2018年4月21日 (土)

信長VS顕如・石山合戦~高屋・新堀城の戦い

天正三年(1575年)4月21日、織田信長と本願寺顕如による石山合戦での高屋・新堀城の戦いが終結しました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした織田信長(おだのぶなが)・・・

信長上洛の際、それまで畿内を牛耳っていた三好(みよし)では、嫡流の三好義継(よしつぐ=長慶の甥で養子)と重臣の松永久秀(まつながひさひで)は恭順したものの、三好三人衆と呼ばれた三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)らは信長を受け入れる事ができずに敵対します。

2年後の元亀元年(1570年)、そんな三好三人衆と信長がぶつかった野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)の戦い(8月26日参照>>)をキッカケに、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を本拠とする本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)対信長戦に参戦を表明(9月12日参照>>)した事から、10年の長きに渡る石山合戦(いしやまかっせん)が始まるのです。

野田福島の後に一旦は停戦するものの、全国に信者を持つ本願寺の教祖様が再び扇動し始めると、元亀二年(1571年)の5月には長島(ながしま=三重県桑名市)にて長島一向一揆(5月16日参照>>)、同年の9月には近江の一向一揆(9月3日参照>>)、天正二年(1574年)1月からは越前一向一揆(1月20日参照>>)と各地で一揆が勃発しますが、

Odanobunaga400a 一方の信長も、元亀四年(天正元年=1573年)には反発する足利義昭を追放(7月18日参照>>)し、浅井(あさい)(8月28日参照>>)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)滅亡させ・・・と、一つ一つ敵を潰していく中、天正二年(1574年)9月には、一向一揆の中で最も信長を困らせていた長島一向一揆をせん滅した(9月29日参照>>)事で、本家本元の石山本願寺への直接攻撃を画策しはじめます。

翌天正三年(1575年)3月に上洛した信長は、「この年の秋には大坂を攻めるゾ!」とばかりに、この戦闘の担当与力(よりき)細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)に命じるとともに、配下の諸将たちに、その準備を整えるよう指示しました。

そして、信長自身は、その要路である平野(ひらの=大阪市平野区)周辺に戦闘時の禁令を発布して準備を整え、4月6日に河内(かわち=大阪府東部)に向け、軍勢を率いて出立しました。

『兼見卿記』によれば、その数は約1万余であったとか・・・

京都から八幡(やわた=京都府八幡市)を通り、7日に若江(わかえ=大阪府東大阪市)に到着した信長は、翌8日に、石山本願寺に与する三好康長(やすなが=長慶の叔父)の拠る高屋城(たかやじょう=大阪府羽曳野市古市)を攻撃したのです。

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古室山古墳より駒ヶ谷方面を望む

『信長公記』によれば、駒ヶ谷山(こまがだにやま=同羽曳野市)に本陣を構えて、眼下の合戦の様子を観望する信長は、自軍の伊藤与三右衛門(いとうよそうえもん)の弟=伊藤二介(ふたすけ)が、数か所の傷を負いながらも、先駆けとして何度も敵方に突進した後、壮絶な最期を遂げる姿を見て「晴れがましい働きである」と絶賛したのだとか・・・

その日、四方八方から高屋城に攻撃を仕掛けた織田軍は、佐久間信盛(さくまのぶもり)丹羽長秀(にわながひで)柴田勝家(しばたかついえ)塙直政(ばんなおまさ)らの諸将が、谷間やら田畑やら、近辺をくまなく焼き払ったと言います。

その後、12日に、本陣を住吉(すみよし=大阪市住吉区)に移した信長のもとには、畿内(山城・摂津・河内・和泉・大和)からはもちろん、若狭(わかさ=福井県西部)近江(おうみ=滋賀県)美濃(みの=岐阜県)尾張(おわり=愛知県西部)伊勢(いせ=三重県中北部)丹後(たんご=京都府北部)丹波(たんば=兵庫県北東部・京都府北部)紀伊(きい=和歌山県)根来衆(ねごろしゅう)まで、続々と援軍が集まって来ます。

信長はそれらの軍勢を天王寺から住吉・遠里小野(おりおの=大阪市住吉区)方面へと展開して石山本願寺をけん制・・・14日には石山本願寺周辺へ押し寄せて刈田を行い、大いに騒ぎ立てますが、その頃には軍勢の数は、なんと10万余に達していたとか・・・

16日からは、本陣を遠里小野に移し、近隣の刈田を実行した後、次のターゲットである新堀城(しんぼりじょう=堺市北区新堀町)を包囲するべく(さかい=大阪府堺市)に向かいます。

ここ新堀城には、先の三好康長と結んだ十河一行(そごういっこう)香西長信(こうざいながのぶ)立て籠もっていたのです。

17日に城を取り囲んだ織田軍は、19日の夜には火矢を射かけ、草で以って堀を埋め、大手と搦め手の二方向から攻撃を開始し、すばやく両門を突破・・・大将の一人である十河一行をはじめとする170余の首を挙げ、香西長信を生け捕りにした後、斬首にしました。

この新堀城の落城を知った高屋城の三好康長が、信長の側近である松井友閑(まついゆうかん)を通じて降伏を申し出て来たため、信長は康長を許し、高屋城も接収したのです。

天正三年(1575年)4月21日、ここに高屋・新堀城の戦いは終結しました。

その後、信長は、塙直政に命じて、高屋城&新堀城をはじめとする河内の城や砦をことごとく破却させました。

さぁ、これで、残るは石山本願寺そのものだけ!
いよいよ・・・という事になるはずだったのですが・・・

この高屋・新堀城の戦いの終結と、まさに同じ4月21日・・・遠く三河(みかわ=愛知県東部)で、今は亡き甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の後を継いだ四男=勝頼(かつより)が、信長の同盟者である徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)の娘婿=奥平貞昌(おくだいらさだまさ)長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市)を取り囲んだのです(4月21日参照>>)

家康からの援軍要請に応える信長・・・ご存じ、長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いです(5月21日参照>>)

上記に書いた通り、おそらくはご本人は「この秋に…」と考えていたであろう信長による石山本願寺への直接攻撃は、翌天正四年(1576年)5月の天王寺合戦へと持ち越される事になりました。

その後のお話は関連ページで↓
【天王寺合戦】>>
【第1次・木津川口海戦】>>
【信長の鉄甲船完成】>>
第2次木津川口海戦】>>
【石山合戦の終結】>>
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2018年4月 1日 (日)

秀吉の中国攻め~播磨英賀城の戦い

天正八年(1580年)4月1日、織田信長の命で中国攻略中の羽柴秀吉播磨英賀城を攻撃しました。

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天正元年(1573年)・・・7月に第15代室町幕府将軍足利義昭(よしあき・義秋)槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)に攻め(7月18日参照>>)、翌8月には越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)と、北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月28日参照>>)を倒し、天正三年(1575年)には、甲斐(かい=山梨県)の名門・武田勝頼(たけだかつより)長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)(5月21日参照>>)に破った織田信長(おだのぶなが)・・・

そんな上り調子の信長の目下の敵は、
かつて畿内を掌握していた三好(みよし=三好長慶の一族)相手に戦っていた野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の合戦キッカケで「対信長戦」に参戦して来た(9月12日参照>>)本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が扇動する一向一揆=本願寺門徒との抗争。

長島一向一揆>>に、
越前一向一揆>>と、
各地で起こる一向一揆をせん滅して行く信長でしたが、天正四年(1576年)、その一向宗徒の本拠地である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦い(6月3日参照>>)で、本願寺側に味方し、まんまと兵糧を運び込んだ(7月13日参照>>)のが安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)でした。

ここに来て本願寺と和睦し、再び北陸に手を出して来た越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)(8月4日参照>>)が東の強敵なら、この毛利は西国一の大大名・・・なんせ、信長に追放された足利義昭も、この頃には、この毛利を頼ってますしね。。。

これは、何とかせねばなりません。

そこで信長は、北陸方面を柴田勝家(しばたかついえ)(9月18日参照>>)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)の平定を明智光秀(あけちみつひで)(10月29日参照>>)当たらせるとともに、すでに赤松則房(あかまつのりふさ)小寺政職(こでらまさもと=黒田官兵衛の上司)などの播磨(はりま=兵庫県南西部)の諸将を味方につけつつあった羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)中国地方の攻略を命じたのです。

以来、赤松政範(あかまつまさのり)上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)(11月29日参照>>)や、その支城の福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)(12月1日参照>>)、今や「天空の城」として大人気の竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市)(12月21日参照>>)などの西国攻略を進める秀吉でしたが、

その上月城に、当時は毛利配下であった備前(びぜん=岡山県東南部)宇喜多直家(秀家の父)がチョッカイ出したり、味方だと思っていた別所長治(べっしょながはる)三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)で籠城したり(3月29日参照>>)一進一退です。

年が明けた天正八年(1580年)1月にやっとこさ三木城を攻略しますが、この間に上月城が毛利の手に落ち(5月4日参照>>)、守りを任されていた出雲(いずも=島根県)の名門=尼子(あまご)も滅亡(7月17日参照>>)・・・そこで、鉾先を東播磨から西播磨へと向ける秀吉でしたが、

一方で、この三木城籠城戦が続いた、この2年の間に、信長が石山本願寺戦に鉄甲船を出して来たり【(11月6日参照>>)、信長に反発して有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城)に籠った荒木村重(あらきむらしげ)が開城させられたり(12月16日参照>>)、逆に反信長の最大勢力だった上杉家が謙信という大黒柱を失い継者を巡って内輪もめ(3月17日参照>>)し始めたり・・・てなアレコレが、その気持ちを変えさせたのか?ここに来て、毛利配下だった宇喜多直家が降伏して(10月30日参照>>)織田に寝返っていたのです。

この直家の寝返りを受けて、毛利が攻撃目標を播磨から美作(みまさか=岡山県北東部)へと変更した事を受けて、一旦、本拠の長浜(ながはま=滋賀県長浜市)に帰還していた秀吉は、再び軍勢を率いて播磨に戻り、閏3月2日には、備前との国境付近に陣を張りますが、この動きを見た毛利方の吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男) は、「秀吉と直家の両方を相手にするには態勢を整えねば!」1度撤退する事に・・・

Hideyosiharimaheiteicc 秀吉の播磨平定・関係図
←クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そこで秀吉は、兵を西播磨に戻して、織田から毛利へと寝返った宇野政頼(うのまさより)宇野祐清(すけきよ)父子の長水城(ちょうずいじょう=兵庫県宍粟市山崎)と、三木通秋(みきみちあき)英賀城(あがじょう=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)を攻める事にしたのです。

この英賀という場所は、かつて本願寺の蓮如(れんにょ)上人が播磨での布教活動の拠点とした場所で、当時は英賀御堂(あがみどう)と呼ばれる壮大な伽藍を中心にする本願寺門徒衆の強い土地・・・ここを抑える事は、未だ交戦中の石山本願寺(石山合戦はこの年の8月に終結>>)にも少なからず影響を与えるはず・・・

かくして天正八年(1580年)4月1日秀吉は2万余兵で以って英賀城を攻撃するのです。

ちなみに、この英賀城攻防戦は、
『英城日記』では、「かなり苦戦した秀吉が、和睦交渉で以って内応者を作り、やっとこさ2月13日に落とした」となっているのですが、
『信長公記』では、「はなから戦う気が無かった通秋が、そそくさと舟で逃亡してしまったため、戦闘らしい戦闘もなく4月26日に陥落した」となっています。

アレレ?両者の言い分の食い違いったらww
まぁ誰だって、味方のほうをカッコ良く下記残したいですからね~

そんな中、今回は4月1日の日付で書かせていただきます。

というのは、直家宛ての秀吉の書状に
「英賀城の八町(約900m)西に土塁が築かれていたのを4月1日に奪取してぶっ壊したった」と自慢げに報告しいるので・・・もちろん、これも自分をカッコ良く書いてるのかも知れませんが、何たってご本人の書状なので、とりあえず、今の所は1番確かな事ではないかと・・・

これに対し、英賀側では、やはり
「英賀が落ちたら、石山本願寺もタダでは済みまへんで!」
と、本願寺方の下間頼廉(しもつま らいれん=石山本願寺の坊官)雑賀(さいが・さいか)による300~500挺の鉄砲隊を援軍として派遣してくれるよう要求しています。

Agazyoukouryaku
秀吉の英賀城攻略図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一方、上記の通り、4月1日に英賀城の土塁を破壊して西の丸を奪取した秀吉方でしたが、英賀城は東西に二つの川が流れ、南は播磨灘に面した湿地帯という自然の要害の地・・・容易に攻められる物ではありませんでした。

そこで秀吉は、陸上ではなく、船で海上から奇襲をかける作戦を実行・・・フイを突かれた英賀城内は大混乱に陥り、この時の戦いで800人以上の戦死者を出してしまって、あえなく陥落します。

城主の通秋は、落城の混乱のさ中の4月24日・・・舟で城を脱出し、海路で九州へと落ちのびたという事です。
(フムフム…ここは『信長公記』と一緒ですな)

史料によって少しずつ内容が違うので、未だ謎多き英賀城攻めですが、この英賀城と長水城長水城攻防戦は2015年4月25日参照>>)を落とした事で、秀吉の播磨平定は一応完了・・・信長の命による西国攻略は次の段階へ進む事になります。
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2018年3月27日 (火)

徳川家康、徹底根絶やし~気賀堀川城一揆

永禄十二年(1569年)3月27日、徳川家康の最大の汚点とも言われる気賀・堀川一揆がありました。

・・・・・・・・・・・

昨年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、その賑やかさが記憶に新しい気賀(きが=浜松市北区細江)

ドラマでもあったように、この町は、南に浜名湖(はまなこ=静岡県浜松市から湖西市)を持ち、東に川が流れ、北を街道が通るという陸路&水路の便利さがあるとともに、満潮になると周辺が湿地帯となるその地形が天然の要害であった事から、古くから人の往来する交通の要所として栄えていました。

しかし、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦い(2007年5月19日参照>>)で、当時「東海一の弓取り」と称されていた遠江(とおとうみ=静岡県西部)の支配者=今川義元(いまがわよしもと)織田信長(おだのぶなが)に討たれると、息子の今川氏真(うじざね)が後を継ぐも、義元時代のような勢いは徐々に薄れつつあった今川家・・・

そこを狙ったのが、隣国=甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、かの桶狭間キッカケで今川から独立(2008年5月19日参照>>)した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)でした。

Tokugawaieyasu600 永禄五年(1562年)に尾張(おわり=愛知県東部)統一(11月1日参照>>)を果たした信長は、この二人を結びつけ、やがて信玄と家康は阿吽の呼吸で以って遠江に侵攻を開始するのですが・・・

この家康の動きを知った土地の人々が、その侵攻に備えるために構築したのが、今回の堀川城(ほりかわじょう=静岡県浜松市北区細江町気賀)です。

土地の者が自分たちで建てた・・・という経緯から、おそらくは城というよりは砦のような物であったと思われますが、それ故、築城年数も、その様相も、ほとんどわかっていません。

ただ、『瀬戸文書』に残る永禄十一年(1568年)9月14日付けの氏真が発給した「徳政令を凍結する」旨の書かれた瀬戸方久(えとほうきゅう)宛ての安堵状には、
「…然者今度新城取立之条…」
と、新しい城を建てる?or建てた?事が記されていますので、おそらく、この頃に構築したとみられます。

以前、この3年後に起こる「伊平・仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)の戦い」のページ(10月22日参照>>)で、この家康の遠江侵攻の時、近藤康用(こんどうやすもち)をはじめとする井伊谷三人衆(いいのやさんいんしゅう)が道案内をしたと書かせていただきましたが、このように、遠江には、家康の侵攻を歓迎する者もいた反面、その仏坂で戦いがあった事でもお察しのように、家康の侵攻を拒む者も多くいたのです。

なんせ、もともとが今川の領地ですから・・・

そんな中、ここ気賀は後者=家康の侵攻を歓迎しない立場にあったのですね。

おそらく堀川城が構築されたであろうその永禄十一年(1568年)には、暮れの12月12日に、信玄が薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)で今川とぶつかり、翌日の13日には氏真の居館=今川館を攻撃(12月13日参照>>)・・・やむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川))へと逃げる氏真を、今度は家康が包囲したのが12月27日の事でした(12月27日参照>>)

これだけの今川相手の合戦が行われれば、当然、戦いに敗れて、気賀に落ちて来る者も多数・・・やがて、それらの今川の落武者たちに扇動されるように、気賀の住人は堀川城に立て籠もり、家康の支配に抵抗する事になります。

一説には、この頃、気賀には3000人ほどの住人がいた中、そのうちの約2000人~2500人が堀川城に籠城したとも言われています。

「気賀一揆」あるいは「堀川一揆」「堀川城の戦い」とも呼ばれる、この籠城戦・・・もちろん、ここには、近隣の土豪(どごう=半士半農の土着武士)は当然、商人や農民、非戦闘員とおぼしき女子供も含まれています。

この時、籠城戦を率いていた大将とされるのは、今川の家臣で、当時、居城の堀江城(ほりえじょう=静岡県浜松市西区)を家康勢に攻められていた大沢基胤(おおさわもとたね)被官(ひかん=部下)であった尾藤主膳(びとうしゅぜん)山村修理(やまむらしゅり)らであったとか・・・

『常山紀談』によれば・・・
堀川城に籠った彼らは、家康の暗殺を企てていたところ、「三河に戻る徳川軍が城の近くを通る」という情報を入手・・・

鉄砲にて討ち取らんと構えていたところ、その事を知らない家康が、無防備に、わずか7騎でその場所を通過・・・あまりの数の少なさに、一揆勢は、それとは知らずやり過ごして、「家康はまだか?」と、そのまま待ち構えていましたが、やがて、その後を石川数正(いしかわかずまさ)の大軍が通ったのを見て、やっと
「さては、もう家康は通り過ぎてしまったか…」
「簡単に討つ事ができたはずの好機を逃してしまった」

と大いに悔やんだ・・・さすが、神君家康公は神仏に見守られておる!
てな逸話が残ってますが・・・

さすがに、これは、後の江戸開幕を知ってるからこその家康ageでしょうが、長引く掛川城攻防戦のさ中に、家康が、堀川城の近くまで来たのに攻撃せず、一旦、三河に戻ったという話は確かな事で・・・実は、家康は干潮が最大になるのを待っていたのだとか・・・

そう、先にも書かせていただいた通り、この堀川城は、浜名湖のほとりに建っており、満潮の時には、舟で自由に出入りができるものの、干潮時には1ヶ所の出入口でしか通行できなかったのです。

かくして永禄十二年(1569年)3月27日、干潮時を狙って、約3000の家康軍が堀川城に一斉に攻撃を仕掛けます。

ちなみに、『浜松御在城記』には、「辰ノ三月七日」に堀川城への攻撃があったと記載されている事から、「辰の年=永禄十一年(1568年)」なので、「永禄十一年(1568年)の3月7日に1度めの堀川城への攻撃があった」とする説もありますが、上記の通り、遠江への侵攻が始まるのが永禄十一年(1568年)の12月頃からなので、それ以前の攻撃というは、おそらく無かった物と思われます。

とにもかくにも、上記の通り、干潮時には、ほとんど逃げ場が無かった堀川城・・・

『三河物語』によれば・・・
この戦いで1番乗りの大活躍をした17歳の若武者=大久保忠栄(おおくぼただなが・ただひで)が、一揆勢の鉄砲に当たって討死したした事とともに、
「男女供ニナデ切リニゾシタリケル」
と、かなりの人数の籠城組を撫で斬り(なでぎり=たくさんの人を片端から切り捨てる事)にした事が記されています。

一説には、このわずか一日の戦いで戦死した一揆勢の人数は1000人に達したのだとか・・・

その後、生き残った者の探索が行われ、捕縛された700人が半年後の9月9日に処刑され、その全員の首を、堀川城近くの小川に沿った土手に並べて晒したとの事・・・その場所は「獄門畷(ごくもんなわて)と呼ばれ、現在も、「堀川城将士最期の地」と刻まれた慰霊碑が建っています。

に、しても、住人が3000人ほどいて、そのうち約2000人~2500人が立て籠もって、1日の合戦で1000人が死んで、逃げたうちの700人が討首って・・・ホンマかいな?と思われる数字ですが・・・

そもそも、一般市民のほとんどが立て籠もるなんて事があるのか?

いや、「立て籠もる」というよりは、「そこに避難して来た」という事なら、あり得るかも知れません。

また、立て籠もった中で武士は100人ほどだったとも言われていますので、その多くが非戦闘員レベルの農民や女子供なら、一日の戦闘で1000人が討死にというのも、あり得るかも知れません。

ただ、捕縛された700人が一斉に斬首というのは・・・
もちろん、700人が一斉に捕まるわけでは無いので、約半年で何人かずつなのでしょうが、そんなに多くの者を押し込めておく場所は?

そもそも、住民がそんなに死んで、その後の気賀はどないなったん?
と、色々な疑問が残りますが・・・

ただ、この『三河物語』は徳川方の記録ですし、他の文献にも、かなり悲惨な状況だった事が記されていますので、やはり、この堀川城で、厳しい一件があった事は確かであろうと考えられており、今でも、その残虐さに、
「家康、やり過ぎ」とか
「家康、最大の汚点」とか
って言われる一件でもあります。

とは言え、この堀川城の一件は合戦というより一揆・・・一揆と言えば、家康は、この6年前に、あの三河一向一揆(みかわいっこういっき)(9月5日参照>>)を経験しています。

徳川を真っ二つに分け、徳川の存続が危ぶまれるほどの経験をした家康にとって、その記憶は鮮明に残っているでしょうから、「中途半端なやり方では根を残す」とばかりに、徹底的に根絶やしにした・・・という事なのかも、

いずれにしても、その残虐さ非情さも、現在の価値観と同じ物差しでは測れない物であります。
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2018年3月19日 (月)

小牧長久手~峯城&松ヶ島城の攻防戦

天正十二年(1584年)3月19日、小牧長久手北伊勢方面の戦いである松ヶ島城の戦いが終結しました。

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織田信長(おだのぶなが)亡き後(6月2日参照>>)、仇となった明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府)に討って(6月13日参照>>)織田家家臣内で優位に立ち、その後の清州(清須)会議(6月27日参照>>)を仕切った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を味方につけ、後継のライバルでもあった弟=織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)を追い落とし(5月2日参照>>)、その後推しをしていた柴田勝家(しばたかついえ)をも葬り去って(4月23日参照>>)、未だ幼い後継者=三法師(さんほうし=信長の孫・後の織田秀信に代わって、事実上の織田家後継者となっていた織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意・信長の次男)でしたが、

今度は、これまで西の出来事を静観(10月29日参照>>)していた徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけて秀吉に反発・・・天正十二年(1584年)3月6日、信雄は、自らの長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)重臣たちを呼び出して「秀吉に通じた」という名目で殺害したのです(3月6日参照>>)

『常山紀談(じょうざんきだん)によれば、その重臣殺害事件の発端となったのは、津川義冬(つがわよしふゆ)岡田重孝(おかだしげたか)浅井長時(あざいながとき=浅井田宮丸とも)滝川雄利(たきがわかつとし)という信雄の重臣4名が、秀吉に呼び出されて内応する約束をさせられたという出来事で、他の3人を裏切って、この事を信雄にチクッたのが滝川雄利、殺されたのは残りの3人という事になっています。

細かな経緯の真偽はともかく、ここで、重臣3人が謀反の疑いで殺害された事は確か・・・その勢いのまま、信雄は津川義冬の伊勢松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)を没収して滝川雄利に与えるとして、配下の佐久間正勝(さくままさかつ=信盛の息子・佐久間信栄)山口重政(やまぐちしげま)らを派遣します。

Komakinagakutekankeizu
小牧長久手の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

正勝&重政らは、その松ヶ島城へ向う道すがら、秀吉方の関盛信(せきもりのぶ)一政(かずまさ)父子が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)を攻撃しますが、これは城兵の強固な守りに阻まれてしまいます(3月12日参照>>)

そんな亀山城攻防のあった同日深夜の3月13日には、東海地方にて犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)攻略戦(3月13日参照>>)が勃発するさ中、松ヶ島城に向った佐久間らではありましたが、留守を預かる津川義冬の一族が籠城を固めた城を思うように攻める事ができず、『大剛の人』として名を馳せた木造長政(こづくりながまさ=木造具康と同一人物か?)の援軍を得て、何とか包囲攻撃を仕掛けます。

寄せ手の猛攻に、さすがの松ヶ島城兵も数百人の死者を出し、あえなく開城・・・生き残った者は、ことごとく大和(やまと=奈良県)方面へと逃走して行きました。

こうして松ヶ島城に入城した滝川雄利に対し、信雄は「秀吉からの攻撃に備えるように」と指示し、更なる援軍を差し向けますが、その中には、家康から預かった服部半蔵(はっとりはんぞう=正成)率いる伊賀衆甲賀衆の鉄砲隊もいたとか・・・

一方、信雄による重臣殺害の一件を3月8日に耳にした秀吉は、早速、配下の堀尾吉晴(ほりおよしはる)らに北伊勢出陣の準備をさせ、自らも10日過ぎには近江(おうみ=滋賀県)へと向かいます。

そんな中、秀吉が目を付けたのが、信雄方が北伊勢守備の拠点としていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)・・・ここは、かの佐久間正勝の城でしたが、南北朝時代からの古城ゆえ、未だ城壁の補修が完璧では無かったのです。

そこを秀吉は、蒲生氏郷(がもううじさと)を総大将に長谷川秀一(はせがわひでかず)滝川一益(たきがわかずます)以下、1万余の軍勢で以って攻めさせたのです。

上記の通り、未だ守りが完璧でない峯城内は、「籠城戦は不利」と考え、城外へと撃って出ます。

しかし、これは秀吉の思惑通り・・・なんせ城外戦となれば、数に圧倒する秀吉軍が有利ですから・・・

激戦が展開されるも、所詮は多勢に無勢・・・多くの死者を出した信雄方の主将らは、やむなく城へと戻りました。

この敗戦を悔やんで自害しようとまで考えた佐久間正勝を、山口重政が思い留まらせたと言いますが、そんな中、家康配下の酒井忠次(さかいただつぐ)奥平信昌(おくだいらのぶまさ)らの援軍がコチラに向かっているとの知らせ・・・

この一報が秀吉方にも届いた事で、峯城を取り囲んでいた秀吉方の寄せ手が一里(約4km)ほど退きますが、この移動を見て取った峯城内の将兵は、その日の夜、闇に乗じて城を脱出し、尾張(おわり=愛知県西部)方面へと逃走していったのです。

秀吉方の将兵が峯城へと入城したのは、その翌朝の事・・・3月14日でした。

Toyotomihidenaga500a こうして峯城を攻略した秀吉軍は、つい先日奪い取られた松ヶ島城奪還に向けて、先の蒲生氏郷に加え、新たに羽柴秀長(ひでなが=秀吉の弟)羽柴秀勝(ひでかつ=秀吉の甥で養子)筒井順慶(つついじゅんけい)織田信包(おだのぶかね=信長の弟)ら、そして亀山城の関信盛父子に、もちろん津川義冬の一族も加わり、万全の態勢で松ヶ島城を包します。

秀吉は、この軍勢に田丸直息(たまるなおやす・なおおき)を通じて書状を送り、
「皆で分担して堀柵を構築し、一人として逃がさんように…さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)の水軍で以って岸に舟を寄せ、これも縄で柵に結んで一人も逃がさんようにしろよ」
と、伊勢湾に面した城への攻略指南をしています。

もちろん、これは敵兵を逃がさないようにするとともに、海路からの兵糧の運び込みも防ごうとの作戦・・・『勢州軍記』によれば、この時の秀吉の軍勢は約5万との事ですが、さすがに、そこまで多くはなくとも、自らの弟や養子たちを大将に据えている所からみても、秀吉は、かなりの数で以って完全勝利を狙った物と思われます。

一方、この態勢を見て、「兵糧攻めにする気やな」と察した松ヶ島城内は、16日・17日・18日に3日間に渡って、しばしば門を開いて撃って出て、囲む諸将の陣所などを襲撃して回りますが、なんせ相手が多い・・・

対する秀吉方は力攻めをせず、ただひたすら相手の体力消耗を待つ・・・と、なると、やがては根負けして投降して来る者もチラホラ出始める。

で、結局、天正十二年(1584年)3月19日交渉に応じた城兵が開城し、秀吉軍は大した痛手を被る事無く松ヶ島城を取り戻す事に成功・・・大将の秀長は、ここを岡本良勝(おかもとよしかつ=重政とも)に守らせました。

とは言え、一方の小牧長久手方面では、この間の3月17日、羽黒の戦いは秀吉軍の森長可(ながよし・森蘭丸の兄で池田恒興の娘婿)にとって屈辱の戦いとなるのですが、それらのお話は、以下の関連ページでどうぞm(_ _)m

関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城←今ココ
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>

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2018年3月12日 (月)

小牧長久手・前哨戦~亀山城の戦い

天正十二年(1584年)3月12日、小牧長久手の戦いの北伊勢方面の攻防となる亀山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日の『本能寺の変』によって命を落とした織田信長(おだのぶなが)・・・(6月2日参照>>)

信長と同時に、すでに家督を譲られていた嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)も亡くなってしまった事から、織田家の後継者は、信長の次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信意)か?、もしくは三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)か?と思われましたが、

その3ヶ月後に行われた清州(清須)会議では、変の寸前まで父=信忠とともにた息子の三法師(さんほうし=つまり信長の孫・後の織田秀信織田家の後継者と決まり(6月27日参照>>)、炎上した安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)を修復する間、三男の信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にて後見人として三法師を預かるという形で、一旦は落ち着きます。

・・・が、水面下でのモメ事は、すでに動きつつあったのです。

なんせ後継者となった三法師は未だ3歳ですから、実質的には、その後ろにいる誰かが織田家を仕切る事になるわけで・・・

そんな中、かの信孝が、岐阜城に抱え込んだ三法師を、なかなか安土に戻そうとしなかった事から、次男の信雄が不満をつのらせる事になります。

こうして起こったのが、有名な賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦い(4月21日参照>>)です。

この後の歴史の流れを知ってる私たちからすれば、どうしても、信長が座りかけた天下のイスを狙う羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、織田家家臣の筆頭である邪魔な柴田勝家(しばたかついえ)を消そうとした戦いのように思っちゃいますが・・・てか、それが一般的な見方かも知れませんが、

もちろん、実際に両者は戦ってますし、秀吉主導の信長の葬儀(10月15日参照>>)の雰囲気や、初の検地を実施したり(7月8日参照>>)なんぞを見ても、秀吉の心の中には、そのような思惑もあったのだろうとは思いますが、あくまで、この合戦開始の時点での表向きは、父の後を継ぎたい三男=信孝と彼を応援する勝家に、「ちょー待て!俺が次男や」と信雄が対抗した戦いで、秀吉は、そんな信雄のお手伝い・・・というのが前提の戦いだったように感じます。
(でないと、信雄は秀吉に協力しないし、信雄という看板無しに秀吉が信孝や勝家を攻撃すれば、謀反扱いになるかもですから…)

で、信雄に攻められた信孝は自刃し(4月23日参照>>)戦いに敗れた勝家も、奥さん=お市の方(信長の妹)とともに自害しました(5月2日参照>>)

Odanobuo400 すでに、この戦いの前から、父=信長が使用した「天下布武」のハンコに似せた「威加海内(天下に威力を示す)というハンコを使用し、信長の弟や自分の妹の徳姫(とくひめ=信長の長女・徳川信康室)をはじめとする織田一族を庇護下に置いたりなんぞしていた信雄は、こうして事実上の織田家後継者となったわけですが、ここで、信雄と秀吉の間に亀裂が生じます。

なんせ、信雄を後押してたはずの秀吉が、上記の一連の過程で、かなりの力をつけてしまっていて、この前年の天正十一年(1583年)には、かの清州会議で得た大坂の一等地に、巨大な大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)まで築城しちゃったりしてますから・・・

で、そんな中で事件が起こります。

どこかの誰かの画策で、その方向に行っちゃったのか?
それとも、複数の誤解が重なって、そうなっちゃったのか?
いやいや、自らが率先して、秀吉と対立する気になったのか?

そこらへんの心の内は本人のみぞ知るところでしょうが、とにもかくにも、天正十二年(1584年)3月6日、信雄は、自らの長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)重臣たちを呼び出して「秀吉に通じた」という名目で殺害してしまうのです(3月6日参照>>)

これはつまり・・・秀吉との縁を切る=秀吉に宣戦布告したという事になるわけですが、そんな信雄にも、もちろん勝算はあります。

なんせ、今、秀吉側にいる者も、もとはと言えば、お父ちゃん=信長の配下だったわけですし、今回は、信長の死後には、宙に浮いた武田の旧領を切り取る事に目を向けていて(10月29日参照>>)西の出来事(賤ヶ岳etc)を静観していた大物=徳川家康(とくがわいえやす)を味方につけてますから・・・

かくして、その重臣殺害事件から、わずか3日の3月9日・・・信雄から伊勢松ヶ島城(まつがしまじょう=三重県松阪市)の守備を命じられた佐久間正勝(さくままさかつ=信盛の息子・佐久間信栄)山口重政(やまぐちしげま)らは、松ヶ島城への道すがら、5000余の兵力で以って、秀吉方の関盛信(せきもりのぶ)一政(かずまさ)父子が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)に押し寄せたのです。

この亀山城は、前年の賤ヶ岳の時には、滝川一益(たきがわかずます)方の佐治新(さじしんすけ=一益の従弟の滝川益氏と同一人物か?)が、関盛信から奪ったものの、その後の戦いの経過により、戦後は再び関盛信が預かっていた城だったのですが、もともと秀吉にとって北伊勢を守る重要な位置にあるばかりか、今回の相手が信雄&家康となれば、特に重視しなければならない城だったわけで・・・

とは言え、今は、単に松ヶ島城へ向う道すがら・・・この日は城下に放火して回っただけで、本格的な城への攻撃は無かったものの、これは、あくまで、宣戦布告した信雄側のごあいさつなわけで、当然、このままでは終わりません。

かくして天正十二年(1584年)3月12日、信雄方の林正武(はやしまさたけ=神戸与五郎)率いる500の軍兵が亀山城を奇襲したのです。

実は、この時、秀吉軍の主力は、未だ、その修復が未完成でありながらも信雄方が北伊勢の守りの拠点としていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を、修復が完了する前に崩すべく準備していたところだったので、逆に、この亀山城の守りは手薄になっていたのです。

もちろん、信雄方は、そこを狙って先制攻撃を仕掛けて来たわけですが、一方の守る亀山城は、関盛信父子以下、名のある武士は、わずか13名・・・何とかせねばなりません。

そこで盛信は、侍だけでなく(足軽とか)も合わせた2~30名の部隊を編成し、敵勢を引きつけたところで、城下に放火・・・その煙に紛れて敵へと撃って出たのです。

煙で何も見えない中、城兵の数を把握できない林勢は、前に進むどころか、その気勢に圧倒されて後ずさり・・・混乱してワケがわからないまま、それぞれ近隣の村々へと退却して行ったのです。

敵の退却を確認した盛信は、深追いせず、急ぎ兵を城へと戻し、すぐさま、籠城戦への備えを固めます。

しかし、その後に籠城戦となる事は無く、結局、信雄方は、そのまま亀山城攻めを断念する事になります。

そうです。
実は、この亀山城の戦いと同じ日の深夜に決行されたのが秀吉方による奇襲=犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)攻略戦(3月13日参照>>)・・・秀吉VS家康の一連の直接対決として有名な、あの小牧長久手(こまき&ながくて)の戦いの勃発となるわけです。

しかも、犬山城が秀吉勢の手に落ちた翌日の14日には、準備していた峯城への攻撃も開始し、翌15日には、この城も秀吉方が制圧しています。

ご存じのように、小牧長久手方面での個々の戦いは微妙・・・というより、負けた感が濃い秀吉ですが、ここ北伊勢方面では、この後、松ヶ島城をも落としているのです【(3月19日参照>>)

まぁ、結局、この小牧長久手の戦いは、大きな合戦だったワリには、信雄の単独行動によって勝敗がハッキリしないまま終わっちゃうんですけど・・・そのお話は、下記のそれぞれのページでご覧あれm(_ _)m

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
●3月12日:亀山城の戦い←今ココ
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
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2018年2月22日 (木)

織田信長の雑賀攻め序盤~孝子峠の戦いと中野落城

天正五年(1577年)2月22日、織田信長による雑賀攻め初の交戦=孝子峠の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

元亀四年(天正元年=1573年)には、自らが担いでいた神輿(9月7日参照>>)=第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)追放(7月18日参照>>)し、その1ヶ月後には、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あさいながまさ)滅亡させ(8月28日参照>>)、2年後の天正三年(1575年)5月には長篠で武田勝頼(たけだかつより)破り(5月18日参照>>)、翌・天正四年(1576年)には安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)構築に着手(2月23日参照>>)、まさに天下への上り調子を見せつけていた織田信長(おだのぶなが)でしたが・・・

Odanobunaga400a 一方で、その間、そんな信長を最も手こずらせていたのが、各地の一向一揆を扇動する本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)でした。

そもそもは元亀元年(1570年)9月、本拠の石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)に近い野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)で勃発した信長VS三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)の戦い(8月26日参照>>)に、教祖様自らが参戦を表明(9月12日参照>>)して以来、翌・元亀二年(1571年)の5月には長島(ながしま=三重県桑名市)にて長島一向一揆が勃発(5月16日参照>>)し、同年の9月には近江の一向一揆(9月3日参照>>)、天正二年(1574年)1月からは越前一向一揆(1月20日参照>>)と・・・

まぁ、とにかく、上記の武将たちと戦いながら、一方でそれらの一向一揆を潰して行く信長ではありますが、
長島一向一揆の終結】>>
【越前一向一揆の終結】>>
当然、本家本元の石山本願寺を何とかせねばならないわけで・・・

そんな中、上記の越前一向一揆を制しついでに加賀(かが=石川県)をも配下に治めたうえに、安土築城でルンルン気分の信長に迫るように、天正四年(1576年)3月、越中(えちゅう=富山県)に侵攻して来た上杉謙信(うえすぎけんしん)(3月17日参照>>) ・・・

その2ヶ月後の5月には、信長VS顕如の直接対決=石山合戦の中でも屈指の激戦である天王寺合戦(5月3日参照>>)が起こったばかりか、その半月後には、長年対立していた本願寺と謙信が、敵の敵は味方とばかりに和睦・・・(5月18日参照>>)

しかも、7月には第一次木津川口の海戦(7月13日参照>>)で本願寺に悩まされ、8月には謙信が飛騨制圧(8月4日参照>>)で信長のヤバさは倍増します。

そこで信長、石山本願寺を直接潰す事より先に、かの天王寺合戦で、かなり目立つ加勢をしていた雑賀(さいが・さいか)を潰す事にします。

この雑賀衆というのは、紀州(きしゅう=和歌山県)紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団の事・・・このあたりは、もはや名ばかりとなった守護=畠山氏をしり目に、高野山(こうやさん=金剛峯寺を中心とした宗教都市・和歌山県伊都郡高野町)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)といった宗教勢力や彼らのような土着民が、それぞれに自治をする状況となっていたのですが、

そんな中で、雑賀衆と呼ばれる人たちは、現在の和歌山市から海南市あたりを支配していたものの、そこは、農業に適した土地もある一方で適さない地域もあって、その土地争いが激しかったり、農業に頼らず、その経済基盤を交易に求める者もいたり・・・

で、自然と利益を守るための武装も強化されるし、交易するならするで、和歌山という土地柄、船で海路を行くのが手っ取り早いし、各地を移動すれば、当然、最新のハヤリ物にも敏感になるわけで・・・結果お抱えの水軍も保持し、大量の鉄砲も保有し、その操作に熟練した者も、雑賀衆には数多くいたわけで、その戦闘力もハンパない。

そんな彼らが、石山本願寺側に付いて、あの天王寺合戦で・・・となったわけです。

おそらく信長は、この天王寺合戦のあたりから、「本願寺より、まずは雑賀を…」と考え始めたようで・・・というのも、雑賀衆と一口に言っても、決して一枚岩ではなく、彼らは、それぞれの利害関係によって別々に動く集団でもあったわけで・・・

たとえば、雑賀衆の支配圏は、大まかに分けて雑賀庄(さいかのしょう)十ヶ郷(じっかごう)宮郷(みやごう)中郷(なかつごう)南郷(なんごう)という五つの(そう=地域の共同体)に分かれていたとされますが、宮豪・中郷・南郷と呼ばれる農業が盛んな三組は、はなから信長側についていたわけで、信長としては、そこに攻撃の余地があったという事でしょう。

しかも、ここに来て、紀伊の宗教勢力の一角である根来寺も信長の味方・・・と言っても、コチラは積極的な味方ではなく、「敵には回らない」「道案内くらいならするよ」という感じで話をつけていたようですが・・・

とにもかくにも、信長一代の戦史でもトップクラスの数の多さ=数万(あるいは15万とも)と言われる大軍となった織田軍は、天正五年(1577年)2月13日に京都を出発・・・

途中、悪天候により、少々ストップしたものの、17日には雑賀衆の前線拠点である貝塚(かいづか=大阪府貝塚市)に到着・・・ここを襲撃するはずでしたが、ここの守りの者たちが、いち早く退却したため、ここでは、逃げ遅れた若干名が討ち取られたものの、大きな交戦とはなりませんでした。

これについては、「どうやら、信長軍を雑賀支配圏の奥深くまで行かせようとの作戦で、前線はさっさと退却をさせたのでは?」と言われていますが・・・

Saigazeme
信長の雑賀攻め・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして、その5日後の天正五年(1577年)2月22日志立(しだち=大阪府泉南市信達)に到着した織田軍は、ここから、海側を行く浜手と内陸を行く山方の2手に軍勢を分け、進撃していきます。

孝子峠(きょうしとうげ=大阪府泉南郡岬町と和歌山市の境)を越えて、紀ノ川の北岸の雑賀の支配地制圧を目指す浜手には、滝川一益(たきがわかずます)明智光秀(あけちみつひで)丹羽長秀(にわながひで)細川藤(ほそかわふじたか=幽斎)などの面々・・・

一方、風吹峠(かざふきとうげ=和歌山県岩出市)を越えて根来に入り、紀ノ川をを越えて小雑賀(こさいが)に迫ろうとする山方には、佐久間信盛(さくまのぶもり)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)荒木村重(あらきむらしげ)別所長治(べっしょながはる)堀秀政(ほりひでまさ)根来や雑賀の味方衆を加えた面々・・・内陸を進むには地の利が重要ですからね。

こうして2手に分かれたうちの浜手は、さらに、その軍を3手に分け、中央には細川&明智、2の手に信長の息子たち=信忠(のぶただ)信雄(のぶお・のぶかつ)信孝(のぶたか)を据え、残りはもう1手・・・とに分かれて、浜から山から谷からと、入り乱れて進み、この22日の内に淡輪(たんのわ=丹和)から孝子峠まで進み、そこを守る雑賀衆と一戦を交えました。

雑賀衆にとっては、この孝子峠は貝塚の次ぎに控える重要な守りポイントであったわけですが、上記の通り、信長の息子3人が皆、この浜手に属している事からみても、おそらく、コチラが織田軍の主力?・・・その動員数はすざまじく、ここをまたたく間に突破した浜手軍はそのままの勢いで峠を下り、中野城(なかのじょう=和歌山県和歌山市)を包囲します。

この中野城は、現在、その遺構が残っていないので、どれほどの規模だったのか?微妙な所もあるようですが、「砦」ではなく「城」と言う限りは、それなりの装備を整えていたはず・・・しかし、
やはり、この数の差は何ともし難かったのか?
信長自身が淡輪まで進んで来たからなのか?
はたまた織田側の懐柔工作が功を奏したのか?

いずれにしても、1週間後の2月28日、中野城は降伏し、開城となったのです。

さらに3月1日、細川&明智らに命じて、雑賀衆の主将格である鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)居城(位置関係から見ておそらく平井城)を包囲して猛攻撃を仕掛け、コチラも、即日落城してしまいました(落城の日付に関しては3月1日もしくは2日etc諸説あり)

一方、内陸を進んだ山方は・・・と、コチラの戦いぶりに関しては、今回の雑賀攻めが一応の決着を迎える3月15日の日付で、すでに書かせていただいていますので(2011年3月15日参照>>)…ただし、前半部分の雑賀攻めに至る経緯etcについて書いておりますので、その部分は内容がだだカブリであります事、ご了承くださいませm(_ _)m

ところで・・・
浜手の戦いぶりを見れば、突破→落城→落城と来て、なんだか織田軍の大勝利みたいに・・・
一方の山方の戦いぶりを見れば、雑賀側の様々なゲリラ的作戦に少々苦戦の織田軍・・・

てな感じに見受けられますが、実際のところは、よくわかっていません。

織田も雑賀も、双方ともに「俺とこが勝った」と言い、公家の日記もイロイロで、それぞれの覚書も微妙に違う・・・

結局のところは、「ゲリラ的にチョッカイを出す雑賀に対し、織田側は大軍で押し寄せて各地に放火して回る」的な戦いぶりで、最終的にはこう着状態に陥ったようで・・・

ハッキリしている事は、天正五年(1577年)3月15日付けで信長が発給した朱印状くらい?

ただし、これも・・・
「本当やったら成敗すべきだが、今回は赦免してやる」
的な?まるで、吉本新喜劇の池乃めだか兄やんバリの、
(散々ヤラれた末の)
「今日は、これくらいにしといたろかい!」
てな感じのハッタリに見えなくもない
わけで・・・

とは言え、この後、かの本願寺顕如が雑賀の本願寺門徒に対して
「中野の城兵が敵に同心した事は言語道断!」
と激おこの書状を出しているので、中野城が織田の手に落ちた事は事実なのでしょう。

『信長公記』では、疲労困憊した雑賀の一揆勢は、主要人物=7名の連名による誓(せいし=誓いの言葉)を信長の提出し、「今後、石山本願寺には協力しない」事、「信長に従う」事を約束したので赦免にした・・・てな事が書かれていますが、

この後すぐにゴタゴタがあるし、翌・天正六年(1578年)には、先の第一次木津川口の海戦での教訓を活かして、鉄鋼船を完成(9月30日参照>>)しつつあった信長に対抗すべく、顕如が雑賀へ、水軍の出陣要請の書状を何度も送ってるところから見ても、雑賀と本願寺の関係は切れていない感じですね。

やはり今回は、その勝敗はウヤムヤで、天正五年(1577年)3月15日に取りあえずの休戦をした・・・というところでしょうね。

その後いくつかの、史料の乏しいゴタゴタがあった後、天正八年(1580年)3月に本家本元の石山合戦が終結した後、雑賀の内紛もあり、徐々に時代は、群雄割拠から、一人の天下人による統一の時代へと流れて行き、雑賀衆も、その時代の波に呑まれていく事になります。

●関連ページ:
【織田信長の高野山攻め】>>
【重秀・重兼・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一】>>
【「鳥居忠政の仁義」…雑賀孫一とのイイ話】>>
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2018年2月 2日 (金)

織田信長~本圀寺の変からの二条御所の築造

永禄十二年(1569年)2月2日、織田信長足利義昭新御所の築造を開始しました。

・・・・・・・・・・

ややこしいので、まずは・・・
京都において歴史上、二条御所(にじょうごしょ)と呼ばれた建物は3つあり、二条城(にじょうじょう)と呼ばれる城も3つあります。

ただし、
このうち、1番目の二条御所が二条城と呼ばれる事はほとんど無く、2番目&3番目の二条御所が二条城とも呼ばれてカブッていて、最後の二条城が二条御所と呼ばれる事は無いので、合計で二条ナンタラは4ヶ所という事になります。

Nizyougosyo1000
二条城の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

  1. 二条御所(武衛陣御所)=足利義輝の居城
  2. 二条御所または二条城=足利義昭の御所
  3. 二条御所または二条城=織田信長の宿所
  4. 二条城または二条離宮=徳川家の宿所

この4番目の二条城が、徳川家康(とくがわいえやす)が京都に滞在する時の宿所として建てた現在も建物が残る世界遺産の二条城(5月1日参照>>)、明治維新で新政府に明け渡されて天皇家の離宮となっていた事から二条離宮元離宮とも呼ばれたりしますが、このブログでは、そのまま「二条城」と呼んでます。

また、上記の通り、3番目のは二条御所とも二条城とも二条御新造とも呼ばれますが、これが、織田信長(おだのぶなが)が京都に滞在する時の宿所として建てた物で、後に時の天皇である正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第1皇子の誠仁親王(さねひとしんのう)に献上・・・有名な本能寺の変の時に、変を知った信長の嫡男=織田信忠(おだのぶただ)が、宿泊していた妙覚寺(みょうかくじ)から移動して籠城して最期を迎える場所(2015年6月2日参照>>)、このブログでは、いつも「二条御所」と呼ばせていただいてます。

で、今回の話題は、この2番目の第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき)のために信長が建てた二条城の事で「旧二条城」と呼ばれたりもするのですが、ややこしいので、このブログでは「二条御所(義昭御所)と呼ばせていただく事にします。

ちなみに、1番目は剣豪将軍と呼ばれた第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる=義昭の兄)(5月19日参照>>)の居所で、規模は少し小さいものの、場所は今回の義昭御所とほぼ同じ場所であったとされています。
(このブログでは「二条御所(武衛陣御所)と表記させていただいてます)

・‥…━━━☆

ご存じのように、永禄十一年(1568年)9月、足利義昭を奉じて上洛を果たした信長(9月7日参照>>)・・・

これは、上洛の大義名分&手土産が欲しい信長と、将軍の座を狙うも従兄弟の足利義栄(よしひで=14代将軍)に先を越されてしまって、慌てて自分を担いでくれる武将を探していた義昭との利害関係が一致した結果でした(10月4日参照>>)

途中、義栄を支持する六角承禎(じょうてい・義堅)(9月13日参照>>)三好三人衆(みよしさんいんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)を蹴散らし(9月28日参照>>)、10月18日には、見事、義昭が15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)、ようやくの一区切りを迎えたのです。

とは言え、当然ですが、蹴散らされた敵勢も、そのまま黙って蹴散らされっぱなしって事は無いわけで・・・

信長上洛時の戦いで敗れて、一旦領国の阿波(あわ=徳島県)に逃れていた三好三人衆は、年が明けた永禄十二年(1569年)の1月4日、かつて信長に稲葉山城(いなばやまじょう:後の岐阜城=岐阜県岐阜市)を攻め落とされた斎藤龍興(たつおき)(8月15日参照>>)長井道利(ながいみちとし)(8月28日参照>>)などを抱き込んで、その時、義昭が仮御所として宿泊していた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を包囲したのです。

この時、信長は、一旦、岐阜へ戻っていた・・・そのスキを狙われたわけですが・・・

とは言え、籠る義昭側も細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)(7月28日参照>>)らの幕府精鋭たち・・・翌1月5日に開始された攻撃に対して、斬りかかれば追いたて斬り崩し、何度も敵の侵入を阻みつつ応戦します。

そんな中、なかなか攻め込めずにいた三好三人衆方に、翌6日になって、あの上洛時に三人衆とは袂を分かち、信長の傘下となっていた三好家の嫡流である三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)(11月24日参照>>)が、「攻撃中の背後を攻めて来る」との報告が入り、徐々に攻撃の手が緩みます。

やがて、池田勝正(いけだかつまさ)などの摂津(せっつ=大阪府北部)の武将たちもが織田側として参戦するに至り、さすがに形勢不利とみた三好三人衆方は退却を開始・・・追う織田勢は桂川あたりで追いついて激戦となり、多くの者が討死にしたと言います。(「本圀寺の変」もしくは「六条合戦」と呼ばれます)

一方、その同じ1月6日に、岐阜にて本圀寺の仮御所が襲撃された事を知った信長は、義昭を救援すべく、配下の者に、すぐに出立の命令を出しますが、この日はあいにくの大雪・・・それでも、「たとえ自分一人でも駆けつける!」との意気込みで、アタフタと揉める輸送隊や人夫をしりめに、「後からついて来い!」とばかりに岐阜を出立します。

本来なら3日かかるところを2日での強行突破に脱落する者数知れず・・・信長が京都に着いた時には、従う者はわずか10騎だったとか・・・

到着後は、慌てて仮御所に駆け込む信長でしたが、ギリで守りぬいた事を知り一安心。

しかし、この襲撃を受けて、
「これではイカン!早急にちゃんとした御所を建設せねば!」
と信長は決意し、早速、配下の大名たちを招集し、御所の普請を命じたのです。

かくして永禄十二年(1569年)2月2日(『信長公記』では2月27日)、義昭の新御所・・・いや、それは四方に石垣を高く築きあげた、むしろ城と呼ぶにふさわしい堅固な造りの御所構築に取りかかったのです。

『信長公記』によれば、
工事監修の奉行は村井貞勝(むらいさだかつ)島田秀満(しまだひでみつ)が担当し、京都内外から鍛冶や大工の職人を召集・・・また、広く近隣の村々から木材を調達して、猛スピードでありながら手を抜く事なく務め上げたおかげで、わずか70日ほどで、ほぼ完成の状態となったのだとか・・・

将軍の御所らしく、あちらこちらに金銀を散りばめ、庭には流水の池や築山も造営されました。

その際、先の上洛の時に三好三人衆に担がれていた管領=細川昭元(ほそかわあきもと=晴元の息子)の屋敷にあった藤戸石(ふじといし)という名のある大石を、この庭に置こうとひらめいた信長は、自ら細川邸に出向き、大綱を何本もくくりつけた石に、いくつもの花を挿して飾り、笛や太鼓で囃したてつつ、まるでパレードのようにして御所の庭に引き入れたのです。

京都市民へのアピールですな!!
これからは俺らの時代やと・・・

さらに慈照寺(じしょうじ=銀閣寺)の庭に置かれていた九山八海(くさんはっかい)という有名石を取り寄せて御所のお庭に設置・・・って、昭元は敵対したからまだしも、銀閣寺は足利のご先祖様の造った寺やけど大丈夫やったんやろか?

とにもかくにも、春が楽しみな桜も、余すところなく植え、桜のそばには馬場を設け、美しく眺めの良い庭園に仕上げました。

そして、将軍御所の周囲には諸大名にそれぞれの自邸を造らせて、その(いらか)の波は将軍御所をいっそう惹きたて、まるで御所を守っているかのように見えたのだとか・・・

やがて4月14日、義昭が完成した新御所に入りました。

Rakutyuurakugailyosiakigosyo
洛中洛外図屏風に描かれた義昭御所(上杉本・左隻)

とは言え、ご存じのように、このわずか4年後の元亀四年(天正元年・1573年)正月、この義昭御所から、義昭は信長に反旗を翻します(2月20日参照>>)

この時は、一旦、和睦が成立するも、その半年後の7月、義昭は槇島(まきしま)に籠って、またまた信長に反旗を翻し、結果的に京都追放となるのですが、そのお話は
7月3日【琵琶湖の水運と信長の大船建造】>>
7月18日【槇島城の戦い秘話】>>
でどうぞm(_ _)m

にしても、この時の義昭さんの立位置ときたら・・・
信長さんの成すがまま、言う事を聞いていれば良かったのか?
はたまた、結果的に負けたとしても、やっぱり室町幕府将軍としてできうる限りの反発姿勢を出した事が○だったのか?

正解を出すのは難しいですわな(^-^;
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2018年1月18日 (木)

武田VS北条~薩埵峠の戦い(第2次)

永禄十二年(1569年)1月18日、北条氏政武田信玄を攻撃するため四万五千の軍を率いて駿河に出陣し、薩埵峠に布陣しました。

・・・・・・・・・・・

北東方面へと手を伸ばしたい甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)、上洛を見据えて西へと手を広げたい駿河(するが=静岡県中北部)今川義元(いまがわよしもと)、関東支配を強めたい相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(ほうじょううじやす)・・・お互いの利害関係が一致した、この3者の間で相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれたのは天文二十三年(1554年)の事でした。

しかし、その6年後の永禄三年(1560年)・・・強固な同盟の一角であった今川義元が、未だ領国の尾張(おわり=愛知県西部)一国すら統一していない若造(←失礼m(_ _)m)織田信長(おだのぶなが)に、あの桶狭間の戦い(2015年5月参照>>)敗れ、命を落としてしまったのです。

父の死を受けて義元の嫡男=今川氏真(うじざね)後を継ぎますが、これが、なかなかうまく行かない・・・氏真は、世間で言われているほどボンクラなボンボンではありませんが(3月16日参照>>)、なんせ、父の義元が大物過ぎましたから、早々に見切りをつけて離反する者もチラホラ・・・

それでも、しばらくは様子見ぃで同盟関係を保っていた信玄・・・なんたって、あの永遠のライバル=越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)との川中島(9月10日参照>>)だって、未だ決着ついて無いワケですし・・・

ところが、かの桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立(2008年5月19日参照>>)した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)が、このドサクサで旧領を自分の物にしたばかりか、隣国の織田信長と同盟を結んで、今川領の遠江(とおとうみ=静岡県西部)にまで手を伸ばす姿勢を見せ始めます。

Takedasingen600 「イカン!このままでは全部家康に取られてしまう~」
とばかりに、今川との同盟破棄に反対する息子の義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)まで信玄は方針転換・・・信長が間に入って「信玄が駿河を、家康が遠江奪う」という両者間の約束事を取り決めたのです。

もちろん、氏真から見れば
「何、勝手に取り決めとんねん!」です。

かくして永禄十一年(1568年)12月、信玄の南下を知った氏真は、重臣の庵原安房守(いはらあわのかみ)らに1万5千の兵をつけて薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)に出陣させます。

そこは甲斐から駿府(すんぷ=駿河国府)へ侵攻する際に必ず通るであろう重要箇所・・・氏真としては意地でも守らねばなりません。

「ここで武田軍を喰い止めておけば、遅かれ早かれ、必ず背後から北条が援助してくれるはず」・・・でした。

しかし、残念ながら、この薩埵峠で起こったのは小競り合い程度の小さな衝突のみ・・・現地に赴いた今川配下の者が早々に離脱し、戦いらしい戦いも無いままに、今川方は崩れてしまったのです(薩埵峠の戦い~第1次:12月12日参照>>)

これが第1次薩埵峠の戦いと言われる合戦です。

この勢いのまま翌12月13日、信玄は、氏真の本拠である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区)の攻防戦へと突入(12月13日参照>>)・・・猛攻を抑えきれない氏真は、妻子を連れて掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走します。

そんな掛川城を包囲したのは信玄・・・ではなく家康
年が明けた永禄十二年(1569年)1月12日、いよいよ総攻撃を仕掛けるのですが・・・

そんなこんなの永禄十二年(1569年)1月18日、信玄の勝手な同盟破棄に激おこの北条氏政(うじまさ=氏康の息子)は、「敵の敵は味方」とばかりに謙信と結んだ後、武田と徳川に挟まれて窮地に追い込まれた氏真を支援すべく、4万5千の軍勢を率いて出陣し、かの薩埵峠へとやって来たのです。

氏政は、まず、掛川城への援軍として下田城(しもだじょう=静岡県下田市)の城将=清水康英(しみずやすひで)らに約300の兵をつけて海路より送り込み、主力は陸路を蒲原(かんばら=静岡県の中部)まで進み、信玄の背後を狙おうという作戦です。

Hojoujimasa200a ところが、この薩埵峠で1万8千もの武田軍に阻まれ、なかなか前へ進めません。

結局、この1月18日から4月20日までの間、小競り合い程度はあったものの、両者ほぼ対峙したままのこう着状態が続く事になるのです。

最終的に、掛川城にいた氏真が、謙信に信玄の背後を突く事を要請した事で、信玄は兵を甲斐へと戻し、一方の氏政も、信玄が常陸国(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)などに工作を要請していた事を知って、自軍を一旦、相模へと戻しました。

結果、この第2次薩埵峠の戦いは「引き分け」という形で幕を閉じます。

ただし、この間も、徳川相手に籠城戦を続けていたかの掛川城は、結局、永禄十二年(1569年)5月17日に北条の仲介により開城を決意し、徳川と北条の和睦交渉が展開される中、氏真は北条を頼って相模へと逃れました(12月27日参照>>)

氏真が相模へ去った後も信玄は、駿河における更なる優位性を求めて関東各地を転戦するのですが、そんな信玄を、北条は三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)にて待ち伏せして奇襲(10月6日参照>>)・・・互いに多くの死者を出しながらも、コチラもなんだかんだで引き分けに・・・

そんなこんなの11月28日、氏真の重臣であった岡部正綱(おかべまさつな)が、かの今川館を襲撃し、一時的に占拠します。

時を同じくして、北条に庇護を受ける氏真も、氏政の息子=北条氏直(うじなお)を養子に迎え、彼が駿河領有の正統な後継者である事を主張したのです。

こうして、さらに深刻化する武田VS北条・・・ここで武田を一気に潰そうと周辺の諸将への大動員をかける北条でしたが、一方の信玄も、「負けてはならじ!」とばかりに、12月6日には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を攻撃して、城主の北条綱重(ほうじょうつなしげ=氏信・氏康の従兄弟)を討ち取り(12月6日参照>>)、続く12日には、北条勢が薩埵峠付近に展開していた砦(とりで)を次々に落として行ったのです。

これらの信玄の怒涛の進撃により、やむなく北条は駿河周辺から撤退する事に・・・

とは言え・・・
皆様ご存じのように、そんなこんなしている間に、将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて永禄十一年(1568年)に上洛を果たした(9月7日参照>>)あの織田信長が、畿内にて、その将軍にさえ物申す大きな存在になりつつあった(1月23日参照>>)わけで・・・

こうして、戦国は、更なる時代へと突入していく事となります。
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2017年12月26日 (火)

松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い

天正元年(1573年)12月26日、筒井順慶を主力にるす織田信長軍に攻められた松永久秀父子が多聞城を明け渡しました。

・・・・・・・・

畿内を制する三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として活躍していた松永久秀(まつながひさひで)・・・主君の命を受けて永禄二年(1559年)頃から大和(やまと=奈良県)への侵攻を開始(11月24日参照>>)、間もなく信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城。

その後、長慶の死によって衰退し始めた三好家を盛りたてる中心人物の一人となった久秀は、永禄八年(1565年)には三好氏の縁者である三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)とともに第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)して(暗殺には久秀は関与していない説もアリ)第14代将軍=足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立し、大和国衆の二大巨頭である筒井(つつい)筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)攻め(11月18日参照>>)や、越智(おち)貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)攻防戦(9月25日参照>>)など繰り返していましたが、やがて永禄十一年(1568年)9月、亡き義輝の弟で室町幕府第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて織田信長(おだのぶなが)が上洛(9月7日参照>>)すると、敵対する筒井氏の筒井順慶(つついじゅんけい)よりも先に、三好家の後継者である三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)とともに、いち早く信長に降伏して傘下となり、その後ろ盾を以って、更なる奈良の支配を進めていました。

Matunagahisahide600a しかし、その信長と久秀の関係は、まもなく崩れます。

久秀の心が、どのあたりから反信長に移ったのかは定かではありませんが、信長上洛から2年後の元亀元年(1570年)には、すでに、信長と将軍義昭との間にギクシャク感が出始め(1月27日参照>>)、その年の6月には、信長VS浅井(あざい)&朝倉(あさくら)との姉川の戦い(6月28日参照>>)があり、9月には野田福島戦で、本願寺のおおもと=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が参戦し(9月12日参照>>)、その流れから、翌年には比叡山(ひえいざん)(9月12日参照>>)や本願寺門徒による長島一向一揆(5月16日参照>>)も反信長に参戦・・・さらに翌年の元亀三年(1572年)には、上洛の気配を見せる武田信玄(たけだしんげん)三方ヶ原(12月22日参照>>)で、信長の同盟者である徳川家康(とくがわいえやす)と激突し、その翌日には犀ヶ崖(さいががけ)で討死にした平手汎秀(ひらてひろひで=信長の傅役・平手政秀の三男?)の首が、これ見よがしに信長のもとに送られて来る(12月23日参照>>)・・・いわゆる、義昭の呼びかけによる信長包囲網的な物に信玄が参戦して来たわけで・・・

この信玄という大物の包囲網参戦には、久秀の心も、大いに揺れた事でしょう。

さらに、翌・天正元年(1573年:7月に元亀より改元)1月には、信玄は野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)へと駒を進め(1月11日参照>>)、翌2月には、義昭自身が決起(2月20日参照>>)します。

信長包囲網ここに極まれり!!
嫡男の松永久通(ひさみち)を信貴山城に入れ、自らは多聞山城にあった久秀が、明確な反信長の狼煙を挙げたのは、この年の5月の事でした。

久秀の反旗を知った信長は、これまで度々久秀と敵対していた筒井順慶に、「多聞城を潰したれ!」と合力の援軍を出して攻めさせたのです。

『二条宴乗日記』によれば・・・
5月16日に順慶が奈良の三条に進出・・・これを受けて多聞山城の松永勢も出陣したと・・・

しかし、皆様ご存じのように、実は、この時点で、あの大物=武田信玄は、すでに亡くなっています。

あまりにドラマっぽくで「ホンマかいな?」と思ってしまいますが、『武田文書』などの記述によれば、久秀がこの信玄の死を知ったのは、上記の出陣の翌日=5月17日の事だったとか・・・

この少し前に、久秀が「信長包囲網の一員として頑張るんで、是非とも信玄さんのご協力を…」てな内容の手紙を出していたところ、この日に武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)からの返書が届き、そこに信玄の死の事が書いてあったのだとか・・・(4月16日参照>>)(←3年間隠すんやなかったんか~い☆\(^^;))

とは言え、例え巨頭が死んだとて、久秀にはまだ希望はあります。
なんたって、将軍が挙兵してるんだし、浅井&朝倉もいるんだし・・・

ところが、この年の7月に槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻められた義昭は、息子を人質に出して信長に降伏(7月18日参照>>)・・・続く8月に越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月23日参照>>)信長に攻められ、ともに自害して果てました。

さらに11月16日には、以前、久秀とともに信長に降ったものの、やはり義昭絡みで反発した三好義継が、信長に若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)攻められ自刃し、同じ11月には残る本願寺も、どうやら信長との休戦の協定が結ばれた様子・・・この11月には、本願寺の第11代法主=顕如(けんにょ)から贈られた白天目茶碗(はくてんもくちゃわん)で信長が茶会を開いた事が記録され、『本願寺文書』にも、顕如のもとに信長からの礼状が届いた事が記録されています。

もちろん、この間も順慶率いる筒井を主力とした織田軍の多聞城攻撃は続けられていたわけで、その連日に渡って響き渡る銃声は、あの東大寺まで聞こえて来ていたとか・・・

もはや完全なる孤立無援となってしまった久秀・・・やむなく天正元年(1573年)12月26日、突如として織田軍の将=佐久間信盛(さくまのぶもり)多聞山城を明け渡したのです。

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多聞山城のい戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その後の多聞山城は明智光秀(あけちみつひで)が城番として入り、その後も柴田勝家(しばたかついえ)細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)、さらに塙直政(ばんなおまさ=原田直政)大和守護に任じられて城に入り、大和や河内一帯を治めていましたが、この直政が本願寺との合戦で死亡したため、天正四年(1576年)5月に、今回の多聞山城戦キッカケで信長の傘下となった筒井順慶が、大和一国を賜ると同時に多聞山城に入城しますが、そのわずか2ヶ月後に多聞山城は破却されました。

とは言え、ご存じのように、この天正元年の多聞山城落城の時には、信長は久秀父子を許しています。

翌・天正二年(1574年)1月早々、赦免のお礼のために岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を訪れ、信長に謁見した久秀は、名刀=不動国行(ふどうくにゆき)を献上したという・・・
※ちなみに、この天正二年(1574年)の3月には、奈良を掌握した事を内外に知らしめるかのように、信長は東大寺正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)削り取りに来てます(3月28日参照>>)

以前も書かせていただきましたが(2009年12月26日参照>>)、やはり久秀は、信長にとって、魅力的なチョイワルオヤジ(←古いww)だったのかも知れません。

ただ・・・それこそ、皆様ご存じのように、このチョイワルオヤジは、この5年後に、またまた信長に反旗をひるがえします。。。と、そのお話は信貴山城の戦いでどうぞ>>
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2017年12月 1日 (金)

秀吉の中国攻め~黒田&竹中=二兵衛が迫る福原城の戦い

天正五年(1577年)12月1日、信長の命を受けた秀吉の中国攻めの福原城の戦いで、福原則尚の福原城が開城されました。

・・・・・・・・・・

元亀四年(天正元年=1573年)7月に、第15代室町幕府将軍足利義昭(あしかがよしあき)槇島城(まきしまじょう)を攻撃し(7月18日参照>>)、続く8月に越前の朝倉と北近江の浅井を倒し(8月28日参照>>)、翌・天正二年(1574年)に長島一向一揆をせん滅し(9月29日参照>>)、さらにその翌年の天正三年(1575年)5月に、あの武田を長篠で撃ち破った(5月21日参照>>)織田信長(おだのぶなが)・・・

その年の11月に、これまで本拠としていた岐阜城美濃(岐阜県)尾張(愛知県西部)2国の家督を、嫡男の織田信忠(のぶただ)に譲り(11月28日参照>>)、翌・天正四年(1576年)の2月から安土城の築城に取りかかった(2月23日参照>>)信長は、この時点で、日本の中央部を抑えつつありましたが、そんな中で、信長とって気になる存在越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と、安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと)でした。

どちらも、誰もが一目置く大大名ですので、これまでは、お互いを尊重し、表向きには争わない雰囲気を醸し出していましたが、ここに来て、北陸へと手を伸ばした謙信(3月17日参照>>)が、すでに元亀元年(1570年)から信長とは石山合戦を展開中(9月12日参照>>)の本願寺第11代・顕如(けんにょ)と和睦した事(5月18日参照>>)、また、畿内を追われた義昭が毛利を頼った事、などから、上杉&本願寺&毛利という三者の共通の敵が信長~という状況に・・・

この天正四年(1576年)の7月には、信長勢の警戒を破って毛利傘下の村上水軍が顕如の籠る石山本願寺に兵糧を運び込む事に成功する第一次木津川口海戦(7月13日参照>>)もありつつ、刻々と迫りくる謙信の影も・・・(8月14日参照>>)

そんな中で、織田家内では、
北陸方面を柴田勝家(しばたかついえ)(9月18日参照>>)
山陰方面を明智光秀(あけちみつひで)(10月29日参照>>)
伊勢方面を織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)(11月25日参照>>)
などに担当させる中、
西国の雄=毛利と対峙する山陽方面を担当させたのが羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)でした。

Kurodazyosui500 この時、播磨(はりま=兵庫県南西部)御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)主の寺政職(こでらまさもと)の家臣=黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)など、いち早く味方についてくれる(11月29日参照>>)者もいましたが、一方で、毛利の色濃い備前(びぜん=岡山県南東部)との国境に近い西播磨の国衆たちは、やはり毛利への思いが強く、そう簡単に織田方の秀吉へなびこうとはしなかったのです。

そんな中の一人が上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)赤松政範(あかまつまさのり)でした。

Takenakahanbee600 天正五年(1577年)11月27日、能見川(のうみがわ=千種川支流)を渡った秀吉は、この上月城へと攻撃を仕掛けるのですが(11月29日参照>>)、それと同時に、周辺の支城を落とす多面的作戦を展開・・・自らの本隊は、上月城正面の仁位山(にいざん=兵庫県佐用町)へと向かう一方で、かの黒田官兵衛と竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)ら2千余騎を福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)へ派遣したのです。

実は、この時、福原城にいた高倉山城(たかくらやまじょう=同佐用町)主=福原助就(ふくはら すけなり)は、福原城主の福原則尚(のりひさ)とは同族であり、未だ信長に従わぬ宇喜多(うきた)(10月30日参照>>)の家臣であると同時に、上月城の赤松政範の妹婿でもあった関係から、今回の秀吉の進軍に対しては、かなり強い抵抗を抱いていたわけです。

Fukuharazyoynotatakai
福原城の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『播州佐用軍記』によれば、
翌・11月28日、千種川(ちくさがわ=兵庫県南西端部を流れる)上津の渡しから川を渡った竹中軍は、福原城内から撃って出た福原方の兵により、かなり多くの犠牲者を出しつつも、何とか福原軍を城内へと追い込みます。

その後、ただちに周辺の山麓に火を放って、あぶり出しの総攻撃にかかりますが、この作戦は失敗に・・・

ここで、本隊から加勢にやって来た蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)が猛攻撃を仕掛けますが、やはり福原城を落とす事はできず・・・

とは言え、上記の通り、すでに敵を城内へ追い込み、そこをネズミ一匹逃がさぬ状態で包囲は完了しているわけで・・・ならば、このまま、長期に渡る籠城戦=兵糧攻めに持ち込むべきか?

との案も浮上しますが、そんなこんなの天正五年(1577年)12月1日、搦(から)め手からの鉄砲一斉射撃を開始した蜂須賀勢勢に歩調を合わせるように、大手を攻める黒田軍&竹中軍も一斉射撃を開始・・・

これを受けた城内では大手と搦め手の応戦に手勢を分散せねばならないばかりか、これまでの連日に渡る射撃攻撃に応戦していたため、今回の二刻ほどの一斉射撃に応戦している間に、城内の弾薬が尽きてしまう事態に・・・

この状況に浮き足立つ城内・・・その様子を見て取った黒田官兵衛の采配のより、黒田軍が一気に城内へと突入し、福原城の開城を成功させたのです。

この時、孫子(そんし)の兵法『囲師(いし)には必ず闕(か)き』「囲む時は逃げ道を作っておく」(本家HP:孫子の兵法「軍争編」参照>>)を実践した官兵衛によって用意された一方向の逃げ道に敗走の兵士が殺到する中、同じく脱出を図った助就は、潜んでいた伏兵に追い詰められて自害したとも、秀吉方の平塚為広(ひらつかためひろ)なる武将に討ち取られたとも言われます。

また、別の説では、高倉山を守っていた赤松の兵が、秀吉本隊の猛威に恐れをなして戦線離脱してしまったために、助就が、その高倉山城を救援に向かうべく福原城を出たところで、竹中軍と遭遇・・・激戦となってしまい、高倉山に向かう事を断念した助就は、福原城内へと戻って自害したとも伝わります。

いずれにしても、この日の戦いによって福原城は開城となり、助就が命を落とした・・・という事は確かな事だと思われます。

この間、秀吉本隊の猛攻を受けていた上月城では、翌・12月2日に敵陣に夜襲をかけるも失敗・・・コチラは12月3日に陥落し、尼子氏(あまこし)の再興を願う山中鹿之介(やまなかしかのすけ・幸盛)(7月17日参照>>)に、この上月城の守りを任せた秀吉は、更なる三木城攻防戦へと向かう事になります。

この後の出来事の参照ページ
三木の干殺し~別所長治の籠城戦>>
信長に見捨てられた上月城>>
山中鹿之介奮戦!上月城の攻防>>
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