兄は東に父・西に~真田親子・犬伏の別れ
慶長五年(1600年)7月21日、石田三成からの密書を受け取った真田昌幸・信幸(信之)・幸村(信繁)親子が、下野(しもつけ・栃木県)犬伏にて議論の結果、東西に分かれる事になりました・・・『犬伏の別れ』
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豊臣秀吉亡き後、豊臣家の持ち城である伏見城に居座って、重要事項を独断で決定し始める徳川家康・・・それを警戒する石田三成は、家康が会津の上杉景勝を征伐に向かったのを絶好のチャンスと見て挙兵し、留守で手薄になった伏見城を攻撃します。(7月19日参照>>)
最終的に関ヶ原で激突する事になるこの戦いですが、この時、真田昌幸とその長男・信幸、そして次男の幸村親子は、家康に同行して会津征伐に向かっていました。
そんな真田親子が下野・犬伏に差し掛かった慶長五年(1600年)7月21日、親子のもとに手紙が届きます。
それは、前田玄以・増田(ました)長盛・長束正家の三奉行の署名に入った『家康・弾劾状』(家康の悪行を書き並べた物)・・・これは、各地の諸大名に送られた物で檄文の意味も込められていました。
そして、もう一通は、光秀の密書・・・もちろん、毛利輝元を総大将(7月15日参照>>)とする西軍への参加のお誘いです。
密書を受け取った真田親子は、重臣たちをも遠ざけ、今後の身の振り方について協議を始めたのです。
この時に意見の分かれた兄弟は、刀を抜かんがばかりの激論になったと言われますが、上記の通り、重臣をも遠ざけているので、実際のところは、よくわかりません。
結果は、父・昌幸と次男・幸村が西軍につき、長男・信幸が東軍につくという親兄弟で別々の道を歩む事になるのですが、上記のような激論というよりは、天下分け目の戦いで、東軍・西軍どちらが勝っても、真田家が生き残れるようにとの配慮だったでしょうね。
どちらがどちらにつくか?という事に関しては、信幸は、家康の重臣・本多忠勝の娘を、一旦家康の養女にして嫁に貰ってますから、家康と彼は、義理の親子関係になるわけで、ここは長男・信幸が東軍・・・。
反対に、幸村は豊臣方の奉行・大谷吉継の娘と結婚していますので、その点から見ても、幸村が西軍というのが打倒でしょう。
昌幸自身は、西軍につきます。
想像の域をでませんが、これには昌幸の「家康に一泡吹かせてやりたい」という野望的な思いがあったのかも知れません。
昌幸は、かつて、秀吉から「表裏比興(ひょうりひきょう)」と呼ばれた事がありましたが・・・
表裏とは読んで字のごとく、オモテとウラ・謀反の事で、比興とは卑怯の事。(秀吉に言われたかぁないかも知れない)
真田家は、小国とは言え、この戦国の荒波を見事に乗りこなし、生き残って来たわけですから・・・いえ、小国だからこそ、その知謀と策略を駆使して、守り抜いて行かなければ、尊属はできないのです。
今回も、その家の存続を一番重要視した対策だったでしょう。
とにもかくにも、ここで親子は袖を分かつ事になります。
その日のうちに、昌幸と幸村は家康陣営を去り、信幸が、二人が去った事を家康に報告すると、家康は「合戦に勝利したら信州はお前にやる!」と大いに喜んだと言います。
さて、「西軍にいく」と言って、去った二人ですが、ご存知のように、彼らは関ヶ原には行っていません。
そうです。
あの上田城に籠って、家康の息子・秀忠を迎え撃つ事になるのです。(9月2日参照>>)
この上田城で足止めを喰らってしまったために、秀忠は、『関ヶ原の合戦に間に合わない』という大失態を起してしまうわけで、合戦が東軍の勝利に終っても、その怒りが収まる事はなく、昌幸・幸村親子の命を取ろうとしますが、それを身体を張って阻止したのが、信幸でした。
「父を処刑するなら、自分が切腹する!」
という勢いに負けて、昌幸・幸村親子の処分は、高野山麓の九度山への流罪という事に収まります。
その後、父の遺領を与えられ、9万5千石・上田城主となった信幸が、九度山の父と弟に、そっと仕送りをしていた事は言うまでもありません。
やがて、父は九度山でその69歳の生涯を閉じますが、弟・幸村は、密かに脱出するのです。(10月9日参照>>)
そう、大坂の陣で、幸村は再び、徳川と戦う事になります。
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