2019年6月 2日 (日)

信長とともに散った織田政権ただ一人の京都所司代…村井貞勝

 

天正十年(1582年)6月2日、織田信長の家臣で京都所司代を担っていた村井貞勝が、本能寺の変で討死しました。

・・・・・・・・・

 村井貞勝(むらいさだかつ)は、その生年や出身などは不明なものの、かなり早くから織田信長(おだのぶなが)に仕えて信頼を得、重用された家臣です。

Muraisadakatu600a 弘治二年(1556年)に、弟の織田信行(のぶゆき=信勝とも)を推すメンバーが信長に謀反(8月24日参照>>)を起こした時には、母の土田御前(どたごぜん)の要請を受けて間に入り、敵対勢力と和平交渉して治めたばかりか、

敵チームの主力の一人であった柴田勝家(しばたかついえ)を取り込んで、最終的に勝家にその信行を葬り去る(11月2日参照>>)お手伝いをさせちゃうくらいの信長チームメイトにさせたのが彼=村井貞勝だったとか・・・

そう、勝は、戦の最前線に立って武功を挙げるというよりは、交渉術に長けた内政に手腕を発揮する軍師的な家臣だったのです。

その後、稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・後の岐阜城)攻略に向けての美濃三人衆(みのさんにんしゅう=稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就)の懐柔(8月1日参照>>)や、あの足利義昭(あしかがよしあき=15代室町幕府将軍)を奉じての信長上洛(9月7日参照>>)の際の義昭の受け入れ準備も担当しました。

さらに上洛後の一大事業=二条御所(義昭御所)の造営(2月2日参照>>)にも手腕を発揮・・・
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参考=信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

とは言え、この頃の信長は、未だ複数の家臣たちに京都の市政を分担させていましたが、元亀元年(1570年)に重臣の森可成(もりよしなり)が討死した(9月20日参照>>)事、浅井&浅倉との戦いに本願寺(2014年9月12日参照>>)やら比叡山(2006年9月12日参照>>)やら色んな敵が参戦して来て世に言う信長包囲網ができあがっていく中で、佐久間信盛(さくまのぶもり)明智光秀(あけちみつひで)といった畿内周辺担当の家臣たちの合戦への出陣も増えて来た事で、

反旗を翻した足利義昭(7月18日参照>>)を追放した元亀四年(天正元年=1573年)、貞勝を天下所司代=いわゆる京都所司代(きょうとしょしだい)に任じたのです。

これは、今で言えば京都府知事と警視総監(京都が首都なので…)を兼務したうえに、朝廷とのなんやかやもあるので宮内庁長官まで兼ねたような?要職です。

そんな中で貞勝は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)禁裏(きんり=京都御所)の修復や、新しい二条御所(二条御新造・信長の宿舎)の築造等の工事も担当しつつ、京都の治安維持や、最難関の朝廷や貴族や寺社との関係改善にも尽力していきます。

ご存知のように、天下目前のこの時期の信長さんは、次々と大きな政策を打ち出していきますので(←これは史実なので)ドラマ等で描かれる時は、少々強引に高圧的な人物に表現されていたりします。

それでなくとも、大体の時代において、政権を握った武門と朝廷&寺社の関係は、アッという間にギスギスした感じになっていくの常なんですが・・・

しかし、以前に、あの東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)削り事件のページ(3月22日参照>>)で書かせていただいたように、実際には朝廷&寺社と信長の関係は、それほど悪い物では無かったようです。

それもこれも、貞勝が間に立って、あれやこれやの食い違いをウマイ事まとめていった故・・・あの一大イベントの御馬揃え(おうまぞろえ)(2月28日参照>>)に天皇様自らお出ましになるのも、交渉上手の貞勝のなせる業といったところでしょう。

ところで、この村井貞勝が関わったとされる事で、「三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい)というのがあります。

これは、もはや天下目前の信長が、未だ上位の官職についていない事で、天正十年(1582年)5月、公家の勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)が村井貞勝のもとを訪れ、信長が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん=部門の最高位)太政大臣(だいじょうだいじん=朝廷の最高職・名誉職)関白(かんぱく=天皇の補佐役で実質上の公家の最高位)のうちどれかに任官することについて話し合った・・・てな事が晴豊本人の日記『晴豊公記』に記されているのですが、これを、信長側から申し出たのか?朝廷側から言い出したのか?がわからないために「問題」となっているのです。

しかも、ご存知のように、この少し後の6月に、信長がその返答をしないまま本能寺(ほんのうじ)で亡くなってしまう(6月2日参照>>) ため、信長の朝廷に対する考えや、両者の関係が謎なままになってしまう・・・もちろん、どちらが言い出したかわからないのには、肝心かなめの貞勝自身も、かの本能寺で死んでしまうから・・・

そう・・・天正十年(1582年)6月2日、本能寺の向かいにある自宅にいた村井貞勝は、異変を知るや息子たちとともに、すぐさま自邸を飛び出しますが、その時には、もうすでに本能寺は火の海・・・やむなく、信長の嫡男=織田信忠(のぶただ)が宿所としていた妙覚寺(みょうかくじ=京都府京都市上京区)に駆け込みます。

「もはや本能寺は敗れて、御殿も焼け落ちましたよって、敵は必ずここも攻めて来るでしょう。ここより、二条の新御所(同中京区)の方が、守りが堅固で立て籠もりやすいと思います」
と貞勝が進言した事で、隣接する二条御所へと移動した信忠は、御所にいた誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第5皇子)和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子で後の後陽成天皇)
「ここは戦場となりますので、お二人は内裏(だいり)の方へお移りください」
と、別れの挨拶をして送り出し、ここで明智勢を迎え撃つ事にしますが、残念ながら、ご存知のように事態は多勢に無勢・・・(一般的には、明智軍=1万3000に対し、織田勢は、信長=100名、この後の信忠=500名と言われています)

「もはや、これまで!」
を悟った信忠は自刃し、最後まで主君を守った村井貞勝も討死しました。

一説には、先の三職推任の話は「貞勝が朝廷に強要した」という説もあるようですが、交渉上手な貞勝なら、強要というよりは、両者納得の良い話にまとめていたような気がしないでもありませんが、今は何とも・・・これに関する新しい史料の発見が待ち遠しいですね。
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2019年5月12日 (日)

長島一向一揆の討伐に織田信長が出陣



元亀二年(1571年)5月12日、織田信長が長島一向一揆討伐のため5万の大軍を率いて尾張津島へ出陣しました。

・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月、今は亡き第13代将軍=足利義輝(あしかがよしてる)の弟=足利義昭(よしあき=義秋)を奉じて(10月4日参照>>)上洛する織田信長(おだのぶなが)は、その行く手を阻む南近江(滋賀県南部)六角承禎(ろっかくじょうてい・義堅)を蹴散らし(9月13日参照>>)、畿内を牛耳る三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好政康・石成友通らを、彼らが担ぐ14代将軍=足利義栄(よしひで)&管領=細川昭元(ほそかわあきもと)もろとも阿波(あわ=徳島県)へと退かせ(9月7日参照>>)、無事、義昭を第15代室町幕府将軍の座に座らせました(10月18日参照>>)

しかし、その後、何度かの打診にも関わらず、いっこうに新将軍への挨拶に来ない越前(福井県)一乗谷朝倉義景(あさくらよしかげ)に対し、信長が、元亀元年(1570年)4月、その最前線となる手筒山・金ヶ崎城(かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始する(4月26日参照>>)と妹(もしくは姪)お市の方を嫁がせて味方につけていたはずの北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)(2011年6月28日の前半部分参照>>)が、浅倉方にて参戦して来た事から、挟み撃ちを恐れた信長が撤退・・・これが有名な「金ヶ崎の退き口」ですが(4月27日参照>>)、、、

ここで危機一髪の苦汁をなめさされた信長は、2か月後に近江へ侵攻して、浅井浅倉連合軍との姉川(あねがわ=滋賀県長浜市)の戦いに勝利します(6月28日参照>>)

しかし、ここで深追いせずにいた事で、ある程度の力を温存できた浅井浅倉が南下して来て、宇佐山城(うさやまじょう=滋賀県大津市)の戦い(9月20日参照>>)堅田(かただ=同大津市)の戦い(11月26日参照>>)などで抵抗し、そこから逃げた残党を比叡山延暦寺(えんりゃくじ=同大津市)が匿った事が翌年の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)へと発展して~と、ここらあたりから、いわゆる「信長包囲網」が形成されていくわけですが・・・
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信長包囲網(長島一向一揆バージョン)
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんな浅井浅倉とドンパチやってる真っただ中でも信長は忙しい・・・畿内に舞い戻って信長に抵抗していた三好三人衆との野田福島(のだふくしま=大阪府大阪市)の戦い(8月26日参照>>)さ中の元亀元年(1570年)9月、この野田福島の戦いに本願寺第11代法主顕如(けんにょ)参戦して来たのです(9月13日参照>>)

実は、
もともと本拠としていた山科本願寺(やましなほんがんじ=京都市山科区)を40年ほど前に焼き討ちされた(8月23日参照>>)後、浄土真宗本願寺が現在本拠としていたのが、かつて第8代法主=蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)の隠居所だった大坂御坊(3月25日の後半部分参照>>)石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪市・現在の大阪城の場所)だったのですが、ここ最近、この絶好の場所を「譲ってほしい」と信長が言って来ており、それに対抗すべく全国の信徒に向けて一揆を蜂起するよう檄文を発布し、自らが先頭に立っての参戦でした。

・・・で、
「教祖様が立ちあがったひにゃ、ワシらも!」
とばかりに蜂起したのが、木曽三川(きそさんせん=木曽川・揖斐川・長良川)の河口付近の輪中(わじゅう=水害から守るために周囲を囲んだ堤防や集落)地帯である長島(ながしま=三重県桑名市)の本願寺門徒・・・ここは、室町中期に蓮如の息子である蓮淳(れんじゅん)願証寺(がんしょうじ)を建立して以来、寺を中心に本願寺門徒が周辺の国人領主(地元に根付いた武士)を取り込んで、砦などを設けて武装化した本願寺門徒の一大拠点となっていた場所でした。

元亀元年(1570年)11月、武装した一揆衆は、代々伊藤一族が城主を務めていた長島城(ながしまじょう=三重県桑名市)に大軍で押し寄せて伊藤一族を追放して城を奪取した後、この長島城を拠点に、信長の弟=織田信与(のぶとも・信與)が守る古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)を襲撃し、信与を自害に追い込んだのです(11月12日参照>>)

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長島一向一揆&小木江城の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

弟が犠牲になったのですから、そりゃもう、信長さんも激おこMAX!!

早速信長は、未だ絶賛戦闘中の六角承禎父子らと和睦したり、足利義昭などを通じて浅井浅倉などとも和睦調停を結び、とりあえずこの年の暮れには、一旦、周辺を落ち着かせる事に成功します。

ところが、翌元亀二年(1571年)早々、信長配下で横山城(よこやまじょう=滋賀県長浜市)を任されていた木下秀吉(きのしたひでよし=豊臣秀吉)が浅井方の磯野員昌(いそのかずまさ)佐和山城(さわやまじょう=滋賀県彦根市)をごと寝返らせた事から、5月 6日、今度は浅井長政が、その前年に浅井から織田へと転身した堀秀村(ほりひでむら)らが守る箕浦城(みのうらじょう=滋賀県米原市箕浦)を襲撃・・・これに近江の一向一揆が浅井を加勢します。

しかし、即座に反応した秀吉が見事これを鎮圧・・・(5月6日参照>>)

これに気をよくした信長は、元亀二年(1571年)5月12日長島一向一揆をせん滅すべく5万の大軍を長島に派遣し、自らも尾張津島(つしま=愛知県津島市)まで出陣します。

津島に着陣すると同時に信長は、佐久間信盛(さくまのぶもり)以下、浅井政貞(あざいまささだ)和田定利(わださだとし)らの一隊を中筋口(長島町大鳥居)の島東部から、柴田勝家(しばたかついえ)以下、氏家卜全(うじいえぼくぜん=直元)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)不破光治(ふわ みつはる)らの一隊を揖斐(いび)西岸の多岐(たぎ)山麓から太田口に向かって進撃させました。

5月16日、周辺の村々に放火した織田軍は、この日は、そのまま退去するつもりで兵を退きあげようとしますが、一揆勢は、そこをすかさず山側に移動・・・待ち伏せの体制を取り、眼下の道を織田軍の最後尾が通るタイミングで以って、待機していた弓&鉄砲の名手が一斉に射撃を開始すると同時に歩兵がドッと攻めかかります。

右は揖斐川、左は一揆の射撃隊がいる山の崖・・・しかも崖の下のこの道は、騎馬なら一騎ずつしか通れないような細い道で、もし敵に出会おうものならお互いに一騎打ちで対戦するしかないような場所でした。

そう・・・地の利を知る一揆勢が、少数で大軍を迎え撃つために選んだ最高の場所だったというワケです。

混乱する中でも戦う織田勢・・・織田軍本隊と、少し先を行っていた佐久間隊は、すぐに兵を退かせる事に成功しますが、殿(しんがり=軍隊の最後尾)を務めていた柴田隊は完全にピンチ!

それでも、踏ん張って防戦する柴田隊でしたが、惜しくも勝家自身が負傷したため撤退します。

その後、殿の2番手だった氏家隊が敵を受け止めて戦いを継続しますが、残念ながら氏家卜全は討死してしまいました。

もちろん、彼らの配下の将兵の死傷者は数知れず・・・信長による長島一向一揆攻めの初回は、見事な敗北となってしまったのです。

この後、9月には
【近江一向一揆】>>
例の
【信長の比叡山焼き討ち】>>
さらに、その翌年には
【越中一向一揆】>>(←これは上杉謙信との戦いですが)
と、一向一揆は激しさを増していきますが、

どうやら、一揆側も一枚岩では無いようで・・・と、そのお話は【石山本願寺の総大将・下間頼総の追放】>> でどうぞm(_ _)m
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2019年4月28日 (日)

信長ピンチの「金ヶ崎の退き口」で殿の木下藤吉郎秀吉は…

 

元亀元年(1570年)4月28日、金ヶ崎城の戦いにて浅井と浅倉の挟み撃ちに遭った織田信長が無事に退くため、織田軍の殿を務めた木下藤吉郎が金ヶ崎城より撤退しました。

・・・・・・・

永禄十一年(1568年)7月に、越前(えちぜん=福井県東部)朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)のもとに身を寄せていた足利義昭(あしかがよしあき・義秋)からの要請を受けた(10月4日参照>>)織田信長(おだのぶなが)は、義昭を奉じて上洛すべく、妹(もしくは姪)お市の方を嫁にやって縁を結んでいた北近江(滋賀県北部)浅井長政(あざいながまさ)の下を、出発の前月に訪れて上洛の道筋を再確認(6月28日前半部分参照>>)、永禄十一年(1568年)9月7日、いよいよ岐阜(きふ=岐阜県岐阜市)を出立しました(9月7日参照>>)

途中、浅井とは逆に上洛の道筋を譲ってはくれなかった六角承禎(ろっかくじょうてい=義賢)(9月13日参照>>)三好三人衆(みよしさんにんしゅう=三好長逸・三好宗渭・岩成友通)(9月23日参照>>)などを蹴散らして、無事、上洛を果たし、10月18日に朝廷からの将軍宣下を受けた義昭が第15代室町幕府将軍に就任する(10月18日参照>>)という、ご存知の展開・・・

その後、信長は将軍=義昭の名のもとに、各地の諸将に将軍就任の挨拶に上洛するよう要請するのですが、それを拒んだのが、かの朝倉義景でした。

Asakurayosikage500a それは、かつては同じ主君=斯波(しば)氏のもとにいた織田へのプライドなのか?それとも、すでにギクシャクし始めていた義昭と信長の関係(1月23日参照>>)を見据えてか?・・・とにかく、翌年になっても信長の要請を拒みつづけます。

かくして元亀元年(1570年)4月20日、信長は3万の軍勢を率いて越前への遠征に出立し、同月25日から、朝倉の前線である天筒山金ヶ崎城(てづつやま・かながさきじょう=福井県敦賀市)への攻撃を開始したのです(4月26日参照>>)

これに困惑したのが近江の浅井長政です。

なんせ浅倉とは長期に渡って同盟を結んでいる旧知の友・・・一方の信長とも、嫁の兄(もしくは叔父)として同盟を結んでいるわけで。

悩んだ末に結局、浅倉に味方する事とした長政に対し、この状況を知った信長が、「このままでは挟み撃ちになる!」とばかりに、即座に撤退を決断し、わずかの手勢を連れて金ヶ崎を出発する・・・という、有名な「金ヶ崎の退き口」ですが、
Anegawaitikankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この信長さんの状況については、以前の4月27日のページ>>を見ていただくとして、本日は、その殿(しんがり)を務めたとされる木下藤吉郎秀吉(きのしたとうきちろうひでよし=後の豊臣秀吉)のお話を、『絵本太閤記』に沿ってご紹介させていただきたいと思います。

ご存知のように、殿とは、軍を撤退する時の最後尾の位置・・・合戦における行軍は、向かう時よりも撤退する時の方がはるかに難しく、その中でも最後尾は、敵に追われながらの死を覚悟の乱戦となるは必至な場所ですから、最も危険な任務なわけで・・・

そんな危険な任務に秀吉が自ら名乗り出て・・・と、言いましても、実のところ、この「秀吉が殿軍の大将」という一件に関しては信ぴょう性が疑われる部分もあり、まして「太閤記」などは主人公が秀吉=殿下様々なので、まさにヒーロー伝説盛りまくりな部分も感じられるのではありますが、本日は、そこンとこを踏まえつつ、話半分な感じでよろしくお願いします。

・‥…━━━☆

絶賛攻撃中の4月27日、「浅井長政の挙兵に合わせ、浅倉義景も自らが本拠=一乗谷(いちじょうだに=福井県福井市城戸ノ内町)を出馬する」。。。との一報が届いた織田軍の陣中にて、すぐに行われた評議の席にて、
「大量の旗を立てて、本隊が本道を退いて行って、本隊に信長さんがおると思って、浅倉の目をソチラに向けて食い止めてる間に信長さんは側近を連れて間道を進んで下さい。
例え浅倉勢が何千何万とおろうとも、この藤吉郎が殿を務め、2~3日は食い止めてみせますから安心しといて下さい」
と、秀吉が殿軍の大将を買って出ると、信長は
「よし!」
と・・・

かくして元亀元年(1570年)4月28日夜、佐久間信盛(さくまのぶもり)佐々成政(さっさなりまさ)など、一部の諸将を連れて陣を引き払い、西近江路を避けて若狭(わかさ=福井県西部)方面から琵琶湖(びわこ)の西岸を抜けるルートをひた走ります。

一方、柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)池田勝正(いけだかつまさ)らが率いる総勢6万の本隊(←盛ってるっぽい)は、信長の旗をド真ん中に守りつつ、堂々と本来の近江方面へ向けて撤退を開始します。

これを迎え撃つ浅井長政は、地の利を持つ本願寺門徒が示す要所に軍を配置して、信長と雌雄を決すべく構え、やって来た本隊に向けて鉄砲をお見舞いしますが、やがて、その本隊に信長がいない事を知って、
「どうやら、他の道で逃げたようだ」と察し、
ならば、戦うはムダと判断して、そのまま兵を退きます。

この間に手勢3千人(ホンマかいな?)で以って金ヶ崎に留まっていた秀吉は、残った彼らに向かって、
「俺は、ここで浅倉の大軍相手に稀代の武功を挙げ、先輩たちをアッと言わせたるねん」
と言って、その作戦を伝えます。

おそらく大軍を率いてやって来る義景は、もはや夜の10時を過ぎた今、到着後すぐに戦いを仕掛けて来る事は無いだろうと、まずは蜂須賀正勝(はちすかまさかつ=小六)又十郎(またじゅうろう)兄弟に千人を与えて城から離れた(敵をおびき寄せる予定の)道筋に伏兵として隠し、次に堀尾吉晴(ほりおよしはる)らの諸将に500人を付けて、それぞれに松明(たいまつ)と紙で作った旗らしき物を持たせ周辺の山や谷に放ち、合図に応じて一斉に松明に火をつけて旗を照らしつつ徘徊するよう手はずを整えます。

さらに浅野長政(あさのながまさ)に500人を付けて周辺の山々でかがり火を焚き、いかにも大軍がいるように見せ書けるよう頼み、秀吉自身は千余人で以って、城の前面にて構えます。

そこへ、3万5千余騎(←同じく盛ってるっぽい)を率いた浅倉義景が金ヶ崎城周辺に到着・・・しかし、まわりは日暮れはとうに過ぎた暗闇。

その中を遥かに望めば、左右の山におびただしい数の陣がかがり火を焚いて夜営中、
「さては、未だ信長は退いてはいなかったか?」
と思うものの、さすがにこの闇夜では大軍の統率も取り難く、味方の人馬の疲れもあり、浅倉勢も、この近くにて夜営をすべく陣を構えます。

「浅倉が夜営を敷いた」
との知らせを聞いた秀吉は
「計画どおり」
とほくそ笑みつつ、その夜も更けた頃・・・「今だ!」
とばかりに、まずは自身が1500人で以って浅倉の陣営を襲撃します。

浅倉勢が驚いて迎え撃つところに、秀吉の合図にて、四方の山々に隠れていた諸将の軍勢が一斉に松明に火をつけて鬨(とき)の声を挙げると、昼間のように明るくなる中で数え切れぬほどの旗が翻るさまは、まるで大軍が忽然と目の前に現れたかに見え、さらに驚く浅倉軍は、たちまち崩れ、散り散りに敗走していくのです。

そこをすかさず斬りこんで、あたりは瞬く間に屍の山と・・・

もちろん、中には冷静な将もいて、
「慌てるな!敵は小勢や。味方同士で同士撃ちするな!」
と声かけますが、もはや大勢がパニック状態になっている中では崩れていく一方です。

そこを何とか逃げ出せた者にも、前方に待ち構えていた蜂須賀隊が斬って入る・・・そうなると、もはやどうしようもなく、大軍は総敗軍となって、それぞれに落ちて行くのが精いっぱい。

やがて白々と夜が明けると・・・
「…敵を討つ事八千余人、味方の手負い一人もなく…」(『絵本太閤記』談)
(さすがに、これ↑は盛り過ぎか?)
3千余兵は威風堂々と引き取った・・・と、、

・‥…━━━☆

と、まぁ、さすがに秀吉側の死傷者ゼロな点は、話半分どころか、話4分の1くらいな盛り感満載ですが、ご承知の通り、この時の信長が無事この窮地を脱した事は事実ですし、琵琶湖の西を行った信長に対し、越前から近江にかけての敗走の道で、織田軍の殿が頑張った事は確か・・・

また、永禄六年(1563年)から続いていた若狭の武田(たけだ)氏との戦い(8月13日参照>>)の影響で、この頃の浅倉軍はかなり疲弊していたとも言われ、そこに、相手が大軍と言えど、殿軍が奮戦できる余地があったのかも知れませんね。
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2019年4月17日 (水)

秀吉VS勝家の賤ヶ岳前哨戦~滝川一益・峯城歌合戦

 

天正十一年(1583年)4月17日、柴田勝家と羽柴秀吉が戦った賤ヶ岳の戦いの前哨戦で、滝川一益の腹心・滝川儀太夫が守る峯城が開城されました。

・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)亡き後に、織田家家臣筆頭の柴田勝家(しばたかついえ)と、山崎で主君の仇を討った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)との間で信長の後継を巡って起こった争い=賤ヶ岳(しずがたけ=滋賀県長浜市)の戦い・・・

信長の死から、ここまでの経緯は下記↓関連ページでご覧いただくとして…
●本能寺の変>>
●山崎の戦い>>
●清洲会議>>
●秀吉演出の信長の葬儀>>
●長浜城の戦い>>
●長島城の戦いが始まる>>
●亀山城の戦い>>
●勝家が福井を出陣&秀吉が佐和山に着陣>>
Sizugatakezikeiretu

簡単な流れとしては……
信長亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任するも、納得いかない信孝が岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に籠城して反発したので、秀吉が、信孝を推す勝家の支城である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を陥落させると、同じく信孝推しの滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったので、秀吉は城を奪還すべく伊勢方面に出陣して転戦するのです。(←今ココ)

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

こうして、
天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍で三方向から北伊勢に入った秀吉軍の実弟=羽柴秀長(ひでなが)&甥の羽柴秀次(ひでつぐ)らが、滝川一益の甥=滝川儀太夫(ぎたゆう=益重?益氏?)の籠る峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲したのです。
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秀吉は川崎村(かわさきむら=三重県亀山市の北東部)に本陣を置いて、ネズミ一匹通さぬように柵で以って城を囲み、堀を埋め、2月16日には城下一帯に火を放って執拗に攻め立てますが、峰続きの天然の要害に囲まれた峯城は、なかなか落ちそうになく、攻め手が近づけば、籠城側は貯めに貯めた糞尿をまき散らして追い払う・・・どちらにも決定打が無いまま小競り合いばかりが続きます。

そんな中、戦線がこう着状態となったある日・・・籠城側から一首の狂歌(きょうか=滑稽な社会風刺や皮肉などを盛り込んだ短歌)が送られて来ます。

♪上野(こうずけ)の ぬけとは鑓(やり)に 会いもせず
 醍醐の寺の 剃刀(かみそり)をとげ ♪
これは、秀吉軍の一人として参戦していながら、未だ大した働きをしていなかった織田信包(のぶかね=信長の弟)に対し、彼がかつて醍醐寺(だいごじ=京都府京都市伏見区)の近くに屋敷を構えていた事を皮肉って
「上野介(こうずけのすけ=信包の事)君は、ヤリやなくて坊主にするためのカミソリを研いどいた方がえぇんちゃうん?」
てな事を歌った物・・・

こういう場合、当然、言われっぱなしにはしておけませんがな!

で、寄せ手側からは中尾新太夫(なかおしんだゆう)なる武将が出て、
♪春雨に 峰々までも くずれ落ち
 つれて流るる 滝川の水 ♪
「峯城が落ちるんと同時に滝川儀太夫も一巻の終わりやっちゅーねん」
と返したのだとか・・・

まぁ、この『峯城歌合戦』の話は、地元に伝わる昔話・伝説の域を越えない話なのでアレですが、この峯城周辺で、1ヶ月近くに渡るこう着状態が続いた事は確か・・・

とにもかくにも城の攻略を1番の目標とする秀吉は、お得意の干殺し(ひごろし・ほしごろし=兵糧攻め)の持久戦法を続ける一方で、金堀り衆にトンネルを掘らせて 土塁(どるい=土制の堤防)近くまで進み、盛んに城内を威嚇します。

しだいに飢えていく城内・・・そんな中、去る3月3日に、この峯城と同時攻撃されていた佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)が守る亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)が落ちた(3月3日参照>>)というニュースが入って来たのです。

そこを、すかさず投降を促し、和平交渉に入る秀吉・・・

「もはや万策尽きた」と感じた滝川儀太夫は、天正十一年(1583年)4月17日、ついに峯城の開城を決意し、今回、秀吉とともにこの戦いの指揮を取っていた織田信雄に、城を明け渡したのでした。

いやはや、もし、この時代にスマホがあって、峯城の儀太夫と湖北に進んだ柴田勝家と連絡をとっていたら・・・もう、ワクワクしますね~

そうです。。。携帯の無い時代、おそらく峯城の城内には、秀吉の動きも、勝家の動きも伝わっていなかったのでしょう。

この時、一旦、湖北方面に戻っていた秀吉は、この峯城陥落の前日の16日に信孝の籠る岐阜城に向かいますが、大雨で長良川が渡れず、やむなく大垣(おおがき=岐阜県大垣市)に留まっていたのですが、実は一方の勝家の方も越前を出て準備万端整えていたのです。

この3日後の4月20日に、勝家は湖北=賤ヶ岳にて秀吉軍に向けて戦闘を開始・・・

そして自軍のピンチを知った秀吉が慌てて、不眠不休で西へと向かう・・・ご存知『美濃の大返し』(4月20日参照>>)となるわけです。
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2019年4月12日 (金)

主君からの独立に動く宇喜多直家~天神山城の戦い

 

天正三年(1575年)4月12日、浦上からの独立を画策する宇喜多直家が挙兵しました。

・・・・・・・・・

長きに渡って中国地方を二分していた山陰の雄=出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)と、山陽の雄=周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)を倒して西国の雄となった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)・・・はじめは、その毛利の要請によって畿内(きない=山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国)より西へと進出しはじめた尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)でしたが、元亀二年(1571年)に、その元就が亡くなって、その後を孫の毛利輝元(てるもと)が引き継ぐ頃には、世に言う「信長包囲網」が敷かれて周囲は敵ばかり。

さらに、信長に京都を追われた第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)が毛利に身を寄せた事から、完全に敵対関係になる両者・・・

信長の命を受けた羽柴秀吉はしばひでよし=後の豊臣秀吉)但馬(たじま=兵庫県北部)を、明智光秀(あけちみつひで)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)らに丹波たんば=京都府中部・兵庫県北東部)丹後(たんご=京都府北部)を平定するようになって来ると、御大の毛利との間に挟まれた形となる備中(びっちゅう=岡山県西部)やら備前(びぜん=岡山県東南部)やら但馬(たじま=兵庫県北部)やら播磨(はりま・兵庫県南西部)・・・とにかく、そのあたりの諸将は、これまでの領地の取り合いに加え、その身の置き所も模索せねばならないわけで・・・

Ukitanaoie300a そんな中、備前天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)の家臣でありながら、主君に匹敵するほどの力をつけていた宇喜多直家(うきたなおいえ)は、事実上の備中の覇者となっていた三村家親(みむらいえちか)(2月15日参照>>)を暗殺してさらに力をつけ、主家=浦上からの独立を画策して毛利に近づきます。

一方の浦上宗景は、主家を凌ぐ勢いを持つようになった直家を恐れ、信長を頼ります。

おりしも今は、備中兵乱(びっちゅうひょうらん)(6月2日参照>>)と呼ばれる一連の戦いが繰り広げられている真っ最中・・・そこで、まず直家は、流浪の身となっていた浦上久松丸(ひさまつまる)を自身の居城=岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)に招いて保護します。

…というのも、そもそもは、
現在の当主である浦上宗景の父=浦上宗村(むねむら)が享禄四年(1531年)に細川管領家(ほそかわかんれいけ=室町幕府管領を代々受け継ぐ細川家)の後継者争いに巻き込まれて亡くなって(11月12日参照>>)、未だ幼き長男(つまり宗景の兄)浦上政宗(まさむね)播磨室山城(はりまむろやまじょう=兵庫県たつの市御津町・室津城)にて浦上家を継いだのですが、その兄弟が成長して後、兄と不仲になった宗景が天神山城を築いて離反し、備前の地を横領したといういきさつがありました。

しかもその後、浦上と敵対していた赤松政秀(あかまつまさひで)が政宗の息子の清宗(きよむね)の婚礼の席を襲撃して父子を殺害し、清宗の花嫁になるはずだった黒田職隆(くろだもとたか)の娘を、その弟の誠宗(なりむね・あきむね)の嫁として迎えて、これを浦上の後継ぎとしたのですが、さらにその後、その誠宗を宗景が暗殺・・・つまり、宗景の浦上当主の座は兄一家から奪った物だったわけで……

で、その誠宗の遺児が、上記の久松丸・・・つまり、直家は主家を討つ=謀反ではなく、あくまで「久松丸が正統な跡継ぎである」と主張して宗景の追放を目論んだわけです。

天正三年(1575年)1月、毛利と敵対する美作三浦(みうら)氏との戦い(1月22日参照>>)に参戦する事で毛利の傘下である事=宗景からの離反を明白にした直家は、その年の4月、ついに宗景打倒に動き出します。

天正三年(1575年)4月12日、天神山城の支城の1つである日笠頼房(ひかさよりふさ)の守る青山城(あおやまじょう=岡山県和気郡和気町)を攻略しようと城下にて野戦を展開しますが、この時は日笠勢の勢いに阻まれて撤退・・・

以後5月~7月にかけて、両者の配下の城を巡って、いくつかの小競り合いがあり、ともに取ったり取られたりとなりますが、この間、本家本元の天神山城が堅固な山上に築かれた山城で「ただ単に力攻めしても味方の損失が大きくなるだけ」と察していた直家は、得意の調略で以って城内にいる一部の重臣を味方にすべく誘うと同時に、周辺の国衆にも根回しして天神山城を徐々に孤立させていくのです。

やがて、例の備中兵乱(びっちゅうひょうらん)で毛利と戦っていた松山城(まつやまじょう=岡山県高梁市)が5月に陥落し、翌6月には城主の三村元親(みむらもとちか)が自刃し(6月2日参照>>)周囲との連携も断たれた天神山城は完全に孤立してしまいます。

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天神山城合戦・位置関係図

↑クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そんなこんなのある夜(日付については諸説あり)・・・
その日は天神山一帯に、とてつもない風が吹き荒れたのです。

こんな日を待っていたのが、すでに直家に同調している天神山城内の内応者・・・かねてからの計画通り、城内のあちこちに火を放つと、強風にあおられてたちまち燃え上がり、城中は瞬く間に大混乱となります。

この、火が上がるのを待っていた直家が、それを合図に一斉に天神山に攻め登ると、未だ宗景に忠義を貫く譜代の家臣らが応戦しますが、残念ながら次第に討ち取られ、その大半を失ってしまいます。

しばらくは、その様子を見ていた浦上宗景でしたが、敗戦が濃くなる中で側近に勧められ、山の背後から尾根伝いに益原(ますばら=岡山県和気郡和気町)へと脱出し、片上(かたかみ=岡山県備前市)から播磨へと逃走・・・

そこに隠れ住みつつ、幾度か上洛して、お家再興を図るべく信長に謁見するも支援は得られなかったとか・・・

あるいは、一族の浦上景行(かげゆき)が城主を務めていた富田松山城(とだまつやまじょう=岡山県備前市東片上)に籠城しつつ、天正五年(1577年)から天正七年(1579年)にかけて、天神山城奪回に撃って出るも敗戦したとか・・・

あるいは、ほとぼりがさめた頃に姫路城(ひめじじょう=兵庫県姫路市)黒田如水(じょすい=官兵衛孝高・職隆の息子)の保護を受けた後、黒田家の筑前(ちくぜん=福岡県西部)転封にともなって福岡へ行き、そこで80余歳にて病死したとか・・・

浦上宗景のその後については複数の説がありますが、いずれも大勢の変化はなく、結果的に、この天神山城の戦いにて浦上も事実上の滅亡となります。

一方の宇喜多直家は・・・
彼にとっては、この天神山城攻めは、あくまで浦上を追放するための戦いであり、城自体は戦略的価値がなかったと見え、ほどなく城は廃城となり、直家が備前全土の覇者となります。

とは言え、
ご存知のように、直家にとっては毛利との蜜月も浦上追放のためだったようで・・・

勢いづいた信長配下の秀吉が三木城(みきじょう=兵庫県三木市)にやって来る(3月29日参照>>)天正六年(1578年)頃には、今度は信長の傘下に鞍替えして毛利と戦う事になるのですが、そのお話は【宇喜多VS毛利の作州合戦】>>でどうぞm(_ _)m
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2019年3月24日 (日)

景勝、初の富山侵攻~上杉VS織田の小出城の戦い

 

天正九年(1581年)3月24日、謙信の後を継いだ上杉景勝による織田信長配下の小出城攻めが終結しました。

・・・・・・・・・・・・

戦国時代の越中(えっちゅう=富山県)・・・

そもそもは、室町幕府政権下での越中の守護(しゅご=今で言う県知事)だった(はたけやま)が、かの応仁の乱の火種ともなった後継者争い(1月17日参照>>)に忙しくて畿内の領地を離れる事ができなかったため、越中の事は守護代(しゅごだい=副知事)だった遊佐(ゆさ)神保(じんぼう)椎名(しいな)といった面々らが、ほぼほぼ仕切っていたわけですが、やがて起こった加賀一向一揆(かがいっこういっき)(6月9日参照>>)の勢力が隣国の越中にまで伸びて来た事で、当時の守護だった畠山尚順(はたけやまひさのぶ)が隣国の守護である越後(えちご=新潟県)守護の上杉房能(うえすぎふさよし)越前(えちぜん=福井県東部)守護の朝倉貞景(あさくらさだかげ)らに越中の救援を依頼し、それを受けて越中平定に派遣されて来たのが越後守護代の長尾能景(ながおよしかげ)=あの上杉謙信(うえすぎけんしん)のジッチャン・・・(9月19日参照>>)

そんな謙信は、天文二十二年(1553年)から始まった甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)との一連の川中島(かわなかじま)(9月1日参照>>)のさ中にも、永禄二年(1559年)に関東管領(かんとうかんれい=室町幕府政権下での関東支配者)並みの格式を得た(6月26日参照>>)時でも、おそらくジッチャンや父ちゃんの悲願であった越中平定の事は頭にあったはず・・・

すでにこの頃の越中は、神通川(じんつうがわ)の西に勢力を持つ神保長職(じんぼうながもと)と東の椎名康胤(しいなやすたね)との2大勢力の時代となっていましたが、その川中島に謙信の目が向いているのを絶好のチャンスと見た長職が勢力拡大を図って康胤の松倉城(まつくらじょう=富山県魚津市)を攻める勢力争いは、神保を支援する武田と椎名を支援する上杉の代理戦争のようにもなっていたわけで・・・(3月30日参照>>)

その抗争は支援する側される側が入れ替わりながらもしばらく続きますが、
●永禄十一年(1568年)松倉城攻防戦>>
●元亀三年(1572年)日宮城攻防戦>>
こうして謙信と信玄がドンパチやってる間に登場して来るのが、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛(9月7日参照>>)を果たした尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)・・・

ここで、かの信玄が完全に今川潰しにシフトチェンジ(12月12日参照>>)した事もあって、川中島に終止符を打った謙信は越中へと侵攻するのです(3月17日参照>>)

そこに反対側から忍び寄って来るのが、越前一向一揆を制して(8月12日参照>>)加賀(かが=石川県西部)へと触手を伸ばし始めた信長・・・

そんな中、敵の敵は味方とばかりに一向一揆の教祖様=石山本願寺顕如(けんにょ)と和睦した(5月15日参照>>)謙信の戦いの相手は、これまでの一向一揆から、コチラも完全に織田へとチェンジ・・・「これ以上、信長を北上させるものか!」とばかりに、
●天正四年(1576年)8月:飛騨侵攻>>
●天正五年(1577年)9月:七尾城>>
その5日後には信長配下の柴田勝家(しばたかついえ)との手取川(9月13日参照>>)となるのですが、ご存知のように、その翌年の春の出兵の前に、謙信は亡くなってしまうのです(3月13日参照>>)

しかも、ここで、謙信の後継者を巡って養子同士の争いが勃発(2007年3月17日参照>>)した事から、上杉家では越中どころではなくなり、この間、大きな戦いも無いままに織田勢に越中の奥深くまで入られてしまいました(10月4日参照>>)

天正七年(1579年)3月、なんとかライバルの上杉景虎(かげとら)を死に追いやって(2010年3月17日参照>>)上杉を継いだ上杉景勝(かげかつ)は、そのお家騒動のさ中に黄金で以って味方につけた武田勝頼(かつより=信玄の四男)を後ろ盾に、加賀・能登・越中の一向一揆の残党を取り込んで織田への逆襲の機会を狙います。

一方の信長は、この天正八年(1580年)に金沢御坊(かなざわごぼう=石川県金沢市・加賀一向一揆の拠点)を陥落(3月9日参照>>)させ、本拠の石山本願寺との戦いも終わらせて(8月2日参照>>)、事実上、一向一揆は解散状態だったわけですが、当然の事ながら、おおもとが「終わり~」と言ったからとて、まだまだヤル気満々の宗徒は大勢いるわけで、すぐに一揆の衆がいなくなる事は無いですから・・・

この時、織田側の越中最前線にいたのは小出城(こいでじょう=富山県富山市水橋)を守る神保長住(ながずみ=長職の息子)・・・しかし、さすがに、ここだけで上杉の侵攻を阻むのはムリがあろうというもの・・・

そこで信長は、守備強化を図るべく佐々成政(さっさなりまさ)を越中に派遣します。

成政は、かつて越前の朝倉を倒した際(8月6日参照>>)に織田の北陸担当として北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)を与えられた柴田勝家の与力として北陸に配置された前田利家(まえだとしいえ)不破光治(ふわみつはる)とともに「府中三人衆」と呼ばれて小丸城(福井県越前市)を守り、信長の信頼を得ていた剛の者。

「まことに心強い!」
と長住も歓迎する中、富山城(とやまじょう=富山県富山市)に入った成政は、神通川を天然の堀とし、その支流を城の東側まで延長し、さらに土塁や櫓を要所々々に配置するなど、1年ほどかけて富山城を整備し、上杉の来襲に備えたと言います(現在の富山城より数段大きかったらしい)

そんなこんなの天正九年(1581年)、信長にとっての一大イベントが京都にて開催されます。

ご存知、天正九年(1581年)2月28日の御馬揃え(おうまぞろえ)です(2月28日参照>>)

さすがの一大イベントですから、もちろん柴田勝家以下、北陸の面々は越前衆として、これに参加・・・これを見逃さなかったのが、謙信の時代から越後の最前線=魚津城(うおづじょう=富山県魚津市)を任され、現在は松倉城を居城とする河田長親(かわだながちか)

『信長公記』によれば、
3月6日に挙兵した長親は、越後から上杉景勝の軍を招き入れるとともに一向一揆の残党たちを引き連れて、3月9日に小出城を包囲し、即座に攻撃にかかったとか・・・

一方、留守となっている小出城を守るのは成政配下の久世但馬(くぜたじま)。。。

自らの城兵の10倍を超える敵を目の当たりにした小出城ではありますが、この城は平城とは言え、少し丘になった部分に構築されており、しかも「浮かぶ陸の孤島」と称されるほど、周囲が沼地となった要害の中にありました。

久世は、そんな城内をくまなく巡回して
「越後勢に沼を渡らせてはならぬゾ」
「力を尽くして戦ってくれ」

と城兵一人一人に声をかけて、彼らの士気を高めます。

おかげで、近づこうとすれば沼地に足を取られ、遠くからの鉄砲もなかなか命中せず、徹底包囲しながらも、小競り合いばかりで大きな戦いには発展せず・・・

そんな中、未だ小出城の異変を知らず、馬揃えの後片づけしながら安土城(あづちじょう=滋賀県近江八幡市)に滞在していた成政&長住・・・彼らに、その情報がもたらされたのは3月15日の事でした。

「すぐに小出城を救え!」
信長の激励とともに安土城を新発した彼らが、小出城周辺にやって来たのは天正九年(1581年)3月24日の事・・・

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●↑小出城攻防戦・位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

ところが、そこは、すでに上杉勢が去ったあとでした。

どうやら、約1ヶ月にも渡って城を囲みながらも、大した成果を挙げられずにいたところ
「成政の軍勢が戻って来る」
との知らせが入り、囲みを解いて魚津城へと退きあげていった模様・・・

その時、三里(約12km)ほど先に火の手が上がっている様子を見た成政は、
「まだ、あそこにいる!」
とばかりに常願寺川を越え、小出も越えて追撃しますが、思いのほか上杉勢の撤退が早く、追いつけないまま・・・

結局、
「これ以上の深追いは得策ではない」
との判断により、成政自身は一戦も交える事無く、この戦いは終了しました。

とは言え、現在も、この小出周辺には多くの五輪塔が存在し、その中には「首塚」と呼ばれている物もあるとか・・・成政らの軍勢が到着するまで、ここで、この城を死守しようと踏ん張った人々が、数多くいた事がうかがえますね。

一方で、現在伝わるところの河田長親さんのご命日も、実は天正九年(1581年)3月24日・・・上杉勢がこの日に撤退したのも、何か関係があるのでしょうか?

長親自身は未だ39歳の若さ・・・

しかし、記録には松倉城にて急死(病死)とあるので・・・この時代、合戦にて亡くなったのなら名誉な事なので、おそらく、そういう風に書き残すでしょうから、やはり、たまたまこの日に亡くなったという事なのかな?(気になる(゚ー゚;)

とにもかくにも、謙信の跡目を継いだ勝にとっては、曾祖父→祖父→父からバトンを渡された初めての越中平定だったわけですが、謙信時代からの、その中心人物であった長親の死を受けて、ここ越中では、さらに織田勢が勢いづく事になるわけで・・・

しかし、その一方で、未だくすぶる本願寺門徒による一向一揆・・・この半年後に起こる、成政&長住の瑞泉寺(ずいせんじ=富山県南砺市井波)・井波(いなみ)の合戦については9月8日のページ>>でどうぞm(_ _)m

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2019年3月13日 (水)

小早川隆景が宇喜多忠家に…「辛川崩れ」の大敗

天正八年(1580年)3月13日、小早川隆景率いる毛利軍を宇喜多勢が迎え撃った辛川合戦がありました。

・・・・・・・・・・・・

弘治元年(1555年)に周防(すおう=山口県の東南部)大内(おおうち)(10月1日参照>>)を、永禄九年(1566年)に出雲(いずも=島根県東部)尼子(あまこ・あまご)(11月28日参照>>)を事実上の滅亡へと追いやって、西国の雄となった安芸(あき=広島県)毛利元就(もうりもとなり)

一方、永禄十一年(1568年)に第15代室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき=義秋)を奉じて上洛した(9月7日参照>>)尾張(おわり=愛知県西部)織田信長(おだのぶなが)は、石山本願寺(いしやまほんがんじ=大阪府大阪市)との戦いを繰り返しつつ(9月12日参照>>)、天正元年(元亀四年=1573年)には、かの義昭を京都から追放(7月18日参照>>)・・・その義昭が毛利を頼った事から、両者は敵対関係となり、信長から中国地方の平定を任された羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が西へと迫りくる(10月23日参照>>)

これまで様々なぶつかりを継続する中で(2月15日参照>>) 、ここに来て西と東の両者に挟まれた形となった備中(びっちゅう=岡山県西部)備前(びぜん=岡山県東南部)但馬(たじま=兵庫県北部)あたりの諸将たちですが、

Ukitanaoie300a そんな中で、毛利の力を借りて(6月2日参照>>)天神山城(てんじんやまじょう=岡山県和気郡)浦上宗景(うらがみむねかげ)からの独立を成功させた元家臣の宇喜多直家(うきたなおいえ)は、天正五年(1577年)に信長配下の明智光秀(あけちみつひで)籾井城(もみいじょう=兵庫県篠山市)を攻略(10月29日参照>>)した事、毛利から自身が任されていた上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を但馬を平定(10月23日参照>>)した秀吉に落とされた事、等々から方針を変えたか?天正七年(1579年)頃から毛利とは距離を置き、その年の10月、宇喜多直家は正式に織田の配下となります(10月30日参照>>)

とは言え、それ以前の天正七年(1579年)2月、すでに織田に寝返りそうな雰囲気を醸し出していた直家に、毛利輝元(もうりてるもと=元就の孫)は、叔父の吉川元春(きっかわもとはる=元就の次男)に3000の兵をつけて美作(みまさか=岡山県東北部)へ派遣し、宇喜多配下の諸城を攻撃させてはいたのです。

しかし、これが・・・序盤こそ、いくつかの城を落としたものの、後半に宇喜多勢の反撃に遭い、取った城も奪回されて、結局は、大きな成果が得られないまま断念・・・(2月17日参照>>)

とは言え、このまま宇喜多の離反を見過ごすわけにはいかない毛利・・・

天正八年(1580年)、今度は小早川隆景(こばやかわたかかげ=元就の三男)をが1万5千の兵を率いて備前から備中へと侵攻・・・宇喜多家の宿老=戸川秀安(とがわひでやす)の息子=戸川逵安(みちやす=達安)が拠る辛川城(からかわじょう=岡山県岡山市北区)間近へと迫ります。

早速、迎え撃つ宇喜多勢・・・この時、すでに病に伏せっていた直家に代わって、弟の富山城(とみやまじょう=同北区)宇喜多忠家(ただいえ)が総大将を務めます。

この時、流れた「毛利軍は直家居城の岡山城(おかやまじょう=岡山県岡山市)を攻略するのが目的」との噂に、「させるか!」とばかりに忠家が選んだ作戦は、辛川城に近い一宮(いちのみや)から、自身の富山城近くの矢坂(やさか)まで、7段の陣を立てて防戦を張り、辛川城から逵安率いる一隊を分けて、辛川村の北にある山陰に伏兵として潜ませるというもの・・・

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●↑辛川合戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

Ukitamourisakusyukassen位置の参考として
作州合戦の位置関係図(広域)
 も参照下さい

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かくして天正八年(1580年)3月13日備中高松城(びっちゅうたかまつじょう=岡山市北区)から加茂城(かもじょう=同北区)を経て辛川城近くへと進んだ毛利勢は、真正面に陣取る宇喜多勢めがけて襲いかかります。

先頭同士で激しいぶつかり合いとなりますが、この戦いは宇喜多側にとっては、敵を誘い込むエサ・・・適当に戦って負けた感を出しつつ、間もなく退却を開始します。

そうとは知らぬ小早川の先陣が、武功を挙げんと我先に後を追い、自然と、これに続く形で隆景の本陣が進み、さらに後陣が進む・・・その後陣が辛川村を通り過ぎた時!

まさに、この時、山陰に潜んでいた逵安率いる伏兵が一斉に飛び出し、小早川軍の背後から襲い掛かったのです。

逵安、わずか13歳の初陣でした。

さらに、この伏兵の登場と同時に、忠家は7段に構えた宇喜多軍に一斉出撃をかけた事から、小早川勢は、前からも後ろからも攻撃を受ける事に・・・

さすがの小早川も陣形が乱れるところを、隆景自らが采配を打ち振って踏ん張りますが、そこへ、隆景の本陣めがけて宇喜多軍が突入・・・少し、後ずさりする所に、今度は、近くの山上から、弓隊と鉄砲隊の一斉連射をお見舞い

さすがに総崩れとなった小早川軍は、結果的に一返しもできないまま、領国へと退却していきました。

この様子を見た忠家は
「敵は大軍…深追いは禁物である」
として、辛川村の入口あたりまで追撃しただけで、宇喜多軍も退きあげさせました。

これが、世に「辛川崩れ」と呼ばれる、毛利の大敗です。

ただし、今回の辛川合戦・・・(岡山藩士なのでたぶん)宇喜多側の史料となる『備前軍記』では「天正七年(1579年)8月の事」とされていますので、書籍によってはその日付になっている場合もあるのですが、毛利側の『湯浅文書』では「天正八年(1580年)3月13日辛川口敗戦」となっているのです。

この前後の出来事を踏まえ、近年では、おそらくは、この3か月後の6月に起こる祝山(いわいやま=岡山県津山市)合戦(6月15日参照>>)に向けての地固め&準備戦の意味合いでの出兵であるとの見方が強く、天正八年(1580年)3月13日が正しいのでは?とされているという事で、本日は、この日付でご紹介させていただきました。

辛川の次は、上記の祝山(いわいやま=岡山県津山市)合戦(6月15日参照>>)に突入・・・その後の毛利は宇喜多・・・というより、その上にいる織田を相手に~と展開していきます。

・・・にても、もともと毛利勢の中では小早川隆景が戦上手として1番カッコイイんじゃないか?と思っていたところに、今回は、その上をいく宇喜多忠家・・・しかも、13歳初陣の戸川逵安の勇姿を思い浮かべると・・・もう、戦国女子はメロメロですがな゜.+:。(*´v`*)゜.+:。

ま、出どころが軍記物なので、話半分な感じではありますが、本日は、この宇喜多勢のカッコ良さに浸らせていただきましょう~---------(*^ 0 ^A----------ドップリ
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2019年3月 7日 (木)

信長の雑賀攻め後に…雑賀同志の太田城の戦い

天正七年(1579年)3月7日、石山本願寺の下間頼廉が紀州の本願寺門徒に雑賀衆が味方についた事を報告しました。

・・・・・・・・・・・・

天正五年(1577年)2月~3月に行われた織田信長(おだのぶなが)による雑賀攻め・・・
孝子峠の戦いと中野落城>>
雑賀攻め・和睦>>

雑賀(さいが・さいか)とは、紀州(きしゅう=和歌山県)紀ノ川下流域に住む土着の人々の集団で、小説やドラマ当では鉄砲を駆使し、石山本願寺の要請に応えて信長と戦った集団」のイメージが強いですが、水軍を保有して交易をする人たちや、農業でお生計をたてる者もいて、決して一枚岩では無い地元民の集合体みたいな感じです。

以前、その雑賀衆のリーダーとされる雑賀孫一(まごいち・孫市?)をご紹介したページ(5月2日参照>>)で、その冠に「傭兵」とつけるかどうか悩んだ事なんかもお話させていただきましたが、私としては、やはり「傭兵」の冠が合うように思います。

もちろん、それは金銭だけではなく、「利害関係」や「主義主張」等が絡むので「100%金で雇われた傭兵」とは違うわけですが、信長と敵対する本願寺の第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)の要請で「信者ではない彼らが本願寺を手助けする」という構図は、やっぱ傭兵?って感じます。

現に、上記の通り一枚岩では無い雑賀衆は、この雑賀攻めの時も、信長と敵対する側と信長を受け入れる側に分かれていたわけですから・・・

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●↑雑賀衆の太田城攻防戦の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

そもそも、この雑賀衆は、その支配圏により雑賀庄(さいかのしょう)十ヶ郷(じっかごう)宮郷(みやごう)中郷(なかつごう)南郷(なんごう)という五つの(そう=地域の共同体)に大まかに分かれていて、同郷の仲間とは言え、その境界線や利害関係でちょくちょくモメてる間柄でもあったのです。

で、結局、例の天正五年(1577年)の雑賀攻めの時は、宮郷&中郷&南郷の3ヶ所の土豪(どごう=その地に根付いた半農の武士たち)たちは、信長の味方だったわけで・・・

そんな中で、天正五年(1577年)2月に始まった雑賀攻めは、翌3月に和睦を結び、一応の終結となるのですが(双方が勝利したと言ってますので、結局は引き分けかな?)この雑賀の地には遺恨が残りました。

そう、味方した彼らに対してです。

特に太田党を中心とする宮郷の者たちが、道案内等、積極的に信長に協力していた事から、信長と戦った側の彼らは、信長軍が撤退して間もなく、報復を開始するのです。

ただし、ここらあたりの記録は文献によって曖昧で、そのキッカケも・・・

雑賀攻め以前に、宮郷の中にいた「本願寺に味方にしよう」と説いて回っていた者たちを、イザその時となったら追放して信長の味方になった事が、そもそもの原因・・・とされたり、

いやいや、
そもそも農耕に適した地に乏しい雑賀庄の者が、農業が盛んだった宮郷の地を「力づくで奪ったレ!」って暴れだしたのが発端・・・という話もあります。

結局は、信長云々というより、これまでの積年の恨みという感じだったのかも知れません。

なんせ、先に書いた「境界線でちょくちょくモメてる」というのも、雑賀庄の者たちが、農耕に適した豊かな土地を求めて進行していく中で、どんどん奥へ奥へと宮郷の地を侵食して行く・・・という形の境界線争いで、決して宮郷側から雑賀庄へ仕掛ける事は無かったのです。

つまり、今回も、たまたま雑賀攻めの直後だっただけで、通例の雑賀庄からの宮郷への押し込み・・・って事なのかも知れません。

というのも、今回の戦いで宮郷が本拠とする太田城(おおたじょう=和歌山県和歌山市太田)への攻撃側には、雑賀攻めで宮郷と同じように信長の味方となった中郷や南郷、そして十ヶ郷に属する貴志(きし=和歌山県紀の川市貴志川町)の人たちも加わっていたようなので、やはり、信長の件とは、また別の話かも・・・

とにもかくにも、こうして始まった雑賀衆による太田城攻め・・・

太田城を取り囲んだ攻め手の一手は、鍬(くわ)で以って城の堀を叩き崩し、もう一手は、城外にいる宮郷の者や、太田の援軍として迫りくる根来衆(ねごろしゅう=根来寺(和歌山県岩出市)を中心に居住する僧兵集団)を城へと近づかせないために、中間の要路を遮断しました。

そこに、応援に駆け付けた者たちと遮断組とが激しい戦いに・・・

このように、完全に周囲敵ばかりの状態となった太田城ではありましたが、最初の攻撃から約1ヶ月経っても城は落ちず、結局、和議となって、攻め手の雑賀衆が立ち去り、今回の一件は終了となりました。

しかし、直接的な戦いは終了したとは言え、この後も、何らかの圧迫は続けられていたのか?
結局、宮郷は、雑賀の(みなと)の人々に間に入ってもらって本願寺に頭を下げ、
「これからは、他の雑賀衆たちと心を一つにして、本願寺の奉仕します」
と許しを請うたのです。

おそらく天正七年(1579年)と思われる3月7日の日付の文書にて、石山本願寺の坊官(ぼうかん=寺の事務的方面の長)である下間頼廉(しもつまらいれん)が、紀州の本願寺門徒に宛てて
「アイツら、詫び入れて来よったから許したった」
との報告をしている事から、この頃に、雑賀の里から信長派が一掃された物と思われます。

しかし、現実とは皮肉なもの・・・
この翌年の天正八年(1580年)3月、顕如と信長との間に和睦が成立して、約半年後の8月に顕如が本願寺を退去した事で、約10年に渡った石山合戦が終結となります(8月2日参照>>)

信仰ではなく、あくまで雇われ?要請?によって信長と戦う立場だった雑賀衆の行く末は・・・?

石山合戦での活躍で一躍名を挙げた例の雑賀孫一(拠点は平井城)は、早速、信長に近づいて昔ながらの雑賀の筆頭であった土橋(どばし・つちはし)を倒したりなんぞしますが、その信長も天正十年(1582年)の本能寺で亡くなってしまうわけで・・・(6月2日参照>>)

しかも、先の5月2日のページ>>で書かせていただいたように、孫一自身も行方知れず?あるいは世代交代しちゃってる?可能性もあり・・・

一旦、その動向が読めなくなる雑賀の彼らたちですが、その後、信長の後に天下を狙う豊臣秀吉(とよとみひでよし=羽柴秀吉)の前に登場して来る事になるのですが・・・

そのお話は
小牧長久手~岸和田城・攻防戦】>>
【秀吉の紀州征伐~太田城攻防戦】>>
で、ご覧くださいませ~m(_ _)m
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2019年3月 3日 (日)

賤ヶ岳の前哨戦~亀山城の戦い

天正十一年(1583年)3月3日、賤ヶ岳の前哨戦となる伊勢での戦いで亀山城が開城されました。

・・・・・・・・・・・・・

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの前哨戦である長島城攻防戦と同時進行で行われていた戦いです。

織田信長(おだのぶなが)亡き後の清須会議(きよすかいぎ=清洲会議)で織田家後継者が嫡孫の三法師(さんほうし=後の織田秀信)に決まり(6月27日参照>>)、その後見人に信長次男の織田信雄(のぶかつ・のぶお=北畠信雄)と三男の織田信孝(のぶたか=神戸信孝)が就任しますが、亡き信長の葬儀(10月15日参照>>)を大々的に行って後継者の雰囲気を醸し出す羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)と彼に同調する信雄に、岐阜城(きふじょう=岐阜県岐阜市)に拠る信孝が反発・・・

しかし、信孝の1番の味方である柴田勝家(しばたかついえ)の拠点=北ノ庄城(きたのしょうじょう=福井県福井市・現在の福井城付近)が雪深い北陸にあって冬場には援軍が望めない事から、信孝は一旦、秀吉と和睦して春を待つ事にしますが、その間に秀吉は勝家所領の最前線である長浜城(ながはまじょう=滋賀県長浜市)を落とします(12月11日参照>>)

一方の信孝派も・・・もう一人の味方である滝川一益(たきがわかずます)が、自身の居城=長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)を拠点に伊勢(いせ=三重県南東部)周辺の秀吉傘下の城を奪ったのです。

Sizugatakezensyounagasimazyou2 ●←賤ヶ岳前哨戦
 長浜城の戦いの位置関係図

クリックで大きく(背景地理院地図>>)

これを受けた秀吉は天正十一年(1583年)2月、総勢7万5千の大軍を三方に分け、実弟=羽柴秀長(ひでなが)隊は美濃多羅口から、甥の羽柴秀次(ひでつぐ)隊は君畑越えで、秀吉自らは安楽峠越え北伊勢へと侵入し、2月12日には峯城(みねじょう=三重県亀山市川崎町)を包囲すると同時に一益の本拠=長島城へと迫り(2月12日参照>>)、16日には亀山城(かめやまじょう=三重県亀山市本丸町)城下に攻め入ります。

とは言え、今回の亀山城・・・実は、一益に奪われた経緯にはお家騒動が絡んでいました。

この頃、亀山城の城主を務めていた関盛信(せきもりのぶ)は、次男の一政(かずまさ)の嫁に蒲生賢秀(がもうかたひで)(2017年6月2日参照>>)の娘を迎えて後継者とする事と決め、息子とともに秀吉のもとに年賀の挨拶に赴いていたのですが、そのスキに一部の家臣が三男の勝蔵(政盛?)を後継者に擁立・・・つまりクーデターを決行して盛信が留守の間に亀山城を奪ってしまったのです。

で、このクーデターを支援したのが一益で、今回の出陣で峯城を奪った後、この亀山城には腹心の佐治益氏(さじますうじ=滝川益氏?)を投入して守りを固めさせていたのです。

そこへやって来た秀吉・・・自ら騎馬で以って、亀山城の構えや防備を視察して回った後、敵方の土塁を破壊して進路を断ち、コチラ側に有利な柵を構築し、かの2月16日に包囲を完了し、即座に攻撃に取り掛かります。

この16日の戦いでは、城内から門を開いて撃って出た城兵に、混乱する寄せ手側が切り崩されて散らされまくりでしたが、細川忠興(ほそかわただおき)陪臣(ばいしん=家臣の家臣)である松井盛秀(まついもりひで)が、同僚の米田是政(こめだこれまさ)とともに、ただ二人で留まり、三の丸に放火して攻勢に転じさせたのだとか・・・

次の24日の戦いでは、病気のために出遅れてしまっていた盛秀の主君=松井康之(まついやすゆき=細川忠興の家臣)が現地に到着し、秀吉軍の先鋒の細川隊として突き進みますが、やはり敵の猛反撃に遭い、先の盛秀は討死・・・三の丸まで攻め込みながらも、城を落とす事はできませんでした。

続く26日の戦いでも、やはり攻め手を押し返す城兵に苦戦していたところ、ただ一人踏ん張る米田是政が、鉄砲の雨あられの中、その槍で以って目の前の将兵を突き倒して、城の中へ中へと奮戦・・・これを本陣から見ていた秀吉は、
「なんや、黄色に日の丸の指物(さしもの=戦場で本人の目印となる旗【姉川の七本槍】参照>>したヤツがメッチャ頑張ってるみたいやけど、誰なん?
忠興のとこの米田みたいに見えるけど、アイツの指物は日の丸ちゃうやんな?」

と、隣にいた小姓に尋ねます。

そこで、戦場を見渡せる位置に行って確認した小姓は、
「やっぱ、アレは米田ですわ。
あの指物は日の丸やなくて、鉄砲の弾が貫通したとこが穴になってて本陣からは日の丸のように見えたようです」

と報告・・・その勇姿に秀吉も大いに感激したのだとか・・・『細川家記』『細川忠興軍功記』

同じく26日の戦いに参加していた山内一豊(やまうちかつとよ)は、50騎ばかりの城兵が城外に出て来たのを確認すると、一豊自ら、1番に駆け出して槍で最前線の敵兵を一突き・・・この様子を本陣のある山上から見ていた秀吉が、歓喜のあまりに床几(しょうぎ=折り畳みイス)から転げ落ちたとか・・・

また、一豊の足軽だった小崎三太夫(こさきさんだいゆう)(たつみ)の櫓(やぐら)の堀下から従者の肩を踏み台に、自らの刀をはしご代わりにして、手傷を負いながらも堀をよじ登り、山内の旗を高々と掲げて
「山内猪右衛門(いえもん=一豊の事)、当城の一番乗り~!」
と叫び、味方を奮起させですが、
その一方で、三太夫の巽の櫓への1番乗りを加勢した父の代からの忠臣=五藤吉兵衛(ごとうきちべえ)一豊の目の前で討死してしまいました。『山内一豊武功記』『御家中名誉』

さらに、細川&山内と同じく、この日の先鋒を任されていた加藤清正(かとうきよまさ)は、敵からの鉄砲をかいくぐって突進し、自慢の長槍を敵の鉄砲の筒へと打ち入れて払い落し、すかさず肩先から突き仕留めました。『清正記』

てな感じですが、御覧の通り・・・これらの記録は『細川家記』やら『山内一豊武功記』やら『清正記』やらと、どう見ても題名の彼らを主人公にじた軍記物だったり、自己申告的な英雄伝であって、おそらく話は盛に盛られているはず・・・

ただ、それでも一豊家臣の吉兵衛が討死した事なんかは事実とされていますので、やはり、この26日の戦いは激しく、亀山城側にとって、かなりの痛手となった戦いであった事は確かでしょう・・・なんせ、このすぐ後、長島城の一益から、開城を勧める使者が亀山城にやって来るのです。

大軍に囲まれてひと月足らず・・・ここまでよく耐えた、いや、むしろ大軍相手に何度も撃退を成功させつつ守りに守った佐治益氏ではありましたが、天正十一年(1583年)3月3日亀山城は秀吉方の蒲生氏郷(うじさと=賢秀の息子・当時は教秀?)開け渡されました。

秀吉は戦後の論功行賞で、氏郷にこの亀山城を与えようとしますが、氏郷が辞退したため、関氏の後継者である一政が治める事に・・・そのおかげで、クーデターを起こした一部の家臣たちも罪を許され、彼らは再び関氏の家臣となって、元のさやに納まったとの事・・・
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とは言え、同時進行の長島城や峯城の攻防戦は、まだ続いています

しかも、何たって、この開城の6日後に、あの勝家がいよいよ出陣・・・ご存知の賤ヶ岳が待っておりますが、それらのお話はコチラをご参照に↓
【賤ヶ岳前夜】>>
美濃の大返し】>>
【賤ヶ岳…佐久間盛政の奮戦】>>
【前田利家の戦線離脱】>>
【北ノ庄城・炎上前夜】>>
【柴田勝家とお市の方の最期】>>
【織田信孝・自刃】>>
【佐久間盛政の処刑】>>
(峯城の攻防は書いてませんm(_ _)mいずれ、その日付にて書かせていただきます)
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2019年2月23日 (土)

関白・秀吉の政庁…絢爛豪華な聚楽第

天正十四年(1586)2月23日、羽柴秀吉が聚楽第の普請を開始しました。

・・・・・・・・・・・

織田信長(おだのぶなが)本能寺(6月2日参照>>)倒れて後、その翌年に筆頭家臣だった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずかたけ=滋賀県長浜市)で倒し(4月21日参照>>)、三男の織田信孝(のぶたか)を次男の織田信雄(のぶお・のぶかつ)に攻撃させ(5月2日参照>>)、その信雄と徳川家康(とくがわいえやす)小牧長久手(こまきながくて=愛知県小牧市)で抑え込んだ(11月15日参照>>)羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、

天正十三年(1585年)3月の紀州征伐(3月28日参照>>)を皮切りに、四国(7月26日参照>>)北陸(8月29日参照>>)をと次々と平定して行きますが、その四国平定の真っただ中の7月11日に受けたのが関白宣下(かんぱくせんげ)です。

当時朝廷内を二分し、関白職を争っていた二条昭実(にじょうあきざね)近衛信尹(このえのぶただ)の間をスルッと抜けて、「どっちが関白になりはっても遺恨を残すんやったら僕がやりましょか」と、近衞前久(このえさきひさ)猶子(ゆうし=相続重視では無い親子関係)となった秀吉が、ウマイ事周囲を丸め込んで、あれよあれよという間になちゃった感がありますが、

それでも関白は関白・・・思えば、織田家内の一家臣だった、あの本能寺からわずか3年・・・にしても、すンごいスピードですね~

そんな秀吉が、関白の拠る所として天正十四年(1586年)2月23日構築を開始したのが聚楽第(じゅらくてい・じゅらくだい)です。

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『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館蔵)

屏風絵に描かれた姿や、大量の金箔瓦が出土する事から、おそらくは絢爛豪華な大御殿あった事が想像できるものの、上記の通り、この聚楽第は関白のための物・・・

なので、秀吉は、その関白の席を甥の秀次(ひでつぐ)に譲った際に、この聚楽第も彼に譲り、自身は伏見城(ふしみじょう=京都市伏見区)へと移転・・・しかし、その後、ご存知のように、秀次が切腹に追い込まれた事で(7月15日参照>>)、謀反人の城となった聚楽第は破却されてしまうのです。

そのため、地上に痕跡がほとんど残っておらず、聚楽第は『幻の城』と言われていましたが、平成三年(1991年)の発掘調査にて本丸東堀が発見された事をキッカケに、今現在も徐々に解明されつつあるようです。

そもそもは、応仁の乱、
いや、南北朝の頃からの長き々々戦乱による度々の市街戦で荒廃してしまった京の町・・・一説には、「上京から下京へと通れる道は室町通り1本だけだった」と言われるほど荒れていた都を整備すべく始められたのが、秀吉政権による都市改造計画・・・

その中で、秀吉は、「外敵から都を守るため」「鴨川の氾濫から市街地を守るため」に有効な、台形の土塁(どるい)と堀からなる御土居(おどい)なる堤防?壁?みたいなので、京の町をグルリと囲み、要所々々に合計7つの出入口を設け、御土居の内側を洛中(らくちゅう)、外側を洛外(らくがい)と呼んだのです。

今も、丹波口(たんばぐち)粟田口(あわたぐち)なんて地名が残るのはその名残りなんですね。

そんな中、工事の期間や完成の年数は前後するものの、おそらくは、最初の計画段階から、この御土居と聚楽第の位置は決定していたはず・・・で、現在の地図上で、その位置関係を確認してみると・・・

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●↑御土居と聚楽第の位置関係図
クリックで大きく(背景は地理院地図>>)

一目瞭然!
秀吉は、平安京を囲むように御土居を巡らし、平安京の内裏(だいり=天皇の住まい)の位置に合わせて聚楽第を構築しているんです。

この地図上にある、現在も残る御所というのは、戦火や火事等によって内裏が焼失した際に、再建するまでの天皇の緊急避難場所として複数設けられていた里内裏(さとだいり)の一つだった場所でしたが、結局、もとの内裏が再建されないまま、元弘元年(1331年)に北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう)が、そこで即位された事をキッカケに、その後は、そこが「御所」と呼ばれて天皇の住まう場所となりますが、もともとの平安京の内裏は、上記の左の細かな地図で示したように、聚楽第が建てられたとおぼしき場所だったわけです。

おそらく、これは偶然ではないはず・・・

天正十六年(1588年)4月に、秀吉は、時の天皇=第107代・後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を聚楽第に招いて、2日間に渡る儀式や和歌会(わかえ)・舞楽などを盛大に行っていますが、その中で最も重要な事は天皇権限を代行する関白秀吉の姿を、集まった諸大名に見せ、彼らに自分への忠誠を誓わせる事にあったと思います。

そのためには、千年の都と言われる京都の、最も重要な場所に、自らの権勢と財力の象徴を置く必要があったのでしょうね。

ところで、この「聚楽第」の読み方・・・

冒頭には「じゅらくてい」「じゅらくだい」の両方を書かせていただきましたが、以前は、一般的には「じゅらくだい」と言われる事が多かったのですが、『太閤記』「聚楽亭」と書かれいたり、「じゅらくてい」とフリガナが打ってある事から、最近ではドラマやテレビの歴史モノ等では「じゅらくてい」と読まれる事が多いです。

ただ、秀吉本人の書状では「じゅらくやしき」と書いていたり、家臣の日記に「聚楽本丸…」とか、ルイス・フロイスの書には「聚楽という宮殿…」と書いてあったり、別の文献では「聚楽城」の表記もあったりします。

なので、おそらく、本来は単に「聚楽=じゅらく」という名前だったんじゃないか?(←個人の感想です)
山田さんちを山田邸って呼ぶみたいな??

それこそ、秀吉は天下人という武家のトップでありながら、関白という公家のトップでもあるわけで・・・
関白の政庁としては「聚楽第」、武人として守る時は「聚楽城」、毎日住まう場所としては「聚楽屋敷」。。。

とにもかくにも、秀吉にとって一世一代の建物であった事は確かでしょう。

この後、秀吉は、この12月に「豊臣」の姓を賜って太政大臣に任じられ(12月19日参照>>)、その翌年の天正十五年(1587年)には九州を平定する(4月17日参照>>)事になります。

さらにくわしくは【豊臣秀吉の年表】からどうぞ>>
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