2020年2月24日 (月)

信長が仕掛ける浅井滅亡への一手~佐和山城の戦い

 

元亀二年(1571年)2月24日、織田勢に包囲されていた浅井方の磯野員昌が守る佐和山城が開城されました。

・・・・・・・・

佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)と言えば、即、あの石田三成(いしだみつなり)を思い浮かべる 方も多かろうと思いますが(私もそうです(^o^;))、実は、その歴史は古く、築城されたのは鎌倉時代・・・その頃に近江(おうみ=滋賀県)を任されていた近江源氏佐々木(ささき)が構築したとされます。

源平合戦の「宇治川の先陣争い」(1月17日参照>>)で有名な佐々木高綱(ささきたかつな)さんの一族ですね。

もちろん、その頃は城郭というよりは砦みたいな物だったでしょうが・・・

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現在の佐和山城跡

で、ご存知のように、その佐々木氏の流れを汲むのが六角(ろっかく)・・・室町時代に入ってからの六角氏は、幕府将軍をも手こずらせるほどの勢力を誇り(12月13日参照>>)、同じ佐々木氏の流れを汲む京極氏(きょうごくし)とともに近江の南北(六角=南、京極=北)を支配する形となっていましたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の最中に起こった京極家内の後継者争い(8月7日参照>>)によって、京極氏の弱体化が始まり、いつしか京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)が主家を凌ぐ力をつけていき(4月6日参照>>)戦国時代も後半になると、もう北近江は、事実上浅井の物になって、佐和山城は浅井が本拠とする小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)の支城として、元亀年間には浅井長政(あざいながまさ=亮政の孫)の家臣=磯野員昌(いそのかずまさ)が城主を務めていました。

そんなこんなの元亀元年(1570年)6月に起こったのが、あの姉川(あねがわ)の戦いです。
【いよいよ姉川…小谷に迫る】>>
【姉川の合戦】>>
【姉川の七本槍】>>

これは、去る永禄十一年(1568年)の9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その後の再三の上洛要請に応じなかった越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう=福井県敦賀市)を元亀元年(1570年)に攻撃した(金ケ崎手筒山の戦い>>)時、織田の味方であったはずの浅井氏が朝倉について、あわや挟み撃ちとなるところ、なんとか岐阜(ぎふ)に戻って来た(金ヶ崎の退き口>>)という、まさに信長危機一髪だった出来事に対して、その3ヶ月後に報復!とばかりに信長が小谷近くに攻め寄せた戦いです。

しかし、この姉川で勝利した信長が、敗走する浅井・朝倉勢を深追いする事がなかったため、浅井・朝倉は負けたとは言え、ある程度の兵力を温存したまま・・・

この時、織田本陣に迫る活躍をした磯野員昌ではありましたが、負け戦となり、何とか敵陣を突破して、自身の佐和山城に戻り、休む間もなく城の防備強化にまい進します。

そのおかげか?姉川からほどない7月1日に、諸軍を率いて佐和山城を攻めに来た信長は、その守りの固さを見て、
「すぐには落ちぬ」
との判断し、城の東に位置する百々屋敷(どどやしき=滋賀県彦根市小野)に砦を築いて、そこに丹羽長秀(にわながひで)を置き、西の尾末山(おすえやま=同彦根市)には市橋長利(いちはしながとし)を、南の里根山(さとねやま=同彦根市)には水野信元(みずののぶもと)を、彦根山(ひこねやま=現在の彦根城がある小山)には河尻秀隆(かわじりひでたか)と、万全の包囲網を作っておいて、自身は7月4日に京都の足利義昭に帰郷の挨拶をして岐阜へと戻りました。

ところが、その3か月後の9月には、浅井・朝倉にゲリラ的に宇佐山城(滋賀県大津市)を攻められてしまい、信長は弟の織田信治(のぶはる)と重臣の森可成(もりよしなり)を失ってしまいます(9月20日参照>>)
(↑彼らの奮戦により落城は免れます)

さらに翌10月には、新たな2万の兵を率いて琵琶湖(びわこ)の西岸を南下して来た浅井・朝倉勢に対して、信長は堅田(かたた=滋賀県大津市)に砦を構えて応戦(11月26日参照>>)・・・しかし、この戦いは12月14日に時の天皇である正親町(おおぎまち)天皇から合戦中止の綸旨(りんじ=天皇の命令)が下されたため、やむなく、両者一応の和睦となりました。

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佐和山城周辺の位置関係図
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(背景は地理院地図>>)

この間にも、佐和山城へのけん制は続けられていたわけですが、長期の包囲にも関わらず、未だ降伏には至らず・・・

とは言え、春までにはここ佐和山は押さえておきたい・・・なんせ雪解けの時期になれば、当然、雪国越前の朝倉の動きは活発になるわけで、またもや浅井と合同で南下してくるやも知れませんし、なんたって、ここを奪取しておけば岐阜から京都への動線が確保されます。

ちょうど、その頃、昨年末から活発になり始めた長島一向一揆(ながしまいっこういっき)(11月21日参照>>)に対抗すべく、信長は丹羽長秀を長島へ派遣・・・代わりに、木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が百々屋敷に入ります。

もちろん、佐和山城攻略の役目も秀吉が引き継ぐ事に・・・早速、秀吉は側近の蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)と作戦を練ります。

まずは堀次郎(ほりじろう=堀秀政の従兄弟?)樋口直房(ひぐちなおふさ)の400の兵と蜂須賀の400余りで佐和山城を三方から囲み、湖上に展開する前野長康(まえのながやす)の500余騎にて琵琶湖を封鎖して兵糧の運び込みを断つ・・・さらに、「佐和山城はすでに織田方に落ちた」とのフェイクニュースを流す。。。

さすれば、孤立した佐和山城の兵糧は20日ともたないであろう・・・と、

当然、その間には開城を促す交渉も必要です。

元亀二年(1571年)2月2日、秀吉は、蜂須賀と前野の2名に書状を持たせて使者として送り、佐和山城の磯野との交渉を開始します。

それから20日余り経った元亀二年(1571年)2月24日、磯野員昌から「籠城する500余りの城兵の命を助けるのであれば開城する」との返答を受け取った秀吉が、その申し入れを受け入れ佐和山城は開城となりました。

籠城していた将兵の多くは、船で琵琶湖の対岸へと逃げていったのだとか・・・

交渉に応じて降伏した磯野員昌は佐和山の代わりに琵琶湖の北西に位置する高島郡(たかしまぐん=滋賀県高島市)を与えられるという破格の待遇を受けて織田の配下となり、佐和山城へは丹羽長秀が入りました。

なんせ、この頃は、上記の佐和山の丹羽をはじめ、今回の秀吉も、柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)などなど、織田配下のそうそうたるメンバーが、皆、琵琶湖の周辺に配置されていましたから、それを踏まえれば、琵琶湖の北西は、かなりの厚遇です。

そのおかげで、天正元年(1573年)には、あの金ヶ崎の退き口の際に信長に発砲した杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)を、高島郡の潜伏先にて捕縛するという手柄にも、磯野員昌は恵まれています(5月19日参照>>)

ただ・・・晩年は、信長さんと折り合いが悪く、出奔して農業に従事していたという事らしいですが、そのあたりはちょっと謎です。

とにもかくにも、ここで佐和山城が落ちただけではなく、この佐和山落城のニュースを聞いた太尾山城(ふとおやまじょう=滋賀県米原市)の浅井家臣=中島直親(なかしまなおちか)もが、すぐに退去して小谷城へと走り去ってくれた事で、秀吉は佐和山と太尾山の二城を手に入れる事ができたのです。

もちろん、これが2年後の天正元年(1573年)の浅井・朝倉の滅亡へとつながっていく重要な一手となる事は、皆さまご存知の通りです。

この後の展開は・・・
●【信長&秀吉VS浅井~箕浦の戦い】>>
【山本山城の戦いと虎御前山城構築】>>
【刀禰坂の戦い】>>
【朝倉氏滅亡~一乗谷】>>
【小谷城・落城~浅井滅亡】>>
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2020年2月18日 (火)

秀吉の中国攻め~毛利VS宇喜多の麦飯山八浜合戦

 

天正九年(1581年)2月18日、信長の命による秀吉の中国攻めの真っただ中、秀吉の依頼を受けた宇喜多忠家が籠る麦飯山城を、毛利方の穂井田元清が攻撃しました。

・・・・・・・

天正九年(1581年)と言えば、まさに豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)中国攻め真っただ中・・・もちろん、これは、秀吉の主君である織田信長(おだのぶなが)の命令によっての侵攻なわけですが・・・

そもそもの発端は・・・
永禄十二年(1569年)に、自らが滅ぼした周防(すおう=山口県)大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)と交戦中だった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)が、その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党に協力する姿勢を見せた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「東側からけん制してほしい」と信長に依頼し、それを受けた信長が、秀吉に2万の軍勢をつけて送り出した事にはじまる織田の中国攻め・・・

しかし、その後、信長に敵対して(7月18日参照>>)京都を追われた第15代室町幕府将軍足利義昭(あしかがよしあき)が毛利に逃げ込んで(11月16日参照>>)再起を狙ってる事や、すでに勃発していた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦いで、本願寺の救援要請に毛利が応じた(7月13日参照>>)事、

また逆に、先の山名祐豊や尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)らが織田傘下となった事などなどで、元就の後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと)が当主を務める頃には、スッカリ織田VS毛利の対立構造になっていたのです。

そんな中、天正五年(1577年)には但馬を攻略した(10月23日参照>>)後、上月城(こうづきじょう=兵庫県佐用郡)(11月28日参照>>)福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)(12月1日参照>>)を奪取して、翌天正六年(1578年)の春からは三木城(みきじょう=兵庫県三木市)の包囲(3月29日参照>>)・・・と確実に駒を進めていく秀吉。。。

もちろん毛利も黙ってはいません。

奪取後、秀吉が尼子勝久に守らせていた上月城を攻撃(5月4日参照>>)・・・秀吉が援護に向かうも7月には落城し(7月3日参照>>)、事実上、尼子氏は滅亡します。

一方、備中兵乱(びっちゅうひょうらん=岡山周辺の戦国武将の戦い)(6月2日参照>>)のドサクサで主家の浦上(うらがみ)を追放した宇喜多直家(うきたなおいえ)が、このあたりで毛利方から織田方へ方向転換(2月17日参照>>)・・・2年に渡る戦いでようやく三木城を落とした(1月17日参照>>)秀吉が、英賀城(あがじょう=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)を攻撃し(4月1日参照>>)播磨(はりま=兵庫県南西部)地方を平定(4月24日参照>>)する天正八年(1580年)には、もうすっかり織田傘下となって毛利と戦う宇喜多でした(6月15日【祝山合戦】参照>>)

そんなこんなの天正九年(1581年)、「備中侵入を容易に推進するには、児島半島を制圧しておきべき」と考えた秀吉は、宇喜多直家に児島への出兵を依頼します。

Syukuyamamuziiyama←このあたりの位置関係は以前の「祝山合戦の図」を参考に…
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(背景は地理院地図>>)

ところが、あいにく直家は病気療養中・・・というより、直家は、この天正九年(1581年)の 2月14日に死亡していたとも言われ(死亡は天正十年1月9日とも)、すでに、宇喜多家内では、息子の宇喜多秀家(ひでいえ)が家督を継いでいたものの、未だ10歳の秀家が当主とあらば心もとなく、叔父の宇喜多忠家(ただいえ)が、秀家の後見人となって事実上の運営をしつつ、直家の死はひた隠しにしていたのだとか・・・

そこで忠家は、直家の死を隠したまま、児島の東北端に位置する小串城(こぐしじょう=岡山県岡山市南区)に攻撃を仕掛けます。

これを受けた毛利側では、輝元の叔父(元就の四男)猿掛城(さるかけじょう=岡山県倉敷市)主の穂井田元清(ほいだもときよ=穂田元清)を向かわせて、児島の最西端に位置する天城(あまぎ=岡山県倉敷市藤戸町天城)に砦を築き、ここを拠点に宇喜多と対峙・・・

これを受けた宇喜多側は麦飯山城(むぎいやまじょう=岡山県玉野市)に入って防御を固めて、毛利の東進を食い止めるべく籠城しつつ、毛利勢の海上からの攻撃に備えて八浜(はちはま=岡山県玉野市八浜町)二子山城(ふたこやまじょう=双両児山城)を構築して南水道を抑えます。

しかし、この時、かねてより進行しつつあった水面下での毛利の画策が物を言い始め、宇喜多の中に毛利への内応者が出始めたのです。

内応者が毛利に通じたのを確認した穂井田元清は、天正九年(1581年)2月18日麦飯山城に攻撃を仕掛けます。

現在は宇喜多の物となっている常山城(つねやまじょう=岡山県岡山市南区&玉野市)と、かの二子山城の間に位置する麦飯山城を奪って、常山&二子山両城の連携を断ち、逆に毛利の物である番田城(ばんだじょう=岡山県玉野市番田)麦飯山城を連動させて宇喜多を窮地に追い込もうという作戦。

(ちなみに、この常山城↑は、あの女軍の戦い(6月7日参照>>)で知られる天正三年(1575年)に毛利方が奪った城ですが、その後、当時は同盟関係にあった宇喜多に譲られていました)

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福原城の戦い・位置関係図
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(背景は地理院地図>>)

やがて、内応者の手引きにより、籠城を続けるのが困難だと悟った宇喜多忠家は、やむなく麦飯山城から撤退します。

3日後の2月21日には麦飯山城を奪回すべく、忠家嫡男の宇喜多基家(もといえ)が麦飯山城から東へ約一里(約4kim)にある八浜に押し寄せ、そこで大きな戦いに発展・・・しかし、毛利軍の鉄砲隊による迎撃作戦が成功し、毛利が宇喜多を撃退したのだとか・・・

しかし、もちろん忠家は、まだあきらめません。

次に息子=基家に宇喜多の主力部隊を与えて二子山城守らせ、そのサポートとして、家老の岡家利(おかいえとし)を近くの日向山城ひゅうがさんじょう= 岡山県玉野市)に配置し、常山城の戸川秀安(とがわひでやす)と連携して麦飯山城を挟み撃ちにする作戦に・・・

一方、麦飯山城を奪った穂井田元清は、この麦飯山城を、より強固な城として手直しつつ、番田城には乃美宗勝(のみむねかつ=浦宗勝とも)を派遣して両者の連携を構築します。

さらに水軍力において勝る毛利は、村上景広(むらかみかげひろ=能島村上氏・村上武吉の従兄弟)率いる村上水軍300隻を児島と岡山の間に位置する海上に派遣して交通を遮断しました。

こうして、しばらくのこう着状態が続いた後の同・天正九年(1581年)8月22日(24日とも)、足軽同志の争いから、再び毛利VS宇喜多の戦いが再開されます。

麦飯山城近くの草刈り場で始まった些細な小競り合いは、どんどん拡大していき、大崎村の柳畑(玉野市八浜町大崎)の浜辺での大合戦となり、さらにそれが北上して大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう=岡山県玉野市八浜町)の丘陵へと展開し、優勢に進める毛利軍に宇喜多軍は押されぎみに・・・しかも、海上からは、あの村上水軍が宇喜多の側面を突こうと構えます。

この宇喜多軍を指揮していた宇喜多基家・・・形勢不利と見た基家は戦場を移動させるべく、自軍を鼓舞しながら采配を振りますが、そこへ、どこからともなく飛んで来た銃弾を受け、馬上から転落。

側近がすぐさま駆け寄りますが、すでに絶命・・・即死だったとの事。

大将を討ち取られた宇喜多軍は崩れるばかりで、もはや惨敗か??
と思った、その瞬間、常山城から駆け付けた戸川秀安率いる援軍が登場・・・後に「八浜七本槍」と呼ばれる事になる能勢頼吉(のせよりよし)らの勇士が、決死の覚悟で敵中に突っ込んでいき、なんとか形勢を逆転したのです。

勢いづいていた毛利軍もこれにて終了・・・戦況を挽回する事ができないと見た穂井田元清はやむなく撤退を決意し、麦飯山城を捨てて退却して行ったのです。

ギリギリのところで勝ちを得た宇喜多勢・・・この後、秀吉率いる織田の大軍が備中へとやって来るのを待つ事になります。

★今後の秀吉の中国攻めの展開は
 【鳥取の干殺し】>>
 【備中高松城・水攻め】>>
 へと進みます

‥…━━━☆

とまぁ、「今日は何の日?」というテーマでブログを展開している以上、日付がハッキリしないと、お話を進め難いので、上記のような紹介の仕方になりましたが、実のところ、今回の麦飯山八浜合戦(むぎいやまはちはまかっせん)謎多き戦いなのです。

たとえば『備前軍記』などでは、この戦いを天正四年(1576年)の事としていますが、
上記の通り、おそらく天正四年の段階では、未だ毛利と宇喜多は同盟関係にあったはず(文中にある宇喜多が毛利から常山城を譲り受けたのは毛利が奪い取った天正三年(1575年)より後のはず)ですから、両者が児島を巡って戦う事は、まず、考え難いのです。

なので、毛利と宇喜多の関係と織田配下の秀吉の進軍具合などから察して、今のところ、今回の麦飯山・八浜合戦は天正九年か、その翌年の天正十年の事であろうとの見方が強い事から、今回は、このような日付でお話を進めさせていただきましたので、それらの事をご理解いただければ幸いです。
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2020年1月 4日 (土)

目の前の命を救う~戦国の名医・曲直瀬道三

 

文禄三年(1594年)1月4日、戦国の名医で当代第一の文化人でもあった曲直瀬道三が病死しました。

・・・・・・・

これまで、このブログでも、そのお名前だけがチョイチョイ登場している曲直瀬道三(まなせどうさん=正盛)

  • 天正五年(1577年)、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部) 平定に、プラス石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との天王寺合戦(5月3日参照>>)やら、雑賀(さいか・さいが)の陣(3月15日参照>>)やら、松永久秀(まつながひさひで)謀反(10月3日参照>>)やらで忙し過ぎの明智光秀(あけちみつひで)が体調を崩して曲直瀬道三の治療を受けて回復した(10月29日参照>>)とか、
  • 天正十二年(1584年)、病をおして合戦に出陣していた筒井順慶(つついじゅんけい)曲直瀬道三の治療を受けるため京都を訪れた(8月11日参照>>)とか、
  • 後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の主治医として福祉に活躍する施薬院全宗(やくいんぜんそう)が、寺を出てまず医学の教えを請うたのが曲直瀬道三だった(12月10日参照>>)とか、

そう・・・曲直瀬道三は戦国時代のお医者さん。
それも天下の名医と呼ばれた人なのです。

近江源氏(おうみげんじ)の流れを汲む佐々木氏(ささきし)庶流の父と多賀氏(たがし)の母との間に永正四年(1507年)に生まれたという曲直瀬道三ですが、自身の出産で母を亡くし、そのすぐ後に父も戦死してしまったため、叔母に育てられたのち、幼くして出生地である滋賀県守山市(もりやまし)の寺に入ったと言います。

Manasedousan590as その後、13歳の時に京都の相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)に入って修行したのち、二十歳を過ぎた頃に関東に下って足利学校(あしかががっこう=栃木県足利市)で学びますが、ここで、すでに関東にて名医の誉れ高かった田代三喜斎(たしろさんきさい)に出合って医学の道に進む事を決意・・・三喜斎から李朱医学(りしゅいがく)を学びます。

李朱医学とは、
病気になった時、発汗や嘔吐を則したり、あるいは下剤等を使って「とにかく体の中にある悪い物を出す」という考え方だったこれまでの治療法とは一線を画す、栄養補給を中心とした体内環境の改善を目的とした治療法で、それを中国で学んで来た第一人者が田代三喜斎だったのです。

三喜斎のもとで10数年学んで、その奥義を取得した道三は、関東を出る気が無かった三喜斎に別れを告げ、自身は天文十五年(1546年)京都へと戻り、ここで還俗(げんぞく=僧を辞めて一般人に戻る事)して本格的に医師に専念する事になりますが、その噂は瞬く間に広まり、やがて道三宅の門の前には治療してもらいたい人々が群れをなして訪れるようになったのだとか・・・

そんな時、未だ坂本(さかもと=滋賀県大津市)に避難中だった若き将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第13代室町幕府将軍:当時は義藤)の病をたちまちに治した事から、さらに評判に・・・

しかも、その後に義輝が、時の権力者=細川晴元(ほそかわはるもと)と和睦した事から、その晴元や、家臣の三好長慶(みよしながよし)など、今をときめく武将らをも診察する有名医師となります。
(この頃の晴元や三好長慶について嵯峨の戦い参照>>)

特に、三好長慶の家臣の松永久秀(まつながひさひで)とは、中国の書をヒントに道三自らが記した夜のマニュアル本=『黄素妙論(こうそみょうろん)を伝授するほどの仲だったとか・・・
(久秀がコッソリ読んで「なるほど…欲望にまかせた自分本位のHはアカンのか~」とか考えてる所を想像すると笑てしまう(#^o^#))

もちろん、後進の育成も怠る事なく・・・京都に啓迪院(けいてきいん=京都府京都市上京区上長者町付近)なる学校を創建して800人とも3000人とも言われる門徒に医学を教えたのです。

永禄五年(1562年)には、将軍=義輝から、ただいま絶賛戦闘中↓
(石見銀山争奪戦参照>>)
(白鹿城攻防戦参照>>)
安芸(あき=広島県)毛利(もうり)出雲(いずも=島根県)尼子(あまご)の仲を調停させるべく命を受けて中国地方へと下向・・・その時、病気療養中だった毛利元就(もうりもとなり)の治療をするかたわら、その元就にも、敵対する尼子義久(あまごよしひさ)にも粘り強く和睦を働きかけます。

ただ、ご存知のように毛利×尼子の戦闘は収まる事無く、結局、尼子の本拠=月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)は毛利によって落とされるので(11月28日参照>>)、和睦に関してはかたくなな姿勢を崩さなかった元就ではありましたが、一方で道三の安芸滞在中には、彼に対してかなり気を使い、様々な便宜を図っていた様子もうかがえますので、和睦交渉人としての成果は薄かったものの、病気の治療の方はウマくいったようで、この間に道三は、門弟たちに語った療法をまとめた『雲陣夜話(うんじんやわ)を残しています。

また、天正二年(1574年)には自らが記した8巻にわたる医学書『啓迪集(けいてきしゅう)正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)に献上するとともに、天皇を診察します。

さらに、あの織田信長(おだのぶなが)が上洛した(9月7日参照>>)後には、その信長も診察し、喜んだ信長から蘭奢待(らんじゃたい=東大寺の香木)(3月28日参照>>)もプレゼントされたとか・・・

天正十二年(1584年)にはイエズス会宣教師オルガンティノを診察して洗礼を受けたり、天正二十年(1592年)には第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から、(たちばな)の姓を賜ったり・・・と、まさに、ここに医師の頂点を極めり!!

こうして、時の権力者とのつながりも持った道三でしたが、一方で、彼が権力者の力を頼る事はありませんでした。

冒頭にも書いた、道三の弟子である施薬院全宗は、その紹介ページにも書かせていただいたように、時の権力者である豊臣秀吉の力をフル活用して医師の道を究めました(再び12月10日参照>>)

もちろん、私個人としては、それも悪い事では無いと思っています・・・なんせ、福祉にはお金がかかりますから。

薬を手配するにも、従事する人手を集めるにも、第一、施設の建設費や設備費もハンパ無いですから、そこの部分を権力者に頼りながら、自身の理想を叶えていくやり方も、一つの方法だと考えます。

ただ、道三は、それをせず、あくまで在野の一医師としての道を選び、数多くの著書を残し、後進の育成と、今、目の前にいる一つの命を救う事に理想を求めたのです。

文禄三年(1594年2月23日)1月4日 、長男をすでに亡くしていた道三は、娘婿の玄朔(げんさく)を養子に向かえ、2代目曲直瀬道三を名乗らせてバトンタッチ・・・静かに89年の生涯を閉じました。

その後も、かの施薬院全宗を頂点としつつ、曲直瀬玄朔を含めた曲直瀬一門の医療体制が確立されていき、日本の医療界を主導していく事となります。
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2019年12月20日 (金)

今川と徳川の狭間で~引馬城の飯尾連龍とお田鶴の方

 

永禄八年(1565年)12月20日、遠江引馬城主の飯尾連竜が駿河にて今川氏真に誘殺されました。

・・・・・・・・ 

現在の浜松城(はままつじょう)の場所にあったとされる引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・引間城・曳馬城)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を治めるには重要な城・・・かつて室町幕府政権下で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)であった今川(いまがわ)が遠江の守護でもあったものの、一時は追われて斯波(しば)が守護になっていた事もありました。

それを、その斯波の配下で遠江引馬荘の代官であった引馬城主=大河内貞綱(おおこうちさだつな)を倒して、今川の手に取り戻したのが、北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:氏親の母は早雲の姉もしくは妹)の尽力によって今川家第9代当主となっていた今川氏親(うじちか)でした(6月21日参照>>)

その時、氏親の命によって、その後の引馬城を任されたのが、今川配下の飯尾賢連(いのおかたつら)だったのです(諸説あり)

で、その今川氏親と「女戦国大名」の異名を取る女傑=寿桂尼(じゅけいに)(3月14日参照>>)の息子が、ご存知、今川義元(いまがわよしもと)で、急死した兄=氏輝(うじてる)の後を継いで、やがては海道一の弓取りと呼ばれる大物になるわけですが・・・

これまたご存知のように、1番天下に近いと言われていたノリノリ真っただ中、未だ尾張(おわり=愛知県西部)の一武将であった織田信長(おだのぶなが)の奇襲によって永禄三年(1560年)、桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市&豊明市)(2015年5月19日参照>>)に倒れてしまいました。

Imagawauzizane400 総大将が討ち取られた・・・という事は、当然、その周囲にいた重臣や傘下の大物たちの多くも討ち取られたわけで、これは、急遽、亡き義元の後を継ぐ事になった今川氏真(うじざね)にとっては大打撃!

しかも、この桶狭間のドサクサで今川の人質だった徳川家康(とくがわいえやす)三河(みかわ=愛知県東部)岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)に入って独立(2008年5月19日参照>>)した事で、今川傘下だった西三河が徳川の勢力圏内に・・・

ただ、この家康が、今後も今川と仲良くしてくれるんなら波風立たなかったわけですが、実際には、その逆・・・2年後の永禄五年(1562年)に信長と同盟を結んで(1月15日参照>>)、完全に今川から離反というより、敵対を表明します。

もちろん、それは家康だけでなく、義元というカリスマ大黒柱の急死は、次々と傘下の武将の離反を生んでしまうのです。

なんせ、「今川が駿河と遠江を支配」と言っても、そこには、もとから地元に根付いている国人領主も多くいて、彼らは、現段階で力を持つ今川家に対して「寄らば大樹の陰」で傘下に納まっているだけで、腹の底では今川のやり方に不満を抱えた者もいたわけですから・・・

あの桶狭間の2年後の永禄五年(1562年)には、家康とコンビを組む信長も尾張の統一(11月1日参照>>)を果たして遠江&その西側はは完全にヤバし!ですし、駿河の北には甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん)がいるわけですから、このまま今川に留まるのかどうか・・・皆々悩むところです。

そんな中の一人が、かつて引馬城を任された飯尾賢連の孫で引馬城主の飯尾連龍(いのおつらたつ・ 致実・能房)でした。

一説には連龍の父=飯尾乗連(のりつら=つまり賢連の息子)は、かの桶狭間で義元とともに命を落としたうちの一人だとか・・・連龍が家督を継いだ年数はハッキリしませんが、上記の通り、お父さん亡き今は、まぎれもなく引馬城主なわけです。

で、その連龍が永禄五年(1562年)頃から、どうやら織田&徳川方についたようで・・・

これを知った今川氏真は、早速、今川傘下の井伊(いい)の家臣である新野親矩(にいのちかのり)らに命じて引馬城を攻めます。

これを受けた連龍は、飯田(いいだ=静岡県静岡市)まで出てきて迎え撃ち、かなりの激戦となりますが、勝負は着かず・・・この時、周辺の寺々でも、今川につく者と伊尾につく者に別れて戦闘となり、飯尾派だった頭陀寺(づだじ=静岡県浜松市)では堂舎の多くが焼かれたと言います。

しかし、どうしても飯尾連龍が許せない氏真・・・いや、許せないというよりは、ここをシッカリ押さえておかないと、周囲にも示しがつがないし、さらに離反者増えちゃいますからね。

なので永禄七年(1564年)9月、再び、新野親矩に3千の兵をつけ、引馬城を攻撃させるのですが、これが、引馬城を落とすどころか、飯尾方が放った矢に当たって、大将の新野親矩が討死する事態に・・・(新野親矩の死亡日については、この翌年の開城の時という説もあり)

とにもかくにも、結局、引馬城を落とせなかった氏真は、連龍とは一旦、和睦する事とし、とりあえず、今回の戦いは落ち着きました。

ちなみに、
先にも書かせていただいたように、この時は引馬城だけではなく、同時期に複数の遠江の武将(二俣城の松井や犬居城の天野など)「今川か?徳川か?」で揺れ、各地で合戦が起こったわけですが、この一連の戦いは「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)と呼ばれます。

しかし、氏真は、これで終わりにはしなかったのです。

永禄八年(1565年)12月20日、あらためて飯尾連龍を自身の駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市)に呼びつけ、面会の準備のため城内二の丸に入った連龍を襲撃し、殺害してしまったのです。

氏真の講和は偽りだった・・・これに怒った引馬城内に残っていた飯尾の家臣たちが、そのまま引馬城に籠城して今川に抵抗しました。

あくまで伝説の域を出ない話も含まれていますが、この、主君亡き後の引馬城籠城の中心となったのは連龍の奥さんであるお田鶴の方(おたづのかた=椿姫)であったとか・・・

このお田鶴の方のお母さんは今川義元の妹もしくは義妹の娘という事なので、つまりはお田鶴の方は今川氏親&寿桂尼さん夫婦の孫であり今川氏真とは従兄弟になる完全に今川の人であったわけですが、この時は、亡き夫の遺志を継いて引馬城に籠り、この後、家康が遠江へ侵入して来る永禄十一年(1568年)まで、引馬城を守り抜いていたと言います。

しかし、その永禄十一年(1568年)は運命の年・・・

今川との同盟を勝手に破棄して駿河を狙いはじめた武田信玄が、織田信長の仲介で、家康とタッグを組んで今川領に侵攻し始めるのです。

信玄が12月12日の薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)から、翌13日には氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)して、氏真を掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと追いやると、

同時に家康が、その掛川城を攻撃すべく、井伊谷三人衆を味方につけて遠江に入る(12月13日参照>>)のですが、この時、掛川城へ近づくべく、家康は引馬城の明け渡しの要求をしたのです。

しかしお田鶴の方は断固拒否・・・自ら防戦の指揮をを取って度々撃って出ます。

しかし、所詮は多勢に無勢でどうにもならず・・・最後は、自ら甲冑をまとい長刀を持って敵陣に斬り込み、壮絶な最期を遂げたと言います。

後に、彼女の死を惜しんだ家康の正室=築山殿(つきやまどの=瀬名姫←お田鶴の方の義理の従兄弟)が、彼女の住まい跡に建立された塚に100本余りの椿を植えて供養した事から、このお田鶴の方は椿姫とも呼ばれているのだとか・・・

こうして12月18日に引馬城に入った家康は、そこを拠点として12月27日から掛川城への攻撃を開始し、翌・永禄十二年(1569年)5月にようやく開城・・・敗れた氏真は奥さんとともに、奥さんの実家である北条氏政(ほうじょううじまさ)を頼って相模へ逃れる事になります(12月27日参照>>)
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2019年12月13日 (金)

井伊谷の戦いと徳川家康の今川領・遠江侵攻

 

永禄十一年(1568年)12月13日、武田信玄と連携して今川領に侵攻する徳川家康が遠江に入りました。

・・・・・・・

永禄三年(1560年)、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する海道一の弓取り今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)の奇襲攻撃によって桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)で倒れた事は、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)にも大きな影響を与えました。

去る天文二十二年(1553年)に相模(さがみ=神奈川県)北条(ほうじょう)とともに今川との間にも相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んでいた信玄は、本来なら、義元の後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)を盛り立てていかねばならない立場だったところでしたが、

この桶狭間キッカケで今川からの独立を果たして信長と同盟を結んだ(1月15日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)(2008年5月19日参照>>)が 互いの隣国である遠江を狙い始めた事や、これまで甲斐より北に位置する信濃(しなの=長野県)からさらに北へと侵攻していたものの越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)から川中島(8月3日参照>>)で激しい抵抗に遭って阻まれていた事、

などなどで、信玄はここで一気に方向転換・・・今川との同盟の証として義元の娘と結婚していた嫡男=武田義信(よしのぶ)廃嫡(はいちゃく=後継者から外す事)して幽閉し(10月19日参照>>)今川の領地へと目を向けたのです。

この信玄の転換を察知した信長は、おそらく義信の次の後継者になるであろう信玄四男の武田勝頼(かつより)に姪っ子の龍勝院(りゅうしょういん)を養女=自分の娘として嫁に出して信玄と友好関係を結んだ後、自身の同盟者である徳川家康と連携しての今川領侵攻をアドバイス・・・

かくして永禄十一年(1568年)12月6日、甲府を出発した武田軍は12日に薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)を越えて駿河へ侵入します(12月12日参照>>)

そして、その翌日に信玄は、氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)し、氏真はたまらず掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと避難するのですが、この同じ日=永禄十一年(1568年)12月13日、徳川家康は陣座峠(じんざとうげ=愛知県豊橋市と静岡県浜松市の境の峠)を越えて遠江へ侵入したのです。

その日のうちに中宇利(なかうり)小幡(おばた=愛知県新城市・小畑)まで軍を進めたところ、東三河菅沼定盈(すがぬまさだみつ)なる者が出迎えて道案内を買って出たのです。

実はコレ以前、以前から徳川派だった菅沼定盈の仲介で、家康は菅沼忠久(すがぬまただひさ)近藤康用(こんどうやすもち)鈴木重時(すずきしげとき)の3人=後に井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)と称される事になる3人を味方につけていて、前日の12月12日の日付にて起請文(きしょうもん=神仏に誓って約束する文書)を提出し、その協力に対するそれなりの恩賞を約束していたのです。

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徳川家康起請文(東京大学史料編纂所蔵)

しかし、この時、出迎えたのは菅沼定盈だけ・・・三人衆は来てませんでした。

実は、彼ら三人衆は、家康は海側を通って来ると勘違いしてソチラの道に向かっていたのだとか・・・で、その後、慌てて菅沼定盈は、その日のうちにかの3人を連れて行き、家康に謁見すると、

「この先の道では浜名荘(はまなしょう=静岡県湖西市の白須賀・境宿の付近)後藤(ごとう)が出てくるかも知れないので備えを怠らぬように」
との家康の言葉に菅沼定盈は、
「ヤツらが兵を挙げても、この定盈一隊で蹴散らせてみせます!」
と大ハリキリ・・・

ただし、ちょっと心配なので牧野康成(まきのやすなり)松平虎千代(まつだいらとらちよ=後の康長)を浜名荘に残して、徳川本隊は先に進む事にしますが、心配していた後藤らは、むしろ敵対していた仲間らを説得して徳川に属さんと参上・・・菅沼定盈が大喜びで、その事を家康に報告すると、家康は彼らを定盈の配下の属させて、さらに菅沼隊を強化した後、拓植山(つげやま=愛知県新城市黄楊野付近の山)の奥道を通って、すでに家康に通じた僧の拠る方広寺(ほうこうじ=浜松市北区)に向かったと言います。

しかし、上記の通り、彼ら=菅沼定盈や井伊谷三人衆などは徳川についていたものの、この時、彼らの拠り所であった井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)は、信玄の駿河侵攻のドサクサで、今川氏真の命を受けた井伊家家老の小野道好(おのみちよし=政次)に占領されてしまっていたため、家康は井伊谷三人衆を井伊谷城へ派遣して井伊谷城を奪還・・・敗北した道好は城を捨てて逃亡しました(翌年処刑されます)

さらに、この井伊谷城の他にも刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市)白須賀城(しらすかじょう=静岡県湖西市)などを破竹の勢いで次々と落としていった家康は、12月18日に引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入って(12月20日参照>>)周辺の今川方の武将に調略仕掛けますが、すでに目の当たりにしている徳川方の進撃ぶりや、かの今川氏真の掛川逃避などなどが相まって、もはや周辺の武将は、われ先にと家康に帰属する状況だったとか・・・

翌12月19日、今川から徳川に鞍替えしたばかりの久野宗能(くのうむねよし)船橋(ふなばし=小舟で造った橋)を架けさせて天竜川を渡った家康は、翌20日、掛川城近くへと迫ります。

その後、信玄との約束通り、掛川城の今川氏真を攻める事になるのですが、これが、なかなかに手間取ったうえに、その和睦条件に憤慨した信玄が、やがては織田&徳川と手切れに至るのですが、そのお話はそれぞれのページで・・・

永禄十二年(1569年)1月18日の
【第2次薩埵峠の戦い】>>
3月27日【気賀堀川城一揆】>>
5月17日【掛川城・攻防戦】>>
7月2日【信玄の大宮城の戦い】>>
と…さらには、例の三方ヶ原へとまだまだ続きますが、これ以降は
戦国・安土の年表>>でどうぞ
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2019年12月 8日 (日)

那須七騎の一人~無念の千本資俊・謀殺

 

天正十三年(1585年)12月8日、太平寺に誘い出された千本資俊&資政父子が大関高増らによって殺害されました。

・・・・・・・・・

千本資俊(せんぼんすけとし)千本家は、鎌倉時代から 下野(しもつけ=栃木県)那須郡(なすぐん=栃木県の北東地域)に根を張り、一説には源平屋島の戦いの「扇の的」>>で有名な那須与一(なすのよいち)の子孫(あくまで伝説です)とも言われる那須(なす)の家臣で、「那須七騎(なすしちき)の一つにも数えられる名家でした。

ところが、そんな主家=那須氏の第19代当主=那須高資(なすたかすけ)の時代にお家騒動が勃発します。

そもそもは、先代である父=政資(まさすけ)から息子=高資への交代劇の時も、未だ譲る気のない父と、新当主=高資を擁立しようとする家臣=大関宗増(おおぜきむねます=那須七騎の一人)との間でモメにモメた末の当主交代だったのですが、父亡き後、今度は異母弟である資胤(すけたね)との間に、後継者争いが勃発したのです。

長男の高資の母は陸奥(むつ=福島県・宮城県・岩手県・青森県)大館城(おおだてじょう=福島県いわき市)主の岩城常隆(いわきつねたか)の娘、次男の資胤の母は那須氏家臣の大田原資清(おおたわらすけきよ=那須七騎の一人)の妹・・・この抗争には、当然、それぞれの実家が絡んでいるわけですが・・・

資胤を那須家の跡継ぎにしたい大田原氏は、資胤を大田原城(おおたわらじょう=栃木県大田原市)に招いて高資討伐を進言・・・一方、これをうけた高資側も資胤を亡き者にしようと画策します。

身の危険を感じた資胤は、熊野参詣を理由に一時的に身を隠します。

そんなこんなの天文十八年(1549年)、かねてより宇都宮(うつのみや=栃木県の中部地域)への侵攻を目論んでいた那須高資が宇都宮領内へと侵攻し、喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい=栃木県さくら市喜連川付近)で宇都宮氏当主=宇都宮尚綱(うつのみやひさつな)とぶつかりますが、この戦いで尚綱は討死してしまいます。

しかも、そのドサクサで家臣の壬生綱房(みぶつなふさ)宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)を乗っ取られてしまったのです。

この時、わずか5歳の幼子であった尚綱の息子=宇都宮広綱(ひろつな)は、家臣の芳賀高定(はがたかさだ)に守られて、何とか城から脱出して落ち延びましたが、その2年後の天文二十年(1551年)、その芳賀高定が高根沢(たかねざわ=栃木県高根沢町・栃木県中央東部地域)の領地と資胤の次期那須当主の座を約束に千本資俊に支援を求めて来たのです。

かくして天文二十年(1551年)1月22日、千本資俊は自らの千本城(せんぼんじょう=栃木県芳賀郡)に、主君=那須高資を招待し、泥酔したところを殺害したのです。

高資の死によって、那須家の当主の座が資胤に転がり込んだ事で、千本資俊と息子=資政(すけまさ)は、資胤の腹心として大いに権勢を振るうとともに、資政は大関高増(たかます=大田原資清の息子で大関宗増の養子)の娘を正室に娶り、那須家内の家臣同志の繋がりも固くなったかに見えました。

しかし結局は、千本家と大関家による那須家内の主導権争いは収まらず・・・永禄九年(1566年)には、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)の力を借りた大関高増に攻められ、激しい戦いに発展した事もありました。
(この時に千本城が佐竹側に奪取されたとの話もあり…秋田藩家蔵文書)

ところが、天正十一年(1583年)に資胤が死去し、その息子の那須資晴(すけはる)が当主となって2年が過ぎた天正十三年(1585年)、那須資晴は大関や大田原に対して、「太平寺(たいへいじ=栃木県那須烏山市)にて千本父子を追討せよ」との命令を出したのです。

その理由としては・・・
実は、資政が生まれる前、まだ子供がいなかった千本資俊は茂木城(もてぎじょう=栃木県芳賀郡)に拠る茂木治清(もてぎはるきよ)の息子を養子に向かえ、千本義隆(よしたか)として彼に千本家を継がせるつもりでいたのですが、やがて実子の資政が生まれた事によって義隆がうっとぉしくなり、配下の田野辺重之(たのべしげゆき)に義隆を預けて田野辺隆継(たかつぐ)と名乗らせたりしていましたが、結局、居場所がなくなった彼=義隆は、実家の茂木に戻ったのですが、当然、その心の内はよろしくない

また、もう一人の大関も・・・
先に書いた通り千本資政の奥さんは大関家の娘だったわけですが、これが嫁×姑バトルの果てに離縁となって奥さんが実家に戻っており、那須家臣内での主導権争いに加えて、ますます千本父子は許しがたいわけで・・・

Oozekitakamasu700a で、千本義隆と大関高増が結託して、そこに高増弟の大田原綱清(おおたわらつなきよ)が加わり、主君である那須資晴を味方に誘って説得し、上記の命令を出させたわけです。

なんせその資晴も、後継者争いの末とは言え、千本資俊に先々代=伯父の那須高資を騙し討ちされてますから・・・

さらに千本義隆の実家の茂木も誘います。

はじめ茂木家は、この計略に乗り気ではりませんでしたが、大関高増による再三の説得と、成功のあかつきには大谷津(おおやつ=栃木県芳賀郡市貝町大谷津周辺)の地を与えるという条件により、仲間に加わりました。

かくして、使者によってもたらされた
「那須上庄の家臣が謀叛を企てて奥州の白河(しらかわ=福島県白河)に寝返ったので、まずは大関&大田原が現地に向かいますが、その前にもろもろ相談したいので、急ぎ太平寺にお越しください」
との知らせを受けた千本資俊&資政父子は、天正十三年(1585年)12月8日、従者17~8人を連れて千本城を出立したのです。

途中、千本資俊の馬の前を「白狐が横切りつつ、しきりに鳴いた」という事があり、「不吉だ」として資俊は1度引き返そうとしますが、息子の資政が、
「この季節になるとキツネが鳴く事なんてよくあります。これで引き返したら臆病者と言われますよ」
と言って父をなだめた事から、そのまま一同は太平寺への道を急ぎます。

まぁ、那須資晴から、そんな命令が出てるなんで知る由もありませんからね。

やがて到着した太平寺では、僧が出迎え、千本父子の来訪を大いに喜びますが、「内々の密談があるので…」と供の者たちを門外に留め置いて、千本父子を奥の間へと招き入れます。

そして千本資俊が奥に入ろうとしたところを、福原資孝(ふくはらすけたか=那須七騎の一人)「上意!」と叫びつつ、正面より左の肩先から右胸にかけて斬りつけました。

息子=資政は一礼していたところを大田原綱清が太刀を抜きざまに討ちました。

資政は一太刀で絶命するも、資俊は反撃しようと試みますが、そこを背後から大関高増が斬りつけました。

千本資俊=享年67、千本資政=享年25の生涯でした。

千本父子の叫び声に気づいた従者が、壁を打ち破って寺内に駆け込もうとしますが、そこに大関&大田原&福原の配下の者=数十名が躍り出て、門外にて戦闘状態となりますが、当然、多勢に無勢では勝ち目はなく、一部を除いてほとんどの者が討ち取られてしましました。。。ちなみにかつての一時期、千本義隆を養父となっていた田野辺重之も、この時に討死したと言います。

この出来事を千本城にて聞いた資俊の奥さんは、はじめは自害しようとするものの、家臣によって実家の長倉(ながくら)に戻るよう説得され、川上実三(かわかみじつぞう?)なる者を共に連れて逃避するものの、途中で、その川上が荷物やら何やらを持ったまま逃げてしまい、途方に暮れているところ山里の住人に助けられて近くの庵に宿泊させてもらう事ができました。

その時、病に伏せっていた住人の子供に持っていた薬を与えて助けた事から、感謝した住人たちによって無事に実家に送り届けられたのだとか・・・やがて、敗軍の城となった千本城には多くの浪人や百姓たちが押し寄せ、財宝の略奪行為が行われたとの事なので、奥さん無事に実家に戻れて、何よりでしたね。

奥さんを助けたのも名も無き戦国の人々なら、千本城に略奪に入るのも名も無き戦国の人々・・・平時に持つ人間のやさしさと戦時下に持つ狂気、このどちらもが人が本来持つ姿なのだと感じさせられますね。

千本父子の死によって、再び千本義隆が嫡子となって千本城を継ぎ、その領地は千本義隆や大関高増らによって分配されました。

この頃と言えば・・・
西では、織田信長(おだのぶなが)亡き後に勢いをつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)四国を手に入れ(7月26日参照>>)、東は飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月10日参照>>)越中(えっちゅう=富山県)(8月6日参照>>)にまで手を伸ばした頃・・・

東北では、この半月ほど前にあの伊達政宗(だてまさむね)人取橋(ひととりばし)の戦い(2007年11月17日参照>>)が展開されていたわけですが、それらに挟まれたこの場所で展開されていた彼らの勢力争いも、やがて天下統一の波に呑まれていく事になります。
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2019年11月24日 (日)

岩村城奪回作戦~秋山虎繁VS織田信忠

 

天正三年(1575年)11月24日、武田方の秋山虎繁に奪われていた岩村城を奪回した織田信忠が岐阜へと帰還しました。

・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての上洛を果たし(9月7日参照>>)、その義昭を第15代室町幕府将軍に据えて(10月18日参照>>)以来、事実上、京都を制した形になっていた織田信長(おだのぶなが)ではありましたが、その後、徐々に義昭と信長の距離間が遠くなるわ(1月23日参照>>)琵琶湖(びわこ=滋賀県)周辺では越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)+北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)連合軍とのドンパチが始まるわ(6月19日参照>>)、それキッカケで上洛の際に散らした三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)は戻って来るわ(8月26日参照>>)、その三好に石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)顕如(けんにょ)が賛同して(9月14日参照>>)全国の本願寺門徒に一揆の蜂起(ほうき)を呼びかけてアッチャコッチャで一向一揆(いっこういっき)が始まるわ(長島一向一揆)(近江一向一揆>>)、浅井&朝倉の残党を匿う比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市)に文句言うたら反発して来るわ(9月12日参照>>)、と周囲敵ばかりの大忙し・・・いわゆる『信長包囲網(のぶながほういもう)です。

そんなこんなの元亀三年(1572年)10月、いよいよ甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)が動き出します。

かねてより、将軍=義昭から信長の討伐&上洛を呼びかけられていたし、天台座主(てんだいざす=延暦寺の住職)覚恕(かくじょ=後奈良天皇の皇子・法親王)の甲斐亡命のもととなった例の比叡山焼き討ちに信玄自身がメッチャ怒ってた事もあって、自ら2万5千の大軍を率いて躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣し、世に言う西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始したのです。

Akiyamatorasige700a この時、信玄本隊が飯田からほぼ天竜川に沿って南下し青崩峠(あおくずれとうげ)を越えて侵攻する(一言坂>>)(二俣城>>)のと同時に、家臣の山県昌景(やまがたまさかげ)遠江(とおとうみ=静岡県西部)から(10月22日参照>>)秋山虎繁(あきやまとらしげ=晴近・信友)美濃(みの=岐阜県)方面から徳川家康(とくがわいえやす)の領する三河(みかわ=愛知県東部)への侵攻を任され、武田の別動隊として各地で諸城を落としつつ転戦していて、秋山虎繁が攻略した城の中の一つが岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)でした。

この岩村城は、鎌倉時代の昔から岩村遠山(とおやま)が治める城でしたが、すでに、この城の重要性に気づいていた信長の父=織田信秀(のぶひで)が、城主の遠山景任(とおやまかげとう)妹を嫁がせて懇意にしていた中で、この年の8月に景任が子供を持たないまま病死してしまった事から、信長が自身の息子=御坊丸(ごぼうまる・信長の四男か五男で後の勝長または信房)を養子として送り込んで継がせていたので事実上、織田の城となっていたのでした。

この岩村城を、この秋ごろから囲んだ秋山勢でしたが堅固な城はなかなか落ちず・・・この時、御坊丸はまだ6歳の幼子だったので実際に城内を仕切っていたのは遠山に嫁いだ信秀の妹=おつやの方(おゆうの方・お直の方)だったのですが、ジワジワと攻めて来る秋山虎繁は、なんと!戦場でおつやの方に求婚。。。
「俺と結婚してくれたら、城も命も助ける」と・・・

Idairazyouhotokezaka
信玄の西上ルートと周辺広域図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この武田方の動きに、信長も森長可(もりながよし)らの猛将を先鋒に約2万の軍勢で以って対抗しますが、小競り合いはあるものの決着はつかず・・・やがて3ヶ月余りの籠城の末、年が明けた元亀四年(1573年)3月2日、おつやの方は虎繁の条件を呑んで岩村城を開城(3月2日参照>>)・・・信長の息子=御坊丸は養子という名の人質として甲斐に送られてしまいました。

この状況に、激おこの信長ではありましたが、ご存知の通り、この間に、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)(三方ヶ原>>)(犀ヶ崖>>)から野田城(のだじょう=愛知県新城市)攻防戦(1月11日参照>>)武田はどんどん西へと進んで行きますし、あの将軍=義昭がいよいよ信長に反旗を翻す(2月20日参照>>)しで、ここンとこの信長は、アチコチに兵を分配しなければならなかったわけで・・・

ところが、そんな中、その野田城攻防戦を最後に、それまで西へ向かっていた武田軍が甲斐へと戻って行きます。
そう、ご存知のようにこの元亀四年(1573年・7月に天正に改元)4月12日に信玄が病死したのです(4月16日参照>>)

その遺言により「3年隠せ」とされた信玄の死は、意外に早く周囲にも知れ渡る事になり、徳川家康は、このスキに武田方の長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)を奪ったり(9月8日参照>>)なんぞしているのですが、

信長の方は・・・
7月には、あの義昭がまたまた挙兵するし(7月18日参照>>)、あの浅井&朝倉との決着もあるし(8月20日参照>>)、もちろん本願寺門徒との一向一揆も継続中ですし(10月25日参照>>)、奈良の松永久秀(まつながひさひで)は裏切るし(12月26日参照>>)・・・で、信長は対武田にあまり兵を割く事ができず、この後しばらくは、信玄の後を継いだ武田勝頼(かつより)明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を奪ったり(2月5日参照>>)高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を陥落させたり(5月12日参照>>)して武田の健在ぶりをアピールする事になるのですが、

しかし天正三年(1575年)5月、先の信玄死のドサクサで家康に奪われていた長篠城を武田勝頼が取り返しに来る事で勃発した有名な長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦い(5月21日参照>>)織田&徳川の連合軍で勝利した信長は、
「ようやく時が来た!」
とばかりに、この年の11月、嫡男=織田信忠(のぶただ)に2万の兵をつけて岩村城奪還に向かわせ、自らも1万の兵とともに後詰(ごづめ=本隊の後方に待機する予備軍)として鶴ヶ城(つるがじょう=岐阜県瑞浪市土岐町・神箆城・国府城・高野城)に着陣します。

Iwamurazyoudakkai 
岩村城奪回戦と恵那郡十八砦の位置関係図
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(背景は地理院地図>>)

もともと戦略的に重要な場所である岩村城含む恵那(えな=岐阜県南東部)周辺には、武田方からの侵攻を阻止すべく、織田や遠山によって「恵那郡十八砦」と呼ばれる砦や出城が形勢されていたのですが、ここンとこの勝頼の勢いで、この時点では、それらはすっかり武田の砦になってしまっていて、岩村城奪回を任された信忠は、まずは、これらの砦から攻略しなければならない・・・

と思っていたところ、今回の「織田の大軍が来たる!」の一報により、浮足づいた守備兵らが、かの岩村城に集結してしまったため、各砦に残されていたのは「強い主君ならどっちでもイイ」あるいは「もともとは織田の配下だった」って感じの美濃出身の者が中心で、織田軍が近づくとアッサリと砦を放棄したり寝返ったりする者ばかり・・・信忠隊は、ほとんど無傷のまま、予想外に素早く周辺の砦を取り戻し、秋山虎繁の立て籠もる岩村城へと向かう事ができ、この状況を見た後詰の信長も一旦岐阜へと帰還します。

一方、敵軍に迫られた岩村城からの救援要請を受けた武田勝頼は、早速、軍を率いて伊那(いな=長野県南部)まで来ますが、おりからの大雪に阻まれて、それ以上進めず・・・

織田軍の包囲によって補給路を断たれ、援軍も望めなくなった岩村城は、この窮地を脱するべく、11月10日、水晶山(すいしょうやま=岐阜県恵那市岩村町)に布陣していた織田軍に夜襲をかけます。

地の利が無い場所で夜間に襲撃された事で、ここに布陣していた織田方はアッという間に散り々々にされてしまいましたが、勝ちに乗じた岩村城方が、さらに進撃しようとすると、そこに織田方の河尻秀隆(かわじりひでたか)をはじめとする救援隊が駆け付け、見事な戦いぶりで大将格21人のほか多数の城兵を討ち取り、やむなく出撃した城兵は城内へ退却・・・戻れなかった者も周辺の山中へと逃げて行きました。

織田軍大将の信忠は、岩村城の堅固な構えを踏まえて、それでも力攻めをせず、厳重な包囲網を維持しつつ兵糧攻めを続けますが、当然、やがて兵糧も尽き、城内の兵たちの疲れもピークの達した頃、織田方の塚本小大膳(つかもとこたいぜん)のもとに城内からの使者がやって来て、
「城兵の命を助けてくれるなら開城しても良い」
と申し出て来たのです。

そこで、
「大将3名が岐阜まで来て謝罪するなら…」
という条件で、11月21日、秋山虎繁以下大島杢之助(おおしまもくのすけ)座光寺為清(ざこうじためきよ)の3名が捕らえられて岐阜へと送られ、岩村城は開城となりました。

かくして天正三年(1575年) 11月24日、奪還に功績のあった河尻秀隆を岩村城に置き、織田信忠は岐阜へと戻ったのでした。

ところが・・・
岐阜に到着した秋山以下3名は、即座に長良川の河原にて磔刑(たっけい=はりつけの刑)に処せられてしまいます。

これは、信長が、息子を武田の人質に差し出しおきながら自らはちゃっかり(←否、苦悩の末だとは思うが)奥さんに納まってたおつやの方に怒り心頭だったから・・・なんて事も言われますが、

別の説では、先の徳川家康の長篠城奪取の際(再び9月8日参照>>)に武田の人質となっていた奥平信昌(おくだいらのぶまさ=当時は貞昌)奥さんと弟を、有無を言わさず磔刑に処した事に対する報復とも考えられています。
(世は戦国ですから、信長だけではなく武田も色々ヤッちゃってます)

しかし、「岐阜に出向いての謝罪=その後は許されるかも」と思ってい岩村籠城組の面々は、
「約束と、ちゃうやないかい!」
怒り爆発し、再び戦いが勃発するのですが、もはや岩村の残党に成すすべなく、次々と討ち取られ・・・おつやの方の親衛隊として最後まで岩村城にて仕えていた遠山七頭衆をはじめとする勇将たちも討死、あるいは自決して果てたと言います。

この結果を耳にした武田勝頼は、仕方なく甲斐へと引き返して行きました。

ちなみに、秋山虎繁らと前後して捕らえられたとされるおつやの方も、同じく長良川の河畔で磔刑に処せられますが、よほど信長は怒っていたのか?血縁のある未だ20代とおぼしき彼女を逆さ磔にしたのだとか・・・
(設楽ヶ原の時の鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)のような逆さ磔>>だったら…と想像するとコワイ)

この後、この11月の末に嫡男の信忠に織田家の家督を譲った(11月28日参照>>)信長は、翌天正四年(1576年)2月に安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)の構築に着手します(2月23日参照>>)が、

一方の敵側には、今まさに日本海側を越前の目前の越中富山(とやま=富山県富山市)まで侵攻(3月17日参照>>)して来ていた越後(えちご=新潟県)の大物=上杉謙信(うえすぎけんしん)が、信玄亡き後の穴を埋めるように『信長包囲網』に加わり(5月18日参照>>)、信長と本願寺との戦いも激化していくのですが、そのお話は【織田信長の年表】>>のそれぞれのページで・・・

また、先の岩村城の落城で甲斐に送られた信長の息子=御坊丸は、このあと10年くらい甲斐で人質生活を送り、信長のもとに戻って来るのは武田が滅亡する寸前の頃だとか・・・そして、それからほどなく、あの本能寺の変が起き、御坊丸こと織田勝長(おだかつなが)は、父ちゃん&兄ちゃんとともに命を落とす事になります(4月4日参照>>)
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2019年11月17日 (日)

伊達政宗の人取橋の戦い~老臣・鬼庭良直の討死

 

天正十三年(1585年)11月17日、伊達政宗と佐竹率いる連合軍が戦った人取橋の戦いで鬼庭良直が討死しました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月に、あの本能寺で横死(6月2日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)に代わって、山崎の戦いで主君の仇を討った羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が勢いを増すものの、その後は四国(7月26日参照>>)九州(4月6日参照>>)の平定に忙しく、北は北陸(8月29日参照>>)どまりで、関東や東北は未だ手つかずの状態であった頃、

東北では、
米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市)を本拠とした伊達(だて)出羽(でわ)南部(山形県と秋田県南部)陸奥(むつ)南部(宮城県南部・福島県北部)という広大な領地を有してはいたものの、
周辺には
山形城(やまがたじょう=山形県山形市)最上(もがみ)や、
寺池城(てらいけじょう=宮城県登米市)葛西(かさい)
名生城(みょうじょう=宮城県大崎市)大崎(おおさき)に、
小高城(おだかじょう=福島県南相馬市)相馬(そうま)
大館城(おおだてじょう=秋田県大館市)岩城(いわき)に、
黒川城(くろかわじょう=福島県会津若松市・後のの若松城)蘆名(あしな)
須賀川城(すかがわじょう=福島県須賀川市)二階堂(にかいどう)・・・

さらに南の常陸(ひたち=茨城県)から北への侵攻を狙う佐竹(さたけ)などなど、様々な有力大名がしのぎを削りながら、時には味方になり、時には敵に回りという群雄割拠の状態だったのです。

そんな中、天正十二年(1584年)10月、父の伊達輝宗(だててるむね)から家督を譲られ、伊達家の若き当主となった伊達政宗(だてまさむね=当時18歳)に対し、はじめは恭順な態度を取っていた小浜城(おばまじょう=福島県二本松市)大内定綱(おおうちさだつな)蘆名に寝返るという事件が起こります。

これに対し、政宗は大内の支城である小手森城(おでもりじょう=福島県二本松市)を攻撃し、城兵はおろか婦女子まで根絶やしにするという倍返しどころやない非常な仕返しをしたのです。

これに恐怖したのが二本松城(にほんまつじょう=福島県二本松市)畠山義継(はたけやまよしつぐ)・・・なんせ、陰で大内を支援していて、この時、小手森城を脱出した大内定綱が逃げ込んで来ていたのですから、次はコチラに矛先が向くやも知れません。

ここはひとまず降伏・・・とばかりに畠山義継は、領地の半分を伊達家に献上して、後継ぎの国王丸(くにおうまる)を人質に出すという条件で伊達との和睦を成立させますが、その和睦成立から、わずか2日後の10月8日、伊達輝宗が陣所にしていた宮森城(みやもりじょう=同二本松市)に和睦の挨拶をしに来たはずの畠山義継が、いきなり刀を抜いて伊達輝宗を拉致して逃亡してしまいます。

父の異変を知った政宗が、すぐに後を追い、川を越えたら二本松城という阿武隈川(あぶくまがわ)のほとりで追いついたものの、どうする事もできず、やむなく義継もろとも父=輝宗を鉄砲で撃ち殺してしまったのです(10月8日参照>>)

義継を失った二本松城では、国王丸を人質に出すどころか、この幼い新当主を中心に気勢を挙げ、籠城して政宗を迎え撃つ覚悟・・・一方の政宗も父の弔い合戦とばかりに10月15日、二本松城を囲みます。

しかし二本松城は天然の要害を備えた堅城で、しかもこの旧暦の10月15日は、新暦で言えば12月6日・・・包囲を開始した翌日から雪が降り始め、やがてそれは大雪となり、やむなく政宗は、一旦包囲を解いて小浜城に引き上げました。

するとこの間に畠山は、佐竹をはじめ、蘆名や相馬、岩城や二階堂などなど伊達領の南に位置する武将らに援軍を求めます。

常日頃から伊達が南下して来る事を警戒していた彼らは、すんなりと畠山の要請に応じ、佐竹義重(さたけよししげ)を総大将とする3万もの連合軍となって伊達領に向かって北上して来たのです。

Oniwayosinao500a この一報を受けた政宗は、天正十三年(1585年)11月17日、小浜城を出て観音堂山(かんのんどうやま)に布陣しますが、味方の軍勢はわずかに8千・・・政宗にとっては明らかに不利な戦いに突入する事になりますが、

この戦いで先陣を務めたのが、代々伊達家に仕える鬼庭(おにわ)氏の13代目=鬼庭良直(おにわよしなお=左月斎)でした。

良直自身も、伊達稙宗(たねむね)晴宗(はるむね)そして輝宗→政宗と4代の当主に仕えていて、この時73歳・・・高齢のために重い甲冑を帯びる事ができず、水色の法被(はっぴ)に黄色の綿帽子という装備を身に着け、政宗から拝領した金色の采配を手に出陣していたのでした。

伊達VS連合軍・・・両者は観音堂山の麓の瀬戸川(せとがわ=阿武隈川の支流)周辺でぶつかります。

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人取橋の戦いと東北諸将の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

瀬戸川に架かる一本橋を、約60騎の自隊を率いて先陣を切る鬼庭隊・・・それを見た政宗の右腕=片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)(10月14日参照>>)が機転をきかせ、
「政宗がここにおる!」
と良直を援護すべく、主君の声をまねて高らかに宣言すると、
その心中を察した良直が、
「おぉ!御屋形様(おやかたさま)が来てくださったぞ!」
と叫び、味方の士気を高めると同時に、敵を怯ませます。

敵が景綱に気を取られ動揺するスキを狙って一本橋を突進する良直は、その細い橋の上を向かって来る敵を一人ずつ待ち伏せて討っていくのです。

この橋の上で200余の敵兵を討ち取った良直率いる鬼庭隊でしたが、さすがに多勢に無勢・・・やがて押されはじめた伊達軍に迫る連合軍は本陣近くまで押し寄せ、政宗自身も鉄砲を受ける事態となり、伊達軍は撤退を余儀なくされますが、そうなると先陣だった鬼庭隊が、今度は殿(しんがり=軍の最後尾)となるわけで・・・

主君を逃がすべく踏ん張った良直は、ともに戦った多くの兵とともに、ここで壮絶な討死を遂げました。

良直らの活躍によって無事引き上げる事に成功した政宗は、夜を迎えるとともに野営し、明日に向かっての態勢を整えるのですが、なんとその夜に、留守にしている領国を水戸城(みとじょう=茨城県水戸市)江戸重通(えどしげみち)安房(あわ=千葉県南部)里見義頼(さとみよしより)が攻めに来る」という一報を受けた佐竹が自軍を連れて撤退してしまうのです。

この一報には、政宗発進のフェイクニュースとの見方もあるようですが、とにかく、連合軍と言えど、ほとんどが佐竹隊だった敵側は、もはや伊達軍を相手にする兵力は残っておらず、今回の戦闘は、このまま終焉を迎えるのです。

勝敗としては連合軍の勝利と言えますが、全滅を免れた政宗も次回に賭ける事ができるわけで、翌日の明らかなる負け戦を回避できた事は政宗にとって一安心・・・良直の功績を讃えた政宗は、残された彼の妻に多くの知行を与えたと言います。

また、ここで多くの兵を討ち取られた事で、瀬戸川に架かるこの一本橋は、人取橋(ひととりばし)と呼ばれるようになり、本日のこの戦いも「人取橋の戦い」と呼ばれます。
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2019年10月27日 (日)

飛騨の関ヶ原~八日町の戦いで江馬輝盛が討死

 

天正十年(1582年)10月27日、飛騨八日町にて姉小路頼綱(三木自綱)と戦っていた江馬輝盛が討死し、江馬氏が滅亡しました。

・・・・・・・・・

「飛騨の関ヶ原」とも呼ばれる八日町(ようかまち=岐阜県高山市国府町八日町)の戦い・・・

このブログでは「〇〇の関ヶ原」と呼ばれる戦いを、いくつかご紹介していますが、それらは、あの関ヶ原の戦いと同時期に起こった東西それぞれに味方する武将が別の場所で戦った合戦の事で、たとえば、石田三成(いしだみつなり)と懇意にする会津(あいづ=福島県西部)直江兼続(なおえかねつぐ=西軍) が、徳川家康(とくがわいえやす)に通じる最上義光(もがみよしあき=東軍)と戦った長谷堂の戦い(10月1日参照>>)「東北の関ヶ原」と呼んだり、豊後(ぶんご=大分県)奪回を狙う大友義統(おおともよしむね=西軍)黒田如水(くろだじょすい・官兵衛孝高=東軍)と戦う石垣原の戦い(9月13日参照>>)「九州の関ヶ原」と呼んだりします。

しかし、今回の八日町の戦いの「関ヶ原」はそういう意味ではなく、飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の戦国に決着をつけるような・・・いわゆる「天下分け目の関ヶ原」なら、コチラは「飛騨分け目の八日町」という意味で「飛騨の関ヶ原」と呼ばれているのです。

なんせ、飛騨という場所は、これまで、越後(えちご=新潟県)から南西へ=信濃(しなの=長野県)北陸をと狙う上杉謙信(うえすぎけんしん)と、甲斐(かい=山梨県)から、やはり信濃を牛耳る武田信玄(たけだしんげん)という大物二人に挟まれ、あの川中島での勝敗に左右されたり、両者の動向に翻弄されたりしながら、

飛騨大野(おおの=岐阜県北西部)を本領する小鷹利城(こたかりじょう=岐阜県飛騨市河合町)牛丸(うしまる)
隣接する吉城(よしき=岐阜県北東部)を本領とする高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)江馬(えま)
益田(ました=岐阜県中東部)に拠点を持ち鍋山城(なべやまじょう=岐阜県高山市松ノ木)を居城とする三木(みき)
飛騨国府(こくふ=岐阜県高山市周辺)高堂城(たかどうじょう=岐阜県高山市国府町)を居城とする広瀬(ひろせ)
の彼ら飛騨に根付く武将たちは、血で血を洗う戦国を生き抜いて来ていたのです。

そんな中、三木氏の三木自綱(みつきよりつな)が、飛騨の国司であった姉小路(あねのこうじ)の名跡を乗っ取って姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)と名を改め、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じての上洛(9月7日参照>>)で上り調子の尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)の奥さん=(のう)妹を娶って親族となり、その力を借りて勢力を伸ばし始めます

それでも、まだ謙信&信玄の目の黒いうちは、大きく情勢が変わる事はありませんでしたが(8月4日参照>>)、天正元年(1573年)に信玄が亡くなって(4月16日参照>>)その2年後に後を継いだ武田勝頼(かつより)長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)織田&徳川連合軍に敗退し(5月21日参照>>)、天正六年(1578年)には謙信が亡くなった(3月13日参照>>)上杉家で後継者争いが勃発(3月17日参照>>)・・・

戦国の力関係が大きく変わる中で、上杉との月岡野(つきおかの=富山県富山市)の戦い(10月4日参照>>)に織田の親族として参戦して勝利した姉小路頼綱が、勢いを増して松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山松倉町)を新築します。

すると、それを脅威に感じた広瀬城(ひろせじょう=同高山市国府町)広瀬宗域(ひろせむねくに)は、頼綱の三木氏と政略的婚姻関係を結んで脅威を取り除き、逆にこれまで懇意にしていた牛丸親綱(うしまるちかつな)牛丸氏の名跡を奪おうと小鷹利城を攻めますが、それはウマく行かず・・・

ところが、そうこうしている間に、またもや戦国の情勢が目まぐるしく変わります。

天正十年(1582年)3月に、あの武田が滅ぶと(3月11日参照>>)、そのわずか3ヶ月後の6月に、武田を滅亡させた信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)したのです。

このゴタゴタを見逃さなかったのが姉小路頼綱&と広瀬宗域&牛丸親綱・・・今度は、この三者が連合を組んで、これまで何かと目障りだった名門家=江馬氏の江馬輝盛(えまてるもり)をぶっ潰して、飛騨の覇権を抑えてしまおうと画策したのです。

もちろん、江馬輝盛の方も、このゴタゴタが絶好のチャンスなのは重々承知・・・ここで、長年の悲願であった古川盆地への進出を画策するのです。

八日町の戦い・位置関係図
八日町の戦い・位置関係図
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(背景は地理院地図>>)

かくして信長横死から約5か月後の天正十年(1582年)10月下旬、江馬輝盛は3000余騎を率いて(数については諸説あり)高原諏訪城を出立して古川盆地への侵攻を開始したのです。

これを知った姉小路頼綱は、始め、鉄壁の要害と自負する自身の松倉城に敵を引き寄せて討とうか?とも考えましたが、たとえ籠城が長期に渡ったとしても、今以上に新手の援軍が来るわけでもない今回の戦いでは籠城戦は難しいと判断し、広瀬宗域&牛丸親綱らと組んで撃って出る作戦に切り替えます。

そして、敵を大坂峠(おおさかとうげ=岐阜県高山市)付近から荒城川(あらきがわ)河畔に追い込んで、そこを戦場にして雌雄を決する覚悟で準備を開始し、自身は八日町付近に布陣して江馬勢を待ち受けました。
その数、約2000(数については諸説あり)

かくして天正十年(1582年)10月26日午後2時頃、江馬勢は姉小路配下である小島時光(こじまときみつ)の拠る小島城(こじまじょう=岐阜県飛騨市古川町沼町)へと迫ります。

しかし、ここで激しい抵抗に遭い、小島城を落とす事ができず、その日は態勢を整えるべく荒城方面へと引き返しました。

Youkamatiema700a 翌・10月27日江馬輝盛は一気に敵を攻め潰すべく、再び姉小路勢に押し寄せ、広瀬方面にまで進んで来ます。

姉小路頼綱としては、ここで江馬氏の支城である梨打城(なしうちじょう=岐阜県高山市国府町八日町)を基点に扇状に広がった江馬勢を相手にすれば分が悪い・・・そのため、敵の態勢を崩すべく、あらかじめ八日町付近にかくしていた伏兵を使い、これを一気に江馬輝盛のいる本隊向けて発進させたのです。

この伏兵の存在に気づいていなかった江馬勢大いに慌て、隊が一気に乱れます

すかざす輝盛が陣を立て直そうとしたその時・・・姉小路側から放たれた銃弾が輝盛を貫きました。

ひるむ輝盛を牛丸配下の者が討ち取り、その首を挙げます。

大将の討死に、江馬勢は総崩れとなり、完全に形勢逆転・・・江馬勢は討ち取られるか、敗走するか。。。

この時、江馬輝盛の側近13名が大坂峠で自害して、その後地元民に葬られた事から、この大坂峠は地元では通称「十三墓峠」と呼ばれているとか・・・

このあと姉小路勢は、江馬の本拠である高原まで攻め込み、ここに11代続いた江馬氏は滅亡しました。

ちなみに、この八日町の戦いは、この飛騨で初めて鉄砲が使用された戦いと言われていますが、それも、織田信長に近づいた姉小路頼綱が、(さかい=大阪府堺市)にて、いち早く鉄砲を手に入れた事で、この飛騨では一歩先に出た・・・という所でしょうか。。。

とは言え、それぞれの武将の本心は、自分自身が飛騨のすべてを手に入れる事・・・今回は、江馬駆逐のために連合しただけで、そもそもはライバル同士なわけで・・・

案の定、この八日町の戦いから3ヶ月後の天正十一年(1583年)1月27日、姉小路頼綱は牛丸親綱を攻撃し、さらにその翌年に広瀬宗域を騙し討ちして広瀬城を奪い、頼綱は晴れて飛騨統一する事になるのですが(1月27日後半部分参照>>=前半は内容がカブッてますがお許しを…)

その頼綱の短い春を終わらせるのが、賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)(4月21日参照>>)を終え、小牧長久手(愛知県小牧市ほか)(11月16日参照>>)真っ最中で、天下の見えて来た羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)という事になります(8月28日参照>>)
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2019年9月24日 (火)

上杉謙信の能登平定~松波城の戦い

 

天正五年(1577年)9月24日、上杉謙信の命を受けた長沢光国が畠山氏の松波義親の守る波城を攻撃しました。

・・・・・・・・

戦国屈指のライバル同士の戦い=川中島・・・
(くわしい戦いの経緯は下記参照リンクで…)

隣国・信濃(しなの=長野県)を制して、さらに北に進もうとする甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、それを阻む越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)との5回=約10余に渡る戦いですが、ここでドンパチやってる間に戦国の情勢が大きく変わります。

永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま)の戦い(2007年5月19日参照>>)で、当時、天下に1番近い男と言われていた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)の守護=今川義元(いまがわとしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)の一武将=織田信長(おだのぶなが)に敗れ、

しかも、その信長がほどなく尾張を統一(11月1日参照>>)して隣国=美濃(みの=岐阜県南部)を狙い始めるわ(8月28日参照>>)
桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立した(2008年5月19日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)が、その信長と同盟を結んで(1月15日参照>>)、義元亡き後の隣国=遠江を狙い始めるわ・・・
(*参考=この頃、後の15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)が謙信に対し、しきりに自身を奉じて上洛する事を希望していますが、当時の謙信には、その気がなかったようで…結局、永禄十一年(1568年)9月に信長が義昭を奉じて上洛します…10月4日参照>>

で、この時期に謙信&信玄ともに、こう着状態の川中島から、それぞれシフトチェンジ・・・信玄は南下して今川領へと侵攻し(7月2日参照>>)謙信は祖父の代からの悲願だった北陸平定(9月19日参照>>)を実現すべく、西に向けて進み始めるのです。

Uesugikensin500 そして天正五年(1577年)9月、いよいよ能登(のと=石川県北部)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市古城町)へと迫った謙信・・・

ここ七尾城は、代々、守護(しゅご=県知事みたいな)である畠山氏(はたけやまし)が治めていましたが、度重なる当主の交代で、この頃は、わずか5~6歳?くらいの幼い畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)が当主を務めており、それをサポートしていたのが重臣の長続連(ちょうつぐつら)綱連(つなつら)父子。

しかし、謙信に攻められた七尾城内で春王丸は病死し、長父子も殺され、七尾城は9月15日に陥落(9月13日参照>>)します。

畠山一門の松波義親(まつなみよしちか)と長続連の息子=長連龍(つらたつ=綱蓮の弟)は何とか脱出したものの、今は亡き前当主=畠山義隆(よしたか=春王丸の父)の奥さんも上杉の保護を受ける事に・・・

この時、脱出した長蓮龍が、
去る天正元年(1573年)に越前(えちぜん=福井県西部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月20日参照>>)、 天正三年(1575年)8月には越前の一向一揆を制覇(8月12日参照>>)・・・

と徐々に北陸に進出して来ていた織田信長に援助を求めた(8月14日の前半部分参照>>)事で、織田家内の北陸担当であった柴田勝家(しばたかついえ)が、謙信とぶつかる事になります。

これが天正五年(1577年)9月18日、もしくは9月23日にあったとされる手取川(てとりがわ)の戦い(9月18日参照>>)なのですが、そのページにも書かせていただいたように、戦いに関する史料が少なく、あったのか?無かったのか?どんな感じだったのか?が、今以ってよくわからない状況ではあります。

一方、同じく七尾城落城の際に脱出した松波義親・・・彼が逃げ込んだのが松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)でした。

この松波城は文明六年(1474年)の頃に、能登畠山の当主であった七尾城の畠山義統(よしむね)の三男だった義智(よしとも)が構築したとされ、そこから苗字を松波とし、義親は、その6代目と言われます(義隆の弟とも)

言わば勝手知ったる古巣と言える松波城に入った松波義親は、早速、城内の諸将を集めて、
「やがて長蓮龍が、織田の援軍を連れて戻って来るであろうから、それまで 畠山の名誉をかけて、この城を死守しよう」
と面々の士気を高めて籠城戦に入るとともに、周辺に配下の者を走らせて領民による一揆を扇動させたのです。

松波城は海からさほど遠くない丘の上に建っており、見通しはきくし、すぐ前には要害となる川も流れていたなかなかの堅城ではありますが、なんせ上杉の大軍に対抗できるほどの軍勢を持ち合わせていませんから、少しでも人員が欲しい・・・

ところが、その準備もままならない間に、謙信の電光石火の攻撃により、一揆勢は集結する間もなく蹴散らされてしまいます。

そして9月23日、上杉方の長沢光国(ながさわみつくに)の軍勢によって、松波城は囲まれてしまうのです。

寄せる長沢隊は1000ほど・・・守る松波隊は、わずかに300。

かくして天正五年(1577年)9月24日長沢勢からの総攻撃が開始されます。

兵力に劣る松波勢は、迫りくる長沢勢をかく乱しつつ、幾度か衝突して奮戦するのですが、いかんせん多勢に無勢・・・

徐々に包囲は狭められて行き、やがて大手門から城内へと長沢勢が侵入すると、それぞれ阻止すべく戦いに挑む松波勢が次々と討死してしまったのです。

自らも大手門で奮戦した義親も重傷を負い、近臣に担がれながらも、なんとか本丸に戻って来ますが、もはや、その本丸もケガ人ばかり・・・

終焉を察した義親は、一人、香を焚き込めた奥の間へと入って自刃を遂げ、残された将兵たちも、燃え盛る城とともに、主君の後を追って果てたのでした。

ここに、能登一帯の守護大名であった能登畠山氏は、事実上滅亡したのです。

七尾城を落として後、さらに南に進んで加賀(かが=石川県南部)方面にいたとされる謙信は、「長沢勢大勝」の一報を聞いて大いに喜び、9月26日に能登に戻って七尾城の修復にかかるとともに、自ら本丸に上って美酒に酔いつつ、畠山氏の重臣でありながら上杉に協力してくれた遊佐続光(ゆさつぐみつ)らに褒美を約束するなど、かなりの上機嫌だったようです。

なんせ、今も鉱山跡が残る宝達金山(ほうだつきんざん=石川県羽咋郡宝達志水町)松倉金山(まつくらきんざん=富山県魚津市)と、未だ開発前の金鉱が、このあたりには眠っていたわけですから、さすがの謙信も笑いが止まらなかった事でしょう。

この後、長沢をはじめとする功績のあった諸将に、能登に点在する城の守りを命じて、この年の12月、謙信は越後へと戻りました。

もちろん、翌年、春になれば、再び、この地へ侵攻するつもりで・・・

しかし、ご存知のように、謙信は、翌年天正六年(1578年)の春=3月13日に亡くなり(3月13日参照>>)、それと同時に上杉家内での後継者争いが勃発し【御館(おたて)の乱】参照>>)その予定は大いに狂う事になります。

そして、その上杉のゴタゴタを受けて、8月には長連龍が再び動き出し(前記の8月14日の後半部分参照>>)9月には織田信長も【(9月m24日【月岡野の戦い】参照>>)という展開となります。

もし、謙信がもう1年長く生きていたなら、この先どうなっていたのでしょう?
歴史は紙一重で変わってしまう事を痛感させられます。

そら、徳川家康は健康に気をつかうはずですな。。。
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