2009年11月11日 (水)

かかとの無い履き物と「ナンバ」~「下駄の日」にちなんで

 

今日、11月11日は、『下駄の日』という記念日らしい・・・

下駄(げた)の足跡が「11 11」に見えるところから、伊豆の国市観光協会が制定したのだとか・・・

なぜに?伊豆?
・・・という事はともかくとして、下駄の日なので、やっぱゲタの歴史と、それに関連して、以前から、どこかの話題にもぐり込ませようと考えていた日本人の歩き方についてお話させていただきます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

下駄の歴史は、想像以上に古いです。

なんせ、弥生式の土器に登場しているのですから・・・

ただし、この頃の下駄は、日常にはいて歩く物ではなく、水田耕作用に造られた田げたという物で、いわゆる雪国のかんじきのように、泥田の中に足がもぐってしまわないようにするための下駄でした。

そして、もう一つ、大陸と交流するようになって、下駄のルーツのような物が輸入されたという説もあり、察するに、外国の物と日本の農業用のが入り混じって、やがては日常の履き物へと変化していったように思います。

それでも、しばらくは、洪水の時に使用したり、水濡れするような職場で使用されたりと、主に仕事用の履き物として使用されていた下駄でしたが、そんな下駄が日常的な履き物となるのは、江戸時代の中期頃から・・・

現在のような形になったのは18世紀初頭=宝永年間(1704年~1710年)であろうと推測されます。

その後、正徳年間(1711年~1715年)頃には塗りの下駄が流行し、文化文政の時代(1804年~1829年)にはポックリの流行・・・と、今の人気ファッションと同じように、時々の流行で新製品が生まれ、その中の良い物は定番として残っていくといった形で、デザインも多様になり、様々な工夫もされていったようです。

ただし、実際に、下駄を一般庶民の誰もが履くようになるのは、明治以降の事だそうで、やはり、それまでは、草履(ぞうり)草鞋(わらじ)というのが主流だったようです。

ところで、この日本の伝統的な履き物である下駄・草履・草鞋・・・これらの履き物すべてにかかとが無い事にお気づきでしょうか。

これには、日本人独特の歩き方・走り方が関係しているのです。

実は、日本人が現在のような歩き方・走り方をするようになったのは、明治以降・・・以前、靴の記念日』(3月15日参照>>)に書かせていただいたように、維新となって、真っ先に西洋式に移行したのが、新政府の軍隊でした。

当然、そのページにあるような西洋式の軍服や靴などの衣服だけでなく、軍隊の行進も、西洋の物を見習った歩き方に変えられたわけで、それが、現在の日本人の歩き方なわけです。

現在は、「外国から輸入された靴を日本人が履けない(サイズ違いは別ですよ)なんて事はないわけですが、当時、最初に輸入された靴を、徴兵された一般庶民が誰も履けなかったという事は、やはり、歩き方が違っていたからではないでしょうか。

では、なぜ、日本人は、西洋とは違う歩き方をしていたのか?

それは、日本の地形です。

目と鼻の先に山をひかえた日本人にとって、欧米や大陸のように、平坦な国土に張りめぐらされた平坦の道を歩くという事が少なかったのです。

古来より、細く曲がりくねった山道を歩いて来た日本人は、背筋をピンと伸ばして歩く事はなく、自然と前のめりになり、後ろ足のつま先で地面を蹴り、前に踏み出した足に体重移動して、さらにその前に進むという方式で、この歩き方だと、かかとは地面につきません。

なので、日本の履き物には、かかとがないのです。

そして、体重移動で前に進むという事は、自然と、手と足は、同時に前に出るわけで、現在の、左足が前に出た時に、右手が前に出る歩き方とは、まったく違う事がわかります。

この歩き方・走り方は『ナンバ』と呼ばれ、北京オリンピックのリレーで銅メダル獲得に貢献した末續(すえつぐ)慎吾選手が、アジア新記録を出したときにナンバ走りの動きを意識して走りました」と、答えた事から、一気にその名前が有名になりましたね。

そうなんです。

このナンバ・・・現在のスポーツ理論によれば、これを完璧にマスターすれば、数段早く、数段長い距離を、数段疲れずに歩ける(走れる)らしく、スポーツ選手などが、その歩き方・走り方を研究し、練習に取り入れて、より良い記録に挑戦しているのですが、悲しいかな、実際に、この歩き方のホンモノが伝承されていません。

古武術研究家の方の研究や、未だ残る狂言や歌舞伎の歩き方などから、「このような歩き方であったであろう」という推測はされてはいるのですが・・・確かに、体重移動などは、実際にその歩き方を見てみない限りは、再現できませんよね。

なので、現在研究中のナンバが、どこまで本物のナンバに近いのかは、未だ誰もわからないわけです。

そして、相撲のてっぽうなども、手と足が同時に出る事から、歩いたり走ったりだけではなく、力も強くなる=重い物も持てるのでは?とも言われているようですが、なんせ完璧に再現できないので、その効果は未知数です。

ただ、江戸時代の飛脚は、このナンバのおかげで、長距離を疲れずにいち早く移動できたとも言われ、それを聞くと、松尾芭蕉奥の細道で、異常に早く旅をこなした事もうなずけます。

改めて、「日本人、すごいゾ!」と自慢したくなりますね。
忘れられてしまった事が残念ですが・・・
 

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2009年2月 2日 (月)

祝日&記念日の歴史・豆知識

 

このページは、よりスムーズに記事が探せるようにと、ジャンル別に記事へのリンクをつけたまとめページ=目次です。

今回は、『祝日・記念日』というテーマでピックアップさせていただきました~

ブログを始めたばかりのつたない記事もありますが、「このページを起点に各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

左サイドバーに【お楽しみメニュー>ジャンル別・索引】としてリンクを表示しておきますので、気になった時はいつでもい見にきてくださいね・・・もちろん、このテーマの属する記事をupあいた都度、このページも更新しますので・・・。

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1月1日:元旦
 【年末年始とお正月の由来・起源・豆知識集】

1月第2月曜:成人の日
 【成人式=元服の歴史】

●1月9日:クイズの日・とんちの日
 【歴史クイズ】←やってみてね!

●1月12日:スキーの日
 【日本のスキー発祥は?】

●1月15日:いい碁の日
 【いい碁の日に囲碁のお話】

●1月16日と7月16日:閻魔の斎日
 【半年に一度・地獄の釜開き】

●1月20日:玉の輿の日
 【玉の輿に乗りたい!~平安の自分磨き】

●1月21日:ライバルの日
 【この日本国のために~薩長同盟・成立】

●1月25日:左遷の日
 【菅原道真は学者じゃない?その策謀的政治手腕】

●1月27日:求婚の日
 【初の国際結婚&結婚の歴史】

●1月29日:人口調査記念日
 【昔の人口ってどれくらい?】

●2月5日:長崎二十六聖人殉教の日
 【長崎二十六聖人殉教の日】

●2月9日:服の日
 【男女の前あわせとネクタイの始まり】

2月11日:建国記念の日・万歳三唱の日
 【建国記念の日と神武天皇】

●2月13日:銀行強盗の日
 【大泥棒・日本佐衛門ってどんな人?】

●2月20日:歌舞伎の日
 【女歌舞伎の禁止令】

●2月22日:猫の日
 【猫と日本人・その交流の歴史】

●2月27日:新撰組の日
 【今日は新撰組の日】

●3月1日:枚方平和の日(大阪府枚方市)
 【陸軍禁野火薬庫大爆発~未来への記憶】

●3月5日:ミスコンの日
 【ミス日本に選ばれて退学処分】

●3月15日:靴の記念日
 【日本初の靴・製造工場】

●3月22日:放送記念日
 【放送記念日です】

●3月26日:カチューシャの歌の日
 【ヒット曲第一号に寄せて流行歌の歴史】

●4月19日:地図の日
 【50の手習い、伊能忠敬の日本地図】

●4月20日:通信記念日
 【通信記念日】

●4月24日:日本ダービー記念日
 【競馬の歴史】

●4月28日:象の日
 【象の日】

●5月1日:扇の日
 【江戸の媚薬・イモリの黒焼き】

5月5日:こどもの日
 【端午の節句は女の祭り?】

●5月第2日曜:母の日
 【母の日の起こり】

●5月18日:ことばの日
 【ことばの日】

●5月27日:百人一首の日
 【百人一首に隠された暗号】

●5月29日:呉服の日
 【呉服の日】

●6月1日:気象記念日
 【気象記念日】

●6月10日:時の記念日
 【時の記念日】
 【時間にキッチリ?奈良の都の勤め人】

●6月16日:和菓子の日
 【和菓子の歴史~そのルーツと豆知識】

●6月第3日曜:父の日
 【父の日事始】

●7月8日:質屋の日
 【質屋の歴史】

●7月13日:オカルトの日
 【オカルトの日と後鳥羽上皇】

7月第3月曜日:海の日
 【国民の祝日と海の記念日】

●7月24日:河童忌
 【河童のお話】

●7月26日:幽霊の日
 【もう一つの忠臣蔵~四谷怪談】

●8月4日:橋の日
 【橋の日なので橋姫の怖い話】

●8月5日:タクシーの日
 【日本初のタクシー誕生】

●8月9日:野球の日
 【野球の歴史は1本のバットから・・・】

●8月10日:道の日
 【東海道は五十七次!~道の日にちなんで】

●8月10日:トイレの日(日本衛生整備機器工業会)
 【トイレの歴史】

●9月2日:お手玉の日
 【お手玉の歴史】

●9月29日:招き猫の日
 【招き猫の由来】

●10月1日:醤油の日
 【醤油の歴史】

●10月8日:入れ歯の日
 【世界最古の入れ歯は日本製?】

●10月17日:上水道の日
 【江戸の上水・大阪の下水】

●10月29日:宝くじの日
 【昭和の宝くじ・江戸の富くじ】

●10月30日:香りの記念日
 【香りにうるさい平安貴族】

●10月31日:日本茶の日
 【栄西のお土産・日本茶の日】
 【闘茶と御茶壷道中】

●11月1日:灯台記念日
 【灯台記念日に灯台の歴史】

11月3日:文化の日(旧・明治節)
 【皇子から武人へ~明治天皇の大変身】

●11月9日:太陽暦採用記念日
 【今日は太陽暦採用記念日】

●11月10日:トイレの日(日本トイレ協会)
 【トイレの歴史】

●11月11日:下駄の日
 【かかとの無い履き物と「ナンバ」】

●11月13日:ネッシーの日
 【ネッシー写真で大論争】

●11月14日:ギャンブルの日
 【天武天皇も怒られた?ギャンブルの歴史】

●11月15日:七五三
 【意外に最近?11月15日の七五三の歴史】

●11月18日:土木の日
 【石舞台古墳のあるじは?】

11月23日:勤労感謝の日(旧・新嘗祭)
 【新嘗祭はもう一つの新年行事?】

●11月30日:シルバーラブの日
 【今日はシルバーラブの日】

●11月30日:鏡の日
 【古代日本における鏡とは?】

●12月1日:映画の日
 【映画の日に映画の歴史】

●12月1日:鉄の記念日
 【昔話・桃太郎と製鉄の関係】

●12月5日:バミューダトライアングルの日
 【バミューダトライアングルの日】

●12月16日:電話の日・電話創業の日
 【電話はじめて物語】

●12月17日:飛行機の日
 【ライト兄弟よりも早く?日本人が空を制す】

●12月25日:クリスマス
 【クリスマスの起源】

●毎月8日:屋根の日
 【「うだつ」があがらない】

●毎月24日:かつお節の日
 【かつお節の歴史】

●毎月26日:風呂の日
 【お風呂の歴史】

●毎月30日:みその日
 【お味噌の歴史と味噌天神の話】

●毎月最終日:そばの日
 【お蕎麦の歴史】

 ・・・は国民の祝日です・・・
 

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2008年11月23日 (日)

勤労感謝の日~新嘗祭は、もう一つの新年行事?

 

11月23日は勤労感謝の日という祝日です。

勤労感謝の日は、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」日なのだそうですが、もともと戦前は、この11月23日は新嘗祭(にいなめさい)という祝日で、その新嘗祭の日付をそのまま、勤労感謝の日といふうに改めたものなのです。

新嘗祭の「嘗」という字は、中国の秋の祭りを意味する文字で、『古事記』『日本書紀』に登場する「爾比那閇」「爾波能阿」の文字を、「新嘗」に置き換えたもの・・・もともと「ナメ」という言葉が「食する」とか「試みる」とかの意味を持っているそうなので、要するに、新嘗祭とは収穫祭の事で、その秋に収穫された新しい穀物を神前に供えてともに喜び、祭典や祝宴を開いて、それを食するお祭りだったわけです。

しかし、昔から新嘗祭という名称で、この行事が行われてきたのは宮中で、天皇自らが行う新嘗と関連の神社で行われる新嘗祭があって、一般庶民が行うこの行事の事は「田の神祭り」「猪の子祭り」「十日夜(とおかんや)」「刈り上げ祭り」などと呼ばれていたのです。

戦前は新嘗祭だったのが、戦後に勤労感謝の日に変わるのは、そこンとこが引っかかったのかもかも知れませんが、まぁ、もともと農耕民族だった日本にとって、昔は、労働と言えば、イコール農業に従事する事でしたが、現在は、ありとあらゆる労働があるわけで、そのすべての成果に感謝するとすれば、農業における収穫だけではなく、「すべての労働、すべての生産に感謝する」という意味の勤労感謝の日っていうのも悪くはないでしょうね。

ところで、その新嘗祭・・・もともとは、毎年、旧暦の11月の2回目の卯(う)の日に行われていたのを、明治五年(1872年)の太陽暦が採用された時(11月9日参照>>)に、そのまま新暦に置き換えて新嘗祭を行うと、翌年の1月になってしまうため、それならば・・・と、新暦の11月の2回目の卯の日に行う事になり、それが11月23日だったので、その年から、新嘗祭は11月23日に行われるようになったそうです。

wikiをはじめ、多くの新嘗祭の解説で・・・
「たまたま、日本が太陽暦を導入した年の11月の2回目の卯の日が11月23日だったために、その日が新嘗祭と決定されたが、11月23日という日付自体には深い意味がない」
とされているところが多いのですが、どうやら、そうではないかも知れませんよ。

11月23日は、昔からけっこう重要視されていた日付だったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

現在、一年のスタートの日・・・と言えば、お正月

この正月は、今でも「新春」「初春」なんていう挨拶をする事でもおわかりのように、一年を24に分けた二十四節季(10月8日参照>>)の立春の事で、現在の日付では、2月4日前後・・・あの「鬼は~外~」豆まきが、一年の邪気を祓う年末行事の名残り(2月3日参照>>)で、そうやって、昔は厄を祓ってから、新年(立春)を迎えていたわけですが、日本には、昔から、もう一つ、スタートの日と呼べる日があったんです。

それは、冬至・・・。

昨年、【えと・十二支の由来と意味】(11月9日参照>>)で書かせていただいたように、十二支は、もともと一年を12に分けた月の呼び名として生まれ、その場合は、冬至の日がスタートの日となります。

最初の月にねずみが当てられたのも、「陰と陽の分かれ道=すべてが0になって新しくスタートする」から・・・という事も書かせていただきました。

つまり、この冬至の日がゼロの日という事になります。

・・・で、今の太陽暦では、冬至は12月23日前後ですが、旧暦を見てみると・・・そう、これが11月23日前後なんですね~。

しかも、昔は、陰陽師や占い師ならともかく、一般庶民は、そこまで正確に暦を知っていたわけではないので、ほとんどの人が、11月23日を冬至と考えて行動していたのです。

その名残りが大師講だと言われています。

一般的には、11月23日の大師講の大師は弘法大師の事だと言われ、その忌日の24日に行われる事もありますが、以前、書かせていただいたように、この日は弘法大師が村にやってきて雪を降らせるという伝説(2007年11月23日参照>>)の日でもあり、ご紹介した丹波以外に、東北北陸にもこの弘法大師の伝説が残っています。

また、慈恵大師・良源の忌日でもある事から大師講の大師は慈恵大師とする説も、そして、中国天台大師(天台宗の開祖・知顗、智者大師とも)の大師だとも、さらに、職人さんの間では、大師がたいしとも読める事から聖徳太子の大師であるなどという様々な説がありますが、それだけ沢山の説あるという事は、イコールそれらの説が生まれるずっと前から、その日が「たいしの日」と呼ばれていた事を意味するのではないでしょうか?

おそらく、それらの説のおおもととなったのが、日本に仏教が伝わる以前から信仰されていた越年に福をもたらす冬至の神=大子神(おおいこがみ・たいしがみ)であったと考えられます。

大子は大師・・・

その昔、村々を訪れて収穫をもたらしてくれる大子神にめずらしい食べ物をお供えしてすべてをゼロにして新たなスタートを切る日が冬至=11月23日だったんです。

大子神信仰と新嘗祭・・・どちらも、その年の収穫を祝い、来年の収穫を願う行事・・・無縁ではないように思えます。

しかも、新嘗祭がはっきりと文献に登場するのは、皇極天皇元年(642年)の11月の2回目の卯の日で、残念ながら、この年は11月23日ではなく11月16日ですが、昔の新嘗祭では、前日に鎮魂祭(たましずめのまつり)という明らかに邪気を祓う行事が行われていて、新嘗祭が新年を祝う行事である可能性大です。

さらに、中国の唐の時代の『祠令』には、「天子は夏至に地神を祭り、冬至に天を祭る」とのくだりもあり、その中国の思想も、影響があったかも知れません。

・・・とは言え、新嘗祭が、そして現在の新嘗祭=勤労感謝の日が11月23日になったのも、偶然ではないかも知れない・・・という事は、心の隅に置いておいて、とりあえずは、本日の休日を、勤労に感謝しながら、楽しく過ごさせていただく事といたしましょう。
 

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2008年10月 1日 (水)

「醤油の日」なので醤油の歴史

 

今日、10月1日は『醤油の日』なのだそうです。

日本醤油協会など、複数の関連団体が2003年に制定したのだとか・・・

その由来は・・・、

  • 以前は10月が新しいもろみを仕込む時期であった事。
  • その昔、醤油は、壷や甕(かめ)に詰められて運ばれていて、その甕の形から生まれた象形文字が酉であり、月を干支で表すと、酉の月は10月である事。

・・・なのだそうです。
ちょっと、ややこしい・・・

何となく10月はわかりますが、、なぜに1日なのか?という事は、今日のところは棚の上に置いとして、本日は例のごとく、醤油の日なので『醤油の歴史』を紐解いて参りましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とは言え、醤油の歴史は意外と新しい・・・

日本の文献に初めて「醤油」という文字が登場するのは、16世紀も終わりに近づいた慶長二年(1597年)に刊行された『易林本・節用集(えきりんぼん・せつようしゅう)・・・この節用集は戦国の広辞苑といった感じの文書です。

この頃の醤油は、現在の醤油とはちょっと違ったもので、どちらかと言えば溜り(たまり)醤油のようなものではありましたが、やっとここに来て、味噌とはっきりと分かれて、醤油という名前が着いたという事で、汁物と吸物の区別がつくのもちょうどこの頃・・・。

そうです。
先ほど、醤油の歴史は意外と新しいと書かせていただきましたが、このように、はっきりと区別されたのがこの頃だという事で、その原型となる物は古くからありました。

中国は紀元前11世紀のの時代に書かれた『周礼(しゅうらい)には、(ひしお)というものが登場します。

また、紀元前6世紀の『論語』でおなじみの孔子さんも、「醤が手に入んなかったら食べたくない」なんて事を言っていて、もう、すでに、この頃には、お食事の友・・・何はなくとも江●むらさきみたいな重要な調味料であった事がうかがえます。

ただ、この中国の醤という物は、醤油というよりは、現在の塩辛に近いもので、しかも、材料は、鹿や鳥や魚といった動物性のものでした。

やがて、紀元前1~2世紀頃のの時代になると、大豆などの穀類を材料とする醤が誕生し、肉類よりも安価に作れる事から、徐々に穀類の醤のほうが主流になっていきました。

一方、その頃の日本は、ちょうど弥生時代・・・

おそらく、中国の醤が、朝鮮半島を経由して伝わったのでしょうが、日本には、その弥生時代以前の、縄文時代の頃から、すでに、果物や野菜・海草などを材料にした醤が存在していたようです。

やがて、それらの醤は、奈良時代頃には味噌となり、平安時代には、様々な種類の味噌を売る商店なども登場しますが(お味噌の歴史のページ参照>>)、このあたりで枝分かれして独自の発展を遂げるのが、秋田に伝わる「しょっつる」能登半島「魚汁(いしる)などの魚を材料にした調味料や、富山「かぶら寿司」琵琶湖「鮒ずしなどのなれ寿司です。

「しょっつる」「魚汁」は、現在でも郷土料理として愛され、一方のなれ寿司も、ご存知のように、現在にそんそまま伝わるものと、おし寿司にぎり寿司へと変化するものに枝分かれする事になります。

さらに、醤や味噌の製造過程で、桶などの底にたまる液体が、煮物の味付けなどにピッタリな事がわかり、これがたまり醤油の原型となり、こちらも枝分かれしていきます。

醤油という名称の由来は、醤の液汁(油)から醤油となったとか、中国でよく似たものを醤湯とか豆油と呼んでいたので、両方をミックスして醤油となったなど、いくつかの説があります。

やがて、室町・戦国の頃から、あの武田信玄に、溜りを献上して気に入られ、『川中島御用醤油』の役を命じられた下総(千葉県)野田飯田市郎兵衛をはじめ、紀州(和歌山県)湯浅赤胴右馬太郎播磨(兵庫県)竜野円尾孫右衛門などなど・・・醤油の醸造が本格的に行われるようになります。

しかし、このように民間レベルで発展した醤油は、幕府や大名の管理下に置かれた米とは、まったく別の流通経路であったため、米の3~4倍の高値で取引され、お酒よりも高い高級品だったそうですが、冒頭の慶長頃には、大坂を中心に専門店が軒を並べるようになり、やがて、首都が江戸に遷るににつれ、江戸へと、そして全国へと広がり、いつしかお味噌と並ぶ、日本の調味料となるわけです。

ちなみに、そんな醤油が外国人の口に入るようになったのは、ごく最近の事のように思われがちですが、どうしてどうして、あの太陽王として君臨したルイ14世も醤油が大好きだったんだとか・・・

戦国の日本にやってきたオランダ人たちによって、それは、ブルボン王朝フランスにも届けられていたのだそうで、壷や瓶に入れ、木詮で密閉状態にして、はるばる船で運ばれた醤油は、さらに熟成されるうえ、もともと品質もよく、高価であった事が、よりセレブの心をくすぐり、当時の高級フランス料理には欠かせない調味料となっていたようです。

ところが、近代日本では、太平洋戦争直後の大豆不足からアミノ酸を混合させたり、スピード時代の波に乗ろうと速醸造の粗悪な醤油が多く造られた時代があり、その悪臭によって、海外からも、国内からも敬遠され、一時はそのまま衰退していくかのようになった事もあったそうですが、その状況はすぐに改善され、再び、長い年月をかけて熟成する品質のよいものが主流となって、現在は、ご存知のように、毎日の食卓に欠かせない調味料となっています。

もちろん、品質もバツグンです。

「あぁ。。。今夜は和食にしよう」
そして、はるか昔の醤の時代からの、長い長い旅の末にたどり着いた日本の味を、じっくりと味わってみようではありませんか。
 

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2008年9月29日 (月)

「招き猫の日」なので招き猫の由来

 

今日、9月29日は、「くる(9)ふ(2)く(9)」=来る福の語呂合わせで、日本招き猫倶楽部が制定した『招き猫の日』という記念日なのだそうです。

この日は・・・
伊勢神宮「おかげ横丁」
愛知県瀬戸市
熊本県島原市

などで、「来る福・招き猫まつり」が開催されるそうです。

ちなみに、今からお話する招き猫の由来の一つとして登場する彦根では、「い(1)い(1)ふ(2)く(9)」=いい福の語呂合わせで、11月2日~9日に「招き猫まつり」が開催されるそうです。

・・・てな事で、今日は『招き猫の由来』を書かせていただきたいと思いますが、そもそもの由来としては、中国は唐の時代の『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)なる書物に、「俗に言はく。猫、面を洗いて耳を過ぐればすなわち客到(いた)る」というのがありますので、もともとの出典は、これなのでしょうが、それが日本に伝わって、その猫の姿を、招き猫という人形にして、置物として飾る事に関しての起源については諸説あります。

まず、一番有名なところでは、東京・世田谷区豪徳寺に残る第2代・彦根藩主の井伊直孝さんの逸話・・・って、第2代藩主は井伊直継(直勝)さんじゃ無かったの?と思いきや、「直継さんは、病弱だったため実権は弟の直孝さんが握っていて、直継さんは藩主に数えない場合がある」のだそうです。

以前書かせていただいた彦根城の人柱の逸話(11月4日参照>>)の時は、元気そうだったんですけどね~まぁ、招き猫とは直接関係ないので、今日のところは、そこンとこのお家騒動はスルーしてお話を進めさせていただきますが・・・。

ある時、その直孝さんが、この豪徳寺の前を通りかかると、門のところで、猫が手招きをして、しきりに彼を呼ぶのです。

不思議に思って、猫に近づき、門の中に入った途端!ゴロゴロド~ンthunderの音とともに、今、立っていた場所に落雷が・・・

急死に一生を得た直孝さん・・・

この猫が、豪徳寺の住職の飼い猫だった事から、この後、豪徳寺は井伊家の菩提寺となって、大きく発展する事となるのです~・・・って、コレ、井伊家に福を招いたんじゃなくて、自分トコの寺に福を招いてるような気がしないでもありませんが、ともかく、この逸話から招き猫が生まれたというもの・・・

そのほかにも、江戸時代の天明年間(1781年~1788年)に両国にあった金猫銀猫という女郎屋の飼い猫が、「顔を洗うたびに客が入る」と評判になり、その猫をモデルにした置物を、店の名前にちなんで金と銀の色に塗って、店先に飾ったのが始まりというのも・・・

また、吉原の伝説の花魁・薄雪太夫の忠猫をモデルに人形を造り、太夫の人気にあやかろうと花街で猫の人形が大流行し、やがて、近くの飲食店や商店に広まっていったという話もあります。

その後、養蚕の敵であるネズミを退治してくれる動物である事から、商店や飲食店だけでなく、農家にも飾られるようにもなったのだとか・・・。

それにしても、その起源も謎ですが、なぜ?これほど全国に、招き猫が普及したのか?というのも、かなりの謎です。

最近でこそ、一般家庭では少なくなりましたが、商店などでは、今でもたくさん見ます・・・
さすがにフレンチ・レストランなどでは見られませんが・・・

信楽のタヌキか、亀の剥製か、というくらい、いや、それ以上に普及してる招き猫・・・しかも、種類も一つじゃありません。

一般的には、左手を挙げたものが客を招くとして商店や飲食店に飾られ、右手を挙げたものが金運を招くとして普通の家庭で飾るのだそうです。

関西では、京都の称念寺が有名で、こちらの招き猫は、色で分かれています。

金色のものが金運を招き、白色のものが福を招き、黒色のものは病気にかからないのだそうです(もはや招いてないゾsweat02

幕末の頃には、座ってる以外にも、ふせた姿勢の招き猫もいたらしいので、また別の何かを招いてくれるのかも知れませんね。

この種類の豊富さは、それだけ、人に身近な動物という事なのでしょう。

遣唐使とともに大陸からやってきた猫・・・(2月22日参照>>)

時には、化け猫として妖怪扱い(9月6日参照>>)されたりもしますが、その妖しい魅力が、何か不思議な事を起こしてくれるような気持ちにさせてくれるのでしょう。

金運招福・無病息災・家内安全・千客万来・・・
一家に一匹福を呼ぶ・・・招き猫は小さな巨人です。

Manekinekocc 久しぶりにイラストを書いてみました~

もちろん、招き猫で・・・

ちょっと欲張って、色んな福が来るように、左手の右手も挙げて、白に黒に金銀も、ぜ~んぶ○

これで、余生は酒池肉林の左ウチワでぃ!
 

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2008年9月20日 (土)

「お手玉の日」にお手玉の歴史

 

平成四年(1992年)9月20日に、第一回全国お手玉遊び大会愛媛県新居浜市で開催された事を記念して、今日9月2日は『お手玉の日』という記念日なのだそうです。

・・・て事で、今日は例のごとくお手玉の歴史について書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「おむく」「おのせ」「おこんめ」「おひと」「いしなんご」「なっこ」「いっついこ」「ななつご」・・・などなど、地方によっていろんな呼びかたがあるお手玉ですが、大阪で生まれ育った私は、おじゃみ」と呼んでおりました。

♪おひと~つ おふた~つで お~さらい
  とってんしゃん~で お~さらい♪

という歌に乗せて、お手玉を投げたりつかんだり、あるいは手の甲ではじいたりラジバンダリ・・・

今、お手玉と言って、すぐに思い浮かべる小石や小豆、じゅず玉などを入れた布の袋のお手玉が普及するのは、江戸時代になってからですが、その原型とも言える石や動物の骨での遊びの歴史は大変古く、古代ギリシャにさかのぼるのだとか・・・

今に伝わるお手玉の遊び方は、大きく分けて、お手玉を上に投げて、取ってという「振り技(ゆり玉)という遊び方と、一つを投げている間に下に散らばったお手玉を寄せ集める「拾い技(よせ玉)という遊び方の2種類に分かれますよね。

古代ギリシャのお手玉の原型は、後者の「拾い技」と同じような遊びで、「アストラガリ」と呼ばれ、羊のかかとの骨を使って遊んでいたそうです。

それが、やがて、インド中国を経てアジア全体へと広がるにつれて、手に入り難い羊の骨から、近くにある石を使って遊ぶようになったようです。

お手玉自身の形や、使用する素材に違いはあれど、同じルーツを持つお手玉遊びは、今も世界中の人たちが楽しんでいるようです。

そんなお手玉の原型が、日本の文献に登場するのは平安時代・・・。

主に女の子の間で楽しまれた「いしなどり」という遊びがソレです。

この「いしなどり」は、あらかじめ、数個の小石をばらまいておいて、そのうちの一つを上に投げ、その石が落ちてこない間に、まいてある石をつかみ、石をつかんだその手で、落ちてくる石をつかむ・・・そして、順番に次々と石を拾っては投げ、拾っては投げ、すべての石を拾いつくしたほうが勝ちというルール・・・これは、まさしく「拾い技」ですね。

私たちは「おひとつ」と呼んでいましたが・・・平安時代からあったとは!

平安時代の歴史物語『栄花物語』には、第62代・村上天皇が、宮廷で女御たちの「いしなどり」を見物するシーンが出てきたり、あの西行法師が・・・
♪石なご(いしなどり)の 
 玉のおちくる ほどなきに
 過ぐる月日は かはりやはする♪

と、歌に詠んだりなんかしていますから、「やってみた」というよりは、「すでに流行していた」んだと思いますね。

一方、『源平盛衰記』には、知康という名手が、源頼朝の孫・一幡に呼ばれて、その目の前で、4個の小石を投げては受けるという芸を見せた」という記述があり、こちらは「振り技」・・・まさに「ジャグリング」ですね。

しかも、この時代に、すでに曲芸として見せるプロがいたって事ですね。
 

では、最後に、♪おさらい♪というフレーズが、お手玉歌の中で、最もよく聞くフレーズではないかという事で福井のお手玉歌=『おさらい』をご紹介します。

私の知ってるのとは、ちょっと違いますが、こちらの方が歴史が古そうなので・・・

 
~おさらい~

1月落して落して落して落しておさら~い
2月落して落して おさら~い
おみんな おさら~い
おてしゃみおてしゃみ おさら~い
おはさみおはさみ おさら~い
おちりんこおちりんこ おさら~い
お~ひ~ ら~り
ら~り ら~りらり
ひとよせ なかよせ おさら~い
しもづけ おさら~い

 

今、歌の途中に小倉ゆうこりんいませんでした?
しかも、脱字をするとヤバイ事になりそうなフレーズ・・・
  冷や汗出たsweat01
 

そんなこんなで、最近は、遊んでいる子供たちの姿も、見かけなくなったお手玉・・・しかし、平安の宮中で、天皇がご覧になった雅な遊びとあらば、是非とも、次の時代の子供たちに、伝えていってもらいたいものですね~。
 

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2008年6月16日 (月)

和菓子の歴史~そのルーツと豆知識

 

嘉祥元年(848年)6月16日、疫病が蔓延したため、第54代・仁明天皇16個の菓子・餅を神前に供えて疫病退散を祈願した『嘉祥菓子』の故事にちなんで、今日6月16日は『和菓子の日』という記念日なのだそうです。

・・・て、事で、今日は、和菓子の歴史を書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古代の人々にとっては、天然の果物や木の実が、まさにお菓子であったわけですが、奈良時代から平安時代になるにつれ、穀物を加工する技術が発達し、お餅団子が作られるようになります。

平安時代には、甘葛(あまづら)を煮込んで作る甘葛煎(あまづらに)なる甘味料も生まれ、文徳実録』という文献には、「嘉祥二年3月3日、婦女子、母子草を取り蒸しつきて餅を作り、歳時とする」とあり、よもぎなどを用いた草餅も登場します。

やがて、鎌倉時代にお菓子は飛躍的に変化します。

それは、大陸へと渡った禅宗の僧侶たちが持ち帰った点心という物・・・。

中国の読み方をそのまま使用した羊羹(ようかん)外郎(ういろう)なんていうのも、この頃に伝えられた物ですが、何と言っても、点心と聞いて思い描くのは、焼売(しゅうまい)餃子(ぎょうざ)・・・そして中華まん

肉の入った肉包子(ロウハオズ)は、日本に伝わり、やはり肉を入れたり野菜のあんを入れて菜まんじゅうと呼ばれましたが、やがて、それらはすたれていって、中には小豆のあんを入れるようになり、室町時代の頃には、現在のような形の饅頭となり、和菓子の代表格となるわけですが、その創始者と言われる人が、中国からの帰化人・林浄園さん。

延元四年(暦応二年・1339年)に、彼は奈良に住みつき、本格的に饅頭作りを開始します。

彼が塩瀬という姓を称した事で、この饅頭は塩瀬饅頭と呼ばれて大ヒット商品に・・・
江戸時代でも、饅頭の事を塩瀬と呼ぶ人も多かったそうで・・・
「フェルトペン=マジックインキ」
「セロハンテープ=セロテープ」
「瞬間接着剤=アロンアルファ」・・・みたいなもんですなぁ・・・。

この頃には、お茶とセットになって喫茶の習慣も生まれます。

ところで、少し話は脱線しますが・・・
饅頭は、なんで饅頭という名前なのか?

これは、あの中国での三国志の頃(紀元前300年頃)諸葛孔明が神様へのいけにえにする人間の代わりに、中に肉を入れて人の頭に似せて造り、お供えしたのが始まりだそうで、まさに肉饅頭・・・。

あの先端の中央にあるヒネリは、人間の髪の毛をあらわしているんだとか・・・ちょっとコワイ(>o<;)

やがて訪れる第2の飛躍ポイントは・・・そう、戦国時代の南蛮貿易です。

その画期的アイテムは砂糖・・・砂糖の輸入により、数々の新たなお菓子が生み出されます。

さらに、カステラ金平糖といった西洋のお菓子そのものも輸入され、それらは、和菓子の工夫にも大きな影響を与えます。

饅頭の中身も、小豆あんだけではなく、百合あん長芋あん白あんなどが考案され、それらを包む皮も、小麦粉に黒砂糖を加えた田舎饅頭、甘酒や濁酒(どぶろく)を入れて発酵させた酒饅頭、そば粉と長芋を混ぜた蕎麦饅頭、お茶を入れた茶饅頭などなど・・・

やがて、江戸時代には、それらの饅頭に加えて、安倍川餅きな粉餅なども誕生し、お菓子は大流行します。

あまりの流行ぶりに、お米の産出が激減したとして、寛永年間(1624年~1643年)には、菓子の売買・禁止令」が出されるほどだったと言います。

幕末には、江戸の米饅頭、大阪の虎屋饅頭、京都の(ふ)饅頭などの超有名どころも・・・。

やがて、明治になって、再びあの戦国時代の頃のように西洋のお菓子の影響を受け、和菓子は、その後も更なる発展をし続けるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最後に、その語源や起源など、和菓子豆知識を少し・・・

  • アラレ・・・
    もともとお餅を包丁で細かく切った物を乾燥させ、鍋で炒って作る物で、炒っている時に、はじけてふくらむ様子が、空から降る霰(あられ)に似ているところから、その名がついたのだそうです。
  • 桜餅・・・
    5代将軍・徳川綱吉の時代に、門番をやっていた山本新六という人物が、花見の時期に、おもしろ半分で桜の葉を塩漬けにし、小麦粉を解いた物を鉄板で焼き、中に小豆を入れて葉っぱで包んで売り出したところ、花見の時期だけで一年分の収入を得られるくらいにヒットしたのだとか・・・(関東風の桜餅)
  • 椿餅・・・
    道明寺粉で作る桜餅(関西風)に似た物で、桜の葉の変わりに椿の葉を用いますが、『源氏物語』にも登場する古い和菓子です。
  • 柏餅・・・
    ご存知、5月5日の端午の節句の定番お菓子ですが、意外に歴史は浅く、江戸時代に入ってからの事だそうです。

以上、本日は和菓子について、色々書かせていただきましたが、ともすれば忘れがちな、四季折々の風情を盛り込んで、見た目も美しく・・・めぐる季節の中で、その時々にふさわしい和菓子を、無性に食べたくなる・・・それは、心落ち着くひとときですね~

今日は、やっぱ、和菓子が安くなったりするんですかね?
・・・なんて思う私は、風流にはほど遠い・・・
 

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2008年5月 5日 (月)

端午の節句は女の祭り

 

今日、5月5日は『こどもの日』

「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」
というコンセプトのもと、昭和二十三年(1948年)に制定された国民の祝日ですが、ご存知のように、もともとは『端午の節句』と呼ばれた、季節の変わり目に神様に感謝し幸福を願う五節句のうちの一つです。

五節句とは、
「人日(じんじつ)=1月7日」
「上巳
(じょうし)=3月3日」
「端午
(たんご)=5月5日」
「七夕
(ひちせき)=7月7日」
「重陽
(ちょうよう)=9月9日」
の五つで、上巳の節句が雛祭り=桃の節句(3月3日参照>>)に当たります。

今では、3月3日の桃の節句と相対するように、こいのぼり武者人形などを飾って、男児の健やかな成長を願う男の子の節句となりましたが、現在のような形になったのは、江戸時代の頃・・・もともと端午の節句は女性の節句だったのです。

もともと『端午』というのは、その月の最初の午(うま)の日の事を指していましたが、いつしか、5月5日の事を端午と呼ぶようになります。

5月5日の節句の日に行事が行われるようになるのは、奈良時代の頃から・・・中国から伝わった、軒先に菖蒲や蓬(よもぎ)などを飾って邪気を祓う行事として、宮中などで行われていました。

上記のように、もともと節句というのは季節の変わり目、しかも旧暦の5月は、その暑さゆえ、疫病が流行する時期でもあり、体調を崩す人が多かった事から、5月自体が忌月(いみづき・よくない月)とされていたので、「菖蒲や蓬などの邪気を祓うとされていた植物で浄化しよう」というのです。

やがて、中国から伝わったその行事が、農耕民族である日本に広まるにつれ、ちょうど、この季節が田植えの時期に当たり、稲作農家にとっては、一年で最も重要な季節であった事から、田の神様を迎えるにあたって、家を浄化するという、農耕の儀式の意味合いを伴うようになります。

そして、この日は、「邪気を祓う薬草を家に飾り、浄化した家の中に女性が籠り、来訪した神に五穀豊穣を願う」という儀式が定着し、長い間、5月5日は『女の家』『女の屋根』などと呼ばれ、女性中心の行事でした。

もちろん、邪気を祓うのに使用する菖蒲などの薬草を採取するのもこの日で、昨年書かせていただいた額田王(ぬかたのおおきみ)大海人皇子(おおあまのおうじ)の有名な♪あかねさす・・・♪の歌が交わされた時に、額田王が紫草摘みをやっていたのが5月5日というのも、この端午の節句の行事だったワケです(昨年の5月5日参照>>)

そんな女性中心の行事であった端午の節句が男の子節句に変わっていくのは、武士が台頭するようになる鎌倉時代の頃からです。

この端午の節句は、上記のように菖蒲を使う事から『菖蒲の節句』とも呼ばれていたのですが、その菖蒲が尚武(しょうぶ・武芸や軍事などを尊ぶ)にすりかわり、いつしか、武士がこの日を大事にするようになったのです。

武士が大事にするようになると、相撲凧揚げ船の競争などの勇壮な行事が、この5月5日に盛んに行われるようになります。

そう言えば、それまで、五穀豊穣や天下泰平を願って、5月5日に宮中で行われていた競馬(うまくらべ)神事が、『賀茂競馬(かものうまくらべ)として、賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われるようになるのが寛治七年(1093年)・・・時代区分としては平安時代ですが、あの八幡太郎義家後三の役(11月14日参照>>)があったり、院に北面の武士をおいたり・・・と、何やら、武士の台頭を思わせる時代である事は確かです。

この賀茂競馬は、戦国時代の一時期には、あの織田信長豊臣秀吉が、10頭・20頭の馬を献上して競わせるといった、まさに武士の祭りの様相を呈していた事もありました。

やがて、江戸時代になると、5月5日の端午の節句には、大名や旗本が江戸城に出仕したり、子供のいる武士の家では、その成長と武運を願って、を飾ったり、のぼり旗吹流しなどが立てられるようになって、ほぼ現在のような男の子の節句となります。

ただ、のぼり旗や吹流しなんていうのは、もともと合戦の場においての武士の目印・・・それこそ武士の象徴でありますから、身分の低い者や町民は、のぼり旗や吹流しを立てるわけにはいきません。

それで、江戸も後半になってから考え出されたのが、吹流しを鯉の形にしたこいのぼりです。

鯉という魚自体が縁起が良いのと、竜門の瀧を上りきると鯉が竜なるというあの伝説にも由来し、何より、風に吹かれて泳ぐさまが、大変美しい・・・。

それでも、まだ、江戸時代の間は、一部のお金持ちだけがこいのぼりを立てているだけでした。

それが、現在のように一般庶民の端午の節句の象徴のようになるのが、明治の始め頃・・・。

考えてもみて下さい。
鯉が滝を登って竜になる・・・それは、出世するという事です。
江戸時代には、一般庶民が出世する事など考えてもいなかったのです。

それが明治になって、「頑張ればチャンスがあるかも・・・」という、出世への期待が庶民の間にも生まれるようになり、こいのぼりは一気に広がっていったようです。
 

はてさて、端午の節句が、女中心であろうが男の祭りであろうが、武士の物であろうが国民の祝日であろうが・・・

悪しき者から、わが子と家を守り、健やかな成長と安全を願う親の心は、いつの時代も変りのないもの・・・それが永遠に続く事を願って、今年もこどもの日を祝う事にいたしましょう。
 

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2008年4月28日 (月)

象の日・ふたたび

 

享保十四年(1729年)4月28日、京都において、第114代・中御門天皇が、日本にやってきた象と面会された事を記念して、今日、4月28日は、『象の日』という記念日だそうです。

・・・と、この話題は一昨年の今日、ブログを始めて間もなくの頃に、一度書かせていただいたのですが、初心者という事もあって、いたくあっさりとした記事だったので、今回は、もう少しくわしく『象の日・ふたたび・・・』と題して書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

生きた象が最初に日本にやって来たのは、応永十五年(1408年)の事・・・。

若狭(福井県)小浜にやって来た南蛮船で、オウムや孔雀とともに、南蛮国から足利将軍家に献上された事が記録されています。

この南蛮国というのは、当時、スマトラ島・東南部にあったバレンバン(旧港)という国ではなかったか?と言われていますが、はっきりとした事はわかっていないようです。

この時の象は、約三年間、幕府で飼われていたそうですが、その後、室町幕府4代将軍・足利義持から、今度は、朝鮮国王への献上品として、再び海を渡りました。
(厄介払いしてる気がする・・・)

その次に象がやって来たのは、天正三年(1575年)。

豊後(大分県)大友宗麟のもとにカンボジア国王から、トラや孔雀とともに献上されたそうですが、これらの動物は、ほどなく亡くなってしまい、ほとんど人目に触れる事はなかったようです。

そして、慶長二年(1597年)、フィリピンはマニラから来たスペイン総督使節が、豊臣秀吉に献上した象・・・この時は、かなりの見物人が大坂城近くへ押し寄せ、死人も出たという事なので、かなりのフィーバーぶりだったんでしょうね。

・・・で、今回の象は、広南=ベトナムから徳川将軍家に献上された物です。

上記のように、確かに、生きた象が日本にやって来るのは初めてではありませんでしたが、写真やフィルムで記録を残す事が不可能な時代・・・皆、見るのは初めてですし、それはそれは、大変な騒ぎだったようです。

前年の6月に長崎に到着した、オス・メスの2頭の象でしたが、残念ながらメスが秋に死んでしまい、しかたなく、オス1頭のみを、時の将軍・第8代・徳川吉宗に献上するため、享保十四年(1729年)の3月に、長崎を出発し、大名行列のように、ノッシノッシと街道を歩いて、東へ東へと進みます

記録によれば、一日3~5里・・・つまり、12km~20kmの移動だったという事で、こりゃ、大変ですな。

・・・と、素人考えながら、気になる事が・・・

関門海峡はどうやって渡ったんだろう?・・・トンネル無いし・・・

ひょっとしたら、奈良時代の遣唐使や防人のように、大坂の難波津までは船だったのかも知れませんね。

さらに、海峡以外にも、途中にがいくつも川がありますが、この時代は、橋が架かってるほうが少ないでしょうから、それはもう大仕事でしょうね。

いくつか残る記録によれば・・・
大きな川の場合は、船の上に象専用の小屋をしつらえて、船にて輸送・・・小さな川の場合は、渡し舟をいくつも用意して、その上に板を固定し、さらに、舟同士も固定して、その上を歩いて渡らせたんだそうです。

訓練をさせて、泳がせたという説もあるようですが、いずれにしても、それらの準備をするほうは、大変ですな~。

さらに、行く先々には・・・

  • 道をキレイに掃除しておく事
  • 象の飲み水を準備しておく事
  • 寺の鐘を突いてはいけない
  • 馬や牛は街道に近づけない
  • 見物人は騒がない
  • 張ってあるロープの内側に入らない
  • 犬、猫はつないでおく事
  • 火の始末に気をつける事

などのおふれ書きが配られ、もう、毎日が国際マラソン大会のような規制・・・

そんなこんなの大騒ぎの中、4月16日には大坂に到着・・・そして、4月26日には、京都へ到着しました。

・・・と、ここで、大きな問題が・・・

なんと、この象のフィーバーぶりを耳にした時の天皇・中御門天皇が、「象を見たい!」とご希望なされたのです。

「京都に、滞在中なら、見せたらいいじゃん!」
・・・と、思ってしまいますが、これが、この時代は大問題なのです。

以前、後水尾天皇の即位のページ(4月12日参照>>)で、あの春日局が、無位無官のまま天皇に拝謁するという大失態を犯した・・・と書かせていただいたように、一般の人が天皇に直接会う事は禁じられていたのです。

あの、幕末の動乱でも、新政府の中心人物だった大久保利通が、無位無官であったために、明治天皇に直接会う事ができず、打ち合わせに大いに手間取った・・・なんて事もあったようで、この国では永きに渡って、常識とされていた事でした。

それは、象とて同じです。

・・・で、結局、この象に『広南従四位白象』なる官位が与えられ、めでたく、享保十四年(1729年)4月28日に、ご拝謁とあいなるわけです。

その後の旅路は、文字通りの大名行列・・・なんせ官位持ってますから、お象様のお通りに道を開けるのは当然の事、前を横切りなんかしたら、エライこってす。

やがてお象様は、5月25日に江戸にご到着。
その後、無事、暴れん坊な将軍・吉宗さんとお会いあそばされたという事です。

もちろん、江戸でも、「お象様ブロマイド(絵ですが・・・)に始まり、「お象様物語」「お象様双六」など関連グッズが飛ぶように売れ、大フィーバ-!

それこそ、江戸珍獣ブームにの火付け役(2月20日参照>>)となったのですから・・・。

そんなお象様は、しばらくは浜離宮で飼われていたそうですが、世話係を踏みつけるなど、いくつかのトラブルがあったため、二年後には払い下げられ、あの徳川綱吉『生類憐みの令』(1月10日参照>>)の時の、デッカイ犬小屋の跡地に象小屋をしつらえてもらって、20年近く生きたという事です。

遠い異国で奥さんを亡くして、ひとりぼっちの20年・・・そのお象様の気持ちを思うと、胸が痛みますが、そうなると、「現在の動物園はどうなんだ?」って事にもなりますし・・・ここは、江戸時代の日本人を大いに楽しませてくれた事に感謝をして、その安らかなる眠りに手を合わせる事にいたしましょう。
 

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2008年3月31日 (月)

「そばの日」なのでお蕎麦の歴史

 

3月31日って何があったんだろう?
・・・と、いろいろと調べてはみたものの、何だか苦手な分野ばっかりだなぁ・・・
・・・と思っていたら・・・

やっぱり・・・旧暦に3月31日は無い!のですよ~

またまたネタ切れ必至・・・という事で、とりあえずは、毎月31日は『そばの日』という記念日なので・・・。

江戸時代の商人たちが、毎月の末日に縁起物として、そばを食べていた事に由来して、日本麺業団体連合会が設定したのだそうです。

何事も、細く、長く、という意味が込められているんだとか・・・で、本日は、『お蕎麦の歴史』を書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

そばの原産地はアジア中央部と東部。
麺の形になった「おそば」を想像すると、日本独特のような気持ちになりますが、現在でも、インド北部の山岳地帯をはじめ、中央アジアの多くで栽培されているのだとか・・・。

リンゴのなる所にそばがなる・・・とも言われるそうで、日本では北海道九州信州戸隠妙高など真夏でも20度以下で、火山灰の土地に品質の良い物が育ちます。

どんな場所でもよく育つので、凶作の時には、麦や栗とともにお国推奨の生産物として、人々の飢えを助けてくれました。

そんな「そば」が、日本にやって来たのは、奈良時代のはじめの第44代・元正天皇の頃・・・あの大仏建立で有名な聖武天皇の一代前の天皇が元正天皇です。

『続日本記』には、養老六年(722年)に初めて栽培された事が記録されています。

中国から朝鮮半島を経て伝わり、「ソバムギ」「クロムギ」と呼ばれていましたが、奈良時代中期から平安時代には、「そばがき」「そば練り」として食べられるようになりました。

やがて、江戸時代、そばは画期的な方法で変貌を遂げます。

それは、朝鮮からやってきた元珍という僧が、小麦粉をつなぎとして入れ、こねてのばして切る・・・いわゆる麺類としてのそばの作り方を、東大寺の僧に教えたのです。

これが、ちょうど醤油の発明と同調した形となって、そばつゆが作られた事により、「おいしい」「おいしい」と、江戸で大評判となるのです。

江戸「夜鷹(よたか)そば」として売り出されるのも、この頃・・・

ちなみに、京都大阪では、同時期に「夜泣きうどん」が大評判となってます。
やはり、すでに、「そば文化」「うどん文化」に分かれてますねぇ。

ところで、年の最後に食べる「年越しそば」の風習が始まったのも江戸時代です。

ただし、その意味や由来については諸説あり。

  • 寿命を長くのばし、家財を長く保って幸福を願う・・・というもの
  • 金細工の職人が、飛び散った金の粉を、そば粉を丸めて団子にした物でかき集めていたので、金が集まるように・・・というもの
  • そばは、細くナヨナヨしているが、風で倒れてもすぐ立ち上がるので・・・というもの

などなど・・・

引越しした時に、食べたり配ったりする「引越しそば」は、そばのように細く長~いおつき合いを・・・という意味が込められているのだそうです。

そばには、頭の栄養として重要なグロブリンがたくさん含まれているので、頭の回転が良くなるのと同時に、風邪にもかかり難くなるらしい・・・

さらに、そば湯には、体力増強や血圧を下げる効果もあり・・・それが、上記のように、痩せた土地でも栽培できるのだから、まさに、飢饉の救世主!

古代から、日本人は、そばに何度も救われてきたんでしょうね。

これからは、そんなこんなに感謝しながらおそばを食べる事にいたしましょう。
 

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