2018年1月18日 (木)

武田VS北条~薩埵峠の戦い(第2次)

永禄十二年(1569年)1月18日、北条氏政武田信玄を攻撃するため四万五千の軍を率いて駿河に出陣し、薩埵峠に布陣しました。

・・・・・・・・・・・

北東方面へと手を伸ばしたい甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)、上洛を見据えて西へと手を広げたい駿河(するが=静岡県中北部)今川義元(いまがわよしもと)、関東支配を強めたい相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(ほうじょううじやす)・・・お互いの利害関係が一致した、この3者の間で相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)が結ばれたのは天文二十三年(1554年)の事でした。

しかし、その6年後の永禄三年(1560年)・・・強固な同盟の一角であった今川義元が、未だ領国の尾張(おわり=愛知県西部)一国すら統一していない若造(←失礼m(_ _)m)織田信長(おだのぶなが)に、あの桶狭間の戦い(2015年5月参照>>)敗れ、命を落としてしまったのです。

父の死を受けて義元の嫡男=今川氏真(うじざね)後を継ぎますが、これが、なかなかうまく行かない・・・氏真は、世間で言われているほどボンクラなボンボンではありませんが(3月16日参照>>)、なんせ、父の義元が大物過ぎましたから、早々に見切りをつけて離反する者もチラホラ・・・

それでも、しばらくは様子見ぃで同盟関係を保っていた信玄・・・なんたって、あの永遠のライバル=越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)との川中島(9月10日参照>>)だって、未だ決着ついて無いワケですし・・・

ところが、かの桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立(2008年5月19日参照>>)した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)が、このドサクサで旧領を自分の物にしたばかりか、隣国の織田信長と同盟を結んで、今川領の遠江(とおとうみ=静岡県西部)にまで手を伸ばす姿勢を見せ始めます。

Takedasingen600 「イカン!このままでは全部家康に取られてしまう~」
とばかりに、今川との同盟破棄に反対する息子の義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)まで信玄は方針転換・・・信長が間に入って「信玄が駿河を、家康が遠江奪う」という両者間の約束事を取り決めたのです。

もちろん、氏真から見れば
「何、勝手に取り決めとんねん!」です。

かくして永禄十一年(1568年)12月、信玄の南下を知った氏真は、重臣の庵原安房守(いはらあわのかみ)らに1万5千の兵をつけて薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)に出陣させます。

そこは甲斐から駿府(すんぷ=駿河国府)へ侵攻する際に必ず通るであろう重要箇所・・・氏真としては意地でも守らねばなりません。

「ここで武田軍を喰い止めておけば、遅かれ早かれ、必ず背後から北条が援助してくれるはず」・・・でした。

しかし、残念ながら、この薩埵峠で起こったのは小競り合い程度の小さな衝突のみ・・・現地に赴いた今川配下の者が早々に離脱し、戦いらしい戦いも無いままに、今川方は崩れてしまったのです(薩埵峠の戦い~第1次:12月12日参照>>)

これが第1次薩埵峠の戦いと言われる合戦です。

この勢いのまま翌12月13日、信玄は、氏真の本拠である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区)の攻防戦へと突入(12月13日参照>>)・・・猛攻を抑えきれない氏真は、妻子を連れて掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走します。

そんな掛川城を包囲したのは信玄・・・ではなく家康
年が明けた永禄十二年(1569年)1月12日、いよいよ総攻撃を仕掛けるのですが・・・

そんなこんなの永禄十二年(1569年)1月18日、信玄の勝手な同盟破棄に激おこの北条氏政(うじまさ=氏康の息子)は、「敵の敵は味方」とばかりに謙信と結んだ後、武田と徳川に挟まれて窮地に追い込まれた氏真を支援すべく、4万5千の軍勢を率いて出陣し、かの薩埵峠へとやって来たのです。

氏政は、まず、掛川城への援軍として下田城(しもだじょう=静岡県下田市)の城将=清水康英(しみずやすひで)らに約300の兵をつけて海路より送り込み、主力は陸路を蒲原(かんばら=静岡県の中部)まで進み、信玄の背後を狙おうという作戦です。

Hojoujimasa200a ところが、この薩埵峠で1万8千もの武田軍に阻まれ、なかなか前へ進めません。

結局、この1月18日から4月20日までの間、小競り合い程度はあったものの、両者ほぼ対峙したままのこう着状態が続く事になるのです。

最終的に、掛川城にいた氏真が、謙信に信玄の背後を突く事を要請した事で、信玄は兵を甲斐へと戻し、一方の氏政も、信玄が常陸国(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)などに工作を要請していた事を知って、自軍を一旦、相模へと戻しました。

結果、この第2次薩埵峠の戦いは「引き分け」という形で幕を閉じます。

ただし、この間も、徳川相手に籠城戦を続けていたかの掛川城は、結局、永禄十二年(1569年)5月17日に北条の仲介により開城を決意し、徳川と北条の和睦交渉が展開される中、氏真は北条を頼って相模へと逃れました(12月27日参照>>)

氏真が相模へ去った後も信玄は、駿河における更なる優位性を求めて関東各地を転戦するのですが、そんな信玄を、北条は三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)にて待ち伏せして奇襲(10月6日参照>>)・・・互いに多くの死者を出しながらも、コチラもなんだかんだで引き分けに・・・

そんなこんなの11月28日、氏真の重臣であった岡部正綱(おかべまさつな)が、かの今川館を襲撃し、一時的に占拠します。

時を同じくして、北条に庇護を受ける氏真も、氏政の息子=北条氏直(うじなお)を養子に迎え、彼が駿河領有の正統な後継者である事を主張したのです。

こうして、さらに深刻化する武田VS北条・・・ここで武田を一気に潰そうと周辺の諸将への大動員をかける北条でしたが、一方の信玄も、「負けてはならじ!」とばかりに、12月6日には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を攻撃して、城主の北条綱重(ほうじょうつなしげ=氏信・氏康の従兄弟)を討ち取り(12月6日参照>>)、続く12日には、北条勢が薩埵峠付近に展開していた砦(とりで)を次々に落として行ったのです。

これらの信玄の怒涛の進撃により、やむなく北条は駿河周辺から撤退する事に・・・

とは言え・・・
皆様ご存じのように、そんなこんなしている間に、将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて永禄十一年(1568年)に上洛を果たした(9月7日参照>>)あの織田信長が、畿内にて、その将軍にさえ物申す大きな存在になりつつあった(1月23日参照>>)わけで・・・

こうして、戦国は、更なる時代へと突入していく事となります。
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2017年12月26日 (火)

松永久秀、信長に2度目の降伏~多聞山城の戦い

天正元年(1573年)12月26日、筒井順慶を主力にるす織田信長軍に攻められた松永久秀父子が多聞城を明け渡しました。

・・・・・・・・

畿内を制する三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)の家臣として活躍していた松永久秀(まつながひさひで)・・・主君の命を受けて永禄二年(1559年)頃から大和(やまと=奈良県)への侵攻を開始(11月24日参照>>)、間もなく信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を改修し、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城。

その後、長慶の死によって衰退し始めた三好家を盛りたてる中心人物の一人となった久秀は、永禄八年(1565年)には三好氏の縁者である三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)とともに第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)して(暗殺には久秀は関与していない説もアリ)第14代将軍=足利義栄(よしひで・義輝の従兄妹)を擁立し、大和国衆の二大巨頭である筒井(つつい)筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)攻め(11月18日参照>>)や、越智(おち)貝吹山城(かいぶきやまじょう=奈良県高市郡高取町)攻防戦(9月25日参照>>)など繰り返していましたが、やがて永禄十一年(1568年)9月、亡き義輝の弟で室町幕府第15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて織田信長(おだのぶなが)が上洛(9月7日参照>>)すると、敵対する筒井氏の筒井順慶(つついじゅんけい)よりも先に、三好家の後継者である三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥で養子)とともに、いち早く信長に降伏して傘下となり、その後ろ盾を以って、更なる奈良の支配を進めていました。

Matunagahisahide600a しかし、その信長と久秀の関係は、まもなく崩れます。

久秀の心が、どのあたりから反信長に移ったのかは定かではありませんが、信長上洛から2年後の元亀元年(1570年)には、すでに、信長と将軍義昭との間にギクシャク感が出始め(1月27日参照>>)、その年の6月には、信長VS浅井(あざい)&朝倉(あさくら)との姉川の戦い(6月28日参照>>)があり、9月には野田福島戦で、本願寺のおおもと=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が参戦し(9月12日参照>>)、その流れから、翌年には比叡山(ひえいざん)(9月12日参照>>)や本願寺門徒による長島一向一揆(5月16日参照>>)も反信長に参戦・・・さらに翌年の元亀三年(1572年)には、上洛の気配を見せる武田信玄(たけだしんげん)三方ヶ原(12月22日参照>>)で、信長の同盟者である徳川家康(とくがわいえやす)と激突し、その翌日には犀ヶ崖(さいががけ)で討死にした平手汎秀(ひらてひろひで=信長の傅役・平手政秀の三男?)の首が、これ見よがしに信長のもとに送られて来る(12月23日参照>>)・・・いわゆる、義昭の呼びかけによる信長包囲網的な物に信玄が参戦して来たわけで・・・

この信玄という大物の包囲網参戦には、久秀の心も、大いに揺れた事でしょう。

さらに、翌・天正元年(1573年:7月に元亀より改元)1月には、信玄は野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)へと駒を進め(1月11日参照>>)、翌2月には、義昭自身が決起(2月20日参照>>)します。

信長包囲網ここに極まれり!!
嫡男の松永久通(ひさみち)を信貴山城に入れ、自らは多聞山城にあった久秀が、明確な反信長の狼煙を挙げたのは、この年の5月の事でした。

久秀の反旗を知った信長は、これまで度々久秀と敵対していた筒井順慶に、「多聞城を潰したれ!」と合力の援軍を出して攻めさせたのです。

『二条宴乗日記』によれば・・・
5月16日に順慶が奈良の三条に進出・・・これを受けて多聞山城の松永勢も出陣したと・・・

しかし、皆様ご存じのように、実は、この時点で、あの大物=武田信玄は、すでに亡くなっています。

あまりにドラマっぽくで「ホンマかいな?」と思ってしまいますが、『武田文書』などの記述によれば、久秀がこの信玄の死を知ったのは、上記の出陣の翌日=5月17日の事だったとか・・・

この少し前に、久秀が「信長包囲網の一員として頑張るんで、是非とも信玄さんのご協力を…」てな内容の手紙を出していたところ、この日に武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)からの返書が届き、そこに信玄の死の事が書いてあったのだとか・・・(4月16日参照>>)(←3年間隠すんやなかったんか~い☆\(^^;))

とは言え、例え巨頭が死んだとて、久秀にはまだ希望はあります。
なんたって、将軍が挙兵してるんだし、浅井&朝倉もいるんだし・・・

ところが、この年の7月に槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻められた義昭は、息子を人質に出して信長に降伏(7月18日参照>>)・・・続く8月に越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月23日参照>>)信長に攻められ、ともに自害して果てました。

さらに11月16日には、以前、久秀とともに信長に降ったものの、やはり義昭絡みで反発した三好義継が、信長に若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)攻められ自刃し、同じ11月には残る本願寺も、どうやら信長との休戦の協定が結ばれた様子・・・この11月には、本願寺の第11代法主=顕如(けんにょ)から贈られた白天目茶碗(はくてんもくちゃわん)で信長が茶会を開いた事が記録され、『本願寺文書』にも、顕如のもとに信長からの礼状が届いた事が記録されています。

もちろん、この間も順慶率いる筒井を主力とした織田軍の多聞城攻撃は続けられていたわけで、その連日に渡って響き渡る銃声は、あの東大寺まで聞こえて来ていたとか・・・

もはや完全なる孤立無援となってしまった久秀・・・やむなく天正元年(1573年)12月26日、突如として織田軍の将=佐久間信盛(さくまのぶもり)多聞山城を明け渡したのです。

Tamonyamazyounotatakai_2
多聞山城のい戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その後の多聞山城は明智光秀(あけちみつひで)が城番として入り、その後も柴田勝家(しばたかついえ)細川藤孝(ほそかわふじたか=幽斎)、さらに塙直政(ばんなおまさ=原田直政)大和守護に任じられて城に入り、大和や河内一帯を治めていましたが、この直政が本願寺との合戦で死亡したため、天正四年(1576年)5月に、今回の多聞山城戦キッカケで信長の傘下となった筒井順慶が、大和一国を賜ると同時に多聞山城に入城しますが、そのわずか2ヶ月後に多聞山城は破却されました。

とは言え、ご存じのように、この天正元年の多聞山城落城の時には、信長は久秀父子を許しています。

翌・天正二年(1574年)1月早々、赦免のお礼のために岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を訪れ、信長に謁見した久秀は、名刀=不動国行(ふどうくにゆき)を献上したという・・・
※ちなみに、この天正二年(1574年)の3月には、奈良を掌握した事を内外に知らしめるかのように、信長は東大寺正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)削り取りに来てます(3月28日参照>>)

以前も書かせていただきましたが(2009年12月26日参照>>)、やはり久秀は、信長にとって、魅力的なチョイワルオヤジ(←古いww)だったのかも知れません。

ただ・・・それこそ、皆様ご存じのように、このチョイワルオヤジは、この5年後に、またまた信長に反旗をひるがえします。。。と、そのお話は信貴山城の戦いでどうぞ>>
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2017年12月 1日 (金)

秀吉の中国攻め~黒田&竹中=二兵衛が迫る福原城の戦い

天正五年(1577年)12月1日、信長の命を受けた秀吉の中国攻めの福原城の戦いで、福原則尚の福原城が開城されました。

・・・・・・・・・・

元亀四年(天正元年=1573年)7月に、第15代室町幕府将軍足利義昭(あしかがよしあき)槇島城(まきしまじょう)を攻撃し(7月18日参照>>)、続く8月に越前の朝倉と北近江の浅井を倒し(8月28日参照>>)、翌・天正二年(1574年)に長島一向一揆をせん滅し(9月29日参照>>)、さらにその翌年の天正三年(1575年)5月に、あの武田を長篠で撃ち破った(5月21日参照>>)織田信長(おだのぶなが)・・・

その年の11月に、これまで本拠としていた岐阜城美濃(岐阜県)尾張(愛知県西部)2国の家督を、嫡男の織田信忠(のぶただ)に譲り(11月28日参照>>)、翌・天正四年(1576年)の2月から安土城の築城に取りかかった(2月23日参照>>)信長は、この時点で、日本の中央部を抑えつつありましたが、そんな中で、信長とって気になる存在越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と、安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと)でした。

どちらも、誰もが一目置く大大名ですので、これまでは、お互いを尊重し、表向きには争わない雰囲気を醸し出していましたが、ここに来て、北陸へと手を伸ばした謙信(3月17日参照>>)が、すでに元亀元年(1570年)から信長とは石山合戦を展開中(9月12日参照>>)の本願寺第11代・顕如(けんにょ)と和睦した事(5月18日参照>>)、また、畿内を追われた義昭が毛利を頼った事、などから、上杉&本願寺&毛利という三者の共通の敵が信長~という状況に・・・

この天正四年(1576年)の7月には、信長勢の警戒を破って毛利傘下の村上水軍が顕如の籠る石山本願寺に兵糧を運び込む事に成功する第一次木津川口海戦(7月13日参照>>)もありつつ、刻々と迫りくる謙信の影も・・・(8月14日参照>>)

そんな中で、織田家内では、
北陸方面を柴田勝家(しばたかついえ)(9月18日参照>>)
山陰方面を明智光秀(あけちみつひで)(10月29日参照>>)
伊勢方面を織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)(11月25日参照>>)
などに担当させる中、
西国の雄=毛利と対峙する山陽方面を担当させたのが羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)でした。

Kurodazyosui500 この時、播磨(はりま=兵庫県南西部)御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)主の寺政職(こでらまさもと)の家臣=黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)など、いち早く味方についてくれる(11月29日参照>>)者もいましたが、一方で、毛利の色濃い備前(びぜん=岡山県南東部)との国境に近い西播磨の国衆たちは、やはり毛利への思いが強く、そう簡単に織田方の秀吉へなびこうとはしなかったのです。

そんな中の一人が上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)赤松政範(あかまつまさのり)でした。

Takenakahanbee600 天正五年(1577年)11月27日、能見川(のうみがわ=千種川支流)を渡った秀吉は、この上月城へと攻撃を仕掛けるのですが(11月29日参照>>)、それと同時に、周辺の支城を落とす多面的作戦を展開・・・自らの本隊は、上月城正面の仁位山(にいざん=兵庫県佐用町)へと向かう一方で、かの黒田官兵衛と竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)ら2千余騎を福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)へ派遣したのです。

実は、この時、福原城にいた高倉山城(たかくらやまじょう=同佐用町)主=福原助就(ふくはら すけなり)は、福原城主の福原則尚(のりひさ)とは同族であり、未だ信長に従わぬ宇喜多(うきた)(10月30日参照>>)の家臣であると同時に、上月城の赤松政範の妹婿でもあった関係から、今回の秀吉の進軍に対しては、かなり強い抵抗を抱いていたわけです。

Fukuharazyoynotatakai
福原城の戦い・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『播州佐用軍記』によれば、
翌・11月28日、千種川(ちくさがわ=兵庫県南西端部を流れる)上津の渡しから川を渡った竹中軍は、福原城内から撃って出た福原方の兵により、かなり多くの犠牲者を出しつつも、何とか福原軍を城内へと追い込みます。

その後、ただちに周辺の山麓に火を放って、あぶり出しの総攻撃にかかりますが、この作戦は失敗に・・・

ここで、本隊から加勢にやって来た蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)が猛攻撃を仕掛けますが、やはり福原城を落とす事はできず・・・

とは言え、上記の通り、すでに敵を城内へ追い込み、そこをネズミ一匹逃がさぬ状態で包囲は完了しているわけで・・・ならば、このまま、長期に渡る籠城戦=兵糧攻めに持ち込むべきか?

との案も浮上しますが、そんなこんなの天正五年(1577年)12月1日、搦(から)め手からの鉄砲一斉射撃を開始した蜂須賀勢勢に歩調を合わせるように、大手を攻める黒田軍&竹中軍も一斉射撃を開始・・・

これを受けた城内では大手と搦め手の応戦に手勢を分散せねばならないばかりか、これまでの連日に渡る射撃攻撃に応戦していたため、今回の二刻ほどの一斉射撃に応戦している間に、城内の弾薬が尽きてしまう事態に・・・

この状況に浮き足立つ城内・・・その様子を見て取った黒田官兵衛の采配のより、黒田軍が一気に城内へと突入し、福原城の開城を成功させたのです。

この時、孫子(そんし)の兵法『囲師(いし)には必ず闕(か)き』「囲む時は逃げ道を作っておく」(本家HP:孫子の兵法「軍争編」参照>>)を実践した官兵衛によって用意された一方向の逃げ道に敗走の兵士が殺到する中、同じく脱出を図った助就は、潜んでいた伏兵に追い詰められて自害したとも、秀吉方の平塚為広(ひらつかためひろ)なる武将に討ち取られたとも言われます。

また、別の説では、高倉山を守っていた赤松の兵が、秀吉本隊の猛威に恐れをなして戦線離脱してしまったために、助就が、その高倉山城を救援に向かうべく福原城を出たところで、竹中軍と遭遇・・・激戦となってしまい、高倉山に向かう事を断念した助就は、福原城内へと戻って自害したとも伝わります。

いずれにしても、この日の戦いによって福原城は開城となり、助就が命を落とした・・・という事は確かな事だと思われます。

この間、秀吉本隊の猛攻を受けていた上月城では、翌・12月2日に敵陣に夜襲をかけるも失敗・・・コチラは12月3日に陥落し、尼子氏(あまこし)の再興を願う山中鹿之介(やまなかしかのすけ・幸盛)(7月17日参照>>)に、この上月城の守りを任せた秀吉は、更なる三木城攻防戦へと向かう事になります。

この後の出来事の参照ページ
三木の干殺し~別所長治の籠城戦>>
信長に見捨てられた上月城>>
山中鹿之介奮戦!上月城の攻防>>
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2017年10月29日 (日)

天正壬午の乱の徳川と北条の和睦で井伊の赤備え誕生

天正十年(1582年)10月29日、徳川家康と北条氏政の和睦が成立し、甲斐と南信濃は徳川領、上野は北条領と決まりました。

・・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)2月9日、織田信長(おだのぶなが)によって開始された『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)・・・

約1ヶ月後の3月11日、天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより)が自刃(2008年3月11日参照>>)した事で、ここに甲斐(かい=山梨県)に君臨した武田氏が滅亡したのです。

その2週間後の3月29日に行われた論功行賞により、信長は11ヶ条に及ぶ訓令とともに、武田の旧領の配分を行い、それは、
甲斐国河尻秀隆(かわじりひでたか)
ただし穴山梅雪の支配地は除き、その代替地として諏訪1郡をプラス
駿河国徳川家康
上野国信濃国(小県・佐久2郡)滝川一益
信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)森長可(もりながよし)
信濃木曽谷2郡木曽義昌に追加
信濃伊那1郡毛利長秀(もうりながひで)
岩村((岐阜県恵那市)団忠直(だんただなお)
金山米田島(よねだじま=岐阜県加茂郡)森定長(もりさだなが=長可の弟・蘭丸)
、と決定したわけですが・・・

しかし・・・
皆様ご存じの通り、このわずか2ヶ月後の6月2日・・・本能寺の変が起こり(2015年6月2日参照>>) 、信長は炎の中で自害します。

たった2ヶ月ですから、当然、武田の旧領を与えられた上記の武将たちは、未だ新しい領国を治め切れてもいないわけで・・・

武田勢力の中心地であった甲斐を与えられた河尻秀隆は、武田遺臣が起こした一揆によって命を落とし(2013年6月18日参照>>)、知らせを聞いた森長可は取るものも取りあえず本国へと戻り(4月9日参照>>)北条氏直(ほうじょううじなお)に行く手を阻まれた滝川一益も戦いに敗れ(2007年6月18日参照>>)清洲会議(きよすかいぎ)(6月27日参照>>)にも間に合わず・・・

と、思えば、この3人は信長の家臣・・・あと、森定長は本能寺で信長とともに亡くなり、団忠直も二条御所(にじょうごしょ=京都府京都市)信忠(のぶただ=信長の嫡男)(2008年6月2日参照>>)とともに逝き・・・毛利長秀は出自がよくわからない(斯波氏とも)ので何とも言えませんが、

とにかく、織田の直臣は武田の旧領から姿を消したわけで・・・ほんで、残ったのは独立大名である徳川家康と木曽義昌。

つまり、武田の旧領のうち甲斐&上野&信濃の半分ほどから織田勢力が一掃された事で、ここが宙に浮いた=周辺の大名たちの切り取り次第って事になったわけですが、もちろん、そこには滝川一益を破った北条も参戦し、武田滅亡で織田についた真田昌幸(さなだまさゆき)、そして越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)もイッチョ噛んで来る事に・・・

これが、天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる戦いです。

ただし・・・
木曽義昌は、信濃から逃げて来た森長可に乱入されて従わざるを得ず、真田も未だ単独で周囲を相手にするほどの力は維持しておらず、結局は、徳川VS北条VS上杉の三つ巴の様相となるのですが、

そんな中、本能寺の変の勃発当時は堺にいた家康は、決死の伊賀越え(2007年6月2日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)へと戻り、信長を葬り去った明智光秀(あけちみつで)への討伐軍と整えるとともに、甲斐や信濃に向けて出兵しますが、まもなく織田家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)から「光秀を討った」(6月13日参照>>)との知らせが舞い込んだ事で、光秀の討伐軍も反転させて甲斐&南信濃方面軍に進軍し、北条へと迫ります。

一方、先の御館(おたて)の乱(2007年3月13日参照>>)の混乱の後、織田家臣の柴田勝家(しばたかついえ)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を落とされて(6月3日参照>>)、まもなく決戦!の様相を呈していた上杉も、信長の死によって勝家が撤退した事で、「今がチャンス!」とばかりに信濃方面に手を伸ばします。

北に上杉、西に徳川・・・となった北条は、ここで北信濃を諦めて上杉と和睦し、甲斐を巡って徳川と抗争して若神子(わかみこ=山梨県北杜市須玉町)などで対峙しますが、やがて両者ともに「ここで戦い合う事は得策にあらず」と判断し、和睦交渉に入ります。

かくして天正十年(1582年)10月29日、甲斐と南信濃は徳川の切り取り次第、上野(こうずけ=群馬県)は北条の切り取り次第としたうえ、北条氏直に家康の次女=督姫(とくひめ)が嫁ぐ(11月4日参照>>)という条件で和睦が成立したのです。

この後、上記の条件に不満を持った真田昌幸によって上田城の戦い(8月2日参照>>)に発展するものの、いわゆる天正壬午の乱と呼ばれる戦いは、この徳川&北条の和睦によって終結となります。

『寛政重修諸家譜』によれば、
「十月かつて甲斐国に御出馬ありて…直政御つかひをうけたまはりて、かの陣におもむき、そのこふところにまかせらるべきむね仰をつたへ、かつ氏直がもとへ姫君婚儀の事を契約す…」
とあり、この重要な交渉を敵陣に赴いて成功させたのが、後に徳川四天王と謳われるあの井伊直政(いいなおまさ)であった事が記されています。

さらに、直政は、家康の旧武田の家臣たちへの本領安堵を約束する取次役としても奔走します。

もちろん、この取次役は直政以外にもいますが、11月を過ぎてもなお、最後まで奔走したのは直政のようです。

未だ22歳の若き直政に、なぜに大役が任されたのかは定かではありませんが、この交渉劇と取次役を精一杯こなした結果なのか?今回の恩賞により、直政には、駿河に4万石を与えられたうえ、武田の旧臣:74名、関東の従士:43名の計:117名が直政の付属とされ、彼は一軍の指揮をする侍大将となったのです。

Iinaomasa700 しかも・・・
「その兵器みな赤色を用ふべきむね鈞命かうぶり…」
と・・・そう、井伊の赤備え(あかぞなえ)の誕生です。

軍勢が使用する甲冑や旗指物などの武具を、赤や朱を主体とした色彩で整えた、
あのカッコイイ赤備え(*゚▽゚)ノ

この赤備えは、もともと武田家臣の山県昌景(やまがたまさかげ)の朱色の軍装を模した物で、特に武勇に秀でた武田軍の中心となる存在で、まさに武田の象徴・・・

この時、本領を安堵されて家康の傘下となった旧武田の者は、全体で800名ほどいたとされますが、そのうちの74名を引き継いだ直政にこそ与えられた、名誉ある赤備えだったのです。

その後の井伊直政は、皆様ご存じの通りの大活躍をする事になり(2月1日参照>>)、幕末には、あの井伊直弼(いいなおすけ)(2009年3月3日参照>>)を生み、平成の世には、彦根(ひこね=滋賀県)ひこにゃんが、この赤備えを継承してますがww・・・

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赤備えの井伊隊「関ヶ原合戦図屏風」部分(関ヶ原民俗資料館蔵)

果たして、本年の大河ドラマ・・・主人公である井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)が、信長の死の、わずか3ヶ月後に亡くなってしまうので、この赤備えが出るのやら出ないのやら・・・楽しみデス
 .

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2017年10月22日 (日)

三方ヶ原前哨戦~井伊・伊平城の仏坂の戦い

元亀三年(1572年)10月22日、武田信玄配下の山県昌景が井伊谷の伊平小屋山城を攻撃した仏坂の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)に桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)で当主の今川義元(いまがわよしもと)が討死にして後、息子の今川氏真(うじざね)が領国経営に奔走するも、かつての勢いを失っていく今川家・・・

そんな中、天文二十二年(1553年)に相模(さがみ=神奈川県)北条(ほうじょう)駿河(するが=静岡県西部)の今川との間に相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んでいた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)は、この今川の現状とともに桶狭間キッカケで独立を果たした徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)(2008年5月19日参照>>)の事や、川中島で何度も戦いながらも(8月3日参照>>)決着が付きそうにない越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)との事などを踏まえて、ここで大きく舵を切ります。

つまり、北=信濃(しなの=長野県)&越後方面へ注いでいた心血を、南=今川領方面へと・・・それは、その方針転換に反対する長男=武田義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)までの固い決意でした。

『浜松御在城記』よれば・・・
桶狭間の後に尾張(おわり=愛知県西部)を統一(11月1日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)が、ちょうどその頃、信玄に、
「大井川を境として、東の駿河は武田、西の遠江(とおとうみ=静岡県西部)は徳川クンが切り取ったらえぇんちゃうん?」と、家康への協力を呼びかけて来たのだとか・・・

間も無くの永禄十一年(1568年)9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて信長が上洛をする(9月7日参照>>)事を知っている私たちから見れば、おそらく、怖いオッチャン=信玄の目を京都に向けさせないための信長の策とも取れますが、信玄とて、このチャンスに今川の領地を奪わない手は無いですし、出遅れているうちに、家康がどんどん駿河に侵攻しちゃうかも知れないわけですから、むしろ、積極的に、この案を受け入れた事でしょう。

こうして駿河に侵攻した信玄は、12月12日の薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)から、翌13日には、氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)したのです。

この攻撃に耐えきれず、掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと避難した氏真を、今度は、信玄とほぼ同日に軍事行動を起こしていた家康が攻撃しするわけですが・・・

この時、家康が今川領へと入る道案内をしたとされるのが井伊谷三人衆(いいのやさんいんしゅう)と称される菅沼忠久(すがぬまただひさ)近藤康用(こんどうやすもち)鈴木重時(すずきしげとき)の3人。

ただ、『武徳編年集成』によると・・・
家康派だった東三河の菅沼定盈(すがぬまさだみつ)が、強固な今川配下たちの壁を崩すべく、同族の菅沼忠久に声をかけ、その忠久が近藤らを引っ張り込んで家康の道案内をする事になり、約束通り海側に出向いて待っていたものの、家康勢が道を間違えて中宇利(なかうり=愛知県新城市中宇利)の方に行ってしまったため、実際に出向いたのは定盈だけで、その後、定盈が3人を家康に紹介したようですが・・・

ただ、行き違いがあったとは言え、この三人衆が道案内を買って出てくれた事は事実だし、その影響もあっての、今回の遠江への進撃だったわけで・・・家康は、この時、面会した3人に
「今度両三人以馳走、井伊谷筋を遠州口江可打出之旨、本望也」
(君らの働きで井伊谷筋を通って遠州に討ち入る事ができた事は本望や)
として起請文(きしょうもん=神仏に誓って約束を守る契約書)を出し、井伊谷における跡職(あとしき=跡目・家督や財産)を与える事を約束しています。

このあと、家康は引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・曳馬城)に入って、今川方の武将に調略(ちょうりゃく=政治的工作・はかりごと)をかけ、幾人かがなびいいて来たところで攻撃を開始しますが、敵もさるものでなかなか掛川を落とせないでいたところで、信玄の「早よっ!落とさんかい!」の催促もありつつ・・・で以って、催促で家康が本気出したのか否か?はともかく、翌・永禄十二年(1569年)5月に、ようやく開城となり、氏真は、奥さんの実家=北条氏政(ほうじょううじまさ)を頼って相模へと逃走したのです(12月27日参照>>)

ここに戦国大名としての今川家は滅亡となりました→その後も今川家の血脈は続きますが(3月16日参照>>)

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三方ヶ原前哨戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、駿河は信玄が、遠江は家康の支配下となった(1月18日参照>>)わけですが・・・しかし、このつかの間の落ち着きは、まもなく崩れます。

その要因の一つは、家康が信玄のライバルだった謙信と結んだ事・・・もちろん、それ以前に、上洛した信長の勢いがどんどん大きくなっていく事を警戒心した信玄が、信長と同盟関係にある家康をも警戒して、今川から奪った田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を大幅改修して、駿河西部の守りを強くしていたという事もあったわけですが、

そんな信玄の警戒心を感じた故か・・・家康は、元亀元年(1570年)10月8日に、
「自分が武田とは手切れする」事
「上杉と織田とがイイ関係になるよう自身が仲介役になる」事
「織田
(信忠)と武田(松姫)の縁談を破棄させる努力をする」事
などの盛り込んだ起請文を謙信に送ったうえに、かの引馬城を大幅改修&拡大して浜松城(はままつじょう)と名を改め、これまでの岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)を息子の徳川信康(のぶやす=松平信康)に譲って、自身の居城を浜松城としたのです。

おそらく、この家康の上杉へのアプローチを聞きつけたであろう信玄が、翌・元亀二年(1571年)、奥三河(おくみかわ=設楽郡あたり)の地侍だった山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)の切り崩しに成功するのです。

この山家三方衆とは、作手(つくで=愛知県北東部の南設楽郡)奥平氏(おくだいらし)長篠(ながしの=愛知県新城市長篠)菅沼氏(すがぬまし)田峰(だみね=愛知県北設楽郡設楽町)菅沼氏の3家で、本来なら、信玄の三河侵攻を阻む最前線であったはずが、信玄の作戦がウマかったのか?今回は3家とも、見事なまでに家康から離反して信玄のもとに走ったのです。

ちなみに、同じ菅沼氏でも離反しなかった菅沼定盈は、この時、本拠の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)に籠って抵抗したとされていましたが、最近では、このお話は別の年の話とされているようです。

とにもかくにも、山家三方衆を懐柔した信玄は、年が明けた元亀三年(1572年)10月3日、2万5千の大軍を率いて、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・「上洛するつもりだった?」とも言われる有名な西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始するのです。

この時、信玄本隊が飯田からほぼ天竜川に沿って南下し、青崩峠(あおくずれとうげ)を越えて侵攻するのと同時に、別働隊を任された重臣の山県昌景(やまがたまさかげ)が東三河から遠江に入って来たわけですが、上記の通り、山家三方衆が味方になっているので菅沼正貞(すがぬままささだ)長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)あたりまで、ごくごくすんなり入って来たかと思うと、ほどなく、その長篠城の南東に位置する柿本城(かきもとじょう=愛知県新城市下吉田)に攻め寄せたのです。

柿本城は、先の井伊三人衆の一人=鈴木重時の城・・・この時、城を守っていたのは重時の息子=鈴木重好(すずきしげよし)でしたが、彼は未だ14~5歳の少年・・・しかも、その柿本城自体も未だ改修中で、塀があるのは本丸のみで、二の丸は小さな柵があるだけの粗末な物・・・

「このままでは、まともに戦えない!」
と判断した重好らは、一旦、柿本城を捨て、仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)まで撤退・・・その時、伊平城(いだいらじょう=静岡県浜松市北区・小屋山城とも井伊小屋とも)に近藤康用らが籠っている事を知り、重好らも合流して籠城しました。

かくして元亀三年(1572年)10月22日山県隊が伊平城に押し寄せて来たのです。

大手を山県隊、裏は山家三方衆が率いる多勢で迫る武田勢に対し、近藤、鈴木重俊(すずきしげとし=重時の弟・重好の叔父)井伊飛騨守(いいひだのかみ=井伊氏の一族=伊平井伊氏?と思われるが史料は皆無)の3名が大手の小屋口で防戦するも、敵から放たれた鉄砲が飛騨守に命中・・・重俊も頬当ての下に弾丸を受けて、両者ともに討死してしまいました。

さらに、戦場は仏坂へも広がり、この周辺で多くの兵士が戦死したと見られ、現在も戦国期の物とおぼしき五輪塔などが建ち、地元では「ふろんぼ様」と呼ばれているのだとか・・・

こうして仏坂の戦いとも伊平小屋城の戦いとも呼ばれる井伊谷(いいのや=同浜松市北区)周辺での戦いに勝利した山県昌景は、一言坂(ひとことざか)の戦い(10月13日参照>>)を終え、二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)を攻略中(10月14日参照>>)信玄本隊と合流します。

ちなみに、この時に、山県同様に、美濃(みの=岐阜県)方面から侵攻する別働隊を任されていた秋山信友(あきやまのぶとも=晴近・虎繁)が展開していたのが、未亡人LOVE岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)攻防戦(3月2日参照>>)です。

この後、有名な三方ヶ原(みかたがはら)の戦い(12月22日参照>>)から、翌日の犀ヶ崖(さいががけ)の戦い(12月23日参照>>)・・・そして、年が明けた天正元年(1573年)1月には野田城の攻防戦(1月11日参照>>)へと向かう事になるのですが、ご存じのように、この野田城を最後に信玄の西上はストップし、武田軍は甲斐へと戻る事になります。

そう、信玄の死です(4月12日参照>>)

信玄の遺言(4月16日参照>>)に従って、その死が隠されていたため、この時に奪われた井伊谷一帯は、しばらくの間は武田の手に落ちていましたが、それが、家康によって奪回されるのは3年後の天正三年(1575年)頃の事だという事です。

残念ながら、本年の大河ドラマの主役=井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)は、このあたりの史料には出て来ませんが・・・

にしても、「伊」と「井」の文字の出現頻度が高い記事でしたなww(*^-^)
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2017年10月 2日 (月)

織田信長の高野山攻め

天正九年(1581年)10月2日、高野山攻めを決意した織田信長の先陣が紀伊根来に到着しました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じ・・・高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町)は、平安時代初期の僧=空海(くうかい=弘法大師)が開いた高野山真言宗総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)を中心に100か所以上の寺院や宿坊などが集まる宗教都市です。

創建以来、その重要さ故、内外の紛争に巻き込まれる事も多かった高野山ですが、やはり戦国期になってからは、その規模も大きくなったと言います。

そんな中での天正九年(1581年)からの、織田信長(おだのぶなが)による高野攻め・・・

その高野攻めの発端となったのは、信長の傘下となって以来、なかなかのお気に入りで出世コースを歩んでいたはずの荒木村重(あらきむらしげ)の謀反でした。

謀反の要因は様々に語られ、未だ村重自身の心の奥底は読めないのですが、とにかく、村重は、信長とただ今交戦中の石山本願寺に内通し、天正六年(1578年)10月21日、突如として居城の有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城とも)に籠ってしまうのです。

これを受けた信長は何度も使者を出して説得しますが、村重は断固拒否・・・有岡城が危うくなると、妻子を残してわずかな側近だけを連れて尼崎城(兵庫県尼崎市)へと逃走し(12月16日参照>>)、さらに移った花隈城(はなくまじょう=兵庫県神戸市)でも、またもや落城寸前に逃走し(3月2日参照>>)・・・

そんなこんなの天正八年(1580年)閏3月5日、有岡城攻防戦のさ中に城を脱出した荒木方の落武者5名を、高野山内にある寺が匿っている事が発覚したのです。

例の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)でもそうであったように、発覚した以上、信長としては捨て置くわけにはいきません。

その年の7月、信長は前田利家(まえだとしいえ)不破光治(ふわみつはる)の両名を使者として送り、彼らを引き渡すよう交渉しますが、窮鳥入懐(きゅうちょうにゅうかい)すれば猟師も殺さず=懐に逃げ込んできた鳥は猟師でも助けるとばかりに完全拒否・・・ただし、この段階では、あくまで冷静な話し合いであって、未だ高圧的かつ暴力的な事はまったく無かったようです。

翌・8月には、信長と石山本願寺の間で約10年に渡って繰り広げられた石山合戦が終結(8月2日参照>>)し、その合戦絡みで信長からの叱責を受けて追放された佐久間信盛(さくまのぶもり)父子が高野山へと落ちて来ましたが、コチラは長居する事無く、さらに熊野方面へと落ちて行きました(7月24日参照>>)

しかし、それと前後して事件が起こります

当時、信長から(さかい=大阪府堺市)代官を任されていた松井友閑(まついゆうかん)配下(一説には秀吉の配下?)の足軽32名が「荒木浪人の探索」と称して高野山に乱入し、土足で堂塔に上がり込んで内外を捜索しまくったのです。

これに怒った高野山側は、その怒りを隠しつつ、彼らを3か所の坊に分散して、お酒など振舞ってもてなし、その最中に一斉に合図の鐘をを鳴らして、32名全員を殺害したのです。

確かに配下の先走り&無礼はあったものの、これにブチ切れた信長は御室御所(おむろごしょ=仁和寺の事)におわす任助法親王(にんじょほうしんのう=伏見宮貞敦親王の第4子で後奈良院の猶子)令旨(りょうじ=皇太子などの命令を伝えるために出した文書)を得て、諸国を巡っている高野聖(こうやひじり=全国で布教活動している僧)片っ端から捕えたのです。

驚いたのは高野山・・・どうやら、高野山側には、未だ信長と武力による徹底抗戦するつもりは無かったようで、慌てて安土へと使者を派遣して謝罪したり、先の法親王を通じて和解を申し込んできたり・・・と、この8月は何度も使者が行き交ったようです。

一方の信長も・・・・
この時の9月21日の日付で高野山に対して「大和での領地を安堵する」内容の朱印状を発行していますので、武力で以って一気に焼き討ち~ではなく、まだまだ話し合いで解決しようろ思っていたようです。

しかし、結局はいつまで経っても交渉は前に進まず、あげくに高野山側が「彼らは、もう逃走した」と言い始めたため、いよいよ信長は出兵を決意し、捕えていた高野聖や僧たちを処刑したのです。

かくして天正九年(1581年)10月2日、織田方の先陣として堀秀政(ほりひでまさ)紀伊(きい=和歌山県)侵出・・・早速、根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市)の近くに陣を張りました。

実は、同じような武装集団を抱える紀伊の寺という事で、根来寺は高野山に味方するんじゃないか?と考え、まずは様子見ぃで、近くに布陣したわけですが、この頃の高野山と根来寺は仲が良いわけでもなかったようで、根来寺はアッサリと人質を差し出して無関係を表明し、傍観の構え・・・なので秀政は悠々と根来に布陣したと言います。

ただし・・・今回の信長による高野攻めのお話は『高野春秋(こうやしゅんじゅう)なる文献に書かれているお話・・・他の史料には、ほとんと登場しません。

たとえば、信長の史料として特に有名な『信長公記』では、「高野山が荒木の残党を匿って使者を殺害したので高野聖を成敗した」話は出て来ますが「その後に高野山を攻めた」という話は出て来ません。

実は、この『高野春秋』は、文字通り高野山の歴史をまとめた物で、史料的価値があり、高野山についてはかなりくわしく書かれている物なのですが、いかんせん書いたのが高野山の学僧なので、高野山を愛するあまりの偏見や、少々の間違い&感違いもあり・・・

なので、上記の堀秀政なんかは、『高野春秋』では1番に紀伊へ入り、この後も、高野攻め総大将の織田信孝(おだのぶたか=信長の三男・神戸信孝)に代わって大将代理を務めた重要人物のように書かれていますが、実際には、この時の秀政は、同時期に起こった伊賀攻め(9月3日参照>>)やら甲州征伐(VS武田)(2月9日参照>>)やらに派遣されており、この高野山攻めにはいなかった可能性が高いとされています。

てな事で、「鬼畜の信長軍が全力を挙げて攻め込んで来た」とするような『高野春秋』の内容をすべて鵜呑みにするわけにはいかないのですが、一方で、信長が現地の土豪(どごう=土地に根付いた地侍)「兵を派遣するのでヨロシク」と協力を打診する手紙も出したりしてますし、上記の甲州征伐の時に高野山を警戒している様子もうかがえます。

また、公家の日記にも「まもなく出兵されるらしい」と書かれていたり、この年の12月に入っても、まだ朝廷の勅使(ちょくし=天皇からの使者)や両者の使者が行き来していた様子も見て取れ、他にも複数の文献に「高野攻め」の話自体は断片的に出てきますので、おそらく何かしらの衝突があった事は確かかと思われます。

そうなると、やはりこの高野攻めについて1番くわしいのは『高野春秋』・・・という事で、上記のような事を踏まえつつ、今回は『高野春秋』に沿ってお話を進めて参ります。

Nobunagakouyasan
信長の高野攻めの位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

で、高野山には「高野七口(こううやななくち)と呼ばれる高野山へつながる7つの道があるのですが『高野春秋』では、その七口を、
西からの保田口(大門口)
同じく西の麻生津(おうず)
北からの学文路(かむろ)
北東の大和(やまと)
東からの大峯口
南からの熊野口
同じく南方の竜神口
の7つとしています(七口の呼び方には諸説アリ)が、上記の通り天正九年(1581年)10月2日に先陣が根来に入った織田勢は、そのうちの大手にあたる西方から北方にかけてを中心に、背山城(せやまじょう=和歌山県伊都郡かつらぎ町)に総大将の信孝、名古曾(なごそ=和歌山県橋本市高野口町)付近に松山庄五郎橋本岡田重孝(おかだしげたか)、それをサポートするが如く大和口に筒井順慶(つついじゅんけい)父子・・・そして、西方の粉河(こかわ=和歌山県紀の川市粉河)付城(つけじろ)に堀秀政などなど、総勢13万7千余りが紀ノ川の北岸に沿って布陣した・・・

って、さすがにこの数字は『高野春秋』の盛り過ぎかと・・・おそらくは「こんな大軍に立ち向かった高野山スゴイヽ(´▽`)/」というアピールなのでしょうが、この時の信長は、例の伊賀攻めに、西の毛利に、東の武田も健在な時期ですから、ここに、これだけの戦力を投入する事は、おそらくできなかったでしょうから、やはり、戦闘の規模としては『高野春秋』が言うほどの大きな物では無かったのでしょうね。

とは言え、高野山側の守りもなかなかのもの・・・同じく『高野春秋』によれば、
高野山内の衆徒に寺領の兵士、近隣の浪人などを集めて3万6千余りになった軍団の中から選りすぐりを七口の守備に当たらせ、重要な麻生津口には南蓮上院弁仙(なんれんじょういんべんせん)、学文路口には花王院快翁(けおういんかいおう=花王院快応)をそれぞれの大将として配置しています。

実はこの二人・・・ 弁仙は、かつて河内(かわち=大阪府東部)守護代を務めた遊佐信教(ゆさのぶのり)の息子で、快翁は、その信教に謀反で殺された主君=守護畠山昭高(はたけやまあきたか)の息子という因縁の関係

しかし、両者ともに有能な武将の父を持ち、彼ら自身も僧になる前は、武士としての鍛錬を受けていた身・・・ここは互いにかつての恨みを捨て、その武将時代に身に付けたノウハウを遺憾なく発揮すべく戦いに挑んだ事でしょう。

さらに、高野山側は茶臼山城(ちゃうすやまじょう=和歌山県紀の川市)脇庵(わきあん)の砦をはじめとする高野七砦を構築しつつ、本職の怨敵退散の祈祷の護摩焚きも怠る事なく・・・こうして、紀ノ川挟んだ北に織田方、南に高野山衆徒が対峙する事となります。

そんな中、年内はなんだかんだで交渉が続けられていたものの、明けて天正十年(1582年)に入ってからは、両陣営のアチラコチラで頻繁に戦闘が勃発するようになります。

2月には織田方の武将=松山重治(まつやましげはる=新介)多和(たわ=橋本市菖蒲谷)に砦を構築し、ここを拠点に九度山(くどやま=和歌山県伊都郡九度山町)方面に連日ように仕掛ける一方で、負けてない高野山側も同じく2月に大和口の筒井順慶の担当場所を襲い、ここを乗っ取ったのだとか・・・

2月末日には、信長方の岡田重孝らが学文路口の砦を襲撃・・・快翁らが奮戦して何とか撃退し、3月3日には、今度は高野山側から多和に夜襲をかけて織田勢を蹴散らしました。

4月に入ると、織田方の総大将を務めていた織田信孝が来たる四国攻めの準備を命じられて戦線を離脱・・・代わって堀秀政が本陣に入りますが、「堀に負けてはならじ!」とばかりに、最初からこの周辺に陣を置いていた武将らが麻生津口を攻めます。

しかし、高野山側は弁仙を中心に城と砦を守りぬいて、逆に、織田方の兜首を131も挙げたため、織田勢は総崩れとなって慌てて退散したため紀ノ川にて溺れる者で、その流れが止まった・・・て、これもやっぱり『高野春秋』の盛り過ぎかな?(堀秀政もいないはずだしネ)

ただし、高野山LOVE感が強過ぎのオーバーな描写ではありますが、何らかの戦闘があった事は事実でしょうし、あの天下の織田勢相手に、高野山がよく防いだ事も確かでしょう。

なんせ、そんなこんなしているうちに、日付は、あの運命の6月2日=本能寺の変(6月2日参照>>) を迎えてしまうのですから・・・

それも『高野春秋』によれば、
その日、いつものように怨敵退散の祈祷を行っていると、「夜には風も無いのに灯明が消えたり、葛城山(かつらぎさん)から黒雲が立ち込めたかと思うと、天井から生首が二つ落ちて来て、その後3度舞い上がったり落ちたりした後にスッと消えた」という怪現象があって、皆が「何かあったな」と不思議に思っていると、その日の夕刻になって「信長死す」の知らせが届いたと・・・ま、高野山側から見れば、そういう事になるでしょうね~そのために連日、祈祷しているのですから・・・

そして、変からほどなく、高野山にも、そして対陣している織田方にも、異変の報告が届いたのでしょう。

まもなく、織田方が包囲を解き、慌てて退陣していった事で、高野山は危機を脱しました。

・‥…━━━☆

というわけで、本日はほぼほぼ『高野春秋』に沿ってお話をさせていただきましたが、上記の通り、この記録は完全に高野山側に立った人の書いた物・・・と言えど、すべてが嘘かというと、おそらくはそうでは無いわけで、

こうして、玉石混淆の物語を、自分なりにアレコレ推理していくのも、歴史の楽しみの一つですね。
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2017年9月13日 (水)

織田信長、最愛の女性~生駒吉乃

永禄九年(1566年)9月13日、織田信長・最愛の女性で、側室として二男一女をもうけた生駒の方が39歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

と言っても、正史や一級資料にほとんど登場しない事から、かなり謎多き女性です。

亡くなった日付も、今回は9月13日でご紹介しましたが、5月13日説もあります。
(wikiは5月13日になってるので、ひょっとしたらソッチの方が一般的なのかも…)

名前も、正式には生駒家宗(いこまいえむね)の娘とあるだけで、本名もわからず、没年齢も、信長の6歳年上の39歳説と、4歳年下の29歳説があります。

でも、信長は、正室の濃姫(のうひめ=帰蝶)(2月24日参照>>)との間に子供ができなかった一方で、「側室として二男一女をもうけた」=「彼女が産んだ男子が後継ぎになるんだから…」と思いきや、確実なのは、次男の信雄(のぶお・のぶかつ)と長女の徳姫(とくひめ・五徳)のみで、生年のハッキリしない嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)は、彼女の子供では無い可能性もあるのだとか・・・

とにもかくにも、その伝承の多くが、偽書の疑いのある『武功夜話(ぶこうやわ)の出典である事から、「疑わしい」との見解もあるにはあるのですが、とかく古文書の真偽なんて物は原本を確認しない事には何とも言えない物でして・・・

現に、この『武功夜話』の場合でも、それまで偽書説派だった歴史家さんが、原本を見た途端に肯定派に回ったなんて事もありますし、専門家の間でも意見が分かれているのが現状ですので、『武功夜話』そのものの真偽に関しては、原本をナマで見る事のできる専門家の方々に委ねたいと思います。

また、例え一級資料であったとしても、中に書いてある事がすべて正しいわけでは無いですし、まして『武功夜話』は、江戸時代に書かれた『軍記物』に分類される物ですので、個々のエピソードについては、それぞれ個別に検討していかなくてはならない物・・・

なので、今回は、そんな事を踏まえつつ、一般的に語られる信長の側室=生駒の方のお話を、『武功夜話』に登場する吉乃(きつの)というお名前で、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

尾張の国(愛知県西部)丹羽郡小折村(にわぐんこおりむら=江南市)馬借(ばしゃく=運送業)を営む経営者=生駒家宗の娘として生まれた吉乃は、はじめ、土田弥平次(どたやへいじ・つちだやへいじ)という人物のもとに嫁ぎますが、彼が、弘治二年(1556年)に戦死してしまった事から、実家へと戻り、その後は生駒家で生活していました。

この1度目の結婚相手の土田弥平次の土田氏が、生駒氏の縁者であったらしく、そんな関係からの婚姻のようですが、この土田氏が、信長の生母=土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)の出自筋に当たり、土田弥平次は土田御前の甥だったとも言われ、そうなると、信長とも縁続き・・・

Odanobunaga400a という事で、信長は、度々、この生駒家に出入りしていたようで・・・

もちろん、そこには、馬借という商売柄、近隣の情報が集まりやすく、その情報収集のために、信長が出入りしていたであろう事も、容易に想像できるわけですが・・・

そんな中で、出戻りとは言え、色白の美人で、やさしくて控えめな・・・いや、おそらく、二人が出会った頃は、未だ10代後半だった信長にとって、すでに結婚を経験してる親戚のキレイなお姉さんに母の面影を見たのかも知れません。

なんせ、母の土田御前は、幼い頃から信長を嫌って、「弟の信行(のぶゆき)(11月2日参照>>)ばかりを可愛がっていた」なんて言われてますから・・・その包み込むような大人のやさしさに母を追ったとしても不思議ではありません。

また、同じく、この頃、それまで駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を放浪していた生活から地元の尾張に戻って来ていた藤吉郎(とうきちろう)=後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、この生駒屋敷に出入りしていて、その天然の明るさから、吉乃とも親しく話すようになり、

「この人、オモシロイ人(*^-^))」
と吉乃がなったところで、
「馬のお世話でも何でもしますんで、どうか、殿さまにお口添えを…」
とと切り出して、吉乃が信長に彼を紹介・・・有名な「信長の草履を温める」エピソードも、実は、生駒屋敷での出来事だったなんて事も言われます(信長と秀吉の出会いは諸説ありますが…)

とにもかくにも、そうこうしているうちに、ほどなく吉乃は信長の子を身ごもり、正室=濃姫に気を使った信長は、郡内のとある屋敷で、ひっそりと出産させたのだとか・・・。

で、弘治三年(1557年)頃に長男を産んでから、次男→長女と、吉乃は毎年のように子供を出産しますが、ご存じのように、この頃から信長本人は、
桶狭間(おけはざま)の戦い(5月19日参照>>)に、
美濃(みの=岐阜県)侵攻(5月14日参照>>)に、
尾張統一(11月1日参照>>)に、
と大変忙しくなり、吉乃のもとにはおいそれと通えない日々が続くわけで・・・

一方の吉乃は、3人目の子=長女を産んだ後の、いわゆる「産後の肥立ちが悪い」という状況になり、病床に伏せるようになってしまいます。

そんな中、永禄六年(1563年)に美濃攻めの拠点とすべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に小牧山城を構築した信長は、この城に吉乃用の御台御殿(みだいごてん)なる建物を建て、彼女を住まわせるために呼び寄せようとしますが、ここで初めて、彼女が病気である事を知ったのだとか・・・

しかも
「もはや、動かすのも難しいかも…」
と、聞いた信長は、慌てて生駒屋敷に駆けつけ
「忙しさのあまりに会いに来なかった事を許してくれm(_ _)m
これからは、新居でゆっくりと養生したらええ」

と・・・

その言葉に、彼女は大いに喜び、信長の手を握りながら
「ありがとう」
と・・・

そして、残った力を振り絞って輿(こし)に乗り、小牧山城へ入城・・・家臣たちの前で、信忠や信雄の生母として信長から紹介され、彼女はここで、正式に側室となったとされます。

そんな彼女は、
「こんな立派な御殿が、私の家やなんて…夢のよう」
と涙を流しながら感激にに浸っていたのだとか・・・

その後は、信長も頻繁にお見舞いに訪れていたようですが、残念ながら、永禄九年(1566年)9月13日病が快復する事無く、彼女は帰らぬ人となったのです。

一説には、「信長には側室が22人ほどいた」とも言われますが、その中でも、やはり吉乃は特別扱いで、その死に際して信長は号泣したとされ、「彼女が信長最愛の女性だった」というのが一般的な見方となっています。

わからない事が多く、その実態がほとんど掴めない吉乃という女性・・・

しかし、その心の激しさとやさしさが交互に見え隠れする信長という人・・・そんな彼のハートを射止めた彼女は、信長の良いところも悪いところも受け止めるような大きな器を持った女性であった事でしょう。
個人的なイメージでは、やっぱ、信長より年上かな?

彼女の死の翌年=永禄十年(1567年)に、念願の稲葉山城(いなばやまじょう=)を陥落(8月15日参照>>)させた信長は、さらに、その翌年、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京へと上る(10月18日参照>>)事になります。

自分の実家に通っていたハチャメチャな少年が、天下への一歩を踏み出した事・・・彼女は、空の上から垣間見て、ホッと胸をなでおろした事でしょう~いや、母なる気持ちなら逆に「また、心配の種が増える~」と、気を揉んでいたかも知れませんね。
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2017年9月 7日 (木)

足利義昭を奉じて~織田信長の上洛

永禄十一年(1568年)9月7日、足利義昭の要請に応えて上洛する織田信長が、美濃を出立しました。

・・・・・・・・・・

ご存じの足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛ですが、これまでも、このブログ内のいろんな所でチョコチョコ出て来てますので、内容がかぶり気味になるかとは思いますが、とりあえず今回は、信長上洛の様子を、時系列的にまとめてご紹介してみたいと思います。

・‥…━━━☆

兄である第13代将軍・足利義輝(よしてる)が、松永久秀(まつながひさひで)三好三人衆らに暗殺された(5月19日参照>>)永禄八年(1565年)5月、幕臣の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らの手引きにより幽閉先から脱出した義輝の弟=足利義昭は(7月28日参照>>)越前(福井県)一乗谷朝倉義景(よしかげ)のもとに身を寄せながら、自分を担ぎあげて上洛してくれそうな戦国大名たちに対して、せっせとお誘いの手紙を送るのですが、なかなか色よい返事をしてくれる大名は現れず・・・

しかし、そうこうしているうちの永禄十一年(1568年)2月8日、かの久秀と三好三人衆が擁立した義輝の従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)に朝廷からの許しが出て、第14代室町幕府将軍宣下がなされ、事実上、畿内は義栄以下、久秀や三好三人衆が牛耳る事態に・・・。

これまで、「できれば名のある大名に京都に連れてってもらいたい!」と願っていた義昭ですが、上記の通り、待った無しの状況となり、以前から朝倉家臣の明智光秀(あけちみつひで)なる武将が勧めてくれる織田信長へ方針転換・・・永禄十一年(1568年)7月、「これからは、織田くんの事を、ひたすら頼りにしたいんやけど…」と信長に打診したのです(10月4日参照>>)

当時の信長は・・・
永禄三年(1560年)に桶狭間(おけはざま)(5月19日参照>>)今川義元(いまがわよしもと)を破って後、永禄五年(1562年)に尾張一国を統一・・・今回の義昭接触の前年の永禄十年(1567年)に斎藤氏から稲葉山城を奪い(8月15日参照>>)、その地を岐阜と改めて本拠とし、あの『天下布武』の印鑑を使い始めたばかり・・・

『天下布武』とは、「天下に武を布(し)く」=「俺の武力で天下を治めるゾ」ってな意味(別解釈もアリ)ですから、「この岐阜の地から、まずは畿内を制して…」と天下を視野に入れていた信長にとっては、今回の事は、まさに渡りに舟・・・

「微力ながら、天下のために忠義を尽くします」と、義昭の申し入れを快諾した信長は、早速、義昭のもとに使者を送ると同時に、美濃の立正寺(りっしょうじ=立政寺=岐阜県岐阜市)に宿所を準備します。

永禄十一年(1568年)7月25日、美濃へと到着した義昭ご一行の部屋に準備されていたのは、ドド~ンと銅銭千貫文(現在だと一億超えの現金)と、その横には、これまたドド~ンと、太刀や鎧に始まる豪華絢爛な武具の数々・・・

大喜びする義昭らを見て、一刻も早い上洛を決意した信長は、近江の佐和山(さわやま=滋賀県彦根市)へと向かい、妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)に初対面した(2011年6月28日の前半部分参照>>)後、その佐和山から、義昭の使者に自分の使者をつけて、南近江(滋賀県南部)を支配する大物=六角承禎(じょうてい・義堅)(10月7日参照>>)の説得にあたります。

「義昭公が上洛されるので、忠誠の証として人質を出し、それ相当の対応してくれはりますか?」と・・・しかし、承禎の答えはNOでした。

しかし、まだ諦めず、7日間渡って説得を続け、「義昭公が将軍になったあかつきには、承禎さんを幕府所司代(しょしだい=侍所の副長官)に任命するて言うてはりますよって…」と提示しましたが、やはり承禎は拒否し続けました。

こうなると、力づくで近江を制して上洛するしかありません。

Nobunagazyouraku
信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永禄十一年(1568年)9月7日「一気に近江を平らげて、すぐにお迎えを差し上げますよ」と、義昭に別れの挨拶をした信長は、尾張・美濃・伊勢・三河の軍勢を率いて出陣したのです。

その日は平尾村(岐阜県不破郡垂井町)に陣を取り、翌日には近江の高宮(滋賀県彦根市)に到着・・・ここで2日間の休養をとり、そこに浅井の軍も加わった11日には、愛知川(えちがわ)付近に滞在して、自らが馬に乗って周辺の状況を確認し、周辺に散らばる六角氏傘下の城のうち、承禎らの籠る観音寺城(かんのんじじょう)箕作城(みつくりじょう)との和田山城(わだやまじょう)の3ヶ所に狙いを定めます。

翌12日は、自らの軍勢を3隊に分けて、それぞれに配置して攻撃を開始・・・13日には観音寺城の承禎らも夜陰に紛れて逃走し、世に言う観音寺城の戦いは織田方の勝利に終わりました(9月13日参照>>)

ここで、約束通り、立正寺の義昭のもとに不破光治(ふわみつはる)を派遣して「どうぞ、ご上洛を…」と・・・これを受け取った義昭は、ようやく岐阜を出立し、21日には米原(まいばら)、22日には安土(あづち)桑実寺(くわのみでら)に到着・・・

一方の信長は、24日には守山(もりやま=滋賀県守山市)まで進出し、翌25日は琵琶湖を渡れず瀬田で足踏みしたものの、26日には琵琶湖を渡り、三井寺(みいでら=園城寺・大津市)極楽院に陣取りました。

Kouyoutoufukuzicc 翌27日には、義昭も琵琶湖を渡り、同じく三井寺の光浄院に入り、さらに翌28日には、信長が東福寺(とうふくじ=京都市東山区)に陣を移動させると同時に、柴田勝家(しばたかついえ)蜂屋頼隆(はちやよりたか)森可成(もりよしなり)坂井政尚(さかいまさなお)の4名に先鋒を命じて、三好三人衆の一人=石成友通(いわなりともみち=岩成友通)の拠る勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)方面へと攻撃を仕掛けさせます。

もちろん、友通も抵抗しますが、この日のうちに150余の首を挙げられ、翌29日には、信長自身が出馬した事によって降伏し、勝竜寺城は開け渡されました。

ちなみに・・・一般的に「足利義昭を奉じて信長が上洛」という場合、上記の三井寺に入った9月26日か、東福寺に陣を張った9月28日が「上洛の日」とされる事が多いです。

その後、30日に信長が山崎(やまざき)に着陣すると、先鋒は三人衆の一人=三好長逸(みよしながやす)が籠る芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)へ・・・そしてここも、その日の夜には敵兵が退城し、織田方の物となります。

この時、いち時は畿内を掌握して事実上の天下人だった事もある細川晴元(ほそかわはるもと)(2月13日参照>>)の息子=細川昭元(あきもと)は、三好三人衆に担がれて、名目上の管領(かんれい=将軍の補佐役)となっていましたが、長逸とともに芥川山城を退去し、14代将軍の義栄もつれて阿波(あわ=徳島県)へと逃れました。

また、三人衆の残りの一人=三好政康(まさやす)も、いずこともなく身を隠しました。

続いて10月2日には池田勝正(いけだかつまさ)池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を攻撃・・・ここでは激しい戦いとなり、敵味方ともに多くの死傷者を出しますが、最後には城に火をかけ城下町を焼き払った事から、勝正は人質を差し出しての降伏となりました。

ちなみに、この時、14日間に渡って芥川山城に滞在していた信長のもとには、「この機会に…」と面会を希望する人が後を絶たず、門前には行列ができたとか・・・その中には、わずかの間に三好三人衆と袂を分かつ(11月18日参照>>)事になった松永久秀もいて、彼は、信長に名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上して、また、今井宗久(いまいそうきゅう)も名物の茶壷「松島」&茶入れ「茄子」を献上して、この時に信長の傘下に入っています。

10月14日には、信長は京都に戻り、一旦、本国寺(ほんこくじ=京都市下京区・本圀寺)に入った後、軍勢を引き連れて清水寺(きよみずでら=京都市東山区)へ・・・この時、信長は、配下の者には規律を守るよう徹底し、周辺の警備も厳重にした事から、兵士たちの狼藉や、治安を乱すような事件も起こらず、都の人々は、「これで平和になるヽ(´▽`)/」と胸をなでおろし、大いに喜んだと言います。

その後、畿内に残っていた抵抗勢力も、10日余りで徐々に退散して行く中、信長は、空となっている細川昭元の屋敷をリフォームして義昭の滞在する御殿とし、義昭はお引越・・・御殿とともに太刀と馬を献上した信長に、義昭は大喜びで、その日の宴会では、自ら信長にお酌をしてみせたとか・・・

かくして永禄十一年(1568年)10月18日、足利義昭は、朝廷からの将軍宣下を受け、正式に、第15代室町幕府将軍に就任したのです(10月18日参照>>)

・‥…━━━☆

以上、今回は、信長の上洛の状況を、日付を追って書かせていただきましたが、それぞれの戦いの様子や細かな事については、まだ書いていない部分も多々ありますので、そのあたりは、いずれ、その日付で記事を書かせていただきたいと思いますm(_ _)m
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2017年8月29日 (火)

秀吉VS佐々成政~富山城の戦いin越中征伐

天正十三年(1585年)8月29日、織田信長の後継者的な位置をキープした秀吉の越中征伐(富山の役)で、富山城主の佐々成政が降伏しました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月の本能寺にて織田信長(おだのぶなが)がこの世を去った(6月2日参照>>)後、その後継者を決める清州会議(6月27日参照>>)で優位に立ち、天正十一年(1583年)に織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月20日参照>>)に破って葬り去った(4月23日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、翌・天正十二年(1584年)には、信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と、彼を支援する徳川家康(とくがわいえやす)相手に、小牧長久手(こまきながくて)の戦いをおっぱじめますが、戦況が不利にも関わらず、信雄を丸めこんで講和に持ち込んでしまいました(11月16日参照>>)

Toyamazyou この信長死後の一連の戦いで、賤ヶ岳では勝家に、小牧長久手では信雄&家康に味方して、秀吉側の前田利家(まえだとしいえ)と戦っていた越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)主=佐々成政(さっさなりまさ)(8月28日参照>>)「俺らコッチで頑張ってんのに、何してくれてんねん!」と信雄の単独講和に納得がいかず、冬の立山を越えて(11月11日参照>>)、直接、家康に面会して抗議しますが、合戦が終わってしまった以上は、どうにもならず・・・

小牧長久手の勝敗がウヤムヤなまま、秀吉は、翌・天正十三年(1585年)3月には紀州征伐(3月28日参照>>)を、7月には四国を平定(7月26日参照>>)し、破竹の勢いで天下へとまっしぐら・・・

と、ここで・・・
「そやん、賤ヶ岳でも小牧長久手でも敵に回ったアイツ…まして、未だに僕の親友の前田君にチョッカイ出しとんのに、なんか、そのままになってるやん」
と思ったかどうかはわかりませんが、

とにもかくにも、ここで秀吉は、北陸遠征の決意を固めたのです。

天正十三年(1585年)7月17日付けで前田利家に宛てた手紙には、
「来る4日に、越中に出陣するよって、しっかり準備しといてや~僕の考えは使者に伝えてあるよって、彼と、よ~く相談しといてネ」
と綴っています。

その手紙の通り、8月4日に先発隊が大坂(大阪府大阪市)を出陣・・・その数は約10万人、しかも秀吉は、自らが出陣した6日に、途中の京都へ寄って、朝廷から成政討伐の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)まで取って・・・そう、秀吉お得意の威光放ちまくりの「どや!これでもやんのか?」作戦です。

なんせ、軍勢は、織田信雄はもとより、織田信包(のぶかね=信長の弟)丹羽長(にわながしげ=長秀の長男)細川忠興(ほそかわただおき)山内一豊(やまうちかずとよ)蒲生氏郷(がもううじさと)などなど・・・他にも名だたる有名武将を揃えた、名実ともにエース軍団ですな。

一方、秀吉の大軍がやって来る事を知った成政は、領内にあった30余の支城や砦を撤去して、居城の富山城にすべての兵力を集め、対決の体制を整えます。

19日、前田利家を先頭に金沢(かなざわ=石川県金沢市)を出発した越中征伐軍は、途中の櫛田神社(くしだじんじゃ=富山県射水市)にて勝利を祈った後、一旦、太閤山(たいこうやま=同射水市:秀吉が布陣したのでこの名がついた)に陣を置き、その後、東に富山平野が一望できる呉羽丘陵(くれはきゅうりょう=呉羽山)白鳥城(しらとりじょう=同富山市)に本営を構えたので、他の武将たちも、こぞって呉羽丘陵のあちこちに自身の陣を構え、一斉に(とき)の声を挙げては、眼下の富山城を威嚇しました。

Kureha2
呉羽山より立山連峰を望む…眼下は富山市街

また『上杉古文書』によれば、この時、秀吉に味方すべく、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)越後と越中の国境(現在の富山県下新川郡朝日町あたり)まで出兵していたとか・・・(上杉との連携については10月24日参照>>)

さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)など水軍に長けた武将たちは、数千隻の船で以って富山湾に侵入し、伏木(ふしき)から水橋(みずはし=同富山市)へと上陸して富山城を睨みます。

まず動いたのは、征伐軍の中の金森長近(かなもりながちか)・・・といっても、コチラは富山城への攻撃では無く、越中の南に位置する飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の平定を、秀吉に命じられての別働隊・・・秀吉の期待通り、長近は、成政に同調していた飛騨の諸城を次々と落として行ったのです(8月10日参照>>)

西に大軍、東に上杉、北に水軍、南に金森・・・さぁ、どうする?成政

ちなみに、「敵の土地や住民は無傷で手に入れたいタイプ」だった秀吉は、この時、配下の者には徹底して略奪行為や狼藉を禁止していたそうですが、四方を敵に囲まれた富山城下は、着の身着のまま逃げる人、子供を背負って山奥に避難する人などでごった返し、大変な有り様だったようですが・・・

そんな中、富山城内では毎日のように軍議が繰り広げられていましたが、
「もはや秀吉の威勢はランク外のレベルでっせ、佐々だけで対抗しても、どないもなりませんがな」
と降伏を進言する者もいれば、
「今さら降伏したって、助かるかどうか…大軍に対してはゲリラ戦です!奇策で以ってゲリラ戦で行きましょ」
と、意見は真っ二つ・・・

とは言え、時が経つにつれ、あまりに数に差がある秀吉軍を目の前にして、誰もが「こりゃ、アカン」との思いが、増して来るわけで・・・結局、織田信雄を通じて降伏の意思を伝える事に決まったのです。

この頃、秀吉は、眼下の神通川(じんつうがわ)をせき止めて、富山城を水攻めにしようとも考えていたと言いますが、そんな時に、信雄からの「成政降伏」の知らせが届きました。

その信雄からも、そして親友の利家からも
「命は許したって」
との嘆願があった事から、秀吉は、成政から、すべての領地は没収するものの、命は取らないと決め、面会を承諾・・・

かくして天正十三年(1585年)8月29日、利家の呉羽山の陣所近くで頭を丸めた成政は、僧衣を身にまとって秀吉の本営に登場・・・敵陣の中を歩いて行くその姿に、ドッと笑いが起こったと言いますが、秀吉自身は、何も言葉をかけなかったのだとか・・・

こうして、秀吉の越中征伐は幕を閉じました。

ここですべての領地を失った成政は、この後、天正十五年(1587年)の九州征伐(11月25日参照>>)で武功を挙げ、肥後(ひご=熊本県)一国を与えられる事になりますが、それがまた、彼の運命を大きく変える事になります。
 

関連ページ↓
この戦い以前の成政については…
迅速・勇猛・果敢…武勇の佐々成政>>
肥後熊本の出来事については…
佐々成政の失態~肥後・国人一揆>>
また、こんな伝説も…
黒百合事件と呪いの黒百合伝説>>
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2017年8月10日 (木)

金森長近の飛騨攻略作戦

天正十三年(1585年)8月10日、秀吉から飛騨攻略の命を受けた金森長近の軍勢が、向牧戸城を陥落させました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後(6月27日参照>>)、織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)(4月23日参照>>)と、信長の三男=神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)(5月2日参照>>)を葬り去った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正十二年(1584年)には、信長の次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお)と、彼を支援する徳川家康(とくがわいえやす)相手に小牧長久手(こまきながくて)の戦いに突入していました。
●信雄の重臣殺害事件…(3月6日参照>>)
●犬山城攻略戦…(3月13日参照>>)
●羽黒の決戦…(3月17日参照>>)
●岸和田城・攻防戦…(3月22日参照>>)
●小牧の陣…(3月28日参照>>)
●長久手の戦い…(4月9日参照>>)
●蟹江城攻防戦…(6月15日参照>>)

戦況は、おおむね信雄&家康勢有利に進んだものの、秋になって、なぜか信雄が単独で秀吉と講和してしまった事で、あくまで「信雄坊ちゃんのお手伝い」で参戦していた家康は、大義名分を失い兵を退く事に・・・(11月16日参照>>)

しかし、北陸方面で信雄&家康派として戦って(8月28日参照>>)いた越中(えっちゅう=富山県)佐々成政(さっさなりまさ)は、この終戦に納得がいかず、自ら、真冬の立山を越えて(【北アルプスさらさら越え】>>)家康に抗議に向かいますが、「終わってもたもんは終わってもた」で聞き入れてもらえず、空しく帰国・・・

しかし、それでもまだ納得いかない成政は、その後も抵抗を続けていましたが、翌・天正十三年(1585年)、自ら北陸に乗り込んできた秀吉の前に屈し、8月29日、成政は降伏して秀吉の傘下となりました(8月29日参照>>)

Kanamorinagatika400 ・・・と、この間、秀吉は、自らが出馬する越中に隣接する飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の攻略を、配下の金森長近(かなもりながちか)に命じていました。

この頃の飛騨は、天正四年(1576年)に上杉謙信(うえすぎけんしん)が平定した(8月4日参照>>)ものの、ほどなく、その謙信が亡くなって、上杉家がその後継者争いに夢中(3月17日参照>>)になっている間に、多くが信長の傘下となりましたが、その信長も本能寺に倒れた後、その後の争奪戦に打ち勝った三木氏の姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=三木自綱から改名)が、おおむね支配するようになっていましたが、当然、ここも秀吉の傘下に治めておかねばなりませんからね。

7月下旬、居城である大野城(おおのじょう=福井県大野市)を発った長近は、軍勢を二手に分け、自らは一方の大将となり、もう一つの別働隊は、養子の金森可重(よししげ)を大将とし、自らは背後を突くために白川郷(しらかわごう)の尾上村(岐阜県高山市荘川町)へ・・・別働隊は鷲見村(わしみむ=郡上市高鷲)を経て白川郷野々俣村(ののまたむら=同高山市荘川町)へ入り、両隊で以って向牧戸城(むかいまきどじょう=同高山市荘川町・牧戸城とも)を挟みます。

向牧戸城を守るのは、飛騨の国人で白川郷帰雲城(かえりくもじょう=岐阜県大野郡白川村保木脇)の城主=内ヶ島氏理(うちがしまうじよし)の娘婿=尾上氏綱(おのうえうじつな)・・・これが、少数ながら、なかなかの守備力を発揮して長近軍は、かなりの苦戦を強いられますが、天正十三年(1585年)8月10日に総攻撃をした際に、城内から内応者が出て放火し、このドサクサに乗じて長近軍が一斉に城内になだれ込んだ事で、何とか向牧戸城を陥落させました。

翌・11日、やはり二手に分かれた長近軍は、長近本隊が小鳥郷(おどりごう)から山を越えて吉城(よしき)に向かい、一方の可重隊は馬瀬村(まぜむら=岐阜県下呂市)から和良村(わらむら=岐阜県郡上市)を経て下原(しもはら)へ・・・つまり、飛騨地方の北をグルリ、南をグルリと行軍して、通り道の支城を落としながら、姉小路の本拠である松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山市)へ迫ろう!というわけです。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

8月13日、長近本隊は稲越(いなごえ=飛騨市河合町)に進出し、小鷹利城(こだかりじょう=同河合町)を搦め手から襲撃して陥落させ、その勢いのまま突き進み、その日の夜には小島城(こじまじょう=飛騨市古川町)落城させ、さらに、向小島城(むかいこじまじょう=同古川町)野口城(のぐちじょう=同古川町)古川城(ふるかわじょう=同古川町)と、次々と落城させていきます。

8月15日からは、勝ち取った古川城を本営とし、姉小路頼綱の拠る田中城(たなかじょう=高山市国府町・広瀬城とも)へと迫ります。

この田中城は、もともとは、武田信玄の傘下だった広瀬宗域(ひろせむねくに)の城でしたが、武田滅亡後に頼綱が奪い取り、本拠の松倉城を息子の姉小路秀綱(ひでつな)に譲って、頼綱の方が、この城に入っていたのです。

長近は2度に渡って、降伏を促す使者を田中城に派遣しますが、頼綱からの返事はなく籠城の構えです。

そこで、長近は総攻撃を仕掛けますが、敵もなかなかの防戦を展開・・・しかし、やはり数の差は大きく、わずか1日の攻防戦の後、頼綱は降伏を申し出、命は助かったものの京都への追放となりました。

さらに進んだ長近隊は、鍋山城(なべやまじょう=高山市松ノ木)を攻略して、次は、ここを本営としますが、ちょうど、その頃、桜洞城(さくらぼらじょう=岐阜県下呂市)を攻略して南側から高山盆地に入って来た可重隊が鍋山城に到着し、無事、長近隊と合流します。

続く8月16日、休む間もなく鍋山城を出立した可重隊が松倉城の包囲へ向かい、一方の長近隊は、宮村の山下城(やましたじょう=高山市一之宮町)を攻撃し、城主で頼綱の娘婿であった三木国綱(みつきくにつな=一宮国綱とも)敗走させました。

長近隊が山下城を攻略中の間に、松倉城への包囲を完了した可重隊は、いよいよ8月17日、松倉城へ総攻撃を仕掛けます。

翌・18日には、長近の本隊も松倉城の攻撃に合流し、コチラは搦め手から攻めまくります。

さらに20日は、いよいよ要害を攻めのぼりはじめ、阻止する防衛隊と、アチラコチラで激しいぶつかり合いとなりますが、この時に城中にいた内応者が、城に放火・・・さすがの堅固な松倉城も、この炎に包まれて落城したのです。

城主の秀綱らは、何とか城を脱出し、一旦は信濃(しなの=長野県)へと逃亡しますが、途中で地元民の落ち武者狩りに遭い、「もはや、これまで!」と覚悟の自刃を遂げました。

また、この時、佐々成政に協力して越中へと出陣して留守だった帰雲城の内ヶ島氏理は、成政が秀吉に降伏した事で、すぐさま飛騨へと戻り、これまた、すぐさま鍋山城に滞在していた長近に面会して詫びを入れた事で許され、領地も安堵となりました。

その後、残党による一揆や反乱も鎮圧され、長近の飛騨平定は完了となりました。

この功績により、長近は飛騨に3万3000石を与えられ、越前大野から転封・・・以後、この地を治めていく事になりますが、その3年後には、城下町整備に便利な高山城(たかやまじょう=岐阜県高山市)を構築して、そこを本拠としたため、松倉城は廃城となりました。

★松倉城にまつわる、悲しくて怖い人柱伝説2012年8月20日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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