2009年10月26日 (月)

「能もなく芸もない」暗愚の後白河天皇が天下を動かす

 

久寿二年(1155年)10月26日、雅仁親王が第77代・後白河天皇として即位しました。

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在位が、わずか4年という事で、後白河天皇という名よりも後白河法皇という名で歴史に登場する事が多い天皇・・・

源平の合戦の裏で表で暗躍し、あの源頼朝「日本一の大天狗」と言わせたほど、知略に長けた人ですが、意外にも、その即位は「思いがけず、なちゃった」という雰囲気の物でした。

以前も、「保元の乱のきっかけ?」(7月2日参照>>)として書かせていただいた事のあるややこしい親子・兄弟関係ですが、とにかく第74代鳥羽天皇には、(ややこしいので、今回は天皇名で呼びますが)崇徳(すとく)近衛(このえ)後白河3人の皇子=天皇候補がいたわけです。

ところが鳥羽天皇は、このうちの崇徳さんを、自分のおじいちゃんである第72代白河天皇の子供だと信じていて・・・というより周囲も承知のもっぱらのウワサで、実際にも白河天皇は崇徳さんを可愛がり、鳥羽天皇をムリヤリ退位させて、崇徳さんを第75代の天皇にしてしまいます。

しかし、その白河天皇が亡くなると、鳥羽天皇は「仕返し」と言わんばかりに、崇徳天皇に退位を迫り、自分の息子である近衛さんを、わずか3歳で第75代天皇としますが、この近衛天皇が17歳で亡くなってしまったのです。

・・・となると、残る息子は、当然、後白河さん・・・という事ですが、この時の後白河さんに対する鳥羽上皇(天皇)&崇徳上皇(天皇)の評価は・・・
「即位の器量にあらず」
「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」

と、言いたい放題の酷評です。

それゆえ、この時の後継者論争でも、ダメな後白河さんよりも、その息子で、英傑の誉れ高い守仁親王(後の二条天皇)即位が期待されたほどでした。

しかし、いくらなんでも、実父をすっ飛ばして、その息子が皇位を継ぐのはおかしいわけで、「んじゃ、しかたないから中継ぎで出てもらいますか」てな感じ・・・

そう、実は、今回の後白河天皇の即位は、次の天皇となる二条天皇への中継ぎという設定で行われた即位だったのです。

それは、「なんやったら、僕がもっかいやったっても、えぇねんでぇ」と、未だヤル気満々の崇徳上皇への、鳥羽上皇からの牽制球でもありました。

ところが、父からも兄からも暗愚と言われた、この中継ぎ=後白河天皇が、蓋を開ければ、源平の勢力を巧みに操り、その後に天皇となる二条→六条→高倉→安徳→後鳥羽天皇までの5代=50余年に渡って院政を行い続けて、たぐいまれな政治能力を発揮・・・冒頭に書いたように、あの源頼朝が「日本一の大天狗」と評するようになるのですから、世の中、わからないものです。

・・・そんな、天皇交代劇に不満ムンムンの崇徳上皇・・・案の定、翌・保元元年(1156年)に鳥羽上皇が亡くなると、わずか9日後に保元の乱(7月11日参照>>)が勃発するのです。

しかし、すでにここで、武士勢力を巧みに操る腕前を発揮・・・後白河天皇と関白・藤原忠通は、崇徳側についた武士勢力よりも、一つ若い世代の武士勢力である源義朝(みなもとのよしとも)平清盛によって、崇徳上皇のクーデターを粉砕します。

敗れた崇徳上皇は、讃岐(香川県)に流され、失意の最期を遂げます(8月26日参照>>)

その後、保元の乱で功績のあった者を重用し、荘園整理を行うなどの新制度を整えたと思ったら、即位から四年目にして、さっさと息子に皇位を譲り、自らが院政を開始するのです。

しかし、ここにも、微妙な力関係が・・・

なんせ、先ほど書いたように、もともと、後白河天皇をすっ飛ばして、二条天皇の即位を望む声があったくらいですから、当然の事ながら、二条天皇の代になっても、未だ後白河さんが権力を握る事を、好ましく思わない人がいるわけです。

そんな二条天皇の側近に、武士勢力がからんで、再びのクーデター・・・これが、平治の乱(12月9日参照>>)です。

しかし、ここでも、相手方を圧倒・・・藤原信頼(のぶより)と源義朝は敗れ、後白河さんに味方した平清盛による平家全盛の時代へと移ります。

しかし、あまりにも強大となった平家・・・治承元年(1177年)には、後白河さん自らが鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)を張りめぐらしますが、これは未遂・・・

ところが、清盛が勢いに任せて、自らの孫をわずか3歳で安徳天皇とした事で、不満を持った後白河さんの息子・以仁王(もちひとおう)源頼政(よりまさ)とともに挙兵(4月9日参照>>)・・・これは、失敗に終るも、かの以仁王の令旨(りょうじ・皇族の命令書)を受け取った源氏の生き残りが立ち上がり、ご存知、源平の合戦となるのです(平清盛と平家物語の年表を参照>>)

この源平の戦いの中でも、木曽義仲が京に入るとなれば義仲の元へ行き、源頼朝が立てば頼朝に義仲追討を命じ、平家を倒した源義経が京に戻れば官位を与え、それに頼朝が怒れば、今度は、頼朝に義経追討の命令を出す・・・と、ものの見事に、それぞれの勢力を手玉にとってくれます。

あまりに、その登場回数が多いため、この1ページでは書ききれず、いずれまた、その時々でご紹介させていただく事になろうとは思いますが、即位の時には「能もなく芸もない」と言われた後白河天皇・・・まさに、自分自身で、その評価が間違いであった事を証明してくれましたね。
 

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2009年8月27日 (木)

この命、頼朝公に捧ぐ~三浦義明・衣笠城の合戦

 

治承四年(1180年)8月27日、衣笠城の合戦で、城を落とされた三浦氏の当主・三浦義明が討死しました。

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一介の流人であった源頼朝の挙兵が成功した要因は、もともと貴族化した平家に対して武士たちが反感を持っていたからとか、平家の圧政に地方の武士たちの不満が頂点に達しつつあったからとか言われ、一連の源平の合戦を見てみても、源氏再興の悲願のために立ち上がった東国の武士たちが、滅び行く平家に圧勝したような印象がありますが、実際には、それほどしっかりとした見通しがあったわけではありません。

事実上、全国ネットで、平家の支配下にある現状で、流人の頼朝が立ち上がっても、いったいどれだけの味方が集まるのか・・・最初の段階の頼朝には、大した勝算があったわけではなく、いたって不安な状況であったと思います。

そんな中、治承四年(1180年)8月17日の頼朝の挙兵(8月17日参照>>)に、いち早く賛同したのが三浦義明とその一族・・・衣笠城(神奈川県横須賀市)を居城とし、三浦半島一帯を支配下に置き、周囲の制海権も握る関東屈指の豪族です。

・・・とは言え、義明は、この時、すでに89歳・・・さすがに、自ら先頭を切ってというわけにはいかず、息子の義澄(よしずみ)義連(よしつら)、孫の和田義盛など一族の総力を挙げて、決戦の石橋山へと向かわせます。

しかし、おりからの豪雨により途中の酒匂(さかわ)が氾濫・・・行く手を阻まれた8月23日、かの石橋山での頼朝の敗戦(8月23日参照>>)のニュースを耳にします。

やむなく、衣笠城へと戻る三浦勢でしたが、そこへ遭遇したのが、平家方の畠山重忠・・・両者は由比ヶ浜で激突します。

三浦勢300騎に畠山勢500騎・・・この時は、死者を出しつつも、からくも勝利をもぎ取り、なんとか、衣笠城へと戻りましたが、重忠は、未だ参戦していない近隣の豪族に声をかけ、軍勢を増強して衣笠城へと攻め込んできます。

当然迎え撃つ覚悟の三浦勢ですが、いかんせん、つい先ほどの由比ガ浜での死闘で、皆、疲労困憊・・・しかも、矢も使い果たし、もはや、敗戦の色は濃くなるばかり・・・

ここで、城を枕に討死覚悟の息子たちに、義明は、城からの脱出を勧めます。

「いち早く脱出し、即座に頼朝公の存亡を確かめ、源氏の再興に尽力せよ」と・・・

そして、「自分自身はここ衣笠城に残り、畠山勢を迎え撃つ」と言います。

驚く息子たちに義明は・・・
「源氏の1人として、ようやくこの歳になって、再興のチャンスに恵まれた・・・このうえは、老い先短いこの命を、頼朝公のためになげうって、子々孫々の手柄にせよ
と、言い放ったのです。

泣く泣く父を置いて脱出する息子たち・・・

・・・と、これは、北条氏の正史『吾妻鏡』にあるお話で、『平家物語』では老いて足手まといとなる義明を置き去りにして一族が脱出したとされていますが、ここはやっぱり、吾妻鏡のほうのカッコイイ義明さんであった事を希望しますよね~置き去りは悲しすぎる・・・(ρ_;)

・・・で、一族が脱出して間もなく、衣笠城は猛攻撃を受けて落城・・・治承四年(1180年)8月27日義明は壮絶な討死を遂げる事となります。

一方の息子たちは・・・
5日間山中をさ迷い歩いて、石橋山から海岸にたどり着いた頼朝を、その制海権をフルに活用してサポート・・・頼朝が、船で安房国(千葉県)勝山近くに上陸した時には、すでに現地に到着していた義澄・義盛らが出迎えたのです(10月6日参照>>)

その後、休む間もなく鎌倉で再起した頼朝とともに、平家追討に参戦した彼ら三浦一族・・・。

平家が滅亡した後には、義澄は、実質的な相模(神奈川県)の守護に、義盛は侍所別当(警察庁長官)に、義連も頼朝の側近として重用されました。

頼朝が征夷大将軍に任ぜられた時は、義澄は、その使者として鶴岡八幡宮で、勅使(ちょくし・天皇の使者)からその文書を受け取るという大役も仰せつかります。

さらに、その後、頼朝が上洛した際には、配下10人の御家人が官位をいただく事になりますが、その10人のうち3人までもが三浦一族だったと言います。

よく、戦国武将でも・・・
「負けるとわかっててなぜ、突き進むのか?」
「なぜ、死に急ぐのか?」
「捨て石となる事に無念はないのか?」

と、現代人の私たちには、理解し難い行動に出る事がありますが、その根底にあるもののふの主従関係・・・

命を賭けて、その場所を守る事で、残った者に与えられる目に見えぬ優先座席・・・

頼朝政権下での、三浦一族の活躍ぶりは、この後、何百年に渡って引き継がれる武士同士の暗黙のルールという物が、すでに鎌倉武士の間に誕生していたという事なのでしょうね。
 

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2009年7月14日 (火)

保元の乱に散った藤原頼長の悲しい末路

 

保元元年(1156年)7月14日、保元の乱に敗れた藤原頼長が、逃走先の奈良で死亡しました。

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藤原頼長(よりなが)・・・関白・藤原忠実(ただざね)を父に持ち、幼い頃から、その頭の良さはハンパなく、人は彼の事を「日本一の大学生」と呼び、そのうえ、男にまでモテモテのイケメン・・・

もはや、将来の大出世は約束されたようなもの・・・彼の人生のスタートは、こんな華やかな雰囲気でした。

忠実の次男として、保安元年(1120年)に生まれた頼長は、兄である忠通(ただみち)との年齢差が24歳・・・つまり、お父さんが、ずいぶんと高齢になってからガンバった子供であるため、もう、頼長の事がかわいくてかわいくて仕方がない!

やがて、成長した頼長は、子供がいなかった兄の養子となり、政治家の仲間入り・・・七光りだけでなく、マジメで頭も良く、努力家な彼は、右大臣を経て、左大臣にまで上りつめました。

一見、非のうちどころのない彼でしたが、そんな彼にも、欠点はあります。

それが、マジメで努力家・・・そう、本来は、長所であるはずのそんな部分でも、度が過ぎると、それは欠点となってしまうもの・・・

ある時、書庫を作る担当となった彼は、そうれはもう、見事なまでに蔵書を分類し、綿密な計算のもと、寸分の狂いもない完璧な書庫を作り上げましたが、そんな自分と同じ事を他人にも求めてしまうのです。

努力家な彼は、他人が努力しないと、本気で怒ります。
どれもこれも、完璧な仕上がりにならないと許せないのです。

それも、その怒り方が尋常じゃない・・・。

中には、公務に遅刻したために、自宅を燃やされてしまった人もいたくらい・・・

そんな彼を、人はいつしか「悪左府(あくさふ)と呼ぶようになり、やがて、同僚や後輩からは嫌われ、上司からの信頼もなくしていくのです。

ちょうどその頃に、兄・忠通に待望の男児が誕生する事となり、兄弟の間にも大きな溝が誕生してしまいます。

なんせ、そんな弟は、息子の出世の妨げになりますからね。

しかし、それでも、息子へのかわいさがおさまらない・・・いや、逆に、こんなにマジメで優秀なのにも関わらず、他人からどうこう言われてしまう息子だからこそ、余計にかわいいのかもかも知れません。

父・忠実の頼長への溺愛が、ますますエスカレートしていくのです。

忠実は、関白の座を頼長に譲るように、忠通に働きかけますが、当然、断られます。

すると、今度は、鳥羽上皇(第74代天皇)に働きかけて、関白に順ずる「内覧の宣旨(ないらんのせんじ)を与えてもらい、さらに、藤原家の氏長者(うじのちょうじゃ)の権利を、忠通から取り上げて、これも頼長のものにしてしまいます。

こうして、鳥羽上皇にも、時の天皇である第76代・近衛天皇にも、うっとおしがられる頼長でしたが、その近衛天皇が若干17歳亡くなり、弟の第77代・後白河天皇が即位すると、その対立は決定的となります。

頼長は、後白河天皇からの「内覧の宣旨」を貰えなかったのです。

これには、上記の行動にブチ切れた忠通が、「近衛天皇の死は、頼長の呪いによるもの」という話を、後白河天皇にチクッた事も影響していました。

政界の中央の座から、転がり落ちてしまった頼長・・・こうなったら、力ずくでも、兄を失脚させて、自分が、その後釜に座ろうと考えます。

そんな頼長が目をつけたのが、自分と同じく、表舞台から引きずり下ろされた人物・・・後白河天皇の兄で、第75代の天皇だった崇徳(すとく)上皇(8月26日参照>>)です。

やがて、保元元年(1156年)7月2日、鳥羽上皇が亡くなった事をきっかけに、その戦いは幕を開けます(7月2日参照>>)

後白河(弟)VS崇徳(兄)の天皇家と、
  忠通(兄)VS頼長(弟)の摂関家の争いに、

源義朝(子)VS源為義(父)
平清盛(甥)VS平忠正(叔父)と、それぞれの味方についた武士を巻き込んだ保元の乱(7月11日参照>>)です。

ご存知のように、この保元の乱は、わずか4時間ほどの戦いで後白河天皇側(上記の紺色グループ)の勝利に終るわけですが、その勝敗を分けた最も大きな要因は、フットワークの軽さ・・・

つまり、いち早く仕掛けたほうが勝ったわけですが、この時、父・為義(ためよし)とともに、崇徳+頼長側についていた源為朝(みなもとのためとも)は、この乱の前夜に、敵に夜討ちをかける事を提案(3月6日参照>>)しますが、あっさりと却下・・・ところが、その夜、逆に敵から夜討ちをかけられ、彼らは、敗れてしまうのです。

この為朝の夜討ちの提案を却下したのが、頼長だと言われています。

そう、ここにきても、まだ、彼は、マジメな努力家・・・「天皇VS上皇という、由緒正しき人同士の戦いで、夜討ちなんて姑息なマネができるか!」というのが、彼の考えだったのです。

しかし、結局は、その夜討ちをかけられて敗走する彼ら・・・逃げる途中で、首に矢を受けた頼長は、重傷を負いながらも奈良まで逃れます。

実は、この奈良には、父・忠実がいたのです。

大量の出血を目の当たりにして、もはや死を悟った頼長・・・

その最後の望みは、最愛の父に会う事・・・しかし、最愛の父は、この対面を拒みます。

幼い頃から、その才能を開花させ、エリートの道を歩み続けるはずだった頼長・・・父の愛と期待を一身に受け、走り続けた最後の最後に、その父に拒まれた心境はいかばかりであったでしょうか。

かくして、保元元年(1156年)7月14日、失意のまま、その傷が悪化した頼長は、潜伏先で37歳の生涯を閉じたのです。

しかし、彼の悲しみは、ここで終わりませんでした。

一旦、埋葬されていた彼の遺体は、「本当に頼長が死んだのかどうかを確認する」として、役人によって掘りおこされるのですが、当然の事ながら、すでに遺体は白骨化し、誰なのかは確認できない状態・・・。

しかも、その遺体が確認できないとわかった役人は、さっさと立ち去ってしまう・・・つまり、その遺体は埋め戻される事なく、そのまま放置されてしまったというのです。

乱を起こしたとは言え、あまりに悲しい末路・・・

確かに、戦いとは、常に無情なものではありますが、せめて、亡くなった以上は、敵にも敬意を現すという基本は守っていただきたいです。
 

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2009年5月29日 (金)

浮いた!沈んだ!悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀

 

治承元年(1177年)5月29日、俊寛の山荘で行われていた平家打倒の集会の場に、後白河法皇が出席・・・後に『鹿ヶ谷の陰謀』と称される会合が開かれました。

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そもそもは、仁安二年(1167年)、あの平清盛がいきなりの3段飛びの昇進で太政大臣に就任(2009年2月11日参照>>)してからというもの・・・その力はますます絶大な物となり、京の町には、髪を短く切り、お揃いの真っ赤なひれ垂を着た「禿童(かぶろ)と呼ばれる15~16歳の少年たち300人ほどが放たれ、平家に反発する者や悪口を言う者を取り締まっていました。

彼らは、京の町のいたるところを歩き回り、反発する者を見つけては、屋敷に押し入って財産を没収し、本人を捕まえては六波羅に引き渡すという秘密警察のような役割をはたしていたのです。

京の町の人々は、その名前を聞いただけで震え上がり、道を行くのも避けて通ったと言いますから、警察というよりはならず者のようですが・・・。

しかし、そうなると、その横暴極まりない態度に、表立っては反発しないものの、影でコソコソやりたくなってくるのが人の常・・・。

特に不満タラタラなのは、大納言の藤原成親(なりちか)という人物・・・彼は、先日、欠員ができた左大将というポストを狙っていたのですが、かの清盛の采配によって、右大将だった清盛の長男・重盛が左大将へと移り、空ポストとなった右大将には次男の宗盛が、まだ中納言なのにも関わらず上位数人抜きの昇進でついてしまったのです。

もちろん、彼以外にも、平家でありながらも主流になりきれていなかった平康頼(やすより)や、藤原家の復権を願う藤原成経(なりつね)、先の平治の乱(12月9日参照>>)で亡くなった信西の乳母の子・西光などなど・・・。

やがて、いつのほどからか、法勝寺の執行・俊寛(しゅんかん)法師鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘に、彼らは集まるようになり、夜な夜な、平家打倒の話し合いが行われるようになったのです。

Sisigadani791 鹿ヶ谷とは、京都・東山の哲学の道のあたり・・・道沿いにある霊鑑寺の横の山道を登った所に俊寛の山荘がありました・・・写真、右側の赤い柱と自転車の間にある石碑には「此奥俊寛山荘地」とあります。
霊鑑寺のくわしい場所は
HPの歴史散歩のページへどうぞ>>

そんなこんなの治承元年(1177年)5月29日・・・その会合の場に、後白河法皇(ごしらかわほうおう)自らが姿を現したのです。

以前も、書かせていただいたように、もともとは、清盛は法皇の隠し子なんじゃないの?(2008年2月11日参照>>)と噂になるほど大の仲良しだった2人・・・後白河法皇は、清盛の武力を後ろ盾にその院政を強め、清盛は法皇の権力に支えられ政界に君臨する事となったわけで、お互い、持ちつ持たれつの間柄・・・。

しかし、徐々に清盛は法皇を軽視するようになり、ここに来て、両者の関係にひびが入りつつあったのです。

この日、後白河法皇のお供をして、ここにやってきたのは、信西の息子・浄憲法印(じょうけんほういん)・・・彼は、この酒宴の席に出て、はじめて、この集まりが平家打倒の集会である事に気づいてびっくりしたのです。

宴もたけなわの頃、法印は成親に話かけます。
「お宅ら、気ぃつけなはれや・・・こういう話は、いずれどっかから洩れるもんでっせ。天下の一大事を招きまっせ」

「な~に~up!」と、言わんばっかりに、血相を変えて成親が立ち上がった拍子に、すぐ前に置いてあった瓶子(へいし・徳利の事)を狩衣(かりぎぬ)の端っこに引っ掛けて倒してしまいます。

それを見た法皇が・・・
「何しとんねん」
と、言うと、成親は、慌てて座りなおして・・・
「瓶子が倒れてしもて・・・」

すると、法皇は大笑い・・・・
そうです・・・瓶子=へいし=平氏
瓶子=平氏が倒れた・・・と・・・

すると、康頼がスクッと立ち上がって
「あ~あ、瓶子(平氏)が多すぎて酔っ払ってもたがな」
(↑お前も平氏やんけ!)というツッコミがあると思いきや、そうではなく・・・

すかさず俊寛が・・・
「せやな、この倒れた瓶子(平氏)、どないしたりまひょ」
すると、西光が・・・
「やっぱ、首取りましょか~」
と、手に取った瓶子の首を叩き落としたのだとか・・・

・・・って、陰謀っていうから、どんだけの陰湿な策略を話合ってんのかと思えば、単なる悪口大会やないかい!

いえいえ、これは『平家物語』にある一場面であって、この日以外にも、度重なる会合を開いて、ちゃんと具体的な作戦も練ってはいたようですが、いかんせん、僧や貴族中心の現状では、武力に欠けると考え、彼らは、北面の武士である多田行綱を味方に引きいれたのです。

しかし、これが命取りとなります。

軍事に精通している行綱から見れば、彼らの作戦は、とてもとても成功するとは思えない作戦・・・いや、作戦うんぬんよりも、現在の平家を倒すためには、とてつもない武力と、それを準備する日数も必要で、とてもじゃないが、おいそれと行動は起せないばかりか、自分が、この場所にいて、こんな作戦に加担してる事がバレたら、それこそ・・・

後々発覚してから処分をされる事を恐れた行綱は、すぐさま、西八条の清盛の屋敷へと駆け込み、事のすべてを暴露したのです。

この話を聞いて、怒り心頭の清盛・・・早速、兵を派遣して、彼らの逮捕に取り掛かりました。

6月1日の早朝、成親と西光が捕らえられ、西光の自供により、陰謀に参加した者が次々と芋づる式に捕まりました。

翌・6月2日、西光は拷問の末、斬首
成親は備前(岡山県)流罪となった後に斬られ、俊寛・康頼・成経の3名が鬼界ヶ島(きかいがしま・硫黄島だとされています)への流罪となりました。

・・・と、ここで、ひとりだけ・・・
そう、後白河法皇です。

さすがは、「日本一の大天狗」・・・うまい事、自分だけ罪を逃れましたね~。

『平家物語』では、ここで、法皇をも捕らえようとした清盛の前に、颯爽と現れた息子・重盛が・・・
「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、重盛の進退ここに極まれり」
という名文句をサラリ・・・

これに感激した清盛が、法皇への攻撃を思いとどまる・・・となっていますが、以前、2009年の2月11日のページ(冒頭にリンクがあります)にも書かせていただいたように、平家物語は、かなりの重盛びいきなので、ここは、おそらく、法皇がウマイ事、立ち回ったというところでしょう。

ひょっとしたら、この陰謀自体を、ウラで操っていた可能性もある人ですから、はなから、自分の逃げ道は作っていた事でしょう。

ところで、この時、流罪となった3人のかたには、まだ後日談があります。

後の恩赦で、康頼と成経は許され、島を去る事ができたものの、なぜか、俊寛だけは許される事なく、その後の悲しみを、平家物語は切々と語ってくれるのですが、その俊寛さんの余生については、また、別の機会の「その日」に・・・。
 

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2009年5月26日 (火)

全盛の平家に一矢報いた以仁王~その生存伝説

 

治承四年(1180年)5月26日、源頼政とともに宇治の橋合戦に敗れた以仁王が、奈良へと逃走中、平家に追撃され死亡しました

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後白河法皇の第三皇子として生まれた以仁王(もちひとおう)・・・聡明かつ人望もあり、次期天皇候補として充分な素質を持っていた以仁王でしたが、当時、権力を欲しいままにしていた平清盛によって、その夢を断たれてしまいます。

一方、先の平治の乱(12月9日参照>>)で、平家側についたおかげで、平家全盛の時代にも生き残った源氏の源頼政(よりまさ)も、齢70を過ぎ、もはや出世も望めない状況・・・。

この2人が結びついて、源氏をはじめとする各地に残る反平家に対して打倒平家を呼びかける令旨(りょうじ・天皇家の命令書)を発したのは治承四年(1180年)の4月9日でした(4月9日参照>>)

しかし、彼らの動きは、各地の反平家勢力が挙兵をする前に平家側の知るところとなり、危険を感じた以仁王は三井寺へと逃走・・・三井寺でおちあった頼政とともに、奈良の興福寺へと向かいました。

逃げる以仁王と追う平家・・・両者がぶつかったのは治承四年(1180年)5月26日正午頃、宇治川を挟んでの対峙。

宇治橋を落として追手を防ぐ頼政でしたが、怒涛のごとく襲い掛かる平家軍に、「もはやこれまで!」と、以仁王を先に奈良方面へと逃し、頼政は平等院にて自害しました。

これが、一の谷から壇ノ浦へと続く源平争乱の幕開けとなった宇治の橋合戦と呼ばれる戦いです。

その後、わずかの側近とともに、宇治を後にした以仁王も、木津川を渡ったあたりで追いつかれ、命を落す事になるのですが、ここまでは一昨年の5月26日に書かせていただきましたので、くわしくは、そちらで見ていただくとして(5月26日参照>>)・・・本日は、やはり、あります「以仁王・生存説」

・・・と、言うのは、結局は失敗に終った以仁王と頼政の平家打倒でしたが、横暴を極める平家への不満は、すでに頂点に達しており、それに対抗した聡明な以仁王への期待が大きく膨らんでいたからなのでしょう。

それと同時に、以仁王は先々代天皇の息子という高貴なお方・・・その素顔を知る人が極めて少なかったため、討ち取られた首を自信をもって検分できる人がおらず、果たして、本当にその人が以仁王だったかどうだったのか?・・・というところから、噂が噂を呼んで、生存説へと発展していったようです。

そして、西国に勢力を誇る平家に対抗という背景からか、その生存説は、やはり東へ逃れた・・・というところから始まります。

まずは・・・
♪夏がく~れば 思い出す~♪
の歌でもお馴染み、ミズバショウで有名な尾瀬(おぜ・群馬県)・・・。

この尾瀬という地名は、以仁王の侍臣・尾瀬中納言頼実(おぜちゅうなごんよりざね)の名前からきているのだとか・・・

頼実が、以仁王とともに、この地まで逃れたものの、ここで病に倒れ、そのまま没したというのです。

湿原の中ほどには、尾瀬塚と呼ばれる塚が現在も残っているのですが、この尾瀬塚が頼実のお墓だと、現地では伝えられているのだそうです。

そして、もちろん、以仁王は、ここ尾瀬より、さらに逃走して日光へ向かったのだとか。

さらにさらに、福島県南会津郡下郷町に建つ高倉神社なる神社は、ある者が、ここまで逃れて来た以仁王を、その恩賞欲しさに討とうとしたところ、雷鳴が鳴り響いた・・・「このような高貴なお方を討ってはならないという神のお告げでは?」と思ったその人物は、以仁王を討つ事を断念し、逆に王を祀った神社を建立したのだそうです。

確かに、その高倉神社の主祭神は以仁王・・・そう言えば、伝説ではなく、一応正史とされる歴史上で、宇治から奈良へと向かった以仁王が討たれた場所とされる京都府相楽郡山城町にも以仁王のお墓がありますが、そこも高倉神社ですね。

もちろん、以仁王が高倉宮と呼ばれていた事で、神社の名前が同じなのは当然ですが、京都と福島・・・まったく違う場所に、同じ方を祀る同じ名前の神社がある事に、何だか感動しますね。

いやいや、群馬→福島と来て、さらに・・・今では、三条市の一部となった新潟県南蒲原郡下田村というところには、以仁王と行動をともにした椿家の末裔という一族の伝説が残るのだとか・・・。

・・・とは言え、もちろん、これらは、やはり伝説の域を出ないもの・・・おそらくは、一般的な歴史の通りに、木津川を渡るあたりで討ち取られ、志半ばで京都・山城町の高倉神社に眠るというのが正解なのかも知れません。

しかし、以仁王の放った一矢は、確実に平家を捕らえ、やがては立ち上がる源頼朝へ、木曽義仲へと届いた事は確か・・・それは、この先の歴史の証明しています。
 

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2009年5月16日 (土)

時代別年表:平安時代(後期・源平争乱の時代)

 

このページは、平安時代・後期の武士が活躍する源平争乱の時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

最近の学校の授業では、鎌倉幕府の成立は、「いいはこ=1185年」と習うそうですが、とりあえず、このページでは、「保元の乱勃発」のきっかけとなった「鳥羽天皇崩御}の1156年7月2日から、「源頼朝が征夷大将軍に任命される」の1192年7月12日までを「源平争乱の時代」とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaigenpei



 

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出来事とリンク
1156 7 2 鳥羽天皇・崩御
【乱のきっかけとなった天皇の死】
7 11 保元の乱
【先んずれば制す・保元の乱】
7 14 藤原頼長・没
【乱に散った藤原頼長の悲しい末路】
1159 12 9 平治の乱・勃発
【乱を引っ掻き回した藤原信頼】
12 26 平治の乱・終結
【平治の乱・終結】
1160 1 4 源義朝が騙まし討ちされる
【義朝の最期と常盤御前】
1 24 悪源太・義平が斬首される
【世が世なら源氏の棟梁~悪源太義平】
2 9 近江にて源頼朝が捕まる
【少年・源頼朝を逮捕!死罪から流罪へ】
1164 8 26 崇徳天皇・崩御
【史上最強!崇徳天皇・怨霊伝説】
1167 2 11 平清盛が太政大臣に就任
【清盛の異常な出世~天皇ご落胤説】
【暴君・清盛~もう一つの顔】
1170 8 6 源為朝・自刃
【源為朝・琉球王伝説】
1172 6 11 平清盛が厳島神社に法華経を奉納
【平清盛と厳島神社】
1176 6 17 義経と弁慶が五条大橋で出会う
【義経×弁慶・運命の出会い】
1177 5 29 鹿ヶ谷の陰謀
【悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀】
1180 4 9 以仁王が令旨を発する
【逆賊・平清盛を倒せ!】
5 26 以仁王と源頼政が挙兵
【源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦】
【以仁王・生存説】
8 17 源頼朝が伊豆にて挙兵する
【伊豆に白旗!頼朝挙兵】
8 23 石橋山の合戦
【頼朝敗走・石橋山の合戦】
8 27 衣笠城の合戦
【この命、頼朝公に捧ぐ~三浦義明の合戦】
9 7 市原の合戦
【義仲・初陣!市原の合戦】
10 6 源頼朝・鎌倉入り
【源頼朝・鎌倉で再起】
10 20 富士川の合戦
【富士川の合戦?】
10 21 源頼朝と源義経が対面する
【頼朝・義経黄瀬川の対面】
11 16 福原から都を戻す
【わずか半年の都・福原】
12 28 南都・焼き討ち
【故意?失火?重衡の南都焼き討ち】
1181 2 4 平清盛・没
【諸行無常・平清盛の死】
6 14 横田河原の合戦
【木曽に義仲あり!横田河原の合戦】
1183 5 3 越前・加賀の合戦
【倶利伽羅峠の前哨戦~越前・加賀】
5 9 般若野の合戦
【義仲快進撃の幕開け!般若野の合戦】
5 11 倶利伽羅峠の戦い
【義仲圧勝!倶利伽羅峠の合戦】
6 1 篠原の合戦
【無残やな 兜の下の篠原の合戦】
7 25 平家・都落ち
【惟盛の都落ち】
【忠度の都落ち】
7 28 木曽義仲が京に入る
【木曽義仲・堂々の入京】
11 18 木曽義仲が法住寺殿を攻撃
【木曽義仲・法住寺殿を焼く】
1184 1 11 木曽義仲が征夷大将軍に任命される
【征夷大将軍・木曽義仲】
1 16 木曽義仲の追討開始
【義仲追討に義経が動く】
【宇治川の先陣争い】
1 21 木曽義仲が粟津で戦死
【木曽の最期】
【巴御前~義仲からの最後の使命】
2 7 一の谷の合戦
【鵯越の逆落し】
【忠度の最期】
【青葉の笛】
2 14 平通盛の妻・小宰相が入水自殺
【ともに一つの蓮のうえ】
3 10 平重衡が鎌倉へ護送される
【平家の公達・平重衡と輔子】
4 10 木曽義仲の息子・義高が頼朝に殺される
【頼朝の愛娘・大姫のお話】
1185 2 16 義経が屋島へ出航
【めざせ!屋島~嵐の船出】
2 19 屋島の合戦
【佐藤嗣信の最期】
【扇の的の後に・・・】
3 24 壇ノ浦の合戦で平家滅亡する
【潮の流れと戦況の流れ】
【壇ノ浦・先帝の身投げ】
【平家の勇将・平教経の最期】
5 24 源義経が腰越に留められる
【義経の腰越状】
10 11 堀川夜討ち
【義経危機一髪!堀川夜討ち】
11 3 源義経が都を出る
【義経都落ち】
11 17 静御前が吉野で捕まる
【静御前・吉野にて捕まる】
12 20 源頼朝軍が吉野山に義経を追う
【佐藤忠信・吉野山奮戦記】
1186 3 1 静御前・鎌倉入り
【静御前の白拍子なる職業】
4 8 鶴岡八幡宮での静の舞い
【鶴岡八幡宮・静の舞】
7 29 静御前が男の子を出産
【静御前・男児出産】
9 21 佐藤忠信・討死
【みちのくの勇者・佐藤忠信の最期】
1189 4 30 藤原泰衡が源義経を討つ
【衣川の合戦~義経・主従の最期】
【武蔵坊弁慶・架空の人物説】
【源義経=ジンギスカン伝説】
【義経と牛若は同一人物か?】
6 26 藤原泰衡追討の院宣を要求
【頼朝が『泰衡追討の院宣』を要求】
8 10 阿津賀志の戦い
【進む頼朝VS防ぐ泰衡】
9 3 藤原泰衡が家臣に殺害される
【奥州・藤原氏の滅亡】
1191 10 31 栄西が臨済宗とお茶を持ち帰る
【栄西のお土産~日本茶の日】
【お茶・その後~闘茶と御茶壷道中】
1192 7 12 頼朝・征夷大将軍に任命される
【いい国つくろう!鎌倉幕府】
源平豆知識 【橋姫の怖い話】
【ほおずき市の起源は頼朝さん?】

 

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2009年4月30日 (木)

衣川の合戦~義経・主従の最期

 

文治五年(1189年)4月30日、源頼朝の要請を受けた藤原泰衡が、源義経の衣川の館を襲い、義経を自刃へと追い込む『衣川の合戦』がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このブログでは、すでに常連の域に達している源義経・・・

それこそ、源平の合戦を中心に多くの逸話を書かせていただいていますが(くわしくは年表を>>)、一昨年のこの日は義経×牛若・別人説(2007年4月30日参照>>)を、そして、時には生存説(12月30日参照>>)も書かせていただきましたが、そう言えば、衣川の戦いを書いてないなぁ・・・という事で、本日は、現在の私たちが思い描く義経像に最も近い『義経記』を中心に、衣川の合戦=義経の最期を書かせていただきたいと思います。

ただし、以前から時々書かせていただいていますように、『義経記』は、その日づけも、他の文献とはズレがあり、現実にはありえない神がかり的なヒーロー伝説の部分もあり、細かな描写の部分は、史実とは言えないものかも知れませんが、そこのところをご理解いただきながら・・・という事でお願いします。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

数々の武功を挙げて壇ノ浦に平氏を破ったのもつかの間(3月24日参照>>)、兄・頼朝との不和から追われる身となった義経(11月3日参照>>)、最も信頼のおける藤原秀衡(ひでひら)を頼って奥州・平泉へとやってきます。

しかし、到着したその年・文治三年(1187年)10月、その秀衡は亡くなってしまいます。

大黒柱を失った奥州藤原氏はもろくも崩れはじめ、秀衡の後を継いだ息子・泰衡(やすひら)は、頼朝の再三の要請に屈し、文治五年(1189年)4月30日(義経記では29日)、義経主従の衣川の館を急襲するのです。

攻める寄せ手は2万余騎、守る主従は10人・・・(←なわきゃない(。>0<。)そんな人数じゃ合戦とは言わないゾ)

義経は、寄せ手が泰衡をはじめとする秀衡の息子たちであるなら戦おうと、表に出てきていましたが、やって来たのが郎党だったので、館の奥に入り、ただひたすらの経を読む事にします。

義経を守るは、武蔵坊弁慶片岡八郎常春鈴木三郎重家と弟の亀井六郎重清鷲尾(わしのお)三郎義久増尾(ましのお)十郎伊勢三郎義盛備前平四郎、という8人の家来たち・・・そして、義経の正室・郷御前(さとごぜん・河越重頼の娘)の守役だった十郎権頭兼房(ごんのかみかねふさ)と下男の喜三太の二人を加えた計10名・・・。

常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)をはじめとする、その他の家来たちは、「近くの山寺に参詣に行く」と言って出て行ったまま、戻らなかったのです。

敵の近づく気配を感じた喜三太と兼房が、素早く屋根の上に上り、早くも矢を射かけはじめます。

弁慶は、黄色い蝶を2~3匹あしらった黒革の鎧に身を包み、大薙刀(おおなぎなた)の真ん中あたりをしっかりと持ち、堂々と胸を張って立ったかと思うと、そばにいた重家・重清兄弟に向かって・・・

「おい!お前ら兄弟!なんか、歌でも歌えや!
こう見えても、若い頃は比叡山でブイブイ言わしとったんや!
東国のアホどもに、このワシの華麗なるステップ見せたろやないかい!」

♪うれしや滝の水。鳴るは滝の水。日は照るとも、東の奴原が・・・♪
二人に合わせて舞いを舞う弁慶の姿を見て、多勢に囲まれながらも堂々としたその姿に、驚く寄せ手の兵士たち・・・

すると、弁慶は、
「お前らなんか、比叡山の祭競馬の馬みたいなもんじゃ!数ばっかりおっても勝負にならん!っちゅーこっちゃ」
と、大声で叫ぶように発しながら、まっすぐに太刀を構えて、敵に突っ込んでいきました。

重家・重清兄弟も、負けじとばかりに続きます。

あまりの勢いに驚いた寄せ手が、思わず後ろへと下がると、
「コラ!戻らんかい!卑怯もん!」
と、3人は口々に言いながら敵を追いますが、ふと、重家は、1人武将に狙いを定め・・・
「そこのお前!名をなのれ!」

すると、その武将は、
「泰衡殿の郎党・照井太郎高治!」

「なんやと?高治up高治っちゃぁ、泰衡の家中では勇猛果敢な者・・・逃げてどないすんねん!」
・・・との言葉に、高治は引き返して重家と刃を交えますが、腕が違い過ぎ。

すぐに、右肩を斬られて、再び逃げ腰に・・・とは言え、なんだかんだで、たった3人ですから、多勢に無勢で、ほどなく、大勢の兵に囲まれてしまいます。

それでも、重家は左に2人、右に3人斬り捨てた後、合計8人ほどに手傷を負わせますが、自らも重傷を負い、「もはやこれまで!」と、自刃して果てます。

弟の重清も6人に傷を負わせた後、兄に続いて割腹・・・。

すぐそばで奮戦する弁慶は、のどを斬られ、とてつもない出血状態・・・それでも、ひるまず向かってくる姿を見て、むしろ、怖くなって後ずさりする兵士たち・・・

しかし、その間に増尾十郎が討死し、備前平四郎も無念の自刃

片岡八郎と鷲尾三郎は、ともに身を寄せ合って、一つ所で戦いますが、三郎は討死・・・その間に八郎は敵を避けて行きます。

やがて、伊勢三郎が、6人を討ち、3人に傷を負わせたところで、自らも手傷を負い、持仏堂で経を読む義経に軽く挨拶をして自刃しました。

あまりの形相に敵が寄り付かなくなった弁慶は、ひとまず義経のもとへ・・・

「どんな様子や?」
と、義経・・・
「俺と八郎だけですわ・・・後は皆、先に逝きよりました」

「そうか・・・」
義経は、驚く事もなく、静かに答えます。

「殿が先に逝きはったら、死出の山で待っといて下さい。
弁慶が先に逝きましたら、三途の川でお待ちしてまっさかいに・・・」

「うん、そうしょう・・・けど、もう、ちょい、この経を読み終わるまで、敵を防いどってくれるか」
「まかせといとくなはれ!」

なんとしてでも、主君が読経を終えるまで、敵を踏み込ませてはならずと、館の前で奮戦する二人・・・しかし、あまりの太刀打ちの疲労のため、八郎は全身に傷を受け、立つ事もできなくなって、とうとう自刃・・・弁慶1人となります。

「1人になってサッパリしたわ!味方なんて足手まといなだけじゃい!」
弁慶は、そう言って、薙刀を構えて仁王立ち・・・側に寄る者を次から次へと斬り捨てます。

その姿に、恐ろしくなった敵は、もはや、誰も近づきません。
しかし、そのかわり、仁王立ちで動かない弁慶には、とてつもない数の矢が放たれました。

(みの)を被ったかのように全身に刺さった黒羽・白羽・染羽が風にそよぎ、まるで武蔵野の秋風に吹かれる尾花のように・・・

シ~ンっと静まり返ったかと思えば、四方八方に走りだし暴れまわる・・・やがて、また仁王立ちになって、敵をグルリと見渡して睨みつけ、またひと暴れ・・・

やがて、また静まり返って・・・

その間隔が徐々に長くなっていき、やがて、動かなくなる弁慶・・・
遠巻きに、その様子を見る兵士たち・・・

そのうち、1人の武将が・・・
「剛の者は、立ちながら死ぬというけど、誰か、ぶつかって試してみたらどうや?」

皆が、後ずさりする中、1人の武将が、馬を走らせて、弁慶にぶつかりました。

薙刀を前に突き出しながら、ド~ンと、その巨体が倒れます。
「また、暴れるぞ!」
と、一斉に散らばる・・・しかし、その後も、ピクリとも動かない弁慶を見て、兵士はやっと弁慶が死んでいる事を確認したのです。

この間に、屋根で弓を射ていた喜三太は、敵の矢に当たって討死し、1人残った兼房は、覚悟を決めて、堂にいる義経のもとに走ります。

兼房の様子を見て、外での合戦に決着がついた事を悟った義経は、兼房の目の前で、自らの守り刀にて割腹・・・守り刀の血を、袖で拭って鞘に収め、脇息(きょうそく・時代劇で殿様の横にある肘掛)に寄りかかって果てました。

その最後を見届けた兼房は、郷御前と一人娘を(義経記では男子もいた)刺し、自らの役目を終えたといわんばかりに鎧を脱ぎ捨て、館に火を放ちました。

燃え盛る炎をかきわけ、表に出ると、そこには、この日の大将・長崎太郎とその仲間たの姿・・・

「我こそは十郎権頭兼房!」
と、素早く名乗りをあげると、その瞬間に太郎に飛びつき、すかさず斬りつけます。

膝から下と乗っていた馬のろっ骨を斬られた太郎・・・慌てて、弟の次郎が助けに飛び込みますが、兼房は、その切っ先をかわし、次郎を馬から引きずり下ろしたかと思うと、ガシッ左脇に抱え込んで、次郎もろとも、燃え上がる炎の中へと身を投じたのです。

姫のお供として、義経のもとへ来た老武将・・・最後の晴れ姿でした。

「侍たらん者は、
忠孝を専
(もっぱら)とせずんばあるべからず。
口惜しかりしものなり」
 

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2009年4月 9日 (木)

逆賊・平清盛を追討せよ~「以仁王の令旨」下る

 

治承四年(1180年)4月9日、後白河法皇の第三皇子・以仁王が、平家討伐の令旨を発しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平治元年(1159年)の12月に勃発した平治の乱・・・藤原信頼源義朝(みなもとのよしとも)のどうにも噛みあわない歯車の狂いによって、この乱は平清盛の大勝利に終わりました(12月9日参照>>)

中心人物であった信頼は捕らえられて殺され、家臣を頼って落ち延びた義朝も、その頼った家臣の騙まし討ちに遭い(1月4日参照>>)、義朝の長男・悪源太義平(あくげんたよしひら)も六条河原で斬首され(1月25日参照>>)、三男・源頼朝(よりとも)も、逃走中に捕らえられて伊豆への流罪となりました(2月9日参照>>)

こうして、平家と肩を並べる武家であった源氏の勢力は一掃され、逆に、平治の乱の時、敵の手に落ちていた二条天皇後白河法皇を救い出した事で、法皇らの信頼を勝ち得た清盛以下平家一門は、わが世の春を謳歌する事になるのです。

乱から8年後の仁安二年(1167年)には、50歳にして太政大臣にまで上りつめた清盛(2月11日参照>>)・・・この頃の平家は、公卿16人、殿上人30余人、その他、日本の半分の地方の受領や衛府・諸司を務めるという前代未聞の栄華を極めます。

まさに、「平氏にあらずんば人にあらず」by平時忠(清盛の嫁・時子の兄)と言いたくなるのも無理はありません。

さらに、翌年には、二条天皇の皇子で、その後を継いで天皇になっていた六条天皇を、わずか5歳で退位させて、これまた、わずか8歳の高倉天皇を即位させます

ここで、明らかに順番を抜かされたのが、後白河法皇の第三皇子(兄が早くに亡くなっているので第二皇子とする場合もあり)・・・本日の主役・以仁王(もちひとおう)です。

ちょっと、ややこしいので、その天皇家の皇位継承の説明をさせていただきますと・・・

父親の第74代鳥羽天皇に、ムリヤリ退位させられたために納得がいかなかった鳥羽天皇の第一皇子・第75代崇徳(すどく)天皇と、当時、第77代の現役の天皇だった弟で第四皇子の後白河法皇・・・この二人の権力争いが世に言う保元の乱・・・乱に敗れた崇徳天皇は、流された讃岐(香川県)で失意のままこの世を去ります(8月26日【崇徳天皇・怨霊伝説】参照>>)

そして、この後白河法皇の後を継いだのが第一皇子だった第78代二条天皇・・・この継承は普通です。

しかし、永万元年(1165年)に病に倒れた二条天皇は、慌てて、まだ生まれて間もない息子を皇太子に立て、その日のうちに第79代六条天皇として即位させます。

ここまで、二条天皇をあせらせたのは、3歳年上となる男子が、自分の父である後白河法皇と平滋子との間に生まれていたから・・・この滋子という人は、その名前でもわかるように、清盛の嫁の時子の妹です

すでに破竹の勢いで政権を握っていた平家・・・一つの武家が、あまりにちからを持ちすぎる事は、天皇家や公家たちにとって良い事ではありませんし、何より、天皇の座は自分の子孫に代々継がせたいですから、死を予感した二条天皇にとっては、自分の命あるうちに・・・という事なのでしょう。。

しかし、冒頭に書いた通り、太政大臣になった清盛は、その翌年に法皇と滋子の息子である第七皇子の高倉天皇を即位させるわけです。

一方の以仁王は、法皇の第三皇子ですから、本来の順番なら、先の二条天皇が亡くなった時にでも天皇の座は回ってきていても良いくらいなのですが、年齢は低いとは言え、一応六条天皇は先の天皇の第一皇子なので、その血筋的には納得せざるをえませんが、高倉天皇は、自分の弟なわけですから、完全に順番抜かされてます。

頭脳明晰で、政治にも大いに関心があった以仁王としては、少々不満・・・それでも、母方の身分がそれほど良くない以仁王は、まだ、ガマンの人でありました。

しかし、やがて、その高倉天皇の中宮に、清盛の娘・徳子が決まるに至って、後白河法皇やまわりの貴族たちが、そろそろガマンの限界に来ていました。

治承元年(1177年)5月・・・夜な夜な鹿ヶ谷(ししがだに)近くの館に集まって、打倒平家の話し合いが行われていた事が発覚・・・後に鹿ヶ谷の陰謀と呼ばれるこの事件は、藤原成親西光法師斬られ俊覚藤原成経康頼の3名が鬼界島に流罪となりました。

当然、関与していた後白河法皇も・・・というところですが、この時、法皇を捕らえようとした清盛を、息子の重盛が止めた・・・と『平家物語』は言いますが、例のごとく平家物語はかなりの重盛びいきなので、実際のところはわかりませんが、とにかく、法皇はお咎めなしとなります。

しかし、2年後の治承三年(1179年)、8月にその重盛が亡くなってから、わずか2ヵ月後の11月・・・清盛は、突然、隠居先の福原(神戸)から、兵を率いて上洛し、後白河法皇を幽閉して院政をストップさせ、貴族や官人約40名をクビに・・・その翌年の治承四年(1180年)の2月には、高倉天皇をムリヤリ退位させ、天皇と娘・徳子の間に生まれたわずか3歳の自分の孫・安徳天皇を第81代天皇として即位させてしまうのです。

以仁王、またまた順番抜かされ・・・って、今度はそれどころじゃない!

もはや、この国を乗っ取られたようなもの・・・さすがガマンの以仁王も、もう動かずにはいられません。

そんな以仁王の気持ちを察して近づいて来たのが、源頼政(よりまさ)・・・彼は、あの平治の乱で、義朝に声をかけられながらも、動く事がなかったため、この平家全盛の世でも、生き残っていた数少ない源氏・・・

しかし、これだけ平家の世になってしまっては、その出世も望めず、まして彼はもうけっこうなお歳・・・こうなったら、起死回生の一発チャンスに賭けるしかありません。

かくして、同じ目標の頼政という味方を得た以仁王は、治承四年(1180年)4月9日、各地の反平家勢力へ向けて平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)を発したのです。

「下す、東海・東山・北陸三道の源氏ならびに群兵等の所、まさに早く清盛法師ならびに従類の叛逆の輩を追討すべきの事・・・」ではじまる令旨は、平家は朝敵であり、以仁王こそ皇位につくべき人物で、従わない者は、即位のあかつきに死罪・流罪にすると強い口調でうたったものだったと言います。

全国各地に伝えられる事になったこの令旨・・・この伝令役として白羽の矢をたてられたのは、かの平治の乱の時、熊野神社にかくまわれていた事で、頼政同様、数少ない源氏の生き残りとなっていた義朝の弟・新宮十郎(しんぐうじゅうろう)源義盛・・・つまり、頼朝&義経の叔父さん。

大役をおおせつかった義盛は、その名を行家と改め、4月28日に京都を出発!

近江(滋賀県)美濃(岐阜県)尾張(愛知県)を回り、5月10日には、伊豆に流罪となっていた頼朝のもとに令旨を届けます。

さらに、木曽にいる義仲、奥州の義経にまで・・・

このように、秘密裏に進めていたこの令旨の配達でしたが、その動きは、すぐに平家の知るところとなります。

それは、後に訪れた紀州和歌山県)の地で、行家は、以前お世話になっていた熊野権現の僧兵を誘おうと立ち寄ったのですが、彼の新宮十郎の名乗りでもわかるように、彼をかくまってくれていたのは熊野神社の新宮・・・

ところが、熊野神社の本宮大江法眼(おおえのほうがん)は平家一門の祈祷師をやっている事もあって、どっぶり平家寄りの人物fだったのですよ。

結局、行家のこの行動で、不穏な動きがバレてしまい、身の危険を感じた以仁王は、5月15日、女装で宮廷を脱出・・・闇にまぎれて三井寺へと逃げ込んだのでした。

このため、以仁王と頼政は、各地の源氏と反平家勢力が集結するのを待つ事ができず、5月26日、あの宇治橋にて、平家に挑む事になります

これが、日本史の中でも超有名な一連の源平の合戦の幕開けとなる戦いなのですが、そのお話は、5月26日【源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦】でどうぞ>>
 

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2009年3月24日 (火)

壇ノ浦の合戦~平家の勇将・平教経の最期

 

寿永四年(文治元年・1185年)3月24日、源平の戦いにおける最後の合戦となった壇ノ浦の合戦がありました。

・・・と、3月24日の日に、このように書かせていただくのも、今回で3回目・・・という事で、本日は、この一連の戦いで、荒くれ源氏の坂東武者にも負けるとも劣らない奮戦をする能登殿こと平教経(のりつね)の最期をご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

時間の流れでいきますと、まずは・・・
【壇ノ浦の合戦~潮の流れと戦況の流れ】(2008年3月24日参照>>)

ここで、事実上の大将であった平知盛(清盛の四男)の形勢不利との報告を聞いた二位尼(にいのあま・清盛の妻の時子)が、「もはやこれまで」と孫の安徳天皇を胸に抱き、ともに海の底へと旅立つ・・・
【先帝の身投げ】(2007年3月24日参照>>)
・・・となり、この教経の最期は、その後のお話となるのですが・・・

その前に、本日の主役である教経さんについて・・・

平教経は、平清盛の弟・平教盛(のりもり)の次男・・・つまり、この源平の合戦における総大将の平宗盛(清盛の三男)や事実上戦闘の指揮をとっていた知盛とはいとこ同士という事になります。

冒頭にも書かせていただいたように、荒くれた坂東武者のイメージの強い源氏に対して、どこか貴族的で雅なイメージのする平家一門にあって、この教経は、そのくくりをぶち破る勇猛果敢な戦士と言える武将です。

平家が都落ちをした直後も、その事を知った西国豪族たちが、ここぞとばかりに寝返り始めた時、淡路摂津(大阪府北部)などを転戦し、連戦連勝を重ねて、西国支配における平家の力を何とか維持させたのも彼でした。

一の谷屋島の戦いでも、全体でこそ、平家は敗北を喫していますが、この教経の率いる一団だけは、常に、源氏に一泡吹かせています。

そう、あの屋島で、源義経の忠臣・佐藤嗣信(継信・つぐのぶ)を仕留めるのも彼です(2月19日参照>>)

そんな教経ですから、この壇ノ浦の合戦で、形勢不利となり、もはや諦めムードの中、先の安徳天皇や二位尼の入水に続いて、周囲の者が次々と身投げ・・・あるいは、逃げの一途をたどる中、ただ1人、疲れを見せず戦い続けていたのです。

先ほどの嗣信の最期のページでも書かせていただいた通り、教経は弓の名手・・・「彼に狙われたら射抜かれない者はいない」と言われたほどの腕前です。

重藤の弓に斑生の矢をつがえ、次から次へと射まくり、近づく源氏の者どもは、またたく間に倒れていきます。

さらに、射掛ける矢がなくなると、右に太刀、左に長刀を持って敵中に踊りこんでなぎ倒し、彼の足元は死体の山に・・・。

その様子を見ていた知盛は、「もはや、勝敗は決してる・・・しかも、まわりはザコばかり・・・これ以上、罪作りな事はやめとけ」と、彼をいさめます。

さすがに勇猛な教経も、大将の命令とあらば、おとなしく・・・と、思いきや、
「なるほど、ザコを殺らんと、大将・義経をいてまえ!ってか、よっしゃ!わかった」
とばかりに、兜を脱ぎ捨て、胴着だけの姿になって、敵中をかいくぐり、自らの船を、敵の大将・義経の船へと近づけていきます。

たとえ、この戦に負けようとも、一矢報いなくてはおさまらないのが教経の教経らしいところ・・・。

ただ、もちろんの事ながら、彼は義経の顔を知りませんし、義経がどの船に乗っているのかさえ、あいまいです。

・・・と、そこに、なにやら豪華な甲冑を身に着けた武将を見つけた教経・・・早速、その船へと移り、相手に飛びかかってくんずほぐれつ・・・

しかし、残念ながら、これは別人・・・その間にも、義経は、教経が気づいていないのをいい事に、うまく、教経の船を避けて逃げまくっていましたが、やがて、ふたりの視線がぶつかり合う時が訪れ、教経は、「アレが義経に違いない!」と、船を近づけ、迫力満点の形相で、義経の船に飛び移りました。

「こんなんと、まともに戦ったら、ちっちゃいオッサンの俺は、絶対に殺られるやん」と、思ったかどうかは、知りませんが、とにかく義経は、教経との一戦を避け、逃げの一手です。

自分の船の、後方にいる、味方の船に飛び移り、また、その次の船に飛び移り・・・そう、これが、有名な『義経の八艘飛び』・・・って、「なんや、八艘飛びって言うたらカッコエエけど、結局、逃げてんねやん!」と思ったのは、私だけではないはず・・・。

それでも執拗に食い下がる教経でしたが、彼は、どちらかと言えば豪傑・豪腕な武者・・・あのように、すばしっこく、こそこそと立ち回られては、やはり追いつけません。

もちろん、その間にも、彼の邪魔をする者をちぎっては投げ・・・いや、担いでは海に投げ込みしながら追いかけますが、さすがの猛将も、スタミナには限界があり、しかたなく、追うのを諦めますが、そうなると、当然のごとく、周囲は源氏だらけ・・・。

そこで、覚悟を決めた教経は、太刀や長刀、兜を海に投げ捨て、丸腰となった姿で大きく叫びます。

「おのれら、勇気あるモンは、この教経を生け捕りにせいや!俺も、鎌倉に行って、あの頼朝に、ひとこと言いたい事があるんや!ほら、はよ、出て来いや!」

・・・と、誰もが尻込みする中、それに答えたのは、安芸太郎時家(あきのたろうときいえ)という男・・・

時家は、30人力の怪力の持ち主とうたわれた男で、しかも、自分に勝るとも劣らない力持ちの従者を1人、さらに、同じくらいの強の者である弟を連れていて、「この3人で一斉に飛びかかれば、何とかなるだろう」と、相談のうえの登場でした。

そして、お互い目配せして、大きく太刀を抜いたかと思うと、3人同時に教経に飛びかかります。

しかし、教経、慌てる事なく、まずは、正面から飛びかかった時家を海に蹴り落とし、残りの二人を両脇に抱え込んだかと思うと・・・

「ほんなら、お前ら、死出の旅の供をせーや!」
と、叫び、敵将二人を道づれに、そのまま海中に身を躍らせたのでした。

その温厚な性格ゆえ、いつも後方で留守役をこなしていた父・教盛に代わって、常に最前線で戦い続けた息子・教経・・・。

一連の源平の合戦の中で、哀れで悲惨、涙涙で語られる事の多い平家一門の死の中で、この教経だけは異彩を放つ、武士の誇りに満ちた壮絶な最期でした。

確か、タッキー義経の大河ドラマの時は、この八艘飛びで逃げる義経を追いかけるシーンは、阿倍寛さん演じる知盛のエピソードとして登場していましたが、『平家物語』では、教経のエピソードとして語られています。
 

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2009年2月14日 (土)

ともに一つの蓮の上~平通盛の妻・小宰相

 

寿永三年(1184年)2月14日、去る一の谷の合戦で討死した平通盛の妻・小宰相が入水自殺を遂げました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平通盛(みちもり)は、あの清盛の弟である平教盛(のりもり)の息子・・・治承三年(1179年)10月に中宮亮(ちゅうぐうのすけ)に任命された男盛りの25歳(前後)・・・。

かたや、小宰相(こざいしょう)は、ともに紫式部の夫・藤原宣孝(のぶたか)を祖先に持つ、いとこ同士の両親から生まれた女性で、後白河法皇の姉・上西門院(じょうさいもんいん)に仕える16歳(前後)の乙女でした。

二人の出会いは、その上西門院が法勝寺(ほつしょうじ)へ参拝に出かけた時の事・・・上西門院に随行する小宰相の姿を、やはり参会していた通盛が見つけ、彼は、一目で恋に落ちてしまうのです。

その日から、通盛は、思いのたけを込めて、彼女へ手紙を送ります

何度も・・・何度も・・・

やがて・・・
後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が源頼政(よりまさ)挙兵(5月26日参照>>)
関東では源頼朝が白旗を掲げ(8月17日参照>>)
北陸では木曽義仲が立ち上がり(9月7日参照>>)
・・・と、平家を取り巻く状況が大きく変わる中、通盛は、片翼の大将として、何度も北陸への遠征をするかたわら、小宰相への手紙を送り続けていました。

しかし、相手は、宮中一とウワサされる美女・・・出会いの日から三年間経っても、だたの一度も返事がくる事はなく、さすがの通盛も、「これで、ダメやったら、もう、あきらめよう」と心に決めて、最後の手紙を書き、使者に託したのです。

最後の望みを託された使者は、いつものように手紙を届けに行きますが、その日は、たまたま、院に向かう途中の彼女の車に出くわし、いつもは御所の女房に渡す手紙を、直接、彼女の車の中に投げ入れます。

通勤途中に、いつもとは違うパターンで、いきなり、熱烈ラブレターを渡された小宰相・・・その手紙の置き場に困って、とりあえず袴に挟んで出勤したのですが、それを、勤務中の上西門院の御所の中で落としてしまい、しかも上西門院本人に拾われて、さらに、中身を読まれてしまったのです。

会社のPCに送られてきたラブラブメールを上司に見られちゃったようなもの・・・これは、いかん!万事休す・・・かと思いきや、上西門院も粋な人・・・通盛の一途な気持ちにほだされ、何と、キューピット役を買って出てくれたのです。

上西門院が声をかければ、話はトントン拍子・・・

もともと小宰相も、恥ずかしさから、どうしていいかわからずに無視していただけだったようで、こうなったら、若い二人はノンストップ!で、周囲も認める恋人同士となります。

・・・とは言うものの、通盛には、すでに正室となる約束を交わした相手がいたのです。

それは、清盛の三男・・・つまり通盛のいとこにあたる宗盛(むねもり)の娘で、この宗盛は、すでに亡くなった通盛の姉の夫でもあった事から、宗盛と通盛は密接な関係にあり、かなり早くから、その約束が交わされていたようです。

養和元年(1181年)に清盛が亡くなり、長男・次男がすでに他界していた事で、宗盛が平家の棟梁となった頃に、正式に正室と定められたようですが、なにぶんその娘は、まだ12歳くらいの少女だったようで、通盛の恋の相手になれるわけがないのは、誰が見ても明らかな事・・・

それが、平家一門の結束を強めるための結婚である事は、周囲も百も承知でしたから、逆に、通盛も小宰相も、気兼ねなく、愛を育む事ができたと思われます。

しかし、二人の幸せな日々は長くは続きませんでした。

そう、あの倶利伽羅(くりから)峠の合戦(5月11日参照>>)で、大敗を喫した平家は、怒涛の如く押し寄せる義仲軍相手に、都落ちをせざるを得なくなるのです。

この時、当然の事ながら、小宰相も連れて、ともに都落ちをしたい通盛ですが、上記の通り、正室がいる以上、小宰相は正式な妻ではありませんから、さすがに周囲は、彼女を連れての都落ちには反対します。

当然、彼女の両親も反対しますが、小宰相の意志は固かったのです。

やがて、寿永二年(1183年)7月25日、平家一門とともに都落ちした小宰相・・・もちろん、その平家一門の中には通盛もいるわけですが、この後、二人が会う機会はほとんどありませんでした。

・・・というのも、彼らの都落ちのあとに堂々入京した義仲と、鎌倉の頼朝が、源氏の棟梁の座を争っている間に、平家は、かつての都・福原(神戸)にて、城郭を構築して、次の戦闘準備をしていたわけですが、この間は、実は、ほとんどが船中漂泊の状態・・・通盛は一族の船で、正式な妻でない小宰相は、乳母や兵が乗る船に乗らなくてはならなかったのです。

しかも、通盛は、一門をまとめる立場にある大将軍・・・二人は会話をかわす事すらできない状態でした。

しかし、源氏の方々が、同族でドンパチやってくれていたおかげで、少しの間、平和な日々が持てた平家・・・やがて急ごしらえではあるものの、屋敷もでき、御所も建てられ、ようやく、少し落ち着きます。

都落ちをしてから7ヶ月・・・そうこうしているうちに義仲を倒して源氏のトップに立った頼朝の命を受け、弟の源範頼(のりより)義経福原に迫ります。

(からめ)手・一の谷の大将を命じられた通盛・・・いよいよ明日は合戦という時、人目を忍びながらも陣の仮屋で、ひとときの再会を果たした二人・・・。

ここで、小宰相は、通盛に、妊娠している事を告げるのです。

「俺に子供が!何ヶ月やろ?体調はどうなん?船の中やったら揺れるやろに・・・どうしたらえぇんやろ」

初めての我が子を喜びながら、すでに産所の心配をする通盛を、うれしそうに見る小宰相・・・二人は心安らぐひと時を過ごした事でしょう。

しかし、これが永久(とわ)の別れになってしまうとは・・・

翌日・寿永三年(1184年)2月7日、通盛の守る一の谷は、義経による鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし(2月7日参照>>)という奇襲によって修羅場と化します。

陸も海も大混乱となる中、小宰相は通盛を心配しつつも、もともと乗る船が違う事もあって、お互いの安否がわからぬまま、船に乗り込み、一路、屋島を目指す事となります。

しかし、その船上で、彼女は悲しい知らせを聞くのです。

「内甲(うちかぶと)を射られて、味方とはぐれてしまい、どこか静かな場所で自害しようと東に向かっておられたところ、近江の佐々木成綱、武蔵の玉井資景(すけかげ)ら七騎に囲まれ、お討ち死になさいました」と・・・

その場で倒れ、数日間寝込んでしまった小宰相・・・しかし、数日経つと、最初は信じられず、受け入れられなかった通盛の死が、逆に、本当に死んでしまった事を痛感してしまうようになっていきます。

かくして寿永三年(1184年)2月14日、信頼のおける乳母に・・・「死にたい・・・」
と、正直な気持ちを打ち明けた彼女。

しかし、逆に乳母に、
「お腹の子供のためにも、しっかりと生きなさい」
と、諭され、何とか思いとどまります。

いえ、思いとどまったふりをしました。

どうやら、彼女は相当モテたらしく、都には強く彼女に言い寄る男がいたのだとか・・・つまり、合戦の勝敗に関わらず、このまま命が助かり、都に戻れたとしても、もともと平家とは縁の薄い家柄の生まれであるうえ、通盛の正式な妻でもなかった彼女は、必ず、誰か、別の男と結婚する事になり、生まれた子供と二人で、ひっそりと暮らす事など許される事ではなかったのです。

清盛の娘の建礼門院(けんれいもんいん)徳子に仕えた右京大夫(うきょうのだいぶ)によれば、おそらく、彼女は、それに耐えられなかったのだろうという事です。

安心して眠った乳母の様子を確かめて、おもむろに起き上がり、夜風に吹かれる彼女・・・おりしも、今夜はおぼろ月夜

鳴く千鳥と、海峡を渡る船の梶音・・・
月は、西に傾いて、はるか彼方の海面を照らします。

あのあたりが、愛しい人のいる西方浄土・・・船べりで、大きく手を広げ、その月へとさしのべます。

「飽かで別れし妹背(いもせ)の仲らい、必ず一つ蓮(はちす)に・・・」
ムリヤリ引き裂かれた二人だから、今こそ、同じ場所に・・・

さぁ、あなた・・・私の手を引いて、あなたのいる場所へと連れてって・・・と、ばかりに、まだ見ぬ子供とともに、彼女は千尋の海の底へと旅立ったのです。
 

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