2019年12月 8日 (日)

那須七騎の一人~無念の千本資俊・謀殺

 

天正十三年(1585年)12月8日、太平寺に誘い出された千本資俊&資政父子が大関高増らによって殺害されました。

・・・・・・・・・

千本資俊(せんぼんすけとし)千本家は、鎌倉時代から 下野(しもつけ=栃木県)那須郡(なすぐん=栃木県の北東地域)に根を張り、一説には源平屋島の戦いの「扇の的」>>で有名な那須与一(なすのよいち)の子孫(あくまで伝説です)とも言われる那須(なす)の家臣で、「那須七騎(なすしちき)の一つにも数えられる名家でした。

ところが、そんな主家=那須氏の第19代当主=那須高資(なすたかすけ)の時代にお家騒動が勃発します。

そもそもは、先代である父=政資(まさすけ)から息子=高資への交代劇の時も、未だ譲る気のない父と、新当主=高資を擁立しようとする家臣=大関宗増(おおぜきむねます=那須七騎の一人)との間でモメにモメた末の当主交代だったのですが、父亡き後、今度は異母弟である資胤(すけたね)との間に、後継者争いが勃発したのです。

長男の高資の母は陸奥(むつ=福島県・宮城県・岩手県・青森県)大館城(おおだてじょう=福島県いわき市)主の岩城常隆(いわきつねたか)の娘、次男の資胤の母は那須氏家臣の大田原資清(おおたわらすけきよ=那須七騎の一人)の妹・・・この抗争には、当然、それぞれの実家が絡んでいるわけですが・・・

資胤を那須家の跡継ぎにしたい大田原氏は、資胤を大田原城(おおたわらじょう=栃木県大田原市)に招いて高資討伐を進言・・・一方、これをうけた高資側も資胤を亡き者にしようと画策します。

身の危険を感じた資胤は、熊野参詣を理由に一時的に身を隠します。

そんなこんなの天文十八年(1549年)、かねてより宇都宮(うつのみや=栃木県の中部地域)への侵攻を目論んでいた那須高資が宇都宮領内へと侵攻し、喜連川五月女坂の戦い(きつれがわそうとめざかのたたかい=栃木県さくら市喜連川付近)で宇都宮氏当主=宇都宮尚綱(うつのみやひさつな)とぶつかりますが、この戦いで尚綱は討死してしまいます。

しかも、そのドサクサで家臣の壬生綱房(みぶつなふさ)宇都宮城(うつのみやじょう=栃木県宇都宮市)を乗っ取られてしまったのです。

この時、わずか5歳の幼子であった尚綱の息子=宇都宮広綱(ひろつな)は、家臣の芳賀高定(はがたかさだ)に守られて、何とか城から脱出して落ち延びましたが、その2年後の天文二十年(1551年)、その芳賀高定が高根沢(たかねざわ=栃木県高根沢町・栃木県中央東部地域)の領地と資胤の次期那須当主の座を約束に千本資俊に支援を求めて来たのです。

かくして天文二十年(1551年)1月22日、千本資俊は自らの千本城(せんぼんじょう=栃木県芳賀郡)に、主君=那須高資を招待し、泥酔したところを殺害したのです。

高資の死によって、那須家の当主の座が資胤に転がり込んだ事で、千本資俊と息子=資政(すけまさ)は、資胤の腹心として大いに権勢を振るうとともに、資政は大関高増(たかます=大田原資清の息子で大関宗増の養子)の娘を正室に娶り、那須家内の家臣同志の繋がりも固くなったかに見えました。

しかし結局は、千本家と大関家による那須家内の主導権争いは収まらず・・・永禄九年(1566年)には、常陸(ひたち=茨城県)佐竹義重(さたけよししげ)の力を借りた大関高増に攻められ、激しい戦いに発展した事もありました。
(この時に千本城が佐竹側に奪取されたとの話もあり…秋田藩家蔵文書)

ところが、天正十一年(1583年)に資胤が死去し、その息子の那須資晴(すけはる)が当主となって2年が過ぎた天正十三年(1585年)、那須資晴は大関や大田原に対して、「太平寺(たいへいじ=栃木県那須烏山市)にて千本父子を追討せよ」との命令を出したのです。

その理由としては・・・
実は、資政が生まれる前、まだ子供がいなかった千本資俊は茂木城(もてぎじょう=栃木県芳賀郡)に拠る茂木治清(もてぎはるきよ)の息子を養子に向かえ、千本義隆(よしたか)として彼に千本家を継がせるつもりでいたのですが、やがて実子の資政が生まれた事によって義隆がうっとぉしくなり、配下の田野辺重之(たのべしげゆき)に義隆を預けて田野辺隆継(たかつぐ)と名乗らせたりしていましたが、結局、居場所がなくなった彼=義隆は、実家の茂木に戻ったのですが、当然、その心の内はよろしくない

また、もう一人の大関も・・・
先に書いた通り千本資政の奥さんは大関家の娘だったわけですが、これが嫁×姑バトルの果てに離縁となって奥さんが実家に戻っており、那須家臣内での主導権争いに加えて、ますます千本父子は許しがたいわけで・・・

Oozekitakamasu700a で、千本義隆と大関高増が結託して、そこに高増弟の大田原綱清(おおたわらつなきよ)が加わり、主君である那須資晴を味方に誘って説得し、上記の命令を出させたわけです。

なんせその資晴も、後継者争いの末とは言え、千本資俊に先々代=伯父の那須高資を騙し討ちされてますから・・・

さらに千本義隆の実家の茂木も誘います。

はじめ茂木家は、この計略に乗り気ではりませんでしたが、大関高増による再三の説得と、成功のあかつきには大谷津(おおやつ=栃木県芳賀郡市貝町大谷津周辺)の地を与えるという条件により、仲間に加わりました。

かくして、使者によってもたらされた
「那須上庄の家臣が謀叛を企てて奥州の白河(しらかわ=福島県白河)に寝返ったので、まずは大関&大田原が現地に向かいますが、その前にもろもろ相談したいので、急ぎ太平寺にお越しください」
との知らせを受けた千本資俊&資政父子は、天正十三年(1585年)12月8日、従者17~8人を連れて千本城を出立したのです。

途中、千本資俊の馬の前を「白狐が横切りつつ、しきりに鳴いた」という事があり、「不吉だ」として資俊は1度引き返そうとしますが、息子の資政が、
「この季節になるとキツネが鳴く事なんてよくあります。これで引き返したら臆病者と言われますよ」
と言って父をなだめた事から、そのまま一同は太平寺への道を急ぎます。

まぁ、那須資晴から、そんな命令が出てるなんで知る由もありませんからね。

やがて到着した太平寺では、僧が出迎え、千本父子の来訪を大いに喜びますが、「内々の密談があるので…」と供の者たちを門外に留め置いて、千本父子を奥の間へと招き入れます。

そして千本資俊が奥に入ろうとしたところを、福原資孝(ふくはらすけたか=那須七騎の一人)「上意!」と叫びつつ、正面より左の肩先から右胸にかけて斬りつけました。

息子=資政は一礼していたところを大田原綱清が太刀を抜きざまに討ちました。

資政は一太刀で絶命するも、資俊は反撃しようと試みますが、そこを背後から大関高増が斬りつけました。

千本資俊=享年67、千本資政=享年25の生涯でした。

千本父子の叫び声に気づいた従者が、壁を打ち破って寺内に駆け込もうとしますが、そこに大関&大田原&福原の配下の者=数十名が躍り出て、門外にて戦闘状態となりますが、当然、多勢に無勢では勝ち目はなく、一部を除いてほとんどの者が討ち取られてしましました。。。ちなみにかつての一時期、千本義隆を養父となっていた田野辺重之も、この時に討死したと言います。

この出来事を千本城にて聞いた資俊の奥さんは、はじめは自害しようとするものの、家臣によって実家の長倉(ながくら)に戻るよう説得され、川上実三(かわかみじつぞう?)なる者を共に連れて逃避するものの、途中で、その川上が荷物やら何やらを持ったまま逃げてしまい、途方に暮れているところ山里の住人に助けられて近くの庵に宿泊させてもらう事ができました。

その時、病に伏せっていた住人の子供に持っていた薬を与えて助けた事から、感謝した住人たちによって無事に実家に送り届けられたのだとか・・・やがて、敗軍の城となった千本城には多くの浪人や百姓たちが押し寄せ、財宝の略奪行為が行われたとの事なので、奥さん無事に実家に戻れて、何よりでしたね。

奥さんを助けたのも名も無き戦国の人々なら、千本城に略奪に入るのも名も無き戦国の人々・・・平時に持つ人間のやさしさと戦時下に持つ狂気、このどちらもが人が本来持つ姿なのだと感じさせられますね。

千本父子の死によって、再び千本義隆が嫡子となって千本城を継ぎ、その領地は千本義隆や大関高増らによって分配されました。

この頃と言えば・・・
西では、織田信長(おだのぶなが)亡き後に勢いをつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)四国を手に入れ(7月26日参照>>)、東は飛騨(ひだ=岐阜県北部)(8月10日参照>>)越中(えっちゅう=富山県)(8月6日参照>>)にまで手を伸ばした頃・・・

東北では、この半月ほど前にあの伊達政宗(だてまさむね)人取橋(ひととりばし)の戦い(2007年11月17日参照>>)が展開されていたわけですが、それらに挟まれたこの場所で展開されていた彼らの勢力争いも、やがて天下統一の波に呑まれていく事になります。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2019年11月24日 (日)

岩村城奪回作戦~秋山虎繁VS織田信忠

 

天正三年(1575年)11月24日、武田方の秋山虎繁に奪われていた岩村城を奪回した織田信忠が岐阜へと帰還しました。

・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての上洛を果たし(9月7日参照>>)、その義昭を第15代室町幕府将軍に据えて(10月18日参照>>)以来、事実上、京都を制した形になっていた織田信長(おだのぶなが)ではありましたが、その後、徐々に義昭と信長の距離間が遠くなるわ(1月23日参照>>)琵琶湖(びわこ=滋賀県)周辺では越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)+北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)連合軍とのドンパチが始まるわ(6月19日参照>>)、それキッカケで上洛の際に散らした三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)は戻って来るわ(8月26日参照>>)、その三好に石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)顕如(けんにょ)が賛同して(9月14日参照>>)全国の本願寺門徒に一揆の蜂起(ほうき)を呼びかけてアッチャコッチャで一向一揆(いっこういっき)が始まるわ(長島一向一揆)(近江一向一揆>>)、浅井&朝倉の残党を匿う比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ=滋賀県大津市)に文句言うたら反発して来るわ(9月12日参照>>)、と周囲敵ばかりの大忙し・・・いわゆる『信長包囲網(のぶながほういもう)です。

そんなこんなの元亀三年(1572年)10月、いよいよ甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)が動き出します。

かねてより、将軍=義昭から信長の討伐&上洛を呼びかけられていたし、天台座主(てんだいざす=延暦寺の住職)覚恕(かくじょ=後奈良天皇の皇子・法親王)の甲斐亡命のもととなった例の比叡山焼き討ちに信玄自身がメッチャ怒ってた事もあって、自ら2万5千の大軍を率いて躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣し、世に言う西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始したのです。

Akiyamatorasige700a この時、信玄本隊が飯田からほぼ天竜川に沿って南下し青崩峠(あおくずれとうげ)を越えて侵攻する(一言坂>>)(二俣城>>)のと同時に、家臣の山県昌景(やまがたまさかげ)遠江(とおとうみ=静岡県西部)から(10月22日参照>>)秋山虎繁(あきやまとらしげ=晴近・信友)美濃(みの=岐阜県)方面から徳川家康(とくがわいえやす)の領する三河(みかわ=愛知県東部)への侵攻を任され、武田の別動隊として各地で諸城を落としつつ転戦していて、秋山虎繁が攻略した城の中の一つが岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)でした。

この岩村城は、鎌倉時代の昔から岩村遠山(とおやま)が治める城でしたが、すでに、この城の重要性に気づいていた信長の父=織田信秀(のぶひで)が、城主の遠山景任(とおやまかげとう)妹を嫁がせて懇意にしていた中で、この年の8月に景任が子供を持たないまま病死してしまった事から、信長が自身の息子=御坊丸(ごぼうまる・信長の四男か五男で後の勝長または信房)を養子として送り込んで継がせていたので事実上、織田の城となっていたのでした。

この岩村城を、この秋ごろから囲んだ秋山勢でしたが堅固な城はなかなか落ちず・・・この時、御坊丸はまだ6歳の幼子だったので実際に城内を仕切っていたのは遠山に嫁いだ信秀の妹=おつやの方(おゆうの方・お直の方)だったのですが、ジワジワと攻めて来る秋山虎繁は、なんと!戦場でおつやの方に求婚。。。
「俺と結婚してくれたら、城も命も助ける」と・・・

Idairazyouhotokezaka
信玄の西上ルートと周辺広域図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この武田方の動きに、信長も森長可(もりながよし)らの猛将を先鋒に約2万の軍勢で以って対抗しますが、小競り合いはあるものの決着はつかず・・・やがて3ヶ月余りの籠城の末、年が明けた元亀四年(1573年)3月2日、おつやの方は虎繁の条件を呑んで岩村城を開城(3月2日参照>>)・・・信長の息子=御坊丸は養子という名の人質として甲斐に送られてしまいました。

この状況に、激おこの信長ではありましたが、ご存知の通り、この間に、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)(三方ヶ原>>)(犀ヶ崖>>)から野田城(のだじょう=愛知県新城市)攻防戦(1月11日参照>>)武田はどんどん西へと進んで行きますし、あの将軍=義昭がいよいよ信長に反旗を翻す(2月20日参照>>)しで、ここンとこの信長は、アチコチに兵を分配しなければならなかったわけで・・・

ところが、そんな中、その野田城攻防戦を最後に、それまで西へ向かっていた武田軍が甲斐へと戻って行きます。
そう、ご存知のようにこの元亀四年(1573年・7月に天正に改元)4月12日に信玄が病死したのです(4月16日参照>>)

その遺言により「3年隠せ」とされた信玄の死は、意外に早く周囲にも知れ渡る事になり、徳川家康は、このスキに武田方の長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)を奪ったり(9月8日参照>>)なんぞしているのですが、

信長の方は・・・
7月には、あの義昭がまたまた挙兵するし(7月18日参照>>)、あの浅井&朝倉との決着もあるし(8月20日参照>>)、もちろん本願寺門徒との一向一揆も継続中ですし(10月25日参照>>)、奈良の松永久秀(まつながひさひで)は裏切るし(12月26日参照>>)・・・で、信長は対武田にあまり兵を割く事ができず、この後しばらくは、信玄の後を継いだ武田勝頼(かつより)明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を奪ったり(2月5日参照>>)高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を陥落させたり(5月12日参照>>)して武田の健在ぶりをアピールする事になるのですが、

しかし天正三年(1575年)5月、先の信玄死のドサクサで家康に奪われていた長篠城を武田勝頼が取り返しに来る事で勃発した有名な長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦い(5月21日参照>>)織田&徳川の連合軍で勝利した信長は、
「ようやく時が来た!」
とばかりに、この年の11月、嫡男=織田信忠(のぶただ)に2万の兵をつけて岩村城奪還に向かわせ、自らも1万の兵とともに後詰(ごづめ=本隊の後方に待機する予備軍)として鶴ヶ城(つるがじょう=岐阜県瑞浪市土岐町・神箆城・国府城・高野城)に着陣します。

Iwamurazyoudakkai 
岩村城奪回戦と恵那郡十八砦の位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

もともと戦略的に重要な場所である岩村城含む恵那(えな=岐阜県南東部)周辺には、武田方からの侵攻を阻止すべく、織田や遠山によって「恵那郡十八砦」と呼ばれる砦や出城が形勢されていたのですが、ここンとこの勝頼の勢いで、この時点では、それらはすっかり武田の砦になってしまっていて、岩村城奪回を任された信忠は、まずは、これらの砦から攻略しなければならない・・・

と思っていたところ、今回の「織田の大軍が来たる!」の一報により、浮足づいた守備兵らが、かの岩村城に集結してしまったため、各砦に残されていたのは「強い主君ならどっちでもイイ」あるいは「もともとは織田の配下だった」って感じの美濃出身の者が中心で、織田軍が近づくとアッサリと砦を放棄したり寝返ったりする者ばかり・・・信忠隊は、ほとんど無傷のまま、予想外に素早く周辺の砦を取り戻し、秋山虎繁の立て籠もる岩村城へと向かう事ができ、この状況を見た後詰の信長も一旦岐阜へと帰還します。

一方、敵軍に迫られた岩村城からの救援要請を受けた武田勝頼は、早速、軍を率いて伊那(いな=長野県南部)まで来ますが、おりからの大雪に阻まれて、それ以上進めず・・・

織田軍の包囲によって補給路を断たれ、援軍も望めなくなった岩村城は、この窮地を脱するべく、11月10日、水晶山(すいしょうやま=岐阜県恵那市岩村町)に布陣していた織田軍に夜襲をかけます。

地の利が無い場所で夜間に襲撃された事で、ここに布陣していた織田方はアッという間に散り々々にされてしまいましたが、勝ちに乗じた岩村城方が、さらに進撃しようとすると、そこに織田方の河尻秀隆(かわじりひでたか)をはじめとする救援隊が駆け付け、見事な戦いぶりで大将格21人のほか多数の城兵を討ち取り、やむなく出撃した城兵は城内へ退却・・・戻れなかった者も周辺の山中へと逃げて行きました。

織田軍大将の信忠は、岩村城の堅固な構えを踏まえて、それでも力攻めをせず、厳重な包囲網を維持しつつ兵糧攻めを続けますが、当然、やがて兵糧も尽き、城内の兵たちの疲れもピークの達した頃、織田方の塚本小大膳(つかもとこたいぜん)のもとに城内からの使者がやって来て、
「城兵の命を助けてくれるなら開城しても良い」
と申し出て来たのです。

そこで、
「大将3名が岐阜まで来て謝罪するなら…」
という条件で、11月21日、秋山虎繁以下大島杢之助(おおしまもくのすけ)座光寺為清(ざこうじためきよ)の3名が捕らえられて岐阜へと送られ、岩村城は開城となりました。

かくして天正三年(1575年) 11月24日、奪還に功績のあった河尻秀隆を岩村城に置き、織田信忠は岐阜へと戻ったのでした。

ところが・・・
岐阜に到着した秋山以下3名は、即座に長良川の河原にて磔刑(たっけい=はりつけの刑)に処せられてしまいます。

これは、信長が、息子を武田の人質に差し出しおきながら自らはちゃっかり(←否、苦悩の末だとは思うが)奥さんに納まってたおつやの方に怒り心頭だったから・・・なんて事も言われますが、

別の説では、先の徳川家康の長篠城奪取の際(再び9月8日参照>>)に武田の人質となっていた奥平信昌(おくだいらのぶまさ=当時は貞昌)奥さんと弟を、有無を言わさず磔刑に処した事に対する報復とも考えられています。
(世は戦国ですから、信長だけではなく武田も色々ヤッちゃってます)

しかし、「岐阜に出向いての謝罪=その後は許されるかも」と思ってい岩村籠城組の面々は、
「約束と、ちゃうやないかい!」
怒り爆発し、再び戦いが勃発するのですが、もはや岩村の残党に成すすべなく、次々と討ち取られ・・・おつやの方の親衛隊として最後まで岩村城にて仕えていた遠山七頭衆をはじめとする勇将たちも討死、あるいは自決して果てたと言います。

この結果を耳にした武田勝頼は、仕方なく甲斐へと引き返して行きました。

ちなみに、秋山虎繁らと前後して捕らえられたとされるおつやの方も、同じく長良川の河畔で磔刑に処せられますが、よほど信長は怒っていたのか?血縁のある未だ20代とおぼしき彼女を逆さ磔にしたのだとか・・・
(設楽ヶ原の時の鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)のような逆さ磔>>だったら…と想像するとコワイ)

この後、この11月の末に嫡男の信忠に織田家の家督を譲った(11月28日参照>>)信長は、翌天正四年(1576年)2月に安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)の構築に着手します(2月23日参照>>)が、

一方の敵側には、今まさに日本海側を越前の目前の越中富山(とやま=富山県富山市)まで侵攻(3月17日参照>>)して来ていた越後(えちご=新潟県)の大物=上杉謙信(うえすぎけんしん)が、信玄亡き後の穴を埋めるように『信長包囲網』に加わり(5月18日参照>>)、信長と本願寺との戦いも激化していくのですが、そのお話は【織田信長の年表】>>のそれぞれのページで・・・

また、先の岩村城の落城で甲斐に送られた信長の息子=御坊丸は、このあと10年くらい甲斐で人質生活を送り、信長のもとに戻って来るのは武田が滅亡する寸前の頃だとか・・・そして、それからほどなく、あの本能寺の変が起き、御坊丸こと織田勝長(おだかつなが)は、父ちゃん&兄ちゃんとともに命を落とす事になります(4月4日参照>>)
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (2)

2019年11月17日 (日)

伊達政宗の人取橋の戦い~老臣・鬼庭良直の討死

 

天正十三年(1585年)11月17日、伊達政宗と佐竹率いる連合軍が戦った人取橋の戦いで鬼庭良直が討死しました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月に、あの本能寺で横死(6月2日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)に代わって、山崎の戦いで主君の仇を討った羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が勢いを増すものの、その後は四国(7月26日参照>>)九州(4月6日参照>>)の平定に忙しく、北は北陸(8月29日参照>>)どまりで、関東や東北は未だ手つかずの状態であった頃、

東北では、
米沢城(よねざわじょう=山形県米沢市)を本拠とした伊達(だて)出羽(でわ)南部(山形県と秋田県南部)陸奥(むつ)南部(宮城県南部・福島県北部)という広大な領地を有してはいたものの、
周辺には
山形城(やまがたじょう=山形県山形市)最上(もがみ)や、
寺池城(てらいけじょう=宮城県登米市)葛西(かさい)
名生城(みょうじょう=宮城県大崎市)大崎(おおさき)に、
小高城(おだかじょう=福島県南相馬市)相馬(そうま)
大館城(おおだてじょう=秋田県大館市)岩城(いわき)に、
黒川城(くろかわじょう=福島県会津若松市・後のの若松城)蘆名(あしな)
須賀川城(すかがわじょう=福島県須賀川市)二階堂(にかいどう)・・・

さらに南の常陸(ひたち=茨城県)から北への侵攻を狙う佐竹(さたけ)などなど、様々な有力大名がしのぎを削りながら、時には味方になり、時には敵に回りという群雄割拠の状態だったのです。

そんな中、天正十二年(1584年)10月、父の伊達輝宗(だててるむね)から家督を譲られ、伊達家の若き当主となった伊達政宗(だてまさむね=当時18歳)に対し、はじめは恭順な態度を取っていた小浜城(おばまじょう=福島県二本松市)大内定綱(おおうちさだつな)蘆名に寝返るという事件が起こります。

これに対し、政宗は大内の支城である小手森城(おでもりじょう=福島県二本松市)を攻撃し、城兵はおろか婦女子まで根絶やしにするという倍返しどころやない非常な仕返しをしたのです。

これに恐怖したのが二本松城(にほんまつじょう=福島県二本松市)畠山義継(はたけやまよしつぐ)・・・なんせ、陰で大内を支援していて、この時、小手森城を脱出した大内定綱が逃げ込んで来ていたのですから、次はコチラに矛先が向くやも知れません。

ここはひとまず降伏・・・とばかりに畠山義継は、領地の半分を伊達家に献上して、後継ぎの国王丸(くにおうまる)を人質に出すという条件で伊達との和睦を成立させますが、その和睦成立から、わずか2日後の10月8日、伊達輝宗が陣所にしていた宮森城(みやもりじょう=同二本松市)に和睦の挨拶をしに来たはずの畠山義継が、いきなり刀を抜いて伊達輝宗を拉致して逃亡してしまいます。

父の異変を知った政宗が、すぐに後を追い、川を越えたら二本松城という阿武隈川(あぶくまがわ)のほとりで追いついたものの、どうする事もできず、やむなく義継もろとも父=輝宗を鉄砲で撃ち殺してしまったのです(10月8日参照>>)

義継を失った二本松城では、国王丸を人質に出すどころか、この幼い新当主を中心に気勢を挙げ、籠城して政宗を迎え撃つ覚悟・・・一方の政宗も父の弔い合戦とばかりに10月15日、二本松城を囲みます。

しかし二本松城は天然の要害を備えた堅城で、しかもこの旧暦の10月15日は、新暦で言えば12月6日・・・包囲を開始した翌日から雪が降り始め、やがてそれは大雪となり、やむなく政宗は、一旦包囲を解いて小浜城に引き上げました。

するとこの間に畠山は、佐竹をはじめ、蘆名や相馬、岩城や二階堂などなど伊達領の南に位置する武将らに援軍を求めます。

常日頃から伊達が南下して来る事を警戒していた彼らは、すんなりと畠山の要請に応じ、佐竹義重(さたけよししげ)を総大将とする3万もの連合軍となって伊達領に向かって北上して来たのです。

Oniwayosinao500a この一報を受けた政宗は、天正十三年(1585年)11月17日、小浜城を出て観音堂山(かんのんどうやま)に布陣しますが、味方の軍勢はわずかに8千・・・政宗にとっては明らかに不利な戦いに突入する事になりますが、

この戦いで先陣を務めたのが、代々伊達家に仕える鬼庭(おにわ)氏の13代目=鬼庭良直(おにわよしなお=左月斎)でした。

良直自身も、伊達稙宗(たねむね)晴宗(はるむね)そして輝宗→政宗と4代の当主に仕えていて、この時73歳・・・高齢のために重い甲冑を帯びる事ができず、水色の法被(はっぴ)に黄色の綿帽子という装備を身に着け、政宗から拝領した金色の采配を手に出陣していたのでした。

伊達VS連合軍・・・両者は観音堂山の麓の瀬戸川(せとがわ=阿武隈川の支流)周辺でぶつかります。

Hitotoribasioniwayosinao
人取橋の戦いと東北諸将の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

瀬戸川に架かる一本橋を、約60騎の自隊を率いて先陣を切る鬼庭隊・・・それを見た政宗の右腕=片倉景綱(かたくらかげつな=小十郎)(10月14日参照>>)が機転をきかせ、
「政宗がここにおる!」
と良直を援護すべく、主君の声をまねて高らかに宣言すると、
その心中を察した良直が、
「おぉ!御屋形様(おやかたさま)が来てくださったぞ!」
と叫び、味方の士気を高めると同時に、敵を怯ませます。

敵が景綱に気を取られ動揺するスキを狙って一本橋を突進する良直は、その細い橋の上を向かって来る敵を一人ずつ待ち伏せて討っていくのです。

この橋の上で200余の敵兵を討ち取った良直率いる鬼庭隊でしたが、さすがに多勢に無勢・・・やがて押されはじめた伊達軍に迫る連合軍は本陣近くまで押し寄せ、政宗自身も鉄砲を受ける事態となり、伊達軍は撤退を余儀なくされますが、そうなると先陣だった鬼庭隊が、今度は殿(しんがり=軍の最後尾)となるわけで・・・

主君を逃がすべく踏ん張った良直は、ともに戦った多くの兵とともに、ここで壮絶な討死を遂げました。

良直らの活躍によって無事引き上げる事に成功した政宗は、夜を迎えるとともに野営し、明日に向かっての態勢を整えるのですが、なんとその夜に、留守にしている領国を水戸城(みとじょう=茨城県水戸市)江戸重通(えどしげみち)安房(あわ=千葉県南部)里見義頼(さとみよしより)が攻めに来る」という一報を受けた佐竹が自軍を連れて撤退してしまうのです。

この一報には、政宗発進のフェイクニュースとの見方もあるようですが、とにかく、連合軍と言えど、ほとんどが佐竹隊だった敵側は、もはや伊達軍を相手にする兵力は残っておらず、今回の戦闘は、このまま終焉を迎えるのです。

勝敗としては連合軍の勝利と言えますが、全滅を免れた政宗も次回に賭ける事ができるわけで、翌日の明らかなる負け戦を回避できた事は政宗にとって一安心・・・良直の功績を讃えた政宗は、残された彼の妻に多くの知行を与えたと言います。

また、ここで多くの兵を討ち取られた事で、瀬戸川に架かるこの一本橋は、人取橋(ひととりばし)と呼ばれるようになり、本日のこの戦いも「人取橋の戦い」と呼ばれます。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2019年10月27日 (日)

飛騨の関ヶ原~八日町の戦いで江馬輝盛が討死

 

天正十年(1582年)10月27日、飛騨八日町にて姉小路頼綱(三木自綱)と戦っていた江馬輝盛が討死し、江馬氏が滅亡しました。

・・・・・・・・・

「飛騨の関ヶ原」とも呼ばれる八日町(ようかまち=岐阜県高山市国府町八日町)の戦い・・・

このブログでは「〇〇の関ヶ原」と呼ばれる戦いを、いくつかご紹介していますが、それらは、あの関ヶ原の戦いと同時期に起こった東西それぞれに味方する武将が別の場所で戦った合戦の事で、たとえば、石田三成(いしだみつなり)と懇意にする会津(あいづ=福島県西部)直江兼続(なおえかねつぐ=西軍) が、徳川家康(とくがわいえやす)に通じる最上義光(もがみよしあき=東軍)と戦った長谷堂の戦い(10月1日参照>>)「東北の関ヶ原」と呼んだり、豊後(ぶんご=大分県)奪回を狙う大友義統(おおともよしむね=西軍)黒田如水(くろだじょすい・官兵衛孝高=東軍)と戦う石垣原の戦い(9月13日参照>>)「九州の関ヶ原」と呼んだりします。

しかし、今回の八日町の戦いの「関ヶ原」はそういう意味ではなく、飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の戦国に決着をつけるような・・・いわゆる「天下分け目の関ヶ原」なら、コチラは「飛騨分け目の八日町」という意味で「飛騨の関ヶ原」と呼ばれているのです。

なんせ、飛騨という場所は、これまで、越後(えちご=新潟県)から南西へ=信濃(しなの=長野県)北陸をと狙う上杉謙信(うえすぎけんしん)と、甲斐(かい=山梨県)から、やはり信濃を牛耳る武田信玄(たけだしんげん)という大物二人に挟まれ、あの川中島での勝敗に左右されたり、両者の動向に翻弄されたりしながら、

飛騨大野(おおの=岐阜県北西部)を本領する小鷹利城(こたかりじょう=岐阜県飛騨市河合町)牛丸(うしまる)
隣接する吉城(よしき=岐阜県北東部)を本領とする高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)江馬(えま)
益田(ました=岐阜県中東部)に拠点を持ち鍋山城(なべやまじょう=岐阜県高山市松ノ木)を居城とする三木(みき)
飛騨国府(こくふ=岐阜県高山市周辺)高堂城(たかどうじょう=岐阜県高山市国府町)を居城とする広瀬(ひろせ)
の彼ら飛騨に根付く武将たちは、血で血を洗う戦国を生き抜いて来ていたのです。

そんな中、三木氏の三木自綱(みつきよりつな)が、飛騨の国司であった姉小路(あねのこうじ)の名跡を乗っ取って姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)と名を改め、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じての上洛(9月7日参照>>)で上り調子の尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)の奥さん=(のう)妹を娶って親族となり、その力を借りて勢力を伸ばし始めます

それでも、まだ謙信&信玄の目の黒いうちは、大きく情勢が変わる事はありませんでしたが(8月4日参照>>)、天正元年(1573年)に信玄が亡くなって(4月16日参照>>)その2年後に後を継いだ武田勝頼(かつより)長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)織田&徳川連合軍に敗退し(5月21日参照>>)、天正六年(1578年)には謙信が亡くなった(3月13日参照>>)上杉家で後継者争いが勃発(3月17日参照>>)・・・

戦国の力関係が大きく変わる中で、上杉との月岡野(つきおかの=富山県富山市)の戦い(10月4日参照>>)に織田の親族として参戦して勝利した姉小路頼綱が、勢いを増して松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山松倉町)を新築します。

すると、それを脅威に感じた広瀬城(ひろせじょう=同高山市国府町)広瀬宗域(ひろせむねくに)は、頼綱の三木氏と政略的婚姻関係を結んで脅威を取り除き、逆にこれまで懇意にしていた牛丸親綱(うしまるちかつな)牛丸氏の名跡を奪おうと小鷹利城を攻めますが、それはウマく行かず・・・

ところが、そうこうしている間に、またもや戦国の情勢が目まぐるしく変わります。

天正十年(1582年)3月に、あの武田が滅ぶと(3月11日参照>>)、そのわずか3ヶ月後の6月に、武田を滅亡させた信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)したのです。

このゴタゴタを見逃さなかったのが姉小路頼綱&と広瀬宗域&牛丸親綱・・・今度は、この三者が連合を組んで、これまで何かと目障りだった名門家=江馬氏の江馬輝盛(えまてるもり)をぶっ潰して、飛騨の覇権を抑えてしまおうと画策したのです。

もちろん、江馬輝盛の方も、このゴタゴタが絶好のチャンスなのは重々承知・・・ここで、長年の悲願であった古川盆地への進出を画策するのです。

八日町の戦い・位置関係図
八日町の戦い・位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

かくして信長横死から約5か月後の天正十年(1582年)10月下旬、江馬輝盛は3000余騎を率いて(数については諸説あり)高原諏訪城を出立して古川盆地への侵攻を開始したのです。

これを知った姉小路頼綱は、始め、鉄壁の要害と自負する自身の松倉城に敵を引き寄せて討とうか?とも考えましたが、たとえ籠城が長期に渡ったとしても、今以上に新手の援軍が来るわけでもない今回の戦いでは籠城戦は難しいと判断し、広瀬宗域&牛丸親綱らと組んで撃って出る作戦に切り替えます。

そして、敵を大坂峠(おおさかとうげ=岐阜県高山市)付近から荒城川(あらきがわ)河畔に追い込んで、そこを戦場にして雌雄を決する覚悟で準備を開始し、自身は八日町付近に布陣して江馬勢を待ち受けました。
その数、約2000(数については諸説あり)

かくして天正十年(1582年)10月26日午後2時頃、江馬勢は姉小路配下である小島時光(こじまときみつ)の拠る小島城(こじまじょう=岐阜県飛騨市古川町沼町)へと迫ります。

しかし、ここで激しい抵抗に遭い、小島城を落とす事ができず、その日は態勢を整えるべく荒城方面へと引き返しました。

Youkamatiema700a 翌・10月27日江馬輝盛は一気に敵を攻め潰すべく、再び姉小路勢に押し寄せ、広瀬方面にまで進んで来ます。

姉小路頼綱としては、ここで江馬氏の支城である梨打城(なしうちじょう=岐阜県高山市国府町八日町)を基点に扇状に広がった江馬勢を相手にすれば分が悪い・・・そのため、敵の態勢を崩すべく、あらかじめ八日町付近にかくしていた伏兵を使い、これを一気に江馬輝盛のいる本隊向けて発進させたのです。

この伏兵の存在に気づいていなかった江馬勢大いに慌て、隊が一気に乱れます

すかざす輝盛が陣を立て直そうとしたその時・・・姉小路側から放たれた銃弾が輝盛を貫きました。

ひるむ輝盛を牛丸配下の者が討ち取り、その首を挙げます。

大将の討死に、江馬勢は総崩れとなり、完全に形勢逆転・・・江馬勢は討ち取られるか、敗走するか。。。

この時、江馬輝盛の側近13名が大坂峠で自害して、その後地元民に葬られた事から、この大坂峠は地元では通称「十三墓峠」と呼ばれているとか・・・

このあと姉小路勢は、江馬の本拠である高原まで攻め込み、ここに11代続いた江馬氏は滅亡しました。

ちなみに、この八日町の戦いは、この飛騨で初めて鉄砲が使用された戦いと言われていますが、それも、織田信長に近づいた姉小路頼綱が、(さかい=大阪府堺市)にて、いち早く鉄砲を手に入れた事で、この飛騨では一歩先に出た・・・という所でしょうか。。。

とは言え、それぞれの武将の本心は、自分自身が飛騨のすべてを手に入れる事・・・今回は、江馬駆逐のために連合しただけで、そもそもはライバル同士なわけで・・・

案の定、この八日町の戦いから3ヶ月後の天正十一年(1583年)1月27日、姉小路頼綱は牛丸親綱を攻撃し、さらにその翌年に広瀬宗域を騙し討ちして広瀬城を奪い、頼綱は晴れて飛騨統一する事になるのですが(1月27日後半部分参照>>=前半は内容がカブッてますがお許しを…)

その頼綱の短い春を終わらせるのが、賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)(4月21日参照>>)を終え、小牧長久手(愛知県小牧市ほか)(11月16日参照>>)真っ最中で、天下の見えて来た羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)という事になります(8月28日参照>>)
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2019年9月24日 (火)

上杉謙信の能登平定~松波城の戦い

 

天正五年(1577年)9月24日、上杉謙信の命を受けた長沢光国が畠山氏の松波義親の守る波城を攻撃しました。

・・・・・・・・

戦国屈指のライバル同士の戦い=川中島・・・
(くわしい戦いの経緯は下記参照リンクで…)

隣国・信濃(しなの=長野県)を制して、さらに北に進もうとする甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、それを阻む越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)との5回=約10余に渡る戦いですが、ここでドンパチやってる間に戦国の情勢が大きく変わります。

永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま)の戦い(2007年5月19日参照>>)で、当時、天下に1番近い男と言われていた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)の守護=今川義元(いまがわとしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)の一武将=織田信長(おだのぶなが)に敗れ、

しかも、その信長がほどなく尾張を統一(11月1日参照>>)して隣国=美濃(みの=岐阜県南部)を狙い始めるわ(8月28日参照>>)
桶狭間キッカケで今川での人質生活から独立した(2008年5月19日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)が、その信長と同盟を結んで(1月15日参照>>)、義元亡き後の隣国=遠江を狙い始めるわ・・・
(*参考=この頃、後の15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)が謙信に対し、しきりに自身を奉じて上洛する事を希望していますが、当時の謙信には、その気がなかったようで…結局、永禄十一年(1568年)9月に信長が義昭を奉じて上洛します…10月4日参照>>

で、この時期に謙信&信玄ともに、こう着状態の川中島から、それぞれシフトチェンジ・・・信玄は南下して今川領へと侵攻し(7月2日参照>>)謙信は祖父の代からの悲願だった北陸平定(9月19日参照>>)を実現すべく、西に向けて進み始めるのです。

Uesugikensin500 そして天正五年(1577年)9月、いよいよ能登(のと=石川県北部)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市古城町)へと迫った謙信・・・

ここ七尾城は、代々、守護(しゅご=県知事みたいな)である畠山氏(はたけやまし)が治めていましたが、度重なる当主の交代で、この頃は、わずか5~6歳?くらいの幼い畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)が当主を務めており、それをサポートしていたのが重臣の長続連(ちょうつぐつら)綱連(つなつら)父子。

しかし、謙信に攻められた七尾城内で春王丸は病死し、長父子も殺され、七尾城は9月15日に陥落(9月13日参照>>)します。

畠山一門の松波義親(まつなみよしちか)と長続連の息子=長連龍(つらたつ=綱蓮の弟)は何とか脱出したものの、今は亡き前当主=畠山義隆(よしたか=春王丸の父)の奥さんも上杉の保護を受ける事に・・・

この時、脱出した長蓮龍が、
去る天正元年(1573年)に越前(えちぜん=福井県西部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月20日参照>>)、 天正三年(1575年)8月には越前の一向一揆を制覇(8月12日参照>>)・・・

と徐々に北陸に進出して来ていた織田信長に援助を求めた(8月14日の前半部分参照>>)事で、織田家内の北陸担当であった柴田勝家(しばたかついえ)が、謙信とぶつかる事になります。

これが天正五年(1577年)9月18日、もしくは9月23日にあったとされる手取川(てとりがわ)の戦い(9月18日参照>>)なのですが、そのページにも書かせていただいたように、戦いに関する史料が少なく、あったのか?無かったのか?どんな感じだったのか?が、今以ってよくわからない状況ではあります。

一方、同じく七尾城落城の際に脱出した松波義親・・・彼が逃げ込んだのが松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)でした。

この松波城は文明六年(1474年)の頃に、能登畠山の当主であった七尾城の畠山義統(よしむね)の三男だった義智(よしとも)が構築したとされ、そこから苗字を松波とし、義親は、その6代目と言われます(義隆の弟とも)

言わば勝手知ったる古巣と言える松波城に入った松波義親は、早速、城内の諸将を集めて、
「やがて長蓮龍が、織田の援軍を連れて戻って来るであろうから、それまで 畠山の名誉をかけて、この城を死守しよう」
と面々の士気を高めて籠城戦に入るとともに、周辺に配下の者を走らせて領民による一揆を扇動させたのです。

松波城は海からさほど遠くない丘の上に建っており、見通しはきくし、すぐ前には要害となる川も流れていたなかなかの堅城ではありますが、なんせ上杉の大軍に対抗できるほどの軍勢を持ち合わせていませんから、少しでも人員が欲しい・・・

ところが、その準備もままならない間に、謙信の電光石火の攻撃により、一揆勢は集結する間もなく蹴散らされてしまいます。

そして9月23日、上杉方の長沢光国(ながさわみつくに)の軍勢によって、松波城は囲まれてしまうのです。

寄せる長沢隊は1000ほど・・・守る松波隊は、わずかに300。

かくして天正五年(1577年)9月24日長沢勢からの総攻撃が開始されます。

兵力に劣る松波勢は、迫りくる長沢勢をかく乱しつつ、幾度か衝突して奮戦するのですが、いかんせん多勢に無勢・・・

徐々に包囲は狭められて行き、やがて大手門から城内へと長沢勢が侵入すると、それぞれ阻止すべく戦いに挑む松波勢が次々と討死してしまったのです。

自らも大手門で奮戦した義親も重傷を負い、近臣に担がれながらも、なんとか本丸に戻って来ますが、もはや、その本丸もケガ人ばかり・・・

終焉を察した義親は、一人、香を焚き込めた奥の間へと入って自刃を遂げ、残された将兵たちも、燃え盛る城とともに、主君の後を追って果てたのでした。

ここに、能登一帯の守護大名であった能登畠山氏は、事実上滅亡したのです。

七尾城を落として後、さらに南に進んで加賀(かが=石川県南部)方面にいたとされる謙信は、「長沢勢大勝」の一報を聞いて大いに喜び、9月26日に能登に戻って七尾城の修復にかかるとともに、自ら本丸に上って美酒に酔いつつ、畠山氏の重臣でありながら上杉に協力してくれた遊佐続光(ゆさつぐみつ)らに褒美を約束するなど、かなりの上機嫌だったようです。

なんせ、今も鉱山跡が残る宝達金山(ほうだつきんざん=石川県羽咋郡宝達志水町)松倉金山(まつくらきんざん=富山県魚津市)と、未だ開発前の金鉱が、このあたりには眠っていたわけですから、さすがの謙信も笑いが止まらなかった事でしょう。

この後、長沢をはじめとする功績のあった諸将に、能登に点在する城の守りを命じて、この年の12月、謙信は越後へと戻りました。

もちろん、翌年、春になれば、再び、この地へ侵攻するつもりで・・・

しかし、ご存知のように、謙信は、翌年天正六年(1578年)の春=3月13日に亡くなり(3月13日参照>>)、それと同時に上杉家内での後継者争いが勃発し【御館(おたて)の乱】参照>>)その予定は大いに狂う事になります。

そして、その上杉のゴタゴタを受けて、8月には長連龍が再び動き出し(前記の8月14日の後半部分参照>>)9月には織田信長も【(9月m24日【月岡野の戦い】参照>>)という展開となります。

もし、謙信がもう1年長く生きていたなら、この先どうなっていたのでしょう?
歴史は紙一重で変わってしまう事を痛感させられます。

そら、徳川家康は健康に気をつかうはずですな。。。
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2019年9月19日 (木)

持船城の攻防~徳川家康の甲州征伐

 

天正七年(1579年)9月19日、2度目の攻撃で、徳川家康が武田方の持船城を落城させました。

・・・・・・・・

持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)は、眼下の安倍川(あべがわ)の向こう=北東方面には駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市葵区)と城下町が、そのまま東から南へと転じると駿河湾を見下ろせるという小高い丘の上に建っていたお城です。

その持船城という名前でも察しがつくように、東海道が走る山側に建つ丸子城(まりこじょう=静岡県静岡市駿河区)と対をなすように、海側の要所を守るべく構築された海軍ための城だったのです。

最初にここに城を建てたのは駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事みたいな?)今川氏(いまがわし)の将で、一時は今川義元(いまがわよしもと)の妹婿=関口親永(せきぐちちかなが=瀬名義広・家康の奥さんの築山殿の父)が城主を務めた事もあったと言いますが、その後、例の桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)にて義元が亡くなって、こう着状態の信濃(しなの=長野県)から今川攻めに転じた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に持船城は奪われ、以後、武田の水軍の拠点になったと言います。

以前、【武田信玄の甲州水軍】のページ>>でも書かせていただきましたが、甲斐に生まれ育ち、おそらく喉から手が出るほど水軍が欲しかったであろう信玄にとって、その制海権を賭けた肝入りの城であった事でしょう。。。持船城という名前も、この頃つけられたとされています。

Tokugawaieyasu600 一方、これまで、祖父が殺され(12月5日参照>>)、父も殺され(3月6日参照>>)、運命に翻弄されながら今川にて人質生活(8月2日参照>>)を送りつつも、先の桶狭間キッカケで地元の岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)へと戻り、独立を果たした三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)(2008年5月19日参照>>)は、領国を平定しつつ、その2年後には西側の隣国=尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と同盟を結び、自身の領地の東に広がる、現段階では今川に吸収合併されている場所(6月21日参照>>)遠江(とおとうみ=静岡県西部)への進出を画策しはじめました。

で、この家康の動向を見た信玄が、このままだと遠江の次は駿河とばかりに「駿河も家康の物になっちゃうかも!」と、上記の通り、今川攻めに転じたわけですが、そこで、家康の同盟者である信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)と自身の五女=松姫(まつひめ=信松尼)の婚約を成立させ、その信長の仲介によって家康と手を組み、大井川以東を武田が、以西を徳川が、それぞれ攻め取る約束を交わし、武田&徳川が連携して、信玄は北から、家康は西から、義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に迫ったわけで・・・話が前後しましたが、上記の「持船城を武田が奪った」のはこの頃ですね。

で、その今川攻めは・・・
永禄十一年(1568年)の12月13日に信玄が氏真の居館である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・現在の駿府城)を襲撃(12月13日参照>>)すれば、12月27日に氏真が逃げ込んだ掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)に、家康が攻撃を開始する(12月27日参照>>)という見事な連携プレーだったわけですが、それに激怒したのが、かつて今川義元&武田信玄と自分の3人で甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(うじやす)・・・

同盟者としては同じ同盟者である今川を武田が攻撃する事は約束破りですからね。

で、息子の北条氏政(うじまさ)を派遣して武田をけん制しつつ、掛川城攻撃中の家康に近づいた北条氏康は、家康&氏真の仲介に入り、氏政の息子=北条氏直(うじなお)が今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継いて駿河&遠江を支配するという結論で両者を和睦させてしまったのです。

しかし、それには駿河を取る気満々だった信玄が激おこです。

なんせ、家康と連携していたはずが、勝手に和睦して、名目上とは言え駿河が北条の物になっちゃったわけですから・・・

それでも、自力で駿河進行を進める信玄は、
(【大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)奪取 】参照>>)
(【蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)奪取】参照>>)
と実力行使していき、

ここらあたりで、完全に織田&徳川と切れた信玄は、元亀三年(1572年)10月、世に言う西上作戦(せいじょうさくせん)(10月22日参照>>)を開始し、家康の領地を通過・・・12月22日にはご存知、三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)にて、信玄VS家康の直接対決となりますが、ここで家康は手痛い敗北を喰らってしまいます。

しかし、さらに西へと向かっていた武田軍が、年が明けた元亀四年(1573年=7月に天正に改元)1月11日の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)(1月11日参照>>)最後に、なぜか再び甲斐に戻ってしまうのです。

ご存知のように、この年の4月の行軍中に信玄が亡くなってしまったのです(4月16日参照>>)

信玄の死を、その2か月後に知った家康は、すぐさま、あの西上作戦のドサクサで武田傘下となっていた長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)を奪取(9月8日参照>>) ・・・ここから、「遠江⇔駿河間にある武田方の城を一つ一つ自分の物にしていく作戦」を開始するのです。

もちろん、信玄の後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)も黙ってはおらず、家康傘下となったこの長篠城を取り返しに来るのが、天正三年(1575年)5月の、あの有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いなわけですが(5月21日参照>>)

その戦いで信長の支援を受けて武田に勝利した家康は、
天正三年(1575年)8月には諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)
12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二)などと、ますます「遠江⇔駿河間にある武田方の城を一つ一つ自分の物にしていく作戦」を継続していく事になるのですが、もちろん、武田も、そうそう簡単には攻略させてはくれず・・・

とまぁ、そのうちの一つが今回の持船城というわけなのですが・・・

最初の戦いは天正五年(1577年)の10月2日

この時は、家康が持船城を攻め、城を守っていた今福丹波(いまふくたんば)三浦兵部(みうらひょうぶ)向井正重(むかいまさしげ)など、招かれて武田水軍に入っていた武将らが戦死したとされますが、城自体は、德川に奪われる事は無かったようです。

2度目は、2年後の天正七年(1579年)9月19日

この時は、德川方の松平家忠(まつだいらいえただ=家康と祖が同じ深溝松平家)牧野康成(まきのやすしげ)らが当目坂(とうめざか=静岡県焼津市)を越えて持船城を奇襲し、三浦兵部や向井正重ら30余を討ち取って、持船城を落城させました。。。って、2回討ち取られてますがな???

実は天正五年の記録は『嶽南史』なる文献で、天正七年の記録は、この時、持船城に撃ち入った松平家忠の日記の記述・・・日記はご本人が書いてるわけですから、この日、持船城を陥落させた事は確かでしょう。

一般的にも、天正五年に1度めの合戦があり、主たる武将が討ち取られたものの、三浦兵部や向井正重が討死したのは天正七年の9月19日であろうという説が有力ではありますが、この時代、敵の武将の顔や名前を知ってる方が珍しいですから、討死した武将の名に関してはちょいと「?」がつくかも知れません。

とは言え、ここで一旦、持船城は徳川の物になったのですが、未だ周辺は武田の勢力範囲であったため、孤立を恐れた家康は、そのまま持船城を維持する事無く兵を退いています。

なので、翌・天正八年(1580年)3月頃には、武田方が城を奪回して大幅修築し、城代として朝比奈信置(あさひなのぶおき)を置いて、德川からの襲撃に備えさせ、家康も掛川城へと戻っています。

それにしても、この2度目の持船城攻撃を仕掛けた天正七年(1579年)9月19日という日付け・・・この4日前には嫡男の信康(のぶやす)を自刃に追い込み(9月15日参照>>)、さらに、その半月前の8月29日には奥さんの築山殿(つきやまどの=瀬名姫)を殺害(8月29日参照>>)している家康さん。。。

戦国の世のならいとは言え、「酷やなぁ」と思いますが、それをやれる人でないと生き残っては行けないのが戦国なのでしょうね~

なんせ、武田信玄の死の翌年の天正二年(1574年)、武田勝頼は、その後継者の役目を果たすべく、父も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落として(5月12日参照>>)信玄の時代より領地を拡大していますが、今回の持船城攻防の翌年の天正九年(1581年)には、逆に、その高天神城を家康に奪われ(3月22日参照>>)武田滅亡へのカウントダウンが始まってしまうのですから、戦国の浮き沈みは激しい・・・

そして、家康による3度目かつ最終の持船城への攻撃が成されるのが天正十年(1582年)2月21日から・・・

そう、あの、織田信長による『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)に連携しての攻撃です。

Motifunezyoukoubou
(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

天正十年(1582年)正月27日、妹=真理姫(まりひめ)の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)が、織田方に寝返ったとの情報を得た勝頼は、早速、従兄弟の武田信豊(のぶとよ=信繁の息子)と弟の仁科盛信(にしなもりのぶ)を大手と搦手(からめて)の大将として木曽谷に向かわせ、自らも諏訪上原(うえのはら=長野県諏訪市)へと進出して陣を構え、戦闘態勢に入ります。

もちろん、木曽義昌も、すぐさま信長に援軍を要請・・・信長も、2月3日には、嫡男=織田信忠(のぶただ)を総大将とする主力部隊を木曽岩村(いわむら=岐阜県恵那市)から、朋友の家康を駿河口から、北条氏政を関東口から、それぞれ武田領内への侵攻を命じました。

即座に進発した主力部隊の先発隊が2月6日に滝ガ沢砦(長野県下伊那郡)、14日には信州松尾城(まつおじょう=長野県飯田市)小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)を味方につけ ・・・と次々進んで行く中、2月18日に浜松を出発した家康は、2月20日に田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城させ(2月20日参照>>)、 翌・21日には、当目坂で勝利した勢いのまま駿府(すんぷ=静岡県静岡市)を占領すると同時に、そのまま持船城を囲みます。

23日には、竹束(たけたば)で結橋(ゆいはし=堀を越えるための簡単な橋)を作って総攻撃を開始・・・耐えかねた朝比奈信置は27日に降伏し、29日に持船城を家康に開け渡しました。

それと前後して、駿河方面における武田方の守りの主力だった江尻城(えじりじょう=静岡県清水市)穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)織田方に降った事を知った勝頼・・・こうなれば、どうにもこうにも、戦略の立て直しするしかなく、やむなく武田信豊とともに上原を引き上げ、新府城(しんぷじょう=山梨県韮崎市)へと帰還しますが、強い味方であった弟=仁科盛信の高遠城(たかおおじょう=長野県伊那市)も3月2日に落城(3月2日参照>>)してしまいます。

高遠城が抵抗を続けている間に、次の対策を練ろうと考えていた勝頼の予定は狂い、やむなく、建てたばかりの新府城に火を放って、重臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の居城=岩殿山城(いわどのやまじょう=山梨県大月市)に向かいますが、ご存知のように、これが武田滅亡への最後の旅路となったのです。

一方、この功績により、家康は駿河を得る事になります。

★この先の関連ページ
●【武田勝頼、天目山に散る】>>
●【勝頼の妻・北条夫人桂林院】>>
【武田滅亡後の論功行賞と訓令】>>
【恵林寺焼き討ち】>>
【信長の安土帰陣と息子・勝長】>>
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2019年9月14日 (土)

本願寺が信長を水攻め!野田福島石山合戦~春日井堤の攻防

 

元亀元年(1570年)9月14日、織田信長VS三好三人衆の野田福島の戦いに参戦した石山本願寺門徒が淀川対岸の春日井堤にて、織田勢と激しくぶつかりました。

・・・・・・・・

ご存知のように、織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛するまで、畿内を制していたのは三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)・・・

長慶は、室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)を継ぐ細川晴元(はるもと)を破り(6月4日参照>>)、それまで敵対していた義昭の兄で第13代将軍の足利義輝(よしてる=11代諸軍・足利義晴の息子)とも和睦して(11月27日参照>>)、事実上、戦国初の天下人となりました。

しかし、その後に次々と身内を亡くした長慶が、うつ病を発症して、彼もまた失意のままに亡くなってしまいます。

そのため、後を継いだのは、わずか16歳の三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥)・・・そこで、三好三人衆と呼ばれる三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)ら3人の三好一族の者が若き当主を支えるのですが、この3人が将軍=義輝を殺害(5月19日参照>>)して足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)を第14代将軍に据えた事から、兄が襲われた際に身を隠していた弟の義昭が、慌てて、自分を奉じて上洛してくれる力のある武将を捜しまくり、それが岐阜(ぎふ)を手に入れて(8月15日参照>>)『天下布武』の印鑑を使い始めたばかりの織田信長だった(10月4日参照>>)・・・というわけです。

こうして、永禄十一年(1568年)9月、義昭を奉じて上洛した信長・・・(9月7日参照>>)

この上洛の時、三好当主の義継と重臣の松永久秀(まつながひさひで)は信長のもとにはせ参じて織田傘下となりますが(11月16日の前半部分参照>>)三好三人衆は信長の行く手を阻んで抵抗し、敗れて阿波(あわ=徳島県)へと撤退しています。

もちろん、このままでは終わらない三好三人衆は、その翌年にも義昭が仮御所として宿泊していた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃(1月5日参照>>)したりなんぞして、抵抗を続けていたわけですが、さらにその翌年=元亀元年(1570年)6月、信長に敵対する越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)と朝倉に味方する北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)との間に姉川の戦いが勃発(6月28日参照>>)

合戦当日の勝敗そのものは織田方の勝利だったものの、浅井・朝倉もある程度兵力を温存したまま、この先、京都への侵攻を狙っていた状況だった事で、これをチャンスと見た三好三人衆は、浅井・朝倉と連絡を取りつつ摂津(せっつ=大阪府北部・兵庫県南東部)に侵出し、野田福島(のだ・ふくしま=同福島区)の2か所に砦を構築し、反信長の兵を挙げたのです。

Dscf3274z800
野田城跡の碑(大阪市営地下鉄:玉川駅前)

一方、姉川のあと、一旦岐阜に戻っていた信長は、この三好三人衆の動きを知って畿内へ舞い戻り、8月26日、野田福島の砦を包囲します。

こうして始まった野田福島の戦い(くわしい戦いの経緯は8月26日参照>>)・・・大量の兵を投入する織田軍の情勢を見て、織田方に呼応する者が次々と現れる中、「形勢不利」とみた三好三人衆は和睦交渉を申し入れますが、信長は「NO!」を突き付けなおも攻撃。

もはや三好勢は風前の灯かに思われた9月12日、全国本願寺の総本山=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市中央区)が、三好方にて参戦して来たのです(9月12日参照>>)

信長が最初に上洛した頃は、将軍の手前もあって、おとなしく上納金など納めていた本願寺11代法主の顕如(けんにょ)でしたが、寺の目の前でドンパチやられるのも迷惑なら、ここんところの「本願寺の建ってる場所、譲ってほしいから立ち退いてくれへん?」の信長の申し出も大迷惑・・・で、ここに来てついに立ち上がり、全国の本願寺門徒に向けて「今こそ、開山・親鸞聖人の恩誼(おんぎ)に報いる時、その命惜しまず忠節を見せてくれ!けぇーへん者は破門にすんぞ!」と声を挙げたのです。

これが、この先10年に渡って繰り広げられる石山合戦のはじまりです。

本願寺門徒は合戦素人の烏合の衆とは言え、その人数はハンパなく多い・・・
「九月十二日夜半に寺内(本願寺)の鐘つかせられ候へば、即ち人数集まりけり。織田方仰天なりと云う」『細川両家記』

この本願寺門徒の勢いに、風前の灯だった三好の士気も一気に盛り返し、翌13日に未明には野田福島の砦から、淀川を挟んで対岸にあたる堤防を、足軽を動員して切断し、海の水を敵側に流したのです。

現在の大阪福島区はすっかり陸地ですが、この頃はまだ、付近一帯は淀川の流れを巻き込みつつ、その中洲が少し陸地となっているような湿地帯で、そこを、野田福島の砦は、わずかに残る陸地を堤防で以ってガッチリ固めて砦を構築し、南北東に広がる沼のような湿地の中、唯一西側に広がる海が、そのまま瀬戸内へとつながる物資の補給路でもあるという天然の要害でありました。

しかも、この時、にわかに西風が吹いて海から高塩水が吹きあがり、淀川の水が逆に流れるほどに勢いを増した事から、切られた堤防から、水は一気に織田側の陣営の方へ来たため、信長方の陣屋がことごとく水に浸かってしまったとか・・・

この水は、翌日になっても退かず、このあたりの信長方の将兵は皆、物見やぐらに登ってこれを凌ぐのが精いっぱい・・・そんな元亀元年(1570年)9月14日天満ヶ森(てんまがもり=大阪市北区南森町付近)に出陣した石山本願寺の大坂方と、それに応戦する信長方とで淀川対岸の春日井堤(かすがいつつみ・滓上江堤=かすがえつつみ)で激戦が繰り広げられます。

1番手に佐々成政(さっさなりまさ)が出撃するも負傷ため、退かざるを得なくなります。

代わって、2番手として登場したのが前田利家(まえだとしいえ)・・・1番手の軍勢が退く中、前田利家が堤の上、中央に留まり、槍で以って撃ちかかると、右手からは中野一安 (なかのかずやす)が弓を射かけ、左手からは野村越中守 (のむらえっちゅうのかみ)湯浅直宗(ゆあさなおむね)毛利長秀(もうりながひで)兼松正吉(かねまつまさよし)など信長の近習(きんじゅう=主君の側近く使える者)の者たちが先を争って戦い、何とか打ち勝ちます。

『信長公記』では、
この時、毛利長秀と兼松正吉は、二人協力して本願寺内衆(うちしゅう)下間頼総(しもま・しもつまよりふさ)の家臣=長末新七郎(ながすえしんしちろう)を打ち伏せますが、毛利が兼松に「さぁ、首を取れ!」と言うと、兼松は「いや、俺手伝っただけやし、君が取ったらええがな」と譲り合っているうちに、長末新七郎は逃げてしまい、みすみす首を取り損ねたのだとか・・・

↑てな逸話を読むと、ちょっとゆる~い雰囲気ですが、上記の通り、この戦いで佐々成政は負傷するし、野村越中守は討死するし・・・なので、やはりかなり激しい戦いであったでは?と想像します。

また、堤で踏ん張った前田利家には、このあと「堤の上の槍」なるニックネームがついたとか・・・

Isiyamakassennkasugai1
石山合戦の関係図 ↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)
Isiyamakassennkasugai2
「石山戦争図」部分(和歌山市立博物館蔵)

その翌日=15日~17日にかけては鉄砲の撃ち合いもなく、和平への機運も高まりますが、信長としては、ここでウダウダやっている間に諸国の本願寺門徒が結集してしまう事態は避けたい・・・

しかし、そんなこんなの9月20日には、大坂方が撃って出て近在の刈田を行った事から、これを阻止しようとする信長方と合戦となりました。

この戦いでは、織田方の損害は少なかったと言いますが、一説には先ほどの野村越中守の討死は、この日の戦いであったという話もあります。

しかも、なんたってこの9月20日という日・・・そう、琵琶湖の西岸で宇佐山城の戦い(9月20日参照>>)があった日です。

これは・・・
三好&石山本願寺と連携する浅井&朝倉が琵琶湖西岸を南下して来て、織田方の森可成(もりよしなり)の守る宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)を攻撃した戦い。

宇佐山ヤバしの情報を聞いて、すぐさま信長自ら援軍として坂本(さかもと=滋賀県大津市)へ向かい、何とか宇佐山城自体は持ちこたえましたが、これまで苦楽をともにして来た重臣=森可成は討死してしまっていました。

さらに、宇佐山城を落とせなかった浅井&浅倉のは軍勢は、そのまま南下して、21日には京都の山科(やましな=京都市山科区)醍醐(だいご=京都市伏見区)付近まで進撃し、周辺に放火して回りました。

一方の信長も、その日のうちに配下の明智光秀(あけちみつひで)柴田勝家(しばたかついえ)村井貞勝(むらいさだかつ)らを京都に入らせて二条御所(にじょうごしょ=義昭御所→2月2日参照>>の警備を固めさせ、翌22日には警備役についた4~500の将兵に京都界隈の見廻りをさせて警戒しますが、この同じ22日付けの浅井長政から大坂方に宛てた書状には
「一両日中に京都に入るので、安心して野田福島で頑張ってね~」
てな内容が書かれていますので、浅井&朝倉勢もヤル気満々だった事がうかがえますね。

この状況に、9月23日、ついに野田福島の包囲を解いて京都に退いた信長は、今後は、浅井&浅倉への対応を主におく事にするのですが、信長としては、これだけの四面楚歌の状況でも、何とか負けた感を最小限に抑えて石山本願寺と和睦したいわけで・・・

で、かの足利義昭が、この合戦の当初から乗り気ではなく、なるべく早く収めたがってた事を利用して、将軍&朝廷に介入してもらって和睦交渉をする事にします。

この交渉中にも、11月16日には長島一向一揆(ながしまいっこういっき=長島一帯の本願寺門徒の一揆)古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃したり(11月21日参照>>)、11月26日には浅井勢が織田方の堅田(かただ=滋賀県大津市)の砦を奇襲したり(11月26日参照>>)、などありつつも、11月30日には本願寺の本所(本願寺は青蓮院傘下)である青蓮院(しょうれんいん)尊朝法親王(そんちょうほうしんのう=伏見宮邦輔親王の第6王子で天台座主)調停工作に動き始めてくれ、ついに12月14日、時の天皇=正親町天皇(おおぎまちてんのう)休戦綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発給する命令文書)が発せられ、何とか、織田&本願寺の面目を保ったまま、野田福島の戦いは停戦となったのでした。

とは言え、ご存知のように、この小休止で態勢を整えた信長は、翌年が明けてまもなくの2月、浅井方の佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を奪い、再び、浅井&朝倉との合戦を再開(5月6日参照>>)、周辺の近江の一向一揆ともドンパチ(9月3日参照>>)・・・となって、石山本願寺とも、またもや~となるのですが、、、なんせ、10年続きますからね~石山合戦は、、、

いつものように、「続きはコチラのページで…」と言いたいところですが、これからの信長さんは、いわゆる『信長包囲網(のぶながほういもう)ってヤツで囲まれまくりの周囲敵ばかりで戦いまくりなので、とりあえずは【織田信長の年表】>>の1571年あたりから流れを見ていただけるありがたいです。

に、しても・・・
「合戦で水攻め」と言えば、秀吉ばかり思い浮かべますが、本願寺もやってるんですね~

やはり、戦国のお坊さんは強いです!
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2019年9月 8日 (日)

武田信玄の死を受けて徳川家康が動く~長篠城の戦い

 

天正元年(元亀4年=1573年)9月8日、武田信玄の死を知った徳川家康が、武田方の菅沼正貞らが守る三河長篠城を攻め落しました。

・・・・・・・

鉄砲の三段撃ちがあったのか?
武田の騎馬軍団は強かったのか?
とまぁ、教科書にも載りまくりで超有名な「長篠の戦い」ですが、今回の長篠城の戦いは、それ以前に起こり、その長篠の戦いにもつながる長篠城の争奪戦です。

ここで、徳川が、武田方だった長篠城を奪って徳川傘下の城とした事で、それを武田が取り返しに来たのが有名な長篠の戦いとなるのですが、実際には長篠城近くの設楽ヶ原(したらがはら)で、武田VS織田徳川連合軍の戦いが展開され、長篠城自体は、そのまま徳川方が守り切りますので、このブログでは以前から、有名なあの長篠の戦いの方は「長篠設楽ヶ原の戦い」と呼んでおります。

・‥…━━━☆てな事で本題…

永禄三年(1560年)の桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市)(2007年5月19日参照>>)キッカケで今川(いまがわ)からの独立(2008年5月19日参照>>)を果たした三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)は、その2年後には、桶狭間の勝者である隣国=尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)同盟を結んで(1月15日参照>>)自身の西側の憂いを無くし、大黒柱を失って衰え始めた今川の領地の一部=遠江(とうとうみ=静岡県西部)=つまり東側へと目を向けます。

一方、これまで自身の領地より北にあたる信濃(しなの=長野県)方面への領地拡大を図って、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と何度もドンパチ(川中島参照>>) やっていた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)も、この状況を見て南へと方向転換・・・今川の領地の東半分=駿河(するが=静岡県東部)に狙いを定め、家康の同盟者である信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)と自身の五女=松姫(まつひめ=信松尼)の婚約を成立させた信玄は、翌年の永禄十一年(1568年)、信長の仲介によって家康と手を組み、大井川以東を武田が、以西を徳川が、それぞれ攻め取る約束を交わし、二人連携して義元の後を継いだ今川氏真(うじざね)に迫ったのです。

Tokugawaieyasu600 この年の12月に、信玄が薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)を越え(12月12日参照>>)て氏真の居館である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・現在の駿府城)を襲撃(12月13日参照>>)し、やむなく今川館を捨てて掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走した氏真を、今度は家康が攻撃します(12月27日参照>>)

この両者の見事な連携プレーに怒り爆発なのが、かつて結んだ甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=今川&武田&北条の同盟)が未だ継続中のつもりでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(うじやす)・・・翌・永禄十二年(1569年)1月、息子の北条氏政(うじまさ)に4万5千の大軍をつけて再び薩埵峠に出陣し、信玄の侵攻を阻止しよう(1月18日参照>>)とします。

しかし、そんな薩埵峠がこう着状態の中、この間も德川の攻撃中だった掛川城にて北条の仲介で和睦交渉が進み、5月17日に無血開城・・・それも、北条と徳川との間で同盟が成立して、今後の氏真の身は北条にて保護する事と、氏政の息子である北条氏直(うじなお)が、その氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継ぎ、駿河&遠江の支配を任される事が決定されたのです。

もちろん、実際には、上記の通り、未だ駿河&遠江にて信玄が戦ってる段階なので、德川&北条の間での「氏直の駿河&遠江」はあくまで名目上の支配権ですが、自分の知らないところで徳川と北条だけで支配権云々てのは、おそらく信玄にとっては「何、勝手にやっとんねん!」てな感じだったかも知れません。

ここで完全に、德川&北条はもちろん織田とも手切れとなったであろう信玄は、このあと7月の大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)(7月2日参照>>)、10月の小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)からの三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)(10月6日参照>>)、さらに12月の蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)(12月6日参照>>)自力での領地拡大に勤しむ事になり、当然ですが、武田VS織田+徳川+北条の関係は最悪状態に・・・

そんな中、去る永禄十一年(1568年)9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした信長が、すでにその義昭との関係がギクシャクし始めて(1月23日参照>>)いるうえに、かつて畿内を制していた三好(みよし)や全国本願寺の総本山である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)顕如(けんにょ)と敵対(9月12日参照>>)・・・さらに敵対する越前(えちぜん=福井県東部)朝倉(あさくら)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井(あざい)(6月28日参照>>)の残党を匿ったとして比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市・天台宗総本山)を焼き討ちに(9月12日参照>>)

これには信玄も「天魔ノ変化(てんまのへんげ)と激おこ・・・なんせ信玄は、そんな信長に「天台座主(てんだいざす=天台宗のトップ)沙門」とハッタリかますほど天台宗ドップリでしたから・・・

ここらへんで、いわゆる「信長包囲網(のぶながほういもう)に参戦したであろう信玄は、元亀三年(1572年)10月、おそらく上洛?するつもりで、大軍を率いて躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・世に言う西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始するのです。

おそらく上洛?と疑問符がつくのは・・・
10月13日の一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(10月13日参照>>)
10月~12月の二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)(10月14日参照>>)まで南下した後、
10月22日の伊平城(いだいらじょう=静岡県浜松市北区・小屋山城とも井伊小屋とも)(10月22日参照>>)
そして12月22日のご存知、三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)と来て、
さらに年が明けた元亀四年(1573年=7月に天正に改元)1月11日の野田城(のだじょう=愛知県新城市豊島)(1月11日参照>>)と、ここまで家康の領地を西へ進みつつあった武田軍が、この野田城を最後に、再び甲斐に戻ってしまうからです。

実はコレ・・・この野田城攻防の後の4月12日に御大=信玄が亡くなってしまっていたからなのですが・・・

Takedakatuyori600a この信玄の死・・・
「俺の死は3年間は隠せ」の信玄の遺言により、その死は3年隠されて、後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)も遺言に従って3年後に葬儀を行っていますが(4月15日参照>>)、実のところ「信玄死す」の情報は、けっこう素早くバレちゃってます。

ま、急に戻っちゃう時点で「アレ?」と思うのが当たり前だし、そうなると、なんやかやのスパイ的な人物を放って情報を集めるのが戦国の常識ですから・・・

そんな中で、日付がハッキリしてるのが家康さん・・・

実は、その死から約2ヶ月後の6月22日に、当時は武田の傘下であった作手城(つくでじょう=愛知県新城市・亀山城とも)奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)信昌(のぶまさ=当時は貞昌)父子の使者が、家康の浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)を訪れ、信玄の死を知らせるとともに、今後、奥平一族が徳川方につく意思がある事を伝えて来ていたのです。

これを聞いた家康は、早速、翌7月の19日、軍事行動を起こします。

武田と徳川の国境線近くの奥三河にある長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)に拠る菅沼正貞(すがぬままささだ)を攻める事にしたのです。

『長篠軍記』によれば・・・
まずは八名郡乗本(やなぐんのりもと=現在の愛知県新城市乗本周辺)中山という場所に付城(つけじろ=攻撃拠点となる城)を構築して、そこに酒井忠次(さかいただつぐ)を置き、設楽郡(したらぐん=愛知県北設楽郡設楽町周辺)一帯に複数の陣を張り、攻撃準備に入ります。

もちろん、長篠城から、この知らせを聞いた武田側も直ちに動きます。

勝頼の従兄弟にあたる武田信豊(のぶとよ=信玄の甥)を大将にした約8000騎、馬場信春(ばばのぶはる= 馬場信房)率いる5000騎が長篠城の救援隊として出発し、信豊隊は黒瀬(くろせ=同新城市)にて待機、馬場隊は長篠近くにて陣取ります。

が、すでに、その頃には、三河勢による城中への火矢の撃ちかけ、城壁への攻め寄せなどが開始されていましたが、長篠城兵側も、これをよく防ぎ、互いに勝ったり負けたりのせめぎ合い・・・

そんな中の8月8日、この日はかなり風が強かった事から、三河勢は大量に集めた松葉を小分けにし、あちこちに火をつけて回ります。

これは陣払い(じんばらい=陣を引き払って退却)と見せかけて、これに反応した武田勢が「追撃せん」と出張って来るのを、伏兵が一気に倒す・・・という徳川方の作戦。。。

案の定、敵兵が進み出て来たところを「すわっ!」と伏兵が襲い掛かりますが、その場所に行った時にはもぬけの殻・・・一瞬「出て来た!」と思った敵兵はすぐに退却して、伏兵が出向いた頃には一人もいなくなっていたのです。

実は、德川の作戦は、すでに馬場信春が見破っていて「乗ったふりしてすぐに撤退」という逆引っ掛け作戦だったのですが・・・

そんな小競り合いが続く中の8月21日、それまで武田の救援隊の中にいた奥平父子は、一族郎党を連れて密かに作手城を出て徳川方へと走ります。

これを知った武田側では、26日に黒瀬に滞在していた信豊隊が空になった作手の城に後詰め(ごつめ=先陣の後方に待機している予備軍)として入り、その後、さらに後方へ移動・・・

そんな救援隊のゴタゴタが影響したのか?
天正元年(元亀4年=1573年)9月8日菅沼正貞は、德川に降伏して開城する事を決意・・・長篠城から脱出して北へと向かい、かの援軍に合流したのです。

しかし、あまりにアッサリと開城した事で德川への内通を疑われた菅沼正貞は、この後、小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)に幽閉され、その幽閉が解かれないまま、武田が滅亡する天正十年(1582年)頃に獄中死したと言われます。

一方、実際にはコッチが内通していた奥平父子・・・直後に父から家督を譲られた信昌は、同盟の証として家康の長女=亀姫(かめひめ)と婚約して、德川の物となった長篠城の主となります。

実は、この時、信昌には、コチラも同盟の証として武田の人質となっているおふうという16歳の奥さんがいたのですが、この奥さんと勝手に離縁しての亀姫との婚約・・・なので、この奥さんと、同じく武田の人質となっていた弟の千丸など、武田の人質となっている奥平の面々が9月21日に、武田によって処刑されています。

こういうのは戦国の常とは言え、今回のおふうさんは、ちょっと悲し過ぎる・・・

で、ここで徳川の物となった長篠城を武田勝頼が取り返しに来るのが、2年後=天正三年(1575年)の、有名なあの長篠設楽ヶ原の戦い・・・という事になります。

Nagasinonagasinozyou600
武田の猛攻に耐える長篠城の様子…「長篠合戦図屏風」部分(犬山城白帝文庫蔵)

●関連ページ
【いよいよ始まる長篠城・攻防戦】>>
【史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商】>>
【設楽原で準備万端…どうする?勝頼】>>
【もう一人の伝令~信長勝利の鍵】>>
【長篠の勝敗を決定づけた?鳶ヶ巣山砦・奇襲】>>
【決戦!長篠の戦い】>>
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2019年9月 1日 (日)

織田信長の美濃侵攻~関城の戦い

 

永禄八年(1565年)9月1日、織田信長が斎藤方の長井道利の拠る美濃関城を攻め落としました。

・・・・・・

かねてより、度々隣国同志で争っていた尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)(9月22日参照>>)でありましたが、天文十八年(1549年)頃に、尾張の織田信秀(おだのぶひで)の息子=信長(のぶなが)と、美濃の斉藤道三(さいとうどうさん)の娘=濃姫(のうひめ=帰蝶)との婚姻が成立して和睦(4月20日参照>>)、ひとときの平穏が保たれました。

しかし弘治二年(1556年)に、その道三が息子の義龍(よしたつ)に敗れて(4月22日参照>>)政権交代した事で、直後から義父の弔い合戦を意識する信長・・・なんせ信長は、自分を裏切った息子と戦う先日の道三から【「美濃を譲る」の遺言状】>>を受け取っていたという話もありますから (遺言状は偽物の噂もありますが…)

Odanobunaga400aとは言え、かの義龍がなかなかの名将であった事で美濃には容易に手は出せず、また、自身の弟=信行(のぶゆき)(11月2日参照>>)尾張を統一の事など・・・目先の事も解決しなければならないわけで・・・

しかし、そんんなこんなの永禄三年(1560年)、信長が、ご存知桶狭間(おけはざま)今川義元(いまがわよしもと)を破って(5月19日参照>>)全国ネットに躍り出る一方で、斎藤では、この翌年=永禄四年(1561年)5月11日に義龍が死去し、未だ14歳の息子=龍興(たつおき)が家督を継ぐという出来事が・・・

これをチャンスと見た信長は、即座に美濃攻略に出陣・・・5月14日の森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)と23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)に勝利しました。

さらに、翌年の永禄五年(1562年)に織田信賢(のぶかた)を追放して尾張一国を統一した信長は、いよいよ本格的に美濃攻略に乗り出す決意を固め、永禄六年(1563年)には、美濃侵攻の拠点とするべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に新たな城を築きました。

Minosinkousekizyou
信長の美濃侵攻~位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

その後、永禄七年(1564年)に犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)の家老の内応により、その犬山城が織田方の物となると、斎藤配下だった加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)佐藤忠能(さとうただよし)忠康(ただやす)父子が織田方に転向します。

そして犬山城攻略の勢いに乗った織田勢は、犬山と加治田の間にある大沢基康(おおさわもとやす)鵜沼城うぬまじょう=岐阜県各務原市多治見修理(たじみしゅり)猿啄城(さるばみじょう=岐阜県加茂郡坂祝町)を攻略し、両城から敗走した兵が逃げ込んだ岸信周(きしのぶちか)堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)を囲みます。

ここで、速やかなる開城を交渉する信長でしたが、岸信周は堂洞城にて預かっていた佐藤忠能の娘を磔刑(たっけい=はりつけの刑)に処して反発・・・結局、大激戦の末、堂洞城は陥落する(8月28日参照>>)のですが、この時、堂洞城の後方支援として織田勢の背後を狙っていたのが、関城(せきじょう=岐阜県関市)長井道利(ながいみちとし)でした。

この長い道利は、斎藤道三の息子ともされる人物で、それならば現当主=龍興の叔父になるわけですが、その真偽はともかく、かなり主家に近しい人物であり、龍興が信頼を寄せる武将でした。

今回の信長の美濃侵攻に当たっても、その忠誠心で以って、先の佐藤忠能や岸信周らと「信長との徹底抗戦」を誓い、互いに同盟を結んでいたわけですが、上記の通り佐藤忠能には裏切られ、そのせいもあって、堂洞城を目の前にしながら岸信周を自刃させてしまった事に、誰よりも悔しい思いをしていたのです。

かくして、憎い信長を迎え撃つべく関城に籠城する道利・・・

この関城は、南側に3つの砦が連立したさらに南に津保川(つぼがわ)が西に向かって流れ、北側は湧き水による湿地帯・・・しかも、その湿地帯から城の東西両側を2つの川が南下するという見事な天然の要害で、備える兵力もなかなかの物なうえに、それを指揮するのが長井道利という事で、信長も、堂洞城陥落後すぐに攻撃を仕掛けず、しっかりと見据えつつ、まずは、佐藤忠能に斎藤新五(しんご=新五郎利治・長龍:斎藤道三の末子?)を加勢につけて攻めさせる事に・・・

8月29日、連日の晴天続きで、かなり水かさが減っていた津保川をなんなく渡河した織田勢・約1000は、関城を守る砦の一つである肥田瀬砦(ひだせとりで=岐阜県関市)の攻撃に取り掛かりますが、ここで「関城からの救援が無い」と見て、さらに進んで関城の大手口へと迫ります。

しかし、ここで長井勢の強い反撃を受けて撤退・・・翌日、丸一日かけて将兵の休息と、今後の作戦を練って大勢を整えた永禄八年(1565年)9月1日、先と同じく斎藤&佐藤勢を先鋒に、丹羽長秀(にわながひで)隊、河尻秀隆(かわじりひでたか)隊、金森長近(かなもりながちか)隊などの諸隊が続き、やはり先日と同じく津保川を渡って関城へと迫り、各所の砦を攻撃し始めます。

ここを支えきれなくなった砦の守兵は次々と本城へと退いて、籠城戦に加わっていきました。

ここまで、長井道利のゲリラ的奇襲を警戒して遠くから指示を出していた信長は、ここで、自身の本陣を肥田瀬へと移動して、「東西南の三方向から一気に関城に総攻撃をかけよ!」と指示を出します。

もちろん、道利も檄を飛ばして必死の防戦に努めますが、東からの斎藤勢の攻撃に対抗していると西からの丹羽勢が攻めかかり・・・と、城内外入り乱れての大混戦となるうち、長井勢が次々と討たれはじめ、とうとう、道利の息子=道勝(みちかつ=井上道勝*討死してない説もあります)など、側近までも討死してしまいます。

「もはや、これまで!」
と自刃も覚悟した道利でしたが、主君=龍興の今後を思うと、
やはり「ここで死ぬわけにはいかない!」
と思い直し、数人の従者を連れて城を脱出・・・主を失った関城は陥落しました。

これにて東濃(とうのう=美濃東部=岐阜県南東部)における反信長勢力は一掃され、斎藤氏の本拠=稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)の外郭を抑えた事になります。

こうして、信長はいよいよ念願の稲葉山城攻略へと向かうわけですが、そのお話は約2年後の永禄十年(1567年)・・・
*8月1日の【美濃三人衆の内応】>>
*8月15日の【天下への第一歩~稲葉山城・陥落】>>
それぞれのページでどうぞ
(内容がかぶってる部分もありますが、お許しを…m(_ _)m)
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

2019年8月26日 (月)

信長の伊勢侵攻~北畠具教の大河内城の戦い

 

永禄十二年(1569年)8月26日、織田信長が伊勢の北畠具教を攻めた大河内城の戦いが開始されました。

・・・・・・・・・

今は亡き第13代室町幕府将軍・足利義輝(あしかがよしてる)の弟である足利義昭(よしあき=義秋)の要請(10月4日参照>>)に応じ、永禄十一年(1568年)9月に、その義昭を奉じて上洛を果たし(9月7日参照>>)義昭を第15代室町幕府将軍に据える(10月18日参照>>)事に成功した織田信長(おだのぶなが)ではありましたが、今のところ実際に支配しているのは、永禄五年(1562年)に守護代の織田信賢(のぶかた)を攻めて統一を果たした尾張(おわり=愛知県西部)(11月1日参照>>)、永禄十年(1567年)に斎藤龍興(さいとうたつおき)から奪った稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現岐阜城)(8月15日参照>>)を拠点とした美濃(みの=岐阜県南部)の2国のみ・・・

Odanobunaga400a 今回、上洛するに当たって、その行く道を阻んだ近江(おうみ=滋賀県)六角承禎(じょうてい・義堅)(9月13日参照>>)と、事実上畿内を牛耳っていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)(9月28日参照>>)を、一応は蹴散らしたものの、引導を渡すほどのダメージは与えておらず、追われた彼らも、未だある程度の兵力を温存したまま・・・

なので翌永禄十二年(1569年)1月に、早速、三好三人衆が動き出して義昭が滞在する本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃したりなんぞ(1月5日参照>>)・・・ここは、何とか配下の精鋭が守り切りましたが、不安に思った信長は、即座に、彼らの軍資金の出どころでもある(さかい=大阪府堺市)に脅しをかけて支配下に収めたり(1月9日参照>>)、義昭の御所を構築したり(2月2日参照>>)と、京都の守りを固めるのですが、一方で、自身の支配の及ぶ場所を拡大する事も急がねばならない事を痛感するのです。

そんな時、滝川一益(たきがわかずます)の調略によって、未だ支配下に治めていない伊勢(いせ=三重県中部)中部の木造具政(こづくりともまさ)が、兄で国司(こくし=地方官)北畠具教(きたばたけとものり)に背いて織田方につきます。

Kitabataketomonori500a これをキッカケに、永禄十二年(1569年)8月20日、信長自ら北畠討伐を目指しての伊勢侵攻を開始したのです。

その日のうちに桑名(くわな=三重県桑名市)、22日には白子観音寺(しろこかんのんじ=三重県鈴鹿市)、23日には小作(こづくり=三重県津市木造)へ・・・行く先々には、あらかじめ禁制を発給してその安全を確保し、進む軍隊は約8万騎とも10万騎とも言われるケタ違いの大軍でした。

かくして永禄十二年(1569年)8月26日、先陣を任されていた木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)率いる先遣部隊が阿坂城(あざかじょう=三重県松阪市)を攻め立てます。

抵抗を受けながらも、怯まずどんどん激しく攻め立てる織田軍に、「守り切れない!」と判断した北畠の軍勢は、やむなく降伏して城を開け渡して来たので、信長はここに、滝川一益を配備して、自らは、北畠具教・具房(ともふさ)父子の拠る大河内城(おかわちじょう=三重県松阪市)へと向かい、城の東側の山に陣取ります。

そして、その日のうちに町屋を焼き払ったうえで、南側には織田信包(のぶかね=信長の弟)や滝川一益など、西側には秀吉に氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)ら、北方には斎藤新五(さいとうしんご=利治・斎藤道三の末子)磯野員昌(いそのかずまさ)ら、東には柴田勝家(しばたかついえ)森可成(もりよしなり)など・・・万全の諸将らを配置したうえに、城を四方から2重3重の柵で囲み、その柵の間を、前田利家(まえだとしいえ)河尻秀隆(かわじりひでたか)毛利良勝(もうりよしかつ)といった面々に常時巡回させるという完全包囲体制を作り上げたのです。

こうしておいて、まずは9月8日、信長は、稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)池田恒興(いけだつねおき)丹羽長秀(にわながひで)ら3人に
「西の搦(から)め手から夜襲をかけろ」
と命じます。

その命令通り、その日の夜に3隊に分けれた奇襲部隊が夜討ちをかけますが、あいにく、攻撃開始から間もなく雨が降り始め、鉄砲がまるで役に立たず・・・しかも、城兵の反撃も予想以上に激しく、20数名の剛の者を討死させてしまいました。

このため、早速、翌日に信長は作戦変更・・・力攻めを止め、長期を視野に入れた兵糧攻めに切り替えます。

もちろん、さらに包囲を厳重にしたうえに、滝川一益に命じて、周辺の稲も焼き払いました。

ところが、コチラは予想以上に早く決着がつく事に・・・実は大河内城は、あまり兵糧の備えをしておらず、まして先の阿坂城から駆け込んだ者などは、まったくの着の身着のままの状況へ大河内の城へ入ったものですから、籠城から、わずか1ヶ月後には何人かの餓死者が出る状況となり、やむなく北畠具教は和睦の方向へと話を進めるのです。

信長から提示された条件は、大河内城を開け渡し、信長の息子=茶筅丸(ちゃせんまる=後の織田信雄)を具教の娘と結婚させて養子に迎え入れて北畠の後継者にする事。

北畠にとっては屈辱的な条件ですが、もはや、そうするしか無かったという感じだったのでしょうか。。。

かくして永禄十二年(1569年)10月4日、滝川一益らが大河内城へと出向き、城の受け渡しを行って後、北畠具教&具房父子は、笠木(かさぎ=三重県多気郡)坂内(さかない=三重県松坂市)に移りました。

ただし、今回の一連の流れについては、
先の稲葉一鉄らの夜襲が成功して、それが決定打となり開城に至ったという話(『稲葉家譜』『丹羽家譜伝』)や、
また、名門の北畠に織田信雄が入る事を不快に思った将軍=足利義昭の仲介で和睦に至ったという説もあります。

とにもかくにも、ここで一旦、織田に屈した北畠具教ではありましたが、そこは戦国武将・・・のらりくらりとかわしながら、しばらく実権は握ったまま、なかなか信雄に譲ろうとせず、しかも信長と義昭の対立が表面化すると、水面下で反織田派の武将に協力したり、隠居所と称して城を構築しようとしたり、なんやかやと暗躍していたようですが、結局、天正四年(1576年)11月、三瀬の変(みせのへん)と呼ばれる一件によって葬り去られ、北畠は滅亡となるのですが、そのお話は2011年11月25日【三瀬の変…名門・北畠の最後】のページ>>でどうぞm(_ _)m
 .

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 

| コメント (0)

より以前の記事一覧