2021年4月14日 (水)

義景を裏切った朝倉景鏡の最期~天正の越前一向一揆・平泉寺の戦い

 

天正二年(1574年)4月14日、越前一向一揆に攻められた朝倉景鏡アラタメ土橋信鏡が討死しました。

・・・・・・・・・

ご存知、織田信長(おだのぶなが)浅井朝倉攻め・・・

天正元年(1573年)、小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)北近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月20日参照>>)信長はいよいよ越前を手に入れました。
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)

この時、かつての姉川の戦い(6月28日参照>>)から3~4年の月日がある事で、その間に朝倉を見限って織田方に寝返った元朝倉家臣も多くいたわけで、
大河ドラマ「麒麟がくる」でのこの表情
37kirinkageakira
で話題になった朝倉景鏡(かげあきら)もその一人ですが、

この景鏡さんは、ドラマの通り、主君を裏切るのは最後の最後なわけですが、かなり早いうちから織田方へと寝返って、情報を流し道案内をしていたのが、今回の朝倉滅亡をキッカケに前波吉継(まえばよしつぐ)から名前を改めた桂田長俊(かつらだながとし)で、
そのおかげで信長から朝倉の本拠であった一乗谷の守護代という大役に抜擢されたのでした。

しかし、上記の通り、朝倉からの寝返り組は他にも・・・

で、そんな桂田長俊の足を引っ張ろうとしたのが、同じ寝返り組で府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)で、

そのために、加賀一向一揆の一翼の大将を担う杉浦玄任(すぎうらげんにん=げんとう・壱岐)と連絡を取って援軍を要請し、なんと一向一揆の力を借りて桂田長俊を攻めたのです(くわしくは1月20日参照>>)

そもそも、加賀と越前は隣国という位置関係でもあり、朝倉の統治時代から越前一向一揆が盛んで何度も交戦していた(8月6日参照>>)わけで、その軍事力たるや戦国武将にも匹敵するほど・・・

結果、天正二年(1574年)1月20日、富田長繁は勝利し、その勢いのまま、信長が北ノ庄(きたのしょう=福井県福井市)に置いていた代官所も襲撃し、目付として赴任していた3人の奉行まで追放してしまいますが、

ここらへんでハタと気付いた?
自分は、織田の配下であり、その織田は大坂にて石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・一向宗総本山)と抗戦中だと・・・

しかし、時すでに遅し・・・案の定、桂田長俊に勝利した一向一揆は、もはや富田長繁の援軍もクソもなく、その勢いのまま走り続けるのです。

かの桂田攻めから半月と経たない2月上旬には、朝倉の旧臣が守っていた中角館なかつのやかた=福井県福井市中角町)を攻撃して占拠し、2月15日には丹波(たんば=京都中部・兵庫北東部)の一向一揆と合流し、やはり朝倉旧臣の拠る三留城(みとめじょう=同福井市三留)も奪います。

さらに2月18日には、やはり朝倉旧臣だった黒坂景久(くろさかかげひさ=この頃はすでに死去)の3人の息子が守る舟寄館(ふなよせやかた=福井県坂井市丸岡町)を襲撃して三兄弟を討ち片山館(かたやまやかた=福井市片山町)に拠る富田長繁の腹心も血祭りにあげました。

もちろん、彼らは正式な軍隊でなく一揆衆ですから、複数のリーダーが率いる別々のグループが、どこからともなく湧いて出るように現れ、ある時は寄り集まって大軍となり、ある時は、また違うグループ同志がくっついたりしながら暴れ回るので始末が悪い・・・

そんな中、一揆の総大将として本願寺から派遣されていた下間頼照(しもつまらいしょう)は、杉浦玄任とともに豊原寺(とよはらじ=福井県坂井市丸岡町)に陣を置いて、一連の一揆の成果となる首実検をしていましたが、

ここに来て、最後の最後に朝倉を裏切って今は土橋信鏡(つちはしのぶあきら)と名を改めている朝倉景鏡(ややこしいので本日は景鏡さんの名のままで…)を討つために発進します。

すでに、その兆候を察していた景鏡は妻子を逃した後、自らも本拠の戌山城(いぬやまじょう=福井県大野市犬山)を出て、郎党とともに平泉寺(へいせんじ=福井県勝山市平泉寺町)に立て籠もっていました。

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越前一向一揆平泉寺戦の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正二年(1574年)4月14日未明、2万余騎の大軍となった一向一揆が攻め寄せ、平泉寺手前の村岡山(むろこやま=福井県勝山市村岡町)にて景鏡軍とぶつかります。

一進一退の死闘が繰り広げられるものの、もともと景鏡の軍は総勢8300余騎で、一揆勢の数にはかなわぬわけで・・・やがて怒涛の如く押し寄せる敵兵に押され気味の景鏡軍は平泉寺へと後退し、その数は、わずか50~60騎に減ってしまいます。

「もはや、これまで!」
を覚悟した景鏡は、腹心である杉本(すぎもと)江村(えむら)の二人を連れ、主従ただ3騎にて、多勢の一揆勢の真っただ中に斬り込みますが、そんな中で杉本&江村の二人が討たれたのを見て、

「雑兵の手にかかるは無念なり!」
と叫んで、自らの太刀を胸元に突き立て、その姿のまま、馬からドッと落ち、息絶えたところを袋田(ふくろだ=福井県勝山市)の住人に首を取られたのだとか・・・

 景鏡の首実検を済ませた下間頼照は、景鏡の二人の息子(10歳と6歳)も捕らえて処刑し、3人の首を木に吊るして晒したという事です。

ちなみに、このあたりが現在「福井県勝山市」なのは、この時、村岡山にて一揆軍が勝利した事に由来すると言われています。

とは言え、まだまだ収まらぬ一向一揆・・・

5月には、同じく朝倉の旧臣で織田に降った朝倉景綱(かげつな)織田城(おだじょう=福井県丹生郡越前町)を攻め立て、景綱はたまらず城を明け渡し、妻子を連れて敦賀(つるが=福井県敦賀市)へと落ちて行きました。

一方、この間も、
「チョットやり過ぎた」
と反省しきりの富田長繁は、なんとか信長に許してもらおうと弁明に走りますが、信長の怒りが収まる事はなく、逆に、その態度は協力してくれた一向一揆にも歯向かう行為なわけで・・・

「富田長繁が、またぞろ織田の傘下に納まるんやったら、いっその事いてまえ~」
とばかりに、一向一揆は富田長繁を攻撃し、天正三年(1575年)2月18日、長繁は一揆との抗戦中、銃弾に倒れました(2月18日参照>>)

これで、名実ともに、越前は一向一揆の持ちたる国になってしまったわけです。

ただし、
もちろんではありますが、信長さんが、越前をこのままにしておくはずは無いわけで・・・

この年の5月に、武田勝頼(たけだかつより)を相手にした長篠設楽原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)を終えた信長は、

天正三年(1575年)8月に自ら越前へと向けて出陣・・・北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)をはじめとする約3万の大軍が越前一向一揆のせん滅にやって来るのですが、そのお話は8月12日のページでどうぞ>>
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2021年4月 7日 (水)

家康の侵攻で…奸臣か?忠臣か?~井伊家の家老・小野政次

 

永禄十二年(1569年)4月7日、 徳川家康の侵攻を受けた遠江井伊谷城を占拠していた小野政次が処刑されました。

・・・・・・・・

小野政次(おのまさつぐ)は、遠江(とおとうみ=静岡県の大井川以西)井伊谷(いいのや=静岡県浜松市北区引佐町)を支配していた国人領主=井伊(いい)家老であった小野政直(まさなお)の息子で、天文二十三年(1554年)8月27日に死去した父の後を継いで井伊家の家老を務めた人物・・・名前は小野道好(みちよし)だったとも伝わりますが、本日は、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で採用されていた政次というお名前で…

大河ドラマでは高橋一生さんの好演で、これまで残る井伊家の記録で悪役一辺倒だった小野政次さんの印象がずいぶん変わった事は、記憶に新しいところです。

この頃の井伊家は、東海一の弓取りと称された駿河(するが=静岡県の大井川以東)今川義元(いまがわよしもと)の傘下であり、父の小野政直は、その今川に忠誠を誓う気持ちが強かったため、逆に今川と距離を置きたい井伊一門とはことごとく対立して、その敵対勢力を謀殺したりする奸臣(かんじん=邪心を持つ家臣)で、当主=井伊直盛(いいなおもり)に逆らって井伊家をわが物にした人物のように伝えられています(1月12日参照>>)

 そのためか?小野政直の死をキッカケに、それまで危険を感じて身を隠していた井伊直親(なおちか=直盛の甥)が領国に戻って来て、後継ぎ男子がいなかった井伊直盛が、直親を養子に迎えたりしていました。

 小野政次が父の後を継いで家老になった頃は、このような状況だったわけですが、そんなこんなの永禄三年(1560年)5月、大看板の今川義元が、尾張(おわり=愛知県西部)の一武将であった織田信長(おだのぶなが)に敗れる、あの桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市栄町・同名古屋市緑区)の戦い(2015年5月19日参照>>)があり、今川軍に従軍していた井伊直盛が討たれてしまいます。

この桶狭間では、小野政次も弟の小野朝直(ともなお)などを失いますが、ここで、亡き直盛に代って新当主となる養子の直親は、仲が悪かった父の時代からの因縁もあって、やはり直親も小野政次とはソリが合わないわけで・・・

そんな中、桶狭間キッカケで今川での人質生活から脱出して(2008年5月19日参照>>)独立した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)が、義元を討った相手の信長と同盟を結び(1月15日参照>>)、今川と縁を切っての領国経営をこなし始めます。

これまで、家康が人質に取られていた松平同様に、命令一つ出すにも大大名の今川にお伺いを立てて気遣いせねばならないような立場だった井伊の者から見れば、
「家康ができんねやったら、俺らもイケんちゃうん?」
と、隣人=家康の様子を見て、独立を夢見る者もチラホラ・・・どうやら、当主=直親自らが、そのような感じで、家康に近づいて行ったとか・・・

ただし、実際には、どこまで德川に内通したか?あるいはまったくしてなかったのか?がわかっておらず、そこはあくまで「内通の疑い」だったわけですが、

未だ今川に忠誠を誓う小野政次が義元の後を継いだ息子=今川氏真(うじざね)に、その「内通の疑い」をチクり・・・

それを信じた氏真の命によって、直親は、駿河への弁明に向かう途中に今川家臣によって殺されてしまいます。

氏真は、直親の息子である虎松(とらまつ=後の井伊直政)も殺害すべく小野政次に命じますが、そこは、親井伊派の今川家臣=新野親矩(にいのちかのり)の助けによって虎松は身を隠し、無事乗り切りました。

しかし、その後、永禄六年(1563年)に井伊直平(なおひら=直盛の祖父)も亡くなった事から、井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)には城主がいなくなってしまったため、出家していた、亡き直盛のひとり娘=次郎法師(じろうほうし)を還俗させて井伊直虎(なおとら)と名乗らせ、井伊家の当主としました。
(↑この方が大河の主役…くわしくは【戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎】で>>内容カブッてますがスミマセン)

Tokugawaieyasu600 しかし、そんなこんなの永禄十一年(1568年)、織田信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)一方で、同盟者の徳川家康は隣国=遠江への侵攻を開始するのです。

これは、大黒柱の義元を失って後、息子=氏真が後を継ぐも、なかなかウマく領国経営できずにいた今川の領地を狙っての行動・・・

これを見た甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)は、
「このままやったら今川の領地全部、家康に取られるやん!」
とばかりに、これまでは、その領地を北側へと広げるべく、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)とドンパチやってた【川中島の戦い】参照>>)のを、ここに来て矛先を南へとシフトチェンジ・・・

信長の仲介で(今川領地の)大井川から西は家康が、東は信玄が…との約束を交わし、両者は、ともに今川を倒しにかかって来たのです。

この時、今川軍に従軍していた小野政次は、氏真から、
「虎松を殺害して井伊谷を掌握し、井伊軍を連れて今川方に加勢せよ」
との命を受け、井伊谷城を占拠・・・直虎&虎松らは、何とか城を脱出して菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ=静岡県浜松市北区)に身を寄せました。

一方、かつて義元が健在の時期に、武田や今川とともに甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐&相模&駿河の三国)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(うじやす)は、今回の信玄の勝手な裏切り行為に激怒して挙兵しますが【薩埵峠の戦い】参照>>)、信玄はそれらをかわしつつ、

12月13日には氏真の本拠である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・駿府城)を攻撃して駿府を陥落させ(2007年12月13日参照>>)、負けた氏真は、やむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走ます。

そして、まさに、この同じ12月13日に遠江へと入った家康・・・その道案内をしたのは、井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)と呼ばれる菅沼忠久(すがぬまただひさ)近藤康用(こんどうやすもち)鈴木重時(すずきしげとき)の3人。

そう、今川に忠誠を誓って井伊谷城を占拠した小野政次に対し、彼らは家康の側についたのです(2019年12月13日参照>>)

家康は、近隣の刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市)白須賀城(しらすかじょう=静岡県湖西市)などを破竹の勢いで次々と落とす一方で、かの井伊谷三人衆に井伊谷城の奪回を命じ、自らは、12月18日に引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入って(12月20日参照>>)、氏真が逃げた先=掛川城の攻撃に入るのです(12月27日参照>>)

このように圧倒的な力の差にある德川という後ろ盾を得た井伊谷三人衆に対し、もはや頼みの当主まで逃げちゃった小野政次ら今川派・・・勝敗は火を見るよりも明らかな中、負けた小野政次らは、何とか井伊谷城から逃走して、その身を隠しますが、

翌年、3月27日に起こった、壮絶な堀川一揆(ほりかわいっき)(3月27日参照>>)の際に、德川軍によって見つけ出されて捕縛されてしまいます。

かくして永禄十二年(1569年)4月7日、小野政次は、直親讒言の罪により、井伊谷川付近の仕置き場にて処刑されたのです。

その1ヶ月後には、二人の息子も処刑されました。

…とまぁ、讒言やら横領やら、とにかく、記録に残る小野政次は、悪役そのもの・・・残る史料が少なく、それも、かの虎松こと後の井伊直政(いいなおまさ)が家康の家臣として大出世した事で、
「この井伊家の歴史は…」
みたいな感じで編さんされたり、あるいは、他家の記録にチョコッと出てきたり・・・みたいな感じですから、幼き直政と敵対関係となる小野政次側を良く書き残す事は無いわけですし、別途残る書状なども非常に少ない。

とは言え、一連の出来事を冷静な目で見つつ、かつ、あの大河ドラマでの高橋政次さんの死に際がカッコ良かった事も相まって、ここのところ、少し違った見方もされるようになって来ました。

と言うのも、そもそも、その弱小さゆえ、今川の傘下となって生き延びていくしかなかった井伊家は、独立した家康が、信長や信玄とタッグを組んで事を起こし始めた時点で、
「このドチラにつくのか?」
が最大の生き残りの分かれ道であったはずで、周辺の同じような立場の国人領主たちは、その判断に悩み、その動向いかんによっては、滅亡も覚悟せねばならなかったわけで・・・

現に、この時、井伊家と同じく今川傘下で、同じく先代を桶狭間で失っている引馬城の飯尾(いのお)は、それ以前に離反を疑われて今川から攻められていたにも関わらず、家康の侵攻に対して、あからさまに德川につく事なく城の開けけ渡しを拒んだ事により德川軍に攻め込まれて落城しています(先の12月20日参照>>)

つまり、家康が遠江侵攻を開始した以上、井伊家だって、井伊谷城を明け渡して家康に降伏するしかなかった状況だったはず・・・

しかし、ギリギリの線で井伊三人衆を道案内に向かわせるとともに、井伊谷城が小野政次に占拠されている状況だったからこそ、德川軍から直接攻撃される事も無かったし、その後に直虎&虎松が復帰=事実上領地を安堵される事になるわけです。

細かな事情がハッキリしないので断言はできませんが、
家康の侵攻と三人衆の道案内と小野政次の井伊谷城占拠が、ほぼ同時だったという、この経緯と結果だけを見れば、井伊家は、小野政次一族をスケープゴートにする事で、城を差し出す事もなく生き残った・・・という事になります。

もちろん、
小野政次が自ら望んで捨て石となったのか?
はたまた、この機会に主家=井伊家に取って代ろうとしたのか?

人の心の奥底はわかりませんが、戦国ファンとしては前者を願うばかりです。

ちなみに、このあと、掛川城の攻撃に手間取った家康が、北条氏康と和睦を結び、北条の助力によって掛川城を開城に導いた事から、信玄と家康とが手切れとなり【信玄の大宮城の戦い】参照>>)、最終的に、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)の戦いへと繋がっていく事になります。 .

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2021年3月 3日 (水)

武田勝頼の逃避行~信長の甲州征伐

 

天正十年(1582年)3月3日、武田勝頼新府城に火を放ち、岩殿城へと向かいました。

・・・・・・・

甲斐(かい=山梨県)の御大=武田信玄(たけだしんげん=晴信)亡き後、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)は、大きすぎる父の影を払拭するがの如く戦いにまい進し、天正二年(1574年)2月には明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を落とし(2月5日参照>>)、その3ヶ月後の5月には父=信玄も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を奪い(5月12日参照>>)信玄時代より広い領地を獲得します。

それというのも、もともとは四男で諏訪(すわ)家を継ぐはずだった勝頼が武田の当主となった事や、それを踏まえた信玄の遺言のせいで、勝頼と父の代からの家臣たちとの間に亀裂が生じ始めていたため・・・

それを修復するためにも、勝頼は古い家臣に歩み寄りつつ、父よりも戦上手な姿を見せねばならず、そこに重きを置いていたように見えます(4月16日参照>>)

しかし、一方で、信玄の死を知った三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)を奪われ(9月8日参照>>)、それを取り返しに行った天正三年(1575年)の有名な長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦いで、手痛い敗北を喰らってしまった(5月21日参照>>)あたりから、勝頼と家臣団との間の亀裂は、さらに大きくなっていくのです。

その勢いに乗る家康は、天正三年(1575年)6月に光明城(こうみょうじょう=同天竜区山東字光明山・光明寺跡)、8月に諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)、12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二俣町)(12月24日参照>>)、さらに天正五年(1577年)に天正七年(1579年)と何度も持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を攻撃する(9月19日参照>>)など、徐々に、その境界線を武田側へと詰め寄っていきます。
(天正九年(1581年)には高天神城をも落としています…3月22日参照>>

他方、かの長篠設楽ヶ原で家康の同盟者として戦った織田信長(おだのぶなが)は、すでに元亀四年(天正元年=1573年)7月に将軍=足利義昭(あしかがよしあき)京都から追放(7月18日参照>>)、8月20日には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月20日参照>>)、8月29日には北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あさいながまさ)(8月28日参照>>)葬り去った後、天正八年(1580年)8月には10年に渡る石山本願寺との戦いに終止符を打って(8月2日参照>>)畿内を掌握した事で、憂いなく遠方への平定に向かえる状態となったわけで・・・

すでに、この頃には、織田配下の明智光秀(あけちみつひで)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)を平定し(8月9日参照>>)但馬(たじま=兵庫県北部)を押さえた羽柴秀吉(はじばひでよし=豊臣秀吉)は次の播磨(はりま=兵庫県南西部)の平定も視野に入れ(4月1日参照>>)、北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)加賀(かが=石川県南西部)平定目前でした(3月9日参照>>)

この状況に対抗すべく、武田勝頼は天正九年(1581年)から新たな城の構築を開始し、その年の暮れ頃に武田の本拠地であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)から新しい城へと引っ越します。

Sinpuzyoua 「甲州新府古城之図」
(山梨県立博物館蔵)

この新らしい城が、武田勝頼の失策?とも言われる新府城(しんぷじょう=山梨県韮崎市)ですが、

よくよく考えてみれば、上記の通り、信玄時代よりも武田の領地は広がったわけですし、その勢力範囲で見る限り、甲府(こうふ)より韮崎(にらさき)の方が中心に近いし、何より、勝頼は、未だ半士半農だった家臣団を、この城下に集めて統率を取りつつ、再編成するつもりであったとされ、どうやら、この先を見据えた新しい領地経営を目指していたようで、

そうなると、それほどの失策とも言えないわけですが、

ただ・・・少々時期が遅かった?

なんせ、暮れの引っ越しから間もなくの年明け=天正十年(1582年)1月27日に妹婿の木曾義昌(きそよしまさ)織田方へ寝返ったのです。
(実際には2年前くらいから水面下で織田に内応してましたが…)

早速、勝頼は従兄弟(信玄の弟=信繁の子)武田信豊(のぶとよ)と異母弟の仁科盛信(にしなもりのぶ=信玄の五男)木曽谷(きそだに=木曽川上流の流域・義昌の所領)へ向かわせるのですが、これを知った義昌が、信長に救援を要請し、天正十年(1582年)2月9日、織田信長の甲州征伐が開始される事になります(【甲州征伐開始】参照>>)

信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)を総大将として木曽口から、徳川家康が駿河口から、金森長近(かなもりながちか)飛騨(ひだ)から、北条氏政(ほうじょううじまさ)関東口から、それぞれ武田の領国へと怒涛の進撃を開始します。

武田の重臣だった穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)が織田方に寝返った(3月1日参照>>)3月1日には、勇将=依田信蕃(よだのぶしげ)が守る田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)が開城し(2月20日参照>>)、翌2日には仁科盛信の壮絶な死とともに、守っていた高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)が陥落します(3月2日参照>>)

本来は、高遠城が抵抗している間に今後の策を練ろうと考えていた勝頼でしたが、こうなってしまっては、未だ完全なる姿とは言えない新府城で応戦する事は不可能と考えます。

この時、
配下の真田昌幸(さなだまさゆき)が自らの城=岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡)での籠城を進言したものの、小山田信茂(おやまだのぶしげ)も自身の岩殿城(いわどのじょう=山梨県大月市賑岡町)での籠城を進め、家老の長坂光堅(ながさかみつかた)以下、複数の重臣が小山田の岩殿城へ行く事を勧めたので、勝頼は、そうする事に決めた

とされていますが、
一方で、この頃の真田昌幸は、すでに密かに北条と連絡を取っており、これを機会に独立する計画であったという文書も残っている事から、はなから勝頼には岩殿城に行くしか選択肢が無かった可能性もあるとか・・・

とにもかくにも、岩殿城にて籠城して信長に対抗する事を決意した勝頼は、天正十年(1582年)3月3日卯の刻(午前6時頃)、真新しい新府城に火をかけて岩殿城へと向かったのでした。

途中、武田信豊が、東信濃(ひがししなの=長野県東部)西上野(にしこうずけ=群馬県西部)などの勢力を取り込んで再起を図るべく、20騎ほどの配下を連れて小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)下曾根信恒(しもそねのぶつね)を頼って別行動をとったため(結局、下曾根が裏切って信豊は3月16日に自刃します)

勝頼に付き従うのは継室(けいしつ=後妻として迎えた正室)北条夫人(ほうじょうふじん=桂林院・小田原御前)と嫡子の武田信勝(のぶかつ=生母は前妻の龍勝院)をはじめとする、わずか200名ほどだったと言います。

そして逸見路(へみじ=甲府から諏訪への街道・諏訪口)穂坂路(ほさかみち=甲府から茅ヶ岳南麓を通過し信濃佐久郡へ向かう街道・川上路)秩父路(ちちぶじ=甲府から埼玉県熊谷を結ぶ街道)へと向かう一行は、馬に乗る者はわずかに20名ほどで、そのほとんどが徒歩であったとか・・・

途中、古府中(こふちゅう=山梨県甲府市街地北部)一条信龍(いちじょうのぶたつ=勝頼の叔父)の屋敷にて少しの休息をとらせてもらいます。

ちなみに、この信龍さんは、勝頼の父=信玄の異母弟で、かの長篠設楽ヶ原で、渋る勝頼に退き際を提言したと言われる勇将で、この約1週間後の3月10日に、駿河口より攻め込んで来た家康と戦って壮絶な討死を遂げています。

ひとときの休息を終えた勝頼一行は、それから春日居(かすがい=笛吹市・旧東山梨郡春日居町)の渡しにて世話をしてくれた春日居村の渡辺喜兵衛(わたなべきへい)という者に、泣き疲れていた2歳の男子(勝親)の世話を頼んだと言います(勝親は家臣に救出されたとも)

そして、その日の夜に勝沼(かつぬま=甲府市勝沼町)にある大善寺(だいぜんじ)に到着し、ここで理慶尼(りけいに)出迎えられます。

この理慶尼さんは、信玄の叔父である勝沼信友(かつぬまのぶとも)の娘だとされ(今井信良の娘説あり)勝沼(もしくは今井)の滅亡後に大善寺を頼って出家し、尼となって、ここで尼室を構えて暮らしていたらしいのですが、

実は勝頼は、その勝沼(もしくは今井)を滅亡に追い込んだ武田家の息子・・・しかし、かつては勝頼の乳母を務めた事もあった理慶尼は、彼らを快くもてなし、その日の夜は、勝頼&夫人&信勝とともに4人で一つ部屋で就寝したのだとか・・・

この方の書いた『理慶尼記』では、大善寺で1泊した後、翌日=3月4日はに笹子峠(ささごとうげ=山梨県大月市と甲州市の境にある峠)への登り口の駒飼(こまがい)に到着したとの事。

一方『甲陽軍鑑』では、この後、鶴瀬(つるせ=旧東山梨郡大和村・甲州街道の駒飼と勝沼の間にあった宿)7日間逗留した勝頼一行は、自分たちを迎える準備をするために一足先に岩殿城に戻った小山田信茂からの連絡を待っていたとされます。

しかし、いくら待っても信茂からの迎えは来ず・・・それもそのはず、この間、小山田配下の者たちは、せっせと鶴瀬周辺から郡内に向けて城柵を何層にも渡って構築していたのです。

やがて3月9日の夜、信茂の家臣二人が、人質としてここまで勝頼と行動をともにしていた小山田縁者を密かに奪い、城柵の向こうから勝頼一行に向かって鉄砲を撃ちかけたのです。

この攻撃により、ここまで従っていた者も散り々々に逃げてしまったため、残ったのは、わずかに50人ほど・・・勝頼も、ここで小山田信茂にも裏切られた事を知るのです。

頼みの綱であった信茂にも裏切られた勝頼は、もはや死を覚悟して、7代前のご先祖様である武田信満(のぶみつ)が、かつて上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん=応永二十三年(1416年)に関東で起こった乱)に巻き込まれて自刃した栖雲寺(せいうんじ=同大和町・棲雲寺)を死に場所と定め、天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)目指して日川渓谷 (ひかわけいこく)をさかのぼり、3月11日には田野(たの=同大和町)という所に到着します。

ところが、その場所で勝頼一行の行く手を阻む者が・・・

それは辻弥兵衛(つじやへえ)なる者を大将とする土豪(どごう=地侍)の衆で、ここで彼らが勝頼一行に矢や鉄砲を射かける一方で、別動隊が織田軍の先鋒である滝川一益(たきがわかずます)河尻秀隆(かわじりひでたか)らの道案内をして麓から駆け上がって来ていたのです。

そう・・・勝頼たちは、上と下から挟まれる形となったのです。

「もはや、これまで…」
と悟った勝頼は、夫人を呼び寄せ、実家の北条に戻るよう諭しますが、夫人は
「あの世まで契りを込めたい」
と、ともに死ぬ事を希望し、譲りません。

そうこうしているうちに滝川&河尻隊の軍勢が攻め寄せて来たところを重臣の土屋昌恒(つちやまさつね)が応戦して立ちふさがり、主君の一大事に駆け付けた小宮山友晴(こみやまともはる)らも奮戦・・・勝頼&信勝らも、自ら太刀を取って戦います。

そんな混乱の中で、信勝が敵中に突進して果て、北条夫人も
「勝頼殿はどこにおられますか?私は先に…」
の声とともに自害すると、

勝頼は夫人のもとに駆け寄って、自分の膝の上で夫人の髪を撫でながら、彼女の胸に刺さる脇差を抜き、それを自らの腹に当てて自害したのだとか・・・

勝頼=37歳、夫人=19歳、信勝=16歳・・・ここに、源義光(みなもとのよしみつ)に始まる甲斐武田氏は滅亡したのです。

★参照関連ページ
【武田勝頼、天目山に散る】>>
【北条夫人・桂林院の最期】>>
【勝頼の最期(異説)「常山紀談」編】>>
【小島職鎮の富山城の戦い】>>
【武田滅亡後の論功行賞と訓令発布】>>
【織田信忠が恵林寺焼き討ち】>>
【朝比奈信置の自刃】>>
【信長の駿河見分と安土帰陣】>>
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2021年2月24日 (水)

足利義昭VS織田信長~石山・今堅田の戦い

 

元亀四年(天正元年・1573年)2月24日、織田信長に反旗をひるがえした足利義昭に応じて挙兵した光浄院暹慶らの石山・今堅田の砦を織田軍が攻撃しました。

・・・・・・・

永禄八年(1565年)5月に兄である室町幕府第13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)を殺された足利義昭(よしあき・義秋)は、庇護を受けている朝倉(あさくら)越前(えちぜん=福井県東部)の地にて、自らを担いで上洛してくれる戦国大名を 探しておりました(10月14日参照>>)

一方、永禄五年(1562年)に尾張(おわり=愛知県西部)を統一し(11月1日参照>>)、永禄十年(1567年)には斎藤(さいとう)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を手に入れて(8月15日参照>>)岐阜城(ぎふじょう)と改め、そこを本拠とした織田信長(おだのぶなが)は、
「もし上洛するなら、朝廷に対してインパクトの強い手土産が欲しい」
と考えておりました。

そんな両者の利害関係が一致して現実したのが、永禄十一年(1568年)9月の義昭を奉じての信長の上洛・・・(9月7日参照>>)

10月18日には義昭が第15代将軍に就任(10月18日参照>>)、信長も将軍のための御所を建設したり(2月2日参照>>)などしていましたが、両者の蜜月は、そう長くは続かず・・・元亀元年(1570年)1月に『信長朱印条書(五ヶ条の掟書)を信長が義昭に突き付けたあたりから(1月23日参照>>)両者の仲はギクシャク感満載となって来ます。

そんな中、信長は上洛の際から抵抗し続けていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)(1月5日参照>>)南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角承禎(じょうてい=義堅)(6月4日参照>>)に加え、越前朝倉義景(あさくらよしかげ)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)とも敵対し(5月6日参照>>)、さらに、三好に味方する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)(9月14日参照>>)、浅井&朝倉に味方する比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市)(9月12日参照>>)ともドンパチやり始めます。

信長の周囲が敵だらけの、この状況に、敵対する諸将にせっせと連絡を取って、いわゆる「信長包囲網」を形勢しようとする義昭・・・

元亀三年(1572年)の10月には、信長が義昭に対し、17カ条に及ぶ意見書を提出しますが、義昭が意見を聞くどころか、逆に、これが、両者の間に決定的な亀裂を生む事に・・・(17ヶ条の内容については【信長の意見書に義昭が反旗】を参照>>前後の内容カブッてますがスミマセン)

そんな中、信長が、かつての姉川の戦いにて決定的なダメージを与えられなかった浅井の小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)をせん滅すべく、周辺の諸城を押さえて(7月22日参照>>)、そろそそ浅井攻めにかかろうとした、その時、
「本願寺の通じた信玄が西上(せいじょう=上洛?)して来る」
と、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)信長包囲網参戦の噂が流れます。

信長が、一旦、岐阜に帰陣して様子を伺うと、案の定、10月に甲斐を出た信玄が西へ西へと進み、
10月13日には一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)>>
10月14日には二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)>>
12月22日には三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)>>にて、信長の同盟者である三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)をコテンパンにし、
翌日の23日には、前日に討ち取った平手汎秀(ひらてひろひで=信長の傅役の平手政秀の息子)の首を岐阜に送り届けて(12月23日参照>>)ヤル気満々な態度を示し、
年が明けた元亀四年(天正元年・1573年)の1月には野田城(のだじょう=愛知県新城市)に攻撃を仕掛けます(1月11日参照>>)

同じ1月には、状況を察した信長が、義昭に、息子を人質に差し出しての和睦を持ちかけますが、義昭はその案を一蹴した後、元亀四年(天正元年・1573年)2月、浅井&朝倉、そして武田&本願寺と密約を交わして挙兵したのです。

まずは三井寺(みいでら=滋賀県大津市・園城寺)光浄院暹慶(こうじょういんせんけい=後の山岡景友)を挙兵させると、同調して山中の磯貝新右衛門(いそがいしんえもん=磯谷久次)渡辺宮内少輔(わたなべくないしょうゆ)らも兵を挙げます。

暹慶が、本願寺の顕如(けんにょ=第11代本願寺法主)に呼びかけると、江南(こうなん=琵琶湖南部)に点在する本願寺門徒が一揆と化して集合し、伊賀(いが=三重県伊賀市)甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)の者たちも集まって来て戦備を整え始め、そこに六角勢も登場・・・

石山(いしやま=滋賀県大津市)今堅田(いまかたた=同大津市)(とりで)を築いて、やって来るであろう信長軍の入京を阻止しようとします。

足利将軍家の側近であった細川藤孝(ほそかわふじたか)から、その情報を得た信長は、義昭の側近くにいる僧=朝山日乗(あさやまにちじょう)や、後に京都所司代となる村井貞勝(むらいさだかつ)を通じて、義昭の説得にあたりますが、義昭は断固として応じる様子を見せず・・・

やむなく信長は、柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)丹羽長秀(にわながひで)蜂屋頼隆(はちやよりたか)らを将として2月20日に出陣・・・

勢田(せた=同大津市南部・瀬田)から琵琶湖をを渡り、元亀四年(天正元年・1573年)2月24日まずは石山に攻撃を仕掛けます。

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石山・今堅田の戦いの位置関係要図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

未だ完成半ばだった石山の砦は、織田軍の総攻撃に耐え切れず、2月26日には開城して主将の暹慶も退散してしまいます。

信長は、すぐに石山の砦の破却にかかり、そこに柴田勝家を留め置いて、今度は、今堅田に向かって攻撃を開始するのです。

2月29日朝、明智光秀が囲船(かこいぶね=漕ぎ手や兵士を防御する櫓を船体上部に備えた攻撃用の船)で湖上から西に向かって攻めると、丹羽長秀と蜂屋頼隆が南西側から北東へと進軍して攻め立てます。

正午頃、明智軍が突破口を開くと、織田勢が、なだれのように砦へ突入・・・その勢いに、最前線のわずか数騎を斬り倒しただけで、城兵は、慌てふためいて開城し、散り々々に退散してしまいました。

その後、3月29日に京都に入った信長を逢坂(おうさか=滋賀県大津市)で出迎えたのは、かの細川藤孝と荒木村重(あらきむらしげ)・・・二人がハッキリを織田の傘下を表明した事で上機嫌の信長は知恩院(ちおいん=京都府京都市東山区)に陣取ります。

一方で、その3日後の3月2日には、武田信玄の重臣=秋山信友(あきやまのぶとも=晴近・虎繁)の攻撃を受けていた織田方の岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)が開城されますが(3月2日参照>>)、それを知ってか知らずか、強気の義昭は居城の二条御所(にじょうごしょ=京都市上京区・義昭御所)に籠り、未だ抵抗を続けます。

しかし、ご存知のように、この頃には、かの武田信玄率いる本隊は、もう西へは進んでおらず、甲斐へUターン中・・・その後、4月12日に信玄は亡くなるわけですが・・・(4月12日参照>>)

おそらく、そんな事は未だ知らぬ両者・・・信長は、ここでまたもや義昭に和睦を提案しますが、義昭はまたもや拒否して、3月30日には村井貞勝の屋敷を包囲して焼き払ったの です。

そのため、4月4日に信長は、義昭の支持者や幕臣が多く居住する上京(かみぎょう)に火をかけて(4月4日参照>>)義昭陣営を威嚇する一方で、朝廷に働きかけます。

すると、翌4月5日に朝廷からの停戦の勅命(ちょくめい=天皇の命令)が出て、さすがの義昭も折れ、講和が成立・・・

信長は、この義昭の一連の行為を「幕臣内の反信長勢力の中心人物であった上野秀政(うえのひでまさ)に義昭がそそのかされてやった事」として義昭を責める事はなく、また上野秀政も信長に謝罪した事からこれを許し、4月7日に兵を退きあげ、その日は守山(もりやま=滋賀県守山市)に宿泊しました。

この一件があり、信長は、いつでも琵琶湖を渡って、一気に京都に入れるようにと大船を建造する事にし、それが完成するのが7月3日・・・(7月3日参照>>)

その大船は、それから、わずか2日後に、その威力を発揮する事になるのです。

そう、7月5日に足利義昭が講和を破って再び挙兵・・・その時、琵琶湖の東岸の佐和山(さわやま=滋賀県彦根市)にいた信長は、大船に乗って、わずか1日で京都に入り三淵藤英(みつぶちふじひで=細川藤孝の異母兄)らが守っていた二条の義昭御所を制した後、義昭自身が籠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)へと向かうのです。

という事で、
槙島城の戦いについては2012年7月18日の【槇島城の戦い秘話~1番乗りの梶川宗重】>>の後半部分でどうぞm(_ _)m

…に、しても、、、
昨年から今年の大河『麒麟がくる』でも、そうであったように、

なんで?信長さんは、いつも鬼のような人に描かれるんでしょうね~
今回は光秀が主役だから仕方ないにしても、別の人が主役でも、なぜか、そうなっちゃう・・・

もちろん、殺戮が無かったとは言いません。

でも、それは、あくまで最終段階だし、最終的に殺戮となるのは戦国武将なら皆やってるし、比叡山にも荒木村重(3月2日参照>>)にも、そこへ行くまでに何度も「開城してよ」「和睦してよ」「そしたら許すから…」と声かけてるし、何なら、義昭さんには対しては1回目は完全にお咎め無しやし・・・

いつか、信長さんが麒麟を連れて来るドラマも見てみたいものです。

宴会で率先して女装したり、相撲大会で喜んだり(2月29日参照>>)、安土城のメインゲートでもぎりのように入城料もらってる姿(1月23日参照>>)なんか、映像的にも、けっこう見ものだと思うんですけどね~
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2021年2月18日 (木)

德川家康の甲州征伐…小山→持船→田中→蒲原

 

天正十年(1582年)2月18日、織田信長の甲州征伐に向かう徳川家康が浜松城を出陣・・・その日のうちに掛川城に入りました。

・・・・・・・・

この家康の出陣は、ご存知、信長の「甲州征伐(こうしゅうせいばつ=武田攻め)の事ですが、今回は駿河口を任された家康の動きを中心に・・・
と言っても、このあたりの事は何度か書かせていただいていますので、少々内容がかぶり気味にはなりますが、時系列的にご紹介させていただきたいと思います。

・・・・・・・・・

「海道一の弓取り」と称された駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する大大名=今川義元(いまがわよしもと)が、永禄三年(1560年)5月の桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市・名古屋市緑区)にて尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に倒れて(5月19日参照>>)後、

その桶狭間キッカケで独立した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)と、これまで北東方面に領地拡大を図っていた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、永禄十一年(1568年)9月に第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)信長の仲介により、

勝利のあかつきには遠江を家康が、駿河を信玄が取るという約束を交わし、
信玄が北から…(【今川館の戦い】参照>>)
家康が西から…(【掛川城攻防】参照>>)
義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)を攻める、見事な連携プレーを見せたわけですが、

その時、掛川城を落とすのに手間取った家康は、相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)と同盟を結び、その力を借りて掛川城を陥落に持ち込んだのです。

かつて、北東の越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)に対抗するため(【川中島の戦い】参照>>)、武田&今川&北条の3者にて結んだ甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を、今回は破棄した形で今川を攻めた信玄にとって、家康が北条と手を組んだ事は怒り心頭・・・

信玄は、德川とは手切れとし、その同盟者である信長とも敵対する事になります(【大宮城の戦い】参照>>)

やがて信長が、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市)(9月12日参照>>)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)(9月14日参照>>)などと対立するようになった元亀三年(1572年)、信玄は「上洛するつもりだった?」とも言われる西上作戦(せいじょうさくせん)を開始し、
一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(10月13日参照>>)
二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)(10月14日参照>>)など、
駿河&遠江の各地を次々と落として、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)では家康を自刃寸前まで追い込みます(12月22日参照>>)

が、年が明けた元亀四年(1573年=7月に天正に改元)1月11日の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)(1月11日参照>>)を最後に、なぜか武田軍はUターン・・・

そう、病気が悪化した信玄が4月12日に亡くなってしまうのです。

信玄亡き武田家は四男の武田勝頼(かつより)が継ぐ事になりますが、信玄の死を知った家康が「これはチャンス!」とばかりに、先の西上作戦で落とされた城の奪回&領地の回復を図るのです。

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家康の甲州征伐の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

信玄の死からわずか5ヶ月後の9月には、早速、長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)(9月8日参照>>)を奪いますが、

一方の勝頼も負けておらず、
天正二年(1574年)2月には明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)(2月25日参照>>)
3ヶ月後の5月には高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)(5月12日参照>>)と、信玄時代より多い領地を手に入れ、その翌年=天正三年(1575年)5月、2年前の信玄の死の直後に家康に奪われたままになっている長篠城を取り返しに来ます。

これが、ご存知・・・有名な長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦い(5月21日参照>>)です。

今では、「以前から言われるほどの織田&德川連合軍の圧勝」ではなく、「両者ともに必死のパッチで拮抗した戦いであった」という見方をされ始めてはいますが、一方で、この戦いで武田方の古くからの重臣が多く討死した事は事実で、それによって、主君=勝頼と家臣たちとのギクシャクした主従関係が深まった事も確かなようです。
(↑信玄の遺言にも一因あり?4月16日参照>>

そのためか?
長篠設楽ヶ原以降の家康は、怒涛の如く、武田の城を奪って行く事になるのです。

合戦から1ヶ月と経たない
天正三年(1575年)6月24日に光明城(こうみょうじょう=静岡県浜松市天竜区)
8月24日に諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)

11月24日に信長が岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)を奪回(12月24日参照>>)すると、

またもや家康が12月に、あの二俣城を奪回(12月24日参照>>)
このあと、天正五年(1577年)・天正七年(1579年)と何度も持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を落とせずにいましたが、天正九年(1581年)3月には、とうとう高天神城を奪った家康(3月22日参照>>)・・・

そんなこんなの天正十年(1582年)1月27日、勝頼のもとに妹婿の木曾義昌(きそよしまさ)織田方へ寝返ったとの報告が入ります。
(実際には2年前くらいから水面下で織田に内応してましたが…)

早速、翌日、勝頼は従兄弟(信玄の弟=信繁の子)武田信豊(のぶとよ)と弟の仁科盛信(にしなもりのぶ)を、それぞれ大手(おおて=正面)と搦手(からめて=側面)の総大将に命じて木曽谷(きそだに=木曽川上流の流域・義昌の所領)へ向かわせたのです。

これを知った義昌が、信長に救援を要請・・・こうして天正十年(1582年)2月、織田信長の甲州征伐が開始されるのです(【甲州征伐開始】参照>>)

2月3日、信長は嫡男=織田信忠(のぶただ)を総大将にした主力軍を木曽・岩村口から、北条氏政(ほうじょううじまさ)関東口から、金森長近(かなもちながちか)飛騨(ひだ=岐阜県北部)から・・・そして、徳川家康を駿河口から、それぞれ、武田の領国へと侵攻させます。

岩村口の先鋒=滝川一益(たきがわかずます)河尻秀隆(かわじりひでたか)らが2月6日に滝沢城(たきざわじょう=長野県下伊那郡平谷村・滝沢要害)を落とし、14日には松尾城(まつおじょう=長野県飯田市)を落とす中、この一報を聞いた小山城(こやまじょう=静岡県榛原郡吉田町)では、2月16日、城兵の一部が手勢もろとも密かに城を脱出・・・

その状況に、城将の大熊長秀(おおくまながひで)「このままでは城を支えきれない」と判断し、甲斐へと兵を退き、小山城は自落しました。

おかげで、これまで天正三年(1575年)と天正六年(1578年)と2度に渡って攻撃しながらも落とせなかった小山城を、難なく手に入れた徳川家康は、

その勢いのまま、大須賀康高(おおすがやすたか)酒井忠次(さかいただつぐ)らに命じて田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)へ向かわせる一方で、自らは天正十年(1582年)2月18日浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市中区)を出陣して掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)に入ります。

さらに、その3日後の2月21日に駿府(すんぷ=静岡県静岡市)を押さえる一方で、当目坂(とうめざか=静岡県焼津市)に差し掛かった德川軍先鋒が、持船城を守る朝比奈信置(あさひなのぶおき)の家臣=奥原日向守(おくはらひゅうがのかみ)の待ち伏せに遭い、激しい戦いとなりますが、德川軍は勝利して、ここを突破・・・

その勢いのまま持船城を囲み、23日には総攻撃を開始し、耐えかねた朝比奈信置は27日に降伏して29日に持船城を家康に開け渡したのでした(4月8日参照>>)

その頃、家康が家臣を向かわせていた田中城・・・

ここも、家康は天正六年(1578年)3月、天正八年(1580年)5月など、複数回に渡って攻め立てていたものの、なかなか落とせずにいた城なわけですが、それには、あの天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原の後に奪回した二俣城の城将であった依田信蕃(よだのぶしげ)が、落城した後に甲斐へは戻らず、ここ田中城に入って城番となっていた事にも一因があったのかも知れません。

なんせ依田信蕃は、かなりの勇将・・・今回の攻防戦でも、德川軍は大手を破って曲輪(くるわ)に入り、180もの首級を挙げて、それらを城下に晒して威嚇していましたが、本丸にまでは届かず、籠城戦となっていたのでした。

そこで家康は、
「今、城を明け渡せば、信濃の本領を安堵する」
と、城内の依田信蕃を説得・・・3月1日になって、ようやく説得を受け入れた依田信蕃が田中城を開城しました(2月20日参照>>)

一方、この家康の動きに前後して、
関東口の北条氏政が2月28日に、北条から武田へ寝返った笠原政晴(かさはらまさはる)戸倉城(とくらじょう=現在の静岡県駿東郡清水町)を落とし、その勢いにビビった三枚橋城(さんまいばしじょう=静岡県沼津市大手町)深沢城(ふかさわじょう=静岡県御殿場市)が自滅・・・織田本隊が3月2日に仁科盛信の守る高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)を落城させています(【高遠城の仁科盛信が自刃】参照>>)

この間、3月1日に寝返った穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)(3月1日参照>>)江尻城(えじりじょう=静岡県静岡市清水区)への憂いがなくなった家康は、さらに東の蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を3月4日に落としますが、実はこの蒲原城は、かつて北条の城だったのを永禄十二年(1569年)に武田信玄が奪った物(12月6日参照>>)・・・

今回、北条が東から駿河へ、家康は西から駿河へ、対・武田という利害が一致して進んで来ましたが、できるだけ多くの駿河内の領地を確保したいのは、家康も北条もお互い様なわけで・・・

そんな中、織田軍の猛進撃に、3月3日には居城の新府城(しんぷじょう=山梨県韮崎市)に火を放ち、家臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の勧めで、彼の城である岩殿城(いわどのじょう=山梨県大月市賑岡町)へ向かった武田勝頼でしたが、その信茂にも裏切られ、最後にはわずかに50名の主従となって、死地を求めて天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町付近)を彷徨い、3月11日に自刃・・・ここに、武田氏が滅亡して、この大きな戦いも終る事になりました。
【武田勝頼の逃避行~信長の甲州征伐】>>)
【武田滅亡~天目山の戦い】参照>>)
【勝頼ととも死した北条夫人桂林院】参照>>)

ちなみに、同時進行で北陸富山(とやま)でも一波乱ありましたが、ソチラは織田軍北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)前田利家(まえだとしいえ)らが、ソツなく対応しております(【富山城の戦い】参照>>)

その後は、総大将の織田信忠が恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市塩山小屋敷)を焼き討ち(4月3日参照>>)する中、信長は論功行賞を行い(3月24日参照>>)4月20日に岐阜から安土への帰路についています(4月4日参照>>)

とは言え、このわずか41日後に、あの本能寺の変があるわけで・・・(2015年6月2日参照>>)

案の定、この後、ここらへん一帯は、北条と德川の取り合いになるわけですが、そのお話は【天正壬午の乱~若神子の対陣】でどうぞ>>
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2020年12月24日 (木)

長篠の後~武田から城奪回作戦の家康…光明城と二俣城の戦い

 

天正三年(1575年)12月24日、かつて武田信玄に奪われた二俣城を徳川家康が開城させました。

・・・・・・・・

二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二俣町)天竜川二俣川に挟まれた天然の要害を利用した堅城ですが、もともとは、戦国の初めの斯波(しば)との戦いのために今川(いまがわ)の家臣であった松井(まつい)(松井宗信?)が構築したとされます。

つまり、今川配下の城でした。

ところが、永禄三年(1560年)5月19日に起こった桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市もしくは名古屋市緑区)の戦いで、海道一の弓取りと呼ばれた大物=今川義元(いまがわよしもと)尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に敗れて討死した(5月19日参照>>)事で、大黒柱を失った今川に陰りが見え始めます。

それでも二俣城主の松井宗恒(まついむねつね=宗信の息子)は、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に仕える忠臣だったわけですが、そこに、信長の仲介によって、三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の間に「今川の領地の西半分の遠江(とおとうみ=静岡県西部)を德川が、東半分の駿河(するが=静岡県東部)を武田が切り取る(武力で奪って治める)約束が交わされ、永禄十一年(1568年)の12月に信玄が今川の本拠である今川館(静岡県静岡市・後の駿府城)攻撃し(12月13日参照>>)、氏真が慌てて逃げた先の掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)を家康が攻撃する(12月27日参照>>)という見事な連携プレーで翌永禄十二年(1569年)5月、今川を滅亡に追い込みました。

しかし、これは掛川城を攻めあぐねていた家康に、信玄との戦闘を繰り返していた(1月18日参照>>)相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)が声をかけて、自らの息子=北条氏直(うじなお)今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配権を握るという条件で德川と北条の間に結ばれた同盟のもとに行われた無血開城によってもたらされた今川滅亡だった事で、駿河を取るつもりだった信玄は激おこ・・・信玄は北条はもちろん、織田&德川とも決別します(7月12日参照>>)

一方、今川の滅亡を受けた二俣城の松田は、一旦は信玄の従属する道を選びますが、すでに引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・後の浜松城)まで手に入れている(12月20日参照>>)德川軍からの攻撃にさらされ、やむなく降伏・・・つまり、ここで二俣城は德川の配下となりました。

その後も、信玄は、東の北条と国境線を争う(【三増峠の戦い】参照>>)一方で駿河での領地拡大(【蒲原城奪取!】参照>>)(【深沢城攻防】参照>>)にも転戦する日々でしたが、やがて元亀三年(1572年)、その目は西へと向きます。

Hitokotozakasinrozucc有名な武田信玄の西上作戦(せいじょうさくせん)です。
信玄の進路図
クリックしていただくと大きいサイズで開きます

「最終目標は上洛だった?」とも言われる武田軍の西への遠征で、武田と戦う家康は、一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)で敗れ(10月13日参照>>)、二俣城は奪い返され(10月14日参照>>)、有名な三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)でも不名誉な敗北(12月22日参照>>)・・・

ところが、年が明けた元亀四年(1573年)の1月、さらに西の野田城(のだじょう=愛知県新城市)攻防戦(1月11日参照>>)を最後に武田軍本隊は甲斐へとUターン(別動隊は3月に岩村城を攻撃してます>>)・・・そう、御大信玄が病に倒れ、そのまま、3ヶ月後4月に亡くなってしまったのです。

亡くなる際の信玄の遺言では「3年隠せ」(4月16日参照>>)と言われた信玄の死ですが、そこは、スパイ=忍者大国戦国日本、意外に早く、周辺の武将にバレていたようで・・・

というか、家康の場合は、信玄の死の2ヶ月後の6月に、当時は武田の傘下であった作手城(つくでじょう=愛知県新城市・亀山城とも)奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)信昌(のぶまさ=当時は貞昌)父子が德川に寝返った事によって信玄の死を知り、すかさず3ヶ月後の天正元年(元亀4年から改元=1573年)の9月、武田方の長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)奪い取ったのです(長篠城の戦い>>)

ちなみに、この時に德川に奪われた長篠城を、信玄の後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)が取り返しに来るのが、教科書にも載る有名な「長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦い」なわけですが(長篠設楽原の戦い>>)・・・

そうです・・・この時期、石山合戦や中国攻め等々、何かと信長の動きが激しくて後回しにされがちですが、

勝頼×家康(時々信長)の間では、先の信玄の死をキッカケに、武田が滅亡する甲州征伐まで、上記の長篠城争奪戦のような「駿河⇔遠江・取ったり取られたり大決戦」が繰り広げられる事になるのです。

とりあえず、時系列で並べると…
天正元年(1573年)9月:家康が長篠城奪取>>
●天正二年(1574年)5月:勝頼が高天神城奪取>>
●天正三年(1575年)5月:有名な長篠設楽ヶ原>>
● 同       6月:家康が光明城奪取
● 同       8月:家康が諏訪原城奪取>>
● 同      11月:信長が岩村城奪回>>
● 同      12月:家康が二俣城奪回(←今日ココ)
●天正七年(1579年)9月:家康が持船城奪取>>
●天正九年(1581年)3月:家康が高天神城奪回>>
●天正十年(1582年)2月:信長が甲州征伐開始>>
● 同       3月:勝頼自刃で武田滅亡>>

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(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

で、こんな感じの大まかな流れの中
(話が前後したうえに経過説明に時間かかって恐縮です)
本日は、天正三年(1575年)12月24日第2次二俣城の戦い・・・

先の信玄の西上作戦の時に奪われた二俣城を、家康が奪回する戦いです。

・‥…━━━☆

上記の通り、
信長との強力タッグで天正三年(1575年)5月の長篠設楽ヶ原の戦いで武田勢を撤退させる事に成功した家康は、亡き信玄に奪われたままになっている二俣城の奪回に乗り出します。

まずは、その拠点となるべき付城(つけじろ=攻撃拠点とするための砦)として
毘沙門堂砦(びしゃもんどうとりで=静岡県浜松市天竜区二俣町)
鳥羽山城(とばやまじょう=同天竜区二俣町鹿島)
蜷原砦(になはらとりで=同天竜区二俣町二俣)
和田ヶ島砦(わだがしまとりで=同天竜区渡ヶ島)
4か所を構築して二俣城を取り囲んだかと思うと、

先の設楽ヶ原から、わずか1ヶ月後の6月24日、武田傘下の将=朝比奈又太郎(あさひなまたたろう)が守る光明城(こうみょうじょう=同天竜区山東字光明山・光明寺跡)を急襲します。

まずは大手に当たる仁王堂口から本多忠勝(ほんだただかつ)榊原康政(さかきばらやすまさ)らが攻め上り、元本堂の北側に残っていた鏡石に目印となる德川の旗を立て、次に本隊が城の南側から、別動隊が西と北から…と三方から同時に攻め込まれたため、朝比奈は城を守り切れず降伏・・・一命を許されて、甲州方面に向かって落ちていきました。

そして7月には、武田傘下として遠江北部で勢力を誇っていた犬居城(いぬいじょう=同天竜区春野町堀之内)天野景貫(あまのかげつら)が德川の勢いに押されて城を退去・・・事実上の天野氏滅亡となり、二俣城は孤立していきます。

さらに1ヶ月後の8月24日、家康は、武田譜代の家臣=今福友清(いまふくともきよ)が守る諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)を開城させ(8月24日参照>>)いよいよ二俣城は、全くの孤立無援の城となってしまいます。

この時、二俣城を守っていた依田信蕃(よだのぶしげ)・・・

この状況を知った武田勝頼からは、
「開城しても良い」
との連絡を受け取っていましたが、それが、勝頼の直筆でなかった事から、頑なに開城を拒んで籠城を決意したのでした。

しかし、もはや孤立無援となった城での籠城では、ほどなく先が見えて来るもの・・・

12月に入って和平交渉が開始され、家康側からは大久保新十郎(おおくぼしんじゅうろう・泰忠?)と榊原康政が代表人質として出て、籠城する依田側からは依田信蕃の弟の依田善九郎(ぜんくろう)源八郎(げんぱちろう)が出て、12月23日に開け渡しの一切云々が行われる事になりました。

しかし、23日当日は、あいにくの雨模様・・・
依田側から、
「雨の日に藁笠(わらかさ)かぶって城を出るのはカッコ悪いので、晴れた日にしてちょ」
との申し入れがあり、家康がこれを承諾したところ、

翌・天正三年(1575年)12月24日が見事に晴れ渡ったので、約束通り、代表で人質となった4名が二俣川あたりで対峙する間に、開け渡しが行われ、一切が終了した後、人質が、それぞれ返され、二俣城開城の全行程が終了と相成りました。

武田軍が去った二俣城は、家康の重臣=大久保忠世(ただよ)が城将として入り、以後は德川の城となりました。

ただし、本来なら二俣城を追われた依田信蕃は、先の朝比奈と同様に、武田の本拠である甲斐に戻るべきところを、なんと、未だ武田方の城として孤立状態となっている高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)へと入り、一戦交える気満々だったのだとか・・・

とは言え、
この高天神城で合戦が行われるのは天正九年(1581年)3月の事(【第3次高天神城の戦い】参照>>)・・・まさに、武田滅亡のカウントダウンが始まった頃でした。
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2020年12月15日 (火)

宇都宮国綱が守り切った宇都宮城~長きに渡る北条との戦い

 

天正十三年(1585年)12月15日、日光山衆徒と北条氏直の配下が宇都宮国綱の宇都宮領へと侵攻しました。

・・・・・・・・

藤原北家の流れを汲み、平安時代から宇都宮(うつのみや=栃木県の中部地域)一帯を領地として来た宇都宮氏でありましたが、天文十八年(1549年)に、喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい=栃木県さくら市喜連川付近)で宇都宮20代当主の宇都宮尚綱(うつのみやひさつな)が討死して、わずか5歳の幼子であった尚綱の息子=宇都宮広綱(ひろつな)が家督を継いだ事で家臣同志が覇権を巡って争い、そのドサクサで家臣の壬生綱房(みぶつなふさ)に、本拠の宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)を乗っ取られ、一時は守りの堅固な山城=多気城(たげじょう=栃木県宇都宮市)に移った事もありました。

しかも、その広綱も若くして病死した天正四年(1576年)に、息子の宇都宮国綱(くにつな)が、わずか9歳で当主となった事で、家中の乱れは治まる気配もありませんし、そこに付け込んで、関東支配を目論む北条(ほうじょう)の動きも活発に・・・

そこで国綱は常陸(ひたち=茨城県の大部分)佐竹(さたけ)や、下総(しもうさ=千葉県北部と茨城・埼玉・東京の一部)結城(ゆうき)甲斐(かい=山梨県)武田(たけだ)などと手を結んで北条に対抗しますが、天正六年(1578年)には、その武田勝頼(たけだかつより)からの侵攻を受ける始末・・・

そして、もちろん、周囲の戦国の世の情勢も目まぐるしく変わります。

天正十年(1582年)3月には勝頼自刃で武田が滅び(3月11日参照>>)、6月には、その武田を滅ぼした織田信長おだのぶなが)本能寺(ほんのうじ=京都府京都市)に倒れ(6月2日参照>>)、翌・天正十一年(1583年)には織田家内の家臣筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)を、同じく織田家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が破り(4月23日参照>>)、その秀吉の勢いに織田家後継者を自負する織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康(とくがわいえやす)を巻き込んで天正十二年(1584年)に起こした小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦いが終結を見(11月16日参照>>)、信雄を味方に引き込んだ秀吉が紀州(きしゅう=和歌山県北西部)征伐(3月28日参照>>)から四国平定(7月26日参照>>)(←この間に秀吉は関白就任)、そして北陸へ(8月29日参照>>)と向き始めた天正十三年(1585年)12月15日

北条方に扇動された日光山(にっこうさん=栃木県日光市にある輪王寺)の僧兵らとともに北条勢が出陣し、宇都宮と宇都宮大明神(うつのみやだいみょうじん=宇都宮二荒山神社)をことごとく破却したのです。

Houzyouuzinao300 さらに5日後の12月20日には、北条氏直(ほうじょううじなお=第5代当主)自らが軍勢を率いて宇都宮に乱入し、大明神の御殿や楼門・回廊、さらに東勝寺(とうしょうじ=栃木県宇都宮市)など周辺の社寺を焼き討ちします。

さらにのさらに12月25日にも合戦がありましたが、この時に駆け付けた、同盟者=佐竹義重(さたけよししげ)の援軍の活躍で、何とか、これ以上の侵攻を防ぐ事ができました。

ところが案の定・・・翌・天正十四年(1586年)に、またもや宇都宮に侵攻して来た北条氏政(うじまさ=氏直の父)が、当時は宇都宮傘下に属していた皆川広照(みながわひろてる)皆川城(みながわじょう=栃木県栃木市皆川城内町)を攻略すると、その勢いのまま、攻略したばかりの皆川氏と、未だにお家騒動上等の壬生氏を先鋒に据えて、宇都宮城へと迫ったのです。

しかし、この時、宇都宮城を守っていた宇都宮家臣の玉生高宗(たまにゅう・たもうたかむね)が、雨あられと降り注ぐ火矢攻撃を見事に防ぎ切り、後に「武功の仁」と賞賛されたのだとか・・・

そんな中、天正十七年(1589年)には、これまで宇都宮方であった真岡城(もおかじょう=栃木県真岡市)主の芳賀高継(はがたかつぐ)が北条側に寝返ったとの噂が立った5月に、下野(しもつけ=栃木県)那須郡(なすぐん=栃木県の北東地域)に根を張る那須(なす)と、その家臣の大関(おおぜき)(12月8日参照>>)多気城を攻め、8月には日光山衆徒が宇都宮方の塩谷(しおや・しおたに)倉ヶ崎城(くらがさきじょう=栃木県さくら市・喜連川城とも) を落城させました。

さらに9月には北条氏邦(うじくに=氏政の弟)率いる8000騎が宇都宮へ侵攻し、城下を焼き討ちしながら多気城へと迫りましたが、結局落とせぬまま、翌10月には囲みを解いて引き揚げていきました。

そう・・・
周辺武将がほぼほぼ北条へとなびき、その北条に何度にも渡って侵攻され、もはや風前の灯のギリギリ状態となっていた宇都宮城でありましたが、結局、最後まで、北条が、この宇都宮城を落とす事は無かったのです。

そして、
この翌年の天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されるのです(6月14日参照>>)

この時、同盟者の佐竹義宣(よしのぶ=義重の息子)とともに、いち早く小田原に参陣し、秀吉に謁見して恭順姿勢を見せた宇都宮国綱は、見事、そのまま、豊臣政権の大名として生き残る事に成功し、ご存知のように、北条は秀吉の前に散る事になります(7月5日参照>>)

ただし、国綱自身はこの7年後に改易を言い渡され(10月13日参照>>)、大名としての宇都宮氏は無くなりますが、家名と血筋は脈々と受け継がれ、水戸藩の一員として明治維新を迎えています。

まぁ、なんだかんだで、戦国は生き残ったモン勝ちかも…ですね。
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2020年12月 9日 (水)

十市氏の内紛~松永久秀と筒井順慶のはざまで…

 

永禄十二年(1569年)12月9日、筒井順慶配下&興福寺衆500名が十市城に入って来たため、松永久秀派の河合清長以下6名が城を出て今井に移りました。

・・・・・・・

管領(かんれい=室町幕府下での将軍補佐)家の畠山(はたけやま)の重臣で山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)だった木沢長政(きざわながまさ)大和(やまと=奈良県)に侵攻して来た天文年間(1532年~1555年)頃に(7月17日参照>>)、その木沢長政に味方する義弟の筒井順昭(つついじゅんしょう=順慶の父)と袂を分かって抵抗した十市遠忠(とおちとおただ=奥さんが順昭の姉)は、木沢長政が三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)に敗れて討死した(3月17日参照>>)事に乗じて勢力を拡大し、一介の土豪(どごう=一部地域の小豪族)に過ぎなかった十市(とおち)を与力衆を持つ大名クラスに押し上げた事で十市氏中興の祖と呼ばれます。

この頃に彼が構築した十市城(とおちじょう=奈良県橿原市十市町)は、同時代の大和において各段に優れた平城だったとされますが、その遠忠亡き後に後を継いだ嫡男の十市遠勝(とおかつ)の時に、未だ若年の弱さを突かれて筒井氏の侵攻を許し吉野(よしの=奈良県南部)へと落ちるハメに・・・

そんなこんなの永禄二年(1559年)、今度は、三好長慶の重臣の松永久秀(まつながひさひで)大和の平定に乗り出します。(7月24日参照>>)

この松永久秀の侵攻に対して、十市遠勝は畠山高政(はたけやまたかまさ=管領畠山政長の孫)らとともに抵抗しますが、力及ばず・・・やむなく、娘のおなへ(御料)と重臣の息子を人質として差し出して松永久秀に降伏し、何とか十市氏の旧領を回復します。

しかし永禄十年(1567年)、松永久秀が、主家の三好を引き継ぐ三好三人衆(みよしさんにんしゅう=長慶亡き後に養子の義継を補佐した3人…三好長逸・三好政康・石成友通)と対立して東大寺で戦う(10月10日参照>>)と、遠勝が、今度は三好に味方した事から、家中の重臣たちが松永派と三好派に大分裂を起こします。

そんなこんなの永禄十一年(1568年)9月に、あの織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛・・・畿内を牛耳っていた三好三人衆が蹴散らされる一方で、すかさず信長に謁見した松永久秀は信長から「大和は切り取り次第(久秀が自身で勝ち取った地は治めて良い)」のお墨付きを獲得するのです(9月7日参照>>)

三好が信長に蹴散らされたため、十市家内の三好派は、先の東大寺大仏殿の戦いの時に三好と連合を組んでいた筒井順慶派へと移行して、ここからは「松永派VS筒井派」となるのですが、そんな永禄十二年(1569年)の10月、当主の遠勝が病死してしまいます。

とは言え、当然の事ながら、当主が死んだとて家内の分裂は残ったまま・・・

なんせ、先に書いた通り、一旦は人質を差し出して松永久秀に下ったわけですから、それを重んじて松永を推す者と、今や十市氏の本拠である大和の国のほとんどを支配下に治めた筒井順慶を頼った方が良いとする者・・・どちらにも言い分があるわけで。。。

そんな中、ますます久秀との関係を濃密に…と考えた親松永派のおなへ&河合清長(かわいきよなが=十市の重臣)らは、松永久秀配下の竹下(たけした)を通じて、久秀に十市城を明け渡す誓約を結んだのです。

しかし、これを知った親筒井派の十市遠長(とおなが=遠勝の弟)は、すかさず順慶に連絡・・・

かくして永禄十二年(1569年)12月9日、筒井順慶配下の者が縁のある興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)の衆徒を含む約500名で以って十市城に入城して来たため、身の危険を感じた河合清長以下6名の重臣は、遠勝未亡人とおなへを奉じて城を退去し、今井(いまい=橿原市今井町)にある河合清長の屋敷へと逃れました。

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今井町に残る河合清長の屋敷(現在の今西家住宅)

このため、十市城の主権は筒井派が握る事になり、当時は本拠の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を松永久秀に奪われたままになっていた順慶にとっては再起を図る絶好の拠点ができた事になります。

もちろん、順慶を警戒する久秀は、先の「城の明け渡し」誓約を盾にして城に籠る筒井派に開城を要求しますが、当然、応じるはずも無く・・・逆に、久秀の執拗な開城要求に徹底抗戦を決意した順慶は、翌元亀元年(1570年)の7月27日、自らが手勢を率いて十市城に入城しています。

結局、このまましばらくは、信長の後ろ盾を得ている松永久秀と、大和の有力国人を手中に収めている筒井順慶の両者が相対するのと同様に、十市家内の対立も続く事になるのですが、ご存知のように、この間の信長は勢いは増していくばかり・・・

徐々に、信長の勢いに押されて、大和の国人たちの中にも、信長になびく=信長を後ろ盾にする松永久秀に傾く者も出てくるわけで・・・

そんな中、元亀元年(1570年)に、あの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市)の退き口(4月)から態勢立て直しの姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月)(【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月】参照>>)で、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井(あざい)にダメージを与えた信長が、敵対する三好三人衆と戦う野田福島の戦い(8月26日参照>>)に、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・一向宗の総本山)顕如(けんにょ)が参戦し(9月14日参照>>)、さらに甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん)対信長戦に参戦し始めた事で、信長はなかなかのピンチ・・・

おそらく織田からの松永への援軍は望めないだろう状況下に久秀は信長に反旗をひるがえし、石山本願寺と結んだ元亀二年(1571年)8月に、筒井順慶の辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)を攻撃しますが、ここでは手痛い敗北を喰らってしまいます(8月4日…内容カブッてますがお許しを>>)

戦いに勝った順慶は、この時に勝ち取った首級のうち240を信長のもとに献上して、自らの存在を信長にアピールし、その勢いのまま、筒井城を奪回し、松永傘下だった高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)をも奪い取ります(11月26日参照>>)

一方、久秀は、天正元年(1573年)12月に織田勢に攻められた多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町 )を開城し(12月26日参照>>)信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)へと退去して信長に降伏します

てな事で、十市城は相変わらず筒井派の面々が占拠するものの、上記の通り、松永久秀も筒井順慶も織田の傘下に納まった事で、十市氏の家中の分裂は続くものの、表面的には穏やかな時間が過ぎ、事実上、大和の地は織田信長の間接支配の地となった事で、天正三年(1575年)の3月には、信長は東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)正倉院蘭奢待(らんじゃたい)を削り取りに来ています(3月28日参照>>)

そんな信長の蘭奢待見物から4ヶ月後の7月には、十市氏の松永派の中心人物とも言える娘=おなへが、久秀の嫡男=松永久通(ひさみち)と結婚・・・これをキカッケに、翌・天正四年(1576年)3月5日松永久通が実力行使に出ます

そう、筒井派に占領されっぱなしの十市城を攻めたのです。

両者の激しい戦いが数日間に渡って繰り広げられ、どちらにも多くの死傷者が出ましたが、ついに3月25日、十市城勢は、その討死者の多さに合戦の継続が難しくなったとみえ、やむなく開城したのでした。

こうして勝利した松永久通でしたが、そこに、早くも織田信長が介入・・・開城の翌日に検分にやって来た塙直政(ばんなおまさ=原田直政:信長から大和守護を任されている家臣)によって十市城は接収され、久通は占領していた森屋城(もりやじょう=奈良県磯城郡田原本町)を開け渡すよう命じられ、その森屋城に、今回、十市城に籠って戦っていた十市遠長らの面々が入る事になり、十市の内紛は、一応の解決となります。

んん??
命懸けの激戦だったワリには、何だか、無かった事にされてるような不思議な結末??

そうです。
よくよく考えれば、この時点では、すでに松永も筒井も織田の傘下・・・
久通の十市城攻めは、信長の預かり知らぬ所で勝手にやっちゃった、まさに内紛なわけで、本来なら怒られちゃう事なんですが、

この頃の信長は石山本願寺との合戦に忙しく、その合戦には久通父の松永久秀も出陣して頑張ってた事で、どうやら信長としては、大ごとにせず、なるべく穏便に終了させたかったようです。

こうして、一旦は収まった十市氏の内紛ですが、ご存知のように、この翌年の天正五年(1577年)10月に、またまた信長に反旗をひるがえした松永久秀が信貴山城にて自刃(10月3日参照>>)してしまった事で、息子の久通も自刃して、またもや十市の娘=おなへが動き出します。

夫を亡くし、いきなり実家に戻って来たおなへが、十市氏嫡流を主張し、布施氏(ふせし=奈良県葛城市周辺の国衆)から婿養子を取って、夫となった彼を十市藤政(ふじまさ)と名乗らせて十市氏の家督を継いだのです。

納得がいかない遠長らと、またもやのお家騒動となりますが、松永亡き今、元松永派も筒井の傘下なら、遠長ら筒井派も、当然、筒井の傘下・・・まして、その上には信長がいるわけで・・・

両者に個人的な確執はあるものの、表立って合戦に至るなんて事はできないわけで・・・

結局、こうして十市氏の内紛は幕を閉じる事になります。

当事者から見れば、まだまだ、言いたい事もあるだろうし、秘めた思いもあるだろうし、収まりがつかない事もあるかも知れませんが、
今年ハヤリの
「大きな国を作る」
「平和をもたらす」
という事は、こういう事なのかも知れません。

ちょうどこの頃は、信長は、あの安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)を築城した頃(2月23日参照>>)・・・もはや、天下も見えて来た感じ??

おそらく、これが未だ戦国真っただ中の頃なら、両者の戦いに関与する者がいても、仲介する者はおらず、どちらかが倒れるまで長々と戦いを繰り返していたのかも知れませんが、やはり「時代が変った」という事なのでしょうね。

今回の場合は、まさに時代を変えたのは信長さん・・・

とは言え、その信長さんも、この5年後に本能寺に倒れ(6月2日参照>>)、今しばらく戦国は続く事になりますが。。。
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2020年10月 7日 (水)

筒井順慶の吉野郷侵攻~飯貝本善寺戦

 

天正六年(1578年)10月7日、織田信長の石山合戦を受け、筒井順慶が吉野郷に侵攻すべく筒井城を出陣しました。

・・・・・・・・・

そもそも、織田信長(おだのぶなが)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)ハッキリと敵対するようになったのは元亀元年(1570年)9月・・・その2年前に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)奉じて信長が上洛した(9月7日参照>>)に1度は蹴散らしたものの、

再び舞い戻って将軍の仮御所を襲撃したり(1月5日参照>>)なんぞしていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通らの討伐という大義名分で以って、彼らが起こした野田福島(のだ・ふくしま=同福島区)の戦い(8月26日参照>>)に、

途中から本願寺11代法主の顕如(けんにょ)率いる全国本願寺の総本山の石山本願寺が三好側として参戦して来た事に始まります(9月12日参照>>)

もちろん、本願寺側にしてみれば、それまでに、立地条件の良い石山本願寺が建つ場所を、信長が「明け渡してほしい」なんて言って来ていた事など、

すでに敵対気味だった両者の関係を単に表面化させただけの参戦であったわけですが、この時に顕如が全国の本願寺門徒に対して、対信長への蜂起を促した事から、この後、各地で信長に対抗する一向一揆(いっこういっき)が勃発するわけです。

そんな中で、大和(やまと=奈良県)吉野(よしの=奈良県吉野郡吉野町)にて本願寺門徒の聖地と崇められていたのが、飯貝(いいがい=奈良県吉野郡吉野町)本善寺(ほんぜんじ)でした。

本善寺は文明八年(1476年)に第8世=蓮如(れんにょ)上人(3月25日参照>>)が創建したお寺ですが、この当時に本善寺を預かっていたのは、その蓮如の孫にあたる証珍(しょうちん)上人

この方が、なかなか血気盛んな方で、上記の石山本願寺の参戦を知るや否や、自ら門徒率いて戦場に向かったり、顕如や教如(きょうにょ=賢の長男)から密命を受けて兵糧の運び込みをしたり、とかなり積極的なお方。

もともと本善寺のある、このあたりは、南北朝の時代に大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・もりながしんのう=後醍醐天皇の皇子)(7月23日参照>>)が籠って武装&城郭化していた場所で、本善寺の伽藍も、寺というよりは城郭のような堅固な造りになっており、寺の裏山には、イザという時に籠城可能な飯貝城(いいがいじょう)なる城もありました。

本善寺と飯貝城は、途中、大和の乱世(7月17日参照>>)のさ中に、山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)などによって1度焼き払われたものの、天文十五年(1546年)には復興されており、こういう時には思う存分に戦える場所となっていたのでした。

Tutuizyunkei600a しかし、この状況を警戒していたのが、筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を本拠として大和に勢力を持つ筒井順慶(じゅんけい)です。

筒井順慶は、これまでは、戦国初の天下人となった三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣である松永久秀(まつながひさひで)大和平定の動き(11月24日参照>>)に反発し、

自身の支配圏を守るべく久秀と敵対関係になった(8月4日参照>>)ものの反信長では無かったわけですが、先の信長上洛の際に、久秀がいち早く信長傘下になって「大和は切り取り次第(武力で勝ち取った地は自分の物にしてOK)」の大義名分を信長からもらった事で、自然と「信長配下の久秀と戦う」という構図になっていたわけです。

ところが、その後、久秀が信長に反旗をひるがえした事で(8月4日参照>>)、その久秀と戦う=敵の敵は味方という感じで、徐々に合間を縫って信長と近しくなっていき、

天正二年(1574年)には信長に直接拝謁するとともに人質を出して臣従し、翌・天正三年(1575年)には、完全に信長配下の武将として、明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか)らとともに、この石山本願寺との合戦にも参戦するようになっていたのです。

そうなった以上、大和における本願寺門徒の一大拠点となっている本善寺を見過すわけにはいかなくなって来るわけです。

かくして天正六年(1578年)10月7日筒井順慶は配下の諸将を率いて筒井城を出立し、その日のうちに十市(といち・とおち=奈良県橿原市十市町)まで進み、

すでに配下に取り込んでいる大和の国人衆=戒重(かいじゅう)大仏供(だいふく)(ともに現在の桜井市付近が本拠)「不穏な動きが無いか?」を探りつつ、かつ、彼らを威嚇しつつ、芦原峠(あしはらとうげ=奈良県高市郡高取町)を越えて吉野郷へと入ったのでした。

この天正六年(1578年)という年は、まさに石山合戦真っ盛りの年・・・2年前の第1次木津川口の海戦で、村上水軍(むらかみすいぐん)の戦い方に翻弄され(7月18日参照>>)、まんまと石山本願寺に兵糧を運び込まれてしまった信長が、

リベンジとばかりに全面鉄で覆われた鉄甲船(てっこうせん)を築造し(7月14日参照>>)、そのお披露目パーティ=観艦式を行ったのが、まさに、この1週間前の天正六年(1578年)9月30日でした(9月13日参照>>)

おそらくは、そんなこんなを意識しての、今回の順慶の出陣・・・

さらに進軍する順慶は、10月11日には、飯貝をはじめ、下市(しもいち)上市(かみいち=いずれも吉野郡吉野町)など、吉野一帯に放火し、周辺をことごとく焼き払ったのです。

先に書いた通り、イザという時には徹底抗戦の覚悟であった飯貝周辺の本願寺門徒たちも、集落を焼き払われ、その徹底した武力の前になす術なく、次第に退けられていきます。

吉野における本願寺門徒を抑えた事を確信した順慶は下市周辺の、監視のために(とりで)を構築しつつ、さらに奥へと進軍し、黒滝の雫の里(しずくのさと=奈良県吉野郡黒滝村中戸)まで進出します。

しかし、この地域の地侍たちは広橋城(ひろはしじょう=吉野郡下市町)に立て籠もったり、賀名生(あのう)檜川(ひかわ=ともに奈良県五條市)の郷民も招き入れて激しく抵抗しました

しかし・・・やがて主力となっていた侍たちが次々討死していく中で、皆、一様に武器を捨てて順慶の軍門に下る事となったのです。

こうして、吉野一帯は順慶の支配下に・・・これは、つまりは順慶を介して織田信長が間接支配をする地という事になったのです。

すぐ後の11月には、鉄甲船デビューの第2次木津川口の海戦があり(11月6日参照>>)、翌・天正七年(1579年)には石山本願寺に同調して信長に反旗をひるがえした荒木村重(あらきむらしげ)有岡城(ありおかじょう=兵庫県伊丹市)も開城され(10月16日参照>>)

さらに、信長の働きかけにより正親町天皇(おおぎまちてんのう)勅命(ちょくめい=天皇の命令)を出して顕如に講和を呼びかけた事で、天正八年(1580年)、10年に及ぶ石山合戦が終結することになります(8月2日参照>>)
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2020年10月 1日 (木)

上杉謙信の富山城尻垂坂の戦い~裏で糸ひく武田信玄

 

元亀三年(1572年)10月1日、武田信玄の意を受けて蜂起した加賀・越中の一向宗徒が占拠した富山城を、尻垂坂の戦いに勝利した上杉謙信が落として対抗しました。

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神通川(じんつうがわ)挟んで西に神保長職(じんぼうながもと)、東に椎名康胤(しいなやすたね)などがいたものの、未だ一国を統括するほどの大物がいなかった戦国の越中(えっちゅう)富山・・・

Uesugikensin500 そこに祖父の代から度々遠征しては、ここらへんを配下に治めたい越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=輝虎・長尾景虎)と、それを阻止しておきたい甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)が、何度も川中島で戦い(8月5日参照>>)ながらも、一方で、その都度、いずれかの越中の武将に味方しつつ代理戦争を繰り返しておりました。
●永禄三年(1560年):増山城&隠尾城の戦い>>
●永禄十一年(1568年):松倉城攻防戦>>

そんな中、上記の永禄十一年(1568年)の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)攻防の直後、前年に美濃(みの=岐阜県)を手に入れた(8月15日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が次期将軍候補の足利義昭(よしあき=義輝の弟)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)あたりから、すでに信濃(しなの=長野県)を手に入れた信玄は、これまで北東に向かっていた矛先を南西に向け今川義元(いまがわよしもと)を失って衰退気味の駿河(するが=静岡県東部)シフトチェンジするのです(12月12日参照>>)
(信長の仲介で、信玄と家康が同時に攻め込み、今川亡き後は信玄が駿河、家康が遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する約束ができていたとされる)

一方の謙信は元亀二年(1571年)、3度目の攻撃で、やっと松倉城を陥落させたものの、これまで同盟を結んでいた相模(さかみ=神奈川県)の北条が、北条氏康(ほうじょううじやす)から息子の北条氏政(うじまさ)に代替わりした事で謙信との同盟を破棄して信玄と同盟を復活させたので、謙信は北条と敵対する事になります。

そこで信玄は、謙信傘下である神保長職の寝返り工作を実施するとともに、奥さん=三条の方(さんじょうのかた=妹が本願寺顕如の嫁)の縁をフル活用して加賀&越中の本願寺宗徒を焚きつけて一向一揆(いっこういっき)を蜂起させて、謙信の行方を阻もうとしたのです。

これを受けて、信玄の勧誘に応じずに主君=長職の寝返りに反発して謙信に忠誠を誓う一部の神保家臣は日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)に立て籠もり抵抗しますが、元亀三年(1572年)6月15日、一揆の勢いに押されて日宮城は開城となり(6月15日参照>>)、さらに神通川を越えた富山城(とやまじょう=富山県富山市)をも一揆勢が摂取してしました。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

信玄が関与しようがしまいが、もとより父の代から戦って来た一向一揆・・・西への道を阻む彼らを撃つべく、上杉謙信率いる約1万の軍勢常願寺川(じょうがんじがわ)近くの新庄に陣を構えたのは元亀三年(1572年)8月17日の事でした。

対する一揆の軍勢はわずかに4千・・・一向一揆の総指揮を取る瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)の僧=杉浦玄任(すぎうらげんとう)は8月20日付けの書状にて、
「八月十八日に謙信が新庄に陣を置いたので我らの大半富山に陣取りましたが、両者の距離は一里(約4km)ばかりしかありません。
一騎でも二騎でも、とにかく早く支援する事が大事やと思うてください」
と、未だ加賀(かが=石川県南部)にいる味方に援軍の要請をしています。

この間にも謙信は、ぬかりなく・・・
「留守の間に、信玄を越後へ侵入をさせてはならない」
とばかりに、重臣の直江景綱(なおえかげつな)らの精鋭に居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)の警備を厳重にするよう釘を刺しております。

そんな中、最初の衝突は富山城と新庄城(しんじょうじょう=富山県富山市新庄町)の間にある尻垂坂(しりたれざか=富山県富山市西新庄)にて起こります。

そこは、当時、びや川(神通川と常願寺川の間を流れる川)の堤に向かう長い坂道となっており、当日は、ここんところの降り続いた雨のせいで、一帯の地面がぬかるんで深い泥田のようになってしまっていたので、一揆勢は、足をとられ、少々動きが止まったのです。

そこへ上杉勢が襲いかかり、激しい戦いとなったため、瞬く間にびや川は血で真っ赤に染まったと伝えられています。

尻垂坂の戦いは、上杉謙信の勝利となったのです。

戦場のそばで首実検をした謙信は、大きく掘った穴の中に討ち取った敵の首を埋めて、その上に石塔を建てて供養したと伝えられていますが、それが現在の西新庄にある正願寺(せいがんじ)というお寺の近くに鎮座する「薄地蔵(すすきじぞう)と呼ばれるお地蔵様なのだとか・・・

現在は、この付近に坂はなく平地となっていますが、この薄地蔵がある事で、この付近が尻垂坂の戦いの古戦場とされています。

この尻垂坂の敗北は一向一揆に大きなダメージを与え、多くの者が軍列から離脱し、隊の分裂がそこかしこで起こり、一向一揆に味方していた武将たちの中にも謙信に降伏する者が出始めます。

この時、一揆と信玄の連絡役として活躍していた飛騨(ひだ=岐阜県北部)高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)主=江馬輝盛(えまてるもり)(10月27日参照>>)も、今回の尻垂坂の戦いをキッカケに、9月17日に上杉の陣を訪れて降伏し、以降は謙信に従うようになります。

この江馬輝盛と同じように、9月17日頃から、続々と一揆勢が引き上げていった事がうかがえ、細かな事は不明なれど、これにて富山方面に展開した一向一揆は潰滅状態になり、富山城も謙信の物になったものと思われます。

なので、今回の尻垂坂の戦いは富山城の戦いとも呼ばれます。

元亀三年(1572年)10月1日付で、味方であった勝興寺(しょうこうじ=富山県高岡市)に発した武田信玄&勝頼(かつより=信玄の四男)父子の連署状で、 
「越中の富山城落城と聞いて不満に思ってます。
でも、戦いに勝敗はつきものなので仕方ないですが、今後も加賀&越中での対陣には備えを怠らないようにしてください。
僕らも先陣が越中との国境まで侵入したのですが、途中で私(信玄)が病気になってしまい、そこから先への侵攻をためらっていたところ、たまたま敵(謙信)も兵を退けたので、わが軍も帰陣しました。
今は病気もよくなって、すっかり元気ですので、次回は必ず信玄&勝頼父子して出馬しますので、越中の国を太平にされるよう、命を惜しまず頑張ってください
てな事を書いています。

それにしても、
書かなくても良い病気の事を、わざわざ書くのは、相当重かったのか?本当に完治したのか?微妙なところですよね~

でも、少しは良くなって落ち着いていた事は確かでしょうね。

なんせ、この手紙の2日後の10月3日、信玄は本拠の甲斐を出発して、「上洛するつもりだったのか?」との噂もあるあの西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始するのですから・・・

10月13日には一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(参照>>)
10月14日からは二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市)(参照>>)
10月22日には別動隊が仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)(参照>>)
そして12月には、三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)をコテンパンにする、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区三方原町)(12月22日参照>>)と続き、
翌・元亀四年(天正元年・1573年)の1月には野田城(1月11日参照>>)と、どんどん西に・・・

一方、謙信と一向一揆の関係は・・・
、翌・元亀四年(天正元年・1573年)の3月に、謙信が春日山城に戻ったのを見計らって、再びの信玄の声掛けに応じた一向一揆は、謙信と結んだ和睦を一方的に破棄して富山城を奪い返します。

これに激怒した謙信が再び富山城を奪い返すものの、謙信が越後に戻ると、またまた一向一揆が・・・てな事が、しばらく繰り返されるのですが・・・

ところが、そんな中、信玄率いる武田の本隊は、上記の野田城の戦いを最後に西上作戦をストップして帰路につきます。
(別動隊は3月に岩村城を落としていますが…参照>>

そうです。
ご存知のように、この天正元年(1573年)の4月に信玄が病死するのです(4月12日参照>>)

これによって、この後の戦国の構図が変わっていきます

この尻垂坂の戦いの時には、
「先に一揆と和睦しといて、その間に信玄を殺ってしまいなはれ。
信玄がおれへんよーなったら、何もせんでも一揆は自然消滅しますわ!」
などと、謙信に応援メッセージを送ってくれていた織田信長が、

7月には将軍=足利義昭の籠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)を落とし(7月18日参照>>)
8月には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月20日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月28日参照>>)を葬り去り、さらに、その直後から始まった越前一向一揆とのゴタゴタを天正三年(1575年)8月に一せん滅(8月12日参照>>)・・・

これには、さすがの謙信も反応・・・なんせ、越前の先は加賀&越中ですから・・・

かくして天正四年(1576年)3月、富山への侵攻を開始する謙信。
天正四年(1576年)
 3月17日=富山へ侵攻>>
 8月4日=飛騨へ侵攻>>
天正五年(1577年)
 9月13日=七尾城攻略>>
 9月18日=手取川の戦い>>
 9月24日=能登平定~松波城の戦い>>

この間の天正四年(1576年)の5月には、ここで、こんなに戦った一向一揆=本願寺と和睦を結んで(5月18日参照>>)、いわゆる『信長包囲網』の一翼を担う事になるのですから、このあたりから謙信は、完全に、ターゲットを信長に絞ったようですね。
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