2022年1月 4日 (火)

武田信玄の駿河侵攻~花沢城の戦い

 

元亀元年(永禄十三年=1570年)1月4日、駿河を狙う武田信玄が花沢城への攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)の 桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市&名古屋市緑区)の戦い(2015年5月19日参照>>)で、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領し海道一の弓取りと称された今川義元(いまがわよしもと)の首を取り、一気に名を挙げた尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と、

同じく、その桶狭間キッカケで今川での人質生活から解放された三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)(2008年5月19日参照>>)

しかも、その翌年に今川傘下だった長沢城(ながさわじょう=愛知県豊川市長沢町)を落とし(7月6日参照>>)、さらに翌永禄五年(1562年)1月には、織田信長と清洲同盟(きよすどうめい)(1月15日参照>>)を結んで、完全に今川からの決別を露わにした徳川家康に、これまで大木である今川の下にいた三河&遠江周辺の諸将には、少なからずの動揺が走ります。

もちろん、父の死を受けて後を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)も、この状況で揺れ動く引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・引間城・曳馬城)飯尾連龍(いのおつらたつ・ 致実・能房)を殺害したりして(12月20日参照>>)傘下の諸将の離反を防ぐべくけん制をかけるのですが、

その間に尾張統一(11月1日参照>>)を果たした信長が、これまで、その眼を北東に向け、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=長尾景虎)との川中島バトル(9月10日参照>>)を展開していた甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん=晴信)味方に引き込んで家康との関係を仲介・・・

Takedasingen600b 大黒柱を失った今川を、北と西の両側から攻撃して、今川亡き後は、大井川より東(つまり駿河)を武田が、西(つまり遠江)を德川が支配する約束を交わさせ、信玄の眼を南に向けさせたうえで、信長自身は、永禄十年(1567年)に美濃(みの=岐阜県南部)の攻略を果たします(8月15日参照>>)

とは言え、この信玄の方向転換は、去る天文二十三年(1554年)から、生前の今川義元とともに武田信玄と甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐&相模&駿河の三国)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)を怒らせます。

そりゃそうです。
未だ継続中の同盟を「義元が亡くなったから」で破棄されちゃぁ・・・しかし、この方向展開に反対した嫡男の武田義信(よしのぶ)を死に追いやって(10月19日参照>>)まで今川と訣別した信玄は、もう、後へは退けない…

かくして、信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)永禄十一年(1568年)の12月、いよいよ武田信玄は駿河の今川領に向け侵攻を開始するのです。

これを受けた今川氏真は、早速、重臣の庵原安房守(いはらあわのかみ)らを、要所の薩埵峠(さつたとうげ=静岡県静岡市清水区)に派遣して自らも出陣しますが、残念ながら、水面下で行われていた信玄による懐柔作戦で、すでに多くの今川傘下の武将が武田に寝返っており、先陣を切って薩埵峠を守るはずだった朝比奈信置(あさひなのぶおき)ら複数の重臣が姿を見せず・・・(12月12日参照>>)

やむなく氏真も、この時は戦う事無く本拠の今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区:後の駿府城)へと兵を退きあげますが、の翌日、
すかさず、その今川館を信玄が攻撃し、瞬く間に占領・・・

さすがに氏真も、今川館では防御が薄いと、すでに今川館の背後にある賤機山城(しずはたやまじょう=同静岡市葵区)に籠城して、ここで北条からの援軍を待つつもりでいましたが、あまりの武田の猛攻にヤバイと感じ、そのまま掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと逃亡したのでした(2007年12月13日参照>>)

一方、この今川館の攻防戦と同じ12月13日に遠江へと侵入(2019年12月13日参照>>)した徳川家康は、12月18日に引馬城に入り、そこを拠点として12月27日から掛川城への攻撃を開始するのです(12月27日参照>>)

信玄と家康の見事な連携プレーで窮地に追い込まれた今川氏真・・・結局、翌年の5月17日、北条氏政の仲介にて徳川家康と和睦を結び、掛川城を明け渡しました。

その間も、あの薩埵峠にて北条との戦いを繰り広げる信玄でしたが、かの掛川城の開城が、城を攻めあぐねた家康が単独で「氏政の息子である北条氏直(うじなお)今川氏真の猶子(ゆうし=契約上の養子)となって今川家の家督を継いで駿河&遠江を支配する(11月4日の真ん中あたり参照>>) 」という条件を呑んで北条との同盟を結んで得た物であった事を知り、怒り爆発します。

なんせ、上記の通り「今川を倒した後は駿河を武田が、遠江を徳川が…」の約束で以って、ともに侵攻したはずでしたから・・・

「そっちが単独でいくなら、こっちも単独したるわい!」
とばかりに、信玄は、7月には大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)(7月2日参照>>)を、10月の三増峠(みませとうげ=神奈川県愛甲郡愛川町)(10月6日参照>>)を経て、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区蒲原)を奪取(12月6日参照>>)・・・と、次々と駿河周辺の支配を確固たる物にしていくのです。

そんな中、未だ武田にも徳川にも屈せず、今川旧臣として抵抗していたのが、花沢城(はなざわじょう=静岡県焼津市高崎・花澤城)小原鎮実(おはらしげざね=大原資良と同一人物ともされる)でした。

かくして元亀元年(永禄十三年=1570年)1月4日武田信玄は、この花沢城に攻撃を仕掛けるのです。

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武田信玄の駿河侵攻・位置関係図=花沢城版
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

『絵本甲越軍記』によれば…
この日、武田軍は一糸乱れぬ軍列で以って、すかさず花沢城を囲み、花沢城を見下ろす高草山(たかくさやま=静岡県焼津市と藤枝市の境界付近)に本陣を据えました。

もちろん、迎える花沢城側も、音に聞こえたる名将の信玄に
「一泡吹かせてやろう!」
と身構え、準備した弓鉄砲を隙間なく発して対抗します。

そんな中、武田側では、この直前に武田に降った元今川家臣の岡部次郎右衛門(おかべじろうえもん)治部右衛門兄弟(岡部正綱&長秋?)が、寝返り直後の初の武功を挙げんと、花沢城の曲輪(くるわ=城内の中で広く平な場所)のそばの屋敷の高屋根に上って、城の様子を伺います。

その一方で、城内への一番乗りを狙う伊那四郎勝頼(いなしろうかつより=信玄の四男・武田勝頼)初鹿傅右衛門(はじかでんえもん=初鹿野伝右衛門)は、鉄砲と矢が雨アラレと降り注ぐ中を、左右に分かれて城門の前に手勢を引いて近づくと、彼らに続く縄無理之介(なわむりのすけ=名和無理之介)に向かって傅右衛門が、
「無理之介!城門を開けよ」
と、
「えぇ~っ(ノ@o@;)ノ今、この鉄砲の雨アラレの状況で?」
「名を挙げるんは、今やぞ!」
「それは~なんぼなんでも無理之介」
言うてる場合か!

と押し問答してるうちに、勝頼が進み出て門の隙間に槍を差し込んで扉をねじ上げました。

傅右衛門は、無理之介が具足の上に着ていた羽織をはぎ取って
「お前!2度と無理之介とか名乗んなよな!」
と捨てゼリフを残しつつ突入していきます。

落ち込む無理之介の肩に、勝頼はやさしく羽織をかけてあげて、いざ!城内へ・・・
(↑あくまで『絵本甲越軍記』のお話です)

しかし、ここを守っていたのは花沢城内でも屈指の剛の者を集めた軍団・・・さすがの武田勢も、おいそれとは前に進んで行けませんでした。

一進一退する戦いの様子を見ていた信玄は、あまりの激しさに、
「ここで勝頼を失うのは…」
と、この日は、一旦、兵を退きあげる事にしました。

その後も、
「こんな小城に手こずっては武田の名折れ」
とばかりに攻め立てるのですが、花沢城側も良く守り

結局、城が落ちたのは1月8日(27日の説もあり)の事でした。

その頃には、小原鎮実は、すでに花沢城を脱出しており、小笠原信興(おがさわらのぶおき=氏助)と合流すべく高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市上土方)へと向かっていましたが、

残念ながら、すでに小笠原信興は徳川家康派に寝返っており、彼らが城に入るや否や、即座に小原鎮実の首を取って家康に献上したのだとか・・・

一方の信玄は、この後、長谷川正長(はせがわまさなが)の守る徳一色城(とくのいっしきじょう=静岡県藤枝市田中:後の田中城)を落とし、周辺一帯を支配下に治めたのでした。

この信玄の
「家康、腹立つ!」
が、やがては、
あの西上作戦(10月13日参照>>)として、有名な三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)(12月22日参照>>)に向かっていく事になるのですが、

その前に…
この年の7月に奥さんを亡くした(7月28日参照>>)信玄は、まずは、翌元亀二年(1571年)3月には【深沢城の攻防】>>へ向かいます。

くわしくは【武田信玄と勝頼の年表】>>で。。。
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2021年12月14日 (火)

弓馬礼法を伝えたい~小笠原貞慶の生き残り術

 

天正十三年(1585年)12月14日、石川数正の、徳川家康からの離反を受けて、小笠原貞慶が徳川方の保科正直の高遠城を攻撃しました。

・・・・・・・・

小笠原貞慶(おがさわらさだよし)小笠原家は、深志城(ふかしじょう=長野県松本市・現在の松本城)を居城とし、代々信濃(しなの=長野県)守護(しゅご=県知事)を務める名門でしたが、天文十七年(1548年)の塩尻峠(しおじりとうげ=長野県塩尻市)の戦いにて、父の小笠原長時(ながとき)が、隣国・甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)に敗れたために城を失い、父とともに幼い貞慶(おそらく2~3歳)も放浪の身となりました。

そして越後(えちご=新潟県)にたどり着き(4月22日参照>>)、しばらくは上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は長尾景虎)保護を受けていましたが、当然、父子ともに信濃復帰の夢は捨ててはいないわけで・・・

その夢の実現のため、まずは伊勢(いせ=三重県中北部と愛知県の一部)へ向かい、その後、永禄四年(1561年)頃に畿内を点々とした後、京へと上り、すでに白川口(北白川)の戦い(6月9日参照>>)をキッカケに、足利義輝(あしかがよしてる=13代室町幕府将軍)と和睦して将軍を京へ迎え入れ(11月27日参照>>)、まさに天下人の地位に手をかけていた三好長慶(みよしながよし)の傘下になったようです。

…というのも、小笠原貞慶は、はじめ小笠原貞虎(さだとら)と名乗っていたのを、京に上った後に小笠原貞慶に改名しているので・・・おそらくは、越後時代には長尾景虎の「虎」の字をもらい、今度は三好長慶の「慶」の字をもらっての改名と思われ(←このあたりは、あくませ推測です)

この後、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)織田信長(おだのぶなが)に奉じられて上洛し、第15代将軍となった足利義昭(よしあき)(10月18日参照>>)が仮御所としていた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)が攻めた時(1月1日参照>>)、キッチリ三好の一員として参戦してますので、父の長時はともかく(長時は越後行ったり戻ったりウロウロしてるので…)貞慶は三好の配下に納まっていた事でしょう。

しかし、ご存知のように、三好三人衆は織田信長を見返すには至らず(8月23日参照>>)、やがて信長に反抗した足利義昭も京都を追放され(7月18日参照>>)、三好宗家を継いでいた三好義継(みよしよしつぐ=長慶の甥・十河重存)信長の前に散る事になってしまいました(11月16日参照>>)

とは言え、
本日主役の小笠原貞慶の方は、いつの間にやらチャッカリ織田信長の傘下となっていたようで・・・この頃は、織田家の使者として、かつてお世話になった上杉謙信やら、放浪生活の元となった武田信玄やらとの交渉窓口になっていて、信濃に所領もいただいちゃってます。

そう思うと、意外に要領の良い人たらし(←褒めてます)で、口がたつ人だったのかも知れませんね。

ただ、信長が武田を倒して(3月10日参照>>)信濃を得た天正十年(1582年)の時には、信長は信濃2郡を木曽義昌(きそよしまさ)に与えてしまったため、さすがに、かつての旧領や深志城を取り戻すまでには至りませんでしたが・・・

そんな甲州征伐(こうしゅうせいばつ)の3ヶ月後に起こった本能寺の変で信長が横死(6月2日参照>>)すると、その死によって宙に浮いた(織田が取ったばかりで未だ治めきれていない)武田旧領の取り合い合戦(上杉×北条×德川による)天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)が勃発(8月7日参照>>)すると、チャッカリ今度は徳川家康(とくがわいえやす)の家臣となって参戦し、取り合いの一角である上杉景勝(うえすぎかげかつ)けん制する役目を果たしています。
(やっぱ要領えぇやんww)

こうして家康の支援を得た小笠原貞慶は、天正壬午の乱のドサクサで木曽義昌を追い出して深志城に入っていた小笠原洞雪斎(どうせつさい=貞慶の叔父)から深志城を奪還し、見事、大名に復帰・・・

さらに、ドップリと德川に忠誠を尽くすべく、息子の小笠原秀政(ひでまさ)を人質として差し出し、自身は、家康の忠臣である石川数正(いしかわかずまさ)の配下となり、ここで深志城の名を松本城へと改めました。

さらに、
亡き信長の後継を巡って、信長の息子=織田信雄(のぶお・のぶかつ)と組んだ徳川家康が、豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)と争った天正十二年(1584年)の小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦い(11月16日参照>>)では、秀吉側に寝返った木曽義昌の拠る福島城(ふくしまじょう=長野県木曽郡木曽町)を攻め、義昌を興禅寺(こうぜんじ=長野県木曽郡木曽町)へ追いやるという武功を挙げました。

てな事で…德川の傘下になって、ようやく順風満帆か?
…と思いきや、

 天正十三年(1585年)、家康が上田城(うえだじょう=長野県上田市)真田昌幸(さなだまさゆき)を絶賛攻撃中の11月13日(12日説もあり)、忠臣であったはずの石川数正が、貞慶から預かってる息子・秀政とともに一族郎党百余人を伴って、突如出奔して秀吉のもとに走ったのです(8月2日【神川の戦い】参照>>)

これを受けた小笠原貞慶・・・天正十三年(1585年)12月14日彼もまた徳川家康との関係を絶ち、德川方の保科正直(ほしなまさなお)高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)に攻めたわけです。

ただし、石川数正の出奔の原因は未だ謎(11月13日参照>>)…とはされているものの、一説には、貞慶が真田昌幸を通じて秀吉に内通している事が家康にバレて、監督者である数正が家康から責任を問われたのが、数正出奔の原因・・・という見方もありますので、

これが事実だとすると、数正の出奔を受けて貞慶が・・・
ではなく、むしろ貞慶が主導していた事になるわけですが・・・

とにもかくにも、ここで秀吉の家臣となった小笠原貞慶は、天正十八年(1590年)の、あの小田原征伐(おだわらせいばつ)(4月1日参照>>)では北陸方面から行軍する前田利家(まえだとしいえ)隊に従軍して武功を挙げました。

おかげで、讃岐(さぬき=香川県)半国を領する大名へと出世した小笠原貞慶でしたが、ここで、かつて天正十五年(1587年)の九州征伐の時の戸次川(へつぎがわ)の戦い(11月25日参照>>)や、根白坂(ねじろざか=宮崎県児湯郡木城町)の戦い(4月17日参照>>)で大失敗を犯して秀吉に追放された尾藤知宣(びとうとものぶ)という武将を客将(きゃくしょう=家臣ではなく客分として迎えられている武将)として庇護していた事が秀吉にバレて激怒され、所領を没収されて改易となってしまいました。

その後は、息子の秀政とともに、再び家康のもとへ・・・自らは引退し、家康の関東入りキッカケで息子の秀政に与えられた領地=古河(こが=茨城県古河市)にて余生を過ごしたという事です。

とまぁ、
戦国武将としての小笠原貞慶さんを、サラッとご紹介させていただきましたが、失礼ながらも、戦国武将としての功績で言えば、特筆すべき感じではありませんが、

実は、今回の小笠原貞慶さん、
兵法の伝授者としては、知る人ぞ知る有名人・・・そう、弓馬術礼法に秀でた、あの小笠原流です。

そもそもは、第56代清和天皇(せいわてんのう)の第六皇子である貞純親王(さだずみしんのう)を祖として代々伝えられた糾法(きゅうほう=弓馬術礼法)を、鎌倉時代に小笠原長清(ながきよ)小笠原長経(ながつね)父子が源頼朝(みなもとのよりとも)源実朝(さねとも)父子の師範となり、その子孫が南北朝時代には後醍醐天皇(ごだいごてんのう=第96代)に仕え、さらに、その子孫が足利義満(よしみつ)に仕え・・・と、代々惣領家(本家)当主が糾法全般を取り仕切って来たわけで、

戦国時代になって、その17代当主だったのが、父の小笠原長時・・・その後継ぎが小笠原貞慶だったんです。

これまで紡いできた伝統の糸・・・
それが、世は戦国となって、冒頭に書いたように武田の侵攻を受け・・・

「このままでは、大切な兵法の奥義が途絶えてしまう!」

小笠原貞慶が、さも要領よく、あっちに行ったり、こっちについたりしてるのも、実は、兵法の奥義を途絶えさせないためで、冒頭部分で息子の貞慶に惣領家を任せた長時が、その後、越後行ったり戻ったりウロウロしてるのも、その奥義を広く伝授するためだったワケです。

現存する小笠原貞慶の書いた『伝授状』には、
「当家日取(ひどり)一流の儀
 余儀無(よぎな)く承(うけたまわ)り候間(そうろうあいだ)
 その意にまかせ相伝(あいつたえ)
 (おろそ)かこれ有るまじき事肝要(かんよう)に候」
とあり、

貞慶が、その奥義を伝える事こそが、自らの使命だと思っていたであろう事が感じ取れます。

戦国武将として領地を拡大する事よりも、何とか生き残り、この伝統を守りたい!と・・・

Ogasawaratadazane500as 貞慶の小笠原家は、孫の小笠原忠真(ただざね)の時代に小倉藩(こくらはん=福岡県北九州市)として落ち着いて、その後の江戸250年を生き抜きますが、彼=忠真が、宮本武蔵(みやもとむさし)や、その養子の宮本伊織(いおり)宝蔵院流高田派(ほうぞういんりゅうたかだは=槍術)高田又兵衛吉次(たかたまたべえよしつぐ)など、多くの剣豪を召し抱えたのも、小笠原流の兵法を後世に伝えていくためだったのかも知れません。

戦国は、華々しい戦いもカッコイイけど、こういうのも、
なんか良い
・・・ですね。
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2021年12月 2日 (木)

羽柴秀吉の上月城総攻撃

 

天正五年(1577年)12月2日、織田信長の命を受けた羽柴秀吉播磨上月城に総攻撃を仕掛けて北方の太平山砦を奪いました。 

・・・・・・・・・

そもそもは、
永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)に、翌永禄十二年(1569年)に自らが滅ぼした大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)との交戦中だった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)が、

その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党を「けん制してほしい」と依頼した事に始まります。

Toyotomihideyoshi600 この時、信長は、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)中国方面の大将にした2万の軍勢を、

尼子氏の味方をする但馬(たじま=兵庫県北部)守護山名祐豊(やまなすけと)此隅山城(このすみやまじょう=兵庫県豊岡市)に派遣し、山名祐豊は織田に降伏・・・

つまり、始めは毛利と織田は連携関係にあったわけですが、

ところが、その元就が元亀二年(1571年)に亡くなって孫の毛利輝元(てるもと)にお代替わりする中で、輝元が、信長に敵対する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・全国の本願寺の本山)(9月14日参照>>)に味方し始めた事や、元亀四年(天正元年=1573年)に信長に京都を追放された足利義昭が毛利を頼って来た(7月13日参照>>)事など、

また、先の山名祐豊に同調していた尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)が、家臣の山中幸盛(やまなかゆきもり=鹿介)らとともに信長の傘下となった事などなどから・・・

いつしか中国地方は、西の雄=毛利VS信長の中国攻めという構図となって来たわけです。

当然の事ながら、大国である毛利&織田の両者が敵対関係となると、その間に挟まれた丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)播磨(はりま=兵庫県南西部)因幡(いなば=鳥取県東部)美作(みまさか=岡山県東北部)備前(びぜん=岡山県東南部)などの近隣の国人領主たちは皆、どちらの強国に属するべきか?を悩むわけです。

そんな中、天正五年(1577年)春頃から開始された秀吉の播磨平定は、御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町)主の小寺政職(こでらまさもと)の家臣=黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか=当時は小寺孝隆・後の如水)が、いち早く完全なる織田派として協力してくれた(11月29日参照>>)事もあって、

織田に与する国人領主もいたものの、未だ備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる大乱の記憶も新しい備中(びっちゅう=岡山県西部)あたりでは、強国の毛利やそれに与する宇喜多直家(うきたなおいえ)(4月12日参照>>)影響が、まだまだ大きかったのです。

そんな中の一人が上月城(こうづきじょう・兵庫県佐用町)赤松政範(あかまつまさのり)でした。

そこで、今回は上月城を中心に、周辺の叛意を示す諸城への同時攻撃を展開する作戦とした秀吉は、天正五年(1577年)11月27日、かの黒田官兵衛と竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)ら2千余騎を福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)の攻撃へと向かわせる(福原城攻防については12月1日参照>>)一方で、

自らは本隊を率いて出陣し、上月城方の猛攻撃をかいくぐって佐用川(さようがわ)千種川(ちぐさがわ)を渡り、2日後の29日には上月城正面の仁位山(にいざん=兵庫県佐用町)まで侵出したのです。

同じ29日、別動隊を率いていた堀秀政(ほりひでまさ=久太郎)は、敵方の猛攻に遭い渡河できず、やむなく自軍を2手に分け、上月城をけん制しつつ迂回して円光寺(えんこうじ=兵庫県佐用郡佐用町円光寺)を占拠しました。

その日の夜、上月城を救うべく宇喜多広維(ひろつね=赤松政範の妹婿で宇喜多直家の舎弟)率いる備中からの援軍が出撃したとの一報が届きます。

早速、秀吉は、谷大膳(たにだいぜん)を先陣に自らも出撃し、翌30日に赤松山(あかまつやま=岡山県美作市海田)付近にて宇喜多勢と激突・・・

勝負が着かない猛攻の掛け合いとなりながらも、やや秀吉側有利で、多くの宇喜多勢が美作まで撤退しますが、一部は上月城までたどり着き城内へ逃げ込み、そこを守っていた山中鹿助&堀尾吉晴(ほりおよしはる)隊は、大きな痛手を被りました。

とは言え、本来なら上月城からも宇喜多勢に連動して撃って出るはずだったのが、秀吉勢の守りが固くて、その後は防戦一方となってしまったため、結局この日の戦いは、多くの宇喜多勢を撤退させて背後の憂いを取り去った秀吉側のやや優勢という結果となりました。

その後、秀吉のもとに信長からの援軍である高山右近(たかやまうこん=友祥・長房)が到着した事を受けて、

天正五年(1577年)12月2日、秀吉は、上月城への総攻撃を仕掛けるのです。 

まずは、敵方の堀切を埋める作業を開始・・・それを見た城方は、そこに鉄砲や弓矢を射かけて作業を妨害すると同時に、城方の国府寺左近太郎(こうでらさこんたろう)が留守となった仁位山の秀吉本陣を奇襲して混乱させます。

やむなく秀吉は、この場では仁位山を諦めますが、一方で上月城の北側にある太平山砦(旧上山城)を奪う事に成功しました。

この太平山砦の場所は、現在の上月城よりも高い位置にあるので、実は戦うには有利(孫子の兵法「軍争篇」べからず集を参照>>)・・・この事は、少なからず上月城の城兵に動揺を走らせます。

そこで、この日の夜・・・城方が夜討ちにて秀吉本陣に迫り、あちこち放火した事によって両軍に2千人ほどの死者を出す惨事となってしまいました。

このため、谷大膳は
「今、味方はことごとく不利な状況にあります。
城攻めには、人の利、地の利、時の利が重要ですから、一旦、撤退しませんか?」
と、秀吉に進言しましたが、

秀吉は、
「長期戦になったら、せっかく味方になってくれた周辺の国人たちが、コチラが不利やと見て離反するかも知れん。
ここまでバッチリ囲んでたら、どんだけ堅城や言うても、所詮は籠の鳥や。
籠の鳥なら、いつかは矢玉も尽きる」
と言って、短期決戦の力推しに挑む事になります。

12月3日、土塁にハシゴをかけて城内への突入を試みる浅野長政(あさのながまさ=秀吉の義養父)隊に、敵が去った仁位山と昨日奪った太平山砦から、鉄砲による一斉の援護射撃を仕掛ける秀吉勢・・・

多勢に無勢の中の猛攻撃に、たまらず城内からも寝返る者が現れ、
「もはや、これまで…」
を悟った赤松政範は、城内で最後の酒宴を開いた後に自害・・・上月城は落城したのでした。

この後、おそらく対毛利の最前線になるであろう上月城を山中幸盛に任せた秀吉は、別所長治(べっしょながはる)の守る播磨三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)へと向かうのでした~

って言っても、ご存知のように、次の三木城は、なかなかの長期戦となってしまうわけで(3月29日参照>>)・・・

その三木城を囲んでる間に、
信長に上月城は見捨てられるわ(5月4日参照>>)
山中幸盛は捕まるわ(7月17日参照>>)
谷大膳は討死するわ(9月10日参照>>)

一方の秀吉も、
野口城を攻めたり(4月3日参照>>)
神吉城を攻めたり(6月27日参照>>)
と忙しく、

あの竹中半兵衛も三木城攻めの陣中で亡くなる(6月13日参照>>)
荒木村重(あらきむらしげ)を説得に行った黒田官兵衛は帰って来ない(10月16日参照>>)

上様=信長は石山本願寺と交戦中やし(11月6日参照>>)

もちろん、織田方は他にも、
明智光秀(あけちみつひで)丹波平定(8月9日参照>>)に、北陸では上杉と交戦(10月4日参照>>)・・・

これらが、全部、織田家内で同時進行やと思うと、ホンマ戦国は激務・・・
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2021年9月 1日 (水)

未だ謎多き~豊臣秀吉の大坂城

 

天正十一年(1583年)9月1日、羽柴秀吉が大坂城の築城を開始しました。

・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き(6月2日【本能寺の変】参照>>)後、

いち早く畿内に戻って、主君の仇である明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)事により、

少し後れを取った(【石動荒山の戦い】参照>>) 家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)に対して、

信長後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)にて、織田重臣の丹羽長秀(にわながひで)池田恒興(いけだつねおき)を味方につけて、うまく立ち回る事に成功した羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)が、

事実上、織田家臣団のトップを決める事になる賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)の戦いに勝利して(4月21日参照>>)

本拠の北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市)に退いた柴田勝家を自刃に追い込んだ(4月23日参照>>)のは、天正十一年(1583年)4月24日の事でした。

柴田勝家と組んで秀吉に敵対していた織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)も、翌月の5月2日に、秀吉を後ろ盾に信長の後継を狙う織田信雄(のぶお・のぶかつ=北畠信雄・信長の次男)追い詰められて自刃します(5月2日参照>>)

勝家&信孝に味方して長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)で籠城して孤軍奮闘していた滝川一益(たきがわかずます)(2月12日参照>>)、彼ら亡き今、この7月に降伏しました。

こうして、
もはや織田家の後継は、あの清須会議で後継者と定められた幼い三法師(さんほうし=後の織田秀信・信長の孫)現時点で秀吉に丸め込まれ中の信雄のみだし、重臣の丹羽&池田は味方だし・・・

てな事で、天正十一年(1583年)9月1日、秀吉は、いよいよ大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)の築城を開始するのです。

いよいよ…と書いたのは、この少し前、秀吉は、自身の手紙の中で、
「大坂を受け取り候て
 人数入れ置き
 国々城割り候て
 これ以後無法無き様に致し申し候て
 五十年も国々鎮まり候様に申し付け候」
と・・・

つまり、
「大坂を本拠として、戦いの無い平和な世を作る」
との並々ならぬ決意を語っているから・・・

これまでも秀吉は、いくつか城を構築してはいますが、この決意を見る限り、まさに天下統一を見据えた国家の政庁としての城が、この大坂城であった事が伺えます。

その場所は、現在も大阪城が建つ、あの場所で、それ以前は、信長と約10年に渡る戦いを繰り広げた一向一揆(いっこういっき)(8月2日参照>>)の本拠地である石山本願寺(いしやまほんがんじ)が建っていた場所でした(【春日井堤の戦い】参照>>)

ちなみに、かつては本願寺は京都の山科に本拠を構えていましたが、日蓮宗や法華宗との戦い(【山科本願寺の戦い】参照>>)で山科を追われた時に移った先が、中興の祖と言われる蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)が隠居所として建てた石山御坊(いしやまごぼう)で、以後、ここを石山本願寺として一向宗の拠点としていたのでした。

Isiyamakassennkasugai2
「石山戦争図」部分(和歌山市立博物館蔵) 

あの『信長公記』にも、ここは
「日本一の境地なり」
と表現されているように、この場所は、奈良京都にも近く、淀川大和川などの大河に守られつつ、そこから派生して縦横無尽に走る川に囲まれていながら(↑の通り、当時の大阪平野は未だ海っぽかった)

この建造予定の場所だけは神代から陸地だった上町台地という高台となるわけで、

守りに強く、外国からの大船にも対応できるし、もちろん貿易にも有利な、まさに日本一の場所だったわけです。

おそらく、信長もそのつもりであり、もし本能寺で倒れなければ、彼もまた、この場所に城を構築していた事でしょうね。

とにもかくにも、そんな天下の一等地に、上記のような意気込みで構築する城・・・まして、秀吉の城づくりを見る限り、それは戦う城というよりも見せる城なんですから、巨大かつ豪華絢爛でなくてはなりません。

そう、
「こんなスゴイの建てる人と戦って勝てるワケない」
と思わせるような城でなくては。。。

もちろん、工事は天下普請(てんかぶしん)・・・一般的には、江戸幕府が始まってから、徳川将軍が全国の諸大名に命令して行わせた土木工事の事を天下普請と言いますが、

吉田兼見(よしだかねみ)の書いた『兼見卿記』によれば、大名たちだけでなく公家にも負担が課されたというし、
『イエズス会日本年報』によれば、連日5万名に及ぶ人々が従事していたと言いますから、やはり、これは天下普請。

天正十一年(1583年)9月1日に始まり、まずは3ヶ月後には、三段からなる見上げるような石垣の天守台が完成し、この先、その上に建つであろう五重の大天守は、黄金の装飾がふんだんに用いられた豪華な造り・・・

その構築と同時に、周囲は、石山本願寺の遺構を組み込みつつ、本丸から二の丸を二重の堀が囲み、さらに秀吉の邸宅となる奥御殿から、政庁となる表御殿が建造され、草庵や茶室が点在する山里曲輪(やまざとくるわ)と進み、

Toyotomioosakazyoukamae 一方では、北に淀川、東に平野川猫間川を天然の外堀とし、そこに城下町を取り込んだ総構(そうがまえ)横堀(現在の東横堀川)が開削され、南には空堀(からほり)が掘られていきます。
(現在の大阪城の4~5倍くらいか?→)

天正十四年(1586年)の4月に、今まさに建築中の大坂城をおとずれた大友宗麟(おおともそうりん)も、国許(くにもと)への手紙で「見事結構」「比類無き」「仰天申候」と絶賛してます(4月6日参照>>)

そんな、周囲約8kmに及ぶ巨大な城郭の姿が露わになっのは、文禄三年(1594年)頃・・・最終的な完成に至ったのは慶長三年(1598年)の事でした。

とは言え、秀吉は、天正十三年(1585年)に関白に任ぜられて、関白としての政庁である聚楽第(じゅらくてい=京都市上京区周辺)を建造し(2月23日参照>>)

その関白を退いてからは隠居所として建てた伏見城(ふじみじょう=京都市伏見区)(3月7日参照>>)にいましたし、上記の最終的な完成からわずかしか経たない慶長三年(1598年)の8月に亡くなってしまいます(8月9日参照>>)ので、

実際に秀吉自身が滞在した時間は、現在の私たちが「太閤(たいこう=関白の職を退いた人・ここでは秀吉の事)さんの城」という頭で描くイメージよりは、かなり短かったわけですが、

死の間際には、自分が亡くなった後は一人息子の秀頼(ひでより)淀殿(よどどの=浅井茶々・秀吉の側室で秀頼の母)が大坂城に入って、五大老の助けを借りながら政権を維持するよう遺言を残していますので、

やはり秀吉にとって、大坂城は天下人の拠点とすべき城だった事でしょう。

しかし、ご存知のように、その大坂城は、五大老筆頭であった徳川家康(とくがわいえやす)の攻撃を受け、慶長二十年(1615年)5月の大坂夏の陣にて炎上&落城してしまいます。(くわしくは【大坂の陣の年表】参照>>)

そして、難儀な事に、勝利した德川家が、豊臣時代の大坂城を縄張りごとスッポリと土で覆ってしまい、

その上に江戸幕府の大坂城を構築してしまったために(1月23日参照>>)(←これが現在の大阪城です)、以来、豊臣時代の遺構は地中深く埋まったままになってしまったのです。

それから約300年・・・
なぜか、すっかり、その事を忘れていた大阪市民。。。

昭和の当時、そこにある大阪城を太閤さんの城と信じて疑わなかった大阪市民は、昭和六年(1931年)、すでに焼失していた天守閣を市民の全面寄付により復興・・・

しかし、それは大坂夏の陣図屏風(11月13日参照>>)に描かれた「豊臣デザインの天守閣を徳川時代の天守台に復興してしまう」という大勘違いだったわけですが(11月7日参照>>)、これも、何事にもおおらかなお笑いの聖地ならではのご愛敬・・・

なんせ、秀吉の大坂城と現在(德川)の大阪城が、別々の縄張りだとわかるのは、第二次大戦後、占領軍から大阪市に変換された事により、昭和三十四年(1959年)に行われた「大坂城総合学術調査」にて・・・

そこでようやく、現在の堀や石垣が豊臣時代の物では無い事が周知されるようになるのです。

最初の簡単な調査で、もともとあった強固な地盤の上に10m以上の盛り土をした上に築城されている事がわかり、さらに本丸・天守閣で行われたコア・ボーリング調査にて地下7.5mの所から、未知の石垣が発見されたのです。

Dscn4113a_1←コア・ボーリング調査で発見された石垣

しかし、この時点ではまだ石垣は謎の石垣とされ、豊臣時代の物と断定するには至りませんでした。

なんせ、上記の通り、ここはもともと石山本願寺があった場所ですし、近くには大化の改新の時の都だった難波宮跡(12月11日参照>>)もあり、縄文人の住居跡も発見されている復号遺跡でしたから。。。

Oosakazyouhonmarunakai1500a ところが、その翌年、偶然にも徳川幕府の京都・大工頭をしていた中井家(【中井正清】参照>>)のご子孫のお家から、

豊臣時代の『大阪城本丸図→』が発見され、その図と地下の石垣の位置を照合した結果、

この石段は、3段に築かれた豊臣時代の本丸御殿を囲む石垣のうちの2段目・中ノ段帯曲輪(なかのだんおびくるわ)の石垣の一部であることが確定され、現在の大阪城の下には、豊臣時代の大坂城の縄張りが埋まっている事が確定となったわけです。

そして豊臣時代の遺構は、今現在も発掘中・・・

Eggenbergj また、2006年には、オーストリアエッゲンベルグ城の壁に飾られていた絵画(←)が

豊臣期の大坂城を描いた8曲1隻の屏風である事が判明し、その全容解明に一役買った事もありました(9月21日参照>>)

今も毎年のように新たな遺構が発見される大阪城・・・今後の、更なる発見に期待ですね。

ちなみに、天満橋駅京阪東口近くのドーンセンターのビル前には、この下から発掘された三の丸の遺構である石垣が、そのままの状態で地上へと移転されて展示されています。
Toyotomioosakazyoukamaed
↑ドーンセンター前の石垣
(くわしい行き方は本家ホームページ「京阪奈ぶらり歴史散歩」で>>

ところで、この大阪城は、別名を「金城」あるいは「錦城」と書いて、どちらも「きんじょう」と呼ばれます。

どちらも同じ読みだし、どっちでも良いっちゃぁ良いんですが、個人的には「錦城」の表記が好みです。

不肖私、大阪城を朝な夕なに仰ぎ見る場所で生まれ育ちましたが、出身校の校歌の歌詞も「錦城」で、

愛唱歌には♪淀の流れに姿を映し~錦(にしき)のお城と背丈を競う♪というフレーズもあり、なにより、昭和の天守閣復興時の設計者である古川重春ふるかわしげはる)の著書も『錦城復興期』ですから・・・

信長が(みん=中国)の瓦師だった一観( いっかん)を招いて、安土城の屋根に明風瓦を使用した事は有名ですが、奇抜な事が大好きば秀吉ですから、ひょっとしたら彼も、普通には思いつかないような色の瓦を使っていた可能性も無きにしもあらず・・・

実際には、遺構からは数多くの金箔瓦が出土しており、天守閣の屋根は金箔の瓦で豪華に造られていたんだろうなぁ~と思いますが、その表現は「金ピカ」というよりは、「錦を織りなすような」色であったのでは?と想像している茶々であります。

Oosakazyou100427patk
大阪城全景

ま、金城湯池(きんじょうとうち)という四字熟語もあり、その「金城」は堅固な城の代名詞でもあるので、結局は、どちらも良い別名なんで、あくまで好みなんですけどね。
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2021年6月17日 (木)

本能寺の変の実戦隊長…斎藤利三の処刑

 

天正十年(1582年)6月17日、本能寺の変の後、山崎の戦い羽柴秀吉に敗れた明智光秀の家老・斎藤利三が処刑されました。 

・・・・・・・・

斎藤利三(さいとうとしみつ・としかず)は、
平安時代頃からの藤原一族の流れを汲む美濃(みの=岐阜県南部)土岐(とき)守護次官斎藤氏(斎藤道三は別系)の人とされる白樫城(しらかしじょう=岐阜県揖斐郡)主・斎藤利賢(としかた)を父に、

代々室町幕府の重臣の家系である蜷川氏(にながわし=アニメ一休さんの新右衛門さんが有名)蜷川親順(ちかより)の娘との間の次男として天文三年(1534年)頃に生まれたとされますが、その生年も諸説あり、お母さんも、斎藤道三(どうさん)の娘説、明智光秀(あけちみつひで)の妹説などもあり、少々謎です。

ただ、利三の兄である石谷頼辰(いしがいよりとき)が、母の再婚相手である石谷光政(みつまさ=空然)の養子となって石谷姓を継ぎ、義父の職を継いで室町幕府の奉公衆となっていて、弟の斎藤利三も、兄と同じく幕府奉公衆であった事を考えると、やはり母は蜷川氏の娘さんである可能性が高いように思われます。

ちなみに、母と再婚相手との間に生まれた利三にとっては異父妹にあたる姫の嫁ぎ先が、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)で、この縁談の仲介役だったのが兄の石谷頼辰と、同僚(幕府奉公衆)細川藤孝(ふじたか=後の幽斎)だったようで、この頃は藤孝の中間(ちゅうげん)だった明智光秀は、この時に長宗我部元親と知り合いになったとされていて、

後々の本能寺の変の一因とも噂される光秀&利三&元親の3人の関係ができた物と思われます(本能寺の変:四国説>>) 。

Saitoutosimitu600a そんな斎藤利三の最初の結婚相手は斎藤道三の娘と言われますが、確固たる証拠はありません・・・ただ、何かしらの縁があって、この頃、利三は道三の息子である斎藤義龍(よしたつ)に仕えるようになっていますので、道三の系列と密な関係になっていた事はうかがえます。

その後、その道三の家臣であった稲葉一鉄(いなばいってつ)与力となって、一鉄の娘(もしくは姪)と再婚します。

ご存知のように、この稲葉一鉄は、永禄十年(1567年)の斎藤本拠の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)陥落(8月15日参照>>)の時に、攻撃側の織田信長(おだのぶなが)の道案内をして織田に寝返った美濃三人衆の一人(8月1日参照>>)、これをキッカケに一鉄配下の斎藤利三も織田傘下となるのです。

翌年の永禄十一年(1568年) には、ご存知のように織田信長が室町幕府15代将軍となる足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛を果たし(9月7日参照>>)、畿内を掌握していく事になるわけですが、

ところが・・・
織田家傘下の稲葉の配下として様々な武功を挙げる斎藤利三ですか、少々不満があったようで・・・

それは、自らの武功に対して、稲葉一鉄が、それに見合った報酬を与えてくれない事・・・

かくして元亀元年(1570年)頃(もうチョイ後かも)、日頃の不満が爆発した利三は、逃げるように稲葉家を出て、すでに信長の家臣として活躍中の明智光秀のもとへと走ります。

つまり、明智光秀が稲葉一鉄の家臣である斎藤利三を引き抜いて自分の家臣にしたわけですが、この頃、光秀は別の人も引き抜こうとしてモメていますので、どうやら、利三の不満が爆発していきなり・・・というよりは、光秀との約束事が、すでに水面下で決まっており、稲葉家を出たものと思われます。

なんせ、かつて同じ職場(幕府奉公衆)だったわけですし、同じ土岐氏でもありますから・・・

とは言え、家臣を引き抜かれた一鉄は激おこプンプン丸で、収まらないその怒りを主君である信長に訴え、利三の返還を求めます。

事を治めたい信長は、利三に切腹を命じますが、織田の家臣で利三と親しかった猪子平助(いのこへいすけ)という武将が間に入って(『改正三河後風土記』では光秀自身が信長に反論して利三を守ったとなっています)、何とか利三の切腹は免れましたが、無茶な引き抜きを行った光秀は、信長からかなりキツく怒られたようで・・・もちろん、稲葉一鉄との確執も残ったままになってしまいます(この一件も本能寺の一因と噂されます)

とにもかくにも、
野茂のメジャー行きくらいに(←例えが古い)大モメにもめた移籍劇ではありましたが、明智光秀の配下となった斎藤利三は大いに活躍して光秀の信頼を得、光秀が信長から任された丹波(たんば=兵庫県の一部)攻めで、天正七年(1579年)に黒井城(くろいじょう=兵庫県丹波市)を落とした(8月9日参照>>)時には、その後の黒井城を任され、光秀の家老に抜擢されました。

やがてやって来るのが天正十年(1582年)の本能寺の変・・・
★本能寺の変については↓
 ●本能寺の変~『信長公記』>>
 ●その時の安土城>>
 ●数時間のタイム・ラグ>>

6月1日夜、「殿(信長)に陣容を見せる」という名目で、居城の亀山城(かめやまじょう=京都府亀岡市)を出た明智の軍勢【明智越体験記】参照>>)・・・一説には、山城(やましろ=京都府)との国境である老ノ坂(おいのさか)の手前で、光秀は、一部の重臣に対して「変の決行」を打ち明けたと言いますが、もちろん、打ち明けたメンバーの中には斎藤利三も・・・

これには、利三は反対したものの、光秀の決意は固く・・・という説と、
むしろ利三が積極的で、なんなら利三に押された形で光秀が決意したという、真逆な説があります。

ごく最近、「光秀が現地(本能寺)には行って無い」という史料の発見もあり、今は、後者の「利三が主導していた」との考えが強くなって来ています。
(信長の四国攻めが間近だった事もあるので)

とにもかくにも、ここで本能寺の変は決行され、「変」自体は成功を収めたわけですが、ご存知のように、電光石火で畿内に戻って来た羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)に推された織田信孝(のぶたか=神戸信孝・信長の三男)率いる織田軍によって、明智軍は敗れ、戦場を離れた光秀も討たれてしまいます。
★このへんは、すでに書いておりますのでコチラで↓
 ●秀吉の中国大返し>>
 ●天王山~山崎の合戦>>

斎藤利三も何とか戦場を脱出しますが、堅田(かただ=滋賀県大津市)に潜伏していたところを、秀吉の命を受けた一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)を大将とする30余人の捕手と足軽50人に囲まれ、息子らとともに奮戦するも、息子2人は斬られ、利三自身は捕縛されてしまいました。
(捕縛したのは猪飼秀貞の説もあり)

かくして天正十年(1582年)6月17日、市中引き回しのうえ六条河原にて斬首された斎藤利三・・・享年49でした。

消えてゆく 露の命は 短夜の
 明日をも待たず 日の岡の峰 ♪  利三辞世
「夜露の命は短い夜だけで、お日様が上ったら消えてしまうものなんや」

その遺体は、5日後の23日、明智光秀の首とともに、あらためて三条粟田口(あわたぐち)にて磔刑(たっけい)に処せられたという事です。

しかし、その後、利三の友人だった絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)(8月28日参照>>)が盗み出し、同じく友人の東陽坊長盛( とうようぼうちょうせい)が住職を務める真正極楽寺(しんしょうごくらくじ=京都市左京区)に葬られました。

ちなみに、この時、4歳で父=斎藤利三を亡くし、母方の稲葉家に預けられたのが、後の春日局(かずかのつぼね)(10月10日参照>>)という事になります。
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2021年4月28日 (水)

武田信玄VS徳川家康~第1次野田城の戦い

 

元亀二年(1571年)4月28日、遠江東三河に侵攻して来た武田信玄が、徳川家康方の菅沼定盈が守る野田城を攻撃しました。

・・・・・・・

菅沼定盈(すがぬまさだみつ)は、駿河(するが=静岡県東部)を領し遠江(とおとうみ=静岡県西部)を間接支配する大大名=今川義元(いまがわよしもと)に仕えていた武将です。

とは言え、そもそもは野田城(のだじょう=愛知県新城市)を本拠とする三河(みかわ=愛知県東部)の武将で、今川義元の支配圏が三河周辺まで拡大された事によって、その傘下に入っていた状況でしたから、永禄三年(1560年)のあの桶狭間(おけはざま)の戦い(2015年5月19日参照>>)で義元が討たれ、それキッカケで今川家の人質だった徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平信康)岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)にて独立する(2008年5月19日参照>>)と、その家康に従う道を選びます。

しかし、当然の事ながら、義元亡きあとの今川を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)は、それを許さず・・・永禄四年(1561年)に今川からの攻撃をを受けて、城は陥落し、一時は親戚筋を頼って逃れたものの、翌永禄五年(1562年)に夜襲をかけて奪回していました

この間に、家康は、かの桶狭間で義元を討った尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)と同盟を結び(1月15日参照>>)、完全に今川とは手を切ります。

やがて、隣国の美濃(みの=岐阜県南部)を手に入れて(8月15日参照>>)、上り調子の信長は、永禄十一年(1568年)9月に、足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)奉じての上洛を果たします(9月7日参照>>)

Tokugawaieyasu600 ちょうどその頃、大黒柱を失ってから力が衰え、今川の支配が緩くなって来ていた遠江に、家康が侵攻を開始しますが、この時、遠江への道案内をかって出たばかりか、未だ今川と德川の間で揺れ動いていた井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)配下の同族=菅沼忠久(ただひさ)味方に引き入れたのが菅沼定盈でした。

おかげで、家康の遠江侵攻は、かなりスムーズに展開し(2019年12月13日参照>>)、わずか5日で引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入っています。

一方、この家康の遠江侵攻と同時に動き始めたのが甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)・・・「このままでは今川の領地を家康に取られてしまう」とばかりに、これまでは信濃(しなの=長野県)方面へ伸ばしていた手を、一気に方向転換させ、信長の仲介によって家康と約束を結び、

Takedasingen600b 信玄は北から、家康は西から、今川領へと進み、倒したあかつきには大井川より東(駿河)は信玄が、西(遠江)は家康が治めると取り決め、両方向から今川へ仕掛けていきます。

永禄十一年(1568年)12月13日、信玄に今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市:後の駿府城)を奪われた氏真は(2007年12月13日参照>>)掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走・・・すかざず、この掛川城を、今度は家康が攻撃します。(12月27日参照>>)

しかし、この信玄の行動に怒り心頭なのが、かつて甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめい=武田&北条&今川の三者による同盟)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)でした。

同盟を締結した今川義元が亡くなったとて、もう一人の同盟者である北条を無視して、勝手に同盟を破棄して今川に攻め込んだわけですから・・・

そこで北条氏政は、信玄をけん制しつつ(【薩埵峠の戦い】参照>>)掛川城を攻めあぐねている家康と交渉・・・城攻め開始から5ヶ月経っても掛川城を落とせていなかった家康は、北条と同盟を結び、北条の介入&助け舟によって、ようやく、翌永禄十二年(1569年)5月に掛川城を開城させる事に成功したのです。

しかし当然の事ながら、今度は、この家康の行動に信玄が怒り心頭・・・

「もはや、大井川から西も東もクソもない!」
とばかりに、自力での旧今川領獲得へと進み始めます。

永禄十二年(1569年)7月に大宮城(おおみやじょう=静岡県富士宮市)を奪取(7月2日参照>>)して、
10月には三増(みませ)峠で北条と戦い(10月6日参照>>)、12月には蒲原城(かんばらじょう=静岡県静岡市清水区)を開城(12月6日参照>>)・・・

翌元亀元年(1570年=4月に永禄十三年から改元)には奥さんの三条の方(さんじょうのかた)(7月28日参照>>)を失いつつも、さらに翌年の元亀二年(1571年)の1月には深沢城(ふかさわじょう=静岡県御殿場市)を奪取します(3月27日参照>>)

この間の徳川家康は、気賀(きが=浜松市北区細江)一揆(3月27日参照>>)など、未だ今川色の強い地域の支配を進めつつ、同盟者である信長の姉川の戦い(6月28日参照>>)に参戦したりしておりましたが、

そんなこんなの元亀二年(1571年)4月15日、信玄が德川配下の鈴木重直(すずきしげなお)の拠る足助城(あすけじょう=愛知県豊田市:真弓山城)を落とし、いよいよ遠江に侵攻して来たのです。

さらに、その勢いのまま、浅谷城(あさがいじょう=同豊田市山谷町)八桑城(やくわじょう=同豊田市新盛町)大沼城(おおぬまじょう=同豊田市大沼町)田代城(たしろじょう=同豊田市下山田代町)大桑城(おおくわじょう=豊田市大桑町)などを次々と落とし(自落した城もあり)周辺一帯は、またたく間に武田の支配下となりました。

そして、今度は南に進んで東三河に入り、今回の信玄侵攻キッカケで徳川方から武田に寝返った作手城(つくでじょう=愛知県新城市:亀山城とも)奥平定能(おくだいらさだよし=貞能)田峯城(だみねじょう=愛知県北設楽郡設楽町)菅沼定忠(さだただ)を道案内に…

ちなみに、この時、菅沼定忠は同族の菅沼定盈を攻撃する事に躊躇し、武田方に、わざと遠回りの道を教えて時間稼ぎしたとも言われていますが・・・

とにもかくにも元亀二年(1571年)4月28日の夜に、信玄配下の小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)山県昌景(やまがたまさかげ)らが軍勢を率いて作手を発って、夜中行軍にて菅沼定盈の守る野田城へと向かい、到着後、間もなく・・・その夜のうちに武田方は野田城への攻撃を開始します。

実は、この野田城・・・後に、大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん=忠教)が著した『三河物語』でも「藪のうちに小城あり」と記されている事でもわかるように、かなりの小さな城だったうえ、菅沼定盈以下、城兵の数もさほど多くは無かったようで・・・

もちろん、建物が小さいぶん、攻め手の攻め口も小さい造りにはなっていたようですが、所詮は多勢に無勢・・・結果は火を見るよりも明らかで、野田城は、未だ夜が明けぬ寅の刻=午前4時頃に落城してしまいました。

・・・と、ここまで書いておいて恐縮ですが、

実は、近年の研究では、今回の野田城の戦いは、元亀二年(1571年)の信玄の遠江侵攻時では無く、天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原(したらがはら=愛知県新城市長篠)の戦い(5月21日参照>>)前哨戦であったのでは?との指摘もあります。

そうなると、菅沼定盈が戦った相手は信玄でなく、息子の武田勝頼(かつより=信玄の四男)という事になりますし、この翌年の信玄の西上作戦(せいじょうさくせん=上洛するつのりだった?と言われる信玄による武田軍の遠征)で、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)の戦い(12月22日参照>>)の後に行われる信玄最後の戦い=一般には第2次とされる野田城の攻防戦(1月11日参照>>)の方が先という事になってしまうわけですが・・・

確かに、今回、夜襲によって落城するものの、菅沼定盈は討ち取られる事無く無事ですし、城も、第2次とされる西上作戦の時の攻防戦までのわずかな間に、信玄がかなり攻めあぐねるほどに見事な修復をされていますので、やはり少々の疑問が残ります。

なので、ひょっとしたら天正三年(1575年)の出来事かも知れないのですが、一応、このブログでは、複数の史料に登場する元亀二年(1571年)4月28日の日付で、今回はご紹介させていただく事にしました。
(新たな資料発見で、また変わるかも知れませんが…)

ところで、本日の主役である菅沼定盈さん・・・

その信玄の西上作戦の時の第2次野田城の戦いでも敗れ、一時は武田方に捕らわれの身となりますが、直後の人質交換により、再び家康の元に戻り、その後の長篠設楽原の戦い小牧長久手の戦い(3月6日参照>>)でも德川方として活躍・・・あの関ヶ原の時には最前線には出なかったものの、江戸城の留守居役を立派にこなしています。

このページでも、井伊谷の菅沼忠久さんや、武田に寝返った田峯の菅沼定忠さんがいたように、菅沼の一族がたくさんいて、定盈の野田菅沼は、嫡流から枝分かれした、むしろ支流だったわけですが、上記の通り、健やかなる時も病める時も、1度も家康を裏切る事無く尽くした事から、この野田菅沼家は、天下を取った德川家から優遇され、江戸時代を通じて(1度改易されるも旗本として復帰)菅沼一族の中では1番の出世頭となっています。
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2021年4月21日 (水)

信長を大敗させた半兵衛の作戦~斎藤龍興の新加納の戦い

 

永禄六年(1563年)4月21日、美濃へ侵攻した織田信長を迎撃し、斎藤龍興が勝利した新加納の戦いがありました。

・・・・・・・・

その出世ヒストリーから「美濃(みの=岐阜県南部)のマムシ」と呼ばれた斎藤道三(さいとうどうさん)が、反発する息子の斎藤義龍(よしたつ=高政とも)によるクーデターによって倒れたのは弘治二年(1556年)4月の事でした【長良川の戦い】参照>>)

この時、道三は、娘=帰蝶(きちょう=濃姫)の嫁ぎ先である尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)「美濃を譲る」の遺言状を書いた(4月19日参照>>)とも言われますが、

そんな遺言状があろうがなかろうが、おそらく信長は娘婿として道三の弔い合戦を考えていた事でしょうが、いかんせん、この頃の信長は、未だ尾張一国をも手にしていない一武将・・・

しかも、道三を倒しただけあって義龍は、なかなかの勇将で、とても美濃には手出しできない状況でした。

そんな中、永禄三年(1560年)5月に、あの桶狭間(おけはざま)にて今川義元(いまがわよしもと)を討ち取った(2007年5月19日参照>>)事で一躍名を挙げた信長のもとに、永禄四年(1561年)5月11日に「義龍が30半ばの若さで急死した」との情報が舞い込んで来ます。

Saitoutatuoki300 しかも、後を継いだのは未だ14歳の息子=斎藤龍興(たつおき)・・・

信長は早速、永禄四年(1561年)5月13日に美濃への侵攻を開始し、翌14日の森部の戦い(5月14日参照>>)、23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)と、立て続けに戦を仕掛けましたが、さすがは美濃の王者・・・

本家本元の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)を何とかせねば、藤氏が揺るぐことはありません。

そんなこんなの永禄五年(1562年)11月、尾張守護代家の内紛に乗じて織田信賢(のぶかた)を倒して(2011年11月1日参照>>)、ようやく尾張を統一した信長は、再び、その矛先を美濃に向けます。

永禄六年(1563年)4月21日、上記のような経験から、本拠の稲葉山城の攻略を目標に置く信長は、約1万の兵を率いて木曽川を渡った後、その稲葉山の動向を見つつ、各務野(かかみの=岐阜県各務原市)付近に侵攻し、周辺の村々に火を放ちつつ進軍しました。

それは、
先陣に池田恒興(いけだつねおき=信輝)隊、
第2陣に森可成(もりよしなり)隊、
第3陣に柴田勝家(しばたかついえ)隊、
最後尾の信長本隊を丹羽長秀(にわながひで)隊がサポートする順列で、新加納(しんかのう=同各務原市那加浜見町)を経て、稲葉山城に迫る勢いで進みます。

一方、迎える斎藤龍興方は、
先陣の牧村半之助(まきむらはんのすけ)野村甚右衛門(のむらじんえもん)ら2千余騎、
第2陣の日根野備中守(ひねのびっちゅうのかみ)ら1500余騎を大手(正面)側に配しておいて、
長井道利(ながいみちとし=道三の息子説あり)を将とする別動隊を森蔭や竹藪に伏せさせておき、
本隊を前一色山(まえいっしきやま=金華山の南東にある山:八幡山)の麓に隠した後、
偽装の本陣を山頂に設けて、やたら派手々々の吹き流しやのぼりを、これでもか!っと賑やかに据え、

準備万端整えて、信長軍を待ち構えていました。

そんな中、まずは新加納に布陣していた牧村隊が、ただ今やって来た織田先陣の池田隊とぶつかりますが、「とても抗いきれない」という雰囲気で、牧村隊が少し後退すると、そこを池田隊とともに、第2陣の森隊が追撃を仕掛けます。

しかし、それは斎藤方の作戦・・・

頃合いを見計らって、斎藤第2陣の日根野隊が牧村隊を救援すますが、これも、やや劣勢で後退し始めると、この状況に「斎藤劣勢なり!」と見た柴田隊&丹羽隊もが追撃にかかります。

この絶好のタイミングで、森蔭に伏せていた長井の別動隊が一斉に横から突いたため、さすがの織田軍も混乱・・・隊形が乱れます。

斎藤軍は、さらに、そこをグッとこらえて織田軍を十分に引き付けてから、これまた絶好のタイミングで全軍に反撃命令・・・伏兵&本隊&別動隊が一斉に鬨(とき)の声を挙げて突入します。

やられた織田方は、味方ともそれぞれ分断され、連絡も途絶えて散々に乱れ、死者が続出する中で前にも後ろにも行けず、右にも左にも回避できぬ状態となり、もはや全滅寸前となります。

もう、信長本隊にさえ敵が突入し、側近の馬廻衆が必死のパッチで、かろうじて防戦するあり様でした。

実は、斎藤方のこの作戦を考えたのが、あの竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)だったと言われています。

さすがは名軍師・・・と言いたいところですが、上司&同僚のパワハラにキレた半兵衛が稲葉山城を占拠する有名なあの【竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り事件】>>は、この翌年の事なので、この情報は、後に有名になる人の定番=後付けエピソードなのかも知れませんが、ひょっとして?と思わせるほどの斎藤方の見事な作戦でした。

…と、ここで信長の命すら危ない風前の灯となった織田軍でありましたが、

この頃、ちょうど夕暮れ時となり、各務野一帯が薄暗くなって来た中、ここで突然、稲葉山南方の尾根・瑞龍寺山(ずいりゅうじやま=同岐阜市)数百に及ぶ松明(たいまつ)が掲げられます。

「すわ!一大事」
と慌てる斎藤軍・・・

実は、今回の織田軍迎撃のため、ほぼ全軍で立ち向かっていた斎藤方は、今現在、本拠の稲葉山城は、ほぼカラッポ状態・・・ほとんど兵を配置していなかったのです。

「この間に、別動隊が城を落とす作戦かも知れん」
と思った斎藤方は、慌てて包囲を解いて稲葉山城へと引き揚げていったのでした。

実は、この主君のピンチの際に、作戦には無かったフェイク松明を焚いたのが、織田方の殿(しんがり=軍の最後尾)を担当していた木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)だったと言われています。

まぁ、これも半兵衛同様に、後の展開を見た後付けエピソードかも知れませんが、実にオモシロイじゃありませんか!

半兵衛の作戦により大勝を得た龍興、
秀吉の機転により、
大敗でありながらも命落とさずに済んだ信長。

この後の、秀吉&半兵衛二人の関係を思うとワクワクしますね~

こうして、何とか無事、尾張に帰還した信長は、今回の手痛い敗戦に懲りた事で、「美濃を落とすためには、それ用の城が必要」と考え、小牧山城(こまきやまじょう=愛知県小牧市)構築を決意したと言われています。

★その後の信長の美濃侵攻関連
永禄八年(1565年)8月:堂洞合戦>>
永禄九年(1566年)9月:墨俣の一夜城?>>
永禄十年(1567年)8月 :美濃三人衆内応>>
同年8月:稲葉山城・陥落>>
でどうぞ。。。
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2021年4月14日 (水)

義景を裏切った朝倉景鏡の最期~天正の越前一向一揆・平泉寺の戦い

 

天正二年(1574年)4月14日、越前一向一揆に攻められた朝倉景鏡アラタメ土橋信鏡が討死しました。

・・・・・・・・・

ご存知、織田信長(おだのぶなが)浅井朝倉攻め・・・

天正元年(1573年)、小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市)北近江(おうみ=滋賀県)浅井長政(あざいながまさ)を倒した(8月28日参照>>)とほぼ同時に、一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を破って(8月20日参照>>)信長はいよいよ越前を手に入れました。
(くわしくは【織田信長の年表】で>>)

この時、かつての姉川の戦い(6月28日参照>>)から3~4年の月日がある事で、その間に朝倉を見限って織田方に寝返った元朝倉家臣も多くいたわけで、
大河ドラマ「麒麟がくる」でのこの表情
37kirinkageakira
で話題になった朝倉景鏡(かげあきら)もその一人ですが、

この景鏡さんは、ドラマの通り、主君を裏切るのは最後の最後なわけですが、かなり早いうちから織田方へと寝返って、情報を流し道案内をしていたのが、今回の朝倉滅亡をキッカケに前波吉継(まえばよしつぐ)から名前を改めた桂田長俊(かつらだながとし)で、
そのおかげで信長から朝倉の本拠であった一乗谷の守護代という大役に抜擢されたのでした。

しかし、上記の通り、朝倉からの寝返り組は他にも・・・

で、そんな桂田長俊の足を引っ張ろうとしたのが、同じ寝返り組で府中領主に任じられていた富田長繁(とみたながしげ)で、

そのために、加賀一向一揆の一翼の大将を担う杉浦玄任(すぎうらげんにん=げんとう・壱岐)と連絡を取って援軍を要請し、なんと一向一揆の力を借りて桂田長俊を攻めたのです(くわしくは1月20日参照>>)

そもそも、加賀と越前は隣国という位置関係でもあり、朝倉の統治時代から越前一向一揆が盛んで何度も交戦していた(8月6日参照>>)わけで、その軍事力たるや戦国武将にも匹敵するほど・・・

結果、天正二年(1574年)1月20日、富田長繁は勝利し、その勢いのまま、信長が北ノ庄(きたのしょう=福井県福井市)に置いていた代官所も襲撃し、目付として赴任していた3人の奉行まで追放してしまいますが、

ここらへんでハタと気付いた?
自分は、織田の配下であり、その織田は大坂にて石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・一向宗総本山)と抗戦中だと・・・

しかし、時すでに遅し・・・案の定、桂田長俊に勝利した一向一揆は、もはや富田長繁の援軍もクソもなく、その勢いのまま走り続けるのです。

かの桂田攻めから半月と経たない2月上旬には、朝倉の旧臣が守っていた中角館なかつのやかた=福井県福井市中角町)を攻撃して占拠し、2月15日には丹波(たんば=京都中部・兵庫北東部)の一向一揆と合流し、やはり朝倉旧臣の拠る三留城(みとめじょう=同福井市三留)も奪います。

さらに2月18日には、やはり朝倉旧臣だった黒坂景久(くろさかかげひさ=この頃はすでに死去)の3人の息子が守る舟寄館(ふなよせやかた=福井県坂井市丸岡町)を襲撃して三兄弟を討ち片山館(かたやまやかた=福井市片山町)に拠る富田長繁の腹心も血祭りにあげました。

もちろん、彼らは正式な軍隊でなく一揆衆ですから、複数のリーダーが率いる別々のグループが、どこからともなく湧いて出るように現れ、ある時は寄り集まって大軍となり、ある時は、また違うグループ同志がくっついたりしながら暴れ回るので始末が悪い・・・

そんな中、一揆の総大将として本願寺から派遣されていた下間頼照(しもつまらいしょう)は、杉浦玄任とともに豊原寺(とよはらじ=福井県坂井市丸岡町)に陣を置いて、一連の一揆の成果となる首実検をしていましたが、

ここに来て、最後の最後に朝倉を裏切って今は土橋信鏡(つちはしのぶあきら)と名を改めている朝倉景鏡(ややこしいので本日は景鏡さんの名のままで…)を討つために発進します。

すでに、その兆候を察していた景鏡は妻子を逃した後、自らも本拠の戌山城(いぬやまじょう=福井県大野市犬山)を出て、郎党とともに平泉寺(へいせんじ=福井県勝山市平泉寺町)に立て籠もっていました。

Etizenikkouikkiheisenzi
越前一向一揆平泉寺戦の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正二年(1574年)4月14日未明、2万余騎の大軍となった一向一揆が攻め寄せ、平泉寺手前の村岡山(むろこやま=福井県勝山市村岡町)にて景鏡軍とぶつかります。

一進一退の死闘が繰り広げられるものの、もともと景鏡の軍は総勢8300余騎で、一揆勢の数にはかなわぬわけで・・・やがて怒涛の如く押し寄せる敵兵に押され気味の景鏡軍は平泉寺へと後退し、その数は、わずか50~60騎に減ってしまいます。

「もはや、これまで!」
を覚悟した景鏡は、腹心である杉本(すぎもと)江村(えむら)の二人を連れ、主従ただ3騎にて、多勢の一揆勢の真っただ中に斬り込みますが、そんな中で杉本&江村の二人が討たれたのを見て、

「雑兵の手にかかるは無念なり!」
と叫んで、自らの太刀を胸元に突き立て、その姿のまま、馬からドッと落ち、息絶えたところを袋田(ふくろだ=福井県勝山市)の住人に首を取られたのだとか・・・

 景鏡の首実検を済ませた下間頼照は、景鏡の二人の息子(10歳と6歳)も捕らえて処刑し、3人の首を木に吊るして晒したという事です。

ちなみに、このあたりが現在「福井県勝山市」なのは、この時、村岡山にて一揆軍が勝利した事に由来すると言われています。

とは言え、まだまだ収まらぬ一向一揆・・・

5月には、同じく朝倉の旧臣で織田に降った朝倉景綱(かげつな)織田城(おだじょう=福井県丹生郡越前町)を攻め立て、景綱はたまらず城を明け渡し、妻子を連れて敦賀(つるが=福井県敦賀市)へと落ちて行きました。

一方、この間も、
「チョットやり過ぎた」
と反省しきりの富田長繁は、なんとか信長に許してもらおうと弁明に走りますが、信長の怒りが収まる事はなく、逆に、その態度は協力してくれた一向一揆にも歯向かう行為なわけで・・・

「富田長繁が、またぞろ織田の傘下に納まるんやったら、いっその事いてまえ~」
とばかりに、一向一揆は富田長繁を攻撃し、天正三年(1575年)2月18日、長繁は一揆との抗戦中、銃弾に倒れました(2月18日参照>>)

これで、名実ともに、越前は一向一揆の持ちたる国になってしまったわけです。

ただし、
もちろんではありますが、信長さんが、越前をこのままにしておくはずは無いわけで・・・

この年の5月に、武田勝頼(たけだかつより)を相手にした長篠設楽原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)を終えた信長は、

天正三年(1575年)8月に自ら越前へと向けて出陣・・・北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)をはじめとする約3万の大軍が越前一向一揆のせん滅にやって来るのですが、そのお話は8月12日のページでどうぞ>>
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2021年4月 7日 (水)

家康の侵攻で…奸臣か?忠臣か?~井伊家の家老・小野政次

 

永禄十二年(1569年)4月7日、 徳川家康の侵攻を受けた遠江井伊谷城を占拠していた小野政次が処刑されました。

・・・・・・・・

小野政次(おのまさつぐ)は、遠江(とおとうみ=静岡県の大井川以西)井伊谷(いいのや=静岡県浜松市北区引佐町)を支配していた国人領主=井伊(いい)家老であった小野政直(まさなお)の息子で、天文二十三年(1554年)8月27日に死去した父の後を継いで井伊家の家老を務めた人物・・・名前は小野道好(みちよし)だったとも伝わりますが、本日は、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で採用されていた政次というお名前で…

大河ドラマでは高橋一生さんの好演で、これまで残る井伊家の記録で悪役一辺倒だった小野政次さんの印象がずいぶん変わった事は、記憶に新しいところです。

この頃の井伊家は、東海一の弓取りと称された駿河(するが=静岡県の大井川以東)今川義元(いまがわよしもと)の傘下であり、父の小野政直は、その今川に忠誠を誓う気持ちが強かったため、逆に今川と距離を置きたい井伊一門とはことごとく対立して、その敵対勢力を謀殺したりする奸臣(かんじん=邪心を持つ家臣)で、当主=井伊直盛(いいなおもり)に逆らって井伊家をわが物にした人物のように伝えられています(1月12日参照>>)

 そのためか?小野政直の死をキッカケに、それまで危険を感じて身を隠していた井伊直親(なおちか=直盛の甥)が領国に戻って来て、後継ぎ男子がいなかった井伊直盛が、直親を養子に迎えたりしていました。

 小野政次が父の後を継いで家老になった頃は、このような状況だったわけですが、そんなこんなの永禄三年(1560年)5月、大看板の今川義元が、尾張(おわり=愛知県西部)の一武将であった織田信長(おだのぶなが)に敗れる、あの桶狭間(おけはざま=愛知県豊明市栄町・同名古屋市緑区)の戦い(2015年5月19日参照>>)があり、今川軍に従軍していた井伊直盛が討たれてしまいます。

この桶狭間では、小野政次も弟の小野朝直(ともなお)などを失いますが、ここで、亡き直盛に代って新当主となる養子の直親は、仲が悪かった父の時代からの因縁もあって、やはり直親も小野政次とはソリが合わないわけで・・・

そんな中、桶狭間キッカケで今川での人質生活から脱出して(2008年5月19日参照>>)独立した三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)が、義元を討った相手の信長と同盟を結び(1月15日参照>>)、今川と縁を切っての領国経営をこなし始めます。

これまで、家康が人質に取られていた松平同様に、命令一つ出すにも大大名の今川にお伺いを立てて気遣いせねばならないような立場だった井伊の者から見れば、
「家康ができんねやったら、俺らもイケんちゃうん?」
と、隣人=家康の様子を見て、独立を夢見る者もチラホラ・・・どうやら、当主=直親自らが、そのような感じで、家康に近づいて行ったとか・・・

ただし、実際には、どこまで德川に内通したか?あるいはまったくしてなかったのか?がわかっておらず、そこはあくまで「内通の疑い」だったわけですが、

未だ今川に忠誠を誓う小野政次が義元の後を継いだ息子=今川氏真(うじざね)に、その「内通の疑い」をチクり・・・

それを信じた氏真の命によって、直親は、駿河への弁明に向かう途中に今川家臣によって殺されてしまいます。

氏真は、直親の息子である虎松(とらまつ=後の井伊直政)も殺害すべく小野政次に命じますが、そこは、親井伊派の今川家臣=新野親矩(にいのちかのり)の助けによって虎松は身を隠し、無事乗り切りました。

しかし、その後、永禄六年(1563年)に井伊直平(なおひら=直盛の祖父)も亡くなった事から、井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)には城主がいなくなってしまったため、出家していた、亡き直盛のひとり娘=次郎法師(じろうほうし)を還俗させて井伊直虎(なおとら)と名乗らせ、井伊家の当主としました。
(↑この方が大河の主役…くわしくは【戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎】で>>内容カブッてますがスミマセン)

Tokugawaieyasu600 しかし、そんなこんなの永禄十一年(1568年)、織田信長が足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)一方で、同盟者の徳川家康は隣国=遠江への侵攻を開始するのです。

これは、大黒柱の義元を失って後、息子=氏真が後を継ぐも、なかなかウマく領国経営できずにいた今川の領地を狙っての行動・・・

これを見た甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)は、
「このままやったら今川の領地全部、家康に取られるやん!」
とばかりに、これまでは、その領地を北側へと広げるべく、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)とドンパチやってた【川中島の戦い】参照>>)のを、ここに来て矛先を南へとシフトチェンジ・・・

信長の仲介で(今川領地の)大井川から西は家康が、東は信玄が…との約束を交わし、両者は、ともに今川を倒しにかかって来たのです。

この時、今川軍に従軍していた小野政次は、氏真から、
「虎松を殺害して井伊谷を掌握し、井伊軍を連れて今川方に加勢せよ」
との命を受け、井伊谷城を占拠・・・直虎&虎松らは、何とか城を脱出して菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ=静岡県浜松市北区)に身を寄せました。

一方、かつて義元が健在の時期に、武田や今川とともに甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=甲斐&相模&駿河の三国)を結んでいた相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(うじやす)は、今回の信玄の勝手な裏切り行為に激怒して挙兵しますが【薩埵峠の戦い】参照>>)、信玄はそれらをかわしつつ、

12月13日には氏真の本拠である今川館(いまがわやかた=静岡県静岡市葵区・駿府城)を攻撃して駿府を陥落させ(2007年12月13日参照>>)、負けた氏真は、やむなく掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)へと逃走ます。

そして、まさに、この同じ12月13日に遠江へと入った家康・・・その道案内をしたのは、井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)と呼ばれる菅沼忠久(すがぬまただひさ)近藤康用(こんどうやすもち)鈴木重時(すずきしげとき)の3人。

そう、今川に忠誠を誓って井伊谷城を占拠した小野政次に対し、彼らは家康の側についたのです(2019年12月13日参照>>)

家康は、近隣の刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市)白須賀城(しらすかじょう=静岡県湖西市)などを破竹の勢いで次々と落とす一方で、かの井伊谷三人衆に井伊谷城の奪回を命じ、自らは、12月18日に引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入って(12月20日参照>>)、氏真が逃げた先=掛川城の攻撃に入るのです(12月27日参照>>)

このように圧倒的な力の差にある德川という後ろ盾を得た井伊谷三人衆に対し、もはや頼みの当主まで逃げちゃった小野政次ら今川派・・・勝敗は火を見るよりも明らかな中、負けた小野政次らは、何とか井伊谷城から逃走して、その身を隠しますが、

翌年、3月27日に起こった、壮絶な堀川一揆(ほりかわいっき)(3月27日参照>>)の際に、德川軍によって見つけ出されて捕縛されてしまいます。

かくして永禄十二年(1569年)4月7日、小野政次は、直親讒言の罪により、井伊谷川付近の仕置き場にて処刑されたのです。

その1ヶ月後には、二人の息子も処刑されました。

…とまぁ、讒言やら横領やら、とにかく、記録に残る小野政次は、悪役そのもの・・・残る史料が少なく、それも、かの虎松こと後の井伊直政(いいなおまさ)が家康の家臣として大出世した事で、
「この井伊家の歴史は…」
みたいな感じで編さんされたり、あるいは、他家の記録にチョコッと出てきたり・・・みたいな感じですから、幼き直政と敵対関係となる小野政次側を良く書き残す事は無いわけですし、別途残る書状なども非常に少ない。

とは言え、一連の出来事を冷静な目で見つつ、かつ、あの大河ドラマでの高橋政次さんの死に際がカッコ良かった事も相まって、ここのところ、少し違った見方もされるようになって来ました。

と言うのも、そもそも、その弱小さゆえ、今川の傘下となって生き延びていくしかなかった井伊家は、独立した家康が、信長や信玄とタッグを組んで事を起こし始めた時点で、
「このドチラにつくのか?」
が最大の生き残りの分かれ道であったはずで、周辺の同じような立場の国人領主たちは、その判断に悩み、その動向いかんによっては、滅亡も覚悟せねばならなかったわけで・・・

現に、この時、井伊家と同じく今川傘下で、同じく先代を桶狭間で失っている引馬城の飯尾(いのお)は、それ以前に離反を疑われて今川から攻められていたにも関わらず、家康の侵攻に対して、あからさまに德川につく事なく城の開けけ渡しを拒んだ事により德川軍に攻め込まれて落城しています(先の12月20日参照>>)

つまり、家康が遠江侵攻を開始した以上、井伊家だって、井伊谷城を明け渡して家康に降伏するしかなかった状況だったはず・・・

しかし、ギリギリの線で井伊三人衆を道案内に向かわせるとともに、井伊谷城が小野政次に占拠されている状況だったからこそ、德川軍から直接攻撃される事も無かったし、その後に直虎&虎松が復帰=事実上領地を安堵される事になるわけです。

細かな事情がハッキリしないので断言はできませんが、
家康の侵攻と三人衆の道案内と小野政次の井伊谷城占拠が、ほぼ同時だったという、この経緯と結果だけを見れば、井伊家は、小野政次一族をスケープゴートにする事で、城を差し出す事もなく生き残った・・・という事になります。

もちろん、
小野政次が自ら望んで捨て石となったのか?
はたまた、この機会に主家=井伊家に取って代ろうとしたのか?

人の心の奥底はわかりませんが、戦国ファンとしては前者を願うばかりです。

ちなみに、このあと、掛川城の攻撃に手間取った家康が、北条氏康と和睦を結び、北条の助力によって掛川城を開城に導いた事から、信玄と家康とが手切れとなり【信玄の大宮城の戦い】参照>>)、最終的に、あの三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市北区)の戦いへと繋がっていく事になります。 .

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2021年3月 3日 (水)

武田勝頼の逃避行~信長の甲州征伐

 

天正十年(1582年)3月3日、武田勝頼新府城に火を放ち、岩殿城へと向かいました。

・・・・・・・

甲斐(かい=山梨県)の御大=武田信玄(たけだしんげん=晴信)亡き後、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄の四男)は、大きすぎる父の影を払拭するがの如く戦いにまい進し、天正二年(1574年)2月には明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を落とし(2月5日参照>>)、その3ヶ月後の5月には父=信玄も落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)を奪い(5月12日参照>>)信玄時代より広い領地を獲得します。

それというのも、もともとは四男で諏訪(すわ)家を継ぐはずだった勝頼が武田の当主となった事や、それを踏まえた信玄の遺言のせいで、勝頼と父の代からの家臣たちとの間に亀裂が生じ始めていたため・・・

それを修復するためにも、勝頼は古い家臣に歩み寄りつつ、父よりも戦上手な姿を見せねばならず、そこに重きを置いていたように見えます(4月16日参照>>)

しかし、一方で、信玄の死を知った三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)を奪われ(9月8日参照>>)、それを取り返しに行った天正三年(1575年)の有名な長篠設楽ヶ原(したらがはら)の戦いで、手痛い敗北を喰らってしまった(5月21日参照>>)あたりから、勝頼と家臣団との間の亀裂は、さらに大きくなっていくのです。

その勢いに乗る家康は、天正三年(1575年)6月に光明城(こうみょうじょう=同天竜区山東字光明山・光明寺跡)、8月に諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)、12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二俣町)(12月24日参照>>)、さらに天正五年(1577年)に天正七年(1579年)と何度も持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を攻撃する(9月19日参照>>)など、徐々に、その境界線を武田側へと詰め寄っていきます。
(天正九年(1581年)には高天神城をも落としています…3月22日参照>>

他方、かの長篠設楽ヶ原で家康の同盟者として戦った織田信長(おだのぶなが)は、すでに元亀四年(天正元年=1573年)7月に将軍=足利義昭(あしかがよしあき)京都から追放(7月18日参照>>)、8月20日には越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(8月20日参照>>)、8月29日には北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あさいながまさ)(8月28日参照>>)葬り去った後、天正八年(1580年)8月には10年に渡る石山本願寺との戦いに終止符を打って(8月2日参照>>)畿内を掌握した事で、憂いなく遠方への平定に向かえる状態となったわけで・・・

すでに、この頃には、織田配下の明智光秀(あけちみつひで)丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部)を平定し(8月9日参照>>)但馬(たじま=兵庫県北部)を押さえた羽柴秀吉(はじばひでよし=豊臣秀吉)は次の播磨(はりま=兵庫県南西部)の平定も視野に入れ(4月1日参照>>)、北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)加賀(かが=石川県南西部)平定目前でした(3月9日参照>>)

この状況に対抗すべく、武田勝頼は天正九年(1581年)から新たな城の構築を開始し、その年の暮れ頃に武田の本拠地であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=山梨県甲府市古府中)から新しい城へと引っ越します。

Sinpuzyoua 「甲州新府古城之図」
(山梨県立博物館蔵)

この新らしい城が、武田勝頼の失策?とも言われる新府城(しんぷじょう=山梨県韮崎市)ですが、

よくよく考えてみれば、上記の通り、信玄時代よりも武田の領地は広がったわけですし、その勢力範囲で見る限り、甲府(こうふ)より韮崎(にらさき)の方が中心に近いし、何より、勝頼は、未だ半士半農だった家臣団を、この城下に集めて統率を取りつつ、再編成するつもりであったとされ、どうやら、この先を見据えた新しい領地経営を目指していたようで、

そうなると、それほどの失策とも言えないわけですが、

ただ・・・少々時期が遅かった?

なんせ、暮れの引っ越しから間もなくの年明け=天正十年(1582年)1月27日に妹婿の木曾義昌(きそよしまさ)織田方へ寝返ったのです。
(実際には2年前くらいから水面下で織田に内応してましたが…)

早速、勝頼は従兄弟(信玄の弟=信繁の子)武田信豊(のぶとよ)と異母弟の仁科盛信(にしなもりのぶ=信玄の五男)木曽谷(きそだに=木曽川上流の流域・義昌の所領)へ向かわせるのですが、これを知った義昌が、信長に救援を要請し、天正十年(1582年)2月9日、織田信長の甲州征伐が開始される事になります(【甲州征伐開始】参照>>)

信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)を総大将として木曽口から、徳川家康が駿河口から、金森長近(かなもりながちか)飛騨(ひだ)から、北条氏政(ほうじょううじまさ)関東口から、それぞれ武田の領国へと怒涛の進撃を開始します。

武田の重臣だった穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)が織田方に寝返った(3月1日参照>>)3月1日には、勇将=依田信蕃(よだのぶしげ)が守る田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)が開城し(2月20日参照>>)、翌2日には仁科盛信の壮絶な死とともに、守っていた高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)が陥落します(3月2日参照>>)

本来は、高遠城が抵抗している間に今後の策を練ろうと考えていた勝頼でしたが、こうなってしまっては、未だ完全なる姿とは言えない新府城で応戦する事は不可能と考えます。

この時、
配下の真田昌幸(さなだまさゆき)が自らの城=岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡)での籠城を進言したものの、小山田信茂(おやまだのぶしげ)も自身の岩殿城(いわどのじょう=山梨県大月市賑岡町)での籠城を進め、家老の長坂光堅(ながさかみつかた)以下、複数の重臣が小山田の岩殿城へ行く事を勧めたので、勝頼は、そうする事に決めた

とされていますが、
一方で、この頃の真田昌幸は、すでに密かに北条と連絡を取っており、これを機会に独立する計画であったという文書も残っている事から、はなから勝頼には岩殿城に行くしか選択肢が無かった可能性もあるとか・・・

とにもかくにも、岩殿城にて籠城して信長に対抗する事を決意した勝頼は、天正十年(1582年)3月3日卯の刻(午前6時頃)、真新しい新府城に火をかけて岩殿城へと向かったのでした。

途中、武田信豊が、東信濃(ひがししなの=長野県東部)西上野(にしこうずけ=群馬県西部)などの勢力を取り込んで再起を図るべく、20騎ほどの配下を連れて小諸城(こもろじょう=長野県小諸市)下曾根信恒(しもそねのぶつね)を頼って別行動をとったため(結局、下曾根が裏切って信豊は3月16日に自刃します)

勝頼に付き従うのは継室(けいしつ=後妻として迎えた正室)北条夫人(ほうじょうふじん=桂林院・小田原御前)と嫡子の武田信勝(のぶかつ=生母は前妻の龍勝院)をはじめとする、わずか200名ほどだったと言います。

そして逸見路(へみじ=甲府から諏訪への街道・諏訪口)穂坂路(ほさかみち=甲府から茅ヶ岳南麓を通過し信濃佐久郡へ向かう街道・川上路)秩父路(ちちぶじ=甲府から埼玉県熊谷を結ぶ街道)へと向かう一行は、馬に乗る者はわずかに20名ほどで、そのほとんどが徒歩であったとか・・・

途中、古府中(こふちゅう=山梨県甲府市街地北部)一条信龍(いちじょうのぶたつ=勝頼の叔父)の屋敷にて少しの休息をとらせてもらいます。

ちなみに、この信龍さんは、勝頼の父=信玄の異母弟で、かの長篠設楽ヶ原で、渋る勝頼に退き際を提言したと言われる勇将で、この約1週間後の3月10日に、駿河口より攻め込んで来た家康と戦って壮絶な討死を遂げています。

ひとときの休息を終えた勝頼一行は、それから春日居(かすがい=笛吹市・旧東山梨郡春日居町)の渡しにて世話をしてくれた春日居村の渡辺喜兵衛(わたなべきへい)という者に、泣き疲れていた2歳の男子(勝親)の世話を頼んだと言います(勝親は家臣に救出されたとも)

そして、その日の夜に勝沼(かつぬま=甲府市勝沼町)にある大善寺(だいぜんじ)に到着し、ここで理慶尼(りけいに)出迎えられます。

この理慶尼さんは、信玄の叔父である勝沼信友(かつぬまのぶとも)の娘だとされ(今井信良の娘説あり)勝沼(もしくは今井)の滅亡後に大善寺を頼って出家し、尼となって、ここで尼室を構えて暮らしていたらしいのですが、

実は勝頼は、その勝沼(もしくは今井)を滅亡に追い込んだ武田家の息子・・・しかし、かつては勝頼の乳母を務めた事もあった理慶尼は、彼らを快くもてなし、その日の夜は、勝頼&夫人&信勝とともに4人で一つ部屋で就寝したのだとか・・・

この方の書いた『理慶尼記』では、大善寺で1泊した後、翌日=3月4日はに笹子峠(ささごとうげ=山梨県大月市と甲州市の境にある峠)への登り口の駒飼(こまがい)に到着したとの事。

一方『甲陽軍鑑』では、この後、鶴瀬(つるせ=旧東山梨郡大和村・甲州街道の駒飼と勝沼の間にあった宿)7日間逗留した勝頼一行は、自分たちを迎える準備をするために一足先に岩殿城に戻った小山田信茂からの連絡を待っていたとされます。

しかし、いくら待っても信茂からの迎えは来ず・・・それもそのはず、この間、小山田配下の者たちは、せっせと鶴瀬周辺から郡内に向けて城柵を何層にも渡って構築していたのです。

やがて3月9日の夜、信茂の家臣二人が、人質としてここまで勝頼と行動をともにしていた小山田縁者を密かに奪い、城柵の向こうから勝頼一行に向かって鉄砲を撃ちかけたのです。

この攻撃により、ここまで従っていた者も散り々々に逃げてしまったため、残ったのは、わずかに50人ほど・・・勝頼も、ここで小山田信茂にも裏切られた事を知るのです。

頼みの綱であった信茂にも裏切られた勝頼は、もはや死を覚悟して、7代前のご先祖様である武田信満(のぶみつ)が、かつて上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん=応永二十三年(1416年)に関東で起こった乱)に巻き込まれて自刃した栖雲寺(せいうんじ=同大和町・棲雲寺)を死に場所と定め、天目山(てんもくざん=山梨県甲州市大和町)目指して日川渓谷 (ひかわけいこく)をさかのぼり、3月11日には田野(たの=同大和町)という所に到着します。

ところが、その場所で勝頼一行の行く手を阻む者が・・・

それは辻弥兵衛(つじやへえ)なる者を大将とする土豪(どごう=地侍)の衆で、ここで彼らが勝頼一行に矢や鉄砲を射かける一方で、別動隊が織田軍の先鋒である滝川一益(たきがわかずます)河尻秀隆(かわじりひでたか)らの道案内をして麓から駆け上がって来ていたのです。

そう・・・勝頼たちは、上と下から挟まれる形となったのです。

「もはや、これまで…」
と悟った勝頼は、夫人を呼び寄せ、実家の北条に戻るよう諭しますが、夫人は
「あの世まで契りを込めたい」
と、ともに死ぬ事を希望し、譲りません。

そうこうしているうちに滝川&河尻隊の軍勢が攻め寄せて来たところを重臣の土屋昌恒(つちやまさつね)が応戦して立ちふさがり、主君の一大事に駆け付けた小宮山友晴(こみやまともはる)らも奮戦・・・勝頼&信勝らも、自ら太刀を取って戦います。

そんな混乱の中で、信勝が敵中に突進して果て、北条夫人も
「勝頼殿はどこにおられますか?私は先に…」
の声とともに自害すると、

勝頼は夫人のもとに駆け寄って、自分の膝の上で夫人の髪を撫でながら、彼女の胸に刺さる脇差を抜き、それを自らの腹に当てて自害したのだとか・・・

勝頼=37歳、夫人=19歳、信勝=16歳・・・ここに、源義光(みなもとのよしみつ)に始まる甲斐武田氏は滅亡したのです。

★参照関連ページ
【武田勝頼、天目山に散る】>>
【北条夫人・桂林院の最期】>>
【勝頼の最期(異説)「常山紀談」編】>>
【小島職鎮の富山城の戦い】>>
【武田滅亡後の論功行賞と訓令発布】>>
【織田信忠が恵林寺焼き討ち】>>
【朝比奈信置の自刃】>>
【信長の駿河見分と安土帰陣】>>
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