2009年8月14日 (金)

外国関連の歴史年表

 

このページは、お目当ての記事を探しやすいようにと、外国関連の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」式の年表です。

外国に関連した日本の出来事も含めてはいますが、もともとほとんど日本の歴史を書いているこのブログでの数少ない外国の出来事・・・中には、ブログのテーマもはっきりしていない、始めてまもない頃のページもありますが、それも、このブログの軌跡という事で(/ー\*)、「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、掲載しておりませんので、とても年表とは言えないかも知れませんが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaigaikoku



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
-3千 2 17 ノアの洪水がこの日から40日続く
【ノアの方舟・洪水伝説】
-44 3 15 ジュリアス・シーザー・没
【シーザー・暗殺】
-339 4 27 ソクラテスが死刑に
【ソクラテスに死刑・執行】
79 8 24 ベスビオ火山が噴火
【ボンベイ・最後の日】
398
9 5 神功皇后に三韓征伐の神託が下る
【神功皇后の三韓征伐】
528 10 5 達磨大師・没
【ダルマさんのご命日】
552 10 13 仏教伝来
【仏教伝来~物部VS蘇我】
607 7 3 第1回遣隋使・小野妹子を派遣
【国書を失くした妹子が出世する不思議】
630 8 5 第1回遣唐使・犬上御田鍬を派遣
【世界情勢とともに変化した遣唐使の役目】
663 8 27 白村江の戦い
【その敗戦の原因は?】
717 8 20 安倍仲麻呂が遣唐使として出発
【三笠の山に出でし月かも】
754 1 16 鑑真和上が平城京に到着
【鑑真和上が日本に来たかったワケは?】
755 11 9 安禄山の乱
【楊貴妃は日本で生きていた?】
894 9 30 遣唐使の廃止を決定
【白紙に戻そう遣唐使】
1274 10 5 対馬西岸に元軍が到着
【フビライの日本侵略計画はあったか?】
10 19 元軍が博多湾に侵入
【蒙古襲来・文永の役】
1275 9 7 北条時宗が元の使者を斬殺
【時宗が元との徹底抗戦を決意した日】
1281 6 6 元軍が再び博多湾に侵入
【蒙古襲来・弘安の役】
1282 12 8 北条時宗が円覚寺を建立
【蒙古襲来絵詞に隠された元寇のその後】
1419 6 26 応永の外寇
【朝鮮軍・襲来!応永の外寇】
1543 5 23 コペルニクスが「天体の回転」を発表
【コペルニクスの地動説】
1549 7 3 フランシスコ・ザビエルが鹿児島上陸
【ザビエルが以後よく広めるキリスト教】
1555 5 4 ノストラダムスが「諸世紀」を出版
【ノストラダムスの大予言】
1569 4 8 信長が京都での宣教師居住と布教を許可
【織田信長とキリスト教】
1581 2 23 織田信長が黒人・弥介と対面
【織田信長と黒人さん】
1587 6 19 豊臣秀吉がキリシタン禁止令を発令
【秀吉が切支丹禁止令を今日出したのは?】
1590 6 20 天正遣欧少年使節団が帰国
【天正遣欧少年使節団の帰国】
1592 4 13 文禄の役で豊臣隊が釜山上陸
【文禄の役・釜山上陸】
1593 1 26 碧蹄館の戦い
【泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い】
1597 2 5 長崎で26名のキリスト教徒を処刑
【長崎二十六聖人・殉教の日】
1598 11 20 慶長の役・終結
【慶長の役終結~悲惨な戦の残した物は】
1600 3 16 リーデフ号が豊後に漂着
【三浦按針・漂着~そしてヨーステンは】
1620 8 26 支倉常長が帰国
【伊達政宗の幕府転覆計画】
9 16 メイフラワー号がイギリスを出発
【新天地への旅立ち】
1629 10 3 江戸幕府が山田長政に朱印状を交付
【アユタヤの戦士・山田長政は実在したか?】
1668 3 8 江戸幕府が長崎貿易のご禁制品を定める
【日本人の輸入品好きは昔から?】
1742 1 14 エドモンド・ハリー・没
【ハリーとハレー彗星の話】
1803 4 26 パリ郊外に隕石落下
【パリ郊外に隕石落下】
1820 5 12 ナイチンゲール・誕生
【ナイチンゲール記念日】
1829 9 25 シーボルトが国外退去
【シーボルト事件のウラのウラ】
1842 8 29 アヘン戦争・終結
【アヘン戦争の終結】
1853 6 3 アメリカ・インド艦隊のペリーが浦賀に到着
【ペリーが予測した「ものづくり日本」】
10 14 ロシアのプチャーチンが下田に入港
【開国の嵐に不幸続きのプチャーチン】
1856 7 21 初代アメリカ領事・ハリスが下田に到着
【ハリスと唐人お吉】
1862 8 21 生麦事件
【島津を180度変えた生麦事件】
1863 7 1 イギリスが薩英戦争のGOサインを出す
【未遂に終った「スイカ売り決死隊」】
1864 2 23 幕末遣欧使節団がエジプト国王を訪問
【使節団・珍道中~スフィンクスと侍】
3 20 遣欧使節・池田団長がフランス外相と会見
【池田団長が日本人で初めてした事は?】
8 6 下関戦争・終結
【幕府も新政府も借金まみれの原因は?】
1865 4 9 リンカーン・暗殺
【リンカーンに会った日本人】
1866 8 20 徳川幕府がフランスと$600万の借金交渉
【でるか?徳川埋蔵金】
幕末・横浜・フランス兵殺人事件
【幕末・横浜・フランス兵殺人事件】
1867 3 7

徳川慶喜の弟・昭武がパリに到着
【慶喜の弟がパリ留学の間に・・・】

8 17 外国奉行・栗本鋤雲がパリに到着
【幕末・日本とフランスの架け橋~栗本鋤雲】
1868 1 11 アメリカ兵・射殺事件
【日本最大の危機?アメリカ水兵射殺事件】
1871 11 12 津田梅子ら女子留学生がアメリカへ
【津田梅子のアメリカ留学】
1872 3 26 ベートーベン・没
【ベートーベン・没】
1874 1 27 宮城県の男性が外国人女性と結婚
【国際結婚&結婚の歴史】
4 18 征台の役で木戸孝允が辞職
【近代日本初の対外戦争】
1882 4 19 ダーウィン・没
【ダーウィン・没】
1886 5 1 アメリカで労働者がストライキを決行
【労働者の祭典・メーデー】
1891 5 11 大津事件
【ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋1】
【ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋2】
1896 4 6 ギリシャのアテネで近代オリンピック開会
【第1回・近代オリンピック】
11 25 神戸でエジソンのキネトスコープを公開
【映画の日に映画の歴史】
1904 2 10 日露戦争・勃発
【日露戦争・勃発!】
3 8 アメリカで女性たちが集会を開く
【今日は国際婦人デー】
8 10 日露戦争・黄海海戦
【力づくの勝利~日露戦争の黄海海戦】
9 4 日露戦争で遼陽に入城
【日露戦争・初めての大野戦~遼陽会戦】
1905 1 2 旅順・陥落
【日露戦争のキーポイント・旅順陥落】
3 10 奉天占領(日露戦争)
【日本軍・極寒の奉天占領】
5 27 日本海海戦
【伝説の東郷ターンは?】
1907 3 5 初のミスコンテストでミス日本が決定
【ミス日本に選ばれて退学処分】
1909 10 26 伊藤博文が暗殺される
【真犯人は別にいる?】
1923 9 1 関東大震災
【関東大震災での災害ボランティア】
1924 7 4 キュリー夫人・没
【マリー・キュリー・没】
1927 3 18 アメリカから青い目の人形が到着
【青い目の人形・到着】
1932 4 24 日本で初めてダービー開催
【競馬の歴史~日本ダービー記念日】
1933 11 13 イギリスでネッシーの撮影に成功
【ネッシー写真で大論争】
1941 6 22 ドイツがソ連への攻撃を開始
【史上最恐の暗号・エニグマ】
12 8 日本軍がハワイの真珠湾を奇襲
【真珠湾攻撃】
1943 7 29 日本軍が「キスカ撤退作戦」を決行
【キスカ撤退作戦・成功!】
1945 4 7 戦艦・大和が沈没
【戦艦大和、海に散る】
8 6 広島に原爆投下
【広島平和記念日】
9 27 昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問
【昭和天皇とマッカーサー元帥】
12 5 大西洋上でアメリカ空軍機が消息を絶つ
【バミューダ・トライアングルの日】
1949 4 4 ワシントンで北大西洋条約が調印される
【NATO創設】
1957 1 29 日本南極観測隊が昭和基地を命名
【南極探検と観測の歴史】
1961 4 12 ガガーリンを乗せたロケットが地球を1周
【ボストーク1号・無事帰還】
1963 6 15 「上を向いて歩こう」が全米チャート1位に
【すき焼きは、国際的の証?】
1979 1 22 ~1999:海王星と冥王星の軌道が交代
【冥王星と海王星が・・・】
1986 7 31 杉原千畝・没
【6千人のユダヤ人を救った杉原千畝】
番外編 【悲劇の人・おたあジュリア】
世界豆知識 【男女の前あわせとネクタイの始まり】
【7月・8月と大の月が続くのは?】

 

 

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2008年11月 9日 (日)

楊貴妃は日本で生きていた?~安禄山の乱

 

西暦755年11月9日、当時、節度使であった安禄山らによる反乱・安禄山の乱が勃発しました。

「おや?珍しい。中国の話かいな・・」
と、お思いでしょうが、さすがに世界史が苦手な私も、この乱の途中で殺害されたとされる天下の美女・楊貴妃が、ひょっとしたら生きていて、しかも、日本に移り住んでいた・・・なんて話を聞いたひにゃ、素通りするわけには参りませぬ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

安禄山(あんろくざん)は当時の中国の西域出身の人物で、貿易関係の仕事をしていましたが、唐の役人だった李林甫(りりんぼ)に気に入られ、節度使(地方を治める役人)に抜擢された後、さらに皇帝・玄宗(げんそう)に気にも入られて、とんとん拍子に出世・・・乱勃発当時は、複数の地域の節度使を兼任するまでになっていました。

しかし、いつしか楊国忠(ようこくちゅう)という役人と対立するようになり、やがて、異民族出身であるという立場から、唐王朝での身の危険を感じるようになった安禄山は、西暦755年11月9日ついに反乱を起すのです。

勇猛果敢な地方の兵を率いる安禄山の軍に対して、平和ボケしていた唐軍では、まったく歯が立たず、またたく間に都・長安に攻め込まれてしまいます。

慌てて玄宗は、(しょく・現在の四川省)に逃亡するのですが、その逃避行に同行していたのが、皇帝の寵愛を一心に受けていた世界三大美女の一人・楊貴妃(ようきひ)でした・・・ちなみに、残りの二人はクレオパトラ小野小町(外国では小野小町は入ってませんが・・・)

しかし、逃げる途中で、兵士の間から
「この反乱の原因は楊国忠だ!」
との声があがりはじめ、やはり、玄宗と行動をともにしていた楊国忠は、家族とともに殺されてしまいます。

しかも、かの楊貴妃が、楊国忠と親戚であった事から、彼女もとばっちりを受ける事に・・・。

もちろん皇帝は、メッチャメチャ彼女を愛してますから、
「楊貴妃は乱とは関係ない!」
と必死でかばうのですが、そもそも以前から、皇帝が楊国忠を登用したのも、彼女との愛に溺れ、彼女の親戚だから抜擢したなんて噂もあって、もはや恐怖でパニック状態の軍団は、
「諸悪の根源が楊貴妃にある」
「楊貴妃を殺せ!」

と、大騒ぎになってしまい、彼らを止められなくなった皇帝は、しかたなく楊貴妃殺害の命令を下したのです。

哀れ、楊貴妃は、愛する皇帝の命を受けた高力士(こうりきし)という男によって殺害されたのです・・・756年6月16日の事でした。

・・・・と、これが一般に知られる楊貴妃の最期です。

しかし、冒頭に書いたように、彼女には生存説が・・・。

その伝説によれば・・・

この時、楊貴妃に同情した近衛司令官の陳玄礼(ちんげんれい)が、殺害命令を受けた高力士と協力して、侍女を身代わりとして差し出した後、本物の楊貴妃には、食糧などを乗せた大きな船を用意し、現在の上海の港から逃がした・・・というのです。

そして、その船が、なんと山口県は油谷湾の久津というところに漂着したのだとか・・・。

その後、楊貴妃が、その久津で暮らしていたところ、彼女の事を忘れられない玄宗から、使いを通じて、彼女の事を思って造らせた仏像2体が送られ、彼女は、自分の身代わりに・・・と、かんざしを送ったとの事・・・。

その久津にある二尊院というお寺には、石造りの五輪塔があるのですが、それが、久津の地で、その生涯をまっとうした楊貴妃のお墓なのだと伝えられているそうです。

もちろん、そのお寺にも楊貴妃伝説の書かれた古文書が残っていて、古文書では、楊貴妃は漂着してすぐに死んでしまいますが、その後、玄宗の夢枕に立った彼女から、日本で死んだ事を聞いた玄宗が、やはり2体の仏像を送ったとしています。

また、楊貴妃の死から50年後に、白居易(はくきょい・中国の詩人)の書いた有名な漢詩・『長恨歌(ちょうごんか)には、乱の平定後に、玄宗が楊貴妃の遺骸を改葬したときの場面が出て来るのですが、その時の描写の中での「玉の顔を見ず」という表現が、「遺体が無かった」という意味であるという説も存在します。

さらに、すでに安禄山が楊貴妃の色香に惑わされていて、彼自身が密かに楊貴妃を逃がした・・・なんていう、かなりアヤシイ話も存在するようですが、いずれにしても、伝説の域を出ないものではあります。

ホントに日本に来てたのなら、ちょっとウレシイですが・・・

ところで、玄宗が楊貴妃の事を思って造らせた2体の仏像・・・この楊貴妃に似せて仏像を造ったというのは、どうやら本当の事のようなので、とても気になりますね~。

そうです!
京都にある御寺・泉湧寺(みてら・せんにゅうじ)・・・ここには、楊貴妃観音像という仏像が安置されています。

Youkihikannonndoucc 楊貴妃観音堂(泉湧寺)

この像は、建長七年(1255年)、湛海律師によって、羅漢像などどともに中国から持ち帰られた物で、その玄宗が造らせた仏像ではないか?と言われているのです。

堂内が暗くて、はっきりとは見えませんが、確かに、とても美しいお顔をしてらっしゃいます。

ただし、泉湧寺のHPによれば・・・
「その美しい顔立ちから、玄宗皇帝が造らせた楊貴妃の像ではないか?という伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれてきた」
という事だそうで、あくまで伝承・・・だそうです(泉湧寺のHPはコチラから>>)

中国より渡来してから、長く秘仏とされてきた観音像ですが、現在は、一般公開されていますので、その美しいお顔は一見の価値ありですし、まして、美顔のご利益があるとなると、これは、是非とも見ておかねば・・・
(私の美顔の効果についてはヒ・ミ・ツ!ヽ(*≧ε≦*)φ)

しかも、昨年、ブログに書かせていただいたように(07年11月13日を見る>>)、このあたりは、知る人ぞ知る紅葉の穴場でもありますから、この季節、一度出向いて見られてはいかがでしょうか?

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2007年10月 3日 (水)

アユタヤの戦士・山田長政は実在したか?

 

寛永六年(1629年)10月3日、江戸幕府が山田長政に朱印状を交付
シャム(現在のタイ)との交易を許可しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山田長政は、海外で活躍する日本人の先駆けといった存在。

彼は、初め、沼津で、領主・大久保忠佐(ただすけ)のかごかきをしていた・・・という事ですが、その後、慶長十六年(1611年)頃に朱印船でシャムに渡ります。

現地の日本人傭兵隊に加わった事で、その戦士としての素質が開花し、日本人町の町長になります。

その後、やはりその戦闘能力の高さを気に入ったシャム国王・ソンタムから厚い信頼を寄せられるようになり、当時の最高官位であるオヤ・セナピモクまで譲られます。

しかし、そのソンタム王が亡くなると、王子と王の弟との間で、王位継承の争いが勃発し、その争いの後、権力を握った王弟の命令で、王子側についていた長政は、抗争中の隣国・パタニとの最前線に左遷されてしまいます。

寛永七年(1630年)、そのパタニとの戦闘中に、足を負傷した長政は、王弟の命令を受けていたシャム人から、治療と称して傷口に毒を塗られて死亡するのです。

その後、長政の死によって「日本人が反乱を起す」との噂が立ち、恐れたアラビア人やタイ族・華僑によってアユタヤの日本人町は焼き尽くされてしまいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・

以上が、一般的に知られている山田長政の話ですが、お察しの通り、かなり謎に包まれた人物像で、タイ南部の王国の王であったという話から、架空の人物説まで、様々に取りざたされています。

・・・と、いうのも、現在伝えられている長政の事が書かれた文献は、後世に書かれた物が多く、歴史書というよりは、歴史小説に近い物で、その内容は伝説の域を超えないものとなっています。

加えて、タイオランダの文献には、山田長政の名前がまったく登場しないという事実もあります。

幕末のイギリス外交官・アーネスト・サトウは、オランダの文献の中に登場する日本人傭兵の代表者・オークヤ・セナビムクが長政ではないか?としていますが、これも推測の域を出ないものです。

17世紀初頭の日本と言えば、あの関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康が、征夷大将軍となり、江戸で幕府を開いた頃。

家康は、その関ヶ原の年に九州に漂着したオランダ船の航海士・ウィリアム・アダムスらを外交顧問に任命し、盛んに外国との交易を押し進めていました。

慶長九年(1604年)に、朱印船制度を実施して以降、多くの大名や商人が、朱印状を交付してもらい、海の向うへと旅立ったのです。

上記のアユタヤだけでなく、現在のフィリピンベトナムなど、アジアの各地に、日本人の居住地や日本人町が存在していました。

そんな中、江戸時代を通して、長政はまったく重要人物としては扱われておらず、それこそ、朱印船で外国に渡った多くの日本人の中の一人・・・という感じです。

ひょっとしたら、長政は、朱印船で交易をしていた、ただの商人、あるいは密航者というだけの可能性もあるのです。

あまりの史料の少なさに、架空の人物かもしれないと噂される山田長政が、歴史の教科書や、年表に記されるほどの有名人になった理由については、近代の満州事変以降、日本がアジアへ進出するにあたって、強き日本をアピールするための宣伝として、遠い昔、東南アジアで活躍をした戦士がいた事を利用したからなのではないか?と言われています。

無名だった彼が、歴史の表舞台に登場する事になったのには、そんな、もう一つの悲しい日本の歴史がからんでいたのです。

しかし、金地院崇伝の『異国日記』という文献の中に、「山田仁左衛門長正」なる人物の名前もあり、「幕府が朱印状公布」という記録もありますので、山田長政という人が実在の人物である事は、ほぼ間違いないでしょう。

さらに、その『異国日記』の中には、「元和元年(1615年)に国王・ソンタムが将軍・徳川秀忠へ親書を送った時、長政から老中・土井利勝への手紙と贈り物が同封されていた」という記述があります。

親書という正式な外交文書の場合、礼儀として、同じ位の人物同士が文書の交換をするのが常識だった事を考えると、「将軍⇔国王」「老中⇔長政」となるわけで、これが本当だったら、確かにシャムの高官であった事になるわけです。

教科書に載ってるわりには、あまり時代劇などでお目にかからない山田長政さん。

ずいぶん前に、一度ドラマになった事がありましたが、かなりボヤけた記憶で、筋書きもよく覚えていませんが、長政役の林隆三さん(たしか・・・間違ってたらスミマセン)の象に乗っての合戦シーンが、かなりカッコ良かったのだけは記憶にあります。

近代の戦争に利用されたのは悲しい出来事ですが、もし、本当に山田長政が、400年前の東南アジアで、象に乗って大活躍したのだとしたら、何やら、最近、大リーグで活躍する日本人選手を見るようで、同胞として、とてもうれしくなります~。

Yamadanagamasacc 今日のイラストは、
アユタヤの戦士という感じで、象に乗った山田長政さんを書いてみました~。

タイにある像では冠(帽子?)をかぶってますが、色がわからないので、冠は無しにしてしまいました。

タイでは映画にもなってる長政さん。
どんな風に描かれているのか?見てみたいですね。
 

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2007年6月22日 (金)

史上最恐の暗号・エニグマ

 

今日、6月22日は何があった日なのかなぁ~何の話題を書こうな?・・・(北条と畠山の二俣川の戦いは去年書いたし・・・)と、ネットサーフィンしていたら・・・

1940年・フランスがドイツに降伏
1941年・ドイツがソ連に攻撃を開始

・・・と、ありました。

手持ちの年表を見ても、1942年に連合国軍が反撃を開始するまで(これは6月22日ではありませんが・・・)、第二次世界大戦において、ドイツが優位に立っていた事が伺えます。

・・・で、「ドイツ優位」で思い出したのが、その勝利の陰にあったと言われている『暗号・エニグマ』・・・。

このブログで度々登場する『孫子』を見ても、戦いにおいて「情報」という物がいかに重要なのかはご承知の通り。

第二次世界大戦の初期に、ヒットラーの作戦がことごとく勝利に終るのは、この「エニグマ」を駆使した情報連絡網があったからなのです。

「エニグマ」とは、ギリシャ語で「謎」という意味・・・「この暗号は誰にも解かれるはずはない」という自信にあふれたコードネームです。

ヨーロッパ戦線において、「エニグマがいかに重要であったか」という事は、戦後三十年間、戦勝国軍のトップシークレットとして公表される事なく、闇の中に隠し続けられていた事でも伺えます。

1974年、関係者の証言によって、初めてその存在が明らかとなるのです。

では、その「史上最強の暗号・エニグマ」とはどんな物だったのでしょうか?

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

まず、エニグマは一見すると、古い感じのタイプライターのような機械です。
つまり、そのタイプライターのような物で、「文字を変換して暗号にする」という事です。

手前にキーボードがあり、その向こうにランプボードという表示盤、一番奥にローターという歯車のような回転盤が3枚並んでいます。
キーボードの下と蓋にプラグがあります。

まず、ローターの位置とプラグコードのつなぎ方を最初に設定してから、キーボードに文字を打ち込むと、表示盤の一つの文字のランプが点灯・・・

つまり、送りたい文章の最初の文字が「A」だと仮定すると、キーボードに「A」と打ち込みます。
すると表示盤の「Z」のランプが点灯する・・・「A」を暗号に変換した物が「Z」という事になります。
そうやって1文字ずつ暗号化するのです。

1文字打つごとにローターが回転して、次は1回目とは違う変換の仕方をしますので、もう一度「A」と打ち込んでも、2回目・3回目は「Y]になったり「X]なったりするわけです。

複数のプラグと複数のローターがあるので、その変換の仕方は宇宙的な数になりますが、暗号文を受け取る側は、最初に設定するプラグのつなぎ方と、ローターの位置の設定を教えてもらえば、同じ機械で、暗号文をもとの文章に戻せるという事になります。
(説明ヘタですいません)

ネットワークのセキュリティにもある「共通かぎ方式」という方式で、送り手と受け取り手が同じ「鍵」を持っていて、その「鍵」で暗号化して送信した文を、受信者が同じ「鍵」を使って平文に戻すという、方法自体は一番単純な方法ですが、プラグとローターの組み合わせで、その変換方法が1文字ずつ無数にできる事、そしてこのエニグマという機械によって、その変換が瞬時にできる事が、最強と言われる所です。

エニグマの出現によって、解読を心配する事なく、軍事連絡取り放題になったドイツ軍・・・ヒットラーはヨーロッパ全土に数百台のエニグマを配置し、快進撃を続ける事になります。

しかし、連合国側もじっとしているわけには行きません。
何とか、エニグマの謎を探ろうと、あの手この手でスパイ活動を続ける中、ついに1940年、1台のエニグマ機をイギリスが入手するのです。

狂喜乱舞するイギリス軍関係者でしたが、本当の戦いはここからでした。

なにしろ、最初のプラグとローターの設定がわからなければ、機械を持っていても暗号は解読できません。
しかも、その設定方法は定期的に変更されるのですから・・・。

イギリスの首相・チャーチルは、一大プロジェクトを立ち上げます。

軍の暗号解読担当はもちろんの事、数学者・言語学者・時計職人・・・はたまたチェスの名人など、様々な分野の匠を1ヶ所に集め、昼夜を問わず、暗号の解読に挑みました。

誰もが、「今のヒットラーに一泡吹かせるには、エニグマの解読しかない!」と、決して諦めようとしなかったのです。

今思えば、この最強と謳われたエニグマにも、たった一つ欠点と言える部分があったのです。
それは、「A」は絶対に「A」に変換されないという事です。
つまり、「暗号化すると、必ず別の文字になるという事です。

それが、突破口となったのかどうかは定かではありませんが、プロジェクトが立ち上がってから3年後、彼らはこの機械から意味のある断片的な文章を引っ張り出す事に成功します。

一旦、鍵が開かれると、それは、今までが嘘のよに次々と解明されて行きます。

しかし、このエニグマの解読成功は、チャーチル以下、軍の一部の者以外には秘密にされました。

ドイツ軍を安心させるため、エニグマを探るためのスパイを定期的に送り込んだり、わざと不利な方向に軍を進めてみたり・・・。

1944年3月のイギリスのコヴェントリー市への空襲も、エニグマの解読によってチャーチルは事前に知っていたけれど、あえて、避難命令を出さなかったのでは?とも言われています。

しかし、エニグマ解読の事実を隠しに隠していたおかげで、ドイツ軍は暗号がバレているとは気づかず、その動きは連合軍に筒抜け状態・・・あのコヴェントリー市への空襲の3ヶ月後に、チャーチルは「ノルマンディー上陸作戦」という史上最大の作戦を成功させるわけです。

間接的に何十万人という犠牲者を出した史上最強・・・いえ、史上最恐の暗号・エニグマの解読によって、その後の戦況が明らかに変わる事となるのは、皆さんご承知の通りです。

Enigmacc 今日のイラストは、
その『エニグマ機』を・・・。

機械なので、本当はもっと正確に書かなくちゃいけないのはわかっております・・・お許しを・・・。
 

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2007年2月17日 (土)

ノアの方舟・洪水伝説

 

2月17日は、有名なあの“ノアの洪水”のあった日だそうですよ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『旧約聖書』「創世記」に書かれた“ノアの洪水があったのは、ノアが600歳(ちょっとムリがある)の時の第2の月の17日だそうで、聖書の年代をそのまま計算すると、紀元前3000年頃の出来事になるそうです。

地上に悪人がはびこる事を「良し」としない神様が、大洪水を起こして人類を滅ぼそうとしますが、神に従順だったノアにだけこの事を教え、方舟(はこぶね)の建造を命じます。

ノアは、高さ13.5m、幅22.5m、長さ135m、約2万tクラスので~っかい方舟に、ノアの家族8人と、あらゆる動物のつがいを乗せて、その日を待ちます。

そして訪れた2月17日、この日から雨は40日間降り続き、150日間水の勢いは止まらず、方舟は嵐の中、木の葉のように揺れ動き、やがてアララト山の上にひっかかって停まります。

使いに出した鳩によって水が退いた事を知ったノアは、家族や動物たちとともに船を出て、神様に感謝。
神様はノアを祝福し、今後、人類を滅ぼすような洪水を起こさない事を約束したのです。

このアララト山は、現在のトルコにあるアララト山だと言われていて、昔から「方舟の痕跡を見た」という人が数多くいます。

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ただし、この“洪水伝説”は、『旧約聖書』が初出ではありません。
主人公や、細かい状況に違いはあるものの、よく似た神話は世界各地に残って、その中には、『旧約聖書』以前に書かれたであろう物もあります。

1872年、イギリスの大英博物館に勤務していたジョージ・スミスという人が、その10年前に発見された粘土板の文字を解読し、そこに“ノアの洪水伝説”そっくりの出来事が書かれているのを発見しました。

これが『ギルガメッシュ叙事詩』と言われる物で、古代メソポタミア時代に書かれた物です。
『ギルガメッシュ叙事詩』では、「船はニシルの山に停まった」とされています。

さらに1914年、ペーベルという人が、南メソポタミアのニップルという遺跡から、シュメール語で書かれた粘土板を発見。
ここにも、そっくりの“洪水伝説”が書かれていたのです。

この粘土板は紀元前25世紀頃の物と推定され、紀元前10世紀頃とされる『旧約聖書』より古い事になります。

また、ヒンドゥー教の神話の中にも“洪水伝説”が語られています。
こちらは、人類の祖・マヌが小さな魚を助けて育て、大きくなったその魚を海に返す時、魚が「近々洪水が起こります。その時あなたは船を造って、穀物を蓄え、家畜とともに乗りなさい。そうすれば私が助けてあげます」と言って去っていきます。

やがて、魚の言う通り洪水が訪れ、マヌが船に乗り込むと、その魚が現れます。
縄で船を魚の角につなぎ、ヒマラヤへと運んでもらい、マヌだけが助かる・・・という、恩返し的なお話になっています。

いずれにしても、大洪水によって、一旦時代が終る・・・という構図はおおむね一致している所から、遠い昔、地球規模の天変地異が起こって、その記憶が伝説として語られたのではないか?とも言われています。

ただ、地球規模の天変地異に襲われた・・・というよりは、ある一部の地域に起こった洪水の話が、時が経つにつれ、世界中に広がったと考えるほうが自然だと思います。
 

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2007年1月14日 (日)

ハリーとハレー彗星の話

 

1742年1月14日は、あのハレー彗星の軌道を計算したイギリスの天文学者・エドモンド・ハリー(ハレーと表記する場合もあります)さんのご命日です。

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エドモンド・ハリーは1656年にイギリスの裕福な家の子供として生まれ、オックスフォード大学のクィーンズ・カレッジ在学中に、すでに“太陽の黒点”についての論文を発表します。

Harycc 大学を卒業してからも、月を中心とした天体観測を続け、“星図”“モンスーン”など気象や天文に関する論文などを発表しています。

37歳の時には、人の死亡年齢の統計学から年金サービスの適切な価格などを割り出すという“年金に関する論文”を発表し、天文学者だけではなく、数学者としても活躍するようになり、海軍からのご使命で“海図”などを製作する事もありました。

そして、ハリーが49歳でオックスフォード大学教授の職務についていた1705年に有名な“ハレー彗星の出現の予言”を書いた論文を発表するのです。

これは、1337年から1698年までに観測された24個の彗星の記録とハリー自身が観測した1682年の彗星の記録を総合して丹念に調べ上げた結果、1531年と1607年と1682年の3つの彗星が同じ物である事に気付き、「今度は1758年に同じ彗星が現れるであろう」と予言したものです。

その後、ハリー自身は、グリニッジ天文台長を死ぬまで勤め、1742年の1月14日、予言をしたハレー彗星を見ることなく亡くなりました

やがて、実際には予言とは一年のズレがあるものの、予想通りの彗星が現れ、ハリーの名前は一気に有名になり、彗星も“ハレー彗星”と名付けられる事となりました。

これは、「惑星以外でも太陽のまわりを公転する天体がある」という事が初めて確認された・・・という意味でも重要な物でした。

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このハレー彗星は、76年で太陽のまわりを一周します。
惑星とは、反対向きに、楕円形の少しズレた形の軌道です。
つまり、76年に一度、太陽に近づいた時に地球でも観測できるわけです。

一番最近では1986年2月9日に最も地球に接近しました。
30歳以上のかたなら、あの大騒ぎを鮮明に覚えておられる事でしょう。

この時は、1982年の10月にアメリカの天文台でキャッチされてから、新聞や雑誌でも大きく取り上げられ、みんなこぞって天体望遠鏡を買いに走ったものですが、結果的にはかなり観測には不向きな状況で、天文台にあるような高度な望遠鏡でしか確認できないような状況だったのを覚えています。

ただ、近年の宇宙探査技術の発展により、各国が打ち上げた彗星探査機で、彗星が予想通りの氷の粒子でできている事が確認されたり、他にも専門的な発見が数多くあったようです。

その1つ前、1910年にハレー彗星がやってきた時には、かなり良く見えたようで、雑誌や図鑑でよく見かける長い尾を持った写真は、この時に撮影された物です(最接近は5月19日)

この時は、彗星の尾の中を地球が通過するという接近ぶりで、尾にはシアンが含まれている事を、ことさら強調したマスコミに人々は恐怖をあおられたのです。
実際には、シアンの濃度は非常に薄いので通過しても何事もなかったのですが・・・。

明治四十五年の日本でも、やはりこの時は「ハリーのしっぽがやってくる」と大騒ぎ。
「地球上の空気が5分程なくなる」という噂が広まり、その5分間チューブ内の空気を吸って生き延びようと、お金持ちが自転車のチューブを買占める・・・という事があったそうです。
(ドラえもんでもやってました~)

この時代でもこれだけの大騒ぎですから、その正体を知らない昔の人にとっては、飢饉や戦乱の前触れなどと、彗星は恐怖の対象以外の何者でもありませんでした。
もちろん、その恐怖はハレー彗星だけには限りません。

承元四年(1210年)に彗星が現れた時は、後鳥羽上皇の指示により、第83代・土御門天皇から第84代・順徳天皇に即日交代という事で、いかに恐怖を感じていたかが伺えます。

天皇だけではありません勇猛果敢な武士であっても、その恐怖は同じです。
延応二年(1240年)には、鎌倉幕府第4代将軍・藤原(九条)頼経が、彗星出現のため上洛を中止しています。

ちなみに次の出現予定は2061年7月28日です。
小耳に挟んだ情報によりますと(どこで小耳に挟んだかは忘れましたが)、今度のハレー彗星は、ものすごくはっきり見えるらしく、「尾の長さが空の半分を覆うくらいになる」というので、何とか2061年まで、生き続けたい!と願っている私です。
 

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2006年12月 5日 (火)

バミューダトライアングルの日

 

1945年(昭和二十年)12月5日、大西洋上空でアメリカ空軍機が消息を絶ち、その海域で行方不明事件が多発する事により、その場所を魔の三角地帯“バミューダトライアングル”と呼ぶようになった事を記念(?)して、今日は“バミューダトライアングルの日”だそうです。

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Bmdmapcoco2 “バミューダトライアングル”とは、大西洋のフロリダ・バミューダ・プエルトリコの三点を結ぶ三角形の海域です。

1945年の12月5日の午後、フロリダ州のフォートローダーデール海軍飛行場から、5機の戦闘機が飛び立ちました。
その日は、雲ひとつない快晴で、天候面における心配は、まったくありませんでした。

ところが、乗員からいきなり「現在地が確認できない」との通信が届きます。
そのうち、「燃料が足りない」とか「コンパスが狂った」などと、機内のあわてふためく様子も、管制塔に送られてきます。

結局、その通信を最後に、戦闘機5機は跡形もなく消えてしまったのです。
しかも、救援に向かった機体までもが、消息を絶ってしまいます。

その後、大々的な捜索が行われましたが、機体の残骸・燃料の流出など。普通の墜落現場に見られる浮遊物はいっさい見られなかったのです。

その海域ではそれから後も、100以上の飛行機、そして船までもがこつ然と姿を消す・・・という現象が起こります。
いつしかこの地域は“バミューダトライアングル”と呼ばれ「UFOに誘拐された」とか「四次元に迷い込んだ」とか、様々な噂が立ち、魔の海域と恐れられるのです。

原因として、今最も有力視されているのは、“マイクロバースト”と呼ばれるこの地方特有の自然現象。
それは、冷気の固まりが海面や地表に落下して、破裂するように強風を巻き起こすのだそうです。

ただし、この現象はかなり低空で起こるらしく、小型の民間機や船などは、影響される可能性も考えられますが、もっと上空を飛ぶ大型機に関しては依然、説明がつかないのが現状です。

結局、この日、行方不明になった戦闘機は、1991年にその残骸とおぼしき物が半径2㎞にわたって散らばっているのが発見されましたが、現在位置や方角がわからなくなったり、コンパスが狂ったりした事の原因は未だに解明されていません。

しかし、この“バミューダトライアングル”の話は、明快な原因がわからないにしても、未知な自然現象や海流によって、たまたま事故が起こりやすい地域なのだ・・・と、納得できるのですが、世の中にはもっと不思議な事があるもので、この逆パターンが存在する!というので、ビックリ仰天です。

それは、1989年10月12日の事。
ブラジルのポルトアレグレ空港の上空に突然現れたロッキード型旅客機が、管制塔の許可を無視して勝手に滑走路に着陸したのだそうです。

機内に入ってみると、乗員乗客92名が全員、なんと!白骨死体で発見されます。
そして、フライト・レコーダーの記録を調べてみると、その飛行機は何と35年前の1954年9月4日に、旧西ドイツのアーヘン空港から飛び立ち、このポルトアレグレ空港に向かっていた飛行機で、途中大西洋上空で消息を絶ったサンチアゴ航空・513便だった・・・というのです。

にわかには信じがたい話ですが、17年前と言えば、私は○○歳・・・しっかり大人なんですが、そんなニュースあったかなぁ?

この話は最近知ったんですが、不思議大好き少女(もう少女ではないが・・・)の私としては、当時聞いてたら絶対食いついてる話なんですが・・・日本ではニュースにならなかったのか、私が知らないだけなのか・・・。

航空機に関して素人なもんでよくわからないのですが、「パイロットは着陸時に一番神経を使う」とか、「着陸だけは手動で・・・」なんていう話を小耳に挟んだ事があるのですが、それでも飛行機というのは、パイロットが亡くなっていたら、自動運転か何かでちゃんと予定通り着陸するもんなんですかね?

それにしてもこの話は、まさに“戦国自衛隊”の世界じゃないですか!
不思議大好き少女+歴史大好き少女(だから少女やない!って)の私にとって、戦国自衛隊は、もう、その設定だけで満足するくらいのシロモノです。
夢のコラボですから・・・。

最初の映画も、もちろん見に行きましたが、最近も、ドラマや映画でリメイクされてましたね。
上杉謙信→織田信長→関ヶ原と来たら、もう残るは、大坂の陣しかないでしょう。

是非とも、昨日(12月4日)の真田幸村に出会って、真田十勇士は自衛隊員なんて事になりませんかね。
少なからず期待している私です。

・・・と思ってネットを調べたら・・・あるじゃないですか!
私は、まだ読んでないのでくわしい内容はしりませんが、思った通りの大坂の陣でしたね(笑)

 続・戦国自衛隊~大坂城攻防編
 

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2006年11月13日 (月)

ネッシー写真で大論争

 

1933年の今日、11月13日に、始めてネッシーの写真撮影に成功!・・・だそうですが、はたしてホンマモンなのでしょうか?

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ネッシーは、イギリス・インパネス地方のネス湖に棲む、世界的に最も有名な未確認動物です。

有名な未確認・・・というのも何だか変ですが・・・

正式には、ロッホ・ネス・モンスター[Loch Ness Monster(s)]という名前で、ひし形のヒレを持つネス湖の怪獣という意味のネッシテラス・ロンポプリテウス[Nessiteras rhom-bopteryx]という学名までついているそうです。

ジュラ期の海生爬虫類、プレシオザウルスの生き残りか、それが環境に順応した亜種とする説が有力です。

もともと、最初の目撃例は565年で、この地方には奇妙な動物『水中ケルピー(怪獣)』として記録も残っていましたが、この写真撮影によって、ネッシーという名前が一躍世界中に知られる事になるわけです。

その後、1960年にイギリスの航空技師ティムディンス・テイルという人が、1週間ネス湖に張り込んで(1週間は早すぎるやろ・・・)16ミリ・フィルムでの撮影に成功したという。

「はたして、このフィルムに写っている移動する黒いコブのような物は、本当に未知の生物なのだろうか?」

当然の事ながら、大論争が巻き起こるのです。

1966年時点でのイギリス空軍・偵察情報センターの分析結果によると、
●撮影された物体は船ではない
●人工物の根拠も見当たらない
●推定時速10マイル(約16km)
●幅6フィート(1.8m強)
●高さ5フィート(1.5m強)
なのだそうです。

最近、『木曜スペシャル』(川口探検隊)的な番組にお目にかからないので、こーゆー事には無知なのですが、最新技術の分析結果などはあるんでしょうか?

少なくとも、何枚かの写真がニセ物だと確認された話は聞きましたが・・・

ところで、ネッシーのような未確認の動物をUMA[Unidentified Mysterious Animal(s)]と呼ぶのは最近けっこうメジャーになってきていますが、その定義は「ある程度知られてはいるが、科学的には確認されていない動物。特に、なるべく最近の物で、目で見て手で触れる事のできる可能性がある物」だそうです。

ヒマラヤの雪男、中国の野人、北米のビッグフット、プエルトリコのチュパカブラが人を襲うなんていう話もありました。

日本では、ツチノコ(へびに似た生物)ヒバゴン(広島県比婆山にいる雪男)を筆頭に、タキタロウ(体長2mのイワナ)クッシー(北海道屈斜路湖の怪獣)イッシー(鹿児島県池田湖の怪獣)などはわかりますが、河童なども含まれるそうです。

個人的には、鬼や河童は妖怪のたぐいではないかと思うのですが・・・。

これらを研究するのは、未確認動物学というちゃんとした学問で、世界的な学会も開かれているらしいです。

ネッシーに関しては、イギリスの希少動物保護法の対象にもなっているそうなのですが・・・見つかると、うれしいような・・・でも、いつまでも謎のままのほうが良いような気もしますね。

つい最近、長年UMAとされてきたスカイフィッシュを高感度スピードカメラで撮影したところ、ただの虫だった・・・というのもありましたからね。
 

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2006年9月16日 (土)

新天地への旅立ち

 

1620年9月16日、メイフラワー号が新天地に向けてイギリスを出発しました。

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当時イギリスでは、貴族や僧侶・大地主・特権商人などが支持するイギリス国教会と、都市や地方の地主・独立自営農民・商工業市民などが支持する清教徒がはげしく対立していました。

ジェームス一世や、チャールズ一世は、国教会を強制し、それに対して不満を抱く人々が増えていきました。

清教徒(ピューリタン)たちは、イギリス国教会からの迫害から逃れて、理想の地へ旅立とうと、1620年の今日、102名がメイフラワー号(180トン)に乗り込み、イギリスを出発。

大西洋を横断してアメリカに向かいました。

メイフラワー号は、大西洋を66日で横断、乗客102名のうち2名が船上で無事出産したという事です。

しかし、新大陸の冬は厳しく、寒さと飢えのため約半数の人が亡くなりました。

やがて、春にはなんとか生活できるようになり、その年の秋には収穫も得られるようになりました。

アメリカで、11月の第4木曜日に行われる『感謝祭』は、この時の収穫を祝うお祭りです。

ちなみに、その後イギリスでは1649年に、7年間に及んだイギリス国教会(王党派)と清教徒(議会派)の内乱が終結し、議会派が勝利をおさめました。

それは、『清教徒革命』と呼ばれ、世界最初の市民革命だと言われています。
 

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2006年8月29日 (火)

アヘン戦争の終結

 

1842年、8月29日、イギリスと清国との間に南京条約が結ばれ、アヘン戦争が終結しました。

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その頃、イギリス清国(中国)から東インド会社を通じて、絹織物やお茶などを輸入し、逆に毛織物や綿製品を輸出していました。

しかし、輸入の増大に対して、輸出の方はなかなか伸び悩み、なんとかこの状況を改善したいと考えていました。

そこで、イギリスが目を付けたのが、当時、東インド会社が独占販売していたアヘンでした。

それを、インドで大量に栽培・造成して、密かに清国に売り込もうという作戦です。
アヘンはケシの実からできる麻薬です。
密輸をほっておくと、中毒患者が増大し、銀の大量流出や貨幣流通の崩壊を招きます。

そこで、清国政府の担当大臣・林則徐(リーツォシュー)は、銀の大量国外流出防止策を打ち出します。それは・・・
① アヘン吸引者と販売者の処刑
② イギリス商人の貿易禁止
③ 外国商館の閉鎖
④ アヘン約2万箱の償却
というものでした。

それに対して、イギルス監察官・エリオットは、あくまで輸入解禁・アヘン貿易の継続を主張し、1840年にアヘン戦争に突入しました。

清国では、民衆が自発的に作った武装自衛団などで、応戦していましたが、イギリスは最新鋭の軍艦を登場させ砲撃し、武力の違いを見せつけます。

結局、清国政府は林則徐を解任して、イギリスとの交渉に臨み、1842年8月29日、この屈辱的な南京条約を結ばされ半植民地状態になってしまうのです。

南京条約
① 賠償金1200万銀ドルの支払い。
② 広州・福州・厦門・寧波・上海の5港を開放し、イギリス人の居住と治外法権を認める。
③ 香港島をイギリスに譲り渡す。
④ 特許商人の独占貿易をやめ、自由貿易とする。
⑤ 清国の関税自主権の放棄。
⑥ 清国は、イギリスに最も有利な条件・待遇をすること。

この条約は、その後に欧米諸国がアジア諸国と結ぶ不平等な条約のモデルとなり、日本でも江戸幕府や、幕末のリーダーたちに大きな影響を与える事になりました。

アヘンはダメです・・・やっぱり・・・。
 

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