2017年9月13日 (水)

織田信長、最愛の女性~生駒吉乃

永禄九年(1566年)9月13日、織田信長・最愛の女性で、側室として二男一女をもうけた生駒の方が39歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

と言っても、正史や一級資料にほとんど登場しない事から、かなり謎多き女性です。

亡くなった日付も、今回は9月13日でご紹介しましたが、5月13日説もあります。
(wikiは5月13日になってるので、ひょっとしたらソッチの方が一般的なのかも…)

名前も、正式には生駒家宗(いこまいえむね)の娘とあるだけで、本名もわからず、没年齢も、信長の6歳年上の39歳説と、4歳年下の29歳説があります。

でも、信長は、正室の濃姫(のうひめ=帰蝶)(2月24日参照>>)との間に子供ができなかった一方で、「側室として二男一女をもうけた」=「彼女が産んだ男子が後継ぎになるんだから…」と思いきや、確実なのは、次男の信雄(のぶお・のぶかつ)と長女の徳姫(とくひめ・五徳)のみで、生年のハッキリしない嫡男の信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)は、彼女の子供では無い可能性もあるのだとか・・・

とにもかくにも、その伝承の多くが、偽書の疑いのある『武功夜話(ぶこうやわ)の出典である事から、「疑わしい」との見解もあるにはあるのですが、とかく古文書の真偽なんて物は原本を確認しない事には何とも言えない物でして・・・

現に、この『武功夜話』の場合でも、それまで偽書説派だった歴史家さんが、原本を見た途端に肯定派に回ったなんて事もありますし、専門家の間でも意見が分かれているのが現状ですので、『武功夜話』そのものの真偽に関しては、原本をナマで見る事のできる専門家の方々に委ねたいと思います。

また、例え一級資料であったとしても、中に書いてある事がすべて正しいわけでは無いですし、まして『武功夜話』は、江戸時代に書かれた『軍記物』に分類される物ですので、個々のエピソードについては、それぞれ個別に検討していかなくてはならない物・・・

なので、今回は、そんな事を踏まえつつ、一般的に語られる信長の側室=生駒の方のお話を、『武功夜話』に登場する吉乃(きつの)というお名前で、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

尾張の国(愛知県西部)丹羽郡小折村(にわぐんこおりむら=江南市)馬借(ばしゃく=運送業)を営む経営者=生駒家宗の娘として生まれた吉乃は、はじめ、土田弥平次(どたやへいじ・つちだやへいじ)という人物のもとに嫁ぎますが、彼が、弘治二年(1556年)に戦死してしまった事から、実家へと戻り、その後は生駒家で生活していました。

この1度目の結婚相手の土田弥平次の土田氏が、生駒氏の縁者であったらしく、そんな関係からの婚姻のようですが、この土田氏が、信長の生母=土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)の出自筋に当たり、土田弥平次は土田御前の甥だったとも言われ、そうなると、信長とも縁続き・・・

Odanobunaga400a という事で、信長は、度々、この生駒家に出入りしていたようで・・・

もちろん、そこには、馬借という商売柄、近隣の情報が集まりやすく、その情報収集のために、信長が出入りしていたであろう事も、容易に想像できるわけですが・・・

そんな中で、出戻りとは言え、色白の美人で、やさしくて控えめな・・・いや、おそらく、二人が出会った頃は、未だ10代後半だった信長にとって、すでに結婚を経験してる親戚のキレイなお姉さんに母の面影を見たのかも知れません。

なんせ、母の土田御前は、幼い頃から信長を嫌って、「弟の信行(のぶゆき)(11月2日参照>>)ばかりを可愛がっていた」なんて言われてますから・・・その包み込むような大人のやさしさに母を追ったとしても不思議ではありません。

また、同じく、この頃、それまで駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を放浪していた生活から地元の尾張に戻って来ていた藤吉郎(とうきちろう)=後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、この生駒屋敷に出入りしていて、その天然の明るさから、吉乃とも親しく話すようになり、

「この人、オモシロイ人(*^-^))」
と吉乃がなったところで、
「馬のお世話でも何でもしますんで、どうか、殿さまにお口添えを…」
とと切り出して、吉乃が信長に彼を紹介・・・有名な「信長の草履を温める」エピソードも、実は、生駒屋敷での出来事だったなんて事も言われます(信長と秀吉の出会いは諸説ありますが…)

とにもかくにも、そうこうしているうちに、ほどなく吉乃は信長の子を身ごもり、正室=濃姫に気を使った信長は、郡内のとある屋敷で、ひっそりと出産させたのだとか・・・。

で、弘治三年(1557年)頃に長男を産んでから、次男→長女と、吉乃は毎年のように子供を出産しますが、ご存じのように、この頃から信長本人は、
桶狭間(おけはざま)の戦い(5月19日参照>>)に、
美濃(みの=岐阜県)侵攻(5月14日参照>>)に、
尾張統一(11月1日参照>>)に、
と大変忙しくなり、吉乃のもとにはおいそれと通えない日々が続くわけで・・・

一方の吉乃は、3人目の子=長女を産んだ後の、いわゆる「産後の肥立ちが悪い」という状況になり、病床に伏せるようになってしまいます。

そんな中、永禄六年(1563年)に美濃攻めの拠点とすべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に小牧山城を構築した信長は、この城に吉乃用の御台御殿(みだいごてん)なる建物を建て、彼女を住まわせるために呼び寄せようとしますが、ここで初めて、彼女が病気である事を知ったのだとか・・・

しかも
「もはや、動かすのも難しいかも…」
と、聞いた信長は、慌てて生駒屋敷に駆けつけ
「忙しさのあまりに会いに来なかった事を許してくれm(_ _)m
これからは、新居でゆっくりと養生したらええ」

と・・・

その言葉に、彼女は大いに喜び、信長の手を握りながら
「ありがとう」
と・・・

そして、残った力を振り絞って輿(こし)に乗り、小牧山城へ入城・・・家臣たちの前で、信忠や信雄の生母として信長から紹介され、彼女はここで、正式に側室となったとされます。

そんな彼女は、
「こんな立派な御殿が、私の家やなんて…夢のよう」
と涙を流しながら感激にに浸っていたのだとか・・・

その後は、信長も頻繁にお見舞いに訪れていたようですが、残念ながら、永禄九年(1566年)9月13日病が快復する事無く、彼女は帰らぬ人となったのです。

一説には、「信長には側室が22人ほどいた」とも言われますが、その中でも、やはり吉乃は特別扱いで、その死に際して信長は号泣したとされ、「彼女が信長最愛の女性だった」というのが一般的な見方となっています。

わからない事が多く、その実態がほとんど掴めない吉乃という女性・・・

しかし、その心の激しさとやさしさが交互に見え隠れする信長という人・・・そんな彼のハートを射止めた彼女は、信長の良いところも悪いところも受け止めるような大きな器を持った女性であった事でしょう。
個人的なイメージでは、やっぱ、信長より年上かな?

彼女の死の翌年=永禄十年(1567年)に、念願の稲葉山城(いなばやまじょう=)を陥落(8月15日参照>>)させた信長は、さらに、その翌年、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京へと上る(10月18日参照>>)事になります。

自分の実家に通っていたハチャメチャな少年が、天下への一歩を踏み出した事・・・彼女は、空の上から垣間見て、ホッと胸をなでおろした事でしょう~いや、母なる気持ちなら逆に「また、心配の種が増える~」と、気を揉んでいたかも知れませんね。
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2017年9月 7日 (木)

足利義昭を奉じて~織田信長の上洛

永禄十一年(1568年)9月7日、足利義昭の要請に応えて上洛する織田信長が、美濃を出立しました。

・・・・・・・・・・

ご存じの足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛ですが、これまでも、このブログ内のいろんな所でチョコチョコ出て来てますので、内容がかぶり気味になるかとは思いますが、とりあえず今回は、信長上洛の様子を、時系列的にまとめてご紹介してみたいと思います。

・‥…━━━☆

兄である第13代将軍・足利義輝(よしてる)が、松永久秀(まつながひさひで)三好三人衆らに暗殺された(5月19日参照>>)永禄八年(1565年)5月、幕臣の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らの手引きにより幽閉先から脱出した義輝の弟=足利義昭は(7月28日参照>>)越前(福井県)一乗谷朝倉義景(よしかげ)のもとに身を寄せながら、自分を担ぎあげて上洛してくれそうな戦国大名たちに対して、せっせとお誘いの手紙を送るのですが、なかなか色よい返事をしてくれる大名は現れず・・・

しかし、そうこうしているうちの永禄十一年(1568年)2月8日、かの久秀と三好三人衆が擁立した義輝の従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)に朝廷からの許しが出て、第14代室町幕府将軍宣下がなされ、事実上、畿内は義栄以下、久秀や三好三人衆が牛耳る事態に・・・。

これまで、「できれば名のある大名に京都に連れてってもらいたい!」と願っていた義昭ですが、上記の通り、待った無しの状況となり、以前から朝倉家臣の明智光秀(あけちみつひで)なる武将が勧めてくれる織田信長へ方針転換・・・永禄十一年(1568年)7月、「これからは、織田くんの事を、ひたすら頼りにしたいんやけど…」と信長に打診したのです(10月4日参照>>)

当時の信長は・・・
永禄三年(1560年)に桶狭間(おけはざま)(5月19日参照>>)今川義元(いまがわよしもと)を破って後、永禄五年(1562年)に尾張一国を統一・・・今回の義昭接触の前年の永禄十年(1567年)に斎藤氏から稲葉山城を奪い(8月15日参照>>)、その地を岐阜と改めて本拠とし、あの『天下布武』の印鑑を使い始めたばかり・・・

『天下布武』とは、「天下に武を布(し)く」=「俺の武力で天下を治めるゾ」ってな意味(別解釈もアリ)ですから、「この岐阜の地から、まずは畿内を制して…」と天下を視野に入れていた信長にとっては、今回の事は、まさに渡りに舟・・・

「微力ながら、天下のために忠義を尽くします」と、義昭の申し入れを快諾した信長は、早速、義昭のもとに使者を送ると同時に、美濃の立正寺(りっしょうじ=立政寺=岐阜県岐阜市)に宿所を準備します。

永禄十一年(1568年)7月25日、美濃へと到着した義昭ご一行の部屋に準備されていたのは、ドド~ンと銅銭千貫文(現在だと一億超えの現金)と、その横には、これまたドド~ンと、太刀や鎧に始まる豪華絢爛な武具の数々・・・

大喜びする義昭らを見て、一刻も早い上洛を決意した信長は、近江の佐和山(さわやま=滋賀県彦根市)へと向かい、妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)に初対面した(2011年6月28日の前半部分参照>>)後、その佐和山から、義昭の使者に自分の使者をつけて、南近江(滋賀県南部)を支配する大物=六角承禎(じょうてい・義堅)の説得にあたります。

「義昭公が上洛されるので、忠誠の証として人質を出し、それ相当の対応してくれはりますか?」と・・・しかし、承禎の答えはNOでした。

しかし、まだ諦めず、7日間渡って説得を続け、「義昭公が将軍になったあかつきには、承禎さんを幕府所司代(しょしだい=侍所の副長官)に任命するて言うてはりますよって…」と提示しましたが、やはり承禎は拒否し続けました。

こうなると、力づくで近江を制して上洛するしかありません。

Nobunagazyouraku
信長上洛の道のり
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして永禄十一年(1568年)9月7日「一気に近江を平らげて、すぐにお迎えを差し上げますよ」と、義昭に別れの挨拶をした信長は、尾張・美濃・伊勢・三河の軍勢を率いて出陣したのです。

その日は平尾村(岐阜県不破郡垂井町)に陣を取り、翌日には近江の高宮(滋賀県彦根市)に到着・・・ここで2日間の休養をとり、そこに浅井の軍も加わった11日には、愛知川(えちがわ)付近に滞在して、自らが馬に乗って周辺の状況を確認し、周辺に散らばる六角氏傘下の城のうち、承禎らの籠る観音寺城(かんのんじじょう)箕作城(みつくりじょう)との和田山城(わだやまじょう)の3ヶ所に狙いを定めます。

翌12日は、自らの軍勢を3隊に分けて、それぞれに配置して攻撃を開始・・・13日には観音寺城の承禎らも夜陰に紛れて逃走し、世に言う観音寺城の戦いは織田方の勝利に終わりました(9月13日参照>>)

ここで、約束通り、立正寺の義昭のもとに不破光治(ふわみつはる)を派遣して「どうぞ、ご上洛を…」と・・・これを受け取った義昭は、ようやく岐阜を出立し、21日には米原(まいばら)、22日には安土(あづち)桑実寺(くわのみでら)に到着・・・

一方の信長は、24日には守山(もりやま=滋賀県守山市)まで進出し、翌25日は琵琶湖を渡れず瀬田で足踏みしたものの、26日には琵琶湖を渡り、三井寺(みいでら=園城寺・大津市)極楽院に陣取りました。

Kouyoutoufukuzicc 翌27日には、義昭も琵琶湖を渡り、同じく三井寺の光浄院に入り、さらに翌28日には、信長が東福寺(とうふくじ=京都市東山区)に陣を移動させると同時に、柴田勝家(しばたかついえ)蜂屋頼隆(はちやよりたか)森可成(もりよしなり)坂井政尚(さかいまさなお)の4名に先鋒を命じて、三好三人衆の一人=石成友通(いわなりともみち=岩成友通)の拠る勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)方面へと攻撃を仕掛けさせます。

もちろん、友通も抵抗しますが、この日のうちに150余の首を挙げられ、翌29日には、信長自身が出馬した事によって降伏し、勝竜寺城は開け渡されました。

ちなみに・・・一般的に「足利義昭を奉じて信長が上洛」という場合、上記の三井寺に入った9月26日か、東福寺に陣を張った9月28日が「上洛の日」とされる事が多いです。

その後、30日に信長が山崎(やまざき)に着陣すると、先鋒は三人衆の一人=三好長逸(みよしながやす)が籠る芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)へ・・・そしてここも、その日の夜には敵兵が退城し、織田方の物となります。

この時、いち時は畿内を掌握して事実上の天下人だった事もある細川晴元(ほそかわはるもと)(2月13日参照>>)の息子=細川昭元(あきもと)は、三好三人衆に担がれて、名目上の管領(かんれい=将軍の補佐役)となっていましたが、長逸とともに芥川山城を退去し、14代将軍の義栄もつれて阿波(あわ=徳島県)へと逃れました。

また、三人衆の残りの一人=三好政康(まさやす)も、いずこともなく身を隠しました。

続いて10月2日には池田勝正(いけだかつまさ)池田城(いけだじょう=大阪府池田市)を攻撃・・・ここでは激しい戦いとなり、敵味方ともに多くの死傷者を出しますが、最後には城に火をかけ城下町を焼き払った事から、勝正は人質を差し出しての降伏となりました。

ちなみに、この時、14日間に渡って芥川山城に滞在していた信長のもとには、「この機会に…」と面会を希望する人が後を絶たず、門前には行列ができたとか・・・その中には、わずかの間に三好三人衆と袂を分かつ(11月18日参照>>)事になった松永久秀もいて、彼は、信長に名物の誉れ高い九十九髪茄子(つくもなす)の茶入れを献上して、また、今井宗久(いまいそうきゅう)も名物の茶壷「松島」&茶入れ「茄子」を献上して、この時に信長の傘下に入っています。

10月14日には、信長は京都に戻り、一旦、本国寺(ほんこくじ=京都市下京区・本圀寺)に入った後、軍勢を引き連れて清水寺(きよみずでら=京都市東山区)へ・・・この時、信長は、配下の者には規律を守るよう徹底し、周辺の警備も厳重にした事から、兵士たちの狼藉や、治安を乱すような事件も起こらず、都の人々は、「これで平和になるヽ(´▽`)/」と胸をなでおろし、大いに喜んだと言います。

その後、畿内に残っていた抵抗勢力も、10日余りで徐々に退散して行く中、信長は、空となっている細川昭元の屋敷をリフォームして義昭の滞在する御殿とし、義昭はお引越・・・御殿とともに太刀と馬を献上した信長に、義昭は大喜びで、その日の宴会では、自ら信長にお酌をしてみせたとか・・・

かくして永禄十一年(1568年)10月18日、足利義昭は、朝廷からの将軍宣下を受け、正式に、第15代室町幕府将軍に就任したのです(10月18日参照>>)

・‥…━━━☆

以上、今回は、信長の上洛の状況を、日付を追って書かせていただきましたが、それぞれの戦いの様子や細かな事については、まだ書いていない部分も多々ありますので、そのあたりは、いずれ、その日付で記事を書かせていただきたいと思いますm(_ _)m
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2017年8月29日 (火)

秀吉VS佐々成政~富山城の戦いin越中征伐

天正十三年(1585年)8月29日、織田信長の後継者的な位置をキープした秀吉の越中征伐(富山の役)で、富山城主の佐々成政が降伏しました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月の本能寺にて織田信長(おだのぶなが)がこの世を去った(6月2日参照>>)後、その後継者を決める清州会議(6月27日参照>>)で優位に立ち、天正十一年(1583年)に織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月20日参照>>)に破って葬り去った(4月23日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、翌・天正十二年(1584年)には、信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と、彼を支援する徳川家康(とくがわいえやす)相手に、小牧長久手(こまきながくて)の戦いをおっぱじめますが、戦況が不利にも関わらず、信雄を丸めこんで講和に持ち込んでしまいました(11月16日参照>>)

Toyamazyou この信長死後の一連の戦いで、賤ヶ岳では勝家に、小牧長久手では信雄&家康に味方して、秀吉側の前田利家(まえだとしいえ)と戦っていた(8月28日参照>>)越中(えっちゅう=富山県)富山城(とやまじょう=富山県富山市)主=佐々成政(さっさなりまさ)は、「俺らコッチで頑張ってんのに、何してくれてんねん!」と信雄の単独講和に納得がいかず、冬の立山を越えて(11月11日参照>>)、直接、家康に面会して抗議しますが、合戦が終わってしまった以上は、どうにもならず・・・

小牧長久手の勝敗がウヤムヤなまま、秀吉は、翌・天正十三年(1585年)3月には紀州征伐(3月28日参照>>)を、7月には四国を平定(7月26日参照>>)し、破竹の勢いで天下へとまっしぐら・・・

と、ここで・・・
「そやん、賤ヶ岳でも小牧長久手でも敵に回ったアイツ…まして、未だに僕の親友の前田君にチョッカイ出しとんのに、なんか、そのままになってるやん」
と思ったかどうかはわかりませんが、

とにもかくにも、ここで秀吉は、北陸遠征の決意を固めたのです。

天正十三年(1585年)7月17日付けで前田利家に宛てた手紙には、
「来る4日に、越中に出陣するよって、しっかり準備しといてや~僕の考えは使者に伝えてあるよって、彼と、よ~く相談しといてネ」
と綴っています。

その手紙の通り、8月4日に先発隊が大坂(大阪府大阪市)を出陣・・・その数は約10万人、しかも秀吉は、自らが出陣した6日に、途中の京都へ寄って、朝廷から成政討伐の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)まで取って・・・そう、秀吉お得意の威光放ちまくりの「どや!これでもやんのか?」作戦です。

なんせ、軍勢は、織田信雄はもとより、織田信包(のぶかね=信長の弟)丹羽長(にわながしげ=長秀の長男)細川忠興(ほそかわただおき)山内一豊(やまうちかずとよ)蒲生氏郷(がもううじさと)などなど・・・他にも名だたる有名武将を揃えた、名実ともにエース軍団ですな。

一方、秀吉の大軍がやって来る事を知った成政は、領内にあった30余の支城や砦を撤去して、居城の富山城にすべての兵力を集め、対決の体制を整えます。

19日、前田利家を先頭に金沢(かなざわ=石川県金沢市)を出発した越中征伐軍は、途中の櫛田神社(くしだじんじゃ=富山県射水市)にて勝利を祈った後、一旦、太閤山(たいこうやま=同射水市:秀吉が布陣したのでこの名がついた)に陣を置き、その後、東に富山平野が一望できる呉羽丘陵(くれはきゅうりょう=呉羽山)白鳥城(しらとりじょう=同富山市)に本営を構えたので、他の武将たちも、こぞって呉羽丘陵のあちこちに自身の陣を構え、一斉に(とき)の声を挙げては、眼下の富山城を威嚇しました。

Kureha2
呉羽山より立山連峰を望む…眼下は富山市街

また『上杉古文書』によれば、この時、秀吉に味方すべく、越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)越後と越中の国境(現在の富山県下新川郡朝日町あたり)まで出兵していたとか・・・

さらに九鬼嘉隆(くきよしたか)など水軍に長けた武将たちは、数千隻の船で以って富山湾に侵入し、伏木(ふしき)から水橋(みずはし=同富山市)へと上陸して富山城を睨みます。

まず動いたのは、征伐軍の中の金森長近(かなもりながちか)・・・といっても、コチラは富山城への攻撃では無く、越中の南に位置する飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の平定を、秀吉に命じられての別働隊・・・秀吉の期待通り、長近は、成政に同調していた飛騨の諸城を次々と落として行ったのです(8月10日参照>>)

西に大軍、東に上杉、北に水軍、南に金森・・・さぁ、どうする?成政

ちなみに、「敵の土地や住民は無傷で手に入れたいタイプ」だった秀吉は、この時、配下の者には徹底して略奪行為や狼藉を禁止していたそうですが、四方を敵に囲まれた富山城下は、着の身着のまま逃げる人、子供を背負って山奥に避難する人などでごった返し、大変な有り様だったようですが・・・

そんな中、富山城内では毎日のように軍議が繰り広げられていましたが、
「もはや秀吉の威勢はランク外のレベルでっせ、佐々だけで対抗しても、どないもなりませんがな」
と降伏を進言する者もいれば、
「今さら降伏したって、助かるかどうか…大軍に対してはゲリラ戦です!奇策で以ってゲリラ戦で行きましょ」
と、意見は真っ二つ・・・

とは言え、時が経つにつれ、あまりに数に差がある秀吉軍を目の前にして、誰もが「こりゃ、アカン」との思いが、増して来るわけで・・・結局、織田信雄を通じて降伏の意思を伝える事に決まったのです。

この頃、秀吉は、眼下の神通川(じんつうがわ)をせき止めて、富山城を水攻めにしようとも考えていたと言いますが、そんな時に、信雄からの「成政降伏」の知らせが届きました。

その信雄からも、そして親友の利家からも
「命は許したって」
との嘆願があった事から、秀吉は、成政から、すべての領地は没収するものの、命は取らないと決め、面会を承諾・・・

かくして天正十三年(1585年)8月29日、利家の呉羽山の陣所近くで頭を丸めた成政は、僧衣を身にまとって秀吉の本営に登場・・・敵陣の中を歩いて行くその姿に、ドッと笑いが起こったと言いますが、秀吉自身は、何も言葉をかけなかったのだとか・・・

こうして、秀吉の越中征伐は幕を閉じました。

ここですべての領地を失った成政は、この後、天正十五年(1587年)の九州征伐(11月25日参照>>)で武功を挙げ、肥後(ひご=熊本県)一国を与えられる事になりますが、それがまた、彼の運命を大きく変える事になります。
 

関連ページ↓
この戦い以前の成政については…
迅速・勇猛・果敢…武勇の佐々成政>>
肥後熊本の出来事については…
佐々成政の失態~肥後・国人一揆>>
また、こんな伝説も…
黒百合事件と呪いの黒百合伝説>>
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2017年8月10日 (木)

金森長近の飛騨攻略作戦

天正十三年(1585年)8月10日、秀吉から飛騨攻略の命を受けた金森長近の軍勢が、向牧戸城を陥落させました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後(6月27日参照>>)、織田家家臣の筆頭だった柴田勝家(しばたかついえ)(4月23日参照>>)と、信長の三男=神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)(5月2日参照>>)を葬り去った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正十二年(1584年)には、信長の次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお)と、彼を支援する徳川家康(とくがわいえやす)相手に小牧長久手(こまきながくて)の戦いに突入していました。
●信雄の重臣殺害事件…(3月6日参照>>)
●犬山城攻略戦…(3月13日参照>>)
●羽黒の決戦…(3月17日参照>>)
●岸和田城・攻防戦…(3月22日参照>>)
●小牧の陣…(3月28日参照>>)
●長久手の戦い…(4月9日参照>>)
●蟹江城攻防戦…(6月15日参照>>)

戦況は、おおむね信雄&家康勢有利に進んだものの、秋になって、なぜか信雄が単独で秀吉と講和してしまった事で、あくまで「信雄坊ちゃんのお手伝い」で参戦していた家康は、大義名分を失い兵を退く事に・・・(11月16日参照>>)

しかし、北陸方面で信雄&家康派として戦って(8月28日参照>>)いた越中(えっちゅう=富山県)佐々成政(さっさなりまさ)は、この終戦に納得がいかず、自ら、真冬の立山を越えて(【北アルプスさらさら越え】>>)家康に抗議に向かいますが、「終わってもたもんは終わってもた」で聞き入れてもらえず、空しく帰国・・・

しかし、それでもまだ納得いかない成政は、その後も抵抗を続けていましたが、翌・天正十三年(1585年)、自ら北陸に乗り込んできた秀吉の前に屈し、8月29日、成政は降伏して秀吉の傘下となりました(8月29日参照>>)

Kanamorinagatika400 ・・・と、この間、秀吉は、自らが出馬する越中に隣接する飛騨(ひだ=岐阜県北部)地方の攻略を、配下の金森長近(かなもりながちか)に命じていました。

この頃の飛騨は、天正四年(1576年)に上杉謙信(うえすぎけんしん)が平定した(8月4日参照>>)ものの、ほどなく、その謙信が亡くなって、上杉家がその後継者争いに夢中(3月17日参照>>)になっている間に、多くが信長の傘下となりましたが、その信長も本能寺に倒れた後、その後の争奪戦に打ち勝った三木氏の姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=三木自綱から改名)が、おおむね支配するようになっていましたが、当然、ここも秀吉の傘下に治めておかねばなりませんからね。

7月下旬、居城である大野城(おおのじょう=福井県大野市)を発った長近は、軍勢を二手に分け、自らは一方の大将となり、もう一つの別働隊は、養子の金森可重(よししげ)を大将とし、自らは背後を突くために白川郷(しらかわごう)の尾上村(岐阜県高山市荘川町)へ・・・別働隊は鷲見村(わしみむ=郡上市高鷲)を経て白川郷野々俣村(ののまたむら=同高山市荘川町)へ入り、両隊で以って向牧戸城(むかいまきどじょう=同高山市荘川町・牧戸城とも)を挟みます。

向牧戸城を守るのは、飛騨の国人で白川郷帰雲城(かえりくもじょう=岐阜県大野郡白川村保木脇)の城主=内ヶ島氏理(うちがしまうじよし)の娘婿=尾上氏綱(おのうえうじつな)・・・これが、少数ながら、なかなかの守備力を発揮して長近軍は、かなりの苦戦を強いられますが、天正十三年(1585年)8月10日に総攻撃をした際に、城内から内応者が出て放火し、このドサクサに乗じて長近軍が一斉に城内になだれ込んだ事で、何とか向牧戸城を陥落させました。

翌・11日、やはり二手に分かれた長近軍は、長近本隊が小鳥郷(おどりごう)から山を越えて吉城(よしき)に向かい、一方の可重隊は馬瀬村(まぜむら=岐阜県下呂市)から和良村(わらむら=岐阜県郡上市)を経て下原(しもはら)へ・・・つまり、飛騨地方の北をグルリ、南をグルリと行軍して、通り道の支城を落としながら、姉小路の本拠である松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山市)へ迫ろう!というわけです。

Kanamorinagatikahida1500b
位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

8月13日、長近本隊は稲越(いなごえ=飛騨市河合町)に進出し、小鷹利城(こだかりじょう=同河合町)を搦め手から襲撃して陥落させ、その勢いのまま突き進み、その日の夜には小島城(こじまじょう=飛騨市古川町)落城させ、さらに、向小島城(むかいこじまじょう=同古川町)野口城(のぐちじょう=同古川町)古川城(ふるかわじょう=同古川町)と、次々と落城させていきます。

8月15日からは、勝ち取った古川城を本営とし、姉小路頼綱の拠る田中城(たなかじょう=高山市国府町・広瀬城とも)へと迫ります。

この田中城は、もともとは、武田信玄の傘下だった広瀬宗域(ひろせむねくに)の城でしたが、武田滅亡後に頼綱が奪い取り、本拠の松倉城を息子の姉小路秀綱(ひでつな)に譲って、頼綱の方が、この城に入っていたのです。

長近は2度に渡って、降伏を促す使者を田中城に派遣しますが、頼綱からの返事はなく籠城の構えです。

そこで、長近は総攻撃を仕掛けますが、敵もなかなかの防戦を展開・・・しかし、やはり数の差は大きく、わずか1日の攻防戦の後、頼綱は降伏を申し出、命は助かったものの京都への追放となりました。

さらに進んだ長近隊は、鍋山城(なべやまじょう=高山市松ノ木)を攻略して、次は、ここを本営としますが、ちょうど、その頃、桜洞城(さくらぼらじょう=岐阜県下呂市)を攻略して南側から高山盆地に入って来た可重隊が鍋山城に到着し、無事、長近隊と合流します。

続く8月16日、休む間もなく鍋山城を出立した可重隊が松倉城の包囲へ向かい、一方の長近隊は、宮村の山下城(やましたじょう=高山市一之宮町)を攻撃し、城主で頼綱の娘婿であった三木国綱(みつきくにつな=一宮国綱とも)敗走させました。

長近隊が山下城を攻略中の間に、松倉城への包囲を完了した可重隊は、いよいよ8月17日、松倉城へ総攻撃を仕掛けます。

翌・18日には、長近の本隊も松倉城の攻撃に合流し、コチラは搦め手から攻めまくります。

さらに20日は、いよいよ要害を攻めのぼりはじめ、阻止する防衛隊と、アチラコチラで激しいぶつかり合いとなりますが、この時に城中にいた内応者が、城に放火・・・さすがの堅固な松倉城も、この炎に包まれて落城したのです。

城主の秀綱らは、何とか城を脱出し、一旦は信濃(しなの=長野県)へと逃亡しますが、途中で地元民の落ち武者狩りに遭い、「もはや、これまで!」と覚悟の自刃を遂げました。

また、この時、佐々成政に協力して越中へと出陣して留守だった帰雲城の内ヶ島氏理は、成政が秀吉に降伏した事で、すぐさま飛騨へと戻り、これまた、すぐさま鍋山城に滞在していた長近に面会して詫びを入れた事で許され、領地も安堵となりました。

その後、残党による一揆や反乱も鎮圧され、長近の飛騨平定は完了となりました。

この功績により、長近は飛騨に3万3000石を与えられ、越前大野から転封・・・以後、この地を治めていく事になりますが、その3年後には、城下町整備に便利な高山城(たかやまじょう=岐阜県高山市)を構築して、そこを本拠としたため、松倉城は廃城となりました。

★松倉城にまつわる、悲しくて怖い人柱伝説2012年8月20日のページ>>でどうぞm(_ _)m
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2017年8月 4日 (金)

織田の物にはさせへんで~上杉謙信の飛騨侵攻

天正四年(1576年)8月4日、飛騨地方攻略に乗り出した上杉謙信の軍が飛越国境に到着しました。

・・・・・・・・・

雌雄を争った川中島も一区切りを迎え(8月3日参照>>)、敵対した甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、今は亡き今川義元(いまがわよしもと)の領地=駿河(するが=静岡県西部)の攻略に舵を切った事で、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)の目は、これまで何度も遠征していた越中(えっちゅう=富山県)加賀(かが=石川県)西の方角へ向かっていきます(参照ページ↓)
【謙信の増山城&隠尾城の戦い】>>
【謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦】>>
【謙信VS越中一向一揆~日宮城攻防】>>

一方、永禄十一年(1568年)に、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)ですが、間もなく生じた義昭との亀裂の末、元亀四年(天正元年=1573年)に義昭を填島城(まきしまじょう=京都府宇治市)に攻めて(7月18日参照>>)追放・・・しかし、追放後も安芸(あき=広島県)毛利(もうり)のもとに身を寄せて、各地の戦国武将に「反信長」を呼び掛けた義昭の画策により、徐々に『信長包囲網(のぶながほういもう)のような態勢が築かれていくのですが、

しかし、同じ天正元年(1573年)に、その『信長包囲網』の中心的存在だった武田信玄が亡くなり(1月11日参照>>)北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井(あざい)(8月28日参照>>)越前(えちぜん=福井県)朝倉(あさくら)(8月6日参照>>)信長に倒された事で、『信長包囲網』内の最大勢力が、本願寺第11代・顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)を教祖とする本願寺宗徒=一向一揆となりつつある頃、、

信長は、倒した浅井&朝倉のその先=加賀&越中の北陸へと迫りはじめるのです。
【信長VS越前一向一揆~桂田攻め】>>
【先走り過ぎた若き猛者・長繁の最期】>>
【織田信長VS越前一向一揆】>>

上記の通り、これまで何度も越中に遠征している=北陸を手中に治めておきたい謙信は、信長が安土築城(2月23日参照>>)を開始した天正四年(1576年)、再び越中富山に侵攻を開始したのです(3月17日参照>>)

一方の信長自身は、5月に天王寺合戦(5月3日参照>>)、7月に第1次木津川口海戦(7月13日参照>>)と、まさに一向一揆の本丸=石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との交戦を展開中でしたが、そんなさ中の5月18日に、謙信は長年敵対していた本願寺と和睦(5月18日参照>>)・・・事実上、謙信もまた『信長包囲網』の一翼となった事になりますが・・・

Uesugikensin500 そんな時、飛騨(ひだ=岐阜県北部)大野郡(おおのぐん=現在の高山市付近)国人(土地に根付いた地侍)塩屋秋貞(しおやあきさだ)から謙信のもとに書状が届きます。

この飛騨という場所は、もともとは、源氏の流れを汲む京極氏(きょうごくし)が代々守護(しゅご=今で言う県知事)を務めていた京極氏の領地でしたが、ご存じのように、その京極氏が応仁の乱後に徐々に衰退していったため、戦国の世にはそれぞれの国人領主が群雄割拠する場所となっていました。

ただ、地理的に、謙信の越後と信玄の甲斐に挟まれてるうえ、信濃(しなの=長野県)とも隣接している事から、多くの国人たちが、甲斐と信濃を支配する信玄の傘下に入っていましたが、上記の通り、その信玄が死に、後を継いだ武田勝頼(かつより)が、前年の天正三年(1575年)には長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)(5月21日参照>>)にて信長に大敗したとのニュースが駆け抜けた事から、飛騨の諸将たちは、動揺しつつも「この先見据えて慎重に行動せねば!」と状況を静観していたわけですが・・・

そんな中、京極氏の一族で元家臣だった三木氏の姉小路頼綱(あねがこうじよりつな=三木自綱から改名)が、いち早く信長にすり寄っていた事から、ここに来てずいぶんと勢力を拡大し、飛騨統一の勢いを見せ始めていたのです。

そこで、謙信派の塩屋秋貞が、
「このままでは飛騨は姉小路の物=姉小路の物は織田の物、織田の物は織田の物になってしまいまっせ。今のうちやったら何とかなります。僕が迎えを出しますよって援軍お願いします(人><)」
という書状を送ったわけです。

先にもお話したように、もともと越中を手中に治めておきたい謙信・・・ひょっとしたら「飛騨の事はそれほど…」と思っていたかも?ですが、かと言って越中に接している国が敵に回れば、それはそれで厄介です。

「ならば…」
飛騨への出陣を決意した謙信は、自ら、7月下旬に春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)を出発し、まずは魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)に入った後、配下の河田長親(かわだながちか)を大将とした6000余騎の軍勢を、先発隊として飛騨へ向かわせたのです。

この先発隊が越中の加賀沢(かがさわ=富山県富山市加賀沢)から飛騨小豆沢(あずきさわ=岐阜県飛騨市宮川町)へと入った天正四年(1576年)8月4日国境まで出迎えた塩屋の者と落ち合い、総大将=謙信の到着を待ちます。

やがて謙信も到着し、用意していた多数の牛に荷物を運搬させつつ、塩屋秋貞らの道案内にて南西方面に向かいますが、運悪く台風が来ていて三日三晩暴風雨と濃霧が続いたうえに、進む道が大変な悪路だったため、かなり厳しい行軍・・・やっとこさ塩屋城(しおやじょう=岐阜県飛騨市宮川町)に到着した後、数日間滞在してしばし休息を取りました。

この時、幾人かの近在の者が、自ら降伏の意を表して謙信のもとへ挨拶に来た事から、ゴキゲンの謙信は、この後、悪路をものともせず駒を進め、姉小路頼綱の松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山市)を攻めるべく高山へと入り、川上川(かわかみがわ=高山市の清見町付近)付近に陣を構えます。

この間、松倉城を包囲しつつ、謙信は、白川郷に帰雲城(かえりくもじょう=岐阜県大野郡白川村保木脇)を持つ内ヶ島氏理(うちがしまうじよし)を攻撃すべく、約800の別働隊を向かわせますが、この時、城主の氏理が信長の命により越前での戦いに駆り出されていて、たまたま留守であり、城兵がほんのわずかであったため、あっけなく落城・・・アッという間に戻って来て、またまた松倉城包囲の兵に合流・・・

一方、囲まれた松倉城の頼綱は・・・
イザとなれば、謙信と相まみえるつもりで防御は固めたものの、上記の通り、揺るがぬ強さを見せつけられたうえに、小島城(こじまじょう=岐阜県飛騨市古川町)姉小路時光(ときみつ)や、水無神社(みなしじんじゃ=岐阜県高山市)宮司や氏子までが謙信に降った事を知り、さすがに「もはや、これまで!」と感じるようになりました。

そうなると、道は二つ・・・
城を枕に一族郎党滅亡覚悟で戦うか?
お家と血筋を残すために降伏するか?

頼綱は後者を選びました。

謙信は、最初は頼綱らをせん滅させるつもりでいましたが、現段階では、未だやり残した事があったので、頼綱の降伏を許し、彼が新たに切り取った大野の地を没収し、もとから持っていた旧領を安堵する事で、頼綱を受け入れました。

頼綱が謙信に降った事を知った周辺の国人や小豪族たちが、次々と謙信の傘下となって行く中、謙信は、そのやり残した事をやりに高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市)へと駒を進めます。

実はこの高原城の江馬輝盛(えまてるもり)・・・彼こそまさに、上杉と武田の間に挟まれて、その動向が常に揺れていた人物なのです。

かの川中島では、バッチリ武田の軍勢として参戦し、かなり武田ドップリの雰囲気を醸し出しておきながら、信玄死すの情報を、いち早く謙信に知らせて降伏する雰囲気を醸し出して来たり・・・まぁ、大物に挟まれた戦国領主が生き残るためには、得てして、そんな感じなんでしょうけど・・・

とは言え、このまま宙ぶらりんの状態で良いわけがなく、ここでハッキリと決着をつけなければ・・・

もちろん、迎える輝盛も、その事は重々承知・・・周辺の支城の防備を固め、主力を高原本城に集結させ、武田勝頼や越中の椎名康胤(しいなやすたね)(4月13日参照>>)に援軍要請の使者を出して籠城戦に挑みます。

しかし、さすがの上杉軍・・・支城の守りは次々と破られ、天然の要害を利用した防衛網も突破され、やがては、城の櫓も焼かれ、出丸も占拠されてしまいました。

しかも、勝頼の援軍は重臣の反対で立ち消えとなり、康胤は、早々に謙信に下ってしまっていて、どちらの援軍も期待できず・・・やむなく輝盛も、謙信との和睦を決意しました。

謙信は、領地の半分は没収したものの、高原は、鎌倉以来の江馬氏伝来の土地でもある事から、この地は安堵としました。

こうして、飛騨一帯は謙信の物となり、この戦いで最も功績のあった塩屋秋貞には、新たな領地と飛騨目代(もくだい=代官)の役職が与えられる事となりました。

以上、謙信の飛騨侵攻でしたが、実は、細かな部分は江戸以降の軍記物によるところが大きく、どこまで史実かは微妙なところではありますが、『上杉三代日記』の天正四年の条にも、「飛騨一国は越後仕置」とある事から、この時期に謙信が飛騨に遠征して飛騨の国人たちが上杉になびいた事は確かでしょう。

しかし、世の中、皮肉な物・・・

この翌年の9月、七尾城(ななおじょう=石川県七尾市古城町)を落とし(9月13日参照>>)手取川(てどりがわ=石川県白山市付近)にて(9月18日参照>>)織田の北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)と相まみえる謙信は、さらにその翌年・・・つまり、この飛騨攻略から、わずか1年半後に命を落とし(3月13日参照>>)、その後の上杉が後継者争いにゴタゴタ(3月17日参照>>)してしまった事から、謙信が手中に治めておきたかった、これらの地のほとんどは、その間に信長の物となってしまう(10月4日参照>>)のです。

ホント戦国とは・・・一寸先はわからない物ですね。
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2017年7月28日 (金)

公家の姫から武将の嫁に…武田信玄の奥さん~三条殿

元亀元年(1570年)7月28日、甲斐の武田信玄の正室である三条殿が、50歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・・

天文二年(1533年)に、室町幕府の関東管領職を代々務める家系=扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の当主=上杉朝興(うえすぎともおきの娘を正室に迎えるものの、翌年、そのが難産のために母子ともに亡くなってしまった事で、独り身となっていた甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=当時は太郎)・・・

Takedasingen600b その後、天文五年(1536年)に16歳で元服し、名を晴信(はるのぶ)と名乗り、新たな一歩を踏み出した信玄(今回は信玄の名で通します)に後添えを・・・
と尽力してくれたのは駿河(するが=静岡県西部)今川義元(いまがわよしもと)でした。

ご存じのように、都の貴族とも太いパイプを持っていた義元が、藤原北家(ふじわらほっけ=藤原四家の一つ藤原武智麻呂の家系)閑院流(かんいんりゅう)の嫡流で清華家(せいがけ=太政大臣になることのできる家格を持つ7家)の一つの三条家(さんじょうけ)三条公頼(さんじょうきんより)(次女)との縁を結んでくれたのです。

ちなみに、公頼の3人の娘のうち、
長女は、管領(かんれい=室町幕府での将軍補佐)家=細川家の後継者であり現段階での政権保持者である細川晴元(はるもと)(2月13日参照>>)の奥さんに・・・

三女は、もう少し後に、本願寺第11世=顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)のもとに嫁いでいますので、まさに、三者三様のロイヤルウエディング!

なので、今回の主役=信玄に嫁いだ真ん中の姫は、この後、三条殿(さんじょうどの)、あるいは三条の方(さんじょうのかた)、あるいは三条夫人(さんじょうふじん)と呼ばれる事になりますが、本日のところは三条殿と呼ばせていただきます(本名は不明です)

しかし・・・ロイヤルウエディングと言えば聞こえが良いですが、上記の通りの政略結婚

荘園持ってりゃ、お公家さんに一定量の収入が見込めた時代と違って、世は乱世・・・戦国武将が力で以って土地を支配し、取ったり取られたりが日常茶飯事で検地もままならない時代には収入も当てにできないわけで・・・戦国とは、お公家さんには困った時代ですよね~

てな事で、金も力も無いお公家さんは、力を持つ武将を頼り、地方の武将は中央とのつながりとともに高貴な家柄とつながるチャンスを得るという、両者の利害関係の一致による結婚・・・15歳を迎えた頃の初々しいお姫様は輿(こし)に乗り、おそらく、生まれて初めて都を離れて、見た事も見ない山多き風景に驚きつつ甲斐へとやって来た事でしょう。

とは言え、そんな高貴なお姫様を信玄がムゲに扱うはずはなく・・・てか、この時代、16歳の少年なら、「都育ちのお姫様がキタ━(゚∀゚)━!」ってだけで、テンションMAXだったのでは?
まして前妻と死別ですし・・・おそらくは大切に大切に扱った事は、想像に難くないですね。

そんな二人の仲睦まじさの証拠と言ってな何ですが・・・結婚の翌年の天文七年(1538年)には長男の武田義信(よしのぶ)を、天文十年(1541年)には次男の海野信親(うんののぶちか=竜芳)を、天文十二年(1543年)には三男の武田信之(のぶゆき=西保信之)と長女=黄梅院(おうばいいん)を、さらに、生年は不明なれど、後に穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)(3月1日参照>>)に嫁ぐ事になる次女の見性院(けんしょういん)・・・と立て続けに子宝に恵まれます。

次男の信親には目の障害があり、三男の信之は後に早世するという憂いはあるものの、この頃は、おおむね穏やかな新婚生活を送っていた事でしょう。

とは言え、天文十年(1541年)に夫=信玄が父の信虎(のぶとらを追放(6月14日参照>>)して武田家を継いだ途端、それまでの父の時代には同盟関係にあった諏訪(すわ=長野県諏訪市)への侵攻を開始(6月24日参照>>)、倒した諏訪頼重(すわよりしげ)(諏訪御寮人)を娶って後、天文十五年(1546年)に「その姫が男児(後の勝頼)を産んだ」と知った時には、三条殿もかなりのお怒りだったとか・・・

まぁ、それも、夫への愛情があればこそのお怒りでしょうし、それを知った信玄も、速やかに諏訪御寮人を諏訪の上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)に移し、この息子に武田家の通字(とおりじ=代々に渡って名前に使用する文字)である『信』の文字を使わず、諏訪家の通字である『頼』の文字を使う事を決意したのだとか・・・ま、もともと、諏訪御寮人との間に生まれたこの勝頼(かつより)を諏訪の後継ぎとして、以前から諏訪に仕える者たちの不満を抑え込む目的だったのでしょうけど・・・

その後、信玄が、村上義清(むらかみよしきよ)との一連の戦い(2月14日参照>>)の中で、戸石城(といしじょう=長野県上田市・砥石城)を落とすのに苦労していた(9月9日参照>>)時期には、信玄はその前線基地となる上原城に行きっぱなしでしたが、もう、この頃には三条殿も諏訪御寮人にヤキモチを焼くほど若く無く・・・というよりは、もはや信玄の正室=オカミサンとしての地位は揺るぎない物で、彼女自身も、武田家の奥向きを統率する者としての自らの役割を充分理解していた事でしょう。

信玄も
「お前が家におると思うからこそ、安心して戦えるんやで」
と三条殿へのねぎらいの言葉もかけています。

ただ、そんな中での天文二十年(1551年)、実父の三条公頼が、滞在先の周防(すおう=山口県)で起こった大寧寺の変(たいねいじのへん)(8月27日参照>>)に巻き込まれて命を落とした事は不幸な事でしたが・・・

その後、難攻した戸石城を、真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)(5月19日参照>>)の策略によって、ようやく落とし、義清が自身の葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡)を捨てて、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)を頼った(4月22日参照>>)事で、いよいよ、あの川中島の戦いへ突入の兆しが見え隠れする天文二十二年(1553年)、甲斐の武田、相模(さがみ=神奈川県)の北条、駿河の今川の間で相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)が成立・・・その証として、お互いの息子&息女による婚姻関係が結ばれる事となり、信玄の長男=義信と、今川義元の娘=定恵院(じょうけいいん)との縁談がまとまります。

冒頭に書いたように、この今川は都の公家とも深い縁・・・というのは、義元の母である寿桂尼(じゅけいに)(3月14日参照>>)勧修寺流(かじゅうじりゅう)の公家=中御門宣胤(なかみかのぶたね)の娘であるという事もあっての縁・・・

もちろん、義元の奥さんは信玄の姉なので、今回の義信と定恵院の縁談は従兄弟夫婦になるわけですが・・・そう、三条殿にとっては、同じ藤原北家の流れを汲むお嬢さんが息子の嫁になってくれるわけで、
「京の都が近くに来たみたいヽ(´▽`)/」
とたいそう喜んでいたとか・・・

もちろん、お互いの子供同士がテレコテレコで婚姻を結ぶという事なので、武田家も、長女の黄梅院を相模の北条氏康(ほうじょううじやす)の息子=氏政(うじまさ)に嫁がせる事になり、三条殿にとっては可愛い娘との別れとなるわけですが、それはそこ、結婚という祝うべき門出にともなう別れなのですから・・・

これより、長きに渡る川中島の戦いが始まるとは言え、隣国とは同盟を結び、ハッキリと敵対する者を敵として戦っていたこの頃が、三条殿にとっては、最も幸せな日々だったのかも知れません。

しかし・・・
1次=天文二十二年(1553年):布施の戦い>>
2次=弘治元年(1555年):犀川の戦い>>
3次=弘治三年(1557年):上野原の戦い>>
4次=永禄四年(1561年):八幡原の戦い>>
そして、ほとんど合戦の体をなしていない
5次塩崎の対陣>>
の永禄七年(1564年)まで・・・と、
信玄と謙信が川中島でのドンパチを繰り返していた間に、戦国の世は大きく動きました。

そう、永禄三年(1560年)5月の桶狭間の戦いです。
(参照ページ↓)
【一か八かの桶狭間の戦い】>>
【二つの桶狭間古戦場】>>
【名を挙げた毛利良勝と服部一忠】>>

これまで天下に1番近い男と思われていた今川義元が、未だ全国ネットでは名も知れていない、しかも自国の尾張(おわり=愛知県西部)の統一さえもままらない一武将=織田信長(おだのぶなが)に倒されてしまったのです。

同盟者である夫=信玄の行動は??

もちろん信玄も、すぐには動きません・・・周辺がどう動くのかも見据えなければ・・・

しかし、かの信長は、その翌々年の永禄五年(1562年)には尾張を統一(11月1日参照>>)、かの最後の川中島の翌年=永禄八年(1565年)には美濃(みの=岐阜県)へ侵攻(8月28日参照>>)を開始し、2年後の永禄十年(1567年)には、名城とうたわれた稲葉山城(いなばやまじょう)を陥落させ、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と改めて、確実に新たな一歩を踏み出しています。

一方の信玄も、永禄九年(1566年)には長野業正(なりまさ)箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市)を陥落(9月30日参照>>)させたり、永禄十年(1567年)に信濃(しなの=長野県)を制覇(8月7日参照>>)したり、と北東方面への進撃には余念が無かったわけですが・・・

ところが、この間、ほぼほぼ何もしなかったのが、亡き義元の後を継いだ今川氏真(いまがわうじざね)・・・もちろん、そこには、義元の死を機に独立を図った徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)【桶狭間の戦い~その時、家康は…】参照>>など、配下の離反者も相次いでいて、何もしなかったというよりは、できなかったし、やってはいてもあまり効果が出なかったりで、氏真には氏真の言い分があるわけですが・・・(3月16日参照>>)

とは言え、お察しの通り、これらの状況をキッカケに、信玄は明らかに南への侵攻を画策し始めます。

おそらく、この夫の方向転換は、妻の三条殿も気づいており、心穏やかでは無かったと察しますが、彼女が大きく反対する事はありませんでした。

代わりに真っ向から反対したのが長男の義信・・・なんせ、奥さんは今川の人ですし、同盟の破棄は、この婚姻関係も破棄するする事になるのですから・・・

しかし、信玄は四男の勝頼に、信長の姪で養女の龍勝院(りゅうしょういん)を迎える事を決定し(実際に嫁いだかどうかは微妙)、猛反対する義信を廃嫡(はいちゃく=後継ぎから除外する事)して幽閉・・・さすがに、この事を知った三条殿は、仏間に籠ったきり、何日も出てこようとしなかったのだとか・・・

そんな義信が、永禄十年(1567)10月、自刃に追い込まれる(10月19日参照>>)、信玄は、その嫁=定恵院を今川に送り返して、完全なる決別の意思表示をし、翌・永禄十一年(1568年)12月、いよいよ駿河への侵攻を開始するのです。
【駿河に進攻~薩埵峠の戦い】参照>>
【今川館の攻防戦~駿河を攻略】参照>>
もちろん、信長の仲介による家康との連携で・・・
【今川氏滅亡~掛川城・攻防戦】参照>>
そして北陸方面での代理戦争もぬかりなく・・・
【謙信VS椎名康胤~松倉城攻防戦】参照>>
【謙信VS越中一向一揆~日宮城攻防】参照>>

そんな中、上記の掛川城落城の際、あまりのドタバタで輿が用意できず、氏真とその奥さんが徒歩へ逃げるという屈辱を味わった北条は・・・そう、例の三者同盟によるテレコ婚姻で、今川氏真に嫁いでいたのが、北条氏康の娘=早川殿(はやかわどの=氏政の妹)だったわけで、娘をそんな目に遭わされて激おこの氏康は、息子=氏政と黄梅院を離縁させ、甲斐に送り返して来ます。

夫=氏政との間には、嫡男=北条氏直(ほうじょううじなお)を筆頭に4人もの男の子をもうけいていた黄梅院・・・なので、おそらく仲が良かったであろう夫と、そして可愛い息子たちとも引き裂かれた彼女は、それから、わずか半年後の永禄十二年(1569年)6月、27歳の若さでこの世を去ってしまいます(6月17日参照>>)

さすがの信玄も、娘の悲しき姿には心を痛めた事でしょうが、戦国の世は、そんな心の痛みが癒えるのも待ってはくれず・・・

その年の10月には三増峠の戦い(みませとうげのたたかい=神奈川県愛甲郡愛川町の三増周辺)(10月6日参照>>)、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)攻防戦(12月6日参照>>)と、北条との合戦にあけくれる信玄に対し、

たった2年の間に長男も、そして長女も失った三条殿の落ち込み様は見るのも辛く、その後は、ほとんど言葉を発する事も無い無表情な人になってしまったと言います。

そして、長女が亡くなった翌年の元亀元年(1570年)7月28日、信玄の本拠=躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)西曲輪(くるわ)屋敷にて、三条殿は静かに50年の生涯を閉じたのです。

残された信玄が、上洛?とおぼしき西行の途中で病に倒れるのは、このわずか3年後・・・天正元年(1573年)4月の事でした。
【武田信玄最後の戦い~野田城攻防戦】参照>>
【武田信玄公の命日】参照>>
【信玄・最後で最大の失策~勝頼への遺言】参照>>
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2017年7月22日 (土)

信長の小谷侵攻~山本山城の戦いと虎御前山城構築

元亀三年(1572年)7月22日、翌年の浅井家の滅亡小谷城落城につながる山本山城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)、第15代室町幕府将軍足利義昭(よしあき・義秋)奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした織田信長(おだのぶなが)・・・その後、再三に渡って「新将軍に挨拶に来んかい」と呼びかけるも、上洛に応じなかった越前(えちぜん=福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)に対して、元亀元年(1570年)4月、信長は、義景の本拠であった金ヶ崎城(かながさきじょう=福井県敦賀市金ヶ崎町)天筒山城(てづつやまじょう)を攻めますが【4月28日参照>>)、そのさ中に、自身の妹(もしくは姪)お市の方を嫁にやって味方についけていたはずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)が朝倉についた事を知り、挟み撃ち寸前のところをギリギリセーフで撤退に成功し、岐阜(ぎふ)へと戻る事ができました。
金ヶ崎の退き口】参照>>
【信長を狙撃した杉谷善住坊】参照>>
【瓶割柴田の野洲川の戦い】参照>>)

怒り心頭の信長は、その2ヶ月後の6月に、浅井を倒すべく、仲良しの徳川家康(とくがわいえやす)クンを誘って、長政の居城=小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)近くに侵攻・・・これが姉川の戦いです。
【姉川の合戦】参照>>
【姉川の七本槍】参照>>

この戦い自体は織田&徳川連合軍の勝利に終わったものの、信長が撤退する敵を深追いしなかった事から、力を温存できた浅井&朝倉は、その後もゲリラ的合戦を続け
【宇佐山城の戦い~森可成・討死】参照>>
信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い】参照>>
それは、その翌年には、戦場から逃げた浅井&朝倉の残党をかくまう比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)にも飛び火します。
【信長の比叡山焼き討ち】参照>>
【比叡山焼き討ちは無かった?】参照>>

とは言え、配下&傘下の者は、上記の通りのゲリラ的動きを繰り返すものの、本家本元の長政は小谷に籠ったまま・・・信長は、姉川近くの横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)を置き、その周辺にも配下の武将を配置して誘いをかけるなど、「城からおびき出し作戦」を続けつつ監視していました。

そんなこんなの元亀三年(1572年)7月19日、具足初め(ぐそくはじめ=初めて具足をつける儀式)を終えたばかりの嫡男=織田信忠(のぶただ=当時は奇妙丸)を連れた信長が、横山城に着陣・・・翌日、小谷へと向かって進撃を開始し、秀吉をはじめ、佐久間信盛(さくまのぶもり)柴田勝家(しばたかついえ)丹羽長秀(にわながひで)など、そうそうたるメンバーに小谷城を攻めさせたのです。

城下に火を放ち、城門近くまで迫って数十人を討ち取りましたが、城内からは、さほどの抵抗も無く、この日の戦いは終了・・・その日のうちに、勝家らを、近くの虎御前山(とらごぜやま=滋賀県長浜市)に陣取らせて守りを固めました。

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小谷城跡からの眺望…眼下に見えるのが虎御前山、右奥に木々の影から伸びているのが山本山、正面の琵琶湖上右奥に浮かぶのが竹生島

翌・7月22日には、秀吉に、山本山城(やまもとやまじょう=同長浜市)に籠る阿閉貞征(あつじさだゆき)を攻めさせました。

秀吉が城山の麓を焼き払うと100人ほどの城兵が撃って出て来たので、応戦して50人ほど討ち取りますが、それ以上の出撃はなく、守りを固めるいっぽう・・・なので、山本山に対してはこれまでとし、次に蜂須賀(はちすか)らが湖上へと回り、湖側から小谷へとチョッカイを出し続けますが、やはり、守りを固めるいっぽう・・・

最後には、「アホ~」「バカ~」「マヌケ~」「アホ言うヤツがアホじゃぁ~」と散々に罵り、悪態をついて相手を挑発してみますが、やっぱり小谷はノッて来ない・・・なので、この日は諦めて兵を退く事に・・・

翌・23日には、与語(よご=余呉)木之本(きのもと=長浜市)も焼き払い、さらに24日には、秀吉や長秀らが草野(くさの=同長浜市)に攻め入り、近隣の村から農民や一向一揆衆が逃げ込んで籠城する大吉寺(だいきちじ=長浜市)へと迫り、一揆勢の僧兵らを多数討ったと言います。

同時に、琵琶湖の湖上からは打下(うちおろし=滋賀県高島市)林員清(はやしかずきよ)堅田(かただ=滋賀県大津市)猪飼野昇貞(いかいの のぶさだ=正勝)坂本(さかもと=同大津市)明智光秀(あけちみつひで)など、琵琶湖西岸を本拠とする武将たちが、武装した船で海津(かいづ=高島市)塩津(しおづ=長浜市)の浜に漕ぎ寄せて周辺を焼いたほか、沖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま=長浜市)にも攻撃を仕掛けました。

こうして、信長が様々な挑発行為を行うも、やはり小谷城の長政は打って出ては来ない・・・なので、信長は、小谷のすぐ近くにある虎御前山に城を構築する事とし、7月27日から、その工事に取り掛かります。

一方の浅井長政・・・この状況を見据え、すでに、朝倉への援軍要請の使者を派遣しておりました。
「今の織田軍は、あの長島一向一揆相手に戦って、メッチャ疲れてますよって、今、朝倉さんが出てくれはったら、絶対イケます!チャンスでっせ!」
と・・・とまぁ、確かに長島一向一揆は前年の5月頃勃発(5月16日参照>>)してますので、一揆の事は本当ですが、「織田軍が疲れてる」というのは、ちょっと盛った感じ?ですが、そこはご愛敬で・・・で、この後、義景自らが率いる朝倉の援軍が到着するのが7月29日

しかし、到着してみると、すでにあちらこちらに織田軍がウヨウヨ状態で、信長自らが陣を置いて城の準備に勤しんでいる様子・・・さすがに、すぐに何かを仕掛ける事はできず、やむなく義景は小谷の北側の高山に布陣しました。

当時の虎御前山は、かなり見晴らしが良く、北には山々の朝倉軍の動きも見え、西は比叡山、南は遠く石山寺(いしやまでら=滋賀県大津市石山寺)まで望めたとか・・・とは言え、虎御前山から横山城までは約12kmあり、しかも、途中が悪路であったため、信長は、両所の間に2ヶ所の砦を築き、その一つの宮部(みやべ)の砦には宮部継潤(みやべけいじゅん)(3月25日参照>>)を配置して守りを強化する一方で、敵の進路を阻む築地(ついじ=泥土をつき固めて作った塀)を造ったり、逆に、味方には川をせき止めて渡りやすくしたりと、戦場となるであろう周辺に万全の準備を整えます。

しかし、ここに来ても長政はいっこうに動こうとはせず、義景も、着陣したからと言って何の動きもない・・・なので、信長は堀秀政(ほりひでまさ)(5月27日参照>>)を使者にたてて、
「せっかく、ここまで出て来はったんですから、日付なと決めて、一戦交えましょうや」
と、義景に誘いをかけてみますが、何日経っても知らん顔・・・

結局、何の進展も無いままだったので、信長は、虎御前山城には、秀吉を指揮官として残し、自らは横山城へと戻ったのです。

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信長の小谷侵攻~山本山城の戦い位置関係図
 
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この後、浅井&朝倉勢が、例の築地を壊しに来たりして、ゲリラ的なちょっとした小競り合いは度々起こるものの、大きなぶつかり合いになる事はなく、12月には義景も越前へと退去・・・そのまま運命の天正元年(1573年)を迎える事になります。

この年、2月に反発をあらわにした将軍=義昭に対して、ただ1度のための大船を建造して琵琶湖を渡って(7月3日参照>>)力の差を見せつけた信長が、その義昭の拠る槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市槇島町)を攻撃(7月18日参照>>)したのが7月・・・

そして翌月の8月8日・・・小谷城落城=浅井家の滅亡となるその戦いが開始される事になるのですが、皮肉な事に、そのキッカケとなるのは、今回の前哨戦で、浅井のために山本山城を死守してくれたはずの阿閉貞征の寝返りだったのです。

てな事で、つづきのお話=浅井&朝倉の滅亡については
朝倉氏滅亡とともに一乗谷は歴史の彼方…】>>
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】>>
でどうぞo(_ _)oペコッ
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2017年6月15日 (木)

上杉謙信VS加賀越中一向一揆~日宮城攻防戦

 

元亀三年(1572年)6月15日、上杉配下の鰺坂長実山本寺定長らが越中・加賀一向一揆と呉羽山にて交戦して敗れ、日宮城が開城されました。

・・・・・・・・・・

これまでも、何度かご紹介しています戦国期の越中(えっちゅう=富山県)争奪戦・・・

射水(いみず=富山県射水市)婦負(ねい=富山県富山市、主に神通川西部)を中心に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)

新川(にいかわ=富山県富山市、主に神通川東部)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)
などなど

もともと、この越中に根を張る彼らの争いに、越中を支配下に治めたい越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=輝虎・長尾景虎)と、謙信を叩いておきたい甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)が関与して、時には敵味方が入れ替わったりなんぞしながら、何度も合戦をくりかえしていたわけですが・・・

★これまでの戦い
永禄三年(1560年):増山城&隠尾城の戦い>>
永禄十一年(1568年):松倉城攻防戦>>

↑この間に、謙信と信玄が何度も川中島で戦ったり(8月5日参照>>)、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)が暗殺されたり(5月19日参照>>)、信玄が信濃(しなの=長野県)を攻略したり(8月7日参照>>)

また、永禄十一年(1568年)の松倉城攻防戦の直後には、その前年に美濃(みの=岐阜県)を手に入れた(8月15日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が次期将軍の足利義昭(よしあき=義輝の弟)を奉じて上洛したり(9月7日参照>>)信玄が完全に今川潰しにシフトチェンジしたり(12月12日参照>>)
と、情勢がめまぐるしく変わります。

そんなこんなの元亀二年(1571年)、3度目の松倉城攻撃で、やっと城を陥落させた謙信は、この時点で越中のほぼ半分を手に入れた事に・・・(上記の松倉城攻防戦の後半部分参照>>)

しかし謙信がこの北陸方面の戦いに夢中になっていたばっかりに・・・

その松倉城のページでも書かせていただいたように、実は、甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐×相模×駿河の同盟)を勝手に破棄して駿河(するが=静岡県西部)今川を攻めはじめた信玄に、激おこの元同盟者=相模(さかみ=神奈川県)小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)北条氏康(ほうじょううじやす)が、敵の敵は味方とばかりに、この時点で謙信に同盟を申し込んで来て、両者は同盟を締結させていたわけですが、

その後、信玄が度々北条傘下の城を攻撃したりして来た(3月17日参照>>)ので、その都度、氏康は謙信に援軍を要請していたにも関わらず、上記の通り、忙しい謙信は、ほとんどその要請を無視していたわけで・・・

しかも、謙信は、すでに永禄二年(1559年)の時点で関東管領並み(6月26日参照>>)だったわけで、事実上関東支配している北条と仲良くいくはずもなく・・・

結局、元亀二年(1571年)10月の氏康の死(10月3日参照>>)をキッカケに、後を継いでいた息子の北条氏政(うじまさ)は、謙信と縁を切って武田との同盟を復活させたのです。

この間、自身は、この4ヶ月後に出発する例の西行(上洛目的?)(10月3日参照>>)の、すでに準備段階に入っていたとおぼしき信玄は、「さすがに北陸まで手が回らない」とばかりに、奥さん=三条の方(さんじょうのかた=妹が本願寺顕如の嫁)(7月28日参照>>)の縁をフル活用して加賀&越中の一向一揆を焚きつけて、謙信の行く手を阻もうと画策する一方で、今は謙信の味方となっている神保長職を説得工作で味方に引き入れて、これまで敵対していた越中一向一揆とも和睦させました。

しかし、信玄の呼びかけに応じてアッサリ寝返る事に納得がいかない長職の家臣=神保覚広(じんぼうただひろ)小島職鎮(こじまもとしげ=日宮城代)は、謙信への義を重んじて長職に反発・・・覚広が城主を務める日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)に立て籠もったのです。

明けて元亀三年(1572年)5月、信玄の呼びかけに応じた形で砺波(となみ=富山県南西部)五位庄(ごいのしょう=富山県高岡市)などに集結した加賀&越中の一向一揆連合軍は、そこから北陸街道を東に向けて進発したのです。

この一報を聞いた覚広は、すぐさま新庄城(しんじょうじょう=富山市新庄町)鰺坂長実(あじさかながざね)に援軍を要請・・・それを受けた長実は、これまたすぐに、この状況を春日山城(かすがやまじょう=新潟県上越市)謙信に報告します。

それを受けた謙信は、味方の戦勝祈願をするとともに山本寺上杉家(さんぼんじうえすぎけ=越後上杉家の一つ)の当主=山本寺定長(さんぽんじさだなが)援軍として派遣しました。

そうこうしている間にも、一向一揆衆の進軍は進み、やがて日宮城は一揆衆に包囲されてしまいます。

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呉羽山より立山連峰を望む…眼下は富山市街

未だ到着せぬ援軍に心焦る覚広は、再び新庄城に急使を派遣し、
「もし、到着が遅れるようなら、一部の兵を呉羽山(くれはやま:五福山=富山市の西部)に登らせて景気づけの声援を送ってくれ!」
と頼みます。

そこで、味方となってくれた魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)主の河田長親(かわだながちか)とも協議の末、早速、鰺坂長実&山本寺定長らは呉羽山に討って出る事になりましたが、予想以上の大軍に膨れ上がった一揆軍の攻撃は激しく、結局、呉羽山を支える事が出来ずに退却をし始めますが、その時に神通川(じんつうがわ)の渡し場で猛攻を受けた事で、一揆側に神通川を抑えられてしまいます。

そうなれば、もはや援軍も期待できず・・・日宮城は孤立状態となってしまいました。

かくして元亀三年(1572年)6月15日「もはや勝ち目なし」と悟った覚広らは、やむなく一向一揆衆に和睦を申し入れ、日宮城は開城となったのです。

開け渡しの隙に、主だった武将たちは、なんとか城を脱出・・・山づたいに石動山(いするぎやま)天平寺(てんぴょうじ=石川県鹿島郡中能登町付近)へと逃げ込んだのでした。

一方、勢い止まらぬ一揆勢は、その日のうちに、富山城(とやまじょう=富山県富山市)をも占拠してしまいました。

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして日宮城の戦いは上杉勢の敗戦に終わりましたが、この結果を聞いて激怒した謙信は、この2ヶ月後の8月15日、今度は、謙信自ら兵を率いて春日山城を出陣し、一路越中へ・・・新庄城を拠点に、一向一揆衆が占拠する富山城を囲む事になるのですが、そのお話は、いずれまた、その日付で書かせていただきたいと思います。

にしても・・・
普段、デレビ等の歴史番組で見かける謙信さんのお話は、ほとんどが川中島で、北陸なら、天正に入ってからの信長との七尾城(9月13日参照>>)手取川(9月18日参照>>)なんかにお目にかかるくらい?で,すが、

こうやって見ると、意外に、頻繁に富山に来てはるんですね~~~っと、仕事の関係で10年間富山に住んでいた事のある茶々は、親しみを感じるのであった(*^-^)
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2017年6月 2日 (金)

本能寺にて信長横死~その日の安土城と留守居役・蒲生賢秀

天正十年(1582年)6月2日、戦国最大のミステリーとも言われる『本能寺の変』がありました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日未明・・・ご存じ、主君=織田信長(おだのぶなが)と、その嫡男=信忠(のぶただ)を死に追いやった明智光秀(あけちみつひで)による謀反です。

【本能寺・前夜】参照>>
【本能寺の変~『信長公記』より】>>

未明に起こったこの出来事が、信長の本拠=安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市安土町)に、噂のように流れて来たのは、その日の午前10時頃だったと言います。

これだけの重大ニュースですから、またたく間に広がり、上層部はもちろん、一兵卒の耳にまで届きますが、未だ噂の段階ではウッカリした事は言えず・・・とりあえずは、皆がお互いの行動を見つつ、表面的には普段と変わらずにいましたが、そうこうしているうちに、京都から逃げて来た下働きの者たちの話も入って来て、事は具体的かつ現実的に・・・

やがて、午後4時頃には、京からの急使によって正しき情報が確認された事で、早速、その情報が騎馬で以って城下の各面々にも知らされると、城下は大変な騒ぎとなっていきます。

泣き悲しんで取りみだす者もいれば、「この際、家財なんかいらん!」とばかりに、妻子だけを連れて、身一つで本国(美濃=岐阜県)目指し、安土を退去する者も・・・

もちろん、この「身一つで退去」というのは、おそらく、これから安土を制圧しに来るであろう明智軍を恐れての事・・・それは城下の一般市民も同じで、市街戦なんて事になれば一大事ですから。

とは言え、この日、本能寺(ほんのうじ=現在は京都市中京区)で信長を、二条御所(にじょうごしょ=京都市上京区)で息子の信忠を自害させた光秀は、次に、逃亡者&落人を求めて京都市街をしらみつぶしに探索した後、すぐ、その日のうちに京都から勢田(せた=滋賀県大津市・瀬田)へと軍を進め、勢多城(せたじょう)主の山岡景隆(やまおかかげたか)
「人質を差し出して明智軍に協力してくれへんか」
と申し入れますが、景隆も、そして、ともにいた弟の山岡景佐(かげすけ)も、
「信長さんには、恩があるんで協力できません!」
とキッパリ断り、勢田城に火を放ち、勢田橋(せたばし=瀬田の唐橋)を落として、山中へと逃れたのです。

その後の山岡兄弟は、その身を隠しつつ、西からやってくる豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)(6月6日参照>>)に、畿内の明智軍の様子を逐一報告して、光秀の動きの邪魔をしていたとか・・・

とにもかくにも、山岡兄弟が、ここで橋を落として城を燃やしてくれたおかげで、この日の明智軍は、これ以上琵琶湖(びわこ)の東岸を進む事ができず、新手の軍勢を加える事もできなかったため、やむなく光秀は、この橋のたもとに守備隊を置いて、自身は居城である坂本城(さかもとじょう=滋賀県大津市下阪本)へと向かったのです。

なので、結果的には、今すぐに明智軍の襲撃を受けるという事はなかった安土ですが、それこそ、情報は錯そうするし、パニックになる人もいるしで、右往左往の状態が鎮まる事がない中、その日の夜になって山崎片家(やまざきかたいえ=秀家・堅家とも)が、安土にあった自らの邸宅に火を放って、いち早く居城の山崎山城(やまざきやまじょう=滋賀県彦根市)に引き籠ってしまった事から、ますます周囲のパニックが加速します。

そんな中で、安土城の二の丸の留守居役の一人だった蒲生賢秀(がもうかたひで)は、主君=信長の妻子たちを、自らの居城である日野城(ひのじょう=滋賀県蒲生郡日野町)に避難させて、いずれやって来るであろう明智軍との籠城戦を決意し、すぐさま日野城にいる息子=蒲生氏郷(うじさと)に、その意を伝えて準備を手配させました。

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安土城跡大手口より城下を望む

しとしとと降り続いていた雨が大雨に変わった翌・6月3日、息子=氏郷は、輿(こし)51鞍をつけた馬100匹伝達用の馬200匹を用意して出立・・・早朝には、安土城下まで駆けつけました。

いよいよ安土城からの脱出が始まりますが、信長の妻子たち&侍女たち&近衆たちの中には、城を出る事を拒む者や、出るにあたっても
「城内にある金銀財宝がもったいない」
と、持って逃げようとする者も少なくありませんでしたが、賢秀は、
「そんな見苦しい事はやめなはれ!」
と諌めます。

「せやけど、このまま明智に奪われるのも悔しいですやん。
いっその事、城に火を放って、全部、燃やしてから立ち退いたら…」

という意見にも、
「信長公が心をこめて造らはった壮麗な城を、俺の一存で燃やすなんか、恐れ多いですわ!」
とこれまた一蹴・・・何も持ち去らず、どこも傷つけずに、秀らは安土城を退去して行きました。

こうして、日野城に籠ったのは約1500人ほど・・・明智軍が来れば一戦交える覚悟で籠城戦の準備に取り掛かり、本願寺門徒などの武装勢力に声をかけたり、氏郷の娘を人質に出して織田信雄(おだのぶお・のぶかつ=信長の次男)に援軍を要請するなど、様々な策を講じました。

実際に、この時の信雄は、伊勢(いせ)から鈴鹿(すずか)を越えて、甲賀(こうが・こうか)あたりまで出張っていたのだとか・・・

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位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

やがて6月5日・・・ここで光秀が、堅秀らが退去した安土城に入ります。

早速、近江(おうみ=滋賀県)諸豪に降伏を呼び掛け、旧知の諸将に援軍を要請すると、北近江の阿閉貞征(あつじさだゆき)若狭(わかさ=福井県南部)武田元明(たけだもとあき)、その義兄弟の京極高次(きょうごくたかつぐ=姉か妹の京極龍子が元明の嫁)などが次々に味方を表明。

ただ、ご存じのように、光秀の娘婿&舅の細川忠興(ほそかわただおき)幽斎(ゆうさい=藤孝)父子(6月9日参照>>)や、期待していた筒井順慶(つついじゅんけい)(2007年6月11日参照>>)などは、味方する事はありませんでしたが・・・

一方で光秀は、6月7日には朝廷からの勅使(ちょくし=天皇からの使者)を安土城に迎えるとともに、未だ城主が留守となっている丹羽長秀(にわながひで=堺にてと四国出兵の準備中=4月16日の真ん中あたり参照>>佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)や、秀吉(高松城攻撃中=6月4日参照>>長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を奪い取るなどして、着々と周辺を平定して行きます。

そんなこんなの同じく7日、
「味方をすれば近江半国を与える」
との破格の条件を携えた明智側の使者が、秀のもとにやって来ますが、賢秀は、
「あんだけ信長公に世話になっておきながら、一旦変が起これば光秀につくんかい!」
と、逆に使者としてやって来た旧信長の家臣たちに怒り、会う事すらせずに追い返したと言います。

この時点で、光秀から安土城の事を任されていた明智秀満(あけちひでみつ=光秀の娘婿)は、この使者の返答を聞き、日野城攻めを決意・・・早速、軍を編成して攻撃の準備を整えますが、そこに入って来たのが、疾風のごとき速さで備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区)(6月4日参照>>)から戻って来た秀吉が、山崎(やまざき=京都府乙訓郡大山崎町)に出陣して来たという一報でした。

慌てて、日野城攻撃のために準備した軍勢を山崎の合戦(天王山の戦い)(6月13日参照>>)の先鋒として派遣し、自らも向かおうとしますが間に合わず・・・やむなく坂本へ行こうとするところを、あの有名な湖水渡りの名場面となりますが、そのお話は2014年6月15日の【明智秀満の湖水渡り】のページ>>で。。。

戦わずして安土から退去した賢秀の一連の行動は、一部には「弱腰」との批判もあるようですが、結果的には、
安土を退去からの~
日野城籠城からの~
秀吉の天王山到着で籠城戦回避

となったワケで、「信長の縁者の命を守る」という点においては、秀の判断は「正しかった」という事なのかも知れません。

ただし、
残念なのは、本能寺から13日後の6月15日、安土城が不明の出火で炎上してしまう事・・・(2010年6月15日参照>>)

その権威の象徴でもあった安土城が、主の死とともにこの世から消え去るのは、劇的であるとも思えますが、歴史好きとしては何ともくやしいですね。

★本能寺の変、関連ページ
光秀の連歌会の句は本能寺の意思表明?>>
本能寺・前夜>>
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2017年5月19日 (金)

謀将と呼ばれた真田の祖~真田幸隆(幸綱)

天正二年(1574年)5月19日、信濃(しなの=長野県)の豪族=真田の祖として知られる真田幸隆がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

真田幸隆(さなだゆきたか=幸綱)・・・
ご存じ!昨年の大河の主役=真田信繁(のぶしげ=幸村)お祖父ちゃんであり、草刈さんの好演が光る真田昌幸(まさゆき)お父ちゃんです。

とは言え、上記の通り、名前も複数あり、生まれた年もだいたいで、果ては、その父親すら決定打がないという謎の人・・・まぁ、あの北条早雲(ほうじょうそううん)しかり、美濃(みの=岐阜県)マムシのおっちゃんしかり・・・戦国に入ってから力をつけた武家の初代っちゅーのは、往々にして謎多き感じなのかも知れませんが・・・

とにもかくにも、
第56代・清和天皇(せいわてんのう)(12月4日参照>>)の第4皇子である貞保親王(さだやすしんのう)の末裔とされる信濃の古い豪族=滋野(しげの)の嫡流で、小県(ちいさがた=長野県東御市)を支配していた海野(うんの)海野棟綱(うんのむねつな)長男もしくは次男、もしくは、もしくは娘婿とされる人物が幸隆・・・なので、海野棟綱につながる人物である事は確かでしょう。

そんな彼が、小県郡の真田庄(さなだしょう)に土着した事から、真田姓を名乗り始めたというのが、一般的で、故に、幸隆は真田の祖と称されます。
(注:娘婿説の場合は真田頼昌(さなだよりまさ)という人物が幸隆の父とされるので、この方が祖という事になりますが…)

Sanadayukitaka300a てな事で、前半生がほぼほぼ謎な幸隆さんですが、そんな謎だらけになってしまう原因の一つと思えるのが、真田が、主家である海野氏もろとも事実上の滅亡に追い込まれた一件・・・

それは、幸隆が、おそらくは20代後半で、未だ弱小の土豪(どごう=土地に根付いた半士半農の侍)ではあるものの、周辺の領地に点在する海野一族の援護を受けつつ、領国経営に励んでいた物と思われる天文十年(1541年)の事・・・。

そこに、「領地拡大!」とばかりに侵攻して来たのが、大永元年(1521年)の飯田原の戦い(10月16日参照>>)に勝利して甲斐(かい=山梨県)一国を手中に治めた武田信虎(たけだのぶとら)です。

天文四年(1535年)、諏訪(すわ)氏と和睦した信虎は、佐久郡(さくぐん=長野県佐久市・北佐久郡・南佐久郡)へと侵出して海ノ口城(うんのくちじょう=長野県南佐久郡南牧村)を奪取(12月28日参照>>)・・・このために、佐久郡の大部分が武田に降る事となったのですが、真田含む海野一族は未だ抵抗を続けます。

そんな中、これまで敵対していた葛尾城(かつらおじょう=長野県埴科郡坂城町)村上義清(むらかみよしきよ)と和睦した信虎は、その義清と、上原城(うえはらじょう=長野県茅野市)諏訪頼重(すわよりしげ)との3者連合軍で以って、海野城(うんのじょう=東御市本海野白鳥台)海野棟綱を攻めたのです。

天文十年(1541年)5月14日、最も激戦となった海野平(うんのたいら)の戦いで敗北し、息子の海野幸義(ゆきよし)を失った棟綱は、やむなく逃走・・・関東管領上杉憲政(うえすぎのりまさ)を頼って上野(こうずけ=群馬県)へと亡命したのです。

もちろん、この戦いに、ともに参戦していたとおぼしき幸隆も、一族と同じく、箕輪城(みのわじょう=群馬県高崎市箕郷町)長野業正(ながのなりまさ)を頼って亡命しています。

つまり、ここで事実上、真田は滅亡し、浪人の身となった幸隆・・・一説には、すべてを失い、身一つになったこの時に「残すは三途の川を渡るだけ(渡し賃が六文)「いつでも死ぬ覚悟はできている」という意味で、あの『六連銭(ろくれんせん=一文銭が6つ)』の旗印にしたのだとか・・・
(もともと海野氏の旗印だった説もありますが…(*´v゚*)ゞ)

って事は海野&真田にとってはにっくき武田・・・当然の事ながら、海野&真田は、亡命生活を送りつつも、かの憲政の上杉の威光を頼りに旧領の回復を模索するのですが、この後、幸隆だけは、一族と別行動をとる事になるのです。

実は、この海野平の戦いに勝利した直後、信虎は、その慰労も兼ねて、娘婿(長女=定恵院の結婚相手)であった駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)のもとへ立ち寄るのですが、その間に、先に甲斐に帰国していた息子=晴信(はるのぶ)クーデターを決行し、父=信虎を追放して新政権を樹立したのです(6月14日参照>>)・・・ご存じ、後の武田信玄(たけだしんげん)ですね。

こうして、武田を継いだ・・・いや、父から奪った信玄(当時はまだ晴信ですが信玄と呼ばせていただきます)は、父とは真逆の方針を打ち立て、諏訪とも村上とも同盟を破棄・・・翌・天文十一年(1542年)には諏訪への侵攻を開始(6月24日参照>>)、当然、その後は村上義清とも敵対する(2月14日参照>>)事に・・・

敵の敵は味方・・・
そう、この時、幸隆にとっての1番の重要事項は、自らの領地=真田庄を取り戻す事です。

それを取り戻すためには・・・
先の戦いの後に、この真田庄を占領した村上義清と相対し、今や彼の敵となった信玄に与(くみ)するのが、旧領回復への最短の道!

恨みツラみを捨て、最も合理的な道を瞬時にして判断した幸隆・・・その先見の明は、なかなか大したものですね。

こうして、未だ上杉を頼る一族と離れて上野を脱出した幸隆は、武田への臣従を申し出るのです。

一説には、この時、信玄に幸隆を紹介したのは、名軍師として知られる、あの山本勘助(やまもとかんすけ)(2010年9月10日参照>>)だったとか・・・もちろん、信玄にとっても、ここらあたり=信濃東部の地の利を熟知している幸隆の存在は頼もしい限りですし、幸隆も、そこが自身のアピールポイントだったわけです。

以後、松尾城(まつおじょう=真田本城=長野県小県郡真田町)を本拠とし、武田軍の小県侵攻の先鋒として各地を転戦する幸隆は、信玄が攻めきれなかった戸石城(といしじょう:砥石城=長野県上田市上野)(9月9日参照>>)を、謀略によってアッサリ奪ったり、葛尾城の攻略(4月22日参照>>)にも一役かったり・・・

もちろん、その葛尾城奪取キッカケで越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)と信玄が直接対決する事になる永禄四年(1561年)の川中島(9月10日参照>>)でも、嫡男=信綱(のぶつな)らとともに、あの啄木鳥(きつつき)戦法の別働隊として信玄をサポートしました。

永禄六年(1563年)の岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡東吾妻町)攻略では、城中に「忍び」を放ち、敵方になっていた海野輝幸(てるゆき)らの内応を誘って、これを奪ったと言います。

さらに永禄九年(1566年)には、亡命でお世話になった箕輪城の長野さん(9月30日参照>>)にまでちゅうちょなく・・・

故に、幸隆は、「猛将」というよりは、『謀略の士』あるいは『謀将』などと呼ばれますが、それは、敵に回せばコワイものの、味方なら、これほど心強い味方はいないわけで・・・

そんなこんなの数々の功績により「信玄の懐刀(ふところがたな)とまで称され、外様でありながら、譜代の家臣と同等の待遇を受けて、武田二十四将(たけだにじゅうよんしょう)の一人にも数えられた幸隆でしたが、いつしか病気がちになり、永禄十年(1567年)頃には隠居して、家督を嫡男の信綱に譲っていたとされます。

なので、義元亡き後の駿河への侵攻(12月13日参照>>)や、三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に代表される一連の「信玄上洛かも?」の戦いには、幸隆は参戦していません。

しかし、ご存じのように、この西上の途中で信玄は命を落とし(1月11日参照>>)、武田の行軍はストップ・・・軍団は、そのまま甲斐へと戻るわけで・・・

その信玄の死から約1年後の天正二年(1574年)5月19日幸隆は戸石城にて病死します。

ところで・・・
死の1週間前の5月12日には、亡き信玄の後を継いだ武田勝頼(たけだかつより=信玄の四男)が、信玄も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を落城させています(5月12日参照>>)が、幸隆は、このニュースを聞いたのでしょうか?

先見の明があり、謀略に長けた幸隆が、もし、この一報を聞いていたとしたら、そこに感じた物は、
武田の「頼もしい未来」だったのか?
はたまた「危うき予兆」だったのか?

はたして、この、ちょうど1年後に勃発する長篠の戦い(5月12日参照>>)で、勝頼に従っていた嫡男の信綱、そして次男の昌輝(まさてる)もが討死にしてしまい、真田家は三男の昌幸が継ぐ事に・・・

しかし、ご存じのように、その後、武田は滅んでも(3月11日参照>>)真田は滅びませんでした。

それは、かつて、浪人からのし上がって『謀略の士』『謀将』と呼ばれた父=幸隆から、息子=昌幸が受け継いだ、ただ一つのゆるぎない目標=家を存続させるため智略をフル活用したなればこそ・・・

武田の滅亡から本能寺のゴタゴタにかけて、アッチに行ったりコッチに来たりして、豊臣の奉行たちから「表裏比興の者(ひょうりひきょうのもの=心中が読めないクセ者)と称される事になる昌幸の真意測りかねる動向の数々は、周囲に何と言われようとも、そのただ一つのゆるぎない目標を実現させるための戦術だったわけです(6月4日参照>>)

そして・・・そのただ一つのゆるぎない目標が、幸隆の孫たちである信之(のぶゆき=信幸)&信繁兄弟に受け継がれていく事は、皆さまご存じの通りでおます。
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