2022年9月 8日 (木)

信長と秀吉と村上水軍と…戦国波乱の潮を読む

 

天正十二年(1584年)9月8日、羽柴秀吉村上武吉の海賊行為に立腹し、小早川隆景に成敗を命じました。

・・・・・・・・

潮の流れが速い瀬戸内で、自在に舟を操る海の民・・・記紀神話にも登場する彼らが、やがて武装集団となって海賊あるいは水軍として海の跳梁ごとく本格化するのが平安時代頃から・・・

土佐(とさ=高知県)国守(こくしゅ=地方行政官)の任務を終えて都に戻る紀貫之(きのつらゆき)海賊の報復を恐れる(12月21日参照>>)一方で、海賊将軍と呼ばれた藤原純友(ふじわらのすみとも)反乱を起こしたり(12月26日参照>>)

あの平清盛(たいらのきよもり)の父ちゃん=平忠盛(ただもり)瀬戸内の海賊退治で名を挙げたり(8月21日参照>>)・・・

そんな中、室町から戦国時代にかけて歴史の表舞台に登場し、その名を馳せるのが村上水軍(むらかみすいぐん)です。

もとは一つだったのが、この頃には、
能島(のしま=愛媛県今治市・伯方島と大島との間の宮窪瀬戸)
来島(くるしま=愛媛県今治市・来島海峡の西側)
因島(いんのしま=広島県尾道市・芸予諸島北東部)
三島に分かれており、

その生業の海賊業も、いわゆる「海賊=略奪や強盗」というよりは、掌握する制海権を活用して海上に関所を設定して通行料を徴収したり、お得意の潮の流れをよむ水先案内人の派遣など、どちらかと言うと海上警護の請負などが主になっていました。

とは言え、その立ち位置もそれぞれで・・・

因島村上氏村上吉充(むらかみよしみつ)は、
父の代から毛利元就(もうりもとなり)と懇意で、弘治元年(1555年)の、あの厳島(いつくしま=広島県廿日市市宮島町)の戦い(9月28日参照>>)にも、しょっぱなから元就に味方した毛利ベッタリ。

また、来島村上氏村上通康(みちやす)は、
伊予(いよ=愛媛県)国司(こくし=地方行政官)から鎌倉幕府の御家人となって当地を治めていた河野通直(かわのみちなお)を、他の水軍から救った事が縁で、河野氏(かわのし)の配下となり、その通直の娘を娶って一門に名を連ねるほど・・・

つまり、すでに因島と来島は、ほぼ戦国武将配下の水軍に組み込まれていたわけですが、

残る能島村上氏村上武吉(たけよし=武慶とも)は、
地理的要因から毛利に味方する事もあったものの、未だ独立した海賊業の色濃く、かの厳島の戦いでも、説得に応じた1度だけの味方として毛利方に参戦したものの、その後の永禄や元亀の頃(1570年前後)には毛利と敵対していた九州大友宗麟(おおともそうりん)(5月3日参照>>)と懇意にしたり、

さらに、天正四年(1576年)の 石山合戦では、敵対する織田信長(おだのぶなが)に囲まれた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)に、毛利の水軍と協力して見事に兵糧を運び込んだり(7月13日参照>>)しておきながら、

一方で、その信長が瀬戸内の水軍の懐柔に熱心だと知るや、信長に鷹を献上して(献上したのは武吉息子の元吉とも)ご機嫌を伺い、
「僕のために頑張ってくれるんなら、君らの望むようにするから何でも言うてね」by信長…
てな、玉虫色の返事を貰っちゃったりしてます。

そう・・・実は、信長さんは、瀬戸内海の制海権の握るべく、この村上水軍の懐柔には、非常に熱心だったのです。

その命を受けて動いていたのが、織田家内での西国担当だった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でした。

天正十年(1582年)には、秀吉は、中国攻めの前線基地である姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)に、来島と能島の村上家臣を一人ずつ召し出してお誘いをかけています。

特に能島村上の家臣の大野兵庫直政(おおのひょうごなおまさ=友田治兵衛)には、
「能島クンが味方してくれるんなら、伊予十四郡…どころか、なんなら四国全部あげてもえぇねんで。
もし(当主が)首を縦に振らんかったら大野クンだけでも…味方になってくれたら塩飽諸島 (しわくしょとう=岡山県と香川県の間の備讃瀬戸付近の島)と周辺の警固権を与えるよん」
と、破格の恩賞をチラつかせて誘ったとか・・・

そう、実は、この時の勧誘にいち早く乗ったのが来島村上水軍・・・この時、すでに村上通康は亡く、息子の来島通総(くるしまみちふさ)が来島村上氏を継いでいましたが、この通総が、ちと素行が悪く、公金横領や乱暴狼藉の噂が絶えない男。

てか、実は父の通康が、河野通直の死後に河野の家臣団からパワハラを受けて一門から外されたという経緯があり、彼としては、なんなら河野への恨みからの非行であり、はなから離反する気満々であったとか・・・

しかし、これに慌てたのが、能島の村上武吉・・・なんせ、来島村上氏は奥さんの実家で、これまで若い来島通総を世話し、サポートして来た立場にあったワケですから・・・

その後、頻繁に来島通総のもとを訪れ、織田から離れるよう説得に当たっていた村上武吉・・・おかげで、
「能島村上氏までもが織田に寝返った」
なんて噂も出るほどでしたが、

これに対し、秀吉は、
「天下国家を論ずる織田に対して私情を挟むな!」
つまり、両者のゴタゴタはお前らで解決したらえぇから、
「グダグダ言わんと、さっさと味方につけや」
なんて催促の手紙も出しています。

一方、この時期に、因島村上義充は人質を差し出してまで毛利への忠節を誓いますから、能島の村上武吉も、自身の立ち位置をハッキリせねばならない状況に・・・

そんな中、この年の4月末には、あの備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区高松)攻め(5月7日参照>>)へと繰り出す秀吉。。。

そして、その約1ヶ月後・・・運命の6月2日=本能寺の変(6月2日参照>>)がやって来るのです。

ご存知のように、この時、秀吉は、水攻め中の備中高松城と、信長の死を隠したまま電撃的に和睦して、京都方面へと戻る事にしたわけですが、すでにドップリ協力中の来島通総は、あの奇跡的な中国大返し(6月6日参照>>)にも全面協力・・・

秀吉が、考えられないような速さで畿内へと戻る事が出来た理由の一つに、「この来島村上水軍の協力があったから」と言われていますね。

つまり、秀吉をはじめとする将兵は、ほとんど身一つで道中を駆け抜け、武器やら甲冑やら重い物を乗せた来島の軍船が、それに平行するように海岸線を走ったと・・・

とにもかくにも、ご存知のように、秀吉は、本能寺の変から、わずか10日余りで畿内に戻り、あの天王山明智光秀(あけちみつひで)を破って、主君=信長の仇を討ったわけです(6月13日参照>>)

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本能寺の変前後の秀吉&村上水軍の位置関係図
↑クリックで大きく→(背景は地理院地図>>)

と、この間、自身の立ち位置を(毛利方と)示した能島村上武吉は、秀吉が畿内へ戻ってるスキに来島村上氏を攻める事に・・・

6月27日に、来島の西にある大浦之鼻にて両者は激突しますが・・・6月27日と言えば、あの清須会議(きよすかいぎ)の日(6月27日参照>>)。。。

さすがに中国大返しのバタバタで、未だ援軍を出す余裕の無い秀吉を頼れなかった来島通総は、散々に撃ち破られ、逃亡するしかありませんでした。

その後、毛利の水軍と合流した村上武吉は、頭領が去った来島支配下の城や砦を、ことごとく落として行ったのです。

その一掃作戦は、翌・天正十一年(1583年)の終わり頃までかかったと言います。

ところが・・・です。

その翌年の天正十二年(1584年)、村上武吉に追いやられた来島通総が「瀬戸内に戻って来る」との話が持ち上がります。

もちろん、後ろ盾は秀吉です。

毛利の重臣で、今は亡き毛利元就の四男である穂田元清(ほいだもちきよ)に対して、
「来島通総クンを元通りに復帰させるのでヨロシクやったってね
なる通達を出す一方で、

秀吉は、天正十二年(1584年)9月8日小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)にも、「村上武吉が未だに海賊行為をしているので成敗しろ」と命じて来たのです。

小早川隆景は、かの備中高松城攻めを治める際、信長の死を隠して和睦を結んだ秀吉に立腹して追い打ちをかけようとする毛利方の諸将を、
「一旦、決まった事を私情で覆してはならぬ」
と説得した事から、その後、その行為に大いに感激し秀吉から一目置かれる存在となっていましたが、

一方で、隆景は、村上武吉とも、生まれた年も同年で、昔から気の合う友人だったのです。

そのため、この秀吉の命令は実行される事無く、毛利家当主の毛利輝元(てるもと=元就の孫で隆景&元清の甥)も、11月11日付けの村上武吉宛ての書状にて、
「来島通総の帰国には、僕も反対やで」
と、武吉の味方をしています。

とは言え、結局、11月の中旬頃、来島通総は瀬戸内に戻って来ます。

少々の小競り合いはあったものの、大きな衝突はなく、来島通総は元通り・・・これには、やはり、あの信長の遺児=織田信雄(おだのぶお・のぶかつ)を丸め込んで、徳川家康(とくがわいえやす)をも退かせ(11月16日参照>>)、もはや天下に1番近い男となった豊臣秀吉の抑止力のなせる業・・・

以来、毛利も、なんとなく来島を容認する方向に傾いていきます。

その後も、小早川隆景が
「君ら父子を見捨てる事は無いで~」
てな手紙を村上武吉に送ったりしていますが、もう、能島村上氏の没落は火を見るよりも明らかでした。

そして、この頃、すでに太政大臣(だいじょうだいじん=政務の長)にまで上り詰めた秀吉からの、最後のダメ押しとなったのが、天正十六年(1588年)7月に発布した「刀狩令(かたながりれい)(7月8日参照>>)とともに出した「海賊禁止令」です。

もちろん、上記の通り、それまでも海賊行為は禁止されてましたが、今回の禁止令には、
「海賊行為を行った者はもちろん、そこを管理する領主も知行を没収して罰する」
という文言が含まれる厳しいものでした。

もう、能島村上水軍が腕を振るう場所はありません。

ご存知のように、後に秀吉は、朝鮮出兵(1月26日参照>>)という水軍を要する戦いをする事になりますが、この時でさえ、村上武吉にお声がかかる事はなく、彼は毛利の領地である長門(ながと=山口県西部)寒村にてひっそり暮らすしかなかったのです。

あぁ…あの日あの時、秀吉の誘いに乗って織田方についていたら・・・

と、つい思っちゃいますが、織田についた来島も徳川政権下で豊後(ぶんご=大分県)に領地をもらって生き残りはしましたが、以後は「水軍」を名乗る事はなかったですから、どっちへ転ぼうと、いずれは、そういう運命になっていたのかも知れません。

村上武吉の晩年については、ご命日のページ>>の後半部分で…
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2022年7月27日 (水)

上杉と北条の間で揺れ動く忍城~成田長泰の生き残り作戦

 

天正二年(1574年)7月27日、武蔵に侵入して来た上杉謙信が成田長泰の忍城を攻めました。

・・・・・・・

あのHIT映画「のぼうの城」の舞台として知られる忍城(おしじょう=埼玉県行田市)は、あの応仁の乱が終わったであろう頃に、

藤原北家(ふじわらほっけ=不比等の次男・藤原房前 が祖)の流れを汲む名門で、室町時代に入ってからは代々、関東管領(かんとうかんれい=鎌倉公方の補佐&関東支配)山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)被官(ひかん=側近)を務めていた成田顕泰(なりたあきやす)なる武将が、この地を支配していた(おし)を倒して築城したとされ(その辺はちと曖昧)

戦国時代には、その成田顕泰の孫にあたる成田長泰(なりたながやす)も、忍城を居城としながら、時の関東管領である上杉憲政(うえすぎのりまさ)に仕えておりました。

しかし、やがて、代々関東管領を務めて来た上杉と、徐々に関東支配に手を伸ばしてきた北条(ほうじょう)がぶつかる事になります。
(このあたりは【北条氏綱、武蔵江戸に進出】を参照>>)

上杉憲政が、足利晴氏(あしかがはるうじ=4代古河公方)上杉朝定(うえすぎともさだ=山内上杉家)らもろともに、北条氏康(ほうじょううじやす=後北条3代当主)に敗れた天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(かわごえやせん)(4月20日参照>>)の時には、

父の死を受けて家督を継いで間もない成田長泰も、上杉憲政からの出陣要請を受けている記録が残っていますので(『小山文書』)、この時期には、未だ上杉の配下であったのでしょう。 

そのため、7年後の天文二十二年(1553年)には、北条氏康に忍城を攻められますが、この時は城は落ちず・・・成田長泰は死守しています。

しかし、その後も、真里谷(まりやつ)武田氏を滅ぼし(11月4日参照>>)安房(あわ=千葉県南部)里見(さとみ)と戦って(1月20日参照>>)房総半島を脅かす北条に対し、河越以降の上杉憲政らは、もはや打つ手なしの状態・・・

こうなると、何と言っても世は戦国・・・
生き残るためには、上手く立ち行かねば・・・

てな事で、ここらあたりで上杉憲政を見限った成田長泰は、勢いのある北条に服す事にします。

ところがドッコイ・・・
「もう、アカン(ToT)」
と思った上杉憲政は、北条に対抗するため、ここで、これまた勢いのある越後(えちご=新潟県)長尾景虎(ながおかげとら)のもとへ上杉家の系譜と先祖代々のお宝を手に逃げ込み、彼に関東管領職を譲るというのです(6月26日参照>>)

この時点で北条配下となっている忍城・・・今度は、謙信のターゲットとなってしまうわけで。。。

Uesugikensin500 案の定、永禄二年(1559年)、景虎は忍城にやって来ます。

これを知った成田長泰が、一族配下に下知を飛ばし、
大手(おおて=正面)搦手(からめて=側面)に兵を集中させ、籠城の構えを見せると、守備配置を確認しようと、景虎が大手に姿を見せます。

このチャンスに城内から一斉に鉄砲を撃ちかけた成田勢ではありましたが、残念ながら、弾は一発も景虎に当たらず・・・

この後は・・・
景虎が忍城攻撃に着手するも、小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)から北条の援軍が出陣したとの知らせが入ったため、やむなく景虎は兵を退きあげた・・・という説と、

忍城が、なかなか落ちなかったため、長期戦を覚悟した景虎が埼玉古墳群に陣を据え、城下に火を放って民家を焼き払った事から、成田長泰は末の息子を人質に出し、和睦交渉に入った・・・という2つの説がありますが、

いずれにしても、ここで成田長泰が北条に離反して、景虎の傘下となった事は確か・・・

というのは、この後、関東管領並みとなって上杉謙信(うえすぎけんしん)と名を改めた景虎が(ここからは謙信と呼びます)、北条の本拠地を攻めた永禄三年(1560年)の小田原城の戦いには、キッチリ、謙信傘下の人として、北条を攻める側に回ってますので・・・

しかし、小田原攻めを終えた謙信が越後に戻ってしまうと、成田長泰はチャッカリと、またもや北条の傘下に・・・

といっても、これには成田長泰の言い分もあるようです。

以前、太田資正(おおたすけまさ・三楽斎=太田道灌の曾孫)のページ(9月8日参照>>)でも触れましたが、

このころ、北条に抵抗していた関東武士の中には、なかなかの名門出身の武将も多く

「成り上がり的に関東支配進める北条」への名門が故の敵意を持っていた者も多かったのですが、

そんな彼らから見たら、越後の守護であった上杉に取って代わった守護代長尾家の謙信だって「下剋上の成り上がり」なわけで

『相州兵乱記』『関八州古戦録』などによれば、 この小田原攻めついでで関東遠征して来た謙信の、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で行われた関東管領就任式にて、成田長泰が謙信の前で下馬しなかった事から、謙信が、持っていた扇で長泰の烏帽子を打ち落とす…という一件があり、

長泰は「あの八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ)にさえ下馬しなかった名門のオレが辱めを受けた」と、激激怒して、そのまま居城に戻るなり北条に寝返ったとされています。

実は、この小田原城攻めを終えた謙信が越後へ帰郷…のタイミングでは、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲む名門で唐沢山城からさわやまじょう=栃木県佐野市)主の佐野昌綱(さのまさつな)(10月27日参照>>)や、

これまた名門の鎌倉殿の13人の一人=八田知家(はったともいえ)を祖とする小田城(おだじょう=茨城県つくば市)小田氏治(おだうじはる)(11月13日参照>>)などの関東の名門武士が、やはり成田長泰と同じく、謙信の小田原城攻めに参加しておきながら、その後に北条へと転じています。

こうして再び北条傘下となった成田長泰は、永禄五年(1562年)3月に、関東に戻って来た謙信が佐野昌綱を攻めた時には、北条氏照(うじてる=北条氏康の三男)上杉軍の動きを伝えるとともに、氏照と連携を取って後詰(ごづめ=後方支援)に務めたと言います。

そうなると当然ですが、成田長泰の忍城は、またまた上杉謙信のターゲットとなるわけですが・・・

この間、永禄八年(1565年)9月や元亀元年(1570年)3月などに、北条や上杉が放った書状に忍城の文字が見え、おそらく両者の間で成田長泰が揺れ動いていたであろう中、

いよいよ天正二年(1574年)7月27日、 上杉謙信が武蔵(むさし=東京都と埼玉&神奈川の一部)に侵入し鉢形城(はちがたじょう=埼玉県大里郡寄居町)松山城(まつやまじょう=埼玉県比企郡吉見町)とともに忍城を攻撃・・・城下をことごとく焼き払ったのです。

結局、これに屈した成田長泰は降伏・・・謙信から隠居を命じられて、家督を嫡男の成田氏長(うじなが)に譲りました。

こうやって、何とか居城とともに生き残る事ができた成田氏・・・

この後、上記の経緯から上杉傘下となった成田氏ですが、形勢不利と見るや、またまた北条へ寝返り・・・

しかし、織田信長(おだのぶなが)が台頭して来ると、その配下で関東支配担当だった滝川一益(たきがわかずます)の傘下になりますが、その一益が、本能寺の変のゴタゴタのさ中に北条に負けた(6月18日参照>>)事で、またもや北条に返り咲き・・・と、まだまだ、やっぱり揺れ動く成田氏。。。

で、結局、この北条傘下の時代に豊臣秀吉(とよとみひでよし)北条を潰しに来て~~てな事で、冒頭の「のぼうの城」は、天正十八年(1590年)の、この秀吉の小田原攻めの時のお話です。
●【のぼうの城の感想】>>
【水の要塞・忍の浮城】>>
【留守を守った成田氏長夫人と甲斐姫】>>

ただし、この時は、小田原攻めの一環での忍城攻めだったので、城主の氏長は小田原城に出張しており、映画の主役として忍城を守ったのは、従兄弟(成田長泰の弟の子)城代を務めていた成田長親(ながちか)(12月11日参照>>)なのですが・・・

そのページに書かせていただいたように、どうやら氏長の娘の甲斐姫(かいひめ)が、かの秀吉の寵愛を受けた?とおぼしき事から、成田氏は、負け組でありながら近江(おうみ=滋賀県)2万500石を与えられて、ここに来ても見事、またの生き残りを果たしました。
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2022年7月 5日 (火)

秀吉の援軍空し…上月城が落城

 

天正六年(1578年)7月5日、吉川元春と小早川隆景が、織田信長方の上月城を落としました。

・・・・・・・・・

★上月城攻防戦は、これまで何度か書かせていただいておりますので、以前のページと内容がカブる箇所がありますが、
ご了承のほど…m(_ _)m

群雄割拠する戦国となった中国地方では、周防(すおう=山口県東部)大内氏(おおうちし)と、出雲(いずも=島根県東部)尼子氏(あまごし)2大勢力が雌雄を争っていましたが、その両者の間を渡り歩きつつ、いつしか大内氏を取り込んでのし上がって来たのが、安芸(あき=広島県)郡山城(こおりやまじょう=広島県安芸高田市吉田町)毛利元就(もうりもとなり)でした。
 ●【厳島の戦い】参照>>
 ●【大内義長が自刃】参照>>

大内の領地の大半が毛利の物となる中、更なる領地拡大で石見銀山(いわみぎんざん=島根県大田市)を狙う毛利元就を警戒しつつも、尼子当主の尼子晴久(あまごはるひさ) は永禄三年(1560年)に急死・・・(12月24日参照>>)

弱冠20歳で息子の尼子義久(よしひさ)が後を継いだ、この当主交代劇をチャンスと見た毛利元就は、永禄六年(1563年)の出雲白鹿城(はくろくじょう・しらがじょう=島根県松江市法吉町)(8月13日参照>>)を手始めに尼子の領地へと侵攻し、永禄九年(1566年)11月、ついに尼子の本拠地である月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)を落とし(11月21日参照>>)降伏した義久らは幽閉の身となります。

これで事実上の滅亡となった尼子氏ですが、未だ諦めない尼子家臣の山中幸盛(ゆきもり=鹿介)が、尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を当主と仰ぎつつ、月山富田城奪回&尼子再興を目指し備中兵乱(びっちゅうひょうらん=岡山周辺の動乱)(6月2日参照>>)のドサクサに紛れて各地を転戦しはじめますが(1月22日参照>>)

さすがに相手は毛利・・・尼子を倒した事で中国地方一の大大名となった西国の雄ですから、もはや太刀打ちできず・・・

一方、この頃、大内氏の残党である大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった毛利元就は、その背後を突いて出雲を奪回しよう転戦する尼子氏残党に協力する姿勢を見せていた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「けん制してほしい」と依頼・・・

その依頼した相手が、永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)だったのです。

さっそく信長は、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を大将にした2万の軍勢を但馬に派遣し、山名祐豊の居城である此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)を奪取したのです。

実は、これが、信長の命による秀吉の中国攻めの最初の最初段階です。

しかし、その後、 元亀二年(1571年)に毛利元就が亡くなった事で後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと)が、
信長に敵対して追放された義昭を受け入れたり(7月18日参照>>)
やはり信長と敵対する本願寺顕如(けんにょ)(9月14日参照>>)味方をした事から、

信長は、天正三年~四年(1576年)頃から、配下の明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らを丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)(10月29日参照>>)、秀吉を但馬から美作(みまさか=岡山県東北部)さらに備前(びぜん=岡山県東南部)等の中国攻略へと派遣し(10月23日参照>>)西国の毛利との徹底抗戦を決意したわけです。

そうなると、敵の敵は味方とばかりに、かの山名祐豊も、そして尼子勝久&山中幸盛コンビも信長の傘下に・・・

そんな中、天正五年(1577年)12月1日に福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)(12月1日参照>>)、12月3日に上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)(12月2日参照>>)

と、いずれも毛利に味方する城を落とした秀吉は、次に、やはり毛利方の別所長治(べっしょながはる)の守る播磨三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)へと向かうため、この奪い取った上月城に山中幸盛を駐屯させる事にします。

早速、山中幸盛は、京都に滞在中の尼子勝久を迎えに上洛しますが、幸盛の留守を知った宇喜多直家(うきたなおいえ)が、翌天正六年(1578年)1月に上月城に攻撃を仕掛け、まんまと城を占拠するも、

1月下旬に尼子勝久を奉じた幸盛以下1千騎が戻って来ると、直家から城の守備を任されていた真壁彦九郎(まかべひこくろう)がビビッって守備を放棄してしまい、おかげで尼子勝久&山中幸盛コンビは楽々入城・・・

尼子の殿が城将となった事で、山中幸盛が呼びかけると、尼子残党がどんどん集まって来て城内の士気は大盛り上がり・・・これに気を良くした尼子勢が備前に進出する気配を見せ始めたため、真壁の失態を挽回すべく宇喜多直家は、頻繁に上月城奪回を試みます。

そのため、上月城内の尼子勢は、ある時は城を捨てたり、ある時は秀吉に救援を求めたりするハメになりますが、かと言って、宇喜多直家が上月城を完全掌握する事もできず・・・両者の小競り合いは、なかなか進展を見せませんでした。

そこで毛利輝元は、天正六年(1578年)の正月頃から、家臣の粟屋元種(あわやもとたね)木津城(きづじょう=徳島県鳴門市撫養町)に派遣したり、児玉就英(こだまなりひで)淡路(あわじ=淡路島)岩屋城(いわやじょう=兵庫県淡路市)に駐屯させたり、配下の水軍を使って瀬戸内海を制圧したりして、秀吉と戦う三木城への後方支援をし、間接的に秀吉をかく乱すると同時に、

4月1日には、別所重宗(しげむね・重棟=別所長治の叔父だけど秀吉の味方)播磨別府城(べふじょう=兵庫県加古川市別府町)を攻撃しますが、これは秀吉からの援軍の登場により阻まれてしまいます

思うように事が進まない毛利・・・
そこで、この状況を打開すべく吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ=毛利元就の三男)を大将に3万余の大軍で以って上月城の攻略に乗り出したのです。

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上月城攻防戦・関係図↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

4月上旬、まずは吉川元春が土居(どい=岡山県美作市)から大日山川(だいにちやまがわ)に沿って西上し、上月城の西麓と北麓の高所に陣取る一方で、作用川(さようがわ)沿いの山脇(やまわき=兵庫県佐用郡佐用町)杉原盛重(すぎはら もりしげ)ら5千を置き、上月城の大手には益田元祥(ますだもとなが)ら5千を向かわせて砦を構築させました。

一方の小早川隆景は、八塔寺峠(はっとうじとうげ=岡山県と兵庫県の国境)から播磨に侵入した後、三村親成(みむらちかしげ)姫路(ひめじ=兵庫県姫路市)方面を警戒させつつ、自身は秋里川(あきさとがわ)に沿って北上して上月城背後の山に登り目高大成(めたかおおなり=兵庫県佐用郡佐用町目高)を占拠しました。

実は、この近くの菖蒲谷(しょうぶだに)には上月城の水源があり、
「水の手を断ってしまおう」
との作戦・・・

また、宇喜多直家も、弟の宇喜多忠家(ただいえ)を援軍として派遣して、千種川(ちくさがわ)沿いの高所に陣取らせ、三日月(みかづき=同佐用郡佐用町三日月)方面からやって来るであろう秀吉軍を警戒します。

さらに児玉就英配下の軍船700隻播磨灘(はりまなだ=瀬戸内海西部の海域)に展開・・・この完璧なる布陣が完成形になるのは5月上旬頃で、その時には軍勢の総数は6万以上に膨れ上がっていたのだとか・・・

一方、三木城攻略中の秀吉・・・三木城がなかなか攻略できない事から、まずは周辺の支城を落とす作戦に切り替えつつあったところに、この「毛利軍による上月城包囲」のニュースが飛び込んで来ます。

早速、秀吉は、竹中半兵衛(たけなかはんべえ=竹中重治)安土(あづち=滋賀県近江八幡市)に派遣して、信長に現状報告させる一方で、5000の兵を三木城の押さえとして残し、自らは、武器や兵糧をほぼ持たぬまま、取るものもとりあえず、上月城の救援へと向かいます。

そこに、伊丹(いたみ=兵庫県伊丹市)からの荒木村重(あらきむらしげ)加古川(かこがわ=兵庫県加古川市)からの羽柴小一郎(こいちろう=秀吉の弟・豊臣秀長)が合流した約1万の軍勢が作用に到着したのは5月3日の事でした。

しかし、そこで秀吉らが見たのは、もはや完璧に上月城を包囲した毛利の軍勢・・・1万の手勢で、包囲だけでも3万の相手は、どうにもこうにも、

この時の吉川元春が
「向いの山で夜な夜なかがり火焚いて、昼は山とか谷とかを兵がせわしく行ったり来たりしてるけど、ぜんぜんコッチ来んのよ~アイツら…」
と実家への手紙に書くほどに、さすがの秀吉にも、なす術が無かったようです。

5月14日には、毛利方から上月城に大砲がブチ込まれ、多くの死傷者を出したりしますが(5月14日参照>>)、かと言って、互いが斬り合うような白兵戦が無いまま・・・

しかも、もうとっくに到着してるはずだった織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)を総大将に据えた2万の援軍は、武将同士がモメて加古川あたりで停滞していて、いっこうにやって来る気配もなく。

やむなく秀吉は、上洛して信長に謁見し、
「今は三木城を落とす事を最優先にすべき状況なので、上月城は放棄してもよろしいでしょうか?」
提案して信長のOKをもらい、5月19日のうちに山中幸盛の娘婿にあたる亀井茲矩(かめいこれのり)を使者として、幸盛以下、上月城に籠る尼子勢に、
「速やかに城を脱出するように」
との伝言を授けて上月城内に向かわせたのです。

Yamanakasikanosuke500 包囲をくぐりぬけ、無事、上月城に入った亀井茲矩は、幸盛らに秀吉からの伝言を伝えますが、
幸盛の返事は「No!」
「同じ犠牲者を出すなら、城に留まって最後まで戦いたい」
と言ったのです。

完全拒否された秀吉軍は、やむなく6月24日の真夜中から撤退を開始しますが、翌25日の朝、徐々に周辺が明るくなる中で、

秀吉軍の中村一氏(なかむらかずうじ)らの一軍が千種川を渡って撤退していく姿を見て取った宇喜多直家配下の中村三郎左衛門(なかむらさぶろうざえもん)なる武将が、この中村一氏軍の追撃を開始した事から、この上月城攻防戦における最初で最後の白兵戦の火蓋が切られます。

そこに吉川方&小早川方の諸将が突っ込むと、秀吉軍側からも福島政則(ふくしままさのり)隊や堀尾吉晴(ほりおよしはる)隊やらが応戦する激戦が展開されました。

上記の通り、1万VS3万のため、秀吉軍にはかなりアブナイ場面もあったようですが、幸いにも毛利からの追撃が、あまり深く無かったおかげで、翌26日には、秀吉軍のほぼ全軍が戦線を離脱する事ができたのです。

その頃、上月城内では、
「もはや勝ち目は無い」
として、こうなったら、いかに犠牲者を少なくして降伏するかの話し合いに入っていたのです。

…で、城内での結論は、尼子十旗(あまごじっき=出雲国内の主要な10の支城)の一つである神西城(じんざいじょう=島根県出雲市)を任されていた老臣=神西元通(じんざいもとみち)切腹を以って、尼子勝久以下将兵の助命を願い出る事に決定し、その旨を伝える使者が毛利方に走ります。

7月2日、未だ毛利からの返事がないまま、城を出た神西元通は、敵に見えるように自刃して果てたのです。

しかし、翌7月3日に届いた毛利からの返信は・・・
「尼子勝久以下、弟の尼子通久(みちひさ)と嫡男の豊若丸(とよわかまる)3名の切腹を以って城兵の命を保障する…コレ以外は総攻撃するからな」
という物でした。

悲しいかな、老臣の死は完全に無駄になってしまいました。

これを受けた尼子勝久・・・もはや覚悟を決め、弟と息子とともに自刃して果てたのです。

かくして天正六年(1578年)7月5日、3名の切腹を確認した吉川元春と小早川隆景が「城兵助命」の起請文(きしょうもん=神仏に誓って遵守する旨を記した文書)を山中幸盛に手渡した事で、上月城は開城となるのです。

主君の尼子勝久が自害したにも関わらず、幸盛が命ながらえたのは、勝久からの
「生きて、今1度、尼子を再興せよ」
の遺命があったから・・・なんて事も言われますが、

結局、捕縛された山中幸盛は、この12日後の7月17日、護送中に殺害されてしまいます(7月17日参照>>)

んん?勝久以下3名が切腹したら「城兵助命」のはず・・・山中幸盛は城兵の中には入らんの?
と思いますが、それだけ「まだ何かしそう」な気配を持っていたのかも知れませんね。

なんせ、(尼子再興の為になら)「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に願っちゃう人ですからね~

それにしても・・・
秀吉の進言どおり、上月城を脱出してたら、また、別の展開があったのでしょうか?

イロイロな展開を考えてしまいますね。
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2022年1月 4日 (火)

武田信玄の駿河侵攻~花沢城の戦い

 

元亀元年(永禄十三年=1570年)1月4日、駿河を狙う武田信玄が花沢城への攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)の 桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市&名古屋市緑区)の戦い(2015年5月19日参照>>)で、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領し海道一の弓取りと称された今川義元(いまがわよしもと)の首を取り、一気に名を挙げた尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と、

同じく、その桶狭間キッカケで今川での人質生活から解放された三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)(2008年5月19日参照>>)

しかも、その翌年に今川傘下だった長沢城(ながさわじょう=愛知県豊川市長沢町)を落とし(7月6日参照>>)、さらに翌永禄五年(1562年)1月には、織田信長と清洲同盟(きよすどうめい)(1月15日参照>>)を結んで、完全に今川からの決別を露わにした徳川家康に、これまで大木である今川の下にいた三河&遠江周辺の諸将には、少なからずの動揺が走ります。

もちろん、父の死を受けて後を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)も、この状況で揺れ動く引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・引間城・曳馬城)飯尾連龍(いのおつらたつ・ 致実・能房)を殺害したりして(12月20日参照>>)傘下の諸将の離反を防ぐべくけん制をかけるのですが、

その間に尾張統一(11月1日参照>>)を果たした信長が、これまで、その眼を北東に向け、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)との川中島バトル(9月10日参照>>)を展開していた甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん=晴信)味方に引き込んで家康との関係を仲介・・・

Takedasingen600b 大黒柱を失った今川を、北と西の両側から攻撃して、今川亡き後は、大井川より東(つまり駿河)を武田が、西(つまり遠江)を德川が支配する約束を交わさせ、信玄の眼を南に向けさせたうえで、信長自身は、永禄十年(1567年)に美濃(みの=岐阜県南部)の攻略を果たします(8月15日参照>>)

とは言え、この信玄の方向転換は、去る天文二十三年(1554年)から、生前の今川義元とともに武田信玄と甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐&相模&駿河の三国)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)を怒らせます。

そりゃそうです。
未だ継続中の同盟を「義元が亡くなったから」で破棄されちゃぁ・・・しかし、この方向展開に反対した嫡男の武田義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)まで今川と訣別した信玄は、もう、後へは退けない…

かくして、信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)永禄十一年(1568年)の12月、いよいよ武田信玄は駿河の今川領に向け侵攻を開始するのです。

これを受けた今川氏真は、早速、重臣の庵原安房守(いはらあわのかみ)らを、要所の薩埵峠(さつたとうげ=静岡県静岡市清水区)に派遣して自らも出陣しますが、残念ながら、水面下で行われていた信玄による懐柔作戦で、すでに多くの今川傘下の武将が武田に寝返っており、先陣を切って薩埵峠を守るはずだった朝比奈信置(あさひなのぶおき)ら複数の重臣が姿を見せず・・・(12月12日参照>>)

やむなく氏真も、この時は戦う事無く本拠の今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区:後の駿府城)へと兵を退きあげますが、の翌日、
すかさず、その今川館を信玄が攻撃し、瞬く間に占領・・・

さすがに氏真も、今川館では防御が薄いと、すでに今川館の背後にある賤機山城(しずはたやまじょう=同静岡市葵区)に籠城して、ここで北条からの援軍を待つつもりでいましたが、あまりの武田の猛攻にヤバイと感じ、そのまま掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと逃亡したのでした(2007年12月13日参照>>)

一方、この今川館の攻防戦と同じ12月13日に遠江へと侵入(2019年12月13日参照>>)した徳川家康は、12月18日に引馬城に入り、そこを拠点として12月27日から掛川城への攻撃を開始するのです(12月27日参照>>)

信玄と家康の見事な連携プレーで窮地に追い込まれた今川氏真・・・結局、翌年の5月17日、北条氏政の仲介にて徳川家康と和睦を結び、掛川城を明け渡しました。

その間も、あの薩埵峠にて北条との戦いを繰り広げる信玄でしたが、かの掛川城の開城が、城を攻めあぐねた家康が単独で「氏政の息子である北条氏直(うじなお)今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継いで駿河&遠江を支配する(11月4日の真ん中あたり参照>>) 」という条件を呑んで北条との同盟を結んで得た物であった事を知り、怒り爆発します。

なんせ、上記の通り「今川を倒した後は駿河を武田が、遠江を徳川が…」の約束で以って、ともに侵攻したはずでしたから・・・

「そっちが単独でいくなら、こっちも単独したるわい!」
とばかりに、信玄は、7月には大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)(7月2日参照>>)を、10月の三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)(10月6日参照>>)を経て、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区蒲原)を奪取(12月6日参照>>)・・・と、次々と駿河周辺の支配を確固たる物にしていくのです。

そんな中、未だ武田にも徳川にも屈せず、今川旧臣として抵抗していたのが、花沢城(はなざわじょう=静岡県焼津市高崎・花澤城)小原鎮実(おはらしげざね=大原資良と同一人物ともされる)でした。

かくして元亀元年(永禄十三年=1570年)1月4日武田信玄は、この花沢城に攻撃を仕掛けるのです。

Surugasinkouhanazawa
武田信玄の駿河侵攻・位置関係図=花沢城版
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『絵本甲越軍記』によれば…
この日、武田軍は一糸乱れぬ軍列で以って、すかさず花沢城を囲み、花沢城を見下ろす高草山(たかくさやま=静岡県焼津市と藤枝市の境界付近)に本陣を据えました。

もちろん、迎える花沢城側も、音に聞こえたる名将の信玄に
「一泡吹かせてやろう!」
と身構え、準備した弓鉄砲を隙間なく発して対抗します。

そんな中、武田側では、この直前に武田に降った元今川家臣の岡部次郎右衛門(おかべじろうえもん)治部右衛門兄弟(岡部正綱&長秋?)が、寝返り直後の初の武功を挙げんと、花沢城の曲輪(くるわ=城内の中で広く平な場所)のそばの屋敷の高屋根に上って、城の様子を伺います。

その一方で、城内への一番乗りを狙う伊那四郎勝頼(いなしろうかつより=信玄の四男・武田勝頼)初鹿傅右衛門(はじかでんえもん=初鹿野伝右衛門)は、鉄砲と矢が雨アラレと降り注ぐ中を、左右に分かれて城門の前に手勢を引いて近づくと、彼らに続く縄無理之介(なわむりのすけ=名和無理之介)に向かって傅右衛門が、
「無理之介!城門を開けよ」
と、
「えぇ~っ(ノ@o@;)ノ今、この鉄砲の雨アラレの状況で?」
「名を挙げるんは、今やぞ!」
「それは~なんぼなんでも無理之介」
言うてる場合か!

と押し問答してるうちに、勝頼が進み出て門の隙間に槍を差し込んで扉をねじ上げました。

傅右衛門は、無理之介が具足の上に着ていた羽織をはぎ取って
「お前!2度と無理之介とか名乗んなよな!」
と捨てゼリフを残しつつ突入していきます。

落ち込む無理之介の肩に、勝頼はやさしく羽織をかけてあげて、いざ!城内へ・・・
(↑あくまで『絵本甲越軍記』のお話です)

しかし、ここを守っていたのは花沢城内でも屈指の剛の者を集めた軍団・・・さすがの武田勢も、おいそれとは前に進んで行けませんでした。

一進一退する戦いの様子を見ていた信玄は、あまりの激しさに、
「ここで勝頼を失うのは…」
と、この日は、一旦、兵を退きあげる事にしました。

その後も、
「こんな小城に手こずっては武田の名折れ」
とばかりに攻め立てるのですが、花沢城側も良く守り

結局、城が落ちたのは1月8日(27日の説もあり)の事でした。

その頃には、小原鎮実は、すでに花沢城を脱出しており、小笠原信興(おがさわらのぶおき=氏助)と合流すべく高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市上土方)へと向かっていましたが、

残念ながら、すでに小笠原信興は徳川家康派に寝返っており、彼らが城に入るや否や、即座に小原鎮実の首を取って家康に献上したのだとか・・・

一方の信玄は、この後、長谷川正長(はせがわまさなが)の守る徳一色城(とくのいっしきじょう=静岡県藤枝市田中:後の田中城)を落とし、周辺一帯を支配下に治めたのでした。

この信玄の
「家康、腹立つ!」
が、やがては、
あの西上作戦(10月13日参照>>)として、有名な三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)に向かっていく事になるのですが、

その前に…
この年の7月に奥さんを亡くした(7月28日参照>>)信玄は、まずは、翌元亀二年(1571年)3月には【深沢城の攻防】>>へ向かいます。

くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】>>で。。。
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2021年12月14日 (火)

弓馬礼法を伝えたい~小笠原貞慶の生き残り術

 

天正十三年(1585年)12月14日、石川数正の、徳川家康からの離反を受けて、小笠原貞慶が徳川方の保科正直の高遠城を攻撃しました。

・・・・・・・・

小笠原貞慶(おがさわらさだよし)小笠原家は、深志城(ふかしじょう=長野県松本市・現在の松本城)を居城とし、代々信濃(しなの=長野県)守護(しゅご=県知事)を務める名門でしたが、天文十七年(1548年)の塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市)の戦いにて、父の小笠原長時(ながとき)が、隣国・甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に敗れた(7月19日参照>>)ために城を失い、父とともに幼い貞慶(おそらく2~3歳)も放浪の身となりました。

そして越後(えちご=新潟県)にたどり着き(4月22日参照>>)、しばらくは上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)保護を受けていましたが、当然、父子ともに信濃復帰の夢は捨ててはいないわけで・・・

その夢の実現のため、まずは伊勢(いせ=三重県中北部と愛知県の一部)へ向かい、その後、永禄四年(1561年)頃に畿内を点々とした後、京へと上り、すでに白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)をキッカケに、足利義輝(あしかがよしてる=13代室町幕府将軍)と和睦して将軍を京へ迎え入れ(11月27日参照>>)、まさに天下人の地位に手をかけていた三好長慶(みよしながよし)の傘下になったようです。

…というのも、小笠原貞慶は、はじめ小笠原貞虎(さだとら)と名乗っていたのを、京に上った後に小笠原貞慶に改名しているので・・・おそらくは、越後時代には長尾景虎の「虎」の字をもらい、今度は三好長慶の「慶」の字をもらっての改名と思われ(←このあたりは、あくませ推測です)

この後、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)織田信長(おだのぶなが)に奉じられて上洛し、第15代将軍となった足利義昭(よしあき)(10月18日参照>>)が仮御所としていた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が攻めた時(1月1日参照>>)、キッチリ三好の一員として参戦してますので、父の長時はともかく(長時は越後行ったり戻ったりウロウロしてるので…)貞慶は三好の配下に納まっていた事でしょう。

しかし、ご存知のように、三好三人衆は織田信長を見返すには至らず(8月23日参照>>)、やがて信長に反抗した足利義昭も京都を追放され(7月18日参照>>)、三好宗家を継いでいた三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥・十河重存)信長の前に散る事になってしまいました(11月16日参照>>)

とは言え、
本日主役の小笠原貞慶の方は、いつの間にやらチャッカリ織田信長の傘下となっていたようで・・・この頃は、織田家の使者として、かつてお世話になった上杉謙信やら、放浪生活の元となった武田信玄やらとの交渉窓口になっていて、信濃に所領もいただいちゃってます。

そう思うと、意外に要領の良い人たらし(←褒めてます)で、口がたつ人だったのかも知れませんね。

ただ、信長が武田を倒して(3月10日参照>>)信濃を得た天正十年(1582年)の時には、信長は信濃2郡を木曽義昌(きそよしまさ)に与えてしまったため、さすがに、かつての旧領や深志城を取り戻すまでには至りませんでしたが・・・

そんな甲州征伐(こうしゅうせいばつ)の3ヶ月後に起こった本能寺の変で信長が横死(6月2日参照>>)すると、その死によって宙に浮いた(織田が取ったばかりで未だ治めきれていない)武田旧領の取り合い合戦(上杉×北条×德川による)天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)が勃発(8月7日参照>>)すると、チャッカリ今度は徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となって参戦し、取り合いの一角である上杉景勝(うえすぎかげかつ)けん制する役目を果たしています。
(やっぱ要領えぇやんww)

こうして家康の支援を得た小笠原貞慶は、天正壬午の乱のドサクサで木曽義昌を追い出して深志城に入っていた小笠原洞雪斎(どうせつさい=貞慶の叔父)から深志城を奪還し、見事、大名に復帰・・・

さらに、ドップリと德川に忠誠を尽くすべく、息子の小笠原秀政(ひでまさ)を人質として差し出し、自身は、家康の忠臣である石川数正(いしかわかずまさ)の配下となり、ここで深志城の名を松本城へと改めました。

さらに、
亡き信長の後継を巡って、信長の息子=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と組んだ徳川家康が、豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)と争った天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月16日参照>>)では、秀吉側に寝返った木曽義昌の拠る福島城(ふくしまじょう=長野県木曽郡木曽町)を攻め、義昌を興禅寺(こうぜんじ=長野県木曽郡木曽町)へ追いやるという武功を挙げました。

てな事で…德川の傘下になって、ようやく順風満帆か?
…と思いきや、

 天正十三年(1585年)、家康が上田城(うえだじょう=長野県上田市)真田昌幸(さなだまさゆき)を絶賛攻撃中の11月13日(12日説もあり)、忠臣であったはずの石川数正が、貞慶から預かってる息子・秀政とともに一族郎党百余人を伴って、突如出奔して秀吉のもとに走ったのです(8月2日【神川の戦い】参照>>)

これを受けた小笠原貞慶・・・天正十三年(1585年)12月14日彼もまた徳川家康との関係を絶ち、德川方の保科正直(ほしなまさなお)高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)に攻めたわけです。

ただし、石川数正の出奔の原因は未だ謎(11月13日参照>>)…とはされているものの、一説には、貞慶が真田昌幸を通じて秀吉に内通している事が家康にバレて、監督者である数正が家康から責任を問われたのが、数正出奔の原因・・・という見方もありますので、

これが事実だとすると、数正の出奔を受けて貞慶が・・・
ではなく、むしろ貞慶が主導していた事になるわけですが・・・

とにもかくにも、ここで秀吉の家臣となった小笠原貞慶は、天正十八年(1590年)の、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)(4月1日参照>>)では北陸方面から行軍する前田利家(まえだとしいえ)隊に従軍して武功を挙げました。

おかげで、讃岐(さぬき=香川県)半国を領する大名へと出世した小笠原貞慶でしたが、ここで、かつて天正十五年(1587年)の九州征伐の時の戸次川(へつぎがわ)の戦い(11月25日参照>>)や、根白坂(ねじろざか=宮崎県児湯郡木城町)の戦い(4月17日参照>>)で大失敗を犯して秀吉に追放された尾藤知宣(びとうとものぶ)という武将を客将(きゃくしょう=家臣ではなく客分として迎えられている武将)として庇護していた事が秀吉にバレて激怒され、所領を没収されて改易となってしまいました。

その後は、息子の秀政とともに、再び家康のもとへ・・・自らは引退し、家康の関東入りキッカケで息子の秀政に与えられた領地=古河(こが=茨城県古河市)にて余生を過ごしたという事です。

とまぁ、
戦国武将としての小笠原貞慶さんを、サラッとご紹介させていただきましたが、失礼ながらも、戦国武将としての功績で言えば、特筆すべき感じではありませんが、

実は、今回の小笠原貞慶さん、
兵法の伝授者としては、知る人ぞ知る有名人・・・そう、弓馬術礼法に秀でた、あの小笠原流です。

そもそもは、第56代清和天皇(せいわてんのう)の第六皇子である貞純親王(さだずみしんのう)を祖として代々伝えられた糾法(きゅうほう=弓馬術礼法)を、鎌倉時代に小笠原長清(ながきよ)小笠原長経(ながつね)父子が源頼朝(みなもとのよりとも)源実朝(さねとも)父子の師範となり、その子孫が南北朝時代には後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)に仕え、さらに、その子孫が足利義満(よしみつ)に仕え・・・と、代々惣領家(本家)当主が糾法全般を取り仕切って来たわけで、

戦国時代になって、その17代当主だったのが、父の小笠原長時・・・その後継ぎが小笠原貞慶だったんです。

これまで紡いできた伝統の糸・・・
それが、世は戦国となって、冒頭に書いたように武田の侵攻を受け・・・

「このままでは、大切な兵法の奥義が途絶えてしまう!」

小笠原貞慶が、さも要領よく、あっちに行ったり、こっちについたりしてるのも、実は、兵法の奥義を途絶えさせないためで、冒頭部分で息子の貞慶に惣領家を任せた長時が、その後、越後行ったり戻ったりウロウロしてるのも、その奥義を広く伝授するためだったワケです。

現存する小笠原貞慶の書いた『伝授状』には、
「当家日取(ひどり)一流の儀
 余儀無(よぎな)く承(うけたまわ)り候間(そうろうあいだ)
 その意にまかせ相伝(あいつたえ)
 (おろそ)かこれ有るまじき事肝要(かんよう)に候」
とあり、

貞慶が、その奥義を伝える事こそが、自らの使命だと思っていたであろう事が感じ取れます。

戦国武将として領地を拡大する事よりも、何とか生き残り、この伝統を守りたい!と・・・

Ogasawaratadazane500as 貞慶の小笠原家は、孫の小笠原忠真(ただざね)の時代に小倉藩(こくらはん=福岡県北九州市)として落ち着いて、その後の江戸250年を生き抜きますが、彼=忠真が、宮本武蔵(みやもとむさし)や、その養子の宮本伊織(いおり)宝蔵院流高田派(ほうぞういんりゅうたかだは=槍術)高田又兵衛吉次(たかたまたべえよしつぐ)など、多くの剣豪を召し抱えたのも、小笠原流の兵法を後世に伝えていくためだったのかも知れません。

戦国は、華々しい戦いもカッコイイけど、こういうのも、
なんか良い
・・・ですね。
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2021年12月 2日 (木)

羽柴秀吉の上月城総攻撃

 

天正五年(1577年)12月2日、織田信長の命を受けた羽柴秀吉播磨上月城に総攻撃を仕掛けて北方の太平山砦を奪いました。 

・・・・・・・・・

そもそもは、
永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)に、翌永禄十二年(1569年)に自らが滅ぼした大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)が、

その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党を「けん制してほしい」と依頼した事に始まります。

Toyotomihideyoshi600 この時、信長は、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)中国方面の大将にした2万の軍勢を、

尼子氏の味方をする但馬(たじま=兵庫県北部)守護山名祐豊(やまなすけと)此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)に派遣し、山名祐豊は織田に降伏・・・

つまり、始めは毛利と織田は連携関係にあったわけですが、

ところが、その元就が元亀二年(1571年)に亡くなって孫の毛利輝元(てるもと)にお代替わりする中で、輝元が、信長に敵対する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・全国の本願寺の本山)(9月14日参照>>)に味方し始めた事や、元亀四年(天正元年=1573年)に信長に京都を追放された足利義昭が毛利を頼って来た(7月13日参照>>)事など、

また、先の山名祐豊に同調していた尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)が、家臣の山中幸盛(やまなかゆきもり=鹿介)らとともに信長の傘下となった事などなどから・・・

いつしか中国地方は、西の雄=毛利VS信長の中国攻めという構図となって来たわけです。

当然の事ながら、大国である毛利&織田の両者が敵対関係となると、その間に挟まれた丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)播磨(はりま=兵庫県南西部)因幡(いなば=鳥取県東部)美作(みまさか=岡山県東北部)備前(びぜん=岡山県東南部)などの近隣の国人領主たちは皆、どちらの強国に属するべきか?を悩むわけです。

そんな中、天正五年(1577年)春頃から開始された秀吉の播磨平定は、御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)主の小寺政職(こでらまさもと)の家臣=黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)が、いち早く完全なる織田派として協力してくれた(11月29日参照>>)事もあって、

織田に与する国人領主もいたものの、未だ備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる大乱の記憶も新しい備中(びっちゅう=岡山県西部)あたりでは、強国の毛利やそれに与する宇喜多直家(うきたなおいえ)(4月12日参照>>)影響が、まだまだ大きかったのです。

そんな中の一人が上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)赤松政範(あかまつまさのり)でした。

そこで、今回は上月城を中心に、周辺の叛意を示す諸城への同時攻撃を展開する作戦とした秀吉は、天正五年(1577年)11月27日、かの黒田官兵衛と竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)ら2千余騎を福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)の攻撃へと向かわせる(福原城攻防については12月1日参照>>)一方で、

自らは本隊を率いて出陣し、上月城方の猛攻撃をかいくぐって佐用川(さようがわ)千種川(ちぐさがわ)を渡り、2日後の29日には上月城正面の仁位山(にいざん=兵庫県佐用町)まで侵出したのです。

同じ29日、別動隊を率いていた堀秀政(ほりひでまさ=久太郎)は、敵方の猛攻に遭い渡河できず、やむなく自軍を2手に分け、上月城をけん制しつつ迂回して円光寺(えんこうじ=兵庫県佐用郡佐用町円光寺)を占拠しました。

その日の夜、上月城を救うべく宇喜多広維(ひろつね=赤松政範の妹婿で宇喜多直家の舎弟)率いる備中からの援軍が出撃したとの一報が届きます。

早速、秀吉は、谷大膳(たにだいぜん)を先陣に自らも出撃し、翌30日に赤松山(あかまつやま=岡山県美作市海田)付近にて宇喜多勢と激突・・・

勝負が着かない猛攻の掛け合いとなりながらも、やや秀吉側有利で、多くの宇喜多勢が美作まで撤退しますが、一部は上月城までたどり着き城内へ逃げ込み、そこを守っていた山中鹿助&堀尾吉晴(ほりおよしはる)隊は、大きな痛手を被りました。

とは言え、本来なら上月城からも宇喜多勢に連動して撃って出るはずだったのが、秀吉勢の守りが固くて、その後は防戦一方となってしまったため、結局この日の戦いは、多くの宇喜多勢を撤退させて背後の憂いを取り去った秀吉側のやや優勢という結果となりました。

その後、秀吉のもとに信長からの援軍である高山右近(たかやまうこん=友祥・長房)が到着した事を受けて、

天正五年(1577年)12月2日、秀吉は、上月城への総攻撃を仕掛けるのです。 

まずは、敵方の堀切を埋める作業を開始・・・それを見た城方は、そこに鉄砲や弓矢を射かけて作業を妨害すると同時に、城方の国府寺左近太郎(こうでらさこんたろう)が留守となった仁位山の秀吉本陣を奇襲して混乱させます。

やむなく秀吉は、この場では仁位山を諦めますが、一方で上月城の北側にある太平山砦(旧上山城)を奪う事に成功しました。

この太平山砦の場所は、現在の上月城よりも高い位置にあるので、実は戦うには有利(孫子の兵法「軍争篇」べからず集を参照>>)・・・この事は、少なからず上月城の城兵に動揺を走らせます。

そこで、この日の夜・・・城方が夜討ちにて秀吉本陣に迫り、あちこち放火した事によって両軍に2千人ほどの死者を出す惨事となってしまいました。

このため、谷大膳は
「今、味方はことごとく不利な状況にあります。
城攻めには、人の利、地の利、時の利が重要ですから、一旦、撤退しませんか?」
と、秀吉に進言しましたが、

秀吉は、
「長期戦になったら、せっかく味方になってくれた周辺の国人たちが、コチラが不利やと見て離反するかも知れん。
ここまでバッチリ囲んでたら、どんだけ堅城や言うても、所詮は籠の鳥や。
籠の鳥なら、いつかは矢玉も尽きる」
と言って、短期決戦の力推しに挑む事になります。

12月3日、土塁にハシゴをかけて城内への突入を試みる浅野長政(あさのながまさ=秀吉の義養父)隊に、敵が去った仁位山と昨日奪った太平山砦から、鉄砲による一斉の援護射撃を仕掛ける秀吉勢・・・

多勢に無勢の中の猛攻撃に、たまらず城内からも寝返る者が現れ、
「もはや、これまで…」
を悟った赤松政範は、城内で最後の酒宴を開いた後に自害・・・上月城は落城したのでした。

この後、おそらく対毛利の最前線になるであろう上月城を山中幸盛に任せた秀吉は、別所長治(べっしょながはる)の守る播磨三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)へと向かうのでした~

って言っても、ご存知のように、次の三木城は、なかなかの長期戦となってしまうわけで(3月29日参照>>)・・・

その三木城を囲んでる間に、
信長に上月城は見捨てられるわ(5月4日参照>>)
山中幸盛は捕まるわ(7月17日参照>>)
谷大膳は討死するわ(9月10日参照>>)

一方の秀吉も、
野口城を攻めたり(4月3日参照>>)
神吉城を攻めたり(6月27日参照>>)
と忙しく、

あの竹中半兵衛も三木城攻めの陣中で亡くなる(6月13日参照>>)
荒木村重(あらきむらしげ)を説得に行った黒田官兵衛は帰って来ない(10月16日参照>>)

上様=信長は石山本願寺と交戦中やし(11月6日参照>>)

もちろん、織田方は他にも、
明智光秀(あけちみつひで)丹波平定(8月9日参照>>)に、北陸では上杉と交戦(10月4日参照>>)・・・

これらが、全部、織田家内で同時進行やと思うと、ホンマ戦国は激務・・・
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2021年9月 1日 (水)

未だ謎多き~豊臣秀吉の大坂城

 

天正十一年(1583年)9月1日、羽柴秀吉が大坂城の築城を開始しました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き(6月2日【本能寺の変】参照>>)後、

いち早く畿内に戻って、主君の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)事により、

少し後れを取った(【石動荒山の戦い】参照>>) 家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)に対して、

信長後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)にて、織田重臣の丹羽長秀(にわながひで)池田恒興(いけだつねおき)を味方につけて、うまく立ち回る事に成功した羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、

事実上、織田家臣団のトップを決める事になる賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦いに勝利して(4月21日参照>>)

本拠の北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)に退いた柴田勝家を自刃に追い込んだ(4月23日参照>>)のは、天正十一年(1583年)4月24日の事でした。

柴田勝家と組んで秀吉に敵対していた織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)も、翌月の5月2日に、秀吉を後ろ盾に信長の後継を狙う織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄・信長の次男)追い詰められて自刃します(5月2日参照>>)

勝家&信孝に味方して長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)で籠城して孤軍奮闘していた滝川一益(たきがわかずます)(2月12日参照>>)、彼ら亡き今、この7月に降伏しました。

こうして、
もはや織田家の後継は、あの清須会議で後継者と定められた幼い三法師(さんほうし=後の織田秀信・信長の孫)現時点で秀吉に丸め込まれ中の信雄のみだし、重臣の丹羽&池田は味方だし・・・

てな事で、天正十一年(1583年)9月1日、秀吉は、いよいよ大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)の築城を開始するのです。

いよいよ…と書いたのは、この少し前、秀吉は、自身の手紙の中で、
「大坂を受け取り候て
 人数入れ置き
 国々城割り候て
 これ以後無法無き様に致し申し候て
 五十年も国々鎮まり候様に申し付け候」
と・・・

つまり、
「大坂を本拠として、戦いの無い平和な世を作る」
との並々ならぬ決意を語っているから・・・

これまでも秀吉は、いくつか城を構築してはいますが、この決意を見る限り、まさに天下統一を見据えた国家の政庁としての城が、この大坂城であった事が伺えます。

その場所は、現在も大阪城が建つ、あの場所で、それ以前は、信長と約10年に渡る戦いを繰り広げた一向一揆(いっこういっき)(8月2日参照>>)の本拠地である石山本願寺(いしやまほんがんじ)が建っていた場所でした(【春日井堤の戦い】参照>>)

ちなみに、かつては本願寺は京都の山科に本拠を構えていましたが、日蓮宗や法華宗との戦い(【山科本願寺の戦い】参照>>)で山科を追われた時に移った先が、中興の祖と言われる蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が隠居所として建てた石山御坊(いしやまごぼう)で、以後、ここを石山本願寺として一向宗の拠点としていたのでした。

Isiyamakassennkasugai2
「石山戦争図」部分(和歌山市立博物館蔵) 

あの『信長公記』にも、ここは
「日本一の境地なり」
と表現されているように、この場所は、奈良京都にも近く、淀川大和川などの大河に守られつつ、そこから派生して縦横無尽に走る川に囲まれていながら(↑の通り、当時の大阪平野は未だ海っぽかった)

この建造予定の場所だけは神代から陸地だった上町台地という高台となるわけで、

守りに強く、外国からの大船にも対応できるし、もちろん貿易にも有利な、まさに日本一の場所だったわけです。

おそらく、信長もそのつもりであり、もし本能寺で倒れなければ、彼もまた、この場所に城を構築していた事でしょうね。

とにもかくにも、そんな天下の一等地に、上記のような意気込みで構築する城・・・まして、秀吉の城づくりを見る限り、それは戦う城というよりも見せる城なんですから、巨大かつ豪華絢爛でなくてはなりません。

そう、
「こんなスゴイの建てる人と戦って勝てるワケない」
と思わせるような城でなくては。。。

もちろん、工事は天下普請(てんかぶしん)・・・一般的には、江戸幕府が始まってから、徳川将軍が全国の諸大名に命令して行わせた土木工事の事を天下普請と言いますが、

吉田兼見(よしだかねみ)の書いた『兼見卿記』によれば、大名たちだけでなく公家にも負担が課されたというし、
『イエズス会日本年報』によれば、連日5万名に及ぶ人々が従事していたと言いますから、やはり、これは天下普請。

天正十一年(1583年)9月1日に始まり、まずは3ヶ月後には、三段からなる見上げるような石垣の天守台が完成し、この先、その上に建つであろう五重の大天守は、黄金の装飾がふんだんに用いられた豪華な造り・・・

その構築と同時に、周囲は、石山本願寺の遺構を組み込みつつ、本丸から二の丸を二重の堀が囲み、さらに秀吉の邸宅となる奥御殿から、政庁となる表御殿が建造され、草庵や茶室が点在する山里曲輪(やまざとくるわ)と進み、

Toyotomioosakazyoukamae 一方では、北に淀川、東に平野川猫間川を天然の外堀とし、そこに城下町を取り込んだ総構(そうがまえ)横堀(現在の東横堀川)が開削され、南には空堀(からほり)が掘られていきます。
(現在の大阪城の4~5倍くらいか?→)

天正十四年(1586年)の4月に、今まさに建築中の大坂城をおとずれた大友宗麟(おおともそうりん)も、国許(くにもと)への手紙で「見事結構」「比類無き」「仰天申候」と絶賛してます(4月6日参照>>)

そんな、周囲約8kmに及ぶ巨大な城郭の姿が露わになっのは、文禄三年(1594年)頃・・・最終的な完成に至ったのは慶長三年(1598年)の事でした。

とは言え、秀吉は、天正十三年(1585年)に関白に任ぜられて、関白としての政庁である聚楽第(じゅらくてい=京都市上京区周辺)を建造し(2月23日参照>>)

その関白を退いてからは隠居所として建てた伏見城(ふじみじょう=京都市伏見区)(3月7日参照>>)にいましたし、上記の最終的な完成からわずかしか経たない慶長三年(1598年)の8月に亡くなってしまいます(8月9日参照>>)ので、

実際に秀吉自身が滞在した時間は、現在の私たちが「太閤(たいこう=関白の職を退いた人・ここでは秀吉の事)さんの城」という頭で描くイメージよりは、かなり短かったわけですが、

死の間際には、自分が亡くなった後は一人息子の秀頼(ひでより)淀殿(よどどの=浅井茶々・秀吉の側室で秀頼の母)が大坂城に入って、五大老の助けを借りながら政権を維持するよう遺言を残していますので、

やはり秀吉にとって、大坂城は天下人の拠点とすべき城だった事でしょう。

しかし、ご存知のように、その大坂城は、五大老筆頭であった徳川家康(とくがわいえやす)の攻撃を受け、慶長二十年(1615年)5月の大坂夏の陣にて炎上&落城してしまいます。(くわしくは【大坂の陣の年表】参照>>)

そして、難儀な事に、勝利した德川家が、豊臣時代の大坂城を縄張りごとスッポリと土で覆ってしまい、

その上に江戸幕府の大坂城を構築してしまったために(1月23日参照>>)(←これが現在の大阪城です)、以来、豊臣時代の遺構は地中深く埋まったままになってしまったのです。

それから約300年・・・
なぜか、すっかり、その事を忘れていた大阪市民。。。

昭和の当時、そこにある大阪城を太閤さんの城と信じて疑わなかった大阪市民は、昭和六年(1931年)、すでに焼失していた天守閣を市民の全面寄付により復興・・・

しかし、それは大坂夏の陣図屏風(11月13日参照>>)に描かれた「豊臣デザインの天守閣を徳川時代の天守台に復興してしまう」という大勘違いだったわけですが(11月7日参照>>)、これも、何事にもおおらかなお笑いの聖地ならではのご愛敬・・・

なんせ、秀吉の大坂城と現在(德川)の大阪城が、別々の縄張りだとわかるのは、第二次大戦後、占領軍から大阪市に変換された事により、昭和三十四年(1959年)に行われた「大坂城総合学術調査」にて・・・

そこでようやく、現在の堀や石垣が豊臣時代の物では無い事が周知されるようになるのです。

最初の簡単な調査で、もともとあった強固な地盤の上に10m以上の盛り土をした上に築城されている事がわかり、さらに本丸・天守閣で行われたコア・ボーリング調査にて地下7.5mの所から、未知の石垣が発見されたのです。

Dscn4113a_1←コア・ボーリング調査で発見された石垣

しかし、この時点ではまだ石垣は謎の石垣とされ、豊臣時代の物と断定するには至りませんでした。

なんせ、上記の通り、ここはもともと石山本願寺があった場所ですし、近くには大化の改新の時の都だった難波宮跡(12月11日参照>>)もあり、縄文人の住居跡も発見されている復号遺跡でしたから。。。

Oosakazyouhonmarunakai1500a ところが、その翌年、偶然にも徳川幕府の京都・大工頭をしていた中井家(【中井正清】参照>>)のご子孫のお家から、

豊臣時代の『大阪城本丸図→』が発見され、その図と地下の石垣の位置を照合した結果、

この石段は、3段に築かれた豊臣時代の本丸御殿を囲む石垣のうちの2段目・中ノ段帯曲輪(なかのだんおびくるわ)の石垣の一部であることが確定され、現在の大阪城の下には、豊臣時代の大坂城の縄張りが埋まっている事が確定となったわけです。

そして豊臣時代の遺構は、今現在も発掘中・・・

Eggenbergj また、2006年には、オーストリアエッゲンベルグ城の壁に飾られていた絵画(←)が

豊臣期の大坂城を描いた8曲1隻の屏風である事が判明し、その全容解明に一役買った事もありました(9月21日参照>>)

今も毎年のように新たな遺構が発見される大阪城・・・今後の、更なる発見に期待ですね。

ちなみに、天満橋駅京阪東口近くのドーンセンターのビル前には、この下から発掘された三の丸の遺構である石垣が、そのままの状態で地上へと移転されて展示されています。
Toyotomioosakazyoukamaed
↑ドーンセンター前の石垣
(くわしい行き方は本家ホームページ「京阪奈ぶらり歴史散歩」で>>

ところで、この大阪城は、別名を「金城」あるいは「錦城」と書いて、どちらも「きんじょう」と呼ばれます。

どちらも同じ読みだし、どっちでも良いっちゃぁ良いんですが、個人的には「錦城」の表記が好みです。

不肖私、大阪城を朝な夕なに仰ぎ見る場所で生まれ育ちましたが、出身校の校歌の歌詞も「錦城」で、

愛唱歌には♪淀の流れに姿を映し~錦(にしき)のお城と背丈を競う♪というフレーズもあり、なにより、昭和の天守閣復興時の設計者である古川重春ふるかわしげはる)の著書も『錦城復興期』ですから・・・

信長が(みん=中国)の瓦師だった一観( いっかん)を招いて、安土城の屋根に明風瓦を使用した事は有名ですが、奇抜な事が大好きば秀吉ですから、ひょっとしたら彼も、普通には思いつかないような色の瓦を使っていた可能性も無きにしもあらず・・・

実際には、遺構からは数多くの金箔瓦が出土しており、天守閣の屋根は金箔の瓦で豪華に造られていたんだろうなぁ~と思いますが、その表現は「金ピカ」というよりは、「錦を織りなすような」色であったのでは?と想像している茶々であります。

Oosakazyou100427patk
大阪城全景

ま、金城湯池(きんじょうとうち)という四字熟語もあり、その「金城」は堅固な城の代名詞でもあるので、結局は、どちらも良い別名なんで、あくまで好みなんですけどね。
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2021年6月17日 (木)

本能寺の変の実戦隊長…斎藤利三の処刑

 

天正十年(1582年)6月17日、本能寺の変の後、山崎の戦い羽柴秀吉に敗れた明智光秀の家老・斎藤利三が処刑されました。 

・・・・・・・・

斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)は、
平安時代頃からの藤原一族の流れを汲む美濃(みの=岐阜県南部)土岐(とき)守護次官斎藤氏(斎藤道三は別系)の人とされる白樫城(しらかしじょう=岐阜県揖斐郡)主・斎藤利賢(としかた)を父に、

代々室町幕府の重臣の家系である蜷川氏(にながわし=アニメ一休さんの新右衛門さんが有名)蜷川親順(ちかより)の娘との間の次男として天文三年(1534年)頃に生まれたとされますが、その生年も諸説あり、お母さんも、斎藤道三(どうさん)の娘説、明智光秀(あけちみつひで)の妹説などもあり、少々謎です。

ただ、利三の兄である石谷頼辰(いしがいよりとき)が、母の再婚相手である石谷光政(みつまさ=空然)の養子となって石谷姓を継ぎ、義父の職を継いで室町幕府の奉公衆となっていて、弟の斎藤利三も、兄と同じく幕府奉公衆であった事を考えると、やはり母は蜷川氏の娘さんである可能性が高いように思われます。

ちなみに、母と再婚相手との間に生まれた利三にとっては異父妹にあたる姫の嫁ぎ先が、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)で、この縁談の仲介役だったのが兄の石谷頼辰と、同僚(幕府奉公衆)細川藤孝(ふじたか=後の幽斎)だったようで、この頃は藤孝の中間(ちゅうげん)だった明智光秀は、この時に長宗我部元親と知り合いになったとされていて、

後々の本能寺の変の一因とも噂される光秀&利三&元親の3人の関係ができた物と思われます(本能寺の変:四国説>>) 。

Saitoutosimitu600a そんな斎藤利三の最初の結婚相手は斎藤道三の娘と言われますが、確固たる証拠はありません・・・ただ、何かしらの縁があって、この頃、利三は道三の息子である斎藤義龍(よしたつ)に仕えるようになっていますので、道三の系列と密な関係になっていた事はうかがえます。

その後、その道三の家臣であった稲葉一鉄(いなばいってつ)与力となって、一鉄の娘(もしくは姪)と再婚します。

ご存知のように、この稲葉一鉄は、永禄十年(1567年)の斎藤本拠の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)陥落(8月15日参照>>)の時に、攻撃側の織田信長(おだのぶなが)の道案内をして織田に寝返った美濃三人衆の一人(8月1日参照>>)、これをキッカケに一鉄配下の斎藤利三も織田傘下となるのです。

翌年の永禄十一年(1568年) には、ご存知のように織田信長が室町幕府15代将軍となる足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たし(9月7日参照>>)、畿内を掌握していく事になるわけですが、

ところが・・・
織田家傘下の稲葉の配下として様々な武功を挙げる斎藤利三ですか、少々不満があったようで・・・

それは、自らの武功に対して、稲葉一鉄が、それに見合った報酬を与えてくれない事・・・

かくして元亀元年(1570年)頃(もうチョイ後かも)、日頃の不満が爆発した利三は、逃げるように稲葉家を出て、すでに信長の家臣として活躍中の明智光秀のもとへと走ります。

つまり、明智光秀が稲葉一鉄の家臣である斎藤利三を引き抜いて自分の家臣にしたわけですが、この頃、光秀は別の人も引き抜こうとしてモメていますので、どうやら、利三の不満が爆発していきなり・・・というよりは、光秀との約束事が、すでに水面下で決まっており、稲葉家を出たものと思われます。

なんせ、かつて同じ職場(幕府奉公衆)だったわけですし、同じ土岐氏でもありますから・・・

とは言え、家臣を引き抜かれた一鉄は激おこプンプン丸で、収まらないその怒りを主君である信長に訴え、利三の返還を求めます。

事を治めたい信長は、利三に切腹を命じますが、織田の家臣で利三と親しかった猪子平助(いのこへいすけ)という武将が間に入って(『改正三河後風土記』では光秀自身が信長に反論して利三を守ったとなっています)、何とか利三の切腹は免れましたが、無茶な引き抜きを行った光秀は、信長からかなりキツく怒られたようで・・・もちろん、稲葉一鉄との確執も残ったままになってしまいます(この一件も本能寺の一因と噂されます)

とにもかくにも、
野茂のメジャー行きくらいに(←例えが古い)大モメにもめた移籍劇ではありましたが、明智光秀の配下となった斎藤利三は大いに活躍して光秀の信頼を得、光秀が信長から任された丹波(たんば=兵庫県の一部)攻めで、天正七年(1579年)に黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)を落とした(8月9日参照>>)時には、その後の黒井城を任され、光秀の家老に抜擢されました。

やがてやって来るのが天正十年(1582年)の本能寺の変・・・
★本能寺の変については↓
 ●本能寺の変~『信長公記』>>
 ●その時の安土城>>
 ●数時間のタイム・ラグ>>

6月1日夜、「殿(信長)に陣容を見せる」という名目で、居城の亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)を出た明智の軍勢【明智越体験記】参照>>)・・・一説には、山城(やましろ=京都府)との国境である老ノ坂(おいのさか)の手前で、光秀は、一部の重臣に対して「変の決行」を打ち明けたと言いますが、もちろん、打ち明けたメンバーの中には斎藤利三も・・・

これには、利三は反対したものの、光秀の決意は固く・・・という説と、
むしろ利三が積極的で、なんなら利三に押された形で光秀が決意したという、真逆な説があります。

ごく最近、「光秀が現地(本能寺)には行って無い」という史料の発見もあり、今は、後者の「利三が主導していた」との考えが強くなって来ています。
(信長の四国攻めが間近だった事もあるので)

とにもかくにも、ここで本能寺の変は決行され、「変」自体は成功を収めたわけですが、ご存知のように、電光石火で畿内に戻って来た羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)に推された織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)率いる織田軍によって、明智軍は敗れ、戦場を離れた光秀も討たれてしまいます。
★このへんは、すでに書いておりますのでコチラで↓
 ●秀吉の中国大返し>>
 ●天王山~山崎の合戦>>

斎藤利三も何とか戦場を脱出しますが、堅田(かただ=滋賀県大津市)に潜伏していたところを、秀吉の命を受けた一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)を大将とする30余人の捕手と足軽50人に囲まれ、息子らとともに奮戦するも、息子2人は斬られ、利三自身は捕縛されてしまいました。
(捕縛したのは猪飼秀貞の説もあり)

かくして天正十年(1582年)6月17日、市中引き回しのうえ六条河原にて斬首された斎藤利三・・・享年49でした。

消えてゆく 露の命は 短夜の
 明日をも待たず 日の岡の峰 ♪  利三辞世
「夜露の命は短い夜だけで、お日様が上ったら消えてしまうものなんや」

その遺体は、5日後の23日、明智光秀の首とともに、あらためて三条粟田口(あわたぐち)にて磔刑(たっけい)に処せられたという事です。

しかし、その後、利三の友人だった絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)(8月28日参照>>)が盗み出し、同じく友人の東陽坊長盛( とうようぼうちょうせい)が住職を務める真正極楽寺(しんしょうごくらくじ=京都市左京区)に葬られました。

ちなみに、この時、4歳で父=斎藤利三を亡くし、母方の稲葉家に預けられたのが、後の春日局(かずかのつぼね)(10月10日参照>>)という事になります。
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2021年4月28日 (水)

武田信玄VS徳川家康~第1次野田城の戦い

 

元亀二年(1571年)4月28日、遠江東三河に侵攻して来た武田信玄が、徳川家康方の菅沼定盈が守る野田城を攻撃しました。

・・・・・・・

菅沼定盈(すがぬまさだみつ)は、駿河(するが=静岡県東部)を領し遠江(とおとうみ=静岡県西部)を間接支配する大大名=今川義元(いまがわよしもと)に仕えていた武将です。

とは言え、そもそもは野田城(のだじょう=愛知県新城市)を本拠とする三河(みかわ=愛知県東部)の武将で、今川義元の支配圏が三河周辺まで拡大された事によって、その傘下に入っていた状況でしたから、永禄三年(1560年)のあの桶狭間(おけはざま)の戦い(2015年5月19日参照>>)で義元が討たれ、それキッカケで今川家の人質だった徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平信康)岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)にて独立する(2008年5月19日参照>>)と、その家康に従う道を選びます。

しかし、当然の事ながら、義元亡きあとの今川を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)は、それを許さず・・・永禄四年(1561年)に今川からの攻撃をを受けて、城は陥落し、一時は親戚筋を頼って逃れたものの、翌永禄五年(1562年)に夜襲をかけて奪回していました

この間に、家康は、かの桶狭間で義元を討った尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と同盟を結び(1月15日参照>>)、完全に今川とは手を切ります。

やがて、隣国の美濃(みの=岐阜県南部)を手に入れて(8月15日参照>>)、上り調子の信長は、永禄十一年(1568年)9月に、足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)奉じての上洛を果たします(9月7日参照>>)

Tokugawaieyasu600 ちょうどその頃、大黒柱を失ってから力が衰え、今川の支配が緩くなって来ていた遠江に、家康が侵攻を開始しますが、この時、遠江への道案内をかって出たばかりか、未だ今川と德川の間で揺れ動いていた井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)配下の同族=菅沼忠久(ただひさ)味方に引き入れたのが菅沼定盈でした。

おかげで、家康の遠江侵攻は、かなりスムーズに展開し(2019年12月13日参照>>)、わずか5日で引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入っています。

一方、この家康の遠江侵攻と同時に動き始めたのが甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)・・・「このままでは今川の領地を家康に取られてしまう」とばかりに、これまでは信濃(しなの=長野県)方面へ伸ばしていた手を、一気に方向転換させ、信長の仲介によって家康と約束を結び、

Takedasingen600b 信玄は北から、家康は西から、今川領へと進み、倒したあかつきには大井川より東(駿河)は信玄が、西(遠江)は家康が治めると取り決め、両方向から今川へ仕掛けていきます。

永禄十一年(1568年)12月13日、信玄に今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市:後の駿府城)を奪われた氏真は(2007年12月13日参照>>)掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走・・・すかざず、この掛川城を、今度は家康が攻撃します。(12月27日参照>>)

しかし、この信玄の行動に怒り心頭なのが、かつて甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめい=武田&北条&今川の三者による同盟)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)でした。

同盟を締結した今川義元が亡くなったとて、もう一人の同盟者である北条を無視して、勝手に同盟を破棄して今川に攻め込んだわけですから・・・

そこで北条氏政は、信玄をけん制しつつ(【薩埵峠の戦い】参照>>)掛川城を攻めあぐねている家康と交渉・・・城攻め開始から5ヶ月経っても掛川城を落とせていなかった家康は、北条と同盟を結び、北条の介入&助け舟によって、ようやく、翌永禄十二年(1569年)5月に掛川城を開城させる事に成功したのです。

しかし当然の事ながら、今度は、この家康の行動に信玄が怒り心頭・・・

「もはや、大井川から西も東もクソもない!」
とばかりに、自力での旧今川領獲得へと進み始めます。

永禄十二年(1569年)7月に大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)を奪取(7月2日参照>>)して、
10月には三増(みませ)峠で北条と戦い(10月6日参照>>)、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を開城(12月6日参照>>)・・・

翌元亀元年(1570年=4月に永禄十三年から改元)には奥さんの三条の方(さんじょうのかた)(7月28日参照>>)を失いつつも、さらに翌年の元亀二年(1571年)の1月には深沢城(ふかさわじょう=静岡県御殿場市)を奪取します(3月27日参照>>)

この間の徳川家康は、気賀(きが=浜松市北区細江)一揆(3月27日参照>>)など、未だ今川色の強い地域の支配を進めつつ、同盟者である信長の姉川の戦い(6月28日参照>>)に参戦したりしておりましたが、

そんなこんなの元亀二年(1571年)4月15日、信玄が德川配下の鈴木重直(すずきしげなお)の拠る足助城(あすけじょう=愛知県豊田市:真弓山城)を落とし、いよいよ遠江に侵攻して来たのです。

さらに、その勢いのまま、浅谷城(あさがいじょう=同豊田市山谷町)八桑城(やくわじょう=同豊田市新盛町)大沼城(おおぬまじょう=同豊田市大沼町)田代城(たしろじょう=同豊田市下山田代町)大桑城(おおくわじょう=豊田市大桑町)などを次々と落とし(自落した城もあり)周辺一帯は、またたく間に武田の支配下となりました。

そして、今度は南に進んで東三河に入り、今回の信玄侵攻キッカケで徳川方から武田に寝返った作手城(つくでじょう=愛知県新城市:亀山城とも)奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)田峯城(だみねじょう=愛知県北設楽郡設楽町)菅沼定忠(さだただ)を道案内に…

ちなみに、この時、菅沼定忠は同族の菅沼定盈を攻撃する事に躊躇し、武田方に、わざと遠回りの道を教えて時間稼ぎしたとも言われていますが・・・

とにもかくにも元亀二年(1571年)4月28日の夜に、信玄配下の小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)山県昌景(やまがたまさかげ)らが軍勢を率いて作手を発って、夜中行軍にて菅沼定盈の守る野田城へと向かい、到着後、間もなく・・・その夜のうちに武田方は野田城への攻撃を開始します。

実は、この野田城・・・後に、大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん=忠教)が著した『三河物語』でも「藪のうちに小城あり」と記されている事でもわかるように、かなりの小さな城だったうえ、菅沼定盈以下、城兵の数もさほど多くは無かったようで・・・

もちろん、建物が小さいぶん、攻め手の攻め口も小さい造りにはなっていたようですが、所詮は多勢に無勢・・・結果は火を見るよりも明らかで、野田城は、未だ夜が明けぬ寅の刻=午前4時頃に落城してしまいました。

・・・と、ここまで書いておいて恐縮ですが、

実は、近年の研究では、今回の野田城の戦いは、元亀二年(1571年)の信玄の遠江侵攻時では無く、天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原(したらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)前哨戦であったのでは?との指摘もあります。

そうなると、菅沼定盈が戦った相手は信玄でなく、息子の武田勝頼(かつより=信玄の四男)という事になりますし、この翌年の信玄の西上作戦(せいじょうさくせん=上洛するつのりだった?と言われる信玄による武田軍の遠征)で、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)の戦い(12月22日参照>>)の後に行われる信玄最後の戦い=一般には第2次とされる野田城の攻防戦(1月11日参照>>)の方が先という事になってしまうわけですが・・・

確かに、今回、夜襲によって落城するものの、菅沼定盈は討ち取られる事無く無事ですし、城も、第2次とされる西上作戦の時の攻防戦までのわずかな間に、信玄がかなり攻めあぐねるほどに見事な修復をされていますので、やはり少々の疑問が残ります。

なので、ひょっとしたら天正三年(1575年)の出来事かも知れないのですが、一応、このブログでは、複数の史料に登場する元亀二年(1571年)4月28日の日付で、今回はご紹介させていただく事にしました。
(新たな資料発見で、また変わるかも知れませんが…)

ところで、本日の主役である菅沼定盈さん・・・

その信玄の西上作戦の時の第2次野田城の戦いでも敗れ、一時は武田方に捕らわれの身となりますが、直後の人質交換により、再び家康の元に戻り、その後の長篠設楽原の戦い小牧長久手の戦い(3月6日参照>>)でも德川方として活躍・・・あの関ヶ原の時には最前線には出なかったものの、江戸城の留守居役を立派にこなしています。

このページでも、井伊谷の菅沼忠久さんや、武田に寝返った田峯の菅沼定忠さんがいたように、菅沼の一族がたくさんいて、定盈の野田菅沼は、嫡流から枝分かれした、むしろ支流だったわけですが、上記の通り、健やかなる時も病める時も、1度も家康を裏切る事無く尽くした事から、この野田菅沼家は、天下を取った德川家から優遇され、江戸時代を通じて(1度改易されるも旗本として復帰)菅沼一族の中では1番の出世頭となっています。
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2021年4月21日 (水)

信長を大敗させた半兵衛の作戦~斎藤龍興の新加納の戦い

 

永禄六年(1563年)4月21日、美濃へ侵攻した織田信長を迎撃し、斎藤龍興が勝利した新加納の戦いがありました。

・・・・・・・・

その出世ヒストリーから「美濃(みの=岐阜県南部)のマムシ」と呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん)が、反発する息子の斎藤義龍(よしたつ=高政とも)によるクーデターによって倒れたのは弘治二年(1556年)4月の事でした【長良川の戦い】参照>>)

この時、道三は、娘=帰蝶(きちょう=濃姫)の嫁ぎ先である尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)「美濃を譲る」の遺言状を書いた(4月19日参照>>)とも言われますが、

そんな遺言状があろうがなかろうが、おそらく信長は娘婿として道三の弔い合戦を考えていた事でしょうが、いかんせん、この頃の信長は、未だ尾張一国をも手にしていない一武将・・・

しかも、道三を倒しただけあって義龍は、なかなかの勇将で、とても美濃には手出しできない状況でした。

そんな中、永禄三年(1560年)5月に、あの桶狭間(おけはざま)にて今川義元(いまがわよしもと)を討ち取った(2007年5月19日参照>>)事で一躍名を挙げた信長のもとに、永禄四年(1561年)5月11日に「義龍が30半ばの若さで急死した」との情報が舞い込んで来ます。

Saitoutatuoki300 しかも、後を継いだのは未だ14歳の息子=斎藤龍興(たつおき)・・・

信長は早速、永禄四年(1561年)5月13日に美濃への侵攻を開始し、翌14日の森部の戦い(5月14日参照>>)、23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)と、立て続けに戦を仕掛けましたが、さすがは美濃の王者・・・

本家本元の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)を何とかせねば、藤氏が揺るぐことはありません。

そんなこんなの永禄五年(1562年)11月、尾張守護代家の内紛に乗じて織田信賢(のぶかた)を倒して(2011年11月1日参照>>)、ようやく尾張を統一した信長は、再び、その矛先を美濃に向けます。

永禄六年(1563年)4月21日、上記のような経験から、本拠の稲葉山城の攻略を目標に置く信長は、約1万の兵を率いて木曽川を渡った後、その稲葉山の動向を見つつ、各務野(かかみの=岐阜県各務原市)付近に侵攻し、周辺の村々に火を放ちつつ進軍しました。

それは、
先陣に池田恒興(いけだつねおき=信輝)隊、
第2陣に森可成(もりよしなり)隊、
第3陣に柴田勝家(しばたかついえ)隊、
最後尾の信長本隊を丹羽長秀(にわながひで)隊がサポートする順列で、新加納(しんかのう=同各務原市那加浜見町)を経て、稲葉山城に迫る勢いで進みます。

一方、迎える斎藤龍興方は、
先陣の牧村半之助(まきむらはんのすけ)野村甚右衛門(のむらじんえもん)ら2千余騎、
第2陣の日根野備中守(ひねのびっちゅうのかみ)ら1500余騎を大手(正面)側に配しておいて、
長井道利(ながいみちとし=道三の息子説あり)を将とする別動隊を森蔭や竹藪に伏せさせておき、
本隊を前一色山(まえいっしきやま=金華山の南東にある山:八幡山)の麓に隠した後、
偽装の本陣を山頂に設けて、やたら派手々々の吹き流しやのぼりを、これでもか!っと賑やかに据え、

準備万端整えて、信長軍を待ち構えていました。

そんな中、まずは新加納に布陣していた牧村隊が、ただ今やって来た織田先陣の池田隊とぶつかりますが、「とても抗いきれない」という雰囲気で、牧村隊が少し後退すると、そこを池田隊とともに、第2陣の森隊が追撃を仕掛けます。

しかし、それは斎藤方の作戦・・・

頃合いを見計らって、斎藤第2陣の日根野隊が牧村隊を救援すますが、これも、やや劣勢で後退し始めると、この状況に「斎藤劣勢なり!」と見た柴田隊&丹羽隊もが追撃にかかります。

この絶好のタイミングで、森蔭に伏せていた長井の別動隊が一斉に横から突いたため、さすがの織田軍も混乱・・・隊形が乱れます。

斎藤軍は、さらに、そこをグッとこらえて織田軍を十分に引き付けてから、これまた絶好のタイミングで全軍に反撃命令・・・伏兵&本隊&別動隊が一斉に鬨(とき)の声を挙げて突入します。

やられた織田方は、味方ともそれぞれ分断され、連絡も途絶えて散々に乱れ、死者が続出する中で前にも後ろにも行けず、右にも左にも回避できぬ状態となり、もはや全滅寸前となります。

もう、信長本隊にさえ敵が突入し、側近の馬廻衆が必死のパッチで、かろうじて防戦するあり様でした。

実は、斎藤方のこの作戦を考えたのが、あの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)だったと言われています。

さすがは名軍師・・・と言いたいところですが、上司&同僚のパワハラにキレた半兵衛が稲葉山城を占拠する有名なあの【竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り事件】>>は、この翌年の事なので、この情報は、後に有名になる人の定番=後付けエピソードなのかも知れませんが、ひょっとして?と思わせるほどの斎藤方の見事な作戦でした。

…と、ここで信長の命すら危ない風前の灯となった織田軍でありましたが、

この頃、ちょうど夕暮れ時となり、各務野一帯が薄暗くなって来た中、ここで突然、稲葉山南方の尾根・瑞龍寺山(ずいりゅうじやま=同岐阜市)数百に及ぶ松明(たいまつ)が掲げられます。

「すわ!一大事」
と慌てる斎藤軍・・・

実は、今回の織田軍迎撃のため、ほぼ全軍で立ち向かっていた斎藤方は、今現在、本拠の稲葉山城は、ほぼカラッポ状態・・・ほとんど兵を配置していなかったのです。

「この間に、別動隊が城を落とす作戦かも知れん」
と思った斎藤方は、慌てて包囲を解いて稲葉山城へと引き揚げていったのでした。

実は、この主君のピンチの際に、作戦には無かったフェイク松明を焚いたのが、織田方の殿(しんがり=軍の最後尾)を担当していた木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)だったと言われています。

まぁ、これも半兵衛同様に、後の展開を見た後付けエピソードかも知れませんが、実にオモシロイじゃありませんか!

半兵衛の作戦により大勝を得た龍興、
秀吉の機転により、
大敗でありながらも命落とさずに済んだ信長。

この後の、秀吉&半兵衛二人の関係を思うとワクワクしますね~

こうして、何とか無事、尾張に帰還した信長は、今回の手痛い敗戦に懲りた事で、「美濃を落とすためには、それ用の城が必要」と考え、小牧山城(こまきやまじょう=愛知県小牧市)構築を決意したと言われています。

★その後の信長の美濃侵攻関連
永禄八年(1565年)8月:堂洞合戦>>
永禄九年(1566年)9月:墨俣の一夜城?>>
永禄十年(1567年)8月 :美濃三人衆内応>>
同年8月:稲葉山城・陥落>>
でどうぞ。。。
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