2020年10月 7日 (水)

筒井順慶の吉野郷侵攻~飯貝本善寺戦

 

天正六年(1578年)10月7日、織田信長の石山合戦を受け、筒井順慶が吉野郷に侵攻すべく筒井城を出陣しました。

・・・・・・・・・

そもそも、織田信長(おだのぶなが)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)ハッキリと敵対するようになったのは元亀元年(1570年)9月・・・その2年前に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)奉じて信長が上洛した(9月7日参照>>)に1度は蹴散らしたものの、

再び舞い戻って将軍の仮御所を襲撃したり(1月5日参照>>)なんぞしていた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通らの討伐という大義名分で以って、彼らが起こした野田福島(のだ・ふくしま=同福島区)の戦い(8月26日参照>>)に、

途中から本願寺11代法主の顕如(けんにょ)率いる全国本願寺の総本山の石山本願寺が三好側として参戦して来た事に始まります(9月12日参照>>)

もちろん、本願寺側にしてみれば、それまでに、立地条件の良い石山本願寺が建つ場所を、信長が「明け渡してほしい」なんて言って来ていた事など、

すでに敵対気味だった両者の関係を単に表面化させただけの参戦であったわけですが、この時に顕如が全国の本願寺門徒に対して、対信長への蜂起を促した事から、この後、各地で信長に対抗する一向一揆(いっこういっき)が勃発するわけです。

そんな中で、大和(やまと=奈良県)吉野(よしの=奈良県吉野郡吉野町)にて本願寺門徒の聖地と崇められていたのが、飯貝(いいがい=奈良県吉野郡吉野町)本善寺(ほんぜんじ)でした。

本善寺は文明八年(1476年)に第8世=蓮如(れんにょ)上人(3月25日参照>>)が創建したお寺ですが、この当時に本善寺を預かっていたのは、その蓮如の孫にあたる証珍(しょうちん)上人

この方が、なかなか血気盛んな方で、上記の石山本願寺の参戦を知るや否や、自ら門徒率いて戦場に向かったり、顕如や教如(きょうにょ=賢の長男)から密命を受けて兵糧の運び込みをしたり、とかなり積極的なお方。

もともと本善寺のある、このあたりは、南北朝の時代に大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・もりながしんのう=後醍醐天皇の皇子)(7月23日参照>>)が籠って武装&城郭化していた場所で、本善寺の伽藍も、寺というよりは城郭のような堅固な造りになっており、寺の裏山には、イザという時に籠城可能な飯貝城(いいがいじょう)なる城もありました。

本善寺と飯貝城は、途中、大和の乱世(7月17日参照>>)のさ中に、山城南部の守護代(しゅごだい=守護の補佐役)木沢長政(きざわながまさ)などによって1度焼き払われたものの、天文十五年(1546年)には復興されており、こういう時には思う存分に戦える場所となっていたのでした。

Tutuizyunkei600a しかし、この状況を警戒していたのが、筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を本拠として大和に勢力を持つ筒井順慶(じゅんけい)です。

筒井順慶は、これまでは、戦国初の天下人となった三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣である松永久秀(まつながひさひで)大和平定の動き(11月24日参照>>)に反発し、

自身の支配圏を守るべく久秀と敵対関係になった(8月4日参照>>)ものの反信長では無かったわけですが、先の信長上洛の際に、久秀がいち早く信長傘下になって「大和は切り取り次第(武力で勝ち取った地は自分の物にしてOK)」の大義名分を信長からもらった事で、自然と「信長配下の久秀と戦う」という構図になっていたわけです。

ところが、その後、久秀が信長に反旗をひるがえした事で(8月4日参照>>)、その久秀と戦う=敵の敵は味方という感じで、徐々に合間を縫って信長と近しくなっていき、

天正二年(1574年)には信長に直接拝謁するとともに人質を出して臣従し、翌・天正三年(1575年)には、完全に信長配下の武将として、明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか)らとともに、この石山本願寺との合戦にも参戦するようになっていたのです。

そうなった以上、大和における本願寺門徒の一大拠点となっている本善寺を見過すわけにはいかなくなって来るわけです。

かくして天正六年(1578年)10月7日筒井順慶は配下の諸将を率いて筒井城を出立し、その日のうちに十市(といち・とおち=奈良県橿原市十市町)まで進み、

すでに配下に取り込んでいる大和の国人衆=戒重(かいじゅう)大仏供(だいふく)(ともに現在の桜井市付近が本拠)「不穏な動きが無いか?」を探りつつ、かつ、彼らを威嚇しつつ、芦原峠(あしはらとうげ=奈良県高市郡高取町)を越えて吉野郷へと入ったのでした。

この天正六年(1578年)という年は、まさに石山合戦真っ盛りの年・・・2年前の第1次木津川口の海戦で、村上水軍(むらかみすいぐん)の戦い方に翻弄され(7月18日参照>>)、まんまと石山本願寺に兵糧を運び込まれてしまった信長が、

リベンジとばかりに全面鉄で覆われた鉄甲船(てっこうせん)を築造し(7月14日参照>>)、そのお披露目パーティ=観艦式を行ったのが、まさに、この1週間前の天正六年(1578年)9月30日でした(9月13日参照>>)

おそらくは、そんなこんなを意識しての、今回の順慶の出陣・・・

さらに進軍する順慶は、10月11日には、飯貝をはじめ、下市(しもいち)上市(かみいち=いずれも吉野郡吉野町)など、吉野一帯に放火し、周辺をことごとく焼き払ったのです。

先に書いた通り、イザという時には徹底抗戦の覚悟であった飯貝周辺の本願寺門徒たちも、集落を焼き払われ、その徹底した武力の前になす術なく、次第に退けられていきます。

吉野における本願寺門徒を抑えた事を確信した順慶は下市周辺の、監視のために(とりで)を構築しつつ、さらに奥へと進軍し、黒滝の雫の里(しずくのさと=奈良県吉野郡黒滝村中戸)まで進出します。

しかし、この地域の地侍たちは広橋城(ひろはしじょう=吉野郡下市町)に立て籠もったり、賀名生(あのう)檜川(ひかわ=ともに奈良県五條市)の郷民も招き入れて激しく抵抗しました

しかし・・・やがて主力となっていた侍たちが次々討死していく中で、皆、一様に武器を捨てて順慶の軍門に下る事となったのです。

こうして、吉野一帯は順慶の支配下に・・・これは、つまりは順慶を介して織田信長が間接支配をする地という事になったのです。

すぐ後の11月には、鉄甲船デビューの第2次木津川口の海戦があり(11月6日参照>>)、翌・天正七年(1579年)には石山本願寺に同調して信長に反旗をひるがえした荒木村重(あらきむらしげ)有岡城(ありおかじょう=兵庫県伊丹市)も開城され(10月16日参照>>)

さらに、信長の働きかけにより正親町天皇(おおぎまちてんのう)勅命(ちょくめい=天皇の命令)を出して顕如に講和を呼びかけた事で、天正八年(1580年)、10年に及ぶ石山合戦が終結することになります(8月2日参照>>)
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2020年10月 1日 (木)

上杉謙信の富山城尻垂坂の戦い~裏で糸ひく武田信玄

 

元亀三年(1572年)10月1日、武田信玄の意を受けて蜂起した加賀・越中の一向宗徒が占拠した富山城を、尻垂坂の戦いに勝利した上杉謙信が落として対抗しました。

・・・・・・・・

神通川(じんつうがわ)挟んで西に神保長職(じんぼうながもと)、東に椎名康胤(しいなやすたね)などがいたものの、未だ一国を統括するほどの大物がいなかった戦国の越中(えっちゅう)富山・・・

Uesugikensin500 そこに祖父の代から度々遠征しては、ここらへんを配下に治めたい越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=輝虎・長尾景虎)と、それを阻止しておきたい甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)が、何度も川中島で戦い(8月5日参照>>)ながらも、一方で、その都度、いずれかの越中の武将に味方しつつ代理戦争を繰り返しておりました。
●永禄三年(1560年):増山城&隠尾城の戦い>>
●永禄十一年(1568年):松倉城攻防戦>>

そんな中、上記の永禄十一年(1568年)の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)攻防の直後、前年に美濃(みの=岐阜県)を手に入れた(8月15日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が次期将軍候補の足利義昭(よしあき=義輝の弟)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)あたりから、すでに信濃(しなの=長野県)を手に入れた信玄は、これまで北東に向かっていた矛先を南西に向け今川義元(いまがわよしもと)を失って衰退気味の駿河(するが=静岡県東部)シフトチェンジするのです(12月12日参照>>)
(信長の仲介で、信玄と家康が同時に攻め込み、今川亡き後は信玄が駿河、家康が遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する約束ができていたとされる)

一方の謙信は元亀二年(1571年)、3度目の攻撃で、やっと松倉城を陥落させたものの、これまで同盟を結んでいた相模(さかみ=神奈川県)の北条が、北条氏康(ほうじょううじやす)から息子の北条氏政(うじまさ)に代替わりした事で謙信との同盟を破棄して信玄と同盟を復活させたので、謙信は北条と敵対する事になります。

そこで信玄は、謙信傘下である神保長職の寝返り工作を実施するとともに、奥さん=三条の方(さんじょうのかた=妹が本願寺顕如の嫁)の縁をフル活用して加賀&越中の本願寺宗徒を焚きつけて一向一揆(いっこういっき)を蜂起させて、謙信の行方を阻もうとしたのです。

これを受けて、信玄の勧誘に応じずに主君=長職の寝返りに反発して謙信に忠誠を誓う一部の神保家臣は日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)に立て籠もり抵抗しますが、元亀三年(1572年)6月15日、一揆の勢いに押されて日宮城は開城となり(6月15日参照>>)、さらに神通川を越えた富山城(とやまじょう=富山県富山市)をも一揆勢が摂取してしました。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

信玄が関与しようがしまいが、もとより父の代から戦って来た一向一揆・・・西への道を阻む彼らを撃つべく、上杉謙信率いる約1万の軍勢常願寺川(じょうがんじがわ)近くの新庄に陣を構えたのは元亀三年(1572年)8月17日の事でした。

対する一揆の軍勢はわずかに4千・・・一向一揆の総指揮を取る瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)の僧=杉浦玄任(すぎうらげんとう)は8月20日付けの書状にて、
「八月十八日に謙信が新庄に陣を置いたので我らの大半富山に陣取りましたが、両者の距離は一里(約4km)ばかりしかありません。
一騎でも二騎でも、とにかく早く支援する事が大事やと思うてください」
と、未だ加賀(かが=石川県南部)にいる味方に援軍の要請をしています。

この間にも謙信は、ぬかりなく・・・
「留守の間に、信玄を越後へ侵入をさせてはならない」
とばかりに、重臣の直江景綱(なおえかげつな)らの精鋭に居城の春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)の警備を厳重にするよう釘を刺しております。

そんな中、最初の衝突は富山城と新庄城(しんじょうじょう=富山県富山市新庄町)の間にある尻垂坂(しりたれざか=富山県富山市西新庄)にて起こります。

そこは、当時、びや川(神通川と常願寺川の間を流れる川)の堤に向かう長い坂道となっており、当日は、ここんところの降り続いた雨のせいで、一帯の地面がぬかるんで深い泥田のようになってしまっていたので、一揆勢は、足をとられ、少々動きが止まったのです。

そこへ上杉勢が襲いかかり、激しい戦いとなったため、瞬く間にびや川は血で真っ赤に染まったと伝えられています。

尻垂坂の戦いは、上杉謙信の勝利となったのです。

戦場のそばで首実検をした謙信は、大きく掘った穴の中に討ち取った敵の首を埋めて、その上に石塔を建てて供養したと伝えられていますが、それが現在の西新庄にある正願寺(せいがんじ)というお寺の近くに鎮座する「薄地蔵(すすきじぞう)と呼ばれるお地蔵様なのだとか・・・

現在は、この付近に坂はなく平地となっていますが、この薄地蔵がある事で、この付近が尻垂坂の戦いの古戦場とされています。

この尻垂坂の敗北は一向一揆に大きなダメージを与え、多くの者が軍列から離脱し、隊の分裂がそこかしこで起こり、一向一揆に味方していた武将たちの中にも謙信に降伏する者が出始めます。

この時、一揆と信玄の連絡役として活躍していた飛騨(ひだ=岐阜県北部)高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)主=江馬輝盛(えまてるもり)(10月27日参照>>)も、今回の尻垂坂の戦いをキッカケに、9月17日に上杉の陣を訪れて降伏し、以降は謙信に従うようになります。

この江馬輝盛と同じように、9月17日頃から、続々と一揆勢が引き上げていった事がうかがえ、細かな事は不明なれど、これにて富山方面に展開した一向一揆は潰滅状態になり、富山城も謙信の物になったものと思われます。

なので、今回の尻垂坂の戦いは富山城の戦いとも呼ばれます。

元亀三年(1572年)10月1日付で、味方であった勝興寺(しょうこうじ=富山県高岡市)に発した武田信玄&勝頼(かつより=信玄の四男)父子の連署状で、 
「越中の富山城落城と聞いて不満に思ってます。
でも、戦いに勝敗はつきものなので仕方ないですが、今後も加賀&越中での対陣には備えを怠らないようにしてください。
僕らも先陣が越中との国境まで侵入したのですが、途中で私(信玄)が病気になってしまい、そこから先への侵攻をためらっていたところ、たまたま敵(謙信)も兵を退けたので、わが軍も帰陣しました。
今は病気もよくなって、すっかり元気ですので、次回は必ず信玄&勝頼父子して出馬しますので、越中の国を太平にされるよう、命を惜しまず頑張ってください
てな事を書いています。

それにしても、
書かなくても良い病気の事を、わざわざ書くのは、相当重かったのか?本当に完治したのか?微妙なところですよね~

でも、少しは良くなって落ち着いていた事は確かでしょうね。

なんせ、この手紙の2日後の10月3日、信玄は本拠の甲斐を出発して、「上洛するつもりだったのか?」との噂もあるあの西上作戦(せいじょうさくせん)(2008年12月22日参照>>)を開始するのですから・・・

10月13日には一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(参照>>)
10月14日からは二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市)(参照>>)
10月22日には別動隊が仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)(参照>>)
そして12月には、三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)をコテンパンにする、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区三方原町)(12月22日参照>>)と続き、
翌・元亀四年(天正元年・1573年)の1月には野田城(1月11日参照>>)と、どんどん西に・・・

一方、謙信と一向一揆の関係は・・・
、翌・元亀四年(天正元年・1573年)の3月に、謙信が春日山城に戻ったのを見計らって、再びの信玄の声掛けに応じた一向一揆は、謙信と結んだ和睦を一方的に破棄して富山城を奪い返します。

これに激怒した謙信が再び富山城を奪い返すものの、謙信が越後に戻ると、またまた一向一揆が・・・てな事が、しばらく繰り返されるのですが・・・

ところが、そんな中、信玄率いる武田の本隊は、上記の野田城の戦いを最後に西上作戦をストップして帰路につきます。
(別動隊は3月に岩村城を落としていますが…参照>>

そうです。
ご存知のように、この天正元年(1573年)の4月に信玄が病死するのです(4月12日参照>>)

これによって、この後の戦国の構図が変わっていきます

この尻垂坂の戦いの時には、
「先に一揆と和睦しといて、その間に信玄を殺ってしまいなはれ。
信玄がおれへんよーなったら、何もせんでも一揆は自然消滅しますわ!」
などと、謙信に応援メッセージを送ってくれていた織田信長が、

7月には将軍=足利義昭の籠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)を落とし(7月18日参照>>)
8月には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月20日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(8月28日参照>>)を葬り去り、さらに、その直後から始まった越前一向一揆とのゴタゴタを天正三年(1575年)8月に一せん滅(8月12日参照>>)・・・

これには、さすがの謙信も反応・・・なんせ、越前の先は加賀&越中ですから・・・

かくして天正四年(1576年)3月、富山への侵攻を開始する謙信。
天正四年(1576年)
 3月17日=富山へ侵攻>>
 8月4日=飛騨へ侵攻>>
天正五年(1577年)
 9月13日=七尾城攻略>>
 9月18日=手取川の戦い>>
 9月24日=能登平定~松波城の戦い>>

この間の天正四年(1576年)の5月には、ここで、こんなに戦った一向一揆=本願寺と和睦を結んで(5月18日参照>>)、いわゆる『信長包囲網』の一翼を担う事になるのですから、このあたりから謙信は、完全に、ターゲットを信長に絞ったようですね。
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2020年8月 4日 (火)

奈良の覇権を巡って…松永久秀VS筒井順慶~辰市城の戦い

 

元亀二年(1571年)8月4日、奈良の覇権を巡って戦った松永久秀と筒井順慶による辰市城の戦いがありました。

・・・・・・・

筒井順興(つついじゅんこう)筒井順昭(じゅんしょう)の父子2代に渡って、群雄割拠する大和(やまと=奈良県)の国衆たちを抑え込み、
 ●【井戸城・古市城の戦い】参照>>)
 ●【貝吹山城攻防戦】参照>>)
Tutuizyunkei600a ほぼ、大和統一を果たした感のあった筒井氏でしたが、その順昭が天文十九年(1550年)に病死した事により、息子の筒井順慶(じゅんけい)が、わずか3歳で後を継ぐ事に・・・

そんな中、永禄元年(1558年)の白川口(北白川付近)の戦い(6月9日参照>>)にて第13代室町幕府将軍=足利義輝(あしかがよしてる)と和睦し(11月27日参照>>) 、戦国初の天下人となった三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の家臣である松永久秀(まつながひさひで)が、その翌年から大和平定に動き出します(11月24日参照>>)

Matunagahisahide600a その永禄二年(1559年)には信貴山城(しぎさんじょう=奈良県生駒郡平群町)を大幅改修して拠点とし、永禄七年(1564年)には多聞山城(たもんやまじょう=奈良県奈良市法蓮町)を築城して、奈良盆地に点在した諸城を次々と攻略していく(7月24日参照>>)久秀でしたが、一方で主家の三好は、長慶の兄弟たちや長慶本人が次々と亡くなった事で徐々に衰退(5月9日参照>>)・・・

さらに、三好長慶の後を継いだ甥っ子=三好義継(よしつぐ)をサポートする一族の三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が永禄八年(1565年)、将軍(義輝)暗殺(5月19日参照>>)という暴挙にでました。

この時、かの三好三人衆と同盟を結んでした筒井順慶は、この年の11月に久秀が入っていた飯盛山城(いいもりやまじょう=大阪府大東市・四條畷市)を攻撃しますが、これを受けた久秀に居城の筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)を急襲され(11月18日参照>>)順慶らはやむなく城を退去します。

本拠の筒井城を追われた順慶は、筒井方の布施(ふせ)の居城=布施城(ふせじょう=奈良県葛城市寺口字布施)に入って再起をうかがいますが、そのチャンスは意外に早く・・・翌永禄九年(1566年)、かの三好義継が(さかい=大阪府堺市)にて武装蜂起した事を受けて、久秀が奈良を留守にしたスキを狙って筒井城を奪回したのです。

一方、堺にて三好義継と和睦した久秀は、和睦承諾によって三好三人衆と決裂して久秀側の人となった三好義継を連れて信貴山城へと帰還・・・これを受けた順慶&三好三人衆に摂津池田城(大阪府池田市)の城主=池田勝正(いけだかつまさ=摂津池田城主)らを加えた連合軍が奈良近辺の大安寺(だいあんじ=奈良県奈良市)白毫寺(びゃくごうじ=同奈良市)等に布陣、一方の久秀も東大寺(とうだいじ=奈良市)戒壇院(かいだんいん)転害門(てがいもん)に軍勢を配置します。

これが永禄十年(1567年)10月10日に大仏を炎上させてしまう、あの東大寺大仏殿の戦い(10月10日参照>>)という事になります。
(ちなみに火を放ったのが誰か?は特定されていません)

この合戦の最中に三好三人衆の配下であった飯盛山城主の松山安芸守(まつやまあきのかみ)が久秀側に寝返ってくれた事や、大仏炎上で大仏殿近くに布陣していた三好勢が総崩れとなった事で、とりあえず、この合戦には勝利した久秀でしたが、未だ筒井&三好三人衆の勢いは強く、何かと押され気味だった久秀・・・

そんなところに登場して来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)でした。

ご存知、永禄十一年(1568年)9月・・・三好三人衆に暗殺された将軍=義輝の弟である足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じての上洛です(9月7日参照>>)

この時、信長に抵抗した三好三人衆は畿内を追われ、三人衆の一人である三好長逸(みよしながやす)の物だった芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)に入った信長のもとへ、三好義継とともに名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを手土産に謁見した久秀は、息子二人を人質として信長に差し出し、「手柄次第切取ヘシ」=つまり「勝って得た大和の地は久秀の物」との言葉とともに2万援軍を約束され、織田の傘下となりました。

一方、対信長に関しては先を越されてしまった筒井順慶・・・同盟を結んでいた三好三人衆は崩壊し、これまで配下に収めていた大和の国衆も我先に離反して、中には公然と松永方に寝返る者も現れる始末。

もはや風前の灯となる中・・・てか、信長が芥川山城に入ったのが10月2日ですから、その、わずか4日後の10月6日、大きな後ろ盾を得た久秀が筒井城へと攻め寄せた事で、その2日後の10月8日、順慶主従は、やむなく福住(ふくすみ=奈良県天理市福住町)を目指して落ちて行ったのです。

とは言え、順慶もまだまだ屈せず・・・大和高原あたりに潜んで、しきりにゲリラ戦を展開しつつ、自身の存在をアピールしておりましたが、そんな順慶に一筋の光が射すのが永禄十二年(1569年)12月・・・

かつて松永久秀が大和に侵攻した時、いち早く味方につき、娘を久秀の重臣の息子に嫁がせて、その親密ぶりを増していた十市城(とおちじょう=奈良県橿原市)十市遠勝(とおちとおかつ)が、この年の10月に亡くなった事を受けて、十市家の重臣たちが、更なる松永との親密を願って、その十市城を久秀に明け渡す約束をしたのですが、当然、それに反対する重臣もあり、十市の家中が乱れていたのです。

そこをチャンスと見た順慶が、12月9日、500の筒井衆を派遣して、あれよあれよと言う間に十市城を占拠・・・身の危険を感じて今井(いまい=橿原市今井町)に退去した重臣たちであはりましたが、当然、そこは松永の家臣たちとともに、速やかな変換を要求しますが、筒井方が、そんな物に応じるわけなく、翌元亀元年(1570年)の7月には順慶自らが十市城に入り、ここを有力拠点の一つとする事にしたのです。

しかも、この間の筒井勢は、以前、久秀に奪われていた窪之庄城(くぼのしょうじょう=奈良県奈良市)を奪回したり、郡山城(こおりやまじょう=奈良県大和郡山市)に迫る松永勢を撃退したりしています。

風前の灯だった順慶が、かなり挽回して来た感ありますね~
と言うのも、実は、この時期の久秀は、コチラ=奈良での戦いに、多くの兵を投入する事ができなかったようなのです。

そう・・・信長上洛のアノ時に、
『「勝って得た大和の地は久秀の物」との言葉とともに2万援軍を約束され、織田の傘下となった』
と書きましたが、…という事は、その逆もアリ・・・

ご存知のように、この元亀元年(1570年)という年・・・信長は、あの金ヶ崎(かながさき=福井県敦賀市)の退き口(4月)から態勢立て直しの姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月)という、その人生の中でも屈指の忙しい時期(【金ヶ崎から姉川までの2ヶ月】参照>>)だったわけで、当然、久秀も信長の戦いに、自軍の兵を大量に派遣せねばならならず、そのぶん、奈良への兵の投入は難しくなる。

で、そんなこんなを不満に思ったのかどうか?は定かではりませんが、ちょうど、この年の5月頃に、久秀は織田傘下から離反して、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)の第11代法主=顕如(けんにょ)と結び、かつて東大寺で相対したあの三好三人衆とも仲直り・・・

なんせ信玄は、あの今川義元(いまがわよしもと)亡き後の駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を、信長の口利きで三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)半分っこする約束で連携して攻め進んだものの、途中から、その約束がウヤムヤになったために永禄十二年(1569年)7月の大宮城の戦いのあたりから、信長&家康に激おこ中・・・【信玄の駿河侵攻~大宮城の戦い】参照>>)

三好三人衆は、上記の通り、あの永禄十一年(1568年)の義昭上洛時に、一旦、信長に蹴散らされたものの、翌永禄十二年(1569年)1月には義昭の仮御所である本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃したりなんぞしてゴチャゴチャやり始め(【本圀寺の変】参照>>)、この元亀二年(1571年)6月には、姉川の戦いのために信長の主力部隊が畿内を留守にした事をチャンスと見て、池田勝政の重臣だった荒木村重(あらきむらしげ)(5月4日参照>>)をけしかけて池田城を乗っ取らせ、そのドサクサで挙兵して野田・福島(大阪市福島区)に砦を築いて信長に対抗しようとしていたのです。

ご存知のように、この野田福島の砦を信長が攻撃するのが、この後に起こる元亀元年(1570年)8月26日の野田福島の戦い(8月26日参照>>)で、この開戦から半月後に本願寺顕如が、この野田福島の戦いに参戦して来て(9月14日参照>>)、ここから10年の長きに渡る石山合戦がはじまる・・・

というわけですので、
そんな信玄&三好三人衆&本願寺と結んだ=という事は、この先、いわゆる「信長包囲網」と称されるあの団体に、久秀も乗っかっちゃった事になるわけで・・・

一方、こんな周辺情勢を見ながらも、目下の敵を松永久秀一本に絞ってる筒井順慶は、松永手薄の間に、久秀の多門山城により近い場所の新たな攻撃拠点を設けようと、筒井城より、さらに北にあたる位置に新しく辰市城(たついちじょう=奈良県奈良市東九条町)を構築するのです。

おそらく、この元亀二年(1571年)の7月3日とも8月2日とも言われる日付にて完成したおぼしき辰市城・・・

さすがに、これには松永久秀も、すぐに反応します。

実は、ここんところの久秀は、すでに大和は、ほぼほぼ平定したつもりで、合戦に勤しむというよりは、乱世ですさんだ領民たちの心のケアの方に重きを置いて、父子で春日大社に五穀豊穣祈願なんぞにいそいそと出かけていたりしたのですが、筒井順慶がその気なら迎え撃つしかありません。

かくして元亀二年(1571年)8月4日、主力部隊を率いて信貴山城を出陣した久秀は、河内若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市若江南町)の三好義継と合流し、大安寺に着陣すると、即座に辰市城への攻撃にかかります。

戦いは、はじめ松永方が優勢に事を進め、その鉄砲の音は天地も振動するかの如く鳴り響き、塀や堀を越え、城内へと松永勢が乱入するまでに至りましたが、やがて城側に郡山城からの援軍が加わり、さらに福住中定城(ふくすみなかさだじょう=奈良県天理市)福住順弘(ふくずみ じゅんこう=順慶の叔父)らが加勢にかけつけた事により、形勢は逆転。

長い戦いが終わってみれば、松永方は500もの首級を取られ、負傷者も数知れず・・・残った者は、その場に槍や刀を撃ち捨てて、多門山城に戻るしかありませんでした。

その日の『多門院日記』では
「大和で、これほど討ち取られたのは、はじめてだ」
と、その驚きを隠せません。

勝利した順慶は、自軍にも相当の死傷者を出したものの、この時に勝ち取った首級のうち240を信長のもとに献上しています。

勢いに乗った順慶は、この後、筒井城を奪回し、松永傘下だった高田城(たかだじょう=奈良県大和高田市)をも奪い取っています。

ただし、筒井順慶が正式な信長の傘下となるのはもう少し先・・・

このあと・・・
あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)で徳川を破り、さらに西へと進んでいたはずの武田信玄が、天正元年(1573年)1月の野田城(のだじょう=愛知県新城市)の攻防戦(1月11日参照>>)を最後に動きを止め(4月12日に病死)、7月には信長に反旗をひるがえした将軍=義昭が鎮圧され(7月18日参照>>)、8月20日には越前(えちぜん=福井県北東部)朝倉(あさくら)(8月20日参照>>)、28日には北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井(あざい)立て続けに滅亡し(8月28日参照>>)、11月には、若江城の三好義継が切腹に追い込まれ(11月16日参照>>)・・・

さらに、この間にも、信長の命により筒井順慶による多門山城への攻撃が続けられていた事もあって、この天正元年(1573年)12月26日、ついに久秀は多門山城を開城し(12月26日参照>>)、信貴山城へと退去します。

とは言え、年が明けた天正二年(1574年)1月早々、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)を訪れ、名刀=不動国行(ふどうくにゆき)を献上した久秀を、信長は許し、その後は、この多聞山城に明智光秀(あけちみつひで)など、織田の家臣が城番として入る事によって、大和と河内一帯は、一時的に織田による直轄地的な治められ方になります。

この年の3月に、信長は東大寺(とうだいじ=奈良県奈良市)正倉院蘭奢待(らんじゃたい)を削り取りに来てます(3月28日参照>>)ので、やはり、蘭奢待の削り取りは、信長が「自分が奈良を治めている」という事を内外に示す意味であったのではないか?と、個人的には思っています。

しかし、さすがクセ者・久秀さん・・・おとなしく、このまま信長傘下でいるわきゃありません。

このあと天正四年(1576年)に越後(えちご=新潟県)の雄=上杉謙信(うえすぎけんしん)が石山本願寺と和睦して(5月18日参照>>)、いわゆる「信長包囲網」に参加して来た事で、またもやウズウズするのですが・・・
そのお話は、天正五年(1577年)10月3日の【信貴山城の戦い】でどうぞ>>m(_ _)m
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2020年7月 7日 (火)

宇喜多直家の備中金川城攻略戦~松田氏滅亡

 

永禄十一年(1568年)7月7日、宇喜多直家が松田元輝の備前金川城を攻め落としました。

・・・・・・・

周防(すおう=山口県の東南部)の名門=大内(おおうち)とを倒し、西国の雄となりつつあった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)の援助を受けた三村家親(みむらいえちか)が、猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)庄為資(しょうためすけ=荘為資)を打ち破り、松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)にて、事実上の備中(びっちゅう=岡山県西部) の覇者となったのは永禄二年(1559年)の事でした(2月15日参照>>)

しかし、その家親が永禄九年(1566年)に、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下であった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまったため、後を継いだ家親の次男=三村元親(もとちか)は、兄=元資(もとすけ)とともに父の弔い合戦をすべく、翌永禄十年(1567年)に直家の明禅寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市・明善寺城)に夜襲をかけますが、これが、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれるほどの三村側の敗退となって(7月14日参照>>)、その追撃戦で兄も討死にしてしまったのでした(元資の死に関しては諸説あり)

Ukitanaoie300a 一方、この勝利に勢いづいた宇喜多直家は、翌永禄十一年(1568年)、念願だった美作(みまさか=岡山県北東部)の攻略に乗り出そうとしますが、そこで、本拠である備前から旭川(あさひがわ)をさかのぼって美作に至る、その道筋にあったのが金川城(かながわじょう=岡山県岡山市:玉松城とも)に狙いをつけます。

かつて、このあたりは播磨(はりま=兵庫県西南部)を含む備前美作守護(しゅご=現在の県知事みたいな?)を務める室町幕府の大物=赤松満祐(あかまつみつすけ)の治める地でしたが、ご存知のように、この赤松満祐は、あの将軍暗殺劇=嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)を起こした人・・・

その主人殺しの討伐隊として名を高め、赤松失脚後に、その所領の多くを獲得したのが山名宗全(やまなそうぜん=持豊)で、その後にはあの応仁の乱(5月20日参照>>)西軍総大将となるほどの盛隆を極めるわけですが、その応仁の乱のゴタゴタの中で満祐の弟の孫=赤松政則(あかまつまさのり)が功を挙げて(5月28日参照>>)復権を果たした事から、乱の後、このあたりは赤松VS山名の領地争奪戦となっていた場所だったのです。

その当時に、赤松&山名の間に立って揺れ動いていた金川城主の松田元成(まつだもとなり)(12月25日参照>>)が、城を堅固な物に作り替えた事で、やがて両者の戦いも終焉を迎えた(2018年4月7日参照>>)元成から数えて5代目となる戦国真っただ中の松田元輝(もとてる=元堅)の頃には、浦上の天神山城と並ぶ大きな城となり「西備前一の堅城」と称されるようになっていたのでした。

もちろん、今回の宇喜多直家も、日頃から金川城の松田の事は警戒していて、元輝の息子の松田元賢(もとかた)に、自らの娘を嫁がせて平穏を装っていたわけですが、ここに来て松田元輝が日蓮宗(にちれんしゅう)に帰依するあまり、寺に引き籠って政務を疎かにしたり、他宗の寺院に改宗を迫り、逆らえば容赦なく焼き討ちにしたのだとか・・・そのため、家臣や領民からの不満を買い、領内も荒れていたのです。

そこに目をつけた直家は、永禄十一年(1568年)7月、このチャンスに金川城ごと松田氏を倒して、美作侵攻への前線基地にしようと、まずは松田配下の虎倉城(こくらじょう=岡山県岡山市)の城主=伊賀久隆(いがひさたか)に対し、寝返り工作を仕掛けます。

意外にも(…というか、すでに主君と家臣の間に亀裂が生じていたと思われ)、すんなりと直家の招きに応じた伊賀久隆は、息子の伊賀家久(いえひさ)とともに先手を引き受け、直家は100騎ばかりの手勢を率いて矢原村(やばらむら=同岡山市北区御津矢原周辺)に陣を敷きます。

まずは7月5日の夜・・・かねてより内通工作をかけていた一部の城兵の招きによって、密かに少数の精鋭を城内の一角に入れ、タイミングを見計らって一斉に鬨(とき)の声を挙げさせました。

この時、城主=元輝は城を留守にしていたため、代わって、家老の横井又七郎(よこいまたしちろう)が城内の指揮をとって、とにかく防備を固めますが、攻める伊賀父子は鉄砲を撃ちかけながら、どんどんと本丸の方へ・・・

他所にて、金川城の急を聞いた元輝が、慌てて帰城し、包囲が手薄だった搦手(からめて=裏門)から入城すると、当主の帰還に城兵の士気も挙がり、城内からも鉄砲での応戦を開始します。

完全なる不意打ちを喰らったものの、城内にて、すばやく籠城戦の采配を振る元輝でしたが、今以って、伊賀父子がなぜに?城攻めをしてくるのかわからない・・・てか、納得がいかない。

そこで元輝は櫓(やぐら)に上り、伊賀父子に、その真意を問います。

しかし、もはや合戦のさ中・・・やがて、それは、お互いに罵声を浴びせ合う言葉合戦となって行きますが、そんな中、寄せ手の兵士が放った銃弾が元輝を貫き、無残にも元輝は櫓から転げ落ちて命を失ってしまいました。

父の死を受けて、息子の元賢が指揮を取り、籠城戦を続けますが、この頃になると宇喜多直家の本隊も加わり、本丸の四面を包囲して全軍で以って攻撃を仕掛けて来ます。

とは言え、先に書かせていただいた通り、金川城は屈指の堅城・・・丸一日多勢の猛攻に耐えて、なかなか城は落ちずに、城兵&寄せ手ともに多くの死者を出しました。

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↑金川城攻防の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

なれど、所詮は多勢に無勢・・・
永禄十一年(1568年)7月7日未明、城が長く耐えられない事を悟った元賢は、弟の 元脩(もとなが)とともに城を脱出します。

大将がいなくなった金川城からは、多くの兵が逃亡したと言いますが、譜代の家臣たちは城に残り、城を枕に討死覚悟で応戦を続けましたが、やがて城戸を破って寄せ手が本丸に突入すると、残っていた者たちも全員討死し、ここに金川城は落城しました。

城落ちした松田兄弟のうち、兄=元賢は、西の山伝いに下田村(しもだむら=同岡山市北区)まで逃走したところを伊賀方の伏兵に見つかり、「もはやこれまで!」と敵軍の真っただ中に突入し、壮絶な討死を遂げました。

ちなみに、元賢の奥さんとなっていた宇喜多直家の娘は、落城のさ中に自害して果てたのだそう・・・

一方、弟の元脩は、再起を図ろうと自らの居城であった富山城(とみやまじょう=同岡山市北区)に向かいますが、すでに、ここも落ちて宇喜多&伊賀勢に占拠されてしまっていたため、やむなく備中方面へと逃走し、後に鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)主の山名豊国(とよくに=宗全から5代目)に仕えて、その家臣として血脈を繋いだと言いますが、残念ながら戦国大名としての松田氏は、ここに滅亡しました。

なので、この地域では、長らく七夕祭は行われなかったのだとか・・・(落城が7月7日なのでね…)

んん??って事は、松田さん、けっこう領民に慕われてますやん!
元輝さんがムチャクチャやって「領内が荒れていた」って話は??

ま、今回のお話は、ほぼほぼ『備前軍記』に沿った内容ですので、最終的に備前の覇者となる宇喜多寄りになっているのかも知れませんね。

そう、この戦いの後は、しばらくは毛利やら尼子(あまご)やら、なんやかんやがくんずほぐれつの備中兵乱(びっちゅうひょうらん)>>があり、その後、その兵乱のゴタゴタで主家の浦上を倒した宇喜多直家が(【天神山城の戦い】参照>>)、東から進んで来た織田信長(おだのぶなが)の傘下となって、西国の雄=毛利と戦う事になるのですが、そのお話はコチラ↓で。。。
  ●宇喜多VS毛利~作州合戦>>
  ●宇喜多VS毛利~祝山合戦>>
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2020年6月24日 (水)

小牧長久手の余波&越中征伐の前哨戦~前田利家と佐々成政の阿尾城の戦い

 

天正十三年(1585年)6月24日、小牧長久手の戦いの後、前田利家に寝返った菊池武勝が守る阿尾城を、佐々成政配下の神保氏張が攻撃しました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)(本能寺の変>>)亡き後、信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄)を取り込んで、三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)と信孝を推す柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)に破った(賤ヶ岳>>)(信孝自刃>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)でしたが、

やがて、その秀吉の勢いを警戒するようになった信雄(3月6日参照>>)徳川家康(とくがわいえやす)を頼り、両者が「秀吉VS(信雄+家康)」の構図で、天正十二年(1584年)3月の亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)の攻防(3月12日参照>>)を皮切りに始まったのが、一連の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市付近)の戦いです。

そして、それに連動するように北陸でも「秀吉派VS(信雄+家康)派」による闘いが展開されたのです。

織田政権下で加賀(かが=石川県南部)金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市丸の内)にあった秀吉派=前田利家(まえだとしいえ)と、越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)にあった信雄&家康派=佐々成政(さっさなりまさ)の戦いです。
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>

しかし、その年の11月に戦いの看板であるべき信雄が、単独で秀吉との講和を成立させてしまったために、ハシゴをはずされた形となった家康も兵を退くしかなく、勝敗もウヤムヤなまま戦いは小牧長久手は終結してしまいます(11月16日参照>>)

納得いかない佐々成政は、真冬の立山・北アルプスさらさら越え浜松城(はままつじょう=静岡県浜松市)の家康に会いに行き、徹底抗戦を訴えますが(11月11日参照>>)、家康がその願いを聞き入れる事はなく、信雄にも迷惑がられて、空しく富山城へと戻ったのでした。

ちなみに・・・
俗説では、成政が、このさらさら越えで富山城を留守にしている間に、例の「黒百合伝説」(浮気したとして成政が愛人を成敗した事件:くわしくは5月14日の後半で>>)が起こった事になってますが、これは、あくまで伝承です。

Maedatosiie とにもかくにも、小牧長久手も終ったし、冬の北陸は雪深い・・・って事で、一旦、前田VS佐々の戦いも休戦となったわけですが、年が明けた天正十三年(1585年)の春、先に仕掛けたのは前田利家の方でした。

その年の2月に、利家配下の村井長頼(むらいながより)が1千余りの兵を率いて、成政側の重要拠点である蓮沼城(はすぬまじょう=富山県小矢部市)を急襲し、これを焼き討ちにしたのです。

Sassanarimasa300 もちろん、成政も黙ってはおらず、翌3月、この報復として鷹巣城(たかのすじょう=石川県金沢市湯桶町)を攻撃しますが、この同時期に展開されていた秀吉の紀州征伐(3月28日参照>>)での連勝の勢いを背負う利家は、さらに加賀と越中の国境に近い鳥越城(とりごえじょう=津藩町鳥越)を攻撃します。

強気の利家は、さらに成政配下の阿尾城(あおじょう=富山県氷見市)を落とすべく、4月20日、6000の兵を率いて阿尾城に迫ります。

ところが、これを見た阿尾城主の菊池武勝(きくちたけかつ)は、あっさりと城門を開け、前田軍を受け入れたのです。

つまり、この時の武勝は、はなから利家側につく気であったと・・・実は、これには、その理由とおぼしき、こんな話が伝えられています。

前年の春に富山城下に新しい馬場を整備した成政が、その周囲の桜を植え、完成祝いと同時に花見の宴を催した際、配下の一人として招かれた武勝が、その場を盛り上げようと、

「これは、かの謙信公より賜った紀新大夫の名刀なんですが…」
と1本の短刀を取り出し、
「これにて、北陸七ヶ国平定されるとの願いを込めて、殿に献上させていただきます」
と差し出したのです。

それを受けた成政は、
「俺、謙信なんか尊敬してないし…」
と急に機嫌が悪くなり、
「もともと北陸七ヶ国なんか眼中に無いっちゅーねん、俺が狙てるんわ天下じゃ!」
と言って武勝をにらみつけたのだとか・・・

賑やかな宴会から一転、シラケた空気が流れたものの、そばにいた他の武将のとりなしによって何とかその場は収まりますが、収まらなかったのは武勝の気持ち・・・

「大勢の前で部下に恥をかかせるなんざ、天下取りの器やない!アイツは愚将や」
と憤慨し、以後、成政に反感を持つようになっていたのだとか・・・

もちろん、これは噂の域を出ない話ですが、一方で、前年の11月頃=北陸の戦闘が一旦休止となった頃から、武勝側へ、利家からの好条件での懐柔のお誘いが頻繁に行われていたとの記録(『前田金沢家譜』)もありますので、おそらくは、上記のような事件があろうがなかろうが、すでに武勝の気持ちは前田側に傾いていた物と思われます。

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阿尾城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とにもかくにも、この菊池武勝の寝返りは、佐々側に大きな衝撃を与え、形勢悪しと判断した成政は、戦備の立て直しに着手・・・その結果、鳥越城と倶利伽羅城(くりからじょう=石川県河北郡津幡町)の2城を諦め、北から守山城(もりやまじょう=富山県高岡市)木舟城(きふねじょう=同高岡市)井波城(いなみじょう=富山県南砺市)南北に結ぶ線を最前線とし、

守山城には神保氏張(じんぼううじはる)以下4500余、木舟城には佐々政元(さっさまさもと=成政の叔父の養子?)以下2500余、井波城には前野小兵衛 ( まえのこへえ )以下3000余りを、それぞれ配置して防備を固め、背後の脅威となる上杉(うえすぎ)に備えて越後(えちご=新潟県)の国境付近にも兵を置きました。

これに対し、利家は、自軍の最前線を越中領内にまで進ませ今石動城(いまいするぎじょう=富山県小矢部市)に弟の前田秀継(ひでつぐ)を、倶利伽羅城に近藤長広(こんどうながひろ)岡島一吉(おかじまかずよし)らを置いて、コチラも防御万全です。

そんなこんなの天正十三年(1585年)6月24日、守山城の神保氏張が約5000の兵を率いて阿尾城を攻撃したのです。

守る阿尾城は、菊池武勝以下わずか2000余・・・必死に防戦に努めますが、成政が、武勝を謀反人として、その首に賞金を懸けていた事もあって、神保勢の攻撃は、かなり激しい物となり、あわや!落城寸前!となりますが、

そこに、たまたま村井長頼ら300余りの偵察隊が近くを通りがかって、この状況を前に、すぐに参戦・・・この村井らの小隊が側面から攻撃を仕掛けた事で、突き進んでいた神保勢はリズムを崩されてしまいます。

これに勢いづいた菊池勢が盛り返し、次第に形勢は逆転・・・500余が討たれたところで、やむなく神保勢は守山城へと退去していきました。

ちなみに、『加賀藩史稾』
「二十四日 越中の将神保氏張兵を出し 阿尾城襲ふ
 守将慶次利太 片山延高等出でてこれを禦(ふせ)ぐ」
とある事から、この戦いに、あの前田慶次郎(まえだけいじろう)(6月4日参照>>)も参戦していて、この後しばらくの間は、阿尾城に滞在していたとされています。

とにもかくにも、小牧長久手の後からは、すっ飛ばされる事の多い北陸での前田利家と佐々成政の戦いですが、どうぞ、お見知りおきを・・・

そして、この3月~4月の間に例の紀州征伐を終え、7月には四国を平定した秀吉が、ここ北陸にやって来る(越中征伐・富山の役)のは、この2ヶ月後の8月の事。

ご存知のように、ヤル気満々だった成政も、あえなく秀吉の軍門に下る事になります。
【金森長近が飛騨攻略】>>
●【富山城の戦い】>>
【佐々成政が秀吉に降伏】>>
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2020年6月 4日 (木)

本能寺の変の余波~鈴木孫一VS土橋重治の雑賀の内紛

 

天正十年(1582年)6月4日、本能寺の変=織田信長死亡の一報を受け、雑賀衆同士の内紛が勃発し、土橋重治が鈴木重秀(雑賀孫一)の平井城を攻撃しました。

・・・・・・・・・

紀州(きしゅう=和歌山県)は、あの応仁の乱以降の守護(しゅご=県知事みたいな?)畠山(はたけやま)の権力争い(7月12日参照>>)の舞台となった場所で、それ故、時と場合により、その戦いに介入したり静観したり・・・守護や守護代の影響を受けながらも、高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)根来寺(ねごろじ=和歌山県岩出市・根來寺)粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)などの宗教勢力も含め、独自の武装勢力を以って生き残って来た民が多くいました。

その中で紀の川流域一帯に勢力を持ち、水運に強く鉄砲を駆使する独自の武装をした土着の民であった雑賀(さいが・さいか)・・・

天下を狙う織田信長(おだのぶなが)が、抵抗する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市:本願寺の総本山)と戦った石山合戦で、本願寺に味方して活躍する(【丹和沖の海戦】参照>>)事から、何となく信長の敵のイメージが強いですが、これまで何度か書かせていただいているように、もともといくつかの郷の集合体であって、雑賀と言っても一括りにはできない=一枚岩とは言い難い集団であったわけです。

とは言え、長きに渡って雑賀衆の中でもトップの勢力を誇っていた土橋(どばし・つちばし)が、一貫した本願寺派であった事から、上記のように、雑賀衆もおおむね反信長として戦っていた事から天正五年(1577年)には信長の紀州征伐が決行されてしまい、この時は、折れる形で信長と和睦するも、
●【信長の雑賀攻め、開始】>>
●【雑賀攻め、終結】>>
その2年後には、紀州征伐で織田に味方した一部の者も、結局、抑え込まれて本願寺に恭順させられるほど(【雑賀同志の戦い】参照>>)雑賀では反信長派の勢力が強かったのです。

Saigamagoiti400a しかし、それが徐々に崩れてくる・・・それは、一連の石山合戦で名を挙げた鈴木重秀(すずきしげひで=雑賀孫一)です。

長年に渡りトップに君臨して来た土橋から見れば新参者の鈴木ですが、一説には鈴木重秀は土橋トップの土橋守重(つちばしもりしげ=平次・若太夫)の娘婿だったという話もあり、両者の関係は決して悪い物では無かったものの、ここらあたりで徐々に両者のバランスが微妙になって来る中、天正八年(1580年)8月、本家本元の石山本願寺が信長と和睦してしまいます(8月2日参照>>)

もともと信長に恭順的であった鈴木重秀とその一派は、これを雑賀の頂点を狙うチャンスとばかりに、その機会を模索しはじめ、いよいよ天正十年(1582年)1月23日土橋守重を殺害・・・雑賀の内紛が始まりました。

もちろん、この守重殺害には、鈴木派だけではなく、それに同調した土橋一門の一部も加わっている事から、単に鈴木VS土橋の権力争いではなく、時代の流れ&周辺の状況を見て「織田についた方が得」と考える者が雑賀衆内に増えて来ていた事や、土地関係のモメ事が治まらなかった事など、あちこちに不満の種はあったわけですが、それを鈴木派が利用してクーデターを起こしたという雰囲気が見えます。

また、一説には、この暗殺計画はすでに信長に承認されていた=信長の了解があって決行されたとの話もあります。

とにもかくにも、父の暗殺を知った息子(弟とも)土橋重治(しげはる=平之丞・平尉)は、本拠の粟村(あわむら=和歌山県和歌山市粟)の城に立て籠もって抵抗しますが、さすがに背後に織田軍がいてはいかんともしがたく、たまたまこの時、石山本願寺を出て雑賀荘の鷺ノ森(さぎのもり=和歌山県和歌山市鷺ノ森)に滞在していた本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)の勧めにより重治らは城を退去し、四国の土佐(とさ=高知県)に落ちて行き、2月の8日には、鈴木派の手によって城は焼かれました。

こうして雑賀一帯の主導権は鈴木重秀らが握る事になるのですが、その4か月後の6月2日未明・・・

そう、ご存知、あの本能寺の変(6月2日参照>>)が起こり、信長が横死してしまったのです。

その一報は、早くも翌3日の朝に雑賀にもたらされます。

たちまち騒然となる雰囲気に、反信長派からの攻撃を恐れた鈴木重秀は、6月3日の夜に信長配下の織田信張(のぶはる=尾張三奉行の藤左衛門家の人)を頼って岸和田城(きしわだじょう=大阪府岸和田市)へと逃げ込みます。

案の定、翌・天正十年(1582年)6月4日早朝、結集した反信長派が、鈴木重秀の居城である平井城(ひらいじょう=和歌山県和歌山市)を襲撃して城に火を放ち、その勢いのまま、続いて重秀に同調して、かの土橋守重殺害に関与した土橋平太夫(へいだゆう)の城を包囲して平太夫を討ち取ります。

ちなみに、事の前夜に鈴木重秀が岸和田城に逃げた行為は、敵側からは「夜逃げ」と称して笑い者になったらしいですが、上記の通り、もしその日に逃げていなければ土橋平太夫と同様に討たれていた可能性が高いので、鈴木重秀としては笑われようが何しようが「逃げるが勝ち」で命拾いした事になります。

一方、『石山軍記』『大谷本願寺通記』他、本願寺側の複数の記録には、この6月3日夜から4日早朝にかけてのこの騒動を、信長の三男=織田信孝(のぶたか=神戸信孝)配下の者による鷺ノ森の本願寺別院(上記の顕如が滞在してた場所です)への攻撃・・・つまり、信長の紀州征伐の一環であるかのように書かれています。

それら本願寺側に記録では、
6月3日に信孝の命を受けた丹羽長秀(にわながひで)が3千の兵を率いて鷺ノ森を襲撃して来たのを、急を聞いてはせ参じて来た鈴木孫一(孫一を名乗る人は複数いるので鈴木重秀本人の事かどうかは不明)をはじめとする在地の宗徒たちが賢明に防戦するも、やがて織田勢に新手の援軍が加わり、もはやこれまで!・・・となったところに「本能寺の変(信長死す)の一報」が入り、織田方は散り々々に去って行った。。。と、

「あらめでたや法敵亡(ほろ)び 宗門は末広がりに御繁昌」
と、あの高野山攻め(【織田信長の高野山攻め】参照>>)と同じような展開になってるところは、いかにも本願寺側の記録・・・って感じです。

なので、現在では、今回の雑賀での騒動は「信長VS本願寺の戦い」ではなく、おそらくは、信長の死によって再燃した雑賀の内紛であろうととの見方がされています。

とは言え、全部違うかと言うと、そうではなく、実際に本能寺の変の混乱によって雑賀衆の一部の誰かに鷺ノ森が襲撃された事も複数の史料に見られるので、本願寺別院がこのドサクサで襲われた事は事実のようで・・・

さらに、 当時、信孝の配下であった九鬼広隆(くきひろたか=九鬼嘉隆の甥)の覚書には、信孝は、この日、実際に紀州方面に出向いていた事が記されています。

それは、この2~3日後に決行されるはずだった四国攻め(【本能寺の変:四国説】参照>>)の準備のため・・・渡海用の船の用意を雑賀衆に頼んでいたので、その最終の打合せに向かっていたようなのですが、
堺にて本能寺の異変を知った九鬼広隆が慌てて紀州方面に向かったところ「ちょうど貝塚(かいづか=大阪府貝塚市)のあたりで、紀州から戻って来た信孝と落ち合う事が出来た」との事・・・

当然ですが、四国攻めの総大将である織田信孝がたった一人で紀州に出向くはずはなく、ある程度の人員を連れて紀州に入っていたはずですから、おそらくは、上記の鷺ノ森別院が襲われた話と、この信孝が紀州にいた話とがいっしょくたになって「本願寺側の記録」として残されたものと思われます。

とにもかくにも、今回の信長の死によって、雑賀を去った鈴木重秀は没落・・・一方、ここまで何処かに身を潜めていた土橋重治は、重秀と入れ替わるように雑賀に戻って来て、報復作戦に取り掛かります。

ただ、鈴木重秀が去ったとは言え、まだまだ鈴木重秀一派の者は多く残っており、その抵抗も激しく、すぐさま雑賀一帯を掌握するというわけにはいかず、なかなか不安定な状態が続いていたようですが、

そんな中でも、土橋重治らは、信長を討った明智光秀(あけちみつひで)と連絡を取り、6月12日付けの光秀の返書には高野山根来衆(ねごろしゅう=根来寺の宗徒)らとともに和泉(いずみ=大阪府南西部)河内(かわち=大阪府南東部)方面に出兵してほしい」との記述があり、援軍の要請を受けていたようで・・・(2017年の新発見「9月」の項参照>>)

おそらく土橋重治らは、この先、光秀の力を後ろ盾に雑賀一帯の統治を画策していたものと思われますが・・・

ご存知のように、この返書の日付の翌日=6月13日に光秀は羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)との山崎の合戦に敗れて(6月13日参照>>)命を落としてしまい、実際に土橋と明智が連携する事はありませんでした。

後の、秀吉による紀州征伐(3月28日参照>>)の際には、
鈴木重秀は秀吉の使者として雑賀へ出向いて交渉係をし、土橋重治は秀吉軍と抗戦し、敗れて四国へ逃れ・・・と、ともに命はつなぐものの、雑賀にいた頃の隆盛を味わうような事は、2度と無かったのです。

鈴木重秀にしろ土橋重治にしろ、おそらく彼らの理想としては、雑賀の独立を保ったままの状態がベストだったのかも知れませんが、天下=中央集権を目指す武将の登場によって、「大きな傘の下でしか生き残る事ができない」と悟った以上、誰につくのか?どうするのか?の選択をし、それぞれの生き方を模索するしかなかったのでしょうね。
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2020年5月 6日 (水)

金ヶ崎の退き口から姉川までの2ヶ月~信長VS浅井+朝倉+六角

 

元亀元年(1570年)5月6日、織田信長の危機をチャンスと見た六角承禎に扇動された一揆衆が、稲葉一鉄の守る守山城に迫りました。

・・・・・・

という事で、本日は、信長屈指の危機=金ヶ崎の退き口(かながさきののきぐち)から、その報復戦でもある姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦いまでの2ヶ月を、その日付とともに辿っていきたいと思います。

・‥…━━━☆

越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)のもとに身を寄せていた足利義昭(あしかがよしあき・義秋)からの要請を受けた(10月4日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その義昭を奉じて上洛・・・途中、行く道を阻む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)や畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通)などを蹴散らしつつ(9月7日参照>>)、無事、義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)したのは永禄十一年(1568年)10月18日の事でした。

しかし、その後、義昭の名のもとに信長が要請した上洛を、朝倉義景が無視し続けた事から、元亀元年(1570年)4月、信長は3万の軍勢を率いて越前への遠征に出立し、25日から朝倉の前線である天筒山金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始するのです(4月26日参照>>)

ちなみに、信長によるこの朝倉攻めは、この年の正月に、信長から示された「五ヶ条の掟書」に義昭がカチンときて(1月23日参照>>)・・・つまり、信長と義昭が敵対した事により、義昭からの要請を受けた各地の武将が一団となって信長を攻める=いわゆる「信長包囲網(のぶながほういもう)(2月22日参照>>)の第1段階との見方もありますが、それにしては、「掟書=1月」からの「出兵=4月」は早すぎるような気もします。

もちろん、掟書によって義昭が少々カチンと来た事は確かでしょうが、一方で、朝倉義景は、以前から何度も若狭(わかさ=福井県南西部)に攻め入って若狭守護の武田(たけだ)を圧迫し、間接支配をしようとしていましたから(8月13日参照>>)・・・この時点での「幕府公認の統治者である守護を圧迫する+将軍の上洛要請に応じない」は、どちらかというと朝倉の方が義昭に敵対している部分が大きいようにも感じます。

なので、後々の「信長包囲網」は別として、今の段階での信長の朝倉攻めは、ひょっとしたら義昭の意に沿った物であったのかも知れません。

とにもかくにも、こうして信長の朝倉攻めが決行されたわけですが、ここで、信長の妹(もしくは姪)お市の方を娶って織田と同盟を結んでいた(6月28日前半部分参照>>)はずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)朝倉側について織田軍に迫って来たのです。

そこで、挟み撃ち(北東=福井の朝倉と南西=滋賀の浅井)を恐れた信長は、配下の柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)池田勝正(いけだかつまさ)ら約6万の兵を本隊に見せかけて琵琶湖東岸を南下するふりをさせ、さらに木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)らに殿(しんがり=軍の最後尾)を命じて(4月28日参照>>)、自らは4月28日、佐久間信盛(さくまのぶもり)佐々成政(さっさなりまさ)など、わずかの側近だけを連れて撤退を開始し、琵琶湖西岸の山中を通り、途中、朽木谷(くつきだに=滋賀県高島市朽木)朽木元綱(くつきもとつな)を仲間に加えつつ、4月30日、無事京都に入りました。

ご存知、信長の生涯屈指の危機一髪=金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)です。

Kanegasakimoriyamaanegawa
金ヶ崎の退き口から姉川の戦いの位置関係図(日付入り)
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

当然、態勢を立て直すためには、一旦、本拠の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)へ戻らねばなりませんが、そこをチャンスとばかりに動き始めたのが、かの六角承禎です。

あの上洛の際に、本拠の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)を信長に落とされて(9月13日参照>>)からは、甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)伊賀(いが=三重県伊賀市)に身を隠していた六角承禎は、密かに近江に舞い戻り、機があれば攻撃せんと、かつては何度も刃を交えた宿敵(【箕浦合戦】参照>>)=浅井とも連絡を取り、本願寺の一向一揆にも声をかけ、残党たちをかき集め、すでに準備に入っておりました。

かくして元亀元年(1570年)5月6日鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市)に拠る六角承禎に扇動された一揆衆が、臍村(へそむら=滋賀県栗東市)にて蜂起し、織田配下の守山城(もりやまじょう=滋賀県守山市)に迫ったのです。

この時、守山城を守っていた織田方城将は稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)・・・その守りは万全で、守山の南口から焼き討ちをかけて来た一揆勢を、諸方面に撃って出て奮戦し、この1日で1200余の首を挙げて勝利しました。

こうして、守山の戦いに関しては事なきを得ましたが、当然の事ながら、これほどの危機一髪を、敵方も1度や2度で見逃すはずは無いわけで・・・

5月9日、京都を発った信長は、岐阜への帰路の道すがら、配下の諸将を各地に配置していきます。

まずは、浅井&朝倉の南下に備えて琵琶湖の西岸に構築した宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)森可成(もりよしなり)を置き、5月12日に瀬田城(せたじょう=滋賀県大津市瀬田)に入った後、翌13日には永原城(ながはらじょう=滋賀県野洲市永原)に入移って逗留し、そこを佐久間信盛に任せます。

さらに長光寺城(ちょうこうじじょう=滋賀県近江八幡市長光寺町)に柴田勝家を入らせ、安土(あづち)中川重政(なかがわしげまさ)を置いて、六角残党への備えを万全としてうえで、市原(いちはら=滋賀県東近江市)から千種(ちぐさ)街道越えで・・・途中の5月19日、甲津畑(こうづばた)にて、六角側から放たれた刺客=杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)の狙撃を受けながらも(5月19日参照>>)無事、5月21日に岐阜へと戻りました。

この間、京都にて朝山日乗(あさやまにちじょう)村井貞勝(むらいさだかつ)らによって、六角氏と和睦の話が進められていましたが、和睦が実現する事はありませんでした。

そのため、翌月の6月4日には、柴田勝家の守る長光寺城に六角承禎父子が迫り、あわや!という場面もありましたが、勝家の背水の陣での踏ん張りで何とか守り切ります(6月4日参照>>)

さらに、ここに来て、竹中半兵衛(たけなかはんべえ=重治)の働きによって、鎌刃城(かまはじょう=滋賀県米原市)堀秀村(ほりひでむら)と、長比城(たけくらべじょう=滋賀県米原市)樋口直房(ひぐちなおふさ)を、織田方に寝返らせる事に成功した信長は、北近江への障害が亡くなった事を確信し、

6月19日に、同盟を結んでいる三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)援軍を要請し、自らも岐阜城を出陣して、その日のうちに長比城へと入り、合戦の準備に入ります。

これが、ご存知、姉川の戦いです。
●【いよいよ姉川…小谷に迫る家康】>>
●【姉川の合戦】>>
●【姉川の七本槍と旗指物のお話】>>
●【遠藤喜右衛門・命がけの奇策】>> 
(↑チョチョイ内容かぶってう部分ありますが、お許しを…m(_ _)m)
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2020年4月29日 (水)

熊野・那智の覇権を巡って…堀内氏善と廊之坊重盛~勝山城の戦い

 

天正九年(1581年)4月29日、那智制覇を目指す堀内氏善が、廊之坊重盛の守る勝山城を陥落させました。

・・・・・・・

戦国時代初め頃に、熊野水軍という一大勢力を持つ那智山別当家(べっとう=熊野三山を統轄)実方院(じっぽういん)を取り込んで紀伊水道の制海権を握る一大水軍として隆盛を極めていた安宅(あたぎ)に起こった後継者争いを機に、安宅を凌ぐ新興勢力としてのし上がって来た堀内(ほりうち)(11月4日【安宅一乱】参照>>)

やがて、その熊野水軍を、さらに熊野地方周辺の豪族をも次々と取り込み勢力を誇るようになった天文年間(1532年~1555年)に、堀内氏は、その本拠を新宮郊外の佐野(さの)から新宮中心部の金龍寺の境内=新宮城(しんぐうじょう=和歌山県新宮市)に移します。

ちなみに、ここに堀を張り巡らして居所とした事から、「堀ノ内殿」と呼ばれるようになったので、苗字も「堀内」にしたという説もあります。

とにもかくにも、この頃には、従来からのこの地に力を持っていた熊野七上綱(くまのしちじょうこう)と呼ばれる土豪(どごう=地侍)たちをも支配下に取り込んでいた堀内氏でしたが、それは新宮と並ぶ熊野三山の一つ=那智(なち)に対しても同じで、すでに四半世紀前から、そこを支配下に治めるべく、何度か侵攻していました。

それが本格的になって来たのが天正七年(1579年)頃・・・

その頃の那智山には、多くの御師(おし=社寺へ参詣者を案内、参拝・宿泊などの世話をする者)の坊が点在していましたが、それを二分するがの如くの勢力を持っていたのが、塩崎(しおざき=汐崎)廊之坊(くるわのぼう)と、米良(めら=目良)実方院・・・

そんな中で、実方院とは婚姻関係を結んで取り込んだ堀内氏は、やはり廊之坊に対しても婚姻関係をを結んで取り込もうとしますが、堀内氏から送られてきた娘がブサイクだったので突き返し、その代わとして堀内氏の姪にあたる美人の娘を、廊之坊が略奪して連れ去ったために、両者の関係がこじれた・・・なんて話もあるようですが、さすがにこの話は創作でしょうね。

そもそも、両家の関係を結ぶための政略結婚なんですから、ブサイクだろうと美人だろうと、縁を結ぶ事が優先事項なわけで・・・結局は、「廊之坊が堀内の支配を許さなかった」ってとこなのでしょうけど。。。

とにもかくにも、当然ですが、堀内に協力する実方院には、勝利のあかつきには廊之坊の跡職(あとしき=跡目・相続)が与えられる約束が成され、いよいよ攻撃が本格的になって来ます。

Natikatuyamazyou 勝山城周辺の位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

廊之坊の本拠である勝山城(かつやまじょう=和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)は、廊之坊屋敷とも呼ばれ、現在の紀勢本線・那智駅近くの小山の上に設けられた、文字通り「屋敷」だったのが、徐々に土塁や曲輪(くるわ=丸)などが整備されていき、この頃には、本格的な城郭となっていました。

この不穏な空気を察した勝山城主=廊之坊重盛(くるわのぼうしげもり=汐崎重盛)は、以前からの堀内の対抗勢力であった古座(こざ)虎城山城(こじょうやまじょう=同東牟婁郡串本町)高河原貞盛(たかがはらさだもり)などと連携して、城の防備を固めます。

もちろん、那智山内にも、廊之坊の味方となる勢はまだまだいたわけですし・・・

これを受けた堀内氏善(ほりうちうじよし)は力攻めする事を避け、勝山城近くに付城(つけじろ=攻撃するために要所に新設する城)を設けて兵糧の補給路を断つ作戦に出ます。

これにより、約3ヶ月に渡る籠城戦が開始されますが、その間、高河原勢が勝山城の包囲を打ち破ろうと警固船=約30隻を擁して那智海岸の浜ノ宮(同東牟婁郡那智勝浦町)の南に上陸したのを、堀内に味方する雑賀(さいが・さいか)佐武伊賀守(さたけいがのかみ=佐竹允昌?)らが、かの付城から突出して矢を射かけて高河原勢を退散させたり、逆に佐武らが、勝山城の出城を攻撃して陥落させたり、等のいくつかの小競り合いが展開されます。

その両方に多くの死者が出た事が記録されていますので、なかなかの激戦が繰り広げられていたようですが、結局は勝山籠城側が堀内の包囲網を突破する事はなかなか難しかったようで・・・やがて勝山城内の兵糧は枯渇していく事になるのです。

かくして天正九年(1581年)4月29日に至って、勝山城は落城するのです。

『熊野年代記』には、
「四月廿九日那智山炎上 廊之坊城落ル 色川衆焼ク(すなわ)チ廊之坊腹切ル」
とあります。

色川衆とは鎌ヶ峯城(かまがみねじょう=同東牟婁郡那智勝浦町)を本拠とする色川盛直(いろかわもりなお)の配下の者と思われますが、この頃の色川盛直は廊之坊重盛と姻戚関係を結んで堀内に対抗していた側であるはずなので、ひょっとしたら、城に火をかけた色川衆とは、その中に潜んでいた一部の内通者だったのかも知れません。

また、一説には色川衆は最後まで廊之坊の味方であったものの、最終段階で応援すべく勝山城に入ったところを、その混乱に乗じた堀内側の者が火をかけたとも言われます。

敗戦の将となった廊之坊重盛に関しても、落城のさ中に城中で切腹したという話と、嫁さんとともに脱出したものの、隠れている所を近隣の百姓に密告されて、翌・30日に討たれたという話とがあります。

いずれにしても、この日に勝山城が落城した事は事実のようで、この後は、那智山の実権を堀内氏善が握る事になり、熊野一帯での、堀内氏の地位はますます万全の物となるわけですが、

一方で、この堀内氏善は中央との関係もぬかりなく・・・

以前の堀内は、あの織田信長(おだのぶなが)が次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)北畠(きたばたけ)の養子に入れて(11月25日参照>>)、まんまと奪い取った伊勢・志摩(いせ・しま=三重県)地方を巡って争う関係だったのが、

いつの間にか近づき、この勝山城籠城戦の真っただ中の2月29日には、信長から、ちゃっかりと熊野神社(くまのじんじゃ=熊野本宮大社〈本宮〉・熊野速玉大社〈新宮〉・熊野那智大社〈那智〉の熊野三山)神領を与える旨の朱印状を貰って、織田の傘下となっています。

しかも、信長の死後は、またもやちゃっかりと、あの山崎の戦いに参戦(6月13日参照>>)し、今度は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の配下として生き延びます。

関ヶ原では西軍についたために、一時は衰退した堀内氏でしたが、氏善の死後まもなく起こった大坂の陣にて、大坂方として参戦していた氏善の息子=堀内氏久(うじひさ)が、豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の正室だった千姫(せんひめ=家康の孫)を守りながら燃える大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)から脱出して徳川家康(とくがわいえやす)の本陣まで届けた(2月6日参照>>)事で、今度は、徳川の家臣=旗本として見事復活しています。

定番の言い回しではありますが、
自らを貫いて、花と散るも戦国・・・
家のため、大樹の陰に寄ってつなぐも戦国・・・
どちらも戦国の生き方であります。
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2020年4月16日 (木)

秀吉の紀州征伐~高野攻め回避と木食応其

 

天正十三年(1585年)4月16日、秀吉紀州征伐で使者・木食応其が高野山の意向を伝え、高野攻めが回避されました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)本能寺に倒れた(6月2日参照>>)後、変の首謀者である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒した(6月13日参照>>)事で織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

その後、家臣団の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)に破り、信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追い込み、

さらに天正十二年(1584年)、徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けてた信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)との小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納めました(11月16日参照>>)

Toyotomihideyoshi600 ここで、この先おそらくは(最終的には)中央集権を目指すつもり?の秀吉は、未だ独立を保って抵抗していた雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手するのです。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ独立独行を目指す土着の民で、亡き信長を何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

一方の根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、同じく武力をを保有する宗教勢力の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)

そして、もう一つ・・・紀州には高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)という一大宗教勢力がありますが、コチラも信長時代から抵抗勢力でありました(10月2日参照>>)

かくして天正十三年(1585年)3月、秀吉は紀州征伐(きしゅうせいばつ)を決行します。

これを受けた根来ら紀州の諸勢力は、複数の砦で構成された前線基地(現在の貝塚市付近)で迎え撃ちますが、10万越えという予想以上の大軍に、あっけなく崩壊・・・

前線を突破した秀吉軍は3月23日に根来寺を、翌・3月24日に粉河寺を占領(3月24日参照>>)、さらに3月28日には雑賀衆の太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市)を囲みます(3月28日参照>>)

一方、この太田城攻防と同時進行で行われていたのが、高野山攻めの計画・・・とは言え、こういう場合、まずは交渉です。

ドラマ等では、よくスッ飛ばされてるので忘れがちですが、信長さんのあの比叡山焼き討ちも、信長の出した和睦の条件を比叡山が呑まなかったので焼き討ちを決行してます。。。
もちろん、今回の根来寺や粉河寺や雑賀にも先に交渉してますが、結果、決裂して蜂起となったので→武力征伐という事なわけで、、、

そんなこんなで4月7日、秀吉は細井新助(ほそいしんすけ)なる者を使者として高野山へと向かわせ「提示する三つの条件をのまねば攻撃する」旨を伝えます。

残念ながら、その手紙の現物は残っていませんが、伝えられるところによると、その三つの条件とは
1:もともとの寺領以外の領地の返還
2:武装蜂起(謀反人を匿う事も禁止)
3:弘法大師の教えの通りに仏道に専念する事
の三つだったと言います。

これを受け取った高野山側では、山内挙げての協議となりますが、その中には「武力に屈する事無く、徹底抗戦!」を訴える僧も少なくありませんでしたた。

しかし、現実問題として反発した根来&粉河は焼き討ちからの占領となり、現在抗戦中の太田城も、もはや風前の灯である事も伝えられており、大軍である秀吉軍なら、紀州各地に兵を配置しながらでも、ここ高野山へもある程度の兵の数を確保できる事は明白・・・「ここは一つ、神聖なる高野山の伝統を守る事を1番に考えるべきだ」との声が挙がり、そのためには、「これらの条件を無条件受諾するしかない」との意見にまとまります。

かくして天正十三年(1585年)4月16日、高野山にて「すべての条件を受諾する」旨の請状(うけじょう)が作成され、それに神文(しんもん=起請の内容に偽が無い事を神に誓う文・今回の場合は空海の手印を添付)を添えて、学侶(がくりょ=仏教を学び研究する僧=学僧)の代表者と行人(ぎょうにん=施設等の管理をする僧)の代表者とともに、客僧として高野山に入っていた木食応其(もくじきおうご)を使者として、太田城水攻め中の秀吉のもとに派遣しました。

この時、彼らに面会した秀吉は、木食応其の事を大いに気に入ったと見え、
「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべし」
(木食応其は単に高野山の木食僧なのではなく、木食応其が高野山を代表すると思え)
と評して、即座に高野山攻めを取り止めるとともに、今後の高野山の運営を、この木食応其に委ねるよう命じたのです。

ちなみに木食応其の「木食(もくじき)とは穀物を絶って木の実や山菜・野草のみを食し仏道に励んでいる状況=つまり、そういう修行をしているという事で、今回の木食応其の場合は、学侶でも行人でもなく、この時にたまたま客僧として高野山にて木食をしていた・・・という感じだったようです。

そもそも木食応其は、近江源氏佐々木(ささき)の家臣だった父を持ち、織田信長が観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)を攻めた時には六角承禎(ろっかくじょうてい・義堅)とともに抵抗し(9月13日参照>>)、その後、高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)越智(おち)(9月15日参照>>)を頼って奈良に落ちたものの、その越智氏も没落したため、戦いの空しさを痛感して中年になって出家したと言われる異色の経歴の持ち主・・・この経歴に関しては異説があるものの「基々は武将だった」というのは本当のようで、

そういう意味で、武士の立場も理解し、また客僧という立場ゆえにしがらみも無く・・・秀吉から見れば、そこが大いに使い勝手が良く、この後、木食応其を重用し、木食応其もまた、秀吉を後ろ盾として高野山の再興に力を注ぐ事になるのです。

故に、この木食応其を「高野山の中興の祖」と見る場合もあるようです。
ま、存続の危機から一転、現在につながる繁栄を遂げる事になるわけですから。。。

後に秀吉は、山上に興山寺(こうざんじ)を建立し、木食応其を開山第一世 とし、さらに興山寺の隣 に亡き母を弔うための青厳寺(せいがんじ)を建立・・・これが、明治になって興山寺と青厳寺が合併して真言宗総本山金剛峯寺と称するようになり、現在に至るという事になるのです。

また、木食応其は橋本(和歌山県橋本市)の発展にも力をつくしました。

大和街道と高野街道が交わり、そこに紀ノ川の水運が重なる交通の要所でもあるこの場所に、自らの草庵(現在の応其寺)を結んで商工業の町として整備するとともに、高野山往還のために紀ノ川に234mの橋を架けたりして・・・これが「橋本」の地名の由来とも伝えられています。

とまぁ、秀吉を大いに利用しつつも、政権下に組み込まれる事もなく・・・と、ウマイ事立ちまわってる感がある所は、さすがにタダの僧では無い感が漂いますが、それでいて、同じ近江出身として意気投合した石田三成(いしだみつなり)が関ヶ原で負けた時には、すかさず光成三男を保護して出家させ、その命を守るところなど、なかなか義理堅い人でもあったようです。

とにもかくにも、これで高野山攻めが回避され、今に残った事は、誰もがヨシとするところではないでしょうか?
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2020年4月 8日 (水)

武田滅亡とともに散った軍略家~朝比奈信置

 

天正十年(1582年)4月8日、織田信長の甲州征伐のさ中に落ちた持船城の朝比奈信置が自刃しました。

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駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)に仕えたとされる朝比奈信置(あさひなのぶおき)は、同じく義元に仕えた名参謀=朝比奈泰能(やすよし)(9月19日参照>>)とは別系統の朝比奈親徳(ちかのり)の息子です。

早くから義元の近くにて功績を挙げていたらしく、信置が称した「駿河守(するがのかみ)に因んで、同じく駿河守を名乗っていた武田(たけだ)板垣信方(いたがきのぶかた)毛利(もうり)吉川元春(きっかわもとはる)と並んで「三駿河」の一人に数えられ、義元が尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)と戦った天文十七年(1548年)の小豆坂(あずきざか=愛知県岡崎市)の戦い(3月19日参照>>)でも先陣として走り、大きな功績を挙げたのだとか・・・

また『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によれば、天文五年(1536年)頃に、未だ無名の浪人者だった山本勘助(やまもとかんすけ)の才能を見出し、主君=義元に推挙したのが、この朝比奈信置さんだったらしい・・・

ま、この頃の勘助が今川に仕官したがってたという事もあるのでしょうが、その才能を見抜く眼力は大したもの。

しかし、義元自身が勘助の風貌が気に入らなかった事や、家臣の反対等もあって、結局、この時に勘助を召し抱える事なく・・・ご存知のように、勘助は、この後、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)のもとで大活躍します(9月10日参照>>)

このような出来事があったからなのか?
それとも、戦国の流れが変わったからなのか?

永禄三年(1560年)に今川義元が桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市もしくは豊明市)に倒れ(5月19日参照>>)、その後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)がヤバくなって来ると(12月13日参照>>)朝比奈信置はチャッカリ、駿河に侵攻して来た武田信玄のもとに走るのです。

しかも、この朝比奈信置という名前の「信」の文字は、武田信玄(本名は晴信)から一字を拝領しての信置なのだとか・・・つまり、それほど重用されての移籍だったわけです。

軍略家で軍師的な役割も果たし、用兵術(ようへいじゅつ=軍の動かし方や戦術など)にも長けていた信置は、新参者でありながら武田譜代の家臣たちにも信頼され、先方衆の筆頭を任され、信玄亡き後も、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄四男)に従い、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)の戦いにも従軍し、その後の対・徳川家康(とくがわいえやす)戦線の重要拠点である持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を任されました。

その間の元亀四年(1573年=7月に天正に改元) 、武田信玄死去のニュースを聞いた直後から、家康が、長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)の奪取(9月8日参照>>)を皮切りに、天正三年(1575年)8月には諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)、12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二)「遠江⇔駿河間にある武田方の城を一つ一つ自分の物にしていく作戦」を開始するのです。

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(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この時、信置が守る持船城も天正五年(1577年)の10月と天正七年(1579年)9月の2度に渡って、家康からの攻撃を受けていますが、一旦奪われても、すぐに奪回・・・徳川勢の本格的な侵攻を許す事はありませんでした。

しかし、やがて「その時」がやって来ます。

天正十年(1582年)・・・この年の正月に、勝頼妹=真理姫(まりひめ)の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)が、織田方に寝返ったのを皮切りに始まった織田信長(のぶなが=信秀の息子)『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)の中で、2月20日に田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城させ(2月20日参照>>)、 翌・21日には、当目坂で勝利した勢いのまま駿府(すんぷ=静岡県静岡市)を占領すると同時に、そのまま持船城を囲んだ家康は、23日から攻撃を開始・・・

もはや天下目前の信長を背後にした徳川軍相手に、さすがの朝比奈信置も耐えきれず・・・は27日にやむなく降伏し、29日には持船城を家康に開け渡したのでした。

ご存知のように、その12日後の3月11日には勝頼が天目山に散って(3月11日参照>>)武田は滅亡・・・

そして、武田の残党が逃げ込んでいた恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市)が信長息子の織田信忠(のぶただ)に焼き討ちされた(4月3日参照>>)5日後の天正十年(1582年)4月8日、信長の命により朝比奈信置は自刃・・・享年55の生涯でした。

用兵に長けた軍略家であるなら、おそらく信長も重宝したでしょうから、もし、この時、いち早く武田に見切りをつけていたなら、生き残れたかも知れなかった信置さんですが、一方で「信長の命で自刃」しているわけですので、そこンところは、当事者同志しか解りえない部分・・・

生き残って咲く人もいれば、壮絶に散る人もいる・・・それが戦国という物なのでしょうね。
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