2017年7月22日 (土)

信長の小谷侵攻~山本山城の戦いと虎御前山城構築

元亀三年(1572年)7月22日、翌年の浅井家の滅亡小谷城落城につながる山本山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)、第15代室町幕府将軍足利義昭(よしあき・義秋)奉じて上洛(10月18日参照>>)を果たした織田信長(おだのぶなが)・・・その後、再三に渡って「新将軍に挨拶に来んかい」と呼びかけるも、上洛に応じなかった越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)に対して、元亀元年(1570年)4月、信長は、義景の本拠であった金ヶ崎城(かながさきじょう=福井県敦賀市金ヶ崎町)天筒山城(てづつやまじょう)を攻めますが【4月28日参照>>)、そのさ中に、自身の妹(もしくは姪)お市の方を嫁にやって味方についけていたはずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)が朝倉についた事を知り、挟み撃ち寸前のところをギリギリセーフで撤退に成功し、岐阜(ぎふ)へと戻る事ができました。
金ヶ崎の退き口】参照>>
【信長を狙撃した杉谷善住坊】参照>>
【瓶割柴田の野洲川の戦い】参照>>)

怒り心頭の信長は、その2ヶ月後の6月に、浅井を倒すべく、仲良しの徳川家康(とくがわいえやす)クンを誘って、長政の居城=小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)近くに侵攻・・・これが姉川の戦いです。
【姉川の合戦】参照>>
【姉川の七本槍】参照>>

この戦い自体は織田&徳川連合軍の勝利に終わったものの、信長が撤退する敵を深追いしなかった事から、力を温存できた浅井&朝倉は、その後もゲリラ的合戦を続け
【宇佐山城の戦い~森可成・討死】参照>>
信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い】参照>>
それは、その翌年には、戦場から逃げた浅井&朝倉の残党をかくまう比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)にも飛び火します。
【信長の比叡山焼き討ち】参照>>
【比叡山焼き討ちは無かった?】参照>>

とは言え、配下&傘下の者は、上記の通りのゲリラ的動きを繰り返すものの、本家本元の長政は小谷に籠ったまま・・・信長は、姉川近くの横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)を置き、その周辺にも配下の武将を配置して誘いをかけるなど、「城からおびき出し作戦」を続けつつ監視していました。

そんなこんなの元亀三年(1572年)7月19日、具足初め(ぐそくはじめ=初めて具足をつける儀式)を終えたばかりの嫡男=織田信忠(のぶただ=当時は奇妙丸)を連れた信長が、横山城に着陣・・・翌日、小谷へと向かって進撃を開始し、秀吉をはじめ、佐久間信盛(さくまのぶもり)柴田勝家(しばたかついえ)丹羽長秀(にわながひで)など、そうそうたるメンバーに小谷城を攻めさせたのです。

城下に火を放ち、城門近くまで迫って数十人を討ち取りましたが、城内からは、さほどの抵抗も無く、この日の戦いは終了・・・その日のうちに、勝家らを、近くの虎御前山(とらごぜやま=滋賀県長浜市)に陣取らせて守りを固めました。

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小谷城跡からの眺望…眼下に見えるのが虎御前山、右奥に木々の影から伸びているのが山本山、正面の琵琶湖上右奥に浮かぶのが竹生島

翌・7月22日には、秀吉に、山本山城(やまもとやまじょう=同長浜市)に籠る阿閉貞征(あつじさだゆき)を攻めさせました。

秀吉が城山の麓を焼き払うと100人ほどの城兵が撃って出て来たので、応戦して50人ほど討ち取りますが、それ以上の出撃はなく、守りを固めるいっぽう・・・なので、山本山に対してはこれまでとし、次に蜂須賀(はちすか)らが湖上へと回り、湖側から小谷へとチョッカイを出し続けますが、やはり、守りを固めるいっぽう・・・

最後には、「アホ~」「バカ~」「マヌケ~」「アホ言うヤツがアホじゃぁ~」と散々に罵り、悪態をついて相手を挑発してみますが、やっぱり小谷はノッて来ない・・・なので、この日は諦めて兵を退く事に・・・

翌・23日には、与語(よご=余呉)木之本(きのもと=長浜市)も焼き払い、さらに24日には、秀吉や長秀らが草野(くさの=同長浜市)に攻め入り、近隣の村から農民や一向一揆衆が逃げ込んで籠城する大吉寺(だいきちじ=長浜市)へと迫り、一揆勢の僧兵らを多数討ったと言います。

同時に、琵琶湖の湖上からは打下(うちおろし=滋賀県高島市)林員清(はやしかずきよ)堅田(かただ=滋賀県大津市)猪飼野昇貞(いかいの のぶさだ=正勝)坂本(さかもと=同大津市)明智光秀(あけちみつひで)など、琵琶湖西岸を本拠とする武将たちが、武装した船で海津(かいづ=高島市)塩津(しおづ=長浜市)の浜に漕ぎ寄せて周辺を焼いたほか、沖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま=長浜市)にも攻撃を仕掛けました。

こうして、信長が様々な挑発行為を行うも、やはり小谷城の長政は打って出ては来ない・・・なので、信長は、小谷のすぐ近くにある虎御前山に城を構築する事とし、7月27日から、その工事に取り掛かります。

一方の浅井長政・・・この状況を見据え、すでに、朝倉への援軍要請の使者を派遣しておりました。
「今の織田軍は、あの長島一向一揆相手に戦って、メッチャ疲れてますよって、今、朝倉さんが出てくれはったら、絶対イケます!チャンスでっせ!」
と・・・とまぁ、確かに長島一向一揆は前年の5月頃勃発(5月16日参照>>)してますので、一揆の事は本当ですが、「織田軍が疲れてる」というのは、ちょっと盛った感じ?ですが、そこはご愛敬で・・・で、この後、義景自らが率いる朝倉の援軍が到着するのが7月29日

しかし、到着してみると、すでにあちらこちらに織田軍がウヨウヨ状態で、信長自らが陣を置いて城の準備に勤しんでいる様子・・・さすがに、すぐに何かを仕掛ける事はできず、やむなく義景は小谷の北側の高山に布陣しました。

当時の虎御前山は、かなり見晴らしが良く、北には山々の朝倉軍の動きも見え、西は比叡山、南は遠く石山寺(いしやまでら=滋賀県大津市石山寺)まで望めたとか・・・とは言え、虎御前山から横山城までは約12kmあり、しかも、途中が悪路であったため、信長は、両所の間に2ヶ所の砦を築き、その一つの宮部(みやべ)の砦には宮部継潤(みやべけいじゅん)(3月25日参照>>)を配置して守りを強化する一方で、敵の進路を阻む築地(ついじ=泥土をつき固めて作った塀)を造ったり、逆に、味方には川をせき止めて渡りやすくしたりと、戦場となるであろう周辺に万全の準備を整えます。

しかし、ここに来ても長政はいっこうに動こうとはせず、義景も、着陣したからと言って何の動きもない・・・なので、信長は堀秀政(ほりひでまさ)(5月27日参照>>)を使者にたてて、
「せっかく、ここまで出て来はったんですから、日付なと決めて、一戦交えましょうや」
と、義景に誘いをかけてみますが、何日経っても知らん顔・・・

結局、何の進展も無いままだったので、信長は、虎御前山城には、秀吉を指揮官として残し、自らは横山城へと戻ったのです。

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信長の小谷侵攻~山本山城の戦い位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この後、浅井&朝倉勢が、例の築地を壊しに来たりして、ゲリラ的なちょっとした小競り合いは度々起こるものの、大きなぶつかり合いになる事はなく、12月には義景も越前へと退去・・・そのまま運命の天正元年(1573年)を迎える事になります。

この年、2月に反発をあらわにした将軍=義昭に対して、ただ1度のための大船を建造して琵琶湖を渡って(7月3日参照>>)力の差を見せつけた信長が、その義昭の拠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻撃(7月18日参照>>)したのが7月・・・

そして翌月の8月8日・・・小谷城落城=浅井家の滅亡となるその戦いが開始される事になるのですが、そのキッカケとなるのは、なんと!今回の前哨戦で、浅井のために山本山城を死守してくれたはずの阿閉貞征の寝返りだったのです。

てな事で、つづきのお話=浅井&朝倉の滅亡については
朝倉氏滅亡とともに一乗谷は歴史の彼方…】>>
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】>>
でどうぞo(_ _)oペコッ
 .

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2017年6月15日 (木)

上杉謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防戦

 

元亀三年(1572年)6月15日、上杉配下の鰺坂長実山本寺定長らが越中・加賀一向一揆と呉羽山にて交戦して敗れ、日宮城が開城されました。

・・・・・・・・・・

これまでも、何度かご紹介しています戦国期の越中(えっちゅう=富山県)争奪戦・・・

射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)

新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)
などなど

もともと、この越中に根を張る彼らの争いに、越中を支配下に治めたい越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=輝虎・長尾景虎)と、謙信を叩いておきたい甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)が関与して、時には敵味方が入れ替わったりなんぞしながら、何度も合戦をくりかえしていたわけですが・・・

★これまでの戦い
永禄三年(1560年):増山城&隠尾城の戦い>>
永禄十一年(1568年):松倉城攻防戦>>

↑この間に、謙信と信玄が何度も川中島で戦ったり(8月5日参照>>)、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)が暗殺されたり(5月19日参照>>)、信玄が信濃(しなの=長野県)を攻略したり(8月7日参照>>)

また、永禄十一年(1568年)の松倉城攻防戦の直後には、その前年に美濃(みの=岐阜県)を手に入れた(8月15日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が次期将軍の足利義昭(よしあき=義輝の弟)を奉じて上洛したり(10月18日参照>>)信玄が完全に今川潰しにシフトチェンジしたり(12月12日参照>>)
と、情勢がめまぐるしく変わります。

そんなこんなの元亀二年(1571年)、3度目の松倉城攻撃で、やっと城を陥落させた謙信は、この時点で越中のほぼ半分を手に入れた事に・・・(上記の松倉城攻防戦の後半部分参照>>)

しかし謙信がこの北陸方面の戦いに夢中になっていたばっかりに・・・

その松倉城のページでも書かせていただいたように、実は、甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐×相模×駿河の同盟)を勝手に破棄して駿河(するが=静岡県西部)今川を攻めはじめた信玄に、激おこの元同盟者=相模(さかみ=神奈川県)小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏康(ほうじょううじやす)が、敵の敵は味方とばかりに、この時点で謙信に同盟を申し込んで来て、両者は同盟を締結させていたわけですが、

その後、信玄が度々北条傘下の城を攻撃したりして来た(3月17日参照>>)ので、その都度、氏康は謙信に援軍を要請していたにも関わらず、上記の通り、忙しい謙信は、ほとんどその要請を無視していたわけで・・・

しかも、謙信は、すでに永禄二年(1559年)の時点で関東管領並み(6月26日参照>>)だったわけで、事実上関東支配している北条と仲良くいくはずもなく・・・

結局、元亀二年(1571年)10月の氏康の死(10月3日参照>>)をキッカケに、後を継いでいた息子の北条氏政(うじまさ)は、謙信と縁を切って武田との同盟を復活させたのです。

この間、自身は、この4ヶ月後に出発する例の西行(上洛目的?)(10月3日参照>>)の、すでに準備段階に入っていたとおぼしき信玄は、「さすがに北陸まで手が回らない」とばかりに、奥さん=三条の方(さんじょうのかた=妹が本願寺顕如の嫁)の縁をフル活用して加賀&越中の一向一揆を焚きつけて、謙信の行く手を阻もうと画策する一方で、今は謙信の味方となっている神保長職を説得工作で味方に引き入れて、これまで敵対していた越中一向一揆とも和睦させました。

しかし、信玄の呼びかけに応じてアッサリ寝返る事に納得がいかない長職の家臣=神保覚広(じんぼうただひろ)小島職鎮(こじまもとしげ=日宮城代)は、謙信への義を重んじて長職に反発・・・覚広が城主を務める日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)に立て籠もったのです。

明けて元亀三年(1572年)5月、信玄の呼びかけに応じた形で砺波(となみ=富山県南西部)五位庄(ごいのしょう=富山県高岡市)などに集結した加賀&越中の一向一揆連合軍は、そこから北陸街道を東に向けて進発したのです。

この一報を聞いた覚広は、すぐさま新庄城(しんじょうじょう=富山市新庄町)鰺坂長実(あじさかながざね)に援軍を要請・・・それを受けた長実は、これまたすぐに、この状況を春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)謙信に報告します。

それを受けた謙信は、味方の戦勝祈願をするとともに山本寺上杉家(さんぼんじうえすぎけ=越後上杉家の一つ)の当主=山本寺定長(さんぽんじさだなが)援軍として派遣しました。

そうこうしている間にも、一向一揆衆の進軍は進み、やがて日宮城は一揆衆に包囲されてしまいます。

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呉羽山より立山連峰を望む…眼下は富山市街

未だ到着せぬ援軍に心焦る覚広は、再び新庄城に急使を派遣し、
「もし、到着が遅れるようなら、一部の兵を呉羽山(くれはやま:五福山=富山市の西部)に登らせて景気づけの声援を送ってくれ!」
と頼みます。

そこで、味方となってくれた魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)主の河田長親(かわだながちか)とも協議の末、早速、鰺坂長実&山本寺定長らは呉羽山に討って出る事になりましたが、予想以上の大軍に膨れ上がった一揆軍の攻撃は激しく、結局、呉羽山を支える事が出来ずに退却をし始めますが、その時に神通川(じんつうがわ)の渡し場で猛攻を受けた事で、一揆側に神通川を抑えられてしまいます。

そうなれば、もはや援軍も期待できず・・・日宮城は孤立状態となってしまいました。

かくして元亀三年(1572年)6月15日「もはや勝ち目なし」と悟った覚広らは、やむなく一向一揆衆に和睦を申し入れ、日宮城は開城となったのです。

開け渡しの隙に、主だった武将たちは、なんとか城を脱出・・・山づたいに石動山(いするぎやま)天平寺(てんぴょうじ=石川県鹿島郡中能登町付近)へと逃げ込んだのでした。

一方、勢い止まらぬ一揆勢は、その日のうちに、富山城(とやまじょう=富山県富山市)をも占拠してしまいました。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして日宮城の戦いは上杉勢の敗戦に終わりましたが、この結果を聞いて激怒した謙信は、この2ヶ月後の8月15日、今度は、謙信自ら兵を率いて春日山城を出陣し、一路越中へ・・・新庄城を拠点に、一向一揆衆が占拠する富山城を囲む事になるのですが、そのお話は、いずれまた、その日付で書かせていただきたいと思います。

にしても・・・
普段、デレビ等の歴史番組で見かける謙信さんのお話は、ほとんどが川中島で、北陸なら、天正に入ってからの信長との七尾城(9月13日参照>>)手取川(9月18日参照>>)なんかにお目にかかるくらい?で,すが、

こうやって見ると、意外に、頻繁に富山に来てはるんですね~~~っと、仕事の関係で10年間富山に住んでいた事のある茶々は、親しみを感じるのであった(*^-^)
 .

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2017年6月 2日 (金)

本能寺にて信長横死~その日の安土城と留守居役・蒲生賢秀

天正十年(1582年)6月2日、戦国最大のミステリーとも言われる『本能寺の変』がありました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日未明・・・ご存じ、主君=織田信長(おだのぶなが)と、その嫡男=信忠(のぶただ)を死に追いやった明智光秀(あけちみつひで)による謀反です。

【本能寺・前夜】参照>>
【本能寺の変~『信長公記』より】>>

未明に起こったこの出来事が、信長の本拠=安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市安土町)に、噂のように流れて来たのは、その日の午前10時頃だったと言います。

これだけの重大ニュースですから、またたく間に広がり、上層部はもちろん、一兵卒の耳にまで届きますが、未だ噂の段階ではウッカリした事は言えず・・・とりあえずは、皆がお互いの行動を見つつ、表面的には普段と変わらずにいましたが、そうこうしているうちに、京都から逃げて来た下働きの者たちの話も入って来て、事は具体的かつ現実的に・・・

やがて、午後4時頃には、京からの急使によって正しき情報が確認された事で、早速、その情報が騎馬で以って城下の各面々にも知らされると、城下は大変な騒ぎとなっていきます。

泣き悲しんで取りみだす者もいれば、「この際、家財なんかいらん!」とばかりに、妻子だけを連れて、身一つで本国(美濃=岐阜県)目指し、安土を退去する者も・・・

もちろん、この「身一つで退去」というのは、おそらく、これから安土を制圧しに来るであろう明智軍を恐れての事・・・それは城下の一般市民も同じで、市街戦なんて事になれば一大事ですから。

とは言え、この日、本能寺(ほんのうじ=現在は京都市中京区)で信長を、二条御所(にじょうごしょ=京都市上京区)で息子の信忠を自害させた光秀は、次に、逃亡者&落人を求めて京都市街をしらみつぶしに探索した後、すぐ、その日のうちに京都から勢田(せた=滋賀県大津市・瀬田)へと軍を進め、勢多城(せたじょう)主の山岡景隆(やまおかかげたか)
「人質を差し出して明智軍に協力してくれへんか」
と申し入れますが、景隆も、そして、ともにいた弟の山岡景佐(かげすけ)も、
「信長さんには、恩があるんで協力できません!」
とキッパリ断り、勢田城に火を放ち、勢田橋(せたばし=瀬田の唐橋)を落として、山中へと逃れたのです。

その後の山岡兄弟は、その身を隠しつつ、西からやってくる豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)(6月6日参照>>)に、畿内の明智軍の様子を逐一報告して、光秀の動きの邪魔をしていたとか・・・

とにもかくにも、山岡兄弟が、ここで橋を落として城を燃やしてくれたおかげで、この日の明智軍は、これ以上琵琶湖(びわこ)の東岸を進む事ができず、新手の軍勢を加える事もできなかったため、やむなく光秀は、この橋のたもとに守備隊を置いて、自身は居城である坂本城(さかもとじょう=滋賀県大津市下阪本)へと向かったのです。

なので、結果的には、今すぐに明智軍の襲撃を受けるという事はなかった安土ですが、それこそ、情報は錯そうするし、パニックになる人もいるしで、右往左往の状態が鎮まる事がない中、その日の夜になって山崎片家(やまざきかたいえ=秀家・堅家とも)が、安土にあった自らの邸宅に火を放って、いち早く居城の山崎山城(やまざきやまじょう=滋賀県彦根市)に引き籠ってしまった事から、ますます周囲のパニックが加速します。

そんな中で、安土城の二の丸の留守居役の一人だった蒲生賢秀(がもうかたひで)は、主君=信長の妻子たちを、自らの居城である日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町)に避難させて、いずれやって来るであろう明智軍との籠城戦を決意し、すぐさま日野城にいる息子=蒲生氏郷(うじさと)に、その意を伝えて準備を手配させました。

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安土城跡大手口より城下を望む

しとしとと降り続いていた雨が大雨に変わった翌・6月3日、息子=氏郷は、輿(こし)51鞍をつけた馬100匹伝達用の馬200匹を用意して出立・・・早朝には、安土城下まで駆けつけました。

いよいよ安土城からの脱出が始まりますが、信長の妻子たち&侍女たち&近衆たちの中には、城を出る事を拒む者や、出るにあたっても
「城内にある金銀財宝がもったいない」
と、持って逃げようとする者も少なくありませんでしたが、賢秀は、
「そんな見苦しい事はやめなはれ!」
と諌めます。

「せやけど、このまま明智に奪われるのも悔しいですやん。
いっその事、城に火を放って、全部、燃やしてから立ち退いたら…」

という意見にも、
「信長公が心をこめて造らはった壮麗な城を、俺の一存で燃やすなんか、恐れ多いですわ!」
とこれまた一蹴・・・何も持ち去らず、どこも傷つけずに、秀らは安土城を退去して行きました。

こうして、日野城に籠ったのは約1500人ほど・・・明智軍が来れば一戦交える覚悟で籠城戦の準備に取り掛かり、本願寺門徒などの武装勢力に声をかけたり、氏郷の娘を人質に出して織田信雄(おだのぶお・のぶかつ=信長の次男)に援軍を要請するなど、様々な策を講じました。

実際に、この時の信雄は、伊勢(いせ)から鈴鹿(すずか)を越えて、甲賀(こうが・こうか)あたりまで出張っていたのだとか・・・

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

やがて6月5日・・・ここで光秀が、堅秀らが退去した安土城に入ります。

早速、近江(おうみ=滋賀県)諸豪に降伏を呼び掛け、旧知の諸将に援軍を要請すると、北近江の阿閉貞征(あつじさだゆき)若狭(わかさ=福井県南部)武田元明(たけだもとあき)、その義兄弟の京極高次(きょうごくたかつぐ=姉か妹の京極龍子が元明の嫁)などが次々に味方を表明。

ただ、ご存じのように、光秀の娘婿&舅の細川忠興(ほそかわただおき)幽斎(ゆうさい=藤孝)父子(6月9日参照>>)や、期待していた筒井順慶(つついじゅんけい)(2007年6月11日参照>>)などは、味方する事はありませんでしたが・・・

一方で光秀は、6月7日には朝廷からの勅使(ちょくし=天皇からの使者)を安土城に迎えるとともに、未だ城主が留守となっている丹羽長秀(にわながひで=堺にてと四国出兵の準備中=4月16日の真ん中あたり参照>>佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)や、秀吉(高松城攻撃中=6月4日参照>>長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を奪い取るなどして、着々と周辺を平定して行きます。

そんなこんなの同じく7日、
「味方をすれば近江半国を与える」
との破格の条件を携えた明智側の使者が、秀のもとにやって来ますが、賢秀は、
「あんだけ信長公に世話になっておきながら、一旦変が起これば光秀につくんかい!」
と、逆に使者としてやって来た旧信長の家臣たちに怒り、会う事すらせずに追い返したと言います。

この時点で、光秀から安土城の事を任されていた明智秀満(あけちひでみつ=光秀の娘婿)は、この使者の返答を聞き、日野城攻めを決意・・・早速、軍を編成して攻撃の準備を整えますが、そこに入って来たのが、疾風のごとき速さで備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区)(6月4日参照>>)から戻って来た秀吉が、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に出陣して来たという一報でした。

慌てて、日野城攻撃のために準備した軍勢を山崎の合戦(天王山の戦い)(6月13日参照>>)の先鋒として派遣し、自らも向かおうとしますが間に合わず・・・やむなく坂本へ行こうとするところを、あの有名な湖水渡りの名場面となりますが、そのお話は2014年6月15日の【明智秀満の湖水渡り】のページ>>で。。。

戦わずして安土から退去した賢秀の一連の行動は、一部には「弱腰」との批判もあるようですが、結果的には、
安土を退去からの~
日野城籠城からの~
秀吉の天王山到着で籠城戦回避

となったワケで、「信長の縁者の命を守る」という点においては、秀の判断は「正しかった」という事なのかも知れません。

ただし、
残念なのは、本能寺から13日後の6月15日、安土城が不明の出火で炎上してしまう事・・・(2010年6月15日参照>>)

その権威の象徴でもあった安土城が、主の死とともにこの世から消え去るのは、劇的であるとも思えますが、歴史好きとしては何ともくやしいですね。

★本能寺の変、関連ページ
光秀の連歌会の句は本能寺の意思表明?>>
本能寺・前夜>>
本能寺の変~『信長公記』より>>
堺の商人・黒幕説>>
豊臣秀吉・黒幕説>>
徳川家康・黒幕説>>
家康暗殺計画説(431年目の真実)>>
突発的な単独犯>>
四国説>>
信長の首は静岡に?>>
アンケート「本能寺の真相は?」>>
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2017年5月19日 (金)

謀将と呼ばれた真田の祖~真田幸隆(幸綱)

天正二年(1574年)5月19日、信濃(しなの=長野県)の豪族=真田の祖として知られる真田幸隆がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)・・・
ご存じ!昨年の大河の主役=真田信繁(のぶしげ=幸村)お祖父ちゃんであり、草刈さんの好演が光る真田昌幸(まさゆき)お父ちゃんです。

とは言え、上記の通り、名前も複数あり、生まれた年もだいたいで、果ては、その父親すら決定打がないという謎の人・・・まぁ、あの北条早雲(ほうじょうそううん)しかり、美濃(みの=岐阜県)マムシのおっちゃんしかり・・・戦国に入ってから力をつけた武家の初代っちゅーのは、往々にして謎多き感じなのかも知れませんが・・・

とにもかくにも、
第56代・清和天皇(せいわてんのう)(12月4日参照>>)の第4皇子である貞保親王(さだやすしんのう)の末裔とされる信濃の古い豪族=滋野(しげの)の嫡流で、小県(ちいさがた=長野県東御市)を支配していた海野(うんの)海野棟綱(うんのむねつな)長男もしくは次男、もしくは、もしくは娘婿とされる人物が幸隆・・・なので、海野棟綱につながる人物である事は確かでしょう。

そんな彼が、小県郡の真田庄(さなだしょう)に土着した事から、真田姓を名乗り始めたというのが、一般的で、故に、幸隆は真田の祖と称されます。
(注:娘婿説の場合は真田頼昌(さなだよりまさ)という人物が幸隆の父とされるので、この方が祖という事になりますが…)

Sanadayukitaka300a てな事で、前半生がほぼほぼ謎な幸隆さんですが、そんな謎だらけになってしまう原因の一つと思えるのが、真田が、主家である海野氏もろとも事実上の滅亡に追い込まれた一件・・・

それは、幸隆が、おそらくは20代後半で、未だ弱小の土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の侍)ではあるものの、周辺の領地に点在する海野一族の援護を受けつつ、領国経営に励んでいた物と思われる天文十年(1541年)の事・・・。

そこに、「領地拡大!」とばかりに侵攻して来たのが、大永元年(1521年)の飯田原の戦い(10月16日参照>>)に勝利して甲斐(かい=山梨県)一国を手中に治めた武田信虎(たけだのぶとら)です。

天文四年(1535年)、諏訪(すわ)氏と和睦した信虎は、佐久郡(さくぐん=長野県佐久市・北佐久郡・南佐久郡)へと侵出して海ノ口城(うんのくちじょう=長野県南佐久郡南牧村)を奪取(12月28日参照>>)・・・このために、佐久郡の大部分が武田に降る事となったのですが、真田含む海野一族は未だ抵抗を続けます。

そんな中、これまで敵対していた葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)村上義清(むらかみよしきよ)と和睦した信虎は、その義清と、上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)諏訪頼重(すわよりしげ)との3者連合軍で以って、海野城(うんのじょう=東御市本海野白鳥台)海野棟綱を攻めたのです。

天文十年(1541年)5月14日、最も激戦となった海野平(うんのたいら)の戦いで敗北し、息子の海野幸義(ゆきよし)を失った棟綱は、やむなく逃走・・・関東管領上杉憲政(うえすぎのりまさ)を頼って上野(こうずけ=群馬県)へと亡命したのです。

もちろん、この戦いに、ともに参戦していたとおぼしき幸隆も、一族と同じく、箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)長野業正(ながのなりまさ)を頼って亡命しています。

つまり、ここで事実上、真田は滅亡し、浪人の身となった幸隆・・・一説には、すべてを失い、身一つになったこの時に「残すは三途の川を渡るだけ(渡し賃が六文)「いつでも死ぬ覚悟はできている」という意味で、あの『六連銭(ろくれんせん=一文銭が6つ)』の旗印にしたのだとか・・・
(もともと海野氏の旗印だった説もありますが…(*´v゚*)ゞ)

って事は海野&真田にとってはにっくき武田・・・当然の事ながら、海野&真田は、亡命生活を送りつつも、かの憲政の上杉の威光を頼りに旧領の回復を模索するのですが、この後、幸隆だけは、一族と別行動をとる事になるのです。

実は、この海野平の戦いに勝利した直後、信虎は、その慰労も兼ねて、娘婿(長女=定恵院の結婚相手)であった駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)のもとへ立ち寄るのですが、その間に、先に甲斐に帰国していた息子=晴信(はるのぶ)クーデターを決行し、父=信虎を追放して新政権を樹立したのです(6月14日参照>>)・・・ご存じ、後の武田信玄(たけだしんげん)ですね。

こうして、武田を継いだ・・・いや、父から奪った信玄(当時はまだ晴信ですが信玄と呼ばせていただきます)は、父とは真逆の方針を打ち立て、諏訪とも村上とも同盟を破棄・・・翌・天文十一年(1542年)には諏訪への侵攻を開始(6月24日参照>>)、当然、その後は村上義清とも敵対する(2月14日参照>>)事に・・・

敵の敵は味方・・・
そう、この時、幸隆にとっての1番の重要事項は、自らの領地=真田庄を取り戻す事です。

それを取り戻すためには・・・
先の戦いの後に、この真田庄を占領した村上義清と相対し、今や彼の敵となった信玄に与(くみ)するのが、旧領回復への最短の道!

恨みツラみを捨て、最も合理的な道を瞬時にして判断した幸隆・・・その先見の明は、なかなか大したものですね。

こうして、未だ上杉を頼る一族と離れて上野を脱出した幸隆は、武田への臣従を申し出るのです。

一説には、この時、信玄に幸隆を紹介したのは、名軍師として知られる、あの山本勘助(やまもとかんすけ)(2010年9月10日参照>>)だったとか・・・もちろん、信玄にとっても、ここらあたり=信濃東部の地の利を熟知している幸隆の存在は頼もしい限りですし、幸隆も、そこが自身のアピールポイントだったわけです。

以後、松尾城(まつおじょう=真田本城=長野県小県郡真田町)を本拠とし、武田軍の小県侵攻の先鋒として各地を転戦する幸隆は、信玄が攻めきれなかった戸石城(といしじょう:砥石城=長野県上田市上野)(9月9日参照>>)を、謀略によってアッサリ奪ったり、葛尾城の攻略(4月22日参照>>)にも一役かったり・・・

もちろん、その葛尾城奪取キッカケで越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と信玄が直接対決する事になる永禄四年(1561年)の川中島(9月10日参照>>)でも、嫡男=信綱(のぶつな)らとともに、あの啄木鳥(きつつき)戦法の別働隊として信玄をサポートしました。

永禄六年(1563年)の岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)攻略では、城中に「忍び」を放ち、敵方になっていた海野輝幸(てるゆき)らの内応を誘って、これを奪ったと言います。

さらに永禄九年(1566年)には、亡命でお世話になった箕輪城の長野さん(9月30日参照>>)にまでちゅうちょなく・・・

故に、幸隆は、「猛将」というよりは、『謀略の士』あるいは『謀将』などと呼ばれますが、それは、敵に回せばコワイものの、味方なら、これほど心強い味方はいないわけで・・・

そんなこんなの数々の功績により「信玄の懐刀(ふところがたな)とまで称され、外様でありながら、譜代の家臣と同等の待遇を受けて、武田二十四将(たけだにじゅうよんしょう)の一人にも数えられた幸隆でしたが、いつしか病気がちになり、永禄十年(1567年)頃には隠居して、家督を嫡男の信綱に譲っていたとされます。

なので、義元亡き後の駿河への侵攻(12月13日参照>>)や、三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に代表される一連の「信玄上洛かも?」の戦いには、幸隆は参戦していません。

しかし、ご存じのように、この西上の途中で信玄は命を落とし(1月11日参照>>)、武田の行軍はストップ・・・軍団は、そのまま甲斐へと戻るわけで・・・

その信玄の死から約1年後の天正二年(1574年)5月19日幸隆は戸石城にて病死します。

ところで・・・
死の1週間前の5月12日には、亡き信玄の後を継いだ武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)が、信玄も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落城させています(5月12日参照>>)が、幸隆は、このニュースを聞いたのでしょうか?

先見の明があり、謀略に長けた幸隆が、もし、この一報を聞いていたとしたら、そこに感じた物は、
武田の「頼もしい未来」だったのか?
はたまた「危うき予兆」だったのか?

はたして、この、ちょうど1年後に勃発する長篠の戦い(5月12日参照>>)で、勝頼に従っていた嫡男の信綱、そして次男の昌輝(まさてる)もが討死にしてしまい、真田家は三男の昌幸が継ぐ事に・・・

しかし、ご存じのように、その後、武田は滅んでも(3月11日参照>>)真田は滅びませんでした。

それは、かつて、浪人からのし上がって『謀略の士』『謀将』と呼ばれた父=幸隆から、息子=昌幸が受け継いだ、ただ一つのゆるぎない目標=家を存続させるため智略をフル活用したなればこそ・・・

武田の滅亡から本能寺のゴタゴタにかけて、アッチに行ったりコッチに来たりして、豊臣の奉行たちから「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの=心中が読めないクセ者)と称される事になる昌幸の真意測りかねる動向の数々は、周囲に何と言われようとも、そのただ一つのゆるぎない目標を実現させるための戦術だったわけです(6月4日参照>>)

そして・・・そのただ一つのゆるぎない目標が、幸隆の孫たちである信之(のぶゆき=信幸)&信繁兄弟に受け継がれていく事は、皆さまご存じの通りでおます。
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2017年5月12日 (金)

信玄を越えた?武田勝頼が高天神城を奪取

天正二年(1574年)5月12日、武田勝頼が徳川方の小笠原信興が守る遠江高天神城を包囲し、世に言う「高天神城の戦い」が始まりました。

・・・・・・・

とは言うものの、本邦戦国史上、「高天神城の戦い(たかてんじんじょうのたたかい)と呼ばれる戦いは3度あります。

1度目は元亀二年(1571年)3月から・・・

もともとは、あの源平合戦の頃から、砦のような物が構築されていたらしい高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)ですが、清和源氏の流れを汲む今川氏(いまがわし)が、南北朝時代に駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)守護(しゅご=現在の県知事)になった事から、その配下の福島氏(ふくしまし)城代を務めていましたが、天文五年(1536年)の、あの花倉の乱(6月10日参照>>)で、勝利した今川義元(いまがわよしもと)が今川家の当主となり、逆に福島氏が没落した事で、その後は、やはり今川配下の国衆であった小笠原氏(おがさわらし)が城代として治めていました。

しかし永禄三年(1560年)に、あの桶狭間(おけはざま)で義元が倒れ(5月19日参照>>)、その後を継いだ今川氏真(うじざね)の代になって今川に陰りが見え始めると、時の城主であった小笠原信興(おがさわらのぶおき=長忠とも)は、このタイミングで遠江に侵攻してきていた三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)の傘下へと、ちゃっちゃと鞍替えします。

ところが、ご存じのように、これらの今川の旧領地を狙っているのは家康だけではありません。

そう、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)という大物が・・・

一説には、義元亡き後の今川の領地のうち、駿河を信玄が、遠江を家康が切り取る話し合いが、あの織田信長(おだのぶなが)の仲介で成っていたとも言われる両者の関係ですが、永禄十一年(1568年)に家康が、掛川城攻防戦(12月27日参照>>)にて氏真を攻めて、戦国大名としての今川氏を事実上滅亡させると、今度は、その家康と信玄の直接対決で、お互いの取り分を決める争いと化して来るわけで・・・

とにもかくにも、北条氏とのゴタゴタ(【蒲原城の攻防】参照>>)にも忙しい元亀二年(1571年)3月、信玄は、家臣の内藤昌豊(ないとうまさとよ)に約2万の軍勢をつけ、この高天神城を攻めさせたのです。

この内藤昌豊は武田四天王の一人に数えられる猛将・・・しかも、守る城兵は、わずかに2000。

しかし、この高天神城・・・構築された山の高さ自体はさほど高く無いものの、山の斜面が急な、天然の要害に築かれているうえ、これまた、その要害効果を最大限に活かすナイスな場所にナイスな城郭を配置してある堅固な城で、さすがの大軍を率いても、容易に落とせるものではなく、結局、信玄は、自身の生涯で、この高天神城を落とす事ができないまま、元亀四年(1573年)4月12日、直前の野田城での戦い(1月11日参照>>)を最後に、この世を去ってしまうのです。

Takedakatuyori600a その信玄亡き後の武田を継いだのが、信玄の四男=武田勝頼(たけだかつより)です。

とは言え、ご存じのように、この勝頼は、本来は武田家を継ぐべき息子ではなく、母方の諏訪(すわ・長野県中部)地方を治めるべく育てられた人で、その名も、武田家の通字(とおりじ=その家系で代々に渡って名前に用いられる字)である「信」ではなく、諏訪家に用いられる「頼」の字が当てられ、いち時は諏訪勝頼(すわかつより)と名乗ってたくらい、それは周知の事でした。

よって、巡り巡って家督を継ぐ事になった時点でも、父の代からの重臣たちからは賛否両輪飛び交うばかりか、信玄の残した遺言もが、いかにも勝頼が中継ぎ投手と言わんばかりの内容だった(4月16日参照>>)ために、おそらく勝頼には、当主になった途端から、かなりの重荷を背負わされてる感があったと思われます。

しかし・・・
一般的には、カリスマ的な信玄から受け継いだ武田家を滅亡に導いてしまう事で、なにかと愚将扱いされる勝頼さんですが、実は、戦国最強の猛者だったとも言われ、それこそ、信玄も、そこを見込んでの後継者指名だったでしょうし、勝頼自身も、父に負けてはいない自分を見せたい願望もあった事でしょう。

そう、勝頼は、信玄の死後、ほとんど期間を置かず、父の遺志を引き継ぐかのように、領地拡大に乗り出すのです。

攻めて攻めて攻め抜いて、父の代よりも広大な領地を得て、武田家の強さを見せる・・・これこそが、カリスマ父を越える最短の手段であり、おそらく勝頼は、それが可能な猛将だったはずです。

そんなさ中、信玄の死からわずか2ヶ月後に、武田の傘下だった亀山城(かめやまじょう=愛知県新城市)奥平定能(おくだいらさだよし)信昌(のぶまさ)父子が徳川へと・・・一説には、「信玄死す」の機密情報を手土産しての寝返りだったとも・・・

遺言で「3年は隠せ」と言われた信玄の死ではありますが、そんなこんなで、おそらくは、すでに周囲の諸将に伝わった以上、隣国の家康だけでなく、彼と同盟を結ぶ信長やら、あの人やらこの人やら、戦国の猛者たちが動き出す事は必至なわけで、ヤラねばヤラれる戦国時代・・・まして、2年前の三方ヶ原(12月27日参照>>)で、父がコテンパンにやっちゃってるわけですから、受け継いだ勝頼も、ここで手を緩めるわけにはいきません。

かくして天正二年(1574年)、2月5日に美濃(みの=岐阜県)明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市)を陥落させた(2月5日参照>>)勝頼は、3ヶ月後の5月3日、2万余の大軍を率いて本拠の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)を出陣・・・5月12日には、その大軍で、高天神城を包囲したのです。

これが2度目(第2次)高天神城の戦い

迎える信興は、わずかに1000・・・なので、当然の事ながら、包囲と同時に、家康へ救援要請を飛ばします。

一方、父の苦戦を知っている勝頼は、大軍で力攻めをするかたわら、おそらくは容易に落ちない事を踏まえて、家臣の穴山梅雪(あなやまばいせつ)に命じて、話し合いによる説得工作も展開しました。

救援が来るまで時間を稼ぎたい信興は、開城に応じるように見せかけながら、のらりくらりのかわし作戦。

しかし、救援を受けた家康も、「武田が2万以上の大軍」と聞き、さすがにこの時点での徳川には、そこまでの兵力は無かったため、即座に信長へ連絡を入れ、救援の救援を要請します。

その知らせが岐阜(ぎふ)の信長のもとに届いたのは6月4日・・・信長にとっては、この年の正月からややこしい事になっていた越前(えちぜん=福井県)一向一揆(1月20日参照>>)の動向が気になるところではありますが、ソチラは羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)丹羽長秀(にわながひで)らに任せ、自らは6月14日に岐阜を進発し、東へと向かいます。

しかし、当然の事ながら、この間にも勝頼の攻撃&説得工作は継続していたわけで・・・

『真田文書』(信濃史料)によると・・・
武田軍は、すでに5月28日には二&三の曲輪(くるわ=土塁・石垣・堀などで区画された城内の場所)を突破し本曲輪まで到達しており、もはや落城も時間の問題のように見えたのだとか・・・ただ、さすがに堅固をうたわれた城で、そこからなかなか先に進めなかったようですが、

しかし、わずかながらのこう着状態であっても、先の見えない戦時下では不安がつのるもの・・・

攻める勝頼にとっては、今日明日にも援軍が到着するかも知れないので、すばやく決着をつけたい・・・

一方、守る信興にとっては、その勝頼の気持ちがわかるぶん引き延ばしたいけど、いつ来るかわからない援軍を、どんどん窮地になる城内で、ずっと待っていられるのだろうか?という不安・・・

その間にも継続される攻撃と説得・・・やがて6月17日、何度目かの説得交渉で、勝頼から、駿河に1万貫の所領の約束を取り付けた信興は、城を開け渡す事にしたのです。

『横須賀根元記』によれば、
この時、開城を決意した信興は、城兵たちに対し
「この城は開け渡す=自分は武田につくけど、君らは、僕といっしょに武田に行くか、徳川につくかは自由にしてええからな」
と言ったのだとか・・・で、この時、信興とともに武田に降った者を「東退組」、徳川に行った者を「西退組」と呼ぶのだそうです。

ところで、高天神城が開城された17日・・・信長軍は、三河領の吉田城(よしだじょう=愛知県豊橋市)に到着していましたが、その開城の一報が届いたのは2日後の19日、今切渡(いまぎれのわたし=静岡県湖西市:浜名湖南部の渡し船発着場)越えようとしていた時でした。

「もはや落城してしまったものはどうしようもない」
とばかりに、信長は、そのまま、吉田城へと引き返したとの事・・・

こうして、偉大なる父=信玄も落とせなかった高天神城を陥落させた勝頼・・・その喜びもひとしおだった事でしょう。

勝頼は、この時の一連の侵攻で、支城を含めて18もの城を落とし、遠江の東半分を制圧・・・まさに破竹の勢いで領地拡大を成し遂げていったわけですが、

そう・・・
このイケイケムードにストップがかかるのは1年後・・・有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦いです。

それはもちろん、あの時、徳川に寝返った奥平父子・・・・彼らを、そのままにしておくわけにはいきませんから、当時、彼らが任されていた長篠城を攻めに・・・
勝頼軍が長篠城を囲んだのが4月21日>>
そして設楽ヶ原の決戦が5月21日>>

さらに、皆様ご承知の通り、この長篠で敗れてから7年後に武田は滅亡する事になるのですが、その滅亡に向かう一連の戦いの始まりとも言えるのが、今回の高天神城・・・

皮肉にも、今回、武田に落ちた高天神城を、家康が奪い返す3度目(第3次)高天神城の戦いが、武田滅亡へのカウンドダウンの始まりとなるわけで・・・それは天正九年(1581年)3月22日の事でした。

武田滅亡の関連ページもどうぞm(_ _)m
第3次高天神城の戦い>>
信長が甲州征伐を開始>>
田中城が開城>>
穴山梅雪が寝返る>>
高遠城が陥落>>
武田勝頼、天目山の最期>>
勝頼とともに死んだ妻=北条夫人桂林院>>

で・・・
ご存じのように、この3ヶ月後に本能寺の変があるので、もう、信長さんのエピソードが目白押し・・・さらにくわしくは【織田信長の年表】>>から、気になるページへどうぞm(_ _)m
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2017年4月13日 (木)

上杉謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦

永禄十一年(1568年)4月13日、それまで武田信玄についていた越中増山城主=神保長職が上杉謙信に寝返りました。

・・・・・・・・・・

射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による越中(えっちゅう=富山県)争奪戦・・・

Uesugikensin500 ここ越中は、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)にとっても、自らの領地に隣接する場所であり、自国と京の都との間に位置する重要な場所でもあった事から、祖父や父の時代から、度々出兵しては傘下に治めていた場所だったわけです。

つい先日も書かせていただいたように(3月30日【増山城&隠尾城の戦い】参照>>)、永禄三年(1560年)には、勢力拡大を図る神保長職が、謙信のライバルである甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の支援を得て、謙信傘下の椎名康胤を攻撃したわけですが、

この時、負けた長職は、一旦は降伏して謙信の傘下となったものの、謙信が越後へと戻ると、またぞろゴソゴソやり始める・・・
で、椎名康胤の救援のため謙信が大軍率いてやって来て、負けそうになったら和睦して傘下に入るものの、謙信が戻るとまやもやゴソゴソ・・・
てな事をくりかえしていたわけですが・・・

そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月・・・
なんと、それまでずっと謙信と協力体制にあった椎名康胤が、いきなり反旗をひるがえしたのです。

実はコレ、信玄の裏工作・・・信玄が何度も「君が越中を平定してくれへんかなぁ~僕支援するし…」の手紙を送っていたのが、ここに来て康胤を決断させたのです。

ひょっとして・・・康胤の心の内にも、
複数回上洛しても時の将軍と仲良く談笑し、関東管領並(6月26日参照>>)を引き受ける謙信は、おそらく天下を取る気はない?
に対して、天下を狙う気満々っぽい信玄の傘下になっておけば「そのあかつきには越中の大名になれるかも」てな野心が芽生えたのかも知れません。

とは言え、謙信にとって、再三に渡る長職のゴソゴソは、おそらく予想できたものの、一方の康胤の裏切りは想定外・・・

なんせ、この椎名は、特に、謙信の父の長尾為景(ながおためかげ)とじっこんの仲で、譜代の長尾一族から長尾景直(かげなお)康胤の養子に迎えていて、謙信にとっては特に信頼を置いていた武将の一人なわけで・・・だからこそ、これまで何度も救援に出張って来ていたわけで・・・

ショックを受けながらも、知らせを聞くなりすばやく行動に起こし、3月16日、春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出陣した謙信は、康胤を攻めるべく越中へと入りました。

が、しかし・・・ここに来て、またもや予想外の出来事が!

Matukurazyoukoubousenkankeizu
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

越中侵攻から1ヶ月後の永禄十一年(1568年)4月13日、あの神保長職が謙信への協力を申し入れて来たのです。

今回ばかりは、その場まかせのゴソゴソではなく、一門の神保覚広(ただひろ・よしひろ)と家臣の小島職鎮(こじまもとしげ)の尽力による物・・・謙信自身が「長職とメッチャ意気投合したわ~ヽ(´▽`)/」と覚広に報告してますし、長職も、「この感謝は手紙では言い尽くせへん!」と書状で述べていますので、よほど、両者の関係が良い展開になったのでしょう。

しかし、こうして看板となるトップの傘が交代した事で、もとから信玄についてゲリラ戦を展開していた越中の一向一揆は、神保を離れて椎名の味方に・・・

ご存じのように、この時代の一向一揆=武装した本願寺門徒は侮れない・・・たび重なるゲリラ戦法で、長職は、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)放生津城(ほうじょうづじょう=富山県射水市中新湊)を落とされたため、やむなく増山城に逃げ込みます。

ここで謙信は、康胤の松倉城への抑えとして配下の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)河田長親(かわだながちか)を配置して放生津城攻めに向かうと同時に長職と連携して守山城を猛攻撃しました。

ところが、この間に遠く離れた越後にて、信玄の誘いに乗った本庄城(ほんじょうじょう=新潟県村上市・村上城とも)本庄繁長(ほんじょうしげなが)が反旗をひるがえした・・・との情報が舞い込んで来ます。

やむなく謙信は、直江景綱(なおえかげつな)重臣たちに、この場を任せて、自らは春日山城へと戻り、すぐさま準備を整えて本庄城の攻撃へと向かいます。

謙信自ら指揮を取るその猛攻撃に半年ほど耐えたものの、同年11月、本庄繁長は人質を差し出しての講和を申し出ます。

実は、期待していた信玄からの援軍が思うように得られ無かったのです。

そう・・・この永禄十一年(1568年)という年は、9月に、あの織田信長(おだのぶなが)が第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあきを奉じて上洛(10月18日参照>>)を果たした年・・・

心情的に、この信長の上洛に影響を受けたか否か?
あるいは「(川中島でゴチャゴチャしっぱなしの)北がダメなら南へ」と思ったか否か?
「このままやったら徳川家康(とくがわいえやす)に駿河取られてまう~」と思ったか否か?
はたまた、信玄に、畿内に目を向けてほしくない信長の「今なら駿河イケまっせ」の誘いに、とりあえず乗ってみたか否か?
その心の内は、ご本人のみぞ知るところですが、ここからの信玄は、この12月には薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)からの今川館の攻防戦(12月13日参照>>)と、完全に駿河(するが=静岡県西部)攻略に向けて舵を切った事は明白なところ・・・なので、おそらく本庄救援まで手が回らなかったのでしょう。

しかも、謙信にとっての信玄の矛先変更の影響は、そればかりではありませんでした。

翌永禄十二年(1569年)の明けてまもなく、信玄の勝手な約束破りの矛先変更に激おこの同盟者=小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏康(ほうじょううじやす)が、謙信との同盟を求めて来たのです。

同年の6月に北条との同盟を締結させた謙信は、その2ヶ月後の8月・・・再び、松倉城攻略に乗り出すのです。

まずは小菅沼城(こすがぬまじょう=魚津市小菅沼)など周辺を攻撃して松倉城を孤立させた後、大軍で以って松倉城に迫る上杉軍でしたが、迎える椎名軍は、防御のために自ら城下町に火を放ち、この孤立状態のまま、約100日間の籠城に耐えぬきます。

もともと松倉城が天然の要害であった事や、例の一向一揆が味方していた事もあって、長期に渡る籠城に耐える事ができたのでしょうが、一方の攻める上杉軍にも人馬の披露激しく、しかも、ここで「信玄が上野(こうずけ=群馬県)に侵攻した」との情報を得た謙信は、やむなく、またもや松倉城を落としきれないまま、10月に兵を退く事になってしまいました。

とは言え、謙信にとって、この松倉は越中の中でも、屈指の手に入れておきたい場所・・・なんせ、松倉城の南には河原波金山松倉金山という金の成る木、いや、山があったのですから・・・

やがて元亀二年(1571年)3月、3度目の松倉城攻略のため、大軍を率いて越中に侵攻した謙信は18日に富山城(とやまじょう=富山県富山市)を陥落させ、神保長職の求めに応じて、奪われた守山城を奪還すべく、庄川(しょうがわ)あたりまで攻め込み、念願の松倉城攻略へとこぎつけました。

一説には・・・
この時も、大軍で包囲したにも関わらず、なかなか落ちなかった松倉城に苦戦していたところ、「実は、宇都呂(うつろ=現在は廃村)の集落から密かに水を引き、同時に信濃からの食糧を運びこんでいるから」との噂を聞きつけた謙信が、宇都呂の集落を焼き払って水路を破壊し、東からの糧路を絶った事により、ようやく松倉城が落ちた・・・との話もあります。

とにもかくにも、この「元亀二年三月に、松倉城を、かの河田長親に与えた」(『三州志』より)との記録が残っていますので、やはり、ここでようやく松倉城を攻略した事は確かでしょう。

一方の康胤・・・この敗北によって椎名は、かなりの痛手を被り、弱体化の一途をたどる事となってしまいます。

一旦は謙信に降伏し傘下に収まるも、天正四年(1576年)に再び反旗をひるがえしたところを、やはり謙信に攻められ、その最期は蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)にて自刃したと伝わります。

ちにみに、前半のところで書かせていただいた通り、椎名康胤の後を継ぐ者は、長尾家から養子に入った長尾景直のみ・・・いち時は椎名小四郎(しいなこしろう)を名乗っていた彼ですが、何年後かの上杉VS織田の月岡野の戦いでは、、シッカリ上杉側の人として登場(9月24日参照>>)します。

なので、戦国武将としての椎名氏は、この康胤を最後に、事実上の滅亡となったのですが・・・
北陸を巡っての攻防戦は、まだまだ続きます。

次の戦いとなるのは、またまた寝返る神保長職に、「ついて行けんわ」袂を分かつ神保覚広と、信玄に扇動された一向一揆衆が交戦する事になる【上杉謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防戦】>>でどうぞ
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2017年3月17日 (金)

信長の動きを受けて~いよいよ謙信が富山へ侵攻

 

天正四年(1576年)3月17日、織田信長と手を切った上杉謙信越中富山へと侵攻を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・

天文二十二年(1553年)を皮切りに度々衝突した有名な川中島の戦い(9月10日参照>>)でご存じのように、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)と、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)は、信濃(しなの=長野県)北東方面の国境線を巡って、長きにわたるライバル関係にありました。
(くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】参照>>)

Uesugikensin500 その関係は、天正元年(1573年)に信玄が亡くなって後に息子の武田勝頼(かつより)が当主(4月16日参照>>)となった時代も続いていたわけですが、一方で、武田家は上杉領とは真逆の南西方向の国境線を巡っても、かの駿河(するが=静岡県西部)大物=今川義元(いまがわよしもと)を倒して(5月19日参照>>)出世の階段を2段飛ばしで駆け上がりまくりな尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)を擁する織田信長(おだのぶなが)睨み合っていたわけで・・・

Odanobunaga400a となると、敵の敵は味方とばかりに、この頃の謙信と信長はかなりの仲良し・・・それは、永禄十一年(1568年)に信長が、第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)奉じて上洛を果たした(10月18日参照>>)後も変わらず、天正二年(1574年)には信長が謙信センパイに狩野永徳(かのうえいとく)の筆による『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)を贈ってベンチャ攻撃しまくってた話は有名ですね。

ただし、その屏風を受け取った謙信の方は、どうやら、この頃からすでにモヤモヤし始めていたようで・・・と言うのも、その前年の天正元年(1573年)、信長は北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月26日参照>>)越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月6日参照>>)を倒していたわけで・・・確かに、ベンチャラしてくるわりには、シレッと越後に近づいて来ている感がしないでもない・・・

それでも、天正二年(1574年)の2月に勝頼が明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻撃(2月5日参照>>)した際には、険しい山中にて攻撃がままならない織田軍の後方支援として、謙信が上野沼田(ぬまた=群馬県沼田市)まで兵を出した・・・なんて事もあったようです。

とは言え・・・
その明智城陥落で勢いづいた勝頼が、信長と同盟関係にある徳川家康(とくがわいえやす)傘下の高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落とし(5月12日参照>>)、さらに翌・天正三年(1575年)5月に有名な長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)武田VS織田の全面衝突となると、その一方で信長は、同時進行していた越前一向一揆も制し(8月12日参照>>)、さらに加賀(かが=石川県)に手を伸ばして来たわけで・・・

「コレ、ぜったい近づいて来とるやないかい( ゚皿゚)!!」

もともと、武田という共通の敵を持つが故の同盟・・・しかし、信玄という大きな存在に睨まれていた弱小なる後輩は、浅井朝倉を葬り去り、武田を衰退させ、越前も手に入れて、今や先輩=謙信に追い付き追い越せの勢いなのは明らか・・・

しかも、加賀&越中と言った北陸地方は、謙信にとって、結果的には手中に収めたい因縁の場所(3月30日参照>>)(4月13日参照>>)

そんなこんなの天正四年(1576年)、この2月にはあの安土城の築城(2月23日参照>>)に取りかかる信長・・・この安土という場所への築城は、見ようによっちゃぁ、謙信を上洛させないための通せんぼのようにも見えます。

その事を知ってか知らずか、天正四年(1576年)3月17日謙信は越中(えっちゅう=富山県)へと侵攻を開始したのです。

この富山という場所は、長きに渡って能登畠山(のとはたけやま)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)にて権勢を奮っていた傘下にありましたが、その畠山が長年の内輪もめや重臣同士の争いで次々と城主を失った事で、この頃は、今だ4~5歳の幼児であった畠山春王丸(はたけやまはるおうまる)を当主に据えて、周りの重臣たちが実権を握っている状態でした。

Kensintoyamasinkoukankeizu 位置関係図→
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

 

その重臣の一人が、守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)富山城(とやまじょう=富山県富山市丸の内)を擁する神保氏張(じんぼううじはる)
・・・

一説には畠山氏から養子に入ったとも言われるほど、畠山とはつながりのある人物でした。

もともと、この頃の富山城は、上杉配下にある魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を脅かす城でしたが、ここに来て信長からの要請を受けた氏張は、息子とともに織田につく事を表明・・・下瀬砦(しもぜとりで=富山市婦中町)を構築して謙信の進路を阻みます。

しかし、さすがは軍神=上杉謙信・・・なんなく神通川(じんつうがわ)を渡り、わずか3日の間に氏張配下の支城や砦を次々と落とし森寺城(もりでらじょう=富山県氷見市森寺・湯山城とも)へと向けて庄川(しょうがわ)左岸の守山城間近へと迫ります。

ただ・・・この時は、大雨による増水で、庄川が渡れず、やむなく守山城攻略を断念して兵を退きました。

やがて半年後の9月
2万の軍勢を引き連れて、再び富山へと侵攻した謙信・・・この時、富山城にいた神保父子は、その猛攻に耐えきれず、富山城を捨てて守山城へと移動し、ここで籠城します。

しかし、ここにいる城兵はわずか2000・・・氏張は城の防備を固めるべく、空堀に湖水を引き込もうとしますが、空いた富山城に配下の諸将を入城させて、そこを拠点に守山城への猛攻を開始した上杉軍のスピードの速さに、防御の準備が間に合わず、やむなく氏張は、堀の底に米を敷いて水に見せかけてゴマかします(米を敷く方が時間がかかる気がしないでもない(゚ー゚;)

ところが・・・
この時、城の上空を舞う鳥たちが、いち早く、この米の水に反応・・・何羽もの鳥が堀に向かって舞い降りた事から不審に思った上杉の兵が、地元住民を使って調べさせて真相を解明してしまったために、その後は怒涛のごとく、上杉軍が米の堀を渡って城内に侵入し、縄張りの各箇所に火を放って難攻不落とされた守山城を落したのだとか・・・

以後しばらくの間、氏張は謙信の傘下に組み込まれます。

守るも攻めるも「ホンマかいな(^-^;」的な攻防戦ではありますが、とにかく、ここで守山城を陥落させた謙信は、その後も猿倉城(さるくらじょう=富山県富山市・栂尾城とも)増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)を落としつつ加賀へと侵攻・・・これまた敵の敵は味方とばかりに、長年敵対関係にあった石山本願寺と正式に和睦(5月18日参照>>)した後、翌・天正五年(1577年)の9月には七尾城を落とし、有名な九月十三夜の美酒に酔う(9月13日参照>>)事になります。

一方の信長は、一向一揆の本拠地=石山本願寺との全面戦争へと突入・・・
【天王寺合戦】>>
【第一次木津川口海戦】>>

今後の謙信との対決は、信長から北陸方面を任された柴田勝家(しばたかついえ)が担当する事になるのです。
【手取川の戦い】参照>>
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2017年1月20日 (金)

信長VS越前一向一揆~富田長繁の桂田長俊攻め

 

天正二年(1574年)1月20日、織田信長から越前守護代を命じられていた桂田長俊が、一向一揆と結んだ富田長繁に一乗谷を攻められて討死しました。(『朝倉始末記』より)

・・・・・・・・・・・・・

*桂田長俊の死亡は、『信長公記』では「19日に自害」となっていますが、本日は『朝倉始末記』に沿ってお話させていただきます。

元亀元年(1570年)、4月の金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)からの有名な姉川の戦い(6月28日参照>>)に始まる、織田信長(おだのぶなが)VS浅井・朝倉の戦い・・・3年の年月を経た天正元年(1573年)、小谷城北近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷越前(福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月6日参照>>)信長はいよいよ越前を手に入れたわけですが・・・
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)

Dscf1245pa1000
越前一乗谷朝倉氏遺跡

この時、最初の金ヶ崎から平定まで、3~4年の月日がある事から、その間に朝倉を見限って織田方に寝返った元朝倉家臣も多くいました。

ご存じのように、刃向かう者には徹底抗戦の信長さんですが、降伏して来たり、寝返って来たり、従順な態度をとる者には意外にやさしい・・・今回の対朝倉においても、織田の傘下となった元朝倉家臣に対して、旧領を安堵してそれぞれの役に任命し、彼ら自身によって、越前の各地を治めるよう指示していたのです。

そんな中の一人が、この織田傘下への転向を機会に、その名を前波吉継(まえばよしつぐ)から改名した桂田長俊(かつらだながとし)でした。

信長は、浅井の本拠だった小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)に直臣の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀)を置いて近江から北部に睨みを効かせ、朝倉の本拠だった一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)に、桂田長俊を越前の守護代として置いたのです。

実は、今回の信長の越前攻めの時、いち早く寝返って、道案内までかって出たのが桂田長俊・・・おかげで、越前の守護代という破格の待遇を得たわけですが、上記の通り、この時、朝倉から織田へ寝返ったのは、彼だけでは無かったわけで、当然、同時期に少しだけ遅れて寝返った元朝倉の家臣たちからは
「ちょっと早いだけで、アイツが守護代かい!\(*`∧´)/」
てな不満も湧いて来るわけで・・・

そんな中、当の桂田は、信長さんのご機嫌を取るべく、贈物三昧を決行・・・城下の職人たちからは、あれやこれやの名品を取りたてるわ、農民たちには増税を強いるわで、ほどなく領民たちの不満も頂点に達し、地元の本願寺に訴えます。

もとより、この越前の地は、朝倉とも上杉とも交戦(8月6日参照>>)を続けた一向一揆の盛んな地・・・この状況に本願寺門徒が黙っているはずはありません。

そこに目をつけたのが、元朝倉家臣で、かの寝返り組の一人=府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)でした。

彼は、早速、加賀一向一揆で一翼の大将を担う杉浦玄任(すぎうらげんにん=げんとう・壱岐)と連絡を取り、援軍を要請します。

『朝倉始末記』によれば・・・
天正二年(1574年)1月19日、一揆勢を加えて3万3千余りに膨れ上がった富田長繁の軍は、あちこちで騒動を起こしながら一乗谷に攻め寄せたのです。
(『朝倉始末記』では総勢10万以上となっていますが、一般的には上記の3万3千とされます)

Dscf1178a 上城戸下城戸の2手に分かれて一乗谷に押し寄せる一揆軍・・・

上城戸には富田長繁自らが大将となって突っ込み、下城戸には、杉浦玄任の配下である大野衆(福井県大野市の本願寺門徒)らがけたたましく攻め寄せ、両方の木戸はアッと言う間に破られて、一揆勢が一気に城内へと乱入しました。

さすがに、これだけの大軍に攻め込まれるとは思ってもいなかった一乗谷城の城兵は、一揆勢に押しまくられるばかりで逃げ場を失い、多くの者が討死したと言います。

そして、一揆勢は、いよいよ、城主の桂田長俊のもとへ迫ります。

なかなかの剛の者であったとも言われる桂田長俊さんですが、実は、この頃には失明していたらしく・・・

それでも、桂田長俊は馬に乗って出陣し、馬上から果敢に敵兵に立ち向かいますが、残念ながら彼の刀先は空を切るばかり・・・戦場の真っただ中では、音を頼りにする事もできずに敵を見失い、最後の最後には呆然と立ち尽くしているところを敵兵に囲まれ、馬から引きずり降ろされて首を切られたのです。

開戦の翌日=天正二年(1574年)1月20日・朝・・・桂田長俊は戦場の露と消えました。

勢い止まらぬ一揆勢は、そのまま、桂田長俊の一族郎党を皆殺しにし、逃げる途中だった息子や母も追いつめて殺害したとの事・・・

♪上モナク 昇リ昇リテ 半天ノ
 ミツレバカクル 月ノ桂田
 桂田ノ 實
(実)リモアヘヌ 領地マデ
 稲妻ノ間ニ 穂頸
(くび)切ラル ♪
「昇りに昇った半天の月も満ちれば欠ける
桂田は、未だ成果もあげないうちに、
またたく間に殺られてしまった」

これは、「桂田長俊が亡くなった翌日に、何者かが在所に残した落書だ」と『朝倉始末記』は言ってますが、おそらくは、始末記を書いている作者の思いを詠んだ物でしょう。

『信長公記』では、守護代となった桂田長俊が、我が世の春を謳歌し、勝手気ままに振る舞ってエラそうにして反感をかったために自害に追い込まれた(『信長公記』での死亡日は19日)のだと淡々と書いてあり、実際には、そんな感じなのでしょうけど、

なんか、『朝倉始末記』の方は「盛者必衰のコトワリをあらわす」みたいで、泣けて来ますね~やっぱ、『朝倉始末記』は軍記物ですから、描き方がドラマチックです。

ところで、まだまだ勢い止まらぬ一揆勢・・・扇動する富田長繁は、同月21日には、信長が北ノ庄に置いていた代官所も襲撃して、目付として赴任していた3人の奉行まで追放し、その3日後の24日には、やはり自分と同時期に織田方へ寝返った元朝倉家臣で、現在は鳥羽野城(とばのじょう=福井県鯖江市)の城主となっているの魚住景固 (うおずみかげかた) を、

しかも、コッチは宴会に誘って父子ともども殺害しちゃうという騙し討ちというセコイ手まで使って、越前一国を、ほぼ手中に収めますが・・・

おいおいおい・・・そうです、富田長繁は織田傘下のはずだったのに、何やってんの?

かの『信長公記』も書いてますが、「これで越前は一向一揆の持つ国」になってしまったわけで・・・勢いのまま突き進んではみたものの、果たして、富田長繁は、信長を相手に戦う覚悟はあったんでしょうか?

一方、信長さんは、当然の如く激おこプンプン丸・・・羽柴秀吉や丹羽長秀(にわながひで)といった面々を敦賀(つるが)に派遣する事になるのですが、この続きのお話は、
長繁最期の日となる2月18日のページ>>で・・・
更なる展開の
越前平定8月12日のページ>>でどうぞm(_ _)m
(続きのお話なのでおおまかな経緯の部分は内容がかぶっていますが、お許しを)
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2016年10月29日 (土)

明智光秀の丹波攻略・前半戦~籾井城の戦い

天正五年(1577年)10月29日、織田信長の命を受けた明智光秀が、丹波の諸城を攻め、籾井教業の籾井城を攻略しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、織田信長(おだのぶなが)による丹波攻略戦です。

室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき)との不仲(2月20日参照>>)により、俗に言う「信長包囲網」を敷かれて、周りが敵ばかりになった信長さんですが、元亀四年(天正元年=1573年)の7月には、その義昭を追放(7月18日参照>>)、続く8月には越前(えちぜん=福井県)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)北近江(おうみ=滋賀県)浅井(あさい・あざい)(8月28日参照>>)を倒し・・・そして、各地に起こった一向一揆も徐々に制圧していった天正三年(1575年)、いよいよ信長は丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)平定に乗り出し、配下の明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに、その任務を命じます。

Aketimituhide600 一説には、当初、信長に好意的だった黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)が、信長に追われた義昭が毛利氏を頼る事を知って毛利派へと転じ、この天正三年(1575年)の10月に但馬竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市和田山町)を攻撃して占領・・・このままでは自らの但馬(たじま=兵庫県北部)を守りきれないと判断した守護山名祐豊(やまなすけとよ=宗全から5代目)が信長を頼った事で、信長が光秀らの派遣を決意したとも・・・

とにもかくにも、こうして信長の命を受けて出陣した光秀でしたが、初戦で奪った亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)も、そのすぐ後の黒井城の攻略に手間取ってる間に奪い返されたうえ、明けた天正四年(1576年)の正月には、やはり、最初は信長に好意的だった八上城(やかみじょう=兵庫県篠山市)波多野秀治(はたのひではる)も毛利に転じたため、やむなく黒井城の包囲を解いて、一旦、光秀は近江坂本城(さかもとじょう=滋賀県大津市下阪本)へと戻ります。

この波多野の裏切りに関しては『籾井家日記』には「赤井との密約による物」との記述がありますが、この『籾井家日記』は江戸時代になってから旧臣の子孫が記した「殿さま賛美」の傾向のある史料なので、そのままを信じるわけには行かず、一般的には「原因は不明」とされているようです。

実は、この頃の丹波周辺の状況についての記録には、このような伝説的な物が多く、史料と史料を照らし合わせると辻褄が合わなくなったりする事もあるので、今回は、様々見つつ、諸説あるうちのそれぞれの落とし所を考えつつ、お話を進めて参りますので、その点をご理解いただければ幸いです。

・・・とまぁ、おそらくは将軍=義昭が毛利を頼った事の影響?もあって、赤井や波多野らの抵抗に遭い、上記の通り、第1次の丹波攻略は不発に終わった光秀でしたが、ご存じのように、この間にも、石山本願寺との天王寺合戦(5月3日参照>>)やら、雑賀(さいか・さいが)の陣(3月15日参照>>)やら、松永久秀(まつながひさひで)謀反(10月3日参照>>)やらに出馬していて、光秀はホント忙しい・・・

忙し過ぎて、天正五年(1577年=前年の説もあり)の6月(もしくは8月)には体調を崩して倒れ、病床にて曲直瀬道三(まなせどうさん)の治療を受けて何とか快復したのだとか・・・『兼見卿記』『御湯殿上の日記』など)

そんなこんなの天正五年(1577年)10月、いよいよ信長は、赤井や波多野、果ては松永久秀の謀反にも、そしてかの石山本願寺にも影響を与えたかも知れない将軍=義昭囲い込みのおおもとである西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)との決戦を決意して、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)播磨(はりま=兵庫県南西部)への派遣を決定し、光秀には、その側面や背面を援助すべく、再び、丹波攻略を命じたのです。

10月初め、坂本を進発した光秀は、途中の老ノ坂で細川藤孝父子と合流し、一路、亀山城を目指します。

上記の通り、一旦奪ったものの、再び奪い返されていた亀山城ですが、ちょうど、この10月初め、波多野秀治らが、敵対する赤松氏との戦闘のために本領を留守にしており、守りが手薄になっているところを、5000を超える兵で以って三日三晩攻め続け、この亀山城を10月16日に落城させました

そして、この城を前線基地として、丹波の諸城を狙います。

まずは、溝尾茂朝(みぞおしげとも=光秀の家臣)細川忠興(ほそかわただおき=藤孝の息子)らを派遣して、波々伯部員次(ははかべ・ほうかべ・ほほかべかずつぐ)が守る篠山城(兵庫県篠山市)を包囲して攻撃を開始しますが、まもなく、近隣の援軍が駆け付けて、包囲している溝尾&細川勢を背後から襲撃したため、城は容易に落ちませんでした。

さらに、その援軍に、かねてより連絡を取り合っていた玉巻城(たままきじょう=兵庫県丹波市・久下城とも)久下(くげ)も加勢して来たため溝尾&忠興勢は窮地に・・・やむなく、光秀自らが残りの全軍を率いて参戦した事により、なんとか落城させる事に成功したのです。

かくして天正五年(1577年)10月29日、光秀らは、次なる標的籾井教業(もみいのりなり)籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)に攻めかかります。

籾井教業は、「丹波の赤鬼」と呼ばれた黒井城の赤井直正に対して「青鬼」と呼ばれた剛の者だったようですが、この時は、光秀らの猛攻撃にやむなく城を捨てて逃亡・・・こうして、織田軍が籾井城を奪取したのです。

とは言え、実は生没年が不明な籾井教業さん・・・一説には、この明智勢との抗戦の時には、すでに亡くなっていたという話もあり、そこのところは、新たな史料の発見に期待したいところです。

てな事で、本日は籾井城の落城の日という事で、明智光秀の丹波攻略の前半戦部分をご紹介させていただきましたが、ご存じの通り、光秀の丹波攻略が完了して信長さんが大喜びするのは天正七年(1579年)の10月(10月24日参照>>)・・・

まだまだ、あと2年も戦いは続きますし、まだまだブログに書いてない=書き足りない部分はあるのですが、そのあたりの事は、
【八上城攻防戦】>>
【黒井城の戦い】>>
でご覧いただければ幸いです。
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2016年9月 3日 (土)

信長と近江一向一揆~金ヶ森の戦い

元亀二年(1571年)9月3日、織田信長安土常楽寺に進み、六角氏の旧臣と川那辺秀政が指揮する一向一揆勢を撃破しました。

・・・・・・・・・・・・

琵琶湖の南東岸・・・現在の滋賀県守山市にある金森(かねがもり=金ヶ森)浄土真宗が伝わったのは13世紀頃と言われます。

その後、室町時代頃からは、当時、この金森を支配していた川那辺(かわなべ)が、浄土真宗ドップリになってくれた事で道場ができ、その道場を中心に寺町が形成されて行く中、本願寺第七世の存如(ぞんにょ)が住職を勤めるようになる永享八年(1436年)頃には、町の周囲を土居や壕で囲むという、まさに鉄壁の環濠集落(かんごうしゅうらく)となって発展していったのです。
(環濠集落については以前の【奈良県今井町】のページを参照>>

なんせ、この頃は、自分たちの事は自分たちで守らねばならない時代・・・お寺同志のモメ事で死者が出て、武装した幕府の兵士が出馬するなんて事もあった時代(6月24日参照>>)ですから、寺を中心として形成された町は、自らの手で守りを固めなければならなかったのです。

そんな中、本家本元の本願寺で事件が起こります。

寛正六年(1465年)、浄土真宗を一大勢力に押し上げて、後に「中興の祖」呼ばれる事になる第八世・蓮如(れんにょ=存如の息子)(3月25日参照>>)が、比叡山延暦寺からの弾圧を受けて、京都の大谷廟堂(おおたにびょうどう)を襲撃され、京都を追われたのです。

その時、蓮如が真っ先に頼ったのが、ここ金森でした。

なんせ、当時、この金森を支配していた川那辺矩厚(かわなべつねあつ)は蓮如の愛弟子ですから・・・

もちろん、延暦寺がそれを許すわけはなく、大谷退去から2ヶ月後には、延暦寺の僧兵が、ここ金森にまで攻めて来て、矩厚以下、結集した門徒たちと激しい戦闘を繰り広げました。

この比叡山による弾圧の事を「寛正の法難」と呼び、この時の金森での抗戦が日本初の一向一揆とも言われます。

そして、ご存じのように、この後、畿内を転々とした蓮如が、やがて北陸へと向かい、越前(福井県)吉崎に落ち着いてから、あの加賀一向一揆という一大勢力へとなって行くのですが・・・
【最初の加賀一向一揆~文明一揆】>>
【本願寺蓮如の吉崎退去と下間蓮崇】>>
【長享一揆~高尾城の戦い】>>

とは言え、結局は、一揆のあまりの激しさに耐えかねた蓮如は、吉崎を退去し、一旦、河内出口(でぐち=大阪府枚方市の光善寺)に居を構えた後、3年後の文明十年(1478年)には、壮大な伽藍の山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を完成させて、念願の京都へと戻り、その後、本願寺を五男の第九世・実如(じつにょ)に譲った明応五年(1496年)には、大坂石山(いしやま=大阪市中央区)に自らの隠居所として建てた石山御坊(後の石山本願寺)で余生を送りました。

そして、時には対立する武将と衝突しながら、時には援助してくれる武将と同盟を結びながら、どんどん大きくなっていく・・・やがて第1十世・証如(しょうにょ=実如の孫)の頃には、「戦って討死した者は極楽浄土に行ける!」というような考えのもと、「進めば極楽、退けば地獄」のスローガンを掲げて、さらに一揆勢力を拡大し、各地に巨大な信徒の都を造りあげて行きつつ本拠を石山に移し、いよいよ、時は教団最盛期の第十一世・顕如(けんにょ=証如の長男)の時代に・・・

そこに立ちはだかったのが、ご存じ織田信長(おだのぶなが)・・・

とは言っても、本願寺と信長の関係も、最初は、さほど悪い物ではありませんでした。

しかし、永禄十一年(1568年)9月、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を試みる(10月18日参照>>)信長は、その行く手を阻む六角承禎(じょうてい・義堅)観音寺城の戦い(9月13日参照>>)で蹴散らして、続く三好三人衆をもち果たし(9月29日参照>>)またたく間に畿内を制圧・・・

ちなみに、この時の信長は、同じく上洛の際の通り道に当たる北近江(きたおうみ=滋賀県北部)を支配している小谷城(おだにじょう=滋賀県東浅井郡湖北町)浅井長政(あざいながまさ)にも「通らしてネ」の挨拶に行っていて、コチラは領内通過をOKしています(妹=お市っちゃんの旦那やしね)(6月28日の前半部分参照>>)

こうして、制圧が完了すると、次は矢銭(やせん=軍資金)の徴収・・・これは、(新しくやって来た)統治者に対して「反抗する意思はありませんよ」って事を示す意味もあるわけですが、この時の顕如はあっさりと大金を支払っています。

とは言え、間もなく、ともに上洛した義昭と信長の関係がギクシャクし始める(1月23日参照>>)、義昭は、かつてお世話になった越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(よしかげ)(9月24日参照>>)をはじめとする各地の武将に打倒・信長を呼びかけはじめるのです。

と、「これはチャンス!」とばかりに、信長の上洛で追放されていた三好三人衆も動きはじめる・・・

そんなこんなの元亀元年(1570年)、信長は、顕如に対して、石山本願寺の明け渡しを要求して来ます。

そう、実は、この石山本願寺が建っていた場所は、大阪湾大和川淀川を臨む上町台地で、摂津(大阪府北部)播磨(兵庫県)河内(大阪府南部)と接している交通の要所・・・この先、畿内から西へと勢力を延ばしたい信長にとっては、この場所はベストポイントだったんです。

なんせ、そこは、後に、あの豊臣秀吉(とよとみひでよし)が大坂城を建てちゃう、その場所ですから・・・

とは言え、これには、さすがの顕如も、
「ハイ、そうですか」
と、おとなしく退去するはずもなく・・・いや、逆に、ここで全面対決を決意するのです。

各地の信徒に向かって「打倒!信長」の檄文を発して蜂起を呼び掛け、自ら甲冑を身につけて、すでに、この8月26日から始まっていた信長VS三好三人衆野田福島の戦い(8月26日参照>>)に参戦するのです(9月12日参照>>)

これが、約10年に渡る石山合戦と呼ばれる戦いの始まり・・・

もちろん、今回の金森をはじめとする近江の信徒たちも、この顕如の呼び掛けに応じ、かの、信長上洛の際に本拠を追われていた六角氏の残党と手を結んだ近江一向一揆として周辺の各地を暴れ回り、信長への抵抗を繰り広げていくのです。

一方の信長は、去る6月の姉川の戦い(6月28日参照>>)で深追いしなかった浅井&朝倉勢に宇佐山(うさやま=滋賀県大津市)を攻められて(9月20日参照>>)重臣の森可成(もりよしなり)を失いつつも、堅田の戦い真っ最中の12月、時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇による合戦中止の綸旨(天皇の命令)が発せられて、一旦は和睦する事になります(11月26日参照>>)

しかし、開けて元亀二年(1571年)の2月、配下の秀吉の策略によって佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)を奪取して丹羽長秀(にわながひで)に守らせた信長の行動を皮切りに、それを見過ごせない浅井長政が、5月6日に、秀吉の守る横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を攻めた事で、約半年の和睦期間は終了して戦闘再開・・・

信長自身は、5月12日、すでに蜂起していた長浜一向一揆(5月16日参照>>)に対抗して津島(つしま=愛知県津島市)まで出陣しつつも、その2ヶ月後の8月18日には、いよいよ北近江へと出馬するのです。

横山城を拠点に、8月26日には小谷山本山(やまもとやま=同東浅井郡~伊香郡付近)の中間あたりまで進出して余呉(よご=伊香郡余呉町)木之本(きのもと=伊香郡木之本町)付近に放火・・・そこから北側の浅井勢と南側の一揆勢とを分断します。

続く8月28日に佐和山城へと進んだ信長は、佐久間信盛(さくまのぶもり)中川重政(なかがわしげまさ)柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀らに志村(しむら)小川(おがわ)(ともに滋賀県東近江市)を攻めるよう命じ、そこに潜む六角の残党と近江一揆勢の討伐を決行します。

まずは志村城に四方から攻め寄せて乱入し、またたく間に600ほどの首級を挙げますが、その勢いに驚いた城主の志村資則(しむらすけのり)は、ほどなく降伏開城・・・すると、その様子を知った小川城の小川孫一郎人質を差し出して降伏し、まもなく勝敗は決しました。

この戦いを志村攻め、または垣見(かきみ)の戦いと言います。

こうして志村・小川の両城を追われた六角の残党と近江一揆勢は、次に金ヶ森城かねがもりじょう=滋賀県守山市)川那部秀政(かわなべひでまさ)を頼って、信長に対抗しようとします。

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近江周辺の城の位置関係図

かくして元亀二年(1571年)9月3日、安土常楽寺(じょうらくじ=近江八幡市安土町)に布陣した信長が、一揆勢が立て籠もる金ヶ森城を攻撃したのです。

実は1週間ほど前の8月25日の時点で、先駆けとして、すでに佐久間信盛が金ヶ森に攻撃を仕掛けていたのですが、今回は、信長の出陣を待って、中川・柴田・丹羽らの大軍とともに再度の攻撃でした。

軍勢は、城への攻撃を仕掛けるとともに、付近の田の稲穂をすべて刈り取り、鹿垣(ししがき)を構築して城の四方を囲み、外部へと通じる出入口を、ネズミ一匹逃さぬよう固めて、外部との接触を一切遮断しました。

この徹底した攻めに戦意を焼失した川那辺秀政は、まもなく、人質を差し出して降伏したのでした。

こうして琵琶湖南東を鎮圧した信長は、すぐさま大津へと向かい、この、わずか9日後に有名な比叡山焼き討ちを決行します。

なんちゅー忙しさやねん!信長はん┐( ̄ヘ ̄)┌

ところで、ここですんなりと降伏&開城した事で、信長からは許されて命助かった川那辺秀政さん・・・

ところが、本願寺からは許してもらえず・・・おそらくは、その責任からか?この3ヶ月後の12月、本願寺の命令によって自害させられてしまうのです(12月9日参照>>)

ある意味、
魔王信長よりペナルティ厳しい戦国本願寺ww・・・
そんな時代背景も踏まえて、この後の比叡山焼き討ちの一件を見てみると、また違った見方ができるかも知れません。

【信長の比叡山焼き討ち】>>
【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】>>
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