武烈八年(506年)12月8日、第25代・武烈天皇が18歳(推定)で崩御されました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この武烈天皇ほど、『日本書紀』の「編者による天皇家を万系一世にしたいがためのムリヤリつなげ作戦」の犠牲者と言える天皇はいないのではないでしょうか。
先日の、崇神天皇のページ(12月5日参照>>)でも書かせていただきましたが、この時代の歴史書と言える物が『古事記』『日本書紀』に類に限られる以上、それを否定する決定的証拠がないため、あくまで、憶測・推理となってしまうわけですが・・・。
だいたい「武烈」という諡(おくりな)からして、あまり良い印象は受けません。
自分たちの有利に運べる天皇には、崇神だの仁徳だの応神だのと、心地の良い諡を名乗らせておいて・・・まったく、もう、藤原クンったら・・・
一応、正史とされる通りに、武烈天皇をご紹介しますと・・・
その悪行は、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)と呼ばれた皇太子時代から始まります。
彼は、物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)の娘・影媛(かげひめ)に恋をします。
ちなみに、武烈天皇は、在位が八年で18歳で亡くなったとされていますので、皇太子時代という事になると10歳以下・・・という事になりますが・・・。
・・・で、一応、皇太子ですから、使いを立てて彼女を口説こうとするわけですが、実は彼女にはすでに恋人がいたのです。
それは、第20代・安康天皇の時代に大臣となり、当時の政界のトップに君臨する平群真鳥(へぐりのまとり)の息子・鮪(しび)でした。
二人は相思相愛。
武烈さんこそ知りませんでしたが、まわりも周知の恋人同志でした。
しかし、皇太子の気性の激しさを知っている影媛は、その猛アタックぶりに断りきれず「海石榴市(つばいち・奈良県桜井)の辻お会いしましょう」と返事をします。
皇太子が出かけるための馬を借りようとした事から、この事実を知った父・真鳥は、当然息子にも連絡。
やがて、皇太子が海石榴市で彼女の袖を引っ張って、迫りまくりのところを、駆けつけた鮪とその家来に引き離されます。
納得がいかない皇太子は歌で・・・
・・・と、一応、ここで歌を交わしているので、その歌を♪で、その一般的な意味を( )で書きましたが、なんか、ミュージカルのようなセリフ回しなので、私の独断的解釈の現代風の現実的なセリフを「 」で書いてみました。
私の考えた勝手なセリフはあくまで参考程度で・・・
武烈:
♪塩瀬の 波折り見れば 遊び来る
鮪が鰭手に 妻立てり美ゆ♪
(潮の流れを見てると泳いでくる鮪のそばに、私の妻が立ってるのが見えた)
「俺の目ぇつけた女のそばにお前がおる・・・なんでや?」
鮪:
♪臣の子の 八重や韓垣 許せとや御子♪
(私の何重にも囲った立派な垣の中に自由に入らせよとあなたはおっしゃるのですね)
「俺の女に手ぇ出してんのを見過ごせっちゅ-んかい!」
武烈:
♪大太刀を 垂れ佩き立ちて 抜かずとも
末果たしても 会はむとぞ思ふ♪
(私は、立派な太刀を腰に垂らしているが、それを抜かなくても、いつか影媛と会おうと思っている)
「今、この刀抜いてもええねんでぇ・・・まぁ、そんな事せんでもいずれ彼女は俺のモンやけどな」
鮪:
♪大君の 八重の組垣 懸かめども
汝を編ましじみ 懸かぬ組垣♪
(あなたは立派な垣を造って媛を取られないようにしようと思っているだろうが、あなたには立派な垣は造れはしないだろう)
「ムリムリ!」
武烈:
♪臣の子の 八節の柴垣 下動み
地が震り来ば 破れむ芝垣♪
(お前の垣は、いかにも立派な垣に見えるが地震が来ればすぐ壊れるような垣だろう)
「お前こそ、ムリやっちゅーねん!」
武烈:影媛に向かって・・・
♪琴頭に 来居る影媛 玉ならば
吾が欲る玉の 鰒白珠♪
(その琴の音に惹かれて神が寄って来るという影媛を、玉に例えるなら、私の一番好きなあわびの真珠だ)
「メッチャ可愛い影媛ちゃん、君は俺の大好きな真珠のようや」
鮪:
♪大君の 御帯の倭文服 結び垂れ
誰やし人も 相思はなくに♪
(あなたの倭文服(しつはた)の布が垂れる・・・のタレの言葉のように、タレが別の人を思う事があるでしょう)
「アホか!もう一緒になっとるっちゅーねん」
・・・とまぁ、こんな具合で・・・。
最後のの歌は、歌の内容と私の解釈とは、全然意味が違いますが、日本書紀では、この最後の歌で、「皇太子が、鮪と影媛が、もうヤッちゃってる仲(失礼!)だと気づく」という事なので、このようにして解釈してみましたが・・・。
・・・で、このふたりがすでにデキちゃってる事を知った皇太子は、「恥をかかされた」と激怒します。
そして、臣下の大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)が率いる数千の兵を、鮪のもとに差し向け、乃楽山(ならやま)に追い詰めた後、影媛の見ている前で殺害させたのです。
もちろん、その後に、父・真鳥も殺し、皇太子が天皇になった時には、この金村が大連(おおむらじ)となるのです。
しかし、不思議な事に、武烈天皇のところに、このエピソードが書いてあるのは日本書紀だけで、古事記ではこの出来事は武烈天皇の叔父さんの顕宗(けんぞう)天皇のエピソードとして登場します。
古事記の中の武烈天皇は『八年間在位して子供(後継ぎ)がいなかった』という事だけしか書かれておらず、いたくあっさりとした物。
先の恋愛のエピソードはまったく書かれていないのです。
なのに、日本書紀での武烈批判はさらに、天皇になってからも続きます。
以下、箇条書きにしますと・・・
- 在位二年め:妊婦の腹を裂いて胎児を見る。
- 在位三年め:人の生爪をはがし、芋を掘らせる。
- 在位四年め:人の髪を抜いて木に登らせ、その木を切り倒して落として喜んだ。
- 在位五年め:人を池の樋(とい)に流し、流れて来たところを矛で刺しておもしろがった。
- 在位七年め:人を木に登らせ、弓で射落として楽しんだ。
- 在位八年め:女を馬と交わらせ、○○が潤っていたら死刑、潤っていなければ女官とした。
以下、宮廷への遅刻・早退・無断欠勤は当たり前、贅沢に明け暮れ、一日中低俗な音楽を聴いて、まったく良い事をせず、人民は大いに震え上がったというのです。
なぜ?6年目は休む?
・・・と、これ、嘘だと思うから書いてます。
本当だったら、とてもじゃないが書けません。
なぜなら、こんな事書いておいて、一方では、「法令に長けていて無実の罪は絶対に見抜き、朝早くから夜遅くまで政務についた」と書いています。
また、先ほどの真鳥・鮪父子に関しても、真鳥がその権力を笠に着て、好き放題の政治を行い「自分が天皇になる」などと言い出し、皇太子の入るべき宮殿を占拠して、そこに住んでいた・・・と書かれています。
もし、そうなら、悪代官を倒した暴れん坊将軍のような物で、武烈天皇のほうが正義という事になります。
たった18年の人生で、ありえない変貌ぶり・・・これは、またまた、崇神天皇に続く日本書紀編者のチョンボなのでは?
ブログでは、話が前後してしまいましたが、日本書紀では、「こんな良い事をしました」の後に「だけど、こんなひどい事もしました」という順番で書かれています。
これは、書いてる途中で、明らかに路線変更しています。
武烈天皇を悪人にしなければならない編者の意図がミエミエです。
これは、他ならぬ、次の天皇、第26代・継体天皇へと引き継ぐための画策なのです。
継体天皇は、世阿弥作の能・花筺(はながたみ)の主人公でもありますので、ご存知のかたも多いでしょうが、応神天皇から数えて5代目・・・という事になってますが、福井または近江にいた人で、本当は天皇家ではなかった人なのでしょう。
継体天皇が、樟葉宮(くずはのみや・大阪府枚方市)で即位してから20年間も大和に入る事ができなかったという事も、彼が、今までとは別の政権であった事を物語っているようです。
つまり・・・ここで政権交代があった事を隠し、万世一系の天皇家にするため、武烈天皇を悪の権化のように描いたのです。
善の固まりであるかのような継体天皇の正当性を主張したいがための、「武烈天皇=暴君」だというのが本当のところでしょうね。
名君とうたわれたあの仁徳天皇の御名は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)。
そして、武烈天皇は、最初に書いたように、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・・・。
きっと、彼は、仁徳天皇を思い起こさせるような若き名君であったに違いないと、私は思っています。
←あなたの応援クリックが励みになります!よろしくお願いします
最近のコメント