2009年11月 6日 (金)

信長VS石山本願寺~第二次木津川口海戦

 

天正六年(1578年)11月6日、織田信長VS石山本願寺の戦いの勝敗を決する事になる戦い・第二次木津川口海戦がありました。

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天下をめざす織田信長によって、名ばかりの将軍となった室町幕府第15代将軍・足利義昭(よしあき)の呼びかけに、朝倉義景(よしかげ)浅井長政(あざいながまさ)武田信玄上杉謙信らが応じる一方で、本願寺の顕如(けんにょ)も全国の本願寺門徒に蜂起を呼びかけ、まさに、絶体絶命の信長包囲網が形勢されます。

しかし、上洛間近と思われた信玄の死という信長にとってはラッキーとも言える出来事も相まって、浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)長島一向一揆を根絶やしにし(9月29日参照>>)、長篠で武田勝頼を破り(5月21日参照>>)・・・と、信長は一つ一つ片付けていきます。

やがて、天正四年(1576年)5月、一向一揆の本拠地である大坂は石山本願寺を取り囲んだ信長と、顕如との直接対決=天王寺合戦が火蓋を切ります(5月3日参照>>)

この戦いのあと、信長が、より包囲を強化した事で、籠城する側の石山本願寺の兵糧が尽きるのも時間の問題と思われましたが、ここに来て、顕如の呼びかけに応じた毛利輝元が参戦・・・その年の7月には、毛利配下の水軍と村上水軍の強力タッグで、信長配下の水軍を翻弄し、海上からの兵糧の運びこみに成功します第一次木津川口海戦:7月13日参照>>)

瀬戸内を牛耳る水軍のゲリラ的戦法に見事にしてやられた信長は、屈辱を晴らすべく準備にとりかかり、2年後の天正六年(1578年)9月、前代未聞の鉄甲船を完成させます(9月30日参照>>)

この間に、越後(新潟県)では、あの謙信が亡くなったために後継者争いが勃発(3月13日参照>>)、もはや信長どころではなくなり、信長は石山本願寺と、それを支援する毛利にターゲットを絞る事が可能になりました。

「もう、これ以上、兵糧を搬入させるものか!」
・・・と、いよいよの雰囲気になりますが・・・

その10月、突然、有岡城荒木村重(むらしげ)が叛旗をひるがえし、本願寺&毛利側に寝返ってしまったのです(5月4日参照>>)

有岡城は、現在の兵庫県伊丹市にあった城・・・こんな本願寺に近いところが、その配下となってしまっては、いくら海上を封鎖しても、陸路で支援をされかねませんから、信長は急遽、時の天皇・第106代正親町(おおぎまち)天皇を動かし、本願寺に講和を持ちかけます。

時間稼ぎをして、その間に有岡城を陥落させるつもりでした。

天皇からの勅使(ちょくし・天皇の使い)が、本願寺に使わされたのは11月4日・・・和睦の話を聞いた顕如は、「もはや、本願寺だけの戦ではない」と、毛利へも勅使を送る事を要求・・・毛利側からもOKがない限り、和睦には応じない構えをみせました。

しかし、そのわずか2日後、未だ、勅使の訪問を受けていない毛利は、600艘の船団を引き連れて、大坂湾へと到着・・・本願寺に兵糧を搬入すべく、木津川河口へと侵入しますが、当然、信長の軍勢は、これを阻止しなければなりません。

こうして天正六年(1578年)11月6日第二次木津川口海戦が勃発するのです。

午前8時、河口に、織田の水軍の指揮を任された九鬼嘉高(よしたか)が乗船する旗艦をはじめ、6艘の鉄甲船、1艘の安宅船と無数の軍船が待ち構える中、小回りのきく毛利水軍は、右へ左へと素早く動き、むしろ圧し気味に攻勢をかけます。

しかし、考えて見れば、鉄甲船は動き回る必要はありません・・・ただ、動かざること山の如く、そこにいて、毛利水軍の侵入を防げば良いのです。

当然の事ながら、毛利水軍の小舟のほうは、そこを突破するためにも近づいていくしかないわけですが、鉄甲船には、それぞれ3門の大砲=合計18門が・・・敵船を射程距離に収めるなり、大砲は一斉に火を吹き、小さな軍船は、戦う前から木っ端微塵に砕かれます

何とか、大砲の攻撃をくぐり抜けて鉄甲船に近づいた船も、もはや、相手が鉄の壁では、焙烙(ほうろく・手投げ弾のような武器)も、矢も、役に立ちません

「六艘の大船・・・敵船を間近く寄せつけ、大将軍の船と覚(おぼ)しきを、大鉄砲を以って打ち崩し候(そうら)えば、是(これ)に恐れて中々寄せ付かず」(信長公記)・・・と、織田側の一歩的な勝利で、お昼頃には、船団は壊滅状態となったという事です。

・・・と、これは、勝利者である織田側の言い分なので、気持ちとしては、毛利の言い分も聞いてみたいところですが、残念ながら、毛利側の記録はほとんどありません。

第一次の海戦で大活躍した村上水軍もの話もまったく登場せず、ひょっとしたら村上水軍は、この第二次には参戦していなかったのではないか?と言われています・・・まぁ、毛利自身も水軍持ってますし、隆景の小早川水軍もいますからね~。

ただ、この時、軍船が苦戦する合間を縫って、兵糧船は木津川口に達し、無事、兵糧を運び込んだとも言われていて、そうならば、石山本願寺と毛利にとって、敗北ではあったものの、目的は達成されていた事になります。

ただ、この敗北によって大坂湾の制海権を信長が握った事は確か・・・補給路を断たれた石山本願寺は、しだいに苦境に立たされる事になります。

やがて、翌・天正七年(1579年)には、かの有岡城も開城され(10月16日参照>>)、村重は逃亡・・・その家族と家臣がことごとく処刑される中、石山本願寺への総攻撃もまもなく開始されるのでは?とおもわれましたが、意外にも信長は、正親町天皇を間に置いての講和を再び持ちかけ、本願寺の明け渡しを要求しました。

これには、やはり、長島一向一揆と違って、こちらは、まさに本拠地で、本願寺門徒の信仰の中心である顕如がいますから、未だ、一向一揆発祥の地である加賀が微妙な時に、ムリヤリな武力行使を避けたのでは?とも考えられます・・・加賀一向一揆が完全に終結するのは天正八年の11月:11月17日参照>>)

また、正親町天皇の勅命(ちょくめい・天皇の命令)にこだわったのも、もともと将軍・義昭の呼びかけで始まった石山合戦を、完全に終結に持っていくためには、「将軍よりも上の天皇の力を借りるしかない」との思いからであったろうと言われています。

なんだかんだで、信長さん・・・けっこう上下の力関係を考えてます。

かくして顕如が講和に応じ、石山本願寺を出たのは天正八年(1580年)の3月、その後、顕如の息子・教如(きょうにょ)が出て、本願寺が明け渡されるのは8月の事・・・以後、石山本願寺の跡地は、信長の物となり、ここで、十一年に渡る石山合戦が終りを告げました。

その後の本願寺については・・・東西二つある理由も含めて、1月19日【時代とともに生きた東西二つの本願寺】でどうぞ>>
 

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2009年10月16日 (金)

有岡城・落城~如水と半兵衛とその息子たちと・・・

 

天正七年(1579年)10月16日、前年に主君の織田信長に叛旗をひるがえした荒木村重の居城・摂津有岡城が開城されました。

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・・・とは言え、城主の荒木村重は、すでに1ヶ月前に、数名の従者を連れて有岡城を脱出して、城に残っていたのは、妻子と家臣だけ・・・

しかも、その妻子や家臣たちは、この後、村重が逃げ回ったために、その犠牲となって命を落す事になりますが、その一連の経緯については、村重さんのご命日の日に書かせていただいているので、2008年5月4日のページ>>で見ていただくとしても・・・

主君・織田信長から、何かと優遇されていた感のある村重がなぜ謀反に走ったのか?
また、妻子を見捨ててまで守ろうとした物は、何だったのか?

・・・と、まだまだ、謎は尽きないわけで、その真意については、まだ書きたい事もあるのですが、とりあえず、本日は、この村重の謀反&有岡城の落城が、その人生の転換期となった人物のお話をさせていただきます。

それは、ご存知、黒田如水です。

この時、彼はまだ小寺官兵衛孝高(こでらかんべえよしたか)と名乗っていた頃・・・(今日はややこしいので、呼び方は如水で通します)

つまり、播磨(はりま・兵庫県)の小大名だった小寺政職(まさもと)の家老だった如水の父・職高(もとたか)が、主君の信頼を得て名乗った小寺の姓を未だ使用していた頃で、何かと安芸(あき・広島県)毛利氏寄りだった主君・政職を説得して、中国地方へと手を伸ばし始めた信長の傘下に入ったばかりでした(11月29日参照>>)

・・・て事で、この頃の如水は、まだまだ、「その地方では、ちったぁ名の知れた」程度の存在でしかなかったのです。

そんな彼に、白羽の矢が立ちます。

それが、今回、叛旗をひるがえした村重の説得・・・

そのご命日のページでも書かせていただいたように、この時、「村重に謀反のきざしがある」という情報を得た信長は、普段、私たちが抱く信長さんのイメージとはうらはらに、すぐに攻撃して抹殺・・・ってな事はいっさいせず、「なんで、謀反なんか起すのん?」「なぁ、戻っておいでぇや」と、何度も真意を尋ねたり、説得をしたりを繰り返しています。

まずは、茶飲み仲間の松井夕閑(ゆうかん)、娘が村重の嫡男・村次(むらつぐ)の嫁となっていた明智光秀、信長が愛してやまない小姓の万見重元(まんみしげもと)の3人を派遣して、母親を人質に出して、安土に弁明に来てくれたら許しちゃう!」と説得してみますが、村重の答えはNO!

それでも、まだ、信長は事を構えず、再び光秀を使者に立てて説得・・・さらに、羽柴(豊臣)秀吉を派遣しますが、やっぱりダメ・・・

それどころか、村重は、光秀の娘を息子と離縁させて、坂本城へ送り返したりなんかして、意地でも戻らない雰囲気・・・。

それで、今度は、その秀吉の命で、同じキリスト教徒として親しくしていた如水が、村重を説得するために有岡城へと派遣されたのです。

ところが・・・です。

如水の説得で、納得して信長の傘下となったと思っていた、かの政職・・・実は、まだ毛利と切れていなかったのです。

政職が、毛利と通じている・・・という事は、現在、小寺一門が信長の傘下となっている事にも、彼は納得がいっていないわけで、当然、そもそも信長の傘下に入る事を主張した如水の存在も、内心ではうっとうしかったわけです。

・・・で、政職は、密かに手を回し、有岡城へ説得に向かった如水を捕らえて抹殺するように村重に依頼したのです。

しかし、村重は、如水を捕まえはしましたが殺しはせず、土牢に閉じ込めて幽閉したのです。

そうとは知らない信長サイド・・・これまで、何人もの人間が有岡城へと行き説得したにも関わらず、村重は、いっこう聞き入れないどころか、「今度は、使者を寝返らせやがった」となったのです。

そうです・・・これまで、光秀の秀吉も、無事帰って来ていますが、如水だけがいっこうに帰って来ない状況に、「如水は、村重に同調して、寝返った!」と、思ったのです。

さすがに、ここらあたりで、ブチ切れはじめた信長さん・・・交戦中の石山本願寺に和睦を申し込んで時間稼ぎをしながら、村重に同調している茨木城主の中川清秀と高槻城主の高山右近を寝返らせ、目標を有岡城一本に絞り始めます。

そして、自らのブチ切れを、寝返ったと見られる如水と村重に見せつけるかのように、人質として預かっていた如水の長男・松寿丸を殺害するように、秀吉に命じるのです。

しかし、ここで登場したのが、秀吉の軍師として知られるあの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)(2月6日参照>>)でした。

この時、半兵衛は「官兵衛には、絶対に二心はない!」と信じ、表向きには殺した事にして、密かに松寿丸をかくまったのです。

かくして、村重が叛旗をひるがえしてから約1年後の天正七年(1579年)10月16日、すでに、主のいなくなった有岡城は、家臣たちによって開城となるのです。

ここで、如水は、奇跡的に救出されます

ただ、長期に渡り、劣悪な環境で閉じ込められていたため、足腰を痛め、その曲がった足は、その後も一生治る事なく、以後、彼は歩行が困難な状態となってしまいました。

しかし、如水は、その過酷な現状と引き換えに、信長から形無き褒美をもらう事になります。

それは、信長からの信頼・・・このような状況になっても、村重に同調しなかったという事実は、何よりも信長の心をつかみます。

翌・天正八年(1580年)には、この一件で毛利とのつながりが明白となったため、毛利の領地へと逃亡した政職の旧領と播磨の一郡・1万石を加えた計・3万石を与えられ、大名としての第一歩を踏み出す事になります。

また、半兵衛の機転で、松寿丸が生きている事を知った信長は、「おかげで間違いを起さずにすんだ」と大いに喜んだと言います。

ただ、その半兵衛は、如水が救出される半年前に、秀吉による播磨・三木城包囲(3月29日参照>>)の陣中で病に倒れ、その後、京都にて療養するも、6月13日に36歳の若さで亡くなってしまっていました。

如水は、半兵衛に感謝するとともに、その死を大いに悼んだ事でしょう。

この時、半兵衛の息子・重門(しげかど)は、わずか7歳でした。

重門は、その後、父の後を継いで秀吉に仕え、元服後は、河内(大阪府)国・安宿(あすか)郡など6000石を与えられたものの、朝鮮出兵の時でさえ、「まだ幼い」と参加が許されなかったのだとか・・・。

やがて訪れた関ヶ原の合戦で、西軍として参戦した重門・・・しかし、重門は、岐阜城・落城(8月22日参照>>)直後に、東軍へと寝返り、さらに、合戦後には、あの小西行長重門のところに自首してくれた(9月19日参照>>)事で、竹中家はお咎めなしとなり、所領も安堵・・・以後、徳川の傘下で明治維新まで存続する事となります。

結果的に、竹中家が存続する事となった、この時点での寝返り・・・この時、重門を説得したのは、誰あろう、亡き半兵衛に命を救われた松寿丸=黒田長政でした

関ヶ原当時、多くの大名を、西軍から東軍に寝返らせた長政ではありますが、重門に対しては、ただの戦略ではない、何か特別な思いが存在したと信じたいですね・・・o(*^▽^*)o
 

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2009年10月14日 (水)

いよいよ三方ヶ原~信玄・二俣城を攻略

 

元亀三年(1572年)10月14日、遠江に侵攻した武田信玄の別働隊が、徳川家康方の二俣城を包囲しました。

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昨日の今日で何ですが・・・
昨日のページをまだ読んでいただいていない方は、先にソチラを>>

・・・で、昨日、一言坂の戦いを繰り広げた武田信玄の本隊と、犬居城(いぬいじょう・浜松市)で分かれた別働隊が、浜松城の北東20kmに位置する二俣城を包囲したのは、翌日の元亀三年(1572年)10月14日の事でした。

城を守るのは、徳川家康配下の中根正照(まさてる)・・・そして彼をサポートする青木貞治(さだはる)松平康安(やすやす)といった面々・・・。

攻めるは、信玄の息子・武田勝頼(かつより)を主力とした部隊・・・

しかし、コチラは城攻め・・・1日や2日でカタがつくものではありません。

まして二俣城は、天竜川と二俣川に囲まれた台地の上に築かれた天然の要害で、攻め難さにかけてはトップクラスの堅固な城です。

もちろん、さすがの信玄ですから、その事は充分承知の上・・・城を囲む勝頼たちだけではなく、あの手この手の作戦を、すでに展開しておりました。

まずは馬場信房(のぶふさ・信春)に、北条からの援軍を加えて、浜松城から東・・・天竜川を越えた神増(かんそ・静岡県磐田市)に布陣させ、その地を押さえます。

さらに天竜川東岸の匂坂(さぎさか)穴山信君(のぶきみ)を配置・・・なんせ、浜松の東側・遠江(とおとうみ・静岡県西部)東部には、徳川方の石川家成掛川城、同じく徳川配下の小笠原氏助(うじすけ)が守る高天神城など、まだまだ重要拠点が無傷で残っていますから(昨日の進路図を参照>>別窓で開きます)、これら、東部の城と、浜松城&二俣城の連絡を経ってしまわないといけません

そこに、グッドタイミングで、最初の段階から別働隊として奥三河(愛知県)に展開中の山県昌景(まさかげ)が、東三河各地を制圧し、二俣城への連絡を断ち切る事に成功します。

そんなこんなで完全に孤立した二俣城・・・おそらく、10月下旬頃には、総攻撃が開始されたものと思われます。

しかし、これだけ、周到な攻めをくりかえしても、堅固な城はいっこうに落ちる事なく、やがて、11月・・・12月・・・総攻撃開始から、はや1ヶ月ちょっと・・・

Mizunoteyaguracc この二俣城では、天竜川に面した岩壁に(水の手櫓・井楼=せいろう)を組み、そこから縄を下ろして水を汲み上げていたのですが、勝頼は、最後の手段として、この水補給ルートを断つ作戦に出ます。

12月19日・・・勝頼は、天竜川の上流から大量の(いかだ)を流して、かの櫓に激突させ、見事、櫓を崩壊させます。

これによって、水を補給する事が不可能となった二俣城・・・正照らは、この先の長期の籠城が叶わなくなった以上、更なる籠城は、ただ時間を費やすのみと判断し、速やかに武田方に人質を差し出し、二俣城を明け渡したのでした。

二俣城の陥落で、周囲から完全に孤立した家康の本拠地・浜松城・・・迎える家康はいかに・・・

本日の勝頼さん・・・
生まれ年からいけば、この時25~6歳・・・
昨日の忠勝に引き続き、今度は勝頼に、
「ちょっと、惚れてまうやろ~c(>ω<)ゞ」
あぁ・・・忙しいsweat01

この後、二俣城に入った信玄本隊が城の修復を終え、出陣するのは、12月22日・・・ご存知、三方ヶ原の戦いですが、そのお話は2006年12月22日のページで>>

上記の三方ヶ原のページは3年も前に書いたものなので、今回、その日に関して、更にくわしく、新たな逸話などをご紹介するかどうかは、現在思案中・・・少々お待ちを・・・
 

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2009年10月13日 (火)

家康に過ぎたるもの~本多忠勝・一言坂の戦い

 

元亀三年(1572年)10月13日、遠江に進出してきた武田信玄と、それを迎え撃つ徳川家康との戦い・・・三方ヶ原戦いの前哨戦とも言える一言坂の戦いがありました。

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室町幕府15代将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たし、群雄割拠する中、一歩進み出た感の織田信長・・・。

やがて、自らが天下に号令する勢いを見せる信長に(1月23日参照>>)、将軍のプライドもズタズタの義昭が、全国の大名たちに呼びかけ、それに応じて、信長包囲網とも言うべき連隊関係が敷かれます。

越前(福井)朝倉北近江(滋賀県)浅井(あざい)阿波(徳島県)三好・・・さらに、大坂石山本願寺と、それを支援する西国の毛利・・・。

そんな中、義昭が最も頼りにしたのは、戦国最強ともうたわれた甲斐(山梨県)武田信玄でした。

信玄は、信長が今川義元桶狭間に破った頃には、むしろ友好関係にあり、信長と同盟を結んでいた三河(愛知県東部)徳川家康との協力体制で、義元亡き後の今川に攻め込んだりしてましたが(12月13日参照>>)、もはや、今川の旧領・駿河(静岡県東部)を手に入れた以上、その先にある更なる土地は、家康の遠江(とおとうみ・静岡県西部)・・・このタイミングでの義昭の呼びかけに、その重い腰を上げ、上洛を決意したのでした。

元亀三年(1572年)10月3日に、本拠地・躑躅ヶ崎(つつじがさき)を出陣した信玄は、北条氏政からの援軍・2000を含めた約・2万5000の大軍勢を3つに分け、それぞれ別ルートから侵攻します。

山県昌景(やまがたまさかげ)率いる約5000は、信濃(長野県)伊那飯田方面から三河川沿いに南下・・・奥三河に侵攻して、家康軍を三河東部へとひきつける役割です。

秋山信友率いる約3000は、伊那口から東美濃(岐阜県)へと進み、信長を牽制します。

そして、信玄率いる本隊が、諏訪から高遠を経て、天竜川沿いに南下し、遠江との国境にある青崩(あおくずれ)を越えを越えたのは、10月10日の事でした。

Hitokotozakasinrozucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そこから、さらに南に下り、すでに武田の傘下となっている天野景貫(あまのかげつら)犬居城(いぬいじょう・浜松市)に入り、ここで、兵を2手に分け、一方は二俣城へ・・・そして、信玄の本隊は、さらに南へと侵攻する作戦です。

もちろん、家康も、この信玄の侵攻をただ見守っているいるわけにはいきません。

3000余りの兵を率いて、自ら浜松城を出陣しますが、まずは、先発した偵察隊見附付近にて武田軍と遭遇・・・小競り合いの中、劣勢を強いられた徳川軍は、退却をはじめますが、この時、殿(しんがり・軍の最後尾)を努めたのが、徳川四天王の1人に数えられた本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)です。

何度も言いますが、合戦は攻めるより退却のほうが数段難しく、さらに、その殿は、最も重要で最も危険な役目です。

ただ、この時、最前線にいたのは偵察隊ですから、もちろん、忠勝も、はじめは家康の本隊近くにいたわけで、まずは、家康に形勢の不利を伝え、退却をうながしますが、やはり、最前線の兵士たちを見殺しにする事はできません。

忠勝は、急ぎ、最前線に赴いて、撤収をはかろうとしますが、すでに、武田軍に追いつかれ、見附の西方・一言坂(ひとことざか)にて、今、まさに、本格的な戦闘が開始されようとしていたのです。

両者の距離は、わずか20m・・・そのわずかの場所に、ただ一騎で躍り出たのは、黒糸の鎧に、鹿角の兜を身につけた忠勝!

まずは、味方のほうに向けて「撤収~!退け!」と叫び、今度は、馬を反転させて、堂々とした姿で敵を睨みつけ、蜻蛉切(とんぼきり)の鑓を高くかざします。

この大胆不敵で気迫に満ちた忠勝の行動に、武田軍は唖然とし、一瞬、何もできなかったと言います。

こうして、偵察隊の兵を押し戻した忠勝は、自らが殿となり、撤退を開始するのです。

追いすがる武田の兵には馬を返して戦い、配下の鉄砲隊が火を吹けば、再び撤退を開始する・・・幾度となく、そんな戦いを繰り返しながら、やがて、天竜川を無事に渡河し、なんとか、武田の兵をまく事に成功しました。

戦闘を終えて、家康の前に現れた忠勝・・・指物はボロボロにちぎれ、鎧には5本の矢が刺さり、顔は真っ黒に汚れてはいたものの、一つの傷も負っていなかったのだとか・・・

忠勝の無事な姿を見た家康は、
「お前・・・ホンマ、最高やで!」と、大喜び!

しかし、この時の忠勝の戦いぶりを見て、感激したのは、家康だけではありませんでした。

最初に現れた時の気迫に満ちた態度、決死の覚悟で殿を努めたその姿は、信玄の家臣の心も揺さぶりました。

信玄の旗本・小杉左近が言います。
♪家康に 過ぎたるものが 二つあり
  唐の頭
(かしら・兜)と 本多平八 ♪

そうなんです。

皆さん、よくご存知の、忠勝の素晴らしさを象徴する、この言い回し・・・これは、忠勝の、この一言坂での戦いぶりを見た武田の家臣の言葉でした。

本多忠勝・・・25歳の時の出来事。
「惚れてまうやろ~(*゚ー゚*)」

この後、戦いは、かの三方ヶ原(12月22日参照>>)へと向かいますが、その前に、武田勝頼による二俣城の攻防戦もどうぞ>>
 

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2009年9月30日 (水)

信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場

 

天正六年(1578年)9月30日、に入港していた鉄甲船の観艦式が開催されました。

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熊野浦を経て大坂湾の港へ、去る7月17日に堂々の入港を果たした7隻の大安宅船(おおあたけぶね)・・・戦国から江戸初期にかけて造られた最強の軍船=安宅船のうち、1000石以上の大きさの物を大安宅船と呼びますが、この時の記録では、滝川一益(かずます)が建造した1隻を「白舟」と記しているところから、九鬼嘉隆(くきよしたか)が建造した残りの6隻が、黒光りの威風を放つ鉄甲船であったと思われます。

この鉄甲船を、色とりどりの幟(のぼり)や指物(さしもの)で飾りつけ、関白・近衛前久(このえさきひさ)をはじめとする公家や有力大名、堺のお金持ちに宣教師までを招待して、大々的に開催された華麗なる観艦式・・・

この日の織田信長は、自らの発想の豊かさと、それを実現できる力を持つ事を内外に見せつけ、大いに気を吐いた事でしょう。

そもそもは、室町幕府第15代将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たした後、天下統一をもくろむ信長に対して危機感を抱いた義昭の声かけによって敷かれた信長包囲網・・・

比叡山延暦寺をバックに持つ越前(福井県)朝倉義景近江(滋賀県)浅井長政、戦国屈指の大物・甲斐(山梨県)武田信玄越後(新潟県)上杉謙信、そして、大坂・石山本願寺に拠点を置く第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)全国の本願寺信徒に同調を呼びかけ挙兵・・・まさに、周囲敵ばかりの状態となった信長。

そんな中、天正四年(1576年)5月の天王寺合戦(5月3日参照>>)で痛い目を見た信長は、石山本願寺の周囲に砦を築いて完全包囲・・・籠城する本願寺側の補給路を断ちます。

しかし、ここで西国の雄・毛利輝元が参戦・・・海路から本願寺への兵糧補給を目指し、一族の小早川水軍、配下の村上水軍を率い、さらに紀州(和歌山県)雑賀(さいが)水軍を加えた船団が、兵糧を満載した船とともに大坂湾に進入します。

もちろん、それを阻止すべく立ちはだかるのは、沼田氏真鍋氏など和泉河内(大阪府)摂津(兵庫県)の水軍で構成された織田水軍・・・第一次木津川口海戦の勃発です(7月13日参照>>)

しかし、ここで、陸戦に勝るとも劣らない艦隊編制での陣形による連携プレーで、翻弄されまくり、見事な負け戦となってしまった織田軍・・・。

手痛い敗北を喰らった信長は、未だ建築中の安土城九鬼水軍の嘉隆を呼び、鉄甲船の建造を命じたのです。

九鬼一族は、南北朝時代から、伊勢志摩から熊野灘を活動範囲とする海賊でしたが、すでに嘉隆の時代には、その海賊稼業にも陰りが見え始めていた頃・・・ちょうど、その時、かの顕如の呼びかけに答えて一向一揆が勃発した伊勢長島にやって来た信長の傘下となり、その長島一向一揆(9月29日参照>>)で海上から見事にバックアップした事で、信長からの信頼を得ていたのでした。

ところで、今回の鉄甲船・・・水軍に関してはプロの嘉隆ですが、この鉄甲船というアイデアはおそらく信長本人の発想でしょう。

確かに、前回の木津川口海戦では、村上水軍の放つ焙烙(ほうろく)という手投げ弾のような武器で、木製の軍船がことごとく燃やされて混乱状態に陥ったため、どうにもならない船いくさとなってしまったわけですが、「それなら、燃えない鉄で造っちゃえ!」という発想は、プロにはできません。

たとえ思いついたとしても、上司に提案すれば「何を考えとるんだ!」と、怒られそうな発想です。

なぜなら、そんな重い船体では速く走行する事ができず小回りもきかない、第一、塩分を含んだ海水にさらされた鉄は、すぐに錆び、あっという間に使い物にならなくなるのは目に見えています。

殿様の出す大金を使って、そんなもったいないシロモノ・・・プロなら、もっと機能的で使い勝手が良く、長持ちする有意義な物を造るでしょう。

そうです、今回、おそらく、ものすごい金額になるであろう鉄甲船を考えたのが、その大枚な金額を自らが支払う本人だから実現できたと思うのです。

信長にとって、鉄甲船は、小回りをきかして速く走る必要はないのです。

そこにいて、敵の船団の進入を阻止する事だけ・・・相手を蹴散らして制海権を握れば、2度目は使えなくても良いのです。

一度きりの作戦に、膨大な金額を惜しみなく使えるのは、このアイデアが信長のものであったからに他ならないでしょう。

実際、この鉄甲船は、この後の海戦一回こっきりで、2度と歴史には登場しません。

この14年後に、豊臣秀吉朝鮮出兵で、再び鉄を装甲した大安宅船が登場しますが、それらは、すべて新しく建造された物なのです。

もちろん、その信長の突飛なアイデアを現実の物とした嘉隆の手腕も大したものですが・・・。

加重して転覆しやすくなる船体をいかにして安定させるか?
損なわれる機動力をいかに最小限にするか?

伊勢大湊(おおみなと)という最先端の職人集団をかかえる嘉隆も、おそらく彼らとの試行錯誤のうえ、完成に漕ぎつけた事でしょう。

かくして天正六年(1578年)9月30日、この日の観艦式で、鉄甲船を目の当たりにしたイエズス会士・オルガンチノは、フロイスへの報告書に・・・

「堺で見てきたけど、ポルトガルの船にも匹敵するような大きさと華麗さにびっくりしたわ。
きっと、あれを大坂港の河口に置いとして、石山本願寺への兵糧の運び込みを阻止しよっちゅーんやろな。
船には3門の大砲と、数えきれんくらいの精巧な長銃が搭載されてるんやけど、いったいどこから入手したんやろ?
僕の知ってるのでは、日本では大友君が持ってるヤツしかないはずなんやけど・・・」

と、驚きを隠せないようです。

そう、以前、耳川の戦い(11月11日参照>>)を書かせていただいた時に登場した大友の最新兵器・国崩(くにくずし)・・・これは、大友宗麟ポルトガル人からプレゼントされた佛狼機(ふらんき)ですが、それこそ、キリシタン大名として宣教師たちを支援し、外国と深い関係を築いていた宗麟だからこそ手に入れられたシロモノ・・・

耳川の戦いは、この鉄甲船完成の同じ年の11月ですが、もちろん、それ以前に、信長の耳に入っているでしょうから、その存在を知っていたであろう事はわかりますが、すでに、この時点で、国産品を造るほどになっていたとは、オルガンチノでなくとも驚きです。

どうやら、信長は、けっこう早くから、かの秀吉に命じて、近江の国友(くにとも)の鍛冶職人に造らせたようですが、『国友鉄砲記』という書物には、大砲の試作品を見た信長が、「三国無双の宝器を得た」と大いに喜んだと書かれているそうです。

戦国という敵味方入り乱れる時代の、信長の情報網のスゴさと、行動に移す事への素早さには感服しますね~

もちろん、わずかの情報だけと短い時間で、国産品を造ってしまう職人さんの技術にも閉口ですが・・・

こうして、皆々様の知るところとなった世紀の軍船=鉄甲船・・・この最新の武器を以って、再び、石山本願寺の補給路を断とうとする信長・・・第二次木津川口の海戦はいかに?

・・・と、そのお話は、やはり、海戦の展開される11月6日に書かせていただく事にします。
 

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2009年8月29日 (土)

浅井長政、最後の手紙

 

天正元年(1573年)8月29日、小谷城・落城を目前にした浅井長政が、片桐直貞宛に、最後の感状をしたためました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

再三の上洛要請に応じない越前(福井県)朝倉義景と、その義景に協力する姿勢の近江(滋賀県)浅井長政を相手に、織田信長が戦った姉川の合戦(6月28日参照>>)・・・。

あれから三年たった天正元年(1573年)・・・

7月に室町幕府最後の将軍・足利義昭京都から追放(7月18日参照>>)して、事実上天下を掌握した信長は、翌・8月、姉川の合戦以降、未だに反目し続ける浅井氏を滅ぼすべく、長政の居城・小谷城(滋賀県湖北町)を囲みます。

窮地に立った小谷城を救援すべくやってきた義景を追撃し、先に朝倉氏を滅ぼした(8月6日参照>>)信長は、すぐさまUターンし、8月26日には、小谷城攻撃の基地となる虎御前山砦に舞い戻ります。

信長の帰還に朝倉の滅亡を悟る長政・・・小谷城内も、さすがにあわただしくなってきます。

翌・27日、信長が、配下の羽柴(後の豊臣)秀吉に、総攻撃・開始の命令を下す中、小谷城を守る国人衆の間では、
「総攻撃を受ける前に、速やかに開城して、信長の指示に従おう」
「いや、徹底抗戦して、城を枕に討死しよう」
と、喧々囂々の議論が飛び交います。

そんな議論の結果を待たず、家臣の1人・浅井井規(ゆきのり)織田方に投降・・・彼が、道案内をした事で、怒涛のごとく押し寄せた秀吉軍は、またたく間に京極丸を占領し、続く小丸へと攻撃を仕掛けます。

この日、小丸を守っていた長政の父・浅井久政が、追い詰められて自刃・・・翌・28日、本丸にいた長政も、妻・お市の方(信長の妹)に子供たちを託して、自ら命を断ちます

・・・と、小谷城の落城と、長政の自刃による浅井氏の滅亡は、すでに、一昨年の8月28日に、このブログに書かせていただいている(2007年8月28日参照>>)のですが、そのページでも、父・久政の死が27日、長政の死が翌・28日とさせていただいております。

それは、信長に関する第1の史料とされる『信長公記』に上記の日づけで記載されており、『国史大辞典』でも28日とされ、この日づけが歴史の通説となっていますので、通常、浅井氏・滅亡は28日という事になっています。

しかし、ここに、落城を悟った長政が、家臣の片桐直貞に宛てた一通の感状が残っていて、それが、長政の最後の書状であるとされています。

Azainagamasasyozyoucc 石川文化事業財団 お茶の水図書館蔵

その日づけは、「元亀四 八月廿九日」・・・
(注:元亀四年は、7月に信長によって天正元年に改元されますが、長政は天正の元号を使っていません)

当然の事ながら、死んだ後に書状を書く事はありえませんので、長政の自刃は、この書状を書いた直後の8月29日か、翌日の9月1日という事になります。
(注:もともと旧暦に8月31日はないうえ、この年の8月は小の月で30日もありませんでしたので、29日の翌日は9月1日となります)

これによって、ひょっとしたら、小谷城の落城は9月1日だったかも知れないとも言われますが、その決定は、歴史の専門家のかたにおまかせするとして、本題は、この書状の内容・・・

「今回は、思いもよらん事で、この小谷城も、もはや、無事なんは、この本丸だけになってしもた・・・
何かと、不自由な籠城の中、君は、忠義を尽くしてくれて、ホンマ、感謝してるで!

しかも、他のヤツが次々と城を抜け出して敵に投降して、城内はメチャメチャ混乱状態やのに、それでも、頑張ってくれて・・・僕の気持ちは、言葉にできひんし、ここには書ききられへんほどや」

・・・てな感じの内容なのですが、長政が、この手紙を渡した片桐直貞という人は、後に、秀吉VS柴田勝家賤ヶ岳の合戦「賤ヶ岳の七本槍」(4月21日参照>>)の1人として名を馳せ、大坂の陣の時には、豊臣と徳川の交渉役ともなった片桐且元(かつもと)(8月20日参照>>)お父さんです。

上記の書状は、単に、直貞に感謝の意を伝える手紙・・・というよりは、彼が、次に仕える事になる新たな主君への推薦状の意味合いが込められているのです。

つまり、前の主君=長政が、これほど感謝するようなすばらしい家臣である事の証明書・・・

言い換えれば・・・
「僕は、ここで死ぬけど、君は、新たな場所で、また、頑張ってね」
と、家臣との主従関係を断ち切る、別れの手紙でもあったわけです。

死を目前にしてもなお、家臣を統率し、家臣の事を思いながら、毅然とした態度を貫く長政の姿が目に浮かぶようです。

別れの言葉が、一語も書かれていない別れの手紙・・・心、うたれます。
 

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2009年8月20日 (木)

鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い

 

元亀元年(1570年)8月20日、大友宗麟の命により龍造寺隆信佐嘉城を囲んだ大友親貞の軍に、龍造寺配下の鍋島直茂が奇襲をかけて大友軍を撃破した今山の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

周防(山口県)の名門・大内氏なのどの介入もあり、様々に政情が変化した戦国時代の九州地方・・・そんな中、ここにきて「九州三強」と呼ばれはじめたのが、薩摩(さつま・鹿児島県)島津義久豊後(ぶんご・大分県)大友宗麟(そうりん)肥前(ひぜん・佐賀県)龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)・・・

しかし、鎌倉以来の豪族とは言え、もともと九州北部を支配していた少弐(しょうに)の配下であった龍造寺の(8月15日参照>>)、しかも分家の出身である隆信は、隣国の宗麟にとっては新興勢力です。

元亀元年(1570年)3月、「ここは一つ、これ以上勢力をつける前に叩いてやろう」と、隆信の本拠地・佐嘉(さが)城への侵攻を開始します。

・・・とは言え、現地へ赴き、最前線に立つ事が少ない宗麟・・・今回も一族(甥とも)大友親貞(ちかさだ)を総大将に佐嘉城・攻略戦に向かわせます。

なんだかんだで、この時点で北九州では最大の勢力を持つ大友氏・・・地元はもちろん、進軍する先々で国人たちが味方につき、最終的に6万という大軍勢になって佐嘉城を囲みます。

一方、守る龍造寺は、わずか3000・・・男・隆信、最大のピンチです。

数にものを言わせて、佐賀平野を埋め尽くすがごとく城を囲み、圧力をかける大友勢ですが、これが、終始小競り合い程度で、なかなかズバッとした攻撃を仕掛けて来ない・・・。

城の北西10kmほどのところにある今山に本陣を置いた総大将の親貞・・・「これだけ囲んどいて、何をモタモタしてるんだ?」と思いきや、これが、どうやら占いによる行動だったらしい・・・

つまり、占いで、「まだ攻撃をしちゃいかん!」なる指示が出ていて、運気が好転するまで、ちゅうちょしていたのだとか・・・

現代人の我々にとっては、そんな迷信に頼らず、情報を収集して絶好の機会に撃って出るべき・・・と考えますが、以前、軍師のお仕事のページ(5月23日参照>>)でもご紹介させていただいたように、意外と戦国武将は縁起を担いだり、運に頼ったりしてます。

・・・とは言え、あまりの戦勝報告になさに、イラ立つ宗麟は、筑後福岡県南部)まで出張ってきて、総攻撃をうながすのに答えて、来たる8月20日に総攻撃を仕掛ける決意を固めた親貞は、その前日、戦勝祝いと称して酒宴を開きます。

「何やっとんだ!」
と、怒りたくもなりますが、親貞にしてみれは、それだけ、数のうえでも負けるはずのない城攻めだった・・・あるいは、これもゲンかつぎって事なのでしょう。

しかし、そんな大友勢の油断を見逃さなかったのが、龍造寺の重臣の鍋島直茂(信生)・・・彼は、隆信に、わずかな手勢での奇襲作戦を提案します。

Sagazyouimayamazucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

あまりの大胆な作戦に、最初は猛反対だった隆信でしたが、直茂・本人のヤル気、母の説得などにより、この作戦の決行を許可します。

大友勢が宴会もたけなわの前夜、わずか500人の手勢を従えて、佐嘉城を脱出し、密かに、総大将・親貞のいる本陣へと向かいます。

そうです・・・総勢6万とは言え、広範囲に兵力を配置していたため、この時の本陣には、わずか数千の兵しかいない事も確認済み・・・

かくして、元亀元年(1570年)8月20日未明・・・本陣・今山の背後に身をひそめて機会を待っていた直茂の手勢は、一斉に鬨(ときの声を挙げ、前日の祝宴で、未だ爆睡中の大友勢に襲いかりました。

仕掛けられた側は、何がなんだかわからず、大混乱となる中、次々と兵を打ち破る直茂らは、とうとう総大将・親貞の首も討ち取ってしまいます。

こうなると、大軍は散り々々となり、我先にと戦線離脱していきます。

なんせ、先に書いた通り、6万というのは、途中から加わってきた国人衆を含んでの数・・・それも、寄らば大樹の影とばかりに、とりあえず勢いのある大友に味方しておこうと言った、いわば烏合の衆で、心から大友に忠誠を誓った臣下の者ではありませんから、崩れるとなると早いです。

こうして、今山の戦いは、あっけなく龍造寺の勝利に終わります。

ただ、宗麟が出張ってきていた事もあり、この一戦だけで、大友勢が兵を退く事はなく、この後も、しばらくの間、佐嘉城の包囲は続きますが、結局、何をするという事もなく、半年後には、和議を結んでの撤退とあいなりました。

ちなみに、ご存知のように、肥前の熊とよばれた龍造寺隆信は、晩年、酒におぼれ家臣からの信頼を失い、島津との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死(11月26日参照>>)・・・その後の龍造寺氏は一気に勢力を失い、今回の今山の戦いで大活躍した直茂がとって代わるかたちとなり、江戸時代を通じて、佐賀=鍋島藩という事になるのです。

そんな龍造寺からの交代劇も含んだ鍋島の化け猫騒動については、9月6日のページでどうぞ>>
 

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2009年7月13日 (月)

第一次木津川口海戦~信長を悩ませた村上水軍

 

天正四年(1576年)7月13日、10年に渡る織田信長石山本願寺との戦い・石山合戦の最中、第一次木津川口海戦が展開されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天下統一を目指す織田信長・・・
宗教による団結で権力に支配されない自由都市を運営する本願寺・・・

その対立は、ついに、元亀元年(1570年)、大坂・石山本願寺の法主(ほっす)顕如(けんにょ)による全国の本願寺門徒への「身命を捨てて法灯を守れ!」の呼びかけによって石山合戦へと突入します。

途中、信長によって将軍の地位をないがしろにされた足利義昭の呼びかけに応えて、石山本願寺に強力した武田信玄上杉謙信朝倉義景(よしかげ)浅井長政などによる信長包囲網が敷かれ、すべてを敵に回して戦う事になった信長でしたが・・・

天正元年(1573年)には浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)
翌・天正二年には長島一向一揆を潰し(9月29日参照>>)
続く天正三年の5月に、信玄亡き後の武田を長篠の合戦で蹴散らし(5月21日参照>>)

その後、10月には、一旦本願寺との講和を結びますが、かりそめの講和は、翌・天正四年(1576年)5月3日、天王寺合戦において破られました(5月3日参照>>)

天王寺合戦の後、砦の数を増やして本願寺を包囲する信長・・・

一方、包囲されたとなると、本願寺は、籠城戦をせざる得なくなるわけですが、籠城戦となると、何より重要なのは兵糧の問題・・・

籠城というのは、防戦一方の戦いで、そのままでは破滅へと向かう戦い方なわけですが、ただ一つ、勝てるとしたら、それは、長期に渡る籠城・・・兵糧を少しでも多く確保して、いかに戦いを長引かせるかによって、形勢逆転のチャンスのある無しが決まるわけです。

そんな中、ここに来て西国の雄・毛利輝元が、叔父の吉川元春小早川隆景(たかかげ)とともに、本願寺の支援へと重い腰をあげます

毛利の一番強味=水軍を大いに活用し、本願寺へ、海路による兵糧の運び込みをしようというのです。

本願寺の兵糧を満載した数百艘の船団が、その護衛をする村上水軍中心の約300艘とともに大坂湾に現れ、和泉(大阪府)貝塚に到着したのは7月12日の事でした。

ここで、紀州の雑賀(さいが)水軍と合流した船団は、一路、堺から木津川口へと向かいます。

対する信長勢は、大きな櫓を乗せた安宅船・約10艘を中心に武者船・300艘を左右に広く配置し、「これより河口へ入れてなるものか!」と、待ちうけます。

かくして、天正四年(1576年)7月13日・・・第一次木津川口の戦いがの幕が切って落とされます。

まるで、通せんぼをするがのごとく、横一列の織田水軍に、縦の編制で挑む毛利配下の村上水軍は、水軍独自の艦隊編制の陣形をとり、ほら貝の合図が鳴ると、あらかじめ決められた役割分担による見事な連携プレー攻撃を開始します。

Suigunsenpoucc 因島水軍城蔵の艦隊編制図(因島水軍城蔵)

村上水軍の指揮をとるのは、父・村上武吉(たけよし)の名代として参戦した若干24歳の司令官・村上元吉(もとよし)・・・。

まずは、板などで高い壁を造り、その影にかくれるように射手をしのばせた盲船(めくらぶね)が、一斉に矢を放ちます。

Houroku2 
 
焙烙(ほうろく)
素焼きの土鍋などに火薬を詰め二つ合わせて火縄をて敵船に投げ込む手投げ弾のような物。

次ぎに、2番手に控える焙烙(ほうろく)が、敵船に焙烙投げ込みますが、そこには、当然火の手があがり、船上は大混乱・・・突然の火災に慌てた兵士が次々に海へと飛び込みはじめたら、3番手の武者船が、敵船に舳先をぶつけながら真横につけ、次から次へと刀を持った兵士が敵船へと乗り込み、船上の敵兵に斬りかかります。

また、これらの攻撃に動じない強い船には、ノミを持った兵士が水中にもぐって敵船の下まで行って船底に穴を開ける鑿入り(のみいり)というゲリラ攻撃も同時進行させました。

この陸戦に勝るとも劣らない見事な陣形の連携プレーによって、『信長公記』にも「歴々数輩討死候(そうろう、西国船勝利」とあるように、信長勢は大混乱となり、一方的な戦いとなってしまいました。

もちろん、兵糧は石山本願寺に搬入され、本願寺側の士気も最高潮!

・・・というのも、実は、この時の織田水軍・・・沼田氏や真鍋氏など、和泉河内(大阪府)摂津(兵庫県)の名だたる水軍で編制されていたものの、毛利による兵糧搬入の噂を聞いての寄せ集め軍団で、とても、毛利+小早川水軍+村上水軍の連携には着いていけない状態だったのです。

手痛い敗北を喰らった信長。

再びの戦いは、1年4ヶ月後・・・
同じ場所で、同じシュチュエーションで・・・

ただし、同じ轍を踏まないのが信長・・・

そう、この後、登場するのが、村上水軍の焙烙に対抗すべく制作したあの鉄甲船と、それをフルに活用してくれる優秀な海の軍団・・・九鬼嘉隆(よしたか)率いる九鬼水軍と、滝川一益滝川水軍・・・

鉄甲船の完成は、9月30日のページに>>
再びの第二次木津川口海戦2009年11月6日のページ>>にて書いておりますので、続きはそちらでどうぞo(_ _)oペコッ
 

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2009年7月 8日 (水)

雑賀衆と鉄砲~あの長篠の3段撃ちは孫一のモノ?

 

天正六年(1578年)7月8日、織田信長と戦闘中の本願寺・顕如が、雑賀衆らに、織田勢の迎撃を要請しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

元亀元年(1570年)から天正八年(1582年)の10年の長きに渡って繰り広げられた織田信長VS石山本願寺石山合戦・・・

本願寺・法主(ほっす)顕如(けんにょ)は、この合戦期間中に、17通に及ぶ督促状を、紀州(和歌山県)雑賀(さいが)へと送り、延べ5400挺の鉄砲を要求しています。

ただ、この天正六年(1578年)7月8日の雑賀衆への要請は、鉄砲ではなく、信長が、毛利&村上水軍に対抗すべく建造していた鉄甲船の完成(9月30日参照>>)を受けての、雑賀の水軍衆への出陣要請であったようですが・・・。

実は、雑賀衆も一枚岩ではなく、水軍もあれば陸戦のゲリラ部隊もあり、さらに鉄砲軍団もあり・・・その時々で、それぞれが、協力もするし、反発もするといった状態の集団で、すでに、石山合戦の中盤のあたりで、信長の傘下に下ったグループもあれば、あの小牧長久手の戦いの後の、豊臣(羽柴)秀吉紀州征伐(3月21日参照>>)の頃まで、独立を保っていた集団もありました。

・・・とは言うものの、やはり雑賀衆と言えば、ゲームの戦国無双で、信長に抵抗する主役クラスのイケメンキャラをゲットした事で、昨今の戦国ブームの波に乗っている雑賀孫一(さいがまごいち)こと鈴木孫一重秀率いる鉄砲軍団が有名ですね。

一旦講和した後再開された石山合戦の後半戦序盤、天正四年(1576年)5月の天王寺合戦で、雑賀衆の鉄砲隊が、信長を大いに悩ませた事は、すでに、先日書かせていただきましたが(5月3日参照>>)、その2ヵ月後に大坂湾で展開された第一次木津川口の戦い(7月13日参照>>)でも、村上水軍の抜群のフォーメーションで手痛い敗北を喰らった信長・・・

その戦いの後、信長は、次回の海戦に備えて、かの鉄甲船の建造にとりかかると同時に、雑賀衆の鉄砲軍団をも潰すべく、攻撃を仕掛けています。

この時の戦いでドローとなった後、休戦状態に入った信長と孫一は、石山合戦が終結した後には和睦となり、結局は孫一は、信長の臣下となるのですが、その時の逸話は、またその日に書かせていただくとして、そもそもは、なぜ、この雑賀衆が戦国一の鉄砲軍団になりえたのか?

もともとは、天文十二年(1543年)に種子島に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人によって伝えられたと言われる鉄砲(8月25日参照>>)は、領主の種子島時尭(ときたか)が、購入した2挺のうち1挺を島の鍛冶屋に調べさせた事で、その製法が徐々に明らかとなるわけですが、それを、本州に持ち帰ったのは根来寺(ねごろでら)の僧であったと言われています。

ご存知のように、その根来寺も紀州でし、その根来寺に搭頭(たっちゅう・本寺の敷地内に建つ所属する寺)を持っていたのが、雑賀衆の土橋平次(どばしへいじ)という人物で、物流にも長けていた雑賀衆ですから、おそらく、根来寺に伝わった鉄砲のノウハウは、またたく間に雑賀に伝わったものと思われます。

鉄砲造りの工房の跡などは、雑賀からは、発見されていないそうですが、雑賀には雑賀鉢(さいがばち)という独特の兜をを作る匠がおり、製造法さえわかれば、作れる技術は充分あったでしょうから、おそらく、どこからか買ってくるのではなく、雑賀衆自身で、作っていた可能性大でしょう。

その証拠と言えるがどうかわかりませんが、堺の代表的な鉄砲職人の榎並屋清兵衛(えなみやせいべい)が一時、紀州に住んでいたという事実もあり、さらに、現存する慶長大火縄銃の金具からは、和歌山在住の鎌倉屋藤兵衛の銘があります。

鉄砲は、堺と近江国(滋賀県)国友2大都市と言われますが、紀州もなかなかのものであったのかも知れません。

しかも、雑賀衆の1人・佐竹義昌(よしまさ)『働書(はたらきがき・由緒書)によれば、天文年間の後半(1546年~50年)には、すでに雑賀に鉄砲があり、「幼い頃から訓練に励んでいる」との事で、作るだけではなく、使い手の育成にも、力を入れていたようです。

ところで、戦国合戦の鉄砲の使用例としてよく引っ張り出されるのが、信長と武田勝頼(かつより)長篠の合戦(5月21日参照>>)・・・

しかし、激戦地となった設楽ヶ原(したらがはら)から、ほとんど鉄砲玉が発掘されない事や、あの『信長公記』には、例の3段撃ちが書かれていない事もあって、現在では、「あの鉄砲の3段撃ちも、馬防柵(まぼうさく)も、実際にはなかったのでは?」と疑われているのは、皆さんもよくご存知でしょう。

実は、その『信長公記』には、信長と戦った時の、この雑賀衆の作戦として馬防柵が登場します。

さらに、『院徳太閤記(いんとくたいこうき)』には、3段に鉄砲を構えて戦った事も・・・。

冒頭部分に書かせていただいた通り、信長が雑賀を攻めたのは、天王寺合戦の翌年ですから、天正五年(1577年)の事になり、歴史上は長篠の合戦のほうが、その2年前の事になるわけですが、その長篠の合戦での3段撃ちが書かれている『信長記』は江戸時代の、それも、軍記物(フィクションありの小説)ですから、ひょっとしたら、こっちが元ネタの可能性もなきにしもあらず・・・

雑賀孫一・・・なかなかやりますね~
 

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2009年6月27日 (土)

時代別年表:室町時代・後期1(戦国時代・安土)

 

このページは、戦国・安土の時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

歴史上、戦国時代も安土桃山時代という区分もなく、いわゆる室町時代なわけですが、この室町時代は、ブログに書いている出来事が非常に多い・・・って事で、とりあえず、前期・中期・後期・・・そして後期を安土と桃山の計・4つに分けさせていただきました。

安土桃山って「いつ?」という点で、ご意見も多々あろうかと思いますが、とりあえず、信長政権が安土、秀吉政権が桃山って事で、このページでは、前後の年表とのバランスを考えて織田信長が足利義昭を奉じて上洛する1568年9月26日から、秀吉が太政大臣になって豊臣の姓を賜る1686年12月19日までを「室町時代・後期1(戦国時代・安土)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaiaduti 



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
1568 9 26 織田信長が足利義昭を奉じて上洛
【織田信長、上洛!】
10 18 足利義昭が室町幕府15代将軍になる
【足利義昭擁立で初登場!謎の明智光秀】
12 12 薩埵峠の戦い
【武田信玄・駿河に進攻~薩埵峠の戦い】
12 13 今川館の攻防戦
【今川館の攻防戦~駿河を攻略
12 27 ~翌年5/17まで掛川城攻防戦
【今川氏滅亡~掛川城・攻防戦】
1569 1 9 信長が堺の町を攻撃
【本能寺の変と堺の関係】
3 2 信長が副将軍への誘いを拒否する
【信長が副将軍を断り「銭ゲバ」と化す?】
4 8 京都での宣教師の居住と布教を許可
【信長とキリスト教~神になろうとしたか?】
8 11 長宗我部元親が安芸城を開城させる
【長宗我部元親の安芸城攻略作戦】
10 6 三増峠の戦い
【三増峠の戦い~武田VS後北条】
12 6 駿河蒲原城・落城
【武田信玄・蒲原城を奪取!】
1570 1 23 信長が義昭に「五ヶ条の掟書」を示す
【信長、義昭に掟書を示す】
4 26 朝倉の手筒山・金ヶ崎城を攻撃
【手筒山・金ヶ崎城の攻防戦】
4 27 織田軍、金ヶ崎から撤退を開始
【危機一髪~金ヶ崎の退き口】
6 28 姉川の合戦
【信長の判断ミス?姉川の合戦】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
8 石山合戦・勃発
【信長を一番困らせた男~本願寺・顕如】
8 20 佐嘉城攻防戦・今山の戦い
【鍋島直茂の奇襲作戦~今山の戦い】
11 26 堅田の戦い
【信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い】
1571 3 27 深沢城攻防戦
【信玄・強気の深沢城矢文】
5 16 長島一向一揆・勃発
【対・長島一向一揆戦】
9 12 比叡山焼き討ち
【信長の比叡山焼き討ち】
【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】
【殺戮か?完全主義か?戦国との相違】
10 3 北条氏康・没
【謙信・信玄に撃ち勝った隠れた名将】
1572 3 2 岩村城・攻防戦
【岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断】
10 3 武田信玄が甲斐を出陣
【武田信玄・上洛~その真意と誤算】
10 13 一言坂の戦い
【家康に過ぎたる~忠勝・一言坂の戦い】
10 14 ~12/19二俣城・攻防戦
【いよいよ三方ヶ原~信玄・二俣城を攻略】
12 22 三方ヶ原の戦い
【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】
【武田信玄・上洛~その真意と誤算】
12 23 信玄が平手汎秀の首を信長に送る
【三方ヶ原・その後~犀ヶ崖の戦い平手の死】
1573 1 11 野田城・攻防戦
【武田信玄最後の戦い~野田城・攻防戦】
4 4 信長の上京焼き討ち
【信長の「上京焼き討ち」の謎】
4 12 武田信玄・没
【武田信玄公の命日なので】
7 18 信長が義昭の籠る槇島城を攻撃
【ネバる!足利義昭・ボロは着てても・・】
8 6 ~20日・信長が越前征伐
【朝倉氏滅亡とともに一乗谷は歴史の・・・】
8 14 刀禰(根)坂の戦い
【生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興】
8 28 北近江・小谷城が落城
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】
【落城の生き残り~海北友松の熱い思い】
8 29 浅井長政が片桐直貞宛てに感状を書く
【浅井長政・最後の手紙】
1574 3 28 信長が東大寺・正倉院の宝物を見物
【正倉院・アッと驚く豆知識】
9 29 長島一向一揆・終結
【長島一向一揆の終結】
1575 5 16 長篠の合戦で鳥居強右衛門が磔になる
【史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商】
5 21 長篠の合戦・設楽ヶ原の戦い
【長篠の合戦!武田氏の真の敵は?】
【もう一人の伝令~信長勝利の鍵】
7 16 長宗我部元親が甲浦城を攻略
【元親・土佐統一~四万十川の戦い】
1576 1 15 波多野秀治が織田から毛利へ寝返る
【八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけ?】
5 3 天王寺合戦
【織田信長VS石山本願寺~激戦!天王寺】
7 13 第一次木津川口海戦
【信長を悩ませた村上水軍】
1577 9 13 上杉謙信が七尾城を攻略
【七尾城・攻防~上杉謙信の「九月十三夜」】
10 10 信貴山城・攻防戦
【乱世の梟雄・松永久秀~運命の日爆死!】
1578 3 13 上杉謙信・没
【謙信・暗殺説~容疑者・信長&直江兼続】
3 29 羽柴秀吉が別所長治の三木城を包囲
【秀吉包囲網・三木城籠城戦】
7 3 上月城攻防戦
【山中鹿之介奮戦!上月城の攻防】
7 8 本願寺が雑賀衆に信長迎撃を要請
【雑賀衆と鉄砲~あの長篠の3段撃ちは・・】
8 12 大友宗麟が日向・無鹿に着陣
【宗麟の理想のキリシタン王国・ムシカ】
9 30 信長が鉄甲船の観艦式を開催
【信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場】
10 21 荒木村重が有岡城に籠城
【荒木村重・謀反の真意は?】
11 6 第二次木津川口海戦
【信長VS石山本願寺~第2次木津川口海戦】
11 11 耳川の戦い・初日~高城川攻防
【戦国大名・大友氏の落日】
【大友の大砲と島津の奇襲】
11 12 耳川の戦い2日め~耳川の逃亡
【島津の秘策・釣り野伏】
1579 3 17 御館の乱で上杉景虎が自刃
【謙信の死後・御館の乱】
8 29 徳川家康が正室・築山殿を殺害
【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!】
9 15 徳川家康が嫡男・信康を自刃させる
【なぜ信康を殺さねばならなかったのか?】
10 16 有岡城・開城
【有岡城・落城~如水と半兵衛と息子たち】
10 24 明智光秀が丹波平定を報告
【明智光秀と丹波・福知山の明智藪】
10 30 宇喜多直家が降伏する
【謀略の達人・宇喜多直家~本当はイイ人?】
11 7 毛利秀元・誕生
【「三本の矢」の毛利を救った4本目の矢】
11 26 龍造寺隆信が肥後を平定
【肥前の熊・龍造寺隆信の人生波乱万丈】
1580 1 17 別所長治・自刃、三木城開城
【秀吉包囲網・三木城籠城戦】
3 9 柴田勝家らが金沢御坊を攻撃
【金沢御坊・落城~加賀一向一揆の終焉】
8 2 石山合戦・終結
【石山本願寺、焼失】
8 19 筒井順慶が筒井城を破却
【信長・秀吉・家康だけが成しえた城割とは?】
11 17 柴田勝家が鳥越城を落す
【加賀一向一揆・完全終結と政教分離の話】
1581 2 23 信長が黒人・弥介と対面する
【織田信長と黒人さん】
3 22 第三次・高天神城の戦い
【武田滅亡へのカウントダウン~高天神城】
7 12 ~10/25秀吉が鳥取城を包囲
【鳥取城攻防戦~秀吉の兵糧攻め】
7 24 佐久間信盛・没
【ともに30年~佐久間信盛の悲惨な末路】
9 3 ~9/11第二次天正伊賀の乱
【信長の伊賀攻め~第二次天正伊賀の乱】
1582 2 天正遣欧少年使節の派遣
【天正遣欧少年使節の帰国】
3 11 武田氏滅亡
【武田勝頼、天目山に散る】
3 柴田勝家が魚津城を包囲する
【富山・魚津城の攻防戦】
4 3 織田方が恵林寺を攻撃
【恵林寺炎上】
4 27 秀吉が備中高松城攻め開始
【備中高松城・水攻め】
5 28 明智光秀が愛宕山で連歌会を催す
【連歌会の句は本能寺の意思表明か?】
5 29 信長が本能寺へ入る
【本能寺の変と堺の関係】
5 30 徳川家康が堺を見物
【本能寺の変~家康・黒幕説について・・・】
6 2 本能寺の変
【今日はやっぱり本能寺の変】
【数時間のタイム・ラグを埋める物は?】
【本能寺の変・秀吉黒幕説】
【逃亡で「人でなし」~織田長益の歩く道】
【信長の首は静岡に?】
~7日・伊賀越えで岡崎に帰る
【徳川家康・決死の伊賀越え】
6 3 魚津城・落城
【富山・魚津城の攻防戦】
6 4 秀吉が備中・高松城を落す
【備中高松城・落城~清水宗治・自刃】
6 6 秀吉が高松城を出発
【秀吉の大バクチ・中国大返し】
6 11 秀吉軍・摂津富田へ移動
【洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀】
6 13 山崎の合戦
【天下分け目の天王山!山崎の合戦】
6 18 神流川の戦い
【本能寺の余波!神流川の戦い】
6 27 清洲会議
【清洲会議~信長の後継者】
7 8 秀吉が近江で初の検地を行う
【太閤検地と刀狩】
9 21 長宗我部元親が勝瑞城を落す
【ラッキーサプライズで阿波平定】
10 15 秀吉が信長の葬儀を行う
【後継者へ~秀吉演出の信長の葬儀】
12 4 土岐頼芸・没
【道三を有名にした頼芸の国盗られ物語】
1583 3 9
11
柴田勝家が北ノ庄を出陣
秀吉が佐和山城に入り合戦準備
【秀吉VS勝家・一触即発の賤ヶ岳前夜】
4 21 賤ヶ岳の合戦
【勝家VS秀吉・賤ヶ岳の合戦】
【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】
4 23 前田利家が秀吉軍の先鋒として出陣
【賤ヶ岳の合戦~前田利家の戦線離脱】
4 24 越前の北ノ庄城を攻撃・柴田勝家自刃
【柴田勝家とお市の方の最期】
5 2 織田(神戸)信孝・自刃
【報いを待つのは秀吉か?信雄か?】
大坂城築城に伴い下水が整備される
【江戸の上水・大坂の下水】
1584 3 13 小牧長久手の戦い~犬山城攻略戦
【秀吉VS家康・小牧長久手の戦い勃発】
3 17 小牧長久手の戦い~羽黒の決戦
【森長可の屈辱】
3 28 小牧長久手の戦い~小牧の陣
【秀吉VS家康の睨み合い~膠着・小牧の陣】
4 9 長久手の戦い
【天下は何処・長久手の戦い】
【鬼武蔵・森長可~遺言に託された願い】
4 11 秀吉が戦死した恒興の母に手紙を出す
【池田恒興の母に送った豊臣秀吉の手紙】
6 15 蟹江城攻防戦
【小牧・長久手の最終戦!蟹江城攻防戦】
8 28 佐々成政が朝日山砦を攻撃
【末森城攻防戦~夫婦愛と奇襲の連携】
11 11 織田信雄が秀吉と単独講和
23日~【佐々成政の北アルプスさらさら越え】
11 21 家康が次男を人質に出し秀吉と講和
【結城秀康~その運命の分かれ道】
1585 3 21 ~4/22 紀州征伐
【紀州征伐と根来寺の数奇な運命】
4 16 丹羽長秀・没
【丹羽長秀・人生最後の抵抗】
7 26 秀吉が四国を平定する
【一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏】
8 2 上田城・神川の合戦・勃発
【真田の勝利と石川の寝返り】
8 5 伊東義祐・没
【雅を夢見た日向の王~伊東義祐の最期】
9 11 立花道雪・没
【ハンディを克服して大友氏を支えた道雪】
10 8 伊達政宗が父・輝宗を射殺
【伊達政宗の父親射殺事件の謎】
11 13 石川数正が家康側から秀吉側へ
【石川数正・出奔の謎】
1586 5 4 荒木村重・没
【荒木村重・謀反の真意は?】
6 14 秀吉の要請を受けて上杉景勝が上洛
【上杉景勝・上洛!・・・の前の一大事】
7 27 島津義弘が大友配下の岩屋城を攻略
【全員討死!岩屋城の激戦】
9 9 滝川一益・没
【滝川一益の人生波乱万丈】
9 18 島津討伐に向けて仙石秀久が府内に着陣
【どん底からの復活・仙石秀久】
10 27 秀吉と家康と大坂城で会見
【負けたのに勝った?人たらし秀吉の離れ業】
11 25 戸次川の戦い
【秀吉の九州征伐開始~戸次川の合戦】
12 19 秀吉が太政大臣になり豊臣の姓を賜る
【豊臣の姓に秘められた秀吉のコンプレックス】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
【忍者の教科書『万川集海』】

 

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