2009年4月28日 (火)

時代別年表:神代・古墳時代

 

「時代別カテゴリー」の表示に時間がかかる現象の対策として、すべての時代の年表を作りました。

このページは、神代~古墳時代まで・・・今回は、先史から、仏教が伝来する552年までを古墳時代とさせていただきましたので、「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記(一部・天皇表示)とさせていただきました

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
神代 蛭子神
【神無月の留守番役の神様は?】
天岩戸隠れ
【古事記をSFとして読めば】
八坂神社の祭神・スサノヲのミコト
【京都・祇園祭の由来】
備後風土記のスサノヲのミコトの伝説
【茅の輪くぐり神事のお話】
オオクニヌシノミコト
【オオクニヌシとネズミの関係】
コノハナサクヤ媛
【異常気象と富士山信仰】
海幸・山幸
【針供養の期限と針のお話】
日本の七夕伝説
【天稚彦物語】
播磨風土記の淡海神の切腹
【切腹のルーツは五穀豊穣の祈り?】
邪馬台国
【「邪馬台国はどこか」を見て】
神武 神武天皇
【建国記念の日と神武天皇】
崇神 意富多多泥古を神主に三輪山の神を祀る
【運命の赤い糸はなぜ赤い?】
崇神 吉備津彦命が温羅を退治
【昔話・桃太郎と製鉄の関係】
崇神
99
12 5 崇神天皇・崩御
【日本書紀に登場する二人の初代天皇】
垂仁
7
7 7 七夕の宴と相撲が行われる
【七夕の夜に日本最古のK-1ファイト】

景行
40

7 16 景行天皇が日本武尊に東方征伐を命令
【ヤマトタケルは実在したか?】
10 7 日本武尊が草薙の剣を賜る
【歴史に埋もれた名も無きヤマトタケルたち】
仲哀
8
9 5 神功皇后に神託が下る
【神功皇后の三韓征伐】
仁徳
11
10 最古の治水工事
【最古の治水工事・茨田の堤の物語】
仁徳
14
10 最古の橋ができる
【日本最古の「つるのはし」】
仁徳
65
建振熊命が両面宿儺を退治
【異形の怪物・両面宿儺】
仁徳 渡来人・秦氏
【星月夜の織姫~七夕に寄せて】
479 8 7 雄略天皇・崩御
【万葉集1番の雄略天皇のお話】
506 12 8 武烈天皇・崩御
【武烈天皇の汚名を晴らしたい】
552 10 13 仏教伝来
【仏教伝来・物部VS蘇我】
古代豆知識 【人は別れる時、なぜ手を振るのか?】
【神社の鳥居の起源・種類】
【埴輪の使用目的は?】
【古代日本における鏡とは?】

 

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2008年10月 7日 (火)

歴史に埋もれた名も無きヤマトタケルたち

 

日本書紀によれば、景行四十年(110年)の10月7日、第12代景行天皇の命令で東方征伐に向かったヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭健命)が、伊勢神宮にてヤマトヒメノミコト(倭姫命)から草那芸の剣を賜りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ヤマトタケルノミコトは、その景行天皇の息子・・・ヤマトタケルが生まれる時、天皇は、碓(うす)を背負って産屋のまわりを回るという安産祈願のまじないをやっておりました。

一人の男の子が誕生し、「よかった、よかった」と、碓をおろしかけたところ、何やらもう一人生まれそうだ・・・てな事になって、再び碓を背負ってグルブルと・・・

あまりの重たさに耐えかねた天皇は「碓に誥(たけ)びたまひき」・・・つまり、「碓のアホ!」と叫んだのだとか・・・

こうして生まれた双子の男の子・・・兄がオオウスノミコト(大碓命)、弟がヲウスノミコト(小碓命)、この弟のヲウスノミコトが後のヤマトタケルノミコトです。

ヲウスノミコトが15~6歳頃になったある時・・・

天皇が目をつけたエヒメ(兄比売)オトヒメ(弟比売)の美人姉妹を、宮殿に連れてくるように命じられたオオウスは、姉妹に会った途端、父に渡すのが惜しくなり、自分のモノにして、二人ともに子供を生ませちゃいます。

その事で、バツが悪くなったオオウスは、いつも一緒にする事になっている朝夕の食事に姿を見せなくなってしまうのですが、親子の会話の少なさが気になった天皇は、「お前から、オオウスに、食事は一緒にする事に決まってるんやから、ちゃんと出て来いや!って言うといてくれへんかな」と、弟のヲウスに頼みました。

しかし、数日たっても、いっこうに兄は現れません。

「おい、お前、ちゃんと、兄貴に、俺の言うた事、伝えたんか?」
と、天皇がヲウスに尋ねると・・・

「ハイ!ちゃんと(オヤジが怒ってる事)伝えときましたよ」
「どんなふうに伝えたんや?」
「兄貴がトイレに入ってるとこ見計らって、手足を踏み潰してバラバラにして、ムシロに包んで裏庭に捨てときました~」

・・・っと、平然と答えるヲウスを見て、近くに置いておくのが怖くなった天皇は、「西の方の熊曾(クマソ)の地に、朝廷に従わない(タケル・猛々しい者)がいるから、ヤツらを討って来い」という命令を出すのです。

そこで、ヲウスは、叔母であるヤマトヒメノミコトから衣装を借りて短剣を懐に持ち、女装してクマソタケル兄弟の宴会に忍び込み、宴もたけなわの中、油断して酔っぱらっているタケル・兄を、持っていた短剣で一突き!

逃げるタケル・弟を背後からブスリ!

虫の息のタケル・弟は・・・
「俺らは、クマソの猛々しい者という意味でクマソタケルと名乗ってたけど、俺らを討ったアンタは日本の猛々しい者・・・この先は、ヤマトタケルと名乗りなはれぇ~」
と、言って息絶えます。

その後、クマソからの帰り道、土地々々の豪族を倒し、最後にはイヅモタケル(出雲健)も討ち取って、西方を平定して、父の元へ帰って来るのです。

しかし、天皇は、その功績を褒めるどころか、すぐに・・・
「東の方にも朝廷に従わない者がいるから、平定して来い」
と、命令するのです。

110年の10月2日に都を出発したヤマトタケルは、10月7日、東方へ旅立つ報告も兼ねて、伊勢神宮に奉仕する叔母のヤマトヒメに再び会いに行き・・・

「オヤジは、俺が死んだらえぇと思てるんやろか・・・兵も無しで東国を平定して来いと言う・・・」
と、ヤマトタケルは、叔母に訴え、嘆き悲しむのです。

ヤマトヒメは、そのかわいそうな姿に何も言う事ができず、宝剣の草那芸(草薙・くさなぎ)の剣火打石の入った皮袋を渡し、ただ見送るだけでした。

後に、遠征先の相武(サガム)の国は焼津(ヤイヅ)で、土地の者に騙されて火に囲まれた時、この剣と袋を使って、ヤマトタケルは窮地を脱する事になります。

やがて、各地を転戦し、東国を平定して帰る途中、伊吹山の邪神を退治しようと出かけますが、その時に、草那芸の剣を尾張(愛知県)のカノジョの自宅に置いてきてしまったため、邪神に惑わされ、いつしか足が腫れあがり、三重にくびれた餅のようになってしまい、動けなくなりました。

ヤマトタケルは、そのまま伊勢の能煩野(のぼの)という所で、帰らぬ人となります・・・そこが、現在の三重だそうです。

ずいぶん前にupした【ヤマトタケルは実在したか?】のページ(7月16日参照>>)で、ヤマトタケルは、大和朝廷が西へ東へと勢力をのばしていく過程を、ヤマトタケルという一人の人格に置き換えて描かれているのだろうという事を書かせていただきました。

もちろん、その考えに変わりはありませんが、このように、少しくわしく物語りを見ていくと、様々な事が読み取れます。

ヤマトタケルノミコトの母は、針間(はりま)イナビノオオイツラメ(伊那毘能大郎女)という女性です。

針間は播磨・・・つまり、現在の兵庫県の西部のあたり・・・その昔は、朝廷にはむかう一大王国であった吉備国の勢力範囲だった場所ではないでしょうか?

吉備国と言えば、以前の【昔話・桃太郎】のモデルとなったであろうキビツヒコノミコト(吉備津彦命)のお話(12月1日参照>>)・・・。

そこで書かせていただいた通りに、ヤマトタケルの父である景行天皇の2代前の崇神天皇の時代に、大和朝廷の臣下に、吉備が組み込まれたのだとしたら、針間出身の姫の子供・・・という事は、ヤマトタケルは、大和朝廷に征服された土地の人々の事・・・と考えると、一連の話にも納得がいきます。

朝廷に従わなかった時代に恐ろしく強い兵士たちは、征服された後、今度は西方征伐の最前線に立たされ、戦いを強いられます。

しかも、休む間もなく、次から次へと戦に狩り出され、さらに、元・敵国であった彼らには、手柄をたてても褒美などまったく望めません。

この時代の徴兵は、現地までの交通費も、食糧も、そして武器さえも自分自身で確保しなければなりませんから、それは大変だった事でしょう。

そんな彼らにも、母や妻や子供がいます・・・心配する母や妻を、ヤマトヒメの姿を借りて描いたのでしょう。

♪大和(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば
  (たた)なづく 青垣
  山籠
(やまごも)れる 大和うるわし♪ 倭健命

  大和は優れた国
  山々が重なり目にしみる垣を造る
  山々に囲まれた大和は心安らぐ場所・・・

Siratoriryoucc ヤマトタケル白鳥陵
白鳥陵への行きかたは、HPの大阪・歴史散歩でどうぞ>>

三重で命を落としたヤマトタケルの魂は、美しい白鳥の姿となって、河内の国に現れ、少し羽根を休めた後、再び空高く飛び去ったと言います。

古代の歴史に埋もれた英雄の悲しい最期は、1900年後の私たちにも、何かを語ってくれているようです。
 

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2008年7月 1日 (火)

京都・祇園祭の由来

 

今日7月1日から、京都・祇園祭が始まります。

祇園祭は、5月の葵祭、10月の時代祭と合わせて京都三大祭の一つ・・・また、東京の神田祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭の一つにも数えられる京都・東山の八坂神社のお祭です。

Gioniwatocc 一般的には、7月17日に行われる山鉾巡行と、その前日・前々日に行われる宵山・宵々山が有名ですが、お祭自体は、7月1日の吉符入長刀鉾町お千度を皮切りに、山鉾曳初め伝統芸能の奉納花笠巡行などなど・・・、最終日の31日に行われる疫神社の夏越祭まで、一ヶ月間、ほぼ毎日のように、何かしらの行事が行われ、界隈は祇園祭一色に染まります。
(くわしい日程は、HPのお祭情報でどうぞ>>宵山での山鉾の位置を記した図もあります)

ところで、もはや日本で知らない人はいないんじゃないか?と思うくらいに有名な祇園祭ですが、このお祭が、もともと怨霊を鎮めるためのお祭であったという本来の意味を知る人は少ないのではないでしょうか?

でたーっ!またまた、平安京の怨霊対策です。

【未完の都・平安京】(10月22日参照>>)
【究極の魔界封じの都・平安京】(10月22日参照>>)
お彼岸の由来】(9月23日参照>>)
のページで書かせていただいたように、疫病や天災に恐れおののいた桓武天皇が、ありとあらゆる手段で怨霊を鎮めたおしていた平安京ですが、貞観十一年(869年)に、またまた疫病が大流行!

「これは、御霊(祟りをもたらす死者の霊)のお怒りに触れたに違いない」とばかりに、常住寺の僧・円如が、66本の(ほこ)を、御輿(みこし)の前に立てて祀り、洛中の男児たちが、八坂神社から神泉苑まで練り歩き、神泉苑に御輿を奉納し、そこで疫病退散のための御霊会(ごりょうえ)が行われたのです。

この行事は、『祇園御霊会』と呼ばれ、これが現在の祇園祭なのです。

上記の鉾とは・・・今では巡行するあの飾られた車そのものを鉾と呼ぶようになっていますが、もともとは怨霊を鎮める神具の事で、古代の刀や矛をかたどっているとも言われています。

それでは、なぜ?、怨霊を鎮める=八坂神社なのか?

そもそも、怨霊となるのは、政争に敗れ、怨みを残してこの世を去った人たち・・・桓武天皇で言えば、その政治的野望のために死へと追いやった実の弟の早良(さわら)親王、そして異母弟の他戸(おさべ)親王とその母・井上内親王であり、彼らは上御霊神社に祀られています。

桓武天皇の息子の平城天皇の代には、やはり、後継者でモメた異母弟の伊予親王とその母が非業の死を遂げ、下御霊神社に祀られました。

そんな中、八坂神社の祭神は、スサノヲノミコト(須佐之男命・素戔鳴尊)・・・

そうです。
この牛頭天王(ごずてんのう)とも言われる荒ぶる神・スサノヲさんこそ、政争で敗れた怨霊の親玉・・・まつろわぬ神なのです。

桓武天皇は、平安京の東西南北の4箇所にも、大将軍神社というスサノヲノミコトを祀る神社を建立しています。

ヤマタノオロチを退治した出雲の英雄神のようにも思えるスサノヲノミコトですが、そもそも出雲に下ったのは、高天原(たかまがはら)で大暴れし、姉のアマテラスオオミカミ(天照大神)が怒って天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまったために、高天原を追われた事による物です。

しかも、スサノヲノミコトの子孫であるオオクニヌシノカミ(大国主神)が治めるその出雲を、アマテラスオオミカミの孫のニニギノミコト(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)が乗っ取るという、二重の苦渋を味わっています。

そのニニギノミコトの子孫が、かの初代天皇の神武天皇・・・神話の形を借りてはいますが、つまりは、天皇家に政争で敗れた最初の人(神)がスサノヲノミコトという事になります。

だから、怨霊の親玉なんですね。

今でこそ、疫病は、夏場に活発になる細菌やウイルスによって拡大されるものと理解できますが、昔の人にとっては、目に見えない荒ぶる疫神・怨霊が大暴れしている姿を想像したんでしょうね。

今年なら、さしずめ、ガソリン高騰の疫神を鎮めていただきたいものですな。

          詳しい場所はコチラ↓からHPへどうぞ
     
八坂神社・上御霊神社・下御霊神社・大将軍神社>>
                             神泉苑>>

 

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2008年4月19日 (土)

異形の怪物・両面宿儺の正体

 

両面宿儺の伝説をご存知でしょうか?

両面宿儺(りょうめんすくな)とは、『日本書紀』仁徳天皇の個所に登場する人物です。

その記述は、わずか84文字・・・しかも、このお話は『古事記』にはまったく登場しません。

(仁徳天皇の)65年。
飛騨の国に一人の男がいた。
名前は宿儺。

その人物は、一つの身体に二つの顔を持ち、左右に剣をたずさえ、4本の手で弓矢をあつかい、力は強く、風のように速い・・・。

天皇にそむき、人民から略奪をくりかえしていたので、朝廷は建振熊命(たけふるくまのみこと)を派遣して退治させた」

・・・と、日本書紀に書かれているのは、これだけ・・・。

これだけなら、昔話によくある怪物退治の単純なお話・・・となりますが、地元・飛騨に伝わる民話は、もう少しくわしく語られます。

身の丈六尺(180cm)、顔が表裏に二つ、手足が4本で、多くの手下を従えて、金銀を奪っては手向かう者を殺していた・・・ここまでは、同じ雰囲気です。

ところが、帝が宿儺を討伐するため、軍を差し向けようとすると、宿儺は・・・
「飛騨まで来ていただくのはお気の毒、美濃まで出向きましょう」
と言い、美濃・高沢山で官軍と衝突します。

山賊まがいの手下と、朝廷の官軍とでは差がありすぎたのか、さすがの宿儺も追い詰められてしまいます。

しかし、官軍の大将は、その勇猛ぶりを惜しいと思い・・・
「どうだ?天子さまの家来にならんか?」
と誘いますが、宿儺は、その誘いを拒否。

「いっそ、生まれ故郷で殺してくれ」
と言って反抗したので首を斬られたというのです。

こうなると、漠然とした昔話よりは、少し具体的になってきます。

なんせ、「飛騨では気の毒なので美濃で・・・」
という事は、すでに美濃の国は宿儺の領地となっていた事が伺えるからです。

単なる山賊では、飛騨から美濃までの広範囲を手中に治める事は出来ません。

これは、山賊・無頼のやからではなく、明らかに朝廷に対する反乱のお話という事になります。

さらに、「家来になれ」と誘うという事でも、宿儺が山賊ではなく、その地を治める由緒正しき者であった事が伺えます。

そして、ここに、もう一つ・・・

その戦場となった高沢山にも宿儺の伝説が残っています。

それは・・・
やはり、仁徳天皇の時代に、高沢山に大蛇が住みついて住民を悩ませていたのを聞きつけて、飛騨に住む宿儺という、頭が一つで顔は4面、手足が4本の異形の者がやってきて、退治してくれた・・・という物です。

これは、完全に宿儺英雄物語になっています。

先の伝説で、金銀を奪っていたとされている飛騨の千光寺の記録でも、宿儺は寺を創設した開祖で、観音の化身であるとされています。

考えてみれば、この時代、金銀財宝を持っているなんていうのは、朝廷の官人か、それに連なる豪族たちです。

たとえ宿儺が、金銀財宝を奪っていたとしても、その相手は朝廷側の人間であって、その地に暮らす一般庶民ではなかったでしょう。

彼が、弓を放つその先は、ただ一つ・・・東へ東へと侵略して来る大和朝廷

江戸時代に、千光寺を訪れた、一刀彫で有名な円空は、ほほえみを浮かべたやさしい顔と、怒りに震える恐ろしい顔の、二つの顔を持つ両面宿儺像を彫り、この寺に残しています。

日本書紀には、化け物のように書かれている両面宿儺・・・

その両面宿儺の両面とは・・・

東国の先住民族を守るやさしいリーダーの姿と、権力に真っ向から立ち向かう勇敢な戦士の姿・・・この二つの顔を持つ、比類なき勇者の事であったのです。
 

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2007年12月 8日 (土)

武烈天皇の汚名を晴らしたい

 

武烈八年(506年)12月8日、第25代・武烈天皇が18歳(推定)で崩御されました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この武烈天皇ほど、『日本書紀』「編者による天皇家を万系一世にしたいがためのムリヤリつなげ作戦」の犠牲者と言える天皇はいないのではないでしょうか。

先日の、崇神天皇のページ(12月5日参照>>)でも書かせていただきましたが、この時代の歴史書と言える物が『古事記』『日本書紀』に類に限られる以上、それを否定する決定的証拠がないため、あくまで、憶測・推理となってしまうわけですが・・・。

だいたい「武烈」という諡(おくりな)からして、あまり良い印象は受けません。

自分たちの有利に運べる天皇には、崇神だの仁徳だの応神だのと、心地の良い諡を名乗らせておいて・・・まったく、もう、藤原クンったら・・・

一応、正史とされる通りに、武烈天皇をご紹介しますと・・・
その悪行は、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)と呼ばれた皇太子時代から始まります。

彼は、物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)の娘・影媛(かげひめ)に恋をします。

ちなみに、武烈天皇は、在位が八年で18歳で亡くなったとされていますので、皇太子時代という事になると10歳以下・・・という事になりますが・・・。

・・・で、一応、皇太子ですから、使いを立てて彼女を口説こうとするわけですが、実は彼女にはすでに恋人がいたのです。

それは、第20代・安康天皇の時代に大臣となり、当時の政界のトップに君臨する平群真鳥(へぐりのまとり)の息子・(しび)でした。

二人は相思相愛。
武烈さんこそ知りませんでしたが、まわりも周知の恋人同志でした。

しかし、皇太子の気性の激しさを知っている影媛は、その猛アタックぶりに断りきれず「海石榴市(つばいち・奈良県桜井)の辻お会いしましょう」と返事をします。

皇太子が出かけるための馬を借りようとした事から、この事実を知った父・真鳥は、当然息子にも連絡。

やがて、皇太子が海石榴市で彼女の袖を引っ張って、迫りまくりのところを、駆けつけた鮪とその家来に引き離されます。

納得がいかない皇太子は歌で・・・

・・・と、一応、ここで歌を交わしているので、その歌をで、その一般的な意味を( )で書きましたが、なんか、ミュージカルのようなセリフ回しなので、私の独断的解釈の現代風の現実的なセリフを「 」で書いてみました。
私の考えた勝手なセリフはあくまで参考程度で・・・

武烈:
♪塩瀬の 波折り見れば 遊び来る
 鮪が鰭手に 妻立てり美ゆ♪

(潮の流れを見てると泳いでくる鮪のそばに、私の妻が立ってるのが見えた)
「俺の目ぇつけた女のそばにお前がおる・・・なんでや?」

鮪:
♪臣の子の 八重や韓垣 許せとや御子♪
(私の何重にも囲った立派な垣の中に自由に入らせよとあなたはおっしゃるのですね)
「俺の女に手ぇ出してんのを見過ごせっちゅ-んかい!」

武烈:
♪大太刀を 垂れ佩き立ちて 抜かずとも
 末果たしても 会はむとぞ思ふ♪

(私は、立派な太刀を腰に垂らしているが、それを抜かなくても、いつか影媛と会おうと思っている)
「今、この刀抜いてもええねんでぇ・・・まぁ、そんな事せんでもいずれ彼女は俺のモンやけどな」

鮪:
♪大君の 八重の組垣 懸かめども
 汝を編ましじみ 懸かぬ組垣♪

(あなたは立派な垣を造って媛を取られないようにしようと思っているだろうが、あなたには立派な垣は造れはしないだろう)
「ムリムリ!」

武烈:
♪臣の子の 八節の柴垣 下動み
 地が震り来ば 破れむ芝垣♪

(お前の垣は、いかにも立派な垣に見えるが地震が来ればすぐ壊れるような垣だろう)
「お前こそ、ムリやっちゅーねん!」

武烈:影媛に向かって・・・
♪琴頭に 来居る影媛 玉ならば
 吾が欲る玉の 鰒白珠♪

(その琴の音に惹かれて神が寄って来るという影媛を、玉に例えるなら、私の一番好きなあわびの真珠だ)
「メッチャ可愛い影媛ちゃん、君は俺の大好きな真珠のようや」

鮪:
♪大君の 御帯の倭文服 結び垂れ
 誰やし人も 相思はなくに♪

(あなたの倭文服(しつはた)の布が垂れる・・・のタレの言葉のように、タレが別の人を思う事があるでしょう)
「アホか!もう一緒になっとるっちゅーねん」

Buretukeizu2cc ・・・とまぁ、こんな具合で・・・。
最後のの歌は、歌の内容と私の解釈とは、全然意味が違いますが、日本書紀では、この最後の歌で、「皇太子が、鮪と影媛が、もうヤッちゃってる仲(失礼!)だと気づく」という事なので、このようにして解釈してみましたが・・・。

・・・で、このふたりがすでにデキちゃってる事を知った皇太子は、「恥をかかされた」と激怒します。

そして、臣下の大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)が率いる数千の兵を、鮪のもとに差し向け、乃楽山(ならやま)に追い詰めた後、影媛の見ている前で殺害させたのです。

もちろん、その後に、父・真鳥も殺し、皇太子が天皇になった時には、この金村が大連(おおむらじ)となるのです。

しかし、不思議な事に、武烈天皇のところに、このエピソードが書いてあるのは日本書紀だけで、古事記ではこの出来事は武烈天皇の叔父さんの顕宗(けんぞう)天皇のエピソードとして登場します。

古事記の中の武烈天皇は『八年間在位して子供(後継ぎ)がいなかった』という事だけしか書かれておらず、いたくあっさりとした物。
先の恋愛のエピソードはまったく書かれていないのです。

なのに、日本書紀での武烈批判はさらに、天皇になってからも続きます。

以下、箇条書きにしますと・・・

  • 在位二年め:妊婦の腹を裂いて胎児を見る。
  • 在位三年め:人の生爪をはがし、芋を掘らせる。
  • 在位四年め:人の髪を抜いて木に登らせ、その木を切り倒して落として喜んだ。
  • 在位五年め:人を池の樋(とい)に流し、流れて来たところを矛で刺しておもしろがった。
  • 在位七年め:人を木に登らせ、弓で射落として楽しんだ。
  • 在位八年め:女を馬と交わらせ、○○が潤っていたら死刑、潤っていなければ女官とした。

以下、宮廷への遅刻・早退・無断欠勤は当たり前、贅沢に明け暮れ、一日中低俗な音楽を聴いて、まったく良い事をせず、人民は大いに震え上がったというのです。

なぜ?6年目は休む?
・・・と、これ、嘘だと思うから書いてます。
本当だったら、とてもじゃないが書けません。

なぜなら、こんな事書いておいて、一方では、「法令に長けていて無実の罪は絶対に見抜き、朝早くから夜遅くまで政務についた」と書いています。

また、先ほどの真鳥・鮪父子に関しても、真鳥がその権力を笠に着て、好き放題の政治を行い「自分が天皇になる」などと言い出し、皇太子の入るべき宮殿を占拠して、そこに住んでいた・・・と書かれています。

もし、そうなら、悪代官を倒した暴れん坊将軍のような物で、武烈天皇のほうが正義という事になります。

たった18年の人生で、ありえない変貌ぶり・・・これは、またまた、崇神天皇に続く日本書紀編者のチョンボなのでは?

ブログでは、話が前後してしまいましたが、日本書紀では、「こんな良い事をしました」の後に「だけど、こんなひどい事もしました」という順番で書かれています。

これは、書いてる途中で、明らかに路線変更しています。
武烈天皇を悪人にしなければならない編者の意図がミエミエです。

これは、他ならぬ、次の天皇、第26代・継体天皇へと引き継ぐための画策なのです。

継体天皇は、世阿弥作の能・花筺(はながたみ)の主人公でもありますので、ご存知のかたも多いでしょうが、応神天皇から数えて5代目・・・という事になってますが、福井または近江にいた人で、本当は天皇家ではなかった人なのでしょう。

Buretukuzuhanomiyacc 継体天皇が、樟葉宮(くずはのみや・大阪府枚方市)で即位してから20年間も大和に入る事ができなかったという事も、彼が、今までとは別の政権であった事を物語っているようです。

つまり・・・ここで政権交代があった事を隠し、万世一系の天皇家にするため、武烈天皇を悪の権化のように描いたのです。

善の固まりであるかのような継体天皇の正当性を主張したいがための、「武烈天皇=暴君」だというのが本当のところでしょうね。

名君とうたわれたあの仁徳天皇の御名は鷦鷯尊(おおさざきのみこと)

そして、武烈天皇は、最初に書いたように、泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・・・。

きっと、彼は、仁徳天皇を思い起こさせるような若き名君であったに違いないと、私は思っています。
 

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2007年12月 5日 (水)

日本書紀に登場する二人の初代天皇

 

戌寅の年(258年もしくは318年)の12月5日、第10代・崇神天皇がお亡くなりになりました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この時代は元号という物がまだありませんから、『日本書紀』には、「戌寅」・・・と、没した年が干支(えと)で書かれています。

そこに、西暦を当てはめてみると、258年か318年のどちらかの戌寅の年・・・という事になるのだそうです。

崇神(すじん)天皇・・・なんか、つい最近この名前を聞いたなぁ~と思いきや、先日の『桃太郎と製鉄の関係』(12月1日参照>>)で、吉備の国の平定に、息子・吉備津彦命(きびつひこのみこと)を派遣した天皇でしたね。

古代の日本と天皇を語る上で、この崇神天皇はキーマンとなる人物の一人です。

初代・神武天皇から始まって昭和天皇まで、124代の歴代天皇の中で「神」の文字が名前に使われているのは、その神武天皇と、この崇神天皇と、第15代・応神天皇の三人だけ・・・この名前を見ても、重要人物である事がうかがえます。

初代天皇の神武天皇が、日向・高千穂から大和東征したくだりは、以前『建国記念の日』(2月11日参照>>)に、サラ~ッと書かせていただきましたので、そちらを読んでいただけると、お解かりいただける通りで、最初の天皇なので、神武天皇は、「始馭天下之(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)と呼ばれます。

その言葉通り、初めて国を治めた天皇・・・まさに初代天皇という事です。

しかし、日本書紀には、崇神天皇のところにも「御肇国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)と書かれています。

『始馭天下』「初めて天下を治める」という意味で、『御肇国』「初めて整った国を治める」という意味である・・・という解釈もあるそうですが、どうも怪しい・・・。

これは、日本書紀・編者のチョンボなのでは?

今、この平成の世で、「天皇家が万系一世でつながっていて、すべての天皇が実在している」と信じている人は、ゼロとは言いませんが、かなり少ないのは確かです。

しかし、正史と呼ばれる歴史書が『古事記』『日本書紀』などしかないこの時代の歴史は、それを否定する史料もないわけで、決定的証拠が無い限り「無かったかもしれないし、あったかもしれない」としか言えず、断定する事はできませんが、先ほどのような、細かいチョンボをほじくり返しながら、推理を巡らしていくのは、実に楽しい。

そんな中で、今日の崇神天皇は実在だと思われる最初の天皇だとも言われています。
つまり、彼こそが初代天皇ではないか?という事です。

そして、そのキャラがかぶるところ、両方が「ハツクニシラス」であるところから、神武天皇と崇神天皇は、同一人物ではないか?という考えがあるのです。

事実、神武天皇は高千穂から大和に来るまでのいきさつなどが詳しく書かれているのに対し、即位してからの事については、それほど多くありません。

逆に、崇神天皇は、即位前後の事は少なく、天皇となって国を統治した部分に重点が置かれています。

しかも、神武天皇は、出雲神・大物主神(おおものぬしのかみ・大国主のミコトの別名)の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を皇后にしていますし、崇神天皇は、以前『運命の赤い糸』(8月21日参照>>)で書かせていただいたように、疫病の一件からその大物主神を崇拝しています。

もう一つ、神武天皇の奥さんの名前の中の「蹈鞴(たたら)は、ご存知のように製鉄(炉)の事。
そして、桃太郎のところで書いた通り、崇神天皇が息子を吉備に派遣したのは、製鉄の利権が欲しかったのでは?
・・・という事で、これも何だか関連がありそうです。

こうして見ると、神武・崇神、二人の天皇の記述を合体させてはじめて、一人の人生が浮かんで来るような気がします。

では、もし、この二人の天皇が同一人物だったとしたら、なぜ?記紀の編者は、この一人の初代天皇を二人に分ける必要があったのでしょうか?

それは、おそらく、崇神天皇が大和を統一する以前に、すでに大和にあった王権を併合して統一を成し遂げた事を、隠したいがためではなかったでしょうか?

以前からあった王権も、天皇家であるとするためには、この時代に崇神天皇が東征をしたのでは、年代が合わなくなります。

つまり、以前からあった王権の成し遂げた様々な出来事の前に、崇神天皇の東征という前半生を、神武という架空の人物がやった事にして描き、すべては天皇家の成し遂げた事・・・という風につなげてみたのではないでしょうか?

崇神天皇というのは、ご存知のように天皇としての名です。
崇神天皇の実際の名前は、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと・御間城入彦五十瓊殖尊)といいます。

この「ミマキイリヒコ」というのは、かつて朝鮮半島にあった国・「任那(みまな)から日本に入った」という意味であるとする説もあり、この崇神天皇の東征は、以前から囁かれている大陸の騎馬民族による征服説ともシンクロしているようです。

「なら、やっぱり天皇家は大陸の騎馬民族なのね」
・・・と、ここで、断言してしまうのも、まだ早いです。

なぜなら、最初に書いたもう一人の「神」の文字を持つ天皇・・・第15代・応神天皇は、この崇神王朝を倒して政権を勝ち取った新政権であると言われているからです。

しかし、その応神王朝も、さらに、第26代・継体天皇の政権(12月8日参照>>)にとって代わられたとの話もあり・・・そして、以前、崇峻天皇暗殺』(11月3日参照>>)のところでも、政権交代の可能性あり・・・という事で、ますます、天皇家の万世一系が揺らぐ事になるのですが、そこんところのお話は、また、おいおい書かせていただく事にして・・・

とりあえず、今日の崇神天皇の時代は、「農は天下の本であり、民が生きるたのみである」として、水の少ない地域に池や溝を掘ったり、人民の戸口調査を行ったり、手工業や狩猟生産物の発展にも力を入れて、民は大いに栄え、天下が平穏に治まった・・・と記紀には書かれていますが、この崇神さんの没年齢が、古事記では168歳日本書紀では120歳となっていて、そのギネス並みの年齢を見ると、その前の記述も信じがたくなってくる今日この頃・・・でした。
 

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2007年12月 1日 (土)

昔話・桃太郎と製鉄の関係~鉄の記念日にちなんで・・・

 

安政四年(1857年)12月1日、岩手県の釜石高炉(後の新日鉄釜石製鉄所)創業を開始し、日本の近代製鉄の幕開けとなった事をを記念して、今日12月1日は『鉄の記念日』なのだそうです。

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・・・で、鉄の記念日という事で、今日は、昔話『桃太郎』のお話を・・・
「風が吹くと桶屋が儲かる」的な発想ですが、実は私、個人的には、この桃太郎のお話は、製鉄と深い関係があると思っております。

いくら最近の子供たちが昔話に興味を持たなくなったと言っても、さすがに桃太郎の昔話は、「知らない人はいなだろう」と思うくらい、昔話の中でもダントツに有名なお話です。

そして、皆さんも、うすうすは感じておられるでしょうが、このお話の・・・
「子供のいないおじいさんとおばあさんがいて、おばあさんが川で洗濯中に大きな桃が流れてきて、その桃を拾って帰って食べようとすると、中から男の子が登場・・・」
・・・という前半の部分と、

「犬・猿・雉(きじ)の3匹の家来を連れて、鬼ヶ島に鬼を退治に行く・・・」
という後半の部分は、あきらかに別の昔話だと思われます。

そんな中で、ところどころ違う話が混じりながらも、全国各地に桃太郎の昔話が伝わっていて、それぞれ「これが、桃太郎のモデル」と言われるような人物の伝説が残っているわけですが、その中でも最も有力なのが岡山県です。

ご存知のように、岡山駅前には桃太郎の銅像が立ち、そのルーツを主張し続けておられます。

その一番の根拠は、岡山市にある吉備津神社・・・吉備津神社は、第10代・崇神天皇の時代に、天皇から派遣され吉備平定を成し遂げた吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祀る神社で、その吉備津彦命の伝説をもとにしたのが、桃太郎のお話だというわけです。

その吉備津彦の伝説とは・・・

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昔、崇神天皇の頃(250年~300年頃)、異国の鬼神が空を飛んで吉備の国(岡山県のあたり)にやってきます。

その鬼神は、百済の王の子供で、名前は温羅(うら)・・・背丈は一丈四尺(約4m)ほどあり、気性が荒く、力も強い。
しかも、口から火を吹き、水を油に変えるなどの神通力も持っていました。

そんな温羅は、吉備の国の新山鬼ヶ城という砦を造り、都へ向かう船をを襲っては略奪し、道行く人や猿を襲っては食べたりという悪行を繰り返していました。

見かねた天皇は、息子の五十狭斧彦命(伊佐勢理比古命・いさせりひこのみこと)を、温羅討伐に派遣します。

しかし、その戦いは激しく、五十狭斧彦命の放った矢は、ことごとく温羅の矢と空中でぶつかり、その度に地上に落ちてしまいます。

そこで五十狭斧彦命は、弓に2本の矢をつがえ、同時に放ちました。
すると、一本は温羅に落とされますが、もう一本は、狙い通り、温羅の左目に命中します。

手傷を負った温羅は、雉に変身して逃亡・・・追う五十狭斧彦命は鷹に変身します。

次に、温羅が鯉に変身して水中へと逃れると、今度は鵜に変身して追う五十狭斧彦命・・・。

ついに、追いついた五十狭斧彦命は見事!温羅の首を取ります

しかし、胴と離れたにも関わらず、その首は、大きなうなり声をあげて吠え続けます
犬に食われ、ドクロとなってもなお、うなり声をやめないのです。

勝利して名前を吉備津彦命と改め、そのドクロを吉備津宮釜殿の下に埋めた五十狭斧彦命は、ある夜、温羅の夢を見ます。

夢の中で温羅は、「俺の嫁さんを釜殿で奉仕させたなら、この国に災いが起こる時に、その釜を荒々しく鳴らして教えよう」と言ったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上が吉備津彦の伝説で、今も吉備津神社では、毎年10月19日に、お釜の音で吉凶を占う『釜鳴り神事』というお祭りが行われています。

確かに、桃太郎の後半の鬼退治の部分のお話に似ています・・・いや、こっちがルーツでしょうけど・・・。
ただ、犬は首を喰ってるので良いとして、雉は敵だし、猿は被害者・・・

まぁ、細かい事を言ってもしょうがないですし、これには、吉備津彦に同行した三人の武者が、犬飼武命(いぬかいたけるのみこと・犬飼部)中山彦命(なかやまひこのみこと・猿飼部)楽々森彦命(ささもりひこのみこと・鳥飼部)であった事がら、動物に例えられたという話もあるようですし・・・。

そして、桃太郎に登場するきび団子・・・このきび団子の「きび」が「吉備」ではないか?というのも、この吉備津彦が桃太郎のモデルの最有力候補にあげられる理由でもあります。

しかし、この桃太郎のお話は、戦争中にはプロパガンダとして使用されたという悲しい歴史も持っています。

「神国・ニッポンの子である桃太郎が鬼畜米英を退治する」物語として、国民(特に子供)の戦意を高上させる道具となったのです。

桃太郎のお話が、そのような使い方をされる事を予測していた人もいました。
あの芥川龍之介は、「怠け者で乱暴な桃太郎が、鬼ヶ島で平和に暮らす鬼たちを侵略し、物を略奪する」という桃太郎のパロディを書いているそうです。

そのように、正義のヒーローは、紙一重で侵略者になる可能性も秘めているわけです。

この桃太郎のモデルではないか?とされる吉備津彦も、実は大和政権から派遣された侵略者であるかも知れない・・・いや、おそらく、吉備津彦の伝説は、たとえ崇神天皇の時代ではなかったとしても、古代にあった戦争をモチーフにした伝説である事は確かでしょう。

吉備の国・・・という名称でもわかる通り、この地方がもともと別の政権であった事は明らかです。
それも、出雲と並ぶくらいの大国であった事でしょう。

では、古代の政権は、何が目的で吉備の国を攻めたのでしょう?
それが鉄・・・製鉄技術です(やっと出てきた~)

岡山県総社市には、古代に大国であった事をうかがわせる数多くの遺跡が確認されていますが、なかでも、平成元年(1989年)、工業団地の造成中に見つかった「久代・板井砂奥製鉄遺跡」・・・現在は工業団地の一角に遺跡公園が整備され、一部の遺跡が復元されているそうです。

ここには、6世紀の後半から約100年に渡って、計60基の製鉄炉と16基の炭窯があったそうです。
もちろん、製鉄でできた鉄を加工するいわゆる『鍛冶屋』鍛冶炉も、総社市ではたくさん見つかっています。

原料となる鉄鉱石と製鉄技術は、武器や防具はもちろんの事、さまざまな道具に使用され、膨大な富を産み出したに違いないのです。
古代・大和にあった王権は、軍事転用もできる技術の支配と、その利益に目をつけたのです。

大陸からやって来た温羅・・・口から火を吹き、水を油に変える・・・まさに製鉄の様子を思い描いてしまいます。

現代、世界のあちこちで争いを巻き起こしている石油利権・・・それと同じ事が、古代の日本でも行われていたのです。

製鉄・・・金鉱・・・油田・・・時代と物は変れど、人の心=欲はいっこうに変わらない・・・あいも変わらず利権を巡って国と国とがぶつかり合う。

少し考えさせられますね。
 

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2007年8月 7日 (火)

万葉集1番の雄略天皇のお話

 

雄略天皇二十三年(479年)8月7日は、第21代・雄略天皇の亡くなった日・・・という事で、今日は雄略天皇のお話を・・・

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タイトルにありますように、あの『万葉集』の一番最初に収められているのが、今日のお話の雄略天皇の歌。

万葉集はだいたい年代順に並んでいると言いますが、450年代に詠まれたという雄略天皇の歌から、次の舒明天皇の630年代に詠まれた歌まで、200年近くも開きがあるのはなんでだろう?という疑問が湧きつつも、とりあえずその歌をご紹介しておきますと・・・

♪籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ
 み堀串持ち この岡に
 菜摘ます児
(こ) 家聞かな 名告(の)らさね
 そらみつ 大和の国は おしなべて吾こそ居れ
 しきなべて吾こそ居べ 吾こそは告らめ 家も名をも♪

「そこの、草を摘んでるキミ・・・名前を教えてよ!
この国は、ボクが治めてる。ボクはこの国の王なんだ!
ほら、ボクが自己紹介したんだから、今度はキミがどこの誰か名乗る番だぞ!」

・・・って、ナンパかい!
あの由緒ただしき古典の中の古典『万葉集』の第一番目の歌がナンパする歌とは・・・

しかも、この声のかけ方・・・
口が裂けても「NO!」とは言えない雰囲気です。

この時代、男が名乗って来て、女が名前を告げたら、「=OK!」って事ですから、やっぱり、逃れられないでしょうね。

この大胆な王は、天皇に即位した時も、この上なく大胆です。

兄である先代の安康天皇眉輪王(まよわのおおきみ)に刺殺されたと聞くや、即座に行動を開始!

そして、兄の八釣白彦皇子(やつのしろひこのみこ)坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)がその事件に関与していると見るや、八釣白彦皇子を斬り殺し、坂合黒彦皇子と眉輪王を焼き殺します。

しかし、安康天皇が、生前、彼らの従兄弟である市辺押磐皇子(いちばのおしはのみこ)を後継者にしたい」と言っていた事を知っていた彼・・・「このままでは、次期天皇の座は回って来ない」と、市辺押磐皇子を大胆にも狩りに誘い出し、持っていた矢で射殺・・・だまし討ちします。

そうやって、すべての邪魔者を消し去って、見事、第21代天皇の座を勝ち取った雄略天皇。
彼が生まれた時は、宮殿中に光が満ち溢れたという逸話もあります。

そんな、大胆を通り越した彼の暴挙はまだあります。

彼が、目をつけた百済の姫・池津媛(いけつひめ)を、宮中に迎え入れようという時、臣下の石川楯(いしかわのたて)と彼女が、すでにデキちゃってると知った途端、二人を焼き殺すという行動に・・・。

また、狩りに出た時、従者が自分の質問に答えなかった事に腹を立て、その者を斬り殺したと言います。

そんなこんなで、『大悪天皇』なるニックネームを持つ彼・・・。
そんな人にさっきの歌なんぞ歌われたひにゃ、身も凍る思いです~。

しかし、彼はもう一つ『有徳天皇』なるニックネームも持っているのです。

各地に分散した養蚕業を、桑の生育に適した地を調べ、その一箇所に集める事によって、絹の生産効率を高め、経済の発展に尽くしたのです。

その時、天皇の「蚕(こ)を集めよ」という命令を聞いた臣下の者が、最初、間違って子供をたくさん集めてきた様子を見て、天皇は苦笑した・・・と言いますが、先ほどの暴挙からは別人のような光景です。

埼玉県・稲荷山古墳から出土した鉄剣には、『獲加多支鹵(わかたける)大王』の銘があり、当時、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)と呼ばれていた雄略天皇の事であるとされ、畿内だけではなく、日本の国土を統一した最強の王との評価も得ています。

また、『宋書(そうじょ)・倭国伝』(中国の書)に登場する、昇明(しょうめい)二年に、宋の皇帝・順帝から、倭・新羅・任那(みまな)加羅(から)秦韓(しんかん)慕韓(ぼかん)の六国の軍事を引き受ける『安東大将軍倭王』に任命される倭国の「武」という王が雄略天皇であるとも言われています。

こんな二面性を持つ彼は、ひょっとしたら何人かの人物の複合体なのかも知れませんが、何らかの形で実在していた事は確かでしょう。

彼は、死の2年前、丹波の国に祀られていた豊受大神(とようけのおおかみ)を、伊勢の地に遷し、天照大神(あまてらすおおみかみ)の食物の神として祀る・・・という事を行っています。
これが、伊勢神宮の外宮の起源です。

雄略天皇二十三年(479年)7月、病に倒れた彼は皇太子に後をまかせます。

そして、翌月の8月7日、見守る臣下者たちに別れの言葉を言い、その手を握りながら亡くなったと言います。

大いなる王が心配した通り、その皇太子の即位は、すんなりとはいかなかったのですが・・・そのお話はまた別の日に書かせていただく事にします。
 

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2007年7月 6日 (金)

古事記をSFとして読めば・・・

 

養老七年(723年)7月6日は、『古事記』を編さんした太安万侶(おおのやすまろ)さんのご命日です。

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以前の記事【太安万侶が古事記を作る】(1月28日参照>>)で書かせていただきましたように、太安万侶という人物に関しては、『古事記』の序文に「太安万侶が献上します」という部分で名前が登場するだけで、その実在すら疑われていたところ、偶然にもお墓が発見された事で、ご命日も、そして、実在の人物であった事も判明したわけです。

しかし、それまで「その実在すら疑われていた」という事は、それだけ太安万侶に関する史料が無いという事で、その人物像というのは、ほとんどわかっていないのが現状です。

そんな安万侶が編さんした『古事記』・・・ご命日にちなんで、今日はその『古事記』を別の視点から読み取って行きたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

プロフィールを見ていただけば、お解かりいただけますように、私は歴史好きであると同時に不思議好きでもあります。

気がついた時には、歴史と同様に、不思議な事(心霊・超能力含む)、宇宙の事、星の事が大好きでしたが、小さい頃は、歴史と宇宙は別の物・・・この二つが結びつくなんて考えもしていませんでした。

ところが、中学生だったか高校生だったかの頃、それまで『日本の神話』という類の本で、断片的に読んでいた「天岩戸」の話や「ヤマタノオロチ」の話を、初めて『古事記』という形で読んだ時に、私の中で、歴史と宇宙が結びつきました。

『古事記』SF的に読んでみると実におもしろいんです

まず、冒頭に・・・
『天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並獨神成坐而。隱身也。』
「天も地もない始めの時。高天原という所に神が現れる。天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ・天の中央で宇宙を統一する神)。次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ・宇宙を生成する神)。次に神産巣日神(カミムスビノカミ・同じく宇宙を生成する神)。この三柱の神々は配偶者を持たない単独の神。その姿を見せる事はない」

これは、まさに太陽系の成り立ちではありませんか?
中央で太陽が生まれ、次にそのまわりで複数の惑星が誕生する・・・。
産巣(むすび)とはまさに産み出す事です。

もちろん、今現在の科学でも太陽系の成り立ちには様々な説がありますので、これが正解ってわけじゃありませんが、安万侶がいた時代の人々が「天も地も何も無い時・・・」「何も無い所から産まれる・・・」なんて事を考えていたという事だけでも驚きませんか?

今の私たちは考える前に教わります。
太陽の事、惑星の事・・・地球は太陽系の中の惑星の一つで、太陽の周りを回っているのだと・・・。

しかし、そのような事前の知識がないまま、混沌とした世界が誕生していくような過程を想像して書ける物なのか・・・と、驚きます。

そして、その次に続くのは・・・
『次國稚如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時。如葦牙因萌騰之物而。成神名。宇摩志阿斯訶備比古遲神。次天之常立神。此二柱神亦獨神成坐而。隱身也。』
「形のない地上は水に脂(あぶら)が浮いたような状態。水中をくらげが流れて行くような中、水辺の葦(あし)が芽吹いて萌え上がっていくような物があった。そこから神が現れる。宇摩志阿斯訶備比古遲神(ウマシアシカビヒコヂノカミ・地上から天へ指し登る神)。次に天之常立神(アメノトコタチノカミ・天そのものを現す神)。この二の柱神も配偶者を持たない単独の神。その姿を見せる事はない。」
ドロドロしたマグマの様子に加え、「天に向かって萌える」という描写は、まるで火山の噴火を連想させます。

以上は、天に現れた神で、この後、地上に次々と神が誕生します。

生まれてきた大地を表す国之常立神(クニノトコタチノカミ)
脂が固まって広い沼になる事を表した豊雲野神(トヨクモノカミ)
沼地が固まって草が生え育っていく様子を表した角杙神(ツノギヒノカミ)活杙神(イクグヒノカミ)
大地の表面が整った事を表す淤母陀琉神(オモダルノカミ)
大地が整った喜びの声「あやにかしこし」を表した阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノカミ)

まるで、徐々にマグマが冷え、海から大地が現れ、そこに植物が誕生していく様子のように思えます。

・・・で、これらの神々の最後に登場するのが、皆さんよくご存知の伊邪那岐神(イザナギノカミ)伊邪那美神(イザナミノカミ)です。

いざなう=誘う・・・つまり、お互いが協力して、出来上がった大地に国を造り、物を生み出して行く・・・
『国産み』と言いますが、私は、イサナギとイザナミは産んだのではなく、国を造った・・・つまり、人々が集団生活をし、村になり、やがて国家になっていった事の描写ではないかと思っています。

このイザナギとイザナミがそれまでに登場した神様と種が異なるように思うのは、それまでの神様が、地球の成り立ち・・・つまり自然現象だったのに対し、彼らが人類だからなのではないでしょうか?

それを、裏付けるかのように、イサナギとイザナミは神としては初めて男女の交わりをし、その子・天照大御神(アマテラスオオミカミ)、その孫・天邇岐志国邇岐志天津日高子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシアマツヒダカヒコホノニニギノミコト)と続き、そのニニギノミコトが天孫降臨をして、天皇家の祖となるわけですから・・・。

さらに、皆さんよくご存知の天岩戸隠れ・・・弟・建速須佐之男(タケハヤスサノオノミコト)の悪行に怒った太陽神・アマテラスが天岩戸に隠れてしまう話です。

これは、皆既日食を描写した物であるとか、国を治めていた女王が亡くなり、一旦国が荒れ、再びカリスマ性のある次の女王が現れるまでの状況を描いた物であるというのが一般的な見方ですが、これをSF的に読み解くと、これまた非常におもしろいのです。
ここから先は、ブルーの文字がSF的読み方です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アマテラスがお隠れ=仮死状態?になって、さぁ困った八百万(やおよろず)の神様は会議を開いて「どうしたものか?」と話し合います。

そこへ登場する思金神(オモヒカネノカミ)・・・このオモイカネさんは、皆が困った時に質問をする神様で、必ず明確な答えを出し、皆がその意見に従う・・・という立場の神様なのですが・・・思金=考える金属?・・・まさにスーパーコンピュータ!
あらゆるデータを蓄積し、こんな時どうすれば良いか?という答えを瞬時にして導き出してくれるのです。

この時も、華麗なる女王復活のために、各担当者に指示を与えます。

まず、闇夜に鳴く長鳴鳥(ながなきどり)を集めて一斉に鳴かせます=仮死状態の人への声かけ?

鍛冶の名人・天津麻羅(アマツマラ)に特別の岩と鉄で=手術道具(メス)の準備?を作らせます。

次に、伊志許理度売命(イシコリドメノミコト)=人工心臓?を作らせ、玉祖命(タマノヤノミコト)500の勾玉をつけた長い玉飾り=輸血用チューブ?を用意させます。

さらに、天児屋命(アメノコヤネノミコト)布刀玉命(フトタマノミコト)に、天の香久山に住む牡鹿の骨で鹿卜(しかうら)を行わせ、この策略が正しいか=手術のシュミレーション?を占わせました。

結果が「良し」と出たので、香久山に生える榊の木を根こそぎ掘り出して=輸血用の血液を確保?、そこに先ほどの玉飾りと鏡を装着してフトタマノミコトが捧げ持ち、そばにはアメノコヤネノミコトと、力持ちの天手力男神(アメノタヂカラヲノカミ)が準備万端整えた所で、男まさりの女神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)が登場します。

ウズメは、天岩戸の前に、中がうつろな台=ベッド?を設け、そこに登って足拍子おもしろく=一定のリズムで?音が鳴り響くように踊った=心臓マッサージをした?のです。

外の騒がしさが気になったアマテラスは、閉めきっていた岩屋戸を少し開き=回復の兆し?、何があるのかと顔を出したとき、フトタマとコヤネが先ほどの鏡を差出し=人工心臓装着・手術?、同時にタヂカラヲがその力強い腕でアマテラスの手を取って岩屋戸の前に引き出します=ひょっとして電気ショックなんかもしてるかも?

すかさず、フトタマが岩屋戸の入り口にしめ縄を張りめぐらして=縫合?「もう、二度とお戻りになりませんように」とつぶやいて、めでたしめでたし・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、いかがでしたか?『古事記』SF的読み解き

まだまだ、ヤマタノオロチも天孫降臨も、SF的発想で読んでみるとおもしろいです~。

最後まで読んでくださったかた、長い妄想におつき合いくださってありがとうございました~。
 

Amanotorifunecc 今日のイラストは、
天孫降臨の時の『天鳥船』を、SFっぽく書いてみました~。
 

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2007年6月25日 (月)

最古の治水工事・茨田堤の物語

 

今日は、大阪に伝わる民話と、物語にまつわる史跡・茨田堤(まんだのつつみ)をご紹介します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仁徳天皇陵や応仁天皇陵といった大きな古墳が、河内に造られるようになる5世紀頃は、河内平野の大開発の時代でもありました。

近畿を中心とする豪族の中で、大和に政権をおいていた王が、徐々に河内に移動するのには、やはり、山に囲まれた盆地である奈良よりも、大きな河内平野での農業生産力の大きさによるところが大だと思われますが、その頃はまだ、大阪平野は半分海のような湿地帯・・・。

いくら広大な土地でも、たびたび洪水被害に悩まされては、その大きな農業生産力にも影響を及ぼします。

日本書紀には、仁徳天皇の十一年の10月に
『北の河(淀川)の澇(こみ・浸水)を防がんとして、茨田堤(まんだのつつみ)を築く』
とあります。

古事記にも、
『秦人を役てて、茨田堤を造りたまい』
と記されています。

秦人とは、先日の交野の七夕伝説(6月23日参照)の時にも登場した大陸からやって来た(はた)の事ですが、この時の秦人は、秦氏だけ・・・という事ではなく、渡来人全般を指す広い意味だと思いますが、この仁徳天皇の時代に、淀川沿いで大規模な堤防築造が行われた事は間違いないでしょう。

これは、記録で見る限り、日本最古の治水工事です。

大陸からやって来た技術者たちによって造られた茨田堤のおかげで、広大な河内平野での農業はいっそう発展したに違いありません。

しかし・・・(ここから昔話です)

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それでも淀川はたびたび氾濫を起こし、堤はたびたび決壊します。
特に、ある2ヶ所がいつも決壊して困っていました。

そんなある日、仁徳天皇は夢の中で、
「武蔵人・強頸(こわくび)、河内人・茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)二人を以って、河狛(かわのかみ)に祭らば、必ず塞ぐこと獲てむ」
という神のお告げを聞いたのです。

つまり・・・武蔵の国に住むコワクビいう人物と、河内の国に住むコロモコという人物を人柱(いけにえ)として川に捧げれは、決壊は無くなというのです。

早速、二人の人物は呼び出されます。

二人のうちコワクビは嘆き悲しみながら、川に身を投じました。

しかし、コロモコはすぐには川へは飛び込まず、持参した瓢箪(ひょうたん)を手に持って天にかざし、こう叫びます。

Koromokocc

「おい!神さん!
俺は、今からこの瓢箪を川に投げる。
おんどれが、ホンマの神さんやねんやったら、この瓢箪を川底に沈めてみせろや!

もし、瓢箪が沈まんと、プカプカ浮いて来たら、それはニセモンの神さんやさかい、俺は川には飛び込まん。
ほな、いくぞ~」

と、川に投げ込みます。

当然、瓢箪は川面をプカプカ浮きながら、川下へ流れていきます。

こうして、コロモコは人柱から逃れる事に成功したのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もちろん、このお話が事実かどうかは確認できません。

しかし、この茨田堤の築造にも、おそらく沢山の人民が動員されたはず・・・神の権威を振るって、時には無理難題をふっかける王に、ささやかな庶民の抵抗があった事を、この物語は教えてくれます。

権力に屈しない、なにわのド根性は、すでにこの時代から芽生えていたんですね。

どころで、この「茨田」と呼ばれる場所ですが・・・、

大阪市の鶴見区には、今も茨田(まった)という地名や、横堤なんていう地名も残っていますし、風土記には、「河内の国・茨田の枚方に・・・」という記述が見えますので、おそらく、大阪市の旭区あたりから、守口寝屋川枚方のあたりの淀川沿いの広い範囲が「茨田」と呼ばれていたのでしょうね。

ちなみに、先ほどの民話に出てきた2ヶ所のよく決壊する場所は、
『時人、其の両処を号(なず)けて強頸断間(こわくびたえま)衫子断間(ころもこたえま)という』
と、日本書紀にあり、その2ヶ所が強頸断間と、衫子断間と呼ばれていた事がわかります。

その強頸断間は現在の大阪市の旭区千林あたり、衫子断間は寝屋川市太間あたりだったと言われています。

Mandanotutumioosakatizucc 決壊しては、その度に修復され、河内平野に農業の発展をもたらした茨田堤でしたが、やがて、もう少し北側に、豊臣秀吉による「文禄堤」が築造され、茨田堤はその役目を終えました。

現在は、門真市が守口市と寝屋川市に接するあたり(右の地図のの場所です→)に、茨田堤の名残と称される場所があります。

京阪電車・大和田駅から北東へすぐの所に、茨田堤の築造に携わった茨田宿禰が、堤の守護神として茨田氏の御先祖である彦八井耳命(神武天皇の皇子)祀ったとされる堤根(つつみね)神社があります。

Tutuminezinzyacc その神社の裏手に、目印とも言える大きな木が2本・・・そこが茨田堤です。

横を走る道とは、明らかに高さが違うその場所は、かつてそこが堤であった事を容易に想像させてくれます。

その場所に立つと、神代の昔の伝説の舞台が、今なおこうしてその姿をとどめている事に・・・
そして、遠い昔の庶民の記憶を、昨日の事のようにいきいきと伝える民話に・・・
時の長さを飛び越えてしまうような錯覚に陥り、少なからず感動を覚えてしまうのです。

Mandanotutumicc
              茨田堤
 

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2007年3月15日 (木)

邪馬台国はどこか?を見て

 

今日は、本当は別の話題を準備していたのですが、昨夜の10時からの『歴史の選択~邪馬台国はどこか?』を見たために、急激に自分の中で盛り上がってしまい、今日は邪馬台国について書かせていただく事にしました。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

邪馬台国についてはHPでも書いていますので、内容がかぶってしまいますがお許しください。

私は、単なる歴史好きで、専門家ではありませんから、それこそ番組中で、アナウンサーさんがおっしゃっていたように、「命賭けてる人」もいらっしゃるわけで、そんなかたがたから見れば、笑う価値すらないものですが、単なる歴史好きは単なる歴史好きなりに、自分の考えのような物があるわけで、まぁそこんとこは素人の独り言だと思っていて下さい。

今日の番組では、「邪馬台国は畿内か?九州か?」というので、アナウンサー二人がそれぞれの意見の代表者の立場をとって、遺跡や出土品、古墳や魏志倭人伝の記述などから様々な史料を取り上げて「このような史料があるから九州だ」「いや畿内だ」と提示して、携帯電話と地デジで視聴者が投票する、という進行でした。

私は、初めて歴史の教科書を見たときから、ず~っと不思議に思っているのですが、なぜ?まず『邪馬台国』ありき、『魏志倭人伝』ありき、なのかが、どうもわからないのです。

私が、学校で習ったのはずいぶん前なので、現在の教科書にどのように記載されているのかよくわからないのですが、『古事記』『日本書紀』というわが国の歴史と『魏志倭人伝』はそんなに差がある物なのでしょうか?

たしかに『古事記』『日本書紀』というのは、それまでの歴史書を抹殺して、大和朝廷が書き上げた物ですが、それらが100%デタラメで、『魏志倭人伝』が100%正しいのでは決してないはずです。

どちらにもウソの部分があり、どちらにもホントの部分があると思うのです。
たしかに、畿内か?九州か?の論議も重要な事ですが、どれがウソでどれがホントなのかという事の重要性が教科書(私の時代の教科書です)からはまったく見えて来なかったのです。

そもそも『邪馬台国』『卑弥呼』の事が記されている『魏志倭人伝』
『魏志』は中国の晋の時代に編さんされた『三国志』の一つで、その中に倭人の項があり、そこに『邪馬台国』『卑弥呼』が出てくるんですよね。

それは、の前のの時代に貢物を持ってきた邪馬台国の使者が、自分の国の話をしたのを聞いた漢の時代の人の事を聞いた魏の時代の人が書いた本を見ての時代の人が書いたという事になってたと思います。

「友達の友達の話やねんけど・・・」と言った話の怪しさは誰もが感じるところです。

1299年のマルコポーロ『東方見聞録』でも、日本の位置や蒙古襲来の出来事がかなり正確に書かれている反面、「日本人は食人の風習がある」といった事も書かれています。

ただ、『東方見聞録』が、マルコポ-ロ個人の記録であるのに対して、『魏志倭人伝』は国をあげて正確な歴史書を作ろうとして書かれているので、同じように考えるのは良くないかも知れませんが、やはり、間違った事が書かれている部分があるのは確かです。

もちろん、その事を日々研究されている専門家のかたもたくさんおられるわけですが、一般的な場所で議論される事が少ないような気がしています。

・・・で、今日の番組のテーマでもある「畿内か?九州か?」という事に関しては、私は女性のアナウンサーさんがおっしゃってたように、九州から畿内に移動したのではないか?と思っています。

ただ、「九州にあった邪馬台国が、畿内に移って大和政権になった」という表現とは少し違って、九州にあった時から大和政権であったというニュアンスです。

おそらく、邪馬台国からやって来た使者は、自分の国の名前を聞かれて大和(やまと)」と答えた。
・・・で、それを聞いた中国の人が漢字で書いたので『邪馬台国』という表記になったのでしょう。

現在でも、中国の人は固有名詞を、聞いた音に漢字をあてて表記しますよね。

たとえば、ビル・ゲイツさんの事を、『比尓・盖茨』と漢字で表記して、「ピーアル・カイツー」と発音してます。

それと同じように「やまと」と聞こえたから『邪馬台』と漢字で表記して、邪馬台という国だから『邪馬台国』

当時から、国内では大和と言っていたのだでしょう。
日本語では日本なのに、英語ではJapanなのと同じだと思います。

ですから『卑弥呼』「ひめみこ」ではないかと・・・。

先日このブログで書いた最初の女帝・推古天皇(ブログ:3月7日参照)の名前は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)
夫・天武天皇の後を継いで、藤原京を完成させた持統天皇鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と呼ばれていました。

きっと、邪馬台国から・・・いえ、大和から来た使者が王の名前を「○○のひめみこ」と言ったのを、「ひめみこ」の部分だけ取って『卑弥呼』と書いたんでしょうね。

そして、大和の国は長い時間をかけて九州から畿内へ移動って来たのだと思います。
長い時間・・・というのは、人が長い時間をかけて旅をしたという意味ではなく、都が長い時間をかけて移ったという事です。

ですから、私としては九州も畿内も、邪馬台国であり大和政権であったと思います。

これは、『記紀』に見る神武東征の話と一致する事でもあります。
もちろん、移動した先々には、スサノヲと大国主の出雲王朝も、ニギハヤヒとナガスネヒコの河内王朝などの国もすでに存在していて、それらを占領、あるいは統合しながら・・・という事になりますが・・・。

やはりここは、専門家の方々に、『魏志倭人伝』『記紀』との事実の部分の点と線を結びつけていっていただいて、遺跡からの史料を重ね合わせ、更なる解明に期待したいと思います。

Himikocc やはり、卑弥呼・邪馬台国と言えばこんなイメージでしょうか・・・。
 

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2006年9月 5日 (火)

神功皇后の三韓征伐

 

日本書紀によれば、仲哀天皇八年、9月5日、神功皇后三韓征伐の神託がくだりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

神功(じんぐう)皇后は、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)という名前で、父は開化天皇から数えて三代目の息長宿禰王(おきながすくねのみこ)で、母は新羅からやって来た渡来人の娘・葛城高額比売命(かつらぎたかぬかひめのみこと)

あ゙ぁ~、ややこしい~名前長過ぎ!ま、天孫降臨のニニギノミコトはもっと長いですが・・・いったい、お互いを呼ぶ時、何て呼んでたのかメッチャ知りたい~落語のジュゲムみたな感じだったんですかね?

ともかくこの神功皇后の旦那さん・仲哀天皇は、あのヤマトタケルの息子で、ふたりの間に生まれた子供が、中国の歴史書に登場する倭国の五王の一人とされる応神天皇なので、西暦で言うとだいたい紀元後400年くらいの頃の人でしょうか?

そして、まだ、神功皇后が新婚さんの時期に、仲哀天皇の熊襲(くまそ)征伐に従って筑紫へ渡り、橿日宮(かしひのみや)にいた時、「天皇は、熊襲が従わない事を気にして熊襲を討とうとしているが、海の彼方に豊かな国がある。この国を与えよう。」という神託がくだるのです。

それを聞いた天皇は、高い山に登ってはるか水平線の彼方を見渡したがそのような国は見えなかったので、「神のいたずらである」と、信じませんでした。

とにかく、古事記も日本書紀も、この神功皇后に関しての部分は、ホント皇后を主役に持ってきます。

天皇、影うすいです。

古事記なんか、天皇と皇后と大臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)と、三人で神様を呼ぶ儀式を行ってるのに、皇后に神託が下ります。

この、シャーマン的な部分から、歴史好きの人の中には、神功皇后こそが、卑弥呼では?という人もいます。

この神託を一蹴した天皇に神の怒り爆発!

「神を疑う天皇にはその国は与えない。皇后のお腹の中の子供がその国を得るだろう」と、もう一度神託がくだって、その直後に仲哀天皇は死んでしまいます。

そして、臨月の皇后は、腰に石をはさみ、「どうぞ、旅の途中で子供が産まれませんように・・・」と、帰還の日に出産する事を祈願して、和珥津(わにのつ)(対馬・鰐浦)から出航しました。

この時、風の神は風を起こし、海の神は浪をあげ、海の魚まで皇后の軍船の後押しをしたという(ホンマかいな?)

皇后の船を押した大波は、新羅の国中にうちあがったので、新羅の王は戦う前に恐れをなして降伏しました(ホンマかいな?)

そして、『三韓』と言うくらいだから、あと二つ、百済と高麗(高句麗)の王も、「勝つ見込みがない」として、自発的に降伏を申し込んで来たと言います(またまたホンマかいな?)

ま、この時代には、まだ無かったはずの百済という国名が出ているし、相手国の歴史書にもそのような記述がない事ですし、実際に大陸には行ったかも知れませんが、征服・・・とまではいってないでしょう。

ともかく、神功皇后は、臨月で出発したにもかかわらず、ちゃんと帰還してから無事赤ちゃんを出産します。
その赤ちゃんが次期天皇になる応神天皇です。
 

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2006年7月16日 (日)

ヤマトタケルは実在したか?

 

日本書紀によれば、西暦110年の7月16日に、景行天皇が息子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)東方征伐の命令を下しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本武尊は、日本の歴史の波に飲まれ、ある時は実在した英雄と言われ、ある時は架空のおとぎ話の主人公とされてきました。

日本書紀では『日本武尊』と表記され、古事記では『倭建命』と表記されます。
どちらも『ヤマトタケルノミコト』と読みます。

古事記によれば、ヤマトタケルノミコトは、景行天皇と針間伊那毘能大郎女(イナビノオオイツラメ)との間に生まれた双子の兄弟の弟です。

兄が大碓命(オオウスノミコト)、弟が小碓命(ヲウスのミコト)

このヲウスノミコトが顔色一つ変えず平気な顔で兄を殺してしまった事に恐怖を感じた景行天皇は、すぐにヲウスノミコトに西方の熊曾に住む熊曾建(クマソタケル)の征伐を命令します。

(タケル)というのは、猛々しい強い者という意味で、みごと、クマソタケルを討ったヲウスノミコトは、この時から、『ヤマトの猛々しい者』という事で、ヤマトタケルと名乗ります。

そして帰り道で、出雲建(イヅモタケル)も討ち負かして都へ帰ってきますが、旅のつかれを癒す間もなく、西暦110年7月16日東方征伐の命令が下る事になります。

この時、ヤマトタケルは「父は私が早く死ねばいいとでも思っているのだろうか」と嘆きながら、命令が出てから、わずか2ヶ月半後の10月2日に東方の征伐に出発しています。

この頃のヤカトタケルノミコトは、あの、兄を平然と殺害したヲウスノミコトとは、まるで別人のように天皇の命令には従順に働きますね。

そんな別人のように変わる人が神話の中にもうひとりいました~。
そう、スサノオノミコトです。

彼も、高天原で大暴れして、姉のアマテラスオオミカミに岩戸隠れまでさせて、高天原を追放されたのに、追放されて出雲の国に降りてきてからは、ヤマタノオロチを退治して、草薙の剣をアマテラスオオミカミに献上して・・・と、まるで別人のように従順になります。

これは、ヤマトタケルノミコトもスサノオノミコトも、古事記・日本書紀の筆者によって作り上げられた架空の人物・・・というよりは、多数の実在の人物をモデルにして、それらを一人の人物として表した結果ではないでしょうか。

スサノオノミコトは、出雲の国の建国と大和朝廷の支配下になる過程を一つの人格としたもの、ヤマトタケルノミコトは、西方の国々と東方の国々を支配下に治めたそれぞれの過程を一つの人格としたものなのではないでしょうか。

『旧唐書』の倭国日本伝には、『倭と日本は別の国である』と記されています。

日本は、倭より東、つまり日の本にあったという事になっています。

『倭』『日本』『大和』このすべてをヤマトと読むのは、それぞれの国の出来事をひとつの物語にまとめあげた名残りなのではないかと思います。

HPでは、大和朝廷によって、経歴査証や存在抹消された神様たちについてヤマトタケル以外にも色々書いています。
興味がありましたら、
コチラからどうぞ→
 

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2006年7月 7日 (金)

七夕の夜に日本最古のK-1ファイト

 

天平六年(734年)7月7日、あの大仏建立で有名な聖武天皇が、七夕の宴と相撲見物を行った・・・という記録があり、一般的にはこれが、七夕と相撲の起源とされています。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

・・・が、どうしてどうして、それよりずっと以前から、七夕は伝わっていて、七夕の行事の一つとして相撲・・・というより格闘技が行われていました。

大阪の北東部にある交野市は、七夕発祥の地と言われています。

ここには、天の川が流れ、かささぎ橋がかかり、機物(はたもの)神社(祭神は織姫があり、川の向こう岸には牽牛石と呼ばれる石があります。

【くわしくは、私のHP:京阪奈ぶらり歴史散歩の『交野ヶ原、七夕伝説』を読んでやってください】

機物神社は、もともと秦者神社で、4~5世紀頃、朝鮮半島の百済からやってきて養蚕と機織の技術を伝えた渡来人・秦氏の氏神でした。

彼らは、機織の技術とともに、ふるさとに伝わる七夕伝説を日本の地に伝えたのです。

一方相撲のほうはというと、日本書紀に垂仁天皇の七年、7月7日に天皇の前で『死合(←こんな字かよ!)が行われた」とあります。

垂仁天皇は、第十一代の天皇で、年代的には3世紀前半に活躍したとされる天皇です。

Kehayatukacc_1 当麻蹶速(たいまのけはや)という強い男が朝廷にやってきて「自分と力比べをしてくれる強い者を探している」と申し出て、ならば・・・という事で、出雲の勇士・野見宿禰(のみのすくね)が相手をする事になります。

しかし、その『試合』がまさに『死合』なんです。

両者は、向かい合って互いに足をあげて蹴り合い、宿禰が蹶速のアバラを蹴り折って、腰骨を踏んで殺してしまった・・・て言うんです。

これは、相撲というよりは、K-1いや、K-1もルールがあるし、もちろん殺しちゃいけません。

この『死合』はまさに、ルールなきストリートファイトですね。

ファイトマネーは、領地。

勝った宿禰は蹶速の領地を貰い受けています。

とにかく、この頃にはすでに、格闘技が七夕の行事の一つとして、7月7日におこなわれていました。

現在の格闘技は年末の行事の一つとなりましたね。
 

当麻蹶速の塚の詳しい場所はHPでどうぞ→
塚の隣には、蹶速さんのゆかりの地という事で、全国でも珍しい相撲の博物館・葛城市相撲館「けはや座」があります。

 

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