カテゴリー「 源平争乱の時代」の60件の記事

2008年4月29日 (火)

武蔵坊弁慶=架空人物説について・・・

 

文治五年(1189年)4月29日、源頼朝の命を受けた藤原泰衡によって、衣川の館に追い詰められた主君・義経を守って、あの武蔵坊弁慶が命を落しました

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義経と言えば弁慶、弁慶と言えば義経・・・五条大橋でのあの出会いから、彗星のごとく歴史の舞台に踊り出て、西海に平家を滅ぼし、頂点を見たそのわずか数ヶ月の後に追われる身となり、奥州にて命を落す主君・源義経と、離れる事のないその主従関係は、古くから人々の涙を誘い、滅び行く者の美学を究め、日本人独特の「判官びいき」を育んできました。

鎌倉の昔から、誰もが信じて疑わなかったその人物に、ここ最近になって「架空人物説」なるものが囁かれています。

これも、ひとえに、弁慶の事が一番くわしく書かれている『義経記』なるツッコミどころ満載の書物のなせるワザ・・・。

まずは、鎌倉時代か室町時代に成立したと言われるその『義経記』での弁慶像をご紹介しましょう。

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京の都に住む公家・二位大納言(にいのだいなごん)の娘は、音に聞こえた美人・・・15歳というお年頃を迎えて、次から次へと求婚の嵐の中、彼女の父のハートを掴んだのは、右大臣・師長(もろなが)でした。

ところが、婚約が決まった途端、姫がノイローゼに・・・
(マリッジブルーか?)

しかし、その時、父と婚約者が、姫の快復を願って、日頃から信仰している熊野権現にせっせとお参りした甲斐あって、まもなく、姫の病気は快復します。

「よかった、よかった」と、翌年の春を待って、今度は姫も連れて、百人のお供とともにお礼参りに・・・と、ここで、その姫の姿を見て一目惚れした男がひとり。

自称・関白藤原道隆の子孫で、現在この熊野の最高責任者である修験者・弁しょうでした。

そして、部下を集めて一言・・・
「あの姫を、ここへ連れて来い!ワシがかわいがったる!」

この部下というのは僧兵・・・ご存知のように、この時代の僧兵というのは、もはや僧ではなく兵士、神をも恐れぬ荒くれ者たちばかりです。

しかし、さすがの荒くれ者たちも、今回の姫の略奪には、ちゃんとした義という物がありませんから、
「そんな~・・・相手は二位大納言の娘・・・しかも、右大臣の婚約者でっせ!そんな事したら、朝廷を敵に回す事になりまんがな!」
と、反対意見を述べますが、もはや、弁しょうは聴く耳を持ちません。

「おまえらビビリか!そんなモン畿内五ヵ国の兵を、この熊野に一歩も踏み込ませへんかったらすむこっちゃ!」

この弁しょうが若いイケメンなら、略奪愛という響きも、ドラマのワンシーンのように、それなりにかっこいい物になるのでしょうが、残念ながら、もうすでにかなりのオッサン・・・で、その夜のうちに、姫は略奪され、あわれオッサンの餌食に・・・

もちろん、姫を警固していた侍たちは、即座に朝廷に直訴し、たちまちのうちに『弁しょう討伐の院宣(天皇の命令)が下り、右大臣・師長を大将に7000騎が熊野に攻め寄せます。

しかし、熊野の僧兵たちは、この大軍を見事けちらしてしまうのです。

さらに、この敗戦を受けて開かれた朝廷の会議で、一部公暁の「聖地・熊野を滅ぼしてはならない」という意見が通り、中には「弁しょうは関白の子孫だから、姫の婿としてふさわしい」なんてのたまう者も現れ、なんと!院宣が取り消されてしまったのです。

こうなったら、父も婚約者も、もう、どうする事もできません。

そして、姫は、18ヶ月もの妊娠期間を終えて、男の子を出産するのです。

普通の妊娠期間の倍ほどの間お腹にいたその子は、すでに普通の赤ちゃんの2~3倍の体格で、歯は奥歯まで生えそろい、髪も肩まで伸びていました

さすがの弁しょうも、
「この子は、鬼の子だ!殺してしまえ!」
と、大騒ぎ・・・。

しかし、姫にとっては、たとえどんな風貌をしていても、かわいいわが子・・・「とても、殺すなんて事できないワ」と、弁しょうの妹に相談したところ、彼女も女・・・母の子を思う気持ちがよくわかります。

結局、その妹が引き取って京都で育てる事にします。
男の子は鬼若(おにわか)と名づけられました。

やがて、5歳になった鬼若は、すでに12~13歳の子供の体格で、色黒く、可愛さは皆無・・・日に日に憎々しさが漂ってくるのです。

預かった妹も、「もう、僧になってもらうほかない・・・」と、鬼若を比叡山に預けます

こうして、比叡山で育った鬼若は、まずは学問でその才能を見せつけますが、もともと体格が優れているので、力でも誰にも負けません。

いつも、稚児や法師を誘っては、相撲や力比べをしていましたが、そのうち、学問に励んでいる者まで、誘い出すようになった事で、僧たちから注意勧告が出されます

それにブチ切れた鬼若・・・注意した僧の部屋をメチャメチャにぶっ壊してしまったのです。

ここから鬼若の大暴れ人生が始まります。

ちょっとした事で、因縁をつけては殴る蹴る・・・道ですれ違っただけで暴行の嵐!

困り果てた僧たちが、朝廷に訴えますが、たまたま残っていた古い文献に・・・
「61年めに比叡山に不思議な者が現れる・・・これを祈祷で鎮めよ。院宣で倒せば、その後、一日のうちに54ヵ寺が滅びるであろう」
・・・と書かれていた事から、朝廷は、来る日も来る日も、祈り祈りでラチがあきません。

こうなると、ますます鬼若は調子に乗って暴れまくりでしたが、こういう人って、だんだんと誰も相手にしなくなるもの・・・気づけば鬼若はひとりぼっちになってしまっていました。

「こんなオモンナイとこ、自分から出てったる!」
と、比叡山を後にした鬼若は、
「世間をわたるには、法師の姿になるのが一番!」
と、ばかりに頭を丸めます。

しかし、そうなると、鬼若という名前ではマズいので、比叡山の西塔にあった武蔵坊の名と、父・弁しょうの弁と、師匠・かん慶の慶とを合わせて、武蔵坊弁慶と名乗ります。

その後、書写山に入り、ここではマジメに修行をつんでいたのですが、その修行が終って、山を出ようとした時、その寺の信濃坊戒円(かいえん)という僧のちょっとしたからかいに激怒して大暴れ!

その時の、ドサクサで出た失火によって書写山の堂塔・57ヵ所がことごとく灰になるという大事件に発展してしまいます。

この失態によって、間もなく信濃坊は朝廷に捉えられて処刑され、弁慶は逃亡生活を送る事になるのです。

逃亡者となって、もはや安住の居場所がなくなった弁慶は、夜な夜な強盗を働いて日々を過ごします。

そう、あの、「公家や侍の宝刀を千本集める」というアレです。

・・・と、999本の刀を奪い、千本目にやって来たのが、義経・・・京の五条の橋の上~♪となるのですが、以前、義経と弁慶、運命の出会い】(6月17日参照>>)で書かせていただいたように、『義経記』での二人の出会いは堀川通り・・・橋の欄干をヒラリと飛ぶことは、ちょっとムリ・・・かな?

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・・・と、少し長かったですが、『義経記』の弁慶の生い立ちの部分を紹介させていただきました。

・・・で、読んでいただいたらすぐにわかる突っ込みどころが、まず18ヶ月の妊娠期間・・・生物学上こんな事ってあり得るんでしょうか?

私は、くわしくありませんが、たぶん無いですよね。
生まれた時に、奥歯まで歯が生え揃ってる事もないでしょう・・・(そんなん、親知らず過ぎ!)

さらに、マジメな突っ込みどころとしては、熊野の最高権力者=熊野別当だった弁しょうの息子であるはずなのに、『熊野別当代々記』には弁慶の名前が無い

それに、鬼若という幼名・・・どう考えても、来るべき義経=牛若との出会いを考えての命名としか思えないような名前の付け方・・・。

そして、名前の由来となる比叡山の西塔には、武蔵坊という建物はありません

これらの事が中心となって、「弁慶=架空人物説」なるものが展開されているわけですが、そうなると、主君・義経の盾となり、雨のように降り注ぐ矢を受けながら、立ったまま命を落とした・・・いわゆる『弁慶の立ち往生』として有名な文治五年(1189年)4月29日の死どころか、衣川にさえいなかった事になってしまいます。

しかし、一方では、この時代の最も信頼のおける書物とされている『吾妻鏡』にも、チラッとではありますが、弁慶の名は出てきます

もちろん、『平家物語』にも・・・

弁慶が実在の人物だと主張する側にとっては、『吾妻鏡』『平家物語』への登場はかなり心強い・・・なんせ、これらが信用できないとなると、平安の終わりから鎌倉にかけての歴史そのものを考え直さなくちゃいけない事になってしまいますからね。

・・・かと言って、やっぱり決定打はなく、論争は、まだまだ続く事となります。

私、個人としては、今のところ、弁慶は実在の人物だと思っています。

ただし、弁慶の生い立ちや、五条大橋の出会いのくだりは、義経の生涯をよりロマンチックに演出するためのフィクションではないか?と・・・。

弁慶が義経の家来となるのは、兄・頼朝の命を受け、木曽義仲と平家追討のために、義経が京にやって来た時ではないでしょうか?

この時は、度重なる源平の争乱で、源氏や平家にとっては、兵はひとりでも多いほうがよかったはず・・・逆に、無名の人物が名を上げるためには、このような合戦に参加して武功を上げるのが、一番の近道

弁慶も、そのような人物の中のひとりであったのだと思います。

死に行く主君に最後までつき従ったその忠義の姿が、美しく語り継がれるうちに、一つの伝説が生まれ・・・また生まれ・・・やがて、今に伝わる弁慶像なる物ができあがったのではないでしょうか?
 

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2008年3月24日 (月)

壇ノ浦合戦~潮の流れと戦況の流れ

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、源氏VS平氏の最後の戦い『壇ノ浦の合戦』がありました

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一の谷の合戦鵯越の逆落とし>>青葉の笛>>)、
屋島の合戦嗣信の最期>>扇の的>>)と敗北を続け、
さらに、西へと逃れ、本州最後の下関(山口県)に近い彦島へと後退した平家。

いよいよ源氏軍が迫ってきた知らせを受けた平家は、亡き清盛の三男・平知盛を総大将に、壇ノ浦での迎撃を決意します。

源氏の総大将・源義経八艘飛びや、哀れを誘う安徳天皇身投げのシーンなどが、ドラマなどで描かれる事が多く、しかも、ここで平家が滅亡してしまうという結果も相まって、何かと源氏の圧勝のように思ってしまうこの壇ノ浦の合戦・・・かく言う私も、昨年の今日のブログで、『先帝の身投げ』を書かせていただきましたが、実は途中までは、むしろ平家の圧勝で、本来なら平家が勝っていてもおかしくはない、壇ノ浦の戦いだったのです。

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寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、白々を明けた瀬戸内の海・・・。

東には、白旗をなびかせる源氏の軍船・3千余艘。
西には、安徳天皇の御座船を囲んで、赤旗たなびく平氏の軍船・千余艘。

Dannourakassenzucc 壇ノ浦の合戦

この壇ノ浦という場所は瀬戸内の中でも、屈指の潮流の速度とその変化の激しい場所です。

この日の潮の流れを見てみると・・・
・5時10分:高潮西流
・8時30分:西流から東流に変化
・11時10分:東流最速
・15時:東流から西流に変化
・17時45分:西流最速
・20時30分:西流から東流に変化
・・・となっています。

この流れが変化するひとときは、ほぼ潮流がストップ事になるのですが、もちろん、海に強い平家は、この潮流の変化も計算しつくしての挑戦です。

・・・と、開戦の前に、早くも、平家と源氏の軍勢の違いが浮き彫りにされます。

屋島直前の時(2月16日参照>>)と同様、またしても、モメる源氏軍・・・。

その日の先陣を願い出る梶原景時に対して、義経は・・・
「アホか!一番は俺やっちゅーねん」
と、譲りません。

「大将軍が先陣をきるなんて、カッコ悪い事しなはんな」
と景時が言うと・・・
「大将軍は鎌倉におる兄貴(頼朝)やんけ!俺は、お前らと一緒・・・侍大将みたいなモンやっちゅーねん。」

「義経はんは、所詮小物やなぁ・・・リーダーには不向きや」
・・・と、景時。

「何やと!アホぬかせ!」
と、義経は刀に手をかけ、景時は景時で・・・
「大将軍が鎌倉殿(頼朝)で、義経はんが、俺らと格が一緒やねんやったら、遠慮する事ないワケやんな」
と、これまた刀に手をかける・・・

結局は、まわりの落ち着いた人々が止めに入り事なきを得ましたが、もう、二人とも大人なんだからぁ・・・と言いたくなるような光景です。

一方の平家は・・・
「どんな勇士でも、運命には逆らえんねから、負ける時は負けるかも知れん。
けど、東の田舎侍に、バカにされるようなカッコ悪い負け方はしたないしな。
後々の語りぐさとなるように、命惜しまんと戦おや」

と、知盛が言うと・・・

上総悪七兵衛が・・・
「あいつら、陸での戦いには慣れてるやろけど、船に関してはシロウトや。
魚が木に登ったようなモン・・・近づいて来たら海に投げ込んだるわ」

越中次郎兵衛も・・・
「どうせやったら噂の義経と・・・アイツは背ぇが低ぅて、色白の出っ歯やさかい、見つけやすいはずやけど、ごっつい甲冑着てると、見分けられるかなぁ」

「いや、大丈夫・・・あんなヤツ、俺が小脇に抱えて大阪湾に・・・いや、瀬戸内海に沈めたるっちゅーねん」
と、コチラは皆さん、チームワークばっちりです。

そうこうするうち、午前6時、平家の挑戦によって合戦が始まるのです。

そう、海を知り尽くした平家は、先ほどの潮の流れを考えての戦闘開始です。

この時点での潮の流れはゆっくりとした西向き・・・しかし、一時もすれば、流れは止まり、今度はゆっくりと東向きに、そして、戦況が山場に入った頃には、平家に有利な東流のピークとなります。

おそらく、平家の計算では、東流の最速を過ぎた正午頃には決着をつけるつもりだったでしょう。

船団を3隊に分け、先陣・500艘、第2陣・300艘、第3陣には平家の公達自らが乗り込む200艘が、整然と進軍します。

そこで、先陣に乗り込む兵藤次透遠(ひょうどうじひでとう)率いる山鹿勢は、弓の名手・500名を最前列に置き、一斉に矢を放ちました。

これには、結局ゴリ押しで、源氏軍の先陣となった義経も大慌て・・・たちまち窮地に追い込まれます。

この時、陸から見ていた源氏軍の和田義盛の軍勢が、慌てて馬に乗ったまま海に入り、そこから平家の船団に向かって必死で矢を放っているくらいですから、まさに、開戦直後にアブナイ場面が展開された事がわかります。

そして、終始、平家軍有利に合戦が展開される中、やがて、例の東流の最速の時間帯がやってきます。

源氏軍は、千珠満珠という小島のあたりに追い詰められ、もはや、絶体絶命・・・しかし、ここで、義経お得意のとっぴな発想のお出ましです。

義経は、味方の軍に、敵の戦闘員を無視して、船を操るこぎ手や舵取りを、矢で狙うように指示するのです。

それは、今まで誰もやらなかった作戦・・・思いつかなかったのではなく、掟破りの暴挙!
武士にあるまじき卑劣な作戦です。

しかし、考えれば、合戦=戦争にルールを守る必要はないワケで、ズルイもクソもあるはずもなく、軍を率いる大将としては、当然と言えば当然です。

この義経の作戦は、見事成功!

なんせ、潮の流れは、東向きのピークに達しようとしているわけですから、こぎ手と舵取りを失った船は、勝手に源氏軍の待つ東に向かって、ひょろひょろと流れてくるのです。

そこを一気につかれたなら、平家にとってはひとたまりもありません。

またたく間に、先陣と第2陣は総崩れとなり、戦況は源氏有利に変わったのです。

やがて、午後3時頃・・・潮の流れは、ピタリと止まり、今度は源氏の進攻を助けるかのように、ゆっくり西へと流れを変えていきます。

この時、平家の運は尽きた・・・という事になります。

それは、この合戦に参加していたすべての武将が感じとった事・・・これを境に、九州や四国から、平家の呼びかけに答えて参戦していた武将たちは、次々と源氏へと寝返るのです。

もちろん、平家の総大将・知盛にも、この戦況の変化は痛いほどわかりました。

Dannourakikuningyoucc 2005年枚方菊人形・義経の壇ノ浦の場面

この後、昨年のブログで書かせていただいた、知盛が、安徳天皇の乗った御座船へと戦況を伝えるシーン(またまた3月24日参照>>)へと展開していく事になるのです。
 

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2008年2月19日 (火)

屋島の合戦~佐藤嗣信の最期

 

文治元年(寿永四年・1185年)2月19日は、源平合戦の屈指の名場面・扇の的で有名な『屋島の合戦』のあった日です。

・・・と、昨年の今日は、屋島の合戦の中でも、名場面と言われる『扇の的』(2月19日参照>>)のお話を書かせていただきましたが、屋島ではもう一つ、扇の的の前に、あの『佐藤嗣信の最期』という屈指の名場面があります。

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『一の谷の合戦』(2月7日参照>>)で破れ、四国の屋島へと向かった平家。

兄・頼朝の承諾を得ずに官位を貰った事で、しばらく謹慎処分になっていた源義経が、平家追討軍の大将に復帰するなり、わずかの兵で嵐の海を越えて四国に上陸したところまでは、先日の『めざせ!屋島・・・』のページで書かせていただきました(2月16日参照>>)

四国の勝浦に上陸した義経軍は、高松の民家を次々に焼き払いながら、一路屋島を目指します。

それは、最初に義経とともにやって来た源氏勢が、わずかに5艘・・・途中から加わった近藤六の手勢を加えても、合計150騎の義経軍を、より多くの軍勢に見せかけるための作戦でした。

その狙い通り、屋島にいた平家一門に「高松に火の手が・・・」の情報が入るやいなや、平宗盛(清盛の次男)「源氏軍が相当な数で攻め寄せて来ている」との判断をします。

早速、安徳天皇の御座所を船に遷し、そこには建礼門院(清盛の娘)二位の尼(清盛の奥さん)をはじめ、宗盛親子も乗り込み、早々に漕ぎ出します。

他の船も、われ先に女官や公達が乗り込み、次々と出ていきます。

少し沖へ出た頃、ちょうど浜辺に到着した義経率いる源氏軍の先頭集団・約80騎。

その先頭集団は、ちょうど引き潮であった海岸から海に入り込み、大きなしぶきを上げて沖の船に近づこうとします。

実は、これもまた義経の作戦。

わずか80騎の先頭集団が、浜辺に現れるなり、いきなり海に入り、馬の蹴上げる水しぶきの中、サッと白旗を掲げる事によって、より多くの軍勢に見せかけたのです。

やがて、到着した義経は、軍勢の一歩前に進み出て名乗りをあげます。
「我こそは、一院の御使、検非違使五位の尉源義経」

続いて、伊豆の住人・田代信綱武蔵の住人・金子家忠・・・そして伊勢三郎義盛以下、義経の郎党も次々と名乗りを上げます。

その間に、浜辺へは出ずにいた源氏方の後藤実基が、人影の無くなった内裏や総門などの建物に火を放ちます。

たちまちのうちに燃え上がる炎・・・それは、沖で留まる平家の船からもよく見え、この頃になって、ようやく宗盛は、源氏軍の兵の数が、予想以上に少ない事に気づかされるのです。

「しもた・・・こんな事なら、慌てて海に出んでも、浜辺で応戦したら、難なく撃退できたものを・・・」
悔やんでもしかたありません。

何とか、反撃に出る方法はないか?と思案する中、平家きっての猛将・平教経(清盛の甥)に、陸へとって返し一戦を交えるように指示します。

「ガッテン承知」とばかりに教経を大将にした平家軍・約500の兵士が小舟に分乗し、越中盛嗣を先頭に、陸へ向かって押し寄せ、焼け焦げた総門のあたりに陣を敷きます。

義経軍も、矢の飛距離を考えつつ、少し退いて陣を敷きました。

先頭きってやってきた盛嗣が・・・
「さっき、なんや、ボソボソと名乗りみたいなモンあげとったけど、海の上におったさかい聞き取れんかったわ!・・・で、いったい、今日の源氏の大将は誰やねん!」

すると、伊勢義盛が進み出て・・・
「今更言うまでも無いだろ?清和天皇から数えて10代目、鎌倉殿(頼朝)の御弟の九郎判官殿よ!」

「あ・・・思い出した!先の平治の合戦で、完敗してオヤジが死んで、鞍馬の小坊主になったあと、金商人にの手下になり下がって、商人の荷物持ちやりながら奥州をウロウロはいつくばっとったガキやな!」

「テメェが男のくせにおしゃべりだっつーのは、噂に聞いてたけどよ!ペラペラとウチのアタマの悪口言うんじゃねぇよ!テメェらこそ、倶利伽羅峠の合戦で大負けして、北陸をさ迷い、物乞いをしながら帰って来たヤツラなんだろ?」

「何ぬかしとんねん!物乞いなんかするか~ちゅーねん!お前こそ鈴鹿の山で山賊やっとったくせに」

一見、ムダに見えるこの悪口の言い合い・・・実は、この間に、盛嗣の後ろからジリジリと弓を引いて狙いを定めていた者がおりました。

そう、平家の大将・教経です。
彼は、都一の弓の名手とうたわれた人物・・・「彼に狙われたら射抜かれない者はいない」と言われていたのです。

彼の狙いはただ一人・・・源氏の大将・義経です。

さすがに、そのスルドイ視線に気づいた源氏勢・・・義経の前に、馬の頭を並べて、その前をふさぎます。

教経は・・・
「オラ、どかんかい!矢おもてに立つザコども!」
と言うなり、立て続けに矢を何本も放ち、またたく間に、10人ほどが馬から落ち、その場に倒れます。

その中には、あの佐藤嗣信が・・・。

彼は、義経が奥州を出る時、藤原秀衡が与えてくれた家臣・佐藤兄弟の兄のほう。

「命を賭けてお守りします」と主従関係を結び、ともに平家打倒を夢見て旅立ったあの日から、その言葉の通り、我が命に代えても、義経を守る覚悟でいた嗣信は、誰よりも前に出て、主君の盾となっていたのです。

教経の放った矢は、嗣信の左手の肩から、右手の脇腹へと抜け、浜辺に落ちたその身体は、ピクリとも動きません。

そこへ、教経の従者である怪力自慢の菊王丸という18歳の若者が、嗣信の首を取ろうと、長刀を振りかざして近寄ります。

「させるか!」
と、弟の佐藤忠信が即座に放った矢は、菊王丸をまともに討ちぬき、彼もまたその場に倒れます。

そばにいた主君の教経が菊王丸を引きずり、船へと乗せますが、彼はもはや即死状態。
教経は、この菊王丸・討死のショックで、合戦から離脱し、船に籠ってしまいます。

一方、嗣信を取り戻して、何とか源氏の陣まで運び入れた義経主従・・・「大丈夫か?意識はあるか?」と、嗣信に声をかけます。

「もはや、これまでと思われます」
消えそうな声で、嗣信が答えます。

「武士たる者が敵の矢に当たって死ぬのは、もともと覚悟の上・・・何も悔いはありませんが、義経殿の天下となるこの世を見ずに死ぬ事だけが心残りで・・・でも、この源平の合戦で、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信という者が、讃岐の屋島の磯で主君の身代わりになったと末代までの語り草となるのは、何よりも武士の誉れ・・・」

自らがその手を取り、嗣信を励ます義経・・・その手を握り返す嗣信の指が、やがて、その力を無くし、ハタッと義経の手の中をすり抜け、浜辺の砂の上に投げ出されました。

そして、戦いは、このあと、扇の的の名場面へと切り替わる事になります。

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壮絶な、合戦が繰り広げられた屋島の地・・・現在、平行して走る屋島ドライブウェイと県道の間に挟まれた入り江を見下ろす高台に、佐藤嗣信の供養塔があります。

その前の道は、かつて江戸時代に屋島寺へと向かう巡礼者が通った遍路道なのだとか。

その道を、さらに少しだけ南に下ると見える小さなほこら・・・こちらは、菊王丸のお墓

今、屋島観光のガイドブックには、敵味方に分かれながらも、同じ屋島の地で命を落とした二人のお墓が、並んで紹介されています。

永久の眠りについて、二人並んで見る夢は・・・平家栄華の思い出か、来たるべき源氏の世への憧れか・・・それとも、合戦の無い時代の屋島の風景なのでしょうか・・・。
 

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2008年2月16日 (土)

義経の奇襲作戦Part2・めざせ!屋島~嵐の船出

 

文治元年(1185年)2月16日、源氏の大将に復帰し、平家追討をめざす源義経が、わずか五艘の船で海を渡り、平家が陣を敷く屋島に向かいました

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「鵯越の逆落とし」の奇襲作戦を成功させ、一の谷の合戦』(2月7日参照>>)に勝利を収めた源義経が、京の都に凱旋したのは、合戦から2日後の寿永三年(1184年)2月9日の事でした。

すでに、都では義経の奇襲作戦の噂が届いていたのか、都を荒らした木曽義仲を倒し、栄華を極めた平家に勝利した時のヒーローに大歓声の嵐です。

この時、義経は若干・26歳・・・調子に乗ってしまうのも無理にない所でしょうか。

ちなみに、余談ですが、あの静御前とは、この頃に知り合ってます。
大人気のヒーローと、都一のアイドル・・・何となく、わかる気がしますね~。

さらに、義経の天狗度をアップさせるかように、後白河法皇は、その年の8月・・・彼を検非違使左衛門少尉(けびいしさえもんのしょうじょう・警察庁長官)に任命し、従五位下という官位を与えます。

しかし、当然の事ながら、この昇進は、兄・頼朝の許可を得ないで行われた物です。

源氏の棟梁である源頼朝は、多くの御家人をかかえる武士の長ですから、組織の統率をとるためにも、頼朝を通さず、朝廷から勝手に官位を貰ったり、昇進させてもらったりする事を固く禁じていました。

しかし、それを破ってしまったのが、事もあろうに弟・・・これを、弟だからと見逃してしまっては、家臣たちとの信頼関係が保てるはずはありませんから、すぐに義経を平家追討軍の大将から外し、もう一人の弟・範頼だけを西へ向かわせる事にします。

一方の平家は、一の谷の合戦に破れた後、海を渡って四国の屋島に、第81代・安徳天皇のために仮の宮を設け、そこを拠点に、これからの源氏の攻撃に対処する構えです。

9月には、第82代・後鳥羽天皇が即位し、元号は元暦と改められますが・・・そう、天皇継承の証しである三種の神器は、安徳天皇とともに平家の手の中にあります。

南北朝で二人の天皇がいた時代にも、この三種の神器が手元にあるか無いかで、正統な天皇家がどっちか?なんて話があるくらいですから、この三種の神器はとても、重要な物・・・源氏にとって、三種の神器を奪回する事は最優先の重要任務です。

もちろん、平家も、神器なしで即位した天皇が一刻も早くそれを欲しがっている事は百も承知。

阿波(徳島県)讃岐(香川県)に勢力を誇っていた阿波重能(しげよし)を味方に引き入れ、士気あがる平氏は、後鳥羽天皇の即位後まもなく、平資盛(清盛の孫)を総大将に、備前(岡山県)へと迫ります。

迎え撃つのは、頼朝から平家追討のすべてを任された範頼。
しかし、範頼率いる源氏の軍は水軍を持たず、海戦に少々不安がありました。

上陸してくる平家軍を迎え撃っても、ここぞというところで、沖に逃げられてしまいます。
浅瀬を見つけて、馬で海に乗り入れても、さらに沖へ行かれてはどうしようもありません。

範頼の源氏軍は、相手に決定的な打撃を与えられないまま、だらだらと小競り合いばかりを繰り返します。

それだけなら、まだしも、長引く戦の骨休めと称して、近隣の遊女を招いては宴を催して、ヤル気があるんだか無いんだか・・・。

このダルダル劇に、当然、頼朝のイライラはつのります。

年が明ける頃・・・「このままではラチがあかないどころか、ボヤボヤしてたら、平家に挽回の機会を与えるだけだ」と判断した頼朝は、ようやく義経を再登場させます。

先の官位の一件があったとは言え、義経が戦略に長ける事は、頼朝も充分承知しています・・・いや、だからこそ、自分にはむかうような行為に、恐れとも言える物を感じての大将はずしだったワケですからね。

頼朝の許しを得て、後白河法皇の院宣(天皇家の命令)も受けた義経が、摂津(大阪北部と兵庫の一部)にて船の準備を整えたのは、文治元年(1185年)2月3日の事でした。

しかし、最初に船出を予定していた日は、予想以上の悪天候・・・しかも、いくつもの船がその波によってい崩壊してしまい、急遽、作戦変更とばかりに、義経を囲んでの軍儀に入ります。

もともと源氏にとって海戦は不慣れ・・・それに比べて、平家は海戦のプロとも言える水軍を要しています。

ここは、よほど慎重にいかないと、源氏の軍そのものが壊滅状態になってしまっては、もともこもありません。

そこに進み出たのは、鎌倉の頼朝の身代わりとして軍目付という形で派遣されていた、あの梶原景時です。

「ちょうど、船も修理している事だし、この機会に船に逆櫓(さかろ)をつけたらどうでしょう?」

海戦がまったく初めてに義経は、その逆櫓という物を知りませんでした。

それは、船尾につける普通の櫓と同じ物を、船首にも付け、前にも後ろにも進めるようにするものです。

「馬を前後左右に、自由自在に扱うのと同じように、いざという時、船も後退できるようにしておくべきです。
なんなら側面にも櫓を付けて、どの方向へも行けるようにしましょう」

と景時・・・。

すると、義経は・・・
「合戦に出向く前から、後退の準備とは・・・お前ビビリか!
あぁ・・・えぇで、お前の船には、そのサカロっちゅーヤツを何個でもつかたらえぇがな。
俺のんにはいらんで!」
と一蹴。

その義経の態度に、さすがの景時もブチ切れです。
なんせ、景時は棟梁・頼朝の名代・・・頼朝から、暴走気味の義経の補佐をするよう頼まれているわけですから、たかが26の若造にビビリと言われちゃぁ、カチンともきます。

「ええ大将っちゅーモンは、進む時は進んで、退く時は退くモンや。
進むばっかりで退くことを知らんのは、イノシシ武者って言うてな、愚将なんや」

「イノシシか、鹿(か)のししか知らんけどな、正面切って押し進んで勝ってこそ、気持ちえぇんや!
そんなダッサイ考えするヤツは、とっとと帰れ!」

今の源氏軍を代表する両雄の、刀に手がかからんばかりの状態に、まわりの武士たちはどうする事もできませんでしたが、寸前のところで、何とか感情を抑えた二人・・・。

やがて、夜になって、未だ荒れ続ける暗黒の海を見つめる義経・・・。
彼の気持ちは、すでに決まっていました。

ちょうど、その頃、船の修理のために調達した近隣の船頭たちも、必死の作業の甲斐あって、おおむね、その修理を終えた頃・・・

「おお、お疲れさん。
修理もほとんど終ったようやし、どや?船の上で一杯・・・。」

と、船頭たちの目の前で、酒盛りの準備をすると見せかけて、米や武具を船に積み始める義経の家臣たち・・・。

もちろん、肝心の酒盛りの準備もされ、船頭たちにはお酒が振舞われます。
そして、一通りお酒を飲んで、酔いもほどほどになった頃・・・

酒も、もう充分やろ?
さぁっ・・・そろそろ船を出してもらおか?」
と、義経。

船頭一同「え゛ぇ~?」
まさに、目がテンです。

確かに、方向的には風は追い風です。
しかし、その吹きようはハンパじゃありません。
この台風並みの低気圧の中、船を出そうなんて者はいるわけがありません。

しかし、それが、義経のネライ目・・・相手の平家だって、こんな嵐の中、船に乗って四国にやって来るヤツはいないと油断してるはず・・・
鵯越の奇襲作戦・パートⅡです。

でも、当然、船頭たちだって命は惜しい。
なんせ、船底一枚の下は地獄なのですから・・・。

尻込みして、船を出そうとしない船頭たちを見て、イライラも頂点に達する義経。
「船、出せへんねんやったら、お前ら一人ずつ射殺したる・・・ほら、いてもたれ!」

・・・と、武蔵坊弁慶をはじめとする伊勢義盛佐藤兄弟ら一騎当千に兵が、丸腰の船頭めがけて、弓をキリキリと引き、今にも討たんがの構えです。

ここで、射られて死ぬか?荒れた海に乗り出して死ぬか?
覚悟を決めた船頭が、一人、また一人と1艘ずつ船を出し始めました。

しかし、この船出が、景時の了解を得ていない事は誰もが知っています。
それに、この時の源氏軍はほとんど鎌倉の武士たちで、義経の家来ではありません。

船出すれば、風が怖いという事もありますが、景時を裏切る事にもなるわけですから・・・で、結局200隻のうち、船出をしたのは、たった5隻でした。

時に文治元年(1185年)2月16日午前2時。
タイタニックのように船の舳先に立った義経は、自分の船以外のすべての灯りを消し、まさに奇襲作戦とばかりに、一路四国を目指します。

本来、夜を徹して走り続けても、3日はかかる行程を、義経ご一行は、たった4時間で渡りぬき、早朝6時に、阿波の勝浦に到着します・・・と、『吾妻鏡』にはありますが・・・まぁ、強い追い風だったという事で、大目に見ましょう。

義経の目の前に、朝の光に輝きながら、うっすらと見えて来たのは、遥かなる平氏の赤旗・・・。

しかし、こちらから見えるという事は、平家側からも見えるという事で、陸ではあわただしく戦闘準備が始まり、幾人もの兵士が矢をつがえて、義経たちの上陸を待ち構えます。

そこで、義経は、先に50騎ほどの馬を、海に下ろし、船べりで泳がせたまま進み、浜辺が近づいたところで、一斉に馬にまたがり、そのまま陸に駆け上がりました。

ここは、あくまで最前線の見張り隊だったのか、驚いた兵士は、浜辺から逃げるように立ち去ります。

そこで、義経は、その場でしばし休憩をとるとともに、伊勢三郎義盛に命じて、誰か、こちら側に着くような者がいるかどうか、探りを入れさせます。

すると、間もなく義盛が、近藤六親家という人物を連れて戻ってきたのです。
近藤六の軍も加わり、士気あがる義経軍・・・。

さらに親家は、現在、平家の本隊・3000余騎が、伊予(愛媛県)へ出向いており、屋島は手薄だとの秘密情報を暴露。

近藤六の軍を加えたとは言え、もともとたった5艘で海を渡った義経軍ですから、まともに戦っては不利に決まってます。
「敵にさとられては奇襲作戦の意味がない」
とばかりに、早々に出立を開始。

義経以下150騎・・・勝浦から約60km離れた決戦の地・屋島を目指します

どうですか?
梶原景時へのビビリ発言・・・ちょっと、義経さんへの見方が変わりましたか?

タッキーとはほど遠いイメージですが、やはり義経も軍人ですからね。

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2008年2月11日 (月)

平清盛の異常な出世~天皇ご落胤説

 

仁安二年(1167年)2月11日、平清盛が、左大臣・右大臣をすっ飛ばし、いきなり3段飛びの昇進で太政大臣に就任しました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご存知、平清盛と言えば、平安時代の最後に貴族ではなく、武士として初めて政権を握り、平家全盛時代を築きあげた人です。

清盛の異例の出世の影に、彼の出生の秘密『清盛・ご落胤説』がある事は、歴史好きのかたでなくとも、もうご存知ではありましょうが、なにぶん、歴史学という学問の分野では、犯罪と同様に状況証拠だけでは立件できない・・・確固たる証拠がない限りは、それを事実とみなす事はできませんから、あくまで、歴史上の史実としては、清盛は平忠盛の嫡男という事になります。

しかし、この出世ぶりはどう考えても異例中の異例で、『平家物語』『源平盛衰記』にも、清盛ご落胤説が書かれているという事は、鎌倉時代からすでに噂になっていたという事になり、やはり、当時の人から見ても、その出世が異常だった事がわかります。

なんせ、清盛は若干12歳で、官位・従五位に任命されているのですが、この時、父の忠盛は従四位。

奈良・平安時代は、親の七光で出世する時代ではありますが、これは、どう見ても親を追い越さんがばかりの勢い・・・完全に忠盛の七光では無いでしょうね。

では、誰の七光?・・・つまり、父親は・・・
実は、第72代白河天皇だと言われています。

この、白河天皇が、なかなかのヤリ手オヤジ(失礼<(_ _)>)で、あの保元の乱を導いた人でもあります。

間単に言うと、現天皇である孫・鳥羽天皇の嫁に手をつけて、子供ができたら、孫を退位させ、その孫の子(ホントは自分の子)崇徳天皇を即位させてしまいます。

・・・で、そんな白河天皇が亡くなると、当然、鳥羽天皇はジィサンの子供である崇徳天皇を退位させて、自分の息子・後白河天皇を即位させるのです。

そしてその鳥羽天皇が亡くなった後に起こった後白河天皇と崇徳天皇の権力争いに武士が関与したのが『保元の乱』なのです。(くわしくは8月26日参照>>)

しかし、保元の乱の時点で、白河天皇は亡くなってるのに、その後の清盛の出世に、白河天皇の影響なんてあるの?
・・・と、思ってしまいますが、それがけっこうあるみたいなんです。

白河天皇は、この時代では指折りの専制君主ぶりを発揮した天皇で、天皇に仕えた藤原宗忠も、その日記に「その威光と権力は西海に満ち、天下はこれに帰服した」と書いています。

先ほども言いましたように、なんせ、息子の嫁ではなく、孫の嫁に手をつける人ですから・・・。

「思い通りにならない物は、賀茂川の水とサイコロの目と比叡山の僧兵・・・」という有名な言葉がありますが、これを言ったのが、この白河天皇なのです。

言い換えれば、その三つ以外は思い通りになったという事ですからね。

ある時、清盛のあまりの出世を妬む者がいたところ、鳥羽天皇がその人に向かって「清盛は身分の卑しい者ではないのだよ」と、たしなめたというエピソードも残っているそうですから、それがもし、本当だとすると、鳥羽天皇も清盛に一目置いていたという事になりますし、やはり白河天皇の隠し子というのが本当だったとしたら相当な影響があったのでしょう。

そんな白河天皇と、清盛の母とおぼしき祇園女御(ぎおんにょうご)と呼ばれる女性の出会いのシーンが『源平盛衰記』に書かれています。

祇園の西大門(八坂神社の楼門)の近くに住む女性が、ある日、水を汲もうと頭に桶を乗せ、共同井戸の前にやってきます。

「着物の裾が濡れてはいけない」と、サッと裾をからげた・・・そこへ、八坂神社へ参拝にやって来た白河天皇ご一行が登場!

そう、白河天皇は彼女のあらわな太ももに一目惚れ・・・なんせ当時は、宮中の女性は昼間の明るいうちに男性の前で十二単の一枚目でさえ、脱ぐなんて事もありませんし、男女間でしっぽりする時は、電気も何もない真っ暗闇ですから、顔すら確認できない状態で致してるわけで、おそらく、白河天皇は、女の太もも見たのは初めてでは?

そんな太もも一目惚れ恋愛で、しかも数々の女性遍歴のある白河天皇なのにも関わらず、祇園女御さんは、ことのほか愛されていたようです。

この祇園女御というのは、もちろん彼女の本名ではありません。
祇園の近くに、白河天皇が彼女のために館を造り、そこに住まわせていたので、そう呼ばれますが、この女御というのは、正式な地位を現す名称で、勝手に名乗る事はできません。

天皇の寵愛を受ける女性は、その出身の身分によって、「妃(ひ)」「夫人(ぶにん)」「(ひん)」「女御(にょうご)」「更衣(こうい)という位があったのです。

祇園女御の場合は、完全に一般人ですから、本来なら、「女御」どころか「更衣」も名乗る事はできなかったのですが、まわりの人たちが気をつかって、通称・祇園女御と呼んでいた・・・つまり、一般人に通称であれ、女御と呼ぶのは、それだけ白河天皇が、彼女の事を愛していたから・・・という証拠なのです。

ところで、白河天皇が愛してやまない、そんな祇園女御のもとに、毎日、新鮮な鳥を献上する男がいました。

その事が、白河天皇の耳に入る事になったのは、ある偶然の出来事がきっかけでした。

白河天皇は、仏教に大変熱心だったので殺生という物を嫌い、永久二年(1114年)に獣や魚に対する『殺生禁止令』を出しています。

その直後、加藤大夫成家(たゆうなりいえ)という男が、検非違使丁(当時の警察)に呼び出されます。
「鷹を使って、鳥を捕った」という罪でした。

しかし、出頭してきた彼は、罪に問われているというのに、やたら元気で明るい・・・不思議に思ってその理由を聞いてみると・・・

「いやぁ・・・よかったですわ~。
ホンマ言うと、ちょっと困ってましてん。
ウチのダンナはんに、毎日、ある人んとこに、その日に捕った鳥を届けろって言われてますねん。
けど、狩りって運のモンでっしゃろ?
たまには、捕られへん日もあるっちゅーのに、一日でもサボったら、首斬んぞ!って言われまして、今日は捕れたけど、明日は捕れへんかも・・・どうしょ~って毎日ビクビクしてましてん。

罪、ゆーても、牢屋に入るくらいでっしゃろ?
命なくなるよりは、絶対そっちのほうがえぇですわ~」

この成家という男は、そう、平忠盛の家臣・・・毎日、祇園女御の所に鳥を届けていたのは忠盛だったのです。

この時も、その事を知った白河天皇は、「祇園女御のため・・・」という言葉一つで、あっさりと成家を許しています。
やっぱり、祇園女御への愛でしょうか・・・。

そして、同じ頃、もう一つの事件が起こります。

ある雨の降る夜、白河天皇は、祇園女御の家に行こうと、警固の武士を連れて向かったところ、屋敷の近くで、何やら不気味な者と出会います。

頭部がミョーに眩しく光り、高く上げた両手には、木槌のような物と、鋭く光針のような物を持っています。

「アレは何だ?」
「鬼ではないか?」

と、さすがの屈強な武士たちも、この世の物とは思えぬ怪しさに震え上がります。

そこへ、進み出たのが、若干20歳の血気盛んな若者・忠盛・・・「私が退治してみせましょう」と、堂々とした態度で近づき、相手を睨みつけ、サッとその腕を掴みました。

「何をなさいます~」
と、以外にも相手の怪物はひ弱な声・・・目をこらして見ると、それは、一人の老僧でした。

寺院に灯明をともそうと、土器に火を入れ、雨を避けるために頭にワラをかぶって、そこで雨宿りをしていたのですが、、雨のしずくに火がキラキラと光り、頭のワラが、これまた雨と炎に反射して、怪しい光を放っていただけだったのです。

忠盛の勇気に感激した白河天皇・・・その褒美にと、祇園女御を彼に彼に与えたというのです。

人のお古を、貰ってウレシイか?・・・というのは現代人の価値観。
当時は、天皇が寵愛した女性を賜るなんてのは、名誉の極みなのです。

しかも、この時、祇園女御はすでに妊娠中・・・そう、そのお腹の中の子供が清盛だったと『平家物語』は書いています。

「生まれた子供が女の子だったら、私に返せ。
男の子だったら、武士として育てよ」

と天皇が言ったと言います。

そして、清盛が3歳になったある日。
天皇のお供をして、熊野詣に出かけた忠盛は、山道の端にヤマノイモがたくさんあるのを見つけ、そのヤマノイモに引っ掛けて・・・

♪芋(妹)が子は 這(は)うほどにこそ なりにけれ♪
「あなたの愛した人の子供はハイハイをするくらいになりましたよ」
と、歌を詠みます。

すると、白河天皇は・・・
♪ただ盛り(忠盛)とりて 養いにせよ♪
「忠盛が養育せよ」
と歌を返し、忠盛は、清盛を正式に嫡男とした・・・というのです。

しかし、さすがに、これをこのまま鵜呑みにするのは抵抗があります。

・・・というのも、祇園女御が応徳年間(1084年~86年)頃の生まれであったと推測される事から、この計算でいくと30代半ばで清盛を出産した事になります。

12~13歳で結婚する当時としては、破格の高齢出産という事になります。

それとともに、近年、滋賀県胡宮(このみや)神社という所から、系図が発見され、祇園女御には妹がいた事が判明していて、最近では、この妹が清盛の母であるという説が有力になってします。

ただし、父親はやっぱり白河天皇・・・どうやら、祇園女御の妹も、天皇の寵愛を受けていたようなのです。

またまた、現代の価値観では、「姉妹で同じ男に?」と思ってしまいますが、当時としては、身分の高い人のところに、姉妹をはじめ、家ごと依存する・・・というのは、よくある事なのです。

あの木曽義仲という源氏の御曹司を手に入れた中原兼遠の一族が、長女を正室に、妹・巴御前を愛妾に・・・っていうのも、それによって一族が出世できるのですから、当然と言えば当然なのです。

・・・で、今では、その妹が亡くなったのが、清盛が3歳の時で、母を亡くした子を、祇園女御が猶子(名義だけの養子)として引き取り、育てたのであろうとされています。

しかし、育ての親とは言え、この祇園女御は、清盛にとって、たいへん良いお母さんだったようで、彼は、自分の館を構える時、母の家に近いからという理由で、西八条を選んだと言われていますし、現在、京都御苑にある厳島神社は、清盛が、母・祇園女御のために、安芸の厳島神社を分社して建立し、後に女御自身も合祀したと伝えられています。

Gosyoitukusimacc 京都御苑の厳島神社

以上、様々な状況証拠を並べてはみましたが、やはり、本当に白河天皇の隠し子だったかどうかは、新たな決定的証拠が出ない限り、藪の中・・・といったところでしょう。

しかし、清盛の異常な出世ぶりを見れば、少なくとも、天皇家と何かしらの関係があった事は、間違いのないところではないかと思います。
 

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2008年2月 7日 (木)

一の谷の合戦~義経の鵯越の逆落とし

 

寿永三年(1184年)2月7日は、源平の合戦の中でも特に有名な『一の谷の合戦』のあった日です。

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前年の寿永二年(1183年)、破竹の勢いで西へと進軍する木曽義仲の軍にを追われ、西海へと都落ち(ブログ:7月25日参照)をした平家一門でしたが、源頼朝と義仲の対立によって源氏同士がモメている間に、屋島から少し戻り、かつて平清盛が一時、都を構えた福原現在の神戸・ブログ:11月26日参照)に落ち着いていました。

しかし、琵琶湖畔の粟津でその義仲を討ち取った(ブログ:1月20日参照)範頼・義経の源氏軍は、大阪・摂津に入り、いよいよ平家に狙いを定め、西へと向かいます。

・・・と、昨年の今日のブログと同じ始まりかたをしてしましましたが・・・数ある一の谷の合戦の名場面の中で、昨年は、敦盛の最期』(2月7日参照>>)をチョイスさせていただきましたが、今回は有名な源義経『鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし』を・・・。

一昨年の大河ドラマ・義経でも、第一回目の冒頭・・・この逆落としのシーンから始まり、視聴者の心を掴んでおいてから、幼い頃の牛若時代へ・・・という流れになってましたよね。

それくらい、このシーンは、源平の合戦において屈指の名場面です。
しかし、有名であればあるほど、論争の耐えない場面でもあります。

・・・と、いうのも、神戸の地図を見ていただければ一目瞭然。

平家がこの時、城郭を築いていた一の谷とは、現在の須磨公園のあたり・・・一方の鵯越は、現在の神戸電鉄有馬線の鵯越駅付近。

この二つの場所が約8kmと、かなり離れた場所であるため、とてもじゃないが、眼下に平家の城郭を見下ろしながら、駆け下ったとは考えられないからです。

『平家物語』『吾妻鏡』が示す鵯越が、「一の谷の裏手」と書かれている事から、現在の一の谷の裏手にある鉄拐山がその鵯越ではなかったか?とする説と、逆に、鵯越は現在の鵯越であり、鵯越の側を流れる川に沿ってできた谷が、当時、一の谷と呼ばれていた場所なのでは?という説とがあります。

生田の森での激戦の話や、敦盛の塚などを考慮すると、どうしても平家が陣取っていた場所は海の近くという事になって、山奥の谷とは考え難いですし、かといって現在の鵯越がその鵯越だとすると、そこからは、なだらかな下り坂で、急な崖などなかった事になりますし、そこが鉄拐山だと地名そのものが間違っている事になります。

また、『吾妻鏡』とともに、この時代の信用できる書物の一つである『玉葉』には、この鵯越がまったく出て来ないところから、逆落とし自体が無かった?という説もあります。

そんなこんなで、専門家でも激論になるのですから、ここで決着を着ける・・・という事は控えさせていただいて、本日のところは、『平家物語』に沿って、義経の『鵯越の逆落とし』のお話を、痛快な軍記物として楽しませていただく事に致しましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さてさて、兄・源範頼の生田への大手攻撃と連動するように搦(から)め手担当の義経は山側から攻めるべく、神戸の北側に連なる山奥へ・・・。

馬が通るのも難しいような道なき山に分け入った義経率いる3千騎・・・ここで、大活躍するのが、地元の猟師・鷲尾三郎義久・・・彼は、この後、義経と苦楽を共にし、最後の衣川の合戦では、主君を守って大いに奮闘する立派な武将になるのですが、この時は、老いて山道を歩くのが困難となった父に代わって、義経一行を道案内する役をまかされた若干・18歳の若者です。

本来なら、到底抜け出る事のできない迷路のような山道を、義久の徹夜の道案内のおかげで切り抜け、眼下に一の谷を見下ろす鵯越の絶壁に、義経の軍が到着したのは、寿永三年(1184年)2月7日の朝の事でした。

義経が、この絶壁について義久に尋ねると・・・
「鹿が下りてんのは、見た事ありますけど、ここを馬で下りたんは聞いた事がありません」
と、彼は答えます。

「ふ~ん、いい事聞いたぞ・・・鹿は下りるんだな」
・・・と、ここであの名ゼリフです。

鹿も四つ足、馬も四つ足・・・これくらいの崖、馬で下りるのは簡単だ!
ソレ!行くぞ~!」

・・・と、本人は張り切ってみるものの、肝心の馬が怖がって、必死でムチを叩こうにも、いっこうに下りようとしません。

そこで、人を乗せないで、何頭かの馬を落としてみると、そのうちの何頭かは転げ落ち、何頭かは足の骨を折ったりして死んでしまいますが、3頭は無事、下までたどりつきました。

「ソレ見ろ!乗る者さえしっかりしていれば大丈夫だ!俺を見とけ!」
・・・と、自らが先頭に立って、義経が駆け下りていったので、あとの3千騎も一斉に続きます。

Hiyodorigoenosakaotosi

途中、一箇所、垂直に切り立った部分があり、多くの兵がそこで、ちゅうちょしていると、佐原十郎義連(よしつら)という男が進み出て・・・
「僕らは、こんな崖なんか狩りの時に、いくらでも駆け抜けて来たよ。三浦の地元じゃぁ、こんな場所は乗馬センターみたいなモンだぜ!」

そう言って、飛び出したもんだから、他の兵たちも負けてなるか!と、頑張ります。

後ろの者の鎧が前の者の鎧に当たったり、あまりの危なさに目をつぶったりしながらも、何とか下りていきます。

もはや、人間技ではない鬼神のごとき技・・・

そして、その3千騎が山を下り終わらないうちに、一斉に鬨(とき)の声があがり、それは、山々に反響して何倍もの兵の声に聞こえます。

まさか、断崖絶壁となっている一の谷城の裏手から攻められるとは思ってもいなかった平家は、慌てふためき、右往左往するばかりです。

駆け下りると同時に、村上康国の軍勢が火を放ち、館は炎に包まれます。

火に追われた平家の人々は、我先に海岸へと急ぎ、船へと乗り込みますが、あまりに皆が一斉に船に乗るため、最初の何隻かは、定員オーバーで沈んでしまいます。

そうなると、残った船は身分の高い人優先・・・身分の低い者が船に乗ろうと船端に手をかけると、太刀にてその手をひと断ち。

まさに、一の谷の海岸は修羅場と化してしまいました。

生田の森での合戦では、一進一退だった源氏軍と平家軍でしたが、この義経の奇襲作戦によって、形勢が一気に源氏の勝利に傾いていったのは言うまでもなく、その後、平家の名だたる武将が次々と討たれ、平家は屋島へと敗走する事になるのです。
 

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2008年1月21日 (月)

巴御前~木曽義仲からの最後の使命

 

寿永三年(1184年)1月21日、源頼朝の命を受けた義経と戦った木曽(源)義仲が琵琶湖のほとり・粟津で敗死しました

・・・と、実は昨年の今日も、木曽義仲・討死をテーマに書かせていただきました。(昨年のページ参照>>)

昨年は、木曽義仲と乳兄弟である今井四郎兼平の主君と家臣の愛情、散り行く者への涙を誘う場面を、『平家物語』に沿って書いたのですが、今回は、義仲の愛妾・巴御前にスポットを当てた『源平盛衰記』を中心にした内容を書かせていただきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

巴御前は、義仲が父を殺され、さらにその命を狙われた2歳の時に、彼を預かった中原兼遠の娘で、義仲の一番の家臣・今井兼平の妹(8月16日参照>>)

幼い頃から義仲とともに育った乳兄弟でありながら恋人でもあり、そして、ひとたび戦となれば、片翼をになう一騎当千の女武者となるのです。

武勇にすぐれた女武者・・・そんな男勝りの彼女は、おそらく、すぐ上の姉と遊ぶよりも、兄の樋口兼光(長兄)や兼平(弟)、そして2歳年上の義仲たちと遊ぶ事の多い少女時代を送ったのかも知れません。

小さな頃から兄たちとともに馬に乗り、木曽の山々を駆け巡りながら、いつかともに平家を倒し、都に上る夢を語ったに違いなく、兄たちがそう誓ったように、彼女も「死ぬ時は、皆一緒に・・・」、そう心に決めて合戦にのぞんでいたに違いありません。

木曽だけにとどまらず、北陸・越後一帯を制圧した義仲(6月14日参照>>)を警戒して、平家が10万の大軍を率いて北へ押し寄せて来たのは寿永二年(1183年)の事でした。

倶利伽羅峠の合戦(5月11日参照>>)で平家に大勝した義仲は、その勢いのまま京へ攻め上り、平家は西国へと都を落ち、木曽軍は堂々の入京を果たすのです。

この間も巴御前は、義仲