>>)は戦国の世に咲く一輪の花のように美しい~ヽ(´▽`)/

Ujinorisyuin ところで、この北条家は、それぞれの武将が、それぞれ特殊な印文が書かれている印判を使用していましたが、今回の氏規さんが用いていたのは『真実』と書かれた印判。
(印判画像は神奈川県立歴史博物館>>様から引用させていただきました→)

その神奈川県立歴史博物館>>(別窓で開きます)によれば、氏規は、高野山へ追放になって以降、この印判を使用するのを止めた?ようなのだとか・・・何か思う所があったのでしょうか?

ひょっとして・・・
その若き頃、真実を胸に秘めて戦場を駆け回り、敵陣に乗り込んで交渉を重ねて来た氏規は、小田原落城で一族を見送り、戦国の終わりを見、血気盛んな武将の心を封印して、北条を残す事、北条を守る事に徹する決意を固めた・・・という事なのかも知れません。
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2018年10月 3日 (水)

長束正家、無念の自刃~関ヶ原・水口岡山城の戦い

慶長五年(1600年)10月3日、関ヶ原での敗戦の後に籠っていた近江水口(岡山)城を出た長束正家が近江桜井谷で自刃しました。

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豊臣政権下の五奉行の一人=長束正家(なつかまさいえ=「ながつか」とも)は、かつて近江(おうみ=滋賀県)の覇者だった六角氏(ろっかくし)の家臣で、もとは水口城(みなくちじょう滋賀県甲賀市水口町=岡山城)主だった水口盛里(みなくちもりさと)の長男として尾張(おわり=愛知県西部)に生まれたとされますが、そのあたりの事はよくわかっていません。

正家がハッキリと歴史上に登場するのは、織田家の家老として活躍していた丹羽長秀(にわながひで)家臣としての登場・・・

どうやら彼は、もともと計算に長けていたようで、その才能をかわれて長秀のもとに就職していた頃、
「算勘(さんかん)に達し、其外(そのほか)兵術を得たる事、世に隠れなし」(『名将言行録』)
だったようで・・・そのために、彼に「その術を習いたい」という若者が、領国の内外からひっきりなしに訪れ、正家宅は常に人で賑やかだったと・・・

その噂を聞きつけた豊臣秀吉(とよとみひでよし)が長秀に彼を所望して、正家は金銀出納係として秀吉に仕えるようになります。
(一説には、ここで秀吉に仕える事で、敵に内通した疑いをかけられていた長秀の窮地を救ったと言われています)

まずは試しに金銭にまつわる細かな作業をさせてみると、これがなかなか良い・・・
そこで、諸国からの献上金の入出の運営を任せてみると、これまた、官民誰もが損をしないよう見事に処理してみせる・・・

感心した秀吉は、正家を豊臣の直参として抱えますが、間もなく勃発した小田原攻め(11月24日参照>>)で、兵糧奉行を任された正家は、すばやく兵糧を確保して現地へ輸送したばかりか、小田原周辺の米を買い占めて敵地を兵糧不足に追い込みました。

ちなみに、この時、同じく小田原攻めに従軍していた徳川家康(とくがわいえやす)は、配下の兵糧係が事前に兵糧の準備をしていたものの「現地で調達すれば、運送費もかからんし…」と、その兵糧を沼津(ぬまづ=静岡県)に置いたままにしていたため、その兵糧担当を呼びつけ、
「今回は、してやたれた~合戦には武功も大事やけど、こういう計算も大事や。
せやからこそ秀吉さんもヤツを重用するのやろ~」

と正家の才能を認め、話を聞いた兵糧係は「申し訳ございません!(ノ_-。)」と冷や汗をかいて退散したのだとか・・・

そんな徳川家と正家は、彼が、徳川四天王の本多忠勝(ほんだただかつ)の妹を娶った縁もあって、徳川秀忠(とくがわひでただ=家康の三男)が上洛した際には、その出迎え係をするほどに、徳川家とも密接な関係だったと言います。

その間にも、検地や蔵入地(くらいりち=直轄地)の運営等もこなしていた正家は、文禄4四年(1595年)に近江水口5万石を拝領し水口城主に・・・そして、豊臣政権の五奉行にも名を連ね、ますます政権内での事務方の手腕を発揮する事になるのですが。。。

しかし、やがて訪れた御大=秀吉の死(8月9日参照>>)・・・この慶長三年(1598年)8月の秀吉の死によってバランスを崩し始めた豊臣政権は、その翌年の大御所=前田利家(まえだとしいえ)の死を引き金に、正家らの事務方(文治派)と、加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)武闘派合戦で武功えを挙げる派)との亀裂が表面化するのです(3月4日参照>>)

その亀裂をウマイ事利用し、画策し始めたのが五大老筆頭の徳川家康・・・なんせ、亡き秀吉から豊臣政権を任された五大老のうち、利家が亡くなって、その座を息子の前田利長(としなが)受け継げば、残りの3人は天文二十二年(1553年)生まれの毛利輝元(もうりてるもと)、元亀三年(1572年)生まれの宇喜多秀家(うきたひでいえ)、亡き小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利輝元の叔父)に代わって五大老になった弘治元年(1556年)生まれの上杉景勝(うえすぎかげかつ)・・・と、1番年上の輝元とも10歳の隔てがある家康は、その老獪ぶりを発揮して、まさに豊臣政権の筆頭としてふるまうようになったのです。

こうして徐々に五大老や五奉行の追い落としを図る家康は、上記の文治派と武闘派のモメ事関連で五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)を謹慎処分に追い込んだ後、前田と上杉、そして五奉行の一人の浅野長政(あさのながまさ)「謀反の疑いあり」と主張・・・この時、反発を抑えた前田家は利家の奥さん=まつを江戸へと下向させて(5月17日参照>>)合戦を回避し、浅野家も長政が隠居して恭順姿勢をとります。

しかし、残った上杉は喧嘩上等!とばかりに反発(4月14日参照>>)・・・この上杉に対し、家康が大軍を率いて会津征伐を行うべく東に向けて出陣するのですが、この家康が畿内を留守にしていた間の慶長五年(1600年)7月17日に、諸大名に向けて『内府ちがひの条々』が発布されるのです。

これは、これまでの家康の、秀吉の遺言に背くあんな事やこんな事を書き連ねた告発状で、事実上の宣戦布告・・・その書状の署名は、五奉行のうち謹慎中の石田三成と浅野長政を除いた前田玄以(まえだげんい)増田長盛(ましたながもり)、そして本日の主役=長束正家でした(7月18日参照>>)

つまりは、五大老のうち3人(毛利・上杉・宇喜多)&五奉行のうちの4人(前田・増田・長束・石田)を敵に回した家康・・・
(前田家は兄=利長が東軍(徳川)、弟=利政は西軍…7月14日参照>>

しかし、その見事な手腕で、自分が率いていた会津討伐隊を自身の徳川軍にする事に成功(2012年7月25日参照>>)した家康は、会津征伐を中止し、Uターンして西へと戻ります・・・こうして両者がぶつかったのが、ご存じの関ヶ原の戦い・・・(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)

この時の正家は、上記の『内府ちがひの条々』の一件でもお察しの通り、早い段階から三成主導の西軍として行動し、一説には会津征伐に向かう家康の暗殺まで企てていたと言われますが(その時は家康が水口を素通りしたため決行ならずだったらしい)・・・その後の前哨戦では安濃津城(あのつじょう=三重県津市)を攻略(8月25日参照>>)するなど東海方面で転戦した後、9月15日の本チャンの関ヶ原では南宮山に布陣しました(関ヶ原の合戦・布陣図を別窓で開く>>)

しかし、この時、ともに南宮山に布陣していた毛利勢が・・・実は、家康と密約を交わしていたのです(くわしくは9月28日参照>>)

「戦いに参加しなければ所領を安堵する」
という家康との密約を信じていた吉川広家(きっかわひろいえ=毛利輝元の従兄弟)の判断で、大坂城に詰めていた西軍総大将の輝元の名代で現地にいた毛利軍の大将である毛利秀元(ひでもと=輝元の従兄弟)も、まったく軍勢を動かさなかった事から、その後方に布陣していた正家も、まったく関ヶ原の本戦に参加する事ができなかったのです。

そんな中、ご存じのように、その日の午後2時頃には、西軍の負けがほぼ決定的となり(2008年9月15日参照>>)、やむなく正家は戦線を離脱し、一旦、佐久良(さくら=滋賀県蒲生郡日野町)に身を隠した後、9月の末頃になって、ようやく本拠の水口城に入る事ができました。

しかし、関ヶ原本戦が西軍の負けとなった以上、当然、この水口城にも勝者=東軍の追手がやって来るわけで・・・やがて、この水口城を囲んだのは、池田輝政(いけだてるまさ)の命を受けた池田長吉(ながよし=輝政の弟)率いる池田隊と亀井茲矩(かめいこれのり)らの軍勢でした。

とは言え、なかなかの堅城であった水口城を攻めあぐねた池田勢・・・

そこで、池田の家臣であった舟戸久左衛門なる武将が懐に3~4寸の鉄板を忍ばせて城へと出向き、正家を説得します。

「今、降伏されたなら、あなた方や兵卒の命はもちろん、所領も安堵するとウチの殿様が言うております。
ソチラは安濃津の城攻めに疲れ、関ヶ原では武功を挙げられなかった事に憤り、城を枕に討死覚悟と思っておられるのかも知れませんが、今なら平和的に解決できます」

と、舟戸が、そばにいた小姓に持って来た鉄板を火であぶらせ、同じく懐に用意していた牛王(ごおう=牛王宝印・起請文を書くための牛頭天王の護符)を取り出して、その旨を訴えると、正家は涙を流しながらその説得に応じ、開城を決意したのだとか・・・
(この時代、神に誓う約束事は違えない=破れば神罰が下るという暗黙の了解がありました)

また一説には、
「兄=輝政は、正家殿の事を、幼き頃よりともに育った竹馬の友だと思っていますので、友達とは戦いたくないと言うてます。
もう、西軍は負けました…これ以上は何のために籠城する必要がありましょうか。
速やかに降伏して城を明け渡してくださったなら、命の保証と所領安堵をしてもらえるよう徳川様に取り計らいます」

という池田長吉の説得に応じたとも言われます。

とにもかくにも、何かしらの説得に応じて、水口城を明け渡す決意を固めた正家でしたが、これが池田勢の謀略であり、正家らは城を出たところを捕縛されてしまった後に切腹したとも、
城を出てすぐに欺かれた事に気づき、何とか、再び佐久良まで逃げたものの、追手に囲まれて中之郷にて自刃したとも・・・

また、白装束で池田隊&亀井隊を出迎え、家臣の介錯によって覚悟の自刃を遂げたとも言われますが、いずれにしても、慶長五年(1600年)10月3日長束正家はこの世を去り、その首は、家康の命により、三条橋の袂に晒されたのです。

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長束正家の逃亡経路
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

男盛りの39歳・・・おそらくは、同じ死ぬのであれば、欺かれてからの切腹より、あの天下分け目の戦場にて大いに腕を奮い、華々しく散るのが戦国男子の本望だった事でしょう。

しかも・・・
さらに悲しい事に、この時、臨月だった奥さんは逃亡生活のさ中に出産するも、産後の肥立ちが悪く、間もなく死亡してしまったのだとか・・・悲しすぎる(ρ_;)
(残された男児は生き残った家臣に育てられ、後に僧になったとか…)

一方、今回の関ヶ原での一連の功績で、大幅加増されて播磨(はりま=兵庫県西部)姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)の城主となった池田輝政は、勝利の象徴とも言うべきその城を、現在の国宝&世界遺産になるほどの大きな城に作り替える事になります。

とは言え、その立派な城郭とはうらはらに、姫路城は、輝政の病気がち(7月22日参照>>)を皮切りに、その後も、様々な理由で城主が頻繁に交代する城でもありました。

そこには、噂される怨霊や七不思議(7月28日参照>>)・・・というよりも、友を欺いてでも、勝たねば生き残れなかった戦国武将の苦悩が見え隠れするような気がします。
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2018年9月 1日 (土)

関ヶ原に向けて~徳川家康が江戸城を出陣

慶長五年(1600年)9月1日、関ヶ原の合戦に向けて、徳川家康が江戸城を出陣しました。

・・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原・・・
(一つ一つの出来事や全体の流れは【関ヶ原の合戦の年表】>>で見ていただけるとありがたいです)

慶長三年(1598年)8月の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後(8月9日参照>>)、かの朝鮮出兵のなんやかんやで、豊臣政権内にて武闘派(ぶとうは=合戦で武功を挙げる派)文治派(ぶんじは=後方支援と事務的管理する派)の対立が起き始める中(3月4日参照>>)五大老(ごたいろう=豊臣政権下でのトップの5人)筆頭を良い事に、秀吉の遺言を無視しはじめた徳川家康(とくがわいえやす)「何とかせねば!」と考えた元五奉行の一人で文治派の石田三成(いしだみつなり)は、慶長五年(1600年)6月、家康が「謀反の疑いあり」として会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)を征伐すべく、兵を率いて北へ向った留守を狙って行動を起こします。

7月11日には、家康とともに会津に向かっていた親友の大谷吉継(おおたによしつぐ)を引き戻して北陸の諸将の勧誘に当たらせ(7月14日参照>>)、翌・7月15日には家康に対抗できる大物=毛利輝元(もうりてるもと)大坂城(おおさかじょう=大阪市中央区)に入ってもらい、

続く7月16日には、家康と行動を共にしている諸将の妻子を大坂城内で預かり、翌・7月17日には『内府ちがひの条々』家康がこんな違反行為してまっせの報告=弾劾状)を諸大名に発して正式に家康に宣戦布告し、続く7月18日には家康に味方するであろう本多利久(ほんだとしひさ)高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)を攻撃し(7月18日参照>>)、7月19日からは家康配下の鳥居元忠(とりいもとただ)が守る伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)への攻撃を開始しました(8月1日参照>>)

Tokugawaieyasu600 一方、この三成の動きを北に向かっている途中で知った家康は、7月25日、下野(しもつけ=栃木県)小山(おやま)にて評定を開き、「このまま自分について三成らに対抗するか?戻ってアチラにつくか?」を共に来ていた諸将に尋ねるのですが、すでに話を着けていた福島正則(ふくしままさのり)に真っ先に手を挙げさせる事によって、その場の雰囲気を「家康推し」にさせ、本来なら上杉を討つために出発したはずの豊臣の軍を、ほとんどそのまま自身の軍にする事に成功したのです(2012年7月25日参照>>)

この先の流れを知っている後世の者から見れば「なんで豊臣恩顧の武将が家康に…」と思ってしまいますが、この時点では家康の行動も豊臣のため=ここで三成派を一掃する事が、将来の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)のためになるという雰囲気を醸し出していたわけです。

さらに、ここで、やはり豊臣恩顧の武将である山内一豊(やまうちかずとよ)が、自身の掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を家康のために提供する事を申し出て、以下、東海道沿いに城を持つ諸将が、その意見に同調した事から、家康はここからUターンして西へ向う道すがらに兵糧や弾薬の確保も容易にできるようになったわけです。

こうして会津攻めを中止して戻る事にした家康は、次男の結城秀康(ゆうきひでやす)宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市本丸町)に留めて会津へのけん制とし、自身は江戸城(えどじょう=東京都千代田区)へと向かったのです。

8月5日に江戸城に到着した家康は、すぐには出陣せず・・・というか、そこを動く事ができず、そのまま江戸に滞在して、諸大名にせっせと手紙を書き始めます。

なんせ上記の通り、三成からの(実際の署名は豊臣の三奉行)『ちがひの条々』が諸大名に発せられてますから、それを受け取った中で誰がアチラに味方をするのかを見極めねば動けませんし、同時に、自らも書状を発して、より多くの大名を味方につけねばなりませんからね

特に東北には、今回の発端である上杉がいますし、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義宣(さたけよしのぶ)等も、かの条々を受け取って西軍(三成派)に与してますから、彼らが徒党を組んで北から侵攻してくれば江戸もヤバイです。

この間、かの小山からUターンして西へ西へと向かっていた東軍(家康派)の先鋒が、8月11日になって岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に到着します。

なんせ、かの小山評定で盛り上がったおかげで、山内一豊の掛川城や福島正則の清州城(きよすじょう=愛知県清須市)以外にも沼津城(ぬまづじょう=静岡県沼津市)浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)等々、東海道沿いの諸城が家康に提供されてましたから、彼らの移動は早い・・・

しかし、そんな中、清州城に集結しはじめた東軍諸将の中で、未だ江戸城を動こうとしない家康への不信感が生まれ始めます。

そんなこんなの8月19日、家康からの使者として村越直吉(むらこしなおよし)が清州に到着・・・早速、福島正則らは、家康がなぜ出陣しないのか?の質問を投げかけます。

すると直吉、家康からの伝言として
「御出馬あるまじきにてはなく候(そうら)へ共(ども)、各(おのおの)の手出しなく候故(そうろうゆえ)、御出馬無く候。手出しさへあらば急速御出馬にて候はん」と・・・

つまり
「いやいや、俺が出陣してないって言うより、君らの方こそ、まだ何もしてないやん。君らが本気出してくれたら、すぐにでも出陣する気満々なんやぞ」

そう、ここまでは、すでに味方である諸城を通って来ただけで、特別な軍事行動を起こしているわけではない・・・

実際の家康は、上記の通り、杉の動きを見定めるまでは江戸を離れられないし、なんたって先鋒の彼ら=福島正則ら諸将は、もともと豊臣恩顧の武将たちですから、いつ西軍に寝返るかも知れない・・・それ故に家康は出陣する事ができなかったわけですが、そこを「君らが何もせーへんから出陣できへんねん」と話をすり替えて、彼らに、先に軍事行動を起こすように促したわけですが、

これを聞いた福島正則は、「ほな、やったろやないかい!」と奮い立ったのだとか・・・

その4日後の8月23日に、彼らが西軍の拠点の一つである岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を落とす(8月22日参照>>)と、そのニュースを8月27日に聞いた家康には、もはや出陣を引き延ばす理由もなくなったわけで、

おそらくは、もうチョイ引き延ばそうと思っていたとおぼしき家康は、去る8月23日に「出陣は9月3日に…」と延期したばかりでしたが、その予定を前倒しして9月1日に出陣する事に決定・・・やっとこさ重い腰をあげるのです。

この決定をそばで聞いた家臣の石川家成(いしかわいえなり)が、
「9月1日は西ふさがりの悪日ですが…」
と、その運気の悪さを指摘すると、家康は、
「そのふさがった西を、この手で開けに行くのだ」
と言ったとか・・・

もちろん、上杉への脅威はまだ残っていますので、本丸は異父弟の松平康元(まつだいら やすもと)に、西の丸は五男の武田信吉(たけだのぶよし=松平信吉)にと、信頼のおける身内に任せて留守の間の江戸城の守りを固めました。

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関ヶ原の進路図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして慶長五年(1600年)9月1日3万2千余の軍勢を率いて江戸城を出発した家康は、その日のうちに神奈川(かながわ)に到着し、翌日には藤沢(ふじさわ)、さらに翌日には小田原(おだわら)・・・と、東海道を着々と進み、11日には清須城に到着・・・ここで、「ちょっと体調悪いねん」と2日間の休憩を取りますが、実は、中山道を通ってやって来る息子の徳川秀忠(ひでただ=家康の三男)の到着を待っていたのだとか・・・

しかし、ご存じのように、真田(さなだ)父子上田城(うえだじょう=長野県上田市)攻め(2010年9月7日参照>>)に手こずっていた秀忠の軍は、いっこうに到着の気配もなく・・・

これ以上の引き延ばしは不可能と踏んだ家康は、やむなく移動して9月13日には岐阜城に着陣します。

ここ岐阜城は、すでに三成が入城している大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)とは目と鼻の先・・・翌日には前哨戦の杭瀬川(くいせがわ)(9月14日参照>>)、そしてその翌日は・・・いよいよ天下分け目の関ヶ原です。

【ともに命を賭けた戦場の約束】>>
【討死上等!関ヶ原に散った猛将・島左近】>>
【島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳】>>
【関ヶ原の合戦の年表】>>)
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2018年7月18日 (水)

関ヶ原合戦~最初の戦い…高取城の攻防

慶長五年(1600年)7月18日、ご存じ、天下分け目の関ヶ原の戦い・・・その最初のぶつかり合いとなった高取城の攻防戦がありました。

・・・・・・・・・・

自らの死後も、幼き息子=秀頼(ひでより)をサポートしてくれるよう、独自の家格システムを構築し(7月15日参照>>)数々の遺言を残した(8月9日参照>>)豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、慶長三年(1598年)8月、亡くなります。

その死を以って半島から撤退する事になり(11月20日参照>>)、結果的に負け戦となってしまった朝鮮出兵の影響で、政権内の武闘派(ぶとうは=戦場で戦う派)文治派(ぶんじは=事務方)の間に亀裂が生じ始めるも、政権トップの五大老
徳川家康(とくがわいえやす)
前田利家(まえだとしいえ)
毛利輝元(もうりてるもと)
上杉景勝(うえすぎかげかつ)
宇喜多秀家(うきたひでいえ)
ら、全員が健在の間は何とか均衡が保てていたものの、翌年の3月に、秀吉の親友で政権の重鎮である前田利家が亡くなる(3月3日参照>>)、早くも翌日、武闘派の加藤清正(かとうきよまさ)らが文治派の石田三成(いしだみつなり)襲撃する事件が起き(3月4日参照>>)、バランスの崩れが表面化します。

利家の死によって五大老の中で家康より年上はいなくなり、宇喜多秀家に至っては親子ほど年が違う・・・また、先の三成襲撃事件を家康が治めた事もあり、利家を引き継いだ息子の前田利長(としなが)が五大老に収まる頃には、もう家康のやりたい放題の様相を呈して来るのです。
(もちろん表面上は豊臣政権の一員としての姿勢を保っていますが…)

すでに、この年の1月に秀吉の遺言を破って自分の息子と伊達政宗(だてまさむね)の娘の婚約を決めちゃってる家康ですが、その後も、9月には、大坂城(おおさかじょう=大阪市中央区)を退去した秀吉の正室=おねと交代するがの如く、伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区桃山)を出て大坂城の西の丸に入り、天守閣のような建物を建て始めたり・・・年が明けて慶長五年(1600年)になると、上杉景勝と前田利長に「謀反の疑いあり」として両者の追い落としを開始します。

前田家は母のまつを江戸へと人質に出して(5月17日参照>>)何とか事を治めますが、上杉は屈せず(4月14日参照>>)・・・で、これを受けた家康が、上杉を討伐すべく、6月18日、大軍を率いて会津(あいづ=福島県)へと向う事になるのですが、この家康の会津出兵は三成をおびき出すための作戦とも言われています。

Isidamitunari600a そう、この家康の留守を狙って動いたのが三成だったのです。

7月11日には、すでに家康の会津征伐に合流すべく北に向かっていた大谷吉継(おおたによしつぐ)を引きもどして(7月11日参照>>)北陸諸将の勧誘に走らせ(7月14日参照>>)、7月15日には、家康に対抗できるコチラの総大将として毛利輝元に大坂城に来てもらいます(7月15日参照>>)
(なんせ会社で言えば、家康は副社長か専務クラスで、三成は営業部長くらいですから…)

さらに7月16日の夜には、家康とともに会津攻めに向かった諸将の妻子を人質の形として大坂城に収容しようとしますが、これは、細川忠興(ただおき)の妻=ガラシャ(玉子)を死に追いやるという悲劇を生んだり(7月17日参照>>)、加藤清正や黒田如水(くろだじょすい=官兵衛孝高)長政(ながまさ)の嫁を逃がしてしまったりで、あまりうまく行かなかったようですが・・・

そして、いよいよ7月17日、三成は『内府ちがひの条々』を諸将に送りつけ、家康に宣戦布告するのです。

ただし、書状での署名は、豊臣政権の五奉行のうちの前田玄以(まえだげんい)増田長盛(ましたながもり)長束正家(なつかまさいえ)の3人で、ここに三成の名はありませんが、三成は先の襲撃事件云々で五奉行を退いていますし、残るの浅野長政(あさのながまさ)も、先の前田利長の一件で謹慎処分になってるので、現時点での五奉行はこの3人だけですので・・・

この「内府」というのは内大臣=家康の事。
「ちがひ」は「違い」で、つまりは家康が秀吉の遺言に背いた13条に及ぶ行動を明記した告発状って事です。

  1. 約束したのに奉行(浅野&石田)を追い込んだ
  2. 前田家を人質とって追い込んだ
  3. 謀反の疑いで上杉を討伐しようとした
  4. 自身のお気に入り武将に勝手に知行を与えた
  5. 伏見城を乗っ取ってる
  6. 勝手に誓紙を取り交わしている
  7. 奥さんの場所であった西の丸に居座ってる
  8. その西の丸にデカイ天守を建ててる
  9. 親しい大名の妻子を勝手に領国に返してる
  10. 勝手に縁組を決めている
  11. 若輩の武将を扇動して徒党を組ませてる
  12. 五大老全員でやるべき事を1人でやってる
  13. 側室のお亀の縁者を優遇してる
  14. 公用車でヨガに…(←スンマセンふざけました)

ごくごく簡単に言うと、こんな感じの内容なのですが、当然、これらは、現段階で家康とともに会津征伐へ向っている諸将たちに向けても発せられたわけで・・・

だからこそ、父や夫が、おそらく徳川方につくであろうと予測した加藤清正&黒田父子の妻子は密かに大坂を脱出し、細川ガラシャは夫の邪魔にならないよう命を断ったのです。

この後、三成ら大坂方の動きを知った家康は、会津征伐を中止してUターンして来るのですが、その時、これらの事を、ともに会津征伐に向かっていた諸将に正直に話し、「妻子が大坂にいる者もいるやろから、このまま俺に付くか、大坂に戻って向こうに付くか、自分の好きにしたら良いゾ」と問うたのが、世に「小山評定(おやまひょうじょう)(2012年7月25日参照>>)・・・ただし、実は、皆に発表する前に、すでに福島正則(ふくしままさのり)を抱き込んでいて、その評定の場で、1番の豊臣恩顧の武将である正則に、堂々と「俺は家康っさんについて行きます!」と手を挙げさせる事で、その場の雰囲気を「家康推し」一色にしちゃったとも言われています~ウマイですね~家康さん。

とは言え、家康のもとに、今回の知らせが届くのは、もう少し後・・・

一方の三成は、今回の宣戦布告をした翌日の7月18日、まずは、家康が留守となった伏見城に降伏開城を求めるのですが、城将の鳥居元忠(とりいもとただ)は拒絶・・・結局7月19日から攻撃が開始されますが、そのお話は8月1日の【伏見城・落城…鳥居元忠の本望】のページ>>でご覧いただくとして・・・

この伏見城へ開城勧告を出したと同日の慶長五年(1600年)7月18日・・・数ある関ヶ原の戦いにおいて、最初の戦闘となったのが、高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)だったのです。

南北朝時代頃から大和(やまと=奈良県)一帯に勢力を誇っていた越智(おち)の城であった(9月25日参照>>)高取城は、やがて戦国の混乱で頭角を現して来た筒井順慶(つついじゅんけい)の配下となった状態で越智頼秀(おちよりひで)が城将を務めていたものの、その越智氏が滅亡した事&筒井氏が臣従した織田信長(おだのぶなが)一国一城=つまり、大和を治める城は郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)一つとした事から一旦廃城となりますが、信長亡き後の豊臣政権下では、その郡山城に秀吉の弟=豊臣秀長(とよとみひでなが)が入った事により、 この高取城も復活して、やがて秀長の重臣であった本多利久(ほんだとしひさ)城将を務める事になったのです。

ただし、関ヶ原当時は、すでに秀長も、そして、その後を継いだ息子=豊臣秀保(ひでやす)も亡くなってしまっていたので、主君いなくなったために、秀吉の直臣となった利久の息子=本多俊政(としまさ)が1万5千石を与えられて、ここ高取城は本多の居城となっていたのです。

が、しかし・・・そう、関ヶ原直前のこの時には、その本多利久&俊政父子は、今、会津に向かう家康軍とともにいます。

留守を守るのは利久の甥っこ=本多正広(まさひろ)と家老たち・・・そこに、毛利輝元の命を受けた使者が派遣されて来るのです。

「太閤秀吉様の恩顧を受けた君らは、大坂方に味方するのが当然やろが!もし徳川に味方するのやったら、すぐにでも兵を差し向けるゾ!」
と口上を述べる使者でしたが、すでに、その背後には2千の兵が迫っていたのです。

まぁ、先の宣戦布告前に大坂を脱出した妻子の件や細川ガラシャの一件を見てもわかるように、おそらくは、どっちに付くかは、それまでのなんやかんやで、大体予想がついていたんでしょうね。

ご存じの真田(さなだ)なんかも、大坂方に付く真田真幸(さなだまさゆき)幸村(ゆきむら=信繁・真幸の次男)は、小山評定の前に家康と合流する事も無くトットと戻っちゃてます(7月21日参照>>)、逆に徳川に付く長男の信幸(のぶゆき=信之)嫁さんはサッサと大坂を出ちゃってた(2009年7月25日参照>>)ようですから・・・

そんな彼らと同様に、本多家の動向は、すでに周知の事実となっていたのでしょうね。

とは言え、使者を目の当たりにした高取城内では、「どうしたものか?」と評定が行われ・・・てか、おそらくは、「YESかNOか」ではなく「どう守るか」って内容の評定だったのかも知れませんが、肝心の殿様がいない中で返答するのは、やはり迷うところでありまして・・・

そんなこんなしているうちに大坂方の兵は城へと迫り、今や遅しと城内からの返答を待っています。

そのな中を
「主君の意向がまだ届かないので…」
と、のらりくらりかわして、ちゃんとした返答をしぶる高取城・・・

すると、シビレを切らせた寄せ手の一部が、血気にはやって城下の武家屋敷や町屋へ押し入り、金になりそうな物を略奪しはじめたのです。

この暴挙を知った城内は怒りまくり・・・
「こんなん許されへん!コッチもいてまえ!」
と撃って出ようとする者を何とか抑えなりゆきを見守ります。

そう、実は、この高取城・・・メチャメチャ堅固な城なのです。

ご存じの方も多かろうと思いますが、幕末の動乱の際、この高取城を奪おうと攻撃してきた1000以上の天誅組(てんちゅうぐみ)を、わずか200人で守りぬいた高取の城兵・・・(11月15日参照>>)

Takatorizyouezu600a もともと、この高取城は備中松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)(2月15日参照>>)美濃岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市)(10月10日参照>>)とともに日本三大山城の一つに数えられるほどに険しい山の上に建てられた天然の要害を持つ城でしたが、そこに、様々な櫓や大小天守を複雑に構築して、「孤城窟壁に拠って並び無き要害」と称されるほどの堅固な城にしたのが本多利久で、幕末のソレは、まさに、この堅城があっての守りだったのです。

とは言え、攻める側もその事は重々承知・・・やみくもに攻め登っても落とせないと考えた大坂方は、甲賀忍者の中でも精鋭を選りすぐって、真夜中に忍び入らせて火を放ち、焼き落とす作戦に出ます。

その夜、手に手に松明を持って密かに山を登って行く甲賀者たち・・・しかし、城内とて、城の特性を生かした防御は怠っていません。

あちこちに仕掛けた警戒網に、夜なればこそ気がつきにくい侵入者によって、普段は静かな山の夜に、鳥たちの羽音がざわめき、城兵は侵入者に気づく事になります。

そこで、城側も密かに精鋭を派遣して、暗闇の中を捜索させると、勝手知ったる高取山とあって、幾人かの侵入者を捕える事に成功・・・早速、警告のために、その者らに手傷を負わせて敵方に送り返します。

傷つけられた味方の姿に激怒する大坂方は、
「気づかれたからには力づくで!」
とばかりに、あちらこちらに火を放ちながら、その炎と煙に紛れて、一斉に山肌を攻めのぼって来ます。

しかし、そこは地の利のある城兵たち・・・見晴らしの良い場所に出て上から見れば、眼下の炎と煙の位置にによって、敵の居場所がハッキリ解り、そこを目がけて、弓と鉄砲をお見舞いします。

それでも、数に勝る大坂方は、果敢に攻め登りますが、急な山肌に阻まれ、その登るスピードは一向に速まらず・・・そこに向けて弓&鉄砲の雨あられに加え、はなから準備していた大木や大石がどんどん落とされて来ます。

たまらず撤退を開始する大坂方・・・結局、大きな犠牲を払いながらも、城を落とせないまま兵を退く事になってしまいました。

この高取城攻防戦の話は『三河風土記』にくわしいですが、不肖私・・・長い間、関ヶ原の最初の戦いは伏見城だと思っていました。

一応、「関ヶ原検定」を持ってるんですが、その公式本にも、この高取城の事は出て来ません。

なので、合戦の細かな経緯については、ひょっとしたら確定的では無いのかも知れませんが、この関ヶ原の戦いで本多家が家康側についた事&主君が留守の高取城を死守した事は確かでしょう。

なんせ、この後の徳川の時代、本多俊政は、見事、高取藩の初代藩主の座についていますから・・・ただ、俊政の息子の政武(まさたけ)が、男子をもうけないまま死去してしまったために、本多家は2代藩主で最後となってしまうのが残念ではありますが・・・
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2017年4月28日 (金)

大坂夏の陣~樫井の戦いに連動した紀州一揆

慶長二十年=元和元年(1615年)4月28日、大坂夏の陣に連動した紀州一揆による和歌山城襲撃計画が発覚しました。

・・・・・・・・・・

この戦いの結果も、そして、この後の徳川家の繁栄をも知っている私たちには、どうしても、豊臣方が無謀な負け戦に挑んだ感が拭えない大坂の陣・・・

特に、大坂冬の陣の講和の後、堀を埋められて裸城になってもなお、勃発した夏の陣での豊臣大坂方の皆々様は、小説や時代劇なんかでも、プライド満載の意地っ張り上層部に、死に場所を探してるかような浪人衆・・・といった雰囲気で描かれる事が多いですが、

これまでも、何度かお話させていただいております通り、私個人的には、大坂城内も、そして撃って出た武将たちも、皆、最後の最後まで、「勝つため」に奔走していたと考えております。

その「大坂方勝利への構想」の一翼を担っていたのが、今回の紀州一揆(日高・名草一揆)・・・以前、冬の陣に連動して勃発した熊野・北山一揆(12月12日参照>>)について書かせていただきましたが、まさに、それと同様に夏の陣に連動した一揆なのです。

冬の陣の北山一揆の時には、和歌山県の東西牟婁郡(むろぐん)新宮市(しんぐうし)田辺市(たなべし)三重県の一部を含む熊野(くまの)地域の民衆と奈良県吉野郡上北山村下北山村など現在の和歌山県の中央部から南の地域の民衆が中心でしたが、今回の紀州一揆は日高郡(ひだかぐん)名草郡(なぐさぐん)など、和歌山県西部の地域の民衆が中心・・・

おそらくは、先の北山一揆にて、熊野や北山の民衆は、かなりの痛手を受けていて、「一斉に蜂起」とはいかなかったものと思われますが、それでも、紀州には昔ながらの「民衆強し」の威勢があり、今回は西部地域を中心に、大坂方の実質的な指導者であった大野治長(おおのはるなが)工作に応えるように、様々な動きをしていたようです。

以前も書かせていただいたように、なんせ、この地域は、長きに渡って地元の豪族や国人領主が群雄割拠していて(11月4日参照>>)、あの織田信長(おだのぶなが)も散々に手を焼いた場所・・・豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)でやっとこさ中央の傘下になるも、太閤検地(たいこうけんち)(7月8日参照>>)などに反発して度々一揆を起こしたりなんぞ・・・

て事は、紀州の人たちは「豊臣家憎し」なのでは?
と思いきや、その秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでの東軍勝利の功績により、この地を与えられた浅野幸長(あさのよしなが)が石高をあげるため、未だ屈していなかった地侍の土地をはく奪したり、豊臣時代よりさらに厳しい年貢を徴収した事で、

この地を追われた浪人の多くが、大坂の陣勃発直後から大坂城に入っていたらしい事や、彼ら浪人衆を通じて好条件の恩賞の提示もあった事から、結局、現時点での政権=徳川方である浅野家に対抗する形で、紀州の民衆たちの多くが大坂方として参戦したようです。

日高郡では、
かつて日高の湯河氏の家老であったとも、湊城(みなとじょう=和歌山市久保丁)の城主であったとも、はたまた鈴木氏であったとも言われる上野村(御坊市名田町)湊惣左衛門(みなとそうざえもん)なる人物が、
「大坂方に味方すれば所領は望み次第に与える」
という内容の朱印状を持って各地を回り高家村(たいえむら=日高郡日高町)志賀村(しがむら=同日高町)などを取りこむ一方で、

名草郡では、山口村(やまぐちむら=和歌山市)の代官=山口喜内(やまぐちきない=易井喜内)の一族や、園部村(そのべむら=和歌山市)園部兵衛井口村(いのくちむら=同和歌山市)和佐半左衛門(わさはんざえもん)などが中心となって、そこに、かつて雑賀(さいが・さいか)を牛耳っていた土橋(どばし・つちはし)(5月2日参照>>)土橋平次(へいじ)も加わって一揆を扇動します。

この時、一揆を主導した彼らは、かつて…あるいは、今現在も浅野家に仕える侍たちでしたが、やはりこの時は、古き土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の侍)の精神を復活させ、より良き待遇へと夢を追ったのかも知れません。

一方の大坂城側では、主将格の大野治長からの指示を受けた家臣=北村善大夫大野弥五右衛門が工作に当たる中、大坂夏の陣を前にした4月、大和(やまと=奈良県)から紀州方面へと南下する使命を帯びた大野治房(はるふさ=治長の弟)を大将とする一軍が編成されます。

この時、進軍の案内役を務めたのが、先の山口村の山口喜内の息子たち=山口兵内 (へいない)兵吉兄弟など、すでに大坂城内に入っていた紀州浪人たちだったとか・・・

とにもかくにも、大坂方が、和歌山城(わかやまじょう=和歌山県和歌山市)を本拠とする浅野長晟(ながあきら=幸長の弟)を含む徳川勢を、南北で挟み撃ちにする作戦であった事は確かでしょう。

とは言え、この作戦がうまく機能しなかった事は、すでに皆様ご承知の通り・・・

その第一歩は、一揆内から出た密告者・・・

慶長二十年元和元年(1615年)4月28日
冬の陣の時の北山一揆の事もあり、領国における危険を感じつつも、徳川家康(とくがわいえやす)からの出陣要請に応えた長晟が和歌山城を出陣・・・しかし間もなく、浅野軍の先発隊が和泉佐野(いずみさの=大阪府泉佐野市)に差し掛かった時に、この紀州における一揆の計画が発覚します。

そう、先の北山一揆もそうですが、一揆が広範囲になるほど、そのまとまりにも綻びが出るもの・・・なんせ、地元民全員が浅野家に不満を持っているわけではなく、中には、浅野の政権下でウマくやっていた一般市民もいたわけですから

こうして、どこかの誰かの密告によって発覚した一揆の計画・・・一説には、「長晟が城を出たと同時に一揆勢が和歌山城を取り囲んで襲撃した」という話もあるようですが、実際には、もし衝突があったとしても小規模な小競り合い程度の物であったであろうと言われています。

なんせ、この計画発覚からわずかの間で、先手として和泉佐野に潜入していた北村善大夫と大野弥五右衛門が捕縛され、かの山口喜内のもとにも捜査が及んだらしく(喜内自身は、この時は逃亡して後に捕縛されたとされる)『駿府記』によれば、この初期の段階で、主要の約30数名がままたく間に捕縛されたようなので、結局は、計画のほとんどが未発のまま鎮圧されてしまったようです。

一方、大坂城側で編成され、紀州方面に向かった一軍は・・・
そう、この一軍の交戦が、翌4月29日の、あの樫井(かしい)の戦いなのです(【豊臣滅亡を決定づけた?樫井の戦い】参照>>)

ご存じのように、大坂方の有力武将のうちの一人=塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)が命を落とす(2010年4月29日参照>>)戦い・・・コチラの大坂城進発側も、指揮命令系統の乱れから、豊臣にとって手痛い敗北となってしまったのです。

日高では、その後も、首謀者の一人である高家村の西村孫四郎なる者らが、徒党を組んで暴れまわり、意に従わない者を斬り捨てながら、
「さぁ、仲間になれ!」
とばかりに村々に触れ回っていましたが、有田郡の広村(ひろむら=和歌山県有田郡広町)あたりまでやって来たところで浅野の討伐軍に出くわします。

それは、かの樫井の戦いの翌日=4月30日の事・・・樫井での戦いを終えた浅野長晟が、すぐさま和歌山城に戻って一揆討伐に取りかかっていたのです。

おそらくは、こんなに早く、一揆討伐軍がやって来るとは思っていなかったであろう一揆勢・・・いや、なんなら、樫井の戦いで疲弊しまくってる浅野軍を、追撃して来た大坂方の武将らとともにコテンパンにやっちゃうくらいのつもりでいたかも知れません。

しかし、上記の通り、樫井の戦いが徳川方の勝利となったために、大坂方からの援軍は期待できず・・・そうなれば、アチラ=戦いのプロを相手に、コチラ=寄せ集めの烏合の衆という構図になり、到底歯が立つワケもなく、日高郡と有田郡の境にある鹿ヶ瀬峠(ししがせとうげ)や、海部郡と有田郡の境にある蕪坂峠(かぶらざかとうげ)などで激突し、多くの大将分が討ち取られ、あるいは追っ払われ、準備不足感が拭えないままの一揆勢は、本家本元の大坂城落城の日=5月7日を待つことなく、ほぼ壊滅状態となってしまいました。

日高での首謀者の一人=湊惣左衛門ほか何名かは逃げ切れたものの、ほとんどの首謀者が梟首(きょうしゅ=さらし首)、あるいは火あぶりの刑に処せられました。

ちなみに、命助かった湊惣左衛門は、大坂の陣終結後、やはり紀州出身の大坂方として最後まで大坂城内にいたものの、落城の際に家康の孫娘=千姫(せんひめ)を連れて脱出した功績?(2月6日参照>>)によって罪を許されて知行を得たとされる堀内氏久(ほりうじひさ)のもとに身を寄せたと言われます。

乱後に浅野家がまとめた史料=『浅野家文書』によると、
日高郡:5ヵ村=252名、
有田郡:4ヵ村=48名、
名草郡:6ヵ村=114名、
那賀郡&伊都郡:1ヵ村=合わせて29名
合計すると
5郡17ヵ村、石高にして約7千石、人数=443名が処刑・・・

前年の熊野・北山一揆と合わせると49ヵ村、806名もの者が処分された事になります。

以後、江戸時代を通じて、小さな百姓一揆などは起こるものの、これまでのような大規模な一揆が、この紀州に起こることはありませんでした。

群雄割拠して暴れまわった中世の土豪たちから、その血と心意気を受け継ぎ、信長にも屈せず、秀吉にも抵抗し、度々やって来る中央政権の者たちを「中にも紀州は一揆所…」と恐れさせた紀州一揆は、これにて終焉を迎える事となったのです。

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

★大坂夏の陣、
紀州一揆の前後の流れ~関連ページ

慶長二十年=元和元年(1615年)
●4月26日:【大和郡山城の戦い
●4月28日:紀州一揆
●4月29日:【樫井の戦い】
●5月1日:大坂方が平野に出陣】
●5月6日:
 【道明寺誉田の戦い】
 【若江の戦い】
 【八尾の戦い】
●5月7日:落城
 【大坂城総攻撃】
 【天王寺口の戦い】
●5月8日:豊臣秀頼(ひでより)ら自刃
 【渡辺糺と母・正栄尼の最期】
 【大坂城落城&秀頼生存説】
●さらに詳しくは【大坂の陣の年表】>>でどうぞ)
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2017年1月 6日 (金)

真田信繁の討死~そして幸村伝説へ…

2017coco
明けましておめでとうございます。

新たな年に、新たな気持ちで、
本年も、どうぞ宜しくお願いしますm(_ _)m

と言いながら、新年一発目は真田信繁(のぶしげ=幸村)のお話・・・

思いっきりの『真田丸ロス』を引きずりながら・・・というワケでは無いですが、今年の大河ドラマが始まって、脳内が井伊直虎(いいなおとら)に切り替わる、その前に、以前から思っていた事を、チョコッと吐露させていただきたいと思います。

それは、昨年の大河の主役=真田信繁の最期について・・・

もう、タイトルにしちゃってますので、先に結論を言わせていただきますと、私、個人的には、この信繁の最期が「討死」であった事こそが、後に伝説のヒーローと化していく大きな要因だと思っております。(もちろん、それだけが要因ではありませんが…)

残念ながら、昨年の大河では、安居神社っぽい場所で、信繁が腹に刃を当て、佐助が介錯するべく刀を振り上げる場面からの、別シーン・・・となっていて、自刃したのやら?してないのやら?が曖昧で、おそらくは「その後は想像してみてね」てな事なのでしょうけど・・・

あ・・・くれぐれも誤解の無いように、またまた言わせていただいときますが、私は、ドラマはドラマなので創作は大いにあって良く、大河ドラマとて史実に忠実である必要は無いと思っております。

そもそも、その史実自体が、どこまで真実に近いのか?、誰も確認する事ができませんし、その史実という物も、あくまで「こうであろう」という「現段階での最も納得のできる仮説」でしか無いわけですから・・・

しかも、史実の通りだとテンションだだ下がりになるエピソードもあるので、そこは文字通り、ドラマではドラマチックに描いていただきたいです。

たとえば、今回の大河で、
「総大将の豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)の出馬をうながす命を帯びて、信繁の息子=真田大助(だいすけ=幸昌)が大坂城内へと向かうも結果的に秀頼とともに自刃する」という『大坂御陣覚書』等に残るエピソードがありましたが、一方では(信繁は息子を大坂城へ)人質として差し出したる」と、信繁が裏切らないように、大坂方が人質として取っていたとする文書も複数あります。

また、信繁が、道明寺・誉田の戦い(4月30日参照>>) での戦いぶりで、その器量の大きさを感じた伊達政宗(だてまさむね)に、娘の阿梅(おうめ)を託すシーンがありましたが、これも、実は、阿梅は逃げる途中で伊達家の片倉重長( しげなが=片倉景綱の息子)の家臣からの「乱取り(戦時における略奪)」に遭って連れ去られ、そこで下女として働いていたところ、後日、信繁の娘である事が発覚したので、重長の後妻となったという話が有力です。

だいたい、なんの盟約も無い中、戦場にて「その戦いぶりを見て信頼を置く」からの「(戦いのあった日の夜に)阿吽の呼吸でその敵の娘を預かるもしくは預ける」なんて事は、実際問題として、かなりハードル高いですから、おそらく史実は後者=「乱取り」であろうとの見方が強いんです。

いずれにしても、何が史実に近いのかはわかりかねるものの、やはりドラマでは、大助は父の命を受けて颯爽と大坂城へ戻っていて欲しいし、阿梅ちゃんはやさしい独眼竜が保護してくれた方が、見てる側はウレシイです。

なので、ドラマに対してどーのこーの言う気は毛頭ございませんが、今回の大河の場合・・・
ドラマの主人公の名を、有名な幸村ではなく、あえて「信繁」にした事や、逸話の端々に、新説やマニアックなシーンを織り込んだ事などで、「今回の大河は史実に近い」あるいは「これこそ史実だ」と思っていらっしゃる方も多いと聞きます。

そもそも、ドラマや小説などでは、秀逸な創作ほど「本当の事だ」と思ってしまう視聴者&読者が多く、いまや完全に小説のイメージがついてしまった坂本龍馬(さかもとりょうま)を見て、晩年の司馬遼太郎氏が「私は読者をミスリードしてしまったかも知れない」とポツリとつぶやかれた・・・なんて噂も耳にします。

この噂は、とある歴史系雑誌で読んだだけなので、どこまで正しい話かは不明ですが、もしも本当に司馬氏が、そのような事をおっしゃたのだとしたら、注意しなければならないのは読者の方ですよね?

司馬氏は、あえて本当の坂本龍馬本人が、その生涯で1度も使用しなかった「坂本竜馬」という表記(「龍馬」「良馬」「りょうま」の表記は使用してます)の人物を、自らが理想とする主人公として最高にカッコよく描いただけなのですから・・・

そういう意味でも、小説やドラマと歴史は分けて考えないといけないと思います。

てな事で、やっと本題に入りますが・・・(←今まで、本題ちゃうかったんかい!!(゚ロ゚屮)屮)

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信繁の最期の地とされる安居神社(大阪市天王寺区)…くわしい場所は本家HP「京阪奈ぶらり歴史散歩」上町台地で>>

今回の大河ドラマの中での信繁最期のシーン・・・確か、ドラマ内では、その場所は特定されていなかったように思いますが、上記の安居神社の写真と、ドラマの信繁最期のシーンを見比べていただければお解りの通り、セットの雰囲気はどっからどう見ても、完全に、この安居神社です。

もちろん、実際に、この安居神社は「信繁最期の地」と言われていますので、ドラマのスタッフさんも、その点を意識してセットを作られたのでしょうが、もし、本当に、ドラマ内の設定でも、ここが安居神社なのだとしたら、「安居神社で信繁が自害」という流れは、史実としては多分無いように思います(←個人の感想です…安居神社では無く別の場所なら、もう少し可能性高いかも)

信繁最期のシーンの可能性としては・・・
1、安居神社で討死
2、別の場所で自害
3、遠くに逃げた

この中の「1」については、先日の【日本史の新発見&発掘…2016年総まとめ】のページ>>にも書かせていただいた通り、2016年の10月に福井県立図書館にて、「自分が槍を交えて討ち取りました」と記した本人の手紙の写しが発見されて、以前からあった説を後押しする形となっていますが、
それが・・・
「戦いに疲れた信繁が安居神社で休憩していたとこに偶然通りがかった、松平忠直(まつだいらただなお=家康の孫で後の越前藩主)の家臣=西尾宗次(にしおむねつぐ=仁左衛門)によって討ち取られたという説。

上記の通り、討ち取ったご本人の手紙の写しが発見されたのは昨年ですが、「西尾が安居神社で討ち取った話」自体は、『大坂御陣覚書』『落穂集』、合戦報告として記録された『越前兵首取状』諸将の手紙など、他にも数多くの史料に登場・・・てか、信頼できる史料としては、ほぼほぼ、この「西尾が安居神社で討ち取った話」しか出て来ません(希少ながら討死した場所が生國魂神社近くとの史料あり)

なので、現在のところ、この「安居神社で討死説」が突出して有力なのですが・・・
なら、なぜ?「2」や「3」の説が出て来るのか?と言えば・・・実は、「誰も信繁の顔を知らなかった」=つまり、なかなか本人確認できなかった、プラス、討ち取った西尾という人が有名人じゃ無かったために、「ホンマかいな?」という雰囲気ムンムンだったのですよ。

なんせ『武邊咄聞書』には、
「西尾が、たまたま討ち取った武者を鼻にしよう(大きな合戦の場合、討ち取った武将の首を持ってるとかさばるので耳や鼻を落として討ち取った証拠として持ち帰る)としていたところ、近くを通りがかった真田信尹(のぶただ=信繁の叔父)が「それ、僕の甥っ子の信繁かも知れん…前歯2本抜けてるやろ?近くに兜は無かったか?」と聞くので、歯を確認し、そばにあった兜を見せたところ、「この兜!やっぱ信繁や!」となって、首ごと家康の所へ持って行ったとあります。

また『落穂集』では、
「絶対、まともに戦って無いて…仁左衛門ごときが討ち取れる相手やないやろ!
と言われ、

合戦の1週間後の5月15日付けの細川忠興(ほそかわただおき)の手紙では、信繁の戦いっぷりを「古今無之大手柄」と褒めちぎった後に、
「アイツ(西尾)、絶対、もう倒れて動けんようなってる所に近寄って首取ったに違いないわ!そんなん手柄として認めたらアカンで!」
と散々な言われよう・・・

さらに『真武内伝追加』には、
「西尾が首を差し出した時、周囲はもちろん、家康自身も信繁の顔を知らなかったため、それが信繁かどうか確認できず、例の真田信尹を呼んで来ますが、「いやぁ、僕、生きてる時の信繁しか知らんので、死んだ顔ではよーわかりませんわ」との言い訳に、家康は激おこだった\(*`∧´)/」
とか・・・

なので、安居神社で討たれたのは別人・・・もしくは(兜がホンモノとの事なので)影武者ではないか?

・・・となって、「2」と「3」の説も可能性はあるとなるわけですが・・・

とは言え、上記の通り、安居神社にて誰かが討ち取られた事は確かなようなので、もし、信繁が自害しているとすれば別の場所という事になるのですが、不肖私、「自刃かも」という説もあるとは聞いておりますが、その出典が何なのか?どの文献に記されているのか?を存じ上げませんので、その事について、今ここで言及する事は避けさせていただいときます。

・・・で、「3」は皆様ご存じの、鹿児島への逃亡説

これは、やはり『真武内伝追加』に、例の
♪花のようなる秀頼様を
 鬼のようなる真田がつれて
 退きものいたり加護
(かご・鹿児)島へ♪
の歌とともに、船に乗って逃げる様が記されています。

また『先公実録』にも、
「鹿児島の南の谷山村という所に秀頼公の子孫がいる」
てな事が書かれています(2007年5月8日の後半部分参照>>)

とは言え、やはり「2」と「3」は、あくまで噂の域を越えないわけで、かくいう私も「安居神社で討死説」だと思っているわけですが・・・

そうなると、ふと思うのは、大坂の陣における、いわゆる「七人衆」などと呼ばれる大坂方の有名武将の中で、慶長二十年(1615年)5月7日最終決戦=天王寺口・岡山口の戦い(2015年5月7日参照>>)で討死したのは、信繁だけだという事・・・上記の通り、歴史上は未だ謎がありますが、少なくとも、当時の徳川方の武将は討ち取ったと思っていたはずなので…

七人衆(-信繁で=残り6人)のうち
後藤又兵衛基次(またべえもとつぐ)木村重成(しげなり)は、それぞれ前日の、又兵衛は上記の道明寺誉田の戦いで、重成は若江の戦い(5月5日参照>>)で戦死しているので、この最終決戦の時にはいない・・・

で、残った4人のうち、毛利勝永(かつなが)は、その日、信繁と同じく家康本陣に突入しながらも、その後の撤退戦で殿(しんがり)を努めて大坂城へと戻り、秀頼や、その母=淀殿(よど=茶々)、主将格の大野治長(はるなが)ほか、城中の皆々とともに自刃(4月24日の後半部分参照>>)・・・

大坂城炎上のドサクサで城を脱出した長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は後に捕縛され処刑(5月15日参照>>)・・・

同じく、大坂城から秀頼の息子を連れて脱出した大野治長の弟=大野治房(はるふさ)途中で捕まって処刑(【秀頼の二人の息子】参照>>)・・・

唯一、死亡が確認されていない行方不明の明石全登(あかしたけのり・てるずみ=景盛)(2012年5月8日参照>>)・・・

もちろん、5月7日の最終決戦は多くの戦死者が出てますから、信繁以外にも、あの仙石秀久(せんごくひでひさ)(9月18日参照>>)の息子の仙石秀範(ひでのり)や、結城秀康(ゆうきひでやす)の元家臣=御宿政友(みしゅくまさとも=勘兵衛)などの有名どころも、この日の最終決戦で討死してますが、やはり、七人衆とはインパクトが違う?(←ファンの方スンマセンm(_ _)m個人の印象です)

先ほどの細川忠興の手紙なんかでも、「木村・後藤・薄田(隼人=道明寺で討死)・明石…いづれも比類無き働き」と褒めながらも、彼らとは別の場所に「真田左衛門佐、古今無大手柄」と例の一文を記していますし、信繁ageの代名詞とも言える「真田日本一の兵(つわもの)(6月11日参照>>)島津忠恒(後の家久)の手紙などに代表されるように・・・何となく別格の雰囲気を醸し出してる感ありますよね?

当然ですが、信繁には例の真田丸の攻防(12月4日参照>>)をはじめとする数々の比類なき武功があった事は確かで、私自身も、それらの功績を絶賛する者の一人ではありますが、やはり、彼ら徳川方の「古今無之大手柄」「真田日本一の兵」という、別格のような褒め言葉が、後世の私たちの「真田スゴイ!」の印象に拍車をかけているような気がするのです。

しかし、そんな徳川方の武将たちによる褒め言葉・・・
イケズな見方をさせていただくと・・・
そのウラには「そんな強いヤツに、俺らは勝った」=「討ち取った」という気持ちが見え隠れしているんじゃないか?と・・・

厳しいようですが、やはり生き馬の目を抜く戦国乱世・・・
あの誉めまくりには、「本拠に戻って自刃した」のと「逃亡後に捕縛されて処刑された」のとは違う、「戦場で討ち取られた」という最期があったからなのだと思います。

そして、諸将から称賛された信繁像が、年月が経つうち、戦場に散った潔さとともに、さらに美しくカッコ良く軍記物に描かれ、猛将=信繁は、英雄=幸村へと変化していき、そして、伝説となったと・・・

なので、私の個人的な思いではありますが・・・
やはり、信繁には、
「最後の最後まで生きる事を諦めない」
「槍の、刀の、最後の一振りまで戦う」
武将であってほしい
と・・・

そして、その討死の姿があったからこそ、日本一の兵=真田幸村なのだと思っているのです。

年始早々の長文、最後まで読んでくださってありがとうございましたm(_ _)m
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2016年12月12日 (月)

ドラマでは描かれない豊臣方~熊野・北山一揆in大坂の陣

慶長十九年(1614年)12月12日、大坂冬の陣に連動した紀州での大規模一揆=熊野・北山一揆での戦闘がありました。

・・・・・・・・・・

大河ドラマ「真田丸」残すところ最終回のみ・・・まさに1番の盛り上がりを見せていますね。

何年か前の「姫たちの妄想」「愛の兜の人」よりは、なかなかに見応えのある今年の「真田丸」ではありますが、個人的にちと残念なのは、大詰めを迎えた大坂の陣での場面のほとんどが大坂城内や浪人衆ばかりで語られていて、一般市民がほぼほぼ登場しない事・・・
(大坂の陣全体のアレコレについては「大坂の陣の年表」>>で、それぞれご覧あれ)

皆様もご存じの通り、本来の大坂の陣は、戦国屈指の市街戦で、多くの一般市民が関与もし、犠牲にもなった合戦・・・

確かに、にぎやかだった範囲は、現在の大阪ほど広くは無かったでしょうし、都だった京都よりは人も少なかったかも知れませんが、合戦の舞台となるのは、当時は首都にも匹敵する政治の中心だった大坂城なわけで、すぐそばに武家屋敷や一般の家屋が建っていたし、城の近くには、賑やかな市も立っていたわけですから、当然、一般市民も否応なく巻き込まれていく・・・いや、巻き込まれざるを得ない状況だったと想像しています。

Ca3e0035a800 新鴫野橋から見た大阪城天守閣

まぁ、そこのところは、
街中だと、合戦シーンが原っぱというワケに行かずセットを作らねばならない=予算の都合もあり、出演される俳優さんやエキストラさんの都合もあり、放送の時間の都合なんかもあって、どうしてもドラマで描かれる範囲は限られてしまうわけで・・・一般市民なんざ描きだしたらキリが無いですからね。

ただ、そのために、大坂城が孤立無援で、集まった浪人たちが「死に場所を探してる」的な描き方や、「負け戦に挑み鮮やかに散る事を望む」みたいな雰囲気ばかりがドラマの中で強調されるとしたら、私的にはちょっと・・・(;ω;)
まぁ、それも、
ドラマとしてはそっちの方が、文字通りドラマチックなので仕方ないですかねぇ~(*^-^)

とりあえずは物語として面白く、その世界の中で辻褄が合っていればドラマとしてはOKだと思いますが、やはり実際には、戦国武将という人たちは最後の最後まで「勝つ方法」を模索して戦いに挑んでいたんじゃないかな?と思ってます。(←あくまで個人の印象です)

そして、その、わずかながらの勝算の影には、歴史には記録されない&数も把握できない一般庶民という強い味方がいたわけで・・・

もちろん、そんな数を把握できない味方は城下に住む一般市民だけでなく・・・そう、この時、紀州(きしゅう=和歌山県)吉野(よしの=奈良県南部)で、豊臣方の強い味方となったのが、今回の熊野・北山一揆(くまの・きたやまいっき=紀州一揆とも)です。
(浅野家側の記録では、この後の夏の陣と同時発生の一揆と合わせて紀伊国一揆と呼ばれます)

以前、この後の大坂夏の陣での樫井(かしい=泉佐野市)の戦いのページ(4月29日参照>>)でも書かせていただきました通り、もし大坂城から出馬する武将たちが、この樫井で勝利し、紀州の一揆勢が北へ北へと進む事ができていたなら、ひょっとして大坂方の勝利になっていたかも・・・

ブログで、何度か書かせていただいております通り、身も心も大坂方な私=羽柴茶々としましては、この大坂の陣の直前でも、豊臣家が一大名に成り下がっていたとは思いたくないのですが(5月10日参照>>)、文献として残っている事は事実ですので、仮に200年後の徳川幕府がおっしゃる通り、この時の豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)さんの領地が、摂津(せっつ=大阪府北部)河内(かわち=大阪府東部)和泉(いずみ=大阪府西南部)の三ヵ国だけであったとしても、なんだかんだで紀州はその隣国となるわけですから、

いざ合戦となれば、大坂城のたった一つの弱点である南側(12月4日参照>>)から攻撃を仕掛けたい徳川家康(とくがわいえやす)にとっては、さらに南の紀州から北上する彼らは、もしかして挟み討ち?となるわけで、これはかなりの脅威・・・とは言え、世の中、そうそう予定通りにいかないので、ご存じの結果なわけですが(*´v゚*)ゞ

とにもかくにも、
おそらくドラマでは、描かれないであろう熊野・北山一揆・・・

熊野(くまの)というのは、ご存じ、世界遺産の「熊野古道」「熊野三山(くまのさんざん=熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)で有名な、現在の和歌山県の東西牟婁郡(むろぐん)新宮市(しんぐうし)田辺市(たなべし)など、他にも三重県の一部を含む、あの広範囲の地域の事。

北山(きたやま)は、現在の和歌山県と奈良県の県境にある奈良県吉野郡上北山村下北山村の北山で、当時も熊野は紀州に属し、北山は吉野に属していたわけですが、両者は、大台ケ原を源流とする北山川が途中で熊野川と合流し、紀伊半島南端の熊野灘(くまのなだ)に注ぐという関係から、かなり古くから良質な木材の生産&運搬という交易ルートが構築されており、ともに強い絆で結ばれた地域だったのです。

しかも、この一帯は、先日の「安宅一乱(あたぎいちらん)のページ(11月4日参照>>)に書かせていただいたように、長きに渡って地元の豪族や国人領主が群雄割拠していた場所で、豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)紀州征伐(きしゅうせいばつ)(3月28日参照>>)を終えた後も、太閤検地(たいこうけんち)(7月8日参照>>)などに反発して度々一揆を起こしていた反骨精神バリバリで、なかなかの武装集団だったのです。
(ちなみに、豊臣政権下の天正十四年年(1586年)8月にも大きな一揆が勃発しており、コチラも「北山一揆」という名称なのでご注意を…)

んん?って事は・・・
彼らは、自分たちが直で治めていた場所を、天下統一の名のもとに、秀吉に力づくで、その特権を奪われた形になっているわけなので、本来なら豊臣=大坂方の敵なのでは?

と思ってしまいますが、そこはそう・・・
彼らとて、もはや戦国の世も終焉に向かいつつあるのは重々承知で、今さら以前の群雄割拠の時代には戻れない事もお察し・・・

と、なると、自分たちが直で統治する事は無理でも、現段階で望める最も良い形で、何とか少しでも待遇が良くならないものか?と考えるのが人の常・・・

で、当時、紀州の統治を任されていたのは・・・
先の安宅一乱のドサクサで那智を掌握し(先の1月4日参照>>)、安土桃山=織豊時代に熊野水軍を率いた堀内氏堀内氏善(うじよし)が、あの関ヶ原で西軍についてしまったために没落・・・逆にその関ヶ原で東軍についたおかげで、戦後に紀伊国和歌山37万6千石を与えられたのが浅野幸長(あさのよしなが)で、この大坂の陣当時は幸長の死亡を受けて、その弟の浅野長晟(ながあきら)が治めていたのです。

つまり東軍=徳川方の武将が紀州を治めていた・・・

なので、現状を打開したい彼らにとっては、今を変えてくれそうな方に味方したいし、敵の敵は味方だしで、豊臣に気持ちが傾くわけで・・・まぁ、彼ら熊野&北山の国人たちの心の内は記録には残っていませんから、あくまで推測ですが・・・

そんな中、豊臣VS徳川の不穏な空気が出始めたタイミングで、先の関ヶ原での敗戦を受けて浅野家の配下に組み込まれていた、かの堀内氏善の息子たち=堀内氏弘(うじひろ=新宮行朝=兄・叔父の説あり)氏久(うじひさ=弟)兄弟が、浅野家を出奔(しゅっぽん)して大坂城へと入るのです。

ほどなく、大坂方の主将格である大野治長(おおのはるなが)(12月16日参照>>)が、ここ熊野&北山に援軍要請の使者を送るって来るのです。

浅野家の史料『浅野考譜』には、この時、大坂城内からの命を受けて、熊野&北山の村々の触れ状を回した者は堀内大学という者だった事が記録されていますが、状況を見る限り、この人物は上記の堀内兄弟の縁者でしょう。

もともとは新宮を本拠した国人出身である堀内の縁者が、おそらく、彼ら=紀州の国人たちが魅かれるような好条件をチラつかせて彼らを誘ったわけで・・・

かくして慶長十九年(1614年)12月、豊臣方となった熊野&北山の国人&土豪(どごう=半士半農の地侍)たちは進軍を開始するのです。

もちろん、対する浅野家も、この状況を、ただ見ているわけではありません。

浅野家としては居城である和歌山城(わかやまじょう=和歌山県和歌山市)を本城に、田辺城(たなべじょう=和歌山県田辺市)新宮城(しんぐうじょう=和歌山県新宮市)を支城として、それぞれに一族の者を配置して守りを固めますが、実はこの時、当主の浅野長晟も、そして新宮城を任されてる浅野忠吉(あさのただよし)も、すでに先月の11月から勃発している大坂冬の陣に出陣中・・・

Oosakanozinkitayamaikki
「大坂の陣~戦いの経過と位置関係図」
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(この地図は位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。背景の地図は
 「地理院」>>よりお借りしました)

ちなみに、この頃の大坂冬の陣とは・・・
11月16日:【博労淵・野田・福島の戦い】>>
11月26日:【鴫野・今福の戦い】>>
12月4日:【真田丸の攻防】>>
などがありますが・・・もちろん、熊野・北山一揆の彼らからすれば、その手薄な所を狙ったわけです。

そんな中、まもなく一揆軍が迫って来る事を知った新宮城の留守を預かる城代の戸田勝直(とだかつまさ)は、とりあえず様子見ぃで、鉄砲隊の4~50名を最先端へ派遣しますが、彼らは、
「ムリっす!ムリっす!(´Д`;≡;´Д`)」
と、とても少人数で防御しきれないと、交戦せずに戻って来てしまいます。

この時、一揆軍を率いていたのは・・・
と、実は一揆という性質上、はっきりしたリーダーは不明なのですが、記録では、「大昔に役行者(えんのぎょうじゃ=役小角)(5月24日参照>>)の配下となった鬼の子孫」と称する五鬼前鬼鬼五郎鬼助などと呼ばれていた複数(もしくは一人)の山伏だったとされています。

彼らが仲間の山伏に声をかけると同時に、関ヶ原で敗れて浪人となっていた者も加わって、周辺の村々に
「勝利のあかつきには山林や田畑を分配するゾ!」
と宣伝して回り、また、村の中に一人でも参加しない者がいると
「こんな雰囲気の中で、お前らだけ参加せーへんって、アリや思てんの?」
と、ちょっと脅しをかけたりしたおかげで、おそらくは、かなりの人数が集まっていたのでしょう。

「これは…ゲロヤバやん!!!(゚ロ゚屮)屮」
と思った勝直は、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ=新宮)社人を味方に引き入れたり、周辺住民から人質をとってその家族らを徴兵したり、新宮城下町の要所に柵を設けて防戦を張り、熊野川につないであった舟という舟をすべて城下に引き入れて・・・と、もはや、なりふりかまわず打つ手はすべて打って準備を整えました。

その間に一揆軍は、大里村(三重県南牟婁郡)に集結し、一路、熊野川を挟んでの新宮の対岸となる鮒田村(同じく南牟婁郡)に到着しますが、川を渡ろうにも舟が一隻もありません。

上記の「熊野川につないであった舟という舟をすべて城下に引き入れて・・・」という勝直の作戦が功を奏したわけですが、もちろん、一揆側もこの事は予想しており、仲間に、あらかじめ舟の手配をするよう命じていたのですが、その仲間が裏切って、舟の手配もせず、川に1隻も舟が無い事も伝えず、すでに逃げてしまっていたのです。

やむなく、対岸の浅野の守備兵に対して、川越しに鉄砲を撃つと同時に自力で筏(いかだ)など組みはじめる一揆軍・・・

そんなこんなの慶長十九年(1614年)12月12日、一揆軍が渡河の準備をしている間に、新たな援軍を得た浅野勢は、正面の対岸&海側&山側の三ヶ所から、一気に襲いかかり、完成寸前だった筏を壊して若干名を討ち取り、一揆勢を蹴散らしたのです。

多くの土豪や国人が一揆に賛同したのと同時に、現政権である浅野家の味方になった者も少なからずいたのですね。

もちろん、
「これで終わるか!」
と態勢を立て直す一揆軍でしたが、ご存じの通り、12月19日には大坂にて和睦が成立(12月19日参照>>)・・・大坂冬の陣が終結となってしまいます。

陣中にて熊野・北山一揆の一報を聞いていた浅野長晟は、この和睦が成立したと同時に、家康の指示を得受けて帰国・・・12月24日もしくは25日に、本隊を率いて本拠の和歌山城に到着し、休む間もなく、一揆の討伐に出陣します。

大きな戦闘があったのは12月27日、大沼村(東牟婁郡北山村)付近とされています。

山育ちの一揆軍の者たちは鉄砲のウデも確かな物ではありましたが、全神経を集中して追う浅野勢は、何たってプロの武装集団・・・しかも、その人数もハンパなく多く、結局のところ、一揆勢は散り々々になって山中へと逃げるのが精いっぱいでした。

その日、捕縛された者は360余名にのぼり、翌年の1月には全員が処刑されたのだとか・・・

こうして、大坂冬の陣に連動した熊野・北山一揆は、勃発から約1ヶ月ほどで終了してしまうものの、彼らは、翌年の大坂夏の陣に連動して、またまた一揆を繰り広げる事になるのですが、この時は、有田や日高をはじめとする和歌山城に近い民衆を中心に・・・となるのですが、そのお話は、4月28日【大坂夏の陣~樫井の戦いに連動した紀州一揆】のページ>>でご覧いただくとして・・・

最後に、今回の一揆の先導者とも言える堀内兄弟についてチョコッと・・・

この大坂の陣では、残党狩りが非常に厳しく、討死を免れるも捕縛された大坂方の武将はことごとく処刑されていたので、本来なら、処罰を受けるはずの彼らですが、実は、秀頼の正室である千姫(せんひめ=家康の孫・秀忠の娘)を連れて、燃える大坂城を脱出(大野治長の命であったとされる)したのが、この堀内兄弟の弟=氏久だった(2月6日参照>>)とされているのです。

そのおかげで、彼は大坂方だったにも関わらず、戦後に下総国内に500石を与えられ、おそらく、その弟の功績により、兄の氏弘も、一旦は捕縛されるものの、後に罪を許されて、藤堂高虎(とうどうたかとら)の家臣となって生きのびたという事です。
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2016年10月10日 (月)

関ヶ原余波~西軍・田丸直昌の岩村城が開城

慶長五年(1600年)10月10日、関ヶ原の戦いで、西軍に属していた田丸直昌が城主を勤める岩村城を、東軍が接収しました。

・・・・・・・・・・・・

またまたの関ヶ原で恐縮ですが・・・
(合戦への経緯は【関ヶ原の戦いの年表】でどうぞ>>)

伊勢(いせ=三重県)の名門=北畠氏の一族で、もともとは田丸城(たまるじょう・三重県度会郡玉城町)の城主だった田丸直昌(たまる なおまさ)でしたが、かの織田信長(おだのぶなが)伊勢侵攻(11月25日参照>>)にて信長傘下となった後、蒲生氏郷(がもううじさと)(2月7日参照>>)の娘と結婚した縁から、豊臣秀吉(とよとみひでよし)政権下では氏郷の与力として活躍し、慶長五年(1600年)の関ヶ原勃発当時は岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)の城主でありました。

この時、直昌は、会津征伐(4月14日参照>>)として東北に向かった徳川家康(とくがわいえやす)軍に従軍していましたが、例の石田三成(いしだみつなり)らの伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)攻撃(8月1日参照>>)を知った家康が、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にてUターンする決意を表明した事を受けて、直昌は西軍に属すべく、心を同じくした苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)城主の河尻秀長(かわじりひでなが)とともに、すぐさま家康軍と決別して領国へと戻り、家老の田丸主水(もんど)に留守を頼んで、自らは大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)へと向かったのでした。

とは言え、留守を預かる主水も、ただただ城を守っているわけではなく、当然、このスキに、敵対する近隣の諸城の攻撃に向かいます。

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岩村城攻防における関連諸城の位置関係図(背景地図は地理院>>からお借りしました)

まず向かったのが妻木頼忠(つまきよりただ)妻木城(つまきじょう=岐阜県土岐市)・・・主水からの攻撃を受けた頼忠は、逆に撃って出て、田丸領に放火したり、直昌の支城である明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)を攻略しようと試みます。

その事を知った家康は、ともに豊臣政権下でのゴタゴタで、自らの城を失っていた、かつての両城主である明知城の遠山利景(とおやまとしかげ)と、小里城の小里光明(おりみつあき)を呼び寄せ、頼忠への支援をしつつ、両城の奪回を命じたのでした。

明知城の利景、小里城の光明、さらに、ここに、去る8月16日に上記の河尻秀長の苗木城を落とした(8月16日参照>>)遠山友政(ともまさ)も加わった三将は、8月末頃から両城への攻撃を開始し、9月2日に明知城、翌3日に小里城の奪回に成功しています。

そんな中、9月15日の関ヶ原本戦の結果報告が、この岩村城にも届きます。

言うまでもなく、東軍の大勝利!(2008年9月15日参照>>)・・・が、しかし、留守を預かる主水は
「例え西軍が敗退したとしても、主君の指示があるまでは、この城を死守する!」
と、東軍に城を開け渡す事をヨシとせず、徹底抗戦の構えを見せます。

この状況に、家康はあらためて、かの三将に岩村城の攻撃を命令・・・10月9日、約500の兵を率いる友政は、岩村城の北にあたる阿木(あぎ)飯羽間(いいばま)方面に、約300を率いる利景&光明は城の南側にそれぞれ布陣し、守る主水は300余騎の手勢とともに死を覚悟しての籠城に入ります。

ただ、この岩村城は、なかなかに険しい山間部に築かれており、大軍の移動がかなり難しく、猛攻撃しようにも思うようにはいかず・・・

結局は、包囲して監視しつつ、この先の作戦を練る状況になってしまうのですが、ちょうどその時、関ヶ原での結果を受けて、すでに東軍に降伏していた主君=直昌の
「今や東軍に抵抗して自滅している場合では無いで!犠牲を最小限に抑えて開城して、君らも生き延びるように…」
との命令が、岩村城へと届けられました。

そこで主水は、大将の友政に使いを出し、
「開城して退去する決意を固めました。
その後は剃髪して高野山に入るつもりですが、いかんせん長期の籠城で貯えも底を尽いてしもて、旅費がおませんので、ちょっとだけ融通してもらえませんやろか?
それと、さすがに白昼堂々と城を出るのはカッコ悪いんで、夜に退出しよかと思てますねんけど、国境までの警備もよろしくお願いします」

と・・・

友政もこの申し出を快諾・・・まずは、女子供の80余人ばかりを城から退出させた後、夕方からは下級の者たち全員を立ち退かせ、夜になってから、主水主従をはじめとする主だった者たちが退去・・・

こうして慶長五年(1600年)10月10日、主水らが夜陰にまぎれて西美濃方面へと落ちて行き、岩村城が東軍に明け渡されたのでした。

その後の岩村城は、しばらくの間は友政が預かった後、翌慶長六年(1601年)正月に松平家乗(まつだいらいえのり)が2万石で入りました。

一方、前城主の直昌は、関ヶ原では大坂城の守備についていただけで、現地には行っていなかったおかげでか、命は助かったものの、お家はお取り潰しで本人も流罪・・・越後(えちご=新潟県)堀秀治(ほりひではる=堀秀政の息子)に預けられて、その越後で余生を過ごし、関ヶ原から9年後の慶長十四年(1609年)、76歳の生涯を閉じたという事です。
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2016年10月 2日 (日)

九州の関ヶ原~富来城が開城

慶長五年(1600年)10月2日、九州の関ヶ原と呼ばれる一連の合戦で富来城が開城しました。

・・・・・・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した豊臣家臣団の亀(3月4日参照>>)を利用しつつ五大老筆頭として主導権を握る徳川家康(とくがわいえやす)と、その主導権の握りっぷりに不満を抱いた五奉行の一人の石田三成(いしだみつなり)の対立に端を発した天下分け目の関ヶ原の戦い・・・・

先日も書かせていただきましたが、この関ヶ原の戦いは慶長五年(1600年)9月15日の本チャンの関ヶ原だけでなく、その前後には様々な合戦があったわけですが、それは、このドサクサで領地を増やそうとしたり、失っていた旧領を回復しようと奔走した武将たちの戦いでもあったわけで・・・
(くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】でどうぞ>>)

その中での九州での諸将の動き・・

まず、行動を起こしたのは、西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)から声をかけられた大友義統(よしむね)でした。

この義統は、豊後(大分県)の王と呼ばれた大友宗麟(そうりん・義鎮)の息子ですが、この頃は浪人の身・・・輝元を通じて、大坂城の豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)から勝利したあかつきには、豊後一国を回復する確約を取り付けての参戦でした。

手始めに、家康と行動を共にしている細川忠興(ただおき)杵築(きつきじょう=木付城・大分県杵築市)をターゲットとする義統ですが、ここで九州における東軍として腰を上げたのが豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)にいた黒田如水(じょすい=黒田官兵衛孝高)でした。

9月9日に中津城を出陣した如水は、竹中重利(たけなかしげとし=竹中半兵衛の従兄弟)高田城(大分県豊後高田市)を開城させ、その足で、西軍に属する垣見一直(かきみかずなお・家純)富来城(とみくじょう=大分県国東市国東町)熊谷直盛(くまがいなおもり)安岐城(あきじょう=大分県国東市安岐町)を囲みます。

が、しかし、この同じ日に大友勢が杵築城への攻撃を開始(9月10日参照>>)・・・杵築城ピンチの知らせを聞いた如水は城の救援を優先し、富来城と安岐城にわずかな囲みの兵だけを残して、一路、杵築城へと向かい、9月13日、両者は石垣原でぶつかります。
関ヶ原で天下を狙う第三の男】参照>>
【豊後奪回を狙う男・大友義統石垣原】参照>>)

Kitukikoubousenjpgcc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この石垣原に勝利した如水は、すぐさま取って返して富来城&安岐城への攻撃を再開するのです。

この時、両城の城主は二人とも、関ヶ原現地の大垣城(岐阜県大垣市郭町)(8月10日参照>>)に詰めていて留守・・・

9月17日、まずは安岐城を包囲した如水は、留守を預かる城将=熊谷外記(げき=直盛の叔父)投降の呼び掛けをします。

実は、先日の最初の包囲の時の攻撃で、一旦は如水が勝利していたため、もはや安岐城が落ちるのも時間の問題となっていた状況でしたので、今回の再度の包囲で「城兵の罪を問わない」「自由に退去して良い」という条件出したところ、城内は一気に開城へと傾き、それを受けた外記も、すんなりと無血開城を承諾したのでした。

ただし、ここで「自由に退去して良い」とした城兵のほとんどは、そのまま如水の軍に加わり、東軍となって次の富来城へ・・・

上記の通り、この富来城も城主が留守だったため、城代の垣見利右衛門(りえもん)が、わずかな城兵だけで守っていましたが、この富来城は北と東が海に面し、南に流れる富来川が堀の役割を果たす天然の要害で、なかなかに攻めるに難しい城・・・

何度が総攻撃を仕掛ける如水ですが、一向に落ちる気配はなく、長いこう着状態が続きます。

そんな中、海から富来城へ近づこうとした1隻の船を、如水側が拿捕します。

そして、その船から1通の密書を発見するのです。

その手紙は、富来城城主の一直から、留守を預かる利右衛門に宛てた物・・・そこには、関ヶ原で西軍が敗れた事、そして、負けた以上、もはや東軍に抵抗するのは意味が無いという事とともに
「城兵をムダに死なせる事が無いように、上手くやってくれ」
との、一直の思いがしたためられていました。

如水からの使者のよって、この手紙を手にした利右衛門は、主君の思いを汲み、慶長五年(1600年)10月2日ようやく、富来城を開城したのでした。

安岐城と同様に、コチラの城兵も「自由に退去して良い」としたため、多くの兵が如水の軍勢に加わったと言います。

で、その如水は、この後も次々と城を攻略し、北九州を制覇する事になりますが、あまりの攻略ぶりに、如水は関ヶ原のドサクサで天下を狙っていたのでは?との憶測も流れるほどですが、そのお話は10月14日【小倉城開城で黒田如水が北九州制圧】>>でどうぞo(_ _)o

また、九州の関ヶ原関連として
【関ヶ原~伊東祐慶の宮崎城攻撃】>>
【九州の関ヶ原~加藤清正の動き】>>
も参照いただければ幸いです。

ところで、今回、主君の思いを汲んで富来城を開城した利右衛門・・・実は、この手紙を、彼が受け取った時には、当の一直は、大垣城内でいち早く東軍に寝返った高橋元種(もとたね)によって殺害されてしまっていました(9月17日参照>>)

城兵の無駄死にを心配した主君が、その城兵の誰よりも先に亡くなっていた事実・・・戦国の世のならいとは言え、そこはかとない空しさを感じたのでしょうか?
その後の利右衛門は武士を捨て、農業に勤しみながら、主君の菩提を弔ったという事です。
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