2013年2月14日 (木)

2月14日は「ふんどしの日」

 

2月14日は、言わずと知れたバレンタインデー!!

ですが、実は、「2(ふん)(ど)(し)の語呂合わせから『ふんどしの日』という記念日でもあるのです。

・・・と思って、その記念日を制定した『日本ふんどし協会』のサイトに行ってみると・・・これがなかなかオモシロイ!!

『日本ふんどし協会』へ>>(別窓で開きます)

今日だけなのかも知れないけれど、トップにどど~んと
「2月14日はふんどしの日だよ!!」
と、デカデカと表示・・・

しかも、「恥ずかしいと思う人のために…」と、はきたい放題の『ふんどしカメラ』なるアプリも用意され、
「みんなで締めれば怖くない!」
「ナイスふんどし!」
(略して「ナふ!」)
という合言葉には、業界の方々の並々ならぬ努力を感じます。

また、男性陣は、
「バレンタインデーに、チョコではなく、ふんどしを贈る女性を手放すな!」
という定義も・・・

その理由は、
まず、この2月14日が、「バレンタインデーであるとともに、ふんどしの日でもある」という事を知っているという事で、その女性が情報通で知識が豊富な事がうかがえ、さらにユーモアがある事もわかり、そのうえ、「健康に良い下着を贈る」という行為に、その愛情の深さを感じる・・・というわけだそうです。

「なるほどなぁ」となかなかに説得力のある理由だと思いました。

ところで、この「ふんどし」の語源については、「踏通(ふみとおし)が転じて・・・というの一般的ですが、他にも「踏絆(ふもだし=馬の行動を拘束する綱)や、 「絆す(ほだす=動かないよう縄等で繋ぎ止める)「糞通(ふんとおし)から・・・などと諸説あって、よくわかっていません。

漢字で「褌」と書くところから、戦闘服の意味だったとも・・・

とにもかくにも、そのおおもとがよくわからないふんどしですが、日本史上、絵画として初めて登場するのは、平安末期から鎌倉時代に成立したとおぼしき『餓鬼草子(がきぞうし)・・・

とは言え、当時は布自体が高価な物であった事を考えると、やはり、下着として一般的に普及しはじめるのは江戸時代の初期の頃から・・・

はじめは、五尺(約1.5m)ものを半分にした物が主流だったようですが、やがて、長さが六尺(約2.3m)ほどある六尺褌(ろくしゃくふんどし)や、長さ1mほどの布の端に紐をつけた越中褌(えっちゅうふんどし)、長さ70cmほどの布の両端に紐を通したモッコなどなど、多くの種類が生まれました。

素材は、一般的には木綿ですが、高貴な人は繻子(しゅす)などを用い、色も、普通はの無地ですが、魔よけの意味を込めたを用いる事もよくありました。

Dscn0558a800 江戸時代の錦絵に描かれた三十石船のふんどし姿の船頭

ちなみに、越中褌は、以前書かせていただいたように、六尺褌を簡略化した物で、越中守(えっちゅうのかみ)だった細川忠興(ただおき)が考案した(12月2日参照>>)と言われますが、やはり、越中守だった松平定信(まつだいらさだのぶ)(6月19日参照>>) 説や、越中という名の遊女が考案したと言う説もあります。

また、モッコは、越中褌をさらに簡略化した物で、石や土を運ぶモッコの形から、その名が生まれたという事です。

江戸時代から明治にかけては、褌は、男子が9歳になった時に初めてつけるとされ、武士だけではなく、民間でも広く、元服に至るまでの中間の通過儀礼として、着用の儀式的な物が行われていたようです。
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2012年9月16日 (日)

マッチ王…清水誠と瀧川辧三~マッチの日にちなんで

 

昭和二十三年(1948年)9月16日、戦時中は配給制だったマッチに自由販売が許された事を記念して、今日=9月16日は「マッチの日」という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・

その昔、おそらくはサルから進化したであろう人類が、他の動物に比べて1歩先行く存在となったのは「火を扱う事」ではないか?と思います。

木切れなどを道具として扱う事までは、賢いサルならできますが、そのままだと危険な火を安全に扱う事ができるのは、やはり人間だけかと・・・

人は、その火によって、暗い夜に灯りをともせる事や寒い冬に暖をとれる事に気づき、やがて固い肉を焼いて食べるとオイシイ事や固い木の実を煮て食べるとオイシイ事を知ったその日から、本来、危険な物をいかに安全に使うかを工夫しながら生きて来たように思います。

電気もガスも、車も飛行機も・・・一歩間違えれば危険な物を、いかにして安全に便利に使用するか?
これが、文明の発展につながったのではないか?とすら思えます。

その原点がという物・・・

とは言え、人の歴史の中で、長きに渡って「火をおこす」という作業は手間のかかる物でした。

それを、ほとんど手間をかけずに瞬時に行うという画期的な発明が「マッチ」・・・これを発明したのは、1827年(文政十年)のイギリスの科学者ジョン・ウォーカーという人でした。

火の付き具合が、あまり良く無かったと言いますが、形態的には、ほぼ、現在の物と変わりない物・・・ただし、初期の頃のマッチは、先端についている薬品が有毒で危険な物でした。

それを改良して安全なマッチの製造に成功したのがスウェーデン・・・以来、スウェーデンは世界市場のシェアを握っていたのです。

明治維新を迎えた日本でも、やはりスウェーデンからの輸入・・・

その頃には、イキな男が、馴染の芸者を呼んで、船宿でシッポリしようと企み、ムードを盛り上げるために灯りを消してマッチを擦ったところ、突然、懐から出て来た火に驚いた芸者が、「化け物!!」と叫んで失神した・・・なんて笑えるエピソードも・・・

Simizumakoto600 そんな中、旧金沢藩士だった清水誠(しみずまこと)が、明治三年(1870年)に藩命を受けてフランスに留学した際、たまたま、その留学先で、宮内庁の役人=吉井友実よしいともざね)に出会います。

その友実がポツリ・・・
「我が日本は木の国なのに、こんな小さなマッチまで輸入に頼らなならんとは…」

その姿を見た誠・・・
「やってやれない事は無いはずです!帰国したらやりましょう!」
と、やる気満々なところを見せつけます。

帰国後すぐに、本業の造船技師を営むかたわら、仮工場にてマッチの製造を開始しますが、その翌年の明治九年(1876年)には、彼の意気込みに感銘を受けた大久保利通(としみち)のアドバイスを受けて辞職し、東京本所柳原に新工場を設立して、本格的に、その経営に乗り出しました。

当時は、あの廃藩置県のおかげで、無職となった人も多く、非常に安い賃金で労働力を確保できた事から、誠の事業はまたたく間に軌道に乗り明治十三年(1880年)には海外に輸出できるほどになります。

さらに、研究熱心な彼は、本場=スウェーデンまで出かけて研究し、様々な改良を加えた新製品を次々と製造・・・品質有料で低価格なマッチが市場に溢れる事になります。

しかし、商品がヒットすればするほど、それを真似た粗悪な商品が登場するのは世の常・・・

そうなると日本製のマッチへの信用は失われ・・・さらに、同時期に続いた不況のあおりを受け、ついに、明治二十一年(1888年)、誠はマッチ業界を去る事になります。

Takigawabenzou600 そんな誠と交代するように表舞台に登場するのが、瀧川辧三(たきがわべんぞう)でした。

長府藩士の子として、現在の下関に生まれた辨三は、大阪の開成校で学んだ後、工部省電信学校を卒業・・・その後、神戸のイギリス商館に務める中、明治十三年(1880年)、仲間と共同で清燧社(せいすいしゃ)という会社を設立し、マッチの製造に着手します。

そう、誠の活躍で、マッチ業界がノリに乗ってた頃ですね。

ところが、上記の通り・・・ノリに乗ってた頃に次々と誕生した同業者が、粗悪なマッチを売ってくれたおかげで、信用がガタ落ちのうえに不況のダブルパンチ・・・

次々と同業者が潰れていく中で、辨三の会社も、ご多分に漏れず、もはや虫の息・・・共同出資者も去る中で、ただ一人残った辨三は、食事さえも節約しながら夜明けから日没まで、休みなく働きます。

そんな中でも、辨三の信念は、「品質第一」・・・とにかく、良いマッチを造る事でした。

そんなこんなの明治二十九年(1896年)、創業者の社長が亡くなった良燧社(りょうすいしゃ)という会社の商標と良燧社そのものを買い取ったのです。

もはや虫の息の辨三ですから、この高価な買い物は、おそらく一大決心・・・ある意味、その命賭けた一世一代の懸けであったかも知れません。

実は、この良燧社は、輸出先の中国市場で絶大な人気を誇る「尾長猿印」という商標を持っていたのです。

さらに辨三は、それとは別の「馬首印」や「ツバメ印」「筍印」などの人気商標も受け継ぎます。

そうです・・・いくら品質の良い製品を造っても、マッチの場合、使ってみないと、本当に良い物かどうかわかりません。

「良い品物には、この商標がついている」
「これが、ついていれば安心だ」

という、品質を保証する商標に目をつけたのです。

これが見事に大ヒット!・・・海外への輸出にも成功し、辨三の会社は、国内向けのシェア70%を誇る大会社に成長していきます。

Takigawam800 大正時代の頃の商標
Takigawamomo3 .
辨三の代表的商標「桃印」は現在も発売中です

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いくつかの合併を経て、大正六年(1917年)には社名を東洋燐寸(マッチ)株式会社と改名した頃には、もはや業界では揺るぎない地位を築き「マッチ王」と呼ばれるようになった辨三は、翌・大正七年に、マッチ事業のすべてを婿養子に譲り、社長を引退しました。

その後は、災害被害者の援助や瀧川中学校設立など、社会貢献に尽力する辨三ですが、その根底にあるのは、やはり、「今の自分があるのも、社会の皆さまに育ててもらったおかげ」という、これまでもこのブログに度々登場していただいている、昔懐かしい商人&実業家の精神を持っていたからこそ・・・

マッチ王となった後も、自分の事にお金を使う事はなかったという辨三・・・彼が亡くなった時には、高価な私物という物はほとんど無かったとか・・・

ホント、頭が下がります。
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2012年5月29日 (火)

江戸時代の帯結び…「呉服の日」に因んで

 

5月29日は、ご)(ふ)(く)の語呂合わせで、「呉服の日」という記念日なのだそうで、今日は、ちょいと着物のお話をしましょう。

歴史好き&武将好きの男性陣には、少し、退屈なお話かも知れませんが、時代劇の衣装にも通じるお話なので、少々のおつき合いを・・・

・‥…━━━☆

Kimonootaiko400 ・・・と、右の写真は、お友達のお写真を拝借させていただきましたが、ごくごく一般的に見る着物姿ですよね?

ご存じだと思いますが、この帯の結び方をお太鼓結びと言います。
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「あぁ、やっぱり、着物は伝統的でいいなぁ」
と、思われる方も多いかと思いますが、

実は実は・・・
このお太鼓結びは、意外に歴史が浅いのです。

もちろん、今や、お店屋さんなんかでも、50年店舗を構えていれば「老舗」と称されますから、そういう意味では、これも伝統のある着物姿には間違いないのですが、思ってる以上に近年の・・・という事です。

Harunobuutiwauri600 たとえば・・・
←コチラは、鈴木晴信の描いた『笠森おせんと団扇売り』(東京国立博物館蔵)ですが、現在、巷で一般的に見る着物姿と比べると、ちょっと違和感ありますね~

そうです。
帯揚げと帯締めが無いのです。
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Obizimeobiagw 着物に関心の無い方のために、一応、写真をup→しときますと、帯の真ん中で結んであるのが帯締め、帯の上部にチョコッと見えるのが帯揚げ・・・

そう、この帯揚げと帯締めは、お太鼓結びをするために考案された物で、そのお太鼓結びをする以前には無かった物なのです。
もちろん、お太鼓に膨らみをもたすために中に入れる「枕」もありません。

あ、スンマセン・・・
厳密に言うと、帯揚げ&枕は無かったですが、帯締めは飛鳥時代頃からあって、それこそ、着物を前合わせで整えるためにベルトのように使っていたわけですが、現在のように、お太鼓の形を整えるために帯の真ん中に締めるという使い方をしなかったという事です。

・・・で、このお太鼓結びが生まれるのは江戸時代も末期・・・それも、深川の芸者さんが、ちょっと違った結び方という事で考案された物で、その後、一般の女性の間に広まったのは明治四十年(1907年)頃からだそうで・・・つまり、それまでは一般女性はお太鼓結びなる結び方はしていなかったわけですね。

なので、もし、幕末や明治の始め、あるいは江戸時代のドラマで、お太鼓を結んでいたら、これは間違い・・・って事になるわけですが、

これが、どうしてどうして・・・ちゃんと守られてます。

さすがは、テレビ局の衣装さん・・・感服ですm(_ _)m

まれに、バラエティ番組の再現ドラマ的な物では見かけたりもしますが、某公共放送さんは、それもありません・・・見事です!

では、それまでは帯揚げ帯締め無しで、どうやって結んでいたのか?

これが、現在の浴衣の結び方を思い浮かべていただくとわかりやすいです。

現在の浴衣の帯は、「半幅帯」(現在の一般的な帯の半分ほどの幅なので)と呼ばれる物ですが、このサイズの帯は江戸時代にもありました。

Kainokuti これを、現在の浴衣のように、リボン結びにしたり蝶々の羽根みたいに結んだり、他にも、いわゆる「貝の口」→という、男性の角帯にも結ぶ結び方、あるいはそれをアレンジした「矢の字」「吉弥結び」など・・・
これなら、帯揚げも帯締めもいりません。

ちなみに、「吉弥結び」の「吉弥」というのは、元禄時代に大人気だった歌舞伎役者さんの名前・・・

それこそ、平安時代などは、帯は紐のような物でベルトのように使っていたのを、戦国時代に少し太くなって、ドラマでお馴染の、お腹のあたりで結ぶアレになって、江戸時代に入ってから、現在のように15~16cmほどの幅の帯を胸の下あたりに結ぶようになった時、吉弥なる人気役者さんが、貝の口をアレンジしたような結び方をして大流行した・・・ってわけです。

もちろん、その倍の幅の現在の帯くらいの帯も、江戸時代の途中から登場します。

現在の帯は、ちょっとよそいきの「袋帯」と、普段着使いの「名古屋帯」ですが(違いを話してると長くなので省きます)、これも、お太鼓結びのために考案された帯で、江戸時代から明治のそれは、よそいきが「丸帯」で、普段着が「昼夜帯」というのが主流だったようです。

Bunko_3 結び方は、丸帯の場合は、主に「文庫」→という、時代劇で武家のお嬢様が結んでいる結び方(「仁-JIN-」のさきさんが、いつも結んでました)、あるいは、「立て矢」という大奥のお女中が結んでいる蝶々の羽根が斜めになった感じの結び方など・・・

一方、町人の普段使いの昼夜帯は、「角出し」「引っかけ」といった、結びめを最後まで引き抜かないで帯の端をおしりのあたりで止めておいて、輪になってる部分を上からダラリと垂らす感じ?の結び方・・・

Tunodasichacha ←は、私が自分で結んだ「角出し」ですが、これは、現在の「京袋帯」を使用しているので長さが足らないため、帯揚げと帯締めを使用していますが、4mくらいの長さのある袋帯か昼夜帯でなら、帯揚げ&帯締め無しで結べます。

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「昼夜帯」というのは、表と裏が別の柄になっている帯で、基本は、表が白博多帯地で裏面が黒の繻子(しゅす)だった事で、その色目から鯨帯(くじらおび)とも呼ばれていましたが、徐々にその柄行も素材も豊富になり、表裏が別柄=両方使えるという、今で言うリバーシブルという意味で昼夜帯と呼ばれるようになりました。

Dscf1450a800_2 →は、私の私物の昼夜帯ですが、今は作られてなくて、アンティーク以外では、なかなか手に入らないようです。

結んだ時は、前の胸に来る部分の半分~3分の1くらいを裏返して、裏の模様を見せるのがカッコイイ着方・・・私のは、たまたま裏が茶色ですが、時代劇などでは、やはり黒の繻子の物を、よく見かけます。

ちなみに、私、某公共放送の「タイムスクープハンター」という番組が大好きなのですが、これに出て来るお嬢様方は、この昼夜帯を、そのようなカッコイイ結び方で着こなしておられます。

って、事で、本日は、呉服というより、帯の結び方に終始してしまいましたが、このような目線で、時代劇を見てみるのもオモシロイですよ。

それこそ、武家のお嬢様と豪商のお嬢様、水商売のおカミさんに茶店の女の子・・・と、ドラマのスタッフさんは、力を入れて、それぞれに見合った変化のある帯結びを披露して下さってますヨ。
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2012年4月 6日 (金)

戦国から江戸の城の変貌~「城の日」に因んで

 

4月6日は、(し)(ろ)の語呂合わせで「城の日」という記念日なのだそうです。

なので、今日は「お城」について・・・

と言っても、本当は、城と言えば各時代に存在するわけで・・・たとえば、縄文時代の遺跡として有名な吉野ヶ里遺跡には、物見櫓のような高層建造物と柵が復元されていますが、厳密に言えば、ああいうのも城なわけではありますが、

今回は、いわゆる「城」と聞いてイメージするような、戦国から江戸にかけてのお城の変貌について、お話してみたいと思います。

・・・・・・・・・・・

現在、「城」と聞いてイメージするような形の物のはじまりは、鎌倉時代末期から南北朝にかけて、吉野山周辺を舞台に行われた攻防戦で生まれた山城・・・そう、あの楠木正成赤坂城(10月21日参照>>)千早城(2月5日参照>>)にような城が、そのルーツと言われています。

この場合、平地ではなく、ゲリラ戦に有利な山の上に砦のような城を築き、天然の崖を利用して、上から石や丸太を落としたりして、攻めて来る敵を防ぐ方式で、山そのものにあまり手を加える事はなく、あくまて地形を活かした形に通路や城壁が構築されます。

その後、室町時代の前期には、いち時政権が安定した事もあって、戦う城よりは守護や地頭の居館という意味合いが大きくなり、防御面より便利さを重視した造りになり、主とその家族が居館と周辺の屋敷に住み、配下の半士半農の地侍たちは、それぞれの郷で屋敷を構えて暮らすという形になります。

それが変化するのが、ご存じ応仁の乱(5月20日参照>>)以降の下剋上の世の中・・・

乱世に入ったところで、再び防御を重視しなければならなくなった武将は、もともとの居館を本城とし、配下の地侍の屋敷を支城とし、重要な場所に砦を築いて、それぞれをネットワークでつなぐ事で防御を固めます。

ちなみに、支城や砦を構築する基準としては、ほら貝や鐘の音が聞こえる範囲・・・有事の際には、危険を察知した支城や砦からほら貝や鐘が鳴らされ、それを聞いた隣の城が、また鳴らし・・・という具合に、連絡を取ると同時に、その音を聞いた侍が、即座に武装して、決められた場所に集合するという感じです。

なので、この時期の城攻めは、まず、本城と支城の連絡を断つところから開始されますよね?

この頃に、その本城として多く生まれた城が、いわゆる「山城」と呼ばれる物で、独立した山の頂上から斜面にかけて、あるいは連山の峰に、天然の要害を利用して構築されたもの・・・

基本的には南北朝時代の物と変わりませんが、土木技術が発達したぶん、人工的な堀切や土塁などが構築されて、頂上の城に行くまでのルート&分かれ道などが複雑に構成され、防御力がより固くなってます。

一般的は、高低差が100m以上ある山の上に構築された物を「山城」と呼び、代表的な物は、
岐阜城(8月15日参照>>)
小谷城(8月27日参照>>)
観音寺城(10月6日参照>>)
以前ご紹介した福知山の猪崎(いざき)(7月22日参照>>)などは典型的な中世の山城です。

そんな中でも、月山富田城(がっさんとだじょう)(11月21日参照>>)などは、高低差が300mもあったと言いますから、「しょっちゅう通う家臣の身にもなれ!」って感じですが、防御は完璧でしょう。

ちなみに、安土城は分類としては山城ですが、個人的には、いわゆる典型的な山城とは違う気がします。

それは、たぶん、それを造った信長の意図が、他の山城と違うから??・・・以前、書かせていただいたように、この安土城は、後方の観音寺城とセットでは無かったか?と思うからですが・・・(2月23日参照>>)

その話をし出すと長くなりそうなので・・・
ここで、蛇足の豆知識・・・

城と言えば、城壁や土塀の間に垣間見える木々が美しく・・・
♪春高楼(こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
  千代の松が枝
(え)分け出(い)でし 昔の光今いづこ ♪
と、「荒城の月」(10月9日参照>>)に歌われるような光景を思い浮かべてしまいますが、その光景は、この後の城から・・・中世の山城には、木はいっさい生えてません。

なんせ、高い木があると、近づいて来る敵が見えませんし、敵の恰好の隠れ場所になってしまいますので、とにかく見晴らし重視・・・なので、おそらく、現在残る城跡からは、想像し難い光景だった事でしょうね。

・・・で、そんな山城にも、やがて変革期が訪れますが、それが、織田信長の台頭です。

以前、「城割」(8月19日参照>>)という物について書かせていただきましたが、信長は、勝ち取ったその場所を平定する時、それまで、その領地に散らばっていた支城や砦を破却し、本城のみを残して、その城下に配下の者を住まわせるという形で、武士たちを、半士半農ではない、常時戦えるプロの戦闘員としました。

そこに残された本城は、戦うための城であると同時に、主の居館でもあり、領地を統治管理する役目(今で言う県庁や都庁)も担う事になります。

さらに、ここらあたりから合戦の主流が野戦から城攻めへと変わって夜襲を警戒せざるを得なくなり、昼夜を問わず守りが固められる事が重要になって来ます。

・・・で、ここで登場するのが、高低差100m前後の山というよりは小高い丘に構築された「平山城」という物・・・

たとえば、先ほど出て来た福知山の猪崎城・・・ここ福知山は、信長の命を受けた明智光秀が攻め落とすまで、塩見氏が統治していた場所で、その猪崎城は塩見氏の本城であり、領内には複数の支城が点在していたわけですが、上記の通り、猪崎城は典型的な戦国山城なので、城下を統治しながら夜襲に備えるには不向き・・・

そこで、塩見氏を倒した光秀は、支城の一つであった横山城が建っていた小高い丘に新たな治めるための城を構築し、残った支城は本城もろとも、すべて破却する事としました。

この時、横山城の場所に建てられたのが現在の福知山城(天守は復元)・・・これが平山城ですね。

この方式は江戸時代まで続き、関ヶ原の後に近江(滋賀県)を与えられた井伊直政も、石田三成佐和山城を潰して、眼下の小高い丘に彦根城を構築しています(2月1日参照>>)

そんな平山城の代表格は、有名な姫路城熊本城岡山城などなど・・・そう、実は、この平山城は、城から城下を一望でき、逆に、城下のどこからでも城を望める事ができる事から、江戸時代初頭でも、まだまだ諸大名からの人気が高かった事から、近世の城のほとんどが、この形式となっているのです。

そして、最後に登場するのが「平城」・・・

近世にればなるほど、築城技術の発達とともに、もはや地形を利用した設計など考えなくても良くなり、どんな場所にでも、思い通りの掘やら土塁やらの防御策を講じる事ができるようになりますから、むしろ、高低差の少ない広大な敷地に計画的な城下町を整備して、そこに、まさに統治のシンボルとも言うべき城郭を築く事になります。

むしろ、ここで重視されるのは、城下町が発展するための物流であり、いざという時のために船を横付けできるほどの水運であるわけで、河口や湖や海に面した平城が構築されるようになったのです。

Dscf0530a800 銀杏越しに見る大阪城・六番櫓

代表格は、ご存じ、我らが大坂城(8月18日参照>>)や、その大坂城に感激した毛利輝元が築城を決意した広島城(4月15日参照>>)などなど・・・

まさに水というところでは、「忍の浮城」と呼ばれた武蔵忍(おし)(6月16日参照>>)も平城ですね。

・‥…━━━☆

以上、本日は「城の日」という事で、お城の変貌を駆け足で見て参りましたが、歴史に精通されている方にとっては「そんなモン知ってるよ」という内容だったかも知れません。

でも、まぁ、せっかくの「城の日」という事なので、これを機会に新たに見直して見るというのも一興かと・・・
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2012年3月12日 (月)

半ドンの日~号砲1発!大阪城の大砲

 

明治九年(1876年)3月12日、この日から、日曜日の休日と土曜日の半休が、官公庁で実施された事から、3月12日「サンデーホリデーの日」「半ドンの日」という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・・

ご存じのように、それまでは旧暦=陰暦を採用していた日本・・・

明治元年(1868年)9月には、
「31日を除く1と6のつく日を休日」
と、太政官布告されていましたが、やっぱり、どうやっても、欧米との交易&交流するにあたって、公私ともに不便を感じた事で、明治五年(1872年)に太陽暦を採用したわけです(11月9日参照>>)

その後、
「休日も欧米と同じ仕組みに・・・」
という事で、明治九年(1876年)3月12日から、官公庁にて日曜日の休日と土曜日の半休が実施されたのです。

もともと、明治四年(1871年)から、皇居で毎日正午に大砲(午砲=通称:ドン)を撃っていた事から、この大砲の音が、土曜日の就業終わり=半休の合図となり、そこから、一日の半分が休みになる事を「半ドン」と言うようになったのだとか・・・

.。.。..。.。..。..。..。..。.

注:半ドンの語源には異説あり
オランダ語で日曜日を意味するzondag=ゾンタークが訛って「ドンタク」となり、土曜日は半分が休日であることから「半分ドンタク」を略して「半ドン」となったとする説、
「半分休みの土曜日」が縮まって「半土」から「半ドン」になったという説もあります。

.。.。..。.。..。..。..。..。.

もはや週休2日制も定着した今となっては、「半ドン」という言葉も、死語になりつつあるのかも知れませんが、大阪生まれ大阪育ちの茶々としては、ここで、ひと言・・・
というより、東京の事はあまりわからないので、得意な大阪城のお話(*´v゚*)ゞ

そう、実は、この号砲に関しては、東京より大阪にほうがちょっぴり早い・・・

大阪では、明治三年(1870年)から、朝・昼・夜の一日3回、時を知らせる=時報としての空砲が鳴らされていたのです。

それが、大阪城に行かれた方が、皆、天守閣に入る時に目にする、入口の右側にある、あの大砲です。
(現在の位置=天守閣の大門の横に設置されたのは最近です)

現在は大阪市の指定文化財となっています。

Dscn0470a800 大阪城天守閣横の号砲

全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm、先込め式の旧式砲で、材質は青銅製です。

幕末に、大坂に入ってきた外国船を迎撃するために、天保山の砲台に設置された物で、文久三年(1863年)に、美作(みまさか=岡山県)津山藩の鋳工・百済清次郎(くだらせいじろう)が制作した物・・・

それが、明治維新を機に、大阪城内に移されて来ていたのを、一日3回「ドーーーン!」とやってたわけですが・・・

実は、これが、ものスゴイ音だったそうで、音にビックリしてひっくり返る人が続出・・・

まぁ、考えようによっちゃぁ、それだけ平和になったって事ですね。

なんせ、ちょっと前までは、それでドンパチやってるのが日常だったわけですから・・・

とにもかくにも、
「音が凄すぎる」の苦情が殺到したために、明治七年(1874年)からは、お昼の1回のみ号砲を鳴らす事に・・・

とりあえず、今も昔もクレーマー比率の高い大阪庶民も、「昼だけくらいやったら・・・」と納得したのでしょう、それからは「お昼のドン」「お城のドン」と呼ばれて、市民に親しまれたそうですが、

いつしか、そのお昼の1発もなくなってしまいました。

その時期も、廃止の理由も、今となってははっきりしませんが、時期は大正二年~三年(1923年~24年)頃、その理由は、単に火薬の節約ではないか?と言われています。

まぁ、時計の普及率なんかの影響もあったかも知れませんね。

もはや「半ドン」の言葉とともに、ひとときの眠りについた幕末の大砲・・・

どんな音だったのか・・・
「1度聞いてみたい」
なんて、思うのは、
動乱の幕末維新を生きた人たちから見たら
「平和ボケしたバカな発言」
なんでしょうが、やっぱ、聞いてみたい!
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2012年1月 6日 (金)

神代から現代まで…色の色々な歴史~「色の日」にちなんで

1月6日は、「1=イ」「6=ロ」の語呂合わせから、「色の日」という記念日なのだそうで、今日は「色」のお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・

そもそも、古代の日本で、最も重要かつ好まれた色は「赤」でした。

現在の私たちでも想像できるように、赤とは、
太陽の赤、
炎の赤、
血の赤、

と、何かと、エネルギーや生命を感じさせるところから、強い色=邪悪な者にも打ち勝つ色と認識され、縄文時代の頃には、すでに、魔よけの色として土器や日用品にも多く用いられました。

以前書かせていただいた、愛する人と結ばれている「運命の赤い糸」(8月21日参照>>)のもととなったお話でも、周囲に赤土をまいて、その場を清めるというまじないだっただろうと思われます。

それは、古墳時代になっても続き、古墳の石室内にほどこされた大量の赤は、現在でも確認する事ができます。

未盗掘で発見された奈良の藤の木古墳から、大量のベニバナの花粉が見つかった(9月25日参照>>)のも、記憶に新しいところです。

ま・・・、この場合は、赤というよりは「朱」といったほうが良いかも知れませんね。

そもそもお祝いの時に赤飯を炊くのも、もともとは神棚にお供えしていた「強飯(こわめし・こわいい)が赤かったからで、当時はモミを蒸しただけの物だったのが、玄米になり、さらに白米になるうち、現在のように、白米に赤味をつけるために、小豆と一緒に炊くようになったわけです。

壬申の乱の時に、大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)赤旗を使用した(7月2日参照>>)事もご存じかと思いますが、これも、五行思想の「火」をイメージしたとされ、ここで、乱に勝利して、天皇家の基盤を作る天武天皇が使用した「赤」が官軍の色となった事から、後の源平の合戦では、官軍(安徳天皇いますから)だった平家が「赤旗」・・・

そして、それに対抗すべく色として、八幡菩薩にちなむ「白旗」源氏が使用したのではないか?と思われています。

この赤白は、ご存じのように、現在の運動会の赤白や、あの紅白歌合戦にも通じています。

とは言え、これらの色にも、時代時代によっての流行が出てきます。

ご存じ、聖徳太子の時代の「冠位十二階」では、紫→青→赤→黄→白→黒(それぞれに濃と淡で12です)と、濃紫が最も高貴な色とされました。

おそらく、赤と青を合わせた中間色という事で、色そのものもミステリアスであり、染めるにも難しく、また原料も大変高価だった(主に日本では紫草の根、ヨーロッパでは貝紫)事などから、紫系の色が高貴な色とされたのだと思いますが・・・

この「紫が身分が高い」という観念は、けっこう長く続いていたようで、江戸時代の初めには、色がらみの紫衣事件(11月8日参照>>)が起こっていますが、ここで言うところの衣服の色は、あくまで階級を示す公式の場の色です。

なんたって、いろんな色の服を身につけたいのは、いつの時代も同じですから、奈良時代の終わり頃には、徐々に使用制限も緩められていたようで、正式な場を除いては、必ずしも階級による色が守られる事はなく、結構、自由な色合いを楽しんでいたようです。

平安時代には淡い色が好まれ、その上にさらに薄物を重ねて、下の色が透けて見える微妙な色合いを楽しむ事が大流行したそうです。(←もちろん、男もです)

ただ、それも、一部の貴族たちの楽しみで、一般庶民は、ほとんど、黒か黄色くらいしか許されなかったそうですが・・・(←工事中か!)

やがて鎌倉時代になると、武士中心の世の中になり、そのファッションリーダーもバトンタッチ・・・武士らしく、緑系や青系や褐色といった色がもてはやされ、それは、さらに、室町時代に花開いた「侘び・さび」の精神から、特にシブイ色が好まれるようになります。

ところが、そんな流行が一転するのが、織田信長豊臣秀吉・・・つまり、安土桃山時代です。

この二人のリーダーが好んだ「金銀派手派手色とりどり」ってのが流行し、今も残る桃山文化の建築物は、それはもう、目にも鮮やかな物ですね。

桃山時代の傑作とされる西本願寺唐門なんか、見ていると時間の経つのを忘れるとして別名・日暮門などと呼ばれています。

Karamon800 西本願寺:唐門

ところが、これも・・・
先の紫衣事件じゃないですが、江戸時代になると、一転して茶色や鼠色ばっかりに・・・

まぁ、これは、流行というよりは、何度も財政難に陥る江戸幕府が、度々質素倹約を呼びかけて、派手な衣装を禁止した事にあるわけですが、「それならそれで…」とばかりに、庶民たちは、逆に、黒や鼠色の中での微妙な色の違いを楽しむようになり、わずかな色の濃淡、あるいは、わずかに別の色を入れた新しい色を次々と生み出し、

それらの色に、花鳥風月を思い起こす美しい名前をつけたり、その色を好む人気の歌舞伎役者の名前をつけたり、イメージする歴史上の人物の名を入れたりして・・・

鼠色 濃鼠 銀鼠 葡萄鼠 利休鼠 藍鼠
源氏鼠 深川鼠 青磁鼠 白梅鼠 
素鼠
一応文字の色は、その色にしてみましたが、
携帯などで、
見え難い場合はゴメンナサイ

「鼠と素鼠は違うのか?」という疑問を残しつつも、これはこれで、結構楽しめ、おかげで、現在でも「そんな名前の色、あるの?」って驚くほどの色の種類が日本にある事は、皆さまもご承知の事と思います。

以前、ご紹介した天下御免の「氷」道中の旗印とされた緋色(8月5日参照>>)
巴御前の鎧の縅(おどし)の色だった萌黄色(1月21日参照>>)
雰囲気から名づけられたであろう今様色
まさに夕陽を思わせる茜色
ウチはもっと汚いゾの納戸色
じつは海って…の紺碧
そんなんあったんや~の空五倍子(うつぶし)

今日はひとつ、ゆっくりと、日本の色を探索してみるのもイイですね~
 .

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2011年11月17日 (木)

「将棋の日」にちなんで将棋の歴史

 

江戸幕府・徳川吉宗の時代に、毎年11月17日に、将軍の御前にて行われる「御城将棋」が制度化された事から、今日、11月17日「将棋の日」という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・

以前、やはり「いい碁の日」という記念日に書かせていただいた囲碁のお話・・・(1月15日参照>>)

今回の将棋も、おそらくは、同時期の奈良時代に、中国から日本に伝わったのではないか?という説が有力ですが、囲碁ほどはっきりした記録は無く、非常に曖昧です。

と言うのも、古代インドで誕生し、ユーラシア大陸一帯に広がって、それぞれの国で様々な変化を遂げた将棋なので、ルールや形も様々・・・日本には、インドから直接伝わったのは?とおぼしき部分もあり、もはや確定は不可能なようです。

とにもかくにも、あの奈良興福寺からは、天喜六年(1058年)と書かれた木簡とともに将棋の駒が発掘されているので、平安時代にはすでに伝わっていたという事だけは確かでしょう。

発掘された将棋の駒は、簡素な木製ながらも、すでに5角形の形をしていて文字もしっかり書かれていたとか・・・

ただ、この頃は駒数の多い大将棋という物で、しばらくして必勝手順が見つかると、さらに駒を増やしたり、ルール変更したりと非常にややこしいです。

・・・で、やがて、複雑になり過ぎた大将棋から、簡略化された中将棋小将棋が生まれ、ここから、現在の本将棋へとつながるのですが・・・。

『太平記』には、あの楠木正成(まさしげ)鎌倉幕府軍を相手に奮戦する千早城の攻防戦(2月5日参照>>)のシーンで、奇策を用いて押し寄せる大軍をなぎ倒す時の表現として「将棋倒ヲスル如ク、奇手四五百人、圧(おし)ニ討タレテ死ニケリ」と書いていますので、室町時代の初期には、すでに、あの「将棋倒し」なる遊びもあったのでしょう。

(注:人が密集した場所で、次々と折り重なって倒れる事故の表現には、「将棋のイメージが悪くなる」として、最近は使われないようになってます)

さらに、戦国時代には将棋が盛んに行われるようになり、この頃には、あの「相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できる(持ち駒)という日本独自のルールも考案され、まさに現在の本将棋となっていきます。

ただし駒台が現在のようになるのは明治以降で、それまでは、取った駒は懐紙の上に置かれてました。

江戸時代には、徳川家康が将棋を好んだ事から、囲碁とともに幕府の公認となって、寺社奉行の管轄下に置かれました。

はじめは碁将棋所として、囲碁の名人・本因坊算砂(ほんいんぼうさんざ)(6月1日参照>>)代表をつとめていたいう事ですが、途中から独立して、将棋の名人は、将棋所(しょうぎどころ)という称号を名乗るようになったのだとか・・・

やがて、この将棋所が毎年1度、江戸城内での公務として御城将棋(おしろしょうぎ)なる対局を行うようになるのですが、それが、毎年11月17日と制度化されるのが8代将軍・徳川吉宗の頃・・・

家元と7段以上の棋士には(給料)が与えられるという待遇の中、この御城将棋が将棋所の唯一の公務であり、本来は将軍の面前での御前試合のような位置づけでありましたから、各棋士はその日に向かって全力投球で、各家元もその日のために研究を惜しまずといった具合でした。

「碁や将棋は親の死に目にもあえぬ」
ということわざがありますが、これは、御城碁や御城将棋の時は、たとえ「親が危篤だ」との知らせを受けても、打ちかけとして帰る事はなく、必ず、その場で打ち終わったという故事から来ているのだとか・・・それだけ、厳しい世界だったと・・・

ただ、最近では、将棋の家元の一つである大橋家に伝わる『大橋家文書』の研究から、一応、タテマエとしては、その日のうちに打ち終えるというしきたりだったものの、メッチャ対局が長くなる事もあり、そこンところは、臨機応変に行われていたという事がわかって来ています。

さらに・・・
そんなプロの対局とは別に、いわゆる縁台将棋と言われる庶民の将棋の世界では、子供向けに、挟み将棋飛び将棋(ウチはかえる飛びんと呼んでました)盗み将棋(同じくお金取りん回り将棋(同じくひょこ回りなどもできて、大変流行しました。

Gundamgunzinsyougi400 日露戦争(2月9日参照>>)の頃には、3人でやる軍人将棋なんてのも生まれ、本将棋をやる前の入門として子供たちを夢中にしましたね・・・まぁ、軍人将棋も、今もありますが・・・

思えば、コンピュータゲームの「信長の野望」なんかのシュミュレーションゲームも・・・

一時、流行った「ファミコンウォーズ」「ファイア・エンブレム」なんか、まんま、将棋ですね。

古代インドに生まれて、形を変えながらも、21世紀の私たちをも夢中にさせる・・・いやはや将棋ってスゴイですね。
 

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2011年9月22日 (木)

アンケート企画:歴史上で一番「いい夫婦だなぁ」と思うカップルは?

 

懲りずにやりまっせ~!ヽ(´▽`)/
本日は、気分を変えてアンケート企画といきましょう!

夫婦の記念日と言えば、毎年11月22日の「いい夫婦の日」が有名ですが、11月だけでなく、毎月22日も「夫婦の日」・・・良くも悪くも(?)「すべての夫婦の記念日」という事で、

今回のテーマは・・・
「あなたが、歴史上で一番『いい夫婦だなぁ』と思うカップルは?」という事で、アンケート募集したいと思います。

もちろん、昔々は、一夫多妻の時代もありましたので、今回の「夫婦の定義」は、正式な夫婦だけではなく、側室や事実婚のカップルも含まれますので、その点はご了承ください。

とりあえずは、いつものように、個人的に「これは?」と思う選択肢を16個用意させていただきましたので、「このカップルがイイ!」という二人に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 聖徳太子×膳部妃(かしわでのひ)
    伝承では自殺したと言われる聖徳太子…身分の高い妃が複数いたにも関わらず、その死出の道連れに選んだのは、三輪明神参拝の時に知り合った恋人=一般女性の膳部妃でした…(参照ページ:2月22日>>)
  2. 聖武天皇×光明皇后
    藤原氏にお膳立てされた完全なる政略結婚ではあったものの、二人の間のは愛があったと信じたい!…(参照ページ:8月10日>>)
  3. 源頼朝×北条政子
    この時代に大恋愛結婚!…政子が、父の反対を押し切って、暴風雨の中を頼朝のもとに走り、かけおち同然で一緒になったいきさつは有名ですね。
    キョーレツなヤキモチも愛の証…(参照ページ:8月17日>>)
  4. 源義経×郷御前(さとごぜん)
    義経のお相手は静御前が有名ですが、今回はあえて、正室の郷御前。
    全盛期の政略結婚でありながら、追われる身となっても夫とともにいて、最後の最後まで離れる事のなかったのは、やはり純愛?…(参照ページ:4月30日>>)
  5. 蓮如×如了(にょりょう)
    子供のオムツもその手で洗ったと言われる元祖イクメン・蓮如。
    最初の奥さんだった如了さんと死別してから、何人もの奥さんを娶る蓮如さんですが、その夫婦円満の原点は、やはりこの方から…(参照ページ:3月25日>>)
  6. 毛利隆元×尾崎局(おざきのつぼね)
    なんとなく手紙で伝わるイイ雰囲気…良きパパ&良きママは良い夫婦の証!
    夫亡き後の彼女の生き方にも愛を感じます…(参照ページ:8月4日>>)
  7. 武田勝頼×北条夫人
    夫婦として過ごした日々はわずか…しかし、愛の深さはその期間の長さだけでは測れないもの。
    実家へ戻る事を拒み、夫と死ぬ事を選んだ若き姫君は、そこに命がけの愛を知った事でしょう…(参照ページ:3月11日>>)
  8. 前田利家×まつ
    歌舞伎者の不良夫を見守りつ、その窮地にはケツを叩いて叱咤激励…「あの夫にしてこの妻あり」と思わせるお似合いのカップル…(参照ページ:3月3日>>)
  9. 山内一豊×見性院(けんしょういん・千代またはまつ)
    もはや仲間由紀恵さんのイメージがピッタリ張り付いてしまっている千代さんですが、なんだかんだで内助の功=妻のかがみ。
    実際には、どこまで真実かはわかりませんが、後世まで残るエピソードには、それなりの根拠があるはず…いい夫婦だったんだろうなぁ…(参照ページ:9月20日>>)
  10. 宇喜多秀家×豪姫
    若き日は、病弱の妻を夫がいたわり、夫が窮地に立てば妻が100%の力で支援する。
    離れた後も助け続けた豪姫の心意気に乾杯!…(参照ページ:5月23日>>)
  11. 徳川秀忠×
    実際には???な二人ですが、今年の大河ドラマでは、ラブラブ度上昇中。
    「お互いが幸せなら、戦も他人もどうでもイイ!」(←大河の場合)っていう姿勢も、ある意味、一つの愛の形なのかも…(参照ページ:6月19日参照>>)
  12. 上杉鷹山(ようざん)×幸姫
    婿に入ったばかりの頃、四面楚歌の鷹山を救ってくれたのは、純心無垢な幸姫の姿。
    「彼女は、神様が僕にくれた天使だ」←言われてみたいゾ~~…(参照ページ:3月12日>>)
  13. 坂本龍馬×楢崎龍(ならさきりょう)
    なんやかんやで、幕末の代表格として入れとかんとあけませんやろ。
    恋多き龍馬ですが、やっぱり、最後の人となったお龍さんは、あの寺田屋の全裸で階段疾走も含め、知名度も一番ってとこでしょうか…(参照ページ:11月15日>>)
  14. 大山巌×山川捨松
    戊辰戦争で会津若松城に砲弾を撃ち込んだ巌と、その若松城を守っていた家老の娘・捨松。
    時を経て知り合った二人は、過去の恨みを越えて結ばれ、愛を育みます…(参照ページ:2月18日>>)
  15. 愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)×嵯峨浩(さがひろ)
    関東軍の思惑によって進められた満州国皇帝・溥儀(ふぎ)の弟・溥傑と、侯爵・嵯峨実勝(さがさねとう)の娘・浩との結婚。
    戦争によって引き裂かれた愛は消える事なく、後に再会し、晩年は日中友好の架け懸け橋となったお二人…まだブログではご紹介していませんが、ずいぶん前に見た溥傑さんのインタビューのステキな雰囲気が忘れられません。
  16. その他
    「このカップルがイイ!」「この人たちを忘れてるヨ!」っていう人がいたらお知らせください
      

「あの二人も入れたい」「このカップルもイイ」と思いながらも、とにかく上記の16項目に絞ってみました。

なお、締め切りはいつものように2週間後・・・勝手ながら、10月6日締め切りとさせていただきました。

★追記:このアンケートを実施した後で、「このお二人こそ理想のカップルでは?」と思う方の記事をupしました~
よろしければ、【逃避行で初恋を実らせた里見義弘と青岳尼】のお話>>もどうぞm(_ _)m

・‥…━━━☆

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラからどうぞ>>
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2011年8月 8日 (月)

乱世と平時で髭のある無し…ヒゲの日に因んで

 

今日8月8日は、「ヒゲの日」という記念日だそうです。

理由は、「八」という漢字が、ヒゲの形に似ているからだそうで、あのカミソリでお馴染のシック=Schickが制定した記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・

そもそもは神代の昔から、ヒゲというものは権威の象徴のように扱われていました。

あの『古事記』の有名な天岩戸のくだり・・・

もともと、なぜに、太陽神であらせられる天照大神(オマテラスオオミカミ)が天岩戸にお隠れあそばす事になったかと言えば、弟の建速須佐之男(タケハヤスサノヲノミコト)が、田んぼの水を止めたり、神聖な御殿でウ●コしたり、屋根の上から皮を剥いだ馬を投げ込んだりという乱暴を働いた事に怒って、岩戸の奥深くにひきこもったわけです。

結局は、天宇受売命(アメノウズメノミコト)の裸踊りで注意を引き、何とか岩戸から引っ張り出して事無きを得たわけですが、その後、八百万の神々が集まって会議を開き、乱暴を働いたスサノヲの処分を決定・・・

それが、両手両足の爪を抜いて髭を切り、高天原から追放!というものでした。

現代だと「ヒゲくらい、なんぼでも切らしたるがな」って思いますが、神代の昔は、それが罰として成立するくらい、ヒゲを切る事が屈辱だったわけです。

とは言え、そんなヒゲにも、どうやら、その時代々々のブームという物があるようで・・・

そう、切る事があれだけ屈辱だったヒゲは、貴族の間には好まれず、平安時代の貴族たちの間では、むしろ、お歯黒をしてお化粧をして女物をはおる・・・といった風貌がステキとされたのです。

ところが、中世から戦国時代になると、これまた一転、ヒゲをはやすのが流行・・・いや、むしろ、ヒゲが無い事がカッコ悪いとまで言われるようになります。

あの豊臣秀吉がヒゲが薄かったため、「つけ髭」をしていたのは有名な話ですよね。

なのになのに・・・

江戸時代に入ると、またまた一転、ヒゲを剃るのが大流行するのです。

これには、一つオモシロイ逸話があるのですが・・・

Doitosikaru500 徳川家康秀忠家光と3代の将軍に仕えた土井利勝(どいとしかつ)・・・彼の父・水野信元は、家康の母・於大(おだい)の方の兄という事で、つまり、利勝と家康は従兄弟同士だったわけですが、その家康からの可愛がられ方、出世の仕方、風貌のそっくりさから、「利勝は、家康のご落胤(隠し子)ではないか?」との噂があったのです。

それが、晩年、すでに家康も亡くなった寛永(1624年~1643年)の初め頃、ますます、その風貌が家康そっくりになっていき、「まるで生き写しだ」とまで言われ、隠し子の噂がますます大きくなっていきます。

やがて、利勝本人も気になってきて、鏡なんぞ覗きこんでマジマジと見てみると、本人から見ても「似てるなぁ」と・・・

「どうしたもんやろか?」
と考えた結果・・・
flairそうや!このヒゲがあるからそっくりなんや・・・ヒゲなんか添ってしまえ!」
と、その立派なヒゲを、おしげもなく剃り落としてしまいました。

その心の内を知らない周囲は、突然の事にビックリ!

とは言え、今や幕府でトップの実力者である大老の利勝がヒゲを剃ったのですから、その理由など知らぬ配下の者も、とにかく皆、右へならえとばかりにヒゲを剃りはじめ、いつしか、おしゃれ番長=利勝の「ヒゲ無しスタイル」が大流行・・・

やがて、ヒゲは、未だ戦国の気質を持った者の証のように言われるようになり、ヒゲを生やしているだけで謀反の疑いをかけられるほどに・・・そして最終的には、「風紀を乱す」との理由で、幕府から禁止令まで出る事に・・・。

まぁ、本当に土井さんが率先したのかどうかはともかく、江戸時代には、顔に傷があるなどの理由がない限り、ヒゲを生やすお侍はいなかったのだとか・・・

ところがドッコイ、そんな江戸時代も終わり、明治に入った途端に、またまたヒゲが大流行・・・以前のお札の肖像でお馴染の伊藤博文板垣退助、そして大久保利通なんかも立派なヒゲをたくわえた写真が残っていますよね?

うぬぬぬ・・・これは?

以前のページで、日本の歴史上、大いなる平和を感じた時期が2回あり、それは平安時代と江戸時代であるという事を書かせていただきました。

そのページでは、平和な時の武装放棄について(12月31日参照>>)書かせていただいたんですが、この見事な一致・・・ひょっとして、人は平和になるとヒゲを剃りたくなる生き物なのかしら?

確かに、ヒゲという物は男性ホルモンによって発毛が促進されるもの・・・もちろん、男性ホルモンは男性だけにある物ではなく女性にも存在し、女性ホルモンも男性の中に存在しますが、その多い少ないによって「男らしさ」「女らしさ」という物が形成されると言いますので、男性ホルモンで促進されるヒゲは男性ホルモンが多い=男らしい事を、その目で感じる事のできるシロモノという事なのでしょう。

こんな話があります。

ある群れのボス猿の●タマを切り取ると(生物学的実験だそうなのでお許しを…)、そのボス猿は一気にボスの座から引きずり降ろされますが、その猿に男性ホルモンを注射すると、再び力を盛り返して、ボスの座に返り咲くのだとか・・・

つまり、男性ホルモンが多いほうが、より猛々しく、雄々しく、力も強く、支配欲も強い・・・

フムフム・・・だから、人は無意識の内に、戦乱の世にはヒゲをたくわえ、平和になるとヒゲを剃るという事なのかも知れません。

・・・で、今は???
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2011年8月 5日 (金)

浦島太郎の変貌~開けてびっくり玉手箱

 

今日、8月5日には、「8=ハ」「5=コ」の語呂合わせで『ハコ(箱)の日』という記念日なのだそうです。

って事で、箱にまつわる昔話・・・と言えば、やっぱ超有名なアレ・・・
「浦島太郎」ですよね~

Urasima600 とは言え、この浦島太郎・・・皆さんもご存じの通り、まるで宇宙旅行を思わせるようなSFチックなストーリー展開・・・

これが、けっこう最近に作られたものなら「さもありなん」ってとこですが、もはや、その成立年代もわからないほどの古代より語り継がれて来たかと思うと、ワクワクドキドキです。

ところで、皆さんがよくご存じの浦島太郎のストーリーと言えば・・・

  1. 浜辺で子供にいじめられている亀を助ける
  2. 「お礼に」と海の底の竜宮城へご招待
  3. 竜宮城の乙姫のもてなしを受け、タイやヒラメの舞い踊り~
  4. 3年経って実家の事が気になり「帰りたい」と告白
  5. 「だったらコレを持って帰って」と玉手箱をもらう
    「でも、開けちゃダメよ」と釘を刺される
  6. 故郷についたら両親も家もなく、自分がいなくなってから300年が経ってる事が判明
  7. 途方に暮れた太郎が玉手箱を開けると白い煙が出て来てお爺さんに…

てな感じですよね。

ただ、実を言うと、このストーリーは明治時代国定教科書に載せるために書きかえられたストーリー・・・と言ってもご安心を・・・

最初のいじめられている亀を助ける部分を付け加えて、「良い事をすると、良い思いができる」という事を教えようとしたのと、竜宮城での乙姫とのラブラブ描写が子供にふさわしくないのでカットした程度で、あらすじはほとんど昔の物と変わっていません。

もちろん、明治の時だけではなく、太古の昔より語り継がれて来た浦島太郎は、その時代々々で様々なバージョンアップをくりかえして今日に至っているのです。

現存する文献で最古なのは『日本書紀』(養老四年・720年に成立)・・・

そこの「雄略22年(478年前後?)の条に、「丹後(京都府北部)に住む水江浦島子(みずのえのうらのしまこ)が亀を釣り、蓬莱(ほうらい)へ行った」という事が、たった1行ちょっとだけ書かれています。

次に『万葉集』(天保宝字三年(759年)頃に成立)・・・

ここに、高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)という人物が作った長歌「詠水江浦嶋子一首」として納められています。

長いと言っても歌なので、物語のあらすじのような展開ですが
「水江之浦嶋の子が生業としている釣りを終えて帰ろうとすると、海神の娘だという亀姫なる女性と出会い、語り合ってるうちに結婚する事になり、常世の国にある彼女の宮殿へ・・・

3年経って、「結婚の事を両親に知らせたい」と言ったところ、「絶対に開くな」と言って(くしげ・化粧箱)を渡されて戻って来る。

しかし例のごとく家も知る人もなく・・・ふたを開けるともとに戻るのではないか?と考えて奩のふたを開けると、中から白い煙が立ち上り、叫びながら大暴れし、心を失った彼は、黒かった頭髪が真っ白になり息絶えた」
とあります。

そして『丹後国風土記』・・・

この風土記というのは、ご存じのように古事記や日本書紀と同時期の元明天皇の時代・和同六年(713年)5月2日全国に編さんの命令が出された物で、その地方に伝わる伝説や名産品などを紹介する地元ガイドブックのような物・・・ただし、丹後国風土記そのものは現存せず逸文(いつぶん・かつては存在していたが、現在では伝わらない文章)のみなので、鎌倉時代に成立した釈日本紀(しゃくにほんぎ)などの複数の書物に登場する「丹後国風土記に書かれていた話」を参考に、その内容を見て行くしかないのですが・・・

実は、今現在も丹後地方に「水の江の島子」という昔話が口伝えで残っており、逸文の内容も、これに非常によく似ています。

おそらく、これが、一番に原型に近いのではないかと想像するのですが・・・

「昔、丹後は水の江という村に住む島子という漁師・・・その日はサッパリ魚が採れずにため息をついていたところに、赤・青・黄・黒・白の5色に光る亀を見つけます。

とりあえず船べりに置いておいて、うつらうつらしながら釣りを続けていると、いつの間にやら、メッチャ美人が、島子の横に・・・

「私は、わたつみの国の亀姫・・・あんたはんが親孝行なええ息子やと聞いて迎えに来ました。
大切にするさかい、船を東の方向へ向けなはれ~~~」

波をズイズイついてふわりと着いた所には立派な宮殿が・・・そこで、例のごとくもてなしを受けて有頂天になる島子ですが、やはり、しばらくして故郷が恋しくなる・・・

すると亀姫は、
「ひきとめる事なんてできひんけど、いっぺんわたつみの国を出ると、2度と戻って来られへんのどす。
ほやから、この玉くしげを私やと思うて持って行って」
と例の箱・・・

村に戻って、例のごとく・・・寂しくなった島子が、玉くしげのふたを開けると、ぽくぽくと煙があがり、その煙が島子の体を包んだかと思うを、スィ~ッと大空に呑み込まれてしまいました」

この伝承の昔話と丹後国風土記と違うところは、
「宮殿に入ると、7人の童子(すばる星=プレアデス星団)と8人の童子(あめふりぼし=ヒアデス星団)に迎えられた」という描写と、
「開けると、ここへは戻れなくなる」と言われて渡された玉匣(たまくしげ)を開けると「風雲舞い飛び、悲しくなった島子が歌を詠むと、玉匣に亀姫が声を飛ばしての反歌が返って来た」
という描写が加わるところです。

これら水江浦嶋子が略されて浦島子となり、やがて平安時代に『浦島子伝』『続浦島子伝』などの文献が登場するのですが、この時代に重視されていたのが、島子と亀姫の愛の生活・・・原文は漢文で書かれているので、恥ずかしながら、未だ読んだ事ないのですが、聞くところによれば、かなりきわどい描写もあるのだとか・・・(だから明治にカットしたのねん(*゚ー゚*))

と言っても、平安の人々が快楽のためにいわゆる「エロ本」として読んだのか?というとそうではなく、その愛し合い方が不老不死をもたらす神仙思想に通じる秘術であるという事でもてはやされたようです。

その後、中世になると浦島太郎・玉手箱という名称が登場し、室町時代の『御伽草子(おとぎぞうし)によって、そのストーリーも固定化され、全国ネットの有名な話となります。

御伽草子の内容も、ほぼ同じですが、最後に玉手箱を開けた浦島太郎は、鶴になって空に飛んで行った事になってます。

こうして時代によって様々なバージョン変化を繰り返す浦島伝説ですが、そてにしても、一貫して変わらないのが、竜宮城で過ごした何日間が、この世の地上では何百年にも相当するという最もSFチックな部分であり、そして、一番不思議で魅力的な部分でもあるここ・・・

もし、浦島太郎の物語がすべて作り話だったとしても、もはや時代も特定できないような古代に、時間の流れ方の違いという物を考えた人がいたという事になりますからね~

アインシュタイン相対性理論によれば、運動をしている物体の時間経過は、静止している物体の時間経過より遅くなり、それは光速に近づけば近づくほど、その差が大きくなるとされています。

つまり、高速で移動する乗り物に乗っている人は、地上にいる人よりも時間が遅く流れるという事です。

この現象は、正式な物理用語ではないものの「ウラシマ効果」と呼ばれ、実際に、高速で移動する航空機に搭載された原子時計に遅れが生じる事で確認されているとの事・・・

浦島太郎は光速で移動したのかい???

そんな事を考えていると、ますます浦島太郎のミステリアスな魅力にとりつかれてしまいそうですが、とりあえずは、音速ジェット機で世界を旅し続けたら、いつまでも若々しくいられるのか?というアンチ・エイジングについて知りたい茶々でおます。
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