2020年5月 6日 (水)

金ヶ崎の退き口から姉川までの2ヶ月~信長VS浅井+朝倉+六角

 

元亀元年(1570年)5月6日、織田信長の危機をチャンスと見た六角承禎に扇動された一揆衆が、稲葉一鉄の守る守山城に迫りました。

・・・・・・

という事で、本日は、信長屈指の危機=金ヶ崎の退き口(かながさきののきぐち)から、その報復戦でもある姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦いまでの2ヶ月を、その日付とともに辿っていきたいと思います。

・‥…━━━☆

越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)のもとに身を寄せていた足利義昭(あしかがよしあき・義秋)からの要請を受けた(10月4日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その義昭を奉じて上洛・・・途中、行く道を阻む南近江(みなみおうみ=滋賀県南部)六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)や畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通)などを蹴散らしつつ(9月7日参照>>)、無事、義昭が第15代室町幕府将軍に就任(10月18日参照>>)したのは永禄十一年(1568年)10月18日の事でした。

しかし、その後、義昭の名のもとに信長が要請した上洛を、朝倉義景が無視し続けた事から、元亀元年(1570年)4月、信長は3万の軍勢を率いて越前への遠征に出立し、25日から朝倉の前線である天筒山金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始するのです(4月26日参照>>)

ちなみに、信長によるこの朝倉攻めは、この年の正月に、信長から示された「五ヶ条の掟書」に義昭がカチンときて(1月23日参照>>)・・・つまり、信長と義昭が敵対した事により、義昭からの要請を受けた各地の武将が一団となって信長を攻める=いわゆる「信長包囲網(のぶながほういもう)(2月22日参照>>)の第1段階との見方もありますが、それにしては、「掟書=1月」からの「出兵=4月」は早すぎるような気もします。

もちろん、掟書によって義昭が少々カチンと来た事は確かでしょうが、一方で、朝倉義景は、以前から何度も若狭(わかさ=福井県南西部)に攻め入って若狭守護の武田(たけだ)を圧迫し、間接支配をしようとしていましたから(8月13日参照>>)・・・この時点での「幕府公認の統治者である守護を圧迫する+将軍の上洛要請に応じない」は、どちらかというと朝倉の方が義昭に敵対している部分が大きいようにも感じます。

なので、後々の「信長包囲網」は別として、今の段階での信長の朝倉攻めは、ひょっとしたら義昭の意に沿った物であったのかも知れません。

とにもかくにも、こうして信長の朝倉攻めが決行されたわけですが、ここで、信長の妹(もしくは姪)お市の方を娶って織田と同盟を結んでいた(6月28日前半部分参照>>)はずの北近江(きたおうみ=滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)朝倉側について織田軍に迫って来たのです。

そこで、挟み撃ち(北東=福井の朝倉と南西=滋賀の浅井)を恐れた信長は、配下の柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)池田勝正(いけだかつまさ)ら約6万の兵を本隊に見せかけて琵琶湖東岸を南下するふりをさせ、さらに木下藤吉郎(きのしたとうきちろう=後の豊臣秀吉)らに殿(しんがり=軍の最後尾)を命じて(4月28日参照>>)、自らは4月28日、佐久間信盛(さくまのぶもり)佐々成政(さっさなりまさ)など、わずかの側近だけを連れて撤退を開始し、琵琶湖西岸の山中を通り、途中、朽木谷(くつきだに=滋賀県高島市朽木)朽木元綱(くつきもとつな)を仲間に加えつつ、4月30日、無事京都に入りました。

ご存知、信長の生涯屈指の危機一髪=金ヶ崎の退き口(4月27日参照>>)です。

Kanegasakimoriyamaanegawa
金ヶ崎の退き口から姉川の戦いの位置関係図(日付入り)
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

当然、態勢を立て直すためには、一旦、本拠の岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)へ戻らねばなりませんが、そこをチャンスとばかりに動き始めたのが、かの六角承禎です。

あの上洛の際に、本拠の観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)を信長に落とされて(9月13日参照>>)からは、甲賀(こうか=滋賀県甲賀市)伊賀(いが=三重県伊賀市)に身を隠していた六角承禎は、密かに近江に舞い戻り、機があれば攻撃せんと、かつては何度も刃を交えた宿敵(【箕浦合戦】参照>>)=浅井とも連絡を取り、本願寺の一向一揆にも声をかけ、残党たちをかき集め、すでに準備に入っておりました。

かくして元亀元年(1570年)5月6日鯰江城(なまずえじょう=滋賀県東近江市)に拠る六角承禎に扇動された一揆衆が、臍村(へそむら=滋賀県栗東市)にて蜂起し、織田配下の守山城(もりやまじょう=滋賀県守山市)に迫ったのです。

この時、守山城を守っていた織田方城将は稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)・・・その守りは万全で、守山の南口から焼き討ちをかけて来た一揆勢を、諸方面に撃って出て奮戦し、この1日で1200余の首を挙げて勝利しました。

こうして、守山の戦いに関しては事なきを得ましたが、当然の事ながら、これほどの危機一髪を、敵方も1度や2度で見逃すはずは無いわけで・・・

5月9日、京都を発った信長は、岐阜への帰路の道すがら、配下の諸将を各地に配置していきます。

まずは、浅井&朝倉の南下に備えて琵琶湖の西岸に構築した宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)森可成(もりよしなり)を置き、5月12日に瀬田城(せたじょう=滋賀県大津市瀬田)に入った後、翌13日には永原城(ながはらじょう=滋賀県野洲市永原)に入移って逗留し、そこを佐久間信盛に任せます。

さらに長光寺城(ちょうこうじじょう=滋賀県近江八幡市長光寺町)に柴田勝家を入らせ、安土(あづち)中川重政(なかがわしげまさ)を置いて、六角残党への備えを万全としてうえで、市原(いちはら=滋賀県東近江市)から千種(ちぐさ)街道越えで・・・途中の5月19日、甲津畑(こうづばた)にて、六角側から放たれた刺客=杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)の狙撃を受けながらも(5月19日参照>>)無事、5月21日に岐阜へと戻りました。

この間、京都にて朝山日乗(あさやまにちじょう)村井貞勝(むらいさだかつ)らによって、六角氏と和睦の話が進められていましたが、和睦が実現する事はありませんでした。

そのため、翌月の6月4日には、柴田勝家の守る長光寺城に六角承禎父子が迫り、あわや!という場面もありましたが、勝家の背水の陣での踏ん張りで何とか守り切ります(6月4日参照>>)

さらに、ここに来て、竹中半兵衛(たけなかはんべえ=重治)の働きによって、鎌刃城(かまはじょう=滋賀県米原市)堀秀村(ほりひでむら)と、長比城(たけくらべじょう=滋賀県米原市)樋口直房(ひぐちなおふさ)を、織田方に寝返らせる事に成功した信長は、北近江への障害が亡くなった事を確信し、

6月19日に、同盟を結んでいる三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす)援軍を要請し、自らも岐阜城を出陣して、その日のうちに長比城へと入り、合戦の準備に入ります。

これが、ご存知、姉川の戦いです。
●【いよいよ姉川…小谷に迫る家康】>>
●【姉川の合戦】>>
●【姉川の七本槍と旗指物のお話】>>
●【遠藤喜右衛門・命がけの奇策】>> 
(↑チョチョイ内容かぶってう部分ありますが、お許しを…m(_ _)m)
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2020年4月29日 (水)

熊野・那智の覇権を巡って…堀内氏善と廊之坊重盛~勝山城の戦い

 

天正九年(1581年)4月29日、那智制覇を目指す堀内氏善が、廊之坊重盛の守る勝山城を陥落させました。

・・・・・・・

戦国時代初め頃に、熊野水軍という一大勢力を持つ那智山別当家(べっとう=熊野三山を統轄)実方院(じっぽういん)を取り込んで紀伊水道の制海権を握る一大水軍として隆盛を極めていた安宅(あたぎ)に起こった後継者争いを機に、安宅を凌ぐ新興勢力としてのし上がって来た堀内(ほりうち)(11月4日【安宅一乱】参照>>)

やがて、その熊野水軍を、さらに熊野地方周辺の豪族をも次々と取り込み勢力を誇るようになった天文年間(1532年~1555年)に、堀内氏は、その本拠を新宮郊外の佐野(さの)から新宮中心部の金龍寺の境内=新宮城(しんぐうじょう=和歌山県新宮市)に移します。

ちなみに、ここに堀を張り巡らして居所とした事から、「堀ノ内殿」と呼ばれるようになったので、苗字も「堀内」にしたという説もあります。

とにもかくにも、この頃には、従来からのこの地に力を持っていた熊野七上綱(くまのしちじょうこう)と呼ばれる土豪(どごう=地侍)たちをも支配下に取り込んでいた堀内氏でしたが、それは新宮と並ぶ熊野三山の一つ=那智(なち)に対しても同じで、すでに四半世紀前から、そこを支配下に治めるべく、何度か侵攻していました。

それが本格的になって来たのが天正七年(1579年)頃・・・

その頃の那智山には、多くの御師(おし=社寺へ参詣者を案内、参拝・宿泊などの世話をする者)の坊が点在していましたが、それを二分するがの如くの勢力を持っていたのが、塩崎(しおざき=汐崎)廊之坊(くるわのぼう)と、米良(めら=目良)実方院・・・

そんな中で、実方院とは婚姻関係を結んで取り込んだ堀内氏は、やはり廊之坊に対しても婚姻関係をを結んで取り込もうとしますが、堀内氏から送られてきた娘がブサイクだったので突き返し、その代わとして堀内氏の姪にあたる美人の娘を、廊之坊が略奪して連れ去ったために、両者の関係がこじれた・・・なんて話もあるようですが、さすがにこの話は創作でしょうね。

そもそも、両家の関係を結ぶための政略結婚なんですから、ブサイクだろうと美人だろうと、縁を結ぶ事が優先事項なわけで・・・結局は、「廊之坊が堀内の支配を許さなかった」ってとこなのでしょうけど。。。

とにもかくにも、当然ですが、堀内に協力する実方院には、勝利のあかつきには廊之坊の跡職(あとしき=跡目・相続)が与えられる約束が成され、いよいよ攻撃が本格的になって来ます。

Natikatuyamazyou 勝山城周辺の位置関係図
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(背景は地理院地図>>)

廊之坊の本拠である勝山城(かつやまじょう=和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)は、廊之坊屋敷とも呼ばれ、現在の紀勢本線・那智駅近くの小山の上に設けられた、文字通り「屋敷」だったのが、徐々に土塁や曲輪(くるわ=丸)などが整備されていき、この頃には、本格的な城郭となっていました。

この不穏な空気を察した勝山城主=廊之坊重盛(くるわのぼうしげもり=汐崎重盛)は、以前からの堀内の対抗勢力であった古座(こざ)虎城山城(こじょうやまじょう=同東牟婁郡串本町)高河原貞盛(たかがはらさだもり)などと連携して、城の防備を固めます。

もちろん、那智山内にも、廊之坊の味方となる勢はまだまだいたわけですし・・・

これを受けた堀内氏善(ほりうちうじよし)は力攻めする事を避け、勝山城近くに付城(つけじろ=攻撃するために要所に新設する城)を設けて兵糧の補給路を断つ作戦に出ます。

これにより、約3ヶ月に渡る籠城戦が開始されますが、その間、高河原勢が勝山城の包囲を打ち破ろうと警固船=約30隻を擁して那智海岸の浜ノ宮(同東牟婁郡那智勝浦町)の南に上陸したのを、堀内に味方する雑賀(さいが・さいか)佐武伊賀守(さたけいがのかみ=佐竹允昌?)らが、かの付城から突出して矢を射かけて高河原勢を退散させたり、逆に佐武らが、勝山城の出城を攻撃して陥落させたり、等のいくつかの小競り合いが展開されます。

その両方に多くの死者が出た事が記録されていますので、なかなかの激戦が繰り広げられていたようですが、結局は勝山籠城側が堀内の包囲網を突破する事はなかなか難しかったようで・・・やがて勝山城内の兵糧は枯渇していく事になるのです。

かくして天正九年(1581年)4月29日に至って、勝山城は落城するのです。

『熊野年代記』には、
「四月廿九日那智山炎上 廊之坊城落ル 色川衆焼ク(すなわ)チ廊之坊腹切ル」
とあります。

色川衆とは鎌ヶ峯城(かまがみねじょう=同東牟婁郡那智勝浦町)を本拠とする色川盛直(いろかわもりなお)の配下の者と思われますが、この頃の色川盛直は廊之坊重盛と姻戚関係を結んで堀内に対抗していた側であるはずなので、ひょっとしたら、城に火をかけた色川衆とは、その中に潜んでいた一部の内通者だったのかも知れません。

また、一説には色川衆は最後まで廊之坊の味方であったものの、最終段階で応援すべく勝山城に入ったところを、その混乱に乗じた堀内側の者が火をかけたとも言われます。

敗戦の将となった廊之坊重盛に関しても、落城のさ中に城中で切腹したという話と、嫁さんとともに脱出したものの、隠れている所を近隣の百姓に密告されて、翌・30日に討たれたという話とがあります。

いずれにしても、この日に勝山城が落城した事は事実のようで、この後は、那智山の実権を堀内氏善が握る事になり、熊野一帯での、堀内氏の地位はますます万全の物となるわけですが、

一方で、この堀内氏善は中央との関係もぬかりなく・・・

以前の堀内は、あの織田信長(おだのぶなが)が次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)北畠(きたばたけ)の養子に入れて(11月25日参照>>)、まんまと奪い取った伊勢・志摩(いせ・しま=三重県)地方を巡って争う関係だったのが、

いつの間にか近づき、この勝山城籠城戦の真っただ中の2月29日には、信長から、ちゃっかりと熊野神社(くまのじんじゃ=熊野本宮大社〈本宮〉・熊野速玉大社〈新宮〉・熊野那智大社〈那智〉の熊野三山)神領を与える旨の朱印状を貰って、織田の傘下となっています。

しかも、信長の死後は、またもやちゃっかりと、あの山崎の戦いに参戦(6月13日参照>>)し、今度は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の配下として生き延びます。

関ヶ原では西軍についたために、一時は衰退した堀内氏でしたが、氏善の死後まもなく起こった大坂の陣にて、大坂方として参戦していた氏善の息子=堀内氏久(うじひさ)が、豊臣秀頼(ひでより=秀吉の息子)の正室だった千姫(せんひめ=家康の孫)を守りながら燃える大坂城(おおさかじょう=大阪府大阪市)から脱出して徳川家康(とくがわいえやす)の本陣まで届けた(2月6日参照>>)事で、今度は、徳川の家臣=旗本として見事復活しています。

定番の言い回しではありますが、
自らを貫いて、花と散るも戦国・・・
家のため、大樹の陰に寄ってつなぐも戦国・・・
どちらも戦国の生き方であります。
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2020年4月16日 (木)

秀吉の紀州征伐~高野攻め回避と木食応其

 

天正十三年(1585年)4月16日、秀吉紀州征伐で使者・木食応其が高野山の意向を伝え、高野攻めが回避されました。

・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)本能寺に倒れた(6月2日参照>>)後、変の首謀者である明智光秀(あけちみつひで)山崎(やまざき=京都府向日市付近)に倒した(6月13日参照>>)事で織田家内での力をつけた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

その後、家臣団の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)に破り、信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)自刃(5月2日参照>>)に追い込み、

さらに天正十二年(1584年)、徳川家康(とくがわいえやす)の支援を受けてた信長次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)との小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市周辺)の戦いを何とか納めました(11月16日参照>>)

Toyotomihideyoshi600 ここで、この先おそらくは(最終的には)中央集権を目指すつもり?の秀吉は、未だ独立を保って抵抗していた雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(きしゅう=和歌山県)一揆勢力の撲滅に着手するのです。

雑賀衆というのは、紀州の紀の川流域一帯に勢力を持つ独立独行を目指す土着の民で、亡き信長を何度も手こずらせた相手です。
【孝子峠の戦いと中野落城】参照>>
【丹和沖の海戦】参照>>

一方の根来衆は、現在も和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山の寺院=根来寺(ねごろじ=根來寺)の宗徒たちが集った宗教勢力で、同じく武力をを保有する宗教勢力の粉河寺(こかわでら=和歌山県紀の川市粉河)

そして、もう一つ・・・紀州には高野山(こうやさん=和歌山県伊都郡高野町・壇上伽藍を中心とする宗教都市)という一大宗教勢力がありますが、コチラも信長時代から抵抗勢力でありました(10月2日参照>>)

かくして天正十三年(1585年)3月、秀吉は紀州征伐(きしゅうせいばつ)を決行します。

これを受けた根来ら紀州の諸勢力は、複数の砦で構成された前線基地(現在の貝塚市付近)で迎え撃ちますが、10万越えという予想以上の大軍に、あっけなく崩壊・・・

前線を突破した秀吉軍は3月23日に根来寺を、翌・3月24日に粉河寺を占領(3月24日参照>>)、さらに3月28日には雑賀衆の太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市)を囲みます(3月28日参照>>)

一方、この太田城攻防と同時進行で行われていたのが、高野山攻めの計画・・・とは言え、こういう場合、まずは交渉です。

ドラマ等では、よくスッ飛ばされてるので忘れがちですが、信長さんのあの比叡山焼き討ちも、信長の出した和睦の条件を比叡山が呑まなかったので焼き討ちを決行してます。。。
もちろん、今回の根来寺や粉河寺や雑賀にも先に交渉してますが、結果、決裂して蜂起となったので→武力征伐という事なわけで、、、

そんなこんなで4月7日、秀吉は細井新助(ほそいしんすけ)なる者を使者として高野山へと向かわせ「提示する三つの条件をのまねば攻撃する」旨を伝えます。

残念ながら、その手紙の現物は残っていませんが、伝えられるところによると、その三つの条件とは
1:もともとの寺領以外の領地の返還
2:武装蜂起(謀反人を匿う事も禁止)
3:弘法大師の教えの通りに仏道に専念する事
の三つだったと言います。

これを受け取った高野山側では、山内挙げての協議となりますが、その中には「武力に屈する事無く、徹底抗戦!」を訴える僧も少なくありませんでしたた。

しかし、現実問題として反発した根来&粉河は焼き討ちからの占領となり、現在抗戦中の太田城も、もはや風前の灯である事も伝えられており、大軍である秀吉軍なら、紀州各地に兵を配置しながらでも、ここ高野山へもある程度の兵の数を確保できる事は明白・・・「ここは一つ、神聖なる高野山の伝統を守る事を1番に考えるべきだ」との声が挙がり、そのためには、「これらの条件を無条件受諾するしかない」との意見にまとまります。

かくして天正十三年(1585年)4月16日、高野山にて「すべての条件を受諾する」旨の請状(うけじょう)が作成され、それに神文(しんもん=起請の内容に偽が無い事を神に誓う文・今回の場合は空海の手印を添付)を添えて、学侶(がくりょ=仏教を学び研究する僧=学僧)の代表者と行人(ぎょうにん=施設等の管理をする僧)の代表者とともに、客僧として高野山に入っていた木食応其(もくじきおうご)を使者として、太田城水攻め中の秀吉のもとに派遣しました。

この時、彼らに面会した秀吉は、木食応其の事を大いに気に入ったと見え、
「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべし」
(木食応其は単に高野山の木食僧なのではなく、木食応其が高野山を代表すると思え)
と評して、即座に高野山攻めを取り止めるとともに、今後の高野山の運営を、この木食応其に委ねるよう命じたのです。

ちなみに木食応其の「木食(もくじき)とは穀物を絶って木の実や山菜・野草のみを食し仏道に励んでいる状況=つまり、そういう修行をしているという事で、今回の木食応其の場合は、学侶でも行人でもなく、この時にたまたま客僧として高野山にて木食をしていた・・・という感じだったようです。

そもそも木食応其は、近江源氏佐々木(ささき)の家臣だった父を持ち、織田信長が観音寺城(かんのんじじょう=滋賀県近江八幡市)を攻めた時には六角承禎(ろっかくじょうてい・義堅)とともに抵抗し(9月13日参照>>)、その後、高取城(たかとりじょう=奈良県高市郡高取町)越智(おち)(9月15日参照>>)を頼って奈良に落ちたものの、その越智氏も没落したため、戦いの空しさを痛感して中年になって出家したと言われる異色の経歴の持ち主・・・この経歴に関しては異説があるものの「基々は武将だった」というのは本当のようで、

そういう意味で、武士の立場も理解し、また客僧という立場ゆえにしがらみも無く・・・秀吉から見れば、そこが大いに使い勝手が良く、この後、木食応其を重用し、木食応其もまた、秀吉を後ろ盾として高野山の再興に力を注ぐ事になるのです。

故に、この木食応其を「高野山の中興の祖」と見る場合もあるようです。
ま、存続の危機から一転、現在につながる繁栄を遂げる事になるわけですから。。。

後に秀吉は、山上に興山寺(こうざんじ)を建立し、木食応其を開山第一世 とし、さらに興山寺の隣 に亡き母を弔うための青厳寺(せいがんじ)を建立・・・これが、明治になって興山寺と青厳寺が合併して真言宗総本山金剛峯寺と称するようになり、現在に至るという事になるのです。

また、木食応其は橋本(和歌山県橋本市)の発展にも力をつくしました。

大和街道と高野街道が交わり、そこに紀ノ川の水運が重なる交通の要所でもあるこの場所に、自らの草庵(現在の応其寺)を結んで商工業の町として整備するとともに、高野山往還のために紀ノ川に234mの橋を架けたりして・・・これが「橋本」の地名の由来とも伝えられています。

とまぁ、秀吉を大いに利用しつつも、政権下に組み込まれる事もなく・・・と、ウマイ事立ちまわってる感がある所は、さすがにタダの僧では無い感が漂いますが、それでいて、同じ近江出身として意気投合した石田三成(いしだみつなり)が関ヶ原で負けた時には、すかさず光成三男を保護して出家させ、その命を守るところなど、なかなか義理堅い人でもあったようです。

とにもかくにも、これで高野山攻めが回避され、今に残った事は、誰もがヨシとするところではないでしょうか?
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2020年4月 8日 (水)

武田滅亡とともに散った軍略家~朝比奈信置

 

天正十年(1582年)4月8日、織田信長の甲州征伐のさ中に落ちた持船城の朝比奈信置が自刃しました。

・・・・・・・・・

駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわよしもと)に仕えたとされる朝比奈信置(あさひなのぶおき)は、同じく義元に仕えた名参謀=朝比奈泰能(やすよし)(9月19日参照>>)とは別系統の朝比奈親徳(ちかのり)の息子です。

早くから義元の近くにて功績を挙げていたらしく、信置が称した「駿河守(するがのかみ)に因んで、同じく駿河守を名乗っていた武田(たけだ)板垣信方(いたがきのぶかた)毛利(もうり)吉川元春(きっかわもとはる)と並んで「三駿河」の一人に数えられ、義元が尾張(おわり=愛知県西部)織田信秀(おだのぶひで)と戦った天文十七年(1548年)の小豆坂(あずきざか=愛知県岡崎市)の戦い(3月19日参照>>)でも先陣として走り、大きな功績を挙げたのだとか・・・

また『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によれば、天文五年(1536年)頃に、未だ無名の浪人者だった山本勘助(やまもとかんすけ)の才能を見出し、主君=義元に推挙したのが、この朝比奈信置さんだったらしい・・・

ま、この頃の勘助が今川に仕官したがってたという事もあるのでしょうが、その才能を見抜く眼力は大したもの。

しかし、義元自身が勘助の風貌が気に入らなかった事や、家臣の反対等もあって、結局、この時に勘助を召し抱える事なく・・・ご存知のように、勘助は、この後、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)のもとで大活躍します(9月10日参照>>)

このような出来事があったからなのか?
それとも、戦国の流れが変わったからなのか?

永禄三年(1560年)に今川義元が桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市もしくは豊明市)に倒れ(5月19日参照>>)、その後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)がヤバくなって来ると(12月13日参照>>)朝比奈信置はチャッカリ、駿河に侵攻して来た武田信玄のもとに走るのです。

しかも、この朝比奈信置という名前の「信」の文字は、武田信玄(本名は晴信)から一字を拝領しての信置なのだとか・・・つまり、それほど重用されての移籍だったわけです。

軍略家で軍師的な役割も果たし、用兵術(ようへいじゅつ=軍の動かし方や戦術など)にも長けていた信置は、新参者でありながら武田譜代の家臣たちにも信頼され、先方衆の筆頭を任され、信玄亡き後も、その後を継いだ武田勝頼(かつより=信玄四男)に従い、あの長篠設楽ヶ原(ながしのしたらがはら=愛知県新城市)の戦いにも従軍し、その後の対・徳川家康(とくがわいえやす)戦線の重要拠点である持船城(もちぶねじょう=静岡県静岡市駿河区)を任されました。

その間の元亀四年(1573年=7月に天正に改元) 、武田信玄死去のニュースを聞いた直後から、家康が、長篠城(ながしのじょう=愛知県新城市長篠)の奪取(9月8日参照>>)を皮切りに、天正三年(1575年)8月には諏訪原城(すわはらじょう=静岡県島田市)(8月24日参照>>)、12月には二俣城(ふたまたじょう=静岡県浜松市天竜区二)「遠江⇔駿河間にある武田方の城を一つ一つ自分の物にしていく作戦」を開始するのです。

Motifunezyoukoubou
(長篠から武田滅亡までの間の)遠江争奪戦関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

この時、信置が守る持船城も天正五年(1577年)の10月と天正七年(1579年)9月の2度に渡って、家康からの攻撃を受けていますが、一旦奪われても、すぐに奪回・・・徳川勢の本格的な侵攻を許す事はありませんでした。

しかし、やがて「その時」がやって来ます。

天正十年(1582年)・・・この年の正月に、勝頼妹=真理姫(まりひめ)の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)が、織田方に寝返ったのを皮切りに始まった織田信長(のぶなが=信秀の息子)『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)(2月9日参照>>)の中で、2月20日に田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城させ(2月20日参照>>)、 翌・21日には、当目坂で勝利した勢いのまま駿府(すんぷ=静岡県静岡市)を占領すると同時に、そのまま持船城を囲んだ家康は、23日から攻撃を開始・・・

もはや天下目前の信長を背後にした徳川軍相手に、さすがの朝比奈信置も耐えきれず・・・は27日にやむなく降伏し、29日には持船城を家康に開け渡したのでした。

ご存知のように、その12日後の3月11日には勝頼が天目山に散って(3月11日参照>>)武田は滅亡・・・

そして、武田の残党が逃げ込んでいた恵林寺(えりんじ=山梨県甲州市)が信長息子の織田信忠(のぶただ)に焼き討ちされた(4月3日参照>>)5日後の天正十年(1582年)4月8日、信長の命により朝比奈信置は自刃・・・享年55の生涯でした。

用兵に長けた軍略家であるなら、おそらく信長も重宝したでしょうから、もし、この時、いち早く武田に見切りをつけていたなら、生き残れたかも知れなかった信置さんですが、一方で「信長の命で自刃」しているわけですので、そこンところは、当事者同志しか解りえない部分・・・

生き残って咲く人もいれば、壮絶に散る人もいる・・・それが戦国という物なのでしょうね。
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2020年3月11日 (水)

武田滅亡とともに勃発した富山城の戦い~小島職鎮の抵抗

 

天正十年(1582年)3月11日、武田勝頼からの知らせを受けた小島職鎮が、主君の神保長住を幽閉して富山城を占拠しました。

・・・・・・・・・

戦国期の越中(えっちゅう)富山は、主に神通川(じんつうがわ)を挟んで、西部(射水・婦負)に勢力を持つ増山城(ますやまじょう=富山県砺波市)神保長職(じんぼうながもと)と、神通川東部(新川)に勢力を持つ松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)椎名康胤(しいなやすたね)による争奪戦が繰り広げられていましたが、西部の神保を甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)が、東部の椎名を越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん=当時は輝虎)が支援する代理戦争でもありました。

ところが、そんなこんなの永禄十一年(1568年)3月、水面下で行われていた信玄の裏工作により椎名康胤が武田方に転じます

しかし、その1ヶ月後、今度は神保長職が上杉方に転じ、越中争奪戦はそれぞれの支援者を交換しただけで、そのまま続行・・・とは言え、ここ越中は、謙信にとって祖父や父の時代から、度々出兵しては傘下に治めたかった場所(9月19日参照>>)なわけで、ここに来て、武田との川中島もこう着状態となった謙信は、信玄が今川攻略へと舵を切る(12月12日参照>>)ように、自らも越中侵攻を開始するのです(4月13日参照>>)

そう・・・この永禄十一年(1568年)という年は、謙信と信玄それぞれが、その矛先を変えた年であり、そして、美濃(みの=岐阜県南部)稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)を攻略(8月15日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)が、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛する(9月7日参照>>)年でもあったのです。

ちなみに、この時、上杉方に転じた父に反対し袂を分かち、能登(のと=石川県北部)畠山(はたけやま)を頼った神保長職の息子=神保長住(ながずみ=長職の息子)は、後に信長配下となっています。

その後、謙信は、元亀三年(1572年)に日宮城(火宮城・ひのみやじょう=富山県射水市下条)(6月15日参照>>)を、天正四年(1576年)には富山城(とやまじょう=富山県富山市)を奪い、その勢いのまま飛騨(ひだ=岐阜県北部)へも侵攻し(8月4日参照>>) 、翌・天正五年(1577年)の9月13日にはかの畠山の能登七尾城(ななおじょう=石川県七尾市)を陥落させる(9月13日参照>>)のです。

しかし、そんな謙信の前に立ちはだかったのが、先の上洛の後に越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)を倒し(8月20日参照>>)、残る越前一向一揆をも駆逐して(8月12日参照>>)、事実上、越前を平定した形になっていた織田信長でした。

それは、七尾城を奪われた長連龍(ちょうつらたつ)の救援要請(8月14日の前半部分参照>>)でもありましたが、越前まで領した信長にとっては、越前の向こうは加賀(かが=石川県西部)そして能登があり、信長の本拠である岐阜の隣は飛騨なのですから、この謙信の侵攻を黙って見ているわけにはいかない場所であった事も確かでしょう。

かくして天正五年(1577年)9月18日(23日とも)に、謙信と、織田軍北陸担当の柴田勝家(しばたかついえ)がぶつかったのが手取川の戦い(9月18日参照>>)です。

その時、手取川の勢いのまま、さらに松波城(まつなみじょう=石川県鳳珠郡能登町)も奪って(9月24日参照>>)能登を平定した謙信は、雪の多い冬を避け、翌年の春に再び出兵するつもりで、一旦、越後に戻るのですが、ご存知のように翌年の3月、春を待たずに亡くなってしまいます(3月13日参照>>)

謙信の死を受けた上杉家では、ともに養子の上杉景勝(かげかつ)上杉景虎(かげとら)の間で後継者争い=御館(おたて)の乱が勃発(3月17日参照>>)して信長どころではなくなり、この間、織田軍に、せっかく謙信がもぎ取った越中深くまで入られてしまいます(9月24日参照>>)

その後、後継者争いに打ち勝った上杉景勝は、ようやく越中へと目を向けられるようになり、そのお家騒動のさ中に黄金で以って味方につけた信玄の後継者=武田勝頼(かつより=信玄の四男)を後ろ盾に、加賀・能登・越中の一向一揆の残党を取り込んで越中奪回を画策し始めますが、一方の信長も、天正八年(1580年)に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市・加賀一向一揆の拠点)を陥落(3月9日参照>>)させ、一向一揆の本拠である石山本願寺との戦いも終わらせて(8月2日参照>>)、まさに天下目前状態。

そんなこんなの天正九年(1581年)2月28日に行われたのが、あの御馬揃え(おうまぞろえ)(2月28日参照>>)・・・この時に、守備強化のため富山城に入っていた佐々成政(さっさなりまさ)や、小出城(こいでじょう=富山県富山市水橋)の神保長住が、この御馬揃えに出場するために京都に向かったスキを突いて、上杉の最前線である魚津城うおづじょう=富山県魚津市)を任されている河田長親(かわだながちか)が小出城を攻めたのです。

この時、小出城だけではなく、富山城も奪うつもりだったと言われる上杉勢でしたが、城兵の踏ん張りと、窮地を知って戻って来た佐々成政&神保長住、そして河田長親の死亡?もあり、上杉勢の思惑は失敗・・・何とか小出城は守られました(3月24日参照>>)

とは言え、その後も、くすぶり続ける越中一向一揆勢とのゴタゴタ(9月8日参照>>)が続いていたわけですが、そんな中の天正十年(1582年)3月、長住父の時代から神保に仕えていた老臣=小島職鎮(こじまもとしげ)いきなり裏切るのです。

それは・・・
ご存知のように、この年の2月から、信長は甲州征伐(こうしゅうせいばつ=武田攻め)を開始しています【2月9日参照>>)

2月20日には、織田方の徳川家康(とくがわいえやす)の説得に応じた依田信蕃(よだのぶしげ)田中城(たなかじょう=静岡県藤枝市)を開城し、3月1日には武田同族内の有力者である穴山梅雪(あなやまばいせつ)までもが織田に降った(2013年3月1日参照>>)事で、その間に武田方の諸将が次々と勝頼を見限り、3月2日には最後まで勝頼の味方だった弟=仁科盛信(にしなもりのぶ=勝頼の異母弟)が、守る高遠城(たかとおじょう=長野県伊那市)とともに倒れ・・・と、つまり実際には、怒涛の勢いで織田方が進撃していたわけですが・・・

ところが、そんな状況下でありながら、富山城には、武田勝頼から?の知らせが届くのです。

『…然るに今度 信長公御父子 信州表に至りて御動座侯のところ
武田四郎節所を抱へ一戦を遂げ 悉く討ち果し侯の聞
此の競ひに越中国も一揆蜂起せしめ 其の国存分に申しつけ侯へ』

つまり
「信長父子が信州に出撃していたところを武田勝頼が一戦を交えて、織田勢をことごとく討ち果たしたので、この勢いに乗じて越中国にて一揆を蜂起させ、君らが越中一国を思い通りに支配すれば良いよ」
と・・・

これは勝頼自身が流したフェイクニュースなのか?
それとも、単なるウワサとして、彼らの耳に入って来たのか?

Toyamazyousicc とにもかくにも、この知らせを信じた小島職鎮は、天正十年(1582年)3月11日唐人親広(かろうどちかひろ=加老戸親広)らとともに富山城を急襲し、神保長住を幽閉・・・城を占拠して、あたりに狼煙(のろし)を挙げ、周辺の反信長派に蜂起を呼びかけたのです。

しかし、柴田勝家以下、北陸方面を守る織田軍は、この勝頼の知らせを、はなから信じていなかったのです。

なんせ、この3月11日は、「もはやこれまで!」と覚悟を決めた勝頼が夫人らとともに自害した日ですから・・・
●【武田勝頼、天目山に散る】参照>>
●【勝頼夫人=北条夫人桂林院】参照>>

もちろん、SNSなどありはしないこの時代ですから、勝頼自害の一報が当日に織田北陸勢のもとに届く事は無いのでしょうが、甲州征伐における味方の動向は逐一報告を受けていたはずですからね。

勝家は、すかさず、信長に向けて
「富山の一揆勢が占拠した城は、その日のうちに我々一同が包囲しましたので、落城まで幾日もかかる事はないでしょう…ご安心を」
という内容の手紙を、佐々成政・前田利家(まえだとしいえ)不破直光(ふわなおみつ)の4人の連名でしたため、彼ら連合軍による攻撃を開始し、またたく間に奇策による富山城奪還を果たしたのです。

2日後の3月13日、勝家のもとに届いた信長の返書には
「武田勝頼以下、重臣や宿老までをことごとく討ち果たして、駿河・甲斐・信濃を滞りなく平定したのでご心配なく…と甲斐から報告が来たので君らにも知らせとくね~君らも越中一揆の鎮圧、頑張ってね~」
と・・・(この手紙のやり取りとみても、「当日」とまではいかないものの、情報の行き来がかなり速いことがわかりますね)

そして、柴田勝家以下北陸織田勢は、この富山城奪還の勢いのまま、次に魚津城の包囲へと向かいますが、残念ながら、その後の魚津城陥落の知らせが信長に届く事はありませんでした。

そう、この魚津城が開城されるのは、この年の6月3日(【魚津城の攻防戦】参照>>)・・・それは、あの本能寺の変(6月2日参照>>)の翌日でした。

本能寺の影響を受けた今後の北陸勢の動きについては、あの清須会議の前日に展開された【前田利家に迫る石動荒山の戦い】>>でどうぞm(_ _)m
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2020年2月24日 (月)

信長が仕掛ける浅井滅亡への一手~佐和山城の戦い

 

元亀二年(1571年)2月24日、織田勢に包囲されていた浅井方の磯野員昌が守る佐和山城が開城されました。

・・・・・・・・

佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)と言えば、即、あの石田三成(いしだみつなり)を思い浮かべる 方も多かろうと思いますが(私もそうです(^o^;))、実は、その歴史は古く、築城されたのは鎌倉時代・・・その頃に近江(おうみ=滋賀県)を任されていた近江源氏佐々木(ささき)が構築したとされます。

源平合戦の「宇治川の先陣争い」(1月17日参照>>)で有名な佐々木高綱(ささきたかつな)さんの一族ですね。

もちろん、その頃は城郭というよりは砦みたいな物だったでしょうが・・・

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現在の佐和山城跡

で、ご存知のように、その佐々木氏の流れを汲むのが六角(ろっかく)・・・室町時代に入ってからの六角氏は、幕府将軍をも手こずらせるほどの勢力を誇り(12月13日参照>>)、同じ佐々木氏の流れを汲む京極氏(きょうごくし)とともに近江の南北(六角=南、京極=北)を支配する形となっていましたが、あの応仁の乱(5月20日参照>>)の最中に起こった京極家内の後継者争い(8月7日参照>>)によって、京極氏の弱体化が始まり、いつしか京極氏の根本被官(こんぽんひかん=応仁の乱以前からの譜代の家臣)だった浅井氏の浅井亮政(あざいすけまさ)が主家を凌ぐ力をつけていき(4月6日参照>>)戦国時代も後半になると、もう北近江は、事実上浅井の物になって、佐和山城は浅井が本拠とする小谷城(おだにじょう=滋賀県長浜市湖北町)の支城として、元亀年間には浅井長政(あざいながまさ=亮政の孫)の家臣=磯野員昌(いそのかずまさ)が城主を務めていました。

そんなこんなの元亀元年(1570年)6月に起こったのが、あの姉川(あねがわ)の戦いです。
【いよいよ姉川…小谷に迫る】>>
【姉川の合戦】>>
【姉川の七本槍】>>

これは、去る永禄十一年(1568年)の9月に、第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)織田信長(おだのぶなが)が、その後の再三の上洛要請に応じなかった越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)金ヶ崎城(かながさきじょう・かねがさきじょう=福井県敦賀市)を元亀元年(1570年)に攻撃した(金ケ崎手筒山の戦い>>)時、織田の味方であったはずの浅井氏が朝倉について、あわや挟み撃ちとなるところ、なんとか岐阜(ぎふ)に戻って来た(金ヶ崎の退き口>>)という、まさに信長危機一髪だった出来事に対して、その3ヶ月後に報復!とばかりに信長が小谷近くに攻め寄せた戦いです。

しかし、この姉川で勝利した信長が、敗走する浅井・朝倉勢を深追いする事がなかったため、浅井・朝倉は負けたとは言え、ある程度の兵力を温存したまま・・・

この時、織田本陣に迫る活躍をした磯野員昌ではありましたが、負け戦となり、何とか敵陣を突破して、自身の佐和山城に戻り、休む間もなく城の防備強化にまい進します。

そのおかげか?姉川からほどない7月1日に、諸軍を率いて佐和山城を攻めに来た信長は、その守りの固さを見て、
「すぐには落ちぬ」
との判断し、城の東に位置する百々屋敷(どどやしき=滋賀県彦根市小野)に砦を築いて、そこに丹羽長秀(にわながひで)を置き、西の尾末山(おすえやま=同彦根市)には市橋長利(いちはしながとし)を、南の里根山(さとねやま=同彦根市)には水野信元(みずののぶもと)を、彦根山(ひこねやま=現在の彦根城がある小山)には河尻秀隆(かわじりひでたか)と、万全の包囲網を作っておいて、自身は7月4日に京都の足利義昭に帰郷の挨拶をして岐阜へと戻りました。

ところが、その3か月後の9月には、浅井・朝倉にゲリラ的に宇佐山城(滋賀県大津市)を攻められてしまい、信長は弟の織田信治(のぶはる)と重臣の森可成(もりよしなり)を失ってしまいます(9月20日参照>>)
(↑彼らの奮戦により落城は免れます)

さらに翌10月には、新たな2万の兵を率いて琵琶湖(びわこ)の西岸を南下して来た浅井・朝倉勢に対して、信長は堅田(かたた=滋賀県大津市)に砦を構えて応戦(11月26日参照>>)・・・しかし、この戦いは12月14日に時の天皇である正親町(おおぎまち)天皇から合戦中止の綸旨(りんじ=天皇の命令)が下されたため、やむなく、両者一応の和睦となりました。

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佐和山城周辺の位置関係図
クリックで大きく
(背景は地理院地図>>)

この間にも、佐和山城へのけん制は続けられていたわけですが、長期の包囲にも関わらず、未だ降伏には至らず・・・

とは言え、春までにはここ佐和山は押さえておきたい・・・なんせ雪解けの時期になれば、当然、雪国越前の朝倉の動きは活発になるわけで、またもや浅井と合同で南下してくるやも知れませんし、なんたって、ここを奪取しておけば岐阜から京都への動線が確保されます。

ちょうど、その頃、昨年末から活発になり始めた長島一向一揆(ながしまいっこういっき)(11月21日参照>>)に対抗すべく、信長は丹羽長秀を長島へ派遣・・・代わりに、木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が百々屋敷に入ります。

もちろん、佐和山城攻略の役目も秀吉が引き継ぐ事に・・・早速、秀吉は側近の蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)と作戦を練ります。

まずは堀次郎(ほりじろう=堀秀政の従兄弟?)樋口直房(ひぐちなおふさ)の400の兵と蜂須賀の400余りで佐和山城を三方から囲み、湖上に展開する前野長康(まえのながやす)の500余騎にて琵琶湖を封鎖して兵糧の運び込みを断つ・・・さらに、「佐和山城はすでに織田方に落ちた」とのフェイクニュースを流す。。。

さすれば、孤立した佐和山城の兵糧は20日ともたないであろう・・・と、

当然、その間には開城を促す交渉も必要です。

元亀二年(1571年)2月2日、秀吉は、蜂須賀と前野の2名に書状を持たせて使者として送り、佐和山城の磯野との交渉を開始します。

それから20日余り経った元亀二年(1571年)2月24日、磯野員昌から「籠城する500余りの城兵の命を助けるのであれば開城する」との返答を受け取った秀吉が、その申し入れを受け入れ佐和山城は開城となりました。

籠城していた将兵の多くは、船で琵琶湖の対岸へと逃げていったのだとか・・・

交渉に応じて降伏した磯野員昌は佐和山の代わりに琵琶湖の北西に位置する高島郡(たかしまぐん=滋賀県高島市)を与えられるという破格の待遇を受けて織田の配下となり、佐和山城へは丹羽長秀が入りました。

なんせ、この頃は、上記の佐和山の丹羽をはじめ、今回の秀吉も、柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)などなど、織田配下のそうそうたるメンバーが、皆、琵琶湖の周辺に配置されていましたから、それを踏まえれば、琵琶湖の北西は、かなりの厚遇です。

そのおかげで、天正元年(1573年)には、あの金ヶ崎の退き口の際に信長に発砲した杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)を、高島郡の潜伏先にて捕縛するという手柄にも、磯野員昌は恵まれています(5月19日参照>>)

ただ・・・晩年は、信長さんと折り合いが悪く、出奔して農業に従事していたという事らしいですが、そのあたりはちょっと謎です。

とにもかくにも、ここで佐和山城が落ちただけではなく、この佐和山落城のニュースを聞いた太尾山城(ふとおやまじょう=滋賀県米原市)の浅井家臣=中島直親(なかしまなおちか)もが、すぐに退去して小谷城へと走り去ってくれた事で、秀吉は佐和山と太尾山の二城を手に入れる事ができたのです。

もちろん、これが2年後の天正元年(1573年)の浅井・朝倉の滅亡へとつながっていく重要な一手となる事は、皆さまご存知の通りです。

この後の展開は・・・
●【信長&秀吉VS浅井~箕浦の戦い】>>
【山本山城の戦いと虎御前山城構築】>>
【刀禰坂の戦い】>>
【朝倉氏滅亡~一乗谷】>>
【小谷城・落城~浅井滅亡】>>
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2020年2月18日 (火)

秀吉の中国攻め~毛利VS宇喜多の麦飯山八浜合戦

 

天正九年(1581年)2月18日、信長の命による秀吉の中国攻めの真っただ中、秀吉の依頼を受けた宇喜多忠家が籠る麦飯山城を、毛利方の穂井田元清が攻撃しました。

・・・・・・・

天正九年(1581年)と言えば、まさに豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)中国攻め真っただ中・・・もちろん、これは、秀吉の主君である織田信長(おだのぶなが)の命令によっての侵攻なわけですが・・・

そもそもの発端は・・・
永禄十二年(1569年)に、自らが滅ぼした周防(すおう=山口県)大内氏(おおうちし)(4月3日参照>>)の残党=大内輝弘(おおうちてるひろ)と交戦中だった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)が、その背後を突いて出雲(いずも=島根県)を奪回しようと動き始めた尼子氏(あまこし)(10月28日参照>>)の残党に協力する姿勢を見せた但馬(たじま=兵庫県北部)の守護=山名祐豊(やまなすけとよ)「東側からけん制してほしい」と信長に依頼し、それを受けた信長が、秀吉に2万の軍勢をつけて送り出した事にはじまる織田の中国攻め・・・

しかし、その後、信長に敵対して(7月18日参照>>)京都を追われた第15代室町幕府将軍足利義昭(あしかがよしあき)が毛利に逃げ込んで(11月16日参照>>)再起を狙ってる事や、すでに勃発していた石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦いで、本願寺の救援要請に毛利が応じた(7月13日参照>>)事、

また逆に、先の山名祐豊や尼子の再興を願う尼子勝久(かつひさ)らが織田傘下となった事などなどで、元就の後を継いだ孫の毛利輝元(てるもと)が当主を務める頃には、スッカリ織田VS毛利の対立構造になっていたのです。

そんな中、天正五年(1577年)には但馬を攻略した(10月23日参照>>)後、上月城(こうづきじょう=兵庫県佐用郡)(11月28日参照>>)福原城(ふくはらじょう=兵庫県佐用郡佐用町・佐用城とも)(12月1日参照>>)を奪取して、翌天正六年(1578年)の春からは三木城(みきじょう=兵庫県三木市)の包囲(3月29日参照>>)・・・と確実に駒を進めていく秀吉。。。

もちろん毛利も黙ってはいません。

奪取後、秀吉が尼子勝久に守らせていた上月城を攻撃(5月4日参照>>)・・・秀吉が援護に向かうも7月には落城し(7月3日参照>>)、事実上、尼子氏は滅亡します。

一方、備中兵乱(びっちゅうひょうらん=岡山周辺の戦国武将の戦い)(6月2日参照>>)のドサクサで主家の浦上(うらがみ)を追放した宇喜多直家(うきたなおいえ)が、このあたりで毛利方から織田方へ方向転換(2月17日参照>>)・・・2年に渡る戦いでようやく三木城を落とした(1月17日参照>>)秀吉が、英賀城(あがじょう=兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町)を攻撃し(4月1日参照>>)播磨(はりま=兵庫県南西部)地方を平定(4月24日参照>>)する天正八年(1580年)には、もうすっかり織田傘下となって毛利と戦う宇喜多でした(6月15日【祝山合戦】参照>>)

そんなこんなの天正九年(1581年)、「備中侵入を容易に推進するには、児島半島を制圧しておきべき」と考えた秀吉は、宇喜多直家に児島への出兵を依頼します。

Syukuyamamuziiyama←このあたりの位置関係は以前の「祝山合戦の図」を参考に…
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(背景は地理院地図>>)

ところが、あいにく直家は病気療養中・・・というより、直家は、この天正九年(1581年)の 2月14日に死亡していたとも言われ(死亡は天正十年1月9日とも)、すでに、宇喜多家内では、息子の宇喜多秀家(ひでいえ)が家督を継いでいたものの、未だ10歳の秀家が当主とあらば心もとなく、叔父の宇喜多忠家(ただいえ)が、秀家の後見人となって事実上の運営をしつつ、直家の死はひた隠しにしていたのだとか・・・

そこで忠家は、直家の死を隠したまま、児島の東北端に位置する小串城(こぐしじょう=岡山県岡山市南区)に攻撃を仕掛けます。

これを受けた毛利側では、輝元の叔父(元就の四男)猿掛城(さるかけじょう=岡山県倉敷市)主の穂井田元清(ほいだもときよ=穂田元清)を向かわせて、児島の最西端に位置する天城(あまぎ=岡山県倉敷市藤戸町天城)に砦を築き、ここを拠点に宇喜多と対峙・・・

これを受けた宇喜多側は麦飯山城(むぎいやまじょう=岡山県玉野市)に入って防御を固めて、毛利の東進を食い止めるべく籠城しつつ、毛利勢の海上からの攻撃に備えて八浜(はちはま=岡山県玉野市八浜町)二子山城(ふたこやまじょう=双両児山城)を構築して南水道を抑えます。

しかし、この時、かねてより進行しつつあった水面下での毛利の画策が物を言い始め、宇喜多の中に毛利への内応者が出始めたのです。

内応者が毛利に通じたのを確認した穂井田元清は、天正九年(1581年)2月18日麦飯山城に攻撃を仕掛けます。

現在は宇喜多の物となっている常山城(つねやまじょう=岡山県岡山市南区&玉野市)と、かの二子山城の間に位置する麦飯山城を奪って、常山&二子山両城の連携を断ち、逆に毛利の物である番田城(ばんだじょう=岡山県玉野市番田)麦飯山城を連動させて宇喜多を窮地に追い込もうという作戦。

(ちなみに、この常山城↑は、あの女軍の戦い(6月7日参照>>)で知られる天正三年(1575年)に毛利方が奪った城ですが、その後、当時は同盟関係にあった宇喜多に譲られていました)

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福原城の戦い・位置関係図
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(背景は地理院地図>>)

やがて、内応者の手引きにより、籠城を続けるのが困難だと悟った宇喜多忠家は、やむなく麦飯山城から撤退します。

3日後の2月21日には麦飯山城を奪回すべく、忠家嫡男の宇喜多基家(もといえ)が麦飯山城から東へ約一里(約4kim)にある八浜に押し寄せ、そこで大きな戦いに発展・・・しかし、毛利軍の鉄砲隊による迎撃作戦が成功し、毛利が宇喜多を撃退したのだとか・・・

しかし、もちろん忠家は、まだあきらめません。

次に息子=基家に宇喜多の主力部隊を与えて二子山城守らせ、そのサポートとして、家老の岡家利(おかいえとし)を近くの日向山城ひゅうがさんじょう= 岡山県玉野市)に配置し、常山城の戸川秀安(とがわひでやす)と連携して麦飯山城を挟み撃ちにする作戦に・・・

一方、麦飯山城を奪った穂井田元清は、この麦飯山城を、より強固な城として手直しつつ、番田城には乃美宗勝(のみむねかつ=浦宗勝とも)を派遣して両者の連携を構築します。

さらに水軍力において勝る毛利は、村上景広(むらかみかげひろ=能島村上氏・村上武吉の従兄弟)率いる村上水軍300隻を児島と岡山の間に位置する海上に派遣して交通を遮断しました。

こうして、しばらくのこう着状態が続いた後の同・天正九年(1581年)8月22日(24日とも)、足軽同志の争いから、再び毛利VS宇喜多の戦いが再開されます。

麦飯山城近くの草刈り場で始まった些細な小競り合いは、どんどん拡大していき、大崎村の柳畑(玉野市八浜町大崎)の浜辺での大合戦となり、さらにそれが北上して大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう=岡山県玉野市八浜町)の丘陵へと展開し、優勢に進める毛利軍に宇喜多軍は押されぎみに・・・しかも、海上からは、あの村上水軍が宇喜多の側面を突こうと構えます。

この宇喜多軍を指揮していた宇喜多基家・・・形勢不利と見た基家は戦場を移動させるべく、自軍を鼓舞しながら采配を振りますが、そこへ、どこからともなく飛んで来た銃弾を受け、馬上から転落。

側近がすぐさま駆け寄りますが、すでに絶命・・・即死だったとの事。

大将を討ち取られた宇喜多軍は崩れるばかりで、もはや惨敗か??
と思った、その瞬間、常山城から駆け付けた戸川秀安率いる援軍が登場・・・後に「八浜七本槍」と呼ばれる事になる能勢頼吉(のせよりよし)らの勇士が、決死の覚悟で敵中に突っ込んでいき、なんとか形勢を逆転したのです。

勢いづいていた毛利軍もこれにて終了・・・戦況を挽回する事ができないと見た穂井田元清はやむなく撤退を決意し、麦飯山城を捨てて退却して行ったのです。

ギリギリのところで勝ちを得た宇喜多勢・・・この後、秀吉率いる織田の大軍が備中へとやって来るのを待つ事になります。

★今後の秀吉の中国攻めの展開は
 【鳥取の干殺し】>>
 【備中高松城・水攻め】>>
 へと進みます

‥…━━━☆

とまぁ、「今日は何の日?」というテーマでブログを展開している以上、日付がハッキリしないと、お話を進め難いので、上記のような紹介の仕方になりましたが、実のところ、今回の麦飯山八浜合戦(むぎいやまはちはまかっせん)謎多き戦いなのです。

たとえば『備前軍記』などでは、この戦いを天正四年(1576年)の事としていますが、
上記の通り、おそらく天正四年の段階では、未だ毛利と宇喜多は同盟関係にあったはず(文中にある宇喜多が毛利から常山城を譲り受けたのは毛利が奪い取った天正三年(1575年)より後のはず)ですから、両者が児島を巡って戦う事は、まず、考え難いのです。

なので、毛利と宇喜多の関係と織田配下の秀吉の進軍具合などから察して、今のところ、今回の麦飯山・八浜合戦は天正九年か、その翌年の天正十年の事であろうとの見方が強い事から、今回は、このような日付でお話を進めさせていただきましたので、それらの事をご理解いただければ幸いです。
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2020年1月 4日 (土)

目の前の命を救う~戦国の名医・曲直瀬道三

 

文禄三年(1594年)1月4日、戦国の名医で当代第一の文化人でもあった曲直瀬道三が病死しました。

・・・・・・・

これまで、このブログでも、そのお名前だけがチョイチョイ登場している曲直瀬道三(まなせどうさん=正盛)

  • 天正五年(1577年)、丹波(たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部) 平定に、プラス石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との天王寺合戦(5月3日参照>>)やら、雑賀(さいか・さいが)の陣(3月15日参照>>)やら、松永久秀(まつながひさひで)謀反(10月3日参照>>)やらで忙し過ぎの明智光秀(あけちみつひで)が体調を崩して曲直瀬道三の治療を受けて回復した(10月29日参照>>)とか、
  • 天正十二年(1584年)、病をおして合戦に出陣していた筒井順慶(つついじゅんけい)曲直瀬道三の治療を受けるため京都を訪れた(8月11日参照>>)とか、
  • 後に豊臣秀吉(とよとみひでよし)の主治医として福祉に活躍する施薬院全宗(やくいんぜんそう)が、寺を出てまず医学の教えを請うたのが曲直瀬道三だった(12月10日参照>>)とか、

そう・・・曲直瀬道三は戦国時代のお医者さん。
それも天下の名医と呼ばれた人なのです。

近江源氏(おうみげんじ)の流れを汲む佐々木氏(ささきし)庶流の父と多賀氏(たがし)の母との間に永正四年(1507年)に生まれたという曲直瀬道三ですが、自身の出産で母を亡くし、そのすぐ後に父も戦死してしまったため、叔母に育てられたのち、幼くして出生地である滋賀県守山市(もりやまし)の寺に入ったと言います。

Manasedousan590as その後、13歳の時に京都の相国寺(しょうこくじ=京都市上京区)に入って修行したのち、二十歳を過ぎた頃に関東に下って足利学校(あしかががっこう=栃木県足利市)で学びますが、ここで、すでに関東にて名医の誉れ高かった田代三喜斎(たしろさんきさい)に出合って医学の道に進む事を決意・・・三喜斎から李朱医学(りしゅいがく)を学びます。

李朱医学とは、
病気になった時、発汗や嘔吐を則したり、あるいは下剤等を使って「とにかく体の中にある悪い物を出す」という考え方だったこれまでの治療法とは一線を画す、栄養補給を中心とした体内環境の改善を目的とした治療法で、それを中国で学んで来た第一人者が田代三喜斎だったのです。

三喜斎のもとで10数年学んで、その奥義を取得した道三は、関東を出る気が無かった三喜斎に別れを告げ、自身は天文十五年(1546年)京都へと戻り、ここで還俗(げんぞく=僧を辞めて一般人に戻る事)して本格的に医師に専念する事になりますが、その噂は瞬く間に広まり、やがて道三宅の門の前には治療してもらいたい人々が群れをなして訪れるようになったのだとか・・・

そんな時、未だ坂本(さかもと=滋賀県大津市)に避難中だった若き将軍=足利義輝(あしかがよしてる=第13代室町幕府将軍:当時は義藤)の病をたちまちに治した事から、さらに評判に・・・

しかも、その後に義輝が、時の権力者=細川晴元(ほそかわはるもと)と和睦した事から、その晴元や、家臣の三好長慶(みよしながよし)など、今をときめく武将らをも診察する有名医師となります。
(この頃の晴元や三好長慶について嵯峨の戦い参照>>)

特に、三好長慶の家臣の松永久秀(まつながひさひで)とは、中国の書をヒントに道三自らが記した夜のマニュアル本=『黄素妙論(こうそみょうろん)を伝授するほどの仲だったとか・・・
(久秀がコッソリ読んで「なるほど…欲望にまかせた自分本位のHはアカンのか~」とか考えてる所を想像すると笑てしまう(#^o^#))

もちろん、後進の育成も怠る事なく・・・京都に啓迪院(けいてきいん=京都府京都市上京区上長者町付近)なる学校を創建して800人とも3000人とも言われる門徒に医学を教えたのです。

永禄五年(1562年)には、将軍=義輝から、ただいま絶賛戦闘中↓
(石見銀山争奪戦参照>>)
(白鹿城攻防戦参照>>)
安芸(あき=広島県)毛利(もうり)出雲(いずも=島根県)尼子(あまご)の仲を調停させるべく命を受けて中国地方へと下向・・・その時、病気療養中だった毛利元就(もうりもとなり)の治療をするかたわら、その元就にも、敵対する尼子義久(あまごよしひさ)にも粘り強く和睦を働きかけます。

ただ、ご存知のように毛利×尼子の戦闘は収まる事無く、結局、尼子の本拠=月山富田城(がっさんとだじょう=島根県安来市広瀬町)は毛利によって落とされるので(11月28日参照>>)、和睦に関してはかたくなな姿勢を崩さなかった元就ではありましたが、一方で道三の安芸滞在中には、彼に対してかなり気を使い、様々な便宜を図っていた様子もうかがえますので、和睦交渉人としての成果は薄かったものの、病気の治療の方はウマくいったようで、この間に道三は、門弟たちに語った療法をまとめた『雲陣夜話(うんじんやわ)を残しています。

また、天正二年(1574年)には自らが記した8巻にわたる医学書『啓迪集(けいてきしゅう)正親町天皇(おおぎまちてんのう=第106代)に献上するとともに、天皇を診察します。

さらに、あの織田信長(おだのぶなが)が上洛した(9月7日参照>>)後には、その信長も診察し、喜んだ信長から蘭奢待(らんじゃたい=東大寺の香木)(3月28日参照>>)もプレゼントされたとか・・・

天正十二年(1584年)にはイエズス会宣教師オルガンティノを診察して洗礼を受けたり、天正二十年(1592年)には第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から、(たちばな)の姓を賜ったり・・・と、まさに、ここに医師の頂点を極めり!!

こうして、時の権力者とのつながりも持った道三でしたが、一方で、彼が権力者の力を頼る事はありませんでした。

冒頭にも書いた、道三の弟子である施薬院全宗は、その紹介ページにも書かせていただいたように、時の権力者である豊臣秀吉の力をフル活用して医師の道を究めました(再び12月10日参照>>)

もちろん、私個人としては、それも悪い事では無いと思っています・・・なんせ、福祉にはお金がかかりますから。

薬を手配するにも、従事する人手を集めるにも、第一、施設の建設費や設備費もハンパ無いですから、そこの部分を権力者に頼りながら、自身の理想を叶えていくやり方も、一つの方法だと考えます。

ただ、道三は、それをせず、あくまで在野の一医師としての道を選び、数多くの著書を残し、後進の育成と、今、目の前にいる一つの命を救う事に理想を求めたのです。

文禄三年(1594年2月23日)1月4日 、長男をすでに亡くしていた道三は、娘婿の玄朔(げんさく)を養子に向かえ、2代目曲直瀬道三を名乗らせてバトンタッチ・・・静かに89年の生涯を閉じました。

その後も、かの施薬院全宗を頂点としつつ、曲直瀬玄朔を含めた曲直瀬一門の医療体制が確立されていき、日本の医療界を主導していく事となります。
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2019年12月20日 (金)

今川と徳川の狭間で~引馬城の飯尾連龍とお田鶴の方

 

永禄八年(1565年)12月20日、遠江引馬城主の飯尾連竜が駿河にて今川氏真に誘殺されました。

・・・・・・・・ 

現在の浜松城(はままつじょう)の場所にあったとされる引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市中区・引間城・曳馬城)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を治めるには重要な城・・・かつて室町幕府政権下で駿河(するが=静岡県東部)守護(しゅご=県知事)であった今川(いまがわ)が遠江の守護でもあったものの、一時は追われて斯波(しば)が守護になっていた事もありました。

それを、その斯波の配下で遠江引馬荘の代官であった引馬城主=大河内貞綱(おおこうちさだつな)を倒して、今川の手に取り戻したのが、北条早雲(ほうじょうそううん=伊勢盛時:氏親の母は早雲の姉もしくは妹)の尽力によって今川家第9代当主となっていた今川氏親(うじちか)でした(6月21日参照>>)

その時、氏親の命によって、その後の引馬城を任されたのが、今川配下の飯尾賢連(いのおかたつら)だったのです(諸説あり)

で、その今川氏親と「女戦国大名」の異名を取る女傑=寿桂尼(じゅけいに)(3月14日参照>>)の息子が、ご存知、今川義元(いまがわよしもと)で、急死した兄=氏輝(うじてる)の後を継いで、やがては海道一の弓取りと呼ばれる大物になるわけですが・・・

これまたご存知のように、1番天下に近いと言われていたノリノリ真っただ中、未だ尾張(おわり=愛知県西部)の一武将であった織田信長(おだのぶなが)の奇襲によって永禄三年(1560年)、桶狭間(おけはざま=愛知県名古屋市&豊明市)(2015年5月19日参照>>)に倒れてしまいました。

Imagawauzizane400 総大将が討ち取られた・・・という事は、当然、その周囲にいた重臣や傘下の大物たちの多くも討ち取られたわけで、これは、急遽、亡き義元の後を継ぐ事になった今川氏真(うじざね)にとっては大打撃!

しかも、この桶狭間のドサクサで今川の人質だった徳川家康(とくがわいえやす)三河(みかわ=愛知県東部)岡崎城(おかざきじょう=愛知県岡崎市康生町)に入って独立(2008年5月19日参照>>)した事で、今川傘下だった西三河が徳川の勢力圏内に・・・

ただ、この家康が、今後も今川と仲良くしてくれるんなら波風立たなかったわけですが、実際には、その逆・・・2年後の永禄五年(1562年)に信長と同盟を結んで(1月15日参照>>)、完全に今川から離反というより、敵対を表明します。

もちろん、それは家康だけでなく、義元というカリスマ大黒柱の急死は、次々と傘下の武将の離反を生んでしまうのです。

なんせ、「今川が駿河と遠江を支配」と言っても、そこには、もとから地元に根付いている国人領主も多くいて、彼らは、現段階で力を持つ今川家に対して「寄らば大樹の陰」で傘下に納まっているだけで、腹の底では今川のやり方に不満を抱えた者もいたわけですから・・・

あの桶狭間の2年後の永禄五年(1562年)には、家康とコンビを組む信長も尾張の統一(11月1日参照>>)を果たして遠江&その西側はは完全にヤバし!ですし、駿河の北には甲斐(かい=山梨県)の大物=武田信玄(たけだしんげん)がいるわけですから、このまま今川に留まるのかどうか・・・皆々悩むところです。

そんな中の一人が、かつて引馬城を任された飯尾賢連の孫で引馬城主の飯尾連龍(いのおつらたつ・ 致実・能房)でした。

一説には連龍の父=飯尾乗連(のりつら=つまり賢連の息子)は、かの桶狭間で義元とともに命を落としたうちの一人だとか・・・連龍が家督を継いだ年数はハッキリしませんが、上記の通り、お父さん亡き今は、まぎれもなく引馬城主なわけです。

で、その連龍が永禄五年(1562年)頃から、どうやら織田&徳川方についたようで・・・

これを知った今川氏真は、早速、今川傘下の井伊(いい)の家臣である新野親矩(にいのちかのり)らに命じて引馬城を攻めます。

これを受けた連龍は、飯田(いいだ=静岡県静岡市)まで出てきて迎え撃ち、かなりの激戦となりますが、勝負は着かず・・・この時、周辺の寺々でも、今川につく者と伊尾につく者に別れて戦闘となり、飯尾派だった頭陀寺(づだじ=静岡県浜松市)では堂舎の多くが焼かれたと言います。

しかし、どうしても飯尾連龍が許せない氏真・・・いや、許せないというよりは、ここをシッカリ押さえておかないと、周囲にも示しがつがないし、さらに離反者増えちゃいますからね。

なので永禄七年(1564年)9月、再び、新野親矩に3千の兵をつけ、引馬城を攻撃させるのですが、これが、引馬城を落とすどころか、飯尾方が放った矢に当たって、大将の新野親矩が討死する事態に・・・(新野親矩の死亡日については、この翌年の開城の時という説もあり)

とにもかくにも、結局、引馬城を落とせなかった氏真は、連龍とは一旦、和睦する事とし、とりあえず、今回の戦いは落ち着きました。

ちなみに、
先にも書かせていただいたように、この時は引馬城だけではなく、同時期に複数の遠江の武将(二俣城の松井や犬居城の天野など)「今川か?徳川か?」で揺れ、各地で合戦が起こったわけですが、この一連の戦いは「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)と呼ばれます。

しかし、氏真は、これで終わりにはしなかったのです。

永禄八年(1565年)12月20日、あらためて飯尾連龍を自身の駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市)に呼びつけ、面会の準備のため城内二の丸に入った連龍を襲撃し、殺害してしまったのです。

氏真の講和は偽りだった・・・これに怒った引馬城内に残っていた飯尾の家臣たちが、そのまま引馬城に籠城して今川に抵抗しました。

あくまで伝説の域を出ない話も含まれていますが、この、主君亡き後の引馬城籠城の中心となったのは連龍の奥さんであるお田鶴の方(おたづのかた=椿姫)であったとか・・・

このお田鶴の方のお母さんは今川義元の妹もしくは義妹の娘という事なので、つまりはお田鶴の方は今川氏親&寿桂尼さん夫婦の孫であり今川氏真とは従兄弟になる完全に今川の人であったわけですが、この時は、亡き夫の遺志を継いて引馬城に籠り、この後、家康が遠江へ侵入して来る永禄十一年(1568年)まで、引馬城を守り抜いていたと言います。

しかし、その永禄十一年(1568年)は運命の年・・・

今川との同盟を勝手に破棄して駿河を狙いはじめた武田信玄が、織田信長の仲介で、家康とタッグを組んで今川領に侵攻し始めるのです。

信玄が12月12日の薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)の戦い(12月12日参照>>)から、翌13日には氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)して、氏真を掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと追いやると、

同時に家康が、その掛川城を攻撃すべく、井伊谷三人衆を味方につけて遠江に入る(12月13日参照>>)のですが、この時、掛川城へ近づくべく、家康は引馬城の明け渡しの要求をしたのです。

しかしお田鶴の方は断固拒否・・・自ら防戦の指揮をを取って度々撃って出ます。

しかし、所詮は多勢に無勢でどうにもならず・・・最後は、自ら甲冑をまとい長刀を持って敵陣に斬り込み、壮絶な最期を遂げたと言います。

後に、彼女の死を惜しんだ家康の正室=築山殿(つきやまどの=瀬名姫←お田鶴の方の義理の従兄弟)が、彼女の住まい跡に建立された塚に100本余りの椿を植えて供養した事から、このお田鶴の方は椿姫とも呼ばれているのだとか・・・

こうして12月18日に引馬城に入った家康は、そこを拠点として12月27日から掛川城への攻撃を開始し、翌・永禄十二年(1569年)5月にようやく開城・・・敗れた氏真は奥さんとともに、奥さんの実家である北条氏政(ほうじょううじまさ)を頼って相模へ逃れる事になります(12月27日参照>>)
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2019年12月13日 (金)

井伊谷の戦いと徳川家康の今川領・遠江侵攻

 

永禄十一年(1568年)12月13日、武田信玄と連携して今川領に侵攻する徳川家康が遠江に入りました。

・・・・・・・

永禄三年(1560年)、駿河(するが=静岡県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)を領する海道一の弓取り今川義元(いまがわよしもと)が、尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)の奇襲攻撃によって桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)で倒れた事は、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん=晴信)にも大きな影響を与えました。

去る天文二十二年(1553年)に相模(さがみ=神奈川県)北条(ほうじょう)とともに今川との間にも相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい=三者による同盟)を結んでいた信玄は、本来なら、義元の後を継いだ息子の今川氏真(うじざね)を盛り立てていかねばならない立場だったところでしたが、

この桶狭間キッカケで今川からの独立を果たして信長と同盟を結んだ(1月15日参照>>)三河(みかわ=愛知県東部)徳川家康(とくがわいえやす=松平元康)(2008年5月19日参照>>)が 互いの隣国である遠江を狙い始めた事や、これまで甲斐より北に位置する信濃(しなの=長野県)からさらに北へと侵攻していたものの越後(えちご=新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)から川中島(8月3日参照>>)で激しい抵抗に遭って阻まれていた事、

などなどで、信玄はここで一気に方向転換・・・今川との同盟の証として義元の娘と結婚していた嫡男=武田義信(よしのぶ)廃嫡(はいちゃく=後継者から外す事)して幽閉し(10月19日参照>>)今川の領地へと目を向けたのです。

この信玄の転換を察知した信長は、おそらく義信の次の後継者になるであろう信玄四男の武田勝頼(かつより)に姪っ子の龍勝院(りゅうしょういん)を養女=自分の娘として嫁に出して信玄と友好関係を結んだ後、自身の同盟者である徳川家康と連携しての今川領侵攻をアドバイス・・・

かくして永禄十一年(1568年)12月6日、甲府を出発した武田軍は12日に薩埵峠(さったとうげ=静岡県静岡市清水区)を越えて駿河へ侵入します(12月12日参照>>)

そして、その翌日に信玄は、氏真の本拠である今川館(静岡県静岡市葵区)を攻撃(12月13日参照>>)し、氏真はたまらず掛川城(かけがわじょう=静岡県掛川市掛川)へと避難するのですが、この同じ日=永禄十一年(1568年)12月13日、徳川家康は陣座峠(じんざとうげ=愛知県豊橋市と静岡県浜松市の境の峠)を越えて遠江へ侵入したのです。

その日のうちに中宇利(なかうり)小幡(おばた=愛知県新城市・小畑)まで軍を進めたところ、東三河菅沼定盈(すがぬまさだみつ)なる者が出迎えて道案内を買って出たのです。

実はコレ以前、以前から徳川派だった菅沼定盈の仲介で、家康は菅沼忠久(すがぬまただひさ)近藤康用(こんどうやすもち)鈴木重時(すずきしげとき)の3人=後に井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)と称される事になる3人を味方につけていて、前日の12月12日の日付にて起請文(きしょうもん=神仏に誓って約束する文書)を提出し、その協力に対するそれなりの恩賞を約束していたのです。

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徳川家康起請文(東京大学史料編纂所蔵)

しかし、この時、出迎えたのは菅沼定盈だけ・・・三人衆は来てませんでした。

実は、彼ら三人衆は、家康は海側を通って来ると勘違いしてソチラの道に向かっていたのだとか・・・で、その後、慌てて菅沼定盈は、その日のうちにかの3人を連れて行き、家康に謁見すると、

「この先の道では浜名荘(はまなしょう=静岡県湖西市の白須賀・境宿の付近)後藤(ごとう)が出てくるかも知れないので備えを怠らぬように」
との家康の言葉に菅沼定盈は、
「ヤツらが兵を挙げても、この定盈一隊で蹴散らせてみせます!」
と大ハリキリ・・・

ただし、ちょっと心配なので牧野康成(まきのやすなり)松平虎千代(まつだいらとらちよ=後の康長)を浜名荘に残して、徳川本隊は先に進む事にしますが、心配していた後藤らは、むしろ敵対していた仲間らを説得して徳川に属さんと参上・・・菅沼定盈が大喜びで、その事を家康に報告すると、家康は彼らを定盈の配下の属させて、さらに菅沼隊を強化した後、拓植山(つげやま=愛知県新城市黄楊野付近の山)の奥道を通って、すでに家康に通じた僧の拠る方広寺(ほうこうじ=浜松市北区)に向かったと言います。

しかし、上記の通り、彼ら=菅沼定盈や井伊谷三人衆などは徳川についていたものの、この時、彼らの拠り所であった井伊谷城(いいのやじょう=静岡県浜松市北区)は、信玄の駿河侵攻のドサクサで、今川氏真の命を受けた井伊家家老の小野道好(おのみちよし=政次)に占領されてしまっていたため、家康は井伊谷三人衆を井伊谷城へ派遣して井伊谷城を奪還・・・敗北した道好は城を捨てて逃亡しました(翌年処刑されます)

さらに、この井伊谷城の他にも刑部城(おさかべじょう=静岡県浜松市)白須賀城(しらすかじょう=静岡県湖西市)などを破竹の勢いで次々と落としていった家康は、12月18日に引馬城(ひくまじょう=静岡県浜松市)に入って(12月20日参照>>)周辺の今川方の武将に調略仕掛けますが、すでに目の当たりにしている徳川方の進撃ぶりや、かの今川氏真の掛川逃避などなどが相まって、もはや周辺の武将は、われ先にと家康に帰属する状況だったとか・・・

翌12月19日、今川から徳川に鞍替えしたばかりの久野宗能(くのうむねよし)船橋(ふなばし=小舟で造った橋)を架けさせて天竜川を渡った家康は、翌20日、掛川城近くへと迫ります。

その後、信玄との約束通り、掛川城の今川氏真を攻める事になるのですが、これが、なかなかに手間取ったうえに、その和睦条件に憤慨した信玄が、やがては織田&徳川と手切れに至るのですが、そのお話はそれぞれのページで・・・

永禄十二年(1569年)1月18日の
【第2次薩埵峠の戦い】>>
3月27日【気賀堀川城一揆】>>
5月17日【掛川城・攻防戦】>>
7月2日【信玄の大宮城の戦い】>>
と…さらには、例の三方ヶ原へとまだまだ続きますが、これ以降は
戦国・安土の年表>>でどうぞ
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