2009年12月 8日 (火)

排除された邪教の神~酒呑童子の叫び

 

いけません。
やっちまいました~

うぅ・・・・
頭が痛い~~喉が痛い~~

どうやら、風邪をひいたようです。

長期に渡って、風邪一つひかない健康体質を保ち続けていた茶々でござりまするが、まさに鬼の霍乱(かくらん)とは、この事でおます。

大阪には「アホは風邪ひかん」ということわざ?がありまして、長年どっぷり浸かったアホの世界から抜け出る事ができた事を喜びつつ、鬼の霍乱にちなんで、本日は鬼のお話を一つ・・・

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昔、正暦(990年~994年)のころ、京の都の内外で行方不明や殺人事件が相次いでいた中、時の最高実力者の藤原道長息子が行方不明になってしまいます。

あわてて、おかかえの陰陽師・安倍晴明を招いて占ってみますと、大江山に住む鬼の仕業である事がわかり、早速、帝は源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)藤原保昌(ふじわらのやすあき)鬼退治の命令を下しました。

頼光は、渡辺綱(わたなべのつな)坂田金時(さかたのきんとき)卜部季武(うらべのすえたけ)碓井貞光(うすいのさだみつ)という四天王と呼ばれる4人を引き連れて、鬼を油断させるために、山伏の姿に変装して大江山に乗り込みます。

鬼たちは彼らを山伏だと信じ込み、大歓迎して迎え入れてくれたうえ、宴の席を設けてくれたのです。

やがてそのうち酒宴の席に、ジャニーズ系美少年の姿をした酒呑童子(しゅてんどうじ)が現れました。

頼光たちは、神様からもらった毒入りのお酒を鬼たちに振る舞い、鬼たちを身動きできないようにしてから酒呑童子の様子を伺うと、酒呑童子もまわりに美女をはべらせてグーグーと眠ってしまっています。

熟睡して油断した酒呑童子は、とうとう本性を表します。

その正体は、15個の眼、5本の角を持つ巨大な醜い鬼だったのです。

寝ている童子に頼光たちが襲いかかります。
怪力自慢の四天王が手足を押さえ、頼光が首を切り落としました。

しかし、その首は宙を舞い、叫びまわりながら、やがて、頼光の兜に噛み付いたのです。

そこで、頼光は、その首の眼をくりぬき、やっとのことで、首は兜から離れ、退治する事ができました。

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ご存知、大江山の酒呑童子のお話です。

このお話には、藤原道長をはじめ安倍晴明や源頼光や四天王たちなど、実在の人物が登場してはいますが、さすがに、実際にあった出来事だとは思えません。

・・・とは言え、伝説や昔話の類を、「作り話だ」として一蹴してしまうのはいただけません。

たとえ、物語そのものが空想の産物であったとしても、その物語が、そこで誕生した事は事実・・・その誕生のウラには、なにかしらの背景があるものです。

このお話の中で、酒呑童子が自らの身の上話を語るのですが、それによれば・・・
「昔から、比叡山を、先祖代々の所領としていたのだが、ある日、伝教大師(でんぎょうだいし)という坊さんがやって来て、延暦寺というお寺を建てたために追い出され、大江山に住むようになった」
との事・・・

伝教大師は、ご存知、最澄の事・・・つまり、酒呑童子とは、もともと神代の昔から比叡山で信仰されていた土着の神様で、仏教の伝来によって、それら昔の信仰が邪道とされ、徐々に排除されていった事を、英雄伝説に置き換えたものではないか?と思われます。

まぁ、大した根拠もない話ではありますが、頼光たちが山伏の姿で大江山に入り、その姿に、鬼たちが警戒しないところなど、山伏が鬼たち(土着の神様)とは同類で一体感があった事を臭わせています。

山伏も仏教ではなく、山岳信仰の修験者ですから・・・

また、御伽草子(おとぎぞうし)では、酒呑童子は越後(新潟県)の生まれであるとされ、越後のお寺で稚児として育つものの、寺で暴れて追い出されて比叡山へ・・・

そして、やはり比叡山を伝教大師に追い出されて大江山に住みついたところ、今度は弘法大師(空海)に追い出されるも、最澄や空海がいなくなったので、再び大江山に戻ってきていた事になってます。

おそらくは、彼らは鬼ではなく、山の神や竜神といった昔ながらの信仰を続けてきた人々・・・そんな彼らは、仏教や陰陽道を信仰する都の人々にとっては、邪教の信者であり、排除の対象となったという事なのでしょう。

伝説によれば、酒呑童子は、殺される時、
「鬼に横道(おうどう)はない!」
と叫んだのだとか・・・

つまり、「正義は我々にある」と・・・

邪教の排除を名目に、彼らの昔ながらの土地を次々と征服していった者たちへの、悲痛な叫びが聞こえてくるようです。
 

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2009年12月 4日 (金)

藤原・全盛への道を開いた清和天皇のジレンマ

 

元慶四年(880年)12月4日、第56代・清和天皇が、31歳の若さで崩御されました。

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この天皇の孫である経基王が皇族を離れて臣下となり、源経基(つねもと)と名乗った事に始まる清和源氏・・・以来、鎌倉幕府の源頼朝、室町幕府の足利尊氏新田義貞に、果ては、あの徳川家康(家康は自称)まで、武門の棟梁となる名門の祖とされるのが、第56代・清和天皇です。
(*源氏が清和源氏ではなく、陽成源氏かも知れないお話は、また別の機会にさせていただきますので、今日のところは通説の通りという事で・・・)

しかし、その猛々しさとはうらはらに、清和天皇の生涯には、なにやら、空しさというか、寂しさというか・・・物悲しい思いがします(個人的な思いですが・・・)

第55代・文徳天皇を父に、藤原明子(あきらけいこ)を母に持つ清和天皇は、本来、皇位を継ぐ人ではありませんでした。

父である文徳天皇には、紀名虎(きのなとら)の娘・静子との間にもうけた惟喬親王という第一皇子がいて、「聡明で人望も篤い親王は後継者にふさわしい」と文徳天皇自身も、周囲の気持ちも、ほぼ、それで確定していたのです。

ところが、文徳天皇が第55代天皇として即位してまもなく、明子との間に男の子が生まれ、自体は一変・・・その赤ん坊が、わずか、生後8ヶ月で皇太子となり、後の清和天皇となるのです。

それは、この清和天皇の母である明子が、時の実力者・藤原良房(よしふさ)の娘であったから・・・もちろん、そこに清和天皇自身の意思は含まれていません(なんせ、生後8ヶ月ですから・・・)

やがて、父の文徳天皇が急死すると、清和天皇はわずか9歳で第56代天皇として即位します。

まだ幼い天皇は、当然、、政治を行う事はできませんから、外戚(母親の実家)の良房が事実上の摂政として、政治の全権を握る事になります。

摂政とは、天皇が年少であったり、中継ぎの女帝であったりした時に、天皇に代わって政務をこなす役職の事で、古くは、第15代の応神天皇の時の母・神功皇后や、有名なところでは、第33代の推古天皇聖徳太子など、いずれも皇族がなるべき役職でしたが、ここで初めて、臣下である藤原氏が摂政となるのです・・・ただし、この時はまだ、事実上という事で、正式な摂政ではありませんでしたが・・・。

やがて、清和天皇が16歳となった貞観八年(866年)3月、あの応天門炎上事件が起こります。

この事件は、ブログでも「真犯人は誰だ?」(9月22日参照>>)と称してご紹介させていただいているように、謎だらけの事件で、はじめ、大納言伴善男(とものよしお)が、「左大臣の源信(みなもとのまこと)が犯人だ」と証言するも、結局は、最初に訴えた善男とその息子が真犯人とされ、共犯者とされた紀豊城(きのとよき)らが、それぞれ伊豆隠岐安房などへ流罪となってしまいます。

さらに、最初に疑われた信も、無実とされながらも政界からは失脚し、その後は狩り三昧の日々を過ごす事になりました。

これで、古代からの名門・大伴(おおとも)(伴善男は大伴の末裔)とともに(きの)、そして嵯峨源氏(信の父は嵯峨天皇)もが、失脚してしまったわけです。

つまり、時の太政大臣だった良房と、その弟で右大臣だった藤原良相(よしみ)・・・藤原家の1人勝ちという事になってしまったのです。

しかも、平安時代のはじめに一旦失脚していた大伴氏の善男を信頼して重用し、大納言にまでに推したのが清和天皇であったにも関わらず、その善男が犯人となった事で、天皇は良房に気をつかったのか?、事件から5ヵ月後の貞観八年(886年)8月、良房を正式に摂政としました(8月19日参照>>)

名実ともに、臣下の摂政の誕生です。

その後、貞観十四年(872年)に良房が亡くなると、良房の兄の子で養子となっていた藤原基経(もとつね)が摂政となり、藤原氏栄華の基礎を築く事になるのです。

清和天皇のほうは、貞観十八年(876年)11月に、息子の第57代・陽成(ようぜい)天皇に譲り、3年後の元慶三年(879年)に出家して、その翌年の元慶四年(880年)12月4日31歳という若さでこの世を去ったのです。

ところで、この清和天皇の御陵・・・どこにあるかご存知でしょうか?

たとえば、桓武平氏の祖となる、同じ平安期の第50代・桓武天皇陵は、京都の伏見・・・京阪電車の丹波橋駅近くにあります。

同じ伏見には、第122代の明治天皇桃山御陵もあり、いずれも、歩くに苦にならない距離の最寄り駅から、玉砂利の敷き詰められた参道が続き、容易にお参りができるようになってます。

エラそうに「どこにあるか知ってますか?」というワリには、実は、私も現地には行った事ないんですが、清和天皇の御陵は、亀岡から嵐山へと流れる保津川沿いから北へ3~4km山に入った水尾という集落の近くの水尾山にあります(普通の地図にも載ってるので確認してみてください)

以前、ご紹介したJR保津峡駅(12月3日参照>>)・・・この無人駅が唯一の最寄り駅で、さらにここから北の山奥に3~4kmという事です。

もちろん、集落には住民の方もおられるのですから、最寄り駅から不便・・・という言い方は失礼かも知れませんが、車の免許を持たない私としては、やはり、なかなか行けない場所であります。

子孫の皆さんの豪華メンバーを考えると、当然、「なぜ?ここに?」という疑問を抱きますが、実は清和天皇ご自身が希望された場所なのです。

陽成天皇に皇位を譲った清和天皇が出家した・・・と上記させていただきましたが、これが、かなりのマジ出家で、何日間も断食する荒行や、山野を行く修行にあけくれたのだそうで、そんな中、当時は、俗世間とはかけ離れたような陸の孤島とも言えるこの水尾にて、里の人の暖かさや、心の美しさに触れ、「この地で最期を迎えたい」と言ったのだとか・・・。

容姿端麗で聡明だったという清和天皇・・・若い頃は多くの女性を浮名を流したようですが、それも、聡明であるがゆえのジレンマ?

退位後に荒行に挑んだのも、思う存分に政治的手腕を発揮できなかったジレンマだったのかも知れません。

藤原氏全盛の時代への道を切り開いた天皇は、ひょっとしたら、別の未来を夢見ていたのかも・・・

やがて清和天皇が亡くなってから7年後の仁和三年(887年)、かの基経は、史上初の関白の座につく事になります。
 

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2009年11月21日 (土)

平将門の乱~坂東のヒーロー・決意!

 

天慶二年(939年)11月21日、平将門常陸国府を襲撃・・・藤原維畿を捕らえて国印を奪い取りました。

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そもそもは、天皇の子供たちは「王」「親王」を名乗り、朝廷からのお手当てで暮らしていたわけですが、当然の事ながら1人の天皇から生まれる皇子は何人もいるわけで、第50代・桓武天皇の孫(もしくはひ孫)高望王(たかもちおう)の頃になると、その数が増えまくり、朝廷は財政難に苦しめられます。

そこで、朝廷内で出世コースに乗れなかった多くの皇族の末裔たちが、天皇から姓を賜り、役人として地方へ送りこまれたのです。

この桓武天皇の血筋から枝分かれして「平」を賜ったのが桓武平氏清和天皇から枝分かれして「源」の姓を賜ったのが清和源氏、他にも宇多天皇からは宇多源氏村上天皇から村上源氏と色々あります。

そんな中央の出世レースからは、はじかれた彼らであっても、地方へ来れば、天皇の子孫というだけで尊敬され、役人の立場を利用して税をごまかしながら私腹を肥やす事も可能・・・ましてや、関東は、未だ未開拓な土地が豊富にありますから、それらを開拓して税収そのものを増やす事もできますから、ある意味、出世の望めない都にいるよりは、よっぽどオイシイ思いができたわけです(11月8日参照>>)

・・・で、平の姓を賜って地方に赴任した高望王の三男で、下総国(しもうさ・千葉県北部)佐倉を領地としていたらしい鎮守府将軍・平良将(よしまさ・良持)の息子として生まれたのが平将門(たいらのまさかど)です。

・・・とは言え、その出生年はよくわかりません。

とにかく、幼くして父を亡くした将門は、立身出世を求めて京の都へと向かい、ラッキーにも、時の権力者・藤原忠平への仕官に成功し、ここで様々な事を学ぶとともに、朝廷とのつながりも確保します。

しかし、延長八年(930年)頃、伯父である平国香(くにか・國香)が、亡き父の領地侵略しているとのニュースを聞いた将門は、いてもたってもいられず、京での出世をあきらめて故郷へと急ぎます。

しかし、すでに多くの領地は国香に奪われたあと・・・しかも、朝廷の支配下にありながら、その支配が行き届かない関東では、農民に法外な重税を課し、国司は私腹を肥やし放題です。

そんなタイミングで京から戻って来た将門に、多くの人が期待を寄せたのも無理はありません・・・まして、彼は、困った人を放ってはおけない親分肌。

いつしか、農民たちを統率しながら荒野を開墾し、砂鉄から鉄も造り、それとともに、その戦力も領地も徐々に大きくなっていきます。

そんな将門を脅威に思った国香が、婚姻関係にある源護(みなもとのまもる)を使って攻めて来ますが、あっさりと返り討ち・・・

さらに、伯父・平良兼(たいらのよしかね)との抗争にも打ち勝つ将門でしたが、これは、あくまで同族同士の領地争い・・・この時点で朝廷から咎められる事はありませんでした。

ところが、そんな中で勃発したのが隣国・武蔵(むさし・埼玉県&東京都)のいざこざです。

都から赴任した興世王(おきよおう)源経基(みなもとのつねもと)という二人の役人が、その権力をかさに着て乱暴狼藉を働いていた事に怒った郡司(ぐんじ・国司の部下の地方官)武蔵武柴(むさしたけしば)が立ち上がり、両者の対立が激しくなっていったのです。

それを聞いた将門は、かの親分肌をフルに発揮・・・頼まれてもいないのに、仲裁役をかって出て、両者の仲を収めようとします。

これによって興世王と武柴はなんとか和解しますが、経基が、何を勘違いしたのか、「将門が興世王と武柴を取り込んで、自分を攻める」と思い込み、あわてて都へ行って、朝廷に「将門に謀反の疑いあり!」と通報してしまったから、都は大騒ぎとなります。

そんなこんなの天慶二年(939年)夏頃、将門のところに1人の男が助けを求めてやってきました。

常陸国(茨城県)の豪族・藤原玄明(はるあき)という男で、秩序を乱す無法者として手配されていた、あまり評判の良くない男でした。

この時も、収穫物を横領したり、税金の取立てに来た役人に暴行を働いたりして、国司の藤原維畿(これちか)に逮捕されそうになったため、仲間とともに逃走をはかり、将門を頼ってきたのです。

確かに悪人のレッテルを貼られている男ではありますが、相手は、横暴を極めている国司の1人です。

維畿という人物はともかく、国司による支配体制を許せない将門は、玄明をかくまい、維畿と戦う道を選んだのです。

かくして天慶二年(939年)11月21日、1000の兵を率いて常陸へと出陣・・・まずは、維畿に対して「玄明を逮捕しない」という約束を取りつけようとしますが、維畿が、そんな約束を簡単にOKするはずもなく、当然、交渉は決裂します。

すると、将門は即座に国府(地方の役所)を取り囲み、中にいる3000の兵の逃走経路を遮断して孤立させ、交戦する者はことごとく討ち取り、食糧倉庫の鍵も奪取・・・そうなれば、もはや、先は見えたも同然となり、維畿は、やむなく降伏します。

将門は維畿を捕らえ、国印をも奪い取ります。

国印とは、当時の公文書に押される銅製のハンコで、朝廷権力の象徴でもありましたから、この行為・・・つまりは、朝廷から常陸という国を奪い取ったという事になります。

この時から、将門は朝敵=国を相手の謀反人という事になったのです。

もう、後へは退けません。

「こうなったら、関東一円の国の国印を奪い、すべての国司を京都に追い返してしまおう」・・・そうすれば、重税を課し、私腹を肥やす国司の支配から、万民を開放する事ができる。

将門、86日間の戦いの始まりでした。

世に言う平将門の乱です。
 

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2009年11月 8日 (日)

役人の不正は許さん!「尾張国郡司百姓等解文」

 

永延二年(988年)11月8日、尾張国(愛知県)の郡司・百姓たちが、国司・藤原元命の悪政を訴えて立ち上がりました。

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いつの世も、役人の不正はなくならないものです。

権力のあるところには、必ず甘い汁のおこぼれに預かって私腹を肥やそうとする輩が集まるもの・・・

しかし、そんな政治家をを許す事なく、常に人々が立ち向かってきた歴史も数多くあるのです。

農民や一般市民が心を一つにして、国や地方の権力者に立ち向かう・・・と言えば、室町時代以降の百姓一揆を思い浮かべますが、どうしてどうして、律令体制がやっと整った平安時代のはじめ頃からすでにありました。

早いところでは、天安元年(857年)に対馬嶋守(つしましまのかみ)立野正岑(たちののまさみね)が、郡司(ぐんじ・国司の下で働く地方官)らが率いる300余名の百姓に襲撃される事件が起きています。

また、元慶七年(883年)には、筑紫国(福岡県)の国守・都御酉(みやこのみとり)が、強盗を装った下級役人率いる集団100人に館を襲われ、射殺されています。

この時代、地方の行政は事実上、国司にまかされていました。

国司というのは、国ごとに置かれた地方行政官で、上から(かみ)(すけ)(じょう)(さかん)四等官で構成され、任期は6年ないし4年・・・この頃は、すでに、中央のいいポストは藤原一族の独占状態でしたから、藤原以外、あるいは藤原でも末端のほうの一族にとっての生き残りポストだったのです。

国司の中には、自分はその土地に行かず都に住んだままの人=「遙任(ようにん)の国司」と、自らその地方に赴いて実務ととった=「受領(ずりょう)とがいます。

受領・・・って聞いた事ありますよね~
「受領は倒るるところにも土をつかめ」・・・そのあさましいほどの貪欲さを言い表した言葉ですが、なんたって、在任中には、その地方の行政を一手に任されるわけで、もともと国からの給料が出るうえに、中央からの目が行き届かないぶん、下から徴収した税と、上へ治める納品の差ををくすねるのは、己の小手先次第ですから、不正に蓄財して私腹を肥やす者が続出したわけです。

そんな中の、今回・・・永延二年(988年)11月8日

この約50年前には、あの平将門(たいらのまさかど)(2月14日参照>>)藤原純友(ふじわらすみとも)の乱(12月26日参照>>)があり、逆の約50年後には前九年の役(9月17日参照>>)後三の役(11月14日参照>>)が勃発する頃・・・まさに、中央の目がいきとどかない事このうえない年代であったわけです。

とは言え、今回、郡司や農民に訴えられた藤原元命(もとなが)さん・・・この類のお話では、代表格のように扱われる有名人ですが、この方が特別悪人で、特別ヒドイ事をしたというわけではありません。

他にもいっぱいいて、彼と同じ・・・あるいはもっとヒドイ悪事を働いた役人は大勢いたわけですが、こういう悪政を訴えて立ち上がる場合、「解(げ)という声明文というか、上訴文というか、そういうのが残ってないと、その悪事の内容がつかめないわけです。

そんな中で、今回の尾張の元命さんの場合、彼を訴えた「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげぶみ)という文が、見事に残っている事で、その内情がわかる・・・って事で、重要な史料となっているわけです。

ただし、原本は残っておらず、あくまで写本ではありますが、それは国の重要文化財にも指定されている貴重なものです。

その現物は、早稲田大学図書館がWeb上で公開しているのでコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

「尾張国郡司百姓等解 申し請う官裁の事
 請う、裁断せられんと。
 当国の守藤原朝臣元命、
 三箇年の内に責取非法官物ならびに
 濫行横法三十一箇条○○○・・」

で始まり、以下、31ヵ条の箇条書きにて、悪行の数々が列挙されているわけです。

  • 正規の納期以前に税を徴収
  • 農民から徴収あった調(国の特産品)のうち、良質な物を着服して、粗悪な物を中央へ進上
  • 農民に貸与すべき米穀を着服
  • 池・溝の修理費用を着服
  • 自らの郎党・従者を郡司・農民の家に押し入らせてめぼしい物を奪う

などなど・・・

この、上のほうの税金のごまかしなどは、はっきり言って、大抵の国司が行っていて、なんだかんだで農民は泣き寝入りする事が多かったのですが、今回の場合は5番目の強盗まがいの行為に、農民たちはブチ切れて、「国司を訴える」という行為に及んだようです。

なんせ、事が露見した以上、国司も罰せられるかも知れませんが、訴えた側も罰せられるわけで、郡司や農民たちも、命がけなわけですから・・・。

・・・で、訴えられた元命さん・・・翌年、尾張守を解任されて、一件落着!

と、思いきや、後任の国司たちも次から次へと悪事を働き、この後、寛弘五年(1008年)にも、そして長和五年(1016年)にも、彼らは、国司を訴えるという行動に出ています。

しかも、当の元命も、国司を解任されたとは言え、その後も役人世界に居座り、その息子も、石見守や上越前守など、受領としての家系は続いていくのです。

なんだか、トップの座からは降りたものの、そのまま党のご意見番として影のリーダーとなってるどなたかに似てるような似てないような・・・

いつ世のも、市民が立ち上がらねば!ですね。
 

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2009年9月17日 (木)

12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年の役」?

 

康平五年(1062年)9月17日・・・この日の安倍貞任(さだとう)の死によって、東北の雄・安倍一族が滅亡し、12年続いた『前九年の役』が終了した事は一昨年の9月17日に書かせていただきました(2007年9月17日参照>>)

・・・とは言え、12年間に渡った戦いを、わずか1ページに集約できるわけもなく、まだまだ、書き足りない事山のごとしなんですが、本日は、とりあえず、以前から気になっていた事を書かせていただきます。

それは、この『前九年の役』と、この20年後に起こる『後三年の役』・・・後三の役については11月14日参照>>)

先に書きましたように、『前九年の役』は12年『後三年の役』は5年間に渡る戦いなのに、なんで「前九年」と「後三年」なのか?

そもそも、その後につく「役(えき)」って何?・・・いや、役=戦役で、結局は戦争・合戦を意味してるのはわかってますが、なんで、この二つの戦いだけ「役」って呼ぶのか?

どうでもいい事ではありますが、気になった事は解決しておくに越した事はないので、チョイと調べてみました。

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・・・で、合戦の事を「役」という言い方・・・これは、そもそも、明治維新となって、江戸時代の武士とは違う西洋式の軍隊が発足する中で、陸軍参謀本部が、今後の作戦を考えるにあたって、これまで国内で行われた戦史をまとめる時に、それらの戦いの名称を「関ヶ原の役」「桶狭間の役」「大坂の役」といった具合に、「役」という呼び方で統一したのだそうです。

Hasimotohoudaiba2cc そう言えば、以前、訪れた橋本砲台場跡の石碑にも「戊辰役」と書かれてましたし、戦争経験者のお年寄りなんかは、今も「関ヶ原の役」っておっしゃいますよね。

つまり、これは昔の言い方・・・

ちなみに、旧日本軍は、日露戦争の事も「明治三十八年戦役」と表記するのだそうです。

・・・で、その影響で、明治の頃の大学の国史(日本史)の教科書用として発行された『稿本国史眼(こうほんこくしがん)が、「前九年の役」「後三年の役」と表記した事で、それが基準となって、その後、小学生用の国史教科書なども、「役」と表記するようになったのだとか・・・。

しかし、この当時は、上記のように、すべての戦いが「役」だったので、なんとなく納得できますが、現在では「関ヶ原の合戦」あるいは「関ヶ原の戦い」などと呼び、他の合戦も皆、その呼び方なのに、なぜ、「前九年の役」と「後三年の役」だけが、そのままなのか?

それは、この二つの戦いには、他の合戦とは違う特徴があったからだと考えられています。

まずは、上記の通り、長期に渡って戦闘状態が続いた事、さらに、範囲が広大であった事、そして、何より、誰と誰がという個人の武将同志の戦いではなく、朝廷が介入し、朝廷対○○という戦いになった事で、多くの兵が全国から動員され、より、大きな戦争、大きな軍役をイメージさせる「役」という言葉が、この戦いにだけ残ったのであろう・・・という事らしいです。

確かに、あれだけ戦乱が続いた戦国時代でも、「前九年の役」「後三年の役」のような戦いはなかったかも知れません。

あの石山合戦が11年・・・加賀の一向一揆に至っては、100年間戦い続けますが、いずれも相手は朝廷ではありませんし、加賀の一向一揆は、富樫を倒して始まり、上杉&朝倉との小競り合いを繰り返し、最終的に織田信長が引導を渡すという風に、次々と相手が変わってますからね。

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そして、もう一つの疑問・・・12年間なのに「九年」、5年間なのに「三年」・・・

これは、もともと、「前九年の役」は、その年数から「十二年合戦」という名前で呼ばれていたのですが、鎌倉時代の中期頃から、その後に起こる「後三年の役」とごっちゃになってしまい、いつしか、両方の戦いを含めた全体の戦いの事を「十二年合戦」と呼ぶようになってしまっていたのです。

そこで、先の安倍氏滅亡の戦いと、後の奥州藤原氏が誕生する戦いを区別するために、12年から3年を引いて、先の安倍氏滅亡の戦いを「前九年の合戦」と呼ぶようになったのです。

では、なぜ、3年引くのか?

それは、現在は、「後三年の役」が、源義家陸奥守兼鎮守府将軍として陸奥(青森県)に赴任した永保三年(1083年)から清原家衡(いえひら)を倒した寛治元年(1087年)の5年間と考えられていますが、その名前がつけられた当時は、義家が清原氏の内紛に積極的に参入した応徳三年(1086年)から、戦いを終えて京の都に凱旋する寛治二年(1088年)までが、それであると考えられていたため、3年・・・つまり「後三年」となり、先のように12年から3年を引いちゃったというわけです。

最初に間違えて、ひっくるめて12年にしてしまった事と、3年をそのひっくるめたままの年数から引いちゃった二重の間違いから、12年なのに「前九年」、5年なのに「後三年」と名付けられ、そのままの名称で呼ばれ続けているわけです。

よく、「歴史は変わる」「歴史は日々新しくなる」と言われますが、実際には過去にすでに起こっている出来事が変わるはずはないわけで、それは、何か新しい発見があるか、認識の違い、考え方の変化によって新しい考えか生まれ、それが定説となるわけですが、たとえ、考え方が変わっても、名称は最初についた呼び名だっていうのを、改めて認識させられました。

まぁ、覚える側としては、ころころ名称が変化しても、ややこしいので、そのままでもいいんですけどね。
 

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2009年8月26日 (水)

関白・藤原基経と怪しすぎる天皇交代劇

 

仁和三年(887年)8月26日、第58代・光孝天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先日書かせていただいた【摂関政治の始まり】(8月19日参照>>)の続きとも言えるお話です。

藤原不比等(ふひと)の息子=4兄弟のうち、房前(ふささき)のひ孫である藤原冬継の息子・良房(よしふさ)が娘・明子(あきらけいこ)を第55代・文徳天皇の女御(妻)にし、二人の間にできた皇子を、生後わずか8ヶ月で皇太子にする事に成功!

その後、その皇子が9歳で第56代・清和天皇として即位する事で、最も権力の握れる外戚(がいせき・天皇の母親一家)をゲット!

その勢いのまま、臣下の者としては初めて摂政になり、その後は、その良房の養子・基経(もとつね)が、初の関白となり、摂関政治が始まる・・・てな、とこらへんまでお話させていただきましたが・・・

この基経さんが、最もラブラブだった天皇が本日の第58代・光孝天皇・・・あっ!ラブラブだったと言っても、男女の恋愛のようなラブラブではなく、お気に入りという意味ですヾ(;´Д`A誤解のないように・・・

基経は、光孝天皇が大好きで、まだ幼い頃から、ずっと見守り続けていたとの事ですが、ある時、父・良房主催の大宴会が催され、そこに、まだ時康親王と呼ばれていた光孝天皇も出席していたのです。

途中、当時宴会には欠かすことのできない(きじ)の足が、主賓の良房の前に置かれていなかった事を、1人の配膳係が気づきます。

慌てた配膳係は、光孝天皇の前に置かれていた雉の足を取り、何食わぬ顔で、そっと良房の前に置き換えたのです。

それを見た光孝天皇・・・怒るどころか、逆に配膳係のミスが良房にバレないよう、そっと燈火を落としてあたりを暗くしたのだとか・・・この光景を目の当たりにした基経は、そのお人柄に感動!

また、先代の第57代・陽成(ようぜい)天皇の後継者を決める段階で、基経は、誰を指名しようかと、何人もの親王のもとを訪問しますが、どの親王もアタフタと大騒ぎして落ち着きがない・・・

そんな中、この光成天皇だけが、擦り切れた畳、ボロボロの簾(すだれ)の質素な場所でありながら、堂々とした態度で基経に対応した・・・それを見た基経は「これや!この人しかない!」と、次期天皇に指名したのだとか・・・

・・・と、そうなんです。

光孝天皇を、第58代の天皇に決めたのは基経・・・しかも、この光孝天皇は、残念ながら、その在位中、ほとんど基経にまかせっきりで、何をしたという特筆すべき出来事がないのですよ。

さらに、自らの甥っ子であるはずの前天皇・陽成天皇を廃したのも、基経・・・

そうなると・・・臭いますねぇ~
失礼ながら、上記の感動逸話も、「どこまで本当なんだろ?」と、つい、疑いの目を向けたくなります。

とにかく、お話の前に、あのややこしい例の関係図を・・・

Mototunekanpakukankeizu 誰の子供なのか?を知るためには、何代か前から書く必要アリと考えたら、以前の良房=摂政の時よりもさらに人数増えて、とんでもない事になってますが、とにかく、■色の部分あたりが、今回の関係者・・・自分でも、こんがらがってますので、もしかして間違いに気づかれましたら、速やかにお知らせくださいませ。(クリックして大きく見てね→)

・・・で、そもそもは、良房に男子がいなかった事で、その良房の兄・長良の息子である基経が、養子となったわけですが、彼には、実の妹がいまして、その人が、コマシの業平(在原業平・ありわらのなりひら)(5月28日参照>>)にコマされちゃったあの高子

その高子が、清和天皇の女御となって生まれた皇子が、陽成天皇だったわけで、本来なら、この陽成天皇の外戚となった事で、基経は、父と同じような権力を維持する事ができ、天皇が幼少であるために政治的サポートをする摂政だけではなく、天皇が成人でもサポートする関白という座を手に入れる事ができたわけで、感謝感激のはずです。

ところが、この血縁関係にある陽成天皇との相性が、どうやら、あまり良くなかったようで・・・

9歳という若さで天皇に即位した陽成天皇・・・甥っ子の即位で、太政大臣にまで上りつめる基経でしたが、この天皇が元服するまでに成長した頃から、二人の関係は悪化してきます。

『愚管抄』によれば、この陽成天皇は「もののけによるわざわいがひどく、狂気のふるまいは言葉にできないほど・・・」だったのだそうです。

さらに、蛙を捕まえたり、蛇を捕まえたり、犬とサルを戦わせたりの悪行・・・って、コレ今なら確かに動物愛護協会から怒られますが、当時としては、どうなんでござんしょ?やっぱりいけない事だったんでしょうか?

またまたさらに、人を木に上らせて墜落死させて喜ぶ・・・って、さすがに、これはイカンな~とは思いつつも、
キタ━(゚∀゚)━!って感じですね。

第26代・継体天皇の正統性を強調するために、悪のレッテルを貼られた(自分が勝手に思ってるだけですが)武烈天皇の悪行と同じじゃないですか!(12月8日参照>>)

400年近く経って、まだ、こんな事やってるのか!と思うか、さすがは藤原氏!一族の伝統守るなぁ~と感心するか・・・てな、とこですが、とにかく、何の証拠もありませんんが、私としては、メッチャ怪しい気がします。

・・・で、結局、上記の奇行&乱行により、陽成天皇は、基経によって皇位を廃され、二条院に遷されます。

それも、「一緒に花見に行こうよ」と、基経のウソの誘いに騙されて内裏(だいり)から連れ出されたのだとか・・・

この後、82歳という長寿を真っ当される陽成天皇が、わずか17歳での退位・・・それも、自らが望んだ退位ではなかった事の理由は、なにやら勝者の都合で書き換えられてしまったような気がしてなりません。

そして、その後を継いだのは、失礼ながらコレといって、何もしなかった光孝天皇・・・この時55歳。

17歳の若者から55歳のアラ還(還暦近しの人・嵐勘十郎ではない)に交代って・・・とても違和感のある交代劇です。

・・・で、結局、55歳という年齢で即位した光孝天皇は、子供のほとんどが、天皇家を継ぐ事はないだろうと、源氏とかの臣下になってしまっていたため、わざわざ、息子の1人を源氏姓から親王にして、次期天皇とし、仁和三年(887年)8月26日58歳で崩御されます。

その次期天皇が、第59代・宇多天皇なのですが・・・

今度は、基経さん・・・またまた、この宇多天皇とモメますが・・・

そのお話は、菅原道真が、宇多天皇のお気に入りとなるきっかけの出来事でもありますので、2008年1月25日【菅原道真の政治的手腕】のページでどうぞ>>
 

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2009年8月19日 (水)

藤原北家・独占!摂関政治の始まり

 

貞観八年(866年)8月19日、藤原良房が、皇族以外で初めての摂政となりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

またまた出ました~!
日本史を語るうえで外せない一族=藤原氏・・・

ご存知のように、あの中臣鎌足(なかとみのかまたり)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)とともに、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺(6月12日参照>>)して、大化の改新を決行・・・その功績により、天皇から藤原姓を賜った事で(10月15日参照>>)、藤原氏が始まるわけですが、先日も書かせていただいた通り、その後の壬申の乱(7月22日参照>>)で政権交代する中、鎌足の息子・藤原不比等(ふひと)が、娘・宮子を第42代・文武天皇の夫人とする事に成功し、再び政治の表舞台に藤原氏が登場します(8月3日参照>>)

さらに、その文武天皇と宮子の間に生まれた皇子が第45代・聖武天皇となった事で、見事、外戚(天皇の母方の実家)をゲット!・・・しかも、天皇の妃となっていた不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ)が、皇族以外で初の皇后=光明皇后となりました

ここで、世代が不比等から4人の息子へと移り、長屋王(ながやのおう)(2月12日参照>>)を初めとする藤原氏以外の実力者を次々と追い落として、やがては、平安時代に、その栄華を♪欠けたところのない満月のようだ♪と称した、あの藤原道長頼通(よりみち)父子の全盛時代(10月16日参照>>)へと続いていくわけですが、そこにたどりつくためには、やはり、本日の藤原良房(よしふさ)さんなくしては考えられなかったわけです。

そもそも、ご存知のように、不比等の4人の息子たち・・・藤原氏と言えど、彼ら全員が繁栄に至ったわけではありません。

4人の息子たちは、それぞれ・・・
武智麻呂(むちまろ)南家
房前(ふささき)北家
宇合(うまかい)式家
麻呂(まろ)京家
と、4つの家に分かれますが・・・

武智麻呂の南家は、息子・藤原仲麻呂(恵美押勝)が、ライバルだった橘氏を倒して(7月4日参照>>)、全盛を築いたのもつかの間、ラブラブだった孝謙天皇道鏡に取られて、哀れ反逆者となってサヨナラ・・・(9月11日参照>>)

宇合の式家は、息子・広嗣(ひろつぐ)の反乱(9月3日参照>>)と、ひ孫・薬子の乱(9月11日参照>>)のダブルパンチで脱落・・・。

麻呂の京家は、やはり息子の浜成(はまなり)氷上川継(ひかみかわつぐ)の乱に加担していたため、伊豆へ流罪となって終了・・・

・・・で、結局、残ったのは房前の北家・・・

房前のひ孫にあたる藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、第52代・嵯峨天皇のお気に入りとなり、天皇の息子である第54代・仁明天皇の後宮に娘・順子(じゅんし・のぶこ)を入れる事に成功・・・さらに、その嵯峨天皇の皇女・潔姫(きよひめ)を自分の息子の妻に迎える事にも成功します。

この冬嗣の息子が良房です。

Yosifusasessyoukeizu2cc そして、その仁明天皇と順子との間に生まれたのが第55代・文徳天皇

さらに良房は、自分の明子(あきらけいこ)を文徳天皇の後宮に入れ、二人の間に生まれた皇子が第56代・清和天皇となり、またまた藤原氏が外戚ゲット!となります。

あぁ・・・ややこしい!
つまり、清和天皇から見て良房は、母方のおじいちゃんであり、父の叔父さんでもある・・・嵯峨天皇は、父方のおじいちゃんであり、母方のひいじいちゃんでもあるわけです。

とにかく、めちゃめちゃ濃い関係・・・しかも、この清和天皇の即位にあたっては、それまで、文徳天皇の長男である惟喬親王(これたかしんのう)が、ほぼ次期天皇とされていたにも関わらず、生まれて、わずか8ヶ月で皇太子にするというあらわざでの即位でした。

なんせ、この頃の政治の中心は天皇・・・しかし、天皇は男系男子で受け継がれていきますから、天皇の父方の実家は、必ず天皇家なわけで、そこに他人が入る余地があるとすれば、天皇の母方の実家=外戚になる事・・・

天皇が幼ければ幼いほど、母方の実家の意見がまかり通るわけですから、必死になるのもムリはありません。

さらに、良房は、この清和天皇にも、姪の高子(たかいこ)を嫁がせようとして、あの女たらしの在原業平(ありわらのなりひら)にチョッカイ出されたりなんかしとります(5月28日参照>>)

次く、あの応天門炎上事件(9月22日参照>>)で、犯人と疑われた周囲の人間が失脚する中、なにやらひとり勝ちとなって、さらにトップの座を揺るぎないものとし、いよいよ貞観八年(866年)8月19日摂政に就任するのです。

・・・と、ここで、摂政と聞くと、あの第33代・推古天皇(3月7日参照>>)・・・その女帝のもとで摂政となった聖徳太子を思い出しますが、本来、この摂政という役職は、天皇が幼少だったり、中継ぎの女帝だったりした時に、そのサポートにために設けられ、聖徳太子や中大兄皇子のように、皇太子か、それに準ずる皇族が就任するのが通例でした。

しかし、ここで、初めて臣下として、天皇の外祖父にあたる良房が就任したわけです。

以後、この摂政になるのは、天皇の外戚である事が必須条件となり、良房の次には、息子(養子)基経(もとつね)が、この地位を継承し、仁和三年(887年)には、基経は関白となります。

ちなみに、この関白という役職は、成人した天皇のもとで、摂政と同様の職務を行う役職で、この基経の時代に設置されたものです。

つまり、この先、応徳三年(1086年)に白河上皇院政をはじめるまで、200年近くに渡って続く事になる、いわゆる摂関政治が、この良房・基経父子のもとでスタートしたわけです。

こうして、ほぼ藤原北家の独占となった摂政・関白が、道長の全盛へと続いていくのです。
 

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2009年5月 9日 (土)

時代別年表:平安時代(前期・貴族の時代)

 

このページは、平安時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

貴族中心の平安時代・前期と、武士中心の源平争乱の時代の後期に分けさせていただき、このページでは、「平安京遷都」の794年10月22日から、「保元の乱」の1156年7月11日までを「平安時代(前期・貴族の時代)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaiheian110



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
794 10 22 平安京・遷都
【未完の都・平安京】
【究極の魔界封じの都・平安京誕生】
11 8 新しい都を平安京と命名
【平安京はいつから京都に?】
797 11 15 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される
【坂上田村麻呂の真実】
798 7 2 坂上田村麻呂が清水寺を建立
【清水寺・建立】
806 2 崇道天皇のためにお経を転読
【早良親王・怨霊伝説~お彼岸の由来】
810 9 11 藤原薬子が服毒自殺
【悪女・藤原薬子の乱】
812 12 14 空海が潅頂を授ける
【最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間】
822 6 4 最澄・没
【最澄・没】
835 3 21 空海・没
【弘法大師・没】
【弘法大師の伝説・あと隠しの雪】
838 12 15 小野篁が隠岐に流罪となる
【魔界の使者・小野篁】
848 6 16 疫病退散祈願で和菓子を供える
【和菓子の歴史~ルーツと豆知識】
866 8 19 藤原良房が摂政に就任
【藤原北家・独占!摂関政治の始まり】
9 22 応天門・炎上事件で伴善男が流罪に
【「応天門・炎上事件」犯人は誰だ?】
880 5 28 在原業平・没
【伊勢物語に見る藤原氏への抵抗】
12 4 清和天皇・崩御
【藤原・全盛の道を開いた天皇のジレンマ】
887 8 26 光孝天皇・崩御
【関白・藤原基経と怪しすぎる天皇交代劇】
894 9 30 菅原道真の進言により遣唐使を廃止する
【白紙に戻そう遣唐使】
901 1 25 菅原道真が大宰府へ左遷
【学者じゃない?道真の策謀的政治手腕】
903 2 25 菅原道真・没
【菅原道真・没】
【学問の神様・菅原道真の学力は?】
905 4 18 「古今和歌集」が完成
【たった一首で大歌人?謎の猿丸太夫】
930 6 26 清涼殿への落雷で5人死傷
【清涼殿に落雷!菅原道真の怨霊か?】
939 11 21 平将門の乱・勃発
【平将門の乱~坂東のヒーロー・決意!】
12 26 藤原純友の乱・勃発
【海賊将軍~藤原純友の乱・勃発】
940 2 14 藤原秀郷が平将門を討つ
【平将門・怨霊伝説】
941 6 20 藤原純友の乱・終結
【天慶の純友・瀬戸内に散る】
959 12 7 紫辰殿の前庭に「右近の橘」が植えられる
【平安貴族の住宅事情】
969 3 25 安和の変
【藤原一族最後の陰謀?安和の変】
988 11 8 藤原元命が訴えられる
【不正は許さん!尾張国郡司百姓等解文】
990 1 25 藤原道隆の娘・定子が入内
【中宮・定子と清少納言】
1005 9 26 安倍晴明・没
【安倍晴明さんのご命日なので・・・】
1018 10 16 藤原道長が「この世をば」の歌を詠む
【藤原道長・栄華物語】
1062 9 17 前九年の役・終結
【前九年の役で滅びる安倍一族のお話】
【12年なのに「前九年の役」?】
1074 2 2 藤原頼通・没
【藤原頼通と平等院と末法】
1084 3 21 和泉式部・没
【和泉式部・恋のテクニック】
1087 11 14 後三の役・終結
【奥州藤原氏の誕生】
【5年なのに「後三年の役」?】
1131 11 23 平忠盛・暗殺計画
【殿上闇討ち】
1155 8 16 悪源太・義平が源義賢を討つ
【義仲が木曽にいたワケは?】
10 25 後白河天皇が即位
【暗愚の後白河天皇が天下を動かす】
1156 7 2 鳥羽天皇・崩御
【乱のきっかけとなった天皇の死】
7 11 保元の乱
【先んずれば制す・保元の乱】
平安豆知識 【奈良・平安の食生活~グルメの醍醐味】
【平安時代のカキ氷~冷スイーツの歴史】
【香りにうるさい平安貴族~香あわせ】
【平安のトレンド~イケメン僧侶に貝合わせ】
【玉の輿に乗りたい!平安の自分磨き】
【竹取物語は社会派風刺小説】
【平安時代の流れ星】
【平安時代は今より温暖化だった?話】
【排除された邪教の神~酒呑童子の叫び】

 

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2009年4月18日 (土)

たった一首で大歌人?謎が謎呼ぶ猿丸太夫

 

延喜五年(905年)4月18日、第60代・醍醐天皇の命により編さんされた『古今和歌集』が完成し、天皇に奏上されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それまでには無かった、天皇の命によって作られた歌集・・・つまり、『古今和歌集』は、日本で初めての勅撰(ちょくせん)和歌集という事になります。

男性的でおおらかな歌が多く、防人(さきもり)の歌(2月25日参照>>)や、その母・妻に代表されるように、身分に関係なく、あらゆる階層の者の歌を収めている『万葉集』と比較して、ほとんどが貴族や僧侶・尼僧の歌を収めている『古今和歌集』は、繊細で女性的・・・ちょっとセレブな歌集です。

その歌風は、先の万葉集を「ますらをぶり」と呼ぶのに対して、「たをやめぶり」と称されます。

天皇の命を受けたプロジェクトチームのメンバーは、
紀友則(きのとものり)
紀貫之(きのつらゆき)
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
壬生忠岑(みぶただみね)・・・の4人。

紀貫之が書いたという冒頭の序文にもあるように、この『古今和歌集』は・・・

やまとうた(和歌)とは、
「力を用いず天地を動かし、花に鳴くウグイスも、水に住むカエルも・・・
生きとし生けるものなら鬼をも感動させ、見知らぬ男女をもくっつけ、勇猛な武士をも泣かす」

そんな、すばらしいものであるというのがコンセプト。

当時は、公的な文書も漢文で書かれ、漢文ができなければ出世する事もできないし、漢詩が詠めなければ宴会でもモテない時代・・・

そんな舶来ブームのご時世に、わが大和魂の鉄槌をブチ込んやる!
てな勢いで編さんされたのです。

NASAが開発したと言えば飛びつき、全米1位と聞けば食いつくわが身としては、ちょっと耳が痛いですゎ・・・。

ところで、その序文でも名前を上げられているにも関わらず、その歌自体は「よみ人知らず」で収録され、しかも世に出た歌は、その一首だけという謎の人物をご存知でしょうか?

その人は、あの『百人一首』にも登場します。

♪奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の
  声きくときぞ 秋は悲しき♪

「ただでさえ秋は寂しいのに、紅葉の山深いとこで、鹿の鳴く声を聞いたら、もっと悲しなるやん」

この歌を詠んだとされる猿丸太夫(さるまるだゆう)という人物です。

彼は、生まれも育ちも、生きていた時代さえもわからない人で、ゆえに実在の人物ではない可能性さえ噂され、その正体はまったく不明・・・

なのに、百人一首に選ばれ、古今和歌集の序文で大歌人として紹介され、後には「三十六歌仙」の1人にも数えられている・・・なんとも不思議です。

畿内を中心に猿丸ゆかりの神社や旧跡が数多く残るところから、猿丸太夫とは、特定の人物を指すのではなく、氏神の祭主の資格を持つ人、あるは、そのような職種全体を指す言葉ではないか?とも言われます。

また、吟遊詩人のように、各地で歌を歌いながら神事のような事を行っていた占い師的な人々の事かも知れないという話もあります。

この猿丸太夫の謎については、もう、江戸時代の頃から、数々の学者さんが挑みつつも、未だ誰1人として解明できない、まさに迷宮入り・・・。

江戸時代の百人一首解説本では、猿丸太夫は、聖徳太子の孫・弓削王だという噂を取り上げ、さらに発展して・・・名前が似ているから弓削道鏡(ゆげのどうきょう)(10月9日参照>>)ではないか?という話を、「トンデモ説」として紹介しています。

もはや、『江戸版・日本史サスペンス劇場』ってな感じですが、聖徳太子自体が架空の人物かも知れないと取りざたされる平成の世となっては、その孫って言われても・・・、てな感じですね。

一方、名前が似てると言えば、『続日本記』の和銅年間の記録に登場する柿本朝臣佐留(かきのもとあそんさる)という人物を、「佐留→猿」から、この猿丸太夫の正体とする意見もあるようですが、その柿本佐留なる人物は、さらにその名字から、例の柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)が、そうではないか?という話にまで発展しています。

柿本人麻呂も、あの天武天皇の息子・草壁(くさかべ)皇子高市(たけち)皇子の死に際して歌を詠んだり、国家的行事の際に代表で天皇の気持ちになり代わって歌を詠んだり・・・と、飛鳥時代後半に、宮廷のおかかえ歌人的な役割をしていた有名人であるにも関わらず、正史と呼ばれる書物には、一切、その名前が出てこない人物です。

彼が石見(いわみ)の事を詠んだ歌に、「死に臨んで・・・」という詞書(ことばがき・説明文)がある事から、石見で死刑にされたのではないか?という憶測が飛んでいて、そうなると、罪人という事で、その人物が生きた記録を抹消され、名前を変えられているのだろうと考えられるわけです。

以前、和気清麻呂(わけのきよまろ)大隅へ流罪となった時のページで(9月25日参照>>)、流罪という刑罰とともに、改名という刑罰が存在する旨の事を書かせていただきましたが、清麻呂の場合は、和気清麻呂なので別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)・・・清い(きたな)になってるとこがミソですね。

彼の場合は、敵対していた道鏡が失脚する事によって、再び政界に復帰するので、清麻呂というホントの名前も残っているわけですが、これが、失脚したまま生涯を終えたら、穢麻呂の名前しか記録に残らない事になりますからね。

「清い→穢い」になるなら、「人→猿」になるのもワカランではないという気がしますね。

確かに、猿丸太夫=柿本佐留=柿本人麻呂なら、大歌人という事になりますわな。

ところがどっこい、その猿丸太夫の名前が登場する『古今和歌集』の序文には、柿本人麻呂の名前も登場します・・・しかも、「高位の官吏である」と、身分まで書いてある
( ̄◆ ̄;)

「あぁ、もう、手の届くところに犯人が・・・」
と、思いきや、アリバイやら証言やらで、またふりだしに戻される~

まさに、「歴史はサスペンス」
これだから、やめられないのです。
 

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2009年2月18日 (水)

学問の神様・菅原道真の学力は?

 

文亀三年(1503年)2月18日、絵師・土佐光信によって三年の歳月をかけて描かれた『北野天神縁起絵巻』が完成しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・て事で、今日はその関連から、北野天満宮の祭神である天神様=菅原道真公について、またまた書かせていただきます。

またまた・・・という事は、道真さんには、すでに、このブログで何度かご登場いただいているわけで・・・

【菅原道真・没】のページ(2月25日参照>>)では、少々遅れ咲きとは言え、右大臣にまで出世しながら、ライバル・藤原時平との政争に破れ、遠く大宰府へと左遷されて、その地で非業の死を遂げる事・・・

その直後に起こった天変地異により怨霊と恐れられ、その怨霊を鎮めるために雷神として天満宮に祀られた事など書かせていただきました。

また、【怨霊伝説】のページ(6月26日参照>>)には、怨霊だった道真さんが、学問の神様となった経緯について、「学ぶ事が好きで清廉潔白だった道真公は、やはり清廉潔白で真面目に努力する人には罰を与えない」とされているので・・・という事を書かせていただきました。

・・・とは言うものの、【左遷の日】のページ(1月25日参照>>)で、実は、道真公は、学問一筋の人ではなく、けっこうしたたかな政治的手腕を発揮していたんじゃないか?・・・てな事も書かせていただきました。

まぁ、道真公が、清廉潔白というよりは出世欲を持った政治家で、たとえ学門一筋ではなかったとしても、学業に優れた人だった事は確かです。

もともとは、災いを起す恐ろしい雷神だった道真公でしたが、室町時代に、「天神が禅僧について禅の修業を行ったという伝説」が、中国から伝わった事で、多くの禅僧が、天神様を祀った北野天満宮に参拝するようになったのだとか。

それで、徐々に、一般の人々からも、天神様は恐ろしい神様ではなく、願いを叶えてくれる神様として信仰されるようになったという事だそうですが、そこに、先ほどの学業に優れていた道真公本人の伝説が相まって、最終的に学業成就の神様というかたちになったのでしょう。

ではでは、その道真公の学業の成績は、いかがなものであったのでしょうか?

平安時代の中央官吏(国家公務員)の養成学校には、明経(みょうぎょう・儒学)明法(みょうほう・法学)紀伝(きでん・文章作成)(さん・数学)の4種類がありました。

その中で、道真公が専攻したのは紀伝・・・って事は、道真公は文系って事ですね。

その養成学校では、教官である文章博士(もんじょうはかせ)の定員が2名で、学生である文章生(もんじょうしょう)が20名・・・

定員があるって事は、もちろん、試験があるわけですが、お父さんの是善(これよし)が、その教官だった道真公は、幼い頃から徹底したお受験教育を受けていたようで、何と、18歳で、その文章生に合格!・・・これは、当時の最年少記録とタイの記録なのだそうです。

・・・で、その文章生の中から優秀な2名が文章特業生(とくごうしょう)というのになるのですが、道真公は23歳でこれになってます。

さらに、特業生になったら、その後の7年の間に方略試(ほうりゃくし)という国家試験を受けなければならないのですが、これも26歳で受けています。

この方略試は、当時の国家試験の中で、最も難しいもので、慶雲年間(704年~708年)から承平年間(931年~938年)の約230年間で、合格者がわずか65名という狭き門なのです。

Dscn1968b330 北野天満宮

・・・で、その結果は・・・?

実は、この時の試験問題と答案が、『菅家文草』『菅家後集』の中に現存するのですよ。

試験問題は「氏族を明らかにす」「地震を弁ず」の2問・・・このうちの地震について、道真公は答えているのですが、原文は漢文で、難しいったらありゃしないε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

自分では読めないので、『日本古典文学大系』の解説を見させていただくと・・・
“事実をのべるよりも、儒道仏の三教にわたって、地震に関係するような事柄を取り出してきて、きらびやかな美文にしたてている”のだそうです。

ちなみに、この試験が行われたのは、貞観十二年(870年)だったのですが、その前年には多賀城(宮城県)大津波に襲われ、さらにその前年には京都M7以上の地震があって大きな被害が出たという事なのです。

・・・て事はこれは時事問題?

試験問題がニュース的なものから出題される傾向は、この時からあったのか・・・とまざまざと感じてしまいます~。

・・・で、気になる評価は・・・「言ってる事はだいたい正しいし、ダメなところもあるけれど文章はなかなかいい・・・よって、中の上と判定し、合格!

道真公、見事合格しました。

これで、一躍その文才を認められた道真公は、この頃から藤原良房(よしふさ)などの高官から依頼されて、ちょくちょく公文書の代筆なんかも頼まれたりするようになり、最終的に弱冠・33歳で、例の文章博士=教官にまで登りつめてます。

やっぱ、さすがに学問の神様だけありますね~。

こりゃ、ご利益ありそうです。
 

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