2020年8月 4日 (火)

奈良の覇権を巡って…松永久秀VS筒井順慶~辰市城の戦い

 

元亀二年(1571年)8月4日、奈良の覇権を巡って戦った松永久秀と筒井順慶による辰市城の戦いがありました。

・・・・・・・

筒井順興(つついじゅんこう)筒井順昭(じゅんしょう)の父子2代に渡って、群雄割拠する大和(やまと=奈良県)の国衆たちを抑え込み、
 ●【井戸城・古市城の戦い】参照>>)
 ●【貝吹山城攻防戦】参照>>)
Tutuizyunkei600a ほぼ、大和統一を果たした感のあった筒井氏でしたが、その順昭が天文十九年(1550年)に病死した事により、息子の筒井順慶(じゅんけい)が、わずか3歳で後を継ぐ事に・・・

そんな中、永禄元年(1558年)の白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)にて第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦し(11月27日参照>>) 、戦国初の天下人となった三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣である松永久秀(まつながひさひで)が、その翌年から大和平定に動き出します(11月24日参照>>)

Matunagahisahide600a その永禄二年(1559年)には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していく(7月24日参照>>)久秀でしたが、一方で主家の三好は、長慶の兄弟たちや長慶本人が次々と亡くなった事で徐々に衰退(5月9日参照>>)・・・

さらに、三好長慶の後を継いだ甥っ子=三好義継(よしつぐ)をサポートする一族の三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が永禄八年(1565年)、将軍(義輝)暗殺(5月19日参照>>)という暴挙にでました。

この時、かの三好三人衆と同盟を結んでした筒井順慶は、この年の11月に久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃しますが、これを受けた久秀に居城の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲され(11月18日参照>>)順慶らはやむなく城を退去します。

本拠の筒井城を追われた順慶は、筒井方の布施(ふせ)の居城=布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)に入って再起をうかがいますが、そのチャンスは意外に早く・・・翌永禄九年(1566年)、かの三好義継が(さかい=大阪府堺市)にて武装蜂起した事を受けて、久秀が奈良を留守にしたスキを狙って筒井城を奪回したのです。

一方、堺にて三好義継と和睦した久秀は、和睦承諾によって三好三人衆と決裂して久秀側の人となった三好義継を連れて信貴山城へと帰還・・・これを受けた順慶&三好三人衆に摂津池田城(大阪府池田市)の城主=池田勝正(いけだかつまさ=摂津池田城主)らを加えた連合軍が奈良近辺の大安寺(だいあんじ=奈良県奈良市)白毫寺(びゃくごうじ=同奈良市)等に布陣、一方の久秀も東大寺(とうだいじ=奈良市)戒壇院(かいだんいん)転害門(てがいもん)に軍勢を配置します。

これが永禄十年(1567年)10月10日に大仏を炎上させてしまう、あの東大寺大仏殿の戦い(10月10日参照>>)という事になります。
(ちなみに火を放ったのが誰か?は特定されていません)

この合戦の最中に三好三人衆の配下であった飯盛山城主の松山安芸守(まつやまあきのかみ)が久秀側に寝返ってくれた事や、大仏炎上で大仏殿近くに布陣していた三好勢が総崩れとなった事で、とりあえず、この合戦には勝利した久秀でしたが、未だ筒井&三好三人衆の勢いは強く、何かと押され気味だった久秀・・・

そんなところに登場して来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)でした。

ご存知、永禄十一年(1568年)9月・・・三好三人衆に暗殺された将軍=義輝の弟である足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じての上洛です(9月7日参照>>)

この時、信長に抵抗した三好三人衆は畿内を追われ、三人衆の一人である三好長逸(みよしながやす)の物だった芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に入った信長のもとへ、三好義継とともに名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを手土産に謁見した久秀は、息子二人を人質として信長に差し出し、「手柄次第切取ヘシ」=つまり「勝って得た大和の地は久秀の物」との言葉とともに2万援軍を約束され、織田の傘下となりました。

一方、対信長に関しては先を越されてしまった筒井順慶・・・同盟を結んでいた三好三人衆は崩壊し、これまで配下に収めていた大和の国衆も我先に離反して、中には公然と松永方に寝返る者も現れる始末。

もはや風前の灯となる中・・・てか、信長が芥川山城に入ったのが10月2日ですから、その、わずか4日後の10月6日、大きな後ろ盾を得た久秀が筒井城へと攻め寄せた事で、その2日後の10月8日、順慶主従は、やむなく福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して落ちて行ったのです。

とは言え、順慶もまだまだ屈せず・・・大和高原あたりに潜んで、しきりにゲリラ戦を展開しつつ、自身の存在をアピールしておりましたが、そんな順慶に一筋の光が射すのが永禄十二年(1569年)12月・・・

かつて松永久秀が大和に侵攻した時、いち早く味方につき、娘を久秀の重臣の息子に嫁がせて、その親密ぶりを増していた十市城(とおちじょう=奈良県橿原市)十市遠勝(とおちとおかつ)が、この年の10月に亡くなった事を受けて、十市家の重臣たちが、更なる松永との親密を願って、その十市城を久秀に明け渡す約束をしたのですが、当然、それに反対する重臣もあり、十市の家中が乱れていたのです。

そこをチャンスと見た順慶が、12月9日、500の筒井衆を派遣して、あれよあれよと言う間に十市城を占拠・・・身の危険を感じて今井(いまい=橿原市今井町)に退去した重臣たちであはりましたが、当然、そこは松永の家臣たちとともに、速やかな変換を要求しますが、筒井方が、そんな物に応じるわけなく、翌元亀元年(1570年)の7月には順慶自らが十市城に入り、ここを有力拠点の一つとする事にしたのです。

しかも、この間の筒井勢は、以前、久秀に奪われていた窪之庄城(くぼのしょうじょう=奈良県奈良市)を奪回したり、郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)に迫る松永勢を撃退したりしています。

風前の灯だった順慶が、かなり挽回して来た感ありますね~
と言うのも、実は、この時期の久秀は、コチラ=奈良での戦いに、多くの兵を投入する事ができなかったようなのです。

そう・・・信長上洛のアノ時に、
『「勝って得た大和の地は久秀の物」との言葉とともに2万援軍を約束され、織田の傘下となった』
と書きましたが、…という事は、その逆もアリ・・・

ご存知のように、この元亀元年(1570年)という年・・・信長は、あの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市)の退き口(4月)から態勢立て直しの姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月)という、その人生の中でも屈指の忙しい時期(【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月】参照>>)だったわけで、当然、久秀も信長の戦いに、自軍の兵を大量に派遣せねばならならず、そのぶん、奈良への兵の投入は難しくなる。

で、そんなこんなを不満に思ったのかどうか?は定かではりませんが、ちょうど、この年の5月頃に、久秀は織田傘下から離反して、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)の第11代法主=顕如(けんにょ)と結び、かつて東大寺で相対したあの三好三人衆とも仲直り・・・

なんせ信玄は、あの今川義元(いまがわよしもと)亡き後の駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を、信長の口利きで三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)半分っこする約束で連携して攻め進んだものの、途中から、その約束がウヤムヤになったために永禄十二年(1569年)7月の大宮城の戦いのあたりから、信長&家康に激おこ中・・・【信玄の駿河侵攻~大宮城の戦い】参照>>)

三好三人衆は、上記の通り、あの永禄十一年(1568年)の義昭上洛時に、一旦、信長に蹴散らされたものの、翌永禄十二年(1569年)1月には義昭の仮御所である本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃したりなんぞしてゴチャゴチャやり始め(【本圀寺の変】参照>>)、この元亀二年(1571年)6月には、姉川の戦いのために信長の主力部隊が畿内を留守にした事をチャンスと見て、池田勝政の重臣だった荒木村重(あらきむらしげ)(5月4日参照>>)をけしかけて池田城を乗っ取らせ、そのドサクサで挙兵して野田・福島(大阪市福島区)に砦を築いて信長に対抗しようとしていたのです。

ご存知のように、この野田福島の砦を信長が攻撃するのが、この後に起こる元亀元年(1570年)8月26日の野田福島の戦い(8月26日参照>>)で、この開戦から半月後に本願寺顕如が、この野田福島の戦いに参戦して来て(9月14日参照>>)、ここから10年の長きに渡る石山合戦がはじまる・・・

というわけですので、
そんな信玄&三好三人衆&本願寺と結んだ=という事は、この先、いわゆる「信長包囲網」と称されるあの団体に、久秀も乗っかっちゃった事になるわけで・・・

一方、こんな周辺情勢を見ながらも、目下の敵を松永久秀一本に絞ってる筒井順慶は、松永手薄の間に、久秀の多門山城により近い場所の新たな攻撃拠点を設けようと、筒井城より、さらに北にあたる位置に新しく辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)を構築するのです。

おそらく、この元亀二年(1571年)の7月3日とも8月2日とも言われる日付にて完成したおぼしき辰市城・・・

さすがに、これには松永久秀も、すぐに反応します。

実は、ここんところの久秀は、すでに大和は、ほぼほぼ平定したつもりで、合戦に勤しむというよりは、乱世ですさんだ領民たちの心のケアの方に重きを置いて、父子で春日大社に五穀豊穣祈願なんぞにいそいそと出かけていたりしたのですが、筒井順慶がその気なら迎え撃つしかありません。

かくして元亀二年(1571年)8月4日、主力部隊を率いて信貴山城を出陣した久秀は、河内若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)の三好義継と合流し、大安寺に着陣すると、即座に辰市城への攻撃にかかります。

戦いは、はじめ松永方が優勢に事を進め、その鉄砲の音は天地も振動するかの如く鳴り響き、塀や堀を越え、城内へと松永勢が乱入するまでに至りましたが、やがて城側に郡山城からの援軍が加わり、さらに福住中定城(ふくすみなかさだじょう=奈良県天理市)福住順弘(ふくずみ じゅんこう=順慶の叔父)らが加勢にかけつけた事により、形勢は逆転。

長い戦いが終わってみれば、松永方は500もの首級を取られ、負傷者も数知れず・・・残った者は、その場に槍や刀を撃ち捨てて、多門山城に戻るしかありませんでした。

その日の『多門院日記』では
「大和で、これほど討ち取られたのは、はじめてだ」
と、その驚きを隠せません。

勝利した順慶は、自軍にも相当の死傷者を出したものの、この時に勝ち取った首級のうち240を信長のもとに献上しています。

勢いに乗った順慶は、この後、筒井城を奪回し、松永傘下だった高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)をも奪い取っています。

ただし、筒井順慶が正式な信長の傘下となるのはもう少し先・・・

このあと・・・
あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)で徳川を破り、さらに西へと進んでいたはずの武田信玄が、天正元年(1573年)1月の野田城(のだじょう=愛知県新城市)の攻防戦(1月11日参照>>)を最後に動きを止め(4月12日に病死)、7月には信長に反旗をひるがえした将軍=義昭が鎮圧され(7月18日参照>>)、8月20日には越前(えちぜん=福井県北東部)朝倉(あさくら)(8月20日参照>>)、28日には北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井(あざい)立て続けに滅亡し(8月28日参照>>)、11月には、若江城の三好義継が切腹に追い込まれ(11月16日参照>>)・・・

さらに、この間にも、信長の命により筒井順慶による多門山城への攻撃が続けられていた事もあって、この天正元年(1573年)12月26日、ついに久秀は多門山城を開城し(12月26日参照>>)、信貴山城へと退去します。

とは言え、年が明けた天正二年(1574年)1月早々、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を訪れ、名刀=不動国行(ふどうくにゆき)を献上した久秀を、信長は許し、その後は、この多聞山城に明智光秀(あけちみつひで)など、織田の家臣が城番として入る事によって、大和と河内一帯は、一時的に織田による直轄地的な治められ方になります。

この年の3月に、信長は東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)正倉院蘭奢待(らんじゃたい)を削り取りに来てます(3月28日参照>>)ので、やはり、蘭奢待の削り取りは、信長が「自分が奈良を治めている」という事を内外に示す意味であったのではないか?と、個人的には思っています。

しかし、さすがクセ者・久秀さん・・・おとなしく、このまま信長傘下でいるわきゃありません。

このあと天正四年(1576年)に越後(えちご=新潟県)の雄=上杉謙信(うえすぎけんしん)が石山本願寺と和睦して(5月18日参照>>)、いわゆる「信長包囲網」に参加して来た事で、またもやウズウズするのですが・・・
そのお話は、天正五年(1577年)10月3日の【信貴山城の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2)

2020年7月 7日 (火)

宇喜多直家の備中金川城攻略戦~松田氏滅亡

 

永禄十一年(1568年)7月7日、宇喜多直家が松田元輝の備前金川城を攻め落としました。

・・・・・・・

周防(すおう=山口県の東南部)の名門=大内(おおうち)とを倒し、西国の雄となりつつあった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)の援助を受けた三村家親(みむらいえちか)が、猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)庄為資(しょうためすけ=荘為資)を打ち破り、松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)にて、事実上の備中(びっちゅう=岡山県西部) の覇者となったのは永禄二年(1559年)の事でした(2月15日参照>>)

しかし、その家親が永禄九年(1566年)に、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下であった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまったため、後を継いだ家親の次男=三村元親(もとちか)は、兄=元資(もとすけ)とともに父の弔い合戦をすべく、翌永禄十年(1567年)に直家の明禅寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市・明善寺城)に夜襲をかけますが、これが、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれるほどの三村側の敗退となって(7月14日参照>>)、その追撃戦で兄も討死にしてしまったのでした(元資の死に関しては諸説あり)

Ukitanaoie300a 一方、この勝利に勢いづいた宇喜多直家は、翌永禄十一年(1568年)、念願だった美作(みまさか=岡山県北東部)の攻略に乗り出そうとしますが、そこで、本拠である備前から旭川(あさひがわ)をさかのぼって美作に至る、その道筋にあったのが金川城(かながわじょう=岡山県岡山市:玉松城とも)に狙いをつけます。

かつて、このあたりは播磨(はりま=兵庫県西南部)を含む備前美作守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)を務める室町幕府の大物=赤松満祐(あかまつみつすけ)の治める地でしたが、ご存知のように、この赤松満祐は、あの将軍暗殺劇=嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)を起こした人・・・

その主人殺しの討伐隊として名を高め、赤松失脚後に、その所領の多くを獲得したのが山名宗全(やまなそうぜん=持豊)で、その後にはあの応仁の乱(5月20日参照>>)西軍総大将となるほどの盛隆を極めるわけですが、その応仁の乱のゴタゴタの中で満祐の弟の孫=赤松政則(あかまつまさのり)が功を挙げて(5月28日参照>>)復権を果たした事から、乱の後、このあたりは赤松VS山名の領地争奪戦となっていた場所だったのです。

その当時に、赤松&山名の間に立って揺れ動いていた金川城主の松田元成(まつだもとなり)(12月25日参照>>)が、城を堅固な物に作り替えた事で、やがて両者の戦いも終焉を迎えた(2018年4月7日参照>>)元成から数えて5代目となる戦国真っただ中の松田元輝(もとてる=元堅)の頃には、浦上の天神山城と並ぶ大きな城となり「西備前一の堅城」と称されるようになっていたのでした。

もちろん、今回の宇喜多直家も、日頃から金川城の松田の事は警戒していて、元輝の息子の松田元賢(もとかた)に、自らの娘を嫁がせて平穏を装っていたわけですが、ここに来て松田元輝が日蓮宗(にちれんしゅう)に帰依するあまり、寺に引き籠って政務を疎かにしたり、他宗の寺院に改宗を迫り、逆らえば容赦なく焼き討ちにしたのだとか・・・そのため、家臣や領民からの不満を買い、領内も荒れていたのです。

そこに目をつけた直家は、永禄十一年(1568年)7月、このチャンスに金川城ごと松田氏を倒して、美作侵攻への前線基地にしようと、まずは松田配下の虎倉城(こくらじょう=岡山県岡山市)の城主=伊賀久隆(いがひさたか)に対し、寝返り工作を仕掛けます。

意外にも(…というか、すでに主君と家臣の間に亀裂が生じていたと思われ)、すんなりと直家の招きに応じた伊賀久隆は、息子の伊賀家久(いえひさ)とともに先手を引き受け、直家は100騎ばかりの手勢を率いて矢原村(やばらむら=同岡山市北区御津矢原周辺)に陣を敷きます。

まずは7月5日の夜・・・かねてより内通工作をかけていた一部の城兵の招きによって、密かに少数の精鋭を城内の一角に入れ、タイミングを見計らって一斉に鬨(とき)の声を挙げさせました。

この時、城主=元輝は城を留守にしていたため、代わって、家老の横井又七郎(よこいまたしちろう)が城内の指揮をとって、とにかく防備を固めますが、攻める伊賀父子は鉄砲を撃ちかけながら、どんどんと本丸の方へ・・・

他所にて、金川城の急を聞いた元輝が、慌てて帰城し、包囲が手薄だった搦手(からめて=裏門)から入城すると、当主の帰還に城兵の士気も挙がり、城内からも鉄砲での応戦を開始します。

完全なる不意打ちを喰らったものの、城内にて、すばやく籠城戦の采配を振る元輝でしたが、今以って、伊賀父子がなぜに?城攻めをしてくるのかわからない・・・てか、納得がいかない。

そこで元輝は櫓(やぐら)に上り、伊賀父子に、その真意を問います。

しかし、もはや合戦のさ中・・・やがて、それは、お互いに罵声を浴びせ合う言葉合戦となって行きますが、そんな中、寄せ手の兵士が放った銃弾が元輝を貫き、無残にも元輝は櫓から転げ落ちて命を失ってしまいました。

父の死を受けて、息子の元賢が指揮を取り、籠城戦を続けますが、この頃になると宇喜多直家の本隊も加わり、本丸の四面を包囲して全軍で以って攻撃を仕掛けて来ます。

とは言え、先に書かせていただいた通り、金川城は屈指の堅城・・・丸一日多勢の猛攻に耐えて、なかなか城は落ちずに、城兵&寄せ手ともに多くの死者を出しました。

Ukitakanagawazyoukoubou_20200601050801
↑金川城攻防の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

なれど、所詮は多勢に無勢・・・
永禄十一年(1568年)7月7日未明、城が長く耐えられない事を悟った元賢は、弟の 元脩(もとなが)とともに城を脱出します。

大将がいなくなった金川城からは、多くの兵が逃亡したと言いますが、譜代の家臣たちは城に残り、城を枕に討死覚悟で応戦を続けましたが、やがて城戸を破って寄せ手が本丸に突入すると、残っていた者たちも全員討死し、ここに金川城は落城しました。

城落ちした松田兄弟のうち、兄=元賢は、西の山伝いに下田村(しもだむら=同岡山市北区)まで逃走したところを伊賀方の伏兵に見つかり、「もはやこれまで!」と敵軍の真っただ中に突入し、壮絶な討死を遂げました。

ちなみに、元賢の奥さんとなっていた宇喜多直家の娘は、落城のさ中に自害して果てたのだそう・・・

一方、弟の元脩は、再起を図ろうと自らの居城であった富山城(とみやまじょう=同岡山市北区)に向かいますが、すでに、ここも落ちて宇喜多&伊賀勢に占拠されてしまっていたため、やむなく備中方面へと逃走し、後に鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)主の山名豊国(とよくに=宗全から5代目)に仕えて、その家臣として血脈を繋いだと言いますが、残念ながら戦国大名としての松田氏は、ここに滅亡しました。

なので、この地域では、長らく七夕祭は行われなかったのだとか・・・(落城が7月7日なのでね…)

んん??って事は、松田さん、けっこう領民に慕われてますやん!
元輝さんがムチャクチャやって「領内が荒れていた」って話は??

ま、今回のお話は、ほぼほぼ『備前軍記』に沿った内容ですので、最終的に備前の覇者となる宇喜多寄りになっているのかも知れませんね。

そう、この戦いの後は、しばらくは毛利やら尼子(あまご)やら、なんやかんやがくんずほぐれつの備中兵乱(びっちゅうひょうらん)>>があり、その後、その兵乱のゴタゴタで主家の浦上を倒した宇喜多直家が(【天神山城の戦い】参照>>)、東から進んで来た織田信長(おだのぶなが)の傘下となって、西国の雄=毛利と戦う事になるのですが、そのお話はコチラ↓で。。。
  ●宇喜多VS毛利~作州合戦>>
  ●宇喜多VS毛利~祝山合戦>>
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2020年6月24日 (水)

小牧長久手の余波&越中征伐の前哨戦~前田利家と佐々成政の阿尾城の戦い

 

天正十三年(1585年)6月24日、小牧長久手の戦いの後、前田利家に寝返った菊池武勝が守る阿尾城を、佐々成政配下の神保氏張が攻撃しました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)(本能寺の変>>)亡き後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄)を取り込んで、三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)と信孝を推す柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)に破った(賤ヶ岳>>)(信孝自刃>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でしたが、

やがて、その秀吉の勢いを警戒するようになった信雄(3月6日参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)を頼り、両者が「秀吉VS(信雄+家康)」の構図で、天正十二年(1584年)3月の亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)の攻防(3月12日参照>>)を皮切りに始まったのが、一連の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦いです。

そして、それに連動するように北陸でも「秀吉派VS(信雄+家康)派」による闘いが展開されたのです。

織田政権下で加賀(かが=石川県南部)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市丸の内)にあった秀吉派=前田利家(まえだとしいえ)と、越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)にあった信雄&家康派=佐々成政(さっさなりまさ)の戦いです。
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>

しかし、その年の11月に戦いの看板であるべき信雄が、単独で秀吉との講和を成立させてしまったために、ハシゴをはずされた形となった家康も兵を退くしかなく、勝敗もウヤムヤなまま戦いは小牧長久手は終結してしまいます(11月16日参照>>)

納得いかない佐々成政は、真冬の立山・北アルプスさらさら越え浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)の家康に会いに行き、徹底抗戦を訴えますが(11月11日参照>>)、家康がその願いを聞き入れる事はなく、信雄にも迷惑がられて、空しく富山城へと戻ったのでした。

ちなみに・・・
俗説では、成政が、このさらさら越えで富山城を留守にしている間に、例の「黒百合伝説」(浮気したとして成政が愛人を成敗した事件:くわしくは5月14日の後半で>>)が起こった事になってますが、これは、あくまで伝承です。

Maedatosiie とにもかくにも、小牧長久手も終ったし、冬の北陸は雪深い・・・って事で、一旦、前田VS佐々の戦いも休戦となったわけですが、年が明けた天正十三年(1585年)の春、先に仕掛けたのは前田利家の方でした。

その年の2月に、利家配下の村井長頼(むらいながより)が1千余りの兵を率いて、成政側の重要拠点である蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を急襲し、これを焼き討ちにしたのです。

Sassanarimasa300 もちろん、成政も黙ってはおらず、翌3月、この報復として鷹巣城(たかのすじょう=石川県金沢市湯桶町)を攻撃しますが、この同時期に展開されていた秀吉の紀州征伐(3月28日参照>>)での連勝の勢いを背負う利家は、さらに加賀と越中の国境に近い鳥越城(とりごえじょう=津藩町鳥越)を攻撃します。

強気の利家は、さらに成政配下の阿尾城(あおじょう=富山県氷見市)を落とすべく、4月20日、6000の兵を率いて阿尾城に迫ります。

ところが、これを見た阿尾城主の菊池武勝(きくちたけかつ)は、あっさりと城門を開け、前田軍を受け入れたのです。

つまり、この時の武勝は、はなから利家側につく気であったと・・・実は、これには、その理由とおぼしき、こんな話が伝えられています。

前年の春に富山城下に新しい馬場を整備した成政が、その周囲の桜を植え、完成祝いと同時に花見の宴を催した際、配下の一人として招かれた武勝が、その場を盛り上げようと、

「これは、かの謙信公より賜った紀新大夫の名刀なんですが…」
と1本の短刀を取り出し、
「これにて、北陸七ヶ国平定されるとの願いを込めて、殿に献上させていただきます」
と差し出したのです。

それを受けた成政は、
「俺、謙信なんか尊敬してないし…」
と急に機嫌が悪くなり、
「もともと北陸七ヶ国なんか眼中に無いっちゅーねん、俺が狙てるんわ天下じゃ!」
と言って武勝をにらみつけたのだとか・・・

賑やかな宴会から一転、シラケた空気が流れたものの、そばにいた他の武将のとりなしによって何とかその場は収まりますが、収まらなかったのは武勝の気持ち・・・

「大勢の前で部下に恥をかかせるなんざ、天下取りの器やない!アイツは愚将や」
と憤慨し、以後、成政に反感を持つようになっていたのだとか・・・

もちろん、これは噂の域を出ない話ですが、一方で、前年の11月頃=北陸の戦闘が一旦休止となった頃から、武勝側へ、利家からの好条件での懐柔のお誘いが頻繁に行われていたとの記録(『前田金沢家譜』)もありますので、おそらくは、上記のような事件があろうがなかろうが、すでに武勝の気持ちは前田側に傾いていた物と思われます。

Aozyoukoubou
阿尾城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、この菊池武勝の寝返りは、佐々側に大きな衝撃を与え、形勢悪しと判断した成政は、戦備の立て直しに着手・・・その結果、鳥越城と倶利伽羅城(くりからじょう=石川県河北郡津幡町)の2城を諦め、北から守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)木舟城(きふねじょう=同高岡市)井波城(いなみじょう=富山県南砺市)南北に結ぶ線を最前線とし、

守山城には神保氏張(じんぼううじはる)以下4500余、木舟城には佐々政元(さっさまさもと=成政の叔父の養子?)以下2500余、井波城には前野小兵衛 ( まえのこへえ )以下3000余りを、それぞれ配置して防備を固め、背後の脅威となる上杉(うえすぎ)に備えて越後(えちご=新潟県)の国境付近にも兵を置きました。

これに対し、利家は、自軍の最前線を越中領内にまで進ませ今石動城(いまいするぎじょう=富山県小矢部市)に弟の前田秀継(ひでつぐ)を、倶利伽羅城に近藤長広(こんどうながひろ)岡島一吉(おかじまかずよし)らを置いて、コチラも防御万全です。

そんなこんなの天正十三年(1585年)6月24日、守山城の神保氏張が約5000の兵を率いて阿尾城を攻撃したのです。

守る阿尾城は、菊池武勝以下わずか2000余・・・必死に防戦に努めますが、成政が、武勝を謀反人として、その首に賞金を懸けていた事もあって、神保勢の攻撃は、かなり激しい物となり、あわや!落城寸前!となりますが、

そこに、たまたま村井長頼ら300余りの偵察隊が近くを通りがかって、この状況を前に、すぐに参戦・・・この村井らの小隊が側面から攻撃を仕掛けた事で、突き進んでいた神保勢はリズムを崩されてしまいます。

これに勢いづいた菊池勢が盛り返し、次第に形勢は逆転・・・500余が討たれたところで、やむなく神保勢は守山城へと退去していきました。

ちなみに、『加賀藩史稾』
「二十四日 越中の将神保氏張兵を出し 阿尾城襲ふ
 守将慶次利太 片山延高等出でてこれを禦(ふせ)ぐ」
とある事から、この戦いに、あの前田慶次郎(まえだけいじろう)(6月4日参照>>)も参戦していて、この後しばらくの間は、阿尾城に滞在していたとされています。

とにもかくにも、小牧長久手の後からは、すっ飛ばされる事の多い北陸での前田利家と佐々成政の戦いですが、どうぞ、お見知りおきを・・・

そして、この3月~4月の間に例の紀州征伐を終え、7月には四国を平定した秀吉が、ここ北陸にやって来る(越中征伐・富山の役)のは、この2ヶ月後の8月の事。

ご存知のように、ヤル気満々だった成政も、あえなく秀吉の軍門に下る事になります。
【金森長近が飛騨攻略】>>
●【富山城の戦い】>>
【佐々成政が秀吉に降伏】>>
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2020年6月 4日 (木)

本能寺の変の余波~鈴木孫一VS土橋重治の雑賀の内紛

 

天正十年(1582年)6月4日、本能寺の変=織田信長死亡の一報を受け、雑賀衆同士の内紛が勃発し、土橋重治が鈴木重秀(雑賀孫一)の平井城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

紀州(きしゅう=和歌山県)は、あの応仁の乱以降の守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い(7月12日参照>>)の舞台となった場所で、それ故、時と場合により、その戦いに介入したり静観したり・・・守護や守護代の影響を受けながらも、高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市・根來寺)粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)などの宗教勢力も含め、独自の武装勢力を以って生き残って来た民が多くいました。

その中で紀の川流域一帯に勢力を持ち、水運に強く鉄砲を駆使する独自の武装をした土着の民であった雑賀(さいが・さいか)・・・

天下を狙う織田信長(おだのぶなが)が、抵抗する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:本願寺の総本山)と戦った石山合戦で、本願寺に味方して活躍する(【丹和沖の海戦】参照>>)事から、何となく信長の敵のイメージが強いですが、これまで何度か書かせていただいているように、もともといくつかの郷の集合体であって、雑賀と言っても一括りにはできない=一枚岩とは言い難い集団であったわけです。

とは言え、長きに渡って雑賀衆の中でもトップの勢力を誇っていた土橋(どばし・つちばし)が、一貫した本願寺派であった事から、上記のように、雑賀衆もおおむね反信長として戦っていた事から天正五年(1577年)には信長の紀州征伐が決行されてしまい、この時は、折れる形で信長と和睦するも、
●【信長の雑賀攻め、開始】>>
●【雑賀攻め、終結】>>
その2年後には、紀州征伐で織田に味方した一部の者も、結局、抑え込まれて本願寺に恭順させられるほど(【雑賀同志の戦い】参照>>)雑賀では反信長派の勢力が強かったのです。

Saigamagoiti400a しかし、それが徐々に崩れてくる・・・それは、一連の石山合戦で名を挙げた鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)です。

長年に渡りトップに君臨して来た土橋から見れば新参者の鈴木ですが、一説には鈴木重秀は土橋トップの土橋守重(つちばしもりしげ=平次・若太夫)の娘婿だったという話もあり、両者の関係は決して悪い物では無かったものの、ここらあたりで徐々に両者のバランスが微妙になって来る中、天正八年(1580年)8月、本家本元の石山本願寺が信長と和睦してしまいます(8月2日参照>>)

もともと信長に恭順的であった鈴木重秀とその一派は、これを雑賀の頂点を狙うチャンスとばかりに、その機会を模索しはじめ、いよいよ天正十年(1582年)1月23日土橋守重を殺害・・・雑賀の内紛が始まりました。

もちろん、この守重殺害には、鈴木派だけではなく、それに同調した土橋一門の一部も加わっている事から、単に鈴木VS土橋の権力争いではなく、時代の流れ&周辺の状況を見て「織田についた方が得」と考える者が雑賀衆内に増えて来ていた事や、土地関係のモメ事が治まらなかった事など、あちこちに不満の種はあったわけですが、それを鈴木派が利用してクーデターを起こしたという雰囲気が見えます。

また、一説には、この暗殺計画はすでに信長に承認されていた=信長の了解があって決行されたとの話もあります。

とにもかくにも、父の暗殺を知った息子(弟とも)土橋重治(しげはる=平之丞・平尉)は、本拠の粟村(あわむら=和歌山県和歌山市粟)の城に立て籠もって抵抗しますが、さすがに背後に織田軍がいてはいかんともしがたく、たまたまこの時、石山本願寺を出て雑賀荘の鷺ノ森(さぎのもり=和歌山県和歌山市鷺ノ森)に滞在していた本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)の勧めにより重治らは城を退去し、四国の土佐(とさ=高知県)に落ちて行き、2月の8日には、鈴木派の手によって城は焼かれました。

こうして雑賀一帯の主導権は鈴木重秀らが握る事になるのですが、その4か月後の6月2日未明・・・

そう、ご存知、あの本能寺の変(6月2日参照>>)が起こり、信長が横死してしまったのです。

その一報は、早くも翌3日の朝に雑賀にもたらされます。

たちまち騒然となる雰囲気に、反信長派からの攻撃を恐れた鈴木重秀は、6月3日の夜に信長配下の織田信張(のぶはる=尾張三奉行の藤左衛門家の人)を頼って岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)へと逃げ込みます。

案の定、翌・天正十年(1582年)6月4日早朝、結集した反信長派が、鈴木重秀の居城である平井城(ひらいじょう=和歌山県和歌山市)を襲撃して城に火を放ち、その勢いのまま、続いて重秀に同調して、かの土橋守重殺害に関与した土橋平太夫(へいだゆう)の城を包囲して平太夫を討ち取ります。

ちなみに、事の前夜に鈴木重秀が岸和田城に逃げた行為は、敵側からは「夜逃げ」と称して笑い者になったらしいですが、上記の通り、もしその日に逃げていなければ土橋平太夫と同様に討たれていた可能性が高いので、鈴木重秀としては笑われようが何しようが「逃げるが勝ち」で命拾いした事になります。

一方、『石山軍記』『大谷本願寺通記』他、本願寺側の複数の記録には、この6月3日夜から4日早朝にかけてのこの騒動を、信長の三男=織田信孝(のぶたか=神戸信孝)配下の者による鷺ノ森の本願寺別院(上記の顕如が滞在してた場所です)への攻撃・・・つまり、信長の紀州征伐の一環であるかのように書かれています。

それら本願寺側に記録では、
6月3日に信孝の命を受けた丹羽長秀(にわながひで)が3千の兵を率いて鷺ノ森を襲撃して来たのを、急を聞いてはせ参じて来た鈴木孫一(孫一を名乗る人は複数いるので鈴木重秀本人の事かどうかは不明)をはじめとする在地の宗徒たちが賢明に防戦するも、やがて織田勢に新手の援軍が加わり、もはやこれまで!・・・となったところに「本能寺の変(信長死す)の一報」が入り、織田方は散り々々に去って行った。。。と、

「あらめでたや法敵亡(ほろ)び 宗門は末広がりに御繁昌」
と、あの高野山攻め(【織田信長の高野山攻め】参照>>)と同じような展開になってるところは、いかにも本願寺側の記録・・・って感じです。

なので、現在では、今回の雑賀での騒動は「信長VS本願寺の戦い」ではなく、おそらくは、信長の死によって再燃した雑賀の内紛であろうととの見方がされています。

とは言え、全部違うかと言うと、そうではなく、実際に本能寺の変の混乱によって雑賀衆の一部の誰かに鷺ノ森が襲撃された事も複数の史料に見られるので、本願寺別院がこのドサクサで襲われた事は事実のようで・・・

さらに、 当時、信孝の配下であった九鬼広隆(くきひろたか=九鬼嘉隆の甥)の覚書には、信孝は、この日、実際に紀州方面に出向いていた事が記されています。

それは、この2~3日後に決行されるはずだった四国攻め(【本能寺の変:四国説】参照>>)の準備のため・・・渡海用の船の用意を雑賀衆に頼んでいたので、その最終の打合せに向かっていたようなのですが、
堺にて本能寺の異変を知った九鬼広隆が慌てて紀州方面に向かったところ「ちょうど貝塚(かいづか=大阪府貝塚市)のあたりで、紀州から戻って来た信孝と落ち合う事が出来た」との事・・・

当然ですが、四国攻めの総大将である織田信孝がたった一人で紀州に出向くはずはなく、ある程度の人員を連れて紀州に入っていたはずですから、おそらくは、上記の鷺ノ森別院が襲われた話と、この信孝が紀州にいた話とがいっしょくたになって「本願寺側の記録」として残されたものと思われます。

とにもかくにも、今回の信長の死によって、雑賀を去った鈴木重秀は没落・・・一方、ここまで何処かに身を潜めていた土橋重治は、重秀と入れ替わるように雑賀に戻って来て、報復作戦に取り掛かります。

ただ、鈴木重秀が去ったとは言え、まだまだ鈴木重秀一派の者は多く残っており、その抵抗も激しく、すぐさま雑賀一帯を掌握するというわけにはいかず、なかなか不安定な状態が続いていたようですが、

そんな中でも、土橋重治らは、信長を討った明智光秀(あけちみつひで)と連絡を取り、6月12日付けの光秀の返書には高野山根来衆(ねごろしゅう=根来寺の宗徒)らとともに和泉(いずみ=大阪府南西部)河内(かわち=大阪府南東部)方面に出兵してほしい」との記述があり、援軍の要請を受けていたようで・・・(2017年の新発見「9月」の項参照>>)

おそらく土橋重治らは、この先、光秀の力を後ろ盾に雑賀一帯の統治を画策していたものと思われますが・・・

ご存知のように、この返書の日付の翌日=6月13日に光秀は羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)との山崎の合戦に敗れて(6月13日参照>>)命を落としてしまい、実際に土橋と明智が連携する事はありませんでした。

後の、秀吉による紀州征伐(3月28日参照>>)の際には、
鈴木重秀は秀吉の使者として雑賀へ出向いて交渉係をし、土橋重治は秀吉軍と抗戦し、敗れて四国へ逃れ・・・と、ともに命はつなぐものの、雑賀にいた頃の隆盛を味わうような事は、2度と無かったのです。

鈴木重秀にしろ土橋重治にしろ、おそらく彼らの理想としては、雑賀の独立を保ったままの状態がベストだったのかも知れませんが、天下=中央集権を目指す武将の登場によって、「大きな傘の下でしか生き残る事ができない」と悟った以上、誰につくのか?どうするのか?の選択をし、それぞれの生き方を模索するしかなかったのでしょうね。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2020年5月 6日 (水)

金ヶ崎の退き口から姉川までの2ヶ月~信長VS浅井+朝倉+六角

 

元亀元年(1570年)5月6日、織田信長の危機をチャンスと見た六角承禎に扇動された一揆衆が、稲葉一鉄の守る守山城に迫りました。

・・・・・・

という事で、本日は、信長屈指の危機=金ヶ崎の退き口(かながさきののきぐち)から、その報復戦でもある姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦いまでの2ヶ月を、その日付とともに辿っていきたいと思います。

・‥…━━━☆

越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)のもとに身を寄せていた足利義昭(あしかがよしあき・義秋)からの要請を受けた(10月4日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その義昭を奉じて上洛・・・途中、行く道を阻む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)や畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通)などを蹴散らしつつ(9月7日参照>>)、無事、義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)したのは永禄十一年(1568年)10月18日の事でした。

しかし、その後、義昭の名のもとに信長が要請した上洛を、朝倉義景が無視し続けた事から、元亀元年(1570年)4月、信長は3万の軍勢を率いて越前への遠征に出立し、25日から朝倉の前線である天筒山金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始するのです(4月26日参照>>)

ちなみに、信長によるこの朝倉攻めは、この年の正月に、信長から示された「五ヶ条の掟書」に義昭がカチンときて(1月23日参照>>)・・・つまり、信長と義昭が敵対した事により、義昭からの要請を受けた各地の武将が一団となって信長を攻める=いわゆる「信長包囲網(のぶながほういもう)(2月22日参照>>)の第1段階との見方もありますが、それにしては、「掟書=1月」からの「出兵=4月」は早すぎるような気もします。

もちろん、掟書によって義昭が少々カチンと来た事は確かでしょうが、一方で、朝倉義景は、以前から何度も若狭(わかさ=福井県南西部)に攻め入って若狭守護の武田(たけだ)を圧迫し、間接支配をしようとしていましたから(8月13日参照>>)・・・この時点での「幕府公認の統治者である守護を圧迫する+将軍の上洛要請に応じない」は、どちらかというと朝倉の方が義昭に敵対している部分が大きいようにも感じます。

なので、後々の「信長包囲網」は別として、今の段階での信長の朝倉攻めは、ひょっとしたら義昭の意に沿った物であったのかも知れません。

とにもかくにも、こうして信長の朝倉攻めが決行されたわけですが、ここで、信長の妹(もしくは姪)お市の方を娶って織田と同盟を結んでいた(6月28日前半部分参照>>)はずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)朝倉側について織田軍に迫って来たのです。

そこで、挟み撃ち(北東=福井の朝倉と南西=滋賀の浅井)を恐れた信長は、配下の柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)池田勝正(いけだかつまさ)ら約6万の兵を本隊に見せかけて琵琶湖東岸を南下するふりをさせ、さらに木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)らに殿(しんがり=軍の最後尾)を命じて(4月28日参照>>)、自らは4月28日、佐久間信盛(さくまのぶもり)佐々成政(さっさなりまさ)など、わずかの側近だけを連れて撤退を開始し、琵琶湖西岸の山中を通り、途中、朽木谷(くつきだに=滋賀県高島市朽木)朽木元綱(くつきもとつな)を仲間に加えつつ、4月30日、無事京都に入りました。

ご存知、信長の生涯屈指の危機一髪=金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)です。

Kanegasakimoriyamaanegawa
金ヶ崎の退き口から姉川の戦いの位置関係図(日付入り)
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

当然、態勢を立て直すためには、一旦、本拠の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)へ戻らねばなりませんが、そこをチャンスとばかりに動き始めたのが、かの六角承禎です。

あの上洛の際に、本拠の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)を信長に落とされて(9月13日参照>>)からは、甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)伊賀(いが=三重県伊賀市)に身を隠していた六角承禎は、密かに近江に舞い戻り、機があれば攻撃せんと、かつては何度も刃を交えた宿敵(【箕浦合戦】参照>>)=浅井とも連絡を取り、本願寺の一向一揆にも声をかけ、残党たちをかき集め、すでに準備に入っておりました。

かくして元亀元年(1570年)5月6日鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市)に拠る六角承禎に扇動された一揆衆が、臍村(へそむら=滋賀県栗東市)にて蜂起し、織田配下の守山城(もりやまじょう=滋賀県守山市)に迫ったのです。

この時、守山城を守っていた織田方城将は稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)・・・その守りは万全で、守山の南口から焼き討ちをかけて来た一揆勢を、諸方面に撃って出て奮戦し、この1日で1200余の首を挙げて勝利しました。

こうして、守山の戦いに関しては事なきを得ましたが、当然の事ながら、これほどの危機一髪を、敵方も1度や2度で見逃すはずは無いわけで・・・

5月9日、京都を発った信長は、岐阜への帰路の道すがら、配下の諸将を各地に配置していきます。

まずは、浅井&朝倉の南下に備えて琵琶湖の西岸に構築した宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)森可成(もりよしなり)を置き、5月12日に瀬田城(せたじょう=滋賀県大津市瀬田)に入った後、翌13日には永原城(ながはらじょう=滋賀県野洲市永原)に入移って逗留し、そこを佐久間信盛に任せます。

さらに長光寺城(ちょうこうじじょう=滋賀県近江八幡市長光寺町)に柴田勝家を入らせ、安土(あづち)中川重政(なかがわしげまさ)を置いて、六角残党への備えを万全としてうえで、市原(いちはら=滋賀県東近江市)から千種(ちぐさ)街道越えで・・・途中の5月19日、甲津畑(こうづばた)にて、六角側から放たれた刺客=杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)の狙撃を受けながらも(5月19日参照>>)無事、5月21日に岐阜へと戻りました。

この間、京都にて朝山日乗(あさやまにちじょう)村井貞勝(むらいさだかつ)らによって、六角氏と和睦の話が進められていましたが、和睦が実現する事はありませんでした。

そのため、翌月の6月4日には、柴田勝家の守る長光寺城に六角承禎父子が迫り、あわや!という場面もありましたが、勝家の背水の陣での踏ん張りで何とか守り切ります(6月4日参照>>)

さらに、ここに来て、竹中半兵衛(たけなかはんべえ=重治)の働きによって、鎌刃城(かまはじょう=滋賀県米原市)堀秀村(ほりひでむら)と、長比城(たけくらべじょう=滋賀県米原市)樋口直房(ひぐちなおふさ)を、織田方に寝返らせる事に成功した信長は、北近江への障害が亡くなった事を確信し、

6月19日に、同盟を結んでいる三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)援軍を要請し、自らも岐阜城を出陣して、その日のうちに長比城へと入り、合戦の準備に入ります。

これが、ご存知、姉川の戦いです。
●【いよいよ姉川…小谷に迫る家康】>>
●【姉川の合戦】>>
●【姉川の七本槍と旗指物のお話】>>
●【遠藤喜右衛門・命がけの奇策】>> 
(↑チョチョイ内容かぶってう部分ありますが、お許しを…m(_ _)m)
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2020年4月29日 (水)

熊野・那智の覇権を巡って…堀内氏善と廊之坊重盛~勝山城の戦い

 

天正九年(1581年)4月29日、那智制覇を目指す堀内氏善が、廊之坊重盛の守る勝山城を陥落させました。

・・・・・・・

戦国時代初め頃に、熊野水軍という一大勢力を持つ那智山別当家(べっとう=熊野三山を統轄)実方院(じっぽういん)を取り込んで紀伊水道の制海権を握る一大水軍として隆盛を極めていた安宅(あたぎ)に起こった後継者争いを機に、安宅を凌ぐ新興勢力としてのし上がって来た堀内(ほりうち)(11月4日【安宅一乱】参照>>)

やがて、その熊野水軍を、さらに熊野地方周辺の豪族をも次々と取り込み勢力を誇るようになった天文年間(1532年~1555年)に、堀内氏は、その本拠を新宮郊外の佐野(さの)から新宮中心部の金龍寺の境内=新宮城(しんぐうじょう=和歌山県新宮市)に移します。

ちなみに、ここに堀を張り巡らして居所とした事から、「堀ノ内殿」と呼ばれるようになったので、苗字も「堀内」にしたという説もあります。

とにもかくにも、この頃には、従来からのこの地に力を持っていた熊野七上綱(くまのしちじょうこう)と呼ばれる土豪(どごう=地侍)たちをも支配下に取り込んでいた堀内氏でしたが、それは新宮と並ぶ熊野三山の一つ=那智(なち)に対しても同じで、すでに四半世紀前から、そこを支配下に治めるべく、何度か侵攻していました。

それが本格的になって来たのが天正七年(1579年)頃・・・

その頃の那智山には、多くの御師(おし=社寺へ参詣者を案内、参拝・宿泊などの世話をする者)の坊が点在していましたが、それを二分するがの如くの勢力を持っていたのが、塩崎(しおざき=汐崎)廊之坊(くるわのぼう)と、米良(めら=目良)実方院・・・

そんな中で、実方院とは婚姻関係を結んで取り込んだ堀内氏は、やはり廊之坊に対しても婚姻関係をを結んで取り込もうとしますが、堀内氏から送られてきた娘がブサイクだったので突き返し、その代わとして堀内氏の姪にあたる美人の娘を、廊之坊が略奪して連れ去ったために、両者の関係がこじれた・・・なんて話もあるようですが、さすがにこの話は創作でしょうね。

そもそも、両家の関係を結ぶための政略結婚なんですから、ブサイクだろうと美人だろうと、縁を結ぶ事が優先事項なわけで・・・結局は、「廊之坊が堀内の支配を許さなかった」ってとこなのでしょうけど。。。

とにもかくにも、当然ですが、堀内に協力する実方院には、勝利のあかつきには廊之坊の跡職(あとしき=跡目・相続)が与えられる約束が成され、いよいよ攻撃が本格的になって来ます。

Natikatuyamazyou 勝山城周辺の位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

廊之坊の本拠である勝山城(かつやまじょう=和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)は、廊之坊屋敷とも呼ばれ、現在の紀勢本線・那智駅近くの小山の上に設けられた、文字通り「屋敷」だったのが、徐々に土塁や曲輪(くるわ=丸)などが整備されていき、この頃には、本格的な城郭となっていました。

この不穏な空気を察した勝山城主=廊之坊重盛(くるわのぼうしげもり=汐崎重盛)は、以前からの堀内の対抗勢力であった古座(こざ)虎城山城(こじょうやまじょう=同東牟婁郡串本町)高河原貞盛(たかがはらさだもり)などと連携して、城の防備を固めます。

もちろん、那智山内にも、廊之坊の味方となる勢はまだまだいたわけですし・・・

これを受けた堀内氏善(ほりうちうじよし)は力攻めする事を避け、勝山城近くに付城(つけじろ=攻撃するために要所に新設する城)を設けて兵糧の補給路を断つ作戦に出ます。

これにより、約3ヶ月に渡る籠城戦が開始されますが、その間、高河原勢が勝山城の包囲を打ち破ろうと警固船=約30隻を擁して那智海岸の浜ノ宮(同東牟婁郡那智勝浦町)の南に上陸したのを、堀内に味方する雑賀(さいが・さいか)佐武伊賀守(さたけいがのかみ=佐竹允昌?)らが、かの付城から突出して矢を射かけて高河原勢を退散させたり、逆に佐武らが、勝山城の出城を攻撃して陥落させたり、等のいくつかの小競り合いが展開されます。

その両方に多くの死者が出た事が記録されていますので、なかなかの激戦が繰り広げられていたようですが、結局は勝山籠城側が堀内の包囲網を突破する事はなかなか難しかったようで・・・やがて勝山城内の兵糧は枯渇していく事になるのです。

かくして天正九年(1581年)4月29日に至って、勝山城は落城するのです。

『熊野年代記』には、
「四月廿九日那智山炎上 廊之坊城落ル 色川衆焼ク(すなわ)チ廊之坊腹切ル」
とあります。

色川衆とは鎌ヶ峯城(かまがみねじょう=同東牟婁郡那智勝浦町)を本拠とする色川盛直(いろかわもりなお)の配下の者と思われますが、この頃の色川盛直は廊之坊重盛と姻戚関係を結んで堀内に対抗していた側であるはずなので、ひょっとしたら、城に火をかけた色川衆とは、その中に潜んでいた一部の内通者だったのかも知れません。

また、一説には色川衆は最後まで廊之坊の味方であったものの、最終段階で応援すべく勝山城に入ったところを、その混乱に乗じた堀内側の者が火をかけたとも言われます。

敗戦の将となった廊之坊重盛に関しても、落城のさ中に城中で切腹したという話と、嫁さんとともに脱出したものの、隠れている所を近隣の百姓に密告されて、翌・30日に討たれたという話とがあります。

いずれにしても、この日に勝山城が落城した事は事実のようで、この後は、那智山の実権を堀内氏善が握る事になり、熊野一帯での、堀内氏の地位はますます万全の物となるわけですが、

一方で、この堀内氏善は中央との関係もぬかりなく・・・

以前の堀内は、あの織田信長(おだのぶなが)が次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)北畠(きたばたけ)の養子に入れて(11月25日参照>>)、まんまと奪い取った伊勢・志摩(いせ・しま=三重県)地方を巡って争う関係だったのが、

いつの間にか近づき、この勝山城籠城戦の真っただ中の2月29日には、信長から、ちゃっかりと熊野神社(くまのじんじゃ=熊野本宮大社〈本宮〉・熊野速玉大社〈新宮〉・熊野那智大社〈那智〉の熊野三山)神領を与える旨の朱印状を貰って、織田の傘下となっています。

しかも、信長の死後は、またもやちゃっかりと、あの山崎の戦いに参戦(6月13日参照>>)し、今度は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の配下として生き延びます。

関ヶ原では西軍についたために、一時は衰退した堀内氏でしたが、氏善の死後まもなく起こった大坂の陣にて、大坂方として参戦していた氏善の息子=堀内氏久(うじひさ)が、豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の正室だった千姫(せんひめ=家康の孫)を守りながら燃える大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)から脱出して徳川家康(とくがわいえやす)の本陣まで届けた(2月6日参照>>)事で、今度は、徳川の家臣=旗本として見事復活しています。

定番の言い回しではありますが、
自らを貫いて、花と散るも戦国・・・
家のため、大樹の陰に寄ってつなぐも戦国・・・
どちらも戦国の生き方であります。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2020年4月16日 (木)

秀吉の紀州征伐~高野攻め回避と木食応其

 

天正十三年(1585年)4月16日、秀吉紀州征伐で使者・木食応其が高野山の意向を伝え、高野攻めが回避されました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)本能寺に倒れた(6月2日参照>>)後、変の首謀者である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒した(6月13日参照>>)事で織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

その後、家臣団の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)に破り、信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追い込み、

さらに天正十二年(1584年)、徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けてた信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)との小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納めました(11月16日参照>>)

Toyotomihideyoshi600 ここで、この先おそらくは(最終的には)中央集権を目指すつもり?の秀吉は、未だ独立を保って抵抗していた雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手するのです。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ独立独行を目指す土着の民で、亡き信長を何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

一方の根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、同じく武力をを保有する宗教勢力の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)

そして、もう一つ・・・紀州には高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)という一大宗教勢力がありますが、コチラも信長時代から抵抗勢力でありました(10月2日参照>>)

かくして天正十三年(1585年)3月、秀吉は紀州征伐(きしゅうせいばつ)を決行します。

これを受けた根来ら紀州の諸勢力は、複数の砦で構成された前線基地(現在の貝塚市付近)で迎え撃ちますが、10万越えという予想以上の大軍に、あっけなく崩壊・・・

前線を突破した秀吉軍は3月23日に根来寺を、翌・3月24日に粉河寺を占領(3月24日参照>>)、さらに3月28日には雑賀衆の太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市)を囲みます(3月28日参照>>)

一方、この太田城攻防と同時進行で行われていたのが、高野山攻めの計画・・・とは言え、こういう場合、まずは交渉です。

ドラマ等では、よくスッ飛ばされてるので忘れがちですが、信長さんのあの比叡山焼き討ちも、信長の出した和睦の条件を比叡山が呑まなかったので焼き討ちを決行してます。。。
もちろん、今回の根来寺や粉河寺や雑賀にも先に交渉してますが、結果、決裂して蜂起となったので→武力征伐という事なわけで、、、

そんなこんなで4月7日、秀吉は細井新助(ほそいしんすけ)なる者を使者として高野山へと向かわせ「提示する三つの条件をのまねば攻撃する」旨を伝えます。

残念ながら、その手紙の現物は残っていませんが、伝えられるところによると、その三つの条件とは
1:もともとの寺領以外の領地の返還
2:武装蜂起(謀反人を匿う事も禁止)
3:弘法大師の教えの通りに仏道に専念する事
の三つだったと言います。

これを受け取った高野山側では、山内挙げての協議となりますが、その中には「武力に屈する事無く、徹底抗戦!」を訴える僧も少なくありませんでしたた。

しかし、現実問題として反発した根来&粉河は焼き討ちからの占領となり、現在抗戦中の太田城も、もはや風前の灯である事も伝えられており、大軍である秀吉軍なら、紀州各地に兵を配置しながらでも、ここ高野山へもある程度の兵の数を確保できる事は明白・・・「ここは一つ、神聖なる高野山の伝統を守る事を1番に考えるべきだ」との声が挙がり、そのためには、「これらの条件を無条件受諾するしかない」との意見にまとまります。

かくして天正十三年(1585年)4月16日、高野山にて「すべての条件を受諾する」旨の請状(うけじょう)が作成され、それに神文(しんもん=起請の内容に偽が無い事を神に誓う文・今回の場合は空海の手印を添付)を添えて、学侶(がくりょ=仏教を学び研究する僧=学僧)の代表者と行人(ぎょうにん=施設等の管理をする僧)の代表者とともに、客僧として高野山に入っていた木食応其(もくじきおうご)を使者として、太田城水攻め中の秀吉のもとに派遣しました。

この時、彼らに面会した秀吉は、木食応其の事を大いに気に入ったと見え、
「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべし」
(木食応其は単に高野山の木食僧なのではなく、木食応其が高野山を代表すると思え)
と評して、即座に高野山攻めを取り止めるとともに、今後の高野山の運営を、この木食応其に委ねるよう命じたのです。

ちなみに木食応其の「木食(もくじき)とは穀物を絶って木の実や山菜・野草のみを食し仏道に励んでいる状況=つまり、そういう修行をしているという事で、今回の木食応其の場合は、学侶でも行人でもなく、この時にたまたま客僧として高野山にて木食をしていた・・・という感じだったようです。

そもそも木食応其は、近江源氏佐々木(ささき)の家臣だった父を持ち、織田信長が観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)を攻めた時には六角承禎(ろっかくじょうてい・義堅)とともに抵抗し(9月13日参照>>)、その後、高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)越智(おち)(9月15日参照>>)を頼って奈良に落ちたものの、その越智氏も没落したため、戦いの空しさを痛感して中年になって出家したと言われる異色の経歴の持ち主・・・この経歴に関しては異説があるものの「基々は武将だった」というのは本当のようで、

そういう意味で、武士の立場も理解し、また客僧という立場ゆえにしがらみも無く・・・秀吉から見れば、そこが大いに使い勝手が良く、この後、木食応其を重用し、木食応其もまた、秀吉を後ろ盾として高野山の再興に力を注ぐ事になるのです。

故に、この木食応其を「高野山の中興の祖」と見る場合もあるようです。
ま、存続の危機から一転、現在につながる繁栄を遂げる事になるわけですから。。。

後に秀吉は、山上に興山寺(こうざんじ)を建立し、木食応其を開山第一世 とし、さらに興山寺の隣 に亡き母を弔うための青厳寺(せいがんじ)を建立・・・これが、明治になって興山寺と青厳寺が合併して真言宗総本山金剛峯寺と称するようになり、現在に至るという事になるのです。

また、木食応其は橋本(和歌山県橋本市)の発展にも力をつくしました。

大和街道と高野街道が交わり、そこに紀ノ川の水運が重なる交通の要所でもあるこの場所に、自らの草庵(現在の応其寺)を結んで商工業の町として整備するとともに、高野山往還のために紀ノ川に234mの橋を架けたりして・・・これが「橋本」の地名の由来とも伝えられています。

とまぁ、秀吉を大いに利用しつつも、政権下に組み込まれる事もなく・・・と、ウマイ事立ちまわってる感がある所は、さすがにタダの僧では無い感が漂いますが、それでいて、同じ近江出身として意気投合した石田三成(いしだみつなり)が関ヶ原で負けた時には、すかさず光成三男を保護して出家させ、その命を守るところなど、なかなか義理堅い人でもあったようです。

とにもかくにも、これで高野山攻めが回避され、今に残った事は、誰もがヨシとするところではないでしょうか?
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2020年4月 8日 (水)

武田滅亡とともに散った軍略家~朝比奈信置

 

天正十年(1582年)4月8日、織田信長の甲州征伐のさ中に落ちた持船城の朝比奈信置が自刃しました。

・・・・・・・・・

駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)に仕えたとされる朝比奈信置(あさひなのぶおき)は、同じく義元に仕えた名参謀=朝比奈泰能(やすよし)(9月19日参照>>)とは別系統の朝比奈親徳(ちかのり)の息子です。

早くから義元の近くにて功績を挙げていたらしく、信置が称した「駿河守(するがのかみ)に因んで、同じく駿河守を名乗っていた武田(たけだ)板垣信方(いたがきのぶかた)毛利(もうり)吉川元春(きっかわもとはる)と並んで「三駿河」の一人に数えられ、義元が尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)と戦った天文十七年(1548年)の小豆坂(あずきざか=愛知県岡崎市)の戦い(3月19日参照>>)でも先陣として走り、大きな功績を挙げたのだとか・・・

また『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によれば、天文五年(1536年)頃に、未だ無名の浪人者だった山本勘助(やまもとかんすけ)の才能を見出し、主君=義元に推挙したのが、この朝比奈信置さんだったらしい・・・

ま、この頃の勘助が今川に仕官したがってたという事もあるのでしょうが、その才能を見抜く眼力は大したもの。

しかし、義元自身が勘助の風貌が気に入らなかった事や、家臣の反対等もあって、結局、この時に勘助を召し抱える事なく・・・ご存知のように、勘助は、この後、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)のもとで大活躍します(9月10日参照>>)

このような出来事があったからなのか?
それとも、戦国の流れが変わったからなのか?

永禄三年(1560年)に今川義元が桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市もしくは豊明市)に倒れ(5月19日参照>>)、その後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)がヤバくなって来ると(12月13日参照>>)朝比奈信置はチャッカリ、駿河に侵攻して来た武田信玄のもとに走るのです。

しかも、この朝比奈信置という名前の「信」の文字は、武田信玄(本名は晴信)から一字を拝領しての信置なのだとか・・・つまり、それほど重用されての移籍だったわけです。

軍略家で軍師的な役割も果たし、用兵術(ようへいじゅつ=軍の動かし方や戦術など)にも長けていた信置は、新参者でありながら武田譜代の家臣たちにも信頼され、先方衆の筆頭を任され、信玄亡き後も、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄四男)に従い、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)の戦いにも従軍し、その後の対・徳川家康(とくがわいえやす)戦線の重要拠点である持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を任されました。

その間の元亀四年(1573年=7月に天正に改元) 、武田信玄死去のニュースを聞いた直後から、家康が、長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)の奪取(9月8日参照>>)を皮切りに、天正三年(1575年)8月には諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)、12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二)「遠江⇔駿河間にある武田方の城を一つ一つ自分の物にしていく作戦」を開始するのです。

Motifunezyoukoubou
(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この時、信置が守る持船城も天正五年(1577年)の10月と天正七年(1579年)9月の2度に渡って、家康からの攻撃を受けていますが、一旦奪われても、すぐに奪回・・・徳川勢の本格的な侵攻を許す事はありませんでした。

しかし、やがて「その時」がやって来ます。

天正十年(1582年)・・・この年の正月に、勝頼妹=真理姫(まりひめ)の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)が、織田方に寝返ったのを皮切りに始まった織田信長(のぶなが=信秀の息子)『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)の中で、2月20日に田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城させ(2月20日参照>>)、 翌・21日には、当目坂で勝利した勢いのまま駿府(すんぷ=静岡県静岡市)を占領すると同時に、そのまま持船城を囲んだ家康は、23日から攻撃を開始・・・

もはや天下目前の信長を背後にした徳川軍相手に、さすがの朝比奈信置も耐えきれず・・・は27日にやむなく降伏し、29日には持船城を家康に開け渡したのでした。

ご存知のように、その12日後の3月11日には勝頼が天目山に散って(3月11日参照>>)武田は滅亡・・・

そして、武田の残党が逃げ込んでいた恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市)が信長息子の織田信忠(のぶただ)に焼き討ちされた(4月3日参照>>)5日後の天正十年(1582年)4月8日、信長の命により朝比奈信置は自刃・・・享年55の生涯でした。

用兵に長けた軍略家であるなら、おそらく信長も重宝したでしょうから、もし、この時、いち早く武田に見切りをつけていたなら、生き残れたかも知れなかった信置さんですが、一方で「信長の命で自刃」しているわけですので、そこンところは、当事者同志しか解りえない部分・・・

生き残って咲く人もいれば、壮絶に散る人もいる・・・それが戦国という物なのでしょうね。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2)

2020年3月11日 (水)

武田滅亡とともに勃発した富山城の戦い~小島職鎮の抵抗

 

天正十年(1582年)3月11日、武田勝頼からの知らせを受けた小島職鎮が、主君の神保長住を幽閉して富山城を占拠しました。

・・・・・・・・・

戦国期の越中(えっちゅう)富山は、主に神通川(じんつうがわ)を挟んで、西部(射水・婦負)に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、神通川東部(新川)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による争奪戦が繰り広げられていましたが、西部の神保を甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、東部の椎名を越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)が支援する代理戦争でもありました。

ところが、そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月、水面下で行われていた信玄の裏工作により椎名康胤が武田方に転じます

しかし、その1ヶ月後、今度は神保長職が上杉方に転じ、越中争奪戦はそれぞれの支援者を交換しただけで、そのまま続行・・・とは言え、ここ越中は、謙信にとって祖父や父の時代から、度々出兵しては傘下に治めたかった場所(9月19日参照>>)なわけで、ここに来て、武田との川中島もこう着状態となった謙信は、信玄が今川攻略へと舵を切る(12月12日参照>>)ように、自らも越中侵攻を開始するのです(4月13日参照>>)

そう・・・この永禄十一年(1568年)という年は、謙信と信玄それぞれが、その矛先を変えた年であり、そして、美濃(みの=岐阜県南部)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)を攻略(8月15日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)が、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)年でもあったのです。

ちなみに、この時、上杉方に転じた父に反対し袂を分かち、能登(のと=石川県北部)畠山(はたけやま)を頼った神保長職の息子=神保長住(ながずみ=長職の息子)は、後に信長配下となっています。

その後、謙信は、元亀三年(1572年)に日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)(6月15日参照>>)を、天正四年(1576年)には富山城(とやまじょう=富山県富山市)を奪い、その勢いのまま飛騨(ひだ=岐阜県北部)へも侵攻し(8月4日参照>>) 、翌・天正五年(1577年)の9月13日にはかの畠山の能登七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)を陥落させる(9月13日参照>>)のです。

しかし、そんな謙信の前に立ちはだかったのが、先の上洛の後に越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月20日参照>>)、残る越前一向一揆をも駆逐して(8月12日参照>>)、事実上、越前を平定した形になっていた織田信長でした。

それは、七尾城を奪われた長連龍(ちょうつらたつ)の救援要請(8月14日の前半部分参照>>)でもありましたが、越前まで領した信長にとっては、越前の向こうは加賀(かが=石川県西部)そして能登があり、信長の本拠である岐阜の隣は飛騨なのですから、この謙信の侵攻を黙って見ているわけにはいかない場所であった事も確かでしょう。

かくして天正五年(1577年)9月18日(23日とも)に、謙信と、織田軍北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)がぶつかったのが手取川の戦い(9月18日参照>>)です。

その時、手取川の勢いのまま、さらに松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)も奪って(9月24日参照>>)能登を平定した謙信は、雪の多い冬を避け、翌年の春に再び出兵するつもりで、一旦、越後に戻るのですが、ご存知のように翌年の3月、春を待たずに亡くなってしまいます(3月13日参照>>)

謙信の死を受けた上杉家では、ともに養子の上杉景勝(かげかつ)上杉景虎(かげとら)の間で後継者争い=御館(おたて)の乱が勃発(3月17日参照>>)して信長どころではなくなり、この間、織田軍に、せっかく謙信がもぎ取った越中深くまで入られてしまいます(9月24日参照>>)

その後、後継者争いに打ち勝った上杉景勝は、ようやく越中へと目を向けられるようになり、そのお家騒動のさ中に黄金で以って味方につけた信玄の後継者=武田勝頼(かつより=信玄の四男)を後ろ盾に、加賀・能登・越中の一向一揆の残党を取り込んで越中奪回を画策し始めますが、一方の信長も、天正八年(1580年)に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市・加賀一向一揆の拠点)を陥落(3月9日参照>>)させ、一向一揆の本拠である石山本願寺との戦いも終わらせて(8月2日参照>>)、まさに天下目前状態。

そんなこんなの天正九年(1581年)2月28日に行われたのが、あの御馬揃え(おうまぞろえ)(2月28日参照>>)・・・この時に、守備強化のため富山城に入っていた佐々成政(さっさなりまさ)や、小出城(こいでじょう=富山県富山市水橋)の神保長住が、この御馬揃えに出場するために京都に向かったスキを突いて、上杉の最前線である魚津城うおづじょう=富山県魚津市)を任されている河田長親(かわだながちか)が小出城を攻めたのです。

この時、小出城だけではなく、富山城も奪うつもりだったと言われる上杉勢でしたが、城兵の踏ん張りと、窮地を知って戻って来た佐々成政&神保長住、そして河田長親の死亡?もあり、上杉勢の思惑は失敗・・・何とか小出城は守られました(3月24日参照>>)

とは言え、その後も、くすぶり続ける越中一向一揆勢とのゴタゴタ(9月8日参照>>)が続いていたわけですが、そんな中の天正十年(1582年)3月、長住父の時代から神保に仕えていた老臣=小島職鎮(こじまもとしげ)いきなり裏切るのです。

それは・・・
ご存知のように、この年の2月から、信長は甲州征伐(こうしゅうせいばつ=武田攻め)を開始しています【2月9日参照>>)

2月20日には、織田方の徳川家康(とくがわいえやす)の説得に応じた依田信蕃(よだのぶしげ)田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城し、3月1日には武田同族内の有力者である穴山梅雪(あなやまばいせつ)までもが織田に降った(2013年3月1日参照>>)事で、その間に武田方の諸将が次々と勝頼を見限り、3月2日には最後まで勝頼の味方だった弟=仁科盛信(にしなもりのぶ=勝頼の異母弟)が、守る高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)とともに倒れ・・・と、つまり実際には、怒涛の勢いで織田方が進撃していたわけですが・・・

ところが、そんな状況下でありながら、富山城には、武田勝頼から?の知らせが届くのです。

『…然るに今度 信長公御父子 信州表に至りて御動座侯のところ
武田四郎節所を抱へ一戦を遂げ 悉く討ち果し侯の聞
此の競ひに越中国も一揆蜂起せしめ 其の国存分に申しつけ侯へ』

つまり
「信長父子が信州に出撃していたところを武田勝頼が一戦を交えて、織田勢をことごとく討ち果たしたので、この勢いに乗じて越中国にて一揆を蜂起させ、君らが越中一国を思い通りに支配すれば良いよ」
と・・・

これは勝頼自身が流したフェイクニュースなのか?
それとも、単なるウワサとして、彼らの耳に入って来たのか?

Toyamazyousicc とにもかくにも、この知らせを信じた小島職鎮は、天正十年(1582年)3月11日唐人親広(かろうどちかひろ=加老戸親広)らとともに富山城を急襲し、神保長住を幽閉・・・城を占拠して、あたりに狼煙(のろし)を挙げ、周辺の反信長派に蜂起を呼びかけたのです。

しかし、柴田勝家以下、北陸方面を守る織田軍は、この勝頼の知らせを、はなから信じていなかったのです。

なんせ、この3月11日は、「もはやこれまで!」と覚悟を決めた勝頼が夫人らとともに自害した日ですから・・・
●【武田勝頼、天目山に散る】参照>>
●【勝頼夫人=北条夫人桂林院】参照>>

もちろん、SNSなどありはしないこの時代ですから、勝頼自害の一報が当日に織田北陸勢のもとに届く事は無いのでしょうが、甲州征伐における味方の動向は逐一報告を受けていたはずですからね。

勝家は、すかさず、信長に向けて
「富山の一揆勢が占拠した城は、その日のうちに我々一同が包囲しましたので、落城まで幾日もかかる事はないでしょう…ご安心を」
という内容の手紙を、佐々成政・前田利家(まえだとしいえ)不破直光(ふわなおみつ)の4人の連名でしたため、彼ら連合軍による攻撃を開始し、またたく間に奇策による富山城奪還を果たしたのです。

2日後の3月13日、勝家のもとに届いた信長の返書には
「武田勝頼以下、重臣や宿老までをことごとく討ち果たして、駿河・甲斐・信濃を滞りなく平定したのでご心配なく…と甲斐から報告が来たので君らにも知らせとくね~君らも越中一揆の鎮圧、頑張ってね~」
と・・・(この手紙のやり取りとみても、「当日」とまではいかないものの、情報の行き来がかなり速いことがわかりますね)

そして、柴田勝家以下北陸織田勢は、この富山城奪還の勢いのまま、次に魚津城の包囲へと向かいますが、残念ながら、その後の魚津城陥落の知らせが信長に届く事はありませんでした。

そう、この魚津城が開城されるのは、この年の6月3日(【魚津城の攻防戦】参照>>)・・・それは、あの本能寺の変(6月2日参照>>)の翌日でした。

本能寺の影響を受けた今後の北陸勢の動きについては、あの清須会議の前日に展開された【前田利家に迫る石動荒山の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2020年2月24日 (月)

信長が仕掛ける浅井滅亡への一手~佐和山城の戦い

 

元亀二年(1571年)2月24日、織田勢に包囲されていた浅井方の磯野員昌が守る佐和山城が開城されました。

・・・・・・・・

佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)と言えば、即、あの石田三成(いしだみつなり)を思い浮かべる 方も多かろうと思いますが(私もそうです(^o^;))、実は、その歴史は古く、築城されたのは鎌倉時代・・・その頃に近江(おうみ=滋賀県)を任されていた近江源氏佐々木(ささき)が構築したとされます。

源平合戦の「宇治川の先陣争い」(1月17日参照>>)で有名な佐々木高綱(ささきたかつな)さんの一族ですね。

もちろん、その頃は城郭というよりは砦みたいな物だったでしょうが・・・

Dscn8356at1000
現在の佐和山城跡

で、ご存知のように、その佐々木氏の流れを汲むのが六角(ろっかく)・・・室町時代に入ってからの六角氏は、幕府将軍をも手こずらせるほどの勢力を誇り(12月13日参照>>)、同じ佐々木氏の流れを汲む京極氏(きょうごくし)とともに近江の南北(六角=南、京極=北)を支配する形となっていましたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の最中に起こった京極家内の後継者争い(8月7日参照>>)によって、京極氏の弱体化が始まり、いつしか京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)が主家を凌ぐ力をつけていき(4月6日参照>>)戦国時代も後半になると、もう北近江は、事実上浅井の物になって、佐和山城は浅井が本拠とする小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)の支城として、元亀年間には浅井長政(あざいながまさ=亮政の孫)の家臣=磯野員昌(いそのかずまさ)が城主を務めていました。

そんなこんなの元亀元年(1570年)6月に起こったのが、あの姉川(あねがわ)の戦いです。
【いよいよ姉川…小谷に迫る】>>
【姉川の合戦】>>
【姉川の七本槍】>>

これは、去る永禄十一年(1568年)の9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その後の再三の上洛要請に応じなかった越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう=福井県敦賀市)を元亀元年(1570年)に攻撃した(金ケ崎手筒山の戦い>>)時、織田の味方であったはずの浅井氏が朝倉について、あわや挟み撃ちとなるところ、なんとか岐阜(ぎふ)に戻って来た(金ヶ崎の退き口>>)という、まさに信長危機一髪だった出来事に対して、その3ヶ月後に報復!とばかりに信長が小谷近くに攻め寄せた戦いです。

しかし、この姉川で勝利した信長が、敗走する浅井・朝倉勢を深追いする事がなかったため、浅井・朝倉は負けたとは言え、ある程度の兵力を温存したまま・・・

この時、織田本陣に迫る活躍をした磯野員昌ではありましたが、負け戦となり、何とか敵陣を突破して、自身の佐和山城に戻り、休む間もなく城の防備強化にまい進します。

そのおかげか?姉川からほどない7月1日に、諸軍を率いて佐和山城を攻めに来た信長は、その守りの固さを見て、
「すぐには落ちぬ」
との判断し、城の東に位置する百々屋敷(どどやしき=滋賀県彦根市小野)に砦を築いて、そこに丹羽長秀(にわながひで)を置き、西の尾末山(おすえやま=同彦根市)には市橋長利(いちはしながとし)を、南の里根山(さとねやま=同彦根市)には水野信元(みずののぶもと)を、彦根山(ひこねやま=現在の彦根城がある小山)には河尻秀隆(かわじりひでたか)と、万全の包囲網を作っておいて、自身は7月4日に京都の足利義昭に帰郷の挨拶をして岐阜へと戻りました。

ところが、その3か月後の9月には、浅井・朝倉にゲリラ的に宇佐山城(滋賀県大津市)を攻められてしまい、信長は弟の織田信治(のぶはる)と重臣の森可成(もりよしなり)を失ってしまいます(9月20日参照>>)
(↑彼らの奮戦により落城は免れます)

さらに翌10月には、新たな2万の兵を率いて琵琶湖(びわこ)の西岸を南下して来た浅井・朝倉勢に対して、信長は堅田(かたた=滋賀県大津市)に砦を構えて応戦(11月26日参照>>)・・・しかし、この戦いは12月14日に時の天皇である正親町(おおぎまち)天皇から合戦中止の綸旨(りんじ=天皇の命令)が下されたため、やむなく、両者一応の和睦となりました。

Isonosawayama
佐和山城周辺の位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

この間にも、佐和山城へのけん制は続けられていたわけですが、長期の包囲にも関わらず、未だ降伏には至らず・・・

とは言え、春までにはここ佐和山は押さえておきたい・・・なんせ雪解けの時期になれば、当然、雪国越前の朝倉の動きは活発になるわけで、またもや浅井と合同で南下してくるやも知れませんし、なんたって、ここを奪取しておけば岐阜から京都への動線が確保されます。

ちょうど、その頃、昨年末から活発になり始めた長島一向一揆(ながしまいっこういっき)(11月21日参照>>)に対抗すべく、信長は丹羽長秀を長島へ派遣・・・代わりに、木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が百々屋敷に入ります。

もちろん、佐和山城攻略の役目も秀吉が引き継ぐ事に・・・早速、秀吉は側近の蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)と作戦を練ります。

まずは堀次郎(ほりじろう=堀秀政の従兄弟?)樋口直房(ひぐちなおふさ)の400の兵と蜂須賀の400余りで佐和山城を三方から囲み、湖上に展開する前野長康(まえのながやす)の500余騎にて琵琶湖を封鎖して兵糧の運び込みを断つ・・・さらに、「佐和山城はすでに織田方に落ちた」とのフェイクニュースを流す。。。

さすれば、孤立した佐和山城の兵糧は20日ともたないであろう・・・と、

当然、その間には開城を促す交渉も必要です。

元亀二年(1571年)2月2日、秀吉は、蜂須賀と前野の2名に書状を持たせて使者として送り、佐和山城の磯野との交渉を開始します。

それから20日余り経った元亀二年(1571年)2月24日、磯野員昌から「籠城する500余りの城兵の命を助けるのであれば開城する」との返答を受け取った秀吉が、その申し入れを受け入れ佐和山城は開城となりました。

籠城していた将兵の多くは、船で琵琶湖の対岸へと逃げていったのだとか・・・

交渉に応じて降伏した磯野員昌は佐和山の代わりに琵琶湖の北西に位置する高島郡(たかしまぐん=滋賀県高島市)を与えられるという破格の待遇を受けて織田の配下となり、佐和山城へは丹羽長秀が入りました。

なんせ、この頃は、上記の佐和山の丹羽をはじめ、今回の秀吉も、柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)などなど、織田配下のそうそうたるメンバーが、皆、琵琶湖の周辺に配置されていましたから、それを踏まえれば、琵琶湖の北西は、かなりの厚遇です。

そのおかげで、天正元年(1573年)には、あの金ヶ崎の退き口の際に信長に発砲した杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)を、高島郡の潜伏先にて捕縛するという手柄にも、磯野員昌は恵まれています(5月19日参照>>)

ただ・・・晩年は、信長さんと折り合いが悪く、出奔して農業に従事していたという事らしいですが、そのあたりはちょっと謎です。

とにもかくにも、ここで佐和山城が落ちただけではなく、この佐和山落城のニュースを聞いた太尾山城(ふとおやまじょう=滋賀県米原市)の浅井家臣=中島直親(なかしまなおちか)もが、すぐに退去して小谷城へと走り去ってくれた事で、秀吉は佐和山と太尾山の二城を手に入れる事ができたのです。

もちろん、これが2年後の天正元年(1573年)の浅井・朝倉の滅亡へとつながっていく重要な一手となる事は、皆さまご存知の通りです。

この後の展開は・・・
●【信長&秀吉VS浅井~箕浦の戦い】>>
【山本山城の戦いと虎御前山城構築】>>
【刀禰坂の戦い】>>
【朝倉氏滅亡~一乗谷】>>
【小谷城・落城~浅井滅亡】>>
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

より以前の記事一覧