2012年11月 2日 (金)

三種の神器のお話

 

延元元年・建武三年(1336年)11月2日、後醍醐天皇が光明天皇に三種の神器を渡しました。

・・・・・・・・・

後醍醐(ごだいご)天皇とともに、鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発して反旗をひるがえした足利尊氏(あしかがたかうじ)は、九州で態勢を立て直し(4月26日参照>>)光厳(こうごん)上皇を奉じて畿内へと攻め上り、湊川(みなとがわ)の戦い楠木正成(くすのきまさしげ)を自刃させた(5月25日参照>>)後、京都合戦新田義貞(にったよしさだ)に勝利して、京都を制圧(6月30日参照>>)・・・後醍醐天皇は比叡山に逃れました。

さらに8月に、光厳上皇の弟を光明(こうみょう)天皇として即位させた尊氏は、一方で後醍醐天皇への和睦を打診・・・その尊氏の申し立てに心動かされた後醍醐天皇ですが、新田義貞の訴えによって思い直し(8月15日参照>>)、義貞に皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王と、その異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を託して北国へ落ち延びさせ(10月13日参照>>)、自らは三種の神器を携えて比叡山を降り、尊氏のもとへと向かいます。

かくして延元元年・建武三年(1336年)11月2日後醍醐天皇から光明天皇に三種の神器が渡されたのです。

その後、後醍醐天皇は花山院に幽閉されていましたが、誰一人として側に仕える者もなく、その後の状況を知る術もなかったため、思い悩んだあげく、出家しようかとも考えていましたが、やがてそこに手引きする者が現われ、後醍醐天皇は脱出し吉野へ・・・

ここに、南北朝分裂とという事態が勃発するわけですが、そのお話は、やはり、脱出の「その日」に書かせていただく事にして、本日は、今日・11月2日に光明天皇へと渡された三種の神器という物について、少し書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

ご存じのように、三種の神器(みくさのかむだから・さんしゅのじんぎ)とは、
●八咫鏡(やたのかがみ)
●八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま=璽)
●天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=草薙剣)
の3つ・・・

記紀神話によれば、八咫鏡と八尺瓊勾玉は、天岩戸(あまのいわと)に隠れた太陽神のアマテラスオオミミカミ(天照大神)外に誘いだすために用いられた道具(7月6日参照>>)で、天叢雲剣は、その弟のスサノヲノミコト(須佐之男命・素戔嗚尊)が地上に降りてヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、そのシッポから出て来た物を姉のアマテラスに献上した物とされます。

その後、アマテラスの孫であるヒコホノニニギノミコト(日子番能邇邇芸命・彦火瓊瓊杵尊)が地上へ降りる、いわゆる天孫降臨の際に、ニニギノミコトに神器を手渡した事になっています。

その時、アマテラスは「この鏡を私の魂だと思って祭りなさい」と言った事から、鏡は太陽、その対となる勾玉は月・・・剣は星を象徴していると考えられていますが、あの北畠親房(きたばたけちかふさ)『神皇正統記(じんのうしょうとうき)にも
「三種の神器が世に伝わる事は、日月星が天にある事と同じ…鏡は日の体、玉は月の精、剣は星の気である」
てな事が書かれているので、その考え方は古くからあったのでしょう。

こうして、ニニギノミコトによって地上にもたらされた三種の神器ですが、平安初期の『古語拾遣(こごしゅうい)によると、ニニギノミコトの孫で初代天皇となる神武(じんむ)天皇から数えて10代めにあたる崇神(すじん)天皇の時代に、あまりに、その神威がおそれおおいとして、八咫鏡と八尺瓊勾玉の2つは大和(奈良県)の笠縫邑(かさぬいむら)に遷して祭り、その分身を作って宮中に安置・・・その後、その息子で第11代の垂仁(すいにん)天皇の時代に伊勢神宮へ遷されたとされます。

天叢雲剣は、第12代・景行(けいこう)天皇の息子であるヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭健命)が、東征の際に姉のヤカトヒメノミコト(倭姫命)から授かって戦いに使用し、凱旋の際に尾張(愛知県)の熱田神宮に奉納されたと言います。

その神秘さゆえに、たとえ天皇本人であっても「実物をその目で見てはならない」とされる一方で、天皇継承の即位の儀式などでは欠かせぬアイテムとされ、神器の無いまま即位した天皇は不完全ともみなされました。

源平争乱の際は、都落ちする平家は、平清盛の孫にあたる安徳(あんとく)天皇を奉じ、しっかりと三種の神器を抱えて西国に落ち、対する源氏は、三種の神器を取り戻す事を最大の目標としました。

結局、この時は、鏡と勾玉は確保したものの、剣は安徳天皇とともに壇ノ浦のもくずと消えたとされ(3月24日参照>>)、安徳天皇の後を継いだ後鳥羽(ごとば)天皇宝剣代という天叢雲剣の代わりとなる剣を創作する事によって何とか、その神器不在のコンプレックスをはねのけました。

今回の後醍醐天皇と光明天皇の間で交された三種の神器も、この後、吉野で南朝を開く後醍醐天皇が
「向こうに渡したのはニセモノだよ~」
と言って、南朝の正統性を訴えたりして、常に皇位継承の政争の中で注目をされていた三種の神器・・・

先の北畠親房の『神皇正統記』の記述も、親房が南朝側についていた故の記述なわけですが・・・

とは言え、南北朝の動乱も終わりが見え始めた建徳二年・応安四年(1371年)の後円融(ごえんゆう)天皇の即位の際には、北朝にて関白や摂政を務めた二条良基(にじょうよしもと)
「世の中の人は、未だに神器が南朝にあると思ってるけれど、私は、ここにあると思う…なぜなら、政治を正しく行う事こそが、すなわち神器なのだから…」
と言ったというように、

神器とともにいた平家が滅び、神器を持たない北朝が神器を持つ南朝より優位に立った事などから、徐々に、その神秘性は薄れていくのですが、今、現在も、宮中の重要な儀式では欠かせない物となっている事は確かで、神代の時代から続く大切な物という意識は変わらないと思います。

ちなみに、現在でも、
「本物は宮中にある」とか
「別の場所に現存する」とか
「もう、無い」とか
その所在は様々に語られているようです。

「絶対に見てはいけない」と言われると、「見たい」「確かめたい」と思うのが人の常ですからね~
 .

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2012年2月23日 (木)

「漢委奴國王」の金印の謎多きお話

天明四年(1784年)2月23日、筑前志賀島の百姓・甚兵衛が、田の溝の中から「漢委奴國王」の金印を発見しました。

・・・・・・・・・

「漢委奴國王」の金印とは・・・
ご存じ、ほとんどの教科書に載ってるアレです。

Kininc 「漢委奴國王」の金印(福岡市博物館蔵)

とは言え、科学の発達した近代に発見されて、周辺の地層やら何やらを綿密に調査して・・・ってワケにはいかない江戸時代の発見ですので、謎はいっぱいあります。

そもそも、百姓・甚兵衛なる者が発見したと記録しておきながら、地元のお寺の過去帳には、その甚兵衛という人物が存在してない事になってるとか・・・

いや、発見者は秀治という百姓であるとか・・・

福岡県糸島市にある細石神社(さざれいしじんじゃ)の宝物として保管されていたはずの「漢委奴國王」の金印が、江戸時代の頃に無くなってしまっていたとか・・・

とにかく、その出土したとされる福岡市東区志賀島という場所の特定も、様々な古記録や資料と現地調査から、大正三年(1914年)に有識者によって推定された場所なわけです。

なので、この金印自体に偽造説もあります。

まぁ、江戸時代の技術なら、充分造れますから・・・

しかし、とりあえずは、その何とかというお百姓さんが偶然発見した物を、郡奉行に提出し、その郡奉行が福岡藩に提出・・・当時、福岡藩の学問所の学長をやっていた儒学者・亀井南冥(かめいなんめい)が、この金印を後漢書(ごかんじょ=中国の歴史書)』東夷伝の中の、(わ=日本)について書かれている箇所に登場する金印ではないか?と特定し、そのレポートを書いた・・・

その後、福岡藩主黒田家に伝わっていた物が、明治維新とともに東京国立博物館に寄託され、やがて昭和六年(1931年)に、当時の国宝保存法によって国宝(現在の重要文化財)に指定された事で、文字通り、重要な品である事が認識され、現在の福岡市博物館での保管・展示に至るというわけです。

てな事で、「偽造かも?」という事は、一応、棚の上にあげといて・・・

まずは、そこに刻まれている「漢委奴國王」の五文字の読み方ですが、

今のところ「かんのわのなのこくおう」と読むのが一般的で、その意味は、
「漢(かん=後漢)に従属する倭(わ)の奴国(なこく)の王」
とされます。

もちろん上記の解釈では「委=倭」として「倭」と「奴」を読み分けして「わのな」となるわけですが、見ての通り、刻まれているのは「倭」ではなく「委」の文字・・・

そこで「委奴」「ヤマト」と呼んだり、記紀神話でイザナギイザナミが天上かた矛で海をかきまわした時にできた最初の島・オノコロ島ではないか?という説もあります。

また、「委奴」「イト」と読み、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に登場する倭国内の一つの国・伊都国(いとこく)だとし、その伊都国を現在の福岡県糸島市西区付近と比定する説もあります。

Kininkankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

とにもかくにも、当時の中国の史書によれば、倭人(わじん=日本人)の国は、100余りの小さな国に分かれていたと言いますが、その中で、壱岐や対馬などの海中の諸国を除けば、ほとんどが福岡平野にあったとされるわけで、その中心とも言うべき存在が奴国であっただろうと言われます。

そんな奴国の王に、後漢の皇帝=光武帝(こうぶてい)が、直接仕えない異民族の王として、かの金印を贈ったというわけです。

ところが、その後、かの『後漢書』では、西暦107年頃、師升(すいしょう)なる人物が、奴国の王に代わる倭国の王として使いをよこして来た事が書かれています。

ちなみに、この師升は、外国の史書に初めて登場する日本人・・・一説には、この人が記紀神話に登場するスサノヲでは?とも言われますが・・・で、この後に、例の卑弥呼が登場します。

って事は、つまりは、ここで政権交代があったと・・・

そのために、例の金印が奪われたか、あるいは、奪われないために、磐座(いわくら=祭壇)のような所に隠したか?

それが、江戸時代になって発見されたのではないか?
という事になってます。

もちろん、今では、何か大きな発見が無い限り、なかなか、その藪を抜けだせない話ではありますが・・・
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2012年2月 8日 (水)

農耕のはじまり~『御事始め』から連想

 

今日・2月8日は、『御事始め』という節目の日なのだそうです。

・・・・・・・・・

以前、今日、2月8日針供養を行う日である事を書かせていただきましたが(2008年2月8日参照>>)、そのページにある通り、針供養は、この2月8日と12月8日の年・2回・・・

東の地方では2月が多く、西の地方では12月が多いと・・・
実は、この『御事(おこと)始め』というのも、今日・2月8日と12月8日の2回なのです。

と言っても、こちらは少し複雑・・・

2月8日が『御事始め』の時は、12月8日が『御事納め』
逆に
12月8日が『御事始め』の時は、2月8日が『御事納め』

地方によって、両方やったり、片方しかやらなかったり、どっちも無かったりと、様々なようですが、実は、前者が農業を基準にした物で、後者がお正月を基準にした物・・・

農業を基準にした物では、この2月8日に1年の農作業を始める日とされ、12月8日が一連の農作業を締めくくる日なのです。

逆に、お正月を基準にした物では、12月8日に、すす払いなどして1年のホコリを落とすと同時に、ぼちぼちお正月の準備をしはじめ、その後、お正月を過ごしたら、今度は2月8日に年神様の神棚を取り外して、一連の正月行事を終える・・・と、

なるほど・・・こうして、両方並べて見るとわかりますが、
1年のうちの2ヶ月チョイの間だけ、正月気分でお休みし、あとは、仕事に勤しむ・・・という事ですね。

まぁ、昔は、12月後半から2月の初めなんて極寒の季節に、農作業なんてできるわけがありませんから、その間に大掃除をしたり、正月行事を行ったりという事だったのでしょうね。

ちなみに、この日は『御事汁(おことじる)という、里芋やごぼう、大根、にんじんなど、冬らしい根野菜を入れた味噌汁を作って、いただくのだそうです。

とは言え、私の家はもちろん、親戚中でも、コレをやってるのを見た事無いので、恥ずかしながら、それ以上くわしくは知らないのですが・・・

・‥…━━━☆

って事で、ここからは、「農作業を始める」というワードから連想した「農耕の始まり」について書いてみたいと思います。

日本での農耕の始まりと言えば、これまでは弥生時代のイメージが強かったですが、ここ最近は、縄文時代から農耕を行っていた『縄文農耕論』が主流になっています。

この『縄文農耕論』自体は、昭和の初め頃から論じられていましたが、それは、あくまで、それまでに出土した石器や、発掘された遺跡の集落の様子などから見た推論であったわけです。

それを変えたのが平成四年(1992年)の内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)の発見でした。

その場所は、すでに江戸時代から土器が頻繁に出土し、何かしらの遺跡がある事はわかっていて、近年にも何度か発掘調査されていた場所だったのですが、その平成四年に、野球場を建設するために発掘調査したろころ、縄文時代前期中頃から中期末期の、これまでに無い巨大な集落跡が発見されたわけです。

まぁ、あまりの過熱ぶりに「最盛期には、100戸に500人の居住者がいた」なんて発表しちゃって、「そら多すぎだろ!」異論反論の嵐になった事もありましたが、同時に住んだ人数なんてのは推測の域を出ないものの、その集落跡が広大である事や、そこに、多くの大小竪穴式住居跡があった事は確か・・・

しかも現場からは、ひょうたんゴボウなどの栽培植物が出土しているほか、特に重要だったと思われるは、デオキシリボ核酸(DNA)分析により、実際に栽培されていた事が明らかとなりました。

つまり、農耕が行われていたと・・・

また、クワキイチゴなどの種子と一緒に、ショウジョウバエの仲間のサナギが発見されており、このハエが醗酵物を好むハエである事から、おそらく、これらの実を発酵させて果実酒を作っていたという事も判明しました。

いち時の過熱ぶりも影をひそめて落ち着いて来た三内丸山遺跡・・・その後の調査から、今では、ここに住んだ人たちには階級が無かったであろうとの見方が強まっています。

この場合の階級=支配する者とされる者の関係という物は、集団が大きくなってこそ、はじめて生まれる物で、ここに住んだ人たちは、それが生まれるほどの多人数ではなかったという事なのでしょう。

とは言え、これまで微妙だった『縄文農耕』が、最新科学で明らかになった事は大きな進歩・・・

いや、むしろ、個人的には・・・
地元の方や、期待している方には、ホント申し訳ないのですが、それほど大きな集落でなくて、ちょっとホッとしたかな?・・・なんて気持ちも、

だって、ある程度の規模のムラだったからこそ、ここの住人たちは、ともに栗を栽培し、ともにお酒を作りながらも、誰が誰を支配するという事はなく、皆平等に暮らしていたわけで・・・

きっと彼らは、ともに笑い、ともに助け合い、ともに生きる、争いなど知らない人たちだったのではないかと・・・

ちょっと理想的過ぎる妄想ですが、今のところは、そう思っておきたいのです(*´v゚*)ゞ
 

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2012年2月 7日 (火)

謎多き継体天皇

 

継体天皇二十五年(531年)2月7日、第26代・継体天皇が崩御されました。

・・・・・・・・

このブログでもチョコチョコ書いてますが、未だ、様々な議論が尽きない継体(けいたい)天皇・・・。

Keizukeitai なぜ議論が尽きないかと言いますと・・・まずは、コチラの天皇系図を→
(画像をクリックすると大きくなります)

ご存じ、初代の神武天皇から数えて、継体天皇は26代めになるわけですが、もともとは万世一系とされた天皇家の血筋が、戦後になって「三王朝交代説」なる物が唱えられはじめた事から議論となります。

まずは、第10代の崇神(すじん)天皇・・・すでに、このブログでも書かせていただいてますが(12月5日参照>>)日本書紀では、初代の神武天皇を「始馭天下之(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)としておきながら、10代の崇神天皇にも「御肇国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)としている・・・この事から(他にもいっぱい理由はありますが)、現在では、おそらく、初代の神武天皇から第9代の開化天皇までは架空の人物で、実在したとおぼしき天皇の初代が崇神天皇であろうと考えられています。

この点は、ほぼ、専門家さんの間でも一致している見解だと思われますが、先の「三王朝交代説」では、その後、5世紀代の第16代・仁徳天皇のところで1回、次に、6世紀以降の新王朝=継体天皇のところで、もう1回・・・と、古代には合計3回、血統の異なる王朝が交代しているとされます。

もちろん、この「三王朝交代説」も一つの説に過ぎず、系図の通り、その血筋は繋がっている可能性も大なのですが、一方では、その系図を見ればこそ、継体天皇の皇位継承には、ちょっと不可思議な部分があり、ここで何かが変わったであろう事は否めませんね。

そもそもは、第25代武烈(ぶれつ)天皇が、子供がいないまま亡くなった(12月8日参照>>)にはじまります。

子供がいない=後継者がいない・・・という事で、大連(おおむらじ)大伴金村(おおとものかねむら)なる人物が、まずは第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇5世の孫にあたる倭彦王(やまとひこのおおきみ)に白羽の矢をたて、彼の住む丹波(京都府)迎えの使者を送ります。

ところが、物々しく武装してやって来た使者を見るなり倭彦王は恐れおののいて「天皇になんかなりたくない~っ!」と、どこかに逃亡してしまうのです。

仕方なく、次の候補者を探したところ、越前(福井県)に第15代・応神天皇5世の孫にあたる男大迹王(おおどのおおきみ・袁本杼命)という人物をはっけ~~ん!

早速、使者を送って、彼を天皇として迎え入れるわけですが、その人はすでに58歳という年齢で、言われるがまま河内(大阪府)樟葉宮(くずはのみや・現在の枚方市)に入ったものの、それでも
「自分は天子の才能がなく、力不足やと思う」
と、皇位につく事を辞退します。

Dscn1197a600 しかし、そこを金村ら群臣が頼みに頼んで、ようやく、1年後の継体天皇元年(507年)2月4日に、その樟葉宮で即位・・・これが第26代・継体天皇です。

それにしても、○○天皇の5世の孫・・・って、
5代もさかのぼらなアカンのか?
もっと他に近い人はおらんのか?

という疑問とともに、「迎えの使者を見て逃げる」という不自然な行動から、不可解さはモンモンと湧いて来るわけで・・・

しかも、上記の通り、継体天皇が即位したのは河内・・・これまでの政権の中心は大和(奈良県)であったわけで、本来の天皇家の後継者なら、大和から迎えが来てもよさそうな物ですが、逆に、継体天皇は、この後、抵抗勢力に遭って、20年間も大和に入る事ができず、ようやく、大和に入って都を定める事ができたのは、継体天皇二十年(526年)だったというのです。

さらに、この、わずか2年後に、あの磐井(いわい)の乱(11月11日参照>>)という古代最大の内乱も勃発しています。

つまり、継体天皇は、武烈天皇の死後に起こった大和王朝の動揺に乗じて大和に攻め入った新興の地方豪族ではなかったか?というわけです。

そして、その後、その継体天皇の新勢力が、西へを力を伸ばしたのが磐井の乱というわけです。

とは言え、ここで何らかの政権交代があったという見方の中でも、上記のように、「まったく別の新興勢力」という考え方と、「いや、やはり天皇家の血筋は守られている」という考え方との両方があり、ごくごく最近では、後者の意見のほうが、やや優勢になりつつあります。

・・・というのは、未だ記憶に新しい今城塚(いましろづか)古墳(大阪府高槻市)の発掘・・・

実は、現時点で宮内庁は、茨木市にある太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳を、継体天皇が葬られた三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)だと比定していて、この太田茶臼山古墳が継体天皇陵という事になっています。

ご存じのように、天皇陵と特定された古墳は、宮内庁の管理下に置かれますので、例え学術調査と言えど、簡単に中を調査する事はできません・・・なんせ、そこには遺骨やら何やらもあるわけで、天皇家にとっては、悪く言えばご先祖様の墓を暴く事になるわけですから、子孫としては、「そっとしておいて欲しい」という気持ちもあるわけで・・・

ところが、最近になってかの今城塚古墳こそが、継体天皇の陵墓ではないか?という証拠が続々・・・幸いな事に、こっちは、天皇陵に指定されていませんから、調べ放題に調べられるわけです。

・・・で、そんな中から、発見された3種の石棺は、その素材が、熊本県産の阿蘇凝灰岩(ぎょうかいがん)二上山(大阪と奈良にまたがる山)産の白石兵庫県加古川右岸産の竜山石(たつかまいし)・・・と、これまたバラエティに飛んだ原産地

また、出土した埴輪などには、多くの船の絵が描かれており、中には2本マストの大型船・・・もはや、外国との交易も可能なほどの船が描かれているのです。

それは、この陵墓の主が、畿内はおろか、遠く九州までをも含める広域な水運ルートを掌握していた事を示すもの・・・

実は継体天皇の父・彦主人王(ひこうしおう)近江国(滋賀県)高島郡を本拠として琵琶湖の水運を掌握し、そこから北は越前へ、南は美濃(岐阜県)や尾張(愛知県西部)にまで力をのばしていた人・・・それを証明するかのように、その彦主人王の母は美濃牟義津(むげつ)の有力豪族の娘で、奥さん(つまり継体天皇の母ですが)振姫(ふりひめ)は、越前三国の有力豪族の娘で、その実家は九頭竜川の水運を掌握していたと言われます。

継体天皇は、父が早くに亡くなった事で、近江から母の実家である福井に転居して、そこで育ったとされ、その時点で、広域の水運ルートを持っていたのかも・・・そこに目をつけたのが、金村らの一派・・・

5代前というのはともかく、継体天皇の曽祖父の意富富杼王(おほほどおう)の妹である忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は、第19代允恭(いんぎょう)天皇の皇后となって、第20代安康(あんこう)天皇と第21代雄略(ゆうりゃく)天皇を産んでいますから、まったく天皇家と無関係ではなく、少なくとも、これまで何代にも渡って天皇家と血縁関係を結んで来た豪族の出身という事に継体天皇はなるわけですから、

その人に、武烈天皇の妹(もしくは姉)である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に据え、これまで天皇家に何人もの后妃を出している豪族・和珥臣河内(わにのおみこうち)の娘・荑媛(はえひめ)や、淀川の水運に強い茨田連小望(まんだのむらじおもち)の娘・関媛(せきひめ)など、畿内に勢力を持つ豪族や王家の娘を妃に迎え

つまりは、婿入りのような形で天皇となってもらう・・・そこに、畿内はおろか、広域支配を可能にする政権が誕生する・・・

それこそが、継体天皇を推した大伴金村らのシナリオではなかったか?と思います。
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2012年1月 8日 (日)

綏靖天皇・即位~記紀の「弟優先の法則」

 

綏靖天皇元年(紀元前581年?)1月8日、第2代・綏靖天皇が即位しました。

・・・・・・・・・・・・

その年代も月日も・・・いやいや、もはや、ご本人の存在すら危ういお話ではありますが、それこそ、長年受け継がれて来た伝説には、それが真実か否かという事とともに、たとえ創作であっても、その物語が生まれた根拠や、受け継がれて来た背景など、次世代の歴史へとつながる何かが存在するわけで、ここは、あえて『記紀』に従って、お話を進めさせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

綏靖(すいぜい)天皇は、初代天皇=神武天皇第3皇子で、『古事記』では神沼河耳命『日本書紀』では神渟名川耳尊という表記で登場し、ともにカムヌナカワミミノミコトと読みます。
(以下、登場する方のお名前は「読み」(「古事記の表記」・「日本書紀の表記」)とさせていただきます)

ご存じのように、神武天皇は、高天原から天孫降臨したニニギノミコト(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)曾孫で、生まれ育った日向(ひゅうが・ひむか)を後に、豊国(とよくに・大分)竺紫(つくし・福岡)阿岐(あき・広島)吉備(きび・岡山)東征して浪速(なにわ・大阪)に上陸し、幾多の戦いを制し、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)にて即位して、初代天皇となったわけですが(2月11日参照>>)

実は、東征の旅に出る前に、故郷の日向でアヒラ(ツ)ヒメ(阿比良比売・吾平津姫)皇后に迎えて、タギシミミノミコト(多芸志美美命・手研耳命)キスミミノミコト(岐須美美命・書紀には登場せず)という二人の男の子をもうけていました。

しかし、いざ東征して即位してみると、アヒラヒメでは「なんか、もの足らん…」
・・・と、下積み時代を支えてくれたカノジョを捨てて、売れっ子女優へと乗り換えるミュージシャンかお笑い芸人のような事を言いだします。

そこへ、グッドタイミングで側近が、「えぇ子、いてまっせ」との耳より情報・・・

その側近によれば・・・
「その昔、三島にセヤタタラヒメ(勢夜陀多良比売・三島之溝樴姫)というメッチャ美人がいてまして、この娘に一目惚れしたオオモノヌシノカミ(大物主神=大国主命の別名と言われる)(12月21日参照>>)が、彼女がトイレでキバッているところを、赤い矢に変身してホト(陰処=○○です)を一突き!
驚いた彼女が、その矢を部屋に持って帰ると、その夜にイケメン男の姿に戻ったオオモノヌシと彼女がラブラブチョメチョメ
(←古い)・・・
(ちなみにオオモノヌシさんは活玉依毘売(いくたまよりびめ)にも手を出してます…【運命の赤い糸】参照>>

ほんで生まれたのがホトタタライススキヒメ(富登多多良伊須岐比売)・・・まぁ、今はホトというのを嫌がって、ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売・媛蹈鞴五十鈴媛命)と名乗ってるらしいですけど・・・」
との事・・・

早速、彼女を見物に行った神武天皇は、爽やかな丘で野遊びをする7人の乙女たちから彼女を見つけ出し、即、ナンパ・・・

Suizei400 そして、皇后になったイスケヨリヒメとの間に生まれたのが、ヒコヤイノミコト(日子八井命・書紀には登場せず)カムヤイミミノミコト(神八井耳命・書紀には登場せず)、そして、後の綏靖天皇であるカムヌナカワミミノミコトが末っ子というワケです。

ところがドッコイ、神武天皇が亡くなると、にわかに波風がたちはじめます。

長兄のタギシミミが、次の皇位を狙って義母のイスケヨリヒメを皇后に娶り、その3人の息子たちを亡き者にしようと企むのです

♪狭井(さい)河よ 雲立ち渡り 畝火(うねび)
   木
(こ)の葉さやぎぬ 風吹かむとす  ♪
「狭井川がにわかに曇り、畝火山の木の葉が騒ぐ・・・今に激しい風が吹くわよ!」

母・イスケヨリヒメが詠んだこの歌を聞いて、3人の息子たちは、異母兄・タギシミミ謀反に気づきます。

「そっちがその気なら」と、末弟のカムヌナカワミミが「兄ちゃん、殺られる前に殺ってまえや!」と、2人の兄を焚きつけると、二人は手に手に武器を持ってタギシミミの屋敷に・・・しかし、いざ、屋敷の前に着くと、二人の兄は手が震え、どうしてもタギシミミ殺せませんでした。

この様子を見たカムヌナカワミミ・・・すかさず兄の武器を奪ってタギシミミの屋敷へ押し入り、有無を言わさず即座に殺害・・・

すると、兄たちは
「俺らは、いざという時に怖じ気づいてしもた・・・その点、お前は武勇に優れてるさかい、お前が次の天皇になって世を治めたらええ、俺らはお前を助ける役になるから・・・」

てな事で、綏靖天皇元年(紀元前581年?)1月8日カムヌナカワミミは、無事、第2代・綏靖天皇として即位したのです。

とは言え、この綏靖天皇は、以前、お話した『欠史八代(けっしはちだい・缺史八代)(8月5日参照>>)1番目の天皇・・・つまり、この2代・綏靖天皇から9代・開化天皇までの8人の天皇に関しては、記紀の両方ともに、ほとんど逸話が書かれていない空白の状態になっているのです。

今回の綏靖天皇に関しても、即位するまでの上記の話が神武天皇の話の続きのように登場し、即位後の事は、どこに宮殿を置いて、誰と結婚し、子供は誰々で何歳で死んだとして書かれていないのです。

架空の人物だからくわしく書けないのか?
実在の人物だけど、書けない歴史なのか?

そこのところは、先の「欠史八代」のページで書いた通りですが、ここで注目なのは、天皇となったカムヌナカワミミが末弟だったという事・・・

有名な海幸&山幸のお話でも、天下を握るのは弟・・・(2月8日参照>>)

父である神武天皇にも、イツセノミコト(五瀬命・彦五瀬命)イナヒノミコト(稻氷命・稻飯命)ミケノノミコト(三毛野命・三毛入野命)という3人の兄がいますが、いずれも東征の途中で亡くなり、天皇になるのは末弟のカムイヤマトイワレヒコノミコト(神倭伊波礼琵古命・神日本磐余彦尊)=神武天皇です。

天皇ではありませんが、第12代景行天皇の息子で、諸国平定に大活躍するヤマトタケルノミコト(倭建命・日本武尊)も弟です(7月16日参照>>)

さらに、第21代・雄略天皇のゴタゴタで後継者がいなくなった後、偶然発見された天皇家の血を引く兄弟・・・兄・オケノミコト(意祁命・億計王)と弟のヲケノミコト(袁祁命・弘計尊)でも、先に天皇になったのは弟顕宗(けんぞう)天皇、兄の仁賢(にんけん)天皇は、弟が亡くなってから即位します(8月8日参照>>)

この、「いざという時、弟優先の法則」はいったい何なのか???

やはり、これは、記紀が誕生する時代、最もカッコよく描かねばならなかった天武天皇(3月13日参照>>)が弟だったという事と、大いに関係があるのかも知れませんね。
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2011年11月11日 (金)

反乱?内戦?対外戦争?謎多き磐井の乱

 

継体天皇二十二年(528年)11月11日、麁鹿火率いる朝廷軍が、筑紫三井郡にて磐井軍と交戦して勝利・・・磐井の乱が終結しました。

・・・・・・・・・・

古代最大の内乱と言われる磐井(いわい)の乱・・・

日本書紀によれば・・・
『天皇(すめらみこと)大伴連金村(おおとものむらじかねむら)物部大連麁鹿火(もののべのおおむらじあらかひ)許勢大臣男人(こえのおおおみおひと)(ら)に詔(みことのり)して曰(い)はく、「筑紫(つくし)磐井(いわい)(そむ)きて、西戒(せいじゅう)の地を掩有(おそひたも)てり。今 誰(たれ)か将たるべきぞ」とのたまふ』

つまり、「筑紫の磐井が反乱を起こして西方の異民族の土地を占領したので、その征伐に誰を派遣したら良いか?」と、重臣たちに継体(けいたい)天皇が聞いた・・・と、

これに対して、皆が
「そら、麁鹿火がよろしおまっせ!」
と言ったので、天皇は「よっしゃぁ」麁鹿火を派遣する・・・

古事記でも、
『…此の御世に竺紫(つくし)石井(いわい)、天皇の命(みこと)に従わずして、多くの禮(いや=礼)なかりき。故、物部荒甲(あらかい)の大連、大伴金村の連二人を遣(つか)はして、石井を殺したまひき』
と、ほぼ、同じような内容・・・
「筑紫(福岡県西南部)の磐井(石井)が天皇に反発したので討った」というように記されています。

そもそもの起こりは・・・

この頃の朝廷は、朝鮮半島百済(くだら)任那(みまな)と友好関係にあり、その二つの国と敵対していた新羅(しらぎ)とは、やはり対立していたのですが、そんな中で任那が新羅に領有されてしまうという出来事が起こります。

それを復興させようと、継体天皇二十一年(527年)の6月・・・天皇は、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)6万の兵をつけて朝鮮半島に出兵させました。

そこで新羅は、かねてより、朝廷への反発心を持っていた筑紫国造(くにのみやつこ=地方官)筑紫君磐井(つくしのきみいわい)に近づき、モーレツな賄賂攻撃・・・これによって新羅と結んだ磐井が、大軍を動員して、毛野の軍隊の朝鮮半島行きを阻止したのです。

で以って、先に書かせていただいた記紀の記述のように、新たな麁鹿火らの軍を九州に派遣して、その鎮圧に当たった・・・と、

かくして継体天皇二十二年(528年)11月11日筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて衝突した両者は、激しい戦闘の末、朝廷側の麁鹿火らが勝利・・・磐井は山中に逃げ込んだ後に死んだとされ、その息子・筑紫君葛子(つくしのきみくずこ)は、糟屋屯倉(かすやのみやけ=福岡県東部)朝廷に献上して命乞いをし、何とか殺されずにすんで、めでたしめでたし・・・

以上が記紀に記されている『筑紫国造磐井の反乱』で、あの壬申の乱に並ぶ・・・いや、ひょっとしたらそれ以上の古代史最大の内乱であると言われています。

とは言え・・・この磐井のの乱、様々な議論が飛び交っております。

そもそも、この磐井という人は国造=地方官だったのか?

大和朝廷のもとで国造という役職についていたのなら、確かに中央への反乱です。

しかし、先の毛野の渡海を阻止した時、磐井は、筑紫はもちろんの事、(ひ)(とよ)二つの国の勢力を集めて挙兵したとされています。

火の国とは、後の肥前(佐賀県&長崎県)肥後(熊本県)を合わせた国の事で、豊の国というのは豊前(福岡県東部)豊後(大分県の大部分)・・・おやおや、鹿児島と宮崎以外の九州の大部分じゃありませんか!

しかも、かの日本書紀では、磐井の鎮圧に向かう麁鹿火に対して
『…天皇自ら斧釿(まさかり)を操(と)りて、大連に授けて曰く、「長門より東をば朕(ちん)(と)らむ、筑紫より西をば汝(なんじ)制れ」と…』
と言ったとか・・・

つまり、この時点で、九州の大部分どころか、長門(山口県)より、さらに東にも磐井の勢力が及んでいたという事なのでは?

一地方官が、これだけの勢力範囲を持っていた事は、とても考え難い・・・と言うより、もう、この時点で、中央への反乱ではなく、国VS国の戦いっぽいです。

鎮圧に1年半もかかってますし・・・

そこで登場するのが九州王朝説・・・

もはや神話の世界であるヤマトタケル(日本武尊・倭建命)女装で一突き・・・
あるいは、架空の人物説もある第14代仲哀(ちゅうあい)天皇が、征伐に訪れるも、その矢に当たって亡くなったとか・・・
これまで何度か記紀に登場する熊襲(くまそ・熊曾・球磨囎唹)と呼ばれた人々・・・

6世紀になっても独自の国家を形成していた九州王朝は脈々と受け継がれ、その末裔が磐井君・・・彼こそが九州の王ではなかったのか?という事です。

Iwatoyamakofunsekizin500 ←岩戸山古墳から出土したとされる「石人」(正福寺蔵)
中国や朝鮮半島様式の「蒙古鉢型冑」をかぶっています

 

 

 

しかも、おもしろい事に、磐井の墓とされる岩戸山古墳は、畿内に多い前方後円墳なれど、「別区」と呼ばれる方型区画が東北部分に存在し、畿内の前方後円墳とは明らかに違う形をしているのだとか・・・

やはり、別の国だった九州の王が、ここに来て、新羅と結託して大和朝廷を潰しにかかった、という事なのでしょうか?

また、シュチュエーションは、ほぼ同じでも、少し違った見方もあります。

それは、継体天皇こそが反乱軍であったとする説・・・

継体天皇の皇位継承については、いずれまた、くわしく書かせていただくつもりですが、この継体天皇の先の天皇が第25代武烈(ぶれつ)天皇・・・

この武烈天皇に、子供も後継者もいなかった事から、「このままでは天皇家の血統が絶えてしまう」とばかりに、その血筋を5代前にまでさかのぼって、福井だか滋賀だかで、やっとこさ見つけた応神天皇の血筋(仁徳天皇の弟)の皇子がこの継体天皇、「どうぞ、天皇になってください」と、はじめは渋っていた天皇を、朝廷へお迎えしたという事になってますが、

以前の武烈天皇のページ(12月8日参照>>)にチョコッと書かせていただきましたが、そうやってお迎えしたワリには、継体天皇は20年間も大和に入れなかった・・・これは、非常にオカシイです。

つまり、継体天皇こそが新参者の地方豪族で、大和を制圧した後、西へと勢力を広げようとしたのが、この磐井の乱だったのでは?という事です。

さらに、別の説(古田武彦氏説)では、この磐井の乱自体が無かったという説もあります。

その根拠は、この乱で、筑紫が朝廷の支配下に入ったのであれば、当然の事ながら、その文化は畿内の文化に侵されてしまうわけですが、発掘品などから、そのような変化は、まったく見られないとの事・・・

その説では、この乱自体がもっと後の時代に起こった外国(隋か唐?)勢力との戦いだったにも関わらず、(記紀を編さんする)寸前まで、このような不安定な政権だった事を隠したいがため、何百年も前の出来事のように改ざんしたのでは?という事のようです。

はてさて、この謎が解明される時が来るのかどうか・・・
いや、あくまで歴史を楽しんでいる身としては、解明されないほうがワクワクし続けられるので(*≧m≦*)
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2011年2月15日 (火)

古代のTPP?応神天皇の時代と渡来人

 

応神四十一年(310年)2月15日、第15代応神天皇が崩御されました。

・・・・・・・・

4年半も前に書かせていただいた記事ではありますが、【神功皇后の三韓征伐】(2006年9月5日参照>>)・・・

この時、先に亡くなった影の薄い仲哀(ちゅうあい)天皇に代わって、重臣・武内宿禰(たけのうちのすくね)とともに、大陸へと出兵する勇ましい女性が、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)神功(じんぐう)皇后・・・その活躍から、卑弥呼では?とも噂される皇后さまですが、その出兵の際に、臨月だった神功皇后のお腹の中にいたのが、誉田別尊(ほむたわけのみこと)・・・後の第15代応神(おうじん)天皇です。

臨月で日本を出発したにも関わらず、大陸へ行って戦いに勝利して、筑紫に戻って来てから出産・・・と、現実ではありえない流れのせいもあって、その前の第13代成務(せいむ)天皇と第14代仲哀天皇と、この神功皇后の3人は、実在しなかった人物ではないか?との主張もあります。

ともあれ、幼い時から聡明だった誉田別尊は、3歳で皇太子となり、摂政として政務をこなしていた神功皇后が亡くなった事を受けて、応神天皇として即位したのです。

・・・で、この応神天皇は、日本一の御陵で有名な仁徳天皇のお父さんなわけですが、第15代の応神天皇から、第25代の武烈(ぶれつ)天皇までの10代を河内王朝の時代と呼んだりします。

つまり、これまでは大和(奈良県)三輪山を中心とした王朝であった物が、この応神天皇を始祖として河内平野に拠点を移し、10代後の武烈天皇でその血統が絶え、北陸からやって来た継体(けいたい)天皇へと政権が移る(12月8日参照>>)事から、前後と区別して考えられるという事なわけですが、最近では、万系一世とされる同じ王朝が拠点を移動したのではなく、断絶と侵略を繰り返した政権交代=別の王朝になったとの見方が主流となっています。

とは言え、この頃の王朝というのが、今の私たちが思い描く国家というような形を成していたのかどうかは微妙で、もっと規模の小さな部族同士の同盟や争いが繰り返されていただけで、国家転覆とは言い難い政権交代だった可能性もあります。

・・・というのも、第16代の仁徳天皇と第18代の反正(はんぜい)天皇摂津河内に中心となる宮殿を置いたとされていますが、他の天皇の宮殿は大和にあったとされ、完全に大和との関係が切れていたとは言い難い部分もあるからで、そのあたりはこの先の研究に期待したいところです。

ところで、おそらくは、ここらへんから実在の人物であろうと言われる応神天皇ですが、そのキャタクターについては、少し微妙な部分もあります。

それは、息子である仁徳天皇との共通度合い・・・

応神二十二年、天皇が難波大隅の宮の高台に立って遠く海を眺めていたところ、横にいた妃の兄媛(えひめ)が、なにやら悲しげな表情・・・

「どないしたん?」
と聞くと、
「パパとママが恋しいねん・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。」
と・・・
そう、兄媛は吉備(岡山県)の出身で、遠く故郷に両親を残したまま、こちらにお嫁に来たのです。

「ほな里帰りしといで」
と、天皇はやさしく送りだし、後に自分も吉備まで行ったのだとか・・・

一方の仁徳天皇には、寵愛していた黒日売(くろひめ)が、皇后の磐之媛命(いわのひめのみこと)の嫉妬を恐れて故郷の吉備に帰ってしまい天皇が吉備まで迎えに行くというエピソードがあります。

里ごころと嫉妬という違いはあるものの、ちょっと似てますね。

また、応神天皇のエピソードとして、枯野(かりの)という船が老朽化した時に、その船の材料を焼かせて塩を作り、その燃えカスから琴を作ったという話が出てきますが、これも、細かな部分は違いますが、そっくりな話が仁徳天皇のエピソードとしても登場します。

そんなところから、応神天皇と仁徳天皇は同一人物で、年代のつじつまを合わせるために、二人に分割されたのでは?とも言われます。

ただし、その人物が応神天皇であったか仁徳天皇であったか、あるいは、別の呼び方をされていた誰かであったかは不明なれど、この時代に王と呼ぶにふさわしい人物が、この河内にいた事は確かであろうと感じます。

それは、この時代に多くの渡来人が大陸からやって来て、たくさんの文化や技術を日本に伝えたとされ、古代の産業革命とも呼べそうな手工業や土木技術の変化が、明らかに見られるからですが、これだけの変化を土着の日本人だけでこなしたとは、やはり考え難いでしょうね。

この時代の朝鮮半島では、常に政治的争乱が絶えず、そのために亡命せざるを得ない集団も常にいた一方で、日本で王と呼ばれる人は、その経済力と権力の維持に、彼らの先進技術を導入しようと、むしろ大歓迎で受け入れたという背景があったはずです。

Dscn4383800 応神十六年の記述には、百済(くだら)から王仁(わに)博士がやって来て、皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)に様々な書物を以って学問を教え、これが、日本に儒学が伝わった最初とされています。
(かつては、漢字も王仁博士が伝えた物とされていましたが、今では、漢字はもっと以前に伝わっていたという見方が主流です)

また、応神二十年には、漢人の阿知使主(あちのおみ)が大量の技術者とともに渡来して、大陸の最新技術を伝え、後に倭漢(やまとのあや)として日本に根付いたとされます。

Dscn2727a800 さらに、(しん)の始皇帝の子孫とされる(はた)が渡来したのも、この応神天皇の時代と言われ、彼らは養蚕や機織りの技術を伝えたと言われています。

そんな応神天皇は、応神四十一年(310年)2月15日日本書紀では110歳、古事記では130歳でこの世を去り、日本で第2位の大きさを持つ誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(羽曳野市・古市古墳群)に眠っているとされています。

Ouzin003bb900 応神天皇陵

110歳か130歳( ̄○ ̄;)!・・・その誕生のエピソードとともに、未だ神話の世界の夢物語感が抜けきれない天皇ではありますが、現在も脈々と受け継がれる大陸の技術を積極的に受け入れた古代の王は、この時代に確かに存在したのです。

・‥…━━━☆

今日のお話のゆかりの地を、本家・ホームページで紹介しています。
くわしい行き方など書いていますので、よろしければご覧くださいo(_ _)oペコッ

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2011年2月 1日 (火)

カノジョ寝撮られ放火され…ゴタゴタ即位の履中天皇

 

履中天皇元年(400年頃)2月1日、第17代・履中天皇が即位しました。

・・・・・・・・・・

あの日本一・・・いや世界一の広さの古墳でおなじみの仁徳天皇

履中(りちゅう)天皇は、その仁徳天皇の長男として仁徳天皇二十四年(336年)頃に生まれました。

その御名を大江之伊邪本和気命(大兄去来穂別尊・オオエノイザホワケノミコト)と言います。

その恋多き性格ゆえ、女のモメ事が絶えなかったものの、「民のカマドは賑わいにけり」のお話に代表されるように、国の乱れ的な騒動はなく、おおむね平和な国家を築いていたとされる仁徳天皇・・・(1月16日参照>>)

実像はともかく、そのような名君の後には、得てしてその後継者を巡っての争いが起こるもんです。

仁徳天皇亡き後、長男で皇太子だったイザホワケは、羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)(葛城葦田宿禰の娘とも)である黒媛(くろひめ)を妃にしようと考えました。

しかし、ここに彼の即位をヨシとしない者が一人・・・イザホワケの弟・墨江中王(住吉仲皇子・スミノエノナカツノミコです。

「なんとか邪魔してやろう」と、兄の名をかたって黒媛のもとを訪れたナカツノミコは、その勢いのまま、彼女と一発・・・もとい、彼女と一夜をともにします。

そうとは知らぬイザホワケは彼女を皇妃に迎えるとともに履中天皇元年(400年頃)2月1日大和磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)にて、第17代・履中天皇として即位しました。

ところが、事件はその祝宴の夜に起こります。

彼女と先にヤッちゃった事件が大きくなる事を恐れたナカツノミコ・・・もちろん、そこには、兄に代わって自らが皇位につこうという野心もあったのかも知れませんが、とにかく、酒宴の席で酔いつぶれ、グッスリと眠り込んだ兄を殺そうと、宮殿に火を放ったのです。

しかし、近臣・阿知直(アチノアタイ)の機転で、炎の中から脱出した天皇・・・ひとまず、石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)へと、その身を隠します。

この時、履中天皇らの逃亡先が「なぜ、石上神宮だったのか?」という理由については、記紀ではふれていませんが、この石上神宮は、あの神武東征の時、神武天皇のピンチを救うべく建御雷神(武甕槌・タケミカヅチ)という神様が、高倉下(たかくらじ)という男を通じて神武天皇に授けた佐士布都(さじふつ・布都御魂=フツノミタマとも)という刀を奉る神社です(2月11日の中盤部分参照>>)

これは、「当時の石上神宮が、多くの武器を納めた武器庫のような役割を果たしていたと事を刀を奉る神社という言い回しにしてある」なんて事も言われ、しかも、その管理をしていたのが物部(もののべ)という事ですから、履中天皇は、逃走してそこに身を寄せたというよりは、大量の武器と物部の軍事力を確保するために、石上神宮に籠城したとの見方もあるようです。

とにもかくにも、その石上神宮に、兄貴の事を心配して陣中見舞いにやってきたのが、さらに下の弟・水歯別命(瑞歯別尊・ミズハワケノミコト:後の反正天皇)でした。

しかし、すぐ下の弟に殺されかけた履中天皇は、どうもミズハワケの事を信じられず、せっかくやって来た弟にも、会おうという気になれません。

そこで履中天皇・・・ミズハワケに
「スミノエノナカツノミコを殺してくれたら、お前の事、信じるから」と・・・

「あいわかった!」
と二つ返事のミズハワケは、ナカツノミコの側近で隼人族曾婆加理ソバカリ・刺領布=サシヒレとも)
「ナカツノミコを殺したら大臣にしてやるよ」
と約束して、ソバカリに皇子を暗殺させたのです。

こうしてナカツノミコを倒したミズハワケは、ソバカリとともにその報告に兄のもとへ向かうわけですが、その道すがら、隣にいるソバカリの事が気になってたまらなくなります。

なんせ、自分の
「ナカツノミコを殺したら大臣にしてやるよ」
の話に、いとも簡単に主人であるナカツノミコを裏切ったソバカリです。

いつ何どき、「今度は、自分が裏切られるかも知れない」と思い出すと、たまらなく不安になり、結局、このソバカリを騙し討ちにしてしまうのでした。
(自分勝手やなぁ~( ̄○ ̄;)!)

こうして、即位前後のドタバタ劇を終え、何とか落ち着く履中天皇ですが、その治世は、先の仁徳天皇の時代を受け継いだうえに、平群木菟(へぐりつく)蘇我満智(そがのまち・あの蘇我一族の祖と言われている人です=3月3日の中盤参照>>物部伊莒弗(もののべのいこふつ)などの側近にも恵まれ、おおむね天下太平の世となったとされます。

・・・とは言え、履中天皇のお名前自体が「大江之伊邪本和気命=古事記」「大兄去来穂別尊=日本書紀」の二つの表記があるように、お話の前後や内容も、古事記と日本書紀では微妙に違っていたりしますが、本日は、両方をミックスしつつも古事記寄りにお話を展開させていただきました。
ご理解くださいませo(_ _)o
 

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2010年8月 8日 (日)

天皇の後継者を偶然発見!顕宗天皇と仁賢天皇

 

仁賢天皇十一年?(498年頃)8月8日、第24代仁賢天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・・

またまた、記紀神話のあいまいな時代の天皇ですが、まずは、古事記に従って話を進めて参りましょう。

ただし、この仁賢(にんけん)天皇についてお話するには、少し時代をさかのぼったところから始めなければなりません。

そもそもは、第21代雄略(ゆうりゃく)天皇にはじまります。

すでに、そのご命日に記事を書かせていただいている雄略天皇は、そこでもお話させていただいたように(8月7日参照>>)、立派に治世した名君=「ニックネーム:有徳天皇」という一面と、敵を根絶やしにしてしまう暴君=「ニックネーム:大悪天皇」2面性を持った天皇で、その即位の時にも、一波乱ありました。

雄略天皇の兄で、先代=第20代安康(あんこう)天皇が、家臣の謀略によって、罪のない叔父・大日下(おおくさか)皇子殺したあげくに、その妻を娶った事で、成長した大日下の息子・目弱(まよわ)安康天皇を殺害・・・

今度は、その兄の殺害に怒り爆発した弟・雄略天皇が、その目弱王を攻めようとするのですが、その挙兵に乗り気にならなかったとかで、すぐ上の二人の兄を殺害してしまいます。

その後、単身でその息子を攻め殺し、ついでに、第17代履中(りちゅう)天皇の息子・・・つまり自身の従兄弟にあたる人物で、次期天皇の呼び声も高かった市辺忍歯(いちべのおしは)も殺してしまうという暴挙に・・・、

怨みの敵討ちなんだか、皇位争奪戦なんだか・・・

そんな、わけのわからない状況ではありますが、とりあえずライバルが一掃された事で、兄の後を継いで雄略天皇が即位したという経緯があったのです。

・・・で、その雄略天皇亡き後、その息子の第22代清寧(せいねい)天皇が即位・・・ここでも、異母兄弟との間に一波乱あるのですが、それは、また、別の機会に書かせていただく事として、その清寧天皇が、子供が無いまま亡くなってしまった事で、さぁ、たいへん・・・

そう、雄略天皇が、ライバルを皆、消しちゃった事で、天皇の後継者がいなくなってしまったわけです。

やむなく、市辺忍歯の妹・飯豊(いいとよ)を、ひとまず、王とする事にしました。

その同じ頃、小楯(おだて)という者が、行政の長官として播磨(はりま・兵庫県)に赴任しますが、ちょうど、地元の者が家を建てたとかで、新築祝いの宴会に招かれました。

宴会が進むにつれ、テンションも徐々にマックスになったところで様々な舞いが披露される中、ある二人の兄弟の順番となります。

兄弟で順番を譲り合いながらも、まずは先に兄が舞い、次に弟・・・

♪物部(もののふ)の 我(わ)が夫子(せこ)
 
(と)り佩(は)ける 大刀(たち)の手上(たかみ)
 丹画
(にか)き著(つ)け 其(そ)の緒(を)
 赤幡
(あかはた)を載(の)せ 赤幡(あかはた)を立(た)
 見
(み)れば い隠(かく)
 山
(やま)の三尾(みを)の 竹(たけ)をかき苅(か)
 末押
(すえおし靡(なび)かすなす
 八絃(やつを)の琴(こと)を 調(しら)べたる如(ごと)
 天(あめ)の下治(したおさ)めたまひし
 伊邪本和気
(いざほわけ)の天皇(すめらみこと)
 の御子(みこ)
 市辺(いちのべ)の押歯王(おしはのみこ)の奴末 ♪

「武人の兄が、腰にさす太刀の鞘に赤い色を塗って、その紐も赤い紐にして、赤い旗を立てると敵は皆逃げていく…それは、山の竹の先端を刈ってなびかせるように、八絃(げん)琴を奏でるようにして天下を治めた伊邪本和気天皇(履中天皇の事)の息子・市辺押歯の息子だからだよ~イェイ」

そうです。
この弟が舞いながら歌った歌は、彼らの素性を表す歌・・・

彼らは、雄略天皇に父を殺された事で、身の危険を感じた市辺押歯の二人の息子・・・逃げるようにその地を離れ、ここで身を隠して住んでいたのでした。

ヤッター!天皇の後継者…はっけ~~ん ヘ(゚∀゚ヘ)

歌によって、その事に気づいた小楯は、早速、飯豊王に報告・・・彼女は、喜んで二人の皇子を宮殿に迎え入れたのです。

この兄弟が、
兄=意祁命(おけのみこと)、弟=袁祁命(をけのみこと)
という、口で呼ぶ時、どない区別すんねん!兄弟です。

大和に戻った兄弟は、早速、父の遺骨を探すとともに、皇位継承の準備を・・・

本来なら、兄の意祁命が即位するところですが、先の物語にあったように、中央から派遣された長官の前で、身分を明かす決意をしたのは弟・・・という事で、弟の袁祁命が即位して第23代顕宗(けんぞう)天皇となり、兄が皇太子となります。

・・・で、こうして、天皇として権力を握っちゃうと、やりたくなるのが、無念のまま死んだ父の敵討ち・・・とは言え、もう、仇の雄略天皇は亡くなってますから、
「それならば、墓をグチャグチャにしてやろう!」
と、顕宗天皇が誰かを派遣しようとすると、兄が
「そんな事、他人に任せられるかい!俺が行く!」
と、自ら志願・・・

しかし、結局、ちょっとだけ掘り返しただけで帰ってきます。

「まぁ、グチャグチャに壊したい気持ちもわからんではないけど、なんだかんで、仇でもある一方で、叔父でもある人・・・あんまりな事したら、後世の人も批判するよって、ちょっとだけ壊して恥ずかしい思いをさせたら、それでえぇんとちゃうかな?って思て・・・」

この兄の意見に顕宗天皇も納得・・・めでたしめでたし

・・・で、この顕宗天皇が亡くなり、その後を継いで即位したのが、皇太子だった兄の意祁命・・・この方が、第24代仁賢(にんけん)天皇です。

そして、その仁賢天皇は・・・と言いたいところなんですが、実は、この仁賢天皇から第33代の推古(すいこ)天皇まで、ちょうど先日書かせていただいたばかりの「欠史八代(けっしはちだい・缺史八代)(8月5日参照>>)のように、ほとんどエピソードらしいエピソードもなく、そのまま尻すぼみ状態で、『古事記・全三巻』は、幕を閉じてしまうのです。

ただ、欠史八代と違うのは、コチラの仁賢天皇の次の第25代武烈天皇から推古天皇までの方々は、日本書紀には、かなりくわしく書かれていますので、おそらくは、古事記と日本書紀のコンセプトの違いによるはしょりだと思われます。

今、考えられているのは、
当時の歴史観で言えば、推古天皇以降は「現代」に当たり、その前の10代くらいは「近代」に当たる・・・つまり、近代と現代に重きを置く日本書紀と、古代に重きを置く古事記というところの違いではなかったかという事です。

日本書紀では、今回の「身分を明かす」お話は、雄略天皇が亡くなった直後に明るみになり、清寧天皇が大喜びで宮中に迎えたという、少し時間的な違いがあるお話になってます。

また、弟の顕宗天皇が、好きになった彼女の父親と、激しい歌合戦を繰り広げるお話が古事記には登場するのですが、まったく同じエピソードが日本書紀では、兄の仁賢天皇の息子である第25代武烈(ぶれつ)天皇のエピソード(武烈天皇の場合は彼女の恋人が相手)として登場する(12月8日参照>>)ところもミソですね。

果たして、偶然のように後継者が見つかって、天皇家の血筋が保たれるお話・・・真偽のほどは、いかに・・・
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2010年8月 5日 (木)

記紀にはしょられた天皇たち…欠史八代

 

孝昭天皇八十三年(紀元前393年頃)8月5日、第5代・孝昭天皇が93歳(もしくは113歳)で崩御されました。

・・・・・・・・・

アマテラスオオミカミ(天照大御神・天照大神)の孫・ヒコホノニニギノミコト(日子番能邇邇芸命・彦火瓊瓊杵尊)日向・高千穂の峰に降臨し、日向三代を経てから、そのひ孫にあたるカムイヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命・神日本磐余彦尊)東へと向かい畝火(うねび)白檮原宮(かしはらのみや)にて即位・・・これが、初代天皇神武天皇です(2月11日参照>>)

その神武天皇の死後、残された異母兄弟間で、皇位継承を巡っての争いが勃発しますが、その争いに打ち勝ったのが一番下の弟だったカムヌナカハミミノミコト(神沼河耳命・神渟名川耳尊)で、葛城(かつらぎ)高岡に宮殿を造って即位・・・第2代綏靖(すいぜい)天皇となります。

ところが…です。

この第2代綏靖天皇から、本日の孝昭天皇を含む第9代開化(かいか)天皇までの8代に渡って、『古事記』『日本書紀』ともに、ストーリーらしいストーリーのない変な展開となってます。

どこで天下を治めた(宮殿の場所)とか、誰々との間に何人の子供がいたとか、何歳で死んでどこに葬られたか・・・という事が淡々と書かれるだけの、言わばデータのみの記述で、それ以外の情報がほとんどないのです。

とりあえず、神武天皇を含めて、そのデータを箇条書きにすると・・・(享年の()内は日本書紀の没年齢)

  1. 神武天皇
    享年:137歳(127歳)
    宮殿:白檮原宮
    御陵:畝傍山東北陵
       (うねびのやまのとうほくのみささぎ)
  2. 綏靖天皇
    享年:45歳(84歳)
    宮殿:葛城の高岡宮
    御陵:桃花鳥田丘上陵
       (つきだのおかのうえのみささぎ)
  3. 安寧(あんねい)天皇
    享年:49歳(57歳)
    宮殿:片塩(かたしお)の浮孔宮(うきあなのみや)
    御陵:畝傍山南御陰井上陵
       (うねびやまのみなみのほとのいのうえのみささぎ)
  4. 懿徳(いとく)天皇
    享年:45歳(77歳)
    宮殿:軽(かる)の曲峡宮(まがりおのみや)
    御陵:畝傍山南纖沙谿上陵
       (うねびやまのまなごのたにのうえのみささぎ)
  5. 孝昭(こうしょう)天皇
    享年:93歳(113歳)
    宮殿:掖上(わきのかみ)の池心宮(いけごころのみや)
    御陵:掖上博多山上陵
       (わきのかみはかたのやまのかみのみささぎ)
  6. 孝安(こうあん)天皇
    享年:123歳(137歳)
    宮殿:室(むろ)の秋津嶋宮(あきつしまのみや)
    御陵:玉手丘上陵
       (たまてのおかのうえのみささ)
  7. 孝霊(こうれい)天皇
    享年:106歳(128歳)
    宮殿:黒田の廬戸宮(いおとのみや)
    御陵:片丘馬坂陵
       (かたおかうまさかのみささぎ)
  8. 孝元(こうげん)天皇
    享年:57歳(116歳)
    宮殿:軽の境原宮(さかいはらのみや)
    御陵:剱池嶋陵
       (つるぎのいけのしまのみささぎ)
  9. 開化天皇
    享年:63歳(111歳)
    宮殿:春日の率川宮(いざかわのみや)
    御陵:春日率川坂本陵
       (かすがいざかわのさかもとのみささぎ)

・・・とまぁ、こんな感じです。

記紀の手抜きとも思われる、このエピソード・ゼロの方々を総称して『欠史八代(けっしはちだい・缺史八代)と呼びますが、100歳以上も生きたのにはしょられた方は、本当にお気の毒・・・

しかし、お察しの通りです。

この、今ハヤリの100歳以上の所在確認できない方々・・・実は、所在どころか、その存在すら危ういというのが一般的な見方です。

すでにブログに登場している第10代崇神(すじん)天皇(12月5日参照>>)・・・

そのページにも書かせていただきましたが、再びエピソード満載な書き方が始まる、この崇神天皇こそが本当の初代天皇で、実在したかもしれない人物・・・つまり、「ここまでの天皇は架空の人物であろう」というのが大半の見方です。

そこには、これらの天皇の和風諡号(しごう)に、後世の天皇のソレとかぶる物が複数あるのが怪しいという説・・・

和風諡号とは、いわゆる日本風の諡(おくり名)の事で、神武天皇でいうところのカムイヤマトイワレビコノミコト、綏靖天皇でいうところのカムヌナカハミミノミコトという名前の事です。

なので、後世の天皇の和風諡号を参考に、これらの天皇の名前を後世の人が考えたのではないか???という事だそうですが、個人的には、その逆・・・つまり、ご先祖様の名前を、後世の人が参考にした可能性だってあると思うので、それだけでは怪しいとは言えない気がします。

むしろ、長寿大国を思わせる没年齢のほうがよっぽど怪しい・・・

いずれにしても、この8代だけが、まったく別の書物のような書き方になっている点は、やはり不可解で、そこに創作の疑いがかかるのはいたし方ないところであります。

一方、この欠史八代は、架空ではなく、実在したとする説もあります。

それは・・・
実在したけど、くわしくは書けない人たち・・・つまり、別の王朝だったのではないか?というのです。

いわゆる「葛城王朝説」です。

これは、これら8代の天皇の活動拠点が葛城地域に集中している事から端を発した説で、もともとは九州を含む西日本一帯を支配していた葛城王朝でしたが、九州から、新たにやってきた豪族=崇神天皇にとって代わられたのでは?というもの・・・

この話は、邪馬台国の存在とも微妙にリンクしていて、邪馬台国=畿内説では葛城王朝を邪馬台国とし、そこに、後の大和朝廷となる新勢力=崇神天皇がやってきたと・・・

逆の、邪馬台国=九州説では、崇神天皇が邪馬台国に関連する人物で、邪馬台国のあった九州から畿内へと侵攻したと考える人も多いようです。

果たして、記紀の記述において、明らかにおかしい欠史八代・・・

神の領域の神武天皇と皇室ご先祖の崇神天皇をつなぎ合わせるための架空の人物なのか?

それとも、記紀編さん者が、書きたくても書けない別王朝だったのか?

考え出したら夜も寝られません(。>0<。)

Dscn1493a800 第8代孝元天皇の陵墓とされる剣池(奈良県橿原市)
★剣池へのくわしい行きかたは本家・HP【奈良歴史散歩・明日香】へどうぞ>>

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