カテゴリー「 外国の出来事」の20件の記事

2007年6月22日 (金)

史上最恐の暗号・エニグマ

今日、6月22日は何があった日なのかなぁ~何の話題を書こうな?・・・(北条と畠山の二俣川の戦いは去年書いたし・・・)と、ネットサーフィンしていたら・・・

1940年・フランスがドイツに降伏
1941年・ドイツがソ連に攻撃を開始

・・・と、ありました。

手持ちの年表を見ても、1942年に連合国軍が反撃を開始するまで(これは6月22日ではありませんが・・・)、第二次世界大戦において、ドイツが優位に立っていた事が伺えます。

・・・で、「ドイツ優位」で思い出したのが、その勝利の陰にあったと言われている『暗号・エニグマ』・・・。

このブログで度々登場する『孫子』を見ても、戦いにおいて「情報」という物がいかに重要なのかはご承知の通り。

第二次世界大戦の初期に、ヒットラーの作戦がことごとく勝利に終るのは、この「エニグマ」を駆使した情報連絡網があったからなのです。

「エニグマ」とは、ギリシャ語で「謎」という意味・・・「この暗号は誰にも解かれるはずはない」という自信にあふれたコードネームです。

ヨーロッパ戦線において、「エニグマがいかに重要であったか」という事は、戦後三十年間、戦勝国軍のトップシークレットとして公表される事なく、闇の中に隠し続けられていた事でも伺えます。

1974年、関係者の証言によって、初めてその存在が明らかとなるのです。

では、その「史上最強の暗号・エニグマ」とはどんな物だったのでしょうか?

まず、エニグマは一見すると、古い感じのタイプライターのような機械です。
つまり、そのタイプライターのような物で、「文字を変換して暗号にする」という事です。

手前にキーボードがあり、その向こうにランプボードという表示盤、一番奥にローターという歯車のような回転盤が3枚並んでいます。
キーボードの下と蓋にプラグがあります。

まず、ローターの位置とプラグコードのつなぎ方を最初に設定してから、キーボードに文字を打ち込むと、表示盤の一つの文字のランプが点灯・・・

つまり、送りたい文章の最初の文字が「A」だと仮定すると、キーボードに「A」と打ち込みます。
すると表示盤の「Z」のランプが点灯する・・・「A」を暗号に変換した物が「Z」という事になります。
そうやって1文字ずつ暗号化するのです。

1文字打つごとにローターが回転して、次は1回目とは違う変換の仕方をしますので、もう一度「A」と打ち込んでも、2回目・3回目は「Y]になったり「X]なったりするわけです。

複数のプラグと複数のローターがあるので、その変換の仕方は宇宙的な数になりますが、暗号文を受け取る側は、最初に設定するプラグのつなぎ方と、ローターの位置の設定を教えてもらえば、同じ機械で、暗号文をもとの文章に戻せるという事になります。
(説明ヘタですいません)

ネットワークのセキュリティにもある「共通かぎ方式」という方式で、送り手と受け取り手が同じ「鍵」を持っていて、その「鍵」で暗号化して送信した文を、受信者が同じ「鍵」を使って平文に戻すという、方法自体は一番単純な方法ですが、プラグとローターの組み合わせで、その変換方法が1文字ずつ無数にできる事、そしてこのエニグマという機械によって、その変換が瞬時にできる事が、最強と言われる所です。

エニグマの出現によって、解読を心配する事なく、軍事連絡取り放題になったドイツ軍・・・ヒットラーはヨーロッパ全土に数百台のエニグマを配置し、快進撃を続ける事になります。

しかし、連合国側もじっとしているわけには行きません。
何とか、エニグマの謎を探ろうと、あの手この手でスパイ活動を続ける中、ついに1940年、1台のエニグマ機をイギリスが入手するのです。

狂喜乱舞するイギリス軍関係者でしたが、本当の戦いはここからでした。

なにしろ、最初のプラグとローターの設定がわからなければ、機械を持っていても暗号は解読できません。
しかも、その設定方法は定期的に変更されるのですから・・・。

イギリスの首相・チャーチルは、一大プロジェクトを立ち上げます。

軍の暗号解読担当はもちろんの事、数学者・言語学者・時計職人・・・はたまたチェスの名人など、様々な分野の匠を1ヶ所に集め、昼夜を問わず、暗号の解読に挑みました。

誰もが、「今のヒットラーに一泡吹かせるには、エニグマの解読しかない!」と、決して諦めようとしなかったのです。

今思えば、この最強と謳われたエニグマにも、たった一つ欠点と言える部分があったのです。
それは、「A」は絶対に「A」に変換されないという事です。
つまり、「暗号化すると、必ず別の文字になるという事です。

それが、突破口となったのかどうかは定かではありませんが、プロジェクトが立ち上がってから3年後、彼らはこの機械から意味のある断片的な文章を引っ張り出す事に成功します。

一旦、鍵が開かれると、それは、今までが嘘のよに次々と解明されて行きます。

しかし、このエニグマの解読成功は、チャーチル以下、軍の一部の者以外には秘密にされました。

ドイツ軍を安心させるため、エニグマを探るためのスパイを定期的に送り込んだり、わざと不利な方向に軍を進めてみたり・・・。

1944年3月のイギリスのコヴェントリー市への空襲も、エニグマの解読によってチャーチルは事前に知っていたけれど、あえて、避難命令を出さなかったのでは?とも言われています。

しかし、エニグマ解読の事実を隠しに隠していたおかげで、ドイツ軍は暗号がバレているとは気づかず、その動きは連合軍に筒抜け状態・・・あのコヴェントリー市への空襲の3ヶ月後に、チャーチルは「ノルマンディー上陸作戦」という史上最大の作戦を成功させるわけです。

間接的に何十万人という犠牲者を出した史上最強・・・いえ、史上最恐の暗号・エニグマの解読によって、その後の戦況が明らかに変わる事となるのは、皆さんご承知の通りです。

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Enigmacc 今日のイラストは、
その『エニグマ機』を・・・。

機械なので、本当はもっと正確に書かなくちゃいけないのはわかっております・・・お許しを・・・。

もう一つ・・・ランキングサイトのブログ村に日本史で登録している私ですが、今日は日本史ではない事もお詫びしておきます~。

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2007年2月17日 (土)

ノアの方舟・洪水伝説

2月17日は、有名なあの“ノアの洪水”のあった日だそうですよ。

『旧約聖書』「創世記」に書かれた“ノアの洪水があったのは、ノアが600歳(ちょっとムリがある)の時の第2の月の17日だそうで、聖書の年代をそのまま計算すると、紀元前3000年頃の出来事になるそうです。

地上に悪人がはびこる事を「良し」としない神様が、大洪水を起こして人類を滅ぼそうとしますが、神に従順だったノアにだけこの事を教え、方舟(はこぶね)の建造を命じます。

ノアは、高さ13.5m、幅22.5m、長さ135m、約2万tクラスので~っかい方舟に、ノアの家族8人と、あらゆる動物のつがいを乗せて、その日を待ちます。

そして訪れた2月17日、この日から雨は40日間降り続き、150日間水の勢いは止まらず、方舟は嵐の中、木の葉のように揺れ動き、やがてアララト山の上にひっかかって停まります。

使いに出した鳩によって水が退いた事を知ったノアは、家族や動物たちとともに船を出て、神様に感謝。
神様はノアを祝福し、今後、人類を滅ぼすような洪水を起こさない事を約束したのです。

このアララト山は、現在のトルコにあるアララト山だと言われていて、昔から「方舟の痕跡を見た」という人が数多くいます。

Hakobune1cc

ただし、この“洪水伝説”は、『旧約聖書』が初出ではありません。
主人公や、細かい状況に違いはあるものの、よく似た神話は世界各地に残って、その中には、『旧約聖書』以前に書かれたであろう物もあります。

1872年、イギリスの大英博物館に勤務していたジョージ・スミスという人が、その10年前に発見された粘土板の文字を解読し、そこに“ノアの洪水伝説”そっくりの出来事が書かれているのを発見しました。

これが『ギルガメッシュ叙事詩』と言われる物で、古代メソポタミア時代に書かれた物です。
『ギルガメッシュ叙事詩』では、「船はニシルの山に停まった」とされています。

さらに1914年、ペーベルという人が、南メソポタミアのニップルという遺跡から、シュメール語で書かれた粘土板を発見。
ここにも、そっくりの“洪水伝説”が書かれていたのです。

この粘土板は紀元前25世紀頃の物と推定され、紀元前10世紀頃とされる『旧約聖書』より古い事になります。

また、ヒンドゥー教の神話の中にも“洪水伝説”が語られています。
こちらは、人類の祖・マヌが小さな魚を助けて育て、大きくなったその魚を海に返す時、魚が「近々洪水が起こります。その時あなたは船を造って、穀物を蓄え、家畜とともに乗りなさい。そうすれば私が助けてあげます」と言って去っていきます。

やがて、魚の言う通り洪水が訪れ、マヌが船に乗り込むと、その魚が現れます。
縄で船を魚の角につなぎ、ヒマラヤへと運んでもらい、マヌだけが助かる・・・という、恩返し的なお話になっています。

いずれにしても、大洪水によって、一旦時代が終る・・・という構図はおおむね一致している所から、遠い昔、地球規模の天変地異が起こって、その記憶が伝説として語られたのではないか?とも言われています。

ただ、地球規模の天変地異に襲われた・・・というよりは、ある一部の地域に起こった洪水の話が、時が経つにつれ、世界中に広がったと考えるほうが自然だと思います。
 

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2007年1月14日 (日)

ハリーとハレー彗星の話

1742年1月14日は、あのハレー彗星の軌道を計算したイギリスの天文学者・エドモンド・ハリー(ハレーと表記する場合もあります)さんのご命日です。

エドモンド・ハリーは1656年にイギリスの裕福な家の子供として生まれ、オックスフォード大学のクィーンズ・カレッジ在学中に、すでに“太陽の黒点”についての論文を発表します。

Harycc 大学を卒業してからも、月を中心とした天体観測を続け、“星図”“モンスーン”など気象や天文に関する論文などを発表しています。

37歳の時には、人の死亡年齢の統計学から年金サービスの適切な価格などを割り出すという“年金に関する論文”を発表し、天文学者だけではなく、数学者としても活躍するようになり、海軍からのご使命で“海図”などを製作する事もありました。

そして、ハリーが49歳でオックスフォード大学教授の職務についていた1705年に有名な“ハレー彗星の出現の予言”を書いた論文を発表するのです。

これは、1337年から1698年までに観測された24個の彗星の記録とハリー自身が観測した1682年の彗星の記録を総合して丹念に調べ上げた結果、1531年と1607年と1682年の3つの彗星が同じ物である事に気付き、「今度は1758年に同じ彗星が現れるであろう」と予言したものです。

その後、ハリー自身は、グリニッジ天文台長を死ぬまで勤め、1742年の1月14日、予言をしたハレー彗星を見ることなく亡くなりました

やがて、実際には予言とは一年のズレがあるものの、予想通りの彗星が現れ、ハリーの名前は一気に有名になり、彗星も“ハレー彗星”と名付けられる事となりました。

これは、「惑星以外でも太陽のまわりを公転する天体がある」という事が初めて確認された・・・という意味でも重要な物でした。

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このハレー彗星は、76年で太陽のまわりを一周します。
惑星とは、反対向きに、楕円形の少しズレた形の軌道です。
つまり、76年に一度、太陽に近づいた時に地球でも観測できるわけです。

一番最近では1986年2月9日に最も地球に接近しました。
30歳以上のかたなら、あの大騒ぎを鮮明に覚えておられる事でしょう。

この時は、1982年の10月にアメリカの天文台でキャッチされてから、新聞や雑誌でも大きく取り上げられ、みんなこぞって天体望遠鏡を買いに走ったものですが、結果的にはかなり観測には不向きな状況で、天文台にあるような高度な望遠鏡でしか確認できないような状況だったのを覚えています。

ただ、近年の宇宙探査技術の発展により、各国が打ち上げた彗星探査機で、彗星が予想通りの氷の粒子でできている事が確認されたり、他にも専門的な発見が数多くあったようです。

その1つ前、1910年にハレー彗星がやってきた時には、かなり良く見えたようで、雑誌や図鑑でよく見かける長い尾を持った写真は、この時に撮影された物です(最接近は5月19日)

この時は、彗星の尾の中を地球が通過するという接近ぶりで、尾にはシアンが含まれている事を、ことさら強調したマスコミに人々は恐怖をあおられたのです。
実際には、シアンの濃度は非常に薄いので通過しても何事もなかったのですが・・・。

明治四十五年の日本でも、やはりこの時は「ハリーのしっぽがやってくる」と大騒ぎ。
「地球上の空気が5分程なくなる」という噂が広まり、その5分間チューブ内の空気を吸って生き延びようと、お金持ちが自転車のチューブを買占める・・・という事があったそうです。
(ドラえもんでもやってました~)

この時代でもこれだけの大騒ぎですから、その正体を知らない昔の人にとっては、飢饉や戦乱の前触れなどと、彗星は恐怖の対象以外の何者でもありませんでした。
もちろん、その恐怖はハレー彗星だけには限りません。

承元四年(1210年)に彗星が現れた時は、後鳥羽上皇の指示により、第83代・土御門天皇から第84代・順徳天皇に即日交代という事で、いかに恐怖を感じていたかが伺えます。

天皇だけではありません勇猛果敢な武士であっても、その恐怖は同じです。
延応二年(1240年)には、鎌倉幕府第4代将軍・藤原(九条)頼経が、彗星出現のため上洛を中止しています。

ちなみに次の出現予定は2061年7月28日です。
小耳に挟んだ情報によりますと(どこで小耳に挟んだかは忘れましたが)、今度のハレー彗星は、ものすごくはっきり見えるらしく、「尾の長さが空の半分を覆うくらいになる」というので、何とか2061年まで、生き続けたい!と願っている私です。
 

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2006年12月 5日 (火)

バミューダトライアングルの日

1945年(昭和二十年)12月5日、大西洋上空でアメリカ空軍機が消息を絶ち、その海域で行方不明事件が多発する事により、その場所を魔の三角地帯“バミューダトライアングル”と呼ぶようになった事を記念(?)して、今日は“バミューダトライアングルの日”だそうです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Bmdmapcoco2 “バミューダトライアングル”とは、大西洋のフロリダ・バミューダ・プエルトリコの三点を結ぶ三角形の海域です。

1945年の12月5日の午後、フロリダ州のフォートローダーデール海軍飛行場から、5機の戦闘機が飛び立ちました。
その日は、雲ひとつない快晴で、天候面における心配は、まったくありませんでした。

ところが、乗員からいきなり「現在地が確認できない」との通信が届きます。
そのうち、「燃料が足りない」とか「コンパスが狂った」などと、機内のあわてふためく様子も、管制塔に送られてきます。

結局、その通信を最後に、戦闘機5機は跡形もなく消えてしまったのです。
しかも、救援に向かった機体までもが、消息を絶ってしまいます。

その後、大々的な捜索が行われましたが、機体の残骸・燃料の流出など。普通の墜落現場に見られる浮遊物はいっさい見られなかったのです。

その海域ではそれから後も、100以上の飛行機、そして船までもがこつ然と姿を消す・・・という現象が起こります。
いつしかこの地域は“バミューダトライアングル”と呼ばれ「UFOに誘拐された」とか「四次元に迷い込んだ」とか、様々な噂が立ち、魔の海域と恐れられるのです。

原因として、今最も有力視されているのは、“マイクロバースト”と呼ばれるこの地方特有の自然現象。
それは、冷気の固まりが海面や地表に落下して、破裂するように強風を巻き起こすのだそうです。

ただし、この現象はかなり低空で起こるらしく、小型の民間機や船などは、影響される可能性も考えられますが、もっと上空を飛ぶ大型機に関しては依然、説明がつかないのが現状です。

結局、この日、行方不明になった戦闘機は、1991年にその残骸とおぼしき物が半径2㎞にわたって散らばっているのが発見されましたが、現在位置や方角がわからなくなったり、コンパスが狂ったりした事の原因は未だに解明されていません。

しかし、この“バミューダトライアングル”の話は、明快な原因がわからないにしても、未知な自然現象や海流によって、たまたま事故が起こりやすい地域なのだ・・・と、納得できるのですが、世の中にはもっと不思議な事があるもので、この逆パターンが存在する!というので、ビックリ仰天です。

それは、1989年10月12日の事。
ブラジルのポルトアレグレ空港の上空に突然現れたロッキード型旅客機が、管制塔の許可を無視して勝手に滑走路に着陸したのだそうです。

機内に入ってみると、乗員乗客92名が全員、なんと!白骨死体で発見されます。
そして、フライト・レコーダーの記録を調べてみると、その飛行機は何と35年前の1954年9月4日に、旧西ドイツのアーヘン空港から飛び立ち、このポルトアレグレ空港に向かっていた飛行機で、途中大西洋上空で消息を絶ったサンチアゴ航空・513便だった・・・というのです。

にわかには信じがたい話ですが、17年前と言えば、私は○○歳・・・しっかり大人なんですが、そんなニュースあったかなぁ?

この話は最近知ったんですが、不思議大好き少女(もう少女ではないが・・・)の私としては、当時聞いてたら絶対食いついてる話なんですが・・・日本ではニュースにならなかったのか、私が知らないだけなのか・・・。

航空機に関して素人なもんでよくわからないのですが、「パイロットは着陸時に一番神経を使う」とか、「着陸だけは手動で・・・」なんていう話を小耳に挟んだ事があるのですが、それでも飛行機というのは、パイロットが亡くなっていたら、自動運転か何かでちゃんと予定通り着陸するもんなんですかね?

それにしてもこの話は、まさに“戦国自衛隊”の世界じゃないですか!
不思議大好き少女+歴史大好き少女(だから少女やない!って)の私にとって、戦国自衛隊は、もう、その設定だけで満足するくらいのシロモノです。
夢のコラボですから・・・。

最初の映画も、もちろん見に行きましたが、最近も、ドラマや映画でリメイクされてましたね。
上杉謙信→織田信長→関ヶ原と来たら、もう残るは、大坂の陣しかないでしょう。

是非とも、昨日(12月4日)の真田幸村に出会って、真田十勇士は自衛隊員なんて事になりませんかね。
少なからず期待している私です。

・・・と思ってネットを調べたら・・・あるじゃないですか!
私は、まだ読んでないのでくわしい内容はしりませんが、思った通りの大坂の陣でしたね(笑)

 続・戦国自衛隊~大坂城攻防編
 

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2006年11月13日 (月)

ネッシー写真で大論争

1933年の今日、11月13日に、始めてネッシーの写真撮影に成功!・・・だそうですが、はたしてホンマモンなのでしょうか?

ネッシーは、イギリス・インパネス地方のネス湖に棲む、世界的に最も有名な未確認動物です。
有名な未確認・・・というのも何だか変ですが・・・

正式には、ロッホ・ネス・モンスター[Loch Ness Monster(s)]という名前で、ひし形のヒレを持つネス湖の怪獣という意味のネッシテラス・ロンポプリテウス[Nessiteras rhom-bopteryx]という学名までついているそうです。

ジュラ期の海生爬虫類、プレシオザウルスの生き残りか、それが環境に順応した亜種とする説が有力です。

もともと、最初の目撃例は565年で、この地方には奇妙な動物『水中ケルピー(怪獣)』として記録も残っていましたが、この写真撮影によって、ネッシーという名前が一躍世界中に知られる事になるわけです。

その後、1960年にイギリスの航空技師ティムディンス・テイルという人が、1週間ネス湖に張り込んで(1週間は早すぎるやろ・・・)16ミリ・フィルムでの撮影に成功したという。

「はたして、このフィルムに写っている移動する黒いコブのような物は、本当に未知の生物なのだろうか?」
当然の事ながら、大論争が巻き起こるのです。

1966年時点でのイギリス空軍・偵察情報センターの分析結果によると、
●撮影された物体は船ではない
●人工物の根拠も見当たらない
●推定時速10マイル(約16km)
●幅6フィート(1.8m強)
●高さ5フィート(1.5m強)
なのだそうです。

最近、『木曜スペシャル』(川口探検隊)的な番組にお目にかからないので、こーゆー事には無知なのですが、最新技術の分析結果などはあるんでしょうか?

少なくとも、何枚かの写真がニセ物だと確認された話は聞きましたが・・・

ところで、ネッシーのような未確認の動物をUMA[Unidentified Mysterious Animal(s)]と呼ぶのは最近けっこうメジャーになってきていますが、その定義は「ある程度知られてはいるが、科学的には確認されていない動物。特に、なるべく最近の物で、目で見て手で触れる事のできる可能性がある物」だそうです。

ヒマラヤの雪男、中国の野人、北米のビッグフット、プエルトリコのチュパカブラが人を襲うなんていう話もありました。

日本では、ツチノコ(へびに似た生物)ヒバゴン(広島県比婆山にいる雪男)を筆頭に、タキタロウ(体長2mのイワナ)クッシー(北海道屈斜路湖の怪獣)イッシー(鹿児島県池田湖の怪獣)などはわかりますが、河童なども含まれるそうです。
個人的には、鬼や河童は妖怪のたぐいではないかと思うのですが・・・。

これらを研究するのは、未確認動物学というちゃんとした学問で、世界的な学会も開かれているらしいです。
ネッシーに関しては、イギリスの希少動物保護法の対象にもなっているそうなのですが・・・見つかると、うれしいような・・・でも、いつまでも謎のままのほうが良いような気もしますね。

つい最近、長年UMAとされてきたスカイフィッシュを高感度スピードカメラで撮影したところ、ただの虫だった・・・というのもありましたからね。
 

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2006年9月16日 (土)

新天地への旅立ち

1620年9月16日、メイフラワー号が新天地に向けてイギリスを出発しました。

当時イギリスでは、貴族や僧侶・大地主・特権商人などが支持するイギリス国教会と、都市や地方の地主・独立自営農民・商工業市民などが支持する清教徒がはげしく対立していました。

ジェームス一世や、チャールズ一世は、国教会を強制し、それに対して不満を抱く人々が増えていきました。
清教徒(ピューリタン)たちは、イギリス国教会からの迫害から逃れて、理想の地へ旅立とうと、1620年の今日、102名がメイフラワー号(180トン)に乗り込み、イギリスを出発。
大西洋を横断してアメリカに向かいました。

メイフラワー号は、大西洋を66日で横断、乗客102名のうち2名が船上で無事出産したという事です。

しかし、新大陸の冬は厳しく、寒さと飢えのため約半数の人が亡くなりました。
やがて、春にはなんとか生活できるようになり、その年の秋には収穫も得られるようになりました。
アメリカで、11月の第4木曜日に行われる『感謝祭』は、この時の収穫を祝うお祭りです。

ちなみに、その後イギリスでは1649年に、7年間に及んだイギリス国教会(王党派)と清教徒(議会派)の内乱が終結し、議会派が勝利をおさめました。

それは、『清教徒革命』と呼ばれ、世界最初の市民革命だと言われています。
 

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2006年8月29日 (火)

アヘン戦争の終結

1842年、8月29日、イギリスと清国との間に南京条約が結ばれ、アヘン戦争が終結しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その頃、イギリス清国(中国)から東インド会社を通じて、絹織物やお茶などを輸入し、逆に毛織物や綿製品を輸出していました。

しかし、輸入の増大に対して、輸出の方はなかなか伸び悩み、なんとかこの状況を改善したいと考えていました。

そこで、イギリスが目を付けたのが、当時、東インド会社が独占販売していたアヘンでした。

それを、インドで大量に栽培・造成して、密かに清国に売り込もうという作戦です。
アヘンはケシの実からできる麻薬です。
密輸をほっておくと、中毒患者が増大し、銀の大量流出や貨幣流通の崩壊を招きます。

そこで、清国政府の担当大臣・林則徐(リーツォシュー)は、銀の大量国外流出防止策を打ち出します。それは・・・
① アヘン吸引者と販売者の処刑
② イギリス商人の貿易禁止
③ 外国商館の閉鎖
④ アヘン約2万箱の償却
というものでした。

それに対して、イギルス監察官・エリオットは、あくまで輸入解禁・アヘン貿易の継続を主張し、1840年にアヘン戦争に突入しました。

清国では、民衆が自発的に作った武装自衛団などで、応戦していましたが、イギリスは最新鋭の軍艦を登場させ砲撃し、武力の違いを見せつけます。

結局、清国政府は林則徐を解任して、イギリスとの交渉に臨み、1842年8月29日、この屈辱的な南京条約を結ばされ半植民地状態になってしまうのです。

南京条約
① 賠償金1200万銀ドルの支払い。
② 広州・福州・厦門・寧波・上海の5港を開放し、イギリス人の居住と治外法権を認める。
③ 香港島をイギリスに譲り渡す。
④ 特許商人の独占貿易をやめ、自由貿易とする。
⑤ 清国の関税自主権の放棄。
⑥ 清国は、イギリスに最も有利な条件・待遇をすること。

この条約は、その後に欧米諸国がアジア諸国と結ぶ不平等な条約のモデルとなり、日本でも江戸幕府や、幕末のリーダーたちに大きな影響を与える事になりました。

アヘンはダメです・・・やっぱり・・・。
 

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2006年8月24日 (木)

ポンペイ最後のの日

西暦79年、8月24日、南イタリアのナポリに近いベスビオ火山が大噴火し、ポンペイ・エルコラ・スタビアの3つの町を埋め尽くしました。

ちょうどその頃は、古代ローマ帝国の最盛期で、ポンペイの町はローマの貴族や富豪の別荘地でした。
近代になって発掘されたポンペイが特に注目を浴びたのは、その滅亡があまりにも突然の事だったため、幸か不幸かそこで生活していた人々の様子が、手に取るような状態でそのままに残されていたからです。

たとえば、パン屋の窯の中に作りかけのパンがそのまま炭化していたり、酒場のテーブルに酒代の硬貨が置かれていたり、ある家庭では、お母さんが台所でご飯の支度の最中で、その子供たちがペットの犬と中庭で遊んでいた・・・というような日常の光景も垣間見えたりします。

また、当時は紙が貴重だったので、町や家の壁などに落書きをするように様々なメモや覚書が書かれていて、食事のマナーや家のしきたり、あるいは、いくらで何を買ったなど今で言う家計簿のような物、恋人同士の待ち合わせの約束など、歴史的な書物では知りえない普段の生活がわかるのです。

中でも興味深いのは、町のメインストリートに大きな文字で書かれた選挙の広告。
『○○に投票しない者は、ロバに乗せて市中を引き回すぞ』とか『有能な○○を監督官の位につけよう』など、これは世界最古の選挙ポスターです。

近年では、それらの点と点をつなぎ合わせて、誰が(どんな人が)どこに住んで、どんな生活をしていたかなども、徐々に特定されてきていて、まさに古代のタイムカプセルと言える物です。
 

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2006年7月 4日 (火)

マリー・キュリー没

1924年7月4日、フランスの物理学者・キュリー夫人が放射性物質の研究の影響による白血病で亡くなりました

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

キュリー夫人は、ポーランドのワルシャワの牧師の子として生まれ、その後パリに亡命して、ソルボンヌ大学を卒業。

ピエール・キュリーさんと結婚し、夫と協力してウラン鉱からラジウムを精製・発見しました。

その功績によって、1903年には夫婦でノーベル物理学賞を、1911年には単独でノーベル化学賞を受賞しています。

第一次世界大戦では、ラジウム療法のよって多くの傷病兵を救い、かつては、キュリー(Ci)が放射能を計る単位として用いられていました。

それにしてもキュリー夫人の一家はスゴイ!
娘婿も含めて一家の中で5人がノーベル賞受賞者とは・・・。

これは、頭脳のDNAはもちろんですが、やはり、地道な努力を続けられる辛抱強さ、忍耐力のDNAが娘さんたちにも受け継がれている・・・という事でしょうか。

キュリー夫人に限らず、科学の発見という物は、まぐれや偶然で突発的に起こる物では決してありません。

永遠かと思えるくらいの長い何もない日々が続きます。
成果のない、進歩のない、不安な日々をず~っと努力し続けて、最後の最後に成功が待っている・・・といった具合です。

たぐいまれな忍耐力を持ったご夫婦の偉業に、唯々、敬意を表します。
日々の甘い物すらガマンできない忍耐力不足の自分が恥ずかしいワ(ToT)
 

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2006年5月23日 (火)

コペルニクスの地動説

コペルニクスはポーランドに住む司教でした。

彼は、ギリシャの思想や、肉眼による天体観測などで、『地球を中心にして天体が動いている』という当時の常識だった天動説に疑問を抱いて30年間も、独自の研究を続けて最後に地球のほうがうごいている・・・という確信を得ますが、自分は司教の身。

教会では、地動説を悪とする風潮がまん延していましたので、なかなか発表する機会がありませんでした。

そのうち病気になってしまい、彼の友人たちの手によって、1543年5月23日に長い間の研究の成果をまとめあげた1冊の本『天体の回転』が発表されました。

そして、彼は『天体の回転』が発表された翌日、息をひきとりました。

つまり、明日はコペルニクスさんのご命日です。

凡人の私には、天体のどこをどう観測したら、地球が動いているとわかるのか・・・そこんところがまったくわかりません。

宇宙は無限というけれど、ほんとうに限りなくどこまでも続いてるのかしら?

最後の最後にここから先は行けませんよ・・・みたいな場所があってその向こうへは、出られないって事なのか?

それともほんとうに延延と空間が広がっているのか?
そんな事を考えてると・・・はたして今夜は眠れるのかな?
 

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2006年4月27日 (木)

ソクラテスに死刑執行

紀元前399年、4月27日、すでに70歳を迎えていたソクラテスは、役人の差し出した毒杯を、静かに飲み干して亡くなりました。

ソクラテスは、古代ギリシャの哲学者で、街中の辻で、若者と問答をしたりして、相手の無知を自覚させて、『汝、己を知れ』という部分から出発して、真実に到達しようと努力していました。

しかし、ソクラテスのその行為は、『国家をないがしろにして、かえって若者たちを、誤った方向へ導かせる』として、裁判で死刑を言い渡されたのです。

それにしても、たとえ70歳とはいえ、静かに毒杯をあおれるなんて、やっぱり、哲学者という人は、自分の死をもちゃんと見つめる事ができるんですかねぇ。
あたしゃ、ムリだわ。
 

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2006年4月26日 (水)

パリ郊外に隕石落下

1803年の4月26日、パリ郊外に約3000個の隕石が落下して、パリ市民を驚かせました。

隕石は、宇宙空間に数多く存在している流星の中で、比較的大きな物が、大気圏突入の際に燃え尽きてしまわずに、地表までたどりつく物。

かなりの音と衝撃が伴う物ですから、3000個はそりゃスゴかった事でしょう。

以前、どこかのお宅に隕石が落ちて、屋根を突き破って畳をぐちゃぐちゃにしてるのをニュースで見ましたが、たった1個でアレですからね。

たまたま部屋に誰もいなくて、けが人がなかったのが幸いでしたね。

しかし、流星のほとんどは、大気圏突入の際に燃え尽きてしまうらしく、その燃え尽きてしまうのが、いわゆる流れ星です。

昨年、ふたご座流星群を、眠い目をこすって、起きて見てたんですが、約10個くらい星が流れるのを見れて感動しました。

願い事を言うと叶うって言いますよね。

それで、宵のうちから、めちゃめちゃ練習してたんですが、いざ、本物を見ると「アァッ!」という叫び声しか出ないもんですな。

流れ星がおさまった合間にも「健康、長生き、金持ち、健康、長生き、金持ち・・・」とくりかえしてたんですが、やっぱり星が流れると、思わず「アッ!」って言ってしまうんです。

まぁ、だからこそ、願いが叶うなんて言われるんでしょうけどね。

簡単にできるなら、そうは言われないでしょうから・・・。
 

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2006年4月23日 (日)

シェークスピア生・没

えぇ~っ!?生・没っ!って思ってしまいました~(@o@)/

1564年の4月23日に生まれ、1616年の4月23日に亡くなったそうです。

イギリス生まれで、ロンドンで、俳優、舞台監督を経て、劇作家になった・・・とのこと。

日本でも盛んに上演されていて、なかでも、『ハムレット』『リヤ王』『マクベス』『オセロ』は、四大悲劇と呼ばれて、高い評価を受けています。

それにしても、なんでシェークスピアの数ある作品の中から『ベニスの商人』が、教科書に載ってるのかしらん?

今、現役の学生さんの話は、聞いた事がないので、今の教科書に載ってるかどうかは、知らないんですが、同世代の人たちに聞くと、みんな『ベニスの商人』だった・・・って言います。

アレってけっこう、差別的なニュアンスの多い作品ですよね。

内容が理解しやすいんですかね?

今は『ロミオとジュリエット』なんかが、載ってるのかしら・・・。

それにしても、4~500年たっても、まだ上演されるってスゴイ!
シェークスピアの偉大さを感じます。
 

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2006年4月19日 (水)

ダーウィン没

進化論を唱えたダーウィンが1882年の4月19日に亡くなっています。

イギリスの人で、22歳の時に、ビーグル号で世界各地を廻り、その時集めた資料の数々をまとめた『種の起源』を50歳の時に発表しました。

環境の変化が起こった時、それに適合するように進化したものだけが生き残っていって、そのものが次の世代へその進化した性質を遺伝することによって自然淘汰されていく・・・。

とりあえず、人間はサルから進化した・・・というアレですね。

ひょっとして、地方にいる美人やイケメンは、モデルや俳優になろうと東京へ行き、地方にいるオモロイ人は、お笑い界で一旗あげようと大阪に来る。

そして、それぞれそのまま住みついてその子孫が増え、東京は美形が多く大阪はオモロイ人が多いのと同じ理論か?・・・(違う気がする)

それはそうと、前からず~っと気になってたんですが、自然淘汰されていく事は進化なのかな?

たとえば、このごろよく聞く話で、最近の日本人はやわらかい食品を多くとるようになって、あごや歯が弱く、虫歯が多い。

このままいくと、将来ものすごくあごの細い顔立ちになっていくらしいけど・・・これって進化なの?退化してるんじゃないの?

考えれば考えるほど、ややこしい。

文明が発達すると、生活が便利になって、あんまり物を考えなくなって、そのうち脳が自然淘汰されていったら・・・いや、人類には、知恵がありますから、今も、これからも進化しつづけていくんでしょう。
 

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2006年4月15日 (土)

リンカーン暗殺

1865年4月9日に、南軍が降伏を申し出て、アメリカの南北戦争に終止符が打たれました。

そして、運命の14日、リンカーンはフォード劇場で、南部出身の俳優・ブースに撃たれ、翌日・4月15日の朝、息をひきとりました。

「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉はあまりにも有名ですね。
ところで、そのリンカーンと会見した日本人が、ただ一人だけいます。

播磨の出身で、海で遭難してアメリカの船に助けられ、少年時代をアメリカで過ごした、ジョセフ・ヒコという人で、アメリカ国籍を取得した最初の日系人です。

成人して日本に帰国してからは、アメリカ領事館の通訳となって、のちに横浜で貿易商社開き、1861年、ふたたび渡米した時にリンカーンと会見しました。

彼はその時のリンカーンの印象を「まじめで親切な人で、誰からも愛される人だ」と語っていたそうです。
 

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2006年4月12日 (水)

ボストーク1号、無事帰還

1961年4月12日、モスクワ時間午前9時7分!白い煙と轟音をあげて、ロケットが飛び立ちました。

これは、よ~く覚えています。幼稚園にいるかいないか、いないかいるか・・・(年がバレるのではっきりとは言わない)

けっこう小さい頃なのにこんなに覚えているのは、やっぱりものすごい衝撃だったんでしょうね・・・子供心にも・・・。

もちろんアポロみたいにテレビ中継はなかった(あったかもしれないけど見てません)ので映像としては覚えていないんですけど、こんな事あったな・・・っていう出来事として鮮明に覚えています。

とりあえずなんか言うたら「地球は青かった」て言うてたの覚えてますから・・・。
今のイナバウアーと同じくらい言うてました。(←45年間進歩な~し!)

今思うとたった108分間の飛行時間、地球一周だけの宇宙旅行でしたが、その時のガガーリン少佐の恐怖はスゴかったでしょうね。

今でも、恐怖感に打ち勝つの大変やと思うのに、まだ前人未到ですからね、当時は・・・。

でも、私たちがアポロ8号で始めて見たあの地球の美しさを誰よりも先に見れたなんてうらやましいかぎりです。
 

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2006年4月 6日 (木)

第1回近代オリンピック

ご存知、クーベルタン男爵の努力によって、1896年の4月6日、第1回近代オリンピックが、ギリシャのアテネで開催されました。

参加国は13国。
参加選手は280名。

気になる競技種目は、・・・
トラック競技が、100m、400m、800m、1500m、ハードル、マラソン。
フィールド競技が、走り高跳び、走り幅跳び、三段跳び、円盤投げ、砲丸投げ。
以上陸上種目が十二種目。

その他に、水泳、体操、テニス、レスリング、フェンシング、自転車がありました。
各競技の優勝者には、金メダル・・・ではなくて、わざわざオリンピアから切り取ってきたオリーブの枝と銀の杯が、皇帝から手渡れたそうな。

えぇっ!月桂樹の冠じゃなかったの?
ず~っと長いこと、月桂冠だと思ってました。

私個人的には、今後のオリンピックの新種目として、綱引きの復活と、駅伝の導入を希望してます。

それも、国対国で・・・。盛り上がると思うけどなぁ~。ケンカになるかな?
 

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2006年4月 4日 (火)

NATO創設

1949年の4月4日に、ワシントンで『北大西洋条約』が調印されました。

NATO(ナトー)とは、『North Atlantic Treaty Organisation』日本語で、『北大西洋条約機構』のかしら文字をとってNATOとなります。

これってよくテレビのクイズに出てきますよね。

アルファベット4文字で何と言うか?とか、逆にナトーの正式名称は・・・?みたいな感じで・・・。

私もNATO=北大西洋条約機構って言うのは知ってましたし、そんなクイズなら答えられます。

でも、・・・じゃ、誰が、何の条約結んでるの?・・・っと聞かれたら、さっぱり・・・。

せっかく4月4日・NATO創設という日をむかえて、このまま知らないままで通りすぎるのもシャクな気がして、調べてみました。

すると、アメリカとヨーロッパ諸国の対ソビエトのための軍事同盟だという事がわかりました。(そんな事知ってるゾ!と言われそうですが・・・(^o^;)

加盟国の領内が攻撃を受けたとき、共同で応戦する義務を背負っているとのこと。

途中、戦略のズレが生じたフランスが離脱し、米・ソの冷戦が終結してからは、対ソ連ではなく、周辺諸国の内紛などに、重点を置いているんだそうです。

日本史は、好きなんですが、近代の、しかも世界の事となると、とんとダメですね。

まぁ、でも今日、1つ覚えられて良かった・・・スッキリしました~。
 

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2006年3月26日 (日)

ベートーベン没

1872年の3月26日、あの大作曲家のベートーベンが亡くなりました。

幼い頃から貧乏に苦しみましたが、12歳で宮廷のオルガン奏者になりました。それから17歳の時にウィーンに移り、モーツァルトやハイドンの教えを受けて、ピアニストとして徐々に頭角をあらわしました。

30歳の頃になって作曲家としての地位を確立しましたが、この同じ頃耳の病に悩まされるようになります。やがて完全に聴力を失ってしまいます。

しかし、その事に負けず、すばらしい曲を数多く作曲した事は、もう説明もいらない有名な話です。

私なんかも、モーツァルトは、小学校の音楽の時間に教わるまで知りませんでしたが、なぜかベートーベンは誰に教わるでもなく知ってました。幼稚園児でも知ってますよね。
 

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2006年3月15日 (水)

シーザー暗殺

紀元前44年「ブルータスお前もか」の名言を残してシーザーは暗殺されました。

剣を手にした元老院議員たちが一斉に襲い掛かり、ペン1本で応戦しましたが、その集団の中にかねてから目をかけていたブルータスを見つけて、先ほどの名言を発しあえなく命をおとしました。

首謀者カシウスは「ローマへの愛がこうさせた」と語り、有識者たちは彼らを弁護しましたが、民衆はシーザーの味方でした。養子オクタヴィアヌスはその民衆の声を背に受けて暗殺者たちを裁いたのです。

もう、シーザーと言えば、あのエリザベステーラーのクレオパトラの映画しか思い出せません。子供の頃の記憶なんですが、たしか出てきましたよね。

教科書では、ユリウス・カエサルになってますが・・・。
 

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