2019年8月14日 (水)

謙信の死を受けて…長連龍が奪われた穴水城を奪回

 

天正六年(1578年)8月14日、上杉謙信の侵攻を受けて奪われていた穴水城を長連龍が奪回しました。

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室町時代、足利将軍家からの信頼も篤く、第6代管領(かんれい=室町政権下での将軍補佐)越前(えちぜん=福井県東部)越中(えっちゅう=富山県)守護(しゅご=県知事)でもあった畠山基国(はたけやまもとくに)が明徳二年(元中8年=1391年)に能登(のと=石川県北部)の守護にもなった事で、その次男である畠山満慶(みつのり)が初代の能登守護になって以来、第7代当主=畠山義総(よしふさ)の頃には居城の七尾城(ななおじょう=石川県七尾市古城町)を中心に栄えた城下町が能登の小京都と称されるほどに栄えた能登畠山氏

しかし、名君であったその義総が亡くなって後は家中が乱れ、やがて畠山七人衆(はたけやましちにんしゅう)と呼ばれる重臣たちが力を持ち、畠山の当主は名ばかりとなってしまいます。

さらに、そこに起こる重臣同志の権力争いで徐々に衰退の道をたどる中、天正四年(1576年)、2年前に急死した兄=畠山義慶(よしのり)の後を継いだ第11代当主=畠山義隆(よしたか)も急死して、未だ幼い(5~6歳?)息子の春王丸(はるおうまる)が後を継ぎます。
(ちなにみ、相次ぐ当主の死は、重臣による毒殺とも噂されます…なんせ上記の通り、もはや当主=畠山は名ばかりの状態でしたから)

この時、幼き春王丸に代わって城内の実権を握っていたのが長続連(ちょうつぐつら)綱連(つなつら)父子・・・とは言え、上記のモメまくりでお察しの通り、長続連が実権を握っている=他の重臣たちは不満なわけで・・・

そこをうまく利用したのが、ここんとこ、自身の領地=越後(えちご=新潟県)から南へ南へと侵攻して来ていた上杉謙信(うえすぎけんしん)でした。

★参照ページ
【謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防】>>
【謙信が富山へ侵攻】>>
【上杉謙信の飛騨侵攻】>>

難攻不落の七尾城を攻めあぐねた謙信は、七尾城内に疫病が流行して春王丸が亡くなったタイミングを合わせ、お抱えの忍びを使って長父子と敵対関係にある重臣=遊佐続光(ゆさつぐみつ)温井景隆(ぬくいかげたか)らを寝返らせ、天正五年(1577年)9月15日、寝返った彼らに長続連&綱連父子を殺害させて七尾城を手に入れたのです(9月13日参照>>)

Tyouturatatu700 この謙信の七尾城侵攻の際、生まれ育った穴水城(あなみずじょう=石川県鳳珠郡穴水町)にて防戦した長続連の三男=長連龍(つらたつ)は、敗戦を予想した父の命により海路で城を脱出し、謙信と敵対関係にある織田信長(おだのぶなが)のもとに救援要請に向かっていますが、8日後に織田の援軍を連れて戻って来たところ、すでに父や兄、そして長一族の首が浜辺に晒されている状況を見て七尾城の落城を知り、空しく、また安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)へと戻ったとか・・・

その後、9月18日もしくは23日にあったか?無かったか?とされる手取川(てどりがわ=石川県白山市→日本海)の戦い(9月18日参照>>)から、その翌日の9月24日には、上杉家臣の長沢光国(ながさわみつくに)が能登畠山の庶流=松波義親(まつなみよしちか)の籠る松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)を落とし、ここに能登畠山氏が滅亡し、謙信による能登平定が完了したのです。

この年の12月、長沢光国の穴水城・城将をはじめ、自らの配下の者を能登の諸城に配置して、謙信は帰国の途に就きました。

こうして、ただ一人の生き残りとなった長連龍・・・その胸にふつふつと湧き上がるのは、上杉に寝返った彼らへの復讐の念と、一族の恨みを晴らす事でした。

とは言え、心ははやるものの、能登畠山の家臣団が散り々々になってしまった今となっては、何をするにしても、まずは織田の兵力を借りなければどうにもならない・・・

しかし、この頃の信長・・・、
すでに浅井(あざい)浅倉(あさくら)を倒し(8月28日参照>>)、将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を京都から追放して(7月18日参照>>)長篠・設楽ヶ原(したらがはら)武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)を破った(5月21日参照>>)事で、目下の強敵は、今回の謙信と顕如(けんにょ)が扇動する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)一向一揆(9月12日参照>>)くらいではありましたが、ここに来て、その謙信と本願寺が和睦した(5月18日参照>>)うえに、西の雄=毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)本願寺に味方して支援し、信長は、かなりの苦戦を強いられていました(7月13日参照>>)

しかも、この毛利は、さすがに大国だけあって、本願寺への支援だけでなく、畿内から西へ進もうとする信長配下の者=但馬(たじま=兵庫県北部)攻略中の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)【但馬攻略~岩州城&竹田城の戦い】丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)攻略中の明智光秀(あけちみつひで)【光秀の丹波攻略戦~籾井城の戦い】ら、中国地方攻略の諸将にも影響を与える(12月1日参照>>)状態なので、信長としては「本願寺+毛利」に手がかかり、なかなか北陸への兵力を割けない状況でした。

実際、自身への支援を求めて来た長連龍に対し、
「今は、中国征伐の時なので、北陸に兵を回す事は困難…北陸への支援については勝家に話してあるので、まずは彼と話し合うように」
と言って聞かせたとの記録もあります。

ご存知のように、この時期の織田政権の北陸担当は柴田勝家(しばたかついえ)ですからね・・・まずは勝家と相談して必要ならば、勝家から信長に支援を要求するというダンドリを踏まねばならないという事です。

一方、雪深い冬の越後に戻った謙信は、春を待ってさらに西へと手を広げるつもりで、北陸はもちろん信濃(しなの=長野県)や関東の諸将にも召集の声をかけ、天正六年(1578年)3月15日を出陣の日と決めて、この大軍で以って北陸制覇に向けての準備を進めていました。

ところが・・・
その出陣直前の3月9日にトイレで倒れ、4日後の13日に謙信は帰らぬ人となったのです(3月13日参照>>)

しかも、生涯女性を寄せ付けなかった謙信には実子がおらず、その養子同志での後継者争いが勃発(【御館(おたて)の乱】参照>>)、もはや上杉家は北陸云々ではなくなってしまったのです。

当然ですが、主君を失った長沢光国以下、穴水城内の士気も下がり・・・あの日「恨みを晴らす!」と誓った長連龍にとっては意外にも早く訪れたリベンジチャンス!となったのです。

そこで、先に言われた通り、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)へと行って柴田勝家に出兵を願うも、思うように事が運ばなかった連龍は、織田の支援を待つより、自力での穴水城を奪回する決意を固め、以前からの知り合いや浪人たちに声をかけて回ります。

まず、連龍の呼びかけに応じた松平久兵衛(まつだいらきゅうべえ)以下500名ほどが集まり、さらに能登周辺で密かに動いていた伊久留了意(いくろりょうい)らが旧臣=300名の賛同を得、あとは絶好のチャンスとなる「その時」を見計らいます。

もともと、長一族の居城であった穴水城とは言え、ここは一方が谷、二方が海という天然の要害ですから、気を引き締めて・・・

ところが・・・
1度目は、8隻の舟に、それぞれ兵を分乗させて三国(みくに=福井県坂井市)を出港して、能登半島を挟んで穴水城とは反対側になる富来(とぎ=石川県羽咋市)の港を目指して進んだものの、激しい風に邪魔されて、あえなく失敗に終わります。

しかし、天正六年(1578年)の8月に入って輪島(わじま=石川県輪島市)に住む中島藤次(なかじまふじつぐ?)なる人物が3隻の大船を用意してくれた事で、連龍らは再び三国港から富来港をめざして出発・・・今度は無事、富来への上陸に成功します。

かくして天正六年(1578年)8月14日、 目印となる『昇竜降竜の旗』を押し立てて、いかにもヤル気満々な雰囲気を醸しだして、穴水城へと進軍する連龍ら・・・その数は約1000余人に膨れ上がったものの、人員は浪人やら僧やら神主やらか入り混じっていたため、ひとりひとりの装備が揃っておらず、なんだか異様な集団に見えたのだとか・・・

でも彼らは強かった~
連龍らの呼びかけに急きょ集まった烏合の衆のワリには、その士気は高く、またたく間に穴水の守りを撃破して攻め落としました。

また一説には、この時、城将の長沢光国は、七尾城主の鰺坂長実(あじさかながざね)とともに主力部隊を率いて正院(しょういん=石川県珠洲郡)で勃発した一揆の鎮圧に向かっており、城には白小田善兵衛以下、少ない守備隊しかいなかったとか・・・

連龍が狙っていたタイミングは、おそらくコレ・・・つまり、城の守りが手薄なところを一気に落とした~という感じでしょうか?

ちなみに、この間に織田勢も、上杉の後継者争いのドサクサに紛れて越中の奥深くまで侵入しています(【月岡野の戦い】参照>>)

とは言え、もちろん、今回はやむなく城を捨てて逃走した白小田善兵衛も、留守にしていた長沢光国らも、このまま黙っているわけにはいきません。

ほどなく、かの遊佐や温井も大挙して駆け付け、長沢らとともに奪われた穴水城を取り囲みます。

果敢に城外へ撃って出て奮戦する連龍らでしたが、もともとかき集めた手勢だけでは何ともし難く・・・やがて、城内の兵糧も底をつき始めた10月22日、密かに穴水城を脱出した連龍は、石動山(いするぎやま=石川県鹿島郡中能登町)を越え、越中氷見(ひみ=富山県氷見市)から守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)神保氏張(じんぼううじはる)のもとへ逃げ込みました。

その後、連龍は、その神保氏張の妹(もしくは娘?)と結婚して両家の縁を固めた後、七尾城の鰺坂を味方に引き入れて能登各地を転戦し、遊佐&温井に対抗していく事になります。

その後の長連龍のお話は(今回と内容がかぶっている部分があり恐縮ですが…)
【長連龍の復讐劇】>>
そして、あの本能寺の変の余波となる
【前田利家に迫る石動荒山の戦い】>>
でどうぞm(_ _)m
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2019年8月 7日 (水)

天正壬午の乱~徳川VS北条の若神子の対陣

 

天正十年(1582年)8月7日、織田信長の死後に起こった旧武田領争奪戦=天正壬午の乱で北条氏直が若御子に着陣しました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)2月9日に始まった織田信長(おだのぶなが)による甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)・・・約1ヶ月後の3月11日に天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)に追い込まれた武田勝頼(たけだかつより)が自刃(2008年3月11日参照>>)して、ここに甲斐(かい=山梨県)に君臨した武田氏が滅亡しました

その甲州征伐での論功行賞で、滅ぼした武田の旧領を与えられたのは、
甲斐国河尻秀隆(かわじりひでたか)
ただし穴山梅雪の支配地は除き、その代替地として諏訪1郡をプラス
駿河国徳川家康(とくがわいえやす)
上野国信濃国(小県・佐久2郡)滝川一益(たきがわかずます)
信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)森長可(もりながよし)
信濃木曽谷2郡木曽義昌(きそよしまさ)に追加
信濃伊那1郡毛利長秀(もうりながひで・秀頼)
岩村(岐阜県恵那市)団忠直(だんただなお)
金山米田島(よねだじま=岐阜県加茂郡)森定長(もりさだなが=長可の弟・蘭丸)
でしたが、ご存知の通り、そのわずか3か月後の6月2日の本能寺(ほんのうじ=京都市中京区)の変にて、かの信長が死亡(2015年6月2日参照>>)します。

上記の中で、その日、信長とともに本能寺にいたた森定長は討死し、嫡男=織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)(2008年6月2日参照>>) の拠る二条御所(にじょうごしょ=京都府京都市)いた団忠直も死亡・・・(さかい=大阪府堺市)見物をしていた徳川家康は決死の伊賀越え(6月4日参照>>)で自身の領国=三河(みかわ=愛知県西部)を目指します。

一方、新領地にいた者たち・・・ 上記の通り、わずか3ヶ月間の統治ゆえ、未だ完全に現地を掌握しきれていない状態なので、ここぞ!とばかりに周辺が動き出しため、
蜂起した武田遺臣の一揆によって河尻秀隆は命を落とし(2013年6月18日参照>>)
行く手を阻む相模(さがみ=神奈川県)北条氏直(ほうじょううじなお)に敗れた滝川一益(2007年6月18日参照>>)は敗走・・・

また、危険を感じて所領を放棄した毛利長秀と、鬼の形相で敵を蹴散らしながら行軍した森長可(4月9日参照>>)は、何とか本国へ戻る事ができました。

…って事は、つまりは、旧武田の領地にいた織田の家臣がいなくなったわけで・・・(ちなみに、木曽義昌は、家康と同じく織田家の家臣ではない独立大名なので、身動きは取れませんが、もとの木曽での領地は確保されてる状況です)

…で、この宙に浮いた旧武田領を、近隣の武将=先の相模の北条と越後(えちご)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と三河の徳川家康らが奪い合う・・・これが天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる戦いですが、

その中でも、北条と徳川が相対したのが若神子の対陣(わかみこのたいじん)・・・今回は、その様子を時系列で見ていきましょう(注:少し時間が戻ります)

・‥…━━━☆

まずは、今回の信長横死に、最も早く反応したのは徳川家康・・・上記の伊賀越え>>のページにも書きましたが、家康が本拠の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に戻ったのは6月7日とされていますが、すでに、その前日の6月6日の段階で配下の岡部正綱(おかべまさつな)に、下山(しもやま=山梨県南巨摩郡身延町)行き、そこに城を構築するよう命じています。

これは、途中まで行動をともにしながらも、本能寺の知らせを聞いて別行動をとり、当時の6月2日の段階で落武者狩りに遭って命を落とした(3月1日参照>>)武田からの寝返り組=穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)の領地である河内(かわち=同南巨摩郡)を確保せんがための工作で、この素早さには「梅雪を暗殺したのて本当は家康なんちゃうん?」と、現代の歴史好きからの疑いの目が向けられるほどに・・・

同時に家康は、家臣の本多信俊(ほんだのぶとし)らを甲斐に向かわせて河尻秀隆に信長の死を報告するとともに「甲斐は危ないから美濃(みの=岐阜県)に戻るように」と伝えますが、これを「家康が甲斐を奪おうとしている」と見た秀隆は、それに応じず、本多信俊を殺害して甲斐に留まります。

一方、6月11日に信長の死を知った北条では、甲斐に残る武田遺臣たちを一揆へと扇動しつつ、滝川一益に探りを入れ、「北条は織田家と相まみえるつもりは無い」旨を伝えますが、結局は、6月18日に上記の神流川の戦い(かんながわのたたかい)>>にて一益をを小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)へと敗走させます。

この間の6月15日頃に、北条からの呼びかけに応じた武田遺臣に、河尻秀隆に殺された本多信俊の配下が接触し、互いに協力して一揆軍が蜂起・・・これまた上記の通り、一揆軍に囲まれた河尻秀隆も神流川と同日の6月18日に死亡>>します。

ここで家康は、本多信俊らの家臣とともに一揆で頑張った旧武田の家臣を自身の配下に加えて掌握すると、旧武田家臣の依田信蕃(よだのぶしげ)(2月20日参照>>)に彼らを率いらせて小諸城へと向わせ、6月26日には滝川一益から小諸城を引き渡させます。

さらに一旦、信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)討伐に西に向かう姿勢を見せつつも、かの山崎の合戦(6月13日参照>>)の結果を見てか?、やっぱり浜松(はままつ=静岡県浜松市)へと戻った後、今度は武田の旧領全体を制圧すべく7月3日に甲府(こうふ=山梨県甲府市)に向けて出陣し、7月9日には自身に味方する知久頼氏(ちくよりうじ)らを、北条に味方する諏訪頼忠(すわよりただ)の拠る高島城(たかしまじょう=長野県諏訪市)攻略へと向かわせます。

これを知った北条側・・・この時、川中島(かわなかじま=長野県長野市)方面まで出陣していた北条氏直は、早速、南下して小諸城へと迫り、7月12日に依田信蕃を小諸城から退去させ、この周辺を掌握した後、さらに南下・・・

そこを、「このまま北条を甲斐へ侵入させてなるものか!」と家康は、配下の酒井忠次(さかいただつぐ)を先の高島城へと向かわせ、7月22日から高島城への総攻撃を開始しますが、そこに大軍を率いた氏直がやって来た事から、さすがに兵数の大差を感じ、8月1日、一旦、城の囲みを解いて甲斐新府(しんぷ=山梨県韮崎市)まで退きます。

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若神子の対陣の関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十年(1582年)8月7日氏直以下、北条軍が若神子(わかみこ=山梨県北杜市須玉町)に着陣したのです。

これを受けた家康は8月10日に、布陣していた甲府を出て新府へ移動・・・と一触即発の雰囲気ではありますが、これが「若神子の対陣」と称されるように、ここから80日間に渡って、両者はほぼ動かずに対峙したままの様相となります。

とは言え、この間に一方で、北条氏忠(うじただ=氏直の叔父)率いる北条別動隊が、氏直を援護すべく御坂峠(みさかとうげ=山梨県南都留郡富士河口湖町と同県笛吹市御坂町にまたがる峠)から甲府目指して進軍して来ていました。

氏直主力部隊と氏忠援護部隊・・・「これでは完全に挟み撃ちにされてしまう!」
とばかりに、家康は、8月12日、鳥居元忠(とりいもとただ)水野勝成(みずのかつなり)らが率いる部隊が黒駒(くろこま=山梨県笛吹市御坂町付近)に派遣して氏忠軍を迎撃させます。

これが、予想以上の徳川の大勝となった事で、氏忠援護部隊はその先へ進めず、北条は動きを封じられてしまうのです。

さらに家康は、北条の背後を脅かすべく、下野(しもつけ=栃木県)宇都宮国綱(うつのみやくにつな)と連絡を密にしたり、依田信蕃を通じて、北条側にいた真田昌幸(さなだまさゆき)を寝返らせたり、木曽義昌に所領安堵の約束をして諏訪(すわ=長野県諏訪市)方面への出兵を取り付けたり、北条に属しながらも黒駒の合戦後に静観し始めた高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市高遠町)保科正直(ほしなまさなお)を味方につけたり・・・とにかく、ありとあらゆる手段を使って自身を有利な方向へと導いていくのです。

そして8月21日には、かの甲斐一揆の時に協力して以来、なんとなくの味方?仮契約?状態だった武田家の遺臣たち800余名から、正式な起請文(きしょうもん=忠誠を神に誓う文書)を提出させて正社員雇用・・・なんだか家康さんが、武田の旧領&旧臣を、まるっといただく?てな雰囲気ですね。

そうなると・・・
もはや、甲斐&信濃における北条の勢力範囲は、ここ若神子周辺のみに・・・しかも、この間、両軍には小競り合いは起こるものの、大きく態勢が変動しないままのこう着状態。

いつしか、北条は和議に向けて動き始めます。

この時、德川との間に入って尽力したのは、今川での人質時代に家康との面識があった北条氏規(うじのり=氏直の叔父)(2月8日参照>>)・・・

一方の家康も、実は信長の息子である織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)織田信孝(のぶたか=信長の三男)から「ちゃっちゃと解決しぃや」の勧告状が届いていたらしく、この状態をあまり長引かせたくはなかったわけで・・・

そこで、対陣から2ヶ月余りが過ぎた天正十年(1582年)10月29日、ようやく北条と徳川の間に講和が結ばれたのです(10月29日参照>>)

その条件は
●甲斐と信濃は家康が、上野は氏直の切り取り次第。
●家康の次女=督姫(とくひめ)が氏直に嫁ぐ。
●今後は北条を離れて徳川に服属する事を表明している真田昌幸の領地は北条の物とし、真田には徳川から代替えの領地を与える。
の三つでした。

一見、「北条は上野だけ?家康の方が得してる?」てな感じに見えてしまいますが、甲斐や信濃には、未だ納得していない国衆もいて、先の依田信蕃なんかは、この後の信濃のゴタゴタで命を落としたりなんかしてますので、逆に上野の支配権がバッチリ確保された事は北条にとってかなりの安心だったのかも・・・

そして、ご存知のように、この三つ目の条件が、後々、ややこしい事になって行くのです・・・が、そのお話は【第1次上田合戦~神川の戦い】で>>

さらにさらに・・・この北条との国境線のゴタゴタは、やがては、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)による小田原征伐(おだわらせいばつ)の引き金となってしまうのですから(10月23日【小田原攻めのきっかけ・名胡桃城奪取】参照>>)、ホント、歴史は巡り巡って永遠に繋がっていく・・・流れを見て行きながら原因→結果を考えていくとワクワクしますです。
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2019年7月14日 (日)

織田信長の鉄甲船の堺入港を阻む雑賀衆~丹和沖の海戦

 

天正六年(1578年)7月14日、織田信長が建造した鉄甲船を含む7隻の大船が、堺の港に到着しました。

・・・・・・

去る永禄十一年(1568年)、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たした(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)ではありましたが、やがて、幕府の権威回復を夢見る義昭と天下布武を掲げる信長の間に亀裂が入り始めます。

Odanobunaga400a そんな中、元亀元年(1570年)6月に信長に敵対する越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景あさくらよしかげ)北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)との姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月28日参照>>)が勃発すると、

時を合わせるかのように、かつて畿内を追われていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)らが野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)で挙兵(8月26日参照>>)・・・

さらに、その野田福島に石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・現在の大阪城)を本拠とする本願寺顕如(けんにょ)が参戦(9月12日参照>>)した事で、各地の本願寺門徒による一向一揆(いっこういっき)も蜂起します(11月21日参照>>)

浅井浅倉の残党を比叡山(ひえいざん)が匿うわ(9月12日参照>>)
甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)は上洛の兆しを見せるわ(12月22日参照>>)
しているうちにかの足利義昭が挙兵(7月18日参照>>)・・・

信長に敗れた義昭が安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)のもとに身を寄せた事から、この西国の大物も信長の敵になる間に、信玄が病死し(4月16日参照>>)、浅井浅倉を倒すものの(8月28日参照>>)、信玄の後を継いだ息子=武田勝頼(たけだかつより)とも敵対関係(5月21日参照>>)は継続中。

そんなこんなの天正四年(1576年)5月、なんだかんだで10年にも渡る信長VS本願寺の石山合戦の中でも、屈指の激戦&直接対決となった天王寺合戦(てんのうじかっせん)が展開されます(5月3日参照>>)

しかも、その5日後には、これまで長年敵対していた越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)石山本願寺と和睦し、この越後の大物も信長の敵に回り(5月18日参照>>)、世に言う信長包囲網も真っ盛り状態。
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参考=信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

さらに、この7月には、海から、石山本願寺に兵糧を送り込もうとする瀬戸内の村上水軍(むらかみすいぐん)を要した毛利軍と、それを阻止しようとする織田軍の木津川(きづがわ)口の海戦(7月13日参照>>)で、織田方は手痛い敗北を喰らい、まんまと兵糧を運び込まれてしまいます。

籠城戦で、籠城する側の補給路が確保されてしまっては、囲む側もしんどい・・・そこで信長は、配下の者の中でも海系に強い滝川一益(たきがわかずます)九鬼嘉隆(くきよしたか)らに、村上水軍に勝ち、木津川の河口をふさいでしまうような大きな軍船の建造を命じます。

ご存知、鉄甲船です。

『信長公記』には、「1隻が滝川一益が建造した白舟(白木の船)で、残りの6隻が九鬼嘉隆が建造した黒光りの大船」と記されていますので、この嘉隆の建造した6隻がいわゆる鉄甲船かと思われますが、さすがに、6隻もの鉄の船はムリなような・・・この『信長公記』の記述も公家の日記の伝聞のような雰囲気ですので、6隻のうちのいくつか(鉄製は1隻だけだったかも?)だったようにも思いますが、実際に船を見た人のいくつかの記録を踏まえると、鉄はともかく、その大きさ&豪華さはトンデモない物だったようです。

・・・で、この新しく建造された7隻の大船が、順風を見計らった天正六年(1578年)6月26日、建造場所だった伊勢(いせ=三重県北中部)浦を出て、紀伊半島沖を大阪湾目指して出発したのです。

これは捨て置けぬ石山本願寺・・・7月8日付け、坊官(ぼうかん=寺の責任者の秘書みたいな?)下間仲之(しもつまなかゆき)の名で以って紀州諸浦門徒中宛ての命令を発します。

「近日中に信長の大船が紀州沖を回航するとの情報が入ったので、これを浦々にて迎撃せよ!」

この紀州諸浦門徒というのは「和歌山県の海岸沿いに住む本願寺門徒」という事ですが、今回の場合は主に紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団のである雑賀(さいが・さいか)の事だと思われます。

なんせ彼らは、先の天王寺合戦や木津川口の戦いでも大活躍していて「大元の本願寺より、先にコッチを潰さな!」とばかりに、前年=天正五年(1577年)2月から、まともに信長の攻撃を受けてましたから・・・(2月22日参照>>)

とは言え、その2月22日>>にも書かせていただいたように、彼ら雑賀衆も一枚岩ではなく、信長に敵対する者もいれば味方になる者もおり、その生活も、農民からの歩兵であったり漁民や海上輸送民からの海兵だったり形態も様々でしたから、それを踏まえると、今回の場合は「信長に敵対する雑賀衆のうち戦闘艦となる大船や漁船を持つ者」宛て…という感じになると思います。

同じく『信長公記』では、かの6月26日に信長の大船が出発したところ、
「雑賀や丹和(たんのわ=大阪府泉南郡岬町・淡輪)の浦々から、その行く手を阻止せんと数をも知れぬ小舟が矢や鉄砲を放ちながら四方を取り囲んで攻撃して来たものの、指揮を取る九鬼嘉隆は、はじめ、山のような大船に従う味方の小舟に、わざと敵を近づけておいて、適当にあしらいながら、やがて7隻の大船の大砲を一度ににぶっ放した事で、敵の小舟が一斉にダメージを受け、それ以降は近づく事さえできず…やがて天正六年(1578年)7月14日、船団は何事も無かったかのように堺の港に入港した」
とあり、それを「丹和沖の海戦」と称しています。

Tannowaokikaisen
丹和沖海戦の関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この文章だけ読めば、さも海戦が6月26日にあったかのように思ってしまいますが、上記の通り、石山本願寺が雑賀衆らに出兵を要請するのが7月8日なので、海戦は、おそらく、それ以降・・・

なんせ、(先にも書きましたが…)彼らは、普段は漁師であり運送業者であって、常に戦闘準備をしてる常備軍ではありませんので、織田方の動きを見て自ら出兵するはずはなく、本願寺からの要請あってこその迎撃であったはずですから・・・

なので、海戦があった日付は、あくまで8月7日以降で、港に到着する7月14日以前という事になります。

また、場所においても、「丹和沖」…というのは、少々考え難いです。

それは、室町初期の足利尊氏(あしかがたかうじ)の時代から長きに渡って、この淡輪の地の領主を務めていた淡輪氏の当主=淡輪徹斎(たんなわてっさい・隆重?良重?)は、早くから信長についており、かの木津川口の戦いにも織田海軍の一員として参戦し、その後の雑賀への攻撃にも織田方として参加しています。

つまり、今回の雑賀の出兵に丹和の浦々が協力する事は、たぶん無いし、そうなると、敵の真っただ中である丹和の沖に、雑賀衆がわざわざ出向いて攻撃を仕掛けるとは考え難いわけで、おそらく海戦のあった場所も、もう少し南の加太(かだ=和歌山県和歌山市)雑賀崎(さいかざき=同和歌山市)であったと思われます。

しかも、この丹和の海戦にて雑賀衆を撃破した鉄甲船を含む船隊が、その直後、淡輪に入港して小休止した記録も別資料に残っていますので、やはり、場所は、加太より南のあたりだと・・・それこそ、雑賀衆だって、自分たちに地の利…いや海の利?がある場所で戦った方が有利ですからね。

また、揺れる船の上から、周辺の小舟に向かって大砲ぶっ放して命中するほどの精度があったのか?否か?の疑問も残りますが、こういう場合、当たる当たらないより、小舟に向かって大砲をぶっ放す事こそが有益で、「それでビビらせる事ができれはOK!」という感じだったのでしょう。

ちにみに、信長はコレ以前にも、琵琶湖を渡るための大船を建造してます(おそらく将軍=義昭をビビさせるため?)が、それも1度しか使ってません(7月3日参照>>)

とにもかくにも、今回の海戦で敵を蹴散らした大船は、2か月半後の9月30日に広く公開され(9月30日参照>>)、華麗な大船の完成に大喜びの信長は、この年の11月に、再びの石山本願寺との海戦=第2次木津川口の戦いに挑む事になります。

そのお話は11月6日の【信長VS石山本願寺~第2次木津川口海戦】>>でどうぞm(_ _)m
 .

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2019年7月 2日 (火)

武田信玄の駿河侵攻~大宮城の戦い

 


永禄十二年(1569年)7月2日 、駿河に侵攻する武田信玄に攻撃されていた大宮城が開城しました。

・・・・・・・

天文十年(1541年)に父=武田信虎(たけだのぶとら)を追放して(6月14日参照>>)武田家の当主となって以来、信濃(しなの=長野県)北東方面に向かって領地を広げるべく戦いにまい進していた(6月24日参照>>)甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=当時は晴信)は、
Takedasingen600b その背後の脅威を無くすべく、天文二十三年(1554年)に駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(うじやす)らと甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を締結し、信濃の村上義清(むらかみよしきよ)らを援助する(4月22日参照>>)越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と向かい合っておりました。

ご存知、川中島の戦いですが・・・
(1次>>2次>>3次>>第4次>>第5次>>)

ところが、この川中島でゴチャゴチャやってる間に事態は大きく変わります。

第3次と第4次の隙間の永禄三年(1560年)に、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)が今川義元を葬り去る桶狭間(おけはざま)の戦い(2007年5月19日参照>>)が起こり、以後、織田が力をつけはじめ、逆に大黒柱を失った今川に衰退の影が見え始めて来たのです。

そこで、永禄十年(1567年)8月7日に安曇郡(あづみぐん=長野県大町市&北安曇周辺の地域)仁科盛政(にしなもりまさ)甲信の諸将士から、信玄への忠誠を誓う起請文(きしょうもん=約束事を神に誓う文書)を得た事や、謙信との抗争がこう着状態であった事などで、おそらく北東方面への侵攻に一区切りをつけたか?信玄は新たに駿河への侵攻を画策するのです。

それは、かつての同盟の証として義元の娘を娶っていた嫡男=武田義信(よしのぶ)離縁さえたうえに死に追いやってまでの決断でした(10月19日参照>>)

なんせ、かの桶狭間をキッカケに今川からの独立(2008年5月19日参照>>)を果たした徳川家康(とくがわいえやす)が、西から駿河への侵攻を画策し、すでに三河(みかわ=愛知県東部)を手に入れてしまっていた(9月5日参照>>)わけで、このまま状況を静観していれば、今川の領地のすべてが徳川の物になってしまうかも知れません。

早速、家康の同盟者(清須同盟>>)である織田信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)と自身の五女=松姫(まつひめ=信松尼)の婚約を成立させて織田との同盟を結んだ信玄は、翌・永禄十一年(1568年)、信長の仲介によって家康と手を組み、大井川以東を武田が、以西を徳川が、それぞれ攻め取る約束を交わし、二人連携して義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に迫るのです。

ちなみに、この年の4月から、かの謙信は祖父の代からの悲願だった越中(えっちゅう=富山県)平定に動き出し(4月13日参照>>)、9月には信長が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛していて(9月7日参照>>)戦国の皆々そろってシフトチェンジ?な動きが見えます。

そんな状況の中の12月12日、駿河に侵攻しようとする信玄軍と、迎え撃つ氏真軍が薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)でぶつかり(12月12日参照>>)、押し勝った信玄が翌日に氏真の居館である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・現在の駿府城)を襲撃(12月13日参照>>)・・・家臣の寝返り等もあって窮地に立たされた氏真は、やむなく今川館を捨てて掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走しますが、その掛川城を間髪入れず、今度は家康が攻撃します(12月27日参照>>)

この掛川城攻防戦は翌年の5月まで続きますが、その間に、この信玄の行動に怒ったのが、あの三国同盟を結んでした北条です。

かつて、この同盟の証として信玄の息子が今川の姫を娶ったと同じく、北条の姫を娶っていたのが氏真で、今回の信玄の襲撃により今川館から逃げねばならなくなった姫は、あまりの急な出来事に輿(こし)を用意できず、氏真と手に手を取って徒歩で逃げるという場面があったようで・・・勝手に同盟を破棄したうえに可愛い娘がこんな屈辱的な目に遭わされたら、北条も激おこになりますがな。

そこで北条氏康は、かの三国同盟に時に娘を嫁に出すと同じく武田へと養子に出していた息子(後の上杉景虎)を、今度は謙信への養子として越後に送って上杉と同盟を結び、年が明けた永禄十二年(1569年)正月、すでに家督を譲っている息子=北条氏政(うじまさ)に4万5千の大軍をつけて出陣させます。

1月18日、氏政は、まずは300人の別動隊を海路で掛川城への援軍として送り込み、主力は信玄の背後を突くべく陸路を蒲原(かんばら=静岡県静岡市)まで進みますが、その先、昨年暮れに抑えられたあの薩埵峠にて1万8千の武田軍に阻まれて先へ進めず、かと言って武田方が打ち勝つという事も無く・・・

これが第2次薩埵峠の戦い(1月18日参照>>)と呼ばれる戦いですが、結局は約4ヶ月に渡り両者が対峙したままのこう着状態が続いた中、掛川城の今川氏真が武田の背後を突くべく信濃への出兵を上杉謙信に要請した事、また、一方の武田信玄も北条の背後を突くよう常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)に要請したりした事で、勝敗がつかないまま4月下旬には両者ともに兵を退きあげる事になるのですが、

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武田信玄の駿河侵攻・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな第2次薩埵峠の戦い真っただ中の2月1日、武田信玄は一方で、配下の穴山信君(あなやまのぶただ)葛山氏元(かつらやまうじもと)に、今川配下の富士信忠(ふじのぶただ)が守る大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)を攻撃させています。

この穴山信君は穴山梅雪(ばいせつ)の名で知られる武田家の重臣で、しかも信玄の次女を娶っている言わば身内。

もう一人の葛山氏元は、駿河東部の国衆で葛山城(かずらやまじょう=静岡県裾野市)を居とする今川配下の武将でしたが、もともと今川領の国境に位置していた事もあって、今回の信玄の駿河侵攻にともなって武田方に鞍替えした人・・・先にも書かせていただきましたが、多くの武将が、今回の信玄の侵攻によって今川に見切りをつけて武田へと走っていたのです。

しかし、一方の富士信忠は、今回、氏真が掛川城に逃れた後になっても、かたくなに今川派に留まっていた人・・・ 代々、富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)富士大宮司を務める家柄であると同時にこの地の国人領主でもありました。

今回の2月1日の武田方の攻撃でも、見事、武田方を迎え撃ち・・・武田方に多くの死傷者を出す結果をもたらしたため、やむなく穴山梅雪を江尻城(えじりじょう=静岡県静岡市)に残して、武田勢本隊は撤退したのでした。

そんなこんなの5月17日、ここまで攻防中だった例の掛川城が今川氏真から徳川家康へと無血開城され、しかも、それが北条の仲介による物で、その後の氏真は北条で保護される事となり、同時に徳川と北条の同盟も締結されます。

ここに、戦国大名としての今川家は滅亡し、北条氏政の息子である北条氏直(うじなお)が今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配権を保証されたのです。

しかも、6月9日には北条と上杉の間でも同盟が結ばれ、何やら一件落着な雰囲気・・・

「オイオイ、大井川から東はワシのモンやったんちゃうんかい!」
という信玄のツッコミが聞こえて来そうですが、なんやかんやで取った者勝ちの世は戦国・・・上記の氏直の駿河&遠江の支配権もあくまで保証されただけですから、ここは実力行使あるのみ!

この6月17日には、例の北条から離縁して戻されていた長女=黄梅院(おうばいいん)を亡くしている(6月17日参照>>)信玄でしたが、その悲しみも癒えぬであろう1週間後の6月23日、信玄は再び、穴山梅雪を大将に出兵します。

韮山(にらやま=静岡県伊豆の国市)から三島(みしま=静岡県三島市)方面を放火して回った武田の軍勢は、そのまま大宮城へと向かい、城の虎口(こぐち=城郭の出入口)に布陣し、すぐさま攻撃を開始したのです。

しばらくの間、その攻撃に耐えた大宮城ではありましたが、永禄十二年(1569年)7月2日、耐えきれなくなった富士信忠が穴山梅雪に降伏を申し出、大宮城は開城・・・信玄はようやく富士郡一帯を支配下に治める事ができました。

その後、この年の10月には、自身の駿河侵攻を阻む北条を潰すべく、北条の本拠地である小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)を攻める信玄でしたが、その守りの固さにやむなく撤退・・・しかし、その帰り道を北条がすかさず攻撃!となる三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)の戦いについては2007年10月6日のページ>>でどうぞ m(_ _)m

さらに続く12月の武田信玄による蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)奪取!>>

この通り、完全に徳川との約束事が決別となったうえに、この頃から始まった将軍=足利義昭と織田信長のギクシャク感(1月28日参照>>)が加わって、信長と信玄の関係は最悪状態に・・・

なんせ、元亀二年(1571年)に起こった信長による比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)「天魔ノ変化(てんまのへんげ)と激おこした信玄が、
「天台座主(てんだいざす=天台宗のトップ)沙門・信玄」
の署名で信長に手紙を送れば、信長が、ほんじゃ俺はと
「第六天魔王(だいろくてんまおう)・信長」と署名して返信する・・・といった具合ですから。。。
(第六天魔王=仏教世界の六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)つまり全世界の魔王って事かと)

で、ご存知のように、翌年の元亀三年(1572年)、家康ピンチの、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)の戦いが勃発する事になります。

●関連ページ
【家康惨敗の三方ヶ原の戦い】>>
【家康の影武者となって討死した夏目吉信】>>
【三方ヶ原後の犀ヶ崖の戦い~平手汎秀の死】>>
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2019年6月26日 (水)

本能寺の変の余波~前田利家に迫る石動荒山の戦い

 

天正十年(1582年)6月26日、本能寺の変での織田信長の死を受けて、能登での前田利家支配に反発する石動山天平寺衆徒による一揆=石動荒山の戦いが起こりました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、ご存知のように京都の本能寺(ほんのうじ)にて、織田信長(おだのぶなが)が、すでに家督を譲っていた嫡男=織田信忠(のぶただ)とともに死亡します(2015年6月2日参照>>)

この時の信長は、すでに天下に1番近い男とは言え、未だ配下の武将たちは、3ヶ月前に切り取ったばかりの武田(たけだ)領地(3月24日参照>>)維持管理や未だ従わぬ者との交戦に翻弄していたので、信長横死の知らせを聞いた諸将は、すぐでも京都に向かい、仇となった明智光秀(あけちみつひで)を討ちたいところではあったものの、なかなか思うようには動けなかったわけで・・・

北陸柴田勢魚津城の攻防>>
中国羽柴勢備中高松城の水攻め>>
甲斐河尻秀隆(かわじりひでたか)武田残党&甲州一揆>> 
上野滝川一益(たきがわかずます)神流川の戦い>>
信濃森長可(もりながよし)東濃制圧戦>> 
美濃の=稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)本田・北方合戦>>

また、当日、本能寺の1番近くにいて1番早く異変を知った徳川家康(とくがわいえやす)は、わずかの側近しか連れていなかったため、決死の伊賀越え(6月4日参照>>)で領国へと戻り、その後は自身の領地拡大を狙って天正壬午の乱へ突入>>
ま、家康は信長の家臣ではなく、あくまで同盟者なので…

そして、ご存知のように・・・
そんな中でいち早く合戦を休止して(6月4日参照>>)中国大返しで以って畿内に戻り(6月6日参照>>)、四国方面への出兵の準備中だった信長三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)丹羽長秀(にわながひで)らと合流して、6月13日の山崎の合戦(6月13日参照>>)にて光秀を敗走からの死亡に追いやったのが、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)だったわけです。

一方、上記の通り、北陸にて越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と交戦中だった柴田勢・・・上杉配下の魚津城(うおずじょう=富山県魚津市)を陥落させたのが、本能寺の変の翌日の6月3日で、その異変の一報を知ったのが、さらに翌日の6月4日でした。

上杉謙信(けんしん)亡き後の後継者争いのゴタゴタ(3月17日参照>>)があったため、信長サイドに越中(えっちゅう=富山県)奥深くまで侵入され(10月4日参照>>)、今回の魚津城攻防戦でも、援軍として近くまで行ったものの、結局、静観するしかなかった景勝ではありますが、「信長が死んだ」となれば話は別・・・その混乱に乗じて侵撃に転じるやも知れませんから、先の魚津城攻防戦に参加していた織田政権の北陸担当の面々も、うかつに領地を離れられず、むしろ今以上に防備を固める事に力を注がねばならなくなっていたのです。

織田政権下のでの北陸方面担当は、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)柴田勝家(しばたかついえ)を筆頭に、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)前田利家(まえだとしいえ)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)佐久間盛政(さくまもりまさ)などなど・・・

Maedatosiie 『高徳公親翰』なる史料には、この時の前田利家が、
「山崎の合戦にて逆臣の光秀が討たれた事は、まことにめだたい事ですが、当地では浪人が一揆の準備をしているとの噂があったので僕は光秀討伐には参加できませんでした」
的な事を、柴田勝家に報告している事が記録されています。

そう、この時、信長死亡のドサクサで一揆を起こしたのが、かねてより能登(のと=石川県の能登半島)にて利家に反発していた石動山天平寺(いするぎざんてんぴょうじ=石川県鹿島郡中能登町)の衆徒でした。

一揆方は、かつて、能登守護であった畠山(はたけやま)氏の内紛の際に上杉に寝返った事で(9月13日参照>>)、逆に信長を味方につけた長連龍(ちょうつらたつ)によって七尾城を追われ(10月22日参照>>)、その後、上杉領内に亡命していた旧畠山の重臣の温井景隆(ぬくいかげたか)三宅長盛(みやけながもり)兄弟と、そのゴタゴタで一族を失った遊佐景光(ゆさかげみつ=遊佐続光の孫?)らに、
「速やかに援軍を出してくれたら、コチラもお宅らをお助けしまっせ」
と声をかけます。

もちろん、彼ら兄弟にとっては失地を回復するまたとないチャンスですから、この船に乗らない手はありません。

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石動・荒山の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十年(1582年)6月23日早朝、上杉景勝の計らいにより、越後の兵・約4千騎(3千とも)を借りた温井らは、海路から越中女良浦(めらのうら=富山県氷見市女良)に上陸し、その日のうちに石動山天平寺へと入り、翌日から早速(とりで)の構築に取り掛かりました。

砦が構築されたのは、七尾街道で芹川(せりかわ=同鹿島郡中能登町)から氷見(ひみ=富山県氷見市)へと抜ける国境にある荒山(あらやま)の北に位置する四方が崖に囲まれた要害の地で、天平寺の南西1kmほどの地点にあり、寺を守るには完璧な場所でした。

とは言え、さすがに、すぐさま完璧な砦が構築できるわけではないですので、この温井らの行動を知った前田利家は、翌日の6月24日付けで、柴田勝家と佐久間盛政宛てに援軍要請の手紙を送り、砦が完成する前に叩く事に・・・

早速、この要請を受けた佐久間盛政が6月25日に兵を率いて出陣して芹川付近に野営すると、前田利家も七尾を出陣して石動山と荒山の中間地点にある芝峠(しばとうげ=同鹿島郡中能登町)に布陣します。

こうして準備を整えた翌日の天正十年(1582年)6月26日、そうとは知らぬ温井勢が一揆の衆徒らとともに荒山砦の修築に石動山を出て来たところに、一気に攻撃を仕掛ける前田軍・・・混乱した一揆軍は、温井&三宅の軍団は石動山へ、遊佐の率いる軍団は荒山の要害へと逃げ込んで体制を整えようとしますが、これが、お察しの通り、前田サイドから見れば、完全に一揆軍を分断した形となったわけです。

これを知った佐久間盛政は、チャンス!とばかりに一斉に荒山砦に向かって攻撃を開始します。

至近距離で銃弾が飛び交う激しい戦いとなる中、温井景隆&三宅長盛兄弟は壮絶な討死を遂げ、天平寺衆徒で「今弁慶」と呼ばれていた猛者=般若院(はんにゃいん)は、まさに弁慶(べんけい)の如く無数の矢を受けて倒れます。

こうして形勢不利となっていく一揆勢・・・温井配下の者には「もはやこれまで!」と自刃する者も出る中、一部の衆徒は石動山目指して逃走しますが、これらの大半は、すでに石動山方面の守備を固めていた拝郷家嘉(はいごういえよし=織田政権の大聖寺城主)によって討たれてしまいました。

一方、早朝に一揆勢の分断に成功した前田利家は、かの長連龍や配下の奥村永福(おくむらながとみ=前田家臣)らを率いて石動山へと進み、仁王門から侵入して天平寺を急襲します。

護摩祈祷中だった僧侶らが驚いて逃げ惑う中、数百人を撫で斬りにする地獄のような光景だったとか・・・

さらに、討ち取った千余りの首を山門に並べたうえ、利家配下の伊賀の忍びによって堂宇(どうう)に火がかけられ、石動山は全山焼亡し、それはまるで、信長の比叡山焼き討ちのようだったと伝わります。

とは言え、これにて前田利家による能登の支配は確立されました。

また一説には、この時、援軍としてやって来ていた佐久間盛政は、実はこのドサクサで利家を背後から攻めて能登を奪い取るつもりでいたので、それを防ぐために長連龍が寺に火を放った・・・てな話もありますが、その話が記されているのが『長氏家譜』という連龍サイドの文献なので、おそらくは、この戦いにより、利家と長連龍との関係が強固な物になって、この後、連龍&その子孫は前田家の家老として加賀藩を支える事になるという、後日談ありきの創作ではないか?とされています。

と、まぁ、ここまで名前だけ登場して本人様が出て来なかった柴田勝家・・・ご存知のように、今回の合戦の翌日が、あの清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)(6月27日参照>>)なので、援軍の手配はしたかも知れませんが、勝家自身は、清須会議への準備に勤しんでいたか?と思われます。

ドラマ等では、本能寺からの秀吉の光秀討伐の後は、話が清須会議に飛ぶ事が多いですが、冒頭に書いたように、甲斐や信濃etcそして今回の荒山と、複数の争いが一斉に起こっています。

信長の死が、かなりの混乱を与えていた事がわかりますね。
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2019年6月20日 (木)

明智光秀の丹波攻略最終段階~和藤合戦と山家城の戦い

 

天正八年(1580年)6月20日、城の破却に応じない和久左衛門佐の山家城を明智光秀が攻撃しました。

・・・・・・・・

兵庫県の北東部と京都府の中部にまたがる広大な丹波(たんば)の地は、室町幕府政権下において守護=細川氏が長きに渡って支配する所でありましたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の時に、東軍総大将の細川勝元(ほそかわかつもと)の下で活躍した功績により多紀郡(たきぐん=現在の兵庫県丹波篠山市付近)を与えられた波多野(はたの)一族が、その後の、細川家内のゴタゴタ(2月13日参照>>)の隙間を縫って力をつけて行き、波多野稙通(はたのたねみち)の時代に、八上城(やかみじょう=兵庫県丹波篠山市)にて独立し、その孫の波多野秀治(ひではる)の頃に全盛期を迎え、もはや丹波一円を支配するほどになっていきます。

しかし、そんな中、天正の頃から、畿内より西の中国地方(山陽&山陰)に手をのばしはじめたのが、ご存知、織田信長(おだのぶなが)

とは言え、この信長の中国地方侵出も、はじめは・・・
永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛して(9月7日参照>>)、ほぼほぼ畿内を制していた信長に対し、自らが滅ぼした周防(すおう=山口県)大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党と交戦中の安芸(あき=広島県)毛利元就もうりもとなり)が、その背後を突こうとする出雲(いずも=島根県)尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党と、それに協力する但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「けん制してほしい」と依頼して来た事がキッカケだったわけですが、

その後、山名も尼子も信長の傘下となるのですが、逆に、足利義昭が信長と敵対する越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)北近江(きたおう=滋賀県北部)浅井(あざい)に味方し、そこに本願寺顕如(けんにょ)が参戦(9月12日参照>>)し・・・となって、結局、毛利も信長に敵対するに至って、この中国地方は西の大物=毛利と、畿内の織田に挟まれる形となったのです。

で、元亀四年(天正元年=1573年)の7月には、その義昭を追放(7月18日参照>>)、続く8月には浅倉(8月6日参照>>)と浅井(8月28日参照>>)を倒した信長は、各地に起こる本願寺門徒の一向一揆も徐々に制圧していった(長島>>越前>>)天正三年(1575年)頃から、いよいよ中国地方の平定に乗り出し、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)但馬播磨(はりま=兵庫県南西部)方面の攻略を(10月23日参照>>)明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波丹後(たんご=京都府北部)方面の攻略を命じたのです。

はじめは信長に好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)が途中で毛利に転じ、それに同調した波多野も敵に回る中、籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)こそ、すんなり落とせたものの(10月29日参照>>)、波多野の八上城(1月15日参照>>)と赤井の黒井城は(8月9日参照>>)は、なかなかの苦戦だったわけで・・・

そこに同調したのが、丹波の土豪(どごう=土地に根付く小豪族)たちでした。

一旦、丹波をほぼ制覇していた波多野が、今回、ゴタゴタしている事で勢いづいた彼らが、チャンスとばかりに領地拡大に動き出したのです。

その一人が八木城(やぎじょう=京都府南丹市八木町)内藤宗勝(ないとうそうしょう)・・・この人は、もとの名を松永長頼(まつなが ながより)と言い、江口の戦い (6月24日参照>>)に勝利して戦国初の天下人となるあの三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣として頭角を現し、信長からも一目置かれていた松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)の弟ですが、遅咲きの兄より、むしろ彼の方が先に三好政権下で大活躍をし、長慶の信頼も厚かった中で、波多野稙通らに八木城を攻められて戦死した内藤国貞(くにさだ)に代わって城を奪還し、その国貞の娘と結婚して内藤氏を継いでいたのでした。

『内藤丹波年代記』等によると・・・
天正四年(1576年)、この機会に綾部(あやべ=京都府綾部市)福知山(ふくちやま=同福知山市)方面を抑えようと考えた宗勝は、その2月、高津(たかつ=綾部市高津町)に入り、綾部に根を張る大槻(おおつき)高津城(たかつじょう=綾部市高津町)栗城(くりじょう=綾部市栗町)を陥落させて、4月には山家城(やまがじょう=綾部市広瀬町)に拠る和久左衛門佐(わくさえもんのすけ=義国?)を攻めたのです。

和久左衛門佐は山家(やまが=綾部市東山町)から和知(わち=京都府船井郡京丹波町)口上林(かんばやし=綾部市武吉町)一帯を領域としていた丹波の武将で、福知山一帯を領していた横山城(よこやまじょう=京都府福知山市・後の福知山城)城主=塩見頼勝(しおみよりかつ)の3男か4男とされ、もともと本城としていたのは福知山にあった和久城(わくじょう=福知山市厚安尾)でコチラの山家城は支城の一つだったようですが、丹波内の紛争により、どこかの段階で和久城を捨て、山家に移っていたらしい・・・(←このあたりは不明瞭)

とにもかくにも、ここで約3000の大軍を率いて下原(しもばら=綾部市下原町)まで侵攻して来た内藤軍を迎え撃つべく、和久方は客将の白浪瀬忠次(しらはせただつぐ=白波瀬忠義とも)が家臣16名と郷土民=数百名を率いて防戦を試みますが、なんせ多勢に無勢・・・劣勢に次ぐ劣勢で、どうにも勝ちが見えないため、やむなく一旦、休戦&和議を申し出る事に、、、

しかし、実はこれが、相手を油断させる作戦で、和議をすると見せかけて下原にある庵に内藤方を誘い込み、真夜中に急襲したのです。

おりしもその日の夜は、激しい風雨吹き荒れる真っ暗な夜・・・いきなりの襲撃に慌てて敗走する内藤勢でしたが、ここは和久領にて地の利もなく、ましてや雨風にさらされて逃げる足取りも重く疲れる。。。

なんとか八木城を目指していた内藤宗勝自身も、途中で力尽きたところを白波瀬の兵に囲まれて討たれしまったとの事。

この天正四年(1576年)の戦いが和藤合戦(わとうがっせん)と呼ばれる戦いです。

ただ、この一連の流れは、上記の『内藤丹波年代記』他、複数の文献で天正四年(1576年)8月4日の出来事としていますが、永禄六年(1563年)の出来事としている文献もあり、また、内藤宗勝の討死の時期&場所については、永禄八年(1565年)の8月2日の黒井城攻撃中とする説もあるようなのですが、

現在の綾部下原には、今回の和藤合戦の古戦場とされる場所があり、宗勝は古戦場内にある戦死したその場所=備州ヶ尾に葬られていると伝えられています。

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★山家城の戦いの位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところで・・・
そんなこんなしてるうちの天正七年(1579年)、各地の籠城戦に手間取っていた信長の丹波攻略が一気に動き始めます。

この年の5月になって、信長が光秀の支援をすべく、羽柴秀長(はしばひでなが=秀吉の弟)丹羽長秀(にわながひで)丹波に派遣します。

その5月4日に羽柴秀長が波多野の支城である氷上城(ひかみじょう=兵庫県丹波市・霧山城とも)を落とすと、丹羽長秀が19日に玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)を攻略し、6月4日には、明智光秀もようやく八上城を落とし、続いて、8月9日には黒井城を攻略し、さらに8月20日には塩見氏の横山城猪崎城(いざきじょう=同福知山・猪ノ崎城)(7月22日参照>>)も落とします。

その後、その横山城は福知山城と名を変えて明智の城となり、10月にはウキウキモードで丹波の平定を信長に報告しています(10月24日参照>>)

この横山城の塩見とは・・・そう、山家城の和久左衛門佐の本家です。

この時の和久左衛門佐は、自身の城の破却を条件にいち早く降伏し、一族の皆が自刃あるいは討死する中で、なんとか、その血脈を残す事に成功しました(5月19日参照>>)

とは言え、どうにもこうにもかなわぬ大軍相手に一応、条件を呑んで降伏はしてみたものの、和久左衛門佐としては何とか山家城の破却は免れたいわけで・・・

そこで左衛門佐・・・山家城の城郭内には照福寺(しょうふくじ=現在は綾部市鷹栖町)という寺が建っていた事を理由に、
「ここは城ではなく、寺なんで…」
と、光秀からの再三の破却命令を、のらりくらりとかわしながら約1年間やり過ごして来たのですが、そんなこんなの天正八年(1580年)6月20日さすがにブチ切れた光秀が山家城に攻撃を開始します。

そうなると、「さすがに太刀打ちできない」と判断した左衛門佐は、城を捨てていずくともなく逃げ延びて行ったとか、
また、この年の8月に光秀に誘い出されて騙し討ちされたという話もあります。

とにもかくにも、これにて明智光秀の丹波攻略は完全に終了した・・・という事になります。

・‥…━━━☆

これ、来年の大河ドラマでやってくれるのかな?
友人に(本人曰く)この後は綾部の山奥に隠れ住んで血脈をつないだという和久さんの子孫がいてはるので、やってくれるとウレシイかも・・・
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2019年6月 2日 (日)

信長とともに散った織田政権ただ一人の京都所司代…村井貞勝

 

天正十年(1582年)6月2日、織田信長の家臣で京都所司代を担っていた村井貞勝が、本能寺の変で討死しました。

・・・・・・・・・

 村井貞勝(むらいさだかつ)は、その生年や出身などは不明なものの、かなり早くから織田信長(おだのぶなが)に仕えて信頼を得、重用された家臣です。

Muraisadakatu600a 弘治二年(1556年)に、弟の織田信行(のぶゆき=信勝とも)を推すメンバーが信長に謀反(8月24日参照>>)を起こした時には、母の土田御前(どたごぜん)の要請を受けて間に入り、敵対勢力と和平交渉して治めたばかりか、

敵チームの主力の一人であった柴田勝家(しばたかついえ)を取り込んで、最終的に勝家にその信行を葬り去る(11月2日参照>>)お手伝いをさせちゃうくらいの信長チームメイトにさせたのが彼=村井貞勝だったとか・・・

そう、勝は、戦の最前線に立って武功を挙げるというよりは、交渉術に長けた内政に手腕を発揮する軍師的な家臣だったのです。

その後、稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)攻略に向けての美濃三人衆(みのさんにんしゅう=稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)の懐柔(8月1日参照>>)や、あの足利義昭(あしかがよしあき=15代室町幕府将軍)を奉じての信長上洛(9月7日参照>>)の際の義昭の受け入れ準備も担当しました。

さらに上洛後の一大事業=二条御所(義昭御所)の造営(2月2日参照>>)にも手腕を発揮・・・
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参考=信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、この頃の信長は、未だ複数の家臣たちに京都の市政を分担させていましたが、元亀元年(1570年)に重臣の森可成(もりよしなり)が討死した(9月20日参照>>)事、浅井&浅倉との戦いに本願寺(2014年9月12日参照>>)やら比叡山(2006年9月12日参照>>)やら色んな敵が参戦して来て世に言う信長包囲網ができあがっていく中で、佐久間信盛(さくまのぶもり)明智光秀(あけちみつひで)といった畿内周辺担当の家臣たちの合戦への出陣も増えて来た事で、

反旗を翻した足利義昭(7月18日参照>>)を追放した元亀四年(天正元年=1573年)、貞勝を天下所司代=いわゆる京都所司代(きょうとしょしだい)に任じたのです。

これは、今で言えば京都府知事と警視総監(京都が首都なので…)を兼務したうえに、朝廷とのなんやかやもあるので宮内庁長官まで兼ねたような?要職です。

そんな中で貞勝は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)禁裏(きんり=京都御所)の修復や、新しい二条御所(二条御新造・信長の宿舎)の築造等の工事も担当しつつ、京都の治安維持や、最難関の朝廷や貴族や寺社との関係改善にも尽力していきます。

ご存知のように、天下目前のこの時期の信長さんは、次々と大きな政策を打ち出していきますので(←これは史実なので)ドラマ等で描かれる時は、少々強引に高圧的な人物に表現されていたりします。

それでなくとも、大体の時代において、政権を握った武門と朝廷&寺社の関係は、アッという間にギスギスした感じになっていくの常なんですが・・・

しかし、以前に、あの東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)削り事件のページ(3月22日参照>>)で書かせていただいたように、実際には朝廷&寺社と信長の関係は、それほど悪い物では無かったようです。

それもこれも、貞勝が間に立って、あれやこれやの食い違いをウマイ事まとめていった故・・・あの一大イベントの御馬揃え(おうまぞろえ)(2月28日参照>>)に天皇様自らお出ましになるのも、交渉上手の貞勝のなせる業といったところでしょう。

ところで、この村井貞勝が関わったとされる事で、「三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)というのがあります。

これは、もはや天下目前の信長が、未だ上位の官職についていない事で、天正十年(1582年)5月、公家の勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)が村井貞勝のもとを訪れ、信長が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=部門の最高位)太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職・名誉職)関白(かんぱく=天皇の補佐役で実質上の公家の最高位)のうちどれかに任官することについて話し合った・・・てな事が晴豊本人の日記『晴豊公記』に記されているのですが、これを、信長側から申し出たのか?朝廷側から言い出したのか?がわからないために「問題」となっているのです。

しかも、ご存知のように、この少し後の6月に、信長がその返答をしないまま本能寺(ほんのうじ)で亡くなってしまう(6月2日参照>>) ため、信長の朝廷に対する考えや、両者の関係が謎なままになってしまう・・・もちろん、どちらが言い出したかわからないのには、肝心かなめの貞勝自身も、かの本能寺で死んでしまうから・・・

そう・・・天正十年(1582年)6月2日、本能寺の向かいにある自宅にいた村井貞勝は、異変を知るや息子たちとともに、すぐさま自邸を飛び出しますが、その時には、もうすでに本能寺は火の海・・・やむなく、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)が宿所としていた妙覚寺(みょうかくじ=京都府京都市上京区)に駆け込みます。

「もはや本能寺は敗れて、御殿も焼け落ちましたよって、敵は必ずここも攻めて来るでしょう。ここより、二条の新御所(同中京区)の方が、守りが堅固で立て籠もりやすいと思います」
と貞勝が進言した事で、隣接する二条御所へと移動した信忠は、御所にいた誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第5皇子)和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子で後の後陽成天皇)
「ここは戦場となりますので、お二人は内裏(だいり)の方へお移りください」
と、別れの挨拶をして送り出し、ここで明智勢を迎え撃つ事にしますが、残念ながら、ご存知のように事態は多勢に無勢・・・(一般的には、明智軍=1万3000に対し、織田勢は、信長=100名、この後の信忠=500名と言われています)

「もはや、これまで!」
を悟った信忠は自刃し、最後まで主君を守った村井貞勝も討死しました。

一説には、先の三職推任の話は「貞勝が朝廷に強要した」という説もあるようですが、交渉上手な貞勝なら、強要というよりは、両者納得の良い話にまとめていたような気がしないでもありませんが、今は何とも・・・これに関する新しい史料の発見が待ち遠しいですね。
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2019年5月12日 (日)

長島一向一揆の討伐に織田信長が出陣



元亀二年(1571年)5月12日、織田信長が長島一向一揆討伐のため5万の大軍を率いて尾張津島へ出陣しました。

・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月、今は亡き第13代将軍=足利義輝(あしかがよしてる)の弟=足利義昭(よしあき=義秋)を奉じて(10月4日参照>>)上洛する織田信長(おだのぶなが)は、その行く手を阻む南近江(滋賀県南部)六角承禎(ろっかくじょうてい・義堅)を蹴散らし(9月13日参照>>)、畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通らを、彼らが担ぐ14代将軍=足利義栄(よしひで)&管領=細川昭元(ほそかわあきもと)もろとも阿波(あわ=徳島県)へと退かせ(9月7日参照>>)、無事、義昭を第15代室町幕府将軍の座に座らせました(10月18日参照>>)

しかし、その後、何度かの打診にも関わらず、いっこうに新将軍への挨拶に来ない越前(福井県)一乗谷朝倉義景(あさくらよしかげ)に対し、信長が、元亀元年(1570年)4月、その最前線となる手筒山・金ヶ崎城(かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始する(4月26日参照>>)と妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけていたはずの北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(2011年6月28日の前半部分参照>>)が、浅倉方にて参戦して来た事から、挟み撃ちを恐れた信長が撤退・・・これが有名な「金ヶ崎の退き口」ですが(4月27日参照>>)、、、

ここで危機一髪の苦汁をなめさされた信長は、2か月後に近江へ侵攻して、浅井浅倉連合軍との姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦いに勝利します(6月28日参照>>)

しかし、ここで深追いせずにいた事で、ある程度の力を温存できた浅井浅倉が南下して来て、宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)の戦い(9月20日参照>>)堅田(かただ=同大津市)の戦い(11月26日参照>>)などで抵抗し、そこから逃げた残党を比叡山延暦寺(えんりゃくじ=同大津市)が匿った事が翌年の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)へと発展して~と、ここらあたりから、いわゆる「信長包囲網」が形成されていくわけですが・・・
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信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな浅井浅倉とドンパチやってる真っただ中でも信長は忙しい・・・畿内に舞い戻って信長に抵抗していた三好三人衆との野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の戦い(8月26日参照>>)さ中の元亀元年(1570年)9月、この野田福島の戦いに本願寺第11代法主顕如(けんにょ)参戦して来たのです(9月13日参照>>)

実は、
もともと本拠としていた山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を40年ほど前に焼き討ちされた(8月23日参照>>)後、浄土真宗本願寺が現在本拠としていたのが、かつて第8代法主=蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)の隠居所だった大坂御坊(3月25日の後半部分参照>>)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市・現在の大阪城の場所)だったのですが、ここ最近、この絶好の場所を「譲ってほしい」と信長が言って来ており、それに対抗すべく全国の信徒に向けて一揆を蜂起するよう檄文を発布し、自らが先頭に立っての参戦でした。

・・・で、
「教祖様が立ちあがったひにゃ、ワシらも!」
とばかりに蜂起したのが、木曽三川(きそさんせん=木曽川・揖斐川・長良川)の河口付近の輪中(わじゅう=水害から守るために周囲を囲んだ堤防や集落)地帯である長島(ながしま=三重県桑名市)の本願寺門徒・・・ここは、室町中期に蓮如の息子である蓮淳(れんじゅん)願証寺(がんしょうじ)を建立して以来、寺を中心に本願寺門徒が周辺の国人領主(地元に根付いた武士)を取り込んで、砦などを設けて武装化した本願寺門徒の一大拠点となっていた場所でした。

元亀元年(1570年)11月、武装した一揆衆は、代々伊藤一族が城主を務めていた長島城(ながしまじょう=三重県桑名市)に大軍で押し寄せて伊藤一族を追放して城を奪取した後、この長島城を拠点に、信長の弟=織田信与(のぶとも・信與)が守る古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃し、信与を自害に追い込んだのです(11月12日参照>>)

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長島一向一揆&小木江城の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

弟が犠牲になったのですから、そりゃもう、信長さんも激おこMAX!!

早速信長は、未だ絶賛戦闘中の六角承禎父子らと和睦したり、足利義昭などを通じて浅井浅倉などとも和睦調停を結び、とりあえずこの年の暮れには、一旦、周辺を落ち着かせる事に成功します。

ところが、翌元亀二年(1571年)早々、信長配下で横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を任されていた木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が浅井方の磯野員昌(いそのかずまさ)佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)をごと寝返らせた事から、5月 6日、今度は浅井長政が、その前年に浅井から織田へと転身した堀秀村(ほりひでむら)らが守る箕浦城(みのうらじょう=滋賀県米原市箕浦)を襲撃・・・これに近江の一向一揆が浅井を加勢します。

しかし、即座に反応した秀吉が見事これを鎮圧・・・(5月6日参照>>)

これに気をよくした信長は、元亀二年(1571年)5月12日長島一向一揆をせん滅すべく5万の大軍を長島に派遣し、自らも尾張津島(つしま=愛知県津島市)まで出陣します。

津島に着陣すると同時に信長は、佐久間信盛(さくまのぶもり)以下、浅井政貞(あざいまささだ)和田定利(わださだとし)らの一隊を中筋口(長島町大鳥居)の島東部から、柴田勝家(しばたかついえ)以下、氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)不破光治(ふわ みつはる)らの一隊を揖斐(いび)西岸の多岐(たぎ)山麓から太田口に向かって進撃させました。

5月16日、周辺の村々に放火した織田軍は、この日は、そのまま退去するつもりで兵を退きあげようとしますが、一揆勢は、そこをすかさず山側に移動・・・待ち伏せの体制を取り、眼下の道を織田軍の最後尾が通るタイミングで以って、待機していた弓&鉄砲の名手が一斉に射撃を開始すると同時に歩兵がドッと攻めかかります。

右は揖斐川、左は一揆の射撃隊がいる山の崖・・・しかも崖の下のこの道は、騎馬なら一騎ずつしか通れないような細い道で、もし敵に出会おうものならお互いに一騎打ちで対戦するしかないような場所でした。

そう・・・地の利を知る一揆勢が、少数で大軍を迎え撃つために選んだ最高の場所だったというワケです。

混乱する中でも戦う織田勢・・・織田軍本隊と、少し先を行っていた佐久間隊は、すぐに兵を退かせる事に成功しますが、殿(しんがり=軍隊の最後尾)を務めていた柴田隊は完全にピンチ!

それでも、踏ん張って防戦する柴田隊でしたが、惜しくも勝家自身が負傷したため撤退します。

その後、殿の2番手だった氏家隊が敵を受け止めて戦いを継続しますが、残念ながら氏家卜全は討死してしまいました。

もちろん、彼らの配下の将兵の死傷者は数知れず・・・信長による長島一向一揆攻めの初回は、見事な敗北となってしまったのです。

この後、9月には
【近江一向一揆】>>
例の
【信長の比叡山焼き討ち】>>
さらに、その翌年には
【越中一向一揆】>>(←これは上杉謙信との戦いですが)
と、一向一揆は激しさを増していきますが、

どうやら、一揆側も一枚岩では無いようで・・・と、そのお話は【石山本願寺の総大将・下間頼総の追放】>> でどうぞm(_ _)m
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2019年4月28日 (日)

信長ピンチの「金ヶ崎の退き口」で殿の木下藤吉郎秀吉は…

 

元亀元年(1570年)4月28日、金ヶ崎城の戦いにて浅井と浅倉の挟み撃ちに遭った織田信長が無事に退くため、織田軍の殿を務めた木下藤吉郎が金ヶ崎城より撤退しました。

・・・・・・・

永禄十一年(1568年)7月に、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)のもとに身を寄せていた足利義昭(あしかがよしあき・義秋)からの要請を受けた(10月4日参照>>)織田信長(おだのぶなが)は、義昭を奉じて上洛すべく、妹(もしくは姪)お市の方を嫁にやって縁を結んでいた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)の下を、出発の前月に訪れて上洛の道筋を再確認(6月28日前半部分参照>>)、永禄十一年(1568年)9月7日、いよいよ岐阜(きふ=岐阜県岐阜市)を出立しました(9月7日参照>>)

途中、浅井とは逆に上洛の道筋を譲ってはくれなかった六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)(9月13日参照>>)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通)(9月23日参照>>)などを蹴散らして、無事、上洛を果たし、10月18日に朝廷からの将軍宣下を受けた義昭が第15代室町幕府将軍に就任する(10月18日参照>>)という、ご存知の展開・・・

その後、信長は将軍=義昭の名のもとに、各地の諸将に将軍就任の挨拶に上洛するよう要請するのですが、それを拒んだのが、かの朝倉義景でした。

Asakurayosikage500a それは、かつては同じ主君=斯波(しば)氏のもとにいた織田へのプライドなのか?それとも、すでにギクシャクし始めていた義昭と信長の関係(1月23日参照>>)を見据えてか?・・・とにかく、翌年になっても信長の要請を拒みつづけます。

かくして元亀元年(1570年)4月20日、信長は3万の軍勢を率いて越前への遠征に出立し、同月25日から、朝倉の前線である天筒山金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始したのです(4月26日参照>>)

これに困惑したのが近江の浅井長政です。

なんせ浅倉とは長期に渡って同盟を結んでいる旧知の友・・・一方の信長とも、嫁の兄(もしくは叔父)として同盟を結んでいるわけで。

悩んだ末に結局、浅倉に味方する事とした長政に対し、この状況を知った信長が、「このままでは挟み撃ちになる!」とばかりに、即座に撤退を決断し、わずかの手勢を連れて金ヶ崎を出発する・・・という、有名な「金ヶ崎の退き口」ですが、
Anegawaitikankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この信長さんの状況については、以前の4月27日のページ>>を見ていただくとして、本日は、その殿(しんがり)を務めたとされる木下藤吉郎秀吉(きのしたとうきちろうひでよし=後の豊臣秀吉)のお話を、『絵本太閤記』に沿ってご紹介させていただきたいと思います。

ご存知のように、殿とは、軍を撤退する時の最後尾の位置・・・合戦における行軍は、向かう時よりも撤退する時の方がはるかに難しく、その中でも最後尾は、敵に追われながらの死を覚悟の乱戦となるは必至な場所ですから、最も危険な任務なわけで・・・

そんな危険な任務に秀吉が自ら名乗り出て・・・と、言いましても、実のところ、この「秀吉が殿軍の大将」という一件に関しては信ぴょう性が疑われる部分もあり、まして「太閤記」などは主人公が秀吉=殿下様々なので、まさにヒーロー伝説盛りまくりな部分も感じられるのではありますが、本日は、そこンとこを踏まえつつ、話半分な感じでよろしくお願いします。

・‥…━━━☆

絶賛攻撃中の4月27日、「浅井長政の挙兵に合わせ、浅倉義景も自らが本拠=一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市城戸ノ内町)を出馬する」。。。との一報が届いた織田軍の陣中にて、すぐに行われた評議の席にて、
「大量の旗を立てて、本隊が本道を退いて行って、本隊に信長さんがおると思って、浅倉の目をソチラに向けて食い止めてる間に信長さんは側近を連れて間道を進んで下さい。
例え浅倉勢が何千何万とおろうとも、この藤吉郎が殿を務め、2~3日は食い止めてみせますから安心しといて下さい」
と、秀吉が殿軍の大将を買って出ると、信長は
「よし!」
と・・・

かくして元亀元年(1570年)4月28日夜、佐久間信盛(さくまのぶもり)佐々成政(さっさなりまさ)など、一部の諸将を連れて陣を引き払い、西近江路を避けて若狭(わかさ=福井県西部)方面から琵琶湖(びわこ)の西岸を抜けるルートをひた走ります。

一方、柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)池田勝正(いけだかつまさ)らが率いる総勢6万の本隊(←盛ってるっぽい)は、信長の旗をド真ん中に守りつつ、堂々と本来の近江方面へ向けて撤退を開始します。

これを迎え撃つ浅井長政は、地の利を持つ本願寺門徒が示す要所に軍を配置して、信長と雌雄を決すべく構え、やって来た本隊に向けて鉄砲をお見舞いしますが、やがて、その本隊に信長がいない事を知って、
「どうやら、他の道で逃げたようだ」と察し、
ならば、戦うはムダと判断して、そのまま兵を退きます。

この間に手勢3千人(ホンマかいな?)で以って金ヶ崎に留まっていた秀吉は、残った彼らに向かって、
「俺は、ここで浅倉の大軍相手に稀代の武功を挙げ、先輩たちをアッと言わせたるねん」
と言って、その作戦を伝えます。

おそらく大軍を率いてやって来る義景は、もはや夜の10時を過ぎた今、到着後すぐに戦いを仕掛けて来る事は無いだろうと、まずは蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)又十郎(またじゅうろう)兄弟に千人を与えて城から離れた(敵をおびき寄せる予定の)道筋に伏兵として隠し、次に堀尾吉晴(ほりおよしはる)らの諸将に500人を付けて、それぞれに松明(たいまつ)と紙で作った旗らしき物を持たせ周辺の山や谷に放ち、合図に応じて一斉に松明に火をつけて旗を照らしつつ徘徊するよう手はずを整えます。

さらに浅野長政(あさのながまさ)に500人を付けて周辺の山々でかがり火を焚き、いかにも大軍がいるように見せ書けるよう頼み、秀吉自身は千余人で以って、城の前面にて構えます。

そこへ、3万5千余騎(←同じく盛ってるっぽい)を率いた浅倉義景が金ヶ崎城周辺に到着・・・しかし、まわりは日暮れはとうに過ぎた暗闇。

その中を遥かに望めば、左右の山におびただしい数の陣がかがり火を焚いて夜営中、
「さては、未だ信長は退いてはいなかったか?」
と思うものの、さすがにこの闇夜では大軍の統率も取り難く、味方の人馬の疲れもあり、浅倉勢も、この近くにて夜営をすべく陣を構えます。

「浅倉が夜営を敷いた」
との知らせを聞いた秀吉は
「計画どおり」
とほくそ笑みつつ、その夜も更けた頃・・・「今だ!」
とばかりに、まずは自身が1500人で以って浅倉の陣営を襲撃します。

浅倉勢が驚いて迎え撃つところに、秀吉の合図にて、四方の山々に隠れていた諸将の軍勢が一斉に松明に火をつけて鬨(とき)の声を挙げると、昼間のように明るくなる中で数え切れぬほどの旗が翻るさまは、まるで大軍が忽然と目の前に現れたかに見え、さらに驚く浅倉軍は、たちまち崩れ、散り散りに敗走していくのです。

そこをすかさず斬りこんで、あたりは瞬く間に屍の山と・・・

もちろん、中には冷静な将もいて、
「慌てるな!敵は小勢や。味方同士で同士撃ちするな!」
と声かけますが、もはや大勢がパニック状態になっている中では崩れていく一方です。

そこを何とか逃げ出せた者にも、前方に待ち構えていた蜂須賀隊が斬って入る・・・そうなると、もはやどうしようもなく、大軍は総敗軍となって、それぞれに落ちて行くのが精いっぱい。

やがて白々と夜が明けると・・・
「…敵を討つ事八千余人、味方の手負い一人もなく…」(『絵本太閤記』談)
(さすがに、これ↑は盛り過ぎか?)
3千余兵は威風堂々と引き取った・・・と、、

・‥…━━━☆

と、まぁ、さすがに秀吉側の死傷者ゼロな点は、話半分どころか、話4分の1くらいな盛り感満載ですが、ご承知の通り、この時の信長が無事この窮地を脱した事は事実ですし、琵琶湖の西を行った信長に対し、越前から近江にかけての敗走の道で、織田軍の殿が頑張った事は確か・・・

また、永禄六年(1563年)から続いていた若狭の武田(たけだ)氏との戦い(8月13日参照>>)の影響で、この頃の浅倉軍はかなり疲弊していたとも言われ、そこに、相手が大軍と言えど、殿軍が奮戦できる余地があったのかも知れませんね。
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2019年4月17日 (水)

秀吉VS勝家の賤ヶ岳前哨戦~滝川一益・峯城歌合戦

 

天正十一年(1583年)4月17日、柴田勝家と羽柴秀吉が戦った賤ヶ岳の戦いの前哨戦で、滝川一益の腹心・滝川儀太夫が守る峯城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後に、織田家家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)と、山崎で主君の仇を討った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)との間で信長の後継を巡って起こった争い=賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い・・・

信長の死から、ここまでの経緯は下記↓関連ページでご覧いただくとして…
●本能寺の変>>
●山崎の戦い>>
●清洲会議>>
●秀吉演出の信長の葬儀>>
●長浜城の戦い>>
●長島城の戦いが始まる>>
●亀山城の戦い>>
●勝家が福井を出陣&秀吉が佐和山に着陣>>
Sizugatakezikeiretu

簡単な流れとしては……
信長亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任するも、納得いかない信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に籠城して反発したので、秀吉が、信孝を推す勝家の支城である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を陥落させると、同じく信孝推しの滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったので、秀吉は城を奪還すべく伊勢方面に出陣して転戦するのです。(←今ココ)

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

こうして、
天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍で三方向から北伊勢に入った秀吉軍の実弟=羽柴秀長(ひでなが)&甥の羽柴秀次(ひでつぐ)らが、滝川一益の甥=滝川儀太夫(ぎたゆう=益重?益氏?)の籠る峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲したのです。
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秀吉は川崎村(かわさきむら=三重県亀山市の北東部)に本陣を置いて、ネズミ一匹通さぬように柵で以って城を囲み、堀を埋め、2月16日には城下一帯に火を放って執拗に攻め立てますが、峰続きの天然の要害に囲まれた峯城は、なかなか落ちそうになく、攻め手が近づけば、籠城側は貯めに貯めた糞尿をまき散らして追い払う・・・どちらにも決定打が無いまま小競り合いばかりが続きます。

そんな中、戦線がこう着状態となったある日・・・籠城側から一首の狂歌(きょうか=滑稽な社会風刺や皮肉などを盛り込んだ短歌)が送られて来ます。

♪上野(こうずけ)の ぬけとは鑓(やり)に 会いもせず
 醍醐の寺の 剃刀(かみそり)をとげ ♪
これは、秀吉軍の一人として参戦していながら、未だ大した働きをしていなかった織田信包(のぶかね=信長の弟)に対し、彼がかつて醍醐寺(だいごじ=京都府京都市伏見区)の近くに屋敷を構えていた事を皮肉って
「上野介(こうずけのすけ=信包の事)君は、ヤリやなくて坊主にするためのカミソリを研いどいた方がえぇんちゃうん?」
てな事を歌った物・・・

こういう場合、当然、言われっぱなしにはしておけませんがな!

で、寄せ手側からは中尾新太夫(なかおしんだゆう)なる武将が出て、
♪春雨に 峰々までも くずれ落ち
 つれて流るる 滝川の水 ♪
「峯城が落ちるんと同時に滝川儀太夫も一巻の終わりやっちゅーねん」
と返したのだとか・・・

まぁ、この『峯城歌合戦』の話は、地元に伝わる昔話・伝説の域を越えない話なのでアレですが、この峯城周辺で、1ヶ月近くに渡るこう着状態が続いた事は確か・・・

とにもかくにも城の攻略を1番の目標とする秀吉は、お得意の干殺し(ひごろし・ほしごろし=兵糧攻め)の持久戦法を続ける一方で、金堀り衆にトンネルを掘らせて 土塁(どるい=土制の堤防)近くまで進み、盛んに城内を威嚇します。

しだいに飢えていく城内・・・そんな中、去る3月3日に、この峯城と同時攻撃されていた佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)が落ちた(3月3日参照>>)というニュースが入って来たのです。

そこを、すかさず投降を促し、和平交渉に入る秀吉・・・

「もはや万策尽きた」と感じた滝川儀太夫は、天正十一年(1583年)4月17日、ついに峯城の開城を決意し、今回、秀吉とともにこの戦いの指揮を取っていた織田信雄に、城を明け渡したのでした。

いやはや、もし、この時代にスマホがあって、峯城の儀太夫と湖北に進んだ柴田勝家と連絡をとっていたら・・・もう、ワクワクしますね~

そうです。。。携帯の無い時代、おそらく峯城の城内には、秀吉の動きも、勝家の動きも伝わっていなかったのでしょう。

この時、一旦、湖北方面に戻っていた秀吉は、この峯城陥落の前日の16日に信孝の籠る岐阜城に向かいますが、大雨で長良川が渡れず、やむなく大垣(おおがき=岐阜県大垣市)に留まっていたのですが、実は一方の勝家の方も越前を出て準備万端整えていたのです。

この3日後の4月20日に、勝家は湖北=賤ヶ岳にて秀吉軍に向けて戦闘を開始・・・

そして自軍のピンチを知った秀吉が慌てて、不眠不休で西へと向かう・・・ご存知『美濃の大返し』(4月20日参照>>)となるわけです。
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