2009年11月 6日 (金)

信長VS石山本願寺~第二次木津川口海戦

 

天正六年(1578年)11月6日、織田信長VS石山本願寺の戦いの勝敗を決する事になる戦い・第二次木津川口海戦がありました。

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天下をめざす織田信長によって、名ばかりの将軍となった室町幕府第15代将軍・足利義昭(よしあき)の呼びかけに、朝倉義景(よしかげ)浅井長政(あざいながまさ)武田信玄上杉謙信らが応じる一方で、本願寺の顕如(けんにょ)も全国の本願寺門徒に蜂起を呼びかけ、まさに、絶体絶命の信長包囲網が形勢されます。

しかし、上洛間近と思われた信玄の死という信長にとってはラッキーとも言える出来事も相まって、浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)長島一向一揆を根絶やしにし(9月29日参照>>)、長篠で武田勝頼を破り(5月21日参照>>)・・・と、信長は一つ一つ片付けていきます。

やがて、天正四年(1576年)5月、一向一揆の本拠地である大坂は石山本願寺を取り囲んだ信長と、顕如との直接対決=天王寺合戦が火蓋を切ります(5月3日参照>>)

この戦いのあと、信長が、より包囲を強化した事で、籠城する側の石山本願寺の兵糧が尽きるのも時間の問題と思われましたが、ここに来て、顕如の呼びかけに応じた毛利輝元が参戦・・・その年の7月には、毛利配下の水軍と村上水軍の強力タッグで、信長配下の水軍を翻弄し、海上からの兵糧の運びこみに成功します第一次木津川口海戦:7月13日参照>>)

瀬戸内を牛耳る水軍のゲリラ的戦法に見事にしてやられた信長は、屈辱を晴らすべく準備にとりかかり、2年後の天正六年(1578年)9月、前代未聞の鉄甲船を完成させます(9月30日参照>>)

この間に、越後(新潟県)では、あの謙信が亡くなったために後継者争いが勃発(3月13日参照>>)、もはや信長どころではなくなり、信長は石山本願寺と、それを支援する毛利にターゲットを絞る事が可能になりました。

「もう、これ以上、兵糧を搬入させるものか!」
・・・と、いよいよの雰囲気になりますが・・・

その10月、突然、有岡城荒木村重(むらしげ)が叛旗をひるがえし、本願寺&毛利側に寝返ってしまったのです(5月4日参照>>)

有岡城は、現在の兵庫県伊丹市にあった城・・・こんな本願寺に近いところが、その配下となってしまっては、いくら海上を封鎖しても、陸路で支援をされかねませんから、信長は急遽、時の天皇・第106代正親町(おおぎまち)天皇を動かし、本願寺に講和を持ちかけます。

時間稼ぎをして、その間に有岡城を陥落させるつもりでした。

天皇からの勅使(ちょくし・天皇の使い)が、本願寺に使わされたのは11月4日・・・和睦の話を聞いた顕如は、「もはや、本願寺だけの戦ではない」と、毛利へも勅使を送る事を要求・・・毛利側からもOKがない限り、和睦には応じない構えをみせました。

しかし、そのわずか2日後、未だ、勅使の訪問を受けていない毛利は、600艘の船団を引き連れて、大坂湾へと到着・・・本願寺に兵糧を搬入すべく、木津川河口へと侵入しますが、当然、信長の軍勢は、これを阻止しなければなりません。

こうして天正六年(1578年)11月6日第二次木津川口海戦が勃発するのです。

午前8時、河口に、織田の水軍の指揮を任された九鬼嘉高(よしたか)が乗船する旗艦をはじめ、6艘の鉄甲船、1艘の安宅船と無数の軍船が待ち構える中、小回りのきく毛利水軍は、右へ左へと素早く動き、むしろ圧し気味に攻勢をかけます。

しかし、考えて見れば、鉄甲船は動き回る必要はありません・・・ただ、動かざること山の如く、そこにいて、毛利水軍の侵入を防げば良いのです。

当然の事ながら、毛利水軍の小舟のほうは、そこを突破するためにも近づいていくしかないわけですが、鉄甲船には、それぞれ3門の大砲=合計18門が・・・敵船を射程距離に収めるなり、大砲は一斉に火を吹き、小さな軍船は、戦う前から木っ端微塵に砕かれます

何とか、大砲の攻撃をくぐり抜けて鉄甲船に近づいた船も、もはや、相手が鉄の壁では、焙烙(ほうろく・手投げ弾のような武器)も、矢も、役に立ちません

「六艘の大船・・・敵船を間近く寄せつけ、大将軍の船と覚(おぼ)しきを、大鉄砲を以って打ち崩し候(そうら)えば、是(これ)に恐れて中々寄せ付かず」(信長公記)・・・と、織田側の一歩的な勝利で、お昼頃には、船団は壊滅状態となったという事です。

・・・と、これは、勝利者である織田側の言い分なので、気持ちとしては、毛利の言い分も聞いてみたいところですが、残念ながら、毛利側の記録はほとんどありません。

第一次の海戦で大活躍した村上水軍もの話もまったく登場せず、ひょっとしたら村上水軍は、この第二次には参戦していなかったのではないか?と言われています・・・まぁ、毛利自身も水軍持ってますし、隆景の小早川水軍もいますからね~。

ただ、この時、軍船が苦戦する合間を縫って、兵糧船は木津川口に達し、無事、兵糧を運び込んだとも言われていて、そうならば、石山本願寺と毛利にとって、敗北ではあったものの、目的は達成されていた事になります。

ただ、この敗北によって大坂湾の制海権を信長が握った事は確か・・・補給路を断たれた石山本願寺は、しだいに苦境に立たされる事になります。

やがて、翌・天正七年(1579年)には、かの有岡城も開城され(10月16日参照>>)、村重は逃亡・・・その家族と家臣がことごとく処刑される中、石山本願寺への総攻撃もまもなく開始されるのでは?とおもわれましたが、意外にも信長は、正親町天皇を間に置いての講和を再び持ちかけ、本願寺の明け渡しを要求しました。

これには、やはり、長島一向一揆と違って、こちらは、まさに本拠地で、本願寺門徒の信仰の中心である顕如がいますから、未だ、一向一揆発祥の地である加賀が微妙な時に、ムリヤリな武力行使を避けたのでは?とも考えられます・・・加賀一向一揆が完全に終結するのは天正八年の11月:11月17日参照>>)

また、正親町天皇の勅命(ちょくめい・天皇の命令)にこだわったのも、もともと将軍・義昭の呼びかけで始まった石山合戦を、完全に終結に持っていくためには、「将軍よりも上の天皇の力を借りるしかない」との思いからであったろうと言われています。

なんだかんだで、信長さん・・・けっこう上下の力関係を考えてます。

かくして顕如が講和に応じ、石山本願寺を出たのは天正八年(1580年)の3月、その後、顕如の息子・教如(きょうにょ)が出て、本願寺が明け渡されるのは8月の事・・・以後、石山本願寺の跡地は、信長の物となり、ここで、十一年に渡る石山合戦が終りを告げました。

その後の本願寺については・・・東西二つある理由も含めて、1月19日【時代とともに生きた東西二つの本願寺】でどうぞ>>
 

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2009年10月16日 (金)

有岡城・落城~如水と半兵衛とその息子たちと・・・

 

天正七年(1579年)10月16日、前年に主君の織田信長に叛旗をひるがえした荒木村重の居城・摂津有岡城が開城されました。

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・・・とは言え、城主の荒木村重は、すでに1ヶ月前に、数名の従者を連れて有岡城を脱出して、城に残っていたのは、妻子と家臣だけ・・・

しかも、その妻子や家臣たちは、この後、村重が逃げ回ったために、その犠牲となって命を落す事になりますが、その一連の経緯については、村重さんのご命日の日に書かせていただいているので、2008年5月4日のページ>>で見ていただくとしても・・・

主君・織田信長から、何かと優遇されていた感のある村重がなぜ謀反に走ったのか?
また、妻子を見捨ててまで守ろうとした物は、何だったのか?

・・・と、まだまだ、謎は尽きないわけで、その真意については、まだ書きたい事もあるのですが、とりあえず、本日は、この村重の謀反&有岡城の落城が、その人生の転換期となった人物のお話をさせていただきます。

それは、ご存知、黒田如水です。

この時、彼はまだ小寺官兵衛孝高(こでらかんべえよしたか)と名乗っていた頃・・・(今日はややこしいので、呼び方は如水で通します)

つまり、播磨(はりま・兵庫県)の小大名だった小寺政職(まさもと)の家老だった如水の父・職高(もとたか)が、主君の信頼を得て名乗った小寺の姓を未だ使用していた頃で、何かと安芸(あき・広島県)毛利氏寄りだった主君・政職を説得して、中国地方へと手を伸ばし始めた信長の傘下に入ったばかりでした(11月29日参照>>)

・・・て事で、この頃の如水は、まだまだ、「その地方では、ちったぁ名の知れた」程度の存在でしかなかったのです。

そんな彼に、白羽の矢が立ちます。

それが、今回、叛旗をひるがえした村重の説得・・・

そのご命日のページでも書かせていただいたように、この時、「村重に謀反のきざしがある」という情報を得た信長は、普段、私たちが抱く信長さんのイメージとはうらはらに、すぐに攻撃して抹殺・・・ってな事はいっさいせず、「なんで、謀反なんか起すのん?」「なぁ、戻っておいでぇや」と、何度も真意を尋ねたり、説得をしたりを繰り返しています。

まずは、茶飲み仲間の松井夕閑(ゆうかん)、娘が村重の嫡男・村次(むらつぐ)の嫁となっていた明智光秀、信長が愛してやまない小姓の万見重元(まんみしげもと)の3人を派遣して、母親を人質に出して、安土に弁明に来てくれたら許しちゃう!」と説得してみますが、村重の答えはNO!

それでも、まだ、信長は事を構えず、再び光秀を使者に立てて説得・・・さらに、羽柴(豊臣)秀吉を派遣しますが、やっぱりダメ・・・

それどころか、村重は、光秀の娘を息子と離縁させて、坂本城へ送り返したりなんかして、意地でも戻らない雰囲気・・・。

それで、今度は、その秀吉の命で、同じキリスト教徒として親しくしていた如水が、村重を説得するために有岡城へと派遣されたのです。

ところが・・・です。

如水の説得で、納得して信長の傘下となったと思っていた、かの政職・・・実は、まだ毛利と切れていなかったのです。

政職が、毛利と通じている・・・という事は、現在、小寺一門が信長の傘下となっている事にも、彼は納得がいっていないわけで、当然、そもそも信長の傘下に入る事を主張した如水の存在も、内心ではうっとうしかったわけです。

・・・で、政職は、密かに手を回し、有岡城へ説得に向かった如水を捕らえて抹殺するように村重に依頼したのです。

しかし、村重は、如水を捕まえはしましたが殺しはせず、土牢に閉じ込めて幽閉したのです。

そうとは知らない信長サイド・・・これまで、何人もの人間が有岡城へと行き説得したにも関わらず、村重は、いっこう聞き入れないどころか、「今度は、使者を寝返らせやがった」となったのです。

そうです・・・これまで、光秀の秀吉も、無事帰って来ていますが、如水だけがいっこうに帰って来ない状況に、「如水は、村重に同調して、寝返った!」と、思ったのです。

さすがに、ここらあたりで、ブチ切れはじめた信長さん・・・交戦中の石山本願寺に和睦を申し込んで時間稼ぎをしながら、村重に同調している茨木城主の中川清秀と高槻城主の高山右近を寝返らせ、目標を有岡城一本に絞り始めます。

そして、自らのブチ切れを、寝返ったと見られる如水と村重に見せつけるかのように、人質として預かっていた如水の長男・松寿丸を殺害するように、秀吉に命じるのです。

しかし、ここで登場したのが、秀吉の軍師として知られるあの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)(2月6日参照>>)でした。

この時、半兵衛は「官兵衛には、絶対に二心はない!」と信じ、表向きには殺した事にして、密かに松寿丸をかくまったのです。

かくして、村重が叛旗をひるがえしてから約1年後の天正七年(1579年)10月16日、すでに、主のいなくなった有岡城は、家臣たちによって開城となるのです。

ここで、如水は、奇跡的に救出されます

ただ、長期に渡り、劣悪な環境で閉じ込められていたため、足腰を痛め、その曲がった足は、その後も一生治る事なく、以後、彼は歩行が困難な状態となってしまいました。

しかし、如水は、その過酷な現状と引き換えに、信長から形無き褒美をもらう事になります。

それは、信長からの信頼・・・このような状況になっても、村重に同調しなかったという事実は、何よりも信長の心をつかみます。

翌・天正八年(1580年)には、この一件で毛利とのつながりが明白となったため、毛利の領地へと逃亡した政職の旧領と播磨の一郡・1万石を加えた計・3万石を与えられ、大名としての第一歩を踏み出す事になります。

また、半兵衛の機転で、松寿丸が生きている事を知った信長は、「おかげで間違いを起さずにすんだ」と大いに喜んだと言います。

ただ、その半兵衛は、如水が救出される半年前に、秀吉による播磨・三木城包囲(3月29日参照>>)の陣中で病に倒れ、その後、京都にて療養するも、6月13日に36歳の若さで亡くなってしまっていました。

如水は、半兵衛に感謝するとともに、その死を大いに悼んだ事でしょう。

この時、半兵衛の息子・重門(しげかど)は、わずか7歳でした。

重門は、その後、父の後を継いで秀吉に仕え、元服後は、河内(大阪府)国・安宿(あすか)郡など6000石を与えられたものの、朝鮮出兵の時でさえ、「まだ幼い」と参加が許されなかったのだとか・・・。

やがて訪れた関ヶ原の合戦で、西軍として参戦した重門・・・しかし、重門は、岐阜城・落城(8月22日参照>>)直後に、東軍へと寝返り、さらに、合戦後には、あの小西行長重門のところに自首してくれた(9月19日参照>>)事で、竹中家はお咎めなしとなり、所領も安堵・・・以後、徳川の傘下で明治維新まで存続する事となります。

結果的に、竹中家が存続する事となった、この時点での寝返り・・・この時、重門を説得したのは、誰あろう、亡き半兵衛に命を救われた松寿丸=黒田長政でした

関ヶ原当時、多くの大名を、西軍から東軍に寝返らせた長政ではありますが、重門に対しては、ただの戦略ではない、何か特別な思いが存在したと信じたいですね・・・o(*^▽^*)o
 

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2009年10月14日 (水)

いよいよ三方ヶ原~信玄・二俣城を攻略

 

元亀三年(1572年)10月14日、遠江に侵攻した武田信玄の別働隊が、徳川家康方の二俣城を包囲しました。

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昨日の今日で何ですが・・・
昨日のページをまだ読んでいただいていない方は、先にソチラを>>

・・・で、昨日、一言坂の戦いを繰り広げた武田信玄の本隊と、犬居城(いぬいじょう・浜松市)で分かれた別働隊が、浜松城の北東20kmに位置する二俣城を包囲したのは、翌日の元亀三年(1572年)10月14日の事でした。

城を守るのは、徳川家康配下の中根正照(まさてる)・・・そして彼をサポートする青木貞治(さだはる)松平康安(やすやす)といった面々・・・。

攻めるは、信玄の息子・武田勝頼(かつより)を主力とした部隊・・・

しかし、コチラは城攻め・・・1日や2日でカタがつくものではありません。

まして二俣城は、天竜川と二俣川に囲まれた台地の上に築かれた天然の要害で、攻め難さにかけてはトップクラスの堅固な城です。

もちろん、さすがの信玄ですから、その事は充分承知の上・・・城を囲む勝頼たちだけではなく、あの手この手の作戦を、すでに展開しておりました。

まずは馬場信房(のぶふさ・信春)に、北条からの援軍を加えて、浜松城から東・・・天竜川を越えた神増(かんそ・静岡県磐田市)に布陣させ、その地を押さえます。

さらに天竜川東岸の匂坂(さぎさか)穴山信君(のぶきみ)を配置・・・なんせ、浜松の東側・遠江(とおとうみ・静岡県西部)東部には、徳川方の石川家成掛川城、同じく徳川配下の小笠原氏助(うじすけ)が守る高天神城など、まだまだ重要拠点が無傷で残っていますから(昨日の進路図を参照>>別窓で開きます)、これら、東部の城と、浜松城&二俣城の連絡を経ってしまわないといけません

そこに、グッドタイミングで、最初の段階から別働隊として奥三河(愛知県)に展開中の山県昌景(まさかげ)が、東三河各地を制圧し、二俣城への連絡を断ち切る事に成功します。

そんなこんなで完全に孤立した二俣城・・・おそらく、10月下旬頃には、総攻撃が開始されたものと思われます。

しかし、これだけ、周到な攻めをくりかえしても、堅固な城はいっこうに落ちる事なく、やがて、11月・・・12月・・・総攻撃開始から、はや1ヶ月ちょっと・・・

Mizunoteyaguracc この二俣城では、天竜川に面した岩壁に(水の手櫓・井楼=せいろう)を組み、そこから縄を下ろして水を汲み上げていたのですが、勝頼は、最後の手段として、この水補給ルートを断つ作戦に出ます。

12月19日・・・勝頼は、天竜川の上流から大量の(いかだ)を流して、かの櫓に激突させ、見事、櫓を崩壊させます。

これによって、水を補給する事が不可能となった二俣城・・・正照らは、この先の長期の籠城が叶わなくなった以上、更なる籠城は、ただ時間を費やすのみと判断し、速やかに武田方に人質を差し出し、二俣城を明け渡したのでした。

二俣城の陥落で、周囲から完全に孤立した家康の本拠地・浜松城・・・迎える家康はいかに・・・

本日の勝頼さん・・・
生まれ年からいけば、この時25~6歳・・・
昨日の忠勝に引き続き、今度は勝頼に、
「ちょっと、惚れてまうやろ~c(>ω<)ゞ」
あぁ・・・忙しいsweat01

この後、二俣城に入った信玄本隊が城の修復を終え、出陣するのは、12月22日・・・ご存知、三方ヶ原の戦いですが、そのお話は2006年12月22日のページで>>

上記の三方ヶ原のページは3年も前に書いたものなので、今回、その日に関して、更にくわしく、新たな逸話などをご紹介するかどうかは、現在思案中・・・少々お待ちを・・・
 

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2009年10月13日 (火)

家康に過ぎたるもの~本多忠勝・一言坂の戦い

 

元亀三年(1572年)10月13日、遠江に進出してきた武田信玄と、それを迎え撃つ徳川家康との戦い・・・三方ヶ原戦いの前哨戦とも言える一言坂の戦いがありました。

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室町幕府15代将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たし、群雄割拠する中、一歩進み出た感の織田信長・・・。

やがて、自らが天下に号令する勢いを見せる信長に(1月23日参照>>)、将軍のプライドもズタズタの義昭が、全国の大名たちに呼びかけ、それに応じて、信長包囲網とも言うべき連隊関係が敷かれます。

越前(福井)朝倉北近江(滋賀県)浅井(あざい)阿波(徳島県)三好・・・さらに、大坂石山本願寺と、それを支援する西国の毛利・・・。

そんな中、義昭が最も頼りにしたのは、戦国最強ともうたわれた甲斐(山梨県)武田信玄でした。

信玄は、信長が今川義元桶狭間に破った頃には、むしろ友好関係にあり、信長と同盟を結んでいた三河(愛知県東部)徳川家康との協力体制で、義元亡き後の今川に攻め込んだりしてましたが(12月13日参照>>)、もはや、今川の旧領・駿河(静岡県東部)を手に入れた以上、その先にある更なる土地は、家康の遠江(とおとうみ・静岡県西部)・・・このタイミングでの義昭の呼びかけに、その重い腰を上げ、上洛を決意したのでした。

元亀三年(1572年)10月3日に、本拠地・躑躅ヶ崎(つつじがさき)を出陣した信玄は、北条氏政からの援軍・2000を含めた約・2万5000の大軍勢を3つに分け、それぞれ別ルートから侵攻します。

山県昌景(やまがたまさかげ)率いる約5000は、信濃(長野県)伊那飯田方面から三河川沿いに南下・・・奥三河に侵攻して、家康軍を三河東部へとひきつける役割です。

秋山信友率いる約3000は、伊那口から東美濃(岐阜県)へと進み、信長を牽制します。

そして、信玄率いる本隊が、諏訪から高遠を経て、天竜川沿いに南下し、遠江との国境にある青崩(あおくずれ)を越えを越えたのは、10月10日の事でした。

Hitokotozakasinrozucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そこから、さらに南に下り、すでに武田の傘下となっている天野景貫(あまのかげつら)犬居城(いぬいじょう・浜松市)に入り、ここで、兵を2手に分け、一方は二俣城へ・・・そして、信玄の本隊は、さらに南へと侵攻する作戦です。

もちろん、家康も、この信玄の侵攻をただ見守っているいるわけにはいきません。

3000余りの兵を率いて、自ら浜松城を出陣しますが、まずは、先発した偵察隊見附付近にて武田軍と遭遇・・・小競り合いの中、劣勢を強いられた徳川軍は、退却をはじめますが、この時、殿(しんがり・軍の最後尾)を努めたのが、徳川四天王の1人に数えられた本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)です。

何度も言いますが、合戦は攻めるより退却のほうが数段難しく、さらに、その殿は、最も重要で最も危険な役目です。

ただ、この時、最前線にいたのは偵察隊ですから、もちろん、忠勝も、はじめは家康の本隊近くにいたわけで、まずは、家康に形勢の不利を伝え、退却をうながしますが、やはり、最前線の兵士たちを見殺しにする事はできません。

忠勝は、急ぎ、最前線に赴いて、撤収をはかろうとしますが、すでに、武田軍に追いつかれ、見附の西方・一言坂(ひとことざか)にて、今、まさに、本格的な戦闘が開始されようとしていたのです。

両者の距離は、わずか20m・・・そのわずかの場所に、ただ一騎で躍り出たのは、黒糸の鎧に、鹿角の兜を身につけた忠勝!

まずは、味方のほうに向けて「撤収~!退け!」と叫び、今度は、馬を反転させて、堂々とした姿で敵を睨みつけ、蜻蛉切(とんぼきり)の鑓を高くかざします。

この大胆不敵で気迫に満ちた忠勝の行動に、武田軍は唖然とし、一瞬、何もできなかったと言います。

こうして、偵察隊の兵を押し戻した忠勝は、自らが殿となり、撤退を開始するのです。

追いすがる武田の兵には馬を返して戦い、配下の鉄砲隊が火を吹けば、再び撤退を開始する・・・幾度となく、そんな戦いを繰り返しながら、やがて、天竜川を無事に渡河し、なんとか、武田の兵をまく事に成功しました。

戦闘を終えて、家康の前に現れた忠勝・・・指物はボロボロにちぎれ、鎧には5本の矢が刺さり、顔は真っ黒に汚れてはいたものの、一つの傷も負っていなかったのだとか・・・

忠勝の無事な姿を見た家康は、
「お前・・・ホンマ、最高やで!」と、大喜び!

しかし、この時の忠勝の戦いぶりを見て、感激したのは、家康だけではありませんでした。

最初に現れた時の気迫に満ちた態度、決死の覚悟で殿を努めたその姿は、信玄の家臣の心も揺さぶりました。

信玄の旗本・小杉左近が言います。
♪家康に 過ぎたるものが 二つあり
  唐の頭
(かしら・兜)と 本多平八 ♪

そうなんです。

皆さん、よくご存知の、忠勝の素晴らしさを象徴する、この言い回し・・・これは、忠勝の、この一言坂での戦いぶりを見た武田の家臣の言葉でした。

本多忠勝・・・25歳の時の出来事。
「惚れてまうやろ~(*゚ー゚*)」

この後、戦いは、かの三方ヶ原(12月22日参照>>)へと向かいますが、その前に、武田勝頼による二俣城の攻防戦もどうぞ>>
 

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2009年9月30日 (水)

信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場

 

天正六年(1578年)9月30日、に入港していた鉄甲船の観艦式が開催されました。

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熊野浦を経て大坂湾の港へ、去る7月17日に堂々の入港を果たした7隻の大安宅船(おおあたけぶね)・・・戦国から江戸初期にかけて造られた最強の軍船=安宅船のうち、1000石以上の大きさの物を大安宅船と呼びますが、この時の記録では、滝川一益(かずます)が建造した1隻を「白舟」と記しているところから、九鬼嘉隆(くきよしたか)が建造した残りの6隻が、黒光りの威風を放つ鉄甲船であったと思われます。

この鉄甲船を、色とりどりの幟(のぼり)や指物(さしもの)で飾りつけ、関白・近衛前久(このえさきひさ)をはじめとする公家や有力大名、堺のお金持ちに宣教師までを招待して、大々的に開催された華麗なる観艦式・・・

この日の織田信長は、自らの発想の豊かさと、それを実現できる力を持つ事を内外に見せつけ、大いに気を吐いた事でしょう。

そもそもは、室町幕府第15代将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たした後、天下統一をもくろむ信長に対して危機感を抱いた義昭の声かけによって敷かれた信長包囲網・・・

比叡山延暦寺をバックに持つ越前(福井県)朝倉義景近江(滋賀県)浅井長政、戦国屈指の大物・甲斐(山梨県)武田信玄越後(新潟県)上杉謙信、そして、大坂・石山本願寺に拠点を置く第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)全国の本願寺信徒に同調を呼びかけ挙兵・・・まさに、周囲敵ばかりの状態となった信長。

そんな中、天正四年(1576年)5月の天王寺合戦(5月3日参照>>)で痛い目を見た信長は、石山本願寺の周囲に砦を築いて完全包囲・・・籠城する本願寺側の補給路を断ちます。

しかし、ここで西国の雄・毛利輝元が参戦・・・海路から本願寺への兵糧補給を目指し、一族の小早川水軍、配下の村上水軍を率い、さらに紀州(和歌山県)雑賀(さいが)水軍を加えた船団が、兵糧を満載した船とともに大坂湾に進入します。

もちろん、それを阻止すべく立ちはだかるのは、沼田氏真鍋氏など和泉河内(大阪府)摂津(兵庫県)の水軍で構成された織田水軍・・・第一次木津川口海戦の勃発です(7月13日参照>>)

しかし、ここで、陸戦に勝るとも劣らない艦隊編制での陣形による連携プレーで、翻弄されまくり、見事な負け戦となってしまった織田軍・・・。

手痛い敗北を喰らった信長は、未だ建築中の安土城九鬼水軍の嘉隆を呼び、鉄甲船の建造を命じたのです。

九鬼一族は、南北朝時代から、伊勢志摩から熊野灘を活動範囲とする海賊でしたが、すでに嘉隆の時代には、その海賊稼業にも陰りが見え始めていた頃・・・ちょうど、その時、かの顕如の呼びかけに答えて一向一揆が勃発した伊勢長島にやって来た信長の傘下となり、その長島一向一揆(9月29日参照>>)で海上から見事にバックアップした事で、信長からの信頼を得ていたのでした。

ところで、今回の鉄甲船・・・水軍に関してはプロの嘉隆ですが、この鉄甲船というアイデアはおそらく信長本人の発想でしょう。

確かに、前回の木津川口海戦では、村上水軍の放つ焙烙(ほうろく)という手投げ弾のような武器で、木製の軍船がことごとく燃やされて混乱状態に陥ったため、どうにもならない船いくさとなってしまったわけですが、「それなら、燃えない鉄で造っちゃえ!」という発想は、プロにはできません。

たとえ思いついたとしても、上司に提案すれば「何を考えとるんだ!」と、怒られそうな発想です。

なぜなら、そんな重い船体では速く走行する事ができず小回りもきかない、第一、塩分を含んだ海水にさらされた鉄は、すぐに錆び、あっという間に使い物にならなくなるのは目に見えています。

殿様の出す大金を使って、そんなもったいないシロモノ・・・プロなら、もっと機能的で使い勝手が良く、長持ちする有意義な物を造るでしょう。

そうです、今回、おそらく、ものすごい金額になるであろう鉄甲船を考えたのが、その大枚な金額を自らが支払う本人だから実現できたと思うのです。

信長にとって、鉄甲船は、小回りをきかして速く走る必要はないのです。

そこにいて、敵の船団の進入を阻止する事だけ・・・相手を蹴散らして制海権を握れば、2度目は使えなくても良いのです。

一度きりの作戦に、膨大な金額を惜しみなく使えるのは、このアイデアが信長のものであったからに他ならないでしょう。

実際、この鉄甲船は、この後の海戦一回こっきりで、2度と歴史には登場しません。

この14年後に、豊臣秀吉朝鮮出兵で、再び鉄を装甲した大安宅船が登場しますが、それらは、すべて新しく建造された物なのです。

もちろん、その信長の突飛なアイデアを現実の物とした嘉隆の手腕も大したものですが・・・。

加重して転覆しやすくなる船体をいかにして安定させるか?
損なわれる機動力をいかに最小限にするか?

伊勢大湊(おおみなと)という最先端の職人集団をかかえる嘉隆も、おそらく彼らとの試行錯誤のうえ、完成に漕ぎつけた事でしょう。

かくして天正六年(1578年)9月30日、この日の観艦式で、鉄甲船を目の当たりにしたイエズス会士・オルガンチノは、フロイスへの報告書に・・・

「堺で見てきたけど、ポルトガルの船にも匹敵するような大きさと華麗さにびっくりしたわ。
きっと、あれを大坂港の河口に置いとして、石山本願寺への兵糧の運び込みを阻止しよっちゅーんやろな。
船には3門の大砲と、数えきれんくらいの精巧な長銃が搭載されてるんやけど、いったいどこから入手したんやろ?
僕の知ってるのでは、日本では大友君が持ってるヤツしかないはずなんやけど・・・」

と、驚きを隠せないようです。

そう、以前、耳川の戦い(11月11日参照>>)を書かせていただいた時に登場した大友の最新兵器・国崩(くにくずし)・・・これは、大友宗麟ポルトガル人からプレゼントされた佛狼機(ふらんき)ですが、それこそ、キリシタン大名として宣教師たちを支援し、外国と深い関係を築いていた宗麟だからこそ手に入れられたシロモノ・・・

耳川の戦いは、この鉄甲船完成の同じ年の11月ですが、もちろん、それ以前に、信長の耳に入っているでしょうから、その存在を知っていたであろう事はわかりますが、すでに、この時点で、国産品を造るほどになっていたとは、オルガンチノでなくとも驚きです。

どうやら、信長は、けっこう早くから、かの秀吉に命じて、近江の国友(くにとも)の鍛冶職人に造らせたようですが、『国友鉄砲記』という書物には、大砲の試作品を見た信長が、「三国無双の宝器を得た」と大いに喜んだと書かれているそうです。

戦国という敵味方入り乱れる時代の、信長の情報網のスゴさと、行動に移す事への素早さには感服しますね~

もちろん、わずかの情報だけと短い時間で、国産品を造ってしまう職人さんの技術にも閉口ですが・・・

こうして、皆々様の知るところとなった世紀の軍船=鉄甲船・・・この最新の武器を以って、再び、石山本願寺の補給路を断とうとする信長・・・第二次木津川口の海戦はいかに?

・・・と、そのお話は、やはり、海戦の展開される11月6日に書かせていただく事にします。
 

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2009年8月29日 (土)

浅井長政、最後の手紙

 

天正元年(1573年)8月29日、小谷城・落城を目前にした浅井長政が、片桐直貞宛に、最後の感状をしたためました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

再三の上洛要請に応じない越前(福井県)朝倉義景と、その義景に協力する姿勢の近江(滋賀県)浅井長政を相手に、織田信長が戦った姉川の合戦(6月28日参照>>)・・・。

あれから三年たった天正元年(1573年)・・・

7月に室町幕府最後の将軍・足利義昭京都から追放(7月18日参照>>)して、事実上天下を掌握した信長は、翌・8月、姉川の合戦以降、未だに反目し続ける浅井氏を滅ぼすべく、長政の居城・小谷城(滋賀県湖北町)を囲みます。

窮地に立った小谷城を救援すべくやってきた義景を追撃し、先に朝倉氏を滅ぼした(8月6日参照>>)信長は、すぐさまUターンし、8月26日には、小谷城攻撃の基地となる虎御前山砦に舞い戻ります。

信長の帰還に朝倉の滅亡を悟る長政・・・小谷城内も、さすがにあわただしくなってきます。

翌・27日、信長が、配下の羽柴(後の豊臣)秀吉に、総攻撃・開始の命令を下す中、小谷城を守る国人衆の間では、
「総攻撃を受ける前に、速やかに開城して、信長の指示に従おう」
「いや、徹底抗戦して、城を枕に討死しよう」
と、喧々囂々の議論が飛び交います。

そんな議論の結果を待たず、家臣の1人・浅井井規(ゆきのり)織田方に投降・・・彼が、道案内をした事で、怒涛のごとく押し寄せた秀吉軍は、またたく間に京極丸を占領し、続く小丸へと攻撃を仕掛けます。

この日、小丸を守っていた長政の父・浅井久政が、追い詰められて自刃・・・翌・28日、本丸にいた長政も、妻・お市の方(信長の妹)に子供たちを託して、自ら命を断ちます

・・・と、小谷城の落城と、長政の自刃による浅井氏の滅亡は、すでに、一昨年の8月28日に、このブログに書かせていただいている(2007年8月28日参照>>)のですが、そのページでも、父・久政の死が27日、長政の死が翌・28日とさせていただいております。

それは、信長に関する第1の史料とされる『信長公記』に上記の日づけで記載されており、『国史大辞典』でも28日とされ、この日づけが歴史の通説となっていますので、通常、浅井氏・滅亡は28日という事になっています。

しかし、ここに、落城を悟った長政が、家臣の片桐直貞に宛てた一通の感状が残っていて、それが、長政の最後の書状であるとされています。

Azainagamasasyozyoucc 石川文化事業財団 お茶の水図書館蔵

その日づけは、「元亀四 八月廿九日」・・・
(注:元亀四年は、7月に信長によって天正元年に改元されますが、長政は天正の元号を使っていません)

当然の事ながら、死んだ後に書状を書く事はありえませんので、長政の自刃は、この書状を書いた直後の8月29日か、翌日の9月1日という事になります。
(注:もともと旧暦に8月31日はないうえ、この年の8月は小の月で30日もありませんでしたので、29日の翌日は9月1日となります)

これによって、ひょっとしたら、小谷城の落城は9月1日だったかも知れないとも言われますが、その決定は、歴史の専門家のかたにおまかせするとして、本題は、この書状の内容・・・

「今回は、思いもよらん事で、この小谷城も、もはや、無事なんは、この本丸だけになってしもた・・・
何かと、不自由な籠城の中、君は、忠義を尽くしてくれて、ホンマ、感謝してるで!

しかも、他のヤツが次々と城を抜け出して敵に投降して、城内はメチャメチャ混乱状態やのに、それでも、頑張ってくれて・・・僕の気持ちは、言葉にできひんし、ここには書ききられへんほどや」

・・・てな感じの内容なのですが、長政が、この手紙を渡した片桐直貞という人は、後に、秀吉VS柴田勝家賤ヶ岳の合戦「賤ヶ岳の七本槍」(4月21日参照>>)の1人として名を馳せ、大坂の陣の時には、豊臣と徳川の交渉役ともなった片桐且元(かつもと)(8月20日参照>>)お父さんです。

上記の書状は、単に、直貞に感謝の意を伝える手紙・・・というよりは、彼が、次に仕える事になる新たな主君への推薦状の意味合いが込められているのです。

つまり、前の主君=長政が、これほど感謝するようなすばらしい家臣である事の証明書・・・

言い換えれば・・・
「僕は、ここで死ぬけど、君は、新たな場所で、また、頑張ってね」
と、家臣との主従関係を断ち切る、別れの手紙でもあったわけです。

死を目前にしてもなお、家臣を統率し、家臣の事を思いながら、毅然とした態度を貫く長政の姿が目に浮かぶようです。

別れの言葉が、一語も書かれていない別れの手紙・・・心、うたれます。
 

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2009年8月20日 (木)

鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い

 

元亀元年(1570年)8月20日、大友宗麟の命により龍造寺隆信佐嘉城を囲んだ大友親貞の軍に、龍造寺配下の鍋島直茂が奇襲をかけて大友軍を撃破した今山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

周防(山口県)の名門・大内氏なのどの介入もあり、様々に政情が変化した戦国時代の九州地方・・・そんな中、ここにきて「九州三強」と呼ばれはじめたのが、薩摩(さつま・鹿児島県)島津義久豊後(ぶんご・大分県)大友宗麟(そうりん)肥前(ひぜん・佐賀県)龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)・・・

しかし、鎌倉以来の豪族とは言え、もともと九州北部を支配していた少弐(しょうに)の配下であった龍造寺の(8月15日参照>>)、しかも分家の出身である隆信は、隣国の宗麟にとっては新興勢力です。

元亀元年(1570年)3月、「ここは一つ、これ以上勢力をつける前に叩いてやろう」と、隆信の本拠地・佐嘉(さが)城への侵攻を開始します。

・・・とは言え、現地へ赴き、最前線に立つ事が少ない宗麟・・・今回も一族(甥とも)大友親貞(ちかさだ)を総大将に佐嘉城・攻略戦に向かわせます。

なんだかんだで、この時点で北九州では最大の勢力を持つ大友氏・・・地元はもちろん、進軍する先々で国人たちが味方につき、最終的に6万という大軍勢になって佐嘉城を囲みます。

一方、守る龍造寺は、わずか3000・・・男・隆信、最大のピンチです。

数にものを言わせて、佐賀平野を埋め尽くすがごとく城を囲み、圧力をかける大友勢ですが、これが、終始小競り合い程度で、なかなかズバッとした攻撃を仕掛けて来ない・・・。

城の北西10kmほどのところにある今山に本陣を置いた総大将の親貞・・・「これだけ囲んどいて、何をモタモタしてるんだ?」と思いきや、これが、どうやら占いによる行動だったらしい・・・

つまり、占いで、「まだ攻撃をしちゃいかん!」なる指示が出ていて、運気が好転するまで、ちゅうちょしていたのだとか・・・

現代人の我々にとっては、そんな迷信に頼らず、情報を収集して絶好の機会に撃って出るべき・・・と考えますが、以前、軍師のお仕事のページ(5月23日参照>>)でもご紹介させていただいたように、意外と戦国武将は縁起を担いだり、運に頼ったりしてます。

・・・とは言え、あまりの戦勝報告になさに、イラ立つ宗麟は、筑後福岡県南部)まで出張ってきて、総攻撃をうながすのに答えて、来たる8月20日に総攻撃を仕掛ける決意を固めた親貞は、その前日、戦勝祝いと称して酒宴を開きます。

「何やっとんだ!」
と、怒りたくもなりますが、親貞にしてみれは、それだけ、数のうえでも負けるはずのない城攻めだった・・・あるいは、これもゲンかつぎって事なのでしょう。

しかし、そんな大友勢の油断を見逃さなかったのが、龍造寺の重臣の鍋島直茂(信生)・・・彼は、隆信に、わずかな手勢での奇襲作戦を提案します。

Sagazyouimayamazucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

あまりの大胆な作戦に、最初は猛反対だった隆信でしたが、直茂・本人のヤル気、母の説得などにより、この作戦の決行を許可します。

大友勢が宴会もたけなわの前夜、わずか500人の手勢を従えて、佐嘉城を脱出し、密かに、総大将・親貞のいる本陣へと向かいます。

そうです・・・総勢6万とは言え、広範囲に兵力を配置していたため、この時の本陣には、わずか数千の兵しかいない事も確認済み・・・

かくして、元亀元年(1570年)8月20日未明・・・本陣・今山の背後に身をひそめて機会を待っていた直茂の手勢は、一斉に鬨(ときの声を挙げ、前日の祝宴で、未だ爆睡中の大友勢に襲いかりました。

仕掛けられた側は、何がなんだかわからず、大混乱となる中、次々と兵を打ち破る直茂らは、とうとう総大将・親貞の首も討ち取ってしまいます。

こうなると、大軍は散り々々となり、我先にと戦線離脱していきます。

なんせ、先に書いた通り、6万というのは、途中から加わってきた国人衆を含んでの数・・・それも、寄らば大樹の影とばかりに、とりあえず勢いのある大友に味方しておこうと言った、いわば烏合の衆で、心から大友に忠誠を誓った臣下の者ではありませんから、崩れるとなると早いです。

こうして、今山の戦いは、あっけなく龍造寺の勝利に終わります。

ただ、宗麟が出張ってきていた事もあり、この一戦だけで、大友勢が兵を退く事はなく、この後も、しばらくの間、佐嘉城の包囲は続きますが、結局、何をするという事もなく、半年後には、和議を結んでの撤退とあいなりました。

ちなみに、ご存知のように、肥前の熊とよばれた龍造寺隆信は、晩年、酒におぼれ家臣からの信頼を失い、島津との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死(11月26日参照>>)・・・その後の龍造寺氏は一気に勢力を失い、今回の今山の戦いで大活躍した直茂がとって代わるかたちとなり、江戸時代を通じて、佐賀=鍋島藩という事になるのです。

そんな龍造寺からの交代劇も含んだ鍋島の化け猫騒動については、9月6日のページでどうぞ>>
 

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2009年7月13日 (月)

第一次木津川口海戦~信長を悩ませた村上水軍

 

天正四年(1576年)7月13日、10年に渡る織田信長石山本願寺との戦い・石山合戦の最中、第一次木津川口海戦が展開されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天下統一を目指す織田信長・・・
宗教による団結で権力に支配されない自由都市を運営する本願寺・・・

その対立は、ついに、元亀元年(1570年)、大坂・石山本願寺の法主(ほっす)顕如(けんにょ)による全国の本願寺門徒への「身命を捨てて法灯を守れ!」の呼びかけによって石山合戦へと突入します。

途中、信長によって将軍の地位をないがしろにされた足利義昭の呼びかけに応えて、石山本願寺に強力した武田信玄上杉謙信朝倉義景(よしかげ)浅井長政などによる信長包囲網が敷かれ、すべてを敵に回して戦う事になった信長でしたが・・・

天正元年(1573年)には浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)
翌・天正二年には長島一向一揆を潰し(9月29日参照>>)
続く天正三年の5月に、信玄亡き後の武田を長篠の合戦で蹴散らし(5月21日参照>>)

その後、10月には、一旦本願寺との講和を結びますが、かりそめの講和は、翌・天正四年(1576年)5月3日、天王寺合戦において破られました(5月3日参照>>)

天王寺合戦の後、砦の数を増やして本願寺を包囲する信長・・・

一方、包囲されたとなると、本願寺は、籠城戦をせざる得なくなるわけですが、籠城戦となると、何より重要なのは兵糧の問題・・・

籠城というのは、防戦一方の戦いで、そのままでは破滅へと向かう戦い方なわけですが、ただ一つ、勝てるとしたら、それは、長期に渡る籠城・・・兵糧を少しでも多く確保して、いかに戦いを長引かせるかによって、形勢逆転のチャンスのある無しが決まるわけです。

そんな中、ここに来て西国の雄・毛利輝元が、叔父の吉川元春小早川隆景(たかかげ)とともに、本願寺の支援へと重い腰をあげます

毛利の一番強味=水軍を大いに活用し、本願寺へ、海路による兵糧の運び込みをしようというのです。

本願寺の兵糧を満載した数百艘の船団が、その護衛をする村上水軍中心の約300艘とともに大坂湾に現れ、和泉(大阪府)貝塚に到着したのは7月12日の事でした。

ここで、紀州の雑賀(さいが)水軍と合流した船団は、一路、堺から木津川口へと向かいます。

対する信長勢は、大きな櫓を乗せた安宅船・約10艘を中心に武者船・300艘を左右に広く配置し、「これより河口へ入れてなるものか!」と、待ちうけます。

かくして、天正四年(1576年)7月13日・・・第一次木津川口の戦いがの幕が切って落とされます。

まるで、通せんぼをするがのごとく、横一列の織田水軍に、縦の編制で挑む毛利配下の村上水軍は、水軍独自の艦隊編制の陣形をとり、ほら貝の合図が鳴ると、あらかじめ決められた役割分担による見事な連携プレー攻撃を開始します。

Suigunsenpoucc 因島水軍城蔵の艦隊編制図(因島水軍城蔵)

村上水軍の指揮をとるのは、父・村上武吉(たけよし)の名代として参戦した若干24歳の司令官・村上元吉(もとよし)・・・。

まずは、板などで高い壁を造り、その影にかくれるように射手をしのばせた盲船(めくらぶね)が、一斉に矢を放ちます。

Houroku2 
 
焙烙(ほうろく)
素焼きの土鍋などに火薬を詰め二つ合わせて火縄をて敵船に投げ込む手投げ弾のような物。

次ぎに、2番手に控える焙烙(ほうろく)が、敵船に焙烙投げ込みますが、そこには、当然火の手があがり、船上は大混乱・・・突然の火災に慌てた兵士が次々に海へと飛び込みはじめたら、3番手の武者船が、敵船に舳先をぶつけながら真横につけ、次から次へと刀を持った兵士が敵船へと乗り込み、船上の敵兵に斬りかかります。

また、これらの攻撃に動じない強い船には、ノミを持った兵士が水中にもぐって敵船の下まで行って船底に穴を開ける鑿入り(のみいり)というゲリラ攻撃も同時進行させました。

この陸戦に勝るとも劣らない見事な陣形の連携プレーによって、『信長公記』にも「歴々数輩討死候(そうろう、西国船勝利」とあるように、信長勢は大混乱となり、一方的な戦いとなってしまいました。

もちろん、兵糧は石山本願寺に搬入され、本願寺側の士気も最高潮!

・・・というのも、実は、この時の織田水軍・・・沼田氏や真鍋氏など、和泉河内(大阪府)摂津(兵庫県)の名だたる水軍で編制されていたものの、毛利による兵糧搬入の噂を聞いての寄せ集め軍団で、とても、毛利+小早川水軍+村上水軍の連携には着いていけない状態だったのです。

手痛い敗北を喰らった信長。

再びの戦いは、1年4ヶ月後・・・
同じ場所で、同じシュチュエーションで・・・

ただし、同じ轍を踏まないのが信長・・・

そう、この後、登場するのが、村上水軍の焙烙に対抗すべく制作したあの鉄甲船と、それをフルに活用してくれる優秀な海の軍団・・・九鬼嘉隆(よしたか)率いる九鬼水軍と、滝川一益滝川水軍・・・

鉄甲船の完成は、9月30日のページに>>
再びの第二次木津川口海戦2009年11月6日のページ>>にて書いておりますので、続きはそちらでどうぞo(_ _)oペコッ
 

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2009年7月 8日 (水)

雑賀衆と鉄砲~あの長篠の3段撃ちは孫一のモノ?

 

天正六年(1578年)7月8日、織田信長と戦闘中の本願寺・顕如が、雑賀衆らに、織田勢の迎撃を要請しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

元亀元年(1570年)から天正八年(1582年)の10年の長きに渡って繰り広げられた織田信長VS石山本願寺石山合戦・・・

本願寺・法主(ほっす)顕如(けんにょ)は、この合戦期間中に、17通に及ぶ督促状を、紀州(和歌山県)雑賀(さいが)へと送り、延べ5400挺の鉄砲を要求しています。

ただ、この天正六年(1578年)7月8日の雑賀衆への要請は、鉄砲ではなく、信長が、毛利&村上水軍に対抗すべく建造していた鉄甲船の完成(9月30日参照>>)を受けての、雑賀の水軍衆への出陣要請であったようですが・・・。

実は、雑賀衆も一枚岩ではなく、水軍もあれば陸戦のゲリラ部隊もあり、さらに鉄砲軍団もあり・・・その時々で、それぞれが、協力もするし、反発もするといった状態の集団で、すでに、石山合戦の中盤のあたりで、信長の傘下に下ったグループもあれば、あの小牧長久手の戦いの後の、豊臣(羽柴)秀吉紀州征伐(3月21日参照>>)の頃まで、独立を保っていた集団もありました。

・・・とは言うものの、やはり雑賀衆と言えば、ゲームの戦国無双で、信長に抵抗する主役クラスのイケメンキャラをゲットした事で、昨今の戦国ブームの波に乗っている雑賀孫一(さいがまごいち)こと鈴木孫一重秀率いる鉄砲軍団が有名ですね。

一旦講和した後再開された石山合戦の後半戦序盤、天正四年(1576年)5月の天王寺合戦で、雑賀衆の鉄砲隊が、信長を大いに悩ませた事は、すでに、先日書かせていただきましたが(5月3日参照>>)、その2ヵ月後に大坂湾で展開された第一次木津川口の戦い(7月13日参照>>)でも、村上水軍の抜群のフォーメーションで手痛い敗北を喰らった信長・・・

その戦いの後、信長は、次回の海戦に備えて、かの鉄甲船の建造にとりかかると同時に、雑賀衆の鉄砲軍団をも潰すべく、攻撃を仕掛けています。

この時の戦いでドローとなった後、休戦状態に入った信長と孫一は、石山合戦が終結した後には和睦となり、結局は孫一は、信長の臣下となるのですが、その時の逸話は、またその日に書かせていただくとして、そもそもは、なぜ、この雑賀衆が戦国一の鉄砲軍団になりえたのか?

もともとは、天文十二年(1543年)に種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人によって伝えられたと言われる鉄砲(8月25日参照>>)は、領主の種子島時尭(ときたか)が、購入した2挺のうち1挺を島の鍛冶屋に調べさせた事で、その製法が徐々に明らかとなるわけですが、それを、本州に持ち帰ったのは根来寺(ねごろでら)の僧であったと言われています。

ご存知のように、その根来寺も紀州でし、その根来寺に搭頭(たっちゅう・本寺の敷地内に建つ所属する寺)を持っていたのが、雑賀衆の土橋平次(どばしへいじ)という人物で、物流にも長けていた雑賀衆ですから、おそらく、根来寺に伝わった鉄砲のノウハウは、またたく間に雑賀に伝わったものと思われます。

鉄砲造りの工房の跡などは、雑賀からは、発見されていないそうですが、雑賀には雑賀鉢(さいがばち)という独特の兜をを作る匠がおり、製造法さえわかれば、作れる技術は充分あったでしょうから、おそらく、どこからか買ってくるのではなく、雑賀衆自身で、作っていた可能性大でしょう。

その証拠と言えるがどうかわかりませんが、堺の代表的な鉄砲職人の榎並屋清兵衛(えなみやせいべい)が一時、紀州に住んでいたという事実もあり、さらに、現存する慶長大火縄銃の金具からは、和歌山在住の鎌倉屋藤兵衛の銘があります。

鉄砲は、堺と近江国(滋賀県)国友2大都市と言われますが、紀州もなかなかのものであったのかも知れません。

しかも、雑賀衆の1人・佐竹義昌(よしまさ)『働書(はたらきがき・由緒書)によれば、天文年間の後半(1546年~50年)には、すでに雑賀に鉄砲があり、「幼い頃から訓練に励んでいる」との事で、作るだけではなく、使い手の育成にも、力を入れていたようです。

ところで、戦国合戦の鉄砲の使用例としてよく引っ張り出されるのが、信長と武田勝頼(かつより)長篠の合戦(5月21日参照>>)・・・

しかし、激戦地となった設楽ヶ原(したらがはら)から、ほとんど鉄砲玉が発掘されない事や、あの『信長公記』には、例の3段撃ちが書かれていない事もあって、現在では、「あの鉄砲の3段撃ちも、馬防柵(まぼうさく)も、実際にはなかったのでは?」と疑われているのは、皆さんもよくご存知でしょう。

実は、その『信長公記』には、信長と戦った時の、この雑賀衆の作戦として馬防柵が登場します。

さらに、『院徳太閤記(いんとくたいこうき)』には、3段に鉄砲を構えて戦った事も・・・。

冒頭部分に書かせていただいた通り、信長が雑賀を攻めたのは、天王寺合戦の翌年ですから、天正五年(1577年)の事になり、歴史上は長篠の合戦のほうが、その2年前の事になるわけですが、その長篠の合戦での3段撃ちが書かれている『信長記』は江戸時代の、それも、軍記物(フィクションありの小説)ですから、ひょっとしたら、こっちが元ネタの可能性もなきにしもあらず・・・

雑賀孫一・・・なかなかやりますね~
 

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2009年6月27日 (土)

時代別年表:室町時代・後期1(戦国時代・安土)

 

このページは、戦国・安土の時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

歴史上、戦国時代も安土桃山時代という区分もなく、いわゆる室町時代なわけですが、この室町時代は、ブログに書いている出来事が非常に多い・・・って事で、とりあえず、前期・中期・後期・・・そして後期を安土と桃山の計・4つに分けさせていただきました。

安土桃山って「いつ?」という点で、ご意見も多々あろうかと思いますが、とりあえず、信長政権が安土、秀吉政権が桃山って事で、このページでは、前後の年表とのバランスを考えて織田信長が足利義昭を奉じて上洛する1568年9月26日から、秀吉が太政大臣になって豊臣の姓を賜る1686年12月19日までを「室町時代・後期1(戦国時代・安土)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaiaduti 



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
1568 9 26 織田信長が足利義昭を奉じて上洛
【織田信長、上洛!】
10 18 足利義昭が室町幕府15代将軍になる
【足利義昭擁立で初登場!謎の明智光秀】
12 12 薩埵峠の戦い
【武田信玄・駿河に進攻~薩埵峠の戦い】
12 13 今川館の攻防戦
【今川館の攻防戦~駿河を攻略
12 27 ~翌年5/17まで掛川城攻防戦
【今川氏滅亡~掛川城・攻防戦】
1569 1 9 信長が堺の町を攻撃
【本能寺の変と堺の関係】
3 2 信長が副将軍への誘いを拒否する
【信長が副将軍を断り「銭ゲバ」と化す?】
4 8 京都での宣教師の居住と布教を許可
【信長とキリスト教~神になろうとしたか?】
8 11 長宗我部元親が安芸城を開城させる
【長宗我部元親の安芸城攻略作戦】
10 6 三増峠の戦い
【三増峠の戦い~武田VS後北条】
12 6 駿河蒲原城・落城
【武田信玄・蒲原城を奪取!】
1570 1 23 信長が義昭に「五ヶ条の掟書」を示す
【信長、義昭に掟書を示す】
4 26 朝倉の手筒山・金ヶ崎城を攻撃
【手筒山・金ヶ崎城の攻防戦】
4 27 織田軍、金ヶ崎から撤退を開始
【危機一髪~金ヶ崎の退き口】
6 28 姉川の合戦
【信長の判断ミス?姉川の合戦】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
8 石山合戦・勃発
【信長を一番困らせた男~本願寺・顕如】
8 20 佐嘉城攻防戦・今山の戦い
【鍋島直茂の奇襲作戦~今山の戦い】
11 26 堅田の戦い
【信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い】
1571 3 27 深沢城攻防戦
【信玄・強気の深沢城矢文】
5 16 長島一向一揆・勃発
【対・長島一向一揆戦】
9 12 比叡山焼き討ち
【信長の比叡山焼き討ち】
【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】
【殺戮か?完全主義か?戦国との相違】
10 3 北条氏康・没
【謙信・信玄に撃ち勝った隠れた名将】
1572 3 2 岩村城・攻防戦
【岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断】
10 3 武田信玄が甲斐を出陣
【武田信玄・上洛~その真意と誤算】
10 13 一言坂の戦い
【家康に過ぎたる~忠勝・一言坂の戦い】
10 14 ~12/19二俣城・攻防戦
【いよいよ三方ヶ原~信玄・二俣城を攻略】
12 22 三方ヶ原の戦い
【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】
【武田信玄・上洛~その真意と誤算】
12 23 信玄が平手汎秀の首を信長に送る
【三方ヶ原・その後~犀ヶ崖の戦い平手の死】
1573 1 11 野田城・攻防戦
【武田信玄最後の戦い~野田城・攻防戦】
4 4 信長の上京焼き討ち
【信長の「上京焼き討ち」の謎】
4 12 武田信玄・没
【武田信玄公の命日なので】
7 18 信長が義昭の籠る槇島城を攻撃
【ネバる!足利義昭・ボロは着てても・・】
8 6 ~20日・信長が越前征伐
【朝倉氏滅亡とともに一乗谷は歴史の・・・】
8 14 刀禰(根)坂の戦い
【生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興】
8 28 北近江・小谷城が落城
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】
【落城の生き残り~海北友松の熱い思い】
8 29 浅井長政が片桐直貞宛てに感状を書く
【浅井長政・最後の手紙】
1574 3 28 信長が東大寺・正倉院の宝物を見物
【正倉院・アッと驚く豆知識】
9 29 長島一向一揆・終結
【長島一向一揆の終結】
1575 5 16 長篠の合戦で鳥居強右衛門が磔になる
【史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商】
5 21 長篠の合戦・設楽ヶ原の戦い
【長篠の合戦!武田氏の真の敵は?】
【もう一人の伝令~信長勝利の鍵】
7 16 長宗我部元親が甲浦城を攻略
【元親・土佐統一~四万十川の戦い】
1576 1 15 波多野秀治が織田から毛利へ寝返る
【八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけ?】
5 3 天王寺合戦
【織田信長VS石山本願寺~激戦!天王寺】
7 13 第一次木津川口海戦
【信長を悩ませた村上水軍】
1577 9 13 上杉謙信が七尾城を攻略
【七尾城・攻防~上杉謙信の「九月十三夜」】
10 10 信貴山城・攻防戦
【乱世の梟雄・松永久秀~運命の日爆死!】
1578 3 13 上杉謙信・没
【謙信・暗殺説~容疑者・信長&直江兼続】
3 29 羽柴秀吉が別所長治の三木城を包囲
【秀吉包囲網・三木城籠城戦】
7 3 上月城攻防戦
【山中鹿之介奮戦!上月城の攻防】
7 8 本願寺が雑賀衆に信長迎撃を要請
【雑賀衆と鉄砲~あの長篠の3段撃ちは・・】
8 12 大友宗麟が日向・無鹿に着陣
【宗麟の理想のキリシタン王国・ムシカ】
9 30 信長が鉄甲船の観艦式を開催
【信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場】
10 21 荒木村重が有岡城に籠城
【荒木村重・謀反の真意は?】
11 6 第二次木津川口海戦
【信長VS石山本願寺~第2次木津川口海戦】
11 11 耳川の戦い・初日~高城川攻防
【戦国大名・大友氏の落日】
【大友の大砲と島津の奇襲】
11 12 耳川の戦い2日め~耳川の逃亡
【島津の秘策・釣り野伏】
1579 3 17 御館の乱で上杉景虎が自刃
【謙信の死後・御館の乱】
8 29 徳川家康が正室・築山殿を殺害
【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!】
9 15 徳川家康が嫡男・信康を自刃させる
【なぜ信康を殺さねばならなかったのか?】
10 16 有岡城・開城
【有岡城・落城~如水と半兵衛と息子たち】
10 24 明智光秀が丹波平定を報告
【明智光秀と丹波・福知山の明智藪】
10 30 宇喜多直家が降伏する
【謀略の達人・宇喜多直家~本当はイイ人?】
11 7 毛利秀元・誕生
【「三本の矢」の毛利を救った4本目の矢】
11 26 龍造寺隆信が肥後を平定
【肥前の熊・龍造寺隆信の人生波乱万丈】
1580 1 17 別所長治・自刃、三木城開城
【秀吉包囲網・三木城籠城戦】
3 9 柴田勝家らが金沢御坊を攻撃
【金沢御坊・落城~加賀一向一揆の終焉】
8 2 石山合戦・終結
【石山本願寺、焼失】
8 19 筒井順慶が筒井城を破却
【信長・秀吉・家康だけが成しえた城割とは?】
11 17 柴田勝家が鳥越城を落す
【加賀一向一揆・完全終結と政教分離の話】
1581 2 23 信長が黒人・弥介と対面する
【織田信長と黒人さん】
3 22 第三次・高天神城の戦い
【武田滅亡へのカウントダウン~高天神城】
7 12 ~10/25秀吉が鳥取城を包囲
【鳥取城攻防戦~秀吉の兵糧攻め】
7 24 佐久間信盛・没
【ともに30年~佐久間信盛の悲惨な末路】
9 3 ~9/11第二次天正伊賀の乱
【信長の伊賀攻め~第二次天正伊賀の乱】
1582 2 天正遣欧少年使節の派遣
【天正遣欧少年使節の帰国】
3 11 武田氏滅亡
【武田勝頼、天目山に散る】
3 柴田勝家が魚津城を包囲する
【富山・魚津城の攻防戦】
4 3 織田方が恵林寺を攻撃
【恵林寺炎上】
4 27 秀吉が備中高松城攻め開始
【備中高松城・水攻め】
5 28 明智光秀が愛宕山で連歌会を催す
【連歌会の句は本能寺の意思表明か?】
5 29 信長が本能寺へ入る
【本能寺の変と堺の関係】
5 30 徳川家康が堺を見物
【本能寺の変~家康・黒幕説について・・・】
6 2 本能寺の変
【今日はやっぱり本能寺の変】
【数時間のタイム・ラグを埋める物は?】
【本能寺の変・秀吉黒幕説】
【逃亡で「人でなし」~織田長益の歩く道】
【信長の首は静岡に?】
~7日・伊賀越えで岡崎に帰る
【徳川家康・決死の伊賀越え】
6 3 魚津城・落城
【富山・魚津城の攻防戦】
6 4 秀吉が備中・高松城を落す
【備中高松城・落城~清水宗治・自刃】
6 6 秀吉が高松城を出発
【秀吉の大バクチ・中国大返し】
6 11 秀吉軍・摂津富田へ移動
【洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀】
6 13 山崎の合戦
【天下分け目の天王山!山崎の合戦】
6 18 神流川の戦い
【本能寺の余波!神流川の戦い】
6 27 清洲会議
【清洲会議~信長の後継者】
7 8 秀吉が近江で初の検地を行う
【太閤検地と刀狩】
9 21 長宗我部元親が勝瑞城を落す
【ラッキーサプライズで阿波平定】
10 15 秀吉が信長の葬儀を行う
【後継者へ~秀吉演出の信長の葬儀】
12 4 土岐頼芸・没
【道三を有名にした頼芸の国盗られ物語】
1583 3 9
11
柴田勝家が北ノ庄を出陣
秀吉が佐和山城に入り合戦準備
【秀吉VS勝家・一触即発の賤ヶ岳前夜】
4 21 賤ヶ岳の合戦
【勝家VS秀吉・賤ヶ岳の合戦】
【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】
4 23 前田利家が秀吉軍の先鋒として出陣
【賤ヶ岳の合戦~前田利家の戦線離脱】
4 24 越前の北ノ庄城を攻撃・柴田勝家自刃
【柴田勝家とお市の方の最期】
5 2 織田(神戸)信孝・自刃
【報いを待つのは秀吉か?信雄か?】
大坂城築城に伴い下水が整備される
【江戸の上水・大坂の下水】
1584 3 13 小牧長久手の戦い~犬山城攻略戦
【秀吉VS家康・小牧長久手の戦い勃発】
3 17 小牧長久手の戦い~羽黒の決戦
【森長可の屈辱】
3 28 小牧長久手の戦い~小牧の陣
【秀吉VS家康の睨み合い~膠着・小牧の陣】
4 9 長久手の戦い
【天下は何処・長久手の戦い】
【鬼武蔵・森長可~遺言に託された願い】
4 11 秀吉が戦死した恒興の母に手紙を出す
【池田恒興の母に送った豊臣秀吉の手紙】
6 15 蟹江城攻防戦
【小牧・長久手の最終戦!蟹江城攻防戦】
8 28 佐々成政が朝日山砦を攻撃
【末森城攻防戦~夫婦愛と奇襲の連携】
11 11 織田信雄が秀吉と単独講和
23日~【佐々成政の北アルプスさらさら越え】
11 21 家康が次男を人質に出し秀吉と講和
【結城秀康~その運命の分かれ道】
1585 3 21 ~4/22 紀州征伐
【紀州征伐と根来寺の数奇な運命】
4 16 丹羽長秀・没
【丹羽長秀・人生最後の抵抗】
7 26 秀吉が四国を平定する
【一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏】
8 2 上田城・神川の合戦・勃発
【真田の勝利と石川の寝返り】
8 5 伊東義祐・没
【雅を夢見た日向の王~伊東義祐の最期】
9 11 立花道雪・没
【ハンディを克服して大友氏を支えた道雪】
10 8 伊達政宗が父・輝宗を射殺
【伊達政宗の父親射殺事件の謎】
11 13 石川数正が家康側から秀吉側へ
【石川数正・出奔の謎】
1586 5 4 荒木村重・没
【荒木村重・謀反の真意は?】
6 14 秀吉の要請を受けて上杉景勝が上洛
【上杉景勝・上洛!・・・の前の一大事】
7 27 島津義弘が大友配下の岩屋城を攻略
【全員討死!岩屋城の激戦】
9 9 滝川一益・没
【滝川一益の人生波乱万丈】
9 18 島津討伐に向けて仙石秀久が府内に着陣
【どん底からの復活・仙石秀久】
10 27 秀吉と家康と大坂城で会見
【負けたのに勝った?人たらし秀吉の離れ業】
11 25 戸次川の戦い
【秀吉の九州征伐開始~戸次川の合戦】
12 19 秀吉が太政大臣になり豊臣の姓を賜る
【豊臣の姓に秘められた秀吉のコンプレックス】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
【忍者の教科書『万川集海』】

 

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2009年6月 2日 (火)

今日は本能寺の変~信長の首は静岡に?

 

天正十年(1582年)6月2日、京都・本能寺に宿泊中の織田信長を家臣の明智光秀が襲撃する・・・いわゆる本能寺の変・・・

もう、書くのも恥ずかしいくらい、毎年のように、この日は本能寺の変を書いておりますが(それぞれは【織田信長の年表】でどうぞ>>)・・・懲りもせずに、またまた・・・本日は、この日命を落す、その信長の首について・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この日、明智光秀に攻められ、本能寺で最期をとげる織田信長に関しては、ご存知のように、「首どころか、死体らしきものすら発見されていない」というのが、歴史の定説です。

だからこそ、寺というよりは、城もしくは砦の様相を呈していた本能寺には、いざという時の抜け穴が設置されており、信長は、自ら火を放って、その地下の抜け穴がら脱出した・・・なんていう生存説まで存在するわけです。

ルイス・フロイス『日本史』にも・・・
「胸に銃弾を受けたので切腹したという者も、御殿に火を放って焼死したという者もいるが、火事が大きかったので、信長がどのようにして死んだのかわからない」
てな事が書かれていますし、

小瀬甫庵(おぜほあん)『信長記』にも・・・
「首を探したがいっこうに見つからず、光秀が大いに怪しんだけれど、遺骸らしきものすら見つけられなかった」
と、なっています。

また、『大慈院旧記』には、伊勢の星合城主・星合教房(ほしあいのりふさ)の妻の話というのが書かれていて、それによると・・・

その妻が京都見物をしていたところ日ノ岡というところで、何やら人が騒ぎはじめ、見ると、市街地の中心のほうで煙が上がっていて、どうやら都で戦いが始まった様子。

とにもかくにも、戦場のほうへ向かって歩いて行くと、誰からともなく、「明智の謀反のよって本能寺が攻められている」という話を聞いて、彼女は「私は、女だが、信長様は主君にあたるお方・・・見捨ててはおけない」と、お供の若い武士を連れて本能寺へ向います。

すると、今まさに、何やら絹の包みを持った男が、本能寺の塀を乗り越えて逃げようとするところに出くわします。

「おのれ!泥棒め!」
と、彼女は、その男に斬りつけて、見事討ち取った後、男の持っていた包みを開けてみると、そこには、信長の首が・・・。

彼女は、涙をこらえながら、もう一度包みを戻し、大徳寺へ運んだという・・・で、その話を聞いた羽柴(豊臣)秀吉が、その妻を大いに褒めた・・・

・・・というのですが、これは、やはり後の創作でしょう。

なんせ、ご存知のように、その秀吉が中心となって、養子の秀勝(信長の四男)を喪主に行われた10月15日の信長の葬儀・・・

大徳寺で行われたその葬儀では、信長の遺骸がなかったために、しかたなく、信長の木像を2体造って1体を燃やして灰にし、遺骸の代わりにしたというのですから、もし、この時、本当に、かの星合の妻が、大徳寺に首を預けていたなら、わざわざそんな事する必要ありませんからねぇ。

やっぱり、「見つからなかった」というのが本当のところでしょうね。

・・・で、この「見つからなかった」、そして「今も見つかっていない」という点から、完全否定できない、もう一つのお話があります。

実は、静岡に存在する「信長の首塚」・・・

静岡県富士郡柴川町の西山というところにある本門寺というお寺・・・興国四年(1343年)に日代(にちだい)が開山した日蓮宗のお寺で、重要文化財の法華経も所蔵する由緒正しき古寺です。

富士宮市北山にある本門寺と区別して、通常、西山本門寺と呼ばれるそうですが、この西山本門寺の境内にある静岡県の天然記念物に指定されている大きなヒイラギ・・・そのかたわらにある首塚が、なんと信長の首塚なのだとか・・・

その言い伝えによれば・・・

信長が本能寺で光秀の襲撃を受けた時、原胤重(たねしげ)なる人物と、その息子・清安(きよやす)宗安(むねやす)の兄弟も巻き込まれ、父と兄は討死するも、弟の宗安だけは、何とか助かり、ちょうど、その時、本能寺に居合わせた本因坊算砂(さんさ・日海)の指示により、父と兄の首とともに、信長の首を持ち出し、炎上する本能寺から脱出したのだそうです。

そして、駿河(静岡県)まで逃亡した宗安は、信長の首を、ここ西山本門寺の境内に埋めて、その横にヒイラギを植えたのだとか・・・確かに、現在、天然記念物のこのヒイラギは推定樹齢が400年~500年という事なので、時代的には合ってます。

さらに、この西山本門寺の第18世住職が、その宗安さんの子・日順(にちじゅん)上人というのも、何やら信憑性がなくもありません。

また、変の当日、本能寺に居合わせたという本因坊算砂・・・この人は、本行院日海(ほんこういんにっかい)の名でも知られる日蓮宗の名僧ですから、彼が、知り合いの同じ日蓮宗のお寺に逃げるように指示した可能性もありますね。

知る人ぞ知る逸話ですが、本能寺の変の数時間前、囲碁の名手でもあるこの算砂は、信長の前で鹿塩利堅(かしおとしかた)と対局し、その時、『劫(こう・交互に相手の石1個を取り返す事ができる形)が三箇所にできる『三劫』といういつまでも勝負がつかない形になった事から、勝負は無効とされ、算砂は不思議がりながら帰った・・・とされていますが、ひょっとして、上記のように勝負が長引いたのであれば、夜遅くなってしまって、泊まった可能性もなきにしもあらず・・・

果たして、その首塚の下には、本当に、信長が眠っているのか否か・・・歴史好きの心をドキドキさせてくれる話である事は確かですね。

:;;;:+*+オマケの豆知識+*+:;;;:

ある時、信長が算砂に対して、五目置いて(弱いほうがあらかじめ盤面に5つの石を置いて対局する事)打ちはじめますが、アッという間に負かされてしまい、それ以来、信長は算砂の事を「名人」と呼ぶようになります・・・つまり、算砂が囲碁の初代・名人

その後、本因坊は子から孫へと受け継がれますが、昭和二十一年(1946年)、第21代本因坊秀哉が引退した後は、世襲制を廃止し、対局による選抜になりました。

現在は、その優勝者に与えられる称号を本因坊と称します(↑「ヒカルの碁」を読んだ人なら知ってるよネ!)
 

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2009年5月28日 (木)

明智光秀の連歌会の句は本能寺の意思表明か?

 

天正十年(1582年)5月28日、明智光秀愛宕山西坊で、紹巴らを招いて「愛宕百韻」を催しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)・・・この年の3月に武田勝頼を自刃に追い込み、戦国乱世にその名を馳せた武田氏を滅ぼした織田信長・・・(3月11日参照>>)

その時に武田から寝返り、滅亡に一役かった穴山梅雪(ばいせつ・信君)を連れて、徳川家康が挨拶がてら安土を訪れたのは5月15日でした。

この年は、織田と徳川が同盟を結んで、ちょうど二十年目にあたる節目の年でもあり、戦国最強と言われた武田を滅ぼした事もあり、その日の酒宴は大いに盛り上がったようですが、ちょうど同じ日に信長のもとに届いたのが、中国地方への遠征担当だった・羽柴(豊臣)秀吉からの援軍要請です。

この時、備中(岡山県・西部)高松城を水攻め(4月27日参照>>)の真っ最中だった秀吉が、「敵は、毛利輝元ら主力軍が出陣する事となったので・・・」と、信長自らのお出ましを願ってきたわけです。

信長は、自ら出陣する準備に取り掛かると同時に、5月17日、明智光秀に、その先鋒を努めるよう命令を発します。

光秀は、その日のうちに安土を発ち、坂本城へ入城・・・さらに、5月26日には丹波亀山城(京都府亀岡市)に入り、中国出陣の準備を始めます。

翌・27日には、嫡男の十五郎光慶(みつよし)ら、わずかな側近だけを伴って山道を上り愛宕山を参拝します。

以前から、時おり書かせていただいております通り、愛宕神社のご本尊は勝軍地蔵・・・その名の通り、合戦に勝利をもたらしてくれる神様で、当時の武将たちから篤い信仰を受けていた神様です(1月24日参照>>)

Dscn6806800 清滝から愛宕山への登山道

『信長公記』によれば、この日、山内の太郎坊でおみくじを引いた光秀は、2度も3度も引きなおしたのだとか・・・引いても引いても「凶」だったからって事らしいですが、どうも、この話は、後づけ臭いですね。

そして、翌日・・・天正十年(1582年)5月28日、愛宕山内の西坊威徳院(にしのぼういとくいん)で、「愛宕百韻(あたごひゃくいん)として有名な連歌会を催すのです。

当時の連歌会は、茶会と同様の文化・教養を披露しつつ、学びつつ行われる社交行事で、今回のように神仏を前に行う場合は、戦勝祈願の意味合いも含まれています。

主催したのは、光秀と仲良しの威徳院・住職の行裕(ぎょうゆう)、宗匠(そうしょう)として招かれたのは、有名連歌師だった里村紹巴(さとむらじょうは)ら9名・・・

連歌会では、順番に出席者による即興の句が次々と詠まれていくわけですが・・・ここで、光秀が一番に詠んだのがあの有名な例の句です。

♪ときは今 あめが下知る 五月(さつき)かな♪

このあと・・・
♪水上(みなかみ)まさる 夏山♪ 行裕
♪花落つる 流れの末を せきとめて♪ 紹巴
・・・・と続き、
最後に、嫡男の光慶が
♪国々は 猶(なお)のどかなるころ♪
と、最後を締めくくる句を詠んでいます。

この時の光秀の句が、「自分が天下を盗る」=「本能寺の変を起す」という意志表明だったのではないか?と言われているわけですが、その解釈は・・・

光秀が土岐(とき)の出身であるとされるところから・・・

最初の
♪ときは今♪「土岐は今」
♪あめの下知る♪「天(あめ)の下知る」
となって、「土岐氏(の自分)が、今、天下を盗る」という意味に取れると・・・

果たして・・・
その真相は、もちろん、今も謎なわけですが・・・

・・・で、黒幕がいたか?いなかったか?、謀反のを起した光秀の心境は?というお話は、別のページで見ていただくとして、本日のところは、この句が、本能寺の意志表明だったかどうについて書かせていただきますね。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

結論から言わせていただくならば・・・「ない」と思っています。

この句の解釈も、先のおみくじ同様、この後の出来事を知っている後世の人の後づけだと思います。

それは、以前から時々書かせていただいているように、「この時の光秀は天下を取ろうとは思っていなかった」と考えるからです。

その理由の一番は・・・
天下を取ろうと思うのであれば、一番の味方になってくれるであろう筒井順慶細川藤孝に根回しをせず、味方になってくれるかどうかもわからない状態で事を起こすのは無謀極まりない事だからです。

それとなく打診して、それなりの感触を得てからでないと、誰も味方にはなってくれません・・・現に、2人とも光秀側にはついてくれませんでした。

第二に・・・というか、こっちのほうが重要ですが、以前も書かせていただいた信長の息子・信忠を無視しての本能寺攻撃です。

この本能寺の時点では、すでに後継者は信忠に決まっていたわけですから、信長1人を殺害しても、信忠が、その後を継ぐだけで、光秀に天下は回ってきません。

ですから、この時、光秀が本当に天下を盗るつもりであるのならば、本能寺にいる信長と、妙覚寺にいる信忠を、同時に攻撃しなければ話になりません。

しかし、兵の数は充分にあったにも関わらず、ご存知のように、光秀は、本能寺だけに攻撃を仕掛け、信長の遺体を捜しまくり、その後、思い出したように妙覚寺の信忠の攻撃へと向かいます。

この時、光秀が本能寺の信長にかまっている間に、信忠が安土へと逃走するか、大坂で四国への出陣準備をしている弟・信孝と合流しているかすれば、もう、それで、終っていたのです。

信忠が、逃避せずに、妙覚寺から二条御所へと移動して籠城してくれたおかげで、光秀は信忠をも討つ事ができ、そこで、はじめて「天下」という話になるわけです。

信忠の自刃は、むしろ光秀にとってはラッキーサプライズで、そこに計画的な天下盗りはありません。

この日詠んだ句が、「信長を討つ」という意味にとれる内容なら、意志表明だったかも知れませんが、「天下を盗る」という意味にとれる内容なので、これは、本能寺の変の意志表示ではありません・・・と、これが、現在のところの、連歌会の句に対する私的な見解であります。

・・・とは言え、連歌会の句が意志表示でなかったとしても、この時点で、光秀に謀反の意志があったかどうか・・・というのは、黒幕説と同様、まだまだ検討の余地アリです。

これまでに書いた「本能寺の変」関係のページ・・・よろしければどうぞo(_ _)o

 
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2009年5月 3日 (日)

織田信長VS石山本願寺~激戦!天王寺合戦

 

天正四年(1576年)5月3日、石山本願寺を取り囲むように構築された織田信長勢の砦を巡っての激しい攻防戦=天王寺合戦が繰り広げられました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

織田信長に反発した第15代室町幕府将軍・足利義昭(7月18日参照>>)の呼びかけで、浅井長政朝倉義景武田信玄らの武将によって形勢された信長包囲網・・・

そこには、第十一世・顕如(けんにょ)の先導で、全国に一向一揆の嵐を巻き起こした浄土真宗の門徒たちも加わっていました。

現在の大阪城の建つ位置にあったとされる石山本願寺は、まさに、その一向一揆の中心の場所・・・。

そんな本願寺と信長との戦い・・・世に言う石山合戦は、元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)まで、11年の長きに渡って繰り広げられます(11月24日参照>>)

一時は、それこそ全員を敵に回して、ピンチの連続だった信長も、浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)義昭を追放し、信玄の死にも助けられ・・・と、一つ一つ潰していく中、天正二年(1574年)の9月には、顕如の呼びかけに連動して発起した長島一向一揆を終結させます(9月29日参照>>)

翌・天正三年(1575年)10月には、信長と顕如の間で講和が成立し、戦いは小休止となりますが、ここは、お互いが力を蓄えるための様子見ぃの講和・・・。

この間に、信長は安土城の建設を急ぎ、顕如は鉄砲に長けた紀州(和歌山県)雑賀(さいが)に声をかけ、このゴタゴタの張本人である義昭は、信玄亡き後の大物武将として上杉謙信毛利輝元に助けを求めます。

・・・で、結局、先の講和から、わずか半年後の天正四年(1576年)4月14日、再び合戦の火蓋が切って落とされるのです。

Tennouzikassenzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

北東の守口、北西の野田、南の天王寺と、石山本願寺を囲むように、多くの砦を構築した織田の軍勢・・・各砦を拠点に、荒木村重明智光秀細川藤孝原田直政らが、本願寺に向けて攻撃を開始しました。

この時、石山本願寺自身には、4万余りの宗徒が籠城していたと言いますが、信長自らが陣頭指揮に立ち、士気あがる織田軍の猛攻撃によって、一時は敗色が濃くなった本願寺・・・しかし、天正四年(1576年)5月3日、かねてより、顕如が声をかけていた雑賀衆の一番手が登場します。

木津川口から、逆に織田軍を包囲した雑賀衆は、数千挺の鉄砲を一斉射撃!・・・直政は討死し、村重・光秀・藤孝らは、慌てて天王寺砦へと逃げ込みます。

この日の敗戦には、さすがの信長も、一旦、若江城(東大阪市)へと退却し、態勢の立て直し・・・

やがて、5月7日、再び本願寺に迫った織田軍は、やはり戦いのプロ・・・5倍近くの数の宗徒を蹴散らし、本願寺の城戸口前まで攻め寄せます。

『陰徳(いんとく)太平記』によれば、このように、本願寺がヤバくなると、真っ赤な法衣をまとった顕如が皆の前に現れ、その姿を目にした者は、たとえ織田の兵であっても、その神々しさにひれ伏し、たちまちのうちに武器を捨てて念仏を唱えはじめ、その度に形勢が逆転する・・・てな事が書かれていますが、この文献は軍記物に分類されるものなので、かなりオーバーに書かれているとは思います。

ただ、織田軍が攻撃をやめたかどうかはともかく、顕如のお出ましによって、味方の宗徒たちの士気があがった事は間違いないでしょう・・・なんせ、プロの戦闘集団でない彼らにとって、メンタルな部分の結束は一番重要ですから・・・。

ともあれ、この天王寺合戦の後に、さらに砦の数を増やした信長・・・そのおかげで、籠城する本願寺側は、完全に孤立状態となり、確保した兵糧が無くなるのも時間の問題となります。

・・・と、ここに登場するのが、西国の雄・毛利・・・。

ようやく、重い腰をあげた輝元は、海に強いその特性をフルに生かして海路からの兵糧補給を試みます。

毛利配下の村上水軍小早川隆景配下の小早川水軍・・・海賊時代に培ったそのゲリラ的航行術を駆使する海の民の出現に、この先、石山合戦の舞台は、大坂湾の海の上へと移動する事になるわけですが・・・

そのお話は、やはり、第一次木津川海戦が行われる7月13日へどうぞ>>
 

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2009年4月27日 (月)

織田信長・人生最大の危機一髪~金ヶ崎の退き口

 

元亀元年(1570年)4月27日、前日、朝倉景恒金ヶ崎城を攻略した織田信長軍に、浅井長政・離反の一報が伝わり、全軍の撤退を開始しました。

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永禄十年(1567年)に斉藤龍興(たつおき)を破り、美濃(岐阜県)一国を手に入れ、本拠地を、生まれ故郷の尾張(愛知県西部)から岐阜へと移した織田信長・・・。

その翌年の4月頃には、北近江(滋賀県)を支配する浅井長政に、妹のお市の方を嫁がせて同盟関係を結び、9月には、その長政の協力のもと、近江南部を支配する六角氏を蹴散らして足利義昭(よしあき)を奉じて京都へと入り、翌月の10月には、その義昭を室町幕府の15代将軍に擁立しました(9月26日参照>>)

しかし、そんな信長と義昭の良好な関係は、わずか1年ほどで崩れていきます。

そう、信長は、将軍・義昭の臣下になる気なんてさらさらないわけで、むしろ、はなから、自分が天下を掌握したいわけですから・・・。

・・・で、さらに翌年の元亀元年(1570年)1月、義昭に『5ヶ条の掟書』を突きつけ、「天下の事は俺に任せろ!」と言い放ちました(1月23日参照>>)

そうなると、自ら全国支配に乗り出す事になるわけですが、先に書いたように、京都に入る時に南近江の六角氏は追放し、北近江の浅井氏とは同盟関係・・・。

美濃は三年前に手に入れたし、三河(愛知県西部)徳川家康とは、その息子・信康に、娘の徳姫を嫁がせて味方につけています。

残る国境を接する国は、越前(福井県)朝倉氏です。

信長は、若狭(福井県南西部)の国人・武藤友益(ともます)が、「たびたび自分に反抗するのは、義景が裏で糸を引いているのではないか?」ってな事を口実に、当時の朝倉の当主・朝倉義景上洛しての弁明を要求するのです。

ところが、その要求を、無視し続ける義景・・・。

・・・というのも、朝倉氏と織田氏は、もともと、このあたり一帯の由緒正しき守護大名・斯波(しば)の臣下にあった家系・・・

しかし、朝倉は、その中でも直臣で守護代をも命じられるような名門・・・それに比べて、織田氏は、家臣の家臣である陪臣(ばいしん)の家柄で、完全に格下なのです。

信長の求めに応じて、上洛するという事は、織田の風下に立つという事・・・そんな事は、義景のプライドが許しませんから、当然、その上洛要請を無視し続ける事になりますが、信長は信長で、それを許すわけにいかないのも当然・・・というより、はなから、朝倉を潰したい気満々!

かくして、元亀元年(1570年)4月20日、信長は、総勢3万の軍勢を率いて、朝倉を討伐するために京都を出陣するのです。

これが、以前書かせていただいた手筒山・金ヶ崎城の攻防戦(4月26日参照>>)です。

23日には若狭と越前の国境を越え、25日には敦賀(つるが)へと到着し、その日のうちに朝倉配下の武将・寺田采女正(てらだうねめのしょう)が守る金ヶ崎城を落とし、翌・26日には、義景の一族である朝倉景恒(かげつね)の籠る金ヶ崎城を開城させました。

・・・と、この信長の行動に困惑したのが、かの浅井長政です。

浅井氏と朝倉氏とは、父の代からの同盟を結んでおり、主従関係にも近い長年の友人・・・近江南部を支配していた六角氏との度々の抗争にも、常に朝倉は援助を差し向けてくれており、朝倉なしでは、浅井の家名を守れていたかどうかも危ういところでした。

・・・なので、2年前にお市の方を嫁に貰い、織田との同盟を結ぶ際にも、「朝倉は攻めない」という条件を、ちゃんと盛り込んでおいたのです。

・・・なのに、この状況です。

長年の友と、嫁の兄・・・長政が、悩みに悩む中、手筒山・金ヶ崎の両城を落とした信長は、その勢いのまま木の芽峠を越え、朝倉の本拠地・一乗谷へと迫ります。

そんなこんなの元亀元年(1570年)4月27日、信長の本陣に「長政・謀反」の知らせが届いたのです。

長政は、嫁の実家より、長年の同志を選びました。

それは、もちろん、織田との同盟がわずか2年に過ぎないという事に加え、朝倉との関係が切っても切れないものであったという事、それに何より、朝倉に味方するほうに勝算があったという事です。

そうです、この朝倉氏への攻撃が、この先、信長を最大のピンチへと追い込む、信長包囲網=元亀争乱の幕開けとなったからです。

将軍の権力をないがしろにされた義昭が、全国各地の有力大名に、自分に力を貸してくれるよう頼み込み、当然のごとく、攻撃を受けた朝倉は、その頼みに応じますが、朝倉だけではなく、信長1人が力を持つ事をヨシとしない者が、次々と反信長の意志を明らかにしていったのが、かの信長包囲網・・・。

今回の浅井・朝倉をはじめ、全国に宗徒を持つ石山本願寺、その石山本願寺を支援する西国の雄・毛利元就、鎌倉時代の守護からの名門・武田信玄、義を重んじる上杉謙信といった面々、さらにそこに比叡山・延暦寺を加えての「反信長同盟」・・・この先、長年に渡って悩まされる包囲網が、この時、形勢されたのです。

長政は、この状況を、信長を追い落とす絶好のチャンスと思ったに違いないでしょう。

一方の信長は、はじめ、この長政離反の一報を、朝倉の放ったニセ情報と思い、なかなか信じなかったと言いますから、よほど「お市の方を嫁に出して結んだ同盟を破棄するわけがない」という自信があったという事のようですが・・・

この日、次々と入る「長政謀反」の知らせに、「このままでは越前の朝倉と、北近江の浅井の挟み撃ちに合う」として、すみやかな撤退を訴える家臣の進言にも、耳を貸さなかった信長のもとに、「戦陣の菓子にでも・・・」と、妹・お市の方からの進物が届いたのです。

その包みを開けた信長・・・。

そこには、小豆をギッシリと詰めた袋・・・その袋の両側をしっかりと紐で結んだ物でした。

その袋を見て、「袋のねずみ」ならぬ「袋の小豆」・・・つまり、この進物が、現在の自分の置かれた状況・・・浅井と朝倉に挟まれ、逃げ道のない状況である事を示した謎かけである事に気づいた信長は、ただちに全軍に撤退命令を出したのだとか・・・。

これは、朝倉側の史料に残る、お市の方の聡明さを物語る逸話・・・が、やはり、あまりにもドラマチック過ぎるこのエピソードは、おそらく創作であろうというのが、専門家の見解なのですが、ドラマなどでは、よく描かれるエピソードの一つですね。

ただ、お市の方のエピソードの真偽は別として、この日、最初は長政の離反を信じなかった信長が、どこかの段階で真実である事を知り、退路を絶たれる危険を察知し、危機一髪で脱出した事は確かです。

従えたのは、わずか10名ほどの親衛隊だけで、しかも、攻め上ったルートを避け、若狭街道を通っての南下・・・途中、高島郡(滋賀県)朽木谷(くつきだに)を通過した時には、地元を支配していた朽木元綱が甲冑姿で現れ、「もはやこれまで・・・」と、死を覚悟する瞬間もあったようですが、逆に、元綱を味方に引き入れた事で、九死に一生を得て、4月30日に京都へとたどりついています。

世に言う「金ヶ崎の退き口」として有名な、この撤退劇・・・撤退戦で、最も危険とされる殿(しんがり・隊の最後尾)を努めた事で、一躍その名を挙げる秀吉ですが、秀吉のほかにも、明智光秀池田勝正らが殿を努めていたそうです。

「一に憂(う)きこと金ヶ崎、二憂きこと志賀の陣、三に福島・野田の退き陣」
と、『武家事記(ぶけじき)に称されるほどの、信長・危機一髪の4月27日でした。

まぁ、京都にたどりついた信長も、その先、本拠地の岐阜に帰るまでは安心できないわけで、この後、帰路の途中で、再びの危機一髪を味わう事になるのですが、そのお話は、また、いずれ、「その日」に書かせていただく事にします。
 

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2009年4月 8日 (水)

織田信長とキリスト教~彼は神になろうとしたのか?

 

永禄十二年(1569年)4月8日、織田信長ルイス・フロイス京都でのバテレンの居住と布教活動の自由を許可しました。

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ご存知のように、日本で最初にキリスト教の布教活動を行ったのは、あのフランシスコ・ザビエル・・・武力での植民地支配から軟化したキリスト教による支配へ政策を転換した当時のポルトガル国王・ジョアン3世が、イエズス会インドでの布教を要請し、さらにアジアへと布教活動を展開しつつある頃に、マラッカにいたザビエルがアンジロウ(またはヤジロー)という日本人青年と知り合い、日本での布教活動を決意した事は、すでに書かせていただきました(7月3日参照>>)

そのページで書かせていただいたように、天文十八年(1549年)7月に、アンジロウの故郷である鹿児島に上陸したザビエルは、領主の島津貴久に謁見し、鹿児島での布教の許可を得て活動を始めるわけですが、地元・仏教の抵抗もあり、また、やはり「本格的に布教活動をするには、日本の国王の許可を貰おう」と、九州を出て京都を目指したのです。

しかし、やってきた京都では、天皇の権力は失墜し、足利将軍も洛外へ追われて右往左往の時代・・・「こりゃ、アカン」と再び西へと戻り、周防(山口県)大内義隆、そして、ご存知、豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)の保護を受けて(11月11日参照>>)、輸出入の交易がらみとは言え、九州での布教はおおむね成功した事になりますが、ここらあたりで、ザビエルは後輩にバトンタッチ!

やがて、次々と来日した宣教師たちによって、キリスト教は徐々に日本に根をおろしていく事になるわけですが、それでも京都では、強い仏教勢力に押されて布教が難しく、畿内での拠点は、もっぱら堺・・・

永禄六年(1563年)に来日して、永禄八年(1565年)には、一旦京都に入っていたルイス・フロイスも、12代室町幕府将軍・足利義輝の暗殺のゴタゴタで京都を離れて、当時は堺にいたのですが、そんなこんなの永禄十二年(1569年)、先の義輝の弟・足利義昭を奉じて京に上ってきたのが、かの織田信長です(9月26日参照>>)

政治にも介入する当時の仏教勢力に対して政教分離を図りたい信長は、フロイスにとってもラッキーな存在・・・しかも、将軍・義昭よりも、こっちに近づいたほうが有利な事も明白・・・と来れば、会わないわけにはいきません。

翌年の正月には堺の町も掌握(1月9日参照>>)、3月には副将軍へのお誘いも断った信長(3月2日参照>>)・・・ちょうど、その頃、フロイスは、ヨーロッパ製の鏡・クジャクの尾・黒いビロードの帽子などを手土産に、信長のもとを訪ねたのです。

しかし、この時の信長は、帽子だけを受け取って他のお土産は返し、フロイスに会う事もありませんでした。

なぜに・・・
のちに、信長が語ったところによると・・・
「幾千里もの遠くからやってきた外人さんを、どうやって迎えたらええかわからんかったのよん」
と、あの無鉄砲の信長さんからは、想像もできないような、かわいらしい言い訳をなさっていますが、それにしても・・・

なぜに、帽子だけ・・・
どうやら、この帽子には一目ぼれ・・・。

もちろん、自分自身も身につけ、後には、あの武田信玄への進物として赤い羅紗の帽子を贈っているところからみても、ニューファッションとして、大いに気に入ったようです。
(信玄に赤い帽子が似合ったのかどうか気になるところではあります)

かくして永禄十二年(1569年)4月8日、建築中の二条城にてフロイスと会見した信長は、世界に散らばる人種の事、彼らの故郷・ヨーロッパとインドと日本の位置関係・・・そして、もちろんキリスト教の教えについてなど、2時間に渡って話続けたのだとか・・・

それも、ほどんどが信長の質問にフロイスが答えるという形式・・・つまり、自分が不思議に思ってる事を聞きまくって、フロイスを質問攻めにしたって感じの会見だったそうです。

その後も、彼ら宣教師たちを、再三に渡って招き、月の動き世界の気候なんかの話に聞き入っていた信長さん・・・なんと、彼らが地球儀を使って、ひと言ふた言の説明しただけで、地球が丸い事を理解したと言いますから、その柔軟な頭脳は、ここぞとばかりに、その知識を吸収した事でしょう。

やがて、義昭との力の差が歴然となるにつれ、信長が好む南蛮文化は、配下の武将や、金持ち商人の間で一大ブームとなります。

Nannbannzubyoubucc 南蛮屏風

あの、徳川家康でさえ、例のヒダヒダの襟の南蛮ファッションに身を包んでいたと言いますから、相当なハヤリだったのでしょうが、信長さんは似合いそうですが、家康のヒダヒダは・・・なんか笑ってしまいそうです。

そんなフロイスから見た信長の印象は・・・
「背丈は中くらいでほっそりとしていて、ヒゲはうすく、声は高くて心地いい・・・自分の考えに自信を持っていて、貴族や武将など身分の高い者を軽蔑する反面、身分の低い者とも気軽に話す」
と、大変な好印象のようです。

その好印象を裏づけるかのように、安土の城下にセミナリヨ(神学校)をも建設して、キリスト教を手厚く保護した信長・・・「キリスト教の布教によって、アジアへの支配を広げよ」と命じられているフロイスら宣教師にとっては、「ヤッター!大成功!」と、喜びたいところであったでしょうが、一つ、彼らの計算違いがありました。

それは、信長自信が決してキリスト教に帰依する事がなかったところです。

比叡山一向一揆・・・仏教に対して、「あれだけ武力を行使する信長が、これだけキリスト教を保護してくれるならひょっとして・・・」と、彼らは淡い期待を抱いていたのかも知れませんが、先にも、書かせていただいたように、信長の目標は政教分離・・・仏教であろうが、キリスト教であろうが、政治に関与させる事を避けるがための武力行使であって、宗教そのものを弾圧しているわけではないのですから・・・。

結局、信長自信が信者に・・・という期待を裏切られたフロイスは、やはり、その著書『日本史』に・・・
「彼は、神や仏をまったく信じていない・・・デウスを否定して自らを神になぞらえ、途方もない狂気で、悪魔的な思い上がりである」
と、先ほどの好印象とは、うって変わった表現をしています。

このフロイスの記述をもとに、時代劇などでも、「信長は神になろうとしていた」といった感じで描かれる事がありますが、個人的には、それはちょっと違う気がします。

なぜ?と言えば、私自信が無神論者だから・・・信長さんほどスゴイ人間ではありませんが、その心の内をちょっとだけ理解できる・・・とでも言いましょうか・・・。

もちろん、無神論者と言いながらも、お寺や神社にもお参りしますし、手も合わせて祈りを捧げ、お守りを戴いたりもします。

全否定もしないし、全肯定もしないというだけです。

信長さんも、そんな感じであったのではないか?と思います。

現に、あの桶狭間の合戦(5月19日参照>>)の前には、熱田神宮必勝祈願なんてやっちゃってますし、その他にも、神社仏閣への寄付も行ってます。

この時代は、キリスト教だけに限らず、ほとんどの人々が神仏を固く信じていた時代ですから、その時代に、それほど信じていない事は、ことのほか特別であったでしょうが、現代=平成の時代に暮らす皆様にとっては、おそらく特別ではなく、たとえ無神論者でなくとも、その心境がわからなくもないのでは?と思うのです。

たとえば、日本には、もともと八百万の神様がいて、その八百万の中には、外国の神様だって入るだろうし、山や石をご神体とする神様も含まれているだろうし・・・、どの神や仏にもどっぷり浸かっていない人は、それぞれの戒律に縛られる事のない感じで、それぞれの神や仏に接しているわけで、100人いれば、100人とも顔が違うように、100通りの考え方があり、そのぶん、100の神様・・・つまり、自分なりの信念のようなものが、心の中にあような気がするのです。

すべての、当時の文献を把握しているわけではありませんので、フロイス以外の、日本人の記した当時の文献に、「信長=神」の事が、どのように記されてあるのかはわかりませんが、おそらく、神仏の存在を信じて疑わなかった当時の人々から見れば、どの神や仏に帰依する事なく、自分なりの神=信念を持っている信長の姿が、「彼は神になろうとしている」と映ったという事なのではないかと思うのです。

しかし、それぞれの宗徒のかたには失礼とは思いながらも、お正月には神社へ初詣に行き、お盆には家族で墓参りをし、クリスマスを一大イベントとはしゃぎつつ、仏教での葬式で先人を見送る現代の日本人にとっては、信長さんの行動が、必ずしも神になろうとしてるわけではない事が理解できると思うのですが、いかがでしょうか?

信長は、自らを神になぞらえたのではなく、「自分なりの信念=神様像(彫刻の像ではなく、イメージ的な像です)のような存在が心の中にある」と言いたかったのではないかと思うのです。
 

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2009年3月22日 (日)

武田滅亡へのカウントダウン~第3次・高天神城の戦い

 

天正九年(1581年)3月22日、徳川家康武田勝頼配下の岡部元信が守る遠江・高天神城を落とした第三次高天神城の戦いがありました。

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某人気クイズ番組が、「武田氏が滅亡した戦い」と、間違った出題をしてしまうくらいの大敗の印象を受ける長篠の合戦(5月21日参照>>)・・・この戦いの結果によって信玄亡き後の武田氏を受け継いだ武田勝頼は、父との比較で愚将のレッテルを貼られる事が多いわけですが、領地の広さから見れば、信玄の時代より、勝頼の時代のほうが、少し大きくなっているのが事実です。

その象徴とも言えるのが、遠江(静岡県西部)駿河(静岡県東部)の国境の位置に建つ高天神城(たかてんじんじょう・静岡県掛川市)・・・。

鶴舞城とも呼ばれるこの城は、16世紀の初頭に築城され、戦国時代は小笠原氏の居城でありましたが、甲斐(山梨県)の国から南側へ進攻したい武田氏にとっては、喉から手が出るほど欲しいと思う城だったわけで、信玄が度々攻めるも、どうしても落せなかった城なのです。

天正二年(1574年)に、この念願の高天神城を奪取した勝頼が、それを栄光のシンボルのように思った事は確かでしょう・・・なんせ、父・信玄が落とせなかった城を手に入れたのですから・・・。

勝頼は、この城を、勇将の誉れ高き岡部元信に守らせ、重要な戦略拠点としたのです。

しかし、翌年の天正三年(1575年)に起こった、先の長篠の合戦で、やはり、重要な南の拠点であった長篠城(愛知県新城市)が、織田信長との強力タッグを組んだ徳川家康に奪われ、勝頼と、信玄時代からの古い家臣との間の溝は、ますます深まります。

そんな中、天正六年(1578年)に、あの上杉謙信が亡くなり(3月13日参照>>)天下の情勢は大きく信長へと向く時代となっていき、さらに勢力下降気味の武田氏にとって、国境=甲斐中心部から離れた位置にある高天神城の維持が難しくなってくる・・・という家康に恰好の展開となってきます。

天正七年(1579年)10月・・・わずか1ヶ月前に、妻・築山殿と息子・信康を死に追いやって(8月29日参照>>)まで、武田との敵対をあらわにした家康は、いよいよ、高天神城・攻略の準備に入ります・・・それも、家康らしく、慎重に慎重を重ねて・・・。

翌年・天正八年(1580年)には、この城を兵糧攻めにすべく、周辺の三井山などに、六つの砦・対城(ついのしろ・攻撃の拠点とするための仮の城8月19日【城割の重要性】参照>>などを構築し、さらに深い水堀、何重にも連なった大柵を築きます。

「鳥も通わぬ」と称されたこの包囲網に、さらに、勝頼からの援軍に備えて、一間ずつに番兵を配置しました。

城を守る元信以下約1000名の城兵は、弾薬も兵糧も運び込めない状態の籠城戦となりましたが、さすがは勇将の元信・・・その采配は、見事で、徳川軍の度々の攻撃にも、その都度撃退し、耐え抜いていました。

しかし、もはや、それも時間の問題であるのは、誰もが思うところ・・・しかも、勝頼からの援軍も望めない状況となるに至って、元信らは決意を固めます。

こうなったら、降伏をして開城するか、城を枕に討死するか・・・

かくして、完全包囲されてから10ヶ月持ちこたえた天正九年(1581年)3月22日・・・彼らは、後者を選びます。

そう、この高天神城最後の戦いは、籠城していた元信から仕掛けたのです。

その日の午後10時、夜陰にまぎれて2手に分かれて出撃します。

・・・というのも、この高天神城・・・海抜132mの山の上に建つ山城なのですが、その峰は上部で東西に分かれており、その二つは独立した構造となってしました。

東に本丸・御前曲輪・三の丸、西に二の丸・西の丸など・・・と、どれも広い曲輪ではないうえ、斜面はどこも急な勾配だったのです。

まずは、西の丸から出撃した城主・岡部元信が率いる約500の軍勢・・・北西側に構築されていた空堀をなんなく通過し、その向こうを守っていた大久保忠世(ただよ)と接触!

決死の覚悟の岡部隊に推された大久保隊は、やむなく一時撤退するのですが、そこに南側を守っていた大須賀康高隊が救援に駆けつけ、数に劣る岡部隊は、城へと押し戻される形となり、その混乱の中、勇将・元信は討死します。

一方、岡部隊と同時に本丸から、北西に向かって出撃したのは、残る約500の兵をまかされた江馬(えま)直盛が率いる軍勢・・・本丸北西部の勾配は特に急になっており、断崖絶壁を綱づたいに降りていく彼らでしたが、その真下には、徳川方が構築した2重の堀が設けられているうえ、その場を守る石川康道隊と激突します。

さらに搦(からめ)手横を守っていた水野勝成隊、その東側を守ってした鈴木重時隊が、石川隊を加勢します。

なんせ、徳川方は総勢5000いますから・・・。

ここでは、徳川方の圧勝・・・江馬隊の中には、水堀にて溺死した者も多数いたのだとか・・・。

この間に、徳川方の正面部隊である松平康忠(家康の義弟)率いる部隊が大手門をぶち破って、城内に侵入し、城へと戻されつつあった、先の岡部隊の生き残りを討ち果たします。

もはや、城の北西部へ撃って出た岡部隊も江馬隊も全滅状態・・・しかし、この間にわずか50名の小隊で、西の丸から南西方向へ出撃した横田尹松(ただとし)・・・。

もちろん、徳川方の包囲は「鳥も通わぬ」わけですから、彼らの向かう方向にも、守りの兵はいたわけですが、その小隊ゆえのこまわりの良さをうまく利用し、彼らは、わざと徳川方の兵の少ない険しい山道を駆け抜けます。

そう、彼らの使命は、敵を倒す事ではなく、この包囲網を突破する事・・・。

しかし、それも決死の使命には変わりません。

彼ら50名のうち、尹松を含む、わずか11名が信濃・伊那方面への脱出に成功し、甲府勝頼のもとへと走ります。

尹松らから、高天神城・陥落のニュースを聞いた勝頼は、死を覚悟した壮絶な最期の一部始終を、ただただ涙を流しながら聞いていたと言います。

自分が唯一、父に誇れるこの城を失った勝頼の悲しみは、勇将・元信の死とともに、心に、深い傷を与えた事でしょう。

そんな勝頼が、妻子とともに、天目山にて最期を遂げるのは、ちょうど1年後の天正10年(1582年)3月11日・・・(3月11日参照>>)

長篠の合戦から、武田の衰退が始まったのだとしたら、この高天神城の戦いは、まさに、滅亡へのカウントダウンが始まった合戦と言えるでしょう。
 

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2009年3月13日 (金)

上杉謙信・暗殺説~容疑者・織田信長&直江兼続の本心

 

天正六年(1578年)3月13日、戦国武将の中でも屈指の有名人である越後上杉謙信が、春日山城で倒れ、49歳の生涯を閉じました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以前、書かせていただいたように、【謙信・女説】(1月21日参照>>)なんて話も飛び出すほど、女性との浮いたウワサ一つなかった上杉謙信・・・おかげで、その死後、二人の養子の間で家督を巡って争われる御館(おたて)の乱が勃発する事になってしまうわけですが・・・

タイムリーですね~。
現在のところ大河ドラマは、ちょうど、このあたりをやってます。

一般的な説では、合戦に次ぐ合戦の不規則な生活と栄養の偏り、さらに、浴びるように飲んでいたお酒などで高血圧と糖尿病が悪化していたところ、3月9日(11日とも)(かわや)にて脳卒中で倒れて、昏睡状態のまま帰らぬ人となってしまったとされています。

つまり、血圧高いのにキバリ過ぎたって事なのでしょうが、さすがに、この通りにドラマ化する事は、お食事中の視聴者もおられる手前、避けなければならず、大河では、いつも籠ってる毘沙門堂で意識を失う・・・となってしましたね。

大河と言えば、あの変わった造りの毘沙門堂は、「まさか、毘沙門を毘沙門にしちゃったの?」という疑問もなきにしもあらずですが、先日の平家の生き残り・平景清さん(3月7日参照>>)のように、1人籠ってお経を読むとなると、何となく洞窟が絵になる気がしないでもないので、謙信らしいカッコイイ最期としては、○って事でしょうね。

ところで、上記の通り、通説では脳卒中ですが、天下を狙う大物の急死という事で、やはり、あります!暗殺説・・・

推理物では、こういう場合、やっぱり、謙信が死んで一番得をした人が疑われるわけですが、そうなると、第1の容疑者は、織田信長という事になります。

なんせ、この前年の9月には、カッコ良く琵琶を奏でながら七尾城を落し(9月13日参照>>)、さらに加賀に進攻して、手取川では信長配下の柴田勝家を撃ち破った謙信・・・冬のため、一旦、春日山城に戻りますが、春になれば大軍を率いて上洛するつもりであったと言われているわけですから、そうなると、謙信VS信長の直接対決もあったかも知れないワケで・・・。

実際、謙信が亡くなった後に勃発した後継者争いで、上杉がゴタゴタしている間に、信長は、上杉の配下であった越中(富山)の半分ほどを、合戦らしい合戦をする事なく、いとも簡単に手に入れてしまいます(6月3日参照>>)

これには、謙信が用をたそうと、しゃがんだ時に、トイレの下に潜んでいた刺客がオケツの○をブスリと突き刺した・・・なんていう仮説まで囁かれていますが、確かに、この頃の謙信自身が、自分は狙われてるのかも・・・」死を予感するかのような行動をとってもいるのです。
(脳卒中は予測不可能ですから・・・)

死の1ヶ月前には、例の辞世とされる
♪四十九年一睡の夢 一期の栄華一杯の酒♪
「49年の自分の生涯は夢のように短かった 栄華も一杯の酒ほどの価値しかない」
という歌を詠んでいます

絵師を呼んで、自分の肖像画を書かせてもいましたが、奇しくもその肖像画が完成して春日山に届いたのは、この天正六年(1578年)3月13日亡くなった日だったのだとか・・・。

そんなところから、自殺説も囁かれています。

謙信は永禄八年(1565年)頃から左足に腫瘍ができていて、それ自体は死に至るものではないものの、例の突然「出家する」と言っては姿を消したり、「神の啓示があった」と言っては突拍子もない行動に出たりするところから躁鬱(そううつ)の傾向があったのではないかとされ、その腫瘍を苦に発作的に自殺したのだというのですが・・・やはり仮説の域を出ないものです。

ちょっと話がそれたので、暗殺説に戻しますが・・・

謙信の死で得をする人物・・・第2の容疑者として浮上するのは、今回の大河の主役・直江(樋口)兼続(かねつぐ)とその仲間たち・・・もちろん、彼らのトップである景勝(かげかつ)も含む、後継者争いにからむ人物たちです。

今回の大河では、やはり、主役の手を汚させるわけにはいきませんから、主役クラスは誰も悪くないのに、何となく、悪人タイプの家臣の入れ知恵で、お互いが疑心暗鬼になり、ギクシャクしはじめて乱に突入・・・てな感じになってましたが、実際には、「準備してたんちゃうん?」と疑いたくなるほど、彼ら景勝組は、素早い行動で本丸を奪取しています。

(ドラマで、すでにご存知かも知れませんが・・・)もともと、冒頭に書いた通り、女性を寄せつけなかった謙信には子供が無く、後継者となるべき人物としては、姉・仙桃院(せんとういん)の息子・景勝と、北条との和睦の時にその証しとしてやってきた北条氏政の弟・景虎(かげとら)、そして能登の畠山氏から養子に入った政繁という三人の養子がいたわけですが、このうち政繁は、重臣の上条氏を継いだので、残るは景勝と景虎の二人という事になります。

もちろん、謙信が、そのどちらとも後継者を指名しないで倒れてしまう事でモメるわけです。

・・・と、ここまでは、ドラマと同じですが・・・

実際には、9日もしくは11日に謙信が倒れた直後に、景勝は、もう一人の養子・政繁や謙信の側近だった直江信綱(今のところお船さんのダンナです)らの手引きで本丸に入って、すぐさま上田衆が警固を固めてしまったようで、謙信の急を聞いた景虎が、12日に本丸にやってきた時には、入城を断られ、追い返されているのです。

これ、まだ謙信、死んでないんですよ!

そして、その翌日に謙信が亡くなって、その2日後の15日には、景勝は、自分が後継者である事を内外に公言しています。

つまり、ドラマのように、「今は喪に服する時じゃ」なんて、余裕ブッこいてるヒマなんてありゃしない事になってしまうわけです。

・・・で、この後の後継者争い=御館の乱につきましては、以前、書かせていただいた【謙信の死後・御館の乱】のページ(3月17日参照>>)で見ていただくとして、その御館乱のページには、今回の大河の主役・兼続さんの、「カ」の字も出てきやしません。

実は、この兼続さん・・・この御館の乱以前も、そしてこの乱での活躍も、ほとんど史料には出てきません。

この乱が終ってから、突然出世をし始め、歴史の舞台に登場するのです。

しかも、この乱での論功行賞(恩賞の分配)に不満を持った者の巻き添えとなって、かの信綱が死んでしまった事で、ちゃっかりと、お船さんと結婚して直江家を継ぎ、わずか22歳で上杉のナンバー2にのし上がってしまうのですよ。

臭います~~
いったい兼続さんは、この御館の乱で、どんな手柄を立てて、そこまでの出世をしちゃったのやら・・・

・・・とは、言うものの、これらは、あくまで、歴史を楽しむ側の、想像力たっぷりの推理・・・実際には、やはり、きっと謙信の死は脳卒中だったのでしょう。

死を予感していたというのも、明日をも知れぬ戦国の世では、当然の事かも知れませんし・・・もちろん、兼続さんが疑わしいからと言って、ドラマの内容を否定するものでもありません。

今回の大河は、直江兼続が主役・・・主役は、思いっきりカッコよく描いていただかなければ、つまらないドラマになってしまいます。

ドラマや小説は、歴史の中にフィクションを織り交ぜて、いかにおもしろく仕上げていくかが勝負ですからね。

『天地人』・・・この先も楽しみです。
 

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2009年3月 2日 (月)

信長が副将軍を断り「銭ゲバ」と化す?

 

永禄十二年(1569年)3月2日、足利義昭の働きかけで、正親町天皇から織田信長のもとに勅使が遣わされ、副将軍・補任の内命が伝えられました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このブログでも、今まで度々登場している「京を制する者は天下を制す」という言葉・・・実際に、戦国武将の間でこの言葉が使われてはいなかったかも知れませんが、要するに、「天下」というシロモノは、単に全国制覇をするという意味ではないわけです。

京都・・・つまり、天皇や朝廷に認められていなければ、いくら武力で以って多くの領地を支配したとしても、それは一地方大名に過ぎないわけで、京都を制すとは、天皇や朝廷に、自分自身を認めさせる事にあったのです。

皆さんご存知の永禄十一年(1568年)の足利義昭を奉じての織田信長の上洛(9月26日参照>>)・・・

実は、信長の上洛は、この時が初めてではありません。

あの桶狭間の合戦(5月19日参照>>)の前の年・永禄二年(1559年)に、一度上洛しているのです。

はっきりと記録されてはいなので、その数は80人とも500人とも言われる曖昧さではありますが、派手好きの信長らしく、その風貌はとてつもなく目立つ雰囲気・・・都の人々のド肝を抜くいでたちで、鳴り物入りの上洛だったようです。

一番の目的は、当時、室町幕府13代将軍であった足利義輝(義昭の兄)に会う事でしたが、もちろん、上記の「京を制す」という意味合いも含むもので、26歳の若き信長にとっては、一世一代のパフォーマンスであったはず・・・

しかし、結果は散々なものだったのです。

一応、義輝の会う事だけは叶いましたが、ただ、それだけ・・・単に、挨拶をしただけで、政治的な成果にはまったく結びつく事なく、振り返れば、田舎侍の大規模な京都見物で終ってしまったのでした。

武田信玄のような、由緒正しき家柄なら、まだ、朝廷も食いついたかも知れませんが、織田家程度では、朝廷はまったく振り向いてもくれません。

プライドの高い信長さんとしては、この上なくミジメな上洛だった事でしょう。

「朝廷を振り向かせるためには、それなりのカードが必要だ」という事を痛感させられた信長でしたが、そのうち、時代は転換期を迎えます。

その義輝が殺害され、第14代・足利義栄(よしひさ)という飾り物の将軍の下、事実上、三好党松永久秀による実力支配となった事で、殺された義輝の弟で仏門に入っていた義昭(秋)が還俗(出家していた人が一般人に戻る事)し、「自分こそが正統な将軍の後継者である」として、有力な武将を後ろ盾に、実質的な足利将軍家再興を模索するのです。

しかし、この時点でも、義昭は、まずは越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)を頼ります。

それだけ、織田家は、未だ、中央(京都)では、認められていなかったという事なのでしょう。

しかし、その義景が、義昭を奉じての上洛を拒み続けた事で(9月24日参照>>)、切れ者の明智光秀から信長を紹介され、義昭は、やっと信長を頼る事にしたわけです(10月18日参照>>)

すでに永禄七年(1564年)に尾張(愛知県西部)を統一し、永禄十年(1567年)には美濃(岐阜県)をも手に入れていた信長にとって、いくら力をつけても手に入れられなかった朝廷を振り向かせるカードが手に入ったのです。

かくして、冒頭に書いた通り、義昭を奉じて上洛した信長は、その自信満々の武力で三好三人衆らを京から追い出し、義昭を喜ばせ、天皇に対しても、内裏の修復などをやって、朝廷のハートもバッチリとキャッチします。

義昭は、3歳しか違わない信長の事を「御父」と呼び、その貢献への報酬として、まずは管領に任命しようとしますが、信長はこれを断ります。

・・・で、「きっと、管領だと不満なのねん」
と思った義昭が、時の天皇である第106代・正親町(おおぎまち)天皇に働きかけ、天皇からの使いがやって来たのが永禄十二年(1569年)3月2日・・・それは、「信長を副将軍に任命する用意がある」というものでした。

しかし、信長は、その場での即答を避け、やがて後日、管領と副将軍を断った代わりに、近江国(滋賀県)の大津と草津、そして、和泉国(大阪府南部)の堺を、自分の直轄地とする事を了承してもらえるようにと求めるのです。

当時の朝廷の人たちからすれば、「信長は欲がないなぁ」な~んて、思っていたようですが、歴史の流れを知っている私たちから見れば、信長らしい当然の要求ですね。

ここで、管領や副将軍になって、将軍・義昭の臣下になってしまっては、次に、天下を取ろうとする時、上司・義昭への謀反になってしまいますから・・・。

信長は、初めての上洛で、大恥をかいたあの日から、目指すは京を制する事・・・義昭なんて、はなから眼中にありません。

信長が直轄と要求した大津・草津・堺の三つの都市・・・これは、もう、すぐにお解かりでしょう。

それぞれが交通・交易の要所・・・特に堺は、日本のベニスと呼ばれた商業都市です。

当時、一番の物流の要であった瀬戸内海・・・室町時代の初期までは、兵庫(神戸)の港がその交易の中心でしたが、あの応仁の乱において、その決戦の近くとなってしまったために、戦国も中期になれば、瀬戸内を通って物資を運んでくる船のほとんどは、堺の港に到着していたのです。

さらに、それらの物資は、そこで取引され、京都・奈良・大坂へと運ばれる・・・金と人と情報の集まる自由都市だったのです。

自由都市・・・それは、ここ堺には、すでに商いで巨額の富を得ていた裕福な商人・36人からなる会合衆(えごうしゅう)なる組織ができあがっていて、この町の事は、皆、その会合衆が取り仕切り、領主などの介入できない自治システムが完成していたのです。

そこに、信長です。

始めは、彼ら会合衆も、町の周囲に堀を築き、櫓を建て、浪人を雇い入れて信長の介入に抵抗するのですが、結局は、信長に屈する事を選びます・・・それが、この2ヶ月前の出来事(1月9日参照>>)ですから、彼ら町人を抑え、朝廷・将軍の許可も得た信長は、大満足・・・。

そう、朝廷に認めさせて、京を制した信長にとって、この先に必要なのは、全国支配へ向けての武力ですから・・・。

弾薬・武器・兵糧の調達・・・それに、何より堅固な城を造るためには、やはり、経済力が必要・・・「世の中、銭ずら~」(←銭ゲバより)とは言ってないと思いますが、副将軍を断り、大津・草津・堺という交易の中心地を手に入れた事は、この先の信長の天下取りへの道に、最も有効な事だったに違いありません。

ところで、この頃の事でしょうか・・・義昭の住む二条館の前に「9個の欠けた貝が置かれる」というイタズラがありました。

これを聞いた信長は、「義昭がアホやから、公界(くかい・世の中の動きや情報)が欠けてるって意味なんちゃうん(笑)」と、言ったのだとか・・・。

その話を聞いた義昭でしたが、ここは、波風立てずに静観していたのだそうです。

義昭は、義昭で、丸々騙されていたわけではなく、すでに信長の心の内を少しずつ気づいていたようですが、もう少し信長を利用して、うまくやってやろうと思ってたみたいです。

しかし、残念ながら、間もなく二人の関係は崩れる事となります(1月23日参照>>)が・・・。
 

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2009年1月15日 (木)

八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけとなったか?

 

天正四年(1576年)1月15日、丹波・黒井城攻略中の明智光秀に、波多野秀治が反旗をひるがえし、光秀は近江・坂本へ撤退・・・これをきっかけに、八上城攻めが開始されます。

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その高低差が200mという天然の要害に立つ丹波八上城(やがみじょう・兵庫県篠山市)は、天文二十二年(1553年)春には三好長慶(ながよし)、秋には松永久秀、弘治元年(1555年)には三好政康・・・などなど、これまで何度となく攻められたにも関わらず、いずれの武将も落す事ができなかった戦国屈指の山城でした。

そんな八上城を、代々守ってきたのが、丹波の戦国大名・波多野氏・・・その出自は、あの平将門を討った藤原秀郷(ひでさと・俵藤太)とも、石見国津和野吉見氏であったとも言われていて定かではありませんが、すでに応仁の乱の頃には表舞台に登場し、そこでの功績によって、この丹波一帯を与えられ、永正五年(1508年)に波多野元清によって八上城が築かれました。

未だ戦国武将が群雄割拠していた永禄三年(1560年)には、当主の波多野秀治1万2千の兵を率いて上洛し、時の天皇・正親町天皇(おおぎまちてんのう)に金箔を献上し、戦国武将の夢でもあった上洛をいち早く実現しています。

しかし、そんな波多野氏も、やがて第15代室町幕府将軍・足利義昭を奉じて上洛した織田信長の勢いには勝てず、信長が明智光秀を総大将に、丹波平定へ乗り出す頃には、その傘下となっていました。

その後、信長の命を受けた光秀が、圧倒的な兵力で赤井(荻野)直正の籠る黒井城(兵庫県丹波市)を囲んだのは天正三年(1575年)10月・・・戦況は光秀有利に働き、もはや先の見えた籠城戦でした。

ところが、翌年の天正四年(1576年)1月15日、いきなりの寝返りで、秀治は黒井城を包囲していた明智軍を攻めたのです。

この秀治の裏切りによって、光秀はやむなく近江(滋賀県)坂本に撤退しますが、当然の事ながら、怒り心頭の信長は、光秀に秀治討伐の命令を下します。

しかしながら、丹波平定をまかされている光秀にとって、攻めるべき相手が波多野氏だけではなかった事や、八上城が冒頭に書いた通りの堅固な山城であった事もあって、落城までには長い年月を要してしまいます。

この後、光秀が本格的に八上城の包囲を固めたのは、天正六年(1578年)の3月4日から・・・そして、翌・天正七年の2月にやっと、八上城一つに集中して城攻めを開始し、その年の6月1日に、一瞬のスキを突いて、八上城の奪取に成功します。

生け捕りにされた秀治と、その弟・秀尚は、信長のいる安土城へと送られ、6月4日には磔(はりつけ)となって命を落しました。

ところで、江戸は元禄時代に書かれた『総見記(そうけんき)には、この時の逸話として・・・

なかなか落ちない八上城を攻めあぐねた光秀が、秀治・秀尚兄弟の命を助けるという約束で城を開城させ、その証しとして自分の母を人質として八上城に預け、兄弟を信長のもとへ連れていったところ、信長が有無を言わさず兄弟を磔にしてしまったため、八上城兵が「約束が違う!」と怒り出し、光秀の母を殺害した・・・という話が書かれていてます。

そうなると、「光秀の母は、信長のせいで殺されたみたいなものだ」という事になって、この時の怨みが、あの本能寺の変を起すきっかけになったのでは?と、長く信じられてきましたが、現在では、この話は後の創作であろうというのが一般的な見方となっています。

だいたい、百歩譲って実際にあった出来事だったとしても、これで光秀が信長を恨むとは、到底思えませんよね。

確かに、お母さんは大事ですが、もし、この話の通りだと、光秀が自らの決意で、母親を人質に出したわけで、その時点で、ある程度の覚悟ができていなければ戦国武将としてやっていけません。

平和な時代じゃないんだし、敵に殺されて激怒するくらいなら、はなから人質に出すな!・・・って話ですからね。

実際には、攻略に長くかかったぶん、光秀は策略を張りめぐらす事ができ、すでに周囲の武将たちを味方につける事に成功していて、孤立した八上城は、もはや補給路も断たれ、落ちるべくして落ちたといったところではないでしょうか。

ところで、光秀は、天正七年(1579年)の10月に、それまでの丹波平定を信長に報告していますが(10月24日参照>>)、実は、この丹波攻略に時間がかかった事で、怒った信長が、光秀への理不尽な折檻を繰り返し、それが、後に謀反を起すきっかけになったのでは?との話もあります。

しかし、ご存知のように、信長の光秀に対するツライ仕打ちのほとんどが創作でありますので、やっぱり、それもないでしょうね。
 

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2008年12月23日 (火)

三方ヶ原・その後~犀ヶ崖の戦いと平手汎秀の死

 

元亀三年(1572年)12月23日、昨日の戦いに勝利した武田信玄が、首実検を行いました。

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元亀三年(1572年)12月22日の夜、その日の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に勝利した武田信玄は、徳川家康が逃げ帰った浜松城の北方1kmのところにある犀ヶ崖(さいががけ)の北側に布陣します。

深夜になって、家康配下の天野康景(やすかげ)大久保忠世(ただよ)らが、負け戦に一矢報いようと、夜襲をかける作戦を練ります。

16挺の鉄砲と約100名の兵を引き連れ、密かに間道を行く彼ら・・・幸い、今日の空は雪模様の闇夜、敵は地の利を持たず。

90mの崖に布を渡し、橋に見せかけて準備万端・・・時を見計らって一斉に鉄砲を撃ち鳴らして鬨(とき)の声を挙げると、思わぬ夜襲に動揺した武田勢が、見せかけの橋に殺到し、次から次へと崖に転落して多くの死傷者を出し、大打撃を受けたと・・・

それゆえ、このあたりの地名は「布橋」と呼ばれるようになった・・・と言うのです。

しかも、この話には、更なる後日談があって、戦いから三年後になって、崖の下から奇妙なうめき声が聞こえたり、イナゴが異常発生するなどの不吉な事が度重なり、誰とも無く、この犀ヶ崖の戦いの祟りではないか?」と騒ぎになったため、家康の命により、祟りを鎮める念仏修法が行われ、その踊り念仏が、いつしかお盆の行事として行われるようになったのが、現在も浜松市の伝統芸能として残る遠州大念仏なのだとか・・・

ただし、この話は、徳川方の史料にしか書かれておらず、どうやら、あまり信頼のおける話ではないようで、正史としては疑問視されています。

しかし、もう一つ・・・
『柏崎物語』にも、徳川四天王の一人・榊原康政が、三方ヶ原の戦いの後、信玄が浜松城の近くに陣を構えたのを確認して、「夜のうちに城攻めがあるかも知れない」と、迎撃すべく、100名の兵とともに城下にて待ち構えていたという話が書かれています。

ただ、この時は、結局、いつまでたっても武田勢が攻めて来る様子が無かったので、「このまま帰ってもつまらん!」と、少しだけ敵の陣に近づき、大声を挙げて鉄砲を撃ち鳴らし、敵陣が大騒ぎになったところで、サッと退きあげたとなっています。

こちらの場合は、ただ脅しただけという事ですから、武田が大ダメージを喰らうという事はなかった事になります。

これらを踏まえて、今では、三方ヶ原の戦いの後に起こった犀ヶ崖の戦いでは、夜襲らしきものがあった事はあったが武田勢に大打撃を与えるほどの物ではなかったというのが、一般的な見方となっているようです。

そして、翌日の元亀三年(1572年)12月23日、信玄は三方ヶ原の戦いで討ち取った武将の首実検を行うのですが、その中には、家康と同盟関係にあった織田信長が援軍として派遣した平手汎秀(ひらてひろひで)の首もあったのです。

この平手汎秀は、信長の傅役(もりやく)であった重臣・平手政秀(まさひで)の三男(孫という説もあり)です。

汎秀の父・政秀は、その昔、若き日の信長が、奇抜なファッションに身を包み、ワル仲間のリーダーとなって、近所を暴れまわり、尾張のうつけと呼ばれていた頃、その素行の悪さをいさめようと、その命を捨てて信長に訴えた人物・・・。

ご存知のように、結局は、信長はただのうつけではなかったわけですから、当時の自分には何等かの考えがあっての事だったとは言え、命を賭けていさめようとしてくれた家臣を死から救えなかった事は、成長した信長の中にも、重く圧し掛かっていたわけで、そんな政秀の息子・汎秀には、日頃から、特に心をかけていたのです。

その汎秀は、もう一人の重臣・佐久間信盛とともに3000の兵を従えて、援軍としてやってきていたのですが、三方ヶ原の戦いの直前、浜松城下に滞在していた彼らのところに、陣中見舞いにやってきた家康は、大将である汎秀や信盛に何の言葉もかけず、ただ、そのへんを見て廻っただけ・・・

その家康の態度を見た汎秀は、「殿様の命令やさかいに、援軍としてわざわざやって来たってんのに、大将の我々に挨拶もせんと、しかも、高ピーなあの態度は許せん!」と怒り爆発!

家の2階から、家康に聞こえるように・・・
「俺は、明日、先陣を務めて討死するよって、陣中見舞いになんか来んでもええぞ!」
と、大きな声で叫んだのです。

そして、翌日の戦いで、汎秀が本当に先陣を切って敵に向かって行こうとしたところ、さすがに家康の家臣たちも止めに入るのですが、そんな彼らに・・・
「今回の俺は、葉武者(はむしゃ・小物)ゆえ気遣い無用!」と言い放って、敵陣に中に突っ込んで行ったのだとか・・・

信長より格下の家康さえ挨拶に来ない小物だと・・・

これは、『利家夜話(としいえやわ)に書かれている逸話ですが、まぁ、家康さんにも悪気は無かったんでしょうが、まだまだ若年・・・おもらしの一件でもわかる通り、この戦いに関して、彼は余裕がなかったというところがホンネではないでしょうか。

しかし、そうして討ち取られた汎秀の首を、この日の信玄は、岐阜の信長のもとに、織田家への絶交の宣言として送ったのです。

それを知った信長は、汎秀の死を惜しむとともに、その怒りも頂点に達したと言います。

この時、三方ヶ原から無事帰還した信盛を、後に追放した時、その追放の条件の一つとして、今日の平手の死をあけている(7月24日参照>>)ところからみても、やはり信長にとって、汎秀の死は特別なものだったようです。
 

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2008年12月22日 (月)

武田信玄・上洛~その真意と誤算

 

元亀三年(1572年)12月22日、甲斐武田信玄三河徳川家康の生涯最初で最後の直接対決・三方ヶ原の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、この三方ヶ原の戦いは、有名な徳川家康おもらし事件もあり、一点集中の魚燐(ぎょりん)の陣を敷く武田信玄に対して、まさかの鶴翼(かくよく)の陣で挑んだ事もあり、何かと有名な戦いでありますが、これは信玄の西方遠征に対して、「わが領地をみすみす素通りさせてはなるか」と、未だ若さ丸出しの家康が、負けを承知の意地での出陣の感のある一戦でもあります。

この時の信玄の西への遠征は、上洛が目的というのが一般的で、このブログでも、一昨年の三方ヶ原の戦いのページをはじめ、甲斐を出発した10月3日のページ(10月3日参照>>)でも、はっきりと「信玄・上洛」と書かせていただいております。

すでに、信玄より年下の上杉謙信織田信長も上洛を済ませており、信長と不和になった15代室町幕府将軍・足利義昭の期待もあり、「京を制する者は天下を制す」と言われた時代・・・最後の大物としては、「この辺で上洛を果たしておかねば・・・」というのが、当然のなりゆきなわけですが、かと言って、この時の信玄が、本当に上洛を目的として大軍を移動させたのか?という事が、絶対とは言い切れないのも確かです。

三方ヶ原の合戦の流れは一昨年のそのページ(12月22日参照>>)で見ていただくとして、本日は、この信玄の出陣が、本当に上洛目的であったのかどうか?について書かせていただきたいと思います。

・・・というのも、この時期が問題です。

今日のこの日が三方ヶ原の戦いという事は、もう12月も半ばを過ぎた押し迫った頃に、まだ、このあたりをウロウロしていて、果たして、京都に着くのはいつになるのか?

ご存知のように、戦国武将で、最初に兵農分離をさせたのは、かの信長・・・この時期の信玄の軍勢は、未だ分離されておらず、8割もの人々が農民を調達してきた兼業兵士で構成されていたのです。

暦も、今とは違い、旧暦ですから、2月も半ばになれば、そろそろ農耕の準備を始めなければならない時期となるわけで、それを怠れば、たちまち領国内は食糧難となるはずです。

しかし、もし、天下を掌握するための上洛であるならば、京都に着いた~ハイ!OK・・・という事では済まされませんから、上洛した後も、何らかの小競り合いは覚悟しなければならないわけで、果たして、そんな時間があったのでしょうか?

・・・かと言って、もし、上洛が目的でないのだとしたら、この三方ヶ原の戦いで、家康に勝利しておきながら、家康が逃げ帰った浜松城を、そのまま攻め落とさずに先へ進む・・・というのが、とても不可解・・・またまた引っかかってきます。

急ぐ進軍でないのなら、ここで浜松城を落としておいたほうが良いような気もします。

そこで、注目は、その後、信玄が向かった野田城・攻略(1月11日参照>>)です。

現在でも、静岡県愛知県に分かれている事でもわかるように、家康の浜松城は、ギリ遠江(とうとうみ・静岡県西部)、野田城は三河(愛知県東部)・・・つまり、信玄が落としたかったのは、三河のほうではないか?という事です。

この時期、すでに信長は岐阜に本拠地を移して、しかも、浅井・朝倉石山本願寺一向一揆の相手でめいっぱい・・・尾張(愛知県西部)はかなりの手薄になっているはずです。

逆に、信玄は信濃(長野県)の南部を支配下に収めていますから、落としやすい三河と尾張を取れば、甲斐(山梨県)からのルートが確保できる事になります。

確実主義の信玄にしてみてば、まずは今、三河と尾張を制しておき、上洛は、そのあとでも良かったという事なのではないでしょうか?

つまり、この時に一気に上洛するのではなく、一歩一歩確実に・・・という事です。

この時の西方遠征を上洛目的とする根拠の一つに、信玄が死の間際に「明日は瀬田(滋賀県の琵琶湖の近くの瀬田の事)に旗を立てよ」と言い残したとの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)の記述があげられます・・・だから、やはり上洛を夢見ていたのだと・・・。

しかし、たとえ、この言葉を信玄が発した事が事実であったとしても、この「明日」という表現は、言った人と聞いた人の間に、かなりの誤差が生じる言葉ではありませんか?

この「明日」は、確かに翌日の事ですが、何も、近い日ばかりを指すとは限りません。

「将来」という意味でも「明日」と表現する時がありますよね。

信玄が上洛を夢見ていた事は確かでしょう・・・「いずれ上洛を果たすぞ」と・・・

しかし、それは、今回の西方遠征ではなかったのかも知れません。

もちろん、大軍を率いての遠征は、たとえ実際に上洛しなかったとしても、相手に脅威を与える事はできますし、信長包囲網への信玄の参加に期待している将軍・義昭への面目も立ちます。

そこンところは、完全に計算ずくでの数の多さだったはずです。

ただ一つの信玄の誤算は、己の命が、この野田城攻略の後で尽きてしまう事にあったのかも知れません。

確かに、その心の中までは読めませんから、あくまで仮説ではありますが、信玄の目は、もっと先の明日を見ていたのかも・・・ですね。
 

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2008年12月 4日 (木)

斉藤道三を有名にした土岐頼芸~国盗られ物語

 

天正十年(1582年)12月4日、元・美濃国の守護で、流浪の身となっていた土岐頼芸享年・81歳でこの世を去りました。

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清和源氏の流れを汲む由緒正しき一族が、美濃(岐阜県)という地に移り住み、土岐(とき)を名乗り始めたのは平安末期・・・。

やがて足利尊氏が征夷大将軍となった頃に、室町幕府成立に尽力した功績から、土岐頼貞(ときよりさだ)が、美濃守護に任じられます。

以来、土岐一族で守護や守護代を務め、尾張(愛知県西部)伊勢(三重県)にまでその勢力を伸ばしていた土岐氏でしたが、第3代の土岐頼康(ときよりやす)の死後に起こった内部分裂によって、国人あがりの斉藤氏に守護代の座を譲ってしまいます。

それでも、一応、まだ守護の座だけは保持していた土岐氏でしたが、第8代の土岐成頼(なりより)が、嫡男の政房(まさふさ)ではなく、弟の元頼(もとより)に家督を譲ろうとした事から後継者争いが生じます。

結局は、政房が後を継いで、第9代守護となるのですが、そのゴタゴタの隙間を習って、守護代・斉藤氏の力は、ますます土岐氏に迫ります。

そんな家督争いの直後の文亀元年(1501年)に、その政房の次男として生まれたのが、本日の主役・土岐頼芸(よりなり)さんです。

ちょうどその頃、隣国・近江(滋賀県)六角氏との合戦で、守護代を務めていた斉藤利国をはじめとする斉藤氏の中心を荷っていた人々が、そろって討死した事から、斉藤氏の勢力が衰えはじめ、それに代わって勢力を拡大してきたのが、その斉藤氏の重臣だった長井長弘・・・。

そんな時に、よせばいいのに、その政房が、嫡男の頼武(よりたけ)ではなく、弟の頼芸に家督を譲ろうとした事から、またまた内紛へと発展するのですが、ここで、頼武に味方したのが斉藤利良(としなが)、頼芸に味方したのが長井長弘です。

永正十四年(1517年)の12月・・・一旦は戦いに勝利し、第13代守護の座についた頼武でしたが、大永五年(1525年)、長弘に即された頼芸がクーデターを決行!

5年後の享禄三年(1530年)には、兄・頼武と守護代・利良を越前(福井県)へと追放し、事実上の守護となります。

この時、長弘とともに、頼芸にクーデターを勧めたのが、一介の油商人から、長弘の家臣となっていた長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)・・・あの斉藤道三の父です。

以前、書かせていただいたように、あの下克上のお手本として名高い、斉藤道三の国盗り物語は、実は、ここまでは、お父さん・新左衛門尉のお話・・・(4月20日参照>>)というのが、今のところ主流です。

やがて、長弘と新左衛門尉が相次いで急死すると(長弘に関しては道三の暗殺の噂もアリ)、もはや、頼芸が頼れる人物は、ただ一人・・・そう、当時、長井新九郎規秀(のりひで)と名乗っていた、道三その人です。

もちろん道三の上位には、長弘の後を継いだ息子・長井景弘(かげひろ)という人がいたのですが、その名前は、徐々に美濃の公式文書から消えていき、いつの間にか、公式文書には道三の名前だけが記されるように・・・あの『信長公記』には、「情けなく主の頸(くび)を切り、長井新九郎と名乗る」とある事から、道三が殺害した可能性が高いようです。

天文五年(1536年)に勅許が降り、晴れて正式に第14代・美濃守護となった頼芸でしたが、もはや、先の斉藤利良・長井長弘らの時代から、事実上、守護代に実権を握られてしまっている名ばかりの守護ですから、政務はすべて道三にまかせっきりで、頼芸自身は、大好きなお酒を片手に、趣味の書画に没頭する毎日を送ります。

この頃になって、いつの間にか長井から斉藤に改名して、斉藤利政と名乗りはじめた道三に、懸念を抱く別の家臣が頼芸に注意をうながす場面もあったようですが、もはや反発する気力もゼロ・・・。

その間に道三は、せっせと旧臣たちを、自分の味方へと引き込み、ますます国政の中心人物となっていきます。

やがて、天文十一年(1542年)、とうとう頼芸は、道三によって尾張に追放されてしまうのです。

やっと、事態の重大さに気づいた頼芸でしたが、時すでに遅し・・・奥さんの実家である六角氏を頼って、ちょっとばかし反撃をしますが、結局は、諸国を放浪するハメに・・・。

常陸(茨城県)の土岐氏を継いでいた弟の土岐治頼(はるより)を頼って、そこに身を寄せた時は、土岐氏の系図と家宝を持参・・・もはや、「本流は滅亡」と、ご本人自らが認める形となってしまいました。

さらに、やはり分家の上総(千葉県中部)の土岐氏を頼ったり、甲斐(山梨県)の武田を頼ったり・・・流浪の生活を続けるうち、やがて失明してしまった頼芸・・・。

そして、天正十年(1582年)・・・昔、家臣として頼芸に仕えていた稲葉一鉄の声かけによって、何とか30年ぶりに美濃で暮らす事ができるようになりました。

しかし、それでホッとしてしまったのか・・・その年の12月4日頼芸は81歳の生涯を閉じたのです。

思えば、
一介の家臣の家臣だった道三に美濃を追われ・・・
その道三は息子・義龍に・・・(10月22日参照>>)
その美濃は織田信長に・・・
その信長は、この半年前の6月に家臣の明智光秀に討たれました。

皮肉にも、そんな彼らよりも長く生きた頼芸・・・おそらく、本能寺の変のニュースは、彼も耳にしていたはず・・・

失明してしまうほどの苦労を重ね、やっと得た安住の故郷・美濃・・・

今は光を失ったその目で、戦国の世の国盗りを目の当たりにした頼芸に、この世の盛者必衰は、果たして、どのように映ったのでしょうか。
 

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2008年11月26日 (水)

姉川の後に・・・信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い

 

元亀元年(1570年)11月26日、織田信長VS浅井長政・朝倉義景連合軍による『堅田の戦い』がありました。

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元亀元年(1570年)6月28日の姉川の合戦(6月28日参照>>)で、近江(滋賀県)浅井長政越前(福井県)朝倉義景の連合軍に勝利した織田信長は、「このまま、長政の本拠地・小谷城を攻めるべきでは?」との家臣の進言を振り切り、小谷城の近くの虎御前山(とらごぜんやま)に築いた砦と横山城(滋賀県長浜市)木下(豊臣)秀吉に守らせただけで、それ以上の深追いをする事はありませんでした。

京都へと戻る道すがら、姉川の戦場から逃げ帰った磯野員昌(いそのかずまさ・浅井の家臣)らが籠る佐和山城(滋賀県彦根市)丹羽長秀(にわながひで)らに囲ませ、自らは、7月4日に京都へ入り、将軍・足利義昭牽制をかけます。

しかし、この時期は、その義昭の呼びかけによって、まさに信長包囲網が敷かれた頃・・・まわりは、もう、敵ばっかりです。

信長上洛の時に追いやられていた三好一族は、阿波(徳島県)を出て摂津(大阪府)に集結して牽制をかけ、8月には、ご存知、本願寺顕如(けんにょ)が、全国の信徒に「打倒!信長」を呼びかけ(11月24日参照>>)、近江での一向一揆が活発になります。

しかも、これに気をよくした浅井・朝倉軍が態勢を立て直して、琵琶湖の西岸を、いざ!京都へと向かってきます。

9月19日・・・琵琶湖のほとり・坂本まで迫り来る浅井・朝倉軍に宇佐山城(滋賀県大津市)を守る森可成(もりよしなり・長可&蘭丸の父)は、信長の弟・信治とともに、わずかの兵を率いて撃って出ますが、奮戦空しく、その半数ほどが討死するという悲劇の敗北となります。

この二人の死に、さすがの信長も、畿内に散らばっていた兵を京都に集結させ、急ぎ、3万の軍勢を整えて、坂本方面へと向かわせます。

これに気づいた浅井・朝倉軍は、比叡山に逃げ込み、当然のごとく彼らを保護する延暦寺・・・追う信長は、延暦寺に武装解除して中立の立場を取るように呼びかけますが、延暦寺はこれを拒否。

さらに、10月には、朝倉義景自らが、新たな2万の軍勢を率いて越前から駆けつけるという事態になり、こうなったら衝突必至・・・信長自身も、かの宇佐山城に入って、ここでの決戦を決意し、準備します。

かくして元亀元年(1570年)11月26日、地元の土豪を味方につけた信長の重臣・坂井政尚(まさひろ)が、まずは先鋒として堅田の砦に入ります。


大きな地図で見る

堅田は比叡山の北東・・・ここを押えられては、朝倉は福井に戻れません。

地元の一向一揆と連携した朝倉軍は、即座に、この堅田砦に奇襲をかけるのです。

砦に入って間もなくの奇襲・・・しかも、守る政尚の持つ兵が、わずかに1000では、とても押えきれず、この日の戦闘では、政尚以下、多くの死者を出してしまいました。

その後も、小競り合いを続けていた両者でしたが、もはや、信長の周囲は包囲しつくされて身動きがとれない状態・・・一方の義景も、雪深い故郷・越前の事を考えると、この状況のまま冬を迎える事は避けたい・・・。

しかも、信長&義景の思惑も去ることながら、都の近くでドンパチやられては、天皇や公家にとっても、安心して正月が越せないというモンです。

・・・よって、12月14日、時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇による合戦中止の綸旨(天皇の命令)が下され、一応の講和が結ばれました。

一応・・・というのは、この和睦は、年が明けて、すぐに破られる事になるからです。

実は、先に、丹羽長秀が囲んでいた佐和山城・・・和睦が成った後も、横山城にいた秀吉が、「佐和山城はこの長秀の囲みで陥落し、城主の磯野員昌は信長の傘下になった」とのウソ情報を、近江一帯で流し続けていたのです。

その情報を信じた長政は、籠城を続ける佐和山城への兵糧の補給を断ち、自らの家臣を、自らの手で窮地に追い込んでしまっていたのですが、やがて、2月・・・いよいよ兵糧に困った員昌が、「部下もろとも飢え死にするくらいなら」と、自ら佐和山城を開城し、本当に信長のもとに走ってしまったのです。

やりました信長さん!
佐和山城は、琵琶湖の東岸・・・これで、本拠地の岐阜と京都との動脈を確保した事になります。

ただし、先ほども言いましたように、現在のところ、信長の敵は、浅井・朝倉だけではありません。

途中、長島の一向一揆(5月16日参照>>)、そして、あの比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)、さらに、未だプライドを捨てない足利義昭との関係(4月4日参照>>)などなどを、一つずつ崩しながらも、シーソーゲームを繰り返していた浅井・朝倉との戦いに終止符を打つべく、信長の巻き返しが始まるのは、2年後の天正元年(1573年)8月の事でした(8月14日参照>>)
 

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2008年11月17日 (月)

加賀一向一揆・完全終結と信長の政教分離の話

 

天正八年(1580年)11月17日、今なお抵抗する加賀一向一揆の拠点・鳥越城を柴田勝家が落城させました。

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10年の長きに渡って繰り広げられた織田信長石山本願寺との合戦・・・一時は、本願寺と和睦した上杉謙信が、天正五年(1577年)9月に能登を平定(9月13日参照>>)、さらに京都に向かって西上します。

これに対して信長は、北陸担当の柴田勝家を謙信対策に当てますが、謙信は勝家を、9月に手取川で、10月に大聖寺(石川県)で破り、もはや上洛して信長と相対するのは時間の問題と思われました。

しかし、冬に入って一旦本拠地の越後(新潟県)に戻った謙信は、明けて天正九年(1578年)の3月に急死(3月13日参照>>)してしまい、上杉家内では後継者争い・御館の乱が勃発する(3月17日参照>>)という、信長にはラッキーな展開となります。

上杉が身内同士でモメてる間に、信長は反撃を開始し、翌・天正八年(1580年)の閏3月9日、勝家は、ともに北陸担当だった佐久間信盛とともに、加賀一向一揆の本拠地・金沢御坊を陥落させました(3月9日参照>>)

そのページにも書かせていただいた通り、ここで、加賀一向一揆は終焉を迎えたのです。

ただし、やはり、まだ残党は残っていました。

その残党が今日の「山内(やまのうち)衆」と呼ばれる人々です。

彼らは、白山々麓にに住む真宗門徒たちで、大日川手取川に挟まれた鳥越山加賀鳥越城を築き、ここを拠点として、抵抗を続けるのでした。

その間に、本家本元の石山本願寺が信長と和睦をし、4月には本願寺十一世・顕如(けんにょ)が本願寺を退去、息子の教如も4ヶ月後に、本願寺を明け渡し、ここに石山合戦が終結しました(8月2日参照>>)

しかし、鳥越城は、二の丸・三の丸を備えた強固な山城で、その後も、勝家はなかなか攻め落とす事ができずにいました。

そこで勝家は、鳥越城主・鈴木出羽守とその一族に講和を持ちかけて誘い出し、騙まし討ちにしてしまうのです。

天正八年(1580年)11月17日大将を失った鳥越城は、あっけなく陥落してしまい、ここにまさしく、加賀一向一揆が終焉・・・と言いたいところですが、彼ら山内衆の生き残りは、翌年、再び蜂起して鳥越城を奪回!さらに抵抗を続けました。

しかし、天正十年(1582年)2月、とうとう山内衆は信長軍の掃討作戦によって倒され、徹底的な残党狩りが行われ、捕らえられた300名の門徒は、3月1日、全員が磔刑に処せられたのです。

徹底的にやられた、この周辺の村々からは、人の姿が消え、しばらくの間は、作物も実らない不毛の地となったと言います。

あの富樫政親を自刃に追い込んで掴み取った(6月9日参照>>)百姓の持ちたる国・加賀一向一揆は、ついに100年にわたる歴史の幕を閉じたのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところで、今回の山内衆に対しても、長島一向一揆(9月29日参照>>)と同様に、不毛の地となるほどに、魔王のごとき徹底した姿勢と貫いた信長さんですが、本家本元の本願寺の顕如とは講和を結んでいます。

その後、抵抗した教如に対しても、抵抗している間は交戦しますが、本願寺を明け渡した後は、命を取るという事はありませんでした。

比叡山の焼き討ち(9月12日参照>>)にしても、そうです。

私自身は、あの比叡山の焼き討ちは、伝えられているよりも、ずっと規模の小さいものだったと思っていますが、たとえ、言われているような大規模な焼き討ちだったとしても、延暦寺=天台宗そのものを潰すという事はありませんでした。

そこに、信長さんの理念のような物が見え隠れするような気がします。

比叡山の焼き討ちや一向一揆への仕打ちの表面だけを見てしまうと、あたかも魔王が罪のない信者に対して、宗教弾圧を行っているがの如く映るかも知れませんが、決して、そうでない事を物語っているのが、本願寺との講和であり、延暦寺の存続なのでは?

信長が行いたかったのは、宗教弾圧ではなく、政教分離なのです。

あの徳川家康でさえ、三河の一向一揆(9月5日参照>>)にビビッて領地内での真宗を禁止にしていますし、豊臣秀吉キリスト教の弾圧(2月5日参照>>)や徳川時代の切支丹禁止令は、もう皆さんご存知でしょう。

しかし、信長が信仰そのものを禁止したという話は聞いた事がありません。

それは、信仰の自由を残したまま、政教分離だけをやりたかったという事だと思うのです。

この信長の時代が来るまで、宗教団体がその圧力で政治に介入する事は当たり前でした。

そんな中、21世紀となった現在に世界中の先進国が当たり前としている信仰の自由と政教分離の両立を、世界で初めてやろうとした人が信長だったのではないでしょうか。

もちろん、その方法に関しては、100%正しいとは言えません。

たとえ、信徒が武装していたとしても、もう少し穏やかな方法があった事も確かでしょう。

しかし、その理念だけは見抜いてさしあげないと、ただの無謀の殺戮に映ってしまい、それこそ、信長を殺戮の魔王に仕立てあげたい延暦寺の思う壺・・・って事になってしまうのではないでしょうか。

追記:お解かりだとは思いますが・・・
本文中の延暦寺・本願寺及び天台宗・真宗という表現は、あくまで戦国当時の団体の事であって、現在の団体は、宗教の理念は同じでも、姿勢はまったく違います事をご理解ください。

 

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2008年11月12日 (水)

激戦!耳川の戦い~島津の秘策・釣り野伏

 

天正六年(1578年)11月12日、昨日の高城川の戦いで火蓋を切った大友宗麟配下の軍勢と島津義久勢の耳川の戦い・・・いよいよ2日目に突入です。

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薩摩・大隅(鹿児島県)を支配下に置く島津義久に、日向(宮崎県)南部を奪われた伊東義祐が、よしみを通じる豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)に救援を求め(8月12日参照>>)、それに答えて日向奪回をめざす大友勢と、阻止すべく出陣した島津勢とが戦った耳川の戦い・・・昨日の高城川での奇襲戦は、島津の大勝に終わり、本日は戦いの名前の由来ともなった耳川の惨劇があった日ですが、まだの場合は、昨日のページから先に読んでいただくとわかりやすいです(耳川の戦い・初日のページを見る>>)

 

11日の大敗の反省もこめて行われた大友勢の軍儀・・・しかし、何ともまとまりません。

田北鎮周(しげかね)「明日早朝の突撃」を主張すれば、佐伯宗天(そうてん)「殿(宗麟)の意見を聞かねば・・・」と言い、結局、総大将の田原紹忍(しょうにん)は、軍師の角隈石宗(つのくませきそう)が突撃に反対した事もあって、「やっぱ佐伯君の意見かなぁ・・」てな感じで、一応は血気にはやる行動はしない事に決定・・・と、ここで、何の意見も出さない星野鎮種(しげたね)・・・。

実は、鎮種はすでに、島津の味方・・・密かに裏切っていたのです。

そんな事とは露知らず、軍儀の決定にも納得いかず、ひとりヤル気満々の朕周は、この夜、皆に酒をふるまい、兵士たちの士気を高めました。

かくして天正六年(1578年)11月12日早朝・・・案の定、鎮周は、軍儀の決定を破って、自分勝手に出撃を開始してしまいました。

Mimikawa1cc 画像をクリックすると、動きの変化が見やすい画像が開きます。
このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。

狙うは、高城川谷瀬戸川の間の一番近い場所に陣取る北郷久盛(ほんごうひさもり)の陣・・・。

急襲された久盛の陣は、対処する事ができず、慌てて後退を開始し、高城川を越えて敗走します。

それを、さらに追撃する田北勢・・・困惑気味で見ていた宗天が、味方の優勢に慌てて、自らも北郷勢を追撃します。

こうなったら、残りの大友勢もヤルしかありません。

それを、高台の場所からゆっくり見下ろすのは、根白坂に陣取った総大将・島津義久・・・作戦もクソも無く、ただやみくもに追撃する大友勢は、もはや陣形もあったモンじゃありません。

ここで、島津お得意の作戦を開始します・・・それは、『釣り野伏(のぶせ)

Turinobusecc これは・・・
1、まずおとり(釣り)の兵が敵と交戦し
2、一旦、負けたふりをして退却
3、敵が、深追いしてきたところで、隠れていた兵(伏兵)が横から攻撃すると同時に、先ほど負けたふりをしていた兵が方向転換・・・

これで、3方向を囲まれた形になる敵は、退却するしかない・・・というわけです。

もちろん、これは理想形・・・合戦とは、相手がいるものなのですから、そう、いつもいつも敵がコチラの思い通りの行動をとってくれるとは限りませんから・・・

しかし、今回の大友勢は、見事に釣られてくれました。

後退する北郷勢を追って、田北勢と佐伯勢が高城川を渡りきったところで、さぁ、作戦開始です。

まずは、伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が、敵の脇を突きます。

続いて、義久の本隊が突撃、さらに、島津義弘の軍勢が横へと突入・・・。

慌てて後退する大友勢ですが、後ろは、今、渡ったばかりの高城川・・・多くの者が、この川で溺れ、岸に残った者は次々と到着する島津の軍勢に討ち取られていきます。

何とか高城川を渡りきった者は、高城から討って出てきた島津家久山田有信らの城兵の餌食に・・・。

早朝からはじまった合戦は、先ほどの田北鎮周・佐伯宗天・角隈石宗が次々と討死し、午前8時に頃には、もはや勝敗は決しました。

・・・と、すっかり忘れていましたが星野鎮種さん・・・すでに内通完了で、まったぐ動かずの状態で、その後、軍団全員で投降したとの事です。

総大将の紹忍をはじめ、何とか生き残った大友の兵たちは、ただひたすら北を目指します。

ここ、高城川から、北に25kmほど行けば耳川があります。

この耳川が勢力の境界線・・・その向こうには味方の支城があります。

「何とか、耳川を越えれば・・・」

しかし、この日の夕刻頃・・・島津は、この耳川で敗走する大友勢に追いつくのでした。

その時の耳川は、流れも速く、かなり増水していたにも関わらず、パニック状態の兵士たちは、次々を川飛び込み、溺死してしまいました。

この耳川で命を落とした兵は、約3000にも及んだと言います。

一方、未だ無鹿(ムシカ)滞在中の宗麟のもとには、まもなく、敗走した兵士が命からがら到着し、「田北鎮周や佐伯宗天はじめ、大友の全員が討死か敗走・・・まもなく、この本営にも敵が来襲するだろう」との知らせが到着します。

一瞬にして動揺する兵士たち・・・実際には、島津は耳川を越える事なく引き返していたのですが、もはや情報も錯綜する混乱状態・・・。

宗麟はじめ、キリシタン王国建設にあたっていた宣教師や多くの民は逃げるように母国への道を急いだのでした

その慌てぶりは、いっさいの食糧を持たず、無鹿を後にした事でもわかります。

やがて、彼らは、冬の寒さと飢えに苦しみながら餓死寸前で、豊後・白臼城にようやくたどりついたのでした。

宗麟が、新しい地で夢見たキリスト教王国は、ここに壊滅したのです。
 

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2008年11月11日 (火)

耳川の戦い初日~大友の大砲と島津の奇襲

 

天正六年(1578年)11月11日、豊後大友宗麟薩摩島津義久との耳川の戦いの初戦・高城川の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前年の5月の木崎原の合戦での奇襲で薩摩(鹿児島県)島津義弘に大敗を喫して日向(宮崎県)の南半分を奪われた伊東義祐は、豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)のもとへと逃げ込み、支援を求めます(8月5日参照>>)

「島津を日向から追っ払ってくれたら日向の半分をあげちゃう~」
という義祐のお誘いに、キリスト教王国を造りたい宗麟は、息子に家督を譲った後、3万5千の大軍を率いて海路にて南下を開始・・・天正六年(1578年)の8月12日には日向無鹿(むしか・宮崎県延岡市)に着陣し、キリシタン王国建設を着々と進めていく一方で、宗麟の別働隊として陸路で南下していた重臣・田原紹忍(しょうにん・親賢)の率いる2万の軍勢が、勢力の境界線である耳川を渡り、島津配下の高城(宮崎県木城町)へと迫ります(8月12日参照>>)

高城は、高城川と谷瀬戸川の浸食によってできた高台に構築されていて、北・東・南の3方が崖となっていて、平坦な西方向は、空堀で防御されていました。

この城に対して、大友勢は、城の北側に田北鎮周(しげかね)、東方の谷瀬戸川沿いに星野鎮種(しげたね)、城のすぐ東側に佐伯宗天(そうてん・惟教)を配置し、総大将の紹忍は宗天の後方に陣取り、10月20日、高城の包囲を完了します。

Mimikawa11cc 画像をクリックすると大きくなります。
このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。

一方、高城を守る山田有信は、この大友勢の動きを、本国・鹿児島に知らせるとともに、2km南に位置する佐土原城(さどわらじょう・宮崎市)島津家久(義久の末弟)にも知らせます。

急を聞いた家久は、即座に行動を開始・・・大友勢の包囲をくぐって、高城内に入城・・・この援軍によって、城内の兵は何とか3千となりました。

この間にも、大友勢は、最新鋭の武器・国崩(くにくずし)で高城に攻撃を仕掛けます。

国崩は、宗麟にポルトガル人からプレゼントされた佛狼機(フランキ)・・・後方から砲弾と火薬をこめる方式の大砲です。

当時はまだヨーロッパにしかなかった最新鋭の大砲にさぞかし島津勢は戸惑った事でしょうが、残念ながら、扱う側の大友勢も戸惑ってたようで、結局、この時の国崩の攻撃は、一発も高城には届かず、効果はなかったとの事・・・。

小競り合いで時間を稼ぎつつ、籠城を続ける高城・・・一方、有信からの知らせを受け取った当主・島津義久は、自らが3万の大軍を率いて鹿児島を出陣し、11月1日には、先の佐土原城へと到着しました。

さらに、あちこちから集結した島津の軍勢は5万にふくれあがりますが、対する大友軍にも援軍が到着し、総勢6万・・・大きな決戦を予感させる展開となりました。

そして、いよいよ決戦が近づいた頃、島津義弘(義久の次弟)は大友への伏兵を仕掛けるべく、より高城に近い財部城(たからべじょう・宮崎県児湯郡)に入ります。

しばらくの間続いた雨によって、平静を装っていた戦場に火蓋が切って落とされたのは、天正六年(1578年)11月11日の白昼・・・前日の夜10時頃、闇にまぎれて4千余りの義弘の伏兵が川を渡り、宗天の陣と、その後ろの大将・紹忍の本陣との間に密かに入り込み、この時を待っていたのでした。

伏兵がいるとは知らず、真昼間、宗天と紹忍の本陣との間を行き交う大友の兵士たち・・・そこへ、いきなりの奇襲をかけたのです。

まったく無防備なところを奇襲された大友勢は乱れに乱れ、またたく間に宗天の陣は焼き払われ、陣を逃げ出したところに、朝早く財部城を出た残りの義弘の軍勢が加わって交戦します。

本陣をはじめとする他の大友の陣から、反撃をしようと試みますが、これには高城に籠城する城兵たちが牽制を仕掛け、大友勢は完全に分断された形となり、何の反撃もできないまま、この日は、500余りの死者を出して大敗してしまいました。

5万の島津に6万の大友・・・互角の戦いになるはずのこの合戦でしたが、蓋を開けてみれば島津の大勝。

これには、やはり総大将の有無が関わっていたように思います。

確かに、この場に宗麟がいなかったのは、彼がキリシタン王国の建設にかまけて、この戦いを軽く見ていたわけではなく、重臣たちを信頼して任せただけで、それは戦国の合戦においては度々ある事・・・先日書かせていただいたばかりの、安祥城の戦い(11月6日参照>>)でも、当主の今川義元は出陣せず、軍師の太原雪斎が総大将を勤めていましたよね。

・・・が、今回の場合は、結果論ではありますが、やはり、宗麟のいなかった事が軍の連携の乱れにつながったような気がします。

相手の島津は当主・義久が自らが軍を率いての参戦ですから、士気も上がりますが、一方の大友勢は、互いに武功を競い合い、指揮系統が乱れ、一致団結できなかった事が敗因と言えるでしょう。

この日の夜10時頃には、義久の本隊3万の軍勢が、根白坂(ねじろざか)に到着します。

ここは、高台になっていて、高城とその周辺の河原に布陣する大友の軍勢が見事に見渡せたと言います。

いよいよ、明日は決戦・・・白々と明けてくる空の下、大友の布陣を見下ろす義久の脳裏には、島津お得意の秘策の青写真が、すでに描かれていたに違いありません。

一方の大友勢のほうは・・・実は、この日の夜に開かれた軍儀でも、それぞれが喧々囂々と己の意見を述べるばかりで、いっこうにまとまらず、初日の連携の乱れは翌日にも尾を引く事になるのです・・・が、そのお話は、やはり、明日書かせていただく事にしますね。
 

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2008年10月30日 (木)

謀略の達人・宇喜多直家~本当はけっこうイイ人?

 

天正七年(1579年)10月30日、宇喜多直家の名代として、従兄弟の宇喜多基家織田信忠に謁見し、降伏を申し出・・・織田信長が直家の降伏を受け入れました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戦国の梟雄(きょうゆう)と称される宇喜多直家(うきたなおいえ)・・・。

下克上はなはだしい戦国乱世・・・キレイ事を言ってると背後から襲われ、油断してると寝首を掻かれる・・・とは言え、この人ほど腹黒いと言われる人はなかなかいません。

刺客を放って敵将を暗殺したり、邪魔だからと毒殺したり、狩りに誘い出して間違えて撃っちゃった事にして殺したり・・・と、合戦での華々しい勝利より、なにやら陰険でじっとりとした感じが目立ちます。

しかし、大国に挟まれた小さな国の武将は、多かれ少なかれ、そういったやり方でないと伸し上がっていけないのも確か・・・直家さんだけを責める事はできません。

直家が生まれた宇喜多家は、もともと備前(岡山県東部)を治める浦上家の家臣でしたが、祖父の代に家中での権力争いに巻き込まれて祖父は殺され、父とともに命からがら脱出し、直家は6歳にして放浪生活という不遇の歳月を味わっています。

やがて、成人する頃になって帰参が許され、再び浦上家の家臣となるのですが、その頭角はすぐに現れます。

亀山城(岡山市)砥石城(といしじょう・岡山市)を奪って、あっと言う間に備前南部を手中に収めた後、戦上手で聞こえた穝所元常が城主を務める龍ノ口城(岡山市)を攻めるのですが、難攻不落と言われたこの城をなかなか落す事ができなかったところ、この城主が男色であるとの噂を耳にし、岡剛介なる美少年刺客を送り込んで色仕掛け作戦を決行したりなんかします。

「そんなアホな!なんぼ美少年好きでも、相手は戦上手なんやから・・・」と思いきや、元常はあっさりとこの美少年に寝首を掻かれ、龍ノ口城を、いとも簡単に陥落させてしまいます。

やがて、浦上家でも一番の有力者になった直家は、さらに勢力を拡大し、徐々に主君である浦上家当主・宗景を脅かすようになります。

この頃には、すでに直家は安芸(広島県西部)毛利氏の後ろ盾を得ており、まさに、主家・浦上家を乗っ取る勢い・・・脅威を感じた宗景は、織田信長に後押しを頼みますが、ついに、天正五年(1577年)、宗景を天神山城(岡山県)から追い払い、備中(岡山県西部)の一部も手中に収めました。

そして、その同じ年には、毛利氏傘下の一員として、信長傘下の山中鹿介が城番を務める上月城(こうづきじょう・兵庫県)を、一旦は攻め落としますが、翌年の3月には、信長の中国平定担当のあの羽柴(豊臣)秀吉が鹿介ら尼子氏を支援して総攻撃を仕掛けて来たために、あえなく上月城を手放してしまいました。

しかし、その翌月に、すぐさま、その上月城を取り戻すべく3万の軍勢を率いてやってきた吉川元春(毛利元就の次男)小早川隆景(元就の三男)上月城に総攻撃を仕掛けた時には、直家は参戦しませんでした。

『備前軍記』によれば、この時、直家は、仮病を使って日和見・・・つまり二股をかけていたのだとか・・・。

直家は、どうやら、この上月城の攻防戦は、信長が勝つとみていたようです。

しかし、この攻防戦に信長自身が兵を出す事はなく、中国担当の秀吉は別所長治三木城(兵庫県)への攻撃に忙しく(3月29日参照>>)、多くの支援を得られなかった上月城は、3ヵ月後の7月3日、尼子勝久の切腹によって攻防戦の幕を閉じたのです(7月3日参照>>)

・・・で、慌てて「病気が治った」と称して、毛利軍の陣へと勝利のお祝いに駆けつけた直家は、「どうぞ、お帰りになる時は、わが領内を通って、わが城へ・・・最高のおもてなしをしますから・・・」とのゴマスリトークで弁解しますが、元春と隆景は、完全無視で安芸へ帰ってしまいました。

直家は、この時、もし、毛利軍が立ち寄ったなら、元春と隆景を討ち取って、その首を手土産に信長の傘下に収まるつもりでいたようですが、さすがの元春と隆景は、直家お得意の暗殺・謀殺の手の内を見切っていたようです。

そう、もう、このあたりから、元春は、毛利から織田へ寝返る事を心に決めていたわけなのですが、さすがに、つい何ヶ月か前まで、思いっきり毛利の配下として戦ってたわけですから、信長から、なかなか、その許しが出ず、翌年の天正七年(1579年)10月30日、従兄弟の宇喜多基家が、直家の名代として信長の息子・信忠に謁見し、ようやく承諾を得たのです。

これには、かの秀吉が仲介役として奔走したようです。

そのためか、その後の直家は、秀吉に対しては、あの謀略しまくりの陰険さを忘れたかのように、誠心誠意、尽くしに尽くし、最前線で毛利相手に戦う事になります。

しかし、天正九年(1581年)の終わり頃に直家は病死してしまいますので(発表は天正十年1月9日)、結局、秀吉とのイイ関係は、わずか二年間だった事になりますが、直家が亡くなった時に、わずか10歳だった彼の息子に父の家督を継ぐダンドリをしてやったり、秀家の名を与えて養子にして五大老の一人に任命したり、前田利家の娘を養女にして秀家の結婚相手とし手元で養育したりと、秀吉の宇喜多家への親切ぶりは尋常じゃないです。

秀吉の事ですから、多少の打算はあったでしょうが、やはり、直家との関係が、相当良いものだったのではないでしょうか。

もちろん、その息子・秀家は、ご存知のように、秀吉亡きあとの豊臣家を命がけで守る事になりますが・・・(8月6日参照>>)

そんな直家さん、さすがに、病気が重くなった晩年は気弱になっていたようで、『武将感状記』では、家臣たちを集めて、「もし自分が死んだら、殉死(後追い自殺)してくれるか?」なんて聞いたりしてします。

多くの家臣が気をつかって、「あの世までお供します!」と答える中、戸川秀安(ひでやす)なる者が・・・
「人には向き不向きっちゅーのがあります。俺は、戦に関しては誰にも負けませんが殉死はできません。それに、多くの者を手にかけた家臣では、お供をしても地獄に落ちるだけ・・・殉死してもらいたいなら、僧侶にでもしてもらいなはれ」と、直家の気弱な発言を一蹴します。

これは、多くの者を、意味無く死出の道連れにする事をヨシとしない秀安の忠告だったわけですが、これに対して直家は、すなおに「気が動転してしまった・・・スマン、誰も死ななくていい・・・」と謝ったと言います。

そんな直家さん・・・天正十年(1582年)2月14日(1月9日とも)、岡山城にて53歳の生涯を閉じます。

平気で人を騙すところから、戦国武将としては、あまり人気がないと言われている直家さんですが、冒頭に書いた通り、それは、戦国を生き抜くための手段であって、ネはけっこうイイ人なのかも知れません。
 

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2008年10月24日 (金)

明智光秀と丹波・福知山の明智藪

 

天正七年(1579年)10月24日、明智光秀が安土で織田信長に謁見し、丹波国を平定した事を報告しました。

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明智光秀と言えば、どうしてもあの本能寺の変を思い出してしまいます。

主君の織田信長に叱責され、足蹴にされて、柱だか欄干だかに頭を打ち付けられながらも耐えて耐えて・・・そして本能寺で大爆発!(6月2日参照>>)

・・・と、ドラマなどでは、大抵こんな感じで描かれますが、皆さんご存知の通り、アレはほとんど後世の創作です。

そりゃぁ、何か失敗をすれば怒られもしたでしょうが、それは他の家臣も同じで、光秀だけが怒られてたわけではありませんし、実際には、信長さんのパワーハラスメント的な記録は皆無です。

石山本願寺と和解した頃から、信長は、あの佐久間信盛(7月24日参照>>)を筆頭に、古い家臣たちを一掃して新しい人材登用を試みはじめますが、そんな家中改革の出世頭は、明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉です。

しかも、光秀と秀吉では光秀のほうが一歩リード、家臣団の中で最も早く一国一城の主となっています。

パワーハラスメントどころか、信長一番のお気に入り家臣だったのです。

そんな光秀さん・・・以前書かせていただいたように、その経歴は謎に包まれています(10月18日参照>>)

清和源氏土岐氏の流れを汲む明智氏だというのも、本当のところはわからないし、生まれた年さえはっきりしないのですから・・・

ところが、室町15代将軍・足利義昭が信長を頼った時に、いきなりその家臣として登場し、知識が豊富で教養にあふれ、京で使われている室町言葉を話し、しかも礼儀作法がしっかりしている・・・その上、最近出回り出したばかりの鉄砲の腕もイイとくれば、信長が食いつかないわけがありません。

なんせ、信長の家臣は、ほとんど尾張の人・・・室町言葉を話せなきゃ、朝廷や幕府との交渉もおぼつかない状況だし、特に朝廷からは田舎者扱いされますからね。

ここは一つ、洗練された雰囲気のシュッとしたお兄さんに広告塔になっていただいて、中央の方々に、「織田君って、なかなか都会的~」と言わせたい。

それにしても、光秀は、そんな教養をどこで身につけたんでしょうか。

越前(福井県)朝倉氏に仕える前に、諸国を流浪していたって言うけれど、ただ流浪しただけでそう簡単に身につきませんからねぇ。

光秀のこの洗練された雰囲気と比較されるのが、同じように出世した、かの秀吉です。

出自が低い秀吉の武器は、持ち前の要領の良さと斬新なアイデアと愛想の良いキャラクター・・・対する光秀は、正反対の・・・と言いたいところですが、私としては、光秀も秀吉と同じような環境で育ったのではないか?と思っています。

もちろん、謎に包まれているので、自分勝手な印象ですが・・・。

秀吉は、自分の出自や無学をさらけ出して、自分自身を貶め、負けを認めておいて相手を上の立場にあげておきながら、いつの間にか逆転してしまう。

光秀は、それができないタイプの人だったのではないでしょうか?

もともとの出自が良いのではなくて、出自が低いぶん、バカにされたくないから影で努力する・・・負けを認めたくないから頑張る・・・そんな感じの人ではなかったかと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あ・・・そうそう、今日は光秀が信長に、丹波国を平定した事を報告したという話でしたね。

かのルイス・フロイスによれば、その性格は、独裁的で秘密主義、残酷で策謀家で平気で人を裏切り、自分を偽装する事が得意・・・と散々な言い方をされている光秀ですが、この平定した丹波一国を与えられ、亀山福知山に城を築き、内政には、なかなかの手腕を発揮しています。

その城下町の基礎を築いた福知山では、今も、毎年8月14日~16日と25日・26日の5日間、『ドッコイセまつり』が開催されています。

このお祭り・・・全国ネットのガイドブックなどでは、『福知山踊り』という名前で紹介されたりしていますが、地元では『ドッコイセまつり』と呼ぶのが一般的で、この「ドッコイセ」というのは、福知山城の築城に携わった領民たちの作業の時のかけ声だったのだとか・・・

領民たちが「ドッコイセ」と唄いながら作業する中、いつしかそこに踊りがついて年に一度の祭となり、それが400年もの長きに渡って受け継がれる・・・これこそが、光秀の内政が成功していた事の証しと言えるものなのかも・・・。

Aketuyabufukutiyama 明智藪:右後ろが福知山城です。

福知山市内を流れる由良川には、その氾濫防止と海運の発展を願って光秀が築いた『明智藪(あけちやぶ)と呼ばれる大堤防が今も残ります。

福知山の歴史散歩はホームページでどうぞ>>
 

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2008年10月 3日 (金)

北条氏康~謙信・信玄に撃ち勝った隠れた名将

 

元亀二年(1571年)10月3日、戦国時代、100年にわたって関東を支配した後北条氏の3代目・北条氏康が亡くなりました。

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北条五代と言って、まず、思い出すのは、やはり初代の北条早雲・・・。

いくら支族とは言え、幕府将軍家を、地方の一大名が倒して支配権を握った(10月11日参照>>)わけですから、まさに下克上・・・早雲は、戦国の幕を開けた一人と言えるでしょう。

そんな後北条氏ですが、関東の大部分を支配し、実際に、その勢力範囲が最大のものとなったのは、3代目の北条氏康の時代・・・ドラマなどでは、なかなかスポットが当たる事はありませんが、この氏康さんも、かなりのデキル武将なのです。

天文十年(1541年)に氏康が家督を継いだ頃の関東は、未だ、古河公方足利晴氏関東管領上杉憲政(のりまさ)が元気ビンビンの時代・・・。

氏康は、家督を継いだ3年後の天文十三年(1544年)から、7年間にわたって古河公方と関東管領相手に戦い続け、ついには、二人を追い出し、最終的に関東300万石を北条の支配下に収める事に成功しています。

中でも、天文十五年(1546年)4月の河越夜戦(4月20日参照>>)は、毛利元就厳島の戦い(10月1日参照>>)織田信長桶狭間の戦い(5月19日参照>>)と並んで、戦国の三大奇襲戦として語り継がれる大勝利となりました。

しかし、それだけ勢力が大きくなると、そのぶん敵の大きさも比例して大きくなるのが世の常・・・ここから、氏康は、戦国屈指の名武将と対峙しなければならない事になります。

それは、越後(新潟県)長尾景虎・・・後の上杉謙信です。

氏康に関東を追われた上杉憲政が越後へ逃れ、謙信を頼った事から、永禄三年(1560年)8月、謙信自らが関東へと進攻してきたのです。

しかも、一旦は北条の支配下に収まったとは言え、まだまだ地盤がユルユルだった関東武士たちの多くが、関東管領の看板を背負った謙信の呼びかけに呼応し、反北条の姿勢に転じてしまい、なんと、その数は、総勢10万にもなっていたのです。

氏康さん、最大のピ~ンチ!

しかし、ここで、その最大のピンチを救ったのが、自ら手を加え続けた居城・小田原城でした。

その生涯の中で、ほとんど負け戦のない武勇優れた氏康さんですが、実は内政に関しても非常に優れていたのです。

徹底した検地を行い、家臣や領民の負担を明確にして税制改革を行ったり、大規模な都市開発で城下町を発展させたりと・・・そして、そこには、城下町の成長とともに成長し、更なる堅固な城となっていた小田原城があったのです。

氏康は、野戦をせず、この小田原城に籠城して、謙信の大軍を相手に、持久戦に持ち込む作戦に出ます。

そして、その作戦は見事に成功します。

籠城して1ヶ月・・・未だビクともしない小田原城相手に、兵士の士気もさがりつつあった上杉軍に、ころあいを見計らって反撃を仕掛けた北条勢・・。

結局、謙信は、何も得るものの無いまま、撤退を余儀なくさせられてしまうのです。

しかし、憲政から関東管領職を譲られた謙信が、このまま納まるわけもなく、その後も、上杉と北条の対峙は続く事になるのですが、やがて訪れた永禄七年(1564年)、謙信に誘発された安房(あわ・千葉県南部)里見義弘との第二次国府台(こうのだい)の合戦(1月8日参照>>)・・・またまた夜戦の奇襲で、見事、勝利したのです。

これで、下総(千葉県北部)をも、支配下に収める事に成功しました。

しかし、安心はできませんでした。

例の桶狭間の戦いにて大黒柱の今川義元を失った事で、一気にその勢力に衰えを見せ始めた駿河(静岡県東部)今川氏に、永禄十一年(1568年)、甲斐(山梨県)武田信玄が、突如、攻撃を仕掛けてきたのです(12月12日参照>>)

義元の生存中には、それぞれの息子や娘を婚姻させて、甲相駿・三国同盟を結んでいた武田と北条と今川・・・義元の後を継いでいた今川氏真は、当然、北条に助けを求める事になります。

ここからの氏康は、謙信と並ぶ、もう一人の戦国屈指の名武将・武田信玄との戦いに突入する事となったのです。

やがて、今川氏を倒して、北条の相模(神奈川県)へと進攻を開始する信玄・・・永禄十二年(1569年)の10月1日には、小田原城を包囲した武田軍に対して、またまた籠城作戦で迎え撃つ氏康・・・。

そして、またしても、その籠城作戦は成功するのですが、この時の武田軍は、兵糧の確保が不十分だった事もあり、わすか5日間で、撤退させられています。

帰国の途についた武田軍に追い討ちを仕掛ける氏康・・・自ら率いる本隊に先駆けて、北条氏輝・氏邦に2万の軍勢を与えて、武田軍を追撃させましたが、残念ながら、この時は、本隊到着の前に北条勢は撃破され、氏康と信玄が直接対決する事はありませんでした(10月6日参照>>)

その後も、武田との小競り合いが続く中、対・武田の一環として謙信との和睦を結ぶ氏康でしたが、その和睦もあまり成果が得られないまま、病魔が彼を襲う事になってしまいました。

以前、戦国時代の食べ物事情のページ(2月13日参照>>)でご紹介した通り、息子・氏政の食事の仕方のドン臭さを嘆いた氏康さん・・・己の知略で戦国の世を生き抜き、関東一円に勢力を広げ、さらに領民からも慕われた名将から見れば、確かに、息子は情けなかったのかも知れません。

江戸時代の学者たちからも、「文武に徳を備え、合戦には負けず、民政にも優れた古今の名将」と評された氏康さん・・・はたして、その脳裏には、目の前の上杉や武田よりも怖い、豊臣秀吉が見えていたのかも知れません。

「楽しみは諸侯の後に楽しみ、うれいは万民の先に憂う・・・」

元亀二年(1571年)10月3日、稀代の名将・北条氏康は、自慢の小田原城にて57歳の生涯を閉じました。

追記:本ページのタイトルに「隠れた名将」とさせていただきましたが、「隠れてない!」「超有名です!」とおっしゃる北条ファンの皆様・・・この「隠れた」というのは、あくまで、私の個人的主観で、「謙信や信玄に比べると、ドラマの主役になったのを、あまり見かけないなぁ」と思って、安易につけただけなので、どうか広~いお心でのお許しを・・・
 

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2008年9月13日 (土)

七尾城・攻防戦~上杉謙信の「九月十三夜」

 

天正五年(1577年)9月13日、能登・七尾城を攻略中上杉謙信が、城中からの密書を受け取り勝利を確信しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

越後(新潟県)上杉謙信と、甲斐(山梨県)武田信玄・・・。

この永遠のライバルが5回にわたる川中島の合戦(武田信玄と勝頼の年表を参照>>)を繰り広げている間に、情勢は大きく変わりました。

群雄割拠する戦国時代・・・もともと、謙信の敵は信玄だけではなく、信玄の敵も謙信だけではなかったわけですが、ここに来て、桶狭間(5月19日参照>>)今川義元という大物を倒し、一気に全国ネットの表舞台に登場してきたのが、尾張(愛知県)織田信長です。

その信長が、第15代室町幕府将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たしたのもつかの間、信長と義昭の関係はすぐに、ギクシャクし始めます。

そりゃそうです・・・信長は、はなから、義昭を将軍に立てて、その下に自分がつく気などなく、自らが天下を掌握するつもりなんですから・・・。

やがて、将軍としての地位をないがしろにされて、その事に気づいた義昭は、各地の戦国大名に密書を乱発し、信長包囲網を造ろうとします(1月23日参照>>)

その動きに合わせるように、信玄は、東海へとターゲットを変更するのですが、志半ばで病に倒れて、この世を去り、その後を継いだ武田勝頼は、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)で、織田・徳川連合軍に敗れ、武田氏は急激に衰えを見せ始めます。

一方の謙信は、義昭の仲介で、長年敵対関係にあった石山本願寺と同盟を結んだ後、越前(福井県)朝倉近江(滋賀県)浅井を倒して(8月27日参照>>)北へと進んでくる織田軍を迎え撃つ事になります。

天正四年(1576年)10月、謙信の七尾城包囲によって、第一次の攻防戦が開始されます。

この時の七尾城主は、長年の重臣同士の争いから、次々と城主を失った後に擁立された、まだ幼い畠山春王丸・・・それゆえ、実質的に実権を握っていたのは重臣の長続連(ちょうつぐつら)と、その息子・綱連(つなつら)でした。

周囲の支城を次々と落として、包囲した七尾城を孤立させる謙信でしたが、やはり、そこは、代々の畠山氏が構築した難攻不落の名城の呼び名も高い七尾城・・・結局、謙信は、七尾城を落せないまま、年を越してしまいました。

・・・と、天正五年(1577年)の3月・・・ここに来て、関東北条氏が、謙信の領地である上野(こうずけ・群馬県)に進攻し始めます。

そう、川中島に夢中になって、ついつい忘れそうになってましたが、謙信は関東管領職にもついていますので、未だ、北条氏も敵なわけです。

七尾城の攻略を一旦中止し、北条の討伐へ向かう謙信・・・その北条を破って、再び謙信が七尾城を包囲したのは、4ヵ月後の閏7月の事でした。

続連・綱連親子は、再び、強固な七尾城を楯に、以前と同じように籠城の構えでしたが、いくら難攻不落といっても、そう何度もうまく事は運びません。

以前とは、明らかに違うところが一つ・・・そう、季節です。

7月という最も暑い時期・・・城内で、疫病が発生してしまうのです。

しかも、続連らは、謙信の大軍を相手にするため、ここ七尾城に多くの領民をにわか兵士として向かえ入れていたため、次々と人から人へと病魔が広がり、とうとう、幼い城主までが命を落します。

城内のありさまに危機感を抱いた続連は、息子・綱連を城から脱出させ、畿内にいる信長のもとへ救援要請に向かわせました。

ところが、ここに、もう一つ、以前とは明らかに違うところが・・・それは、謙信の作戦です。

先の第一次攻防戦で、難攻不落の七尾城を攻めあぐねた謙信・・・今度は、包囲した最初の段階から、お抱えの忍びの軍団・軒猿(のきざる)を城内に派遣し、内通者を探らせていたのです。

その呼びかけに答えたのが、畠山氏に仕える重臣の一人・遊佐続光(ゆさつぐみつ)でした。

天正五年(1577年)9月13日、続光は、謙信への寝返りを決意し、その思いを綴った密書を送ったのです。

煌々(こうこう)と月が照る中、届いた密書を読んだ謙信は、この時、勝利を確信・・・おもむろに大好きなお酒を用意し、諸兵たちに振舞うとともに、自身も勝利の美酒に酔ったと言います。

この時に詠んだ詩が、有名な『九月十三夜』です。

霜は軍営(ぐんえい)に満ちて
  秋気(しゅうき)清し
 数行(すうこう)の過雁(かがん)
  月三更(さんこう)
 越山(えつざん)併せ得たり
  能州(のうしゅう)の景
 遮莫(さもあらばあれ)
  家郷(かきょう)の遠征を憶(おも)ふを♪

遠く遠征した能登の地で、月の照る空を雁が飛んでいく・・・その光景に故郷・越後の風景をダブらせて、郷愁に浸る・・・

カッコイイなぁ・・・
できれば、このシーン、昨年の大河のGacktで見てみたかった気がしないでもないですが、来年の阿部謙信でもOKなので、是非とも見てみたい~

・・・と、ノスタルジックなシーンに浸っている場合ではない!

結局、この2日後の9月15日、上杉側に寝返った続光によって続連・綱連親子は殺害され、七尾城は開城となり、綱連自らが危険を冒して要請した織田の援軍は、間に合わなかった事に・・・。

この後、さらに加賀(石川県)へと進攻し、柴田勝家率いる織田軍を撃ち破る謙信・・・ここで、冬を迎えたため、一旦越後に戻り、次の春には大軍を擁して上洛し、信長を討つつもりだったと言われてる謙信ですが、ご存知のように、その前に急死してしまいます(3月13日参照>>)

そして、謙信の二人の養子、景勝(かげかつ)景虎(かげとら)の間での後継者争い・御館の乱(3月17日参照>>)が勃発し、信長は命拾いすることとなるのです。
 

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2008年9月12日 (金)

魔王の殺戮か?天下人の完全主義か?価値観の相違

 

元亀元年(1571年)9月12日は、織田信長による、あの比叡山の焼き討ちがあったとされる日ですし、昨日は昨日で、ちょうど第二次天正伊賀の乱を書かせていただいたので、それに関連してのお話なのですが・・・

昨日、チョコっと触れさせていただいたように、老若男女・武士・僧侶・一般人の区別なく、ヤル時は徹底的にヤッちゃう信長さんのこれらの行為を、魔王の殺戮ととらえるか、天下人の完璧主義ととらえるかは難しいところだという事・・・。

その事に関して、私なりに、少し思うところがありますので、今日は、その事を書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)をはじめ、昨日の伊賀攻め(昨日のページを見る>>)長島一向一揆(9月29日参照>>)上京焼き討ち(4月4日参照>>)と、まさに魔王のごとき行動がクローズアップされる信長さん・・・

それゆえか、最近の若い方々の中には、
「信長は、あんなに大量に殺人してるのに、なんでエライの?なんで皆、尊敬するの?」という疑問を持つ人を多くみかけます。

学校で、「戦争=大量殺人」「殺人=悪いこと」と教えられ、その価値観を、そのまま戦国にあてはめてしまうと、そういう疑問になってしまうのも無理はありません。

しかし、少し、考えてみて下さい。

まずは、上記の比叡山と長島一向一揆・・・これはどちらも宗教がらみの団体で、伊賀は宗教ではありませんが、惣国という独立国家を主張する団体・・・しかも、彼らはともに武装しています。

これらが、ゲリラ戦を駆使して、国を平定しようとする信長に対抗するわけで、ゲリラ戦は、言い換えればテロ行為・・・あの9・11を、聖戦ととらえるか、テロ行為をとらえるか・・・と考えてみれば、少しは状況を読みやすいかも知れません。

信長から見れば、彼らの行為はテロ行為以外の何物でもないわけで、そのテロ行為は、武士・農民に関わらず、その団体に属するすべての老若男女が行う可能性があるわけです。

現在の中東においてでも、自爆テロを女性が行った例がありますから、テロ行為をされる側からみれば、「根絶やしにしなければ、どこに火種が残っているかわからない」という状況もありうるわけです。

・・かと言って、もちろん信長さんの報復が100%正しいかどうかは別問題で、どちらが先にケンカを売ったのか?というのも含めて、賛否両論渦巻くところですが、少なくともそういう状況を踏まえて議論なり、考えるなりしないといけないという事です。

また、このように信長さんばかりが強調されていますが、戦国の世において、戦いに一般市民を巻き込む事は、多々あったわけで、たとえば、徳川家康・・・

有名な関ヶ原の合戦は、近所の農民たちが、弁当を持って合戦見物をしていたくらい一般市民が巻き込まれなかった合戦ですが、むしろこちらの方がまれです。

これは、徹底的に石田三成派を潰したいがために、天皇をはじめとする公家に介入されて、合戦が中途半端に和睦させられてしまう事を恐れた家康の作戦で、わざわざ、ひと気のない関ヶ原に、敵をおびき寄せて合戦をしたのです(9月14日参照>>)

しかし、そんな家康も、ひとたび市街戦となれば、やはり、一般市民への殺戮と無縁ではありません。

あの大坂夏の陣(5月7日参照>>)がそれです。

少し前の話になりますが、NHKの「その時歴史が動いた」の6月25日の放送で、「戦国のゲルニカ~大坂夏の陣 惨劇はなぜ起きたのか」と題して、黒田家に残された大坂夏の陣屏風を題材に、そこに描かれた様々なおぞましい光景について語られていました。

*番組の内容については、NHKの番組サイトで・・・リンクフリーではないそうので、URL表示させていただいときます↓
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2008_06.html#04

Natunozinbyouburoubacc その夏の陣屏風には、大坂城に突入する兵士などの姿とともに、逃げ惑う大坂市民と、そんな一般市民から金品を奪おうとする兵士、一般市民の首を取って武将の首と偽り褒美にあやかろうとする兵士、逃げる女性を取り囲み陵辱しようとする兵士・・・と、確かに目を覆うような光景が描かれています。

このような殺戮が大坂夏の陣で展開された事を、その放送で初めて知ってショックを受けた人も多いようです。

ただ、確かに、あのような地獄絵図が展開された事は確かですが、同時に、その時代背景や、経緯、価値観なども含めて考えなくては、冒頭に書いた信長さんと同じで、「こんなヒドイ行為をした家康はなんでエライの?」という事になってしまいます。

たとえば、「非戦闘員の大量殺戮」・・・
この非戦闘員と戦闘員の区別が非常につき難いのも、戦時下の特徴です。

山崎の合戦(6月13日参照>>)に敗れた明智光秀が、自国へ帰る途中に農民に殺された話は有名です。

それまで、合戦を見物していただけの農民(非戦闘員)が、合戦の勝敗が決した途端、その恩賞目当てに、自らすすんで落ち武者狩りに参加する戦闘員に変身するわけです。

Natunozinbyoubuzyoseicc 合戦の終焉のドタバタで、戦闘員か非戦闘員かを見極めるのは大変難しいです。

しかも、この夏の陣の時の商人や一般人の中には、それぞれのつながり、それぞれの損得によって、豊臣方・徳川方に分かれ、密かに加担していた人も少なくないのです。

もう、誰が無関係かなんて判断できない状況だったでしょう。

「罪のない女子供にまで・・・」というニュアンスの事も、その番組内で言ってたような気がしますが、「女子供に罪がない」というのは、それこそ現代の日本人の感覚・・・
アフガニスタンやイラク・北朝鮮の現状を見れば、戦時下では女子供も戦闘員になる可能性がある事は、充分に予想できます。

つい2~3日前にも、脱北者を装って韓国でスパイ活動をしていた女性の初公判のニュースをご覧になられた方も多いでしょう。

イギリスのアイルランドあたりの抗争でも、10歳に満たない男の子がマシンガンを持って戦闘に加わっているのが現状です。

実際、この夏の陣の時には、群集にまぎれて、豊臣秀頼の息子も、京都方面へ逃亡しています。

子供とは言え、男の子は、討つべき対象となります・・・なんせ、こういう状況の場合、やがてはその子を担いで反旗をひるがえす事も多々あり、未だ多くの元・豊臣家臣を配下にしている家康にとっては、豊臣を旗印に反旗をひるがえされる事は、かなりの痛手となりますから・・・。

Natunozinbyoubukodomotoonnacc 雑兵に襲われる市民たち

確かに、一般市民を巻き込む殺戮の嵐ではありましたが、ここで完全にその根を絶ち、この大坂夏の陣を最後に、長きに渡る戦乱の世に終止符を打ったからこそ、家康は偉人となるわけです。

このように考えていくと、すべてではありませんが、少しずつ、理解できるような気がします。

もちろん、「戦争=大量殺人」「殺人=悪いこと」の考えは重要です。

信長も家康も、決して最善ではなく、血を流さず、殺戮をせずに平和をもたらすのがベストである事は言うまでもありません。

これからも、日本が戦争にならない事を願ってやみませんが、歴史を考える時は、時代による価値観の相違を踏まえて、現代と同じ尺度では測れない時もあるのでは?と思う次第です。
 

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2008年9月11日 (木)

織田信長の伊賀攻め~第二次天正伊賀の乱

 

天正九年(1581年)9月11日、第二次天正伊賀の乱と呼ばれる織田信長の伊賀攻めで、最後に残った柏原城が開城されました。

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武田信玄には出抜(すっぱ)上杉謙信には軒猿(のきざる)というお抱えの忍者集団がいました。

徳川家康服部半蔵真田幸村真田十勇士は超有名ですし、北条にも風魔一族が・・・。

なのに、織田信長が忍者を使った話はあまり聞きませんねぇ・・・唯一、一昨日、書かせていただいた滝川一益(9月9日参照>>)くらいですが、そのページでも書かせていただいたように、一益も甲賀出身というだけで、忍者とは決めつけられないというのが一般的な見方です。

しかし、合理主義者の信長さんですから使える者は誰でも使っただろうし、戦国乱世に敵情を知るスパイ行為が、合戦そのものよりも重要な事は孫子の時代からの常識(10月16日参照>>)・・・ただ、ヤル時は徹底的にヤルといった雰囲気の信長さんの性格からか、忍者を使ったゲリラ戦法や暗殺といった類の話は、あまり聞きませんからねぇ。

逆に、やりかたがウマすぎて、本当に闇から闇へと消えちゃってるのかも知れませんが・・・。

そんな信長さんが、やはり徹底的にやちゃったのが今回の伊賀攻めです。

伊賀の里は、伊勢(三重県)大和(奈良県)を結ぶ交通の要所にありましたが、山深い事もあって、大きな勢力の及ばない場所でもありました。

各地で、戦乱が繰り返された戦国時代でも、小さな土豪(半士半農の地侍や名字百姓)が割拠してはいるものの合戦を起こして領地を奪い合うといった事もなく、むしろ、心を一つにして一揆を起こし、天正六年(1578年)には、守護・仁木氏を追放し、惣国による独立自治を行っていました。

そんな中、伊勢に進攻した信長によって北畠氏に養子として入り、その乗っ取りに成功した次男・織田信雄(のぶかつ)は、その勢いに乗りまくって、父・信長に無断で、伊賀攻めを開始しますが、伊賀軍団のゲリラ戦法にしてやられ、ほうほうのていで逃げ帰ってきます(第一次天正伊賀の乱)

無計画な攻撃をしかけたバカ息子に激怒する信長ですが、一方で、かわいい息子の命を脅かした伊賀軍団をそのままにしておくわけがありません。

あの信雄の敗走から、ちょうど2年後の天正九年(1581年)9月3日、天下統一目前の信長は、大量の兵を繰り出して、再び、信雄を総大将に、伊賀攻めを開始するのです。

この時、羽柴(豊臣)秀吉が中国方面で、柴田勝家前田利家が北陸方面で奮戦中であったため、彼らこそいないものの、滝川一益・丹羽長秀・蒲生氏郷・堀政秀・筒井順慶・浅野長政と、残りの織田軍を総動員しての、約4万5千の大軍を用意します。

大名でもない小土豪集団に対して、いくらゲリラ作戦を駆使しても、立ち向かう事ができないほどの大軍での進攻・・・やっぱ、前回の失敗で、愚将の汚名を着せられた息子への親心なんでしょうねぇ。

織田軍は、その数に物を言わせて、伊賀へと進入する要路4箇所から軍勢を分けて進攻させ、すべてを焼き尽くす徹底した焦土作戦を決行します。

北伊賀の雨請山(あまごうやま)では稲増(いなます)、西伊賀の比自山(ひじやま)でも、それぞれの土豪たちがゲリラ作戦で抵抗しますが、小さな砦は次々と落とされていきます。

そして、最後に残ったのが、総大将・滝野吉政(たきのよしまさ)百地丹波(三太夫:丹波と三太夫は別人という説もあり)以下1600名が籠る柏原城でした。

天正九年(1581年)9月11日、落城寸前の柏原城に、信長は「和睦・無血開城」を持ちかけ、吉政は、自らの嫡男を信雄に預ける条件で、柏原城を開城・・・進攻開始から、わずか2週間足らずで、伊賀は平定されました。

この間に、織田軍が繰り返した殺戮は、老若男女、一日300人以上と言われ、まさに、あの長島一向一揆(9月29日参照>>)の悲劇が、再び繰り返されました。

伊賀を焼き尽くすその炎は、遠く奈良からも見えたという事で、興福寺の僧侶の日記には、「惣国一時に亡所」=「伊賀一国があっという間に消滅した」と書き残しています。

この時、逃げ惑う人々を哀れに思い、見逃してやった筒井順慶は、後に、信長に激しく叱責されていますが、これを、魔王の殺戮ととらえるか、天下人の完璧主義ととらえるかは、一言では語れない難しいところではあります(私見は翌日:9月12日のページで>>)

かの平清盛源頼朝に情けをかけなければ、平家の滅亡は無かったかも知れないわけで、どこに火種があるかわからない乱世では、すべての根源を断ち切っておく必要もあるのかも知れません。

信長さんの味方をするわけではありませんが、現代と同じ尺度で測れない事は確かです。

もちろん、伊賀衆のすべてが滅びたわけではなく、百地丹波などは千人以上の配下の者を連れて、根来へ落ち延びたとも言われています。

現に、信長が横死した本能寺の変の後の後継者争いの時期に合わせて、どこからともなく集まり、先の柏原城や砦に立てこもり、織田軍と戦ったり(第三次天正伊賀の乱)もしていますが、やはり、もとの伊賀の里に戻る事はありませんでした。

この次に、彼ら伊賀衆の名前が表舞台に登場するのは、徳川家康が天下を牛耳る時・・・そう、その本能寺の変の直後に、三方ヶ原と並ぶ家康最大のピンチを助けたのが、この時、逃げ切った伊賀者たちで、その後、多くの者がそまま家康の配下となっているのですが、そのお話は、6月4日【徳川家康・決死の伊賀越え】のページでどうぞ>>
 

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2008年8月19日 (火)

信長・秀吉・家康だけが成しえた城割の重要性とは?

 

天正八年(1580年)8月19日、織田信長の命により筒井順慶が、筒井氏の本城・筒井城の破却を開始しました。

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この半月前の8月2日、筒井順慶に上り、織田信長に会います。

そこで、順慶は信長から、郡山城だけを残して、それ以外の大和(奈良県)の国中の城を破却するように命じられ、翌3日、本城である筒井城に戻ってきますが、8日には、今度は摂津・河内(大阪府)にある諸城も破却せよ」との命令が下ったために、順慶は即座に河内に向かいます。

17日には、河内国の城の破却が完了し、順慶は再び大和に戻って、大和の城郭を次々と破却・・・そして、天正八年(1580年)8月19日には、筒井城の破却に取り掛かるのです。

奈良中の人夫が狩りだされて、その工事にあたり、20日には、すでに大和国中の城のほとんどが破却され、順慶は郡山城に入りました。

以上は、多聞院英俊(えいしゅん)が書いた『多聞院日記』に書かれている記述ですが、これを書いた英俊本人も・・・
「国中おおむね城を破ると云々。残る所無きか」
と驚きを隠せません。

確かに、ものすごいスピードで、次々と城が壊されたようですね。

このお城の破却の事を『城割(しろわり)と言いますが、この城割は、「天下統一は城割なしではありえなかった」とまで言われるほど重要な事なのですが、事が地味なせいか、時代劇などではほとんど扱われる事がありません。

確かに、派手な合戦シーンや、武将同士の巧みな駆け引きなんかのほうが、ドラマとしてはオモシロイのでしかたないですが・・・。

もともと、城割の前身とも言える城の破却自体は以前から行われていましたが、それは、単に倒した相手の城を壊したり、あるいは、敵に奪われそうになると破壊して逃走したりといった類の物で、これだけ一斉に、かつ計画的に、そして大々的に行ったのは、やはり信長・・・。

そして、信長の城割は、豊臣秀吉の城割へと受け継がれ、さらに元和元年(1615年)6月13日に徳川幕府が発布する『一国一城令』で完成形となるのですが・・・、

上記のように、信長・秀吉・家康の三人だけが成しえた城割・・・という事は、やはり、それが天下統一と密接に関係している事がわかります。

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そもそも戦国武将が群雄割拠していた時代、その領内には、支城という物が網の目のように張りめぐらされていました。

それは、当時の戦国大名が、その配下の国人(こくじん)土豪(どごう)たちによってその兵力を維持していた事を意味しています。

国人・土豪とは、普段は農業に従事し、いざという時に鎧を着て槍を持って支城に馳せ参じ、合戦におもむく兵士たちの事・・・もちろん、この支城というのも、お城と言ってすぐ思いつくような天守閣のような立派なお城ではなく、お屋敷に毛の生えたような小さな物が大多数なのですが・・・。

その建てかたと言えば、ある支城から吹き鳴らすほら貝・太鼓などの聞こえる範囲に次ぎの支城を、そして、また、その支城から音が聞こえる範囲に、また支城を・・・という感じで建てられ、先ほどのいざという時を知らせるのがほら貝であり太鼓あるわけですから、その音で、兵を召集し、さらに次ぎの支城にも急を知らせるわけです。

また、『つなぎの城』『対(つい)の城』といった感じで、支城が建てられる場合もあります。

それは、いつ国境を越えて攻めてくるかも知れない敵を見張るためや防ぐために、その最前線に建てたり、あるいは、現在の領地の北側に位置する隣国を攻める時に、その国境近くの北の端に支城を建て、攻撃の拠点にするといった具合です。

しかし、そんな支城というのは、戦国大名にとって両刃の剣でもありました。

それは、支城の城主となった国人が、そのまま敵に寝返ってしまうと、あたりは即座に敵の領地になってしまいますし、国人が大名に反抗する場合には、その拠点を与えてしまう事にもなるからです。

敵国からの防御のためには、必要な支城・・・しかし、領国内の治安を維持するためには不必要な支城・・・多くの戦国大名は、この支城の存在に悩まされ続けてきました。

そんなスパイラルから脱却したのが信長です。

信長は、合戦に勝利して征服した地にある城を、本城だけを残して破却=城割をする・・・ただ単に一つの支城を破却するのとは明らかに違う統合整理を行ったのです。

もちろん、これには、支城を破壊するだけではなく、本城を強化するという事が必要です。
城も大きくし、城下町も整備しなければなりません。

信長が行った城割は、支城を潰す=無くすという事ではなく、本城に支城を吸収するといったほうがわかりやすいでしょうか。

国人や土豪たちが拠り所としていた支城が破却され、本城に吸収されれば、その国人・土豪たちは、もといた土地を離れ、本城の城下町の常駐する事になります。

つまり、兵農分離・・・これによって信長は、季節に関係なくいつでも戦えるプロの戦闘集団を手に入れた事になります。

さらに、四国、九州と次々に平定していく中で城割を行い、全国的に検地刀狩りを展開していく事で、その集中体制を強化させたのが秀吉です。

そして、徳川幕府の一国一城令で、一つの領地に一つの城と一人の領主・・・その上に幕府があるという封建的体制が確立される事となるのです。

「次々と城を破壊」と聞くと、「せっかく建てて、まだまだ使えるのに、なんで壊すの?」と思いがちですが、城割の重要性をわかっていただけましたでしょうか。

おかげで、当時の城がほとんど現代に残っていないという、城マニアにとっては寂しいものになってしまいましたが・・・。

*城割によって強化された近世城下町の町割(まちわり)については、9月8日【大阪マイナー史跡~大手橋と近世城下町の町割】へどうぞ>>>
 

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2008年8月14日 (木)

刀禰坂の戦い~生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興

 

天正元年(1573年)8月14日、越前朝倉義景への織田信長の追撃・刀禰坂の戦いがありました。

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姉川の合戦(6月28日参照>>)の後も、織田信長への抵抗を続けていた越前(福井県)朝倉義景近江(滋賀県)浅井長政・・・(11月26日参照>>)

信長によって、その地位をないがしろにされた15代室町幕府将軍・足利義昭の声かけによって、一旦は敷かれた信長包囲網でしたが、一番の大物である武田信玄の死(4月12日参照>>)によって、もろくも崩れ始めます。

前後して、天正元年(1573年)の4月と7月に、上京焼き討ち(4月4日参照>>)と、(まきしま)城攻撃(7月10日参照>>)を行って、将軍・義昭を京都から追放した信長は、続けて近江に攻め上ります。

もちろん、信長のターゲットは近江の浅井長政だけではなく、姉川の合戦の時から、強固な同盟関係にある越前の朝倉義景も同じです。

長政の居城・小谷城を包囲する信長軍に対して、城の北側に陣取る朝倉の援軍・・・

8月6日にこの援軍への攻撃を開始した信長・・・やがて8月12日には、この近江一帯に暴風雨が吹き荒れたのをきっかけに、朝倉軍への攻撃に主力を投入し北上を開始します。

信長軍に圧倒された朝倉軍は北へ北へと敗走し、すでに、木之本(滋賀県)まで来ていた義景も撤退を余儀なくされ、勢いに乗った信長軍は、そのまま追撃を開始。

義景ら朝倉軍は、追いすがる信長軍に抵抗を繰り返しながら、本拠地の一乗谷へと逃走する事になるのですが、その途中での一番の激戦が、天正元年(1573年)8月14日刀禰坂(刀根坂・とねざか)の戦いでした。

『信長公記』によれば、「この近江北部から刀禰坂・敦賀への撤退で、武将:38人、兵:3800人が討死した」とありますが、その数字は多少オーバーではあるものの、朝倉景行(北ノ庄城主)朝倉道景といった一門をはじめ、山崎吉家河合吉統などの名だたる武将もここで討死していますので、目を覆うような激戦が繰り広げられた事はまちがいないようです。

そして、信長に稲葉山城を攻め落とされた