2019年2月17日 (日)

信長に降った宇喜多直家VS毛利輝元~作州合戦の始まり

天正七年(1579年)2月17日、毛利に反旗を翻して信長に降った宇喜多直家の寺畑城を、毛利輝元が落としました。

・・・・・・・・・・・

戦国時代、長きに渡って中国地方を二分していた山陰の雄=出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)と、山陽の雄=周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)

この両家を倒して
厳島の戦い(10月1日参照>>)
月山富田城の開城(11月28日参照>>)
新たなる中国地方の覇者となりつつあったのが安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)でしたが、その東に位置する備中(びっちゅう=岡山県西部)備前(びぜん=岡山県東南部)では、勢いある毛利の支援を受けて領国を拡大しようという者もいれば、敵対して己の領地を守ろうとする者も・・・

というより、それぞれが自らの損得を計算しつつ動き回り、そこに尼子の残党も加わって、「昨日の敵が今日の友⇔今日の味方は明日の敵」な混乱を状態だったわけですが、(2月15日参照>>)

そんな中、毛利に滅ぼされた尼子の残党=山中幸盛(ゆきもり=鹿介)らが、新当主=尼子勝久(かつひさ)をひっさげて旧領回復に勤しみ(1月22日参照>>)、そこに協力する姿勢を見せる但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)らを、「東側からけん制して欲しい」との毛利からの依頼に応えた尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)は、配下の明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)を、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)但馬の平定を命じます。

つまり、最初の段階では、信長は、毛利の要請によって西へと兵を向けたはずだったのですが・・・

やがて、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)が信長と敵対した事(9月12日参照>>)、また、天正元年(元亀四年=1573年)に、信長によって京都を追われた(7月18日参照>>)足利義昭(あしかがよしあき=第15代室町幕府将軍)が毛利を頼って安芸に身を置く事になった事などから、いわゆる信長包囲網が形成されるに至って、義昭や本願寺に味方する毛利(7月13日参照>>)は信長と敵対する事になります。

そうなると、この両者に挟まれた形となる中国地方東半分(現在の兵庫県&岡山県&鳥取県)あたりの武将は、ここでどう動くのか?自身の身の置き所次第で、この先の運命が決まる状況になって来る・・・お察しの通り、毛利から織田に行く者、逆に織田から毛利に降る者と様々に入り乱れて来る。。。

Ukitanaoie300a そんなこんなの天正三年(1575年)、毛利に敵対する立場をとっていた天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下である宇喜多直家(うきたなおいえ)は、今や浦上家内で主人に匹敵する力を持ち始めた事から、独立を画策して毛利と結んで浦上に反旗・・・毛利の配下として兵乱に参戦する中で、天神山城の戦いに勝利して、直家は浦上宗景を追放する事に成功するのです。
●備中兵乱・松山合戦(6月2日参照>>) 

一方、この同じ年の東海では、三河(みかわ=愛知県西部)徳川家康(とくがわいえやす)と組んだ信長が、甲斐(かい=山梨県)武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)長篠設楽原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)にて撃破し(5月21日参照m>>)、翌・天正四年(1576年)には、あの安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)の築城に着手して、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いを見せ始めます。

なので、はじめは、毛利の要請によって西へと侵攻した秀吉や光秀は、そのまま、今度は毛利配下の武将たちを攻略する軍として進んでいくわけで・・・

天正五年(1577年)10月23日には秀吉が但馬を平定(10月23日参照>>)
6日後の29日には丹波攻略中の明智光秀が籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)を攻略(10月29日参照>>)
さらに、敵の敵は味方とばかりに、毛利に敵対する尼子残党もチャッカリ織田の傘下となり、続く11月に秀吉が落とした宇喜多配下の上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)の守備係に抜擢されます(11月29日参照>>)

この上月城は、今まさに織田と毛利の覇権境界線に建つ城・・・当然ながら、すぐに奪回を試みる宇喜多直家は翌・天正六年(1578年)1月に上月城を奪い返しますが、そのわずか2か月後に、またまた秀吉の猛攻に遭い、またまた奪い返されてしましました。(5月14日参照>>)

ただ、この頃の秀吉は播磨(はりま・兵庫県南西部)三木城(兵庫県三木市)の攻略中(3月29日参照>>)でもあり、しかも、その三木城がなかなか落ちなかったため、どうしても上月城の守りは手薄になってしまう・・・

そこで、直家からの救援要請を受けた毛利は、翌4月、元就の後を継いで当主となっていた毛利輝元(もうりてるもと=元就に孫)自らが総大将となって、大軍で以って上月城を包囲・・・

それを受けて、5月には、秀吉が三木城攻防戦の合間を縫って近くまで駆け付け、信長に更なる援軍を要請しますが、例の信長包囲網で東西南北敵だらけの信長からは「三木城に集注…上月からは撤退せよ」との命令・・・やむなく翌6月に秀吉は上月城周辺から兵を退きます。

それからほどない7月9日、上月城は毛利の手に落ちたのです(5月4日参照>>)

ところが・・・実は、この最後の上月城攻防戦には、、弟の宇喜多忠家(ただいえ)を宇喜多軍の大将に据えてはいるものの、直家自らは不参加なのですよ。

そもそもは直家の支援要請に応じて毛利本隊が上月城へと動いたはずなのに・・・です。

実は・・・すでに、この頃には宇喜多直家は織田に寝返る事を考えていたわけで・・・
(正式に宇喜多が織田の傘下となるのは直家の従兄弟で養子の宇喜多基家(もといえ)織田信忠(のぶただ=信長の嫡男)に謁見して、天正七年(1579年)の10月ですが…)(10月30日参照>>) 

当然、毛利も、この直家の動きを察していたわけで・・・

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●↑作州合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

早速、明けて天正七年(1579年)の2月・・・吉川元春(きっかわもとはる=元就の息子で輝元の叔父)自らが3000の兵を率いて出陣し、高田城(たかだじょう=岡山県真庭市・勝山城とも)に本陣を置いて宇喜多配下の諸城へ迫ります。

こうして始まった毛利×宇喜多の作州(さくしゅう=岡山県東北部:美作の別名)合戦・・・まずは、毛利の先鋒を任された草刈重継(くさかりしげつぐ)らが、当時、宇喜多の支配下にあった寺畑城(てらはたじょう=岡山県真庭市久世:大寺畑&小寺畑)へと猛攻を仕掛けます。

この時、寺畑城内にいた内通者が材木庫に火をかけ、そのドサクサで毛利軍を寺畑城内に引き入れたため、城内は大混乱となり、やむなく城主の江原親次(えばらちかつぐ)は寺畑城を捨てて篠向城(ささぶきじょう=岡山県真庭市三崎)へと逃走・・・天正七年(1579年)2月17寺畑城は落城したのです。

勢いづく毛利勢は、そのまま篠向城を落とし、さらに篠向の城兵が敗走した宮山城(みややまじょう=岡山県真庭市高屋)へと迫りますが、ここには、かつてこの周辺に隆盛を誇った美作三浦(みまさかみうら)(1月22日参照>>)の残党が籠っていて「ここに退路は無い」とばかりに命懸けの防戦に加え、毛利勢が城下の民家に風呂を借りに行ってる事を嗅ぎつけた宮山城兵が、その風呂場を襲撃して大混戦となり、多くの攻め手を討ち取った事から、毛利は宮山城を断念・・・ここは、何とか阻みました。

さらに、吉川元春は本陣を移動させて、次に湯山城(ゆやまじょう=真庭市湯原)を攻撃します。

この時には、毛利配下の杉原盛重(すぎはらもりしげ)旭川に3000もの筏を並べて湯山城を攻め立てたと言いますが、激しい反撃に遭い、結局落とせずに撤退しました。

やがて3月上旬から宇喜田勢の反撃が開始されます。

直家率いる2万余騎の軍勢は、またたく間に寺畑城&篠向城を奪回したかと思うと、その勢いのまま枡形城(ますがたじょう=岡山県苫田郡鏡野町)へ向かいますが、堅固なここが落とせないとなると次に岩屋城(いわやじょう=岡山県津山市中北上)へ・・・

そこも、落とすに難しいと判断した直家は矛先を変えて、今度は三宮城(さんのみやじょう=岡山県久米郡美咲町西垪和)へと向かいます。

ここでは激しい銃撃戦が展開されるも、途中から雨が降ったため鉄砲が使えなくなり、宇喜多軍は、急遽、弓矢の攻撃に切り替えますが、遅れをとった三宮城側が対処できず・・・やむなく城将の村上久成(むらかみひさなり)が撃って出たところを組み合いの末に敗れて首を取られる事に・・・

さらに宇喜多配下で荒神山城(こうじんやまじょう=岡山県津山市荒神山)主の花房職秀(はなぶさもとひで)が、吉井川を隔てた向かい側に位置する神楽尾城(かぐらおじょう=岡山県津山市上田邑)夜討ちをかけて落城させました。

加えて、4月には宇喜多配下の新免宗貫(しんめんむねつら)が草刈重継の矢筈城(やはずじょう=岡山県津山市加茂町山下:高山城・草刈城とも)を攻撃させますが、天然の要害である矢筈城は落とす事ができませんでした。

とまぁ・・・勝った負けたが入り乱れるこの作州合戦はこの天正七年(1579年)4月の矢筈城攻防を最後に一旦収まり、この続きは、直家が正式に織田傘下となった翌年の祝山合戦へと持ち越される(6月15日参照>>)事になるのですが・・・

その祝山のすぐ後には、10年続いた石山合戦が終結して(8月2日参照>>)毛利が本願寺の加勢をする事もなくなるのですが、

一方で、宇喜多家では直家が病死し、未だ幼い秀家(ひでいえ)が家督を継ぐものの、すでに鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)まで手中に収めた(10月25日参照>>)秀吉軍の配下に組み込まれつつ、あの本能寺の変(6月2日参照>>) を迎える事になるのです。

ご存知のように、この本能寺の時に、絶賛水攻め中だった備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市北区高松)での戦いにて、毛利と秀吉が和睦を成立させたために(6月4日参照>>)、これまで毛利VS宇喜多で散々ドンパチやってきた美作周辺のほとんどが宇喜多の物になる事に・・・

これを受けて、最後まで毛利への義理を貫いていた草刈重継も、やむなく難攻不落と言われた矢筈城を明け渡す事になります。。。

ここに美作の戦国が終わるわけですが、その宇喜多VS毛利の最後の戦いとなる境目合戦については8月18日のページでどうぞ>>o(_ _)oペコッ
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2019年2月12日 (火)

賤ヶ岳の前哨戦~長島城の戦い

天正十一年(1583年)2月12日、賤ヶ岳の前哨戦となる戦いで、羽柴秀吉が滝川一益の長島城へと迫りました。

・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、本能寺にて織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)と、すでに家督を譲られていた嫡男の織田信忠(のぶただ)(11月29日参照>>)が共に亡くなった事を受けて、織田家の後継者は、次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)か三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)かと思われましたが、その後に開かれた織田重臣たちによる清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)にて、亡き信忠の嫡男=三法師(さんほうし=後の織田秀信)後継者に、その後見人に信雄&信孝兄弟が就任する事に決定します(6月27日参照>>)

何度か書かせていただいておりますが・・・
以前は、この会議の決定は、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、仇である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市)で討った(6月13日参照>>)事を武器にムリクリで決定したように思われていましたが、近年は至極真っ当な決定であったという考えが主流です。

というのも、すでに他家を継いでいる弟たちより、亡き後継者の嫡子が継ぐのは不思議では無いですし、その幼さをカバーするために信雄と信孝の二人が後見人となったうえに、山崎の合戦のドサクサで燃えてしまった安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)(6月15日参照>>)を修復する間は、信孝が自身の居城である岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)三法師を預かる事になったのですから、むしろ秀吉は、信孝を後継者に推していた先輩=柴田勝家(しばたかついえ)に華を持たせた感すらあります。

なんせ、他家を継いでてもOKなら、秀吉は、すでに自分の養子になってる「四男の秀勝(ひでかつ)にだって権利ある」って、力で推し通す事もできたかも知れませんからね。

まぁ、領地配分は、秀吉が京都に近いえぇトコを分捕ってますが、もともとそこは敗者=光秀の領地だった場所が主ですので、山崎での功績を考えれば当然のようにも思います。

ただ・・・この後、少々ギクシャクし始めます。

なんせ信孝は、城の修復が終わったら安土に戻す約束の三法師を、いつまでも手放そうとしないばかりか、自分の味方の勝家とお市(いち)の方(信長の妹もしくは姪)の結婚を勝手に決めて、秀吉を排除すべく岐阜城に籠ったのです。

まぁ、一方の秀吉も亡き信長の葬儀を京都で盛大に行って(10月15日参照>>)後継者になりたい感を思いっきり出しちゃってますが・・・

この一触即発の険悪ムードに、勝家は自身の与力である前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)の3人を秀吉のもとに派遣して和議に当たらせますが、これを「雪深い北陸の冬に合戦をしたくないがための時間稼ぎ」と見抜いた秀吉は、12月、池田恒興(いけだつねおき)筒井順慶(つついじゅんけい)細川忠興(ほそかわただおき)ら5万の軍勢とともに近江(おうみ=滋賀県)に入り、勝家領地の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を包囲・・・城主の柴田勝豊(かつとよ=実際には勝家の姉の子)は12月15日、降伏を表明します(12月11日参照>>)

Sizugatakezensyounagasimazyou ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

この勢いのまま秀吉は岐阜へと兵を向けますが、未だあの本能寺から半年余り・・・さすがに秀吉も、亡き殿様の息子をモロ攻撃しては、他の織田家臣の手前マズイと思ったか?岐阜城を、いつでも攻撃できる布陣で包囲はしたものの、実際に攻撃を仕掛ける事はありませんでした。

一方、籠城する信孝は、こういう場合、稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)(6月8日参照>>)氏家直昌(うじいえなおまさ=卜全の息子)など美濃(みの=岐阜県南部)の国人衆は、皆、自分の味方になってくれる物と踏んでいましたが、稲葉&氏家両者をはじめ多くの者が、すでに秀吉に懐柔されていてアテが外れてしまいます。

なんせ、この時、秀吉は自分ではなく、織田信雄の名前を前面に出して諸将を懐柔しており、名前を出された信雄も、織田家後継者になる気満々の雰囲気を醸し出してますので、あくまで「信雄VS信孝の…」というテイで事を進めていたのでしょう。

なので信孝としては、囲まれた→周辺に味方はいない→北陸の勝家は雪のため援軍は出せない・・・で、この状況を知った伊勢(いせ=三重県南東部)滝川一益(たきがわかずます←彼は信孝の味方です)「ここは一旦和睦して春を待ちなはれ~」と進言し、信孝は、その一益の忠告を聞いて、問題の三法師はもちろん、自らの母や妻子を秀吉のもとに引き渡すとして和睦を交渉。

秀吉も、その申し出を呑む形で三法師らを安土に送り、12月29日に岐阜城の包囲を解いて京都へと戻りました。

しかし、このしばしの休息の間に、一益は、秀吉側についていた峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)国府城(こうじょう=三重県鈴鹿市国府町)などを相次いで攻略して、伊勢における守備を固め、来るべき秀吉軍に備えるのです。

それを受けて、天正十一年(1583年)2月12日秀吉軍が3方から北伊勢に侵出し、一益に奪われた支城を囲むと同時に、秀吉自らが3万余騎を率いて一益が拠る長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)へと迫ったのです。

秀吉の動向を知った一益は、先手を取って各要所に人員を配置し、様々な予防線を張って、その進路を妨害しようとしますが、大軍によって破られ、やむなく、自らが兵を率いて城外へ撃って出ますが、それもかなり押し戻されて城の外構え近くまで攻め入られてしまい、さらに城下に放たれた火によって、民家も寺社も、ことごとく焼き尽くされてしまいます。

その後、秀吉は一旦、桑名(くわな)から数里(約20km)ほど離れた場所に陣を移動させますが、そこでは夜に大きなかがり火を焚いて、滝川勢の夜討ちに備え、沢山の柵も設けました。

そう、実は一益は夜討ちを得意とした武将だったのですが、残念ながら、これまで同じ織田配下の同士であった秀吉は、その事も重々承知・・・「多勢のコチラに対して無勢の一益なら夜討ちしかない」と感づいていたのです。

この毎夜のかがり火に、「夜討ちは見抜かれている」と察した一益は、作戦を変更し、人数の少ない徒歩(かち)組の鉄砲隊を組織してゲリラ戦を展開する事に・・・

3月某日、秀吉軍の先鋒を務めていた中村一氏(ながむらかずうじ)隊が、鉄砲を所持した隊を組織していなかったところを狙われたか?この一益の徒歩組に散々に打ち負かされ、秀吉軍は大打撃を受けてしまいます。

その後も、長島城攻略においては大軍を擁したワリには大きな成果が得られないまま、しばらくの膠着状態が続きます。

他の城も・・・
国府城はほどなく開城されますが、亀山城&峯城にはなかなかの苦戦・・・3月3日、ようやく亀山城を落としますが、その6日後の3月9日、春を待っていた柴田勝家が居城の北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を出陣。。。

この勝家の動きを知った秀吉は、一旦、近江へと戻り、柴田軍と睨み合う形となりますが(3月11日参照>>)、その間に、岐阜城の信孝が挙兵し、伊勢の滝川一益も巻き返しの大暴れ・・・

北ノ庄(福井県)→岐阜城(岐阜県)→長島城(三重県)
このラインが一つにつながって連携してしまっては、ちとヤバイ!

とばかりに、秀吉は再び岐阜へと向かうのですが、これをチャンスと見た勝家が仕掛け、そこに秀吉の大返しが・・・と、ご存知の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いとなるわけです。

関連ページ
【決戦開始!賤ヶ岳…美濃の大返し】>>
【決着!賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】>>
【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝の自刃】>>
【「鬼玄蕃」佐久間盛政の処刑】>>
【福井・九十九橋の怨霊伝説】>>
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2019年1月27日 (日)

三木×広瀬×牛丸×江馬~戦国飛騨の生き残り作戦

天正十一年(1583年)1月27日、三木&広瀬の連合軍が、牛丸親綱小鷹利城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・

飛騨(ひだ=岐阜県北部)大野(おおの=岐阜県北西部)を本領とし、小鷹利城(こたかりじょう=岐阜県飛騨市河合町)を居城とする牛丸(うしまる)は、一説に平氏の流れを汲むとする古くからの名族でしたが、隣接する吉城(よしき=岐阜県北東部)を本領とする高原諏訪城(たかはらすわじょう=岐阜県飛騨市神岡町)江馬(えま)も、同じく平氏の流れを汲む名門で、これまで両者の間には少なからずのぶつかりがありました。

さらに室町時代頃になると、そこに、京極(きょうごく)の一族で益田(ました=岐阜県中東部)に拠点を持ち鍋山城(なべやまじょう=岐阜県高山市松ノ木)を居城とする三木(みき)、飛騨国府(こくふ=岐阜県高山市周辺)高堂城(たかどうじょう=岐阜県高山市国府町)を居城とする広瀬(ひろせ)も台頭して来ます。

やがて、室町幕府の力が衰え始めた戦国の世になると、上杉謙信(うえすぎけんしん)越後(えちご=新潟県)と、武田信玄(たけだしんげん)甲斐(かい=山梨県)、という大物の地に挟まれた形となる飛騨一帯の武将は、常に、この大物たちの動向に左右されつつ、この戦国の世を生き抜いていく事になります。

そんな中、飛騨南部に勢力を伸ばし始めた三木氏の三木自綱(みつきよりつな)は、南北朝時代から飛騨の国司であった姉小路(あねのこうじ)の名跡を乗っ取って姉小路頼綱(あねがこうじよりつな)と名を改め、室町幕府15代将軍=足利義昭(あしかがよしあき・義秋)を奉じての上洛(9月7日参照>>)を果たして上り調子の尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に近づいて信長の奥さん=(のう)の妹を娶って親族となり、その力を借りて飛騨統一せんが勢いを見せ始めます。

ただ、天正四年(1576年)に、それを脅威に感じた大野郡の国人=塩屋秋貞(しおやあきさだ)の要請によって駆け付けた上杉謙信に攻められ、頼綱は降伏して(8月4日参照>>)、その傘下となるのですが、ご存知のように、その後、ほどなくして謙信が亡くなり(3月13日参照>>)、上杉家は後継者争いで飛騨云々言ってる場合じゃなくなってしまう(3月17日参照>>)わけで・・・

その後、天正六年(1578年)の月岡野(富山市上栄周辺)の戦い(10月4日参照>>)にも信長側親族として参戦して上杉に勝利し、ますます勢いづく頼綱は、新たに松倉城(まつくらじょう=岐阜県高山松倉町)を構築(築城年数には諸説あり)して、そこに拠点を移します。

この頼綱の行動に脅威を感じたのが、先の高堂城から広瀬城(ひろせじょう=同高山市国府町)に拠点を移していた広瀬氏の広瀬宗域(ひろせむねくに)でした。

頼綱と宗域は、かつてはともに天神山城(てんじんやまじょう=岐阜県高山市八軒町・現在の高山城)高山外記(こうやまげき)を倒す等、連合を組んでいた時もありましたが、一方で織田に近づく頼綱に対して、宗域は信玄によしみを通じて敵意を見せた事もあり・・・

しかし、ご存知の通り、大黒柱の信玄を失った(4月16日参照>>)武田は、天正三年(1575年)の長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)の戦い(5月21日参照>>)で織田&徳川家康(とくがわいえやす)連合軍に敗れるなど、ここに来て少々分が悪い・・・

そこで宗域は、頼綱の三木氏と政略的婚姻関係を結んで一方の脅威を取り除き、その一方で、これまで懇意にしていた牛丸親綱(うしまるちかつな)小鷹利城を攻め、牛丸氏の名跡を奪おうと考えます。

天正八年(1580年)10月、家臣の磯村(いそむら)長十郎らに200の兵をつけて小鷹利城へと差し向けました。

迎える牛丸側も一族を中心にした200余名の兵を出陣させ、両者は古川(ふるかわ=岐阜県飛驒市古川町)付近でぶつかり合戦に至りましたが、なかなかに両者の戦力は互角・・・小競り合いがあるものの決着がつかなかった事から、翌天正九年(1581年)になって和平の話が進み、両者ともに兵を撤退させて、広瀬×牛丸は和睦の運びとなりました。

こうしてしばらくの平穏がおとずれますが、ここに来て時代の転換期が・・・

そう、翌天正十年(1582年)3月には、あの武田が滅び(3月11日参照>>)、その3ヶ月後の6月には、武田を滅亡させた信長が本能寺にて横死(6月2日参照>>)・・・と、戦国の勢力図が目まぐるしく変わります。

このゴタゴタを見逃さなかったのが綾小路頼綱と広瀬宗域、そして牛丸親綱も・・・

この三者が連合を組んで、これまで何かと目障りだった名門家=江馬氏の江馬輝盛(えまてるもり)をぶっ潰して、飛騨の覇権を抑えてしまおうと画策したのです。

それは、本能寺から約5ヶ月後の10月下旬・・・飛騨での覇権争いであった事から、後に「飛騨の関ヶ原」とも呼ばれる八日町(ようかまち=岐阜県高山市国府町八日町)の戦いですが、戦いの詳細については、いずれ、その日に書かせていただくとして、

一説には、連合軍1000に対して絵馬勢はわずか300騎だったとも言われ、多勢に無勢ゆえか、この戦いで江馬輝盛は討死し、絵馬氏は滅亡します。

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●↑戦国飛騨周辺の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところが、一方で、この頃から、その威勢に衰えが見え始めた牛丸氏・・・これをチャンスと見た綾小路頼綱と広瀬宗域は、天正十一年(1583年)1月27日、再び連合を組み、大軍を擁して小鷹利城を攻めたのです。

懇意にしていた両者に裏切られた牛丸親綱・・・特に広瀬宗域はわずかな間の2度めの裏切り。。。

なんとも悔しい思いが残る親綱でしたが、不意を突かれた事で城内は完全に準備不足・・・「このまま戦っても勝ち目はない」と踏んだ親綱は、その夜、城内のあちこちにかがり火を焚かせて、さも大勢がスタンバイしているように見せかけておいて、そのスキに、主だった者60余人が城を抜け出し越中(えっちゅう=富山県)目指して逃走を図ったのです。

これを知った広瀬&三木連合軍は、すぐさま追跡を開始し、角川(つのかわ=岐阜県飛騨市河合町)付近で激しい戦いとなりました。

牛丸側は24名を失うものの、親綱以下30余名が逃げ切り、何とか越中にたどり着いたものの、富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)断られ、さらに西へ・・・当時、越前(えちぜん=福井県東部)大野城(おおのじょう=福井県大野市)主であった金森長近(かなもりながちか)の下に逃げ込み、何とか生き延びました。

しかし、その翌年・・・酒宴と称して、広瀬宗域を自らの松倉城に招いた綾小路頼綱は、その宴の席で宗域を騙し討ちにし、広瀬城を奪い取ってしまうのです。

何とか難を逃れた宗域の嫡子=広瀬宗直(むねなお)は・・・そう、彼もまた越前の金森長近のもとへと逃げ込んだのです。

こうして、飛騨でひとり勝ちとなり、飛騨統一を果たした綾小路頼綱は、織田軍の旧北陸方面部隊であった柴田勝家(しばたかついえ)や、かの佐々成政と懇意な間柄になるわけですが、

天正十三年(1585年)、そこに乗り込んで来るのが、その柴田勝家を倒した後(4月21日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)です(8月29日参照>>)

この時に飛騨攻略を任されたのが金森長近(8月10日参照>>)・・・長近のもとで逃げ延びた牛丸親綱&広瀬宗直の部隊が、その恨み晴らすべく先頭となって戦い、大きな功績を挙げた事は言うまでもありません。

結局、佐々成政も綾小路頼綱も、秀吉の前に屈する事となり、飛騨国は金森長近が統治する事となったのです。

ちなみに、その後の牛丸親綱&広瀬宗直・・・

広瀬宗直は、金森長近の領国運営に反発して一揆を先導して追放されたようですが、牛丸親綱は、ずっと長近の配下として戦い、あの関ヶ原の前哨戦=郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう=岐阜県郡上市)の戦い(9月1日参照>>)でも、やはり先頭に立って戦い、戦場の露と消えたのだとか・・・

にしても、今日のお話は、
メッチャ出演者が多かった(^-^;・・・まさに群雄割拠。。。生きるも死ぬも紙一重の世界です。
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2019年1月22日 (火)

美作三浦氏~尼子&毛利との高田城攻防戦の日々

天正三年(1575年)1月22日、浦上宗景に背いた宇喜多直家が三浦貞広との戦いに参戦しました。

今回は中国地方における群雄割拠の時代のお話・・・なので、敵が味方に、味方が敵に~と非常にややこしいですが、お許しを。。。m(_ _)m

・・・・・・・・・・・

美作(みまさか=岡山県東北部・作州)高田城(たかだじょう=岡山県真庭市・勝山城とも)を治める美作三浦(みうら)は、あの源平の合戦で活躍する坂東平氏の三浦氏の庶流で、室町時代の初め頃に、この地の領主となった三浦貞宗(みうらさだむね)なる人物が高田城を構築したとされますが、そのあたりの事は記録が乏しく、よくわかっていません。

この戦国の頃には三浦貞久(みうらさだひさ)が当主を務め、小さいながらも高田城にて当地を治めていましたが、一方で、出雲(いずも=島根県東部)守護代から、応仁の乱後のゴタゴタでのし上がり、実力で出雲の支配権を握って、さらに領地拡大に勤しむ月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市)尼子(あまご)(7月10日参照>>)から度々の侵攻を受けていたのです。

当時の尼子の当主は尼子晴久(あまごはるひさ)・・・天文十三年(1544年)には、伯耆(ほうき=島根県中部)因幡(いなば=島根県東部)を攻略した晴久が、さらに美作へと侵攻し、配下の宇山久信(うやまひさのぶ)に高田城を攻めさせましたが、この時は貞久の見事な反撃によって、城を守り抜きました。

しかし天文十七年(1548年)、その貞久が病死してしまいます。

これをチャンスと見た尼子晴久が、間髪入れずに再び宇山久信を美作へ派遣し、三浦の支城を次々と攻略して高田城へと迫ります。

残念ながら、この時は多くの死者を出す激戦の末、高田城は陥落・・・父=貞久の後を継いでいた次男の三浦貞勝(さだかつ)備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)を頼って落ちて行きました。

もちろん、このままでは収まらない三浦貞勝は、永禄二年(1559年)、旧臣たちを集めて再起を図ります。

Mourimotonari600 そう・・・それは、去る弘治元年(1555年)の厳島(いつくしま)の戦い(10月1日参照>>)後に、西国の雄=周防(すおう=山口県東南部)大内(おおうち)を滅亡させて頭角を現して来た安芸(あき=広島県)吉田郡山城(よしだこおりやまじょう=広島県安芸高田市)を拠点とする毛利元就(もうりもとなり)が、その矛先を尼子氏に向けた、その間を縫っての奪回作戦の決行でした。

しばらくの安寧に油断していた宇山久信に対し、ヤル気満々の三浦勢は増水した川に馬ごと乗り入れての決死の猛攻・・・「分が悪い」と判断した宇山久信が、まともな戦いを避けて高田城から撤退した事で、三浦貞勝はなんなく入城を果たせました。

しかし、安心はできません・・・そう、暮れ行く尼子に代わって上り調子の毛利が、高田城に手を出して来たのです。

すでに永禄二年(1559年)の時点で毛利の傘下となっていた成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)は、美作に侵攻した永禄八年(1565年)、高田城への攻撃を開始・・・1ヶ月に渡る攻防戦の末に高田城は落城し、三浦貞勝も、城を脱出したものの、逃走中に自刃して果てました。

城主のいなくなった高田城には、毛利配下の武将=牛尾久盛(うしおひさもり)が入り、城は毛利の物となったのです。

ところが、その翌年の永禄九年(1566年)、かの三村家親が浦上配下の宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺され、その混乱に乗じた三浦勢は、先代=三浦貞久の末弟にあたる三浦貞盛(さだもり)を大将に押し立てて高田城を奪回します。

とは言え、もちろん、この状況を毛利元就が許すはずもなく、ほどなく、配下の杉原盛重(すぎはらもりしげ)を投入して高田城奪回に動きます。

この時、ちょうど三浦方では、城主=貞盛の甥にあたる三浦貞広(さだひろ=貞久の長男)が主力部隊を率いて備中(びっちゅう=岡山県西部)に出陣中であったため高田城の守りは手薄・・・少ない城兵で何とか抵抗するも、力尽きた貞盛は 永禄十一年(1568年)2月19日に自刃し、またもや高田城は毛利の手に落ちました。

Yamanakasikanosuke500 しかし、またまた立ち上がる三浦勢・・・実は、上記の高田城攻防戦の真っただ中の永禄九年(1566年)、あの尼子氏が居城の月山富田城を開城し(11月28日参照>>)、当主の尼子義久(よしひさ=晴久の息子)とその弟たちが毛利の手で幽閉の身となった事で、事実上の滅亡状態となっていたのですが、尼子家臣の山中幸盛(ゆきもり=鹿介)が、尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を当主と仰ぎ、月山富田城奪回&尼子再興を目指し、毛利相手に各地を転戦し始めていたのです(7月17日参照>>)

永禄十二年(1569年)になって、その尼子再興軍が美作にやって来た時、三浦の遺臣たちは、この尼子再興軍に同調し、そのドサクサで高田城を奪回しようと蜂起・・・その年の7月に、同じように尼子に与する宇喜多直家らの援助を受けて、約4000となった三浦勢が高田城を囲みます。

一方、この時の高田城を守るのは、毛利から派遣されていた香川光景(かがわみつかげ)父子ら約500騎・・・7月に始まった戦闘が、ますます激しくなって来た10月頃には、高田城内にいた旧尼子家臣の内応もあり、いち時は窮地に立たされる毛利勢でしたが、光景父子の奮戦により何とか敵勢の城内への侵入を防いでいました。

やがて年が明けた元亀元年(1570年)、ここに来ても小競り合いが続いていましたが、宇喜多勢が備中への出陣のため高田城の包囲から退去・・・ここで備前からの援軍が去ってしまった三浦遺臣勢は、かの山中幸盛に援助を依頼し、その尼子再興軍の力を借りて、元亀元年(1570年)の10月、何とか高田城を奪回して亡き貞盛の甥=三浦貞広を城主としました。

ようやく居城を取り戻して一安心・・・と行きたいところですが、当然、毛利からの攻撃の危険は常にあるわけで・・・

元亀二年(1571年)には御大=元就を失う毛利ですが、ご存知のように、その後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと=元就の息子・隆元の子)を、毛利の両川と呼ばれた元就の息子たち(つまり輝元の叔父)吉川元春(きっかわもとはる)小早川隆景(こばやかわたかかげ)が見事サポートして、高田城への攻撃に手を緩める事はありません。

しかも、ここに来て、あの宇喜多直家が主家の浦上からの独立を画策して毛利との講和を成立させます。

となると、三浦への援軍どころか、敵対関係になってしまったわけで・・・

そんな中、毛利は、天正元年(1573年)から徐々に版図を広げて高田城周辺へと迫り、翌・天正二年(1574年)には宮山城(みややまじょう=岡山県真庭市)を攻め立てます。

しかも、この翌年の天正三年(1575年)1月22日、ここに浦上に背く宇喜多直家が参戦して来たのです。

Mimasakamiurasi
美作三浦氏をめぐる位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この頃、久世(くせ=同真庭市)から駆け付けた寺畑城(てらはたじょう)城主で三浦家臣の牧菅兵衛(まきかんべえ)が、得意の夜襲で以って、宇喜多配下の伊賀久隆(いがひさたか=直家の妹婿)の守る槇山城(まきやまじょう=同真庭市・真木山城とも)を奪い取り、何とか要地を守ったと言いますが、それでも毛利勢の侵攻は止まらず・・・やがて、その寺畑城も猛攻を受け、いつしか、三浦の傘下となっている諸城がことごとく攻撃される状況に至って、天正四年(1576年)5月、ついに三浦貞広は降伏し、高田城は毛利軍の手に渡りました。

降伏宣言によって貞広の命こそ助かったものの、事実上の滅亡となった美作三浦氏は、配下の牧氏とともに、これ以降は宇喜多の配下として生きていく事に・・・

また、ほぼ同時進行で行われていた備中兵乱(びっちゅうひょうらん)で毛利に敵対していた三村元親(もとちか=家親の息子)(6月2日参照>>)、天神山城の戦いで浦上宗景が敗れた事により、勝利した毛利は、この中国地方において、もはや敵無しの状態になったわけです。

そこに、遥か東からやって来るのが、あの織田信長(おだのぶなが)(10月23日参照>>)・・・

そして、毛利に遺恨を持つ浦上や尼子残党の山中幸盛・・・果ては宇喜多直家までが、やがては織田傘下になる一方で、毛利は信長と敵対する石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)を援助する(7月13日参照>>)・・・という時代劇でお馴染みの場面へと展開していきます。
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2019年1月15日 (火)

死ぬまで続いた信長と家康の清須同盟

永禄五年(1562年)1月15日、織田信長と徳川家康が清洲城にて会見し、『清洲同盟(清須同盟)を締結させました。

・・・・・・・・・・・

永禄三年(1560年)5月19日、海道一の弓取りと称され、この時点で最も天下に近いと思われていた駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を支配する今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)奇襲を受けて命を落とします・・・ご存知、桶狭間(おけはざま)の戦いです(2015年5月19日参照>>)

Tokugawaieyasu600 この時、幼い頃に今川に人質に出されて(8月2日参照>>)、そのまま成長した事で、今川方の一人として義元の行軍に参加していた徳川家康(とくがわいえやす=当時は松平元康)は、守っていた今川兵が逃げ出してカラになっていた岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市)に入り、その後、念願の独立を果たします(2008年5月19日参照>>)

岡崎城は、もともと享禄二年(1529年)に三河(みかわ=愛知県東部)を統一した松平清康(まつだいらきよやす=家康の祖父)の居城でしたが(12月5日参照>>)、その後の家臣の離反等で亡命を余儀なくされた松平広忠(ひろただ=家康の父)が、強大な力を持つ今川義元に息子=家康を人質に出して傘下となった事で、事実上、今川の城となっていましたが、今回の主君義元=の死を受けて守備兵が逃げて空っぽになっていたので、そこに家康が入ったというワケです。

で、独立したからには「少しでも領地を増やしたい!」とばかりに、三河に在する今川傘下の勢力に敵対する家康ですが、父の死を受けて今川家を継いだ今川氏真(うじざね=義元の息子)は、当然、この家康の態度に激おこなわけで・・・

そこで、東のアンチャンが怒ってるなら、西のアンチャンを味方にしておかねば!とばかりに、家康は、この独立の間もなくから、配下の石川数正(いしかわかずまさ)を信長のもとに派遣して同盟の模索に取り掛かります。

Odanobunaga400a 一方の信長も、義元を殺っちゃった以上、当然、今川は1番の敵になるわけですが、この時点では尾張統一さえ果たしていない駆け出しだし、どっちかと言うと、今、盛んにドンパチやってる(5月14日参照>>)北の隣国=美濃(みの=岐阜県部)斎藤龍興(さいとうたつおき=斎藤道三の孫)との戦いに集注したいぶん、今川の領地と尾張の間に位置する三河の家康は味方につけておきたいわけで・・・で、コッチも、家康の母方の叔父で織田家と同盟を結んでいる水野信元(みずののぶもと)を派遣して家康との同盟交渉に当たらせました。

双方の殿様が同盟に前向きなワリには、正式な同盟締結まで、しばらくの歳月が流れたのには、やはり、これまでの両者の関係・・・上記の通り、これまでの家康は今川の傘下であり、信長の織田家は、その今川と敵対していたわけですから、配下の重臣たちがなかなか賛同せず、現に、桶狭間直後は、少なからずの小競り合いも、両者の間には勃発しています。

しかしながら、やがて、桶狭間から2年が過ぎた永禄五年(1562年)1月15日、家康が信長の居城である清洲城(きよすじょう=愛知県清須市)に赴いて、会見をし、顔と顔を突き合わせての正式な同盟が結ばれるのです。

よって、この同盟は、結ばれたその場所をとって一般的には『清洲同盟(清須同盟)と呼ばれます。
『織徳同盟(しょくとくどうめい)あるいは『尾三同盟(びさんどうめい)とも呼ばれます)

そして、この清洲同盟は、信長が本能寺にて倒れる天正十年(1582年)まで(2015年6月2日参照>>)、 1度も破綻する事無く20年の長きに渡って・・・というよりも、信長が亡くなったからこそウヤムヤになったのですから、言い方としては最後まで破棄される事なく(生きてる間は)継続されたままだった同盟という事になります。

個人的な印象ではありますが、意外に信長さんって(相手が家康だからに限らず)、相手が完全に敵に回らない限り、簡単に同盟を破棄しない人だったように思いますね~。

それに関連して、この同盟の力関係についても、個人的に思うところがあります。

一般的には、
「この同盟が20年の長きに渡って破られる事は無かった」
と言っても、それは
「信長の無理難題に対して、忍耐力のある家康が耐えに耐えていたからこそ」
という風に思われがち・・・つまり、同盟とは言え、信長の力が強く、家康とは主従関係に近かったのでは?と。。。

現に、ドラマや小説等には、そんな感じで描かれ、時には、家康が豊臣秀吉(とよとみひでよし=信長配下の時代は羽柴秀吉)明智光秀(あけちみつひで)らと同等に並んでる風に、見ている側が錯覚してしまうように描かれる事すら、しばしばです。

しかし、秀吉と光秀は信長の家臣ですが、家康は同盟者・・・それも、私としては、上記のような主従に近い、あるいは人質を出しての臣従のような同盟ではなく、おそらくは同等の同盟者だったと思っています。

それを、信長と家康の間に上下関係があるように感じてしまう1番の要因は、例の家康が息子の信康(のぶやす)を自刃に追い込んだ事件(信康自刃は信長の命令だったとされる)ですが、以前から、このブログに書かせていただいているように、私としてははアレは徳川家の内部分裂だと考えております。
参照ページ↓
●信康・自刃のキーマン…信長の娘・徳姫>>
●築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!>>
●なぜ家康は信康を殺さねばならなかったのか?>>

しかし、結果的に最大の汚点(=息子殺し)となるこの一件を、後世(江戸時代)の人たちが「神君と崇める家康公が行った事にはできない」と考え、悪く言えば「死人に口なし」で「信長の命令だった」事にしておきたかったのではないか?と・・・

もちろん、20年の間ずっと両者に上下関係がまったく無かったか?と言えば、それはそれで違う気もしますが、少なくとも、同盟を結んだ直後は同等であったと思います。

なんせ、上記の通り・・・同盟を結んだ時は家康は独立したばかりですが、信長だって未だ尾張すら統一ない状況でしたからね。

ただ、その後、この永禄五年(1562年)の11月に尾張統一を果たした(11月1日参照>>)信長は、永禄十年(1567年)8月に稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市)を陥落させて美濃を手に入れ(8月15日参照>>)、稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう)と改めて「天下布武(てんかふぶ)」のハンコを使いはじめ、翌永禄十一年(1568年)9月には、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)わけで・・・

とは言え、この上洛の寸前まで、かの義昭は「もっと大物はおらんのか?」と、自分を奉じて上洛してくれる武将を模索していた(10月4日参照>>)くらい、信長は、まだ大物途上の役者不足だったわけですが、この上洛の際に、近江(おうみ=滋賀県)の覇者であった六角承禎(じょうてい・義堅)を破り(9月13日参照>>)、第14代将軍の足利義栄(よしひで=義昭の従兄弟)を奉じて畿内を牛耳っていた三好三人衆三好長逸・三好政康・石成友通)を破った(9月28日参照>>)事、また、敗れた三好三人衆とともに京都を去った義栄に代わって、信長が無事に連れて来た義昭が第15代将軍になった(10月18日参照>>)事で、信長は朝廷にも一目置かれる大出世となったわけで、ここらあたりでやっと信長と家康との力の差が明確になったように思います。

ただ、力の差はできても、同盟者として、その信頼関係が揺らぐ事は無かったんでしょうね。

なんせ、このすぐ後に始まる今川滅亡への道で、12月12日の薩埵峠(さつたとうげ)の戦い(12月12日参照>>)、翌日の今川館の攻防戦(12月13日参照>>)、そして12月27日から始まる掛川城攻防戦(12月27日参照>>)・・・と、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)との見事な連携プレーで、家康は今川を滅亡に追い込んでいます。

『浜松御在城記』によれば、この時、「大井川を境として、東の駿河は武田、西の遠江(とおとうみ=静岡県西部)は徳川クンが切り取ったらえぇ」と呼びかけて信玄と家康の仲を取り持ったのが信長と言われています。

つまり、信長にしてみれば「今川はお前(家康)に任したゾ」って事ですよね?
メッチャ信頼してますやん。

この後も、家康はあの姉川の戦い(6月28日参照>>)にも参戦し、共通の敵である武田にはタッグを組んで戦う事になる
【三方ヶ原の戦い】>>
【長篠の戦い】>>
【武田滅亡~天目山の戦い】>>
と来ますが・・・

有名な本能寺直前の、あの安土城(あつちじょう=滋賀県近江八幡市)での饗応の時にも、信長の方は自ら家康に酌をして(臣下ではない)同盟者アピール」してますが、一方の家康は、この頃には、少し思う所があったかも知れません。

というのも、上記の武田の滅亡・・・確かに、武田勝頼(たけだかつより=信玄の息子)の本拠地=甲斐深く攻め込んで引導を渡したのは信長ですが、長篠から滅亡までの7年間、家康はかなり頑張って遠江に点在する武田の城を奪っています(8月24日参照>>)

しかし、武田滅亡後の論功行賞(3月24日参照>>)では、他の信長の家臣たちとともに、家康が「信長から駿河を賜る」という感じに受け取れます。
(まぁ、同じ独立大名の木曾義昌(きそよしまさ)も、同様に信濃木曽谷2郡を賜ってるので、それが普通だったのかも知れませんが)

しかも、その直後、岐阜へと戻る信長の接待役(4月4日参照>>)・・・(ま、これも、その心の内は何とも言えませんが…)

ただ、本能寺後の家康の素早さを見る限り、やはり、この同盟関係・・・信長は何とも思って無かったかも知れませんが、家康の方には腹に一物あったかも感が匂いますね。

もちろん、力の差が歴然として「同盟関係が上下関係になってて腹立つ!」てな、子供じみた思いではなく、「チャンスが来たら、その時は同盟もクソも無いゾ!」的な、戦国武将らしい一物です。

なんせ、この本能寺の後、決死の伊賀越え(2007年6月2日参照>>)で三河に戻った家康は、3か月後に行われた清須会議(6月23日参照>>)をよそに、完全に甲斐を取りに行ってる感あります。
【河尻秀隆の死】>>
【天正壬午の乱】>>

もちろん、この家康の行動は、あくまで「信長が本能寺で亡くなったからこそ」の行動で、もし本能寺の変が無かったら、もっと長く同盟関係は続いていたのではないか?と思いますが・・・

ちなみに、
一説には、本能寺の変の原因は
「武田が滅亡した事で家康との同盟が不要になった信長が、家康を暗殺しようと企んだのを、光秀がそれを逆手に取って、家康と組んで信長を討った」
なんて話もありますが、以前も書かせていただいたように、私としては、その可能性は、かなり低いと考えております。

なんせ上記の天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)を見る限り、武田滅亡の後に信長横死となれば、その旧領を上杉と北条が間髪入れず取りに来てますから。

当然ですが、それは「機会あらばすぐにでも攻め入ってやる」という気持ちが上杉や北条にもあったわけで・・・
本能寺の当時、西の毛利を攻め、四国への出兵準備をしていた信長にとって、そのまま順調に行ったなら、背後の彼ら(上杉&北条)東の盾となってくれるであろう家康の存在は大切なはず・・・あの信長が上杉と北条の脅威を察知していないなんて事は考え難いですからね。
(まぁ実際には信長が死んでるので家康もそこに参戦したわけですが…)

て事は、ひょっとしたら、天正壬午の三つ巴は、生前の約束通り、織田の物となった旧武田の領地を、家康が上杉と北条から守ろうとした?という事も考えられなくも無いですが、先の河尻秀隆(かわじりひでたか)死亡の件や乱を収める和睦の条件が「双方切り取り次第」なとこなんかを見ても、やっぱ取りに行ってる感が拭えません。

まぁ、お互い戦略に長けた戦国武将ですから、また別の展開があって、何等かのチャンス的な物が訪れたならわかりませんが、少なくとも、信長と家康にとってお互いの利害が一致している間は、まだまだこの同盟は続いていたはずだと考えております。
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2019年1月 5日 (土)

信長上洛後…本圀寺の変と桂川の戦い

永禄十二年(1569年)1月5日、三好三人衆足利義昭の仮御所を襲撃した本圀寺の変と、それに関連する桂川の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・

第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)し、自分たちの意のままになる14代将軍=足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)を擁立して畿内を牛耳る三好三人衆三好長逸三好政康石成友通らに対して、幕臣の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに救い出されて(7月28日参照>>)難を逃れた義輝の弟=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)は、亡き兄に代わって将軍の座を奪回すべく、当時身を寄せていた朝倉(あさくら)の家臣であった明智光秀(あけちみつひで)を通じて岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)織田信長(おだのぶなが)に接触(10月4日参照>>)・・・

Odanobunaga400a この義昭の意を受けた信長が上洛を開始したのは永禄十一年(1568年)9月7日の事でした(9月7日参照>>)

行く手を阻む南近江(滋賀県南部)六角承禎(じょうてい・義堅)を蹴散らし(9月13日参照>>)、三好三人衆らの富田・芥川・越水・高屋etcの城に一挙に攻撃を仕掛けた事で、押された三人衆は義栄を奉じて阿波(あわ=徳島県)へと逃れました

ちなみに、すでに、この時点で三人衆と決別していた三好家嫡流を継ぐ三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)と三好家重臣の松永久秀(まつながひさひで)は、ここで信長の傘下となっており、義継は若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)を安堵、久秀は「大和(やまと=奈良県)一国切り取り次第」の許しを得ています(11月16日参照>>)

Asikagayosiaki600 その後、信長は京都に禁制を布き、事実上の支配を固めて義昭を迎え入れて、永禄十一年(1568年)10月18日、朝廷からの将軍宣下を受けた義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)すると、大体の戦後処理を終えた信長は、一旦岐阜へと戻りました。

一方、信長を見送った義昭は、とりあえずは六条の本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を仮御所として住んでいましたが、今回の信長の岐阜帰還をチャンスと見たのが、阿波へと退いた三好三人衆・・・

永禄十二年(1569年)正月元日・・・三好三人衆は、かつて信長に稲葉山城=現岐阜城を攻め落とされた(8月15日参照>>)」斎藤龍興(さいとうたつおき)などの美濃(みの=岐阜県)の浪人衆を誘い、薬師寺九郎左衛門(やくしじくろうざえもん)を先鋒の大将として本圀寺の仮御所を取り囲み、門前の家々を焼き払って寺内へ攻め込もうとします。

もちろん本圀寺も、数は劣るとは言え将軍の側近く配下の精鋭部隊が、その身を挺して防戦に当たります。

そこには、前義輝の時代から側近=細川藤賢(ふじかた)に、あの明智光秀もいました。

そんな中、先頭に立つ若狭衆の山県盛信(やまがたもりのぶ)宇野弥七(うのやしち)は、薬師寺勢の旗本衆に喰らいつき、多くの敵を斬って捨てながらの見事な討死を遂げます。

なおも続く敵を、幕府勢が斬っては追いながら、矢で射抜き・・・と、攻め手の三好勢はなかなかの苦戦を強いられ、とても御所内へ攻め込む事はできませんでした。

そんな小競り合いが数日続いた頃、「信長方についた三好義継や細川藤孝らの援軍が、軍勢を率いて、攻撃側の背後を攻めに来る」という情報が現地に飛び交った事で、薬師寺九郎左衛門は攻撃の手を緩め、永禄十二年(1569年)1月5日、包囲を解いて撤退を開始したのでした。

実は、この同じ日・・・実際に、三好義継や細川藤孝、さらに荒木村重(あらきむらしげ)池田勝正(いけだかつまさ)らを加えた面々が本圀寺の救援に向かっていたのです。

そんな彼らは、桂川方面(京都市西京区桂付近)にて三好三人衆の部隊とぶつかります。

早速、池田隊が敵と激突・・・三好方の高安権頭(たかやすごんのかみ)岩成勘助(いわなりかんすけ)など、名のある武将を次々と討ち取って敵勢を突破して、更に突き進んだのです。

5日に始まった戦いは、翌6日に終結しましたが、上記の通り、この桂川の戦いの頃には、すでに本圀寺の三好方の兵は撤退していましたから、当然、彼らが駆け付けずとも仮御所は無事だったわけですが・・・

この京都での異変を、同じ6日の日に岐阜で聞いた信長は、義昭を救援すべく、配下の者に、すぐに出立の命令を出しますが、この日はあいにくの大雪・・・それでも、「たとえ自分一人でも駆けつける!」との意気込みで、アタフタと揉める輸送隊や人夫を後目に、即座に岐阜を出立する信長・・・

本来なら3日かかるところを2日で駆け抜けた強行突破には、さすがの軍勢も追いつかず、信長が京都に着いた時には、従う者はわずか10騎だったとか・・・

しかし、ここで配下の者たちの働きによって義昭と仮御所が守られた事を知った信長は一安心・・・皆の働きを大いに喜んだと言います。

そして、この出来事をキッカケに、信長は義昭の御所=二条御所の建造を急ぐ事になります。
●義昭の御所については2月2日参照>>

Rakutyuurakugailyosiakigosyo
洛中洛外図屏風に描かれた義昭御所(上杉本・左隻)

とは言え、ご存知のように、義昭と信長のこのような蜜月時期は短く・・・わずか4年後に義昭は信長に反旗を翻し(2月20日参照>>)、将軍の妹婿となっていた三好義継も若江城にに散る(11月16日参照>>)事となります。

何とも・・・目まぐるしく情勢が変わるのが戦国の世というもの。
現在進行形でこの時代に生きていた武将たちには、どうにもこうにも先の読めない時代・・・当の信長すら、あの最期ですからね。。。
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2018年12月11日 (火)

賤ヶ岳の前哨戦~秀吉の長浜城攻防

天正十年(1582年)12月11日、賤ヶ岳の前哨戦となる戦いで、羽柴秀吉が長浜城を囲みました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月2日、天下目前にして本能寺に散った織田信長(おだのぶなが)(6月2日参照>>)・・・すでに家督を譲られていた嫡男(11月29日参照>>)織田信忠(のぶただ)も共に亡くなった事から、織田家の後継者は次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)か三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)かと思われましたが、6月27日に開かれた織田重臣たちによる清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)にて、亡き信忠の嫡男=三法師(さんほうし=後の織田秀信)後継者に、その後見人に信孝が就任する事に決定します(6月27日参照>>)

この時、織田家の筆頭家老だった柴田勝家(しばたかついえ)は三男の信孝を推していたものの、本能寺の変当時は北陸にて合戦中(6月3日参照>>)ですぐには戻れずにいて、その間に中国大返し(6月6日参照>>)の離れ業で舞い戻って信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市)で討った(6月13日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が、その功績を笠に、自分の推す三法師をムリクリで後継者に決めた的な雰囲気で語られる事が多いですが、

このブログの清須会議のページで追記させていただいているように、最近では「これは至極真っ当な決定であった」という考え方がされるようになっています。

なんせ上記の通り、すでに次男の信雄は北畠家を、三男の信孝は神戸家を継いでおり、織田家の家督は信忠に譲られていたのですから、幼いとは言え、その嫡男が家を継ぐのは正当で、なんなら、その後見人に信孝を据えている所なんざ、むしろ秀吉が勝家に気を使った感ありなわけです。
(この清須会議は、あくまで織田家の後継者を決める会議で、「天下云々」または別の話ですので…)

なので、この時点では勝家と秀吉の間には何の懸念も危惧もなかったわけですが、ただ、この後の信孝の態度により、両者の間に亀裂が生じてしまうのです。

それは・・・
ご存知のように、山崎の合戦の後、あの安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)が炎上する(6月15日参照>>)という出来事があったわけですが、そのために、安土城を修復する間、岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)を任されていた後見人の信孝が三法師を預かっていたのですが、その後、修復が完了したので安土に移すように(←これが会議で決まった事ですから)秀吉が求めても、いっこうに聞き入れないばかりか、叔母(信長の妹もしくは姪)であるお市(いち)の方と勝家の結婚を勝手に決めて連携を強化し、秀吉との敵対姿勢をあらわにして来たのです。

しかも一方の秀吉も、亡き信長の葬儀を京都で盛大に行う(10月15日参照>>)ものの、そこに信孝と勝家の姿はなく・・・とまぁ、誰もが感じ始める険悪なムード。

と、そんなこんなの11月2日、勝家は前田利家(まえだとしいえ)不破勝光(ふわかつみつ=不破直光とも)金森長近(かなもりながちか)の3人を秀吉のもとに派遣して和議に当たらせます。

と言っても、これは完全なる時間稼ぎ・・・北陸の冬は雪深く、この先、しばらくは身動き取れない状態になるだろうし、もし秀吉と渡り合う事になるのであれば、今のうちに各地の諸大名と連絡を取っておいて、来年の雪解けを待って行動を起こし、そこに、すでに連絡済みの諸大名との連プレーで・・・てな思惑があったわけです。

しかし、その思惑を秀吉はお見通し・・・とりあえずは和議OKの返事を口頭でしつつも、正式な書面での返答には
丹羽長秀(にわながひで)君や池田恒興(いけだつねおき)君とも相談してみんと…」
と言って応じなかったのです。

そして、その交渉から1ヶ月後の12月7日(9日とも)、秀吉は5万の大軍を率いて、江北(こうほく=滋賀県北部)に侵出しました。

先の池田恒興に、筒井順慶(つついじゅんけい)細川忠興(ほそかわただおき)らを率いて北上する道すがら、安土に点在する城々に兵を配置しつつ、天正十年(1582年)12月11日には、堀秀政(ほりひでまさ)佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)に入った秀吉は、すかさず、勝手知ったる長浜城を寸分のぬかりなく囲みます。

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長浜城・本丸跡と復元天守 

そもそも秀吉が、信長から最初に与えられた城が長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)だった事もあり、この辺の地理には精通している秀吉ですから・・・

この時の長浜は・・・
先の清須会議にて、秀吉が光秀の旧領であった丹波(たんば=京都府中東部)山城(やましろ=京都府南西部)河内(かわち=大阪府南東部)を得た代わりに、勝家が、これまでの越前(えちぜん=福井県東部)北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)に加えて、新たに得たのが近江三郡とこの長浜城で、この時は、勝家の養子である柴田勝豊(かつとよ=実際には勝家の姉の子)が城主を務める、言わば柴田方の最前線の城でした。

こうして秀吉は、大軍で囲んだ、この長浜城に向けて、本領安堵等の条件を提示して降伏を呼びかけるのです。

もちろん、この冬場に越前からの援軍が望めない事も重々承知・・・しかも、どうやらこの勝豊は、勝家の養子でありながらも比較的冷遇されていたようで、勝家が甥の佐久間盛政(さくまもりまさ=勝家の姉もしくは妹の子)(5月12日参照>>)や、自分と同じ養子だけれど、もしかしたら実子かも知れない柴田勝政(かつまさ)らを厚遇する事に少々の不満を抱えていたとか・・・

その心理をうまく突いた秀吉が大谷吉継(おおたによしつぐ)を使って、
「なんなら越前一国の主として迎えても…」
「重臣たちも大名に取り立てる」

てな甘い言葉で誘ったのです。

長浜城内での話し合いの末、家老の意見を受け入れた勝豊は、17か条に及ぶ勝家への不満を列挙して絶縁を宣言し、
「不満のある者は越前に戻って勝家に仕えよ」
と固い決意をあらわにして、12月15日、秀吉方に降ったのでした。

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長浜城の戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

これを受けた秀吉は、長浜城を監視すべく、改修した横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市堀部町)蜂須賀家政(はちすかいえまさ)を置き、佐和山城には丹羽長秀を置いて、自らは、勝家と心をともにする信孝の岐阜城の攻撃へと向かい、この岐阜でのアレコレに続くように賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いへと突入していく事になります。

岐阜の乱と呼ばれるこの出来事については、また、いずれかの日付で書かせていただくつもりですが、その後のおおまかな流れとしては、年が明けた
4月20日:【賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し】
4月21日:【賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】
4月23日:前田利家の戦線離脱】
4月24日:北ノ庄城・炎上前夜】
5月2日:【織田信孝の自刃】
をご覧いただければありがたいです。
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2018年11月28日 (水)

佐々成政の城生城の戦い

天正十一年(1583年)11月28日、越中城生城を攻撃中の佐々成政と神保氏張が聞名寺を攻撃しました。

・・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)が天正元年(1573年)8月に越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月6日参照>>)、天正三年(1575年)8月に越前一向一揆を鎮圧(8月12日参照>>)した頃には、織田政権の北陸担当となった北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)柴田勝家(しばたかついえ)のもと、府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)龍門寺城(りゅうもんじじょう=福井県越前市)の不破光治(ふわみつはる)とともに「府中三人衆」と呼ばれた小丸城(福井県越前市)佐々成政(さっさなりまさ)でしたが、

Sassanarimasa300 天正八年(1580年)に、織田が、あの加賀一向一揆を壊滅(11月17日参照>>)させた事やら、その後に不破光治が亡くなった?(←生没年不明なので)事やら、成政が神保長住(じんぼうながずみ)とともに越中一向一揆を攻めた(9月8日参照>>)事やら・・・そんな、なんやかんやで、天正九年(1581年)頃には、利家は七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)にて能登(のと=石川県北部)一国を預かり、成政は富山城(とやまじょう=富山県富山市)にて越中(えっちゅう=富山県)一国を支配する立場となっていました。

ところがここで、ご存じ天正十年(1582年)6月の本能寺での信長の死(6月2日参照>>)・・・

その10日後の山崎の戦い(6月13日参照>>)で主君の仇を撃った事で、何となく主導権の握った感のある羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の思い通りに清洲会議(6月27日参照>>)が進み、さらに、わずか9カ月後の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(4月21日参照>>)で秀吉が勝って勝家が敗れてしまいます。

この賤ヶ岳の時は勝家派につくものの、隣国=越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)へのけん制で動けなかった佐々成政は、剃髪する事で何とかこれまで通りの越中一国を安堵されますが、秀吉お仲間の前田利家は能登に加えて加賀(かが=石川県南部)を与えられ本拠を金沢城(かなざわじょう=石川県金沢市)に移し、同じくお仲間の丹羽長秀(にわながひで)は越前と若狭(わかさ=福井県西部)を与えられ、元勝家の北ノ庄城を居城とする・・・とまぁ、急転直下で北陸の勢力図が大きく塗りかえられてしまったのです。

越中一国は安堵されたものの、信長さんに気に入られて「これから頑張るゾ!」と思っていた成政にとっては、どこの馬の骨ともわからぬ秀吉に大きな顔をされるのは、何とも不満・・・悶々とした気持ちを拭い去れない成政は、秀吉ドップリの西の隣国=利家か、はなから敵対関係にある東の隣国=上杉か、どちらかをを何とかしたいわけで。。。

なんせ、この上杉・・・かつて柴田勝家が最前線の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を落として(6月3日参照>>)「さぁ、これから上杉の本拠地へ…」となった、その時に、あの本能寺の変が起きてしまい、そのまま織田軍が撤退したために魚津城も上杉に回復されており、その後に起こった織田勢が去った旧武田の領地を巡っての天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)でも上杉は北信濃(長野県北部)を獲得して和睦を図り(10月29日参照>>)、しかも、すでに秀吉と通じていて、先の賤ヶ岳の時には勝家派の成政を威嚇していた=だからこそ成政は動けなかったわけで。。。

で、ふと自身の越中を見渡してみると・・・城生城(じょうのじょう=富山県富山市八尾町)斎藤信利(さいとうのぶとし=信和)が上杉と仲良さげな雰囲気。

この斎藤信利は、上杉謙信(けんしん=景勝の養父)の死後、いち時は織田方についていたものの、かつて飛騨(ひだ=岐阜県北部)の国人=塩屋秋貞(しおやあきさだ)に城生城を攻められた際に上杉の援軍によって救われた事があり、結局、ここに来て再び上杉に与して、越中にありながら成政には従わずにいたのです。

そこで天正十一年(1583年)8月、佐々成政と、それに臣従する神保氏(じんぼううじはる)城生城を攻めたのです。

この動きを見た斎藤信利は聞名寺(もんみょうじ=富山市八尾)に援助を求めます。

実は、この聞名寺は、かつて飛騨にありましたが、その地の真宗との対立を避けるためにコチラに移転して来たという経緯があり、その時に大きく支援したのが城生城の斎藤氏であったと・・・そこで、末寺や門徒に呼びかけ、全身全霊で以って城生城のピンチに立ち上がります。

この事を知った神保氏張は聞名寺へも攻撃を仕掛けますが、これが、自然の要害を盾としたなかなかの堅固・・・しかも門徒がゲリラ戦を展開し、むしろ次第に押され気味に・・・

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城生城の攻防・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そこで氏張は、まずは富山への街道沿いに関所を設けて八尾(やつお)への救援路を遮断したうえ、石戸(せきど)付近の木陰にワラ人形を並べ、周囲にかがり火をガンガン焚いて大勢の兵が駐屯しているように見せかけます。

なんだかんだで戦のプロでは無い聞名寺門徒たち・・・寺の北側に出現したがこのワラ人形に門徒たちの注意が向いた天正十一年(1583年)11月28日早朝、井田川の西岸を南下して聞名寺の南に位置する桐山峠(きりやまとうげ=現在の城ヶ山公園付近?)に移動した神保軍が一気に聞名寺に奇襲をかけたのです。

奇襲に驚く聞名寺では、僧侶や門徒たちが次々に逃げだしますが、この日の、しかもこの時は親鸞(しんらん)上人の法要の真っ最中・・・しかし、読経を中断する事ができない住職は超特急で読経をやりきった後、寺宝を抱えて逃走井波(いなみ=富山県南砺市)に隠れ住んだとか・・・

その一方で、一部の門徒は城生城に走って防戦を続けますが、ここ城生城も難攻とされる堅城だったため、神保氏張は一旦包囲を解いて引き挙げました。

しかし、当然、佐々成政は諦めません。

ほどなく井栗谷(いくりだに=富山県砺波市)(とりで)を築いた成政は、近隣の諸将を取り込み、もちろん神保も連れて城生城を包囲して攻撃を開始します。

『肯構泉達録』によれば・・・
この時、さすがに聞名寺も落ち、周囲を囲まれて孤立無援となった状況では打つ手なく、城中より神保の陣に向けて和睦の使者がやって来ますが、氏張の出した和睦の条件は「信利の父=斎藤常丹(じょうたん=利基)の首」でした。

世は戦国・・・
「この首一つで収まるならば…」と決意する主君を、涙を呑んで家臣の斎藤喜左衛門(きざえもん)豊嶋茂手木(とよしまもてぎ)が介錯をし、常丹の首を差し出しますが、なんと氏張は、「そんな約束はしてない」と突っぱね、攻撃を続行したのです。

「騙された!」
と怒り心頭の城内ですが、もはや、どうしようもなく、ほどなく城生城は陥落しました。

何とか脱出した斎藤信利は、常陸(ひたち=茨城県)の国へと落ちて行ったという事です。

こうして城生城は佐々成政の物となりますが、それも、この翌年の
小牧長久手(こまきながくて)の戦い(↓下記参照)
【末森城攻防戦】>>
【利家VS佐々成政~鳥越城の攻防】>>
【小牧長久手の決着】>>
の後、天正十三年(1585年)の秀吉の富山侵攻により、降伏した成政(8月6日参照>>)に代わって前田利長(としなが=利家の息子)が拝領する事となります。

ところで、この地に語り継がれる伝承を一つ・・・
その伝承では、この城生城の落城は、昔、この地で退治された大蛇の恨みによる物で、城が攻め込まれた際、にわかに現れた怪雲渦巻く中から登場した大蛇が、すわっと城に巻きついて落城させたのだとか・・・

これで積年の恨みが晴れたのか?落城を見た後、その怪雲から大蛇の体がドサリと落ち、そこには転々と白い石を並べたような大蛇の骨が半里ほどに渡って残っていた・・・と。。。

どうやらコレ、城生城の近くにあって、現在は富山県の天然記念物に指定されている天狗平化石層(てんぐびらかせきそう)の事らしい・・・
確かに、白と黒の地層が縞をなして露わに連なる不思議な光景は、昔の人から見れば大蛇の骨に見えたかも知れませんね。
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2018年11月21日 (水)

長島一向一揆の小木江城攻め~織田信与の自刃

元亀元年(1570年)11月21日、長島一向一揆に攻められた信長の弟=織田信与が小木江城にて自刃しました。

・・・・・・・・・・・

尾張(おわり=愛知県西部)伊勢(いせ=三重県中北部)の国境を隔てるように流れる木曽三川(きそさんせん=木曽川・揖斐川・長良川)・・・その河口付近の輪中(わじゅう=水害から守るために周囲を囲んだ堤防や集落)地帯である長島(ながしま=三重県桑名市)は、上記の通り、現在では三重県ですが、古文書等には「尾州河内長島」とか「尾張国河内郡」とか表記され、尾張の一部とみなされていました。

とは言え、永禄五年(1562年)に織田信長(おだのぶなが)尾張を統一(11月1日参照>>)した後も、ここ長島は、その支配下に入っておらず、室町中期に、浄土真宗の中興の祖=蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)の息子である蓮淳(れんじゅん)願証寺(がんしょうじ)を建立して以来、寺を中心に本願寺門徒が周辺の国人領主(地元に根付いた武士)を取り込んで、砦などを設けて武装化した本願寺門徒の地でありました。

そんな中、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて信長が上洛した事で、それまで畿内を掌握していた三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・・石成友通)阿波(あわ=徳島県)へと追いやられたのです(9月7日参照>>)

しかし、当然、追いやられたままで済むはずはなく、
その三好三人衆が、元亀元年(1570年)6月、越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)を相手にした、あの姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦い(6月19日参照>>)のために信長が畿内を留守にする絶好のチャンスを起死回生とばかりに、その年の8月に仕掛けたのが野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の戦い(8月26日参照>>)・・・

そこに、当時、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市・現在の大阪城のある場所)を拠点としていた本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)三好側として参戦して来たのです。

信長が上洛した当初は、矢銭(やせん=軍資金)の徴収も言われるがままに支払い、決して信長との関係は悪くなかった本願寺でした。

しかし、ここに来てのいきなりの参戦・・・その理由については、
大阪という土地の中でも、1~2を争う絶好な場所に建つ石山本願寺の地を「僕に譲ってくれへんか?」と信長が言ってきた?
とも、
野田福島での三好三人衆を包囲した信長軍の態勢が、完全に石山本願寺を包囲する態勢だった事にブチ切れた?
とも言われますが、

とにもかくにも、元亀元年(1570年)9月7日、ここに顕如は全国の本願寺門徒に向けて
「今こそ、開山・親鸞聖人の恩誼(おんぎ)に報いる時! その命惜しまず忠節を見せてくれ!参戦せん者は破門にするぞ!」
てな檄文を発したのです(9月12日参照>>)

「総本山の石山本願寺が危ない!」
とばかりに蜂起する全国の本願寺門徒・・・当然、当時の願証寺住職=証意(しょうい=蓮淳の曾孫・證意)以下、長島の一向一揆も立ち上がります。

早速、代々伊藤一族が城主を務めていた長島城(ながしまじょう=三重県桑名市)に大軍で押し寄せて伊藤一族を追放して城を奪い取ります。

そして、この長島城を拠点に、11月16日、信長の弟=織田信与(のぶとも・信與)が守る古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃したのです。

これは明らかに、信長の援軍の手が、この古木江城まで届かないであろう事を計算しての攻撃でした。

というのも、あの8月に勃発し、9月の本願寺の参戦によって三好方が勢いづいた野田福島の戦いが、未だ継続中・・・9月12日に三好勢が川端の堤防を切断して敵方に水を引き寄せた事で、信長の陣屋もろとも周辺が水浸しになり、その水が2~3日引かなかったおかげで、信長勢はかなり苦戦していたようなのです。

そこを見計らった9月20日、今度は、先の姉川の合戦で敗れた浅井&朝倉が、信長の重臣=森可成(もりよしなり)の守る宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)近くの坂本(さかもと=滋賀県大津市)まで琵琶湖の西岸を南下して来たのです。

その姉川のページにも書かせていただきましたが、この合戦での信長は、「ひょっとして判断ミスった??」と思えるほど追撃をかけなかった事で、負けた浅井&朝倉のダメージは意外に少なく、ここで野田福島の戦況を知って「チャンス!」とばかりに仕掛けて来たわけです。

城を死守すべく果敢に撃って出る可成でしたが、その数は、加勢に駆け付けた信長の弟=織田信治(のぶはる)の兵を加えても、わずかに1000・・・そこに浅井&朝倉に加えて本願寺の要請を受けた比叡山延暦寺(えんりゃくじ=滋賀県大津市坂本本町)の僧兵が加わった約30000の軍勢が押し寄せたのです。

少ない人数の中、何とか落城だけは防いだものの、可成と信治は壮絶な討死を遂げます(9月20日参照>>)

この合戦後の9月22日付け、六角氏の重臣に宛てた手紙の中で、浅井長政は、
「今、坂本にいます。一両日中には京都に入ろうと話してますんで、その後は、いよいよ野田福島で行きますよって、安心してください」
というノリノリの手紙を送っています。

この長政の心の内を知ってか知らずか、信長は翌日の9月23日に柴田勝家(しばたかついえ)殿(しんがり=最後尾)として急きょ野田福島の陣を引き払い、翌23日に京都に戻って浅井&朝倉攻撃に備えます。

この間にも浅井&朝倉勢は醍醐(だいご=京都市伏見区)周辺に放火しつつ山科(やましな=京都市山科区)まで進撃して来ていました。

ところが、翌24日、信長勢が侵攻すると浅井&朝倉勢は比叡山方面へ逃げ、そこに布陣して立て籠もったのです。

そこで信長は比叡山に向けて
「僕の味方をしてくれはるんなら、僕の領国内にある比叡山の領地も返還したいと思います。
けど、仏に仕える身やから、どっちかの味方になる事はできん!とおっしゃるんなら中立を保っていて下さい。
もしも、このどっちもイヤ…浅井&朝倉に味方する~っていうのであれば、攻撃しなアカン事になります」

との朱印状を発しますが、比叡山は、返答をせずに無視したばかりか、浅井&朝倉を擁護する姿勢を見せたのです。
(ご存じのように、この比叡山の姿勢が、後の焼き討ちにつながるわけですが…

そこで信長は宇佐山城に置いていた本陣を比叡山の麓に移動して比叡山を包囲するような布陣に整え、京都方面には八瀬(やせ=京都市左京区)大原(おおはら=京都市左京区)口や勝軍山城(しょうぐんやまじょう=京都市左京区北白川)に、志賀方面には唐崎(からさき=滋賀県大津市)に・・・などに配下の者を配置し、その間に甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)にて本願寺の呼びかけに応じた六角承禎(じょうてい・義堅)を抑えた木下秀吉(きのしたひでよし=後の豊臣秀吉)が合流するなど、他方で戦っていた面々もはせ参じて来るのですが・・・

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長島一向一揆&小木江城と堅田のい戦い位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とまぁ、話がちょいと長くなってしまいましたが、とにもかくにも、この時の信長はこういう状況だったわけで、おそらくは手いっぱいで援軍の派遣はムリなわけです。

そこをチャンスと見た長島一向一揆勢は、数日に渡って古木江城に激しい猛攻を加えます。

何とか防いでいた織田信与でしたが、元亀元年(1570年)11月21日、ついに一揆勢が城門を破って場内に突入して来たのです。

「このまま一揆勢の手にかかって命を落とすのは無念である」
そう言い残した信与は天守に上り、その最上階にて切腹して果てたのです。
(撃って出て討死した説もあり)

この信与は、信長から数えて5番目の弟・・・その生年はわかっていませんが、2か月前の宇佐山城で討死した信治が3番目の弟で天文十四年(1544年)生まれの27歳ですから、おそらく20代前半か10代後半と思われ、信長にとって、立て続けに弟を失ったこのあたりの戦いは、大きな心の傷を負った出来事だったのかも知れません。

なんせ、この滋賀・堅田(かただ=滋賀県大津市)方面での戦いは、1ヶ月ほどの小競り合いの後、12月14日に時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇による合戦中止の綸旨(天皇の命令)が下されて講和が結ばれますが(11月26日参照>>)、そのすぐ後に、秀吉の働きで本拠地の岐阜と京都との動脈を確保した信長は、即座に北伊勢方面への出陣を決意し、翌元亀二年(1571年)5月16日の長島一向一揆戦(5月16日参照>>)へと突入していく事になるのですから・・・

ところで、
このあと続く、8月の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)
天正二年(1574年)9月の長島一向一揆せん滅(9月29日参照>>)

これらは、信長の残虐ぶりを表す出来事として有名な出来事ですが、どうでしょう?
こうして見ると、比叡山も一向一揆も、けっこうヤッちゃってる感じがするんですが・・・
(それも先にヤッちゃってる感が…(^-^;)
(もちろん浅井&朝倉もネ)

もちろん、信長さんが100%正しいとは思いませんし、「そこまでせんでも…」って部分もあるでしょうが、他の武将もそうであるように、そもそも戦国とはそういう時代・・・「戦争は嫌だ」と声高に叫べば、誰かが拾ってくれる現在とは価値観が違うのです。

なので、ドラマ等(「信長協奏曲」は除くww)で、ことさら信長だけを鬼のように描く(他の武将をイイ人に描くためでしょうか?)昨今の風潮には、個人的には、ちょっと疑問を感じているのです。

ドラマ&映画等の関係者の皆々様、そろそろ違うイメージの信長さんを登場させてはいかがでしょう?

今ハヤリの平和を主張する主人公が信長さん・・・てのもアリ???
一歴史ファンとしては期待してしまいますが、やっぱりダークなラスボスっぽく描かれるんでしょうね~まぁ、それもカッコイイならOKやけど(*^-^)
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2018年11月16日 (金)

信長の前に散る…三好義継が切腹す~若江城の戦い

天正元年(1573年)11月16日、居城の若江城を、織田信長に攻められた三好義継が切腹しました。

・・・・・・・・・・・

今回の主役=三好義継(みよしよしつぐ=十河重存)は、天文十八年(1549年)に、三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)の弟の十河一存(そごうかずまさ・かずなが=長慶の3番目の弟)長男として生まれたと言います。

この伯父の三好長慶という人は・・・(これまで何度もブログに登場してますが…)
かつて室町幕府管領(かんれい=将軍の補佐役)として権勢を奮った細川政元(まさもと)(6月20日参照>>)亡き後に、その3人の養子たちによる後継者争いの中で優位に立ち、事実上の政権樹立を勝ち取った細川晴元(はるもと)の家臣でしたが、天文十八年(1549年)6月の江口の戦いにて晴元らに勝利し、彼らを近江(おうみ=滋賀県)へと敗走させて畿内を掌握(6月4日参照>>)した後、第12代=足利義輝(よしてる=11代諸軍・足利義晴の息子)とも和解して(11月27日参照>>)戦国初の天下人とも称される人物です。

その弟である十河一存は、数々の戦いで兄=長慶をサポートし「鬼十河(おにそごう)と呼ばれた名将でしたが、残念ながら永禄四年(1561年)3月に、この世を去ってしまいます(5月1日参照>>)

Miyosiyositugu500a 可愛い甥っ子として、義継を自らが養育するつもりであった長慶でしたが、その2年後の永禄六年(1563年)、長慶の跡継ぎであった一人息子=三好義興(よしおき)が22歳の若さで病死してしまった事から、長慶は義継を養子として迎え、以後、義継は三好家の嫡流を継ぐ事になったわけです。

しかし、以前も書かせていただいたように、先の十河一存の死を皮切りに、三好家には毎年のように次々と不幸な出来事が起こるのです。

十河一存の死後の将軍地蔵山の戦い(11月24日参照>>)が手痛い負け戦となる中、翌年の永禄五年(1562年)の3月には、長慶のすぐ下の弟=三好義賢(よしかた=元長の次男・実休)久米田(くめだ・大阪府岸和田市)の戦い(3月5日参照>>)にて戦死し、その翌年に先の義興の死・・・さらにのその翌年の永禄七年(1564年)には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす)謀反の疑いで長慶自身が謀殺してしまい、しかも、その弟殺害の2ヶ月後に長慶は亡くなるのです(5月9日参照>>)

実は、晩年の長慶はうつ病を発症しており、ほとんど合戦には出ずに引き籠りがちになっていて、実際に三好家を支えていたのは重臣の松永久秀(まつながひさひで)だったとの事・・・

こうして、わずか16歳で三好家を引っ張っていかねばならなくなった義継・・・そんな若き当主をサポートしたのが、先の松永久秀と、後に三好三人衆と呼ばれる三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)ら三好一族の者たちでした。

翌永禄八年(1565年)5月1日には、将軍=義輝の要請により、左京大夫(さきょうのだいぶ=都の行政機関の長官・後の京都所司代)に任じられ、義輝から「義」の一字を賜って、その名を義重と改めますが(ここまでは重存)、そのわずか18日後、三好三人衆らととともに上洛して二条御所(武衛陣御所)を襲撃して義輝を暗殺してしまうのです(5月19日参照>>)

その年齢から考えても、おそらく、この一件を主導したのは三好三人衆ではありましょうが、この件をキッカケに義重から、いよいよ義継へと改名していますので、義継自身も自らの意思で首謀者の一人として参加した事でしょう。

なんせ、この義輝さんは、かの長慶と何度も刃を交えて京都奪回&将軍復権を画策した人(11月27日参照>>)・・・長慶と和睦して京都に戻ったとは言え、もともと傀儡(かいらい=あやつり人形)には収まらず、自らが政務に手腕を発揮シたいタイプですから、おそらく長慶の死は彼にとって、誰の影響も受けずに采配を振るチャンス到来と思っていた可能性大。

一方、長慶を失った側の三好としては、それは困る・・・自分たちの思い通りになる将軍が都合が良い。

Asikagakuboukeizu3 ←足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

そこで三好三人衆は、以前に細川晴元とともに三好一族が推し挙げて堺公方(さかいくぼう)を称していた足利義維(よしつな)(2月13日参照>>)の息子=足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)が義輝に代わって第14代将軍になれるよう画策するのです。

一方、その間に、これまで、ともに三好家を支えていた松永久秀と三好三人衆は、どうやら決別したようで・・・というのは、義輝暗殺から半年後の永禄八年(1565年)11月、これまで長慶健在の時から久秀が行っていた大和(やまと=奈良)攻略(11月24日参照>>)での宿敵=筒井順慶(つついじゅんけい=大和の国衆)との筒井城(つついじょう=奈良県大和郡山市筒井町)攻防戦(11月18日参照>>)にて三好三人衆が順慶の味方として登場するからなのですが・・・

なので義継は、三好三人衆とともに松永久秀と戦う事になるのですが、この頃には三好三人衆の頭の中は足利義栄の事でいっぱい・・・なんせ将軍ですからね~自分たちの意のままに動いてくれる上司なら、三好家当主より将軍の方がイイに決まってますがな。

この三好三人衆に不満を感じた義継は、彼らと離れて松永久秀のもとに・・・永禄十年(1567年)10月の東大寺大仏殿の戦い(10月10日参照>>)ではキッチリ松永方として参戦し、勝利に貢献しています。

そんな中、これまでの経緯や献金の金額不足から足利義栄の将軍就任に難色を示していた朝廷が、永禄十一年(1868年)ようやくOKサインを出し、その年の2月8日に足利義栄への将軍宣下がなされて、義栄は第14代将軍に就任し、もはや三好三人衆の天下か?

と思いきや、この一件によって、義輝暗殺の際に幽閉されていた興福寺(こうふくじ=奈良県奈良市)を脱出(7月28日参照>>)して、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)のもとに身を寄せていた義輝の弟=足利義昭(よしあき・義秋)が動き出すのです。

これまで義昭は、暗殺された前将軍の弟として、その後継者=次代将軍になる希望を抱き、自らを奉じて上洛してくれる大物武将を探して、自身が納得できるような者に声をかけていたものの良い返事が貰えず・・・しかし、上記の通り、義栄の将軍就任で、これ以上ジーッとしているわけにはいかず、おそらくは義昭にとってはキャリア不足の地方侍だとの認識だった・・・けど、だからこそ自分を奉じて上洛してくれそうな尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)に接触したのです(10月4日参照>>)

自分を奉じてくれる武将を探していた義昭と、稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現在の岐阜城)を手に入れて(8月15日参照>>)『天下布武』の印鑑を使い始め、上洛のキッカケ=朝廷への大義名分&手土産を探していた信長との利害関係が見事一致・・・永禄十一年(1568年)9月7日、信長は京都に向け、岐阜城を発ったのです(9月7日参照>>)

ご存じのように、この信長の上洛は戦国の一大転換期とも言える出来事・・・当然ですが、その道筋には、上洛に協力する者と敵対する者がいるわけで、

そんな中、美濃(みの=岐阜県)の隣国で敵対しそうな朝倉は、現時点で若狭(わかさ=福井県西部)攻めの真っ最中(8月13日参照>>)なので、この一件にはスルー。

北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)には、妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて懐柔済み(2011年6月28日の前半部分参照>>)

NOと言った南近江(滋賀県南部)六角承禎(じょうてい・義堅)は信長軍に蹴散らされ(9月13日参照>>)ます。

もちろん義栄を仰ぐ三好三人衆も信長に抵抗しますが、籠る勝竜寺城(しょうりゅうじじょう=京都府長岡京市)芥川山城(あくたがわやまじょう・芥川城とも=大阪府高槻市)などを攻撃され、やむなく義栄を連れて、領国の阿波(あわ=徳島県)へと退去します。

一方、この時、三好義継と松永久秀はチャッカリ信長に協力&服属を約束・・・おかげで義継は若江城(わかえじょう=大阪府東大阪市)を安堵され、久秀は「大和一国切り取り次第」=「奈良で戦って奪った土地は君が治めたらええぇがな」の許可を得ます。

翌・永禄十二年(1569年)1月、三好三人衆らが義昭が仮御所として宿泊していた本圀寺(ほんこくじ=当時は京都市下京区付近)を襲撃した本圀寺の変では(2月2日参照>>)、義継は、将軍家被官の細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らとともに、その防御の一翼を担い、その功績もあってか2ヶ月後には信長の仲介で義昭の妹と結婚し、義継も、もうすっかり織田傘下の人・・・と思いきや、

間もなく義昭と信長の間に亀裂が入り始めたり(1月23日参照>>)、信長と三好三人衆の野田福島の戦い(8月26日参照>>)本願寺顕如(けんにょ=第11代法主)が三好側として参戦した(9月12日参照>>)事などから、やがて義継は松永久秀とともに反信長派に転じ、いわゆる「信長包囲網」の一角となりました。

そして、いよいよ天正元年(1573年)2月(7月に元亀より改元)足利義昭が信長に反旗を翻し(2月20日参照>>)、一旦は和睦するも7月に再び挙兵・・・籠っていた槇島城(まきしまじょう=京都府宇治市)を攻撃され、やむなく息子=足利義尋(ぎじん)人質に差し出して降伏します(7月18日参照>>)

こうして、京都を追われた義昭は、妹婿である義継の若江城に・・・そして冒頭で書かせていただいたように、その後、義継の若江城は信長に攻められるのですが、

一説には、この「義昭を庇護した事」で信長の怒りをかって、その後に若江城を攻められたと言われたりもするのですが、実際には、若江城へ移動するにあたっては羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が護衛した=つまり、昭の若江城入りは信長も承諾済みだったらしい・・・

なんせ、上記の通り、将軍になるには「朝廷の将軍宣下」があるわけで、京都を追放されようが、本人が「もうアカン」と思おうが、朝廷がそれを承諾しない限り、将軍は将軍のままなわけですから、信長に降伏いたとは言え、その後の身の振り方には朝廷やら何やらの周囲の仲介等があったと思われ、信長も、それらの手前もあり、反信長の神輿として担がれない場所であるとともに監視が効き、かつ将軍が滞在するにふさわしい場所として(本意であったかどうかは別として)義昭が若江城の預かりになる事は、信長も認めていた・・・いや、むしろ妹婿のいる若江城選んだというのが正解のように思います。

ただし、その他方、
「あの信長の事やから、おそらく、この一手先も二手先も読んでいるに違いない…ここは慎重に行動せねば!」
と察していた義継は、若江城にやって来た義昭を城中に入れる事無く、そのまま紀州(きしゅう=和歌山県)へ送った・・・
なんていう話もあります。

つまり、義継は、「義昭云々に関係なく、自分は信長から攻められるかも知れない」事を警戒し、信長に心許す事はなかったという事なのでしょう。

とにもかくにも、『信長公記』では、
そのような、信長への警戒心持ち反抗的な義継に対して、もはや揺るぎない信長の力を恐れる三好の家老たち=多羅尾綱知(たらおつなとも)池田教正(いけだのりまさ)野間長前(のまながさき)若江三人衆(わかえさんいんしゅう)が主君と離れて信長に内応し、そこに信長が派遣した佐久間信盛(さくまのぶもり)率いる織田軍が若江城を包囲・・・

義継の近臣であった金山信貞(かなやまのぶさだ)を自刃に追い込んだ後、若江三人衆は佐久間信盛を若江城中に引きいれたと言います。

佐久間勢が天守の真下まで攻め上って来た時、
「もはやこれまで!」
と覚悟を決めた義継は、妻子を刺し殺した後、天守から撃って出て佐久間勢の多くを負傷させた後、側近に介錯を頼んで、自らの腹を十文字に切り裂いたのだとか・・・

それは
「比類なき御働き 哀れなる有様なり」
比類なき活躍であったけれども、哀れであった・・・と、

天正元年(1573年)11月16日、三好義継、享年25・・・天下にその名を馳せた三好本流の最後の人となりました。

ちなみに、京都を追放され、三好義継も失った足利義昭ですが、今度は西国の雄毛利(もうり)を頼って、まだまだネバりはります(7月18日参照>>)
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