2017年11月11日 (土)

桓武天皇渾身の新都~幻の都・長岡京遷都

延暦三年(784年)11月11日、桓武天皇の勅命により、平城京から長岡京へと遷都されました。

・・・・・・・・・・・・・

長岡京(ながおかきょう=京都府向日市・長岡京市・京都市西京市)は、天応元年(781年)に即位した第50代=桓武(かんむ)天皇によって、延暦三年(784年)11月11日から平安京に移る延暦十三年(794年)10月22日までの10年間、日本の都とされた場所です。

余談ですが、あらためて教科書の年表など調べてみると、平安時代という時代区分は平安京に遷都された延暦十三年(794年)からなんですね~

なので、この長岡京は時代区分で言うと奈良時代になる・・・個人的にはちょっと??な感じがしないでもないですが、まぁ、時代区分なんて物は、後世の人がわかりやすいように考えた文字通りの単なる区分でしょうし、都が平安京なので平安時代という名称なのだから、平安京ではない長岡京が含まれないのは致し方ないのかも知れないですね。

と言うのも、この長岡京は、『幻の都』と呼ばれる謎多き都なのです。

もちろん、この長岡京の話は『続日本記』にも登場しますし、当時の(みことのり=天皇の命を直接伝える文書)にも「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とありますので、長岡京という都があった事自体は古くから知られていました。

また、向日神社(むこうじんじゃ=京都府向日市)の建つ丘陵を中心とした一帯が、昔から『長崗』と呼ばれていた事もありましたから、「おそらく、このあたりに都が…」という予想はされてはいたのですが、明確な場所というのは特定されていなかったのです。

Dscf1950a600 そんな中・・・それまで、明治になって天皇が東京に移った事で寂れる一方だった京都の町を復活すべく立ち上げられた明治二十八年(1894年)の『平安遷都千百年祭』(3月16日参照>>)なる京都復活イベントの一環として長岡京の遺跡保存の気運が高まり、有志により『長岡宮跡』の石碑が建立されたりもしましたが、本格的な発掘調査が始まったのは昭和二十九年(1954年)12月・・・翌年の1月に初めて遺跡の存在が確認されたのです。

さらに昭和三十四年(1959年)の宅地開発をキッカケに、大極殿(だいごくでん=最重要な儀礼施設)の跡が確認&調査され、京都府による保存&整備が決定し、その事業は、平成の今も継続中・・・なので、今後も新たな発掘&発見がある事でしょう。

Dscf1946a1000
保存&整備された大極殿公園(京都府向日市)…大極殿公園や向日神社・乙訓寺など長岡京の史跡へのくわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「長岡京へ行こう」でどうぞ>>

ちなみにですが・・・
上記の大極殿跡などがあるこの場所は長岡京跡ではなく長岡宮跡・・・(もちろん、広域に点在する関連史跡を含む場合は長岡京跡ですが…)

それは・・・奈良の平城京もそうですが、遷都された後の都というのは、宮殿は取り壊されてリサイクルされたりするので、跡かたも無くなって田んぼや畑になる可能性が高く、後に発掘調査されて公園として整備される事が多々ありますが、都そのものは、神社仏閣があったり人が住んでいたりするので、徐々に姿を変えつつも、結局はそのまま町になっている事も多々あります。
(奈良の平城京も、現在公園のように整備されている場所は平城宮=宮殿跡で、都そのものは東は東大寺~春日大社、南は現在の大和郡山市あたりまでありました:2月25日参照>>

なので、上記のように、宅地開発で更地になって発見されたりする以外は、すでに建物が建っているのを壊してまで発掘調査する事はしない方向ですので、なかなか都そのものの全容を確認するのは難しい・・・逆に、平安京のように、町が発展しまくって、大極殿跡などの宮殿施設のほとんどが石碑のみになっちゃってる場合もあります(現在の京都御所は里内裏という一時的な皇居だった場所です=11月8日参照>>

とは言え、近年の発掘調査で、幻の都の姿は、かなり解明されるようになって来たわけで・・・以前は、そのあまりの幻っぷりに、「未完成のまま破棄された」と言われていましたが、発掘が進むにつれ、その大きさも、東西4.3km南北5.3kmと平城京や平安京に匹敵する大きな都で、向日神社周辺の丘陵地域を確保した宮殿のあたりは、一段高い位置にあって広大な都を見下ろせる絶好のロケーション・・・宮殿から中央を貫く朱雀大路(すざくおおじ)を中心に碁盤の目のような大路小路も整備され、役所や貴族の邸宅などがその重要度に応じて配置された、かなりの完成形を成していた事などがわかって来ています。

Nagaokakyoub ←長岡京の位置図 
クリックで大きくなります
(背景は地理院地図>>)

また、朱雀大路の最南端にある羅城門(らじょうもん)を出てを南に行けば、すでに奈良時代には水路の要所として栄えていた山崎津(やまざきのつ=京都府乙訓郡大山崎町)があり、ここを都の表玄関として、人や物資の往来もたやすく、政治・経済・文化の中心となり得る、すばらしい都であった事がうかがえます。

まさに、桓武天皇渾身の都・・・それが長岡京だったのです。

今回の平城京からの遷都の理由については、未だ謎多く、様々な説がありますが、私としては、やはり、奈良時代のモロモロを払しょくして心機一転する事にあったと考えています。

Tennouketofuziwarakekeizukouzin 以前、桓武天皇の父で、第49代天皇である光仁(こうにん)天皇のページ(10月1日参照>>)でくわしく書かせていただきましたが、この光仁天皇が100年ぶりの天智(てんじ)天皇系の天皇であった事・・・

これまで、かつて飛鳥時代に起こった壬申の乱(じんしんのらん)(7月23日参照>>)という皇位継承争いに勝利して政権を握った天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)系の天皇が仕切っていた奈良時代・・・

藤原氏がその外戚(がいせき=天皇の母の家系)を手放したく無いために打った奥の手が第46代孝謙(こうけん)天皇という生涯独身の女性天皇(←天皇の子供が後を継ぐパターンは不可能)だった事で、
(これまでの女性天皇はすべて、后という立場を経験しており、今は幼くとも、将来的には後を継ぐべき皇子がいる中継ぎの天皇でした)
一旦、第47代淳仁(じゅんにん)天皇に皇位を譲ったものの、またぞろ第48代称徳(しょうとく)天皇として自らが返り咲き、さらにそこに道鏡(どうきょう)という僧が関与して来て、あわや「道鏡が天皇に???」という事件まで発生してしまっていたのです。
【藤原仲麻呂の乱】参照>>
【道鏡事件】参照>>
淳仁天皇・崩御】参照>>
【和気清麻呂、流罪】参照>>

もちろん、それらの出来事に至る真相については、まだまだ謎な部分はあるのですが、いずれにしても、これらのゴタゴタは、当事者個人が起こしたというよりは、彼らの利権に群がる仏教勢力や貴族の派閥やらが複雑に関与していたわけで・・・

で、結局、これらの勢力とは、ほぼ無関係の天智系の人だった桓武天皇の父=光仁天皇に100年ぶりに皇位が廻って来る事になった・・・つまりは、桓武天皇父子だけでなく、周囲の人たちも、奈良時代色を消し去り心機一転=大きな改革が必要だと思っていたわけで・・・

そのため・・・
飛鳥→藤原→平城と、これまで都が移転する度に、ともに移転していた大寺院は、そのまま奈良に残しての遷都、
なんだかんだで飛鳥時代から、副都心として維持されていた難波宮
(なにわのみや=大阪府大阪市中央区)(12月11日参照>>)を全面撤去しての遷都、
これまで水運の中心だった港を、浪速津
(なにわづ=大阪市中央区)から山崎津に変更しての遷都、
となったわけです。

このように、天皇自ら政治を行う親政(しんせい)を目指し、一大決心で挑んだ長岡京遷都だったわけですが、冒頭にも書かせていただいたように、歴史の授業でも超有名な「鳴くよウグイス平安京」=平安京に都が遷されるのは794年・・・つまり、この長岡京は、わずか10年の短い命だったのです。

そう、大きな改革であればこそ、それだけ多くの反対派が存在するのも道理というもの・・・

延暦三年(784年)6月頃に始まった新都の工事が着々と進んでいたはずの延暦四年(785年)の9月24日、早くも事件は起こります。

桓武天皇の信頼も厚く、もともと「新都をこの長岡に地にしては?」とのアドバイスをした人物であり、その造営に関する事をほぼほぼ任されていた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が、工事の検分中に反対派に襲われ、翌日、死亡してしまったのです。

Dscf2066a1000 しかも、その事件に桓武天皇の弟で皇太子だった早良(さわら)親王が関与していたとされ、親王は皇太子を廃され、乙訓寺(おとくにでら=京都府長岡京市)に10日ほど幽閉された後、淡路島(あわじしま=兵庫県)への流罪となります。

幽閉直後から食を絶ち、無実を訴えた親王でしたが、その訴えが聞き入れられる事無く流罪が決行され、衰弱した親王は、島に到着する前に亡くなってしまうのです。

この事件によって、いち時は工事が中断されたものの、延暦六年(787年)の10月には、桓武天皇自らが、未だ皇居が未完成な新都へと移り、翌七年の12月には、紀古佐美(きのこさみ)征夷大将軍として蝦夷(えぞ)に出兵する(7月2日参照>>)など、遷都への意気込みはもちろん、更なる強気を見せる桓武天皇・・・

しかし、またまた不幸が襲います。

延暦八年(790年)の12月には、天皇の母の高野新笠(たかののにいがさ)が、翌年の閏3月には皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が相次いで崩じ、さらに、亡き早良親王の代わりに、新しく皇太子に立てた天皇の実子=安殿(あて)親王(後の平城天皇)まで病気にかかってしまったのです。

お気づきの通り、最初の不幸は人為的ないわゆる事件ですが、後者の不幸は病(疫病だったとも言われます)・・・そこで、慌てて皇太子=安殿親王の病を占うと、なんと、その原因は「早良親王の祟り」と出ます。

しかも、その占いの結果が出た直後の延暦十一年(792年)6月22日、激しい雷雨によって式部省(しきぶしょう=会社でいう所の人事部)南門が倒れ、約1ヶ月半後の8月9日には、大雨による洪水で桂川が氾濫・・・2日後の11日には、天皇自らが高台に上って、その洪水の様子を目の当たりにしたと言いますが、おそらくここで、天皇も「これはアカン!」と思ったのでしょう(←心の内なので、あくまで予想です)、なんせ、この頃は怨霊や祟りが本当に信じられていた時代ですから・・・

翌・延暦十二年(793年)の年が明けて早速の1月15日には、使者を山背国葛野郡宇太村(やましろこくかどのぐんうたむら) に派遣して現地視察をさせ、1月21日には、もう長岡京の一部解体工事が開始され、2月2日には遷都の意思を賀茂大神に告げ、3月1日には、天皇自ら山背国に行幸して現地視察をしています(早っ!)

そう、この山背国葛野郡宇太村が、怨霊を封じ込める四神相応(しじんそうおう=東西南北の四方の神に守られている=くわしくは下記平安京のページで)の地=風水によるベストな地だった後に平安京となる場所でした。

着々と工事は進む中、翌・延暦十三年(794年)7月には、東西の市も新都(平安京)に移され、10月22日、正式に平安京遷都となったのです。

平安京については・・・
以前から、何度か書かせていただいてますので、内容がカブり気味で恐縮ですが、
【究極の魔界封じの都・平安京】>>
【早良親王・怨霊伝説~お彼岸行事の由来】>>
【平安京の変化~朱雀大路と千本通】>>
【平安京はいつから京都に?】>>
など参照いただければありがたいです。

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2016年7月30日 (土)

源氏物語を書いて地獄に堕ちた?~紫式部

 

関東も梅雨明けを迎え、いよいよ夏本番!という事で、本日は、ちょっと怖~いお話を・・・

・・・・・・・・・・

世界最古級の長編小説とも言われる『源氏物語』を書いたとされる紫式部(むらさきしきぶ)・・・

もはや説明する必要も無い超有名な歴史人物ですが、一方では、生没年や本名など、細かい部分がよくわからない人でもあります。

なんせ、平安時代くらいまでは、「男性に顔を見られる事は恥」だったり、「プロポーズの返事(OKの場合)が本名を教える事」だったりするような時代ですから、女性には謎の部分が多いのです。

とにもかくにも、寛弘二年(1005年)頃から、第56代=一条天皇の中宮である彰子(しょうし=藤原道長の長女で後の上東門院)家庭教師として仕えた事は間違いないでしょうが、冒頭に書いた通り、「源氏物語の作者」というのも、「だとされる」という雰囲気で、「作者は男だった」とか「作者は複数いた」とか、諸説あるんです。

とは言え、父の藤原為時(ふじわらのためとき)や弟の惟規(のぶのり)式部丞(しきぶのしょう=現在の文部科学省のような行政機関)の役人であった事から、勤務先の宮中にて、最初は藤式部(とうのしきぶ)と呼ばれていたのが、あの『源氏物語』の中で主人公の光源氏(ひかるげんじ)が、自らの理想の女性に育て上げようとするヒロイン=紫の上(むらさきのうえ)にちなんで、いつしか紫式部と呼ばれるようになったというのが一般的な説です。

Murasakisikibu800
彰子(左)に『白氏文集』を説く紫式部(右)『紫式部日記絵詞』

で、その紫式部に・・・実は、「その死後に地獄に堕ちた」という伝説があるのです。

鎌倉時代の説話集『今物語(いまものがたり)によれば・・・

・‥…━━━☆

ある人が不思議な夢を見ます。

枕元に、輪郭もよくわからない、ぼんやりとした影のような物が見えたので、
「誰?」
と声をかけてみると、

「私は、紫式部です。
私は、生前、嘘の作り話ばっかり沢山書いて、人を惑わせてしもたために、今は地獄に落ちて責められ、毎日苦しい思いをしていて、もう耐えられませんねん。
どうか『源氏物語』の巻の名前を詠み込みつつ、南無阿弥陀仏とか、お経を唱えるような歌を一巻ずつ詠んで供養して、この苦しみを和らげてくれはりませんか?」

「めちゃムズっ!(@Д@;」
と思ったその人は、
「たとえば、どんな風に詠んだらえぇんでしょうか?」
と尋ねます。

すると・・・
♪きりつぼに 迷はん闇も 晴るばかり
 なもあみだ仏と 常にいはなん ♪
「桐壺の巻を書いたために入ってしまった迷宮の闇が晴れるように、いつも南無阿弥陀仏と唱えて欲しいワ」

と言い終わるや否や、その影は消えてしまった・・・と、

・‥…━━━☆

源氏物語は五十四帖・・・こんな感じの歌を「54首も作れ」って、かなりの無理難題な気もしますが・・・

とは言え、この「紫式部地獄落ち説」は、けっこう早いうちから囁かれていたようで、平安末期の平康頼(たいらのやすより)による説話集=『宝物集(ほうぶつしゅう)にも、

:;;;:+*+:;;;:+*+

なんや最近、
「嘘八百な源氏物語を作った罪で地獄に落ちて苦しんでるさかい、一刻も早く物語を破り捨てて一日経(いちにちきょう=集中して1日で写経を完成させる事)をやって菩提を弔って欲しい」
と、どこぞの人の夢に紫式部が出て来たよって、歌人たちが集まって、皆で写経して供養したてニュース聞いたわ。

:;;;:+*+:;;;:+*+

と、コチラは実際に供養した事が、巷の噂になっていた事が書かれています。

確かに・・・
言われて見れば、源氏物語って、かなりな内容ですからね~

ドロドロ不倫しまくりで、愛すればこその情念は、ともすれな怨念に変わる・・・1夜限りの関係の女性が「捨てられた」と嘆き悲しんだり、通われなくなった女性が生霊となって現在の恋人を呪ったり・・・

男と女の恨みつらみの愛憎劇を何もないところから作りあげる行為は、言いかえれば大いなる嘘つき・・・

今生きる私たちでこそ、生まれた時から創作童話や小説やドラマなど、フィクションの物語にドップリ浸かってますから、そこに違和感を覚える事もありませんが、書く物と言えば、日記や報告など・・・その出来事を記録するために「物を書く」のが常識だった時代に、フィクションを、それも、怨霊出まくりの奇怪な物語を書けば、そんな風に思われてしまうのも仕方ない事なのかも知れません。

なんせ、「言霊(ことだま)とか「呪詛(じゅそ)とか、真夜中の「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)なんかが信じられていた時代ですから・・・

しかし、一方で擁護派もいます。

平安末期頃に成立したとされる『今鏡(いまかがみ)は、「紫式部に仕えた侍女」を語り手として話を進めて行く形式の歴史物語ですが、その中で、その老婆に
「源氏物語を、妄語や虚言とかいうのは違うと思います。
虚言とは、自分を良く見せるために起こってもいない事を起こったように話して、他人を騙すような行為ですが、この物語は人を楽しませ、満足させ、明るい良い方向へ導く物語なんです。
こんなすばらしい物語を書いた紫式部は妙音観音
(みょうおんかんのん)の化身なんやないか?と思うくらいです」
と言わせています。

いつしか、そのような考え方が、紫式部を供養する会=『源氏供養(げんじくよう)という文化を生み出します。

鎌倉時代の初め頃から、あちこちで行われた『源氏供養』は、やがて『源氏供養』を題材とした新しい物語が作られるように・・・まさに、源氏物語スピンオフ!

有名な能楽作品の『源氏供養』では、供養の後のクライマックスで、紫式部が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の化身であった事が明かされてラストを迎えるのだとか・・・

なんだか、ホッとしますね。

果たして紫式部は、
地獄に堕ちた大嘘つきか?
はたまた、
傑作を生み出した観音様か?

その答えは・・・
1000年以上に渡って読み継がれ、21世紀の現代に至っても、何度も映画やドラマの原作になる・・・そんな物語が他にあるでしょうか?

それこそが答えですね。
 .

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2014年12月 4日 (木)

全盛を誇った藤原道長の最期

 

万寿四年(1027年)12月4日、藤原氏の全盛を築いた藤原道長が、63歳で死去しました

・・・・・・・

平安時代に隆盛を誇った藤原ファミリーの中でも、最も有名かつ最も全盛を極めたのが、ご存じ藤原道長(ふじわらのみちなが)さん・・・

昨年の6月に、ご本人の日記=『御堂関白記』ユネスコの世界記憶遺産に登録される事が決まったニュースも記憶に新しいですが、

Fuziwaranomitinaga300a そんな道長は、康保三年(966年)に藤原兼家(かねいえ)五男(または四男)として生まれました。

父が、兄で関白の藤原兼通(かねみち=道長の叔父)と対立していた時代には、少々不遇な日々を送りますが、その兼通が亡くなった後に関白となった藤原頼忠(よりただ)のおかげと、

第64代・円融(えんゆう)天皇に嫁に行った次女・詮子(せんし・あきこ=道長の姉)が、後に第66代となる一条天皇(6月13日参照>>)を生んだ事から、その一条天皇の時代になると父・兼家が外祖父として摂政に就任し、当然、息子の道長も出世街道を歩む事になります。

そんな中、正暦元年(990年)に父・兼家が亡くなると、それと前後して兄たちも病死・・・道長は、亡くなった長兄の息子・藤原伊周(これちか)と争う事になりますが、これまた、その伊周が、女がらみのゴタゴタで、先代の花山(かざん)天皇に矢を射かけるという不祥事を起こし(2月8日参照>>)て失脚・・・

その事件から半年後に、道長は左大臣に昇進し、事実上、第1の実力者となりました。

ここから、一条天皇の皇后となった自らの娘・彰子(しょうし)が生んだ孫が第68代・後一条天皇として即位して外祖父となるまでの間、あえて摂政や関白にならず、太政官で政治の実権を握れる左大臣のままで手腕を発揮したのだとか・・・

そして、一条天皇の後を継いだ三条天皇の後継者として、いよいよ孫の後一条天皇即位した寛仁二年(1018年)、あの有名な
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪

の歌を詠む(10月16日参照>>)わけです。

この時、53歳だった道長・・・この前年には太政大臣に就し、まさに、わが世の春を迎え、その人生には何一つ不満は無かったかのようにも見えます。

ただ、以前に書かせていただいたように、この♪望月の…♪の歌は、この歌を詠む6年前に、三男の藤原顕信(あきのぶ)が父に何も告げずに出家してしまった(1月16日参照>>)事を受けての「俺はまだまだ頑張るで~!」という、少々のハッタリを含む、自分自身へのエールだったのかも知れません。

そう、今よりずっと平均寿命が短い平安時代・・・いくら権勢を誇っても、老いは確実にやって来るわけで、しかも、当時は『末法思想』真っただ中・・・

この『末法思想』というのは、「お釈迦様が亡くなって2千年が経つと、仏教の教えがすたれ、天災や戦争などの不幸が続く、『末法の世』なってしまう。1052年がその『末法の世』の第一年である。」という、言わば「終末予言」みたいな感じ・・・とにかく、阿弥陀仏におすがりして極楽往生を願おうと、貴族たちは、こぞって阿弥陀堂を建て、そこに阿弥陀仏を安置し、念仏を唱えて「とにかく来世の幸福を・・・」と願ったのです。

この世に極楽浄土を再現したとして有名な京都・宇治の平等院鳳凰堂も、この道長さんの息子である藤原頼通(よりみち)が建てた阿弥陀堂なんです(3月4日参照>>)

とかく、お金や権勢を掴んだ人ほど、誰にでも平等にやって来る「死」という物に、より大きい恐怖を感じるのかも知れませんね。

道長も例外ではなく、晩年は法成寺の建立に力を注いだようです。

当時、邸宅としていた土御門殿(現在の京都御所)に隣接する地に、阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂を建てて法成寺としました。

Dscn2476a600 ←現在の京都御所に隣接する法成寺跡の碑

現在は廃絶してしまって、その寺地もよくわかっていませんが、それこそ息子の平等院を彷彿させる・・・いや、当時としては、それ以上に壮麗な伽藍が建ち並んでいた事でしょう。

『栄華物語』など、一般的には、この万寿四年(1027年)に入って体調を崩した道長が、やがて死期を悟り、自ら、法成寺の阿弥陀堂に入って、自らの手と、阿弥陀如来像の手を五色の糸で結び、あの、お釈迦様の涅槃(ねはん)(2月15日参照>>)と同様に、北枕西向き横たわり、居並ぶ高僧が念仏を唱える中、自身も静かに経を唱えつつ、万寿四年(1027年)12月4日心穏やかにあの世へ旅立ったとされています。

しかし、同じ藤原北家の一族で、道長の友人でもあった藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記(おうき・しょうゆうき)では、少々違った道長の最期がうかがえます。

先ほど、♪望月の…♪の歌は、少々のハッタリを含む、自分自身へのエールだったのかも・・・と書かせていただきましたが、その日記の中の道長は、まさに、そのように、権力者では無い、一人の人間としての道長が、垣間見えるのです。

その日記によれば、かの歌を詠む少し前の50歳を過ぎた頃から、すでに道長の健康には陰りがあったようで・・・見た目にも急激に痩せて行き、しきりに水を飲むようになったと・・・

当時、「飲水の病」と言われていた・・・おそらく糖尿病であろうと言われています。

そして、現在の糖尿病でも白内障を併発する事がありますが、道長もまた、視力が衰えていき、やがては、目の前にいる人物の顔を識別できないほどになっていったのだとか・・・

さらに、おそらく糖尿病とは別の、当時は「胸病」と呼ばれていた、胸に激しい痛みが走る持病もあったようで、その発作が起こる度に、大声でのたうちまわるほど苦しそうだったと・・・

しかも、最後には背中に大きな腫れ物ができ、その治療のために受ける針治療が、これまた壮絶な痛みを伴う物だったのだとか・・・

そして、その針治療をはじめてから数日後に、「道長はこの世を去った」と実資は書き残しています。

♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪

満月は、必ず欠けていく物・・・

永遠に欠ける事の無い望月なんてありはしない事を知りながら、道長は、この歌を詠んだのかも知れません。
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2013年9月27日 (金)

モテモテ平中=平貞文の失恋話

 

延長元年(923年)9月27日、平安中期の貴族で歌人、中古三十六歌仙の一人でもある平貞文が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

平貞文(たいらのさだふみ・さだふん=定文とも)・・・通称:平中(平仲) は、平安遷都で有名な桓武天皇の玄孫(やしゃご=孫の孫)にあたり、父の平好風(よしかぜ)とともに、平姓を賜って臣籍に下った人です(7月6日の『「八色の姓」を払拭…桓武平氏の誕生』参照>>)

とにかく、この方は史実として・・・というよりも、物語として様々なエピソードを持つ方です。

彼の子孫が書いたとされる歌物語『平中物語』の主人公とされるほか、彼のエピソードは『源氏物語』にも引用され、『今昔物語』『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)にも登場します。

『伊勢物語』の主人公とされる在原業平(ありわらのなりひら)(5月23日参照>>)もそうですが、その業平とともに「在中・平中」と並び称されるほどのラブロマンスの持ち主であります。

もちろん、史実というよりは、あくまで伝説上のお話ですが、本日は、そんな中でも最も有名なエピソードをご紹介させていただきます。
(有名なので、ご存じの方も多いと思いますが…m(_ _)m)

※このお話は、『今昔物語』と『宇治拾遺物語』に出て来ますが、本日は『宇治拾遺物語』を中心に・・・

・‥…━━━☆

てな事で、宮中ではモテモテの平中は、宮仕えの女房どころか、身分高き令嬢まで、彼が声をかけてなびかなかった女子はいなかったわけですが、ここに一人だけ、何度も何度も「会いたい(*^.^*)」との手紙を送っているのに、どうしても落とせない女性がいました。

それは、村上天皇の母に仕える本院侍従(ほんいんのじじゅう)と呼ばれていた女性・・・この本院というのは、当時、「本院の大臣」と呼ばれていた左大臣・藤原時平(ふじわらのときひら)(4月4日参照>>)に由来する本院で、つまりは、彼女は時平の後妻だったとされているのですが・・・

実は、彼女もかなりの美貌で言い寄る男は数知れず・・・恋には手慣れた女性で、いくら平中の誘いが見事でも、そんじょそこらの箱入りお嬢さんのように、すぐには落ちないわけで、むしろ、見事に駆け引きを仕掛けて来るのです。

平中は、人恋しくなる夕暮れや、ロマンチックな月夜に、頃あいを見計っては、またまた「会いたいな」と手紙を送りますが、彼女は、思わせぶりな返事をよこしつつも、実際に会おうとはしません。

昼間に職場で会った時には、周りに人がいる中で気軽に声をかけて来て、仲良さげな会話を平中にして来るにも関わらず、あの「会いたいな」の手紙の返事では、毎度々々、適当にあしらわれるばかり・・・

「なんやねん!コイツ(≧ヘ≦)」と、ますます気持ちが高ぶる中、4月の末となったある夜、平中は、いよいよ決意します。

そう、その夜は、激しい雨が降っていました。

実は、ここのところの手紙には、「会いたい」だけではなく、「今度、家に行くゾ」「行くからな」ってなストーカーまがいの手紙を頻繁に送っていたわけですが、あえて、こんな激しい雨の降る気色悪い夜に彼女に会いに行けば、
「まぁ、こんな夜やのに、
会いに来てくれはるやなんてw(゚o゚)w」

と、きっと、彼女は感激するに違いないと・・・

こうして自宅を後にした平中・・・雨は思っていた以上に激しかったですが、それこそ、
「こんな雨の中に、わざわざやって来たこの俺を、会わずに追い返すてな事は無いはずや!」
と、ミョーな確信を持ちつつ、一路、彼女の家へ・・・

すると、身の回りの世話をしている女の子が対応に出て、
「ただ今、奥におりますので、お取り次ぎします~コチラへ…」
と、平中を部屋の奥へと案内します。

Dscn1808a600 ふと部屋を見渡すと、そこには、寝巻とおぼしき着物に籠をかぶせて、薫香(香を焚きこんで衣類に香りをつける…2月25日参照>>) の真っ最中・・・

「なんやかんや言うて、メッチャやる気満々なんちゃうん( ̄ー ̄)ニヤリ」
と、密かにほくそえむ平中・・・

やがて、平中が待つ部屋にやって来た彼女・・・
「まぁ、こんな雨の日にどうして??」
と、案の定の驚き&感激の表情・・・

「こんくらいの雨で、あきらめてしまうようなヤワイ気持ちやないんやで」
と、ここはかっこよく言い放ちながら、そばに引き寄せて髪をなでると、これが、頭から氷を浴びたかのように冷たくて、何とも言えぬ、ええ感じのさわり心地・・・

なんやかんやとムード満点の会話を続けながら
♪なんだか、今日、イケそうな気がする~~♪
(あると思います…by天津木村)
と、気持ちも最高潮になったところで・・・

が、しかし、ここで彼女・・・
「あっ!しもたΣ(`0´*)…引き戸を開けっぱなしにしたまま、来てしまいましたわ。
そのままにしとったら、アノ女、戸開けっぱなしで帰りよったで、って誰かに見られるかも知れませんから、ちょっと、閉めて来ますわ」

と、退出・・・

とは言え、彼女は上着も置いたまま、身一つで出て行ったので
「さすがに、戻って来るだろう」
と、平中は気を許して送り出します。

ところが・・・
確かに、戸を閉める音はしましたが、彼女の足音は、途中で奥の部屋へと消えてしまい、いっこうに平中のいる部屋には戻って来ず・・・

「しもた!やられた!」
と、思いつつも、そのまま朝まで待ち続けましたが、結局、彼女は朝まで戻って来ませんでした。

明け方、空しく自宅へと戻る平中・・・

家に戻っても心は晴れず・・・
「俺を騙して置き去りにしたやろ!」
と、そのくやしい思いと愛しい思いが交差する手紙を書きつづり、彼女に送ると・・・
「そんな!!騙すやなんて…
あの時、戻ろうとしたタイミングで、急なお召しがあって、そっちを優先してる間に朝になってしまいましたんです~
なんせ、これでも宮仕えの身でっさかいに…」

と、軽くかわされてしまいました。

その後も、なんやかんやとうまくすり抜けられる平中・・・しかし、逆に恋しい思いはどんどんつのって行きます。

「アカン!こうなったら、何とかして、あの人を嫌いになるしかない」
と、考え
「そや、100年の恋もさめるような、彼女の醜態を目の当たりにする事にしよ!」
と、決意した平中は、従者を呼んで命じます。

「彼女のオマルを掃除する係の下女から、彼女の使用済みのオマルを奪って来い」
と・・・

以前、平安時代の“寝殿造”にはトイレがない(12月7日参照>>)事を書かせていただきましたが、そのために平安時代の女性は“樋箱(まり箱)と呼ばれるオマルのような携帯トイレにしてから川に捨てたのですね。

そう・・・
いくら恋しくてしかたがない彼女でも、出たばっかりの臭い満点のウ●コを見たなら、その気持ちも萎えるに違いない!と・・・

翌日、自らの従者が、逃げる下女から奪い取ったオマルを受け取る平中・・・

おもむろに中を開けてみると・・・
「クッサー!えげつなー」
ではなく、何とも言えないかぐわしい匂い・・・

「そんなアホな」
と、よく見ると、それは排泄物ではなく、生薬を練った練香を、それらしい形の団子にし、さらに香水で煮込んだ物・・・

「くそー、もし、この中に、そのまま、汚く散らかされたアレを入れといてくれたら、愛想も尽きたやろに、なんちゅーこっちゃ」

まさか、平中がオマルをのぞき見する事まで予測して先手を打って来るとは・・・

さすがのプレイボーイ・平中も、見事ノックダウン・・・ますます、彼女への恋心がつのりますが、結局最後まで願いは叶わず・・・

後々も、
「アノ女にだけは、この俺も手玉に取られたわ」
と友人に話していたとか・・・

・‥…━━━☆

と、『宇治拾遺物語』では、こんな感じの思い出話的な終わり方になってますが、『今昔物語』は、なんと、このまま彼女にこがれ死にした事になっています。

史実としての平中=平貞文さんは、おそらく55歳くらいで延長元年(923年)9月27日にお亡くなりになるので、この時代、さすがに50歳を過ぎて、ここまで若者っぽい恋愛したとは思い難いので、事実だったとしても、やはり、若い頃の話だったように思いますね。

あー、でも老いらくの恋ほど燃えるかも知れませんから、そこンとこは、わかりませんけどね~
 .

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2013年9月11日 (水)

「死刑」でなく「私刑」?薬子の乱の藤原仲成

弘仁元年(大同五年=810年)9月11日、藤原仲成が射殺されました。

・・・・・・・・・

世に言う『藤原薬子(ふじわらのくすこ)の乱(変とも)ですが、最近では、「薬子が起こした」というよりは、平安京遷都でお馴染の桓武天皇の二人の息子である兄の平城(へいぜい)天皇と、弟の嵯峨(さが)天皇二人の天皇の政権が対立した事が要因であるとして『平城太上天皇の変』と呼んだりする事もあるらしいのですが・・・

とにもかくにも、ともに桓武天皇の皇子として生まれた二人の天皇は、兄=平城天皇が第51代で延暦二十五年(806年)から 大同四年(809年)まで、後を継いだ弟=嵯峨天皇が第52代でその大同四年から 弘仁十四年(823年)まで高位についていたわけです。

薬子は、この平城天皇の後宮に娘が入った事をキッカケに、自らも尚侍(ないしのかみ)として天皇の側に使えるようになり、天皇の取り継ぎ役である事を良い事に、
「御言にあざらるを御言と言い、褒貶(ほうへん)意にまかせ畏憚(いたん)するところが無かった」
つまり、「天皇さんが、こう言うてはる」と勝手に言ったり、政治や人事に対する批判や批評を、誰にはばかる事無く口走る・・・と、

さらに、この薬子の兄である参議の藤原仲成(ふじわらのなかなり)は、父の種継(たねつぐ)暗殺事件(早良親王が逮捕された事件…9月23日参照>>)の話が、『続日本紀』から排除されている事に怒り、その復活を願って、臣下にあるまじき行動をとるばかりか、女大好きの彼は、人妻でも何でも、気に入った女性を自分のモノにするべく、嫌がる女性をムリヤリ・・・と、とにかく横暴を極めた・・・と、

そう、正史に残る記録としては、とにかく、藤原仲成&薬子の兄妹が悪の権化で、平城天皇は彼らにそそのかされた・・・てな事になってます。

正史で天皇さんを悪く書き残すわけにはいきませんからね。

そもそも、平城天皇が娘の宮中入りについて来た薬子に夢中になったのも、薬子が天下の悪女だから・・・って感じですから・・・

Sagatennou600a と、この薬子の乱については、未だブログを始めて間もない頃に1度書いているのですが(2006年9月11日参照>>)、今回改めて・・・というのも、その時にも、「薬子って悪女なのかなぁ?」って書きましたが、事件の経緯などを改めて見てみると、やはり、嵯峨天皇側が、平城天皇側の動きに対して、周到に用意をしたうえに、電光石火の早ワザで先手を打った感がぬぐえない・・・つまり、平城天皇側ではなく、嵯峨天皇側の方が、そうなる事を予測して準備していいたのではないか?と・・・

そもそもは、第51代天皇だった平城天皇が、大同四年(809年)に、自身が病気になった事で、これは、かの種継暗殺の一件で亡くなった早良親王や、皇位継承でモメで死に追いやった伊予(いよ)親王(桓武天皇の第3皇子=平城天皇の弟)の崇りではないか?と恐れて譲位を決意し、弟の嵯峨天皇に皇位を譲って、自らは以前の都だった平城京(奈良)に居を構えたわけですが、

当然の事ながら、平城天皇の思い人として内に外に君臨していた薬子や、その兄の仲成は大いに不満・・・となるわけです。

ただ、この時、新天皇となった嵯峨天皇は、平城天皇時代に決定されたいくつかの決め事を、いきなり改めようとした事もあり、薬子や仲成だけではなく、平城天皇自身も、それなりの不満を感じた物と思われます。

なんせ、この頃は、天皇を引退した後も、太上天皇として政治に関与できるのが当たり前でしたから・・・

そんなこんなで生まれた両者の亀裂は、時が経過するとともに大きくなり、やがて弘仁元年(大同五年=810年)に入って、さらに激化し、巷では「朝廷が2ヶ所あり」とまで言われるように・・・そして、いよいよ9月6日、平城天皇が奈良への遷都令を発するに至り、対立は頂点に達します。

・・・が、しかし、ここで嵯峨天皇は、その遷都を受け入れる姿勢を見せるのです。

そして、すぐさま、腹心の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)藤原冬嗣(ふゆつぐ)らを造宮使に任命して奈良へ向かわせます。

続く9月10日には、「急な遷都のため、人々が動揺している」として、治安確保のために、伊勢(三重県)近江(滋賀県)美濃(岐阜県)の3ヶ所の関所に使者を派遣して封鎖・・・関所を固めたのです。

と、同時に、平安京の右兵衛府にて仲成を逮捕し、監禁します。。。。って「平安京の?」

そうなんです。
この時、仲成は、その長官として右兵衛府に勤務していたわけですが、これまでの経緯を見る限り、どう考えても、平安京は嵯峨天皇のお膝元=敵地なわけで、もし、仲成や薬子主導で、平城天皇と嵯峨天皇の対立が起きていたなら、勤務先とは言え、仲成が平安京にいるのは摩訶不思議な感じがします。

まぁ、長官という事は、その配下として300人からの衛兵を指揮する立場にあったでしょうから、それらの兵に、自分の身も守られているという気持ちだったのかも知れませんが、結局は、その勤務地であっさりと逮捕されてしまうわけです。

さらに嵯峨天皇・・・矢継ぎ早に、その仲成を佐渡権守(ごんのかみ)に左遷し、薬子の冠位もはく奪・・・平城天皇の官人を退けて、自らの官人を登用するという大幅な人事移動を決行したのです。

これを知った平城天皇は、薬子とともに輿(こし)に乗って平城京を脱出・・・兵を集めるために東国へ向かおうとしますが・・・そう、もうすでに関所は固められています。

結局、添上郡(現在は奈良市の一部)越田村追手に追い付かれて捕縛されます・・・なんせ、追手は、ちゃっかり前もって現地=奈良入りしている田村麻呂ですから・・・

そして、その日の夜には、仲成の処刑・・・そう、仲成は、弘仁元年(大同五年=810年)9月11日逮捕の翌日に、裁判を受ける事無く射殺されます。

翌・9月12日には平城天皇が平城京に戻されて剃髪して出家・・・薬子は服毒自殺をはかりました。

と、これが一連の経緯ですが、この仲成の死刑は、律令に伴う「死刑」ではなく、嵯峨天皇による「私刑」だったと言われます。

律令により、五位以上の者の逮捕には、勅意(ちょくい=天皇の意志)が必要でしたから、この時、四位であった仲成の逮捕は、当然、嵯峨天皇の勅命(ちょくめい=天皇の命令)があった事になりますが、律によって決められていた死刑の方法は、「斬」か「絞」だったはずなのです。

しかし、仲成は射殺・・・それこそ、刑の執行の方法を、勅命無しに変更するとは考え難いので、やはり、そこには嵯峨天皇の勅意があったという事でしょう。

ひょっとしたら、そこには、嵯峨天皇の「平城京への決別」が込められていたのかも知れません。

以前書かせていただいたように、嵯峨天皇の祖父である光仁(こうにん)天皇は、あの壬申の乱(7月23日参照>>)での勝利以来、ずっと続いていた天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)系から代わった、100年ぶりの負け組側=天智(てんじ)天皇系の天皇・・・

その光仁天皇から皇位を受け継いだ桓武天皇は、それまでの奈良時代の勢力を払拭したいがのように長岡京(11月11日参照>>)、そして平安京へと遷都します(10月1日参照>>)

しかし、それでも残り香のように漂っていた平城京の香りを、嵯峨天皇は、ここで、キッパリと、拭い去りたかったのかも知れません。

なんせこの後・・・
藤原氏は、ここで勝利した冬嗣の北家の天下となり(8月19日参照>>)、乱の時に嵯峨天皇側の勝利祈願を請け負っていた空海が出世し(1月19日参照>>)世は、まさに平安文化華やかなりし時代へと進み始めるのですから・・・

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2013年6月13日 (木)

一条天皇、悲しみの譲位

 

寛弘八年(1011年)6月13日、第66代一条天皇が、皇太子の居貞親王へ譲位しました。

・・・・・・・・・・・

第64代・円融(えんゆう)天皇の一人息子だった懐仁(やすひと)親王が、第66代一条天皇として皇位を継承したのは、わずか7歳の時でした。

実は、この皇位継承が、なんとなく周囲の思惑ありきの不可解な出家事件を起こした先代の花山(かざん)天皇の退位(2月8日参照>>)を受けての即位・・・

そのページにも書きましたように、誰もが、最も権力を握れる天皇の外戚(母方の親戚)をゲットしたいわけで、その椅子を巡って、とにかく、藤原氏同志でモメるモメる・・・

・・・で、結局、当時、力のあった藤原兼家(かねいえ)を外祖父に持つ一条天皇が、第66代の天皇になったわけです。

その後、即位から4年後の永祚二年(990年)に、その兼家が亡くなった後は、その息子の道隆(みちたか)道兼(みちかね)が摂政や関白を務めますが、この二人も、まもなく病没し、その後に実権を握ったのが、彼らの弟=藤原道長(ふじわらのみちなが)(12月4日参照>>)で、ご存じのような藤原氏全盛の時代となるわけですが・・・

Itizyoutennou600 この間に11歳で元服し、なかなかに聡明な君主へと成長していった一条天皇は、ある寒い夜に「皆が寒がっているのに、自分だけ暖かくして寝るわけにはいかない」と、わざわざ衣を1枚脱いだ・・・なんて、やさしいエピソードも残る温和な天皇で、そのせいか、少々の不満にも声を荒げて周囲と衝突するような事もなく、才能のある者が、その政務を助けた事で、この時代は、おおむね平和な、いわゆる王朝文化華やかなりし時代となっており、

一条天皇自身も、「我、人を得たる事、延喜・天暦にも越えたり」と、世に『延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)と賞賛される醍醐・村上両天皇の治世時代の平穏に自らの時代を重ね合わせる事もあったとか・・・

が、しかし・・・
ただ一つの気がかりが・・・

それが、一人の天皇に二人の皇后というややこしい現実・・・

実は、この一条天皇は元服してまもなく、藤原定子(ていし・さだこ)という女性を中宮に迎えていて、二人の間には、敦康(あつやす)親王という男の子が生まれているのですが、この定子のお父さんは、すでに亡くなっている道隆・・・つまり、すでに彼女に後ろ盾はないわけで、

しかも、彼女の兄が、先ほどの花山天皇相手に起こした事件で失脚したショックで出家し、いち時、後宮(天皇の大奥みたいな感じのとこです)を離れていた時期があった・・・

で、その時期に、チャンスとばかりに、時の権力者=道長が、自らの娘=彰子(しょうし・あきこ)を後宮に送り込んでいたわけですが、やはり一条天皇が大好きなのは定子のほう・・・で、結局、定子は呼び戻されて、再び後宮に入る・・・

道長は、なんとか一条天皇に、娘=彰子のもとへ通ってもらえるよう、書籍好きな天皇のために、彰子の部屋を、まるで図書館のような本だらけの部屋にしたりなんぞしますが、やっぱり一条天皇が大好きなのは定子のほう・・・で、そうこうしてる間に、天皇&定子の間に先ほどの敦康親王が生まれちゃうわけで、

慌てて、道長は、自らの権力をフル回転させて、娘=彰子を皇后、定子を皇后宮(号は二人とも中宮)って事にして一件落着させたのです(1月25日に後半部分参照>>)

ちなみに、上記のページでもお話しましたが、
この時の、定子の家庭教師だったのが清少納言(せいしょうなごん)で、彰子の家庭教師だったのが紫式部(むらさきしきぶ)・・・ただし、よくライバル視される清少納言と紫式部ですが、二人が同時に宮中で働いた事はなく、清少納言が宮中を去った5年後に紫式部が家庭教師に採用されていますので、たぶん、面識は無かったと思われます。

・・・で、このように、面識の無い家庭教師同志がライバル的存在だったように錯覚してしまうくらい、一条天皇を巡る定子と彰子の関係は微妙だったわけですが・・・

そんな中、もともと、体があまり丈夫では無かった一条天皇が、寛弘八年(1011年)5月、病に伏せってしまいます。

当然、そこには後継者問題が生じる事になるのですが、次期天皇としては、すでに一条天皇が即位した時に、一条天皇の叔父で第63代の冷泉(れいぜい)天皇の皇子=居貞(おきさだ)親王が皇太子となっているので問題無し・・・

焦点は、その居貞親王が即位する時に立てねばならない皇太子・・・そう、先ほどの定子との間に生まれた敦康親王以外に、一条天皇には彰子との間に敦成(あつひら)親王をもうけています。

先ほどから書いてます通り、定子が好きで好きでたまらない一条天皇は、その子供である敦康親王を皇太子にしたいわけですが・・・

悩んだ一条天皇は、信頼する側近の藤原行成(ゆきなり・こうぜい)に相談します。

すると行成は
「お気持ちはわかりますけど、やっぱ、それはできまへんやろ。。。
皇統を継ぐっちゅーのは、正嫡やどうかとか、帝の寵愛がどうかとかではなく、外戚がいかに重要な人物であるかどうかですわ」

と・・・

敦康親王の母である定子は、すでに 長保二年(1001年)に亡くなっており、この時の敦康親王には外戚どころか、母さえいない状態・・・敦成親王の母=彰子は、もちろん健在ですし、なんたって、その父親が、今をときめく道長ですから・・・

もう、答えは決まっていました。

かくして寛弘八年(1011年)6月13日一条天皇は居貞親王=三条天皇に譲位し、皇太子を敦成親王と定めたのです。

すでに病が悪化していたのか?
それとも、この悲しい決断が、そのお心に圧し掛かったのか?

一条天皇は、この譲位から、わずか9日後の6月22日に、32歳の若さでこの世を去ります。

やがて、その5年後、三条天皇は、皇太子の敦成親王に譲位・・・これが、第68代後一条天皇で、この時、自らの孫を天皇にした道長は
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪

という、勝利の歌を詠む事になります(10月16日参照>>)

まぁ、そんな道長にも、ただ一つの気がかりがあったわけですが・・・そのお話は【道長の息子・藤原顕信の出家】でどうぞ>>
 .

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2013年4月23日 (火)

気はやさしくて力持ち…大井子の力石伝説

 

今日は、『古今著聞集』に残る、オモシロイお話を・・・

琵琶湖の西にある、現在の滋賀県高島市安曇川町安閑神社に、水口石あるいは力石と呼ばれる石があります。

ちなみに、その石の隣には、神代文字とおぼしき、見た事も無い文字が刻まれた石が鎮座していて古代史ファンにはけっこう知られた神社らしいのですが、今回のお話は、神代のお話ではなく、平安時代のお話・・・

・・・・・・・・・・・

その高島に住む大井子(おおいこ・おいね)という女性は、なかなかの器量よし・・・

あたり一帯に広い水田を所有していた彼女ですが、ある時、近所の村人たちと水の事で言い争いになってしまい、彼女の水田には水が割り当てられなくなってしまったのです。

もちろん、それでは、広大な水田は維持できないわけで・・・

やむなく、その夜に彼女は、闇にまぎれてひと作業・・・六~七尺(一尺=約30cm)四方はあるかという大石を担いで水門の所まで行き、その大石を横向きに置いて、他方へ行く水をせき止め、全部の水が、自分とこの田んぼに流れるようにしたのです。

翌朝、この光景を見た村人たちはびっくり仰天・・・あわてて大勢を呼び集めて、その大石をどかそうとしますが、100人がかりでも(そんなオーバーな(^-^;)その石はビクともせず・・・

また、これを大井子が一人で動かした事を思うと、もし、勝手にどかして、彼女が怒りでもしたら・・・と、恐ろしくなって、一同相談の結果、彼女にワビを入れる事に・・・

「水は使っても良いので、どうか石をどけてくれんか?」
と・・・

その申し出を快諾した大井子は、その日の夜に、またまた一人で大石を動かし、それ以来、広大な田んぼが干上がる事はありませんでした。

また、その後は水争いもなくなり、村も平和に・・・と、つまり、この大石が、安閑神社に残る石との事なのです。

Ooikohokusaimanga 北斎漫画に描かれた大井子の物語

一方、そんなこんなの高島に、一人の男が通りかかります。

彼の名は佐伯氏長(さえきうじなが)・・・越前(福井県)の人で、この7月に行われる宮中での相撲大会に参加すべく、京の都を目指して旅している途中の力自慢の男でした。

そんな彼が、ふと見ると、目の前には川の水を桶に汲んで頭の上に乗せて運ぼうとしている美目麗しい少女・・・

ひと目でその少女に心奪われ、素通りできなくなった氏長は、馬から降りて、その少女が桶をささえる腕をつかんだところ、彼女は微笑みを浮かべて、嫌がる様子でも無い・・・

「おぉ!これイケるんちゃうん?脈ありやん」
と、さらに腕を強く握りしめる氏長・・・

すると、彼女は、桶から手を放して、氏長の腕を小脇にかかえ、ギューっと挟みこみます。

好意を持ってる美目麗しい少女にそんな事されて、もう氏長は心ウキウキ(≧∇≦)

しばらく、そのままでいましたが、少女がいつまでたっても手を離さないのにたまりかね、彼女の小脇から腕を引き抜こうとしますが、これがビクともしない・・・

それどころか、逆に、腕を小脇に挟んだ彼女にグイグイと引っ張られ、いつしか彼女の家の中へ・・・

家に到着して片手に持っていた桶を置いた彼女・・・
「それにしても、真昼間から、いたいけな少女に、とんだお戯れを・・・いったい、あんたはんは、どこのどなたはんで?」

聞かれた氏長は
「僕は越前の者です。
今度、宮中で相撲大会があるんで、国々から力の強い者が召しだされて都へ行くんですが、僕は福井代表で、そこに参加するんですわ」

と、答えました。

「そうですかいな。
けど、危ない危ない・・・あんたは、もうちょっとでケガをするところやったで・・・」

「?」

「都は広いでっせ・・・しかも、今回は全国大会やないですか。
どんだけ強い人間が集まって来るか。
あんたはんは、弱いことはおまへんけど、そないに強い事もなく、全国大会に出られるほどの力量は持ってはりませんわ。。。
 

ここでウチに会うたんは、何かのご縁・・・
もし、相撲大会まで日にちがあるようでしたら、ここに20日間ぐらいいときなはれ。
その間に、ウチが鍛えてあげますさかいに・・・」

そう、彼女が先の大石伝説を持つ大井子だったのです。

まだまだ日数に余裕があった氏長は、言われるままに、ここに滞在する事に・・・

「どんだけハードなメニューが用意されてんねやろ?」

ちょっとドキドキの氏長でしたが、意外にも大井子が用意したのは、運動メニューではなく、食事のメニュー・・・

なんと、彼女の怪力で、思いっきり固く握った握り飯を食べるというもの・・・

ところが、これが・・・
食べるというより食べさされる・・・

始めは、固くて固くて、食べ割る事すらできなかった大井子特製握り飯・・・
やがて1週間経った頃、ようやく食べ割る事が出来るように、さらに次の1週間が経つと、もはや、普通に食べられるように・・・

こうして、20日間・・・彼女は毎日食事の世話をしました。

やがて約束の日・・・
「よう、頑張らはりました!
これまでになりはったら、めったな事で負ける事はおまへんやろ。
急いで、都へ行っといなはれ~」

送りだされた氏長は、その後の相撲大会で大いに活躍して名を挙げたのだとか・・・

・‥…━━━☆

「気はやさしくて力持ち」は、男性に対する褒め言葉・・・

今でこそ、女性アスリートも絶賛されますが、残念ながら、この日本でも、長い間、女性は非力でおしとやかなのが魅力的とされ、強い女性は敬遠され、疎外される傾向にありました。

上記の物語の中で、「大井子の田んぼには水をやらない」という一件も、おそらくは、そんな偏見から・・・

しかし、一方で、やさしく叱咤激励する母にも似たほんわかな雰囲気が感じられる大井子のお話は、そんな偏見にもめげず、頑張りながら強く生きた女性たちがいた事を物語っているのでしょうね。
 .

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2013年3月21日 (木)

春の陽気に浮気がバレた??…「今昔物語」より

 

今日は、ちょうど今の季節に似合った『今昔物語集』のお話を、一つ、ご紹介しましょう。

Konzyakumonogatari600 『今昔物語集』は平安末期に成立したとおぼしき、全31巻からなる説話集で、因果応報を説く仏教説話が多いのですが、基本、大人の読み物ですので、シッポリ系の恋の話もたくさん・・・

特に21巻からあとの本朝=日本の世俗の部分には、恋に悩んだり、不倫発覚にアタフタしたり・・・今と変わらぬ人々の生活が垣間見え、とてもオモシロイです。

てな事で、本日は28巻第12にある『或る殿上人の家に忍びて名僧の通ひし語』をご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・

ある殿上人が、3月20日を過ぎたある日、いつものように内裏へと出勤・・・いつもと変わりない1日が始まります。

しかし、実は、この夫の知らないところで、ちょと前から、奥さんは浮気をしていたのです。

とは言え、以前、結婚の歴史(1月27日参照>>)でチョコッと書かせていただいたように、この頃の結婚は通い婚なので、旦那も浮気相手も、女性の家に通って来てる状態ですから、現代人の感覚で言えば、「どっちが浮気なんだ?」て悩んだりもしますが・・・

一応、周囲からも夫婦と認められている旦那のほうは、ほどんど女性の家に入り浸ってて、自分の服や生活用具なんかも、そこに置いてあるわけで・・・・現代感覚で言えば、そんな中で、奥さんは、その旦那の留守中に浮気相手を引っ張り込んでるって感じですかね?

とにかく、こうして、いつもと変わらぬ1日が始まると同時に、彼女の密かな行動も始まるわけで・・・

しかも、その浮気相手は、けっこう名の知れた高僧・・・

いつものように、彼女の家にやって来ては、まるで自分ちのようにくつろいで法衣を脱ぎ、リラックスモードに突入・・・

彼女は、いそいそとカレシの法衣を受け取って、夫の衣類をしまってあるウォークインクローゼットの中に、シワが寄らないようにハンガー掛け・・・

と、しばらくすると、夫からのメール・・・否・使者がやって来て、彼女に伝えます。

「今日、仕事終りで、蹴鞠(けまり)に行く事になってん。
家に帰らんと、会社から直接行く事になったよって、略服の狩衣
(かりぎぬ)と烏帽子(えぼし)を使者に持たしてくれへんか」
と・・・

彼女は、再び、クローゼットに行って、烏帽子と狩衣を取りだし、袋に入れて使者に持たせます。

「ヤッター!!
これで、いつもよりゆっくり出来るやんヽ(´▽`)/」

と、ちょっぴりほくそ笑む彼女・・・

果たして、蹴鞠会場に到着した使者が、主人の前で、渡された袋を開けてみると・・・

烏帽子はあるけど狩衣が無い・・・

烏帽子の横にあるのは、キレイに畳んである黒い法衣・・・

「なんや?コレ・・・?」

そう、この頃は、電気なんてものはありませんから、当然ですが、ウォークインクローゼットの中は、昼間と言えど薄暗い・・・

はっきり言って、彼女は、その布の手触りで、着物を識別していたわけですが、その手触りが夫が希望した狩衣と、浮気相手の法衣とが、メッチャ似ていたのです。

薄暗い中で衣類を探した彼女は、スッカリ勘違いして、そのまま畳んで袋に入れちゃったわけ・・・

最初は驚いて、その後、しばし考え込む夫ですが・・・やはり、そこはピ~~ンとキターー

「アイツ…坊さんと浮気しとるな!!(-_-X)」
と・・・

ムカムカ!!っとしながら、ふと、周囲を見ると、同僚たちが、その様子をチラチラ・・・思いっきり、皆にバレてます。

恥ずかしさと腹立たしさに爆発しそうになりながらも、同僚の手前、ここでアタフタしたり、怒りをあらわにするのもカッコ悪い・・・

冷静を装いながら、その法衣を袋へと戻し、使者に再び、家に届けるように言い渡すのですが、そこに、1通の手紙を添えました。

♪時はいかに 今日は四月(しつき)の一日(ひとひ)かは
 まだ来
(き)もしつる 衣更(ろこもが)へかな ♪
「え~~と、今日って何日やったっけ??
まだ4月1日ちゃうよな?
せやのに、もう、衣替えしはったんでっか?」

そう、この頃の衣替えは旧暦の4月1日と10月1日に行うのが普通・・・

古くに宮中から始まって、通常は民間レベルでも、この日に行われており、衣類に限らず、調度品なども冬物から夏物へと交換する習わしとなっていたのです。

よく、クイズ番組などで登場する難読苗字の『四月一日さん』・・・「四月一日」と書いて「わたぬき」と読むのは、1説には、その4月1日に、着物や布団などを、綿入りの物から綿を抜いた春夏物に変えるからなんて言われてますね。
(綿の収穫時期に由来する説もあり)

しかし、冒頭に書いた通り、この日は、まだ3月の20日過ぎ・・・

もちろん、この後、この夫が彼女のもとへ通う事は、2度とありませんでした。

それを知った彼女は気も狂わんばかりに絶叫したと言いますが、もはや、後の祭り・・・

・‥…━━━☆

旦那さんの、怒りを抑えたイヤミたっぷりな言い回しがイイわぁヽ(´▽`)/

・・・って、その高僧は、その後どうしたんだろ?
気になるなぁ・・・

Dscf1071pp1000 写真は平安神宮…『今昔物語』のイメージで…

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2013年3月18日 (月)

美人の代表…小野小町、伝説の後半生

 

今日、3月18日は『小野忌』・・・あの小野小町の忌日とされています。

・・・て事で、昨年は、その小野小町(おののこまち)について書かせていただいたのですが、あれやこれやの都合上、前半生の部分だけになってしまっていましたので、本日は、それこそ伝説に彩られた後半生をご紹介させていただきます。

まだの方は、まずは、昨年のページから>>ご覧いただくとありがたいですm(_ _)m

・・・・・・・・・・

・・・と、あの紀貫之(きのつらゆき)(12月21日参照>>)に、「衣通姫のようだ」「なまめかしいイイ女だ」と絶賛された美貌のもと、数々の浮き名を流した恋多き女であった小野小町も、生きている人間である以上、歳はとっていくもので・・・

『百人一首』にもある、あの有名な
♪花の色は うつりにけりな いたずらに
 わが身世にふる ながめせし間に ♪

の歌でもわかるように、歳とともに、その美貌の衰えを、ご本人自身が感じるようになるのです。

Dscn7876a1000 小野小町の邸宅跡とされる京都・隋心院
隋心院へのくわしい行き方は本家HP:
京都歴史散歩「六地蔵から日野・醍醐・小野へ…」でどうぞ>>(別窓で開きます)

♪今はとて わが身時雨(しぐれ)に ふりぬれば
 事のはさへに うつろひにけり ♪

「私が歳をとってしもたよって、アンタがかけてくれる言葉も、なんや、昔と違うみたに思うわ」
と、小町が言えば、

♪人を思ふ こころこの葉に あらばこそ
 風のまにまに ちりもみだれめ ♪

「俺の心が葉っぱやったら、風に散らされるかも知れんけど…俺の気持ちは、そんなモンやないねんで」
と、やさしく答えたのは小野貞樹(おののさだき)という人・・・それこそ、生没年もわからず、貞観二年(860年)に肥後守(ひごのかみ)に任じられたとかのわずかな記録が残るだけの人ですが、おそらく、この時、小町の恋人だったのでしょうね。

さらに・・・
たぶん、上記の歌より晩年とおぼしき歌には、六歌仙の一人・文屋康秀(ぶんやのやすひで)からの「あがたみ(田舎見物?旅行?)のお誘いに
♪わびぬれば 身をうき草の ねをたえて
 さそふ水あらば いなんとぞ思ふ ♪

「わびしい暮らしやよって、誘てくれんねやったら、どこでも行くわよ」
と返答・・・かなり、切羽詰まった感じ???

・・・と、ここらあたりで、彼女の本当の姿に迫る事のできる史料は、ほぼ、終了です。

昨年のページにも書かせていただいたように、小野小町の実像がわかるような史料はほとんど無い中で、彼女が作ったとされる歌の数々を読み解きながら、その人となりを推測して行かねばならない・・・しかも、その歌も本当に彼女が作ったのかどうかも危うい場合もありで、結局は、伝説の域を越えないわけですが、

そんな中、彼女の伝説は人から人へと伝えられ、さらに室町時代頃になって、『謡曲』や『御伽草子』の題材となり、文章の形として残されるようになります。

・・・で、それらの題材となったとされるのが『玉造小町子壮衰書(たまつくりこまちそうすいしょ)という平安後期に成立したとおぼしき作者不詳の詩文で、その中の、老いて町を徘徊する老婆が、
「昔、ウチは大金持ちのお嬢様で、来る日も来る日も、あんな贅沢やら、こんな贅沢やらして暮らしてたんやけど、親兄弟も死んで家も没落してしもて…」
と、往時の贅沢三昧を自慢しつつ、現在の悲惨さを綿々と語るという物語・・・

つまり、実際に登場するのは小野小町では無いのですが、昔から、小野小町がモデルとされ、小町の物語として読み継がれて来ています。

また、その内容が、「類い稀なる美貌を武器に贅沢三昧をして他を顧みなかった浅はかな前半生の裏返しとして、老後は、家も無くなり、夫も子もなく、路頭に迷う生活になってしまった」=「最後に人にさげすまれるほど醜く老いて朽ち果てるのも、因果応報…報いである」という教えっぽい感じになっている事から、おそらく、どこかの僧侶が著した書物と思われ、一説には弘法大師空海の作とも言われます。

ただし、あの吉田兼好(よしだけんこう)『徒然草』(2月15日参照>>) の中で、
「小野小町が事、きはめて定かならず。衰えたるさまは『玉造』といふ文に見えたり…」
と、その内容を疑うとともに、
「小野小町が登場してくんのは、弘法大師が亡くなってからやろ」
と、すでに、この時代に指摘しています。

なので、この『玉造小町』の時点で、早くも伝説なのですから、さらにそれを題材にした謡曲や御伽草子となると、もっと伝説という事になるわけですが、やはり、興味をそそられるのは、その伝説がどこまで事実に近いか?という事よりも、なぜに、そのような伝説となったか?の方ですね~

Sotobakomati600 観阿弥(かんあみ)作の謡曲『卒都婆小町(そとばこまち)では、
高野山を出て都に来た僧が、倒れた卒塔婆(そとば=供養のために経文などを書いてお墓の後ろに立てる縦長の木片)に腰掛けて休憩している乞食の老婆に、
「それは、仏体そのもやねんから、そんなとこに座ったらアカン」
と注意をすると、
「そんなん…もう、字も見えへんようになってるし、こんなんただの朽木やん」
と、老婆が反論・・・

さらに僧が、
「朽木の中にも花を咲かすもんもある…まして、仏体を刻んでる木やねんから…」
と続けると
「ワテも見た目は朽木やけど、心には花を持ってる…むしろ、手向けになってええんちゃうん?」
と、ああ言えばこう言うの問答をくり返し、結局、僧を説き伏せてしまうのです。

老婆の説法のスゴさに驚いた僧が、その名を聞くと、それは100歳になった小野小町であったと・・・

しかも、現在の小町は、若き日に愛を告白され、「百日通ってくれたらつき合ってア・ゲ・ル❤」と約束しながらも、99日通った後の100日目に亡くなってしまった深草少将(ふかくさのしょうしょう)怨霊にとりつかれているという設定になってます。

とは言え、さすがに能楽を大成した観阿弥の作だけあって、落ちぶれた老後を描いてはいるものの、その教養の高さも垣間見え、学識が高いが故に悩まされる哀れさなどもあって、そこに悪意はありませんが、

逆に、悪意に満ちた伝説が『あなめ伝説』です。

これは、もともとは『日本霊異記(にほんりょういき)にあるお話で、

ある男が、深草の市に向かう途中に原っぱを通りかかると
「あなめ、あなめ…(あぁ、眼が痛い)という苦痛にうめく声が聞こえる・・・

ふと見ると、そこには野ざらしのドクロがあり、その空洞の眼のくぼみから1本のススキが生えているのに気づき、それを抜いてやると、ドクロからお礼を言われた・・・というもの・・・

と、このように、大もとの話は、小町とは関係ないのですが、なぜか、またぞろ、この話が小町と結びつけられ、このドクロは小町のドクロという伝説になるのです。

絶世の美女が老婆となり、最後にはドクロ・・・

おそらく、実際の小野小町は、年齢とともに、その美貌に衰えを感じ始めた頃で、その消息を絶ち、その先はわからない・・・にも関わらず、その後伝説が付け加えられる・・・

それって・・・
ひょっとして、平安の世の男性は、よほど美人に翻弄され、その美人のために人生を棒に振った経験があるのでは?

だから・・・
そんな美人に惑わされて道を踏み外さないよう
「こんな美人もいつか老婆になって、いつか亡くなるのだ」という事を、日頃から肝に銘じ・・・そういう戒めのために生まれた伝説なのではないでしょうか?

美人の代名詞としてターゲットにされた小野小町さんは、それこそ、お気の毒としか言いようがありませんが・・・

と同時に、今も昔も、あいも変わらず美人に弱い男性諸君よ!!
どないかならんのかいな??(^-^;
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2013年3月 4日 (月)

藤原頼通の平等院鳳凰堂の見どころ

 

永承八年(天喜元年・1053年)3月4日、藤原頼通阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂…いわゆる宇治の平等院鳳凰堂を完成させました。

・・・・・・・・・・

平安時代に、それこそ、欠ける事を知らぬ満月のごとき栄華を極めた藤原道長(ふじわらのみちなが)(12月4日参照>>)・・・その息子として生まれた藤原頼通(よりみち)は、父が亡くなった後、関白として名実ともに中央政界のトップに立ち後一条後朱雀後冷泉の3代の天皇の時代に君臨しました。

とは言え、それほどの権力を持てばこそ・・・それを失う恐怖も倍増するわけで・・・

以前に、頼通さんのご命日のページ(2月2日参照>>)にも書かせていただきましたが、そんな時に大流行したのが、「お釈迦様が亡くなって2千年が経つと、仏教の教えがすたれ、天災や戦争などの不幸が続く、『末法の世』なってしまう…1052年がその『末法の世』の第一年である。」という浄土教「末法思想」・・・

頼通が、自らの別荘であった土地で、阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂の建立に着手するのは、まさに、その末法第1年の年だったのです。

そして、翌・永承八年(天喜元年・1053年)3月4日、見事、阿弥陀堂が完成・・・これが、現在、平等院鳳凰堂と呼ばれる建物で、左右の翼楼と後方に伸びた尾楼が、鳳凰が羽根を広げた姿に見える事から、その名がつきました。

Hououdoua21000b1000a 平等院鳳凰堂

それはまさに、頼通が夢見た極楽浄土をこの世に再現したもの・・・前方の阿字池越しに見るその姿は、平安時代の名残りを今に伝えていて、実に美しいです。

Byoudouinkeidai 平等院・境内の図
(クリックすると大きく見られます)

とは言え・・・
ご存じの方も多いと思いますが、現在、この鳳凰堂は修理中で、外観は工事用の足場が組まれた状態で、中の阿弥陀様も拝観できません。

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工事は、来年=平成二十六年(2014年)3月31日までの予定ですが、それこそ、大事な文化財を守るためには、修復作業は無くてはならぬもの・・・むしろ、修復に頑張っておられる皆様の安全と、その腕を大いに奮っていただく事を願っております。

・・・で、修理中のさ中にブログ上でご案内するのも???
とも思ったのですが、鳳凰堂は修理中ですが、庭園には入れますし、平等院の国宝のほとんどを納めた「鳳翔館ミュージアム」も見学でき、しかも、この間の拝観料が通常の半額の300円・・・
(↑また、「信心が無い」と怒られるゾ(A;´・ω・)アセアセ)

遠方からお越しの方にとっては、「やっぱり100%の平等院が見たい!」とお思いになるのは無理もありませんが、鳳凰堂以外にも、けっこう見どころはあるのです。

まずは、そのミュージアム・・・これが、お寺の博物館とは思えない、めちゃめちゃハイテクなミュージアムなのです。

ただ単に宝物を並べてあるのと違って、配置から照明から・・・とにかく、見せ方が凝っていて、宝物の魅力を最大限に引き出す演出がしてあるのです。

しばし、ウットリする事間違い無し!

Dscn1871b600 また、庭園は庭園で、春には、ツツジ藤→の共演が見られ、初夏には池に咲くハスが・・・

このハスは、平等院蓮で、なんと、1999年に行われた阿字池の発掘調査で見つかった江戸時代の種から、現代に蘇った物・・・まるで、タイムカプセルを開けたような高揚感がありますね。

また、昨年の大河ドラマ「平清盛」宇梶さんの好演が光った源頼政(みなもとのよりまさ)(4月10日参照>>)・・・ご存じのように、ここ平等院は、その頼政最期の地でもあります。

後白河法皇(ごしらかわほうおう)の第3皇子=以仁王(もちひとおう)を担いで平清盛(たいらのきよもり)反旗をひるがえした頼政(4月9日参照>>)、宇治橋での合戦に敗れて(2007年5月29日参照>>)、以仁王を逃がした(2009年5月29日参照>>)後、自ら命を絶った場所が、観音堂に北側にある扇の芝・・・そして、その頼政のお墓も、この平等院の敷地内にあるのです。

春はもう近い・・・「来年まで待てない」とばかりに、この機会に、庭園やミュージアムをじっくり見るって手もありますよ。

時の権力者が最大限にビビッてくれたおかげで、最大限の匠のワザで、目に見える浄土として完成した平等院は、21世紀の現代人にも、その夢を見させてくれています。

平等院周辺の史跡巡りについては、本家HP:京都歴史散歩の「源氏物語の宇治を行く」でどうぞ>>(別窓で開きます)
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