2017年5月19日 (金)

謀将と呼ばれた真田の祖~真田幸隆(幸綱)

天正二年(1574年)5月19日、信濃(しなの=長野県)の豪族=真田の祖として知られる真田幸隆がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)・・・
ご存じ!昨年の大河の主役=真田信繁(のぶしげ=幸村)お祖父ちゃんであり、草刈さんの好演が光る真田昌幸(まさゆき)お父ちゃんです。

とは言え、上記の通り、名前も複数あり、生まれた年もだいたいで、果ては、その父親すら決定打がないという謎の人・・・まぁ、あの北条早雲(ほうじょうそううん)しかり、美濃(みの=岐阜県)マムシのおっちゃんしかり・・・戦国に入ってから力をつけた武家の初代っちゅーのは、往々にして謎多き感じなのかも知れませんが・・・

とにもかくにも、
第56代・清和天皇(せいわてんのう)(12月4日参照>>)の第4皇子である貞保親王(さだやすしんのう)の末裔とされる信濃の古い豪族=滋野(しげの)の嫡流で、小県(ちいさがた=長野県東御市)を支配していた海野(うんの)海野棟綱(うんのむねつな)長男もしくは次男、もしくは、もしくは娘婿とされる人物が幸隆・・・なので、海野棟綱につながる人物である事は確かでしょう。

そんな彼が、小県郡の真田庄(さなだしょう)に土着した事から、真田姓を名乗り始めたというのが、一般的で、故に、幸隆は真田の祖と称されます。
(注:娘婿説の場合は真田頼昌(さなだよりまさ)という人物が幸隆の父とされるので、この方が祖という事になりますが…)

Sanadayukitaka300a てな事で、前半生がほぼほぼ謎な幸隆さんですが、そんな謎だらけになってしまう原因の一つと思えるのが、真田が、主家である海野氏もろとも事実上の滅亡に追い込まれた一件・・・

それは、幸隆が、おそらくは20代後半で、未だ弱小の土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の侍)ではあるものの、周辺の領地に点在する海野一族の援護を受けつつ、領国経営に励んでいた物と思われる天文十年(1541年)の事・・・。

そこに、「領地拡大!」とばかりに侵攻して来たのが、大永元年(1521年)の飯田原の戦い(10月16日参照>>)に勝利して甲斐(かい=山梨県)一国を手中に治めた武田信虎(たけだのぶとら)です。

天文四年(1535年)、諏訪(すわ)氏と和睦した信虎は、佐久郡(さくぐん=長野県佐久市・北佐久郡・南佐久郡)へと侵出して海ノ口城(うんのくちじょう=長野県南佐久郡南牧村)を奪取(12月28日参照>>)・・・このために、佐久郡の大部分が武田に降る事となったのですが、真田含む海野一族は未だ抵抗を続けます。

そんな中、これまで敵対していた葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)村上義清(むらかみよしきよ)と和睦した信虎は、その義清と、上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)諏訪頼重(すわよりしげ)との3者連合軍で以って、海野城(うんのじょう=東御市本海野白鳥台)海野棟綱を攻めたのです。

天文十年(1541年)5月14日、最も激戦となった海野平(うんのたいら)の戦いで敗北し、息子の海野幸義(ゆきよし)を失った棟綱は、やむなく逃走・・・関東管領上杉憲政(うえすぎのりまさ)を頼って上野(こうずけ=群馬県)へと亡命したのです。

もちろん、この戦いに、ともに参戦していたとおぼしき幸隆も、一族と同じく、箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)長野業正(ながのなりまさ)を頼って亡命しています。

つまり、ここで事実上、真田は滅亡し、浪人の身となった幸隆・・・一説には、すべてを失い、身一つになったこの時に「残すは三途の川を渡るだけ(渡し賃が六文)「いつでも死ぬ覚悟はできている」という意味で、あの『六連銭(ろくれんせん=一文銭が6つ)』の旗印にしたのだとか・・・
(もともと海野氏の旗印だった説もありますが…(*´v゚*)ゞ)

って事は海野&真田にとってはにっくき武田・・・当然の事ながら、海野&真田は、亡命生活を送りつつも、かの憲政の上杉の威光を頼りに旧領の回復を模索するのですが、この後、幸隆だけは、一族と別行動をとる事になるのです。

実は、この海野平の戦いに勝利した直後、信虎は、その慰労も兼ねて、娘婿(長女=定恵院の結婚相手)であった駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)のもとへ立ち寄るのですが、その間に、先に甲斐に帰国していた息子=晴信(はるのぶ)クーデターを決行し、父=信虎を追放して新政権を樹立したのです(6月14日参照>>)・・・ご存じ、後の武田信玄(たけだしんげん)ですね。

こうして、武田を継いだ・・・いや、父から奪った信玄(当時はまだ晴信ですが信玄と呼ばせていただきます)は、父とは真逆の方針を打ち立て、諏訪とも村上とも同盟を破棄・・・翌・天文十一年(1542年)には諏訪への侵攻を開始(6月24日参照>>)、当然、その後は村上義清とも敵対する(2月14日参照>>)事に・・・

敵の敵は味方・・・
そう、この時、幸隆にとっての1番の重要事項は、自らの領地=真田庄を取り戻す事です。

それを取り戻すためには・・・
先の戦いの後に、この真田庄を占領した村上義清と相対し、今や彼の敵となった信玄に与(くみ)するのが、旧領回復への最短の道!

恨みツラみを捨て、最も合理的な道を瞬時にして判断した幸隆・・・その先見の明は、なかなか大したものですね。

こうして、未だ上杉を頼る一族と離れて上野を脱出した幸隆は、武田への臣従を申し出るのです。

一説には、この時、信玄に幸隆を紹介したのは、名軍師として知られる、あの山本勘助(やまもとかんすけ)(2010年9月10日参照>>)だったとか・・・もちろん、信玄にとっても、ここらあたり=信濃東部の地の利を熟知している幸隆の存在は頼もしい限りですし、幸隆も、そこが自身のアピールポイントだったわけです。

以後、松尾城(まつおじょう=真田本城=長野県小県郡真田町)を本拠とし、武田軍の小県侵攻の先鋒として各地を転戦する幸隆は、信玄が攻めきれなかった戸石城(といしじょう:砥石城=長野県上田市上野)(9月9日参照>>)を、謀略によってアッサリ奪ったり、葛尾城の攻略(4月22日参照>>)にも一役かったり・・・

もちろん、その葛尾城奪取キッカケで越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と信玄が直接対決する事になる永禄四年(1561年)の川中島(9月10日参照>>)でも、嫡男=信綱(のぶつな)らとともに、あの啄木鳥(きつつき)戦法の別働隊として信玄をサポートしました。

永禄六年(1563年)の岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)攻略では、城中に「忍び」を放ち、敵方になっていた海野輝幸(てるゆき)らの内応を誘って、これを奪ったと言います。

さらに永禄九年(1566年)には、亡命でお世話になった箕輪城の長野さん(9月30日参照>>)にまでちゅうちょなく・・・

故に、幸隆は、「猛将」というよりは、『謀略の士』あるいは『謀将』などと呼ばれますが、それは、敵に回せばコワイものの、味方なら、これほど心強い味方はいないわけで・・・

そんなこんなの数々の功績により「信玄の懐刀(ふところがたな)とまで称され、外様でありながら、譜代の家臣と同等の待遇を受けて、武田二十四将(たけだにじゅうよんしょう)の一人にも数えられた幸隆でしたが、いつしか病気がちになり、永禄十年(1567年)頃には隠居して、家督を嫡男の信綱に譲っていたとされます。

なので、義元亡き後の駿河への侵攻(12月13日参照>>)や、三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に代表される一連の「信玄上洛かも?」の戦いには、幸隆は参戦していません。

しかし、ご存じのように、この西上の途中で信玄は命を落とし(1月11日参照>>)、武田の行軍はストップ・・・軍団は、そのまま甲斐へと戻るわけで・・・

その信玄の死から約1年後の天正二年(1574年)5月19日幸隆は戸石城にて病死します。

ところで・・・
死の1週間前の5月12日には、亡き信玄の後を継いだ武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)が、信玄も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落城させています(5月12日参照>>)が、幸隆は、このニュースを聞いたのでしょうか?

先見の明があり、謀略に長けた幸隆が、もし、この一報を聞いていたとしたら、そこに感じた物は、
武田の「頼もしい未来」だったのか?
はたまた「危うき予兆」だったのか?

はたして、この、ちょうど1年後に勃発する長篠の戦い(5月12日参照>>)で、勝頼に従っていた嫡男の信綱、そして次男の昌輝(まさてる)もが討死にしてしまい、真田家は三男の昌幸が継ぐ事に・・・

しかし、ご存じのように、その後、武田は滅んでも(3月11日参照>>)真田は滅びませんでした。

それは、かつて、浪人からのし上がって『謀略の士』『謀将』と呼ばれた父=幸隆から、息子=昌幸が受け継いだ、ただ一つのゆるぎない目標=家を存続させるため智略をフル活用したなればこそ・・・

武田の滅亡から本能寺のゴタゴタにかけて、アッチに行ったりコッチに来たりして、豊臣の奉行たちから「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの=心中が読めないクセ者)と称される事になる昌幸の真意測りかねる動向の数々は、周囲に何と言われようとも、そのただ一つのゆるぎない目標を実現させるための戦術だったわけです(6月4日参照>>)

そして・・・そのただ一つのゆるぎない目標が、幸隆の孫たちである信之(のぶゆき=信幸)&信繁兄弟に受け継がれていく事は、皆さまご存じの通りでおます。
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2017年5月12日 (金)

信玄を越えた?武田勝頼が高天神城を奪取

天正二年(1574年)5月12日、武田勝頼が徳川方の小笠原信興が守る遠江高天神城を包囲し、世に言う「高天神城の戦い」が始まりました。

・・・・・・・

とは言うものの、本邦戦国史上、「高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)と呼ばれる戦いは3度あります。

1度目は元亀二年(1571年)3月から・・・

もともとは、あの源平合戦の頃から、砦のような物が構築されていたらしい高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)ですが、清和源氏の流れを汲む今川氏(いまがわし)が、南北朝時代に駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)守護(しゅご=現在の県知事)になった事から、その配下の福島氏(ふくしまし)城代を務めていましたが、天文五年(1536年)の、あの花倉の乱(6月10日参照>>)で、勝利した今川義元(いまがわよしもと)が今川家の当主となり、逆に福島氏が没落した事で、その後は、やはり今川配下の国衆であった小笠原氏(おがさわらし)が城代として治めていました。

しかし永禄三年(1560年)に、あの桶狭間(おけはざま)で義元が倒れ(5月19日参照>>)、その後を継いだ今川氏真(うじざね)の代になって今川に陰りが見え始めると、時の城主であった小笠原信興(おがさわらのぶおき=長忠とも)は、このタイミングで遠江に侵攻してきていた三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)の傘下へと、ちゃっちゃと鞍替えします。

ところが、ご存じのように、これらの今川の旧領地を狙っているのは家康だけではありません。

そう、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)という大物が・・・

一説には、義元亡き後の今川の領地のうち、駿河を信玄が、遠江を家康が切り取る話し合いが、あの織田信長(おだのぶなが)の仲介で成っていたとも言われる両者の関係ですが、永禄十一年(1568年)に家康が、掛川城攻防戦(12月27日参照>>)にて氏真を攻めて、戦国大名としての今川氏を事実上滅亡させると、今度は、その家康と信玄の直接対決で、お互いの取り分を決める争いと化して来るわけで・・・

とにもかくにも、北条氏とのゴタゴタ(【蒲原城の攻防】参照>>)にも忙しい元亀二年(1571年)3月、信玄は、家臣の内藤昌豊(ないとうまさとよ)に約2万の軍勢をつけ、この高天神城を攻めさせたのです。

この内藤昌豊は武田四天王の一人に数えられる猛将・・・しかも、守る城兵は、わずかに2000。

しかし、この高天神城・・・構築された山の高さ自体はさほど高く無いものの、山の斜面が急な、天然の要害に築かれているうえ、これまた、その要害効果を最大限に活かすナイスな場所にナイスな城郭を配置してある堅固な城で、さすがの大軍を率いても、容易に落とせるものではなく、結局、信玄は、自身の生涯で、この高天神城を落とす事ができないまま、元亀四年(1573年)4月12日、直前の野田城での戦い(1月11日参照>>)を最後に、この世を去ってしまうのです。

Takedakatuyori600a その信玄亡き後の武田を継いだのが、信玄の四男=武田勝頼(たけだかつより)です。

とは言え、ご存じのように、この勝頼は、本来は武田家を継ぐべき息子ではなく、母方の諏訪(すわ・長野県中部)地方を治めるべく育てられた人で、その名も、武田家の通字(とおりじ=その家系で代々に渡って名前に用いられる字)である「信」ではなく、諏訪家に用いられる「頼」の字が当てられ、いち時は諏訪勝頼(すわかつより)と名乗ってたくらい、それは周知の事でした。

よって、巡り巡って家督を継ぐ事になった時点でも、父の代からの重臣たちからは賛否両輪飛び交うばかりか、信玄の残した遺言もが、いかにも勝頼が中継ぎ投手と言わんばかりの内容だった(4月16日参照>>)ために、おそらく勝頼には、当主になった途端から、かなりの重荷を背負わされてる感があったと思われます。

しかし・・・
一般的には、カリスマ的な信玄から受け継いだ武田家を滅亡に導いてしまう事で、なにかと愚将扱いされる勝頼さんですが、実は、戦国最強の猛者だったとも言われ、それこそ、信玄も、そこを見込んでの後継者指名だったでしょうし、勝頼自身も、父に負けてはいない自分を見せたい願望もあった事でしょう。

そう、勝頼は、信玄の死後、ほとんど期間を置かず、父の遺志を引き継ぐかのように、領地拡大に乗り出すのです。

攻めて攻めて攻め抜いて、父の代よりも広大な領地を得て、武田家の強さを見せる・・・これこそが、カリスマ父を越える最短の手段であり、おそらく勝頼は、それが可能な猛将だったはずです。

そんなさ中、信玄の死からわずか2ヶ月後に、武田の傘下だった亀山城(かめやまじょう=愛知県新城市)奥平定能(おくだいらさだよし)信昌(のぶまさ)父子が徳川へと・・・一説には、「信玄死す」の機密情報を手土産しての寝返りだったとも・・・

遺言で「3年は隠せ」と言われた信玄の死ではありますが、そんなこんなで、おそらくは、すでに周囲の諸将に伝わった以上、隣国の家康だけでなく、彼と同盟を結ぶ信長やら、あの人やらこの人やら、戦国の猛者たちが動き出す事は必至なわけで、ヤラねばヤラれる戦国時代・・・まして、2年前の三方ヶ原(12月27日参照>>)で、父がコテンパンにやっちゃってるわけですから、受け継いだ勝頼も、ここで手を緩めるわけにはいきません。

かくして天正二年(1574年)、2月5日に美濃(みの=岐阜県)明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市)を陥落させた(2月5日参照>>)勝頼は、3ヶ月後の5月3日、2万余の大軍を率いて本拠の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・5月12日には、その大軍で、高天神城を包囲したのです。

これが2度目(第2次)高天神城の戦い

迎える信興は、わずかに1000・・・なので、当然の事ながら、包囲と同時に、家康へ救援要請を飛ばします。

一方、父の苦戦を知っている勝頼は、大軍で力攻めをするかたわら、おそらくは容易に落ちない事を踏まえて、家臣の穴山梅雪(あなやまばいせつ)に命じて、話し合いによる説得工作も展開しました。

救援が来るまで時間を稼ぎたい信興は、開城に応じるように見せかけながら、のらりくらりのかわし作戦。

しかし、救援を受けた家康も、「武田が2万以上の大軍」と聞き、さすがにこの時点での徳川には、そこまでの兵力は無かったため、即座に信長へ連絡を入れ、救援の救援を要請します。

その知らせが岐阜(ぎふ)の信長のもとに届いたのは6月4日・・・信長にとっては、この年の正月からややこしい事になっていた越前(えちぜん=福井県)一向一揆(1月20日参照>>)の動向が気になるところではありますが、ソチラは羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)丹羽長秀(にわながひで)らに任せ、自らは6月14日に岐阜を進発し、東へと向かいます。

しかし、当然の事ながら、この間にも勝頼の攻撃&説得工作は継続していたわけで・・・

『真田文書』(信濃史料)によると・・・
武田軍は、すでに5月28日には二&三の曲輪(くるわ=土塁・石垣・堀などで区画された城内の場所)を突破し本曲輪まで到達しており、もはや落城も時間の問題のように見えたのだとか・・・ただ、さすがに堅固をうたわれた城で、そこからなかなか先に進めなかったようですが、

しかし、わずかながらのこう着状態であっても、先の見えない戦時下では不安がつのるもの・・・

攻める勝頼にとっては、今日明日にも援軍が到着するかも知れないので、すばやく決着をつけたい・・・

一方、守る信興にとっては、その勝頼の気持ちがわかるぶん引き延ばしたいけど、いつ来るかわからない援軍を、どんどん窮地になる城内で、ずっと待っていられるのだろうか?という不安・・・

その間にも継続される攻撃と説得・・・やがて6月17日、何度目かの説得交渉で、勝頼から、駿河に1万貫の所領の約束を取り付けた信興は、城を開け渡す事にしたのです。

『横須賀根元記』によれば、
この時、開城を決意した信興は、城兵たちに対し
「この城は開け渡す=自分は武田につくけど、君らは、僕といっしょに武田に行くか、徳川につくかは自由にしてええからな」
と言ったのだとか・・・で、この時、信興とともに武田に降った者を「東退組」、徳川に行った者を「西退組」と呼ぶのだそうです。

ところで、高天神城が開城された17日・・・信長軍は、三河領の吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)に到着していましたが、その開城の一報が届いたのは2日後の19日、今切渡(いまぎれのわたし=静岡県湖西市:浜名湖南部の渡し船発着場)越えようとしていた時でした。

「もはや落城してしまったものはどうしようもない」
とばかりに、信長は、そのまま、吉田城へと引き返したとの事・・・

こうして、偉大なる父=信玄も落とせなかった高天神城を陥落させた勝頼・・・その喜びもひとしおだった事でしょう。

勝頼は、この時の一連の侵攻で、支城を含めて18もの城を落とし、遠江の東半分を制圧・・・まさに破竹の勢いで領地拡大を成し遂げていったわけですが、

そう・・・
このイケイケムードにストップがかかるのは1年後・・・有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いです。

それはもちろん、あの時、徳川に寝返った奥平父子・・・・彼らを、そのままにしておくわけにはいきませんから、当時、彼らが任されていた長篠城を攻めに・・・
勝頼軍が長篠城を囲んだのが4月21日>>
そして設楽ヶ原の決戦が5月21日>>

さらに、皆様ご承知の通り、この長篠で敗れてから7年後に武田は滅亡する事になるのですが、その滅亡に向かう一連の戦いの始まりとも言えるのが、今回の高天神城・・・

皮肉にも、今回、武田に落ちた高天神城を、家康が奪い返す3度目(第3次)高天神城の戦いが、武田滅亡へのカウンドダウンの始まりとなるわけで・・・それは天正九年(1581年)3月22日の事でした。

武田滅亡の関連ページもどうぞm(_ _)m
第3次高天神城の戦い>>
信長が甲州征伐を開始>>
田中城が開城>>
穴山梅雪が寝返る>>
高遠城が陥落>>
武田勝頼、天目山の最期>>
勝頼とともに死んだ妻=北条夫人桂林院>>

で・・・
ご存じのように、この3ヶ月後に本能寺の変があるので、もう、信長さんのエピソードが目白押し・・・さらにくわしくは【織田信長の年表】>>から、気になるページへどうぞm(_ _)m
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2017年4月13日 (木)

上杉謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦

永禄十一年(1568年)4月13日、それまで武田信玄についていた越中増山城主=神保長職が上杉謙信に寝返りました。

・・・・・・・・・・

射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による越中(えっちゅう=富山県)争奪戦・・・

Uesugikensin500 ここ越中は、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)にとっても、自らの領地に隣接する場所であり、自国と京の都との間に位置する重要な場所でもあった事から、祖父や父の時代から、度々出兵しては傘下に治めていた場所だったわけです。

つい先日も書かせていただいたように(3月30日【増山城&隠尾城の戦い】参照>>)、永禄三年(1560年)には、勢力拡大を図る神保長職が、謙信のライバルである甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の支援を得て、謙信傘下の椎名康胤を攻撃したわけですが、

この時、負けた長職は、一旦は降伏して謙信の傘下となったものの、謙信が越後へと戻ると、またぞろゴソゴソやり始める・・・
で、椎名康胤の救援のため謙信が大軍率いてやって来て、負けそうになったら和睦して傘下に入るものの、謙信が戻るとまやもやゴソゴソ・・・
てな事をくりかえしていたわけですが・・・

そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月・・・
なんと、それまでずっと謙信と協力体制にあった椎名康胤が、いきなり反旗をひるがえしたのです。

実はコレ、信玄の裏工作・・・信玄が何度も「君が越中を平定してくれへんかなぁ~僕支援するし…」の手紙を送っていたのが、ここに来て康胤を決断させたのです。

ひょっとして・・・康胤の心の内にも、
複数回上洛しても時の将軍と仲良く談笑し、関東管領並(6月26日参照>>)を引き受ける謙信は、おそらく天下を取る気はない?
に対して、天下を狙う気満々っぽい信玄の傘下になっておけば「そのあかつきには越中の大名になれるかも」てな野心が芽生えたのかも知れません。

とは言え、謙信にとって、再三に渡る長職のゴソゴソは、おそらく予想できたものの、一方の康胤の裏切りは想定外・・・

なんせ、この椎名は、特に、謙信の父の長尾為景(ながおためかげ)とじっこんの仲で、譜代の長尾一族から長尾景直(かげなお)康胤の養子に迎えていて、謙信にとっては特に信頼を置いていた武将の一人なわけで・・・だからこそ、これまで何度も救援に出張って来ていたわけで・・・

ショックを受けながらも、知らせを聞くなりすばやく行動に起こし、3月16日、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣した謙信は、康胤を攻めるべく越中へと入りました。

が、しかし・・・ここに来て、またもや予想外の出来事が!

Matukurazyoukoubousenkankeizu
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

越中侵攻から1ヶ月後の永禄十一年(1568年)4月13日、あの神保長職が謙信への協力を申し入れて来たのです。

今回ばかりは、その場まかせのゴソゴソではなく、一門の神保覚広(ただひろ・よしひろ)と家臣の小島職鎮(こじまもとしげ)の尽力による物・・・謙信自身が「長職とメッチャ意気投合したわ~ヽ(´▽`)/」と覚広に報告してますし、長職も、「この感謝は手紙では言い尽くせへん!」と書状で述べていますので、よほど、両者の関係が良い展開になったのでしょう。

しかし、こうして看板となるトップの傘が交代した事で、もとから信玄についてゲリラ戦を展開していた越中の一向一揆は、神保を離れて椎名の味方に・・・

ご存じのように、この時代の一向一揆=武装した本願寺門徒は侮れない・・・たび重なるゲリラ戦法で、長職は、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)放生津城(ほうじょうづじょう=富山県射水市中新湊)を落とされたため、やむなく増山城に逃げ込みます。

ここで謙信は、康胤の松倉城への抑えとして配下の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)河田長親(かわだながちか)を配置して放生津城攻めに向かうと同時に長職と連携して守山城を猛攻撃しました。

ところが、この間に遠く離れた越後にて、信玄の誘いに乗った本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)が反旗をひるがえした・・・との情報が舞い込んで来ます。

やむなく謙信は、直江景綱(なおえかげつな)重臣たちに、この場を任せて、自らは春日山城へと戻り、すぐさま準備を整えて本庄城の攻撃へと向かいます。

謙信自ら指揮を取るその猛攻撃に半年ほど耐えたものの、同年11月、本庄繁長は人質を差し出しての講和を申し出ます。

実は、期待していた信玄からの援軍が思うように得られ無かったのです。

そう・・・この永禄十一年(1568年)という年は、9月に、あの織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあきを奉じて上洛(10月18日参照>>)を果たした年・・・

心情的に、この信長の上洛に影響を受けたか否か?
あるいは「(川中島でゴチャゴチャしっぱなしの)北がダメなら南へ」と思ったか否か?
「このままやったら徳川家康(とくがわいえやす)に駿河取られてまう~」と思ったか否か?
はたまた、信玄に、畿内に目を向けてほしくない信長の「今なら駿河イケまっせ」の誘いに、とりあえず乗ってみたか否か?
その心の内は、ご本人のみぞ知るところですが、ここからの信玄は、この12月には薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)からの今川館の攻防戦(12月13日参照>>)と、完全に駿河(するが=静岡県西部)攻略に向けて舵を切った事は明白なところ・・・なので、おそらく本庄救援まで手が回らなかったのでしょう。

しかも、謙信にとっての信玄の矛先変更の影響は、そればかりではありませんでした。

翌永禄十二年(1569年)の明けてまもなく、信玄の勝手な約束破りの矛先変更に激おこの同盟者=小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏康(ほうじょううじやす)が、謙信との同盟を求めて来たのです。

同年の6月に北条との同盟を締結させた謙信は、その2ヶ月後の8月・・・再び、松倉城攻略に乗り出すのです。

まずは小菅沼城(こすがぬまじょう=魚津市小菅沼)など周辺を攻撃して松倉城を孤立させた後、大軍で以って松倉城に迫る上杉軍でしたが、迎える椎名軍は、防御のために自ら城下町に火を放ち、この孤立状態のまま、約100日間の籠城に耐えぬきます。

もともと松倉城が天然の要害であった事や、例の一向一揆が味方していた事もあって、長期に渡る籠城に耐える事ができたのでしょうが、一方の攻める上杉軍にも人馬の披露激しく、しかも、ここで「信玄が上野(こうずけ=群馬県)に侵攻した」との情報を得た謙信は、やむなく、またもや松倉城を落としきれないまま、10月に兵を退く事になってしまいました。

とは言え、謙信にとって、この松倉は越中の中でも、屈指の手に入れておきたい場所・・・なんせ、松倉城の南には河原波金山松倉金山という金の成る木、いや、山があったのですから・・・

やがて元亀二年(1571年)3月、3度目の松倉城攻略のため、大軍を率いて越中に侵攻した謙信は18日に富山城(とやまじょう=富山県富山市)を陥落させ、神保長職の求めに応じて、奪われた守山城を奪還すべく、庄川(しょうがわ)あたりまで攻め込み、念願の松倉城攻略へとこぎつけました。

一説には・・・
この時も、大軍で包囲したにも関わらず、なかなか落ちなかった松倉城に苦戦していたところ、「実は、宇都呂(うつろ=現在は廃村)の集落から密かに水を引き、同時に信濃からの食糧を運びこんでいるから」との噂を聞きつけた謙信が、宇都呂の集落を焼き払って水路を破壊し、東からの糧路を絶った事により、ようやく松倉城が落ちた・・・との話もあります。

とにもかくにも、この「元亀二年三月に、松倉城を、かの河田長親に与えた」(『三州志』より)との記録が残っていますので、やはり、ここでようやく松倉城を攻略した事は確かでしょう。

一方の康胤・・・この敗北によって椎名は、かなりの痛手を被り、弱体化の一途をたどる事となってしまいます。

一旦は謙信に降伏し傘下に収まるも、天正四年(1576年)に再び反旗をひるがえしたところを、やはり謙信に攻められ、その最期は蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)にて自刃したと伝わります。

ちにみに、前半のところで書かせていただいた通り、椎名康胤の後を継ぐ者は、長尾家から養子に入った長尾景直のみ・・・いち時は椎名小四郎(しいなこしろう)を名乗っていた彼ですが、何年後かの上杉VS織田の月岡野の戦いでは、、シッカリ上杉側の人として登場(9月24日参照>>)します。

なので、戦国武将としての椎名氏は、この康胤を最後に、事実上の滅亡となったのです。
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2017年3月17日 (金)

信長の動きを受けて~いよいよ謙信が富山へ侵攻

 

天正四年(1576年)3月17日、織田信長と手を切った上杉謙信越中富山へと侵攻を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)を皮切りに度々衝突した有名な川中島の戦い(9月10日参照>>)でご存じのように、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)は、信濃(しなの=長野県)北東方面の国境線を巡って、長きにわたるライバル関係にありました。
(くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】参照>>)

Uesugikensin500 その関係は、天正元年(1573年)に信玄が亡くなって後に息子の武田勝頼(かつより)が当主(4月16日参照>>)となった時代も続いていたわけですが、一方で、武田家は上杉領とは真逆の南西方向の国境線を巡っても、かの駿河(するが=静岡県西部)大物=今川義元(いまがわよしもと)を倒して(5月19日参照>>)出世の階段を2段飛ばしで駆け上がりまくりな尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)を擁する織田信長(おだのぶなが)睨み合っていたわけで・・・

Odanobunaga400a となると、敵の敵は味方とばかりに、この頃の謙信と信長はかなりの仲良し・・・それは、永禄十一年(1568年)に信長が、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)奉じて上洛を果たした(10月18日参照>>)後も変わらず、天正二年(1574年)には信長が謙信センパイに狩野永徳(かのうえいとく)の筆による『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)を贈ってベンチャ攻撃しまくってた話は有名ですね。

ただし、その屏風を受け取った謙信の方は、どうやら、この頃からすでにモヤモヤし始めていたようで・・・と言うのも、その前年の天正元年(1573年)、信長は北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月26日参照>>)越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)を倒していたわけで・・・確かに、ベンチャラしてくるわりには、シレッと越後に近づいて来ている感がしないでもない・・・

それでも、天正二年(1574年)の2月に勝頼が明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻撃(2月5日参照>>)した際には、険しい山中にて攻撃がままならない織田軍の後方支援として、謙信が上野沼田(ぬまた=群馬県沼田市)まで兵を出した・・・なんて事もあったようです。

とは言え・・・
その明智城陥落で勢いづいた勝頼が、信長と同盟関係にある徳川家康(とくがわいえやす)傘下の高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落とし(5月12日参照>>)、さらに翌・天正三年(1575年)5月に有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)武田VS織田の全面衝突となると、その一方で信長は、同時進行していた越前一向一揆も制し(8月12日参照>>)、さらに加賀(かが=石川県)に手を伸ばして来たわけで・・・

「コレ、ぜったい近づいて来とるやないかい( ゚皿゚)!!」

もともと、武田という共通の敵を持つが故の同盟・・・しかし、信玄という大きな存在に睨まれていた弱小なる後輩は、浅井朝倉を葬り去り、武田を衰退させ、越前も手に入れて、今や先輩=謙信に追い付き追い越せの勢いなのは明らか・・・

しかも、加賀&越中と言った北陸地方は、謙信にとって、結果的には手中に収めたい因縁の場所(3月30日参照>>)(4月13日参照>>)

そんなこんなの天正四年(1576年)、この2月にはあの安土城の築城(2月23日参照>>)に取りかかる信長・・・この安土という場所への築城は、見ようによっちゃぁ、謙信を上洛させないための通せんぼのようにも見えます。

その事を知ってか知らずか、天正四年(1576年)3月17日謙信は越中(えっちゅう=富山県)へと侵攻を開始したのです。

この富山という場所は、長きに渡って能登畠山(のとはたけやま)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)にて権勢を奮っていた傘下にありましたが、その畠山が長年の内輪もめや重臣同士の争いで次々と城主を失った事で、この頃は、今だ4~5歳の幼児であった畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)を当主に据えて、周りの重臣たちが実権を握っている状態でした。

Kensintoyamasinkoukankeizu 位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

その重臣の一人が、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)富山城(とやまじょう=富山県富山市丸の内)を擁する神保氏張(じんぼううじはる)
・・・

一説には畠山氏から養子に入ったとも言われるほど、畠山とはつながりのある人物でした。

もともと、この頃の富山城は、上杉配下にある魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を脅かす城でしたが、ここに来て信長からの要請を受けた氏張は、息子とともに織田につく事を表明・・・下瀬砦(しもぜとりで=富山市婦中町)を構築して謙信の進路を阻みます。

しかし、さすがは軍神=上杉謙信・・・なんなく神通川(じんつうがわ)を渡り、わずか3日の間に氏張配下の支城や砦を次々と落とし森寺城(もりでらじょう=富山県氷見市森寺・湯山城とも)へと向けて庄川(しょうがわ)左岸の守山城間近へと迫ります。

ただ・・・この時は、大雨による増水で、庄川が渡れず、やむなく守山城攻略を断念して兵を退きました。

やがて半年後の9月
2万の軍勢を引き連れて、再び富山へと侵攻した謙信・・・この時、富山城にいた神保父子は、その猛攻に耐えきれず、富山城を捨てて守山城へと移動し、ここで籠城します。

しかし、ここにいる城兵はわずか2000・・・氏張は城の防備を固めるべく、空堀に湖水を引き込もうとしますが、空いた富山城に配下の諸将を入城させて、そこを拠点に守山城への猛攻を開始した上杉軍のスピードの速さに、防御の準備が間に合わず、やむなく氏張は、堀の底に米を敷いて水に見せかけてゴマかします(米を敷く方が時間がかかる気がしないでもない(゚ー゚;)

ところが・・・
この時、城の上空を舞う鳥たちが、いち早く、この米の水に反応・・・何羽もの鳥が堀に向かって舞い降りた事から不審に思った上杉の兵が、地元住民を使って調べさせて真相を解明してしまったために、その後は怒涛のごとく、上杉軍が米の堀を渡って城内に侵入し、縄張りの各箇所に火を放って難攻不落とされた守山城を落したのだとか・・・

以後しばらくの間、氏張は謙信の傘下に組み込まれます。

守るも攻めるも「ホンマかいな(^-^;」的な攻防戦ではありますが、とにかく、ここで守山城を陥落させた謙信は、その後も猿倉城(さるくらじょう=富山県富山市・栂尾城とも)増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)を落としつつ加賀へと侵攻・・・これまた敵の敵は味方とばかりに、長年敵対関係にあった石山本願寺と正式に和睦(5月18日参照>>)した後、翌・天正五年(1577年)の9月には七尾城を落とし、有名な九月十三夜の美酒に酔う(9月13日参照>>)事になります。

一方の信長は、一向一揆の本拠地=石山本願寺との全面戦争へと突入・・・
【天王寺合戦】>>
【第一次木津川口海戦】>>

今後の謙信との対決は、信長から北陸方面を任された柴田勝家(しばたかついえ)が担当する事になるのです。
【手取川の戦い】参照>>
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2017年1月20日 (金)

信長VS越前一向一揆~富田長繁の桂田長俊攻め

 

天正二年(1574年)1月20日、織田信長から越前守護代を命じられていた桂田長俊が、一向一揆と結んだ富田長繁に一乗谷を攻められて討死しました。(『朝倉始末記』より)

・・・・・・・・・・・・・

*桂田長俊の死亡は、『信長公記』では「19日に自害」となっていますが、本日は『朝倉始末記』に沿ってお話させていただきます。

元亀元年(1570年)、4月の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)からの有名な姉川の戦い(6月28日参照>>)に始まる、織田信長(おだのぶなが)VS浅井・朝倉の戦い・・・3年の年月を経た天正元年(1573年)、小谷城北近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷越前(福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月6日参照>>)信長はいよいよ越前を手に入れたわけですが・・・
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)

Dscf1245pa1000
越前一乗谷朝倉氏遺跡

この時、最初の金ヶ崎から平定まで、3~4年の月日がある事から、その間に朝倉を見限って織田方に寝返った元朝倉家臣も多くいました。

ご存じのように、刃向かう者には徹底抗戦の信長さんですが、降伏して来たり、寝返って来たり、従順な態度をとる者には意外にやさしい・・・今回の対朝倉においても、織田の傘下となった元朝倉家臣に対して、旧領を安堵してそれぞれの役に任命し、彼ら自身によって、越前の各地を治めるよう指示していたのです。

そんな中の一人が、この織田傘下への転向を機会に、その名を前波吉継(まえばよしつぐ)から改名した桂田長俊(かつらだながとし)でした。

信長は、浅井の本拠だった小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)に直臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀)を置いて近江から北部に睨みを効かせ、朝倉の本拠だった一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)に、桂田長俊を越前の守護代として置いたのです。

実は、今回の信長の越前攻めの時、いち早く寝返って、道案内までかって出たのが桂田長俊・・・おかげで、越前の守護代という破格の待遇を得たわけですが、上記の通り、この時、朝倉から織田へ寝返ったのは、彼だけでは無かったわけで、当然、同時期に少しだけ遅れて寝返った元朝倉の家臣たちからは
「ちょっと早いだけで、アイツが守護代かい!\(*`∧´)/」
てな不満も湧いて来るわけで・・・

そんな中、当の桂田は、信長さんのご機嫌を取るべく、贈物三昧を決行・・・城下の職人たちからは、あれやこれやの名品を取りたてるわ、農民たちには増税を強いるわで、ほどなく領民たちの不満も頂点に達し、地元の本願寺に訴えます。

もとより、この越前の地は、朝倉とも上杉とも交戦(8月6日参照>>)を続けた一向一揆の盛んな地・・・この状況に本願寺門徒が黙っているはずはありません。

そこに目をつけたのが、元朝倉家臣で、かの寝返り組の一人=府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)でした。

彼は、早速、加賀一向一揆で一翼の大将を担う杉浦玄任(すぎうらげんにん=げんとう・壱岐)と連絡を取り、援軍を要請します。

『朝倉始末記』によれば・・・
天正二年(1574年)1月19日、一揆勢を加えて3万3千余りに膨れ上がった富田長繁の軍は、あちこちで騒動を起こしながら一乗谷に攻め寄せたのです。
(『朝倉始末記』では総勢10万以上となっていますが、一般的には上記の3万3千とされます)

Dscf1178a 上城戸下城戸の2手に分かれて一乗谷に押し寄せる一揆軍・・・

上城戸には富田長繁自らが大将となって突っ込み、下城戸には、杉浦玄任の配下である大野衆(福井県大野市の本願寺門徒)らがけたたましく攻め寄せ、両方の木戸はアッと言う間に破られて、一揆勢が一気に城内へと乱入しました。

さすがに、これだけの大軍に攻め込まれるとは思ってもいなかった一乗谷城の城兵は、一揆勢に押しまくられるばかりで逃げ場を失い、多くの者が討死したと言います。

そして、一揆勢は、いよいよ、城主の桂田長俊のもとへ迫ります。

なかなかの剛の者であったとも言われる桂田長俊さんですが、実は、この頃には失明していたらしく・・・

それでも、桂田長俊は馬に乗って出陣し、馬上から果敢に敵兵に立ち向かいますが、残念ながら彼の刀先は空を切るばかり・・・戦場の真っただ中では、音を頼りにする事もできずに敵を見失い、最後の最後には呆然と立ち尽くしているところを敵兵に囲まれ、馬から引きずり降ろされて首を切られたのです。

開戦の翌日=天正二年(1574年)1月20日・朝・・・桂田長俊は戦場の露と消えました。

勢い止まらぬ一揆勢は、そのまま、桂田長俊の一族郎党を皆殺しにし、逃げる途中だった息子や母も追いつめて殺害したとの事・・・

♪上モナク 昇リ昇リテ 半天ノ
 ミツレバカクル 月ノ桂田
 桂田ノ 實
(実)リモアヘヌ 領地マデ
 稲妻ノ間ニ 穂頸
(くび)切ラル ♪
「昇りに昇った半天の月も満ちれば欠ける
桂田は、未だ成果もあげないうちに、
またたく間に殺られてしまった」

これは、「桂田長俊が亡くなった翌日に、何者かが在所に残した落書だ」と『朝倉始末記』は言ってますが、おそらくは、始末記を書いている作者の思いを詠んだ物でしょう。

『信長公記』では、守護代となった桂田長俊が、我が世の春を謳歌し、勝手気ままに振る舞ってエラそうにして反感をかったために自害に追い込まれた(『信長公記』での死亡日は19日)のだと淡々と書いてあり、実際には、そんな感じなのでしょうけど、

なんか、『朝倉始末記』の方は「盛者必衰のコトワリをあらわす」みたいで、泣けて来ますね~やっぱ、『朝倉始末記』は軍記物ですから、描き方がドラマチックです。

ところで、まだまだ勢い止まらぬ一揆勢・・・扇動する富田長繁は、同月21日には、信長が北ノ庄に置いていた代官所も襲撃して、目付として赴任していた3人の奉行まで追放し、その3日後の24日には、やはり自分と同時期に織田方へ寝返った元朝倉家臣で、現在は鳥羽野城(とばのじょう=福井県鯖江市)の城主となっているの魚住景固 (うおずみかげかた) を、

しかも、コッチは宴会に誘って父子ともども殺害しちゃうという騙し討ちというセコイ手まで使って、越前一国を、ほぼ手中に収めますが・・・

おいおいおい・・・そうです、富田長繁は織田傘下のはずだったのに、何やってんの?

かの『信長公記』も書いてますが、「これで越前は一向一揆の持つ国」になってしまったわけで・・・勢いのまま突き進んではみたものの、果たして、富田長繁は、信長を相手に戦う覚悟はあったんでしょうか?

一方、信長さんは、当然の如く激おこプンプン丸・・・羽柴秀吉や丹羽長秀(にわながひで)といった面々を敦賀(つるが)に派遣する事になるのですが、この続きのお話は、
長繁最期の日となる2月18日のページ>>で・・・
更なる展開の
越前平定8月12日のページ>>でどうぞm(_ _)m
(続きのお話なのでおおまかな経緯の部分は内容がかぶっていますが、お許しを)
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2016年10月29日 (土)

明智光秀の丹波攻略・前半戦~籾井城の戦い

天正五年(1577年)10月29日、織田信長の命を受けた明智光秀が、丹波の諸城を攻め、籾井教業の籾井城を攻略しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、織田信長(おだのぶなが)による丹波攻略戦です。

室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)との不仲(2月20日参照>>)により、俗に言う「信長包囲網」を敷かれて、周りが敵ばかりになった信長さんですが、元亀四年(天正元年=1573年)の7月には、その義昭を追放(7月18日参照>>)、続く8月には越前(えちぜん=福井県)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)北近江(おうみ=滋賀県)浅井(あさい・あざい)(8月28日参照>>)を倒し・・・そして、各地に起こった一向一揆も徐々に制圧していった天正三年(1575年)、いよいよ信長は丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)平定に乗り出し、配下の明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに、その任務を命じます。

Aketimituhide600 一説には、当初、信長に好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)が、信長に追われた義昭が毛利氏を頼る事を知って毛利派へと転じ、この天正三年(1575年)の10月に但馬竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市和田山町)を攻撃して占領・・・このままでは自らの但馬(たじま=兵庫県北部)を守りきれないと判断した守護山名祐豊(やまなすけとよ=宗全から5代目)が信長を頼った事で、信長が光秀らの派遣を決意したとも・・・

とにもかくにも、こうして信長の命を受けて出陣した光秀でしたが、初戦で奪った亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)も、そのすぐ後の黒井城の攻略に手間取ってる間に奪い返されたうえ、明けた天正四年(1576年)の正月には、やはり、最初は信長に好意的だった八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野秀治(はたのひではる)も毛利に転じたため、やむなく黒井城の包囲を解いて、一旦、光秀は近江坂本城(さかもとじょう=滋賀県大津市下阪本)へと戻ります。

この波多野の裏切りに関しては『籾井家日記』には「赤井との密約による物」との記述がありますが、この『籾井家日記』は江戸時代になってから旧臣の子孫が記した「殿さま賛美」の傾向のある史料なので、そのままを信じるわけには行かず、一般的には「原因は不明」とされているようです。

実は、この頃の丹波周辺の状況についての記録には、このような伝説的な物が多く、史料と史料を照らし合わせると辻褄が合わなくなったりする事もあるので、今回は、様々見つつ、諸説あるうちのそれぞれの落とし所を考えつつ、お話を進めて参りますので、その点をご理解いただければ幸いです。

・・・とまぁ、おそらくは将軍=義昭が毛利を頼った事の影響?もあって、赤井や波多野らの抵抗に遭い、上記の通り、第1次の丹波攻略は不発に終わった光秀でしたが、ご存じのように、この間にも、石山本願寺との天王寺合戦(5月3日参照>>)やら、雑賀(さいか・さいが)の陣(3月15日参照>>)やら、松永久秀(まつながひさひで)謀反(10月3日参照>>)やらに出馬していて、光秀はホント忙しい・・・

忙し過ぎて、天正五年(1577年=前年の説もあり)の6月(もしくは8月)には体調を崩して倒れ、病床にて曲直瀬道三(まなせどうさん)の治療を受けて何とか快復したのだとか・・・『兼見卿記』『御湯殿上の日記』など)

そんなこんなの天正五年(1577年)10月、いよいよ信長は、赤井や波多野、果ては松永久秀の謀反にも、そしてかの石山本願寺にも影響を与えたかも知れない将軍=義昭囲い込みのおおもとである西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)との決戦を決意して、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)播磨(はりま=兵庫県南西部)への派遣を決定し、光秀には、その側面や背面を援助すべく、再び、丹波攻略を命じたのです。

10月初め、坂本を進発した光秀は、途中の老ノ坂で細川藤孝父子と合流し、一路、亀山城を目指します。

上記の通り、一旦奪ったものの、再び奪い返されていた亀山城ですが、ちょうど、この10月初め、波多野秀治らが、敵対する赤松氏との戦闘のために本領を留守にしており、守りが手薄になっているところを、5000を超える兵で以って三日三晩攻め続け、この亀山城を10月16日に落城させました

そして、この城を前線基地として、丹波の諸城を狙います。

まずは、溝尾茂朝(みぞおしげとも=光秀の家臣)細川忠興(ほそかわただおき=藤孝の息子)らを派遣して、波々伯部員次(ははかべ・ほうかべ・ほほかべかずつぐ)が守る篠山城(兵庫県篠山市)を包囲して攻撃を開始しますが、まもなく、近隣の援軍が駆け付けて、包囲している溝尾&細川勢を背後から襲撃したため、城は容易に落ちませんでした。

さらに、その援軍に、かねてより連絡を取り合っていた玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)久下(くげ)も加勢して来たため溝尾&忠興勢は窮地に・・・やむなく、光秀自らが残りの全軍を率いて参戦した事により、なんとか落城させる事に成功したのです。

かくして天正五年(1577年)10月29日、光秀らは、次なる標的籾井教業(もみいのりなり)籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)に攻めかかります。

籾井教業は、「丹波の赤鬼」と呼ばれた黒井城の赤井直正に対して「青鬼」と呼ばれた剛の者だったようですが、この時は、光秀らの猛攻撃にやむなく城を捨てて逃亡・・・こうして、織田軍が籾井城を奪取したのです。

とは言え、実は生没年が不明な籾井教業さん・・・一説には、この明智勢との抗戦の時には、すでに亡くなっていたという話もあり、そこのところは、新たな史料の発見に期待したいところです。

てな事で、本日は籾井城の落城の日という事で、明智光秀の丹波攻略の前半戦部分をご紹介させていただきましたが、ご存じの通り、光秀の丹波攻略が完了して信長さんが大喜びするのは天正七年(1579年)の10月(10月24日参照>>)・・・

まだまだ、あと2年も戦いは続きますし、まだまだブログに書いてない=書き足りない部分はあるのですが、そのあたりの事は、
【八上城攻防戦】>>
【黒井城の戦い】>>
でご覧いただければ幸いです。
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2016年9月 3日 (土)

信長と近江一向一揆~金ヶ森の戦い

元亀二年(1571年)9月3日、織田信長安土常楽寺に進み、六角氏の旧臣と川那辺秀政が指揮する一向一揆勢を撃破しました。

・・・・・・・・・・・・

琵琶湖の南東岸・・・現在の滋賀県守山市にある金森(かねがもり=金ヶ森)浄土真宗が伝わったのは13世紀頃と言われます。

その後、室町時代頃からは、当時、この金森を支配していた川那辺(かわなべ)が、浄土真宗ドップリになってくれた事で道場ができ、その道場を中心に寺町が形成されて行く中、本願寺第七世の存如(ぞんにょ)が住職を勤めるようになる永享八年(1436年)頃には、町の周囲を土居や壕で囲むという、まさに鉄壁の環濠集落(かんごうしゅうらく)となって発展していったのです。
(環濠集落については以前の【奈良県今井町】のページを参照>>

なんせ、この頃は、自分たちの事は自分たちで守らねばならない時代・・・お寺同志のモメ事で死者が出て、武装した幕府の兵士が出馬するなんて事もあった時代(6月24日参照>>)ですから、寺を中心として形成された町は、自らの手で守りを固めなければならなかったのです。

そんな中、本家本元の本願寺で事件が起こります。

寛正六年(1465年)、浄土真宗を一大勢力に押し上げて、後に「中興の祖」呼ばれる事になる第八世・蓮如(れんにょ=存如の息子)(3月25日参照>>)が、比叡山延暦寺からの弾圧を受けて、京都の大谷廟堂(おおたにびょうどう)を襲撃され、京都を追われたのです。

その時、蓮如が真っ先に頼ったのが、ここ金森でした。

なんせ、当時、この金森を支配していた川那辺矩厚(かわなべつねあつ)は蓮如の愛弟子ですから・・・

もちろん、延暦寺がそれを許すわけはなく、大谷退去から2ヶ月後には、延暦寺の僧兵が、ここ金森にまで攻めて来て、矩厚以下、結集した門徒たちと激しい戦闘を繰り広げました。

この比叡山による弾圧の事を「寛正の法難」と呼び、この時の金森での抗戦が日本初の一向一揆とも言われます。

そして、ご存じのように、この後、畿内を転々とした蓮如が、やがて北陸へと向かい、越前(福井県)吉崎に落ち着いてから、あの加賀一向一揆という一大勢力へとなって行くのですが・・・
【最初の加賀一向一揆~文明一揆】>>
【本願寺蓮如の吉崎退去と下間蓮崇】>>
【長享一揆~高尾城の戦い】>>

とは言え、結局は、一揆のあまりの激しさに耐えかねた蓮如は、吉崎を退去し、一旦、河内出口(でぐち=大阪府枚方市の光善寺)に居を構えた後、3年後の文明十年(1478年)には、壮大な伽藍の山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を完成させて、念願の京都へと戻り、その後、本願寺を五男の第九世・実如(じつにょ)に譲った明応五年(1496年)には、大坂石山(いしやま=大阪市中央区)に自らの隠居所として建てた石山御坊(後の石山本願寺)で余生を送りました。

そして、時には対立する武将と衝突しながら、時には援助してくれる武将と同盟を結びながら、どんどん大きくなっていく・・・やがて第1十世・証如(しょうにょ=実如の孫)の頃には、「戦って討死した者は極楽浄土に行ける!」というような考えのもと、「進めば極楽、退けば地獄」のスローガンを掲げて、さらに一揆勢力を拡大し、各地に巨大な信徒の都を造りあげて行きつつ本拠を石山に移し、いよいよ、時は教団最盛期の第十一世・顕如(けんにょ=証如の長男)の時代に・・・

そこに立ちはだかったのが、ご存じ織田信長(おだのぶなが)・・・

とは言っても、本願寺と信長の関係も、最初は、さほど悪い物ではありませんでした。

しかし、永禄十一年(1568年)9月、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を試みる(10月18日参照>>)信長は、その行く手を阻む六角承禎(じょうてい・義堅)観音寺城の戦い(9月13日参照>>)で蹴散らして、続く三好三人衆をもち果たし(9月29日参照>>)またたく間に畿内を制圧・・・

ちなみに、この時の信長は、同じく上洛の際の通り道に当たる北近江(きたおうみ=滋賀県北部)を支配している小谷城(おだにじょう=滋賀県東浅井郡湖北町)浅井長政(あざいながまさ)にも「通らしてネ」の挨拶に行っていて、コチラは領内通過をOKしています(妹=お市っちゃんの旦那やしね)(6月28日の前半部分参照>>)

こうして、制圧が完了すると、次は矢銭(やせん=軍資金)の徴収・・・これは、(新しくやって来た)統治者に対して「反抗する意思はありませんよ」って事を示す意味もあるわけですが、この時の顕如はあっさりと大金を支払っています。

とは言え、間もなく、ともに上洛した義昭と信長の関係がギクシャクし始める(1月23日参照>>)、義昭は、かつてお世話になった越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(よしかげ)(9月24日参照>>)をはじめとする各地の武将に打倒・信長を呼びかけはじめるのです。

と、「これはチャンス!」とばかりに、信長の上洛で追放されていた三好三人衆も動きはじめる・・・

そんなこんなの元亀元年(1570年)、信長は、顕如に対して、石山本願寺の明け渡しを要求して来ます。

そう、実は、この石山本願寺が建っていた場所は、大阪湾大和川淀川を臨む上町台地で、摂津(大阪府北部)播磨(兵庫県)河内(大阪府南部)と接している交通の要所・・・この先、畿内から西へと勢力を延ばしたい信長にとっては、この場所はベストポイントだったんです。

なんせ、そこは、後に、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大坂城を建てちゃう、その場所ですから・・・

とは言え、これには、さすがの顕如も、
「ハイ、そうですか」
と、おとなしく退去するはずもなく・・・いや、逆に、ここで全面対決を決意するのです。

各地の信徒に向かって「打倒!信長」の檄文を発して蜂起を呼び掛け、自ら甲冑を身につけて、すでに、この8月26日から始まっていた信長VS三好三人衆野田福島の戦い(8月26日参照>>)に参戦するのです(9月12日参照>>)

これが、約10年に渡る石山合戦と呼ばれる戦いの始まり・・・

もちろん、今回の金森をはじめとする近江の信徒たちも、この顕如の呼び掛けに応じ、かの、信長上洛の際に本拠を追われていた六角氏の残党と手を結んだ近江一向一揆として周辺の各地を暴れ回り、信長への抵抗を繰り広げていくのです。

一方の信長は、去る6月の姉川の戦い(6月28日参照>>)で深追いしなかった浅井&朝倉勢に宇佐山(うさやま=滋賀県大津市)を攻められて(9月20日参照>>)重臣の森可成(もりよしなり)を失いつつも、堅田の戦い真っ最中の12月、時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇による合戦中止の綸旨(天皇の命令)が発せられて、一旦は和睦する事になります(11月26日参照>>)

しかし、開けて元亀二年(1571年)の2月、配下の秀吉の策略によって佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を奪取して丹羽長秀(にわながひで)に守らせた信長の行動を皮切りに、それを見過ごせない浅井長政が、5月6日に、秀吉の守る横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を攻めた事で、約半年の和睦期間は終了して戦闘再開・・・

信長自身は、5月12日、すでに蜂起していた長浜一向一揆(5月16日参照>>)に対抗して津島(つしま=愛知県津島市)まで出陣しつつも、その2ヶ月後の8月18日には、いよいよ北近江へと出馬するのです。

横山城を拠点に、8月26日には小谷山本山(やまもとやま=同東浅井郡~伊香郡付近)の中間あたりまで進出して余呉(よご=伊香郡余呉町)木之本(きのもと=伊香郡木之本町)付近に放火・・・そこから北側の浅井勢と南側の一揆勢とを分断します。

続く8月28日に佐和山城へと進んだ信長は、佐久間信盛(さくまのぶもり)中川重政(なかがわしげまさ)柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀らに志村(しむら)小川(おがわ)(ともに滋賀県東近江市)を攻めるよう命じ、そこに潜む六角の残党と近江一揆勢の討伐を決行します。

まずは志村城に四方から攻め寄せて乱入し、またたく間に600ほどの首級を挙げますが、その勢いに驚いた城主の志村資則(しむらすけのり)は、ほどなく降伏開城・・・すると、その様子を知った小川城の小川孫一郎人質を差し出して降伏し、まもなく勝敗は決しました。

この戦いを志村攻め、または垣見(かきみ)の戦いと言います。

こうして志村・小川の両城を追われた六角の残党と近江一揆勢は、次に金ヶ森城かねがもりじょう=滋賀県守山市)川那部秀政(かわなべひでまさ)を頼って、信長に対抗しようとします。

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近江周辺の城の位置関係図

かくして元亀二年(1571年)9月3日、安土常楽寺(じょうらくじ=近江八幡市安土町)に布陣した信長が、一揆勢が立て籠もる金ヶ森城を攻撃したのです。

実は1週間ほど前の8月25日の時点で、先駆けとして、すでに佐久間信盛が金ヶ森に攻撃を仕掛けていたのですが、今回は、信長の出陣を待って、中川・柴田・丹羽らの大軍とともに再度の攻撃でした。

軍勢は、城への攻撃を仕掛けるとともに、付近の田の稲穂をすべて刈り取り、鹿垣(ししがき)を構築して城の四方を囲み、外部へと通じる出入口を、ネズミ一匹逃さぬよう固めて、外部との接触を一切遮断しました。

この徹底した攻めに戦意を焼失した川那辺秀政は、まもなく、人質を差し出して降伏したのでした。

こうして琵琶湖南東を鎮圧した信長は、すぐさま大津へと向かい、この、わずか9日後に有名な比叡山焼き討ちを決行します。

なんちゅー忙しさやねん!信長はん┐( ̄ヘ ̄)┌

ところで、ここですんなりと降伏&開城した事で、信長からは許されて命助かった川那辺秀政さん・・・

ところが、本願寺からは許してもらえず・・・おそらくは、その責任からか?この3ヶ月後の12月、本願寺の命令によって自害させられてしまうのです(12月9日参照>>)

ある意味、
魔王信長よりペナルティ厳しい戦国本願寺ww・・・
そんな時代背景も踏まえて、この後の比叡山焼き討ちの一件を見てみると、また違った見方ができるかも知れません。

【信長の比叡山焼き討ち】>>
【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】>>
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2016年8月12日 (金)

織田信長VS越前一向一揆~越前平定

天正三年(1575年)8月12日、織田信長越前一向一揆討伐に向けて岐阜を出陣しました。

・・・・・・・・・

元亀元年(1570年)、4月の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)からの有名な姉川の戦い(6月28日参照>>)に始まる、織田信長(おだのぶなが)VS浅井・朝倉の戦い・・・3年の年月を経た天正元年(1573年)、小谷城北近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷越前(福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月6日参照>>)信長はいよいよ越前を切り取りました。
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)

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越前一乗谷

この時の信長は、戦いの途中で朝倉に見切りをつけ、織田側に寝返った者の多くを配下として召し抱え、その奪い取った越前の地を治めさせるようにしました。

ところが、その旧朝倉家臣中で、旧朝倉家の本拠だった一乗谷城を与えられて越前守護代に任ぜられていた前波吉継改め桂田長俊(かつらだながとし)と、龍門寺城を与えられて府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)との間に内紛が勃発・・・

長繁が、地元の本願寺宗徒を扇動して一向一揆を起こさせ、自らも長俊の居る一乗谷へと挙兵し、またたく間に長俊に勝利・・・その勢いのまま一揆勢と長繁は、信長が北ノ庄に置いていた代官所も襲撃して、目付として赴任していた3人の奉行まで追放し、邪魔者を次々と倒して越前一国を、ほぼ掌握してしまったのです(1月20日参照>>)

ここでハタと我に返った長繁さん。。。
そうです、今の彼は信長の配下なわけで・・・慌てて信長に、お詫びの書状を書いて弟を人質に差し出し、越前守護の地位を認める朱印状を出してくれるように願い出るのですが、ご存じのように、その信長さんは、あの本願寺宗徒の教祖様=石山本願寺と長年に渡って抗戦中(8月2日参照>>)

例え信長が許したとしても(許さんとは思うが…ww)、一緒に戦った一向一揆勢が、越前を掌握した途端に信長の配下に戻る事を許すはずはなく、この一向一揆勢に加え、先の戦いで長繁にしてやられた旧朝倉の同僚や、長繁の統治に不満を持つ府中の町衆も加わった10万の軍勢に囲まれ、天正三年(1575年)2月18日、長繁は、奮戦空しく銃弾に倒れました。(くわしくは2月18日参照>>)

そう・・・こうして、この越前の地には奮起した一向一揆が残ったのです。

かくして、
この年の5月、武田勝頼(たけだかつより)を相手にした長篠の戦い(5月21日参照>>)を終えた信長は、天正三年(1575年)8月12日、自ら越前へと向けて出陣したのです。

14日に敦賀(つるが)へと入った信長は、武藤舜秀(むとうしゅんしゅう・きよひで)が守る敦賀城(福井県敦賀市)に陣を構えました。

一方の一向一揆勢は、虎杖城(板取城=いたどりじょう福井県南条郡)木目峠(きのめとうげ=敦賀市)今城(いまじょう・今庄=南越前町)などの諸城&砦に加え、能美川(日野川)新道川(帰川)の合流地点をせき止めた水壕を設けたり、さらに海岸には新城を構築したり、要所々々に鉄壁の守備を張り巡らせます。

やって来た決戦は3日後の8月15日・・・風雨厳しいこの日に、織田軍全軍が各方面から一斉に攻撃を開始します。

桂田長俊の息子や、かつて富田長繁の配下に属していた者たち(敵の敵は味方なり~)を先鋒として、柴田勝家(しばたかついえ)丹羽長秀(にわながひで)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀よし)明智光秀(あけちみつひで)などなど、織田家直属の武将が続き、織田信包(おだのぶかね=信長の弟)織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)ら身内を含む約3万の軍勢が、大良越え(だいらごえ=南越前町)から進撃・・・

さらに海上からは、かつて若狭武田氏の配下にあった粟屋勝久(あわやかつひさ)熊谷直之(くまがいなおゆき=直澄)(7月16日参照>>)などが数百隻の軍船で攻め寄せて各所から上陸し、海岸沿いにある城や砦に火を放っていきます。

もちろん、一向一揆勢も籠るばかりではなく撃って出ますが、これを迎え撃った羽柴&明智勢がまたたく間に2~300の首を挙げてさらに押し進み、例の海岸の新城を焼き払いました。

しかも、その日の夜・・・三宅権丞(みやけごんのじょう)が籠る府中(越前市)竜門寺砦に忍び込んだ織田方の者が、砦を乗っ取って付近に火を放った事で、不意の焼き討ちに驚いた一揆勢は、各砦から退却を開始しますが、それを、またまた羽柴と明智が追い込む・・・

さらに8月18日には、柴田&丹羽隊らが鳥羽(とば=鯖江市)を攻略し、美濃(みの=岐阜県)方面からは金森長近(かなもりながちか)(8月20日参照>>)らなど、各所から一斉に攻撃を仕掛けた事で、越前国中の一揆勢は、たまらず、各山々へと逃げ込んで、どこへともなく散り散りに姿を消しました。

一般的に、第二次天正越前一向一揆と呼ばれるこの戦い・・・
23日には一乗谷、28日には豊原(とよはら=福井県坂井市)にと信長が本陣を進めていくと、堀江(あわら市)など、加賀地方の一揆勢や門徒衆は、もはや戦う事無く投降します。

こうして、10日余りのうちに加賀・越前を平定した信長は、9月2日、北庄(きたのしょう=福井市)へと出かけて図面を引き、ここに城を構築するように命じて、越前の内の8郡を柴田勝家に与えたのです。

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北ノ庄城址公園(福井県福井市)

そう、ここが・・・
結果的に、勝家にとっての最後の城(4月23日参照>>)=北ノ庄城となったわけです。
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2016年6月 2日 (木)

本能寺の変~信長による家康暗殺計画説について

天正十年(1582年)6月2日明け方・・・・ご存じ、本能寺の変が勃発しました。

・・・・・・・・・・

今以って「戦国最大の謎」と称され、もはやYouTubeでもダンス>>が再生されまくりの超有名事件『本能寺の変』

て事で、これまで、このブログでも、最も史実に近いであろう『信長公記』に記された当日の様子を始め、謎に迫る様々な説をご紹介して来ましたが・・・
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【突発的な単独犯説】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>

今回は、最近話題の『徳川家康、暗殺計画説』について・・・

この説は、上記の「家康、黒幕説」とはちょっと違っていて、「本能寺の被害者である織田信長(おだのぶなが)の方が、実は、かの本能寺に徳川家康(とくがわいえやす)を呼びつけて、そこで暗殺しようと計画していたのを、うち明けられた明智光秀(あけちみつひで)が、その計画を逆手に取って、家康が到着する前の明け方に本能寺を襲撃して信長を討ったのだ」という感じの説で、以前から、一部では囁かれていたのですが、ここに来て、光秀の子孫とおっしゃる明智憲三郎(あけちけんざぶろう)氏がお書きになった『本能寺の変 431年目の真実』なる書籍がベストセラーとなって、にわかに脚光を浴び始めたようです。

なので、本日は、最近人気のこの説について考えてみたいと思いますが、もちろん、日頃から何度も言わせていただいております通り、私は「歴史に100%正しい」なんてのは「無い」と思っており、アプローチの仕方は様々で、どの文献のどの部分に重きを置き、どのように推理して行くかは、それぞれ自由であって良いし、それこそが歴史を楽しむ醍醐味だと思っております。

なんせ、1級史料と呼ばれる文献にも正しく無い部分はあるでしょうし、現在の歴史小説のような物と言われる軍記物の中に真実が隠されてる事もありますからね。

とは言え、そもそもは、自分の思いや考えを言いたいがために、この趣味のブログやってるような物ですので、「真実がどうこう」とか「反論がどうこう」とかではなく、あくまで「私はこう思う」という意味で、私自身の見解と抱いた疑問を、このブログ上でだけは述べさせていただく事をお許しいただくとともに、そこをご理解いただけるとありがたく思いますo(_ _)oペコッ

追記:ネタバレありますので、ご注意!

・‥…━━━☆

で、今回の明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』における『徳川家康、暗殺計画説』ですが・・・

この書籍の内容としては、丁寧にお調べになっていて、賛同する部分も多々あります。

信長の家臣になる前の光秀の過去に関しては、「そうなんだろうなぁ」と思う部分もあり、また、この本能寺の直後の家康が、「信長の死を悼むどころか、逆に、そのドサクサで領地を広げようとしていた」という部分も、まさに、その通りだと思います。

今年の大河ドラマ「真田丸」でも描かれていた天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる複数の合戦集合体ですが、これは実質的には家康と北条による、3か月前に滅亡した武田(3月11日参照>>)の旧領の取りあいであり、武田滅亡後に信長から甲斐(かい=山梨県)を与えられた河尻秀隆(かわじりひでたか)が、このドサクサまぎれで命を落とす事になる一揆を扇動していたのは家康かも?という事を、このブログでも書かせていただいております(6月18日参照>>)

また、
「現在のドラマや小説で描かれるような本能寺前後のストーリー展開の基となっている『惟任退治記』は、山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が書かせた秀吉を宣伝するための本なので信用ならず、それを基に書かれた『明智軍記』などもウソが多い…」
というところも大賛成です。

秀吉に限らず、その後に天下取った家康によっても「歴史は改ざんされてるんじゃね?」と、私も、このブログで散々書いてますし、果ては明治維新で勝利した新政府なんて、まさに「勝てば官軍」とばかりにイロイロと手を加えたでしょうし、やはり「歴史は勝者が作る物」ですのでね。

なので、明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』という書籍に関しては、その内容も、なかなかに読み応えがあり、このストーリーでドラマをやればオモシロイ物ができるかも知れません。

ただ・・・
この一連の検証を、著者ご本人は「歴史捜査」と銘打っておられるのですが・・・
残念ながら、「捜査」するなら、身内(子孫)ではなく、今ハヤリの名(迷)ゼリフ=「第三者の厳しい目」で捜査しなければ・・・

やはり、ご子孫であるが故の「ご先祖の汚名を晴らしたい感」による解釈があちらこちらに・・・おそらくは、ご自身が描く「明智光秀の名誉回復ストーリー」があるのだと思われますが、それを正当化するために、文献の都合の良い所だけを取り出して、都合の悪い所はウヤムヤのままにしてしまっているような気がします。

なので、先に、他の説を否定するために「嘘ばかり」とこき下ろした文献を、後で、「ここに書いてあるから…」と、ご自身の説の正しさを示すために持ち出される事多数で、読み手は少々混乱してしまうかも・・・

とにもかくにも、今回の明智憲三郎氏の『徳川家康、暗殺計画説』の流れを大まかに書かせていただくと・・・
「自らの出自である土岐(とき)の再興を悲願としていたものの、信長が宣教師に対して唐入り(大陸を攻める)の夢を語っているのを聞き、せっかく平和になると思っていたのに、これから唐入りとなれば、老いた身で遠い国まで行く事になり、老い先短い自分では土岐氏の再興が叶わなくなる」
と思っていた光秀に、
「少人数で堺見物している家康を本能寺に呼び出すので、お前が暗殺しろ」
と信長が命じた事で
「これはチャンス」
と思った光秀が、家康にこの暗殺計画を打ち明け、両者合意のうえ、信長が家康を呼びつけた6月2日の明け方(家康が来る前に)に謀反を決行した。
という事のようですが、

私個人的には・・・
●土岐氏の再興が、なぜ、この時期に急がねばならないのか?(←こういう事は何世代にも渡って貫く悲願なのでは?)
●唐入りと言っても、未だ信長は天下統一すらしてない
ですから、まだまだ先なのでは?(←毛利も上杉も北条も…九州&東北も手つかずなのに?)
などなど、いくつかの疑問が湧くのですが、

そんな中・・・そもそも、なんで?家康を暗殺??

著書による、その暗殺理由は、
「信長にとっての家康との同盟は、武田への対策であり、武田が滅亡した今となっては家康は不要・・・また、この先、唐入りのために日本を留守にしている間に家康が反旗をひるがえすかも知れず、その存在が脅威となるであろう」
との事ですが・・・

う~ん?武田が滅亡しても、まだ北条も上杉もいますよ。
しかも、武田が滅亡して、まだ3ヶ月・・・奪い取ったばかりの領地を、織田配下の者が、ちゃんと治め切れてもいないこの時期に???
しかも、西では毛利とドンパチやってるこの時期に???

それに、家康を脅威に思うのは、この先の歴史を知ってるからではないですか?
確かに、晩年の秀吉は家康を脅威だと思っていたでしょうが、この時点での信長にとって家康は脅威だったんですかね?
かなり兵力に差があると思うんですが・・・

また、歴史上、これだけの兵力差があって、反旗を翻したわけでもない従順な同盟者を暗殺した例ってあるんでしょうか?
(ちなみに、もし書籍の通りなら「暗殺」というより「騙し討ち」ですが…)

古今東西・・・暗殺とは、力の無い者が力のある者に対してする行為・・・なんせ、まともに戦っては勝ち目が無いので「暗殺」ですからね。

これに対しては『孫子』の兵法を出して、
「合戦をすればお金がかかるし、人も死ぬ…これが、孫子の言う『戦わずして勝つ』 という事だ」
とおっしゃっておられますが、

ま、文献の解釈もそれぞれなので、何とも言えませんが、私は、「戦わずして勝つ」というのは、単に、その言葉通り=戦わないで勝つのが1番(そのためには暗殺でも良い)という意味では無いと解釈してます。

とりあえずは以前書かせていただいた『孫子の兵法・謀功篇』(4月19日参照>>)を見ていただけると解りやすいと思うのですが、孫子の言う「戦わずして勝つ」は、
「合戦をすればお金がかかるし、人も死ぬ」というのは、その通りですが、だからこそ、
「合戦の前に敵の事を入念に調べつくして、様々な対策を取り、敵を孤立させるなど完璧な姿勢で挑み、相手が「こんだけされたら、もうアカン、降伏するしかない!」と思うように持って行って、結果、両者無傷のまま勝つ」
みたいな事であって「戦わずして勝つ」なら「どんな手段を用いても良い」事では無いように思うのです。

なんせ、孫子は、その第一章(【孫子:第一章:始計篇】参照>>)の第一番目に
「一に曰く道」
という言葉を持って来ています。

この「道」とは「道理」=「大義名分」の事・・・「その戦いに大義名分があるからこそ、領民も納得するし、兵卒もついて来る」
というわけですが・・・もはや天下を目前にした信長が、この時期に、兵力差のある家康を暗殺する事に大義はあったのでしょうか?

とは言え、例えそれが、古今東西に例が無かったとしても、例えそれが、天下人にあるまじきコスイ手段=弱者を騙し討ちという行為であったとしても、信長が家康を暗殺しようとした事、それに乗っかった光秀が家康と組んで信長に謀反を起こそうとした事が、絶対に=100%無い事だとは言えません=それが歴史・・・事実を直接見る事は不可能ですから。

なので、もし、それも含め、その他の事も含め(色んな疑問を言いだすと長くなるので…)、すべてが、明智憲三郎氏のおっしゃる『本能寺の変 431年目の真実』の通りであったとしても・・・残念ながら、私が、この本能寺の変の中で最も重要だと思っている謎は、この明智憲三郎氏の説では解決されていないように思います。

それは、「信忠スルー」です。

個人的な考えではありますが・・・
謎解きに至る重要事項はイロイロあれど、このどれよりも、実は「信忠スルー」が、この本能寺の変にとって1番大事な事なんじゃないか?と、私は思っています。

この「信忠スルー」というのは、あまりドラマ等では描かれないのですが、信長の嫡男=織田信忠(おだのぶただ)が、この日、本能寺のすぐそばの妙覚寺にいたのに、光秀は、信長の暗殺ばかりに夢中になり、かなり後になってから「あ、信忠もいたんだ」てな感じで攻撃に向かう、あの状況の事です。

この時、本能寺が襲撃された事を知った信忠は、逃げる時間があったにも関わらず、自ら二条御所へと移動して、そこで籠城戦に挑み、結局、明智軍に討ち取られるのです(くわしくは2008年6月2日の後半部分で>>)

これは、本能寺の事が書かれている文献で、ほぼ一致した内容となっており、おそらく史実とされていて、反対意見もほぼ無い出来事・・・現に、信忠はここで死にますが、寸前まで信忠とともにいた息子の三法師(さんほうし=後の織田秀信)(8月22日参照>>)や弟の織田長益(ながます=後の有楽斎)(12月13日参照>>)は逃走して助かり、その後も歴史に登場します。

さらに・・・
この時、移動した二条御所には、時の天皇である正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第1皇子の誠仁親王(さねひとしんのう)と猶子の和仁親王(後の後陽成天皇)がいましたが、妙覚寺から移動して来た信忠は、その二人に、
「ここは、もうすぐ戦場になりますので、内裏(だいり=天皇の私的区域)へとお移り下さい」
と言って送り出していますが、当然、このお二人も無事です。

この雰囲気を見る限りでは、やはり、本能寺→妙覚寺→二条御所の間には、なかなかの時間差あったように思えてなりませんね。

信長は、7年前に嫡男の信忠に家督を譲っています(11月28日参照>>)から、もし、ここで信長が死んでも、信忠が生きていれば、そのまま、信忠が織田家の当主としてバトンタッチされるだけですので、この「信忠スルー」は、光秀の謀反が計画的かつ計算通りであるなら、あってはならない事なのです。

確かに、この時点で信忠が譲られていたのは織田家の家督ですので、それはあくまで織田家の当主として織田家を仕切れる権であって、天下うんぬんとは別物・・・ではありますが、もし、信忠が生きていたとしたら、おそらく、織田家家臣団の結束が揺らぐ事も無いですから、例え信長を討ったとしても、ただ信長を暗殺した謀反人とされるだけで、結局は大きな態勢の変化は無く、むしろ、信忠率いる織田家とその配下全員を敵に回す事になるだけで、逆に天下が遠のくような気がします。

むしろ、なんなら「信忠も京都にいたからこそ、謀反に踏み切った」と考えた方がシックリくるくらいなのですが、それならそれで、やはり信長の本能寺と信忠の妙覚寺とを同時攻撃しなければ意味が無く、信長攻撃に夢中で信忠が逃げちゃうようなスキを与えてはならないわけで・・・(結果的に信忠が逃げずに戦ってくれたおかげで討つ事ができましたが…)

まさに、ここが1番の悩みポイントです。

ただし、ひょっとしたら、この日の光秀が、信忠が妙覚寺にいる事を知らなかった可能性もゼロではありません。

この本能寺の2日前の5月29日、家康は京都から堺に移動して堺見物をしていて(上記の【徳川家康、黒幕説】参照>>)、信忠も、それに同行していたわけですが・・・
実は、本来なら、この後も家康と行動をともにするはずだった信忠は、急きょ予定を変更して、その日のうちに京都へとやって来ていて、6月1日の夕方から本能寺で行われた酒宴にも出席しています。
(注:この年の5月は29日までなので、29日の翌日が6月1日となります)

27日付けの信忠の書状でも
「家康さんに同行して堺見物するつもりやったけど、お父ちゃんがもうすぐ安土を出ると聞いたんで、堺見物は止めて、京都でお父ちゃんを出迎える事にするわ」
と、信長につき従っている森蘭丸(もりらんまる)に言っています。

って事は、信長からの中国出陣命令を受けて、すでに5月17日の段階で安土を発って坂本城へ入城し、さらに5月26日には丹波亀山城(京都府亀岡市)に入っていた(5月28日参照>>)光秀は、この信忠の移動を知らなかったのかも・・・

で、この明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』でも
「光秀は、信忠が妙覚寺にいた事を知らず、彼が二条御所に籠った時点で気付いた」
としています。

明智憲三郎氏の説によると、それは
「家康が信長の接待を安土城で受けていた時に、安土城内の一室で密談して、二人が信長暗殺計画を練ったであろう時点では、この信忠の京都入りは予定に無かった事で、家康に同行していたはずの信忠が予定を変更した時には、すでに亀山城に入っていた光秀は、その予定変更を知らず、信長も(光秀は家康を討ちに京都に来ると思っているので)あえて光秀に知らせる必要は無かった
と考えれば謎が解ける・・・とおっしゃってますが、

んん???
確かに、亀山城にいた光秀は知らなかったかもしれないし、信長もあえて言わなかったかもしれませんが・・・

堺にいた家康は???

だって、家康は光秀と組んでるんですよね?
ともに、信長暗殺の計画を練った家康は、なんで、光秀に信忠が予定変更した事を知らせなかったんでしょう?

まして、明智憲三郎氏の説では、あの安土で密談をした時に、光秀が本能寺で信長を討つと同時に、家康も堺で信忠を討つという綿密な打ち合わせをしていた事になってるんですよ。

たった4~50人の側近しか連れていない家康が、5~600の馬廻りを従える信忠を、どうやって討つのか?という疑問も残りますが(それこそ暗殺かも?)
それ以上に、討つはずだった信忠を討ち漏らしたばかりか、そのターゲットが、もう一人のターゲットと接触する事を「仲間に知らせない」なんて事がありえるんでしょうか?・・・これ、1番知らせなきゃいけない事なんじゃ?

しかも、家康との親交も深かった京都の商人=茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)の屋敷は本能寺にも近く、彼ら茶屋家の人が、この時、家康のいる堺と自宅のある京都を行ったり来たりしてる記録もあるようで・・・つまり、知らせる時間もあったし、伝令として使える人材もいたわけですよね?

まさか、同行していた信忠がいなくなった事を、家康は気づかなかったとか?
いやいや、この時点では信忠も、光秀&家康の計画は知らないわけですから、別行動とるなら挨拶くらいしてから行くでしょうし、第一、これから討とうと思ってるターゲットの行動を、戦場でも無い場所で見失っていては戦国武将としてやっていけません。

一つだけ考えられるのは、光秀から信長暗殺をうち明けられた家康が、光秀に同意するフリをしておきながら実は裏切っていて
「光秀が信長殺ってくれんなら、これ幸い…そのドサクサで領地増やして、知らん顔しといたんねん」

と思っていた・・・なので、信忠の予定変更を、あえて光秀に知らせなかった可能性ですが・・・

しかし、明智憲三郎氏の説では、
「家康は、光秀を援護しようと、慌てて岡崎に帰って準備していたが、秀吉があまりに早く中国から戻って来たために、光秀を救援する事ができなかった」
「それでも家康は、落ち武者となった者を救うべく、軍を西へ向けようとするが、山崎の戦いに勝利した秀吉から『すべてが片付いたので帰陣せよ』との知らせを受けたので、やむなく兵を退いた」

とおっしゃる・・・

・・・て事は、山崎の合戦の時点でも家康は光秀の味方だったわけで・・・それなら、やはり、
「家康が、堺にて信忠を暗殺できなかった事を、相棒の光秀に報告しない」
からの
「光秀が、信忠が妙覚寺にいる事を知らないまま、本能寺の信長を攻撃してしまう」

という展開は、なんか変・・・一つの創作物語としても辻褄が合って無い気がします。

○○黒幕説うんぬん、野望説うんぬん、四国説うんぬん・・・イロイロありますが、それらの説すべてが、この「信忠スルー」を、「光秀は信忠が妙覚寺にいた事を知らなかった」で、一応の解決ができるのですが(解決=それが「正しい」という意味ではなく「可能性がゼロではない」「あり得るかも」「否定はできない」という意味です…個人的には、優秀な光秀が「知らなかった」とは考え難い気がしてますが…)

残念ながら、最後の最後まで光秀と家康が共謀している設定である、明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』における『徳川家康、暗殺計画説』は、この「信忠スルー」を、「光秀は知らなかった」では「謎を解いた」とは言えないような気がするのですが・・・

結局のところ・・・やっぱ、まだまだ謎かなぁ~(*^-^)と、実は、謎のままな事を喜んでいる茶々でした~
 .

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2016年4月 4日 (月)

甲州征伐後の信長の安土帰陣と息子・織田勝長の事

 

天正十年(1582年)4月4日、甲州征伐を終えた織田信長が黒印状を残しています。

・・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)4月4日付けで、織田信長(おだのぶなが)から公家の吉田兼見(よしだかねみ=吉田神社の神主)宛てに送られた黒印状・・・当然ですが、個人的な手紙ではなく、公文書です。

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織田信長黒印状(大阪城天守閣蔵)

内容は
「今回の出陣のために、禁中(きんちゅう=御所内)で丁寧に必勝祈願していただいたお札と衣が、コチラに届きました…心の底から喜んでます」
てな感じでしょうか?

宛名は兼見で書状には禁中と書かれていますが、この必勝祈願を命じて実行させたのは時の天皇である正親町天皇(おおぎまちてんのう)です。

ドラマ等では、
「神になろうとしていた」とか、
「天皇に代わって天下を取ろうとしていた」とか、
何かと天皇を下に見る雰囲気で、鬼のような信長さんが描かれますが、公式文書であるが故の社交辞令的な面もあるとは言え、この時期になっても、信長が正親町天皇に敬意を払っている事が、この書状でわかります。

この2年前に、やっとこさ終結した石山合戦も、もともとは最後の室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)の声かけに応じた形で蜂起した石山本願寺に対して、その鉾を収めさせるためには、
「将軍よりもエライ人にお願いしよ」
と、信長側から正親町天皇にお願いして、快諾した天皇が本願寺を説得して終戦に持ち込んだわけですし(8月2日参照>>)

このブログでも度々書かせていただいているように、天正二年(1574年)に東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)を削った時も、意外に腰が低かったし(3月28日参照>>)、前年=天正九年(1581年)の御馬揃えも、天皇さんへの大サービスの可能性大だし(2月28日参照>>)・・・おそらく、一般的に言われているほど、天皇と信長の関係はギクシャクはしていなかったのでしょう。

ところで、書状に書いてある「今回の出陣」ですが、ご存じの甲州征伐(こうしゅうせいばつ)武田勝頼(たけだかつより)武田氏を滅亡へと追いやる、あの戦いですね。

実際には、木曽義昌(きそよしまさ)の武田離反を受けた信長が合戦の命令を出したのは天正十年(1582年)2月9日(2月9日参照>>)・・・その後、2月20日に田中城・開城(2月20日参照>>)され、3月1日に穴山梅雪(あなやまばいせつ)寝返り(3月1日参照>>)、3月2日に高遠城が陥落(3月2日参照>>)となって、いよいよ3月11日、天目山に逃れた勝頼以下が自刃(3月11日参照>>)、戦いは終結していました。

さらに、3月24日には兵士たちに兵糧を配って労をねぎらって、それぞれが順に帰国するよう促した後、3月29日には論功行賞と訓令発布を行って(3月24日参照>>)、4月2日には、自らが帰国の途につくとともに、未だ屈しない武田氏の菩提寺=恵林寺へと嫡男の織田信忠(おだのぶただ)を向かわせています(4月3日参照>>)

なので、御所にて必死のパッチで必勝祈願をやってる真っ最中に、すでに戦いは終了していたわけですが、それこそ、信長さんのリップサービス・・・その事には触れず「うれしい~」という気持ちを全面に押し出す内容となってますね。

・・・で、『信長公記(しんちょうこうき)によれば、遠征先より、この手紙を出して後、戦後処理を済ませた信長は、甲府を出発するのですが、その帰りの道筋の手配をしたのが徳川家康(とくがわいえやす)でした。

兵士の持つ鉄砲が周囲の木々に当たらぬよう、木々を伐採して街道を拡張し、石を取り除いて水をまき、道の両側には、ネズミ一匹逃がさないほどに、ビッシリと警固の兵士を配置したうえに、この先の宿泊地となる各場所には堅固な陣屋を建築し、その周りを何重もの垣根で囲い、周辺には1000軒に及ぶ警固兵士の常駐場所=警備員詰所を設置して守りを固める念の入れよう・・・もちろん、朝夕の食事の用意も、各地担当の徳川の家臣たちに命じてぬかりなく・・・

そんな中を信長率いる一団が・・・4月11日には女坂(甲府市=旧上九一色村)から本栖湖(もとすこ=河口湖町)のほとりへ、翌日には出迎えに来た浅間神社(せんげんじんじゃ)の神官の案内で有名な白糸の滝を巡った後、浅間神社境内の宿泊所に一泊します。

さらに翌日は田子の浦から富士川を越えてさらに行き、三保の松原では羽衣の松も見物など、他にも、道筋各地の名所を巡りつつ、その夜は江尻(えじり=静岡市)で一泊・・・この間、行く先々に休憩所が設けてあり、そこには、当然の如く、大量の酒と肴が用意されていたのだとか・・・

これら全部、家康さんによる接待らしいですが・・・なんか、すごいなΣ(゚д゚;)

4月16日に天竜川を渡る時には、舟を一列に並べてロープで縛って固定して橋にする=いわゆる舟橋を、家臣領民総動員で構築・・・周辺の警備には大量の兵士を配置して万全態勢にし、川を渡った向こう岸にも休憩所を設置し、酒と肴でエンヤラヤ~って、どんだけの出費!!w(゚o゚)w

もちろん、信長も、そのぶん大喜びですし、付き従っていた将兵も家康に感謝・・・まぁ、家康は、今回の武田滅亡で、ここらあたり一帯=駿河を、信長から与えられたわけですから、おそらく、接待にかかった出費以上の何かしらが、後々得られるであろう計算でしょうけどね。

こうして、武田の元領地だった場所を見て廻った信長は、この日は浜松に一泊してから、19日には清州(きよす)まで戻り、20日に岐阜に到着・・・その翌日、安土へ向けて移動しますが、ここから先は、稲葉一徹(いなばいってつ)織田勝長(おだかつなが=信長の五男もしくは四男・信房とも)丹羽長秀(にわながひで)などなど、配下の者がそれぞれに、家康に負けず劣らずの接待合戦でもてなしつつ、信長はその4月21日のうちにに安土に帰陣したと言います。

思えば、この安土帰陣から、わずか40日後に、あの本能寺があるんですよね~(2015年6月2日参照>>)

ところで、上記の21日に垂井(たるい=岐阜県不破郡垂井町)で信長の接待をしたとされる息子の勝長・・・甲州征伐では兄で嫡男の信忠に従って活躍し、この信長帰還の時には、新しく屋形を建てて、酒と肴で父をもてなしたと言いますが、実はこの息子さん、あの美濃岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)にいた信長の叔母=おつやの方(岩村殿)に養子に出されていた幼名=御坊丸(ごぼうまる=信房とも)その人なんです。

その生年がはっきりしないので、当然、年齢もはっきりしませんが、前後の兄弟との関係からみるに、おそらくは3歳くらいの時に、おつやの方の夫だった亡き遠山景任(かげとう)に代わって、将来の岩村城主となるべく養子に出されたものの、そこが武田の攻撃を受けて落城(3月2日参照>>)、彼はそのまま武田の人質として甲斐(かい=山梨県)で暮らす事に・・・

その人質の任が解かれて、織田家に戻ったのは、この前年=天正九年(1581年)頃だったとか・・・つまり、3歳で養子となってまもなく落城で人質となり、そこから10年ほどの、おそらく10代前半=13~14歳で、やっと父のもとに戻ったと・・・

そして、この後、勝長は、かの本能寺で父とともに命を落とす事となるのです。
(厳密には勝長は、二条御所に籠った信忠と行動を供にしてますが…=(2008年の6月2日へ>>)

父を接待したその日、勝長は、酒を酌み交わしながら、父とともに語らったのでしょうか?
信長は、最も不遇な幼少期を過ごしたこの息子に、何か声をかけたのでしょうか?

40日後に命尽きる父子の、ほんのひとときの酒宴の事を思うと、戦国の世のならいとは言え、なんだか切ないです。
 .

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