2018年9月 8日 (土)

佐々成政の越中一向一揆攻め~瑞泉寺・井波の合戦

天正九年(1581年)9月8日、佐々成政神保長住らが一向一揆の瑞泉寺を攻めた井波の合戦がありました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)の上洛によって畿内を追われた三好(みよし)の残党の反激戦であった元亀元年(1570年)8月の野田・福島(大阪市福島区)の戦い(8月26日参照>>)に、本願寺第11代法主=顕如(けんにょ)が参戦する(9月12日参照>>)事によって始まった織田VS本願寺の石山合戦・・・

それは、全国の本願寺門徒を一向一揆という形で巻き込みながら約10年に渡って繰り広げられたわけですが、やがて天正八年(1580年)3月、時の天皇=正親町(おおぎまち)天皇の仲介によって和睦を決意した顕如が、本拠である石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市中央区)を退去・・・その和睦に反対して、更なる籠城を続けていた長男の教如(きょうにょ)も8月2日には退去し、ここに石山合戦は終結しました(8月2日参照>>)

しかし、この、素直に和睦に応じた父と和睦に反対して抵抗した息子に表される通り、本願寺門徒の中にも、この停戦に賛成する顕如派と反対する教如派がいたわけで・・・(ちにみに、これが本願寺が東西に分かれる原因の一つ…1月19日参照>>

まして、これだけ全国的に展開された一向一揆ですから、おおもとが終結したとて、まだまだイケイケムードの者たちはたくさんいたわけで・・・そんな、まだまだ屈しない気満々の本願寺門徒たちがいたのが北陸だったのです。

信長はすでに天正三年(1575年)に越前(えちぜん=福井県東部)一向一揆を鎮圧しており(8月12日参照>>)、この天正八年(1580年)には、信長配下の北陸担当=柴田勝家(しばたかついえ)らが3月に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市)(3月9日参照>>)、11月に鳥越城(とりごえじょう=石川県白山市を)陥落させて(11月17日参照>>)、約100年に渡った「百姓の持ちたる国」=加賀一向一揆を鎮圧させていましたが、もちろん、まだまだ警戒は必要・・・

Sassanarimasa300 そこで信長は、かの勝家を総大将として北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)に置き、府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)拝郷家嘉(はいごういえよし)小松城(こまつじょう=石川県小松市)村上頼勝(むらかみよりかつ)、金沢御坊改め金沢城(尾山城)佐久間盛政(さくまもりまさ)七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)菅屋長頼(すがやながより)富山城(とやまじょう=富山県富山市)佐々成政(さっさなりまさ)…等々配置して、万全の態勢を整えます。

なんせ、越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)が、これまでも度々南下して来ている(3月17日参照>>)うえに、天正四年(1576年)5月には長年反目していた本願寺と和睦して(5月18日参照>>)一向一揆の味方となり、天正五年(1577年)9月の手取川(てどりがわ=石川県白山市付近)では織田勢と一戦交えていましたから(9月13日参照>>)・・・

ただし、当の謙信が天正六年(1578年)3月に病死し(3月13日参照>>)、その後継者争いの内乱=御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)が約1年間続いた事で、その間に織田方はほとんど上杉勢と戦う事無く、越中の奥深くまで入る事に成功していた(9月24日参照>>)わけですが、ここに来て、その内乱も終結し、上杉の後継者も養子の上杉景勝(かげかつ)に落ち着き、景勝がその目を越中(えっちゅう=富山県)に向けた事により、本願寺門徒がこれに同調し、両者のぶつかり合いは、もはや時間の問題となっていたのです。

かくして天正九年(1581年)9月8日、佐々成政は、謙信の侵攻によってその地位を奪われたために現在は信長の配下となっているかつての越中守護=神保長住(じんぼうながずみ)と連合軍を組み、越中一向一揆の最大の拠点である瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)に進軍を開始したのです。

史料(歴代古案)に残る黒金景信(くろがねかげのぶ=上杉の家臣)宛て9月8日付けの手紙で瑞泉寺顕秀(ずいせんじけんしゅう・佐運)は、
「佐々成政と神保長住が瑞泉寺に攻めて来て、3日から今日にかけて堀際まで来てますが、コチラは武器も弾薬も充分に準備してましたので、なんなら、このチャンスに佐々方を粉砕したいと思い、皆で山中を固めています。
なのに、上杉景勝様の出馬が無いのはなぜなんですか?
瑞泉寺のためにも、是非支援お願いします。
引き延ばしはコチラの士気にも関わりますので早急に軍を整えて、越後の誠意を見せてください」

的な内容の援助要請を行っています。

この瑞泉寺の寺地内には、本願寺中興の祖と称される、かの蓮如(れんにょ)吉崎(よしざき=福井県あわら市)に滞在(8月21日参照>>)していた文明(1469年~1486年)の頃に、その蓮如の呼びかけに応じて、イザという時に武装して戦うための堀を備えた城郭のような物が構築され、文明十二年(1480年)には福光城(ふくみつじょう=富山県南砺市旧福光町)主の石黒光義(いしぐろみつよし)を破って(2月18日参照>>)砺波(となみ)一帯を領地とし、瑞泉寺の勢力は「坊主大名」と呼ばれるまでに・・・

そんな越中の一向一揆勢は、永禄(1558年~1570年)から元亀(1570年~1573年)・天正(1573年~)にかけては、かの上杉謙信とも戦い(6月15日参照>>)、瑞泉寺内の城郭も、今や井波城(いなみじょう)と呼ばれて、背後に迫る八乙女山(やおとめやま)が自然の盾となった難攻不落の堅城として、その名を知られていたのです。

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井波合戦・位置関係図↑ クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

こうして、数に物を言わせて攻めかかる佐々&神保連合軍に対し、数こそ劣るものの「仏法のためならば命惜しまず」の井波側は、蓄えていた弾薬を惜しみなく使い必死の抵抗・・・両軍一進一退の攻防が続きます。

しかし、やがて金に目のくらんだ城下の焼き餅売りの老婆が、勝手知ったる井波の城内に通じる秘密の抜け道を教えた事から形成は一気に連合軍側に・・・天正九年(1581年)9月9日井波城は援軍を待ち切れずに陥落してしまいました。

この戦いによって町はほとんど破壊&焼失し、瑞泉寺も焼かれてしまったため、瑞泉寺顕秀は一旦、五箇山(ごかやま=富山県南砺市の旧平村ほか)に身を隠したのだとか・・・

瑞泉寺を裏切った老婆の話が、どこまで信憑性のある物か?は微妙なところではありますが、その老婆の墓とされる墓石が残っていたり、井波城本丸跡に現在建つ井波八幡宮(いなみはちまんぐう)には、そこから城外へと抜け出る事のできる間道のような痕跡も発見されている事から、その時の佐々&神保軍が、何らかの方法でこの抜け道の事を知り、一進一退の攻防戦から一気に逆転に持って行ったという流れは、本当の話なのかも知れませんね。

以後の佐々成政は、一向一揆を懐柔する事で、その力を削ぎつつ越中の統治を進めていくわけですが、やがて、信長亡き後の小牧長久手(こまきながくて)の戦いで敵対(末森城攻防戦>>鳥越城攻防戦>>)した豊臣秀吉(とよとみひでよし)の前に屈する事になりますが、そのお話は、【武勇の佐々成政が秀吉に降降伏】でどうぞ>>
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2018年8月24日 (金)

長篠の直後…徳川VS武田~諏訪原城の戦い

天正三年(1575年)8月24日、徳川家康が武田勝頼方の諏訪原城を攻め落としました。

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海道一の弓取りと称された天下に最も近い男=駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)によって桶狭間(おけはざま)に敗れて(5月19日参照>>)のち、後を継いだ今川氏真(うじざね)を北と西から挟み撃ちするがの如く、協力して倒した甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)・・・
今川館の攻防戦>>
掛川城・攻防戦>>

しかし、その後、両者は対立・・・元亀三年(1572年)10月に甲斐を出陣した信玄は、
一言坂(ひとことざか=静岡県磐田市)(10月13日参照>>)
二俣城(ふたまたじょう=浜松市天竜区)(10月14日参照>>)
仏坂(ほとけざか=静岡県浜松市)(10月22日参照>>)
と来て、12月にはご存じ三方ヶ原(みかたがはら=静岡県浜松市)の戦いで、家康は惨敗してしまいます(12月22日参照>>)

ところが、その勢いのまま上洛するかに見えた武田軍は天正元年(1573年)1月の野田城(のだじょう=愛知県新城市)の戦い(1月11日参照>>)を最後にUターン・・・そう、御大=信玄が亡くなったのです。

その遺言(4月16日参照>>)「自分の死は3年隠せ」と言われた後継者の武田勝頼(かつより=信玄の四男)ではありましたが、むしろ、カリスマ的な父の影を払しょくするがの如く領地拡大へと突き進み、天正二年(1574年)2月には織田傘下の明智城(あけちじょう=岐阜県可児市)を攻略(2月5日参照>>)、5月には父=信玄さえ落とせなかった高天神城(たかてんじんじょう=静岡県掛川市)をモノにします(5月12日参照>>)

そして、翌・天正三年(1575年)4月、家康の長女=亀姫(かめひめ)と婚約して武田から徳川へと寝返った奥平貞昌(おくだいらさだまさ)が城主を務める長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市)を取り囲んだのです(4月21日参照>>)

この包囲された長篠城を救うべく家康、そして援護する織田が、近くの設楽ヶ原(したらがはら)にてぶつかったのが、有名な長篠設楽ヶ原の戦いです。
史上最強の伝令・鳥居強右衛門>>
設楽原到着で…>>
長篠を救ったもう1人の伝令>>
鳶ヶ巣山砦・奇襲作戦>>
決戦!長篠の戦い>>

これまで、ブログにも書かせていただいている通り、この戦いにおいて、有名な3段撃ちは無かったかも知れないし、伝えられるほどの大差も、言われるほどの織田&徳川連合軍の圧勝という事も無かったかも知れませんが、信玄以来の重鎮と呼ばれる家臣が多く亡くなった事は事実でしょうし、先の遺言のページ>>で書かせていただいてるように、当主である勝頼と家臣団との間に少なからずの亀裂を生み、武田にとってこの長篠設楽ヶ原の戦いは良く無い戦いであった事は確かでしょう。

なんせ、ご存じのように、ここから織田&徳川の台頭が、歴史の流れからも見えて来るわけですから・・・

Tokugawaieyasu600 もちろん、その事は、戦い終えた家康も感じていたわけで・・・長篠の勢いのまま間髪入れず、武田の物となっていた遠江(とおとうみ=静岡県西部)諸城の奪取を計画します。

その第1の目標となったのが、先の元亀三年(1572年)の信玄の侵攻で三方ヶ原の前哨戦で奪われていた二俣城でした。

かの長篠設楽ヶ原から1ヶ月と経たない天正三年(1575年)6月24日、二俣城の支城である光明城(こうみょうじょう=静岡県浜松市天竜区)を落とした家康は、二俣城の周辺に4つの付城(つけじろ=攻撃のための城)を構築する一方で、次の諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)に狙いを定めます。

この諏訪原城は、信玄が亡くなって勝頼に引き継がれたばかりの武田が、まさに、この先の徳川との領地争奪戦を意識して構築した東海道沿いの要所に佇む城・・・現時点で武田の最前線である高天神城への補給路を確保するためにも重要な城でした。

まず掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市)に入った家康は、配下の松平忠正(まつだいらただまさ)に命じて、ここにも付城を構築して守らせたうえ、先鋒として攻撃の最前線に放ちます。

命を受けた忠正が諏訪原城の出丸である亀甲曲輪(きっこうくるわ)を攻め落とす一方で、菊川(きくがわ)方面から松平真乗(さねのり=家康の又従兄弟)が攻めかかります。

しかし、コチラ=真乗勢は武田流の巧みな縄張り(城の造り)に阻まれうまく進めず・・・一旦敗走し、再び城門まで押し寄せるも、やはり、それ以上攻め込む事はできませんでした。

それから約1ヶ月ほど、包囲と籠城の攻防が繰り広げられますが、8月23日になって家康自らが出陣・・・日坂(にっさか=静岡県掛川市)久延寺(きゅうえんじ=同掛川市)に本陣を移動させて、本格的な城攻めを開始します。

この時、諏訪原城を守っていたのは、武田譜代の家臣=今福友清(いまふくともきよ)以下、武田配下の海野(うんの)遠山(とおやま)の面々・・・

しかし、上記の通り、武田方は長篠の敗戦後のゴタゴタが未だ治め切れておらず、この時、援軍を出せる状況では無かったのだとか・・・

結局、天正三年(1575年)8月24日諏訪原城は落城します。

一説には、この日に大将である今福友清が討死にした事+この先の援軍を期待できない事から、残った城兵は、夜陰に紛れて小山城(こやまじょう=静岡県榛原郡吉田町)へ逃げ去ったとされます(実際には友清はここでは討死してないっぽいですが…)

落城の日付に関しては諸説あるようですが、
『武徳編年集成』「廿四日 諏訪原の城兵諸賀…夜密ニ是を避て小山城に走る」
『参河国聞書』「八月廿四日、諏訪原城を攻め、落ちて…」
とあり、
『今川氏真詠草』にも、
♪朝霧や 下に立ちらむ ふしのねの
 山なき空に 近く浮へる… ♪

氏真作の歌とともに「八月廿四日諏訪原新城降参」
とある事から、おそらく8月24日に落城した物と思われます。

そう・・・実は、
この勝利により、諏訪原城を手に入れた家康は、古代中国の故事(周(しゅう)の武王(ぶおう)が殷(いん)の帝辛(ていしん)を牧野(ぼくや)に破ったという話)にちなんて、この城を牧野城 (まきのじょう)という名に改めるのですが、

その時、配下の松井忠次(まついただつぐ=松平康親)牧野康成(まきのやすなり)城番として入城させているのですが、名目上の城主としているのが、あの今川氏真なのです。

上記の通り今川氏真は、信玄と家康によって掛川城を追われ、戦国武将としての今川が事実上滅亡となった後、同盟者であった北条(ほうじょう)を頼って小田原城(おだわらじょう=神奈川県小田原市)にいたものの、その北条と武田が同盟を結んだ事で居づらくなって、その後は、家康の保護を受けていた・・・と、

つまり家康は、武田と対抗するにあたって、駿河や遠江の元領主である今川の当主=氏真を厚遇して、もともとこの地に根付いていた者たちの勢力を自らの側に引き寄せようと考えたわけです。

とは言え、2年後の天正五年(1577年)頃には、すでに、この牧野城周辺の支配は盤石になったと見え、氏真の城主の座は解任してるんですけどね。

現に、その翌年=天正六年(1578年)、
『家忠日記』によれば、
この年の8月28日に、武田軍がこの牧野城間近まで襲来して来た事が記録されていますが、ただ襲来して来たというだけで「だから何」という事も無かったようで・・・おそらくは、もはや手出しはできないような状況であった雰囲気が読み取れますから・・・

Suwaharazyoukankeizu
(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところで、かの長篠の後、光明城からの、今回の諏訪原城と来た家康は、この12月には、光明&諏訪原を落とされて孤立していた二俣城を攻略し、さらに周辺の武田方の諸城へと攻撃を仕掛けていくのですが、さすがの武田方の守りはなかなかの物で、その状況はしばらくの間一進一退・・・

しかし、流れ始めた歴史の大河は、やがて天正九年(1581年)3月の高天神城の戦いへと進んで行き、窮地に陥ったこの城に援軍を出せないまま徳川に奪回されてしまった形(3月22日参照>>)となった武田が、翌・天正十年(1582年)3月、勝頼の自害で以って滅亡する(3月11日参照>>)事は、皆様ご存じの通りです。

ドラマ等ではすっ飛ばされがちなので、あの長篠の戦いの後、すぐに武田が滅んでしまったかのように思いがちですが、そのあと7年間武田は耐え・・・言いかえれば、家康は7年かけて徐々に武田方だった諸城を攻略していったわけです。

この間の勝頼は、自身の家臣団との意思疎通がうまく行かず、それゆえ、各城への援軍派遣もままならない状態だった・・・それこそが1番の武田滅亡の要因だったのかも知れません。
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2018年8月18日 (土)

宇喜多&毛利の境目合戦~難攻不落の矢筈城と草刈重継

天正十一年(1583年)8月18日、本能寺の変の直後の秀吉と毛利の和睦によって決定した城の明け渡しに不満を持った草刈重継が佐良山城山下にて合戦しました。

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西への勢力拡大を図る主君=織田信長(おだのぶなが)に命じられ、天正四年(1576年)頃から中国地方の平定にまい進していた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、天正八年(1580年)の1月には三木城(みきじょう=兵庫県三木市上の丸町)(3月29日参照>>)、天正九年(1581年)10月には鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)(10月25日参照>>)攻略して、徐々に駒を進めていきます。

一方、その中国地方には西国の雄とうたわれた大大名=安芸(あき=広島県)毛利(もうり)がおり、その間に立たされる多くの国人領主や地侍たちは、大きな勢力のハザマで独立して生き抜く事は難しく、当然「どちらに味方すべきか」の選択を迫られつつ、織田に降る者or毛利に着いて戦う者、様々いたわけです。

やがて天正十年(1582年)4月、いよいよ秀吉は、未だ毛利の傘下にある備中高松城(たかまつじょう=岡山県岡山市)へと迫り、ここを水攻めに・・・5月21日には毛利の援軍も現地に駆けつけますが(5月7日参照>>)、その時はすでに城は湖の上・・・

そんな中の6月2日、ご存じ、京都で本能寺の変が起こります(6月2日参照>>)

嘘かマコトか、謀反を起こした明智光秀(あけちみつひで)が毛利に放った密書が間違って秀吉に届くというラッキーサプライズで、多くの織田家臣たちより早く信長の死を知った秀吉は、一刻も早く、ここを片づけて京都へ戻りたい・・・

そこで秀吉は、信長の死を隠したまま安国寺恵瓊(えけい)を通じて「高松城主=清水宗治(むねはる)の自刃を以って、すべてを収める」旨の交渉をし、天正十年(1582年)6月4日に和睦を成立させ(6月4日参照>>)、一路京都へ・・・これが有名な中国大返し(6月6日参照>>)で、電光石火で舞い戻った秀吉が光秀を葬り去るのが6月13日に山崎の戦い(6月13日参照>>)という事になるのですが・・・

一方、今回の毛利との和睦によって高梁川(たかはしがわ=岡山県西部を流れる)を境界線とした西側は毛利の所領・・・そして東側になる美作(みまさか=岡山県東北部)のほとんどを割譲される事になったのが、途中で毛利から織田へと鞍替えした宇喜多直家(うきたなおいえ)(6月15日参照>>)の息子=宇喜多秀家(ひでいえ)でした(直家は天正九年(1581年)頃に死去)

しかし、和睦したとは言え、そう簡単に毛利が撤退するわけもないし、その傘下がアッサリ城を明け渡してくれるわけでもなく・・・まして「信長が死んだ」となれば、その状況も微妙に変わります。

そもそも、この美作あたりの武将には、現段階で大国である毛利の傘下となっているだけで、毛利がこれほど大きくなる以前から、すでに、このあたりを領地としていた国人領主もいたわけで、そんな彼らにとっては「宇喜多領になったから…」と言われて「ハイ、そうですか」と先祖伝来の領地を手放すわけにはいかない・・・

Dscf0478c800aa 矢筈城跡(岡山県津山市)

そんな、この地に根付いていた国人領主の一人が、矢筈山(やはずやま=別名:高山)に築かれた壮大な山城=矢筈城(やはずじょう=岡山県津山市加茂町山下:高山城・草刈城とも)を本拠としていた草刈重継(くさかりしげつぐ)でした。

なんせ、この重継の草刈氏は、そのご先祖様が藤原鎌足(ふじわらのかまたり)・・・その後、平安時代の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)を経て鎌倉期に陸奥国斯波郡(しわぐん=岩手県盛岡市付近)草刈郷地頭職を賜った事から草刈と名乗りはじめ、その後、南北朝時代に美作の地頭となったので、この地にやって来た(もちろん諸説ありですが…)とされる名家ですから、その誇りもあろうという物・・・

しかも、この少し前、「織田に内通した」とされた兄=草刈景継(かげつぐ)死に追いやってまで毛利に忠誠を誓い、迫りくる秀吉傘下の武将たちと戦って来た重継ですから、ここに来てもなお、我が城を死守すべく宇喜多に対抗する事となります。

Yahazuzyoukusakari
矢筈城と周辺の位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

かくして天正十一年(1583年)8月18日、草刈重継は、秀吉軍への備えとして因幡(いなば=鳥取県東部)に兵を派遣すると同時に、宇喜多の傘下である川端家長(かわばたいえなが)の居城=佐良山城(さらやまじょう=津山市加茂町公卿)を攻め、主たる合戦場となった山下(さんげ)多くの首級を挙げる勝利を収め、家長を城から退去させたのです。

さらに、その勢いのまま因幡口へと展開し、そこを守っていた荒木重堅(あらきしげかた=木下重堅)の軍勢にも勝利します。

9月1日には、合戦勝利の報告を受けた毛利輝元(もうりてるもと)から、その功績を賞賛されたものの、その一方で秀吉の領地割譲の方針が変わる事はなく、それ以降は、先の和議の使者であった安国寺恵瓊の説得工作も強くなって来て、徐々に輝元の意向も傾き始めたと見え、この天正十一年(1583年)という年が暮れようとする頃には、本格的に、城の明け渡しの交渉がなされるようになって来ます。

翌・天正十二年(1584年)になって、草刈重継は仕方なく矢筈城を明け渡し、その後は小早川 隆景(こばやかわたかかげ=毛利輝元の叔父)に仕えたと言いますが、この矢筈城は、結果的に、築城以来1度も落城した事の無い難攻不落の堅城として、広く知られる事になったのだとか・・・

その後、この周辺で、最後まで抵抗していた美作岩屋城(いわやじょう=岡山県津山市中北上)中村頼宗(なかむらよりむね)が、7月になってようやく明け渡しを承諾して安芸に退去した事で、秀吉の支援によって抵抗勢力に対峙していた若き秀家の美作統治が完了する事となります。

一般的には、草刈重継の動向を含む、この美作割譲における一連の戦いは、「宇喜多・毛利 境目(さかいめ)合戦」と称されます。

ちなみに、矢筈城について・・・
後の江戸時代に、この矢筈山を訪れた津山藩士=正木輝雄(まさきてるお)は、その著書の中で
「凡(およ)そ高山は国中無双の一奇峰にして絶頂の巖壁(がんぺき)実に矢筈(やはず=掛軸を掛ける時の棒)の如く或(あるい)は天を仰ぎて口を開く獅子吼(ししく=周囲を覚えさせるように獅子が吠える様子)のさまにも髣髴(ほうふつ)たり」
と、この山が、険しい断崖絶壁を擁している様子を記しています。
(津山城に行った時にコチラも訪問しましたが、実際、メッチャ山の中でした(゚ー゚;)

現在の矢筈城跡は、まさしく城跡で、石垣や石塁などの遺構のみで建物類は残っていませんが、それでも岡山県内最大規模の中世山城史跡なのです。
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2018年8月13日 (月)

朝倉から若狭を守る~粟屋勝久の国吉籠城戦

永禄十一年(1568年)8月13日、朝倉義景の命を受けた軍勢が若狭に侵攻しました。

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今回の舞台となる国吉城(くによしじょう=福井県美浜町)は、現在の美浜駅から、少し東へ行った佐柿(さがき)の背後にある城山の山頂から尾根づたいに構築されていた山城です。

『若狭国志』によると、この城は、「かつて国吉(くによし)なる人物が構築した物を天文~弘治年間(1532年~1557年)頃に粟屋勝久(あわやかつひさ)が修復再興して、旧名をそのまま呼称した」とあります。

この粟屋勝久は、若狭(わかさ=福井県西部)守護(しゅご=現在の県知事)であった名門=若狭武田氏の被官ですので、つまりは、この城は、武田が本城とする小浜城(おばまじょう=福井県小浜市:現在の後瀬山城)出城の役割を果たしていた城です。

Asakurayosikage500a そんな中、隣国=越前(えちぜん=福井県東部)では、これまで守護であった斯波(しば)に取って代わり、去る応仁の乱(5月20日参照>>)で功績を挙げた朝倉孝景(あさくらたかかげ)越前守護に就任・・・その息子で、父亡き後に朝倉を継いだ朝倉義景(あさくらよしかげ)は、管領(かんれい=将軍補佐で幕府のNo.2)家で時の権力者である細川晴元(ほそかわはるもと)の娘を娶った事もあって、さらに力をつけて行く事に・・・

しかし一方の若狭武田氏では先代の武田信豊(のぶとよ)と息子で現守護の武田義統(よしずみ)の対立がお家騒動に発展して、力が衰えていくばかり・・・しかも、窮地に立った義統が朝倉に援助を求めた事から、他家の介入を不服に思う粟屋勝久は義統の息子=武田元明(もとあき)を擁立して抵抗します。

この状況・・・時の当主から支援を求められた朝倉義景にとっては、すでに若狭は自身が間接的に支配してるつもりなわけで、それに抵抗する粟屋らはせん滅するのみ・・・

そんな朝倉義景が、最初に若狭に侵攻したのは永禄六年(1563年)・・・この先、6年間に渡って繰り広げられる国吉城の戦いの始まりでした。

8月下旬、義景の命を受けた約1000騎が若狭に侵入すると、これを察した粟屋勝久は一円の地侍たちを即座に招集・・・地侍=約200と百姓=約800が国吉城に集結する中、その一部に弓や鉄砲を持たせて関峠(せきとうげ=福井県敦賀市と同県三方郡美浜町の境)にて防戦するように命じるとともに、残りの者で籠城の準備を開始します。

9月2日の未明、関峠に侵入して来た朝倉勢を待ち伏せていた粟屋方が一斉に迎撃を開始すると、フイを突かれた朝倉勢は大混乱となり、ここで一旦撤退・・・翌日は、朝倉勢も身構えつつ軍を進めますが、今度は城の間近まで引き寄せる作戦の粟屋方。

こうして城の城壁間近まで充分引き寄せたところで、百姓600人が一斉に、用意していた大石や木材を投げ落とします。

『国吉籠城記』によれば、朝倉勢は「大石や古木に当たる者が続出し、当たらない者も、その巻き添えを喰らって、皆、麓へとごろげ落ちて行った」とか・・・見ていた粟屋方は、このタイミングで城から出て追討を開始し、この最初の戦いは国吉城側の大勝利となったのです。

2度目の戦いは翌・永禄七年(1564年)またも夏の終わり・・・
この時の朝倉勢は、昨年のように直接城には向かわず、近くの芳春寺(ほうしゅんじ=福井県三方郡美浜町)に本陣を構えた後、弓や鉄砲を放ちながら尾根づたいに国吉城へと迫って来ますが、これが、なかなか城に当たらない・・・なんせ、国吉城は木々に囲まれた山城ですから・・・

やむなく、今度は反対方向から城へと向かって行きますが、これに対抗する粟屋方は、弓の名手を1組=14~15名の少人数に分けて木々の間に潜ませ、敵を間近まで引き寄せてゲリラ的戦法で対抗・・・まったく城に近づけない朝倉勢はまたしても退きます。

こうして長期戦を視野に入れた朝倉勢は、芳春寺に裏山に付城(つけじろ=攻撃の拠点となる城)芳春寺砦を築いて、ここを拠点に城・・・ではなく、近隣の村々に乱入して稲や野菜など農産物を略奪して自軍の兵糧を確保したのです。

これには地侍や百姓が激怒・・・自ら率先して砦に夜襲をかけて火を放つと同時に、別働隊が朝倉の本陣を襲撃し、またしても朝倉勢を退散させたのです。

このおかげか、翌永禄八年(1565年)は、朝倉勢による国吉城への直接攻撃は無く、8月下旬頃の近隣の村々への青田刈りで城内を枯渇させる心理戦、あるいは付城を修復するにとどまりました。

明けて永禄九年(1566年)8月下旬、もはや夏の恒例行事のように佐田村(さたむら=福井県三方郡美浜町)に押し寄せた朝倉勢は、馳倉山(ちくらやま=福井県三方郡美浜町:狩倉山城?)に、新たな付城を築いて、そこを前線基地として、またまた近隣の村々への略奪や放火を決行・・・しかし、「国吉城の籠城組が出撃!」の知らせを聞くなり、そそくさと城へと逃げ帰ったのだとか・・・

続いて、翌永禄十年(1567年)日本の夏・朝倉の夏・・・やって来ました8月下旬。

と言っても、この8月というのは旧暦なので、実は、その下旬ともなれば、そろそろ稲が実る時期・・・で、今回の侵攻の目的は、あくまで稲を刈る事だったようで、その作業を終えるとさっさと退散したようです。

もちろん、これも、敵の兵糧を失くして自軍の兵糧にするという、プラマイ大きい重要な作戦ではあるのですが・・・

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国吉城の戦い・関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなで、またもや!事実上の最終決戦となる永禄十一年(1568年)・・・安定の8月13日

しかし、今回の朝倉は少し違う・・・

国吉城を攻撃せず・・・いや、むしろ避けるように三方方面へ抜け、熊谷直之(くまがいなおゆき)が守る大倉見城(おぐらみじょう=福井県三方上中郡:井崎城)を攻めたのです。

しかし、結局、この大倉見城も落城させる事はできなかったのですが、その代わり(と言っては何ですが…)大倉見城攻撃の勢いのままに小浜へと向かい、粟屋勝久が担ぎあげた武田元明を拉致する事に成功します。

というより、先に書いた通り、すでに若狭を間接支配している気満々の義景から見れば「武田元明を保護した」・・・つまり、一部の抵抗者のために内乱が治まらないので当主を自分のお膝元に置いて、何とか収拾させようという事です。

現に、この後、朝倉の本拠地である一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市)朝倉館に移住した武田元明は、再三に渡って粟屋勝久に対し「朝倉に同調するように」と勧告しています。

しかし「例え元明を敵に回しても!」の思いが強い粟屋勝久は、それでも国吉城に籠城を続けます。

再び『国吉籠城記』によれば、この国吉城攻防は、永禄十二年(1569年)にも、何かしらの小競り合いがあったようですが、さすがの国吉籠城組も、こう毎年々々「夏の元気なごあいさつ」をされても、うんざり気味・・・長陣に嫌気がさし始めた元亀元年(1570年)、あの男が登場します。

そう、この2年前に室町幕府第15代将軍=足利義昭を奉じての上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)です(9月7日参照>>)

将軍の名のもと再三に渡って呼び掛けた上洛要請に応じない朝倉義景に対して、信長が攻撃を仕掛けた・・・あの「手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦」(4月26日参照>>)

この時、仲間の若狭国人衆とともに信長のもとにはせ参じた粟屋勝久は、自身の国吉城を信長の宿所として提供したばかりか、朝倉本拠の一乗谷での戦い(8月6日参照>>)でも一番乗りの功名を挙げる大活躍をし、見事、武田元明を救出しています。

その後は、元明の守護復帰は叶わなかったものの、仲間とともに「若狭衆」として、織田政権下で若狭を与えられた重臣=丹羽長秀(にわながひで)の配下に組み込まれ、あの天正九年(1581年)2月の御馬揃え(おんうまそろえ)でも先頭を飾った(2月28日参照>>)と言います。

粟屋勝久自身は、本能寺の変のすぐ後の頃に亡くなったと言われ、当主と仰いでいた武田元明も、その本能寺で明智光秀(あけちみつひで)に味方した事で命を落としますが(10月22日参照>>)、その元明の美人の奥さんが、夫の死後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の側室になった=京極龍子(きょうごくたつこ=松の丸殿)だった縁もあり、粟屋の子孫たちは秀吉の配下を経て藤堂高虎(とうどうたかとら)に従い・・・江戸時代を生き抜いたようです。

見事な身の振り方で、結果的に戦国を生き残った粟屋勝久・・・国吉城を譲らなかったのは、ただの意地っ張りではなく先見の明があったという事でしょうか。
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2018年7月 3日 (火)

本能寺直後~森長可の東濃制圧後半戦…加治田・高山・妻木城攻略

天正十年(1582年)7月3日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する加治田城を攻めました。

・・・・・・・・・

先日の【本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦】の続きのお話です。

くわしくは、その6月26日のページ>>でご覧しただくとして、おおまかな流れは・・・

Morinagayosi300a 天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)での武功により、主君=織田信長(おだのぶなが)から、武田の旧領のうち信濃(しなの=長野県)4郡(高井・水内・更科・埴科)海津城(かいづじょう=長野県長野市・現在の松代城)40万石を与えられた(3月24日参照>>)森長可(もりながよし)は、新領地の統治に取りかかりつつも、これを機に越後(えちご=新潟県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)と結ぶ者も多かった事から、次に越後への侵攻を開始しますが、このタイミングで本能寺の変(6月2日参照>>) が起こって信長が死亡・・・敵地深く入っていた長可は窮地に立ちながらも、6月23日に何とか旧領地の美濃(みの=岐阜県)金山城(かねやまじょう=岐阜県可児市)へと帰還します。

しかしその間に、信長の死を知った東美濃では、米田城(よねだじょう=岐阜県加茂郡川辺町)肥田忠政(ひだただまさ)をはじめ、上恵土城(かみえどじょう=岐阜県可児郡御嵩町)今渡城(いまわたりじょう=岐阜県可児市今渡・金屋城)長谷川兄弟大森城(おおもりじょう=岐阜県可児市)奥村元広(おくむらもとひろ=又八郎)などが織田へ反旗をひるがえしていたため、帰還の翌日=6月24日から、これらの諸城を一つ一つ制圧して行くのです。

7月2日には米田城を陥落させますが、城主の肥田忠政が加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)へと逃走したため、これを追撃する事に・・・

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森長可の東美濃攻略戦~位置関係図(広範囲)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

さて・・・
本能寺の変当時の加治田城の城主は、あの斎藤道三(さいとうどうさん)の末息子=斎藤利治(さいとうとしはる=新五郎)でしたが、彼は、信長の嫡男で岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)主の織田信忠(のぶただ)の側近であったので、主君とともに籠った二条御所で討死してしまいます。

つまり、城主が亡くなってしまったので、その直後の加治田城は、利治の兄で城代の斎藤利堯(としたか)がトップという事になるのですが、その利堯も、この時は、やはり城主が留守の岐阜城の留守居役を務めていたらしく、どうやら伯父(母の兄)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)に同調して岐阜城を占拠して不動の構えを見せていたようで(6月8日参照>>)・・・

かつて肥田忠政が信長に降った際、所領を安堵された後、この利治の配下に組み込まれていますので、おそらくは、そんな忠政にとっては勝手知ったる加治田城へ逃げ込んだ・・・という事だったのでしょう。

一方、先の米田城とともに、すでに馬串山砦(まぐしやまとりで=岐阜県 美濃加茂市下米田)も占拠している長可・・・加治田城へと向かうには飛騨川(ひだがわ)を越えなくてはなりませんが、肥田忠政はは、その飛騨川を挟んだ、すぐ向こう側の牛ヶ鼻(うしがはな=岐阜県美濃加茂市森山町)に砦を構えて、川を渡って来る森勢をせん滅せんと陣取っていました。

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森長可の東美濃攻略戦~戦闘&位置関係図:後半戦

↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

天正十年(1582年)7月3日、牛ヶ鼻から川を挟んだ小山砦に陣取った森勢が、目の前の河岸から張り出した突起部分が砦となっている牛ヶ鼻に果敢にアタックする事で戦闘が開始されましたが、崖をよじ登ろうとして討たれる者や崖を踏み外して川に落ちる者多数で、初戦は失敗に・・・

しかし、なおも攻める森勢は、崖登りもそこそこに、とにかく川を渡って対岸に行き、砦を包囲します。

そうなると多勢に無勢・・・数に勝る森勢が徐々に勢いを増して来て、ついに砦を支えられなくなった加治田勢は、やむなく砦を放棄して加治田城方面へと逃走し、牛ヶ鼻と加治田城の中間にある堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)で態勢を立て直そうとしますが、森勢の追撃が早すぎて断念し、そのまま加治田城へ合流しました。

その日の夕方、加治田勢を追うかたちで堂洞城址に登った長可は、17年前の合戦で敗れて以来廃城となっているこの城跡から、眼下に見える加治田城の防備を眺めながら作戦を練ったと言います。

一方の加治田城内には、城主の斎藤利治の嫡子(義興?)もいましたが未だ幼く、肥田忠政が代行するかたちで指揮を取り、準備を進めていきました。

明けて7月4日早朝より、今度は加治田城前を流れる川浦川(かわうらがわ)を挟んで、両軍合戦となります。

森勢は、正面の本隊で以って激しく攻めながら、林為忠(はやしためただ)率いる別働隊を川浦川の上流へと迂回させ、加治田勢の長沼三徳(ながぬまさんとく)の陣へ突入させ、敵の側面を崩す中を本隊が一気に突っ切る・・・

加治田勢は、山の麓に諸将の陣を分散して配置し、イザとなった時には、一斉に山上の主郭へと集中して籠城する作戦でしたが、勢いづく森勢を抑えきれず、この河畔の戦いにて崩れ去り、山上の主郭は戦場にもならないうちの昼過ぎに加治田城は落城し、結局、肥田忠政はどこへともなく落ちて行きました(討死説あり)

合戦後は、長沼をはじめとする井戸宇右衛門(いどうえもん)湯浅新六(ゆあさしんろく)など、この戦いに出た多くの将が長可の配下となって、やがて加治田衆(かじたしゅう)と呼ばれて、後の豊臣政権下で活躍する事になるのです。

とは言うものの、実は、この合戦の経緯&結果は諸説あって、よくわかっていないのです。

河畔で合戦になったものの、森勢が押し返されて引き分けになったとか、後半には加治田勢が盛り返して勝利したとか・・・

しかし、上記の豊臣政権下での加治田衆の話を見ても、あるいは、この後の長可の行動を見ても、完全勝利とは行かないまでも、おそらくは森勢が優位に立った状態で、今回の合戦を終えたのではないか?と私は考えています。

なんせ、この後、森長可は、
「この東美濃は、もちもと我が領地であるので、刃向かう者は討伐する!」
と宣言して、高山城(たかやまじょう=岐阜県土岐市土岐津町)平井頼母(ひらいたのも)妻木城(つまぎじょう=岐阜県土岐市)妻木頼忠(つまきよりただ)に、速やかに城を明け渡すよう要求し、拒否した彼らを、平井頼母は自刃に、妻木頼忠は捕えて人質として金山城下に住まわせるという事をやってますから・・・

これは、やはり、加治田城での戦いに勝った状態でないとできないように思います。

まして、この後、この長可の勢いを恐れた明知城(あけちじょう=岐阜県恵那市明智町)遠山利景(とおやまとしかげ)小里城(おりじょう=岐阜県瑞浪市)小里光明(おりみつあき)は戦う事無く、徳川家康(とくがわいえやす)を頼って、一旦、城を去っていますから、やはり森勢の方に軍配が上がっていたのではないかと・・・

ただし、同じように、長可が城の明け渡しを求めたものの苗木城(なえぎじょう=岐阜県中津川市)遠山友忠(とおやまともただ)友政(ともまさ)父子は、この直後の天正十年(1582年)8月の戦いに勝利し、長可を撤退させています。

その後、態勢を立て直した長可は、翌天正十一年(1583年)の5月に苗木城へと攻め寄せ・・・と、この苗木城に戦いについては、後日あらためて、その日付でくわしく書かせていただくつもりですが、

その2度目の苗木城攻めに勝利した事で、加茂(かも)可児(かに)土岐(とき)恵那(えな)の4郡を平定した長可は12万7千石の領主となり、信長亡き後は、東美濃の大勢力で以って、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の配下として活躍する事になるのです。
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2018年6月26日 (火)

本能寺直後~森長可の東濃制圧前半戦…前野・大森・米田城攻略

天正十年(1582年)6月26日、本能寺の変の直後、東美濃を制圧する森長可が、敵対する大森城を包囲しました。

・・・・・・・・・

わずか13歳の時に、織田家重臣だった父=森可成(もりよしなり)と兄=可隆(よしたか)宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)の戦い(9月20日参照>>)で同時に亡くして家督を継いだ森長可(もりながよし)は、以来、主君=織田信長(おだのぶなが)の下で、年上の重臣たちに交じって、彼らに引けを取らぬ働き・・・いや、むしろ年齢が若いぶん、数々の戦いで先陣を切って縦横無尽に戦場を駆け抜ける大活躍ぶりで、天正(1572年~)に入った20歳頃からは、信長の嫡男=信忠(のぶただ)配下の与力として軍の一翼を担う武将となります。

Morinagayosi300a 天正十年(1582年)3月の甲州征伐(3月11日参照>>)でも先陣を切って武田領へと入り、高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)攻め(3月2日参照>>)等で活躍・・・その功績により、戦後の論功行賞で、武田の旧領のうちの信濃(しなの=長野県)4郡(高井・水内・更科・埴科)海津城(かいづじょう=長野県長野市・現在の松代城)40万石を与えられます(3月24日参照>>)

ちなみに・・・
これにより、父から受け継いだ美濃(みの=岐阜県)金山城(かねやまじょう=岐阜県可児市)は弟の森蘭丸(らんまる=成利)が譲り受けています。

で、翌4月に海津城に入った長可は、早速、新領地の統治に取りかかるわけですが、当然、これまで敵地であった場所を治めるのは容易ではなく、まして、未だ健在の上杉景勝(うえすぎかげかつ)越後(えちご=新潟県)に近い信濃北部には、これを機に上杉と結ぶ残党もいたわけで・・・

そんな中、織田軍の北陸方面担当だった柴田勝家(しばたかついえ)が絶賛攻撃中の魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)(6月3日参照>>)への救援に、景勝率いる上杉本隊が向った事を知った長可は、信濃の国衆らと交渉しつつ、翌5月には留守となった越後への侵攻も開始します。

ところが、そんなこんなの6月2日・・・ご存じ、あの本能寺の変(6月2日参照>>) が起こります。

主君=信長の死とともに、小姓として本能寺にいた弟たち=蘭丸&坊丸(ぼうまる=長隆)力丸(りきまる=長氏)の死も知った長可。

しかし悲しんでる暇はありません。

当然、仇も討たねばなりませんが、それより、敵地の真っただ中にいる自身の身の安全も・・・早速、撤退を開始した長可ですが、「信長死す」のニュースはまたたく間に敵にも知られる事となり、なんと信濃の国衆では、埴科郡(はにしなぐん)出浦盛清(いでうら もりきよ)以外、全員が驚きの手のひら返しで敵に回ったのだとか・・・

しかも、ともに甲州征伐を成し遂げて、その功績で信濃木曽谷2郡を与えられたばかりの木曽義昌(きそよしまさ)までもが「長可の命を狙っている」てな噂も・・・

なんせ、旧武田の本拠だった甲斐(かい=山梨県)を与えられた河尻秀隆(かわじりひでたか)などは、この時、武田の残党による一揆で、その命落としてます(6月11日参照>>)からね。

この状況を、絶好のチャンスと見たのが、米田城(よねだじょう=岐阜県加茂郡川辺町)肥田忠政(ひだただまさ)でした。

実は忠政は、もともと、本拠としていたこの米田城以外にも、前野城(まえのじょう=岐阜県加茂郡八百津町)という支城や馬串山砦(まぐしやまとりで=岐阜県 美濃加茂市下米田)を持つ、このあたりの有力武将でしたが、信長が美濃に侵攻した際に、いち早く味方になった事で、その領地を安堵されたものの、その後に、信長直臣の長可が、自らの領地に隣接する金山城に入った事に嫌悪感を抱きながらいるところを、さらにその後、前野城と馬串山砦を長可に譲渡というか占拠されてしまっていたのです。

しかし、それも、バックに信長が居る事を踏まえて、波風立てないように我慢していたところわけで・・・

その信長がいなくなったわけですから・・・しかも長可は、未だ敵地です。

信長の死の翌日=6月3日の夕刻に、このニュースを知った肥田忠政は早速、兵を集め、5日の早朝に出陣し、わずかの守護兵がいるだけの前野城と馬串山砦を攻撃するのです。

守護兵は守る間もなく金山城へと逃走・・・こうして城と砦を奪還した肥田忠政は、ほどなく金山城から敵がやって来るものと想定していましたが、さすがに、この状況に金山城も右往左往していたのか?(城主の蘭丸も死んでるので)、金山城から新たな兵が来る事は無かったため、しっかりとその動きが無い事を確認した後、守りの兵を置いて、自らは米田城へと引き揚げ、次は、長可が、この美濃に戻って来るところを討ち果たさんと、その準備に入ります。

一方、この間にも、命がけの撤退を決行していた長可・・・近寄る残党を斬って捨て、襲いかかる者すべてをなぎ倒し、鬼の形相で駆け抜けた長可は、6月24日、何とか旧領の金山へと帰還します。
(この事で、その後の長可は、『鬼武蔵』と呼ばれるようになる…らしい)

翌25日、岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に立ち寄って織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)らに挨拶を済ませた長可は、留守の間の肥田忠政に行動に怒り爆発な中、彼に味方する東美濃を攻略すべく、その日のうちに出陣したのです。

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森長可の東美濃攻略戦~位置関係図(広範囲)
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

まず向ったのは金山城の南西に位置する上恵土城(かみえどじょう=岐阜県可児郡御嵩町)・・・当時の城主だった長谷川五郎右衛門は、森勢の攻撃を予想して、すでに防御を固めてはいましたが、城に集う兵はわずかに100・・・

一方の森勢は300ほど・・・しかも可児川(かにがわ=岐阜県木曽川水系)河畔に建つ上恵土城は、河畔側の大手(おおて=正面)は、その段差を利用する絶壁となっていましたが、搦手(からめて=裏面)は緩やかな丘陵でわずかな堀しかなく、いたって守りが弱い。

それを百も承知の森勢は、その数を武器に搦手から一気に攻めまくり、無勢の城側は、またたく間に窮地に陥り、ほどなく落城・・・城内の者は近くの今渡城(いまわたりじょう=岐阜県可児市今渡・金屋城)を目指して敗走していきます。

この今渡城には、長谷川五郎右衛門の弟=長谷川彦右衛門が、兄に同調して立て籠もっていましたが、コチラは防御策もほとんど無い、城というよりは居館のような建物であったため、上恵土城からの逃走者を追撃する形で森勢が押し寄せると、その勢いにひとたまりも無く陥落・・・長谷川兄弟も、いずこともなく逃走していきました。

この両城の落城の知らせを聞いて、「いよいよ次は我が城への森勢来襲!」を悟ったのは、大森城(おおもりじょう=岐阜県可児市)奥村元広(おくむらもとひろ=又八郎)・・・要所に柵を配し、女子供を非難させて臨戦態勢を整えた天正十年(1582年)6月26日、森家の重臣=林為忠(はやしためただ)率いる300の先陣が、大森城を取り囲みました。

ただ・・・もはや援軍を望めない大森城が決死の覚悟で防戦したため、容易に落とす事ができなかったため、林為忠は金山城へと援軍の要請をし、合計500となった攻め手で猛攻を仕掛けます。

やがて、多くの死傷者を出すに至った大森城は、「これ以上支える事は不可能」と判断した奥村元広によって火が放たれて落城・・・元広は、この混乱の中、雑兵に紛れて逃走しました。

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森長可の東美濃攻略戦~戦闘&位置関係図
↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>) 

さて、この頃、長可は、本能寺で亡くなった弟たちの葬儀を7月2日に執り行おうと準備を整えていましたが、これを知った肥田忠政は近隣の諸将に声をかけ、この機会に金山城を襲撃しようと計画します。

もちろん、この計画を知った長可の怒りはMAX・・・葬儀そっちのけで2日の未明に木曽川(きそがわ)を渡って前野城と馬串山砦をすぐさま奪い返し、その足で米田城に先制攻撃を仕掛けます。

「夜が明けたら…」と思っていたところの思いがけない襲撃に驚いた肥田忠政は、にわかに腹痛に襲われたとかで、応戦を家臣に任せて、自らは素早く加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)へと逃れます。

残った城兵は、家老の指揮のもと、なかなかの戦いぶりを見せますが、さすがの大軍相手にはどうにもならず、やがて城に火が放たれて、米田城は落城しました。

こうして、米田城を落とした長可は、すぐさま金山城へと戻り、当初の予定通り葬儀を行ったのだとか・・・

さぁ!次は当然、肥田忠政が逃げ込んだ加治田城~という事になりますが、その続きのお話は、城への攻撃が開始される7月3日のページ【森長可の東濃制圧後半戦】>>でどうぞ・・・m(_ _)m
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2018年6月15日 (金)

織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦

天正八年(1580年)6月15日、織田方へと降った宇喜多直家が、毛利方の湯原春綱らが守る美作祝山城を包囲しました。

・・・・・・・・・・・

戦国時代の中国地方を、長きに渡って二分して来たのが、山陰を牛耳る出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)と、山陽に勢力を広げる周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)・・・中国地方の国人領主たちは、その大物の間に挟まれて、度々揺れ動く状態でしたが、

いつしか、その両者の間を縫うように頭角を現して来たのが安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)でした。

始めは尼子傘下だったのが、途中で大内に鞍替えし(1月13日参照>>)、やがて、その両方を倒して西国の覇者となりつつあった元就・・・
厳島の戦い(10月1日参照>>)
月山富田城の開城(11月28日参照>>)

それと前後して、上り調子の毛利の力を借りて、備中(びっちゅう=岡山県西部)の覇者となった松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)主=三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)、毛利と敵対する備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下の宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまった事で、父の死を受けて後を継いだ息子の元親(もとちか)は直家を敵視するようになるのですが、

そんなこんなの天正元年(1573年)、5年前に上洛を果たして(9月7日参照>>)畿内を制していた織田信長(おだのぶなが)を、毛利に攻められて一旦滅亡した尼子が頼った事から(5月14日参照>>)、信長の中国攻めが確定的となり、当然、織田は毛利と敵対関係に・・・同じ頃には浦上宗景も信長を頼り、領地安堵の約束を取り付け、コチラも織田傘下という事になっています。

Ukitanaoie300a そうなった所で、主君=浦上からの独立を試みる宇喜多直家が、敵の敵は味方とばかりに、天正二年(1574年)に毛利の傘下となった事から、「父の仇」の恨みを持つ三村元親は、やっぱり敵の敵は味方とばかりに、逆に織田へ通じてコチラも毛利から鞍替え・・・

この三村の離反に怒った元就は、翌天正三年(1575年)、孫の毛利輝元(てるもと)と息子の小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)を派遣して松山城を攻め、三村をせん滅します(6月2日参照>>)

その後も、毛利の傘のもと備中から美作(みまさか=岡山県東部)へと支配地域を拡大し、浦上宗景の追放をも果たす宇喜多直家でしたが、信長軍の中国方面攻略担当の羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の攻撃戦線が本格的となった天正五年(1577年)には、支城としていた上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を落とされ、そこに、あの尼子の残党が入城・・・

当然、毛利はこれを奪い返そうとするわけですが・・・実は直家、この上月城奪還戦には参戦してません。

どうやら、このあたりから、日和見=つまり、毛利と織田のどっちが強いか?二股かけて様子見ぃしてたっぽい・・・もちろん、イケる方に味方しようと考えてたわけですが、

さりとて、他の城の攻略に忙しい織田方は、上月城への援軍に数を割けず、結局、上月城は天正六年(1578年)7月に落城し、毛利の手に・・・(5月4日参照>>)

そんなこんなの天正七年(1579年)、2月~3月頃から、ちょくちょく毛利への反発の姿勢を見せ、秀吉を通じて織田への内応を打診し始めた直家は、10月になって従兄弟の宇喜多基家(もといえ=直家の養子?)を信長のもとに派遣して降伏します。

こうして、正式に織田の傘下となった直家は、一族を動員して、備中で忍山城(しのぶやまじょう=岡山県岡山市北区)を陥落させ、天正八年(1580年)6月15日には、毛利方の属城である祝山城(いわいやまじょう=岡山県津山市)を包囲したのです。

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祝山合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この祝山城は、医王山城(いおうやまじょう)岩尾山城(いわおやまじょう)とも呼ばれ、津山から加茂川に沿って鳥取方面へと抜ける街道沿いにある事から、古くから攻防の要所として、絶え間なく取ったり取られたりしていた場所で、戦国時代に入って、しばらくは尼子の物となっていたのを浦上が奪い、それをまた尼子が奪い返し、尼子の滅亡後は毛利の物となって、毛利配下の福田盛雅(ふくだ もりまさ)が城主を務め、この時は、湯原春綱(ゆはらはるつな)らが援軍として入城していました。

直家が祝山周辺に数ヶ所の付城(つけじろ=攻撃のための出城)を設置して完全包囲した事から、やがて祝山城は兵糧不足に陥り窮地に立たされます。

この状況を救援すべく、毛利輝元自らが小早川隆景とともに出陣・・・そこに吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)も加わって、まずは忍山城を総攻撃し、またたく間に陥落させます。

しかし、備前の忍山城から美作の祝山城までの間には、虎倉城(こくらじょう=岡山県岡山市北区)篠向城(ささぶきじょう=岡山県真庭市・篠葺城)など、まだまだいくつかの城が立ちはだかっていました。

それらの諸城に対し、城下に火を放って包囲したり、あるいは陥落させつつ、着々と侵攻していく毛利軍・・・しかし、やがて織田の支援を受けた宇喜多軍が反撃に出ます。

これまで、宇喜多家臣の江原親次(えばらちかつぐ)から昨年奪った大寺畑城(おおてらはたじょう=岡山県真庭市)を拠点に宇喜多に属する諸城を攻撃していた毛利方でしたが、今回の猛反撃で形成が不利となって陣を南下せざるを得なくなり、ここに来て祝山城の救援は限りなく難しくなって来ます。

それでも輝元は、9月には一旦戻っていた本拠=吉田郡山城(よしだこおりやまじょう=広島県安芸高田市)を再び出陣し、同じく小早川隆景とともに高田(たかだ=岡山県真庭市)に着陣しますが、宇喜多勢に阻まれて、どうしても、その先に進めません。

11月15日になって、未だ籠城して踏ん張る祝山城に向けて、銀10枚とともに、
「宇喜多が数か所の付城で包囲して昼夜を問わず攻撃して来るため、かなり進み難い…にも関わらず、籠城して持ち堪えている君らの忠義は素晴らしい!
救援の事は元春らと相談して早めに何とかするので、それまで、守りを固めて頑張ってくれ」

と激励の手紙を送っていますが、結局、その元春の救援を待つ事ができず、祝山城は、この年の12月下旬に城を明け渡す事になり、城を守っていた諸将も退去します。

このため、輝元&隆景の両人も、美作から撤退して備中へと帰還したのでした。

と言っても、もちろん、これはつかの間の休戦・・・これ以降も、直家は周辺を転戦して毛利傘下の諸将と合戦する事になりますが、一方で、秀吉も、この時すでに播磨(はりま=兵庫県南西部)を平定しており、
●4月1日:【英賀城の戦い】>>
●4月24日:【長水城の戦い】>>
翌・天正九年(1581年)10月には鳥取城(とっとりじょう=鳥取県鳥取市)を干殺しにし(10月25日参照>>)、さらに、その翌年の天正十年(1582年)には、有名な備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山県岡山市)の水攻め(6月4日参照>>)・・・となりますが、ご存じのように、ここで、あの本能寺(6月2日参照>>)

本能寺で死んだ信長の弔い合戦をすべく、一旦、毛利と和睦して京都へと向かう秀吉(6月6日参照>>)・・・一方で、その和睦で以って、美作一帯は宇喜多の物となったものの、本能寺の一件が影響したのか?毛利も簡単には撤退せず、宇喜多&毛利、両者の関係はさらに悪化するのですが、

実は、直家自身は、すでに天正九年(1581年)の末、もしくは天正十年(1582年)の正月に、居城の岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)にて病死しており、この後の毛利とのアレやコレやは、幼くして宇喜多の家督を継いだ息子の秀家(ひでいえ)が、秀吉のサポートを受けながら挑んでいく事になるのですが、そのお話は、いずれまたの機会にさせていただきたいと思います。
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2018年6月 8日 (金)

本能寺のドサクサで…稲葉一鉄VS安藤守就の本田・北方合戦

天正十年(1582年)6月8日、本能寺の変のドサクサで旧領を回復しようとした安藤守就と、それを阻止する稲葉一鉄が戦った本田・北方合戦がありました。

・・・・・・・・・

永禄十年(1567年)8月に、あの織田信長(おだのぶなが)が、斎藤道三(さいとうどうさん=利政)の孫にあたる龍興(たつおき)を破って手に入れた美濃(岐阜県)稲葉山城(いなばやまじょう)(8月15日参照>>)・・・ご存じのように、信長は、この稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)と改め、ここを拠点として天下への一歩を踏み出したわけですが、

それには、この半月ほど前に、主君を見限って織田方に内応してくれた西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)の影響が大きかったのです(8月1日参照>>)

その西美濃三人衆とは、
西美濃曾根城主稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)
西美濃大垣城主氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)
西美濃北方城主安藤守就(あんどうもりなり)
の三人・・・

いずれも、斎藤以前に美濃の守護であった土岐頼芸(ときよしなり)の時代からの家臣たちですから、内々の事や地の利を知りつくした彼らが内通してくれたおかげで、その後に続く者も多数出て、一気に城を落とす事ができた事は確か・・・

その後の彼らは、もちろん、信長直属の部隊として各地で活躍・・・元亀元年(1570年)の、あの姉川(あねがわ)の戦いなどは、彼ら西美濃三人衆の側面攻撃失くしては信長の勝利も危うかったかも(6月28日参照>>)

それ故、危険も多く、信長最大のピンチとも言われる元亀二年(1571年)5月の最初の長島一向一揆戦では、退却の殿(しんがり=最後尾)を務めた氏家卜全が討死しています(5月16日参照>>)

しかし、残る二人は、その後も柴田勝家(しばたかついえ)の援軍として加賀(かが=石川県南部)に行ったり、羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)の援軍として中国攻めに向かったり・・・と、西に東に転戦していたわけですが、

そんなこんなの天正八年(1580年)、安藤守就は、突然、信長から謀反を疑われて息子=定治(さだはる=尚就とも)共々、追放されてしまうのです。

『信長公記』では、石山合戦でゴチャゴチャやってた信長が1番ややこしい時期に「野心含み申す」=つまり、信長のピンチに乗じて謀反を計画したという事になってますが、一説には、息子の定治が、絶賛敵対中の武田勝頼(たけだかつより)に通じた・・・という話もあり。

ただし、それも、本当に、この父子に謀反や裏切りの気持ちあったのか?信長の疑心暗鬼の思い違いなのか?は定かでなく・・・なんせ、この6年前の天正二年(1574年)には、稲葉一鉄も謀反の疑いをかけられ追放されかけた事もありましたから。

この時の一鉄は、見事にその疑いを晴らしたわけですが(11月19日参照>>)、安藤父子の場合は残念ながら、美濃の武儀郡(むぎぐん=岐阜県関市付近)蟄居(ちっきょ=謹慎)となり、その身は一鉄に預けられたのです。

そんなこんなの天正十年(1582年)6月2日、京都で、あの本能寺の変が起こり、信長が横死(6月2日参照>>)・・・これを機に、安藤父子が旧領の回復に立ちあがったのです。

そこには散り々々になっていた一族や旧家臣たちが続々と集まって来て、鏡島城(かがしまじょう=岐阜県岐阜市鏡島)河渡城(こうとじょう=岐阜県岐阜市河渡)北方城(きたがたじょう=岐阜県本巣郡北方町)本田城(ほんでんじょう=岐阜県瑞穂市本田)軽海西城(かるみにしじょう=岐阜県本巣市軽海)などの旧領周辺の諸城に立ち返り、防備を固める修復作業に入ったのです。

Inabaittetu700a これを知った稲葉一鉄・・・「このままでは美濃が無法地帯となってしまう」とばかりに、まずは、この時、岐阜城内にいた甥っ子である斎藤利堯(さいとうとしたか=一鉄の妹と斎藤道三の子)城内を掌握させて、周辺に禁制を掲げて、織田×明智の両方に味方しない=中立の立場を取るとして不動の構とさせました。

また、安藤父子に対しては、もともとは彼らの持城であったとは言え、現段階では自分の領地の城に無断で入って勝手に合戦の準備をされてしまっている状況・・・

ただ、畿内の慌てぶりも想像に難くない中で、この急を要する事態の采配を上層部に問うている場合では無いわけで・・・

しかも、上記の甥っ子への指示なんか見ると、ひょっとしたら一鉄には、これを機に独立しようとの考えもあったかも知れず・・・

とにもかくにも、一鉄は、織田×明智のどちらにも連絡する事無く、自身の判断で以って、安藤父子の討伐を決意するのです。

まずは、安藤の重臣である稲葉長右衛門(いなばちょうえもん)が籠る本田城へ・・・一鉄方は、稲葉左近(いなばさこん)加納雅楽(かのううた)数十騎が一丸となって攻めかかって激しく交戦しますが、痛手も多く、一旦退却しようとしている所へ村瀬大隅(むらせおおすみ)率いる精鋭80余騎が駆けつけ、城将の長右衛門を討ち取ったほか、多くの首級を挙げ、残党も追撃して、一鉄側の大勝利となります。

幸先の良いスタートにゴキゲンの一鉄は、次に安藤父子らメインキャストの籠る北方城へと駒を進めます。

さすがにコチラは城下にいくつもの陣を設けて、安藤側も万全の守備態勢・・・

かくして天正十年(1582年)6月8日未明・・・北方城下に一鉄が押し寄せて、戦闘開始となります。

激しいぶつかり合いの末、午前10時頃には双方ともに100名以上の戦死者を出しますが、その死者の中には安藤守就も・・・84歳という高齢ながら、見事に自軍を指揮し千代保ヶ淵(ちよぼがふち=北方城の西側)付近で、壮絶な討死を遂げたとの事。

息子の定治も一族&旧臣らとともによく戦ったものの、数に勝る一鉄勢に押され、やはり討死します。

主を失った軍団は、やがてバラバラになって敗走し、北方城が陥落・・・ここに戦国武将の美濃安藤氏は滅亡しました。

こうして、北方での合戦に勝利した一鉄は、息子の貞通(さだみち)を軽海西城に、自らは河渡城へと向かったと言います。

その後、安藤父子の遺体は、一鉄の手配にて、配下の者から、すでに仏門に入っていた守就の弟=湖叔(こしゅく?)のもとに送られ、龍峰寺(りゅうほうじ=岐阜県岐阜市)に葬られました。

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本田・北方合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、ここらあたりの事は、残っている史料が少なく、実はかなり曖昧で、今回の安藤父子の場合、「本田や北方の城に入って防備を固める」どころか、城を奪い返す前に合戦状態となって、そのまま鎮圧されたとも言われます(←つまり城は奪い取ってない?)

また、一説には、この時の安藤の敗戦を伝え聞いた岐阜城の池田信輝(のぶてる)が、救援のために2000騎を率いて河渡城へと向かい、先鋒として迎え撃った稲葉家臣=石川三衛門(いしかわさんえもん)なる武将の部隊を全滅させてしまった事で、この池田隊の襲撃を恐れた一鉄が、自らの居城=根城(そねじょう=岐阜県大垣市)に戻って、周辺の百姓たちを総動員して数百の幟(のぼり)を立て、一晩中かがり火を焚かせて警戒していたものの、池田隊の、それ以上の攻撃は無かった・・・なんて話もあるとか・・・

でも、この池田信輝って、あの池田恒興(つねおき)の事ですよね?

確か、この本能寺の変の頃の恒興は、荒木村重(あらきむらしげ)との花隈城(はなくまじょう=兵庫県神戸市中央区)戦い(3月2日参照>>)の功績により、摂津(せっつ=大阪府北中部)一帯を領地としていたはず・・・まぁ、恒興は、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)(11月28日参照>>)の付属なので、当時は信忠が城主だった岐阜城にいたとしてもおかしくは無いのかも知れませんが、一般的には、本能寺の一報を聞いて、あの「中国大返し」(6月6日参照>>)で戻って来た秀吉らに、摂津富田(とんだ=大阪府高槻市)で6月12日に合流して、ともに山崎の合戦にて明智光秀(あけちみつひで)を討った(6月13日参照>>)というのが定説です。

その恒興が、その4日前に稲葉勢と相まみえるとは非常に考え難い・・・しかも、上記の通りだとすると、岐阜城は中立の立場にあったわけですし・・・

で、勝手な妄想をお許しいただくなら・・・この時の池田は恒興ではなく、ひょっとしたら恒興の四男で、軽海西城主の池田家家老=片桐俊元(かたぎりとしもと)の養子となっていた池田長政(ながまさ)の事なのでは?

後に大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)主となった恒興とともに、その出城である池尻城(いけじりじょう=同大垣市)へと片桐俊元が移るのは、この本能寺の変の翌年ですから、直後この頃は、未だ、自らの軽海西城にいたはず・・・なら養子の長政も~と思いきや長政は天正三年(1575年)生まれだから、まだ8歳だったww

て事は、稲葉配下の石川隊を全滅させたのは片桐俊元自身なのか?

だって、この時、安藤父子に奪われていないのであれば、軽海西城は片桐俊元の城なわけですから、そこに、ひょっとしたらこのチャンスに独立しようとしているかも知れない一鉄の息子=貞通が侵攻して来た事になるわけで・・・そりゃ守りますわな~

いやいや、あくまで妄想ですが、そう考えると、やれ数十騎だ、80余の援軍だって合戦に、「2000騎を率いて参戦する池田隊」の辻褄が合う気はします。

いやはや、辻褄の合わない記述を引っ張り出して、アレコレ想像するのは楽しいです。

ただ、今回の本能寺の変のドサクサで、信長傘下の者同志、あるいは旧武田の遺臣などとの戦いがアチコチ起こった事は確かで、細かな事はよくわからない部分が多いものの、おそらくは、この美濃一帯でも、そのような、ドサクサ紛れの領地の奪い合いがあったものと思われます。

★参照:本能寺のドサクサで起こった戦い
神流川の戦い>>
河尻秀隆と武田残党>>
長宗我部元親の阿波平定>>
天正壬午の乱>>
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2018年6月 2日 (土)

備中兵乱~第3次・備中松山合戦、三村元親の自刃

天正三年(1575年)6月2日、備中兵乱第3次・備中松山合戦で、毛利元就に敗れた三村元親が、松山城下の松連寺にて自刃しました。

・・・・・・・・・・・

周防(すおう=山口県の東南部)の名門=大内(おおうち)とを倒し、西国の雄となった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)・・・

その元就の援助を得た成羽城(なりわじょう=岡山県高梁市成羽町・鶴首城)城主=三村家親(みむらいえちか)は、永禄二年(1559年)の猿掛城(さるかけじょう=岡山県小田郡矢掛町)への攻撃を皮切りに庄為資(しょうためすけ=荘為資)を打ち破り、自らの長男=元祐(もとすけ)を為資の養子とし、庄元資(しょうもとすけ=・荘元祐・穂井田元祐)と名乗らせて猿掛城に置き、自身は松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)の城主となり、成羽城は弟の三村親成(ちかしげ)に任せて、事実上の備中覇者となります(2月15日参照>>)

しかし、その家親は、永禄九年(1566年)、当時は備前(びぜん=岡山県東南部)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の配下にあった宇喜多直家(うきたなおいえ)の放った刺客によって暗殺されてしまいます。

父の死を受けて三村家の当主となった家親の次男=元親(もとちか)は、兄=元資とともに父の弔い合戦をすべく、翌永禄十年(1567年)に直家の明禅寺城(みょうぜんじじょう=岡山県岡山市・明善寺城)に夜襲をかけますが、

この合戦は、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれるほどの三村側の敗退となって、その追撃戦で兄も討死にしてしまい(元資の死に関しては諸説あり)、かえって直家の浦上家内での地位を上げてしまう事になってしまったのです。

こうして力をつけた直家は、やがて浦上家からの独立を画策し、主君=宗景と敵対していた毛利と結ぶ事になります。

この同盟に関しては、直家が暗殺&謀略&騙し討ちと腹の中真っ黒けの男だった事で、吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)をはじめ、毛利家内では反対する者も多かったと言いますが、結果的に毛利と宇喜多の同盟が成った以上、ここまで毛利とともに生きて来た元親とて、父の仇&兄の仇と結んだ毛利に対して、物申さぬわけはござんせん。

天正二年(1574年)、「敵の味方は己の敵」&「敵の敵は味方」とばかりに元親は、畿内を制し、さらに西へと進みつつあった織田信長(おだのぶなが)と通じ、浦上宗景とも連携を取る事に・・・となると、毛利も黙ってはいられません。

天正二年(1574年)11月、父=元就の命を受けた小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)が、配下の諸将に激を飛ばし、甥の輝元(てるもと=元就の孫)とともに、三村討伐のため、備中へと侵攻したのです(吉川元春は尼子と抗戦中)

第3次・備中松山合戦(びちゅうまつやまかっせん)、または備中兵乱(びっちゅうひょうらん)と呼ばれる一連の戦いです。

まずは小田(おだ=岡山県矢掛町)に陣を置き、天然の要害と名高い松山城を避けて、先に備中に点在する三村方の諸城を攻略する事にした隆景は、これを機に元親と袂を分かち毛利方に降った三村親成を先鋒に、国吉城(くによしじょう=岡山県高梁市)を攻撃・・・城主の三村政親(みむらまさちか=元親の叔父)は脱出して松山城へと向かうものの、城は年が明けた正月元旦に落城し、残っていた城兵は、ことごとく惨殺されました。

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備中兵乱・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

1週間後の1月8日には、楪城(ゆずりはじょう=岡山県新見市・杠城)を陥落させて城主の三村元範(もとのり=元親の弟)を討ち取ります(城外へ逃走後に討たれた説あり)

次に、元親の親類筋にあたる家臣=河西之秀(かわにしゆきひで=川西之秀)の守る荒平山城(あらひらやまじょう=岡山県総社市)を囲みますが、城兵による鉄壁の守りに阻まれたため、一旦、元親の弟=上田実親(うえださねちか)の守る鬼身城(きのみじょう=岡山県総社市)を数日の攻防の末1月29日に落として実親を自刃させた後、鬼身城の落城を知って戦意を消失した荒平山城を奪いました。

この勢いに、荒平山城の東南に位置していた幸山城(こうざんじょう岡山県総社市)の城主=石川久式(いしかわひさのり・久孝=元親の妹婿)は、松山城を救援すべく、この城を諦めて脱出したため、この幸山城も3月中に陥落しました。

残る三村方の城は、本拠の松山城と、元親の妹が嫁いだ上野隆徳(たかのり)が守る常山城(つねやまじょう=岡山県岡山市)の二つとなってしまいました。

2月の末に宇喜多直家軍が合流した毛利方では、先に常山城を包囲して松山城との連絡を断ち、3月16日、いよいよ松山城への攻撃を仕掛けるのです。

午前6時、高梁川を渡って鶏足山(けいそくさん=岡山県高梁市)に陣取った毛利軍が、城の麓の陣屋を襲撃すると松山城から三村軍の精鋭部隊が押し寄せ、激しい攻防・・・4月4日に、再び毛利軍が、別の陣屋の攻めかかると、今度は陣屋に火をつけて三村軍は一旦、城へ戻る・・・

この攻防戦の後、いよいよ戦場は山城本体へと移りますが、これまでの攻防を見た小早川隆景は、4月24日、長期戦を視野に入れて、松山城の西に位置する成羽の本陣に仮の城を構築します。

なんせ、以前もお話させていただいたように、この松山城は、あの竹田城(たけだじょう=兵庫県朝来市・12月21日参照>>に勝るとも劣らない雲海に浮かぶ「天空の城」として有名な山城・・・ご存じの方も多かろうと思いますが、日本で最も高所に建つ城で、主郭へと向かう道は、完全に登山道です。

つまり、松山城は複雑な山の地形を利用した天然の要害・・・現存する建物は江戸時代の物ですが、この時代も、山に沿って下から下太鼓丸上太鼓丸小松山天神丸大松山と、複数の櫓が効果的に配置された防御に富んだ造りで、しかも、本城の小松山にはいくつかの出丸も用意されていましたから、そう簡単に落とせない事は、小早川隆景は百も承知・・・

しかし、ここに来て、先の仮城の構築、そして、同時進行で行っていた三村親成による「内応してくれたら命と身分の保障を約束する」の旧友懐柔作戦が、徐々に功を奏して来たと見え、ポツポツと三村から毛利へ降る者が登場し始めます。

やがて、有力な諸将までもが内応してしまう中、5月20日になって、いよいよ天神丸からの内応者が出て、石川久式の妻子を人質にして数百人が反旗をひるがえして味方に攻撃をし、ほどなく天神丸は陥落したのです。

上記の通りの位置関係で連なっていた松山城・・・中ほどの天神丸が落ちた事によって、本城の小松山と大松山が遮断されてしまい、ここで一気に小松山の本陣から、元親の近習約50名が城外へと逃亡してしまいました。

奪った天神丸を軸に他所も占領する毛利軍は、いよいよ小松山本城の出丸へと迫りますが、真正面からぶつかっても、落とすにはかなりの時間がかかる様子・・・そこで隆景は、今度は、この出丸の諸将に向けて「今すぐ降伏すれば、身分を保障する」の矢文を、5月21日の早朝に射かけます。

すると、その日のうちに出丸の将兵も降伏を申し出・・・残る小松山は完全に孤立してしまいました。

そうなると、さらに離反者が加速し、とうとう元親の近習は石川久式をはじめとするわずかの者だけとなってしまいます。

「もはやこれまで!」
と元親は自刃を決意しますが、家臣に説得されて城外への脱出を試みます。

天正三年(1575年)5月22日・・・・ここで、備中松山城は落城という事になります。

こうして逃走を図る元親でしたが、この脱出の途中に足を踏み外して山道から転落し、しばらくの間気を失っていたところ、悲しいかな、この間に大部分の将兵が逃亡し、残ったのは、わずかに5名の家来たち・・・

彼らに支えられるように高梁川を渡り、阿部山(あべさん=岡山県南西部)へと入る元親ご一行でしたが、今度は、大事な太刀(たち)を鞘走り(さやばしり=刀が自然に鞘から抜け出る事)させてしまい、その拍子に右ひざを深く傷つけてしまいます。

「どんだけ運ないねん!」
と、お気の毒になってきますが、さすがに元親自身も、「これで己の天命が尽きた」と悟り、松山城下の松連寺(しょうれんじ=岡山県高梁市)へと入り、毛利側に使者を送って、
「自刃するので検分(けんぶん=見届け)を…」
と願い出て、

天正三年(1575年)6月2日・・・もともと歌の才能に長けていた元親は、数首の辞世を残した後、切腹・・・旧知の仲(もともとは毛利と同盟関係やったので)であった毛利の家臣=粟屋元方(あわや もとかた)の介錯により、この世をさりました。

♪人といふ 名をかる程や 末の露
 きえてぞかへる もとの雫に ♪ 
三村元親 辞世

その5日後の6月7日、松山城と同時に囲まれていた常山城も落城します(6月7日参照>>)

また、間際まで近くにいた石川久式は、元親と離れた後、すでに落城していた幸山城へ戻る事ができないため、部下の友野高盛(とものたかもり)のもとに身を寄せますが、彼の裏切りにより居場所を密告されて殺害されたとも(『桂岌円覚書』)、その密告により毛利方に囲まれ、主君が逝った20日後の6月23日に自刃したとも(『備中兵乱記』)・・・

さらに、その後、捕縛された元親の息子が小早川隆景によって殺害された事で、事実上、戦国武将としての三村家は滅亡したのです。

「昨日の友は今日の敵」・・・毛利と三村の関係を見ても、戦う相手が瞬時に変わる事は戦国の常ではありますが、この後、先の同盟成立時に吉川元春が疑念を抱いた通り、かの宇喜多直家が、信長に降伏して傘下となり、毛利の敵となるのは4年後の天正七年(1579年)10月の事でした。。。【織田へ降った宇喜多直家VS毛利軍の祝山合戦】参照>>

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2018年5月24日 (木)

前田利家~最大の汚点?越前一向一揆虐殺「呪いの瓦」

天正四年(1576年)5月24日、越前で起こった一向一揆にて前田利家が1000人を処刑しました。

・・・・・・・・・・・

第15代室町幕府将軍=足利義昭(よしあき・義秋)を奉じての織田信長(おだのぶなが)の上洛(9月7日参照>>)に反発した三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通)との、元亀元年(1570年)に起こった野田福島(のだ・ふくしま=大阪市都島区・福島区)の戦い(8月26日参照>>)に参戦した事で、反信長を表明した石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)

そんな教祖様の扇動もあって、翌元亀二年(1571年)から、各地の本願寺門徒が蜂起して一向一揆を起こします。
長島一向一揆(5月16日参照>>)
近江の一向一揆(9月3日参照>>)

その中の一つが天正二年(1574年)1月からの越前一向一揆です。

この越前(えちぜん=福井県東部)の地は、ご存じ朝倉義景(あさくらよしかげ)が領地としていましたが、天正元年(1573年)に、その朝倉を倒した(8月6日参照>>)信長によって、その本拠だった一乗谷城(いちじょうだにじょう=福井県福井市)を与えられて越前守護代に任ぜられたのが前波吉継改め桂田長俊(かつらだながとし)、そして龍門寺城(りゅうもんじじょう=福井県越前市)を与えられて府中領主に任じられていたのが富田長繁(とみたながしげ)だったわけですが、この二人の間に内紛が勃発し、長繁は一向一揆勢の力を借りて長俊を倒し、越前一国をほぼ掌握・・・(1月20日参照>>)

しかし、上記の通り信長と本願寺は抗戦中なわけで、越前を掌握した後に信長配下に戻る事を、ともに戦った一向一揆勢が許すはずもなく、長繁が、慌てて信長宛てに詫状を書いて領主の座を認めてもらおうとした途端、今度は一向一揆と町衆によって長繁は討たれてしまったのです(2月18日参照>>)

つまり、信長が朝倉から奪った越前が一向一揆の物になったわけで・・・

そこで天正三年(1575年)8月、信長は自ら越前へと出陣し、10日余りで一向一揆をせん滅するのですが、この戦いは、一向一揆側の死者と捕縛者とを合わせた数が3~4万にも達し、「府中の町は死体だらけで隙間もない」ほどだったのだとか・・・(8月12日参照>>)

こうして再び越前を平定した信長は、配下の柴田勝家(しばたかついえ)に越前8郡を与えて統治を命じ、以後、勝家は、北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を居城としました。

Maedatosiie 同時に、この勝家の目付役=世に言う「府中三人衆」となったのが、小丸城(こまるじょう=福井県越前市)佐々成政(さっさ なりまさ)、龍門寺城の不破光治(ふわみつはる)、そして府中城(ふちゅうじょう=福井県越前市)前田利家(まえだとしいえ)でした。

この時、佐々成政の小丸城の築城には、捕虜となった一向一揆衆の多くが駆り出されたと言います。

当然、彼ら本願寺門徒の中には「いつかチャンスがあれば!!」との思いが残る物・・・

やがて年が明けて天正四年(1576年)・・・
2月に信長が安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)の築城に着手(2月23日参照>>)する一方で、北陸では、あの越後(えちご=新潟県)の雄=上杉謙信(うえすぎけんしん)富山に侵攻して来ます(3月17日参照>>)

さらに5月3日には、総本山=石山本願寺と信長との直接対決があり(5月3日参照>>)、その5日後には、長年に渡って反目していた謙信が石山本願寺と和睦し、反信長を表明したのです(5月18日参照>>)

これをチャンスと見た一向一揆衆は再び、あちこちから立ち上がり、かの府中三人衆を襲撃したのです。

しかし所詮は、急きょ集まった烏合の衆・・・プロの戦闘集団相手には太刀打ちできず、ほどなく鎮圧され、多くの者が捕縛されました。

かくして天正四年(1576年)5月24日、この時捕えられた1000人ほどの信者が、前田利家によって、ある者は(はりつけ)にされ、ある者は釜茹で(この頃の釜茹の刑は熱湯ではなく油)にされて殺されたのだとか・・・

この信長をも真っ青な大量虐殺は、前田利家の残虐性を示す物で、利家・・・いや、前田家最大の汚点!なんて事も囁かれたりします。

しかし、それは、現代の価値観を戦国に持ちこんだ故の錯覚???

実は、この出来事が世に知られるキッカケとなったのは、昭和七年(1932年)に、先の小丸城跡の本丸付近から発見された1枚の瓦・・・

この瓦に、瓦が焼きあがる前=まだ生乾きのうちに釘か何かで書かれたであろう文字が刻まれていたのです。

『一向一揆文字瓦』と名付けられたこの瓦に書かれていたのは、
『此書物後世ニ御らんじら□れ御物がたり可有候(あるべく)
然者(しからば)五月廿四日いき(一揆)おこり候まま
前田又左衛門尉殿いき
(一揆)千人ばかりいけどりさせられ候也
御せいばいハはっつけ
(磔)かま(釜)にいれられあぶられ候也
如此候
(かくのごとく) 一ふで書きとどめ候』

これは、
「この話が後世まで語られるよう…
5月24日に一揆が起こり、
前田利家殿が1000人ほど生捕りにされ、
その処刑は磔や釜茹ででした。
このような事があった事を一筆書き残しておきます」

という事なのですが、

ここに書かれてあった文字が達筆過ぎて怪しかった事や、
未だ文献の記録として残っていたのは、先の天正三年(1575年)8月の越前一向一揆の記録だけであったため、この瓦に書かれている「5月24日」は天正三年(1575年)の5月の事だと推測され、その頃には、鉄砲隊を率いて長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら)の戦い(5月21日参照>>)に出ていたはずの利家にできるわけない・・・と考えられた事から、発見当時、この瓦は偽物説が有力だったのです。

また、もしかして本物だったとしても、その内容がかなり衝撃的な事から、利家を恨みに思う一向一揆側の生き残りが、後世にその悪行を伝えるために、密かに書き残したのでは?と思われていて、『呪いの瓦』なんて別名で呼ばれたりもしていたのですが・・・

しかし、近年になって同時代の城や遺構の発掘調査も進み、また最新技術による最新の解析等によって、この瓦は確かに信長の時代に作られた物、しかも、信長配下の職人集団の手による作品である事が有力になって来たのです。

んん?信長側の人が書いたの???
という事を踏まえて、あらためで原文を読むと、
『前田又左衛門尉殿』
『…いけどりさせられ候』
『…いれられあぶられ候』

どう見ても敬語で書いてます。

そう!
これは「呪いの瓦」ではなく、「自慢の瓦」だった・・・

つまり、彼らにとって、この一件は、悪行でも汚点でもなく、むしろ後世に残したいほど誇れる武勇だったわけです。

当時の「大量虐殺して鬼のように恐れられる」という表現は悪口はなく、誉め言葉でしたからね。

古くは「悪源太(あくげんた)と呼ばれた源義平(みなもとのよしひら)(1月25日参照>>)・・・
近くは、森長可(もりながよし)「鬼武蔵(おにむさし)しかり(4月9日参照>>)
佐久間盛政(さくまもりまさ)「鬼玄蕃(おにげんば)しかり、
そう言えば、柴田勝家も「鬼柴田」でした~

て事は、信長さんの長島比叡山(9月12日参照>>)も・・・
家康さんの気賀(きが)のアレ(3月27日参照>>)も・・・
汚点ではなく名誉・・・

もちろん、現代社会において殺戮や虐殺は許される事ではありません。

しかし、平和な時ではなく戦時下・・・それも戦国時代の事を現在と同じ物差しで測っては、本当の歴史を見失ってしまうと思います。

そこを踏まえつつ、歴史のあれやこれやを考えねば!!

戦国とは、ここまで人の価値観を変えてしまう物なのですから・・・
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