2020年11月19日 (木)

藤原兼経 ~五節舞姫の控室に立て籠り事件

 

万寿元年(1024年)11月19日、豊明節会の舞姫の控室に不審者が侵入しました。 

・・・・・・・・・・

藤原兼経 (ふじわらのかねつね)は長保二年(1000年)に、藤原道綱(みちつな)の三男として生まれます。

父の藤原道綱は・・・そう、あの『蜻蛉日記(かげろうにっき)の作者が、名前が残っていない女性で、今も藤原道綱母と呼ばれるところから、その名をご存知の方も多かろうと思いますが、

この『蜻蛉日記』を書いた道綱母という人は、最終的に関白太政大臣まで出世した藤原兼家(かねいえ)の、いわゆる側室で、正室時姫(ときひめ)という人との間に生まれていたのが、道隆(みちたか=長男)道兼(みちかね=三男)道長(みちなが=五男)の三兄弟で、ご存知のように、五男である道長は、平安の一時代を築く大物になる(12月4日参照>>)わけですが・・・(ちなみに道綱は兼家の次男です)

なので、側室の子である道綱は、正室腹の三兄弟と比べると、出世は大きく水をあけられた状態となっていたわけですが、例の花山天皇(かざんてんのう=第65代)出家事件(2月8日参照>>)に関与して、父=兼家の摂政就任に大きく貢献した事から、一気に出世街道に乗ります。

また、道綱と道長は異母兄弟の中でも、娶った奥さんが姉妹(ともに源雅信の娘)だった事もあって仲が良かったおかげで、道長が執政になると、その恩恵を受けて、またまた出世していく事に・・・

そんな頃に生まれたのが、今回の主役=藤原兼経さん。

なので、まだ子供の間に道長の養子となっていて、寛弘八年(1011年)に元服した時には、キッチリ、左大臣=道長の息子として、いきなりの従五位(じゅごい)に任ぜられ、以降、一気に出世の階段を駆け上り、19歳にして従三位(じゅさんみ)に任ぜられ、公卿(くぎょう=太政官の最高幹部)の仲間入りを果たします。

これは、道長の実子たちにも負けず劣らずの出世ぶり・・・

さらに治安三年(1023年)には参議(さんぎ=朝廷組織の最高機関)に任ぜられますが、その翌年、事件は起こります。

それは万寿元年(1024年)11月19日の事・・・

兼経が準備していた五節舞(ごせちのまい)の舞姫の控室に不審者が入り込んだのです。

五節舞とは、大嘗祭(だいじょうさい=新しく即位した天皇が新穀を神々に供えて食する宮中祭祀)新嘗祭(にいなめさい=天皇が新穀を神々に供えて食する毎年の宮中祭祀)の翌日に行われる豊明節会(とよあかりのせちえ)という祝宴の中で、歌人が歌う大歌に合わせて4~5人の舞姫が舞い踊るという日本の雅楽では唯一の女性が演じる舞いなのですが、

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五節舞之図(東京都立図書館蔵)

その舞を披露する美しい女性たちは、毎年、担当の公卿が用意する事になっていて、その年の担当が兼経だったのです。

つまり、兼経がチョイスした女性の部屋に誰かが侵入した。。。と、

しかも、その不審者は、部屋の中で「舞姫を懐(ふところ)に抱(いだ)く」という行為をしたのだとか。

この「懐に抱く」とは、もちろん、抱きしめる事ですが、この時代の王朝貴族の、それも文章に残す「懐に抱く」という語の中には、いわゆるH的な行為も含まれているらしい・・・ 

事件はすぐに発覚し、当然、この不届き者は、兼経によって捕らえられ、検非違使(けびいし=現在の警察・司法)に引き渡される事になりますが、この犯人は、公卿の藤原公成(きんなり)だと名乗って控室までたどり着いて強行に及んだものの、実は中納言藤原朝経(あさつね)従者の一人であった事が判明しました。

と、まぁ、不届きではあるものの、犯人が誰かも特定されて、事件は解決となるのですが・・・

ところがです。

事件直後から、今度は兼経が、その舞姫の控室から出て来なくなったのです。

翌日には朝廷の重要な儀式があり、兼経は、その監督役だったにも関わらず、
「胸の病が…」
「苦しくてたまらん!」
と言って、控室に籠りっぱなし・・・

儀式をすっぽかして女性の部屋に籠りっぱなしなのですから、もう何をやってるかは明らか。
(満年齢でいくと、まだ24歳だからなぁ~(#^o^#))

おそらくは、今回チョイスした舞姫の一人が、まえまえから「兼経さんがお気に入りの女性だった」という事・・・

そして、おそらくは、その彼女が、侵入した不審者が「懐に抱いた」彼女だったのでは?

以前も書かせていただいたように、平安時代の結婚は「通い婚」(1月27日の後半部分参照>>)・・・毎夜々々、男性が女性の家に行って××するパターンなわけですが(仲良くなれば、男性が女性の家に泊まりっぱなしもアリ)

最初の段階は、
高貴なお方なら歌を交わして手紙を出して…、
身分の低い人なら口笛吹いて「来たよ」の合図をして…

↑こういう段階を何度か経てから、女性側がOKなら「家に入れてもらう=夜這い(よばい)をかける」という感じになります。

今、「夜這い」と聞くと、男性天国の致したい放題のようなイメージを思い浮かべる方が多いですが、それは勘違い・・・夜這いには、女性側に完全な拒否権があります。

気に入らない相手だと断って良いし、断られた男性がムリヤリ女性の家に上がり込む事はダメです。
今も昔も無法地帯ではありません。

なんなら、平安のモテ男=平中(平仲)のように、家に上げてもらっても叶わぬ場合もあります(9月23日参照>>)

てなてな事を踏まえると・・・そうです。

今回の場合、不審者に侵入された舞姫の彼女は、拒否をしなかった・・・事になります。

つまり、侵入した彼の方が、舞姫の夫だったわけです。

しかし、その事実を知った兼経が、逆に、彼女を手放したくなく、部屋に居座りたおして引き籠って、何とか自分のモノにしようとしたのではないか?=つまり横恋慕した?という事が推測できます。

おそらく、平安時代の皆さまも、そのように思われたようで・・・

ここまで2段飛ばしくらいの勢いで出世の階段を上っていた兼経も、見事に昇進がストップ・・・13年後の長暦元年(1037年)になってようやく正三位(しょうさんみ)に叙せられますが・・・やっぱり、この一件が響いたのでしょうかね?~知らんけど。。。
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2020年8月12日 (水)

石清水八幡宮の怒り爆発~山科八幡新宮を襲撃

 

天慶元年(938年)8月12日、石清水八幡宮の神官や僧侶が山科八幡新宮を襲撃しました。

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「やわたのはちまんさん」の呼び名で知られる石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)は、平安時代の清和天皇(せいわてんのう=第56代・在位: 858年~ 876年)の頃に創建され、宇佐神宮(うさじんぐう=大分県宇佐市)鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう=神奈川県鎌倉市)とともに日本三大八幡宮の1つに数えられたり、平安京の鬼門=北東を守る比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市)に対する裏鬼門=南西を守る場所として重要視される神社です。

源氏の棟梁=八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ=源義家)(10月23日参照>>)が元服した場所という事もあって源氏の流れを汲む武家からは武神として崇められて信仰を集めましたし、有名な『徒然草』に登場したり、南北朝での歴史の舞台としても度々登場しています。

…で、そんな石清水八幡宮にて、現在でも毎年9月15日に行われている石清水祭(いわしみずさい)・・・これは現在でも、京都の葵祭(あおいまつり)や奈良の春日祭(かすがのまつり)と並んで日本三大勅祭(ちょくさい=天皇の使者が派遣されて執行される祭)の一つとされる重要な例祭ですが、もともとは旧暦の8月15日に行われていた放生会(ほうじょうえ)というお祭りでした。

放生会とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放して殺生を戒める古代インドに起源を持つ宗教儀式で、「お釈迦様の前世と言われるエライお方が、池の水が無くなって死にそうになっている魚たちを助けて説法をしたところ、その魚たちが神様に転生して、そのエライ方に感謝した」という逸話から始まった儀式で、日本でも、奈良時代の天武天皇(てんむてんのう=第40代・在位:673年~ 686年)の頃には、すでに全国的に行われていた仏教儀式でしたが、日本独特の神仏習合(しんぶつしゅうごう=仏が神の姿になって現れるという考え)によって、神道にも取り入れられるようになったお祭りです。

早いうちから神仏習合を取り入れた宇佐や石清水などの八幡宮では、祭神である八幡神(はちまんしん)本地(ほんぢ=根本真実身)として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称して、この頃は神社の境内に神宮寺が創建される事もしばしばありました。

これは、明治維新の神仏分離されるまで続いていて・・・なので、明治以降は、祭の名前も変わり、八幡菩薩の称号も抹消され、今に至るわけですが・・・

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石清水八幡宮(本殿)

とにもかくにも、平安時代の石清水八幡宮では、そんな放生会は、年間行事においても一二を争う人気行事だったわけで・・・なんせ、上記の通り、朝廷から使者が派遣されて来る重要な行事でしたから。。。

ところが、承平年間(931年~938年)のある時、その放生会に人が、年々集まらなくなって来ていたのです。

この頃は、未だ神仏習合時代ですから、このお祭りでも、日中には都から有名な音楽家を招いて神楽の奉納を行う一方で、夜には各お寺から有名な僧侶を呼んで仏事を大々的に行っており、当然、それらを目当てに多くの人々が参拝するのが例年の習わし・・・

しかし、承平年間のここんところ、そんな有名な楽師がだんだん来なくなり、著名な僧侶も徐々に参加を渋るようになるのです。

そうなると、当然、それを目当てに訪れる見物人も、どんどん減っていくわけで・・・

「これは、どうした事か?」
と石清水八幡宮の皆々が思っている中で、ある情報が舞い込んできます。

何やら、
「最近、山科(やましな=京都市山科区)に、石清水八幡宮と同じ八幡菩薩を祀る八幡新宮(はちまんしんぐう)なる物が登場し、そこも放生会なるお祭りを石清水八幡宮と同じ8月15日にやっている」
との事・・・

しかも、山科八幡新宮の方が、石清水八幡宮よりも、はるかに高い報酬を出すので、有名な楽師や著名な僧侶の多くが、そっちに参加するようになり、8月15日の放生会の日に八幡宮に参詣して煌びやかな祭行事を見たい一般の参拝客は、皆、山科八幡新宮の放生会に引き寄せられていたのです。

そうと知った石清水八幡宮側・・・このままにしておくわけにはいきません。

ご存知のように、この頃は、大寺院で僧兵という武装集団を抱えていたように、神社にだって自衛のための武装集団がいるわけで・・・

かくして、その年の放生会を2日後に控えた天慶元年(938年)8月12日石清水八幡宮関連の神官&僧侶たちが山科八幡新宮を襲撃したのです。

数千人にも膨れ上がった彼らは、殿舎を破壊したうえに、八幡菩薩像をも奪い取ってしまいます。 

『本朝世紀(ほんちょうせいき)によれば、この事件以降、山科八幡新宮で放生会が行われる事は2度となく、石清水八幡宮の放生会には、再び参詣者が戻って来たとの事・・・

あな恐ろしや 人々の怒り・・・

とは言え、ご存知のように、この天慶という年代は、この翌年に、あの平将門(たいらのまさかど)の乱と藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱が立て続けに勃発する年代でもあり、
【平将門が国府を占領】>>
【藤原純友・天慶の乱】>>
これまで、唯一無二であった平安王朝文化に、一筋の陰りが見えはじめ、朝廷から幕府へ、公卿から武士へと、その主導権が移行していく、最初の段階の時代で、そういう時代背景的な混乱もあったのやも知れませんから、一概に武力行使の是非を問うわけにもいきません。

歴史上の出来事は、その時代背景や、その時代の価値観&一般常識も踏まえて考えないと・・・安易に現代の物差しで測ってしまっては間違った解釈をしてしまう事も多々ありですから・・・

★石清水八幡宮へのくわしい行き方は、本家ホームページ「京阪奈ぶらり散歩」男山周辺散策>>でどうぞm(_ _)m
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2020年4月 1日 (水)

酒乱の藤原兼房…宴会で大失敗の巻

 

寛仁二年(1018年)4月1日、藤原兼房が酒の席で藤原定頼相手に大暴れしました。

・・・・・・・・

藤原兼房(かねふさ)は、先日書かせていただいた、あの「下女襲撃事件」を起こした藤原兼隆(ふじわらのかねたか)(1月28日参照>>)の息子です。

そのページにもチョコッと書かせていただきましたが、この息子=兼房も父に負けず劣らずの・・・いや、なんなら、この息子の方が、かなりの暴れん坊だったのです。

それは寛仁二年(1018年)4月1日の夜の事・・・

当時、近衛少将(このえしょうしょう=御所の警備担当)だった兼房は、10代後半~20歳前半の若者たちが集まる宴会に参加します。

兼房自身も当時は18歳・・・と言っても、現代の若者たちとは違って、10代半ばで結婚して子供をもうけるような時代ですから、こんくらいの年齢なら、おそらくは酸いも甘いもかみ分けた立派な大人だったのでしょうけど。。。

もちろん、平安時代には貴族が集うような居酒屋的な物もありませんから、場所も宮中・・・その宮中の一室に集まって酒を酌み交わしていたわけです。

おそらくが、若い物ばかりで和気あいあいと楽しく飲んでいたのでしょうが、そんな中で突如として事件は起こります。

酔いが回り始めた藤原兼房が、同席している藤原定頼(さだより)悪口を言い始めたのです。

それは、この出来事を日記に書いた藤原実資(さねすけ)が、
「敢(あ)えて云(い)うべからず…」
と、口にするのも避けるほどの悪口・・・いや、目の前にいる人に対して口汚く罵倒する感じですから、もう悪口を通り越してケンカ売ってる感じの言い方・・・

しかも、自分で言ってるうちにどんどんテンションが高くなり、定頼に近づいて来て、彼の前に置かれていた酒の肴を足で蹴散らしたのです。

もう、完全にちゃぶ台ひっくり返し状態です。

とは言え、相手の定頼は冷静でした。

「こんなヤツ、相手してられへん」
とばかりに、何も言わず、さっさと、その場を立ち去ろうとします。

しかし、テンション最高潮の兼房は、まだまだ止めず・・・止めようとする同僚を振りほどいて、定頼の被ってる物=つまり冠をはぎ取ろうとしたのです。

この時代、貴族が大勢の目の前で(もとどり=頭上で髪を束ねてる部分)を晒す事は、非常に恥ずかしい事・・・まして、それが「冠を他人に奪われて、そうなった」てな事になると、とんでもなく不名誉な事なわけで・・・

それでも定頼は、ヘタに抵抗せず、ただただ兼房から逃げまくって、スキを見て自分の控室へと逃走して部屋に籠り、とにかく大ごとにならないようやり過ごす事に・・・

それこそ、大ごとになれば、怒られるのは兼房の方なのですから、むしろ、定頼は大人な対応をしてくれていたわけですが、残念ながら兼房の方は、それを察して大人しくしてくれるような人では無かった。。。

なんと、定頼が逃げ込んだ控室に向かって石を投げ始めるのです。

それも一つや二つではなく、雨あられの如く・・・

それでも、定頼は、控室から出る事無く、ただただ、その場をやり過ごしておりました。

いくら石を投げても、いっこうに定頼が出て来ない事で、さすがの兼房も諦めたのか?、しばらくして控室の前を立ち去りますが、今度は、天皇の寝所に近い殿上の間(でんじょうのま)へと向かい、そこで、またまた定頼の悪口を大声で喚き散らしたのです。

この様子は、まるで「狂者の如し」だったようで・・・ま、結局は、酒乱ってヤツですね。

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寝殿(再現)

…にしても、実資さんも、せっかく日記に書くなら
「敢えて云うべからず…」とか言わないで、ちゃんと、どんな内容だったのか、書いといてほしいわぁ。。

その悪口の内容がわからないんじゃ、せっかくのオモシロさが半減ですよ~

とは言え、ここまで大暴れしちゃったら、せっかくの定頼さんの大人な対応も台無し・・・

案の定、翌日、当時の最高権力者=藤原道長(ふじわらのみちなが)に父の藤原兼隆が呼び出され、即刻、息子=兼房への謹慎処分が言い渡されたのです。
(親呼ぶんや~高校生か!)

さらに、この5年後の治安三年(1023年)にも、宮中にて暴力事件を起こした兼房は、とうとう御所から追放され、丹後守(たんごのかみ=京都府北部)備中守(びっちゅうのかみ=岡山県西部)などといった地方官ばかりを歴任する事に・・・

途中、その血筋の良さ?で(父ちゃんは正二位の中納言なので)、なんとか正四位下に叙せられていますが、結局、それ以上の出世は叶わず・・・公卿(くぎょう=御所に仕える上&中級の臣下)になる事すらできないまま、延久元年(1069年)6月4日に69年の生涯を終えています。

ただ、歌は上手かったようで、いくつかの歌集にその名が見えます。

今だと、スナックでカラオケに興じながら、度々、飲み過ぎて失敗するオッチャンみたいな感じなんでしょうか?

♪古里は まだ遠けれど 紅葉ばの
 色に心の とまりぬるかな ♪
「故郷はまだまだ遠いのに、道中の紅葉の美しさに目が奪われて、いっこうに足が進めへんわ」
~って、飲んでさえいなかったら、こんな風流な人やのに・・・残念!!

遠目で見てると笑えるけど、近くで関わりたくはないですね~やっぱりww
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2020年1月28日 (火)

藤原兼隆による藤原実資の下女襲撃事件

 

長和三年(1014年)1月28日、藤原兼隆の従者による藤原実資の下女襲撃事件がありました。

・・・・・・・・

藤原兼隆(ふじわらのかねたか)は、第65代花山天皇(かざんてんのう)の時代に関白(かんぱく=成人天皇の補佐役)だった兄=藤原道隆(みちたか)の後を次いで関白に就任した藤原道兼(みちかね)の息子です。

Fuziwarasikeizu3 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

とにもかくにも、自らの力が及ぶ人物を天皇に据えて栄華を誇ろうと、藤原一族同志で画策していた時代・・・

花山天皇の後ろ盾だった藤原伊尹(これただ)が亡くなった時、その花山天皇を半ば騙すように出家させて(2月8日参照>>)、第66代の一条天皇(いちじょうてんのう)にバトンタッチさせた張本人が藤原道兼です。

おかげで、上記の通り、兄の道隆が亡くなった後、見事関白に就任する道兼でしたが、その時はすでに病にかかっていて、わずか数日後に死去・・・よって道兼は「七日関白」なんて呼ばれたりもするのですが・・・

その死を受けて、関白&左大臣が空席のまま、一足飛びに右大臣に昇進して、事実上のトップとなったのが道兼の弟だった藤原道長(みちなが)でしたが、その昇進に不満を持ったのが、道隆の息子で、今回、道長に飛び越えられてしまった内大臣の藤原伊周(これちか)で、しばらくの間、両者の間でモメ事が耐えませんでした。

そんな中、不満ムンムンの伊周派を花山院闘乱事件(1月16日参照>>)をキッカケに失脚させて、有無を言わせぬ藤原氏のトップとなる道長・・・

この時、本日主役の藤原兼隆は、ちゃっかり道長側について伊周と敵対した事で、それ以降、道長の側近としての道を歩む事になります。

おかげで、その後はある程度、順調に出世していくわけですが、やはり主たるラインは道長の血筋なわけで、なんとななく、道長の息子たちに追い越されていく感が拭えない兼隆さん・・・

そんなこんなの長和三年(1014年)1月28日、事件は起こります。

Fuziwaranosanesuke600a 藤原一族の中でも当代一流の学識人として知られる藤原実資(さねすけ)の下女の家宅にやって来た藤原兼隆の従者たちが、いきなり家財を略奪しつくしただけでなく、家屋そのものを破壊したのです。

もちろん、これは下っ端の者が勝手にやったのではなく、藤原兼隆の命令があって従者たちがやった事・・・では、なぜに、そんな暴挙に出たのか?

実は、その少し前・・・
兼隆家の下女が実資家の下女の家の井戸の水を、無断で使用した事に始まります。

自分ちの井戸で勝手に水を汲んでいた兼隆家の下女に対し、
「アンタ、何を勝手に使ってんねん!」
と詰め寄る実資家の下女・・・

井戸端で口論となり、それがつかみ合いのケンカになり・・・と、いかにも女同士のしょーもないケンカだったわけですが、その勢いで、実資家の下女にどつかれ、着物を剥がされた兼隆の下女は泣く泣く自宅へと戻り、当然、この事を兼隆に報告・・・

この状況に
「ワシの私有地で…何て事しくさる!いてまえ~」
と、自分の土地に不当に住んでいる者がいると知った兼隆は激怒し、その実資家の下女を追放するつもりで、従者に徹底的に潰してしまうようにと命令を出したのです。

しかし、それは兼隆の大きな勘違い・・・

実は、その場所は兼隆の土地ではなく、はなから実資の私有地であり、かの下女は、ちゃんと実資に許可を取って、その場所に住んでいたのです。

後々の取り調べや書状のやり取りで、この事実を知った兼隆は、ただただ実資に平謝り・・・

「ウチの下女が殴られたり着物を奪われた事は不問にするし、ソチラの下女の損害は、すべて補償するので、どうか穏便に…」

この兼隆の申し出を受けた実資は、『小右記(しょうゆうき)という自身の日記の中で、
「やたら媚びて、すり寄って来て気持ち悪い」
と一言・・・

なんせ、この兼隆という人は、この前年の8月に、自らに仕える厩舎人(うまやのとねり)を殴り殺した過去があった。。。

厩舎人とは馬の世話係って事ですが、この馬の世話係は、主人が騎馬で外出する時には、その馬を引く係でもあるわけで、身分が低いワリには、意外と、その主人と直に接する機会も多々ある従者です。

おそらくは、何かしらの失態をしたか、あるいは兼隆の気にさわる事をしたのでしょうけど、だからと言って殴り殺す人はなかなかいない・・・もちろん、身分高き王朝貴族ですから、自分が殴ったというよりは、それこそ、他の従者に殴らせたんでしょうが、そんな内輪のモメ事が世間に知れ渡ってしまう事は、貴族としては、かなりカッコ悪いわけで・・・

実資は、その日記の中で続けて
「あの人は、自分の従者に対してもあんなんやから、他人の従者にやったら、どんなヒドイ事をするやワカラン…そもそも嘘つきやし」
と、その印象は、相当悪かったようです。

この時の兼隆は、すでに29歳の男盛り・・・若気の至りでは済まされない、血気盛ん過ぎる性格のようですが、実は彼の息子=藤原兼房(かねふさ)も・・・

この事件の7年後の治安元年(1021年)の12月に清涼殿で行われていた 仏名会(ぶつみようえ=1年間の罪を償い祈る仏教行事)の席で、そばにいた源経定(みなもとのつねさだ)と口論になり、取っ組み合いのケンカから、周囲の者が力づくで引き離すまで、一方的に兼房が経定を殴り倒す という事件を起こしています。

この時は、息子の恥ずい姿に、人目もはばからずおいおいと泣きたおしながら退席して行ったという兼隆さん・・・自身の事を棚に上げた完全に「おまいう」状態ですが、そもそも、そういう血筋&性格の人たちだったのか?

あるいは、平安時代の貴族社会という物が、うっ憤たまりまくりの要素満載だったのかも知れませんね。
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2020年1月16日 (木)

長徳の変~中関白家没落のキッカケ花山院闘乱事件

 

長徳二年(996年)1月16日、藤原伊周が花山法皇に矢を射かけた花山院闘乱事件が発覚し、伊周&隆家兄弟が没落する長徳の変となりました。

・・・・・・・

長徳二年(996年)1月16日、その日の勤務を終え、内裏から自宅へともどったばかりの藤原実資(ふじわらのさねすけ)のもとに、右大臣の藤原道長(みちなが)から緊急速報が送られて来ます。

あわてて書状を読む実資は、その内容に驚き、わなわなと手が震えます。

その内容は…
「故・太政大臣藤原為光(ためみつ)の邸宅にて遭遇した花山法皇(かざんほうおう=第65代花山天皇・天皇を退いて出家してるので法皇)と、藤原伊周(これちか)&その弟ご一行が闘乱(とうらん)となり、花山法皇に仕える二人の童子が殺害されて、その首を持ち去られたと聞きました」
という物でした。

平安時代の王朝貴族の言う「闘乱」とは、要は単なるケンカ・・・ただし、一対一ではなく従者を含めた集団乱闘の事です。

平安の王朝貴族と聞けばいかにもおだやかで雅な世界を想像してしまいますが、意外に上記のようなモメ事は多くあり、集団乱闘事件自体は、さほど珍しい事では無かったのですが、ただ、その当事者が前天皇と現内大臣という大物同志だった事は、やはり捨て置けません。

Fusiwaranokoretika500a 左大臣が欠員となっていた当時、朝廷のトップである右大臣は藤原道長・・・内大臣の藤原伊周は、その次=朝廷のナンバー2という事になります。

そのナンバー2が弟である中納言の藤原隆家(たかいえ)とともに、かつて天皇であったやんごとなきお方に・・・しかも従者二人の首を取って持ち帰ったって事ですから、これが問題にならないはずはありません。

それでも、集団乱闘だけなら、(上記の通り結構ある事なので…)何とか収まりそうな雰囲気でしたが、その乱闘の原因のなったそもそもの伊周&隆家兄弟の最初の行為が嵐を呼ぶのです。

そもそも今回の乱闘事件・・・起こった場所は、先に書いた通り藤原為光という人のお屋敷です。

実は藤原伊周は、この藤原為光の屋敷に住む三女のもとに夜な夜な通って・・・つまり、ここの三女さんが、伊周のカノジョだったわけですが、いつのほどからか、その同じ屋敷に花山法皇も通い始めている事が噂になっていました。

花山法皇はかなりのプレイボーイとの噂・・・
「こらいかん!カノジョ取られるやん」
と焦った伊周が弟を誘って屋敷で待ち伏せ・・・やって来た花山天皇に、伊周&隆家兄弟の従者が矢を射かけたのです。

もちろん、伊周&隆家だって、本気で花山法皇を射殺しようなんて気は毛頭ありません。

あくまで脅し&威嚇のつもりだったのですが、放たれた矢は、偶然にも花山法皇の着衣を貫き、あわや、その身体を傷つけかねない、ある意味正確に放たれ過ぎちゃってたんです。

よく、主君を裏切る事や反旗をひるがえす事を「弓を引く」と言いますが、文字通り、今回は「弓を引いちゃった」わけで、これは大逆罪に問われても仕方のない行為です。

そして、この矢を射かけた事をキッカケに両者は乱闘となったわけです。

とは言え、実は、この一件を表沙汰にしたくなかった人が・・・

それは伊周でも隆家でもなく、矢を放たれた側の花山法皇でした。

ぞもぞも、花山法皇がこの藤原為光の屋敷に通っていたお目当ては、実は伊周のカノジョである三女ではなく、その妹の四女=藤原儼子(たけこ)に会うため・・・つまりは伊周が「カノジョ取られる~」と思ったのは完全なる勘違いだったわけですが、別人&誤解だったとは言え、花山法皇が女の子の家に通っていた事は事実なわけで・・・

花山法皇としては、法皇=出家している身で若い愛人宅へ夜な夜な通ってる事は、あまり他人に知られたく無い事だったわけです。

なので被害者である花山法皇も、自身が無事だった事もあって、この件に関しては固く口をつぐんでいて、大ごとにはならないようにしていたのです。

しかし、これを表沙汰にしたのが、かの藤原道長・・・このスキャンダルを見逃さず、ライバル失脚に利用したのです。

Fuziwarasikeizu2 ←藤原氏略系図(クリックで大きく)

実は、この事件の前年に亡くなった伊周の父=藤原道隆(みちたか)は道長の兄・・・

つまり道長と伊周&隆家兄弟は叔父と甥っこの関係になるわけですが、時の権力者=関白(かんぱく=天皇を補佐する官職)であった生前の道隆は、我が子=伊周を自らの後継者にしようと必死のパッチで出世街道を歩ませ、半ば強引に官位を引き上げてのゴリ押し状態に、周囲も眉をひそめる状況だったのです。

なので、長徳元年(995年)4月10日に道隆が病死した後に、すんなりと伊周が後継者に・・・とはいかず、半月ほどの関白不在の期間を経た4月27日に関白に就任したのは道隆の異母弟である藤原道兼(みちかね)でした。

しかし、その道兼は、この時すでに疫病にかかっていて、就任後わずか7日目に死去・・・

で、道兼の弟である道長と、道隆の息子である伊周との間で関白の後継を巡っての争いが勃発していたわけです。

その結果・・・翌月の5月に道長に宣旨(せんじ=天皇の命令文書)が下り、道長が内大臣の伊周を飛び越えて右大臣に昇進し、氏長者(うじのちょうじゃ=藤原氏のトップ)も獲得したのでした。

つまり、後継者争いは道長の勝利となっていたのです。

しかし、当然、納得いかない伊周・・・この夏頃には、会議の席で不満をぶちまけて激しい口論となったり、都大路で遭遇した両者の従者同志で乱闘騒ぎになった事もありました。

そんな中で起こったのが、今回の花山院闘乱事件だったわけです。

関係者がひた隠しにしていたこの事件を知った道長は、チャンスとばかりにこれを公にし、一条天皇(いちじょうてんのう=第66代)の命を受けた検非違使(けびいし=治安維持・検察)伊周&隆家兄弟の罪状を固めるべく、本格的な捜査を開始したのです。

家宅捜索によって複数の私兵を雇っていたいた事がバレたり、いつの間にか、一条天皇の母親を呪詛(じゅそ=呪いをかける事)していた罪もプラスされ、結局、伊周に連なる面々が、ことごとく処分されました。

伊周は大宰府(だざいふ=福岡県太宰府市)に、隆家は出雲(いずも=島根県東部)に左遷・・・後に許されて都に戻り、「道長暗殺計画」なんぞ企てる伊周派たちでしたが、結局、再び政治的に浮かび上がる事は無く、ご存知の藤原道長の単独トップ全盛時代へと向かっていく事になります(12月4日参照>>)

この一連の政変は長徳の変(ちょうとくのへん)と呼ばれます。

トップからのいきなりの転落・・・そもそもは法皇に矢を放っちゃった以上、自業自得なんでしょうが、その高低差にに耳キーンとなる出来事でした。
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2019年12月26日 (木)

平安貴族殺害事件~源政職の最期

 

寛仁四年(1020年)閏12月26日、現職の加賀守である王朝貴族・源政職が殺害されました。

・・・・・・・・

時は平安・・・第67代=三条天皇(さんじょうてんのう)から第68代=後一条天皇(ごいちじょうてんのう)に代ろうかという頃のお話。

ちなみに、三条天皇の先代が第66代が一条天皇(いちじょうてんのう=三条天皇の従兄弟)で、その皇后であった藤原彰子(ふじわらのしょうし)との間に生まれたのが後一条天皇です。

この後一条天皇が即位した時、奥さん=彰子の父であるご存じ藤原道長(ふじわらのみちなが)が、天皇の外戚(母方の祖父)として我が世の春を迎え、
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪
(10月16日参照>>)
の歌を詠んだのが寛仁二年(1018年)なので、まさに道長全盛の頃で、彰子の家庭教師だったあの紫式部(むらさきしきぶ)が雅な恋愛模様を描いた源氏物語の世界の時代なわけですが・・・

実は、その少し前の長和三年(1014年)6月16日の事・・・白昼の平安京を騒がす一大事件が起こります。

当時、加賀守(かがのかみ)という現役の受領(ずりょう=行政責任を負う筆頭者)だった源政職(みなもとのまさもと)白昼堂々と衆人環視のもと拉致されたという・・・

しかも、その状況は政職が、公道(場所は定かでない)で数人の男に取り囲まれ、自分の足で歩いて連行されていくという光景だったのです。

この源政職という人は、その姓でわかる通り、立派な源氏の一門で第58代光孝天皇(こうこうてんのう)の子孫、官位も従五位下(じゅごいのげ)で、ギリではあるものの、いわゆる王朝貴族に分類される人ですから、公衆の面前で徒歩で連れて行かれるなんて事は、本来、あり得ない事で、「前代未聞」「尋常ではない」と、お公家さんたちも大騒ぎです。

なんせ、当時の王朝貴族は、例え犯罪者として連行される場合でも牛車(ぎっしゃ)を使うのが通例でしたから、政職にとってはかなりの屈辱・・・しかも、連れて行かれた先で、殴る蹴るの暴行まで受けてしまいます。

その連れて行かれた場所は、左大臣を務める藤原顕光(ふじわらのあきみつ)の邸宅である堀河院(ほりかわいん)で、この事件の主犯である敦明親王(あつあきらしんのう)の住まう場所でした。

この敦明親王は三条天皇の第1皇子で、親王という事ですから、次期天皇候補でもあるお方・・・敦明親王の奥さんが藤原顕光の娘である藤原延子(えんし)だったので、奥さんの実家である堀河院に住んでたわけです(当時の主流は通い婚なので、そのまま奥さんの家に住んでる事はよくある)

未だ皇太子では無いとは言え、現天皇の皇子が起こした事件は貴族たちを大いに驚かせたわけですが、ここで誹謗中傷の的となったのは、当の敦明親王ではなく、舅の藤原顕光でした。

なんせ敦明親王まだ21歳・・・「若い皇子の日ごろの行動を監督するのは岳父(がくふ=舅)の役目」とばかりに、その責任を追及したのだとか・・・とは言え、顕光さんは顕光さんで、表立って批判した相手を呪詛(じゅそ=のろい)したりなんぞしてますし、2年前には今回の敦明親王とまったく同じような暴力事件を顕光さん自身が起こしてますので、本人にとってはどこ吹く風だったのかも知れません。

ところで・・・
話忘れておりましたが、そもそも今回の襲撃事件の原因は・・・

敦明親王という人は源政職以外とも、別の襲撃事件を起こしている暴れん坊親王ではありますが、さすがに、何も無いのにただただ襲撃しに行ったわけ無い・・・

実は源政職は、 敦明親王の妹である禎子内親王(ていし ないしんのう=母は藤原道長の娘)多額の債務があったのです。

王朝貴族が借金??
と思っちゃいますが、実はこの時代、債務を抱えてる貴族は多くいて、実は先ほど書いた藤原顕光自身が2年前に起こした暴力事件の原因も、とある貴族に対する借金の取り立てだったのです。

それは、この時代、ある程度の官職を得るには、地位のある誰かに推挙=いわゆる口利きをしてもらって任官を得るというのが当たり前にになっていて、当然、それには「口利き料=任料」が発生する・・・しかも、大抵の場合、あの人にもこの人にも口きいてもらってるので、それが多重債務となってしまう事が多々あったのです。
(他にもイロイロあったと思いますが、今日のところは棚の上で…m(_ _)m)

それらをテキパキと返せる財力があれば良いですが、さすがに皆が皆、そこまでの財力あるわけないので、
とりあえずは上位ランクのコワイ人順に返していく
→からの、
途中から返せなくなって来る
→からの、
(貸してる側からすれば)俺てそんな順番下なん?
→からの、俺の事軽んじてるんちゃうん?
→からの、返す気あるん?ウヤムヤにしようとしてない?
となってしまうのです。

こんな感じで、平安時代の雅なイメージとはうらはらに、債権の回収に暴力が行使される事はしばしばあり、中には集団乱闘となった事件もありましたが、大抵の場合は、殴る蹴るの暴行を受けるものの、念書を書かせたり、約束を再認識させたりで落ち着き、命まで取られる事はなかったようです。
賄賂や口利き料の是非については今回は問わない事に…)

今回の政職さんも、この拉致監禁暴行事件の後も健在で、その翌年の7月には、政職の妻とされる少将(しょうしょう=あるいは小少将)と呼ばれる女性の自宅に、禎子内親王の執事(しつじ)平為忠(たいらのためただ)が、検封(けんぷう)=この場合は「差し押さえ」のために乗り込んで来て、家財道具や財産のすべてが差し押さえられたのだとか・・・

Fuziwaranosyousi600a この少将と呼ばれる女性は、藤原彰子に仕えていた女房だったようで、どうやら、この後、藤原道長に泣きついて事なきを得たようですが・・・にしても政職さん、暴行事件の後も、まだ返して無かったんかい!

先にも書いた通り、この時の政職は現役受領であり、現職の加賀守・・・いくらなんでも口利き料を返済できないほどの財力しか持ってないとは考え難いですし、公家の日記によると、この頃の政職は、加賀国へ割り当てられた朝廷への貢納さえも滞納していたようですので、ここまで来たら、この方も、あの「想像を絶するルーズさ」に分類される人だったのかも知れません。

とは言え、この時の拉致監禁暴力事件では助かった源政職ですが、結局この後、非業の最期を遂げる事になるのです。

それは事件から6年後の寛仁四年(1020年)閏12月26日の夜の事・・・自宅に強盗が押し入り、その強盗の槍で突かれて殺害されたのです。

ただし、そこにも噂が・・・
実は、この少し前、加賀の国の百姓たちが、32か条にも及ぶ政職の違法行為を列挙した書状を提出して訴えを起こし、それと同時に、そんな政職の横暴ぶりに耐えかねて田畑を捨てて逃亡する者が後を絶たないというニュースが都まで届いていたのだとか・・・

つまり政職の領国経営に不満を持っていた者も少なからずいたという事。

果たして、源政職殺害事件は、本当に、単なる金目当ての強盗だったのか???
それとも、どこかの誰かが強盗の仕業として処理したかっただけなのか???

とにもかくにも、源政職の最期は、王朝貴族の雅な雰囲気とはかけ離れた凄惨な現場であった事は確かなようです。
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2019年4月 8日 (月)

ほぼ満開!枚方~渚の院跡の桜と在原業平

 

枚方は、京阪電車の御殿山駅近くにある「渚の院跡」に行ってきました~
ちょうどが見頃でした。

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渚の院跡(京阪・御殿山駅より徒歩10分)

「渚の院」「桜」と言えば、やはり『伊勢物語』ですよね~

『伊勢物語』は、むかし男ありけり・・・で始まる 平安初期に成立したとされる歌物語。

この物語の主人公である「男」は、物語の中では誰とは特定されないものの、かなりの史実が含まれている事から、平安一のモテ男=在原業平(ありわらのなりひら)であろうというのが定説です。

在原業平は、第51代=平城(へいぜい)天皇の孫にあたりますが、弟の嵯峨(さが)天皇に皇位を譲った後に復権を願って事を起こしてしまった(9月11日参照>>)ため、平城天皇の皇子である高丘親王(たかおかしんのう=高岳親王)(1月23日参照>>)阿保親王(あぼしんのう=業平の父)も失脚・・・当然、その息子である業平もエリートコースから除外される事になります。

しかし、その後、嵯峨天皇の孫にあたる文徳(もんとく)天皇が第55代天皇として即位した事から、その第1皇子であった惟喬親王(これたかしんのう)に仕えていた業平にも復活のチャンスが訪れたかに見えたものの、時の権力者である藤原(ふじわら)藤原明子(あきらけいこ)が生んだ惟仁(これひと)親王が、わずか生後8ヶ月にて皇太子に据えられ、後に、わずか9歳で第56代清和(せいわ)天皇として即位(12月4日参照>>)してしまう・・・つまり、惟喬親王も失脚してしまったわけです。

そんな惟喬親王の別荘だったのが「渚の院」です。

現在の京阪電車の御殿山駅から枚方市駅あたりは、この平安時代には「禁野(きんや)と呼ばれる一般人立ち入り禁止の皇室専用の狩り場で、若き日の業平も惟喬親王のお供をして、度々狩りに訪れた場所でしたが、皇位継承の争いに敗れた惟喬親王は、失意のまま隠遁生活に入り、この渚の院に来ては、狩りをするでもなく、お酒を飲みながら和歌など詠む日々を過ごしていたのだとか・・・

そんな頃の一場面を語るのが『伊勢物語』第八十二段『渚の院』です。

Isemonogatari82a700 「むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり…(中略)…いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし」

渚の院にやって来た惟喬親王は、「ここの桜は事に美しい」と、一行はその桜の下で集い、歌を詠む事に・・・

そばにいた右馬頭(うまのかみ=朝廷の馬係・官職)
♪世の中に たえてさくらの なかりせば
 春の心は のどけからまし♪
「この世に、桜という物が無かったら、春でも心静かにしておれるのに…」
(桜があるから、もう咲いたか?散ったか?と心がソワソワするんや)
と詠むと、

そばにいたもう一人が
♪散ればこそ いとど桜は めでたけれ
 憂き世になにか 久しかるべき♪
「散るからこそ桜は良いんです。いつまでもある物や無いからこそ…」
と詠んだ。。。と、

『伊勢物語』では、この『渚の院』の場面で歌を詠んだ人を「右馬頭」と呼び、「その名前は忘れた」と、あえて名を明かしませんが、前後の関係から見て、当然、この右馬頭は在原業平の事です。

なぜ、わざわざ名を明かさないのか??

もちろん、作者の真意は藪の中ですが、私としては、この時のこの歌に詠まれている「桜」が単に、そこに咲く「桜」を意味しているのでは無いからではないか?と推測しています。

以前、業平さんのご命日の日に書かせていただいたページ(5月28日参照>>)で、清和天皇のもとに嫁ぐ予定の藤原高子(こうし・たかいこ)を略奪したり、藤の花を愛でる酒宴の席で「藤の花にちなんで、藤原家の繁栄を歌に詠んでくれ」と言われたのに「思った事はそのまま口にしないほうがいい」という意味深な歌を詠んだり・・・と、「藤原氏によってはじかれたであろう業平の、ささやかな抵抗が垣間見える」とさせていただきましたが、

その感じでいくと、この歌も・・・
「それが無ければ静かにしていられる物」は、桜ではなく「後継者争い」では無かったか?と・・・

だからこそ、詠んだ人物を特定しなかったのかな?…と思うのです。

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渚の院跡

惟喬親王の別荘だった渚の院の場所には、その後、観音寺というお寺が建立されますが、明治の廃仏毀釈により廃寺となり、現在は、その梵鐘だけが残ります。

訪れる人も少ないこの場所に、今年もひっそりと咲く桜・・・
遠い昔に思いを馳せつつも、何やら時が止まったようにも見えました。

Nagisanointizu ←渚の院跡への地図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 
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2017年11月11日 (土)

桓武天皇渾身の新都~幻の都・長岡京遷都

延暦三年(784年)11月11日、桓武天皇の勅命により、平城京から長岡京へと遷都されました。

・・・・・・・・・・・・・

長岡京(ながおかきょう=京都府向日市・長岡京市・京都市西京市)は、天応元年(781年)に即位した第50代=桓武(かんむ)天皇によって、延暦三年(784年)11月11日から平安京に移る延暦十三年(794年)10月22日までの10年間、日本の都とされた場所です。

余談ですが、あらためて教科書の年表など調べてみると、平安時代という時代区分は平安京に遷都された延暦十三年(794年)からなんですね~

なので、この長岡京は時代区分で言うと奈良時代になる・・・個人的にはちょっと??な感じがしないでもないですが、まぁ、時代区分なんて物は、後世の人がわかりやすいように考えた文字通りの単なる区分でしょうし、都が平安京なので平安時代という名称なのだから、平安京ではない長岡京が含まれないのは致し方ないのかも知れないですね。

と言うのも、この長岡京は、『幻の都』と呼ばれる謎多き都なのです。

もちろん、この長岡京の話は『続日本記』にも登場しますし、当時の(みことのり=天皇の命を直接伝える文書)にも「水陸の便有りて、都を長岡に建つ」とありますので、長岡京という都があった事自体は古くから知られていました。

また、向日神社(むこうじんじゃ=京都府向日市)の建つ丘陵を中心とした一帯が、昔から『長崗』と呼ばれていた事もありましたから、「おそらく、このあたりに都が…」という予想はされてはいたのですが、明確な場所というのは特定されていなかったのです。

Dscf1950a600 そんな中・・・それまで、明治になって天皇が東京に移った事で寂れる一方だった京都の町を復活すべく立ち上げられた明治二十八年(1894年)の『平安遷都千百年祭』(3月16日参照>>)なる京都復活イベントの一環として長岡京の遺跡保存の気運が高まり、有志により『長岡宮跡』の石碑が建立されたりもしましたが、本格的な発掘調査が始まったのは昭和二十九年(1954年)12月・・・翌年の1月に初めて遺跡の存在が確認されたのです。

さらに昭和三十四年(1959年)の宅地開発をキッカケに、大極殿(だいごくでん=最重要な儀礼施設)の跡が確認&調査され、京都府による保存&整備が決定し、その事業は、平成の今も継続中・・・なので、今後も新たな発掘&発見がある事でしょう。

Dscf1946a1000
保存&整備された大極殿公園(京都府向日市)…大極殿公園や向日神社・乙訓寺など長岡京の史跡へのくわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「長岡京へ行こう」でどうぞ>>

ちなみにですが・・・
上記の大極殿跡などがあるこの場所は長岡京跡ではなく長岡宮跡・・・(もちろん、広域に点在する関連史跡を含む場合は長岡京跡ですが…)

それは・・・奈良の平城京もそうですが、遷都された後の都というのは、宮殿は取り壊されてリサイクルされたりするので、跡かたも無くなって田んぼや畑になる可能性が高く、後に発掘調査されて公園として整備される事が多々ありますが、都そのものは、神社仏閣があったり人が住んでいたりするので、徐々に姿を変えつつも、結局はそのまま町になっている事も多々あります。
(奈良の平城京も、現在公園のように整備されている場所は平城宮=宮殿跡で、都そのものは東は東大寺~春日大社、南は現在の大和郡山市あたりまでありました:2月25日参照>>

なので、上記のように、宅地開発で更地になって発見されたりする以外は、すでに建物が建っているのを壊してまで発掘調査する事はしない方向ですので、なかなか都そのものの全容を確認するのは難しい・・・逆に、平安京のように、町が発展しまくって、大極殿跡などの宮殿施設のほとんどが石碑のみになっちゃってる場合もあります(現在の京都御所は里内裏という一時的な皇居だった場所です=11月8日参照>>

とは言え、近年の発掘調査で、幻の都の姿は、かなり解明されるようになって来たわけで・・・以前は、そのあまりの幻っぷりに、「未完成のまま破棄された」と言われていましたが、発掘が進むにつれ、その大きさも、東西4.3km南北5.3kmと平城京や平安京に匹敵する大きな都で、向日神社周辺の丘陵地域を確保した宮殿のあたりは、一段高い位置にあって広大な都を見下ろせる絶好のロケーション・・・宮殿から中央を貫く朱雀大路(すざくおおじ)を中心に碁盤の目のような大路小路も整備され、役所や貴族の邸宅などがその重要度に応じて配置された、かなりの完成形を成していた事などがわかって来ています。

Nagaokakyoub ←長岡京の位置図 
クリックで大きくなります
(背景は地理院地図>>)

また、朱雀大路の最南端にある羅城門(らじょうもん)を出てを南に行けば、すでに奈良時代には水路の要所として栄えていた山崎津(やまざきのつ=京都府乙訓郡大山崎町)があり、ここを都の表玄関として、人や物資の往来もたやすく、政治・経済・文化の中心となり得る、すばらしい都であった事がうかがえます。

まさに、桓武天皇渾身の都・・・それが長岡京だったのです。

今回の平城京からの遷都の理由については、未だ謎多く、様々な説がありますが、私としては、やはり、奈良時代のモロモロを払しょくして心機一転する事にあったと考えています。

Tennouketofuziwarakekeizukouzin 以前、桓武天皇の父で、第49代天皇である光仁(こうにん)天皇のページ(10月1日参照>>)でくわしく書かせていただきましたが、この光仁天皇が100年ぶりの天智(てんじ)天皇系の天皇であった事・・・

これまで、かつて飛鳥時代に起こった壬申の乱(じんしんのらん)(7月23日参照>>)という皇位継承争いに勝利して政権を握った天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)系の天皇が仕切っていた奈良時代・・・

藤原氏がその外戚(がいせき=天皇の母の家系)を手放したく無いために打った奥の手が第46代孝謙(こうけん)天皇という生涯独身の女性天皇(←天皇の子供が後を継ぐパターンは不可能)だった事で、
(これまでの女性天皇はすべて、后という立場を経験しており、今は幼くとも、将来的には後を継ぐべき皇子がいる中継ぎの天皇でした)
一旦、第47代淳仁(じゅんにん)天皇に皇位を譲ったものの、またぞろ第48代称徳(しょうとく)天皇として自らが返り咲き、さらにそこに道鏡(どうきょう)という僧が関与して来て、あわや「道鏡が天皇に???」という事件まで発生してしまっていたのです。
【藤原仲麻呂の乱】参照>>
【道鏡事件】参照>>
淳仁天皇・崩御】参照>>
【和気清麻呂、流罪】参照>>

もちろん、それらの出来事に至る真相については、まだまだ謎な部分はあるのですが、いずれにしても、これらのゴタゴタは、当事者個人が起こしたというよりは、彼らの利権に群がる仏教勢力や貴族の派閥やらが複雑に関与していたわけで・・・

で、結局、これらの勢力とは、ほぼ無関係の天智系の人だった桓武天皇の父=光仁天皇に100年ぶりに皇位が廻って来る事になった・・・つまりは、桓武天皇父子だけでなく、周囲の人たちも、奈良時代色を消し去り心機一転=大きな改革が必要だと思っていたわけで・・・

そのため・・・
飛鳥→藤原→平城と、これまで都が移転する度に、ともに移転していた大寺院は、そのまま奈良に残しての遷都、
なんだかんだで飛鳥時代から、副都心として維持されていた難波宮
(なにわのみや=大阪府大阪市中央区)(12月11日参照>>)を全面撤去しての遷都、
これまで水運の中心だった港を、浪速津
(なにわづ=大阪市中央区)から山崎津に変更しての遷都、
となったわけです。

このように、天皇自ら政治を行う親政(しんせい)を目指し、一大決心で挑んだ長岡京遷都だったわけですが、冒頭にも書かせていただいたように、歴史の授業でも超有名な「鳴くよウグイス平安京」=平安京に都が遷されるのは794年・・・つまり、この長岡京は、わずか10年の短い命だったのです。

そう、大きな改革であればこそ、それだけ多くの反対派が存在するのも道理というもの・・・

延暦三年(784年)6月頃に始まった新都の工事が着々と進んでいたはずの延暦四年(785年)の9月24日、早くも事件は起こります。

桓武天皇の信頼も厚く、もともと「新都をこの長岡に地にしては?」とのアドバイスをした人物であり、その造営に関する事をほぼほぼ任されていた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が、工事の検分中に反対派に襲われ、翌日、死亡してしまったのです。

Dscf2066a1000 しかも、その事件に桓武天皇の弟で皇太子だった早良(さわら)親王が関与していたとされ、親王は皇太子を廃され、乙訓寺(おとくにでら=京都府長岡京市)に10日ほど幽閉された後、淡路島(あわじしま=兵庫県)への流罪となります。

幽閉直後から食を絶ち、無実を訴えた親王でしたが、その訴えが聞き入れられる事無く流罪が決行され、衰弱した親王は、島に到着する前に亡くなってしまうのです。

この事件によって、いち時は工事が中断されたものの、延暦六年(787年)の10月には、桓武天皇自らが、未だ皇居が未完成な新都へと移り、翌七年の12月には、紀古佐美(きのこさみ)征夷大将軍として蝦夷(えぞ)に出兵する(7月2日参照>>)など、遷都への意気込みはもちろん、更なる強気を見せる桓武天皇・・・

しかし、またまた不幸が襲います。

延暦八年(790年)の12月には、天皇の母の高野新笠(たかののにいがさ)が、翌年の閏3月には皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)が相次いで崩じ、さらに、亡き早良親王の代わりに、新しく皇太子に立てた天皇の実子=安殿(あて)親王(後の平城天皇)まで病気にかかってしまったのです。

お気づきの通り、最初の不幸は人為的ないわゆる事件ですが、後者の不幸は病(疫病だったとも言われます)・・・そこで、慌てて皇太子=安殿親王の病を占うと、なんと、その原因は「早良親王の祟り」と出ます。

しかも、その占いの結果が出た直後の延暦十一年(792年)6月22日、激しい雷雨によって式部省(しきぶしょう=会社でいう所の人事部)南門が倒れ、約1ヶ月半後の8月9日には、大雨による洪水で桂川が氾濫・・・2日後の11日には、天皇自らが高台に上って、その洪水の様子を目の当たりにしたと言いますが、おそらくここで、天皇も「これはアカン!」と思ったのでしょう(←心の内なので、あくまで予想です)、なんせ、この頃は怨霊や祟りが本当に信じられていた時代ですから・・・

翌・延暦十二年(793年)の年が明けて早速の1月15日には、使者を山背国葛野郡宇太村(やましろこくかどのぐんうたむら) に派遣して現地視察をさせ、1月21日には、もう長岡京の一部解体工事が開始され、2月2日には遷都の意思を賀茂大神に告げ、3月1日には、天皇自ら山背国に行幸して現地視察をしています(早っ!)

そう、この山背国葛野郡宇太村が、怨霊を封じ込める四神相応(しじんそうおう=東西南北の四方の神に守られている=くわしくは下記平安京のページで)の地=風水によるベストな地だった後に平安京となる場所でした。

着々と工事は進む中、翌・延暦十三年(794年)7月には、東西の市も新都(平安京)に移され、10月22日、正式に平安京遷都となったのです。

平安京については・・・
以前から、何度か書かせていただいてますので、内容がカブり気味で恐縮ですが、
【究極の魔界封じの都・平安京】>>
【早良親王・怨霊伝説~お彼岸行事の由来】>>
【平安京の変化~朱雀大路と千本通】>>
【平安京はいつから京都に?】>>
など参照いただければありがたいです。

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2016年7月30日 (土)

源氏物語を書いて地獄に堕ちた?~紫式部

 

関東も梅雨明けを迎え、いよいよ夏本番!という事で、本日は、ちょっと怖~いお話を・・・

・・・・・・・・・・

世界最古級の長編小説とも言われる『源氏物語』を書いたとされる紫式部(むらさきしきぶ)・・・

もはや説明する必要も無い超有名な歴史人物ですが、一方では、生没年や本名など、細かい部分がよくわからない人でもあります。

なんせ、平安時代くらいまでは、「男性に顔を見られる事は恥」だったり、「プロポーズの返事(OKの場合)が本名を教える事」だったりするような時代ですから、女性には謎の部分が多いのです。

とにもかくにも、寛弘二年(1005年)頃から、第56代=一条天皇の中宮である彰子(しょうし=藤原道長の長女で後の上東門院)家庭教師として仕えた事は間違いないでしょうが、冒頭に書いた通り、「源氏物語の作者」というのも、「だとされる」という雰囲気で、「作者は男だった」とか「作者は複数いた」とか、諸説あるんです。

とは言え、父の藤原為時(ふじわらのためとき)や弟の惟規(のぶのり)式部丞(しきぶのしょう=現在の文部科学省のような行政機関)の役人であった事から、勤務先の宮中にて、最初は藤式部(とうのしきぶ)と呼ばれていたのが、あの『源氏物語』の中で主人公の光源氏(ひかるげんじ)が、自らの理想の女性に育て上げようとするヒロイン=紫の上(むらさきのうえ)にちなんで、いつしか紫式部と呼ばれるようになったというのが一般的な説です。

Murasakisikibu800
彰子(左)に『白氏文集』を説く紫式部(右)『紫式部日記絵詞』

で、その紫式部に・・・実は、「その死後に地獄に堕ちた」という伝説があるのです。

鎌倉時代の説話集『今物語(いまものがたり)によれば・・・

・‥…━━━☆

ある人が不思議な夢を見ます。

枕元に、輪郭もよくわからない、ぼんやりとした影のような物が見えたので、
「誰?」
と声をかけてみると、

「私は、紫式部です。
私は、生前、嘘の作り話ばっかり沢山書いて、人を惑わせてしもたために、今は地獄に落ちて責められ、毎日苦しい思いをしていて、もう耐えられませんねん。
どうか『源氏物語』の巻の名前を詠み込みつつ、南無阿弥陀仏とか、お経を唱えるような歌を一巻ずつ詠んで供養して、この苦しみを和らげてくれはりませんか?」

「めちゃムズっ!(@Д@;」
と思ったその人は、
「たとえば、どんな風に詠んだらえぇんでしょうか?」
と尋ねます。

すると・・・
♪きりつぼに 迷はん闇も 晴るばかり
 なもあみだ仏と 常にいはなん ♪
「桐壺の巻を書いたために入ってしまった迷宮の闇が晴れるように、いつも南無阿弥陀仏と唱えて欲しいワ」

と言い終わるや否や、その影は消えてしまった・・・と、

・‥…━━━☆

源氏物語は五十四帖・・・こんな感じの歌を「54首も作れ」って、かなりの無理難題な気もしますが・・・

とは言え、この「紫式部地獄落ち説」は、けっこう早いうちから囁かれていたようで、平安末期の平康頼(たいらのやすより)による説話集=『宝物集(ほうぶつしゅう)にも、

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なんや最近、
「嘘八百な源氏物語を作った罪で地獄に落ちて苦しんでるさかい、一刻も早く物語を破り捨てて一日経(いちにちきょう=集中して1日で写経を完成させる事)をやって菩提を弔って欲しい」
と、どこぞの人の夢に紫式部が出て来たよって、歌人たちが集まって、皆で写経して供養したてニュース聞いたわ。

:;;;:+*+:;;;:+*+

と、コチラは実際に供養した事が、巷の噂になっていた事が書かれています。

確かに・・・
言われて見れば、源氏物語って、かなりな内容ですからね~

ドロドロ不倫しまくりで、愛すればこその情念は、ともすれな怨念に変わる・・・1夜限りの関係の女性が「捨てられた」と嘆き悲しんだり、通われなくなった女性が生霊となって現在の恋人を呪ったり・・・

男と女の恨みつらみの愛憎劇を何もないところから作りあげる行為は、言いかえれば大いなる嘘つき・・・

今生きる私たちでこそ、生まれた時から創作童話や小説やドラマなど、フィクションの物語にドップリ浸かってますから、そこに違和感を覚える事もありませんが、書く物と言えば、日記や報告など・・・その出来事を記録するために「物を書く」のが常識だった時代に、フィクションを、それも、怨霊出まくりの奇怪な物語を書けば、そんな風に思われてしまうのも仕方ない事なのかも知れません。

なんせ、「言霊(ことだま)とか「呪詛(じゅそ)とか、真夜中の「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)なんかが信じられていた時代ですから・・・

しかし、一方で擁護派もいます。

平安末期頃に成立したとされる『今鏡(いまかがみ)は、「紫式部に仕えた侍女」を語り手として話を進めて行く形式の歴史物語ですが、その中で、その老婆に
「源氏物語を、妄語や虚言とかいうのは違うと思います。
虚言とは、自分を良く見せるために起こってもいない事を起こったように話して、他人を騙すような行為ですが、この物語は人を楽しませ、満足させ、明るい良い方向へ導く物語なんです。
こんなすばらしい物語を書いた紫式部は妙音観音
(みょうおんかんのん)の化身なんやないか?と思うくらいです」
と言わせています。

いつしか、そのような考え方が、紫式部を供養する会=『源氏供養(げんじくよう)という文化を生み出します。

鎌倉時代の初め頃から、あちこちで行われた『源氏供養』は、やがて『源氏供養』を題材とした新しい物語が作られるように・・・まさに、源氏物語スピンオフ!

有名な能楽作品の『源氏供養』では、供養の後のクライマックスで、紫式部が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の化身であった事が明かされてラストを迎えるのだとか・・・

なんだか、ホッとしますね。

果たして紫式部は、
地獄に堕ちた大嘘つきか?
はたまた、
傑作を生み出した観音様か?

その答えは・・・
1000年以上に渡って読み継がれ、21世紀の現代に至っても、何度も映画やドラマの原作になる・・・そんな物語が他にあるでしょうか?

それこそが答えですね。
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2014年12月 4日 (木)

全盛を誇った藤原道長の最期

 

万寿四年(1027年)12月4日、藤原氏の全盛を築いた藤原道長が、63歳で死去しました

・・・・・・・

平安時代に隆盛を誇った藤原ファミリーの中でも、最も有名かつ最も全盛を極めたのが、ご存じ藤原道長(ふじわらのみちなが)さん・・・

昨年の6月に、ご本人の日記=『御堂関白記』ユネスコの世界記憶遺産に登録される事が決まったニュースも記憶に新しいですが、

Fuziwaranomitinaga300a そんな道長は、康保三年(966年)に藤原兼家(かねいえ)五男(または四男)として生まれました。

父が、兄で関白の藤原兼通(かねみち=道長の叔父)と対立していた時代には、少々不遇な日々を送りますが、その兼通が亡くなった後に関白となった藤原頼忠(よりただ)のおかげと、

第64代・円融(えんゆう)天皇に嫁に行った次女・詮子(せんし・あきこ=道長の姉)が、後に第66代となる一条天皇(6月13日参照>>)を生んだ事から、その一条天皇の時代になると父・兼家が外祖父として摂政に就任し、当然、息子の道長も出世街道を歩む事になります。

そんな中、正暦元年(990年)に父・兼家が亡くなると、それと前後して兄たちも病死・・・道長は、亡くなった長兄の息子・藤原伊周(これちか)と争う事になりますが、これまた、その伊周が、女がらみのゴタゴタで、先代の花山(かざん)天皇に矢を射かけるという不祥事を起こし(2月8日参照>>)て失脚・・・

その事件から半年後に、道長は左大臣に昇進し、事実上、第1の実力者となりました。

ここから、一条天皇の皇后となった自らの娘・彰子(しょうし)が生んだ孫が第68代・後一条天皇として即位して外祖父となるまでの間、あえて摂政や関白にならず、太政官で政治の実権を握れる左大臣のままで手腕を発揮したのだとか・・・

そして、一条天皇の後を継いだ三条天皇の後継者として、いよいよ孫の後一条天皇即位した寛仁二年(1018年)、あの有名な
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪

の歌を詠む(10月16日参照>>)わけです。

この時、53歳だった道長・・・この前年には太政大臣に就し、まさに、わが世の春を迎え、その人生には何一つ不満は無かったかのようにも見えます。

ただ、以前に書かせていただいたように、この♪望月の…♪の歌は、この歌を詠む6年前に、三男の藤原顕信(あきのぶ)が父に何も告げずに出家してしまった(1月16日参照>>)事を受けての「俺はまだまだ頑張るで~!」という、少々のハッタリを含む、自分自身へのエールだったのかも知れません。

そう、今よりずっと平均寿命が短い平安時代・・・いくら権勢を誇っても、老いは確実にやって来るわけで、しかも、当時は『末法思想』真っただ中・・・

この『末法思想』というのは、「お釈迦様が亡くなって2千年が経つと、仏教の教えがすたれ、天災や戦争などの不幸が続く、『末法の世』なってしまう。1052年がその『末法の世』の第一年である。」という、言わば「終末予言」みたいな感じ・・・とにかく、阿弥陀仏におすがりして極楽往生を願おうと、貴族たちは、こぞって阿弥陀堂を建て、そこに阿弥陀仏を安置し、念仏を唱えて「とにかく来世の幸福を・・・」と願ったのです。

この世に極楽浄土を再現したとして有名な京都・宇治の平等院鳳凰堂も、この道長さんの息子である藤原頼通(よりみち)が建てた阿弥陀堂なんです(3月4日参照>>)

とかく、お金や権勢を掴んだ人ほど、誰にでも平等にやって来る「死」という物に、より大きい恐怖を感じるのかも知れませんね。

道長も例外ではなく、晩年は法成寺の建立に力を注いだようです。

当時、邸宅としていた土御門殿(現在の京都御所)に隣接する地に、阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂を建てて法成寺としました。

Dscn2476a600 ←現在の京都御所に隣接する法成寺跡の碑

現在は廃絶してしまって、その寺地もよくわかっていませんが、それこそ息子の平等院を彷彿させる・・・いや、当時としては、それ以上に壮麗な伽藍が建ち並んでいた事でしょう。

『栄華物語』など、一般的には、この万寿四年(1027年)に入って体調を崩した道長が、やがて死期を悟り、自ら、法成寺の阿弥陀堂に入って、自らの手と、阿弥陀如来像の手を五色の糸で結び、あの、お釈迦様の涅槃(ねはん)(2月15日参照>>)と同様に、北枕西向き横たわり、居並ぶ高僧が念仏を唱える中、自身も静かに経を唱えつつ、万寿四年(1027年)12月4日心穏やかにあの世へ旅立ったとされています。

しかし、同じ藤原北家の一族で、道長の友人でもあった藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記(おうき・しょうゆうき)では、少々違った道長の最期がうかがえます。

先ほど、♪望月の…♪の歌は、少々のハッタリを含む、自分自身へのエールだったのかも・・・と書かせていただきましたが、その日記の中の道長は、まさに、そのように、権力者では無い、一人の人間としての道長が、垣間見えるのです。

その日記によれば、かの歌を詠む少し前の50歳を過ぎた頃から、すでに道長の健康には陰りがあったようで・・・見た目にも急激に痩せて行き、しきりに水を飲むようになったと・・・

当時、「飲水の病」と言われていた・・・おそらく糖尿病であろうと言われています。

そして、現在の糖尿病でも白内障を併発する事がありますが、道長もまた、視力が衰えていき、やがては、目の前にいる人物の顔を識別できないほどになっていったのだとか・・・

さらに、おそらく糖尿病とは別の、当時は「胸病」と呼ばれていた、胸に激しい痛みが走る持病もあったようで、その発作が起こる度に、大声でのたうちまわるほど苦しそうだったと・・・

しかも、最後には背中に大きな腫れ物ができ、その治療のために受ける針治療が、これまた壮絶な痛みを伴う物だったのだとか・・・

そして、その針治療をはじめてから数日後に、「道長はこの世を去った」と実資は書き残しています。

♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪

満月は、必ず欠けていく物・・・

永遠に欠ける事の無い望月なんてありはしない事を知りながら、道長は、この歌を詠んだのかも知れません。
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