2012年4月 9日 (月)

幕末の動乱に散った悲劇の人・玉蟲左太夫

 

明治二年(1869年)4月9日、幕末の仙台藩士で、渡米の詳細な記録を残すなどして活躍した玉蟲左太夫が、獄中で切腹しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これまでも、何度も書かせていただいていますが・・・
まこと幕末という時代は、ご本人の気持ちとはうらはらに、藩の動向により命を落とす事になる運命の方が多い事・・・

Tamamusisadayuu400 本日ご紹介する玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)さんも、その1人・・・

文政六年(1823年)に仙台藩士・玉蟲伸茂の子として生まれた左太夫は、藩校・養賢堂に学んだ後、24歳で江戸に出て林復(はやしふくさい)の私塾に入り、ここで、働きながら儒学などを勉強・・・塾長までこなす優秀さを発揮していきます。

その後、35歳の安政四年(1857年)には、函館奉行堀利煕(ほりとしひろ)に仕えた事から、掘とともに樺太(からふと)蝦夷(えぞ)調査・視察して回り、その時の克明な記録を残しています。

そう、左太夫は、かなり筆が立つ・・・文才がある人だったんです。

以前、勝海舟咸臨丸のお話のところで、一行がサンフランシスコに到着してからの珍道中や、初めての外国で体験した様々な事を書かせていただきました(2月26日参照>>)この記録を残した人が左太夫なのです。

例のアメリカの議会を見て
「およそ4~50人が席について、一人が立ち、大声で手まねなどしてののしり合っていて、一段高い場所にいる副統領が意見を聞いて決定する様は、さながら魚市場のようである」
と、議会を魚市場に例えるくだりは、「まさに、的を射てる」って感じですよね~

さすが文才!!

この時の渡米は日米修好通商条約批准(ひじゅん・署名された条約に対し、国家として正式に同意する事)のための渡米・・・

正使新見正興(しんみまさおき)副使村垣範正(むらがきのりまさ)監察(目付け)小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)(4月6日参照>>) だったアレ・・・左太夫は新見の従者として乗船してました。

ちなみに、軍艦・ポータハン号に乗船した彼らを護衛する役目で渡米したのが咸臨丸で、コチラは木村芥舟(きむらかいしゅう)副使で、その木村の従者が福沢諭吉・・・勝海舟は艦長格でした。

そんな左太夫の記したアメリカ見聞録=『渡米日録』には、まったく言葉も通じなければ習慣も違う外国人の姿に驚き戸惑いながらも、彼らの良きところをしっかりと見抜く素直さを持ち、むしろ、その良きところは武士の社会でも見習うべきという柔軟な心を持つ左太夫の性格が垣間見えます。

たとえば、そのポータハン号の船内では、
『船将の前といえども、ただ冠を脱するのみにて、礼拝せず…』

一介の水兵が上官の前でも、帽子を取るだけで、ごたいそうな礼拝をする事はなく、また、上官もそれを求めずに同僚のように接する事でお互いの情が深く交わり、イザという時には力を合わせてお互いを救う・・・

また、不幸にして水兵が亡くなった時には、艦長までもが、その葬儀に出席して、まるで親しい友人が死んだ時のように涙を流す姿を目の当たりにした左太夫は、
『わが国にては礼法厳にして、総主などには容易に拝謁するを得ず。あたかも鬼神のごとし。これに順じて少しく位ある者は大いに威焔を張り下を蔑視し、情交かえってうすく凶事ありといえども悲嘆の色を見ず。大いに彼と異なる』
と、日本との違いに感激し、
「礼法が厳し過ぎるよりも、むしろ、礼法を薄くして情の交わりを厚くしたほうが、部下は“この人のために頑張ろう!”って気持ちになるんじゃないの?」
てな事を書いています。

また、嵐の夜にも全く動じず、テキパキと働く水兵たちを見て・・・
一方の自分たちは200年もの平和が続いたために何事も古い習慣にこだわり、何か事が起きれば、あたふたとするばかりで、結局、何もできない・・・
『翌日に至りて赧顔に堪えず』「嵐が去った翌日は、恥ずかしくてたまらなかった」
と、なんだか、ここ70余年の平和を謳歌している平成の私たちにも耳が痛いような事も書き残しています。

さらに現地に着いてからも、今後の日本の発展のためにも、「学校や病院を見学させて欲しい」と希望する左太夫に対して、保守的な上官たちは、
「お土産を購入する事ばかりにやっきになって、市民との交流にも関心を示さない」
と、不満ムンムンです。

そんなんですから、当然と言えば当然・・・左太夫の内面は、これまで自分が理想として信じて疑わなかった封建的な武士道精神から、少し違った近代的な物の考え方へと変化していくのです。

しかし、そんな彼の気持ちとはうらはらに、幕末という時代はいよいよ佳境へと突入し、左太夫とて例外なく、その大きな波に呑まれていく事となります。

帰国後に、先の見聞録をまとめて藩に提出し、その後も、その文才を活かして、他藩や外国の情報を収集して膨大な記録を残すという仕事をこなしていた左太夫でしたが、その帰国から8年後の慶応四年(1868年)・・・江戸城は無血開城とあい成り(3月14日参照>>)、江戸城を手に入れた新政府軍は、さらに北へと進んでいきます(4月25日参照>>)

そんな中で・・・
そうです。。。左太夫の所属する仙台藩は、松平容保(まつだいらかたもり)会津藩(2月10日参照>>)や、河井継之助(かわいつぎのすけ)が家老を務める長岡藩(5月13日参照>>)などと奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成し、新政府に対抗する姿勢を取ります。

しかも、
この同盟結成の影には、藩の命令により動いた左太夫の尽力があればこそ!と言われるくらいの活躍をしました。

ゆえに、仙台藩が新政府に降伏した後は、佐幕派の戦争責任者として捕えられて獄につながれます。

そして明治二年(1869年)4月9日獄中にて切腹・・・47歳の生涯を閉じたのでした。

生前は、
蒸気機械製造所を建設して水力と火力による物産の増産や、外国人を雇って技術を学んだり、人材を海外に派遣することの必要性を説いていた左太夫・・・

さらに、
富国強兵によって列強と対等に渡り合える日本にすべきと主張し、幕府だけによる政治を批判していた左太夫・・・

これらは、皆、維新後の新政府が求めていた物・・・

しかし、その夢を叶える事無く、佐幕派の一員として散って行った左太夫を思うと、胸が痛みます。

敗戦のさ中で捕縛された時、左太夫は、船でさらに北へと向かう榎本武揚(8月19日参照>>)合流する途中だったとか・・・

もし、タイムマシンがあって歴史に関与する事が許されるなら、その未来に伸ばした腕を引っ張り上げて、榎本の船へと連れてってさしあげたいくらいの気持ちになってしまいます(もちろんダメですが…)

玉蟲左太夫・・・
彼もまた、幕末に散る惜しい人材の1人です。

 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)
|

2011年12月27日 (火)

新選組・野口健司の切腹

 

文久三年(1863年)12月27日、水戸藩出身の新選組副長助勤野口健司が切腹をしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

幕末当時、開国攘夷(じょうい・外国を排除)かに揺れる中、幕府は、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)と、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)との結婚(8月26日参照>>)を実現させて公武合体(朝廷と幕府が協力)政策をはかり、文久三年(1863年)の3月には、家茂の上洛を決定します。

しかし、その頃の京都は、過激な尊王攘夷派「天誅(てんちゅう)と称して、佐幕派(幕府を応援)や公武合体派を暗殺するという事件が多発していて、治安の悪き事このうえない状態・・・

そこで、幕府は京都の治安を守るための京都守護職に会津藩主・松平容保(かたもり)を任命・・・さらに、庄内藩・郷士出身の清河八郎の提案によって、京都で将軍の身辺警護を担当する武闘集団=浪士組を結成する事になり、江戸にて、その隊士を広く募集しました。

採用されれば、1人=十両の一時金を貰ったうえに米一升が毎日支給されるし、万が一、大活躍してエライさんの目に止まれば幕臣に取り立てられる事も夢じゃない!・・・とあって、腕に覚えのある多くの若者が集まります。

その中の1人が天保十四年(1843年)に水戸に生まれた野口健司でした。

やがて、文久三年(1863年)2月8日、清河の扇動のもと、野口たち、採用された隊士らが連れだって京都に向かったわけですが、京都に着いた途端、かの清河が豹変し、「この度の上京は、尊王攘夷の先鋒となるための上京である!」と宣言したため、驚いた老中・板倉勝静(かつきよ)から、「すぐに江戸に帰還せよ」との命令が出されます。

多くの者が、清河とともに江戸に帰還する中、そんな清河の豹変に納得しなかったわずかな者が京都に残り、京都守護職の容保の下で「会津藩お預かり」となって京都の治安維持の役目を担う事に・・・

これが、後の新撰組・・・この時、京都に残ったのは、天然理心流(てんねんりしんりゅう)の剣術道場・試衛館(しえいかん)を開いていた近藤勇とその仲間たち:8人と、水戸の脱藩浪士だった芹沢鴨(せりざわかも)とその仲間たち:5人わずか13人でした。

そう、水戸出身の野口は、この芹沢の仲間だったわけです。

・・・と言っても、どうやら、この野口さんは、同じ水戸藩出身という事で、芹沢たちと行動をともにしてはいましたが、その思想や考え方には、少し距離があったみたいで、一方では近藤たち・試衛館仲間とも仲良くやっていたようです。

それには、近藤仲間の1人だった永倉新八(ながくらしんぱち)の存在・・・実は、野口が免許皆伝?とも言われるほどの腕を磨いた神道無念流の道場・百合元昇三道場に永倉も通っていて、浪士隊になる前から、すでに二人は知り合いだったからです。

しかし、ご存じのように、誕生したばかりの新撰組・・・もともと浪人集団の寄せ集めだった彼らは、いつしか、近藤派芹沢派に分かれ、その溝は大きくなるばかりで、結局、その派閥抗争は、近藤たちが芹沢らを暗殺する(9月18日参照>>)という展開となります。

この時、殺害されたのは芹沢派5人のうち、芹沢本人と平山五郎の二人・・・その間に、騒ぎを知った平間重助(ひらまじゅうすけ)は逃亡し、新見錦(にいみにしき)は、乱行がヒドすぎるとして、すでに5日前=9月13日に切腹させられています。

つまり、この時、芹沢派で残ったのは野口1人だけという事・・・彼は、この夜、京都・島原花街にある角屋(すみや)にいて難を逃れたのですが、実は、これも、仲良し永倉の配慮で、「野口だけを現場に居合わせないようにした」とも言われており、おそらく、野口自身は、芹沢たちを殺害した犯人が誰かという事も知らなかったのだろうと推測されます。

現に、野口は、この事件の後でも逃亡する事もなく、普通に居残り、近藤組長新体制のもと隊務をこなしています。

しかし、その運命は急展開・・・芹沢の死から、わずか3ヶ月後の文久三年(1863年)12月27日野口は突然切腹を命じられ、その21歳の若き命を散らせたのです。

その理由は、明治の後も生き残った隊士の証言でも「ささいな事」と表現されるだけで、真相はわかりません。

一説には、近江国中羽田村で起こった村騒動(新撰組を名乗る者が七里村に出没し、村人を混乱させた)の責任を取らされたとも言われますが、それはまったくの濡れ衣という意見もあり、もはや藪の中です。

Dscn2966a800 京都にある旧前川邸…綾小路通に面した出格子窓のある部屋(写真の右手前です)で、野口は切腹しました。
旧前川邸への行き方は、本家ホーページ:京都歴史散歩
「東寺から二条城へ…」でどうぞ>>

いずれにしても、記録に残る京都で死亡した隊士・50人のうち、その半数が粛清された同志だったという新撰組・・・

もともと、武士ではない者か、あるいは食いぶちにありつけない浪人の集まりだった彼らですから、法度に違反した時は、情け容赦のない粛清を行わなければ、それこそ、無法者の殺人集団になってしまうわけで・・・

中には、記録に残る事すらなく散って行った隊士たちもいるという事なので、野口さんは、その名を残せただけでも、少しは心安らか?なのかも知れません。
 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)
|

2011年12月14日 (水)

一世一代…伊藤博文の日の丸演説

 

明治四年(1871年)12月14日、アメリカ・サンフランシスコ市主長催の晩さん会で、伊藤博文日の丸演説を行いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご存じ、日本の初代総理大臣となる伊藤博文は、この時、31歳・・・

殖産興業を担当する工部省の責任者である工部大輔(たいふ)という役職で、あの岩倉使節団副使の1人でした。

岩倉使節団とは、維新の立役者の一人でもある、あの岩倉具視(ともみ)を大使として派遣された使節団で、その目的は、大きく2つ・・・幕末維新のドサクサで、欧米諸国と結ばれた不平等な条約を改正するための予備交渉と、欧米の先進国の文化や経済・産業などの「いま」を、その目で視察する事でした(10月8日参照>>)

大使の岩倉と伊藤の他にも、木戸孝允(たかよし・桂小五郎)大久保利通(としみち)山口尚芳(ますか・なおよし)らが副使となり、使節・随員・留学生など、総勢107名が外輪船・アメリカ号に乗り込み、明治四年(1871年)11月12日横浜港を出港・・・

Iwakura_mission600 岩倉使節団(左から木戸・山口・岩倉・伊藤・大久保)

太平洋を渡り、アメリカのサンフランシスコに到着したのは12月6日の事・・・早速、明治四年(1871年)12月14日に、市長の主催による歓迎晩さん会が開かれたのです。

使節団の写真を見てお解りのように、この頃、まだ岩倉さんは、チョンマゲ姿・・・晩さん会に集まった約300人ほどのアメリカ人のほとんどは、東洋の端っこからやって来た珍しい人々に興味津々・・・どちらかと言うと、物珍しさが先立つ晩さん会でした。

そんな中、要人を前に、答礼のスピーチを行った岩倉に続いて、壇上に上がった伊藤は、なんと、英語で話しはじめたのです。

確かに、ネイティブも真っ青のペラペラ・・・ってわけにはいかなかったようですが、彼は、長州藩士の時代にイギリスへ密航した経験があり、そこそこ聞き取れる物だったとか・・・

「The red disc in the centre of our national flag shall no longer appear like a wafer over a sealed empire, but henceforth be in fact what it is designed to be, the noble emblem of the rising sun, …」

会場に掲げられていた日の丸を指さしながら言いました。

「わが国旗の中央にある赤い丸は、もはや国を閉ざす封印に見える事もないでしょうが、これは、今、まさに洋上に登ろうとしている太陽を表していてます。
そして、その太陽は、いまや世界の文明国に向けて躍進するしるしでもあります。」

と・・・

今の日本は、まだ洋上に登ったばかりの太陽で、その光も弱く、色も薄いかも知れないけれど、やがて、この日の丸にデザインされた太陽のように、世界の人々に尊敬の念を持って見られる国となるだろう事、そのために、今の日本政府と日本国民が一番望んでいるのは、先進国の最先端の文明を身につける事である・・・と、日本人が欧米へのあこがれを持っている事を、謙虚に、そして、素直に述べました。

ただ、一方では、
「我々は、一滴の血も流す事無く、数百年に渡る封建制度を撤廃しました」
と、ハッタリをカマし、日本人の精神的豊かさも、しっかりとアピール・・・。

まぁ、実際には、あの戊辰戦争(1月3日参照>>)があったわけで、一滴の血も流れてなくはないのですが、確かに、幕府から明治新政府に移行する中でも、特に重要と思われる江戸城の開け渡し(4月11日参照>>)と、廃藩置県(7月14日参照>>)は、まったくの無血で行われたわけですし、一世一代の大舞台でもありますので、少々のハッタリもアリなのかも知れません。

なんせ、このスピーチを聞いていたアメリカ人たちは、未だ、60万人以上の死者を出した南北戦争の記憶も生々しかった頃なわけで、この伊藤の演説に、皆が心揺さぶられ、日本人の礼儀正しさや、誇り高き国民性に感動し、その拍手が鳴りやまなかったというのですから・・・

難しい外国との交渉・・・今の日本は弱腰外交と称されて久しいですが、もはや、この国も、昇ったばかりの朝日では無いのですから、時には、これくらい強気でド~ンと行きましょうよ!
 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ

 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)
|

2011年12月 7日 (水)

意外にアタフタ?王政復古・前々夜の岩倉の手紙

 

慶応三年(1867年)12月7日、岩倉具視が大久保利通に宛て、手紙を書いています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)12月7日付けの岩倉具視(ともみ)手紙・・・

Iwakuratomomi400 「昨夜ハ長座種々申承り忝存候扨ハ九ノ事実ニ苦心候得とも九ナラデハ如何ニも不被行次第ニ至り扨々ニ遺憾千万ニ候得とも右不悪ら御承引可給候様両卿より被示候小子ニも実ニ残心候得とも右之仕合此上ハ九ニ万ニ決定之事ニ候御同志何レも態々御伝可給候也十二七
第八十九号   大久保殿 対 」

そんなに長くない手紙なので、とりあえず、前文を書いてみましたが・・・最後の「十二七」これが日づけですね。

ほんで以って、その内容は・・・

「昨日は長い事ありがとう。
ただ、になるのは、ホンマ心苦しいねんけど、“九でないとでけへん”て言わはるよって、遺憾やねんけど承知してほしいんやわ。
僕も残念やねんけど、もう、って事に決定したんで、君の同志のみんなにも伝えといてくれるかな」

てな感じです。

・・・で、何が「九」に決定したのか???

実は、コレ、あの歴史に残る王政復古の大号令の決行日の変更を、岩倉が大久保利通(としみち)に伝えている手紙なのです。

以前、
慶応三年(1867年)10月14日に成された大政奉還(10月14日参照>>)の前日の13日に薩摩藩主・島津忠義(ただよし・茂久)とその父の久光(ひさみつ)に、同じく14日に長州藩主・毛利敬親(たかちか)元徳(もとのり・定広)父子に、「討幕の密勅(みっちょく:秘密の天皇の命令書)がくだされた事をご紹介しました(10月13日参照>>)

それらのページでも書かせていただいたように、そもそも大政奉還とは、徳川幕府が政治の実権を朝廷に返上するという事・・・文字通り、政権のトップが天皇になるわけですが、徳川幕府の態勢は、その下に現体制のまま存続し、各藩主を代表とする議会のような物を最高位の天皇の下に置いて政治を行う・・・

つまり、大政奉還は幕府の生き残り作戦だったわけです。

しかし、朝廷や薩長が考えていたのは、幕府そのものをぶっ潰して、天皇を頂点に、まったく新しい政治体制にする事だったわけですが、そうして、すんなりと大政奉還されてしまっては、幕府を倒す大義名分が無くなってしまう・・・

そこで、大政奉還される前に、慌てて出したのが、前日と当日の「討幕の密勅」だったのです。

まさに、幕末って、毎日のように歴史が動くんだなぁ・・・と痛感させられる出来事だったわけですが、今回も・・・まさに、その前日に予定変更というスゴさに、ちょっと興味津々です。

・・・で、上記のように、平和的にすんなりと大政奉還されてしまって、幕府をぶっ潰せない事になってしまった薩長・・・

そこで、朝廷と薩長のパイプ役となっていた岩倉は、大久保らとともに、王政復古の大号令を発する事を計画します。

これは、朝廷の朝の会議で明治天皇王政復古の大号令をかけてもらい、その大号令によって、総裁に就任した有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)のもと、幕府側の人間をすべて排除した会議を開き、そこで、第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に対する徳川家の所領の返上、征夷大将軍職と内大臣の冠位の剥奪、一大名への格下げ・・・などを決定してしまうという、一大クーデター計画だったわけです。

ただ、この計画を立てた時点では、決行日は12月8日と決定していたのです。

最初の段階では、土佐の後藤象二郎からの延期の要請もありましたが、「朝廷が8日でないとダメって言ってるので」突っぱねて、8日に決めました。

ところがトッコイ、今度は、間際になって朝廷との交渉に当たっていた中山忠能(ただやす)「9日でないと朝廷の都合がつかない」と言ってきたのです。

しかし、もはや、気持ちが8日なってる大久保や西郷隆盛は、「8日でないと…」という主張を崩さず・・・岩倉さん、間に入ってかなり気を使ったみたいです。

・・・で、結局、大モメの末、朝廷の要望を聞かないわけには・・・と、最終的に9日に決定された事を大久保さんに知らせて、「すまんけど・・・」と、相手を怒らせないように気を使いながらの、冒頭の手紙というわけです。

めまぐるしく情勢が変わる幕末・・・ドラマでは、凛とした雰囲気で、堂々と事をこなす歴史上の人物たちですが、ウラでは結構アタフタしていたのかと思うと、そこに人間味を感じて、なにやら親しみを感じる次第です。

こうして慶応三年(1867年)12月9日、“王政復古の大号令”が発せられます(12月9日参照>>)
 

内容が「おもしろかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)
|

2011年11月12日 (土)

長州に尽くします!国司信濃の政治責任

 

元治元年(1864年)11月12日、長州藩・家老の国司信濃が、藩命により切腹しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

国司信濃(くにししなの)・・・本名を国司親相(くにしちかすけ)と言い、3年前の同じ日に書かせていただいた福原越後(ふくはらえちご)(2009年11月12日参照>>)とともに切腹を命じられた、長州藩の3人の家老のうちの一人です。

その越後さんのページでも書かせていただきましたが、彼らに切腹の命令が出た理由というのは・・・

それまで、幕末の動乱の中で尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇を中心に外国を排除する)の中心となって政界の先頭を走っていた長州藩が、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で中央から追い出されされたあげく、翌年の池田屋騒動(6月5日参照>>)で藩士を殺害された事から、中央での地位を挽回すべく、大軍を率いて京都の御所に押し寄せた蛤御門(禁門)の変(7月19日参照>>)・・・

この時の戦いで御所に銃弾を撃ち込んでしまった事から、朝敵(国家の敵)となってしまった長州藩には、時の天皇・孝明天皇から長州討伐の勅命(ちょくめい・天皇の命令)が発せられ、それを受けた幕府の大軍が派遣されます・・・これが、第1次長州征伐

このままでは、当然、幕府軍からの攻撃を受けて、長州藩の存続すら危うくなるわけですが、それを回避するための手段が、彼ら=越後と信濃と、もう一人・益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)という、蛤御門の変で中心人物となっていた3人の家老の首を差し出す事だったのです。

もちろん、中心人物だったとは言え、蛤御門は彼らの独断ではなく、藩の方針であり、藩主の命令も出ていたわけですが、ここは、藩の政策転換をアピールするためにも、彼らを切るしか、長州藩存続の方法が無かったわけです。

今回、その罪を一身に背負って散った家老のうち、越後と右衛門介は永代家老の身分でしたが、信濃は、それこそ実力で掴み取った家老職でした。

Kunisisinano500 もともと、室町幕府の高師直(こうのもろなお)の血筋で安芸国(広島県)に本拠を置いていた国司家は、長州藩では一門八家の次に位置する寄組(よりぐみ)の家系で、藩内ではかなりの身分ではありましたが、わずか21歳での家老昇進は、やはり、聡明で武芸に優れた彼の才能を見込まれての事でしょう。

文久三年(1863年)の赤間関(下関)奉行時代には、あの久坂玄瑞(くさかげんずいらとともに、関門海峡を通る外国船に攻撃を仕掛けた(5月10日参照>>)事もあるバリバリの尊王攘夷派であった信濃・・・

そんな彼が、藩のため、国のため、天皇のため、と思ってやった事で、逆に、死して詫びなければならない結果となったのは、さぞかし無念であった事だろうと思います。

しかし、先の越後同様・・・何一つ、その心情を語ろうとはせず、何一つ弁解する事無く、その命を受け入れ、見事に散っていったと言います。

しかも、信濃は、切腹後の介錯を断わり、開腹後に、自らの手で気管部に刀を当てて喉をかき斬るという凄まじい責任の取り方だったとか・・・

和歌の才能も確かだったと言われる彼の残した辞世の句・・・

♪よしやよし 世を去るとても 我が心
 御国のために なほ尽さばや  ♪
♪君がため つくせやつくせ おのがこの
 命一つを なきものにして  ♪

(天皇)のために、尽くしても尽くしても尽くしきれないこの命を、国のためになら投げ出そう!

そして、死んでもなお、彼の心は国のためを思っていた事でしょう。

元治元年(1864年)11月12日徳山澄泉寺にて、国司信濃・切腹・・・享年22歳の若者でした。

攘夷派佐幕派、どちらが善でどちらが悪なんて事はなく、ともに国の未来を思って戦っていた時代・・・彼のように将来有望な若者が、何人散っていった事でしょう。

近く本朝をうかがうに・・・
tppは平成の開国と言われ、未曽有の災害への対処と経済危機からの脱出が叫ばれる昨今・・・この21世紀の世の中では、なにも死ぬ必要はありませんが、彼らのような熱い思いだけは受け継ぎながら、平成の政治家さんたちには、新たな改革に臨んでいただきたいと願っております。

頼むから、
将来の年金は、まともにチョーダイねm(_ _)m←個人的要望
 .
 
 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)
|

2011年9月24日 (土)

西南戦争が変えたもの…

 

明治十年(1877年)9月24日、城山での最終決戦にて西郷隆盛が死亡し、西南戦争が終結しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

明治維新後に起こった、日本最後の内戦とも言われる西南戦争…その戦況については、本日の城山での戦いも含め、いくつか書かせていただいておりますので、今回は、その西南戦争がその後の軍事をどう変えたか?についてお話させていただきたいと思います。

戦いの経緯についてはコチラから↓

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

大きな戦いという物は、時代の転換期でもあります。

それこそ、明治という新しい時代をもたらした戊辰戦争は、日本の歴史上、最も大きな転換期であり政変であったわけですが、それが、大きければ大きいほど、戦争一発ですべてが変わるというわけにはいかず、そのしわ寄せ的な物も残るわけで・・・

西南戦争は、その明治維新で、最も変化した士族と呼ばれた人たち・・・彼らは、それまで、それぞれの領地で政治を行い、治安を守るという仕事をして(ろく)という給料をもらっていたわけですが、それが、維新後は、政治は政府が行い、治安は軍隊と警察が行うようになり、その行き場が無くなると同時に収入もなくなる・・・かと言って、いきなり、やったことも無い商売を始めても、なかなかうまくいかず・・・

てな不平不満が、
明治七年(1874年)2月~4月の佐賀の乱>>
明治九年(1876年)10月24日の神風連の乱>>
同年10月27日の秋月の乱>>
同年10月28日~11月8日の萩の乱>>
と、立て続けに起こる士族による反乱なわけですが、その最後で最大の反乱が西南戦争・・・

このうち、神風連の乱は旧福岡藩士で、秋月の乱は旧熊本藩士ですが、佐賀の乱は肥前(佐賀県)で萩の乱は長州(山口県)、西南戦争は薩摩(鹿児島県)・・・しかも、事前に発覚したため失敗に終わってますが、この西南戦争には、旧土佐藩士も加わるはずだったわけで、やはり、「薩長土肥(さっちょうどひ)と称された、維新の立役者となった雄藩の藩士たちに、その不満も大きかったように思えますね。

なんせ、「新しい世の中になる!」と思って命がけで戦った結果が、武士という特権の廃止というわけですから・・・(もちろん、現実の維新には様々な改革や変化がありますが、彼ら士族にとって、最も大きな変化は、コレでしょうから)

しかし、西南戦争を含むこれらの戦いは、それこそ、士族から徴兵へと、時代が変わった事を如実に表す結果となりました。

そもそも、この西南戦争が始まった時、
「この軍隊が、薩摩の猛者たちを相手にできるのか?」という不安が、政府自身にもあったのです。

なんせ、この軍隊・・・明治六年(1873年)に国民皆兵(かいへい)徴兵令を出して集めた者たちで、士族も含まれてはいますが、その多くは、戦いの経験などない農民や町民なのですから・・・

実は、その予想通り、田原坂などの白兵戦では、実際に刀を振りかざして突進して来る薩摩兵に対して、ただただ逃げ回ったり、震えて身動きできないなんていう国民兵がたくさんいたのだとか・・・

Tabaruzaka900 田原坂激戦之図(熊本市立熊本博物館蔵)

あの谷干城(たにたてき)が、熊本城で薩摩兵を相手にした時、撃って出る作戦に出ず、ただひたすら籠城したのも、「野戦になれば、徴兵の素人兵は、経験豊富な猛者である薩摩兵にかなわない」と思っていたからだとも・・・

しかし、ここで物を言ったのが、軍隊が揃えた最新兵器と、数の多さ・・・

刀を抜いての白兵では弱いものの、鉄砲を駆使した団体戦では、むしろ、薩摩兵を圧倒できたのです。

それは、勇敢な薩摩士族を相手にしていく中で、やがて、彼ら=国民兵の「俺らも、なかなかできるやん」という自信につながって行き、さらに、最終的に西南戦争で勝利した事で、士族でなくても戦えるんだ」という事の証明にもなったわけです。

しかも、この西南戦争では、上記のように抜刀隊などの白兵戦のような戦いもあった一方で、これまでの伝令や狼煙(のろし)に代わる有線電線や手旗信号や暗号といった新しい通信システムも大いに活躍しました。

この事が、徴兵された国民兵自身にも、管理する側にも大きな変革を与えます。

まずは、国民兵たちには、西南戦争で露呈した精神面の弱さや個人戦の弱さを克服するための精神訓練や銃剣訓練を徹底する事になります。

そして上部の方では、西南戦争で指揮命令系統がスムーズに運ばなかった事を反省し、作戦の立案と発令を担当する参謀本部を設置して、行政業務を担当する陸軍省から独立させ、いちいち陸軍省を通してから実務にこぎつけなくても、有事には、即、反応できるようにしました。

これらの変化は・・・

そうです。
この後、日本は、日清・日露という大きな戦争を体験します。

ご存じのように、その両方に日本は勝利するわけですが、この日清・日露の司令官の大半が西南戦争経験者なのです。

もし、彼らが、ここで旧薩摩藩士という強兵相手の大きな戦争を経験していなければ、果たして対外で優位に立てたかどうか・・・

西南戦争とは、日本の軍事を大きく変えた戦争でもあったのです。

もちろん、軍事の他にも、政治や経済に与えた影響もありますが、そのお話は、また別の機会に・・・

さらに、すでにご紹介させていただいてるコチラへの影響・・・ってのも
(こっちのその後もお楽しみくださいo(_ _)oペコッ)

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ

 

 

| コメント (10) | トラックバック (0)
|

2011年8月28日 (日)

外国の脅威から江戸を守る…品川砲台場・建設

 

嘉永六年(1853年)8月28日、黒船からの防衛ため、品川沖に沿岸砲台・御台場の築城を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

嘉永六年(1853年)6月3日、東インド艦隊・旗艦サスケハナ号・司令長官ペリー率いる4隻の蒸気船が浦賀沖に姿を見せました。

ご存じ、黒船来航です(6月3日参照>>)

♪太平の 眠りをさます 正喜撰(じょうきせん)
 たった四はいで 夜も眠れず♪

と歌われた黒船ですが、見物禁止令が出た2月3日のページ(2月3日参照>>)にも書かせていただいたように、この一件に夜も眠れないほどだったのは、一般庶民より、むしろお侍さんのうほう・・・なんせ、品川沖まで、やすやすと艦隊が入り込んで来ちゃったわけですから・・・

早速、当時勘定奉行だった川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)伊豆韮山代官江川英龍(ひでたつ)らを中心に、江戸を直接の脅威から防御するため、品川沖の海上に、石垣に囲まれた4角形、または5角形の様式の砲台を建設する事に・・・

そして嘉永六年(1853年)8月28日、その工事が開始されました。

Edowanezu800 まずは、第一から第三までが完成・・・
当初の予定では12基の建設が行われる計画で、続いて、第五、第六までは完成しましたがしたが、当然の事ながら莫大な費用がかかるわけで・・・

結局、第四台場は7割ほど完成ところで、第七台場は、未だ基礎部分の海の中の部分までで、この二つは未完成のまま、工事はストップ・・・なんせ、翌年の嘉永七年(1854年)に日米和親条約を結んじゃってますから・・・

3daibahaitizu砲台場の絵図(左)と配置図(右)…右は第三台場の様子を自作した物ですが、左の絵図は5角形なので第五台場の絵図と思われます。

この砲台場は十字砲火・・・つまり、正面からの攻撃だけではなく、側面に回った敵艦をも攻撃する事ができ、なかなかのものでありましたが、結果的に、一度も実戦に使われる事なく開国・・・当時は、品川砲台と呼ばれていた名前も、そのうち、砲台としての機能を失ったんでしょうね~大正時代頃には、台場と呼ばれるようになり、そこに敬称をいつけて、御台場と呼ばれるようになりました。

Sinagawadaiba1000 現在に地図に照らし合わせた砲台場の位置(現在は第三台場と第六台場が残っています)

では、結局、何の役にもたたなかったのか?
というと、そうでもありません。

最初のペリー来航から約1年経った2度目に来航の時は、すでに、この品川砲台の一部は完成していたため、ペリーは江戸湾に入る事ができず、引き返して、横浜から上陸しています。

ご存じのように、この時、結果的に条約を結んだ事で交戦にはなりませんでしたが、もし、砲台場の建設がなされておらず、ペリー艦隊が江戸湾へと入り込んでいた状態で交渉が決裂していたら、当時、世界一とも言わた人口密度の江戸の町が火の海になっていたかも知れませんからね~

また、もう一つ、ギリギリの線で回避された場面もありました。

それは文久三年(1863年)・・・
この3月に上洛して、朝廷と攘夷の約束をしてしまった第14代江戸幕府将軍・徳川家茂(いえもち)の意を受けて、5月に攘夷を決行した長州(5月10日参照>>)7月に薩英戦争に突入した薩摩(7月2日参照>>)・・・その家茂は、この8月には、「外国と戦争になってもやむおえない」として、一旦開港した横浜港を再び閉鎖する事を決意していたのです。

当然、そうなったら、このお台場に設置された大砲は、大いに活躍した事でしょう。

しかし、その直後に、京都で起こったのが、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)・・・これで、朝廷内の攘夷派が一掃される事となり、幕府による外国との戦争は回避されました。

次に江戸に危機が訪れるのは戊辰戦争の時ですが(1月23日参照>>)、この時は、世界的に見てもトップクラスの開軍を持つ幕府に対して、まともに戦えるほどの海軍を薩長は持っていなかったので(1月2日参照>>)、はなから陸を行く東征の体制をとっていましたから、やっぱり砲台場の出番はなかったのですね。

今や海浜公園となり、レインボーブリッジでつながり、デートの定番となっているお台場・・・今となっては、使われなくて良かった戦争の遺物って感じでしょうか?
 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ

 

 

| コメント (0) | トラックバック (0)
|

2011年8月23日 (火)

幕末の外国人商人・グラバーの置き土産

 

安政六年(1859年)8月23日、トーマス・グラバーが、開港後まもない長崎に赴任しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

長崎の観光名所・グラバー邸にその名を残すトーマス・グラバーは、1838年(天保九年)にスコットランドの小さな漁村に、8人兄弟の5番目として生まれます。

Thomasglover600 当時、中国の上海(シャンハイ)にて商売を成功させていた父にならって、商売での野望を抱いた彼は、20歳で上海に渡り、ジャーディン・マセソン商会に入社します。

そして翌・安政六年(1859年)8月23日、弟のアレキサンダーとともに、開港まもない長崎にやって来たのです。

2年後の文久元年(1861年)、そのマセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立・・・最初こそ、仲介役として、長崎の出島を拠点に、輸出業や外国人相手の不動産屋をやったりしていましたが、やがては、父譲りの才能を発揮して、独自の人脈を築いていきます。

しかも、時は、まさに幕末の混乱・・・英国海軍との強力なパイプによって上海で成功を納めた父の事を目の当たりにしていた彼は、この日本の混乱に目をつけ、武器のの販売に手を広げます。

今で言うところの「死の商人」ですが、このビッグチャンスに、そんな事言ってられません。

しかも、彼は外国人で特定の政治的な考えもありませんから、幕府をお得意様としながらも、尊王攘夷派の志士たちも支援する・・・あの伊藤博文(当時は俊輔)留学費用を出してやったり、邸宅に隠し部屋を作って幕府から追われている志士をかくまったり・・・

そんな中で、薩摩の御用商人となったグラバーは、薩摩藩の家老・小松帯刀(たてわき)の紹介で、あの坂本龍馬にも出会っています。

慶応元年(1865年)には、龍馬の亀山社中とグラバー商会の間で、総額9万2400両(約21億円)の洋式銃の取引を行い、これが長州藩へと流れたおかげで、あの第2次長州征伐での幕府との戦い方の差(6月16日参照>>)を産み、さらに後の鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)をも左右した事は、度々、小説やドラマにも登場しますね。

そんなこんなして儲けたお金で、グラバーは、大浦海岸で日本初の蒸気機関車を走らせてみたり、大規模な製茶工場を建ててみたり、小菅に船工場を作ったり、高島炭鉱を開発したりと、様々な事業を手掛けました。

ところが、残念ながら、かの鳥羽伏見から戊辰戦争の頃が彼のピーク!・・・維新が成って安定した社会が築かれ始めるとグラバー商会は一気に傾きます。

確かに、グラバーには先見の目がありました。

「この先、平和な時代が訪れると武器は売れなくなる」
だから
「別の産業に先行投資しよう」

そう思って彼が起こした事業は、どれもこれも的外れではなく、むしろ将来の日本を担う有望な市場であったわけで、その目のつけどころは間違っていなかったのです。

ただ、明治維新という変革のスピードが、グラバーの予想以上に早かったのです。

武器が売れなくなった一方で、諸藩からの商品代金回収はなかなか進まず、あげくの果てに新政府の三条実美(さねとみ)からは、見事、借金を踏み倒され・・・

明治三年(1870年)、ついにグラバー商会は倒産してしまいました。

彼が先行投資した様々な事業が花開くのは、それからしばらく経ってからの事・・・

倒産後も日本に留まっていたグラバーは、最終的に、あの岩崎弥太郎の物となった高島炭鉱の顧問となって経営に当たりますが、これが、三菱財閥の躍進の大きな原動力となるのは、皆さまご存じの通り・・・

先の小菅の船工場も、やがて三菱造船所の母体となり、花開きます。

さらに、炭鉱顧問時代に、横浜にあったビール工場の経営不振の立て直しにも尽力したりしてますが、この会社は、現在のキリンピールであります。

晩年は東京で暮らしながら、外国人であるにも関わらず勲二等旭日重光章という勲章まで授与されているのですから、幕末に大儲けした財産はなくなってしまったものの、彼が日本に残した業績は大したものですね。

その中でも、「追われる志士をかくまう」・・・ひょっとしたら、これが、その先の日本にとっての一番の先行投資だったかも知れませんね。
 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ

 

 

| コメント (8) | トラックバック (0)
|

2011年8月19日 (金)

榎本武揚率いる旧幕府艦隊…品川沖を脱出

 

慶応四年(明治元年・1868年)8月19日、榎本武揚旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご存じのように、戊辰戦争は、慶応四年(明治元年・1868年)の1月3日に、江戸にてテロ行為を行う薩摩(12月25日参照>>)への討伐許可を得ようと、鳥羽街道伏見街道を大坂から京都へと向かっていた幕府の行列に、薩摩が砲撃した事で合戦の火蓋が切られ、鳥羽伏見の戦いと呼ばれます(1月3日参照>>)

しかし、すでに書かせていただいているように、実は、その1日前・・・
オランダ留学から帰国したばかりの榎本武揚(えのもとたけあき)が指揮する幕府戦艦・開陽丸(かいようまる)が、大坂湾上で薩摩の平運丸(へいうんまる)など3隻の軍鑑をとらえ、一斉砲火を浴びせて大勝利していたのです(1月2日参照>>)

おそらく、ここでの武揚は、幕府の海軍の強さを再確認するとともに、「これやったら、いける!」と思ったに違いありませんが、残念ながら、陸戦のほうは見事敗退・・・(1月5日参照>>)

そこで武揚・・・開陽丸を大坂湾に横付けし、反撃の秘策を胸に、大坂城にいる第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)のもとへと向かいます。

ところがドッコイ、その間にドラマのようなすれ違い・・・なんと、わずかの近臣だけを連れて大坂城を出た慶喜が、武揚のいなくなった開陽丸に乗り込んで出航・・・勝手に江戸へと戻ってしまうのです(1月8日参照>>)

完全に入れ違いに大坂城にやってきた武揚は、スカを喰らわされたウップンを晴らすかのごとく、大坂城に残っていた武器や什器などをはじめ、18万両の御用金までもを富士丸という船に積み込んで、やむなく出航・・・この富士丸には、ご存じ近藤勇土方歳三ら新撰組も乗船して、ともに江戸に戻りました。

その直後、大坂城は炎上し、戊辰戦争の初戦=鳥羽伏見の戦いは幕を閉じました(1月9日参照>>)

この鳥羽伏見の交戦中に、錦の御旗を掲げて官軍となった事を知らしめ、意気揚々の薩長は、やがて江戸へと迫ります。

そんな中で、官軍との徹底抗戦を叫ぶ者も多くいた江戸城内・・・江戸に戻ってすぐに海軍副総裁に任命された武揚も、「軍鑑で大坂を攻撃して畿内を制圧し、江戸城目前のところにいる官軍を挟み撃ちする」てな作戦を提案しますが、そんな抗戦派に立ちはだかっのが勝海舟(かつかいしゅう)・・・

1月23日に行われた江戸城での作戦会議(1月23日参照>>)の後、抗戦を避けて恭順姿勢による戦争回避を決断した慶喜・・・そんな将軍の決意を受けて実現したのが、あの勝海舟と西郷隆盛の世紀の会談でした(3月14日参照>>)

そこでの話し合いで、来たる4月11日に開城される事になった江戸城・・・

しかし、納得のいかない武揚は、その4月11日の夜、開陽丸以下、8隻の軍鑑を率いて、品川沖から館山沖へと退去してしまいます。

慌てて武揚の説得に向かう海舟・・・

江戸城が開け渡された以上、残るは、海軍の引き渡しと、今後の徳川家の行く末・・・

ここで、海軍の引き渡しをゴネてたら、徳川家への処分も、慶喜の処刑や家名の断絶なんていう最悪な事になりかねません。

「徳川家への処分」をチラつかせられたら、さすがの武揚も応じざるを得ず・・・軍鑑を、自らの指揮下に置きながらも、その場所は品川沖へと戻し、しばらく様子を見る事に・・・

やがて5月24日、徳川家の当主を未だ幼い徳川亀之助(家達)とする事と、駿河70万石への転封が決定します(5月24日参照>>)

何とか、徳川家は存続する事になった・・・おそらく、武揚も、この決定を待っていた事でしょう。
「これで、思う存分、ゴネられる」と・・・

ここで効いたのが、あの鳥羽伏見の戦いの最後に大坂城からパクって来た武器や什器や御用金・・・これらを軍資金に、軍鑑に燃料を詰め込み、密かに購入した武器弾薬を運び込み、新政府の目をかいくぐって市内に残る将兵を乗り込ませ・・・と、着々と脱走準備にとりかかります。

もちろん、これから向かうであろう東北で奮戦中の諸藩とも連絡をとりながら・・・
(江戸城が開城された事で戊辰戦争の舞台は東北に移っています。
 ●会津・白河口攻防戦
(5月1日参照>>)
 ●北越・朝日山争奪戦(5月13日参照>>)

Keioubosinsinagawasyukkou8 慶応戊辰秋八月品港出帆之図(函館中央図書館蔵)

かくして慶応四年(明治元年・1868年)8月19日の夜明け前・・・久しぶりに晴れ渡った空に、旗船・開陽丸から発せられた進軍ラッパの音が響き渡りました。

開陽丸に従うのは、回天(かいてん)蟠龍(はんりょう)千代田形(ちよだがた)(以上軍鑑)神速(しんそく)長鯨(ちょうげい)咸臨(かんりん)美嘉保(みかほ)(以上輸送船)合計8隻・・・月明かりに照らされた海を、一路、北へと向かいます

目指すは蝦夷地(えぞち・北海道)ですが、まずは、頑張ってる東北の彼らのもとへ・・・

ところが・・・
この、旧暦の慶応四年8月19日というのは、新暦になおせば1868年の10月4日・・・残念ながら、思いっきり台風が近づいて来ちゃってました。
(戦国軍師のような天気予報士は同行してなかったのか?)

その日のうちに暴風雨に遭遇した艦隊は、開陽丸にえい航されていた美嘉保が沈没、観音崎で咸臨丸が座礁・・・その後、何とか動く残りの艦隊が、散り散りになりながらも、約束の仙台領松島湾に到着した時には、千代田形と長鯨以外は、皆、満身創痍・・・ボロボロのズタズタでの再会となりました。

そしてこの後、榎本艦隊は、気盛んな東北の猛者(もさ)を加えて、さらに北へと向かう事になりますが、そのお話は、また、その日に書かせていただく事にします。
 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ

 

 

| コメント (2) | トラックバック (0)
|

2011年8月14日 (日)

徳川慶喜の参謀・原市之進

 

慶応三年(1867年)8月14日、幕末期に、幕府目付として活躍した原市之進が暗殺されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)10月14日・・・ご存じ、大政奉還(たいせいほうかん)が行われました。

徳川幕府が政権を天皇に返上する・・・一見、徳川幕府の敗北宣言のようにも見える、この大政奉還ですが、実は、そうではない事は、このブログでも時折書かせていただいておりました。
2006年10月14日>>2011年11月22日参照>>

もはや、薩摩と長州には倒幕以外は見えなくなっていた時代、その上げた拳を引っ込ませるためには・・・

一旦、天皇へと政権を返上し、その天皇の下に、各大名家からの代表者による議会を設置し、その者たちによる政治を行えば、体系そのものは現在の幕府組織とほとんど変わらない議会という物で幕府が生き残る一方で、政権は返上してしまっているので薩長が幕府を倒すための大義名分は無くなる・・・

つまり、幕府が生き残るための大政奉還だったわけです。

思えば、この時点では、完全に、倒幕あるのみの西郷隆盛大久保利通を、将軍・徳川慶喜(よしのぶ)翻弄した感さえあります。

しかし、その後、まんまと西郷らの挑発に乗って(12月25日参照>>)突入してしまった鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)では、負けが決まったと同時に、わずかな側近だけを連れて、単身、江戸へと戻ってしまう慶喜・・・(1月6日参照>>)

確かに、批判覚悟の敵前逃亡には、慶喜なりの言い分や考えもあったのでしょうが、見事なタイミングで大政奉還を決断した鮮やかさに比べて、その後の行動は、何となく尻すぼみの体たらくな印象はぬぐえません。

実は、この慶喜の中の格差に、大きく影響していたのが、原市之進(はらいちのしん)という人物の死・・・ではないか?と言われています。

つまり、大政奉還までのシナリオまでは、すでに市之進が慶喜にアドバイスしていたものの、その先を決めないまま市之進が亡くなってしまったため、その後は、まるで空中分解するがのごとく、慶喜の態度がフラフラするようになった・・・という事です。

Haraitinosin400 それほどまでに慶喜の信頼を受けていた原市之進・・・

彼は、水戸藩の勘定奉行を務めた原雅言(まさこと)の次男として生まれ、藩校の弘道館に学んだ後、江戸の昌平坂学問所を経て、安政二年(1855年)の26歳で帰国してからは、弘道館の先生をするほどの優秀さでした。
 

ご存じのように、もともと水戸藩というのは、「水戸学」という尊王思考の強い場所・・・まして市之進は、その水戸学のリーダー的存在だった藤田東湖(とうこ)(10月2日参照>>)の従兄弟に当たりますから、それこそ、もともとはバリバリの尊王派でした。

幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)ロシアとの交渉のたに長崎に行った時には、その従者として付き添い、勤王の志士たちとも大いに交わって、むしろ、尊王派の若きリーダーとして期待される人物だったのです。

一説には、あの桜田門外の変(3月3日参照>>)坂下門外の変(1月15日参照>>)影で演出したのは彼だったとも・・・

しかし、そんな市之進が、文久三年(1863年)に慶喜の側近となり、その補佐を務める事となります。

もともと、その慶喜が水戸藩出身だった縁なのでしょうが、翌年の元治元年(1864年)には、暗殺された平岡円四郎の代わりとして側用人となり、慶応二年(1866年)には幕臣に取り立てられます。

それこそ、慶喜からの信頼の証と言える出世ですが、それには、過去の尊皇派から一転、慶喜の側近となったからには、主君に忠誠を誓い、「出来る限りの事をやってのける!」という市之進なりのポリシーがあったのでしょうが、当然の事ながら、この転身ぶりを快く思わない者もおり、幕府内に敵が多い人でもありました。

ところで、第2次長州征伐の真っ最中だった慶応二年(1866年)7月、第14代将軍の徳川家茂(いえもち)が大坂城で亡くなった(7月20日参照>>)事を受けて、翌・8月には、慶喜が徳川宗家を継ぐのですが、これまでの例なら、徳川宗家を継ぐと同時に、そのまま将軍職につくのが一般的でした。

ところが、慶喜が将軍に就任するのは、それから半年後の12月5日・・・この動乱の時期に、実は半年間も将軍が空白になっていたのです。

実は、これも市之進の案・・・
「長州征伐の真っ最中に将軍職を継ぐやなんて・・・貧乏くじもえぇとこですやん!
そないに、自分を安売りしたらあきません。
もっと引っ張って引っ張って、幕閣や大名たちに、“どうか
(将軍に)なってください”って言わしてからにしなはれ」
と・・・

今後、この幕府存亡の危機に相対するには、将軍として、権力を行使する機会も増えるはず・・・その時のためにも、幕府の基盤をできるだけ強化せねばなりませんから、望まれてリーダーとなった事を強調しておく事に越した事はないわけです。

そんな市之進は、あの勝海舟の事が大嫌いで、海舟も市之進が大嫌い・・・

しかし、後の海舟の回顧録では、「陰険で大嫌いやったけど、頭のええヤツやった」と、自分大好きでめったに人を褒めない海舟が彼を褒めるあたりは、やはり相当な人物だったという事なのでしょう。

ただ・・・やっぱり敵は多かった・・・

慶応三年(1867年)8月14日、自宅にて、仲間であるはずの幕臣・鈴木豊次郎依田雄太郎によって暗殺され、市之進は38歳という若さでこの世を去りました。

『昔夢会筆記(せきむかいひっき)によれば、この暗殺劇を裏で指示したのは、あの山岡鉄舟だったとか・・・

慶喜にとって、正確な情報を届け、正確な判断のもとに助言をくれる腹心・・・最も信頼できる補佐役を失った慶喜が、この後からフラついて見えるのは、おそらく、私だけではないはずです。

助けもするけど、苦言も呈す・・・良きリーダーには、このような側近がいなくてはならなのは、いつの世も同じですね。
 

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ

 

 

| コメント (4) | トラックバック (0)
|

より以前の記事一覧