2018年11月21日 (水)

長島一向一揆の小木江城攻め~織田信与の自刃

元亀元年(1570年)11月21日、長島一向一揆に攻められた信長の弟=織田信与が小木江城にて自刃しました。

・・・・・・・・・・・

尾張(おわり=愛知県西部)伊勢(いせ=三重県中北部)の国境を隔てるように流れる木曽三川(きそさんせん=木曽川・揖斐川・長良川)・・・その河口付近の輪中(わじゅう=水害から守るために周囲を囲んだ堤防や集落)地帯である長島(ながしま=三重県桑名市)は、上記の通り、現在では三重県ですが、古文書等には「尾州河内長島」とか「尾張国河内郡」とか表記され、尾張の一部とみなされていました。

とは言え、永禄五年(1562年)に織田信長(おだのぶなが)尾張を統一(11月1日参照>>)した後も、ここ長島は、その支配下に入っておらず、室町中期に、浄土真宗の中興の祖=蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)の息子である蓮淳(れんじゅん)願証寺(がんしょうじ)を建立して以来、寺を中心に本願寺門徒が周辺の国人領主(地元に根付いた武士)を取り込んで、砦などを設けて武装化した本願寺門徒の地でありました。

そんな中、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて信長が上洛した事で、それまで畿内を掌握していた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・・石成友通)阿波(あわ=徳島県)へと追いやられたのです(9月7日参照>>)

しかし、当然、追いやられたままで済むはずはなく、
その三好三人衆が、元亀元年(1570年)6月、越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)を相手にした、あの姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月19日参照>>)のために信長が畿内を留守にする絶好のチャンスを起死回生とばかりに、その年の8月に仕掛けたのが野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の戦い(8月26日参照>>)・・・

そこに、当時、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・現在の大阪城のある場所)を拠点としていた本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)三好側として参戦して来たのです。

信長が上洛した当初は、矢銭(やせん=軍資金)の徴収も言われるがままに支払い、決して信長との関係は悪くなかった本願寺でした。

しかし、ここに来てのいきなりの参戦・・・その理由については、
大阪という土地の中でも、1~2を争う絶好な場所に建つ石山本願寺の地を「僕に譲ってくれへんか?」と信長が言ってきた?
とも、
野田福島での三好三人衆を包囲した信長軍の態勢が、完全に石山本願寺を包囲する態勢だった事にブチ切れた?
とも言われますが、

とにもかくにも、元亀元年(1570年)9月7日、ここに顕如は全国の本願寺門徒に向けて
「今こそ、開山・親鸞聖人の恩誼(おんぎ)に報いる時! その命惜しまず忠節を見せてくれ!参戦せん者は破門にするぞ!」
てな檄文を発したのです(9月12日参照>>)

「総本山の石山本願寺が危ない!」
とばかりに蜂起する全国の本願寺門徒・・・当然、当時の願証寺住職=証意(しょうい=蓮淳の曾孫・證意)以下、長島の一向一揆も立ち上がります。

早速、代々伊藤一族が城主を務めていた長島城(ながしまじょう=三重県桑名市)に大軍で押し寄せて伊藤一族を追放して城を奪い取ります。

そして、この長島城を拠点に、11月16日、信長の弟=織田信与(のぶとも・信與)が守る古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃したのです。

これは明らかに、信長の援軍の手が、この古木江城まで届かないであろう事を計算しての攻撃でした。

というのも、あの8月に勃発し、9月の本願寺の参戦によって三好方が勢いづいた野田福島の戦いが、未だ継続中・・・9月12日に三好勢が川端の堤防を切断して敵方に水を引き寄せた事で、信長の陣屋もろとも周辺が水浸しになり、その水が2~3日引かなかったおかげで、信長勢はかなり苦戦していたようなのです。

そこを見計らった9月20日、今度は、先の姉川の合戦で敗れた浅井&朝倉が、信長の重臣=森可成(もりよしなり)の守る宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)近くの坂本(さかもと=滋賀県大津市)まで琵琶湖の西岸を南下して来たのです。

その姉川のページにも書かせていただきましたが、この合戦での信長は、「ひょっとして判断ミスった??」と思えるほど追撃をかけなかった事で、負けた浅井&朝倉のダメージは意外に少なく、ここで野田福島の戦況を知って「チャンス!」とばかりに仕掛けて来たわけです。

城を死守すべく果敢に撃って出る可成でしたが、その数は、加勢に駆け付けた信長の弟=織田信治(のぶはる)の兵を加えても、わずかに1000・・・そこに浅井&朝倉に加えて本願寺の要請を受けた比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の僧兵が加わった約30000万の軍勢が押し寄せたのです。

少ない人数の中、何とか落城だけは防いだものの、可成と信治は壮絶な討死を遂げます(9月20日参照>>)

この合戦後の9月22日付け、六角氏の重臣に宛てた手紙の中で、浅井長政は、
「今、坂本にいます。一両日中には京都に入ろうと話してますんで、その後は、いよいよ野田福島で行きますよって、安心してください」
というノリノリの手紙を送っています。

この長政の心の内を知ってか知らずか、信長は翌日の9月23日に柴田勝家(しばたかついえ)殿(しんがり=最後尾)として急きょ野田福島の陣を引き払い、翌23日に京都に戻って浅井&朝倉攻撃に備えます。

この間にも浅井&朝倉勢は醍醐(だいご=京都市伏見区)周辺に放火しつつ山科(やましな=京都市山科区)まで進撃して来ていました。

ところが、翌24日、信長勢が侵攻すると浅井&朝倉勢は比叡山方面へ逃げ、そこに布陣して立て籠もったのです。

そこで信長は比叡山に向けて
「僕の味方をしてくれはるんなら、僕の領国内にある比叡山の領地も返還したいと思います。
けど、仏に仕える身やから、どっちかの味方になる事はできん!とおっしゃるんなら中立を保っていて下さい。
もしも、このどっちもイヤ…浅井&朝倉に味方する~っていうのであれば、攻撃しなアカン事になります」

との朱印状を発しますが、比叡山は、返答をせずに無視したばかりか、浅井&朝倉を擁護する姿勢を見せたのです。
(ご存じのように、この比叡山の姿勢が、後の焼き討ちにつながるわけですが…

そこで信長は宇佐山城に置いていた本陣を比叡山の麓に移動して比叡山を包囲するような布陣に整え、京都方面には八瀬(やせ=京都市左京区)大原(おおはら=京都市左京区)口や勝軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川)に、志賀方面には唐崎(からさき=滋賀県大津市)に・・・などに配下の者を配置し、その間に甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)にて本願寺の呼びかけに応じた六角承禎(じょうてい・義堅)を抑えた木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)が合流するなど、他方で戦っていた面々もはせ参じて来るのですが・・・

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長島一向一揆&小木江城と堅田のい戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とまぁ、話がちょいと長くなってしまいましたが、とにもかくにも、この時の信長はこういう状況だったわけで、おそらくは手いっぱいで援軍の派遣はムリなわけです。

そこをチャンスと見た長島一向一揆勢は、数日に渡って古木江城に激しい猛攻を加えます。

何とか防いでいた織田信与でしたが、元亀元年(1570年)11月21日、ついに一揆勢が城門を破って場内に突入して来たのです。

「このまま一揆勢の手にかかって命を落とすのは無念である」
そう言い残した信与は天守に上り、その最上階にて切腹して果てたのです。
(撃って出て討死した説もあり)

この信与は、信長から数えて5番目の弟・・・その生年はわかっていませんが、2か月前の宇佐山城で討死した信治が3番目の弟で天文十四年(1544年)生まれの27歳ですから、おそらく20代前半か10代後半と思われ、信長にとって、立て続けに弟を失ったこのあたりの戦いは、大きな心の傷を負った出来事だったのかも知れません。

なんせ、この滋賀・堅田(かただ=滋賀県大津市)方面での戦いは、1ヶ月ほどの小競り合いの後、12月14日に時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇による合戦中止の綸旨(天皇の命令)が下されて講和が結ばれますが(11月26日参照>>)、そのすぐ後に、秀吉の働きで本拠地の岐阜と京都との動脈を確保した信長は、即座に北伊勢方面への出陣を決意し、翌元亀二年(1571年)5月16日の長島一向一揆戦(5月16日参照>>)へと突入していく事になるのですから・・・

ところで、
このあと続く、8月の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)
天正二年(1574年)9月の長島一向一揆せん滅(9月29日参照>>)

これらは、信長の残虐ぶりを表す出来事として有名な出来事ですが、どうでしょう?
こうして見ると、比叡山も一向一揆も、けっこうヤッちゃってる感じがするんですが・・・
(それも先にヤッちゃってる感が…(^-^;)
(もちろん浅井&朝倉もネ)

もちろん、信長さんが100%正しいとは思いませんし、「そこまでせんでも…」って部分もあるでしょうが、他の武将もそうであるように、そもそも戦国とはそういう時代・・・「戦争は嫌だ」と声高に叫べば、誰かが拾ってくれる現在とは価値観が違うのです。

なので、ドラマ等(「信長協奏曲」は除くww)で、ことさら信長だけを鬼のように描く(他の武将をイイ人に描くためでしょうか?)昨今の風潮には、個人的には、ちょっと疑問を感じているのです。

ドラマ&映画等の関係者の皆々様、そろそろ違うイメージの信長さんを登場させてはいかがでしょう?

今ハヤリの平和を主張する主人公が信長さん・・・てのもアリ???
一歴史ファンとしては期待してしまいますが、やっぱりダークなラスボスっぽく描かれるんでしょうね~まぁ、それもカッコイイならOKやけど(*^-^)
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2018年11月16日 (金)

信長の前に散る…三好義継が切腹す~若江城の戦い

天正元年(1573年)11月16日、居城の若江城を、織田信長に攻められた三好義継が切腹しました。

・・・・・・・・・・・

今回の主役=三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)は、天文十八年(1549年)に、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の弟の十河一存(そごうかずまさ・かずなが=長慶の3番目の弟)長男として生まれたと言います。

この伯父の三好長慶という人は・・・(これまで何度もブログに登場してますが…)
かつて室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として権勢を奮った細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後に、その3人の養子たちによる後継者争いの中で優位に立ち、事実上の政権樹立を勝ち取った細川晴元(はるもと)の家臣でしたが、天文十八年(1549年)6月の江口の戦いにて晴元らに勝利し、彼らを近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させて畿内を掌握(6月4日参照>>)した後、第12代=足利義輝(よしてる=11代諸軍・足利義晴の息子)とも和解して(11月27日参照>>)戦国初の天下人とも称される人物です。

その弟である十河一存は、数々の戦いで兄=長慶をサポートし「鬼十河(おにそごう)と呼ばれた名将でしたが、残念ながら永禄四年(1561年)3月に、この世を去ってしまいます(5月1日参照>>)

Miyosiyositugu500a 可愛い甥っ子として、義継を自らが養育するつもりであった長慶でしたが、その2年後の永禄六年(1563年)、長慶の跡継ぎであった一人息子=三好義興(よしおき)が22歳の若さで病死してしまった事から、長慶は義継を養子として迎え、以後、義継は三好家の嫡流を継ぐ事になったわけです。

しかし、以前も書かせていただいたように、先の十河一存の死を皮切りに、三好家には毎年のように次々と不幸な出来事が起こるのです。

十河一存の死後の将軍地蔵山の戦い(11月24日参照>>)が手痛い負け戦となる中、翌年の永禄五年(1562年)の3月には、長慶のすぐ下の弟=三好義賢(よしかた=元長の次男・実休)久米田(くめだ・大阪府岸和田市)の戦い(3月5日参照>>)にて戦死し、その翌年に先の義興の死・・・さらにのその翌年の永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす)謀反の疑いで長慶自身が謀殺してしまい、しかも、その弟殺害の2ヶ月後に長慶は亡くなるのです(5月9日参照>>)

実は、晩年の長慶はうつ病を発症しており、ほとんど合戦には出ずに引き籠りがちになっていて、実際に三好家を支えていたのは重臣の松永久秀(まつながひさひで)だったとの事・・・

こうして、わずか16歳で三好家を引っ張っていかねばならなくなった義継・・・そんな若き当主をサポートしたのが、先の松永久秀と、後に三好三人衆と呼ばれる三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)ら三好一族の者たちでした。

翌永禄八年(1565年)5月1日には、将軍=義輝の要請により、左京大夫(さきょうのだいぶ=都の行政機関の長官・後の京都所司代)に任じられ、義輝から「義」の一字を賜って、その名を義重と改めますが(ここまでは重存)、そのわずか18日後、三好三人衆らととともに上洛して二条御所(武衛陣御所)を襲撃して義輝を暗殺してしまうのです(5月19日参照>>)

その年齢から考えても、おそらく、この一件を主導したのは三好三人衆ではありましょうが、この件をキッカケに義重から、いよいよ義継へと改名していますので、義継自身も自らの意思で首謀者の一人として参加した事でしょう。

なんせ、この義輝さんは、かの長慶と何度も刃を交えて京都奪回&将軍復権を画策した人(11月27日参照>>)・・・長慶と和睦して京都に戻ったとは言え、もともと傀儡(かいらい=あやつり人形)には収まらず、自らが政務に手腕を発揮シたいタイプですから、おそらく長慶の死は彼にとって、誰の影響も受けずに采配を振るチャンス到来と思っていた可能性大。

一方、長慶を失った側の三好としては、それは困る・・・自分たちの思い通りになる将軍が都合が良い。

Asikagakuboukeizu3 ←足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そこで三好三人衆は、以前に細川晴元とともに三好一族が推し挙げて堺公方(さかいくぼう)を称していた足利義維(よしつな)(2月13日参照>>)の息子=足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)が義輝に代わって第14代将軍になれるよう画策するのです。

一方、その間に、これまで、ともに三好家を支えていた松永久秀と三好三人衆は、どうやら決別したようで・・・というのは、義輝暗殺から半年後の永禄八年(1565年)11月、これまで長慶健在の時から久秀が行っていた大和(やまと=奈良)攻略(11月24日参照>>)での宿敵=筒井順慶(つついじゅんけい=大和の国衆)との筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)攻防戦(11月18日参照>>)にて三好三人衆が順慶の味方として登場するからなのですが・・・

なので義継は、三好三人衆とともに松永久秀と戦う事になるのですが、この頃には三好三人衆の頭の中は足利義栄の事でいっぱい・・・なんせ将軍ですからね~自分たちの意のままに動いてくれる上司なら、三好家当主より将軍の方がイイに決まってますがな。

この三好三人衆に不満を感じた義継は、彼らと離れて松永久秀のもとに・・・永禄十年(1567年)10月の東大寺大仏殿の戦い(10月10日参照>>)ではキッチリ松永方として参戦し、勝利に貢献しています。

そんな中、これまでの経緯や献金の金額不足から足利義栄の将軍就任に難色を示していた朝廷が、永禄十一年(1868年)ようやくOKサインを出し、その年の2月8日に足利義栄への将軍宣下がなされて、義栄は第14代将軍に就任し、もはや三好三人衆の天下か?

と思いきや、この一件によって、義輝暗殺の際に幽閉されていた興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)を脱出(7月28日参照>>)して、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)のもとに身を寄せていた義輝の弟=足利義昭(よしあき・義秋)が動き出すのです。

これまで義昭は、暗殺された前将軍の弟として、その後継者=次代将軍になる希望を抱き、自らを奉じて上洛してくれる大物武将を探して、自身が納得できるような者に声をかけていたものの良い返事が貰えず・・・しかし、上記の通り、義栄の将軍就任で、これ以上ジーッとしているわけにはいかず、おそらくは義昭にとってはキャリア不足の地方侍だとの認識だった・・・けど、だからこそ自分を奉じて上洛してくれそうな尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に接触したのです(10月4日参照>>)

自分を奉じてくれる武将を探していた義昭と、稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現在の岐阜城)を手に入れて(8月15日参照>>)『天下布武』の印鑑を使い始め、上洛のキッカケ=朝廷への大義名分&手土産を探していた信長との利害関係が見事一致・・・永禄十一年(1568年)9月7日、信長は京都に向け、岐阜城を発ったのです(9月7日参照>>)

ご存じのように、この信長の上洛は戦国の一大転換期とも言える出来事・・・当然ですが、その道筋には、上洛に協力する者と敵対する者がいるわけで、

そんな中、美濃(みの=岐阜県)の隣国で敵対しそうな朝倉は、現時点で若狭(わかさ=福井県西部)攻めの真っ最中(8月13日参照>>)なので、この一件にはスルー。

北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)には、妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて懐柔済み(2011年6月28日の前半部分参照>>)

NOと言った南近江(滋賀県南部)六角承禎(じょうてい・義堅)は信長軍に蹴散らされ(9月13日参照>>)ます。

もちろん義栄を仰ぐ三好三人衆も信長に抵抗しますが、籠る勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)などを攻撃され、やむなく義栄を連れて、領国の阿波(あわ=徳島県)へと退去します。

一方、この時、三好義継と松永久秀はチャッカリ信長に協力&服属を約束・・・おかげで義継は若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)を安堵され、久秀は「大和一国切り取り次第」=「奈良で戦って奪った土地は君が治めたらええぇがな」の許可を得ます。

翌・永禄十二年(1569年)1月、三好三人衆らが義昭が仮御所として宿泊していた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃した本圀寺の変では(2月2日参照>>)、義継は、将軍家被官の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らとともに、その防御の一翼を担い、その功績もあってか2ヶ月後には信長の仲介で義昭の妹と結婚し、義継も、もうすっかり織田傘下の人・・・と思いきや、

間もなく義昭と信長の間に亀裂が入り始めたり(1月23日参照>>)、信長と三好三人衆の野田福島の戦い(8月26日参照>>)本願寺顕如(けんにょ=第11代法主)が三好側として参戦した(9月12日参照>>)事などから、やがて義継は松永久秀とともに反信長派に転じ、いわゆる「信長包囲網」の一角となりました。

そして、いよいよ天正元年(1573年)2月(7月に元亀より改元)足利義昭が信長に反旗を翻し(2月20日参照>>)、一旦は和睦するも7月に再び挙兵・・・籠っていた槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)を攻撃され、やむなく息子=足利義尋(ぎじん)人質に差し出して降伏します(7月18日参照>>)

こうして、京都を追われた義昭は、妹婿である義継の若江城に・・・そして冒頭で書かせていただいたように、その後、義継の若江城は信長に攻められるのですが、

一説には、この「義昭を庇護した事」で信長の怒りをかって、その後に若江城を攻められたと言われたりもするのですが、実際には、若江城へ移動するにあたっては羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が護衛した=つまり、昭の若江城入りは信長も承諾済みだったらしい・・・

なんせ、上記の通り、将軍になるには「朝廷の将軍宣下」があるわけで、京都を追放されようが、本人が「もうアカン」と思おうが、朝廷がそれを承諾しない限り、将軍は将軍のままなわけですから、信長に降伏いたとは言え、その後の身の振り方には朝廷やら何やらの周囲の仲介等があったと思われ、信長も、それらの手前もあり、反信長の神輿として担がれない場所であるとともに監視が効き、かつ将軍が滞在するにふさわしい場所として(本意であったかどうかは別として)義昭が若江城の預かりになる事は、信長も認めていた・・・いや、むしろ妹婿のいる若江城選んだというのが正解のように思います。

ただし、その他方、
「あの信長の事やから、おそらく、この一手先も二手先も読んでいるに違いない…ここは慎重に行動せねば!」
と察していた義継は、若江城にやって来た義昭を城中に入れる事無く、そのまま紀州(きしゅう=和歌山県)へ送った・・・
なんていう話もあります。

つまり、義継は、「義昭云々に関係なく、自分は信長から攻められるかも知れない」事を警戒し、信長に心許す事はなかったという事なのでしょう。

とにもかくにも、『信長公記』では、
そのような、信長への警戒心持ち反抗的な義継に対して、もはや揺るぎない信長の力を恐れる三好の家老たち=多羅尾綱知(たらおつなとも)池田教正(いけだのりまさ)野間長前(のまながさき)若江三人衆(わかえさんいんしゅう)が主君と離れて信長に内応し、そこに信長が派遣した佐久間信盛(さくまのぶもり)率いる織田軍が若江城を包囲・・・

義継の近臣であった金山信貞(かなやまのぶさだ)を自刃に追い込んだ後、若江三人衆は佐久間信盛を若江城中に引きいれたと言います。

佐久間勢が天守の真下まで攻め上って来た時、
「もはやこれまで!」
と覚悟を決めた義継は、妻子を刺し殺した後、天守から撃って出て佐久間勢の多くを負傷させた後、側近に介錯を頼んで、自らの腹を十文字に切り裂いたのだとか・・・

それは
「比類なき御働き 哀れなる有様なり」
比類なき活躍であったけれども、哀れであった・・・と、

天正元年(1573年)11月16日、三好義継、享年25・・・天下にその名を馳せた三好本流の最後の人となりました。

ちなみに、京都を追放され、三好義継も失った足利義昭ですが、今度は西国の雄毛利(もうり)を頼って、まだまだネバりはります(7月18日参照>>)
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2018年11月 7日 (水)

本庄繁長の乱で上杉謙信が本庄城を攻撃

永禄十一年(1568年)11月7日、反旗を翻した本庄繁長の籠る本庄城を上杉謙信が攻撃しました。

・・・・・・・・・

天文十一年(1542年)に信濃(しなの=長野県)諏訪(すわ)を制し(6月24日参照>>)、さらに北へと勢力を伸ばそうとする甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)(4月22日参照>>)に対し、天文二十二年(1553年)から永禄七年(1564年)にかけて、何度も川中島(かわなかじま=長野県長野市)にて(8月3日参照>>)刃を交えていた越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎・上杉輝虎)・・・

Uesugikensin500 一方で、その両者がともに傘下にしておきたい場所が、越後にも信濃にも接している隣国=越中(えっちゅう=富山県)・・・なんせ上洛するには、ここを通らねばなりませんし、それはイコール物流という観点からも重要ルートなわけで。。。

Takedasingen600b ここ越中は、もともとは南北朝の動乱の後に守護(しゅご=県知事的存在)だった畠山(はたけやま)以下、それをサポートするが守護代(しゅごだい=副知事的)遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)が分割して治めていた場所でしたが、応仁の乱を経た戦国時代に入って畠山氏の力が衰え始める中で越中一向一揆が頻発(9月19日参照>>)したりした事により、徐々にその立ち位置も微妙に・・・

で、この永禄の頃には射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による越中(えっちゅう=富山県)争奪戦を繰り返していましたが、そんな両者の戦いを影で支援していたのが武田信玄(神保を支援)と上杉謙信(椎名を支援)だったわけです(3月30日参照>>)

ところが、そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月、これまで密かに行っていた信玄の裏工作により、椎名康胤が武田側に寝返ったのです。

父の時代からの同盟者であった康胤に裏切られた事にショックを受けつつも、謙信は康胤の松倉城を落とすべく3月16日に居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣します。

一方、この康胤の寝返りを受けて、翌・4月、今度は神保長職が上杉に寝返り・・・すると、これまで信玄の要望(信玄の奥さんの妹の夫は本願寺顕如)で長職とともにゲリラ戦を展開していた一向一揆が、これまた神保から離れて武田側に寝返り(←あ~ややこしい)、長職傘下の守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)放生津城(ほうじょうづじょう=富山県射水市中新湊)を攻撃して陥落させてしまいます。

そこで謙信は、ひとまず松倉城への抑えとして配下の河田長親(かわだながちか)魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)に配置して守らせ、自らは、長職と連携して守山城と放生津城への攻撃を開始するのです(4月13日参照>>)

しかし、その陣中に、鳥坂城(とっさかじょう=新潟県胎内市)中条藤資(なかじょうふじすけ)からの書状が届きます。

なんと、その書状の中には、もう一通の書状が・・・それは、本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)から中条藤資に宛てた物で、その中身は
「コチラの味方になってくれませんか?」
のお誘い・・・

Honzyousigenaga600 そう・・・この謙信留守の間に武田側に寝返った本庄繁長が、中条藤資に送った寝返りを即す密書を、上杉を裏切る気ゼロの藤資が、そのまま謙信に見せたのです。

激おこの謙信は、すぐに陣を引き払って春日山城へ帰還し、本庄城攻撃の準備に入ります。

一方、その本庄繁長は、中条藤資以外にも、平林城(ひらばやしじょう=新潟県村上市)色部勝永(いろべかつなが)黒川城(くろかわじょう=新潟県胎内市)黒川実氏(くろかわさねうじ)大場沢城(おおばさわじょう=新潟県村上市)鮎川盛長(あゆかわもりなが)ら周辺の武将へ同様の書状を送って寝返りに誘っていたのです。

ところが、これが大きな誤算・・・中条藤資と同じく、彼らにも断られてしまったのです。

結果、本庄繁長は周囲を敵に囲まれた孤立無援の形になってしまい、やむなく本庄城に籠城して武田の援軍を待つしかなくなってしまいます。

そのニュースを得た信玄は、本願寺に向けて繁長救援を要請・・・これを受けた勝興寺(しょうこうじ=富山県高岡市)の一向一揆衆が越後へと侵入する一方で、海津城(かいづじょう=長野県長野市松代町)を出た信玄は、7月10日、謙信側の飯山城(いいやまじょう=長野県飯山市)を攻撃します。

しかし、さすがの謙信はこれを予想しており、すでに配下の者を援軍として送り込んで防戦したため、信玄はそれ以上の進軍ができず、10月13日には、本庄城に、使者とともに兵糧を送り込んで、今後の作戦を練ります。

一方、10月20日に春日山城を出発した謙信は、柏崎(かしわざき=新潟県柏崎市)から出雲崎(いずもざき=新潟県三島郡)を経て新潟に着陣・・・永禄十一年(1568年)11月7日いよいよ本庄城への攻撃を開始します。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

このピンチに繁長は、御大=信玄の出陣を要請しますが・・・残念ながら、この頃の信玄は、今川義元(いまがわよしもと)亡き後の駿河(するが=静岡県東部)への侵攻に忙しい・・・【薩埵峠の戦い】参照>>)【今川館の攻防戦】参照>>)

もちろん、これは「本庄より駿河が大事」って事だけではなく、11月の東北は、もはや雪に閉ざされ、行くに行けない状況だった事もあって、冬でも暖かい駿河への侵攻を優先したのです。

現に、本庄城を攻撃していた謙信方も、かなり雪に悩まされたようで・・・しかも本庄城が堅固な要塞なうえに城兵も少数ながらゲリラ戦をウマく展開し、もはや援軍も望めず籠城を続けるだけの本庄城を、謙信はなかなか落とせずにいました。

この状況を見るに見かねた陸奥(むつ=青森・岩手・宮城・福・秋田北東部)蘆名盛氏(あしなもりうじ)伊達輝宗(だててるむね) が、年も押し迫った12月28日に「繁長を許したって~」と謙信に願い出ますが、未だ激おこの謙信はガンとして首を縦に振らず・・・

そのまま年が明けた永禄十二年(1569年)1月9日には、夜の闇に紛れ本庄方の兵が謙信側の陣地を襲撃します。

しかし本庄方も、少数のゲリラ的攻撃では謙信方に大きなダメージを与える事はできず・・・まだまだヤル気満々の謙信は、周辺の農民に
「槍でも鍬でも鋤でも持って集まれ~~参戦したら褒美をつかわす~」
と呼びかけると同時に、先の色部勝永や黒川実氏らから人質と誓詞(せいし)を取って味方の団結を強めますが、3月に入って、今度は本庄繁長本人から蘆名盛氏と伊達輝宗を通じて赦免の願い出が・・・

さすがに、未だ激おこの謙信ではありましたが、進展の無い戦いが、あまりに長引くのも良く無いし、なんたって先の松倉城が、あのままになってますから、ここは一つ東北の諸将の顔を立てて、「繁長の息子を人質として差し出す事を条件に本庄の所領を安堵する」という事で、この戦いの終わらせる事にしたのです。

こうして本庄繁長の乱と呼ばれる戦いは終結・・・

この後、再び松倉城への攻撃に戻る謙信でしたが、なかなか手ごわい松倉城をようやく落としたのは元亀二年(1571年)3月の事・・・

一方、この一件で上杉の配下となった本庄繁長は、謙信の死後、御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)に勝利して上杉の後継者となった上杉景勝(かげかつ)に仕えて縦横無尽の大活躍・・・「上杉にこの人あり」と言われるほどの勇将となるのですから、世の中わからない物です。

ま、その活躍ぶりは、おいおい、その日付にて書かせていただく事にします。
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2018年11月 1日 (木)

一族とともに生きた北条氏の長老軍師~北条幻庵

天正十七年(1589年)11月1日、戦国時代の関東に君臨した北条氏の長老&ご意見番、北条幻庵が97歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

戦国時代、約100年に渡って関東を牛耳る北条氏(ほうじょうし=鎌倉時代の北条氏と区別するため後北条氏とも)・・・その祖となる北条早雲(ほうじょうそううん)こと伊勢盛時(いせもりとき)の末っ子=四男として明応二年(1493年)に誕生した(誕生年には諸説あり)とされる北条幻庵(ほうじょうげんあん)(いみな=実名)長綱(ながつな)法名宗哲(しゅうてつ)と言いますが、隠居後に名乗った幻庵の名前が有名なので、本日は幻庵さんと呼ばせていただきます。

Houzyougenan300as そんな幻庵は、幼くして近江(おうみ=滋賀県)三井寺(みいでら=滋賀県大津市)に入寺し、大永四年(1524年)に出家し、箱根権現(はこねごんげん=神奈川県)を祀る箱根権現社(後の箱根神社)別当寺(べっとうじ=神社を管理するための寺)である金剛王院(こんごうほういん)に入りました。

なんせ、この箱根権現は山岳信仰の中心的存在で、あの源頼朝(みなもとのよりとも)以来関東武士の守り神として崇められていて、大きな力も持ってますから、そこに息子を送り込んでおけば何かと有利・・・なので、当然ですが幻庵本人ではなく、父親の思惑ドップリの出家だったわけですが、そのおかげで、幻庵は、他の兄弟たちとは・・・いや、多くの戦国武将の中でも、かなり特異な立場の人物となるのです。

それは北条一門の武将でありながら箱根権現別当金剛王院の院主(いんじゅ=住職・寺の主)=僧侶であるという事・・・

もちろん、武将ですから、馬術や弓にも長け、合戦の記録も複数あるわけですが、何と言っても他者を寄せ付けないほどトップクラスだったのは和歌や連歌、茶道に築庭、さらに、見事な鞍を作ったり、石工や弓細工などなどの芸術的才能です。

中でも、連歌師の宗牧(そうぼく)とは三井寺での修行時代からの友人で、彼が小田原(おだわら=神奈川県小田原市)にやって来た時には国境まで出迎えて歓待し、連歌会を催したりしています。

そう・・・こういう芸術的お付き合いが非常に重要なんです。

連歌師という人は、歌を作るだけでなく、その指導もするわけで、指導する相手には武将もいれば公家もいる・・・それも全国各地に・・・

宗牧の場合など、公家の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の邸宅や摂関家の近衛家(このえけ)にも出入りし、第105代・後奈良天皇(ごならてんのう)尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで=信長の父)の間を取り持った記録も残っています。

このような独自の人脈を持つ連歌師は、複数の公家や戦国武将の間を自由に行き来し、近隣の情報を得て来てくれるわけです。

もちろん、それは情報を得ると同時に発信する事も可能・・・

たとえば、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉宗滴(そうてき)の回顧録には
「『北条早雲は、普段はめっちゃケチで金を使おうととせんけど、合戦の時には惜しみなく戦費を投入するらしい』という事を連歌師の柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)から聞いた」
という話が登場しますが、この宗長という人は宗牧の師匠にあたる人・・・なので、情報は、「北条は強いんやゾ!なめんなよ」てな、けん制の意味を込めて、おそらくは意図的に幻庵から宗牧&宗長を通じて朝倉へと流された物?

しかも幻庵は、推定97歳という長寿を全うした事により、結果的に、初代の北条早雲から氏綱(うじつな=早雲の長男)氏康(うじやす=氏綱の長男)氏政(うじまさ=氏康の次男)氏直(うじなお=氏政の長男)北条5代【北条五代の年表】参照>>)に仕える事になりますから、まさに北条家の諜報機関のトップ・・・半分武将で半分僧侶という立場で様々な情報を得て、その情報で以って北条家を支えていたわけです。

逆に、他家へ嫁ぐ娘に贈るために書いた『幻庵覚書(幻庵おほへ書)では、女性としての礼儀作法や心得とともに
「僧侶や芸能関係者をむやみやたらに近付けたらアカンぞ!」
と、いかにも自分がアブナイ事やって来たからこそのアドバイス感満載な事を言っちゃってます。
(若い時に暴れまくってたヤンキー父ちゃんも、娘には、そんなヤツに引っかからんといて欲しいみたいな?www)

ちなみに、長男を早くに、次男&三男を武田(たけだ)との合戦で亡くした幻庵は、もう一人の娘に氏康の三男を婿養子に迎えて、自身の後継者としていましたが、北条と上杉の同盟のためにその三男は越後(えちご=新潟県)へと行く事になり、娘さんとは離縁・・・その彼が御館(おたて)の乱で自害する上杉景虎(うえすぎかげとら)です(3月17日参照>>)

とにもかくにも、その稀にみる才能で芸術家や公家との交流し、情報を集め、その情報を北条家の戦略に活かしていく・・・一見穏やかに芸術を楽しんでいるように見えるその姿は、ある意味、騎当千の荒武者より怖い存在だった事でしょう。

現に、約100年に渡って関東に君臨した北条は、彼の死から半年余りで滅亡する事となります。

幻庵が亡くなったのは天正十七年(1589年)11月1日・・・享年97。

そのわずか23日後に北条が起こした真田とのトラブル(10月23日参照>>)を理由に、豊臣秀吉(とよとみひでよし)宣戦布告(11月24日参照>>)し、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)が開始されるのです(12月10日参照>>)

やはり幻庵の死によって、北条の「何かが外れた感」が否めませんね~

ただ、冒頭にも書かせていただいたように、幻庵さんの誕生年も諸説ありますし、亡くなった日付も現在では疑問視する声も出てきていますので、そうなると享年の97歳ってのもあやしくなって来るのですが、初代の早雲の息子でありながら、天正八年(1580年)に5代目の氏直が当主になってから後も、しっかりと活躍している記録が残っていますので、97歳でないとしても、かなりの長寿であった事は間違いなさそう・・・まさに、北条家とともに生き、北条家とともに去っていったと言えますね。

・‥…━━━☆

ところで、ここからは、
この幻庵さんの97歳という年齢に関連して、私個人が少々気になっている事。

幻庵さん以外にも、
先ほどの朝倉宗滴が79歳(8月13日参照>>)
他にも、
毛利元就(もうりもとなり)=75歳(11月25日参照>>)
細川幽斎(ほそかわゆうさい=藤孝):77歳(8月20日参照>>)
藤堂高虎(とうどうたかとら)=75歳(6月11日参照>>)
本多正信(ほんだまさのぶ)=79歳(9月5日参照>>)
大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)=80歳(2月1日参照>>)
などなど、ご高齢で活躍された方がけっこういてはります。

確かな統計が無いので、あくまで予想の範囲=「そうのように考えられている」というデータではありますが、戦国時代の平均寿命は37歳くらいだったとされています。

で、この方たちが話の中に出て来ると、よく言われるのは、
「平均寿命が37歳くらいの頃に80代や90代なんて、かなりのご長寿」
てな事。

もちろん、80代&90代なら、今現在でもご長寿なのですから、これに関しては正解なのですが、気をつけねばならないのは、
「平均寿命が37歳なら、50代くらいでお年寄り=お爺ちゃんの部類に入るんじゃないの?」
あるいは、
「平均寿命が37歳なら、そんくらいで死んでしまう人がたくさんいたのでは?」
という解釈をしてしまう場合がある事です。

ご存じのように、現在の日本人の平均寿命は男性=81歳、女性=87歳で、街中を歩いていても、そのくらいのお年寄りが元気に闊歩しておられますから、「平均寿命」という言葉を聞いて、その言葉通り「普通にしていたらそんくらいまで生きられる年齢」と思ってしまいますが、

実はコレ、「新生児&子供の死亡率が激減した現在」の感覚です。

ほんの少し前(太平洋戦争の頃)でも、未だ乳幼児の死亡率が高く、平均寿命は50歳くらいだったと言われていますが、だからといって50歳でお年寄りだったわけではなく、まだまだ現役でバリバリ働いてますよね。
(ただし、栄養状態が今ほど良くない時代では年齢より老けて見えるという事はあるかも知れませんが…今の50代は若いww)

以前、【七五三の由来】>>のところで、江戸時代には「七歳までは神のうち」という考え方があって、7歳の時に霊的な試練があり、そこを踏み越えれば大人の階段を上る事ができるというような言い伝えがあった・・・てな事を書かせていただきましたが、

それは、それまでに死んでしまうお子様が数多くいた生まれた赤ちゃんが、無事に大人になる確率が低かったという事で、そのために平均寿命が、今よりグンと下がってしまうというわけです。

もちろん戦国時代は、病気以外の危険も多かったですから、幻庵の場合は、半分僧侶であった事で、特に晩年は、ほとんど戦場に出て無かったおかげで、無事に長寿を全うできたという事なのでしょうけど・・・
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2018年10月23日 (火)

秀吉の但馬攻略~岩州城&竹田城の戦い

天正五年(1577年)10月23日、織田信長の命による但馬攻略のために姫路城に入った羽柴秀吉が播磨諸将の人質を取りました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)、翌10月に、その義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)した事で、一旦、岐阜(ぎふ)へと戻りました。

その翌年の永禄十二年(1569年)、自らが滅ぼした大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)が、その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党に協力する姿勢を見せた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「けん制してほしい」と信長に依頼します。

これを受けて、信長は直ちに配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)を大将にした2万の軍を派遣・・・居城の此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)を攻撃された山名祐豊は(さかい=大阪府堺市)へと亡命し、ここで一旦、山名は滅亡となりますが、その後、祐豊が信長に謁見して配下となる事を約束した事で、元亀元年(1570年)、今度は、信長の威光を背景に有子山城(ありこやまじょう=兵庫県豊岡市)主として、祐豊は再び但馬に戻っていました。

その後、信長が、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)北近江(きたおう=滋賀県北部)浅井(あざい)(8月28日参照>>)、さらに将軍=義昭(7月18日参照>>)とも本願寺顕如(けんにょ)(9月12日参照>>)らとも敵対した事から、信長は、彼らを支援する毛利とも敵対関係になり、逆に天正元年(1753年)に尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)が信長の傘下となった事から、その尼子の家臣である山中幸盛(やまなかゆきもり=鹿介)らと協力して山名祐豊も毛利と戦う事になるのですが、

この頃は、山名の但馬を含め、東からの新興勢力の信長と西国に君臨する毛利とのハザマで揺れる丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)播磨(はりま=兵庫県南西部)因幡(いなば=鳥取県東部)美作(みまさか=岡山県東北部)備前(びぜん=岡山県東南部)等の近隣の国人領主たちは皆、どちらの強国に属するべきか?を模索していたわけで・・・

そのため、毛利方についた赤井忠家(あかいただいえ)(8月9日参照>>)武田高信(たけだ たかのぶ)らの侵攻を受けて戦う山名祐豊でしたが、いかんせん、以前に一旦滅亡している事もあってか、家臣団の統率をうまくとる事ができず、ここに来て、山名の宿老であった垣屋氏や八木氏らが毛利と通じるようになってしまうのです。

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秀吉の但馬攻略ルート

 (背景は地理院地図>>)

播磨支配を目指す秀吉としては、進行方向の側面に当たる但馬には静かにしておいてもらいたい・・・ちょうどその頃、いち早く信長の才能を見抜いて、自らの主君=小寺政職(こでらまさもと)に信長傘下になる事を進言して、すでに味方になっていた黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=後の如水・当時は小寺孝高)(11月29日参照>>)が、自らの居城であった姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)秀吉に提供する事を申し出たのです。

かくして天正五年(1577年)10月23日官兵衛の迎えで姫路城に入った秀吉は、周辺の諸将に人質を出させて服従を誓わせますが、もちろん、ここに来ても毛利側につく気満々の武将もいるわけで・・・

そんな中、10月28日には「11月の10日頃には決着つくと思います」と報告して信長を大いに喜ばせていた秀吉は、未だ従わない諸城を攻略すべく、11月初め、市川(いちかわ)に沿って北上して朝来(あさご)へと浸行していきます。

このルートは播磨からの防御とともに生野(いくの)銀山という金のなる木を入手できる絶好の要路・・・そのルートの先にあったのが岩州城(いわすじょう=兵庫県朝来市)でした。

この岩州城を守っていた武将については、物部(もものべ)山口(やまぐち)など複数の伝承があるものの、この時の秀吉が、岩州城を攻略した後、間髪入れず、その北側にある竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市)に向かう事を踏まえれば、山名宗全(やまなそうぜん=応仁の乱の西軍大将)の時代から、その竹田城の守備を任されていた太田垣氏(おおたがきし)の将が守っていたとする『武功夜話』の記述が、案外当たっているかも知れません。

ただし、『武功夜話』では、この時の但馬侵攻の総大将は羽柴秀長(ひでなが=秀吉の異父弟)で、秀吉自身は出陣していないと記していますが、11月9日の日付で発給された秀吉の禁制が現地の法宝寺(ほっぽうじ=朝来市和田山町)というお寺に残っているそうなので、やはり秀吉は総大将として現地入りしていたものと思われます。

・・・で、この通り、秀吉のいるいないが疑問になる事や、『信長公記』などの文献でも、この戦いの事がいたくアッサリとしている事から、この岩州城の戦いは、城兵の抵抗も、ほとんど無かったと考えられています。

ほどなく岩州城を攻略した秀吉は、その足で、さらに北に位置する竹田城へ・・・この竹田城を守っていたのは、山名祐豊の重臣でありながら、すでに毛利の吉川元春(きっかわもとはる=毛利元就の次男)に通じていた太田垣輝延(おおたがきてるのぶ)でした。

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竹田城跡(兵庫県朝来市)

今や、天空の城または日本のマチュピチュとして全国的に有名になった竹田城(12月21日参照>>)ですが、雲海に浮かぶ華麗な石垣群が構築されたのは、この竹田城の最後の城主となった赤松広秀(あかまつひろひで)(10月28日参照>>)の頃であったとされ、おそらく、この天正五年の段階では、未だ(とりで)と呼ぶべき小規模な要塞であった事でしょうが、

そんな竹田城に秀吉の大軍が押し寄せたのですから、ひとたまりもありません・・・

なので、かの『信長公記』でも
「小田垣(太田垣)楯籠(たてこも)る竹田へ取り懸(かか)げ、是(こ)れ又、退散」
と、やはりここも、いたくアッサリと攻略した雰囲気で書かれています。

とは言え、山名四天王とまで言われた太田垣氏が、この竹田城の落城で以って滅亡するわけですし、丹波・播磨・因幡を結ぶ要所であるこの地を抑えれば実質的に但馬を制圧したも同然の場所なわけですから、それなりの戦いがあった事は確か・・・そこの詳細な部分は、今後の歴史研究や新発見に期待すべきところでしょう。

とにもかくにも、10月下旬から11月にかけての20日余りの期間に、岩州城から竹田城、そして太田垣氏と同じく山名四天王の一角であった八木氏(やぎし)八木城(やぎじょう=兵庫県養父市八鹿町)三方城(みかたじょう=兵庫県養父市大屋町)などの諸城を攻略した秀吉は、

いよいよ11月29日、赤松政範(あかまつまさのり)上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)に攻めかかるのですが、そのお話はの【信長の山陽戦線~秀吉の上月城攻め】のページ>>でどうぞ
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2018年9月 8日 (土)

佐々成政の越中一向一揆攻め~瑞泉寺・井波の合戦

天正九年(1581年)9月8日、佐々成政神保長住らが一向一揆の瑞泉寺を攻めた井波の合戦がありました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)の上洛によって畿内を追われた三好(みよし)の残党の反激戦であった元亀元年(1570年)8月の野田・福島(大阪市福島区)の戦い(8月26日参照>>)に、本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が参戦する(9月12日参照>>)事によって始まった織田VS本願寺の石山合戦・・・

それは、全国の本願寺門徒を一向一揆という形で巻き込みながら約10年に渡って繰り広げられたわけですが、やがて天正八年(1580年)3月、時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇の仲介によって和睦を決意した顕如が、本拠である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市中央区)を退去・・・その和睦に反対して、更なる籠城を続けていた長男の教如(きょうにょ)も8月2日には退去し、ここに石山合戦は終結しました(8月2日参照>>)

しかし、この、素直に和睦に応じた父と和睦に反対して抵抗した息子に表される通り、本願寺門徒の中にも、この停戦に賛成する顕如派と反対する教如派がいたわけで・・・(ちにみに、これが本願寺が東西に分かれる原因の一つ…1月19日参照>>

まして、これだけ全国的に展開された一向一揆ですから、おおもとが終結したとて、まだまだイケイケムードの者たちはたくさんいたわけで・・・そんな、まだまだ屈しない気満々の本願寺門徒たちがいたのが北陸だったのです。

信長はすでに天正三年(1575年)に越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆を鎮圧しており(8月12日参照>>)、この天正八年(1580年)には、信長配下の北陸担当=柴田勝家(しばたかついえ)らが3月に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市)(3月9日参照>>)、11月に鳥越城(とりごえじょう=石川県白山市を)陥落させて(11月17日参照>>)、約100年に渡った「百姓の持ちたる国」=加賀一向一揆を鎮圧させていましたが、もちろん、まだまだ警戒は必要・・・

Sassanarimasa300 そこで信長は、かの勝家を総大将として北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)に置き、府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)拝郷家嘉(はいごういえよし)小松城(こまつじょう=石川県小松市)村上頼勝(むらかみよりかつ)、金沢御坊改め金沢城(尾山城)佐久間盛政(さくまもりまさ)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)菅屋長頼(すがやながより)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)…等々配置して、万全の態勢を整えます。

なんせ、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)が、これまでも度々南下して来ている(3月17日参照>>)うえに、天正四年(1576年)5月には長年反目していた本願寺と和睦して(5月18日参照>>)一向一揆の味方となり、天正五年(1577年)9月の手取川(てどりがわ=石川県白山市付近)では織田勢と一戦交えていましたから(9月13日参照>>)・・・

ただし、当の謙信が天正六年(1578年)3月に病死し(3月13日参照>>)、その後継者争いの内乱=御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)が約1年間続いた事で、その間に織田方はほとんど上杉勢と戦う事無く、越中の奥深くまで入る事に成功していた(9月24日参照>>)わけですが、ここに来て、その内乱も終結し、上杉の後継者も養子の上杉景勝(かげかつ)に落ち着き、景勝がその目を越中(えっちゅう=富山県)に向けた事により、本願寺門徒がこれに同調し、両者のぶつかり合いは、もはや時間の問題となっていたのです。

かくして天正九年(1581年)9月8日、佐々成政は、謙信の侵攻によってその地位を奪われたために現在は信長の配下となっているかつての越中守護=神保長住(じんぼうながずみ)と連合軍を組み、越中一向一揆の最大の拠点である瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)に進軍を開始したのです。

史料(歴代古案)に残る黒金景信(くろがねかげのぶ=上杉の家臣)宛て9月8日付けの手紙で瑞泉寺顕秀(ずいせんじけんしゅう・佐運)は、
「佐々成政と神保長住が瑞泉寺に攻めて来て、3日から今日にかけて堀際まで来てますが、コチラは武器も弾薬も充分に準備してましたので、なんなら、このチャンスに佐々方を粉砕したいと思い、皆で山中を固めています。
なのに、上杉景勝様の出馬が無いのはなぜなんですか?
瑞泉寺のためにも、是非支援お願いします。
引き延ばしはコチラの士気にも関わりますので早急に軍を整えて、越後の誠意を見せてください」

的な内容の援助要請を行っています。

この瑞泉寺の寺地内には、本願寺中興の祖と称される、かの蓮如(れんにょ)吉崎(よしざき=福井県あわら市)に滞在(8月21日参照>>)していた文明(1469年~1486年)の頃に、その蓮如の呼びかけに応じて、イザという時に武装して戦うための堀を備えた城郭のような物が構築され、文明十二年(1480年)には福光城(ふくみつじょう=富山県南砺市旧福光町)主の石黒光義(いしぐろみつよし)を破って(2月18日参照>>)砺波(となみ)一帯を領地とし、瑞泉寺の勢力は「坊主大名」と呼ばれるまでに・・・

そんな越中の一向一揆勢は、永禄(1558年~1570年)から元亀(1570年~1573年)・天正(1573年~)にかけては、かの上杉謙信とも戦い(6月15日参照>>)、瑞泉寺内の城郭も、今や井波城(いなみじょう)と呼ばれて、背後に迫る八乙女山(やおとめやま)が自然の盾となった難攻不落の堅城として、その名を知られていたのです。

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井波合戦・位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、数に物を言わせて攻めかかる佐々&神保連合軍に対し、数こそ劣るものの「仏法のためならば命惜しまず」の井波側は、蓄えていた弾薬を惜しみなく使い必死の抵抗・・・両軍一進一退の攻防が続きます。

しかし、やがて金に目のくらんだ城下の焼き餅売りの老婆が、勝手知ったる井波の城内に通じる秘密の抜け道を教えた事から形成は一気に連合軍側に・・・天正九年(1581年)9月9日井波城は援軍を待ち切れずに陥落してしまいました。

この戦いによって町はほとんど破壊&焼失し、瑞泉寺も焼かれてしまったため、瑞泉寺顕秀は一旦、五箇山(ごかやま=富山県南砺市の旧平村ほか)に身を隠したのだとか・・・

瑞泉寺を裏切った老婆の話が、どこまで信憑性のある物か?は微妙なところではありますが、その老婆の墓とされる墓石が残っていたり、井波城本丸跡に現在建つ井波八幡宮(いなみはちまんぐう)には、そこから城外へと抜け出る事のできる間道のような痕跡も発見されている事から、その時の佐々&神保軍が、何らかの方法でこの抜け道の事を知り、一進一退の攻防戦から一気に逆転に持って行ったという流れは、本当の話なのかも知れませんね。

以後の佐々成政は、一向一揆を懐柔する事で、その力を削ぎつつ越中の統治を進めていくわけですが、やがて、信長亡き後の小牧長久手(こまきながくて)の戦いで敵対(末森城攻防戦>>鳥越城攻防戦>>)した豊臣秀吉(とよとみひでよし)の前に屈する事になりますが、そのお話は、【武勇の佐々成政が秀吉に降降伏】でどうぞ>>
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2018年8月24日 (金)

長篠の直後…徳川VS武田~諏訪原城の戦い

天正三年(1575年)8月24日、徳川家康が武田勝頼方の諏訪原城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・

海道一の弓取りと称された天下に最も近い男=駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)によって桶狭間(おけはざま)に敗れて(5月19日参照>>)のち、後を継いだ今川氏真(うじざね)を北と西から挟み撃ちするがの如く、協力して倒した甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)・・・
今川館の攻防戦>>
掛川城・攻防戦>>

しかし、その後、両者は対立・・・元亀三年(1572年)10月に甲斐を出陣した信玄は、
一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(10月13日参照>>)
二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)(10月14日参照>>)
仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)(10月22日参照>>)
と来て、12月にはご存じ三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)の戦いで、家康は惨敗してしまいます(12月22日参照>>)

ところが、その勢いのまま上洛するかに見えた武田軍は天正元年(1573年)1月の野田城(のだじょう=愛知県新城市)の戦い(1月11日参照>>)を最後にUターン・・・そう、御大=信玄が亡くなったのです。

その遺言(4月16日参照>>)「自分の死は3年隠せ」と言われた後継者の武田勝頼(かつより=信玄の四男)ではありましたが、むしろ、カリスマ的な父の影を払しょくするがの如く領地拡大へと突き進み、天正二年(1574年)2月には織田傘下の明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻略(2月5日参照>>)、5月には父=信玄さえ落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)をモノにします(5月12日参照>>)

そして、翌・天正三年(1575年)4月、家康の長女=亀姫(かめひめ)と婚約して武田から徳川へと寝返った奥平貞昌(おくだいらさだまさ)が城主を務める長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市)を取り囲んだのです(4月21日参照>>)

この包囲された長篠城を救うべく家康、そして援護する織田が、近くの設楽ヶ原(したらがはら)にてぶつかったのが、有名な長篠設楽ヶ原の戦いです。
史上最強の伝令・鳥居強右衛門>>
設楽原到着で…>>
長篠を救ったもう1人の伝令>>
鳶ヶ巣山砦・奇襲作戦>>
決戦!長篠の戦い>>

これまで、ブログにも書かせていただいている通り、この戦いにおいて、有名な3段撃ちは無かったかも知れないし、伝えられるほどの大差も、言われるほどの織田&徳川連合軍の圧勝という事も無かったかも知れませんが、信玄以来の重鎮と呼ばれる家臣が多く亡くなった事は事実でしょうし、先の遺言のページ>>で書かせていただいてるように、当主である勝頼と家臣団との間に少なからずの亀裂を生み、武田にとってこの長篠設楽ヶ原の戦いは良く無い戦いであった事は確かでしょう。

なんせ、ご存じのように、ここから織田&徳川の台頭が、歴史の流れからも見えて来るわけですから・・・

Tokugawaieyasu600 もちろん、その事は、戦い終えた家康も感じていたわけで・・・長篠の勢いのまま間髪入れず、武田の物となっていた遠江(とおとうみ=静岡県西部)諸城の奪取を計画します。

その第1の目標となったのが、先の元亀三年(1572年)の信玄の侵攻で三方ヶ原の前哨戦で奪われていた二俣城でした。

かの長篠設楽ヶ原から1ヶ月と経たない天正三年(1575年)6月24日、二俣城の支城である光明城(こうみょうじょう=静岡県浜松市天竜区)を落とした家康は、二俣城の周辺に4つの付城(つけじろ=攻撃のための城)を構築する一方で、次の諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)に狙いを定めます。

この諏訪原城は、信玄が亡くなって勝頼に引き継がれたばかりの武田が、まさに、この先の徳川との領地争奪戦を意識して構築した東海道沿いの要所に佇む城・・・現時点で武田の最前線である高天神城への補給路を確保するためにも重要な城でした。

まず掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)に入った家康は、配下の松平忠正(まつだいらただまさ)に命じて、ここにも付城を構築して守らせたうえ、先鋒として攻撃の最前線に放ちます。

命を受けた忠正が諏訪原城の出丸である亀甲曲輪(きっこうくるわ)を攻め落とす一方で、菊川(きくがわ)方面から松平真乗(さねのり=家康の又従兄弟)が攻めかかります。

しかし、コチラ=真乗勢は武田流の巧みな縄張り(城の造り)に阻まれうまく進めず・・・一旦敗走し、再び城門まで押し寄せるも、やはり、それ以上攻め込む事はできませんでした。

それから約1ヶ月ほど、包囲と籠城の攻防が繰り広げられますが、8月23日になって家康自らが出陣・・・日坂(にっさか=静岡県掛川市)久延寺(きゅうえんじ=同掛川市)に本陣を移動させて、本格的な城攻めを開始します。

この時、諏訪原城を守っていたのは、武田譜代の家臣=今福友清(いまふくともきよ)以下、武田配下の海野(うんの)遠山(とおやま)の面々・・・

しかし、上記の通り、武田方は長篠の敗戦後のゴタゴタが未だ治め切れておらず、この時、援軍を出せる状況では無かったのだとか・・・

結局、天正三年(1575年)8月24日諏訪原城は落城します。

一説には、この日に大将である今福友清が討死にした事+この先の援軍を期待できない事から、残った城兵は、夜陰に紛れて小山城(こやまじょう=静岡県榛原郡吉田町)へ逃げ去ったとされます(実際には友清はここでは討死してないっぽいですが…)

落城の日付に関しては諸説あるようですが、
『武徳編年集成』「廿四日 諏訪原の城兵諸賀…夜密ニ是を避て小山城に走る」
『参河国聞書』「八月廿四日、諏訪原城を攻め、落ちて…」
とあり、
『今川氏真詠草』にも、
♪朝霧や 下に立ちらむ ふしのねの
 山なき空に 近く浮へる… ♪

氏真作の歌とともに「八月廿四日諏訪原新城降参」
とある事から、おそらく8月24日に落城した物と思われます。

そう・・・実は、
この勝利により、諏訪原城を手に入れた家康は、古代中国の故事(周(しゅう)の武王(ぶおう)が殷(いん)の帝辛(ていしん)を牧野(ぼくや)に破ったという話)にちなんて、この城を牧野城 (まきのじょう)という名に改めるのですが、

その時、配下の松井忠次(まついただつぐ=松平康親)牧野康成(まきのやすなり)城番として入城させているのですが、名目上の城主としているのが、あの今川氏真なのです。

上記の通り今川氏真は、信玄と家康によって掛川城を追われ、戦国武将としての今川が事実上滅亡となった後、同盟者であった北条(ほうじょう)を頼って小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)にいたものの、その北条と武田が同盟を結んだ事で居づらくなって、その後は、家康の保護を受けていた・・・と、

つまり家康は、武田と対抗するにあたって、駿河や遠江の元領主である今川の当主=氏真を厚遇して、もともとこの地に根付いていた者たちの勢力を自らの側に引き寄せようと考えたわけです。

とは言え、2年後の天正五年(1577年)頃には、すでに、この牧野城周辺の支配は盤石になったと見え、氏真の城主の座は解任してるんですけどね。

現に、その翌年=天正六年(1578年)、
『家忠日記』によれば、
この年の8月28日に、武田軍がこの牧野城間近まで襲来して来た事が記録されていますが、ただ襲来して来たというだけで「だから何」という事も無かったようで・・・おそらくは、もはや手出しはできないような状況であった雰囲気が読み取れますから・・・

Suwaharazyoukankeizu
(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところで、かの長篠の後、光明城からの、今回の諏訪原城と来た家康は、この12月には、光明&諏訪原を落とされて孤立していた二俣城を攻略し、さらに周辺の武田方の諸城へと攻撃を仕掛けていくのですが、さすがの武田方の守りはなかなかの物で、その状況はしばらくの間一進一退・・・

しかし、流れ始めた歴史の大河は、やがて天正九年(1581年)3月の高天神城の戦いへと進んで行き、窮地に陥ったこの城に援軍を出せないまま徳川に奪回されてしまった形(3月22日参照>>)となった武田が、翌・天正十年(1582年)3月、勝頼の自害で以って滅亡する(3月11日参照>>)事は、皆様ご存じの通りです。

ドラマ等ではすっ飛ばされがちなので、あの長篠の戦いの後、すぐに武田が滅んでしまったかのように思いがちですが、そのあと7年間武田は耐え・・・言いかえれば、家康は7年かけて徐々に武田方だった諸城を攻略していったわけです。

この間の勝頼は、自身の家臣団との意思疎通がうまく行かず、それゆえ、各城への援軍派遣もままならない状態だった・・・それこそが1番の武田滅亡の要因だったのかも知れません。
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2018年8月18日 (土)

宇喜多&毛利の境目合戦~難攻不落の矢筈城と草刈重継

天正十一年(1583年)8月18日、本能寺の変の直後の秀吉と毛利の和睦によって決定した城の明け渡しに不満を持った草刈重継が佐良山城山下にて合戦しました。

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西への勢力拡大を図る主君=織田信長(おだのぶなが)に命じられ、天正四年(1576年)頃から中国地方の平定にまい進していた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正八年(1580年)の1月には三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)(3月29日参照>>)、天正九年(1581年)10月には鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)(10月25日参照>>)攻略して、徐々に駒を進めていきます。

一方、その中国地方には西国の雄とうたわれた大大名=安芸(あき=広島県)毛利(もうり)がおり、その間に立たされる多くの国人領主や地侍たちは、大きな勢力のハザマで独立して生き抜く事は難しく、当然「どちらに味方すべきか」の選択を迫られつつ、織田に降る者or毛利に着いて戦う者、様々いたわけです。

やがて天正十年(1582年)4月、いよいよ秀吉は、未だ毛利の傘下にある備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市)へと迫り、ここを水攻めに・・・5月21日には毛利の援軍も現地に駆けつけますが(5月7日参照>>)、その時はすでに城は湖の上・・・

そんな中の6月2日、ご存じ、京都で本能寺の変が起こります(6月2日参照>>)

嘘かマコトか、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)が毛利に放った密書が間違って秀吉に届くというラッキーサプライズで、多くの織田家臣たちより早く信長の死を知った秀吉は、一刻も早く、ここを片づけて京都へ戻りたい・・・

そこで秀吉は、信長の死を隠したまま安国寺恵瓊(えけい)を通じて「高松城主=清水宗治(むねはる)の自刃を以って、すべてを収める」旨の交渉をし、天正十年(1582年)6月4日に和睦を成立させ(6月4日参照>>)、一路京都へ・・・これが有名な中国大返し(6月6日参照>>)で、電光石火で舞い戻った秀吉が光秀を葬り去るのが6月13日に山崎の戦い(6月13日参照>>)という事になるのですが・・・

一方、今回の毛利との和睦によって高梁川(たかはしがわ=岡山県西部を流れる)を境界線とした西側は毛利の所領・・・そして東側になる美作(みまさか=岡山県東北部)のほとんどを割譲される事になったのが、途中で毛利から織田へと鞍替えした宇喜多直家(うきたなおいえ)(6月15日参照>>)の息子=宇喜多秀家(ひでいえ)でした(直家は天正九年(1581年)頃に死去)

しかし、和睦したとは言え、そう簡単に毛利が撤退するわけもないし、その傘下がアッサリ城を明け渡してくれるわけでもなく・・・まして「信長が死んだ」となれば、その状況も微妙に変わります。

そもそも、この美作あたりの武将には、現段階で大国である毛利の傘下となっているだけで、毛利がこれほど大きくなる以前から、すでに、このあたりを領地としていた国人領主もいたわけで、そんな彼らにとっては「宇喜多領になったから…」と言われて「ハイ、そうですか」と先祖伝来の領地を手放すわけにはいかない・・・

Dscf0478c800aa 矢筈城跡(岡山県津山市)

そんな、この地に根付いていた国人領主の一人が、矢筈山(やはずやま=別名:高山)に築かれた壮大な山城=矢筈城(やはずじょう=岡山県津山市加茂町山下:高山城・草刈城とも)を本拠としていた草刈重継(くさかりしげつぐ)でした。

なんせ、この重継の草刈氏は、そのご先祖様が藤原鎌足(ふじわらのかまたり)・・・その後、平安時代の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を経て鎌倉期に陸奥国斯波郡(しわぐん=岩手県盛岡市付近)草刈郷地頭職を賜った事から草刈と名乗りはじめ、その後、南北朝時代に美作の地頭となったので、この地にやって来た(もちろん諸説ありですが…)とされる名家ですから、その誇りもあろうという物・・・

しかも、この少し前、「織田に内通した」とされた兄=草刈景継(かげつぐ)死に追いやってまで毛利に忠誠を誓い、迫りくる秀吉傘下の武将たちと戦って来た重継ですから、ここに来てもなお、我が城を死守すべく宇喜多に対抗する事となります。

Yahazuzyoukusakari
矢筈城と周辺の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十一年(1583年)8月18日、草刈重継は、秀吉軍への備えとして因幡(いなば=鳥取県東部)に兵を派遣すると同時に、宇喜多の傘下である川端家長(かわばたいえなが)の居城=佐良山城(さらやまじょう=津山市加茂町公卿)を攻め、主たる合戦場となった山下(さんげ)多くの首級を挙げる勝利を収め、家長を城から退去させたのです。

さらに、その勢いのまま因幡口へと展開し、そこを守っていた荒木重堅(あらきしげかた=木下重堅)の軍勢にも勝利します。

9月1日には、合戦勝利の報告を受けた毛利輝元(もうりてるもと)から、その功績を賞賛されたものの、その一方で秀吉の領地割譲の方針が変わる事はなく、それ以降は、先の和議の使者であった安国寺恵瓊の説得工作も強くなって来て、徐々に輝元の意向も傾き始めたと見え、この天正十一年(1583年)という年が暮れようとする頃には、本格的に、城の明け渡しの交渉がなされるようになって来ます。

翌・天正十二年(1584年)になって、草刈重継は仕方なく矢筈城を明け渡し、その後は小早川 隆景(こばやかわたかかげ=毛利輝元の叔父)に仕えたと言いますが、この矢筈城は、結果的に、築城以来1度も落城した事の無い難攻不落の堅城として、広く知られる事になったのだとか・・・

その後、この周辺で、最後まで抵抗していた美作岩屋城(いわやじょう=岡山県津山市中北上)中村頼宗(なかむらよりむね)が、7月になってようやく明け渡しを承諾して安芸に退去した事で、秀吉の支援によって抵抗勢力に対峙していた若き秀家の美作統治が完了する事となります。

一般的には、草刈重継の動向を含む、この美作割譲における一連の戦いは、「宇喜多・毛利 境目(さかいめ)合戦」と称されます。

ちなみに、矢筈城について・・・
後の江戸時代に、この矢筈山を訪れた津山藩士=正木輝雄(まさきてるお)は、その著書の中で
「凡(およ)そ高山は国中無双の一奇峰にして絶頂の巖壁(がんぺき)実に矢筈(やはず=掛軸を掛ける時の棒)の如く或(あるい)は天を仰ぎて口を開く獅子吼(ししく=周囲を覚えさせるように獅子が吠える様子)のさまにも髣髴(ほうふつ)たり」
と、この山が、険しい断崖絶壁を擁している様子を記しています。
(津山城に行った時にコチラも訪問しましたが、実際、メッチャ山の中でした(゚ー゚;)

現在の矢筈城跡は、まさしく城跡で、石垣や石塁などの遺構のみで建物類は残っていませんが、それでも岡山県内最大規模の中世山城史跡なのです。
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2018年8月13日 (月)

朝倉から若狭を守る~粟屋勝久の国吉籠城戦

永禄十一年(1568年)8月13日、朝倉義景の命を受けた軍勢が若狭に侵攻しました。

・・・・・・・・・・

今回の舞台となる国吉城(くによしじょう=福井県美浜町)は、現在の美浜駅から、少し東へ行った佐柿(さがき)の背後にある城山の山頂から尾根づたいに構築されていた山城です。

『若狭国志』によると、この城は、「かつて国吉(くによし)なる人物が構築した物を天文~弘治年間(1532年~1557年)頃に粟屋勝久(あわやかつひさ)が修復再興して、旧名をそのまま呼称した」とあります。

この粟屋勝久は、若狭(わかさ=福井県西部)守護(しゅご=現在の県知事)であった名門=若狭武田氏の被官ですので、つまりは、この城は、武田が本城とする小浜城(おばまじょう=福井県小浜市:現在の後瀬山城)出城の役割を果たしていた城です。

Asakurayosikage500a そんな中、隣国=越前(えちぜん=福井県東部)では、これまで守護であった斯波(しば)に取って代わり、去る応仁の乱(5月20日参照>>)で功績を挙げた朝倉孝景(あさくらたかかげ)越前守護に就任・・・その息子で、父亡き後に朝倉を継いだ朝倉義景(あさくらよしかげ)は、管領(かんれい=将軍補佐で幕府のNo.2)家で時の権力者である細川晴元(ほそかわはるもと)の娘を娶った事もあって、さらに力をつけて行く事に・・・

しかし一方の若狭武田氏では先代の武田信豊(のぶとよ)と息子で現守護の武田義統(よしずみ)の対立がお家騒動に発展して、力が衰えていくばかり・・・しかも、窮地に立った義統が朝倉に援助を求めた事から、他家の介入を不服に思う粟屋勝久は義統の息子=武田元明(もとあき)を擁立して抵抗します。

この状況・・・時の当主から支援を求められた朝倉義景にとっては、すでに若狭は自身が間接的に支配してるつもりなわけで、それに抵抗する粟屋らはせん滅するのみ・・・

そんな朝倉義景が、最初に若狭に侵攻したのは永禄六年(1563年)・・・この先、6年間に渡って繰り広げられる国吉城の戦いの始まりでした。

8月下旬、義景の命を受けた約1000騎が若狭に侵入すると、これを察した粟屋勝久は一円の地侍たちを即座に招集・・・地侍=約200と百姓=約800が国吉城に集結する中、その一部に弓や鉄砲を持たせて関峠(せきとうげ=福井県敦賀市と同県三方郡美浜町の境)にて防戦するように命じるとともに、残りの者で籠城の準備を開始します。

9月2日の未明、関峠に侵入して来た朝倉勢を待ち伏せていた粟屋方が一斉に迎撃を開始すると、フイを突かれた朝倉勢は大混乱となり、ここで一旦撤退・・・翌日は、朝倉勢も身構えつつ軍を進めますが、今度は城の間近まで引き寄せる作戦の粟屋方。

こうして城の城壁間近まで充分引き寄せたところで、百姓600人が一斉に、用意していた大石や木材を投げ落とします。

『国吉籠城記』によれば、朝倉勢は「大石や古木に当たる者が続出し、当たらない者も、その巻き添えを喰らって、皆、麓へとごろげ落ちて行った」とか・・・見ていた粟屋方は、このタイミングで城から出て追討を開始し、この最初の戦いは国吉城側の大勝利となったのです。

2度目の戦いは翌・永禄七年(1564年)またも夏の終わり・・・
この時の朝倉勢は、昨年のように直接城には向かわず、近くの芳春寺(ほうしゅんじ=福井県三方郡美浜町)に本陣を構えた後、弓や鉄砲を放ちながら尾根づたいに国吉城へと迫って来ますが、これが、なかなか城に当たらない・・・なんせ、国吉城は木々に囲まれた山城ですから・・・

やむなく、今度は反対方向から城へと向かって行きますが、これに対抗する粟屋方は、弓の名手を1組=14~15名の少人数に分けて木々の間に潜ませ、敵を間近まで引き寄せてゲリラ的戦法で対抗・・・まったく城に近づけない朝倉勢はまたしても退きます。

こうして長期戦を視野に入れた朝倉勢は、芳春寺に裏山に付城(つけじろ=攻撃の拠点となる城)芳春寺砦を築いて、ここを拠点に城・・・ではなく、近隣の村々に乱入して稲や野菜など農産物を略奪して自軍の兵糧を確保したのです。

これには地侍や百姓が激怒・・・自ら率先して砦に夜襲をかけて火を放つと同時に、別働隊が朝倉の本陣を襲撃し、またしても朝倉勢を退散させたのです。

このおかげか、翌永禄八年(1565年)は、朝倉勢による国吉城への直接攻撃は無く、8月下旬頃の近隣の村々への青田刈りで城内を枯渇させる心理戦、あるいは付城を修復するにとどまりました。

明けて永禄九年(1566年)8月下旬、もはや夏の恒例行事のように佐田村(さたむら=福井県三方郡美浜町)に押し寄せた朝倉勢は、馳倉山(ちくらやま=福井県三方郡美浜町:狩倉山城?)に、新たな付城を築いて、そこを前線基地として、またまた近隣の村々への略奪や放火を決行・・・しかし、「国吉城の籠城組が出撃!」の知らせを聞くなり、そそくさと城へと逃げ帰ったのだとか・・・

続いて、翌永禄十年(1567年)日本の夏・朝倉の夏・・・やって来ました8月下旬。

と言っても、この8月というのは旧暦なので、実は、その下旬ともなれば、そろそろ稲が実る時期・・・で、今回の侵攻の目的は、あくまで稲を刈る事だったようで、その作業を終えるとさっさと退散したようです。

もちろん、これも、敵の兵糧を失くして自軍の兵糧にするという、プラマイ大きい重要な作戦ではあるのですが・・・

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国吉城の戦い・関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなで、またもや!事実上の最終決戦となる永禄十一年(1568年)・・・安定の8月13日

しかし、今回の朝倉は少し違う・・・

国吉城を攻撃せず・・・いや、むしろ避けるように三方方面へ抜け、熊谷直之(くまがいなおゆき)が守る大倉見城(おぐらみじょう=福井県三方上中郡:井崎城)を攻めたのです。

しかし、結局、この大倉見城も落城させる事はできなかったのですが、その代わり(と言っては何ですが…)大倉見城攻撃の勢いのままに小浜へと向かい、粟屋勝久が担ぎあげた武田元明を拉致する事に成功します。

というより、先に書いた通り、すでに若狭を間接支配している気満々の義景から見れば「武田元明を保護した」・・・つまり、一部の抵抗者のために内乱が治まらないので当主を自分のお膝元に置いて、何とか収拾させようという事です。

現に、この後、朝倉の本拠地である一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)朝倉館に移住した武田元明は、再三に渡って粟屋勝久に対し「朝倉に同調するように」と勧告しています。

しかし「例え元明を敵に回しても!」の思いが強い粟屋勝久は、それでも国吉城に籠城を続けます。

再び『国吉籠城記』によれば、この国吉城攻防は、永禄十二年(1569年)にも、何かしらの小競り合いがあったようですが、さすがの国吉籠城組も、こう毎年々々「夏の元気なごあいさつ」をされても、うんざり気味・・・長陣に嫌気がさし始めた元亀元年(1570年)、あの男が登場します。

そう、この2年前に室町幕府第15代将軍=足利義昭を奉じての上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)です(9月7日参照>>)

将軍の名のもと再三に渡って呼び掛けた上洛要請に応じない朝倉義景に対して、信長が攻撃を仕掛けた・・・あの「手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦」(4月26日参照>>)

この時、仲間の若狭国人衆とともに信長のもとにはせ参じた粟屋勝久は、自身の国吉城を信長の宿所として提供したばかりか、朝倉本拠の一乗谷での戦い(8月6日参照>>)でも一番乗りの功名を挙げる大活躍をし、見事、武田元明を救出しています。

その後は、元明の守護復帰は叶わなかったものの、仲間とともに「若狭衆」として、織田政権下で若狭を与えられた重臣=丹羽長秀(にわながひで)の配下に組み込まれ、あの天正九年(1581年)2月の御馬揃え(おんうまそろえ)でも先頭を飾った(2月28日参照>>)と言います。

粟屋勝久自身は、本能寺の変のすぐ後の頃に亡くなったと言われ、当主と仰いでいた武田元明も、その本能寺で明智光秀(あけちみつひで)に味方した事で命を落としますが(10月22日参照>>)、その元明の美人の奥さんが、夫の死後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室になった=京極龍子(きょうごくたつこ=松の丸殿)だった縁もあり、粟屋の子孫たちは秀吉の配下を経て藤堂高虎(とうどうたかとら)に従い・・・江戸時代を生き抜いたようです。

見事な身の振り方で、結果的に戦国を生き残った粟屋勝久・・・国吉城を譲らなかったのは、ただの意地っ張りではなく先見の明があったという事でしょうか。
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2018年7月 3日 (火)

本能寺直後~森長可の東濃制圧後半戦…加治田・高山・妻木城攻略

天正十年(1582年)7月3日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する加治田城を攻めました。

・・・・・・・・・

先日の【本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦】の続きのお話です。

くわしくは、その6月26日のページ>>でご覧しただくとして、おおまかな流れは・・・

Morinagayosi300a 天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)での武功により、主君=織田信長(おだのぶなが)から、武田の旧領のうち信濃(しなの=長野県)4郡(高井・水内・更科・埴科)海津城(かいづじょう=長野県長野市・現在の松代城)40万石を与えられた(3月24日参照>>)森長可(もりながよし)は、新領地の統治に取りかかりつつも、これを機に越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と結ぶ者も多かった事から、次に越後への侵攻を開始しますが、このタイミングで本能寺の変(6月2日参照>>) が起こって信長が死亡・・・敵地深く入っていた長可は窮地に立ちながらも、6月23日に何とか旧領地の美濃(みの=岐阜県)金山城(かねやまじょう=岐阜県可児市)へと帰還します。

しかしその間に、信長の死を知った東美濃では、米田城(よねだじょう=岐阜県加茂郡川辺町)肥田忠政(ひだただまさ)をはじめ、上恵土城(かみえどじょう=岐阜県可児郡御嵩町)今渡城(いまわたりじょう=岐阜県可児市今渡・金屋城)長谷川兄弟大森城(おおもりじょう=岐阜県可児市)奥村元広(おくむらもとひろ=又八郎)などが織田へ反旗をひるがえしていたため、帰還の翌日=6月24日から、これらの諸城を一つ一つ制圧して行くのです。

7月2日には米田城を陥落させますが、城主の肥田忠政が加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)へと逃走したため、これを追撃する事に・・・

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森長可の東美濃攻略戦~位置関係図(広範囲)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

さて・・・
本能寺の変当時の加治田城の城主は、あの斎藤道三(さいとうどうさん)の末息子=斎藤利治(さいとうとしはる=新五郎)でしたが、彼は、信長の嫡男で岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)主の織田信忠(のぶただ)の側近であったので、主君とともに籠った二条御所で討死してしまいます。

つまり、城主が亡くなってしまったので、その直後の加治田城は、利治の兄で城代の斎藤利堯(としたか)がトップという事になるのですが、その利堯も、この時は、やはり城主が留守の岐阜城の留守居役を務めていたらしく、どうやら伯父(母の兄)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)に同調して岐阜城を占拠して不動の構えを見せていたようで(6月8日参照>>)・・・

かつて肥田忠政が信長に降った際、所領を安堵された後、この利治の配下に組み込まれていますので、おそらくは、そんな忠政にとっては勝手知ったる加治田城へ逃げ込んだ・・・という事だったのでしょう。

一方、先の米田城とともに、すでに馬串山砦(まぐしやまとりで=岐阜県 美濃加茂市下米田)も占拠している長可・・・加治田城へと向かうには飛騨川(ひだがわ)を越えなくてはなりませんが、肥田忠政はは、その飛騨川を挟んだ、すぐ向こう側の牛ヶ鼻(うしがはな=岐阜県美濃加茂市森山町)に砦を構えて、川を渡って来る森勢をせん滅せんと陣取っていました。

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森長可の東美濃攻略戦~戦闘&位置関係図:後半戦

↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

天正十年(1582年)7月3日、牛ヶ鼻から川を挟んだ小山砦に陣取った森勢が、目の前の河岸から張り出した突起部分が砦となっている牛ヶ鼻に果敢にアタックする事で戦闘が開始されましたが、崖をよじ登ろうとして討たれる者や崖を踏み外して川に落ちる者多数で、初戦は失敗に・・・

しかし、なおも攻める森勢は、崖登りもそこそこに、とにかく川を渡って対岸に行き、砦を包囲します。

そうなると多勢に無勢・・・数に勝る森勢が徐々に勢いを増して来て、ついに砦を支えられなくなった加治田勢は、やむなく砦を放棄して加治田城方面へと逃走し、牛ヶ鼻と加治田城の中間にある堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)で態勢を立て直そうとしますが、森勢の追撃が早すぎて断念し、そのまま加治田城へ合流しました。

その日の夕方、加治田勢を追うかたちで堂洞城址に登った長可は、17年前の合戦で敗れて以来廃城となっているこの城跡から、眼下に見える加治田城の防備を眺めながら作戦を練ったと言います。

一方の加治田城内には、城主の斎藤利治の嫡子(義興?)もいましたが未だ幼く、肥田忠政が代行するかたちで指揮を取り、準備を進めていきました。

明けて7月4日早朝より、今度は加治田城前を流れる川浦川(かわうらがわ)を挟んで、両軍合戦となります。

森勢は、正面の本隊で以って激しく攻めながら、林為忠(はやしためただ)率いる別働隊を川浦川の上流へと迂回させ、加治田勢の長沼三徳(ながぬまさんとく)の陣へ突入させ、敵の側面を崩す中を本隊が一気に突っ切る・・・

加治田勢は、山の麓に諸将の陣を分散して配置し、イザとなった時には、一斉に山上の主郭へと集中して籠城する作戦でしたが、勢いづく森勢を抑えきれず、この河畔の戦いにて崩れ去り、山上の主郭は戦場にもならないうちの昼過ぎに加治田城は落城し、結局、肥田忠政はどこへともなく落ちて行きました(討死説あり)

合戦後は、長沼をはじめとする井戸宇右衛門(いどうえもん)湯浅新六(ゆあさしんろく)など、この戦いに出た多くの将が長可の配下となって、やがて加治田衆(かじたしゅう)と呼ばれて、後の豊臣政権下で活躍する事になるのです。

とは言うものの、実は、この合戦の経緯&結果は諸説あって、よくわかっていないのです。

河畔で合戦になったものの、森勢が押し返されて引き分けになったとか、後半には加治田勢が盛り返して勝利したとか・・・

しかし、上記の豊臣政権下での加治田衆の話を見ても、あるいは、この後の長可の行動を見ても、完全勝利とは行かないまでも、おそらくは森勢が優位に立った状態で、今回の合戦を終えたのではないか?と私は考えています。

なんせ、この後、森長可は、
「この東美濃は、もちもと我が領地であるので、刃向かう者は討伐する!」
と宣言して、高山城(たかやまじょう=岐阜県土岐市土岐津町)平井頼母(ひらいたのも)妻木城(つまぎじょう=岐阜県土岐市)妻木頼忠(つまきよりただ)に、速やかに城を明け渡すよう要求し、拒否した彼らを、平井頼母は自刃に、妻木頼忠は捕えて人質として金山城下に住まわせるという事をやってますから・・・

これは、やはり、加治田城での戦いに勝った状態でないとできないように思います。

まして、この後、この長可の勢いを恐れた明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)遠山利景(とおやまとしかげ)小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)小里光明(おりみつあき)は戦う事無く、徳川家康(とくがわいえやす)を頼って、一旦、城を去っていますから、やはり森勢の方に軍配が上がっていたのではないかと・・・

ただし、同じように、長可が城の明け渡しを求めたものの苗木城(なえぎじょう=岐阜県中津川市)遠山友忠(とおやまともただ)友政(ともまさ)父子は、この直後の天正十年(1582年)8月の戦いに勝利し、長可を撤退させています。

その後、態勢を立て直した長可は、翌天正十一年(1583年)の5月に苗木城へと攻め寄せ・・・と、この苗木城に戦いについては、後日あらためて、その日付でくわしく書かせていただくつもりですが、

その2度目の苗木城攻めに勝利した事で、加茂(かも)可児(かに)土岐(とき)恵那(えな)の4郡を平定した長可は12万7千石の領主となり、信長亡き後は、東美濃の大勢力で以って、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の配下として活躍する事になるのです。
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