2009年12月 3日 (木)

長州男児・前原一誠~萩の乱の終焉

 

明治九年(1876年)12月3日、先の10月28日に勃発した萩の乱の首謀者として逮捕されていた前原一誠・以下、幹部・7名が斬罪に処せられました

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幕末の戊辰戦争を戦い抜いて、維新の立役者となった薩長土肥(さっちょうとひ・薩摩=鹿児島県・長州=山口県・土佐=高知県・肥前=佐賀県)の武士たち・・・

しかし、彼らが待ち望んだ明治新政府は、士族と名を変えた武士たちの特権を次々と奪っていきます。

そんな中、明治六年の政変(10月24日参照>>)で政府内の中心人物であった西郷隆盛板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣(そえじまたねおみ)らが辞職して、士族たちの不満が爆発するのです。

政変から4ヶ月経った明治七年(1874年)2月、すでに不満を抑えきれなくなった士族たちに担がれて江藤新平が佐賀の乱を決起します(2月16日参照>>)

反乱軍は、一旦は佐賀城を占拠するも2ヶ月で鎮圧され、政府は、乱の関係者に徹底した処分を下す事で、不平士族を抑えようとしますが、明治九年(1876年)3月には廃刀令が出され、続いて8月に出された家禄(武士の給料)の撤廃によって、その不満は再び頂点へと達します。

これは、国民皆兵を理念とする新政府が徴兵制を施行したため、それまでの武士の最も重要な仕事であった軍事が奪われる事になったわけで、そうなれば、政治にかかわる一部の者を除いた残りの士族は、皆、無職となってしまい、当然ですが、そのまま給料を貰い続けるわけにはいかなくなるのです。

しかし、困窮にあえぐ彼らではありましたが、それはあくまできっかけであって、その根底にあるのは、政治の中核にいる一部の者だけが公金を横領して私腹を肥やしたり、立場を利用して贅沢三昧をし、果ては、その罪でさえ特権でうやむやにしてしまう事が許せなかったのです。

かくして明治九年(1876年)10月24日の神風連の乱(10月24日参照>>)を皮切りに、水面下で連携を約束していた各地の士族が、次々と叛乱を起すのです。

10月27日・秋月の乱(10月27日参照>>)
10月28日・萩の乱(10月28日参照>>)
10月29日・思案橋事件(10月29日参照>>)・・・

この中の萩の乱の首謀者であった前原一誠(いっせい)は、10月30日に山口県令の関口隆吉(たかよし)を急襲し、萩での市街戦に突入しますが、途中で戦線を離脱した後の11月5日、わずかの人数で出雲にいたところを逮捕されてしまいます。

実は、彼は、上京して「天皇をお諌めするつもりであった」のです。

彼らの叛乱の目的は、新政府を倒す事ではなく、政府の中にいる一部の悪徳政治家を排除して、腐敗した政治を正しい物にする事であり、その事を直接天皇に伝えたいがための戦線離脱であったのです。

そんな前原を逮捕したのは島根県令の佐藤信寛・・・彼も、新政府の一員でありながらも、中央政府の一部の政治家の贅沢三昧には眉をひそめていた1人だったのかも知れません。

佐藤は、前原に
「君らを東京へ護送して、天皇に訴えるチャンスを与えたい・・・僕に任しといて!」
と約束します。

そもそも、萩城下の下級武士の家に生まれた前原は、その貧しさゆえ、魚を捕ったり畑を耕しながら家計を支える少年時代を過ごしてきました。

以前、吉田松陰松下村塾(しょうかそんじゅく)のページ(11月5日参照>>)でも書かせていただきましたが、あまりの貧しさにわずか10日間しか塾に通えなかったほどです。

しかし、そのわずか10日間の松下村塾での体験が前原に大きな変化をもたらし、兵学や砲術を学ぶきっかけともなったのです。

その後、高杉晋作功山寺の挙兵(12月16日参照>>)に参加した前原は、四境戦争(第二次長州征伐・7月27日参照>>)では、病身の高杉に代わって小倉での指揮をとるまでになっていたと言います。

戊辰戦争では会津征討に活躍し、その功績で維新後は越後(新潟県)判事となり、さらに参議となる前原でしたが、大村益次郎の後を受けて兵部大輔(ひょうぶたいふ)になってからは、軍隊には士族を登用すべきと主張する前原に対して、国民皆兵を主張する木戸孝允大久保利通らとの間で大きな溝ができ、結局は辞職して萩に戻っていたところを、不平士族たちに担ぎ出された格好となりました。

かくして、決起した萩の乱も、志半ばで逮捕されてしまった前原は、すでに自身の死は覚悟していたものの、「その真意を天皇に訴える」という事については、「任しとけ!」と約束してくれた佐藤の言葉に一縷の望みを託していた事でしょう。

しかし、その淡い期待は、すぐに裏切られます。

大量の逮捕者を東京に護送して裁判を行う事が難しいと判断した中央政府は、彼らを萩に護送して、そこで裁判を行う決定をしたのです。

もちろん、佐藤は、それに反対し、一旦は、前原の引渡しを拒みますが、もはや、一県令が中央の決定にさからう事はできませんでした。

彼らの審議は1週間に渡って行われ、明治九年(1876年)12月3日前原以下・幹部7名+1名を斬刑に、48名を懲役刑に、14名を除族+放免に、残り388名を放免するとの判決が下り、その日のうちに刑が執行されたのです。

前原一誠・・・享年・43歳・・・

この前日・・・あの日、前原に急襲され、命からがら役所から逃げ出した関口が、決別の酒を酌み交わそうと、獄中の前原を訪ねた際、彼は・・・
「このもてなしは、東京の名妓にも勝るな~」
と、大いに喜んだと言います。

そして、涙ながらに別れを惜しむ関口に対して
「ほな、明日、一緒に死んでくれるか?」
と言い、
「今は、まだ、ちょっと・・・」
と口ごもる関口を見て、彼は大いに笑ったのだとか・・・。

そこには、立場上敵味方となり、襲撃した側された側に分かれた二人と言えど、個人的怨みなどどこにもなく、ともに郷里の明日を憂う、戦国武将にも似た友情があったのかも知れません。

時代は、この後、最終かつ最大の士族の叛乱・西南戦争へと向かう事になります(1月30日参照>>)
 

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2009年12月 2日 (水)

天狗党・雪の行軍~運命の新保入り

 

元治元年(1864年)12月2日、美濃萎靡宿に滞在中の天狗党の総大将・武田耕雲斎に、西郷隆盛の命を受けた中村半次郎が面会しました。

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この年の3月、藤田小四郎の呼びかけにより、尊王攘夷の魁(さきげけ)となるべく蜂起した天狗党(3月27日参照>>)・・・

神君・家康公のお膝元・日光東照宮にて声明を発表した後(4月10日参照>>)
下妻夜襲など、関東各地で奮戦するも(7月9日参照>>)
藩内の保守派に水戸城を占領された彼らは、新たな総大将に武田耕雲斎(こううんさい)を迎え、水戸藩の現状を訴えるべく、亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)のいる京都へと旅立つ事にします(10月25日参照>>)

行軍ルート図はコチラ>>(別窓で開きます)

11月16日の下仁田戦争(11月1日参照>>)
11月20日の和田峠の戦いを経て(11月20日参照>>)

旅立ちから、ちょうど1ヶ月の12月1日、美濃国(岐阜県)揖斐(いび・岐阜県揖斐郡)宿へとたどりつきました。

そして、翌日・元治元年(1864年)12月2日、そんな彼らの元に、薩摩(鹿児島県)西郷隆盛の命を受けた中村半次郎(後の桐野利秋)面会に訪れたのです。

そうです。
上記のルート図をご覧いただくとお解かりの通り、揖斐宿から、一山越えた先には琵琶湖が広がっていますから、このまま西へと進み、琵琶湖の東岸を行けば、数日で京都に到着します。

「わが薩摩が、全面的に協力しますので、このまま、まっすぐ京都へ出て下さい」
半次郎は、西郷からの伝言を伝えに来たのです。

しかし、しばしの論議の末、耕雲斎は、その薩摩の協力を丁重に断り越前(福井県)から近江(滋賀県)に向かい、琵琶湖の北へと抜けるルートを選択したのです。

それは、「我らは戦うために西へ向かっているのではない」という、彼ら天狗党のポリシーから生まれた判断でした。

琵琶湖の東岸を通るという事は・・・当然、彦根という場所を通る事になります。

4年前の万延元年(1860年)3月3日、安政の大獄を断行した、時の大老・井伊直弼(なおすけ)桜田門外の変で暗殺したのは・・・首を取った者こそ薩摩の脱藩浪士・有村兼清(かねきよ)でしたが、その他のメンバーは水戸の脱藩浪士たちでした(3月3日参照>>)

天狗党は、まさに、彼らの遺志を継いだ集団・・・そんな彼らが、直弼のお膝元=彦根を通過するなど、摩擦を呼びにいくようなものです。

天狗党の今回の西行は、この挙兵自体が、弱腰で開国してしまった幕府を再び尊王攘夷の姿勢へと方向転換させる目的のやむにやまれぬ挙兵であった事、また、そのために起きてしまった水戸藩の内紛の状況を慶喜に説明したいがための行軍です。

けして、幕府と戦うために西に向かっているわけではありません。

それを証明するためにも、無用な争いは避けねばなりません。

即日、出発した天狗党は、12挺の大砲、9挺の五十目筒、そのうえ馬まで連れて、翌・3日には長嶺へ、続いて、すでに1m以上の積雪に見舞われていた越前との国境・烏帽子(えぼし)越えを決行します。

4日に峠を越えた天狗党は、6日に木本(福井県大野市)を過ぎ、9日には今庄宿(福井県南条郡)に到着し、雪道の行軍で乱れた隊を整えますが、常陸(茨城県)大子(だいご)を出発した時の1000名は、度重なる戦乱と険しい行軍のため、約800名ほどになっていました。

その後、2mの積雪となっている木ノ芽峠を越えて11日には新保宿(福井県敦賀市)に到着しました。

ここで、南2km先の葉原(はばら)に、金沢藩の兵が陣を敷いている事を知った耕雲斎は、「この行軍が慶喜に嘆願するための京都行きであり、沿道の諸藩と戦う意志はないので、藩内を通行する許可をいただきたいとの書状をたずさえて、金沢藩士・永原甚七郎(ながはらじんしちろう)らと面会します。

立場上、尊王攘夷派と幕府(保守)派に分かれているとは言え、どちらも、国の行く末を憂う忠義なる武士同士・・・したためられた書面からあふれ出る思い、藩の内紛と過酷な峠越えでボロボロになった姿、それでいて武士の誇りを失う事のない毅然たる立ち居振る舞い・・・

甚七郎らは、彼らの姿に深く感銘を覚えます。

しかし、甚七郎は、そんな彼らに残酷な知らせを報告しなければなりませんでした。

それは、彼らが最後のの頼みとしている慶喜が、天狗党征討軍の総督として、すでに琵琶湖の北側の海津(滋賀県マキノ町)まで来て、本営を設置しているというものでした。

愕然とする天狗党隊士たち・・・

この日まで、主君と疑った事のなかった人物が、突然、敵の・・・それも総大将となっている・・・

この悲しい現実は、同じ武士として甚七郎らの涙も誘い、甚七郎は、ありったけの力を活用して、慶喜と天狗党の間を取り持つ事を、耕雲斎に約束したのです。

その言葉を聞いた耕雲斎は、慶喜宛ての嘆願書と始末書を書き、甚七郎に託しました。

そして、まもなく・・・耕雲斎の満願の思いがこもった書状を手に、一路、海津へと、降りしきる雪の中をひた走る甚七郎の姿がありました。

天狗党の運命やいかに・・・と、この続きのお話は、天狗党の今後を決める軍儀も含め、耕雲斎が2度目の書状をしたためる12月17日に書かせていただきたいと思います。
 

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2009年11月20日 (金)

尊王攘夷を掲げて西行の天狗党~和田峠の戦い

 

元治元年(1864年)11月20日、西行する天狗党と、それを追討する高島・松本藩連合軍和田峠で衝突しました。

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この年の3月に、尊王攘夷を掲げて決起した天狗党・・・これまでの経緯は、

・・・と、関東各地で奮戦するも、幕府からは「天狗党・追討令」が出され、地元の水戸藩内は保守派に牛耳られ、やむなく、彼らは、自らの思いを、今は亡き先代藩主・徳川斉昭(なりあき)の息子・徳川慶喜(よしのぶ)に伝えるべく、慶喜のいる京都を目指して出発します(10月25日参照>>)

ルート図はコチラ>>(別窓で開きます)

途中、その領地をすんなりと通してくれる藩もあれば、当然の事ながら、幕府の命に従って彼らの行く手を阻む藩もあります。

最初のぶつかり合いは、11月16日・・・下仁田戦争(11月1日参照>>)と呼ばれるその戦いで、2時間の激戦のうえ、高崎藩に勝利した天狗党は、着物には血しぶき飛びまくり、刀や槍も抜き身のまま、さらに西行を続けます。

翌日到着した信州(長野県)への玄関口・西牧(さいもく・藤井)の関所・・・すでに、前日の「天狗党・大勝」のニュースを聞いていた関所の番人は逃走し、もぬけのからの関所を悠々と通過します。

ほどなく、見えてくる内山峠を越えれば、もう、信州・・・通過する宿場町では、最初はそのいでたちを見て、身を隠していた人々も、彼らが一般市民には危害を加えない事を聞くと、こぞって沿道に出て、隊列を見物するようになっていました。

そして、佐久(さく)に入り、中山道和田宿で一泊した翌日、和田峠を越えて樋橋(とよはし・諏訪郡下諏訪町)にさしかかった所で、高島・松本藩の連合軍の迎撃が待っていました。

元治元年(1864年)11月20日和田峠の戦いの勃発です。

連合軍=2000、天狗党=1000・・・
はじめ、藤田小四郎率いる150人が、正面からの突破をしようと、猛攻撃をかけますが、2度3度と押し戻され、なかなか前進できません。

天狗党・危うしか?・・・と、思いきや、これが、軍師・山国兵部(やまくにひょうぶ)の作戦!

小四郎らが正面衝突してる間に、背後と側面の山に奇襲隊200人を潜ませたのです。

相手に悟られぬよう、激しく急な険しい山をよじ登るという、意表をついた作戦です。

そして、ころあいを見計らって、山上から一斉に砲撃を開始・・・まさかと思った方向からの攻撃に、連合軍が慌てふためいたところで、総大将・武田耕雲斎が太鼓を打ち鳴らします。

その太鼓を合図に、全軍が突入!・・・連合軍は総崩れとなりました。

この時、逃走を計る高島・松本藩によって樋橋の宿場町に火が放たれましたが、天狗党の隊士らが力を合わせて消火にあたり、町衆の心の拠り所となっていたお地蔵様が安置されている地蔵堂が焼かれずにすんだという事で、沿道での彼らの評判は、さらに高まります。

ここから、南に下った飯田では、尊王攘夷の気質も相まって、3000両もの軍資金を手配してくれるとのうれしい約束も交わされます。

ただ、やはり幕府の追討命令は執拗に発令され続け、困った藩の中には、彼らが通り過ぎたあとに、ポーズだけの大砲を打ち鳴らしてごまかしたりしたところもあったのだとか・・・。

やがて、11月24日、天狗党は駒場宿へと到着します。

ここは、伊那地方でその名を馳せた尊王攘夷の志士・松尾多勢子(たせこ)の地元・・・京都で活動中に幕府から追われ、長州(山口県)へと逃れた後、この頃は、密かに故郷に戻ってはいた多勢子でしたが、さすがに、追われる身の彼女との面会は叶いませんでした

しかし、彼女の息子・と会う事ができた小四郎らは、多勢子からの伝言を受け取ります。

それによれば、
「このまま南に進めば尾張藩の領地・・・御三家でもあり大藩でもある尾張藩との交戦は避けたほうが良いので、この先は美濃(岐阜県)へと進むべし」
との事・・・

早速、軍儀を開いて方向転換を決定した天狗党は、翌・25日、美濃の玄関口・清内路(せいないじ・長野県下伊那郡)の関所を通過します。

「天狗党はこのまま南へ下るもの」と思い込んでいた関所の役人は、慌てて何もできず、天狗党をそのまま通過させてしまいます。

さらに進む天狗党は、やがて木曽路に入り、妻籠(つまご)馬籠(まごめ)に泊まった後、29日には木曽川を渡りました。

沿道の諸藩は、衝突を避けて撤退する藩、軍資金を渡して「城下の通過を避けてくれ」と頼み込む藩・・・と、その動向も様々な中、あの太子(たいし)を旅たってちょうど1ヶ月の12月1日、彼らは、揖斐(いび・岐阜県揖斐郡)宿へと到着しました。

このまま西へと向かえば、もう数日で、いよいよ京都です。

・・・と、行きたいところではありますが、ここで、耕雲斎は一つの決断をし、彼らの西行は新たな展開に・・・

思わせぶりにひっぱるようで恐縮ですが、やはり、そのお話は、決断を迫られる12月2日のブログでどうぞ>>m(_ _)m
 

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2009年11月12日 (木)

長州を守るため~福原越後の政治責任

 

元治元年(1864年)11月12日、長州藩・家老の福原越後が岩国の龍護寺にて自刃しました。

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福原越後(ふくはらえちご)は、周防(山口県)・徳山藩主・毛利広鎮(ひろしげ)の六男として文化十二年(1815年)に生まれました。

実名を元僴(もとたけ)と言いますが、越後の呼び名が一般的なので、今日は越後さんで通させていただきます。

六男なので家督を継げない越後は、長州藩士・佐世親長(させちかなが)の養子となり、嘉永四年(1851年)には長州藩の家老に昇進します。

しかし、佐世家が家老を継ぐ家柄ではなかったため、その後、藩の命令で、家老職の家柄である福原家を継承する事となり福原姓を名乗るようになります。

寡黙で温厚でありながら、決断は鋭く采配は見事、主君に忠実な名家老・・・彼の評判に、悪いところはいっさい見当たりません。

しかし、そんな越後が、「不忠・不義」と罵られ、最終的には藩主の命令で切腹して果てる・・・そんな悲しい運命をたどります。

そもそもは、幕末の動乱の中、尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を中心に外国を排除する)の先頭を走っていた長州藩・・・

それが、文久三年(1863年)朝廷内での公武合体(こうぶがったい・天皇と幕府の協力)派であった中川宮(青蓮院宮)朝彦親王が、薩摩と会津の協力を得て、尊王攘夷派を朝廷から追い出すクーデターを決行したのです。

八月十八日の政変です(8月18日参照>>)

薩摩と会津の兵士によって封鎖された門から御所の中に入れない状態となった長州藩は、朝廷内の尊王攘夷派だった三条実美(さねとみ)らをともなって郷里へと、一旦、引き下がります。

しかし、翌年の池田屋騒動(6月5日参照>>)で、会津藩預かりの新撰組によって、何名かの藩士殺害された事をきっかけに、長州藩の積極派が中央での地位を挽回すべく、大軍を率いて京都に押し寄せたのです。

この時、御所の蛤御門(はまぐりごもん・禁門)で最も激しい交戦があった事から、これを蛤御門(禁門)の変と言います。

この蛤御門の変の中心人物が、益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)国司親相(くにしちかすけ・信濃)、そして、今回の越後という3人の家老だったわけです。

とは言え、実際には、藩主・毛利敬親(たかちか・慶親)の命令であって、彼ら3人の家老は、それに従ったまで・・・交戦後の長州藩の陣地からは、藩主の刻印の押された軍令状が発見されているのですから、そこのところは疑う余地もないでしょう。

・・・で、ご存知のように、この蛤御門の変では、長州は手痛い敗北を喰らってしまう(10月21日・幕末の十七烈士を参照>>)わけですが、今回主役の越後さんは、この時、伏見の陣にて指揮を取っていて、その伏見で銃弾を受け、結局、御所へは行く事なく、戦線を離脱しています。

しかし、最も激戦となった蛤御門で、長州の放った銃弾が御所に命中した事に激怒した時の天皇・孝明天皇の態度で、事は、長州が思い描いていた以上の大ごとへと展開してしまいます。

勝つか負けるか・・・そのへんの判断を長州側がどこまで見通していたかどうかはともかく、少なくとも、この大軍を率いて京都を奪回しようという行為は、尊王攘夷のトップとしての行動・・・つまり、天皇のためにやってるわけです。

ところが、その天皇が激怒して、幕府に長州討伐の勅命(ちょくめい・天皇の命令)を出してしまうのです。

天皇のためと思ってやった行動で朝敵となってしまった長州・・・。

一方、勅命を受けた幕府は、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)を総督に、越前(福井県)や薩摩など15万の兵を広島に集結させます・・・これが、第一次長州征伐です。

この出来事で、長州藩内の勢力図も大きく変わります。

それまでも、下関戦争(8月8日参照>>)の関係で分裂気味だった藩内は、この一件で保守派が牛耳る事になり、とにかく長州征伐を回避するために、恭順な姿勢をとる事になったのです。

その謝罪のために行われたのが、3人の家老の首を差し出す事でした。

彼ら、3人の家老が藩主に背いて勝手な行動をとって事件を起したので、彼らを処分しました・・・「だから許してね」って事です。

だからって、
「藩主ズルイ!」
・・・とは、言わないであげて下さい。

これは、藩主個人の意向ではなく、長州藩全体での決定・・・彼らは、もし、これで事が収まらなかったら、藩主はもちろん、その世継ぎまで犠牲にする覚悟で、朝廷と幕府への謝罪に徹したのです。

藩の存続のため、その犠牲となってしまった越後・・・切腹の直前には、無言のまま静かに一筋の涙を流したと言います。

元治元年(1864年)11月12日福原越後、切腹・・・享年・50歳でした。

彼らの死を以って、第一次長州征伐が回避された事がせめてもの救いかもしれませんが、誇り高き血筋に生まれた越後にとって、不忠の汚名を着なけらばならなかった事は、何より屈辱であった事でしょう。

そんな保守派に牛耳られた長州藩を大転換させるのは、高杉晋作のクーデター・・・越後の死から、わずか1ヶ月後の事でした(12月16日:高杉晋作、功山寺で挙兵を参照>>)
 

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2009年11月 5日 (木)

熱血先生・吉田松陰~松下村塾の教育方針

 

安政四年(1857年)11月5日、吉田松陰が長州藩の許可を得て、萩に松下村塾を開講しました。

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吉田松陰(よしだしょういん)は、文政十三年(1830年)に長州藩士・杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として生まれ、5歳の時に、山鹿流兵学の師範である吉田大助の養子となりますが、翌年に大助が亡くなったため、叔父である玉木文之進が開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)にて、引き続き山鹿流の兵学を学びます。

その後、青年期には、諸国を遍歴して見聞を広め、江戸では佐久間象山(さくましょうざん)(7月11日参照>>)の師事を受けました。

やがて、嘉永六年(1853年)、ペリーが浦賀に来航した時(6月3日参照>>)には、師の象山とともに黒船を視察し、西洋の最新文明に大いに興味を持ちますが、翌年、ペリーの再来航の時に、艦隊に乗って密航しようとして失敗・・・国元の野山獄に収容されました。

獄中では、囚人や看守相手に、互いに得意分野を教えあう勉強サークルを立ち上げ、後の熱血指導の片鱗を垣間見せています(12月26日参照>>)

安政二年(1855年)には許されて出所するも、しばらく幽閉状態が続いていましたが、安政四年(1857年)11月5日、杉家の敷地内にあった小屋を改造して、叔父・文之進の松下村塾の名を引き継ぐ、松陰による松下村塾を開講したのです。

幕府が、勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を得ずに日米修好条約を締結し、開国に踏み切った事に反対していた松陰が、その後、老中の暗殺をくわだてたために安政の大獄(10月7日参照>>)の粛清にひっかかり、再び投獄されるのが安政五年(1858年)の12月ですから、松下村塾で松陰が教鞭をとった期間が、いかに、わずかであるのかがわかります。

しかし、その松下村塾から多くの優秀な人材が輩出されるのはご存知の通り・・・翌・安政六年(1859年)に処刑され、わずか30歳でこの世を去る松陰(10月27日参照>>)

考えてみれば、この松陰という人の30歳での死は、完全に志半ば・・・もし、この方の生涯に松下村塾で教鞭をとるという出来事がなかったら、これほどの有名人として歴史に名を残す事はなかったかも知れませんが、この後、松下村塾の出身者が維新の動乱で大活躍する事によって、幕末屈指の人となるわけです。

それにしても、そんなわずかな期間に、優秀な人材を輩出するに至った松下村塾とは、どんな教育方針だったのか?
とても、気になるところです。

まず、一番の特徴は、個性の重視・・・松下村塾には時間割もなく、決まった教科書もありません。

藩校の明倫館と違って、士族などの身分に関係なく、入塾希望者のすべてを受け入れていたので、塾生の中には、働きながら通う者や、週何回も来られない者もいますから、昼夜を問わず塾舎は開放され、塾生自身が都合の良い時に出入りできるようになっていました。

また、塾生は受身ではなく、それぞれが異なる書物を読み、自ら選んだ学問を自らの力で学んでいくのです。

・・・と聞くと、結局は、もともと優秀な人たちが、個々に勉学に励んだだけで、松陰先生はあんまり関係ないんじゃないの?
と思ってしまいますが、松陰先生の教育は、そのサポート・・・誘導の仕方が見事なのです。

たとえば、自らが選んだ本を、個人々々が読んでる・・・身近なところでは、公共の図書館みたいな風景ですが、松下村塾の彼らは、ただひたすら本を読んでいるわけではなく、わからない事、疑問に思う事があれは、その場にいる松陰先生に質問します。

すると、松陰先生が、その質問に答える形の講義のような物が始まり、横にいた塾生も、松陰先生の話に聞き入る・・・やがて、ころあいを見計らって、「・・・で、これをどう思う?」なんて、塾生に質問を投げかけると、それぞれが、いろんな意見を述べはじめ、議論が白熱した時などは、もともとの講義を中断しての討論会が始まるといった感じです。

松陰は、日頃から塾生との関係を師弟ではなく友人ととらえ、「自らが生徒に教えている」というのではなく、「ともに学んでいく」という姿勢を貫いていました。
なので、松下村塾には教壇はありません。

はじめて松下村塾に訪れた者には、誰が教師=松陰かがわからなかったくらい塾生の輪の中にどっぷり・・・時には塾舎を出て、田畑で草取りをしながら、友人同士の会話のように講義を進める姿が、近所の人の目に止まっていたと言います。

さらに、松陰は、塾生一人一人の個性を見抜く力&伸ばす力がすばらしい・・

たとえば、塾生の中でも双璧と並び証される久坂玄瑞(くさかげんずい)高杉晋作・・・入塾当時からしばらく、学問においては久坂がトップで、高杉は、どうしても久坂を追い越す事ができない。

すると、高杉の負けず嫌いの性格を見抜いた松陰が、わざと高杉の前で久坂を褒め、高杉の心情を刺激・・・すると、高すぎは更なる勉学に励み、見事に進歩したのだとか・・・

また、先日、萩の乱の首謀者としてご紹介いた前原一誠(いっせい)(10月28日参照>>)・・・そのページでも、彼の事を「松下村塾で学んだ」と書かせていただきましたが、彼の家はかなり貧困で、結局のところ、わずか10日間しか塾に通う事ができませんでした。

しかし、そんな前原の事を、松陰は・・・
「その才能は久坂に及ばない、その学識は高杉に及ばない、しかし、その人物の完全なるところは、この両名も八十(やそ・前原の事)には及ばない」
と語っていて、出入りの激しい塾内で、わずか10日間しかいなかった前原の事を、しっかりと見ているのがわかります。

それこそが松陰の信条・・・。

松陰は、入塾してきた生徒に、まず「何をしたいのか?」を聞き、そのために学ぶべき事へと誘導する・・・知識を身に着けるだけでなく、身に着けた知識をどう生かすかを考えさせる。

「実行するために学ぶ」という事を塾生にも、そして自らにも求めていたのです。

この「自らにも求めた」・・・ここが、最も松陰らしいところではないでしょうか?

先に書かせていただいたように、師弟ではなく、友人として塾生に接した松陰・・・これは、やはり「教壇は廃止して友人のように兄弟のように」を目指した現代の教育方針に似ている気がしますが、結果、現在の学校では、先生を先生とも思わず、悪気はないにしろ、タメ口でケリを入れてくる生徒もいると聞きます。

同じように、友人として接した松陰と、生徒にタメ口をきかれる現代の先生・・・どこが違うのか?

おそらく、松陰は、松下村塾の中で、最も熱心な塾生だったのではないでしょうか?

教えるのではなく、ともに学ぶ・・・最も熱心で、最も優秀な先輩に対しては、後輩たちは、同等の友人のようでも、決して尊敬の念を忘れる事はない。

自分の個性を理解してくれて、ともに学ぼうとしてくれる先生には、たとえ普段はタメ口でふざけていても、いざという時は、師として仰ぐ・・・そんな関係っていいなぁ~と、つくづく・・・
 

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2009年11月 3日 (火)

皇子から武人へ~明治天皇の大変身

 

今日、11月3日は文化の日・・・「自由と平和を愛し、文化をすすめる」国民の祝日として、昭和二十三年(1948年)に定められたものですが、お察しの通り、これは、それ以前から祝日だった11月3日が「芸術の秋」「読書の秋」などと言われる秋真っ盛りの季節である事と日本国憲法の公布の日である事からのあとづけで、もともとは明治天皇のお誕生日

なので、明治天皇の在位中は、「天長節」と呼ばれていました。

その後、明治天皇の崩御とともに一旦廃止されるも、昭和二年(1927年)に「明治節」として復活し、戦後には「文化の日」となったわけです。

・・・とは言え、明治五年(1872年)に太陽暦(11月9日参照>>)が採用される以前の出来事については、基本、旧暦の日づけでご紹介しているこのブログですので、本来なら、明治天皇のお誕生日は、嘉永五年(1852年)の9月22日という事で、その日に書かせていただかねばならないはずですが、それこそ、天長節自体が、太陽暦採用の時点で、その日を太陽暦に換算した11月3日に変更になってますので、大目に見ていただくという事で・・・

この日、第121代孝明天皇の第2皇子としてお生まれになった明治天皇ですが、その場所は宮中ではなく、権大納言・中山忠能(ただやす)・・・忠能の娘である慶子(よしこ)が後宮に女官として仕え、妊娠したとわかって実家の中山邸に戻り、急ごしらえの産屋で誕生したのです。

現在の京都御苑・・・今出川御門から入って左に曲がったところに旧中山邸の跡があり、邸宅は取り壊されましたが、産屋と井戸が残っています。

Nakayamatei 「明治天皇誕生の地」の碑がある中山邸跡(京都御苑)

実家と言っても、御所とは道を挟んだ北側の京都御苑内で、すぐ近くには、御所の北東部分にあたる猿ヶ辻がありますから「近っ!」と、声をあげるほどの距離ですが、明治天皇は4歳になるまで御所には入れず、忠能が父親代わりとなって養育します。

やがて安政三年(1856年)に内裏にうつって、親王宣下を受け睦仁(むつひと)を名乗りますが、この頃の明治天皇は、髪は稚児風で色物の長袖を着て、顔には白粉(おしろい)を塗り、眉を剃った上に黛(まゆずみ)で麻呂風に・・・お姫様のように美しかったのだとか・・・

朝は7時に起床して、午前中はお習字の稽古、午後は3時頃まで、父の孝明天皇のそばで、二つずつ出される御題から和歌を詠む・・・夜は、女官たちを相手にカルタなどに興じて、午後9時に就寝・・・と、まさに、平安貴族さながらの生活

なんせ、徳川幕府の方針では、天皇の本分は学芸・・・むしろ、政治に関与したり、武術に励んだりなんて事、してもらっちゃぁ、危なっかしくてたまりませんから、天皇家は、おとなしく優雅に芸術に勤しんでいただかねば・・・てな感じでしたからね。

あの蛤御門(禁門)の変(7月19日参照>>)の時には、13歳だった明治天皇でしたが、その時、御所に着弾した砲撃に驚いて失神してしまったと言いますから、いかに、別世界の生活を送っていたかがわかりますね。

しかし、皆さんがよく目にする明治天皇の写真・・・男らしくてカッコイイ、貴族というよりは軍人のように見えるお姿をされてますよね。

そうです。
明治新政府の意向によって、明治天皇は180度の大転換をする事になるのです。

慶応二年(1868年)の暮れ、父・孝明天皇が亡くなり(12月25日参照>>)、翌・慶応三年に睦仁親王が践祚(せんそ・天子の位を受け継ぐ事)・・・16歳にして、明治天皇となりました

この年の10月には大政奉還(10月14日参照>>)
12月には王政復古の大号令(12月9日参照>>)と、
まさに、明治天皇を旗印に新政府の樹立を宣言・・・

翌年の正月一発目からは鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)へと突入したわけです。

そうなると、ひ弱な天皇では困る・・・倒幕の果てには、世界に肩を並べる近代国家にという目標があります。

欧米列強に屈した隣国・の二の舞にならないためにも、富国強兵・・・経済を豊かにして軍備を整え、強い日本を目指さねばなりませんから、その象徴となる天皇は、英明かつ武勇に優れた強い天皇でなくてはいけません。

まずは、常に天皇を囲んでいた女官・36名を免職し、周囲には学者と武芸者を配置し、男らしさを強調するためのヒゲもはやされるようになります。

維新後には、各地に行幸して、国民に、文武両道の強き天皇を印象づけるとともに、天皇が大元帥として、陸海軍を統率するという、近代日本への道を歩みはじめたのです。

16歳の若き天皇・・・おそらく、その大転換には、とまどいもあったでしょうが、それこそ、若さゆえ、順応するのも早かったのかも知れませんね。

・・・と、本日は、明治天皇の誕生日という事で、あまり聞く事のない天皇になる前の明治天皇を中心にお話させていただきました。
 

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2009年11月 1日 (日)

天狗党・起死回生の西上行軍~下仁田戦争

 

元治元年(1864年)11月1日、天狗党が、徳川慶喜のいる京都に向けての行軍を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

総大将に武田耕雲斎(こううんさい)を迎えた新生・天狗党・・・初めてのかたは、まずは、これまでの経緯について、先に読んでいただくとありがたいです。

・・・て事で、もはや水戸を奪回する事は不可能と判断した天狗党・首脳陣は、亡き主君・徳川斉彬(なりあき)の息子で、現在、京都にて禁裏御守衛総督の任務にあたっている徳川慶喜(よしのぶ)に会い、水戸藩の現状を訴え、さらには、幕府の尊王攘夷への方向転換を希望すべく、京都へと向かう事にするのです。

この一行には、水戸藩士や郷士だけではなく、地元の僧侶や農民、また、これら天狗党に参加している者の家族である女子供も同行していましたから、なるべく、無用な争いは避けたい・・・

それには、まず天狗党自身がトラブルを招くような事をしない事!

以前、その軍資金集めでトラブルになり、地元住民を殺害したり、放火して村の大半を焼いた田中愿蔵(げんぞう)の例(攘夷の魁・天狗党の模索を参照>>)もありますから・・・

そこで、出発前には、再編成された部隊に対して、きびしい軍令を発します

  1. 無罪の一般人を殺したり怪我させたりしてはいけない
  2. 民家に入り、盗みを働いてはいけない
  3. 婦女子をみだりに近づけてはいけない
  4. 田畑の作物を荒らしてじはいけない
  5. 隊長の命令を待たずに行動してはいけない

・・・と、まぁ、いまさら言われる事もない、当然っちゃー当然の項目なのですが、きびしいのは項目ではなく、罰則・・・上記の事に違反したばあいは、即刻、斬首!

後の新撰組もそうですが、多種多様の人間を抱える集団は、これくらいのきびしい罰則を設けないと、その秩序は保てないのかも知れません。

かくして元治元年(1864年)11月1日、1000人余りの隊列が、常陸(茨城県)大子(だいご)出発し、一路、西へと進み始めたのです。

その行軍の様子が、いくつかの手記に記録されています。

  • 先手:薄井督太郎
      白綸子(りんず)の小袖に黒紋付黄麻の陣羽織
      =随兵・五十余
  • 第一備(ぞなえ):大将・三橋半六(はんろく)
      黄羅紗(らしゃ)の陣羽織
      =大砲・2門、随兵・百人余
  • 第二備:大将・山国兵部(やまくにひょうぶ)
      猩々緋(しょうしょうひ)の陣羽織
      =大砲・2門、「魁」の旗・1流、随兵・百人余
  • 第三備:大将・藤田小四郎
      紺糸嚇(おどし)の鎧に金鍬形の兜、
      黒ビロードの陣羽織
      =大砲・2門、「赤心」の旗・1流、随兵・百五十余

これらの「大将=騎乗した武士」は、約200名ほどいて、それぞれ従う歩兵の総勢は500余りは、皆、武装して陣笠を着用、荷物を曳く馬が50ほど、大砲は合計で15挺・・・これらが、かの旗々をひるがえして行軍するさまは、まるで錦絵のようだったのだとか・・・カッコイイなぁ~~(*≧m≦*)

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

こうして、西行を開始した天狗党は、出立したその日に下野(しもつけ・栃木県)黒羽(くろばね)藩領に入り、さらに西を目指しますが、すでに各藩は、幕府からの天狗党・討伐命令を受けていたはず・・・すんなりと通れたんでしょうか?

実は、耕雲斎は、軍内には規律を守らせる一方で、対外的には、通行する各地の藩に、前もって、行軍の目的を明確に記した通行願いを渡し、なくべく戦闘を避けるようにしていたのです。

すでに何度か書かせていただいているように江戸時代というのは、藩という独立国家の集合体・・・中央の幕府に、どこまで協力するかは、藩によって違うわけで、中には、天狗党の尊王攘夷の志に、理解を示す者も少なからずいまたし、この時点で、天狗党の勇名は各藩にも伝わっていますから、「無用な争いは避けたい」というのもあったでしょう。

最初に遭遇した黒羽藩も、始めのうちは大砲などを持ち出して戦う姿勢を見せていましたが、上記のように、いたずらに危害を加えようとしない規律が守られた軍団に、礼儀を踏まえた通行願いの提出・・・

「堂々と中心部を突っ切られるのは、ちと困るが、間道ならば・・・」
と、結局、通過を黙認する形となりました。

多くの小藩が、このように天狗党の通過を許し、中には、村の大地主が紋付袴で対応し、何も言わずとも軍資金を差し出したり酒代を出したり・・・と、けっこう、旅費には事欠かないほどの好感触だったようです。

もちろん、全部が全部そうではなく、恐ろしい天狗党が通過すると聞いて、家々を焼き払い、村民全員で退去した村もありました。

そして、当然ではありますが、幕府の要請に従い、天狗党の行軍を、何としてでも阻止しようという藩もあります。

おおむね平穏に行軍していた天狗党に、初めて「待った!」をかけたのは、下妻那珂(なかみなと)と、すでに2度天狗党と対戦し、いずれも敗れている高崎藩・・・さすがに、このまま天狗党に勝ち逃げさせるわけにはいきませんから、何としてでも一矢を報いたい。

そして、11月16日、そんな高崎藩の約200名が下仁田(しもにた)で待ちうけます。

下仁田戦争と呼ばれるこの戦いでは、あらかじめ2隊を敵陣正面に置き、別働隊2隊が、敵の左右側面から襲いかかるという、大軍師・山国の発案よる作戦が決行され、約2時間の激戦の末、高崎藩兵の死者・36名、天狗党側の死者・4名と、またしても天狗党の勝利に終りました。

まぁ、いくら非戦闘員を含むとは言え、1000名を越す行軍に対しての200名は、やはり多勢に無勢といったところでしょうか・・・。

しかし、この先、バッチリとタッグを組んだ松本藩と高島藩の総勢・2000名の連合軍が、下諏訪(しもすわ)で待ちうけます。

・・・と、このお話は、和田峠を舞台に行われた戦い11月20日のページでどうぞ>>
 

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2009年10月25日 (日)

総大将・武田耕雲斎~新生・天狗党の誕生

 

元治元年(1864年)10月25日、幕府の追討軍と諸生党に囲まれ、窮地に追い込まれていた天狗党武田耕雲斎が加わり、耕雲斎を総大将とした新たな天狗党が誕生しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

久々の天狗党の登場って事で、これまでの経緯を簡単に振り返ってみますと・・・

ご存知、ペリーの黒船来航(6月3日参照>>)で、国内が開国攘夷(じょうい・外国を排除)かで揺れる中、大老・井伊直弼(いいなおすけ)は、勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を得ないままアメリカとの条約を結び、反対派を弾圧する安政の大獄を決行します(10月7日参照>>)

そんな中、今は亡き藤田東湖(とうこ)(10月2日参照>>)のもと、尊王攘夷思想を掲げる水戸学が根づく水戸藩では、脱藩した一部過激派による直弼の暗殺・桜田門外の変(3月3日参照>>)が決行されますが、彼らの掲げる尊王攘夷は、大老を暗殺しながらも幕府に敬意を表するものでした。

そんな思想を受け継いだのが東湖の息子・藤田小四郎・・・元治元年(1864年)3月、筑波山に集結した同志とともに天狗党を結成したのです(3月27日参照>>)

翌・4月、日光で気勢を挙げた後、各地を点々としながらも、倒幕ではなく、あくまで「幕府の方向転換」を要求する彼らでしたが、そんな彼らに幕府は追討軍を派遣、水戸藩内でも保守派による追討軍・諸生党が結成され(4月10日参照>>)、7月には下妻で激戦となり、水戸城を占拠した諸生党と、さらに再編制されて大軍となった幕府討伐軍に挟まれた天狗党は・・・(7月9日参照>>)

・・・と、ここまでお話させていただきました。

その下妻の夜襲から1ヶ月後の8月・・・局面は大きく変わります。

水戸藩の第10代藩主・徳川慶篤(よしあつ)事態の収拾に乗り出したのです。

なんせ、諸生党は水戸城を占拠しちゃってますから・・・

慶篤の命を受けた支藩・宍戸藩の藩主・松平頼徳(よりのり)が、執政の榊原新左衛門以下数百人を伴い、水戸へと乗り込んで来たのです。

この榊原という人は、もともとは天狗党を鎮めようとしていた人なのですが、諸生党と、それを率いる市川三左衛門が、ここに来て藩内の要職を牛耳る事態となって、市川らを排斥するために同行したのでした。

なんせ、諸生党は水戸城を占拠しちゃってますから・・・

そんな頼徳ら数百人に、さらに尊王攘夷派の農民たちが加わって、彼らは大発勢と呼ばれる集団となります。

さらに、ここに来て、またまた強い味方が登場・・・

やはり諸生党の勢いで、藩の首脳部から追い出された山国兵部(やまぐにひょうぶ)武田耕雲斎(こううんさい)様ご一行です。

兵部は、天狗党の大将・田丸稲之衛門(いなのえもん)の実の兄で、以前、天狗党が太平山(栃木県)を本拠地としていた頃に、挙兵をやめるように説得しに来た人ですが、その時も、挙兵に反対しながらも、天狗党が目指すその姿勢には理解を示していた人でした。

耕雲斎は、小四郎の父・東湖とも友人関係にあり、先代水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の信頼も厚く、最近では、京都にて徳川慶喜(よしのぶ)を補佐する重要な役職にもついていた頼もしい人で、小四郎が天狗党結成に際に、一番参加を希望した人でもありました。

しかし、その時は、「時期が早い」として天狗党には入らず、藩内の立場上、尊王攘夷派の鎮圧にあたったりしていましたが、ここに来て、やはり、「武力を以ってしか、藩内の保守派に対抗できる手段はない」との判断に至って、頼徳らに合流したのでした。

こうして、約3000の集団に膨れ上がった彼らは水戸城へと向かいますが、水戸城を占拠する市川以下諸生党は、徹底抗戦の構えを見せ、「もし、入城するなら頼徳1人だけ・・・」と言って聞きません。

そんなもん、彼らが占拠する城内に、頼徳がただ1人で入れるわけがなく、やむなく彼らは、歴代水戸藩主の別荘地である那珂湊(なかみなと・ひたちなか市)へと向かいます。

そして、ここ那珂湊で小四郎ら天狗党も、彼らに合流します。

やがて8月半ば頃から、那珂湊を本拠地に激戦を繰り返す彼らでしたが、いずれも一進一退・・・9月からは幕府軍艦による海上からの攻撃も加わり、諸生党・幕府軍・幕府海軍と、3面からの執拗な攻撃に、藩主別荘だった彙賓閣(いひんかく)や、先代・斉昭が作った反射炉など、多くの建物が焼失してしまいますが、それでもなお、彼らは踏ん張ります。

しかし、江戸藩邸にいて動けない慶篤から、一命を受けている頼徳さん・・・自らの意思で参加している他の人とは違い、彼には、事態の収拾という使命がありますから、こうして一進一退を繰り返してばかりではどうにもなりません。

10月に入り、「何とか打開せなば・・・」と、江戸への弁明もあって、幕府の陣営へと出頭するのですが、案の定、水戸城にて拘束され、10月5日には切腹させられてしまうのです。

幕府側は、この頼徳の死を隠したまま、10日と17日に総攻撃をかけますが、この作戦は幕府の負け・・・しかし、まだまだ一進一退の状況は続きます。

そして、
いよいよ長い長い戦いに耐え切れなくなる人が・・

そうです、上記の通り、未だ彼らは、大発勢+兵部+耕雲斎+天狗党で、統一戦線は組んでいるものの一枚岩ではなかったのです。

ここに来て榊原以下・大発勢1154名が、天狗党の征伐を条件に、幕府側に投降・・・残ったのは、小四郎以下・天狗党、兵部とその支持者、耕雲斎とその支持者・・・。

多勢に囲まれた彼らは、絶体絶命のピンチを向かえ、逆に結束を固める事を決意するのです。

元治元年(1864年)10月25日、何とか那珂湊を脱出した1000名ほどの集団は、北方の大子(だいご・茨城県久慈郡)に、ふたたび集結・・・ここに、耕雲斎を総大将とする新たな天狗党が誕生するのです。

時に耕雲斎・62歳・・・小四郎・23歳、親子ほど歳の離れた同志は、ここでやっと一つになれたのです。

実際には、自由奔放な性格だった父・東湖と、父より3歳年上でカタブツの耕雲斎・・・しかし、この時ばかりは、小四郎も、そんな耕雲斎に、亡き父の頼もしさを見てとった事でしょう。

こうして、新たに生まれ変わった天狗党ですが、もはや水戸城を奪回する事は不可能・・・

こうなった以上は、亡き斉彬の息子で、現在、京都にて禁裏御守衛総督の任務にあたっている慶喜に会い、水戸藩の現状を訴え、さらには、幕府の尊王攘夷への方向転換を希望すべく、京都へと向かう事にするのです。

  • 総大将:武田耕雲斎
  • 大軍師:山国兵部
  • 本陣  :田丸稲之衛門
  • 輔翼  :藤田小四郎
         :竹内百太郎・・・

1000名余りの行軍の先頭にひるがえるは、
「攘夷」
「魁
(さきがけ)
「日本魂
(やまとだましい)の旗々々・・・

いざ、京都へ!

・・・と、この話の続きは、天狗党が大子を発つ11月1日のページへどうぞ>>
 

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2009年10月20日 (火)

幕府最後の進撃~榎本武揚・函館を奪取

 

慶応四年(明治元年・1868年)10月20日、品川沖を脱出し、北へ向かっていた旧幕府軍の榎本艦隊が、蝦夷地への上陸を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

慶応四年(明治元年・1868年)4月11日の江戸城無血開城・・・東征大総督府・参謀の西郷隆盛と幕府陸軍・総裁の勝海舟の尽力(3月14日参照>>)によって、新政府軍と幕府軍の正面衝突は避けられ、江戸の町が火の海と化する事はありませんでした。

あとは、今後の徳川家の処遇と海軍の引渡し・・・しかし、このまま幕府が終わる事に納得がいかない幕府海軍・副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、徳川家の駿河(静岡県)70万石への転封が決まった5月24日頃から、密かに脱出の準備をはじめます。

未だ、新政府に屈しない姿勢をとっていた東北の諸藩(4月25日参照>>)とも連絡を取りながら、フランス士官のプリュネを取り込みつつ・・・やがて、榎本が最新鋭の開陽丸以下8隻の軍艦とともに品川沖を脱出したのは8月19日の朝の事でした。

途中、おりからの台風シーズンでいくつかの船を失いながらも9月3日に仙台に到着・・・仙台藩主・伊達慶邦(たでよしくに)と会見して、新政府軍を迎撃する作戦を練りますが、もはや、会津若松城が風前の灯火の状況(9月22日参照>>)ではいかんともしがたく、東北での抗戦はあきらめて、再び北へ向かう事にします。

・・・とは言え、ここで新たな船と新たな同志を得ます。

大鳥圭介、新撰組の土方歳三箱根戦争(5月27日参照>>)で奮戦した遊撃隊の人見勝太郎・・・もちろん、彼らの部下や、さらに仙台や東北の緒戦で生き残ったの精鋭たちを乗せて、榎本らは、蝦夷(えぞ・北海道)を目指したのでした。

かくして慶応四年(明治元年・1868年)10月20日、警備の厳しい函館湾を避け、噴火湾に面した鷲ノ木から上陸を開始する榎本軍・・・。

Hakodatebakufurootcc_2 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

まず、最初に進軍したのは、人見率いる先発隊・・・続いて、大鳥率いる本隊がそのまま南下して函館を目指し、土方率いる別働隊は大きく迂回して函館へと向かいます。

この時の函館は、先の江戸城無血開城を終えた幕府の指示により、すでに、函館奉行の杉浦誠が新政府・知事の清水谷公考(しみずだにきんなる)平和裏に明け渡したあとで、五稜郭は新政府の物となっていました。

ただ、その明け渡し当時に、五稜郭の警護に当たっていた東北諸藩の兵士たちは、かの戊辰戦争の舞台が北へと進むにつれ、すでに帰国していて、ここにはいませんでした。

新政府はあわてて諸藩に新たな出兵を要請し、即座に兵を投入しますが、その兵士たちが函館に到着したのは、奇しくも、榎本軍が上陸したと同じ本日・・・10月20日でした。

ギリギリセーフで間に合った新政府軍が、峠下(とうげした)まで進軍してきていた人見隊に夜襲をかけたのは10月23日・・・しかし、逆に、近くにいた大鳥本隊に反撃され、この日は、あえなく撤退しました。

翌・24日に、大鳥隊は、隊を二つに分けて進軍・・・大野村に進軍した大鳥隊は大勝利を収めるも、七飯(ななえ・七重)に進軍した人見隊はやや苦戦となります。

しかし、まもなく、ここに、旧彰義隊を中心とする援軍が到着し、なんとか勝利を収めます。

大鳥・人見の両隊が、函館の目の前までやって来た事を知った清水谷は、青森への撤退を決意し、新政府軍は次々と函館港から脱出・・・もぬけの殻となった五稜郭を榎本軍が占領したのは10月26日の事でした。

こうして勝ち取った蝦夷地に、榎本が蝦夷共和国を誕生させるのは約1ヶ月半後(12月15日参照>>)の事ですが、その前に、別働隊の土方は・・・と、行きたいですが、長くなりそうなので、それはまた、「その日」に書かせていただきたいと思います。

本日はここまでという事で・・・m(_ _)m
 

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2009年10月 9日 (金)

後藤象二郎様々?岩崎弥太郎の成功劇

 

明治三年(1870年)10月9日、岩崎弥太郎土佐開成社(九十九商会)を開設しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あの関ヶ原の合戦の後、勝ち組の山内一豊(やまうちかずとよ)土佐(高知県)に入り(12月5日参照>>)、負け組となった長宗我部(ちょうそかべ)の家臣団を支配する形となり、元・山内の家臣は上士、元・長宗我部の家臣は下士と、土佐では厳しい身分制度が敷かれました。

そんな土佐で生まれた岩崎弥太郎(いわさきやたろう)の身分は、郷士株を売った地下(ちげ)浪人という最底辺の武士層に位置していました。

そんな弥太郎が、あの三菱財閥の創業者になる!・・・これ、ひとえに、ご本人の才能と努力のたまものに他ならないわけですが、人生、才能と努力だけではどうにもならないというのもつきまとう物でして・・・

そうなんです・・・才能を持ち、惜しみなく努力をする弥太郎に、幸運をもたらしてくれたのは、ある人物との出会いでした。

幼い頃から神童の誉れ高い秀才だった弥太郎は、14歳のある日、藩主・山内豊熈(とよてる)の前にて漢詩を披露した事でその才能を認められ、江戸に出て遊学できるチャンスを得ます。

21歳で安積艮斎(あさかごんさい)の塾に入塾するも、酒の席で暴れた親父さんのとばっちりで、彼も獄中の人となります。

その後、同じ土佐藩士だった吉田東洋(よしだとうよう)少林塾に通い、ここで、その運命の人と出会います。

それが、あの大風呂敷広げまくりの後藤象二郎(しょうじろう)(8月4日参照>>)です。

象二郎は上士の家柄でありながらも、その大雑把なこだわらない性格で身分の低い弥太郎にも親しく接してくれ、その才能ゆえに、何かと目をかけてくれたのです。

そのおかげで、慶応元年(1865年)に、象二郎が殖産・貿易振興のために造った開成館下役になり、その2年後には、その象二郎の後を受けて藩の商務組織・土佐商会長崎留守居役に抜擢されます。

坂本龍馬の脱藩が許されて海援隊が土佐藩の外郭組織になった時には、藩の命令のその経理も担当するようになります。

すでに土佐商会の実権を一手に掌握する人となっていた弥太郎・・・明治元年(1868年)に土佐商会が閉鎖されると、拠点を大阪に遷し開成館大阪出張所(大阪商会)に、そしてその大阪土佐商会が、明治三年(1870年)10月9日土佐開成社(九十九商会)となるのです。

やがて、廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)にともなって、土佐藩の持っていた債権債務や財産ひっくるめて、藩の船2隻とともに、すべてが弥太郎に譲渡されますが、これも、象二郎の意見・・・。

維新の混乱の時代とは言え・・・
借金も含まれるとは言え・・・
土佐藩の財産を弥太郎個人にあげちゃうなんて~~!
「あぁ、後藤さん、大雑把でいてくれてアリガトウ」

また、全国統一貨幣が鋳造される事が決まった時に、「新政府が藩札(江戸時代に藩が発行したお札)を買い上げる」という情報を入手した弥太郎は、10万両の元手で藩札を買占め、莫大な利益を得ていますが、この情報を弥太郎に流したのも象二郎です。
「あぁ、後藤さん、大雑把でいてくれてアリガトウ」

・・・で、結局、かの九十九(つくも)商会三菱商会となり、さらに郵便汽船三菱会社となって、そのまた向こうのほうに現在の日本郵船へと発展するわけですが、確かに、モノが一つあっても、それを何倍も大きくするのは、本人の才能と努力・・・

誰もが、何倍もの大きさにできるわけではなく、そのままゼロになってしまう人もいる・・・

しかし、さすがの弥太郎も、象二郎がいなければ、ここまでの成功を収める事はできなかったでしょう。

ただ・・・
私企業を発展させる実業家でありながら、国家を憂い、緊急時には人員や物資の輸送に尽力した弥太郎・・・あまりのその繁栄ぶりに、西郷従道(じゅうどう)「国賊!」と罵倒された時には、「政府がそんな事言うんやったら、三菱の汽船全部を燃やして、財産は全部自由党に寄付してやる!」と、堂々と渡り合いました。

その姿には、象二郎から貰ったラッキーだけではない、自分自身の努力が多分に含まれているという自信が見て取れます。

以前、【どうなった?龍馬亡きあとの海援隊】(11月16日参照>>)で書かせていただいたように、龍馬が夢見た海援隊の世界進出を実現したのは、日本郵船の土台を造った弥太郎・・・という事になるのかも知れません。

そこには、きっと、人知れぬ彼の努力があった事でしょう。
 

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