2018年3月 1日 (木)

島津斉彬の江戸入りと「お庭方」西郷隆盛

嘉永七年(安政元年=1854年)3月1日、島津斉彬の江戸入りに西郷隆盛が随行し、「お庭方」役につきました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ!今年の大河ドラマ「西郷どん」の主役=西郷隆盛(さいごうたかもり=本名:隆永、通称:吉之助善兵衛吉兵衛→1周回って吉之助です。
(実は「隆盛」はお父さんの名前…維新後、位階を受ける際に友人が間違って父親の名を提出してしまったため、以後、自ら「隆盛」と名乗る事にしたらしい)←他に菊池源吾大島三右衛門とかの変名を名乗っている時期もあって、ややこしいので今日は「隆盛」の名前で通させていただきます。

Saigoutakamori700a 身長は180cm近くあり、(想像画→)
体重も100kgほどあったので、
見た目も大きく、その性格も細かい事にこだわらない大物感を感じさせるような人だったようですが、口数は少なく、重要な事しか話さなかったらしいので、ドラマのようなハッチャケ感は無かったものと思われます。

そんな隆盛は、鹿児島城下では下級武士が住む下加冶屋町(したかじやまち=鹿児島県鹿児島市加冶屋町)にて、薩摩藩の勘定方小頭(かんじょうがたこがしら)という役職の西郷吉兵衛隆盛(きちべえたかもり)の長男として文政十年(1828年)に生まれました。

ドラマでも描かれていたように、12歳の時に仲間と連れだって神社にお参りに行った際、ツレが上級武士の子とケンカし、そのケンカ相手の刀が、仲裁に入った隆盛の右腕を斬ってしまい重傷を負ったとされています(学校からの帰宅途中に暴漢に襲われた説もあり)

幸いにして命を落とす事はありませんでしたが、傷は神経に達しており、そのせいで刀が握れなくなったために、以後は、剣術ではなく、学問で身を立てて行こうと考えるようになりました。

やがて弘化元年(1844年)=17歳の時に、郡奉行(こおりぶぎょう=知行地の管理&徴税etc担当)迫田利済(さこたとしなり)を補助する役職=郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に採用されました。

これって・・・「藩の土地を管理して税を徴収する」=農政って事ですから、当然、年貢を納める側の農民とも親しく接する事になるわけで・・・

ここで、武家としては下っ端の下っ端である自分よりも、さらに下にいる農民たちの厳しい実態を垣間見た隆盛が、「何とか年貢を下げてもらえない物だろうか」と迫田に訴えると、真面目で硬派な迫田も同じ思いを抱き、その事を藩に訴えますが聞き入れられず・・・憤慨した迫田は、そのまま辞職してしまいます

貧乏一家の長子として弟や妹たちを養わねばならない立場の隆盛は、さすがに辞職する事はしませんでしたが、おそらく心の内では、藩政の不合理に対する不満など抱いた事でしょう。

そんなこんなの嘉永二年(1849年)に勃発したのが、現藩主=島津斉興(しまづなりおき)の後継者争いです。

斉興の正室=弥姫(いよひめ=周子)が生んだ長男=斉彬(なりあきら)と、側室=由羅(ゆら)が生んだ五男=久光(ひさみつ)との間で起こった次期藩主の座を巡るお家騒動・・・世に「お由羅騒動」「高崎くずれ」とか呼ばれます(12月3日参照>>)

結局、このゴタゴタは、密貿易事件や幕府も巻き込んだ末、嘉永四年(1851年)に斉興が隠居して斉彬が第11代薩摩藩主となる事で落ち着くのですが、その過程で、隆盛の父が御用人(ごようにん=庶務係)を務めていた赤山靭負(あかやまゆきえ)が自刃に追い込まれてしまい、この一件は隆盛にとっても大きな衝撃を受ける事件となりました。

一方、その頃に、徳川将軍家から島津家への打診があったのが、後に第13代将軍となる徳川家定(とくがわいえさだ)正室(継室=いわゆる後妻さん)選びの一件・・・実は、家定は、この時すでに公卿出身の正室を2人、病気で亡くしてしていて、今回の嫁選びは3人目の嫁となるわけですが、先のお2人がひ弱なお育ちとも思える公家のお姫様だった事で「今度こそは丈夫な嫁を」と考え、島津家へ打診したのです。

と言うのも、第11代将軍=徳川家斉(いえなり)が正室に娶った姫が、この島津家出身・・・第8代藩主=島津重豪(しげひで)の娘で、元気で丈夫、夫を見送って72歳まで生きた篤姫(あつひめ=茂姫・後に近衛寔子)という女性だったのです。

もちろん、この篤姫の結婚自体が、それ以前に将軍家から島津へお嫁に来た竹姫(たけひめ)が両家の架け橋となり(12月5日参照>>)、将軍家と島津家の信頼関係を築いて、そのレールを敷いていた結果でもあるわけですが、

とにもかくにも、ここで将軍家が、かの「丈夫な篤姫の血筋」を要望した事で、斉彬は島津一門の中から一人の姫を選ぶ事になるのです。

一方、斉彬が将軍の嫁候補を吟味していたであろう嘉永五年(1852年)、最初の結婚をする隆盛でしたが、それから間もなく、父と母を相次いで亡くし、家督を相続して一家を支えていかねばならない立場となりますが、役職は相変わらず郡方書役助のまんま・・・

西郷家の苦しい家計がいっそう苦しくなる中、皆様ご存じの嘉永六年(1853年)6月・・・「イヤでござるよペリーさん」黒船来航です(6月3日参照>>)

さらに、同じ6月には第12代将軍=徳川家慶(いえよし=家斉の次男で家定の父)が死去、その2ヶ月後の8月には、品川沖にて砲台場の建設が開始(8月28日参照>>)されるという慌ただしさMAXの、まさにその頃、斉彬は、一門の島津忠剛(ただたけ)の長女であった(いち)を家定の正室候補として選び、自らの養女として江戸へと発たせたのです。

彼女は、先の丈夫で長生きな姫にあやかって、その名を篤姫(あつひめ)と改め、家慶亡き今となっては、「将軍御台所候補」として江戸に向かったのでした。

その篤姫が江戸に到着した10月には、ロシアプチャーチン下田(しもだ=静岡県下田市)に来航し(10月14日参照>>)、年が明けた嘉永七年(安政元年=1854年)の2月には、早くもペリーさん(2月24日参照>>)が再びの来日を果たし、その騒ぎを鎮静化させるため幕府が黒船見物禁止令を発布(2月3日参照>>)したり・・・
(ちなみに前回放送=第8回の大河ドラマは、まさに「今ココ↑」でしたね(*^-^))

とまぁ、色んな事が目まぐるしく起こる中、この嘉永七年(安政元年=1854年)の3月1日斉彬ご一行が江戸へと到着・・・そのお供の一人に抜擢され、斉彬の江戸入りに随行していたのが隆盛でした。

以前、かの農政に関する真摯な意見書を提出していた事が斉彬の目にとまっての抜擢です。

斉彬という人は、嘉永四年(1851年)に10年ぶりにアメリカから戻って来たジョン万次郎(まんじろう=中浜万次郎)を手厚くもてなして(1月3日参照>>)藩士たちへの西洋技術の指導を頼んだり、すでに嘉永五年(1852年)の段階で大砲鋳造のための反射炉の建設に着手したり・・・と、かなり先進的な考えの持ち主でしたから、おそらく、その人材登用も、身分にこだわることなく、実力重視で行っていたのでしょう。

そして、この江戸にて、隆盛は「お庭方(にわかた)という役を命じられます。

これは、その名の通り、斉彬の邸宅の庭園を管理する役職ですが、お察しの通り、それは表向き・・・ドラマ上では主役の特権で、藩主様とも何度か出会って会話し、相撲大会では恐れ多くも投げ飛ばしちゃった西郷どんではありますが、実際には、隆盛の身分があまりに低すぎて、殿様とは直接お話などできない立場だったんですね~

しかし、そんなエライお殿様でも、気晴らしにお屋敷のお庭を散歩なさる事は度々あるわけで・・・そんなお庭の散歩中に、たまたまお庭を手入れしている者に出会い、「この花は何という名じゃ?」ってな声をかける事もあるわけで・・・

そうです・・・斉彬から、公にできないような密命を直接受け、その手足となって江戸の町を駆け巡る・・・これが、隆盛に与えられた使命だったわけです。

この江戸滞在中には、奥さんの実家から離縁の相談を持ちかけられ、1度目の結婚が破たんしてしまうという出来事もあったりしましたが、若き隆盛にとっては、大抜擢してくれた斉彬への恩に感動し、忠誠を誓い、人生の一大転機となった事は確かでしょう。

なんせ、ここは江戸・・・尊王のカリスマ的存在の、あの藤田東湖(ふじたとうこ)(10月2日参照>>)橋本左内(はしもとさない)(10月7日参照>>)、後に天狗党のリーダーとなる武田耕雲斎(こううんさい)(10月25日参照>>)などなど、時代の最先端を行く人々と出会う事になるのですから・・・

ちなみに、かの篤姫の正式な婚儀が行われるのは、江戸入りから3年後の安政三年(1856年)12月・・・この間に準備された婚礼道具の数々は、贅の限りを尽くした将軍正室の腰入れにふさわしい豪華な品々でしたが、その道具類を吟味するに当たっても、隆盛は大いに活躍したとの事・・・

とは言え、皆様ご存じのように、この後、ほどなく幕末の動乱がやって来る事になります。

安政五年(1858年)7月に、尊敬して止まなかった斉彬が亡くなり(7月16日参照>>)、一時は殉死(じゅんし=主君の死をいたんで臣下や近親者が死を選ぶ事)を決意した隆盛を、清水寺成就院(じょうじゅいん=京都市東山区)の僧=月照(げっしょう)が思いとどまらせますが、間もなく、追いつめられた二人は心中をはかる事に・・・と、そのお話は、未だブログを始めて間もない頃の未熟なページではありますが、11月16日参照>>でどうぞm(_ _)m

★特別公開情報
普段は非公開の成就院(月の庭)ですが、
今年2018年
●冬の旅イベントの1月27日~3月18日
  (10時~16時)
●春の4月28日~5月6日

  (9時~16時)
●秋の11月17日~12月2日

  (9時~16時、夜間公開=18時~20時半)
の3度、特別公開が予定されています。
(予定は変更される場合もありますのでお出かけの際は事前に再確認を)

Zyouzyuintukinoniwa
清水寺成就院「月の庭」
…西郷と月照が、月影を愛でながら日本の未来を語り合った庭です
(内部は撮影禁止ですので右の庭園の写真は建物正面にあるイベントポスターの転載です)
成就院のくわしい場所は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道・幕末編」でご紹介しています>>(←別窓で開きます)

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2015年12月23日 (水)

横浜を造った実業家・高島嘉右衛門と『高島易断』

毎年、年末近くなると、繰り返される風景があります。

クリスマス飾りイルミネーション年賀はがきの発売に、何となく慌ただしくなる雰囲気・・・そして、本屋さんに並ぶアレ・・・

そう、カレンダー手帳とともに、本屋さんに並ぶのが・・・『暦(こよみ)です。

大抵は、白い表紙で、その真ん中の四角で囲まれた中に毛筆の縦書きで『平成○○年何たらかんたら暦』とド~ンと書いてあるアレ・・・

かくいう私も、なんだかんだで買っちゃいますね~安いのだと、100円ショップなんかで、100円~200円程度で売ってたりするんで・・・つい(*´v゚*)ゞ

私の場合は、二十四節季(10月8日参照>>)やら雑節(5月2日参照>>)やらを確認したい、まさに「暦」が見たいがために購入するのですが、買った経験のある方は、皆様ご存じの通り、アレには「暦」とともに、その年の運勢=占いも掲載されています。

生まれた年によって「一白水星」から「九紫火星」までの9種類に分けて運勢を占う物ですが、それが『高島易断』と呼ばれる占い方だそうで、本の表紙には、この『高島易断○○』という文字も書いてあったりします。

て事で、本日は、年末の風物詩とも言える、そんな『高島易断』の元祖となった高島嘉右衛門(たかしまかえもん)さんについて・・・

・‥…━━━☆

天保三年(1832年)、江戸の材木商であった薬師寺嘉衛門(遠州屋嘉衛門)の第六子として生まれた高島嘉右衛門・・・幼名を清三郎と言い、兄たちが亡くなった後に家業を継ぐ事に時に、父と同じ嘉衛門を名乗り、さらに、その後に嘉右衛門と改名し、最終的に呑象(どんしょう)と号しますが、本日はややこしいので高島嘉右衛門という名前で通させていただきます。

Takasimakaemon600a で、上記の通り、材木商として成功していたはずの父でしたが、その死後、莫大な借金があった事がわかり、家業を継いだばかりの嘉右衛門は、その返済に奔走する毎日でしたが、そんなこんなの安政二年(1855年)10月2日、あの安政の大地震が発生(10月2日参照>>)・・・

 .
天災は悲しい物ではありますが、材木屋という稼業は、その復興の一翼を担う形で大儲けする物でして・・・御多分に洩れず、今回の嘉右衛門さんも、そこで大儲けして家業も息を吹き返します。

しかし、続く安政五年(1858年)に江戸襲った大嵐では、蓄えていた大量の材木を流出させてしまい、今度は自らが被災者となって、これまた大きな負債を抱えてしましました。

「これではイカン!」
と再起を図る嘉右衛門は、ここで新しい商売に目を着けます。

それは、今まさに、破竹の勢いで進展しつつあった横浜でした。

あの嘉永六年(1853年)のペリー来航(6月3日参照>>)に幕を開け、安政四年(1858年)の日米修好通商条約の締結(7月21に日参照>>)開港する事が決まった神奈川・・・

条約締結の際、何とか、将軍のいる江戸から、少し離れた場所=神奈川での開港に漕ぎつけたものの、それでも、東海道に直結していてすでに栄えている神奈川湊の開港を避けたい幕府は、神奈川湊の対岸で、それまでな~んにも無かった横浜村を開港し、そこに外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)を儲け、さらに、外国人たちがなるべく遠方に出無くても良いように、その横浜で生活の何でもかんでもが揃うように、完璧な町づくりをしようと考えていたのです。

そう、そこには、新しいビジネスチャンスがワンサカ!

安政六年(1859年)、心機一転、その新しい地で、外国人相手に伊万里焼の磁器や白蝋を販売する肥前屋という店を開店し商売を始めた嘉右衛門・・・しかし、間もなく、「金の密売」の容疑で御用となり、投獄されてしまうのです。

実は、以前、小栗忠順さんのページ(4月6日参照>>)でも書かせていただいたように、かの条約を締結させる際、未だ日本人が国際法をよく知らなかった事で、かなり外国人に有利な条件での条約締結となっている中、一両小判と1ドル金貨の交換比率なんかも不平等で、外国人が日本に銀貨を持ち込んで、日本で金貨(小判)に交換して帰国しただけで、ボロ儲けできていたんです。

で、それに不満を感じた嘉右衛門が、商売の中で、幕府公認の交換レートではなく、国際ルールに乗っ取ったレートで金銀の交換をしていた事が発覚し、逮捕されたのです。

彼としては「不平等な条約に正義の鉄槌を!」と思っていたのか?
「単に、ひと儲けしたかった」だけなのか?
その心の内は彼のみぞ知るところですが、とにもかくにも、嘉右衛門はここで7年もの獄中生活を送る事になります。

しかし、この獄中にて、彼は一生モンの趣味に出会います。

牢屋の中の古い畳の下から一冊の本を見つけたのです。

それは、『易経(えききょう=周易とも)という古代中国の思想本・哲学書のひとつで、この世の森羅万象あらゆる物の変化の法則を運命的に深く分析する内容・・・中国占いの基本テキストと言える物でした。

「何もする事がない牢で、この本と出会ったのも何かの縁…ひとつ易学でも学んでみようか」
と読書に励む嘉右衛門さん・・・

もともと、幼い頃には、抜群の記憶力で周囲を驚かせるような利発な少年だった嘉右衛門は、その本に没頭し、やがては、それを応用した独自の占いにも目覚めていきます。

ただ、刑期を終えて慶応三年(1867年)に出所した時には、やはり商売人・・・占いの事などすっかり棚の上に上げて、再び横浜で、もとの材木業を再開し、今度は、それに伴う建設業も開始します。

7年のブランクがあるとは言え、まだまだ横浜には、箱モノや施設などが不足していて、そこかしこにビジネスチャンスが転がっていたのですね。

通訳を雇って、商売の相手を外国人にまで広げた建築業が盛況となり、嘉右衛門は出獄から、わずか3~4年で、一流の横浜商人の仲間入りを果たします。

さらに、明治三年(1870年)からは新橋⇔横浜間の鉄道建設(9月12日参照>>)にも関わり、明治五年(1872年)には日本初のガス灯の点(9月29日参照>>)にも関わり、明治四年(1871年)には、藍謝堂(らんしゃどう)という、語学に特化した私塾も創設しています。

なので、地元では、新田開発をした吉田勘兵衛(よしだかんべえ)、初期の横浜の行政を担った苅部清兵衛(かるべせいべえ)とともに「横浜三名士」と呼ばれているのだとか・・・

と、このように、商売人&実業家として名声を馳せた嘉右衛門ですが、明治九年(1876年)に45歳で隠居してからは、一方でなんやかんやと事業に関わりながらも、再び、例の易学の研究に没頭するようになり、明治二十七年(1894年)には、その集大成とも言える著作『高島易断』を出版したのです。

もともと、横浜での商売人時代に親しくなった多くの政治家から、度々の相談を受けてはアドバイスしていた事、また、嘉右衛門自身が実業家として業績を残している事、さらに明治四十二年(1909年)に友人の伊藤博文(いとうひろぶみ)満州に発つ際、「災難に遭うから行くな」と嘉右衛門が止めたにも関わらず出立して、かの地で命を失った(10月26日参照>>)などなどが重なったことから、『高島易断』は評判となって、どんどん有名に・・・なので現在でも、嘉右衛門さんは「易聖」と呼ばれます。

とは言え、文中で嘉右衛門と占いとの出会いを「一生モンの趣味」と書かせていただいたように、彼自身は、「占いは売らない」=「占いで金銭の謝礼は受けない」と言っています。

また、商売に関しても、
「商売なんてのも、親から受け継ぐ物でも無いし子孫に残す物でもない…自分一代で、その時、その場所で花開く物とも・・・

その理念からか、嘉右衛門は占いに関して、教えを請う者には広く伝授するものの、特定の弟子という者は取った事が無いのです。

晩年に使用した呑象という名前さえ、教えを受けにきていた小玉卯太郎なる人物に「使いたかったら使ってもイイヨ!」と言う感じ・・・ですから、その生涯において、占いの流派や宗教的な団体を立ち上げる事は無かったのです。

つまり、冒頭で「年末の風物詩」などと言っておきながら、まことに恐縮なのですが、厳密には、『高島易断』という名称は、 あくまで高島嘉右衛門さんが書いた本の名称、もしくは高島嘉右衛門さんがやっていた易断という事であって、

今、年末の風物詩となっている『高島易断』の「暦」の本は、先の『高島易断』を読んで占いを学んだり、そこから枝分かれした独自の占い方法で導かれた運勢判断であって、嘉右衛門さんの直系の後継では無いのですね。

とは言え、年末になれば来年の運勢が気になるもの・・・
なんだかんだで、書店にズラリとあの書籍が並ぶ風景は、やっぱり年の瀬を感じます。
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2015年12月15日 (火)

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」~最終回を見終えての感想

 

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」最終回を迎えました。

結局、今年は1度も書かなかったドラマの感想ですが、やはり、最後ですから、あくまで、一視聴者としての個人的な感想を、チョコッとつぶやかせていただこうかな?と思います。

今回のドラマの主役であった楫取美和子(かとりみわこ)さん・・・旧姓名は杉文(すぎふみ)さんですが、本日はややこしいので美和さんとお呼びします。

自ら「歴史好き」と言っておきながら恥ずかしい限りでありますが、不肖茶々、大河の主役に抜擢されるまで、この方の事を、まったく存じ上げませんでした。

なので、ほとんど知らなかった歴史人物の事を、今回の大河をキッカケに知る事ができたのは、大変良かったです。

が、いかんせん史料が少なすぎた感じが否めませんでした。

史料が少ないという事は創作のし甲斐があるという事で、ドラマにはかなりの創作が入っていたようですが、どーも個人的には、この創作の内容が、自分の肌に合わなかった気がしています。
(↑個人の感想です)

一昨年放送された「八重の桜」で、幕末維新の敗軍である会津の女性を描いた事から「今度は勝ち組の女性が主役になるのでは?」の噂があった事は確かでした。

もちろん、この噂は根拠の無い物だったのかも知れませんが、そんな流れの中で2014年に富岡製糸場が世界遺産となって・・・で、どこからともなく彼女=美和さんの名が挙がったのかも知れません。

「幕末維新の雄藩=長州に…
吉田松陰
(よしだしょういん)(11月5日参照>>)の妹で、
久坂玄瑞
(くさかげんずい)(7月19日参照>>)の妻で、
富岡製糸場のある群馬県の県令=楫取素彦
(かとりもとひこ=小田村伊之助)と再婚した女性がいる!」と・・・

おそらく、この3条件(1=松陰の妹、2=玄瑞の妻、3=楫取との再婚)変えてはならない史実として、それ以外は、彼ら3人や松下村塾の塾生やらを通じて、彼女と幕末維新の重大事項とを、うまく創作で絡めていく感じだったのかも知れません。

もちろん、ドラマなので創作はOKです。
何事にも、主人公が首を突っ込んで、しかもスーパーマンのように見事に解決して
「美和さんのおかげだぁ~(by群馬の女性陣)
「美和がおるとオモシロイ(by毛利の銀姫)
「美和、またやったなww(by楫取)
「テヘペロ(by美和)
てなシーンも、今回ばかりはヨシとしましょう。

それよりも、もはや、私の中では、歴史うんぬんよりも大きくなってしまっていた、1年間ず~っと絶えなかったモヤモヤした不思議な感じ・・・

それは、上記の、どうしても変えてはいけない史実のNo.3=楫取との再婚関連です。

条件の1と2は、そのまま普通に描けますが、この3だけは・・・そう、この楫取が、もともとは姉=寿(ひさ=久子)さんの旦那さんだったという点です。

姉が亡くなった後に、その妹が嫁に入る(あえて結婚とは言わないでおきます)・・・これは、昔は、そこまで珍しくなかった事です。

いや、昔とまで行かなくても、ほんの6~70年前=太平洋戦争の頃でも、新婚間もなくで出征した旦那さんが戦死して、その弟さんと再婚した、なんて話も聞いた事あります。

なぜなら、今のような恋愛結婚が主流になるのは、戦後の高度成長期=昭和三十年頃(1960年代)くらいからですから・・・もちろん、恋愛結婚がまったく無かったというわけではないですが(現に、源頼朝と北条政子、豊臣秀吉とおねさんも恋愛結婚です)、主流は、やはり、親や長兄が、家と家との繋がりの事を考えて決めたり、親戚などが、両家のつり合いを考えて紹介するのが一般的だったのです。

だからこそ、松陰は、自らが信頼を置く同志である楫取素彦や久坂玄瑞に妹を託したんだと思います。

なので、寅兄ぃ(松陰の事)の意思を継ぐのであれば、まことに結構なご縁談なわけですが、やはり、そんな考えは21世紀の平成の世にはそぐわないわけで・・・

そのために、造り手の方は大きな賭けに出た??

つまり、第1回の放送で、後に結婚する楫取を、美和さんの初恋の相手だった事にしちゃったわけですが、これが雰囲気的に楫取も美和に好意を持っている感じで、しかも後々の事を考えてか、この後、ず~と二人はラブラブ光線出しっぱなしなのです。
(セリフではなく、目線でラブラブ感を出す役者さんの演技がウマかった事は確か)

口ではお互いの伴侶の事を「大事に思っている」と言いながらのラブラブ光線出しっぱなしは、むしろ、スキあらば姉の夫に色目を使うエロ妹と、事あらば嫁の妹に手を出そうともくろむ浮気夫に見えてしまい、なんだか不倫ドラマを見ているような感覚に・・・

しかも、お互いの伴侶はその事に気づいていないので、哀れ感満載・・・そうなると、逆に主人公の二人が悪人に思えて来るのです。

おそらく、造り手の方々の思いとしては、第1回の初恋を秘めたまま、永きに渡って純粋な愛を貫いた二人が、最後に結ばれ、最終回にして鹿鳴館(ろくめいかん)で舞い踊る!!ここに感動も極まれり~というダンドリであったのかも知れませんが、もしそうなら、お互いの最初の伴侶(寿と久坂)を悪い妻&悪い夫に仕立て上げねば、物語は成り立たないし視聴者の共感も得られないわけですが、この、寿と久坂は主人公の協力者であるべきイイ人なので、そうもいかない感じ?だったのでしょうか・・・

なので、結局は、永きに渡って、お互いの妻&夫を騙すように不倫して来たカップルが結ばれるだけなので、むしろ、鹿鳴館でのダンスが、いかにも勝ち誇ったラスボスの勝利の舞いに見えてしまいました。
(↑スミマセンm(_ _)mきっと、私の心が悪に染まっているのです)

病気になって、自らの死を予感した寿さんが、「私が死んだら、夫の嫁に美和を…」というのは、実際に寿さんが長兄の民治(みんじ=梅太郎)さんへの手紙に書いている史実ですので、私としては、できれば、「あくまでお互いを意識するのは寿さんが亡くなってから」というストーリー展開にできなかったのかな?と残念でなりません。

あと、もう少しだけ言わせていただければ、美和さんageのために、他者sageをするところが好きになれませんでした。

たとえば・・・(最近の回のエピソードで言えば)

富岡製糸場の工女らしき少女が3人・・・「私たちも女性の学びの場に入りたい」と言って美和のもとにやって来ますが、その女の子たちがいかにも田舎者風で、読み書きもできず、まるで世間知らずのように描かれていましたが、富岡製糸場で働く工女たちのほとんどは士族の娘さんたちで、言わば、各地を代表して最新の技術を学びに来ていた少女たちです。

なのに、なぜ、あんな風に描かれたのでしょう?

さらに言えば、その富岡製糸場には、同じ長州の長井雅楽(ながいうた)(2月6日参照>>) の娘さんも働いていました。

長井雅楽と言えば、幕末の動乱の中で藩の姿勢がコロコロ変わった時に、久坂らによって自刃に追い込まれ長州内での負け組となった人物(←これはドラマでもやってました)・・・元夫が死に追いやった人物の娘さんが、現夫が県令を務める群馬県の富岡製糸場で働いている事を、彼女は知ってか知らずか・・・とにかく、ドラマでは、完全スルーでした。

慈悲・慈愛という事はステキですが、一つ間違えば、上から目線の偽善的な哀れみ&ほどこしと捉えられかねません・・・いや、なんだか、工女さんの代表を貧乏人の少女のように描く事&長井雅楽の娘さんをスルーした事で、むしろドラマではそんな上から目線の美和に見えてしまったような気がします。

できれば、これからは、主人公ageはあっても、そのために周囲を貶めるような描き方は避けていただきたいです。

大河ドラマは特別なドラマです。

例え、それが面白くて素晴らしい内容のドラマであったとしても、以前他局でやっていた「仁-JIN」を見て、「へぇ~幕末にペニシリンがあったのか~」と思う人がいるでしょうか?

「信長のシェフ」を見て、「ふ~ん、姉川の戦いで兵士たちは焼肉喰ったんだぁ」と思う人がいるでしょうか?

いませんよね?・・・でも、大河ドラマで描くと、それを「本当の事なんだ」と思う人が数多くいるのです。

それこそが、大河が特別である証拠・・・これまでのドラマの造り手の皆さんが、永きに渡って紡いできた「大河ドラマ」が持っている「大河ドラマ自身の歴史」ゆえなのだと思います。

ここ何年かは、「今度の大河はホームドラマ」とか「今度は青春群像劇」とかって話を聞きますが、私は大河ドラマが見たいのです。

ホームドラマや群像劇を見たいなら、そんな感じの別のドラマで充分です・・・でも日曜8時には、やっぱり大河が見たいのです。

あくまで個人的な意見ではありますが、是非とも、大河らしい大河を・・・せっかく先人のスタッフさんが、第1作めから紡いで来た大河の糸なのですから、これからも末長く紡いでいっていただきたいと・・・

来年も期待しておりますm(_ _)m
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2015年7月 9日 (木)

小笠原諸島を守った「屏風」水野忠徳…幕府終焉とともに死す

慶応四年(1868年)7月9日、幕末期、外国奉行などを歴任して活躍した幕臣=水野忠徳が59歳で死去しました。

・・・・・・・・・・・

わずか500石の旗本だった水野忠徳(みずのただのり)が、時の老中=阿部正弘(あべまさひろ)(6月17日参照>>)に、その才能を認められて西丸目付に抜擢されたのは天保十五年(1844年)4月の事でした。

Mizunotadanori600a 以来、様々な役職をこなしつつ、、嘉永五年(1852年)には浦賀奉行を、翌・嘉永六年(1853年)4月には長崎奉行に任ぜられますが、お察しの通り、これは、近年騒がしく日本の近海を行き来する外国船に対する交渉役として、彼が幕府からの信頼を得ていたという事・・・

・・・にしても、メッチャ惜しいですやん(^-^;

そう、あのペリーが黒船に乗ってやって来るのは嘉永六年(1853年)6月3日・・・忠徳が赴任した長崎ではなく浦賀へ来ちゃった(6月3日参照>>)ために、ペリーとの交渉の場での彼の出番は無かったのです。

その代わりと言っちゃぁ何ですが、続く7月18日に長崎にやって来たプチャーチン率いるロシア船=ディアナ号他4隻(10月14日参照>>)との交渉を、川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)の補佐という形で行い、日露の国境などを定めた日露和親条約の締結にこぎつけています。

さらに、その後に長崎を訪れたイギリスの東インド艦隊とも交渉を重ねて、日英和親条約に調印した事から、安政五年(1858年)には外国奉行となって、日英修好通商条約日仏修好通商条約も締結させました。

そんな中で、外国との格差が生まれていた金銀貨の交換問題や、外国に開港する港の選定などにも尽力した忠徳は、人呼んで「屏風水野」・・・これは、外国との交渉に挑むおエライさんを、その屏風の後ろからコッソリ指導すると事でついた異名で、まさに、優秀な官僚でないとできない役どころでした。

とは言え、途中に安政の大獄があったり、ロシア士官殺害事件の責任を取ったりで、いち時、左遷されたりもしましたが、外国奉行に返り咲いた文久元年(1861年)、歴史に残るある事をやってのけます。

それは、世界遺産になった事も記憶に新しい、あの小笠原諸島・・・

『近世日本国防論』によれば、
この遥か南海の島々は、それまでの幕府の認識としては、伊豆七島の流れから、日本の物としての多少の防衛意識はあったものの、ほぼ眼中になく、打ち棄てられたような状態で、結局は、江戸時代を通じて「無人島(ぶにんじま)」と呼ばれているのが現状でした。

しかし、ここに来て、外国の捕鯨船が周辺を行き交い、イギリスやロシアが、ここを海軍の基地とすべく領有権を主張・・・幸いな事に、この時は、そこにアメリカが参入して潰し合いをしてくれたおかげで、辛うじて日本領となっていたのでした

そこを忠徳は見逃さなかった・・・

早速、その年の暮れ、幕府の了解を得て小笠原諸島に乗りこんだ忠徳チームは、現地を探検して測量・・・すでに住んでいた島民たちには、ここが日本領である事、また、彼らを日本国が保護する事などの約束を取り付けて、

「ここは、古くは文禄二年に小笠原貞頼(おがさわらさだより)なる人物が島に渡って島内を統治し、「小笠原島」という名前を賜ったものの、波荒く、行き来が難しい事から、いつしか通う人もいなくなっていたところを、享保十三年にその貞頼の子孫を名乗る宮内貞任(さだとう=小笠原貞任)が渡航と領有を江戸幕府に願い出るものの、やはり風波荒き中、往来ができずにいたけれど、今回は心機一転、忠徳チームによってしっかりと統治する事を、永久に記録すべく、ここに碑を建立します」
てな内容(だいぶはしょってます)石碑を建立したのです。

そう、実効支配・・・その後、時の老中=安藤信正(あんどうのぶまさ)(1月15日参照>>)の名のもと、諸外国に書簡で以って、事を報告し、それを認めさせた事で、小笠原諸島は日本の領土という事が確定したのです。

そんな忠徳さん・・・幕府官僚の中でもいち早く、鎖国継続の不可能&攘夷の不可能を悟った人物だと言われていますが、それ故か、当時、進められていた公武合体(朝廷と幕府が協力)(8月26日参照>>)に強く反対したため、文久二年(1862年)に箱館奉行に左遷されてしまい、しかもわずか2ヶ月でそれも辞任・・・さらに、翌文久三年(1863年)の小笠原長行(おがさわらながみち)クーデター(1月25日参照>>)に同調し、結果的に失敗に終わった事で謹慎処分となってしまいました。

それでも屈しない忠徳・・・慶応四年(1868年)1月に勃発した鳥羽伏見の戦いの敗北(1月9日参照>>)の後、江戸城内での会議(1月23日参照>>)にて、新政府軍との徹底交戦を主張するも、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)恭順姿勢を取る事を決意した(1月17日参照>>)事から、失意のうちに隠居して、武蔵布田宿(ふだしゅく)に移住ます。

しかし、それから間もなく、忠徳は病に倒れてしまうのです。

『偉人豪傑言行録』によれば、
もはや、手の施しようも無いほどになった夜・・・それまで横たえていた身体が、にわかにムクッと起きあがり
「今すぐ、礼服の準備をせい!
俺が君命をたずさえて、諸国に伝えに行かなアカンのや!」

叫んだ後、亡くなったと・・・

それは慶応四年(1868年)7月9日、まさに、戊辰戦争が北へ北へとと延びていた頃・・・元号が明治と変わる2ヶ月前の事でした。

屏風の後ろから幕府を支え続け、最後まで徹底交戦を訴えた忠徳には、「生きるも死ぬも幕府とともに…」という思いがあった事でしょう。

そういう意味では、まさに幕府とともに・・・幕府の終焉とともに幕を下ろした彼の人生ではありましたが、おそらく、その気持ちは、未だ決戦の真っただ中だったに違いありません。
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2015年4月10日 (金)

安中藩主・板倉勝明~「安政遠足」侍マラソン

安政四年(1857年)4月10日、上野安中藩の第5代藩主=板倉勝明が、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

第4代上野安中(群馬県安中市)藩主=板倉勝尚(かつなお)の長男として生まれた板倉勝明(いたくらかつあきら)は、その父の死を受けて、わずか12歳で家督を継いで第5代藩主なりますが、父譲りの学問好きで、藩士たちにも学問を奨励し、藩校に有名な学者を招いて講義させるなどの教育改革を行う一方で、自らも執筆活動をこなしながら、様々な藩政改革をも積極的に行う名君であったと言われています。

そんな改革の一つが軍制改革・・・そう、勝明が男盛りの30代・40代を迎える頃は、時代がまさに幕末へと突入する頃だったわけで、早速、高島流砲術を導入して西洋式の訓練にも力を入れたのです。

中でも有名なのが、藩士たちの心身を鍛えるために行われた『安政遠足(あんせいとおあし)と呼ばれる武士たちのマラソン大会・・・

それは安政二年(1855年)5月に勝明が、50歳以下の藩士に向けて、実施要綱を発表した事に始まります。

  • 実施日=安政二年(1855年)5月19日より
  • それぞれ6~7名のグループを組んで、前日までに上司に届け出
  • 雨天決行…てか、どんな暴風雨でも実行する事
  • コースは安中城をスタートして碓氷峠(うすいとうげ)山頂の熊野権現までの29.17km
  • ゴールにいる神主から通過時間を記した書き付けを受け取ったら、城へ戻って大目付に提出する事(←って、往復かいな?)
  • 疲れや足痛によっての遅れは認めるが、馬や駕籠を使用した者は処罰する(←やっぱ、せやろな(^-^;)

と、こんな感じです。

・・・で、この発表で、ゴールとなる熊野権現の神主=曽根出羽(そねでわ)さんは、前日の18日に未明に峠を下って、代官と会い、到着時間と着順を記録するための割付札を50枚を受け取り、その日は坂本宿に宿泊・・・翌朝、早くに宿を出発する事にします。

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錦絵に描かれた坂本宿と碓氷峠:木曽街道六十九次「坂本」(国立国会図書館蔵)

ところが・・・この神主さん、
翌朝、ちゃんと、朝早くに宿を発ったにも関わらず、碓氷峠の峠の茶屋まで来た所で、安中城をスタートして走って来た7人の選手たちに追いつかれてしまいます。

「アカン( ̄Д ̄;;!こんなんやったら、到着時刻や着順を記録するどころや無いがな!」
と大慌て・・・

しかし、もうすでに、追いつかれてしまった物はどうしようもありません。

やむなく、彼らといっしょに走り、午前10時頃にゴールの熊野権現に到着・・・この日は遠足初日という事で熊野宮に御神酒を捧げた後、到着した選手たちに、力餅やお茶の接待をしたとの事・・・

とは言え、完全なる失態・・・藩主からのお咎めを覚悟した神主さんでしたが、その後もお咎めを受ける事なく、むしろ、何事も無かったかのように、順々にマラソンは実施されました。

なので、次からは、ちゃんと神社の境内にて待ち受け、しっかりと着順、時刻を記録して、やはり初日と同じように、到着した選手たちを労ったのだとか・・・

昭和三十年(1955年)に、かの碓氷峠の茶屋から発見された『安中御城内御諸士御遠足着帳』なる古文書には、その時の記録が残っているそうで・・・

・‥…━━━☆

●五月十九日巳ノ上刻頃参着

  • 黒田誠三郎殿
  • 黒川鐘之助殿
  • 粕瀬雅三殿
  • 倉林愛之助殿
  • 橋本鉞蔵殿
  • 竹内粂三郎殿
  • 丹所太平殿

●同 廿一日辰上刻参着

  • 弐番参着 小林房之進殿
  • 〃      和久沢文四郎殿
  • 壱番参着 根本国次郎殿
  • 三番参着 石井幸右衛門殿
  • 弐番    植栗荘蔵殿
  • 三番    山口徳五郎殿
  • 壱番    石塚吉十郎殿

などなど(記録はまだまだ続きますが…)

・‥…━━━☆

どうやら、5月19日~6月28日までのうちの16日間に、6~7名に分かれた藩士が順々に走ったようですが、そのうちの二人が2回走っているので、参加者は96名で、記録は98名分あるそうです。

それにしても、やっぱり初日の19日・・・

着順が書かれて無いし「巳ノ上刻‘頃’参着」って・・・やっぱり正確には書けなかったんですね~

「せめて、選手たちがゴールする所を見届けなくては!」と、神主さんがその責任感で以って、必死のパッチで彼らと一緒に走ったかと思うと、失礼ながら、ちょっと笑っちゃいますね。

ちなみに、この古文書の中には、一旦、割付札に書かれた記録を「もっと遅い時間に変更してくれ」と訴えたグループがあって、神主さんが時刻を書き換えた事も記されているのですが・・・

どうやら、(当然ですが…)若い者が早く走り、おそらく彼らの上司にあたるおっちゃんグループが遅くなってしまったために、若い者たちが遠慮して、わざわざ記録を遅く申告しようとしたらしい・・・って、接待ゴルフかいな!てな場面もあったようです。

それに、いちいち対応する神主さんも大変ですわな。

とにもかくにも、勝明は、この翌年にも軍制に関する命令を出しているようですので、おそらくこの先、もっと大きな波になるあろう外国との関係&国防についての意識が高かったものと思われ、まだまだやり残した事もあったのでしょうが、残念ながら、安政四年(1857年)4月10日彼は47歳の生涯を閉じました。

ちなみに、安中藩と言えば思い出す一昨年の大河の主役=山本八重(やまもとやえ=新島八重)さんのダンナさんで、後に同志社英学校を開設する新島襄(にいじまじょう=本名は七五三太(しめた))(1月23日参照>>)・・・生前の勝明は、彼の才能をいち早く見出して目をかけていたのだとか・・・

なので、一説には、この勝明さんの死が、襄が安中藩を脱藩して外国に渡る決意をする一つの後押しになったのでは?との見方もあるようです。

現在、群馬県安中市では、毎年5月の第2日曜日に、『安政遠足侍マラソン』なるマラソン大会が開催され、多くのランナーが「日本のマラソン発祥の地」を疾走する人気のイベントになっているそうですよ。
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2015年3月16日 (月)

維新の混乱に散った長州藩士~大楽源太郎

 

明治四年(1871年)3月16日、幕末の長州藩士で忠憤隊を組織した大楽源太郎が久留米にて斬殺されました。

・・・・・・・・・・・・

天保三年(1832年)もしくは五年((1834年)に、 萩藩の家老・児玉若狭の家臣である山県信七郎の息子として生まれた大楽源太郎(だいらくげんたろう)は、12歳の時に、同じ児玉家の家臣であった大楽助兵衛の養嗣子となります。

まもなく、にて、勤王の僧であった月性(げっしょう)や儒学者の広瀬淡窓(ひろせ たんそう)の塾で学んだ事から、そこの門下生であった久坂玄瑞(くさかげんずい)赤禰武人(あかねたけと=赤根武人)(1月25日参照>>)らと友情を育む一方で、安政四年(1857年)の20代半ば頃から京都江戸に出て、梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)頼三樹三郎(らいみきさぶろう=頼山陽の三男)西郷吉之助(後の西郷隆盛)らと交流を持つというバリバリの尊皇攘夷派(そんのうじょういは=天皇を尊び外国を排除する派)の道を歩む事になります。

ところが、ここに来てご存じの安政の大獄・・・このブログでも、幕末の回になると度々出て来ておりますが、この安政の大獄とは、天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ないまま、アメリカと『日米修好通商条約』(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)を結んだ幕府大老の井伊直弼(いいなおすけ)が、それに反発する者たちを、逮捕投獄したり死刑にしたりと、武力で以って弾圧した一件(10月7日参照>>)です。

これによって、源太郎が師事していた梅田雲浜が逮捕されてしまうのです(9月14日参照>>)

当然、源太郎にも幕府の手が伸びて来るわけですが、この時は逮捕される寸前に故郷・長州へと戻り、長州藩による謹慎処分を受ける事で、何とか幕府からの処分を逃れました。

しかし、すでにその謹慎が解けるか解けないかの頃に井伊直弼暗殺計画を練ったり、ご存じの高杉晋作(たかすぎしんさく)松下村塾(しょうかそんじゅく)(11月5日参照>>)出身者と合流して勤王運動を繰り返す源太郎は、当時、京の町で増加していた天誅(てんちゅう=本来は神による天罰の意味ですが、ここでは勤王の志士による暗殺行為の事)事件にも、いくつか関与したとの事ですが、なんだかんだでその身を守りつつ、やがて故郷へと戻っていたところ、文久三年(1863年)には藩からの学校建設の命を受け、再び京都へ・・・

ところが、この年の8月の八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)にて、長州藩は中央政界から追われ、翌・元治元年(1864年)の6月には、密かに京にて活動していた長州藩士らが殺害される池田屋騒動(6月5日参照>>)が起こり、その翌月には、この騒動に不満を感じた長州が武装して上洛する、あの禁門(蛤御門)の変(2010年7月19日参照>>)・・・と、時代がめまぐるしく動きます。

この禁門の変の時、源太郎は、真木和泉(まきいずみ=保臣)(2007年10月21日参照>>)久坂玄瑞(2011年7月19日参照>>)らと行動をともにしていましたが、一時は御所に迫る勢いをみせたものの、やがては、敗戦となって彼らは自刃・・・源太郎も、悲痛な思いの中、なんとか長州へと帰還しました。

これにより、長州藩内の勤王倒幕の影は衰え
(【長州を守る為~福原越後の自刃政治責任】参照>>)
(【長州に尽くす!国司信濃の政治責任】参照>>)
藩の上層部は保守派が牛耳る事になりますが、これに不満を持った高杉晋作が1ヶ月後に、下関の功山寺にて兵を挙げる(12月16日参照>>)、源太郎も、自らの同志とともに忠憤隊を組織して参戦します。

この長州藩内の内紛で勝利した事により、再び長州藩は、高杉らが率いる革新派が牛耳る事になり、源太郎の忠憤隊この内紛時に生まれた多くの諸隊は、それぞれが合併したりして長州藩の軍隊の一部となって行くのですが・・・

そんなこんなの慶応二年(1866年)・・・この年の1月には、ご存じの薩長同盟が成立(1月21日参照>>)しますが、一方の源太郎は、この年に、故郷の三田尻近くに敬神堂(西山書屋)なる私塾を開設します。

水戸学水戸学については…【水戸学・尊王・倒幕~藤田東湖・志半ば】を参照>>日本外史の講義をしていたというその塾は、一時は100人を超える塾生を抱えるほどの大人気で、この年の6月に勃発する第2次長州征伐=四境戦争(7月27日参照>>)にも、源太郎の塾生たちが参加したと言います。

そして、その第2次長州征伐=四境戦争、さらに、この年の7月に14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)(7月20日参照>>)、12月に第121代=孝明天皇(12月25日参照>>)と、相次いだトップの死を受けて情勢が大きく変化して、皆様ご存じのように、倒幕の嵐は最高潮となり、翌・慶応三年(1867年)・・・
10月13日&14日には「討幕の密勅」(10月13日参照>>)が出され、
10月14日には大政奉還(10月14日参照>>)
12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)
と続き、

さらに、この暮れの12月25日に起こった薩摩藩邸焼き討ち事件(12月25日参照>>)をキッカケに、幕府が、朝廷に『討薩の表(朝廷の意に反して王政復古を行った薩摩を罰したいんですが…という内容)を提出すべく、翌年・1月1日に、武装して大坂から京都に向かっていた行軍の列を、「京都へは入れない!」と阻止する長州藩&薩摩藩の軍隊が衝突した事を皮切りに始まったのが鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)です。
(厳密には前日の海戦が最初ですが…【大坂湾で~初の様式海戦】参照>>

・・・で、その鳥羽伏見の戦いが、北へ東へ進み、戊辰戦争と名を変え、やがて明治維新を迎える事になるのですが、その一連の流れは【幕末・維新の年表】で>>

とにもかくにも、この間も、源太郎の私塾からは、多くの優秀な人材を輩出する事になるのですが、そんな源太郎の運命が、大きく変わるのが、明治二年(1869年)・・・

この年の9月4日、例の四境戦争や戊辰戦争にて、その巧みな戦術で勝利を導いた事から(5月15日参照>>)、今や新政府軍の最高位の立場にあった大村益次郎(おおむらますじろう)が京都で襲撃され、その傷がもとで亡くなって(9月4日参照>>)・・・そう、大村益次郎の暗殺事件です。

実は、ここのところの大村は、軍隊の改革を推進しており、 「もはや、武士の兵法は古く、徴兵制を設けて国民皆兵とし、西洋式の軍隊に育てあげるとしていましたが、それは未だ武士のプライドを捨てきれない多くの士族(元武士)たちの反感をかっていたのです。

なんせ、彼らは、維新を成した、かの四境戦争&戊辰戦争を命がけで戦ってきた人たちなわけで・・・で、その大村暗殺劇の中心人物だったのが、源太郎の私塾出身の神代直人(こうじろなおと)だったのです。

この事から、「影で糸を引いていたのではないか?」と疑われ、源太郎は、主君である児玉若狭によって幽閉されてしまいますが、事態はさらに悪化して行くのです。

それから約3ヶ月後の11月27日、藩知事の毛利元徳(もとのり)が、元奇兵隊を含む諸隊を、第1大隊~第4大隊の常備軍として再編制する事を発表(11月27日参照>>)・・・つまり、事実上の諸隊の解散命令で、これは、多くの兵士たちのクビ切りを意味していました。

新たな軍隊への登用が見込めない兵士たちは、当然、この解散命令を不服とし、一旦、山口を脱走して集結した後、彼らの言い分が聞き入れられないとなると、大勢で以って藩庁を取り囲み、もはや数千人に膨らんだ集団は、しだいに暴動と化していきます。

・・・と、この暴徒と化した集団に中にも、源太郎の教え子が多く含まれていたのです。

しかも、もともと兵制の改革には反対の姿勢だった源太郎は、この暴動の首謀者と睨まれ、藩庁より出頭の命令が出されますが、彼は出頭命令を無視して、密かに九州へと脱出します。

そして、熊本藩の飛び地であった鶴崎に、かつての同志である河上彦斎(かわかみげんさい=るろ剣のモデルです(*^-^)を訪ね、「回天軍を立ち上げよう!」とクデーターを持ちかけますが実現ならず・・・
(後に彦斎は源太郎をかくまった罪で斬首されます…【佐久間象山を暗殺した「人斬り」河上彦斎】参照>>

やむなく、未だ攘夷の意思固い応変隊のいる久留米藩へと向かいます。

一旦は、源太郎を受け入れた久留米藩ではありましたが、当然、新政府の追及はどんどん激しくなって来るわけで・・・やがて、「このまま大楽を庇護し続ければ、藩の存続も危ぶまれる」となった事から、やむなく、応変隊の川島澄之助らは、源太郎の暗殺を計画します。

明治四年(1871年)3月16日「回天軍を起こす準備ができたゾ」と川島らに呼び出された源太郎は、その場で斬殺され、40年足らずの生涯を閉じました。

『久留米藩難記』には、「藩のためには、どうしても生かしておく事はできなかった」と、暗殺に関わった彼らの心情が記されています。

悲しい末路となった奇兵隊と同様に、今回、源太郎に手を下した彼らも、その心の内では涙していたのかも知れません。

明治という時代は、まだ始まったばかり・・・時には鬼となって近代化を模索しなければならなかったのでしょうね。
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2015年2月 6日 (金)

長州一の知弁:長井雅楽~無念の死

文久三年(1863年)2月6日、長州藩の英才と謳われた長井雅楽が自刃しました。

・・・・・・・

文政二年(1819年)に、長州(山口県)藩士の長男として生まれた長井雅楽(ながいうた=時庸)は、幼くして父を亡くした後、藩校の明倫館(めいりんかん)で学びますが、その優秀さは目をみはるほどで、やがて時の藩主である毛利敬親(もうりたかちか)小姓から奥番頭となり、毛利家の後継ぎである定広(さだひろ)後見人にも抜擢されるほどの信頼を得て、長州藩の重役にまで昇り詰めます。

C01700001101j しかし、何と言っても彼を有名にしたのは、文久元年(1861年)に藩主に提出した『航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)という建白書です。
(右→画像は『山口県幕末維新関係資料等データベース』様>>より転載)

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ご存じのように、時は幕末・・・
嘉永六年(1853年)6月のペリー来航(6月3日参照>>)以来、開国か攘夷(じょうい=外国を排除)かに揺れる中で、幕府大老の井伊直弼(なおすけ)が、開国に反対する孝明天皇勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ないまま『日米修好通商条約(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)に調印してしまった事から、開国派と攘夷派は真っ向から対立する事になります。

以前に、水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)さん死去のページで少し書かせていただきましたが(10月2日参照>>)、もともとは、幕府を守るための尊王攘夷思想だったのが、幕府大老自らがそこでの序列を無視してしまった事で、尊王攘夷はどんどんと倒幕の方向へと向かうのですが、そんな中で、それに拍車をかける如く行われたのが、安政六年(1859年)の、あの安政の大獄・・・

危険を感じた西郷隆盛(さいごうたかもり)自殺未遂するわ(11月16日参照>>)
梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)逮捕(9月14日参照>>)されるわ、
橋本左内(はしもとさない)斬首(2012年10月7日参照>>)されるわ、
吉田松陰(よしだしょういん)死刑(10月27日参照>>)になるわ、
と、幕府に反発する攘夷論者を次々と罰した事から、ますます日本は真っ二つとなり、翌・安政七年(万延元年=1860年)3月には、張本人の直弼が桜田門外の変(3月3日参照>>)で暗殺される事態に・・・

そんな中で、その打開策として、幕府は公武合体(こうぶがったい)を模索しはじめます。

公武合体とは、その名の通り、「公=朝廷」と「武=幕府」が、力を合わせてこの苦境を乗り切って行こうという物で、その象徴のように進められていたのが、第14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)と、孝明天皇の妹=和宮(かずのみや)結婚話でした(8月26日参照>>)

・・・で、その翌年の文久元年(1861年)に、先ほどの雅楽の建白書=『航海遠略策』です。

その内容を、ごくごく簡単にご紹介しますと、
「このまま、尊王攘夷論の朝廷と、開国論の幕府が対立していては欧米列強につけ込まれるかも知れない…すでに、アメリカとの条約を結んでしまった今となっては、幕府が調印した条約に朝廷が同意して勅許を与え、国論を統一して万全な体制を作り、海外にも進んで乗り出しつつ外国との交渉にも当たるべきである」
みたいな感じです。

当時、藩内知弁第一と謳われた雅楽ですから、その説明も見事な物で、藩主・敬親も大いに感動し、重臣の周布政之助(すふまさのすけ)(9月26日参照>>)も、その意見に耳を傾けたと言います。

早速、この案は、長州藩の藩論とされ、藩主・敬親は雅楽を伴って、江戸へ京へと奔走・・・幕府も喜んで賛同します。

てか、もともと、和宮の嫁入りを模索していた幕府にとって、むしろ、これは好都合な案・・・早速、その年の10月には、皇女和宮が江戸に向かって発ち(10月20日参照>>)、これで政局は一段落したかに見えました。

しかし、長州藩の一部の志士は、これに納得せず、雅楽暗殺計画を立て、反対運動を展開します。

その中心となっていたのが、桂小五郎(かつらこごろう=後の木戸孝允)久坂玄瑞(くさかげんずい)高杉晋作(たかすぎしんさく)と言った、今は亡き松陰の松下村塾(11月5日参照>>)の出身者たち・・・

実は、そもそも『航海遠略策』の根底に流れる「国論を統一して海外にも積極的に乗り出して外国と交渉すべき」という考え方は、雅楽よりも先に松陰が言っていた事だったんです。

なんせ、ご存じのように、黒船に乗って外国へ行こうとした人ですからね・・・松陰は、

なので、彼ら反対派も、それが、来たるべき未来に実現すべき正論である事は重々承知だったわけですが、ただ、その考えを、今、この時点で、幕府の生き残りのための策として使われるのが許せなかったようなのです。

敬親と雅楽が江戸や京都や国許を行ったり来たりしている間にも、藩内で積極的に反対運動を推進していく彼らに、初めは賛成派だった周布政之助も態度を変えるようになり、徐々に反対派は増えていき、やがて、藩主の敬親も『航海遠略策』に消極的になっていきます。

そんな中、雅楽の『航海遠略策』に最もノリノリだった幕府老中=安藤信正(あんどうのぶまさ)が、文久二年(1862年)1月15日に起こった坂下門外の変(1月15日参照>>)と呼ばれる水戸脱藩浪士に襲撃された事件がもとで失脚し、雅楽は大きな後ろ盾を失ってしまいます。

その2ヶ月後の3月には、未だ、朝廷から、正式に『航海遠略策』を認めてもらっていない雅楽は、江戸を発って京都に向かいますが、すでにこの頃は、朝廷内でも反対派の動きが活発になっていて、雅楽の建白は失敗・・・さらに、続く4月には、反対派の久坂らによって、12カ条に及ぶ『長井弾劾書』が長州藩に提出されるのです。

その内容は、
「松陰を幕府の役人に売り渡した」とか、
「勤王の志篤い長州藩を詭弁で翻弄した」とか、
「朝廷は攘夷一色だったのに外国との条約に勅許を下すよう仕向けた」とか、
「藩主が病気なのに参勤交代でウロウロさせた」とか・・・

しかし、ずいぶん前の安政の大獄の直弼の本心のページ(2006年10月7日参照>>)でも書かせていただいたように、それは松陰自らが、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺計画と、仲間の梅田雲浜の奪還計画を自白して出頭して来たわけで、そんなテロ行為が発覚した以上、幕府は何らかの処置を取らねばならないし、幕府の命があれば、当時、直目付という役職だった雅楽は、粛々と、その役職を全うするわけで・・・売り渡したというよりは、単に仕事をこなしただけのような気がしないでもない・・・

また、そのほかの、尊王攘夷か公武合体かとかに関しては、雅楽一人が原因なのではなく、そこに同調した重臣やらその他モロモロの大勢の関係もあるわけで・・・

しかも、ここに来て、前年に雅楽が朝廷に提出していた『航海遠略策』に、その文書の中に「謗詞(ぼうし=誹謗中傷する言葉)がある」として不採用との判断がくだされます。

謗詞一件(ぼうしいっけん)と呼ばれるこの事件ですが、結局のところ、『航海遠略策』のどの部分が朝廷に対しての誹謗中傷なのかよくわからずじまいの一件で、要は、反雅楽派=長州内の攘夷派の画策を、朝廷内の攘夷派が受けて、とにかく「誹謗中傷の言葉が含まれている」の一点張りで押し通した・・・てな感じのようです。

とにもかくにも、これにて、長州藩内の雅楽への批判は頂点へと達します。

なんせ反対派も賛成派も長州藩士なわけですから、藩主としても分裂した藩を一つにまとめねばならないし、かと言って「藩主が…」「重役たちが…」って事になれば、事は大きくなるわけで、ハッキリ言って、雅楽一人に責任を取らせる形にしないと、収まりがつかなくなったという事なのでしょう。

そして、その責任の取り方は・・・そう、切腹です。

もちろん、藩内にも雅楽に同情する者もいましたし、藩主の敬親も、彼の優秀さに惚れ込んでいた一人ですから、おそらく、その死を惜しんだでしょうが、もはや、長州藩のゴタゴタは、それ以外に収拾の方法が無い状況となっていたようです。

切腹の命を受けた雅楽は、最期となる日の前日、定広の側近を、長年ともに務めた友人=高杉小忠太(たかすぎこちゅうた=晋作の父)に、その思いを込めた長文の手紙を書いたと言います。

それは、自分に降りかかった非難が、いかに言われの無い物であるかという事を綴った悲痛な訴えだったようですが、その末尾には
♪ぬれ衣(ぎぬ)の かゝるうき身は 数ならで
 唯思はるゝ 国の行末  ♪
という辞世の句が添えられていたのだとか・・・

かくして文久三年(1863年)2月6日長井雅楽の切腹は執行されました。

その最期を目撃した人によると、
朗々と『弓八幡』を謡い終わった後、介錯人の助けを拒絶して自らの刃で切腹を果たし、血の海の中で逝った・・・との事。

この3ヶ月後、長州藩は関門海峡を通る外国船に砲撃を仕掛けて攘夷の先頭に立つ事になるのですが(5月10日参照>>)、それもつかの間・・・

さらに3ヶ月後の8月に政変が起こった(8月18日参照>>)事で表舞台から引きずり降ろされた長州は、翌年の禁門(蛤御門)(7月19日参照>>)にて朝敵(国家の敵)となり、その後始末のために・・・

実は、今回の雅楽の最期を、検使役として見届けたのが家老の国司信濃(くにししなの)・・・彼もまた、その禁門の変の後始末のために切腹する事になるのです(11月12日参照>>)

維新という大義を成し遂げた長州藩・・・
そこに至るまで、めまぐるしいほどの紆余曲折の日々に散って行った人々・・・

親王攘夷と公武合体・・・胸に抱いた思想は違えど、彼らは、皆ともに、日本の明日を真剣に考えていた人々なのです。
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2015年1月25日 (日)

幕末に散った奇兵隊・第3代総監…赤禰武人の無念

 

慶応二年(1866年)1月25日、奇兵隊の第3代総監を務めた赤禰武人が、山口にて処刑されました。

・・・・・・・・・

時は幕末の文久三年(1863年)5月、攘夷(じょうい=外国を排除)の先頭を切って、関門海峡に停泊する外国船に攻撃を仕掛けた長州藩(山口県)・・・(5月10日参照>>)

その後、やがて訪れるであろう外国からの報復への対策として作られたのが、あの奇兵隊(きへいたい)です。

藩主の相談を受けた高杉晋作(たかすぎしんさく)が、
「有志の士をつのり一隊を創立し、名づけて奇兵隊といわん
 いわゆる正兵は総奉行の兵なり、これに対し奇兵とせんと…」
(奇兵隊日記)
と、つまり、藩による正規軍に対して、外国軍鑑の報復に備える攘夷のための特別な軍隊として、身分を問わず募集をかけて作ったのが奇兵隊という事です。

「わが郷土は、わが手で守る!」
と、藩内の農民や商人の士気も高かったおかげで、募集をかけた途端に志願者が殺到する、かなりの盛り上がりっぷりだったようですが、その後、正規軍の兵士たちとのイザコザ=教法寺事件(きょうほうじじけん)で、奇兵隊士らが、相手側の兵士を斬ってしまった事への責任をとる形で、初代の総監になっていた高杉は、わずか3ヶ月ほどで総督を更迭されました。

Akane600 その後、河上弥市&滝弥太郎を経て、第3代総監を継いだのが、赤禰武人(あかねたけと=赤根武人)でした。

周防国玖珂郡柱島(山口県岩国市柱島)の医師の次男として生まれた武人は、尊王攘夷派の僧=月性(げっしょう)のもとで学びますが、ほどなくして武人の並々ならぬ才能に気づいた月性の勧めによって、長州藩士浦家の家老=赤禰雅平(あかねまさへい)の養子に迎え入れられます。

この間、武人は、あの吉田松陰(よしだしょういん)松下村塾(11月5日参照>>)にも在籍・・・つまり、彼は晋作の先輩という事になりますね。

さらに、梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)にも師事しますが、ご存じのように、ここに来て、あの井伊直弼(いいなおすけ)安政の大獄が・・・

安政の大獄とは、当時、江戸幕府の大老を務めていた直弼が、天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ないままアメリカと結んだ『日米修好通商条約』(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)に反対する者たちを、逮捕投獄したり死刑にしたりと、武力で以って弾圧した一件です(10月7日参照>>)が、その安政の大獄で雲浜が逮捕された(9月14日参照>>)事によって、武人も大獄第一号の逮捕者の一人となります。

釈放後には、かの雲浜奪還の策を練ったり、高杉や久坂玄瑞(くさかげんずい)らとともに英国公使館焼き打ち事件(12月12日参照>>)に参加したり、もちろん、冒頭の外国船に攻撃=下関戦争にも参戦・・・と、武人は、まさに攘夷派の王道を歩む事になるのですが、そんなこんなの文久三年(1863年)10月に、奇兵隊の第3代総監に就任・・・

となるのですが、ここらあたりは、長州藩にも奇兵隊にも、大きな変化があった時期・・・そう、先の高杉が総監を退任する事になった教法寺事件が起こったのが、武人が総監になる2ヶ月前の文久三年(1863年)8月16日、そのわずか2日後にあの八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)です。

朝廷内での公武合体派(朝廷と幕府が協力であった中川宮(青蓮院宮)朝彦親王(2009年8月18日参照>>)によって起こされたこの政変で、朝廷内の攘夷派=三条実美(さねとみ)らが追い出され、彼らを冠に頂いていた長州藩も政治の表舞台から排除される事になってしまったのです。

「このままでは、いかん!」
「何とかせねば!」

と、長州藩士たちは水面下でイロイロ画策する事になるのですが、その相談していた場を、新撰組に襲撃されたのが、翌・元治元年(1864年)6月5日の、あの池田屋事件(6月5日参照>>)・・・

さらに翌月の7月には、もともとは長州藩の回復を願う「嘆願書」を起草して朝廷に奉上するための上洛であった長州藩の軍隊が、血気にはやってしまった結果の禁門(蛤御門)の変で、長州藩は朝敵(ちょうてき=国家の敵)となってしまいました。
(2010年7月19日来島又兵衛編参照>>)
(2011年7月19日久坂玄瑞編参照>>)

さらに、その禁門の変の直後には、先の下関戦争で攻撃を受けた国々が、その報復としてやって来た四国艦隊(イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊)による下関攻撃で、コチラの戦いにも長州は敗北・・・

・・・で、先に書かせていただいたように、そもそもの奇兵隊は、外国軍鑑による報復に備えるための特別な軍隊だったわけですから、本来なら、ここで奇兵隊の役目は終わった事になりますが、武人は、この奇兵隊を攘夷のための軍隊から民衆寄りの軍隊へと変えていく事で、この直後の解散命令を回避しようとしたと思われます。

武人が総監を務めていた頃に打ち出した『諭志(ゆじ)という、ユニークは奇兵隊の規律があります。

  • 農業の妨げをしてはならない
  • 人家の果物・鶏・犬などを奪ってはならない
  • 牛馬などに出会えば道べりによけて速やかに通行させてやる事
  • 強き敵は百万と言えど恐れず 弱き民は一人といえども恐れる事を士道の本意とする事

などなど・・・地域や民衆に密着した庶民の奇兵隊を目指すかたわら、『諸隊会議所』なる物を設けて、今後の方針は、皆の話し合い=合議制で決めよう…なんて事も・・・

しかし、一方では、この第3代の総監である武人は、藩からは低い身分の総監と見られていたようで、彼が「奇兵隊の入隊者一同を武士の身分に取り立ててもらえませんか?」との願いを出した時、藩は、その願いを聞き入れるどころか、逆に、隊士が身につける『袖印(そでじるし=戦場で敵味方を見分けるために袖につける)』を、「武士は絹で、農民や商人は木綿を使用する事」とし、身分をはっきり区別させたと言います。

もともとは身分を問わず募集をかけて、農民や商人もヤル気満々だった奇兵隊だけに、総監となった武人も、はがゆい思いだった事でしょうが、今現在の長州はそれどころではありません。

そう、先の禁門の変で朝敵となった長州には、幕府による長州征伐(第一次)が計画されていたのです。

幕府を相手に戦うのか否か?

徹底交戦を唱えるのは、山口に拠点を置く革新派(正義派)の高杉や桂小五郎(かつらこごろう=後の木戸孝允)(5月26日参照>>)など、

いやいや、さすがに幕府相手に戦いは挑めんと、とにかく謝罪して事を収めようとするのが、に拠点を置く保守派(俗論派)椋梨藤太(むくなしとうた)(5月28日参照>>)など・・・

こうして、長州は真っ二つに分かれてしまい、両者のどちらが、長州の実権を握るか?の争いになる中、禁門の変を先導した三家老を自刃させる(11月12日参照>>)事で、何とか決着をつけようとするのですが、一方では、奇兵隊の諸隊でも「交戦やむなし」の声もあがっていました。

そんな中、武人は、「今は長州藩存亡の危機で内戦をやってる場合やないやろ!」と一喝・・・

「ここは長州藩が一致団結して立ち向かうべき!僕が俗論派を説得して来る」
と言って和平交渉を提案・・・元治元年(1864年)11月、萩に向けて旅立ったのです。

ところが、その翌月の12月・・・奇兵隊のもとに、あの高杉がやって来て、「今、ここで挙兵せんとあかん!」と持ちかけて来ます。

武人の留守を預かっていた軍監の山縣狂介(後の山縣有朋)が、「赤禰が戻るまで待って下さい」と高杉を説得しますが、高杉は、「お前ら赤禰に騙されとんねん!そもそもアイツは●●(←身分が低いという意味の差別用語です)、俺は毛利家300年来の家臣やぞ!赤禰と比べんなや!」と息巻いて、武人と同じ低い身分の彼らをシラケさせますが、ご存じのように、これが功山寺の挙兵(12月6日参照>>)です。

結局、奇兵隊の中でも、わずかな者だけの賛同しか得られないまま、高杉は挙兵したわけですが、これが見事に勝利してしまった事で、長州藩内の保守派は一掃され、実権は革新派が握る事になり、そうなると、武人不在のまま奇兵隊や諸隊も、その後に続く事になるわけで・・・

逆に、そんな中で和平交渉を進めていた武人は「裏切り者」とされてしまいます。

この頃、身の危険を感じるようになった武人が母に宛て、手紙を残していますが、そこには
「僕の意見に逆らって高杉が挙兵してしまいました。
結果的に良かったとしても、それは殿様に弓引く行為であり、何より、僕は内乱を避けたかったので残念です。
今、逃げ隠れしてるのは命が惜しいからではありません。
この先の長州藩の行く末を、自分のやり方で救いたいと思っています」

と、決意のほどが書かれていたそうです。 

その言葉通り、その後の武人は、大阪に潜伏し、西郷隆盛(さいごうたかもり)らと接触して、幕府との衝突(第二次長州征伐)回避に向けての情報収集をしていたと言いますが、そんな中で、幕府から長州尋問のために派遣されて来た大目付の永井尚志(ながいなおゆき)とともに長州に戻って来た事から、今度は「幕府のスパイ」と疑われる事となった武人は、誕生の地である柱島にいたところを捕縛されるのです。

その後、1つの詰問も、1度の弁解も許されないまま、慶応二年(1866年)1月25日赤禰武人は28歳の若さで斬首され、胴体は鳥の餌食に、首は河原に晒されました。

最期に身につけていた着物の裏には
『真誠似偽 偽即似真』
「真実には偽りがあり、偽りにこそ真実がある」
との無念の8文字が書かれてあったとか・・・

中原邦平(なかはらくにへい)の目撃談によれば・・・
赤禰武人という人は、
「長身でたくましく、色白の美男子で、雄弁滔々、条理整然、一つも疑わしいところがない」
と、かなり魅力的な人物だったようです。

結果的に袂を分かった高杉晋作も、後には、
「武人の心中を洞察することができず、生命を全うさせることができなかったのは残念であった」
と、病床にて、その死を惜しんでいたと言います。

ただ、武人の後を継いだ山縣有朋が、後に総理になった時、吉田松陰などの名誉は回復されましたが、武人の名誉は回復される事なく・・・いや、むしろ、その奇兵隊の記録から、武人の事が末梢されていたらしい・・・

現在、山口県下関市にある東行庵(とうぎょうあん)には高杉晋作以下、多くの奇兵隊隊士のお墓がありますが、そんな訳で、ここに、武人のお墓が建立されたのは、彼が亡くなってから100年後の平成七年(1995年)の事なのだとか・・・

武人と有朋の間に、どのような確執的な物があったのか?は、それこそ、ご本人のみぞ知るところでしょうが、ひょっとしたら、すでに下関戦争の時点で、その存続が危ぶまれていた奇兵隊を引き継いだ有朋は、武人をスケープゴードとして葬り去る事で方針転換をアピールし、奇兵隊の存続を模索し、最後までそれを貫いたという事なのかも知れません。

ご存じのように、武人亡き後は、その有朋主導のもと、対・幕府ための軍隊として、鳥羽伏見から戊辰戦争へと進んで行く奇兵隊・・・しかし、結局は維新後に悲しい末路となってしまうのですが(11月27日参照>>) 、紆余曲折の中、多くの失敗、多くの犠牲があってこそ、現在の日本がある事を忘れてはなりませんね。
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2014年6月 9日 (月)

幕末ニュース~大阪城の堀に恐竜がいた?

慶応二年(1866年)6月9日、 大阪城の堀から恐竜が発見されました!
残念ながら、すでに死んでいましたが・・・

・・・・・・・・・

と言っても、その記録に描かれた絵を見て、後世の私たちが、勝手に恐竜と言ってるだけなんですけどね(*´v゚*)ゞ

ただし、京都府立総合資料館に収蔵されている幕末期の記録『人のうわさ』という文書と、もう一つ『幕末風聞書留』(大國家文書)という二つの文書に、まったく同じ日付で同じ事が記載されていますので、文字通り「人のウワサ」とは言え、何かしらの生物の死体が、幕末の動乱真っただ中の大阪城の堀から発見された事は、おそらく本当の事なんじゃないか?と・・・

なんせ、この『人のうわさ』という文献・・・京都で代々続く旧家から発見されており、おそらく、当時京都に住んでいた久兵衛という町人の筆による物で、安政五年(1858年)から慶応四年(1868年)までの11年間に渡り、自ら見聞きした流行り歌や、巷の高札・張り紙の記録とともに、桜田門外の変(3月3日参照>>)長州征伐(5月22日参照>>)などの重要事件も、ちゃんと書き留めている物なのですから、

それこそ、一般町人が聞き及ぶ「ウワサ」がソースとは言え、その話が、まことしやかに囁かれていた事は、おそらく事実なのでしょう

Hitonouwasa400 ・・・で、その『人のうわさ』に描かれている、大阪城の堀から発見された生物のイラストがコチラ→

この絵・・・
ホラ!太古の時代にこの地球を闊歩していた恐竜の事を知ってる現代の私たちが見ると、つい「恐竜」と言ってしまうような、絵でしょ?
 .

まさに「なんとかザウルス」の部類ですやん!

挿絵の横にある説明文には
「慶応二寅年六月九日朝明方大坂 御城内御堀より如此之もの出ル、早々 御城代江申上候之事
身丈 七尺壱寸
(約2.15m)
尾  四尺八寸(約1.45m)
廻り 六尺九寸(約2.09m)
足  三尺二寸(約0.97m)
手  二尺七寸(約82cm)
口  一尺六寸(約48.5cm)
目  三寸五分(約10.6cm)
とあります。

思ってた以上にデカイ!!
目が10cmは、ちと怖いかも

そして、もう一つの『幕末風聞書留』コチラ↓
Bakumatufuubunn600

こちらにも、
「但し死テ上ル  城代役所
一手 弐尺七寸
(約82cm)
一身丈七尺壱寸(約2.15m)
一尾丈四尺八寸(約1.45m)
一廻り六尺九寸(約2.09m)
一足 三尺弐寸(約0.97m)
一口 壱尺弐寸(約36.3cm)
一眼 三寸五分(約10.6cm)
目方弐拾五貫目有(約93.7kg)
慶応二寅六月
九日朝五ツ時半時
御城内南御堀より 上ル、早速
御上様へ御入覧之事」

と、発見された時間や場所まで、さらにくわしい解説が書かれています。

てか・・・100kg近くあったん??w(゚o゚)w
しかも、最後の
「御上様へ御入覧之事」って・・・

オイオイ、あの徳川家茂(いえもち)さん(7月20日参照>>)が見たのかえ?
このUMAを・・・

日付からして、すでに体調を崩してはった感あるけど、大丈夫やったんかいな?

とまぁ、記録を見てきましたが、おそらく、冒頭に書かせていただいた通り、恐竜では無い何かしらの生物の死体・・・

なんせ、つい何年か前にも「すわ!未確認動物発見か?」と言われたのが、すでに腐敗が始まっていたクジラだった・・・てな事が、この平成の世にもあるわけですから・・・

とは言え、太古の昔からひっそりと生きてきた恐竜が・・・なんて言うロマンも、やっぱり捨て難い・・・
なんとかザウルス=(大阪城なので)オッシーであってほしいなぁ~

もちろん、そうなると、日本最古の、あの鶴橋(つるのはし=猪甘津橋)(6月18日参照>>)に江戸時代に出没したという怪物との関係も気になるわけで・・・

いずれにしても、たとえ恐竜じゃなくとも、その意外な大きさは興味をそそりますね~

そんな大きな生物が、それまで1度も姿を見せずに、ずっと大阪城の堀に住んでいたのでしょうか?・・・

もしかして、太閤さんの大坂城を埋められたはらいせに、豊臣の生き残りが刺客として放った凶暴なカミツキガメが250年間の太平の世を生き抜いていたとか・・・

天王寺のドロ亀が谷町筋を北上して住みつき、お堀の主となったとか・・・

いやぁ、妄想はつきません(*´v゚*)ゞ
 .

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2013年11月15日 (金)

討幕の先駆けとなって散った中山忠光

 

元治元年(1864年)11月15日、明治天皇の叔父にあたる公卿・中山忠光が下関にて暗殺されました。

・・・・・・・・・・

まさに幕末の動乱真っただ中の文久三年(1863年)・・・

上洛した第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が、「来たる5月10日を以って攘夷(外国を排除)を決行する」という約束を朝廷と交わし、その攘夷決行の日に関門海峡を通る外国船に向かって砲撃を開始して(下関戦争=5月10日参照>>)、攘夷の最前線となった長州藩・・・

続く8月13日には、三条実美(さねとみ)ら攘夷派の公卿たちから、時の天皇・孝明天皇自らが大和(奈良)にある初代・神武天皇の陵に参拝し、攘夷親征(天皇自らが戦争する事)を誓うために大和に行幸されるとの発表がありました。

その発表を受けて、天皇の大和行幸の先駆けとして大和に乗り込もうと結成されたのが天誅組(てんちゅうぐみ)でした。

Nakayamatadamitu600a 中山忠光(ただみつ)は、この天誅組のリーダーとなった公卿・・・

彼は、権大納言中山忠能(ただやす)の七男で、孝明天皇の寵愛を受けて明治天皇を産んだ中山慶子(よしこ)の同母弟・・・長兄には、光格天皇「尊号一件(そんごういっけん)(7月6日参照>>)に関わった中山愛親(なるちか)がいるという、まさに、天皇家に近い公家だったわけです。

そんな彼が天誅組のリーダー・・・と聞くと、なんとなく、血気盛んな尊攘派に担がれたお飾りお公家さんを想像してしまいますが、どうしてどうして、若い頃から久留米の志士・真木和泉守保臣(やすおみ)らと交流し、かの関戦争の時には、密かに冠位を返上して、自ら砲撃に加わっていたというくらい、バリバリの尊王攘夷派でイケイケのお公家さんだったのです。

・・・って「若い頃から…」と書きましたが、実は、この天誅組のリーダーになった時点で、まだ19歳・・・自ら公家装束の上に甲冑を着て先頭を行くような血気盛んなお年ごろだったのですね。

かくして、孝明天皇の大和行幸の一報を聞いた忠光は、同志の吉村寅太郎(虎太郎・とらたろう)らとともに、その先駆けとなって挙兵し、行幸発表の4日後の8月17日に、大和国五条代官所を襲撃して代官・鈴木源内以下5名を殺害し、その勢いのまま桜井寺に本陣を置いて、代官支配の土地を天皇直轄の領地とする事を発表・・・こうして、まさに討幕の最前線となったわけですが・・・

ところが、その翌日・・・有名な八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)が起こります。

これは、朝廷内で尊王攘夷派に反対する中川宮(青蓮院宮)朝彦親王(2009年8月18日参照>>)を中心とする公武合体派の公家たちが、会津(福島県)薩摩(鹿児島県)藩と組んで、攘夷派を中央政界から一掃するクーデターです。

武装した薩摩・会津・淀藩の兵によって、その日の朝に御所の門が閉ざされ、攘夷派の中心だった長州藩は御所に入れず・・・

その翌日には、長州藩の京都退去と尊皇攘夷派の公卿の洛外退去が命じられた事で、長州藩はやむなく京都を去り、三条実美ら7人の尊皇攘夷派公卿も、その長州藩を頼って京の都を去る事になってしまいます。

ここで孤立無援となってしまったのが天誅組です。

とは言え、もともと先駆けとなったのは自らの意志であって、長州や三条実美らと連携していたワケでもない彼ら・・・その三条実美だって命の危険を感じながらの都落ちでしたから、天誅組は天誅組自身で、自ら撤退をするしかありませんでした。

幕府からの討伐軍が派遣される中、なんとか、十津川郷へと逃亡し、そこで集めた兵=1000人ばかりで、対立する大和・高取城を攻めますが大敗・・・寅太郎は重症を負います。

その後、なんとか吉野郡鷲家口へと逃れるも、9月に入って、忠光に逆賊の詔(天皇の敵である事を天皇自らが発表)が正式に発せられ、さらに壊滅状態となる中、文久三年(1863年)9月27日、とうとう潜伏先を発見され、「もはや、これまで」と、自刃を決意した寅太郎が、忠光だけを逃亡させて自らは命を絶ちました(天誅組の変=9月27日参照>>)

こうして、何とか脱出して大坂へと逃れ、その後、海路で長州へと向かった忠光・・・

以前、あの下関戦争に参戦していた事もあって、逃げて来た忠光を保護する事になった長州藩は、彼の身柄を支藩の長府藩に預けました。

はじめは、延行村(のぶゆきむら=下関市川中)の小さな家に住まい、警固の武士もついたお公家さんらしい環境だったと言いますが、やがて、その生活が一変します。

そう、翌・元治元年(1864年)7月19日の禁門(蛤御門)の変(2010年7月19日参照>>)です。

この争乱で朝敵(ちょうてき=国家の敵)となって窮地に立たされた長州藩は、藩の存続のために、藩内の攘夷派を排除して幕府への恭順姿勢をとる事になり、
(井上聞多・襲撃:9月25日参照>>)
(周布政之助が自殺:9月26日参照>>)

そうなると、すでに「逆賊の詔」が出ている忠光を保護している事も問題となって来ます。

やむなく、その所在が知れぬよう、長府藩によって、日本海側の辺鄙な村への移転をさせられる忠光・・・

そんなこんなの11月12日・・・長州藩は禁門の変に関与した福原越後(ふくはらえちご)(2009年11月12日参照>>)益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)国司親相(くにしちかすけ・信濃)(2011年11月12日参照>>)、の三家老の首を差し出す事で幕府からの攻撃=第一次長州征伐を回避しようとしました。

この時、各所を転々としたあげく、最終的に田耕村(たすきむら=下関市豊浦町)という場所に落ちついていた忠光でしたが、それからまもなくの元治元年(1864年)11月15日の深夜、中山忠光は20歳という若さでこの世を去ったのです。

長府藩の公式発表では、「酒に溺れた末の病死」とされましたが、その後の関係者の証言などから、今では「暗殺であった」事が明らかとなっています。

命令を受けた田耕村の庄屋の山田幸八なる人物が、「ここも危なくなって来たんで、次の場所へ移転します」と言って忠光を外に連れ出した後、途中の山道で待ち構えていた刺客=5名が囲んで絞殺・・・

その後、上からの指令通りに、長府城下へと遺体を運ぼうとしますが、綾羅木(あやらぎ=下関市川中)の海岸で夜が明けてしまったので、慌てて砂浜に遺体を埋めて立ち去ったのだそうです。

現在は、その場所に中山神社が建立され、その境内に、彼のお墓が静かにたたずんでいるのだとか・・・

♪思ひきや 野田の案山子(かかし)の 梓弓(あずさゆみ)
 引きも放たで 朽ちはつるとは ♪
「この弓を引く事無く終わってしまうなんて、思てもみんかったわ」

彼が詠んだ歌には、案山子のままで何もできずに散って行く、そのくやしさがひしひしと感じられます。

そう、この後、保守派が牛耳る事になった長州藩を、再び攘夷派に戻すべく、あの高杉晋作(たかすぎしんさく)奇兵隊を率いて挙兵するのは、彼の死から、わずか1ヶ月後の事(12月16日参照>>)・・・まことに惜しまれる最期でした。

ちなみに・・・余談ではありますが、
その後、保守派を一掃した(5月28日参照>>)高杉らによって、城下で軟禁状態にあった恩地登美(おんちとみ・富子)なる女性が保護されますが、彼女は、忠光の侍女で、忠光が最後の住みかを出るまで一緒にいた女性・・・後に忠光暗殺の証言をした一人でもある彼女は、実は、すでに忠光の子供を身ごもっていました。

ほどなく産まれた女の子は南加(なか・仲子)と名づけられ、時代が変わるとともに成長し、やがて維新が成った後、嵯峨公勝(さがきんとう)という侯爵(こうしゃく)と結婚し、その二人の間に生まれた実勝(さねとう)の娘さんが、後に、愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)と結婚する嵯峨浩(さがひろ)さん・・・つまり、浩さんは忠光の曾孫にあたるのだとか・・・。

わずか20年ながら、血気盛んに波乱の人生を送った忠光のDNAが、時を越えて、再び波乱の大陸へと飛ぶ・・・

流転の日々を送りながらも、心を強く持ち続けた浩さんの生き方は、この曽祖父の血を受け継いでいるからなのかも知れませんね。
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